秩父・信州往還散歩;その弐 十文字峠から白泰山の山稜を辿り秩父・栃本関所跡へ

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「とある居酒屋で梓山村に帰りがけの爺さんと一緒になり、共にこの渓谷のつめの部落梓山村に入つた。そして明日はこの爺さんに案内を頼んで十文字峠を越ゆることになつた。(中略)
十文字峠は信州武州に跨がる山で、此処より越えて武蔵荒川の上流に出るまで上下七里の道のりだといふ。その間、村はもとより、一軒の人家すら無いといふ。暫らく渓に沿うて歩いた。もう此処等になると千曲川も小さな渓となつて流れてゐるのである。やがて、渓ばたを離れて路はやゝ嶮しく、前後左右の見通しのきかない様な針葉樹林の中に入つてしまつた。木は多く樅と見た。今日はいちにち斯うした森の中を歩くのだと爺さんは言つた。(中略)
いかにも深い森であつた。そして曲のない森でもあつた。素人眼には唯だ一二種類と見ゆる樹木が限界もなく押し続いてゐるのみであるのだ。不思議と、鳥も啼かなかつた。一二度、駒鳥らしいものを聞いたが、季節が違つてゐた。たゞ散り積つてゐるこまかな落葉をさつくり/\と踏んでゆく気持は悪くなかつた。それが五六里の間続くのである。





幸ひに登りつくすと路は峰の尾根に出た。そして殆んど全部尾根づたひにのみ歩くのであつた。ために遠望が利いた。ことに峠を越え、武州地に入つてからの方がよかつた。我等の歩いてゐる尾根の右側の遠い麓には荒川が流れてゐ、同じく左側の峡間の底には末は荒川に落つる中津川が流れてゐた。いや、ゐる筈であつた。山々の勾配がすべて嶮しく、且つ尾根と尾根との交はりが非常に複雑で、なか/\其処の川の姿を見る事は出来なかつた。

やがて夕日の頃となると次第にこの山の眺めが生きて来た。尾根の左右に幾つともなく切れ落ちてゐる山襞、沢、渓間の間にほのかに靄が湧いて来た。何処からとなく湧いて来たこの靄は不思議と四辺の山々を、山々に立ちこんでゐる老樹の森を生かした。
また、夕日は遠望をも生かした。遠い山の峰から峰へ積つてゐる雪を輝かした。浅間山の煙だらうとおもはるゝものをもかすかに空に浮かし出した。其他、甲州地、秩父地、上州地、信州地は無論のこと、香かに越後境だらうと眺めらるゝもろ/\の峰から峰へ、寒い、かすかな光を投げて、云ふ様なき荘厳味を醸し出して呉れたのである。(中略)
日暮れて、ぞく/\と寒さの募る夕闇に漸く峠の麓村栃本といふへ降り着いた。此処は秩父の谷の一番つめの部落であるさうだ。其処では秩父四百竃の草分と呼ばれてゐる旧家に頼んで一宿さして貰うた。
栃本の真下をば荒川の上流が流れてゐた。殆んど真角に切れ落ちた断崖の下を流れてゐるのである。向う岸もまた同じい断崖でかえたつた山となつて居る。その向う岸の山畑に大根が作られてゐた。栃本の者が断崖を降り、渓を越えまた向う地の断崖を這ひ登つてその大根畑まで行きつくには半日かかるのださうだ。帰りにはまた半日かゝる。ために此処の人たちは畑に小屋を作つて置き、一晩泊つて、漸く前後まる一日の為事をして帰つて来るのだといふ。栃本の何十軒かの家そのものすら既に断崖の中途に引つ懸つてゐる様な村であつた」。

若山牧水の『木枯紀行』の一節である。牧水が十文字峠を越え秩父の栃本へと辿ったのは大正12年(1923)11月10日のこと、と言う。牧水は旅を愛し、旅にあって各所で歌を詠んだ歌人と称される。実際散歩を始めると各地で牧水に会う。上越国境の三国峠でも出会った。旧中山道の和田峠越えの時にも茂田井の宿で出会った。書物に称される人物像にリアリティが積みあがる。それはそれとして、おおよそ90年後の同じ頃、我々も牧水と同じく、梓山から十文字峠を越えて秩父の栃本に向かう。


本日のルート:十文字小屋;午前6時半出発>股の沢分岐;午前7時;標高1980m>四里観音避難小屋;午前7時52分;標高1809m>東に展望が開けたところ;午前8時42分;標高1740m>林道合流点;午前8時51分;標高1752m>三里観音;午前9時17分;標高1661m>鍾乳洞入口;午前9時46分;標高1761m>岩ドヤ;午前9時58分;標高1767m>二里観音;午前11時;標高1736m>白泰山標識;12時;標高1700m>一里観音;13時;標高1377m>栃本広場分岐;13時12分;標高1301m>車道合流;13時26分;標高1146m>十二天;13時52分;標高1010m>両面神社l13時56分;標高971m>下山口;14時6分;標高878m>栃本関所跡;14時20分;標高775m>川又バス停;14時45分;標高670m

十文字小屋;午前6時半出発_標高1971m
早朝に食事を済ませ、小屋を出発。すぐに「甲武信ケ岳」「白泰山 栃本 股ノ沢 川又」の道標。「白泰山 栃本 股ノ沢 川又」方向に道をとり、先に進む。道の両側の苔が美しい。「ぶくぶくする苔深い樹間を草履もて軽くふむ気持ち」と田部重治(明治後期のイギリス文学者。北アルプスや奥秩父を中心とする日本各地の山に足跡を残す)が描く奥秩父の原生林を進む。どこかで、「十文字小屋から進む500mほどの一帯が奥秩父の原生林の中でも、最も美しいところ」といった記事を読んだことを思い出した。奥秩父の「深林(木暮理太郎の造語。明治後期の先駆的登山家)」は誠に美しい。



山道は甲武信ケ岳から北に伸びる尾根筋にある大山(標高2,220m)の山麓を東に向かって巻いて進む。一面の苔の中を20mから20mほどの比高差を30分ほど進み股の沢分岐に到着。

股の沢分岐;午前7時;標高1980m
分岐点にある「股の沢 川又」方面という標識に、沢上りフリークとしてフックが掛かりる。今回は沢を川又へと辿るわけではなく、白泰山を経る稜線を栃本・川又へと進むのであるが、木暮理太郎、田部重治などの描く奥秩父の魅力は、沢の織りなす渓谷美も重要なファクターとなっているように思える。

「秩父の奥山に一たび足を踏み入れた人は、誰でも秩父の特色は深林と渓谷にあることを心付かない者はないであろう。それほど秩父ではこの二者が密接な関係を有している。深林あるが為に渓谷はいよいよ美しく、渓谷に由りて深林はますますその奥深さを増してゆくので、二者いずれか一を欠いても、秩父の特色は失われなければならぬ(木暮理太郎『山の思い出』)」。

「秩父の山の美は深林と渓谷とのそれである。信越の山々の超越的な、高邁な姿は、秩父の山の深林の幽暗と渓流の迂曲と共に私を引きつけた。私は秩父の山において一種神秘的なまた一方伝説的なものを感ずると共に、また、宇宙存在以来その間にこもって離れない山の魂という風なものに触れたような感じがした(田部重治『新編山と渓谷』)」。

「秩父の栃本から七里の間うねうね続く十文字峠の栂の林の美はいわずとしても、荒川や中津川の渓谷の新緑の勇姿は、ここを通る旅客の心に深く印象せずには置かない。幾十となく分岐せる荒川の渓谷を、峠の上から眺めると、見渡すかぎり、約五千尺から上は針葉樹を以て濃い藍色に、それから下は闊葉樹の新緑を以て埋もれて、宛ら自然はありあまる緑を如何に処理すればよいか迷えるかのように、萌黄の焔が燃え立とうとしている色合いは、喩えることの出来ないものである(田部重治著『新編山と渓谷:新緑の印象より』)。

今回は股の沢ルートはパスするも、深林と渓谷の織り成す奥秩父の魅力を求め、近い将来、股の沢ルートを辿るべく沢筋をチェックする。:分岐点から股の沢を下り、入川筋に入ると赤沢出合から川又の近くまで森林軌道跡(入川森林軌道跡)が残る、と言う。また、赤沢出合いから赤沢を遡上し、今から進む赤沢山の三里観音下あたりまでも森林軌道跡(赤沢上部軌道跡)が続く、とも。この森林軌道は東京大学農学部付属秩父演習林中にあり、林道は東大が敷設するも軌道の運営は民間の会社に委託されていたよう。大正12年(1923)に入川森林軌道が着工、昭和4年(1929)には川又から竹の沢まで敷設、また昭和11年(1936)には赤沢出合いまで延伸され、昭和26年(1951)には赤沢上部軌道敷設が完成した。
この森林軌道の敷設にともない、江戸時代は「御林山」と呼ばれ徹底した山林保護政策によって護られていた奥秩父の深森は、昭和に入ると、民有林・国有林・東大演習林を問わず伐採が進むことになる。伐採は特に戦後復興期の1960年代までが激しかったようであり、1970年ころにほぼ伐り尽くし、奥秩父の森林伐採は終息することになる。
伐採のあとは、一部にカラマツなどが植林された区域もあるようだが、多くは伐られたまま放置され、奥秩父の深い森ははげ山と化した、とか。白樺の林がキャベツ畑に変わった梓山の戦場ヶ原のように、木暮・田部が愛した奥秩父の深い森が現在どのようになっているのか、入川の渓谷を辿ってみたい。自然の「治癒力」に期待すること大である。



四里観音避難小屋;午前7時32分;標高1809m
股の沢分岐を白泰山方面へと道をとる。四里観音は股の沢分岐から先に進んだところにあるようだが、見落としてしまった。道を進むとほどなく南面が開ける。雨上がりの朝霧に雁坂嶺から破風山、そして甲武信ヶ岳へと続く山稜が浮かび上がる。山稜の南は甲斐の国。甲武信ヶ岳は「甲斐」と「武蔵」、そして「信濃」を分ける故の山名ではあろう。
30分ほど歩くと四里観音避難小屋に到着。小屋はきちんと整頓されており、薪も用意されている。お手洗いもあるし、近くには水場もある。水場は登山道から少し外れるようではある。こんなきれいな山小屋なら、夏などは小屋を起点に行程を組むこともできそうである。で。維持管理は誰が?チェックすると、埼玉県秩父環境管理事務所が担当している、と。改めて感謝。
避難小屋で少し休憩をとる。因みに昨夜泊まった十文字小屋も、むかしはこの避難小屋のあるところにあったようだが、甲武信ヶ岳登山者の増加などに適すべく現在の地に移った、とか。

林道合流点;午前8時51分;標高1752m
尾根道を辿り、標高1860mの大山を南に巻いて進むと、午前8時42分;標高1740m地点で東に展望が開ける辺りに出ると、北からの林道合流点に到着する。林道は奥秩父林道。中津川の谷筋を秩父から信濃の梓山へと抜ける中津川林道から分かれ、中津川の源流である大河俣沢の左岸高くを進み、この地に至る。現在では廃道と化している箇所も多い、とか。

この林道合流地点は南と北の両方が開ける踊り場、変則的切り通し、といったところ。南面の眼下は大赤沢谷の全景、入川の谷筋を隔てて見えるのは雁坂嶺や破風山の山稜、北面は朝霧なのか雲なのかの向こうには大山沢を隔てて三国山などが聳えるのではあろう。眺めの良いところである。

大島亮吉は「「秩父の美しい特色は、その深林と渓川にあるということがすでにいわれていることは前にも言った。それはたしかにそうである。わたくしにもそのことは微かながら感じられる。けれどわたしはここでは、わたくし自らの気まぐれな、ひとつのかたよった好尚から、この山脈に於いてそれらのものとともに、またもっとほかのものにもふかい好愛をかんじている。それはなにかといえば、この山脈のいたるところに、るいるいとつけられてある、古い、善い、もの深さにとんだ、しずかな山路、林道、廃道、旧道、村道、里道、県道、国道と、それらのあいだにあって、わたしらに一夜のやどりの詩情をそそる、かずかずの簡素な山小屋、炭焼小屋、伐木小屋などである(『秩父の山村と山路と山小屋と(抄))」と描く。単なる山道だけというわけでなく、避難小屋があったり、林道が合流したりと、人の踏み跡と接するだけでなんとなく心嬉しい。

三里観音;午前9時17分;標高1661m
中津川水系と入川水系を分けるいくつかの痩せ尾根を辿り、コメツガ、シラビソの森を見やりながら進む。林道分岐から30分ほどで三里観音。この辺りには、武州、信州からの荷物の交換、交易の場があった、とのこと。
散歩で峠を越える往還を辿るとき、山中の交易の場に出会う。中世の中山道である大菩薩峠越えの時には大菩薩嶺の辺りに荷渡場があった。中山道の和田峠越えの時にも、峠を下諏訪へと少し下ったところに荷渡し場を兼ねた石小屋跡があった。『甲斐国誌』に大菩薩嶺の荷渡場について以下の説明がある。「小菅村ト丹波ヨリ山梨郡ヘ越ユル山道ナリ。登リ下リ八里、峠ニ妙見大菩薩二社アリ、一ハ小菅、ニ属シ、一ハ萩原村(塩山市)ニ属ス。萩原村ヨリ、米穀ヲ小菅村ヘ送ルモノ此、峠マデ持来タリ、妙見社ノ前ニ置キテ帰ル、小菅ヨリ荷ヲ運ブ者峠ニ置キテ、彼ノ送ル所ノ荷物ヲ持チ帰ル。此ノ間数日ヲ経ルト雖モ、盗ミ去ル者ナシ」、と。信用取引が行われていた、とか。この三里観音が同様の信用取引が行われていたかどうかは不詳ではある。

岩ドヤ;午前9時58分;標高1767m
三里観音を越え、赤沢山の北面を巻いて進むと「鍾乳洞入口」の道標があった(午前9時46分;標高1761m)。ちょっと覗いてみたいと思うのだけど、如何せん方向が示されていない。赤沢山の下に、小さいけれど,真っ白くてきれいな鍾乳洞があるとのことだが、パス。
このあたりの道は少し厄介。赤沢山の巻道は人の踏みあとが減ったためであろうか、痩せて険しい。崖道を少々怖い思いでトラバースすることになるし、巨岩が屹立する岩ドヤ付近ではアップダウンを繰り返す。木立を透かして見える山稜は両神山への連なりのようである。
険しい山道を辿りながら、秩父困民党のことを想う。秩父で官憲に破れ、敗走なのか再起への道なのか、ともあれ、秩父困民党は栃本からこの険路を辿り十文字峠を越えて信濃へと向かった。秩父を歩くと市内の秩父札所(5番札所語歌堂15番札所少林寺、23番札所音楽寺)や神社、そしてで秩父困民党=秩父事件に出合った。以下簡単に秩父困民党・秩父事件の概要をまとめておく。




秩父困民党・秩父事件
秩父事件とは明治17年(1884)10月31日から11月9日にかけて秩父の農民が決起した武装蜂起事件。当時の自由民権運動の影響もある、と言う。当時の秩父の産業の中心は生糸の生産であったが、ヨーロッパの大不況の影響で、フランス・リヨンの生糸相場が大暴落。それを引き金に、日本国内生糸価格は大暴落。生糸の売上を担保に借金をしていた秩父の養蚕農家に大打撃を与える。日本政府のデフレ政策、増税も重なり秩父の農民は困窮。窮状につけ込んだ銀行や高利貸しが農民の生活を更に悲惨なものにしていった。




こうした状況の中、明治17年(1884)11月1日、借金返済の長期猶予と税金の軽減を求める農民の一斉蜂起が起きる。秩父吉田町の椋神社には1万名が集結したとも伝わる。これに対し政府は武力弾圧で事態の鎮圧を図る。それに伴い農民も「懇請」から「武装闘争」に転換。決起を訴える部隊が上州に派遣され、また信州・佐久の北相木を中心に援軍が峠を越えて秩父に集結。しかし武力劣る農民軍は政府の警察隊・憲兵隊、鎮台兵に鎮圧され、困民党に中核部隊は11月4日に解体。残された一部急進派は信州・北相木の菊池貫平を新総裁に、十石峠を越えて佐久に向けて千曲川沿いに転戦。その動きに呼応すべく、秩父出身者を中心とする部隊は栃本から十文字峠を経て梓山と進むも、八ヶ岳山麓で鎮台兵と交戦。佐久の主力と合流する前に殲滅される。また、佐久の主力部隊も11月9日に東馬流集落で壊滅。事件は終結した。

事件後の処罰は苛烈を極め、死刑12,処罰者3,812名に上った、と言う。私は本件については不詳であるが、秩父困民党=秩父事件は、自由民権期の農民蜂起であり、「自由民権運動史上、最高の闘争形態」と評する書もある。

二里観音;午前11時;標高1736m
尾根道を1時間弱進んだろうか、二里観音避難小屋に到着。外側は丸太造り。内部はブロックつくりで土間と板敷からなり、薪やストーブが整備されている。この小屋も四里観音避難小屋と同じく秩父環境管理事務所の所管である。WCや水場はないようである。
道標に「のぞき岩」の案内がある。南面が開けた岩場である「のぞき岩」から奥秩父の北面の山稜が一望のもと。西に目をやれば赤沢山の両耳峰とその遥か彼方に甲武信ヶ岳への山稜が続く。東は雁坂嶺から雁坂峠方面。眼下の入川谷の紅葉が美しい。

田部重治は「白妙岩の眺め、荒川本流と大洞谷との紛糾せる渓谷の雄大さが昔に変わることなく、轟轟たる響きは遙か紅葉の渓谷をとどろかせている(『山と渓谷;信州峠より十文字峠へ』)」、と描く。白妙岩とはのぞき岩のこと、とか。

同じく田部は『峠と高原;十文字峠』で、「栃本から二里ほどにある「のぞき岩」から遠望すると、残雪で眞白い北アルプスが遙かの天涯に怒涛の如く聳え、浅間山や八ヶ岳が思はぬ手近いところに現はれ、両神山は異様な姿をもって眞近に立っている。
道の左の荒川の源流の山々のカツ葉樹の緑は燃えるように鮮やかに、平地の四月の如き若々しさをもって中腹の黒々とした針葉樹と対し、その間を幾多の白霧を吹く流れは滝の如き急下降をなして白布をかけたように見え、遠雷のように轟いている。
峠の右に中津川の渓谷は一面の緑に蔽われて、流れのさまも見えない。峠の幽林は幽林へとつづき、ときどき大木が倒れて行手をふさぎ、それを辛うじて鋸で切り開いた道が通じている。耳を傾けると、静かな風は笛の音のように幽林を通い、かなたに伐木丁々の響きが聞こえるので。こうした無人の境にもどこかに人間のはいっていることがわかる」と描く。



白泰山標識;12時;標高1700m
しばし二里避難小屋で休憩し、先に進む。10分ほどで白泰山と北の大滑沢をぐるりと囲む尾根筋の分岐を白泰山方向へと進む。白泰山の北面を巻き、20分ほどで白泰山へと上る標識に到着。時間も体力も乏しくなってきており、白泰山の頂上への上りはパス。急な上りの先の頂上は樹林に覆われ展望が乏しいとのことである。「白泰山」の山名の由来は「山の表面が白く見える台地状の山」、とある。

「その時の記憶がなぜこんなに深く脳裡にに刻まれているのか、それは自分ながらわからない。と友は言う。ある秋の半ば、それは十文字峠を梓山へとこえた時のことだった。ちょうど山々は美々しい錦繍の季節の衣装をつけていた。白泰山のところまで栃本からのぼって来た時、私は峠路で幼な児を背におぶった四十あまりの土地の人らしい男が、なにか紙をもってうろうろしているのに行き会った。彼は私らを見て、ほっとしたように安堵の面持を浮かべて、すぐさまこれから秩父大宮までの道程をたずねた。その顔には深い憂愁と不安の色が、ただよっているのがすぐにみとめられた。
私らは道程のことを話してやった。きけば、その人は金峰の下、川端下の村のものでその幼児が熱病にかかったので一刻を急いでいま医者のところへかけるというのだった。川端下からよい医者のいるところへゆくのには、千曲川沿いに佐久の岩村田へ出るよりも、この十文字をこして秩父大宮へゆく方が時間にして早いと教わって来たのだそうだ。けれど、その人はまだ一度もこの峠をこしたことがないので、村の人から半紙に絵図をかいて貰ってやって来たのだった。
背中の病児は熱にうなされてたえず低い呻きをあげていた。まさに峠は紅葉のま盛りの時だった。父親は真紅に色づいた楓の小枝を一本折とって、それを片手でたえず背中の児の眼の前に振り翳してあやしながら、挨拶をのこして足早に折り曲がりの多い峠道を降って行った。その姿はすぐに路にかくれてしまったけれどもその秋の曇り日の山路の水のようにしんかんとした静けさのなかに、次第に薄れてゆくあの病児の低い呻きの声のみはしばらくのあいだ私らの耳にのこった。小略
こんな小さなことながら私にとっても、それは十文字峠とは離れがたい印象としてまだ残っているのである」。
大島亮吉著『山ー随想ー峠、十文字峠より』の一節である。秩父・信州往還が秩父と信濃の集落の人々の生活の一部として存在していた往時が偲ばれる。

一里観音;13時;標高1377m
「緑の色濃い葉陰に白雲低迷する幽林(『峠と高原、秩父を思う;田部重治』)」の中、「樹間奥深い彼方に叫ぶ怪鳥の声、幽林がまばらになって、思はぬ前面に屹立する峯頭(『峠と高原、秩父を思う;田部重治』)」を見やりながら、尾根をひたすら進む。樹木も明るい広葉樹になってきた。標高も1,600mから1,500m辺りになると紅葉が再び現れる。北面には樹木の隙間から両神山、南面は矢竹沢、入川の谷筋を隔て雁坂峠から北東へと川又へとのびる尾根筋ではあろう。白泰山への標識から尾根道を歩くことおおよそ1時間で一里観音に。梓山から栃本から梓山までの六里六丁、江戸時代の享保年間におよそ26キロに渡り、ほぼ一里ごとに建てられたと伝わる里程観音もこの観音様でお別れ。後はひたすら栃本の集落へ下るのみ。




林道合流;13時26分;標高1146m
一里観音から10分ほどで「栃本広場分岐」の標識。時刻は13時12分(標高1301m)。栃本集落の北の山麓、標高1,000mの所にカタクリの群生地、展望台遊歩道、自由広場、民芸広場等がある。駐車場があるようで、十文字小屋でご一緒したご夫妻も、栃本広場に車を置き、ハイキングコースを経て秩父・信州往還から十文字小屋に上ってきたとのことである。







標識を見やり、高度を下げてゆく。さらに10分ほど150mほど標高を下げると林道に合流。舗装もされている。地図をチェックすると、合流点より西はほどなく途切れるが、東は栃本広場や栃本集落と連絡し、秩父湖の二瀬ダムのあたりまで続いている。


両面神社l13時56分;標高971m
往還道は林道を進むことなく、すぐ再び林へと入る。十二天(標高1,206m)の山腹を尾根筋と平行に南に下っていく。このあたりは杉林が多くなってきた。道を進むこと30分。道脇に十二天の標識が倒れている(13時52分;標高1010m)。道上にささやかな祠が見えるが、それが十二天の祠であろう、か。この辺りが十二天の尾根道との合流点のようであり、そこからさらに数分で両面神社に着く。
「そのうちに炭焼小屋が見えて来る。焼畑の煙が立ち登っている。植林が見える。両面神社に来れば栃本の村が下に見えて荒川の流れは白く岩を噛んでいる。五月の山村は養蚕に忙しく、美わしい野調を唄いながら桑の葉を摘む少女の瞳は、若葉のように色がふかい」と田部重治は描く。
両面神社にお参り。狛犬ならぬ狛狼が社を護る。この社は三峰神社の姉妹宮とのことである。三峰の社といえば、その眷属は山犬(狼)であるので、納得。また、この社は十二天とも称される。十二天とは、八方(東西南北の四方と東北・東南・西北・西南)を護る八方天に、天地の二天と日月の二天を加えて十二天とする、十二の方位を護る密教の守る十二の守護天。古来より、山道の登り口には山仕事や山越え・峠越えの安全を祈願する山口神社が祀られたが、この両面神社も十文字峠を越える旅人を護るべく祀られたものだろう。

栃本集落;14時6分;標高878m
両顔神社でお参りし、10分ほど下ると集落の道にでる。白泰山の東麓の山腹に貼り付けられたような集落である。樹林の間から雲海に浮かぶ山は荒川の東に聳える和名倉山だろう(標高2,032m)。白石山とも称される。和名倉山は元は原生林の美しい山であったようだが、徹底的な森林伐採の典型の山とされる。白石山の由来は、「白い岩盤」から。また、和名倉山の由来は不詳だが、全国にある「わな」の語源は「輪奈=罠」との説がある。罠に嵌ったような曲がりくねった道無き道の続く原生林であったのだろう、か。単なる妄想。根拠なし。

集落の中を進むと愛宕地蔵尊。この辺りは牛蒡平と呼ばれるようである。この辺りから、雁坂峠へと向かう秩父往還との合流点、というか、分岐点あたりまでは芝桜が有名で、「芝桜街道」と呼ばれている、とか。

栃本関所跡;14時20分;標高775m
先に進み、雁坂峠へと向かう秩父往還との合流点近くに栃本関所跡。残念ながら屋敷は閉まっていた。
案内をメモ;「国指定史跡栃本関跡(昭和45年11月12日指定);江戸幕府は関東への入り鉄砲と関東からの出女を取り締まるため、主要な街道に関所を設けた。栃本関は中山道と甲州街道の間道である秩父往還の通行人を取り調べるため設けられたもので、その位置は信州路と甲州路の分岐点になっている。その始まりは甲斐の武田氏が秩父に進出したとき関所をおいて山中氏を任じたと伝えられるが、徳川氏の関東入国以後は、天領となり関東郡代伊奈忠次が慶長十九年(1614年)大村氏を藩士に任じたという。
以後大村氏は幕末まで藩士の職を代々務めた。しかし藩士一名のみでは警備が手薄であったため、寛永二十年(1643年)秩父側の旧大滝村麻生と甲州側の三富村川浦とに加番所を敷設して、警護を厳重にした。したがってその後、関を通行の者で秩父側から行くものは、まず麻生加番所で手形を示し印鑑を受けて、栃本関に差し出すことに定められた。関所の役宅は、文政元年(1818年)と文政六年(1823年)の二度にわたって焼失し、現在の母屋は幕末に建てられたもので、その後、二階を建て増しするなど、改造されたが、玄関や上段の間、外部木柵などには関所の面影をよく留めている(平成十年十一月埼玉県教育委員会)」、と。

秩父から甲斐へ出るには秩父往還を辿り雁坂峠に、信濃へ出るにはこの栃本で秩父往還から分かれ十文字峠を越えた(秩父から信濃に出るには中津川の谷筋を進み三国峠を越える道もある)。雁坂峠道は、戦国時代には武田信玄が、奥秩父の金属資源を採掘するのに頻繁に行き交った歴史を持つ。『新編武蔵風土記稿』の古大滝村の項に、「土産には山に金・銀・銅・或いは磁石・緑青・寒水石・燧石等を生ずる」とある。
江戸時代になると、甲斐善光寺や身延山への参詣、逆に甲斐から三峰参詣といった信仰の道、また生活物資を甲斐で売買するための物流の道として人々が往来した、とのこと。それは信州往還であった十文字越えと同じである。雁坂峠道は中山道と甲州街道のバイパス、十文字峠道は中山道の裏街道にあたる往還であり、その往還監視のため、この地にこの栃本関所と麻生の加番所(関所の事務を補佐し通行手形に押印する)が設けられたのであろう。

秩父往還・雁坂峠への道;日本の道百選
栃本関所跡より川又バス停へと急ぐ。川又バス発が13時51分。あまり時間がない。これを逃すと2時間近く待たなければならない。急ぎ足で栃本の集落を進む。栃本の集落は南斜面にしがみつくように点在している。斜面に耕地が開かれ、国道は眼下、遙か下に走る。
「♪ハアー私ゃ大滝だよ 粟稗そだち 米のなる木はまだ知らぬ (コラショイ) ハアー 来たら寄っとくれよ 両面神社の麓 寄れば茶も出す 酒も出す (コラショ)♪」。


栃本の民謡である。この栃本集落など、険しい山岳地帯にある秩父の大滝村や中津川、三峰といった村々には水田は無く、畑も大半が「サス」と称される焼畑であった、とか。山を焼き、養分が有る間、耕作に努め、養分が無くなると再び森に戻し地力の回復を図るといったもの。この山の中腹の畑もかつては焼畑農業がおこなわれていたのであろう、か。農作物は粟・ヒエ・大豆・そば・たばこ・インゲン豆などであった、とか。上の民謡に歌われる通りの耕地の乏しい山村の生活が偲ばれる。

集落の東、荒川を隔てた先には和名倉山(別名白石山。標高2,036m)が聳える。日本の道100選にも選ばれた、この栃本集落の秩父往還の道筋は、十文字峠越えと関係なく、前々から辿りたいと思っていた峠道である。十文字峠越えのゴールで、この美しい道筋が歩けたのは誠に嬉しい旅のエピローグとなった。

千軒地蔵尊
道を進み、集落のはずれの道脇に倒れた「千軒地蔵尊」の標識と、小高い崖上にささやかな祠がある。入川支流の金山沢・股ノ沢・真ノ沢など、荒川源流域では甲斐の武田信玄の手によって金の採掘が盛んに行われた。文政年間(19世紀初め)に編纂された『新編武蔵風土記稿』には、金の採掘坑口跡が83ヶ所あり、かつて股ノ沢には「千軒屋敷」と称されるほどににぎわっていたと記されている。千軒地蔵尊は武田家滅亡に伴い、股の千軒屋敷から移された、と伝わる。



西武バス川又バス停;14時45分;標高670m
急ぎ足で川又に向かう。川又は入川と荒川の合流点故の地名である。栃本の集落からの道筋の下に国道が見える。自由乗降区間のバスを止めるべく、国道に下りる道筋を探すもひとつとして見つからない。仕方なく、更に歩みを早め千軒地蔵から10数分下ると川又バス停。発車時刻は15時51分。かろうじて間に合った。
バス停にあるお手洗い、沢水を曳いたホースから勢いよく出る水で汚れた足回りを洗い流し、バスに乗り秩父鉄道三峰口駅に。ちなみに、栃本関所前からのコミュニティバスは、この西武バスに連絡しており、慌てて歩かなくてもバスに乗ればよかった。とはいえ、コミュニティバスに乗れば道脇の千軒地蔵尊に出合うこともなかったわけで、慌ただしいエピローグの道行ではあったが、それはそれでよかった、かと。

「この古い、むかしは中仙道の裏道として峠をこす旅人のゆきかいもはげしかった峠路。その古びたもののみのもつ雅韻を帯びた、影ふかい峠路。その七里にわたる里程から、その峠の高さから、その古さから、そのうつくしいふたつの山村のあいだをつなぐことからみて、十文字峠はこの山脈のうちで、どうしてもわたくしから はなれがたいものである。
五月にそこをこえれば、渓々のどこからも若葉の層がむらむらと、それをゆする青い山風のかおりもほのかに、人の匂いもない、森閑とした深山の峠路を飾る、わびしくも、きよい石楠花と花躑躅の花の祭りを見ては、山を越える旅者の胸もその花の精神に染められてしまうだろう」。
大島亮吉『登高者;秩父の山村と山路と山小屋と』の一節である。十文字峠越えはその歴史、その自然、ともに誠に楽しい散歩であった。
 

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