旧中山道 和田峠越えⅠ;岩村田宿から望月宿へ

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ご老公の中山道お供旅の2回目。今回は和田峠越え。先回の中山道碓氷峠越えのお供に控えた同僚は所用のため参加できず、今回はご老公と私の二人旅。峠越えフリークの私としては、和田宿から和田峠を越えるだけで十分ではあるのだが、事の成り行きから望月宿からのお供と相成った。
今回の和田峠越えの日程は2泊3日。初日は佐久平に前泊。2日目には朝、佐久平からご老公が既に辿った中山道の最終地点・望月宿にバスで移動。中山道散歩は望月宿からスタートし、和田宿を越え和田峠への登り口にできるだけ接近しておく。翌日の和田峠を越えて下諏訪までの距離を極力短縮するためである。到着点から宿までの足が心配ではあったのだが、幸い、和田宿での宿である民宿は街道の任意の地点までの送迎サービスをしてくれる。中山道を辿る人への配慮故である。この計画で歩けば、初日25キロ強、2日目は標高1600mの和田峠を越えて下諏訪宿まで20キロ程度となる。
和田峠ははるか昔、高校生か大学生の頃であるので、40年以上も前の事ではあるが、両親とともに車で越えたことがある。峠のトンネルが誠に狭く怖い思いをした、との微かな記憶が残る。当時はバイパスも出来ていない頃であろうし、トンネルも車一台が通れる程度の幅ではあったのだろう。
和田峠は数年前に買い求めた『峠の歴史学;服部英雄(朝日新聞社)』において物流の峠のケースとして紹介されており、皇女和宮や天狗党などについても、宿場の人々の立場からの労役負担などが説明されており、峠越えフリークとしてはそのうちに実際に歩いてみたいと想っていたところでもある。今回の和田峠越えは、峠を巡る人々との歴史に想いをはせるとともに、過ぎた日に対する少々の感傷を抱くものとなりそうである。
旧中山道和田峠越えメモの第一回は、前泊地である佐久平近くにあった岩村田宿と、散歩のスタート地点である望月宿までのバスの旅での所感。何気なく歩いた岩村田宿であまり聞き慣れないのだが、佐久だけではなく武蔵までもその覇を及ぼした武将の名前が登場したり、望月の駒で知られる御牧のあった御牧台が気になり、あれこれチェックしていると散歩を始める前に足止めをくらい、少々メモが長くなったためである。ともあれ、メモをはじめる。



本日のルート;長野新幹線・佐久平駅>岩村田宿>西念寺>龍雲寺>円満寺>荒宿>王城公園>鼻顔稲荷>遊郭大門跡>佐久甲州街道道分去れ>長野新幹線・佐久平駅

■前泊地・佐久平の岩村田宿


長野新幹線・佐久平駅
金曜日の午後、長野新幹線・佐久平駅に到着。駅にある観光案内所のパンフレットを見るに長野新幹線・佐久平駅にクロスする八ヶ岳高原線で一駅東に岩村田駅がある。岩村田は中山道・岩村田宿があったところ。ついでのことであるので、岩村田宿を巡ることにした。

西念寺
長野新幹線・佐久平駅より、八ヶ岳高原線に沿って南東に下る。しばらく進み、八ヶ岳高原線・岩村田駅の北に佐久長聖学園がある。陸上競技などでよく聞く学校であり、ちょっと立ち寄り外からキャンパスを眺め先に進む。
佐久警察署交差点を過ぎると道の南に西念寺。このお寺さまは、岩村田藩主・内藤氏や戦国時代の旧岩村田領主仙石秀久の菩提寺。開山は永禄3年(1560)。武田信玄が帰依し甲斐・信州に多くの浄土宗の寺を建立した岌往上人によって建てられた。本堂の屋根の構えが誠に印象的。また鐘楼、12の柱で支えられた山門など、風格を感じる構えである。
仙石秀久って、織田信長公・豊臣秀吉公・徳川家康公・2代秀忠公に仕えた小諸城初代藩主。秀吉の九州攻めのとき軍監として赴任するも、無無謀な作戦をたて大敗し、しかも誰よりも早く逃げ帰り配下の長曽我部信親など多くの武将を失った。その責めを負い一度改易になるも、小田原攻めにおいて活躍し、再び大名として復活した人物である。

岩村田宿
西年寺を離れ、成り行きで進み県道9号に沿って並ぶ岩村田の商店街に出る。商店街には中山道・岩村田宿の幟が並ぶ。この辺りが岩村田宿のあったことであろう。
岩村田宿は江戸から数えて22番目の宿。先日の碓氷峠越えで歩いた追分宿が20番目であり、21番目の小田井宿は先回散歩の最終地点であるしなの鉄道・御代田駅の少し南にあったようだ。それはともあれ、この岩村田宿は本陣、脇本陣はなく、寛政6年(1784)には11軒の旅籠と、その他旅芸人や巡礼が宿泊する木賃宿があった、とか。
本陣・脇本陣がなかったから、岩村田宿がさびれた宿、というわけでもなく、それは内藤氏15千石の城下町(城はなく陣屋が岩村田小学校のあたりにあった、よう)であったがための、と言う。城下町の宿故に必要となる大名間の儀式を嫌いこの地に泊まることを避けることが多く、ために本陣・脇本陣を設置しなかった、とか。実際、鎌倉時代、大井郷と呼ばれた頃は「民家六千軒、交易四達し、賑わい国府にまされり」と記録に残る栄えた町であり、特に応永年間(14世紀末から15世紀はじめ)は関東管領足利持氏に重用された大井氏が東側の高台に居を構え、多くの人が往来する地となった。
江戸時代になり、街道が整備されると、中山道が北から下り来て西に抜け、また、北西への小諸への街道(善光寺道)、南に下って野沢を経て甲州へ抜ける街道(佐久甲州街道)、東の香坂峠を越えて上州の下仁田への街道(下仁田道)の分岐点となり、この地は米穀の集積地として物流の要衝であった、とか。寛永元年(1748)には人口2,135人。街並みの長さ9町半(およそ1キロ)を誇った宿であり、商人や善光寺参りの善男善女など多くの人々で賑わった。

龍雲寺
少々レトロな雰囲気を残す、といって往昔の宿の名残は留めない商店街を北に住吉町交差点まで進み、右に折れて龍雲寺に向かう。住吉町交差点をもう少し北に進めば住吉神社があり、そこが岩村田宿の江戸口であったようだが、今となっては後の祭りである。また、住吉交差点から北西に向かう道が往昔の善光寺道と案内にあった。
道を折れ龍雲寺に。結構なる山門が印象的。開山は正中元年(1324)、当時大井郷とよばれたこの地の地頭であった大井氏の招きにより京都五山派東福寺系臨済宗の寺として開かれた。場所は現在よりもう少し東南の地であった、とか。鎌倉・南北朝と法灯を伝えるも、室町に至り臨済宗を庇護した室町幕府の衰退により多くの臨済宗の寺とおなじくこの寺も衰退。文明15年(1483)、曹洞宗の寺として復興。明応3年(1494)には現在の地に移った。
その後戦火により寺は荒廃したが、永禄年間(1558-1570)、武田信玄が深く帰依する北高禅師を開山とし再興。その子・勝頼も寺の再興に努めた。江戸の頃は、本陣がない岩村田宿故に、大名が滞在する時の宿ともなった、とのこと、因みに家臣は先ほど訪れた西念寺に宿泊した。
この寺には武田信玄の遺骨が伝わる、とか。箴言は天正元年(1573)、京への上洛の途上伊那にて病死するも、その遺言に基づき、北高禅師によりこの寺に分骨された、と言われる。昭和6年境内より骨壺が発見され、遺骨とともに短刀・袈裟輪も出土。調査結果及び袈裟輪に記された銘文から、遺骨は信玄のものにほぼ間違いないとされている、とか。

円満寺
地図をみると、龍雲寺のすぐ近く、北東のところに円満寺が見える。ちょっと立ち寄り。康治2年(1143)開山の真言宗の古刹。大永年間(1521-1528)に兵火により焼失するも、後に武田信玄の庇護を受け再建。岩村田の東北にあり、鬼門鎮護として江戸頃の領主・内藤氏の庇護を受けた。
本堂は新たに建て直されたばかりのようであったが、本堂裏の観音堂は古き趣を今に伝えている。境内には松の巨木が並び、ちょっとした松並木の風情があるが、この寺は藤が有名であるようであった。境内を出て振り返ると「信濃成田山」と刻まれた石柱が目に付いた。

荒宿
円満寺を離れ、道を南に向かう。古い土壁の土蔵などが残りなかなか風情のある街並みである。荒宿と呼ばれるこの辺りは、江戸に入り中山道が整備される以前の岩村田宿があったところ、とのことであるので納得。中山道沿いの岩村田宿が発展するにつれて、荒宿はその役割を譲ることになるが、正徳3年(1713)の「信州佐久郡岩村田宿絵図」には荒宿の通りも描かれている。少なくとも江戸中期までは、荒宿も岩村田宿として扱われていたようである。
案内地図に円満寺に沿って古道が記されていた。南に進み県道143号を左に折れ、湯川への川筋に向かって下ると途中に王城公園があった。先ほど龍雲寺でメモした大井氏の城館跡とのことであるので、ちょっと立ち寄り。

王城公園
県道から離れ公園に入る。広い公園ではあるが、遺構らしきものは見あたらない。公園の北東隅には巨大な欅が聳えている。公園から湯川を見下ろすに、結構な断崖となっている。
公園を一巡し入口に戻ると「大井城跡」の案内があった。「この城跡は鎌倉・室町時代を通じて、佐久郡の東部を中心に繁栄した大井氏宗家が城館とした場所。幅100m前後、長さ700mにおよぶ長方形をしている城域は堀切によって三区分され、中央を王城、南を黒岩城(以上が県史跡)、北を石並城といい、合わせて大井城または岩村田館と呼ぶ。
文明十六年(1484)、大井城は村上氏の攻撃により岩村田市街とともに焼亡、大井氏宗家は滅亡した。その後、支族によって再興された城は、天文年間以後は武田氏の支配下に、そして武田滅亡後は徳川家康の武将依田信蕃の支配下に置かれるが、やがて廃城となる」とある。
案内によれば、王城公園から県道156号を隔てた南が黒岩城があったところであろう。それはともあれ、案内を読むに、武田氏とか徳川氏、それに村上氏は村上義清氏であろうと推測できるのだが、大井氏とか依田氏ははじめて聞く名前。チェックする。

大井氏
大井氏の出自には諸説ありはっきりしない。一説によれば、甲斐源氏の小笠原長清が信濃国内の支配を強めるために、佐久地方にあったふたつの庄園である伴野荘(南佐久郡)と大井荘(北佐久郡)に、伴野荘には六男の時長を、大井荘には七男の朝光を地頭として、それぞれ伴野と大井姓を名乗らせた。この大井朝光氏が大井氏の祖とされる。鎌倉時代のことである。
大井荘は12郷(岩村田、耳取、与良、小諸、平原、塩野、小田井、根々井、平尾、沓掛、軽井沢、安原)からなり、その中心となったのがこの地・岩村田郷。代々大井氏はここを拠点として大井荘一帯を支配していった。南北朝の頃は、小笠原一党として足利方として活躍する。南朝方の東山道軍により大井城は一時落城するも、新田義貞の箱根・竹之下の合戦(1335年)での敗北により、戦況が変化し再び大井城を回復。その後室町の頃、鎌倉公方足利持氏と関東管領が反目し「永享の乱(1438)」において、敗れた足利持氏の遺児・永寿王を庇護。嘉吉元年(1441年)の結城合戦では足利持氏の遺児(春王と安王)を奉じて室町幕府に反旗を翻した結城氏朝に永寿王を送り届けるなど、関東の情勢にも関与することになる。大井勢も結城合戦に合力すべく東進するも、碓氷峠で関東管領方(室町幕府方)に阻まれ、結城合戦も敗れる。
結城合戦に敗れた鎌倉公方・足利持氏の遺児3名は捕らえられ護送の途中、春王と安王は殺害されるも、幼い永寿王は助命される。大井氏(持光)は再び永寿王を庇護。この永寿王が後に鎌倉公方家を再興し足利成氏となるが、そこには大井持光の力が大きく寄与していた、とのことである。その鎌倉公方・足利成氏であるが、関東管領と対立し、享徳3年(1454)これを誅殺。室町幕府・関東管領と関東を二分した大乱を引き起こす。結果、成氏は鎌倉を追われて下総古河に移座し古河公方となるも、その庇護者である大井氏の関東の所領維持が不安定となりにおける力にも翳りがではじめる。
この地においては文明年間(15世紀後半)、大井氏など信濃勢(佐久の国人衆)が甲斐国に攻め入ったり、逆に佐久に攻め込んできた甲斐勢を破るなど、未だ守護武田氏の力が弱かった甲斐と拮抗する勢力を保っていた。文明11年(1479年)、大井氏は同じ佐久郡内の同族・伴野氏との戦いに大敗し、大井政朝(持光嫡子)が生け捕りとなる。伴野氏方には甲斐の武田氏が加担していたといわれる。文明16年(1484年)、大井政朝から弟の安房丸への代替わり時に、小県郡から佐久郡に勢力を伸ばそうとしていた村上氏の攻勢を受け、大井城は落城し大井宗家は滅亡する。
宗家は滅亡するも、一説には甲斐武田氏系統の永窪大井氏が大井城を継ぎ、岩尾・耳取・芦田・相木など一門も存続した、と。これら残された一族は、村上氏の与力となった、とか。また、依田氏など、それまで大井氏に従属していた諸族の多くは村上氏の傘下に移り、実質的に佐久郡は村上氏の影響下に置かれることになる。
永正16年(1519年)、甲斐の武田信虎が佐久郡平賀城を攻める。この攻防戦を皮切りに、佐久の地は武田氏と村上氏の争いの場となり、大井氏・平賀氏・依田氏をはじめとする佐久郡の豪族も村上氏や武田氏、更に関東管領上杉氏などの間で離合集散を繰り返していき、最終的には滅亡するか武田氏に従属することになる。
戦国末期、武田氏が滅亡し、徳川氏・後北条氏・越後の上杉氏の勢力が信濃に伸び、大井氏一族も再び騒乱に巻き込まれていく。天正11年(1583年)、佐久で唯一残った北条方の岩村田大井氏(大井朝光の孫光泰が祖)・大井行吉が立て篭もる岩尾城攻めで、徳川方の依田信蕃と弟の信幸が戦死を遂げる、との記録が残っている(wikipedia,武家家伝・大井氏などを参照)。

依田氏
出自は清和源氏の流れとか、岩村田大井氏からとか、頼朝の命での地頭職がそのはじまりなど諸説。ともあれ、依田六郎為実が小県群に依田城を築き依田氏の祖とされる。為実の子は木曽義仲の平氏追討に際し、依田城を提供し、共に京に攻め上がるなど活躍するも、義仲の敗北とともに衰退。その後北条時代に勢を盛り返し依田荘を回復。鎌倉幕府滅亡に際しては足利尊氏方に属し、その後室町幕府の重臣である評定衆に列するなど幕府内で重用される。
南北朝には依田氏は依田荘全域を支配し、更に丸子郷への進出を図り、芦田古町に芦田城を築く。この頃より、依田氏は芦田氏とも称したようである。この芦田進出は前述の佐久の大井氏を刺激し芦田(依田)氏と大井氏の争いに発展。芦田氏(依田)は村上・海野・禰津氏らの国人連合の支援をえて対抗するも、信濃守護小笠原・大井勢に破れ、依田氏は大井氏の家臣となる。上でメモした結城合戦に際しては栄寿丸を結城城へと届けたのは依田氏、とのことである。文明16年(1484年)、村上義清により大井城が落城し大井宗家滅亡。このときの依田(芦田)氏の動向は不明ではあるが、芦田領主として自立したのではないか、と言われる。その後依田(芦田)信守の代に諏訪氏の傘下に入ったとされるが、天文11年には諏訪氏は武田氏に滅ぼされ、翌12年に武田氏の佐久侵攻で臣従、以後信濃先方衆として活躍することになる。
その子依田信蕃の代にその武田氏も滅亡。当時駿河国の田中城に居た信蕃は城を明渡し、徳川氏の庇護下に身を寄せる。その後、信濃には織田軍が侵攻するも、本能寺の変により信濃の織田勢力が無力化し、旧武田領は徳川・北条・上杉の争奪地となる。信蕃は当初は北条氏に属し、その後徳川氏の与し佐久地方で活躍。当初北条方であった真田昌幸を徳川方に寝返らせるなどの功績で、佐久・諏訪の二郡を与えられ小諸城代となる。王城公園にあった、「徳川家康の武将依田信蕃の支配下に置かれる」との下りは、このあたりのことであろう。しかし、上の大井氏のいところでメモしたように、佐久で唯一残った北条方の岩村田大井氏が立て篭もる岩尾城攻めで、弟の信幸と共に戦死を遂げる。
天正12年(1584年)に家康は信蕃の武功を称え、嫡男竹福丸に松平姓を許し「康」の一字を与えられ、依田康国として小諸6万石の城主とする。この康国は天正18年(1590年)の小田原征伐で上州に出陣するが、石倉城で戦死を遂げることになる。
康国の死後は、弟の康真が家督を相続。小田原の役後、家康は江戸に入部。依田氏も家康に従って関東に移り、改めて武州榛沢、上州緑野両郡において三万石を与えられ藤岡城主となる。文禄三年(1594)康真は二条城築城奉行を命じられ、井伊・榊原氏らとともに上洛し本丸・隠居郭を完成させている。慶長五年(1600)、康真は、旗本小栗氏と囲碁の勝負を巡る諍い小栗を斬り殺す。康真は大坂を出奔し高野山に上り沙汰を待ったが、結果は藤岡三万石を改易され、結城秀康のもとに食禄五千石を与えられお預けの身となった。康真は松平姓をはばかり母方の加藤姓を名乗り、子孫はのちに芦田姓に改めた、とのことである。

鼻顔稲荷
次は何処へと地図を見る。と、王城公園から湯川を少し下ったところに鼻面稲荷大明神がある。王城公園からも、崖面にせり出した社殿が見える。名前に惹かれて立ち寄ることに。
公園を離れ、湯川に向かって下り、昭和橋の手前を右に折れ、川に沿って南に下り、県道44号、香坂峠へと向かう昔の下仁田道筋に当たる。鼻顔橋を渡ると鼻面稲荷大明神の入口がある。詠みは「はなずら」。鼻面になんらかの由来があるものかとい想ったのだが、此の辺りに昔の小字名が鼻面であった、ためとのこと。それにしても、地名の鼻面の由来は残ったままだが、全国には鼻面川とか鼻面岬といった地名もあるので、それほど特異な地名というわけでもないようである。
南の参道の鳥居をくぐり、直進すると表桟道。右手には階段を上る男道がある。表参道を直進し、神楽殿や水琴窟を見やり、現在は通行禁止と成っている急な階段の先に女坂。女坂は崖面に架けられた桟道となっている。女坂を進み男坂参道と合流するところに御姿殿。二体の狐が佇む。鍵を咥えたお狐と巻物を咥えた子持ちの二体のお狐狐様が佇む。
御姿殿の先に参籠所。本来は祈願のために籠もる場所ではるが、今は地酒だけが並んでいた。参籠所の先に拝殿と本殿。この本殿や拝殿、参籠所は崖に足場を組んで造られており、懸崖造という建築方法とのこと。床板の下は崖、のはず。静かに奥に進むと、右手奥に岩に塗り込められた旧本殿。直進すると新しい本殿があり、赤い格子の奥には、同じく岩に塗り込められた本殿がある。眼下に湯川、そして岩村田の家並みを眺め少し休憩。
鼻顔稲荷神社は永禄年間(1558〜1569)に京都伏見稲荷を勧請。伏見、祐徳、笠間、豊川とともに「日本五大稲荷神社」の一つとされている。もっとも、全国には「三大稲荷」または「五大稲荷」の称する稲荷は10以上ある、とのこと。「巻物」は神からの神託、「鍵」は神霊力を引出す鍵、子キツネは「子宝」を意味する、とか。因みに、眷属の狐が持つものに、「玉(宝珠)」や「稲」があるが、「玉(宝珠)」は神霊の力、「稲」は富を意味する。このお稲荷さまは、養蚕と商業の神として知られ、戦前までの初午では、養蚕の盛んな群馬県や栃木県からの参拝しにきた信者も多かった、とのことである。

遊郭大門
鼻顔稲荷を離れ、岩村田宿のあった商店街へと戻ることに。道は、鼻顔稲荷前の県道44号を西に向かえば相生町交差点に続く。昔の地図(駅の観光案内所にあった「信州佐久」という観光案内に掲載されていた)を見るに交差点辺りが岩村田宿の枡形の曲がり角のようである。道を少しすすんだところに遊郭大門の跡がある、と駅前の案内地図にあった。この遊郭は信越線の開通によって廃れた追分宿の遊郭が明治になって移転してできた遊郭とのこと。遊郭は現在の花園団地辺りにあったようである。

佐久甲州街道道分去れ
先に進み相生町交差点に。「信州佐久」に掲載されている古図によると、相生町交差点の西詰めにある西宮神社のところで岩村田宿を南へと下中山道は直角に曲がり、西へと進む。また、地図には、鼻面稲荷からの道筋は「下仁田道」の小径、そして西宮神社から南へと下る「佐久甲州街道道分去れ」が描かれている。佐久甲州街道は現在は県道133号・国道141号として八ヶ岳の裾野を甲州街道・韮崎へと下る。佐久甲州街道は、甲州往還と呼ばれ、東海道筋の人々にとっては甲州往還を岩村田宿に進み、更に北上して北国街道や善光寺詣りの道であり、信濃の人々にとっては富士講や伊勢講といった信仰の道であり、茶・塩などの食料や木材といった物流の重要な道であったようである。また、戦国時代は武田信玄の信濃攻略の重要な軍用道路のひとつであった、とのことである。「分去れ」という美しい響きは、本当に、いい。

佐久平駅
西宮神社脇を通旧中山道を進む。八ヶ岳高原線の手前のドーム型建物は「佐久こども未来館」。日も暮れてきた。ホテルへと急ぐことに。岩村田高校の辺りから右に折れ、成り行きで進み佐久平駅前のホテルへと戻る
後になって気付いたのだが、旧中山道をそのまま進み、浅間総合病院の脇に、「相生の松」があったようだ。皇女和宮が休憩で野点をしたとの由来の地ではあるが、それよりなにより、英泉の「木曽道中 岩田村」の舞台との説がある。座頭が喧嘩をする、といった道中絵図としては余りに大胆な絵柄故に英泉に替えて、「東海道五十三次」の絵図で人気を博した安藤(歌川)広重に「中山道」の絵図を依頼するきっかけともなったもの、とも言われる。今となっては後の祭りである。

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)

 

■2日目;佐久平から散歩の出発地・望月宿へ

塩名田宿
佐久平駅前のホテルで一夜を過ごし、明朝駅前ロータリーよりバスに乗り望月宿へと向かう。バスは西へと、おおよそ中山道を進む。ほどなくバスは千曲川の川筋に向かってくだってゆくが、千曲川の東には中山道23番目の宿・塩名田宿があった。広重の「木曾街道六十九次の内 塩名田宿」には、千曲川を背景にした船着き場が描かれる。
千曲川もこのあたりは急流で、川幅も120mほどもあった、とか。川の瀬が二つに分かれていた頃は、塩名田川は平橋、逆の御馬寄側は岩を橋台にした投渡橋であったり、投渡橋が洪水で流された後は刎橋(川の両岸から刎木を何段にも重ね、それで橋桁を受ける様式。山梨県大月市猿橋町猿橋にある桂川で出合った猿橋がそれの様式であった)であったり、それも流されたときには舟渡しとなった、とか。ともあれ、塩名田宿は千曲川の川止めなどのため造られた宿、とのこと。
塩名田の名前の由来はよくわからない。塩尻などと同じく、塩の道に由来するとの説がある。また、塩名田は塩灘、塩灘太とも書かれたようで、「なだ」とは「川の平坦な浅瀬を指し、浅瀬故に急流であるところ」にある塩の道と地形を足したような説、また、「しおなだ」とは「川がしおんで(たゆんで)平坦なところ」との説などあれこれ。

御牧原台地・望月の牧
千曲川を渡ると御馬寄地区に入る。江戸の頃は御馬寄村であり、文字通り馬を寄せ集める場所であり、その馬は朝廷に献上するものであり、「御」がついていたのだろう。つまりは、朝廷に馬を献ずる勅使牧の馬寄場、ということであろう。
勅旨牧は甲斐・武蔵・上野・信濃の四か国寺に置かれ、中でも信濃が最も多く16の牧があり、その最大のものがこの御馬寄の地の北の台地、御牧原台地にひろがる「望月の牧」であった、とか。信濃全体の16の牧から80疋の馬を朝廷に献じたが、そのうり20疋は望月の牧からのものであった。
毎年八月中旬に、諸国の牧から献じた馬を天皇に御覧に入れる「駒牽(こまひき)」の儀式がにおこなわれ、天皇の御料馬を定め、また、親王、皇族、公卿にも下賜された。もともとは、国によって貢馬の日が異なっていたようだが、のちに一五日となり、諸国から献ずる馬も鎌倉末期からは信濃のこの地・御牧台だけとなった。この馬は「望月の駒」と呼ばれ、ために、牧も望月牧(もちずきまき)とも呼ばれるようになった、とか。「逢坂の関の清水に影見えて、今や曳くらむ望月の駒  ( 拾遺集 巻三 紀貫之)、「さがの山ちよの古道跡と(尋)めて 又露分くる望月の駒:藤原定家」など、多くの歌人が望月の牧を題材にした歌を80近く残してる。
御牧原台地・望月の牧は、標高2530mの蓼科山の広大な裾野が北東へ延びて千曲川にぶつかる地形で、北と東が千曲川(ちくまがわ)、西が鹿曲川(かくまがわ)、南が布施川(ふせがわ)に囲まれる。三方を井深い渓谷・川に囲まれた台地ではあるが、馬が逃げてしまうような部分には柵、土塁、溝などを造って管理た、という。現在でも数㎞の野馬除が残っている、と言う。
望月牧がいつ頃成立したのか定かではないが、『延喜式』が制作され始めた延喜5年(905)以前には存在していたようである。牧の南には近世になり中山道が通ったが、古代には古東山道が東西に走り、その道沿いに高良社(浅科村、国重要文化財)がある。元々は高麗社と呼ばれていたらしく、朝鮮半島から渡来した人々が、望月牧の牧場経営に携わり、ここに社を造った、と。
望月牧の周辺には特に馬具を副葬した古墳が多く、御馬寄、駒寄、牧寄、駒込、厩尻などの地名、駒込神社など馬にゆかりの地名や古跡・社が残っている。また、馬具に関係すると思われる鍛冶田、タタラ、吹上などの地名もあり、いずれも望月牧にゆかりの場所とされる。
中山道は望月の牧の南側の鞍部である瓜生坂を進む。この鞍部は御牧原台地の東側を流れる布施川がこの瓜生坂付近で御牧原台地の西側を流れる鹿曲川と接近したため、水の侵食作用によりで鞍部が生じた、と。鞍部を越え鹿曲川へと下り散歩のスタート地点望月宿に到着。イントロ部分であれこれ興味関心がひろがり、メモが長くなってしまった。肝心の望月宿からの散歩のメモは次回かたとして、今回はここでちょっと休憩。
和田峠ははるか昔、高校生か大学生の頃であるので、40年以上も前の事ではあるが、両親とともに車で越えたことがある。峠のトンネルが誠に狭く怖い思いをした、との微かな記憶が残る。当時はバイパスも出来ていない頃であろうし、トンネルも車一台が通れる程度の幅ではあったのだろう。和田峠は数年前に買い求めた『峠の歴史学;服部英雄(朝日新聞社)』において物流の峠のケースとして紹介されており、皇女和宮や天狗党などについても、宿場の人々の立場からの労役負担などが説明されており、峠越えフリークとしてはそのうちに実際に歩いてみたいと想っていたところでもある。今回の和田峠越えは、峠を巡る人々との歴史に想いをはせるとともに、過ぎた日に対する少々の感傷を抱くものとなりそうである。旧中山道和田峠越えメモの第一回は、前泊地である佐久平近くにあった岩村田宿と、散歩のスタート地点である望月宿までのバスの旅での所感。何気なく歩いた岩村田宿であまり聞き慣れないのだが、佐久だけではなく武蔵までもその覇を及ぼした武将の名前が登場したり、望月の駒で知られる御牧のあった御牧台が気になり、あれこれチェックしていると散歩を始める前に足止めをくらい、少々メモが長くなったためである。ともあれ、メモをはじめる。


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