2020年11月アーカイブ

青龍寺から岩本寺までのメモの2回目。須崎市安和(あわ)の焼坂峠の分岐点から焼坂を越え中土佐町の国道を歩き、久礼より添蚯蚓を越えて、窪川台地・高南台地上の道を四万十町(旧窪川町)に建つ札所・岩本寺までをメモする。
焼坂峠・添蚯蚓越えから岩本寺(Goole Earthで作成)
安和から久礼に抜けるには焼坂峠を越える5キロ、比高差200mの山越え道を1時間半ほどかけて歩く他に、安和から国道56号をそのまま進み焼坂トンネルを抜けて久礼に出るルートもある。昭和44年(1969)に整備されたこの国道を歩くお遍路さんもいるようだが、全長966mの焼坂トンネルは歩き遍路には現在の「難所」とも言える。
焼坂を下りた遍路道は国道56号に合流し中土佐町久礼の町に入る。久礼から窪川台地。高南台地の「入り口」とも言える七子峠への遍路道はふたつある。ひとつは今回歩いた添蚯蚓越えルート。距離6キロ程比高差は370mほどの山道を2時間半ほど歩き七子峠近くに下る。もうひとつのルートは山越えとは異なり、大阪谷川の谷筋を進み、窪川台地・高南台地に上ることになる。 谷筋の道は地形図で見る限り平坦ではあるが、最後の1キロほどは比高差200mほどを七子峠への急坂を這い上がることになりようだ。
七子峠からは四万十川支流の仁井田川に沿って窪川台地・高南台地の平坦な国道56号を15キロほど歩き岩本寺へと向かうが、この間国道を直接岩本寺へ向かう遍路道と、途中元37番札所であった五社・高岡神社経由の2つの遍路道がある。今回は五社・高岡神社ルートを選んだ。 メモを始める。



本日のルート;国道56号・焼坂分岐点>徳右衛門道標>安和保育園前に自然石の石碑>土讃線の高架を潜り土径に
焼坂峠越え
焼坂峠への取り付き口>竹林の中を進む>林道と合流>焼坂峠>沢の源頭部を迂回>滝>林道に出る>高知自動車道焼坂第一トンネル南口>久礼道ノ川で国道56号に合流>国道56号を左に逸れ久礼の町に>添蚯蚓道分岐点・上久礼橋>県道319号を左に逸れる>蝉ヶ谷橋東詰めに標石
添蚯蚓越え
標石と遍路小屋>添蚯蚓取り付き口>高知自動車道左の丘陵に標石>高知自動車道右の丘陵山道に入る>墓石兼標石>墓石兼標石>海月庵跡>平坦な尾根道の409mピーク付近から下り道となる>県道41号に合流
高岡神社経由岩本寺へ
県道56号合流点を右折>床鍋>お雪椿>活禅寺窪川別院>土讃線・影野駅>替坂本>平串で県道を逸れ五社(高岡神社)へ>東川角に標石2基>五社大橋分岐点に標石2基>高岡神社>第三十七番札所 岩本寺


焼坂峠越え


国道56号・焼坂分岐点
国道分岐点を右折し焼坂峠越えの遍路道に入る。峠越えを避けるお遍路さんは国道56号をそのまま進み、1キロ近くの距離があり歩道幅も十分ではないと聞く焼坂トンネルを抜けて久礼に向かう。
右折して土讃線の南を西進する里道を焼坂峠取り付き口へと向かう。


徳右衛門道標
ほどなく道の右手、消防団格納庫らしき倉庫の手前に徳右衛門道標。大師坐像と共に「是より五社迄六里」と刻まれる。また、徳衛門道標に並んで小さな標石。手印だけが刻まれている。
安和保育園前に自然石の石碑
その先、道の右手、安和保育園入り口の生垣の中に2基の自然石石碑がある。文字は読めない。






土讃線の高架を潜り土径に
舗装された道は土讃線高架前に。土讃線の左に沿って側を進む道もあるのだが、高架手前には「これより右焼坂遍路道です。登坂口まで0.5K,焼坂峠(標高228m)まで1.1K,久礼道ノ川国道合流点まで道合流点まで4.9Kの自然豊かな遍路道!」とあり、案内に従い右に折れ土讃線高架を潜り、右に折れ、土讃線右側を進む土径に入る。

焼坂峠への取り付き口;午前6時36分
道の左手に小祠、右手下に焼坂第一トンネルに入っていく土讃線線路を見遣り先に進むと道の右手に登坂口の案内。





竹林の中を進む
山道を上り沢を渡る。その先竹林の中を進む。この辺りの竹は虎斑(とらふ)竹と称される竹の産地と言う。
虎斑竹
表面に虎皮状の模様が入っているゆえの命名とのこと。命名者は世界的植物学者牧野博士。「はちく(私注;淡竹)の変種にして、高知県高岡郡新正村大字安和に産す。(現在の須崎市安和)凡の形状淡竹に等しきも、表面に多数の茶褐色なる虎斑状斑紋を有す。余は明治45年4月自園に移植し、目下試作中なるも未だ好成績を見るを得ず」と記す。大正5年(1916)の事である。
イギリスのBBC放送が取材に訪れMiracle!を連発した神秘的な竹とのことだが、情緒乏しき我が身には「神秘性」はよくわからない。もっとも道を囲む竹林が虎斑竹かどうか不明ではあるが。。。 それはともあれ、この虎斑竹はその文様以外に何が有り難いのか。チェックする。竹細工に適しているようだ。文様が独特の風合いを出すとのことである。
この虎斑竹はどうもこの地の他では生育することが困難なようで、安和の特産品となっている。

林道と合流;6時55分
その先で林道と合流。合流点に「これでもか」といった幾多の遍路案内。手書きの地図には遍路道は直進、左右は林道。林道を左に進むと「元の場所に」とある。地図をチェックすると等高線に抗うことなく屈曲する実線を左に辿ると登坂口に戻る。
この林道は明治時代に開削された焼坂越えの道のようだ。旧県道。県道は昭和の始め頃、焼坂越えを避け、海岸線を走り久礼に向かうルートが開かれたが、昭和44年(1969)に焼坂トンネルができると国道56号として再び焼坂を経由するルートとなった。
焼坂トンネル(966 m)は、地層は、中生代白亜紀に属する砂岩・頁岩の互層で破砕帯もあり湧水が多く難工事であったよう。
また国道56号の改築工事はこの焼坂トンネルだけではなく、後述七子峠までをカバーしたもので、ヘアピンカーブが多く標高差300mもある七子峠までを橋梁10箇所、トンネル4箇所を開削、建設して安和から久礼坂間を整備し、昭和45年(1970)供用開始した。
この整備区間は今回歩く焼坂峠と添蚯蚓越え区間に相当する。

焼坂峠;午前7時11分
林道をクロスし虎ロープの助けを受け高度を50mほど上げると切通状の鞍部、焼坂(やけざか)峠に到着する。
峠には北から林道が繋がっている。先ほどクロスした林道が等高線に抗うことなく北に大きく迂回してこの地に至る。旧県道として車を通すためにも緩やかな坂で峠に上る必要があったのだろう。 

峠から林道をちょっと北に戻ると眼下に安和の里が広がる。峠切通上から里に向かって山越えの送電線が下っている。どこにつながっているのか、チェックしてもヒットせず。
焼坂峠を境に須崎市から高岡郡中土佐村に行政区域が変わる。
焼坂
『土佐地名往来』には「須崎から久礼へ越える急坂は中村街道の指折りの難所。「土佐無双ノ大阪」。「土佐州郡志」に二つの伝承」とある。「土佐無双ノ大阪」は澄禅がその著に記す。焼坂の由来には、山越えが険阻ゆえに体が焼けるように苦しくなるゆえとの説もあるようだ。
高岡郡
現在は中土佐町、佐川町、越知町、檮原町、日高村、津野町、四万十町よりなるが、明治の頃には須崎市、土佐市も高岡郡に含まれていた。

沢の源頭部を迂回;午前7時26分
峠の先も比較的広く整備された道が続く。道筋は地図に実線で描かれており旧県道の道筋のようだ。道は切れ込んだ谷筋を迂回するため、沢の源頭部辺りまで大きく廻り込む。明治の頃ではあるが車が通れるように標高線280m線辺りを緩やかな傾斜で進む。
地図には安和から久礼への送電線が林道を横切るように描かれている。道の近くに送電線鉄塔のマークもみえる。送電線保線の保守車両を入れるために林道が整備されているようにも思える。 切り込まれた沢の最奥部には鉄製の簡易橋が整備されお遍路さんの足元を保護する。

滝;午前7時41分
沢の最奥部を回り込むと道は荒れてくる。15分ほど歩くと道の右手奥に滝が見える。その沢を渡ったあたりから、平坦な道から地図に実線で描かれた林道(旧県道)を離れ等高線を斜めに下り始める。15分ほど歩き高度を50mほど下げると林道に出る(午前7時55分)。


高知自動車道焼坂第一トンネル南口;午前8時8分
林道に下り土讃線に沿って道を進む。ほぼ平坦な道。木々に阻まれ土讃線は見えない。
林道(旧県道)を10分強歩くと前が開け高知自動車道が見えてくる。高知自動車道の須崎西I.C.~中土佐I.C.間が開通したのは平成23年(2011)のことである。

久礼道ノ川で国道56号に合流
高知自動車道の左手の道を進む。完全舗装の道はほどなく簡易舗装の道となる。草に半分埋もれたような道を進むと土讃線の高架。高架を潜り土讃線の左手に移り、国道56号との間をしばらく歩くと久礼道ノ川で国道56号にあたる。ここからは国道を歩くことになる。


久礼の町に

国道を少し進み、土讃線を高架で越える手前で遍路道は国道56号を左に逸れて旧道に入る。土讃線の東を南下し久礼川を渡り、更に長沢川に架かる上久礼橋に向かう。
久礼
『土佐地名往来』には「初出は建長2年(1250)。日の暮れやすい土地?建築用材の榑(くれ)の由来か?榑は古くからの献納品で林産物 の集積地」


添蚯蚓越え



添蚯蚓道分岐点・上久礼橋
添蚯蚓越えの遍路道は上久礼橋の北詰で右折し、長沢川左岸の道を進む。土讃線の高架を潜り、県道56号も潜りそのまま県道319号に入り西進する。

県道319号を左に逸れる
久礼変電所を越えると県道を左に逸れる道があり、その角に比較的新しい標石。「左土佐往還 そえみみず遍路道」「従是岩本寺一八七粁」と刻まれる。案内に従い国道を逸れて左の道に入る。 




蝉ヶ谷橋東詰めに標石
道を左に逸れ、長沢川・御堂岡橋を渡り先に進むと、左手の蝉ヶ谷橋詰に標石。「左土佐往還 そえみみず遍路道」、右は「ほんみみず 大野見村」と刻まれる。案内に従い道を逸れ蝉ヶ谷橋を渡り道を進む。
ほんみみず
地図でチェックすると長沢川の最奥部より、尾根筋を越えて四万十川水系の沢に繋がる破線が描かれ、「本蚯蚓」と表記されている。等高線からみてほとんど「片峠」の様相を呈する本蚯蚓の峠を越え沢を下ると中土佐市大野見に出る。

標石と遍路小屋:午前11時10分
案内に従い橋を渡り道を進むと道はふたつに分かれ、その分岐点に標石。「これよりあん迄二十四丁 文政十二」といった文字が刻まれる。「あん」は後述する峰の庵寺・海月庵のことである。分岐点から左手が遍路道。分岐点すぐ傍に遍路小屋が立つ。
遍路小屋の中に添蚯蚓越えのイラストが掲示されている。向後のメモにはこのイラストにある説明を参考にさせて頂く。
焼坂と添蚯蚓の時刻表示について
スケジュールの都合上、難所と言われる焼坂と添蚯蚓越えをふたつまとめて越えることにし、当日は車行で焼坂の登坂口まで車を寄せ、そこにデポ。焼坂を越えて車道に出るまで歩き、車道確認後にデポ地までピストンで折り返し、次いで添蚯蚓越えの取り付き口まで車を進め添蚯蚓峠を越えて七子峠まで進んだ後、ピストンで添蚯蚓を車デポ地に戻った。
ために、添蚯蚓越えの表示時刻は実際に焼坂を越えて久礼を経て歩く時間とは当然ずれがある。 添蚯蚓越えの表示時刻は所要時間の目安として参考にしてください。

添蚯蚓越取り付き口;午前11時16分
添蚯蚓越えのイラストマップを見ながら少し休憩し遍路小屋を出る。ほどなく道の左手に大きな標石。「岩本寺一七、九粁、七子峠四、八粁」「青龍寺三九、一粁」。平成九年(1997)立てられたもの。
道の右手には「遍路道・添蚯蚓について」の案内。「この地・長沢弘岡から四万十町(旧窪川町)床鍋(とこなべ)に至る往還(おうかん:今の国道)を添蚯蚓(そえみみず)と呼んでいます。1700年頃に書かれた「土佐州郡志」という書物には「東西逶?如蚯蚓之状故名」と記されており、道の状態が左右に曲がりくねって前に進むミミズのさまに似ているので、この名がついたのではと本の作者は述べています。
すぐ近くには「此ヨリあん迄24丁須崎カコヤ増平 文政12正月吉日」(文政12年は1829年)と刻まれた道標が建っています。道中にはおなみさんと土地の人に語り伝えられる遍路墓や弘法大師が旅人のために湧出させたと伝えられる弘法清水の跡があり、峠付近の庵跡には明治時代まで茶店もありました。
今は黒竹林となっている庵跡はその昔、修行中の空海が久礼湾上の月を賞して「海月庵」という庵(いおり)をむすび、地蔵菩薩と自坐像を刻んだという空海修行伝説の地でもあります。中世以前からの幡多路への通り道であった往還・添蚯蚓も明治25年に大坂谷から七子峠(ななことうげ)に越す道が開通してからは廃道となりました。しかしこの添蚯蚓は近年、貴重な先人の足跡を残した遍路道として見直されようとしています。江戸時代の風情が残り、道中には弘法大師ゆかりの遺跡や遍路墓等が存在するこの道は、町のまた四国の財産として後世に伝えなければならない大切な文化遺産でもあります。平成15年3月 中土佐町教育委員会」とある。
遍路道は案内傍より丘陵の山道に入る。

高知自動車道左の丘陵に標石;午前11時25分
山道を10分ほど歩くと前面が開け、眼下に高速道路が走る。山道を辿った遍路道はここで一度途切れる。高速道路を見下ろす休憩椅子傍に標石。「岩本寺遍路道」「土佐往還そえみみず迂回路の遊歩道約四百米 平成弐拾年拾弐月吉日」と刻まれる。
土佐自動車道建設に際し、遍路道の続いていた丘陵を掘割り、切通しとして道路を通したようだ。
久礼坂トンネル
この切通のすぐ先に久礼坂トンネルが抜ける。全長927m、 平成21年(2009)に開通。この久礼さかトンネル、大阪谷トンネル(全長955m)、影野トンネル(全長2393m:平成22年(2010)開通)や橋梁を建設し中土佐ICから四万十ICが平成24年(2012)開通した。

高知自動車道右の遊歩道を歩き丘陵山道に入る;午後11時39分
92段の石段を下り、高速下を潜り339段の石段を上る。けっこうキツイ。眼下の高速道路や遠景で気持をまぎらせながら「遊歩道」を進む。途中平坦な箇所もあるが、最後の石段を上る遊歩道は終わり、山道へと戻る。往昔は今は消え去った尾根道を進んできたのだろう。膝を痛めているとはいえ、石段の下り・上りに結構時間がかかった。

墓石兼標石;午前11時45分(標高138m)
山道に入るとすぐ右手に立方形の石造物。最初は水路施設かとも思ったのだが、墓石兼標石であった。戒名と「行年三十 俗名なみ 播州古川」といったお墓の文字と「五社へ四里 四万十川へ十五り半 あしずりへ二十り てら山へ三十八り いよ境まで四十一り」。「てら山」は土佐最後の札所である第39番延光寺。

尾根筋を進む
尾根筋を少し巻き気味で標高200m辺りまで進み、その先は尾根筋に入り急坂を標高300m辺りまで上る。その後ゆるやかなアップダウンで尾根道を進む。馬の背となった尾根道を過ぎると木々の間から道の左手に高速道路らしき道が見える。久礼坂トンネルを出て大阪谷を越え再び大阪谷トンネルへと入る高知自動車がだろう。
この添蚯蚓越えは特段峠とか鞍部といった箇所はないようだ。

海月庵跡;午後12時54分(標高357m)
尾根筋を進むt道の右手に少し広いスペースがある。そこが空海ゆかりの海月庵跡かと思う。何もサインがなく、実のところ往路では見逃したのだが、当日は添蚯蚓をピストンしたため復路で何気なく気になり道をそれてスペースに入り数基の墓石があったためそこが庵跡であることだろうと推察。
墓石は卵塔、舟形、角柱と形を異にしているが、古木の根元に立ち、遍路道からは見えない。僧職墓と言う。
海月庵の由来は、弘法大師が巡錫の途次、久礼湾に上る十五夜の名月を賞でて草庵を結び、地蔵菩薩と自像を刻んだことによる。また添蚯蚓越えの遍路道は土佐往還でもあったため藩主巡検の道でもあり、この地で休息したと伝わる。旅人やお遍路さんのための休息所や茶屋もあったようだが、明治26年(1893 )に焼失した。

平坦な尾根道を進み409mピーク付近を巻き下り道となる
海月庵の先で尾根筋を進む遍路道はブロックされ、遍路タグ案内は左に折れるように指示がある。 案内に従い左折し道なりに進む。尾根筋から離れ、添蚯蚓越えの最高標高点409mピークを巻いて進んでいる。巻道を進むと直ぐに谷筋に出る。上りはじめて尾根筋ピークまで2時間弱。ピークから谷筋まで20分弱。比高差は50mほどだが形から言えば「片峠」っぽい姿を呈する。
通常峠とは、山稜鞍部の峠を境に左右が上り・下りとなっているのだが、片峠とは峠を境に片方が急な傾斜であるが、もう一方は平坦な地となっている峠のこと。とは言うものの、片峠って、河川争奪のドラマでもない限り、それほど珍しいものではないだろう。中山道を歩いたときの碓氷峠、旧東海道を歩いたときの鈴鹿峠も今から思えば、典型的な片峠であった。
この谷筋を下る沢は仁井田川の上流域、というか源流域となっている。

県道41号に合流;午後13時41分
谷筋に下りるとルートは409mピークから続く破線の山道に合流する。ピークに向かう林道が右手に見える。沢に沿って道を30分ほど下ると県道41号に合流。のぼりはじめておおよそ2時間半で車道に合流した。
合流点には「青龍寺 四三、七粁」「岩本寺 一二、三粁」と刻まれた標石が立つ。添蚯蚓越えの取り付口で見かけた標石と同じタイプであり、古いものではない。
県道に向かった面には「人生即遍路」の文字。山頭火の句。この「人生即遍路」の句碑は室戸岬、 14番札所常楽寺入り、87番札所長尾寺山門などにも立てられているとのことである。

県道56号合流点を右折

県道41号を左折するとすぐ県道56号に合流する。遍路道は合流点を右折し国道56号を南下することになる。
七子峠
国道合流点を少し北に戻ったところが七子峠。ちょっと立ち寄り。展望台から深く刻まれた大阪谷の眺めは美しい。

いつだったかこの七子峠を訪ねたことがある。土佐の「片峠」を辿ったときのことである。上述の添蚯蚓の「片峠」はそれっぽい姿とメモしたが、こちらは峠を境に急峻な坂と平坦な窪川盆地、というか高南台地が画され、典型的な片峠となっている。
七子峠の由来はこの地が仁井田七郷への入り口であるところから。その「七郷」が転化したものと言う。七郷は、新在家、本在家、井細川、窪川、久礼、志和、神田の七郷である。大雑把に言って、現在の四万十町窪川、かつての高岡郡窪川町(仁井田村と窪川村が合併)、四万十川の支流仁井田川の中流から上流辺りと言ったところだろうか(ちょっと乱暴な括りではあるが)

七子峠への遍路道●
久礼から七子峠への遍路道は今回歩いた添蚯蚓越えの他、展望台から見下ろす大阪谷を辿る遍路道もある。
ルートは大阪谷川に沿ってその源頭部まで詰め、最後の1キロの急坂を上り七子峠の展望台脇に上ってくるようである。
大阪谷遍路道の分岐点は県道25号が大阪谷川を渡った土讃線を潜ると直ぐ四つ角。その角に「大阪休憩所0.4km」と書かれた「四国のみち」指導標がある。遍路道はここで県道25号を左折し大阪谷川に沿って西進することになる。すぐ傍に青木五輪塔への案内と標石もある。
大阪谷左岸の道
地図を見ていると、大阪谷川の北、国道56号の南を曲がりくねって進む道筋が残る。前述添蚯蚓登坂口の案内にあった、「中世以前からの幡多路への通り道であった往還・添蚯蚓も明治25年に大坂谷から七子峠(ななことうげ)に越す道が開通してからは廃道となりました」の説明にある明治に開かれた県道。道幅2間で馬車や人力車も通れたとのこと。説明には「廃道になった」と有るがこの道は曲折が多く、近道として添蚯蚓越えや大阪谷経由の道は実際は大正の頃まで利用する人も多かったようだ。
県道は昭和38年(1963)に国道に昇格。改築工事が進められら焼坂から七子峠までの間に橋梁10箇所、トンネル4箇所を開削、建設して安和から久礼坂間を整備し、昭和45年(1970)供用開始した。七子峠に向かう国道56号がそれである。
かつての道はすべて七子峠を目指したが高知自動車道は上述の如く久礼坂トンネルを抜けると大阪谷を橋梁で一跨ぎし大阪谷トンネル(全長955m)、橋梁、そして影野トンネル(全長2393m:平成22年(2010)開通)と進み、かつての交通の要衝であった七子峠をパスし、中土佐ICから四万十ICへと抜けた、平成24年(2012)のことである。

床鍋
国道56号を右折し仁井田川に架かる床鍋橋を渡り南下。地名の由来は、弘法大師が久礼坂の北、長沢の谷に独鈷を投げたことから「独鈷投げ>とこなげ>とこなべ」とか、この地の開拓者の故郷の地名といった説もあるが、床=川床のような石の多い地、なべ=なみ>並ぶ・続く、といったことから、石の多い土地といったところが妥当ではなかろうか
仁井田川
仁井田川は、七子峠の北東、高知県高岡郡四万十町床鍋の山腹(標高556m)を源流とし、南へ下り、土讃線・影野駅辺りで奥呉地川を合わせながら仁井田地区に広がる平地部を流下。その後は四万十町中の越で東又川を合わせ、山間の平地を蛇行しながら流れを西に向け、四万十町根々崎で四万十川に合流する、流路延長17キロほどの一級河川。

お雪椿
仁井田川に沿って国道56号を進む。道の周囲は標高500mから600mほどの開析残地と思われる小さな山地と比較的広い谷底低地となっている。谷底低地は仁井田川が開析したU字谷に土砂が堆積し形成されたもののようである。河川開析のプロセスはV字谷>U字谷>準平原の順で地形が形成されるとするが、この谷底低地は開析最終プロセスの準平原状態となっているのかと思える。
影野まで進むと道の右手に木で支えられた大きな古木が立つ。傍に案内があり、「お雪椿(ヤブツバキ) ツバキ科」とある。解説には「高岡郡窪川町影野  周囲1.5m、樹高10m、樹齢350年。 ここを館屋敷といい、寛永の頃の影野新田の開拓者で地頭職の池内嘉左衛門の屋敷跡である。池内氏の一人娘お雪は影野西本寺の修業僧・順安と恋仲となったので、お雪の父は順安を還俗させてお雪と夫婦にし、地頭職をゆずり嘉左衛門の名をつがせた。
夫婦はいたって 仲睦まじく、里人たちをも愛した。二人には子供が恵まれなかったので、彼等の死後、里人達はお雪が生前好んだ椿を墓所に植え、二人の供養を毎年行なってきた。その椿が風雪三百余年の今も毎年美しい花を咲かせて二人の霊を慰めている 昭和56年 建 高知県緑化推進委員会 窪川町」とある。
椿の右側にあるお雪負債の墓石は大正2年(1913)再建のもの。

活禅寺窪川別院
お雪椿の隣に堂宇。山門前には「信州大本山 白銀大明神御法殿」と刻まれた石碑が立つ。山門には「参禅専門道場」の木札が架かる。白銀大明神の名に惹かれてとちょっと立ち寄り。 長野市の善光寺の北、長野市箱清水にある参禅専門の単立禅宗寺院活禅寺の窪川別院のようだ。活禅寺は昭和18年(1943)、徹禅無形大師により小さな無形庵として開山。戦後の混乱期に青少年の育成を主眼に青年錬成参禅道場としてはじまり、その後現在の堂宇が整備されたとのこと。
信州の参禅道場が何故窪川に?これは後でわかったことだが、国道を少し南下すると堂宇があり、その前に「信州活禅寺開山・徹禅無形大和尚御生誕の地」と刻まれた石碑があった。開山和尚さんの生まれたところであった。
白銀大明神
境内に白銀堂。縁起には霊夢に菩薩界の化身・白銀大明神が示現し、故あって地中に埋没した吾を仏縁深き汝により掘り出し安置されんことを欲す、と。霊示に従い地中を掘り出した石墓を白銀大法院を建て安置した、と。結局「白銀大明神」って?は不明のまま。

土讃線・影野駅
国道を下り影野に。七子峠の東、大阪谷を越え影野トンネルを抜けた高知自動車道が影野で現れる。
また高速の出口近くに土讃線・影野トンネルを抜けて来た線路が現れる。 山を穿ち抜いたトンネルを抜けた高速道路、鉄道が同じところで山地から現れるのは、地形的にそれなりの理由はあるのだろう。
久礼駅から影野駅までの土讃線ルート
土佐久礼駅からおおよそ10キロ。土佐久礼の標高は8.3m, 影野駅は標高252m。比高差200mもあり、ほとんどの区間は1000mで25m上がる25パーミルが連続する急勾配区間と言う。25パーミルとは国鉄が鉄路を敷設する上限の目安である。この急勾配は単独では急坂を上れない機関車を補う機関車を必要としたようである。
この間25のトンネルを掘り、中土佐町と窪川町境の四道トンネル(1,823m)を最長にトンネルの総延長は約7kmに及ぶとのことであるが、25パーミルの上限を越えないルートどりとしてはこのルートしかなかったのだろう。影野駅が広いのはこの機関車の方向転換、石炭や水を補充する給水塔などの施設があったためと言う。
この辺りの土讃線は昭和10年(1935)に土讃線の須崎~窪川間32kmが着工、昭和14年(1939)11月に須崎~土佐久礼間13kmが部分開通した。昭和17年(1942)に全線の土木工事は終了しながら土佐久礼・影野間が開通したのは昭和22年(1947)のことである。

替坂本
土佐の片峠散歩の折、仁井田川の支流、東又川へと国道を離れ県道326号に乗り換えたところである。片峠散歩とはいいながら、本来の目的は、 「海に背を向けて流れる川 四万十川の奇妙なはじまり」の地点を確認する散歩。きっかけは偶々図書館で見つけた『誰でも行ける意外な水源 不思議な分水;堀淳一(東京書籍)』にあった「海に背を向けて流れる川 四万十川の奇妙なはじまり(高知県高岡郡窪川町・中土佐町)」という記事。
そこに「四万十川は奇妙な川である。その最東部の支流である東又川は、土佐湾の岸からたった二キロしか離れていない地点からはじまっているのに、海にすぐ入らず、海に背を向けてえんえんと西へ流れる。。。」とある。
多くの支流のひとつとは言いながら、四万十川の源流が、太平洋から二キロのところから始まるとは、想像もしていなかった。てっきり山間部を流れ下ると思い込んでいたので少々驚きもした。 東又川はその地から海に落ちることなく、西に下り途中仁井田川と合わさり、土讃線窪川駅の北で、不入山(いらずやま)の源流点から南に下ってきた四万十川(幹線流路のひとつ松葉川)と合流し、西に大きく半円を描き太平洋に注ぐ。四万十川の全長は196キロと言われるが、この合流点から先だけでも80キロ弱あるだろうか。
なんらかの地形変動が起きれば、東又川は海に落ちただろうし、そうすれば四万十川の流路も今とは変わったものになっただろうと、その源流点を確認に出かけたわけである。台地端に隆起した丘陵により東又川の源流部が海へと流れ落ちることが阻まれていた。
替坂本
替坂本って、面白い地名。由来をチェックすると、この地の東、土佐湾に面したところに「上ノ加江」がある。替坂本は、その「上ノ加江への坂の本」から。 Google Street Viewでチェックすると、上ノ加江から窪川盆地に上るには急傾斜の坂道を上らなければならない。峠と言う、人為的な命名があるのかどうか不明だが、峠があれば、そこも典型的な片峠と言ってもいいだろう。 因みに、地名などの語源については、「音」が最初にあり、漢字は適宜「充てられる」といった原則を再確認した「加江>替」ではあった。

平串で県道を逸れ五社(高岡神社)へ
六反地(ろくたんじ)、仁井田と国道を下る。往昔仁井田荘と称された窪川盆地・高南台地は、伊予の河野氏の一族が移り住み、土地の豪族とともに土地の開拓にあたった、とも言われる。戦国時代、長曾我部元親が仁井田窪川攻めをおこない、在地勢力は戦わず降伏したとのことであるので、その頃までは伊予の河野氏の流れの一族がこの一帯に勢を張っていたのではあろう。 国道を直進し窪川の岩本寺を目指すお遍路さんも多いが、今回は明治の廃仏稀釈以前の札所であった五社(高岡神社)経由で現在の札所である岩本寺を目指すことにした。
道を曲がるとほどなく高岡神社一の鳥居が道の右手に建つ。

東川角に標石2基
当日は見逃したのだが、メモの段階で四万十町観光協会の「のんびり遍路道周辺散策」にこの道筋に標石が2基あるとイラストにあった。チェックすると東川角に2箇所、それらしき石碑そのがGooglenStreet Viewに見える。ひとつは遍路道から南に逸れる道角にある。イラストに「渡し舟」の案内をする標石だろうか。もう1基は県道19号との四辻、電柱に並んで標石らしき石が見える。道路整備の折この地に移されたとの説明があった標石かもしれない。 とはいえ、GooglenStreet Viewで見た標石らしきものであり確証はない(この記事をお読み頂いた方で、これらの石碑が標石か否か確認できたかたはお知らせ頂ければ幸いです)。 

五社大橋分岐点に標石2基
平串で国道を逸れた遍路道は、土讃線五社踏切を渡ると五社の鳥居。丘陵裾を進み大きく蛇行する仁井田川に向かって南に突き出す丘陵鞍部を切り開いたような道を進む。道の左手に仁井田川。丘陵により南進を阻まれた仁井田川に東又川が合流し大きく蛇行し北に向かう仁井田川に架かる根々碕橋を渡る、北に蛇行した仁井田川は四万十川(渡川)と合流する。
橋を渡った遍路道は南下し五社大橋分岐点に「四国のみち」の指導標。「高岡神社500m 岩本寺2.4km」とある。その左右にに自然石の標石2基。左側は手印と「大しどう」、右側には「三十七番五社へ三丁」と刻まれる。
「大しどう」は、真念の『四国遍路道指南』に「〇六たんじ村〇かミあり村、しるし石あり。この間に小山越、うしろ川、引舟あり。これはねゝざき村善六遍路のためつくりおく。過て、大河洪水の時は手まえの山に札おさめどころあり、水なき時は五社へ詣」にある大師堂のことかと思う。
かつては四万十川を渡る渡し舟があったのだろうが、洪水のときには五社詣ではできず根々崎のごこかにあったお堂に札を納めていたようだ。

高岡神社
四万十川の五社大橋を渡ると県道322号にT字で当たる。正面、丘陵裾に鳥居が並ぶ。これが五社、高岡神社である。
一ノ宮
北端の鳥居は仕出山丘陵の支尾根山裾にあり、「高岡神社(東大宮)」とある。18段の石段を上ると社殿前に高岡神社の案内。
「 高岡神社(五社)由来記 平安時代初期、伊予豪族であった河野家の子孫がこの地に来住し、一帯を開発して祖神と崇敬神を祀ったのが仁井田大明神である。以来仁井田郷六十八ケ村の総鎮守神として崇敬せられ、特に戦国時代には仁井田五人衆の武運守護神ともされていた。 最初は一社であったが、天長三年弘法大師が境内に福円満寺を創立し四国霊場の札所とした時、 、社を五つに分け、各社に諸仏を祀り五社大明神と改称され、神仏習合の神社となった。当時、各社の神主は武家格式を有し、神社前には門前町が並んだ。神宝として、土佐二代藩主山内忠公奉納の金幣、西原紀伊守の刀、仁井田郷豪傑中西権七の所持したと伝えられる長刀、近くから発掘された古代の銅鉾などが納められている」とある。
東大宮は一の宮。大日本根子彦太迩尊=不動明王が祀られる、と。
二ノ宮
次の鳥居は一の宮(東大宮)の建つ丘陵支尾根の南の支尾根を画する細い谷筋の県道脇に建つ。鳥居には高岡神社(今大宮)とある。社は鳥居からちょっと離れてた先にある。今大神宮は二の宮。磯城細姫命=観世音菩薩が祀られる
その南、丘陵裾の鳥居には「児安花神社」とある。この社は五社とは別の社。



三ノ宮
次いで「高岡神社中ノ宮」と書かれた鳥居。中ノ宮は三の宮。大山祇命・吉備彦狭嶋命=阿弥陀如来が祀られる。鳥居右側に徳右衛門道標。「是ヨリ足すり迄廿一里 享和三」といった文字が刻まれる。
鳥居左手には「福円満寺跡」の標識も立つ。





四ノ宮
その南、「高岡神社 今宮」と刻まれた鳥居。四の宮であり、伊予二名洲小千命=薬師如来が祀られる。
五ノ宮
南端の鳥居は「高岡神社森ノ宮」と書かれる。五の宮・聖宮、伊予天狭貫尊=地蔵菩薩が祀られる。この社へは144段ほどの石段を上りお参りする。
この五つの社よりなり、「五社」さんとも称された社は室町時代後期の享禄 - 天文年間(1528年 - 1555年)には戦火に遭うなどで衰微した。 江戸時代に入り、土佐藩2代藩主山内忠義が神社を整備した。社殿の改築、金幣の奉納を行い武運長久の崇敬神とした。明治初年の神仏分離により本尊は岩本寺へ移された。
仁井田大明神の縁起
仁井田大明神とも称された「仁井田」には浦戸湾を渡る手前で出合った。そこには仁井田と呼ばれる地域があり、立派な仁井田神社が鎮座していた。その際『仁井田」の由来について調べたのだが、浦戸湾に浮かぶツヅキ島に仁井田神社があり、由緒書きには、「伊予の小千(後の越智)氏の祖、小千玉澄公が訳あって、土佐に来た際、現在の御畳瀬(私注;浦戸湾西岸の長浜の東端)付近に上陸。その後神託を得て窪川に移住し、先祖神六柱を五社に祀り、仁井田五社明神と称したという。
そのご神託とは『四万十町地名辞典』には続けて、「『高知県神社明細帳』の高岡神社の段に、伊予から土佐に来た玉澄が「高キ岡山ノ端ニ佳キ宮所アルベシ」の神勅により「海浜ノ石ヲ二個投ゲ石ノ止マル所ニ宮地」を探し進み「白髪ノ老翁」に会う。「予ハ仁井ト云モノナリ(中略)相伴ヒテ此仕出原山」に鎮奉しよう。この仁井翁、仁井の墾田から、「仁井田」となり。この玉澄、勧請の神社を仁井田大明神と言われるようになったとある」と記す。
この縁から三年に一度、御神輿を船に乗せ浦戸湾まで"船渡御(ふなとぎょ)"が行われた。この御神幸は波静かな灘晴れが続くときに行われるため、"おなバレ"と土佐では言われる。この時の高知での御旅所が三里(現在の仁井田)の仁井田神社であるといわれる。窪川の仁井田五社から勧請されたのが高知の仁井田神社であると伝えられている。(ツヅキ島の仁井田神社は横浜地区の総鎮守で地元では"ツヅキ様"と呼ばれる)」とある。
仕出原山とは窪川の高岡神社(仁井田五社明神)が鎮座する山。仁井田の由来は「仁井翁に出合い里の墾田」とする。
「投げ石」のプロット
上述神託の「投げ石」のプロットは土佐神社の「礫岩の謂れ」とほほ同じ。土佐神社の「礫岩の謂れ」を再掲すると、「古伝に土佐大神の土佐に移り給し時、御船を先づ高岡郡浦の内に寄せ給ひ宮を建て加茂の大神として崇奉る。或時神体顕はさせ給ひ、此所は神慮に叶はすとて石を取りて投げさせ給ひ此の石の落止る所に宮を建てよと有りしが十四里を距てたる此の地に落止れりと。
是即ちその石で所謂この社地を決定せしめた大切な石で古来之をつぶて石と称す。浦の内と当神社との関係斯の如くで往時御神幸の行はれた所以である」とあった。

「投げる」と言えば、空海の縁起にも独鈷杵を投げる話も多い。青龍寺縁起には空海が唐からの帰朝に際し有縁地に至るよう独鈷杵を東に投げたわけだが、その地が青龍寺の建つ地と感得し唐の青龍寺と同じ名の寺院を建立した。山号も独鈷山と称す。

第三十七番札所 岩本寺

五社さんから岩本寺に向かう。五社大橋を渡り直し分岐点標石まで戻る。「四国のみち」の指導標には岩本寺まで2.4㎞。山沿いの道を進み窪川中学前を通り窪川駅前を右折。吉見川に架かる吉見橋を渡り丘陵前を右折、西進すると岩本寺に至る

門前に並ぶ店を抜けると正面に仁王門。仁王門傍に案内。「岩本寺 四国霊場八十八ヶ所第三十七番札所
寺伝によれば、ここから北に約3.5kmのところにある高岡神社(通称五社さん)の別当寺であった福円満寺が前身。 16世紀になり、寺社を再建する際に福円満寺の法灯と別当の役目を、この地にあった岩本寺(当時は岩本坊)に移して再建したといわれています。

藤井山五智院と号し、現在の本尊は不動明王、観音菩薩、阿弥陀如来、薬師如来、地蔵菩薩。弘法大師にまつわる「岩本寺の七不思議」という七つの逸話が言い伝えられています。本堂の天井には、プロ、アマチュアを問わず、全国の方々から奉納された575枚の板絵が飾られ、また、清流殿の天井には沈下橋が架かる四万十川の天井絵が描かれ、それぞれ岩本寺の見所の一つとなっています」とある。
また天井井としては本坊天井には沈下橋が架かる四万十川の天井絵が描かれている、ようだ。
境内に入ると右手に大師堂、修行大師像、聖天堂、開山堂、鐘楼、本堂、左手に本坊が建つ。鐘楼傍には「文化十一」と刻まれた徳右衛門道標に似た形式の石碑が残っていた。
高田屋嘉兵衛道標
メモの段階でわかったのだが、この石碑は江戸中期の海商、高田屋嘉兵衛が立てたもの。文化11年(1814)といえば、嘉兵衛がカムチャッカを解放され、帰国した翌年。妻おふさが嘉兵衛の無事を祈って四国巡礼をした、との言い伝えもあり、無事帰朝したお礼に夫妻で四国遍路に出かけ、添蚯蚓の海月庵を修理し、その前に立てていたものと言う。それを昭和30年頃、地元の若者が荒れ果てた海月庵から岩本寺に移したとのことである。
高田屋嘉兵衛
Wikipediaには「江戸時代後期の廻船業者、海商である。幼名は菊弥。淡路島で生まれ、兵庫津に出て船乗りとなり、後に廻船商人として蝦夷地・箱館(函館)に進出する。国後島・択捉島間の航路を開拓、漁場運営と廻船業で巨額の財を築き、箱館の発展に貢献する。ゴローニン事件でカムチャツカに連行されるが、日露交渉の間に立ち、事件解決へ導いた」とある。高田屋嘉兵衛は司馬遼太郎の『菜の花の沖』に詳しい。


大師堂は奥の院を兼ね、矢負地蔵も祀られると言う。
矢負地蔵
昔この地の貧しいが信心深い猟師が、「一代にて長者にならせ給え。狩りに出ても一疋は見逃します」と観音様に近く。が、年貢を納める日が近づいても獲物が見つからず、これ以上の殺生は無益と思い自分の胸をその矢で射た。帰りを待ちわびる妻のもとに猟師が訪れ、「獲物が多いので迎えに行くように伝え、獲物のひとつと袋を置き立ち去る。現場に急いだ妻は意識を失った夫を起こすと、そばを見ると矢の刺さったお地蔵様が倒れていた、と。お地蔵様が身代わりとなって命を救ってくれたと感謝し、家に戻り仲間の置いて行った袋をあけると金銀財宝が出て来た。領主も新人ゆえと財宝を猟師に下され、一夜にして長者となった、このことから観音様を福観音、地蔵さま矢負地蔵と呼ぶようになった、とか。いつものことながら昔話は何をいいたいのかよくわからない。
本堂におお参り。本尊は不動明王、聖観世音菩薩、阿弥陀如来、薬師如来、地蔵菩薩の五仏。5体の本尊は四国霊場唯一のもの。五社・高岡神社それぞれのご神体の本地仏を祀った故であろう。
天井にはプロ・アマ問わず全国から寄せられた575枚の天井絵が飾られマリリン・モンローや銭形平次なども。これらは昭和53年(1978)「の本堂改築に合わせて公募し、奉納されたものとのこと。

Wikipediaには「岩本寺(いわもとじ)は、高知県高岡郡四万十町にある真言宗智山派の寺院。藤井山(ふじいざん)、五智院(ごちいん)と号す。
寺伝によれば天平年間(729年 ? 749年)に聖武天皇の勅命を受け行基が七難即滅・七福即生を祈念して開創したのが起源であるという。それは現在地より北西約2kmの仁井田川のほとりで、仁井田明神のあったことから当時は「仁井田七福」、別名「七福寺」とよばれた。
その後、弘仁年間(810年 - 824年)に空海(弘法大師)が五社・五寺からなる福円満寺を増築し、東から、東大宮が不動明王、今大神には清浄観音菩薩、中宮が阿弥陀如来、西大宮が薬師如来、聖宮が将軍地蔵菩薩とそれぞれ本尊を安置し、星供の秘法を修したという。こうして「仁井田五社十二福寺」と称し嵯峨天皇の勅願所となり栄え、別当寺の福円満寺が札所であった。 

天正年間(1573年 - 1592年)に兵火によって焼失するが、時の足摺山主・尊快親王が弟子の尊信に命じて再興した。
一方、岩本寺は、町中にあり福円満寺から足摺へ向かう途中の宿坊であった。中世末に一宿した尊海親王がこの宿坊に岩本坊の名を与え繁盛した。1652年から1688年の間に衰退した福円満寺から別当が移り、岩本寺と改称し、納経は「五社大明神 別當岩本寺」と記帳された。
明治初期には神仏分離により仁井田五社の5つの仏像は岩本寺に移されたが、しばらくして、仏像と札所権は八幡浜の吉蔵寺に移る。しかし、明治22年(1889年)岩本寺は復興して仏像と札所権を取り戻し、現在に至る」とあった。

岩本寺の七不思議
仁王門傍の案内にあった弘法大師にまつわる岩本寺の逸話とは;
子安桜
この桜に祈れば安産する。大師が五社建立のとき、桜の木の下で産気をもよおた旅の女に加持して安産させたこと由来する。現在の桜はその実生(その桜の種から発芽し成長したもの)とか。
三度栗
空海伝説による登場する話。ここでは栗を持ち帰らなければ継母にいじめられる子供のため、「うない児のとる栗三度実れかし木も小さくいがも残さずに」と歌を詠む。と、年に三度実をつけ、高さも子供が採れるほどの高さの栗の木が実るようになったとか。
口なし蛭
近くの高野の田で蛭に血を吸われ苦しむ娘を見て加持をし雄蛭の口を封じ血を吸わなくした。
桜貝
大師は御室(みむろ)の浜の景をめでて、庵をむすび桜を植えられた。年を経て花のころに庵を訪ねるに既に花は散ってしまっていた。
大師、「来てみれば御室の桜散りうせぬあわれたのみしかいもあらじな」と歌を詠むと大師の徳を感じた海神が、磯の貝殻が桜の花弁に化したという。今も花の頃には桜色した小さな貝殻が浜に打ち寄せる、と。
筆草
月を愛でながら筆を投げられたところに、翌年から筆に似た草が生えた。里人みなこれを筆草と呼び、大師の能筆にあやかるおまじないとし、また、かゆみ、痛みのところにお供えの水をしめして撫でると不思議と治ると伝わる。
尻なし貝
大師が伊与木川を渡られたときに、蜷貝がわらじを貫き足を突き刺した。これでは往来する人々が困るだろうと、呪文を唱えて貝の尖ったところを抓(つね)ってすてた。以来この川の蜷貝は尖りがとれ、尻がまるくなったと言う。
戸たてず庄屋
空海が泊めてもらったお礼に加持をしたら泥棒が入らなくなった。ために里人は、その家の柱や敷居を削って持ち帰り、盗難除けとした、とか。

また、七つの逸話には入っていないが、『四国遍礼功徳記』に記される、このあたりにまつわる弘法伝説をひとつ挙げる;。窪川村に住む弥助の女房が布を織っていた。そこにひとりの遍路の僧が托鉢喜捨を乞う。が貧しくあげるものがなく、織りかけの布を切り与えた。それからというもの女房の織る布はいくら切っても尽きることがない。さてはあのお坊さんはお大師さんに違いないと夫婦ともどもいよいよ大師を崇拝するようになったという。

平串から岩本寺へ直行する遍路道●
平串から五社を訪ねることなく岩本寺へ向かう遍路道は国道56号を直進し、仁井田川に架かる平串橋を渡り、県道19、号分岐点まで直進。分岐点で県道から右に逸れ時坂トンネルを潜り、土讃線を越えると左折し窪川駅方面へと南下、窪川駅辺りで五社経由の遍路道と合流し岩本寺へと向かう。
今回のメモはここまで。次回は第38番札所金剛福寺への道をメモする。



青龍寺から岩本寺までは十三里、52キロの長丁場である。土佐市から須崎市を抜け高岡郡中土佐町久礼から高岡郡四万十町、かつての窪川町まで歩くことになる。途中須崎に抜ける仏坂越え、また「角谷♪焼坂♪添蚯蚓」と歌われた山越えの道がある。
角谷(かどや)は旧路は消え、舗装された旧国道を歩くだけであったが、仏坂は上り1.8kmの距離を高度150mほど上げることになる。それほど厳しい上りではない、下りは10分程度で谷筋に下りそこからは平坦な道となる。
焼坂は大よそ5キロ、比高差200mを1時間半ほどで越える。添蚯蚓は距離は6キロ程度だが比高差は370mほどあり2時間半ほど歩き七子峠近くに下りることになり。
下山口近くの七子峠から岩本寺まではおおよそ15キロほどだろうか。窪川台地・高南台地とも称される四万十川支流・仁井田川流域に開けた標高200mほどの台地の道を歩き札所に向かう。 メモは2回に分ける。一回目は青龍寺から仏坂を越えて須碕に入り、角谷を歩いて須崎市安和にある焼坂峠への遍路道分岐点まで。二回目は焼坂峠の分岐点から焼坂を越え中土佐町の国道を歩き、久礼より添蚯蚓を越えて四万十町(旧窪川町)に建つ札所・岩本寺までをメモする。


本日のルート;第三十六番札所 青龍寺>埋立>花山神社>鳴無神社の遥拝所>仏坂>岩不動・ 光明峰寺>県道314号合流点に標石>石灯籠と標石>県道23号とクロス>観音寺>須崎駅>大善寺>土佐藩砲台跡>土佐新荘>国道56号から旧道に逸れる>安和・焼坂越え分岐点



第三十六番札所 青龍寺



前面はかつて、といってもおよそ五千年もの昔だが、内湾であった竜の池とも蟹ヶ池とも呼ばれる大池を核とした湿地、後ろに横波山地の宇都賀山(標高255.9m)を配した山裾に青龍寺は建つ。 駐車場からは二重塔が見える。多宝塔であった。本堂参道の左側に特徴的な形の鐘楼門。


その奥に客殿、書院、方丈が建つ。本堂参道口右手に手水場、左手に納経所。その左手に恵果堂が建つ。
石段横に「二丁目」の丁石。弘法大師像に頭を下げ45段ほど石段を上ると山門(仁王門)。棟に龍の瓦を使う。
仁王門を潜ると左手に地蔵堂と三重塔、右手に聖天堂。見上げる石段を上ると左手に滝。不動明王を祀る。さらに石段を上り、左手地蔵坐像のところに標石があり、「おくのいんみち嘉永元年由八月」と刻まれる。奥の院にはおよそ600mほどである。

更に石段を上り切ると正面に本堂、その左手に大師堂。大師堂前には伊藤萬蔵寄進の香台がある。本堂右手には薬師堂。その前には不動明王が立つ。薬師堂の右手には白山神社。
Wikipediaに拠れば、「青龍寺(しょうりゅうじ)は、高知県土佐市にある真言宗豊山派の寺院。独鈷山(どっこざん)、伊舎那院(いしゃないん)と号す。本尊は波切不動明王。
寺伝によれば弘仁年間(810年-824年)に空海(弘法大師)によって開基されたとされる。入唐求法の遣唐使として、恵果和尚より真言密教の奥義を伝授された空海が帰国の折、有縁の地に至るように祈願して独鈷杵(どっこしょう)を東方に向かって投げた。
空海はその独鈷杵がこの山中の松の木にあると感得し、嵯峨天皇に奏上。弘仁6年(815年)に恵果和尚を偲び、唐の青龍寺と同じ名の寺院を建立したという。

本尊の波切不動は、空海が乗った遣唐使船が入唐時に暴風雨に遭った際に、不動明王が現れて剣で波を切って救ったといわれ、空海がその姿を刻んだものであると伝える。 江戸時代初期には荒廃していたが、土佐藩2代藩主山内忠義によって正保年間(1644年 - 1648年)に再興された。しかし、宝永4年(1707年)には地震と津波で大きな被害を受け、江戸末期に再建された。
なお、本堂のある上段が如意山で、客殿のあるところが摩尼山の麓で、奥の院のある所が独鈷山。元は薬師如来が本尊であった如意山の本堂に奥の院の本尊不動明王を移し、その薬師如来は横に置かれ、そのあと大師堂を造ってずらっと並んだ伽藍の一つの寺になったとみられる。この並びは唐の青龍寺を模したものと言われる。
独鈷
鈷杵とは真言密教の法具で、両端のとがった爪の数によって九鈷杵、五鈷杵、三鈷杵、一つの 爪のものを独鈷杵という。大師座像の絵は三っ爪のように描かれているものが多いが五鈷杵である。
本尊の不動明王
不動明王を本尊としている札所は、第四十五番岩屋寺、五十四番延命寺とともに三ケ寺だけである。もっとも、第三十七番岩本寺の本尊五仏の中には不動明王が含まれている。 不動明王は大日如来の化身ともされ、誓願により如来の使者となって、悪を断じ善をすすめる明王である。
宝永四年(1707)の大津波では本堂以外のすべての建物を失ったとある。嘉永四年(1851)、藩主山内公によって護摩堂、鐘楼門、客殿が建てられ、明治初年に火災で本堂が焼夫したものの間もなく再建された。
波切不動の故事ゆえか、海上安全を祈願する漁業従事者の信仰篤く、出漁の際には寺の沖合でひと廻りして出港したとも言う。
奥の院道
奥の院には上述、本堂への石段途中より、また上の本堂境内からでも大師堂側からこの山道に出ることができ、途中右側上に恵果和尚の墓と称する小石造物群がある。
茂みの下の山道の途中には標石「日是より於くのいんへ三丁嘉永ニ己酉年四月」もある。また鐘楼門を潜り納経所の裏から山道に入り上述ルートに合流するコースもあるようだ。
青龍寺から奥の院への道は途中県道47号をクロスし、山道を上り、再び車道をクロスした後土径を進む。
奥の院
奥の院には白木の鳥居、そこには「清め塩」も用意されている。参拝者は昔から裸足と定められているらしく、靴を脱いでお参りする。手前に下駄箱も用意されている。
行場としての奥之院、本尊は石造の波切不動明王。大師が長安の都から帰国に際し、東に向って投げた独鈷杵がかかっていたといういわれの松は今はない。
案内には「青龍寺奥の院 弘法大師空海は延暦23年唐に渡り、長安の青龍で恵果和尚より真言密教の奥義を授けられ、真言八祖となられた。帰国に当り恩師報恩の為一宇を建立したし景勝の地に留まれと、独鈷杵を日本に向って投げられた。
大師四国巡礼錫の際、当地の松に懸かっている独鈷杵を感得され、此所に一宇を建立、寺号を独鈷山青龍寺とし不動明王の石像を安置された。以後森厳な行場として信仰を集めている」とある。



青龍寺より岩本寺への遍路道


青龍寺を打ち終えると、次の札所は窪川の第三十七番岩本寺。その距離は52キロほどと遠い。近年は横浪半島を抜ける県道47号を須崎へと抜けるお遍路さんも多いと聞くが、県道が整備されたのは昭和48年(1973)に竣工された宇佐大橋に合わせてのことだろし、建設省(現在の国土交通省)より主要地方道に指定されたのは平成5年(1993)というから、往昔横浪半島を辿る整備された道はなかったように思う。実際国土地理院の『今昔マップ〈1965年)』には道路は記載されていない。
かつての遍路道は青龍寺より宇佐まで打ち戻り、浦の内湾・横浪三里北岸の道を辿ることになるが、その他、宇佐まで戻ることなく井尻の港より横浪三里を舟で横浪へと向かうお遍路さんも多くいた、と言う。
真念の『四国遍路道指南』には「いのしりへもどり、よこなみといふ所迄三里、舟にてもよし、此間景よし」とある。『四国遍礼名所図会」にも「先の猪ノ尻村へ戻り、是より横波村迄海上三里舟ニ乗ル、船ニ乗事十一人より十五人迄よし、其余は乗べからず。壱艘借切七百文、壱人前六十四もん宛也。陸路ハ八坂・坂中といふ難所也」とある。
64文がどの程度のものだろう。Wikipediaには1800年代初頭の『東海道中膝栗毛』の記述では、餅一個の価格が3文から5文、街道の茶屋で酒一合が32文とある。酒二合に相当する金額ということだろうか。
とまれ、今回は宇佐まで戻り陸路を辿ることに。

埋立
県道23号を進むとほどなく須崎市域。地震沈降により形成されたリアス式海岸に横浪三里を左手に見ながら埋立、浦の内灰方、深浦、浦の内塩間(しわい)と進む。 『土佐地名往来』には、「浦の内」とは「曲折しながら長く延びた大きな浦(入り江)を内側 に抱え込んだ地形」を指すとある。
埋立から横浪三里の湾を渡海する巡航線があるようだ。往昔、道も整備されておらず多くのお遍路さんが舟で横浪三里を渡ったと言う。ルートは埋立>松ケ碕(横浪半島)>下中山(横浪半島)>深浦>塩間>長崎(横浪半島)>今川内( 横浪半島 )>福良( 横浪半島 )>須の浦( 横浪半島 )>横浪>鳴無>坂内( 横浪半島 )と浦の内湾の最奥部を繋ぐ。
灰方は灰方は礁(ハエ)潟由来の地形を表す地名。岩礁部を碆(バエ)と称するところより礁(しょう)に「ハエ」をあてたのだろうか。深浦から横浪三里を湾の西奥部横浪への渡海船を利用する遍路もいる、と聞く。
浦の内出水の県道右手に花山天皇(後述)勧請との話も伝わる鳴滝神社が建つ。

花山神社
浦ノ内湾に流入する小さな川に架かる出見橋を渡り、小川の南岸を県道より西へ入る。しばらく歩き左折して花山神社の鳥居前に至る。県道二十三号線の出見橋より約八百メートルである。
花山院廟とも呼ばれ、かつては春日山阿弥陀寺と称し、花山天皇の位牌を安置したと伝わる。明治四年(1871)廃寺となり「花山神社」となった。
真念の『四国遍路路指南』には、「出見村、この所をいづミといふ事、花山院離宮の御時、天気たゞならずして都のそら御なつかしくいくたびか門のほかへ出御なりしかバいづ見と名づく、又土佐の大平かももとへ御製
とさのうミに 身ハうき草の ゆられきて よるべ べなき 身をあわれとも見よ
御返し、大平
あはれをバ いかにあふがん及びなし 身ハ入うミの藻がくれにゐて
つゐには此所にて崩じ給ふとなん」と出見の由来と花山院がこの地でむなしくなったと記す。
花山神社からの旧遍路道
社の鳥居の左、道端に標石があり手印と共に「左へんろ道 従是仁井田五社迄 十一里 天保」といった文字が刻まれる、と。かつてはこの社から谷筋に入り、山越えで立目へと抜ける遍路道があったようだが、現在は藪に覆われて歩けない、と(未確認)。
花山院
花山院には散歩の折々、各所で出合う。熊野古道、秩父札所、西国札所、また鎌倉でも出合った。 花山法皇は、御年わずか17歳で65代花山天皇となるも、在位2年で法皇に。寛和2年(986)の頃と言う。愛する女御がなくなり、世の無常を悟り、仏門に入ったため、とか、藤原氏に皇位を追われたとか、退位の理由は諸説ある。
出家後、比叡山や播磨の書写山、熊野・那智山にて修行。霊夢により西国観音霊場巡礼を再興することになったとされる。西国観音霊場縁起は当然のことながら、そのモチーフを「借用」した秩父観音霊場縁起にも登場する。とはいえ、関東へ足を運んだといった記録はないようだ。また土佐でむなしくなったといった記録もない。
因みに、昨年だったか西国観音霊場の姫路・書写山圓教寺を訪れたとき、長年寝かせておいた性空上人と西国観音霊場縁起や秩父観音霊場のあれこれをメモした。花山天皇と直接関係はないが興味があればご覧ください。

鳴無神社の遥拝所
県道23号に戻り浦の内トンネルを抜け立目、槢木を過ぎる。「立目」、「槢木」の由来は不詳。県道を進み横浪に。道の左手、海側に「鳴無(おとなし)神社遥拝所」の鳥居が見える。浦の内湾を隔てた横浪半島に建つ鳴無神社の遥拝所である。深浦からの渡船も遥拝所東の港に入ってくるようだ。また、横浪から鳴無までの航路もあり、時間があれば(あえば)鳴無神社の参拝もできそうだ。


鳴無神社
鳴無神社(おとなし)には第三十番札所善楽寺傍の土佐一の宮・土佐神社で出合った。境内に畳弐畳ほどの自然石の大岩があり、その案内に「古伝に土佐大神の土佐に移り給し時、御船を先づ高岡郡浦の内に寄せ給ひ宮を建て加茂の大神として崇奉る。或時神体顕はさせ給ひ、此所は神慮に叶はすとて石を取りて投げさせ給ひ此の石の落止る所に宮を建てよと有りしが十四里を距てたる此の地に落止れりと。
是即ちその石で所謂この社地を決定せしめた大切な石で古来之をつぶて石と称す。浦の内と当神社との関係斯の如くで往時御神幸の行はれた所以である。
この地は蛇紋岩の地層なるにこのつぶて石は珪石で全然その性質を異にしており学界では此の石を転石と称し学問上特殊の資料とされている。 昭和四十九年八月 宮司」とあった。
ここにある「加茂の大神」が鳴無神社である。古代「しなね祭り」という土佐神社の重要な神事が海路、この鳴無神社へ神輿渡御されていたようだ。土佐神社を別名「しなね様」と称するわけだから、重要な神事ではあったのだろう。岩を投げたかとうかは別にして、土佐大神が祭神であった頃、高岡郡浦の内となんらか深い関係があったのだろう。
しなね様の語源
しなねの語源は諸説あり、七月は台風吹き荒ぶことから風の神志那都比古から発したという説、新稲がつづまったという説、さらに土佐神社祭神と関係する鍛冶と風の関連からとする説等がある(土佐神社の解説より)。


仏坂越え

仏坂
鳴無神社遥拝所の辺りで県道23号を離れ県道314号に乗り換える。奥浦川に沿って山道を上る。 大浦を越えると右手に標石。「佛坂遍路道」「岩不動経由岩本寺」と刻まれる。道の左手には手書きで「右 へんろ道 山道に入る」の案内。
一車線、二車線と混じって進んできた県道314号はここからは一車線の山道に入る。道は舗装されており旧遍路道の趣はない。
横浪から4.5㎞、山道に入って1.8km、高度を150mほど上げると仏坂の峠に着く。道の右手に「 弘法大師修行の地 光明峰寺 仏坂不動尊」の看板と標石。標石には「番外霊場 岩不動二三十米 青龍寺 二十・三粁」と刻まれる。遍路道はこの標石から県道を離れ左折し岩不動に向かう。 

岩不動・ 光明峰寺
標石のある峠から県道314号を逸れ急坂の土径を10分ほど下ると光明峰寺・岩不動に着く。坂を下り切ったところに巨石を覆いかぶさるようなお堂がある。うっすらと見える巨石に刻まれたお不動様に頭を下げる。この仏の彫られた大岩ゆえの「仏坂」の地名由来とある。
その先に不動堂(護摩堂)。丁度、お勤めの時でもあり、お経を耳にしながら本堂にも頭を下げ境内を抜ける。

県道314号合流点に標石
岩不動を離れ1キロ弱、舗装、簡易舗装が混在する道を歩くと仏坂で分かれた県道314号に合流。合流点手前の橋には、「仏坂不動尊右へ山添一キロ光明峯寺」と岩不動を指す標識が立つ。 



石灯籠と標石
桜川の支流に沿って県道を下り、桜川に架かる新川橋の東詰めに。そこに自然石の灯籠が立つ。 その脇に標石。「(梵字)南無大師 是与里五社へ八里 享和三」といった文字が刻まれる。次の札所五社(私注;正確には元札所。現在の高岡神社)のある窪川まで32キロとなった。青龍寺からおよそ20キロ進んだことになる。

県道23号と交差
桜川を渡ると県道314号は国道56号、高知自動車道にあたる。遍路道・県道314号は直進し、国道56号、高知自動車道の高架を潜り、土讃線の踏切を渡り、土讃線の西側を進むと県道23号と交差する。
鳥坂トンネル経由の遍路道との合流点
この交差点は仏坂を通ることなく、横浪から県道23号を進み鳥坂トンネルを抜けこの地に進んで来た遍路道のひとつ。昭和43年(1968)竣工の鳥坂トンネル辺りには旧道も残っているようだが、ほとんどのお遍路さんはトンネルを抜けるようだ。
青龍寺より横浪半島を走る横浪黒潮スカイラインは横浪三里の最奥部の浦の内西分で県道23号に合流し鳥坂トンネルを潜りこの地に至るする。

観音寺
県道314号を進み土讃線多ノ郷駅を越え、県道284号の高架を潜り須崎町西崎交差点で県道388号に合流。遍路道はここを左折し県道388号に乗り換える。
県道は大間の町を進む。大間はかつての多ノ郷村の中心地。南下し御手洗川を渡り大間本町交差点で県道314号を左に逸れ海岸線を進む県道313号に乗り換える。
左折すると直ぐ道の右手丘陵に観音寺。「弘法大師三度栗」で親しまれる。
無量山観音寺、真言宗智山派の寺で、本尊正観世音菩薩、
Wikipediaには「寺伝によれば、聖徳太子が四天王寺を建造するために百済より仏師や工匠を招聘した。敏達天皇15年(585年)、その帰途で須崎沖で台風に遭い須崎湾に漂着した。一同が観音像を刻み、この地に寺院を建立し海上交通の安全を祈願したことが当寺の始まりと伝えられている。
天武天皇13年(684年)10月14日に当地で大地震が起こり須崎湾が大陥没した。この地震により観音像は堂ヶ奈呂に流されたとされる。 その後、平安時代中期の延喜3年(903年)宮ノ中土居山へ移され、戦国時代の元亀3年(1572年)に竹ノ鼻、大正15年(1926年)に現在地へと移転した。
平安時代前期の弘仁10年(819年)頃、弘法大師がこの地をに巡錫した。少年が栗を持っていたので一つ所望したところ、持っていた栗を全て差し出した。大師は少年を誉め、その栗の木を祈念した。すると一年に三度実をつけるようになったという三度栗の伝説が残っている」とある。
三度栗伝説
三度栗の伝説は遍路道の途次、時に出合う。四国中央市には三度地蔵堂があった。愛媛南予の窓坂峠には三度栗ならぬ、七度栗大師堂があった。四国以外でも西日本に限らず宮城、群馬、静岡などの東日本にも三度栗伝説が残るとのこと。柿にまつわる伝説もどこか記憶に残る。芋に関する伝説も各地にみられるようだ。弘法大師の人気ゆえのことだろう。
百済仏師の伝説
また、百済の匠の話は34番札所・種間寺でも出合った。そこでは、用明天皇在位(585年 587年)四天王寺を建立するため来日した百済の仏師が帰国の際に暴風に襲われて種間寺に近い秋山の港に漂着、航海の安全を祈願して薬師如来刻んで本尾山頂に安置したという。 全体のプロットも時代もほぼ同じ。
百済仏師の造仏
Wikipediaに、四天王寺の造仏のため百済の仏師が来日したとある。日本に仏教が伝来したのは、欽明天皇七年(五三八)という。『書紀』は、欽明天皇の十五年(五四六)、僧恵ら九人の来朝、敏達天皇の六年(五七七)、百済の威徳王が日本からの使者大別王らに託し経論若干と「律師・禅師・比丘尼・呪禁師・造仏工・造寺工」の六人を送ったとあり、「難波の大別王の寺」に住したという。 その間も崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部氏の政争が続き、用明天皇を経て崇仏派馬子の勝利に終わる。次の崇峻天皇のあと推古天皇が皇位を継ぎ、天皇は甥にあたる厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子として國政をまかせた。翌二年(五九四)には仏教興隆の詔も出す。こうした経緯を踏まえ私寺として四天王寺(五九三年)は聖徳太子の私寺として建立された。
種間寺の薬師如来像仏の仏師にしても当寺の造仏工が上述敏達天皇の六年(五七七)に送られてきた仏師かどうか不明だが、いずれにしても当時は仏教伝来からそれほど時も経ておらず、造寺、造仏、さらには僧侶も百済からの渡来人、帰化人なしでは成し得なかったであろうかと思う。

須崎駅
観音寺を離れ海岸に迫る城山丘陵の東裾を土讃線に沿って県道388号を下る。須崎は戦国時代、津野氏が開いた地。城山は津野氏の館があった。須崎湾の対岸には巨大なセメント工場の施設が見える。鉱山はどこ?仁淀川町の鳥形山がそれと言う。石灰岩の四国カルスト地帯だろう。地図で見ると。鳥形山から鉱石ベルトコンベアーが四国の山や谷を越えて須崎の南・新荘まで続いていた。総延長は20キロ以上、その半分が山を穿ったトンネルとなっている。
その先に須崎駅。「高知県国鉄発祥の地」の碑がある。須崎から日下間の高知線開業が大正14年3月(1925)。その後11月に日下から高知、翌大正14年(1926)には高知・土佐山田が開業と、須崎から北に伸ばしていった故の「高知県国鉄発祥の地」とする所以であろう。
須崎は日本有数の天然の良港で、広さと水深を持つ。また、『土佐地名往来』に「新荘川の流砂が堆積し沿岸洲が発達。砂州状の土地 がスサキ。池ノ内湾は潟湖で残る」とあるように自然の地形は防波堤となり波も穏かであり、高知線建設資材・車両の搬入に適していたのだろう。

大善寺
遍路道は須﨑駅から南下し、新町本通商店街で右折し西進する。新町本通りを進み、東古市、西古市と古市進み、通り南に建つ須崎八幡を越えた四つ辻を左折、更に一筋南の通りを右折し中町に入る。お大師通りとなった道を進むと右手丘陵に大善寺が建つ。
道に面して大師堂、丘陵上に鐘楼が見える。
このお寺様は別格二十番霊場第五番。36番青龍寺から37番岩本寺まで14里・56キロと遠い。ために「中札所」と呼ばれる。中札所としては、伊予の53番円明寺と54番延命寺の間に遍照院があった。

Wikipwsiには「二つ石大師 伝承によれば、現在寺院がある丘陵は須崎湾に突き出た岬であった。ここには「波の二つ石」と呼ばれる二つの巨石があった。ここを通る際には、通常は丘陵を越えて通行していたが、干潮時は二つ石の端を通行していた。
しかし、ここは「土佐の親不知」とも呼ばれる難所で突然の大波にさらわれる海難事故が絶えなかった。この岬は霊峰・石鎚山の南端に当たるとされ、不浄の者がここを通ると怪異に出会い難に遭うのだと言われた。
平安時代前期の弘仁6年(815年)空海(弘法大師)が42歳の時、四国霊場開創のため巡錫中に須崎を訪れた際この話を聞いた。空海はここで海難死亡者の菩提を弔い交通安全を祈願した。その後、ここに大師堂が結ばれたとされている。やがてこの大師堂は「二つ石大師」と呼ばれるようになった。二つ石は長年の波涛で周囲に土砂が堆積し陸地となった。昭和初期には防波堤が造られ、現在、二つ石は土中に埋まっている。
この寺院の名は、(中略)元々、八幡山明星院大善寺と言い、大和国(現在の奈良県)長谷寺の僧坊・小池坊の末寺であったと伝えられ、現在地より東寄りの古市町にあり、本尊は阿弥陀如来(伝・恵信の作、現在不明)で、八幡神社の別当として末寺17ヶ寺を従える大寺であったと伝えられている。
しかし、宝永4年(1707年)の宝永地震による津波で流され、古城山の麓に移ったとされている。 明治時代初期の廃仏毀釈により廃寺となったが、明治29年(1896年)廃寺となったことを惜しむ信徒により二ツ石大師の上部に寺院が復興された」とあった。

土佐藩砲台跡
大善寺の近く、富士ヶ浜の海岸に土佐藩砲台跡があると言う。当時の石積みや土塁が残るという。ちょっと立ち寄り。
砲台跡には案内があり「土佐藩砲台跡 昭和19年11月国の史跡指定
幕末、異国船の来航があり、海岸防備のため藩命により文久3年(1863)7月に着工し1ヶ月半の短時日に完成した。
須崎には西、中、東の3ヶ所に台場が築かれたが、そのうち現存するのはこの西台場のみである。規模が最大で長さ116m、砲門7座、内側に弾薬室が7ヶ所あったが、明治初年埋められた。この砲台跡は明治40年、須崎町が払下げをうけ、公園として保存してきた。
当時使用した砲弾が残っている。
慶応3年(1867)8月6日、イギリス水夫殺害事件で公使パークスは土佐藩と交渉するため軍艦 (バジリスク)で須崎港に入港し、幕府艦(回天丸)や坂本龍馬も来港して外国交渉の舞 台となった。【高知市民図書館蔵】平成10年3月20日」の解説と共に、「文久3年(1863)8月23日に完成した須崎砲台場の古図」のキャプションのついたイラストが掲載されていた。
また案内はもうひとつあり、「土佐藩砲台跡(西砲台) 幕末、日本近海へ外国船の接近が相次ぐようになり幕府や諸藩は砲台(台場)の築造を進めた。須崎でも文久3(1863)年7月から8月にかけて西・中・東の3基の砲台が築かれた。
西砲台は扇形の平面をしており7門の大砲を据えるようになっていた。大砲は砲台上部の土盛りと土盛りの間に置かれたという。
築造当初、背面の石垣には7つの薬室(弾薬庫)があり海側には堀があった。大正3(1914)年に公園化がなされ、昭和 19(1944)年に国史跡に指定されている。
各地の台場で残存するものは少なく全国的にみて貴重な史跡である。 中砲台は今の南古市町に造られ長方形の平面をしていた。 東砲台は浜町に造られ扇形の平面をしていた」といった解説と共に、「昭和初期の西砲台(絵葉書資料館提供) 下の2枚の絵図は左より西砲台、中砲台を描いたもの(オーテピア高知図書館平尾文庫蔵)」のキャプションのついた写真とイラスト、また西砲台跡、中砲台跡、西砲台跡の場所を示す簡易地図も載っていた。

土佐新荘
遍路道は大善寺前のお大師通りを進み左手、新荘川河口部にある土讃線土佐新荘駅を左手に見遣り、先に進むと県道388号に合流する。県道388号を西進し国道56号・須崎道路の高架を潜り、その先国道56号に合流。新荘川を渡り角谷山の山裾に向かう。
土佐新荘
新荘は新しい荘園の意。Wikipediaには「津野氏は最初は津野荘の地頭となり、その後津野新荘の地頭も兼ねるようになったと考えられる」とあり、その津野荘は「京の賀茂御祖神社の荘園で、高岡郡吾井郷津野保(現 高知県須崎市吾井郷;須崎市の北、土讃線吾桑駅あたり)にあった。
本来は土佐国の賀茂御祖神社の荘園は土佐郡潮江荘であったが津波により水没、代わって津野荘が立荘された。 また、津野新荘は土讃線土佐新荘駅や新荘川にその名をとどめており、名称からして津野荘の成立後に津野新荘が成立したものと考えられる。 新荘川の流域に津野氏の山の拠点となった姫野々城がある」とある。この新荘辺りに新たに立荘されたのが新荘の由来だろう。
津野氏
Wikipediaに拠れば、高岡郡の豪族津野氏の出自は元藤原氏であり、伊予に下り、河野氏の意向を受け土佐に入り、梼原を拠点に高岡郡の奥地山間部をその所領とし、その後南下し東津野村(津野町東部)、葉山村(津野町西部)から須崎市まで勢力を伸ばしたとの説があるが、その信憑性は低いとし、上述の如く、「津野氏は最初は津野荘の地頭となり、その津野新荘の地頭も兼ねるようになったと考えられる」とする。
どちらが正しいのか門外漢には不明だが、山間部の梼原から海岸部の須崎に進出したのか、その逆なのか、勢力拡大の方向が真逆になる。

国道56号から旧道に逸れる
角谷山裾に入った国道56号はほどなく旧道を右に分ける。角谷トンネル、久保宇津を抜けて進む国道56号と異なり旧道(旧国道だろう)は国道の山側から海側、さらには山側と蛇行して進み、久保宇津トンネルの先で国道56号に合流する。
この遍路道も旧道が開かれる以前、「角谷♪焼坂♪添蚯蚓」と詠われた須崎から窪川間の遍路泣かせの難所であったと言われる。現在の角谷トンネル北口付近の旧道から右に逸れる破線が地図上に描かれる。往昔、角谷坂越えの道があったのではと思える。
角谷坂の国道改修工事が完了したのは昭和43年(1968)のことである。
日鉄鉱業(株)鳥形山鉱業所
旧道分岐点の海岸側、角谷岬に日鉄鉱業(株)鳥形山鉱業所がある。上述仁淀川の鳥形山から 四国山地の山や谷を越え総延長22.6キロの鉱石ベルトコンベヤーの終点がこの工場。破砕工場で鉄鉱用、セメント用などに調整され船積みされる。鉄鉱用とはこの鉱山の原点。日鉄の文字の如く日本製鉄君津工場第三高炉への石灰石供給を目したことから始まった。
鳥形山鉱山の長径は2.5km, 常の露天掘り鉱山に見られるすり鉢状と異なりここは上部をスライス状に掘り下げ、鉱石?は中央部に設けた縦坑に落とし、ベルトコンベアで新荘へと運ばれる。
総延長22.6キロのうちトンネル部が21キロ。中には第六トンネルのように7727mと、この種のトンネルとしては世界最長のものもあるようだ。
途中の谷筋ではトンネルから出て谷を渡る鉱石ベルトコンベアの「渡り廊下」が顔を出す。
(掲載ルート図は「地質学ニュース615号 天空の鉱山「鳥形山」を訪ねる(須藤定久)」より)。

安和・焼坂越え分岐点
国道56号に出た遍路道はその先、安和トンネル手前で左に逸れる旧道に入る。海岸線を走る土讃線のトンネル上を走り、山側に向かい安和トンネルの上を越え安和小学校前まで進みT字路を左折し土讃線を潜る。その先の交差点が焼坂越えの古い遍路道分岐点。国道56号をそのまま進めば1キロ近くの距離があり歩道幅も十分ではないと聞く焼坂トンネルを抜けて久礼へと進むが、焼坂を越えて久礼に向かう旧遍路道は交差点を右に折れ桜川と呼ばれる小川の南を進むことになる。
安和(あわ)
『土佐地名往来』には「安和は角谷坂と焼坂との間の集落。はかなきのたと えの泡?須崎と久礼の「あわい」(境界)の転訛?」とある。

今回のメモはここまで。次回は焼坂峠越えから添蚯蚓坂越えをメモする。

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