伊予 歩き遍路:宇和島市街から四十三番札所 明石寺へ①宇和島市街を抜け四十一番札所 龍光寺へ

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津島の柏坂、松尾峠を越えて宇和島市街の南端、佐伯番所跡へと辿ったのは今年の1月のことだった。毎月の田舎帰省を利用して2月には宇和島市街から四十三番札所・明石寺までを繋ごうと思っていたのだが、思いもかけず南予(愛媛の南部)は大雪。
予定を変更し東予(愛媛の東部)の遍路道を繋ぎはじめ、その流れで結局愛媛と香川の国境までの遍路道をカバーしてしまったため、愛媛の遍路道を繋ぐ旅は、今回歩く宇和島市街から明石寺までを残すのみとなった。
特段の信仰心があるわけでもなく、断片的に歩いた遍路道の峠越えを、どうせのことなら愛媛の遍路道だけでも全部繋げてしまおうと始めた旅も、宇和島市街から明石寺までを繋げば、これで一応の完結となる。
その目的地となる四十三番札所・明石寺は愛媛の遍路道繋ぎの旅のきっかけとなったお寺さまでもある。いつだったか、四十四番札所・大宝寺から四十四番札所・岩屋寺までを歩いたのだが、その時、四十三番札所・明石寺から大宝寺まで80キロほど距離があり、その間に農祖峠、下坂場峠、鶸田峠、真弓峠などを越えるいくつかのルートがあることを知った。
峠越えフリークとしては、これは面白そうと、気まぐれにはじめた繋ぎ旅ではあるが、この明石寺からの遍路道繋ぎ散歩がきっかけとなり、どうせのことなら愛媛の遍路道をすべて繋いでしまおうとなったわけである。その私事の「記念寺」である明石寺に向けて、最後の仕上げの散歩に出かけることにする。


本日のルート;
宇和島市街を抜け龍光院へ
佐伯番所跡>天赦園前交差点>広小路>本町追手の三差路>六兵衛坂>辰巳橋>丸穂橋>向新橋>龍光院
龍光院から四十一番札所・龍光寺へ
>西参道の茂兵衛道標>旧国道320号に合流>和霊中町2丁目・3丁目の三差路 >道連橋・徳右衛門道標>八幡橋>伊吹八幡>県道57号に入る>清水大師堂の徳衛門道標>新屋敷の茂兵衛道標>窓の峠(まどのとう)>務田橋>JAえひめ南成妙(なるたえ)横の道標>三叉路に道標>四十一番札所・龍光寺

宇和島市街を抜け龍光院へ

佐伯番所跡
今回の散歩は宇和島藩の外濠の機能をも果たした神田川に架かる佐伯橋から始める。宇和島は慶長20年(1612)伊達政宗の長子秀宗が入部し、以後明治維新に至るまで伊達10万石の城下町として発展した町である。橋を渡ると左手に佐伯番所跡。現在は佐伯橋に案内があるだけで、特に何があるわけでもない。また、この城南の番所とともに城北には本町番所があったと言う。
本町番所
本町番所の場所は不詳だが、古い地図を見ると宇和島城の北東に本町通りがある。現在も本町追手といった地名が残る。番所の位置を想像するに、佐伯番所は「御家中」と呼ばれる武家屋敷と町人町の境にある。正確に言えば、神田川の南は武家屋敷(足軽)、橋を渡って道の西側が町人町ではあるが、それはそれで良しとするとして、城北では本町通り辺りが武家屋敷と町人町の境となっている。いまから辿る街道が武家屋敷を抜け、町人町に接する箇所に本町番所があったのではないだろうか。

天赦園前交差点
[えひめの記憶」より
佐伯橋を渡り右手が武家屋敷の区画、左手が町人町であったであろう道筋を進む。古き趣の屋敷が残る。正面には城山らしき独立丘陵も見える。右手が伊達博物館、左手が天赦園に囲まれた道を進み、天赦園前交差点に至る。遍路道は交差点を右折し広小路を進むことになる。
天赦園
「えひめの記憶」には、「天赦園一帯は宇和島城西南を囲んだ海であったが、寛文12年(1672) 2代藩主が埋め立て、のち7代藩主宗紀が隠居所として造った別荘地である」とする。同じく「えひめの記憶」にある元禄期(18世紀初頭)の地図を見ると、佐伯番所から進む道の左手に並ぶ町人町は海に接しており、浜屋敷と記された箇所が少し海側に突き出ている。この辺りを埋め立てたのだろう。因みに安政・文久の頃(19世紀中頃)の地図には浜屋敷の南や西は新田が描かれ、現在の地形に近い形になっていた。

広小路
[えひめの記憶」より
広小路といえば火除地の機能をもつ。が、それほど広くはない道を進む。一帯はかつて武家屋敷が並んでいたのであろうが、その趣は残っていない。少し南東寄りの道を進んだ後、五差路となった箇所で道は北東に向きを変える。江戸期の地図を見ると、城を中心に五角形なった武家屋敷区画に放射状に延びた道路の南端、武家屋敷の一画できた空き地の場所である。
北東に向きを変えた道をしばらく進むと直進する道は建物に阻まれ左折を余儀なくされる。古地図では武家屋敷が道を阻み、その北は木挽町といった町人町となっている。町人町には本町通りが東西に走っており、前述本町番所もこの辺りの武家屋敷と町人町の境目にあったのだろうか。

本町追手の三差路
突き当たりを左折し旧町名・追手通に入る。追手門に続く通り故の地名だろう。「えひめの記憶」には「本町追手の三差路を北東に進み、六兵衛坂を越え」とある。本町追手が何処か不詳だが、六兵衛坂は辰野川手前の真教寺北を通ると言う。そこから逆算した本町追手の三差路を右折して先に進む。
追手門跡
当日は、国宝であった追手門跡の名前に惹かれ、ちょっと立ち寄り。道をそのまま直進し成り行きでGoogle mapにプロットされている追手門跡に。「門跡」の言葉通り、小料理屋の側面壁に食い込むように大きな石があり、そこに「国宝追手門旧跡」と刻まれているだけのものであった。
明治に天守と追手門を除いて城は解体。城を取り巻き、追手門を城の正面入口としていた内濠も同じくその頃埋めたてられた。その追手門も昭和20年(1945)の空襲で焼失したとのことである。
内濠
追手門跡は何だかなあ、であったが、その替わり「内濠」が浮上。今はその痕跡も見つけることは難しそうだが、先ほどの本町追手の三差路の先は、往昔は内濠であったのだろう。城山の裾を走る国道56号を取り囲むように、追手門跡と本町追手の三差路との間隔で帯となって濠が造られていたようである。地図上で見ると、城の南はその幅が広く、東側は少し狭くなっている。

六兵衛坂
往昔、御濠端であったろう本町追手の三差路を右に折れ、真教寺へと延びる道を進む。道は誠に緩やかな上りとなり、真教寺を境に辰野川筋へと下る。この辺りが六兵衛坂なのだろうか。地名は長者の笹谷六兵衛が坂下に住んでいたことに由来する、と。笹谷六兵衛の云々は不詳。




辰巳橋
坂を下り切ると辰巳川に架かる朱に塗られた辰巳橋がある。閻魔さまの橋とも呼ばれているようだ。閻魔様で知られる西江寺に向かう橋ということだろ。 辰巳橋の架かる辰巳川は宇和島藩の外濠の機能を持つとされる。城山の北東で城下町を囲むように直角に曲がる。如何にも不自然、と言うか人工的。藤堂高虎が文禄四年(1595)宇和郡七万石の領主となり丸串城を本城と定め、翌慶長元年から築城と城下町建設に着手したと言う。この時期に辰巳川の付け替え工事がなされたのではないだろうか?と思ったのだが、あれこれチェックすると、直角に曲がった川筋がかつての海岸線のようである。その北は17世紀中期以降埋め立てられ、結果として直角の川筋として残ったようだ。

伊達家以前の宇和島領主
室町期;西園寺氏の知行国。 西園寺氏と伊予の関りは鎌倉期に遡る。鎌倉幕府が開かれ守護・地頭の制度ができた頃、当時の当主西園寺公経は伊予の地頭補任を欲し、宇和郡の地頭職となっている。当時は、地頭補任は言いながら、伊予に下向したわけではなく代官を派遣し領地を経営したようである。
その後鎌倉幕府が滅亡し建武の新制がはじまると、幕府の後ろ盾を失った西園寺氏は退勢に陥る。伊予の西園寺家の祖となった西園寺公俊が伊予に下ったのは、そのような時代背景がもたらしたもののようである。
伊予西園寺氏は宇和盆地の直臣を核にしながらも、中央とのつながりをもち、その「権威」をもって宇和郡の国侍を外様衆として組み込んだ、云わば、山間部に割拠する国侍の盟主的存在であったとする(「えひめの記憶」)
戦国時代;西園寺氏が長曽我部氏に降伏。長曽我部を屈した秀吉傘下の小早川隆景が伊予を領し、家臣の持田右京が南予を支配。その後、小早川隆景の筑前・筑後移封に伴い家臣の戸田勝高の支配下。戸田勝高が朝鮮出兵で病死し戸田家断絶。
文禄4年(1595)、藤堂高虎が宇和7万石の領主として板島に入城。6年の歳月をかけて城下町普請。
慶長2年(1597)、朝鮮出兵。同5年関ヶ原の戦。家康に味方し、その功により伊予の半分の20の大守となり、同13年(1608)今治城に移る。更に同年伊勢に転封。
慶長13年(1613)、富田信高が宇和郡の領主となり丸串城に。同18年(1613)、近親者の不義密通騒動のあおりを受け改易。 元和元年(1615)、伊達政宗の長男秀宗が、大坂冬の陣の戦功により宇和領主に。板島を宇和島と改称し、宇和島藩10万石が成立し、明治維新まで続く。

辰野川に沿って進む
辰野川の左岸を進み、丸穂橋を渡り右岸に移る。「えひめの記憶」には「右岸をさらに約300m直進した後、右折して向新橋を渡って龍光院前に」とある。ちょっと混乱。辰野川の右岸に渡っており、更に右折しても辰野川は渡れない。
で、地図を見ると辰野川右岸に水路が見える。そこを「右折」するのだろうと川筋を乗り換える。開渠から暗渠となる川筋を進み暗渠に架かる向新橋の先で龍光院に出合う。
なお、この川筋を当初、辰野川の分流かとも思ったのだが、江戸期の地図にこの川筋が海に直接注いでいるように見える。現在の地図を見比べると、丸穂の谷筋からの流れがこの川筋に繋がっているように見える。どうでもいいことだけれど、気になりチェックした。

龍光院
道路から境内へ上る111段の石段が見える。石段手前に龍光寺縁起があり、 「龍光院縁起 龍光院は、元和元年(1615年)伊達秀宗が初代藩主として宇和島へ御入部のみぎり、藩と領民の安泰図り宇和島城の鬼門に当たるこの地に鎮めとして建立されました。その際、寺領として百石を賜り、その後代々の藩主の信仰深く、伊達家の祈願所と定められました。寛永15年(1638年)京都大覚寺二品宮親王が龍光院にしばらく留錫遊ばされ、風光明媚を讃えて臨海山福壽寺の号を賜りました。
弘法大師が西国巡錫の際、都より遠く離れ文化の恩恵が少なきことを憂い霊場の開創を発願され、九島(私注;宇和島市沖合にある。現在は橋で結ばれている)に鯨大師願成寺を建立されました。その後、当山に合わせ祀られ、四国霊場四十番奥之院、四国別格霊場第六番札所と定められ、南予の霊刹として信仰を集めています」とある。
臨海山の山号の示す如く、寺の立つ丘陵前面、辰野川から北は一面の海が広がっていたのだろう。
茂兵衛道標
百八の煩悩と三界表す石段を上る。石段の中ほどに手印と共に「本堂 ぎゃ久 観自在寺」 「和霊社 四十一番ゐなり」といった文字が刻まれた茂兵衛道標が立つ。
三界
三界(さんがい)とは「仏教における欲界(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天) ・色界(欲や煩悩は無いが、物質や肉体の束縛からは脱却していない世界)・無色界(精神世界。最上位が有頂天)の三つの世界のことであり、衆生が生死を繰り返しながら輪廻する世界をその三つに分けたもの(Wikipedia)
椎本芳室の寶篋塔
石段を上る途中には寶篋塔が立つ。
「市指定史跡 椎本芳室の寶篋塔 この寶筐塔は大坂の談林派俳諧の宗匠椎本芳室(寛文4年~延享4年)の長寿と功績を賛四言六句の漢詩を刻した寿蔵(生前建立の墓)で延享3年に建立された。
建立者の谷脇恩竹は宇和島の商人で芳室の弟子であり芳室編の俳諧集「蓍(めど)の花」には句を附けている。したがって俳諧の卑俗化、大衆化が進んでいた当時の都市の点者と地方の門人の親密な関係をこの寶筐塔は示したものと言える。
俳道大鈞 鴻烈存焉 鴻寿千鶴 行蔵万亀 新文斯碑 眞遺後人
(大意・芳室は俳諧の神であり功績は偉大、しかも長寿の生涯は千鶴万亀の如くめでたい。今、この碑を後世に残す)
(私注;俳道ノ大鈞ニシテ 鴻烈焉ニ存ス 鴻寿ハ千鶴ニシテ 行蔵ハ万亀ナリ 新タニ斯ノ碑ニ文シ 眞ニ後人ニ遺ス)
また、寶筐塔は元来「寶筐印塔」と呼ばれ、40句の経を納める方法の塔を意味した。日本では江戸時代以降墓標として用い、基礎・塔身・笠・相輪からなるのが普通であり、この寶筐塔のように自然石のものは珍しい。
なお最初恩竹が建立した場所については、現在のところ特定できない 宇和島市教育委員会」とあった。宇和島市最古の文学碑という。
醍醐塔
それはそうとして、傍に「醍醐塔」が立つ。「醍醐」とは「『大般涅槃経』などの仏典に尊い教えの比喩として登場する乳製品である(Wikipedia)」とある。「醍醐味」の語源でもあるが、この醍醐塔とはどういったものなのだろう。不詳である。




本堂・大師堂
境内に上り本堂、大師堂にお参り。南西の独立丘陵上に宇和島城が一望のもと。城の鬼門を鎮める寺として建立された意味合いを少し感じる。寺暦としては比較的新しいこのお寺様は四国霊場四十番札所・観自在寺の奥の院とする。それは明治になってからのこと。元の観自在寺の奥の院は宇和島の沖合にある九島の鯨大師願成寺がそれであったが、不便であるとのことで、寛文8年(1668)に元結掛の馬目木大師堂に移されたが、明治になって龍光院に移された。
芭蕉句碑
境内には芭蕉の句碑が立つ。
「芭蕉翁高野にての句
父母の志き里に恋し雉子の聲(表面)
この高詠は吾祖翁高野にての吟にして、麓に碑あり。この寺も高野末派の寺なれば、依り処なきにあらずとて一東松雁献造し建立、こは永く翁の高徳を仰ぐとの意けらし。 弘化二年乙己夏素亭記(裏面)
〔解説]
この句碑は弘化2年(1845)年に一東松雁が建立し、俳聖芭蕉を渇仰した旨を素享が記したものである。もちろん高野山と当寺は本末の関係ではあるが、蕉門の俳人服部立芳「芭蕉翁伝」によれば、「母ハ伊予国宇和島産桃地氏女云々」とあり、芭蕉の母は伊予宇和島の出身である。これにより門人達が祖翁と仰ぐ芭蕉と当地との深い縁にあることを前提に父母の句を建てた意図が読みとれるのである。
素亭なる人物は、静幽盧四代の宗匠であり、静幽盧とは蕉門十哲の一人其角の門人である半時庵淡々を初代とする宗匠の称で、二代魚亮は大阪の人であるが、三代以後八代迄つまり静山・素亭・雪鳳・魯丁・幽亭・雨亭は皆宇和島の人であった。
明治に入り、忘れ去られようとしていた蕉風をおこし「渋柿」を創刊した松根東洋城現在の主宰徳永山冬子もまた宇和島の人である。
時代はさかのぼるが寛文12年(1672年)の「大海集」や延宝7年(1679年)の「詞林全玉集」を編んだ先覚者桑折宗臣も宇和島の人であり、こうした俳句的土壌が古より脈々と当地に享け継がれていることを忘れてはならない。「芭蕉忌や母は宇和島の人の由」(小泉英)〕とある。
句は貞亨5年(1688年)春、芭蕉が杜国と高野山を訪れて詠んだ句「父母能志き里に戀し雉子の聲」。『笈の小文』に記されている。

龍光院から四十一番札所・龍光寺へ■

龍光院から伊吹、光満を進み窓の峠を越えて宇和島市三間町務田に下り四十一番札所龍光寺へと向かう道筋をメモする。龍光院からの遍路道は「表参道石段中はどの道標から右に折れ、急勾配の古びた西参道の石段を下りる(えひめの記憶)」とあるのだが、現在は庫裏でその道が閉ざされている。

西参道の茂兵衛道標
石段を下り、丘陵裾をグルリと廻ると北側にお寺さまから坂道が下り、道路まで続いている。坂道が道路と合わさる箇所はフェンスで囲われ通り抜けできないようになっていた。
フェンスの中に摩耗した感の道標がある。茂兵衛道標であり、手印と共に「奥の院 和霊社」と刻まれているとのことである。




和霊神社
Wikipediaなどをもとにまとめる。「宇和島藩家老・山家(私注;やんべ)公頼(通称 清兵衛)を主祭神とする。公頼は伊達政宗の家臣であったが、元和元年(1615年)政宗の長男・秀宗が宇和島に移封されるのに従い、その家老として藩政を支えた。宇和島はそれまでの領主(私注;戸田勝高)の悪政により疲弊していたが、公頼は租税軽減や産業振興を行い、効果を上げた。しかし、元和6年(1621)、藩主秀宗は公頼を嫉妬する藩士による讒言を信じ、公頼とその息子らを殺害させた(和霊騒動)。
公頼を慕う領民たちは、密かに城北森安の八面荒神の境内に小祠を設けて公頼一族の霊を祀った。その後、公頼殺害に関与した者が落雷・海難などにより次々と変死し、また公頼の無実も判明したため、承応2年(1653年)、秀宗は公頼を祀る神社を創建し、山頼和霊神社と称した。享保20年(1735年)に現在地(私注;宇和島市街地の北端、鎌江城跡)に遷座した」。
当日遍路道散歩を終え、社を訪ねたが、広大なもの。家臣の霊を弔う社としってちょっと驚いた。重臣とはいえ家臣の霊を祀る社でこれほどの規模のものは他にあっただろうか。

予讃線高架前で旧国道(?)に合流
この先の遍路道として、「えひめの記憶」は「龍光寺への遍路道は、道標(私注;前述フェンス内の茂兵衛道標)に従って石段下から右に山麓の道を進む。少し行くと、天神町にある宇和島地方合同庁舎付近に至るが、この辺りから道は左折してJR予讃線の踏切を渡り、和霊中町で国道320号に合流する。そこから国道を少し進むと、和霊中町2丁目と3丁目の接した地に三差路があり、そこに稲荷社と等妙寺の方向を示す道標が立っている」とする。
現在ではこの記述と状況が変わっており少々混乱した。説明にある国道320号は現在バイパスが完成ために旧国道となっており地図には表示されていない。また、和霊中町2丁目と3丁目の接した地に三差路にあるとする道標は見当たらない。当該地が更地になっており、どこかに移されたのかもしれない。
それはともあれ、順路には遍路道の案内が続いており、予讃線高架手前で旧国道320号と合流する地点まで案内してくれる。

順路は道を進み国道320号バイパスを潜り、遍路道案内に従い宇和島地方合同庁舎を越えた先を左折。遍路道案内に従い、突き当たりを右折し次のT字路を左折し予讃線の踏切を渡り、これも案内に従い道を右折し道なりに進むと上述の如く予讃線高架手前で旧国道(だろうと思うのだが)に合流する。

和霊中町2丁目・3丁目の三差路
遍路道の案内は左へと高架を潜る方向を指すのだが、道標があるとする和霊中町2丁目と3丁目の接する三差路は左に折れ、少し道を戻ることになる。前述の如く、現在その地は更地となっており道標は見当たらなかった(多分ここが当該三差路とは思うのだが?)。




道連橋・徳右衛門道標
三差路を右に折れ須賀川に架かる道連橋の袂に徳衛門道標がある。摩耗して読めないが、「これよりいなりへ二里」と刻まれるようだ。「いなり」とは四十一番札所・龍光寺のことである。
遍路道は須賀川左岸を進み、予讃線の踏切を渡り八幡橋に出る。
昔の海岸線
江戸期の地図を見ると、辿った遍路道は海岸線に沿って進んでいるように思える。道の左手は埋め立て前は一面の海であったのだろう。昔の遍路道によって埋め立て前の地形が「見えて」、ちょっと嬉しい。

八幡橋
遍路道は八幡橋を渡り予讃線に沿って北へと進むのだが、この橋は遍路道バリエーションルートの合流点でもある。





バリエーションルート
上述遍路道は予讃線高架手前で左に曲がり道連橋袂経由で八幡橋に出たが、遍路道案内は右を示し予讃線の高架を潜るように案内する。その案内に従い進むと道は二手に分かれる。右手は旧国道320号で広見へと続き、左手は三間へと続く。
分岐点には明治16年(1883)建立の道標がある。摩耗して素人には読めないが「右等妙寺、左遍路道」と刻まれる、と。「えひめの記憶」には「等妙寺とは、北宇和郡広見町芝にある奈良山等妙寺のことである。幾つかの道標に刻字があることから、この寺への参詣者が多かったことがうかがえる。
江戸末期に日本中を旅した松浦武四郎は、『四國遍路道中雑誌』で、「下村此邊りより右の山二奈良山是心院等妙寺と云寺有。本尊は如意輪かんおん。後醍醐帝の勅願所也。日本四ヶ所之戒壇也。昔は此上に有しが炎上し、後山の下に再建有しとかや。是より直二いなり二行ニも又よろし。下村を越而」と記しており、等妙寺に詣でてから稲荷社に行く遍路もいたようである」とある。

伊吹八幡
八幡橋の由来でもあり、どのような社かちょっと立ち寄り。広い境内、長い参道と広い敷地にポツンと社殿が佇む。案内をまとめると、祭神は八幡社の常の如く応神天皇。九州の宇佐八幡から勧請も定石通り。和銅5年(712)初めて祭祀が行われたとされ、源義経が伊予守補任のとき社殿を造営し、家臣鈴木重家に命じて庭二本の伊吹木植えさせた。これが国指定天然記念物「いぶき」である。
天正15年(15587)には暴君であったとも呼ばれる戸田民部少輔入国に際し宇和郡の鎮守と定める。慶長12年(1607)領主藤堂高虎社殿再興。元和元年(1615)伊達秀宗入部後は伊達家の祈願所となった。
社宝は嘉元三年(1305)の銘のある「舞楽面」。領主藤堂高虎奉納の絵馬「牛若丸と弁慶の五条の橋」と「松に鷹」、伊達秀宗の奉納の太刀。薙刀などがあるとし、また元文3年(1736)八幡神社神主渡邊豊後守源清綱編の神楽本により「伊予神楽」の古き歴史が裏打ちされ、国の重要無形文化財に指定された」とあった。
いぶき二株は拝殿前にあり、いずれも目の高さの胴回り5メートル程、高さ21メートル、枝張り平方メートル、樹齢約800年と推定される日本の代表的巨木であり国指定天然記念物となっている。ビャクシンとも呼ばれるようだ。
メモの段階でわかったことだが、多くの遍路もこの社に立ち寄っており、「えひめの記憶」には「澄禅も『四国遍路日記』で、「十五日、宿ヲ出テ戌亥ノ方へ往、八幡宮二詣フデ、夫ヨリ猶戌亥ノ方エ往テ坂ヲ越テ稲荷ノ社二至ル」と記してある。
県道57号に入る
元の道に戻り北に進む。予讃線北宇和島駅で別れた予土線に沿って進みを光満川を渡ると県道57号に入る。ここからしばらく予讃線を右手に見ながら、光満川の右岸を源流点の谷筋に向かって車道を進むことになる。この道筋を吉野街道と呼ぶようである。
吉野街道
予土線を土佐へと進むと、三間町を抜け出目、松丸とすすむと吉野という町がある。南予地方唯一の穀倉地帯である現三間町及び山村の物資の集散地である現松野町松丸、同吉野などと宇和島を結ぶ道であったのだろう。

清水大師堂の徳衛門道標
光満川の谷筋を江の組、日の組、中組と越え県道から分かれる旧道に入り、再び県道に出た先、県道左手の小高い場所に清水大師堂が建つ。
「えひめの記憶」には、「『四国遍礼名所図会』には、「清水大師堂右手に有り、庵 清水大師の傍二あり」と記載されている。大師伝説の伝わるこのお堂は幾度か建立場所を変えているようである。位置関係から間尺に合わない「右手」はお堂が移された故のことだろう。
地元の人の話によると、大正3年(1914)に宇和島から広見町近永間に現JR予土線の前身である軽便鉄道が開業する以前には、かつての吉野街道は、現在の鉄道軌道よりさらに山寄りを通っていたという。その街道沿いに、現在簡易水道の水源地となっている湧水地(ゆうすいち)があり、その側には大師堂があったという。地元では、今までにいかなる干ばつでも水が枯れたことがないこの清水を、「大師水」と呼んで大切に保守しており、毎年8月7日には「水祭り」を行っている」とあり。
徳右衛門道標
お堂の手前には徳右衛門道標が立つ。「是よりいなりへ一里二丁」と刻まれる。
軽便鉄道
明治27年(1894)、有志が宇和島から八幡・高光を経て吉野に至る軽便鉄道の出願。山間の産物を宇和島の市場に送り、これを船便にて各地に輸送する目的であったが、資金が集まらず日露戦争の影響もあり頓挫。
次いで明治43年(1910)、宇和島軽便鉄道として出願。宇和海に臨む宇和島と四万十川上流域を結ぶ鉄道を目した。大正元年(1912)着工、大正3年(1914)宇和島~近永間17.4㎞が開通。さらに大正12年(1923)、近永より延長され吉野までの7.8㎞が開通した。
宇和島鉄道創立の目的は、四国循環鉄道建設の前進基地であったが、国鉄予讃本線が南予に延長するのに伴い、長浜以南の予定線が具体化し、宇和島鉄道は昭和8年(1933)国に買収される。宇和島~近永間の鉄道開設以来、18年の歳月を経てその使命を終えた。

新屋敷の茂兵衛道標
清水大師堂から光満川の谷筋を進みむと新屋敷に茂兵衛道標が立つ。手印で遍路道は指すが、札所の名は刻まれていないようだ。
光満
「みつま」と読む。光満は結構珍しい地名と言う。姓にもほどんど見当たらない、と。由来は?光満では検索にヒットしない。と、峠を越えたお隣が三間。「みつま」と読めないこともない。「みつま」は湿地の意の「みつ(水津)」と狭い場所を表す「間(ま)」の意もある。
清水大師のところで遊水地云々の話もあった。「湿地」のイメージを除くべくポジティブな語感を表す「光満」を乗せたのだろか?単なる妄想。根拠なし。

窓の峠(まどのとう)
ゆるやかな勾配の道を進むと予土線は、窓の峠を抜けるトンネルに入る。遍路道はトンネルに入る箇所の道左手にある「旧遍路道 多福院から第四十一番龍光寺」と書かれた木標箇所から土径に入る。手印と共に「四十一番」と刻まれた道標も立つ。
土径を少し進むと切り通しがあり、そこを抜けると前面に三間の町が見下ろせる。「窓の峠」とは言い得て妙である。峠は、宇和海(宇和島側)と、四万十川水系の三間川との分水嶺となっている。
七度栗大師堂
切通しを越えて少し右に廻りこんだところにお堂があり、「務清山 多福院」とある。お堂の周りには数体の石仏が並ぶ。このお堂が「七度栗大師堂」と称されるようだ。
「えひめの記憶」には、「『四国遍礼名所図会』に、「山路ゆく、窓峠坂、庵 峠二有リ、大師を安置ス、七度栗大師加治遊て壱年二七度実る栗也、茶屋二て支度。」と記されているように、現在も峠には大師堂があり、「七度栗」の大師伝説も伝わっている」とあり、続けて松浦武四郎もまた次のように記している(私注;『四国遍路道中雑誌 三巻』)、とする。
「窓峠と云なり。少し過て下りぎわに、務清山常善坊と云。又此寺を七度栗の庵とも云へり。本尊地蔵菩薩。此寺より七度栗と云ものを出す。其實椎の實の位也。土俗の云るにむかし大師順行の時、子供栗を取りいたる時其栗を無心し給ひしかば、童子ども早々是を奉りしと。其時是より此栗を一年二七度ならし遣ハすぞと云給ひしかば、其よりし志(て)一年二七度ヅヽなりしとかや。此寺のうら皆其栗斗也。其木の高さ凡四尺より五尺位也」とする。
松浦武四郎
江戸末期から明治にかけての探検家。蝦夷を六度も踏査し北海道の名付け親とも言われる。お伊勢詣りで賑わう松阪の生まれ故か、16歳で東海道を江戸に向かい中山道を戻ってきている。17歳で再び旅立ち、北は陸奥から南は薩摩まで辿る。四国遍路の旅は18歳のとき。その時の旅の記録を『四国遍路道中雑誌 三巻』に著す。
七度栗
空海と栗の逸話は、先日東予の遍路道を歩いたたとき、四国中央市の三度栗大師堂で出合った。
三十七番札所・岩本寺や、四国霊場以外にも静岡などにも空海ゆかりの三度栗伝説が残るようである。

務田橋
窓の峠からの遍路道は、「峠に切通しができて吉野街道(現在の県道57号)が通じる以前は、切通しの手前から左折して山中に入って大師堂に至り、そこから下山して務田橋を渡って北進し、利近池(としちかいけ)の手前で右折してJA成妙(なるたえ)支所横に立つ道標を経て龍光寺に向かっていたという(えひめの記憶)」とある。
案内に従い峠からの緩やかな道を下り、三間川に架かる務田橋を渡る。
●遍路道のバリエーションルート
「吉野街道が通じ、また軽便鉄道の開業にともなって務田駅ができると、遍路道はJR予土線務田駅の手前で渡瀬橋を渡り、一直線に北に600mほど田園地帯の道を進んで、三間中学校前を通る県道広見吉田線(283号)に突き当たって左折し、JA成妙支所前で以前の遍路道に合流するようになった。そのため、地元の人が渡瀬橋の手前に道標を建て道案内している(愛媛の記憶)」

三間川
三間川は広見川、さらには四万十川と合流し太平洋に注ぐ。三間盆地は古くから開けていたものとされるが、三間川は古来、蛇行が著しく洪水によく見舞われた。務田は「無田」から名が付いたものともいわれており、かつては一面湿田が広がっていたことを表している(Wikipedia)。
三間町
宇和島市三間町は市の北東部に位置し、周囲を山に囲まれた標高150m前後の盆地に「三間米」で有名な南予有数の稲作地帯が広がっている。昭和29年(1954年)成妙(なるたえ)村、三間村、二名(ふたな)村の3村が合併し北宇和郡三間町が誕生。平成17年(2005年)には宇和島と合併し、宇和島市三間町となった。

JAえひめ南成妙(なるたえ)横の道標
務田橋を渡り田圃の中の道を北に進みT字路を右折、しばらく進むとJAえひめ南成妙がある。遍路道はそこを左折し北に向かうが、その角に「四圀第四十一番龍光寺」の石柱と並んで自然石の道標がある。手印と共に「へんろの」の文字が読める。





三叉路に道標
北に進み、利近池方面からの道が合わさる三差路に自然石の道標。摩耗はしているが手印と共に「へんろ」の文字は読める。道を直進し道端の地蔵を見遣りながら道を進むと龍光寺の参道に至る。


四十一番札所・龍光寺
鳥居
参道入口に鳥居が建つ。創建の頃より「三間の稲荷」として神仏習合の札所として信仰された名残である。「えひめの記憶」には「かつて寺が稲荷社と呼ばれ、稲荷信仰にかかわる神社であったことの証(あかし)を示している。稲荷信仰は、もともと稲の精霊が宗教的に高められ成立したものとされるが、三間米として知られる米どころにふさわしい伝承と言えよう。稲荷社の名前の由来については、寂本が、『四国徧礼霊場記』に「其稲をになへるが故に稲荷と号す。」と記している」とある。
茂兵衛道標
鳥居前に茂兵衛道標が立ち、「い奈り 奥の院」といった文字が刻まれる。道標、鳥居を見遣り参道に入る。駐車場への道を兼ねた狭い参道入口には一軒の店が見える。「えひめの記憶」には「明治期の稲荷社付近の状況については、『成妙村誌』に、(稲荷神社付近二四国遍路ヲ宿スベキ木賃宿飲食店等合セテ八戸」)」と紹介されている。






徳右衛門道標
本堂への石段途中に徳右衛門道標が立つ。「四十一番 稲荷山」「従是佛木寺 二五■」といった文字が刻まれる










本堂・大師堂
本堂、大師堂にお参り。由緒には大同2年(807)京都の稲荷社を宇和郡戸雁村にお迎えしたとあった。境内から三間の穀倉地帯が見渡せる。




稲荷神社
本堂・大師堂の一段上には稲荷神社が祀られる。その傍には更に古い趣の広田神社が立っていた。

ついでのことながら、そもそもお稲荷さんとは?それとなぜ狐?お稲荷さんは五穀豊穣を祝う神様。稲荷=いなり=稲生り、ということだ。で、狐。本来五穀をつかさどる「稲荷」の神、倉稲魂神(ウカノミタマノカミ)、その別名、タウメミケツに狐の古名が「ケツ」であることから、専女三狐(たうめみけつ)神と当て字をしたことが事の発端との説、穀物を食べる野ネズミを狐が食べてくれるので、狐を穀物の守り神と考え、そこから結び付いた、という説などいくつかあるようだ。もともと民間には「田の神およびその使女(ツカワシメ)を狐とする」信仰があったことがそのベース、かも。
稲荷信仰は8世紀初旬の和同年間、渡来人秦氏の遠祖が祀ったことがその始まり、と。もともとは農耕神であった稲荷の神は真言密教では白狐に跨るダキニ天と「きつね」つながりで同一視され、稲荷明神=狐の関係が確立したとも言う。
江戸末期には農耕神だけでなく開運、商売繁盛の祈願対象ともなり、屋敷神として祀られた。主祭神として祀る社が3000弱、境内社・合祀などすべての分祀社32000社と言われ、神社の数では八幡神社を抜き第一位となっている。

宇和島市街を抜け窓の峠を越え、といっても、峠と言えるほどのものでもなかったが、それはともあれ、宇和海に注ぐ水系と四万十川水系の分水界となる窓の峠を越え四十一番札所・龍光寺まで辿った。
本日はここでお終い。次回は四十一番札所・龍光寺から四十二番札所・仏木寺を打ち、名前に惹かれる歯長峠を越えて四十三番札所・明石寺へと進む。



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