木曜日, 4月 04, 2024

愛媛 ふるさとの山:大永山の石鎚蔵王権現と六地蔵

故郷の新居浜市の西の西条市から東の四国中央市まで55キロにわたって四国山地が屏風のように東西に連なり平地との境を画す。中央構造線断層帯ゆえの山容でもある。四国山地の北端部がストンと平地に落ちているといった感がある。
田舎の家はこの四国山地北端部の山裾にある。住所もその名の通り「山根」。山の根っこである。家を出れば数分で山入りすることができるといった山好きには結構いいロケーションだ。
が、古道や遺構を辿る途次、峠越えをするため仕方なく山を上る以外、所謂登山をすることがほとんどない私は、ふるさとの山にしても山深くに残る別子銅山の遺構などは幾度となく訪れたのだが、家の直ぐ裏から上れるアクセス抜群の山に上ってみようと想うことはなかった。
そんな私だが、過日家の裏にある山の稜線を2時間ほど辿ると石鎚蔵王大権現と六地蔵が山中に佇むとの話を聞いた。何故そんな山中に?となれば話は違う。いままで考えたこともなかった「家の裏のふるさとの山」に取りつくことにした。

 ホ本日のルート:
内宮神社から大永山の石鎚蔵王権現・六地蔵へ
内宮神社の大鳥居を潜り参道石段を上る>参道は別子銅山下部鉄道線路跡をクロスし更に上に>山根収銅所>合祀社の小祠が並ぶ>強足神の脇から送電線鉄塔巡視路に入る>鉄塔巡視路標識・物部線No.184>道の合流点に鉄塔巡視路標識・物部線NO.183,184>住友共同電力物部線183号鉄塔>物部線183号鉄塔から184号鉄塔へ>分岐を右に入る>踏まれた道に出る>住友共同電力物部線184号鉄塔>物部線184号鉄塔からシダの藪漕ぎで尾根筋に入る>三等三角点「大永山」(495.8m)>住友共同電力西条連絡東線19号鉄塔>立川への分岐点に鉄塔巡視路標識>辻ヶ峰・大永部落分岐点>分岐点を辻ヶ峰へのルートに入ると直ぐ石仏>六地蔵の祠>石鎚蔵王大権現
石鎚蔵王権現・六地蔵から端出場に向けて下山
鉄塔巡視路標識・高藪西線NO.59>沢筋を越えると中屋敷・竹屋敷への標識>鉄塔巡視路標識の先に竹の藪>荒れた沢の先に鉄塔巡視路標識>地蔵堂と四国電力鉄塔巡視路標識>鹿森社宅跡方面への分岐点>分岐点から石段を下る>広い石段が現れる>鹿森の石碑>貯水タンクと送電線鉄塔>鹿森索道終点の標識:>貯鉱庫上の軌道跡のトンネル>貯鉱庫跡>端出場に下山
下部鉄道軌道跡を内宮神社まで
下部鉄道路線跡を歩きはじじめる>坑水路支柱と檜尾川橋>坑水路支柱が続く>索道黒石停車場>車屋トンネルと牛車道>物言嶽(ものえだけ)トンネル>>エントツ山が見える>切通を抜けると出発点が見える>内宮神社参道に戻る



内宮神社から大永山の石鎚蔵王権現・六地蔵へ

内宮神社と送電線鉄塔
国領川右岸より見たアプローチ点の内宮神社と、支尾根より大永山への尾根筋取り付きの目安となる鉄塔。国領川を隔てた山裾に内宮神社の大鳥居。
写真中央のピーク直ぐ下にある送電線鉄塔(住友共同電力送電線183号鉄塔)が尾根筋取りつき地点の目安。
国領川は西条市にある聖武天皇の神亀4年(727)の建立とされる古刹保国寺の領であったことがその名の由来といった話を聞いたことがある。

内宮神社の大鳥居を潜り参道石段を上る:午前9時41分
太鼓台の宮入り

田舎の家を出ると数分で内宮神社の鳥居に着く。鳥居からの参道の石段は石段の間の幅が広く傾斜も緩やかになっている。これは毎年10月16日から18日まで行われる「新居浜太鼓祭り」の初日。16日の早朝午前4時からスタートする新居浜市上部地区の4台の太鼓台の宮入りのため、舁き上げやすくするため整備されたもの。重さ3トン近くある太鼓台を150名ほどの舁き夫が石段を本殿まで舁き上げるのだが、昔自分も舁き夫として舁き棒に肩を入れ本殿まで上っていたのだが、確かに足元の石段の幅が狭く舁き上げにくかった思いがある。
それにしても、昔は石段舁き上げの宮入りなどなかった。いつ誰が「舁き上げよう」と発案したのだろう。
●内宮神社
由緒:当社は内宮天照皇大神宮と申し、今を去る千三百年の昔 慶雲三年八月伊勢国五十鈴川の川上から日本民族の大祖神 天照大神を勧請古来新居地方に在りて 西の伊曽乃(私注:西条市に鎮座) 東の内宮と並び称せらる。
Wikipediaには「天正年間、豊臣秀吉の四国攻めに巻き込まれて荒廃し、一時期は土佐に設けた仮殿に遷座した。1614年(慶長19年)、もとの社地に社殿を再興したが、周辺に人家が増加したことから、再び1698年(元禄11年)に遷座し、現在に至る」とあった。

参道は別子銅山下部鉄道線路跡をクロスし更に上に:午前9時43分
参道石段とクロスする下部鉄道軌道跡

参道石段は別子鉱山下部鉄道線路跡とクロスする。下部鉄道は明治26年(1893)に、現在は「みちの駅マイントピア」となっている端出場から新居浜の港近くの惣開までの開かれた。同年銅山峰北嶺の角石原(海抜1100m)から石ヶ山丈(海抜850m)まで上部鉄道が開通し、銅山峰の南嶺、旧別子で採掘された銅の鉱石を角石原まで運び、上部鉄道で石ヶ山丈まで運搬。そこからから索道で端出場に下した鉱石を運んだ。
明治35年(1902)には銅山峰の南嶺と北嶺を穿つ第三通洞が完成。北嶺の東平(とおなる)へと鉱石が運び出せることが可能となった。これに合わせ、明治38年(1905)には東平から黒石に鉱石を索道で下した。これにより上部鉄道は明治44年(1911)その使命を終える。
大正4年(1915)第四通洞が完成。明治43年(1910)から開始された工事は並行して第三通洞と第四通洞を繋ぐ立坑の工事も開始しており、この第四通洞の完成により鉱石は端出場への搬出が可能となった。これにより鉱石は端出場から下部鉄道により惣開まで運ばれるようになる。
その後大正5年(1916)、採鉱本部を南嶺の東延から北嶺の東平に移し、さらには昭和5年(1930)採鉱本部を東平からここ端出場に移した。また、昭和10年(1935)には東平から端出場に索道を繋げた。
この下部鉄道は鉱石の運搬だけでなく市内にある社宅に住む鉱夫や職員の通勤、また昭和4年(1929)から昭和30年(1955)までは一般旅客営業も行っていた。一度運転席に乗せてもらった時の嬉しさは今でもよく覚えている。
このように鉱石だけでなく人の運搬の大動脈として働いた下部鉄道も、昭和48年(1975)の銅山閉山後も運行し、昭和50年(1977)廃止となった(昭和52年廃止の記述もある)。

山根収銅所:午前9時43分
坑水路(右)は参道を潜り収銅所へ
山根収銅所
下部鉄道線路跡クロス部より石段を上ると、右下に山根収銅所が下部鉄道線路跡に沿って見える。ここは下部鉄道線路脇を暗渠となって流れてきた坑内排水を処理するための施設。明治38年(1905)に建設された。
ジグザグの構造の水路は狭い範囲で長い距離を稼ぐ工夫。その水路に鉄のスクラップを入れ銅成分を付着させ銅の成分を取り除く。坑内排水は、ジグザク水路の上端から下端まで2~5時間程度かけて浄化するとのこと。
端出場に第四通洞が完成して以降、別子銅山内の坑内排水は、全て第四通洞に集約され端出場に集められた。別子銅山は昭和48年(1975)に閉山となったが、坑水路は、現在でも第四通洞から山根収銅所まで約3.4キロメートル、さらにこの山根収銅所で浄化された後再び暗渠の坑水路を磯浦まで約6.4キロメートル、総延長約10キロメートルほど流れている。
子供の頃は現在のように完全に暗渠となっていなかったため、坑内排水とは知らず坑水路に入り込み「ウォータースライダー」を楽しんでいた。坑内排水を結構飲んだことだろう。また施設は「沈殿所」と呼んでいた。
因みに、開坑当時の坑内排水の水素イオン濃度は、第四通洞口ではpH3.2~3.3とレモン汁の少し強いくらいの酸性であり石灰を入れて中和処理もしていたようだが、現在では、普通の水と同じくらいの値となっているとのこと(besshi.net参照)。

合祀社の小祠が並ぶ:午前9時46分
このステップを上ると
一段高いところに合祀社が並ぶ
石段を上ると、大鳥居の少し南にある一の鳥居、二の鳥居、厄除け石段から来る参道とみぎ合流する。そこを左に折れると山側、一段高いところにに幾つもの小さな石や木造りの祠が見える。舗装されたアプローチを上ると総若宮、八幡神社などの小さな社、山神宮と刻まれ注連縄のはられた石などの合祀社が並ぶ。

強足神の脇から送電線鉄塔巡視路に入る:午前9時46分
右端の「強足神」小祠から山入り
直ぐ先に鉄塔巡視路標識
合祀社群の最右端に「牛馬社 強足神」と刻まれた石碑をもつ小さな社があり、その右手から踏まれた感のある道が続く。そこが鉄塔巡視路の入口であろうと歩を進める。直ぐ「住友共同電力」と記さえ巡視路標識。その先、しっかり踏まれた道が続く。

鉄塔巡視路標識・物部線No.184:午前9時58分
しっかりした踏み跡を上ると
鉄塔巡視路標識がある
道は南に向かい尾根筋へと向かって行く。植林された森の中を10分強歩き高度を70mほど上げると鉄塔巡視路標識がある。「住友共同電力 物部線184」とあり上りを指すマークが記される。
●住友共同電力 物部線
住友共同電力 物部線って何処から何処に?送電線をトレースすると高知県香美市物部町押谷の住友共同電力仙頭発電所(最大7,100kW・常時出力:1100kW:昭和32年(1957)7月運用開始)、仙頭発電所より物部川を上流に進んだところに川口発電所(最大7,100kW・1400kW:昭和32年(1957)11月運用開始)、さらに笹川を上流に上った高知県香美市物部中上に住友共同電力五王堂発電所(最大12,200kW・常時出力:2300kW;昭和35(1960)7月運用開始)と繫がった。
あれこれチェックすると物部線の要は仙頭発電所のよう。3発電所で作り出された電気は仙頭発電所に集められ、11万ボルトに電圧を上げた後、全長70kmの送電線を使い、四国山脈を縦断して新居浜市の海岸近く、住友に企業群が並ぶ西の谷変電所まで送られるようだ。

道の合流点に鉄塔巡視路標識・物部線NO.183,184:午前10時24分
よく踏まれた支尾根稜線を上ると
再び鉄塔巡視路標識
尾根筋に入り、よく踏まれた快適な道を30分弱、高度を130mほど上げると再び鉄塔巡視路がある。住友共同電力「物部線184」「物部線183」と記され共に同じ方向を示す。
この標識のところに右から道が合流する。鉄塔巡視路のアプローチとして、古刹瑞応寺の奥の院である金比羅宮の東横にある梵鐘脇からも上る道があるとの。その道かも知れない。

住友共同電力物部線183号鉄塔:午前10時30分
住友共同電力物部線183号鉄塔
エントツ山への稜線が眼下に
すぐ先に住友共同電力送電線183号鉄塔が立つ。内宮神社の大鳥居の前を流れる国領川対岸の生子山、通称エントツ山から犬返しを経て西赤石山(標高1825m)に続く稜線が眼下に見える。常は見上げるだけではあるのでちょっと新鮮。
エントツ山の所以は、明治28年(1888)に完成した湿式精錬所のエントツが山頂に立つゆえ。

物部線183号鉄塔から184号鉄塔へ
西の尾根筋に物部線184号鉄塔が見える
鉄塔巡視路脇から踏まれた道が上に続く
一筋西の尾根に住友共同電力送電線物部線184号鉄塔が見える。尾根筋への取りつき口はこの184号鉄塔。尾根筋を移らなければならない。183号鉄塔そばに巡視路標識があり、そこから踏まれた道が上に続く。

分岐を右に入る
部線183号鉄塔の先に新居浜の市街が一望
分岐点。道の水平道をとるが

道を進み振り返ると住友共同電力送電線物部線183号鉄塔の先に新居浜の市街が一望。その少し先で道が二つに分かれる。左に上る道と右に進む道。どちらも同じ程度に踏まれている。

道は谷筋に下りる
右上、木々の間に見える鉄塔に向け這い上がる
結局右の道をとったのだがすぐ下り道となり途中で道が切れる。等高線が南に切り込んだ尾根と尾根の間の谷筋に下りる。リボンが巻かれた木が2つあるがオンコースとは思えない。左上に見える184号鉄塔に向かって這い上がる。

踏まれた道に出る
這い上がると踏まれた道。右に鉄塔が見える
這い上がると踏まれた道に出た。左手には住友共同電力送電線物部線184号鉄塔も見える。これがオンコース?確認のため少し戻るがその先で道がぼやける。そこで引き返すことにした。なんとなくこのルートが分岐点を左に上った道と繋がりそうにも思うのだが確証はない。 とちらにしても物部線183号と184号を隔てる尾根筋の間隔はそれほど長くない。物部線184号を目安に進めばどちらを進んでもよさそうにも思える。

住友共同電力物部線184号鉄塔:午前10時57分
物部線184号鉄塔から里を見る。右手に物部線183号鉄塔。一筋東の稜線先端部にエントツ山のエントツも見える。
送電線はエントツ山から西赤石に続く稜線の、生子山(しょうじやま)城跡のある300.5mピーク傍の鉄塔に繋がり東に向かう。
生子(しょうじ)の由来は所説あるが、景行天皇の子孫でこのちを治めた意伊古乃別君(おいこのわけきみ)の居たところを音読みで生子(おいこ)、生子山(おいこやま)>生木山(しょじやま)といった記載もある。

物部線184号鉄塔からシダの藪漕ぎで尾根筋に入る:午前11時15分
20mほどシダの藪漕ぎをすると
微かに踏み跡の残るルートに出た
物部線184号鉄塔から尾根筋に入るのだが、鉄塔と尾根筋の樹林帯の間にはシダが茂る。どこから入っても同じようなのだが、鉄塔の南傍にある鉄塔巡視路標識(「183下り」の指示)辺りから入り込む。入り口の立木は伐採されているのだが、これが行く手を遮りちょっと厄介。その先顔まで埋まりそうなシダを藪漕ぎ。20mほどではあるが結構キツイ。藪を抜けると運よく踏まれた道筋に出た。

三等三角点「大永山」(495.8m):午後12時3分
三等三角点「大永山」(495.8m)
その先広く快適な尾根筋の道を進むと

尾根筋を外さないように尾根筋を進む。道はよく踏まれており快適。時に木に巻かれたテープもあり安心して進める。45分ほど歩き高度を200m上げるとルート上に三等三角点「大永山」495.8m。樹林に囲まれ見晴らしはよくない。

住友共同電力西条連絡東線19号鉄塔:午後12時12分
三角点の先、道は切れる。テープを目安に進み
西条連絡東線19号鉄塔に
大永山三角点から先、明瞭な踏み跡はない。三角点の直ぐ南にある送電線鉄塔を目安に進む。途中木に巻かれたテープなどを頼りに送電線鉄塔に着く。鉄塔手前は少し藪っぽくなっているが、その先に見える鉄塔に向かって進む。
鉄塔の標識は見当たらず、後でわかったのだがこの鉄塔は住友共同電力西条連絡東線19号鉄塔だった。 東にはエントツ山から稜線を進んだ犬返しのある尾根の先に西赤石の稜線が連なる。
●住友共同電力西条連絡東線
送電線をトレースすると東は西条市飯岡の電源開発送変電ネットワーク(株)内の伊予開閉所につながっている。そこから東に進み当地を経て国領川に渡り、松山道新居浜IC南で方角を北に向け、国領川右岸に沿って下り海岸近くの新高橋の海側で国領川左岸そばにある住友共同電力新須賀変電所と繋がっていた。
●開閉所
送電系統の接続・開放のみを行っているのが開閉所。遮断機、断路器、計器用変成器の設備を備える。そのためだろうか、この開閉所には六系統の送電線網が接続している。
遮断機は送電の停止や電気の切り替えを行う。落雷による事故が発生した場合、遮断器で送電を停止させ、当該区間の送電線を電気系統から切り離す。断路器は、電路の開閉を行う装置。送電線や遮断器などの保守点検を実施する際は、断路器で電路の切り離しを行い点検作業を行う。計器用変成器は計器(計測・測定する機器類)で電気系統の電圧・電流を測定するため、低電圧・小電流を小電圧・低電流に変換する。尚、各変電所にもこれらの設備は備わっている。

立川への分岐点に鉄塔巡視路標識;午後12時17分
鉄塔南に踏まれた下り道
鉄塔巡視路標識の先に「立川町」の標識
西条連絡東線19号鉄塔の南側には踏まれた道が下る。国土地理院地図に記されるルートの少し手前に鉄塔巡視路標識があり、左方向への矢印と共に「住友共同電力」「西連東線路NO.19」、右方向への矢印と共に「西連東線NO.20」と記される。西連東線とは西条連絡東線のこと。左19とあるため、先ほどの送電線鉄塔が住友共同電力西条連絡東線19号鉄塔だとわかったわけだ。
巡視路の少し右に「立川町」と記された標識と踏まれた道が先に続く。ここは立川への分岐点。この辺りの道はよく踏まれているが、途中で道が切れ、結構険しい下りとなっているようだ。

辻ヶ峰・大永部落分岐点:午後12時20分
辻ヶ峰・大永部落分岐点標識
2系統の送電線網の鉄塔巡視路を指す標識
その直ぐ先、国土地理院地図に記されたルートに出る。心持ち鞍部となっているよう。そこは「辻ヶ峰 大久保」、「大永*落」の標識がある。辻ヶ峰と大永集落への分岐点なっている。
また巡視路標識も立ち、北を指す矢印と共に「西連東線NO.19」、南を指す矢印とともに「高藪西線NO.60」と記される。
●高藪西線
送電線図をチェックすると高藪西線は土佐郡大川村の住友共同電力高藪発電所(最大出量14300kW・常時出力3200kW:昭和5(1930)年10月)と新居浜市磯浦の西の谷変電所を繋いでいる。
高藪西線は磯浦変電所から「みちの駅マイントピア」にある端出場開閉所まで続く端出場線、端出場開閉所から高藪発電所まで続く高藪東線の2系統の送電線が、端出場開閉所への分岐以外は同じ送電線網で伸びているようだ。

分岐点を辻ヶ峰へのルートに入ると直ぐ石仏:午後12時30分
分岐点を国土地理院地図に記された辻ヶ峰方面へのルートを進むと直ぐ、道の右手に石仏が佇む。
●辻ヶ峰ルート
国土地理院地図に記されたルートは北に進むと辻ヶ峰(標高958m)に続く。


六地蔵の祠:午後12時31分
石仏手前を右に、辻ヶ峰へのルートを逸れ少しはいったところに六地蔵の祠が建つ。本日の目標地に到着。上りはじめて2時間50分ほど建っていた。痛めた膝を庇いつつとは言い乍ら、時間が掛かりすぎ。想定の倍以上時間が過ぎていた。
六地蔵の祠は両側に常夜燈、三方はしっかりとした石組で囲まれており、中には6体の地蔵尊が佇んでいた。『角野の地名といわれ:角野の民話と伝説掘り起こし実行委員会』には、この六地蔵は瑞応寺5代住職月庭和尚が建立したとする。瑞応寺中興の祖月庭和尚の入寂は1729年と言うから、元禄か享保の時代に建立されたのかも知れない。
月庭和尚に関しては「月庭和尚の法力」という話が残る(『新居浜のむかしばなし:新居浜市教育御委員会』)。ある日の夜中、瀬戸内を隔てた尾道のお寺が燃えていると和尚が修行僧を起こす。修行僧とともに瑞応寺の池の水を尾道に向けて懸命に投げかけた。
数日後尾道の天寧寺より使者がお礼に訪れる。訝った修行僧が子細を尋ねると、「伊予東角野村瑞応寺の大幟とともに、滝のような水が降り注ぎ寺は全焼を免れた」と。いつもながら昔の人の想像力ってスゴイ。
またもうひとつこの六地蔵にまつわる伝説が同書に記される。昔この地にはお堂があり庵主さんが住んでいた。ある晩読経をしていると物の怪の気配を感じ振り向くと美しい娘がいた。その娘はゲラゲラ笑い読経の邪魔をする。この娘は人をたぶらかす山女郎と思い、庵主さんは立ち去るように促すが一向に言うことを聞くことなく相変わらず供養の邪魔をする。
我慢できなくなった庵主さんはお教で山女郎を打ちすえようとするがうまくかわされ大怪我をおって亡くなったしまった。そんなこともあってお堂は竹屋敷へと移した(注;竹屋敷は後述)。これも伝説によくある、何をいわんとするのかよくわからない話のひとつではある。

石鎚蔵王大権現:午後12時33分
六地蔵を少し奥に入ったところに石鎚蔵王大権像が建つ(表記が「石鎚」でいいのかどうかわからないが)。印象的な姿に特段の信仰心もないのだが、手を合せ、あまつさえ般若心経と観音教を唱えてしまった(修験道にこのお教がふさわしいとはとてもおもえないのだが)。






正面台座には「笹峰石鎚神社」
台座左側には「ニイハマ 石工 竹原
像の台座をチェックする。正面台座には「笹峰石鎚神社」「日乃下教奥ノ院」「大永六地蔵山」「清身権現」。台座左側には「ニイハマ 石工 竹原」、裏側には「昭和八年六月建立」「新居郡中萩村大字大永山」「施主瀧本今太郎」、水鉢には石鎚神社の「石」の印。
この石鎚蔵王権現像は昭和になって建立されたもの。結構新しい。それとともに、昭和8年頃まではこのルートを歩く石鎚信仰の人がいたということがわかる。
水鉢には石鎚神社の「石」の印
裏側には「昭和八年六月建立」

更に、気になったのは「笹峰石鎚神社」の文字。石鎚神の初出は平安初期の『日本霊異記』。現在では石鎚信仰と言えば四国最高峰の石鎚山を指すが、古来石土信仰は笹ヶ峯、瓶ヶ森、そして石鎚山の三山を山岳信仰の霊地として修験の行が行われていた。空海も瓶ヶ森の天河寺を根本道場として石鎚山を遥拝していたとも言う。
その後笹ヶ峰の信仰が衰退、そして室町期には兵火で天河寺が焼失するにおよび、石鎚山の前神寺が勢いを得て、鎌倉期以降は現在の石鎚山(標高1982m)を中心とした地が石鎚信仰の中心地となったとのこと。
実際「石土」という地名も笹ヶ峰や瓶ヶ森を指す名であったようだが、その名を授かり、岩場の多い山容故に「石鎚」としたと「えひめの記憶」にあった。また伝説によれば石鎚権現は元は瓶ヶ森(または笹ヶ峰)に祀られいたのを、西条の西ノ川(石鎚ロープウエイのある辺り)の庄屋が、背負って今の石鎚山に移したともいう。
現在でも、瓶ヶ森には石土蔵王大権現、笹ヶ峰には石鉄蔵王大権現が祀られている。なお新居浜市と西条市の境の大生院の正法寺は笹ヶ峰を石鉄山と称し石鉄蔵王大権現を祀り、お山開きの神事をおこなっていると聞く。
前々から石鎚、石土、石鉄など表記がいくつもあるのがなんでなんだろうなどと思っていたのだが、歴史的経緯を踏まえてのことのようだ。
また、台座正面には誠に小さな石鎚蔵王大権現の焼き物が置かれていた。裏面には 「伊予國」「前神寺」と刻まれる。前神寺は石鎚山の石鎚蔵王大権現信仰の中心。それが笹ヶ峰神社の蔵王台権現に置かれる?どなたか信者が置いていったものだろうか。
●笹ヶ峰・瓶ヶ森へのルート
国土地理院地図に記されるルートを辿り辻ヶ峰に。そこから先地図にルートは記載されていないが稜線を北に進み黒森山(標高1678.5m).。そこから再び国土地理院地図上にルートが記され、南に進み沓掛山(標高1691m)を経て笹ヶ峰(標高1859.6m)に。
そこから先は寒風山、伊予富士、東黒森、西黒森と稜線を辿ると瓶ヶ森。更にはその先石鎚山まで稜線が連なる。

石鎚蔵王権現・六地蔵から端出場に向けて下山

鉄塔巡視路標識・高藪西線NO.59:午後13時2分
大永部落への道。よく踏まrている
鉄塔巡視路標識;高藪西線59号
本日の目的は達成。後は下山ルート。分岐点まで戻り国土地理院地図に記された「大永*落」に入る。 辻ヶ峰分岐点から山腹をトラバースして鹿森を経て端出場に続く。午後12時52分分岐点に戻る。お教を石鎚蔵権現、六地蔵で唱えたいたため結構時間が過ぎていたようだ。
分岐点から先は踏まれた道が続く。10分ほど歩くと「住友共同電力高藪西線NO.59」と書かれた鉄塔巡視路標識。指示方向は左右を示す。

沢筋を越えると中屋敷・竹屋敷への標識:午後13時11分
苔のついた岩の転がる沢を越えると
竹屋敷・中屋敷への標識が木の根っこに


5分ほど歩くと苔のついた岩が転がる沢にあたる(午後13時6分)。沢はそれほど荒れてはなく、沢を越えた先のルートにもなりゆきでのることが出来た。
そこから5分ほど歩くと木の根っこに右上方向を指す「中屋敷」、左方向を指す「竹屋敷」の標識が転がっている。木に括られていたものが外れたのだろうから、その指す方向は正確ではないただろう。 あれこれチェックするとこの標識辺りから山側に少し上ったところに石垣があるようだ。そこが中屋敷なのだろう。

鉄塔巡視路標識の先に竹の藪; 午後13時18分
中屋敷・竹屋敷分岐標識の直ぐ先に鉄塔巡視路標識。「住友共同電力高藪西線NO.59」とある(午後13時13分)。その先竹藪が道を塞ぐ(午後13時18分)。
地図を見ると北西から延びた送電線は、苔の沢筋を越えて南東へと山腹のトラバース道に沿って続いている。

荒れた沢の先に鉄塔巡視路標識:午後13時44分
荒れた沢を越えた先、踏み跡が消える
ルート復帰すると鉄塔巡視路標識
竹藪は直ぐ終わっるが、その先に荒れた沢がある(午後13時21分)。沢を越え運よく踏まれた感のあるルートに乗ったが、その先で道がはっきりしなくなる。進みやすいルートを成り行きで進むがGPSでチェックすると国土地理院地図のルートから外れていた。地図を見ると尾根筋が西に突き出ている。尾根筋の回り込みはルートどりがややこしくなりそうであり、GPSを頼りに国土地理院地図に記されたルートに復帰。その先、東に突き出た尾根の稜線が見え、その手前に鉄塔巡視路標識があった。この標識も「住友共同電力高藪西線NO.59」と記される。

地蔵堂と四国電力鉄塔巡視路標識:午後13時45分
鉄塔巡視路の左にお堂が見える
その手前に四国電力の鉄塔巡視路標識
鉄塔巡視路の先、東に突き出した尾根の平坦部にお堂が見える。その手前に尾根筋を上る道があり、そこに鉄塔巡視路標識が立つ。「四国電力」と記されている。
地図をチェックすると西から進んできた送電線が尾根筋に沿って北東に向かい、国領川を越えて東に進む。
地蔵堂
送電線路線図をチェックすると四国電力西条線19とあり、西は西条市の電源開発開閉所、東は土居(現四国中央市の東予変電所と繋がっていた。
巡視路を上ると四国電力西条線19と住友共同電力高藪線の送電線がクロスし、じぞうどうその西に四国電力西条線19の23号鉄塔が立っている。
一段低い尾根の平坦地に下り、お堂に。右手に1基の常夜燈が立つコンクリー造り。お堂の前の台には昭和四十四年建築の文字が世話人の名前共に刻まれていた。堂内には六地蔵が佇む。

鹿森社宅跡方面への分岐点:午後13時49分
地蔵堂右手の道を下ると
分岐標識
お堂の辺りで国土地理院地図には鹿森方面へと下りる道と南の土の峠方面へ分かれる二つのルートが記されるが、土の峠方面への道がはっきりしない。お堂の南脇を下る道はあるのだが、これが土の峠方面への道であれば鹿森方面への道は?突き出しが尾根突端部から下る道があるのだろうか、などと彷徨うがそれらしき道はない。
分岐標識から下に石の敷かれた道が続く
仕方なくお堂脇の道を下り、成り行きで調整しようと先に進む。と、2分ほどで分岐点に。標識には左を示す矢印と共に「土の峠」、右を示す矢印と共に「山根」「瑞応寺」の文字が記され、中央に竹屋敷の文字、そこから下に向かって石段があった。この石段を下れば鹿森に続きそうな気がする。 メモの段階でチェックすると地蔵堂から土の峠に国土地理院地図のルートを歩く人はあまりいないようで、この分岐点から左に進み、地理院地図のルートに合流し、その先もルートを出入りしながら土の峠へと進むようである。
尚この地が竹屋敷であれば、さきほどのお堂は、前述六地蔵の庵主さんのくだりてメモした竹屋敷に移されたお堂かもしれない。六地蔵のお堂の裏手は突き出た尾根の広い平坦地があり、お堂を建てるスペースは充分にあった。が、単なる妄想。根拠なし。

分岐点から石段を下る:午後13時50分
左右の平坦地にはガスボンベなどが残る
石組の間の道をくだる
石垣の組まれた道を下る。石段はほどなく消えるが道の左右は平坦地となっており、ガスボンベなどが転がっており集落があった名残りが見える。道を下ると石段が消え土径が現れるため鹿森社宅ではないようだ。標高も400m前後あるし、仕事場のある端出場まで250m以上の比高差がある。上り下りが大変だ。
しっかりした石垣の間の道も
ほどなく土径に戻る
それであればこの辺りが大永集落のあったあたりだろうか。なにせ旧大永村は誠に広く、小学校は土の峠のほうにあったとのことであり、どこが大永集落ははっきりしない。先ほど標識のあった中屋敷には滝本家があり、この地方を宰領していた、と言った記事もある。小さな集落が大き永山の中に点在し、その総称が大永集落ということなのだろうか。

広い石段が現れる:午後14時8分
20分弱下り、比高差を90mほど下げると広い石段が組まれ、その左右に高い石垣が見えてくる。石段の左右は平坦な地に削られており、竃や炊事場といった生活跡が残る。このあたりが別子銅山鹿森社宅跡だろう。
鹿森社宅は大正5年(1916)にはじまり、最盛期には約300戸。およそ1400人の人が長屋で性格していたという。昭和45年(1970)に閉鎖されたが、未だ生活の跡が残る。大正4年(1915)には第四通洞が完成。端出場に抗口が出来ており、それもあって大正5年に鉱夫の長屋社宅がつくられたのだろうか。
高い石垣。銅山峰の南に残る旧別子の遺構もそうだが、立派な石組は印象的。

鹿森の石碑:午後14時21分
石垣の上の社宅(「ハーモニカ長屋」などと言われたようだ)跡を散策。社宅は山の斜面に石垣を積んで階段状に建てられた長屋形式の社宅群であり、各戸の平均建坪は五坪から一四坪、ほとんどが二間から三間、タタミ数六枚から一三・五枚程度の住居であった(「えひめの記憶」)ようだ。 
石段を10分ほど石段を下ると石碑があり、「鹿森 大正5年建設 昭和45年3月閉鎖 2000年9月建立」と刻まれる。2000年に有志により建てられたものだろう。
鹿森の地名の由来は「猪(しし)森」より。「しし」とは猪の事。この鹿森社宅のあった場所には古くから大永山の一集落として狩りや農業で生活していた。その頃より猪(しし)の棲む山として猪森(ししもり)と呼ばれていたが、いつの頃からか鹿森となった(「角野の地名といわれ」)。
猪森の由来について「角野の民話と伝説」には「大永山のしし岩」の話がある:立川山の元屋敷(立川の県道47号沿いにある龍河神社の少し下辺り)に住む瀧本さんは大永山に広い山や畑をもっていた。その瀧本の甚右衛門さんは農作物に害を与えるため駆除することはあるものの、猪を可愛がっていた。 ある日山に入ると猪の気配。そっと近づくがじっとして動かない。よく見るとそれは猪に似た岩であった。そしてその岩のあった辺りを猪の森>猪森と呼ぶようになり、猪を供養するため「しし祭り」などもおこなわれるようになった、とあった。「しし岩」は鹿森神社跡にある。
しし岩を見つけたのは上述中屋敷の瀧本さんとの記事三ある。

貯水タンクと送電線鉄塔:午後14時26分
石碑から直ぐ道の谷側に貯水タンクが見える。場所から考えて端出場工場用の貯水タンクだろう。谷水を集めていたという。なお、社宅跡には飲料用の貯水タンクもあるようだが見逃した。基本今回位の主目的は石鎚蔵王権現と六地蔵であり、この地は下山ルートということで旧跡へのアテンションは低かったようだ。鹿森に社宅がつくられたのは坑口に近いということと共に水の便がいいということのようだ。
貯水タンクを見た直ぐ先、道に送電線鉄塔が立つ。地図上の送電線ルートとはちょっと外れるが、新居浜市内の磯浦変電所から端出場開閉所を繋ぐ住友共同電力端出場線、端出場開閉所から土佐郡大川村の住友共同電力高藪発電所を繋ぐ高藪東線の送電線鉄塔ではないだろうか。このふたつの送電線網は端出場への分岐以外は基本、磯浦変電所と高藪発電所を繋ぐ高藪西線と同じ送電線鉄塔を進むようだ。

鹿森索道終点の標識:午後14時29分
端出場まで比高差は50mほど。別子銅山端出場採鉱本部のあったところを観光用に整備した「みちの駅マイントピァ」が木々の間から見えて来た。
道脇に「鹿森索道終点」の標識(午後14時29分)。社宅に日用品を運んでいた索道のようだ。その先ジグザグの道を下りて行く。

貯鉱庫上の軌道跡のトンネル:午後14時43分
貯鉱庫ダンピングカー引き込み専用トンネル
前方に南北に続く整備された道があり、下山道はその道の下を潜る。整備された道の左右は柵で閉鎖されているが、北側の柵の先にトンネルが見える。端出場から市内に繋がる別子銅山の下部鉄道はもう少し下を走る。なんだろうとチェック。このトンネルは右手にある貯鉱庫に第四通洞(後述する)から鉱石を運ぶダンピングカーの引き込み専用に造られたトンネルであった。
整備された道はこの軌道跡であり、貯鉱庫の真上のガイドレール上をダンピングカーの側車輪が通る ことにより台車が自動的に傾いて側面の扉が開き鉱石が貯鉱庫に落ちる仕組みになっていたようだ(「山村文化第12号:山村文化研究会」)。
鹿森社宅の職員の通勤用に造られたダンピングカーの軌道跡下のトンネルを抜け端出場に下山する。

貯鉱庫跡:午後14時48分
軌道跡下のトンネルを抜け
右手に進むと直ぐ貯鉱庫跡
軌道跡下のトンネルを抜けると前面に「みちの駅マイントピア」。右手の山側に大きな構造物がある。それが鉱石を貯めていた貯鉱庫跡。高さ15m、横幅35mのコンクリート造り。底部には四か所の横孔が見える。現在は貯鉱庫前は芝生となっているが、往時はここに破砕場があった。高さ2m,幅2.7mのこの四つの横孔から、破砕場に移され太めの鉱塊を砕き、選鉱する分だけをコンベアベルトに乗せ、選鉱場へ運んでいた。選鉱場は現在の「みちの駅マイントピア」の駐車場あたりだろうか。

端出場に下山:午後14時50分
昭和初期の端出場採鉱本部(「別子銅山」合田正良)
通洞第四通洞と鉱夫さん(「別子銅山」合田正良)
午後3時前、端出場に下山。歩きはじめて5時間で下山したことになる。 端出場は現在は「みちの駅マイントピア」と観光施設となっているが、ここは昭和5年(1930)から昭和48年(1973)の閉山まで採鉱本部のあったところ。
上部鉄道(「住友資料館」)
下部鉄道は鉱石だけでなく地元乗客も運んだ
ここに採鉱本部が置かれるようになった経緯;江戸期に銅山峰の南嶺銅床が発見され当初は南嶺の久旧別子で採掘、鉱石は新居浜に下すことなく土居(四国中央市)へと運んでいた。当時は銅山峰の北嶺が西条藩領であり、そこに立川銅山があったためである。その後北嶺を幕府の天領とする替地により仲持さんと呼ばれる背負子が銅山峰を越え、その後明治13年(1880)には牛車道が南嶺から銅山峰を越え立川まで開かれ、牛車で鉱石を運んだ。
マイントピア別子(「全国みちのえき連絡会」)
明治26年(1893)にはこの端出場から惣開までの下部鉄道、銅山峰北嶺の角石原(海抜1100m)から石ヶ山丈(海抜850m)まで上部鉄道が開通。石ヶ山丈から索道で鉱石を端出場に下した。明治35年(1902)銅山峰の南嶺と北嶺を穿つ第三通洞が完成。北嶺の東平(とおなる)へと鉱石が運び出せることが可能となった。これに合わせ、明治38年(1905)には東平から黒石に鉱石を下した。 これにより上部鉄道は明治44年(1911)その使命を終える。
大正4年(1915)端出場を坑口とする第四通洞が完成。明治43年(1910)から開始された工事は並行して第三通洞と第四通洞を繋ぐ立坑の工事も開始しており、この第四通洞の完成により鉱石は端出場への搬出が可能となった。
大正5年(1916)、採鉱本部を南嶺の東延から東平に移し、さらには昭和5年(1930)採鉱本部を東平からここ端出場に移した。尚、昭和10年(1935)には東平から端出場に索道を繋げた。

下部鉄道軌道跡を内宮神社まで

下部鉄道軌道跡を歩きはじじめる:午後15時5分
下部鉄道端出場駅(「別子銅山」合田正良)
下部鉄道軌道跡を端出場から歩きはじめる
端出場から家までは1時間に一便あるバスを利用しようと考えていたのだが、残念なことに3時台には便は無かった。仕方なく歩いて家まで戻ることに。バス停ベンチで小休止。
家まではオーソドックスには県道47号を国領川に沿って内宮神社まで戻るのだろうが、県道は左右に突き出す支尾根に沿って蛇行する。ために大廻することになり、疲れた体には少々ウザったい。で、山麓を最短距離で走っていた下部鉄道跡を歩くことにした。
入口は柵で遮られるが、左下になんとかすり抜けられるスペースがあり柵を抜ける(関係者の方すみせん)。鉄柵をクリアし別子銅山下部鉄道軌道跡を歩き始める。
上述の如く別子銅山下部鉄道は明治26年(1893)、端出場(打除)から新居浜の惣開まで開通した。昭和48年(1975)の銅山閉山後も運行し、昭和50年(1977)廃止となった。

坑水路支柱と檜尾川橋:午後15時11分
坑水路支柱の先に檜尾川橋
檜尾川橋を渡る鉱山鉄道。山側に坑口水路が
見える(「別子銅山アーカイブ」)
軌道跡を歩きはじめる(午後15時5分)。道脇山側にコンクリートで覆われ暗渠となって流れる坑水路と共に5分ほど歩くと檜尾川橋がある。蔵王権現・六地蔵から鹿森社宅跡へと山腹をトラバースしたとき出合った荒れた沢はこの檜尾川の源頭部である。
と、橋の手前、山側にコンクリートの支柱が4本並ぶ。1mから1.5mといったもの。前々から何だろうと気にはしていたのだがそのままにしていた。先に進み檜尾川橋を渡る。
檜尾川橋は明治26年(1893の建設当時、檜尾川を暗渠にして横断していたが、明治32年(1899)8月の大洪水により流出。復旧は元の暗渠としてではなく、Iビームの鉄橋(大雑把に言って鉄骨を渡したようなもの)として復旧したが、昭和4年(1929)に専用鉄道から地方鉄道へ変更された後、安全上の問題からか、昭和6年(1931)に既存のIビームはそのままに、コンクリートによるアーチ橋として補強され現在の橋の姿となった。

坑水路支柱が続く:午後15時12分
坑水路支柱が続く
支柱のうえに木製らしき坑水路が見える
(「別子銅山アーカイブ」)
橋を渡った先にも橋の手前で見たコンクリートの支柱が山側にずらりと並ぶ。高さ約2mから3mほどのものが11本、次いで石垣の上に 高さ約3m~5mのものが20本、その先 には高さ約5m~6mのものが14本と続く。前々から気にはなっていたものであり、いいきっかけでもあるのでチェックする。
と、この支柱は鉱山から排出した鉱毒を含んだ排水を流していた坑水路の支柱のようである。現在坑水路は上述の如くコンクリートで固められた暗渠を流れているが、かつての坑水路は傾斜が緩い所は木製、急な傾斜のところは煉瓦製の坑水路が使われていた。この辺りは支柱の上を木製の坑水路が通っていたのだろう。
仲持道にあった煉瓦造りの坑水路と会所跡
論文かなにかの一部であり資料元が不明であるが、その資料によれば「江戸時代から明治にかけて,別子銅山から出る銅や鉄,硫黄を含んだ坑内水は銅汁または鉱毒水と呼ばれ,国領川に流れ込んで周辺の農作物に被害を与えた.明治35年に第三通洞が貫通して,通洞口と山根に収銅所(注:今回のスタート時内宮神社参道でメモした山根収銅所)を作り,二段階処理して排水口から新居浜の海に放流するようになった。この当時の坑水路は,煉瓦製と木製の併用であったが,現在はコンクリートの排水路になっている。
大正12年2月,各坑道の排水ルートの連絡が成り,14番坑道(第四通洞)経由で坑外に排出されるようになった。この坑水路は,現在も抗内水が流れ出ているため稼働中である。抗水路には,当時1分に約12tの排水が流れていた。そのうち,坑道内の岩盤の割れ目からでてくる抗内水の流水量は,夏と冬で若干違うが1分で約3~4t。残りの8~9tは,冷却用等抗外から流入していた抗内作業用水であった。当時の排水は,酸性が強いため,石灰で中和して処理していたが,現在は第四通洞抗口ですでに弱アルカリになっている」とあった。
いつだったか遠登志(おとし)から仲持道を東平(とうなる)まで歩いたことがある。その途次煉瓦製の坑水路跡がいくつも残り、急カーブする箇所には煉瓦製の「会所(約1m四方の貯水槽)」が残っていた。煉瓦や木では急カーブの流路をつくることは困難であり、会所で流れの方向を変えていた。

索道黒石停車場:午後15時15分
黒石停留車場跡が残る
その先山側にコンクリート構造物跡
数分歩くと軌道跡にプラットフォームが残る。索道黒石停車場跡と案内にある。その直ぐ先、山側に奇妙なコンクリートの構造物が残る。これも前から気にはなっていたもの。傍の木に掛けていた往時の写真をみると構造物の上に建屋があり、構造物の辺りに鉄道が停まっている。
写真から推測すると鉱石吐け口のよう
東平から黒石を結ぶ索道(「別子銅山」合田正良)
前述の如く明治38年(1905)には東平から黒石まで索道が設置された。ここで鉱石を下部鉄道の貨車に積み込んだのだろうか。であれば、写真に「索道黒石停車場」とあるのも頷ける。
この東平~黒石の索道は 昭和10年(1935)には東平~端出場間に変更された。その後も支山の西之川鉱山の鉱石を運搬するために使われていたようであるが、昭和32年(1957)に鉱石運搬がトラック輸送に切り替わり、黒石駅は昭和34年(1959)1月に廃止となった。
西之川鉱山って石鎚山ロープウエイの近く大森山にあると言う。そこから国道194号の下津池を経由して黒石まで索道を設置したということか。ちょっと深堀りしたい気もするのだが、それではメモがいつまでたっても終わらない。ここで一旦思考停止としておく。

車屋トンネル跡と牛車道:午後15時27分
車屋トンネル跡
立川精錬所跡と川の対岸にジグザクの牛車道
先に進むと車屋トンネル。煉瓦造りのトンネル。車屋は牛車を作ったり修理したりする人がこの辺りに住んでいたのが由来と言う。明治13年( 1880 )に開かれた牛車道は銅山峰を越えた南嶺の旧別子よりこの辺りの立川まで鉱石を牛車で運んだ。国領川の対岸に県道47号から逸れジグザグに立川の集落を上ってゆく牛車道の上り口見える。
この辺りは立川、かつては立川中宿として賑わった。川の手前、現在運動場となっているところは立川精錬所跡である。別子銅山の銅の運搬の中継地として賑わったこの地のことを過日歩いたメモをコピー&ペースト;

●立川中宿
この辺りの集落名は立川。説明にあるようにかつて立川中宿があった。立川中宿は元祿15年(1702)に開かれた、とある。中宿を開いた理由は銅の運搬路の中継地を必要としたためである。
当時この地、銅山峰北麓の立川山村は西条藩領であった。この地に幕府天領の銅運搬路が開かれるまでの顛末をまとめておく(以下、散歩の雑文以外のデータは偶々家にあった『別子開坑百五十年史話;編集兼発行人 平塚正俊』より引用させて頂いた);
銅の運搬路
第一次泉屋道
元禄3年(1690)に鉱床が見つかり、翌元禄4年(1691)より操業をはじめた別子銅山の懸念のひとつにその運搬路があった。銅山峰を越え立川に下れば新居浜浦まで16キロであるが、銅山峰の北嶺は西条領であり、幕府天領に開かれた別子銅山の銅をこのルートで運ぶことは叶わず、銅鉱石は銅山峰北嶺足谷から弟地、保土野と吉野川水系銅山川を下り、小箱峠、出合峠を越え勘場平を通り土居(現在四国中央市)の天満浦までの36キロ、所謂「おばこ越え」で運ぶしか術はなかった(第一次泉屋道(あかがねの道;伊藤玉男)。
ために住友家は運搬路の打開策に腐心し、足谷より北方の分水嶺(銅山峰)を越え、立川山村を經て新居濱へ出る道路の建設使用方を、川之江(四国中央市)の幕府代官所および西條藩へ歎願した。この計画道筋はすべて西條藩の領内を通ることになるが、実現すると里程は大幅に短縮されることになる。
泉屋道(「山村文化:泉屋道と立川銅山道筋」)
その道筋、銅山峰の北嶺には別子銅山より古い歴史をもつ立川銅山が稼働していたといった事情もあり、当初西条藩からの許可が出ることはなかったが、後に領内といへども新道を開設すれば許可するとの意向を傳へられたがため、元禄13 年(700)、川之江代官に対し新道普請の西条藩藩への斡旋を依頼し、翌元禄14年(701)六月に、西條藩の有司(役人)に下の歎願書を提出した。
「かうと谷と申山と赤太郎尾と申山の間に種子川へ過る小路あり、此小路を作り廣け種子川村に通じ、夫より新須賀村浜へ往來仕候へば、私共勝手にも能く候、然る上は山里の道筋作毛等少も痛不 申樣に可仕候、則一ヶ年金武百兩宛指上可、申、其外銅山仕候内は一ヶ年に御米三千石宛當座直段にて御買上可 仕候、中宿、 濱宿普講並に兩宿人馬或は買物、濱手借舟、私共勝手支配に被仰付度候 右之通御聞濟被寫仰付候はゞ難有奉存候、以上  元禄十四年巳六月 矢野十郎右衛門様」。
第二次泉屋道
この願書面「かうと谷」とあるは兜山であり、「赤太郎尾」は赤石山である。そこに記すルートは、別子本鋪(ほんじき;歓喜坑・歓東坑ふたつの坑(間歩)をあわせた一帯)より銅山峰へ出ることなく、斜めに西赤石山の南側に沿ひ西赤石、上兜の中間の峰を北へ渓谷に沿って小道を改修援張して運搬路となし、それより種子川村に下り、ここより新須賀村濱に進むものである。
当面の課題である運搬道は確保できた。しかし道路が他藩の領分であり、且つ銅山峰北嶺の立川銅山が他銅山師の請負であり、住友の銅山経営についてその徹底を期すことは困難であった。 そのような折、住友家に対し幕閣勘定奉行荻原重秀よりの召状。逼迫する幕府財政建て直しのための鉱業振興政策の諮問を受ける。当時の外国貿易の決済に銅が使われており、銅産出は幕政の重要案件でもあった。その諮問奏上の助けもあり、西条藩へ出願の新道開削は幕府勘定奉行のお声がかりで急遽解決。新道建設が認められた。
そのルートは西条藩に申請したルートに若干の變更を加へ、西赤石、上兜の両山の間を縫へる樵徑を取り拡げて、西赤石の山腹を回つて石ヶ山丈(記録には石ヶ休場)に出で、そこより立川山村渡瀬へ下り、新居濱浦に到るもので、この年6月には渡瀬(眼鏡橋の西詰め:現在の龍河橋)に中宿を設け、新居濱に口屋(浜宿)を建てた。これが立川中宿開設までの経緯である。上に掲載の「第一次泉屋道」にある地名より、なんとなく推察はできるが、このルートの詳細不明。
このとき、中宿、口屋ともに所在地は依然西條領であるが、幕領別子銅山附の施設として、その支配は川之江代官所に屬するものとなった。
翌年、元祿16年(1703)には、幕府は先づ立川銅山を別子同樣,その支配下に移すと同時に、両銅山の薪炭に要する山林、出銅運搬路等に関係ある村々をも幕領に収むるに決し、西條藩および宇摩郡津根陣屋一柳直增侯にその旨を傳へ、寶永元年(1904)中にその手続きを完了した。
その内容は、西條藩に對して、幕府は新居郡下の大永山、種子川山、立川山 (立川銅山)、両角野(西、東角野) 、 新須賀の五個村を公收し、その替地に宇摩郡内の幕領蕪崎、小林、長田、西寒川、東寒川、中之庄、上分、金川の八個村を与へ、次いで寶永3年(1906)に宇摩郡の津根、野田兩村を替地として、同郡上野村を幕府の領地とし、さらに後ち一柳直增侯に對して、さきに上野村の替地として與へたる津根五千石を公收するため、播州美嚢郡高木(三木町外) 五千石に移封するというものであった。
こうして立川銅山は別子銅山と共に、幕領として川之江代官所の所管に移り、行政上の統一を見たが、しかし住友の積年の臨みである立川・別子銅山一手稼ぎの願望を達して、大別子の經營を實現するのは、寛延2年(1749)12月、当時の立川銅山経営者である大阪屋久左衛門代理より立川銅山の引き渡しを受けるのを待つことになる。
牛車道
立川の牛車道起点(ジグザグの道)
銅山峰北嶺の牛車道
銅山峰北嶺の別子銅山(旧別子)より立川までの銅の運搬路はできた。が、江戸時代、立川中宿と別子銅山間の険しい山道は、立川中持ちと呼ばれる人々によって、生活物資の荷揚げと粗銅の荷下げが行われており、立川中宿がこれを統括した。そのため、立川中宿は銅蔵や米蔵など諸物資を一時保管するための蔵で囲まれていたようである。
この中持ちさんが背負った粗銅は男性45キロ、女性30キロであったと言う。それを牛車での運搬にするため開いた道が牛車道である。
その原案は明治7年(1874)、別子に招いた仏人鉱山技師ルイ・ラロック氏の作成した「目論見書」、すなわち「一、坑間の施設、すなはち坑道の開掘に關するもの、二、運搬上の施設、道路の建設および鐵道布設に關するもの、三、製錬上の施設、熔解所の設置および之に要する煉瓦製造等に關するもの、四、探鉱上の施設、礦石粉砕機その他洋式新機械器具の整備に關するもの」について提言されており、運搬路については、寛延年間立川銅山合併以來、百二十有餘年の長きにわたり使用しつっあった運搬路である、銅山峰より馬の背の険を伝って、三十三曲りの坂をり経て、国領川の崖に沿うて立川に出づる道路の、その難路の甚しきに驚き、別子の發展は、これを改修するより急務なるはなしと考え、特に道路の設計に意を用いた。「目論見書」の劈頭にも『彼地には……所謂道なるもの無し』。また『別子山中第一の問題は道路也』と記している。
銅山峰付近から見た南嶺の牛車道
明治20年代銅山峰近くの牛車道
(「別子銅山」合田正良)
ラロックの立案した別子・立川間車道の設計は、高橋より銅山峰の西を迂回しつつ、峰を越えて立川村に下り、金子川の右岸傅ひに久保田に出で、橋梁を架して左岸へ渡り、再び川に沿うて川口すなはち現在の惣開に到り、ここに新たに設置すべき大製錬所に達せしむるにあつた。高橋を起点としたのは、将来來ここに溶鉱炉を置くことを前提としたためである。
その提言を踏まえ牛車道の敷設工事にかつたのは、明治9年(1876)中であつた。 元治2年・慶応元年(1865年)、僅か37歳で別子銅山の総支配人に任ぜられた廣瀬宰平はラロックの設計を踏まえながらも独自のルートを計画。その因はラロックの設計通りにすれば、勾配は極めて緩やかで車馬の通行には適するものの、その距離が長くなるためであった。そのため一部迂回線を廃し勾配を急にして七里余に短縮することにした。
施工に際しても、特に專門技師を使用せず、すべて在來旧式の測量法に依り、或ひは断崖絶壁に縄を懸け、或は大木を倒し、巨岩を砕いて足場を作る等、幾多の困難を貸して敢行した。この新設計に依る工事予算はほとんど十萬圓(明治の1円は現在の3,800円といった説もある。とすれば3億8000万円。)に上り、これを一時に支出する余裕がなかつた爲め、工事を分つて新居濱立川間を第一期、立川別子間を第二期とし、5個年の継続事業として明治13年( 1880 )中に竣成せしめた。 工事中、新道開通によりこれまで荷物の運搬に從事せる村民が、その生業を奪はれむことを怨むのあまり、一日、廣瀨を馬脊越の瞬より駕籠もろとち鉛底へ突き落さうとした話がある。それほどに従来難渋を極めた別子新居濱間の交通が改善され、牛馬車に依る物資の運搬が自由になって、沿道の住民達にも、非常な衝動を與へたことが知られよう。
牛車道の開通により坦々とした道路が山稜まで開通したため「立川村や、角野泉川両村から三人五人と、牛車をひっ張り出して貨物の運搬に當ったが、當時此の辺りの地牛は体が小さいが、性の荒い牝牛であったためで使ひにくく、一人が牛の手綱をとって前に立ち、一人が車の台の後方につけた撞木形の棒を、両手で握って後押しをし、少々牛があばれても車が転覆しないように用心した。こうして二人がかりでないと牛車は使用出來なかった。それを広瀬が見て、早速故郷の江州から、使ひ馴らされた大津牛を多數取り寄せた。大津牛は一名コッテ牛といひ、昔から京送りの江州米運搬に用いられた。
立川精錬所
明治10年代の立川吹所(「別子銅山」合田正良)
明治2年(1869)、政府が山元での最終精錬を認めたため、別子銅山支配人広瀬宰平は、立川精銅所(立川吹所)を新設し、大阪鰻谷の銅精錬にとって代わった。これは、徳川幕府が滅亡したため専売機関である銅座がなくなり、自由に企業活動ができるようになったため、とある。
明治9年(1876)、組織改革によって立川出店となり、さらに明治15年(1882)、立川分店となって、精銅方・会計方・運輸方を置いた。
しかし、別子鉱山鉄道の完成(明治26年;1893)を間近に控え、明治24年(1891)4月、端出場-石ヶ山丈間の複式索道が完成すると、立川分店の運輸業務は、その役割を終える。 さらに、明治24年(1888)に操業を開始した惣開精錬所の型銅生産が軌道に乗ると、粗銅はすべて同所で型銅に精製されることになり、明治24年(1891)5月、立川分店は新居浜分店の出張所となった。

立川精錬所の痕跡でもないものかと眼鏡橋西詰の集落、かつて保育園のあった広場を彷徨っていると、その遺構は見当たらなかったが、広場傍に明治32年(1899)の別子大水害の供養塔が立っていた。

物言嶽(ものえだけ)トンネル跡:午後15時35分
美しく組まれた軌道用石垣の先にトンネルが見える。物言嶽(ものえだけ)トンネル。煉瓦造りのトンネルだ。物言嶽は物の怪に誑かされ川に落ちなくなった子供が話かけてくるため、「耳を塞いでものを言わず。黙って通れ」がその由来とか。
トンネルを抜けた先は切通し。ここでは昔沢登りのため懸垂下降のトレーニングをしたところだ。その先で松山自動車道を潜る(午後15時37分)。
松山道と交差する辺りに板ノ元駅があったと言う。主に山根精錬所への通勤の為の駅であったというが、明治28年の山根製錬所閉鎖に伴い廃止

エントツ山が見える:午後15時39分

エントツ山
エントツ山の対岸を走る下部鉄道(「住友資料館」)
物言嶽トンネルを抜けると右手、国領川の右岸にエントツ山が見える。明治21年(1888)に完成した湿式精錬所のエントツ。エントツは山裾の山根精錬所から煙道を山頂に繋ぎ排出していた。 銅山で廃棄していた低品位の鉱石から硫酸などの回収と残った鉄分からの製鉄を目したが事業としての目途はたたず、また製錬中に発生する亜硫酸ガスが付近一帯の農作物に被害を与えることにより6年余で閉鎖された。

切通を抜けると出発点が見える;午後15時44分
直ぐ先、北に国領川へと突き出した尾根筋突端部の切通しを抜けると山地から扇状地へと流れ出る国領川に架かる朱に塗られた生子(しょうじ)橋が見えて来る。子供の頃は木の橋で朱塗りでもなかたが、コンクリートの橋に造り替えられた。橋の右手はエントツ山の登山口、左手の川に突き出た尾根先端部が本日のスタート地点である。

内宮神社参道に戻る:午後15時48分
軌道跡左上にスタート地点の強足神
内宮神社参道に戻る
その先で内宮神社の旧参道、そして太鼓台の上る参道に至る。参道左にはコンクリートで蓋をされた坑水路が参道石段まで続き、石段下を潜り山根収銅所に注ぐ。
参道道上はスタート地点の多くの合祀社が並ぶ本日のスタート地点。おおよそ6時間の周回コースを歩き終えた。
本来の目的は大永山の石鎚蔵王権現であり六地蔵であったのだが、下山ルートを端出場へとしたため、別子銅山遺構のあれこれのメモが長くなってしまった。ともあれ、本日のメモはこれで終える。