2016年12月アーカイブ

Google earthで作成
南だけが海に向かって開け、東西そして北が低くはあるが(200m以下)山に囲まれる鎌倉。その山稜尾根道を、北そして西側半分ほど歩く。沢登仲間5名のパーティである。
コースは建長寺境内の谷戸最奥部山腹にある半僧坊からはじまり、鎌倉の北と西半分を囲む天園ハイキングコースを瑞泉寺に向かい、瑞泉寺手前でハイキングコースを離れ、地図にルートのあった沢に下る。朝比奈の切通しへのショートカットが出来そうである。
地図に示されるだけであり、実際に歩けるかどうか行ってみなければわからないのだが、ともあれショートカットできれば、そのルートを進み、十二社バス停傍の脇道に入り朝比奈の切通しへ。周囲を山で囲まれた鎌倉への往還のために山稜を切り開き通した七口(7つの切通し)のひとつである。 朝比奈の切通しからの戻りは、切り通し近くの熊野神社から十二社方面に尾根筋を下る道らしきものが地図に見える。そのルートは等高線を垂直に下りている。転び滑りながら下りることになりそうではあった。
計画ではこの後、報国寺脇まで進み、そこから布張山に上り、名越えの切通しに向かい、祇園ハイキングコースを経て鎌倉駅へ、と思っていたのだが、朝比奈の切通から十二社バス停に戻ったところで、パーティ諸氏の「ここで終了」の目力に抗せず、計画を変更し終了。10キロ強の鎌倉散歩を楽しんだ。



本日のルート;北鎌倉駅>建長寺>半僧坊大権現>天園ハイキングコース>覚園寺分岐>大平山の頂>横浜市最高地点>天園休憩所>瑞泉寺分岐>沢を下る十二社へのショートカットルート>十二社バス停>大刀洗川に沿って進む>朝比(夷)奈切通し>磨崖仏>熊野神社>尾根筋を三郎の滝に戻る>十二社バス停


北鎌倉駅
集合地点は北鎌倉駅。ここに来たのは何年ぶりだろう。先回は駆け込み寺・東慶寺、名刹円覚寺、浄智寺などをお参りしながら進んだのだが、今回は天園ハイキングコーの始点・建長寺まで寄り道せずに向かう。
◆円覚寺
横須賀線北鎌倉駅近くに建つ。鎌倉五山第二位、臨済宗円覚寺派の大本山。文永・弘安の役、つまりは蒙古来襲の時になくなった武士を弔うために北条時宗が創建したもの。読みは「えんがくじ」。
開山は無学祖元。中国・宋の国・明州の生まれ。無学祖元禅師の流れは、夢窓疎石といった高僧に受け継がれ、室町期の禅の中核となる。五山文学や室町文化に大きな影響を与えたことはいうまでもない。
ところで、時宗が執権職についたのは18歳の時。亡くなったのは33歳。その間、文永・弘安の役といった国難、兄・時輔らとの内部抗争、日蓮を代表とする批判勢力の鎮圧といった数々の難題に直面。年若き時宗だけで、対応できるとも思えない。第七代執権・北条政村を筆頭に、金沢実時、安達泰盛といったベテランがバックアップしたのであろう。舎利殿は国宝。

東慶寺
円覚寺を出て鎌倉街道を少し南に下ると東慶寺。お寺の案内パンフレットによると「開山は北条時宗夫人覚山尼。五世後醍醐天皇皇女・用堂尼以来松ヶ丘御所と呼ばれ、二十世は豊臣秀頼息女天秀尼。明治にいたるまで男子禁制の尼寺で、駆け込み寺または縁切り寺としてあまたの女人を救済した」と。寺に逃げ込み3年間修行すれば女性から離縁することができたとのこと。
このお寺には多くの文人・墨客が眠っている。西田幾多郎(哲学者; 『善の研究」)、和辻哲郎(哲学者;『風土 人間学的考察』)、川田順(財界人・歌人。「老いらくの恋」の先駆者(?)。 そして、「何一つ成し遂げざりしわれながら君を思ふはつひに貫く」の歌)、安倍能成(骨太の自由主義者。一学校長・学習院院長・文部大臣。愛媛県松山生まれ)、鈴木大拙(禅を世界に広めた哲学者)、小林秀雄(文芸評論。『無常ということ』)などのお墓がある。あまりお寺っぽくない。品のいい日本邸宅のような趣。文人が好んで眠るのも納得。
浄智寺
少し進むと浄智寺。鎌倉五山第四位。臨済宗円覚寺派。執権北条時頼の三男宗政の菩提を弔うために宗政夫人が開く。お寺の案内パンフレットによると、「浄智寺が建つ山ノ内地区は、鎌倉時代には禅宗を保護し、相次いで寺院を建てた北条氏の所領でもあったので、いまでも禅刹が多い。
どの寺院も丘を背負い、鎌倉では谷戸とよぶ谷合に堂宇を並べている。浄智寺も寺域が背後の谷戸に深くのび、竹や杉の多い境内に、長い歴史をもった禅刹にふさわしい閑寂なたたずまいを保つ。うら庭の燧道を抜けると、洞窟に弥勒菩薩の化身といわれる、布袋尊がまつられている」とある。鎌倉の地形の特徴がよく現されている。

建長寺
天園ハイキングコース入り口のある建長寺に。天園コース東端の瑞泉寺方面から歩く場合は不要だが、建長寺側から天園ハイキングコースに入る場合は、建長寺の拝観料を払うことになる。
建長寺
巨福山建長興国禅寺。臨済宗建長寺派の大本山。五代執権北条時頼が蘭渓道隆(後の大覚禅師)を開山として創建。日本初の禅宗道場。 巨福門(こふくもん)と呼ばれる総門を越えると三門。禅宗では「山門」ではなく、「三門」と呼ぶことが多いようだ。「三門とは悟りに入る3つの法門、三解脱門のこと。つまりは空三昧・無相三昧・無願三昧の三つの法門」、と。

半僧坊大権現
境内を進み半僧坊大権現に向かう。「天園ハイキングコース」は、建長寺境内からはじまり、裏山中腹の半僧坊から尾根道を歩き、鎌倉の山並みの最高峰・太平山、といっても156メートルだが、この太平山をこえ天園から天台山、そして瑞泉寺に降りるコース(その逆も)。
建長寺の境内を北に向かい250段ほどの階段を上ると半僧坊大権現。からす天狗をお供に従えた、この半僧半俗姿の半僧坊(はんそうぼう)大権現。

大権現とは仏が神という「仮=権」の姿で現れることだが、この神様は明治になって勧請された建長寺の鎮守様。当時の住持が夢に現れた、いかにも半増坊さまっぽい老人が「我を関東の地に・・・」ということで、静岡県の方広寺から勧請された。建長寺以外にも、金閣寺(京都)、平林寺(埼玉県)等に半僧坊大権現が勧請されている。結構「力」のある神様、というか仏様であったのだろう。
方広寺
いつだったか方広寺を訪れたことがある。浜松駅から戦国の古戦場で知られる三方ヶ原を越え、伊井氏本貫地引佐の里を経て奥山方広寺に向かった。開山の祖は後醍醐天皇の皇子無文元選禅師。後醍醐天皇崩御の後、出家。中国天台山方広寺で修行。帰国後、参禅に来た、遠江・奥山の豪族・奥山氏の寄進を受け、方広寺を開山した、と。
半僧坊の由来は、無文元選禅師が中国からの帰国時に遡る。帰国の船が嵐で難破寸前。異形の者が現れ、船を導き難を避ける。帰国後、方広寺開山時、再び現れ弟子入り志願。その姿が「半(なか)ば僧にあって僧にあらず」といった風体であったため「半僧坊」と。

天園ハイキングコース
半僧坊社務所前の小さな鳥居をくぐりハイキングコースに。樹林の中の起伏に富んだルート。遊歩道として整備されることもなく野趣豊か。木の根っこが飛び出す山道をどんどん進む。5分ほどで「勝上献展望台」。アジサイで名高い名月院方面からの道が合流する。展望台からは鎌倉の海の眺めが楽しめる。 更に5分程度で「十王岩の展望」。かながわの景勝50選に選ばれた展望ポイント。海に続く一直線の若宮大路が見下ろせる。
名月院
このお寺も関東十刹のひとつ。もとは北条時頼の建てた最明寺。その跡に、子の時宗が禅興寺を建立。明月院はこの塔頭として室町時代、関東管領上杉憲方によって建てられた。将軍足利氏満の命による、と。室町幕府三代将軍・足利義満の時代に禅興寺は関東十刹の一位となる。が、明治初年に禅興寺は廃寺となり、明月院だけが残る。明月院は〝アジサイ寺″として有名。 鎌倉十井の一つ「瓶ノ井(つるべのい)」がある。やぐらは鎌倉時代最大のもの、である。

時頼の廻国伝説
北条得宗家の基盤を確固たるものにした時頼には、謡曲『鉢の木』にあるように廻国伝説が伝わる。先日会津街道を歩いた時も出合ったし、伊予の古城巡りのときも時頼が登場した。
30歳で執権職を辞し、出家しその間、「中世の黄門様」のように全国を廻ったということだが、出家したとは言いながら、政権の中枢で隠然たる権力を持ち続けた時頼に、そんな暇があるとも思えない。また37歳という若さで亡くなったというし、伝説が残るのも得宗家の領地が中心というから、ますますもって「伝説」と考えるのがよさそうにも思えるのだが、所詮は素人の妄想であり、根拠があるわけではない。

覚園寺分岐
右手は深い木々、左手は山を切り崩し宅地開発した民家が迫るといったアンバランスな尾根道を進み、「十王岩の展望」の先でコースは瑞泉寺へと続くメーンルートと、麓の覚園寺に下るコールに別れる。今回はメーンルートを進む。
やぐら
いつだったかこの分岐から覚園寺へと下ったことがある。分岐点を5分も歩くと、「百八やぐら」がある。「やぐら」は横穴式のお墓。鎌倉では、岸壁や岩肌に横穴を掘って、そこに遺骨等を埋葬した場所を「やぐら」と言い、武士や僧侶の墓所であるとされている。 「やぐら」は鎌倉の谷戸や山間部の至るところに点在している。山に囲まれ土地が狭い故だろう、か。

大平山の頂
心地よいアップダウンの尾根道を進むと鎌倉アルプスの最高峰、といっても159.2メートルの大平山の頂上に。この辺りに来ると車で近くまで乗ってきたような観光客が結構多い。住所は鎌倉市今泉。左手に見えるゴルフコースへの道を来るのだろうか。
岩場を下りゴルフ場のクラブハウスっぽい建物の横、広場を通り一部舗装された道を進む。鎌倉市と横浜市の境ではあるが、行政区域は横浜市栄区となる。

横浜市最高地点
ほどなく土径となった道を進むと「横浜市最高地点」の標識。「海面からの高度154.9m 横浜市最高地点は鎌倉市境にある大平山(山頂は鎌倉市域)の尾根沿い(栄区上郷町)でこの付近となります。背後の鎌倉市方面には鎌倉市街や相模湾を臨むことができます」とある。
かつて、この辺りに「天園峠の茶屋」があったと思うのだが、なくなっていた。 眼下の鎌倉の山々が美しい。相模湾も光っている。天園は別名、「六国峠」とも。武蔵、相模、上総、下総、伊豆、駿河が望めることができたから、と言う。

天園休憩所
「天園峠の茶屋」の少し南、「天園休憩所」は営業していた。ここで少し休憩。住所は再び鎌倉市十二社となる。

瑞泉寺分岐
天園休憩所から天園ハイキングコースに戻る。先を進むと瑞泉寺分岐の木標。道はふたつにわかれるが、右は瑞泉寺、左は支尾根へと向かう。沢に下るショートカットルートは道を少し戻り左手に下りることになる。
瑞泉寺
瑞泉寺は鎌倉幕府の重臣・二階堂道蘊が瑞泉院として建立。足利尊氏の四男・鎌倉公方・足利基氏が瑞泉寺に。中興の祖となる。以降、鎌倉公方の菩提寺となり、鎌倉五山に次ぐ関東十刹の第一位の格式を誇る。臨済宗円覚寺派。 いい雰囲気のお寺さん。品がいい。素敵な邸宅といった趣。庭もいい感じ。夢想疎石作との伝え。夢想疎石は京都の苔寺・西芳寺や天竜寺といった庭園で有名な寺院も後につくっている。鎌倉期唯一の庭園として国の名勝に指定されているのも納得。
そういえばこの夢想疎石、鎌倉の浄智寺の住職、円覚寺の住職も歴任した仏教界の重鎮。政治との関わり。も深く、後醍醐天皇や北条、足利氏と交わったと。円覚寺の開祖・無学祖元の流れを汲む高僧である。

沢を下る十二社へのショートカットルート
沢に下りる道は草に覆われ少しわかりにくい。iphoneのGPSアプリ、Gmap Toolsで地図に記される沢への下り口をチェックすると、なるほど下りの土径が見えた。
ほとんど整備されていない山道を下る。この沢道ではなく瑞泉寺へと下ると、南に突き出た尾根筋を大きく迂回して十二社に向かうことになる。足元はしっかりしないが、ショートカットのためには少々我慢。

十二社バス停
ささやかではあるが水の流れる沢筋に沿って下り、民家の建つ支尾根の間の道を進み県道204号の十二社バス停に。朝比奈の切通はバス停から県道から右に分かれ、大刀洗川に沿って道を進むことになる。
◆十二社
県道から少し左手に入ったところに建つ。十二所神社自体は結構さっぱりした神社。熊野十二所権現社として近くの光触寺境内にあったものがここに移されたと言われる
十二所権現って熊野三山の神を勧請したもの。熊野三山とは熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の総称。熊野の各社はそれぞれの主神を互いに勧請仕合っており、各社3つの神を祀る。
更に各社には共通の神さんとして「天照大神」が祀られる。ために、1社=4神、その三倍で12柱となる。これをもって、熊野十二所権現社と称した。 十二所=十二社。そう言えば、新宿西口に十二社が。そのすぐそばに熊野神社がある。納得。で、光触寺、こじんまりしたお寺。塩嘗地蔵(しおなめじぞう)がある。道を往来する商人が初穂としてそなえていたのだろう。

大刀洗川に沿って進む
十二社バス停付近で滑川に注ぐ大刀洗川には梶原景時の太刀洗水がある。頼朝の命により、上総介広常を討ち、その太刀を洗ったところ、とか。昔歩いてた時は「大刀洗水」の案内を見つけることができなかったのだが、今回はすぐ目に入った。
梶原景時
梶原景時って、義経いじめ、といったイメージが強く、判官びいきの諸氏にはあまりいい印象はない。どういった人物か、ちょっとメモ;
もともとは平氏方。坂東八平氏である鎌倉氏の一族であり、頼朝挙兵時の石橋山の合戦では一族の大場氏とともに頼朝と戦う。
で、旗揚げの合戦に破れた頼朝の命を助けたため、後に頼朝に取り立てられ、頼朝の側近として活躍。教養豊かで都人からも一目置かれるが、義経とは相容れず対立。頼朝と義経の関係悪化をもたらした張本人と評される。頼朝の死後は、鎌倉を追放され、一族もろとも滅ぼされた。

いつだったか、八王子城址を訪ねた時、高尾駅から丘陵を越え、新宮前橋で北淺川の支流・城山川を渡り、少し進むと宮の前交差点の近くに梶原八幡があった。この八幡様は鎌倉幕府の御家人・梶原景時が建てたと言われる。鎌倉の鶴ケ岡八幡の古神体をこの地に奉祀したもの、とか。参道に梶原杉といった切り株も残る。で、そもそも何故この地に梶原氏が、ということだが、梶原景時の母がこのあたりに覇をとなえた横山氏の出。この地に景時の領地もあった、よう。

上総介広常
治承4年(1180年)8月に打倒平氏の兵を挙げ、9月の石橋山の戦いに敗れた源頼朝が、安房国で再挙を図ると、広常は上総国内の平家方を掃討し、頼朝のもとへ参陣。頼朝が鎌倉入りを果たせたのは、上総・下総両国を領し東国最大勢力であった上総介広常の軍事力が大きく寄与したと言われる。
鎌倉幕府が開かれてからも、その強力な軍事力故か、頼朝に対しても「傲慢不遜」な振る舞いもあり、謀反を疑われ頼朝の命により梶原景時に誅されることになる。
お話では、殺害後に広常の鎧から頼朝の武運を祈る願文が見つかり、頼朝は広常を殺害してしまった事を悔いたと言われるが、対朝廷策で協調派の頼朝と強硬派の広常の間に亀裂があったようで、殺害の因はそのあたりにある、との説もあるようだ。都生まれの頼朝と東国武士の広常故の対立があったのだろうか。

朝比(夷)奈切通し
先に進むと舗装も切れ、その先で道がふたつに分かれる。左手の小滝(三郎の滝)が落ちる道が朝比奈の切通し。先回訪ねた時はなかったように思うのだが、道脇に「朝夷奈切通」の案内がある;
「国指定史跡  朝夷奈切通しは、いわゆる鎌倉七口の一つに数えられる切通で、横浜市金沢区六浦へと通じる古道(現在の県道金沢・鎌倉線の前身)です。鎌倉時代の六浦は、鎌倉の外港として都市鎌倉を支える重要拠点でした。『吾妻鏡』には、仁知2年(1241)に、幕府執権であった北条泰時の指揮のもと、六浦道の工事が行われた記事があり、これがつくられた時期と考えられています。
その後、朝夷奈切通は何度も改修を受けて現代にいたっています。丘陵部に残る大規模な切岸(人工的な崖)は切通道の構造をよく示しており、周辺に残るやぐら(鎌倉時代の墓所)群・切岸・平場や納骨堂跡などの遺構と共に、中世都市の周辺部の雰囲気を良好に伝えています。 平成21年3月 鎌倉市教育委員会」。
また、三郎の滝の東側に石碑があり「朝夷奈切通 鎌倉七口ノ一ニシテ鎌倉ヨリ六浦ヘ通ズル要衝ニ當リ 大切通小切通ノ二ツアリ 土俗ニ朝夷奈三郎義秀 一夜ノ内ニ切抜タルヲ以テ其名アリト傳ヘラレルモ 東鑑ニ仁治元年(皇紀1900)十一月 鎌倉六浦間道路開鑿ノ議定アリ 翌二年四月 經營ノ事始アリテ執権北条泰時 其所ニ監臨シ 諸人群集シ各土石ヲ運ビシコト見ユルニ徴シ此切通ハ即チ当時ニ於テ開通セシモノト思料セラル」と刻まれる。

ふたつの案内を読み、一夜のうちに峠を切り開いたとされる武勇の士・朝夷奈三郎義秀のお話はともあれ、この朝比奈切通しは、執権北条泰時が鎌倉と六浦を結ぶ道の開鑿を決定。執権自ら監督し、鎌倉の外港であり下総などとの窓口・六浦と鎌倉の連絡を容易にし、東国の物資、また塩を鎌倉にもたらす戦略道路として開いたもではあろうが、そこに「朝夷奈三郎義秀」の話が登場するのが面白い。
朝夷奈三郎
朝夷奈三郎義秀は和田義盛の子。安房の朝夷郡に領地を有するが故の名前ではあろうが、和田義盛は北条打倒を図り、和田合戦を起こしている。朝夷奈三郎義秀はその合戦で最もめざましい奮戦をした武将である。戦いは北条氏の勝利に終わり、朝夷奈三郎義秀のその後の消息は不明とのことであるが、敵方である北条氏の執権が苦労の末開いたこの切り通しに朝夷奈三郎義秀の伝説が残るのは、誠に面白い。
いつの頃からこの伝説がおこったのか少々気になる。チェックすると、Wikipediaに拠れば、鎌倉時代の『吾妻鏡』には「六浦道」とあり、「朝夷奈」の文字はない。「朝夷奈」が江戸時代になっても「峠坂」と記録にあり、「朝夷奈」が記録に登場するのは延宝2年(1674)、徳川光圀編纂の『鎌倉日記』に峠坂を「朝比奈切通」とあるのがはじめてのようである。伝説もこの頃できたものだろうか。単なる妄想。根拠なし。

鎌倉七口
鎌倉七口(かまくらななくち)とは三方を山に囲まれた鎌倉への陸路の入口を指す名称。鎌倉時代には「七口」の呼び名は無く、江戸時代になってはじめて記録に登場する。一般には極楽寺坂切通、大仏切通、化粧坂、亀ヶ谷坂、巨福呂坂、朝夷奈(朝比奈)切通、名越切通を七口と称する。
もっとも、江戸時代初期の1642年~1644年頃に書かれたと思われる『玉舟和尚鎌倉記』には、「大仏坂」「ケワイ坂」「亀ヶ井坂」「小袋坂」「極楽寺坂」「峠坂」「名越坂」、上記の『徳川光圀鎌倉日記』には「ケワイ坂を「化粧坂」、亀ヶ井坂を「亀ヶ谷坂」、小袋坂を「巨福呂坂」、峠坂を「朝比奈切通」、大仏坂を「大仏切通」、極楽寺坂が「極楽寺切通」、名越坂が「名越切通」とあるようで、切通といった名称では統一されていないようである。

磨崖仏
崖からの湧水に濡れた石畳状の坂を上る。足場はあまりよくない。道脇に佇むお地蔵さまにお参り。「延宝三年十月十五日」と刻まれている。西暦1675年の作である。
坂を上り切ったところの崖が大きく切り開かれている。大切通しと称される箇所だろう。右手の崖には大きな磨崖仏が刻まれる。薬師如来と言う。

熊野神社
磨崖仏から少し坂を下ると熊野神社分岐がある。道を右手に取り、道なりに進むと熊野神社がある。社殿への石段前に車止め。意味不明。石段をのぼり拝殿にお参り。
由緒には「古傳に曰、源頼朝鎌倉に覇府を開くや朝比奈切通の開鑿に際し守護神として熊野三社大明神を勧請せられしと、元禄年中地頭 加藤太郎左衛門尉 之を再建す、里人の崇敬亦篤く安永及嘉永年間にも修築を加え明治六年村社に列格、古来安産守護に霊験著しと云爾」とある。
朝比奈切通の開鑿は仁知2年(1241)に幕府執権であった北条泰時の指揮のもと開始されたと上でメモした。頼朝既に亡くなっているのだが、由緒ってそんなものだろう、と。
それはそれとして、先日読んでいた大田道潅を主人公とした小説にこの神社が登場していた。狩のみぎり、突然の雨。山家に駆け込み蓑の借用を申し出 る。その家の娘、無言のまま、八重の山吹を盆に載せ差し出す。"実の"つかない八重の山吹。家が貧しく、"蓑"一つさえも無いことを婉曲に伝え詫びたもの。
道潅、わけもわからず不機嫌に帰館。家臣のひとりが、娘が旧歌で返答したのだと。「七重八重、花は咲けども山吹の、実の〈簑〉一つだになきぞ悲し き」。道潅、己が無学を恥じ、爾来研鑽を重ね、歌人としても名を成すに至った、そのきっかけとなった出来事の舞台がこのあたり、とのこと。
もっとも、この山吹の里って、散歩で出合っただけでも数箇所ある。埼玉・越生、川崎の鹿島田、都内豊島区の高田地区、などなど。それだけ道灌が人気者であった、ということだろう。

尾根筋を三郎の滝に戻る
社殿で皆さんが休憩の間に、地図にある社殿裏から尾根道を十二社方面、三郎の滝近くに下る道を確認に。社殿右手の土径を上り、社裏手の尾根筋に廻り込道を探る。左手に折れ果樹園へと向かう道と直進する尾根道を確認。尾根道筋には単なる倒木なのか、通行止めなのか不明だが、木が道を遮る。が、進めそうである。
ということで、休憩後、尾根道を下ることに。果樹園へのコースは道は安定してそうだが、何せ遠回りである。地図を見ると結構勾配が急なようではあるが、ショートカットルートを選択。
下り道は急な傾斜の上に粘土質の堀込みとなっており、足元が危うい。結構滑る。倒(こ)けつ転(まろ)びつ、三郎の滝に。

十二社バス停
三郎の滝から十二社のバス停まで戻り、皆さんの意向確認。当初の予定では、ここから報国寺まで歩き、布張山に登り**の切通し方面まで進む予定であったが、皆さん、ここで充分とのこと。今回の散歩は、これで終了とし、バスで鎌倉駅に向かい、一路家路へと。

■鎌倉散歩アーカイブ■

鎌倉散歩 (1):天園ハイキングコースから亀ケ谷・化粧坂切通しへ

鎌倉散歩 (2):葛原岡ハイキングコースから大仏ハイキングコースへ

鎌倉散歩 (3):鎌倉山から天園へと、鎌倉を西から東に

鎌倉散歩 (4):朝比奈切通し・衣張山から名越切通しへ

鎌倉散歩(5);名越・釈迦堂切り通りから祇園山へ


先回のメモは河口集落から峰入りし、今宮登拝道から尾根筋、そして今宮登拝道に戻る王子社道を辿り第七王子社から第二十王子社を辿り石鎚神社中宮・成就社まで登った。当初単独行での計画では、成就社からロープウエイで西之川谷筋の下谷まで下り、河口の車デポ地まで徒歩で戻る予定であったが、弟や山仲間はそんな軟な行動を考えるはずもなく、戻りは黒川登拝道を下るとのことになった。
事の成り行きで一緒に黒川道を下ることにしたのだが、道らしき道は里に近づくまで一切なく、黒川谷のガレ場、ザレ場を延々と下るルートであった。黒川道は小松藩領・横峰寺の信徒の登拝道であり、往昔、西条藩・前神寺や極楽寺の信徒が登る今宮道や三十六王子社ルートより多くの人が登った道とのことだが、今となっては、道を踏み固める人も無く、安全確保の虎ロープのオンパレードといった荒れた道ではあった。
比高差1200mの往路での上りに5時間ほどかかったが、下りであるにもかかわらず4時間程かかってやっと下山。メモをしようにも、王子社といったポイントも何もなく、蔵王権現の石像が残る行場跡が一カ所のみ。時に沢(黒川)に落ちる滝が現れるものの、その他はガレ場・ザレ場、崩壊地が延々と続く。といったルートであり、果たしてメモができるものかどうか少々心もとないが、ともあれメモを書き始めることにする。



本日のルート;石鎚神社中宮・成就社>>八大龍王社>展望台に:11時52分>展望台出発;12時26分>黒川道アプローチ地点;12時50分>笹からガレ沢に;12時54分>成就社への道標:13時7分>第一リフト交差;13時9分>支尾根の間の沢に水管>右手に黒川が滝のように下る;13時29分>石組の道;13時35分>正面に滝が落ちる;13時39分>蔵王権現の石仏;13時55分>王子道の尾根筋が見える;13時58分>崩壊地;14時10分>成就社2.5㎞の標識;14時18分>沢を渡る;14時41分>成就社まで2,750m標識;14時45分>杉林が見えてくる;14時55分>上黒川集落;15時25分>石灯籠とお地蔵様;15時34分>「成就社 5.0km標識」;15時39分>下黒川集落;15時42分>下山;15時58分>烏帽子岩;16時4分>横峰寺別院;16時12分>河口の車デポ地;16時12分

石鎚神社中宮・成就社
八大龍王社の傍にある第二十稚児宮鈴之巫王子社の左手にある見返遥拝殿から石鎚のお山・弥山に拝礼し本殿に。本殿は昭和55年(1980)の火災で焼失。昭和57年(1982)に再建されたようである。本殿の前に立つ少々小ぶりな鳥居は二の鳥居のようである。
既に何度かメモしたように、ここはもと前神寺の石鎚山修験道の根本道場であった。「常住」と称されたとのことであるので、通年で修験行者できる拠点ではあったのだろう。石鎚神社中宮成就社となったのは明治3年(1870)の神仏分離令により蔵王権現号を廃し石鉄神社が誕生してからのこと。明治8年(1875)には前神寺所管の土地建物など一切が石鎚神社の所有となった。
このことにより、奈良時代より石鎚山信仰の中心であった別当寺・前神寺は廃され、里前神寺は石鎚神社の本社となり、石鎚中腹にあり信仰の重要拠点でもあったこの地、「常住・奥前神寺」も石鎚神社に移され、名も「成就」と改められ、成就社となった。

石鎚のお山には子供の頃から幾度となく上っている。成就社も幾度も訪れている。しかし、この社と前神寺の関係、この地が小松藩と西条藩の境であるが故の横峰寺との争い、横峰寺信徒による「常住」打ちこわし事件など、今回の石鎚三十六王子社散歩を終えてメモする段階になるまで、まったく知らなかった。ちょっと「深堀り」すれば、あれこれと知らないことが登場する。実際散歩の後のメモは少々時間が取られはするのだけれど、散歩の原則「歩く・見る・書く」を改めて思い起こす。
常住
石鎚のお山は、本邦初の説話集である日本霊異記に「石鎚山の名は石槌の神が座すによる」とあるように、山そのものが神として信仰される山岳信仰の霊地であった。山岳信仰伝説の祖・役行者が開山との伝説もある。その霊山に役行者の5代の弟子・芳元(讃岐の生まれ)が大峰山で修行の後、石鎚山に熊野権現を勧請し、石槌の神は石鎚蔵王権現として信仰されることになる。奈良時代のことという。
その芳元と同じ頃、『日本霊異記』では「寂仙」、『文徳実録』では「上仙」、また前神寺や横峰寺の縁起には常仙とも石仙とも称される高僧が山に籠もって修行に努め登拝路を開き、前神寺(横峰寺も)開いたと云う。この場合の前神寺とは「常住」の地に開いたお寺ではあろう。
現在石鎚神社本社・口之宮は、もとは里前神寺のあった場所であるが、これは江戸の頃建立されたもの。前神寺は石鎚山の別当寺であり、また四国霊場の札所でもある。その前神寺が石鎚山腹にあるのは、参拝に少々不便なため、庶民の参詣が盛んとなった江戸時代に新居郡西田村(現西条市)の山麓に新たに前神寺を建立したわけである。
神仏分離令により一時廃寺となった前神寺であるが、明治11年(1889)現在の地に前記寺、後に前神寺として旧名に復し石土蔵王権現信仰を継承した。
石鎚神社常住社(現成就社)となった常住・旧奥前神寺も、前神寺が復したため再建されることになる。一時河口と成就を結ぶ登山道脇に再建されたようだが、ロープウェイ開通によって登拝の流れが変わったため、昭和45年(1970)前神寺奥の院として現在地に移したとのことである。
常住から成就
『石鎚 旧跡三十六王子社』には「古伝に石鎚山開祖、役の行者が、今宮の八郎兵衛を道案内として、此所に登山し久しく参籠し池を掘り(宮川旅館裏にあり)毎日この池で禊(みそぎ)をして心身を清め、石鎚大神の神霊を拝さんと祈願したが其の霊験なく、力つきて下山しようとした時白髪の老人が現はれ斧を砥石で磨いているので、その故を問うと老人答えて曰く「之は砥いで針にするのだ」この言葉に感じ挫折してはならない、成せばなると心に言い聞かせ再び行を続け石鎚大神の霊験を得て、石鎚山を開山し此所に帰り、(遥かにお山を見返し、吾願い成就せり)と、仰ぎ拝したと云う。故を以って以来成就社と名づけられ、見返り遥拝殿の由緒でもある」とある。
ここには「常住」の文字はない。が、上のお話は少々「出来過ぎ」のように思える。「常住」>「成就」、「音」が似通っていることからの後世の創作であろうか。
十亀宮司の像
境内にメガネをかけた銅像が立つ。江戸の末期には既に踏まれることもなくなった石鎚三十六王子社に再び光をあてた人物、石鎚神社宮司・十亀和作氏の像である。「石鎚信仰は里宮本社、中宮成就社と石鎚山奥宮頂上社からなる。その道中石鎚霊山にちなむ三十六王子社が祀られるが、現在は唯掛け声として唱えられている伝語であるが、両部神道(「仏教の真言宗(密教)の立場からなされた神道解釈に基づく神仏習合思想(Wikipedia)」)の名残をとどめ、将来も石鎚信仰から消え去ることはない。
しかしそれだけではなんの意味もなく、これを究明するのが責務。各方面からの要望もあり、往古役行者より代々の修験者の、足跡を足で歩いて直に踏み訪ねる(『石鎚信仰の歩み』)」と昭和38年(1963)に企画し、社蔵の古文書や、古老の口碑、各王子社に建つ昭和六年十一月と記した石標(大十代武智通定宮司の時代)を元に現地踏査し、「何百年かの間、時代の変遷とともに登山道が逐次変更され、一部の王子を除いて殆ど日の目を見ない辺鄙と化していたため、探し当てるのは容易でなかった」王子社を46年(1971)に調査し、昭和47年(1972)に『石鎚山旧跡三十六王子社』として発行された。今回歩く石鎚三十六王子社はこの調査の結果比定された王子社である。

アプローチ地点を探す

八大龍王社
さて、黒川道へのアプローチ地点を探す。弟が昔黒川道を上ってきたときは、展望台のあるスキー場第一リフト辺りに這い上がってきたようであり、沢筋を辿ったわけではないようで、第二十稚児宮鈴之巫王子社の横にあった八大龍王の御池の水が黒川の源流と云う事でもあり、八大龍王の祠周辺になにか痕跡はないものかとチェックに動く。
地形図で見る限り、八大龍王の裏手、スキー場第一リフト(普段はロープウエイから成就社に向かう観光リフト)から成就社に続く遊歩道の途中から、如何にも沢筋らしき切れ込みが丁度黒川を示す「実線」辺りまで続いている。遊歩道のどこからか下れる箇所を探したようだが、見つからなかった、と。
八大龍王社
神社の案内に拠ればその由緒には、「石鎚山中では〔水〕は大変貴重であり、ここ成就社では、往古より八大龍王神が水を司る神として奉斎されてきた。開山の祖、役行者の勧進とも伝えられる。


ご祭神故か女性参拝者も多く、厳しい天候の中も祈願を行う方が絶えない。脱皮から再生復活、水遠の命や若返りのご神徳、七生報国の由来ともされる。 古来の八大龍王社殿横には御神水の湧き出る泉がある。砲台地形の成就社境内での不思議の一つと数えられる。この泉は役行者が襖(みそぎ)をした、とも伝えられ、黒川谷の源流でもある。
昭和55年の成就社大火にて八大龍王社は焼失したが翌年再建立され、平成21年春には再び建立された。八大龍王社のおかげ話を始め、成就社大火後の御遷座時にまつわる不思議な出来事などは、現在でも当時の方かち直接伺い知ることが出来る。霊峰石鎚山 総本宮 石鎚神社」とあった。

本殿廻りの遊歩道から展望台に;12時37分
八大龍王社から本殿をグルリと一周する遊歩道もあるようだが、我々はその遊歩道の逆回り、本殿北端を崖下に注意しながら進む。ほとんど本殿裏といった場所を進み、スキー場第一リフト方面からの道が遊歩道に当たるところに小さな鳥居が建つ。



展望台に:11時52分(標高1414m)
遊歩道の鳥居に向かってスキー場リフト方面から家族連れが道を上ってくる。右手の崖から下りる道は無いかとチェックしながら進むが、そのような箇所は見当たらない。結局スキー場第一リフトまで進み、リフト職員に黒川道のアプローチを尋ねるが、崩壊地が多く通行止めとのこと。
弟にしてみれば、スキー場第一リフトに沿って斜面を下れば黒川道に出ることはわかっているのだが、通行止めと伝えられた職員の眼の前を、リフトに沿って下るわけにもいかず、昼食も兼ねて展望台で大休止することにして、別のアプローチ地点を探すことにしたようだ。
展望台から瓶ヶ森の美しい稜線を眺めながら、同行したご夫妻の奥様による手料理をごちそうになる。単独行の場合は、粒あんのアンパンか柿の種がメーンディッシュのわが身には、卵焼きなど誠に美味しい昼食となった。

展望台出発;12時26分
お昼を済ませ展望台を出発。黒川道への手掛かりは依然不明ではあるが、弟は成就社からロープウエイ乗り場までの遊歩道から下る道を探す方針だったようである。






黒川道を下る


黒川道アプローチ地点;12時50分(標高1,393m)
12時44分、成就社境内を離れ遊歩道を下る。5分程度お気楽に道を下っていると、突然弟が何か「ノイズ」を感じたらしく、道の左手の笹の中に入る。
しばし様子眺めの状態のあと、笹から姿を現し、「どうもこのルートらしい」と。僅かに踏み込まれた笹の中に、ルートを示す「誘導ロープ」を見つけたようだ。お見事。
アプローチが見つからなければロープウエイで下山という話もあり、膝に故障を抱えるわが身は、本心では「目出度さも中位なり」といった心持ではあったが、黒川道を下ることにする。

笹からガレ沢に;12時54分(標高1,355m)
下り口は一面の笹。笹の中の踏み跡を、時に誘導ロープに従い高度を50mほど下げると笹が切れ、ガレた沢に出る。水は何もないが、これが黒川の上流端辺りではあろう。





成就社への道標:13時7分(標高1,280m)
足元の危うい沢筋を10分程度下ると「成就社 愛媛の森林基金」が沢筋に立つ。標識の方向は下って来たルートを示している。後日衛星写真で確認すると、成就社の北、遊歩道とスキー場に囲まれた谷の自然林の中を下っていたように見える。



第一リフト交差;13時9分(標高1,278m)
道標から数分、ガレた沢を下ると前方にリフトが見えてきた。先に進むと道は リフトの下、防御カバーの下を潜る。リフトは先ほど休憩した展望台近くに続く第一リフトのようである。右手から下り左手で展望台方面に向かって上ってゆく。リフトのお客さんと軽口のキャッチボールを楽しみながら、数分の間は沢を離れルートを進む。

支尾根の間の沢に水管(標高1,165m)
リフト付近で落ち着いた道は黒川に近づき、少しの間沢に沿って進むが、次第に沢筋から離れ支尾根筋に向かう。リフト交差部から15分ほど歩き支尾根の間の小さな沢筋にかかると、沢を跨ぐ水管が現れる、水管は何処に向かうのだろう。




右手に黒川が滝のように下る;13時29分(標高1,125m)
支尾根の間に入り、黒川の沢筋から結構離れたため自然林に阻まれ姿を消していた黒川であるが、支尾根が合わさり、沢筋が消えたあたりで右手に現れる。まるで滝のように下っていた。
あまりに急勾配で下るため、当日は黒川とは思っていなかったのだが、メモの段階で地形図を見ると、黒川筋の等高線が狭まっていた。
道を左手から下り黒川に合わさる辺りに下りる途中に水槽らしきものがあった。先ほどの水管は一旦ここに貯められ、ここから更に下に向かって下っていた。

石組の道;13時35分(標高1,064m)
右手に近づく黒川の急勾配の沢を見遣りながら進むと、左手から沢筋が黒川道と交差する。水は少なく濡れた岩盤状で道に合わさるが、水が多ければ滝といった風情である。その先の捻じれた鉄板で沢を渡る。





右手が谷に切れ落ちた箇所を虎ロープで安全を確保しながら進むと、右手に滝が見えてくる。その滝を見遣りながら進むと石組みのしっかりした道が現れる。その石組みも一瞬で終える。






正面に滝が落ちる;13時39分(標高1,054m)
石組みの道から沢筋に下りる。眼前に滝が落ちる。これも当日は黒川に注ぐ支流の滝かと思っていたのだが、どうも崖を落ちる黒川そのもののようである。水量が多ければ、結構迫力のある滝であろう。







蔵王権現の石仏;13時55分(標高958m)
沢筋に下りてしばらくは、左岸のゆるやかな傾斜の道を進む。ただ、ガレ場、ザレ場が続き虎ロープが張られた足元の危うい道ではある。
(補足;地図の川のラインはトラックログの左にあり、右岸を進んだようになっている。左岸を下っているのは間違いない。弟のログも同じく右岸を進んでいる。2012年の黒川谷を上った時のログも右岸である。谷筋の電波状態と一言で片づけていいのだろうか。この規則的なエラーの原因が何か調べてみたいものである)

滝を正面に見た沢筋から15分ほど歩くと大きな岩壁があり、その前に石像が立つ。かつての行場跡のようだ。石像は蔵王権現の石像だろう。右足を上げたそのお姿は、石鎚の神と伊曽乃神(女神)とのエピソードを思い起こすと、結構微笑ましい。
石鎚大神と伊曽乃神(女神)
第十七女人返王子社のところでメモしたが、太古、石鎚大神がお山山頂に上る時、伊曽乃神(女神)が、いつまでも後を慕ってくる。霊山にて修行する石鎚大神は少々困惑し、再び会う日(12月9日)を約束し、修行のお山に登って投げる石の落ちた所で待ってほしいとお願いする。
が結局石鎚大神は、その約束を守らなかった。右足を上げた石鎚大権現(蔵王)の像もあるというが、それは約束を破られ怒った伊曽乃神が現れたとき、天に逃げあがろうとする姿といったお話もあるようだ。少々「出来過ぎ」の感はあるが、それであれば、それなりに「坐り」は、いい。

王子道の尾根筋が見える;13時58分(標高958m)
行者場を越える辺りから右手が開け、往路で王子社を辿った尾根筋が見える。位置から見て第十五矢倉王子社から第十六山伏王子社当たりの尾根稜線ではないだろうか。






崩壊地;14時10分(標高900m)
道は未だ落ち着かない。行者堂跡から先で道は沢筋から離れて行く。右手の谷が切れ落ちており、虎ロープのオンパレードである。進んだ後で振り返ると、崖がすっぱりと切れ落ちていた。崩壊地の上を迂回して進んだようだ。





成就社2.5㎞の標識;14時18分(標高894m)
崩壊地の先もザレ道、ガレ道にトラロープが張られる。トラバース気味に進んだ道が、等高線に沿って垂直に下る箇所の岩場に「成就社2.5㎞の標識」が 立つ。黒川道を1時間半ほど下ったが、まだ2.5㎞しか進んでいない。それより、崩壊地からこの木標まで地図ではほとんど距離がないのに、18分もかかっている。ガレ・ザレ場に難儀して距離が稼げていないようだ。

沢を渡る;14時41分(標高773m)
急な斜面を虎ロープを頼りに高度を60mほど下げた後、支尾根を巻くように進み、支尾根を廻り切った辺りで沢を渡る。地形図を見ると支尾根左側に切れ込んだ等高線が見える。そこからの沢水だろう。




成就社まで2,750m標識;14時45分(標高958m)
そのすぐ先に「成就社まで2,750m標識」が倒れていた。標識の前後は少し緩やかな道。黒川から比高差90mほどの処であり、黒川道の中では黒川から最も離れた箇所を進むことになる。





杉林が見えてくる;14時55分(標高673m)
緩やかな下りも、ほどなく等高線に垂直に70mほど自然林の中を下り、小さな沢を越えた先で杉林が見えてくる。植林地が見えると、里に近づいた気持ちになる。
道も踏まれたものになるかと思ったのだが、ガレ、ザレ、更に虎ロープの張られている箇所(15時4分)を越えた後、道は次第に落ち着き、15時17分頃には結構踏み込まれた道となる。

上黒川集落;15時25分(標高454m)
杉林の中を進む。道も結構踏み込まれて安定した頃、道脇に石垣が現れる。そのすぐ先、道の右手、左手に廃屋が残る。上黒川の集落跡だろうか。






今は数軒の廃屋と石垣、コンクリートの水槽などが残るだけではあるが、大正初期には黒川道を辿る登拝者のための季節宿が11軒もあったとのことである。






石灯籠とお地蔵様;15時34分(標高432m)
廃屋の地から5分ほど下ると道脇に石鎚山と刻まれた石灯籠が立ち、その傍にお地蔵様と小祠が祀られる。







「成就社 5.0km標識」;15時39分(標高400m)
踏み込まれた道を5分ほど進むと「成就社 5.0km」と書かれた木標と「成就社」の方向示す木標。3時間半ほどで5キロ下ってきた。残りはほぼ1キロか。






下黒川集落;15時42分(標高378m)
平坦な道を更に進むとほどなく、立派な石垣が現れる。その先には倒壊した廃屋が残る。下黒川集落跡ではないだろうか。この地にも大正初期には登拝者の季節宿が11軒あったとのこと。
「えひめの記憶」に拠ると、昭和33年(1958)の調査時点では黒川村(上黒川と下黒川集落からなるのだろう)に24世帯もあったとのこと。
この時点では季節宿は黒川村で7軒と大正初期から比べると減少しているが、その因は、登拝者の多くは成就社の宮川旅館や白石旅館や常住屋に泊まるようになっていた、とのこと。
半井梧菴の著「愛媛面影」に文久2年(1862)の登拝記が記されるが、そこには「(前略)板摺(虎杖)瀬と名づく。橋を渡って登ること十五町ばかりで下黒川村につく。今日は常住まで行きたいと思ったがそこは客を泊めることを許さない掟なるよし、さればとて此所に宿る」とあり、かつては成就社では一般客は宿泊できなかったようである。

下山;15時58分(標高237m)
下黒川集落の先もしばらく平坦な道を進み、虎杖(いたずり)に向けて突き出た支尾根を廻りこみ、そこからは等高線を斜め、平行、斜めとゆっくり虎杖に下りてゆく。右手に川が見えてみた。
当日は黒川かと思っていたのだが、河口に下る加茂川であった。舗装された県道142号道路に下りた時間は15時58分となっていた。4時間もの長丁場。踏まれた道は1時間弱、3時間ほどはザレ場、ガレ場を下る少々荒れた道であった。下山口には「成就社まで6km」の案内とともに、「通行止め」の標識が立っていた。

虎杖(いたずり)
下山口の虎杖集落の加茂川には虎杖橋が架かる。虎杖を「いたずり」と呼ぶのはなぜだろう?チェックすると、虎杖は「イタドリ」の中国での表記のよう。「イタズリ」は「イタドリ」の転化ではあろうが、それは我々が子供のときによく食べが「タシッポ」のことである。
野に生えるありふれた「イタドリ」が「虎杖」とは大層な、と思うのだけど、それは平安時代の清少納言も感じたらしく、「格別のことはないのに文字で表すと大袈裟になるものがあるとして、覆盆子(イチゴ)、鴨頭草(ツユクサ)、山もも(楊梅)などを挙げた後で、「イタドリ」は特に異様で「虎の杖」と書くようだが、虎は杖などなくても平気な顔をしているのに」と「虎杖」を挙げている。
「イタドリ」が虎杖と表記されたのは「茎が杖になり茎に虎の斑点があるから」といったその形状から、中国の人が斯く表記したとの説もあるが、日本で虎杖と同じ植物と比定され「イタドリ」とされたその由来は。この植物の根が虎杖根などと呼ばれ漢方で痛み止め、「痛取り(いたどり)」として重宝された故といった説もあるようだ。
イタドリとタシッポ
それはそれでいいのだが、我々が呼ぶ「タシッポ」と「イタドリ」の関係は? チェックすると、「イタドリ」の古名は「タヂイ(タヂヒ)」と呼ばれたことが日本書紀や古事記に記載されているとのこと。「多遅花は今の虎杖花(いたどりのはな)なり」と記される。蝮は「たぢひ」と呼ばれたようであり、中国と異なり虎のいない日本では、その斑点を蝮(まむし)と見たのだろか。
イタドリのことを近畿ではタジナ・タジンボ・ダンジなどと呼ばれるようだが、我々が子供の頃、酸っぱい茎を食べていた「タシッポ」も「タジヒ」の音韻転化の一つではあろう。

烏帽子岩;16時4分
下山口から虎杖橋の逆方向、河口方面に向かう加茂川対岸に巨大な岩が川床に屹立する。「天狗の屏風岩」とも「烏帽子岩」とも呼ばれるようだ。「烏帽子石あり其大さ立五間巾六間」ということで、おおよそ縦9m横幅11mといったもの。岩の後ろの山稜を借景に、誠に美しい眺めである。

横峰寺別院;16時12分(標高204m)
下山箇所から県道142号を10分弱歩き、黒川に架かる黒川橋を渡る(16時11分)と河口の集落に入る。道の右側に鳥居の建つ建物がある。同行の皆さんは何度も訪れているのだろう、そのまま通り過ぎたのだが、気になりメモの段階でチェックするとそこは横峰寺別院であった。鳥居が建つのは神仏混淆の名残ではあろう。
平成16年(2004)の台風で四国霊場60番札所横峯寺への道が寸断され参拝が困難となったとき、本院への登山林道が開かれる5ケ月は黒瀬峠の京屋旅館付近に仮札所・納教所を設けたが、後にこの別院に仮札所を移し、お遍路さんに便宜を図ったようである。
もっとも弟の記事に拠れば、平成24年(2012)の段階でも、虎杖からモエ坂を経て横峰寺に登る登拝古道は結構荒れたままのようである。

河口の車デポ地;16時12分
河口の種楽を抜け、今宮道取り付口の車デポ地に戻る。下り4時間半ほどの長丁場となっていた。
これで第一福王子社から第二十稚児宮鈴巫王子社までを歩いた。次回は西之川谷筋の第二十一番札所から第三十四夜明峠王子社まで。標高450mから1600mの比高差1200mほどの登りとともに、入り込んだ複雑な順路の「謎」が実際に歩けば少しは実感できるか否か、結構楽しみではある。積雪次第だが、できれば今年中に歩ければとは思う。
石鎚三十六王子社散歩の2回目は、往路は車を河口集落にデポし第七王子社から第二十王子社のある石鎚神社中宮・成就社まで比高差1200mほどを歩こうと思った。復路はロープウエイで下山し、バスまたは徒歩で車デポ地まで戻る予定であった。
弟の石鎚三十六王子社巡りの記事を参考に各王子社を訪ねるにしても、山中の王子社がうまく見つかるか、少々心もとなかったのだが、幸運なことに弟も一緒に行けるという。しかも、弟の山仲間3名(ご夫妻とご婦人)も同行するとのことである。
同行の皆さんは河口から成就社への参詣道である今宮道を歩いてはいるのだが、王子社登拝道は初めてであり、そのルートへの興味もさることながら、弟のサービス精神故か、下山は今宮道と同じく河口から成就社への参詣道である黒川道を下るというルーティングに惹かれたようである。
登りはともあれ、膝の故障を抱えるわが身には比高差1,200mほどの下りは少々厳しくはあるが、王子社の登拝道を登り、返す刀で参詣道を下る、ってイメージもなかなか、いい、ということで、皆さんと行動を共にすることにした。br>


本日のルート:河口(こうぐち)へ>今宮道参道:6時50分>三光坊不動堂跡:7時15分>第七四手坂黒川王子;7時16分>第八黒川王子社;7時17分>藁葺のお堂・今宮道から離れる;7時28分>第九四手坂王子社;7時33分>尾根筋に;7時40分>第十二之王子社;7時52分>第十一小豆禅定王子社;8時12分>第十二今王子社;8時24分>第十三雨乞王子社;8時59分>今宮道に出る;9時9分>第十四花取王子社;9時32分>水場:9時39分>第十五矢倉王子社;9時49分>第十六山伏王子社;10時22分>第十七女人返王子社;10時28分>スキー場に出る;10時40分>奥前神寺;10時50分>西之川道分岐;10時58分>第十八杖立王子社;11時1分>第十九鳥居坂王子社;11時9分>第二十稚児宮鈴之巫子王子社;11時16分

河口(こうぐち)へ
第七王子社から第十三王子社まで
本日は往復で9時間ほどの長丁場になりそう、ということで新居浜市内で午前6時集合。弟の山仲間の車に同乗し、5名で本日のスタート地点である河口に。河口は文字通り、西之川や虎杖・黒川の谷筋から下る加茂川の合わさるとことである。
石鎚のお山への登拝道はいくつもあったが、最後の上りは、この河口からの今宮道、今宮道に一部重なる三十六王子社登拝道、また、河口から少し西の虎杖からの黒川道を辿り、いずれのルートもお山中腹の「常住」、現在の石鎚神社中宮・成就社に向かうことになる。今宮道は西条藩領であり前神寺・極楽寺の信徒が、黒川道は小松藩領であり横峰寺信徒が利用したようである。

今は静かな河口集落であるが、かつては宿も3軒あったようで、登拝者で賑わっていたのだろう。大正末に開削が始まった県道も大正?年(1926)には、この河口まで伸びた。バスも昭和6年(1931)には河口までの運行をはじめたという(大正?年とか昭和4年との記事もあり、はっきりしない)。
バスの運行とはいうものの、昭和4年(1929)小松から河口まで走ったバスは6人乗りという。それもあってか、戦前は歩きが主流であったようだが、戦後昭和28年(1953)西条から西之川への定期便が開始されるようになると、昭和30年頃には歩く人はほとんどいなくなった(「えひめの記憶」)とのことである。 歩きがバス利用に替わっても、成就社への登拝道の取り付口が河口であることに変わりはなかったが、それが変わったのは昭和43年(1968)西之川の下谷から成就社間に開始された石鎚登山ロープウエイの運行。成就社の少し下、標高1300mまで7分32秒で行けることになった。こうなれば、よほど信仰深き人でなければ、河口から登拝道を4時間ほどかけて成就社まで登ることもなく、河口はお山への登拝道の取り付口としてのその役割を終えた。

今宮道参道:6時50分(標高199m)
河口からの石鎚三十六王子社の登拝道は、今宮道からはじめ、途中で三十六王子社道は尾根筋の険路に分かれ、標高950m辺りで再び今宮道に合流し成就社に向かう。
今宮道の取り付口は三碧橋を西之川方面にちょっと入ったところにある。県道に沿って斜めに登る参道には鳥居が建つ。県道の広いスペースに車をデポし散歩を開始する。
今宮道
今宮道がいつの頃開かれたのかはっきりとした資料は見つけられなかった。ただ、庶民がお山に登るようになったのは江戸の頃であろうから、その頃整備されていったのではないだろうか。
で、この今宮道は西条藩の領地であり、登拝者も前神寺、極楽寺の信者が登っていった道と言う。現在は住む人もなく廃墟となっているが、山中の今宮集落には昭和33年(1958)には32世帯が住み、そのうち12軒が宿を供していた(「えひめの記憶」)とのことである。集落の最盛期は大正の中頃とも言われるが、それでも石鎚ローウエイが開設される昭和43年(1968)までは宿の機能を果たしていたのだろう。
黒川道
今宮道と対をなす、もうひとつの登拝道である黒川道は小松藩領。横峰寺の信者が上って行った道と言う。昭和37年(1962)で24世帯、うち七軒が宿を供していたとのこと(「えひめの記憶」)。

丸八地蔵
鳥居のある参道に入ると道脇にお地蔵様。弟のHPに拠ると、今宮集落の守り神とある。今宮集落での最後の旅館が「丸八旅館」。その祖である長曽我部氏の家臣伊藤八兵衛が今宮の集落を開いた、とあった。

三光坊不動堂跡:7時15分(標高367m)
県道に沿って登る今宮道を進み、ほどなく右に大きく振れた道を進んだ後、尾根筋を少し外し気味に、高度を150mほど上げた辺りで再び道は右に大きく振れる。その道が再び尾根筋を巻き気味に左に曲がる辺りに倒壊した建物が見える。三光坊不動堂跡である。
三光坊は元讃岐のお武家さん。石鎚大神の信心故か、地元の人に尽くし、その後石鎚のお山に籠って修行三昧。修行の成果にと天狗嶽からダイブ。が、フライングハイとはならず、落下死とはなるが、不思議なことに外傷はなかった、とか。地元民はこれを嘆き、修行の地にお堂を建てて祀った、と。

第七四手坂黒川王子;7時16分(標高367m)
崩れたお堂の裏手は平坦な地となっており、王子社の幟(のぼり)が見える。第七四手坂黒川王子である。積まれた石板の上に石殿が置かれ、その後ろに赤い前掛けの王子石柱が立つ。

第八黒川王子社;7時17分(標高367m)
第七王子社の直ぐ裏手、崖手前に第八黒川王子社。積まれた石板の上に石殿が置かれ、その後ろに王子石柱が立つ。赤い前掛けはないが、第七王子社と同じ並びの王子社である。場所からみて、覗きの行場のようである。

それにしても、同じ場所に二つの王子社が並ぶ?『石鎚 旧跡三十六王子社』には第七王子社が第七四手坂黒川王とも黒川王子社(覗き行場)とも、第八王子社が第八黒川王子社とも今宮王子社とも記され、少々混乱している。
王子社の解説にも、ふたつまとめ「(前略)河口より今宮道を登ること八百米、曲がり角に椎の大木がある道の傍に木造の小さい祠が四手坂王子である。大きい祠が三光坊不動堂と云い、香川県坂出の行者三光坊(常盤下勝次郎)の霊を祀ってある。
その裏を少し行くと峙(そばだ)った岩があり、真向かいに黒川宿所を手に取る様に眺め、眼下に断崖幾十丈もあろうか雑木が生い茂り、黒川谷の水音が爽やかに聞こえる。この王子も覗の行場である。この二つの王子を昔から黒川今宮両社の王子と云い伝えられているが、更に次の第九番目を又四手坂王子と唱えている処に、今後尚研究の余地がある」とあった。
更に言えば同書には「今宮四手坂にあり、子安場王子実は第七四手坂王子、第八黒川王子と云い、細道を下るとすぐ県道河口線に出る。。。」ともあり、なにがなにやらさっぱりわからず、といった解説となっている。はてさて。

藁葺のお堂・今宮道から離れる;7時28分(標高397m)
7時20分過ぎ、王子社から今宮道に戻り、尾根から少し外れた道を歩き高度を50mほど上げたところの石垣に黄色と赤の王子社道標がある。道標の先には倒壊した建物と、その奥に藁葺のお堂が見える。この辺りから王子社の登拝道は今宮道から離れ尾根筋に向かうことになる。

『石鎚 旧跡三十六王子社』には「今宮字四手坂にある黒川今宮両社の王子社から登山道を登る事約二百米に四手坂行場がある。お山開き大祭の頃はこの休場で一休して登る。お山名物のトコロテンやアメユ等を売る掛茶屋である。一軒残った家も今は空家になっている。
この家は代々多郎左衛門を襲名する旧家で、当主も藤原多郎左衛門氏で現在は西条市に転居している。この家のすぐ上に地蔵堂があり、旧盆には今宮の部落民が盆踊りを夜を徹して踊ったものだが、今はほとんど絶えてしまったようである。
昔はこの地蔵堂が百米ほど上の森の中にあって権現堂と云い女人禁制であった。明治維新まで(神仏分離以前)は別当前神寺の上人が石鎚大権現門開祭を毎年三月三日この所に来て執行し、この祭りの常宿は藤原多郎左衛門宅であった。前神寺の上人が此の所に来るにも又お山に登るにも迎え送りは多郎左衛門が刀持ちとしていつも奉仕したと伝えられている」とある。
石垣の辺りには藤原多郎左衛門氏の屋敷があったのだろうか。また、倒壊した建物は掛茶屋?藁葺のお堂は地蔵堂跡であろう。

第九四手坂王子社;7時33分(標高420m)
お堂脇を等高線に平行に少し進んだ後、尾根に向かって10mほど上ったところに、まことにひっそりと王子社が佇む。石仏はなく、石殿と石柱、それと石殿左前に鉄の蝋燭立てのようなものが見える。
『石鎚 旧跡三十六王子社』には、「地蔵堂(私注;前述地蔵堂の百メートルほどの森の中の権現堂のこと?)の屋敷跡に、高さ一尺位の円筒様の鉄の祠が祀ってある。四手坂王子第九(私注:「第九四手坂王子」の誤植?)であると云われるが、一説では移転した地蔵堂ではないかともいわれている」とある。
鉄の蝋燭立てらしきものが、説明にある鉄の祠であろうか。また、当日は見逃したが、弟の記事には王子社を廻り込んだ右手上に、石灯籠など、神社跡らしき場所があったようだ。

尾根筋に;7時40分(標高436m)
第九四手坂王子社から20mほど高度を上げると尾根筋に出る。道は急登ではあるが「四手:四つん這い」になるほどのことはなかった。細尾根を進み高度を100mほど上げると王子社の幟が見えてきた。





第十二之王子社;7時52分(標高544m)
きちんと積まれた石板の上に王子社石殿、その後ろに石柱、石板の前には誠に小さな鉄の鳥居と、先ほど見た鉄の祠が置かれる。またお札を入れる真新しいステンレスの箱も置かれている。
『石鎚 旧跡三十六王子社』には「今宮字四手坂王子から約三百米ほど上に楢、椎樫の大木が繁茂し、眼下に黒川宿所を又目を転じると河口三碧峡あたりを眺め、実に風景絶佳日の暮れるのを知らぬほどである。
小さい鉄の鳥居と鉄の桐が祀ってある。昔は河口より今宮へ峰伝ひに登山道があり至って急坂でこの附近一帯を四手坂と名付けられた訳は、急坂を両手両足で四つんばいになって登ったことから、四手坂と呼ぶ様になったものと考えられる。今は四手坂の休場から斜めに今宮へ道が改修されているので二の王子へは細道はあるけれど人通りもなく、置き去りとなり今宮の人でさえ知らぬ人が多い様である」とある。
右手の黒川谷側は崖。木々が茂りそれほど見通しはよくない。また、説明にある「目を転じると河口三碧峡あたりを眺め、実に風景絶佳日の暮れるのを知らぬほどである」は、植林のためか、まったく見晴らしはきかなかった。

第十一小豆禅定王子社;8時12分(標高656m)
左手に植林、右手崖に自然林の間の岩場の多い尾根筋を20分ほど歩き、高度を120mほど上げると王子社の幟が見える。途中鎖場もあった。
尾根筋からの黒川谷の眺めは木々の間から、というものであったが、この王子社辺りは右手が開け、いい眺めが楽しめる。
王子社石殿は尾根筋下に向かって立つ。また、王子社石柱は、いままでの石柱のように柱に像が刻まれたものではなく、頭部が像の形に彫られていた。

『石鎚 旧跡三十六王子社』には「今宮にある、二之王子から矢張り、峰伝いに約二百米位登ると、老松の大木が枝を張りその周囲に小松や雑木が密生し、一つの森を形成しているが祠のようなものは一物も見当たらない。神厳な森そのものが小豆(おまめ)禅定王子である。
ものもらい(目いぼ)が出来ると、この王子へ来て小豆を供へ石鎚大神に願をかけ、その小豆一粒を目いぼにあてて落とし「小豆かと思ったら目いぼが落ちた」と唱えて後を見ず帰ると必ず目いぼが治ると伝へられている」とある。

「祠のようなものは一物も見当たらない」この地を王子社としてどのようにして比定?同じく『石鎚 旧跡三十六王子社』の真鍋充親氏の紀行文には「(前略)磐場がある。ここに第十一小豆禅定王子社のあととみられる岩場に絶好の社あとをみつけて一行はここだと声をあげる。そして祭りをはじめる。だれいうとなしにこの王子社のあとを確定し、はっきりしたまつり場所を設けておこうということになり、各人二ヶ三ヶと石を運んでくる。そして小さな岩場ができあがった」と記されている。斯くして王子社を比定したということだろう。

第十二今王子社;8時24分(標高705m)
この王子社は主尾根筋から離れた支尾根にあった。第十一王子社を離れると大岩が現れ、道標に従い岩を左に迂回し、そのまま支尾根に向かって少々荒れた植林の中を横懸けに50mほど登る。第十二今王子社は支尾根乗越しの平場にあった。石組の上に王子社石殿とその後ろに石柱。ステンレスのお札奉納箱の組み合わせの王子社であった。
『石鎚 旧跡三十五六王子社』には「今宮にある、小豆禅定王子から四百米ほど登ると、楢、しでの大木が2畝位に茂っている。今宮部落の西方の屋根を廻り五百米位の所である。この王子も祠も何もないが、展望台のようである。今は薪取りや山の手入れをする人の外は人足も少なく、狸が住んでいると云う。土地の人は(いまおやじ)と呼んでいる」とある。

ここも如何にして王子社と比定したのか?第十一王子社と同じく『石鎚 旧跡三十五六王子社』の真鍋充親氏の紀行文には「今王子社と書かれた石標を見つけた」とあった。祠はなけれど石柱があった。ということだろうか。 それはともあれ、続いて「大きな自然林が四囲をはばんでいたが、この高い嶺は凡くもっと往古もっといろんな祭祀、祈祷の行場として登場したのではなかったかと思われた。(中略)相当にひろい敷地はいろんな修験行事をおこなうに適当だったと考えられる」と、行場の可能性を記していた。

第十三雨乞王子社;8時59分(標高834m)
第十二王子社は再び主尾根筋に戻る。支尾根から少々荒れた植林地帯の中、岩や倒木の間を縫って稜線を巻き気味に100mほど高度を上げると、一転穏やかな尾根筋の平場の道となる。





第十二王子社から30分程度で第十三雨乞王子社に。王子社石殿、石柱、ステンレスのお札奉納箱の王子社であった。『石鎚 旧跡三十六王子社』には「今宮にある。今王子から尾根を登る事五百米、坂はけわしく、たどれば細い道はあるが雑木雑草が生い茂り通れない。
一旦今宮部落に出て登山道乳杉の林を抜けて曲がり角の附近から山道を登り尾根に至ると、廻り丈令の栂の大木数本あり、境内もよろしく見晴らしも良い。元金比羅社を祀ってあったが明治四十二年神社合併の時、今宮の氏神三倍神社へ合祀され、今はお社の跡のみ残っている。この王子は昔旱天の時土地の人々が集まり、石鎚大神に雨乞いすると雨が降ったと云う。今宮部落の人はこの雨乞王子を雨降(あまもり)と云っている」とあった。
同書では一旦今宮部落に下りた後、この王子社に向かっているが、王子道標は直接尾根筋に向かっていたため、我々は直接尾根筋に向かった。金毘羅さんを祀っていたとのことだが、特段それらしき痕跡を見ることはなかった。

今宮道に出る;9時9分(標高867m)
第十三雨乞王子社からしばらく標高840mに沿った平坦な植林の道を進む。その後30mほど等高線に垂直に上り、標高870m沿って進むと今宮道に出る。今まで辿った王子社道とは異なり、よく踏まれてあり、快適な登山道となっていた。



第十四花取王子社;9時32分(標高981m)
踏み込まれ掘れ込んだ今宮道は尾根筋を巻くように緩やかに登る。「河口(今宮登山道) 成就」などと書かれた道標を見遣りながら20分強進み、笹が現れる左手に王子社が見えてくる。第十四花取王子社である。




王子社石殿とお顔が彫られた石柱とお札奉納箱。石柱の少々いかついお顔が印象的。王子社の後ろは細尾根が下っている。『石鎚 旧跡三十六王子社』には、「今宮登山道にある。雨乞王子から再び乳杉上の参道に出て、登ること約八百米、ちょっとした尾根の曲がり角がり、そこ5花取場王子である。森らしいものも石像もない。仏者が管理していた頃、石鎚山の祭典に捧げる華(しきび)取った所と伝へられている。今に香華の木がある。十年ほど前に或る行者が占いたるところ、この王子の付近に往時、仏者がお山参りには不要といって小判を埋めてあると云うので、人夫十数人を雇い掘ったが何一物も見つからなかった。察するに高山では香華が育たないのでお金の様に、貴重なものと云う意味ではなかろうか」とある。
また同書の真鍋充親氏の紀行文には、「石標はあるが祭祀の場は見つからない」に続いて、「一行は石標のある一帯を探る。(中略)「かくされた黄金」を求めて、大規模な発掘をしたという崖を求めて歩きまはる。埋蔵金のありかなど勿論みつからなかった」と記されていた。

水場:9時39分(標高1,022m)
道を進むと大きな木の下、岩の間から水が浸みだす。『石鎚 旧跡三十六王子社』には「花取王子社から登る途中に岩の間から清水が流れている。今宮登山道では唯一の水飲場である」とある箇所ではあろうが、水量は少々乏しかった。



第十五矢倉王子社;9時49分(標高1,065m)
第十四王子社から尾根筋を巻き気味に高度を100mほど上げる。木々の間から瓶ヶ森方面だろう山々が顔を出す。少し先に進むと崩壊した建物があり、その先に王子社がある。第十五矢倉王子社である。
石殿、石柱と共に、この王子社にはお地蔵さまが佇む。また、石殿の右手には神社の手水場のような石造りの遺構が残る。
『石鎚 旧跡三十六王子社』には、「そこ(私注:水飲場)を過ぎて凡そ三百米位にして矢倉王子に至る。大杉の元に石像が安置されている。石鎚山開祖石仙上人が初めて石鎚山に登り神在りますことを明らかにせんと、久しくこの処に参籠し祈念したと云う。それは四手坂の藤原多郎左衛門氏方に、石仙菩薩尊像記の古記録として残っている。ここからは南に瓶ヶ森の高原を、その下方に西之川部落を眺め、北は連なる山々を越えて瀬戸の内海が見える。至って眺望のよい処である。夏山の季節には茶店が出された。吹き上げて来るは涼風は夏知らずと云う」とある。
同書、真鍋充親氏の紀行文には「大きな杉のもとに地蔵尊が赤ちゃけた前掛けをかけて坐しておられる。その温顔は遥か西之渓谷の真上に雪をいだく瓶が森にむけられていた。瓶が森に今も石土信仰を奉拝する人々があることとのかか わりが偲ばれる」とあった。倒壊した建物は茶屋のようである。
矢倉王子社はなんとなく、王子社の中でも「特別感」のある場所であったように思えるが、瓶ヶ森にしろ、何にしろ、植林のため同書に記載の如き眺望は全く、ない。

石仙上人
第十四王子社から第二十王子社まで
石仙上人については第一福王子社でメモしたが、ここで再掲;
石仙高僧とは前神寺、そして横峰寺の開基とされる高僧である。「えひめの記憶;愛媛県生涯教育センター」に拠れば、「石鎚山のことが最初に見えた文献は『日本霊異記』(年間成立弘仁八一〇~八二四)である。それによると寂仙という浄行の禅師がいて石鎚山で修行し、人々から菩薩とあがめられていた。寂仙は天平宝字二年(七五八)自分は死後二八年後に国王の子に生まれかおり、神野と名づけられるであろうとの言葉を残して死亡した。その予言通り桓武天皇に皇子が生まれ神野親王と名づけられたので人々は寂仙の生まれかわりと信じた。
この転生説話は当時広く信じられていたらしく、『霊異記』より約六〇年後の元慶二年(八七八)に撰せられた『文徳実録』にも類似話を載せている。しかし、ここでは転生したのは灼然という高僧の弟子上仙ということになっている。彼は高山の頂に住み、精進して師の灼然に勝って諸の鬼神を自由に使役した。彼は常に天子に生まれたいと願っていたが、その臨終に及んで人々に告げ「われもし天子に生まれたら郡名をもって名字にする」と予言して死んだ。ところが同郡橘の里にあって上仙を供養した橘の躯というのがあったが、上仙の跡を追い、来世での転生を希望して死んだ。神野親王(嵯峨天皇)とその妃橘夫人(檀林皇后)はそれぞれの後身である」といった記事がある。

『日本霊異記』では「寂仙」、『文徳実録』では「上仙」とあり、また寂仙に音の似通った「灼然」が登場するなど少々混み入ってはいるが、第一福王子に登場する「石仙」とは、「寂仙」とも「上仙」とも比定される。名前はともあれ、石仙とは役小角が開いたお山を修験の地となした奈良中期の修験僧のようだ。石鎚のお山に熊野権現を勧請した芳元と同時代の僧とのことである。
石仙はお山に籠もって修行に努め「菩薩」とまで称えられた。登拝路を開き、横峰寺(四国八十八番札所六十番)、前神寺(四国八十八番札所六十四番)を開き、石鎚のお山を神と仏が渾然一体となった神仏習合の霊地として、明治の神仏分離令まで続く石鎚信仰のベースをつくりあげた高僧のようである。石鎚のお山を深く信仰した人々は桓武天皇、文徳天皇といった天皇から、源頼朝、河野一族、豊臣家といった武家など数多い。

なお、前神寺や横峯寺の開基縁起に登場する石仙(寂仙・上仙)が所属していた寺院は、小松の法安寺とされる。聖徳太子の伊予行啓の際に創建された寺院の境内に残る遺構・礎石跡は国指定史跡となっている。

第十六山伏王子社;10時22分(標高1,209m)
第十五矢倉王子社から尾根筋を巻き気味に30mほど登ると、ほとんどフラットな尾根筋に入る。その尾根道もほどなく次第に急な上りとなり、ジグザグに60mほど高度を上げると再びフラットな尾根筋となる。

その道脇に王子社への入り口の鉄柱があり、それを目安に尾根道を離れ少し下り気味に、西に突き出た細い支尾根突端部に向かうと、そこに王子社があった。 松の大木を後ろに、石殿と石柱が並ぶ。第十六山伏王子社である。

『石鎚 旧跡三十六王子社』には「矢倉王子から参道を約一粁(キロ)登ると、栂の大きな自然木が枝を張っている。ここから小道を右に向って、尾根を約二百米ほど行くと、岩山に森があり中に五葉松の大木がある。眼下は幾十丈の断涯(だんがい)で遥かに右下方に黒川宿所が絵図の様に見え、真下に黒川登山道の行者堂を見下ろす。別当寺管理の頃、天台宗の各坊が石鎚登山に際し山伏等此の行場で一夜籠もって、心を改め身を清めて登山したと言うが社殿の形跡はない。即ち(山に伏す)野宿の行場であろう」とある。
高所恐怖症の我が身は、断崖端に行き黒川の谷筋を見下す気にはなれないが、五葉の松を配したこの王子社のロケーションは、いい。

第十七女人返王子社;10時28分(標高1,217m)
山伏王子社から今宮道に戻るとすぐ先に女人返王子社がある。王子社石殿と石柱、お札奉納箱、そしてお賽銭箱らしきものも供えられていた。
『石鎚 旧跡三十六王子社』には、今宮登山道にある。山伏王子から元の道へ引返すと、前記の栂の大木の処が十米位横道になっている。そのすぐ上が女人返しの王子である。此処にも祠らしきものは見当たらない。明治初年迄、女人はこの王子まで登り遥拝し之より上は登山を禁じた所と云う」との説明に続けて、 女人返しの由来が語られている。
少々長いので、大雑把にまとめると、「その伝説に、太古、石鎚大神がお山山頂に上る時、伊曽乃神(女神)が、いつまでも後を慕ってくる。霊山にて修行する石鎚大神は少々困惑し、再び会う日(12月9日)を約束し、修行のお山に登って投げる石の落ちた所で待ってほしいと願う。が、約束の日はあいにくの大雪で会うことができなかった、と。
石鎚大神が投げた石が落ちたところは加茂川橋の北の岡。伊曽乃神社表参道入り口大鳥居の処には、その大石が保存されている、とのことである。

ふたりの神のお話、地元に伝わるお話ではあろうが、投げ石の話はそれはそれなりにわかるのだが、「大雪で会う事ができなかった」の件(くだり)は何を 言いたいのかさっぱりわからない。だからどうなの?が抜けており、なんとなく「坐り」がよくない。
あれこれチェックするとこの話にはバリエーションがあり、石鎚大神が訪ねて行くと約束しながら、その約束を守らなかった、といったものもある。右足を上げた石鎚蔵王大権現の像もあるというが、それは約束を破られ怒った伊曽乃神が現れたとき、天に逃げあがろうとする姿といったお話もあるようだ。少々「出来過ぎ」の感はあるが、それであれば、それなりに「坐り」は、いい。

スキー場に出る;10時40分(標高1,275m)
第十七女人返王子社から緩やかな上りを10分ほど、高度を40mほど上げると平場の道になりスキー場リフトが目の前に現れる。その脇を抜けるとスキー場のゲレンデが広がる。
土径がゲレンデに出る辺りに「今宮登山道 河口まで6,0km」と書かれた道標が立つ。ゲレンデの遙か彼方に見える瓶ヶ森から笹ヶ峰への稜線が美しい(注;山は詳しくないので、カシミールの「カシバード」で確認)。
スキー場に出たといっても、道は木々の間を進む。上下2箇所あるゲレンデの間の道を進んでいるようである。道脇には「今宮道 成就まで1km」の道標も出てきた。目的地まで指呼の間である。





奥前神寺;10時50分(標高1,033m)
道を進み奥前神寺に。石鎚ロープウエイから成就社に向かう道の途中に建つ。少々簡素な造りではある。明治の神仏分離令により、現在の石鎚神社中宮・成就社となっている山岳修験の拠点「常住」を含め、寺所管の土地建物など一切が没収された石鎚大神の別当寺前神寺が、寺に復した後に建てたもの。一時河口集落に造られたが、ロープウエイの開通にともなう人の流れの変化に対応し、この地に移したようである。
7月1日から10日までの石鎚お山開きは、現在前神寺所管の土地建物を引き継いだ石鎚神社がその主体となり三種のご神像(仁・智・勇)を本社から成就社を経て頂上社へお祀りする神事が行われているが、前神寺でもこの期間「石鎚蔵王権現」三体を里前神寺からこの奥前神寺まで持ち上げる盛大な仏事が行われる、と。

西之川道分岐;10時58分(標高1,352m)
緩やかな道を高度を50mほど上げると、左下から西之川道が合流する。石鎚ロープウエイのある下谷から少し上流から上ってくる。「次回は西之川道ですね」などと話し合っているのを他人事として聞いていたのだが、メモする段になって、王子社の第二十一番は、一旦西之川の谷筋まで下りて再びお山へ登ることがわかった。尾根筋を石鎚山の弥山へと登って行くのだろうと思い込んでいたのだが、結構ショック。




第十八杖立王子社;11時1分(標高1,365m)
西之川道分岐からほどなく第十八杖立王子社。王子社石殿、石柱とお札入れのセットである。
『石鎚 旧跡三十六王子社』には「今宮参道上にある。成就社下の西之川へ下る三叉路の上の森にあって明治初年まで参詣者はお山杖をこの王子に立ておき、勇気を振って無杖で登山するのを例としていた。沢山の杖がまちがわず一本として紛失する事がなかったと云う」とあった。



第十九鳥居坂王子社;11時9分(標高1,413m)
第十九鳥居坂王子社は成就社へ向かう道からはずれる。『石鎚 旧跡三十六王子社』の真鍋充親氏の紀行文には「成就社東遊歩道は近年つくられたものである。原生林の中に古い登山道が残っていた。その古い登山道をゆくと成就の東の山頂に至る、そこを鳥居坂と称し、王子社が祀られている。第十九鳥居坂王子社である」と記される。

杖立王子社から2分程度で「第二園地入口」の道標があり、そこを左に折れると自然林と笹の美しい景観の中に入る。この道が真鍋氏の記す「古い登山道」だろう。鳥居坂王子社は巨木を背に、王子社石殿、石柱、お札入れのセットで並んでいた。
『石鎚 旧跡三十六王子社』には「成就社東の山頂にある。明治の末期まで杖立王子から上へ登りついた山頂(現在の白石別館の上の方)鳥居があった所である。今の成就社の神門はここより現在地に移転したがこの神門は文政天保の頃、別当前神寺と横峰寺が成就社の境内争いをした時に、前神寺が建立したものと云う」とある。

前神寺と横峰寺の争いは既にメモしたので、ここでは簡単にまとめると;共に石鎚のお山信仰の別当寺ではあるが、前神寺の山号は「石鉄山」、「仏光山」を山号とせよとの裁定に不服の横峰寺が「石鉄山」山号を冠することを求め続けたことが争いの根にあるように思う。
上のメモに「文政天保の頃、別当前神寺と横峰寺が成就社の境内争いをした時」とあるが、これは上記紛争の延長戦上の事件。小松藩領千足山村の者による常住社(現在の成就社)打ちこわし事件が起こっている。この地は小松藩と西条藩の境界であり、千足山村の言い分は、常住(奥前神寺)は小松領であり、西条藩の前神寺は不当、ということでの打ち壊し事件である。お山信仰の正当性を主張する「山号」紛争から、小松藩・西条藩の領地争いへとなっている。で、幕府の裁定は、成就社の地所は千足村、別当職は前神寺と。単なる問題先送りといった裁定のように見える。
この鳥居坂王子の辺りに前神寺が鳥居を建立したのは、こういった事情も踏まえたものだろう。この山頂はは西条藩の領地ではあったのだろう。

第二十稚児宮鈴之巫子王子社;11時16分(標高1,402m)
鳥居坂王子社のあるピークから20mほど下り、成就社の大きな鳥居、さらには境内にある小振りな鳥居(これが二の鳥居?)を抜けて拝殿に御参り。拝殿左手にある弥山遥拝殿の右手、八大龍王の祠の傍に第二十稚児宮鈴之巫子王子社があった。王子社石殿、石柱、お札奉納箱のセットではあるが、なんとなくとってつけたような雰囲気ではある。
『石鎚 旧跡三十六王子社』には「海抜1450米の中宮成就社にある。本殿と並ぶ石標が王子である」と記されるが、その由来は記されてはいない。また、王子社の写真も、木の切り株と石柱が写るだけである。
同書の真鍋充親氏の紀行文にも「成就社神殿裏の(中略)この王子社の尊称と、その出緒に就いては詳しいことは三十六王子調べ(私注;亀宮司の王子社解説)にもかかれていない。しかし(中略)石碑はいたく凍りついて(中略)怪しく輝いて拝された」とある。

この王子社はわからないことが多い。まず、場所も十亀宮司は「本殿と並ぶ石標」とあるが、真鍋氏は「神殿裏」とある。これは単なる表現の違いなのだろうか。
次いで、十亀宮司解説の稚児宮鈴之巫子王子社の写真には、他の王子社にある王子社石殿が写っていない。各王子社の石殿は、昭和51年(1976)に王子社石殿奉納事業として信者の奉参により建立されたものであり、昭和46年(1971)、十亀宮司一行の踏査行の時にはなかったのだろうが、この小冊子が昭和62年(1987)に第三版が発行されるときに、他の王子社は石殿も配した写真に取り換えているようだが、この王子社にはそれがない。同書の石殿奉賛事業のページには石殿が写っているので、単なる凡ミス?
また、石柱もそうである。切株とともに写る石柱は他の王子社のそれに感じる古き趣がない。昭和6年(1931)第十代武智通定宮司の時代に建てた石標とは思われない。昭和55年(1980)に成就社が大火焼失したとのことであるが、その時に古き石柱、そして昭和51年奉納された石殿も一時行方不明となったのだろうか。単なる妄想。根拠なし。

いろいろわからないことが多いこの王子社であるが、上記真鍋充親氏の紀行文では、そもそも、この王子社の尊称も不明の様にも読める。「稚児宮鈴之巫子王子」って、いかにも熊野権現の分身として出現する「王子」の由来である御子神のイメージ、それに鈴とか巫といった「神社」のイメージを重ね合わせたネーミングのように見える。この名称は十亀宮司が比定した場所と名称であるが、その他の説には、成就社に「八大龍王王子社」といった名称もある。よくわからない。
あれこれの考察は必要とは思うのだが、今回のメモはわからないことばかりの第二十王子社でメモを終える。成就社から黒川道を下るメモは次回に廻す。
「石鎚三十六王子」という言葉の響きに誘われ、お気楽に歩いたものの、いざメモする段階で常の如くあれこれ気になることが登場し、頭の整理に少々メモが長くなり、先回のメモは石鎚王子社まつわるあれこれで力尽きた。

今回は黒瀬峠近くの第一王子社から河口集落の第六王子社までメモする。河口から石鎚山腹の成就社向かう厳しい尾根筋の登りではなく、加茂川の左岸・右岸を、おおよそ県道に沿って50mから100mほどの比高差の道を進むルートであり、のんびり・ゆったりと進める。
但し、単独行であり、第一王子社から第四王子社まで加茂川左岸を進み、千野々集落で一度県道に下りて車デポ地まで5キロほど戻ることになる。また、第五王子社から第六王子社も同じく土径を歩いた後、車デポ地まで県道を数キロ戻るが、致し方なし。


本日のルート;
第一王子社から第四王子社まで
黒瀬峠>一の鳥居>黒瀬峠傍に車デポ>第一福王子社>上の原地区を進む>沢が切れ込む箇所に>「七曲り」を下り沢に出る>沢から拝礼道に登る>第二桧王子社>極楽寺分岐>極楽寺>植林地帯を進む>第三大保木王子社(覗の王子)>ザレ場を下る>第四鞘掛王子>県道に下りる
車デポ地に戻る
仙徳寺>極楽寺別院>西南日本中央構造線の黒瀬断層>車デポ地に
第五王子社から第六王子社まで
第五細野王子社に向かう>古長河内神社>細野集落への分岐道>細野集落跡>道が荒れてくる>迫割禅定>第五細野王子社>沢のガレ場を下る>第六子安王子社>ガレ場を下りる>旧県道の隧道>三碧橋


黒瀬峠傍に車デポ
黒瀬峠の切通し、一の鳥居を見終え、第一福王子社に向かう。第一福王子社は県道12号をほんの少し進み、山側・右に分岐する道、四国霊場60番札所・横峰寺に通じる平野林道に入ってすぐの「京屋旅館」傍にあるとのこと。
車で京屋旅館辺りまで進むが、横峰寺への小型バスへの乗替場のようなバス停のある広場があるのだが、なんとなく私用地のようで、車をデポする雰囲気でもない。
仕方なく、道を戻り、県道12号と県道142号の切通の出合い手前にある県道の広いスペースにデポすることにした。

長谷地蔵尊
車デポ地を探していると、県道142号が県道12号に合流した切り通しの少し先、派手なペンキが塗られている建物の傍にお地蔵様が見えた。「長谷地蔵尊 遷座記念碑」とあり、「石鎚旧跡 長谷地蔵尊は石鎚山表参道の入口の要衝黒瀬峠にいたる長谷の地に鎮座し永くこの世と浄土の境を守りしあわせを導くお地蔵様としてその信仰を集める。
時移り車社会となり谷底に淋しく立つお地蔵様を悲しく思い(中略)第一王子目前のこの地に遷座す。平成十七年」とあった。
詳しい経緯は不明だが、県道開削に伴い古の登拝礼道に取り残されたお地蔵様を地元篤志家がこの地に遷座したもののようである。

第一福王子社
石鎚三十六王子社の最初の王子社は横峰寺へ続く平野林道にはいってすぐ、「京屋旅館」と林道を挟んだ山側に道に面した竹藪の中にある。
お堂の中には割りと大振りなお地蔵さまが祀られ、その前に王子社を示す「石殿」が置かれている。お堂の左手に王子社石柱、右手には「第三十一番 千手十一面聖観音」が建っていた。「第三十一番 千手十一面聖観音」の由来は不明。西条四国三十三観音霊場とも合致しない。思考停止し、本題に戻る。

『旧跡三十六王子社』には「昔石仙高僧が石鎚山登山しようとして、ここに来たり遥かに石鎚大神を拝し、一夜を野宿した。その時夢枕に福の神が現はれ、願望達成を示され一心に祈願をしたと伝へられる。世人福の字をとりて福王子と唱う」とある。

石仙高僧って誰?チェックすると、石仙高僧とは前神寺、そして横峰寺の開基とされる高僧であった。
「えひめの記憶;愛媛県生涯教育センター」に拠れば、「石鎚山のことが最初に見えた文献は『日本霊異記』(年間成立弘仁八一〇~八二四)である。それによると寂仙という浄行の禅師がいて石鎚山で修行し、人々から菩薩とあがめられていた。寂仙は天平宝字二年(七五八)自分は死後二八年後に国王の子に生まれかおり、神野と名づけられるであろうとの言葉を残して死亡した。その予言通り桓武天皇に皇子が生まれ神野親王と名づけられたので人々は寂仙の生まれかわりと信じた。

この転生説話は当時広く信じられていたらしく、『霊異記』より約六〇年後の元慶二年(八七八)に撰せられた『文徳実録』にも類似話を載せている。しかし、ここでは転生したのは灼然という高僧の弟子上仙ということになっている。彼は高山の頂に住み、精進して師の灼然に勝って諸の鬼神を自由に使役した。彼は常に天子に生まれたいと願っていたが、その臨終に及んで人々に告げ「われもし天子に生まれたら郡名をもって名字にする」と予言して死んだ。ところが同郡橘の里にあって上仙を供養した橘の躯というのがあったが、上仙の跡を追い、来世での転生を希望して死んだ。神野親王(嵯峨天皇)とその妃橘夫人(檀林皇后)はそれぞれの後身である」といった記事がある。

『日本霊異記』では「寂仙」、『文徳実録』では「上仙」とあり、また寂仙に音の似通った「灼然」が登場するなど少々混み入ってはいるが、第一福王子に登場する「石仙」とは、「寂仙」とも「上仙」とも比定される。名前はともあれ、石仙とは役小角が開いたお山を修験の地となした奈良中期の修験僧のようだ。前述の熊野権現を勧請した芳元と同時代の僧とのことである。
石仙はお山に籠もって修行に努め「菩薩」とまで称えられた。登拝路を開き、横峰寺(四国八十八番札所六十番)、前神寺(四国八十八番札所六十四番)を開き、石鎚のお山を神と仏が渾然一体となった神仏習合の霊地として、明治の神仏分離令まで続く石鎚信仰のベースをつくりあげた高僧のようである。石鎚のお山を深く信仰した人々は桓武天皇、文徳天皇といった天皇から、源頼朝、河野一族、豊臣家といった武家など数多い。
なお、前神寺や横峯寺の開基縁起に登場する石仙(寂仙・上仙)が所属していた寺院は、小松の法安寺とされる。聖徳太子の伊予行啓の際に創建された寺院の境内に残る遺構・礎石跡は国指定史跡となっている。

山岳信仰・山岳仏教・修験道
山岳信仰とか、山岳宗教とか、修験道とかややこしい。ちょっとまとめておく。神奈備山とは、神が宿る美しい山ということ。往古、人々は美しい山そのものを信仰の対象とした。「山岳信仰」の時期である。その時期は平安時代に至るまで続く。南都の仏教では、山で仏教修行をする習慣はなかった。山に籠もり修行をした役小角などは「異端者」であったわけだ。伊豆に流されたということは、こういった時代背景もあったのだろう。
「山岳信仰」ではなく、所謂、「山岳仏教」が始まったのは平安時代。天台宗と真言宗が山に籠もって仏教修行をすることを奨励しはじめてから。深山幽谷、山岳でこそ禅定の境地に入ることができる、密教故の呪術的秘法体得ができる、とした。
Google Earthで作成
「修験道」はこの天台宗や真言宗といった山岳仏教を核に、原初よりの山岳信仰、道教、そして陰陽道などを融合し独特の宗教体系として育っていく。修験者の本尊は蔵王権現。石鎚だけでなく、加賀白山、越中立山、大和大峯山、釈迦岳(一部では月山とも)、駿河富士、伯耆大山など、全国に霊地が開かれていったのもこのころだろう。
室町期にはいると修験道は天台系と真言系のふたつの組織として体系化する。天台系は本山派と呼ばれる。近江の園城寺が中心。一方の真言系は当山派と呼ばれる。伏見の醍醐寺が中心となる。近世の徳川期には修験者はこのどちらかに属すべしとなり、明治の神仏分離令まで続いた。
熊野などの山岳修験の地、秩父の観音霊場など、散歩の折々には園城寺系本山派の事跡に出会うことが多かった。役の行者の開山縁起は、この園城寺派の活発な布教活動に負うことが大、とされる。本山派が「このお山は役の行者が開山の。。。」といった縁起を創っていった、とか。役の行者の石鎚開山縁起ができたのも、この室町末期のころだろう。

第一王子社で夢に登場した石仙を「深堀り」し、ちょっとメモが長くなった。とっとと先を急ぐことにする。

林道を進む
第一福王子社から第二桧王子社に向かう。県道に沿って比高差70mほどの「平野林道」から眼下に黒瀬ダムを見下ろす。ふと、昔の西条や氷見からの県道って、どの辺りを進んでいたのだろう。気になってチェックすると。
旧県道
大雑把ではあるが、西条からの旧県道はダムの下までは現在発電所のある、現在の県道よりちょっと下を通る。ダム手前には旧県道の手堀り隧道がふたつ残っているようだ。
その先も現在の県道より少し下を進み、現在の県道とほぼ並行して先に続いていたようだ。また、黒瀬峠に登ってきた氷見からの県道は、黒瀬峠で左に大きく振れ、ヘアピンカーブで曲がった後、西条からの県道に合流する。場所は半円を描いて進む現在の県道がダム湖に突き出た箇所で大きく方向を変える箇所の少し北のようである。

沢が切れ込む箇所に
平野林道と並行して進んでいた県道も、東に大きく離れるあたりで、林道も沢に沿って大きく迂回する。その箇所には古びた鉄の鳥居が建っている。地図を見ると、迂回した道は、沢を迂回しおおよそ現在地の対岸に戻る。
弟の記事では林道を進んでいるのだが、この辺りは車で走っている。車なら仕方ないにしても、徒歩、しかも修験の歩きであれば、この箇所から直接沢に下り、対岸に這い上がったのではないだろうか?唐突に鳥居も建ち、なんとなく「ノイズ」を感じる。
鳥居のある箇所から沢に迂回する道の逆方向に坂道がある。坂道の途中の農家の元気な犬に吼えられながら、その先に進むと「カフェテラス葉風る」があった。店は閉まっており、あちこちと下りる場所を見るが、それらしき箇所は見当たらない。
再び鳥居の箇所に戻ると、犬に吼えたてられた農家のご主人がいた。この辺りからの王子拝礼道を尋ねると、鳥居の先の崖から下る「七曲がり」の道がある、という。途中までは踏み跡もあるが、途中からは藪が酷いよ、と。一応ロープは常備しているので、なんとかなろうと「七曲がりの難所」道を下ることにする。後日メモの段階で『石鎚 旧跡三十六王子社』にも「七曲り」の記事があった。
因みに横峰寺には、ここから切れ込んだ沢を廻りこみ、沢に架かる橋を右に折れて進むことになる。
鉄の鳥居
後日、鉄の鳥居をチェック。『石鎚山 旧跡三十六王子社』は、古い遥拝所を示すものとあり、寄進者は高知の人、との記事があった。が、同書に掲載の鳥居と現在の鉄の鳥居はその形が異なっている。現在の鉄の鳥居には「大正」らしき文字が刻まれているように見える。『石鎚山 旧跡三十六王子社』の記事のもとになった踏査行は、46年(1971)に行われたものであり、鉄の鳥居が大正であれば、この鳥居が同書に掲載されるのが普通かと思うのだが、何故鉄の鳥居の形が異なっているのだろう。不明である。

「七曲り」を下り沢に出る
教えて頂いたように、鉄の鳥居から直線上の崖端に踏み跡がある。踏み跡を進むと石組の箇所があり、それなりに道となっているのだが、七曲りのうち、三曲りほど進んだ先は藪に覆われ、道はまったくわからない。藪漕ぎをして力任せに沢筋に下るだけ。
「七曲り」のルートとは程遠いとはおもうのだが、下り始めて25分、比高差100m弱の崖を下り沢に出る。沢に橋はないが、幸い水量は多くなく、飛び石で沢を渡る。沢に沿って舗装された道が通っていた。

沢から拝礼道に登る
舗装された沢脇の道を右往左往し、沢筋から対岸の拝礼道に登る道を探す。踏み跡は沢に突き出た尾根筋を北に廻り込んだ辺りに見つかった。登り始めると道はしっかり踏まれており、先ほどの下りとは様変わりの快適な土径であった。おおよそ10分弱で舗装された道に出た。






道の山側石垣にはブルーの「石鎚三十六王子社」鉄板道標が架っており、この道に間違いなし。南に瓶が森から高森山の稜線らしき四国山地が開けていた(山のことは詳しくないので、カシミールの機能であるカシバードで描画した結果であり、まちがっていれば御免なさい)。


第二桧王子社
簡易舗装の道を20分弱歩くと曲がり角に、「山火事注意」の幟が立つ消防施設の建物らしきものがある。何気に右手を見ると「第二桧王子社」と書かれたブルーの王子社鉄板案内があり、その上に王子社の幟が見えた。危うく通り過ぎるところであった。

苔むした石段を上ると左手前に「第二桧王子社」と刻まれた細長い石柱があり、お堂の中にはお地蔵様。桧の地蔵と称される。王子社を示す石殿は、お堂の外、左手に祀られていた。
『石鎚山 旧跡三十六王子社』には「昔左甚五郎が成就社本殿の建築を終り、用材の桧を杖にして茲(ここ)に下山休息した。その時杖を地に突き立てて帰った。其の杖が芽を出し成長し、大木となり真径お凡そ二米もあったと云う。何時の世にか伐採し今に其の切株がある。逆杖であったため木の枝がみな逆枝であったと云い伝えられている。その大桧があったので地名を大桧と云い、桧王子と唱えている」とある。
境内には「奉誦光明真言百万遍」や「白衣観音一字一石西国三十三霊場供養」と刻まれた明治に建立の石碑も見られた。

極楽寺分岐
第二桧王子社から10分弱、左手に竹林が茂る辺りで道は二つに分かれる。「右 極楽寺」の木標に従い左に折れる。緩やかな坂を進むと行く手に校舎らしき建物が見える。近づくと校舎外壁に据え付けられた黒板が、びっしり寄せ書きで埋められている。廃校となった大保木小学校跡地であった。

仙徳寺跡
『石鎚山 旧跡三十六王子社』にある真鍋充親氏(『伊予の高嶺』の著者。新居浜市の図書館で読んだことがある)の「紀行文」には「大保木小学校を南ま上に見上げ乍ら小さな谷の道を進むとおもひがけず叢の中に寺跡をみつけた。ここはかつての天台宗仙徳寺のあった処で、いくつもの信徒や檀徒らの寄進をしめす石標もみられた。この寺は今千野々県道傍に移転している」とある。 今回は校庭を進んだが、旧登拝道は、もっと加茂川の谷寄りを進んだのだろう。ために、叢の中に寺跡を見つけることはできなかったが、仙徳寺は県道傍に移転したとあるので、ピストンで車デポ地に戻る途中に寄ってみようと思う。

市指定天然記念物 旧大保木小学校のそめいよしの
校庭にあった案内の概略;樹高2mまでの間で3カ所の枝が分かれ、それぞれの枝分かれ部分の周囲が2m前後と、枝分かれ部分の大きな幹が特長。樹齢は不明だが古木のよう。西条市の市花が桜でもあり、市の天然記念物に指定される。そめいよしのは大島桜と江戸彼岸の交配種。明治の初め頃つくられた。
◇大保木(おおふき)の由来
「ふき」は「はけ」とも「ほけ」と同じ、崖を意味する。急峻な崖地の意味だろう。

極楽寺
大保木小学校から歩くこと20分強、道なりに進むとお寺様の境内に入る。誠に立派な本堂が建つ。境内にあった案内に拠ると、「本堂(金堂)の建築について:この本堂は平安時代(794~1192)の建築様式で建立されております。白鳳時代(672~685)の建築文化が、この時代に日本固有の表現に移り変わった時代で、宇治の平等院などが代表的な建物と言えます。
つまり、堂内の床が土間から板張りの床に移行したり、屋根の瓦が藁葺きとか桧皮葺きにと日本古来からの建築用材である植物が主体となって、その建築美を醸し出しているわけです。
おだやかな屋根の流れ、躍動的な棟のラインともども、その構造体の質実剛健な構えや優雅な軒に「ひらかな」をあみだした平安人の雅をご観覧ください 石鎚山真言宗総本山 極楽寺」とあった。

案内にある通り、誠に優美な構えである。前神寺とか横峰寺のことは知っていたのだが、不勉強にも極楽寺のことははじめて知った。Wikipediaに拠ると、「 極楽寺(ごくらくじ)は、愛媛県西条市大保木にある石鎚山真言宗総本山の寺院。山号は九品山(くぼんざん)。本尊は阿弥陀三尊・石鎚蔵王大権現。石鎚山信仰の根本道場であり、約1300年前から山岳宗教の一大修験道場でもある。 寺伝によると、西暦680年頃役の行者が石鎚山を仰ぎ見ることのできる龍王山に籠り、不動ヶ滝に身を清め修行をされ、阿弥陀三尊と三体の石鎚権現を本尊とする天河寺(てんがじ)を開基し、平安時代から室町時代に至るまで隆盛をきわめた。
ところが、室町時代末期になり、戦国の兵火で1350年天河寺は炎上、その時の住職行善大徳は、その弟子宥法師に天河寺の法灯を継続する地を探すよう命じ自らは遷化した。そして、宥法師は龍王山を仰ぎ見ることのできるこの地を探し出し堂宇を建立し極楽寺と名づけ法灯を守った。
その後、天河寺焼け跡から本尊であった三体の石鎚蔵王権現のうち中尊の「金剛蔵王権現」が掘り出され蔵王殿本尊として祀られた。極楽寺になって二度の火災により寺宝も多く焼失したが権現像は守られ、現在に至るまで石鎚金剛蔵王権現の御前にて護摩焚きが朝夕行われている。 2014年失われていた両脇尊である「龍王吼蔵王権現」「無畏宝吼蔵王権現」が新調され三体が揃った。
特筆するは、明治時代神仏分離令で、前神寺も横峯寺も一時期廃寺になった時も、当山では脈々と石鎚信仰が途切れることなく続いてきたことである」とあった。
極楽寺は天河寺の法灯を継ぐ古刹であった。一説には、蔵王権現はもとは瓶ヶ森にあり、天長5年(827)に石鎚に移った、ともされ、蔵王権現が瓶ヶ森にあったときの常住は天河寺であった、とも言う。ともあれ古い歴史をもつお寺さまであった。
地図を見ると、極楽寺から加茂川を隔てた対岸の山中に西大門といった、如何にも寺を連想させる地名がある。また、坂中地区に残る坂中寺は天河寺ゆかりの寺と言う。龍王山のピークは標高850mほどのところにあるが、天河寺跡はどのあたりか不明ではある。そのうちに探し歩いてみたいとも思う。
本堂から下る長い石段がある。大正末期に開かれた県道傍に別院が造られた、という。これも、車デポ地へのピストンの途中に寄ってみようと思う。


植林地帯を進む
第三大保木王子社に向かう道は、本堂境内下を横切る。少し進むと歩道が切れ、上下二手に道が分かれるが、登拝道は下の道。用水路のような風情を感じる土径を進むと「高橋兵佐右衛門の墓」の矢印。道はその辺りから植林地帯に入る。 更に進むと再び「高橋平左右衛門の墓」の矢印。そこで道は再び上下二手に分かれるが、「高橋平左右衛門の墓」の矢印のある下の道を進む。


王子社名が書かれたブルーの道標を越えると、「高橋平左右衛門の墓」の道標が上下に分かれた上に向かう。登拝道はここは下の道。基本お墓はパスするので、そのまま登拝道を進む。





「赤と黄色の」王子社登拝道の標識を越すと、植林の杉林の中で道は上下に分かれる。住友共電大保木線の鉄塔保線鉄柱がある上側の道を進む。先に登拝道の道標も見える。大岩脇を越えると広場となり、その山側に王子社が見えて来た。




高橋平左右衛門
「銀納義民」として知られる。極楽寺境内にあるという「銀納義民記念碑文」の説明には「堅忍不跋の心を以て為すときは事成らずと云うことなし。そもそも大保木山、中奥山、東の川山、西の川山、黒瀬山の五ヶ山農民の年貢米、未納未進となり住民の至難なるより、慶長八年身を犠牲に供し、銀納受所に祈願せんと衆議一決し、五十有年間何回となく嘆願するも聞き届けなく、遂に時の領主一柳監物殿に請願中、大保木山庄屋左衛門、中奥山治兵衛その倅三名外百姓十一名、承応二年八月入獄され遂に三年二月一八日死刑に処せられ非命の死を遂げしは、悲嘆の極みあらずや。
然るに平左衛門はその後、横峰蔵王権現に祈願し感応により死刑を免れ生存せしを以て萬治元年二月外十名と供に総代となり、西条鴨川に於いて駕訴せしに聞届けられ同四月八日銀五貫三百五十八勺三分一厘に定められ、明治八年に及ぶまで二百十八年間当地の人民鼓腹の楽をなせしも、銀納を訴えた義民右十七名の功勤に因るもの。感嘆の余を以て其の万分の一の報恩の為、碑を建て略誌する事斯くの如し 明治二十三年五月大保木村 工藤弥五郎」と記される、と。 大雑把にまとめると、林業などを主とするこの地域では、コメ相場により高騰する年貢米の替りに銀を納めるべく、庄屋を中心に当時の西条藩・一柳家に直訴するも、願い叶わず16名が処刑される。
死刑を免れた高橋平左右衛門は、改易になった一柳家に替わり西条藩主となった(一時天領となる)紀州家の松平頼純(よりずみ)に駕訴をおこない、銀納が認められることになる。地元人は感謝し、17名を義民として称えた、という。

第三大保木王子社(覗の王子)
王子社の祠には三界万霊地蔵が祀られ、その左手には王子社を示す石柱と王子社石殿が並ぶ。
『石鎚山 旧跡三十六王子社』には、「大保木字覗にあり、此の王子は大保木分であるが、千野々天台宗派仙徳寺の真上約百米、見るからに断崖絶壁今にも岩石崩れ落ちんばかりの感があり、旧参道のほとりにて、のぞきの王子とも称し石の地蔵が祀ってある。(中略)昔松山藩主が領内の山林面河山取調の際この山に入り、東之川のお樽の滝(白糸の滝とも云う)を見物した。西之川庄屋高須賀蔵人が藩主を歓迎してもてなした。
藩主は大いに満足し蔵人を召し出し、其の望を問われ蔵人が曰く、石鎚の神には表境内はあれども(昔は成就から奥は全山表境内であった)裏境内がないので、面河山全部の寄進を願い出た処、藩主驚き蔵人を殺害しようと計り、大保木の庄屋へ召しだした。蔵人はこの大保木王子に来て、石鎚大神に祈願し、抜いた刀を石に突き差し、願意成就を祈り大望を達したと謂う。石の各所に刀を差し込んだ跡がある」とある。

覗きの行場のようだが、木々が茂り、今一つ断崖絶壁感がなかった。木々の間から千野々集落や加茂川を見下すのみ。

ザレ場を下る
虎ロープを頼りにザレ場を下る。振り返ると大岩の崖が見えるようだが見逃した。大保木王子社の「覗きの行場」跡であろうか。
ザレ場を下ると左手に住友共電の鉄標、右手に王子社を指す鉄柱がある。その分岐を右に進むとほどなく巨大な岩壁の下に王子社が見えて来た。第三大保木王子社から10分も歩いていないだろう。

第四鞘掛王子
岩壁の真下に石柱、石殿、お地蔵様が、少々窮屈そうに並ぶ。『石鎚山 旧跡三十六王子社』には、「中奥字千野々。(中略)第三王子の項でも述べた通り、西之川庄屋高須賀蔵人が松山藩主の召に応じ大保木の庄屋に出頭する時、藩主の計略をさとり、ここで刀を抜き一命を堵けて石鎚大神に祈り、鞘のみ木の枝に掛け覚悟を決めて出頭したので、鞘掛の王子と云い伝えられる(後略)」とある。




県道に下りる
王子社から住友共電の鉄柱があった三差路まで戻り、鉄塔保線路を左下に10分弱下り県道12号に出る。車デポ地からおおよそ2時間半ほどで県道に出た。 南に加茂川に架かる赤く塗られた鉄の橋が見える。
千野々橋と呼ばれるこの橋は、大正14年(1925)に完成した愛媛県最古のプラットトラス橋(斜材を橋中央部から端部に向けて「逆ハ」の字形状に配置したもの)。上流にコンクリート橋が架かるまで現役であったが、現在は公園(「石鎚ふれあいの里」)へのアプローチ橋となっている。ここから車デポ地まで歩いて戻ることになる。
千野々
千野々の地名の由来は、この地で合戦があり一面血の海となったため、といった説もある。地名の由来は諸説あり、真偽のほどは不明だが、合戦があったとすれば、天河寺も焼失したという土佐の長曽我部氏との合戦ではなかろうか。





車デポ地に戻る

仙徳寺
歩きはじめるとほどなく、道の左手に結構風雪に耐えた趣のお寺さまがある。 お堂入り口の右手の木札には、紙が上に張られ読みにくいのだが「天台宗総山明王院仙徳寺」と書かれている。大保木小学校のところで「今千野々県道傍に移転している」とあった天台宗仙徳寺であった。
お堂左手には同じく紙が上に張られた木札に「石鎚山(不明)大護摩火渡所」、狛犬の台座には天保十三の文字が刻まれる。
扉は閉じられ内陣を見ることはできなかったが、御堂には波切不動、石鎚蔵王大権現が祀られ、不動明王は、もとは天河寺にあったものとも言う。 札にあった火渡りの行事といった修験が未だ行われているのかどうか不明だが、昔は石鎚修験の寺ではあったのだろう。

極楽寺別院
更に先に進むと道脇にお寺と、その先に強大な建物が見えてくる。如何にも宿坊といったもの。ここが先ほど訪れた極楽寺の別院。本堂から下る長い石段も見える。
大正末期に県道が開かれ、昭和6年(1931)には河口までバスが走るようになると(私注;バス運行の年は異なる年度の記事もある)、石鎚参拝は、この県道を通るルートが登拝道の主流となった、と。別院は県道開削に合わせて、道脇に造られたとのことである。
登拝道の主流となった県道近くに本堂があり、道脇に別院を設けた故の隆盛だろうか、お寺も石鎚山真言宗総本山と一派を起こし独立総本山として、60ほどの末寺を抱えるという。巨大な宿坊故の妄想ではあり、根拠は、ない。

西南日本中央構造線の黒瀬断層
少々単調な舗装道を進み、柳瀬橋を越え、左半円周りに進路を変えた県道を進むと道脇に大きな案内がある。とりあえず近寄ってみると、「西南日本中央構造線の黒瀬断層」の説明がイラストと共に記されていた。
案内には「中央構造線は西南日本を内・外帯に二分する国内第一級の地質構造線で、その延長は長野県諏訪湖付近から九州熊本県八代付近まで至る。 黒瀬断層は、北側にある約7千万年昔に浅い海の底に堆積してできた和泉層群の堆積岩が、南側の1億年昔に地下の深い所で変成岩になった結晶片岩類の上に乗り上がった形の断層である。
これら岩石(岩盤)の間にはこの断層の間に安山岩が貫入している。この安山岩は、石鎚山の火山活動の時(1500万年前)に、断層形成により脆弱となった岩盤の破砕部に貫入してきたものである。
この断層は、約2~3千万年昔に活動したものである。 この断層の走向(延びの方向)はN60゜Eで、北へ30゜~35゜傾斜している。
愛媛県内では黒瀬断層以外にも中央構造線に関係した断層として砥部衝上断層(砥部町)と湯谷口衝上断層(丹原町)が有名で、いづれも断層部に安山岩の貫入が見られる。このような断層を観察できる場所は限られており、大地の動きを考える上で貴重な露頭となっている」とある。

中央構造線って、アジア大陸東端部に出来ていた日本列島の日本海側半分に、太平洋側からの半分が合わさって形成された日本列島の「接合部」といった程度の大雑把なことはわかるのだが、中央構造線がここに現れていて、和泉層群とか結晶片岩類とか安山岩が見られると言われても、周囲は木々で覆われ何も見えない。
今は黒瀬ダムの底に沈む黒瀬村の中央を中央構造線が走っており、川床には露出ポイントがあったという、その記念ということだろうか。門外漢故その有り難さがそれほどわからない。

車デポ地に
下山口から県道をのんびり、おおよそ1時間強かけて車デポ地までもどる。


第五細野王子社に向かう


弟の記事に拠れば、次の王子社である第五細野王子社は、第四鞘掛王子社から県道12号に下り、橋を渡り加茂川右岸に移り、古長河内神社の少し先、県道から左に分岐する道を進むようである。
距離は第四鞘掛王子社から県道に下りた辺りまでおおよそ5.5㎞、その先県道からに分岐する道野辺りまでおおよそ1.5㎞ほどある。 10時過ぎに第一福王子社に向かって歩き始め、千野々橋傍の県道に下りたのが12時半。車デポ地にピストンで戻ったのが2時過ぎ。季節は冬、日暮は早い、ということで、当初の千野々橋あたりに車をデポし、徒歩で進むのを取りやめ、県道から第五細野王子社への分岐箇所まで車で進めることにする。

古長河内神社
車を進め、赤く塗られた千野々橋を見遣りながら先に進むと道脇にちょっと印象的な社が目にとまる。とりあえず車を停め境内に入る。
歴史を感じる鳥居を潜り境内に。本殿・拝殿ともに誠に立派な構えである。 祭神は譽田別尊。応神天皇を指す。譽田別尊は八幡神と同一視される、武運成就の神である。境内社には出雲神社も祀られる。
境内には西条藩主松平依頼純公お手植えの杉が2本あったとのことだが、それといった案内も無かったので枯れてしまったのだろうか。それはともあれ、いい雰囲気の社であった。

細野集落への分岐道
県道から細野集落への分岐には四国電力の黄色と黒に塗られた鉄のポールがあり、その横に「細野王子社」と書かれた道標と方向を示す木標が立つ。道は簡易舗装されており、どこまで続くか不明であるが、取り付き部は車で入れる。 杉林の中、廃屋を見遣りながら進むとブルーの王子社道標がある。その先、取り付口から10分強歩くと、道が左に大きく曲がる箇所の右手の土径に王子社の道標、四国電力の保線路鉄杭、そしてお地蔵さんが見える。

細野集落跡
ここで、舗装道から分かれ土径を進む。道の両側には石垣やお墓がある。この土径はその先ですぐに舗装道路と合流する。土径は舗装道路を横切り上に進むが、王子道は舗装道路を右に進む。
舗装道路を進むとすぐに黄色と赤の王子社道標をつけた鉄ポールがあり、案内に従い斜め右手の土径に入る。鬱蒼とした木々の間を数分進むと少し開けたところに廃屋が残る。

先ほどの石垣や廃屋など、この辺りが細野の集落があった辺りだろうか。『石鎚 旧跡三十六王子社』には、「河内神社の傍を通り淀(私注;県道に「淀バス停」があった)と部落のはずれから旧道の部落道を登る。大正十五年頃県道が通じる迄は唯一の参道であったが、今は細野部落の通行道として三輪車が通れるほどになった。細野には黒門と云って石鎚名物の肉桂(にっき)販売の老舗があったが、今は淋しく屋敷のみ残っている」とある。
子供の頃はおばあさんから折に触れて肉桂(にっき)の根をお土産にもらった。今でいうシナモンではあろうが、最近はあまり肉桂(にっき)をかじる子供を見かけることもない。当たり前ではあろうが。

道が荒れてくる
廃屋脇を進む。道は四国電力の鉄塔保線路のようである。道は次第に荒れてくる。虎ロープが登場する。虎ロープを頼りに先に進むと、道が崩壊した箇所に出るが、木の梯子、桟道、虎ロープが整備されており、安全に先に進むことができた。



迫割禅定
崩壊箇所から5分位歩くと、大きな岩の下にお地蔵さまが佇む。お地蔵さまから左手に登る道があり、寄り道すると大岩が二つに分かれていた。そのときはなんだろうと思いながらも元に戻ったのだが、どうも迫割禅定跡のようであった。
迫割禅定と言えば、人ひとりかろうじて通れる、といったイメージであり、そのイメージには程遠いスペースでもあったので、写真も撮らなかったのだが、『石鎚 旧跡三十六社』によれば、「この部落(私注;細野集落)を通り抜け、五百米くらいの処に迫割と云って狭い岩の間を通る道ががあり、迫割禅定と云う。西条史を見ると「この処両方より石が突き出てその間甚だせまく、童子といえども、からだを細めぎれば通ること能はず、然れどもわずか二間程の間なり」とあり、後世道を作りかえ現在はすぐ下を通るようになったが、その面影は残っている」とあり、同じく同書の真鍋充親氏の紀行文には、石鎚まいりの難所とあり、「度重なる地すべりの為寸断されていて細道を求めるのに困難し」、調査チームの一度目の踏査では辿りつけなかったようである。

思うに、今日迫割禅定へと辿った道は四国電力の保線路であり、往昔の王子道は保線路より上を進み、直接迫割禅定の岩場に出たのだろう。ゆったりしたスペースの大岩をもう少し先に進めば、それらしき岩場があるのだろうか。後の祭りではある。

第五細野王子社
お地蔵さまから5分ほど進むと、また崩壊地に出る。右手の切れたった崖を木道の迂回路でクリア。そこから数分歩くと広場があり王子社が見えてきた。第五細野王子社である。
中央に石灯籠の上部といった石塔に首だけのお地蔵さまが祀られ、その右手に王子社石殿、さらにその右には石柱が立つ。王子社の裏は岩尾根となっている。
『石鎚 旧跡三十六王子社』に拠れば、「中奥字細野にある。迫割禅定があった場所(私注;部落から五百米)から二百米ほど行くと、小高い森があり石の祠がある。その中に頭だけの地蔵が祀ってある。之が細野王子社である。(中略)北には河口の下の片マンプ(私注;逆コの字の岩壁)の岩上、屏風の如く、南には高さ二百米もあらう大岳が峨々とそびえ、仰ぎ見るとまさに倒れかからんばかり、之を王子の嶽と云う。この付近に小谷があり、石鎚参詣の導者はこの滝水で禊をしたという」とあった。

沢のガレ場を下る
第五細野王子社から右下に下る道に入る。崖に沿って急な斜面を下ると、なりゆきで沢のガレ場に入り、そこを下ることになる。『石鎚 旧跡三十六王子社』に「細野王子から直ぐ急な下り坂にかかる。坂と云うより嶽と云うのが適当の様である。昔は此の所に鎖がかかっていたが、後世道を作り少し歩み易くなったので、その鎖を弥山(今の石鎚山一の鎖)へ移したと西条誌に記してある」辺りだろう。
今は、鎖の替りに張られた虎ロープを頼りに慎重に下る。ガレ場は処々で石組みとなっているのは崩落防止のためだろう。

第六子安王子社
ガレ場を下ると、岩壁に沿って道が進む。『石鎚 旧跡三十六王子社』に「急坂は百米ほどで王子の嶽の麓を二百米行くと、山の張り出た所に大岩が横たわり、その岩の傍に石の地蔵が二尊仲よく並んで祀ってある」とある。そこが第六子安王子社である。第五王子社から10分程、といったところだろうか。
王子社石殿の右手に王子社石柱、左手に二体のお地蔵さま。石に刻まれたお地蔵様と石仏の二尊である。覗きの行場だろうか、河口(こうぐち)集落が真下に見える。


『石鎚 旧跡三十六王子社』には「中奥字細野にある。(中略)この王子の真下が登山口の河口であり、石の突端に立ちて見下ろすと千尋の谷、後をふり向くと王子の嶽が立ちふさがり、実にたけだけしい感じである。(中略)この王子は元結掛(もつといかけ)王子とも云い、又細野覗とも云う。明治維新以前は土地の児童等ここで、初登山の者に対し鋏で元結を切り三文乃至五文の料金を申受けるのを例としていた。その子供達が「新客や元結払い南無三宝六王子」と唱えて切った元結を松の木にかけて、登拝の無事を祈ったと云う処から子安場と云い伝えられる。
又その王子の岩場は行場であり、大先達が初めて参詣する若者を芋綱でしばり、岩の端から覗かせて、是迄の悪行をさんげさせ、心を改め行いをつつしむ事をちかわして、然る後、引き上げて登山し更に石鎚大神に誓いを立てさせ、善導して処と伝えられている」とあった。

ガレ場を下りる
第六王子社から急な坂を下る。道はトラバース気味に進むが、足場がザレて、虎ロープのオンパレードである。最後は沢のガレ場。虎ロープを頼りに下る。この沢も崩落防止のため石組みがなされている。




旧県道の隧道
ガレ場の下に加茂川が見え、その手前の道に下りる。第六王子社から10分強。旧県道のようである。道を右に取ると、前方に隧道が見える。近づくとその先にも隧道が続く。河口第四隧道と河口第三隧道とのこと。旧県道建設時、大正13年(1924)に開削された手掘り隧道とのことである。


三碧橋
隧道を抜けると三碧橋北詰に出る。三碧とは渓谷の緑色片岩、加茂川の青き水、茂る木々の緑とのこと。橋からエメラルドグリーンの加茂川の水、山々の残り紅葉を楽しみ第一王子社から第六王子社の散歩を終える。
次回は、この坑口から比高差1,200mほど上った石鎚山腹・成就社までの尾根筋に残る第七王子社から第二十王子社まで一気に歩く予定。結構大変そう。

「お山は三十六王子、ナンマイダンボ(南無阿弥陀仏のなまり)」。往昔、先達に導かれた石鎚講中の登拝者はこの唱えことばをかけながら険しい登拝道を霊山石鎚の頂上を目指した、と聞く。
石鎚に王子社があることを知ったのは平成22年(2010)、弟の還暦記念のため雪の石鎚山に上った時のことである。石鎚神社中宮・成就社の本殿と見返遙拝殿の右手、八大龍王の祠の傍に、第二十 稚子宮鈴之巫女王子社があるのを知った。

石鎚三十六王子社 Google Eaerhで作成
「王子社」に出合ったのはこれがはじめてではない。いつだったか、熊野古道・中辺路道を歩いたとき、熊野九十九王子社のいくつかに出合っていた。『熊野古道(小野靖憲;岩波新書)』によれば、熊野参拝道の王子とは、熊野権現の分身として出現する御子神。その御子神・王子は神仏の宿るところにはどこでも出現し参詣者を見守った、とのことである。

その王子社が石鎚山にもあった。王子社の建つ登拝道を辿りたいと思っていた。思っていたのだが、詳しいルートや所在地がわからずそのまま時が過ぎていた。が、思わぬところから石鎚三十六王子社のルートと所在地が登場した。 山歩きフリークの弟が平成22年(2012)に、既に石鎚三十六王子社を歩き終え、詳細な行動記録とルート地図・写真をHPにアップしていたのだ。昭和46年(1971)に、石鎚神社十亀和作宮司ら8名2泊3日の予定で現地調査し、昭和47年(1972)に『石鎚山 旧跡三十六王子社』として発行された小冊子などを基に踏査したとのことである。弟は藪漕ぎ専門で、歴史にそれほどフックが掛っていないだろうと思い込んでいたわけで、灯台下暗し、とはこういうことだろう。
弟の記事を読むまで、石鎚三十六王子社の建つところは、加茂川の谷筋から石鎚山山腹(標高1450m)の成就社に登る尾根筋にあるのだろう思い込んでいた。加茂川の谷筋を県道12号に沿って進み、県道142号と分かれる(氷見から上ってきた県道142号は、黒瀬峠から河口までは県道12号と同じ)河口(こうぐち)から、成就社のある石鎚山麓まで進む尾根道筋にあるのだろうと思っていたのだが、弟の記事によると、第一の王子社は黒瀬ダム近く、黒瀬峠あたりからはじまるっている。
大雑把に言うと、第一福王子社から第六子安王子社までは黒瀬峠から河口まで。加茂川の川筋に沿って、県道から比高差50mから150mほどのところを進む。次いで、第七黒川王子社から第二十稚子宮鈴之巫女王子社までは、河口から成就社までの尾根道を等高線にほぼ垂直に6キロ、比高差1200mほどを上る。 その先、第二十一大元王子社から第三十四夜明峠王子社までは、再びお山を西之川の谷筋まで下り、複雑極まりない順路をお山の夜明峠までに上っていくようだ。第三十五裏行場王子社と第三十六天狗嶽王子社は標高1980mの石鎚山頂・弥山にある、と言う。

ルートを想うに、車での単独行であり、第一から第六王子社までの10キロ弱は、車デポ地までのピストンを繰り返し1回か2回で終える。第七から第二十王子社のある成就社までの尾根道は6キロ程度、5時間ほどの歩きだろうから、一気に1回で終えることにしようと思う。車は河口の尾根道取り付口に置き、尾根を成就社まで進み、そこからロープウエイで下り、バスで車デポ地まで戻ればよさそうではある。第二十一から第三十六王子社までは今は冬でもあり、来年のお楽しみとなるだろう。
ということで、晩秋のある日、第一王子社から第六王子社まで歩こうと、スタート地点の西条市を流れる加茂川を堰止めた黒瀬ダム近くの黒瀬峠へと向かった。


本日のルート;
第一王子社から第四王子社まで
黒瀬峠>一の鳥居>黒瀬峠傍に車デポ>第一福王子社>上の原地区を進む>沢が切れ込む箇所に>「七曲り」を下り沢に出る>沢から拝礼道に登る>第二桧王子社>極楽寺分岐>極楽寺>植林地帯を進む>第三大保木王子社(覗の王子)>ザレ場を下る>第四鞘掛王子>県道に下りる
車デポ地に戻る
仙徳寺>極楽寺別院>西南日本中央構造線の黒瀬断層>車デポ地に
第五王子社から第六王子社まで
第五細野王子社に向かう>古長河内神社>細野集落への分岐道>細野集落跡>道が荒れてくる>迫割禅定>第五細野王子社>沢のガレ場を下る>第六子安王子社>ガレ場を下りる>旧県道の隧道>三碧橋



黒瀬峠
実家の新居浜市から国道11号を西条市に向かい、加茂川に架かる橋の西詰から左に折れる国道194号に乗り換え、加茂川に沿って北に向かう。松山道の高架が目に入る手前で右に分岐する県道12号に乗り換え、黒瀬ダムに沿って進み県道142号が合流する箇所まで車を進める。合流点の県道142号の黒瀬峠は切通しとなっていた。




黒瀬ダム
愛媛県の資料によれば、「黒瀬ダムは、洪水調節や農業用水などの不特定用水の補給及び工業用水の確保を目的として建設された多目的ダムであり、昭和39年度から調査を開始し、昭和41年度工事着手、補償問題、物価の上昇など様々な問題に直面しながらも昭和48年3月に完成しました。
ダム設置後の昭和50年代には、天然資源による循環型エネルギーの開発が強く望まれていたことから、住友共同電力株式会社がダムサイト下流約0.3kmの地点において、ダムから放流される流水の落差を利用したダム水路式の黒瀬発電所を建設し、昭和57年9月1日より水力発電を行っています」とあった。

一の鳥居
豪快な切通しが気になり、ちょっと県道142号に寄り道。切通しを抜けると無住と思える数軒の民家があり、その先に鳥居が建つ。鳥居の傍に石碑があり「砂田」とか、「昭和弐年拾月建立」といった文字が読める。昭和2年(1927)に建立されたようだ。この鳥居は石鎚神社の「一の鳥居」と称される。

が、ここでちょっと疑問。何故にこの地に一の鳥居が建つのだろう。あれこれチェックすると新居浜市の図書館にあった『石鎚信仰の歩み;発行代表者十亀興美(石鎚神社頂上社復興奉賛会発行)』に「一の鳥居」に関する既述があった。 その記事に拠ると、石碑には「奉納者砂田篤志、建立・黒川カメ 昭和弐年拾月建立、黒川実」と刻まれていることのこと。奉納者の砂田篤志氏は壬生川市三津屋の生まれで台湾で材木商を営み、台湾安里山の桧材を鳥居建立のため奉納した、とある。
台湾から材木を壬生川に船で送り、荷馬車でこの地まで運び、当時は大きい桧を削り両端を銅板で巻いたが、現在は腐食防止のため、亜鉛版入りのトタン巻きとなっているとのこと。建立に際しては、県道専用願いがなかなか許可されなかったようである。
なに故にこの地に?
建立の時期が昭和2年(1927)ということにより、この地に建立した要因を妄想逞しくするに、どうも県道の開削と大いに関係があるように思える。 『石鎚信仰の歩み』には、「明治末期に西条から伸びた県道も大正8年頃には大保木の極楽寺の下付近まで伸びる。氷見からの県道も大正9年には黒瀬峠の掘割工事が行われる。
大正10年には千野々まで開設が進み、極楽寺では県道の傍らに別院を建てる。昔は氷見から千野々まで駄馬が通っていたが、新道の開設により荷馬車が通行するようになる。
県道の開設により登拝者も長谷道(氷見からの県道142号沿いに長谷の集落がある)から黒瀬峠を越え、黒瀬からは新道を歩くように変わった。県道は大正15年に河口まで、昭和2年西之川まで伸びた」といった記事があった。 それまで山道を辿るいくつもの登拝道をお山に向かった登拝者も、新たに開削された県道を西条や氷見から黒瀬峠へと進み、そこからは加茂川の谷筋に沿って県道を河口(こうぐち)まで歩いた後、河口から今宮道や黒川道を上り、お山へと登ることになったのだろう。

で、何故にこの地か、ということだが、氷見からの県道を進み、西条から河口に向かう県道(当時は黒瀬ダムも建設されていないわけで、県道は現在の道筋より谷に下りたところを進んだのではあろう)に合流する地点であり、開削された切通し、という誠に「神々しく」もあり「わかりやすい」ロケーションを鳥居建立の地としたのではないだろうか。単なる妄想。根拠なし。
因みに「二の鳥居」は石鎚山の中腹、標高1450mの高所にある成就社にある(成就社境内の拝殿前にあるちょっと小振りな鳥居がそれだろう)。
石鎚神社
現在石鎚山信仰は石鎚神社が司る。石鎚山頂(弥山)の頂上社(奥之宮)、石鎚山中腹の成就社(中之宮)、里の本社(口之宮)の三社をもって石土毘古神(石鎚大神)を祀る。が、石鎚神社が石鎚山信仰の中心となったのは、それほど昔ではない。明治3年(1870)、明治新政府の神仏分離令により、石鉄神社(後に石鎚神社に改称)が誕生して以来のことである。
それまでの石鎚山信仰の経緯であるが、『山と信仰 石鎚山;森正史(佼成出版社)』には「役小角の開山と伝えられ、以来、前神寺・横峯寺を別当寺とし、石鎚大神を石鎚蔵王大権現と称して、1300年あまりにわたって神仏習合の信仰(石鎚修験道)を伝えてきたが、明治3年(1870)、神仏分離によって権現号を廃し、石鉄神社(のちに石鎚神社)と改めて、新たな出発をすることになった。
明治6年(1873)、別当の横峯寺を廃して西遥拝所と改め、8年(1875)には別当前神寺を廃して東遥拝所とするとともに、前神寺所管の土地建物など一切を神社の所有とした。さらにその後、明治41年(1908)には東遥拝所を改めて石鎚口之宮(本社)とし、西遥拝所を口之宮に合併して神社の新たな基盤を確立した」とある。
明治2年(1869)に始まった神仏分離の取り調べに関しては横峯寺のある小松藩からは、石鎚山に祀られる像(蔵王大権現のことだろう)を「神」と復名、前神寺のある西条藩からは「仏体」であるとして譲ることなく主張するなどの経緯はあったようだが、結局は1300年にわたって石鎚山信仰の中心であった別当寺・前神寺は廃され、その地は石鎚神社の本社となり、石鎚中腹にあり信仰の重要拠点でもあった「常住・奥前神寺」も前神寺から石鎚神社に移され、名も「成就」と改められ、成就社となり、また、横峯寺は西遥拝所横峯社となった。
前神寺・横峯寺のその後
寺領をすべて没収された前神寺は一時廃寺となるも、その処分を不服とし訴訟を起こすといったことを経て、のちに前上寺として現在地に再興され、明治21年(1889)には旧称前神寺に復した。同じく横峯寺も明治42年(1909)、再び横峰寺として旧に復した。明治新政府の性急なる神仏分離令への反省の状況も踏まえての処置ではあろうか。
因みに前神寺は四国霊場64番札所、横峰寺は60番札所でもある。

石鎚三十六王子社の散歩のメモをはじめようと思うのだが、そもそも「石鎚三十六王子社」の持つ音の響きに誘われて始めた散歩のため、石鎚三十六王子社のことなど、何もわかっていない。メモに先立ち少し頭の整理をしておこうと思う。


●石鎚三十六王子社●

王子とは、熊野権現の分身として出現する御子神。その御子神・王子は神仏の宿るところにはどこでも出現し参詣者を見守った。このことは既にメモした。 『熊野古道(小野靖憲;岩波新書)』に拠れば、王子の起源は中世に存在した大峰修験道の100以上の「宿(しゅく)」、と言われる。奇岩・ 奇窟・巨木・山頂・滝など神仏の宿る「宿」をヒントに、先達をつとめる園城寺・聖護院系山伏によって 参詣道に持ち込まれたものが「王子社」のはじまり」のようである。 石鎚のお山は、本邦初の説話集である日本霊異記に「石鎚山の名は石槌の神が座すによる」とあるように、山そのものが神として信仰される山岳信仰の霊地であった。山岳信仰伝説の祖・役行者が開山との伝説もある。
その霊山に役行者の5代の弟子・芳元(讃岐の生まれ)が大峰山で修行の後、石鎚山に熊野権現を勧請し、石槌の神は石鎚蔵王権現として信仰されることになる。これが石鎚に王子社が生まれるベースとはなったのだろう。
奈良時代、芳元によって石鎚のお山に王子社ができるベースが整ったとしても、それ以降、石鎚のお山にどのように王子社が誕生していったのかは、不明である。妄想するに、お山の各地に修験者によって修行の「宿」として王子社が出来たのではあろう。実際、大宅政寛覚書(文政5年)には今回辿る三十六社以外にも幾多の王子社の名が記録されている。
石鎚三十六王子社巡拝のはじまり
Google Earthで作成

山岳修験の地、『其の山高く嶮しくして凡夫は登り到ることを得ず。但浄行の人のみ登りて居住する』しかなかった石鎚山に、一般の人びとが登拝するようになったのは、近世も中期以降のこととされる。江戸時代に入ってからのことである。

『石鎚山と瀬戸内の宗教文化;西海賢二著(岩田書院)』によれば、一般の人びとが登拝するようになったのは講中が組織されるようになってから、と言う。お山の大祭の頃には、講を差配する先達に導かれ幟を立て、「お山は三十六王子、ナンマイダンボ(南無阿弥陀仏のなまり)」の唱えことばをかけながら、ホラ貝を鳴らし登拝道を進んだ。石鎚三十六王子社巡拝がはじまったのはこの頃、江戸の中期だろうとは思われるが、はっきりした時期は不詳である。
講中は愛媛県下ばかりではなく岡山、広島、山口県下一円からお山に上ってきた、とある。宿泊の地である石鎚参詣道の集落である黒川や今宮には『備後国又八組』『安芸国忠海講中』『安芸国西山講中』『安芸橋本組』『備中鬼石組』『周防大島講中』『備後尾道吉和講中』『安芸大崎講』『阿波赤心講』『備後久井講社』などと書かれた常連講中への目印となるマネキが宿の入り口に打ち付けられていた、とのこと。
講中・先達の制度は前神寺によってつくられた、とされる
『山と信仰 石鎚(森正史)』によれば、頂上を目指した「お山講」・「石鎚講」を指導したと先達は修験道から出た言葉で、霊山の登拝にあたり、同行者の先頭に立って案内、指導する、修行を積んだ経験豊かな修験者のことであり、石鎚の先達制度は前神寺によって創設されたとされる。
江戸時代中期、前神寺は道前・道後の真言寺院を先達所に指名し、先達(先達所の寺僧は大先達)と講頭(民間有力者)を中心に講中を制度化していった。明和6年(1769)に幕府に提出した資料には道前、道後の60の寺院・堂庵が記されている(明確なものは39寺院)。39のうち道前が7寺、道後が32と道後が多い。道後平野を主要拠点としている。
前神寺は文化10年(1813)から登拝の許可証といった先達会符の発行はじめる。先達と一般信徒(後達、平山)を識別し、先達に権威を与えるものである、この先達会符は現在でも形を変えて石鎚神社に踏襲されている。

江戸の中期頃からはじまった石鎚三十六社巡拝であるが、江戸末期には既に衰退しその場所も不明となっていたようだ。明治になると神仏分離、修験道の禁止などにより、三十六王子社巡拝は踏み跡も消え藪に埋もれることになったのだろう。

石鎚神社宮司による三十六王子社の現地踏査

その石鎚三十六王子社が再び日の目をみたのは石鎚神社宮司・十亀和作氏たちの努力による。「石鎚信仰は里宮本社、中宮成就社と石鎚山奥宮頂上社からなる。その道中石鎚霊山にちなむ三十六王子社が祀られるが、現在は唯掛け声として唱えられている伝語であるが、両部神道(「仏教の真言宗(密教)の立場からなされた神道解釈に基づく神仏習合思想(Wikipedia)」)の名残をとどめ、将来も石鎚信仰から消え去ることはない。
しかしそれだけではなんの意味もなく、これを究明するのが責務。各方面からの要望もあり、往古役行者より代々の修験者の、足跡を足で歩いて直に踏み訪ねる(『石鎚信仰の歩み』)」と昭和38年(1963)に企画し、社蔵の古文書や、古老の口碑、各王子社に建つ昭和六年十一月と記した石標(大十代武智通定宮司の時代)を元に現地踏査し、「何百年かの間、時代の変遷とともに登山道が逐次変更され、一部の王子を除いて殆ど日の目を見ない辺鄙と化していたため、探し当てるのは容易でなかった」王子社を46年(1971)に調査し、昭和47年(1972)に『石鎚山旧跡三十六王子社』として発行された。今回歩く石鎚三十六王子社はこの調査の結果比定された王子社である。

石鎚登拝道
石鎚のお山巡拝道として石鎚三十六王子登拝道をメモしてきたが、江戸時代のお山への巡拝道は石鎚三十六王子登拝道の他、いくつもある。『山と信仰 石鎚(森正史)』には、石鎚の北、瀬戸内側からの表参道、南からの裏参道、脇参道などに分かれるが、表参道だけをみても、
小松起点のルートとして

◇小松>岡村>綱付山>横峰寺>郷>モエ坂>虎杖橋>成就社>頂上
◇小松>大頭>大郷>湯浪>古坊>横峰寺>成就社>頂上
◇小松>大頭>大郷>途中之川>横峰寺>成就社>頂上
西条の氷見起点として;
◇中国地方から舟で西条市氷見の新兵衛埠頭>小松>岡村>おこや>横峰寺>黒川>成就社
◇氷見>長谷>黒瀬峠>上の原>上山>大檜>堅原>土居>細野>今宮>成就社(これが石鎚三十六王子社登拝道に近い)
◇西条>加茂川沿い>兔之山>黒瀬山>大保木
など。
また、『石鎚 旧跡三十六社』では、昭和36年(1961)の王子社調査隊は、里の本社(口之宮)から直接峰入りし、尾根道登り、遥拝所としての二並山(標高418m)を経て黒瀬峠へとトラバースするルートをお山信仰の古道として踏査している。
結構なバリエーションルートはある。が、大雑把に言ってどのルートを取ろうとも、最終的には河口集落へと収斂し、そこからは西条藩領である尾根を登る今宮道とそのバリエーションルートである三十六王子社道(前神寺・極楽寺信徒)、そして小松藩領である黒川の谷筋を登る黒川道(横峰寺信徒)を辿り常住(現在の成就社)に向かったようである。

Google Earthで作成
以上のようにお山には多くの登拝道がある。決して巡拝道は三十六王子社道だけではないということである。逆に、巡拝道は講中を組織した別当寺・前神寺より、もうひとつの別当寺である横峰寺経由の道のほうが多いようにも思う。また、登拝者の数も横峰寺信徒のほうが多い、といった記事もある。
『石鎚信仰の歩み』には、「安政の頃の参詣人は10,250人、慶応2年は9,249人、これらの人が別当寺である東の前神寺、西の横峯寺を経て登山していたとあり、また、西登山口の大頭に寛政4年(1792)建立の常夜灯などからして、昔は西の横峰寺を経ての登山者が相当多かったと思われる」とある。
どうも、「お山は三十六王子、ナンマイダンボ(南無阿弥陀仏のなまり)」の唱えことばをかけながらお山巡拝したのは、登拝者全体の一部と考えたほうがよさそうに思えてきた。王子社巡拝での「修行」もさることながら、第七王子社から第二十王子社まで比高差1000mほどを登った後、再び谷筋まで下り第二十一王子社から第三十四王子社まで行ったり来たりのルートをお山に向かって登り返すルートは、修験者ならまだしも、庶民の参詣者には少々辛いものではなかろうか。

「石鉄山」山号を巡る別当寺前神寺と横峰寺の紛争
それはそれとして、石鎚のお山信仰については、修験者だけのときであればいのだろうが、一般庶民がお山に登拝するようになると,お山に鎮座する別当寺の前神寺と横峰寺での争いが起こったようだ。お賽銭もばかにならないわけだから、「経済闘争」でもあろうが、『石鎚信仰の歩み』に拠れば、「基本は「石鉄山」という山号と、それにともなう「石鉄山」の別当寺の正当性を巡る争いのように思える。
享保14年(1729)横峰寺が「石鉄山横峯寺」の札を発行したことに前神寺が抗議し、京都の御室御所(仁和寺門跡)に訴える。その結果、「石鉄山之神社は領地が入り組んでいるが、新居郡石鉄山、西条領であり、前神寺が別当である、とし
予州新居郡氷見村 石鉄山 前神寺
予州周布郡千足村 仏光山 横峯寺」
との裁定がでた。

横峯寺は仏光山に限るべし。仏光山石鉄社別当横峯寺とせよ、ということであるが、この調停を不服とした横峰寺は享和元年(1801)御所の調停を離れ、江戸表・寺社奉行に「石鉄山別当職」を出願する。結果は,別当は前神寺として却下される。
また、お山では千足山村の者による奥前神寺打ちこわし事件が起こっている。現在石鎚神社中宮・成就社のあるこの地は小松藩と西条藩の境界であり、千足山村の言い分は、常住(奥前神寺)は小松領であるとして打ちこわしを行ったようだ。これにより、別当争いに境界争い、小松藩と西条藩の境界論争が加わることになる。
文政8年(1825)に出た幕府の裁定では、成就社の地所は千足村、別当職は前神寺、となったが、幕府からどのように言われようと、横峰寺は「石鉄の文字と別当の肩書」に執着している。なにがしかの「伝統」が根底にあったのだろう、と同書は記す。
明和5年(1768)の「道後先達通告書」には
石鉄山別当は前神寺に限る
先達初参者に御守授与のこと
石鉄山号は女人結界の地以外へは通ぜざること
横峯山号は仏光山にして石鉄山にあらざること
先達寺院権現を勧請祭祀せるは古来よりのことなり、その故をもっaて石鉄山号を唱うることなし
石鉄山参詣東西両道勝手たること

Google Earthで作成
とある。石鉄山別当は前神寺。横峯寺は仏光山の別当であり、石鉄山にあらず。参詣道については特段の規制はなし、ということであろう。このような石鉄山の別当としての正当性は前神寺優位ではあるが、参詣者は横峰寺経由のほうが多かったというのは、誠に面白い。
毎度のことではあるが、「石鎚三十六王子」という言葉の響きに誘われ、お気楽に歩いたものの、いざメモする段階であれこれ気になることが登場し、頭の整理に少々メモが長くなった。
今回のメモはここで力尽きた。実際の王子社散歩のメモは次回に廻すことにする。

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