2016年6月アーカイブ

通有の元寇の変における活躍によって往時の勢を回復した河野氏であるが、通有没後、家督相続や嫡庶間の競合や対立により、一族間の抗争が激化。河野一族は、通有の後を継いだ通盛(第27代)の率いる惣領家と、土居通増や得能通綱らの率いる庶家とに分裂し、鎌倉末期から南北朝時代へと続く動乱のなかにまき込まれていくことになる。


(地図左上の四角の部分をクリックすると旧跡一覧が表示されます)


南北朝騒乱の時代

建武親政と河野一族の分裂

河野通盛(第27代);建武の中興から南北朝争乱期、武家方に与し、天皇方についた一族と分裂するも、最終的に武家方として威を張ることになる

鎌倉後期、天皇親政を目指す後醍醐天皇により、北条鎌倉幕府の倒幕運動・元弘の乱(1333年)が起こる。風早郡高縄山城(現北条市)に拠った河野宗家の通盛(第27代)は幕府側に与するも、一族の土居通増・得能通綱氏は天皇側につき、河野一族は分裂。土居・得能氏の活躍により、伊予は後醍醐方の有力地域となる。
天皇側に与した足利尊氏、新田義貞の力も大いに寄与し、結果は天皇側の勝利となり、天皇親政である建武の新政となる。鎌倉幕府は滅亡し、最後まで幕府に与した通盛は鎌倉に隠棲することになる。
足利尊氏の新政離反と河野通盛の復帰
建武の新政開始となると得能氏が河野の惣領となり伊予国守護に補任されたとある(『湯築城と伊予の中世』)。しかしながら、恩賞による武家方の冷遇などの世情を捉え、足利尊氏は新田義貞討伐を名目に天皇親政に反旗を翻す。世は宮方(のちの吉野朝側)と武家方(足利氏側)とに分かれて抗争を続け、南北の内乱期に入ることになる。
この機をとらえ、鎌倉に隠棲中の通盛は尊氏に謁見し、その傘下に加わる。尊氏は、通盛に対し河野氏の惣領職を承認し、建武4年(1337)伊予に戻った通盛は新田義貞に従軍中の土居・得能氏の不在もあり、南朝方を府中から掃討し伊予での勢力拡大を図る。
宮方の脇屋義助(新田義貞の弟)の伊予国府での病死、伊予の守護であり世田城主大舘氏明の世田城での戦死などが伊予での南朝優勢が崩れる「潮目」となったようだ。
足利尊氏も一度は新田勢に大敗し、九州に逃れるも、天皇親政に不満を抱く武家をまとめ、京に上り宮方に勝利する。尊氏は通盛に対して、鎌倉初期における通信時代の旧領の所有権を確認し、通盛は根拠地を河野郷から道後の湯築城(異説もある)に移して、足利方の中心勢力となる。


河野通盛(通治);(『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』より)
続柄;通茂の子
家督;応長元年(1311)‐(北)貞治2年(1363);正平18年
関係の社・寺・城:壬生川浦の浜(鷺の森)、観念寺(東予市)、大智寺(東予市)
墓や供養塔;善応寺(北条市)

足利尊氏中興政府に反すると、その配下で宮方の軍と戦う。帰郷すると、本拠を高縄山から道後に移し、湯築城を築いた。
正平7年(北)文和元年(1352)壬生川浦之浜を埋立て神社勧請し、記念に楠を植える(現在の鷺の森の大楠)。
観念寺文書(禁書)に名が残っている。貞治年間(1362から1367)大智寺(吉井)創建。

▽鷺の森神社の楠
市指定文化財 天然記念物
楠は大きいものでは樹高約25メートル、胸高幹周6.1メートル、樹齢600年余りである。多数群生していたが、国道の改修や台風の被害で半減した(現在は5本が保存指定)伊予國守護職河野通盛(通有の七男)が、この地に伊勢神宮を勧請したという。この地は、鷺の森城址である。





河野氏ゆかりの地を訪ねる

壬生川浦の浜(鷺の森);西条市壬生川20◆

JR壬生川駅の北東、国道196号・今治街道脇、大曲川が瀬戸に注ぐ少し北に鷺森神社の社叢があるが、そこが鷺の森。国道に面した西を除き、北は港の水路、東と南は堀の面影が残る水路で囲まれている。
国道から海側に折れ鳥居前に車を停める。鳥居脇に「鷺森城跡」と刻まれた石柱が建つ。境内に入ると『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』に記載のあった大きな楠が目に入る。参道には旧日本軍の砲弾(だろう?)が左右に並び立つ。
社殿にお参りし、境内に鷺森城跡の遺構でもないものかと彷徨うが、特に何があるわけでもない。本殿向かって右手の三穂神社脇に「藩政の頃年貢米庫倉の跡」と刻まれた石柱があった。

鷺の森は4つの歴史のレイヤーを示す。時系列で挙げると、最初が河野家第27代当主である河野通盛が壬生川浦之浜を埋立て、伊勢神宮を勧請した鷺森神社。楠に白鷺が群生したのが社名の由来と言う。
次はこの地に鷺森城を築いた第31代当主・河野通之。河野通之については後述する。3つ目が江戸期の松山藩。鷺森城跡に浦番所があった、という。「藩政の頃年貢米庫倉の跡」はその名残ではあろうか。そして最後が旧日本軍(?)の砲弾。戦後に敢えて砲弾のモニュメントを社に奉納するとも思えないにで、戦前のものだろか。それぞれの時代を示す石柱、樹木、社、モニュメントが残る。

それはともあれ、地図で鷺森神社の辺りを見ていると、如何にも人工的な水路に見える埋め立て地が気になった。如何なる経緯で現在の地形となったのかチェックすると藩政時代の当地の歴史が現れてきた。

藩政時代の鷺の森周辺
『えひめの記憶』を参考に私見を交えまとめると、「藩政以前、現在の鷺森神社の南を流れる大曲川には三津屋浦と呼ばれる湊があった。国道196号と予讃線の中間、厳島神社の辺りにあった、と言う。
また鷺森神社の北、現在は「堀川港」となっている水路は幕政時代以前には小島川(本川・古子川とも呼ぶ)と呼ばれる川であり、そこには壬生川浦という湊があった。
如何に周桑が豊かな穀倉地とは言いながら、こんな近くにふたつも湊・船寄場があったのは、行政区域が異なっていたため。鷺森神社を含む北側の壬生川湊は旧桑村郡壬生川村であり、三津屋湊は周布郡三津屋村に属していた。共に中世にはすでに船運の拠点となっていたようだ。

三津屋浦と壬生川浦の整備
で、幕政時代になると、三津屋浦については、周布の後背地である在町(農村に開いた交易・商業中心の地域;江戸時代の1644年、時の藩主が代官に命じて、池田・今井・願連寺の原所に新たに町を作り、商業地として免租し、他村より商家の移住を奨励して周布郡内における唯一の商業地として発展させた)として開いた丹原方面からのアプローチ道を整備。
一方、壬生川浦については新町を開き代官所を置き、壬生川村沿岸の干潟干拓と壬生川浦の堀川新港の造成を計画。現在の本河原町筋から鷺森城趾の前を通って大新田に直流していた小島川(本川・古子川とも呼ぶ)を五、六町北へ掘り替えし、今の新川へ流し、その下流両岸に大新田・北新田六三町を開拓した。 それとともに、小島川の鷺森前の廃川部分を浚せつして堀川港を造り(明歴三年(一六五七)―万治二年(一六五九)河口を大曲川につなぎ、その土砂で旧川筋を埋め立てて本河原町と新地を造り、三津屋浦へも新道で結んだ。
この結果、旧小島川河口左岸の船着場も廃止され、それに代わって堀川新港岸が栄え、港頭には壬生川浦番所が建てられ、鷺森城跡には松山藩各村の年貢米蔵所や会所が設けられ、また船問屋や、商人蔵、市場等が立ち並んだ」、とのことである。

大曲川と堀川港の水路の如何にも不自然な、人工的な地形の「ノイズ」は最近のことではなく、江戸の頃にその原型が出来上がっていた、ということであった。周桑平野は米・麦の大供給地であり、それゆえに旧桑村郡壬生川村の湊、周布郡三津屋村からの湊を整備していったのだろう。桑村には代官所、周布には丹原という在町を開いたということをみても、力の入れ具合がよくわかる。
丹生川から壬生川へ
壬生川は、元は数条の川が流れる一帯であったため、「入り川(ニュウガワ)」と呼ばれていたようではあるが、川の上流で水銀が採集されだし、水銀を焼くと赤くなることから、延喜の頃(901~923)には「丹生川」と改名された、と。 丹は朱砂を意味し、その鉱脈のあるところに丹生の名前があることが多い。 日本には丹(に・たん)のつく地名が各地にあるが、いずれも丹砂(タンシャ=硫化水銀)の産地であることを示している。中国の辰州が一大産地だったことで辰砂(シンシャ)とも呼ばれる水銀と硫黄の化合物で、朱砂や丹朱とも呼ばれる、とWIKIPEDIAにあった。
「壬生川」の初見は一四世紀ころで『伊予温故録』には文和元年(一三五三)に丹生川を壬生川と改めたとある。そのきっかけは文和元年の伊勢神宮の勧請。天照大御神の御妹を祀る「丹生川上の神社」の社号と文字が同じであるので、恐れ多いということで、「壬生川」に改名し。で、「丹」の字を「壬」の字に変えたのは、文和元年が「壬辰(ミズノエタツ)」の年であったため、「壬」の字に変えて「ニュウガワ」と読ませた、とか。なんだかわかりにくい。



河野氏ゆかりの地を訪ねる

観念寺(東予市);西条市上市1017◆

JR予讃線が川底を抜ける天井川で知られる大明神川が、山地から周桑平野に顔を出す辺り、左岸に丹之上集落とその北の山地のある大明神川の右岸に突き出た支尾根の東端山麓に観念寺がある。
車でこの臨済宗東福寺派のお寺さまに向かうと、竜宮城のような山門と、城のような山門左右の石垣が正面に見える。風格のある構えである。
山門手前の駐車場に石垣と山城の案内があった。

観念寺の山門と石垣 (現地案内板) 
「市指定文化財 有形文化財建造物  観念寺は延応(えんおう)2年の創建。山門は天保13年再建。唐様で竜宮門に似て風格がある。正面に寺位を示す「南海諸山」、楼上に雄大な眺望を示す「呑海楼」(どんかいろう)の扁額がある。 高石垣は、松山藩4代定直公が「郡普請」(こおりふしん)で築造した。粒の揃った流石を集め、面を小さく奥行きを深くした入念な「野面積」(のづらづみ)の妙技で、300年の天災地変に耐え、当時の姿を残し、美しい。 西条市教育委員会」。

象ヶ森城址(ぞうがもりじょうし)  
「市指定文化財 記念物史跡  城主は、風早、河野家18将の一人、櫛部肥後守兼久で、天正7年(1579)新居郡金子城主、金子元宅(もといえ)に攻略され、天正8年に討死する。
山城は、海抜185メートルで、庄内側から象、吉岡側がら蝙蝠(こうもり)の姿に見える。曲輪(くるわ)6、堀切(ほりきり)6、土塁(どるい)3、土橋(どばし)1、堀割(ほりわり)1、切岸(きりぎし)多く、横井戸など防御機構の規範を備えている。 西条市教育委員会」。

庄内は、大明神川左岸の旦之上地区に庄内小学校があるので、支尾根の北側、吉岡は山麓の南東に吉岡小学校があるので南側から見たものだろう。
重層の入母屋造りの山門を潜り境内に。本堂左手に本堂、鐘楼堂、仏殿の案内

観念寺の本堂及び鐘楼堂
「市指定文化財 有形文化財建造物  現在の本堂は、文化8年(1811年)に再建されたもので、正面入口の桟唐戸(さんからど)や正面と側面の弓形格子の欄間や花頭窓を持った唐様式の建物である。天井板には一枚一枚草花・鳥獣・人物の絵が描かれている。
鐘楼堂は、本堂と書院とを結ぶところに位置している。楼の朱色に塗られた桟唐戸と柱や欄干が一層唐様式の感を深めている。 西条市教育委員会」。


観念寺仏殿文化八年上梁棟札(じょうりょうとうさつ)
「市指定文化財 考古資料   観念寺仏殿文化八年上梁棟札は、総高151.2センチ、肩高149.1センチ、上・下幅とも24.2センチ、厚さ2.7センチ、頭部の形状は尖頭で、仕上げは台鉋(だいがんな)、材質は桧である。
棟札には、当時の住職太髄文可(たいずいぶんか)和尚自筆の観念寺改築の状況が表面に、裏面には、同筆による観念寺沿革の概要や再建に至る経緯等が鮮明に記されている 西条市教育委員会」。

本堂に向かって右手の鐘楼堂の前に「観念寺文書」の案内がある。

文化財  観念寺文書 
「観念寺は、文永年間(1264年~1274年)に越智盛氏の創建にかかり、元弘2年(1332)鉄牛和尚の開基による新居氏の氏寺で、昔は末寺三十ヶ所があって、松山久松候の祈願寺でもあった。
この寺には、足利尊氏の禁制書など同寺の創立から江戸時代初期におよぶ古文書(教書、禁制、置文、下状、譲渡状)102通があり、絹本掛軸に装幀14軸に納められ保存されていて、伊予の豪族神野・越智・新居氏の盛衰を知る必見の資料となっている。
境内には単層入母屋造りの雄大な本堂があり、古来「観念寺の門を見ずして結構をいうな」といわれた名建築の楼門もある。 又、裏山の三基の宝筺印塔は完全に保存された鎌倉時代の素晴らしい石造文化財である。山頂には中世の城象ヶ森城跡があって、近くの山中には片山古墳もある。 西条市教育委員会  観念寺」とある。

『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』に河野通盛ゆかりの社・寺・城、とあったため観念寺は通盛開基の寺かとも思ったのだが、どうも観念寺文書に通盛に関する記載がある、といったことのようだ。「えひめの記憶」でチェックすると、貞治元年(1362)の観念寺文書に「河野通盛、観念寺に禁制を掲げる」といった記載が見つかった。

越智氏?新居氏?
足利尊氏に関する記載は見つからなかったが、案内に越智氏創建とあるように、越智氏からの寄進に関する記載は多数見つかった。それはともあれ、観念寺創建の越智盛氏を新居盛氏と記載する資料もある。観念寺創建は新居一族による、との記述もある。越智?新居?少々混乱。
ちょっと整理すると、越智氏は伊予の豪族がその祖として挙げる古代の豪族。一族で武士団化したものもあるだろうが、河野氏が登場する頃に威を張るといった勢力としては登場しない。
一方新居氏は、その祖を他の豪族同様、越智氏とし、その氏族には当初越智を名乗る支族もある、という。Wikipedia1に拠れば、新居氏とは「古代から中世にかけての伊予国(愛媛県)の豪族。古代の豪族越智(おち)氏の流れをくむと伝えられる。平安時代の中期から台頭し,後期には東・中予地方に大きな勢力を有した。新居郡(新居浜市,西条市)を中心にして周敷(しゆふ∥すふ)郡(東予市,周桑郡),桑村郡(東予市),越智郡(今治市とその周辺),伊予郡(伊予市とその周辺)等に進出し,風早郡(北条市)からおこった河野氏と勢力を競った。平安末期には平家との関係が深くなり,その家人化していた」とある。
「コトバンク」には「源平争乱時には,源氏にくみした河野氏と戦って敗れ,乱後は河野氏に服属,承久の乱では盛氏が河野通信軍に属して京方として戦った。また盛氏は桑村郡に観念寺を建立し(建立時期は延応年間(1239‐40)とも文永年間(1264‐75)とも),以後同寺が一族の菩提寺となった」との記述もある。 どうも、観念寺のコンテキストに登場する越智氏とは新居氏と読み替えてもいいような気がしてきた。

本堂裏にある開山堂に向かう。その途中に宝筐印塔が建つ。

観念寺の宝筐印塔(ほうきょういんとう)
「市指定文化財 有形文化財石造美術  宝筐印塔とは、塔中に宝筐印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)を納めた塔とされている。
観念寺には三基並んで建立されており中央の台座は複弁反花(かえりばな)を刻み、両側の二基は二段の段形で、共に側面に格狭間(こうさま)を入れている。 三基とも塔身に種子梵字(しゅじぼんじ)の刻入はない。何人(なにひと)がどのような発願(ほつがん)で何時建立したかは記録がなく定かでないが、鎌倉時代の作で、石造文化財として貴重である。西条市教育委員会」とある。
宝筐印塔の背後に石柱が建ち、「新居盛氏」の墓と刻まれていた。上に観念寺の開基は越智を新居と読み替えてもいいか、とメモしたが、この石柱をみるにつけ開基は越智氏と言うより、越智氏をその祖と称した新居氏によるものと思える。

本堂裏の山道を少し上ると開山堂がある。

観念寺関山堂
 「市指定文化財 建造物  関山堂の創立年月日は不詳であるが観念寺誌によると寛永八年(一六三一)の再建をはじめ、その後幾度もの修復を重ねて、文政十年(一八二七)に再建の際、屋根は瓦に葺き替えられて現在に至る。 内部の仏壇上に花園春澤(はなぞのしゅんたく)筆「機関」(きかん)の額を掲げ、仏壇には三基の祖師像(鉄牛和尚像 南溟(なんめい)和尚像他)が安置され、その真下に三基の石塔(観念寺・黄竜庵(こうりゅうあん)各歴代の住職)を祀る。 このような形式を持つ開山堂は他にあまり例をみない珍しい建造物である。 西条市教育委員会」とあった。


鉄牛和尚は中興開山の僧。越智郡か桑村郡の菅氏の一族と伝わる。京で臨済宗東福寺での修行の後、元に渡り10年滞在し、正慶元年(1332)帰国の後、ほどなく観念寺に迎えられ臨済宗の名刹としての基礎を築いた。南溟和尚は鉄牛入山以前の僧と。新居(越智)盛氏開基から新居氏3代、または4代後、建武2年(1335)以前に短期間住持であったようだ。

開山堂から山道をしばらく進むが、道標も見当たらなかったため引き返す。帰宅後チェックすると、中世山城・象ヶ森城(吉岡城)址は山頂にあり、また、北東に伸びる尾根上には、5世紀中頃の豪族の墓ではないかといわれる片山古墳があるとのこと。銅鏃が発掘されたとあった。

象ヶ森城
築城年代は不明。南北朝時代に重見通宗によって築かれたと伝わる。重見氏は得能氏の一族で、重見氏の通宗が祖とも。 その後、城は案内にあった櫛部氏(櫛戸とも)の居城となり、櫛部肥後守兼久の時、天正7年(1579年)金子城主金子備後守元宅に後略される。防戦かなわず、河之内村に逃れ、後に近田ヶ原城主近田三郎経治を頼るも、天正8年(1580年)金子元宅の近田ヶ原城攻撃により近田氏と共に櫛部氏は自刃して果てた。

河野氏との繋がり具合はほどほどではあったが、風格のあるお寺さまに出合え、気持ちも嬉しく、次のゆかりの地大智寺に向かう。



河野氏ゆかりの地を訪ねる

大智寺(東予市):西条市石田844

県道144号が中山川に架かる吉田橋を渡る北詰を左に折れ、県道149号に乗り換えてすぐ、中山川の堤から右に入る道に入り、右手に結構大きな池を見遣りながら進み、池が切れるとほどなく大智寺がある。臨済宗東福寺派のお寺さま。 境内に入り本堂にお参り。『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』に、「貞治年間(1362から1367)大智寺(吉井)創建」とあったので、何らかの案内でもないものかと境内を彷徨うも、それらしき案内は見当たらない。
『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』には、吉井の大智寺とあり、どこか別のところだろうかとも思ったのだが、吉井はこの辺りの吉田郷と井出郷(小松の古名)を合わせたものであるので、間違いはなさそう。しかし、河野氏の「名残」は何も見当たらなかった。
帰宅後、なんらかの河野氏の名残でもないものかとチェックすると、河野氏ではなく武田氏一族の墓所がある、とあった。甲斐武田氏で有名な武田氏が安芸(広島)にあり、その一族が伊予に移り伊予武田氏を興したとのこと。
伊予武田氏
境内墓所に「武田宗家朝倉龍門山城主「武田近江守信勝」天正10年12月8日落城 自刀 難をのがれ幼児、家来に背負われ来住 石田武田家大祖武田源三尉郎信猶(後略)」と刻まれた一族のお墓があるようだ。
伊予武田氏がこの石田の地に移り住むまでの経緯をメモする。武田氏は甲斐源氏の流れ。源平争乱期に頼朝に与し武功を挙げ、甲斐守護職となり、甲斐武田氏が甲斐源氏の嫡流となる。
その後、承久の変などで活躍し安芸守護職となり、時を経て甲斐武田から分かれできたのが安芸武田氏。その安芸武田家が大内氏に敗れ、一族が伊予に逃れ、伊予武田氏の祖となる。越智郡玉川の里(龍岡)に移り住んだ伊予武田家は河野家に属し、南北朝の戦い・長曽我部の四国統一・九州戸次川の戦いに参戦するなど活躍するも、第7代信勝(龍門山城主;今治市朝倉龍門山(標高439m)の山頂にある)の時、来島城主「来島通総」の襲撃を受け闘死・落城。5男の信猶がこの石田に逃れ住んだとのことである。
因みに、信勝の兄は、既に訪れた文台城の城主とある。兄と共に、来島通総・秀吉勢と戦ったのではあろう。

追記;伊予武田家系の方から、「丹原町古田新出に、石田に逃げ延びた 武田信猶の分家である武田信盛が開墾した地があり、宗家の住居や顕彰碑が残っております」とのコメントを頂いた。
先月田舎に戻った折、ご案内頂いた顕彰碑を訪れた。
大智寺に一族の墓所があった。顕彰碑を探し大智寺近くを彷徨う。近くにはみつからない。偶然、大智寺から北東に少し歩いた、西条市石田545の辺りに武田源三郎尉信猶墓が祀られていた。
が、ご案内頂いた信勝公の顕彰碑が見つからない。この辺りに住所は「石田」「新出」とあるので間違いないのだが?と、あれ?ご案内頂いたのは「石田」ではなく「古田新出」。
地図で古田新出をチェック。国土地理院の標準地図に今治小松自動車道の東予丹原ICの北、新川の右岸に古田新出がある。武田信盛公頌徳碑と刻まれた石碑が古田新出集会所(西条市丹原末古田35-4)傍に建っていた。
5 ◆石田
大智寺のある石田は中山川の氾濫原に残る微高地集落である。石田は「手漉き和紙」で知られていた、という。中山川の伏流水が湧き出る豊かな水に恵まれてのことだろう。堤防から大智寺に向かう途中に見えた大きな池も「ひょうたん池」と呼ばれる中山川の伏流水の湧水池であった。大智寺には石田和紙の先覚者森田重「頌功碑(しょうこうひ)」が建てられていたようだ。最盛期は50軒を超えたという紙漉き場も現在は1軒残るのみ、と言う。

今まで東予市(一部丹原)、現在の西条市西部に残る河野氏ゆかりの地を時系列で巡ってきた。ために、場所が北へ南へ、西へ東へと飛び散っている。ここで周桑平野の地形と、それにともない開かれた集落を整理しておく。

周桑平野の地形と集落
「えひめの記憶」をもとにまとめると、「周桑平野は石鎚山脈と高縄山地のなす狭隘部の湯谷口を頂点とし、燧灘に向かって扇形に傾斜する沖積平野で、山麓部には扇状地が発達し、沿岸部は広い遠浅海岸となっている。古来より米・麦の大供給地であった。
江戸の藩政時代に、桑村郡二六村と周布郡二四村が松山藩領で、別に周布郡一一村は西条藩領を経て小松藩領として独立し、近代には松山市・西条市・今治市に囲まれる周桑郡となり、そのうちの壬生川町が壬生川市、東予市となり、現在は西条市となっている。

周桑の農業集落
周桑郡の集落はその地形、地理上の立地条件により、農業集落と商業集落に大別される。西部の山麓一帯は大明神川・新川・中山川支流関屋川の形成する扉状地が発達しており、ほぼ五〇mの等高線をはさんで扇状地集落が並んでおり、北から旦之上・上市・安用・徳能・古田・長野・石経・来見などがそれにあたる。その中でも、石経や来見は扇央部に近い乏水地帯で、むしろ松山よりの金毘羅街道の宿場集落としの性格が強い。
これらに対し一五m等高線附近は地下水も豊富で国安・新市・安出などの大規模集落を成立させると共に、国安には全国的に知られる手漉和紙農村工業を立地させた。また、これらの平野の中央部へは山麓集落からの新田開拓による分村が多く行われ、安用―安出、徳能―徳能出作、古田―古田新田などがそれにあたる。
中山川氾濫原にも玉之江・石田・吉田などの微高地性集落や、新出などの新田集落がみられる。低湿地の農村集落としては寛永―元禄期にかけての松山藩新田開発による大新田や北条新田などに列状の堤防集落が形成されている。
商業集落
周桑郡には古くは南海道官道に沿う周敷駅(東予市周布)や、松山よりの金毘羅街道に沿う大頭・小松、今治―西条街道に沿う三芳・国安・壬生川・三津屋、松山道に沿う丹原など、宿場機能や商業機能を備えた集落が形成されている。その中で小松は小松藩陣屋町として、丹原・吉岡新町は新たに造られた松山藩在町(在町とは商業活動を目して農村地帯につくられた集落)として発達したものである。また、三津屋や壬生川は松山藩の港市として栄えた。藩政時代には代官所(新町・丹原)や浦番所(壬生川)も置かれ、豊かな米・麦の輸送の管理に努めた。




得能通綱;河野一族。惣領家と別れ南朝の忠臣として活躍する

『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』には河野通盛に続き、得能通綱の項が記載されていた。
南北朝の頃、武家方についた河野惣領家と分かれ、土居通増氏や忽那氏・祝氏とともに宮方として長門探題・北条時直を破り、伊予を南朝の一大拠点とした武将である。
得能氏は宮方の新田勢に加わり、宮方から離れた足利尊氏の軍勢と湊川で敗れ、比叡山に逃れた後醍醐天皇に従い奮戦を続け、土居氏は北陸に逃れる途中、また得能氏は越前にて討死。伊予を遠く離れた地でむなしくなった。



得能通綱:(『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』より)

得能氏は通信と新居氏の女の間に生まれた通俊が桑村郡得能に居住したのに始まる。幕府軍の通盛と対決した元弘の変(1331-1333)では、反幕府軍として挙兵、北条軍を破る。新田義貞の配下に属して活動し幕府軍と戦う。延元2年金ヶ崎城(福井県)にて戦死。常石山に忠魂碑。
関係の社・寺・城;常石山(得能城)(丹原町)
墓や供養塔;常石城(丹原町)西山幼稚園北(丹原町)





河野氏ゆかりの地を訪ねる

常石山城

得能通綱公の忠魂碑があるという常石山に向かう。地図をチェックすると丹原町得能にある。壬生川浦、鷺の森の箇所でメモした新川は常石山の南の山地にその源を発し、常石山の南裾を流れ、丹生川裏に向かう。








常石山への案内の木標

常石山への山道は、等高線が北西に切り込んだ最奥部まではあるのだが、その先、山頂迄の道は表示されていない。所詮、標高163mほどの山である。道がなければ藪を這い上がってもいいか、といった塩梅で、得能地区を進み、成り行きで常石山方向に向かうと「常石山 直進」とある。
どこまで進めるかわからないため、道が山間部に入る手前で車をデポ。



「得能公忠魂碑」の木標
車のデポし、たところから、等高線が北西に切り込んだ尾根の間の道を10分弱すすむと、道端に「得能公忠魂碑左」の木標。しっかりした道でもなく、前途を少々危ぶむが、数分で尾根に向かう整備された道に出る。








常石山
道を上り、尾根道を先端に向かって進む。5分程度で尾根の先端部に到着。車のデポ地からおおよそ20分強で常石山に到着。







忠魂碑
尾根の先端部は平坦地となり開けている。そこに大きな石碑が建つ。案内にあった「得能公忠魂碑」である。碑表には「贈正四位得能通綱忠魂碑 陸軍大将 秋山好古書」と刻まれる。日露戦争で騎兵を率い活躍し、退役後故郷に戻り北豫中学(現在の松山南校)の校長をしていた秋山好古陸軍大将の揮毫によるものである。碑裏には上でメモしたように、宮方の忠臣として活躍した得能通綱の事蹟が刻まれている。
この忠魂碑は昭和天皇の御大典(昭和3年)の記念事業のひとつとして企画され、建立には、得能の老若男女が総出で、小学校の綱引きの綱を石に巻き、コロをしいて山頂まで引き上げたという。昭和5年に序幕式が執り行われた。秋山好古元陸軍大将も列席した。高さ2m・横幅 1.33mという石碑であった。



  ■河野氏ゆかりの地を訪ねる

得能通綱・土居通増供養塔

常石山を下り、丹原町古田の徳田小学校と保育園の間(小冊子の西山幼稚園北(丹原町)のこと)に得能通綱・土居通増供養塔が建つ。先ほどの常石山での得能通綱の忠魂碑にもあるように、得能・土居氏は南朝方が威を下げるなか、一貫して宮方への忠勤を励んだようであり、『太平記』の中にも、「就中世の危を見て弥命を軽せむ官軍を数ふるに、先つ上野国に新田左中将義貞の次男左兵衛佐義興(中略)、四国には土居得能(中略)皆義心金石の如くにして一度も変せぬ者ともなり」と描かれている。
土居氏
伊予国の豪族河野氏の支族。元寇の乱に武功をたてた河野通有の弟孫九郎通成が、伊予国久米郡石井郷南土居に移り、土居氏を称する。
供養塔にあった土居通増は通成の子。後醍醐天皇の宮方に与し、河野氏の同族得能氏、また忽那氏と共に武家方の、宇都宮氏、長門探醍北条時直を撃退、後醍醐天皇の伯耆よりの帰着を兵庫に迎える。
伊予を宮方の重要拠点とするに貢献し、建武の中興が成ると、伊予権介となり、風早郡に反旗をあげた赤橋重時を倒している。
足利尊氏の宮方からの離反により、建武の新政が破れ、河野通盛が足利尊氏から河野氏の惣領職を認められ、帰国して伊予の南朝方を圧した頃は、前述の如く通増は得能氏らと共に新田義貞軍に属して京都にあり、神戸・湊川の合戦、後醍醐天皇の籠る比叡山での攻防戦に義貞に従い足利尊氏と戦うも、利あらず、再起をかけての北陸への退却戦の途中敗死する。
その後も伊予国南朝方として重きをなしたが、一族の惣領が武家方の細川勢と戦い戦死。以後、土居氏は衰退してゆく。
なお、河野通盛ゆかりの地として北条の善応寺が挙げられているが、後日、善応寺の前身であった河野氏の館、それを囲む高穴城とか雄甲・雌甲城をまとめて訪ねることにする。



頼朝の平氏打倒の挙兵に呼応し、四面楚歌の中通清は敗死するも、その子通信の武功により鎌倉御家人としての確固たる地位を築いた河野氏であるが、承久の変において後鳥羽上皇に与し敗れ、河野氏は没落。一族の内、ひとり幕府側に与した通久によって河野家の命脈は保たれる、といった状況。
この衰退した河野家を復権させたのが河野通有。元寇の変で武功を立て盛時の威を取り戻す



(左上の四角部分をクリックすると旧跡一覧が表示されます)


鎌倉時代;元寇での武勲で河野氏復権

弘安の変における通有の武功により、盛時の河野氏の威が復活


河野通有(第26代);元寇の変での活躍と河野家の復権

承久の変による河野家の衰退といった状況が大きく変わったのが「元寇」。通継の後、家督争いの真っ最中に河野家の家督を継いだ通有(通久家を継いだ通久の甥)の弘安の役での武功により、河野氏は再び伊予での勢力を取り戻す。恩賞により与えられた領地は正確な記録は残らないが、九州の備前の地のほか、「かなり多い」と推測されている。
上に恩賞により九州の地を領したとメモしたが、『湯築城と伊予の中世』には、元寇の変以前から通有は肥後国下久具村など九州に領地を既に持っていたとする。河野=伊予と考えていたのだが、河野通有と九州の繋がりは強い。伊予の豪族とは言いながら、御家人として在鎌倉、在京御家人として各地を転戦した河野一族がその恩賞として九州に領地を既に持っていたようである。
同書では、恩賞で得たとされる肥前国神崎荘内小崎郷も、元寇以前から有していた筑前国弥富郷との替地と記載する。肥前への替地は蒙古来襲に備える水軍結集の根拠地であり、幕府は河野水軍を瀬戸の海賊鎮圧も含めた海防の中核と考えていた、とのこと。
九州・鎮西に居を構えていた通有が、伊予に戻り、土居通増とともに海賊警護の任に従ったのは、元応3年(1321)とのことである。
ついでのことながら、通信の孫である時宗の開祖一遍が仏門に入ったのは河野氏の家督相続を巡る紛争の頃、と言う。一族間の家督争いから避けるため、といった記事もあった(『湯築城と伊予の中世』)。



▼河野通有(『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』より)▼

元の襲来した文永の役(1274)、弘安の役(1281)で活躍した。特に弘安の役では、石塁を背にして陣をはったので、「河野の後築地」と呼んで豪胆さに驚嘆。戦いのあと、戦没者供養のため周布郡北条郷に長福寺を建立し菩提をとむらった。
当寺は、北と西に堀があり、土塀には△や○矢狭間がある。浄明寺文書に元寇のとき通有の活躍の記述がある。
続柄:通継の子
家督:応長元年まで
関係の社・寺・城:長福寺(東予市北条)、浄明寺(丹原町)
墓や供養塔;長福寺



河野氏ゆかりの地を訪ねる

長福寺;愛媛県西条市北条655◆

JR壬生川駅の南西、多賀小学校の少し南西にある臨済宗妙心寺派のお寺さま。『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』に記されるように、塀には○や△の矢狭間が残る。北と西の堀は用水路となっていた。
境内に入る。品のいい風情。本堂も風格がある。山門も小振りながら堂々としている。本堂前の藤棚は季節の頃には境内を美しく飾るのであろう。

河野通有供養塔
山門を入ると本堂に向かって右手に河野通有の供養塔とされる石塔がある。案内には
「市指定文化財 石造美術 長福寺宝篋印塔
長福寺宝篋印塔は寺伝によると、元寇で活躍した鎌倉時代の武将、河野通有の供養塔だという。
材質は花崗岩で相輪、笠、塔身、基台およびその下の二段の敷石から構成されており、全高約238センチ、基台より相輪までは約188センチである。制作年代は不明であるが、その様式から南北朝時代とも推定される。
塔身部分のみ赤いことや、下部2段の敷石が昭和33年に加えられていることなど留意すべき点はあるが、保存状態は良好で全体に均整がとれており、工芸的にも優れた貴重な歴史的遺産である。 西条市教育委員会」とあった。
宝篋印塔(ほうきょういんとう)とは、墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種。説明に塔身部分が「赤」とあるが、薄い茶色といったところだろう。

境内には「長福寺開基河野通有卿」と刻まれた比較的新しい石碑がある。概略をメモすると、「越智氏を祖とする河野氏の第48代河野通有は、元寇の役でその勇猛ぶりで名を高め、共に戦い討死した叔父の通時など敵味方を弔うため自らの館があったこの地を寺とし長福寺を開基した」とある。

伯父通時と共に戦う?
この記事で気になったことがふたつ。叔父通時と共に戦ったという箇所と、第48代という記述。上で通有が家督を継いだときは一族間の家督争いの真っ最中。通継>通有に対抗する一派の代表が通時とも聞く。通時は通継が家督を継いだ第24代通久の長子との説もあり(通継は次子との説も)、そのことが家督相続争いの火種ではあったのだろう。
で、その敵対する通有と通時が共に戦う?幕命であろうからそれはそれでいいとして、通有の元寇の役での奮闘の因として、通時より武功をたて、家督相続の正当性を幕府にアピールすることにあったとの説もあった(『湯築城と中世の伊予』)。なんとなく面白い。

第48代?
また、石碑にあった48代とは?チェックすると、通有を第26代とする系図より更に祖を遡った「越智宿禰姓 河野氏系図」に拠るもの。越智姓は孝靈天皇の第三皇子、彦狭嶋命より出るとする系図である。祖を古き貴種に求めるのは世の習い。とはいえ、鎌倉以前の河野氏に関する記録は特にないのは前述の通りではある。
なお、孝靈天皇からはじまる系図については、境内にあった「予州記・河野系図」にも記されてあった。

「予州記・河野系図」
「予州記」は中世伊予に栄えた河野氏が自らの来歴を記した文書であるが、現在原本は確認されておらず、伝本が残されているのみである。長福寺所蔵のものは、その中でも「長福寺本」と呼ばれる、最も広く一般に流布しているもので。長福寺中興開山であり、河野家の地を引く南明禅師の手によって江戸時代中期に書き写されたと考えられる。
「河野系図」は第7代孝霊天皇から河野家最後の当主である通直に至る、河野氏歴代を記す4m余りの系図で、これも南明禅師によって、「予州記」と同時期に作られたと推測される。江戸時代初期に作られたと推測される。 「予州記」については、資料批判の必要はあるものの、「河野系図」とともに、中世の伊予、河野氏を研究する上で貴重な資料である。 西条市教育委員会」とあった。

なお、案内にある南明禅師は、河野家没落後、長福寺を再興し、その際に元は海印山長福寺と号した臨済宗東福寺派の当寺を、山号を東海山に改め、臨済宗妙心寺派に転じた。

境内には、通久ゆかりの長敬寺周辺のメモに記した周敷神社と同じく「一柳直卿の扁額」と「長福寺梵鐘」の案内があった。
「一柳直卿の扁額」は当時の三百諸侯中第一の能書家で、将軍家に習字の手本を治めたほどの小松藩三代藩主であった一柳直卿の手によるもの。「長福寺梵鐘」は県指定文化財であり、明徳年間、織田信長の息女が大徳寺の末寺・守禅庵に寄進したものを、明治に守禅庵が別寺に合寺された時、譲り受けたものであり、朝鮮の鐘を模した流麗な鐘との案内があった。



大気味神社
長福寺に向かう途中、丹生川駅の南を東西に通る県道48号から、予讃線の踏切の少し東手前で南に分岐する県道13号に入り、崩口川に架かる「つるおか橋」を渡ってすぐのところに社があり、大気味神社とあった。
名前に惹かれてちょっと寄り道する。散歩の折々神社仏閣に立ち寄るが、はじめて聞く名前である。お参りを済ませ、境内を彷徨うと「大気味神社と喜左衛門狸」の案内があった。
概要をメモすると「神社の創建は宝永2年(1705年)。この地方一帯が虫害や風水害によって飢饉となった時、村人が神に助けを求めて創建したとされる。 祭神は大気都姫神、大国主、大年神、御年神、若年神、猿田彦神。また、境内の老大木には喜左衛門という大狸が棲み、その神通力は上方まで知られていた。怨霊の祟りを鎮めるようにもなった喜左衛門は大気味神社の眷属(神様の使い)として祀られることになり、喜野明神(喜の宮)と呼ばれた。
喜左衛門狸の伝説は数多く残され、合田正良「伊予路の伝説」や井上ひさし「腹鼓記(新潮社)」などに取り上げられている。
社の名前は、大気都比売(おおげつひめ)神または。その祭神名に由来するように思える「喜野明神(喜の宮)などから命名されたものだろうか。同名の社はチェックした限りでは、伊予の久万に小祠として祀られる他は見当たらなかった。

□大気都比売神
祭神の大気都比売神は食物の神。飢饉に際し祀られたとされるので、筋は通っているのだが、大気都比売神を祭神とするのは伊予のふたつの社と阿波・徳島のいくつかの社以外に見当たらない。大気都比売神は『古事記』において、阿波国名として登場するわけで、徳島で祀られるのは当然だろうが、それにしても少ない。
大気都比売神は食物の神とされるが、その神話での話はあまり「美しく」ない。高天原を追放されたスサノオは食物を求めるに、大気都比売神はどんどん食物を与える。不審に思ったスサノオは大気都比売神が体のあらゆる「穴」から食物を作り出していた。怒ったスサノオは大気都比売神を誅する。と、大気都比売神の頭から「蚕」、目から「稲」、耳から「栗」、鼻から「小豆」、陰部から「麦」、尻から「大豆」が生まれた(Wikipedia)とある。

殺害されものから栽培植物が生まれるというのは世界各国でよくある話ではあるようだが、なんとなく。。。それよりも、ということで同じ食物の神であるお稲荷さんが宇迦之御魂神とよく似た神であり、お稲荷さんが盛んに祀られた故の、大気都比売神の知名度の低さであろうか。単なる妄想。根拠なし(因みに、『日本書紀』では「保食神(うけもちの神)」として登場する)。

喜左衛門狸
大気都比売神の話が長くなったが、喜左衛門狸。四国には狸の伝説が多いが、喜左衛門狸は、屋島の禿狸、子女郎狸とともに四国三大狸とも云われる。案内には怨霊を鎮めた故の喜野明神とあるが、悪戯が過ぎたため村民に焼き殺されたが、その後不審火が頻発し、喜左衛門狸の祟りであると、喜野明神として祀ったとの話もある。また、このお狸さん前述の長福寺の南明和尚と仲良しで、小僧に化けてお供していた、といった話も残る。
子供の頃から聞いている子女郎狸など、伊予の狸伝説の跡を辿るのも面白そう。



河野氏ゆかりの地を訪ねる

浄明寺:愛媛県西条市丹原町田野上方1467

『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』の河野通有の項に、「浄明寺文書に元寇のとき通有の活躍の記述がある」とされるお寺さまである。
今治小松自動車道の伊予丹原IC辺りを南東に下る県道48号が緩やかにS字を描く田野上方地区にある。
真言宗のお寺さま。広い駐車場があったが、このお寺様では定期的コンサートなどが催されているようであり、そのお客様の便宜を図ったものだろう。 山門を潜り、本堂にお参り。境内には鳥居のある社、さらには綾延八幡本地堂などもある。明治の神仏分離令以前は綾延姫命をお祀りしていたとのこと。近くに綾延神社がある。その別当寺であったものが、明治の神仏分離令に伴い、寺の場所をこの地に移したのだろうか。現在の本尊は不動明王とのことではある。八幡様の本地は阿弥陀如来というから本地堂には阿弥陀如来が祀られているのだろう。
で、本題の河野氏との「ゆかり」であるが、浄明寺文書に通有の元寇での活躍が記されている、ということであり、境内に特段河野氏に関するものは見当たらなかった。


▽綾延八幡;西条市丹原町田野上方1548
浄明寺の東隣りにある綾延八幡に向かう。落ち着いた風格のある社である。社の名は「綾延神社」と刻まれる。社殿にお参り。
境内にあった「平成大造営記念碑」に刻まれた説明の由緒部を抜粋すると「総鎮守 綾延神社 当社は周敷郡田野郷の総鎮守にして国史に墓邊神と所載あり。近古に衰徴せしを貞享元禄年中に松山藩周敷郡代官所の肝煎りにより改築す 現今の社殿これなり。その後老朽著しく、平成の御代に社殿悉く修復造営し、田野郷六千石の本社に相応しき景観となる」とあった。


墓邊神?
「国史に墓邊神と所載あり」とは、「えひめの記憶」の伊予の古社の項に、「延喜式神名帳」に記載漏れとなった古社およびその後にできた神社を、式内社に対して式外社と称する。このうち、『日本書紀』以下『三代実録』までの六国史に、祈請・奉幣・授位などのことに関連して神名の記される神社を「国史見在社」とか 「国史現在社」といい、古来より式内社に準ずる由緒ある社として認識されてきた」とあり、続けて「国史に見て詳ならぬ神の御名を左に付録す」として「墓辺神」が記載されている。
で、「墓邊神」とは?チェックすると、この社の社伝に、「西条市今在家の黒須賀の浜に漂着した綾延姫命は、旧家汐崎氏 に奉じられて田野郷に移り住み綾織の技を伝えた。里人は生前の賢徳を慕って霊亀二年(716)墓辺に祀を建設し、お祀りしたと 伝えられています」とあるとのこと。姫は墓邊神として祀られ、社は「墓邊社(はかべのやしろ)」と称されたのだろう。
平安時代には、朝廷より 「従五位下」の神階を授与されたことが「日本三大実録」に書かれてあり、その後、室町時代には宇佐八幡の分霊を勧請し「綾延八幡宮」となる。
その後、明治維新に至るまで松山藩の祈願社の一つとして篤く崇敬され、明治12年(1879)に綾延神社となった。神仏分離までは別当寺は長福寺であった。


なお、「えひめの記憶」に「墓辺神については、綾延神社文書の中に「田野郷内墓辺社井八幡宮社領等事、言彼言是任先例不可相違、仍為後証之状如件」という、応永二五年(一四一八)の河野通久安堵状がみられる」とある。意味はよく分からないが、結果的に、河野通久ゆかりの社でもあった。但し、この場合の通久は前述の第24代当主の「通久」ではなく、時代を下った第39代当主の河野通久と思われる。

国広館跡
県道48号を左に折れ、長福寺に向かう田圃の中を通る道脇に石碑があった。一時停止して石碑をみると、「国広館跡」とあり「鎮守府将軍藤原秀郷の子孫下河辺行平は、源頼朝の功臣であって、その子朝昌もまた頼朝に仕え弓の名人であった。
石橋山の戦功によって伊勢之守に任せられ桑名城主となり、後に伊予の国に来たり、地頭職となり、田野郷をその本拠とした。その館跡がこの中屋敷一帯の地である。
時に頷下に良馬を産したので朝昌之を頼朝に献上した。寿永3年(1184)宇治川の先陣争いで梶原景季が乗った名馬「磨墨(するすみ)」がこれである。 国広館は、南北朝の世、細川頼春・頼之両度の来襲の兵火にかかって焼失。 それ以後は河野氏と共に代々郷士として守備開発に尽くした。
「磨墨」の母馬「紅梅鹿毛(こばかげ)」は、ここに併せて祀っている」とあった。
下河辺氏?磨墨?
国広館とは馬を育てた館の主が国広氏ということだろうが、それ以外の案内は???下河辺氏も、磨墨も何故にこの地に登場するのだろう?

下河辺
いつだったか、茨城の古河辺りを彷徨ったことがあるが、古河の歴史博物館に下河辺氏のことが記されていた。その時のメモでは「12世紀のころの文書には下河辺の名前がしばしば登場する。下河辺荘という地名も登場する。この下河辺荘って、八乗院御領の寄進系荘園。北は古河・渡良瀬遊水地あたりから、南は葛西、東は下総台地・江戸川から西は元荒川あたりまで含む広大なもの。下河辺氏ってこの荘園の荘司から興った氏族であろう。治承4年(1180)、以仁王の平家追討の令旨を受け源頼政が挙兵。下河辺は頼政に従軍。が、平家軍に敗れる。で、自害した頼政の首をこの地まで持ち帰り、菩提をとむらった、と。記念館の北西に頼政神社がある。何故かと思っていたのだが、こういう所以かと納得」と記してあった。
で、下河辺行平であるが、頼朝挙兵時、武勲をたて頼朝近習として活躍した人物。頼朝没後、北条氏の畠山重忠謀略に加担した記録以降、詳しい資料はよくわからない。「えひめの記憶」をチェックしても伊予の地頭職に、それらしき記録は見当たらなかった。

伊予と下河辺
それでも、なにか伊予と下河辺氏に「繋がり」がないかとチェックすると、宇摩郡の地頭職として武蔵七党・小川氏の流れ(本貫地は多摩の馬の飼育場・小川牧)である小河氏、また秀吉の四国征伐の後、今治七万石城主となったのも豊臣大名小川氏。小川氏は藤原系下河辺氏の末裔と称したとする。微かながら、下河辺と伊予の接点があった。それにしても、ちょっと「遠すぎる」?
磨墨
また、名馬「磨墨」であるが、この話も相模原の津久井・半原を散歩していたときに、半原で同じ伝説にであった。「磨墨(するすみ)沢の伝説の碑;平家物語の宇治川の先陣に登場する名馬・磨墨(するすみ)は、この沢の近くに住んでいた小島某が育てた、との伝説。とはいうものの、源頼朝に献上されこの名馬にまつわる伝説は東京都大田区を含め日本各地に残るわけで、真偽のほど定かならず」とメモしていた。
で、相模の半原といえば、「小川家譜」に、伊予今治城主となった小川土佐守の後裔が、関ケ原の合戦後、相模国津久井郷に落去したとある。名馬「磨墨」の伝説の残る地である。関係は無いと思うも、偶然の一致が面白い。
有名な「オルレアンの噂」ではないけれど、噂>伝説誕生のプロセルって、どういったパターンがあるのか、ちょっと興味がわいてきた。

伊予の守護と地頭
上で、地頭職の話が出た。鎌倉時代は守護・地頭の制度により、旧来の朝廷・寺社勢力を削いでいったというが、守護と地頭の違いがよく分からない。ちょっと整理。
守護・地頭の制度は、東国鎌倉の御家人を全国に配置し幕府の支配力を強めるためのもの。守護は国の警護を司るものであり、地頭は全国の朝廷領や貴族・寺社が所有していた荘園を管理するための役職。
「えひめの記憶」に拠れば、鎌倉期の伊予の守護は東国御家人である佐々木盛綱と宇都宮頼綱のふたり。佐々木盛綱は早くから頼朝につかえ、山木兼隆襲撃、石橋山の合戦など、争乱の初期から頼朝の側近であった。その後争乱の進展にともなって、西上する範頼軍に従い、京都近郊での義仲の追討、備前児島での平家軍との合戦などに名をあげた。盛綱は、伊予の他に、讃岐・越後・上野においても守護の地位を得ている。
一方の宇都宮頼綱も、梶原景時糺断に加わり、元久二年(一二〇五)には畠山重忠討伐に参加した鎌倉の有力御家人の後裔である。(上記地図はgoogle earthを元に作成しました)

また、伊予の地頭職であるが、これにはふたつのタイプがあり、ひとつは東国御家人、他方は在地勢力で本領を安堵されたもの。「えひめの記憶」には、在地地頭としては河野氏、忽那氏、金子氏など。東国御家人としては、北条得宗家、大仏氏、金沢市氏、桑村には武蔵七党・野与党の多賀谷氏などの名がある。肝心の周敷郡は「頼秀」という名が残るだけであり、下河辺氏との縁を辿ることができなかった。

今回は河野家第26代当主・河野通有のメモで終わりとする。

アーカイブ
東予市に残る河野氏ゆかりの地を辿る1回目は、赤滝城で思いのほか時間がかかり、予定していた文台城跡、大熊城跡を歩けなかった。
2回目は文台、大熊の城跡巡りからはじめるが、この城は1回目でメモした赤滝城と同じく、河野氏第22代当主・通清が、嫡子の23代当主・通信とともに攻め立てた城でもある。


(マップは左上の四角部分をクリックすると旧跡一覧が表示されます)


鎌倉期;勝利と没落
鎌倉幕府御家人として武功を立て威を示すも、承久の変で宮方に与し没落


河野通信(第23代);源氏方として武功をたて東・中予に強い勢力を築く

 当初不利であった戦況も、源氏方の攻勢により伊予での雌伏の時から反攻に転じ、高市氏を撃破。源氏の軍勢の一翼としても、壇の浦の海戦などで軍功をたてる。鎌倉幕府の開幕に際しては、頼朝に臣従を許された数少ない西国御家人のひとりとなり、奥州平定にも出陣する。
伊予への帰国に際し、通信は破格の待遇を得ることになる。それは、既に伊予の守護となっていた佐々木盛綱の支配を受けず、一族を率いることができるという許しを得たことである。鎌倉幕府が施行した守護。地頭の制度下、伊予の国の守護に補任された佐々木盛綱の指揮を受けることなく伊予の半分近くを治め得るという「半国守護」と称される所以である(異説もある)。 通信はこの特権を最大限に活用し、伊予の競合武将を圧倒し、13世紀には伊予の東予・中予に強い勢力を築き上げる。その直接の領地は所領五三箇所、公田六十余町に及んだと推測されている。

承久の変と河野通信の反幕挙兵
頼朝亡き後の承久3年(1221)、後鳥羽上皇が北条氏の支配する鎌倉幕府に対し倒幕の兵を挙げた際、河野通信は宮側に与する。幕府は伊予の反河野勢に命じ高縄城を攻めるも攻略叶わず、阿波・土佐・讃岐、さらに備後国の御家人の遠征軍の合力により高縄城は落城する。
幕府の恩顧にも反し、宮側に与した要因は、諸説ある。一説には桑村以東、また南予に勢力を伸ばそうとする河野氏の思惑があるとも説かれる。桑村以東は守護、南予は東国の有力御家人が抑えており、この乱を契機に東予への領地拡大、南予支配を目した故、と言う。

承久の変後の河野氏の没落
戦に敗れた河野氏は、一族のうち、ひとり幕府方に与した五男・通久(第24代)の軍功が認められ、阿波国富田荘(現徳島市)地頭職を認められたほかは、上記、河野氏の所領五三箇所、公田六十余町、一族一四九人の所領も幕府に没収され、河野氏はその勢を失う。通信は通久の働きに免じ平泉配流となるも、一族の大半は討ち死や斬首に処される。

河野通信(『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』より)

父の通清とともに、伊予の兵士の目代を追放、父を戦死させた額入道西寂を倒し父の仇を打つ。源平合戦では源氏を助け活躍する。
承久の変(1221)では上皇側につき幕府軍と戦うが、敗れて帰郷、高縄山で反抗を続けるが、捕らわれて奥州に流される。
続柄:通清の子
家督;不明
関係の社・寺・城;東禅寺(今治市)、大山祇神社、文台城、大熊城、赤滝城(丹原町
墓や供養塔;北上市(岩手県

東禅寺の由緒;今治市東禅寺の歴史は極めて古く、伊予の国司河野氏の祖先小千命の十五代の孫予州太守越智益躬公によって建立されたものである。
推古天皇の十年、大陸より夷狄鉄人が兵は八千を率いて九州に侵攻し京都を窺わんとしたとき、益躬公は勅命を受けて兵庫蟹坂に於いて激戦の末、これを打ち取ったが、その際多数の臣下を討ち死にさせ、その菩提を弔う為伽藍を建立し東禅寺と号した。
益躬公没後詔により文武天皇はその勲功を賞し、太政大臣の位を贈られ鴨部大神と号された。(現在東禅寺の東方鴨部神社の祭神である)。
その後承久の忠臣河野通信公は東禅寺に於いて生誕成人され七堂伽藍を再建、又聖武天皇の御時(天平九年)、行基菩薩が本尊薬師如来を自作、安置される等輪奐の美を極めていたが、その後、幾たびかの戦火に逢い、又大東亜戦争の際子国宝本堂を焼失したが、幸い薬師如来は難を逃れ現在本堂に安置され御利益あらたかな佛さまとして広く尊宗をあつめている。

google earthをもとに作成


河野氏ゆかりの地を訪ねる

『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』には通信ゆかりの地として、赤滝城、文台城、大熊城の他、東禅寺、大山祇神社、岩手県北上市が記載されいるが、とりあえず東予市内の河野氏ゆかりの地、ということで文台城、大熊城、そして、ちょっと東予市(現在の西条市)からはずれるが、お隣の今治市にある東禅寺を訪ねることにする。

文台城散歩

文台城の登山口は、中山川が形成した扇状地である前平野の扇の要の辺り、国道11号・湯谷口交差点から志河川にそって志河川ダム方面へと車道を少し上り、松山道と交差する高架下にある。
この辺りは丹原の利水史跡を辿る散歩で、劈巌透水路や志川堀抜隧道などを訪ねて歩いたところであり、土地勘もあり、スムーズに登山口に。


登山口;9時38分
高架下、車道の山側に斜めに登山道が見える。ほどなく、竹林の中を進む。等高線を緩やかに横切る形で進み、最後は等高線をほぼ垂直に30mほど上ると平坦地に出る。少し藪を掻き分けると城址に到着。おおよそ10分程度で着いた。比高差も90m弱だろうか。先回の赤滝城とは違い、拍子抜けするほどの城跡散歩ではあった。

文台城址:9時50分:標高180m
藪を掻き分けるとその先に小祠と「史跡 文台城址」と書かれた、誠にあっさりとした木の標識があった。城からの眺め藪に遮られよくないが、木々の切れ目から見える周桑・道前平野の眺めは、見張台・砦として十分なものではあったのだろう。

文台城に関する概要は、先回メモした『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡東予市郷土館』)の河野通清項にあった。ここに再掲する。

文台城跡
南方山上且地方山上且地 丹原町志川
伊予の国司平維盛の目代は豪族河野通清に敗れて赤滝城(明河)にたてこもり、その部下は文台城(志川)、大熊城(鞍瀬)の両城によって河野軍を防いだ。 中山川に流れ込むふたつの支流がある。一つが鞍瀬川、もう一つが此処志古川である。
それぞれの河口の喉頚にあたる地点であり、両城も赤滝本城を守る前哨的の砦の役目であったが、激戦の末城は落ちた 丹原町文化協会」

下山;10時8分
下りもあっと言う間に下山。車のデポ地点の先に志河川ダムがあるので、ちょっと立ち寄り。

志河川ダム
案内には「道前・道後平野は瀬戸内海に面し、雨量が少ない地域で、たびたび旱魃の被害を受けてきました。このたけ1957-1967(昭和32-42)年に面河ダムや道前・道後の両平野に水を送る施設を国(農林水産省)が作りました。その後、夏季の農業は、水の心配をすることなく安心して営めるようになりました。
そして、1989-2008(平成元―20)年に古くなった施設の改修を行い、冬季用水などを確保するため佐古ダムと志河川ダムをつくりました(以下略)。」 ところで、志河川ダムの横の案内には「志古川湖」とある。「志河」、「志古」? 近くにあった記念碑には「志河川に依存する農民は元より、地元住民は、先祖代々志古の清流を命の水として、、、」とある。何らかのルールで使い分けているのだろうか?

その後の文台城
あれこれチェックしていると、武田信重(信勝の兄)が文台城主、との記録があった。伊予武田当主信勝が来島通総に討たれたとあるので、時代を下った秀吉の四国征伐の頃の話である。主家である河野氏から離反し織田>秀吉に与した来島通総により、河野氏に与した伊予武田氏が敗れた。伊予武田氏のあれこれは27代当主・河野通盛のとことでメモする。


大熊城散歩

文台城城址をゲットし、次に大熊城址に向かう。大熊城は小冊子の通清・通信の項にゆかりの地として記載されている。場所は昨年金毘羅街道を歩いた折に辿った笹ヶ峠近く。中山川が道前平野に流れ出す手前、鞍瀬川が中山川に合流する箇所を見下ろす標高302mの山にある。先回訪れた赤滝城は、その鞍瀬川を遡った処にあるので、赤滝城の前哨的砦として、文台城は中山川右岸、この大熊城は中山川左岸を固めていたのだろうか。


登山口;10時43分(標高194m)
笹ヶ峠手前、車道から右に旧道が下る辺りに車をデポ。かつての金毘羅街道が中山川と鞍瀬川が合流する落合から丹原に抜ける道筋であるが、国道11号・落合側は山道状態であるので、車で登山口に向かう場合は丹原方面からのアプローチしかない。 峠南側に、車道に沿って法面を斜めに上る道が登山道。登山道は大熊山のふたつのピークに立つ送電線の巡視路を利用することになる。登山口には送電線の巡視路杭があり、「四国電力 北松山線 57」とある。

西のピーク;11時10分(標高327m)
道を進むと竹林が現れる。その先、等高線を垂直に30mほど上ると尾根筋に出る。緩やかな尾根道をしばらく進み、右手が開けけた先に大熊山西側のピーク。57番送電線が建つ。比高差140mほど。登山口から20分強といった距離であった。
大熊城はこの西のピークも城砦の一部であった、とのこと。藪を漕いで辺りを彷徨うと、大岩の前に小祠が祀られていた。
北松山線
北松山線を「追っかける」と、西は石手ダムから更に西に、東は中山川の谷を横切り西ノ谷山から、石鎚連峰の北麓を進み西条市の西条変電所に続いていた。

大熊城址;11時27分(標高303m)
西のピークから東のピークに向かう。送電線巡視路の鉄杭があり、「58」の示す矢印が登山道となっている。ふたつのピークの鞍部に下り、15分ほど歩き、東ピーク手前で左手が開ける。その辺りで巡視路を離れ、右に上る踏み跡を進むと東ピークに到着する。
西のピークと異なり、送電線はピークの少し先にある。東のピークあたりの藪を漕ぎ、大熊城址の石柱と三角点を確認する。木々に遮られてはいるが、道前平野は一望。
その後の大熊城
通清・通信以降、大熊城が記録に残るのは、応仁の乱の頃。惣領家・教通(第33代当主)と予州家・通春に別れ内紛の真っただ中ではあったが、通春は河野家の危機を憂い、阿波・讃岐の兵を率い侵入した細川義春に備えるべく、その子通篤に命じ大熊城を守らせている((『伊予の歴史(上);景浦勉(愛媛文化双書刊行会)』))。明11年(1479)のことである。
この要衝の地の城に関係する人物は平氏の目代、目代を攻めた河野通清・通信親子。その他、時代をくだって予州家の河野通篤(後にメモする)が文明11年(1479)に、伊予に侵攻した細川義春と激闘の末、撃退している。

下山;11時50分
東のピークから折り返し、巡視路を登山口まで戻る。往復1時間ほどの行程であった。因みに登山口の少し左に、鉄塔巡視路の案内杭47番があった。こちらも巡視路だが、大熊城址は「57番」が目安。

次に、東予市のお隣、今治市にある東禅寺。丁度今治に用事があったので、ちょっと立ち寄り。




東禅寺:今治市蔵屋敷2-14-2◆

東予市のお隣の今治市にある。今治城から少し西側にある真言宗醍醐派のお寺さま。門前に遭った東禅寺の由緒は、前述の『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡東予市郷土館』)の河野通信公の項に上にメモした。



由緒に拠れば、このお寺さまは河野氏だけでなく、伊予の名族越智氏ゆかりのお寺さまでもあった。由緒にあった「夷狄鉄人」って?チェックすると、西アジアで甲冑を纏った部族を率いた首領のこと。伝わるところによれば、鉄人に率いられた部族が朝鮮半島を経て九州に上陸。周囲を平定し都へ向かう。推古天皇より討伐の命を受けた益躬は、大三島の大山祇より神の勝利の託宣と矛を受け、鉄人の傘下に下るふりをし、播州に上陸した後、隙を見て鉄人を誅した、といったお話し。







それはともあれ、河野通信に話を戻す。門前の由緒にはあっさりと説明されていたが、境内に「河野通信公塔」があり、そのわきに「東禅寺と河野通信」と刻まれた石碑があった。

案内をまとめると、「河野四朗通信は、保元元年河野通清の三男として東禅寺で誕生し、伊予国府で伊予権介という在庁官人として勤めていた。神仏に深く帰依し、東禅寺伽藍再興にも尽力。
屋島の合戦では平氏の地上軍主力を伊予に引きつけ討ち破り、義経の屋島占領を容易にする。壇ノ浦の合戦では村上氏らの水軍を率い、海に慣れない義経を助け平氏水軍を撃破。頼朝夫人政子の妹を娶り頼朝と義兄弟となり、鎌倉幕府内での権勢が約束されたにみえたが、頼朝と義経の対立により、義経と親しすぎた通信は幕府より疑いをもたれることになる。

源氏が三代で滅び、鎌倉幕府の実権が北条氏に移ると、鎌倉武士団に乱れがあるとみた後鳥羽上皇は、承久三年、朝廷に政権を取り戻すべく討幕の挙兵。上皇方についた通信は平泉に配流され、承応2年、義経と同じ平泉の地で68年の生涯を終えた。

弘安3年、通信の孫で時宗を開いた一遍上人により奥州平泉にある通信の墓参りがなされ、後に東禅寺に位牌が納められた。東禅寺は菩提所となり、通信を永代にて祀っている。
また、大正天皇により、大正5年11月28日、承久の乱における通信の忠勤を嘉賞し従五位の勲位が贈られている」といった旨の記述があった。
供養塔には「従五位」と刻まれていたので、この塔が建てられたのは、大正5年11月28日以降ということだろう。

「聖如意輪観世音菩薩」
「当寺に安置し奉る如意輪観世音菩薩は、其の由来極めて古く 天智天皇の代、当国の名族河野氏の祖越智直唐土にて得たる霊像にして此の尊像の加護により 直ら八名海上の波の難を免がれ無事本国に到着せることが出来た。
依って永久に尊信せんが為に当寺に安置し奉れる尊像にして除災招福の佛として霊験あらたかなり」と越智氏ゆかりの案内であった。





■河野通久(第24代);河野一族でひとり幕府方に与し、河野氏の命脈を保つ

承久の変において宮側につき大半が討死や斬首に処された河野一族のうち、通信の五男通久のみが幕府方に与した。その軍功が認められ、阿波国富田荘(現徳島市)地頭職を認められ、第24代河野家当主となる。
貞応二年(1223)、通久は幕府に願い出て伊予国久米郡石井郷の領有を認められ、河野家は伊予国に戻る。その通久没後、河野家の家督は通久の弟である通継(第25代)が継承する。通継については家督相続を端に発する嫡庶の所領を巡る係争の他、見るべき事象が見当たらない。河野氏の衰退は続く。 なお、通継は通久の次子との説もある。長子は通時とされ、二度にわたる通時「義絶」の末、通継が総領家を継いだとされる。両者間では深刻な家督争いが行われていたようである(『湯築城と伊予の中世』)。
また。通久の頃から在鎌倉御家人から在京御家人と、在京奉公が中心となってゆく。


河野通久(『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』)

承久の変(1221)では高野氏側でただひとり幕府側に味方をし、貞応2年(1223)久米郡石井郷を領有して、同地の縦渕城を本拠とする。 長敬寺は、土地を寄進して建立したともいわれ、一説では、通久の娘が父の菩提を弔うために通久の名で寄進したともいわれている。
続柄;通信の子
家督:貞応2年(1223)から
関係の社・寺・城;長敬寺(東予市周布)

長敬寺
寿光山長敬寺無量寿院は、浄土真宗本願寺派の寺で御本尊は阿弥陀如来である。寺伝によると、信州よりこの地に来られた成然坊という偉い僧を、伊予の豪族河野九郎左衛門通久は尊信され、鎌倉時代の弘安六年(1283年)十町四方の土地を寄進されて寺を建立した。一説では弘安の役に手柄をたてた河野六郎通有の妻で通久の娘が父の菩提を弔うために通久の名で寄進したとも言われている。 このように長敬寺は伊予の豪族河野家ゆかりの寺である。第三代西念坊は京都本願寺 第三世覚如上人より寿光山無量寿院の号を賜わり、又第十四代唯円坊は京都本願寺第八世蓮如上人より法名を賜わっている。
永禄十一年、長曽我部元親が南予に侵入の時、河野通直の出陣要請を受けて越智、周敷、桑村の武将と共に、長敬寺からも唯円律師と河相太郎が兵を率いて出陣、長曽我部軍を土佐へ追い返している。
寺に河野左京大夫道宣が自分の血で書いた血書三部経が四冊残されており、市の文化財に指定されている。周布公民館 周布地区生涯学習推進委員会



河野氏ゆかりの地を訪ねる


長敬寺:愛媛県西条市周布141

小松今治自動車道の東予丹原ICの少し南にある浄土真宗本願寺派のお寺さま。山門を入り鐘楼を見遣りながら本堂にお参り。境内にある長敬寺の案内は上掲の通り。
河野氏との関係は強く、坊守には河野家惣領家の娘もいるようだ。また、上の案内にもあるように、この寺には僧兵勢力といった武士団を有したようで、長曾我部元親が南予・喜多郡に侵入し、西園寺氏、宇都宮市が元親の軍門に下り河野家に叛したとき、河野通直(第36代当主)に従い南予に出兵している。 秀吉の四国平定時、河野惣領家の滅亡とともに長敬寺も破壊され、武士団も解体された、と言う。
血書三部経
境内には血書三部経の案内がある。「市指定文化財 有形文化財古文書
血書(けっしょ)三部経 昭和58年7月18日指定
長敬寺(ちょうきょうじ)にある三部経は、無量寿経(乾)と無量寿経(坤) 観無量寿経(全) 阿弥陀経の四冊で、何れも横19cm、縦25cmの和綴本である。伊予守河野左京大夫道宣(みちのぶ 天正9年没)が病弱の上、下剋上(げこくじょう)の時代にあって、仏の救いを求め自ら血でこの三部経を書いた。現在、血の色は大分褪(あ)せて薄くなっているが、伊予の豪族河野氏と寺の歴史を物語っている。 東予市教育委員会」とあった。通宣は後述するが、35代河野家当主である。

周布
長敬寺のある辺りは、往昔道前平野の中心地であったよう。長敬寺から少し南に下った豊栄神社のある傍に、「古代文化の里」の案内があった。概略をメモすると、「周布は古代文化の里と伝えられ、今から2000年前の弥生時代には道前平野における弥生人の生活の拠点で、中国地方や讃岐地方から多くの物資や人が集まり栄えていた。

奈良時代には、都から伊予の国府に通じる南海道が村中を通り、周敷(しゅうふ)駅が設けられ、奈良の都や各地の文化が入ってきた。また周敷郡の郡役所があって、周敷村は政治・経済。文化・交通の中心地であった。 このことは、平成年から9年にかけて小松今治自動車道建設に伴っておこなわれた発掘調査で郡役人の用具や装飾具、高級役人か豪族の装飾具と思われる大陸の楽浪郡からの石製指輪、豪族の権威を示す石剣や祭祀供物、石器や弥生土器、弥生住居跡が出土したことからも証明されている」といったことが説明されていた。

案内のある辺りには古き趣の造酒屋も残る。造酒屋が残るということは、水にも恵まれていたのだろう。中山川や幾多の河川の伏流水が湧出する地点ではあったのだろう。
地図を見ると、この辺りの字は「本郷」とある。その意味は「郷」の中心地ということ。本郷には古代の郡家も 周敷駅が付近にあったという式内社である周敷神社もある。周敷連の姓を賜った先祖を祀ったもの、と言う。

徳威神社
少し南に下った吉田には「特威神社」もある。古き社で、案内を大雑把にまとめると「社伝によると顕宗天皇の3年(487年)阿閉事代の創始という。往古は「徳威神明宮」と称していたが、元慶3年(879年)に応神天皇を勧請して「徳威八幡宮」または「吉田八幡宮」と称した。また、南北朝時代には南朝方の軍勢催促のため、伊予に来られた日野中将が徳威八幡宮に参拝したことから、「勅使八幡宮」とも称せられた。
戦国時代、石根の剣山城、黒川氏の庇護を受ける。その後秀吉の四国征伐により黒川氏は滅び、社運は衰えた。
江戸になり、寛永13年小松藩の成立により、藩主一柳公が再興し郡内総鎮守とした。寺宝に、三百諸侯随一の能書家と称された藩主一柳直卿公の扁額がある」といった由緒ある社である。
周布が古くからの当地の中心地との案内も結構納得。2回目のメモはここまで。
毎月定例の田舎帰省。何処か歩けるところはないものかと、新居浜市の図書館で郷土史の棚を探す。と、小冊子で『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡 東予市郷土館』が目にとまる。
伊予と言えば「河野氏」というキーフレーズは知っているのだが、昨年来島村上氏の史跡を辿った折、成り行きで高縄山に行き、そのときのメモで河野氏のあれこれが、少しだけわかってきた、といった為体(ていたらく)である。 そのときのメモで、河野氏の本貫地が高縄山の西裾、旧北条市にあり、館の背後には、高穴城とか雄甲・雌甲城といった山城があるようで、そのうちに訪れてみたいと思っていた。
来島村上氏の史跡巡りも一段落したので、今回から河野氏ゆかりの地を辿ることにする。とりあえず、小冊子に記載されている東予市内(一部丹原町)、現在は共に西条市に合併した当該地域のゆかりの地からはじめようと思うのだが、同小冊子は河野氏の系譜を時系列で家督相続人を中心に説明されている。先般、高縄山を訪ねた時、河野氏興亡の推移を時系列でまとめてはいたので、そのメモを軸に、小冊子に記載の河野氏ゆかりの地を訪ねることにする。


(マップは左上の四角部分をクリックすると旧跡一覧が表示されます)



●鎌倉期以前;河野氏の記録ははっきりしない●

国衙の役人であったらしい

小冊子『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡 東予市郷土館』は河野通清からはじまる。あれこれチェックした結果としては、それ以前、つまり、鎌倉以前の河野氏については、国衙の役人であったらしい、というほか、詳しいことは分からない。その本貫地は伊予北条(現在松山市)の南部、河野川と高山川に挟まれた高縄山の西麓であったようだ。この地を開墾し、開発領主として力をつけていったと言われている。
河野通清以前は詳細不明である、とはいいながら、第22代当当主とある。その所以は世の常の如く、先祖を貴種に求め、河野氏もその祖を伊予の古代豪族越智氏とする家系図故のこと。その越智氏の一族で白村江の戦いに出陣した越智守興と現地の娘との間に生まれた子・玉澄が河野郷に住み、河野を号した。その玉澄を初代として22代目が通清、ということである。因み祖をもっと古く遡る家系図(「越智宿禰姓 河野氏系図」;第26代通有の項でメモする)もある。



●鎌倉期;河野氏が歴史に登場●

四面楚歌の中、源氏に与し平氏と戦う

■河野通清(第22代);頼朝挙兵に呼応
源氏の棟梁、源頼朝が平氏打倒の兵をあげたとき、河野家当主・通清は頼朝挙兵に呼応し平氏に反旗を翻す。挙兵は高縄城であったとも言われる。
当時の西国は平氏方一辺倒であり、無謀とも言える決断である。源氏に与した要因としては、伊予で覇を争う高市氏(新居氏ともある)が平氏の家人として平氏政権と強い絆を結んでおり、それに対抗するため、また、平氏による瀬戸内の制海権支配に対する不満などが挙げられる。
挙兵するも、当初は四面楚歌にて、戦局は圧倒的に不利。豪勇の聞こえ高い嫡子の通信が九州の源氏方を応援すべく九州へ出向している間、阿波の田口成良、備後の奴可(ぬか)入道西寂に「山の神古戦場」で敗れ、討死したと言われる。

山の神古戦場」は先日、花遍路散歩で訪れた。その近くには百回忌にあたる弘安2(1279)年、通清の曾孫にあたる一遍上人(1239~1289)がこの地で供養を営み、建立して万霊塔が建っていた。


◆高縄城
小冊子では高縄城で討死とある。先日歩いた「山の神古戦場跡」にあった案内には「松山市指定文化財(史跡)指定 昭和41年4月10日 治承3年(1179)源頼朝より河野通清に依頼状があり(現在高野山金剛三昧院に保存)、これを快諾した通清は四面平家の勢力の中で敢然として頼朝に呼応したが、備後の奴可入道西寂が兵船3000をもって高縄城に侵攻、注進により道後館より一族16騎、兵120人をもって帰城途中、敵の伏兵と遭遇、大いに戦うも利あらず、治承4年1月15日山中の大松のもとで割腹し、家来の者その首級を持ち大栗へ落ちのびたと伝えられる。大松は昭和40年枯死した」とあった。
古戦場にあった案内では、古戦場で敗れたのはわかるが、討死した山中の大松がどこか不明である。その山中をして高縄城としたのだろうか。 で、その高縄城であるが、「えひめの記憶:愛媛県生涯学習センター」では、河野氏の本貫地は北条平野の中央部、風早郡五郷の一つ河野郷であり、館は高縄山西麓、現在の善応寺の辺りとし、高縄城はその館の居館の背後の雄甲(標高238m)・雌甲(標高192m)の二岩峯と、館の北東、河野川を挟んだ高穴山(標高292m)に築いた3つの山城と、その背後に高く聳える高縄山(986m)一帯を総称して高縄山城と称したとする。
この説明からすれば、高縄山の西麓であれば、「どこでも」高縄城と受け取ることができる。「高縄城で討死」との説明もそれほど違和感はない。 因みに、地図を見ていると、雄甲・雌甲の山城は館の後詰、そして高穴の山城は背後からの敵に対する防御渠拠点、高縄山の山城は道後方面から石手川の谷合を侵攻する勢力、道前の蒼社川から立石川を経て侵攻する東予からの敵側への備えの要のようにも見える。単なる妄想ではある。

◆高市氏
平安末期、河野氏、新居氏、別宮氏とともに伊予に台頭した武士団。高市氏は国衙の役人として、越智郡・道後平野南部の久米・浮穴・伊予の各郡に勢力を伸ばす。伊予郡は早くより荘園開発が進み、ために中央権門との結びつきも強く、高市盛義の元服時の烏帽子親は平清盛である。
新居も国衙の役人であり、新居・周敷・桑村・越智・野間の各郡と、東予一帯に勢力を広げた。
別宮氏も同じく国衙役人であり、越智郡を領としたが、大山積神社の最高神官「大祝(おおはふり)」として、祭祀権を握っていた(『湯築城と伊予の中世;川岡勉・島津豊幸(創風社出版)』)。


▼河野通清(『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』より)▼

各地の源氏があいついで反兵士の兵をあげていた治承4年(1180),伊予国で反兵士の兵を起こし、兵士の目代のたてこもる赤滝城、文台城、大熊城(いづれも丹原町)を攻める。養和元年(1181)には平氏方の額入道西寂に攻められ高縄城で戦死。
家督;治承5年まで
関係の社・寺・城;文台城、大熊城、赤滝城(丹原町)
墓や供養塔;北条市粟井坂

▽文台城跡
南方山上且地 丹原町志川
伊予の国司平維盛の目代は豪族河野通清に敗れて赤滝城(明河)にたてこもり、その部下は文台城(志川)、大熊城(鞍瀬)の両城によって河野軍を防いだ。 中山川に流れ込むふたつの支流がある。一つが鞍瀬川、もう一つが此処志古川である。
それぞれの河口の喉頚にあたる地点であり、両城も赤滝本城を守る前哨的の砦の役目であったが、激戦の末城は落ちた 丹原町文化協会」


■河野氏ゆかりの地を訪ねる■


この記事をもとに通清ゆかりの地を辿ることにするが、粟井坂は既に訪れた(注:旧北条市であり東予市ではない)。文台城、大熊城、赤滝城を訪ねることにするが、地図でチェックすると、文台城と大熊城は、高縄山地と石鎚山地を分ける中山川が山地から道前平野に出る喉元、そして赤滝城は中山川を遡り、中山川に合流する鞍瀬川沿いの山中にある。手始めは赤滝城からとする。


◆赤滝城◆

実家の新居浜を出て国道11号を走り、国道が道前平野から中山川が高縄山地と石鎚山地の山塊を分かつ山峡部に入る。道はほどなく鞍瀬川が中山川に合流する落合に。そこから県道153号に乗り換え鞍瀬川に沿っておおよそ8キロほどだろうか、県道を進む。

登山道入口の橋
地図に児美谷神社とある手前、拉(ひしゃ)げた「赤滝城跡」の案内の傍にある名もない橋が城跡へと登山口。案内には「赤滝城跡  赤滝城跡は御祓川の源流青滝山(1303米)の山腹あたりがそうである。
文台大熊の前哨戦に敗れた平家勢が最後の拠点として逃げ落ちたのが赤滝城であった。断崖絶壁の中に洞窟がある。本城の岩屋、野地の岩屋、木釣の岩屋である。
しかし、洞窟戦はしょせんは負戦であった。今はこれまでと覚悟を決めた目代とその一族九人は岩屋から討って出て乱戦の末、自害して果てた。その地が九騎峠で温泉郡川内町滑川近くである。
源平両氏の興亡を占う戦いが丹原町で起き、源氏方の河野勢が大勝した文台、大熊、赤滝の城跡は、日本史を飾る大史跡である。 平成六年三月吉日 丹原町文化協会建立」

林道が崩壊
橋を渡ると左手に鞍瀬川に沿って林道がある。舗装もされていないので、橋を渡ったところにある空き地に車をデポ。10時55分、城跡に向けて出発する。城跡までの情報はちゃんと調べていない。途中の山中に社があるとのことで、その社を見つけるのが当面の目標ではある。
沢に沿って10分強歩くと林道が崩壊している。途中道端に石の仏さまが祀られていたので、なんとなくこの林道がオンコースと思うのだが、ひょっとして橋から右方向に道があったかも、などと思い、確認のため一旦車のデポ地まで引き返す。が、右に道はない。この林道を更に進むしかないだろうと再び橋脇から歩きはじめる。時刻は11時20分頃となっていた。

橋が崩壊:11時35分
再び川に沿って歩き始める。帰宅後地図を見ると、林道を少し進むと鞍瀬川に御祓川が合流。林道はその御祓川に沿って進んでいた。また、その林道も道脇にあった案内によれば、御所線と呼ばれ、車をデポした地点を起点に延長1.2キロ、幅員3.6mと、誠に大雑把なルート図とともに説明があった。
崩壊した林道箇所を再び越え(11時29分)先に進むと祓川に架かる橋が崩壊している。手前に架かる人道橋を渡り、沢の右岸に出る。

鳥居が建つ;11時38分;標高310m
沢を渡り、沢に突き出た尾根筋の突端部で道は大きく曲がり、尾根筋に垂直に上ってゆく。その尾根筋の突端に鳥居があり、社に向かっていることがわかりちょっと安心。社は車のデポ地かあらすぐにあると思っていたのだが、20分ほど歩いてやっと社への「手掛かり」が見つかった。





大野霊神社;;11時44分;353m
等高線に垂直に、といっても、等高線の間が広く、それほど急坂ではないが、ともあれ、坂を上ると5分ほどで社が見えてきた。大野霊神社とある。結構構えの立派な社だが、何故にこんな山中に?
由緒も何もなく、あれこれチェックすると先ほど渡った沢の右岸に「西之子集落」があり、戦前まで数軒の民家があった、とのこと。林道は沢の右岸に通しているが、旧道は沢の左岸にあった、と。
また、この社も、もとはその集落の近くにあり、「おおもと神社」と呼ばれていたとのことだが、いつの頃かこの地に移し、名も大野霊神社とした。何故に「大野」なのか不明である。集落の祖が大野さんかと思うも、神社の奉納者はほとんど佐伯さんではあった。
社殿天井には、伝説で馬が農作物を食い荒らすため、手綱を書き加えたという白馬の絵馬があったようだ。社の周囲には杉の大木が残る。社殿再建時には、そのうちの一本を売り、費用に充てたとのことである。それにしても、こんな山中に、こんな立派な社?などと当日は疑問を感じながらも先に進んだ。

尾根道に道標識;12時7分
神社にお参りし、城跡への登山口を探す。社の周囲をチェックしていると、神社の少し手前の藪の中に「赤滝城址登山道 丹原中生徒会 丹原公民館」の標識があった(城跡と城址が混在するが、登山口の案内では城跡とあった、ため)。 因みに、道標はこの丹原中生徒会のものを含め、城址まで4つほどあった。この道標がなければ城址には到底たどり着くことはできなかっただろう。感謝。 11時50分頃登山道に入る。尾根筋の等高線を垂直に進む。最初は緩やかではあるが、小ピークの手前辺りは結構急坂となっている。

小ピークから尾根を下る。社から20分ほど歩いているのだが、案内にあった青滝山の中腹にあるという赤滝城であれば上りではあろうが、それとは裏腹に、下ってゆく。一体いつ城に、と思った頃、2番目の道標。「赤滝城址」とともに。同方向に「野地之岩窟」の案内もある。あとどの程度の距離があるのか不明だが、とりあえずオンコースではあるようだ。
ここで尾根筋から離れ、道は下ってゆく。因みに帰宅後、尾根道をチェックすると、しばらく尾根道を進んだ後、北に突き出た別の尾根筋に阻まれ御祓川が大きく北にその流路を変える辺りで御祓川とクロスし、旧丹原町と旧温泉郡川内町の境にある黒森山の尾根筋暗部、九騎峠へと向かっていた。
なお、林道の名称にある御所は、北に突き出た尾根筋に阻まれ御祓川が北に大きく弧を描き流路を変えた、その尾根筋西側にあった集落の名とのことである。

再び沢を渡る;沢;12時11分;428m
下り切ったところに沢がある。車をデポし歩きはじめてから2番目の沢である。こんな大層なところにある城跡などと思いもせず、誠にお気楽にでかけたのだが、念のためにと持参したGPS専用端末が心強い。






道標;⒓時⒓分
沢を渡り切った先に道標。丹原中生徒会のものとは違う。「赤滝城(砦)跡 1K」とあった。やっと城跡までの距離がわかった。ここから尾根筋に這い上がる感じ。踏み跡らしきものを頼りに先に進み、尾根筋に乗る。






道標:⒓時30分;標高580m
尾根道を等高線に垂直に踏み分け道を進む。沢から20分ほど歩いたところに沢脇にあったものと同じ道標。「赤滝城(砦)0.2」とある。あと200mのところまでとなった。





赤滝城跡;12時34分;608m(621m)
標高600m付近にあった「野地之岩窟」の道標を見遣り、標高210mまで上ると平坦地となる。南北に長い平坦地に「赤滝城址」の案内が建っていた。出直し出発時間が11時20分であったので、1時間20分弱かかったことになる。こんな大変なところに来るとは、夢想だにしなかった。
城址とはいうものの、周りに何があるわけでもない。
「城址」の案内があるところは南北に長い平坦地であるが、その案内の先は小高く盛り上がっているので、土塁と言われれば土塁かななどと思いながら、何等か遺構でもないものかと、進む。完全な藪漕ぎ。
藪の先のピーク部分に、「谷向こうの地 御所古戦場跡」の案内と621m三角点があった。「谷向こうの地 御所古戦場跡」の案内のある方向に進んではみたのだが、踏み分け道も見当たらない。そこで折り返し、車デポ地に引き返すことにした。


野地之岩窟への分岐;12時45分
赤滝城跡からすぐのところに行きに見た「野地之岩窟」の案内。距離の案内もないのだが、近くにあるのであれば寄ってみようと分岐から左手に入る。等高線に沿って進む山道を10分ほど進んだのだが、案内もないので引き返す。
帰宅後チェックするとはじめこそ等高線に沿っての道ではあるが、野地之岩窟は標高750mの箇所にあるようで、最後の詰めは尾根筋を這い上がることになったようだ。岩窟は高さ2m・幅10m・奥行き5mほどの唇形をしたものと言う。


道に迷い深いゴルジュの沢に下りる;13時23分
分岐点に戻り、赤滝城からの細尾根を下ったのだが、沢に下りる箇所を間違い(13時17分)、沢に迷い込む(13時23分)。上はゴルジュ、下は滝。GPSで位置をチェックすると、行きに渡った沢の少し下流。
力技で、とも思ったのだが、道迷い対策の基本に立ち戻り尾根に這い上がり、GPSのトラックログに従い、行きに尾根道に這い上がった沢からのルートに戻り、無事に原点復帰(13時48分)。少々パニクっていたのか、肝心のゴルジュ沢の写真を撮るのを忘れていた。

赤滝城址に向かう時も、沢からの上りと細尾根の合流点(帰りでいえば分岐点)はわかりにくいなあ、などと思ってはいたのだが、その通りに、その箇所を通り過ぎた。細尾根には沢からの合流点から下流にも沢に沿って踏み跡が続いているので注意が必要。

車のデポ地点に戻る;14時44分
その後は、これといったトラブルもなく車のデポ地点に戻る。11時20分に出発し、道迷いのトラブルがあったにしても、往復でおおよそ3時間20分ほど。こんなに時間がかかるとも思わなかった。

最後にどんなところを歩いたのか赤滝城まで歩いた山を対岸から眺めてみようと、鞍瀬川の右岸、川から少し山肌を上ったところにある明長寺まで車で上り、赤滝城がその中腹にあるという青滝山らしきピークを見遣り、本日の〆とする。

●何故に、こんな山中に城が
Google Earthをもとに作成
城に歩きながら、何故にこんな山中に城が?との疑問。チェックすると、往昔この地は周桑郡旧丹原町と温泉郡旧川内町、すなわち道前と道後を結ぶ往還道であったよう。城は道前と道後を結ぶ往還の抑えとなる地にあったように思える。
往還には、登山途中まで歩いた林道御所線が道前の鞍瀬川の谷筋から、道後の滑川の谷筋の九騎の集落を結ぶのと同じく、車をデポした少し北、成・下影の集落から尾根筋を進み、黒森山の稜線鞍部の念上峠を越えて九騎に通じる「ねんじょ越え」と呼ばれる道筋もあったようだ。
尚、九騎から川内へのルートは、てっきり滑川の谷筋を下ったものと思っていたのだが、往還ルートは「九騎から海上を経て、深い森を越え西の郷(川内町河之内地区)」へとある。
今でこそ滑川渓谷に沿って県道302が整備されているが、その昔は谷沿いに道はなく、海上集落から山越えの道を進んだのだろう。地形図を見ると、海上から西の山塊の等高線の間隔は比較的広く、少し緩やかな山越えの道が想像できる。

●赤滝城攻防戦の規模
ところで、赤滝城を巡る河野通清と平氏方の双方の軍勢はどの程度の規模だったのだろう?河野勢は周囲すべて平氏方という四面楚歌の状態であり、高縄山の麓、河野の郷の一門ではあろうが、一門でも三谷郷の武市氏(新居氏ともある)が平家側につくなど、一門でも一枚岩でない。 一方、平氏目代、国司とはいいながら京の都に住み、遙任として伊予に道前と道後に二人の目代を派遣し、道前の目代は弓削島、道後の館は不明。目代が軍事力を持っているとも思えず、また、河野通清が攻めた目代が道前なのか道後なのか、両方なのか、はっきりわからない。
資料が見当たらないのでなんとも言えないが、どちらにしても、それほどの軍勢ではないだろうかと思う。平氏方が籠った野地之岩窟にしても、その規模からすれば、数十名収容といったものだろう。

●九騎峠・御所
案内にあった九騎峠は、赤滝城から西に御祓川の谷筋に下り、黒森山の稜線部に上ったところにある。現在は、黒森山の登山口ともなっている。 御所は、上でメモしたように、鞍瀬川に向かって北東に下る御祓川が、南に突き出た九騎峠の尾根筋と、北に突き出た尾根筋に挟まれ大きくS字を描く、その北に突き出た尾根筋の西側にある。
御所の由来は、屋島の合戦で敗れた平氏野本隊が伊予の吉井村(東予市)の浜に上陸し、平氏方の新居氏の助けを受けて中山川を遡り、赤滝城を拠点に源氏を迎え撃つにあたり、安徳天皇の行宮所としたところ、との伝承から。平家落人伝説の拡大版といったものだろうか。
ところで、平氏の武将のがこれを最後と討って出た九騎峠も、城址にあった「御所古戦場跡も、歩いてきた御祓川の奥、どちらかと言えば、滑川の谷筋に近い。河野氏の主力は城の西、滑川の谷筋に陣をひいたということだろうか。それとも、平氏は脱出路を求めて九騎峠>滑川の谷筋に向かったのだろうか?妄想だけが膨らむ。

●赤滝城のその後
河野通清が攻め寄せた以降、赤滝城が記録に登場するのは南北朝の頃。河野通盛(第27代当主)とともに幕府方で戦った武将の中に、赤滝城主・大森長治の名がみえる。伊予郡砥部荘を領した大森盛直、越智郡府中城に立て籠もった伊予国守護宇都宮貞宗、喜多郡根来山城の宇都宮貞泰とともの武家方として戦っている。
建武新制後も武家方の蜂起が続き、政情は不安定。伊予でも通盛が尊氏に与する以前、宇都宮氏の一族である野本氏と河野通任(通盛の孫で、通堯の弟)が蜂起し、その勢は赤滝城まで及んでいたとする(『伊予の歴史(上);景浦勉(愛媛文化双書刊行会)』)。これに対し、宮方(南朝)方の得能・土居・大祝氏は赤滝城を攻撃、数カ月に及ぶ戦闘の後、これを落とした。

●大野霊神社
上に、人も通らぬ山中に、何故に立派な社が?との疑問を抱いたが、往昔この地は道前・道後の往還道であり、また、その往還を扼する赤滝城の立地上の重要性から考えると、かつては現在からは想像できない重要な地であった故の、立派な社と妄想する。

東予市(一部丹原町)に残る河野氏ゆかりの地を巡る散歩の第一回。予定では 赤滝城跡、文台城跡、大熊城跡「をカバーする予定であったが、赤滝城だけで終わってしまった。次回は文台城跡、大熊城跡からはじめることにする。
昨年、何度かに分けて二ヶ領用水を辿った。その途中、ニケ領用水が大師堀町田堀のふたつに分流する辺り、南武線・鹿島田駅の西に夢見ヶ崎という丘陵があるのを知った。多摩丘陵からの独立した標高30mほどの独立丘陵である。 当日は用水散歩に気が急いており、夢見ヶ崎はパスしたのだが、そのうち歩いてみたいと思っていた。
夢見ヶ崎に惹かれた理由は古墳群が残るとか、川崎の工業用地の土砂確保のため丘陵が削られた、といったこともあるのだが、最大の要因は至極単純。「夢見ヶ崎」という「名称」そのものに惹かれたためである。

今年に入り、とある休日、何処と言って歩きたいところが思い浮かばない。であれば、ということで、気になっていた「夢見ヶ崎」を歩いてみることにした。



本日のルート;鹿島田西跨線橋・西詰>杉山神社>小倉緑道>無量院>小倉のトマトソース工場跡>小倉用水池の由来碑>南加瀬貝塚跡>庚申様の祠>夢見ヶ崎公園>白山古墳の標>夢見ヶ崎動物公園周辺の古墳の案内>寿福寺>白山古墳跡>跨線橋・小倉陸橋>南武線踏切>東明寺>御嶽神>塚>称名寺


南武線・鹿島田駅
夢見ヶ丘への最寄りの南武線・鹿島田駅で下車。二ヶ領用水散歩に際し、幾度も訪れた駅ではあるが、二ヶ領用水の本流が大師堀と町田堀に分かれていた箇所は駅の東側。駅の西側を歩くのははじめてである。
●南武線
南武線は大正10年(1921)設立の南武鉄道がそのはじまり。首都圏を走るいくつかの私鉄と同じく、多摩川右岸の砂利採取販売が主たる設立の目的であった。また、これも他の私鉄設立時の状況と同じく、事業資金集めが難航し、五日市鉄道や青梅鉄道がそうであったように、浅野財閥が経営に参画し、事業が動き始める。
浅野財閥は、五日市や青梅の石灰を川崎のセメント工場へ運ぶため、現在の中央線>東海道線といったルートを使っていたのだが、この迂回輸送ルート避け、立川から直接川崎へと運ぶべく、経営傘下にある五日市鉄道を南武鉄道に合併し、奥多摩・秋川筋からの石灰を川崎にショートカットで運搬することを可能とした。
南武鉄道の貨物輸送は順調に発展するが、旅客輸送に関しては。開業当初「シジュウカラ電車」と呼ばれるように、運転手と車掌のみ、といった状況であったようだが、昭和初期には久地の梅林、稲田堤の桜など沿線各地をPRし、客足の拡大をはかったようである。
昭和10年(1935)を過ぎると、川崎の軍需工場との利便性などで沿線各地に工場も進出し、客足も飛躍的増大し通勤ラッシュの様相を呈したとのことである。その後戦局の悪化に伴い、昭和19年(1944)国有化され国有鉄道南武線となった。

鹿島大神
駅を下り、鹿島大神に向かう。幾度もこの辺りを歩きながら、鹿島田の地名の由来ともなったこの社に、未だお参りをしていなかった。鎌倉時代、この地の開墾に入った人々が当時武蔵で知られていた鹿島神宮を勧請した社である。
駅から成り行きで進み、横須賀線・新川崎駅の東口、少し北に鹿島大神。境内に滑り台といった遊具が見える。境内入口にある「川崎歴史ガイドパネル」には「鹿島大神は鎌倉時代の創建で村の鎮守となった。やがて開墾が進み水田ができると鹿島大神に寄進し、のちに鹿島田の水田・・・(注;ママ)こうして鹿島田という地名が生まれたらしい」、との説明があった。現在、横須賀線・新川崎駅となっている新鶴見操車場の建設に伴って、昭和2年(1927)この地に移されたとのことである。

新川崎駅
夢見ヶ崎に向かう。その独立丘陵との間には誠に広い線路敷地が広がる。かつては新鶴見操車場であり、現在はその跡地を横須賀線や貨物列車が走る。線路を跨ぐ歩道橋を西に向かう。線路にはいくつもの貨物機関車が止まっており、少しだけ貨物操車場の名残が感じられた。
●新鶴見操車場
新鶴見操車場が始動したのは昭和4年(1929)。発展著しい京浜工業地帯への原材料や製品などの貨物輸送ルートが焦眉の急となり、品川と鶴見駅を結ぶ貨物路線が建設され(品鶴線)、その貨物操車場としてスタートした。
南武線が武蔵小杉で大きくカーブしているのは、元々の計画路線であった二ヶ領用水・府中街道沿いの敷設ルートが新鶴見操車場にあたるため、それを避けるべく大きく迂回した、とのことである。
京浜工業地帯の貨物輸送の幹線として、最盛時は1日5000両もの貨物を捌いたこの操車場も、鉄道輸送の需要減少に伴い昭和59年(1984)、信号所としての機能を残し、操車場の機能は廃止となった。
●新川崎駅
その新鶴見操車場跡に新川崎駅がある。JR川崎駅とは結構離れているのだが、「新川崎」としたその理由は?チェックする。昭和55年(1980)開業のこの駅は、当初「新鹿島田操車場」との案もあったようだが、この路線の開かれる主因が、混雑する東海道線から横須賀線を分けることにあり、貨物線として開かれた品鶴線をバイパス路線として活用し横須賀線を通す、といったこともあり、それなら品川と鶴見の間にある「川崎駅」の代替駅でしょうと、言うとこで「新川崎駅」となったようだ。
新川崎駅には開業時は横須賀線(横須賀・総武快速電車)が走ったが、平成13年(2001)からは湘南新宿ラインの列車も走るようになった。また、貨物列車も大半は新東海道貨物線や武蔵野線に移されたが、現在でも品鶴線から山手貨物線を経由して東海道と東北方面を結ぶ貨物列車も走っているとのことである。多くの線路が並ぶわけである。
◆品鶴線と新幹線
因みに、貨物線として開かれた品鶴線であるが、この路線跡は新幹線の路線としても活用されている。新幹線建設時、用地確保が困難なため、品川から武蔵小杉辺りまでは品鶴線を活用し、武蔵小杉の先で東へと分かれる。前々から、品川を出た新幹線が何故にスピードアップを妨げる急なカーブで進むのか不思議ではあったのだが、これで長年の疑問が解消された。ものごとには、須(すべから)らく、その理由があるものである。

鹿島田西跨線橋・西詰
跨線橋を渡り橋の西詰に。東に見える小高い丘陵が夢見ヶ崎ではあろう。そのまま丘陵に進もうか、それとも、二ヶ領用水散歩で水路跡だけチェックしていた「小倉用水」を辿ってみようか、と少し悩む。で、少し寄り道とはなるのだが、小倉用水跡に向かうことにした。




■小倉用水

跨線橋西詰から南に下る。地図をチェックすると、道路に沿って立つ高層マンション群が切れ、かつての新鶴見操車場敷地跡に公園が現れる辺り、日吉小学校の少し南から、如何にも水路跡らしき道筋が見える。
細路に入り込むと、道の両側が段差となっており、水路跡の印象が強い。

◆日吉小学校
散歩の時は特に気にならなかったのだが、メモの段階で「日吉」小学校の名称が気になった。特に地名に日吉はなく、日吉と言えば、当地川崎ではなく、慶応のある横浜市でしょう?チェックすると、慶応大学日吉キャンパス開校に端を発した横浜市と川崎市の日吉村合併騒動が現れた。
経緯はこういうことである;日吉の由来は明治22年(1889)から昭和12年(1939)まで続いた日吉村による。この日吉村は、現在は川崎市幸(さいわい)区にある「小倉」「鹿島田」「南加瀬」「北加瀬」の4字と、横浜市側にある「矢上(矢上川から西側が現在の日吉町、川を境に川崎に矢上が残る)」「箕輪」「駒林(現在の日吉本町)」「駒ヶ橋(現在の下田町など)」の4字を合わせた8区域となっていた。
で、この日吉村は川崎市に合併の予定であったのだが、昭和9年(1934)、慶応大学が矢上にキャンパスを開校することから状況が大きく変わる。合併相手として横浜市が名乗りを上げたわけである。
途中の横浜市と川崎市の日吉村を巡る綱引きのあれこれは省略するとして、日吉村は鶴見川を境に、川の西は横浜市、東は川崎市に合併することになった、とか。日吉小学校は昔の日吉村時代の名残。逆に、横浜側の日吉地区にも川崎市の地名である「矢上」を冠した名称も残っている。

●杉山神社
水路跡を進みながら地図をみると、道筋の近くにに杉山神社が見える。水路跡を離れ、ちょっと寄り道。境内の案内には「当社の鎮座は古く、飛鳥時代、大化の改新によって国郡制度を敷いた頃より祀られており、近年まで境内地にあった神木樹齢一千年余の二株の古松がその歴史を物語っている。当時、小倉村は、皇室直轄領として栄え、杉山大神は、その村落の守護神として農業生活の中枢となして来た。
戦国時代に至り、北條氏家臣で小机城主であった笠原氏の崇敬を受け、しばしばその代参を迎えた。
江戸時代には、小倉村は、旗本松下氏の領地となり、領主松下氏は、乗馬して参詣したと伝えられ、近年まで鳥居前に下馬札が立てられていた。 新編武蔵風土記には、「杉山社、村の東北端にあり本社は覆屋あり、前に石の鳥居あり、本地不動、長さ三尺許の立像なり、村の総鎮守なり、無量院持」とある。

鳥居脇には庚申塔。案内には、「江戸時代の享保20年乙卯年11月に小倉講中八人によって祀られた道中村落安全の神で。三猿を基盤にした青面金剛像が刻まれています。
元は杉山神社南側の南加瀬尋常高等小学校の校庭の傍にあり、その講中は庚申の夜に眠ると凶事が起こる、という言い伝えから、その夜は当番の家に集まり、飲食をしつつ村の様々な相談事をして夜を明かした。御堂並びに周囲の改修を記念してこれを記す 平成元年 講中」とあった。

また、鳥居の先には石橋があった。小倉堀からの引水なのか、小倉堀にあった石橋を移したものか、詳細は不明である。

◆杉山神社は由緒不明の「ローカル神」
杉山神社は、帷子川、大岡川水系で、多摩川の西の地域だけ、とはいうものの、現在の旭区にはなにもないのだが、ともあれ、誠にローカルな神様。19世紀のはじめ頃、武相に70余社ほどあった、とか。
杉山神社が歴史に登場するのは平安時代、9世紀の中頃と言う。『続日本後記』に「武蔵国都筑郡の枌(杉)山神社が霊験あるをもって官弊に預かった」、とか、「これまで位の無かった武蔵国の枌(杉)山名神が従五位下を授かった」とある。
また10世紀の始めの『延喜式』に、都筑郡唯一の式内社とある、当時最も有力な神社であったのだろう。が、本社はどこ?御祭神は誰、といったことはなにもわかっていない。

●小倉緑道
民家の間を弧を描きながら進んだ水路跡の道は、杉山神社の南を通る車道とクロスした先から、植木を境に車道と歩道に分かれた道となって南に下る。小倉小学校の北を通る車道をクロスした南角に「「川崎歴史ガイドパネル」の「小倉用水」の案内。「近くに鶴見川が流れるものの川床が低く、そこから水を引けなかったために、享保年間、二ヶ領用水から小倉池へ分流する形で開設。穀倉地帯小倉の米作はこの用水によって支えられた」とある。
小倉地区には昔から池や沼が点在していたが、次第に土砂などにより湿地状態となり、多くは水田として利用されていったようだが、小倉池もそのひとつ。二ヶ領用水と繋がれることになり、広さは1町8反と言うから180m四方といった大きさとなったようだ。場所は現在の小倉小学校の辺りにあった、とも言われる。
因みに、小倉の地名の由来は「武蔵の国府に米を送る倉」、「鎌倉期の豪族小倉氏」などが挙げられる。

●無量院
「小倉用水案内パネル」から少し北東に寄り、無量院に寄り道。山門入口に「川崎歴史ガイドパネル 無量院と小倉池の伝説」があり、「清水山無量院満財寺。境内には寛文元(1661)年に造立した市内最古の庚申塔がみられる。また、無量院には小倉池の底にあったという龍宮にまつわる伝説が残っている」とある。

◆龍宮伝説
誤って小倉池に落ちて行方知らずとなったおじいさんが、3年後、当人の法事の時に龍宮から戻ってきた。が、龍宮でもらった玉手箱を開けたため亡くなってしまう。玉手箱に残っていた観音様と龍の鱗を供養として無量院の本尊胎内と燈籠に納めた、と。ために無量院には龍燈観音が残る。

龍宮城とか玉手箱とか、どのような経緯でこのストーリーが出来上がったのか興味深いのだが、少なくとも、山門前にあった石碑に刻まれていた「龍燈観音」の由来はこれでわかった。


◆庚申塔
境内に入る。品のいいお寺様の印象。境内には案内にあった庚申塔があった。庚申塔とはいいながら石灯籠となっている。幾多の庚申塔と出合っているが、石灯籠の庚申塔は珍しい。そこに彫られる三猿も印象的。
案内によると、「庚申塔(石灯籠) 中国には道教という思想があり、庚申信仰もその一つとして、平安時代にわが国に伝わり、江戸時代から庶民の間にも広まりました。
庚申信仰とは、六十日ごとに巡ってくる庚申の夜に眠ってしまうと、三尸という虫が体内から抜け出して天に昇り、天帝にその人の罪過を報告するので、庚申の夜は眠らずに、庚申待といって、健康長寿を祈願するものです。そこで庚申塔が、礼拝の本尊として建てられるようになりました。
本庚申塔は、市域に現存する三百余基の中では最も古く、江戸時代の寛文元年(一六六一)に建てられたものです。塔の形態は仏教の法具である燈籠ですが、その竿部に三猿を彫り出し、庚申信仰を表わしています。三猿は、腰を落とした姿勢で正面を向き、右から口・耳・目を塞いで、この世での罪過は「言わざる・聞かざる・見ざる」というポーズをとっています。性別の表現は控え目ですが、右から雄・雌・雄の順に並んでいます。
川崎市教育委員会は、昭和六十三年十一月二十九日、本庚申塔を川崎市重要郷土資料に指定しました 川崎市教育委員会」とあった。

●小倉のトマトソース工場跡
無量院から東に向かう道がT字路となるところに、誠に立派なお屋敷がある。そこはかつてトマトソース工場があった、と。明治初期から小倉一帯ではトマト栽培がおこなわれ、大正の中頃、それを原料にトマトソースを商品として製造した。当時としては「ハイカラ」な商品は東京の洋食屋に牛車で売り歩いたが、最盛期には年間20万本製造し、商品はほとんど海軍に納品された、という。

●小倉用水池の由来碑
小倉用水跡を埋め立て(1952年)緑道とした道を下り、県道14号・南加瀬交番交差点に。交差点手前の緑の中に小倉用水の石碑があり、その脇の案内には「小倉用水池の由来 小倉、南加瀬地域に水田農業が開始された歴史は大変古い、しかし、水利ガ悪く日照りや、水害に苦しみつつ、人々は不安定な水利用に長い幾世代を耐えてきた。徳川時代慶長の始め稲毛、川崎二ケ領用水の開さくに伴い、地域の人々はこぞってこの用水の引き込みに努力し、その成果として小倉用水池の原形が出来たものと推定される。
以来約四百年間、多くの困難(こんなん)を克服し、水門管理を始め分水仕法の創出など維持管理のために、ついやした多大な努力と犠牲によって広さ八・八ヘクタールの小倉用水池が逐次(ちくじ)完成されていつた。これによって農業は大きく発展し、人々の生活を支えてきた小倉用水池は、文字通り生命の池ともいうべき大きな役割を果してきた。
一方、満々としてたたえられた池面に、四季折々、風情を映(うつ)し、地域の歴史を宿してきた用水池も、戦後の急速な都市化の波に、その役割は漸次(ぜんじ)減退(げんたい)し、昭和四十二年約1ヘクタールの用地を市に無償(むしょう)譲地(じょうち)し、僅(わず)かに排水路として命脈(めいみゃく)を保ってきたが、昭和五十二年下水管渠(げすいかんきょう)の埋設(まいせつ)に伴い水路ガ埋立られ、名実ともに小倉用水池は、地域の歴史から姿を消すこととなった。今、この跡に緑ゆたかな緑道の完成したことを機会に用水池の由来を記した次第である(以下略)」とある。

当日は、ここで引き返したのだが、メモの段階で地図を見ると、県道南にも「小倉緑道」が続いていた。悪水落しとして鶴見川に繋がっていたのだろうか。



■夢見ヶ崎

小倉用水跡の道を引き返し、水路跡の道筋、ひとつ西側筋にある「夢見ヶ崎動物公園入口交差点」まで戻る。その角には「日吉交番」があった。ここから夢見ヶ崎の丘陵に上ることになる。

南加瀬貝塚跡
道を北に進み、日吉小学校手前、合同庁舎の辺りで三筋に分かれる道を左端にとると、坂の北側に「川崎歴史ガイドパネル 南加瀬貝塚跡」があり、「南加瀬貝塚 関東地方では珍しい弥生時代の貝塚で出土した土器は我が国における縄文、弥生時代を区分する最初の標識土器としいて重視された。明治末、大規模工場地の造成にここの土砂が使われた」とあった。

貝塚があったということは、縄文海進期には、この辺りは海であったのだろう。それはいいのだが、後半の説明がちょっと言葉足らず。チェックすると、大規模工場地とは川崎駅近く、明治41年(1908)創業開始の東芝堀川工場のこと。その工場も平成11年(1999)には操業を停止し、現在商業施設・ラゾーナ川崎プラザとなっている。
また、「ここの土砂が使われた」とあるが、丘陵を切り崩した土砂ではあろうが、その規模は?チェックすると、日吉交番から来た道筋と、合同庁舎の西にあるJR 東日本の社宅群の南に通る道筋に囲まれた一帯であったようだ。切り崩した跡地をJR東日本が取得し、球場として使われていた時期もあったようだが、現在は社宅、公園、特養施設などが建っている。

庚申様の祠
貝塚のすぐ脇に小祠。庚申さまが祀られる。案内は文字が消え、読みにくいが、「夢見ヶ崎庚申様とその由来」には、「太田道灌築城ゆかりの夢見ヶ崎の地 元この山麓南端、今の日吉交番所在地にあったが、交通の便宜のためこの地に移した。奉斎時期は近世江戸時代。御神体は江戸末期もの」といったことが書かれていた。








夢見ヶ崎公園
丘陵の坂道を登る。眼下には削り取られた丘陵跡の平坦地に立つ社宅が見える。崖面は急な斜面となっている。急斜面の先端に鎮座する稲荷神社を見遣りながら坂を上る。
坂道は車道となっており、自家用車が列をなして停車している。その時は知らなかったのだが、丘陵上には公園や動物園があり、その駐車待ちの車ではあった。特に駐車場があったようにも思えないのだが、丘陵上の平坦部手前にあるロータリー辺りが駐車スペースとなっているのだろう。

白山古墳の標識
ロータリーから丘陵上の平坦部、丘陵東側にある夢見ヶ丘公園に上る。多くの家族連れでにぎわっている。公園の端に「白山古墳の標」がある。また、「白山古墳」と「加瀬7号古墳」のイラスト案内がある。
最初は今一つ、その案内の主旨がわからなかったのだが、その後、公園にあtったこの丘陵の古墳群を示した詳しい地図を見て、この白山古墳と加瀬7号古墳の案内が、その規模を公園に再現した、その案内であることがわかった。 切り崩され、今は姿を留めない全長87m、後円部の直径42mという巨大な前方後円墳の白山古墳と、直径30mの円形古墳の加瀬7号古墳を、公園にその大きさを再現すべく、公園のレイアウトがなされていた。

夢見ヶ崎動物公園周辺の古墳の案内
とりあえず、丘陵上よりの景色を眺めようと、見晴らしのいい場所を求めて丘陵東端へと向かう。と、そこに丘陵上にあった古墳の地図とその案内があった。案内に拠ると、「夢見ヶ崎動物公園周辺の古墳夢見ヶ崎の細長い台地には、現在わかっているだけでも、11基の古墳が築造されていました。
そのなかでも白山古墳は、全長87mの大きな前方後円墳で、武蔵国でも最古級の、4世紀後半に築造されたものです。特に、後円部の木炭槨(もくたんかく)から発見された三角縁神獣鏡は、初期ヤマト政権から、この古墳の被葬者に分与されたものと考えられる歴史的にも貴重な鏡です。
白山古墳の西隣には、7世紀代に築造された第六天古墳が位置していました。こちらは、墳丘径19mの大形の円墳で、横穴式石室からは、勾玉・金銅製鈴等の副葬品とともに、11体もの遺骸が発見されました。
両古墳とも、その後、削られてしまいましたが、この公園内には、加瀬山第三号墳や獣面鏡・鉄斧等を出土した第4号古墳をはじめとする高塚古墳が、いくつか現存しております。重要な文化財の保護に、皆様のご協力をお願いします。 なお、夢見ヶ崎と呼ばれる地名のおこりは、太田道灌がここに陣をしいて築城を計画したが、ある夜、自分の兜(かぶと)を鷲に持ち去られるという縁起のよくない夢を見たので、築城をあきらめたという故事からきていると伝えられています。 昭和62年10月川崎市教育委員会」とあった。

上にメモしたように、この案内を見て、先ほどの白山古墳および加瀬7号墳の案内の主旨を理解するとともに、この丘陵上に11もの古墳があったことがはじめてわかった。地図には丘陵上には1号から8号までの古墳、丘陵下には白山古墳と第六天古墳と11の古墳は記載されてはいないが、とりあえず丘陵からの景観とともに、古墳跡をカバーすることにする。
◆夢見ヶ崎の由来
夢見ヶ崎は。案内にあるように、太田道灌がこの地で「夢を見た」ことに由来する。元々は加瀬山と呼ばれ、古くから江戸湾を一望できる景勝の地として知られていた。蜀山人こと太田南畝も、『調布日記』に「此処より見る所、南は金川の海、東は品川の海、空もひとつに見わたされて、帆かけ舟の見ゆるなど絵にもかかまほし、むかふに一むらしげる森は池上の本門寺なり」と描く。
このような地勢上のメリットより道潅はこの地に拠点をと考えたのではあろう。現在は高いビル、埋め立てられ遠くなった海岸線のためか、南畝の描く景観は望むべくもなかったが、それでも独立丘陵から見下ろす景観は気持ちのいいものではあった。

◆9号墳
古墳巡りの最初は9号墳。古墳や地図の案内のある裏手の塚が9号墳。円墳で塚の上に小祠。道灌を祀る八幡さまとも言われる。木々に遮られ見晴らしは良くない。





◆2号墳
9号墳から更に東、慰霊碑を越えて丘陵突端に進むと2号墳。木々に囲まれた小さな塚といったもの。古墳と言えば古墳かなあ、といったもの。更にこの先に1号墳があったようだが、案内に「滅」とあったのでパスした。

◆展望台
2号墳から広場に戻り、3号墳に向かう。広場に建つ展望台、といっても、丘陵下の展望はなく、公園内しか見えない。上ったわけではないのだが、案内にあった白山古墳、加瀬7号古墳の規模感を見渡す「展望台」なのだろか。

◆3号墳
3号古墳は丘陵上ではなく、丘陵斜面にある。広場から歩道に折れ、アプローチを探すと、歩道脇に案内。「加瀬山第3号墳 夢見ヶ崎動物公園内に存在する加瀬山古墳群は、矢上川の東方、標高28m~32mの細長い独立台地上に位置しています。昭和45年、神奈川県教育委員会が実施した墳丘調査では、円墳9基が確認されました。
そのなかの第3号墳は、7世紀後半に築かれた南方に入口をもつ横穴式石室墳です。昭和28年の発掘調査では、鉄釘、麻織断片、成人男子人骨片が発見されています。現在、石室は内部を補強し、保存してあります。 昭和60年10月 川崎市教育委員会」とある。
道標に従い石段を下りていくと再び案内。「加瀬台3号墳 この古墳は7世紀中頃に築かれました。主体部は南側に入口をもち、玄室のまえに前室をもつ特異な構造で、複室構造の「横穴式石室」とよばれます。石室の石組みは、石に面取りの加工を施して積み重ねたもので、切石切組の手法によるものです。これは仏教の伝来にともなってあらわれた寺院建築の技術を取り入れたものでした。昭和25年(1950)の調査では、人骨・鉄釘・麻織断片・須恵器小片が発見されました。 平成23年3月 川崎市・日吉郷土史会」とあり、その傍、斜面に柵で覆われた古墳があった。

◆4号墳
再び丘陵上の平坦地に戻り、4号墳に向かう。場所は日蓮宗了源寺の西側。本堂にお参りし、脇を抜け4号墳跡らしき塚に。4号墳は、5世紀後半に築造された円墳であり、明治末年に獣身鏡(じゅうしんきょう)2面と鉄斧が出土したと伝えられている。見晴らしは非常によく、ちょっと一休み。


◆6号墳
5号墳は地図に「滅」とあるので、熊野神社の西側にある6号墳に向かう。了源寺から西は夢見ヶ崎動物公園となっており、親子連れで賑わう歩道を進むと、ほどなく道の北側に熊野神社。天正15年(1587)、北条氏直の創建と伝わる社にお参りし、成り行きで西に向かうと小高い塚。6号墳には浅間神社が祀られていた。

◆7号墳
動物公園を抜けた先、天照皇大神の社の辺りに7号墳が地図にある。天照皇大神は平坦地から3mほどの高さの塚の上に鎮座する。7号墳の上に造られた社のようである。社の南に丘陵を一直線に下りる石段がある。天照皇大神への参道ではあろう。
社に上る石段手前に「道灌・氏政両公の由緒」の案内。案内には「大田道灌公瑞祥の夢見;室町時代中期の康正・長禄年間(1455-1457年頃)、大田道灌公が当社に参籠し、その暁の夢に東北の空に縁起のよい丹頂鶴が舞うのを見て、その地に江戸城を築いた、との言い伝えがある。
北条氏政公社殿を造営;戦国時代の明応(1492‐1500)の頃、当社は小田原北条氏の祈願者となり、北条早雲公の曾孫氏政の君は、当地に荘厳優美なおうmz八棟造りの社殿を造営し、毎月代参を派遣して月次祭を斎行した」とある。

ここでの道灌の「夢見」は瑞祥として扱われている。同じ場所で見た夢が、「凶事」となったり、「吉事」となったり、ということではあるが、縁起が悪いということでこの地での築城を諦め、江戸の地に城を築いた、ということだから、考えようによっては、話の辻褄は合っている。
とは言うものの、夢で城の場所を選ぶはずもなく、江戸を築城の地として選んだのはその立地上の判断ではあろう。東には関東内陸、また旧利根川・常陸川水系を通って銚子沖から東北地方に通じる船運の拠点である浅草湊、そして、西には中世には既に全国的規模の海上交通の要衝として、紀伊半島や東海から太平洋を渡ってくる船運と浅草湊からの船運を結ぶ拠点であった品川湊を扼し、また軍事上では川越・岩槻から延びる防御ラインとして古河公方と対峙するには江戸が最適な拠点であった、ということではあろう。

◆8号墳
丘陵上の古墳の最後、8号墳は天照皇大神の北、丘陵北西端に記されている。塚もなく、古墳跡と云われなければ、普通の平坦地。わずかに残る「高み」に古墳を想う、のみ。
古墳跡は判然としないのだが、丘陵西、そして北の眺めは気持ちいいものであった。





●削り取られた丘陵
[東京地形図 Tokyo Terrain]をもとに作成
しかし、眺めはいいのだが、丘陵西側が「バッサリ」と切り崩されている感がある。丘陵西端に富士や大山などの方向を案内するボードと共に、「白山古墳と秋草文壺」があり、その場所は、西側正面に位置する山とある。山と言うより、住宅の一画に緑の森といったものが見える。そこが白山古墳のあった場所のようである。丘陵西端から相当離れたところにある。
古墳の案内で白山古墳、第六天古墳は削り取られたとあったが、てっきり白山古墳や第六天古墳は丘陵裾だろうと思っていたのだが、そうでもない。鶴見川近くまで続いていた丘陵の西半分がバッサリ切り崩されたようである。 丘陵西端直下の切り崩された跡の平坦地には、現在瀟洒なマンションが建設されているが、案内地図には「国鉄北加瀬アパート」が記されていた。かつての新鶴見操車場で働く職員の官舎であったよう。
その西、未だ少し緑が残る辺りが白山古墳、第六天古墳があったあたり。更に鶴見川近くまで丘陵が切り崩され、その土砂が売られたようだ。その時期は、丘陵東端と時期が異なり昭和12年頃(1937)からのこと、と聞く。丘陵北にある三菱ふそうの工場もその土砂で敷地整備が行われた、と。
◆白山古墳と秋草文壺
台地西端に「白山古墳と秋草文壺」の案内があり、「白山古墳 白山古墳は古墳時代前期の4世紀後半に築造された前方後円墳です。前方後円墳は方形と円形の墳丘が組み合わさった形をしていて、近畿地方の勢力との関係を示すものだと考えられています。昭和12年に慶應義塾大学によって発掘されました。 副葬品としては三角縁神獣鏡を含む5面の鏡と、鉄刀・鉄剣のほか鉄鏃、鉄製農耕具、勾玉・管玉・ガラス小玉などの装飾具類が出土しました。この展望台に西側正面に位置する山が、土取りで消滅した白山古墳の跡地です。(展望台のベンチは円墳や方墳をイメージしてつくってあります)。
秋草文壺(国宝) 秋草文壺は昭和17年白山古墳の後円部下方から出土しました。高さが40.5センチあり、火葬した骨を納めた蔵骨器として使用されていました。平安時代の末、12世紀に焼かれたもので、ススキ・ウリ・柳・トンボなどが流麗な筆致で描かれています。日本陶器史上の優品です」とあった。

切り崩された崖面を下る
白山古墳跡に向かうべく、バッサリと切り取られた丘陵西端の崖面に造られた坂道を下る。坂道の途中には太田道灌と山吹の花にまつわる言い伝えがこの地にも残るとある。
道灌と山吹の逸話の舞台とされるところはこれで何箇所目だろう。鎌倉の朝比奈切通りからはじまり、越生、都内の豊島区高田の面影橋、荒川区町屋の小台橋近くと幾つも思い起こされる。有名人・道灌故のことではあろう。坂道には夢見ヶ崎こと加瀬山の案内とともの太田道灌の案内もあった。
●太田道灌

案内には「室町時代の武将で、関東の武将の中でも、都の文人とも、引けをとらぬ文人であり、名を資長と言いました。大田道灌は扇谷上杉に仕えて上杉定正の執事を務め、25歳(1457)の時に江戸城を築きました。
夢見ヶ崎は太田道灌が築城する場所を探しに訪れたと言われています。その後、道灌は上杉氏を支えて関東地域の平定に従事しました」とあった。
道灌のゆかりの地を訪ね、埼玉の越生岩槻、横浜の小机城跡、都内の合戦の地である平塚城や石神井城、江古田・沼袋などを歩いたことが懐かしい。






◆太田道灌の「山吹の里」
太田道潅、といえば「山吹の花」といわれるくらい有名であるが、ちょっとおさらい;道潅が狩に出る。突然の雨。農家に駆け込み、蓑を所望。年端もいかない少女が、山吹の花一輪を差し出す。「意味不明?!」と道潅少々怒りながらも雨の中を家路につく。家に戻り、その話を近習に語る。ひとりが進み出て、「それって、後拾遺集にある、醍醐天皇の皇子・中務卿兼明親王が詠んだ歌ではないでしょうか」、と。「七重 八重 花は咲けども山吹のみのひとつだに なきぞ悲しき」。「蓑ひとつない貧しさを山吹に例えたのでは」、と。己の不明を恥じた道潅はこのとき以来、歌の道にも精進した、とか。





寿福寺
崖面の坂を下り切ったところは一面の平坦地。山を切り崩した国鉄職員官舎跡地の再開発も南半分は瀟洒なマンションが建っているが、北半分は未だ空き地といった状態であった。
白山古墳跡の目安となる白山幼稚園へと向かうべく地図を見ると、右手に寿福寺がある。ちょっと立ち寄り。
浄土宗のお寺様。境内に「大亀石」の案内。「南加瀬、越路の新堀平次郎は力持ちで、"力持平次郎"と呼ばれて、祭りや駒岡のお穴様に出向きこの大岩を動かし、人々を驚かせていた。明治14年(1881)まで生きていた。
石の材質は"六ヶ村"と言われ、小松石、新小松、根府川、白丁場等の安山岩の総称で、江戸築城の際も利用した。
軽いものは"差し上げる"が、重い石は抱き上げたり、片方を地に付けて立てればいい。というのが「力石」の競い方」、といったことが説明されていた、 散歩の折々で「力石」に出合うが、この石は誠に大きい。通常卵型の力石は90キロから200キロと言われるが、この寺の亀の甲のような形をした大石は300キロほどあるとの記事もあった。
◆鬼熊

説明の最初に店の屋号と鬼熊という名が記されている。何だろう?『鬼熊の力石(高島慎助;四日市大学論叢)には』、力持ちの一人として熊次郎を取り上げ、「熊治郎は、四股名を鬼熊と言い、江戸川区船堀の出身。幕末の文政・天保の頃から明治初期にかけて活躍した力持ちであったという。神田鎌倉河岸の酒問屋豊島屋本店の奉公人であった」とあり屋号も大亀石の屋号と同じである。そして大熊が持ち上げた力石のひとつにこの寿福寺の大亀石が挙げられている。 その大熊と、次に続く「川崎平次郎が之を持った」との繋がりがよくわからない。少し「寝かせておく」ことにする。

白山古墳跡
寿福寺を出て、白山古墳跡の目安として前述の案内にあった白山幼稚園に向かう。きれいさっぱり削られ平地となった旧国鉄官舎跡地に建つマンション脇の道を抜け、白山幼稚園に。と、その通りを隔てた北加瀬熊野台公園入口に石柱と「川崎歴史ガイドパネル」が建つ。
石柱には中央に「恋路 近くから国宝秋草文壺出土」とあり、「右川崎道 末吉橋 神奈川道」「左 北加瀬の辻 平間の渡し 小杉」と刻まれていた。石柱は真新しい感じで、歴史を感じるようなものではなかった。


その右手に「川崎歴史ガイドパネル 白山古墳跡」とあり「この近くに市内最大の前方後円墳の白山(はくさん)古墳があった。昭和12年の発掘と調査で三角縁神獣鏡など貴重な副葬品が出土した。戦前川崎に進出した工場用地の盛土用として削られ、ほぼ消滅した」とあった。
夢見ヶ崎にあった古墳の案内地図によると、白山幼稚園の南東、未だ緑が残る小さな丘の辺りが白山古墳、その東に第六天古墳、秋草文壺はその小さな丘の南裾の辺り、仁藤家の敷地内と記されていた。







跨線橋・小倉陸橋
白山幼稚園から南に下り、仁藤家であろうお屋敷の角で広い車道に出る。左手に夢見ヶ崎の丘陵を眺めながら、また、先ほど訪れた丘陵上の天照皇大神への参道入口を見遣り、かつての新鶴見操車場を再び越える。結構長い跨線橋である。残すは、「川崎歴史ガイドパネル」に記されている、南武線の東にある東明寺、御嶽神社、そして称名寺だけとなった。

南武線踏切
跨線橋・小倉陸橋を下り、東明寺に向かい道なりに進む。と十字に交差した車道を南北に南武線が通る。踏切の遮断機は8台見える。こんな踏切見たことない。






東明寺
踏切から北東に進み、古川小学校の手前に東明寺。境内入口には「塚越の灸 東明寺」とある。本堂、鐘楼などコンクリート造りといったもので古き風情はない。境内にあった「川崎歴史ガイドパネル」には「東明寺と酒づくりの絵馬」の案内があり、「もとは、東京芝増上寺の末寺で、天正17(1589)年、浄円がここに住み、のちに増上寺の貞蓮が止住。東明寺の名は、慶長18(1613)年、徳川家康が鷹狩りのため小杉の西明寺に泊まった際、給仕にあたった貞蓮が家康から身分を問われ、東にある小庵の主と答えたところからその名がついた。現在、毎月3・8のつく日に開かれる灸施寮は、塚越の灸として著名である。
またこの寺には、江戸末期の作といわれる酒造りの過程を描写した絵馬が残っている。絵馬には、その頃、塚越村で最も大きな造り酒屋であった新開屋六右衛門の名もみられる。江戸時代における酒造りの様子をうかがい知る上で貴重な資料である」とあった。

そのほか、「東明寺の文化財」の案内もあり「当寺には江戸時代後期に描かれたものと考えられる「紙本着色閻魔府之図」が所蔵されています。
本図は縦191cm、横154cmの大画面の上部に閻魔王を描き、使者の罪業を裁くための人頭杖や浄波瑠の鏡、眷族(従者)などを呈しながらもその表情は明るくユニークで、リズミカルな手の動きとともに叱咤の声が聞こえてくるようです。 中央には罪人の舌を抜く、釜で煮るなどの責め苦のほかに、修羅道を描いています。右上には不動明王、右下には賽の河原で石を積む子供達とこれを救済する地蔵菩薩、左下には女人が落ちる血の池地獄と如意輪観音が描かれています。 このように十王の中でも庶民に最も知られる閻魔王と、地獄を同画面に描くという構成により地獄の世界観を強調し、庶民の仏教への帰依を促したのでしょう。
このように十王の中でも庶民に最も知られる閻魔王と、地獄を同画面に描くという構成により地獄の世界観を強調し、庶民の仏教への帰依を促したのでしょう。
また、仏教美術史の中で近世仏画は一般的に類型化が進んだものが多いとも言われますが、本図は鬼卒の明るい表情など、地獄絵の近世的な新しい展開として注目されます。
本図は、平成8(1996)年1月25日、川崎市重要美術品に指定されました。 なお、保存上の都合により、一般公開はしておりません。川崎市教育委員会」とあった。

御嶽神社
東明寺の少し西に御嶽神社。境内に「川崎歴史ガイドパネル」があり「御嶽神社と塚越 近くに地名の由来となった円墳がある。御嶽神社創建時にこの円墳の一部が盛土として使われた際、刀剣が出土した。また、南北朝時代のものと考えられる板碑が出土してる」とある。


社の創建年度は不詳。案内の如く、社殿は小高い塚の上に建てられている。文化・文政期(1804年から1829年)に編まれた武蔵国の地誌にも『新編武蔵風土記』に「御嶽社(現御嶽大神)は塚越村北の方丘上にあり、本殿七尺四方、拝殿二間半に二間、共に東向なり前に石段二十級ありて其の下に鳥居あり(寛政元年)例祭は九月十九日なれど其の年を定めず、作物豊稔の年に祭れり」とあるようだ。
また、案内にあった刀剣は盗難にあい紛失した、という。板碑が境内に残るか彷徨ったが、見つからなかった。その代わり「樋碑」と刻まれた石碑があった。このあたりの用水に架かっていた木製の用水樋を石に改修した記念碑のようである。



越塚
で、案内にあった円墳。「近くに」とあるだけで、場所などわからない。どうしたものかと、とりあえず社の前の道を北に進んでいると、道の右手にコンクリートブロックに囲まれた塚らしきものが民家の間に見える。敷地は個人の家の中のようで、塚に行くことはできなかった。高さ3m弱。直径17mほどの規模であったよう。

称名寺
残すは称名寺のみ。御嶽神社から古墳跡の塚に進んだ同じ道筋を少し北に向かったところにある。山門脇には「赤穂義士所縁の寺」と刻まれた真新しい石碑があった。
境内にあった案内には「称名寺の文化財 当寺は、浄土真宗大谷派に属し、赤穂浪士所縁の寺といわれています。
当寺所蔵の紙本着色・四十七士像は、大石内蔵助を頂点に、赤穂浪士四十七士を左右対称的に配した桂掛風縦長の小品です。図様は、江戸時代に入って盛行した戦国武将列影図を模範にしたもので、精緻に描かれた、画格の高い作品です。延享元年(1744)かおの年記をもっています。
川崎市教育委員会は、この絵画を、昭和60年12月24日、川崎市重要歴史記念物に指定しました 川崎市教育委員会」とある。

が、これでは赤穂浪士所縁の所以がわからない。チェックすると、このお寺さまの近くに住んでいた地主の軽部五兵衛は江戸の赤穂家や吉良家に肥料となる下肥の請負のため両家に出入りしており、刃傷事件以降、赤穂家の浪士を応援し、吉良家に出入りして得た情報を、浅野家に伝えていた、とか(軽部五兵衛の墓は先ほど訪れた夢見ヶ崎の了源寺にあるとのこと)。
そんな縁もあり、仇討前にこの近くに浪士のひとり富森助右衛門が住まいした関係上、江戸入り前、大石内蔵助も富森助右衛門宅に10日ほど滞在したとも伝わる。

お寺には上記文化財のほか、内蔵助、大高源吾、堀部安兵衛らの書画などが残されているとのことである。また、文化財の案内の前に石碑があったが、当日は何を書いているのかもわからなかったのだが、メモの段階でチェックすると、山鹿素行の歌碑とのことであり、「幾秋も 光変わらず 澄む月は 雲らぬ世々の 為しとぞ知る 素行」と刻まれているようである(もっとも、オリジナルは「幾阿起裳 飛可り・・・」といったもののようではある。
●山鹿素行
江戸時代前期の儒学者・軍学者。山鹿流兵法の祖であり、山鹿素行は赤穂浪士の討ち入りのとき、大石内蔵助が山鹿流兵法の陣太鼓で指揮したことで知られる。
会津若松の生まれ。幼少の頃江戸に出て、朱子学を学ぶも、後年、幕府の御用学である朱子学を批判。ために播州赤穂藩にお預けとなり、藩士の教育をおこなうことに。大石内蔵助も門弟のひとりであった。

これで本日の散歩は終了。途中、昨年歩いた大師堀跡などを見遣りながら、成り行きで南武線・鹿島田駅に。

カテゴリ

月別 アーカイブ

スポンサードリンク