2021年4月アーカイブ

過日、土佐藩の参勤交代道である土佐北街道を辿った時、四国山地のど真ん中、嶺北の地・長岡郡本山町で土佐藩家老野中兼山の利水事績・灌漑用水路である上井と下井に出合った。
土佐の遍路歩きの途次、香長平野を流れる物部川や高知市の春野町(かつての吾川郡春野町)の利水・治水事業、足摺の呂津の湊造成などで野中兼山の事績メモは していたのだが、本山が野中家の所領地であったことも知らず、上井(うわゆ)、下井(したゆ)のことなど何も知らず、街中にあった案内によりはじめて知ることになった。
水路フリークには上井、下井という言葉の響きも相まって水路を辿ってみたいと思いながらも、当日は時間に余裕がなく水路歩きは後日を期し、案内にあった略図を頼りに上井と下井の流れる場所の確認に留めた。
案内図の概略図を頼りに流路を探すと、ふたつの流れは本山町の山裾、少し高台に鎮座する十二所神社の参道を横切っていた。上井は神社の二の鳥居辺りで参道を東西にクロスし、下井は一の鳥居傍をクロスしていた。土佐北街道散歩で十二所神社の一の鳥居前を辿っており、知らず下井に沿って歩いていたわけである。
本山の街中を流れる上井、下井の手掛かりとなる場所はわかった。また、地元に方にお話を聞き、取水口は土佐北街道歩きで渡った樫ノ川にあること、上井の取水堰は吉延、下井の取水堰は高角にあり、本山の町へと東流し天神地区で??野川支流に落ちるということも教えて頂いた。
で、土佐北街道をすべて歩き終えた後、日も置かず上井、下井歩きに出かけることにしたのだが、情報がまったく検索でヒットしない。兼山の事績であるからには、情報に困ることなないだろうとの思惑が外れてしまった。
仕方なく、当初のプラニングでは上井、下井ともその流れを確認した十二所神社の参道口から水路を追っかけ取水堰まで辿り、折り返し支流に落ちるところまで歩くか、上井に関しては土佐北街道散歩の参考にした『土佐の道 その歴史を歩く:山崎清憲(高知新聞社)』にあった、吉延で樫ノ川を渡ると兼山の造った用水路の取水堰が見えるとある記事を頼りに、その取水堰からスタートする選択肢はこのふたつ。 あれこれ考え、結局上井は取水堰が見付かればそこから下流に十二所神社まで下る。そこから下井に乗り換え取水堰まで追っかけ、十二所神社まで戻り、今度はそこから上井に乗り換え用水路が落ちる吉野川支流まで辿り、再び十二所神社まで戻り下井を下るという段取りとした。
上井の取水堰からスタートとしたのは、国土地理院の地図をチェックすると樫ノ川に架かる大吉橋の少し上流に堰らしき記号が記されていたためである。実際はこの地図に記された場所とは異なっていたのだが、すぐに取水堰は見つかりおおよそ上述の計画通りで歩けた。また、水路が天神地区で吉野川支流に落ちるという情報も、散歩に途次出合った地元の方に上井は伊勢谷川に落ち、下井はその手前の八郎谷に落ちる、といったことをお聞きした。この情報がなければ終点がはっきりせず相当混乱することになったかと思う。誠にありがたかった。
で、当日。水路歩きであれば手堀り隧道もあるだろう、とすれば隧道部迂回路で藪漕ぎもあるだろう、場合に拠れば高巻きする必要があるかもしれないとロープなども用意し散歩にでかけたのだが、下井で一箇所だけ大岩下を抜けるといった箇所があったがその横には鉄の桟道がつけられており、なんの問題もなし。藪漕ぎも高巻も必要なく、ロープの出番もない。距離も上井が5キロ強、下井が4キロ強ほどの誠に快適な水路歩きであった。

なお当日は行きつ戻りつの水路トレースではあったが、水路メモはそれぞれ取水堰から落ち口まで一気通貫に記することにする。



本日のルート;
上井を辿る
上井堰>土佐北街道の右手、谷側を進み最初の沢を越える>石橋のある沢を越える>土佐北街道の左手に移る>土佐北街道を左に逸れる>車道を逸れて山に入る獣防止柵>沢に水門>本山の町並みが見えてくる>「城山の森」の標識>沢を越える>歌碑2基>工事箇所>十二社神社の二の鳥居傍をクロス>散策路案内>山裾の生活道を西進>上の坊への道をクロス>八郎谷を渡る>天神参道クロス>沢をクロス>里の舗装道をクロス舗装された道をクロス>伊勢谷川に落ちる
下井を辿る
下井堰>分水門>分水門>沢と分水門>隧道と桟道分水門>沢と水門>土佐北街道筋に出る>土佐北街道から逸れ山側を水路は進む>2基の歌碑>土佐北街道筋に出る>十二所神社一の鳥居前を横切る>俳句の道の標識>崖手前で南に折れる>崖を旧道に下る坂道を左に逸れる>分水門>八郎谷に落ちる


高知県長岡郡本山町の上井と下井を辿る

吉延の樫ノ川・大吉橋へ
高知自動車道の大豊インターで下り、国道439号を東進し、本山の町並の手前、井窪で国道を左折し県道267号を樫ノ川に沿って北進し吉延の集落に。そこから樫ノ川の谷筋へと右に逸れ大吉橋を渡り、橋の西詰に車を停める。
この道筋は先日歩いた土佐藩参勤交代道である土佐北街道。その時は気づかなかったのだが、道の右手、谷側に水路が流れる。上井の流れのようである。
上流に目を転じると、橋の西詰、水路が土佐北街道を潜った先、樫ノ川に沿って水路が南に延びている。この水路を辿れば取水堰に向かえそうだ。取水堰から手堀り隧道などに入ればトレースが厄介だなあ、などと思っていたのだがその心配はなかった。もっとも、自然水路は高きから低きに流れるわけで、等高線から考えれば隧道を抜いた場合、その理屈に合わなくなり、とすれば水路は樫ノ川に沿って流れるだろうとの予測はしており、その予測があたったようだ。




■上井を辿る■

上井堰
大吉橋西詰から人工水路に沿って先に進む。水路は補強され往昔の面影はない。橋から10分弱歩くと分水門があり、その先に川に堰が設けられ水門へとコンクリートの導水路が続く。そこが上井の取水堰であろう。
国土地理院に記載された堰らしき記号はその少し上流。堰の場所の予測は外れたが、結果オーライではあった。標高は329m。

土佐北街道の右手、谷側を進み最初の沢を越える
大吉橋西詰ではおおよそ土佐北街道直ぐ傍(標高327m)を流れていた水路は、樫ノ川に沿って進むにつれて道との比高差を増す。
18分ほど歩き、おおよそその比高差が20mほどのギャップとなったところで最初の沢とクロスする。水路には簡易水門が設けられている。下は直ぐ川であり時に応じ水を川に放流するのだろう。

水路橋のある沢を越える
沢を越えると左手から一時離れていた土佐北街道が水路に接近してくる。最初の沢から数分、土佐北街道との比高差が10mを切った辺りで二番目の沢。水路はコンクリート造りの水路橋で沢を渡る。標高はおおよそ319m。ゆるやかな傾斜で下っている。

土佐北街道の左手に移る
更に数分歩くと上井は土佐北街道筋に出て、道を潜りその山側、道の左手に移る。ここからしばらく上井は土佐北街道に沿ってその山側を進むことになる。標高は317m。
下井堰との連絡道
上井が土佐北街道に合わさりその下を潜る地点から右手に下りる簡易舗装の道がある。そこを下ると田圃に出るが、その畦道を樫ノ川に向かって進むと下井堰の近くに出る。
下井は取水堰の場所がはっきりせず、上述の如く十二所神社から下井堰まで追っかけたのだが、その戻りに上を通る土佐北街道に出る道として利用した。下井堰傍から杉林を這い上がろうかとも思ったのだが、国土地理院地図に上述、土佐北街道合流点から樫ノ川に向かって実線が描かれている。川の近くで線は途切れるが、なんとかなるだろうと歩いてみたら土佐北街道に出た。軽々に杉林を這い上がらなくてよかった。なお、国土地理院の地図に記載されていない部分は田圃の部分である。

土佐北街道を左に逸れる
土佐北街道の山側を側溝といった趣の上井とお付き合いしながら15分ほど歩くと、水路は土佐北街道から左に逸れる。標高はおおよそ312m。水路の山側には大石の集落を結ぶ道が走る。




車道を逸れて山に入る
水路は数分で大石の集落と繋がる道の下を潜り(標高309m)、道の山側に移る。その直ぐ先、水路は車道を離れ山へと入っていく(標高307m)。




獣防止柵
車道を逸れると直ぐ獣防止柵が行く手を防ぐ。初めて獣防止柵に出合ったときは、どうしたものかと結構驚いたのだが、基本、柵の開け閉めはでき、柵内に入った後はちゃんと閉め戻すことがマナーである。
水路の谷側にも柵が設けられていたが、それも直ぐに無くなり、竹林や杉林の中を10分ほど歩くと南に切れ込んだ沢に出合う。

沢に水門
水路は南に切れ込んだ沢の突端部をコンクリート補強されて渡る。鉄製水門が設けられ沢の水も含め、水は沢に落ち、水門から先水路に水は無くなる。標高は305m程だろうか。沢を越えると直ぐ、山側に貯水槽といった施設(標高300m辺り)。



本山の町並みが見えてくる
そこから数分歩くと木々の間から本山の町並み、吉野川に架かる橋が見えてくる。貯水槽の辺りから水路に水がかすかに現れ始める。どこかで養水されているようには思えない。自然に溜まったものだろうか。



「城山の森」の標識
貯水槽から5分弱、「城山の森」と書かれた木の標識が立つ(標高298m)。標識は水路進行方向を指す。地図を見ると水路の20mほど下を走る土佐北街道の道筋から標識まで実線が記される。町からこの道筋を上井筋まで上り、水路に沿って先に進み十二所神社のあたりから城山へと上るようである。
城山
本山城。本山氏の居城。全盛期は土佐郡、吾川郡そして高岡郡の東部までをその領地とした。勢力の拡大により居城を本山城から朝倉城に移るも、永禄3年(1560)長曾我部勢が本山城を攻撃。本山氏は朝倉城を焼き本山城に戻り長曾我部勢と対峙。が、長曾我部勢の攻勢に抗せず城を開き東の瓜生野に退くも元亀年間に本山氏は長宗我部氏の軍門に降った。
Wikipediaに拠れば、「江戸時代には既に城は廃れており、山内一豊は家老の山内刑部(永原一照)に本山一帯の支配を任せ、本山市街の西側の丘に邸(土居)を作りこれを支配した。これが現在の上街公園であり、本山城とは別の場所である。ここには奉行職野中兼山も住んだと言われている」とあった。

沢を越える
「城山の森」の標識の先、前面が開け本山の町並み、北へと突き出た枝尾根を迂回する上井筋の走る「筋」が山肌に見える。なんだか、いい。
水路を進み南に入り込んだ沢筋に。ここで沢水が水路へと養水する。標高299m。


歌碑2基
沢を越えた先に2基の歌碑。標高297m。「ぽんかんの 皮のぶあつさ 土佐の国 桂信子」「朝の雨 あらくて 夏に入りにけり 日野草城」と石碑に刻まれる。平成10年(1998)建立。歌碑の傍から土佐北街道へと下る道があった。
その先、北に突き出た枝尾根を水路が廻り込む手前にも歌碑。「みちにしく 花吹雪とはなりにけ理 阿波野青畝」とあった。平成12年(2000)建立。標高296m。
俳句の道
本山町には同町出身の俳人右城暮石先生を顕彰し、著名俳人の句碑を20基ほど町の各所に建てて巡れるようにしているようだ。

砂防工事箇所
枝尾根の先端部を回り込んだ水路は、南に切れ込んだ沢筋に向かう。沢は砂防対策の工事中。コンクリート砂防堰らしきものが造られていた。水路はこの工事箇所の前後は地中に埋まり、沢を渡るところで顔を出す。標高294m。


十二社神社の二の鳥居傍をクロス
沢を渡ると前方に鳥居が見えてくる。過日、土佐北街道散歩の折、町中にあった案内図で上井の場所を確認したところである。標高288m。
鳥居手前には地神さまらしき幾多の祠が並ぶ。どこかからか移されたのだろうか。 水路は二の鳥居傍をクロスし西に抜ける。

鳥居前には「↑66m 十二所神社」「→495m本山城跡」「→594m 上の坊」「→662m 山内刑部墓所」といった散策案内があった。
本山城は上述した。上の坊、山内刑部墓所は後程メモする。
十二所神社
社の由来案内に拠れば、沿革は「長徳寺文書」に承元2(1209)年の「十二所、供田」が初見とあるように古き社である。また弘安11(1288)年2月の文書には「土佐国吾橋山長徳寺若王子古奉祀熊野山十二所権現当山之地主等為氏伽藍経数百歳星霜之処也(以下略)」と、ある。熊野十二所権現を勧請したものだろう。
平安末期、この地は熊野社領の荘園・吾橋(あがはし)荘が設置されており、熊野十二社権現が勧請されることは至極自然なことであろうかと思える。
「土佐州郡志」に「帰全山、或は之を別宮山と謂う 旧(もと)十二所権現社有り今は無し」と記し、当社が古代から中世にかけて、吉野川対岸の帰全山に鎮座して居たが、戦国乱世の永禄年中、本山氏と長宗我部氏との合戦で兵火に罹災し、帰全山から永田村今宮に移り、慶長15(1610)年5月に再建され、寛永15(1638)年12月、領主野中兼山公のとき、現在地に遷った。
明治元(1868)年、十二所大権現を十二所神社と改称。
十二所権現
熊野の神々のことを熊野権現(くまのごんげん)と称する。熊野三山(本宮・新宮・那智)のそれぞれの主祭神をまとめて呼ぶ場合は熊野三所権現といい、熊野三所権現と熊野三山に祀られる他の神々(五所王子・四所明神)を合わせて熊野十二所権現と称する。 
領主野中兼山
本山は野中兼山の領地であった。江戸時代初期の土佐藩家老。藩政改革を実践し、港湾修築、河川の利水・治水事業による新田開発など功績を上げるも、その過酷とも言われる施策により政敵との対立を深め、後年は罷免・失脚し失意の中虚しくなった。
残された家族への処遇も過酷であり、男系が絶えるまで幽閉生活が40年以上続いたという。この間の事は『婉という女;大原富枝』に詳しい。婉は兼山の娘。4歳で幽閉され、以降40年間外部との接触を禁じられ、43歳で幽閉を解かれた。

散策路案内
参道をクロスした水路は北に突き出た山裾に沿ってすすむ。町から繋がる道が合わさるあたりに十二所神社参道にあった散策路と同じ案内。↑370m本山城跡」「→469m 上の坊」「→537m 山内刑部墓所」「←190m 十二所神社」とあった。 山裾を進む水路は町に近づく。


山裾の生活道を西進
山裾の生活道を西進し、舗装された山裾の道に出る。水路は周囲に民家の建つ生活道路を進む。標高283m。






上の坊への道をクロス
西進すると「上の坊」への道をクロスする。上の坊への道を交差した先は崖。水路は南に廻り崖上を進むことになる。標高275m。




上の坊
水路がクロスする箇所から山に上る道を少し進むと、「史跡 上の坊 本山南学寮跡 野中兼山が儒学者山崎闇斎を招いてこの場所にあった古寺で土佐南学を講究したといわれる。兼山は禅学より儒学に転向し、勉学に励み南学(海南朱子学)といわれるまでにその学問を発展させた」とある。
南学
土佐を歩いていると、、雪蹊寺の案内にもあったように時に「南学」という朱子学派が顔を出す。歩き遍路で三十三番札所を打ったとき、そこには「江戸時代初期には「南学発祥の道場」といわれ天室僧正が朱子学南学派の祖として活躍、野中兼山などの儒学者を生み出した」との案内もあった。コトバンクによれば「天文 17 (1548) 年南村梅軒により南海の地土佐に興った朱子学派。海南学派ともいう。京学,東学に対する称。四書を重んじ,道学者的態度を固持するとともに実践躬行を尊び,実際政治に参与した。
梅軒のあと,吸江庵の忍性,宗安寺の如淵,雪蹊寺の天室らを経て,谷時中にいたって仏教から完全に独立し,基礎を固めた。その門人に野中兼山,小倉三省,山崎闇斎が出た。のち三省の門下から,谷一斎,長沢潜軒,大高坂芝山らが出,また闇斎の門弟,谷秦山が帰国して,南学を振興した。
人間系譜は以上のようにたどれるものの,三省が世を去り,兼山が失脚して藩府より南学派は弾圧を受けて両人の門人や闇斎も土佐を去り,土佐における南学派は一時中絶した。秦山が復興した教学は三省,兼山までの本来の南学と質を異にし,京,江戸の学風の移入とみることができる。もっとも秦山は大義名分論に立つ尊王思想を説き,幕末勤王運動に影響を与えたが,こうした政治と結びついた強い実践性の点では,広い意味での南学は一貫している」とあった。
山崎闇斎
江戸時代前期の儒学者・神道家・思想家。朱子学者としては南学派に属する。闇斎によって論じられた朱子学を「崎門学」または「闇斎学」という。君臣の厳格な上下関係を説き、大義名分を重視した。
闇斎は朱子学だけでなく神道についても論じた。吉川惟足の吉川神道を発展させて神道と儒教を合わせた「垂加神道」を創始し、そこでも君臣関係を重視した。垂加神道は、神を信仰し、天皇を崇拝するというもの。天照大御神に対する信仰を大御神の子孫である天皇が統治する道を神道であると定義づけ、天皇への信仰、神儒の合一を主張し、尊王思想の高揚をもたらした 以上のような闇斎の思想は、水戸学・国学などとともに、幕末の尊王攘夷思想(特に尊王思想)に大きな影響を与えた。
山内刑部夫妻の墓所
上の坊から山道を少し上ったところに山内刑部墓所がある。山内氏が土佐藩に入国後、本山に封ぜらえた山内家家老。
案内には「山内家の家老であった。山内一豊の土佐入国に際して、その軍功から本山千三百石知行本山城に配され、本山土居初代藩主として慶長6年(1601)に本山に入っている。
慶長8年の瀧山一揆の鎮定に努め、元和元年(1615)の大阪の役には高知城の城代を務めた。元和6年、63歳で病没」とあった。
瀧山一揆
土佐に入国した山内家に対し、改易された長曾我部氏の遺臣、下級武士である郷士に扇動されて起きた百姓一揆。年貢の納入を拒み北山の瀧山に籠り抵抗するも鎮圧される。首謀者は断罪とするも百姓らの罪を不問に伏す。但し、一領具足とも言われ、長曽我部氏の兵農未分離の農兵隊でもあった百姓より武器を召し上げるのが条件でもあった。
この一揆は山内家に対する長曽我部遺臣の最後の抵抗とも言われ、この事件以降、長曽我部氏の影響下にあった一領具足衆は弱体化することになる。
本山町の吉野川対岸の山中に北山の地名がある。瀧山はその辺りなのだろう。

八郎谷を渡る
舗装された生活道から離れた水路は再び木々に覆われた山裾部の少し上を進むことになる。「上の坊」への道から9分ほど歩くと、南に切れ込んだ谷筋を渡る。
後程記すことになるが、この谷へと「下井」が落ちる。水路歩きの途中出合った地元の方より「上井」は「伊勢谷」に落ち、「下井」は「八郎谷」に落ちるとお聞きしていた。音だけで表記は確認しなかったのだが、この谷が「八郎谷」だろう。
沢には鉄製の水門が設けられていた、時に応じ水門を閉じ先に水を流したり、水門を開け沢に排水したりと調節しているのだろう。標高273m。

天神参道クロス
八郎谷から先に進むと水路の周囲の木々が伐採されている。6分くらい歩くと水路は天神参道の石段をクロスする。水路は木々が切り開かれた参道の石段下に見える町並みからおおよそ10mほど高いところを流れているようだ。標高272m。


沢をクロス
木々が伐採された箇所を越えると、水路は再び木々に覆われた中を進む。数分歩くと南に切れ込んだ沢をクロスする。標高270m。
その先で水路は山を離れ里に向かう。



里の舗装道をクロス
里に出た水路は舗装された里道をクロスする。その先水路は竹林の中を抜ける。標高268m。竹林を抜け里の民家の傍を水路は進む。




舗装された道をクロス
なんだか、いい。その先で水路は舗装された道をクロスする。標高261m。舗装された道を越えると水路は急な傾斜で落ちる。




伊勢谷川に落ちる
その先に谷筋が見える。舗装された道から急な傾斜を田圃の畦道といったところに下り、水路に沿って少し進むと水路は谷筋に落ちる。これが地元の方に教えて頂いた伊勢谷川であろう。標高は260m。
上井は𠮷野川本流ではなく、その支流に落ちる、という事を知らなければこの谷筋を越えた先に水路を求め彷徨うことになったかと思う。偶々上井筋で出合った地元の方に挨拶し、何気ない話の中で教えて頂いた情報が誠に役立った。感謝。

上井散歩はここまで。予想に反し、手堀り隧道の迂回や藪漕ぎもなく結構快適に歩くことができた。距離はおおよそ5キロほどだろうか。樫ノ川の上井堰での取水口の標高は329m。この地が280m。5キロを70m、ということは100mで1.4mほど下ることになる。傾斜角は0.80度といったところだろうか。


下井を辿る


上井のトレースを終え、下井に移る。上井の取水口・上井堰は『土佐の道 その歴史を歩く;山崎清憲(高知新聞社)』に、樫ノ川に架かる大吉橋辺りにあるといった、大雑把ではあるが何となくそれらしき場所は予測でき、また取水堰もすぐ見つかり上井堰より下ることができたのだが、下井堰の場所は全く予測がつかない。
地元の方の話では高角に取水堰があるとのことで国土地理院の地図をチェックすると高角に堰らしき記号が記される。が、この記号、上井堰の辺りにもあり、当初はその記号箇所が上井堰と予測していたのだが、結果的には上井堰はその記号よりずっと下流であり堰とは一致しなかった。ために、下井堰の場所の参考にはなりそうもない。
ということで、下井を辿るスタート地点は町にあった史跡案内図をもとに確認した十二所神社一の鳥居傍を流れる下井からはじめ、上流へと水路を追っかけ取水口・下井堰を確認。そこから十二所神社まで折り返し、地元の方にお聞きした八郎谷に落ちる地点まで水路を辿った。八郎谷がどこかは分からないが、取敢えず水路が落ちる谷が八郎谷であろうとの思いで下流へと下ったわけである。上井のメモで八郎谷の沢と記したが、それは下井が落ちた沢を確認したゆえの記載ではある。
で、下井のメモであるが、当日の行きつ戻りつを時系列でメモすることはやめ、取水口・下井堰からはじめ、八郎谷に落ちるところまでを上流から下流まで順をおってメモすることにする。そのほうがわかりやすいだろう、といった便宜上の「編集」ではある。

下井堰
下井堰は地元の方がおっしゃった通り、高角地区にあった。場所は樫ノ川に架かる大吉橋の西詰より、土佐北街道の谷側を進んだ上井の流れが土佐北街道に合わさる地点を少し北東に下った辺りである。
上井のメモで上井と下井の連絡道(私注;私が勝手につけた名称)と記したが、上井は土佐北街道に合わさり道の山側に移る地点に川に向かって下りる簡易舗装の道があり、そこを下ると田圃に出るが、その畦道を進むと樫ノ川筋に下りることができ、その少し上流が下井堰である。
堰はコンクリート造り。左岸側に導水路がつくられ水が下る。下井のはじまりの地点である。標高272m。

分水門
導水路の少し下流に水門があり、余水はそこで樫ノ川に戻されていた。水門部は自然地形を石組で補強したものか、石組だけで造られたものか水路を覆い梯子で下りなければならないようになっている。何故にこのような造りにしたのだろう。素人考えでは、洪水時にこの石組で大量の水や砂から水路を護っていたようにも思える。そういえば、上井も取水堰からの導水路水門のある辺りは、今は鉄製のゲートとはなっているが、その隧道と水路の間は小高く築かれた堤状になっていた。

分水門
数分で水路谷側に分水門。下は樫ノ川。時に応じて水路の水を川に落とすようにしているのだろう。
ほどなく水管を通り地中に入るが直ぐ地表に現れる。何故に少々唐突にこの箇所だけ水管で抜ける?地図をチェックするとこの水管部に小さな沢が落ちていた。沢を水管で越えているのだろう。

沢と分水門
5分程歩くと大きな沢とクロスする。そこには水路下流に流れる水を堰止める水門、樫ノ川に水を落とす水門が設けられる。沢水の下井への養水、時によっては川に水を落とすなどの水量調節をおこなっていたのだろう。標高270m。


大岩と桟道
沢をクロスし数分歩くと水路をが阻む。水路は大岩の下を潜る。大岩の谷側には鉄製の桟道が設置されており、難なく大岩を迂回できた。標高269m。



分水門
大岩を越えると右手、木々の間から谷側に耕地が見えてくる。大岩から数分で分水門。このあたりから分水された水は灌漑用に落とされているように思える。
その先、数分歩き、水路が枝尾根を廻り込む突端部にも分水門。標高267m。


沢と水門
数分歩くと小さな沢にあたり、そこに分水門。更に数分先にも水門。上井に比べて分水門の数が多いように思える。これは単なる素人の妄想ではあるが、上井と下井の役割がちがっていたのではないか、とも思えてきた。下井から水を落とせない本山の西部に灌漑用の水を供するために上井が掘られたことは自明のことではあろうが、それと共に傾斜角度の緩い下井への養水の機能も上井にはあったようにも思える。とすれば、上井と下井の掘られた時期も、上井のほうが遅い時期であったのだろうか。
あれこれと疑問が生じてきた。本山町史でもチェックすれば記録はあるのだろうか。本山町から吉野川を少し下った行川(なめかわ)にも兼山の遺構水路が残るとのこと。その井流も歩いてみたいので、その時にでもどこかの図書館で調べてみようとも思い始めた。
なお、この辺りから標高表示を止める。あまりに緩やかな傾斜のため、GPSのデータでは下流が上流より標高が高くなる。後述するが傾斜角が全体で0.12度程度といったものであり、標高270m弱を誠に緩やかな傾斜で下って行くといった状態である。

土佐北街道筋に出る
先に進むと水路左手上に道路が見えてくる。過日歩いた土佐北街道の道筋である。ほどなく水路は土佐北街道下を潜り、道の山側に移る。




土佐北街道から逸れ山側を水路は進む
土佐北街道を潜り道の山側に出た水路は、道を左に逸れて山側、一段高いところを進む。
前方、一段低いところにに本山の町並みが見えてくる。用水路が開かれらた当時は一面の田圃ではあったのだろう。

2基の歌碑
ほどなく水路傍に2基の歌碑。「秋の暮れ 山脈いづこへか帰る 山口誓子」「長き日の なお永かれと野に遊ぶ 山口渡津女」と刻まれる。平成9年(1997)建立。標高266m。
水路はその先で土佐北街道へと緩やかに下ってゆく。


土佐北街道筋に出る
水路は土佐北街道筋にあわさる。そこに「俳句の道 山口誓子」と書かれた木の標識が立つ。水路は道の山側を溝となって先に進む。土佐北街道を歩いた時、道脇に水路を見ながら歩いたのだが、その時は兼山遺構の水路なとど知る由もなかった。水路の周囲には家屋が多くなってくる。

十二所神社一の鳥居前を横切る
土佐北街道に沿って流れる水路は十二所神社一の鳥居に向かう。下井の取水口の場所が分からず、元山の街中にあった下井、上井の案内をもとに下井の流れる場所を比定し、上流へと遡った場所に戻ってきた。
ここからはその先、地元の方が落ちるという八郎谷(表記は推定)まで辿ることになる。
一の鳥居下を潜った水路は北に流れを変えその直ぐ先で町中に落ちることなく、町並みより一段高い山裾を西進する。

俳句の道の標識
西進し、本山の町並みを見下ろす地に石碑が立つ。川村一族を顕彰する碑のようだ。嶺北地方の郷族であったよう。
その先、「俳句の道 青々・暮石・和生句」と書かれた木の標識が立つ。水路沿いには歌碑は見当たらなかった。
西進する下井の少し上を平行して上井が進む。
歌碑
「日盛りに蝶のふれあう音すなり 早梅に見し向上の一路哉 松瀬青々」「いつからの一匹なるや水馬 天上へ赤消え去りし曼珠沙華 右城暮石」「つばめかと 思う速さに 土佐の蝶 茨木和生」といった歌碑が土居屋敷跡(上街公園)の東に並ぶようである。
土居屋敷跡
案内には、「史跡 土居屋敷跡 Remains of the Doi Residence 土居屋敷跡は戦国時代に本山地方を本貫とした本山氏の土居(館)であった。近世初頭には本山に封ぜられた山内刑部・但馬父子、続いて野中玄番・兼山父子の4代にわたる屋敷となった。兼山時代の土居は上段・中段・下段からなり、入り口下段に文武館、中段に長屋門の諸建物があり、上段に本宅があった。(皆山集)
兼山失脚後は藩士の在番が置かれ、享保3(1718)以降は本山倉番、土居門番が配置された。 参勤交代に土佐街道(北街道)が用いられるようになると参勤交代時の藩主の宿泊所にあてられ、以後「本山御殿」と称されるようになる。この土居屋敷を中心に周辺に「土居下町」と呼ばれる小規模な町場が形成されていた。明治になって建物は取り壊され、跡地は桜の公園として整備されている。(史跡) 本山町教育委員会」とあった。
少し昔の「本山土居跡」案内
Google Street Viewで土井館跡を見ていると、現在の案内ではない古い案内が立っていた。説明が少し詳しいので掲載しておく:
「本山土居跡土地の豪族本山氏の土居の一つで 天正十七年(1586)長宗我部検地当時は本山采女が住んでいた。山内一豊の土佐入国後 慶長六年(1601)山内刑部 (永原一照)が本山千 三百石を与えられてここに住んだが、その子但馬は私曲の罪によって元和六年(1620)知行を没収されて 佐川の深尾家に預けられたためそれ以来本山土居はしばらく領主不在となった。
寛永七年(1630)野中直継が本山土居を預けられて千石を加増せられ養嗣子兼山も当然これを受けついだ。 兼山は藩主忠義の厚い信頼をえて藩奉行職として敏腕を発揮したが本山領主としても吉野川の支流の樫ノ川や本能津川に下津野堰、トドノ堰、ノボリ立堰、カタシ山堰 井口堰を設けて用水をひいて多くの新田を開発し、その余沢を現在にまで及ぼしている。又寛永二十年(1643)に発せられた「本山掟」は兼山と領民をつなく歴史的文書といえよう。
寛文三年(1663)兼山失脚後本山土居は山内下総に次いで孕石頼母らによって管理されたが明治になってすべての建物が取りこわされ、今はその石垣にわずかに面影をしのぶばかりである」。
下津野堰は樫ノ川にあったようだが、その他は不詳。
本山掟
兼山は、本山掟とか、国中掟、広瀬浦掟などを作って、農政を行っている。本山掟の内容は;
〇お上や法律にそむかないこと。
〇荒地が少しでも残らないように開き、田地にせよ。精を出して開けば開 けばほうびをあたえる。3年・5年・7年の間は年貢を取らない。
○年貢は全部11月までにおさめよ。畑作の年貢分は6月までに全部おさめよ。
○作った米の3分の1は百姓のとり分であるが、秋冬はぞうすいを食べよ。春までたくわえずに、めしや酒にして食べてしまったものは死刑にする。
庄屋はよく調べて、そむいているものがないようにせよ。かくしておいてあとでわかったら、庄屋もともに処分する。
○酒を買って飲んだり、朝ねをしてはならない。そむく者があれば銀三匁(およそ6000円)の罰金をとる。赤面三匁〉赤面三匁、生酔い五匁、千鳥足十匁。
○家や着物がそまつなことはかまわない。法で定めているより良くすることは許さない。 このおきてにそむく者があれば、本人はもちろん庄屋も罰する」といったもの。

厳しい施策をとったと言われるが、実際にこんな掟を見ると農民の怨嗟を買ったということも頷ける。

土居
土佐では城館のことを「土居」と称していた。幕府の一国一城制により支城は破却されるが支城のあったところは要衝の地。山内氏も土佐入国に際し、佐川、窪川、本山、宿毛、中村、安芸といった要衝の地に土佐入国以前の掛川以来の重臣を配し、破却された城近くに館を構え領国経営にあたった。これが土居制度であり、本山土居、安芸土居などと称された。

崖手前で南に折れる
町並みの中を西進する水路は時に上に鉄網やコンクリートで蓋をされる。少し進むと鉄網の下、水路から下に分流する箇所がある。昔は一面の田圃であったのだろうが、は家並みが軒を連ねる。
ほどなく水路は崖の手前で南に道路に沿って流路を変える。流路を変える地点の道の反対側に「←上の坊・山内刑部の墓」「土居屋敷 170m→」の標識が立つ。

崖を旧道に下る坂道を左に逸れる
南に流路を変えた水路は直ぐ、崖を旧国道へと下る坂道に沿ってゆるやかに下ってゆく。ほどなく水路は坂道を左に逸れ先に進む。




分水門
草に覆われた水路脇の土径を進むと水路崖側に鉄製の手摺が現れる。何のために手摺が設けられたのか、その理由はよくわからない。手摺が切れるその先、分水門が設けられ、コンクリート補強された分水路から猛烈な勢いで水が旧国道筋へと落ちてゆく。
旧国道へ落ちた水は何処へ
余りに勢いのいい分水が何処に流れ落ち、何処に向かうのか、ちょっと気になる。いい塩梅、というか水門調整の作業道が旧国道へと下りている。作業道を下りると旧国道へと下る坂道を潜り、旧国道に沿って町へと東進していた。


八郎谷に落ちる
分水門の先は一瞬水路脇に土盛はなく、コンクリート水路枠上をバランスを取りなながら進む。直ぐ水路に沿った土径が現れ先に進むと水路が急傾斜となった先で水が谷に落ちる。この谷が地元の方に教えて頂いた八郎谷(表記は「はちろうだに」の音から推測)だろう。これで樫ノ川の取水口、下井堰から下った下井はお終いとなる。
下井堰の標高は272m、八郎への落ち口は標高261mだが、八郎谷に急斜面で落ちる地点の標高は265mほど。おおよお4キロを7mから8mといった落差で流れてきたことになる。角度は0.12程度といった超緩やかな傾斜で下ってきたことになる。
八郎谷の西
地元の方の話では兼山が造った下井はこの八郎谷に落ちてお終いのようであるが、水路は八郎谷を越えて西に進むという。
下井とは関係ないのだが、どのようにして谷を越えて西進するのかと、一度旧国道に下り八郎谷に足を踏み入れる。直ぐ八郎谷に落ちる水路確認。

一度谷に落ちた水はその直ぐ下流にある堰で分流され旧国道に沿って西進。少し進んだところで民家裏手に入り込み、その直ぐ先で水路に落ちて終わっていた。

これで、土佐北街道散歩の時に出合った野中兼山の遺構、水路歩きフリークには少々萌えながらも時間がなく辿ることのできなかった上井と下井をカバーした。イントロでもメモしたように、藪漕ぎもなく隧道迂回にと念のために用意したロープを使うこともなく、至極快適な水路歩きであった。
次回は、本山町の少し下流、行川(なめかわ)筋にも残るという兼山の利水遺構を辿ってみようと思う。この井筋もほとんど詳しい資料がない。一応ロープは用意するが、今回の上井、下井のような快適な井流歩きであることを願う。
先回の散歩のメモでは、高知城下から参勤交代初日の宿泊地、布師田までをメモした。繰り返しになるが、今回の土佐北街道ルートハンティングの元となる『土佐の道 その歴史を歩く;山崎清憲(高知新聞社)』にある、布師田から權若峠取り付き口の釣瓶までのルートを記しておく;
布師田から先で市域は高知市から南国市に入るが、ここでルートはふたつにわかれる。ひとつは国分川南岸の中島を経由し国分川を八幡渡瀬で渡り返し北進し南国市岡豊町八幡に向かう。この道筋は初期の参勤交代道である野根山街道、通称「東街道」への道筋でもあったようだ。 そしてもうひとつは高知大学医学部の北を進み、右手に長曾我部氏の居城・岡豊城の建つ丘陵地を見遣りながら岡豊町八幡に出て、ここでふたつのルートは合流する。八幡は長曾我部氏ゆかりの別宮岡豊八幡宮由来の地名だろう。
合流点から先も二つのルートに分かれる。ひとつは現在の県道384号を領石に向かうもの。もうひとつは合流点から直ぐ、笠ノ川川を越え比江を経由して領石に向かうもの。比江経由の道は北街道が参勤交代に開かれた当初の道筋。比江の高村家を初日の宿泊所とした頃のもの。布師田に布師田御殿ができて以降は、直接領石を目指すようになったという。
領石川右岸の地にある領石で合流したルートは領石の送り番所を経て北進。一の瀬渡瀬で領石川を左岸に渡り、その先楠木渡瀬で右岸に、更に亀の本渡瀬で再び左岸に渡り直し、谷筋の小さな渡瀬を経て最後に梼山川の「下着渡瀬(私注;「着」はママ)を北に渡ると權若坂の登山口に着く、とある。
亀の本渡瀬から先は、過日土佐北街道・權若峠越えのとき、上述『土佐の道』に記載のないふたつの渡瀬を確認しており、そのルートを補足すると、亀の本渡瀬で領石川左岸に移った土佐北街道は、「左手渡瀬」で中谷川の右岸に移り、その先中渡瀬で左岸に渡った後、中谷川に合わさる梼山川の左岸から下り付け渡瀬で右岸(北)に渡り權若坂の登山口に着くことになる。

ルートは以上の通りである。計画では『土佐の道』に記載されるポイント、Google Mapに記載される「土佐北街道」、それと別の機会に既に確認済のポイントを頼りに道を繋ぐつもりであったのだが、思いがけなかった賜り物が布師田御殿跡にあった土佐北街道の詳しいルート図。この地図のおかげで、布師田から八幡合流点までは、ほぼ往昔のルートを辿れたと思う。
また当初渡瀬や送り番所など見つかるかどうか不安であったが、ほぼ見つかった。ために領石から釣瓶まではほぼ往昔のルートを辿れたとは思うのだが、八幡の合流点から領石まで、特に比江経由の北山道はあれこれ調べた上ではあるが、それでも推定の域を出ていない。八幡合流点から領石までのルートは参考程度と考えて頂きたい。
ともあれメモを始める。



本日のルート;
高知城下から布師田御殿跡まで
高知城>追手筋>山田橋・山田番所>茂兵衛道標(100度目)>比島橋>掛川神社>鳥付橋>土佐神社お旅所>お堂>石淵送り番所>岡村十兵衛先生住居跡>社>一木権兵衛先生の墓所>布師田御殿跡
布師田から岡豊町八幡の北岸・南岸ルート合流点まで
国分川北岸ルート
権兵衛井流>前田元敏先祖の墓所>奥官慥斎・奥宮健之父子の屋敷跡>西山寺>葛木橋>>葛木男神社>丘陵切通し>国分川筋に右折>山崎川・蒲原橋>山崎川橋>県道384号に出る>岡豊城跡>岡豊別宮八幡宮>県道を右に逸れ県道252号に出る
国分川南岸ルート
葛木橋を渡り国分川左岸に>郡境石>県道252号を左折し国分川に向かう>岡豊橋>県道252を北進し北岸ルートと合流
□地図に記載された「土佐北街道」ルート
山崎川・蒲原橋>山裾を水路に沿って東進>岡豊橋北詰めに出る
北岸・南岸ルート合流点から領石まで
□直接領石を目指すルート□
県道252号を右に逸れる道に>県道384号右手に笠ノ川地蔵>県道384号を左に逸れ丘陵土径に>県道384号をクロス>高知道インター高架下を進みルート合流点に
□比江経由のルート□
笠ノ川川渡河地点>検地帳>左折・検地帳>県道256号に出る>左折し国分小学校東の道に>国府小学校の東の里道を北進>阿波塚神社>道のえき風良里(ふらり)>丘陵地の土径を進み国道32号に出る>高知道インターの北のルート合流点に
領石より権若峠取り付き口の釣瓶まで
県道384号に出る>領石の送り番所>天満宮>一の瀬渡瀬>楠木渡瀬>清川神社>県道33号に出る>亀(瓶)の本渡瀬>県道を右折し林道釣瓶線に>左手渡瀬>中渡瀬>下り付きの渡瀬>権若峠・釣瓶取り付き口



布師田から岡豊町八幡の北岸・南岸ルート合流点まで

布師田から先で市域は高知市から南国市に入るが、ここでルートはふたつにわかれる。国分川北岸ルートと南岸ルートがそれ。まずは北岸ルートから。上述の如く布師田から国分川にそって北岸を進み、高知大学医学部キャンパス辺りから道を北に変え、キャンパス敷地北側を進み 右手に長曾我部氏の居城・岡豊城の建つ丘陵地を見遣りながら岡豊町八幡に出てるルートである。 当初、Google mapに「土佐北街道」と記載される、高知大学医学部キャンパス南を進む計画であったが、布師田御殿跡に土佐北街道の詳しいルート図があり、この道を辿ることにした。

国分川北岸ルート

権兵衛井流
布師田御殿跡を離れ案内にあった北街道の道筋のひとつ、国分川北岸ルートを進む。布師田ふれあいセンターの直ぐ先は国分川。堤防に沿った道を少し北に進むと左に逸れ山裾を進む道がある。北街道はこの左へと逸れる道に入るが、その分岐点に「権兵衛井流(ゆる)」の案内。 「布師田の国分川北岸の用水路に設けられた水門施設。通常は水量の調節を行うが、洪水など増水時には用水路の水門は閉めて下流への浸水を防ぎながら、近くに設けた別の水門を開けて国分川に水を流し、上流を浸水から守ったり堤防の崩壊を防ぐための仕組みです。 同じような施設が約 520m 離れた場所に一ヶ所ずつ計二ヶ所設けられていて一本権兵衛先生が発案して普請した水門として、権兵衛井流"と呼ばれています。布師田の誇る義人で一領具足出身の一木先生が野中兼山に抜擢され活躍されるきっかけとなったと言われる水門です。 現在も普請された当時とほとんど同じ場所にあって、当初の目的通りの運用を基本として地域で管理されています。
当時土佐藩の基盤を拡大強固にするため、土木・灌漑・干拓・港湾事業等を強力に進めていた執政野中兼山は物部川の山田堰工事の検分に行く途中布師田でこの"権兵衛井流"を目にして驚き、村人に問いただして一木先生を呼び出し、どのような考えでえこの水門を作ったか述べさせました。
一木先生は上記のような機能を考えて普請したことを話しました。それは兼山が山田堰から多くの用水路を作る計画の中で考えていた仕組みと正に符号するものでした。
すぐに郷士に取り立てられ一族百名ぐらいとともに山田堰に関係して用水路の建設に関わり、技 術の確かさや有能さが証明されたそうです。
その後兼山の計画する重要な工事で責任者を務めました。山田堰の工事をはるかに上回る仁淀川の治水灌漑工事や手結港の浚渫・津呂港の工事などがあります。兼山失脚後多くの部下が責任を問われる中で一木先生は珍しくお咎めなしとされ、土佐藩を挙げての三年がかりの大工事、室津港拡張工事の普請奉行として着任し、延宝七年(1679 年)六月工費十万三千五百両・役夫百七十三万人を投入して完成しました。
一木先生は難工事着手に当たって海神にわが身を捧げることを誓って成功を祈り、工事が無事完成した六月十七日夜、港上に場を構え、鎧・兜・太刀を海神に献じた後、未明に自ら人柱となり 切腹して亡くなられました。予算を何倍も越えた工事の責任を取ったと言われていますが、生前の 兼山からの、「御普請には存分の金銀を費やしても構わぬ、ただ、完全なものに仕上げることだ。」 を正に実践したのであって、また、郷士として取り立てられた恩を忘れずに、兼山一族に対する処 置への抗議の意思も込められていたとも言われています。
野中兼山の偉大な業績は失脚によって色あせるものではなく、兼山の元で実際に多くの工事に関わり現在の布師田や室戸方面・仁淀川流域等の発展の基礎を作って下さった一木権兵衛先生の業績を出身地のこの布師田から長く語り継いでいきたいものです。 布師田の未来を考える会」とあった。

前田元敏先祖の墓所
權兵衛井流に沿って道を進むと、道の左手に「前田元敏先祖の墓所」の案内;
「前田元敏は、幕末から明治大正にかけて活躍した日本を代表する英学者の一人です。安政4年(1857年)土佐藩士前田元幸(致道館槍術取立役、歌人)の嫡男として高知市廿代町に生まれました。致道館(植木枝盛や奥宮建之と同窓)、共立学舎英語学校にて英国人教師マイヤーらの指導のもと英学を修め、明治7年に上京。東京外国語学校等にて英語を修業後、東京開成学校に優秀な成績で合格。明治10年、東京大学理学部に入学(千頭清臣等と共に高知県貸費生)。明治14年、大学卒業まで数カ月というところで病により退学しましたが、高い学識と抜群の語学力が認められ、帰郷直後から教壇に立ちます。
高知共立学校(現土佐女子高等学校)、高知中学校(現高知追手前高等学校)、嶽洋社学課局、第五高等中学校(現熊本大学)、鹿児島高等中学造士館(現鹿児島大学)、岐阜県尋常中学校大垣分校(現岐阜県大垣北高等学校)校長。明治24年、従七位。明治29年、思想家・教育者の杉浦重剛に招かれて上京、私立日本中学校、同文書院(教頭)、私立郁文館中学校(激石『ぼっちゃん』の舞台)、同中学校教頭などを歴任。野武士のような風格と威厳があったと伝えられています。昭和2年没、享年71歳、墓所は東京都多磨霊園にあります。
教え子の中には、明治の文豪・大町桂月、内間総理大臣・濱口雄幸(濱口家への養子縁組を取持つ)などがいます。新渡戸稲造、内村鑑三、宮部金吾等と机を並べて英語を学び、英国人 (John.N. Penlington) が主宰する英字新聞(The Far East)に特別記事 (Japanese Views and Reviews) を寄稿するなど、殊に英語に優れており、日本英学史にその名を残しています。主な業績に『英和対訳大辞業』明治18年、『訂正増補 英和対訳大辞彙』明治19年、ベストセラーの教科書 Kambe's Readers 明治29年などがあります。
前田家は長宗我部元親家臣初代前田利國に始まり元敏は12代で、布師田西谷には4代から6代までの初期の墓所があり、布師田では珍しい古い時代の大きいお墓で、これ以降は筆山や秦泉寺山へと移っていっています。2代平兵衛利益は、元親が四国統一の途上の讃州引田の合戦時、敵の武将仙石勘解由を打ち取ったとの記録があり、妻は布師田・金山城主石谷民部少輔の息女で金山城と深い関係があります。3代源十郎利春は、長宗我部地検帳に多数の所領が記されており豊臣秀吉の命により薩摩軍と戦った豊後戸次川の合戦で長宗我部信親等と共に討ち死にしています。また4代彦九郎家勝は、万々城主吉松十衛門に嫁した元親の第四息女の孫娘を妻に迎えていて長宗我部氏とも深い関係があります。
また、上記説明文中の元敏と同窓の奥宮健之については、"奥宮慥斎・健之父子の住居跡"がここより約150m東方にあるのも何かの縁です。(奥宮慥斎は土佐藩の陽明学者で安政元年(1858年)江戸に出る時、後に三菱財閥の基礎をつくった岩崎弥太郎を従者として連れて行っています。)
前田元敏先祖の所へは説明板に向って右手の山道を道しるべに従って道なりに約3分上った左側にあります。 布師田の未来を考える会」とあった。
大町桂月
教え子の中に大町桂月の名があった。東京都文京区散歩の折、大町桂月の旧宅跡を訪ねたことがある。詩人・随筆家・評論家として知られる、というが、散歩フリークとしては紀行文しか知らない。誠に、いい。終世酒と旅を愛し、大雪山系にはその名からとった桂月岳が残る。与謝野晶子の「君死にたもうことなかれ」に対して、「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」などと非難し戦後は少々評価をさげてはいたようだ。が、紀行文は誠に、いい。田山花袋の紀行文に『東京の近郊 一日の行楽』がある。これも、いい。同じく桂月に明治40年に書かれた「東京の近郊」がある。これもまた、いい。「一日に千里の道を行くよりも 十日に千里行くぞ楽しき」は桂月の言。

奥官慥斎・奥宮健之父子の屋敷跡
更に続けて「奥官慥斎・奥宮健之父子の屋敷跡」の案内。
「奥宮値姦(1811~1877)
幕末明治初期の思想研究家。藩吏奥宮正樹の長男で、土佐藩主山内容堂の特講の陽明学者です。儒学を岡本寧浦に学び、文政12年(1829年)に江戸に出て陽明学者佐藤一斎にも学びました。
土佐へ帰った後に私塾「蓮池書院」を興し、藩校致道館の儒官や教授館教授をつとめました。土佐藩伝統の南学(土佐の朱子学)から排撃されながらも陽明学の土佐の地での中心的な存在となりました。
明治2年(1869年) 12月、板垣退助が高知県大参事となった時、協力して学制の改革や宣教の事務を担当、明治6年立志社の民選議員設立建白書起草案の修正などにもかかわっています。慥斎は、平井善之丞・佐々木高行・武市半平太・大石弥太郎らと交わり勤王の影響を与えています。門人に長岡健吉・中江兆民・河田小龍・淡中新作・北代正臣・島本伸道ら勤王の志氏を輩出しています。墓所は東京谷中墓地にありますが、父奥宮弁三郎正樹や母・妻などの墓所はこの屋敷跡より少し東方の西山寺の右手階段上にあります。(徒歩7分)
(陽明学とは中国の王陽明のとなえた哲学です。)《儒学とは孔子に始まる中国古来の政治・道徳の学問です。)
実業家で三菱財閥の創始者岩崎弥太郎は少年時代、それまで師事していた叔父で儒学者の岡本寧浦が没した後、奥宮慥斎にも師事し、安政元年(1854年)慥斎に従いこの屋敷跡前の道を通って江戸に出て行きました。奥宮慥斎は左遷のような形で老母梶子と従者伊太郎を伴って江戸藩邸詰めに出張して当代一流の佐藤一斎や安積艮斎らと交わりました。
この江戸行きの時、師として岩崎弥太郎を最初に江戸に連れていった人物です。布師田を発って安芸の岩崎の家で宿泊し室戸方面から徳島を通って江戸までの日記が残っています。慥斎の日記によると安政元年九月二十五日に出発し、六十日目の十一月二十三日築地の土佐藩下屋敷に到着しています。互いに詩を吟じ冗談を言いながらの楽しい旅だったようです。出発に際して弥太郎は裏の妙見山に登り、星神社の扉に"吾志得ずんは再びこの山に登らず"と大書した逸話はよく知られています。
弥太郎は三菱を創立した後も奥宮家を気に掛けていて何かと援助をしたと言われています。自らの漢詩の素養は慥斎の影響も大きいと言っていたようです。
慶応三年(1867年)二月、山内容堂に四侯会議出席を求めるため島津久光の命で土佐に来ていた西郷隆盛を訪問、意気投合して互いに漢詩を交換する仲となり、この時の漢詩は後に高知市民図書館に寄贈されています。
慥斎の長男正治は後に宮城控訴院検事長になりますが、弟の奥宮健之が大逆事件で罪を問われた時、健之を支えますが責任を感じてか辞職しています。
また、岩崎東山先生傳記(岩崎弥太郎の伝記)の編集もおこなっています。
慥斎の父正樹は藩の下役人でしたが、文化五年(1808年) 幕府測量使伊能忠敬一行が土佐を測量に来た時、土佐藩の案内役として普請方宮崎竹助と共に甲浦から伊予宇和島に出るまで約一カ月余り随行して測量の世話をしています。
〇奥宮健之
明治期の社会運動家・英学者。安政4年陽明学者奥宮慥斎の三男として土佐郡布師田村に生まれました。慶応3年(1867年) 致道館で漢学を学び、明治3年(1870年)上京し英人メーカーに英学を学びました。明治5年から湯島の共慣義塾に学び、同塾の教師や山内家の海南私塾の教師をつとめ、自ら英学塾育英舎も開いています。
一時三菱に勤めていますが、明治13年頃から政談演説に深く関わるようになり、明治14年(1881 年) 自由党結成に参加し、入党して全国各地で遊説しました。明治15年(1882年)には6月創刊の「自由新聞」に入社しています。また、同年に馬車鉄道の出現で失業した人力車夫を組織化し、自由民権論者と共に「車界党」(車会党)を結成、反資本主義的な運動も展開しています。
その後、政談演説などで植木枝盛と各地遊説も行っています。演説中止や集会条例違反などでたびたび投獄されたりもしました。幸徳秋水に爆弾製造法を教えたという罪で明治44年(1911年) 明治天皇暗殺計画という大逆事件に巻き込まれ、無罪を主張しましたが刑死となりました。
絞首刑 12名無期懲役12名を出した大逆事件は、社会主義者や無政府主義者への時の政府の大思想弾圧事件でした。現在は冤罪が定説になっています。奥宮健之や植木枝盛は布師田自由党の結成にも大きな影響を与えたのではないでしょうか。
明治17年3月25日布師田自由党は一宮村自由党と協力し、時の太政大臣三条条実美宛てに住民402 名の署名と共に 43 ページにもわたる『減租請願書』を提出したりしています。健之と同じ布師田西谷に先祖の墓所のある高知出身の英学者前田元敏とは致道館で同窓でした。」とあった。

「西山六本松(旧布師田橋の所在地の一つ)」の案内
直ぐに「西山六本松(旧布師田橋の所在地の一つ)」の案内;「布師田橋の位置(「南路志」の解釈) 布師田橋の位置については「南路志」に、『七つ城に長さ三十三間(60m)・幅二間(3.64m)の橋が川の東から西にかかっている。万治三年(1660年)に現在の場所(七つ城)に架け替えられた。以前は西山六本松に架かっていた。更に明暦年間(参考:明暦元年=3D1655年)には東山(場所不明)の端に架かっていた。』とあります。
"七つ城の布師田橋"=現在の布師田橋の少し上流付近と思われます。
万治三年(1660年)以前には布師田橋はここ西山六本松に架かっていて、甲浦まで陸路を通る場合や北山道を取って国分川を渡るときは、この橋を利用したと思われます。1660年以降はここより約600m下流にある"七つ城の布師田橋"が利用されました。
"西山六本松"は現在の地蔵堂部落の"地蔵堂"から国分川を隔てた北側。現在は土手上が道路になっているが、以前の土手(昭和35年頃)は上部の幅員が狭くて車は通行できませんでした。その土手の"西山六本松"と思われる付近は二十畳ぐらいの広場になっていて、昔からの地名を残すような形でちょうど松の木が六本ぐらい植えられていました。
ホノギで"西谷"の北の山裾の小川に沿った西谷部落の道から分岐して斜めに"スカ"を横切り土手を上がってきた所(この道は現在も大部分が残っている)が西山六本松"でした。ろっぽん"と呼んで子供の遊び場所でもありました。
また、国分川の河原に置かれていたという葛木男神社のお神輿の休む畳二畳ぐらいの御旅所 の石(現在は少し下流の左岸道路わきに移されている)が中心に置かれていました。
西山六本松付近の国分川は現在も浅瀬で、昔から歩いて往来できたそうで、秋祭りのお神演も 川の中を担がれて渡っていたそうです。 布師田の未来を考える会」とある。

現在は中島経由の北街道は葛木橋を渡ることになるが、往昔は葛木橋の少し下流にあった古布師田橋を渡り国分川左岸に移ったようである。この旧布師田道を渡り中島に向かう道は土佐北街道南岸ルートであると共に、土佐北街道が開かれる以前の土佐藩参勤交代道である野根山街道をを越えて甲浦に出る、通称「東街道」のルートでもある。

西山寺の案内
さらに直ぐ、「西山寺:の案内;「真言宗善通寺派に属し、正式名称は普門山観明院西山寺といい本尊は聖観音です。江戸時代に成立した土佐の歴史・地理書である。南路志にもその名が見られる古いお寺です。尚、南路本では西山寺は五台山の末寺で本尊同弥陀 運慶作となっています。
明治初年の廃仏稀釈運動により廃寺となり一時私塾「球磨学舎」として使われたこともありましたが、昭和5年に再興され同21年宗教法人となり現在に至っています。第6番西国観音場(私注:土佐三十三観音霊場)としての参拝者もあります。
近くに石渕送番所や布師田御殿があった関係でしょうか、土佐山内家の藩政下では西山寺は、 他藩からの使者等をここでお迎えして城下に案内などもする重要な役割を担っていました。 事実、山本周五郎の「桜の木は残った」で有名な原田甲斐の登場する"伊達騒動"で、土佐藩預かりになっていたの騒動当事者の伊達兵部が延宝七年十一月四日に亡くなった時、江戸からの検使が西山寺で土佐藩の出迎えを受けた記録があります(有路志第八巻p246)。
〇西山寺主要な所蔵物
本尊聖観音菩薩立像; ヒノキ材の一木造り、彫眼の彩色像、平安時代作 ふくよかで伏し目の思やかなお顔
黑沙門天立像 ;ヒノキ材の寄木造り、玉眼の彩色像、鎌倉時代作 目を見開き正面を見据えたりりしいお顔
弘法大師像; ヒノキ材の寄木造り、玉眼の彩色像、江戸時代作 西山寺の棟札により意政6年(1794)五台山法印慶隆の導師で開眼供養が執り行われていることがわかります。
記録で確認のできる西山寺
「南路志」の布師田村の項には、応永 15年(1408)山田氏が西山寺の聖観音菩の厨子を寄進したことが記されています。
「長宗我部地検帳土佐國土佐那布師田村地検」天正16年(1588)に「西山寺」の記述があります。
〇江戸時代の西山寺の役割
現在布師田地区の氏神である墓木男神社の棟札からこの神社を管轄していたことが窺えます。 地区を複家として管轄し、「南路志」の記述から土佐藩政の一旦を担っていたことも競えます。 境内の石造物
境内には地蔵仏や五輪塔・供養塔など多数あり歴史の古さを物語っています。見かけることの少ない遍路の墓石も発見されました。(三頭のカラス天時は室内収納)
〇周辺情報
西山寺下の市道少し西の用水路北側には、奥官慥斎の住居跡があります。
西山寺の東側山道を道なりに進み階段を登った少し上段に「布師田奥宮家の墓所」があります。伊能忠敬測量隊を土佐藩の命により案内したうちの一人で、奥宮弁三郎三部正樹一族の墓所があります。正樹の妻や正樹の父、忠蔵正性、奥官慥斎の妻等です。正樹は奥宮慥斎、奥宮暁峰兄弟の父親です。 布師田の未来を考える会」とあった。

西山の六本松とか西山寺とあるように、石淵の送り番所にあった龍馬青春の道、「布師田橋は渡らずに国分川北岸を、西谷・折越峠・蒲原・小蓮と通って、藩境の立川番所をめざした」とある西山がこの辺りである。

国分川堤防道に出る
山裾の道は国分川添いの道に合流。合流点付近には水門や堰がある。上述権兵衛井流の案内のあった水門から距離も500m強。このあたりにふたつあった水門のひとつがあったのだろうか。本音を言えば、この規模の用水路で説明にあった洪水調節機能、土手崩壊を防ぐ機能を果せるのだろうかとの疑問もある。洪水調節機能、土手崩壊を防ぐ機能は国分川ではなく井流域というのであればそれは納得できるが、この辺り西山の丘陵から国分川の間の耕作地もそれほど広くなく井流が灌漑用に大きなインパクトを与えるとも思えない。水門での調節といった仕組みの有り難さはわかるのだが、その距離が500m強という井流自体の役割のポイントは門外漢にはいまひとつわからなかった。

葛木男神社
葛木橋を越え先に進むと、北山道はほどなく堤防沿いの道から左に逸れる。道の左手に葛木男神社。葛木男神社由緒には、「祭神 高皇産霊大神 葛木男大神 葛木咩大神
勸請年月日縁起沿革等は未詳であるが第六十代醍醐天皇延喜七年(皇紀一五六七年)神祇官の延喜式神明帖に登録せられた延喜式内社で土佐国二十一座の一座である。
古来より布師田の総鎮守で中古高結大明神と称す。即葛木氏は高皇産霊神(私注;たかみむすびのかみ)五世孫劍根命(私注;つるぎねのみこと)の後裔布師臣武内宿禰の男葛城襲津彦を祖とする。葛城氏族は布としての仕事を営む傍ら生活の糧を得るため布師田の原始林を開始し。永住の地と定め太祖高皇産霊神を氏神として奉祀したものである。
近世は布師田全山城主源信も太祖神を斎き祀りしものである
布師田は布師の人の住む里なるか故に布師と号け昔より田地の多い処なるが故に布師田と唱へ今の地名となりたりと伝えられる
縁起式内社葛城襲津彦命妃命を奉祀する葛木神社は昭和四十七年十二月合祀しました」とある。
葛木男大神は葛城襲津彦、 葛木咩大神は葛城襲津彦妃命とWikipediaは云う。伝承では、元は両社とも現社地の南東方において同じ境内に鎮座したが、葛木咩神社は東南方に移り、葛木男神社も国分川の増水を避け北西方の現在地に移ったが、昭和47年に葛木咩神社は合祀された。
由緒丘陵はともあれ、この社が布師田の地名の由来ではある。

丘陵の切通し
左に逸れた道は丘陵を切通しで抜ける。石淵の案内にあった龍馬青春の道「布師田橋は渡らずに国分川北岸を、西谷・折越峠・蒲原・小蓮と通って、藩境の立川番所をめざした」とある折越峠がこのあたりかもしれない。
道の左手は高知刑務所。切通を抜けて先に進むと高知県警交通機動隊の建屋前に出る。布師田御殿跡にあった北街道ルートによると、道は高知県警交通機動隊の建屋の先辺りで右折し国分川t堤防に向かう。


山崎川・蒲原橋北詰めに
右折というが、右折点の先は道と言うより水路沿いのブッシュ。取敢えず土手まで進み、堤防上の道を進むみ山崎川・蒲原橋北詰めに出る。
龍馬青春の道にあった「布師田橋は渡らずに国分川北岸を、西谷・折越峠・蒲原・小蓮と通って、藩境の立川番所をめざした」の蒲原がこの辺りだろう。


山崎川橋手前で左に逸れ山崎川右岸を進む
北街道は蒲原橋北詰めをそのまま直進し、山崎川右岸を進み山崎川橋。橋の手前に左に逸れる道がある。布師田御殿跡にあった地図によれば、この道が土佐北街道のようでもある。
左に逸れ山崎川右岸を進み、水路が山崎川に合流する先で左岸に渡り返し、水路に沿って東進し山崎川橋を渡ってきた道に出る。



高知大学医学部附属病院北を県道384号に抜ける
土佐北街道は道をクロスし高知大学医学部敷地の北を進み、医学部敷地東を走る道路を横切り更に東進し、道が岡豊城跡のある丘陵に当たる手前で左折し県道384号に出る。
高知大学の北に岡豊町小蓮の地名がある。龍馬青春の道にあった「布師田橋は渡らずに国分川北岸を、西谷・折越峠・蒲原・小蓮と通って、藩境の立川番所をめざした」の小蓮がこの辺りだろう。
補足メモ
当日は上述の如く山崎川橋を渡り先に煤んdのだが、メ。モの段階で山崎川橋手前で左に逸れ山崎川右岸を進み、水路が山崎川に合流する先で左岸に渡り返し、水路に沿って東進し山崎川橋を渡ってきた右折点の水路に続く道がある。確証はないが、この道筋のほうが旧路っぽい

岡豊別宮八幡の先で県道384号を右に逸れ県道252号に出る
県道384号を東進すると道の左手に岡豊別宮八幡。布師田御殿跡にあった地図には、そのすぐ先で県道を右に逸れ、「谷泰山先生先塋の地」の傍に出るとある。
「谷泰山先生先塋の地」は道の右手の丘陵地にあるようだ。岡豊八幡宮の直ぐ先にある右に逸れる道に入り、丘陵裾の道を辿ると県道252号に出る。ここで布師田から国分川を渡り中島経由の北山道と合流する。
岡豊別宮八幡
元親の信仰が篤く、出陣にあたっては必ず戦勝を祈願したといわれている。八幡宮の宮司谷氏の祖である大神氏は、大和の国三輪山から土佐に移り、その子孫は谷左近、谷秦山、谷干城などにつながる。
谷左近
長曾我部元親に仕えた。左近の伝えた八幡大菩薩のご神託が元親の阿波出陣のきっかけとなった、と。長宗我部盛親の改易後は浪人となる。
谷泰山
江戸前・中期の儒学者,神道家。名は重遠,秦山は号。土佐(高知県)に生まれる。17歳で京都に出て,山崎闇斎や浅見絅斎に学ぶ。土佐に帰ったのち,さらに闇斎門下の渋川春海に書簡を送り,天文・暦算や神道を学ぶ。藩主山内豊房に用いられて,藩士に学を講じるが,宝永4(1707)年豊房死後の政変で蟄居,10年余におよぶ。朱子学に神道をあわせた学問を展開し,一時絶えていた土佐南学派を再興した。その国体論は,幕末の勤皇倒幕運動にも影響を与えた。
谷干城
幕末から明治にかけて活躍したの武人。幕末は、土佐藩の勤皇派として、乾退助(板垣退助)の片腕を為し、薩摩藩・小松帯刀、西郷隆盛らと「薩土討幕の密約」を締結する。戊辰戦争に際し、軍事の才能、智略に秀で最前線で戦った武将。熊本鎮台司令長官であった西南戦争においては、熊本城攻防戦の官軍指揮者として手腕を発揮し、更に武名を挙げた。後に政治家となる。

国分川南岸(中島経由)ルート

布師田御殿跡にあった国分寺川南岸のルートを辿る。国分川南岸の中島を経由し国分川を八幡渡瀬で渡り返し北進し南国市岡豊町八幡に向かう。
八幡渡瀬」は大雨などの時は渡河できず、この道筋は敬遠されることが多かった、と言う。では何故にこの南岸ルートが開かれたのだろう。距離が大幅に短縮されるようにも思えず、北岸ルートに難所といった箇所も見受けられない。
あれこれチェックすると、この中島への参勤交代道は、土佐北街道が開かれる以前の参勤交代道である土佐の城下から甲浦に出る野根山街道、通称「東街道」への道筋であった。その名残りかと思える。この道筋は初期の参勤交代道である野根山街道、通称「東街道」への道筋でもあったようだ。北街道のルートとしても初期の頃利用されたものかと思える

葛木橋を渡り国分川左岸に

往昔は上述、「西山六本松(旧布師田橋の所在地の一つ)」の案内にあった、現在の葛木橋の少し下流、旧布師田橋を渡ったのだろうが、現在その橋はない。葛木橋を渡り国分川左岸に移る。






郡境石
左岸に移り県道249号を国分川左岸に沿って進むと、国分川・小山橋から下ってきた道がT字に合流。その合流点に郡界石が立つ。「是東長岡郡」・「是西土佐郡」と刻まれる。現在は高知市布師田と南国市岡豊町中島の境となっている。








県道252号を左折し国分川に向かう
郡境石より更に西進し県道252号を左折し北へと国分川へと向かう。少し北に進むと、県道を左に逸れる道がある。布師田御殿跡にあった北街道はこの左に逸れる道のように思える。 左に道を逸れ北に進む道筋には水路が流れる。水路に沿って北に進むと国分川の土手にあたる。布師田にあった「ぬのしださんぽ」案内には、この辺りに国領の水越跡が記されていた。
水越
高知大悪の資料
水越とは越流堤のこと。洪水時には水が堤防を越えることをあらかじめ想定し、その下流を水没させ、中堤(水張堤)により一帯を遊水池とすることを目する。河川上流部を水没されることにより河口部の洪水を抑制し、下流域、国分川、久万川、鏡川などの河川が織りなすかつての氾濫平野、三角州に普請した高知の城下町を護る治水対策のひとつである。国分川水系の洪水をそのまま河口部まで流すと鏡川などの城下町を流れる川の水位が上がり、逆流現象が起き水が城下に流れ込むのを防ぐこととも意図しているのではないだろうか。
参考に高知大学の飼料「高知の藩政期の水防災対策の再評価平成 25 年自然災害フォーラム論文,2013」を掲載しておく(高知城下の治水事業に興味があるかたはこちらの記事をご覧ください)。
「伊奈流」とも関東流と呼ばれる越流堤の治水施策は埼玉の見沼などで出合った。

岡豊橋を左折し県道252を北進し北岸ルートと合流
土手に出た北街道は国分川左岸を進み岡豊橋の南詰めに出る。岡豊橋南詰を左折し県道252号を北進し、上述国分川北岸ルートと合流する。
合流点手前の丘陵地側に「谷泰山先生先塋の地」の案内。先塋(せんえい)とは先祖の墓の意である。



地図に記載された「土佐北街道」ルート

ついでのことでもあるので、Google Mapに記載された「土佐北街道」のルートもメモしておく。国分川北岸ルートではあるが、高知大学医学部の北を通ることなくその南、国分川に沿って進むルートであり、29番札所国分寺から30番札所善楽寺へと向かう遍路道でもある。

山崎川・蒲原橋
山崎川・蒲原橋で北岸ルートと分かれ国分川に沿って高知大学キャンパス南を東進する。しばらく進み国分川の支流に架かる橋を渡ると、道は岡豊城の建つ丘陵南裾に入る。




山裾を水路に沿って東進
山裾に入った北街道は、国分川から少し離れしばらく木立が日陰をつくる水路脇の道を進む。ほどなくして集落の里道出ると、その先は国分川に沿って進む。




岡豊橋北詰めに出る
道は岡豊橋北詰めに出る。遍路道はそのまま直進するが、北街道はこの地で中島を経由してきた南岸ルートと合流し県道252号を北進し、北岸・南岸ルート合流点に向かう。




北岸・南岸ルート合流点から領石まで

この間の土佐北街道もふたつのルートがあったようだ。布師田御殿跡の案内に「北山道を取る場北街道合、発駕後一泊目は主として比江高村家に宿しましたが、天保頃から布師田に転じ、天4(1833)年 12代豊資以降は布師田御殿泊が中心となります」とあったように、参勤交代初期の頃は比江戸経由のルート、天保頃からは布師田御殿に泊まりそのまま領石へと向かったようである。 資料が少なくはっきりしないが、とりあえずこの二つのルートを追っかけてみる。

直接領石を目指すルート

県道252号を右に逸れ旧道を県道384号に

布師田御殿跡にあった地図に拠れば、北街道は北岸・南岸ルート合流点辺りから県道252号を右に逸れ笠ノ川川方向に向かっている。水路に沿ってほとんど畦道といった道を進み。県道32号の少し手前で左折し県道384号に向かう。



比江ルート渡河地点
布師田御殿にあった地図には、土佐北街道は県道32号を越え、その先で笠ノ川川にあたる。
笠ノ川川の対岸が国分でありその東が比江である。これが初期の比江経由のルートの渡河地点であろうと思い込む。







県道384号右手に笠ノ川地蔵
道より一段高いところにあるお堂にあった案内には、土佐の殿さまも参勤交代の途次立ち寄り参拝されたとの言い伝えが残り、通称笠取地蔵、特に首から上に御利益あらたかとされるお地蔵さまとのことであった。首から上って頭痛や目の病に霊験あらたか、ってことだろうか。

県道384号を左に逸れ丘陵土径に
布師田御殿跡にあった地図に拠れば、北東に進む県道が高知道南国インター手前で北に向きを変える手前で土佐北街道は県道を左に逸れている。はっきりしないが、なんとなくそれらしきところ、民家の間の細路を進み小さな丘陵を越える。


県道384号をクロス
道はすぐ県道に合流する車道に出るが、布師田御殿跡にあった地図に従えば、道は県道手前で北に進み高知道南国インター手前で県道を越えている。地図にあるルートに従い進むことにしたが、道はなく畑跡といった場所を進み、民家の裏手を越えた先で県道に合流。なりゆきで県道を渡る



高知道インター高架下を進みルート合流点に
県道を渡り高知道の高架下を潜り、その先集落の細い里道を進むと右手から細い道が合流するところに出た。はっきりしないが、そこが比江経由の北山道の合流点と思い込む。






比江経由のルート

比江経由の北山道をトレースしてみようと思ったのだが、はっきりとしたルート図がわからない。ポイントとなる宿泊地である比江の高村家でもわかれば、それなりに道筋もわかるだろうが、それも検索でヒットしない。あれこれチェックすると、上述笠ノ川川の渡河地点から先は、ジグザグに県道256まで進み、国府小学校の裏を通り阿波塚神社前を抜けて高知道インター北のふたつのルート合流点まで進んだようである。
以下はっきりしたルートであるとの確証はないが、それらしき道筋を歩いてみることにする。

笠ノ川川渡河地点
上で布師田御殿跡にあったルートに従い笠ノ川川の土手までメモした。現在そこに橋はない。少し右岸を上流に進み、県道256に架かる無名の橋を渡り、笠ノ川川左岸を下り、渡河地点(実際渡河したのかどうか不明だが)まで戻る。
そこからは田圃の中の道を成り行きでジグザグに進み県道256号に出る。




県道256号に出る
途中道筋に長曾我部検地帳の案内が立つ。このあたりには随所に長曾我部検地帳の案内が立っていた。
長曾我部検地帳
豊臣政権期に土佐国主であった長宗我部氏が実施した、土佐一国の総検地帳。天正15(1587)年から数カ年かけて行われた検地の成果で、土佐七郡全域にわたる368冊が現存する。初代土佐藩主山内一豊は慶長6(1601)年の土佐入国時、長宗我部氏の居城浦戸城に入城し、地検帳を接収。七郡の郡奉行がそれぞれ保管し、初期の土佐藩政に利用した。その後写本を作成し、原本は実務的な使用からは離れるが、近代まで土佐一国の基本台帳として大きな意義を持った(「文化遺産オンライン」より)。

府小学校の東の里道を北進
県道256号に出るとそのまま東進。その先で北に向かう県道を離れ、県道より少し東、国府小学校裏を進む道に入る。先に進むと道は少し小高い丘に上る。




阿波塚神社
成り行きでそれらしき道を進むと道の左手に阿波塚神社。長曾我部氏ゆかりの社、というか小洞といったお堂である。お堂のまわりには幾多の小さな五輪塔が並んでいた。
この祠の由来は鎌倉時代まで遡る。当時、長宗我部家7代目兼光のころ、大豊町豊永地域を本拠とした小笠原左近太夫という豪族がいた。左近太夫は阿波の一部まで領地をもち、香長平野に進出する好機を窺い、時を得て阿波兵を配下として南に下り岡豊に向かって一挙に進撃を開始。守戦一方の兼光は、日頃から信心する岡豊八幡宮に戦勝を祈願。 と、あら不思議にも一振の金の鉾が飛び 出し、阿波勢の陣の上を縦横無尽 に飛びまわった、と。
長曾我部勢は金の鉾に恐れおののく阿波兵を追撃し多くの阿波兵を打ちとった。阿波塚は討死した阿波の兵士を埋葬したところ。が、それ以降も怪異な現象が続くため、永禄年間、元親は長門国(今の山口県)壁雲寺の高僧通安が、土佐の山野を行脚して法力を見せているのを知り、魂鎮めの法会を行ったところ怪奇な事件はぱったりと止んだといわれている。

道のえき風良里(ふらり)東北端の駐車場

阿波塚神社の先は双葉台の中央木材工業団地となっており、古い道は消える。工業団地内を成り行きで進み、「道のえき風良里(ふらり)」の東北端の駐車場に出る。



丘陵地の土径を進み国道32号に出る
「道のえき風良里(ふらり)」から先、旧路はないかと地図をチェックすると丘陵地を北に進む道筋が見える。それが土佐北街道かどうは不明だが、とりあえずそこを進むことにする。 道の法面に斜めに上る道に入る。直ぐに竹林の中を北に進む土径が分岐。なりゆきで北に進む。

高知道インターの高架を潜り北進
丘陵を出て里道を下り国道32号の陸橋を渡り国道西側に出る。国道に沿って北進するが道は高知道インターへの出入り口アプローチ道に阻まれ先に進めない。しかたなく、迂回しアプローチ道高架下を潜る。迂回したため直ぐ下の道は先ほど歩いた直接領石を目指す道筋〈推定)。


合流点に
高架を潜りアプローチ道に阻まれたであろう道の続き箇所らしきところまで進む。そこから旧路を北進するとほどなく、上でメモした「直接領石を目指すルート」との合流点らしきところに出る。

以上、北岸・南岸ルート合流点から、領石で直接領石を目指すルートと比江経由のルートが合流する箇所までをトレースしたが、資料がなくはっきりした道筋とは言い難い。取敢えず、それらしき道筋を辿った、といったところである。




領石より権若峠取り付き口の釣瓶まで

南国市の図書館まで行ってチェックした『土佐の道 その歴史を歩く;山崎清憲(高知新聞社)』にも領石より権若峠取り付き口の釣瓶までの詳しいルートは記されていない。ただ、領石の送り番所とか、領石川の浅瀬を渡河した一の瀬渡瀬、楠木渡瀬、亀の本渡瀬、下着(私注;ママ)渡瀬といったルートの目安となる地名が記されている。
また同書には記載されていなかったが、過日土佐北街道・權若峠越えのとき、確認隅のふたつの渡瀬、左手渡瀬と中渡瀬を加え権若峠の取り付き口を目指すことにする。

ルートは領石川右岸の地にある領石の送り番所を経て北進。一の瀬渡瀬で領石川を左岸に渡り、その先楠木渡瀬で右岸に、更に亀の本渡瀬で再び左岸に渡り直し、「左手渡瀬」で領石川支流中谷川の右岸に移り、その先中渡瀬で左岸に渡った後、中谷川に合わさる梼山川の左岸から下り付け渡瀬で右岸(北)に渡ると權若坂の登山口に着く。
これらのポイントを追っかけて領石より権若峠取り付き口の釣瓶まで進むことにする。
領石
領石の由来は「根曳峠への登り口の集落。地検帳には龍石。竜に似 た奇岩?竜石寺という寺名に由来?(土佐地名往来)」とある。

領石の送り番所
領石へ直接進むルートと比江経由の北街道合流点とおぼしき箇所から少し北に進むと直ぐ県道384号に出る。そこから少し北に進み県道384号が国道32号に合流する手前に左に逸れる道がある。北街道はここを左に逸れる。
ゆるやかな坂を上るとすぐ左手に天満宮の鳥居があり、そのすぐ先に「領石の送り番所跡」と刻まれた石碑が立つ。割と新しい。
天満宮と石灯籠
天満宮鳥居前に天満宮と石灯籠の案内があった。
天満宮
「天満宮 領石部落の氏神、産土神である。「天神様」とも呼ばれ、祭神は菅原道真である。鳥居は参道入り口と、急な石段の下の二基、狛犬も大正八年に建立され、変遷を物語る棟札も数枚残されている。文化十二年(一八一五)南路志には「天満天神社岡屋敷祭九月二五日・僧壱人社地三十代林八十間 横十間」とある。
菅原道真(八四五~九〇三)平安時代の貴族、学者、政治家 朝廷で右大臣まで上ったが、藤原時平との政争に敗れ、太宰府へ左遷され、二年後にその地で失意のうちに病没した。その後、藤原時平は早世、天皇家では皇子が相次いで病死、京で疾病がはやり、天変地異が続いた。道真公のたたりを恐れた朝廷は、身分を戻し、京都「北野天満宮」を建立、神号を「天満大自在天神」とした。やがてそのような記憶の風化と共に道真が生前優れた学者だったことから、学問の神様として信仰されるようになった。
天満宮の境内の中に三基の小さなお社が祀られ、まとめて「小宮さま」と呼ばれている。右から「白山神社」「竃戸神社・山神社」「清川神社」「大神宮」と書かれている。勸請の時期などは不明である。
鳥居の下に、明治四十三年に建立された「日露戦役記念碑」には植野・領石から従軍した人々の名前が刻まれている。 平成二十三年一月吉日 久礼田地区史談会」

天晴の石灯籠
この石灯籠には「天晴 丁卯 十月吉日」と刻まれている。
『天晴』という年号は存在しない。丁卯とは、幕末最後の年、慶応三年(一八六七)のことで翌慶応四年には明治に改元されている。
朝廷の定めたものでない年号は「私年号」といわれるが、「天晴」という年号は土佐に限られて使われ、現在確認されている石灯籠は、領石のものを含めて四ヵ所しかなく、非常に貴重である。 慶応三年十月、領石の住民がこの石灯籠に、「天晴」の年学を刻んだいきさつについては一説がある。参勤交代北山道の要所であった領石には、中央の情報もいち早く伝わっていたことから「国内不穏につき改元する。新しい年号は天晴である」という話が誤って伝わり、住民は「来年は天晴という年号になる」と信じたに違いない。
翌年は「明治」に改元された。領石の住民はどのような思いで明治元年を迎えたのであろうか。 平成二十三年一月吉日」とあり、またその下には
「天晴の棟札
領石で作られた「天晴」の石灯籠に続いて棟札が新たに見つかりました。この棟札は、これまで領石天満宮境内社の小宮さま(大神宮)に納められていましたが、平成二十七年六月の調査の折に発見され、領石での「天晴」年号二例目として貴重であることから保存・管理のため高知県立歴史民俗資料館に寄いたしました。
(表)
天下太平国家安全氏子安全 奉建立 弁才天客
(裏)
「天晴元年丁卯 九月十七日 願主北村金次郎」と記される。

一の瀬渡瀬
「領石の送り番所」の石碑から里道を北進する。先に進むと民家がありそこで道はふたつにわかれる。右へと川筋に下る道をとり国道32号の高架下、更には高知自動車道の高架下を潜り、大きく曲がる領石川右岸の道を進む。山裾を流れる水路に沿って少し進むと「一の瀬渡瀬」と刻まれた石碑が立っていた。これも比較的新しいものであった。
往昔、ここから領石川を左岸へと浅瀬を渡っていったのだろう。
この渡瀬に石碑があった、とすれば、その他の渡瀬にも石碑か標識などが立つ可能性が高い。ここで渡瀬のポイントハンティングのモチべーションが結構高まった。

楠木渡瀬
一の瀬渡瀬で領石川左岸に渡り宍崎に出る。北山道は領石川左岸を北進し楠木渡瀬で再び領石川を右岸に渡り清川神社前を進むと『土佐の道』にある。地図をチェックし領石川右岸の清川神社へ向かう道をチェックすると、楠木橋を渡る道筋がそれに一番近い。取敢えずその地に向かう。 一の瀬渡瀬辺りに橋はないため、一度引き返し県道384号が領石川を渡る領石橋まで戻り領石川左岸に移る。高知自動車道の高架を潜ってすぐ領石川左岸に沿って進む道筋に入る。道の左手に南国市立たちばな幼稚園を見遣りながら道を進むと楠木橋がある。
橋を渡ると「楠木渡瀬」と書かれた木の標識が立っていた。ここがかつての楠木渡瀬であった。楠木渡瀬のゆらいは、かつて川岸に対岸にまで枝が届く大きな楠木があり、身軽な者は枝につかまり川を渡った故、と『土佐の道』は記す。
標識の傍に「北山越え」と刻まれた石碑があり、裏面には「律令制度の昔、都と土佐の国府は南海道で結ばれていた。古代文献よると、勅によって北山越えの開かれたとある。山また山の険しい道だけに、のち海路とってか知られた
この北山越えは近世なり享保三年(一七一八)第六代藩主山内豊高公が参勤交代道に利用する。それ以後土佐上方 江戸を結ぶ幹道して参勤交代また文物や人々の交流の舞台となった 根曳越えの新道の開通などにより機能を失うこととなるが、地域に残貴重な歴史的遺産であり(後略)」といった文字が刻まれていた。
尚、国道32号から分かれた県道33号から楠木橋に分かれる分岐点にも「参勤交代北山道」の標識が立っていた。

県道33号に出る
楠木橋を渡り丘陵へのゆるやかな坂を上り、切通しを抜けると亀岩の集落へと下る坂道となり、左手に清川神社を見遣りながら里道を進むと領石川右岸を走る県道33号に出る。





亀ノ本(瓶の本)渡瀬
次の目安は領石川を左岸に渡る亀ノ本(瓶の本)渡瀬。県道33号を少し進むと県道33号右手に「亀ノ本渡瀬 領石川を左岸に渡る」と書かれた木の標識があった。
標識には「対岸の左方にハンド岩 坂道の右下にクツヒキ岩」と記された写真も張り付けられていた。
標識脇からスロープを下りる。そこは水草栽培をしている民家敷地。丁度家の方がいらっしゃったのでお話しを聞く。クツヒキ岩はスロープ脇にある岩とのこと。岩の窪みには祠が祀られていた。「クツヒキ」とは蝦蟇ガエルのこと。


「ハンド岩」は領石川対岸、樹木の間に見える大岩のこと。「ハンド」はこの辺りで「水瓶」のことを言う。この辺りの地名、亀岩の由来となった岩である(瓶>亀に転化)。
この「ハンド岩」と「クツヒキ」岩にまつわる伝説が伝わる;はるか昔、木花之開耶姫(このはなさくやひめ)がこの地に住い、瓶石川(領石川)の水で酒をつくる。が、出来上がる頃には瓶は常に空っぽ。どうも蝦蟇ガエルが酒を飲みほしているようだ。で、 木花之開耶姫は酒が飲めないようにハンド(瓶)を逆さにしてこの地を離れ、朝峯神社のある地に移った、とか。高知市介良にあるこの社は酒造りの人々からの信仰篤き社と聞く。
よく見ればハンド岩は酒瓶〈水瓶)を逆さにした形になっている、と。また、悪さをしたクツヒキ(蝦蟇ガエル)をハンド岩の傍に祀るって、なんだか、いい。

県道を右折し林道釣瓶線に
亀ノ本(瓶の本)渡瀬の標識のある領石川は、現在浅瀬でもなく渡ることはできない。県道33号を少し進み、領石川に奈路川が合流する箇所にある橋を渡り、領石川左岸に移る。
取敢えず亀ノ本(瓶の本)渡瀬を領石川左岸に渡った箇所から道を繋いでおこうと渡河点に向かう。川沿いは採石工場があり道らしきものは続かない。少し山際を走る里道を渡河点まで戻る。渡河点から川沿いに道筋らしきものは残っておらず、林道釣瓶線に戻り次の目安である左手渡瀬に向かう。
奈路
土佐を歩くと奈路(ナロ)に出合う。「四万十町地名辞典」には「山腹や山裾の緩傾斜地を表す地名地名を高知県ではナロ(奈路)という。奈路(なろ)の全国分布は高知県だけで、それも中西部に多い。ナロ地形にふさわしい地名がこの地「奈路」である 『愛媛の地名』の著者・堀内統義氏はナロ・ナル地名について「東北の平(たい)、九州の原(はる)、四国の平(なる)と同じ地名の群落。奈良も千葉県の習志野も、ナラス、ナラシの当字で、平らな原野を表現している。」と書かれている。 ちなみに「奈路」地名も愛媛県に越せば「成・平(なる)」が断然多くなり、四万十町内でも成川・鳴川がよく見られる。

左手渡瀬
林道釣瓶線を進み、領石川に支流中谷川が合わさる辺り、道の左手に「左手渡瀬 中谷川を西岸に渡る」の木の標識が立つ。
川との段差があるが川は渡れなくもない。下りてみようと思った矢先、近くから作業音がする。確認すると左手渡瀬の直ぐ先に橋があり、対岸に工場があり作業中。左手渡瀬を渡っても工場敷地に出るようで渡河は断念。

中谷川西岸(右岸)に渡る箇所を探すと、工場に渡る橋の直ぐ先にも橋が架かっている。林道用の橋かと思う。橋を渡り中谷川右岸に沿って続く林道を進む。
ほどなく林道は左へと曲がり山に向かう。曲がり角から先、川沿いに道は無くブッシュを掻き分けて進むことになる。



中渡瀬
次の目指すポイントは中渡瀬。この渡瀬は過日土佐北街道権若峠を歩くときに見つけたもの。権若峠釣瓶取り付き口には中谷川に合流する梼山川左岸にある「下り付きの渡瀬」から渡河するとあり、とすれば左手渡瀬で中谷川右岸に渡った北街道は、下り付き渡瀬までの間で中谷川左岸に渡る渡瀬があったはずとチェックしておいた。その時はそれだけのことであったのだが、今回誠に役立つこととなった。中渡瀬の右岸は藪で中渡瀬を示す標識もなく、右岸を進んでもどこが渡瀬かわからなかっただろう。
中谷川左岸にあった中渡瀬の標識までGPSを頼りに中谷川右岸を進む。途中まで林道が続き結構快適。が、林道が左手の山に大きく曲がる辺りから先は踏み込まれた道はない。中谷川に沿っての藪漕ぎ、岩場をクリアしながら先に進む。
中谷川左岸、林道釣瓶線に立つ「中渡瀬」の木の標識のある辺りまで力任せんに右岸を進む。大岩が転がる中谷川であるが、中渡瀬の標識のあたりは浅瀬となっており水に濡れることもなく左岸に渡り、崖を這い上がり「中渡瀬」の標識までの道を繋ぐ。はじめて渡瀬を徒河した。なんとなくの達成感がある。

下り付きの渡瀬
中渡瀬で中谷川左岸に移り、林道釣瓶線を先に進む。途中林道釣瓶線は中谷川の谷筋から離れそのまま梼山川の左岸を進むことになる。
ほどなく林道左手の梼山川側に「下り付きの渡瀬 梼山川を渡る飛石あり」の木の標識。川床に岩が転がるがどれが飛石かわからない。林道から川床まで結構段差もあり、ロープも持ってなかったため直ぐ先にある梼山川に架かる橋を右岸に渡る。

橋への分岐点には「釣瓶登り口左手200m」「梼方面右」の標識が立つ。

「ゆすの木」が多くある地ではあるのだろう。龍馬脱藩の道を梼原から歩いた、その梼原も同じ由来である。
釣瓶
釣瓶の由来は不明。瓶は「かめ・びん」のことだろう。途中亀石川があったが、その由来は瓶の形をした岩があることに拠る。地検帳では亀石だが、州郡志には瓶岩とある。で、釣瓶だが、「釣瓶落とし」というフレーズがある。一直線に落ちていく様を表す。垂直な大岩でもあった故の命名だろうかと妄想。 因みに,『高知の地名;角川書店』の亀石村の項に、「梼山の西に菎蒻坂を隔てて釣瓶落山がある」とする。上述の妄想、あながち妄想とは言えない、かも。

権若峠・釣瓶取り付き口
梼山川を右岸に渡ると「下り付きの渡瀬」の標識の立つ対岸あたりが権若峠・釣瓶取り付き口。「権若峠登山口」「峠まで二千三百三十米 約2時間半かかる 標高五百五十米」とある。


下り付きの渡しの案内
標識の手前の立ち木に登山者のために竹の杖が用意されている。なにか手頃なものは無いかと寄ってみると、手書きで「ここが「下り付の渡瀬」です。昔のとび石が残っています。ゴンニャク峠までは2㎞430m」と書かれたプレートが立ち木に括られていた。この案内によってひ左手渡瀬からこの下り付き渡瀬の間に「渡瀬」がなければ辻褄が合わないと、中渡瀬を見付けた(といっても林道に立っていただけなのだが)わけである。


これをもって土佐北街道のほぼすべての道筋を歩き終えた。新宮から四国中央市に抜ける法皇山脈横峰越、笹が峰越え、国見越えなどの険路もあったが、印象に強く残るのが権若峠越えと立川川谷筋の山腹を進む道。どちらもそれほど険しくもないのだが、権若峠越えでは倒木やブッシュに阻まれ、立川川谷筋の山腹道は道が「消え」、ともに途中撤退。再訪しなんとか道を繋いだ。 簡単に行けそうと高を括っていた箇所で痛い目にあった。
さて次はどこを歩こう。松山から高知の佐川に抜ける土州街道(松山街道)、龍馬脱藩の道散歩で予土国境の峠道部分といった脱藩の道中間部はクリアしたが、前半部と後半部が残っている。そこにしようか。それとも土佐北街道の本山で出合った野中兼山の残した上井、下井、また本山近くの行川にも残る兼山の井流といった用水路散歩がいいか、膝と相談しながら歩くことにする。

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