先日、沢登り仲間の友人Tさんに誘われて会津街道・越後街道を野沢宿から束松峠をへて片門まで歩いたのだが、野沢に向かう道すがら、会津若松で4時間ほど時間をつくり、前々から気になっていた戸ノ口堰用水を歩くことにした。
戸ノ口堰用水を知ったのは数年前のこと。会津大学に仕事で訪れた際、時間をつくり会津若松を彷徨ったのだが、その折、白虎隊自刃の地として知られる飯盛山で戸ノ口堰弁天洞穴に出合った。
滔々と流れ出す洞穴からの水路は、白虎隊の退路との説明があったが、それよりなにより、その水路は猪苗代湖・戸ノ口から会津盆地へ水を引く用水堰であり、全長31キロに及ぶ、と。開削時期は江戸の頃。17世紀全般に始まり、19世紀に藩普請により全面改修が行われ、その際、この弁天洞窟も開削されたとのことであった。
用水フリークとしては大いにフックが掛ったのだが、当日は時間がなく用水散歩に向かえなかった。今回、列車の関係上4時間という制限はあるものの、時間の許す限り歩いてみようと思った。そのうちに、それも近い将来全ルートを歩く下調べといった心づもりではある。
が、これは全く予想外のことではあるが、戸ノ口堰用水に関する水路図が見つからない。概要の説明はあるのだが、いまひとつ猪苗代・戸ノ口から飯盛山までの水路がうまくつながらない。否、むしろ、繋がらないというより、その後開削された発電所用の水路などを含め、水路が交錯し、どれが本線なのかよくわからない、というのが正確かとも思う。
また、用水路を辿ったといった記事も見つからない。里の水路はいいとして、山間部の水路が如何なる風情か、どの程度荒れているのかもよくわからない。これはもう、とりあえず現地に行き、成り行きであれこれ判断するしかないだろうとの結論に。
散歩のルートを想うに、ルート図がみつからない以上、手掛かりは弁天洞穴。そこに繋がる水路が戸ノ口堰用水とのことであるので、地図にある弁天洞穴に繋がる水路を逆にトレースし、山間部の水路跡に入り込む適当な場所を探す。
地図を見るに、弁天洞窟から不動川を渡り、滝沢の集落を越えた先に戸ノ口堰第三発電所がある。根拠はないが、発電所の敷地を越えた辺りで道路から水路跡に入れるのではないか、と。そして、そこからは、山間部の水路跡を先に向かい、列車の出発時間を考慮し適当なところで折り返し、里に戻り滝沢集落から弁天洞穴の水路を辿り、飯盛山に戻ることにした。
それほど用水に萌えることもない友人のTさんには誠に申し訳ないのだが、お付き合い頂き、会津若松駅からタクシーで戸ノ口堰第三発電所に向かった。
本日のルート:戸ノ口堰第三発電所>八幡配水池>水路に入る>水路が切れる >旧水路跡に>藪漕ぎで進む>切通し>切通しが続く>車道に出る >水路跡が車道とクロスする>折り返し点>戸ノ口第三発電所導水管と交差し水路は下る>車道に沿って水路が進む>八幡地区から躑躅山地区に水路は下る>滝沢峠への道と交差>不動川の右岸を水路は進む>不動川を石橋で渡る>弁天洞窟に向かって水路は進む>滝沢本陣>飯盛山>戸ノ口堰洞穴
戸ノ口堰第三発電所
タクシーで戸ノ口堰第三発電所の山側、高山(標高437m)の山麓を進む車道で下車。水路へのアプローチ地点を探す。明治に造られたという発電所に訪れてはみたいのだが、本日は時間がなくパスする。
●戸ノ口堰と発電所
戸ノ口堰用水筋に設けられている三つの発電所のひとつ。猪苗代湖と会津若松の標高差は300mほどあると言う。その比高差と両者の間にある金山川を活用し、明治の頃発電所の建設が行われる。
猪苗代湖から鍋沼を経て金山川に落ちる箇所に戸ノ口堰第一発電所、第一発電所に落ちた水を導水路で引き、再び下流の金山川に落とす戸ノ口堰第二発電所、その第二発電所に設けられた取水口から、羽山・石ヶ森・高山の山腹を穿ち導水路を通し水を落としたのか、この第三発電所である。農業用水として始まった戸ノ口堰は明治になり、水力発電の水源としても使われるようになったわけだ。
因みに、戸ノ口堰に関わる発電所はその供給先として首都圏を目した。現在もこれら発電所は東京電力がその事業者となっている。
八幡配水池
右手ゲートの中に貯水タンクのようなものが見える。「八幡配水池」とある。ゲートは立ち入り禁止となっており、入ることはできない。用水路橋らしき姿も見えるのだが残念である。
配水池は浄水場から水を送られ地域に配水する施設。八幡配水池は(池とはいいながら、前述の如くレストレストコンクリート造円筒型(直径22m 高さ8m)の貯水タンク。
戸ノ口堰第三発電所脇にある滝沢浄水場から揚水ポンプでこの地に揚げられ、松長地区(滝沢浄水場の北、・宅地開発された一帯)・八幡地区(滝沢浄水場の周囲)・躑躅山地区(前述不動川右岸・堂ヶ作山の南)へと水を送る。 滝沢浄水場の水源は金山川の「戸ノ口堰第三発電所取水口」であり、もとを辿れば猪苗代湖となる。戸ノ口堰の用水を上水に利用するようになったのは昭和4年(1929)になってからのことである。
農業用水として開削された戸ノ口堰は、明治には水力発電、昭和に入ると上水の水源として、時代に応じてその機能を追加し、会津盆地の人々に貢献した、ということであろう。
水路に入る
八幡配水池を過ぎ、車道を進むと、右手に入る舗装道があり、ゲートもあるが脇からは入れるようになっていた。この辺りであれば入らせてもらっても大丈夫だろうと、自分に言い聞かせ舗装されたアプローチを進むと、藪に覆われた先に水路があった。
水路は直線に切られ、如何にも「今日的」で往昔の水路とは思えない。水量も結構多い。水路を右に向かうとすぐにトンネルに入る。右へと先に進んでも八幡配水池の敷地にあたるだろうから、通り抜けることができるとも思えず、左手に向かう。
水路が切れる
左に進むとほどなく水路は切れる。水路は切れるがそこには激しい勢いで渦巻くさまの水流が見える。水路の切れた先はコンクリートで固められた崖となっており、地図をみると、水路の切れた北、突き出た尾根筋の間に同様の直線水路が見える。
地図には、直線水路の行き止まり箇所から左手に曲がりくねった水路が見える。これが旧水路跡だろう。ということは、コンクリートで固められた崖面下には、尾根に沿って曲がりくねって進む旧水路をショートカットすべく掘り抜かれた送水管が埋め込まれ、その水が水路に激しく落ちているのだろか。尾根を越えた先にある直線水路の水流がどの程度のものか確認するまで、結論は持ち越す。
旧水路跡に
さてと、旧水路に入るべく、行き止まりとなった水路の左手をチェックする。藪が激しく見通しがきかない。なにか水路跡の手掛かりはと探すと、藪の中に錆びた鉄製ゲート開閉機の回転ハンドルらしきものが見えた。その辺りが旧水路の合流点であろうと藪に入る。
足元がぐちゃぐちゃ。僅かながら水も残る。旧水路跡であろう。水は用水というより、雨水か湧水が溜まったものかと思う。
藪漕ぎで進む
足元は泥でグチャグチャ。行く手は、藪と倒木。先ほどのバイパス水路ができて廃路となったのであろう水路跡は荒れ果てている。こんな荒れた水路とは思わず、私は半袖、Tさん半ズボン。こんなはずではとの、Tさんのため息が感じられるも、撤退はなし。
お互い手と足に手負いの傷をつけながら、藪を進むと前方が開け、切通しが見えてきた。この辺りまで来ると藪も少なくなってくる。
切通し
切通しの規模は大きい。通常であれば、尾根筋の先端部を迂回し用水路を通すのだろうが、火砕流でできた地質故の脆さを危惧し、尾根筋を掘り抜いて切り通しとしたのだろう。また、逆に地質が脆い故に、かくも大規模な切り通しを人力で掘り割ることもできたのではあろう。
切通しが続く
水路の両側は高い崖面に囲まれており、切り通しに切れ目がない。尾根筋を部分的に掘り抜いた、というより、等高線310m辺りを延々と掘り割り、切り通しとしているように思えてきた。
水路跡の左手に車道が走り、車の走る音も聞こえるのだが、車道に出ようとも思わないほどの高い崖が続く。
車道に出る
切通しを進み、左手の車道が開けた辺り、切り通し部分を越えたところで一度車道に出る。水路から藪を掻き分け車道に出ると、そこは旧水路跡が車道の下を抜けている手前であった。
◆「ブラタモリ」用アプローチ
車道から水路跡へと藪が刈り込まれている箇所があったが、そこは、タモリさんの番組(「ブラタモリ」)撮影用に刈り込まれたアプローチと、後で聞いた。
水路跡が車道とクロスする
車道を水路跡がクロスする地点まで進む。道の右手には藪というか笹に蔽われた水路跡が見える。その水路跡が車道とクロスし、尾根筋の先端部を迂回し、再び車道に接近する姿を確認。車道左手に掘割状となった水路跡が車道に沿って進む。
もう少し先に進めば、先ほど行き止まりとなったコンクリート崖面に続くと思われる、直線に走る水路があるのだが、そろそろ時間切れ、。引き返す時刻となってきた。残念であるが、次回のお楽しみとする。
戸ノ口第三発電所導水管と交差し水路は下る
車道を戻り、八幡配水池の敷地を越えた辺りで水路へのアプローチを探す。戸ノ口第三発電所の導水管が、車道下にある発電所に水を落とす辺りの山側が開けており、水路へのアプローチが可能となる。導水管脇を上ると戸ノ口堰用水が流れる。水量は豊富である。
地図を見ると、金山川にある第三発電所取水口から抜かれた隧道が、戸ノ口第三発電所への導水管の手前で開け、調整池らしきものが見えるのだが、そこから発電所導水管に落ちる流れとは別に、調整池らし水槽を経て、先ほど出合った「直線の水路」に向かって下る流路が見える。金山川にある第三発電所取水口からも戸ノ口堰へ養水が行われているように見える。
先ほど出合った、水源不明の直線水路の豊富な水と相まって、滔々と流れる水路は、導水管を越えた先で隧道に入り、車道脇に出る。
車道に沿って水路が進む
隧道を出た水路は一時暗渠となるも、すぐに開渠となり車道に沿って下る。下るにつれ、水路は車道と次第に離れ、少し高い箇所を進み隧道に入る。
八幡地区から躑躅山地区に水路は下る
車道に戻り、隧道の先に続く水路へのアプローチを探すが、車道と水路の間に民家の敷地・耕地があり水路に入れない。
車道を進み、三島神社の森を右下に見遣り、少し進んだ畑地の畦道といったものが水路へと向かっている。豊かな水量の水路を確認。
水路に沿って進もうとするも、水路脇を進むのが少々困難な箇所となり、車道に戻る。水路は八幡地区から、八幡配水場でメモした躑躅山地区に入る。
滝沢峠への道と交差
道を進み水路に出たり入ったりしながら先に進むと水路は滝沢峠へ上る道とクロスする。クロスする箇所の掛かる橋の右手には坂下増圧ポンプ場があった。八幡配水池から躑躅山地区に水を送る上水施設である。
因みに、坂下は「バンゲ」と読む。関東では「ハケ」、つまりは、「崖」のこと。 「バンゲ」に坂下という漢字をあてたのはどのような事情かは知らないが、誠に適切な「当て字」ではなかろうか。
戸ノ口堰用水を知ったのは数年前のこと。会津大学に仕事で訪れた際、時間をつくり会津若松を彷徨ったのだが、その折、白虎隊自刃の地として知られる飯盛山で戸ノ口堰弁天洞穴に出合った。
滔々と流れ出す洞穴からの水路は、白虎隊の退路との説明があったが、それよりなにより、その水路は猪苗代湖・戸ノ口から会津盆地へ水を引く用水堰であり、全長31キロに及ぶ、と。開削時期は江戸の頃。17世紀全般に始まり、19世紀に藩普請により全面改修が行われ、その際、この弁天洞窟も開削されたとのことであった。
用水フリークとしては大いにフックが掛ったのだが、当日は時間がなく用水散歩に向かえなかった。今回、列車の関係上4時間という制限はあるものの、時間の許す限り歩いてみようと思った。そのうちに、それも近い将来全ルートを歩く下調べといった心づもりではある。
が、これは全く予想外のことではあるが、戸ノ口堰用水に関する水路図が見つからない。概要の説明はあるのだが、いまひとつ猪苗代・戸ノ口から飯盛山までの水路がうまくつながらない。否、むしろ、繋がらないというより、その後開削された発電所用の水路などを含め、水路が交錯し、どれが本線なのかよくわからない、というのが正確かとも思う。
また、用水路を辿ったといった記事も見つからない。里の水路はいいとして、山間部の水路が如何なる風情か、どの程度荒れているのかもよくわからない。これはもう、とりあえず現地に行き、成り行きであれこれ判断するしかないだろうとの結論に。
散歩のルートを想うに、ルート図がみつからない以上、手掛かりは弁天洞穴。そこに繋がる水路が戸ノ口堰用水とのことであるので、地図にある弁天洞穴に繋がる水路を逆にトレースし、山間部の水路跡に入り込む適当な場所を探す。
地図を見るに、弁天洞窟から不動川を渡り、滝沢の集落を越えた先に戸ノ口堰第三発電所がある。根拠はないが、発電所の敷地を越えた辺りで道路から水路跡に入れるのではないか、と。そして、そこからは、山間部の水路跡を先に向かい、列車の出発時間を考慮し適当なところで折り返し、里に戻り滝沢集落から弁天洞穴の水路を辿り、飯盛山に戻ることにした。
それほど用水に萌えることもない友人のTさんには誠に申し訳ないのだが、お付き合い頂き、会津若松駅からタクシーで戸ノ口堰第三発電所に向かった。
本日のルート:戸ノ口堰第三発電所>八幡配水池>水路に入る>水路が切れる >旧水路跡に>藪漕ぎで進む>切通し>切通しが続く>車道に出る >水路跡が車道とクロスする>折り返し点>戸ノ口第三発電所導水管と交差し水路は下る>車道に沿って水路が進む>八幡地区から躑躅山地区に水路は下る>滝沢峠への道と交差>不動川の右岸を水路は進む>不動川を石橋で渡る>弁天洞窟に向かって水路は進む>滝沢本陣>飯盛山>戸ノ口堰洞穴
戸ノ口堰第三発電所
タクシーで戸ノ口堰第三発電所の山側、高山(標高437m)の山麓を進む車道で下車。水路へのアプローチ地点を探す。明治に造られたという発電所に訪れてはみたいのだが、本日は時間がなくパスする。
●戸ノ口堰と発電所
戸ノ口堰用水筋に設けられている三つの発電所のひとつ。猪苗代湖と会津若松の標高差は300mほどあると言う。その比高差と両者の間にある金山川を活用し、明治の頃発電所の建設が行われる。
猪苗代湖から鍋沼を経て金山川に落ちる箇所に戸ノ口堰第一発電所、第一発電所に落ちた水を導水路で引き、再び下流の金山川に落とす戸ノ口堰第二発電所、その第二発電所に設けられた取水口から、羽山・石ヶ森・高山の山腹を穿ち導水路を通し水を落としたのか、この第三発電所である。農業用水として始まった戸ノ口堰は明治になり、水力発電の水源としても使われるようになったわけだ。
因みに、戸ノ口堰に関わる発電所はその供給先として首都圏を目した。現在もこれら発電所は東京電力がその事業者となっている。
八幡配水池
右手ゲートの中に貯水タンクのようなものが見える。「八幡配水池」とある。ゲートは立ち入り禁止となっており、入ることはできない。用水路橋らしき姿も見えるのだが残念である。
配水池は浄水場から水を送られ地域に配水する施設。八幡配水池は(池とはいいながら、前述の如くレストレストコンクリート造円筒型(直径22m 高さ8m)の貯水タンク。
戸ノ口堰第三発電所脇にある滝沢浄水場から揚水ポンプでこの地に揚げられ、松長地区(滝沢浄水場の北、・宅地開発された一帯)・八幡地区(滝沢浄水場の周囲)・躑躅山地区(前述不動川右岸・堂ヶ作山の南)へと水を送る。 滝沢浄水場の水源は金山川の「戸ノ口堰第三発電所取水口」であり、もとを辿れば猪苗代湖となる。戸ノ口堰の用水を上水に利用するようになったのは昭和4年(1929)になってからのことである。
農業用水として開削された戸ノ口堰は、明治には水力発電、昭和に入ると上水の水源として、時代に応じてその機能を追加し、会津盆地の人々に貢献した、ということであろう。
水路に入る
八幡配水池を過ぎ、車道を進むと、右手に入る舗装道があり、ゲートもあるが脇からは入れるようになっていた。この辺りであれば入らせてもらっても大丈夫だろうと、自分に言い聞かせ舗装されたアプローチを進むと、藪に覆われた先に水路があった。
水路は直線に切られ、如何にも「今日的」で往昔の水路とは思えない。水量も結構多い。水路を右に向かうとすぐにトンネルに入る。右へと先に進んでも八幡配水池の敷地にあたるだろうから、通り抜けることができるとも思えず、左手に向かう。
水路が切れる
左に進むとほどなく水路は切れる。水路は切れるがそこには激しい勢いで渦巻くさまの水流が見える。水路の切れた先はコンクリートで固められた崖となっており、地図をみると、水路の切れた北、突き出た尾根筋の間に同様の直線水路が見える。
地図には、直線水路の行き止まり箇所から左手に曲がりくねった水路が見える。これが旧水路跡だろう。ということは、コンクリートで固められた崖面下には、尾根に沿って曲がりくねって進む旧水路をショートカットすべく掘り抜かれた送水管が埋め込まれ、その水が水路に激しく落ちているのだろか。尾根を越えた先にある直線水路の水流がどの程度のものか確認するまで、結論は持ち越す。
旧水路跡に
さてと、旧水路に入るべく、行き止まりとなった水路の左手をチェックする。藪が激しく見通しがきかない。なにか水路跡の手掛かりはと探すと、藪の中に錆びた鉄製ゲート開閉機の回転ハンドルらしきものが見えた。その辺りが旧水路の合流点であろうと藪に入る。
足元がぐちゃぐちゃ。僅かながら水も残る。旧水路跡であろう。水は用水というより、雨水か湧水が溜まったものかと思う。
藪漕ぎで進む
足元は泥でグチャグチャ。行く手は、藪と倒木。先ほどのバイパス水路ができて廃路となったのであろう水路跡は荒れ果てている。こんな荒れた水路とは思わず、私は半袖、Tさん半ズボン。こんなはずではとの、Tさんのため息が感じられるも、撤退はなし。
お互い手と足に手負いの傷をつけながら、藪を進むと前方が開け、切通しが見えてきた。この辺りまで来ると藪も少なくなってくる。
切通し
切通しの規模は大きい。通常であれば、尾根筋の先端部を迂回し用水路を通すのだろうが、火砕流でできた地質故の脆さを危惧し、尾根筋を掘り抜いて切り通しとしたのだろう。また、逆に地質が脆い故に、かくも大規模な切り通しを人力で掘り割ることもできたのではあろう。
切通しが続く
水路の両側は高い崖面に囲まれており、切り通しに切れ目がない。尾根筋を部分的に掘り抜いた、というより、等高線310m辺りを延々と掘り割り、切り通しとしているように思えてきた。
水路跡の左手に車道が走り、車の走る音も聞こえるのだが、車道に出ようとも思わないほどの高い崖が続く。
車道に出る
切通しを進み、左手の車道が開けた辺り、切り通し部分を越えたところで一度車道に出る。水路から藪を掻き分け車道に出ると、そこは旧水路跡が車道の下を抜けている手前であった。
◆「ブラタモリ」用アプローチ
車道から水路跡へと藪が刈り込まれている箇所があったが、そこは、タモリさんの番組(「ブラタモリ」)撮影用に刈り込まれたアプローチと、後で聞いた。
水路跡が車道とクロスする
車道を水路跡がクロスする地点まで進む。道の右手には藪というか笹に蔽われた水路跡が見える。その水路跡が車道とクロスし、尾根筋の先端部を迂回し、再び車道に接近する姿を確認。車道左手に掘割状となった水路跡が車道に沿って進む。
折り返し
戸ノ口第三発電所導水管と交差し水路は下る
車道を戻り、八幡配水池の敷地を越えた辺りで水路へのアプローチを探す。戸ノ口第三発電所の導水管が、車道下にある発電所に水を落とす辺りの山側が開けており、水路へのアプローチが可能となる。導水管脇を上ると戸ノ口堰用水が流れる。水量は豊富である。
地図を見ると、金山川にある第三発電所取水口から抜かれた隧道が、戸ノ口第三発電所への導水管の手前で開け、調整池らしきものが見えるのだが、そこから発電所導水管に落ちる流れとは別に、調整池らし水槽を経て、先ほど出合った「直線の水路」に向かって下る流路が見える。金山川にある第三発電所取水口からも戸ノ口堰へ養水が行われているように見える。
先ほど出合った、水源不明の直線水路の豊富な水と相まって、滔々と流れる水路は、導水管を越えた先で隧道に入り、車道脇に出る。
車道に沿って水路が進む
隧道を出た水路は一時暗渠となるも、すぐに開渠となり車道に沿って下る。下るにつれ、水路は車道と次第に離れ、少し高い箇所を進み隧道に入る。
八幡地区から躑躅山地区に水路は下る
車道に戻り、隧道の先に続く水路へのアプローチを探すが、車道と水路の間に民家の敷地・耕地があり水路に入れない。
車道を進み、三島神社の森を右下に見遣り、少し進んだ畑地の畦道といったものが水路へと向かっている。豊かな水量の水路を確認。
水路に沿って進もうとするも、水路脇を進むのが少々困難な箇所となり、車道に戻る。水路は八幡地区から、八幡配水場でメモした躑躅山地区に入る。
滝沢峠への道と交差
道を進み水路に出たり入ったりしながら先に進むと水路は滝沢峠へ上る道とクロスする。クロスする箇所の掛かる橋の右手には坂下増圧ポンプ場があった。八幡配水池から躑躅山地区に水を送る上水施設である。
因みに、坂下は「バンゲ」と読む。関東では「ハケ」、つまりは、「崖」のこと。 「バンゲ」に坂下という漢字をあてたのはどのような事情かは知らないが、誠に適切な「当て字」ではなかろうか。
(修正;地元の方より、坂下を「ばんげ」と読むのは河沼郡坂下町であり、会津若松では「さかした」と読むとご指摘いただきました。ご指摘箇所を明確にするため原文は修正せず、まま掲載しています)
◆白河街道
滝沢峠に続く古道は会津と白河を結ぶ白河街道。白虎隊もこの道を進み、滝沢峠を越え、戸ノ口原の合戦の地に出向いた、と言う。如何にも峠道といった趣のある道脇にあった「旧滝沢峠(白河街道)」の案内によれば、「白河街道は、もともとはこの道筋ではなく、もう少し南、会津の奥座敷などと呼ばれている東山温泉のあたりから背あぶり山を経て猪苗代湖方面に抜けていた。15世紀の中頃、当時の会津領主である蘆名盛氏がひらいたもの。豊臣秀吉の会津下向の時も、また秀吉により会津藩主に命じられた蒲生氏郷が会津に入る時通ったのも、こちらの道筋。
滝沢峠の道が開かれたのは17世紀の前半。寛永4年(1627)に会津入府した加藤嘉明は急峻な背あぶり山を嫌い、滝沢峠の道を開き、それを白河街道とした」、とのことである。
不動川の右岸を水路は進む
水路は不動川の右岸を進む。水路も水路脇の道も整備されている。今回、実際散歩するまでイメージしていた「戸ノ口堰用水」の姿がそこにあった。足元グジャグジャ、倒木、藪漕ぎなど、実際に歩くまで、想像もしていなかった。
不動川を石橋で渡る
不動川の右岸を進んだ水路は、川幅が狭まった辺りで石橋を渡り不動川の左岸に移る。石橋手前に堰があり、余水を不動川に流す。結構大量の水を落としていた。石橋は不動川水管橋とも坂下水路橋と称するようだ。
弁天洞窟に向かって水路は進む
不動川左岸に移った水路はゆったりとしたスペースの平坦地を進み、高い崖に掘られた弁天洞穴に流れ込む。弁天洞穴は戸ノ口原の合戦で敗れた白虎隊が逃走路として潜った水路洞穴として知られる。
ここから先、弁天洞穴の出口に向かうことになるのだが、高く聳える崖を這い上がろうとの提案は、即却下される。そういえば、琵琶湖疏水を辿ったとき、極力水路ルートを歩こうと、隧道上の藪山に這いあがったとき、そこが私有地であり、所有者にキノコ盗掘者と間違われ、大声で呼び止められたことを思いだした。
それはともあれ、それでは不動川に沿って廻り込もうとアプローチを探すも、急峻な崖のようで、それも諦め、結局、大人しく、来た道を戻り、旧滝沢本陣前から飯盛山に向かうことにする。
滝沢本陣
水路を戻り、不動川水管橋を渡り、白河街道を右手に見遣りながら道を下り、滝沢坂下交差点を左折し、大きな通りを進むと、道の右手に滝沢本陣が見える。 茅葺屋根は数年前に訪れた時と異なり、新しく葺き替えられたように思う。
お城から3キロほどところにあるこの本陣は、延宝年間(1673-1680)に滝沢組11カ村の郷頭を務めていた旧家・横山家に設けられ、藩主の参勤交代や領内巡視、会津松平家藩祖・保科正之公を祀る土津神社への参拝時などに旅支度をするための休憩所として利用された。
また、会津戦争の時は戸ノ口の合戦で奮闘する兵士を激励するために藩主・松平容保がここを本陣とする。で、護衛の任にあたったのが白虎隊。戸ノ口原の合戦への援軍要請に勇躍出撃したのはこの本陣からである。
◆土津(はにつ)神社
藩祖を祀る土津神社は磐梯山麓見祢山の地にあり、会津若松から結構遠い。何故に?チェックすると;
正之は、磐梯山(磐椅山とも称される)を祀る磐椅神社(いわはし)を気に入り、その遺言として、神体山である磐梯山を祀る磐椅神社の末社となって永遠に神に奉仕したいと望んでいた、とのこと。ふたつの社は猪苗代の街に並んで建つ。尚、「土津」は保科正之が吉川神道の奥義を極めたとして授けられた霊神号である。
飯盛山
本陣を離れ、飯盛山の弁天洞穴に向かう。飯盛山のあれこれは、いつだったか訪れた時のメモにお任せし、本日は用水に焦点を合わせ、お山に上ることにする。
◆参道石段を戸ノ口堰用水が潜る
地図を見ると、参道石段を突き切る水路跡が描かれる。留意しながら石段を上ると、踊り場となったところにH鋼で補強された用水が走っていた。地図を見ると、水路は山裾に沿って南に下り、会津松平氏庭園(御薬園)へと向かっている。
◆厳島神社
ちょっと飯盛山に上り、白虎隊自刃の地から、3キロ先にかすかに見える会津若松の城を見た後、弁天洞窟穴のある「さざえ堂」方面へと、石段から右におれる下山道を進む。宇賀神社、さざえ堂を見遣り、さざえ堂前の石段を下りると、豊かな用水が二手に分かれて流れる。
二手に分かれた用水の間には厳島神社が建つ。厳島=水の神様。厳島神社となったのは明治から。そもそも「神社」という呼称が使われ始めたのは神仏分離令ができた明治になってからのことであり、この厳島神社もそれ以前は宗像社と呼ばれていた。
祭神は宗像三女神のひとり、市杵島姫命。杵島姫命は神仏習合で弁財天に習合。先ほど通り過ぎた宇賀神社にも、17世紀の中頃の元禄期、会津藩3代目藩主松平正容公が宇賀神と共に弁財天像が奉納されている。宇賀神も神仏習合で宇賀弁財天と称されるわけで、これだけ水の神・弁天さまを祀るということは、いかに戸ノ口堰の水が会津若松にとって貴重であったかの証かとも思える。
因みに、飯盛山は、元々は弁天山とも呼ばれていたようである。先ほどの宇賀神=宇賀弁天様共々、弁天様のオンパレード。ここまで弁天さまが集まれば、飯盛山が弁天山と呼ばれていたことに全く違和感はない。
戸ノ口堰洞穴
厳島神社の先に池があり、その向こうの崖面の洞窟から水が流れ込む。ここが先ほど隧道に入り込んだ戸ノ口堰隧道の出口である。案内には、「戸ノ口堰洞穴は、猪苗代湖北西岸の戸ノ口から、会津盆地へ引く用水堰で、全長31kmに及ぶ。 元和9(1623)年、八田野村の肝煎八田内蔵之助が開墾のため私財を投じ工事行い、寛永18(1641)年八田野村まで通水した。
その後、天保3(1832)年会津藩は藩士佐藤豊助を普請奉行に任命し5万5千人の人夫を動員し、堰の改修を行い、この時に弁天洞穴(約150m)を堀り、同六年(1835)完成した。
慶応四年(1868)戊辰戦争時、戸ノ口原で敗れた白虎士中二番隊20名が潜った洞穴である」とあった。
戸ノ口堰用水は、もともとは飯盛山の山裾を通していたが、土砂崩れなどもあり、飯盛山の山腹を穿つことになった。で、この洞穴、白虎隊が戸ノ口原での合戦に破れ、お城に引き返すときに敵の追撃を逃れるために通り抜けてきた、と言う。
二本松城を落とし、母成峠の会津軍防御ラインを突破し、猪苗代城を攻略し、会津の城下に向けて殺到する新政府軍。猪苗代湖から流れ出す唯一の川である日橋川、その橋に架かる十六橋を落とし防御線を確保しようとする会津軍。 が、新政府軍のスピードに間に合わず、防御ラインを日橋川西岸の戸ノ口原に設ける。援軍要請するも、城下には老人と子どもだけ。ということで、白虎隊が戸ノ口原に派遣されたわけではあるが、武運つたなく、ということで、このお山に逃れてきた、ということである。
限られた時間ではあったが、今回の散歩で戸ノ口堰の一端を「掴んだ」。山間部の、荒れてはいるがスケールの大きな切通しの水路跡、里近くを下る未だ現役の用水路など、「飯盛山で見た弁天洞穴が戸ノ口堰と繋がる」、といっただけの情報から水路を逆にトレースし、成り行きで彷徨った割には、結構バッチリの用水路散歩ではあった。
●水路をトレースし戸ノ口堰の用水路を作成
で、今回歩いたルートが戸ノ口堰の用水ルートの末端であろうと、猪苗代湖畔・戸ノ口から会津若松までの用水ルートを想う。地図を見ると、今回歩いたルートの先、高山からの尾根筋が突き出した先に水路が続く。
トレースすると水路は牛畑から吹屋山の東裾を進み、金掘集落に。金堀から烏帽子山に切れ込む沢筋を進み、沢筋の最奥部近くで反転し烏帽子山の西裾から沓掛峠近くの山麓を廻りこみを進み、山裾を蛇行しながら戸ノ口堰第一発電所の取水口に辺りに。
そこから御殿山の山麓(会津磐梯カントリークラブがある)を進み、鍋沼の南を走った後、北東に向かい、東電第一発電所への用水路かと思える水路を横切り、その水路と日橋川の間を蛇行しながら下り、猪苗代湖の戸ノ口と繋がる。
●戸ノ口堰の開削経緯をもとに検証
これで戸ノ口堰のルートは完成、と思ったのだが、飯盛山の戸ノ口堰洞穴にあった説明、「寛永18(1641)年八田野村まで通水した」との説明と地理的に間尺に合わない。八田野村は、現在の会津若松市河東町八田野あたりかと推察されるので、トレースした水路の牛畑のはるか北にある。トレースした水路はどうみても通りそうにない。
戸ノ口堰の用水路の地図を探すが、これが全く見つからない。それではと、戸ノ口堰開削の経緯をもとに推定しようと、WEBをあれこれチェックすると、戸ノ口堰土地改良区のページに開削の歴史が記載されていた。そのページを以下引用する;
◆「戸ノ口堰土地改良区」のWEBページにある開削の歴史
「戸ノ口堰は今から372年前、1623年に八田野村(現在の河沼郡河東町八田野)の肝煎、内蔵之助という人が、村の周辺に広がる広大な原野に猪苗代湖から水を引いて開墾したいと考え、時の藩主・蒲生忠郷公に願いでて、藩公が奉行・志賀庄兵衛に命じて開削に取りかかったというのが起源です。
それから2年くらいは藩の方で工事が行われましたが、財政難のため中止せざるを得ませんでした。その後、内蔵之助は工事の中止を憂い、自分の資材を投げ打ち2万人くらいの人夫を使い、途中の蟻塚まで開削しました。しかし、内蔵之助も個人ですので、資金がどうしても続かないということで、途中で中止しました。それでも開拓の志はどうしても捨てきれず、再び当時の藩主・加藤明成公に願いでて、また藩の方から工事の再開を認められました。それにより約15年かけて八田分水まで水を引くことが出来ました。その後、その時の功労を認められて、この内蔵之助という人は八田堰の堰守に任じられ、その土地の用水堰は「八田野堰」と名付けられました。
それからまた開削が進められ、1638年には鍋沼まで到達し、それから3年ほどかけて河東町の八田野まで支川として戸ノ口の水路を造り、その時に7つの新しい村が出来ました。これが第1期、第2期の工事になります。
第3期工事は、河沼郡槻橋村(今の河東町槻木)の花積弥市という人が、鍋沼から一箕の方を回った水路を造り、長原一箕町、長原の新田を開拓したいということで、また藩の方に申し出て行いました。
次の第4期工事で会津若松までつながるのですが、1693年に北滝沢村(今の一箕町北滝沢)の肝煎の惣治右衛門という人が、自分の近くの滝沢付近までいつも水を持ってきたいということで願いでて、開拓しました。長原新田から滝沢峠を通り、不動川の上を渡し、飯盛山の脇の水路を通って今の慶山の方まで持ってきたということになっています。当時の水路は猪苗代湖から会津若松まで約31kmあり、1693年には八田野堰から戸ノ口堰に改名されました
今まで、雁堰からの水を会津若松のお城、生活用水、防火用水等に使っていましたが、雁堰は湯川の水を入れているので日照り等があると渇水になります。そこで、会津藩としては、どうしても会津若松まで水を持ってきて、安定した水が欲しいというのが願いでした。
それから約200年以上経った1835年(天保6年)、時の藩主・松平容敬公が普請奉公を佐藤豊助に任命して、会津藩から5万5,000人を集めて戸ノ口堰の大改修が行われました。戸ノ口堰は1623年以降212年経過しており、山間部を通ってくるので、土砂崩れなどにより常時通水が出来なくなったということで、堰幅、深さを改造した。
それまでは、飯盛山の北西にある水路を通っていましたが、その時初めて飯盛山の洞窟約170mを掘りました。この洞窟には、慶応4年の会津戊辰戦争の時に戸ノ口原の戦いに敗れた白虎隊が逃げ帰ってきて、飯盛山の洞窟を通って飯盛山に登り、自害したという有名な話があります」とある。
この説明では用水ルートはわからない。わかることは、八田分水は鍋沼まで達していない以上、その手前になるだろうということ。次に、ルートははっきりしないが、戸ノ口堰は、河東町の八田野まで支川として開かれ、その時に7つの新しい村が出来た。これが第1期、第2期の開削の状況。 「戸ノ口堰は、河東町の八田野まで支川として開かれた時期は、「1638年には鍋沼まで到達し、それから3年ほどかけて」との説明があることから、それが飯盛山の戸ノ口堰洞穴の案内にあった「寛永18(1641)年八田野村まで通水した」と言う記述のことであろう。
そして、説明には、第3期には鍋沼から一箕の方を回った水路を造り、長原一箕町、長原の新田を開拓した、とある。長沼新田は現在の一箕町松長、長原辺りだろうと思う。
ここで「鍋沼から一箕の方を回った水路」とあるので、第1期、第2期に河東町の八田野まで支川として開かれた水路は、一箕方面ではなく、鍋沼の手前の八田分水から直接八田野に水路を開削したのかとも推定できる。実際、地図をみるとそれらしき水路跡が膳棚山の南から八田野に走る水路が見える。
第4期には「長原新田から滝沢峠を通り、不動川の上を渡し。。。」とあるので、この時期に一箕町松長、長原方面からの水路が本日歩いた水路と繋がったようである。
◇水路跡をトレースして作図した戸ノ口堰と、開削の歴史の記述が合わない
以上、開削の経緯をチェックするも、用水は金堀集落とはるかに離れた箕町松長、長原辺りを走った、という記録だけである。地図にある水路をトレースして推定した金堀経由のルートとは「掠りも」しない。さてどうしたものか。これはもう、水路図をなんとか見つけるしか術はない。
ということで、日本で発行されたすべての出版物を保管する国立国会と図書館であればひょっとして、と「戸ノ口堰」で蔵書を検索する。
と、「猪苗代湖利水史」に「戸ノ口用水堰」とともに、「戸ノ口堰一覧図」という目次がヒットした。
「戸ノ口一覧図」が用水路ルートであることを祈り、永田町の国立国会図書館に出向き、PCで本文確認。そこには探していた用水路が描かれていた。本書はデジタルアーカイブされており、PDFで当該ページを印刷し、本文とルート図を見比べる。
◆水路跡をトレースした用水作図は戸ノ口堰の分流であった
本文には「この堰は十六橋の左岸にはじまり、大体標高514メートルの同高線を辿り、河沼郡河東村大字八田の大野原を蛇行し、鍋沼を経て「ノメリ橋」に至る。ここで一部は「金堀り廻り」の分水路となり、大部分は「ノメリ滝」を爆下し、石ヶ森から四ツ留までは「金山川」という渓流を流れ、四ツ留から再び人工水路となり、羽山や堂が作山の西麓を蛇行し、不動川を水路橋で渡り、飯盛山の西麓をめぐって流末は湯川に注いているのである」とあった。
これですっきりした。トレースしたのは「金堀り廻り」の分水路であり、本流は分水路のはるか北、人工の用水路から自然の川である金山川を活用し、羽山を越えた辺りで、現在の一箕町松長、長原へと向かい、高山の西裾で本日辿った金堀に続く水路筋に繋がっていた。また、八田分水も推定の通り、鍋沼の手前から北に向かって延びていた。
●戸ノ口堰用水路作図
◆同書の地図をもとに戸口堰を作図する。一箕町松長、長原付近は宅地開発の影響か往昔の水路は途切れているため、地図はその区間直線とした。
◆八田分水は同書では途中までしか描かれていないが、作図では「八田野」まで辿れる水路をトレースした。これが正しい水路か否か不明であるが、とりあえず八田分水が八田野に繋がりそう、ということを自分に納得させるためでの作図である。
◆残る疑問
同書の本流は分水路の「金堀り廻り」と繋がっていない。が、現在の水路は繋がって見える。その理由は何だろう。発電用、上水用として使われ、その余水を現在でも会津盆地に流し、観光用・防火用・生活用水など現役として使われている戸ノ口堰の水は、発電用導水管で送水され、要所で分水しているわけで、戸ノ口堰の用水路からの水はそれほど重要ではないようにも思える。
そこでひっかかるのが、散歩の最初で出合った直線の人工水路に流れ込む激しい水勢の源がどこか、ということである。そのためには、今回時間切れで行けなかった、尾根を越えた先にある直線の水路の水勢がどの程度のものか確認し、判断することにすることが必要かと思う。
「金堀り廻り」の分水路の水量が豊かなものか、はたまた、地図では切れてしまったように見える一箕町松長、長原方面からの水路が地下を潜り、未だに豊かな水を供給しているのか、妄想は膨らむのだが、実際に行って確認するまで結論を保留しておくしかないだろう。
ともあれ、戸ノ口堰の用水路はなんとか把握できた。後は、ひたすら歩くのみである。
◆白河街道
滝沢峠に続く古道は会津と白河を結ぶ白河街道。白虎隊もこの道を進み、滝沢峠を越え、戸ノ口原の合戦の地に出向いた、と言う。如何にも峠道といった趣のある道脇にあった「旧滝沢峠(白河街道)」の案内によれば、「白河街道は、もともとはこの道筋ではなく、もう少し南、会津の奥座敷などと呼ばれている東山温泉のあたりから背あぶり山を経て猪苗代湖方面に抜けていた。15世紀の中頃、当時の会津領主である蘆名盛氏がひらいたもの。豊臣秀吉の会津下向の時も、また秀吉により会津藩主に命じられた蒲生氏郷が会津に入る時通ったのも、こちらの道筋。
滝沢峠の道が開かれたのは17世紀の前半。寛永4年(1627)に会津入府した加藤嘉明は急峻な背あぶり山を嫌い、滝沢峠の道を開き、それを白河街道とした」、とのことである。
不動川の右岸を水路は進む
水路は不動川の右岸を進む。水路も水路脇の道も整備されている。今回、実際散歩するまでイメージしていた「戸ノ口堰用水」の姿がそこにあった。足元グジャグジャ、倒木、藪漕ぎなど、実際に歩くまで、想像もしていなかった。
不動川を石橋で渡る
不動川の右岸を進んだ水路は、川幅が狭まった辺りで石橋を渡り不動川の左岸に移る。石橋手前に堰があり、余水を不動川に流す。結構大量の水を落としていた。石橋は不動川水管橋とも坂下水路橋と称するようだ。
弁天洞窟に向かって水路は進む
不動川左岸に移った水路はゆったりとしたスペースの平坦地を進み、高い崖に掘られた弁天洞穴に流れ込む。弁天洞穴は戸ノ口原の合戦で敗れた白虎隊が逃走路として潜った水路洞穴として知られる。
ここから先、弁天洞穴の出口に向かうことになるのだが、高く聳える崖を這い上がろうとの提案は、即却下される。そういえば、琵琶湖疏水を辿ったとき、極力水路ルートを歩こうと、隧道上の藪山に這いあがったとき、そこが私有地であり、所有者にキノコ盗掘者と間違われ、大声で呼び止められたことを思いだした。
それはともあれ、それでは不動川に沿って廻り込もうとアプローチを探すも、急峻な崖のようで、それも諦め、結局、大人しく、来た道を戻り、旧滝沢本陣前から飯盛山に向かうことにする。
滝沢本陣
水路を戻り、不動川水管橋を渡り、白河街道を右手に見遣りながら道を下り、滝沢坂下交差点を左折し、大きな通りを進むと、道の右手に滝沢本陣が見える。 茅葺屋根は数年前に訪れた時と異なり、新しく葺き替えられたように思う。
お城から3キロほどところにあるこの本陣は、延宝年間(1673-1680)に滝沢組11カ村の郷頭を務めていた旧家・横山家に設けられ、藩主の参勤交代や領内巡視、会津松平家藩祖・保科正之公を祀る土津神社への参拝時などに旅支度をするための休憩所として利用された。
また、会津戦争の時は戸ノ口の合戦で奮闘する兵士を激励するために藩主・松平容保がここを本陣とする。で、護衛の任にあたったのが白虎隊。戸ノ口原の合戦への援軍要請に勇躍出撃したのはこの本陣からである。
◆土津(はにつ)神社
藩祖を祀る土津神社は磐梯山麓見祢山の地にあり、会津若松から結構遠い。何故に?チェックすると;
正之は、磐梯山(磐椅山とも称される)を祀る磐椅神社(いわはし)を気に入り、その遺言として、神体山である磐梯山を祀る磐椅神社の末社となって永遠に神に奉仕したいと望んでいた、とのこと。ふたつの社は猪苗代の街に並んで建つ。尚、「土津」は保科正之が吉川神道の奥義を極めたとして授けられた霊神号である。
飯盛山
本陣を離れ、飯盛山の弁天洞穴に向かう。飯盛山のあれこれは、いつだったか訪れた時のメモにお任せし、本日は用水に焦点を合わせ、お山に上ることにする。
◆参道石段を戸ノ口堰用水が潜る
地図を見ると、参道石段を突き切る水路跡が描かれる。留意しながら石段を上ると、踊り場となったところにH鋼で補強された用水が走っていた。地図を見ると、水路は山裾に沿って南に下り、会津松平氏庭園(御薬園)へと向かっている。
◆厳島神社
ちょっと飯盛山に上り、白虎隊自刃の地から、3キロ先にかすかに見える会津若松の城を見た後、弁天洞窟穴のある「さざえ堂」方面へと、石段から右におれる下山道を進む。宇賀神社、さざえ堂を見遣り、さざえ堂前の石段を下りると、豊かな用水が二手に分かれて流れる。
二手に分かれた用水の間には厳島神社が建つ。厳島=水の神様。厳島神社となったのは明治から。そもそも「神社」という呼称が使われ始めたのは神仏分離令ができた明治になってからのことであり、この厳島神社もそれ以前は宗像社と呼ばれていた。
祭神は宗像三女神のひとり、市杵島姫命。杵島姫命は神仏習合で弁財天に習合。先ほど通り過ぎた宇賀神社にも、17世紀の中頃の元禄期、会津藩3代目藩主松平正容公が宇賀神と共に弁財天像が奉納されている。宇賀神も神仏習合で宇賀弁財天と称されるわけで、これだけ水の神・弁天さまを祀るということは、いかに戸ノ口堰の水が会津若松にとって貴重であったかの証かとも思える。
因みに、飯盛山は、元々は弁天山とも呼ばれていたようである。先ほどの宇賀神=宇賀弁天様共々、弁天様のオンパレード。ここまで弁天さまが集まれば、飯盛山が弁天山と呼ばれていたことに全く違和感はない。
戸ノ口堰洞穴
厳島神社の先に池があり、その向こうの崖面の洞窟から水が流れ込む。ここが先ほど隧道に入り込んだ戸ノ口堰隧道の出口である。案内には、「戸ノ口堰洞穴は、猪苗代湖北西岸の戸ノ口から、会津盆地へ引く用水堰で、全長31kmに及ぶ。 元和9(1623)年、八田野村の肝煎八田内蔵之助が開墾のため私財を投じ工事行い、寛永18(1641)年八田野村まで通水した。
その後、天保3(1832)年会津藩は藩士佐藤豊助を普請奉行に任命し5万5千人の人夫を動員し、堰の改修を行い、この時に弁天洞穴(約150m)を堀り、同六年(1835)完成した。
慶応四年(1868)戊辰戦争時、戸ノ口原で敗れた白虎士中二番隊20名が潜った洞穴である」とあった。
戸ノ口堰用水は、もともとは飯盛山の山裾を通していたが、土砂崩れなどもあり、飯盛山の山腹を穿つことになった。で、この洞穴、白虎隊が戸ノ口原での合戦に破れ、お城に引き返すときに敵の追撃を逃れるために通り抜けてきた、と言う。
二本松城を落とし、母成峠の会津軍防御ラインを突破し、猪苗代城を攻略し、会津の城下に向けて殺到する新政府軍。猪苗代湖から流れ出す唯一の川である日橋川、その橋に架かる十六橋を落とし防御線を確保しようとする会津軍。 が、新政府軍のスピードに間に合わず、防御ラインを日橋川西岸の戸ノ口原に設ける。援軍要請するも、城下には老人と子どもだけ。ということで、白虎隊が戸ノ口原に派遣されたわけではあるが、武運つたなく、ということで、このお山に逃れてきた、ということである。
■戸ノ口堰用水の水路を想う■
●水路をトレースし戸ノ口堰の用水路を作成
で、今回歩いたルートが戸ノ口堰の用水ルートの末端であろうと、猪苗代湖畔・戸ノ口から会津若松までの用水ルートを想う。地図を見ると、今回歩いたルートの先、高山からの尾根筋が突き出した先に水路が続く。
トレースすると水路は牛畑から吹屋山の東裾を進み、金掘集落に。金堀から烏帽子山に切れ込む沢筋を進み、沢筋の最奥部近くで反転し烏帽子山の西裾から沓掛峠近くの山麓を廻りこみを進み、山裾を蛇行しながら戸ノ口堰第一発電所の取水口に辺りに。
そこから御殿山の山麓(会津磐梯カントリークラブがある)を進み、鍋沼の南を走った後、北東に向かい、東電第一発電所への用水路かと思える水路を横切り、その水路と日橋川の間を蛇行しながら下り、猪苗代湖の戸ノ口と繋がる。
●戸ノ口堰の開削経緯をもとに検証
これで戸ノ口堰のルートは完成、と思ったのだが、飯盛山の戸ノ口堰洞穴にあった説明、「寛永18(1641)年八田野村まで通水した」との説明と地理的に間尺に合わない。八田野村は、現在の会津若松市河東町八田野あたりかと推察されるので、トレースした水路の牛畑のはるか北にある。トレースした水路はどうみても通りそうにない。
戸ノ口堰の用水路の地図を探すが、これが全く見つからない。それではと、戸ノ口堰開削の経緯をもとに推定しようと、WEBをあれこれチェックすると、戸ノ口堰土地改良区のページに開削の歴史が記載されていた。そのページを以下引用する;
◆「戸ノ口堰土地改良区」のWEBページにある開削の歴史
「戸ノ口堰は今から372年前、1623年に八田野村(現在の河沼郡河東町八田野)の肝煎、内蔵之助という人が、村の周辺に広がる広大な原野に猪苗代湖から水を引いて開墾したいと考え、時の藩主・蒲生忠郷公に願いでて、藩公が奉行・志賀庄兵衛に命じて開削に取りかかったというのが起源です。
それから2年くらいは藩の方で工事が行われましたが、財政難のため中止せざるを得ませんでした。その後、内蔵之助は工事の中止を憂い、自分の資材を投げ打ち2万人くらいの人夫を使い、途中の蟻塚まで開削しました。しかし、内蔵之助も個人ですので、資金がどうしても続かないということで、途中で中止しました。それでも開拓の志はどうしても捨てきれず、再び当時の藩主・加藤明成公に願いでて、また藩の方から工事の再開を認められました。それにより約15年かけて八田分水まで水を引くことが出来ました。その後、その時の功労を認められて、この内蔵之助という人は八田堰の堰守に任じられ、その土地の用水堰は「八田野堰」と名付けられました。
それからまた開削が進められ、1638年には鍋沼まで到達し、それから3年ほどかけて河東町の八田野まで支川として戸ノ口の水路を造り、その時に7つの新しい村が出来ました。これが第1期、第2期の工事になります。
第3期工事は、河沼郡槻橋村(今の河東町槻木)の花積弥市という人が、鍋沼から一箕の方を回った水路を造り、長原一箕町、長原の新田を開拓したいということで、また藩の方に申し出て行いました。
次の第4期工事で会津若松までつながるのですが、1693年に北滝沢村(今の一箕町北滝沢)の肝煎の惣治右衛門という人が、自分の近くの滝沢付近までいつも水を持ってきたいということで願いでて、開拓しました。長原新田から滝沢峠を通り、不動川の上を渡し、飯盛山の脇の水路を通って今の慶山の方まで持ってきたということになっています。当時の水路は猪苗代湖から会津若松まで約31kmあり、1693年には八田野堰から戸ノ口堰に改名されました
今まで、雁堰からの水を会津若松のお城、生活用水、防火用水等に使っていましたが、雁堰は湯川の水を入れているので日照り等があると渇水になります。そこで、会津藩としては、どうしても会津若松まで水を持ってきて、安定した水が欲しいというのが願いでした。
それから約200年以上経った1835年(天保6年)、時の藩主・松平容敬公が普請奉公を佐藤豊助に任命して、会津藩から5万5,000人を集めて戸ノ口堰の大改修が行われました。戸ノ口堰は1623年以降212年経過しており、山間部を通ってくるので、土砂崩れなどにより常時通水が出来なくなったということで、堰幅、深さを改造した。
それまでは、飯盛山の北西にある水路を通っていましたが、その時初めて飯盛山の洞窟約170mを掘りました。この洞窟には、慶応4年の会津戊辰戦争の時に戸ノ口原の戦いに敗れた白虎隊が逃げ帰ってきて、飯盛山の洞窟を通って飯盛山に登り、自害したという有名な話があります」とある。
この説明では用水ルートはわからない。わかることは、八田分水は鍋沼まで達していない以上、その手前になるだろうということ。次に、ルートははっきりしないが、戸ノ口堰は、河東町の八田野まで支川として開かれ、その時に7つの新しい村が出来た。これが第1期、第2期の開削の状況。 「戸ノ口堰は、河東町の八田野まで支川として開かれた時期は、「1638年には鍋沼まで到達し、それから3年ほどかけて」との説明があることから、それが飯盛山の戸ノ口堰洞穴の案内にあった「寛永18(1641)年八田野村まで通水した」と言う記述のことであろう。
そして、説明には、第3期には鍋沼から一箕の方を回った水路を造り、長原一箕町、長原の新田を開拓した、とある。長沼新田は現在の一箕町松長、長原辺りだろうと思う。
ここで「鍋沼から一箕の方を回った水路」とあるので、第1期、第2期に河東町の八田野まで支川として開かれた水路は、一箕方面ではなく、鍋沼の手前の八田分水から直接八田野に水路を開削したのかとも推定できる。実際、地図をみるとそれらしき水路跡が膳棚山の南から八田野に走る水路が見える。
第4期には「長原新田から滝沢峠を通り、不動川の上を渡し。。。」とあるので、この時期に一箕町松長、長原方面からの水路が本日歩いた水路と繋がったようである。
◇水路跡をトレースして作図した戸ノ口堰と、開削の歴史の記述が合わない
以上、開削の経緯をチェックするも、用水は金堀集落とはるかに離れた箕町松長、長原辺りを走った、という記録だけである。地図にある水路をトレースして推定した金堀経由のルートとは「掠りも」しない。さてどうしたものか。これはもう、水路図をなんとか見つけるしか術はない。
●国立国会図書館で用水ルート図発見●
ということで、日本で発行されたすべての出版物を保管する国立国会と図書館であればひょっとして、と「戸ノ口堰」で蔵書を検索する。
と、「猪苗代湖利水史」に「戸ノ口用水堰」とともに、「戸ノ口堰一覧図」という目次がヒットした。
「戸ノ口一覧図」が用水路ルートであることを祈り、永田町の国立国会図書館に出向き、PCで本文確認。そこには探していた用水路が描かれていた。本書はデジタルアーカイブされており、PDFで当該ページを印刷し、本文とルート図を見比べる。
◆水路跡をトレースした用水作図は戸ノ口堰の分流であった
本文には「この堰は十六橋の左岸にはじまり、大体標高514メートルの同高線を辿り、河沼郡河東村大字八田の大野原を蛇行し、鍋沼を経て「ノメリ橋」に至る。ここで一部は「金堀り廻り」の分水路となり、大部分は「ノメリ滝」を爆下し、石ヶ森から四ツ留までは「金山川」という渓流を流れ、四ツ留から再び人工水路となり、羽山や堂が作山の西麓を蛇行し、不動川を水路橋で渡り、飯盛山の西麓をめぐって流末は湯川に注いているのである」とあった。
これですっきりした。トレースしたのは「金堀り廻り」の分水路であり、本流は分水路のはるか北、人工の用水路から自然の川である金山川を活用し、羽山を越えた辺りで、現在の一箕町松長、長原へと向かい、高山の西裾で本日辿った金堀に続く水路筋に繋がっていた。また、八田分水も推定の通り、鍋沼の手前から北に向かって延びていた。
●戸ノ口堰用水路作図
◆同書の地図をもとに戸口堰を作図する。一箕町松長、長原付近は宅地開発の影響か往昔の水路は途切れているため、地図はその区間直線とした。
◆八田分水は同書では途中までしか描かれていないが、作図では「八田野」まで辿れる水路をトレースした。これが正しい水路か否か不明であるが、とりあえず八田分水が八田野に繋がりそう、ということを自分に納得させるためでの作図である。
◆残る疑問
同書の本流は分水路の「金堀り廻り」と繋がっていない。が、現在の水路は繋がって見える。その理由は何だろう。発電用、上水用として使われ、その余水を現在でも会津盆地に流し、観光用・防火用・生活用水など現役として使われている戸ノ口堰の水は、発電用導水管で送水され、要所で分水しているわけで、戸ノ口堰の用水路からの水はそれほど重要ではないようにも思える。
そこでひっかかるのが、散歩の最初で出合った直線の人工水路に流れ込む激しい水勢の源がどこか、ということである。そのためには、今回時間切れで行けなかった、尾根を越えた先にある直線の水路の水勢がどの程度のものか確認し、判断することにすることが必要かと思う。
「金堀り廻り」の分水路の水量が豊かなものか、はたまた、地図では切れてしまったように見える一箕町松長、長原方面からの水路が地下を潜り、未だに豊かな水を供給しているのか、妄想は膨らむのだが、実際に行って確認するまで結論を保留しておくしかないだろう。
ともあれ、戸ノ口堰の用水路はなんとか把握できた。後は、ひたすら歩くのみである。