用水・疏水の最近のブログ記事

先日、沢登り仲間の友人Tさんに誘われて会津街道・越後街道を野沢宿から束松峠をへて片門まで歩いたのだが、野沢に向かう道すがら、会津若松で4時間ほど時間をつくり、前々から気になっていた戸ノ口堰用水を歩くことにした。
戸ノ口堰用水を知ったのは数年前のこと。会津大学に仕事で訪れた際、時間をつくり会津若松を彷徨ったのだが、その折、白虎隊自刃の地として知られる飯盛山で戸ノ口堰弁天洞穴に出合った。

滔々と流れ出す洞穴からの水路は、白虎隊の退路との説明があったが、それよりなにより、その水路は猪苗代湖・戸ノ口から会津盆地へ水を引く用水堰であり、全長31キロに及ぶ、と。開削時期は江戸の頃。17世紀全般に始まり、19世紀に藩普請により全面改修が行われ、その際、この弁天洞窟も開削されたとのことであった。

用水フリークとしては大いにフックが掛ったのだが、当日は時間がなく用水散歩に向かえなかった。今回、列車の関係上4時間という制限はあるものの、時間の許す限り歩いてみようと思った。そのうちに、それも近い将来全ルートを歩く下調べといった心づもりではある。

が、これは全く予想外のことではあるが、戸ノ口堰用水に関する水路図が見つからない。概要の説明はあるのだが、いまひとつ猪苗代・戸ノ口から飯盛山までの水路がうまくつながらない。否、むしろ、繋がらないというより、その後開削された発電所用の水路などを含め、水路が交錯し、どれが本線なのかよくわからない、というのが正確かとも思う。
また、用水路を辿ったといった記事も見つからない。里の水路はいいとして、山間部の水路が如何なる風情か、どの程度荒れているのかもよくわからない。これはもう、とりあえず現地に行き、成り行きであれこれ判断するしかないだろうとの結論に。

散歩のルートを想うに、ルート図がみつからない以上、手掛かりは弁天洞穴。そこに繋がる水路が戸ノ口堰用水とのことであるので、地図にある弁天洞穴に繋がる水路を逆にトレースし、山間部の水路跡に入り込む適当な場所を探す。

地図を見るに、弁天洞窟から不動川を渡り、滝沢の集落を越えた先に戸ノ口堰第三発電所がある。根拠はないが、発電所の敷地を越えた辺りで道路から水路跡に入れるのではないか、と。そして、そこからは、山間部の水路跡を先に向かい、列車の出発時間を考慮し適当なところで折り返し、里に戻り滝沢集落から弁天洞穴の水路を辿り、飯盛山に戻ることにした。
それほど用水に萌えることもない友人のTさんには誠に申し訳ないのだが、お付き合い頂き、会津若松駅からタクシーで戸ノ口堰第三発電所に向かった。



本日のルート:戸ノ口堰第三発電所>八幡配水池>水路に入る>水路が切れる >旧水路跡に>藪漕ぎで進む>切通し>切通しが続く>車道に出る >水路跡が車道とクロスする>折り返し点>戸ノ口第三発電所導水管と交差し水路は下る>車道に沿って水路が進む>八幡地区から躑躅山地区に水路は下る>滝沢峠への道と交差>不動川の右岸を水路は進む>不動川を石橋で渡る>弁天洞窟に向かって水路は進む>滝沢本陣>飯盛山>戸ノ口堰洞穴


戸ノ口堰第三発電所
タクシーで戸ノ口堰第三発電所の山側、高山(標高437m)の山麓を進む車道で下車。水路へのアプローチ地点を探す。明治に造られたという発電所に訪れてはみたいのだが、本日は時間がなくパスする。
戸ノ口堰と発電所
戸ノ口堰用水筋に設けられている三つの発電所のひとつ。猪苗代湖と会津若松の標高差は300mほどあると言う。その比高差と両者の間にある金山川を活用し、明治の頃発電所の建設が行われる。
猪苗代湖から鍋沼を経て金山川に落ちる箇所に戸ノ口堰第一発電所、第一発電所に落ちた水を導水路で引き、再び下流の金山川に落とす戸ノ口堰第二発電所、その第二発電所に設けられた取水口から、羽山・石ヶ森・高山の山腹を穿ち導水路を通し水を落としたのか、この第三発電所である。農業用水として始まった戸ノ口堰は明治になり、水力発電の水源としても使われるようになったわけだ。
因みに、戸ノ口堰に関わる発電所はその供給先として首都圏を目した。現在もこれら発電所は東京電力がその事業者となっている。

八幡配水池
右手ゲートの中に貯水タンクのようなものが見える。「八幡配水池」とある。ゲートは立ち入り禁止となっており、入ることはできない。用水路橋らしき姿も見えるのだが残念である。
配水池は浄水場から水を送られ地域に配水する施設。八幡配水池は(池とはいいながら、前述の如くレストレストコンクリート造円筒型(直径22m 高さ8m)の貯水タンク。
戸ノ口堰第三発電所脇にある滝沢浄水場から揚水ポンプでこの地に揚げられ、松長地区(滝沢浄水場の北、・宅地開発された一帯)・八幡地区(滝沢浄水場の周囲)・躑躅山地区(前述不動川右岸・堂ヶ作山の南)へと水を送る。 滝沢浄水場の水源は金山川の「戸ノ口堰第三発電所取水口」であり、もとを辿れば猪苗代湖となる。戸ノ口堰の用水を上水に利用するようになったのは昭和4年(1929)になってからのことである。
農業用水として開削された戸ノ口堰は、明治には水力発電、昭和に入ると上水の水源として、時代に応じてその機能を追加し、会津盆地の人々に貢献した、ということであろう。

水路に入る
八幡配水池を過ぎ、車道を進むと、右手に入る舗装道があり、ゲートもあるが脇からは入れるようになっていた。この辺りであれば入らせてもらっても大丈夫だろうと、自分に言い聞かせ舗装されたアプローチを進むと、藪に覆われた先に水路があった。
水路は直線に切られ、如何にも「今日的」で往昔の水路とは思えない。水量も結構多い。水路を右に向かうとすぐにトンネルに入る。右へと先に進んでも八幡配水池の敷地にあたるだろうから、通り抜けることができるとも思えず、左手に向かう。

水路が切れる
左に進むとほどなく水路は切れる。水路は切れるがそこには激しい勢いで渦巻くさまの水流が見える。水路の切れた先はコンクリートで固められた崖となっており、地図をみると、水路の切れた北、突き出た尾根筋の間に同様の直線水路が見える。
地図には、直線水路の行き止まり箇所から左手に曲がりくねった水路が見える。これが旧水路跡だろう。ということは、コンクリートで固められた崖面下には、尾根に沿って曲がりくねって進む旧水路をショートカットすべく掘り抜かれた送水管が埋め込まれ、その水が水路に激しく落ちているのだろか。尾根を越えた先にある直線水路の水流がどの程度のものか確認するまで、結論は持ち越す。

旧水路跡に
さてと、旧水路に入るべく、行き止まりとなった水路の左手をチェックする。藪が激しく見通しがきかない。なにか水路跡の手掛かりはと探すと、藪の中に錆びた鉄製ゲート開閉機の回転ハンドルらしきものが見えた。その辺りが旧水路の合流点であろうと藪に入る。
足元がぐちゃぐちゃ。僅かながら水も残る。旧水路跡であろう。水は用水というより、雨水か湧水が溜まったものかと思う。

藪漕ぎで進む
足元は泥でグチャグチャ。行く手は、藪と倒木。先ほどのバイパス水路ができて廃路となったのであろう水路跡は荒れ果てている。こんな荒れた水路とは思わず、私は半袖、Tさん半ズボン。こんなはずではとの、Tさんのため息が感じられるも、撤退はなし。
お互い手と足に手負いの傷をつけながら、藪を進むと前方が開け、切通しが見えてきた。この辺りまで来ると藪も少なくなってくる。

切通し
切通しの規模は大きい。通常であれば、尾根筋の先端部を迂回し用水路を通すのだろうが、火砕流でできた地質故の脆さを危惧し、尾根筋を掘り抜いて切り通しとしたのだろう。また、逆に地質が脆い故に、かくも大規模な切り通しを人力で掘り割ることもできたのではあろう。


切通しが続く
水路の両側は高い崖面に囲まれており、切り通しに切れ目がない。尾根筋を部分的に掘り抜いた、というより、等高線310m辺りを延々と掘り割り、切り通しとしているように思えてきた。
水路跡の左手に車道が走り、車の走る音も聞こえるのだが、車道に出ようとも思わないほどの高い崖が続く。

車道に出る
切通しを進み、左手の車道が開けた辺り、切り通し部分を越えたところで一度車道に出る。水路から藪を掻き分け車道に出ると、そこは旧水路跡が車道の下を抜けている手前であった。
「ブラタモリ」用アプローチ
車道から水路跡へと藪が刈り込まれている箇所があったが、そこは、タモリさんの番組(「ブラタモリ」)撮影用に刈り込まれたアプローチと、後で聞いた。

水路跡が車道とクロスする
車道を水路跡がクロスする地点まで進む。道の右手には藪というか笹に蔽われた水路跡が見える。その水路跡が車道とクロスし、尾根筋の先端部を迂回し、再び車道に接近する姿を確認。車道左手に掘割状となった水路跡が車道に沿って進む。


折り返し

もう少し先に進めば、先ほど行き止まりとなったコンクリート崖面に続くと思われる、直線に走る水路があるのだが、そろそろ時間切れ、。引き返す時刻となってきた。残念であるが、次回のお楽しみとする。

戸ノ口第三発電所導水管と交差し水路は下る
車道を戻り、八幡配水池の敷地を越えた辺りで水路へのアプローチを探す。戸ノ口第三発電所の導水管が、車道下にある発電所に水を落とす辺りの山側が開けており、水路へのアプローチが可能となる。導水管脇を上ると戸ノ口堰用水が流れる。水量は豊富である。

地図を見ると、金山川にある第三発電所取水口から抜かれた隧道が、戸ノ口第三発電所への導水管の手前で開け、調整池らしきものが見えるのだが、そこから発電所導水管に落ちる流れとは別に、調整池らし水槽を経て、先ほど出合った「直線の水路」に向かって下る流路が見える。金山川にある第三発電所取水口からも戸ノ口堰へ養水が行われているように見える。
先ほど出合った、水源不明の直線水路の豊富な水と相まって、滔々と流れる水路は、導水管を越えた先で隧道に入り、車道脇に出る。

車道に沿って水路が進む
隧道を出た水路は一時暗渠となるも、すぐに開渠となり車道に沿って下る。下るにつれ、水路は車道と次第に離れ、少し高い箇所を進み隧道に入る。






八幡地区から躑躅山地区に水路は下る
車道に戻り、隧道の先に続く水路へのアプローチを探すが、車道と水路の間に民家の敷地・耕地があり水路に入れない。
車道を進み、三島神社の森を右下に見遣り、少し進んだ畑地の畦道といったものが水路へと向かっている。豊かな水量の水路を確認。
水路に沿って進もうとするも、水路脇を進むのが少々困難な箇所となり、車道に戻る。水路は八幡地区から、八幡配水場でメモした躑躅山地区に入る。

滝沢峠への道と交差
道を進み水路に出たり入ったりしながら先に進むと水路は滝沢峠へ上る道とクロスする。クロスする箇所の掛かる橋の右手には坂下増圧ポンプ場があった。八幡配水池から躑躅山地区に水を送る上水施設である。
因みに、坂下は「バンゲ」と読む。関東では「ハケ」、つまりは、「崖」のこと。 「バンゲ」に坂下という漢字をあてたのはどのような事情かは知らないが、誠に適切な「当て字」ではなかろうか。
(修正;地元の方より、坂下を「ばんげ」と読むのは河沼郡坂下町であり、会津若松では「さかした」と読むとご指摘いただきました。ご指摘箇所を明確にするため原文は修正せず、まま掲載しています)
白河街道
滝沢峠に続く古道は会津と白河を結ぶ白河街道。白虎隊もこの道を進み、滝沢峠を越え、戸ノ口原の合戦の地に出向いた、と言う。如何にも峠道といった趣のある道脇にあった「旧滝沢峠(白河街道)」の案内によれば、「白河街道は、もともとはこの道筋ではなく、もう少し南、会津の奥座敷などと呼ばれている東山温泉のあたりから背あぶり山を経て猪苗代湖方面に抜けていた。15世紀の中頃、当時の会津領主である蘆名盛氏がひらいたもの。豊臣秀吉の会津下向の時も、また秀吉により会津藩主に命じられた蒲生氏郷が会津に入る時通ったのも、こちらの道筋。
滝沢峠の道が開かれたのは17世紀の前半。寛永4年(1627)に会津入府した加藤嘉明は急峻な背あぶり山を嫌い、滝沢峠の道を開き、それを白河街道とした」、とのことである。

不動川の右岸を水路は進む
水路は不動川の右岸を進む。水路も水路脇の道も整備されている。今回、実際散歩するまでイメージしていた「戸ノ口堰用水」の姿がそこにあった。足元グジャグジャ、倒木、藪漕ぎなど、実際に歩くまで、想像もしていなかった。




不動川を石橋で渡る
不動川の右岸を進んだ水路は、川幅が狭まった辺りで石橋を渡り不動川の左岸に移る。石橋手前に堰があり、余水を不動川に流す。結構大量の水を落としていた。石橋は不動川水管橋とも坂下水路橋と称するようだ。




弁天洞窟に向かって水路は進む
不動川左岸に移った水路はゆったりとしたスペースの平坦地を進み、高い崖に掘られた弁天洞穴に流れ込む。弁天洞穴は戸ノ口原の合戦で敗れた白虎隊が逃走路として潜った水路洞穴として知られる。
ここから先、弁天洞穴の出口に向かうことになるのだが、高く聳える崖を這い上がろうとの提案は、即却下される。そういえば、琵琶湖疏水を辿ったとき、極力水路ルートを歩こうと、隧道上の藪山に這いあがったとき、そこが私有地であり、所有者にキノコ盗掘者と間違われ、大声で呼び止められたことを思いだした。
それはともあれ、それでは不動川に沿って廻り込もうとアプローチを探すも、急峻な崖のようで、それも諦め、結局、大人しく、来た道を戻り、旧滝沢本陣前から飯盛山に向かうことにする。

滝沢本陣
水路を戻り、不動川水管橋を渡り、白河街道を右手に見遣りながら道を下り、滝沢坂下交差点を左折し、大きな通りを進むと、道の右手に滝沢本陣が見える。 茅葺屋根は数年前に訪れた時と異なり、新しく葺き替えられたように思う。
お城から3キロほどところにあるこの本陣は、延宝年間(1673-1680)に滝沢組11カ村の郷頭を務めていた旧家・横山家に設けられ、藩主の参勤交代や領内巡視、会津松平家藩祖・保科正之公を祀る土津神社への参拝時などに旅支度をするための休憩所として利用された。
また、会津戦争の時は戸ノ口の合戦で奮闘する兵士を激励するために藩主・松平容保がここを本陣とする。で、護衛の任にあたったのが白虎隊。戸ノ口原の合戦への援軍要請に勇躍出撃したのはこの本陣からである。

土津(はにつ)神社
藩祖を祀る土津神社は磐梯山麓見祢山の地にあり、会津若松から結構遠い。何故に?チェックすると;
正之は、磐梯山(磐椅山とも称される)を祀る磐椅神社(いわはし)を気に入り、その遺言として、神体山である磐梯山を祀る磐椅神社の末社となって永遠に神に奉仕したいと望んでいた、とのこと。ふたつの社は猪苗代の街に並んで建つ。尚、「土津」は保科正之が吉川神道の奥義を極めたとして授けられた霊神号である。


飯盛山
本陣を離れ、飯盛山の弁天洞穴に向かう。飯盛山のあれこれは、いつだったか訪れた時のメモにお任せし、本日は用水に焦点を合わせ、お山に上ることにする。

参道石段を戸ノ口堰用水が潜る
地図を見ると、参道石段を突き切る水路跡が描かれる。留意しながら石段を上ると、踊り場となったところにH鋼で補強された用水が走っていた。地図を見ると、水路は山裾に沿って南に下り、会津松平氏庭園(御薬園)へと向かっている。

厳島神社
ちょっと飯盛山に上り、白虎隊自刃の地から、3キロ先にかすかに見える会津若松の城を見た後、弁天洞窟穴のある「さざえ堂」方面へと、石段から右におれる下山道を進む。宇賀神社、さざえ堂を見遣り、さざえ堂前の石段を下りると、豊かな用水が二手に分かれて流れる。
二手に分かれた用水の間には厳島神社が建つ。厳島=水の神様。厳島神社となったのは明治から。そもそも「神社」という呼称が使われ始めたのは神仏分離令ができた明治になってからのことであり、この厳島神社もそれ以前は宗像社と呼ばれていた。
祭神は宗像三女神のひとり、市杵島姫命。杵島姫命は神仏習合で弁財天に習合。先ほど通り過ぎた宇賀神社にも、17世紀の中頃の元禄期、会津藩3代目藩主松平正容公が宇賀神と共に弁財天像が奉納されている。宇賀神も神仏習合で宇賀弁財天と称されるわけで、これだけ水の神・弁天さまを祀るということは、いかに戸ノ口堰の水が会津若松にとって貴重であったかの証かとも思える。
因みに、飯盛山は、元々は弁天山とも呼ばれていたようである。先ほどの宇賀神=宇賀弁天様共々、弁天様のオンパレード。ここまで弁天さまが集まれば、飯盛山が弁天山と呼ばれていたことに全く違和感はない。

戸ノ口堰洞穴
厳島神社の先に池があり、その向こうの崖面の洞窟から水が流れ込む。ここが先ほど隧道に入り込んだ戸ノ口堰隧道の出口である。案内には、「戸ノ口堰洞穴は、猪苗代湖北西岸の戸ノ口から、会津盆地へ引く用水堰で、全長31kmに及ぶ。 元和9(1623)年、八田野村の肝煎八田内蔵之助が開墾のため私財を投じ工事行い、寛永18(1641)年八田野村まで通水した。
その後、天保3(1832)年会津藩は藩士佐藤豊助を普請奉行に任命し5万5千人の人夫を動員し、堰の改修を行い、この時に弁天洞穴(約150m)を堀り、同六年(1835)完成した。
慶応四年(1868)戊辰戦争時、戸ノ口原で敗れた白虎士中二番隊20名が潜った洞穴である」とあった。

戸ノ口堰用水は、もともとは飯盛山の山裾を通していたが、土砂崩れなどもあり、飯盛山の山腹を穿つことになった。で、この洞穴、白虎隊が戸ノ口原での合戦に破れ、お城に引き返すときに敵の追撃を逃れるために通り抜けてきた、と言う。

二本松城を落とし、母成峠の会津軍防御ラインを突破し、猪苗代城を攻略し、会津の城下に向けて殺到する新政府軍。猪苗代湖から流れ出す唯一の川である日橋川、その橋に架かる十六橋を落とし防御線を確保しようとする会津軍。 が、新政府軍のスピードに間に合わず、防御ラインを日橋川西岸の戸ノ口原に設ける。援軍要請するも、城下には老人と子どもだけ。ということで、白虎隊が戸ノ口原に派遣されたわけではあるが、武運つたなく、ということで、このお山に逃れてきた、ということである。

■戸ノ口堰用水の水路を想う■

限られた時間ではあったが、今回の散歩で戸ノ口堰の一端を「掴んだ」。山間部の、荒れてはいるがスケールの大きな切通しの水路跡、里近くを下る未だ現役の用水路など、「飯盛山で見た弁天洞穴が戸ノ口堰と繋がる」、といっただけの情報から水路を逆にトレースし、成り行きで彷徨った割には、結構バッチリの用水路散歩ではあった。

水路をトレースし戸ノ口堰の用水路を作成
で、今回歩いたルートが戸ノ口堰の用水ルートの末端であろうと、猪苗代湖畔・戸ノ口から会津若松までの用水ルートを想う。地図を見ると、今回歩いたルートの先、高山からの尾根筋が突き出した先に水路が続く。
トレースすると水路は牛畑から吹屋山の東裾を進み、金掘集落に。金堀から烏帽子山に切れ込む沢筋を進み、沢筋の最奥部近くで反転し烏帽子山の西裾から沓掛峠近くの山麓を廻りこみを進み、山裾を蛇行しながら戸ノ口堰第一発電所の取水口に辺りに。
そこから御殿山の山麓(会津磐梯カントリークラブがある)を進み、鍋沼の南を走った後、北東に向かい、東電第一発電所への用水路かと思える水路を横切り、その水路と日橋川の間を蛇行しながら下り、猪苗代湖の戸ノ口と繋がる。

戸ノ口堰の開削経緯をもとに検証
これで戸ノ口堰のルートは完成、と思ったのだが、飯盛山の戸ノ口堰洞穴にあった説明、「寛永18(1641)年八田野村まで通水した」との説明と地理的に間尺に合わない。八田野村は、現在の会津若松市河東町八田野あたりかと推察されるので、トレースした水路の牛畑のはるか北にある。トレースした水路はどうみても通りそうにない。
戸ノ口堰の用水路の地図を探すが、これが全く見つからない。それではと、戸ノ口堰開削の経緯をもとに推定しようと、WEBをあれこれチェックすると、戸ノ口堰土地改良区のページに開削の歴史が記載されていた。そのページを以下引用する;

「戸ノ口堰土地改良区」のWEBページにある開削の歴史 
「戸ノ口堰は今から372年前、1623年に八田野村(現在の河沼郡河東町八田野)の肝煎、内蔵之助という人が、村の周辺に広がる広大な原野に猪苗代湖から水を引いて開墾したいと考え、時の藩主・蒲生忠郷公に願いでて、藩公が奉行・志賀庄兵衛に命じて開削に取りかかったというのが起源です。
それから2年くらいは藩の方で工事が行われましたが、財政難のため中止せざるを得ませんでした。その後、内蔵之助は工事の中止を憂い、自分の資材を投げ打ち2万人くらいの人夫を使い、途中の蟻塚まで開削しました。しかし、内蔵之助も個人ですので、資金がどうしても続かないということで、途中で中止しました。それでも開拓の志はどうしても捨てきれず、再び当時の藩主・加藤明成公に願いでて、また藩の方から工事の再開を認められました。それにより約15年かけて八田分水まで水を引くことが出来ました。その後、その時の功労を認められて、この内蔵之助という人は八田堰の堰守に任じられ、その土地の用水堰は「八田野堰」と名付けられました。
それからまた開削が進められ、1638年には鍋沼まで到達し、それから3年ほどかけて河東町の八田野まで支川として戸ノ口の水路を造り、その時に7つの新しい村が出来ました。これが第1期、第2期の工事になります。
第3期工事は、河沼郡槻橋村(今の河東町槻木)の花積弥市という人が、鍋沼から一箕の方を回った水路を造り、長原一箕町、長原の新田を開拓したいということで、また藩の方に申し出て行いました。
次の第4期工事で会津若松までつながるのですが、1693年に北滝沢村(今の一箕町北滝沢)の肝煎の惣治右衛門という人が、自分の近くの滝沢付近までいつも水を持ってきたいということで願いでて、開拓しました。長原新田から滝沢峠を通り、不動川の上を渡し、飯盛山の脇の水路を通って今の慶山の方まで持ってきたということになっています。当時の水路は猪苗代湖から会津若松まで約31kmあり、1693年には八田野堰から戸ノ口堰に改名されました
今まで、雁堰からの水を会津若松のお城、生活用水、防火用水等に使っていましたが、雁堰は湯川の水を入れているので日照り等があると渇水になります。そこで、会津藩としては、どうしても会津若松まで水を持ってきて、安定した水が欲しいというのが願いでした。
それから約200年以上経った1835年(天保6年)、時の藩主・松平容敬公が普請奉公を佐藤豊助に任命して、会津藩から5万5,000人を集めて戸ノ口堰の大改修が行われました。戸ノ口堰は1623年以降212年経過しており、山間部を通ってくるので、土砂崩れなどにより常時通水が出来なくなったということで、堰幅、深さを改造した。
それまでは、飯盛山の北西にある水路を通っていましたが、その時初めて飯盛山の洞窟約170mを掘りました。この洞窟には、慶応4年の会津戊辰戦争の時に戸ノ口原の戦いに敗れた白虎隊が逃げ帰ってきて、飯盛山の洞窟を通って飯盛山に登り、自害したという有名な話があります」とある。

この説明では用水ルートはわからない。わかることは、八田分水は鍋沼まで達していない以上、その手前になるだろうということ。次に、ルートははっきりしないが、戸ノ口堰は、河東町の八田野まで支川として開かれ、その時に7つの新しい村が出来た。これが第1期、第2期の開削の状況。 「戸ノ口堰は、河東町の八田野まで支川として開かれた時期は、「1638年には鍋沼まで到達し、それから3年ほどかけて」との説明があることから、それが飯盛山の戸ノ口堰洞穴の案内にあった「寛永18(1641)年八田野村まで通水した」と言う記述のことであろう。

そして、説明には、第3期には鍋沼から一箕の方を回った水路を造り、長原一箕町、長原の新田を開拓した、とある。長沼新田は現在の一箕町松長、長原辺りだろうと思う。
ここで「鍋沼から一箕の方を回った水路」とあるので、第1期、第2期に河東町の八田野まで支川として開かれた水路は、一箕方面ではなく、鍋沼の手前の八田分水から直接八田野に水路を開削したのかとも推定できる。実際、地図をみるとそれらしき水路跡が膳棚山の南から八田野に走る水路が見える。
第4期には「長原新田から滝沢峠を通り、不動川の上を渡し。。。」とあるので、この時期に一箕町松長、長原方面からの水路が本日歩いた水路と繋がったようである。

水路跡をトレースして作図した戸ノ口堰と、開削の歴史の記述が合わない 

以上、開削の経緯をチェックするも、用水は金堀集落とはるかに離れた箕町松長、長原辺りを走った、という記録だけである。地図にある水路をトレースして推定した金堀経由のルートとは「掠りも」しない。さてどうしたものか。これはもう、水路図をなんとか見つけるしか術はない。


国立国会図書館で用水ルート図発見●

ということで、日本で発行されたすべての出版物を保管する国立国会と図書館であればひょっとして、と「戸ノ口堰」で蔵書を検索する。
と、「猪苗代湖利水史」に「戸ノ口用水堰」とともに、「戸ノ口堰一覧図」という目次がヒットした。
「戸ノ口一覧図」が用水路ルートであることを祈り、永田町の国立国会図書館に出向き、PCで本文確認。そこには探していた用水路が描かれていた。本書はデジタルアーカイブされており、PDFで当該ページを印刷し、本文とルート図を見比べる。

水路跡をトレースした用水作図は戸ノ口堰の分流であった
本文には「この堰は十六橋の左岸にはじまり、大体標高514メートルの同高線を辿り、河沼郡河東村大字八田の大野原を蛇行し、鍋沼を経て「ノメリ橋」に至る。ここで一部は「金堀り廻り」の分水路となり、大部分は「ノメリ滝」を爆下し、石ヶ森から四ツ留までは「金山川」という渓流を流れ、四ツ留から再び人工水路となり、羽山や堂が作山の西麓を蛇行し、不動川を水路橋で渡り、飯盛山の西麓をめぐって流末は湯川に注いているのである」とあった。
これですっきりした。トレースしたのは「金堀り廻り」の分水路であり、本流は分水路のはるか北、人工の用水路から自然の川である金山川を活用し、羽山を越えた辺りで、現在の一箕町松長、長原へと向かい、高山の西裾で本日辿った金堀に続く水路筋に繋がっていた。また、八田分水も推定の通り、鍋沼の手前から北に向かって延びていた。

戸ノ口堰用水路作図
◆同書の地図をもとに戸口堰を作図する。一箕町松長、長原付近は宅地開発の影響か往昔の水路は途切れているため、地図はその区間直線とした。

◆八田分水は同書では途中までしか描かれていないが、作図では「八田野」まで辿れる水路をトレースした。これが正しい水路か否か不明であるが、とりあえず八田分水が八田野に繋がりそう、ということを自分に納得させるためでの作図である。

残る疑問
同書の本流は分水路の「金堀り廻り」と繋がっていない。が、現在の水路は繋がって見える。その理由は何だろう。発電用、上水用として使われ、その余水を現在でも会津盆地に流し、観光用・防火用・生活用水など現役として使われている戸ノ口堰の水は、発電用導水管で送水され、要所で分水しているわけで、戸ノ口堰の用水路からの水はそれほど重要ではないようにも思える。
そこでひっかかるのが、散歩の最初で出合った直線の人工水路に流れ込む激しい水勢の源がどこか、ということである。そのためには、今回時間切れで行けなかった、尾根を越えた先にある直線の水路の水勢がどの程度のものか確認し、判断することにすることが必要かと思う。
「金堀り廻り」の分水路の水量が豊かなものか、はたまた、地図では切れてしまったように見える一箕町松長、長原方面からの水路が地下を潜り、未だに豊かな水を供給しているのか、妄想は膨らむのだが、実際に行って確認するまで結論を保留しておくしかないだろう。

ともあれ、戸ノ口堰の用水路はなんとか把握できた。後は、ひたすら歩くのみである。
先回の散歩で川崎堀がふたつに分かれるそのひとつ、大師堀を川崎大師まで辿った。途中、知らず川崎宿の端を一瞬掠ったこともあり、川崎宿を歩こうか、との思いもあったのだが、結局は、大師堀の対となる町田堀を歩くことにした。 大師堀は、川崎堀からの分流付近に、一瞬だけ「親水公園」といった「水気」もあったのだが、ほとんどが暗渠・埋め立て跡を辿ることになった。
今回の町田堀も、分流点でも水が流れ込んでおらず、知らず鹿島田駅から歩いた町田堀も、その蛇行故に水路跡といった趣はあるも、「水気」なし。上流点がこの有様であれば、下流に水が流れているとも思えないが、二ヶ領用水散歩の「幹線」だけは、とりあえず辿ってみよう、との想いである。



本日のルート;大師堀・町田堀分流点>南武線を潜った川崎堀の出口>川崎堀踏切>大師堀と接近>JR鹿島田駅>「サウザンドシティ」>町田堀ふれあい公園>南武線を潜る>不自然に大きい道路>「町田堀・南河原用水分水点跡」の石柱>江ヶ崎堰跡>矢向二ヶ領公園>二ヶ領踏切>二ヶ領水路地跡の碑>曲がり>良忠寺>最願寺>日枝神社>南武線・尻手駅>南武線を潜る>ごみ処理場脇を進む>旧東海道・市場上町交差点>京浜急行・八丁畷駅



大師堀・町田堀分流点
メモは川崎堀が大師堀と町田堀の分流点からはじめる。また、メモは最寄りの駅である鹿島田駅辺りまでは、先回歩いた「大師堀」のメモをコピー&ペーストする。
南武線を潜った川崎堀は、10mほどコンクリートで護岸工事された水路の先で 鳥居型の遺構を残した川崎堀の終点となり、そこで右に町田堀、左に大師堀と分かれる。分かれるとは言いながら、町田堀へは水が流れている気配がない。また、大師堀に流れた水も暗渠へと吸い込まれる。
既にメモしたように、分流点の東にある平間配水所が、平間浄水場として機能していた頃は、ここに流れきた水は浄水場の水源として利用されたが、配水所となった現在、生田浄水場から送水される水を配水するだけであり、川崎堀をここまで流れてきた水は暗渠を通って多摩川に排水される、とのことである。 因みに、分流点にあった「鳥居」であるが、これは昔の水門(樋管)でよく使われた鳥居型門柱であり、神社の鳥居を模した、というより、昔の水門の遺構を飾りとして残しているのではないだろうか。

南武線を潜った川崎堀の出口
フェンスに囲まれた大師堀・町田堀分流点から少し上流に戻り、南武線下を潜ってきた川崎堀の出口に進む。コンクリートで護岸工事された用水出口を確認し、分流点に戻る。と、フェンスに鉄板の案内があり、道を隔てた東にある平間配水所についての説明があった。かつての平間浄水場、現在の平間配水所については何度かメモしているのだが、頭の整理のために再度説明文を掲載しておく。
●平間浄水場(現 川崎市上下水道局平間配水所)
我が国初の公営工業用水道水源 稲毛・川崎二ヶ領用水余剰水取水口跡 平間浄水場(現 川崎市上下水道局平間配水所)
平間浄水場は、我が国初の公営工業用水道事業として設立された。そのきっかけは、昭和初期の工業勃興期、臨海部での過剰な地下水くみ上げによる地盤沈下が問題となり、その対策としての代替水源確保にあった。
近くの鹿島田地内(幸区)を流れる稲毛・川崎二ヶ領用水の余剰水等1日2万7000立法メートルを取水し、鹿島田、木月、及び北加瀬(中原区)のさく井15ヶ所からの地下水1日5万4000立法メートルの水源をもって建設された。竣工は昭和14(1939)年7月で、当初は平間水源管理所と称していた。
平間浄水場はJR 鹿島田駅と平間駅のほぼ中間地点の川崎市中原区上平間1668番地に位置しており、設立から今日まで工業用水道専用の施設として、臨海部の京浜工業地帯に産業の血液ともいわれる工業用水を安定的に供給し続け、我が国工業の発展に寄与してきた。
その後、昭和48(1973)年のオイルショックを契機に、産業構造の変化に伴う水使用の合理化や工場移転等により、工業用水の需要が急速に減少した。さらに、二ヶ領用水の水質悪化や施設の老朽化で取水を停止していたが、平成15(2003)年に至り、木月・井田さく井の廃止もあり、浄水場としての機能を失うことになった。
その結果、名称も「浄水場」から「配水所」へと変更された。名称が変わっても、上水道から1日4万立法メートルの給水受入れ場所として、また長沢・生田の両浄水場から送水される工業用水の配水中継基地として、昼夜を問わず配水圧力及び水量の調整を行っており、川崎市の工業用水道にとって重要な役割を担っている。
なお、多摩区の稲田取水所では、現在でも二ヶ領用水から日量20万立法メートル(最大能力)を取水し、生田浄水場で工業用水に加工している。
また、平間配水所から配水される工業用水は、主に臨海部の企業、工場で、冷却水、ボイラー用水、洗浄水等に使用され、工業生産推進に貢献している。 二ヶ領用水竣工400年記念の日に
平成23(2011)3月1日
説明の中に「上水道から1日4万立法メートルの給水受入れ場所として」とあるが、これって初めての情報だが、平間配水所内に浄水入水井があり、原水は長沢浄水場及び生田浄水場から送水管で送られているように思える。

川崎堀踏切
分流点から南武線に沿って、水路跡を保護しているようなフェンスに囲まれた道を進むと府中街道に出る。そのすぐ西に南武線「川崎堀踏切」があり、石橋の欄干が踏切手前に残る。





町田堀の石碑
川崎堀踏切が南武線を渡る府中街道を南に越え、南武線に沿って鹿島田駅に続く道と府中街道のコーナーに「町田堀」の石碑がある。石碑には「町田堀は鶴見川北岸一帯(塚越、小田、渡田、江ヶ埼、矢向、市場、菅沢、潮田)の水田を灌漑する農業用水です。二ヶ領用水川崎堀は鹿島田堰の下流で大師河原方面に流れる大師堀(大師河原用水)とこの町田堀に分かれていました。
二ヶ領用水は、江戸時代の初め、徳川家康から新田開発の命を受けた小泉次太夫によって十四年の歳月をかけて慶長十六年(1611)に完成した、県内最古の農業用水です。
多摩区の中野島と宿河原から多摩川の水を取水し、JR南武線久地駅付近で合流した流れは分量樋(現在は昭和十六年築造の円筒分水「国登録有形文化財」)によって分水され、下流の村々の水田を潤しました。
二ヶ領用水の名は、江戸時代の川崎領と稲毛領の二領を流れていたことに由来しています。また、明治時代の初めには、二ヶ領用水から引いた水を開港場横浜の外国人居留地へ供給する、横浜水道にも利用されました。
町田堀は、近年の下流域の市街化に伴い、農業用水路としての本来の役割を終えることになりました。そこで町田堀跡を水の流れがイメージできる散策路として整備し(中略)後世に伝えることになりました」との説明があった。
●横浜水道
ここで気になる記述があった。「外国人居留地へ供給する横浜水道にも利用された」という箇所である。チェックすると、安政6年(1859)開かれた 横浜の外国人居留地へは当初、船で水を運んでいたようであるが、それも限界があり神奈川県は水道施設を計画。水源を多摩川・二ヶ領用水に求めることにした。 最初の案では久地の分量樋の下流辺りから延々32キロ引くことを考えた。
が、この案は距離の問題もさることながら、用水沿いの村からの了承を得ることが困難で、結局ずっと下流の鹿島田堰の下あたりから水を引くことになった。その見返りとして二ヶ領用水の管理費は県(横浜水道)が負担するということになる。
この水道事業に横浜の大商人達が興味を示し、出来たのが横浜水道である。明治4年(1871)に木樋建設に着手、明治6年(1873)民間事業としてスタートするも横浜水道は破たんする。
その最大の要因は漏水問題。当時は鉄管でなく木樋で水を通したため途中で半分位に水が減り経済的に成り立たず、また料金未払いも多く、結局翌7年(1874)、事業を神奈川県に引き継ぎ解散する。
神奈川県は水道事業を英国人パーマー氏に委託。明治16年(1883)より計画がスタートし明治20年(1887)完成。水源は道志川水系に求めることになった。これが鉄管を使った近代水道の始まりである。思いもかけず横浜水道みちに出合った相模台地散歩、水路橋を辿った「横浜水道みち散歩」が思い起こされる。

大師堀と接近
町田堀石碑の先は、緑道風に整備され、如何にも水路跡をイメージするような塗装が道に施されている。蛇行する道を進むと、二股に分かれ、水路跡の道筋は左手を進むことになる。
少し進むと、民家を一軒隔てて大師堀と町田堀が並走する場所がある。町田堀はその先も少し緑道っぽいペイントが施されているが、それもほどなく終り、普通の道となって鹿島田駅前からの道路に当たる。



JR鹿島田駅
駅の南は線路の両側とも再開発の高層住宅群が立ち並ぶ。一方今歩いてきた北側は昔ながらの家並みではある。
駅の名前は地名から。その地名は駅の西にある村の鎮守・鹿島田大神社から。鎌倉の頃、この地を開いた村人が鹿島神宮を勧請し、水田を社に寄進したことに拠る。鹿島の社の田、というところだろう。もとは、更に西、かつての「新鶴見操車場」の辺りにあったとのことだが、新鶴見操車場の建設に伴い、昭和2年(1927)に現在の地に移された。
●新鶴見操車場
新鶴見操車場が始動したのは昭和4年(1929)。発展著しい京浜工業地帯への原材料や製品などの貨物輸送ルートが焦眉の急となり、品川と鶴見駅を結ぶ貨物路線が建設され(品鶴線)、その貨物操車場としてスタートした。南武線が武蔵小杉で大きくカーブしているのは、元々の計画路線であった二ヶ領用水・府中街道沿いの敷設ルートが新鶴見操車場にあたるため、それを避けるべく大きく迂回した、とのことである。
京浜工業地帯の貨物輸送の幹線として、最盛時は1日5000両もの貨物を捌いたこの操車場も、鉄道輸送の需要減少に伴い昭和59年(1984)、信号所としての機能を残し、操車場の機能は廃止となった。
■JR新川崎駅
新鶴見操車場跡に新川崎駅がある。JR川崎駅とは結構離れており、名称も含めちょっと気になりチェック。昭和55年(1980)開業のこの駅は、当初「新鹿島田操車場」との案もあったようだが、この路線の開かれる契機が、混雑する東海道線から横須賀線を分けることにあった。貨物線として開かれた品鶴線をバイパス路線として活用し横須賀線を通す、といったこともあり、それなら品川と鶴見の間にある「川崎駅」の代替駅でしょうと、言うとこで「新川崎駅」となったようだ。
新川崎駅には開業時は横須賀線(横須賀・総武快速電車)が走ったが、平成13年(2001)からは湘南新宿ラインの列車も走るようになった。また、貨物列車も大半は新東海道貨物線や武蔵野線に移されたが、現在でも品鶴線から山手貨物線を経由して東海道と東北方面を結ぶ貨物列車も走っているとのことである。

因みに、貨物線として開かれた品鶴線であるが、この路線跡は新幹線の路線としても活用されている。新幹線建設時、用地確保が困難なため、品川から武蔵小杉辺りまでは品鶴線を活用し、武蔵小杉の先で東へと分かれる。前々から、品川を出た新幹線が何故に急なカーブで進むのか不思議ではあったのだが、これで長年の疑問が解消された。ものごとには、須(すべから)らく、その理由があるものである。

「サウザンドシティ」
町田堀は、鹿島田駅から東に延びる道路とクロスした後、道の南に建つはショッピングモール、クリニックを併設した大型マンション「サウザンドシティ」の敷地へと消える。
鹿島田駅周辺には高層マンションやビルが並ぶ。鹿島田駅と新川崎駅の間には「パークシティ新川崎」、そして2棟のツインビル「新川崎三井ビルディング」。1700余の戸数をもつ「パークシティ新川崎」の完成は昭和63年(1988)、「新川崎三井ビルディング」は平成元年(1989)、「サウザンドシティ」は平成16年(2004)。これらの駅前再開発は昭和55年(1980)、旅客線として開業し、東京<>横浜へのアクセスが容易となった新川崎駅が契機になったことは言うまでもないだろう。「今昔マップ 首都圏1965‐68」にはその敷地に工場のマークが見えるので、工場跡地を再開発したのだろう。
なお、新鶴見操車場跡は研究開発施設、公園、住居などからなる複合的な機能を持った、新しい街が生まれる計画とのことである。

町田堀ふれあい公園
親水公園らしき水辺が再現されるも、基本「サウザンドシティ」を潜ってきた町田堀は、町田堀ふれあい公園の南で暗渠となって姿を現す。南武線に沿った道の左右が色分けされているのが、如何にも「怪しい」。線路側の道の下を暗渠が通っているのだろう。






南武線を潜る
道を進むと、一直線に伸びた道路が一瞬斜め右に折れ、再び線路に沿って下る。町田堀はこの斜め右に折れた方向のまま、線路を潜っているようだ。線路を潜る手前に石の遺構のようなものが残る。何か水路に関係あるものだろうか。






不自然に大きい道路
踏切が近くにないため、大きく南に下り、踏切を越え、南武線の西側に渡り、五差路となった交差点を北に折れ町田堀が南武線を潜った先に進む。それにしても、不自然に大きな道である。下に水路があるサインのように思える。

「町田堀・南河原用水分水点跡」の石柱
一応、町田堀の南武線を潜った出口を確認し、来た道を戻り、五差路の交差点を如何にも水路跡らしきカーブをもつ南西に下る道を辿る。道なりに進むと道がふたつに分かれる。町田堀は右、左は南河原用水とのことである。分水点地点には「町田堀・南河原用水分水点跡」と刻まれた石柱がある。結構新しい。どうも幸区が建てたもののようである。
●南河原用水
「川崎市・二ヶ領用水マップ」に拠れば、この地で分かれた南河原用水は、しばらく南に下った後、流路を南東に変え、南武線・矢向駅辺りを経て第二京浜・都町交差点辺りで再び流路を変え、第二京浜に沿って下り、南武線尻手駅辺りへと下っているように見える。

江ヶ崎堰跡
分岐点を右に道を取り、先に進むと横須賀戦に近づく。最接近した辺りで道は南東に方向を変えるが、その角辺りに江ヶ崎堰があったようだ。現在は工場敷地となっており、その名残はない。
江ヶ崎堰跡辺りで、川崎市幸区塚越町から横浜市鶴見区矢向町に入る。江ヶ崎町は横須賀線の西側となっている。
●江ヶ崎堀
「川崎市・二ヶ領用水マップ」に拠れば、この地で分かれた江ヶ崎堀は、横須賀線を西に越え、江ヶ崎地域を南に下り、鶴見川の方向に下っているように見える。

矢向二ヶ領公園
江ヶ崎堰跡から南東へと、南武線矢向駅に続く道の最初の分岐で町田堀は南に折れる。その分岐点には南河原用水堰があったようだが、今はその痕跡はない。 分岐点を南に折れた直ぐのところに「矢向二ヶ領公園」があった。この公園の少し南辺りから南河原用水が南武線矢向駅方面へと向かっていたようである。





二ヶ領踏切
道なりに先に進むと踏切があり「二ヶ領踏切」とある。「尻手短絡線」と言う貨物線の線路であった。
●尻手短絡線
品鶴線(横須賀線)新鶴見信号場と南武線尻手駅を結ぶ貨物線。尻手駅は南武線の本線のほか、浜川崎駅方面の支線(浜川崎支線、旅客案内では「南武支線」)が繋がっており、浜川崎支線・尻手短絡線を経由して、新鶴見信号場 と浜川崎・川崎貨物・東京貨物ターミナル駅方面を結ぶ貨物列車が走り、また機関車の回送が行われているようだ。

二ヶ領水路地跡の碑
道を進み、矢向小学校の北側からの道とクロスする地点に石柱が建つ。「NPO 多摩川エコミュージアム 散策こみち案内」に拠れば、「この辺りの旧町田堀跡地が、1972(昭和47)年に払い下げとなり、道路と緑地帯に整備された。その一角に、用水堀に架かっていた橋の石材を利用して、水路跡地の記念碑として建てられた。碑石の片隅に「紀元二千五百五十年明治二十六年十一月、町田村矢向ほか下郷村々と刻まれている」とある。因みに紀元二千五百五十年とは、西暦とは異なり、神話上の初代天皇とされる神武天皇即位から数えて2550年、ということである。
二ヶ領水路地跡の碑の脇に「稲毛・川崎二ヶ領用水路」の説明とラフな水路図があるが、特に目新しいこともないので説明文は省略する。



曲がり
道は矢向幼稚園の先、直進路は細路となり、T字路といった趣の道となる。かつて町田堀は、このT字路で右の良忠寺方面へと曲がっており、この「曲がり」と称されるコーナーには良忠寺の石橋があったようだ。






良忠寺
「准秩父三十四観世音菩音霊場 午歳開帳」と書かれた、幾多の赤い幟の間を境内に。本堂にお参りし、12年に一度の御開帳となっている如意輪観音を拝観に観音堂に。延享4年(1747)創建の観音堂の石段を上り観音さまにお参りする。 赤い幟にあった「准秩父三十四観世音菩音霊場」とは、横浜・川崎にある観音巡礼する札所霊場。良忠寺は十六番霊場であった。




●じざう橋跡
境内に二ヶ領用水に架かっていた地蔵橋の親柱が残るとのこと。境内を彷徨うと、矢止め地蔵堂の少し前に、少し土に埋もれた橋柱が残り、「じざうはし」と刻まれていた。
●矢止め地蔵堂
「NPO 多摩川エコミュージアム 散策こみち案内」に拠れば、矢止め地蔵堂には新田義貞にまつわる伝説が伝わる、と。元弘3年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めのとき、鎌倉の北条勢と鶴見で合戦となる。この合戦で義貞の嫡子義興が矢口の渡しで「地蔵菩薩」の名号を記した強弓を引く。その矢は塚越の塚を越え、この矢向まで飛び、老松の幹に突き当たった、と。で、如何なるロジックか不明だが、地元人はその松の下に地蔵を祀り、矢止め地蔵と名付けたとのことである。また、それまで「夜光村」と呼んでいた地名を、矢が向かったことから、「矢向村」とし、矢が塚を越した辺りを「塚越」としたとのことである。
■塚越
塚越は良忠寺のある矢向地区の北。どうでもいいことだけど、矢が越した「塚」って本当にあるの?チェックすると多摩川沿いの地であるのに珍しく古墳が塚越2-18辺りに、また塚越1-6 御嶽神社のところにも塚があるとのことであった。地名の由来も、矢が塚を越したとの説のほか、往還道が二つの塚を越して行くからとか、そもそもが塚越の越は「腰」と表記されることもあり、それゆえに塚の腰=塚の下辺部からとも説もあるようだ。地名の由来に定説なしが誠に多い。

●身代わり地蔵
このお寺さまには、奇端譚としてよく聞くパターンではある、身代わり地蔵の話も伝わる。継母が先妻の子供を邪魔で殺し亡骸を隠す。が、子供は無事に継母の前に現れ、亡骸を隠したところにはお地蔵様が横たわっていた。継母は行いを悔い改め、夫はそのお地蔵様を良忠寺に奉納した。
で、この話には後日談があり、先妻の子・寅吉は江戸日本橋の漬物問屋に奉公に出される。寅吉は良く働き店の主人の婿となる。その寅吉から数えて9代目・大木寅吉は「福神漬け」を考案。7種の漬物のカスを集めたものであり、七福神にあやかった命名と言う。時は日清日露戦役の頃。日持ちもよく、幸運を呼ぶ名前故に軍より大量の買い付けをうけ、大商いになった、とか。先ほどメモした観音堂の改築に貢献したとのことである。

ありがたいお話の残るこのお寺様の由緒について、境内の石碑にその案内があり、「記主山 然阿院 良忠寺 由緒沿革 鎌倉時代仁治元年(1240)浄土宗第三代然阿良忠が霊夢により古川(現鶴見川)の岸より薬師如来の尊像を得て、これを安置するために起立したのが良忠寺の草創である。
良忠上人は鎌倉大本山光明寺を開き、多数の書物を著し、為に正応6年(1293)良忠上人七回忌にあたり伏見天皇より記主禅師の号を賜り、以来寺の山号を記主山と称す。
正徳2年(1712)5月、祐天上人により京都総本山知恩院の直末寺院に配せられ、良忠寺41世讃誉徹玄上人に、祐天上人の助縁により本堂等を改築、明和6年4月(1769)には梵鐘、山門等が再建された。
第二次世界大戦において、明和6年鋳造の梵鐘は他の仏具共々供出されるが、昭和25年11月に時の内閣総理大臣吉田茂氏揮毫による梵鐘如雷震八音暢妙響の八文字を梵鐘に鋳込み再建された(後略)」と刻まれる。

●良忠上人
案内を読むに、良忠寺は浄土宗第三代の高僧が起立し、謚号の記主、諱の然阿(ねんな)、そしてその名前をそのまま残す由緒あるお寺さまであった。記主とは聞きなれない言葉だが、仏教用語で「その宗派の重要な経綸について、規範的な注釈をした人」とある。平たく言えば、その宗派の教義を説く第一人者、というところだろうか。
鎌倉中期、島根の生まれ。比叡山で受戒し天台・倶舎・法相・禅・律などを学んだ後故郷に戻るも、九州で布教中の浄土宗第二代弁長の弟子となり、その力を認めら事実上の後継者となる。
一度故郷に戻り安芸地方の布教に努めた後、京から信濃、そして下総での布教に努め、その後鎌倉に入りその不動の名声を得るところとなる。鎌倉での基盤を強固とした後、京における浄土教学の弱体化を憂う弟子の要望で上洛し、在京11年、布教・教義著述に努め、鎌倉に戻り89歳で入寂した。記主禅師の謚号は滅後7年の永仁元年(1293年)に伏見天皇より贈られたものである。
■祐天上人
Wikipediaに拠れば、「祐天は陸奥国(後の磐城国)磐城郡新妻村に生まれ、12歳で増上寺の檀通上人に弟子入りしたが、暗愚のため経文が覚えられず破門され、それを恥じて成田山新勝寺に参篭。不動尊から剣を喉に刺し込まれる夢を見て智慧を授かり、以後力量を発揮。5代将軍徳川綱吉、その生母桂昌院、徳川家宣の帰依を受け、幕命により下総国大巌寺・同国弘経寺・江戸伝通院の住持を歴任し、正徳元年(1711年)増上寺36世法主となり、大僧正に任じられた。晩年は江戸目黒の地に草庵(現在の祐天寺)を結んで隠居し、その地で没した。享保3年(1718年)82歳で入寂するまで、多くの霊験を残した。
◆累ヶ淵の説話
祐天の奇端で名高いのは、下総国飯沼の弘経寺に居た時、羽生村(現在の茨城県常総市水海道羽生町)の累という女の怨霊を成仏させた累ヶ淵の説話である。この説話をもとに多くの作品が創作されており、曲亭馬琴の読本『新累解脱物語』や、三遊亭円朝の怪談『真景累ヶ淵』などが有名である」とある。
多くの寺の建立・再建に尽力したようであり、このお寺さまもそのひとつだろうか。
■吉田茂
吉田茂が何故に?大磯の別邸への行き帰り、昭和27年(1952)、「国道1号」と命名された尻手駅の脇を通る国道を利用していたわけで、なんらかの縁があっても不思議ではない。

最願寺
良忠寺を離れ、すぐ横の最願寺に。良忠寺隅を曲がった町田堀は、良忠寺山門前で再び流路を左に切り、最願前の通りを下る。
山門を潜り、本堂にお参り。境内に「最願寺の板碑」の案内があり、「最願寺は、延慶山実相院といい、浄土真宗に属し、創立は延慶元年(1308)と伝えられ、開基は宇多源氏源三秀義の末流宗重といわれています。
はじめは真言宗でしたが、慶長年間(1596-1614)に祐源が、東本願寺の如上人に帰依し真宗に改め、元禄10年(1697)第6世良賢が西本願寺派第14代寂如上人に帰参し現在にいたっています。
本堂前の碑は、緑泥片岩の本格派板碑で、碑高165センチ彌陀三尊の種字及び観無量寿経の一説、「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」と、延慶2年(1309)2月9日の銘があります。
この板碑は、当山開山の墓碑とも伝えられ、鎌倉時代後期の造立として貴重なものです。『新編武蔵風土記稿』には「古碑一基。境内墓所の入口にあり。青石の板碑にて長四尺余、幅一尺許なり。延慶二年二月九日と記せり。寺傳に往古真言宗なりし時の開山の墳なりといへり(鶴見区役所)」とあった。
●種字(しゅじ)
種字って?チェックすると、密教において、仏尊を象徴する一音節の呪文(真言)を種子といい、それを梵語で表記したものを種子字または種字と称するようだ。板碑の上部方形の輪郭内に阿弥陀三尊の種字、中央下に年号、両側に光明真言偈を四行に彫出する、とのことだが、門外漢にはよくわからなかった。
●白衣観音
「NPO 多摩川エコミュージアム 散策こみち案内」には、白衣観音の話が説明されていた。説明に拠ると、「白衣観音といい、もと日枝神社の本地仏で御神体。神仏混淆時代の名残だ。かつて多摩川が矢向の内を流れていたころ、日枝神社の裏手付近に漂着した。夜だったので、川面に光を放っているのを見て、村人が不思議に思い、拾い上げると、座像の美しい白衣観音だった。最願寺に届けられ、山王社の御神体になったという。いまは、最願寺の本堂に安置されている」とあった。
■日枝山王権現
最願寺に届けられたのは、神仏混淆の時代、最願寺が日枝神社(山王権現)の別当であったためであろう。因みに、山王権現=日枝(日吉)山王権現って、、神+仏+神仏習合の合作といった命名法。日吉(日枝)は、もともと比叡山(日枝山)にあった山岳信仰の神々のこと。日枝(日吉)の神々がいた。次いで、伝教大師・最澄が比叡山に天台宗を開き、法華護持の神祇として山王祠をつくる。山王祠は最澄が留学修行した中国天台山・山王祠を模したもの。ここで、日吉の神々と山王(仏)が合体。権現は仏が神という仮(権)の姿で現れている、という意味。つまりは、仏さまが日吉の神々という仮の姿で現れ、衆生済度するということである。
■夜光村から矢向村へ
夜に光輝く白衣観音を山王権現(現、日枝神社)に祀(まつ)ったことから、この地を「夜光村」と成したが、その後、良忠寺の矢止め地蔵の話にあった、矢が向かったことから「矢向村」へとした、と言う。ちょっと出来過ぎ?「矢向」とは「川の合流するところ」というのが、矢向の字義とする説がある。

日枝神社
最願寺の北にある日枝神社にちょっと立ち寄り。一の鳥居、二の鳥居を潜り社殿にお参り。
「NPO 多摩川エコミュージアム 散策こみち案内」には、「寛永15年(1638)の創建で、古くは矢向・市場・塚越・古川・下平間・上平間など7ヶ村の鎮守だった。天保年間の末ころに、各村は分離して、矢向村だけの鎮守となった。明治6年(1873)に山王社を日枝神社と改称、明治42年(1909)には付近の十二天神社、神明社、稲荷社を合祀した」とあった。

南武線・尻手駅
最願寺を離れ、道なりに進む。水路の名残を残すような蛇行道を進むと南武線・尻手駅前を東西に通る県道140号とクロスする。場所は駅の少し西の交差点である。
●尻手駅
南武線・尻手駅は上でメモしたように品鶴線(横須賀線)新鶴見信号場と南武線尻手駅を結ぶ貨物線である尻手短絡線の始点。
品鶴線(横須賀線)新鶴見信号場と南武線尻手駅を結ぶ貨物線。尻手駅で浜川崎駅方面の支線(浜川崎支線、旅客案内では「南武支線」)と繋がり、浜川崎支線・尻手短絡線を経由して、新鶴見信号場 と浜川崎・川崎貨物・東京貨物ターミナル駅方面を結ぶ貨物列車が走り、また機関車の回送が行われている。
■尻手の「泣き別れ」
それはともあれ「尻手」って地名にフックがかかる。チェックすると、地名の由来はそれほど色気があるものではなく、尻=最後、手=方向、ということで、「ある地域の端」と言うことになる。ある地域は比定できず、多摩川とも矢向村とも言う。
で、尻手の地名の由来をチェックしていると、尻手駅は川崎市幸区南幸町にあり、尻手町は尻手駅の南の横浜市鶴見区となっている。要は尻手駅は尻手町に無い、ということである。
同じようなケースに東京の品川駅が品川区ではなく港区に、目黒駅が目黒区ではなく品川区にあることを想い起す。品川駅は、品川区が出来る前から、"品川"という名称を名乗っていたためであり、 目黒駅は路線に近い目黒川との関連性が強い、といったように、その成り立ちは様々であるが、この尻手はどういった経緯かチェックする。
と、尻手駅が開業したのは昭和2年(1927)。当時、この地は橘樹郡鶴見町市場字尻手と呼ばれており、駅名は字名から取られた駅名であろうか。駅の所在地はその後、横浜市に編入され鶴見区市場町となるも、昭和19年(1944)以降は、川崎市に編入され所在地は南幸町となっている。この時点で尻手町と言う町名は川崎からも横浜からも消え去っている。
で、尻手町が「再浮上」したのは昭和43年(1968)のこと。横浜市鶴見区の市場町と矢向町の一部が分かれ尻手町が生まれた。これが、尻手駅の駅名と地名の泣き別れの理由である。パターンとしては品川駅に近いよう。

南武線を潜る
道なりに進む。如何にも水路跡といった「曲がり」の道を進み、国道1号・第二京浜を越えると南武線手前で道はふたつに分かれるが、町田堀は左の南武線を潜る道のようである。







ごみ処理場脇を進む
南武線を越え広い道を進み、川崎市環境局堤根処理センター(ごみ処理場)の塀に沿ってT字に右に曲がり、南武線の高架を潜り、ヨネッティ(ごみ処理の「余熱」の洒落とコミュニティ・アメニティの「ティ」を組み合わせた命名)堤根という温水プールの先で直角に曲がり大きな道に出る。道のさきには東海道線の踏切があった。

旧東海道・市場上町交差点
東海道線の踏切辺りでは水路の名残はまったくないのだが、踏切を越えた左手にある自動車教習所の南から、なんとなく水路っぽい道が八丁畷駅から西に鶴見へと続く道の「市場上町」交差点にあたる。「川崎市・二ヶ領用水マップ」に拠れば、「町田堀」はこの辺りで終り、その先は「菅沢潮田用水」として二つに分かれているように見える・
●菅沢潮田用水
「川崎市二ヶ領用水マップ」に拠れば、旧東海道・市場上町交差点で二つに分かれた菅沢潮田用水のうち、左に分かれた用水は、南に下り菅沢地区、潮田地区を経て海に向かう。一方右に分かれた菅沢潮田用水は国道15号・第一京浜の辺りで3つの流れに分かれる。
左手の用水は「菅沢潮田用水(仮に「菅沢潮田用水2」とする)」として、旧東海道・市場上町交差点で分かれた菅沢潮田用水に並行して、菅沢地区、潮田地区へと南に下る。真ん中の用水は「小田堀」として南東の小田地区へと向かう。小田水門跡といった交差点もあるので、その辺りへと流れていったのだろう。
そして右手に分かれた用水は「池田堀」として南武線・川崎新町方面へと向かい、渡田地区を潤した後、再び流路を南西に変え、南武線を西に越え田辺新田辺りへと続いているようである。

京浜急行・八丁畷駅
本日の散歩お終い。南武線・八丁畷駅へと向かう。駅脇に石塔が建ち、「八丁畷の由来と人骨」 の案内があり、、「江戸日本橋を出発点とする東海道は、川崎宿を過ぎてから隣の市場村(現在の横浜市鶴見区尻手・元宮・市場の辺り)へいたります。この区間は八丁(約八七〇メートル)あり、畷といって、道が田畑の中をまっすぐにのびていましたので、この地を八丁畷と呼ぶようになりました。
八丁畷の付近では、江戸時代から多くの人骨が発見され、戦後になっても、道路工事などでたびたび掘り出され、その数は十数体にも及びました。これらの人骨は、東京大学の人類学の専門家によって科学的に鑑定され、江戸時代ごろの特徴を備えた人骨であることが判明しました。 江戸時代の記録によりますと、川崎宿では震災や大火・洪水・飢饉・疫病などの災害にたびたび襲われ、多くの人々が落命しています。おそらく、そうした災害で亡くなった身元不明の人々を、川崎宿のはずれの松や欅の並木の下にまとめて埋葬したのではないでしょうか。
不幸に して落命した人々の霊を供養するため、地元では昭和九年、川崎市と図ってここに慰霊塔を建 てました」とあった。
往昔は田畑の中を真っ直ぐ延びた八丁の畷は今は住宅が立ち並び、その面影は何もない。京浜急行・八丁畷駅に到着。と、東西に走る京浜急行以外に、南北に走る路線、東海道線に向かって弧を描く路線がある。チェックすると、南北に走る路線は南武線、弧を描く路線は東海道貨物線であった。
●東海道貨物線
Wikipediaに拠れば、「東海道貨物線(とうかいどうかもつせん)は、東京都港区の浜松町駅と神奈川県小田原市の小田原駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)東海道本線の貨物支線および複々線区間、南武線の貨物支線の通称である」とある。が、実際は浜松町駅から東京貨物ターミナルまでは現在休止中であり、東京貨物ターミナルを出るとすぐトンネルに入り、川崎貨物ターミナル手前で地上に出る。川崎貨物ターミナルから浜川崎駅に進み、浜川崎駅からは八丁畷駅までは南武線浜川崎支線(南武支線)の区間となり、川崎新町駅までは旅客電車と線路を共用し川崎新町駅構内で東海道貨物線の線路から南武線の線路が分岐することになる。
この先、八丁畷駅までは複線の東海道貨物線と単線の南武線との3線で進み、八丁畷駅から南武線と分かれ、東海道線・京浜東北線に向かって弧を描き、東海道線・京浜東北線並行する。そして右側から品鶴貨物線が各線を跨ぎ、鶴見川を渡った先で東海道貨物線と合流。鶴見駅に至る。鶴見駅は京浜東北線と鶴見線のみに旅客ホームがあるが、東海道貨物線と品鶴貨物線・高島線が分岐するジャンクションとなっている。

二ヶ領用水も稲田堤から二ヶ領本線を下り、久地の円筒分水から川崎堀を鹿島田まで南下し、そこでふたつに分かれる大師堀と町田堀を、川崎の臨海部まで辿った。途中いくつか気になる二ヶ領支川があるのだが、次回は大師堀散歩の時に一瞬掠り、また町田堀で知らず出合った東海道「川崎宿」を六郷橋から八丁畷まで歩いてみようと思う。また、時間次第ではあるが、町田堀散歩で登場した「小田水門跡」が如何なる風情の地か歩いてみようとも思う。

二ヶ領用水散歩も上河原堰からはじめ、二ヶ領本川を下り、宿河原堰からの用水合流点を経て、久地の円筒分水に。そこから本流である川崎堀が大師堀と町田堀に分かれる鹿島田の分岐点まで下った。
今回は鹿島田の分岐から大師堀を川崎大師方面へと辿ることにする。「NPO 多摩川エコミュージアム 散策こみち案内」に拠れば、大師堀は大師河原用水とも呼ばれ、その先は古川・戸手・幸町(幸区)などを抜けて、東海道を渡り、旧川崎町や旧大師河原村(以上川崎区)一帯の水田を潤していた。
また、下流地帯には、出来野川、観音川、新川、竜飛川などの小河川があり、いずれも二ヶ領用水の悪水堀の役割を果たしていた」とあった。

古川は鹿島田分岐点から南東に進んだ府中街道の手前一帯、戸手は府中街道と国道1号・第二京浜が交差する辺り、幸町は国道1号を少し南に下った一帯である。また、出来野川は比定できないが、明治の地図には川崎大師の南に東西に走る水路らしき筋がありそこに「出来野」とある。観音川は現在の川崎貨物駅の南、JFEスティール工場東辺りを流れていたよう。新川はJR川崎駅の南、第一京浜の新川橋交差点から南に延びる新川通には、かつて「新川堀」が流れていたとのこと。竜飛川は不明(天飛川という悪水堀は渡田村(鶴見線浜川崎付近)にあったようだ)。
大師堀は川崎大師辺りで終ることなく、支流・細流がいくつも別れ、悪水堀となって海に流れ込んでいるようだ。元より、昔の海岸線は臨海工場地帯となっており、どこまで辿れるかよくわからないが、とりあえず地形の「ノイズ」を頼りに流路跡を歩いてみようと思う。


本日のルート;JR鹿島田駅>川崎堀踏切>大師堀・町田堀分流点>南武線を潜った川崎堀の出口>平間緑道公園>日本最初の工業用水の案内>府中街道と交差>大師堀の案内>「サウザンドシティ」の東を水路が下る>古川の石井家>下平間古川小向悪水>戸手浄水場跡>戸手前河原悪水>東海道本線六郷川橋梁>五ヶ村悪水>京浜急行電鉄・六郷川鉄橋>京急大師線>中島堀>旧東海道・川崎宿>六郷橋>「長十郎梨のふるさと」の案内>「明治天皇六郷渡御碑」>「川崎大師の石灯籠」>「史跡 東海道川崎宿 六郷の渡し」>京浜急行大師線・港町駅>医王寺>鈴木町駅前>若宮八幡>川崎大師平間寺




JR鹿島田駅
川崎堀が大師堀と町田堀に分かれる分岐点最寄りの駅であるJR南武線・鹿島田駅に。駅の南は線路の両側とも再開発の高層住宅群が立ち並ぶ。一方北は昔ながらの家並みではある。
駅の名前は地名から。その地名は駅の西にある村の鎮守・鹿島田大神社から。鎌倉の頃、この地を開いた村人が鹿島神宮を勧請し、水田を社に寄進したことに拠る。鹿島の社の田、というところだろう。もとは、更に西、かつての「新鶴見操車場」の辺りにあったとのことだが、新鶴見操車場の建設に伴い、昭和2年(1927)に現在の地に移された。
●新鶴見操車場
新鶴見操車場が始動したのは昭和4年(1929)。発展著しい京浜工業地帯への原材料や製品などの貨物輸送ルートが焦眉の急となり、品川と鶴見駅を結ぶ貨物路線が建設され(品鶴線)、その貨物操車場としてスタートした。南武線が武蔵小杉で大きくカーブしているのは、元々の計画路線であった二ヶ領用水・府中街道沿いの敷設ルートが新鶴見操車場にあたるため、それを避けるべく大きく迂回した、とのことである。
京浜工業地帯の貨物輸送の幹線として、最盛時は1日5000両もの貨物を捌いたこの操車場も、鉄道輸送の需要減少に伴い昭和59年(1984)、信号所としての機能を残し、操車場の機能は廃止となった。
■JR新川崎駅
新鶴見操車場跡に新川崎駅がある。JR川崎駅とは結構離れており、名称も含めちょっと気になりチェック。昭和55年(1980)開業のこの駅は、当初「新鹿島田操車場」との案もあったようだが、この路線の開かれる契機が、混雑する東海道線から横須賀線を分けることにあった。貨物線として開かれた品鶴線をバイパス路線として活用し横須賀線を通す、といったこともあり、それなら品川と鶴見の間にある「川崎駅」の代替駅でしょうと、言うとこで「新川崎駅」となったようだ。
新川崎駅には開業時は横須賀線(横須賀・総武快速電車)が走ったが、平成13年(2001)からは湘南新宿ラインの列車も走るようになった。また、貨物列車も大半は新東海道貨物線や武蔵野線に移されたが、現在でも品鶴線から山手貨物線を経由して東海道と東北方面を結ぶ貨物列車も走っているとのことである。

因みに、貨物線として開かれた品鶴線であるが、この路線跡は新幹線の路線としても活用されている。新幹線建設時、用地確保が困難なため、品川から武蔵小杉辺りまでは品鶴線を活用し、武蔵小杉の先で東へと分かれる。前々から、品川を出た新幹線が何故に急なカーブで進むのか不思議ではあったのだが、これで長年の疑問が解消された。ものごとには、須(すべから)らく、その理由があるものである。

府中街道・川崎堀踏切
鹿島田駅から先回の散歩で終了した地点である、川崎堀が大師堀と町田堀に分流する地点へと向かう。東口に下り、商店街を進むと、如何にも水路跡らしき道筋に出合う。水の流れをイメージした塗装が施され、駅からの道の一筋東を南に進む道筋を見遣りながら水路跡らしき道を進むと、先回の散歩で辿った「川崎堀」踏切に当たる。古き石橋の欄干が踏切手前に残る。
その水路跡らしき道が府中街道とクロスする角に石碑があり「町田堀(町田用水)」とあった。如何にも水路跡らしき道筋は町田堀跡であった。 思わず知らず町田堀跡に出合ったが、今回は大師堀散歩の予定。町田堀歩きは次回以降とし、大師堀と町田堀の分流点へと進む。
町田堀
石碑にあった町田堀の案内をメモする;町田堀は鶴見川北岸一帯(塚越、小田、渡田、江ヶ埼、矢向、市場、菅沢、潮田)の水田を灌漑する農業用水です。二ヶ領用水川崎堀は鹿島田堰の下流で大師河原方面に流れる大師堀(大師河原用水)とこの町田堀に分かれていました。
二ヶ領用水は、江戸時代の初め、徳川家康から新田開発の命を受けた小泉次太夫によって十四年の歳月をかけて慶長十六年(1611)に完成した、県内最古の農業用水です。
多摩区の中野島と宿河原から多摩川の水を取水し、JR南武線久地駅付近で合流した流れは分量樋(現在は昭和十六年築造の円筒分水「国登録有形文化財」)によって分水され、下流の村々の水田を潤しました。
二ヶ領用水の名は、江戸時代の川崎領と稲毛領の二領を流れていたことに由来しています。また、明治時代の初めには、二ヶ領用水から引いた水を開港場横浜の外国人居留地へ供給する、横浜水道にも利用されました。
町田堀は、近年の下流域の市街化に伴い、農業用水路としての本来の役割を終えることになりました。そこで町田堀跡を水の流れがイメージできる散策路として整備し(中略)後世に伝えることになりました。
●横浜水道
ここで気になる記述があった。「外国人居留地へ供給する横浜水道にも利用された」という箇所である。チェックすると、安政6年(1859)開かれた 横浜の外国人居留地へは当初、船で水を運んでいたようであるが、それも限界があり神奈川県は水道施設を計画。水源を多摩川・二ヶ領用水に求めることにした。
最初の案では久地の分量樋の下流辺りから延々32キロ引くことを考えた。 が、この案は距離の問題もさることながら、用水沿いの村からの了承を得ることが困難で、結局ずっと下流の鹿島田堰の下あたりから水を引くことになった。その見返りとして二ヶ領用水の管理費は県(横浜水道)が負担するということになる。
この水道事業に横浜の大商人達が興味を示し、出来たのが横浜水道である。明治4年(1871)に木樋建設に着手、明治6年(1873)民間事業としてスタートするも横浜水道は破たんする。
その最大の要因は漏水問題。当時は鉄管でなく木樋で水を通したため途中で半分位に水が減り経済的に成り立たず、また料金未払いも多く、結局翌7年(1874)、事業を神奈川県に引き継ぎ解散する。
神奈川県は水道事業を英国人パーマー氏に委託。明治16年(1883)より計画がスタートし明治20年(1887)完成。水源は道志川水系に求めることになった。これが鉄管を使った近代水道の始まりである。思いもかけず横浜水道みちに出合った相模台地散歩、水路橋を辿った「横浜水道みち散歩」が思い起こされる。



大師堀・町田堀分流点
線路脇に続くフェンスで囲まれた水路跡の中を先に進むと鳥居型の遺構を残した川崎堀の終点、大師堀・町田堀の分流点に到着する。分流点では右に町田堀、左に大師堀と分かれる。分かれるとは言いながら、町田堀へは水が流れている気配がない。また、大師堀に流れた水も暗渠へと吸い込まれる。
既にメモしたように、分流点の東にある平間配水所が、平間浄水場として機能していた頃は、ここに流れきた水は浄水場の水源として利用されたが、配水所となった現在、生田浄水場から送水される水を配水するだけであり、川崎堀をここまで流れてきた水は暗渠を通って多摩川に排水される、とのことである。 因みに、分流点にあった「鳥居」であるが、これは昔の水門(樋管)でよく使われた鳥居型門柱であり、神社の鳥居を模した、というより、昔の水門の遺構を飾りとして残しているのではないだろうか。

南武線を潜った川崎堀の出口
フェンスに囲まれた大師堀・町田堀分流点から少し上流に戻り、南武線下を潜ってきた川崎堀の出口に進む。コンクリートで護岸工事された用水出口を確認し、分流点に戻る。と、フェンスに鉄板の案内があり、道を隔てた東にある平間配水所についての説明があった。かつての平間浄水場、現在の平間配水所については何度かメモしているのだが、頭の整理のために再度説明文を掲載しておく。
●平間浄水場(現 川崎市上下水道局平間配水所)
我が国初の公営工業用水道水源 稲毛・川崎二ヶ領用水余剰水取水口跡 平間浄水場(現 川崎市上下水道局平間配水所)
平間浄水場は、我が国初の公営工業用水道事業として設立された。そのきっかけは、昭和初期の工業勃興期、臨海部での過剰な地下水くみ上げによる地盤沈下が問題となり、その対策としての代替水源確保にあった。
近くの鹿島田地内(幸区)を流れる稲毛・川崎二ヶ領用水の余剰水等1日2万7000立法メートルを取水し、鹿島田、木月、及び北加瀬(中原区)のさく井15ヶ所からの地下水1日5万4000立法メートルの水源をもって建設された。竣工は昭和14(1939)年7月で、当初は平間水源管理所と称していた。
平間浄水場はJR 鹿島田駅と平間駅のほぼ中間地点の川崎市中原区上平間1668番地に位置しており、設立から今日まで工業用水道専用の施設として、臨海部の京浜工業地帯に産業の血液ともいわれる工業用水を安定的に供給し続け、我が国工業の発展に寄与してきた。
その後、昭和48(1973)年のオイルショックを契機に、産業構造の変化に伴う水使用の合理化や工場移転等により、工業用水の需要が急速に減少した。さらに、二ヶ領用水の水質悪化や施設の老朽化で取水を停止していたが、平成15(2003)年に至り、木月・井田さく井の廃止もあり、浄水場としての機能を失うことになった。
その結果、名称も「浄水場」から「配水所」へと変更された。名称が変わっても、上水道から1日4万立法メートルの給水受入れ場所として、また長沢・生田の両浄水場から送水される工業用水の配水中継基地として、昼夜を問わず配水圧力及び水量の調整を行っており、川崎市の工業用水道にとって重要な役割を担っている。
なお、多摩区の稲田取水所では、現在でも二ヶ領用水から日量20万立法メートル(最大能力)を取水し、生田浄水場で工業用水に加工している。
また、平間配水所から配水される工業用水は、主に臨海部の企業、工場で、冷却水、ボイラー用水、洗浄水等に使用され、工業生産推進に貢献している。 二ヶ領用水竣工400年記念の日に
平成23(2011)3月1日

説明の中に「上水道から1日4万立法メートルの給水受入れ場所として」とあるが、これって初めての情報だが、平間配水所内に浄水入水井があり、原水は長沢浄水場及び生田浄水場から送水管で送られているように思える。

平間緑道公園
大師堀・町田堀の分流点から大師堀散歩をはじめる。先に進むとほどなく親水公園といった趣の道となる。小川も流れるこの親水公園は「平間緑道公園」と呼ばれる。小川を流れる水は川崎堀を流れてきた水をポンプアップして流しているようである。






日本最初の工業用水の案内
緑道を進むと「川崎歴史ガイド日本最初の工業用水の案内」のパネルがあり、 「鳥居のところで用水は大師堀と町田堀に分水。昭和十四年わが国最初の公営の工業用水として1日2万7千トンの取水が行われ、平間浄水場から臨海部の工場地帯に供給された」とあった。





府中街道と交差
その先で府中街道と交差。道の東には「川崎堀」踏切が見える。府中街道を越えると緑道は消え、民家の軒先を進むことになる。その直ぐ東は町田堀跡の道筋が下る。







大師堀の案内
民家の軒先を進んだ大師堀の細流は浄水場交差点から南に下る道路脇にでる。その細流がJR南武線・鹿島田駅から西に延びる道と交差する少し手前に大師堀の案内があった。
案内には「二ヶ領用水の建設は、徳川家康の命を受けた代官小泉次太夫によって始められ、慶長十六(1611)年の完成までに実に十四年の歳月を要する大事業であった。中野島、宿河原両取り入れ口から取水した用水は久地の分量樋(円筒分水)を経て、この鹿島田付近で、大師河原、渡田方面の水田を灌漑する大師堀、鶴見川北岸一帯を潤す町田堀に分かれた。また大師堀は昭和十四年~四十九年まで工業用水としても利用された。
近年土地利用の変化と水質の悪化によって往年の姿は見られなくなり、埋め立てられるところも出てきた。しかし大師堀は、昭和六十三年、環境整備事業の一環として親水化され(後略)」とあった。内容は何度も目にした説明であり、フックがかかるフレーズは特にないが、一応メモしておく。

「サウザンドシティ」の東を水路が下る
鹿島田駅からの道の南には、南武線に沿ってショッピングモール、クリニックを併設した大型マンション「サウザンドシティ」が建つ。「サウザンドシティ」の東、マンション敷地端を道路に沿って人工の「大師堀」跡の水路が続く。
それにしても、鹿島田駅周辺には高層マンションやビルが並ぶ。鹿島田駅と新川崎駅の間には「パークシティ新川崎」、そして2棟のツインビル「新川崎三井ビルディング」。1700余の戸数をもつ「パークシティ新川崎」の完成は昭和63年(1988)、「新川崎三井ビルディング」は平成元年(1989)、「サウザンドシティ」は平成16年(2004)。これらの駅前再開発は昭和55年(1980)、旅客線として開業し、東京<>横浜へのアクセスが容易となった新川崎駅が契機になったことは言うまでもないだろう。「今昔マップ 首都圏1965‐68」にはその敷地に工場のマークが見えるので、工場跡地を再開発したのだろう。
なお、新鶴見操車場跡は研究開発施設、公園、住居などからなる複合的な機能を持った、新しい街が生まれる計画とのことである。

古川の石井家長屋門

「サウザンドシティ」のある新腰塚、その先の越塚1丁目を越え、「明治橋」と言った、如何にも水路跡の名残を残すバス停を見遣りながら、府中街道の一筋南の古川地区を道を進むと、道脇に長屋門が見え、「川崎歴史ガイド 夢見ヶ崎と鹿島田ルート 古川の石井家と長屋門」のパネルがあり、「古川の石井家は北条氏政を祖先とし、現在も氏政とかかわりのある遺品が残る。正面の両袖型長屋門は文政三年(1820)に再建されたもので、市内有数の長屋門である」とあ。

●夢見ヶ崎
長屋門の説明もさることながら、「夢見ヶ崎」という地名に惹かれ、チェック。地図で見ると、夢見ヶ崎はJR新川崎駅の東、北加瀬と南加瀬地区の境辺りにあり、幾多の寺社が集まっている。これは何となく有り難そうな地域かと、更に深堀りすると、この寺社が集まる夢見ヶ崎の一帯は「加瀬山」と呼ばれる独立丘陵となっており、古墳群が残る。中には南関東で最も古い4世紀築造の白山古墳もある,と言う。
「夢見ヶ崎」の地名の由来は太田道灌にある、とのこと。太田道灌がこの丘陵に城を築くべく訪れた夜、夢に自分の兜を鷲に持ち去らわれる夢を見、不吉なりと築城を断念した、とか。
また、丘陵の南部分は東芝の前身である東京電気の堀川工場や新鶴見操車場建設の土砂採取のため切り崩された、とのことである。
大師堀散歩とは関係ないが、あれこれ気になったことをチェックすると、面白い発見があり、誠に楽しい。

下平間古川小向悪水
川崎市が作成した二ヶ領用水マップ(以下「川崎市・ニケ領用水マップ」)に拠れば、古川町交差点辺りで「下平間古川小向悪水」が大師堀から分岐しているように見える。「下平間古川小向悪水」はしばらく大師堀と並行して進み、府中街道と交差する「幸区役所交差点」で大師堀と分かれ、北東に進み第二京浜の東、小向仲野町方面へと向かう。現在は暗渠なのか埋め立てなのか、ともあれ水路は残らない。

戸手浄水場跡
「下平間古川小向悪水」が大師堀と分かれる、「幸区役所交差点」の近くに区役所があり、その隣に幸文化センターがある。そこはかつての戸手浄水場跡、と言う。先回の散歩でメモしたが、ここが川崎市内最初の近代水道施設である。大正10年に完成し、宮内水源取水地より取り入れた多摩川の水を、7キロの導水管で戸手浄水場へと送った。計画給水人口は4万人であった、と言う。
その後、急激な人口増大に伴い、昭和13年(1938)には菅さく井群より多摩川の伏流水を水源とする生田浄水場への通水、また昭和29年(1954)には、相模湖下流の沼本取水口から取水した相模川水系の水を32キロの導水管で長沢浄水場に送るなど、上水道の水源整備に伴い、戸手浄水場は昭和43年(1968)、その役割を終えた。
●戸手
戸手の由来は定かではない。ト=外、テ=方面>外の方面、ということから「堤外地」ではないか、とのこと。「外手」、とか「外出」と記された記録もあるようだ。

戸手前河原悪水
国道409・府中街道を進み国道1号・第二京浜を越えると、府中街道は多摩川の堤に接近する。戸手もそうだが、河原町とは、如何にも堤外地であった名残の地名である。「川崎市・二ヶ領用水マップ」に拠れば、その地名の交差点の先で、「戸手前河原悪水」がクロスしている。立体交差していたようである。

東海道本線六郷川橋梁
昔の御幸村故の地名であろう幸町、そして、既にメモしたように夢見ヶ崎の丘陵を削って整地した東芝堀川工場のある堀川を過ぎると、その先に多摩川を渡る鉄橋がある。東海道本線・六郷川橋梁である。
日本の大動脈であった東海道本線に架かる橋が如何なる歴史を経たものか、ちょっとチェック。Wikipediaに拠れば、東海道線六郷橋とも呼ばれるこの橋梁ができたのは明治4年(1871)のこと。トラス構造(三角形を基本単位とした、その集合体よりなる構造)の木造橋ではあったにせよ、日本初の鉄道の橋梁である。その橋も明治10年(1877)には木材の腐食が進み、複線化工事と併せて鉄製トラス橋となる。
その後、明治45年(1912)に三代目の付け替え工事を経て、昭和46年(1971)橋梁の前後の高架工事に併せて四代目となるトラス橋に架け替えが行われ、現在に至る。

五ヶ村悪水
「川崎市・二ヶ領用水マップ」に拠れば、東海道本線六郷川橋梁と、その先に見える京浜急行電鉄・六郷川鉄橋の間には「五ヶ村悪水」が描かれる。五ヶ村悪水は尻手辺りから南に大きく半円を描き、京急本線に沿ってこの地に下ってきているようである。

京浜急行電鉄・六郷川鉄橋
東海道本線を潜るとすぐに京浜急行・六郷橋鉄橋。京浜急行電鉄のはじまりは、明治32年(1899)に旧東海道川崎宿に近い六郷橋駅から川崎大師駅までの2キロを走った大師電気鉄道である。同年、京浜電気鉄道会社と改名し、安田財閥の支援ものと東京方面への路線拡大を図り、明治34年(1901)には大森と六郷橋間を開業した。
この開業に際して、六郷川を渡る鉄道橋が必要となり、川崎大師も含め地元人が組織した六郷架橋協同組合が人道橋として架設した六郷橋を明治33年(1900)に購入するも、強度不足で使用できず、橋に併設し木製の鉄道仮橋をつくることになったようだ。
鉄道橋として使えなかった橋は明治36年(1903)には、元々有料であった通行料をタダにし、あまつさえ、明治39年(1906)には国に譲渡している。踏んだり蹴ったり、というところであろう。
で、鉄道橋梁としては、明治39年(1906)には、雑色~川崎間複線専用軌道完成に伴い新たに仮の複線木橋が架けられた。これらの鉄道橋は、現在の六郷橋の辺りにあったようである。
現在の地に鉄道橋を建設着手したのは明治42年(1909)から。2年の歳月をかけて明治44年(1911)に六郷川鉄橋と呼ばれる本格的な鉄道橋梁が完成した。 現在の鉄橋は昭和47年(1972)に架け替えられたものである。

京急大師線
京浜急行を越え、六郷ポンプ場(下水処理施設のようだ)を見遣りながら府中街道を進むと京急大師線にあたる。京浜急行の前身である大師電気鉄道の路線である。
大師電気鉄道は川崎大師参拝のために開業された。開業当初は六郷橋から川崎大師に至る大師新道(多摩川の堤防でもあった)を6mほど広げ線路を敷設し、橋脇の六郷橋駅から川崎大師駅の間1.8キロほどを10分で走ったという。電車とは言うものの、路面電車であり最高時速13キロ程度。堤防の桜並木をのどかに走っていたのであろう。
で、川崎大師への参詣路線であるにも関わらず、既に開通していた東海道本線の川崎駅から1キロほど離れた場所に始発の駅・六郷橋駅が設けられたのは、地元人力車業界といった利害関係団体からの反対のため。
参詣者は川崎駅で下車し、人力車で六郷橋駅まで移動し、電車を利用した。「人力車+電車」といった「通し切符」もあった、と言う。そのおかげもあってか、開業より6ヶ月間で16万人もの乗客数があった、とのことである。
川崎駅へと繋がったのは明治35年(1902)のことである。大森と六郷橋間の開業は明治34年(1901)であるから、京浜電気鉄道会社を利用して多摩川東側から西の川崎に向かうには、明治35年(1902)を待つしかなかった、ということか。
●六郷橋駅遺構 
因みに、上記メモで「六郷橋駅」と書いたが、開業当初は「川崎駅」と呼ばれており、明治35年(1902)に川崎駅と繋がったときに出来た駅名を「川崎駅」とし、開業当初の駅を「六郷駅橋」と改名したようである。なお、「川崎駅」を「京急川崎駅」と改名したのは大正14年(1925)。同年、大師駅も「川崎大師駅」と改名された。
六郷橋駅は大正15年(1926)の道路整備に伴い、川崎側へ移転(六郷橋の少し手前の京急大師線に遺構が残る)するも、昭和24年(1949)に廃止された。

中島堀
「川崎市・二ヶ領用水マップ」に拠ると、京急・六郷川鉄橋と京急大師線の多摩川堤辺りから、南東に中島堀が流れていたように見える。水路は競馬場の西から競輪場の西を下り、川崎市立向小学校方面へと続いているようである。

旧東海道・川崎宿
府中街道を進み本町交差点を左に折れ、商店街を多摩川方面に向かって進む。と、国道15号・第一京浜が多摩川を渡る「六郷橋」の歩道へのアプローチ口に川崎市文化財団 が作成した「六郷の渡しと旅籠街」「川崎宿の家並み」の案内がある。
「六郷の渡しと旅籠街」には「家康が架けた六郷大橋は洪水で流され、以後、実に二百年の間、渡し舟の時代が続きました。舟を降りて川崎宿に入ると、街道筋は賑やかな旅籠町。幕末のはやり唄に「川崎宿 で名高い家は、万年、新田屋、会津屋、藤屋、小土呂じゃ小宮・・・・・・」。なかでも万年屋とその奈良茶飯は有名でした」とあり、「川崎宿の家並み」には、「旅籠六二軒をはじめ、八百屋、下駄屋、駕籠屋、提灯屋、酒屋、畳屋、湯屋、鍛冶屋、髪結床、油屋、道具屋、鋳掛屋、米屋など合計三六八軒 文久三年の宿図から 」とあり、 説明の上には『江戸名所図会』の「河崎万年屋奈良茶飯」の図が印刷されていた。
●万年屋 
どうも、府中街道から左に折れて辿った商店街は昔の川崎宿であったようだ。で、案内にあった「万年屋」は、多摩川を渡って川崎宿に入ったすぐの江戸口(下手土居)にあった、とのことであるので、案内のある辺りだったのだろうか。
ところで、万年屋と言えば、『お江戸日本橋』の歌にある「六郷渡れば川崎の万年屋、鶴と亀との米饅頭」との下りを覚えており、「万年屋の米饅頭」って、どんなものか食べてみたいと思っていた。
どういうきっかけだったか覚えていないのだが、鶴見駅前の某和菓子店で米饅頭が復活したとのことを偶然知り、二度程鶴見まで杉並の永福から自転車で買いにでかけた。
しかしながら、日曜日は定休日であったようで、結局今に至るまで食していない。ちゃんと調べて行けばいいものを、行き当たりばったり、しかも二度も失敗するって、反省し学習しない習慣はなかなか治らない。

それはともあれ、この案内をチェックすると、歌の解釈で大きな誤解をしていたことがわかった。「川崎の万年屋(の)鶴と亀との米饅頭」、ではなく。「川崎の万年屋。鶴と亀との米饅頭」のようで、川崎(宿で名高い)万年屋、であり、鶴屋と亀屋の米饅頭ではあった。また、場所も鶴屋と亀屋は川崎宿ではなく、鶴見川の袂にあったようで、米饅頭も鶴屋と亀屋だけが売っていたわけでもなく、40軒ほどの店で売っており、その中でも名代の店が鶴屋であり亀屋であった。
因みに米饅頭は17世紀の後半、浅草の待乳山(字面はインパクトあるが、元は真土山=本当の土。川の流れで堆積された沖積土ではなく洪積土(本当の土)のこと)下の鶴屋の娘・よねさんが売りはじめ、江戸の銘菓となったようで、鶴見の米饅頭が東海道の旅人に知られるようになったのは18世紀に入ってから、とのことである。
個人的興味から米饅頭のメモがながくなったが、川崎市作成の資料に拠れば、万年屋は案内にあったように「奈良茶飯」(小豆や粟、栗などをお茶の煎じ汁で炊き込んだご飯)が評判になり、一膳飯屋から宿場一の旅籠になったようで、本来は本陣(公認の旅館)に泊まる大名も宿泊したほか、弥次さん喜多さんで知られる『東海道中膝栗毛』にも描かれ、のちには皇女和宮や米国駐日総領事ハリスも立ち寄ったと伝えられている、とあった。

六郷橋
道なりに六郷橋の下を潜り南側に。『お江戸日本橋』の歌には。「六郷渡れば川崎の。。。」とあるように、六郷川は渡しであり、橋はなかったのか、と思ったのだが、チェックすると事実はちょっとだけ違っていた。
■六郷橋から六郷の渡しへ
Wikipediaに拠れば、「六郷は東海道が多摩川を横切る要地で、慶長5年(1600年)に徳川家康が六郷大橋を架けさせた。慶長18年(1613年)、寛永20年(1643年)、寛文2年(1662年)、天和元年(1681年)、貞享元年(1684年)に架け直され、貞享元年のものが江戸時代最後の橋になった。1688年(貞享5年)の洪水以後、橋は再建されず、かわりに六郷の渡しが設けられた。 六郷大橋は千住大橋、両国橋とともに江戸の三大橋とされた。寛文2年の橋は、長さ107間 (194.5m)、幅4間1尺7寸 (約8m)、高欄の高さが4尺3寸 (1.3m)。貞享元年の橋は長さ111間 (202m)、幅4間2尺 (約8m) であった。
■佐内橋
1874年(明治7年)1月に鈴木左内が私費で六郷の渡しに左内橋を架けた。長さ60間(109m)、幅3間(5.5m)の木橋で、通行料を徴収した。この橋は1878年(明治11年)9月に洪水で流された。
■京浜電気鉄道が橋を買収
左内橋が流された後しばらく橋がない状態が続いたが、地元の人々が六郷架橋組合を作って1883年(明治16年)に有料の橋を架け、六郷橋と名づけた。1885年(明治18年)に破損したものの引き続き使用され、1900年(明治33年)に京浜電気鉄道(後の京浜急行電鉄)が買収した。
■橋の流失が続く
1903年(明治36年)には通行料の徴収をやめ、1906年(明治39年)に国に譲渡されたが、1910年(明治43年)に流された。
流された橋のかわりに長さ52間 (95m)、幅3間 (5m) の仮橋が架けられた。1913年(大正2年)にこの橋も流され、再建された。この橋の親柱は六郷神社に保存されている。
■六郷橋
1925年(大正14年)8月には長さ446.3m、幅16.4m の六郷橋が架けられた。川の水路部分を1本の橋脚と連結した2つのアーチ(タイドアーチ)で越え、河川敷の部分は連続桁橋であった。片側1車線の車道に加え、両側に歩道があった。
■現在の橋
六郷橋の拡幅のために架け替えられたのが、現在ある橋である。1979年(昭和54年)に工事を始め、段階的に工事を進めた。1984年(昭和59年)3月に旧橋の上流側に接して新橋の一部が完成し、交通を切り替えた。次に旧橋を撤去して1987年(昭和62年)に新橋が完成した。その後第3期の工事が完了したのは1997年(平成9年)であった。橋の幅は倍以上となり、車道も片側3車線に増加した。
◆先代の橋台跡
現在の橋の北側に如何にも橋台跡といった構造物が川床に見える。これって、先代の大正14年(1925)だろうか。
●鈴木佐内
この記録を見ると、江戸の初期には架橋されてはいるが、その後、鈴木佐内が架橋するまで186年間は「渡し」しかなかったわけであり、実質、「渡し」しかなかった、とも言える。
そこに橋を架けた人物として鈴木佐内が登場する。如何なる人物かチェックすると、あれこれ面白い話が現れてきた。
佐内は多摩川東岸、八幡塚村の名主。元は「六郷の渡し」の渡し賃は八幡塚扱いであった。「六郷」は多摩川東岸、八幡塚村側の地名であることが、その事実の一端を物語る。
が、後に二ヶ領用水の普請、川崎宿の立て直しで名高い田中丘隅の力故か、川崎宿の独占となった。佐内は渡船権を取り戻すべく交渉するも、その願いは叶う事がなかった。
明治になり、八幡塚村は「村」として橋の架橋を願い出る。きっかけは明治4年(1871)に架橋された東海道線の木造橋梁。その姿を見て、渡船権が許されないなら、有料の橋を造ればいい、と思ったのだろうか。
村として架橋許可願いを出した八幡塚村であるが、明治初期の行政制度の改革などにより鈴木佐内が名主を解かれるなどし、村は動揺。村としての架橋願いを取り下げる。その結果、佐内はひとりで私財を擲ち架橋を実施。明治7年(1874)橋は完成した。
「佐内橋」は当初事業は順調に進むも、洪水や筏の衝突などの修理費が嵩み、「金喰橋」、「厄介橋」と呼ばれた末、明治11年の大洪水で流出してしまう。わずか4年のことであった。
その後、明治16年(1883年)、川崎大師をはじめとする川崎宿と八幡宿の人々が集まり六郷架橋組合を組織し有料の橋・六郷橋を架けるも、私財をすべて失った鈴木佐内の名はそこにはない。

六郷橋脇の案内・記念碑・石灯籠
六郷橋の南、橋の歩道へのアプローチ付近に幾つかの案内・記念碑が建つ。北から順に、「長十郎梨のふるさと」、「明治天皇六郷御渡御碑」、「川崎大師の石灯籠」そして「史跡 東海道川崎宿 六郷の渡し」である。

「長十郎梨のふるさと」の案内
「川崎歴史ガイド 東海道と大師道 長十郎のふるさと」と書かれたパネルには「多摩川沿いにどこまでも続いていた梨畑。 明治中頃、病害に強く甘い新種が大師河原村で生まれた。 発見者当麻辰二郎の屋号をとり、「長十郎」と命名されたこの梨は川崎からやがて全国へ」とあった。

かつて多摩川下流域の両岸の堤外地・河川敷は梨の一大生産地であった。大師地域での梨の生産は江戸時代にはじまり、明治26年(1893)、大師河原村出来野(現在の日の出町)に誕生、大正初期には全国の80%を占めたと言う。今昔マップ 首都」の明治の地図を見ると、堤外地に広がる果樹園の記号が示されているが、工業化が進んだ現在、川崎区には梨園は残っていない。

「明治天皇六郷渡御碑」
明治天皇が京都御所を離れ東京へと行幸した際、当時橋の無かった多摩川を渡った記念碑。明治元年9月20日に京都を出発、10月12日に川崎宿に到着。2800余の行列であった、とか。記念碑には「武州六郷船渡図」とあり、川崎宿本陣での昼食の後、23艘(36艘との記録もある)の船を縦に繋ぎ、その上に板を這わせ、仮の橋を作って明治天皇が鳳輦に乗り渡御した時の模様が描かれている。







「川崎大師の石灯籠」
「明治天皇六郷渡御碑」の傍に「川崎大師の石灯籠」。厄除川崎大師とある。何となく新しい雰囲気。裏に「昭和八年建立 川崎大師 平成三年移築 川崎市」とあった。平成8年(1996)の灯籠であった。昭和8年(1933)建立の灯籠はさらに大きいものであったようで、その台座が道の反対側、大師線線路手前の堤上にあった。結構大きい。

「史跡 東海道川崎宿 六郷の渡し」
河崎大師の石灯籠の少し南、「たま川」の標識がある手前に「史跡 東海道川崎宿 六郷の渡し」があり、「関東でも屈指の大河である多摩川の下流域は六郷川とよばれ、東海道の交通を遮る障害でもありました。 そこで慶長5年(1600)、徳川家康は、六郷川に六郷大橋を架けました。 以来、修復や架け直しが行われましたが、元禄元年(1688)7月の大洪水で流されたあとは架橋をやめ、 明治に入るまで船渡しとなりました。 渡船は、当時江戸の町人らが請け負いましたが、宝永6年(1709)3月、川崎宿が請け負うことになり、 これによる渡船収入が宿の財政を大きく支えました 川崎市」とあった。

京浜急行大師線・港町駅
堤道から大師線を越える跨線橋を渡り、道なりに進むと京浜急行大師線・港町駅。「長い旅路の 航海終えて 船が港に 泊まる夜 海の苦労を グラスの酒に みんな忘れる マドロス酒場 ああ港町 十三番地」。美空ひばりの歌う、『港町十三番地』の歌詞である。歌の港町はこの駅名から。
マドロス酒場(マドロスはオランダ語の船員)といったフレーズがあるので、てっきり横浜あたりの港町かと思っていたのだが、横浜の山下公園や馬車道などをイメージしながらも、この駅名が歌のタイトル名となっている。 その最大の要因は、かつて駅の東に、レコード会社である日本コロンビア(平成19年;2007年閉鎖)があったから。美空ひばりのレコードもこの地でつくられたわけだ。会社は港町9番地であったが、13番地のほうが語呂がいいということでタイトルや歌詞は13番となっている。

医王寺
駅前の道を進むと、府中街道から大師道へと通称を変えた国道409号の港町駅入口交差点に。そのすぐ先の久根崎交差点脇にお寺様の甍が見える。医王寺である。医王寺は既にメモした溝口水騒動が起こる2日まえの文政4年(1921)7月4日、この寺の鐘を撞き川崎領の農民に召集をかけた、と言う。また長十郎梨をつくった当麻辰次郎もこの寺で眠るとのことでもあり、ちょっと立ち寄り。

山門を潜り、溝口水騒動の早鐘を撞いたであろう鐘楼を見遣り、本堂にお参り。 『新編武蔵風土記稿』に拠れば、「(川崎宿堤外往還)医王寺 久根崎町の内東南の耕地にあり。薬王山無量院と号す。天台宗荏原郡品川宿常行寺の末寺なり。開山を春光坊法印祐長とて延暦二十四年二月廿二日寂せし人なりと云。然れば宗祖傳教大師にまのあたり従ひし人なるにや。此後法燈たへず間宮豊前守信盛当所に住せし頃祈願所と定めしと云、今本堂七間に六間、本尊薬師木の坐像にて長一尺八寸許、脇士は立像にて長一尺八寸許、其余十二将神等の像あり。
鐘楼。門を入て右にあり、二間四方鐘径二尺八寸許高さ五尺程享保十年十月と彫る」とある。
歴史は古い。延暦24年と言えば西暦805年のことである。間宮豊前守信盛とは戦国時代、この地の領主であった武将であり、探検家・間宮林蔵にも繋がる人物であった。
●間宮豊前信盛
間宮氏は近江佐々木源氏の係累と称する。南北時代、伊豆の間宮村(現在の静岡県田方郡函南町。静岡県東部、神奈川県と接する)に居を構え、間宮氏と称した。間宮氏は伊豆で頭角を現した北条早雲に早くから臣従し、早雲が伊豆から相模に侵攻する頃活躍したのがこの間宮豊前守信盛、またはその父とも推測されている。信盛は相模・武蔵の国境に領地をもち、館は川崎駅前の宗三寺であったと伝わる。
間宮氏は守盛の孫の代、秀吉の小田原征伐に際し、小田原北条勢の最前線である箱根の山中城で討死するも、その娘が家康の側室となったため旗本として江戸の頃も存続するも、後に一族の中に帰農し現在の茨城県つくばみらい市に移ったものの末裔が樺太探検で知られる間宮林蔵とのことである。また、『解体新書』で知られる杉田玄白も間宮氏の系(間宮家の一族の真野から分かれた別流の子孫)とも言われる。
●塩解地蔵尊
境内を歩くと「塩解地蔵尊」がある。境内にあった捲り(めくり)鉄板に気されたお話に拠ると、こどものおできを治すため、お浄めの塩を地蔵様にこすり付けると、あら不思議、おできは消え去った。これが広く伝わり、お地蔵様は塩で溶けたように痩せ細ったお姿になった、と。
蟹塚
鐘楼近くに蟹塚があり、おなじ鉄板本にあったお寺に伝わるお話しに拠れば、朝夕撞かれる鐘の音に驚き白鷺も近づかず、境内の池の魚や蟹は安心して日を送っていた。
あるとき、近隣から火の手が上がり、医王寺も延焼したが、火が鐘楼に近づくと、池から幾多の蟹が泡を出しながら鐘楼に登り、火を止めた。おかげで鐘楼は延焼から難を逃れたが、周囲は焼け死んだ幾多の蟹が見つかった。それを感謝し塚を建立したのだが、それ以降、医王寺の蟹に背中は火で焙られたように赤くなっていた、と。

●溝口水騒動
騒動の経緯をまとめておく;文政4年(1821)、旱魃による水不足に苦しむ二ヶ領用水下流・川崎領の19の村は、役人に訴え、その結果、7月4日の夕刻から7日の夕刻にかけて、久地分量樋で川崎堀以外の用水口を一時止め、川崎領への通水が約束されることとなる。が、当日になっても水は流れてこない。その因は、溝口村名主である鈴木七右衛門と久地村の農民が自分たちの村への水を確保すべく、分量樋の水役人を追い払い、川崎堀を堰止めたためであった。
川崎領の村民は役人に訴えるも解決されないため、7月5日会合が行われ、丸屋・鈴木家の打ち壊しが決議された。翌6日、府中街道を北上。その数、一万四千余人となった、という。そして溝口村の村民と衝突。鈴木家と隣家2軒を打ち壊す事態となる。
この騒動の結果、川崎領の名主・村民にお叱りや罰金が科され、溝口村名主の鈴木七右衛門は所払いの厳罰、農民には罰金、そして騒動を取り締まることのできなかた役人も処分を受けた。
●久根崎
川崎市の資料に拠れば、久根崎(くねざき)の地名の由来については、例によって定説はない、と。多摩川の流れに沿う地域故に その土手の前(さき)という意味とも、クネには境という意味もあるり、荏原郡と 橘樹郡の郡境の多摩川の前とする意味との説もあるようだ。

国道409号
医王寺を離れ、大師道を先に進む。大師道こと国道409号がどこまで続くのか地図を見ると、はるか千葉にまで続いている。チェックすると、溝口辺りは府中街道と呼ばれ、この辺りでは国道409号と呼ばれるこの国道は、昭和57年(1982)、川崎市の溝口を起点に千葉県の成田市をむすぶ国道として施行された。施行当初は海上区間が分断されていたが、平成9年(1997)、東京アクアラインの開通で千葉と繋がり、国道409号で房総半島を横断し、茂原で国道128号、東金で126号の重複区間を経て、東金から再び国道409号として八街を経て成に続いている。
国道409号施行時に東京湾を横断する路線が既に決まっていたのだろうか?チェックすると東京湾横断道路は昭和41年(1966)に調査が開始され、昭和50年(1975)に建設可能との報告があり、昭和56年(1981)には川崎-木更津-成田間を国道409号とすると決定してある。アクアラインが織り込み済みの国道ではあった。

鈴木町駅前
国道409号を進むと鈴木町駅前交差点がある。駅の向こうには味の素の工場群がある。味の素は元は鈴木商店では?チェックすると、駅の名前は味の素の前身である鈴木商店の創設者である鈴木三郎助に由来するとあった。

●藤崎堀
「川崎市・二ヶ領用水マップ」に拠ると、鈴木町駅入口交差点手前辺りから南東に下り、藤崎小学校方面へと向かう用水があったようだ。現在は暗渠か埋め立てが不明だが、水路跡はわからない。
●川崎堀
藤崎堀の先、国道409号・花見橋バス停交差点手前辺りから川中島堀がふたつ別れ、ひとつは南東の方向に進み、国道132号・川中堀交差点方面へ向かう。また、あとひとつの川中堀は東へと向かい、川崎大師方面へと向かっているように見える。
●殿町堀
国道409号・花見橋バス停辺りから北東に向かうのは殿町堀のように見える(川崎市・二ヶ領用水マップ)。川崎堀も殿町堀も水路が残っているようには思えない。

若宮八幡
花見橋バス前交差点を先に進み、大師線・川崎大師駅の手前に若宮神社がある。二ヶ領用水に架かった橋の遺構が残るとのことでちょっと立ち寄り。
●九橋の遺構
鳥居を潜り拝殿にお参りし、境内を彷徨うと、ふたつの石橋の欄干が残っていた。「 NPO 法人 多摩川エコミュージアム 散策こみち案内」に拠れば、「九品思想により九品の極楽浄土(川崎大師平間寺)に至るというさまを表現した橋。天保年間、現旭町から平間照寺鶴の池に至る、大師道沿いの用水路に架かっていた九橋のひとつ。九橋の内、最後の橋の欄干と橋板である。その「九橋の碑」が平間寺境内・鶴の池畔に立つ」とあった。

石橋はふたつあるように思うのだが、このふたつで一対ということだろか。それと大師道沿いの用水とは二ヶ領用水とある。その用水は大師堀から分かれた川中島堀のことであろうか。はっきりしない。

●九品の極楽浄土
浄土教においては、生前の行いにより、極楽浄土で生まれ変わるとき、扱いが変わる、と言う。上品・忠品・下品の3段階をそれぞれ上生、中生、下生の3段階の計9段階の扱いになり、最上位の上品上生では仏様の大集団がお迎えに来てくれるが、下品下生は特にお迎えは無く、また、仏様となるにも上品上生は1日でいいのだが、下品下生は気の遠くなるほどの年月がかかるようである。
●由来
若宮八幡宮は、多摩川の対岸、八幡塚村の六郷神社の氏子たちが、大師河原干拓のために移り住んだ際に、御祭神を分祀したのがはじまりといわれる。祭神は仁徳天皇。仁徳天皇は淀川の治水工事を完成させ、干拓事業の守護神として崇められていることから祀られたものとされる。創建年代は不詳であるが、『小田原衆所領役帳(永禄二年1559年)』に朱印地三石との記録が記初見とされるので、その頃と推測されているようである。
八幡塚村の六郷神社は、源氏一族が戦いに際し武運長久を祈り、勝利の御礼に石清水八幡を分祀したのがはじまりで、頼朝も奥州征伐勝利の御礼に社殿を造営した社であり、祭神は応神天皇。仁徳帝はその御子故に若宮八幡と称する、とか。
●境内社・金山神社
境内社として藤森稲荷や大鷲神社、そして金山神社が祀られる。その中でも金山神社の特異な建物が目を引く。御祭神は、鉱山や鍛冶の神である金山比古神(かなやまひこのかみ)と金山比売神(かなやまひめのかみ)の両神。御神体はカナマラサマ(金摩羅様)という巨大な男性器を形どった神である。
金山(かなやま)」と「金魔羅(かなまら)」(魔羅とは男根のこと)の読みが似ていることや、イザナミノミコトが火の神を生んだ際、下腹部に大火傷をしたのを、治療看護した神であること、また鍛冶の動作が性を連想させることなどにより、御神体がカナマラサマ(金摩羅様)となったと言う。
お産、下半身の病にご利益があると言われており、江戸時代川崎宿の飯盛女達の願掛けに端を発した「かなまら祭り」と呼ばれる祭礼には、男根を形どった神輿が担ぎ出されるようだ。祭りは4月第1日曜日に開催される。
●「大師河原酒合戦 三百五十年記念碑」
また、この社には、「大師河原酒合戦三百五十年記念碑」が建つ。案内には、「 『水鳥記』によると慶安二年(1649)、大蛇丸底深(大師河原開拓に成功し名主となった池上太郎左衛門幸広)のもとに地黄坊樽次(前橋藩主酒井忠清の寵臣、医者で儒学者の茨木春朔)が酒豪を連れてきて、大師河原に乗り込み三日三晩、酒飲みの強さを競ったという史実にのっとった豪快で勇壮な酒合戦の物語です。 『水鳥』とは、「水」は「さんずい」の意味で、「鳥」は「酉」の意味、二つの文字を併せて『酒』という字となる
水鳥の祭り(十月第三日曜日)
現代に再現した祭りで大本山川崎大師平間寺に大蛇丸底深方15名、地黄坊樽次17名が終結して、お互いに名乗りを上げ酒合戦を繰り広げながら練り歩き、若宮八幡で和睦する」とあった。

川崎大師平間寺
若宮八幡から成り行きで川崎大師に向かう。水路とか水路跡といった手掛かりもないため、とりあえず二ヶ領用水が流れ込んだと言う「つるの池」に向かう。 長い塀に沿って南に進み、至真門から境内に入る。正面にインド寺院のような堂宇がある。薬師殿とのこと。「つるの池」はその先にあった。
●つるの池
訪問した時は、池の工事中で近づくことはできなかったが、案内には「この池は元はふくべの形だった。昭和の初め、右手の大きな建物大本坊建立のため「ふくべ」の元になったところを残したものである。往時は多摩川から分水した二ヶ領用水が池に入り、そして大師河原の灌漑に使われた」とある。

「ふくべ」って、「ひょうたん」のこと、かと。薬師殿の北に「大本坊」があるが、お寺の事務所といったこの建物が建てられた時に、「ふくべ」の元(ひょうたんのくびれた部分の下半分?池の形からの想像)だけを残した、ということだろうか。工事現場の遮蔽物から見るに、池の底がアスファルトで塗り固められているようではあった。
「川崎市・二ヶ領用水マップ」を見ると、川崎大師を抜ける川中島堀は、大師公園の北東端辺りで流路を南東に変え、国道132号と首都高速神奈川一号横羽線がクロスする塩浜交差点方面へと下っている。
流路跡などないとは思いながらも、ちょっと下ってみたい気持ちもあるのだが、そろそろ日も暮れてきた。今日はこのあたりで引き上げることにする。
●川崎大師境内
川崎大師の境内を彷徨い、巨大な堂宇を見るに、古き趣はない。昭和17年(1942)の米軍による最初の本土空襲であるドーリットル空襲、昭和20年(1945)の4月4日、そして4月15日の大空襲により、ほとんどの伽藍は焼失したとのこと。巨大な本殿と不動堂は昭和39年(1964)、大山門は昭和52年(1977)、インド風の薬師堂は昭和45年(1970)、八角五重塔は昭和59年(1984)、経堂は平成16年(2004)、落慶といった按配である。戦火を免れたのは福徳稲荷堂だけのようである。
●由緒
平安末期、平間兼乗という武士が無実の罪により生国尾張を追われ、諸国流浪の末、この地に棲み漁猟を生業とした。弘法大師に深く帰依していた兼乗は厄年の42歳の時、夢枕での僧のお告げに従い、海中より木造を網で引き上げる。木造は弘法大師の御像であったため、草庵をむすび供養する。
その頃、高野山の尊賢上人がこの地に立ち寄り、大師の御像に纏わる話を聞き、兼乗と力をあわせ、大治3年(1128)平間寺を建立した。兼乗の姓・平間をもって平間寺(へいけんじ)と号し、木像を御本尊とし厄除弘法大師と称した。これが大本山川崎大師平間寺のはじまりとのこと。もっとも、大師木造は、下平間村の稱名寺が真言宗から一向宗(浄土真宗)に宗旨を改めた際、多摩川に流されたものとも伝えられる。浅草の浅草寺の縁起もそうだが、川や海から仏像を引き上げるって物語は定番なのであろうか。
それはともあれ、開基の尊賢上人は、保延2年(1136)、弘法大師を篤く信仰する鳥羽上皇のお后・美福門院に平間寺開山の縁起を伝え、厄除けと皇子降誕の祈祷おこなうと、その霊験故か、まもなく皇子誕生となる。のちの第76代近衛天皇である。永治元年(1141)には近衛天皇により平間寺に対し、勅願寺の宣旨が下される。
爾来、皇室の信仰も深く、江戸期には、徳川将軍家の帰依も篤く、文化10(1813)年には、前厄にあたる第11代将軍徳川家斉が厄除を祈願に公式参拝した、とある。
このことにより厄除の効験があるとして、庶民はもとより武士階級にまで信仰が広まったと言う。もっとも、豊かになった江戸の庶民が、日帰りでお参りできる関東の代表的な霊場としてのロケーション故に、行楽も兼ね川崎大師参詣に訪れた、というほうが納得感が強いのだが。ついでのことながら、若宮八幡でメモしたの『水鳥記』にある慶安2年(1648)の大師河原の酒合戦が大師河原の名を一躍高めたとも言う。

今回の散歩は川崎堀が大師堀と町田堀に分流する地点から大師堀を川崎大師まで辿った。いままでの3回の散歩は開渠で、水を眺めながらの散歩ではあったが、大師堀は一転、暗渠なのか埋め立てられたのか、ともあれ「水気」のない用水散歩となった。メモも、用水路とは直接関係のない、用水路跡辺りの「気になるポイント」のチェックが多くなったが、それなりに好奇心にフックの掛かるあれこれが登場し、結構楽しい散歩となった。
次の散歩は鹿島田で大師堀と分かれる町田堀を歩こうか、それとも、大師堀散歩で思いもかけず出合った「川崎宿」を先に歩こうかとちょっと考える。

先回の二ヶ領用水散歩2回目は、宿河原取水堰から宿河原線を二ヶ領本川との合流点まで下り、二ヶ領本川を平瀬川まで下った。途中、多摩川の旧堤防、霞堤、横土手など、多摩川右岸を護る堤防が登場するのだが、一部その痕跡は残るにせよ、その全体像に関する資料も見つけられず、多摩川の霞堤の絵姿、横土手の位置づけなど、いまひとつわからないままではあったが、それは「宿題」とし、ともあれ平瀬川までメモした。
今回は、平瀬川を渡り、二ヶ領用水と言えば、と言うほど有名な久地の円筒分水を訪ね、円筒分水から分かれる幾筋かの用水路のうち、本流でもある川崎堀を下り、大師堀と町田堀に分かれる鹿島田まで辿ることにする。


本日のルート:平瀬川>平瀬川トンネル>久地の円筒分水>久地神社>雨乞い弁天>久地不動尊>濱田橋>溝口神社>大石橋>新雁追(がんおい)橋>中原堰>南田堰>平成橋>二子坂戸緑道>石橋供養塔>第三京浜>関神社>井田堰>八つ目土と水道水源地>木月堰>薬師橋から白田橋>中原街道・神地橋>今井堰>渋川分岐点>中丸子堰>上平間堰>苅宿堰>鹿島田堰>御幸橋跨線橋>鹿島田橋>川崎堀踏切>大師堀・町田堀分岐点




平瀬川
往昔、多摩川の水を二カ所の堰で取入れ久地で合流した二ヶ領用水の水を、川崎堀(取水路)、根方堀、久地・溝の口・二子堀、六ヶ村堀の四つの堀に分けた久地分量樋跡を越えると、二ヶ領本川は平瀬川に遮られ地表から消える。用水は平瀬川の下を潜り、サイフォンで対岸に吹き上がる。
先回の散歩でメモしたが、二ヶ領本川、そして宿河原堰で取水した用水は、その80%をこの平瀬川に放流するとのことである。どの程度か不明ではあるが、僅かな梨畑や水田を潤すにしても、基本は稲田取水所で工業用水として多摩川表流水を1日20万立方メートル(東京ドーム約50個分)取水し、内径1.5mの導水管(第5導水管)で生田浄水場まで原水を送るのが、現在の二ヶ領本川の主たる機能となっているのだろう。
旧平瀬川
この平瀬川は昭和15年(1940)に開削された人工の河川である。それ以前の河道は此の地より上流の南武線の南、上之橋から溝の口駅の東へと、総合高津中央病院の裏を通り、二ヶ領用水・川崎堀にかかる平成橋の通り、すこし南に残る橋(欄干が残るだけ)手前で二ヶ領用水・川崎堀の旧流路に合流していたようである。

平瀬川トンネル
平瀬川の上流部にトンネルが2つ見える。ひとつは昭和15年(1940)できたもの。平瀬川は、昭和15年(1940)以前は、上流で大雨が降ると、毎年にように中流域は氾濫した。
平瀬川トンネルは、この豪雨による氾濫を防ぐため昭和15年(1940)から20年(1945)にかけて津田山を堀抜き、平瀬川の水をショートカットで多摩川に流すトンネルとして掘削された。円筒分水が生まれる契機ともなったのが、この平瀬川トンネル掘削・平瀬川改修工事である。
昭和20年(1940)にトンネルが完成。毎秒30立法メートルの流下能力があったトンネルであるが、昭和30年(1955)代から、平瀬川上流域の宅地化が進み、アスファルトで覆われ、保水力の低下した上流域では毎年のように氾濫が繰り返されるようになった。
その対策としてトンネルがもう一本掘られることになり、昭和42年から45年(1967‐1970)に工事が行われ毎秒80立法メートル、1時間に50㎜までの雨量に耐えられる構造の第二トンネルが完成した。
左手の少し小さいトンネルが昭和20年(1945)に完成したトンネルである。現在ふたつのトンネル合わせて時間雨量50mm、流下能力110立法メートルであるが、上流域での洪水予防のため、時間雨量90mm、流下能力230立法メートルに対応すべく、昭和20年(1945)のトンネル拡大改修計画がなされているとのことである。
津田山
因みに、トンネルが穿つ津田山であるが、かつては七面山と呼ばれていた。それが津田山となったのは、この丘陵地を宅地再開発した玉川電気鉄道社長の津田興二氏の名前に拠る。



久地の円筒分水
平瀬川を渡り、平瀬川脇にある久地の円筒分水に。文字通り、「円筒」形をしている。円は二重になっており、中央に直径8mの円形壁、その外周に直径16mの越流壁、越流壁の外側は堀となっている。
施設にあった「円筒分水」の案内に拠れば、「中野島と宿河原の多摩川から取り入れられたニヶ領用水は久地で合流し、「久地分量樋」へ導かれていた。 「久地分量樋」は、川崎堀、根方堀、六ヶ村堀、久地・二子堀に水を分ける施設。それぞれの耕地面積に応じて用水の幅を分割する樋(水門)が使われていたが、水量をめぐる争いが絶えず、より正確な分水が望まれていた。
この円筒分水がつくられたのは昭和16年。サイフォンの原理を応用して新平瀬川の下をくぐり、円筒の切り口の角度で分水量を調節するしくみになっている。農業用水の施設としては、当時の科学技術の粋を集めた大変すぐれたものだった。」とあり。
また「国登録有形文化財 二ヶ領用水久地円筒分水」には、「この円筒分水工と呼ばれる分水装置は、送水されてくる流量が変わっても分水比が変わらない定比分水装置の一種で昭和16(1941)年に造られました。
内側の円形の構造物は整水壁とも呼ばれ、一方向から送水されて吹き上げる水を放射状に均等にあふれさせ、送水されてくる流量が変わっても、円弧の長さに比例して一定の比率で分水される、当時の最先端をいく装置でした。平成10(1998)年6月9日に、国登録有形文化財となっています」とあった。

中央にある直径8mの円筒は、サイフォンの原理で中央の円筒から噴き上がり、波立つ水面の乱れを抑える整水壁の役割。その外側の直径16mの円筒壁は、ここで分水する四つの堀、それぞれの灌漑面積に合わせた比率の長さ(川崎堀38.471m、根方堀7.415m、六ヶ村堀2.702m、久地堀1.675m、)で仕切られ、越流壁の外側の各堀に、流量が変化しても、各堀に一定の比率で分水されるようになっている、とのことである。
平賀栄治の顕彰碑
円筒分水傍に平賀栄治の顕彰碑が建ち、そこには「二ヶ領用水400年・久地円筒分水70年記念 平賀栄治 顕彰碑 この世界に冠たる独創的な久地円筒分水は、平賀栄治(ひらがえいじ)が設計し手がけたもので、1941(昭和16)年に完成した。多摩川から取水されたニケ領用水を平瀬川の下をトンネル水路で導き、中央の円筒形の噴出口からサイフォンの原理で流水を吹き上げさせて、正確で公平な分水比で四方向へ泉の用に用水を吹きこぼす装置により、灌漑用水の分水量を巡って渇水期に多発していた水争いが一挙に解決した。
平賀栄治は1892(明治25)年甲府市生まれ。東京農業大学農業土木学科を卒業し、宮内省低湿林野管理局、農商務省等の勤務を経て、1940(昭和15)年に神奈川県の多摩川右岸農業水利改良事務所長に就任。多摩川の上河原堰や宿河原堰の改修、平瀬川と三沢川の排水改修、そして久地円筒分水の建設などに携わった。川崎のまちを支える水の確保に全力を捧げた「水恩の人」は1982(昭和57)年、89歳の生涯を閉じた」とあった。

円筒分水傍には「二ヶ領用水久地分量樋」の説明もあり、既にメモしたことと重複するので文章をママ掲載するのは省略するが、二ヶ領用水の概要と田中丘隅の改修、そして久地分量樋の明治43年(1910)撮影の写真が掲載されており、昭和16年(1941)、平賀栄治の設計建設により、水害防止の貯めの新しい平瀬川の開削と二ヶ領用水の伏せ越し、久地円筒分水を完成。これによって二ヶ領用水久地分量樋は久地大圦樋とともに、その役割を終えた、といったと説明があった。
また、「二ヶ領用水知絵図」の案内もあり、平成四年作成作成されたこの地図には、過去・現在・未来の視点から用水の姿が描かれ、用水が最も広く張りめぐらされた江戸時代後期―明治初期の姿と都市化が進んだ現在の姿を対比して図示していた。
川崎堀
国道409号・府中街道の南を武蔵小杉へと流れ、東海道新幹線を越えた南で国道409号・府中街道と南武線を北に越え、南武線・鹿島田駅の北で大師堀と町田堀に分かれる分岐点まで続く。
根方堀
川崎堀の南を下り、四つの支線に分かれ大雑把に言って、高津区の西南部を潤す
六ヶ村堀
国道409号・府中街道と川崎堀筋の間を第三京浜の手前まで下る
久地・(溝口)二子堀
幾つかの支線に分かれ、円筒分水から東に向かい久地を潤し、また、国道409号に沿って南東に下り溝口を潤す。

久地神社
久地円筒分水からは、用水本流であろう川崎堀を下ろうと思うのだが、地図をチェックすると、円筒分水の近くに久地神社、そして久地不動尊がある。ちょっと立ち寄り。
円筒分水から平瀬川を渡り直し、丘陵裾の道を進むと久地神社がある。鳥居を潜り拝殿にお参り。境内の案内には「神社の創立年代は定かではないが、風土記には「赤城社、村の南の丘にあり、此所の鎮守なり、社二間に一間半、東南向、前に石段あり木の鳥居たてり、村内浄元寺持」と記載されています。
江戸時代、神仏習合の時代には、赤城社と称され、現在本社とする溝口神社と兄弟神と伝えられていたことから、武を司る毘沙門天・財を司る弁財天をお祀りしていたと云われております。
明治初年、神仏分離により神体は、近隣寺院に合祀され、祭神を天照大神と改め、社名を久地神社と改称致しました。現社殿は、昭和四十一年十月に再建されたものである」とあった。

元、赤城社とあるが、溝口神社も元は赤城大明神を祀る赤城社であったということで、溝口神社が当社の本社であった、ということは納得。境内に「牛頭天王」と刻まれた石碑がある。明治20年(1887)に幕府の命で梅の栽培をはじめた梅屋敷の川辺森右衛門、同良右衛門親子が建立奉納したものとのことだが、赤城信仰と牛頭天王・祇園=素戔嗚信仰の関係は不明。ひょっとすれば、明治に合祀され久地神社となった社のひとつに天王社でもあったのだろうか。単なる妄想。根拠なし。

雨乞い弁天
社から平瀬川へ戻り、丘陵に続く坂道を登り久地不動尊に向かう。道の右手に池と小祠が見える。この池は日照りが続いても水が絶えることがなく、「雨乞い弁天」と称されていた、とのこと。
この弁天さまは、元禄年間(1688~1703)にかつて上杉氏に仕えていた女性が尼となり久地に永住したと伝えられ、弁天堂は弁財天とその比丘尼を祀った御堂とも言われる。
弁天堂、弁財天がなに故この地に?チェックすると、現在の久地神社、そしてその本社である溝口神社の祭神は天照大神ではあるが、それは明治の神仏分離の際、お伊勢を勧請した故のことであり、赤城社と呼ばれていた当時、毘沙門天と弁財天を祀っていた、といった記事を目にした。で、明治の神仏分離政策で赤城社のご神体が浄元寺に預けられたが、比丘尼を祀った弁天社は篤い信仰に支えられ今に姿を留めている、とのことである。尚、この比丘尼の音が転化したものが「久地」の地名の由来との説もある。
最初はこの弁天様は久地不動尊の一部かとも思ったのだが、どうも久地神社ゆかりの祠であったようである。

久地不動尊
坂道を上りきったところに久地不動尊。本堂脇に倶利伽羅剣と不動明王。倶利伽羅剣は不動明王が右手に持つ剣で、不動明王の象徴とされ、貪瞋痴(貪欲、怒りの心、真理に対する無知の心)の三毒を破る智恵の利剣である。倶利伽羅剣と不動明王は一体のものとみなされ、つまり、二体の不動明王が佇む、ということになる。
元は浅草の吉原にあったが、不動明王様は吉原遊郭の喧騒に耐え切れず、もっと静かな場所に移せ、とのお告げ。それもあって、この地に移すことにしたのだが、その直前に関東大震災が起こり、堂宇全焼。お不動さまは古井戸に飛び込み難を逃れた、と。

濱田橋
開渠となった川崎堀を下る。用水に沿った道を進み、国道246号・厚木街道の陸橋を渡ると、ほどなく濱田橋。溝口で生まれた、第一回の人間国宝認定者である陶芸家の濱田庄司氏を記念したもの。元は無名の丸太一本橋であったようだ。
濱田橋の命名は平成4(1992)年のことかと思う。これといった資料はないのだが、橋脇にあった濱田橋と濱田庄司氏の案内碑にある説明の最後に、濱田先生を称え濱田橋と命名した、とあり、その後に平成四年六月吉日とあったため。
濱田庄司
案内にあった説明を簡単にまとめる;明治27年(1894)溝口で生まれ、本名象二。高津小学校に学び、東京工業大学(注;東京高等工業学校窯業科)卒業。英国人陶芸家バーナード・リーチと共に陶芸にめざめ、栃木県益子で作陶に入り、益子焼を芸術にまで高める。
柳(注;宗悦)・河合(注;寛次郎)らと民藝運動を興し、沖縄文化等に注目する。
日本民芸館二代目館長(注;初代柳宗悦)。昭和30年(1955)第一回人間国宝、昭和43年(1968)文化勲章受章。七面山麓宗隆寺に眠る。
バーナードリーチや柳宗悦氏といった民藝運動については、いつだったか手賀沼散歩で出合ったことを思いだす。

濱田橋に陶板で「春去春来」という言葉が残されているが、春は益子で作陶に精進し、冬になると沖縄へ行っていたことに由来する、とか。「(NPO多摩川エコミュージアム 散策こみち」には、濱田氏が幼少の頃、この橋の辺りで泳ぎ、溺れそうになったというエピソードをもって、橋改修の時、濱田橋と命名したとする。


宗隆寺
宗隆寺にちょっと寄り道。山門前に石橋供養塔。現在は暗渠となるが、宗隆寺 の脇から山門前にかけて二ヶ領用水の「根方堀」が流れ、大山街道の栄橋交差点方面へと流れていたようである。
本殿にお参り。元は天台宗本立寺と号したが、住職と地頭が見た霊夢により日蓮宗に改宗し、池上本門寺の末となる、との話が残る(異説もある)。境内には「世を旅に 代かく小田の ゆきもどり」と刻まれる芭蕉の句碑が建つ。文政12年(1829)玉川老人亭宝水(溝口の灰吹薬局2代目二兵衛により建立された、とのこと。



七面山
濱田庄司氏の記念碑の案内にあったように、境内の東に七面山と称する丘陵南端部が見える。先ほど訪れた久地神社、久地不動尊のあった丘陵の舌状突端部ではあるが、途中国道246号により、切り裂かれ切通しとなっている。七面山と称する所以は、日蓮宗において重要な七面大明神(七面天女)からではあろう。
お寺の裏手の丘陵は宗隆寺古墳群が残るという。境内から成り行きで丘陵・七面山に登る。高さが1mから2mといった古墳が、どれなのかいまひとつ判然としないが、「日露戦争記念碑」と刻まれた石碑、その横にも石碑が建つ。乃木大将記号の「日露戦争記念碑」が残ると言うが、石碑がそれであろうか。裏山には「日清戦争記念碑」、また日露戦争で戦死した軍人の招魂碑が残るとのことであるので、そのどちらかであろうか。

溝口神社
宗隆寺のすぐ東に溝口神社。先ほど訪れた久地神社の本社ということもあり、足をのばし、社殿にお参り。境内にあった案内に拠れば、「神社の創立年代は定かではありませんが、神社保存の棟札よれば、宝永5年(1709年)武州橘樹郡稲毛領溝口村鎮守、赤城大明神の御造営を僧・修禅院日清が修行したと記されております。江戸時代は神仏習合に よりまして、溝口村の鎮守・赤城大明神と称されておりました。
明治維新後、神仏分離の法により、溝口村(片町・上宿・中宿・下宿・六軒町・六番組)の総鎮守として祀るべく新たに伊勢神宮より御分霊を奉迎し、御祭神を改め溝口神社と改称、更に明治6年(1873年)幣帛共進村社に指定されました。(以下略)」とあった。
溝口神社と簡易水道
境内に「川崎の歴史ガイド 溝口神社と簡易水道」があり、「赤城社と呼ばれた溝口の総鎮守。この辺りは飲み水に不自由した。親井戸から水を引いた時代、ようやく完成させた簡易水道の時代、参道脇の水神社や水道組合碑が当時の苦労を物語る」とある。
「川崎の歴史ガイド」のパネル脇には水神様の小祠と、その裏に石の水道組合碑が建つ。昭和10年(1935)に建てられた石碑には、昭和4年(1929)から6年(1931)にかけての水道組合の軌跡を刻む。大石橋(濱田橋の少し下流)からJR溝口駅のすぐ東にある片町交差点(角に庚申塔がある)辺りは水に恵まれず、地元民の力によって親井戸を掘り竹や木の管を通し、樋を埋めた子井戸まで水を通したようである。

大石橋
濱田橋に戻り、用水を下り西浦橋を越えると大石橋。この大石橋が架かる道筋は、大山街道・矢倉沢往還である。橋の両脇にはコンクリートの模擬常夜灯が街道の趣を伝える。
現在はコンクリートの橋ではあるが、江戸の頃は、文字通り大きな石橋で、長さ6間(約11m)幅8尺(約2.4m)とある。が、ちょっと疑問。そんなに大きな一枚岩があるのだろうか?チェックすると、「大山街道 ふるさと館」の資料に、「この大石橋の由来は、川の真ん中に橋脚を立てて「枕石」 をのせ、その上に長さ七尺、幅一尺五寸くらいの「渡り石」を並べて架けてあったことから、大石橋と呼ばれるようになった」とあった。納得。
溝口水騒動
大石橋の由来はともあれ、この橋の北東に、溝口水騒動のきっかけをつくり、打ち壊しにあった溝口村の名主である問屋・丸屋の鈴木七右衛門の屋敷があった。二ヶ領用水を巡る幾多の水争いの中で最大の事件として知られる。
騒動の経緯をまとめる;文政4年(1821)、旱魃による水不足に苦しむ二ヶ領用水下流・川崎領の19の村は、役人に訴え、その結果、7月4日の夕刻から7日の夕刻にかけて、久地分量樋で川崎堀以外の用水口を一時止め、川崎領への通水が約束されることとなる。が、当日になっても水は流れてこない。その因は、溝口村名主である鈴木七右衛門と久地村の農民が自分たちの村への水を確保すべく、分量樋の水役人を追い払い、川崎堀を堰止めたためであった。
川崎領の村民は役人に訴えるも解決されないため、7月5日会合が行われ、丸屋・鈴木家の打ち壊しが決議された。翌6日、府中街道を北上。その数、一万四千余人となった、という。そして溝口村の村民と衝突。鈴木家と隣家2軒を打ち壊す事態となる。
この騒動の結果、川崎領の名主・村民にお叱りや罰金が科され、溝口村名主の鈴木七右衛門は所払いの厳罰、農民には罰金、そして騒動を取り締まることのできなかた役人も処分を受けた。

先ほど溝口神社で、溝口村の水不足の歴史を知ったばかりでもあり、堰を止めた溝口・久地にもよっぽどの窮状に見舞われていたのだろうかと、妄想する。

雁追(がんおい)橋
曙橋を下り、田園都市線を越えると、新雁追橋がある。橋脇に「川崎の歴史ガイド 雁追橋」のパネルがあり、「溝口付近は、江戸時代、将軍家の御鷹場として、野鳥が保護されていた。農産物を荒らす鳥を追い払う農民の苦労が橋の名となって残る。雁追橋は、もとは平瀬川にかかっていた」とある。

中原堰
平瀬川トンネルのメモのところで「旧平瀬川の流路は平瀬川トンネルの南、南武線の更に南にある、上之橋から溝の口駅の東へと、総合高津中央病院の裏(南側)を通り、二ヶ領用水・川崎堀にかかる平成橋の通り、すこし南に残る橋(弁慶橋だろう。といっても欄干が残るだけ)手前で二ヶ領用水・川崎堀の旧流路に合流していたようである」とメモした。総合高津中央病院はこの新雁追橋のすぐ南にある。ちょっと立ち寄り。
総合高津中央病裏の流路跡は現在自転車置き場となっているが、そこに「中原堰」の案内がある。案内には「ここに中原堰を保存。この関はかつてこの地を流れていた平瀬川に設けられた農業用施設。せき止められた水は用水路で導かれ、中原の田畑を潤していた。江戸時代から使われていたものだが、1915(大正4年)年に中原村の人々の手によりコンクリート製に改修されて堅固なものになった。堰の壁には建設に尽力した四ヶ村(上小田中、新城、下小田中、神地)の責任者・中原村村長・石工の名が記された銘板が埋め込まれている。(中略)。高津にある堰だが、中原の人によって造られ、中原の土地に水を引くものであり「中原堰」と名付けられた」とあった。

四ヶ村(上小田中、新城、下小田中、神地)は南武線・武蔵新城駅、武蔵中原駅の南北に跨る一帯(神地は武蔵中原駅の北)。二ヶ領用水の根方堀がこの辺りを流れているのだが、それだけでは不足で旧平瀬川からも水を求めたのだろか。

南田堰
中原堰に立ち寄ったついでに、その少し東にある南田堰に向かう。溝口駅前商店街の通りのど真ん中に「南田堰跡」があった。「川崎の歴史ガイド 南田堰」のパネルには、「円筒分水からわかれた支流の中で最も山側の「根方十三ヶ村堀」がここを流れていた。この近くにあった南田堰をめぐり、明治末期に溝口と久本側の大きな水騒動が起こった」とある。
根方十三ヶ村堀
円筒分水で分かれた「根方十三ヶ村堀」はこの南田堰で東部、中央部、西部と幾筋もの支流に分かれ各地区を潤す。南田の堰を巡る水騒動は、この堰で分岐する際の分水量を巡り、各地域が相争ったのであろう。

平成橋
用水を下り平成橋に。既にメモしたように、この橋の少し南で旧平瀬川と旧川崎堀が合流する。現在は河川改修し直線化している川崎堀であるが、改修前の流路は円筒分水から下流、蛇行を繰り返し下る。ついでのことであるので、合流点の確認に、平成橋から南に向かう。





平成橋から少し東に道を入るとほどなく道の両側に橋の欄干が残り、その下流に如何にも流路跡といった暗渠が続く。この流路は旧川崎堀と思われる。旧平瀬川はこの橋跡の少し上流で旧川崎堀に合わさったようである。
橋跡の西には梨畑が広がるが、Google Mapの衛星写真を見ると、総合高津中央病院の南から、如何にも流路跡といった道筋、そして緑の帯がこの梨畑の南に続いている。この梨畑の南西端辺りがふたつの旧流路の合流点かと思う。残念ながら梨畑から石の高欄の橋跡だけが残るところへと歩くことはできなかった。

二子坂戸緑道
平成橋に戻り、二子新生橋を越え二子塚橋に。二子塚橋の南に「二子坂戸緑道」がある。この緑道は昭和16年(1941)河川改修が行われ、流路が直線化する以前の旧川崎堀の流路である。二子と坂戸、河をその境とする二つの地域の境を流れた旧川崎堀を暗渠化した後を、公園などを含んだ緑道としている。用水北側の二子は「ふたつの塚(古墳)」、用水南側の坂戸は、元は「坂土」で、二子の渡しへと「下った地」に由来するとの説がある。
因みに、二ヶ領用水改良工事は昭和11年(1936‐1844)から19年にかけて行われた。

石橋供養塔
蛇行する二子坂戸緑道を抜けると用水に架かる境橋の脇に出る。緑道が道に当たるところに石塔があり「川崎の歴史ガイド 石橋供養塔」のパネルが建つ。説明には「この緑道がかつて二ヶ領用水の本流だった。寛政五年ここに架けられた石橋は二子方面と結ぶ大切な橋で、当時の供養塔が残っている。昭和16年、用水は今の流路につけ変えられた」とあった。
この橋は坂戸橋(供養塔脇に「橋戸橋」と刻まれた石碑が建つ)と呼ばれ、坂戸村から二子方面に渡る唯一の橋。寛政5年(1793)に木橋から石橋に架け替えられた時に石橋供養塔が建てられた。供養塔には「南無妙法蓮華経」と「南無阿弥陀仏」の題目が刻まれているが、それは村民の信仰する日蓮宗と真言宗に「配慮」したもの、とか。


第三京浜
境橋で、旧川崎堀の流路である二子坂戸緑道から、河川改修された現在の川崎堀に戻る。地域も二子を離れ北見方に入る。旧路はそのまま北見方と坂戸の境界線を下っているようである。
北見方の由来は、鎌倉幕府の有力御家人である江戸氏の後裔であり、世田谷区喜多見に居を構えた喜多見氏に拠るとも、文字通りどこかの親村の「北の方角」に開発した新田集落とか諸説あるようだ。
単調な用水沿いの道を進むと第三京浜の高架が見えてくる。第三京浜を潜ると。宮内地区に入る。川崎堀の南に小田中地区があるが、宮内と小田中の境を旧川崎堀が流れていたように思える。
旧川崎堀
旧川崎堀の流路痕跡が残るものかと第三京浜の高架下を彷徨う。確たるものはないのだが、旧川崎堀の流路辺りの高架下に水路渠があり、下流に延び、第三京浜を越えた先に暗渠が続く。
第三京浜を越えると小田中に関神社がある。「堰」に関係あるのかと思い、ちょっと立ち寄り。途中大弁財天の小祠があったりして、如何にも水路跡らしき道筋が関神社の方に下っていた。




関神社
関神社にお参り。新編武蔵風土記稿に拠れば、「(上小田中村)関明神社 村の北の方にて小名大ヶ谷戸にあり。其所の鎮守なり。近江国逢坂にたてる関明神のうつしなり。社南向2間に1間の覆屋あり。小社前に鳥居あり。例祭は9月17日宝蔵寺の持なり」とある。
「近江逢坂にたてる関神社のうつしなり」とは、この地を開墾した原氏(武田家の家臣原美濃守の後裔)の信仰した関蝉丸神社を此の地に分霊したこと。「大ヶ谷戸」とは元は「大茅野」と呼ばれた原野を開いた原氏が「大ヶ谷戸」と呼んだことにはじまる。現在も大谷戸小学校などの名にその歴史を残す。

井田堰
「旧川崎堀」と社の南に流れる「根方十三ヶ村堀」に囲まれた関神社を離れ、現在の川崎堀に戻る。「竹橋」の傍に取水口らしきものが見える。井井田堀がここで川崎堀から分かれる取水口のように思う。
井田堀
此の地で川崎堀から分かれた井田堀は南下し中原街道をクロスし、下小田中から井田に向かって下る。堰はかつて蛇籠で造られ、用水幅も7mほどもあった、とか。

八つ目土と水道水源地
井田堰取水口のある竹橋からひとつ先の「大ヶ谷戸橋」の手前に「歴史ガイド八つ目土と水道水源地」のパネルがあり、「八回目の土手という意味もあるという。ここは多摩川の旧堤防で、それほど度々決壊した所でもある。今の河川敷には、大正八年開設された市内最初の水道水源地、宮内貯水場があった」との説明があった。
明治時代の「東京今昔マップ 首都」を見ると、多摩川の堤は北見方、下野毛の南端部,川崎堀の少し北に沿って下り、井田堀そしてこの案内パネルのある辺りから宮内地区の境を多摩川に向かって大きく弧を描いて東に突出し、宮内と等々力の境に沿って今度は弧を描いて西に凹み、小杉陣屋地区との境を再び大きく弧を描いて東に突き出している。八つ目土にしても、井田堰にしても堤のすぐ傍のように見える。度々決壊した箇所との説明も古い地図と合わせてみれば納得できる。
また、宮内貯水場も堤外地に見える。説明には宮内貯水場は大正8年(1919)に開設とあるが、この多摩川の表流水を取水した宮内貯水池から導水した戸手浄水場(幸区役所傍)が完成したのは大正10年(1921)とのこと。これが川崎の近代水道のはじまりと言う。
戸手浄水場
その戸手浄水場も、昭和13年(1938)には菅さく井群から取り入れた多摩川の伏流水を水源とする生田浄水場、そして昭和29年(1954)には相模湖下流の沼本取水口で取り入れた相模川水系の水を水源とする長沢浄水場の整備などにともない、昭和43年(1954)、その役割を終える。

木月堰
「八つ目土と水道水源地」の案内パネルのあった「大ヶ谷戸橋」を南に下り、最初に架かる橋(宮戸橋のようだ)の脇に「木月堰」がある。ここから木月堀が分岐する。
木月堀
当地で川崎堀から分かれた木月堀は、川崎堀と井田堀に囲まれ南東に流れ、中原街道を越えて下小田中から木月へと下る。
木月堀分岐点から富士通の工場の東、川崎堀にかかる「上家内橋」の辺りまでは井田堀、木月堀、川崎堀が接近し並走して南東へと下る。

薬師橋から白田橋
宮内と上小田中地区の境を画する用水を下る。薬師橋の北には春日神社と常楽寺。いつだったか小杉を辿り、用水普請の差配をした小泉次太夫の陣屋を辿ったとき、春日神社の辺りから等々力緑地辺りを彷徨った。常楽寺は奈良時代、聖武天皇の祈願所として行基が開基との縁起が伝わる。薬師橋は薬師堂の遺構故の命名だろうか。
用水を更に下ると白田橋。橋の北に高元寺、南に泉沢寺の甍を見遣る。高元寺は川崎最古の寺子屋が開かれた寺、泉沢寺は世田谷領主・吉良氏の菩提寺。元は烏山(世田谷)にあったものが、火災で焼け落ちこの地に移った。

中原街道・神地
白田橋の辺りで、用水の北は小杉御殿町、南は今井上町に変わる。小杉御殿は家康の駿府往来の際の宿舎、鷹狩の休憩などのため二代将軍が建てたもの。とはいうものの、その心は開幕時、新領国の安定・整備のために設けられたものであり、藩幕体制が磐石なものとなってくると、その存在意義が薄くなり、同時に主街道が東海道に移ったこともあり、17世紀の中旬頃にはその役割を終え廃止された、とか。
用水が中原街道と交差するところに神地橋。橋脇に「歴史ガイド 二ヶ領用水と神地橋」のパネルがあり、「稲毛領・川崎領を潤した二ヶ領用水の本流は、ここ神地(こうじ)橋で中原街道と交わる。用水の恵みを受け、この辺りでとれた質の良い米は特に「稲毛米」と呼ばれ、江戸の人々に喜ばれた」とあった。 神地は地名に残る「耕地」に由来するとの説もある。実際、「今昔マップ 首都 1965-68」には宮内から南は、西下耕地、南耕地、下耕地、新田耕地、中耕地、中原街道を挟んで北は家附耕地、南は道下耕地などの地名が記載されている。往昔は泉沢寺の門前市が栄えた神地宿といった名もあった神地ではあるが、現在は地名として残ってはいない。
旧中原街道
旧中原街道は、江戸から相州の平塚中原に通じる道で、中原往還、相州街道とも呼ばれた。また中原産の食酢を江戸に運ぶ運送路として利用されたため、御酢街道とも呼ばれた。はじまりはよくわかっていないが、すでに近世以来存在し、家康の江戸入府のときは、東海道が未だ整備されていたかった、ということもあり、徳川家康が江戸に入国した際に利用され、その後、部分改修されて造成された街道である。
江戸初期には参勤交代の道としても利用されたが、公用交通のための東海道が整備されると、脇往還として江戸への物資の流通や将軍の鷹狩などにもしばしば利用された。 また、平塚からは東海道よりも近道だったため、急ぎの旅人には近道として好まれたという。中原街道;中世以来の主要道。平塚の中原と江戸を結ぶ。東海道の脇往還でもあった。はじまりはよくわかっていない。が、本格的に整備されたのは小田原北条の頃から。家康の江戸入府のときは、東海道が未だ整備されていたかった、ということもあり、この街道を利用した、と。
中原には将軍家の御殿(別荘)があったようである。上に「中世以来」とあるが、Wikipediaによれば、小田原北条氏の時代に本格的な整備が行われたようで、狼煙をあげ、それを目印に道を切り開いたとされる。 中原街道の経路は、江戸城桜田門(後に虎の門)から国道1号桜田通り、東京都道・神奈川県道2号、神奈川県道45号を通り平塚に向かう。また「中原街道」という名称も、江戸期に徳川幕府が行った慶長9年(1604)の整備以降であり、それ以前は相州街道あるいは小杉道とも呼ばれていたようである。

今井堰
神地橋のすぐ下流で今井堀の堰がある、という。行きつ戻りつ、取水口を探したのだが見つからなかった。後からチェックすると、取水口は取り払われているようである。







今井堀
この地で川崎堀と分かれた今井堀は今井神社の前を通り、南に下る。川崎堀に沿って今井上町緑道があり、いかにも水路跡らしき風情の道があったが今井堀跡だろうか。また、今井神社の鳥居の前には水路に架かる石橋が残る。さらに南に下って、南武線の高架手前の交差点の名は「今井堀踏切」とあった。南武線が高架になる前、今井堀が南武線とクロスしていたのだろう。さらに、南武線の高架橋にも「今井堀架道橋」とあった。水路は南に下り、渋川近くまで延びる。悪水落としの渋川に合わさっていたのだろうか。不明である。

今井神社

鎌倉初期、坂東八平氏の一、秩父次郎重忠の一族である小宮筑後守入道道康の霊を祀るため創建されたと伝わる。小宮筑後守入道道康についての資料は見つからなかったが、館は今井西町付近にあったようで、江戸時代にはその子孫は村の庄屋を務めた、と。元は山王社と呼ばれていたが、明治に日枝神社となり、さらに明治43年、旧今井村にあった弁天社、稲荷社を合祀し、村名をとり今井神社となった。



渋川分岐点
南武線の高架を潜ると水門が見える。渋川との分岐点である。水門脇に「川崎歴史ガイド 渋川と水車」のパネルがあり、「明治中頃まで、このあたりでは用水を利用したいくつかの水車が回り、精米が行われていた。他に麦を使った製粉も行われ、木月村や井田村、今井村の冬の副業である素麺業に使われた」とあった。
渋川
この水門で分かれた渋川は、今井、木月と下り、東急東横線の元住吉駅の東傍を越え、西加瀬で東海道新幹線の高架を潜り矢上川に合流する2.4キロほどの水路。現在は川底に内径10.4mもの雨水貯留管が埋められ、都市型雨水対策の水路の趣が強いが、元は水田を灌漑した水を排水する「悪水堀・落とし堀」ではあった。
渋川分岐傍にある大乗院には久地円筒分水の建設をはじめとした二ヶ領用水の改築、平瀬川改修に尽力した平賀栄治が眠る。

中丸子堰
渋川分岐から少し下流、現在の総合自治会館手前辺りに堰があったとのことだが、現在、取水口はみあたらない。ところで、この辺りは小杉であるのに、何故に中丸子?どうも、この地の東にある中丸子村の飛び地がここにあり、ここから中丸子へと水を引いていたようである。
中丸子堀
この地で川崎堀と分かれた中丸子堀は、自治会館から府中街道を南東に下り、東横線ガードを潜り、綱島街道市ノ坪交差点あたりから中丸子村にはいっていたようである。川崎市作成の用水マップには、中丸子堀から分かれた中丸子市の坪悪水、また、中丸子堰辺りから、中丸子村と逆の西の田中へと下る田中堀などが描かれている。

上平間堰
東急東横線の高架を潜った先に「仲よし橋」がある。かつてこの辺りには上平間堰の取水口があったようだ。現在は痕跡もないが、川床に杭を打ち込み、草で間を詰めた、所謂、「草堰」または「乱杭堰」と呼ばれるものであったようだ。
上平間堀
この地で分岐した水路は、府中街道に沿って、少し南を南東に下り、府中街道が東海道新幹線を潜り、横須賀線跨いで西側に移るとともに線路の西側に移り、一時、府中街道の北を流れた後、府中街道に沿って平間配水所辺りへとくだっていたようだ。かつては幅が11mもの水路で市ノ坪川とも称された、ともあるが、明治以降の地図をみてもそれらしき水路は見つけることができなかった。

苅宿堰
中原平和公園の中を流下する用水路に沿って進む。戦前、この地には戦闘機の計器などを製造する軍需工場・東京航空計器があった。ために、昭和20年(1945)4月14日の川崎大空襲に際しては、最初に火の手が上がった地とも言われる。 戦後跡地は駐留軍に接収され、米軍印刷局があり、ベトナム戦争時の謀略ビラや偽札の印刷が行われたと言う。昭和50年(1975)、返還され、跡地を平和公園と住吉高校としたようである。
公園内には旧流路の道筋も残ると言うが、現在の川崎堀は公園整地に際し、直線化されている。その用水路に沿って下り、公園を離れ住吉中学の東、東名高速高架手前に架かる昭和橋脇に取水口がある。現在の苅宿堰かとも思えるが、往昔の苅宿堰は、もっと上流、平和公園のある辺りにあったようである。
苅宿堀
川崎市作成の用水マップに拠れば、平和公園辺りで川崎堀から別れた苅宿堀は、川崎堀の少し東を南下し、住吉中学西脇を下り、東海道新幹線を越え苅宿小学校辺りまで下る。また、住吉中学の南で分岐する流れもあり、南東に向かい新幹線を越え、御幸橋跨線橋手前に流路を変え県道111号の東を県道に沿って下り、南加瀬で矢上川に合流する。

鹿島田堰
新幹線の高架を潜り、苅宿一号橋を越えた先にある無名の橋の辺りに鹿島田橋があったようである。痕跡はなにもないのだが、その分岐点らしき辺りに、苅宿一号橋とこの橋を繋ぐ、唐突に、妙に広い道がある。なんだろう?
鹿島田堀
今ひとつはっきりとはしないのだが、川崎市が作成した用水マップに拠ると、南東に向かい、横須賀線の東に移り、川崎堀の東を川崎堀に沿って下り、府中街道が川崎用水と合わさるあたりで流路を変えて南に向かう。そこから南武線に沿ってしばらく進んだ後、再度流路を変えて南西に向かい鶴見川手前の小倉へと進む。

御幸橋跨線橋
鹿島堀は横須賀線によって行く手を遮られる。横須賀線を跨ぐ御幸橋跨線橋を渡り線路の東側に移動。この跨線橋、横須賀線を跨ぐにしては線路の数が多すぎる。チェックすると、この橋の少し南にはかつて東洋一の規模の新鶴見操車場があり、京浜地区を発着するすべての貨車を「捌いていた」。操車場は昭和59年(1984)に信号所の機能は残し、貨物操車場としての機能は停止した。 横須賀線はこの貨物線を活用したものであり、多くの線路はこの横須賀線・湘南新宿線、そして貨物線の線路ではあろう。

鹿島田橋
跨線橋を渡り、川崎堀脇に下りる。平間駅入口交差点から東に向かう道に架かる大鹿橋、擬宝珠のデザインが施された朱印橋、府中街道とクロスするところには古い石橋の高欄が橋に平行に残る鹿島田橋に。鹿島田橋から先に進む川崎堀は南武線に遮られる。
朱印橋って、ちょっと気になる。チェックすると、少し東にある浄蓮寺に水戸光圀公の御朱印が届いたときに、この橋を通ったことに由来する、とか。


川崎堀踏切
府中街道に戻り、先に進むと南武線を渡る踏切があり、その名も川崎堀踏切と言う。ここにも古い水路に架かったであろう石橋の高欄が踏切を渡った東詰めに残されている。







大師堀・町田堀分岐点
川崎堀踏切から川崎堀が南武線を潜り東側に出る箇所に向かう。成り行きで線路沿って北に戻り用水出口に。金網のフェンスに囲まれたコンクリート造りの水路から出てくる用水を確認し、用水を少し戻り鳥居形造形物が特徴的な水路施設に。川崎堀はここで終了。ここからは右に町田堀、左に大師堀と二つに分かれ下流へと下ることになる。
「榎戸から溝の口の方へ流れて行っている用水の岸は、ちょっと風情に富んでいる。第一、水量の多いのが気持ちが好い。榎戸の橋のところにある大堰からして既に見事である。四、五年前、暑い日に通った時には、この用水の岸は深樹と竹藪とに蔽われて、その中を用水が凄まじい音をたてて流れて行くというさまで、おりおり水に臨んで、夢見るような合歓(ねむ)の花が咲いているなど、そぞろに私達の心を惹いた。しかし、それから二、三年して行った時には、その岸の樹も伐られたりすかされたりして、風景が大分浅露になっていた。しかし、まだ捨てることの出来ないある特色を持っていた。それに、相模丘陵のすぐ近く迫っているのも好かった」。

田山花袋の『東京近郊 一日の行楽』の一節である。先回の散歩メモは上河原取水堰からはじめ、田山花袋の描く榎戸堰を経て宿河原取水堰からの用水(宿河原線)の合流点までカバーした。花袋の描く用水風景は大正初期の頃であり、コンクリートで護岸工事され、周囲に宅地が立ち並ぶ現在の二ヶ領用水本川に、当時の面影を偲ぶ縁(よすが)は望むべくもないのだが、ともあれ二ヶ領用水にあるふたつの取水口の上流の取水口からはじめ、下流に設けられた宿河原堰取水口からの用水合流点である落合までをメモした。
今回はその宿河原堰からはじめ、落合まで下り、合流点から二ヶ領本川を辿り、久地の円筒分水手前の平瀬川までをメモすることにする。



本日のルート:小田急線・登戸駅>宿河原堰堤>二ヶ領せせらぎ館>船島(ふねしま)稲荷社>JR南武線>北村橋>八幡下圦樋>多摩川旧堤防(「宿河原の霞堤」)>八幡堰>宿河原八幡宮>川崎市緑化センター>五ヶ村堀と八幡下の堰>宿之島橋>宿之島稲荷>中宿地蔵菩薩>徒然草の碑>前川堀が宿河原線に注ぐ>久地の合流点>鷹匠橋>堰前橋>久地の横土手>供養塔>久地分量樋跡>平瀬川>多摩川の旧堤防(「久地の霞堤」)

小田急線・登戸駅
宿河原堰堤の最寄駅である小田急線・登戸駅で下車。いつだったか、この登戸駅で下車し、多摩丘陵へと進んだことがある。登戸の「戸」は場所といった意味。多摩川の低湿地から多摩丘陵に登る場所であったのだろう。田山花袋は前述の『東京近郊 1日の行楽』で、「登戸河岸から見た多摩の上流の翠微、これがまた捨て難い。瀬の多い脈のように流れた川、その先に複雑した丘陵、またその先に奥深く多摩の山群が美しくかがやいていた」と描く。
登戸は、江戸から津久井に通じる津久井往還、また幾多ある大山道のひとつが通る道筋であり、津久井の絹や黒川の炭、禅寺丸柿を運ぶ商人、大山詣で賑わったことだろう。

登戸の渡し
此の地には多摩川を渡る渡し場のひとつである登戸の渡しがあった。江戸の頃は小田急線の鉄橋の辺り、明治にはやや上流に移り、明治の終わりの頃は、世田谷通りが通る水道橋辺りに渡し場があったようである。
登戸の渡は多摩川を狛江に渡り、現在の砧浄水場辺りまで東に進み、そこから北に上り慶元寺辺りに。そこからは大雑把に言って、「品川道」を南に下る道、三軒茶屋から往昔、武蔵国の郡衙のあった現在の皇居西の丸あたりに向かうふたつに分かれていたようである。狛江道、品川道を辿った狛江散歩が懐かしい。

宿河原堰堤
登戸駅から成り行きで多摩川堤に進み、宿河原堰堤に向かう。多摩川堤を進むも、宿河原取水口で行き止まり。少し下流を回り込み車道脇の船島人道橋を渡り、「二ヶ領せせらぎ館」を見遣りながら、とりあえず堰堤に向かう。
3つの魚道を持ち、固定部が洪水時の水をうまく流せるようにした、起伏式5門、引上式1門の可動式の堰からなる現在の宿河原堰堤が完成したのは平成11年(1999)のこと。
江戸の頃、竹で編んだ籠に砂利を詰めた蛇籠を並べて取水した堰が、上河原堰と同様に大正期の社会状況の変化に伴い、取水堰の改築が必要となった。多摩川の水位低下、そして灌漑用水だけでなく工業用水といった水需要の増大が発生し、安定的な取水量の確保が必要となったためである。
上河原堰は昭和16年(1941)に工事着工し、昭和20年(1945)に完成したが、宿河原堰の改築・コンクリート化工事は戦後になってから。完成は昭和24年(1949)のこと。工事責任者は上河原堰と同じく平賀栄治である。
ここにおいて一時的な蛇籠堰から恒久的なコンクリート堰となり、安定的な取水が可能となるが、このコンクリート堰は固定堰であったため、後に大災害を引き起こすこととなる。
昭和49年(1974)のこと、台風で狛江市猪方の多摩川堤防が決壊、家屋19軒が流失した。その要因は宿河原堰の固定堰に流れが遮られ、水位を増した多摩川の激流によって堤防が決壊したわけである。山田太一さんの原作・脚本になるテレビドラマ『岸辺のアルバム』での、崩壊した堤とともに民家が濁流に飲み込まれるシーンが、ジャニスイアンの主題歌とともに思い起こされる。
それはともあれ、その状況を踏まえ平成5年(1993)、宿河原堰の改築方法の検討を開始し、その結果完成したのが、現在の宿河原堰堤である。


二ヶ領用水・宿河原堰の完成時期
ところで、江戸の頃、宿河原堰が完成したのは、上河原堰の完成した慶長16年(1611)に遅れること18年、寛永6年(1629)、関東郡代である伊奈忠治の手代である筧助兵衛の手になるものとされてきた。が、近年になり、慶長16年(1611)に小泉次太夫により最初に完成した二ヶ領用水の堰は、宿河原堰であるとか、完成は寛永6年(1629)であるが、普請者は田中丘隅であるとか、あれこれの説がでているようである。
どうしたところで、二ヶ領用水の資料は抹殺されたと言うか、残ってないわけであり、確とした説はないようだが、何となく気になるのは、上河原堰からの二ヶ領本川を「新川」とも称する、ということ。新川という以上、古川があったのだろうし、その古川のほうが古く開削されたとは想像できる。新川と呼ばれた時期がいつの頃か不明のため、何とも言えないが、二ヶ領用水開削期に呼ばれていたのであれば、宿河原が先、との説も少しは説得力を持つとは思える。

二ヶ領せせらぎ館
宿河原堰を離れ「二ヶ領せせらぎ館」に。多摩川や二ヶ領用水の歴史、堰の説明、多摩川の自然に関する資料を展示するこの施設ができたのは平成11年(1999)のこと。可動堰として改築された現在の宿河原堰の管理棟の一部を使って誕生した。
管理運営は「NPO法人 多摩川エコミュージアム」が行っており、今年(平成27年;2015)訪れた時、同NPOが制作した二ヶ領用水に関する資料である、「散策こみち案内 みんなで歩こうシリーズ」を数点買い求め、手懸りの無かった二ヶ領用水散歩に「取りつく島」が出来、散歩が結構豊かなものとなった。


島(ふねしま)稲荷社
「二ヶ領せせらぎ館」の少し南、多摩川堤の河道側、河川敷といった場所に船島稲荷社がある。細長く延びる参道の左手は多摩川である。明神形式の鳥居を潜り、二の鳥居の先に御嶽神社の小祠が祀られる。その先にある社殿はコンクリート造りであり、社殿の扉には草鞋がくくりつけられていた。
社殿脇にある「船島稲荷社のゆかり」と刻まれた石碑には「多摩川の川辺に古くは中の島、現在は舟島と言うふるさとがある此の地を開拓した我らの先祖は信仰の氏神として稲荷社を祀った。治水興農の守護神として爾来幾百年しばしば暴風雨水害に見舞はれ度々境内を移したりした。昭和十二年境内は決壊し樹齢数百年に及ぶ神木は流れ、社殿は水浸しとなるも常に霊験加護を信じ神徳に浴さんとする氏子の信仰心を結集し複興して今日にいたったのである」とあり、続いて、本殿を近代風に改築した旨が昭和54年の日付とともに刻まれていた。コンクリートの本殿は昭和54年(1979)に建て替えられたようである。
本殿の扉に草鞋が括り付けられているのは、馬の脚の無事なるを祈り、藁沓を奉納したのがはじまり、とも言われる。馬が日常生活からいなくなった今日では、足の怪我などに御利益があるとする。草鞋を持ちかえれば早く治り、そのお礼に新しい草鞋を奉納するようである。

それにしても、何故に暴れ川のすぐ傍に社を祭ったのだろう?ちょっと考える。と、多摩川の河道が現在のものとなったのは天正18年(1590)の洪水以降、という先回散歩のメモを思い出した。すでにメモしたように往昔の多摩川は、その流路定まること知らず、といったものであったにせよ、現在より多摩丘陵に近いところを南に下っていた、とのこと。所謂(いわゆる)、「多摩川の南流時代」の主たる川筋は上河原堰から下る現在のニケ領本川のルートとも言われる。 この社の創建は不詳ではあるが、中の島とも舟島(明治の地図には船嶋とある)とも称された氾濫原に浮かぶ自然堤防、微高地にあったにせよ、敢えて暴れ川の河原・河川敷に祀ることもないだろうから、創建時期は天正18年(1590)以前、ということではあろうか。
社には天保13年(1842)再建との古文書が残るとのこと。多摩川の川筋から少し離れた微高地にあった社も、多摩川の河道の変化により、予期せず川傍となってしまい、石碑にあったように、氏子が再建を繰り返してきた、ということではあろう。

JR南武線
船島橋手前にある取水ゲート(樋門)を見遣り、橋を越えて用水に沿って進む。用水の両岸は護岸工事がなされ、水辺を歩ける親水公園といった趣となっている。また、用水の両岸は、昭和34年(1959)頃から地元民により大々的に植樹され、現在450本以上の桜並木となっている。
新船島橋を越え先に進むと、南武線と交差。低いガードを、少し背を屈め、線路下を抜ける。




北村橋・前川堀並走
用水に沿って進むと、交通量の多い橋と交差する。その「北村橋」の手前、右岸から用水が接近し、コンクリートで仕切られた水路として二ヶ領用水・宿河原線と並走する。
この並走する用水は「前川堀」とのこと。二ヶ領用水・宿河原線と開渠で並走した前川堀は、ほどなく木やコンクリートで蓋をされ、遊歩道として南に下り、東名高速高架下辺りで宿河原線の用水に水を吐き出すことになる。
前川堀分岐

川崎市の制作した用水マップに拠れば、二ヶ領本川に五反田川が合流する地点辺りから東に前川堀(中田堀とも)が分岐する。水路は小田急線・向ヶ岡遊園前の南、登戸地区と宿河原2丁目地区の境を東に向かい、宿河原小学校の二筋手前の道を、S字を描いて進み紺屋堀に合流。合流した水は宿河原堰で取水した宿河原線と並走し、東名高速高架下付近で宿河原線の用水に注ぐ。

八幡下圦樋
南武線・宿河原駅前から続く商店街の道筋が用水を渡る宿河原橋、次いで仲之橋を越えてくだると八幡下橋。橋の傍、というか橋上の一隅に、コンクリートのモニュメントがある。モニュメントは交差する樋の形をしており、「八幡下圦樋 明治四十三年四月竣工」とあり、脇にその案内がある。
案内には「八幡下圦樋」とは、この二ヶ領用水の水を堰止め調整したものである。当時の工事請負人関山五郎右衛門という人により明治四十三年四月に完成した。
その昔(年号不詳)、現在の宿河原二丁目二十四番地(宿河原幼稚園付近)を起点に東は高津区宇奈根まで多摩川の旧堤防が築かれていたが、洪水により下流の水害を防ぐために、ここに圦樋を造り、その上流三十米の八幡堀より多摩川に放流して水を調整したものである。
最近この圦樋が逆に堰となり、洪水に度に近隣の住宅に水害を起こすことにより取り壊されたのである。昭和六十三年十一月 吉日」とあった。
NPO法人 多摩川エコミュージアム制作の「散策こみち案内 みんなで歩こうシリーズ」には「古文書によれば、元禄15年(1702)にはじめて八幡下圦樋ができた。その後幾度も改修、移動があり明治43年(1910)大改修があり、コンクリートとなり、同時にこの年、下流の久地大圦樋、久地分量樋の改修もなされた」とあった。

多摩川旧堤防(「宿河原の霞堤」)
石碑の案内には「現在の宿河原二丁目二十四番地(宿河原幼稚園付近)を起点に東は高津区宇奈根まで多摩川の旧堤防が築かれていた」とあり、衛星写真には「多摩川の旧流路」が描かれていた。大雑把に言って、旧流路は八幡下堰辺りまでは二ヶ領本川とほぼ同じであるが、八幡下堰辺りからは二ヶ領本川を離れ、南武線を下辺として北に大きく半円を描き、その先は多摩川に向かって北東に向かっている。
NPO法人 多摩川エコミュージアム制作の「散策こみち案内 みんなで歩こうシリーズ」にある旧多摩川堤防の説明によれば、「現在のこのあたりの堤防は昭和7年頃から造られ始めたもので、それまでは近世以来の旧堤防(明治14年の地図にあり)が使われていた。その堤防は霞提で、ずっとつながったものではなく、稲田地区では3ヶ所あり、この宿河原あたりでは、常照寺近くからはじまり、堰(注;地区名)をとおり、宇奈根の多摩沿線道路まで続いていたよう。
現在、とくに新明国上教本部の裏手、南武線を渡りさらに北に行ったところには旧堤が高く盛られた形で残り、道になって東名高速下まで続き、旧堤の面影を残している。この宿河原の旧堤防の北側はかつて堤外地で、畑や桃、梨畑であった」と説明されていた。
石碑の案内にあった宿河原幼稚園は北村橋を南に下った宿河原交差点の東側、常照寺の少し東にある。Google Mapの衛星写真を見ると、南武線の北に如何にも堤跡といった緑に囲まれた道筋が見える。 二ヶ領本川の仲之橋辺りから堤防跡を辿ると、南武線・宿河原第一踏切の先から南武線・不動第二踏切の間で北に大きく弧を描き、そこからは明確に堤防と分かる「高みが宅地を分断し、北東へと向かい川崎市多摩区と高津区の境あたりまで続いていた。メモの都合上、この堤防を一応「宿河原の霞堤」と呼ぶことにする。
霞提
霞堤は伊奈流・関東流の特徴とされる治水工法。乗越堤、遊水地といった、河川を溢れさすことで洪水の勢いを制御するといった、自然と折り合いをつけた「自然に優しい工法」。しかし、それゆえに問題もあった。なかでも洪水の被害、そして乱流地帯が多くなり、新田開発には限界があった、と。
こういった関東流の手法に対し登場したのが、井沢弥惣兵衛為永を祖とする紀州流。八代将軍吉宗は地元の紀州から井沢弥惣兵衛為を呼び出し、新田開発を下命。関東平野の開発は紀州流に取って代わる。為永は乗越提や霞提を取り払い、蛇行河川を堤防などで固定し、直線化した。ために、遊水池や河川の乱流地帯はなくなり、広大な新田が生まれることになったようである。井沢弥惣兵衛為永の普請工事としては、見沼代用水が知られる。

八幡堰
八幡下圦樋の案内に「圦樋(注;水門)を造り、その上流三十米の八幡堀より多摩川に放流して水を調整した」とある。この水路は八幡堀と呼ばれる。圦樋の上流三十米にある、とのこと。少し用水を戻ると、用水左岸に宿河原仲町町会の防災プレハブ倉庫がある。八幡堀はかつて、この辺りから分岐し、八幡下圦樋で調整された水を多摩川に戻していたようである。
八幡堀
此の地で宿河原線から分岐した八幡堀は、南武線の下を潜り、北東に流れ、向の岡興業高校の先で多摩川に注ぐ。上で多摩川の旧堤防のメモをしたが、明治の地図を見ると、その南を堤防に沿って下っていたように見える。
堰の長池
明治の地図を見ていると、現在の新明国上教本部の北から向の岡興業高校近くまで、池、と言うか沼地といったものが描かれている。現在の東名高速辺りを中心に東西に細長くのびたこの池は、昔の多摩川の流路跡であったようで、「堰の長池」と呼ばれたとのこと。八幡堀はこの池に注ぎ多摩川へと下ったようである。
この池も現在の多摩川の堤防が築かれる昭和7年(1932)頃から、池の西半分は新明国上教(大正期にできた宗教団体)によって埋め立てられ宿坊や水田となり、池の東、堰地区も戦後埋め立てられ梨畑、そして現在では大半が宅地となっている(「NPO法人 多摩川エコミュージアム制作の「散策こみち案内 みんなで歩こうシリーズ」)。

宿河原八幡宮
八幡堀と言うからには、八幡さまが近くあるのだろうとチェック。宿河原橋の少し南に宿河原八幡宮がある。用水を仲之橋、宿河原橋へと戻り、宿河原八幡宮へ。
社にお参り。こじんまりとした宿河原村の鎮守さまである。元は多摩川北岸にあったとのことであるが、安政9年(1826)に多摩川の川瀬が北に移り、社は悉く流出。常照寺観音堂のあったこの地に移った、とのことである。
宿河原
宿とは集落の意味。河原にあった集落が村名の由来。武蔵風土記稿には「此処昔開墾の頃の村落なるにや、もとより多摩川の河原なれば宿河原を以(注;もって)村名とするならん」とあり、続けて「駒井(注;現在の東京都狛江市駒井)は地の続きし所なれば」と記されている。戦国期の小田原衆所領役帳には、「駒井宿河原」との記録があり、現在は多摩川の対岸となっている駒井地区と宿河原は、往昔一体であったことがうかがえる。安政9年(1826)の多摩川の流路の変更により、駒井と宿河原は泣き別れとなってしまったのであろう。
常照寺
真言宗豊山派のお寺さま。創建年度は不詳だが、15世紀末か16世紀初頭との説がある。結構古い歴史のあるお寺さまである。地図を見ると、お寺さまの南に開渠が見える。五ヶ村堀の用水路かと思う。五ヶ村堀はここから暗渠となり八幡様辺りを下り、下にメモする八幡下圦樋記念碑の残る八幡下橋の少し下流で、コンクリート架け樋となって二ヶ領用水を渡る。

川崎市緑化センター
八幡さまから用水に戻る。八幡下橋を越えて先に進むと、用水左岸に川崎市の緑化センターがある。HPの資料に拠ると、「神奈川県農業試験場東部園芸指導地が昭和11年(1936年)に開設されました。その後、この施設は昭和24年(1949年)に川崎市に移管され、川崎市園芸技術普及農場として、ナシやモモなどの果樹栽培技術の普及、家畜伝染病の予防、農業用機械の技術講習場として活用されたほか、土壌診断や野菜及び花卉に関する試験栽培の実施など、多種の業務により市内の農業技術の向上を担ってまいりました。
フルーツパーク(現川崎市農業技術支援センター)に果樹栽培試験に関する業務を移管後、昭和54年(1979年)に都市緑化の推進のために設定された川崎市緑化センター条例に基づき、「緑の相談所」の機能を持つ川崎市緑化センターとなりました」とあった。
四季折々には夥しい数の花が咲く園内では展示会、育成講習会なども開催されているとのことである。

五ヶ村堀と八幡下の堰
緑化センターを見遣りながら先に進むと。「川崎の歴史ガイド」のパネルがあり、「五ヶ村堀と八幡下の堰」とあった。
案内には、「五ヶ村堀はこの地点で本用水と立体交差をし、堰方面の田畑を潤す。近くにある八幡下の堰は、白秋の多摩川音頭で有名な「堰の長池」から多摩川に通じ、排水路の役割を果たした」とある。
案内に「近くにある八幡下の堰」以下の記述は、八幡下圦樋で堰止められた用水を堰の長池から多摩川に通じた排水路、とあるから上でメモした八幡堀のことだろう。
また、用水を掛渡しの樋でクロスするのは五ヶ村堀である。
五ヶ村堀のルート
小田急線・向ヶ岡遊園駅の少し東、小田急線の高架が二ヶ領本川を跨ぐ下にある取水口で取水された用水は、しばらく二ヶ領本川に沿って暗渠で流れた後、開渠の状態で宿河原に丁目を東から西に直線で進み、宿河原6丁目で宿河原堰から取水された宿河原線を樋で越え、南武線手前で流路を変え、線路に沿って南東に下り、東名高速を越えた先で北東に流れを変え、南武線を渡り多摩川に注ぐ。

白秋の多摩川音頭
白秋の多摩川音頭って何?チェックすると、先回の散歩でメモした庚申塔を建立した丸山教のHPに多摩川音頭と白秋のことが記されていた。その記事に拠ると、多摩川音頭は、丸山教の教主が稲田村の青年団のために、白秋に依頼したもの。白秋は登戸の丸山教に度々訪れるも、酒宴に興じ、なかなか完成しなかったようだ。 で、しびれを切らした青年団は白秋を車に乗せ、菅の土手から中の島、登戸、枡形山、宿河原、堰など多摩川沿いの各地を回り、風景だけでなく言い伝え、行事を見て回り昭和3年(1928)、31節からなる郷土の民謡として生まれた、とのことである。
どういったものかチェックする。Youyubeに多摩川音頭がアップされていた。一部聞き取れないところもあったが、歌詞をメモする。

  囃せ 囃せや 多摩川音頭
  (ちりへうと ちりへうと ちりへうと へう へう)
  笠は鮎鷹 笠は鮎鷹 手はさらり 
  月の砧は昔のことよ いまは鮎鷹 ちりへうと へう へう(「月の砧は」の囃子は以下の節の後
  に合いの手で入る)
  菅の薬師は 雌獅子に牡獅子 わしもおまへも わしもおまへも 胸太鼓
  恋は(?) 百草は絡む  わしとおまえの わしとおまえの中の島
  多摩の登戸 六兵衛様よ 藤は六尺 藤は六尺 いま盛り 
   花は咲いたよ河原の桃が (?)
  堰の長池 でて見りゃ長い おまへ待つ夜は おまへ待つ夜は まだ長い
  稲田よいとこ 稲穂は垂れる 梨は明るむ 梨は明らむ 日は晴れる
  今朝も晴れたよ 秩父が晴れた 多摩の河原の 多摩の河原の風上に(?)

菅の薬師とは文治3年(1187)にこの地方の領主であった稲毛三郎重成が建立した薬師堂(多摩区菅北浦4-16-2)であり、境内で行われる獅子舞は菅の獅子舞として知られる。登戸の六兵衛さまとは、丸山教の教祖。境内には美しい藤棚があるようだ。堰の長池は既にメモした。
踊りは鮎鷹(コアジサシ)が小魚を捕る姿をイメージしたものであり、囃子の「ちりへうと ちりへうと」は 鮎鷹)の鳴き声をまねたものとのこと

なお、Youtubeの動画には31節からなる音頭はすべて含まれてないようで、
  わたしゃ鮎鷹 多摩川そだち 水の瀬の瀬を 水の瀬の瀬を 見てはやる
  酒は枡のみ 枡形山よ 山の横あな 山の横あな ほらばかり
  さらす調布(てづくり) さらさら流れ なぜかあのこが なぜかあの子が かう可愛い
といったフレーズもあるようだ。
また、先回のメモで稲田堤のところで記した
  咲いた咲いたよ 稲田のさくら 時は世ざかり 時は世ざかり 花ざかり
なども含まれているようだ。

枡形山は稲毛三郎の城がある丘陵。長者穴。山の横あなは、黄金を埋めたという伝説ののこるほら穴であり、ほら=法螺話をかけるいるようだ。
何度も聞いているうちに、多摩川音頭か頭の中をグルグル永久循環しはじめた。

宿之島橋
八幡下橋に戻り、用水を下り宿之島(しゅくのしま)橋に。橋の袂に地蔵の祠が佇む。三体の地蔵様は阿弥陀三尊であり、本尊と左右の脇侍仏よりなり、宿河原で最も大きな祠とのことで、上宿地蔵と称されるようだ。
御嶽神社代参大札
地蔵の祠には「武蔵国 御嶽神社代参祈祷神璽 講中安全」と書かれた、御嶽神社の御札が立てられている。
そう言えば、船島神社にも御嶽社の小祠があった。大田区には木曾の御嶽に関わりのある御嶽神社もあるようだが、こちらは「武蔵国」ともあり、青梅の御嶽神社の講中であろう。

狛江の御嶽講
この地の記録ではないが、往昔、宿河原と一体であったと上に記した狛江の駒井には現在でも御嶽講が残るとも聞く。
御嶽講は農業の神である作神様、盗難除けの神として信仰され、かつては狛江のどの村にも御嶽の講があったようだ。現在の代参は車で行き、お参りし、そのお札は各戸に配られるほか、「御嶽神社祈祷神璽 講中安全」と書かれた辻札と呼ばれる代参大札の2枚のうち一枚が杉の葉と一緒に細竹に挟み北向き地蔵のところに建てられる、とある。パターンとしては、この地のものと同じである。現在もこの地に御嶽講が残ってはいるのだろうか。

宿之島稲荷
高橋、中村橋、稲荷橋と進む。稲荷橋の右岸に宿之島稲荷、宿之島と下綱(現在は長尾)の守り神。明治8年(1875)の建立とのこと。
歳神御神体
境内左手に小祠があり石の御神体が祀られる。「当地、歳神御神体の由来」とある。
説明は長く、私の頭では少々論旨不明のところもあるため、正確か否かは別にして、自分なりにまとめると;家々では、お正月に稲・田の神である歳神さまをお迎えする。小正月になると再び山(天上)に戻る歳神様をお送りするため、竹・藁で小屋をつくり、中に火の神御神体の石を祭り込み、若い衆が一晩か二晩飲食を楽しんだ後、竹・藁の小屋を焼く、お焚き上げ行事を行う。
歳神さまはお焚き上げの煙とともに天上に戻り、お焚き上げで焼いた餅などを食べると無病息災などの御利益がある、と言う。
このお焚き上げ行事を「どんど焼き」と称する地方も多いが、サイト(バライ)とも呼ばれる。サイトは斎灯と書くようだが、これは村の道祖神のお祭りと結びついたため、とも言われる。道祖神は「塞(さい・さえ)の神」とも呼ばれており、サイトとは、塞神=道祖神を祀った場所がその由来のようである。 因みに、どんど焼きをサイト、サイトバライと称するのは長野、山梨、静岡、新潟などに多いようであるが、相模でもサイトバライと呼ぶこともあるようだ。先日、八菅修験の散歩で才戸橋に出合った。根拠はないが、この橋の由来も「サイト(バライ)」からだろうか。

中宿地蔵菩薩
稲荷橋から用水左岸を下ると東名高速の高架に近づく。道脇に二体の地蔵を祀る小祠がある。仲宿地蔵菩薩。造立は宝暦9年(1759)。宿河原最古の地蔵尊とのことである。

徒然草の碑
東名高速の高架手前に石碑があり、「徒然草 第百十五段 吉田兼好」と刻まれる。:本文には、「河原といふ所にて、ぼろぼろ多く集まりて、九品の念仏を申しけるに、外より入り来たるぼろぼろの、「もし、この御中に、いろをし房と申すぼろやおはします」と尋ねければ、その中より、「いろをし、こゝに候ふ。かくのたまふは、誰そ」と答ふれば、「しら梵字と申す者なり。己れが師、なにがしと申しし人、東国にて、いろをしと申すぼろに殺されけりと承りしかば、その人に逢ひ奉りて、恨み申さばやと思ひて、尋ね申すなり」と言ふ。いろをし、「ゆゝしくも尋ねおはしたり。さる事侍りき。こゝにて対面し奉らば、道場を汚し侍るべし。前の河原へ参りあはん。あなかしこ、わきざしたち、いづ方をもみつぎ給ふな。あまたのわづらひにならば、仏事の妨げに侍るべし」と言ひ定めて、二人、河原へ出であひて、心行くばかりに貫き合ひて、共に死ににけり」とある。
意味は訳すまでもないが、石碑には刻まれていないが徒然草の第百十五段には、続けて「ぼろぼろといふもの、昔はなかりけるにや。近き世に、ぼろんじ・梵字・漢字など云ひける者、その始めなりけるとかや。世を捨てたるに似て我執深く、仏道を願ふに似て闘諍を事とす。放逸・無慙の有様なれども、死を軽くして、少しもなづまざるかたのいさぎよく覚えて、人の語りしまゝに書き付け侍るなり」と続く。
この宿河原、この以外に大阪の茨木の宿河原にも徒然草の碑があるようだ。門外漢であり、どちらかはわからないが、「東国で殺されたと聞いたので訪ねてきた」と言うことから、この地との説も故なきわけではなさそうではある。

前川堀が宿河原線に注ぐ
前川橋の辺りからコンクリート壁で水路は隔てられ、二ヶ領用水・宿河原線と並走してきた前川堀の水は、東名高速の高架下でひっそりと宿河原線(用水)に注ぐ。







二ヶ領本川と宿河原からの用水合流点・落合
東名高速の高架下、そして南武線を跨ぐ道路下を潜り、先に進むと先回歩いた二ヶ領本川に宿河原堰からの用水が合流する箇所・落合に出る。ここからは二ヶ領本川を下ることになる。





久地の合流点
二ヶ領本川を少し下ると、南武線に当たる。手前に人道橋があり、脇に「川崎の歴史ガイド 久地の合流点」の案内パネルがあり、「ここで合流した用水は久地の円筒分水を経て稲毛・川崎領の田畑を潤した。現在の許容取水量は、1日あたり中野島から約46万トン、宿河原から約35万トン、合計80万トンである」とあった。
既にメモしたように、この許容取水量も現在では久地円筒分水手前の平瀬川でその80%を多摩川に戻すようである。久地の円筒分水は次回の散歩でメモする。



鷹匠橋
南武線の人道橋を渡り府中街道に出る。道の左手にある南武線・久地駅を見遣りながら進むと、久地駅前交差点に鷹匠橋が架かる、橋の中央に「川崎の歴史ガイド 鷹匠橋」とあり、「江戸時代、川崎にも将軍家の御鷹場があり、この近くに鷹匠を泊める名主の家があったが。そこには常に御鷹部屋という特別の部屋が設けられ、鷹や鷹匠は大変手厚くもてなされた」と案内があった。
久地駅
久地駅は昭和2年(1927)に「久地梅林停留場」として開業。付近には江戸時代から梅の栽培が盛んで、数百株の梅の名所として知られており、梅林を観光名所と目した命名である。昭和8年(1933)には北原白秋も久地梅林を訪れ「君がため未明(まだき)に起きて梅の花見に来たりけりまさやけき花」など十首を詠んでいる。
とは言うものの、田山花袋は『東京近郊 1日の行楽』で、「久地の梅は、依然たる田舎の梅林だ。ヤヤ世離れたという意味では面白いが、それほど大騒ぎするようなところでもない。梅もそんない多くない」と描く。

この梅林も戦前の平瀬川の開削(次回散歩でメモする)、戦時中の食糧増産のため(梅が伐採され畑地になった、ということだろう)ほとんどが伐採され、また、戦後の工場進出や宅地化の進展のため往時の面影は少なくなり、梅園幼稚園とか久地梅林公園(平成14年;2002年開園)といった地名に往昔の名残を留める(久地梅林公園に上記白秋の歌碑が建つ)。
久地の由来
久地の地名の由来は例によって諸説ある。NPO法人 多摩川エコミュージアム制作の「散策こみち案内 みんなで歩こうシリーズ」には、溝の口に入り口であるところから、「くち」が「くじ」に転化、多摩川の幾度もの流路変更により、河岸が抉られた=くじられた(注;急な崖のことを「クジ」と言う)、久地地区の南の丘陵は現在津田山と呼ばれているが、元々、比丘尼山と呼ばれており、久地は比丘尼に因む(注;比丘尼を祀った弁天堂が小名の久地にあった、ということか)、または音が転化した、といった記述があった。比丘尼云々の話は今一つよくわからない。

堰前橋
鷹匠橋から用水に沿って先に進み、人道橋を越えると堰前橋。「散策こみち案内 みんなで歩こうシリーズ(NPO法人 多摩川エコミュージアム)」に拠ると、この辺りに久地の悪水吐けがあった、とのこと。カシミール3Dのプラグイン「タイルマップ一覧」の「今昔マップ 首都1896‐1909」でチェックすると、堰前橋の少し手前辺りから蛇行しながら北東へと流れ多摩川の河原に続く水路が見える。これが田畑を灌漑した余水を流す悪水路かと思う。

久地の横土手
堰前橋のひとつ下流の久地橋の左岸手前に「川崎の歴史ガイド 久地の横土手」がある。「多摩川に対して直角につくられた横土手。江戸時代、洪水時の水勢を弱める目的でつくられた。この土手を挟んで利害対立が激しく、工事は約三百メートル進んだところで中断した」と説明がある。
なるほど、用水に直角に広い道がある。土手と言うほどの堤はない。以前は両側に比べて一段高い土手があったようだが、現在は宅地開発で平坦に整地されている。
「散策こみち案内 みんなで歩こうシリーズ(NPO法人 多摩川エコミュージアム)」に拠れば、「元禄の頃(1700頃)、久地の大圦樋や分量樋(注;後述する)を護り、二千町歩の水田を多摩川の氾濫による水没から防ぐため、関東郡代伊奈半十郎は、久地の横土手の強化を決意。伊奈氏の甲州流治水のひとつ、霞土手とは河流に対して横方向に堤防を築いて氾濫した洪水を上流の低地に滞水させて水勢を弱め、川下の堤防の決壊を防ぐ手法。
横土手が作られたのは幕府直轄地であったが、その中に宇奈根村の飛地だけが井伊家の私領であったことが工事中にわかり、後の工事中断の一要因にもなった(井伊家の承諾なしに伊奈半十郎が工事を行った)。この横土手は当時としてはかなり大規模工事(下部の幅約30m、上部の幅約7m、長さ約240m)で、完成することなく半分ほどで中断されたが、作られた分の跡が今日まで伝えられているのは、この工事の陰には幾つかの悲話が残されているからであろうか」とある。

供養塔
「川崎の歴史ガイド 久地の横土手」の傍に小祠がある。水神様とも言われるが、横土手築造にかかわる伝説である「浄庵安正」の供養塔なのかも知れない。「散策こみち案内 みんなで歩こうシリーズ(NPO法人 多摩川エコミュージアム)」を読んでもはっきりしない。
「散策こみち案内 みんなで歩こうシリーズ(NPO法人 多摩川エコミュージアム)」に拠れば、浄庵安正の伝説とは、横土手の完成により水没する宇奈根、堰、宿河原の村民のために、工事役人を斬り殺した浄安安正の恩義に報うため、供養の塚を造ったとの言い伝え。村民の度重なる工事中止の懇請にもかかわらず、工事は強行され、横土手によって守られることになる村民との間で、諍いが起きるも役人は工事を強行。
堰村の名主屋敷に寄宿していた浄庵安正は、今こそ恩返しの時と、工事役人を斬り殺し、多摩川対岸にある支配違いの伊井領の役所に出頭。横土手の工事が進む宇奈根は井伊領の飛び地であり、その井伊家に無断で工事を進めていた工事役人は事が公になることを怖れ、事件をなかったことに始末し、工事も取りやめることなった、とのこと。
浄庵安正の恩義に報うため築いた「塚」は、この小祠の道を隔てた南、現在ガーデンマンションが建つ辺りであったが、その建設に伴い、平成17年(2005)に、この地に小公園がつくられ供養塔が移されたようである」といった説明があるのだが、この小祠が供養のために築かれた「供養塚」から移された「供養塔」なのかどうか、はっきりしない、ということである。

久地分量樋跡
用水に沿って下ると、用水右岸に丘陵の緑が繁る辺りの道脇に石碑があり「久地分量樋跡」とあり、「久地分量樋は、多摩川から二カ所で取入れられ、久地で合流した二ヶ領用水の水を、四つの幅に分け、堀ごとの水量比率を保つための施設で、江戸時代中期に田中丘隅(休愚)によって作られました。そして昭和16年(1941)年、久地円筒分水の完成により、役割を終えました」との説明があった。
「四つの幅に分けられた、各堀」とは川崎堀(取水路)、根方堀、久地・溝の口・二子堀、六ヶ村堀(各堀は次回メモ)。分量樋では各灌漑面積に比例した幅の樋(水門)によって水量比を保とうとしたが、この方法では用水中央部では流水量が多く、端は流水量が少ないといった事情もあり、正確に分水することが難しく、水の配分を巡り水騒動が起こることになったようである。
田山花袋の『東京近郊 1日の行楽』には「この用水は久地の梅のある少し手前で、大堰をつくって、溝の口の方へ流れて行っているが、その堰のあたりも、丘陵が迫って来ていて感じが好い。夏行った時には、其処で村の子供達が銅のような肌をして、河童のように潜ったり飛び込んだりしていた」と描く。
田中丘隅(休愚)
平沢村(現在のあきるの市で名主の子として生まれ、川崎宿の本陣を務める田中兵庫の養子となった丘隅(休愚)は、名主、問屋も兼ね、関東郡代伊奈忠逵(ただみち)と交渉し六郷川の渡しの権利により得、その利益で宿の繁栄に貢献。 50歳で江戸に出て荻生徂徠などに学び、その後農政・民生の意見をまとめた『民間省要』が大岡忠相の眼にとまり、八代将軍吉宗の御前にて農政・水利の意見を述べ、結果、川除普請奉行に命ぜられ荒川、多摩川、酒匂川の改修にあわせて、享保9年(1724)二ヶ領用水改修の命を受けた。丘隅は宿河原取水口の改修、開削以来百年を越えた総延長32キロに及ぶ用水の大浚い、そしてこの分量樋を造り、古くなった二ヶ領用水を蘇らせた。

久地大圦樋
また、分量樋の手前には、分量樋を洪水などの被害から護るための久地大圦樋(幹線水路の水量調節用の水門や、比較的大きい水門を圦碑)、そして、圦樋の手前には吐口があり、余剰水を多摩川に水路で流した。木製の大圦樋は明治43年(1910)1月に壊れたため、同年12月、コンクリート製に改築された。

平瀬川
先に進むと用水先に水門が見え、その先は平瀬川。久地の円筒分水は、川を越えた先にある。円筒分水からのメモは次回にまわし、今回の散歩は、久地大圦樋の辺りから現在の平瀬川の東に残る多摩川の旧堤防を締めとする。



多摩川の旧堤防(「久地の霞堤」)
「散策こみち案内 みんなで歩こうシリーズ(NPO法人 多摩川エコミュージアム)」に拠れば、久地大圦樋の辺りから多摩川に向かって北東に霞堤が残る、と言う。Google1 Mapの衛星写真にも明らかに堤防跡らしき緑の帯が続く。 平瀬川を渡るとほどなく、これも明確に堤とわかる「高み」が宅地のど真ん中を多摩川へと続いていた。この堤がいつ頃築造されたか不明であるが、途中には堤外排水施設(堤の北はかつての堤外、河川敷)や河口からの里程を示す標識らしきものが残り、つい最近まで多摩川の堤防であったような風情を呈していた。メモの都合上、この堤を「久地の霞堤」とする。
久地の横土手と霞堤
この「久地の霞堤」と「宿河原の霞堤」を歩いてみて、これらの多摩川の旧堤防と横土手の関係がよくわからなくなってきた。霞堤と言う以上、川筋に沿って、不連続ではあるが、上流側の堤防が下流側の堤防より河川側に入り込みながら平行して堤があったのだろうが、「宿河原の霞堤」とそれに不連続で続くであろう多摩川の霞堤に関する記述は、「久地の宿河原」しか見当たらない。 もし、この間に堤がなかったとすれば霞堤間は1キロ弱もある。河道に沿って微高地・自然堤防があったのか、蛇籠によって枡形が造られ多摩川の激流を防いだのか、はたまた、自然に任せた遊水地であったのか不明であるが、これほどの「開口部」である以上、どうしたところで洪水時には一帯は氾濫原となったかと思う。
その氾濫原に下流部を防ぐ横土手を造るからと言って、確かに堤の上流部の水位はあがるだろうが、所詮は横土手がなくても氾濫原であることには変わりない。また、すぐ下流に分水樋から延びる霞提があれば、あえて横土手を造る理由もわからない。

自分なりに納得できる「理屈」は、用水開削時には「久地の霞堤」は横土手築造時にはなく、横土手築造を断念した故の築造であろう、ということ。伊井家領との諍いを避け、横土手を断念した後、幕府直轄領に霞堤を築くことにしたのかとも妄想する。
「久地の霞堤」が無ければ、一帯が氾濫原であろうが、横土手築堤により、共に氾濫原という「痛み分け」のバランスが崩れ、堤の上流部だけが被害を受け、下流部だけが被害を免れるといったことが納得できず、堤の上流部と下流部の村民の諍となったのだろうか。
ひとつ気になることがある。横土手を巡る諍いは伊井家の領地が絡んでいるわけだが、先日読んだ『江戸村方騒動顛末記;高橋敏(ちくま新書)』には、井伊家領の宇奈根村の百姓が幕閣を相手に名主・村役人の不正と井伊家(彦根藩)の不備を訴える越訴をおこなっている事実が書かれていた。訴状を書き上げる力のある百姓がいた、ということである。
横土手も井伊家領宇奈根が絡む諍いである。同書に言う「ものいう百姓」が多数育っていたことが騒動の一因であろうか。久地の分量樋から多摩川に続く「久地の霞堤」は、「ものいう百姓」のいる井伊家領宇奈根村を避け、天領に築堤したのであろう。が、どうしたところで、氾濫原に堤防ができれば、その上流域の村民は洪水被害が増大するわけ、それにもかかわらず、これといった諍いの言い伝えは残っていない。はてさて。

今回のメモはここまで。次回は、平瀬川のあれこれ、円筒分水、また、かつては久地分量樋から分かれた川崎堀(取水路)、根方堀、久地・溝の口・二子堀、六ヶ村堀などのことなどからメモを再開しようと思う。

ニケ領用水は折に触れて歩いてはいる。が、散歩のメモは一度もしていない。何となくその気にならなかったり、その気にはなったのだが、他にフックが掛る散歩が急浮上したりして、タイミングを逃し今に至っている。

二ヶ領用水を最初に歩いたのは平成20年(2008)。もう7年も前になるだろうか。平成18年(2006)に六郷用水を辿ったとき、その用水奉行である小泉次太夫が、六郷用水と同時期に手掛けた治水事業として二ヶ領用水があることを知り、川崎市多摩区にある稲田堤駅の少し南の上河原取水堰から溝の口辺りまで歩いた。円筒分水には少し心を動かされたが、それでも何となくメモをする気にはなれなかった。
今年(平成27年;2015年)に入り、春の桜の頃、再び二ヶ領用水を訪ねた。今度は、ニケ領用水の二つの取水口のひとつである宿河原取水口から南に下った。そのとき、たまたま宿河原堰の近くにあった「ニケ領せせらぎ館」を訪れ、ニケ領用水に関する資料を手に入れた。
その資料をもとに、二ヶ領用水の概要をチェックし、平成20年(2008)に歩いたコースは、上河原堰から取水口から久地の円筒分水までは「二ヶ領本川」であり、久地の円筒分水から溝の口までは「川崎堀」と呼ばれる二ヶ領用水の堀であることを知った。
当日は川崎堀が大師堀と町田堀に分かれる鹿島田まで下ったのだが、後日鹿島田から二つに分かれる大師堀と町田堀、そして悪水落としである渋川、そのほか成り行きでいつくかの支線を辿った。

さて、メモをはじめようと資料を見る。と、ニケ領用水の上部に大丸用水がある。ニケ領用水に注ぐ支流かと、ちょっと寄り道程度に大丸用水に取り付いたのだが、これが結構な規模の用水であり、結局数回に渡り歩くことになってしまった。
その大丸用水散歩のメモはなんとか書き終えたのだが、時期は春を越え夏となり、夏は沢三昧でしょうと、水根沢逆川といった沢登りのメモにフックがかかり、二ヶ領用水のメモは、またまた据え置きとなってしまった。

夏も終え、この秋こそはニケ領用水散歩のメモを終えるべし、と資料を再びチェック。あれこれ調べていると、ニケ領用水の本流や支流をまとめた川崎市作成の地図があることがわかり、溝の口にある「地名資料館」を訪ねた(川崎市の市立図書館にもあるとのこと)。
地図をコピーし、その水路図をカシミール3Dに書き写す。元の地図は小さく、はっきりしたルートは特定できないのだが、カシミール3Dのプラグインである「タイルマップ」の関東平野迅速測図や「明治の今昔マッ」プを参考に水路トラックを引いた。そしてそのトラックデータをフリーソフトの「轍」でKMLファイルに変換し、Google Mapにインポートした(カシミール3Dでも直接KML ファイルを書き出すことができることはその後知った)。
もとよりそのルートの大半は暗渠であり、中には完全に埋められているものもあり、現在の地図では確認できないし、明治の地図にも記載されていないルートもあるので、推定図の域を出てはいない。

それはともあれ、この作業をしながら、なんとなくニケ領用水のメモを今まで躊躇っていた要因がわかったような気がする。自分の性格からして、まずは全体像を大雑把にでも把握できないことには、メモができない、というか、その気になれなかった、ということではあろう。
二ヶ領用水の水路全体の概要はわかった。今まで辿ったルートが全体のどういった位置づけの水路か、ということもなんとなくわかってきた。Google Mapにプロットしたニケ領用水の全体を頭に入れながら、今まで歩いたルートを、実際に歩いたログに拘らず整理しメモをはじめ、未だ歩いていないが何となく気になるルートを今後辿ろうと思う。その過程で、現在は大雑把ではあるGoogle Mapのニケ領用水概要図をより正確なものにしていければとも思っている。


本日のルート:京王稲田堤駅>大丸用水・菅堀>二ヶ領上河原堰堤>二ヶ領用水・上河原取水口>稲田取水所>二ヶ領用水と新三沢川の立体交差>ふだっこ橋>布田堰>中野島堰>沖川原橋>古い道標>一本圦堰>紺屋(こうや)前の堰>台和橋>「登戸付近の紙すき」の案内>新川橋>小泉橋>榎戸堰>榎戸の庚申塔>小田急線と交差>現在の五ケ村堀取水口>五反田川が合流>前川堀分岐>五ケ村堀緑地>新開橋>向ヶ岡遊園跡>長尾橋>長尾の天然氷>宿河原堰からの宿河原線と合流



ニケ領用水
散歩に先立ち、二ヶ領用水の概要をまとめておく。ニケ領用水の流路図は上にメモした通り、川崎市の作成した水路マップを参考にGoogle Mapにプロットした。既にメモした通り、元図は小さく、かつコピーでもあり、正確な場所の特定は少々困難でもあり、明治の地図などを手掛かりに線引きした推定図にすぎない。大雑把な全体の位置関係、その規模感などを把握するためのものである。

で、二ヶ領用水の概略であるが、名前の由来は徳川幕府直轄の天領である稲毛領と川崎領を流れたことによる。全長32キロ(支線まで含まれているかどうか不明)、現在の神奈川県川崎市多摩区から川崎市幸区をカバーする。 用水工事に着手したのは慶長2年(1597)。正確には多摩川の両岸の測量がこの年に開始された、と言う。この両岸という意味合いは、六郷用水と二ヶ領用水のこと。用水開削は慶長4年(1599)。1月には六郷用水、用水は6月から開削が開始されたようだ。
用水工事の用水奉行は小泉次太夫。次太夫が家康より六郷領、稲毛領、川崎領の治水事業普請を下命されたのは天正18年(1590)。用水工事の測量が開始される7年も前のことである。
この年は秀吉の小田原攻めの真っ最中。その陣中にて秀吉より三河・遠州・駿河・甲斐・信濃の150万石から、関東6国・240万石へ移封が家康に伝えられた時である。家康は新封地の状況を把握し、多摩川両岸の開発が焦眉の急として、今川・武田そして徳川へと仕え治水に実績のある家系の次太夫にこの任務をアサインしたのであろう。
交通の要衝である小杉に陣屋を構えた次太夫は多摩川の両岸を調査。当時の多摩川は天正17年(1589)、18年(1590)と大洪水が続いた直後であり、それまで現在の流路より多摩丘陵に近い箇所を流れていた多摩川は、現在の流れにその流れを変えた。大洪水前の多摩川を「多摩川南流時代」、以降を「多摩川北流時代」とも称される。
天正17年(1589)の大洪水では、溝の口あたりから下流域が北東側にその流れを変えた。翌18年(1590)の大氾濫は上流の矢野口・菅あたりから溝の口あたりまでが大きく北に変えた。ほぼ現在の流路である。



その氾濫原を天正18年(1590)時点で52歳であり、戦傷のため不自由な足を引き摺り次太夫は7年にわたって多摩川の両岸を調査。工事の基本方針を決める。その概要は、稲毛領は上流部の菅村(現在の稲田堤辺り)の標高28m?30m、下平間付近が標高4m?5mほどで傾斜は問題なく、天正18年(1590)の洪水跡を用水幹線として活用し、流路中程の久地辺りで分水し下流を潤す。取水地は堰村(現在東名高速が走る辺り。堰の地名が残る)より上流ならどこでもよさそう、と。
川崎領は沖積デルタ地帯の平坦地が広がり、鹿島田辺りで幹線を二つに分け(大師堀と町田堀)、さらにその二つの堀から分水し、川崎の下流域を潤すといったものである(六郷用水は省略)。

次太夫の調査を踏まえ、慶長元年(1596)、家康臨席のもと幕閣より用水工事が正式に承認され、前述の如く慶長2年(1597)より測量が開始され、慶長4年(1599)より工事が開始されることになる。工事が完成したのは慶長16年(1611)、測量開始から14年後のことである。因みに工事は当時稲毛領・川崎領、そして六郷領ともに一村7軒程度であった状況を考慮し、役務負担を減らすため、六郷領水と二ヶ領用水の工事を3ケ月交代で行った、とのことである。

この用水開削により、「此の地(注:川崎領)数里の間水脈通ぜず、溝血梗塞し、毎歳旱、田に勺水無く、野に青草無し、居民産を失ひ、戸口従って減ず」と称された稲毛・川崎領、世田谷六郷領に灌漑用水、生活用水が供給されるようになり、江戸中期には用水の受益面積は約2000町歩、その石高は26,000石まで達したという。一町はほぼ1ヘクタール。よく比較に出る東京ドームと比較すれば、4.7ヘクタール(役4.7町歩)の東京ドーム400個強というところだろうか。

時代は移り、明治42年(1909)には灌漑・生活受益面積がおよそ2800町歩まで達したニケ領用水であるが、その後都市化、工業化の進展によりその受益面積は減少を続け、昭和16年(1941)には約1600町歩、昭和33年(1959)には546町歩、そして平成4年(1992)には26町歩となり、灌漑・生活の基盤としての役割を終え、現在は幹線部を河川として残す他はおおよそ暗渠または埋め潰されている。

現状の姿を大雑把にまとめると、上河原取水堰で多摩川から取水されたニケ領本川は取水口ちかくの稲田取水所から生田浄水場に送られ、工業用水として使用されている。余水はニケ領本川を下るも、久地の円筒分水手前の平瀬川に80%の水を落とす。
サイフォンで円筒分水に導水された余水20%の用水は開渠となって川崎堀を下り鹿島田の平間配水所に至る。この配水所は、昭和14年(1940)に造られた日本初の工業用水のための公営浄水場であった。が、臨海工場地帯の工業用水の需要減少に伴い、現在はその機能は停止し長沢浄水場と生田浄水場から送水管で送られる工業用水の配水をしているだけであり、ここまで流れていた用水も現在では活用されることなく暗渠をとおり多摩川に流される、とのことである。つまるところ、現在の二ヶ領用水は、一部が工業用水、また僅かに灌漑用水に活用はされているが、大半は多摩川に戻されている、と言うところだろう。

いつものことながら、全体のまとめが少し長くなってしまった。以上のまとめを頭に入れながら散歩のメモを始めることにする。


京王稲田堤駅
二ヶ領用水の取水口である二ヶ領上河原堰堤の最寄り駅京王稲田堤に向かう。駅名の由来は、明治31年(1898)、多摩川堤の完成と日露戦争の勝利を記念し稲田村大字菅の堤にソメイヨシノを植え、桜の名所となったことが契機。北原白秋作詞の『多摩川音頭』には「咲いた咲いたよ 稲田のさくら 時は世ざかり 時は世ざかり 花ざかり」と詠まれる。
 斯くして「稲田堤」の名が広まり、昭和2年(1927)に南武線稲田堤停留場(現在の南武線稲田堤駅)が開業することにより、通り名として定着した。昔の大字を冠した「菅稲田堤」という地名は残るが、稲田堤という名は正式な地名として見当たらない。
稲田堤駅のある稲田村は江戸の頃、稲毛米という良質の米で名高く、将軍家や皇室に献上されていた、と言う。「稲田村で質のいい稲田米」。これって出来すぎの地名と産物の関係。そもそもが、流路定まることのない多摩川の氾濫原であり、稲毛領にはニケ領用水ができるまで一村に7軒程度の農家しかなかった、と上にメモした。
チェックすると稲田村ができたのは明治22年(1889)。江戸の頃の登戸村、菅村、宿河原村、堰村の4ケ村が合併してできたとのこと。そして、この稲田堤駅の辺りは菅村のようだ。慶長9年(1604)に大丸用水、慶長16年(1611)に開削されるまでは、菅村の地名の文字が示すように、多摩川の洪水の氾濫原に「菅(すげ)」が生い茂る寒村ではあったのだろう。

大丸用水・菅堀
京王線稲田堤で下り、多摩川堤にある二ヶ領用水上川原堰に向かう。道なりに進み南武線稲田堤駅先の踏切を左に折れ多摩川の堤に進む。途中の道脇に水路が見える。これは先回歩いた大丸用水の菅堀(新堀とも称される)の開水路である。菅堀は少し南東に下り三沢川に合流する。
現在の流路はここで切れるのだが、この三沢川は昭和18年(1493)に暴れ川である旧三沢川を改修し、素掘りで通した水路(旧三沢川は丘陵に沿って下り、南武線・中野島駅の南西にある川崎市立中野島中学辺りで「二ヶ領用水」に合流する)であり、江戸の頃はこの川はない。国土地理院の「今昔マップ首都 1896-1909」をチェックすると水路は先に進み、「二ヶ領用水」を越え、昔の「稲田村」辺りまで続いている。

二ヶ領上河原堰堤
菅稲田堤地区を歩き多摩川の堤に出る。サイクリングロードも整備されている堤の少し下流に堰堤が見える。二ヶ領上河原堰堤である。3門の洪水吐ゲートが目に入る。このコンクリート堰堤の原型が完成したのは昭和20年(1945)。昭和41年(1966)の台風によりダムの一部が破損したため、昭和46年(1971)に現在の堰堤が完成した。
堰堤は、川崎側に魚道と3門の巻き上げ式洪水吐ゲート、調布側には魚道のついた固定堤、そして洪水吐ケートと固定堰の間には流量調整ゲートが設けられている。

この二ヶ領上河原堰堤は二ヶ領用水開削時の取水口である「中野島取水口」と比定される。完成は慶長16年(1611)とされる(異説もある)。この地が取水口となった理由も不明であるが、上にメモした多摩川南流時代の多摩川の河道跡を活用したものとされる。中野島の名が示すように、流路定まらぬ氾濫原に残った島、と言うか微高地(中野島)を用水堤防とするのは理に掛っている。

蛇籠からコンクリート堰堤に
それはともあれ、取水口には竹で編んだ蛇籠に石を入れ、流れを堰止めて取水していたとのことである。そしてこの蛇籠堰は稲毛・川崎領を潤す取水堰として補修されながら明治まで続くが、大正期に至り、社会状況の変化にともなう河川環境の変化のため取水堰の変化が必要となる。その要因は水位の低下と、水需要の増大である。また、二ヶ領用水の目的も水田灌漑用水から工業用水へのシフトもその要因ではあろう。
大正12年(1923)の関東大震災後の東京の復興のための建設資材としての砂利採取、そして人口の増大・東京都市化の進展に対応するため玉川上水・羽村堰からの取水増大のために多摩川の河床の低下、川崎の京浜工業地帯への工業用水の需要増大、さらには小河内ダム建設に伴う多摩川の流量減少、これらの二ヶ領用水を取り巻く環境の変化に対応し、安定した水量を確保するため従来の蛇籠を改めコンクリート堰を基本とする建設計画が策定される。
その計画には多摩川の伏流水を活用する六郷用水、狛江浄水場、砧下・砧上浄水場、玉川浄水場への地下流路を止めないよう、「浮き堰堤(堰堤基礎部分を不透性地盤ではなくその上の砂礫層に打ち込む)」構造を用い、昭和16年(1941)に工事着工し、昭和20年(1945)に完成した。責任者は久地の円筒分水を建設した平賀栄治である。
平賀栄治
明治25年(1892)、現在の山梨県甲府生れ。東京農業大土木工学科を卒業し、宮内省帝室林野管理局、農商務省等の勤務を経て昭和15年(1940)に神奈川県多摩川右岸農業水利改良事務所長に就任。多摩川の上河原堰や宿河原堰の改修、平瀬川と三沢川の排水改修、久地円筒分水の建設などに携わった。

二ヶ領用水・上河原取水口
二ヶ領上河原堰堤手前に二ヶ領上河原取水口があり取水口脇に案内がある。案内には、「中野島取入れ口 二ヶ領用水の建設は、徳川家康の命を受けた代官小泉次太夫によって始められ、慶長16年(1611)の完成まで実に14年の歳月を要する難工事であった。全長32キロメートル。県内最古の用水でもある。 この取り入口は二ヶ領用水ができた時の最初のもので、当時ここからの取水だけで稲毛領と川崎領の水田を潤した。用水流域の水田開発に伴って、水量を補うため、この下流部に宿河原取入れ口が開設されたのは約二十年後の寛永6(1629)年である」とあった。
上にメモしたが、同時に開削された六郷用水の工事記録は残るが、二ヶ領用水に関する工事記録は残されていない。案内には宿河原取入れ口が上河原(中野島)取入れ口の20年後とあるが、宿河原取入れ口の工事が先との説もあるようで、詳細は不明である。
散歩の折々、用水歩きをすることも多いのだが、箱根用水荻窪用水山北用水など普請の責任者が商人・庄屋などお武家でない場合は記録が残らないものも多い。中には箱根用水のように、故なく罪を咎められ入獄といったケースもある。有名な玉川上水を普請した玉川兄弟も後に、罪を咎められている。が、二ヶ領用水は幕府直轄事業である。その記録が残らないのは、如何なる事情があったのだろう。結構気になる。

二ヶ領用水上河原取水樋門
取水口から堤下の車道に架かる布田橋を越え、先に進むと小橋に水門が現れる。二ヶ領用水上河原取水樋門と呼ばれるこの水門は二ヶ領用水の水量調整を行う。実際的な用水取水口と言えるだろう。多摩川の取水口から久地の円筒分水地点までの二ヶ領用水は「二ヶ領本川」と称されるようである。





稲田取水所
その二ヶ領本川を先に進むと水門がある。用水脇にある稲田取水所の制水扉門である。この取水所は、川崎市の工業用水のおよそ半分を占める水源である多摩川表流水を1日20万立方メートル取水し、内径1.5mの導水管(第5導水管)で生田浄水場まで原水を送る施設である。
生田浄水場は、稲田取水所から導水した多摩川表流水と「菅さく井群」から導水した地下水を浄水処理する施設ではあるが、平成28年(2016)には水道事業の浄水機能を停止し、工業用水専用の浄水場となったようだ。
因みに20万立方メートルを先ほど同様東京ドームとの比較でチェックすると、1万立方メートルでおおよそ東京ドーム2.5個分であるから、20万立方メートル=東京ドーム約50個分の水を導水することになろうか。

菅さく井群
ところで、「生田浄水場へは菅さく井から導水した地下水を浄水処理する」とある。その量1日5万立法メートル、と言う。その「さく井群」がどこにあるのかチェックするが特定できない。ひとつ気になるのは、多摩川の堤を上河原堰堤に向かう途中、「稲田水源地」と記された施設脇に「接合井及び取水埋管」と書かれたコンクリート施設があった。取水埋管とは伏流水を汲み上げる水管。接合井は水管の接合部にあり、水圧の調節機能などをもつ、と言う。多摩川の伏流水=地下水ではあろう。とすれば、この「接合井及び取水埋管」も菅さく井群のひとつであったか、とも妄想する。最も、この水源地は昭和13年(1938)から昭和51年(1976)までは運転していたが、現在は使われていないとのことである。
それはともあれ、既にメモしたように、この稲田取水所で工業用水用に取り入れられた二ヶ領用水の余水は下流の平瀬川でその80%を落とす。また、平瀬川をサイフォンで潜り久地の円筒分水から下流へと流れる用水も、かつては工業用水の浄水場であった平間浄水場で活用されていたが、現在はその機能を停止し、長沢浄水場と生田浄水場から送られる工業用水の配水所・平間配水所となっており、用水を活用することなく暗渠で多摩川に戻す。つまるところ、稲毛・川崎領の水田を潤した二ヶ領用水であるが、現在ではわずかの水田・果樹園の灌漑用水との機能を残すも、主としてこの稲田取水所でその水を工業用水として活用する役割へとその姿を変えているように思える。

二ヶ領用水と新三沢川の立体交差
二ヶ領本川を先に進むと三沢川と交差する地点で地中に潜る。用水は三沢川を越えたところで再び顔を出す。用水は三沢川の下を導管か地下水路で通り、サイフォンの原理で再び現すわけだ。
もっとも、この三沢川、正確には、新たに開削されたこの新三沢川が開削された当初は、三沢川の方が二ヶ領用水の下を通っていたとのこと。が、その仕組みでは大雨時の三沢川への放水量に制限があったためだろうか、現在の姿に改修されたと言う。河道と用水の立体交差の上下が逆になるケースは散歩の折々に出合う。立川の玉川上水と残堀川もそうであった。

三沢川
この三沢川は、昭和18年(1493)に暴れ川である旧三沢川(旧三沢川は新たに開削された川筋を越え、丘陵に沿って下り、南武線・中野島駅の南西にある川崎市立中野島中学辺りで「二ヶ領用水」に合流する)の改修に際し、新たに開削された川筋であり、二ヶ領用水が開削された当時にこの河道はない。





ふだっこ橋
再び地表に顔を出した用水を先に進むと小橋があり、「ふだっこ橋」とある。この道筋はかつての筏道とのこと。筏道とは狛江散歩でも出合ったが、近世、特に幕末から明治にかけ、多摩川の上流の奥多摩や青梅といった杣の地で伐り出したら丸太を河口の六郷辺りまで運んだ筏師が、木場の材木商に引き渡し、大金を懐に家路へと向かった道筋。その筏師は当時の花形職業であったようだ。



布田堰
「ふだっこ橋」の少し先、用水の左岸に水門が見える。堰の前には川床に杭が打たれ、粗くではあるが水を留めている。このように杭を打ち石・木・草などで粗く築いた堰のことを草堰と呼ぶ(「(NPO多摩川エコミュージアム 散策こみち」)。
川崎市の作成した用水マップによると、この堰から取水された水は「中野島新田堀」とのこと。取水口から開渠が二ヶ領用水に沿って進みJR南部線を潜る。



中野島堰
南武線で行く手を阻まれ、用水右岸に戻りJR南部線を越えると、ほどなく布田堰と同じ風情の草堰が左岸に見える。川崎市の用水マップによれば「中野島堰」とある。そしてこの取水口から続く支線は「登戸川原堀」と呼ばれる。






中野島新田堀と登戸川原堀が交差
水路の様子をチェックすべく、少し下流の「中の島橋」を渡り用水左岸に移る。道を南武線まで戻ると、南武線を潜った「中野島新田堀」の開渠は暗渠となりニケ領本川に沿って下り、「中野島堰」から取水された「登戸川原堀」と交差し、少し下流で二手に分かれる。


左手に分かれた本線、と言っても細流ではあるが、民家の間に入っていく。そのまま南に下る流れは「中の島橋」へと下ってきた大丸用水の菅堀(新堀)に合わさり中野島地域へと向かう。中の島橋から南東に、いかにも流路跡らしき道筋が見えるが、それが菅堀(新堀)の跡ではないだろうか。暗渠もなく完全に埋め潰されているようもみえるので想像の域を脱しない。大正の中頃までは大丸用水の菅堀は懸樋で二ヶ領用水を越えていたようである(「(NPO多摩川エコミュージアム 散策こみち」)。
一方、「中野島新田堀」の下を潜った「登戸川原堀」は結構大きな暗渠として北東に進みJR 南武線の下を潜る。

中野島新田堀と登戸川原堀
JR南武線を潜った登戸川原堀は布田地区を南武線に沿って進みJR南武線・中野島駅の北を大きく弧を描いて進み、南武線の北を中野島地区から登戸新町地区に入り、南武線・小田急線登戸駅北で多摩川に注ぐ。
一方の中野新田堀は分岐点から民家に間を抜けJR南武線を潜りおおよそ布田地区と中野島地区の境あたりのJR線路脇で登戸川原堀に合流する。川崎市作成の用水マップを参考にGoogle Mapに「二ヶ領用水概要図」を作成した。大よその流路図ではあるが、参考にして頂ければと思う。

沖川原橋
田村橋、北星橋と進み一風変わった風情の沖川原橋で右岸から水路が合流する。この水路は旧三沢川である。ところで何故に「沖川原橋」と呼ぶのだろう。橋傍の標石には「みさわかわばし(昭和10年竣工)」刻まれているとも言う。周辺の地名にも「沖川原」といった地名はない。
語源から言えば、「沖」って「水の中」と言った意味もあり、氾濫原であった往昔の姿を伝えるにはいいネーミングとも思うのだが、どのよう経緯で「沖川原」が登場したのか不明である。

橋本橋・古い道標
旧三沢川と二ヶ領用水の合流点の左岸には中野島中学校がある。この辺りまで菅馬場地区と中野島地区の境を流れた用水は、これよりしばらくは中野島地区と生田地区の境を下ることになる。
新川橋を越え橋本橋に。車両が行き交う橋の北詰に古い道標が建つ。「正面 當字ヲ経テ調布村方面」、矢印とともに「土淵ヲ経テ高石柿生村方面」「登戸ヲ経テ榎戸高津方面」と記され。そして「御大典記念 昭和3年・・:・」と刻まれている。
御大典
昭和3年(1928)の御大典とは昭和天皇の即位の儀式のこと。明治42年(1909)の「旧皇室典範」の定めにより、即位の儀式はに前天皇の喪が明けて執り行われることになったため、この年になっている。因みに大正天皇の即位の儀は大正4年(1915)とのことである。
土淵
地名にある土淵とは往昔のこの辺りの地名。明治の地図には記載されている。また、生田浄水場近くの府中街道には「土渕」交差点の名前が残る。

一本圦堰
橋本橋から先は河川敷にも遊歩道が整備され親水公園といった趣があるが、その道を辿ると、一本圦橋の手前の用水中にふたつのマンホールの蓋のようなものが見える。何だか気になりチェックすると、ここはかつて「一本圦堰」と呼ばれる草堰があった箇所であった。
一本圦堰の名前の由来は、昭和25年(1950)頃、草堰からコンクリート堰となり、その取水口の扉が大きな一枚の板であったことによる((「(NPO多摩川エコミュージアム 散策こみち」))。
現在では取水堰は見当たらないが、用水中のマンホールの蓋のような管よりポンプアップで取水されているとのこと。用水脇にある薄茶色小施設がポンプ場であろうか。ここで取水された水は一本圦堰となる。
一本圦堀
川崎市作成の用水マップによれば、この地で取水された一本圦堀は、中野島地区と登戸地区の境を北東に登り、大丸用水の菅堀を併せ、南武線手前で流れを南東に変え、南武線の沿って下り、世田谷通りの先で再び南武線を越えて「登戸新田堀」に合流する。

暗渠や埋め潰された用水が多い中、この一本圦堰は現在で多くの部分が開渠として残る。宅地開発された隙間に梨畑とか耕地が残るが、現在でも灌漑用水として機能しているのであろうか。そう言えば、元々は六郷橋下流の大師河原が発祥の地である梨の長十郎は、その生産地を登戸・中野島一帯に移したとのことでもあるので、一本圦堰は梨の生産に一役買っているのかだろうか。

紺屋(こうや)前の堰
一本圦堰跡から緑の木々の遊歩道を少し進むと、台和橋の手前の用水左岸に「川崎歴史ガイド 紺屋前の堰」の案内がある。かつてこの近くに藍染屋があったのがその名の由来。水は新田堀、高田堀、鮒堀、水車堀などに分かれ、登戸一帯を支えた。今は上流の一本圦の堰が使われている、との説明があった。






用水脇の案内の下を通る道脇に石碑があり、その脇に小さく古い石柱があり、「紺屋前堰水門柱」と刻まれる。石碑には「紺屋前堰記念碑」とあり、「此の碑は紺屋前の堰と言う徳川の初期の頃、登戸一帯の農作物其の他人間生活を支えて来た取水口である。
昭和38年土地改良により水利統合の為休止し又今回二ヶ領用水改良工事につき堰を取拂う事になり我ら遠き先祖とともに歩んできた堰に感謝の意を表し、茲に登戸の紺屋前堰跡として之を建立する 昭和四十九年五月 吉日 発起人一同」と刻まれていた。
紺屋前堀
「川崎歴史ガイド 紺屋前の堰」の案内には、「水は新田堀、高田堀、鮒堀、水車堀などに分かれ、登戸一帯を支えた」とある。が、川崎市作成の用水マップには紺屋堀としてひとつの流れが描かれているだけである。往昔、この支流から幾多の細流にわかれていたのではあろう。実際、カシミール3Dのプラグインの「タイルマップ一覧」にある明治の頃の「今昔マップ」を見るに、支流から細流らしきものが見て取れるが、どれが上記の分流か、特定する手懸りはない。
川崎市作成の紺屋前堀のルートは、台和橋手前から南東に下り、世田谷通り登戸交差点手前辺りで流路を変え、南西に向かって大きく弧を描き小田急向ヶ丘遊園駅を越え、南武線手前で再び流路を変え、南東に真っ直ぐ下り「前川堀(注;後からメモする)」に合流。合流した流れは、これもこの先メモすることになる二ヶ領用水・宿河原取水口からの流れ(宿河原線)に合わさるようだ。

台和橋
紺屋前堀跡の直ぐ先に台和橋。小泉次太夫のレリーフが橋にデザインされている。この地で山下川が合流する。
山下川は、多摩区菅馬場地先に源を発し、多摩丘陵の北縁にあたる丘陵地に沿って東に向かって流下し、途中で北東に流路を変え、この地で二ヶ領用水に合流する2キロ弱の河川である。川の周辺は日本住宅公団(現在は都市再生機構)により谷を削り大規模な宅地開発がなされている。源流点の先にある菅北浦調整池は、洪水対策の施設ではあろう。

「登戸付近の紙すき」の案内
台和橋を越え、宅地の中を流れる用水に沿って進むと、次の橋、と言っても特に名前は記されてはいないのだが、その橋脇に「川崎歴史ガイド 登戸付近の紙漉き」の案内。「豊富な地下水を利用した登戸付近の紙すき業は大正時代に最も盛んだった。日暮里あたりから屑紙を仕入れ、これを原料として作られた桜紙は浅草方面の需要に向けられたという」と案内にある。
この説明、何となく隔靴掻痒の感。チェックすると、桜紙は明治末から大正の頃、東京の護国寺近く、音羽にあった紙問屋・竹内商店に納められた再生紙のうち、薄く柔らかな上等のちり紙。高級品として花柳界、もっと言えば遊里でのちり紙として重宝されたのだろう。浅草方面と、ぼかしているのは遊里で重宝した理由が少々口に出すのは憚られる、ということだろうか。

新川橋
「川崎歴史ガイド 登戸付近の紙すき」案内のある橋の先は世田谷通りに架かる新川橋となる。車の往来激しい橋脇に導管が通る。直径1.8mのこの導水管は長沢浄水場からの水管。
いつだったか長沢浄水場を訪れたことがある。その時のメモに補足して掲載する;長沢浄水場には東京都と川崎市のふたつの浄水場が併設されている。ここの水源は相模川水系の相模湖や津久井湖。そこから導水トンネルで導かれる。その距離は32キロに及ぶ、という。東京都は世田谷、目黒、太田区の一部の住民約50万名給水。その量1日につき20万立法メートル。
一方、川崎市上下水道局の長沢浄水場からは鷺沼配水池に送られ、高津・宮前区の一部、そして中原・幸区の水道水となる。その量は一日当たり14万立方メートル。市内総給水量の約25%にあたる。
また、工業用水は送水管を通して平間配水所や浜町に送られ、そこから、配水本管で市内に配水さえる。その量は1日235,000立法メートル(生田浄水場の多摩川の表流水と地下水を併せた25万立法メートルより少し少ない)。この送水ルートから勘案すると、新川橋の送水管は東京都水道局のものだろう。

小泉橋
新川橋の直ぐ先に小泉橋。橋の西詰めに「川崎歴史ガイド 二ヶ領用水と小泉橋」の案内がある。「稲毛領・川崎領を潤した二ヶ領用水は、ここ小泉橋で津久井道と交わる。架橋は江戸後期の豪商小泉利左衛門、改修は四代後の弥左衛門。橋の裏に二つの時代を示す天保、明治の文字が残る」とある。
「NPO多摩川エコミュージアム 散策こみち」によれば、登戸道に架かるこの橋は、元々は榎戸橋と呼ばれ、登戸村や上菅生村など、往還として重要なこの橋を利用する村々によって、およそ5年毎に改架されていたようである。
その橋名が小泉橋となったのは、天保15年(1844)、土地の豪商小泉利左衛門が石橋を普請したことによる(利左衛門は登戸に33の石橋を普請したと言われる)。橋はその後弘化4年(1847)、明治24年(1891)に修理され、明治34年(1901)に弥左衛門により近代的な橋に改修されたが、これらはすべて小泉家の手になるもので、天保の石橋が再利用されていた。しかし、平成3年(1991)の河川改修で撤収された、とのこと。現在の橋の裏に案内にあるような天保、明治の文字が残るわけではないようだ。
改修と言えば、最初に二ヶ領用水を歩いた7年ほど前に撮った小泉橋の写真と見比べると、明らかに現在の橋は変わっている。あれこれチェックすると、道幅を12mに拡大工事が平成23年(2011)に着工し、平成25年(2013)に完成したようである。
旧津久井道(登戸道)
旧津久井道とは、三軒茶屋を基点に登戸に向かい、そこから西に生田、万福寺、柿生、鶴川と進み、さらに鶴見川の上流に沿って、相模原市の橋本から津久井地方へと通じる道。三軒茶屋から東は大山街道と繋がり赤坂御門まで続いていた。
この道は官制の街道ではなく、津久井・愛甲地方で生産された絹などの近隣の産物を運ぶ道であり、また商人や登戸に多く住んでいた左官・大工・下駄職人などの職人が行き来する道でもあった。小泉橋の辺りは、丘陵地への出入り口でもあり、交通の要衝として栄え、橋の付近には明治の頃、ふたつの銀行、乗合馬車の出発点もあったとのことである。

榎戸堰
かつて小泉橋の直ぐ下流に榎戸堰があった。「NPO多摩川エコミュージアム 散策こみち」に拠れば、「この堰から五ヶ村堀、中田堀(注;川崎市作成の用水マップでは「前川堀」とある)が分かれ、生田方面には上菅生用水に水を送った。 榎戸堰は大正末に水門がコンクリート化されたが、取水口は3門あり、ために「三本圦り」とも称された(三つの流れは二ヶ領本川、五ヶ村堀、中田(前川)堀)。この堰も平成3年(1991)に造り替えられた時、榎戸堰はなくなった(五ヶ村堀は位置を変え現存)。
そう言えば、今回の散歩で7年前の小泉橋が様変わりしていたと上にメモしたが、7年前の散歩の時、小泉橋の直ぐ下流にあった榎戸堰の案内も見当たらなかった。当時の案内を掲載しておく;「ここには五ヶ村堀、中田堀、逆さ堀の三つの取り入れ口がある。五ヶ村堀は登戸、宿河原、長尾、堰、久地付近を灌漑。逆さ堀は、本流の水位が低くなると逆に流れ込んでくるのでついた名前」とあった。逆さ堀についての資料は見当たらない。




榎戸の庚申塔
小泉橋から右岸を少し下ると道脇に大きな庚申塔。脇に庚申塔の由来の説明があり、庚申信仰の説明と、この庚申塔は丸山教が建立したものとの説明があった。
丸山教
Wikipediaに拠れば、丸山教の前身は明治6年(1873)稲田村の農民伊藤六郎兵衛が興した丸山講。食行身禄以来の富士講の影響を引き継ぎ、世直しや反近代化の思想が強かったが、明治政府による大弾圧後は報徳社運動に沿った勤勉・倹約を中心とした。昭和21年(1946)、宗教法人丸山教として現在に至る。
で、その庚申塔だが、説明に拠ると「三峰形の富士が描かれ左右に日月、その下に「庚申塔」と彫られ、上座の台石には三猿が刻まれ、その下の台座に丸山講の講紋である「丸に山」と富士登山の登山口を表す「北口」という文字が書かれています。なお、富士講の一講社である丸山講が庚申塔を建立したのは、富士山の御縁年に因んでいると思われます。孝安天皇九十二年庚申の年、「雲霧が晴れ、一夜にして富士山が現れた」という言い伝えから、庚申の年を御縁年と呼び、この年に一度富士山に登れば六十回登ったのと同じ御利益があると信じられるようになりました。富士信仰もこのように庚申と深く結びついていることから、登戸の地にも庚申塔が建立され、また、三猿も彫られているのでしょう」とあった。
上の説明で「登戸の地にも庚申塔が建立され」とあるが、「NPO多摩川エコミュージアム 散策こみち」によれば、これは「登戸のこの地に明治3年(注;丸山講が出来たのは明治6年とあるので、明治3年は??)、庚申塔が建てられたのは、この地が富士登拝する時の習合場所であったため。この庚申塔に参拝し出発した」とあった。
また三猿云々に関しては、説明に「庚申の本尊の青面金剛の従者は猿、であり、また庚申の「申」が「さる」であり猿に例えられることによる」とあった。
富士講
富士信仰のはじまりは江戸の初期、長谷川角行による。その60年後、享保年間(17世紀全般)になって富士講は、角行の後継者ふたりによって発展する。ひとりは直系・村上光清。組織を強化し浅間神社新築などをおこなう。もうひとりは直系・旺心(がんしん)の弟子である食行身禄。食行身禄は村上光清と異なり孤高の修行を続け、富士に入定(即身成仏)。この入定が契機となり富士講が飛躍的に発展することになる。

食行身禄の入定の3年後、弟子の高田藤四郎は江戸に「身禄同行」という講社をつくる。これが富士講のはじめ。安永8年(1779)には富士塚を発願し高田富士(新宿区西早稲田の水稲荷神社境内)を完成。これが身禄富士塚のはじまり、と伝わる。その後も講は拡大し、文化・文政の頃には「江戸は広くて八百八町 江戸は多くて八百八講」「江戸にゃ 旗本八万騎 江戸にゃ 講中八万人」と称されるほどの繁栄を迎える。食行身禄の話は『富士に死す:新田次郎著』に詳しい。
富士塚は富士に似せた塚をつくり、富士に見なしてお参りをする。散歩の折々で富士塚に出会う。散歩をはじめて最初に出合ったのが、狭山散歩での「荒幡富士」と称される富士塚であった。また、葛飾(南水元)の富士神社にある「飯塚の富士塚」や、埼玉・川口にある木曾呂の富士塚など、結構規模が大きかった。
庚申信仰
庚申信仰って、あれこれ説があってややこしいが、60日に一度、庚申の日、体内にいる「「三尸説(さんしせつ)」という「なにもの」かが、寝ている間にその者の悪しきことを天帝にレポートする。そのレポートの結果寿命が縮むことになるので、寝ないで夜明け待つ、という。日待ち、月待ち信仰のひとつ、と言う。信仰もさることながら、娯楽のひとつであったのだろう。
上の説明で庚申の年に一度富士登拝をすれば60回登拝したと同じ御利益がある、といった「六十」はこの60日に一度との関連だろうか。単なる妄想。根拠なし。

小田急線と交差
用水右岸を進むが、小田急線を跨ぐ府中街道が用水上に被さり、用水路も高いコンクリートの壁で見えにくになった先に小田急線を跨ぐ歩道橋。歩道橋を下りると南橋がある。







現在の五ケ村堀取水口
「南橋」から用水上流を見ると、護岸工事されたコンクリート壁面に長方形の取水口があり、その前は防塵の浮輪で囲まれている。取水口の上には機械施設があるが、ポンプアップの施設のようである。この取水口は現在の五ヶ村堰の取水口。ポンプアップされた水は短い暗渠を抜けた後、開渠となって二ヶ領本川に沿って下る。




五ヶ村堀のルート
しばらく二ヶ領本川に沿って流れた五ヶ村堀は開渠の状態で宿河原に丁目を東から西に直線で進み、宿河原6丁目で宿河原堰から取水された宿河原堀を樋で越え、南武線手前で流路を変え、線路に沿って南東に下り、東名高速を越えた先で北東に流れを変え、南武線を渡り多摩川に注ぐ。五ヶ村って、どの村だろう?あれこれチェックするも、不詳。

五反田川が合流
現在の五ケ村堀取水口からほどなく、五反田川が合わさる。川崎市の資料によれば、五反田川は、麻生区細山地内を源とし、細山調整池を経て小田急線に沿って蛇行しながら流下し、東生田地内で二ヶ領本川に合流する流路延長4.8km、流域面積8.0km2の都市河川。
この川は、洪水時には、下流まで約20分で流下する高低差の著しい河川であり、五反田川の下流部及び二ヶ領本川との合流部では、急激な水位上昇により、度重なる水害を繰り返してきた。そのため河道の改修が必要とされるが、五反田川下流の二ヶ領本川は、高度に都市化された地域を貫流しており、河道拡幅や掘削による河道改修が困難な状況となっている。
五反田川放水路
その対策として計画されているのが五反田川放水路。五反田川の洪水を直接多摩川に放流する地下トンネルの建設である。 五反田川放水路は、洪水時には五反田川の洪水全量(150m3/s)を延長2,025mの地下トンネルに流入させ、直接多摩川へ放流させる。五反田川と多摩川の水位差を利用して洪水を流下させる自然流下圧力管方式のこの地下河川事業完成時期は平成32年(2020)の予定とのことである。

前川堀分岐
川崎市の制作した用水マップに拠れば、二ヶ領本川に五反田川が合流する地点辺りから東に前川堀(中田堀?)が分岐している。水路は小田急線・向ヶ岡遊園前の南、登戸地区と宿河原2丁目地区の境を東に向かい、宿河原小学校の二筋手前の道を、S字を描いて進み紺屋堀に合流。合流した水は宿河原堰で取水した堀に注いでいたようである。
明治の地図を見ると、水路に沿って中田、富士塚、橋本といった地名が見える。中田堀の呼称でいいかと思うのだけれども、前川堀は何を由来に呼称されているのだろう。その根拠は不明である。

五ケ村堀緑地
用水本川に沿って進むと五ヶ村堀緑地の木標がある。五ケ村堀は緑地下を暗渠で流れているようではあるが、公園にも水路が設けられている。どこからかポンプアップし、親水公園といった雰囲気としているのだろうか。なお、この緑地は、今は閉園している向ヶ岡遊園へのモノレール跡地、とのことである。





新開橋
五ヶ村緑地を進み本村橋で府中街道に出る。少し南に進み、龍安寺交差点から南に下る道が二ヶ領本川にクロスする地点に新開橋がある。橋を渡った府中街道の東側あたりに「川崎の歴史ガイド 川崎の地酒」がある、と言う。あちこち彷徨ったのだが結局見つけることはできなかった。後日チェックすると、川崎市多摩区長尾2-5-10辺りにあった川崎酒造が酒つくりを止めるにともない、歴史ガイドパネルも撤去されていたようである。
それはともあれ、「川崎歴史ガイド 二ヶ領用水」に拠れば、川崎で地酒がつくりはじめられたのは天保年間(1830-1844)。当時は濁酒(どぶろく)であったが、大正10年(1921)頃から清酒の需要が増大した、と言う。長野で収穫された酒専用米と地下30mを流れる多摩川の伏流水で造られていた醸造所も、今はないようである。

向ヶ岡遊園跡
府中街道に沿って流れる本川を進む。左手丘陵上には、昭和2年(1927)に開園し、平成14年(2002)まで営業を続けた向ヶ岡遊園があった。今は社会人となった子供を連れて遊んだ頃が懐かしい。現在は丘陵下の道路脇に藤子・F・不二雄ミュージアムが開いている。平成23年(2011)に開館したとのことである。

長尾橋
藤子・F・不二雄ミュージアを越え、長尾橋の手前に五連口の水門が見える。用水の余剰水を、地下導管を通し多摩川に直接流している、と。五反田川や生田緑地から二ヶ領本川に流れ込み、増水した用水の水量を調整し、宿河原堰堤の多摩川下流に流しているようだ。





長尾の天然氷
府中街道に沿って流れる本川を進む。長尾バス停前に架かる名も無き橋の左岸に、「川崎歴史ガイド」のパネルがあり、「陽のあたらない山裾に溜め池をつくり、二ヶ領用水を利用した天然氷がつくられていた。氷倉に夏まで貯蔵し、東京方面に出荷したもので、大正初期まで続いた」とあった。
「川崎歴史ガイド 二ヶ領用水」によれば、明治20年(1887)頃から、山かげには水田のような水溜がいくつも並んでいた、と言う。夏になると馬車で神田・龍閑町や八丁堀、芝・明舟町などの販売所へ、後には玉川電車を使って渋谷の天然氷販売所などに卸された。長尾の天然氷は、信州・諏訪湖、北海道五稜郭の氷にひけをとらない質のよい氷として重宝され、機会氷が出回るようになる大正10年(1921)頃まで続いた、とある。
天然氷
「主のこころと夏くる氷 解けるととけぬで苦労する」。明治13年(1880)ごろの「開化都都逸(どどいつ)」の一節だが、この天然氷は五稜郭の「函館氷」とのこと。Wikipediaに拠れば、世界で初めて天然氷の採氷、蔵氷、販売事業を起こしたのは、米国人フレデリック・テューダー(英語版)で、文化2年(1805年)とある。この天然氷がアメリカ合衆国ボストンから世界中に輸出され、日本では横浜港に陸揚げされた。輸入品であり高価で、しかも融解率が高いために、国内でも天然氷の製造が始まり、中川嘉兵衛の製氷会社が、函館・五稜郭で採取した氷が横浜まで輸送・販売され、明治5年(1872年)以降は輸入氷を凌駕していった、とのことである。

宿河原堰からの宿河原線と合流
単調な府中街道を本川に沿って下り、東名高速を潜るとほどなく二ヶ領用水のふたつの取水堰のひとつ、宿河原堰の取水口から取り入れられた用水(宿河原線)と合流。今回のメモは切りのいいここでお終い。次回は宿河原取水堰からはじめ、本川合流点下流をメモすることにする。


先回の散歩で香川用水東部幹線水路を、始点の東西分水工のある香川用水記念公園からはじめ、都市用水(上水道用水と工業用水)と農業用水の「共用区間」として進んで来た東部幹線水路から高瀬支線が分かれる神田チェック工まで辿った。
今回は、その高瀬支線を終点の高瀬町比地にある満水池まで辿る。香川用水の「共用区間」は水資源機構の管轄、この高瀬支線も途中の二宮チェック工までは「共有区間」であるが、下流部は農業用水専用区間となり香川用水土地改良区の管轄となるようだ。



先回東部幹線水路と高瀬支線の分岐点で散歩を終えた理由は、時間も遅くなったということもあるのだが、本音のところは、この分岐点から先の高瀬支線は衛星写真で見る限り、開渠がほとんど見当たらない、ということもあった。
衛星写真でそれらしき水路施設を推測し、Googleマイマップに仮ピンを立て、確認に向かうといった段取りである。当たるも八卦当たらぬも八卦の手間のかかる散歩となりそうであり、とてもではないが、支線分岐から先を辿る気力が失せていた、というのが本当のところである。日延し、「気力十分」の状態で気分も新たに「探索」を開始しようと思ったわけである。
ということで、先回から日も置かず、「気力十分」の状態で、気分も新たに「探索」を開始すべく高瀬支線の分岐点である神田チェック工に向かう。



香川用水西部幹線高瀬支線;
第一回;東西分水工>長野第一開水路>長野第二開水路>長野暗渠>本篠分水工>財田川サイフォン>伊舎那院>北原第一開水路>北の山分水工>北原第一サイフォン>北原第二開水路>北原第二サイフォン>八月谷第一開水路>八月谷第一サイフォン>八月谷第二開水路>八月谷第二サイフォン>八月谷第三開水路>開渠>和光第一サイフォン>和光第二開水路>和光第二サイフォン>和光第三サイフォン>和光第三開水路入口>和光第三開水路出口>和光第四開水路>和光第四サイフォン(神田大池分水工)>和光第四サイフォン出口>和光第五開水路>トンネルへ>山才トンネル出口>山才開水路>神田サイフォン

第二回;神田サイフォン>玉田サイフォン入口>玉田サイフォン・玉田分水工>宮川サイフォン・向谷分水工>二宮チェック工>トンネルに入る>東長谷分水工>高速を渡る用水の送水管>脇池分水工>清見池分水工>長池分水工>勝田池分水工>高室分水工・国市局>満水池


神田チェック工
神田=こうだ、と詠む。東京に住んでいる者としては神田=かんだ、ではあるが、神田を「こうだ」と詠む地名は結構おおいようだ。もっとも、音が先にあり、それに漢字をあてたのだろうから、漢字の意味から地名の由来を類推するのは少々「危険」ではあるが、観音寺の流岡町にある加麻良神社(かまらじんじゃ)に祭られている神(加麻良神)が神田(三豊市山本町)の地から流れ着いた(Wikipedia)といった伝説などがあり、何の根拠もないが、なんとなく神々しい。

散歩をはじめる。神田チェック工から先の流路に沿って、水路施設らしきものを衛星写真でチェックするに、チェック工から東に2キロ弱ほど離れた山中に2箇所ほどチェックポイントがある。水路施設かどうか現地で確認するまでわからないが、とりあえず唯一の手掛かりであり、その地に向かう、

砂川サイフォン・濁池トンネル
散歩の後で分かったことだが、左岸に分岐した高瀬支線は、神田チェック工のある丘陵から、神田川によって開析された谷下をサイフォン(砂川サイフォン;1キロ強)で潜り、対岸の丘陵に上がり、そのままトンネル(濁池トンネル;800m弱)に入る。地表には姿を現さないようだ。

二宮道標
神田チェック工の左岸に沿って丘陵を下る道があり、車もなんとか通れそう。道なりに進み、国道377号を少し西に戻り、砂川交差点を右折し用水路ラインが道路とクロスする辺りに向かう。
道が左に曲がる箇所に道標が建つ。ちょっと気になりチェック。「右 二宮道(?)」との道標。「従是二宮社 拾六丁」と刻まれているように見える。二宮社とは、この道を北に進んだところに鎮座する讃岐の二ノ宮・大水上神社のことのようである。段取りが良ければ立ち寄ってみようと思う。







玉田サイフォン
丘陵に上る道路を進み、水路ラインが道路とクロスする地点に。左手に水路施設のようなものがあるのだが、それはその脇の池の施設のようである。
水路ラインは道を横切り西へと進み、その先に衛星写真でチェックした水路施設らしきものがある。左に折れる道はあるのだが、草の茂る道であり、とても車で進む自信はない。
道を左手に入ったすぐのところにある池脇のスペースに車をデポし、衛星写真でチェックした水路施設らしき箇所を目指す。竹藪の茂る道を上ると丘陵の尾根道になり、左右の景色が開ける。左手は谷、右手は丘陵が続く。
尾根道を進み、チェック地点に。が、そこは単なる倉庫であった。少々ガックリしながら、前面に拡がる茶畑の写真を撮ろうと倉庫からほんの少し先に進むと、倉庫のすぐ下に水路施設らしきものが見える。泥濘で靴をぐちゃぐちゃにしながら、それでも少しでも乾いた箇所を見付けて水路施設に足を付ける。そこには「玉田サイフォン」と記されていた。
砂川サイフォン・濁池トンネルを抜けた鵜用水路はここに繋がっていた。チェック地点は倉庫で水路施設ではなかったが、結果オーライとする。それはそれとして、この玉田サイフォンまでの水路ラインは尾根筋を通ってきており、途中に谷などの窪地はなかった。ということは、このサイフォンは入口であり、谷筋を挟んだ丘陵にチェックしたポイントは「玉田サイフォン」の出口であろう、と推測。

玉田サイフォン出口・玉田分水工
衛星写真でチェックした次のポイント、直ぐ目の前に見える、谷筋になった対岸の丘陵にあるポイントに向かう。茶畑の道を下り、そして上り水路施設に。そこには「玉田サイフォン・玉田分水工」と記されていた。




車のデポ地点に戻る
次のポイントも衛星写真で明らかに水路施設と読めるのだが、車のデポ地点から少し離れてしまう。また、「玉田サイフォン・玉田分水工」周辺の茶畑への作業道から想像するに、次のポイントには車でも行けそうな道のように思う。ということで、今来た道を車のデポ地点まで一旦戻る。

大水上神社
次の推定水路ポイントへの道筋を思うに、車をデポした地点から県道218号に戻り北上、その先で県道225号に乗り換えて、成り行きで丘陵に上れば推定ポイントに到着できそうである。
道を進むと、ナビに大水上神社と二ノ宮釜跡の名前が現れる。これって、先ほど道標で見た、讃岐の二ノ宮ではあろうし、なにより「二ノ宮釜跡」に惹かれた。今までの散歩の経験から古代に瓦を焼く技術は貴重であり、国分寺や寺院の瓦に使われていた。二ノ宮釜跡がどのようなものが不詳であるが、とりあえず寄り道をすることに。

県道218号を進むと、県道225号の少し手前に大水上神社へと向かう道がある。車が通れるがどうか不安ではあるが、左に折れると田圃の中の道を進むと鬱蒼とした森の中を進むことになる。大丈夫かな、などと思っている頃に左手に社が見え一安心。駐車場にデポし境内に。
随神門・拝殿・本殿
随神門をくぐり、宮川に架かる苔むした石橋を渡る。鳥居から拝殿・本殿に続く参道を進み社にお参り。境内右手にあった絵馬殿らしき建屋にあった社の由緒には「太古より水霊の神として信仰が厚く、延喜式内社で、讃岐二宮と称えられている。社の鎮座する宮川流域は、弥生文化の遺跡が多く、境内は古代祭祀遺跡の宝庫。御本社の奥に夫婦岩と称する磐座がある」との説明があった。
この社、古くより皇室を初め武門武将崇敬篤く、源平屋島の戦に際しては源平両陣営より戦捷祈願があったとのこと。「建久九年二宮社領目録」には、二百町歩の大荘園を有する社とある。また、建長年中(13世紀中頃)の大造営や、応永末年(1427)に社殿大破したる時は、朝旨により讃岐一円に人別銭を、永享年間には国中の用脚を以て再建したとのこと(三代実記)。江戸時代に至っても累代藩主の信仰・庇護を受け、京極氏は社領三十石を寄進している。
時雨燈籠
境内中央拝殿正面に屋根に覆われて建つ。案内には「時雨燈籠(しぐれどうろう) 香川県県指定有形文化財(昭和38年4月9日) 建立 康永四年(1346年)南北朝時代 願主 藤原定村 大工 法橋□□ この燈籠は総高246センチ凝灰岩製である。基礎・中台は六角形で竿全面に雲龍文様を薄肉彫する。建立年代、願主などが明らかな南北朝時代制作の六角形時雨燈籠の貴重な作例である」とあった。

境内の絵馬堂の建屋に、この社の古き写真や境内の社の案内がある。その案内に従い境内を辿る。

四社宮
境内左に四社宮。源平屋島合戦の折、源平両者当社に戦捷祈願したわけだが、壇ノ浦に沈んだ平氏の四将、平教盛(平清盛の弟)、平経盛(平清盛の弟)、平資盛(平清盛の孫)、平有盛(平清盛の孫)が祀られている。
敗者を悼み祀るって、なんだか、いい、と思ったのだが、現実は、平氏滅亡後、社に災いが続いたため、その祟りを鎮めるため祀ったとのことである。




うなぎ淵(竜王淵)
本殿すぐ横。「昔から旱ばつ時、参籠潔齋の上、淵の水を桶でかいだす神事が行われた。黒白の鰻がすみ、黒鰻が姿を見せると雨。白鰻がでれば日照りが続き、蟹が出ると、大風が吹くといわれていた。明治・昭和初期齋行の折、降雨の恵みがあり、感謝祭が行われた」とある。
絵馬堂の案内には、「滝の宮神社。鰻淵の神  祭神;滝田比古命・滝田比売命 古くは三嶋龍神と称されていた。雨の神として信仰が厚く、古代から祈雨神祭遺跡で白鯰・黒鯰の伝えがある」とあった。大水上神社は、古代より水利の神(水上(源))として崇められとする所以である。

千五百皇子社
絵馬堂の案内にあった皇子社に。うなぎ淵の右の石段を上る。小祠は巨大な岩(磐座跡?)に鎮座する。この姿も、いい。絵馬殿にあった案内によれば、「子授けの神として霊験あらたか。母子平安を祈願する妊婦の参拝も多い。社名は「古事記」の「伊耶那美の段」に由来する。社殿は古代祭祀遺跡である「磐座」に鎮座」とある。
「古事記」の「伊耶那美の段」って?チェックすると、黄泉の国で伊耶那美命から逃れる伊耶那岐命が発した言葉。醜い姿に恐れをなして逃れる夫の伊耶那岐命に、「逃げるのなら一日千人殺す」との伊耶那美命に、「それなら一日千五百人を産ます」と伊耶那岐命が返した言葉のことだろう。御祭神は伊耶那岐命、伊耶那美命。

産霊(むすびめ)神
千五百皇子社の逆、古き大木を背に小さな岩が祀られる。「子孫繁栄、子授けの神。御神体は聖職崇拝の陰陽石」と絵馬殿の案内にあった。

二ノ宮窯跡

千五百皇子社の石段を下り、宮川に沿って随神門方向に少し戻ると二ノ宮窯跡。ふたつの窯があり、「大水上神社の境内を流れる宮川ぞいは古来文化の栄えたあかしとして、多くの遺跡が発見されています。なかでも、この二ノ宮窯跡は貴重な文化財として昭和7年4月25日に国の史跡に指定されました。 向かって右側が第一の釜で左側が第二の窯です。
第一の窯の中を見ると、葉脈状に火の通り道をつくり、瓦をのせる畝を放射状に配しています。 傾斜の度合いからみて、これは「登り窯」の一種と考えられます。
第二の窯は、畝の部分が水平につくられ「平窯」と呼ばれています。窯からは瓦の他、杯、硯などが出土しました。おそらく平安後期から鎌倉時代にまたがると思われる遺跡です」とあった。
宮川は、財田川の支流の一つ。この地域の延喜式内社の殆どがこの流域にあるようだ。また、この下流に、銅鐸、銅剣が同時に出土した、向谷遺跡がある(東京国立博物館に保存)。この辺りは古くから開けていたのだろう。 この二ノ宮窯跡は平安末期から鎌倉期のものであるが、三豊市三野町(JR予讃線みの駅近く)の吉宗瓦窯史跡は、日本で最初の瓦葺きの宮殿と言われる藤原宮(藤原京)の瓦の生産地とも言われている。古代よりこの辺り一帯が瓦の生産を行っていたのだろう。
それにしても、瓦は寺の屋根に葺くものであり、神社に瓦を使うことはないのだが、神社敷地内に窯跡があるのは、どういった経緯だろう。

禊場
二ノ宮窯跡から随神門へとむかうと、禊場がある。水を浴び心身を清める聖場と、絵馬殿の説明にあった。

祓戸社
その先に小祠。絵馬殿の案内によれば、「この祠は祓戸社。祭神は瀬織津比売神、速開津比女神、気吹戸主神、速佐須良比女神。人々の心身を祓い清める神々」とあった。

神輿庫と社務所の間を進んだ奥には青葉大神(たばこの神)草野姫命(野の神・草の神)大己貴神(医薬の神)少彦命(田作の神)を祭神とする豊葉神社(煙草神社)、その右に牛神神社(保食神 牛馬守護の神)、左に荒魂神社(大物主神 国土守護の神)が祀られる。
また、うなぎ淵(竜王淵)の先には夫婦岩と称される磐座、「往来は心安かれ空の海 水上清きわれは竜神」と刻まれた空海の句碑があったようだが、見逃した。

道端で偶々見付けた道標に刻まれてた「二宮社」をフックに、何気なく立ち寄った大水上神社であり、二ノ宮窯跡ではあったが、誠に良きリターンを得た。古代におけるこの社と地域の関係、三嶋龍神とは(三嶋大神=瀧神=水神=瀬織津比売神とする説もあるようだ)? また、古来の素朴な水霊の神を祀った社の祭神が大山積命 保牟多別命 宗像大神となった経緯などもう少し深掘りをしたいとは思うのだけど、今回のテーマは用水路散歩。この辺りで社を離れることにする。

宮川サイフォン・向谷分水工
宮川の清流に沿って参道を車で進み、大水神神社の鳥居をくぐり県道218号に出る。道を進み県道218号に乗り換え、衛星写真でピンアップした辺りへと続く道へと県道から左に折れる。道は茶畑の丘陵を上ってゆく。
対向車が来ないように祈りながら上り切り、茶畑の作業倉庫脇に車を停め、ピンアップの場所に向かう。底には「宮川サイフォン・向谷分水工」と記されていた。
水路施設は、この先の宮川の谷筋を越え、川を隔てた丘陵の北に衛星写真でチェックした水路施設らしき箇所まで、特にそれらしき箇所はみつからない。とりえず県道218号まで戻る。

二宮チェック工
県道を少し西に進み、向谷バス停付近から北に進む道路に乗り換え先に進む。丘陵を上り切った辺り、道の左、少し奥まったところに水路施設があり、二宮チェック工とあった。
宮川サイフォンの出口は?チェックすると、向谷分水工で分水後、羽方トンネル・二宮トンネルを通り、地表に姿を現すことなく、この二宮チェック工に繋がっているようである。距離はおおよそ1.3キロ弱といったところ。
香川用水高瀬支線は、この二宮分水工で都市用水(上水道用水と工業用水)と農業用水の「共用区間」は終了。共有区間として下った水は、チェック工の少し北にある「西部浄水場」に供給され、ここから下流は農業用水専用の用水として満水池へと向かう。また、このチェック工には記載は見あたらなかったが、共に右岸に、二宮分水工、上北谷分水工がある、とのことである。

高瀬支線農業用専用水路
二宮チェック工から先にコンクリーの蓋で覆われた水路が先に続く。これが満水池に下る用水路であろうと、水路蓋上を進むがほどなく道は切れた。






東長谷分水工
次のチェックポイントは二宮チェック工のある丘陵尾根筋の北端辺りに、航空写真で微かに見える水路跡らしき箇所。二筋の「影」といったものが見え、こんなところに水路が開けるとも思わないが、とりあえず確認に向かう。
山中であり、直接進める道はないため、二宮チェック工前の道路を北に進み、丘陵を下りきったとことで東西に走る県道24号に乗り換え、最初の交差点を左に折れてチェックポイント付近に車を停めて山中に入る。
山中に入る箇所を探すに、竹藪が行く手を阻む。適当なところはないものかと辺りを彷徨うと、山中に入る、如何にも作業道といった細路がある。用水路の保全作業道であることを祈って竹藪に入ると、水路施設があった。「東長谷分水工」とあった。
当初チェックした二筋の影から、少々疑問を感じながらも水路を予測して、山中に入ってきたのだが、水路ではなく分水工があった。結果オーライ、ということにする。よく見付けたものだと、自分を褒めてあげる。もっとも、こんな酔狂なこと、誰の役に立つとも思わないことは、よくよく自覚はしているのだが。

道路脇に香川用水埋設の案内
東長谷分水工の先は、先ほど上ってきた道路筋の谷筋(といっても川はないのだが)を隔て、その先に丘陵があるわけで、サイフォンでもありそうな気がするのだが、それらしき施設は見つからない。
衛星写真ではわからなかったが、なにか痕跡がないものかと、水路ラインが道路とクロスする辺りを走ると、道脇に「この道路の下に香川用水幹線水路が埋設されえています」との道路工事注意の案内があった。この下を南北に用水路が進んでいるのだけは確認できた。

高松道を渡る水路管
次のポイントは高速・高松道に架かる跨道橋脇に見える水路管らしき「影」。場所は眉山トンネル手前の高松道の跨道橋である。道なりに進むと「鳶ヶ巣跨道橋」があり、橋脇に香川用水の案内と、送水鉄管が高速を跨いでいた。




脇池分水工
次のポイントは、高速を渡った水路ラインが豊中町笠岡の野津午公民館の少し北東。水路施設、というか水路を覆うコンクリート蓋らしき筋が見える。その地へと道なりに進み集落からちょっと山への道に入り込むと、野津午配水池あり、その先に明らかに水路を覆ったと思える、コンクリートで蓋のされた暗渠が奥に続く。この配水池への水路?とちょっと不安。
が、暗渠を進むと脇には香川用水の埋設案内もあり、香川用水に間違いなし。ビンゴ!と心の中で叫ぶ。暗渠がどこまでつづくのか先に進むと、暗渠が切れるあたりに水路施設があり、「脇池分水工」とあった。よく見付けたものだと、再び自分で自分を褒める。

清見池分水工
次のポイントは、この脇池分水工から北に進む水路ラインが池脇を進む地点。特に水路施設らしき「影」はみえなのだけれど、香川用水西部幹線のメモをしたとき、香川用水は溜池を調整池として繋ぐといったことを思い出し、池脇になんらかの施設があるのでは、と向かったわけである。
田圃の中の道を成り行きで目的の池まで進み、水路ラインが通る池の北側に廻る。水路施設埋設の暗渠が池に接近した辺りに「清見池分水工」があった。又々ビンゴ!

長池分水工
次のポイントは豊中六ッ松バス停辺り、国道11号東の池。水路ラインは池の真ん中を通る。国道脇にあった七義士神社に車をデポし水路施設を探す。
池の堤防をぐるりと廻ると堤防の道に香川用水埋設の案内があり、池の北東部から池に剃って少し東に進んだ付近に「長池分水工」があった。

七義士神社

権兵衛神社(七義士神社)と称されるこの社は、江戸時代中期、9代将軍家重のときに勃発した讃岐最大の一揆の首謀者として処刑された、七人の義民(義人)を祀る神社。
寛延年間(1748-1750)、数年来の風水害に加え役人の横暴な振る舞いにより、丸亀・多度津両藩の百姓は疲弊に貧していた。徳政などの願い効なく、一揆を計画。首謀者は丸亀藩の5名、多度津藩の2名の百姓。その中での指導者が丸亀藩笠岡村の大西権兵衛であった。
寛延3年(1750)年1月20日には、一揆の呼びかけに応じた多度郡・三野郡・豊田郡の百姓は財田川の本山河原に集結。22日には鳥坂峠を越えて那珂・多度郡勢と善通寺で合流。このときの一揆の総勢は6万人余に達したと言う。 この動きに対し藩側は23日に一揆勢と会合をもち、嘆願をほぼ認め、一揆勢は解散し帰村する。しかし、その後状況は一変。全国で勃発する一揆に危機感を抱いた幕府が、20日には百姓の強訴・徒党の禁令を発令していたことを知った丸亀・多度津両藩は妥協案を完全に反故にし、一揆首謀者を捕縛。7月28日には大西権兵衛他7名をい金倉河畔において打首・獄門の刑に処せられた。
鳥居右手の「此の世をば泡と見て来しわが心 民に代わりて今日ぞ嬉しき」と刻まれた大きな碑は、そのときの権兵大西権兵衛の辞世の句と言われる。 村人はこの七人を義士として密かに弔い続けたが、明治の御一新になり、七義士の威徳を偲び権兵衛ゆかりの笠田村に神社が建てられ、7人の義民は神として祀られた。

高室分水工・国市局
次のポイントは丘陵末端部に沿って進む水路ラインを辿り、水路ラインが勝田池の南東端辺りを進む地点に向かう。車をデポし、周囲を探すがそれらしき施設は見つからない。
それではと、池に向かう水路ラインに沿って田圃の中の畦道を戻り、農道に沿って東に進むと民家の脇に水路施設があり、「高室分水工・国市局」とあった。 国市局は勝田池の東にある国市池の近くにあるからの命名だろうか。
「局」
農業用水専用水区間の管理は香川用水土地改良区が担当。香川用水記念会館に親局を設け、子局から流量などの情報を把握し流量制御をおこなう。西部幹線水路では、流量制御は分水工に設けられたふたつのゲートのうち、期別に定められた分水量を、第1ゲートは管理者側(香川用水土地改良区)が、第2ゲートは受益者側が操作するとのこと。基本人の手で操作されていた。

勝田池分水工
勝田池の施設は?もう少し農道を戻ると、農道が竿川に当たる手前に名前の記載はないが、金網に囲まれた如何にも水路施設らしきものがあった。そこが「勝田池分水工」であった。







満水池
次は高瀬支線の最終地点である満水池、水路ラインに沿って衛星写真をチェックしても特にそれらしき施設は見えないため、成り行きで満水池に向かう。池の堤防に建ち、水路ラインが池に繋がる辺りを彷徨うのだが、送水管といったものは見つからない。
あれこれチェックすると送水は池敷を暗渠でくぐり、満水池の分水は池水面最末端付近で吹きあげ分水するようである。また、水位が満水面に達すると水位検知器により池への分水は止まるようになっている、とのことである(満水池の水管理;木本凱旋)。

満水池局
堤防に建屋があり、名称は記載はないのだが、満水池局かとも思う。満水池および郡池の分水量、満水池の水位を把握し親局に情報を送っているわけだ。

これで、香川用水東部幹線・高瀬支線散歩を終える。なにせ、データソースがないわけであり、途中見逃したサイフォンや分水工、局もあったかと思う。実際、高瀬支線には六ッ松局や宮池局といった子局もあったようだが見逃している。何かの機会にデータソースが見つかれば、抜けた箇所をいつか辿ってみようと思う。
先日、香川用水西部幹線水路を東西分水工のある香川用水記念公園からはじめ、豊浜町和田の姥ヶ懐池まで二回に分けて辿った。今回は東西分水工から東に延びる東部幹線の水路を辿ろうと思うのだが、東部幹線の本線は高松市を越え、徳島県と境を接する東かがわ市まで74キロほど続く、と言う。これはあまりに実家のある愛媛県新居浜市から離れすぎる。
ということで、東部幹線散歩は、東部幹線の支線である高瀬支線を辿ることにした。高瀬支線は終点の池である高瀬町比地の満水池までおおよそ11キロほど、とのこと。距離もほどほど。また流路も都市用水(上水道用水と工業用水)と農業用水の「共用区間」である東部幹線は、支線分岐点までは北東に向かうが、高瀬支線は、北西に向かって弧を描くように進むので、愛媛から「離れた感」がしないことも、とりあえず高瀬支線を辿ろうと思った要因のひとつである。

散歩の準備は先回の西部幹線同様の手順。カシミール3D(フリーソフト)で国土地理院の6000分の一の地図を開き、そこに記載されている香川用水の水路をトレース。そのトラックデータをエクスポートし、これもフリーソフトである「轍」で読み込み、KMLファイルに変換。このKMLファイルをGoogleのマイマップにインポート。先回の手順と同じく衛星写真で、ルートに沿った辺りに開渠や水路施設らしき地点を探しピンアップ。当たるも八卦当たらぬも八卦ではあるが、一応の準備を終える。

で、散歩に出発ではあるが、ピンアップしたGoogleのマイマップの閲覧は、今までは、GoogleのマイマップをSafariで開き、iphoneの画面に表示していたのだが、これが少々うざったい感があった。が、今回からは強力な助っ人が登場。偶々見付けたGMap Toolsというフリーソフトである。
このソフトは必要なGoogleのマイマップを選択し、このアプリにインポートできる。表示は衛星写真を含め10種類以上の地図の切り替えもできるし、なにより、地点登録が簡単にできるのが、いい。その上、新規に地点などを追加した地図はKMLファイルで再びエクスポートできるといった、誠に有り難いソフトである。

行き当たりばったりの散歩を基本とはするが、先回の香川用水西部幹線も暗渠・地下トンネルが全ルートの85%を占めていたわけで、それも山を越え、谷を渡りといった地形の中を進む水路施設探しは、さすがに成り行き、というわけにはいかない。今回はGMap Tools頼みの水路施設探しとなる。途中で切れるであろうiphone用の予備のバッテリーを充電し、実家を出発し、通い慣れたる香川用水記念公園へと向かった。




香川用水西部幹線高瀬支線;
第一回;東西分水工>長野第一開水路>長野第二開水路>長野暗渠>長野第三開水路>本篠分水工>財田川サイフォン>伊舎那院>北原第一開水路>北の山分水工>北原第一サイフォン>北原第二開水路>北原第二サイフォン>八月谷第一開水路>八月谷第一サイフォン>八月谷第二開水路>八月谷第二サイフォン>八月谷第三開水路>和光第一開水路>和光第一サイフォン>和光第二開水路>和光第二サイフォン>和光第三開水路入口>和光第三開水路出口>和光第三サイフォン>和光第四開水路>和光第四サイフォン(神田大池分水工)>和光第四サイフォン出口>和光第五開水路>三才トンネルへ>山才トンネル出口>山才開水路>神田サイフォン

第二回;神田サイフォン>玉田サイフォン入口>玉田サイフォン・玉田分水工>宮川サイフォン・向谷分水工>二宮チェック工>トンネルに入る>東長谷分水工>高速を渡る用水の送水管>脇池分水工>清見池分水工>長池分水工>勝田池分水工>高室分水工・国市局>満水池

香川用水記念公園
香川用水に関するあれこれは、既にメモした香川用水西部幹線散歩をご覧頂くことにして、東部幹線高瀬支線を辿るスタート地点である香川県三豊町の香川用水記念公園に。
ひょっとすれば水路施設の地図でも閲覧させてもらえるのか、香川用水記念公園にある水資源機構の職員の方に、躊躇いながらもお聞きしたのだが、予想通り、「特にありません」とのお返事。
銅山川疏水散歩のときは、疏水担当の方に詳しい水路施設図を閲覧させてもらったのだが、よくよく考えれば銅山川疏水は昭和12年(1937)に工事が始まり完成は昭和29年(1954)といった疏水名選に選ばれるような歴史ある疏水。一方、香川用水は昭和49年(1974年)完成の比較的新しい用水であり、先回の西部幹線散歩を振り返れば、特段見どころがあるわけでもなく、そんな水路を辿る酔狂な人もいるわけでもないだろうし、当然と言えば当然ではある。 が、今回はそんな「反応」は織り込み済み。上でメモしたGMap Toolsdでのチェックポイントを頼りに「自力」ので散歩を開始する。

東西分水工
公園内に阿讃山脈を8キロほど堀り抜いたトンネルの出口とその水を溜める沈砂池がある。香川用水はこの沈砂地北端にある東西分水工で東部幹線水路と西部幹線水路に分かれる。

長野第一開水路
先日歩いた西部幹線水路は東西分水工より地下に潜るが、今回歩く東部幹線は開渠となって記念公園内で弧を描き北東に向かう。左右を柵で囲まれたおおよそ100m弱の開渠が公園内を下る。
西部幹線水路は東西分水工の出だしから、そのままトンネルに潜り、取りつく島もなかったが、今回は開水路からスタートできるだけで結構嬉しい。



長野第二開水路
長野第一開水路は香川用水記念公園に通じる道路で一瞬地下に潜り、道路の北側に「長野第二開水路」となって姿を現し北に向かう。水路は水路側壁と底板が一体となった四角いブロックの形の中を流れる。こういった構造をフルーム型開水路と称するようである。






長野暗渠
180mほどの長野第二開水路を進むと水路は地下に潜る。暗渠の入口には「長野暗渠」とあった。ここを暗渠にする理由は何だろう?支尾根がこの暗渠の辺りまで下ってはいるのだが、土砂崩れの予防なのだろうか。ともあれ、この部分がほんの数十m暗渠となる。





長野第三開水路
長野暗渠を抜けると、水路を跨ぐ橋が、というか通路が4箇所ほど架かる開渠が400m以上続く。第一から第三までの長野開水路は幅4mほど、深さ3m強のフルーム型開水路で造られていた。







本篠分水工
長野第三開水路が再び地中に潜る手前に、水路右手に分水工。「本篠分水工」とある。地図で見ると分水工から東、支尾根の裾を越えたところに本篠という地名がある。水はこの本篠(もとしの)地区に送られているのだろうか。 本篠地区には支尾根の間から二つの川が下り、途中でひとつに合わさり本篠川となり財田川に注いでいる。川がありながら用水路を必要としたのは、川底と耕地のギャップ故か、水量故か、あれこれ想像だけは逞しくなる。
本篠城
何気なく本篠地区をチェックしていると、ふたつの河川が合流する南の丘陵に本篠城があった。讃岐と阿波の交通の要路であった、と言う。実際、四国平定を目指した土佐の長曽我部元親が阿讃山脈を越え西讃岐に侵攻した時、先回の西部幹線水路散歩で出合った萩原寺の東、大池を望む丘陵にあった藤目城と、この本篠城の攻略を行っている。讃岐の財田と阿波白地(阿波池田)を結ぶ道を開くには本篠城の攻略が必須であった、とか。
そういえば、この本篠城の東には先日歩いた阿波と讃岐を結ぶ箸蔵街道や猪鼻峠が、本篠城が見下ろす財田川の上流にある。箸蔵街道や猪鼻峠を通る道は阿波池田に繋がる。

財田川サイフォン
本篠分水工の先で再び地中に潜る水路の入口には「財田川サイフォン」とある。その先は切れ込んだ崖となっていた。崖の先は財田川によって開析された谷である。水路はその財田川の下をパイプラインで抜け、対岸の丘陵に向かう。直径3m強。サイフォン(ギリシャ語で「管;チューブ」の意味)の距離はおおよそ1キロ弱にもなる。
なお、通常サイフォンとは「ある地点から目的地まで、途中出発点より高い地点を通って導く装置(Wikipedia)」を意味し、こういった川底を抜けるといたものは正確には「逆サイフォン」とも「伏越し」とも称する。

ところで、サイフォン入口の標高は77mほど。財田川の川床は47mほど。その下を潜るのはいいのだが、対岸の出口部分の標高は?衛星写真で対岸の開水路手前に水路に続くような暗渠が見える。標高を地形図でチェックすると75mほど。出口は入口よりかすかに標高が低い。これなら、サイフォンの原理で、一度川床下に潜った水は対岸の丘陵に上って行けるだろう。

伊舎那院
財田川サイフォンを離れ、支尾根の端に沿って里に下り、道なりに進み県道5号に。少し西に戻り、財田川に架かる橋を渡り、衛星写真に見える開渠に向かう。と、丘に登る途中に甍の並ぶお寺さまが見える。伊舎那院、とある。寺名にも惹かれ、ちょっと立ち寄り。
案内に拠れば、「別格本山 伊舎那院 真言宗 北田山如意輪寺と号し、聖徳太子の開基と伝えられ中興は聖宝理源大師、本尊は六襞の如意輪観世音菩薩で、安産・子授けとして霊験あらたかといわれています。むかしは讃岐十五ヶ院(西讃五ヶ院)の一院として寺領百五十石を有し、院家格にて丸亀藩の祈雨の寺として栄えました。
天正年間の兵火のため焼失しましたが、その後復興され七堂伽藍の寺として今日に至っています。境内には鎌倉時代後期の作風を伝える橘城主大平国秀とその一族の供養塔(町指定)があり、県下でも貴重な遺物となっています 本尊 如意輪観世音菩薩 脇佛 不動明王・毘沙門天王(平成10年 材田町教育委員会)」とあった。 仁王門の二対の仁王様は、金毘羅大権現別当象頭山金光院より送られたものとのこと。境内には本堂や大師堂、八角形の経蔵、不動堂が並ぶ。中でも多宝塔であろう二重の塔はなかなか美しい。
院家格
往古、嵯峨天皇の離宮であった大覚寺門跡の塔頭の兼帯を拝命せられたことを指すのだろう。末寺二十四ヶ寺を誇ったと言う。
橘城主大平国秀
橘城は、伊舎那院から財田川を隔てた対岸にある丘陵にあった、と。大平国秀は検索にひっかからないが、その兄の国祐は天文7年(1538年)生まれ、とのこと。鎌倉時代ではなく、戦国時代の武将かもしれない。
聖宝理源大師
天智天皇の流れと言われる平安時代前期の真言宗の僧。香川に生まれ。空海の弟の弟子となり真言密教から南都仏教まで学ぶ。世界遺産である醍醐寺の開祖でもあり、その後、修験道を真言密教の理論と実践に組み込み、「大峯山中興の祖」、「当山派修験道の祖」とも称される。
伊舎那
その「音」の響きに誘われた伊舎那(いしゃな)はサンスクリット語の「Issanna」の音に漢字をあてたもの。伊舎那天と称する。ヒンドゥー教のシヴァ神の変化神とされ、鬼門である東北(日当たりが悪く湿度の高い病とか悪運の)を凶暴な六天を眷属に従え守る神である。仏法に帰依した凶暴な神が善神となり守護にあたる、ということだろう。

財田川サイフォン出口
伊舎那院の境内を出て、衛星写真で確認できた伊舎那院の少し丘陵を上ったところにある開渠へと向かう。車は進めるかどうか不明であるため、伊舎那院の駐車場にデポさせてもらう。
伊舎那院の東端から道なりに開渠へと向かうと、如何にも水路といった道筋があり、道脇には「この道路は香川用水の管理用道路です(水資源機構)」の標識もある。専用GPS端末で緯度経度と標高をチェック。標高は75mとあった。暗渠になってはいるが、サイフォンは財田川の川底を潜り、この道の下へと上ってきているのだろう。

北原第一開水路
香川水路の上の道もすぐに終わり、開水路が現れる。北原第一開水路とある。北原は財田町(大字)財田中(字)北原からの命名ではあろう。開水路は100m弱続く。その先、丘陵を南北に走る道路によって水路は切れる。






北の山分水工
水路が切れる右岸手前に「北の山分水工」。北の山も財田中北の山の地名から、開水路の南側、伊舎那院と用水路の間の耕地に水を分けているのだろう。







北原第一サイフォン
道路で切られた水路はサイフォンで、道路を隔てた堤にサイフォンと言うか、逆サイフォンで水を通す。開水路が道路下に潜る地点に「北原第一サイフォン」と記されていた。







北原第二開水路
道路を横切り、数メートルの比高差のある用水路の堤に這い上がる。そこから50m弱の開水路が続く、北原第二開水路と水路側壁に記されていた。北原第一、第二開水路は長野開水路と同じくフルーム型開水路。幅も深さも3m強といったものである。






北原第二サイフォン
ほどなく開水路は切れ、「北原第二サイフォン」に潜る。北原第一サイフォンは数メートルの道路を潜るだけであったが、第二サイフォンの出口らしき堤は、結構先に見える。堤までの距離は100m以上はあるようだ。中央部分に小さい川筋が見えるが、この小川を潜るためにサイフォンがつくられたのだろか。
ともあれ、堤端に設けされたステップを下り、コンクリートで補強された暗渠を進み、小川に架かる蓋を越え、比高差数mといった堤に這い上がる。

八月谷第一開水路
そこから30m強の開水路が続く。水路側壁には「八月谷第一開水路」とあった。八月谷はこの辺りの「字名」。左右を緑に囲まれた水路である。







八月谷第一サイフォン
開水路が切れるところに「八月谷第一サイフォン」と記されている。その先は衛星写真では谷のある森に入り、進めるかどうかわからなかったが、なんとか先に進めるようである。
水路端から用水路堤を下り、水路施設らしき構造物のある谷筋を越え、結構比高差のある用水路の堤に這い上がる。10m以上はあるだろう。

八月谷第二開水路
谷筋を越え堤に戻ると水路が開ける。八月谷第二開水路と水路側壁に記される。用水路の左右は竹藪や木々の緑に囲まれる。90m弱ほどの開水路を進むと水路は切れる。水路の型式はいままでと同じフルーム型開水路。幅・深さ共に3m強といったものである。





八月谷第二サイフォン
水路の切れた箇所に「八月谷第二サイフォン」。その先は、今まで左右を囲んだ緑も切れ、前面が開ける。サイフォンの先には谷筋がある。用水路はこの谷筋を潜って、先にみえる丘陵に上るのだろう。




八月谷第三開水路
堤に上ると少し暗渠が続いた先に開水路が現れる。「八月谷第三水路」とある。途中蓋付暗渠も含め200m強はあるだろう。水路は蓋付き暗渠を越えると開渠となるが、ほどなく水路は地中に潜る。ここからはトンネルとなって北東に見える開水路に繋がる。



黒田池分水工
ところで、この八月谷開水路には黒田池分水工があったようだ。それらしき施設は八月谷第一サイフォンの谷筋と、この八月谷第三開水路が切れた先、暗渠(天王谷第一暗渠)となった用水路が道路とクロスする辺りにあったのだけれど、名称は確認していなかった。
黒田池を調べると三豊市山本町神田黒田池奥3316とある。検索には引っかからず池の特定はできないが、山本町神田は八月谷第三開水路が切れた先、暗渠(天王谷第一暗渠)となった用水路クロスする道路に沿って北に向かった一帯である。とすれば、八月谷第三開水路の北に見えるちょっと大きな池がそれだろうか。であれば、八月谷第三開水路の先の暗渠(天王谷第一暗渠)にあった施設が黒田池分水工の可能性が高いとは思うのだが、衛星写真には道路を越えた辺りにも施設らしきものが見えるため、確定はできない。この暗渠(天王谷第一暗渠)辺りではあろうと思うが、ともあれ、見逃した。

伊舎那院に戻る
八月谷第三開水路を越え、天王谷第一暗渠に潜った用水路は、北東の丘陵に挟まれた辺りで開水路となって地上に現れる。その間はトンネルと暗渠で繋がれているようだ。トンネルと暗渠を辿るのも、何だかなあ、ということで、一旦車をデポした伊舎那院まで戻る。
往路は水路に集中し廻りの景色もよく見てはいなかったのだが、伊舎那院への復路では阿讃山脈を借景とした用水路、丘陵上からの多宝塔の美しい姿を眺め直した。

八月谷第三開水路から先のトンネル
八月谷第三開水路に続く天王谷第一暗渠から先は、天王谷第一トンネル(60m強)>天王谷第二暗渠>天王谷第二トンネル(70m弱)>天王谷第三暗渠>天王谷第三トンネル(40m弱)>天王谷第四暗渠>中尾トンネル(300mほど)>中尾暗渠と続く。







和光第一開水路
伊舎那院前の道を進み、財田町財田中地区から財田町財田上地区に入り、和光中学手前で道を左に折れ、集落の中の細路を抜けて開渠の見える辺りへと車で進む。と、丘陵に挟まれたところに開渠が見えた。和光第一開水路とあった。



尾分水工
用水路が開渠となった地点には用水施設らしきものもあるのだが、特に名称は記されていなかったが、チェックすると、中尾分水工とあった。







和光第一サイフォン
和光第一開水路は途中に蓋で覆われたところもあったが、迫り出した丘陵の土砂対策であろうか。それはともあれ、開水路は200m強続き、フラットな蓋で覆われた和光第一サイフォンに潜る。サイフォンにする理由って、今の状況からはよくわからないが、左手を流れる河川は改修工事が施されているようにも思う。このサイフォンの下には丘陵からの沢が流れているのだろうか。




和光第二開水路
数m和光第一サイフォンを越えると、和光第二開水路が現れる。30m強の距離である。








和光第二サイフォン
和光第二開水路が切れるところに和光第二サイフォンと記される。サイフォン設置の理由はよくわからないが、ここも左手の川に水路施設が見える。ここも沢でも下を流れているのだろうか。







和光第三開水路
和光第二サイフォンの先は平坦なコンクリートが敷かれている。その少し先に2m弱の高さをもつ箱型の水路施設が続く。和光第二サイフォンの出口ははっきりしないが、この水路施設は和光第三開水路かと思える(記載はどこにもなかったが)。和光第三開水路西端が和光第二サイフォン出口ではあろう(記載はない)。開水路とはいいながら、蓋で覆われた開水路ではある。距離は40m弱だろう。

和光第三サイフォン出入口
和光第三開水路が切れた箇所に和光第三サイフォンと記される。和光第三サイフォン入口だろう。蓋のある開水路を下り、平坦な道のすぐ先に、第三開水路と同じく2m弱のコンクリートの箱形水路施設が見える。その壁面には和光第三サイフォンと記されていた。そこは和光第三サイフォンの出口ではあろう。

和光第四開水路
和光第三サイフォンと記された先に水路施設が続く。先ほどの第三開水路と同じく、蓋が水路を覆う。距離は長く150mほどもあるだろうか。蓋のある水路施設の上を歩くと、施設が切れる辺りに「和光第四開水路」と記されていた(先ほどの同じ蓋のある水路施設を「和光第三開水路」としたのは、この記載からの類推ではある)。




神田大池分水工
和光第四開水路と記された辺りに「神田大池分水工」があった。神田大池とは香川用水の調整池として建設された「宝山湖」の辺りにあった池の名称。和光第四開水路あたりまで来ると、神田川の谷筋を出て、用水路左手に大きな池・宝山水湖が見える。






宝山湖
宝山湖は着工平成16年(2004)、完成平成20年(2008)。香川用水の水を溜め、渇水時または事故時に香川県の水道用水として利用するため建設された香川用水の調整池。また、この建設場所にあった農業用水のための神田大池の機能も兼ね備え、調整池下流域の灌漑用水としても利用されている。

和光第四サイフォン入口
和光第四開水路の東端に「和光第四サイフォン」と記される。前面、東に切れ込んだ丘陵の窪地の下を潜り、その先に見える丘陵に上っているのだろう。





和光第四サイフォン出口
和光第四開水路から宝山湖沿いの道を進む。丘陵に挟まれた窪地の東端から、衛星写真で、あたりを付けたポイントに向かって這い上がる。と、そこにはコンクリート構造物が現れ「和光第四サイフォン」と記されていた。そこが第四サイフォンの出口である。



和光第五開水路
その先に蓋のされたコンクリートの水路施設が続く。そこには「和光第五開水路」と記されていた。距離は90m弱。その先は地中に潜り、北に進んだ丘陵の上に開渠となって姿を現す。





山才トンネル
和光第五開水路から先は山才トンネルで抜ける。第五開水路と山才トンネルの間には和光第五サイフォンがあったようだが、見逃した。

山才トンネル出口
衛星写真で確認した開渠部分へと向かう。宝山湖に沿って道なりに進み、丘陵へと上ると開水路へと向かう道に出る。アプローチ部分は竹藪が茂る細路であり、少々怖いが、取り敢えず進むと開渠部分に出た。和光第五開水路から第五サイフォンで低地部分をクリアし600mほどの山才トンネルを経て、ここで地表に姿を現した。出口部分には「山才トンネル」と記してあった。

山才開水路
開水路はおおよそ300m。進むにつれて最初は右手、次いで左手が開けてくる。用水路と阿讃山脈の組み合わせも美しい。丘陵上を走る用水路から見る里の景色も、いい。左右に作業道が整備された道は車も余裕で進めることができる。



神田チェック工
水路が崖面で切れる手前に防塵装置を前に配した用水量調整施設である「神田(こうだと)チェック工」がある。また、右岸には神田分水工、左岸に神田川分水工と余水吐もある。
香川用水記念公園の東西分水工から都市用水(上水道用水と工業用水)と農業用水の「共用区間」として進んで来た東部幹線水路は、このチェック工で、東部幹線水路から高瀬支線が分かれる。東部幹線水路は神田チェック工から右岸に分岐し、神田川サイフォンを経て岩瀬第一トンネルへと向かい、東かがわ市まで続く。

一方、今回散歩の高瀬支線は神田チェック工から左岸へと折れ、高瀬支線に分かれる。余水吐けからの水は、丘陵下の神田川に流しているようである。
香川用水東部幹線・高瀬支線散歩はここで時間切れ。本日は東部幹線から高瀬支線が分岐する地点までで終わった。次回はこの分岐点から最終地点の満水池を目指す。
先回の散歩で調布から狛江道を狛江駅まで辿り、荏原郡衙の道と品川湊への品川道への分岐点である世田谷区喜多見の慶元寺まで歩き終えた。泉龍寺で思いもかけず美しい鐘楼門や緑豊かな弁財天池緑地を堪能し、狛江道散歩を終えたわけだが、散歩の途中で出合った泉龍寺の湧水池からの流れの行方、六郷用水の名残を残す橋名、そして、幾度となく出合った如何にも水路跡といった緑道のことが気になっていた。
水路跡をチェックすると、それは六郷用水からの分水であり、また用水開削に拠って切り離された「旧野川」の流路跡であった。かつて野川は現在の流れより西を流れており、現在の野川の流れは、かつての「入間川」の川筋であったようである。
多摩川の取水口から開削された六郷用水は「旧野川」の水を集め、さらに東に向かい入間川をも繋ぎ、用水路として南に下った。 六郷用水によって流れを切られた「旧野川」の川筋は岩戸川(岩戸用水)と名前を変え、狛江から喜多見一帯を潤した。泉龍寺からの湧水も六郷用水の分水を集め「清水川」として南東に流れ、「岩戸川・岩戸用水」に繋がれた、とも。
 現在入間川は野川に合流し、かつての入間川の流路は野川と称される。六郷用水が使われなった後、旧野川の瀬替えを行い入間川に繋いだわけだが、合流点の下流を「野川」とした。少しオーバーではあるが、人工的な「河川争奪」がおこなわれた。入間川の流路が野川に奪われたわけである。

そして古墳。当日は調布でふたつほど古墳に出合い、また狛江でも亀塚古墳など幾つかの古墳を訪ねたので、その時は気にもならなかったのだが、よくよく考えてみれば、往昔「狛江百塚」と称されたほど狛江である。
先日の散歩で出合った古墳だけではないだろうとチェックすると、狛江駅周辺だけでもいくつかの古墳が残ることがわかった。実際、先回歩いた道筋である、伊豆美神社脇とか、駅前、そして泉龍寺のすぐ北にも古墳があったのだが、知らず。その前や横を通りすぎていたようだ。
ということで、先回の散歩から日も置かず、狛江を訪ね水路跡と古墳を辿ることにした。


本日のルート;
古墳
■狛江地区;駄倉一号墳>東塚古墳>松原東稲荷塚古墳>飯田塚古墳>白井塚古墳>兜塚古墳>田中塚古墳・田中稲荷塚古墳>経塚古墳>亀塚古墳
■猪方地区;前原塚古墳
■喜多見築地区;天神塚古墳>第六天神塚古墳>稲荷塚古墳

水路
■清水川;田中橋交差点>六郷用水取水口>水神社>猪方用水の分流点>相の田用水分岐・鎌倉橋>清水川公園>揚辻稲荷>清水川が南に折れる
■岩戸川・岩戸用水;岩戸川緑地公園>岩戸川の清水川の合流点>岩戸川緑道:岩戸川せせらぎ>岩戸川南公園>喜多見緑道>喜多見公園>荒玉水道>喜多見したこうち緑道>開渠地点>暗渠そして開渠>新井橋・野川合流地点
■六郷用水路;次太夫掘公園>滝下橋緑道>小田急小田原線・喜多見駅

小田急小田原線・狛江駅
狛江駅で下車。ルートを想うに、まずは狛江駅周辺の古墳を辿り、その後、多摩川用水の分流、泉龍寺からの湧水の水路、そして、六郷用水開削によって下流部を切り離された、野川の旧流路を辿ろうと思う。

狛江駅周辺の古墳

駄倉一号墳
最初は駅傍、先回の散歩で歩いた、かつての「品川道」が都道11号に合わさった箇所。角の石垣の上に木が茂る塚ではあるが、古墳跡と言われなければ、とてもわからない。 この古墳、古墳かどうか、といった議論もあったようだが、周溝から円筒埴輪が出土したことにより、確認された、とか。
築造は5世紀後半、直径40m前後の円墳であると推定される。現在は、南は宅地で削られ、北と西は道路で削られて石垣が組み上げられ往昔の面影はない。現地に案内もなく、石垣上の土盛に祠らしきものが見えるのみ。

東塚古墳
都道11号を少し北に向かう。道脇に竹藪の生い茂る、それらしき場所があるが、個人の敷地内のため、その竹林の中に東塚古墳があるのだろう、と想うのみ。






松原東稲荷塚古墳
都道11号から成り行きで「品川道」の道筋に戻る。松原通りに向かう途中、塀の北に猛烈な竹藪がある。そこが松原東稲荷塚古墳のようだ。
本来は径約33m、高さ約4mの円墳と推定されている。河原石による葺石や、また円筒埴輪片が出土している、と言う。
西側にアパート建ち、墳丘は削られているとのこと。アパート脇から墳丘に入れそうにも思えたが、ここも個人敷地とのことで断念した。

飯田塚古墳
東松原古墳から東に「品川道」を東に向かい、松原通りを南に少し下ると豪壮なお屋敷がある。表札には「飯田」とある。その南にアプローチできる小径があり(個人の所有地のよう)、ちょっと進むと赤い木の鳥居がある。
その先の緑の中に飯田塚古墳があるようにも思えるのだが、個人の敷地のようであり、竹藪に入ることは断念する。



白井塚古墳
先回の散歩で訪れた伊豆美神社を出た先、これも先回の散歩で出合った「道標」手前の道を北に進む。道の右手に鬱蒼とした緑の塚らしきものが見えるのだが、これも白井さんという個人のお宅の敷地内にあり、道から眺めるのみ。
資料によれば、直径36m、高さ4m弱の円墳であり、周囲を約10mの周溝で囲んでいたとのこと。古墳は西側が半分弱、南側も四分の一ほど削られているようではある。




兜塚古墳
伊豆美神社の南東のすぐ近く、柵で囲われ保護されている。狛江の古墳散歩をスタートし、はじめて、古墳らしき「古墳」に出合った。墳丘の形はよく分かる。直径約30メートル、高さ約4メートルの円墳であった、よう。
墳丘からは円筒埴輪、朝顔形埴輪などが出土しており、墳丘の周囲には周濠がある、とのこと。また墳丘には河原石による葺石が敷かれていた、と言う。

田中塚古墳・田中稲荷塚古墳
都道114号・田中橋交差点の東南隅にささやかな高千穂稲荷が佇む。そこが田中塚古墳・田中稲荷塚古墳跡。径10mほどの円墳ではあったようだが、現在は数十センチ程度高くなった敷地に小祠があるだけで、古墳があった、といわれても、といったものであった。
古墳はともあれ、ここ田中橋交差点は六郷用水の水路跡であり、今回の水路歩きにフックが掛かった地でもある。そこに田中橋が架かっていた。稲荷小祠脇には「田中橋」と刻まれた石柱が残っていた。

経塚古墳
かつての六郷用水路であった都道11号(多摩川堤の水神社から田中橋交差点までは都道114号)を少し東に戻ると、泉龍寺の北に経塚古墳がある。古墳は柵で塞がれているが、マンションの管理人、または泉龍寺に許可を取れば中に入れる、とある。
それほど「古墳萌え」でもない我が身としては、古墳の南、さらに裏にぐるっと廻って北からも眺めるだけで十分。大きなマンション(狛江ガーデンハウス)に挟まれて、少々窮屈そうであった。実際、墳丘の北側は削られており、西や南も裾部がケ削られ往昔の半分程度の規模になっているようで
ある。
柵内にあった案内には「経塚古墳は5世紀後半ごろの築造と推定される円墳で、当時直径40m以上の墳丘に、幅10m以上の周溝がめぐっていました。以前は、墳丘上に、中世13世紀から16世紀にかけての板碑が、約30基ほど林立していました。そのうち、10数基はいまも泉龍寺などに保管されています。また墳丘から常滑の蔵骨器も出土しています。中世墳墓として再利用されたのでしょう。
さらに、経典を埋めたという伝承があり、泉龍寺を開創した奈良時代の良弁僧正の墓とする伝承もある複合的な遺跡です(攻略)」とあり、その説明の横には『江戸名所図会(1834刊)』の経塚古墳の絵があり、「墳丘上の松の木の下に、よくみると板碑が立っているのがわかる」とのコメントがあった。
この経塚古墳は狛江の古墳群において前述の「兜塚古墳」、次にメモする「亀塚古墳」に次ぐ規模を有していた可能性が高いとのことである。

亀塚古墳
経塚古墳から、先日の散歩でも訪れた元和泉1丁目にある亀塚古墳に向かう。田中橋交差点まで引き返し、南東へ弧を描く、いかにも水路跡(六郷用水の分水である「相の田用水堀」)といった道を「鎌倉橋」跡を見遣りんがら進み、最初の角を南に下り、道なりに進み道、建て込んだ民家の塀に「亀塚古墳」の案内を目印に民家に間の狭い通路を進む。
塚に上る数段の石段を上ると塚の上に「狛江亀塚」の碑が建っていた。周囲は民家で囲まれている。この塚は破壊された古墳(前方後円墳の後円部)の残土を盛って復元されたもの、という。

以下は先回のメモをコピー&ペースト;塚の上にあった案内には「狛江市南部を中心に分布する狛江古墳群は、南武蔵でも屈指の古墳群として知られています。これらは「狛江百塚」ともよばれ、総数70基あまりの古墳があったとされています。そのそのなかでも、亀塚古墳は全長40mと狛江古墳群中屈指の規模を誇り、唯一の帆立貝型前方後円で、5世紀末~6世紀初頭に造られたと考えられています。昭和26・28年に発掘調査が行われ、古墳の周囲には、周溝があり、墳丘には円筒埴輪列が廻らされ、前方部には人物や馬をかたどった形象埴輪が置かれていることがわかりました。
人物を埋葬した施設は後円部から2基(木炭槨)、前方部から1基(石棺)が発見され、木炭槨からは鏡、金銅製毛彫飾板、馬具、鉄製武器(直刀、鉄鏃など)、鈴釧や玉類などの多数の副葬品が出土しました。特に銅鏡は中国の後漢時代(25~220年)につくられた「神人歌舞画像鏡」で、これと同じ鋳型でつくられたものが大阪府の古墳から2面見つかっていることから、この古墳に埋葬された人物が畿内王と深く結びついていた豪族であったと考えられています。また、金銅製毛彫飾板には竜、人物、キリンが描かれていて、高句麗の古墳壁画との関係が注目されました。
現在は前方部の一部が残るのみですが、多彩な副葬品や古墳の規模・墳形などからみて、多摩川流域の古墳時代中期を代表する狛江地域の首長墳として位置づけられます(平成14年3月 狛江市教育委員会)」とあった。
説明版と一緒にあった昭和26年の亀塚古墳は、破壊される前の巨大な古墳威容を示していた。なお、亀塚古墳からは高句麗系の影響の見らえる遺物が出土しえているともいう。 

前原塚古墳
次の古墳は前原塚古墳。場所は小田急線の和泉多摩川と一駅先ではあるが、写真では古墳の姿を留めているので、古墳らしき古墳を目にしようと、ちょっと足を延ばす。
成り行きで和泉多摩川駅まで南に下り、東に向かうと、畑の中に緑の繁る古墳らしき塚が現れた。場所は畑の中にあり、近づくことは遠慮する。記録に拠れば、径約18m、高さ2.1 ~2.6 mの円墳で、墳丘上には葺石と考えられる挙大の円礫が散在しているようである。周溝は、内径約23.5m、外径約31.5m。墳頂部には竪穴式の主体部が2基存在するとされる。

狛江市猪方1丁目には清水塚古墳があり、比較的形状を保つと言うが、それらしき場所に行っても、はっきりとした塚が残っているようにも思えないので、古墳巡りを切り上げ、原点である狛江駅まで戻る。

往昔、「狛江百塚」と称されるほど、多くの古墳があったとされる狛江ではあるが、現在遺っているのは13基ほど。昭和26年(1951)の亀塚古墳の写真を見るにつけ、それ以降、猛烈な宅地開発が進み、塚が削りとられたのだろう。現在、原型を留めるのは数基に過ぎないようである。
それにしても、古墳が個人の宅地内にあるものが多かったのは、予想もしていなかったので、興味深かった。検索すると古墳が個人宅内にあるのは、ここ狛江に限ったことではないようではあった。


六郷用水と狛江の水路跡

田中橋交差点
古墳散歩を終え、水路跡歩きをはじめる。最初は「六郷用水」跡を知るきっかけとなった、田中橋交差点へと、狛江駅から都道11号を西に向かう。

六郷用水
「六郷用水」とは、稲毛・川崎領(神奈川県川崎市)の代官・小泉次太夫の指揮により開発された農業用水路。慶長二年(1597)から15年をかけて完成した。多摩川の和泉地区で水を取り入れ、世田谷領(狛江市の一部、世田谷区・大田区の一部)と六郷領(大田区)の間、約23kmを流れていた。世田谷領内を流れる六郷用水は、小泉次太夫の名を冠し「次太夫堀」と呼ばれていた。
現在の六郷用水(次太夫堀)は、次太夫堀公園、そして丸子川として、大田区の一部に親水公園といった主旨で残っているだけであり、その他は埋め立てられるか、雨水対策の下水道となっているようである。

六郷用水は、いつだったか、丸子川からはじめ大田区の用水路跡は数回に分けて歩いた。また、これもいつだったか、狛江から喜多見を歩いたとき、狛江の水神社辺りが六郷用水の取水口であるということで、そこを訪ねたこともある。その時は、「田中橋」といった地名にも気付くことなく、水神社辺りの取水口から、これも、いつだったか訪ねたことがある「次太夫堀公園」に保存(再現?)されている水路と繋がっているのだろう、などと思って、それ以上深掘りすることはなかった。
が、今回「田中橋」がきっかけとなり、多摩川堤の水神社から「丸子川」の開渠までのルートをチェックする。


水神社から丸子川までの六郷用水のルート
水神社から丸子川までのおおよその六郷用水のルート;水神社傍で多摩川から水を取り込んだ六郷用水は都道114号の水神前交差点から都道を西に進み、西河原自然公園を経て田中橋交差点に至る。古墳のところでメモしたように、交差点脇の高千穂稲荷脇にあった田中橋の石標は、六郷用水に架かっていた橋石である。
用水はこの田中橋交差点から道なりに西に進む都道11号を少し進み、泉龍寺バス停あたりで都道11号から離れ、右に分岐し、小田急小田原線・狛江駅の北をを進み、南西に弧を描いて世田谷通り・一の橋交差点に。
世田谷通り・一の橋交差点から世田谷通りを西に進み「二の橋」交差点を辺りで都道から離れ、狛江市と世田谷区の境の先で右に分岐する現在の「滝下橋緑道」を進む。そこからは現在の野川を東に越え、世田谷通りの手前を緩やかに弧を描いて再び現在の野川を西に戻り、次太夫堀公園に残る水路跡に出る。 次太夫堀公園を出た水路は、多摩堤通り・次太夫堀公園前交差点を東に進み、現在の野川に沿って下り、東名高速の南にある永安寺前の如何にも水路跡といった道筋を進み、仙川傍の丸子川親水公園に繋がっていたようである。

六郷用水にともなう河川争奪
これで、今まで「空白」であった、六郷用水の取水口と丸子川が繋がったのだが、上でメモしたように、このルートチェックの過程で六郷用水開削に伴う、人工的ではあるが一種の「河川争奪」が見えてきた。
誠に興味深く、かつまた、先回の散歩で狛江駅から慶元寺まで歩く道筋の折々に登場する、如何にも水路跡といった緑道が一体「何者なのか?」、といった疑問も解消したこともあり、すこしまとめておく。







野川・入間川の旧流路
河川争奪の登場するのは野川と入間川、そして六郷用水。野川が入間川の川筋を「奪い取った」わけだが、そのきっかけは六郷用水開削。かつて野川は現在の川筋よりずっと西、狛江駅の少し東辺りを流れていた。一方、現在の入間川の川筋は調布市入間町で「野川に合流」し、その下流は「野川」となっているが、往昔はその合流点から下流は入間川であった。










六郷用水開削にともない野川・入間川は六郷用水に組み込まれる
その状況が変わったのは六郷用水開削。上でメモしたルートで開削した六郷用水は、そのルート途中で南北に流れる野川の水を取り入れ、その下流を切り離した。また、六郷用水は入間川の水も取り込み、下流を切り離すことにした。野川も入間川も六郷用水によって下流部が切り離された分けである。

六郷用水廃止に際し、野川は瀬替えを行い旧入間川に繋ぐ 

この状況が300年ほど続いたわけだが、再び状況に変化が起きる。1950年代となり、この辺り一帯が都心近郊の宅地としての開発が進むにつれ、農業用水である六郷用水が活用されなくなってきた。水神様から狛江駅辺りまでは1960年代の中頃には暗渠となり、それ以外の水路も昭和46年(1971)頃にはすべて暗渠となってしまったようである。
ここからが、ちょっとオーバーではあるが「河川争奪」の過程であるが、戦後野川の旧流路で洪水が多発したといったこともあり、野川を入間川の川筋に付けかえる「瀬替え」工事が1960年代の始め頃から始まる。この工事は昭和42年(1967)に完成するが、入間川に瀬替えされた川筋は、入間川ではなく「野川」と称するようになった。これが「河川争奪」と言うか、野川の瀬替えの経緯である。

六郷用水によって切り離された野川下流部
ところで、六郷用水によって切り離された旧野川の下流部であるが、大雑把に言って、現在の岩戸川緑道(狛江市)と、その緑道が世田谷区に入ると「喜多見まえこうち緑道」と呼ばれる緑道がその流れ跡と言われる。
往昔は六郷用水の用水堀の一翼を担い活用されたのではあろうが(実際岩戸川とも岩戸用水とも称される)、この用水も昭和52年(1977)頃までには暗渠・緑道となっている。
先回の散歩で狛江駅から慶元寺まで歩く道筋の折々に登場した如何にも水路跡(岩戸緑道)といった緑道が一体「何者なのか?」、といった疑問は、六郷用水によって切り離された旧野川の下流部であるということで一件落着。


水路散歩スター
旧野川、六郷用水の水路、六郷用水によって切り取られた下流部の流路、また、六郷用水から分水したであろう用水掘。少々ややこしいので(上に)地図にまとめた。そして、少し頭を整理した上で、田中橋跡からはじめ、狛江、そして世田谷に続く水路を散歩する。
水路巡りの要点は、先回の散歩で気になった、昭和30年末頃まで和泉・岩戸・猪方・駒井・喜多見・宇奈根の水田を潤したと言う泉龍寺の弁財天池からの水路と、六郷用水によって切り取られた旧野川の下流部とされる緑道(岩戸川)を辿ることにある。


清水川を辿る
まずは、泉龍寺の弁財天池からの水路巡りをはじめようと、あれこれチェックすると、この水路は「清水川」と呼ばれたようである。そしてこの川は弁財天脇の「ひょうたん池」からの湧水だけでなく、六郷用水の分水である「相の田用水掘」からの養水も合わせている、とのこと。
「相の田用水掘」は多摩川から取水した六郷用水から分水した「猪方用水」の支線とのこと。その「猪方用水」は多摩川取水口の少し東にある「西河原自然公園」の小高い丘を切り崩し、六郷用水から分水している、とある。 ついでのことでもあるので、緒方用水も辿ってみようと、六郷用水のスタート地点である多摩川堤の取水口へ向かう。

六郷用水取水口
田中橋から西に都道114号を進み、多摩川堤に。ここに来たのは何年前だろう、などと想いながら、取水口に向かう。堤下に取水口らしきものがあったのだが、これはどうも先日歩いた根川の多摩川への合流点だろう。
因みに、上の六郷用水開削時の分水用水に「三給用水」を描いているが、この用水は六郷用水の分水ではなく、根川からの用水である。この用水は六郷用水を樋で越えてこの地を潤した。

堤手前に「六郷用水の取り入れ口の碑」があり、昭和初期の取水口の写真があった。これを見ると、多摩川の堤を掘り割って水路をなしている。ということは、取水口は完全に埋め立てられた、ということだろう。

水神社
取水口の碑の傍に小さな祠。水神社とある。由来書には「水神社由緒「此の地は寛平元年(889年)九月二十日に六所宮(明治元年伊豆美神社と改称)が鎮座されたところです。その後天文十九年(1550年)多摩川の洪水により社地流出し、伊豆美神社は現在の地に遷座しました。この宮跡に慶長二年(1597年)水神社を創建しその後小泉次大夫により六郷用水がつくられその偉業を讃え用水守護の神として合祀されたと伝えられる。 明治二十二年(1889年)水神社を改造し毎年例祭を行って来ました。昭和三年(1928年)には次大夫敬慕三百四拾二年祭を斉行 もとより伊豆美神社の末社として尊崇維持されて来ました。伊豆美神社禰宜 小町守撰」、とあった。

猪方用水の分流点
水神社から東に戻り西河原自然公園に。分流点は「大塚山を切り崩し」とあったので、公園の中に小高い辺りを探し、その先に流路らしきものがないかチェックする。と、公園と民家の間に微かに水路の名残が感じられる小径がある。 公園を越えた先にも、草に覆われた道というか「隙間」が民家の間を進む。あまりに民家に接近しているので、少々躊躇いはあったのだが、宅地内ではないようであり、草を掻き分け先に進む。

相の田用水分岐・鎌倉橋
道は小田急線の複々線工事に伴い移築した、江戸時代後期の古民家が数件立つ「むいから民家園」の南を抜けると南北に通る道がある。この通りで猪方用水は南に下り、支線の「相の田用水」がそのまま東へと進む。道なりに進むと道脇に「鎌倉橋」と刻まれた石橋があった。古墳散歩で亀塚古墳に向かう途中で出合った橋跡である。

日本水道狛江浄水場跡
「相の田用水」は泉龍寺の南を進む。この一帯を「相の田」と呼んでいたようだ。水路跡は、この先で泉龍寺の「ひょうたん池」から流れ出す清水川に合わさる。その水路跡はほんの僅かな痕跡を残し、現在の小田急線の東に下っていたようである。

駅の東側に移るに、泉龍寺から真南に下ったところにある狛江第三中学当たりに日本水道狛江浄水場跡があったようである。水路辿りの「流れ」でちょっと寄り道する。そこは古墳散歩で亀塚古墳から猪方地区にある前原塚古墳に向かう途中に通り過ぎた道筋でもあった。
学校の周辺を彷徨うに、そのような構造物は見つからない。どうも場所は狛江第三級学校の構内、というか、浄水場跡に狛江第三中学が建ったのだろう。

日本水道狛江浄水場
この狛江浄水場は、関東大震災後、東京都心から離れ郊外に移り住んだ住民の水需要に応えるため、日本水道株式会社によって昭和6年(1931)に工事に着手し、翌昭和7年(1932)から通水が開始された。
原水は多摩川の伏流水と六郷用水からの分水。伏流水は現在水道局の資材置き場・水道局住宅のある当たり(はっきりしないが狛江第三中学の北西の元和泉2-10-1辺り?亀塚のちょっと西)に取水井と取水池があった、との記事があった。また、六郷用水からは、むいから民家園の西にある田中橋児童遊園の辺りから分水された、と言う。
水は世田谷区の一部に送水したようであるが、多摩川の水位低下、六郷用水の廃止などの影響もあったのか、昭和44年(1969)に廃止。その跡地に昭和48年(1973)、狛江第三中学校が建った。

清水川公園
清水川は狛江駅南口ロータリーから南東に下る道を進み、世田谷通りの手前で左に折れていたようだ。現在は暗渠となり、その痕跡を見付けるのは難しい。 さて、どうしたものかと、世田谷通りを彷徨っていると、偶々「清水川公園」といった案内が目に入った。ひょうたん池からの清水川は小田急線を越え、ここに繋がっていたのだろう。

■清水川の水源のひとつ・揚辻稲荷に向かう
なんとか「ひょうたん池」からの清水川の流れ跡が、狛江駅の東の地で繋がった。ここから東に進もうとは思うのだが、清水川には「揚辻稲荷」からの湧水も合流していた、と言う。地図を見ると、清水川公園の世田谷通りを隔てた北西に揚辻稲荷がある。そして、清水川公園の世田谷通りの逆側に、いかにも水路跡らしき「ノイズ」を示す細路がある。
とりあえず、民家の間の道を北東に進む。ほどなく道は切れるが、その先にも草に覆われた、如何にも水路跡といった筋が民家の塀に囲まれて続く。

揚辻稲荷
民家の間でブッシュを踏みしだきながら先に進むと石に囲まれた池跡があった。湧水痕跡はなにもない。池をぐるりと回り揚辻稲荷にお参りし、再び清水川公園に戻る。






■清水川が南に折れる
清水川公園を進むと、南側がちょっと小高丘があり、緑が残る。その先に進むと車止めがあり、そこからは如何にも緑道といった道が先に進む。清水川はこの地で南に折れる、と言う。





岩戸川・岩戸用水

岩戸川の合流点
では、先に進む水路跡は?揚辻稲荷からの湧水は清水川と合流することなく、清水川と平行して流れるとの記述もある。その水路跡だろうか、それとも清水川の一部だろうか。専門家でもないのではっきりしないが、一般的な説明では「清水川は岩戸川(岩戸用水)と合流する」とあるので、清水川水系(ちょっとオーバー?)の水が、六郷用水の開削によって切り離された旧野川の流れである岩戸川とこの辺りで合流するのだろう。



岩戸川緑地公園
で、その岩戸川の流路であるが、先回の散歩で、狛江通りと世田谷通りとの交差点・狛江三差路の辺りで、「岩戸川緑地公園」との案内がある如何にも水路跡らしき細路が南東に進み、その水路跡らしき道はすぐに終わるが、別の水路跡らしき道がその先にも続き、成り行きで進むと「岩戸川緑道;岩戸川せせらぎ」と案内のある親水公園風の場所があり、明静院の南を通る品川道の手前まで進み、そこから右に折れて水路は先に続いていた。
その交差点・狛江三差路の辺りからの「岩戸川緑地公園」の道筋が岩戸川(旧野川)の水路跡かと思う。今回、清水川公園から進んできた水路跡とおぼしき小径は、清水川が南に折れるとされる辺りから先にも続き、成り行きで進むと「岩戸川緑道;岩戸川せせらぎ」に出た。ということは、その途中で岩戸川が清水川を辿ってきた水路と合流したことになる。
合流点を確認すべく、少し戻ると、先日歩いた北から南東へと下ってきた「岩戸川緑地公園」の「出口」がすこし北に見え、南に少し下ると清水川から辿ってきた水路跡の道に繋がる。先回の散歩では、知らず「岩戸川緑地公園=岩戸川跡」から成り行きで「清水川筋」に乗り換えて「岩戸川緑道;岩戸川せせらぎ」に向かっていたわけである。

岩戸川緑道:岩戸川せせらぎ
道を戻り「岩戸川緑道;岩戸川せせらぎ」の案内があったところに復帰する。開水路はおおよそ120mに渡る親水公園といった風情ではある。
この先、岩戸川緑道は明静院と八幡神社前を通む狛江道の南を、南東へと向かって弧を描いて進み、喜多見中学の西で流路を東、そして北東に替えて岩戸川南公園を境に狛江市域を離れ、世田谷区に入る。

喜多見緑道
小径を進むと「喜多見緑道」の案内。狛江市から世田谷区に入ると緑道は名称を変え、「喜多見見緑道」となる。







喜多見緑道付近の古墳
喜多見緑道の北に慶元寺がある。今回の散歩では、2回目の散歩で既に歩いた慶元寺をパスし、そのまま喜多見緑道を更に下流部へと辿ったのだが、狛江道の終着点であり、荏原郡衙への道と品川湊への道の分岐点でもある慶元寺近辺にも古墳があったので、先回の散歩のメモではあるが、慶元寺やその周辺の古跡をコピー&ペーストしておく。

須賀神社・天神塚古墳
慶元寺の東北傍に須賀神社がある。社は小高い丘の上にあり、吹き抜けの、まるで神楽殿でもあるような社であった。 で、社が建つ丘は天神塚古墳とのこと。径16~17m、高さ1mの横穴式石室のある円墳であったようである。

第六天神塚古墳
須賀神社の南に竹林に覆われた小高い丘がある。そこは「第六天神塚古墳」である。塚脇にある案内には「世田谷区指定史跡 古墳時代中期(五世紀末~六世紀初頭)の円墳。昭和五十五年(1980)と昭和五十六年(1981)の世田谷区教育委員会による、墳丘及び周溝の調査によって、古墳の規模と埋葬施設の規模が確認された。
これによって本古墳は、直径28.6メートル高さ2.7メートルの墳丘を有し、周囲に上端幅6.8~7.4メートル下端幅5.2~6.7メートル深さ50~80センチの周溝が廻り、その内側にテラスを有し、これらを含めた古墳の直径は32~33メートルとなることが判明した。またこの調査の際に、多数の円筒埴輪片が発見された。
埋葬施設は墳頂下60~70センチの位置に、長さ4メートル幅1.1~1.4メートルの範囲で礫の存在が確認されていることから、礫槨ないし礫床であると思われる。
なお同古墳については、「新編武蔵風土記稿」によると、江戸時代後期には第六天が祭られ、松の大木が生えていたとの記載が見られる。
この松の木は大正時代に伐採されたが、その際に中世陶器の壺と鉄刀が発見されており、同墳が中世の塚として再利用されていたことも考えられる。(昭和59年 世田谷区教育委員会)」とあった。

稲荷塚古墳
第六天神塚から慶元寺の境内に沿って北に道を進むと、左手に稲荷塚古墳緑地がある。公園の奥にこじんまりとした塚がある。
塚に近づくと、案内があり、「この古墳は直径約13m、高さ2.5mの円墳で、周囲に幅約2.5mの周濠がめぐっている。
長さ6mの横穴式石室は、凝灰岩切石で羽子板形に築造されている。調査は昭和34年と昭和55年に行われ、石室内から圭頭太刀、直刀、刀子、鉄鏃、耳環、玉類、土師器、須恵器が出土している。出土品は、昭和60年2月19日に区文化財に指定され、世田谷区郷土資料館に展示されている。古墳時代後期7世紀の砧地域の有力な族長墓と考えられる(昭和61年世田谷区教育委員会)」とあった。
狛江だけでなく、この喜多見にも喜多見古墳群と呼ばれる13基ほどの古墳が残るようである。



旧野川の水路に戻る
狛江道の荏原郡衙への道、品川湊への道のクロスロードである慶元寺近辺の古墳のメモはこれまでとし、慶元寺南の喜多見緑道をから下流へと辿ったメモを再開する

喜多見公園
喜多見中学の敷地に沿って弧を描いて進む喜多見緑道は都道11号で切れる。都道の先には喜多見公園がある。水路は公園の中を南東へと向かったのだろうと、公園を彷徨い東側に進むと、なんとなく周辺より低くなった空堀風の道が南に下る。確証はないが、水路跡といった「ノイズ」を感じ、先に進む。






公園先に水路跡
公園を南端まで進み公園を出る。公園横の道は荒玉水道道路であった。水路跡はどこに?と、公園先の草の繁る空き地の中に水路跡らしき金網の柵が南に下る。水路進む方向に荒玉水道を下ると砧浄水場前に出る。そして道が交差する東の角に「喜多見まちがど公園」があり、その南に「喜多見したこうち緑道」の案内があった。水路はここに続いているのだろう。
荒玉水道
荒玉水道とは大正から昭和の中頃にかけて、多摩川の水を砧(世田谷区)で取水し、野方(中野区)と大谷口(板橋区)に送水するのに使われた地下水道管のこと。荒=荒川、玉=多摩川、ということで、多摩川・砧からだけでなく、荒川からも水を引く計画があったようだ。が、結局荒川まで水道管は延びることはなく板橋の大谷口で計画中止となっている。

喜多見したこうち緑道
緑道を進み道路が交差する地点まではゆったりとした緑道であったが、交差地点から先は細い道筋となって民家と畑の間を進み、その先の道路と交差する地点で道は途切れる。
なお、六郷用水開削以前の旧野川の流れは、この喜多見したこうち緑道あたりから、そのまま東に進み、現在の東名高速を越え南東に下り、多摩川に合流していたようである。



開渠地点
その先はどこ?地図をチェックすると北東に開渠が見える。岩戸川は野川が高速道路とクロスする新井橋辺りに続くとのたであるので、方向的にはそれほどまちがっていないと、とりあえず開渠地点を目指す。開渠はH鋼で補強された水路として現れた。






暗渠そして開渠
この開渠もすぐに地下に潜る。その先は?地図をチェックすると、喜多見小学校の東、多摩堤通りの南に新井橋方向に向かう開渠が見える。道を成り行きで進み開渠地点に。





新井橋脇の野川への合流地点
開渠部に到着。しかし開渠部に沿って道はない。仕方なく多摩堤通りに迂回し、新井橋西詰めに。そこから野川に注ぐ開渠部を確認。野川の流入口はなかなか見つからなかったのだが、新井橋からチェックすると、川床に施設された金属枠で造られた流入口らしき構造物があった。


岩戸川緑道・喜多見緑道・喜多見したこうち緑道と辿った、六郷用水によって切り取られた旧野川の水路跡(実際の旧野川は喜多見したこうち緑道あたりで南に進み多摩川に合流)、その水路は現在、この新井橋で野川に注ぐが、野川の瀬替え工事実施前の水路は、東名高速の直ぐ南に見える野川第二緑地公園へと繋がっていたのだろうか。野川の入間川への瀬替え工事のとき、旧入間川であった現野川の科筋は直線化されており、野川第二緑地公園が旧水路と考えても、あながち間違いではないようにも思う。

次太夫掘公園
日も暮れてきた。そろそろ散歩を切り上げる時間である。地図で最寄りの駅をチェックし、小田急線・喜多見駅に向かうことにする。この新井橋から駅に向かうルートに「次太夫掘公園」とか「滝下橋緑道」があり、帰路の道すがら、どうせのことなら、これら六郷用水の流路跡を辿ろうと思ったわけである。

次太夫掘公園から東に続く水路をみれば、六郷用水は、現在の野川の東を流れていたようにも思うのだが、特段その痕跡もないので、野川の西に沿って上り「次太夫掘公園」から野川に繋がる水路地点に。そこから水路に沿って次太夫掘公園に入る。
既にメモしたとおり、「次太夫」とは、次太夫掘・六郷用水開削の差配をおこなった稲毛・川崎領(神奈川県川崎市)の代官・小泉次太夫のことである。公園内には六郷用水の名残をかすかに留めるささやかな水路とともに、名主屋敷や民家が移築され、江戸時代後期から明治にかけての農村風景を再現しているとのことである。

滝下橋緑道
水路、そして緑道が続く次太夫公園を抜けると、その先は水路跡の痕跡は全く見あたらない。野川に沿って北に向かい滝下橋緑道が野川に合わさるところまで進み、そこから緑道を西に進み世田谷通り・二の橋交差点に出る。500m程の六郷用水跡が滝下橋緑道として姿を現した。


小田急小田原線・喜多見駅
世田谷通り・二の橋交差点からは、成り行きで喜多見駅に向かい本日の散歩を終える。

何気なく取り出した『武蔵古道 ロマンの旅』からはじまった荏原郡衙への道・狛江道散歩。本文では二ページの地図を入れても五ページの記事からはじめた狛江道散歩ではあるが、いつものことではあるが、散歩しながらあれこれお気になることが登場し、三回のメモとなってしまった。 それも、三回目は、本来の荏原郡衙への道そのものと言うより、道の周辺に現れた古墳や、特に水路跡を辿る散歩のメモとなった。狛江道そのものの、最終目的地である慶元寺辺りまで辿り、なにも知らなかった大国魂神社と国府・国衙のあれこれ、府中崖線の上下を行き来する幾多の坂道、古品川道と称される狛江道の道筋と室町期に開かれたという「品川道」などを楽しめた上、古墳や思いがけず出合った六郷用水と、その開削故に起きた野川の瀬替え・上流部を切り取られた旧野川の水路跡など、気になることが次々と現れる実に楽しい散歩ではあった。いつもの事ながら、成り行き任せの散歩の「妙」ではある。
特に資料もなく、GPS 端末にインストールした国土地理院の6000分の一の地図と、そのトラックデータをフリーソフトの「轍」を介してKMLファイルに変換し、Google Mapのマイマップにインポートした航空写真を頼りにはじめた香川用水散歩。実際にチェックポイントに行ってはじめてわかった隧道名では、順序通りの隧道名となっていないところもあり、「第2」があれば「第1」があってしかるべし、出口があれば入口、入口があれば出口があってしかるべし、とあれこれ彷徨い、結構時間がかかり、全行程の半分も行かず1回目の散歩を終えた。
そこから、日も置かず2回目の香川用水西部幹線水路散歩に出かける。最初の目的地は札所六十七番・大興寺。香川用水と関係はないのだが、今回のスタート地点へのアプローチ始点として、車のナビに入れるのが容易ということと、ついでのことでもあるので札所も訪れようと思ったわけである。



本日のルート(香川用水西部幹線のルート;赤の軌跡);
○第1回(緑の軌跡)
香川用水記念公園>東西分水工>(地下隧道でエリエールゴルフ場を抜ける)>入樋開水路・分水工>(隧道に)>菖蒲2号隧道出口>(開渠)>菖蒲3号隧道入口>(隧道)>地下水路で河内地区の平地に>河内川分水工・放水工>地下水路で山裾の丘陵を進む>河内2号隧道出口>(開渠)>河内3号隧道入口>地下隧道で谷戸に出る>(暗渠)>竹谷分水工>丘陵裾を隧道で進む>山池隧道出口>(暗渠)>サイフォン>一の谷開水路>一の谷開水路チェック工>(暗渠)>寺上第一開水路(川を跨ぐ)>小松隧道入口>小松隧道出口>寺上第2開水路>酔覚1号隧道入口>酔覚1号隧道出口>酔覚開水路>酔覚2号隧道入口>
○第二回(青の軌跡)
小原分水工>開渠に>小原池局>小原開水路>原隧道入口>城谷開水路で開渠に>柞田川右岸チェック工>城谷隧道入口>ふたつの丘陵・ひとつの谷筋を越え長い隧道を南西に下る>水路橋で姿を現す>紀伊大池分水工>紀伊大池チェック工>紀伊大池開水路>(丘陵地下を南西に進む)>瀬戸1号隧道出口>(水路橋)>瀬戸2号隧道入口>(隧道に)>萩原1号開水路>(隧道)>萩原第1隧道出口>萩原第2開水路>大谷池分水工>萩原第3隧道入口>(隧道)>萩原第3開水路>暗渠に>日の出橋水路管>井関池揚水機場>和田支線分水工>井関チェック工>井関放水工>(和田支線分水工から地下送水管)>袂池分水工手前の水路に用水送水管が現れる>袂池分水工>板橋分水工>(地下送水管)>苗代池分水工>川を送水鉄管が渡る>姥ヶ池からの送水管が下る>姥ヶ懐池(姥ヶ池局・姥ヶ池分水工・姥ヶ池吐水槽)

六十七番札所・大興寺
ナビのガイドに従い、四国遍路六十七番札所・大興寺に。六十七番札所である雲辺寺からおおよそ12キロのところにある。堂々とした仁王門の金剛力士像は運慶作とも伝わる。
縁起によれば、天平14年(742)、熊野山所権現鎮護のため、東大寺末寺として、現在地より少し北に建立され、その後、延暦11年(792)に弘法大師が巡錫。弘仁13年(823)には、嵯峨天皇の勅により再興されたと伝わる。(弘仁13年(823)に、嵯峨天皇の勅命により、弘法大師が熊野山所権現鎮護のために開創建したとの説明もある)。
後にこの寺は真言、天台の二宗によって管理され、真言が二十四坊、天台は十二坊あり、本堂の左右に真言、天台の大師堂があったとのこと。現在は真言宗のお寺さまであるが、境内に天台大師堂や、天台様式の不動明王が本尊脇侍として残るのは、往昔のこの真言・天台二宗が兼学した名残とか。
堂々とした伽藍を誇った大興寺も土佐の長曽我部元親の四国制覇の折り、本堂を残し、堂宇は悉く灰燼に帰した。現存の建物は慶長年間に再建されたものである。

小原分水工>(小原開水路)
本日の最初のチェックポイントに向かう。先回最後のポイントである「酔覚2号隧道入口」から丘陵の囲まれた谷戸状の地形を潜り、丘陵を越えた先の池の西に見える開渠部である。
隧道出口には名前はない。その手前に小原分水工があり、開渠部は「小原開水路」と書かれていた。開渠部はおおよそ30m強といったところだろうか。

小原池局>原隧道
水路を挟んで分水工の逆(北)に「小原池局」といった名称の建物が建つ。先回の散歩の「一の谷チェック工」のところでメモしたが、香川用水の農業用水区間は、その分水量やチェック工で測定した水位情報を子局から親局に電波で送り、集中管理しているとのこと。この「小原池局」と呼ばれる建物が「子局」に相当するものだろう。
あれこれチェックすると、この小原池局では、一の谷川、小原池(小原分水工の東にある池だろうか)、この地から更に西にある柞田川、岩鍋池の各分水流量、また一の谷川、柞田川チェック工の水位、そして岩鍋池幹線流量,小原池,岩鍋池水位情報を親局のある香川用水記念公園の管理棟に送っているとのこと。
ただ、親局は情報を集中管理はするものの、操作は自動制御ではなく、親局からの指令で人がパトロールして管理しているようである。

原隧道出口>城谷開水路
原隧道から丘陵に潜った水路は小さな谷戸といった風情の里に出る。原隧道入口から南に農道を進み、ほどなく丘陵越えの道に入ると、里で開水路とクロスした。
出口をチェックに向かうと「原隧道」と書かれていた。原隧道の出口である。開渠部は「城谷開水路」とあった。






城谷開水路>柞田川右岸チェック工・柞田川右岸分水工
水路を進むと「柞田川右岸チェック工」、があった。「いすた」と読むのだろか。 柞田川は、上でメモしたように、このチェック工からはるか西を流れている川である。






城谷隧道
城谷開水路は「城谷隧道」で地中に潜る。水路は南西に3キロ弱進む。途中、岩鍋池のある栗井川が開析した谷筋を通っているため、水路が通る岩鍋池の南端辺りに向かい分水工を求めて彷徨ったが、番犬に吠えられただけで、水路施設を見つけることはできなかった。岩鍋池の谷筋の道は雲辺寺から大興寺への遍路道の道筋でもある。
菩提山の西端となる岩鍋池の谷筋の西側も深い丘陵。航空写真でも開渠のような箇所も見当たらない。丘陵西の川に注目して水路橋など無いものかとチェックすると、川に架かる送水管らしきものと開渠が水路ライン上にある。丘陵を北に大きく迂回し送水管を目指す。
○岩鍋池

岩鍋池は、雲辺寺山の谷筋からの水が流れ込む溜池。築造は室町時代後半の大永 7 年(1527 年)と伝えられる。築造当時の堤防は、現在の位置 より少し上流であったようだが、江戸時代初期の寛永 7 年(1630 年)に西嶋八兵 衛により現在の地に増改築された。

紀伊大池分水工・大池局
丘陵に挟まれた谷筋を「大池」の東脇を進み、谷奥に入ると農道左手に川に架かる送水管が見える。農道脇に車を停め、川筋に進むと人道橋が送水管の上にあり、橋の東に水路施設らしきものが見える。近づくと「紀伊大池分水工」とあった。
また、分水工脇に「大池局」と書かれた建物。先ほど出合った「小原池局」と同じく、分水量、水位情報を親局に送り、用水を集中管理し効率的運用を目指す施設のようだ。この大池局は「大池川分水量、大池水位、大池チェック工の水位情報」を親局に送るようである。と言うことは、この川は「大池川」なのだろうか。
○大池
柞田川の支流である大池川の上流にあるこの溜池は、別名を「紀伊大池」とも称される。築造は、寛文 2 年(1662 年)の頃。この溜池により、周辺の開墾が進み、天明年間(1781~1788 年)には大規模な池の嵩上げ工事が行われた。 明治時代には堤防の決壊で田畑に大きな被害を受け、その後も何回も改修工事を繰り返しながら現在に至る、とのこと。

送水管が川を渡る>紀伊大池チェック工
人道橋を渡り、南北に通る農道に西から丘陵に向けて10m強が開渠となっている。開水路を進むと紀伊大池チェック工があった。ここで測定された水位情報が「大池局」から親局に送られるのだろう。水路は、チェック工の先で丘陵に潜るが、防塵柵があるだけで、隧道に名前は無かった。


瀬戸1号隧道出口>(開水路)>瀬戸2号隧道入口
丘陵に潜った水路は「大谷池」の南端に向けて南西に進む。直線で1キロもないだろう。谷筋をひとつ越え丘陵を西に出ると大谷池の南端に開水路が見える。 そこを目印に、と思いながらも、他に水路施設などないものかと、水路ラインを注意深く見ていると、丘陵の森の中に水路らしきものが見える。国土地理院の6000分の一の地図で確認すると大谷池の南東端あたりである。
山中なのか谷なのかはっきりしないまま、とりあえず農道を南に進み丘陵越えの道で一度谷筋に下り、そこから西の丘陵を南に迂回し、萩原寺脇から大谷池の南端を進み、開水路を見遣りながら、山中なのか谷筋なのは不明な水路施設近くまで丘陵の坂を上る。
車を停めて水路施設らしき辺りを見るに、南が大きく開けた谷筋になっていた。目的は不明だが大規模な造成工事が行われている。深い山中ではないが、目的地は険しい崖下の谷筋にある。急な崖を注意しながら谷筋に下ると、大谷池の東端が細長く南に延びる谷筋に水路橋といった風情で用水が姿を現していた。 谷筋から水路橋に這い上がり、東の出口は「瀬戸1号隧道」、西の入口に「瀬戸2号隧道」の名前を確認し、再び急な崖を這い上がり車に戻る。
○大谷池
大谷池の起源は古く、文明二年(1470 年)の頃、築かれたと伝わる。その後、江戸時代から大正にかけて5度に及ぶ改修・嵩上げ工事が行われている。
終戦直後の昭和21年(1946)、副堤防が決壊し大きな被害をもたらすも、住民の努力で復旧工事を行うなどの過程を経て、その後県営事業として堤防・洪水吐などを強化し、現在に至る。




萩原1号開水路
瀬戸隧道を繋ぐ水路橋から車に戻り、大谷池の南端を走る開水路脇に車を停めて、先ずは「瀬戸2号隧道」から抜け出た水路箇所に。場所は田圃の中を斜めに通っており、畦道を進み開渠に。丘陵出口には隧道の名前は無く、水路に「萩原1号開水路」と書かれていた。


萩原第1隧道出口>萩原第2開水路
「萩原1号開水路」から一瞬地中に潜り、大谷池の南端を走る開渠部に。隧道出口には「萩原第1隧道」とある。水路には「萩原第2開水路」と書かれていた。開渠は大谷池に沿って丘陵部に向かう。




大谷池分水工>萩原第2隧道入口
「萩原第2開水路」が丘陵に潜る手前に「大谷池分水工」。その先で開水路は丘陵に潜り、そこには「萩原第2隧道」とある。香川用水はこの辺りから西へと進むのだが、地形図を見るにこれから先には丘陵部を潜ることは無く、平地を終点の「姥ヶ懐池」へと進むようだ。
用水ルートをチェックするに、田圃や梨畑といった耕地を進むよう。ここからは車をどこかにデポし、用水ルート上を辿ろうと思う。
幸い、「萩原第3隧道入口」近くには「萩原寺」がある。そのお寺さまの駐車場にデポし、「姥ヶ懐池」へとピストンすることに。
○萩原寺
真言宗大覚寺派別格本山。堂々とした山門(仁王門)が迎える。室町期の管領、細川勝元の奉納と伝わる。境内には本堂、客殿など堂宇が建つ。菊の御紋章をつけた茅葺の客殿が印象的。
本尊は地蔵菩薩。平安初期の大同2年(807)、弘法大師が千手観音と地蔵菩薩を彫り、札所六十六番の雲辺寺には千手観音、当寺には地蔵菩薩を安置したと伝わる。
往昔は大寺であり、明応2年(1492年)の記録によれば、讃岐、伊予、阿波に280余寺の末寺を従える大寺であった、とのことである。 このお寺さまは「萩寺」として有名で、数百株の萩は県の自然記念物となっている。

萩原第3開水路
お寺さまを拝観し、大谷池の西側の道を「萩原第2開水路」方面に戻り、途中で西に折れる道に乗り換え、大きな駐車場といったスペースの南西端から上を道路が通る陸橋下を潜り、丘陵から姿を現す用水出口に向かう。
民家脇を成り行きで進むと、開水路に出合った。水路出口には隧道名は書かれておらず、丘陵と平地の堺を緩やかなカーブで進む水路には「萩原第3開水路」と書かれていた。開水路はほどなく暗渠となる。

日の出橋水路管
道なりに進むと送水管が川を跨ぐ。水路管横に架かる橋は「日の出橋」。「日の出橋水管橋」とも呼ばれるようだ。
それはともあれ、橋の上流に見える岩壁の間から流れ下りる水流の眺めが印象的。自然のままなのか、人工的に削られたものか不明だが、斜めに削られた天然の岩場の間を水が流れ落ちてくる。その岩場の上には水門らしきものが見え、水はそこから流れ出ているようである。



○井関池の「洪水吐け
これって一体なに?チェックすると「井関池」の「洪水吐け」のようである。池の起伏堰を越えた洪水吐水が水路に導かれ、その水が少ない場合は直進し水門先のトンネルに進み、吐水が多い場合は水門から岩場へと落とすようである。丁度時期が良かったのか、水門から岩盤を斜めに大量の水が流れ落ちていた。 直進しトンネルに進んだ水がどこに進むのか不明だが、どこかで丘陵を下り灌漑用水に使われるのではあろう。
なお、地図では井関池の「洪水吐け」から下流は柞田川、池の上流は「落合前田川」となっていた。
○ 井関池
現在は豊かな耕地が広がる観音寺市大野原町は、この池が築かれる前は不毛の地であった、と言う。寛永15年(1638)、讃岐一国を領していた生駒家の郡奉行。西嶋八兵衛が築造を開始するも、藩のお家騒動で藩の取り潰し。その影響で一時頓挫するも、その後、近江の豪商である平田与一左衛門が私財による銭持ち普請により正保元年(1644)に完成した。工事は難航を極めたとのことである。その後決壊を繰り返すも、改修を続け10年後には現在の井関池の原型が形造られた、と。

井関池揚水機場
橋を渡ると「井関揚水機場」があった。とは言いながら、どこから揚水するのだろう。普通に考えれば「柞田川」だろうとは思うのだが、高い場所にある「井関池」から落とした「柞田川」の水を揚水しなくても、「井関池」から直接落とせばいいかと思うのだが、それができない事情があるのだろうか。よくわからない。それとも、井関池の水を揚水しているのだろうか?




和田支線分水工
「井関池揚水機場」から暗渠となった道を進むと「和田支線分水工」がある。西部幹線水路の終点である「姥ヶ懐池」に向かう香川用水は、「和田支線」を進むとある。目には見えないがここで幹線水路が分岐するということだろう。






井関チェック工・井関分水工
地図上の用水路のラインは「和田分水工」の先に続いているので、道なりに進むと「井関チェック工」があった。また、その先には「井関分水工」がある。チェック工があるのなら周辺に用水の水位、分水量情報を親局に送る子局があるのだろうとはおもうのだが、見つけることはできなかった。
メモの段階であれこれチェックすると「井関池局」があるという。そこでは、和田支線流量,井関池,大谷池分水量,井関チェック水位,井関池,大谷池水位情報などを親局に送るとのこと。場所の特定はできなかった。

井関放水工
井関分水工のすぐ先の「井関放水工」があり、そこから進路を北西に大方向転換し開渠となって進む。先ほど「和田支線分水工」に出合ったが、用水路ラインからみれば、この地で香川用水は開渠とは別水路となっている。「井関分水工」辺りから地下送水管を一直線で北西に向かっているのだろうか。

県道8号に
香川西部幹線水路から分かれ、開渠となって進む灌漑用水路に沿って成り行きで進む。民家の間を進む水路を見遣りながら進むと県道8号に当たる。
県道8号から見返す大山神社と民家の間を流れる水路はなかなか美しい。 灌漑用水路は下流へと進むが、地下を進む用水幹線水路は、灌漑用水が暗渠となる地、県道8号から北西・北東の二手に道が分かれる辺りで西に折れる。

袂池からの水路に用水送水管が現れる
西に折れた水路ラインは民家の集まる道路脇を離れると田圃の中を突っ切る。特に水路施設らしきものも見当たらないが、極力水路ラインから離れないように田圃の畦道を進む。
田圃を貫いて来た水路ラインは、ほどなく千歳池の北西端辺りで二車線の道に当たり、その道に沿って進むと溜池から下る水路に送水鉄管が現れる。香川用水の送水管ではあろうか?
○千歳池
古くは千年池と称された。築造は延宝 3 年(1675 年)。井関池の補助池としてつくられた。その後、付近の池をまとめ、現在では井関池に次ぐ大きな溜池となっている。昭和 16 年(1941 年)に千歳池に併合された青葉池は寛永 6 年(1629 年)に西嶋八兵衛により築造され たもの。井関池より古い溜池であった、とか。

袂池分水工
水路に架かる送水鉄管が香川用水の鉄管かどうかはっきりしなかったのだが、その送水鉄管のすぐ先に袂池分水工があった。先ほどの送水鉄管は香川用水の送水鉄管が袂池から下る水路を越えるため、一瞬姿を現したものであった。
○袂池
袂池も西嶋八兵衛の手になるもの。貞享元年(1684)の築造。弘法大師がつくったと伝わる満濃池など香川県には14,000ほどの溜池があるとのことだが、その大部分が江戸時代に築造されたものと言う。この袂池もそのひとつである。

板橋分水工
袂池の北を西に向かって進む道路が、ゆるやかに南西カーブする辺りで水路ラインは二車線の車道から離れ、再び田圃の中を進む。地中を進み姿を現すことはない。
田圃を進んだ水路が農道にあたるところに「板橋分水工」があった。香川用水のオンコースを進んでいるようである。分水工の北には板橋池がある。
因みに、新設香川用水の流路もあるようで、そのルートは「井関放水工」から進む開渠の途中、二車線の車道が県道8号にT字に合わさる辺りから車道に沿って袂池の東にある千歳池の北をカーブし、旧水路が車道から分かれる先に進み、「板橋分水工」近くで北に折れ、「板橋分水工」の辺りで旧水路に合わさるようである。

道路に香川用水の案内
水路ラインは南西に緩やかにカーブする農道に沿って西に向かう。しばらく進むと川がある。送水管などが姿を現さないかと目を凝らすが、それらしき施設を見つけることができなかった。
川を迂回し、二車線の車道の一筋北の農道を西に進むと、水路ラインがその農道とクロスする箇所に「香川用水」の案内があった。案内といっても、水路管埋設の注意案内。「香川用水幹線水路が道路下に埋設されているため、工事の際には注意すること」、とあった。少なくとも香川用水水路のオンコースであることは確認できた。

苗代池分水工
用水路ラインは「野々池」の南を西に進む農道の少し南を西に向かい、「野々池」の西にある「鴨池」の築堤をグルリと回り込み、「鴨池」の西側にある「苗代池」の北東端に進む。その地点に「苗代池分水工」があった。
上で、新設香川用水の流路をメモしたが、「板橋分水工」からは「旧」水路と同じ水路ラインを進んだ新設香川用水は、道路に香川用水埋設注意の案内のあったあたりから南に折れ、二車線の道路を進み、「鴨池」と「苗代池」の間を抜けた道が農道とクロスする辺りで「旧」水路と同じラインとなる。

川を送水鉄管が渡る
水路は分水工から一直線に進み「吉田川」を渡る。そこには送水管が姿を現していた。川を渡った送水管は畑を抜け、丘陵脇に進む。
丘陵脇、川に合わさる水路の丘陵側に案内がある。香川用水の案内かと思い、畑の畔道から水路を越えて案内看板の所に向かうと。そこには院内貝塚の案内があった。




○院内貝塚
案内;豊浜町指定史跡 院内貝塚(国祐寺所有) この付近から貝殻や縄文土器が発掘された。当時は、姥ヶ懐池の谷から清流が流れて院内付近の海に注ぎ、近くの山には鹿や猪が生息したと思われる。このことからこのあたり一帯は、約数千年に渡って縄文人の生活の場であったものと推定される(豊浜町教育委員会)。




姥ヶ池からの送水管が下る
水路手前には送水管が下る。2本の送水管が見える。どちらか一本が築堤上の姥ヶ懐池に上る香川用水の送水管で、もう一本は「姥ヶ懐池」から耕地水路に送水する水管のようにも思える。
送水管に沿って這い上がれそうもないので、農道をグルッと廻り「姥ヶ懐池」の堤防に。


姥ヶ懐池
けっこう長かったがやっと香川用水西部幹線水路の最終地点である「姥ヶ懐池」に着いた。「姥ヶ懐池」は安土桃山時代の天正年間には既に利用されていた溜池と言う。広い讃岐平野が愛媛と接する辺り、海にせり出す大谷山から東に延びる台山山系の谷を塞いで造られた、とか。昭和になって改修工事が行われ現在に至る。
また、印象的な名前の由来は、その台山にあった獅子ヶ鼻城が、土佐の長曽我部元親の四国制覇の折に落城。幼き姫を懐に抱き入水した伝説に拠る。

堤防を緑の深い丘陵部へと進むと、堤防上に「姥ヶ懐池分水工」、「姥ヶ懐局」、そこから少し高いところに「姥ヶ懐池吐水槽」と書かれた水路施設があった。
○姥ヶ懐池分水工
農業用水路である香川用水西部幹線水路は、数多く点在する溜池を用水の調整池として活用している。「姥ヶ懐池」まで水路を辿る過程で、溜池脇に分水工があったのはそのためである。
溜池が灌漑用水源の調整池として重要な役割を果たすエビデンスのひとつとして、農業用水専用水路の流量は田植えなどが終わった後に最大流量が流れるとのこと。田植えの時期は灌漑調整池としての溜池からの水が主であり、揚水は、その時期が終わった後に溜池に水を送り補充する、といったことである。


○姥ヶ懐局
「姥ヶ懐池分水工」は説明するまでもないが、「姥ヶ懐局」は姥ヶ懐池、野々池分水流量、姥ヶ懐池の水位情報を親局に送る施設のようだ。







○姥ヶ懐池吐水槽
「姥ヶ懐池吐水槽」って、よくわからないが、香川用水西部幹線水路の最終地点に「姥ヶ懐池吐水槽」とあるので、香川用水西部幹線水路の水が「姥ヶ懐池」に流し込む施設かとも思う。


水路施設を見終え、道に戻るべく築堤を南端に戻ると、先ほど上った道の先にちょっとした広場があり、そこに香川用水の案内があった。
「香川用水のあらまし 香川用水は、高知県に建設された「早明浦ダム」によって、たくわえられた吉野川の水を、徳島県の「池田ダム」を通じて、香川県に導水するものです。
香川用水によって、毎年、香川県に2億4,700万トンの水が、導水される計画になっています。この水は、農業用水・上水道用水・工業用水として、香川県産業の発展、県民生活の向上のために大変役立っている大切なものです」とある。
また、吹き出しには、「姥ヶ懐池」付近の用水の概要が「香川県に導水された香川用水は、東西分水工(三豊市財田町)から西部幹線、和田支線(延長12.6km)を経由して、この姥ヶ懐池に入ります。
姥ヶ懐池に貯められた香川用水は、水田だけでなく、箕浦地区や周辺の果樹園にも使用されています。さらに、姥ヶ懐池は香川用水西部地域の末端にあるため、香川用水の調整池としての役目を果たすなど、香川用水にとって大変重要なため池です」と説明されていた。
○梨百年記念碑
以上の説明はそれほど目新しいことはないのだが、その説明の下に姥ヶ懐池から西に続く水路図が目にとまった。そこには、姥ヶ懐池>箕浦分水>国営箕浦畑かん>長尾池分水>県営箕浦畑かん>箕池、と水路が続く。 先ほどの送水管2本のうちのどちらかが、この図にある水路送水管だったのだろうか。それはともあれ、土地改良区が整備したこの支線水路により、豊浜町和田の梨やレタス、ブロッコリー栽培などの灌漑用水として活用されている。そういえば、吉田川を渡る水路管の東、梨畑が広がる一隅に「梨百年記念碑」があった。この地の豊南梨は明治42年(1909)栽培がはじまった、とか。

これで一応香川用水西部水路幹線を終点まで辿り終えた。途中隧道の番号が連番になっていなかったり、隧道入口はあるが出口が見つからなかったり、その逆があったりと、しっくりとしないことも多い。何度かメモしたが、一度疑問点をまとめて、用水担当者にお聞きしに行こうかとも思う。

それはともあれ、歩いてみてわかったのだが「香川用水って、用水路単独ではなく、14,000もあると言う「溜池」や河川と連動し、香川を潤している」との説明を実感。
溜池は単独に「溜池」としてある以上に、香川用水から分水され、調整池として機能している。上でもメモしたが、香川用水の流量の最大は、田植えの終わった7月にピークになる。6月の田植えの水は溜池からの水で灌漑し、田植えの終わった頃に、溜池に水を送るため用水分量が多くなる、と言う。
また、香川用水は県下の水系を貫き、県全体で179箇所あると言う香川用水の分水工で、必要に応じ、水系間で水の融通をしているようである。

香川は瀬戸内気候故に年間降水量が少ない上に、大河がない。川はあるが、地形が急傾斜のため、川に保水力はなく、昔から「讃岐には河原はあっても河はない」と言われるように表流水のない川である。ために、河川利水が困難であり、溜池が発達したわけであろうが、その溜池を調整池として組み込み、讃岐の地を潤しているのが香川用水であった。
 散歩をはじめる時は、香川用水と溜池が連携していることなど何も知らなかったのだが、散歩を終えて香川用水記念館に溜池の展示が多いことが、なんとなく理解できた。次の帰省時は香川用水東部幹線水路の高瀬支線を辿ろうかと思う。

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