東京の水を辿るの最近のブログ記事

偶々地図に見かけた流路跡、それも足立・葛飾区境を流れたと思われる古隅田川の流路に惹かれ散歩には出かけたものの、最下流部である隅田川との合流点辺りは、明治から大正にかけて開削された荒川放水路に流路は断たれており、迂回を余儀なくされた。
結構ウザったいな、などと思いながら歩いたのだが、水戸街道と出合ったり、単に刑務所とだけとしか知らなかった、小菅の東京拘置所のもつ幾層かの歴史のレイヤーに触れたりと、多くの発見があった。 それはいいのだが、本来の目的である足立・葛飾区境を辿る古隅田川筋のスタート地点と目した東京拘置所西側水路跡にたどり着くまで結構時間がかかり、また、あれこれと気になることも多くメモは東京拘置所西側到着地点で終えた。 今回は、この東京拘置所西側地点からスタートし、先は足立・葛飾区境を「一筆書き」で中川までの古隅田川をメモする。



本日のルート;
小菅万葉公園>水路跡を東京拘置所北側に>五反野親水緑道>新古川橋>足立区裏門堰排水場>大六天排水場>古隅田川緑道>鵜森橋>陸前橋>「小菅の風太郎」の案内>古隅田川緑道の案内>古川橋>白鷺公園>綾瀬駅>東綾瀬親水公園>水路跡は駅の高架下を通路で進む>自転車置き場>北野橋>袋橋>富士見橋>境田橋>開渠>親水公園風遊歩道>随喜稲荷>綾瀬二丁目ふれあい公園>常磐線手前・境四橋で暗渠となる>区境は常磐線の南の道>古隅田川(足立区・葛飾区)総合案内>北三谷三号橋・軍用金伝説の案内>北三谷橋・蒲原村宿駅伝説>葛西用水・曳舟川水路跡>田光り観音>隅田子育地蔵尊>玄恵井の碑>The Resident Tokyo East敷地内を進む>中川に

小菅万葉公園
東京拘置所の西側、古隅田川の流路跡が親水公園として整備されている。公園の中には四阿(あずまや)、小菅御殿や小菅銭座跡の案内。先回の散歩でもメモしたものだがここにも記しておく。

小菅銭座跡
「小菅御殿跡南側(現在の小菅小学校)には安政6年(1859)から慶応3年(1867)にかけて幕府の銭貨を鋳造した小菅銭座が置かれていました。文久3年(1863)の調べでは鋳造高70万7250貫文に達し、小菅で鋳造された銭は遠く、京都・大阪にも回送されました。
昔あった掘割は埋められてしまい姿を止めていませんが、今でも「銭座橋」と刻んだ石柱が残っている。銭を鋳造する鉄材は、この橋付近で荷揚げされ、裏門から銭座へ運び込まれた言うことです」。

小菅小学校とは先回の散歩で訪れた「小菅西小学校」のことだろう。また解説にある銭座橋は見落とした。「国土地理院地図(1896‐1909)」でチェックすると、小菅監獄を囲むように堀があり、そこから小菅西小学校に北東端あたりに水路が延びている。Google Street Viewで銭座橋跡も確認できた。「ぜんざ」橋と読むようだ。

小菅御殿跡
「小菅には江戸の初め関東郡代伊奈忠治の1万8千坪余りにもぼる広大な下屋敷がありました。元文元年(1736)八代将軍、吉宗の命により、その屋敷内に御殿が造営され、葛西方面の鷹狩りの際の休憩所として利用されました。御殿の廃止後は小菅籾蔵が置かれ、明治維新後に新しく設置された小菅県の県庁所在地となっています。
更に小菅籾蔵には小菅煉瓦製造所が建てられ、現在の東京拘置所の前身である小菅監獄に受け継がれていきます」。

「古隅田川(足立・葛飾区)総合案内」
また公園には「古隅田川(足立・葛飾区)総合案内」」があり、「古隅田川はかって利根川の流末の一つで、豊かな水量をもつ大河でありましたが、中川の灌漑事業等により水量を失い、やせていったものと考えられています。近代に至っては、雑排水路として利用されてきました。
現在は下水道の整備によって、排水路としての使命を終え、荒川と中川を結ぶプロムナードとして期待されています。
また、古隅田川は古来、下総国と武蔵国の境界であるとともに、人と人との出会いの場でもありました。
そこで、古隅田川に水と緑の景観を再生するため、「出会いの川 古隅田川」をテーマに失われた生物を呼び戻し、潤いのある人と人との交流と安らぎの場を創出したものです。
◆位置
当施設は中川から綾瀬川、そして荒川を結ぶ範囲の足立区と葛飾区の区境にほぼ重なっており、古隅田川は中川と綾瀬川を結び、裏門堰は荒川と綾瀬川を結んでいます。
また、古隅田川に隣接して5つの公園があり、「河添公園」「下河原公園」「は足立区、「袋橋公園」「白鷺公園」「小菅万葉公園」は葛飾区に位置しています。
◆延長
古隅田川 約5,450m、裏門堰 約1,100m」」といった説明とともに、この地から中川までの流路沿いに設けられた案内碑の位置も記されていた。どのような案内が登場するのかお楽しみではある。
◆万葉公園
ところで、ここがどうして「万葉公園」?チェックすると、万葉集巻14の東歌[3564]にある「古須気呂乃 宇良布久可是能  安騰須酒香 可奈之家児呂乎  於毛比須吾左牟(古須気(こすけ)ろの浦吹く風のあどすすか愛(かな)しけ子ろを思ひ過(す)ごさむ)にちなむとの記事が散見される。「小菅の浦に風が吹き通り過ぎるけれど、どうしたものだろう、あの愛しい娘への思いを通り過ぎる(忘れる)ことができようか(否、できない)」という歌であり、防人が別れの悲しみを詠ったものとされる。この古須気(こすけ)が小菅の地に比定され、万葉公園と名付けられたものとのこと。但し、この古須気(こすけ)が単に植物の菅との解説もある。ともあれ、万葉集の東歌よりの命名ではあろう。

水路跡を東京拘置所北側に
水路に沿って続くウッドデッキを北に向かう。塀というか柵の向こうに官舎が並ぶ。地図でチェックすると11の官舎が見えた。800名ほどの職員が働くと言う。拘置所北西端で水路は東に向かう。

五反野親水緑道
水路に沿って少し東に向かうと、北から如何にも親水公園といった道が合流する。現在の地図には東武スカイツリーライン線・五反野駅の少し南まで水路跡が見えるが、「国土地理院地図(1896‐1909)」には水路跡は見えない。田圃の悪水落しといったものだったのだろうか。昭和40年頃、「どぶ川」と呼ばれていた水路に蓋をしたようだ。いつの頃親水公園として整備されたか不詳。
下山国鉄総裁追憶碑
綾瀬川の水を使い造られたという親水公園を少し歩く。と、親水公園が常磐線の高架を潜る手前に「下山国鉄総裁追憶碑」。昭和24年(1949)、当時の国鉄総裁下山定則氏が謎の失踪を行い、翌日轢断死として発見された、所謂下山事件の発生現場(実際はここから150mほど東のようだが、常磐線改良工事、千代田線敷設工事にともないこの地に)。
下山事件は自殺・他殺(謀略説も含め)など議論があるも迷宮入り事件となっている。

新古川橋
五反野親水緑道から戻り、水路に架かる新古川橋を渡り拘置所の柵に沿って進む。少し東に進むと「一茶と小菅」という案内があった。
一茶と小菅
江戸時代の俳人小林一茶は足立や葛飾あたりの風物を詠んだ秀句を残しています。その中から小菅に由緒の深い句をとり出して紹介します。 (小菅籾倉)
遠水鶏(とおくいな) 小菅の御門 しまりけり
閉まろうとする小菅籾倉の御門を叩いているような水鶏の声が遠くから聞こえてくる。静かな夏の小菅の夕刻です。
(合歓の花)
古舟も そよそよ合歓の もようかな
一茶の深川紀行に「小菅川に入る。左右合歓の花盛りなり」とあり、続いて右の句が記されています。小菅川とは綾瀬川下流の別称です。歌川広重の江戸名所百景にも描かれ、江戸名所花暦にも、次のように紹介されています:
「合歓の木」綾瀬川・・・花又村(今の足立区花畑)の川筋、小菅御殿の辺り、いにしえはおほかりしが、いまはここかしこにあり。
現在の東京拘置所付近の綾瀬川辺りが合歓木の名所であったようです。綾瀬川の合歓木は江戸の人々にも花名所として知られていたようです。
初夏に小枝の先にうすい紅色の長い糸のような可憐な花をつけます。この花を訪ねて、風雅を愛する人々が訪れたことでしょう。
(葛西ばやし)
けいこ笛 田はことごとく 青みたり
今年も豊年、秋祭りももうすぐだ。葛西ばやしは葛飾地方に古くから伝わる郷土芸能のひとつです。かつて小菅に下屋敷のあった関東郡代・伊奈半十郎忠辰は、天下泰平、五穀豊穣、さらには一家の和合と非行防止、余暇善導を目的として、おおいに葛西ばやしを奨励しました。毎年各町村では葛西ばやし代表推薦会を催し、選ばれたものを代官自ら神田明神の将軍上覧祭りに参加を推薦したので、一層流行し、農業の余暇にお囃子を習う若者が続出したといわれます。
(蚊)
かつしかの 宿の藪蚊は かつえべし
蚊もまた葛飾の名物だったようです」とあった。

一茶はいつだったか歩いた足立区竹の塚の炎天寺で出合った。千住に住む句友を訪ねてこの辺りを往来したのであろう。有名な「やせ蛙負けるな一茶是にあり」との句を残す。因みに、最後の蚊の句の意味は、「葛飾の蚊は人間も飢えてるから蚊も困るだろ」の意味のようだ。

足立区裏門堰排水場
拘置所柵に沿って進むと、道はクランク状に曲がり、水路から離れる。道筋は足立区と葛飾区の境となっている。道を進み綾瀬川に出る。古隅田川の水路が綾瀬川に合わさる箇所を確認に少し北に戻る。そこには足立区裏門排水場があった。拘置所を囲む水路も「裏門堰親水公園」と呼ばれるようである。

大六天排水場
古隅田川の川筋は裏門堰排水場で流路を変え、南に向かう。その水路は、開削された綾瀬川に「呑み込まれ」ている。その綾瀬川に沿って南に下り、先ほど前を掠った大六天排水場に。
先ほどの裏門堰排水場もそうだが、通常排水機場と書くことが多いのだが、排水機場とは水門で堰止められて行き場の失った水路の水を排水する施設。大六天から続く古隅田川に溜まる水を綾瀬川にでも排水しているのだろうか。
大六天
第六天とも記すが、第六天とは仏教の世界観で言う6つのランクでは最下位である「欲界」、その欲界も6つに分かれるが、その中では最高ランクの「他化自在界」の魔王。望むことはすべて叶えられ、それを衆生にあまねく施し得る摩王である。
衆生の望みを叶えてくれる、「いい神」がランキングとして低いのは、衆生の望みを叶える=欲望を満たす、ということから、欲望から自由になることを最高の幸せとする仏教の世界観では評価は低い、ということだろう。因みに信長は自らを「第六天魔王」と称したようだ。
名前の由来は? チェックすると、裏門堰排水場の綾瀬川を越えたところに綾瀬神社がある。その摂社に「第六天」があるようだが、そことの関係だろうか?よくわからない。

古隅田川緑道
古隅田川緑道の少し北の通路を入ると水路にあたる。水量も結構あり、脇に木橋が整備され、親水公園として整備されている。古隅田川道と呼ばれるようである。

鵜森橋
緑道を歩き始めて初めて出合う車道との交差箇所に「鵜森橋」が架かる。車道部分と木が敷かれた人道橋を分かれて造られていた。

陸前橋
東に進んだ水路(下流から上流に向かうため、何となく「進む」って違和感あるのだが)が北に向かうところに2車線の車道。そこに陸前橋が架かる。先回のメモの水戸橋のところで水戸・佐倉道が通るとメモしたが、ここもその道筋だろう。
陸前橋としたのは、明治になって水戸街道を含めた宮城にまで通じる街道を「陸前浜街道」と命名した故。新政府としては幕府親藩の水戸藩の痕跡を残す「水戸」の名は使いたくなかったのだろう。

「小菅の風太郎」の案内
車道を少し北に進み、緑道に架かる木橋の手前に「小菅の風太郎」の案内: 「江戸時代、ここには水戸佐倉道という街道が通っていました。さる藩の大名行列が、この辺りで突然一陣の風が吹かれ街道沿いに植えられたもろこしが殿様の乗る馬に絡んだために、殿様が落馬してしまいました。
殿様はもろこしに八つ当たりする次第。畑の持ち主の源蔵は許しを請いましたが聞き入れられず、哀れ手打ちとなってしまいました。
何年か後、あの殿様一行が同じ場所でまた突風に吹かれました。すると、どこからともなく「風よ吹くな!殿様に殺されるよー」という怨めしげな声が聞こえ、一行は怯えて逃げ出したそうです。その後も風が吹くと「風よ吹くな!殿様に殺されるよー」という声がどこからとなく聞こえたそうです」とあった。何を言いたいのだろう?

古隅田川緑道の案内
橋を渡ったところに「古隅田川緑道」の案内。水路は北に向かい左に折れているが、「国土地理院地図(1896‐1909)」にはそこに水路は描かれていない。足立・葛飾区境からも外れている。曲がったところが白鷺公園とあるので、公園整備の際に排水用に造られたのだろうか。水路東端は一度綾瀬駅へと上った水路が再び南に下りてきた箇所でもある。

古川橋
少し北に古川橋。コンクリート橋の橋桁に鉄パイプの柵が備わる。何んの為?子供の転落防止?

白鷺公園
北に進み水路が東に曲がる角に白鷺公園。水路は東に曲がって水を溜めるが、古隅田川の流路は足立・葛飾区境に沿って北に進む。
水路を北に渡った角にステンレスに刻まれた「古隅田川と東京低地」の案内;
 ●古隅田川と東京低地
「古隅田川と東京低地: 東京低地は、関東諸地域の河川が集まり東京湾に注ぐ全国的にも屈指の河川集中地帯です。これらの河川によって上流から土砂の堆積作用が促され、海だったところを埋めていきます。
特に利根川は東京低地の形成に重要な役割を果しています。利根川が現在のように鬼怒川と合流し、その後千葉県銚子で太平洋に注ぐようになったのは、江戸時代初期に行われた改修のためです。
利根川は古くは足立・葛飾両区の間を流れる古隅田川、江戸川、中川が、その支流となり東京湾へ注いでいました。足立区と葛飾区が直線的ではなくて、なぜくねくねと曲がりくねっているのかと疑問をもたれる方も多いと思います。   実は古隅田川の流路が区境となっているからです。足立区と葛飾区の境は、歴史的に見ると古くは武蔵・下総国の境であり、それが現在まで受け継がれているのです。
古隅田川は足立区千住付近で入間川(私注;現在の隅田川)と合流し、現在の隅田川沿岸地域でデルタ状に分流しており、この付近に寺島・牛島などの島の付く地名が多いのは、その名残です。
現在のように古隅田川の川幅が狭くなってしまったのは、上流での流路の変化や利根川の改修工事によって次第に水量が減ってしまったせいです。今では、古代において古隅田川が国境をなした大河であったことをしのぶことはできませんが、安政江戸地震(1855年)が襲った際、亀有など古隅田川沿岸地域では液状化によって家屋、堰に被害が出たという記録が残っています。その原因は古隅田川が埋まってできた比較的新しい土地が形成されているためだそうです。   地震災害は困ったものですが、見方を変えれば古隅田川が大河であったことを裏つけているのです」とあった。

説明に「江戸川、中川がその支流となり」とあるが、中川は古利根川の東遷事業によって流路が変わった、旧流路跡利用して開削した人工の水路、江戸川も古利根川の流路変更に伴う水量調節のため上流部を人工的に開削し利根川と繋げた水路であり、「現在の江戸川、中川の流れる川筋」というのが正確かもしれない。
蓮昌寺板絵類
その傍には「蓮昌寺板絵類」の案内。「蓮昌寺には区指定文化財の木版彩色図(絵馬)が保存されています。記されている年代から、文久2年(1862)~昭和14年(1939)までの間に寄進されたことがわかります。
描かれている絵は、宗教関係の図が多く、そのほか、収穫図、能楽翁の図などがあり、蓮昌寺を中心とする信仰の形態を示す資料として重要です。 蓮昌寺は、正安2年(1300)創建と伝えられています」と。

蓮昌寺は公園から南に下ったところにある日蓮宗のお寺さま。元は道昌寺と称されたが、三代将軍家光が鷹狩の折、堂前池の蓮を愛で、蓮昌寺となった、とあった。

綾瀬駅
公園西端から綾瀬駅へと伸びる道路が足立・葛飾区境。公園から離れると水路の痕跡は全くない。綾瀬駅の高架を潜り、国土地理院地図(1896‐1909)」に記載される、北に弧を描いて進む水路跡を辿とうとするが、ビル群に阻まれトレースできず。
足立・葛飾区境
足立・葛飾区境は水路跡から離れ、駅の南側を東に進み、駅の北で弧を描いた水路が再び駅を南に下る地点で繋がり、そこから再び水路跡が区境となる。 それはいいとして、この区境が綾瀬駅の南側となった経緯など知りたいものだが、よくわからない。わかっているのは、元の綾瀬駅は現在より西、綾瀬一丁目37番にあったようだ。現在の位置に移ったのは昭和43年(1968)のこと、と言う。

東綾瀬親水公園
成り行きで歩いていると綾瀬駅の北口に繋がる広く細長い広場にあたる。水路跡のノイズを感じる広場に「東綾瀬公園」の案内があった;
「足立区は、かつて東京の米倉と言われるほど農業が盛んで、いたるところに水路が流れていました。ここ綾瀬地区一帯は稲作地域であり、都立東綾瀬公園のあたりには、上流から多くの水路が流れ込んでいました。
平成元年度、都立武道館の建設に合わせて、東綾瀬公園を大規模に改良することになり、東京都と足立区で協力してこれらの水路を親水公園として再生することになりました。
この水路は花畑川から流れる中居堀から分かれ、下流の八か村落し堀に合流します」とある。
あれこれチェックすると、花畑川から下った中居堀は東綾瀬公園の北にある「しょうぶ沼公園」を抜け、「中居堀せせらぎ公園」としてクランク状に東綾瀬公園と繋がり、そこで二手に分かれる。
東に分かれた水路は「東綾瀬温水プール」のある緑地を経て南に下り「八か村落とし親水緑道」に合流。西に分かれた水路は「東綾瀬せせらぎ水路」を経て東京武道館、そしてこの広い遊歩道に繋がる。その南は概略図ではっきりしないが、白鷺公園から東に延びる水路に繋がっているようだ。

先ほど、白鷺公園で、何故に旧隅田川筋でもないところに水路を通したのか、多分排水用であろう、とメモしたが、古隅田川筋を活用した東綾瀬公園の西側水路の排水を流しているように思える。
八ヶ村落堀・中居堀
八ヶ村落堀は江戸の頃、葛西用水から分水し綾瀬川に水を落とした長い灌漑用水路。中居堀は国土地理院地図(1896‐1909)」に花畑村から久右衛門新田、長左衛門新田へと田圃の中を下る水路が見えるがそれが中居堀だろうか。

水路跡は駅の高架下を通路で進む
ビルに消えた古隅田川の流路跡を追っかけると、線路高架にあたる。迂回するかと思ったのだが、そこには通路があり水路跡に沿って線路の南側に出る。

自転車置き場
南口に出た水路跡は、上述の如く再び足立・葛飾区境となる。駅南から水路跡はカーブで進むが、そこは自転車置き場となっている。当日自転車置き場は工事中であり、そこに残る橋跡は確認できなかった。
ちょっと気になったこと。自転車置き場は葛飾区。利用する駅は足立区。足立区民の生活基盤整備を葛飾区が担う?

北野橋
S字にカーブした自転車置き場の工事も消え、西から斜めに下る道と交差する箇所に「北野橋」の跡。少し東に綾瀬北野神社がある。

袋橋
次の通りとの交差箇所には「袋橋」。通りの西側に「袋橋公園」がある。自転車置き場はまだ続く。綾瀬駅の周囲には公園が多く整備されている。
先ほど東綾瀬公園を通ったとき、「北三谷土地区画整理組合之碑」があり、「昭和三十四年当時は二十数戸の農家と三十数戸の住家が点在する一集落で大部分は一望の農耕地で細い道が数條あるに過ぎなかった。時あたかも都心の膨張と住宅難の為、不健全無計画な不良住宅街となることを防ぐべく土地区画整理組合を設立し、健全な市街地を造成し公共の福祉の増進に寄与する 昭和四十一年」といったことが石碑に刻まれていたが、この区画整理事業は昭和34年(1959)~昭和44年(1969)に実施されている。この間に多くの公園も整備されたのだろうか。
北三谷土地区画整理組合
石碑には「当組合は旧北三谷町蒲原町普賢寺町の各一部を包含した約六十一万五千平方米の地域、とある。「国土地理院地図(1896‐1909)」には現在の東綾瀬公園辺りに北三谷、その北に蒲原、現在の綾瀬駅の南東に普賢寺の地名が載る。

富士見橋
次いでの通りとのクロス箇所には「富士見橋」。川の名は「古隅田川」ではなく、「元隅田川」となっていた。駅からいくつか橋が続いたが、「国土地理院1944-1954」までの地図には周囲は一面の田圃であり、道は見えない。「国土地理院1965-1968」には道が通る。上記区画整理事業は昭和34年(1959)~昭和44年(1969)されたとのことであるので、橋もその間に架橋されたのだろうか。

境田橋
その先は「境田橋」。自転車置き場はここで切れる。その先には三角に組まれたガードレールがあり、自転車置き場の左右に分かれた道はひとつに合わさり、住宅街を南に下る。

開渠
住宅の間の不自然に広い道を南に進むと堀にあたる。白鷺公園から東に延びた堀の東端となっている。
何故に旧隅田川筋でもないところに水路を通したのか、多分排水用であろう、とメモしたが、水路跡に残る橋跡を見るにつけ、古隅田川筋を暗渠として活用した東綾瀬公園の西側水路の排水を流している、との妄想に「確信」が出て来る。
これも綾瀬駅南の自転車置き場と同じであるが、足立区の区画整理事業で発生した排水処理を葛飾区が?駅も含めて、両区の間でなんらかの調整・取り決めでもあるのだろうか。ちょっと気になる。

親水公園風遊歩道
堀はここで切れるが、水路跡は親水公園風の遊歩道となって東に進み、都道314号にあたる。
都道314号
都道の案内に「川の手通り」とある。何故に?Wikipediaには「東京都道314号言問大谷田線(とうきょうとどう314ごう ことといおおやたせん)は、東京都台東区と足立区を結ぶ特例主要地方道。隅田川や荒川を横断し、浅草と綾瀬周辺を繋いでいる。
2013年に発足した「東京都通称道路名検討委員会」により、当初は「堀切通り」との通称が検討されたが、台東区側が「橋場通り以外の名称設定には強く反対する」と難色を示した事から、台東区域を通称の設定区間から除き、起点を白鬚橋西交差点に変更した上で「川の手通り」と名付けられた」とあった。あれこれ事情があるものだ。

随喜稲荷
都道を越えた水路筋に舗装道路に囲まれ、少々窮屈そうな小さな社が見える。「随喜稲荷」とあった。「随喜」とは仏教用語では「他人のなす善を見て、これに従い、喜びの心を生じること」を指すと言う。日本大百科全書には、「『法華経(ほけきょう)』では、この経を聞いて随喜し、教えを伝える功徳(くどく)を力説し、『大智度論(だいちどろん)』では、善を行った本人より、それを随喜した者のほうの功徳がまさっていると説いている。天台宗では滅罪の修行として懺悔(さんげ)する五悔(げ)の一つに数える」とある。
ささやかな境内には「富士」の姿が描かれた比較的新しそうな石碑があった。富士講と関係あるのだろうか。

綾瀬二丁目ふれあい公園
弧を描き北東に進む親水公園風の水路を辿ると、左手に綾瀬二丁目ふれあい公園がある辺りに四阿がありふたつ案内があった
出会いの川・古隅田川
石碑に刻まれた「古利根川流末関係図」とともに解説文:
「古隅田川流域は16世紀まで坂東太郎利根川の流末の一つで、広大な河川敷であったと考えられている。利根川が江戸に氾濫を及ぼすために、江戸時代初期から改修され、その本流を江戸川へ移し、さらに現在の流路に付け替えられて、鹿島灘へ注ぐようになった。
のち河道(古利根川)が中川として新宿(にいじゅく)地点から南流すると、それまで西流して隅田川へ注いでいた河道は干上がり、河底部が大きく蛇行して残ったが、これが古隅田川である。
かくして広大な川原は17世紀半ば頃までには、次々と新田が開かれ、新しい村々が誕生した。古隅田川がまだ大河であった頃は、武蔵国と下総国の国境で、そのため足立区側(淵江領)は武蔵一ノ宮の氷川神社を勧請して氏神とし、葛飾区側(葛西領)は下総一ノ宮の香取神社を氏神として祭り、その形態は今日まで及んでいる。
古隅田川南岸部に当たる亀有・小菅地区は利根川の運んだ土砂で自然堤防ができ、この砂州に中世期から村々が形成されていた。これらの古い村々からの文化が淵江領の新田へ寺院進出に伴って伝わっている。
淵江領の村々も、水戸街道に交通を依存していたから古隅田川に橋を架け葛西領に足を運んだ。古隅田川は、もと国境だったとはいえ、沿岸住民にとっては切っても切れない出会いの関係で結ばれていたのである」とあった。

この解説から、中川は乱流した古利根川の水路跡を利用して開いた人口の川であること、祭祀圏が古利根川を境にくっきり分かれていたことがわかる。ついでのことながら、鈴木理生さんの『幻の江戸百年(ちくまライブラリー)』には、この香取・氷川の二大祭祀圏に挟まれた元荒川の流域に80近い久伊豆神社が分布するとあり、久伊豆神社の由来、何故に二大祭祀圏の間に、など「謎」が多い社であることを思い出した。
また、「古利根川流末関係図」には、普賢寺村が綾瀬駅の上に記載されていた(「国土地理院地図(1896‐1909)」には綾瀬駅の南東にも普賢寺(村)と記されていた)。

上千葉遺蹟と普賢寺
「この遺蹟の発見は古く、寛永3年(1850)畑から壺とその中から古銭約1万5千枚が発掘されました。古銭は開元通宝・皇宋通宝・元豊通宝など中国からの輸入されたもので、壺は愛知県常滑で焼かれた13~14世紀の製品です。古銭出土地点周辺には「城口(錠口?)」「ギョウブ(刑部?)」「クラノ内」などの字名があることから付近に城館跡が存在していた可能性が高い地域です。
また、付近には治承4年(1180)の開基といわれる古城の跡に建立されたとする普賢寺が在ります。都史跡跡に指定されている鎌倉時代末期頃の宝篋印塔三基があり、葛西氏ゆかりのものと伝えられています。ここには、古隅田川を巡る歴史年表も印されている」とある。

普賢寺は南東の堀切三丁目に見える。また上千葉遺跡は中道公園の東側一帯(西亀有1丁目付近)のようだ。お寺さまの縁起より寺領が寄進された、とあり、その寺領が綾瀬駅周辺に分かれてあったということだろう。

常磐線手前・境四橋で暗渠となる

旭橋、境三橋と親水路風の水路を進む。河添公園手前に南新橋。住宅街を進んだ水路はここから道が狭くなり常磐線手前の道路と交差する箇所で暗渠となる。





境四橋の疑似親柱を境に暗渠となった水路は、常磐線を潜り、東京都立聾学校に沿って弧を描いて進む。
宿添橋、西隅田橋と暗渠は続き常磐線高架手前に隅田橋の疑似親柱が立つ。

西隅田橋の先にある下河原公園に、既に何度か目にした「古隅田川を巡る歴史」の案内があったが、ここでは割愛(重複するので「割愛」。と書いたのだが、省略するのに「愛」が必要?気になってチェックすると、元は「愛を断ち切る」という仏教用語。大切なものを思い切って省く、というのが本義のようである)。

区境は常磐線の南の道
足立・葛飾区境は常磐線を潜り、線路に沿って東に通る道となっている。とりあえず、区境を歩いたのだが、特に水路跡らしき痕跡は何もみつからなかった。道を進み都道463号と交差する地点で再び常磐線高架を北に潜り、都道463号の東から北に上る水路路跡に戻る。

古隅田川(足立区・葛飾区)総合案内
緑に囲まれたささやかな水路を一筋北に進むと東隅田橋傍に「古隅田川(足立区・葛飾区)総合案内」があった。万葉公園にあったものと同じであり記載は省略するが、プレートに刻まれた水路跡を見ると、常磐線の高架南が足立・葛飾の区境とはなっているが、水路は常磐線高架の北を通っていた。

北三谷三号橋・軍用金伝説の案内
水も切れた水路跡を郷乃二之橋、郷乃一之橋と北へと進み、水路跡がその流路を東に向ける辺り,北三谷三号橋傍に
「軍用金伝説」案内のプレートがある。
「古代から古隅田川は、武蔵国と下総国との国境をなすほどの大河でした。船の行き来も盛んで、人やものを運ぶ大切な交通手段でもありました。
この辺りは大きく曲がっているところから大曲と呼ばれ舟の舵の舵取りの難しいところとされていました。慶長18年(1613)2月の暴風の時に、この難所で1隻の船が沈没してしまいました。いつのまにか「沈没した船に軍用金が積んであった」という噂が広まり、明治に至るまで、軍用金探しが行われたそうです。しかし、発見されることなく近年の区画整理などのため、今ではその正確な場所もわからなくなってしまったそうです」と。

北三谷橋・蒲原村宿駅伝説
東に進む水路跡を法蔵寺橋、北稲荷橋と進むと、流路は北東に向かって上り北三谷二号橋、北三谷一号橋、北三谷橋へと進む。北三谷橋の先にある大きな通りは葛西用水の南端部曳舟川跡の道路である。
その通り手前に「蒲原村宿駅伝説」の案内;
「寛政6年(1794)出版の「四神地名録」に、「この土地の人のいい伝えに、古隅田川の北に添った蒲原村は、むかしの駅で今でも宿という地名が残っている。在原の業平が東下りした時「名にしおばいざこととはん都鳥我思ふ人は有りやなしや」と詠んだのは、この辺りではないか。今、隅田川と称している地は240~50年前は海だったから川があるはずがないという」とある。
その他の地誌にも、蒲原が古い駅路の宿だったかどうかを記しているものが多い。このため、治承4年(1180)源氏の再起を賭けて伊豆の挙兵、敗れて安房国に逃れた頼朝が再び鎌倉をめざして下総国から武蔵国に入った時、蒲原村に宿陣したという説が地元に根強く伝わっている」とある。

「今、隅田川と称している地は240~50年前は海だったから川があるはずがない」とは、墨田区の言問橋が在原業平の詠んだ上述の歌に由来するとの説を暗に否定しているのだろう。実際、言問橋にしても、業平橋にしても在原業平由来との説は定説とはなっていない。
ついでのことながら東武野田線・豊春駅近くに、現在は逆川となって残る古隅田川があるが、そこには業平橋とか、上記都鳥伝説が残っていたことを想いだした。

葛西用水・曳舟川水路跡
「北三谷橋・蒲原村宿駅伝説 」の東を南北に通る道路は葛西用水・曳舟川の水路筋である。いつだったかこの水路筋を歩いたことがある。利根川から取水し京成押上駅付近で北十間川に落ちる用水の歴史的経緯、その流路をまとめておく。
◆葛西用水
利根川東遷事業は新田開発をもその目的のひとつとしていた。東遷、また荒川の西遷事業により源頭部を失った旧利根川の廃路跡の湿地を新田開発とするわけである。他の多くの用水路と同じく、葛西用水もそのひとつである。
現在では行田市下中条の利根大堰(昭和43年;1968)で取水され、東京都葛飾区まで延びる大用水であるが、これははじめから計画されたものではなく、新田開発が進むにつれ、不足する水源を、上流へと求めた結果として誕生したものである。
葛西用水は慶長年間(1596~1610年)の亀有溜井、瓦曽根溜井の築造をもってその始まりとする。亀有溜井は綾瀬川の水を溜め葛西領の用水源となった。葛西から遠く離れた地で取水されるこの用水が葛西用水と呼ばれた所以であろう。 また、元荒川を堰止め瓦曽根溜井(越谷市)が造られ、そこから用水が引かれた。
寛永6(1629)年には、荒川の西遷が完了。しかし、その結果、元荒川、 綾瀬川の水量が激減し、瓦曽根溜井、亀有溜井が枯渇することになる。その対応として、庄内領中島(現幸手市西宿)で江戸川から取水し中島用水を開削し、大落古利根川に落とし、さらにその下流に松伏溜井を造り、その水を開削した逆川をへて瓦曽根溜井に送った、と(注;中島用水の記録が見つからず、流路ははっきりしないが、上記江戸川取水口から春日部市八丁目まで開削され大落古利根川に落とした、とのこと)。寛永8年(1631)には水不足に苦しむ亀有溜井へと水を通すべく葛西井堀(東京葛西用水)が開削し、瓦曽根溜井と亀有溜井が繋がった。
承応3(1654)年、利根川東遷が完了。万治3(1660)年、大落古利根川の上流域に、幸手領用水が開削される。利根川の本川俣村(現・羽生市)に圦樋を築き、用水路を開削し、川口村(現・加須市)に川口溜井を設け、その下流に琵琶溜井を築造。幸手領用水の余水を大落古利根川に落とし、下流の松伏溜井に水を送る。ここに、利根川から亀有溜井までの用水路はつながり、葛西用水の原型が出来上がった。
宝永元(1704)年、洪水により中島用水が埋没。このため享保4(1707)年には、幸手領用水を強化し、水源を江戸川に求める中島用水から松伏溜井への導水は廃止され、利根川の上川俣(現・羽生市)に切り替えた。ここに上川俣圦樋から亀有溜井 に至る葛西用水が成立することになる。
享保14(1729)年には亀有溜井を廃止し、小合溜井(葛飾区の水元公園辺り)が築造された。これにより、従来の松伏溜井から逆川、瓦曽根溜井を経由して葛西堀井(東京葛西用水;西葛西用水)を下る系統に加え、松伏溜井から二郷半領本田用水(東葛西用水)、小合溜井を経て東葛西領上下之割用水へと至る系統が加わることになる。また、宝暦4(1754)年に 上川俣の取水地点が廃止され、本川俣からの取水に宝暦4(1754)年に 上川俣の取水地点が廃止され、本川俣からの取水に戻った。
現在の流路;昔とそれほど大きくは異なっていないと思うのだが、その流路は武蔵大橋傍、行田市下中条で利根川の水をとり、埼玉用水路として利根川右岸を進み、かつての取水口である本川俣より南東に下り、東北自動車道加須ICの少し東、加須市南篠崎で会の川と合流(合流するが別水路で進み、会の川は中川に伏越で落ちる)。
南東に下る葛西用水は久喜市吉羽で大落古利根川に合流。そこから大落古利根川の川筋跡を下り、越谷市大吉の松伏溜井で大落古利根川を離れ、人工的に開削した逆川を抜け元荒川筋に水を落とし、越谷市西方の瓦曽根溜井で元荒川を離れ、葛西堀井(東京葛西用水)を亀有まで南下し、舟曳通りを流れた舟曳川筋を下り、京成押上駅付近で北十間川に合流する。
また、松伏溜井から二郷半領(吉川市・三郷市)として中川の東を小合溜井(水元公園あたり)まで下る流れもある。小合溜井からは「上下之割用水」として南西に下り、葛飾区新宿辺りで「小岩用水」を分ける。本流はそこから南に下り、曲金(現在の高砂辺り)で東井堀用水を分け、本流は更に南に下り現在の細田橋のあたりで西井堀用水と仲井堀用水を分ける。西井堀用水はそこから南東に一直線に下り、逆井の渡しの辺りで中川に合流する。これがおおよその流路であろう。

田光り観音
亀有駅の西に下る葛西用水・曳舟川筋の道路を越えると、水路跡は狭い民家の間を進む。水路跡の道はカラーの敷石風に造られている。2ブロックほど進みカラー舗装も切れた水路跡の道に「田光観音」の案内。
プレートには、「田光観音は足立区中川三丁目西光院にあり、自然木の中央に、約1mの長さで浮彫りにされた聖観音像で12年に1回牛年に大法要が営まれている。
今から約百数十年前、長右衛門新田5丁目耕地(現大谷田三丁目)で、作男が馬を使って耕作していると、馬がある場所まで来て必ず止まってしまう。不思議に思ってそのところを掘り返すと、中から大きな自然木がでて来た。その時は、気もとめず畦道によけて家に帰った。
それから毎晩、作男の夢枕に観音様が立ち、その姿が自然木に似ていることから、田に行ってこれを洗ってみると、夢の観音様と同じであった。驚いてその旨を主人に告げ西光院に安置したと言う。この木像は足立区登録有形民俗文化財である」とあった。

隅田子育地蔵尊の案内
環七を越えた水路跡は、民家の間の誠に狭い道筋を進むことになる。カラー舗装の道を数ブロック進むと「隅田子育地蔵尊」の案内。
「元禄年間、17世紀から18世紀に移ると、村々もうようやく豊になったとみえ、地蔵尊などの石造仏が村内各所に建てられるようになった。特に、村の境や追分には、悪疫の侵入防除、悪例退散などを目的に界地蔵が道祖神代わりに建てられた。
中川三丁目1の古隅田川岸にまつられた三体の地蔵尊は、足立・葛飾の村境であり、旧大谷田村道の追分三角地帯に建てられた典型的な界地蔵である。中央の大きな地蔵は「元禄元戌(1688)11月」の紀年が読み取れ、今日まで毎年8月24日に地域の子供を集めて子育地蔵祭りが催されている」とある。

水路跡の道は区境に沿って南に向かうが、子育地蔵尊の祠は、その水路筋の一筋東の通りに建つ(中川3-1)

玄恵井の碑
水路跡の道は、東京電力亀有変電所(中川3丁目)手前の民家の間を一直線に南に下る。常磐線の高架を潜り、更に細くなった道を進むと前が開け、Arioと書かれた大きなショッピングセンターが建つ。
その手前の広場に「玄恵井の碑」の案内。
「昔、亀有方面の井戸は水質が悪く「砂こし」をしなくては飲むことができないので村人は困っていました。このことを憂いた幕府鳥見役人水谷又助は、山崎玄恵という老人の助力を得、鳥見屋敷内に井戸を掘りました。幸いにも清水が井戸を満たしたので、村人はたいそう喜び、玄恵に感謝したそうです。 この碑は文化?年(1813)に、この清水が湧き出た日を記念して村人たちによって香取神社に建てられたもので、碑文は江戸時代の書史学者屋代弘賢によるものです」とある。

香取神社は広場のすぐ西側にある。案内の箇所には碑文は見当たらないが、香取神社境内に建つようである。

The Resident Tokyo East敷地内を進む
ショッピングセンターArioの脇を南に下った区境・水路跡は、ほどなく流路を南東に変えThe Resident Tokyo Eastと呼ばれるマンション群を南北に分けて進む。敷地を抜けられるかどうか不安であったが、ママ進み敷地を出る

中川に
水路跡はそのまま南東に進み、ほどなく中川の堤にあたる。取水口跡などないものかと分流点辺りを彷徨うが、折あしく分流点辺りは工事中で、それらしき痕跡を見つけることはできなかった。
小菅から辿った古隅田川水路跡散歩もこれでお終い。利根川から下る旧利根川流路跡散歩は現時点でやっと久喜辺りまで進んだばかり。まだ先は長い。この地に繋がるのはいつのことだろう。
先日来、旧利根川流路を辿ろうとしている。手始めに、利根川東遷事業のはじまりともなった会の川・川俣締切跡を下ったのだが、そのきっかけとなったのがこの古隅田川散歩である。

国土地理院今昔マップ首都1896-1906
とある週末、これといって歩きたいところが思い浮かばない。で、地図を眺めていると気になる箇所が目についた。足立区と葛飾区の区境が不自然に入り組んでいるのだ。いつだったか日暮里から三ノ輪そして隅田川に架かる白鬚橋まで、音無川跡を歩いたことがあるのだが、その川筋跡は荒川区と台東区の境となっていた。
とすれば、この足立区と葛飾区の区境の不自然、というか、川筋をもとにすれば自然と言うべきではあろうが、ともあれ、両区境も川筋では?とチェックすると、それは古隅田川の流路跡であった。
「流路跡」というフレーズには故なく惹かれる我が身である。それではと古隅田川跡を辿ったわけだが、散歩の途中での案内で、古隅田川は旧利根川流路であることを知った。正確に言えば、知ったというか、忘れていたのである。

古隅田川に出合ったのはこれが最初ではない。これもいつだったか春日部市の東武伊勢崎線・豊春駅近くで出合ったことがある。現在春日部市南平野辺りから北東に進み、春日部市梅田辺りで大落古利根川に合流する古隅田川は、旧利根川の流路であり、現在は逆川として北東に進むこの古隅田川の流れは、かつては逆方向、つまりは、梅田で大落古利根川から別れ、現在の流れと逆方向、南西に下って元荒川に注いでいた。
その流れは、下りて中川筋との合流を経て、常磐線・亀有の南東辺りから足立区・葛飾区の境を進み、隅田川に注いていた、といったことをメモしていたのだが、すっかり忘れてしまっていたのだ。

 国土地理院 今昔マップ 首都1917-24(荒川放水路工事中時期)
この古隅田川の流れは、旧利根川が江戸に下る南端部であった。で、古隅田川散歩をしながら、どうせのことなら旧利根川の流路を北から下り、古隅田川と「繋げよう」と前述会の川・川俣締切跡から下りはじめたのだが、なにせ遠い。会の川筋を歩いただけで、現在「小休止」中。
これでは古隅田川に届くまでに結構時間がかかりそう。どうもそれまで古隅田川散歩の記憶を保ち切れそうもない、といった齢故の記憶力の事情もあり、旧利根川流路散歩の途中ではあるが、とりあえず古隅田川散歩のメモを挟み込むことにした。

●古隅田川の隅田川合流地点は?
足立区・葛飾区の境を画する古隅田川の流路を辿る前に、古隅田川が隅田川に合流する辺りを歩こうと、あれこれチェックする。水神社とも称される隅田川神社の北辺りで隅田川に合流した、といった記事が多い。国土地理院地図(1896‐1909)にも「水神社」の表示があり、その北で水路が隅田川から切れ込んでいる。
とはいうものの、その切れ込み箇所に繋がる明確な水路跡はなにもない。古隅田川跡らしき水路はすべて、かつての綾瀬川に注ぎ、そこで途切れているように見える。
現在の綾瀬川は葛飾区堀切4丁目にある小谷野神社あたりから、人工的に開削された荒川放水路に沿って南東へと下っているが、荒川放水路(明治44年(1911)着工、大正13年(1924)完成)が開削される以前の綾瀬川は、真っすぐ南下し、現在京成・堀切駅脇で、荒川放水路と隅田川を繋ぐ「旧綾瀬川第二運河」の通る水路筋を下り墨田川に合流している。
国土地理院地図(1896‐1909)の地図には、明治20年(1877)創業の鐘ヶ淵紡績が記されている。工場は現在の墨堤通りの東西に分かれて建ち、「思い込み」で見れば工場の間の通りを辿れば、水神社の水路切れ込み箇所に届くのだが、それが水路跡との確証はない。

古隅田川散歩のルートを想うに、水神様から歩きはじめてもいいのだが、隅田川神社や木母寺辺りは以前歩いたこともあり、結局古隅田川流路を辿る散歩は「国土地理院地図(1896‐1909)」に水路跡が記された、旧綾瀬川に古隅田川の水路が合わさる近く、東武スカイツリーライン線・堀切駅北の堀切橋辺りを古い隅田川の最下流点とし、そこから流路跡を遡ることにする。



本日のルート;
堀切橋へ
千代田線・北千住駅>柳原寺前の通りを荒川放水路堤防に>東武スカイツリーライン線と交差>京成本線と交差>千住汐入大橋>墨堤通り>綾瀬橋>東武スカイツリーライナー線・堀切駅>堀切橋
正覚寺に
瀬川>小谷野神社>正覚寺
■東京拘置所西側向かう
小菅神社>第六天排水機場>水戸橋>八幡社>小菅西小学校>東京拘置所>差入店>拘置所柵に沿って案内板が立つ>小菅稲荷神社>東京拘置所前交差点>古隅田川の水路


■堀切橋へ■
千代田線・北千住駅
地図で東武スカイツリーライン線・堀切駅辺りへと続く水路跡を想う。駅の東、柳原2丁目の柳原寺前に、如何にも水路後といった、弧を描いて進む通りがある。これが古隅田川跡であろうと、成り行きで柳原寺に向かう。

「国土地理院地図(1896‐1909)」に見る古隅田川
メモの段階で古隅田川跡をチェックする:かつての綾瀬川に注ぐ古隅田川の流路を「国土地理院地図(1896‐1909)」でチェックすると、常磐線・亀有駅の南東から足立区・葛飾区の境を「小菅監獄」まで進んできた流れは、小菅監獄の西側を南下し、後に荒川放水路として開削される川筋の中央部まで進む。そこから現在の首都高速環状線のルートに沿って、というか、おなじルートを小菅ジャンクション手前まで東に蛇行し、ジャンクション手前で弧を描いて西に向かい、柳原2丁目に進む。その川筋は、如何にも水路跡といったカーブを描く柳原寺前の通りのようである。
地図には後に開削される荒川放水路のど真ん中を下るもの、柳原寺前の通りの一筋東を、南西に向かって下るものなどいくつもの水路跡が見られるが、なんとなく柳原寺前の通りが古隅田川跡だろうと思い込む。

柳原寺前の通りを荒川放水路堤防に
如何にも水路跡といった風情で弧を描く、柳原寺前の通りを荒川放水路に向かう。堤防に立ち、宅地の中を進む水路跡の通りや荒川放水路の対岸の荒川小菅緑地公園を眺める。
iphoneにブックマークしている「今昔マップ」の「国土地理院地図(1896‐1909)」でチェックすると、古隅田川は弧を描いて堤防に達した後、荒川小菅緑地公園まで東に向かい、小菅水再生センター辺りで半円を描きながら正覚寺へと向かい、首都高速小菅ジャンクション手前で流路を変え、高速道路のルートに沿って折り返し、再び荒川放水路の真ん中まで戻り、そこから小菅監獄の西塀に沿って北に向かっている。

東武スカイツリーライン線と交差
堤防から通りに戻り、東武スカイツリーライン線・堀切駅へと向かう。弧を描く道を進むと京成スカイツリーライン線と交差。アンダーパスが異常に低い。桁下高さ1.7mとある。
東武スカイツリーラインとはかつての東武伊勢崎線。東京スカイツリーの開業に伴い、スカイツリーラインと改称されたようだ。それはそれでいいのだが、「国土地理院地図(1896‐1909)」には東武線と記載されている。東武伊勢崎線の開業が明治32年(1899)と言うから、「国土地理院地図(1896‐1909)」とはいいながら、この地図は明治32年(1899)以降ということになる。

京成本線とクロス
東武線を越えると今度は京成線のアンダーパスを潜る。京成線の手前に小祠があり、その脇に橋の親柱を飾る擬宝珠が置かれている。「国土地理院地図(1896‐1909)」には京成本線は描かれていない。京成電鉄の第一期開業区間である押上・柴又間の開業は明治45年(1912)であるから当然であるが、「国土地理院地図(1896‐1909)」を見ると千住町から東に向かった道が、この辺りで柳原に向かって北に上るが、その曲がり角で道が水路と交差している。この擬宝珠は、そこに架かっていた橋のものだろうか。
なお、水路は緩い南向きの弧を描いて東に進み、小菅水再生センター辺りで古隅田川から分岐し南に下る水路と堀切橋辺りで合わさり、少し下って旧綾瀬川に合流しているように見える。
堀切
堀切の地名の由来は、葛西一族の館を囲む濠からとのこと。とはいえ、館跡も濠跡も見つかってはいないようだ。

千住汐入大橋
京成線・堀切駅に向かう途中、ちょっと寄り道して隅田川を見に南に下り千住汐入大橋に。護岸整備された対岸の汐入公園の向こうに東京スカイツリーが屹立している。
汐入
いつだったか南千住から汐入地区を歩いたことがある。そのときの「汐入」のメモ;戦国期の南千住のあたりの地図を眺めてみると、浅草から橋場・石浜に隅田川(当時は、入間川)に沿って砂州・微高地がある。同様に、現在の千住大橋・素盞雄(スサノオ)神社近辺にも砂州が認められる。が、その内側は千住大橋から三ノ輪を結ぶ線より東は入り江状態。その線より西は三河島のあたりまでは泥湿地帯となっている。源頼朝が浅草・石場から王子へと平家討伐軍を進めるに際し、小船数千を並べて浮橋とした、というのも大いにうなずける。 江戸以前、南千住の一帯は、入間川(隅田川)沿いに堆積した砂州を除き、ほとんどが水の中・湿地帯であった、ということだ。汐入と称される所以である。

墨堤通り
千住汐入大橋から隅田川左岸を進み、隅田川と荒川放水路を繋ぐ旧綾瀬川第二運河手前、マンションとタクシー会社(東京交通自動車〈株〉)を都道461号に抜ける。マンション敷地で通り抜けできないかと思ったのだが、そこは地図には「墨堤通り」表記されていた。
墨堤通り
墨田区吾妻橋から足立区千住桜木まで、隅田川に沿って走る。吾妻橋東詰めから隅田川の堤を通り、向島5丁目辺りで都道461号(二本並行して走る)を京成線・関屋に。京成関屋から隅田川の流路と並行に進み、荒川に架かる西新井橋手前の千住桜木町に至る。
墨堤通りという以上、往昔は隅田川(荒川とも入間川とも)の土手を通る道筋ではあったのだろう。向島5丁目で二本走る都道461号の内側の道筋、そしてこのマンション脇を進む道筋は川に面している。更には京成線・関屋から先の道筋は、いつだったか歩いた掃部堤の道筋のようだ。
掃部堤
掃部堤」は隅田川、と言うか、昔の荒川・入間川の堤防。名前の由来は、この堤を築いた石出掃部介(かもんのすけ)、より。
石部掃部介は小田原北条の遺臣。江戸時代にこの地に移り、新田を開発。場所は、元の隅田川・荒川の堤であった熊谷堤(旧区役所通りにあたる:掃部堤の内側を斜めに通る)と掃部堤に囲まれた一帯。掃部堤もその新田・掃部新田を水害から防ぐため築かれたものであろう。
往時は高さ4mもあったと言われる掃部堤であるが、削平され現在は墨堤通りとなっている。
墨堤の桜
墨堤といえば桜が有名である。墨堤の桜は四代将軍家斉が常陸国・桜川の桜を移植したのがはじまり。その後八代将軍吉宗が100本の桜を植える。当時は桜並木の桜を愛でるというより、屋敷に咲く桜木を愛でるのが普通であり、当時としては画期的なことであったようだ。
場所は水神社のあたり。現在のように三囲神社あたりまで桜並木ができたのは明治の初期、1880年代になってからのこと。明治も中頃となると、桜並木も荒れていたようだが、大倉財閥の当主・大倉喜八郎などの尽力により、現在に至る、と。明治の頃まではヤマザクラ、現在はソメイヨシノが大半を占める、とか。

綾瀬橋
旧綾瀬川第二運河に架かる綾瀬橋を渡る。散歩の当日は何故に「綾瀬橋」?などと思いながら首都高速6号向島線の高架に覆われた橋を渡ったのだが、前述の如く荒川放水路が開削される以前の旧綾瀬川が隅田川に注ぐ水路であるとメモの段階でわかり、納得。

東武スカイツリーライナー線・堀切駅
綾瀬橋を渡り運河左岸を荒川放水路方面に向かう。荒川放水路と運河を遮る隅田水門手前の跨線橋を渡り運河右岸に戻り、東武スカイツリーライナー線を跨ぐ人道橋を渡り堀切駅に。

堀切橋
堀切駅のすぐ前の堤防を北に進み、荒川放水路に架かる堀切橋を渡る。「国土地理院地図(1896‐1909)」を見ると、古隅田川が旧綾瀬川の水路に合流している。地図でトレースできる古隅田川の最下流部。やっと想定した散歩始点にたどり着いた。
次の目的地は荒川放水路を渡った先にある正覚寺。「国土地理院地図(1896‐1909)」にある古綾瀬川の川筋にお寺のマークがある。


■正覚寺に■

綾瀬川
橋を渡り、荒川放水路に沿って下る綾瀬川に架かる橋を渡る。この水路は荒川放水路開削に伴い、下流部を切られた旧綾瀬川を荒川放水路に沿って新たに開削した水路ではあろう。ただ、その水路は「国土地理院地図(1896‐1909)」に古綾瀬川と記される水路と重なる。古綾瀬川?ちょっと混乱。
いつだったか草加を歩いたとき、古綾瀬川を歩き、そのとき、「中・下流域では流路定まることなし、といった古綾瀬川ではあるが、それでもその流路としては、一筋は足立区花畑あたりから東に向かい松戸の近くで江戸川に注ぎ、もうひとすじは水元公園あたりから中川筋(といっても中川筋開削以前の古利根川)に下っていた。その流路を江戸の頃、東武スカイツリーライン線・新田駅の少し北、蒲生大橋あたりから小菅まで直線化工事を行った」とメモした。
「国土地理院地図(1896‐1909)」には直線化工事を行い隅田川に注ぐ本流水路を「綾瀬川」、隅田川合流点手前で本流から分岐し、下って中川に合わさる水路を、何故かは知らねど、「古綾瀬川」としている。何故だろう?疑問は解けず。

小谷野神社
綾瀬川に沿って水戸橋の西にある正覚寺へと向かう。北に向かうと綾瀬川堤防下を通る道路わきに小谷野神社がある。境内にあった由来を刻む石碑に拠れば、元は当地、小谷野村にあった稲荷社。元禄10年(1697)には既に存していたことが記録に残る。地名が堀切となるに伴い、小谷野の旧名を残さんと昭和45年(1970)に小谷野神社と改称された。
境内入口に祀られる三峯、水天宮は元々綾瀬川が隅田川に合わさる箇所にあったもの。荒川放水路開削に伴い、三峰社は現堀切橋際に、水天宮は隅田川水門際に移され、後さらにこの地に遷座した。
葛飾区のHPに拠れば、小谷野は奥州平泉の豪族小谷野氏の出身地故といわれるが、定かではない。小谷野氏の出自云々はともあれ、この地からは室町時代の板碑が所在しており、古くから人が住んでいたようである。

正覚寺
綾瀬川を覆う中央環状線の高架を見遣りながら、高速が南北に分かれる小菅ジャンクションで新水戸橋を渡り綾瀬川右岸に向かう。東京拘置所西側を南に下ってきた古隅田川が現在荒川放水路となっている水路の真ん中で東に折れ、中央環状線に沿って綾瀬川の水路辺手前まで進んだ後、南西に弧を描きこのお寺様の辺りを通り、そこから先は直線に進み、先ほど辿った荒川放水路右岸・柳原の土手に向かう。
「国土地理院地図(1896‐1909)」に拠れば、弧を描く水路のほとんどが現在の小菅水再生センターの敷地内を進むが、再生センター東の正覚寺は古隅田川水路傍に表示されている。水路跡が残るとも思えないが、とりあえずお寺様を訪ねる。
境内に入る。落ち着いた趣のお寺さまである。結構造作が新しいのは、高速道路と水再生センター工事に際し、本堂・客殿・庫裡等一切新築され、ためではあろう。
境内にあったいくつかの案内を大雑把にメモ:
正覚寺と日本最初の公立学校
「正覚寺と日本最初の公立学校」には、「真言宗正覚寺は常照山阿弥陀院と号す。本尊阿弥陀如来像は慈覚大師作と言う。開山は開山和尚安心の没年が文禄元年(1592)であるから、室町末期と推察される。
境内には「とげぬき地蔵」という古い石地蔵が安置される。水戸街道の北側にあったものを、大正4年、荒川放水路開削にともない移された。「とげぬき」は「罪(とが)抜き」から。小菅監獄から出所時、この地蔵に願をかけると「罪」を抜くことができたため、いつしか「とがにき」から「とげぬき」になった、と。
このお地蔵さまには「きられ地蔵」の伝説も伝わる。元禄の頃、この地蔵の付近に美女が現れ旅人を悩ますとの噂。参勤交代でこの地を通る水戸光圀が地蔵の首を一刀のもと切り離す。首はそれ以降行方不明となり、正覚寺で首を据え付ける。後に寺の近くで首が掘り出されたため、正覚寺で箱におさめ供養している。「首切り」の話はともあれ、地蔵堂の水舎に元禄年年間の銘があり、光圀とのなんらかの関連がなきにしもあらず」、との説明に続き、「もうひとつの珍しい史実」として、以下の説明が続く。
「明治2年、この地に小菅県庁が置かれる。県庁では政府の出した府県学校取調局の令に基づき、正覚寺本堂内に「小菅仮学校」という、わが国最初の公立の学校を設ける。当初は県庁役人を対象としたが、希望者には管内の一般町村民の入学も許す。但し、民間の入学者は稀であった。
この学校は隣の千住宿の慈眼寺にも分校を設けたが、明治4年の廃藩置県で県庁とともに廃校となり、明治6年の学制発布で青砥学校(区立亀有小学校)や勝鹿学校(区立新宿小学校)が設立され、生徒の大半はそちらに移る」と。
「聴聞規則」
更にこの公立学校の「聴聞規則」が続く;
「「聴聞規則」は本邦初等教育史上貴重な資料であるが、内容は旧態依然とした封建制そのものであったことがうかがい知れる。
当県仮学校当分小菅村正覚寺ニ相定候事
一 六ノ日 定休 四月十九日 会議ニ付昼後休
二 七ノ日 未ノ刻ヨリ小学講釈
諸役人出席下民といえども聴を許す但朝索読質問勝手次第
三 八ノ日 未ノ刻ヨリ牧民志告心鏡
庁内之諸役人必ズ出席すべし其他有志輩聴聞勝手たるべし但し朝前同断
四 旧ノ日 未ノ刻ヨリ孟子輪議
庁内之諸役人壮年之ものは必ズ出席すべし老幼の輩は勝手次第たるべし但し朝前同断
五 十ノ日 未ノ刻ヨリ千住四丁目慈眼寺小学講話
御用村用当二而小菅表へ出合候村人小前ども必ず出席すべし
若し怠り候もの来れは郷宿向き取調之上、正覚寺二止宿いたさせ教諭を加う其他四方之民人老若とも出席聴聞することを欲す
知事判事之内取締として時々出席すべし其他諸氏聴聞勝手たるべし但し朝前同断
明治二年 小菅県」とあった。

下民とか小前(江戸時代の小農民をいい,「前」は身分とか分限の意。一般に耕地や宅地を所持し年貢を負担する本百姓をすべて小前,小前百姓といった。また村役人級の大高持 (大前) に対して,一般の百姓あるいは水呑百姓のような零細な困窮農民をさすこともある(「ブリタニカ国際大百科事典」)などの表現や講義内容を指しての封建的とののとだろうか。
尚、「朝前同断」は、「朝は前と同じだ」との意味だろうか。ということは、その前に記されている、朝索読質問勝手次第を指すの、かと。

同じく境内にあった「史跡 県立小菅学校の跡」には「学制発布以前の公立学校として、都下教育史上貴重な遺跡」とある。学制発布は明治5年(1872)であるので、その3年前に設立されたということである。
小菅正覚寺念仏結衆地蔵像
「この地蔵像は念仏結衆を願う兵左衛門と同行衆によって建立されたものです。光背の向かって右には「寛文元天(1661)。。。」、左には「念仏結衆本願兵左衛門同行廿一人」と刻まれ、供養を行う集団を「念仏結衆」と記しています。
17世紀中頃以降は、「同行集団」とあらわすことが多くなるのですが、この地蔵像には「結衆」と「同行」が併記されています」とあった。

結衆と同行はほぼ同義で用いられ、地蔵(庚申)像などに「同行卅七人敬白」などと刻まれることもある。これは37名の結衆が地蔵(庚申)供養のため造立と読み替えるわけだが、このお地蔵さまには結衆と同行が併記されている、ということだろう。


■東京拘置所西側向かう■

水路跡も水再生センターの敷地の中となるので、この辺りの散歩は終わりと、次の目的地、古隅田川の流路である東京拘置所の西側に向かう。お寺さまから新水戸橋に戻りその一筋北の水戸橋に向かう。

小菅神社
水戸橋に向かう途中、道の左手に社がある。新水戸橋交差点から一段低い通路を抜けて進むと小菅神社に。明治2年()、小菅県が出来た際、県庁内(現東京拘置所)に県下356町村の守護として伊勢の皇大神宮を勧請するも、明治5年に小菅県所管の葛飾72ヶ村などが東京府に移管するに際し小菅村の田中稲荷社に移す。明治42年小菅神社と改称し、田中稲荷は摂社となる。境内には田中稲荷社が祀られていた。

第六天排水機場
小菅神社を北に向かうと右手に第六天排水機場が見える。その裏手に目的の古隅田川の水路が足立・葛飾区境に沿って続くのだが、とりあえずは先ほど訪れた柳原堤防から先に続く水路跡が、荒川放水路で寸断された箇所である東京拘置所西側から古隅田川を「遡上」すべく、右手の水路は後のお楽しみとする。

水戸橋
第六天排水機場のすぐ北、水戸橋を渡った西詰めに「水戸橋跡地」の案内がある。
水戸佐倉道
「前方に延びる道は、東海道など五街道に附属する水戸佐倉道です。この街道は日本橋を出発点とする日光街道の千住宿(足立区千住)から分かれ、常陸国水戸徳川家の城下をつなぐ道でした。途中、新宿(葛飾区新宿)では、下総国佐倉に向かう佐倉街道と分かれました。
これらの街道は、土浦藩や佐倉藩等が参勤交代に使う重要な道でした。享保10年(1725)八代将軍吉宗が、大規模な狩りを小金原(千葉市松戸)で行った際、水戸橋で下船して水戸佐倉街道を通行した記録が残されています」とある。

日光道中千住宿で分かれ、水戸まで29里、おおよそ122km、19の宿場で繋ぐ 流路定まらぬ低湿地であった江戸近郊の低地を抜ける水戸佐倉道は、河川改修や新田開発で江戸の近郊農村として野菜などの食料供給地となり、その物資の往来だけでなく、生活も豊かになった江戸の庶民の行楽地への往来としても使われるようになる。成田山、国府台帝釈天木下川薬師半田稲荷へとこの橋を渡って向かったのだろう。

橋名:みとはしの由来
「地元に伝わる話によると、その昔、水戸黄門(光圀)一行が旅の途中、小菅村に出没する妖怪を退治しました。 その妖怪は、親をならず者に殺され、敵を討とうとした狸でした。 子狸が退治されそうになった時、近くのお地蔵様が身代わりとなりました。 その事実を知った光圀は、後の世まで平穏となるようにと自ら筆をとり、傍らの橋の親柱に「水戸橋」と書き記したと伝わっています。 また、水戸橋下流の正覚寺には、身代わりとなったといわれているお地蔵様が安置してあり、お堂前の水舎には元禄10年(1697)の銘があります」。正覚寺云々は前述のとおり。
水戸橋・橋台の石組・綾瀬川
「ここに組まれた石組みは、江戸・明治時代から桁橋の水戸橋を支えてきた橋台を受け継いだものです。この構造は、皇居(旧江戸城)内濠に架かる木造橋である平川橋に名残を見ることができます。
水戸橋が本格的な橋として架橋された年は定かではありませんが、江戸初期の寛政年間(1624-1644)と考えられています。
水戸橋が架かる綾瀬川の開削については、「西方村旧記付図」(越谷市立図書館)に、寛永年間に匠橋付近(足立区)から小菅(葛飾区)を経て、隅田川合流地点まで掘替えた記録があります」、と。

蛇行する綾瀬川の直線化工事は、代官伊奈氏により足立郡内匠新田(足立区南花畑)から葛飾郡小菅(小菅)に、流量を調節すべく新たに水路を開削した。 その後、五街道制定にともない、寛永7年(1630年)に草加宿の設置が決まる。これに合わせ、天和3年(1683年)に蒲生大橋(東武伊勢佐木線新田駅の北東)辺りから九十九曲がりと称され、千々に乱れる綾瀬川の流路の直線化工事を行った。直線化工事とは、この蒲生大橋から古綾瀬川との合流点辺りまでの一直線になった綾瀬川の区間のことであるが、上記解説は、伊奈氏による開削工事を指すのだろう。

八幡社
水戸橋から綾瀬川にそって北に向かうと二基の石灯籠と石造りの小祠がある。地図にある鳥居のマークが不釣り合いなほどのささやかな社である。 脇にあった案内:
「八幡社とタブの木の大樹について 小菅の水戸橋付近、綾瀬川沿いに「八幡社」と大きなタブの木がありました。昭和30年代に造られた「小菅音頭」の歌詞の中にも「月もおぼろの八幡社」と歌われています。この社と大きなタブの木は、綾瀬課川のふちにあって舟の往来や行き交う人々を見守ってきました。 由緒などは不明ですが、『水戸佐倉道分間延絵図』に記載されている古い社で、棟札により元禄十三年(1700)第五代将軍綱吉に仕えた柳沢吉保によって、小菅御殿内の鎮守として再興されました。第八代将軍吉宗の時代(1740年頃)の小菅御殿古図には「八マン」と記載され、鳥居の図が示されています。
このあたりは「八幡山」と呼ばれ、小菅一丁目では一番の高台でした。綾瀬川・古隅田川に囲まれた小菅付近は昔からたびたび洪水に見舞われてきましたが、昭和以降の大洪水にも水に浸かることはなかったと言われています。小菅一丁目に大きな被害をもたらした昭和三十四年の伊勢湾台風の際にも八幡社に多くの人々が避難したと伝えられています。
大切に守ってきたこの社は、今般水戸橋の架け替えに伴い、旧社殿は取り壊され、新しい石造りの社として再建されることになりました。平成二十二年」とあった。

解説とともにあった往昔の写真には、綾瀬川を上る船と鬱蒼とした鎮守の森が見える。まだ護岸工事が実施されていない。綾瀬川の改修・護岸工事は大正9年(1920)から昭和5年(1930)にかけて行われたといった記録もあるので、それ以前の風景だろうか。
このときは解説にある小菅御殿が現在の東京拘置所の辺りにあったなど、知る由もなかった。事前準備なしの散歩は何が出てくるかわからず、後の祭りも多いが、それ以上に偶々の出合いが多く、この基本方針(単に面倒だ、というだけとも言えるが)はやめられない。

小菅西小学校
八幡の小祠の南の道を西に向かうと小菅西小学校にあたる。正門脇の敷地内に案内があり、「小菅銭座跡」とある;
「小菅銭座跡 葛飾区小菅一丁目25番1号小菅西小学校
小菅銭座は安政6年(1859)、江戸金座の直轄で、幕府の財政窮乏と銅相場急騰のため、前例のない鉄小銭を鋳造する場所として設置されました。小菅銭座の中心部は、江戸時代初期には伊奈氏下屋敷、江戸時代中期には鷹狩のための御殿から幕府の所有地・小菅御囲地となり、江戸時代後期には災害に備えての小菅籾蔵と変遷を辿った場所の一角で、現在の西小菅小学校付近にあったとされます。
万延元年(1860)には前例のない鐚銭といわれる粗悪鉄銭である四文銭を小菅で鋳造しました。最盛期の慶応年間の鋳造職人は232人を数えましたが、慶応3年(1867)にその役割を終えました。
今その頃の様子を示すものはほとんど残っていませんが、昭和25年(1950)までは銭座長屋といわれた建物が残っていました。かつて水路があった場所には、銭座橋の橋跡が残り、貨幣史関係の資料として今に伝えています。
上に小菅御殿は現東京拘置所辺りとメモしたが、この小学校あたりまで敷地であったようだ。

東京拘置所
道なりに北に進むと東京拘置所にあたる。モダンな造りの建物である。チェックするとWikipediaに、「1997年改築工事が開始、1999年には「小菅刑務所・管理棟」が日本の近代建築?選に選定、2003年中央管理棟・南収容棟、2006年北収容棟が完成」とある。
なるほど、近代建築20選に選ばれるような建物か、と思ったのだが、選定された建物は敷地内に残る戦前の建物とのことであった。衛星写真で見ると、中央の管理棟にヘリポートがあり。そこを中心に、南北にV字の収容棟が延びており、その西側にそれっぽい建物が見えた。
拘置所と刑務所
ところで、上に東京拘置所と記したが、ここにくるまで小菅刑務所と思っていた。明治12年(1879)小菅に東京集治監が設置され、明治36年(1903)小菅監獄と改称、大正11年(1922)小菅刑務所となったが、その小菅刑務所は栃木の黒羽刑務所に移ったようだ。
その経緯は、巣鴨にあった東京拘置所が、昭和20年(1945)、連合軍総司令部(GHQに接収され、所謂巣鴨プリズンとして戦争犯罪人の収容所となる。そのため、東京拘置所が小菅刑務所に一時的に同居。平和条約締結(1952年)にともない、巣鴨プリズンは日本に移管。巣鴨に東京拘置所が復する。
その後首都圏整備計画の一環として昭和46年(1971)、東京拘置所が巣鴨から小菅刑務所の地に移り、それにともない小菅刑務所は栃木に移った、と。小菅は、受刑者を収容する刑務所の機能から、未決囚を収容する拘置所にその機能を変えた、というのが正確かもしれない。因みに、巣鴨の東京拘置所跡地はサンシャイン60の辺りである。
拘置所に懲役受刑者?
Wikipediaで東京拘置所の収容者の項目を見ていると、収容定員3,000名、未決拘禁者(刑事被告人)、死刑確定者(死刑囚)、懲役受刑者(本所執行受刑者及び他刑務所への移送待ちの一時執行受刑者)を収容する、とある。未決拘禁者1,281(女性75)、懲役受刑者は696名(女性43)といった記事もみかけた。
未決拘禁者はいいとして、また、刑務所への移送待ちの受刑者もいいとして、拘置所に受刑者?チェックすると、本所執行受刑者とは懲役受刑者ではあるが、刑務所に送られることなく、この拘置所に留まり簡易作業を行う受刑者のことのようだ。「刑務所」より「拘置所」のほうが、イメージがいい(?)。刑務官に「分類」された刑の軽い人達なのだろう。

差入店
面会者出入口の道路を隔てた向かいに「池田屋 差入店」とある。当日はシャッターの閉まったお隣と二軒が指定差入点とのことである。普段見ることのない用語ではある。

拘置所柵に沿って案内板が立つ
柵に沿って古隅田川の流路のある東京拘置所の西側に向かうと、柵の前にふたつの案内板があった。
東京拘置所と煉瓦工場
明治維新後に籾倉施設が利用され「小菅県庁舎・小菅仮牢」となり、廃県後は払い下げられ、民営によるわが国初の洋式煉瓦製造所が設立されました。
明治五年二月二十六日、和田倉門内の旧会津藩邸から出火した火災により、銀座・築地は焼け野原と化します。政府の対応は速く、三十日には再建される家屋のすべてが煉瓦造りとされることが決定されます。煉瓦造りの目的は建物の不燃化をはかるだけでなく、横浜から新橋に向かって計画されていた日本最初の鉄道の終点に、西欧に負けない都市を造りあげようという意図もありました。 明治五年十二月、東京府はその製造を川崎八右衛門にまかせることを決定、川崎はウオートルスに協力を依頼し小菅に新式のホフマン窯を次々と設置し生産高を増していきます。
明治十一年内務省が敷地ごと煉瓦製造所を買い上げ、同地に獄舎を建て「小菅監獄」と命名(明治十二年四月東京集治監)、西南戦争で敗れた賊徒多数が収容され、煉瓦製造に従事し、図らずも文明開化を担っていきました。東京集治監で養成された優秀な煉瓦技能囚が全国各地に移送され、各地の集治監で製造されることになる囚人煉瓦の最初でもありました。
小菅で製造された煉瓦は、銀座や丸の内、霞ケ関の女王であるレンガ建築の旧法務省本館、旧岩崎邸、東京湾の入口に明治時代に建造された海上要塞の第二海堡等に使われ近代日本の首都東京や文明開化の象徴である煉瓦建物造りに貢献してきたのです」
小菅御殿と江戸町会所の籾倉
東京拘置所の広大な土地は、寛永年間(一六二四年~一六四三年)徳川家光が時の関東郡代伊奈半十郎忠治に下屋敷建設の敷地として与えた土地(十万八千余坪)で、当時はヨシやアシが茂り、古隅田川の畔には鶴や鴨が戯れていました。十数代にわたり代官職にあった伊奈氏が寛政四年(一七九二)に失脚するまでの間、八代将軍吉宗の命により遊猟時の御善(私注:膳?)所としての「小菅御殿」が造営された場所でもありました。
寛政六年(一七九四)に取り壊された小菅御殿の広大な敷地の一部に。天保三年(一八三二)十二月江戸町会所の籾倉が建てられました。その目的は大飢饉や大水、火災などの不時の災害に備えたもので、老中松平越中守定信の建議によるものでした。
深川新大橋の東詰に五棟、神田向柳に十二棟、ここ小菅村に六十二棟、江戸筋違橋に四棟の倉庫を建て、毎年七分積金と幕府の補助金とで買い入れた囲籾が貯蔵されていました。小菅に建てられた理由は、江戸市街と違い火災の心配が少ないこと、綾瀬川の水運の便がよかったこと、もちろん官有地であったことも条件の一つであったろうといわれています。
小菅社倉の建物は敷地が三万七百坪、この建築に要した費用は三万八千両、まもなく明治維新となり、この土地はすべて明治政府に引き継がれました」と。

なんの予備知識もなく、とりあえず古隅田川の流路へと向かうために偶々出合った東京拘置所であるが、関郡代の下屋敷、将軍家の小菅御殿、江戸町会所の籾倉、文明開化の象徴ともいえる「煉瓦」工場と、いくもの歴史のレイヤーが見えてきた。行き当たりばったりの散歩の妙である。

小菅稲荷神社
ふたつの案内板のある道を隔てた対面に赤い鳥居の小さな稲荷の社がある。 案内には「小菅稲荷神社と「小菅御殿の狐穴」」とある:
「小菅稲荷神社は小菅御殿の鎮守として小菅御殿内に祀られていましたが、昭和に入り現在の地に移されたと伝えられます。稲荷神社の使い「狐」が御神体の両脇を固めています。狐が穀物の神である宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)の使いになったのは、一般には宇迦之御魂神の別名が「御饌津神」(みけつかみ)であったことから、ミケツの「ケツ」が狐の古名「ケツ」に想起され、誤っ「三狐神」と書かれたためと言われています。
そして狐の習性(山から下りて実る稲穂を狙う害虫を食べて小狐を養う)が、古来の日本人の目には、繁殖=豊作として結びつき、狐が田の先触れ、五穀豊穣、稲の豊作を知らせる神の「お使い」として人々に定まっていきます。日本各地に「神の使い」狐の伝説が残されています。
小菅稲荷神社には「使い姫」の伝説が残されています。本殿の裏、こじんまりした庭の石山の根元には二つの穴があります。小菅御殿があった当時、将軍様の御逗留の際に不意の敵襲に備え、無事に御殿外に脱出できるよう空井戸を利用した抜け道があったと言います。
この抜け道を明治時代に入り不用なものとして埋めふさいでしまったところ、御殿跡地の政府の施設では事故が相次いで発生しました。ある夜、心痛した偉いお役人の夢枕に一匹の城狐が現れ、「私はいにしえからこの小菅稲荷の「使い姫」として空井戸に棲んでいた狐一族の長老であるが、この程我らの住居を埋められ大変難渋しておる。速やかに穴を元に戻すように」と言い残して消えました。
そこで、速やかに穴を元に戻した結果、ぱったりと事故が起こらなくなったといいます。当時のものを模した「狐の穴」は本殿の裏にちゃんと残されています」とあった。

社にお参りを済ませ、本殿裏の狐の穴をみようとしたのだが、本殿は頑丈に施錠されており、入ることはできなかった。道端から見た、本殿裏の竹の下にあるのだろうか。

東京拘置所前交差点
道を西に進み首都高速中央環状線と合わさる交差点に。交差点南には「保釈金 お立替えいたします」といった「非日常的」な看板。北には東京拘置所入口。知らず写真を撮っていたら守衛さんに制止された。撮影禁止のようだ。
旧小菅御殿石灯籠
拘置所入口左手、敷地内に案内板が立っている。「旧小菅御殿石灯籠」とあり、案内板左手に石灯籠が見る。案内には:
「旧小菅御殿石燈籠 所在地;小菅1丁目35番地
現在の東京拘置所一帯は、江戸時代前期に幕府直轄地を支配する関東郡代・伊奈忠治の下屋敷が置かれ、将軍鷹狩や鹿狩りの際の休憩所である御膳所となりました。その後元文元年(1736)7月に小菅御殿(千住御殿)が建てられました。 寛政4年(1792)小菅御殿は伊奈忠尊の失脚とともに廃止され、敷地は幕府所有地の小菅御囲地となりました。御囲地の一部は、江戸町会所の籾蔵や銭座となり、明治時代に入ると、小菅県庁・小菅煉瓦製造所・小菅監獄が置かれました。
旧小菅御殿石燈籠は、全高210cmの御影石製で、円柱の上方に縦角形の火袋と日月形をくりぬき、四角形の笠を置き宝珠を頂いています。もとは刻銘があったと思われますが、削られて由緒は明確ではありまえん。旧御殿内にあったとされるこの石燈籠は、昭和59年(1984)に手水鉢・庭石とともに現在地に移されました 葛飾区教育委員会」とあった。

脇には「石灯籠について」とする、東京拘置所による手書きの案内もあり、同様の解説が記されていたが、小菅御殿は奥州諸侯の送迎にも供されたこと、九代家重公御世継時代の養生所等にも使われたこと、明治12年の小菅監獄の敷地が7万坪に及ぶものであったこと、石灯籠は江戸初期の作、といったことが付け加えられていた。

古隅田川の水路
東京拘置所の西側、堤防手前の道路と拘置所の柵に囲まれて親水公園といった風情の水路がみえる。古隅田川の水路筋を利用した公園である。荒川放水路開削により流路断ち切られ、ために、一筆書きに進むことのできなかった古隅田川の流路であるが、ここから先、中川からの分岐点までは、足立区と葛飾区の境をひたすら進むことになる。
流路断ち切られたが故に、彼方此方へと大廻りし、ために、なんの知識もなかった小菅の地の歴史について、結果的には多くのことを知り得たのだが、メモが多くなってしまった。
今回のメモはここで終え、次回は足立・葛飾区境を「一筆書き」に進み中川までをメモすることにする。


前回は、散歩の前半部、成田西1丁目から成田西3丁目と荻窪1丁目の境まで、善福寺川の南に整備された善福寺川緑地と台地崖面に沿って善福寺川の旧流路・揚堀跡をメモした。

現在の善福寺川は、環八から南東に下り、南に突き出た矢倉台、北に突き出た尾崎の舌状台地を迂回し南東へとひとつの流れとして下るが、これは昭和10年(1935)からはじまった善福寺川の河川改修によってなされたもの。
既にメモしたことであるが、『杉並の川と橋』によれば、昭和10年(1935)頃に善福寺川流出口から鉄道橋下まで、昭和13年(1938)頃に中野境から駒が坂橋(環七の東)下流500m付近まで、その後戦争で中断した後、昭和21年(1946)に工事再開し、堀之内本村橋下流、昭和25年(1950)には済美橋下まで、昭和26年(1951)には大松橋上流までと現在の和田堀公園の東辺りまで工事が行われ、昭和38年(1963)にはずっと上流の荻窪の松渓橋下まで、昭和39年(1964)から45年(1970)にかけて松渓橋上流の工事が行われ、河川が次第に一本化され、これに寄って田用水路などが暗渠化されていった、とある。

前回歩いた、大宮地区の東、成田西1丁目から成田西3丁目と荻窪1丁目境までの一帯は昭和26年(1950)から昭和38年(1963)にかけて複数の流路が一本化されていったようである。「今昔マップ首都 1944-54」では幾筋かに分かれている善福寺川の流路が、「今昔マップ首都 1965-68」ではほぼ一本化されているのはこういった河川改修工事の結果であろう。

「今昔マップ首都 1896-1909」で先回歩いた辺りの旧流路をチェックすると、川筋の中央に、ほぼ現在と同じ川筋(仮に「旧本流」とする)が見え、その南を先回散歩で歩いたルートとほぼ同じ水路が通る。その流れは、成田西と荻窪の境にある神通橋の少し上流で「旧本流」から別れ、川筋と台地の崖面に沿って下り、尾崎の舌状台地先端部を回り込み和田堀公園の少し上流、成園橋辺りで「本流」と合わさるわけだ。上述の如く現在の善福寺川の南、善福寺川緑地公園と崖面との境を進んでいる。

一方、「旧本流」の北を流れる水路は、既に歩き終えた成田東・成田西を流れた揚堀、荻窪を流れた揚堀とほぼ同じルートである。そのルートは環八の少し東、春日橋の下流で「旧本流」と分かれ、かつては一面の田圃であった旧荻窪住宅の北端の台地との境を進む。そのルートは現在の善福寺川と大きく離れるが、北に大きく広がった一帯は往昔の湿地帯であり、田圃跡である。
埋め立てられ宅地が建て並び、境目がわかりにくくなっている台地とかつての湿地の境を水路は進み、矢倉台の先端を迂回した後は、同じくかつての一面の田圃であった旧阿佐ヶ谷住宅の北端へと現在の川筋から大きく北に離れ、これも宅地が立ち並び台地と湿地・田圃の境目がわかりにくくなっている台地下を流れ五日市街道に架かる尾崎橋辺りで「旧本流」に接近し、成田東の旧流路・揚堀でメモした台地崖下を和田堀公園へと下る。
なお、この北側を進む旧流路には、旧荻窪住宅(現在のシャレール荻窪)から真東に向かい旧本流に合わさり、すぐに本流から分かれて天保新堀用水路と荻窪に向かう旧流路・揚堀分岐点へと真南に下る水路が見えるが、前者の真東に向かう水路は第二期の天保新堀用水、真南に向かう水路は第一期の天保新堀用水を揚堀として活用した水路跡ではないだろうか。

なんだかイントロが長くなったが、こんな善福寺川の昔の姿がリアリティをもって感じることができたのも、窪地散歩がきっかけではじまった数回にわたる 散歩の「成果」ではあろうか。アップルの創業者スティーブ・ジョブズの有名な言葉「Connecting the Dots;未来に向かって点を繋げることはできません。過去を振り返って点を繋げられるだけです。だから、今やっていることが、将来どこかに繋がると信じて下さい・・・」が、コンテキストは全く違うにしても、妙に身近に感じる。

さて本日のルート。目的地は環八の西、西荻北1丁目の中田橋辺りから右岸を西荻窪方面に向かって切れ込む窪地。成田西を流れた旧流路・揚堀の終点と言うか始点からの散歩の続きであるため、善福寺川を結構遡ることになる。
途中なんらか窪地でも、とは思うのだが、右岸の窪地は松庵川の窪地であり、左岸は旧荻窪住宅跡、かつては田端田圃が一面に広がっていた沖積地の北に荻窪駅への台地に切れ込む高野ヶ谷戸があるのだが、共に既に歩き終えている。右岸の松庵川から上流、また左岸の荻窪の高野ヶ谷戸からの水を合わせた旧水路・揚堀が善福寺川の旧本流に合わさる春日橋から上流は川筋が狭まり、それらしき窪地は見つからない。
地形図はだめなら、今昔マップに何か水路跡らしきものは無いかとチェックする。と、「今昔マップ 首都 1944‐54」に目的地の窪地がある西荻北近くの中田橋辺りに水路らしきラインが見える。単なる道なのかもしれないが、ほぼ目的地傍でもあるのでとりあえず寄ってみようと思う。そこまでは、善福寺川に沿って続く散歩道を辿り、なにかフックが掛かるものがあれば、成り行きであちこち彷徨うことにする。


本日のルート;
成田西の旧流路・揚堀を辿る
和田堀公園>成園橋>旧流路・揚堀に入る>尾崎橋に>尾崎橋>宝昌寺>天王橋>屋倉橋>善福寺緑地公園に入る>成田西いこい緑地>成田西切通し公園>神通橋へ>善福寺川と合わさる
善福寺川を上流に
神通橋>松庵川合流点>西田端橋>大谷戸橋>松渓橋>松見橋>春日橋 >忍川下橋>忍川橋>忍川上橋>「与謝野晶子 鉄幹 ゆかりの地散策路」の碑>荻窪橋>荻窪上橋>界橋>荻野橋>東吾橋>本村橋>置田橋>神明橋
上荻の暗渠①
コンクリート蓋の暗渠>出山橋
■上荻の暗渠②
鍛冶橋>西荻北の窪地>中田橋>右岸に排水口と細路>城山橋
上荻の暗渠③
コンクリート蓋の暗渠
荻窪北の窪地と暗渠を辿る
コンクリート蓋の暗渠>切り込んだ等高線の窪地に向かう>窪地南端手前で西に折れる>窪地南端に向かう>窪地最南端を西に曲がり窪地の谷頭に>窪地最奥部
神通橋


善福寺川を上流に

前回の散歩メモの最終点、現在の善福寺川(旧流路の本流)の南側、成田西を流れた旧流路が善福寺川に合わさる地点から上流に向かう。ここから荻窪北の窪地までは善福寺川にかかる橋のあれこれをメモしながら進むことにする 少し下流には南に突き出た舌状台地、田端神社が鎮座する矢倉台を迂回した善福寺川(旧本流とほぼおなじ流路)に架かる神通橋がある。
神通橋
メモを再掲;『杉並の川と橋』に拠ると、「神通橋は、五日市街道の高井戸境から青梅街道へ抜ける通称「砂川道」に架かる橋である。この道は鎌倉道とも言われる古道で途中に田端神社が祀られている。田端神社は明治四十四年に現在名となるまでは、北野天満宮とか天満宮・田端天神と呼ばれていた。この神社は腰痛、足痛が治るということで参詣者も多く有名であった。その霊験にあやかって神通橋の名が付けられた。神通は、神通力と言われるように、仏語では「無碍自在で超人的な不思議な力やその働きを意味する」とあった。橋名の由来も地形や縁起などいろいろである。
鎌倉道
メモを再掲;甲州街道が首都高速4号線と重なる京王線上北沢駅入口交差点近くに「鎌倉橋」交差点がある。ここは小田急線祖師谷駅北の千歳通り十字路から右に折れ、芦花公園、この鎌倉橋交差点、大宮神社、中野の鍋谷横丁をへて板橋へと向かう鎌倉街道中ツ道の道筋(「東ルート」と仮に呼ぶ)である。 また、杉並を通る鎌倉街道には、千歳通り十字路から北に南荻窪の天祖神明宮、四面道へと向かうルートもある(「北ルート」と仮に呼ぶ)。 このふたつのルートが所謂鎌倉街道と称される道であるが、そもそも、鎌倉街道は、「いざ鎌倉へ」のため新たに開削された道ではなく、旧来からあった道を繋ぎ鎌倉への道路網を造り上げたものとも言われる。上記ふたつのルートが関幹線とすれば、幹線を繋ぐ幾多の支線がある。田端神社脇の「鎌倉街道」も、そういった支線のひとつではないだろうか。
具体的な資料がないので想像ではあるが、「東ルート」、「北ルート」というふたつの幹線を繋ぐとすれば、「東ルート」からは大宮八幡から左に分かれ砦のあった田端神社の台地に向かい、「北ルート」からは五日市街道、人見街道あたりから田端神社方面へと向かい、二つの幹線を繋いだのではないだろうか。単なる妄想。根拠なし。

松庵川合流点(下流)
現在の善福寺川の南側。成田西を流れた旧流路・揚堀の取水口(?)から川に沿った遊歩道のほんの少し先に西荻窪から下った下水路である松庵川が善福寺川に合わさる2箇所のうち、下流の合流点がある。
松庵川
メモ再掲;松庵川は自然河川ではなかったようであり、源流点という言葉も適切かどうか、といた「川」であった。『杉並の川と橋』によれば、松庵川はこの窪地・松庵窪に集まる吉祥寺方面からの下水・悪水と、甲武鉄道敷設工事にともなう工事用土採掘後の湧水を処理する水路とのことである。水路は大正後期に開削されたようだが、昭和初期には宅地開発の影響ですでに下水路となっていた、と言う。
それはそれでいいのだが、それにしては松庵川筋の窪地は結構大きく長い。ちょっと昔は下水・悪水処理の水路ではあったのだろうが、標高点は井之頭池や善福寺池、妙法寺池、石神井川水源といった東京の川の源流となった湧水点と同じ標高50m辺りである。はるか昔には豊かな湧水が湧きし今に残る窪地を形成したのであろうか。

西田端橋
合流点に続く水路跡を見遣りながら先に進むと松庵川西田畑橋がある。『杉並の川と橋』に拠れば、「川南通り(旧環八)から続く道に架かるこの西田端橋と、今は暗渠となっている天保新堀用水の天神橋は、それまでの小径を新道に拡張して木造橋で架設された。昭和7年にはその写真が残る。
昭和5年には、尾崎から屋倉橋を渡ってくる現在の道は表示されていない。(中略)昭和14年には道幅3m以下の道幅が表示されている。団地の人口が増え交通量も変化してくると橋の負担も増えてきた。そのため、昭和37年に行われた善福寺川の護岸工事と併せて、木造から鉄筋コンクリート橋に改修された」とある。
天保新堀用水の「天神橋」は、田端天神とも呼ばれた田端神社崖下から善福寺川に繋がる「天神橋公園」にその名残を残す。田端神社崖下は成田東。成田西を通り、荻窪に進む旧流路・揚堀と天保新堀用水の分岐点である。 「尾崎から屋倉橋を渡ってくる現在の道・・・」は尾崎の矢倉橋を経て弧を描き旧荻窪住宅の敷地(現在の「シャレール荻窪」)南端を西田端橋に向かう道のこと。説明にある団地とは旧荻窪住宅である。旧荻窪住宅の敷地は前述の如く、かつては田圃であり、その昔は一面の湿地帯。田畑神社崖下から荻窪に入った旧流路・揚堀は、昔の湿地帯と台地の境を弧を描いて進んでいる。

大谷戸橋
西田端橋の次は大谷戸橋。西田畑橋と大谷戸橋の間に天保新堀用水の取水口、広場堰があったようである。天保新堀用水は二期に分かれ、第一期は取水口から南へ、現在の天神橋公園の道筋を矢倉台へと向かい、台地を穿ち(胎内掘)、須賀神社脇の弁天池に進んだが、第二期の天保新堀用水は取水堰から東に向かい、同じく矢倉台を穿ち弁天池に向かったとのことである。
イントロでもメモしたが、「今昔マップ首都 1896-1909」には、善福寺川北側の台地と沖積地の境を流れる旧流路には、旧荻窪住宅(現在のシャレール荻窪)で台地崖下から離れ、真東に向かい旧本流に合わさる水路と、そこからすぐに本流から分かれて天保新堀用水路と台地崖下を進む旧流路・揚堀分岐点に向かって真南に下る水路が見える。前者の真東に向かう水路は第二期の天保新堀用水、真南に向かう水路は第一期の天保新堀用水を揚堀として活用した水路跡ではないだろうか。
天保新堀用水
桃園川の窪地・水路跡の散歩の折のメモを再掲:天保新堀用水の水源は青梅街道の南を流れる善福寺川である。天沼の弁天池を水源とする桃園川は水量が乏しく、千川上水・六ヶ村分水からの養水で水量を補っていた。しかしこの養水では天沼村・阿佐ヶ谷村は辛うじて潤うものの、更に下流の馬橋・高円寺・中野村には十分な水が届かず、その解決策として、水源を水量豊かな善福寺川に求めることにした。
取水口は現在の大谷戸橋付近。そこから善福寺川に沿って矢倉台を迂回し、途中胎内堀り(素掘り)で進み、現在の都立杉並高校の北にある須賀神社辺りの弁天池(明治に作成された「関東平野迅速測図」にも大きな池が記されている)に貯め、そこから先は、再び青梅街道の走る台地の下4mから5mに、高さ1.3m、幅1.6mの地下トンネルを穿ち(胎内堀り、と称する)、青梅街道の北、桃園川に下る窪地に水を落とすことにした。この窪地には用水開削以前から新堀用水と呼ばれる自然の水路が流れていたようである。
天保11年(1840)9月に貫通した天保新堀用水であるが、その2カ月後には善福寺川に沿って迂回していた田端・矢倉台付近の土手が崩壊。その原因は「カワウソ」であった、とか。実際は大雨による土手の決壊ではないだろうか。 それはともあれ、この対応策として川筋迂回は止め、大谷戸橋付近から弁天池にほぼ直線に進む水路を計画。途中の矢倉台は、550mを胎内堀りで抜く工事を再開。天保12年(1841)のことである。
胎内堀りは馬橋村の水盛大工である川崎銀蔵が五百分の一という極めて緩やかな勾配を掘り進め、新堀の窪地と繋げた。この用水の完成により、馬橋・高円寺・中野の村は、大正の頃までその地の田圃の半分ほどをこの用水で潤した、

松渓橋
メモ再掲;「松渓」とは美しい名である、地名にそれらしきものがないため、松庵川散歩の際にチェックすると、『松渓中学校の元校長のコメントとして「学校から眺めるこの風景が中国雲南省桂林の松と渓谷の風景に似ているので校名を松渓と名付けた」とあった。松渓の出処は校長先生にあった(『杉並の川と橋』より)。
学校は柳窪を形成する標高45mラインから数段下がった等高線上、善福寺川に突き出た台地上にある。往昔は一面に松林が茂り、台地下を流れる善福寺川と相まって「松渓」の景観を呈していたのであろう。

松見橋
次いで荻外荘公園脇、旧近衛公宅の建っていた台地から下る坂道が善福寺に当たる箇所に架かる松見橋がある。松見の由来も松渓と同じく、一帯の景観を現したもの。松渓の由来にあるように、台地に松林の茂る景観を表したものである。






松庵川の合流点(上流)
メモ再掲:松見橋の少し下流に松庵川の二カ所の善福寺川合流点の内、上流部の合流箇所がある。善福寺川の南、善福寺川に沿って、その川筋と台地を分ける等高線43m(多分?)ラインは東は環八付近まで続くが、松見橋の南辺りで南に舌状に切れ込み、44m、そして柳窪のある45mまで窪地が大きく切れ込み、その窪地は西荻窪駅辺りまで顕著に見える。松庵川が形成した窪地である。
上で松庵川は「下水」と呼んだが、これだけはっきりした窪地がある以上、太古の昔には湧水などによる自然河川に窪地が形成されたのではないだろうか。
荻外荘
メモ再掲;『杉並の川と橋』に拠れば、荻外荘は「大正天皇の侍医であった入沢達吉博士(東京帝大教授)が宮内省を退官する時、この地約二万坪を購入(一説には功績によって宮内省から贈られたものという)して家を建てたと言われている。近衛公が第一次内閣総理大臣(注;第一次近衛内閣のことだろう)に任命された時、入沢博士から半分を譲り受けた。(中略)「荻外荘」の名は、当時上荻窪の関根あたりに住んでいた有馬頼寧公の命名であると言われている」とある。

春日橋
荻外荘があった台地を南に下る坂道に架かる松見橋の次は東西に通る道筋に架かる春日橋。五日市街道の宮前にある春日神社への道筋故の橋名ではあろう。もっとも、「今昔マップ 首都 1944‐54」にはじめて橋を通り春日神社へ続く道筋が見える。この頃に造られた橋ではあろう。
善福寺川旧流路分岐点
現在の善福寺川の北、成田東・成田西、そして荻窪の台地下に沿って流れた善福寺川の旧流路・揚堀を辿り、善福寺川に合流した箇所は春日橋の少し下流であった。逆に言えば、この地で旧本流と旧本流の北、荻窪の沖積地と台地の境を流れる旧流路・揚堀の分岐点である。をもっとも「今昔マップ 1896-1909」では旧流路は春日橋の少し上流で分岐しているようだ。因みに旧本流の南側の旧流路・揚堀は上述の如く、神通橋辺りで旧本流と分かれる。

忍川下橋・忍川橋・忍川上橋
春日橋に次いで、「忍川」を冠した橋が3つ続く。『杉並の川と橋』に拠れば、 「下荻窪の小名字であった「忍ヶ谷戸」を通る通称荻窪街道(一部は旧環八通り)に架けられている橋である。この橋も明治期に車馬が通行できる数少ない橋であった。橋は本来「しのびがわばし」と言われていたが、大正の頃、川の南に移住してきた人達が「おしかわばし」と呼ぶようになり、いつしかそれが公称として使われそうになったそうである。
「忍」の名は、関ヶ原の戦いで功績のあった甲賀忍者の頭領服部半蔵が将軍から拝領した土地であったという意味で「忍ヶ谷戸」の地名が生まれたと伝えられている。そこを流れる川が「忍び川」、その流れに架かる橋を忍川橋と呼んだ。
荻窪街道
荻窪街道の詳細は不明であるが、旧環八らしき道筋が「今昔マップ 首都 1927‐1939」に記載されている。その道筋は、甲州街道から北に進み、人見街道が現在の環八とクロスする一筋南から北東に進み、五日市街道・柳窪交差点を経て新田街道(神明通り、北街道、とも称される)の高井戸東4丁目交差点まで進む。そこから進路を北西に変え、現在の環八・川南交差点に進んだ後は現在の環八の道筋を北に進み、環八・桃二小南交差点に。
環八・桃二小南交差点からは現在の環八から別れ、現在荻窪駅から桃井二小学に向かうバス道を北東に進み、忍川橋を渡り荻窪駅の少し東で青梅街道に合わさる。
「今昔マップ 首都 1896‐1909」の道筋も、「今昔マップ 首都 1927‐1939」 の道筋と比較すると、整備され直線で道が続いているわけではなく、カクカクと曲がりながら進むが大筋ではほ同じである。
●「与謝野晶子 鉄幹 ゆかりの地散策路」の碑
忍川上橋西詰を通り過ぎる時、左手道路の脇に公園があり、石碑らしきものが見えた。ちょっと寄ってみると、「おしかわ公園」とあり、その石碑には「与謝野晶子 鉄幹 ゆかりの地散策路」とあった。案内には「「与謝野晶子は明治11年(西暦1878年)12月7日生まれ、明治から昭和にかけて活躍した歌人、作家、思想家である。大阪府堺市の老舗和菓子屋の三女としてむ誕生、女学校の頃から日本文学に親しみ、歌を詠むようになる。
明治34 年(西暦1901年)に東京に移り、歌集『みだれ髪』を刊行、浪漫派歌人としてのスタイルを確立。同年機関誌『明星』を発行する新詩社の創立者であり、歌人でもある.、与謝野鉄幹君と結婚。明治37年(西暦1904年)に「死にたまふことなかれ」を発表。『源氏物語』の現代語訳でも知られる。
関東大震災後、昭和2年(西暦1927年)に晶子・鉄幹はこの地に転居、遙青書屋・采花荘と名付けられた2棟の家を構え、歌会を開いたり、各地へ旅行し歌を詠み講演をするなど、武蔵野の地を永住の居とし晩年を過ごした。
昭和10年(西暦1935年)3月26日鉄幹62歳で没後の七周忌のあと、昭和17年(西暦1942年)5月29日に64歳の生涯を閉じた。残した歌は5万首にも及ぶ。荻窪 川南共栄会 商店街」とあり、石碑には同じく環八・荻窪二丁目交差点を西に進んだところにある「荻窪中央公園」を「与謝野晶子 鉄幹住居跡」の案内も記されていた。荻窪中央公園には2013年頃訪れたことがある。

荻窪橋
忍川上橋を過ぎると環八に架かる荻窪橋にあたる。『杉並の川と橋』の説明をまとめると「荻窪橋は昭和5年の『井荻町全図』には橋の表記のみがされているが、下流の現忍川橋は川南橋と表記されている。当時は交通上、荻窪(青梅街道の荻窪追分=荻窪駅東)と高井戸(甲州街道)を結ぶ主要な道路に架けられた川南橋のほうが重視されている。
荻窪橋は、井荻土地区画整理事業の計画のよって、幅9mの環八通りができたので、昭和12年に幅11m、長さ6.2m(川幅5m)の鉄筋コンクリート橋に改修されているが、それ以前はおそらく幅3m以内の木造橋であったようである。 環八通りは、昭和55年までに高井戸から四面道まで現況に拡幅されたので、荻窪橋はさらに拡張された、とのことである。

環八通り
その環八通りであるが、『杉並の川と橋』には昭和5年(1930)の状況として、「甲州街道から現在の旧環八通りを通り、荻窪の変電所前で一度道が切れている。その北側は、中央線を過ぎてから井荻土地区画整理事業によって千川通りに達する幅9mの直線的な道路が表示されている。
甲州街道から高井戸駅までが完成したのは昭和46年。昭和55年には四面道まで、58年に新青梅街道までが完成した」とある。
「今昔マップ 首都 1927‐1939」には桃井二小辺りから北に道はなく、荻窪橋も表示されていないが、昭和5年(1930)には道も北に現在の環八・東電荻窪支社前交差点あたりまでできていたのだろう。
また、中央線を過ぎてからの道筋でああるが、「今昔マップ 首都 1927‐1939」には現在の環八・四面道交差点の少し東の青梅街道からまっすぐ北に道が伸び千川通りまで続いている。その道が井荻土地区画整理事業によって造られた道ということであろう。
井荻土地地区区画整理事業
メモ再掲:井荻村(現在の井草、下井草、上井草、清水、今川、桃井、善福寺、荻窪(一部)、上荻、西荻北、西荻南(一部)、南荻窪にほぼ相当する)一帯の整然とした区画され、落ち着いた街並みは、大正14年(1925)から昭和10年(1935)にかけて実施された区画整理事業の賜物である。井荻村に隣接した高円寺や野方の入り組んだ街並みと比べて、その差は歴然としている。
事業策定のきっかけは大正12年(1923)の関東大震災。壊滅した都心を離れ東京西郊に宅地を求める状況に、無秩序な宅地開発を防止すべく区画整理事業を立案した。
工区は全8工区:中央沿いのA地区(1,2,7,8)と西武沿線のB地区3,4,5,6区からなり、それまで整備された道もなく雨が降れば往来にも苦労した一帯は、碁盤目状に道が整備され、現在の完成な住宅街の礎が築かれた。

荻窪上橋
「おぎくぼかみ」橋と読む。『杉並の川と橋』には、昭和5年(1930)には橋の表示があるが、橋名の初出は昭和26年(1951)とある。「今昔マップ 首都 1927‐1939」では、橋の表示は確認できなかった。後述の如く丸太橋といったものだったのだろうか。

界橋
次いで界橋。「さかい」橋と読む。上荻窪村と下荻窪村の境故の橋名。上荻窪村は南は新田街道(神明道)、北は青梅街道、西は西荻窪駅の東で上井草村と境を接し、東は新田街道から界橋を通り環八・東電杉並支社交差点から北に青梅街道までが尊域。下荻窪はその東、現在の成田と接する一帯である。
この橋は「今昔マップ 首都 1927‐1939」にはっきりと描かれている。『杉並の川と橋』には、この橋は明治13年(1880)橋の表示があるが、それは車馬も通れない丸太橋であったようだ。
昭和5年(1930)に井荻町の他の10の橋とともに木造橋となったようである。因みにその10の橋は、界橋、東吾橋、本村橋、鍛冶橋、中田橋、城山橋、真中橋、社橋、丸山橋、関根橋とのことである。その内昭和5年(1930)以前からあった橋としては関根橋、社橋、中田橋、本村橋、界橋のう5つであるが、すべて橋名はなく、車馬が通れたのは関根橋と本村橋のみ。その他は丸太橋であった、とあった(『杉並の川と橋』)。

荻野橋
『杉並の川と橋』には橋表示は昭和5年(1930)前後、橋名記載初出は昭和26年(1951)とある。「今昔マップ 首都 1927‐1939」には橋は描かれていないが、「今昔マップ 首都 1944‐1954」には現在の道筋とともに橋が表示されている。上記昭和5年(1930)に造られた井荻の10の橋にもないので、昭和5年(1930)以降の「いつの時か」架橋されたのだろう。
名前の由来は、松渓や松見と同じく景観から。辺りは一面の荻の原であったのだろう。
荻窪
そう言えば、荻窪の由来って、荻の茂る窪地であろうと推測し、チェックしていなかった。確認すると予測通りではあったのだが、荻野橋から中央線を隔てた北にある光明院の縁起に、和同元年(708)旅の僧が荻を刈り草堂を結び観音像を祀ったのがその起こり、とあった。草堂はその後荻堂と呼ばれ、荻窪の地名のはじまりとなった、と。さすがに和銅年間ということはないにしても、南北朝の頃の創建ではないかと言われる。

東吾橋
次いで東吾橋。「あづま」橋と読む。上述のごとく、橋は昭和5年(1030)に造られた10の木造橋のひとつ。橋名記載初出は昭和26年(1951)とのこと(『杉並の川と橋』)。
東吾を「あづま」と読むケースは少ない。日本中の苗字としても『東吾:あづま』の数は全国で数十といったもの。由来はなんだろう?まったくそれらしき資料はないのだが、「今昔マップ 首都 1896‐1909」から「今昔マップ 首都 1927‐1936」までの地図には、この辺りが「東」と表示されている。 東吾の「東」はこの地名と関係あるのかもしれない。では「吾」は?古語で「あ」と読む。また「吾」には「守る」との意味もあるようだ。「吾」の「五」は「木を組み合わせてつくった蓋」、「口」はもともとは祝詞(神への祈りの口上)を入れる器であり、ふたつ合わさって「祈りを守る」って意味となる、とか。 東吾の読みは「あづまあ>あずま」、意味はこの地「東」を守る、ということ? なんの根拠もないが、地名と吾の意味から妄想してみた。
ふたつの排水口
東吾橋を過ぎると二つの排水口が右岸に並ぶ。『杉並の川と橋』に大雑把ではあるが、イラストがあり、それによれば、共に松庵川の水路跡とのこと。下流の排水口は松庵川の中流、水路跡が神明通りから五日市街道へと南に下る箇所近くから、逆に北に向かいこの地で善福寺川に合わさる。上流から下る下水を中流域から善福寺川に流すために造られたようだ。
上流の排水口は松庵窪から中央線と松庵川本流の中間流れ、この地に下るようである。

本村橋
中央線手前に本村橋。「ほんむら」と読む。東吾橋と同じく「今昔マップ 首都 1896‐1909」から「今昔マップ 首都 1927‐1936」までの地図を見ると、中央線の北、青梅街道に囲まれた辺りに「本村」という地名が表示されている。「本村」と言うくらいであるから古くから開かれたところだろう。名主の名との記事もあった。
橋は『杉並近世絵図』に橋名とともに描かれている。「今昔マップ 首都 1896‐1909」にも四面道に向かう道とともに善福寺川に架かる橋が、はっきりと描かれている。現在は中央線に平行した道筋に架かるが、「今昔マップ 首都 1896‐1909」には中央線をクロスするように橋が架かっているようだ。

置田橋
中央線を越えると置田橋。善福寺川に北に住む「お北」婆さんに由来し、「置田」の字をあてた(『杉並の川と橋』)にあるが、あまりに出来すぎの気がするが、同書だけでなく橋脇にあった杉並区の案内にもあり、記録として記されている以上、一応それとしておく。
また『杉並の川と橋』には、橋名自体は昭和26年(1951)の台帳に記載があるが、昭和40年(1965)代にはじめて橋が表示されているとされる。が、「今昔マップ 首都 1944‐1954」には中央線の北を平行に通る道に橋が表示されているように見える。


神明橋
次いで神明橋。中央線の南、天祖神社・神明宮への道筋故の命名だろう。 『杉並の川と橋』には、置田橋と同じく、昭和40年(1965)代初表示、昭和26年(1951)橋名表示とあるが、「今昔マップ 首都 1944‐1954」には青梅街道・八丁交差点から南荻窪の天祖神社に下る道筋とともに橋も描かれていた。
八丁
「八丁」は、いつだったか今川観泉寺でメモした今川氏ゆかりの地名。織田信長に敗れ没落した今川氏は、家康が今川義元の人質であった縁から、義元の嫡子・氏真の庇護を得て京で暮らす。氏真の嫡孫直房は朝廷との交渉役である高家として徳川幕府に仕え、井草村・鷺宮村・中村3ヶ村500石を知行地を与えられた。その知行地は青梅街道から早稲田通り辺りまで「八町」ほどあり、それが転じて「八丁」となった、と言う。

■上荻の暗渠①
さて、「今昔マップ 首都 1944‐1954」には、この神明橋のひとつ上流に架かる出山橋の先に水路跡らしきものが表示されている。水路・窪地散歩に向かう途中、ついでのことなので橋のメモなどしてきたが、本来の目的は水路跡歩き。見逃さないように橋ではなく細路に注意しながら歩くことにする。
神明橋を越え、左岸を少し進むと中央にポールが立った細路がある。なんとなく水路跡の雰囲気。「今昔マップ 首都 1944‐1954」に描かれる水路らしきラインより少し手前ではあるが、とりあえず北に向かう。

コンクリート蓋の暗渠
一筋北の車道を越えた先にも、中央にポールのが立った細路が見える。その道はコンクリート蓋で覆われた暗渠となっている。その暗渠はもう一筋北の車道で先が消えていた。その先に大きな建物があるが、その北は台地となっている。台地の水を集めていたとすれば、更に北にも下水路が続いていたのかもしれない。

出山橋
予定外の暗渠に出合い、再び宇善福寺川筋まで戻り、先に進むと出山橋。前述の置田橋などと同じく、『杉並の川と橋』には、昭和40年(1965)代にはじめて橋が表示されているが、橋名自体は昭和26年(1951)の台帳に記載がある、とのことだが「今昔マップ 首都 1944‐1954」には整地された道筋と共に橋が表示されていた。
で、出山の由来だが、江戸時代の上荻窪村の小名に「出山」がある。また、明治2年の改定小字名としても「出山」とあるので、地名に拠るものだろう、 出山が何を意味するのか不明だが、地形図を見ると橋の北に3段からなる等高線が形成する台地が見える。それが川に向かって出た山と見たのだろか。なお、杉並では林のことを山と称することが多い。

■上荻の暗渠②
出山橋を越え先に進むと、鍛冶橋手前に細路があり、コンクリート蓋の暗渠が見える。これが「今昔マップ 首都 1944‐1954」に記されていた水路跡のようである。
民家の間のコンクリート蓋の暗渠を進み、一筋北の車道を越える。その先にも暗渠は続く。右手に笹薮に蔽われた廃屋などを見遣りながら先に進む。

その先の車道の北にも更に暗渠は続く。民家の間の暗渠を進むと左手に頌栄保育園。東西に通る車道は八丁南交差点からの道。暗渠はここで消える。 地形図を見ると、暗渠は出山橋でメモした3段からなる等高線が形成する台地の東端下を進み、等高線が善福寺川に沿って東に向かう辺りで消えている。台地によって暗渠は阻まれるが、台地上の宅地からの下水なども集めたのだろうか。

鍛冶橋
暗渠跡から善福寺川筋まで戻り、鍛冶橋を越える。この橋は昭和5年(1930)に木造の橋が架けられた。また橋名が見えるのは昭和26年(1951)とされる。 橋名の由来は忍川橋でメモした伊賀者に拠る。『杉並の川と橋』には、「鍛冶橋も鵜殿次郎兵衛政長が拝領した土地を、その子政尚が伊賀者となって受け継ぎ、配下の「徒歩」を住まわせたと言われている。それが後に「徒歩」から「鍛冶」に転化したと『杉並風土記』に記されている」とあった。
忍者は徒歩で出陣したため徒衆(かちしゅう)と呼ばれたわけだから、「徒歩」はいいとしても、徒歩>鍛冶への転化は今一つしっくりしないのだが、それはそれとして、忍川橋で登場した服部半蔵は下荻窪村(現在の荻窪、南荻窪1,2,4丁目)、その配下が上荻窪村(西荻南、西荻北、上荻、南荻窪2,3,4丁目)をその知行地としたようだ。大雑把に言って、荻窪はは頭の半蔵、西荻窪はその配下である伊賀衆の知行地である。

●西荻北の窪地
「Tokyo Terrain 東京地形地図」で作成
鍛冶橋を越えた辺りで善福寺川は北に向かい、中田橋を越え城山橋で東に向かう。現在は東西に直線に進むが、「今昔マップ 首都 1896‐1909」を見るとその流れは南西に進み、城山橋を先端にした舌状の形となっている。
その舌状部から南に数段の等高線が走り、そのうちの48m(49m?)等高線が南西に切れ込んで窪地を形成している。窪地の西には更に一段高い等高線が見れれるが、そこが往昔、源頼義が奥州下向の途中、陣を張ったと伝わる城山だろう。「山」とは言っても、川筋から5mほどの比高差であるが、前述の如く杉並では木々の茂る林を「山」と称していたようである。
それはともあれ、窪地を流れた水路跡の善福寺川合流点は?等高線から見ると、下流は中田橋、上流は舌状部の上流の関根橋の間であれば、どこで合流しても不自然ではない。とりあえず、善福寺川右岸に水路跡らしきものはないか注意しながら先に進むことにする。



中田橋
鍛冶橋のひとつ上流、北に向けた流路に中田橋が架かる。『杉並の川と橋』には『杉並近世絵図』に橋が描かれている、とある。実際「今昔マップ 首都 1896‐1909」にも、しっかりした道筋が善福寺川を東西にクロスしている。前述の如く、昭和5年(1930)に木造橋となったようだが、それ以前は丸太橋とのこと。橋に名前がついたのも昭和26年(1951)、と言う。
で、中田の由来だが、現在の上荻3丁目は、明治22年(1889)の小字名として、「中田」とある。江戸時代は上荻窪村の小名である本村とのことであるので、村の中心を通る道筋ではあったのだろう。

右岸に排水口と細路
中田橋のすぐ先に善福寺川に注ぐ排水口とその排水口へと北から通る細路がある。道はコンクリート舗装されており、その先に車止めが見えるが、水路跡かどうか不明である。もう少し上流まで進んでみる。






城山橋
善福頃の写真に、一面の田圃の中を流れる善福寺川を挟んで両岸に鬱蒼とした森が並ぶ。右岸が城山、左岸が荻窪八幡の森であろう。
『杉並の川と橋』には昭和5年(1930)に橋の表示があり、昭和26年(1951)の台帳に橋名の記録があるようだが、「今昔マップ 首都 1944‐1954」まで橋も道も確認できなかった。




■上荻の暗渠③
それはともあれ、城山橋まで進んだが、これといった水路跡は見つからない。城山橋の下に大きな排水口があり、ちょっと道筋を辿ってみたのだが、それといった痕跡もなく、何となく先ほどの排水口が水路跡だろうと、中田橋まで戻ることにする。
右岸を歩き始めると善福寺川が南にカーブする地点に北から細路が合わさる。川がカーブする地点に細路?なんとなく気になり細路を北に向かう。

コンクリート蓋の暗渠
一筋北の車道の先に、更に細路が続く。その一筋北、八丁南交差点からの車道を越えた先にはコンクリート蓋の暗渠が続く。暗渠を辿ると荻窪八幡前を東西に通る道に辺り、そこで暗渠は消える。
道の北には林が残っていた。湧水池でもないかと彷徨うが、特にそれらしきものはみあたらない。林が切れる一筋東の通りの角にある六地蔵の祠にお参りし、善福寺川に戻る。



■西荻北の窪地と暗渠を辿る

中田橋脇でチェックしておいた、排水口まで戻り、北に続く細路進む。道は舗装された普通の道である。

コンクリート蓋の暗渠
城山橋から南に下る車道を越えると、その先は低い段差となり、コンクリート蓋の暗渠となる。一安心。








切り込んだ等高線の窪地に向かう
暗渠を進み、城山橋からひとつ上流の真中橋から南に下る車道を越えると、暗渠は北に直角に曲がる。自宅で地形図をチェックすると、48m(多分?)等高線が南西に切れ込む窪地の真ん中あたりを進んでいた。




窪地南端手前で西に折れる
中田橋から東西に進む車道を越え、一筋南の車道とクロスし南に進む暗渠は右に折れ、真中橋のひとつ上流に架かる社橋から南に下る車道を越えると右に折れる。地形図で確認するとそこは48m等高線の南端近く、等高線が形成する窪地が西に向かう辺りであった。



窪地南端に向かう
西に向かう暗渠は一時コンクリート蓋が消え、普通の舗装道路となる。その先には「一時通行止め」の案内。「一時」という文字を拡大解釈し、その『曖昧さ』を言い訳にして先に進むと、道は直角に折れ南に進む。
コンクリート蓋の暗渠はないものの、細路の両側は高い段差となり、水路跡の趣を強く感じる。




窪地最南端を西に曲がり窪地の谷頭に
少々寂しげな水路跡を南に進むと道は西に直角に終れる。前面は一段高いところに廃屋が残る。何かの施設跡のようにも見える。地形図で確認すると、そこは等高線48mの南幡部であり、その等高線が形成する窪地の最奥部手前でもあった。



窪地最奥部
道を西に折れると関根橋から南に下る車道に出る。暗渠はここで消える。等高線48mの最奥部は、その車道の一筋西の車道に少し南に切れ込んで終えていた。 





「Tokyo Terrain 東京地形地図」で作成
散歩の時は窪地に集まる下水を集めたものかと思っていたのだが、揚堀との説明もある。また、城山下支流との名前もあった。揚堀については、「江戸期に、水車を動かすために落差をつけようと、善福寺川から引いた水路を城山の下を北から南に一直線にトンネルを掘って流した(『杉並風土記;森泰樹』)、とか「川から引かれた水路が城山の下を通っていた/七ツ井戸と呼ばれた井戸は、城山の南側に一列に7つ並んで掘られていた」といった記事があった。
杉並区の記事にも「善福寺川も台地直下を流れており、川から引かれた水路が城山の下を通っていました。また、七ツ井戸と呼ばれた井戸は、城山の南側に一列に7ツ並んで掘られていたようで、何故か土地の人々からは近付くことも恐れられていました」と言った説明があった。

上記説明のように、揚堀であるとすれば、取水口が上流に、かつ標高がこの窪地より高くなければならない。しかし、窪地を形成する等高線は舌状台地の先端部を廻り上流部まで廻りこみ、関根橋から上流のふたつ目の橋を東端として南に切り込んでいる。そしてその南にはより標高の高い2段の等高線が見える。

言わんとすることは、舌状台地を廻りこんだ上流部は、窪地より標高が高いわけではない、と言う事。むしろ2段というから2mほど窪地最奥部より低くなっている。川筋から取水しても数段上の等高線で形成される窪地に流れることなない。仮に説明にあるように、取水した水をトンネルを掘って通したとしても、それが流れるに足る比高差を考えると、中田橋から南に窪地へと進み始めたあたりでしかなく、窪地最奥部には水は通りそうにない。はてさて。どうもはっきりしないので、自分としてはこの窪地に残る暗渠は、台地から窪地に集まる下水を流した、というあたりで「思考停止」としておこうと思う。

これで散歩は終了。道なりに進みJR西荻窪駅に向かい、松庵窪を少し彷徨い本日の散歩を終える。

偶々出合った窪地がきっかけではじめた杉並区・善福寺の川筋の窪地、そしてその窪地を流れる水路を辿る散歩は、途中で善福寺川の旧流路までをカバーすることになり、結構長い散歩となった。その杉並の善福寺川筋の窪地と水路跡、そして旧流路散歩もこれで一応お終いとする。


善福寺川の谷筋から青梅街道の台地に上る途中、偶々出合った窪地を辿ると、そこには往昔の小沢川跡であった。そのメモの過程で作成した数値地図5mメッシュ(標高)の地形陰影段彩図には、小沢川跡が善福寺川筋から台地に切れ込む窪地としてくっきりと表れていた。
地形陰影段彩図には、その小沢川跡の窪地だけでなく、川筋から台地に切れ上がる窪地が見える。その窪地には小沢川跡と同じく、往昔の水路跡が残っているだろうとはじめた善福寺川筋の窪地散歩も、これで何回目になるだろうか。 最初は窪地だけ、と思っていたのだが、それぞれのメモの際、ちょっと昔の善福寺川の流れをチェックすると、その流れは現在のように河川工事の結果一本化された河川ではなく、幾つもの流れが複雑に田圃の中を流れていたのが見えてきた。
で、結局窪地だけでなく、善福寺川の旧流路も歩くことになったのだが、結果的にそれは河川改修された善福寺川の旧流路を活用したであろう揚堀・田用水跡でもあり、「旧流路・揚堀」と併記した散歩ラインアップも加わることになった。 今回の散歩も、地形陰影段彩図にかすかに見える西荻窪駅の北、善福寺川から切れ込む窪地を歩く散歩とともに、窪地散歩スタート地点へ行く途中で、成田西、善福寺川の南を進む旧流路・揚堀も辿る、といった窪地と旧水路・揚堀のコンビネーションとなった。
ルートは成田西1丁目の杉並児童公園辺りから善福寺川の旧流路・揚堀を進み、成田西3丁目と荻窪1丁目の境辺りの取水口辺りまで進み、そこからは善福寺川を環八、中央線を越え上荻に残る水路跡を歩き、西荻西の窪地に残るであろう水路跡散歩で締めくくることにする。


本日のルート;
成田西の旧流路・揚堀を辿る
和田堀公園>成園橋>旧流路・揚堀に入る>尾崎橋に>尾崎橋>宝昌寺>天王橋>屋倉橋>善福寺緑地公園に入る>成田西いこい緑地>成田西切通し公園>神通橋へ>善福寺川と合わさる
善福寺川を上流に
神通橋>松庵川合流点>西田端橋>大谷戸橋>松渓橋>松見橋>春日橋 >忍川下橋>忍川橋>忍川上橋>「与謝野晶子 鉄幹 ゆかりの地散策路」の碑>荻窪橋>荻窪上橋>界橋>荻野橋>東吾橋>本村橋>置田橋>神明橋 ■上荻の暗渠①
コンクリート蓋の暗渠>出山橋
■上荻の暗渠②
鍛冶橋>西荻北の窪地>中田橋>右岸に排水口と細路>城山橋
上荻の暗渠③
コンクリート蓋の暗渠

荻窪北の窪地と暗渠を辿る
コンクリート蓋の暗渠>切り込んだ等高線の窪地に向かう>窪地南端手前で西に折れる>窪地南端に向かう>窪地最南端を西に曲がり窪地の谷頭に>窪地最奥部



成田西の旧流路・揚堀を辿る

「Tokyo Terrain 東京地形地図」をもとに作成
善福寺川の南側の谷筋、成田西1丁目の成園橋に向かう。先日、成田東支流から、善福寺川の北側、成田東を流れる旧流路・揚堀を辿った時、「今昔マップ 1896-1909」に現在の成園橋の少し上流で二つの川筋が合流していた。
河川改修が実施される以前、善福寺川はいくつかの流路に分かれ田圃の間を流れていたと既に(一連の「杉並の窪地・水路散歩」のどこかで)メモしたが、現在の成園橋の少し上流で合流するふたつの流路のうち、ひとつは現在の善福寺川の川筋とほほ同じ。仮に「本流」と呼んでおく。
もうひとつ、左手と言うか、南から合わさる旧流路は上流の荻窪1丁目と成田西3丁目の境辺りから、はっきりとした水路跡を示し、「本流」に沿って流れ、成園橋の少し上流で合わさる。
本流に沿って流れた川筋には現在水路は残っていない。しかし、如何にも水路跡らしき道が続いている。現在の善福寺川の南側、成田西を通る如何にも水路跡らしき道筋を辿り、善福寺川の旧流路・揚堀の痕跡でもあれば、といった気持で旧流路合流点の成園橋の少し上流に向かったわけである。

和田堀公園
杉並区和泉の自宅を出て、大宮神社の参道手前の坂を下り、善福寺川に架かる宮下橋に。そこから和田堀公園を川沿いに八幡橋、御供米橋、大成橋、白山前橋と進む。
川の南側は台地が迫り崖面となっているが、北側は広く開析されている。川筋の北側の台地には弥生末期の松ノ木遺跡が残るわけで、古代、台地南に広がるこの開析された湿地では水稲耕作が行われていたのだろう。
往昔田圃であったこの開析地は先回散歩の折にメモした善福寺川公園と同じく、昭和39年(1964)に都市計画公園として整備され和田堀公園となった。川に架かる橋も農耕作用の「作場橋」の他、昭和39年(1964)以前には何もなかったとのことである。

成園橋
「Tokyo Terrain 東京地形地図」をもとに作成
川の北側の平坦地、南の善福寺川手前まで台地が迫る崖面を見遣りながら進む。大成橋を過ぎ、白山前橋辺りで崖面が少し南に後退し、成園橋辺りまで進むと、その崖地も南に後退し宅地も建ち平地が開ける。「今昔マップ 1896-1909」で、成園橋の上流辺りで複数の旧流路が合わさるのはこの地形故の自然の成り行きではあろう。
往昔の広く開析された川筋は、一般的に開析された谷筋の中央、そして左右の崖下を流れる三つの流れからなるパターンが多いとされるが、まさにその通りの絵柄である。中央の川筋は河川改修された後の現在の善福寺川に近く、北の崖下には先日散歩した成田東を進む旧流路・揚堀、そして南の崖下は今から辿る成田西を進む旧流路・揚堀となっているようだ。

旧流路・揚堀に入る
成園橋を過ぎると、進行方向斜めに入る道筋がある。「今昔マップ 1896-1909」で確認する限りでは、その道が旧流路と重なる。当時の本流(仮称)は、現在の善福寺川の流路とこの辺りでは、ほぼ同じであるので、この地が本流と支流からなる善福寺川が合わさる箇所であったのかと思う。
道を進み、比較的広い道を上流に進む。道にはこれといった水路跡の痕跡はないが、杉並児童交通公園の南端を善福寺川から折れてくる道には暗渠らしき道、車止めがある。根拠は無いが、河川改修に際し、旧流路とは別に田用水・揚堀が整備されたのかとも思える。

尾崎橋に
子供が幼い頃、よく利用されて頂きた杉並児童交通公園、それに続く善福寺川緑地運動場の西端を南北に通る道を進む。道は車道と歩道に分かれており、歩道部分が水路跡を示すようにペイントされている(思い込み過ぎ?)。 道を進むと尾崎橋西で五日市街道と交差する。その時は、何事もなく通り過ぎたのだが、メモの段階で『杉並の川と橋』をチェックしていると、この五日市街道とクロスする南北に揚堀に架かっていたふたつの橋の記事があった。歩いている時に、特に水路跡といった痕跡は何もなかったように思う。 痕跡は無かったのは少々残念ではあるが、今まで辿った道が、旧流路を利用したであろう揚堀であったことが確認でき、一安心。
道角橋
『杉並の川と橋』の概略図に拠れば、道角橋は五日市街道・成田西児童館前交差点の少し尾崎橋寄りのところから善福寺川に向かって右に折れる道が、いま歩いてきた道とT字路であたる箇所のようだ。
三(捻)年橋
五日市街道の北、道に沿って宝昌寺があるが、そのお寺さまと杉並第二小学校の間の坂を「三年坂」と称する。「急坂で転倒して怪我をすると三年でなくなる」というのが名前の由来、とか。それはともあれ、その坂を下り切ったところから昔の尾崎橋へと向う道と揚堀が交差する箇所に架かっていたようだ。
尾崎の七曲り
「馬橋村のなかばより、左に折れて山畑のかたへのほそき道をゆく」「つつらおりめたる坂をくだりて田面の畔を(進む)。他の中に小川ありて橋を渡る。これを尾崎橋」、といった記述もが尾崎橋の案内板に記してあったが、この「つつらおりめいたる」とは、尾崎の七曲のこと。
現在の五日市街道は工事により直線にはなっているが、昔は尾崎橋あたりはカーブの続く坂道であった、とか。往来の盛んな五日市街道が武蔵野台地から善福寺川の谷筋に下り、川を渡るわけだが、坂の勾配を緩やかにすべく道を九十九折>七曲りとして荷駄の往来をの負担を減らしたのだろう。道角橋や三年橋の架かっていた箇所は現在の五日市街道と「カクカク」と交わる。往昔の七曲りの名残のように見える。
なお、橋を越えた先、現在の五日市街道の北に弧を描いて進み、更にその先で南へ弧を描いて進む道が残るが、それが直線化される以前の旧五日市街道である。 先日、成田東・成田西を進む揚堀を辿るとき、尾崎橋の先でスタート地点を探すため土木事務所裏手の坂道で「民間信仰石塔」に出合ったが、その坂は白幡坂と称される旧五日市街道であった。

尾崎橋
五日市街道に架かる。上記「馬橋村のなかばより(中略)これを尾崎橋」との記録は享和3年(1803)の記録。戦前まで木造の橋であったようで、架橋箇所も現在より少し南に見える。鉄筋コンクリート橋となったのは昭和33年(1968)。この時川筋も改修され直線化され、現在の状況に近くなった。装飾が施された現在の橋は平成3年(1991)のことである(『杉並の川と橋』)。
尾崎の由来は「おさき」>突き出した台地の突端を意味する古称との説、上記白幡坂の由来でもある、源頼義に拠るとの説もある。源頼が奥州征伐のため当地を通過した際、源氏の白幡のような瑞雲があらわれ、これが因縁で大宮八幡宮を勧請することになったが、その白幡の見えた辺りを白幡、尾のあたりを尾崎と名付けた(大宮八幡宮縁起)」との伝説である。誠に地名の由来は諸説、定まることなし。

宝昌寺
五日市街道を渡ると宝昌寺。参道入口には石仏が建つ。案内には「白龍山宝昌寺は、曹洞宗の寺で、本尊は釈迦牟尼如来坐像です。
当寺は、文禄三年(一五九四)頃、中野成願寺五世葉山宗朔によって開創されました。曹洞宗となるまえは、真言宗の寺であったと思われ、室町期作の旧本尊大日如来像が現存しています。
江戸時代の宝昌寺は、成宗村の檀那寺として村民の信仰の拠りどころであり、また村内の熊野神社・須賀神社・白山神社の管理をする別当寺でもありました。 安政三年(一八五六)火災のため本堂を焼失、現在の本堂は大正十年に建立したものです。この火災により伝来の古記録類はほとんど失われましたが、寺内にはなお多数の板碑のほか、区内でも最古といわれる舟型地蔵尊や庚申塔などの文化財が所蔵されています。
境内に奉安する豊川稲荷社は、明治末年付近一帯が飢饉に襲われた時、人々の災難消除と五穀豊穣を祈願して、愛知県豊川閣から移し祀ったもので、その利益はいちぢるしく、大正時代から近在諸村に豊川稲荷信仰がひろまったといわれます、杉並区教育委員会」とあった。
尾崎熊野神社
善福寺川低地を望む、北に突き出した舌状台地に鎮座する成宗村字尾崎の鎮守さま。いつだったか、前述の三年坂を上り台地上を進み、大宮八幡や村内の白山神社とほぼ同年代の創建(正和元年(1312)頃とも)でなないか、とも伝わる古社を訪れたことがある。
境内から縄文前期の住居跡が発見され、縄文・弥生・古墳時代の石器・土器などが多く出土した。ために、「尾崎熊野遺跡」と名づけられた。 また、その時は見逃したのだが、この社には上記、揚堀に架かっていた「道角橋」の欄干が残るとのこと。その長さ3m戸いうから、揚堀の規模が想像できる。この欄干は河川改修・埋め立て工事の際に不明になっていたが、欄干の片側だけが善福寺川緑地で見つかった。

天王橋
尾崎橋を越え、北に突き出した舌状台地の崖下に沿って進む。「今昔マップ 1896-1909」にも、現在の善福寺川の流路とほほ同じである本流(仮称)とともに、舌状台地の崖下を進む水路跡がはっきりと描かれている。
道を進むと台地北端部には善福寺川を渡る天王橋がある。天王は「牛頭天王」のことであろうから、橋を渡った北にある須賀神社が橋名の由来、かと。素戔嗚尊を祀る須賀神社は、元は「牛頭天王社」と称されていた。明治の御代、天王=天皇を想起させるのは不敬にあたると改名。素戔嗚尊ゆかりの出雲の須賀神社としたのだろう。因みに「**神社」という呼称は明治以降のものである。

と、由来はわかったものの、由緒ありそうなこの橋は何時ごろ架けられたものだろう。河川改修工事以前の善福寺川に架かる橋は誠に少ない。先回の散歩のメモで、善福寺川緑地公園、和田堀公園一帯でも昔からに橋は作事橋と古道に架かる橋以外では相生橋だけ、といった記事があり(『杉並の川と橋』)、そのリストには屋倉橋、天王橋、尾崎橋が外されていた。思うに、この3つの橋は古道に架かっていた橋ではあったのだろう。
『杉並の川と橋』には、「通称鎌倉街道(注;鎌倉道は今よりもう少し北西を斜めに通っていたようである)にかかる橋で、尾崎の丘(翁山)を北に下ったところに架けられている。橋表示はないが、(中略)明治26年頃の大王橋は板が一枚置いてある橋であった。投渡橋は架けられていたのであろう。(中略)大正5年には橋が表示され・・・」とある。橋とはいうものの、かくの如き「橋」ではあったようである。
鎌倉街道
先回のメモを再掲;甲州街道が首都高速4号線と重なる京王線上北沢駅入口交差点近くに「鎌倉橋」交差点がある。ここは小田急線祖師谷駅北の千歳通り十字路から右に折れ、芦花公園、この鎌倉橋交差点、大宮神社、中野の鍋谷横丁をへて板橋へと向かう鎌倉街道中ツ道の道筋(「東ルート」と仮に呼ぶ)である。 また、杉並を通る鎌倉街道には、千歳通り十字路から北に南荻窪の天祖神明宮、四面道へと向かうルートもある(「北ルート」と仮に呼ぶ)。
このふたつのルートが所謂鎌倉街道と称される道であるが、そもそも、鎌倉街道は、「いざ鎌倉へ」のため新たに開削された道ではなく、旧来からあった道を繋ぎ鎌倉への道路網を造り上げたものとも言われる。上記ふたつのルートが関幹線とすれば、幹線を繋ぐ幾多の支線がある。田端神社脇の「鎌倉街道」も、そういった支線のひとつではないだろうか。
具体的な資料がないので想像ではあるが、「東ルート」、「北ルート」というふたつの幹線を繋ぐとすれば、「東ルート」からは大宮八幡から左に分かれ砦のあった田端神社の台地に向かい、「北ルート」からは五日市街道、人見街道あたりから田端神社方面へと向かい、二つの幹線を繋いだのではないだろうか。単なる妄想。根拠なし。

素戔嗚と牛頭天王
素戔嗚が牛頭天王と同一視されるようになったのは神仏習合の賜物。牛頭天王の父母は、道教の神であるトウオウフ(東王父)とセイオウボ(西王母)とされていた。ために、牛頭天王はのちには道教において冥界を司る最高神・タイザンフクン(泰山府君)とも同体視される。そこからさらにタイザンオウ(泰山王)(えんま)とも同体視されるに至った。
泰山府君の本地仏は地蔵菩薩ではあるが、泰山王・閻魔様の本地仏は薬師如来。素戔嗚尊の本地仏は薬師如来。ということで、牛頭天王=素戔嗚尊、という神仏習合関係が出来上がったのだろう。
また、素戔嗚尊は、新羅の曽尸茂利(ソシモリ)という地に居たとする所伝も『日本書紀』に記されている。「ソシモリ」は「ソシマリ」「ソモリ」ともいう韓国語。牛頭または牛首を意味する。素戔嗚尊と新羅との繋がりを意味するのか、素戔嗚尊と牛頭天王とのつながりを強めるためのものなのかよくわからない。が、素戔嗚尊と牛頭天王はどうあろうと同一視しておこうと、ということなった、との説もある。

屋倉橋
尾崎の台地先端部を廻り込み崖下の道を児童橋、屋倉橋へと進む。道脇の段差のある石段が水路跡の名残を伝える。屋倉は対岸の矢倉台より。屋倉とも表記される。先回もメモしたとおり、矢倉は本来は矢を備える倉の意味だが、物見・見張り台も矢倉>櫓と称するようになった。阿佐ヶ谷へ抜ける鎌倉道に面し、太田道灌が物見台を建てたとも伝わる。なお、この矢倉台には成宗の開発者である野口成宗の館があった、とも伝わる。
この橋も上記天王橋と同じく、昭和39年(1964)の善福寺川緑地事業以前には、古道に架かるささやかな橋ではあったのだろう。なにか情報がないものかと『杉並の川と橋』をチェックすると、屋倉橋の説明はなかったのだが、「橋の手前には善福寺川から引いた揚堀(田用水路)に権現橋が架っていた」との記事があった。旧水路跡の道筋にはそれといった橋の痕跡は見つからなかった。

善福寺緑地公園に入る
屋倉橋からの道筋は南に進むが、旧流路・揚堀跡は善福寺緑地公園に入る。水路跡はほどなく公園と宅地が建つ崖面の境を進む。公園と水路跡の間にはコンクリートの柱が立ち並び境を画する。
公園との境を進む水路跡は川筋から次第に離れてゆく。地形図を見ると屋倉橋の東辺りで等高線41m(だろう)が川筋から南に向かって離れてゆく。
善福寺川の旧流路
「今昔マップ 1896-1909」
現在は善福寺川緑地の中央を流れる善福寺川であるが、「今昔マップ 1896-1909」にはその流れは、ない。旧流路は屋倉橋の少し東で南北からの流れが合流し尾崎橋へと下っている。地図を辿ると、南から合流する流れは、現在辿っている成田西の旧流路、そして北からの流れは、これも先回の散歩で辿った成田東から成田西を流れる揚堀と重なり、また離れながら合流点に下る。旧流路を揚堀として活用したはず、といった思いで「旧流路・揚堀」と表記しているのだが、あがなち間違いでもなさそうである。

成田西いこい緑地
水路跡定番の民家への石段からのアプローチ、崖面の高い壁面、マンホール、車止めなどを見遣りながら、コンクリート柱で公園と区切られた水路跡を進む。水路跡の道も善福寺川から南を進んでいる。地形図を見ると善福寺川の谷筋に沿って続いた40m等高線(だろう)の南に41m、さらに42m等高線が台地に向かって南に広がっている。42m等高線が半円を描き南に突き出した辺りに成田いこい緑地があった。この辺りが川の南北に広がる善福寺川緑地の南側部分敷地が一番広くなっている箇所である。41m等高線と42m等高線の間の半円の箇所が緑地と見える。
因みに善福寺川緑地公園は、地下鉄丸の内線の開削で生じた土砂で湿地を埋め立て整備したとのことである。


成田西切通し公園
成田西いこい緑地の先にはコンクリート蓋の暗渠が続く。今回の揚堀散歩で初めての、如何にも水路跡といった風情である。その道を先に進むと左手が開け車道が見える。五日市街道である。
地図を見ると、水路跡と台地を区切る崖面上に「成田西切通し公園」の表示がある。特に尾根筋もないのだが、切り通しって、どういうこと?


「Tokyo Terrain 東京地形地図」をもとに作成
地形図をチェックすると、切り通し公園辺りで等高線42mが五日市街道を囲い、更に43mラインが五日市街道を囲い南へと切り込んでいる。
地形図を見る限りではこの1mほどの段差を開削しているのが「切り通し」と呼ばれる所以であろうかと思える。特に資料もないので、地形図だけからの妄想ではある。









神通橋へ
五日市街道に最接近した後は、宅地が崖面に迫る一帯を進む。宅地から水路跡に落ちる排水ダクト、民家への木造のアプローチ階段、5段からなる民家への石段といった水路跡の雰囲気が残る道を進む。成田西3丁目から荻窪1丁目に入る境に神通橋。



神通橋
先回のメモを再掲;『杉並の川と橋』に拠ると、「神通橋は、五日市街道の高井戸境から青梅街道へ抜ける通称「砂川道」に架かる橋である。この道は鎌倉道とも言われる古道で途中に田端神社が祀られている。田端神社は明治四十四年に現在名となるまでは、北野天満宮とか天満宮・田端天神と呼ばれていた。この神社は腰痛、足痛が治るということで参詣者も多く有名であった。その霊験にあやかって神通橋の名が付けられた。神通は、神通力と言われるように、仏語では「無碍自在で超人的な不思議な力やその働きを意味する」とあった。橋名の由来も地形や縁起などいろいろである。
「この道は鎌倉道とも言われる古道で・・・」云々は上記天王橋の箇所でメモしたので、ここでは省略。

善福寺川と合わさる
神通橋の西詰から少し橋を離れた辺りに車止めが見え、その先に道がある。民家の間の道を進むと石段となって善福寺川脇の遊歩道に下りる。ここで成田西を進んだ揚堀は善福寺川に合わさる。往昔、この地に取水口でもあったのだろか。現在は特にその痕跡はない。
「今昔マップ 1896-1909」に拠れば、現在の善福寺川の南を進んだ旧流路・揚堀は神通橋の少し上流で本流から分かれる。上で屋倉橋の東で合流した南北の流れの内、北を進む流れは矢倉台の先端部を迂回した先辺りからは現在の善福寺川の流れとほの同じルートを流れている。往昔はこの地で南北に分かれ、屋倉橋手前で合わさって尾崎橋へとくだっていったのだろう。 当日は、ここから更に善福寺川を遡り上荻の水路跡、そして西荻北の窪地に残る水路跡を辿ったのだが、そのメモは次回に廻す。
JR西荻窪駅地近くの窪地からはじまる松庵川を善福寺川との合流点まで辿り、その後、荻窪地区を流れていた善福寺川の旧流路・揚堀を辿り、最後に高野ヶ谷戸の水路源流部の荻窪駅へと歩いた散歩の後半部のメモをはじめる。 先回のメモでは西荻窪駅近くの松庵川、といっても下水路であったようだが、その水路跡・暗渠を西荻窪から南東に下り、荻窪の善福寺川との合流点までカバーした。当日はその後も成田東・成田西から荻窪に入った善福寺川の旧流路・揚堀を善福寺の取水口辺りまで辿った後、その旧流路・揚堀に荻窪駅方面から注ぐ高野ヶ谷戸の支流を歩いたのだが、先回のメモは松庵川で終えることにした。
今回はその散歩の続き、善福寺川の荻窪地区河川改修以前、現在の善福寺川の流路北に広がる田端田圃(西田田圃とも)と台地の境を流れていた善福寺川の旧流路・揚堀、そしてその旧流路・揚堀に注ぐ高野ヶ谷戸からの支流のメモをはじめる。


本日のルート;
 ■荻窪を流れた旧流路跡・揚堀を辿る
 神通橋>天保新堀用水と旧流路・揚堀が合わさる地点>天保新堀用水と善福寺川の旧流路・揚堀跡分岐点>田端神社の鎮座する台地の崖下を進む>西田保育園脇を進む>旧荻窪団地>北から高野ヶ谷戸からの水路跡>松渓橋への道との交差する箇所に車止め>荻外荘>松見橋への道と交差>善福寺川と合わさる
高野ケ谷戸をたどる
高野ヶ谷戸西側支線との分岐点
高野ケ谷戸西側支流(仮称)を辿る
コンクリート蓋の暗渠が現れる>水路跡が消える>コンクリート蓋の暗渠が北に進む
高野ケ谷戸中央支線(仮称)を辿る
民家の間の細路を進む>公園の池手前の道に出る>北に水路跡が続く>駐車場からさらに北に>中央図書館北の車道に水路跡が現れる>青梅街道・天沼陸橋付近
高野ケ谷戸東側支線(仮称)を辿る
大田黒公園北側の道を進む>車止めのある細路>源流点付近


荻窪を流れた旧流路跡・揚堀を辿る

神通橋
松庵川が善福寺川に合流する2箇所のうち、下流の合流点からメモをはじめる。合流点から少し下流に架かる神通橋を渡り、善福寺川の旧流路・揚堀と天保新堀用水の分岐点に向かう。「杉並 善福寺川筋の窪地・水路跡散歩 Ⅱ」で、成田東・西を進んで来た善福寺川の旧流路・揚堀から、思わず天保新堀用水に乗り換えた地点である。
神通橋
先回のメモを再掲;『杉並の川と橋』に拠ると、「神通橋は、五日市街道の高井戸境から青梅街道へ抜ける通称「砂川道」に架かる橋である。この道は鎌倉道とも言われる古道で途中に田端神社が祀られている。田端神社は明治四十四年に現在名となるまでは、北野天満宮とか天満宮・田端天神と呼ばれていた。この神社は腰痛、足痛が治るということで参詣者も多く有名であった。その霊験にあやかって神通橋の名が付けられた。神通は、神通力と言われるように、仏語では「無碍自在で超人的な不思議な力やその働きを意味する」とあった。橋名の由来も地形や縁起などいろいろである。

天保新堀用水と旧流路・揚堀が合わさる地点

神通橋を渡り、成田西4丁目と荻窪1丁目の境の道を進む。道の右手は矢倉台の台地先端部、善福寺川緑地公園となっている。成田東・成田西と進んできた旧流路・揚堀はこの台地を迂回し、善福寺川緑地公園に沿って台地崖線下を進み、台地先端部を廻り込む。
台地先端部を回り込んだ辺りは、成田西4丁目の共立女子学園研修センター杉並寮の辺りから、台地を穿ち胎内堀で進んできた天保新堀用水が、台地から姿を現した辺りではあろうが、その痕跡は見当たらない。
天保新堀用水のこの水路はカワウソだか洪水だか、その詳細は不明だが、土手が決壊し、結果別ルートが開削されることになったわけで、この天保新堀用水ルートが機能したのは2ケ月程とのこと。



とはいうものの、苦労して開削した取水口や水路が活用されなくなったわけではないだろう。旧流路を活用し、田用水路・揚堀として田畑を潤したものと思う。
実際、昭和22年(1947)の航空写真には、大谷戸橋下流(神通橋のふたつ上流に架かる)の取水口から現在の公園を南に下る水路が見える。また、揚堀もその水路に合流している。天保新堀用水として開削された水路は昭和の頃まで揚堀の一部として田畑を潤していたようである。しかし現在、その痕跡は何も、ない。
ともあれ、先回と同じく巨大なマンホールのある道を進み、先回の散歩で思わず天保新堀用水へと乗り換えた分岐点に。

天保・新堀用水 桃園川の窪地・水路跡の散歩の折のメモを再掲:
天保新堀用水の水源は青梅街道の南を流れる善福寺川である。天沼の弁天池を水源とする桃園川は水量が乏しく、千川上水・六ヶ村分水からの養水で水量を補っていた。しかしこの養水では天沼村・阿佐ヶ谷村は辛うじて潤うものの、更に下流の馬橋・高円寺・中野村には十分な水が届かず、その解決策として、水源を水量豊かな善福寺川に求めることにした。
取水口は現在の大谷戸橋付近。そこから善福寺川に沿って矢倉台を迂回し、途中胎内堀り(素掘り)で進み、現在の都立杉並高校の北にある須賀神社辺りの弁天池(明治に作成された「関東平野迅速測図」にも大きな池が記されている)に貯め、そこから先は、再び青梅街道の走る台地の下4mから5mに、高さ1.3m、幅1.6mの地下トンネルを穿ち(胎内堀り、と称する)、青梅街道の北、桃園川に下る窪地に水を落とすことにした。この窪地には用水開削以前から新堀用水と呼ばれる自然の水路が流れていたようである。
天保11年(1840)9月に貫通した天保新堀用水であるが、その2カ月後には善福寺川に沿って迂回していた田端・矢倉台付近の土手が崩壊。その原因は「カワウソ」であった、とか。実際は大雨による土手の決壊ではないだろうか。 それはともあれ、この対応策として川筋迂回は止め、大谷戸橋付近から弁天池にほぼ直線に進む水路を計画。途中の矢倉台は、550mを胎内堀りで抜く工事を再開。天保12年(1841)のことである。
胎内堀りは馬橋村の水盛大工である川崎銀蔵が五百分の一という極めて緩やかな勾配を掘り進め、新堀の窪地と繋げた。この用水の完成により、馬橋・高円寺・中野の村は、大正の頃までその地の田圃の半分ほどをこの用水で潤した、という。
善福寺川緑地
『杉並の川と橋』に拠れば、「善福寺川緑地および和田堀公園地内の橋」の項に「昭和39年に都市計画公園として事業化された両地域には、作場橋(農工作用の橋)の他、古道に架けられていた橋を除いて、一般通路用として橋は架けられていなかった。
善福寺川緑地公内の最西端に架けられている神通橋と最東端の大成橋との間には上流から、なかよし橋、西園橋、西田橋、せきれい橋、児童橋、相生橋、成田上橋、成田下橋、成園橋がある。昭和43年の「杉並区橋梁名称図」には相生橋以外その名が出てこない。相生橋は(中略)、昭和14年の「陸測図」には橋名の表記はないが、橋記号は表示されている。これは、昭和7年、田端田圃の中に杉並高等小学校が開校された時、通学用の新道が尾崎の丘方面に開通したので、善福寺川に架橋されたものと思う」とある。

この記事を読むだけで、昔一面の田圃であった善福寺川流域が宅地化が進み、人々の往来のための架橋、憩いの公園の整備といった流域の変遷を想像し得る。 なお、この橋一覧に屋倉橋、天王橋、尾崎橋の名がないが、この3つは古道に架かっていた橋ということだろうか。

旧流路・揚堀は荻窪地区に向かう
「Tokyo Terrain 東京地形地図」をもとに作成
先回の散歩で思わず天保新堀用水へと乗り換えた地点から、左手に天保新堀用水流路跡である天神橋公園を見遣りながら揚堀跡を先に進む。天神橋は台地上にある天神さまとも称された田端神社に由来するものだろう。
今から進む水路跡は、幾筋もの流れが交じり合って下った往昔の善福寺川の流路のひとつであろうかと思う。田端田圃(西田田圃)の中を蛇行しながら幾筋も流れていた善福寺川の河川改修は、昭和10年(1935)頃からはじまり、河川の一本化が完成したのは昭和45年(1970)と言う。「今昔マップ首都 1944-54」では幾筋かに分かれている善福寺川の流路が、「今昔マップ首都 1965-68」ではほぼ一本化されているのはこういった河川改修工事の結果であろう。
この辺は、昭和38年(1963)には松渓橋下(神通橋の3つ上流に架かる)まで、昭和39年(1964)から45年(1970)にかけて松渓橋上流の工事が行われたという。ということは、この辺りが善福寺川河川改修の仕上げの箇所であった、という事だろう。
善福寺川の河川改修
先回のメモを再掲;『杉並の川と橋』によれば、昭和10年(1935)頃に善福寺川流出口から鉄道橋下まで、昭和13年(1938)頃に中野境から駒が坂橋(注;環七の東)下流500m付近まで、その後戦争で中断した後、昭和21年(1946ぎ手はに工事再開し、堀之内本村橋下流まで、昭和25年(1950)には済美橋下まで、昭和26年(1951)には大松橋上流まで(注;現在の和田堀公園の東辺り)工事が行われ、昭和38年(1963)には松渓橋下まで、昭和39年(1964)から45年(1970)にかけて松渓橋上流の工事が行われ、河川が次第に一本化され、これによって田用水路などが暗渠化されていった。
旧流路・揚堀
メモで「旧流路・揚堀」と表記しているのは、揚堀はある程度河川改修をおこなった後、田を潤す用水として設けられた水路であろうが、古い地図を見ると、その水路は旧流路と被ることも多い。「経済合理性」の観点からも、揚堀・田用水は、新たに開削しなくても、幾筋にも分かれていた旧流路の「どれか」を活用したものであろうと推測し得る。また、旧流路がいつの頃から揚堀として整備されたか不明である。旧流路=揚堀、ではあろうが、揚堀として整備された日時が不明であるため、「便宜的」に「旧流路・揚堀」と併記表記している。

田端神社の鎮座する台地の崖下を進む
分岐点から先は、しばらく田端神社の鎮座する矢倉台の台地崖下に沿って進む。 『杉並の川と橋』に拠れば、「この台地一帯は「矢倉」または「屋倉」と言われ、『新編武蔵風土記稿』には「伝云鎌倉時代より陣屋櫓のありしを、・・・或は云成宗が柵迹なりと、・・・此辺りに鎌倉街道の迹ありと云う、但し此処より長新田道というあり、西五日市檜原街道なり」とあって、小田原北条氏の家臣大橋知行(成宗)の館跡とも言われている」とある。古くから開けた地のようである。
田端神社
田端村の鎮守。社伝によれば、応永年間(1394年-1429年)、足利持氏と上杉禅秀が戦ったとき、品川右京の家臣・良影がこの地に定住し、北野天神を勧請したことにはじまる。往時は北野神社とも、社の場所が「田の端」にあったため、田端天神とも呼ばれ、土地の産土神に。田端という地名は神社の名前に由来する。境内は古墳であった、と。なお、品川右京も良影も何者か不詳。
長新田道
上の矢倉台のメモで、長新田道との記述があった。チェックすると、これは西荻窪、大宮前新田辺りの五日市街道の呼称であった。五日市街道は場所によって、伊奈道、砂川道、青梅街道脇道、小金井道、長新田(ながしんでん)道、五日市道などと呼ばれていた。
伊奈道
五日市街道と呼ばれるようになったのは近世末期から近代になってから。それ以前は「伊奈道」と呼ばれていた。秋川に架かる山田大橋の辺りの地名は伊奈と呼ばれるが、ここでは伊奈石が採れた。平安末期には信州伊那谷の高遠から石工が集まっていた、と言う。で、江戸城築城に際し、この伊奈の石材を江戸に運ぶために整備された道が「伊奈道」である。
伊奈道が五日市街道となったのは、伊奈に替わって五日市に焦点が移った、ため。木材の集積の中心として五日市が伊奈にとって替わった。ために、道筋も五日市まで延ばされ、名称も五日市街道になった、という(『五日市市の古道と地名;五日市市郷土館』)。鎌倉街道山の道を高尾から秩父まで歩いた途中で伊奈の地を歩いた頃が少し懐かしい。

鎌倉街道
甲州街道が首都高速4号線と重なる京王線・上北沢駅入口交差点近くに「鎌倉橋」交差点がある。ここは小田急線・祖師谷駅北の千歳通り十字路から右に折れ、芦花公園、この鎌倉橋交差点、大宮神社、中野の鍋谷横丁をへて板橋へと向かう鎌倉街道中ツ道の道筋(「東ルート」と仮に呼ぶ)である。
また、杉並を通る鎌倉街道には、千歳通り十字路から北に南荻窪の天祖神明宮、四面道へと向かうルートもある(「北ルート」と仮に呼ぶ)。
このふたつのルートが所謂鎌倉街道と称される道であるが、そもそも、鎌倉街道は、「いざ鎌倉へ」のため新たに開削された道ではなく、旧来からあった道を繋ぎ鎌倉への道路網を造り上げたものとも言われる。上記ふたつのルートが関幹線とすれば、幹線を繋ぐ幾多の支線がある。田端神社脇の「鎌倉街道」も、そういった支線のひとつではないだろうか。
具体的な資料がないので想像ではあるが、「東ルート」、「北ルート」というふたつの幹線を繋ぐとすれば、「東ルート」からは大宮八幡から左に分かれ砦のあった田端神社の台地に向かい、「北ルート」からは五日市街道、人見街道あたりから田端神社方面へと向かい、二つの幹線を繋いだのではないだろうか。単なる妄想。根拠なし。

西田保育園脇を進む
水路跡脇に西田保育園がある。地名に西田がないのは、先回のメモの東田中学校の由来と同じ。成田は成宗と田畑の合成地名というが、時系列でより正確に言えば、田端は成宗を左右から囲んでおり、成宗の東側の田端を東田、西側を西田とした。
その後、成宗1丁目と東田1丁目・2丁目の一部が合わさり成田東となった。同様に、成宗2丁目と1丁目、西田町2丁目の一部を合わせてできたのが成田西である。昭和44年(1969)の新住居表示にともなう施行であった。

旧荻窪団地で荻窪地区に入る
西田保育園の少し先で成田西4丁目から荻窪3丁目に入る。成田から荻窪に入ると、水路跡であろう道の南にUR都市機構(前身は「日本住宅公団」)の「シャレール荻窪」の建物が並ぶ。この宅地は元の荻窪団地跡にできたものである。 『杉並の川と橋』に拠れば、「西田町の田端田圃(当時は西田田圃とも言われていた)が住宅公団建設用地に姿を変えた。(昭和)三十三年には二十七棟の五階建て団地が建設され、三十四年には「荻窪団地」と名付けられた入居が始まった。(中略)団地ができる前の西田町の人口(昭和二十五年)は851人であったのが昭和三十七年には3099人になり。四十年には3336人となった。これは荻窪団地だけの人口増ではなく、付近の雑木林や畑地に社宅や都営団地等が建設された結果である」とある。
再開発される前、この辺りを歩いたことがあるのだが、現在では古い住宅が消え去り、様変わりしていた。なお、「シャレール」とはUR都市機構の統一ブランド名らしく、各地に「シャレール」を冠した宅地がある。シャレールとは「洒落る」を捩ったもの?フランス語で、chaleureux、真心のこもった、との意味もある。

北から高野ヶ谷戸からの水路跡
旧荻窪団地跡の再開発された宅地を見遣りながら、旧荻窪団地東北端、「大谷戸かえで公園」の東端辺りで、水路跡は車道を離れ民家の間に入る。車止めも何もなく、水路跡?と思いながら歩いていると、道の北側に車止めが見える。高野ヶ谷戸からの流れが旧流路・揚堀に注ぐ箇所ではあろう。ちょっと安心。高野ヶ谷戸は荻窪を進むこの旧流路・揚堀を辿った後に歩くことにして、とりあえず先に進む。



松渓橋への道との交差する箇所に車止め
どうといったことのない車道を進むと、坂を下る車道と交差する先が少し狭くなり車止めがある。安心。この坂を下る車道は松渓橋に続く。
松渓
松渓の由来は先回もメモしたように、『松渓中学校の元校長のコメントとして「学校から眺めるこの風景が中国雲南省桂林の松と渓谷の風景に似ているので校名を松渓と名付けた」とあった。松渓の出処は校長先生にあった(『杉並の川と橋』より)。
学校は柳窪を形成する標高45mラインから数段下がった等高線上、善福寺川に突き出た台地上にある。往昔は一面に松林が茂り、台地下を流れる善福寺川と相まって「松渓」の景観を呈していたのであろう。

荻外荘
車道先に整備された遊歩道を進むと道の左手に公園が見えてくる。1万坪もあったと言う近衛文麿公の邸宅である「荻外(てきがい)荘」跡地の一部を整備して造られた区立公園である。
『杉並の川と橋』に拠れば、荻外荘は「大正天皇の侍医であった入沢達吉博士(東京帝大教授)が宮内省を退官する時、この地約二万坪を購入(一説には功績によって宮内省から贈られたものという)して家を建てたと言われている。近衛公が第一次内閣総理大臣(注;第一次近衛内閣のことだろう)に任命された時、入沢博士から半分を譲り受けた。(中略)「荻外荘」の名は、当時上荻窪の関根あたりに住んでいた有馬頼寧公の命名であると言われている」とある。

Wikipediaなどを参考にもう少し荻外荘についてまとめると、松渓の由来でもメモしたように、この地は中国雲南省桂林の松と渓谷の風景に似るという。南面の台地から一面の田圃、その中を流れる善福寺川、対岸の高台の松林の向こうには富士山を見渡せるこの景勝の地に惚れ込んだ近衛公は入沢博士に願い、昭和12年(1937)にこの地1万坪を購入した。本邸は目白にあるのだが、この別邸に住み始めてからは、本邸に戻ることはなかった、と言う。
近衛公はこの別邸を政治の場としても活用し、第二次世界大戦前夜の重要な国策の決定がこの荻外荘なされた。と言う。連合艦隊司令長官・山本五十六が対米決戦の見通しに関する質問に対し「初め半年や1年は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、2年3年となれば、全く確信は持てぬ」と答えたのもこの荻外荘でのことと言われる。
戦後は一時期吉田茂が近衛家から借りて私邸代わりとしていた時期もある、と言う。昭和35年(1960)には邸宅のおよそ半分の建物が巣鴨にある天理教の敷地内に移築され寮宿舎となっている(非公開)。平成25年(2013)、地元住民の要望を受け杉並区が荻外荘を買い取ることになり、平成27年(2015)年3月、敷地の一部が荻外荘公園として公開された。

松見橋への道と交差
荻外荘公園を過ぎ、台地から松見橋に下る車道と交差する箇所に車止めがあり、その先は公園として整備されている。
松見
松見の由来は、前回メモしたように、景観・地形から。松渓の由来にあるように、台地に松林の茂る景観を表したものである。





善福寺川と合流
松見橋への道を超え、荻窪第二児童遊園として整備されている水路跡を少し進むと水路跡は善福寺川にあたる。水路跡が善福寺川と合わさる箇所に水管口が見える。往昔の揚堀の取水口辺りではあるが、田圃などなにもない現在、揚堀が機能しているとも思えないため取水口とも思えない。雨水の排出口だろうか。




高野ケ谷戸をたどる

荻窪を流れる善福寺川の旧流路・揚堀跡を歩き終え、途中目にした、高野ケ谷戸からの水路合流点に戻る。地形図をチェックすると合流点辺りから北の台地に切れ込んだ窪地は、上部で二つにわかれ、ひとつは大田黒公園に沿って荻窪駅方面へと東北へ、もう一方は杉並区中央図書館辺りへと西東へと向かって等高線が延びている。

高野ヶ谷戸東側支線(仮称)との分岐点
車止めのある合流点から水路跡をイメージしたような美しくカラーリングされた道を進む。ほどなく東西に走る一車線の車道にあたる。カラーリングされた道は車止めの先、北に進むのだが、交差する車道の右手、一筋東を北に上る道に通路を分ける小さいコンクリートの標識が断続して続いているのが見える。水路や埋設鉄管を示す標識であることが多いので、ちょっと気になり寄り道をする。

高野ケ谷戸東側支線(仮称)を辿る

コンクリート蓋の暗渠が現れる
断続して続くコンクリートの標識に沿って進むと、道にはマンホールが顔を出す。水路跡なのか下水網なのかはっきりしないので、もう少し先に進むと車止めがあり、道も狭くなる。そして、その先、東西に通る道と交差する先には車止めが見え、道はコンクリート蓋の暗渠となって北に向かう。水路跡であった。

水路跡が民家で塞がれる
その先で水路跡は民家に遮られ消えてしまう。地図を見ると、民家の立ち並ぶ北に、如何にも水路跡といった道が続いている。宅地の右に通る道を迂回し水路跡の道筋に向かう。
コンクリート蓋の暗渠が北に進む
迂回し、水路跡の道筋に回り込む。回り込んだ民家の間の道にはマンホールが見えるが、民家の間の道といった趣で水路跡といったものではない。 何かしら痕跡はないものかと、少し北に進むとコンクリート蓋に覆われた暗渠が登場するが、通行禁止となっている。暗渠を進めば中央図書館脇の池の辺りに繋がりそう、ということを確認し、分岐点へと戻る。

高野ケ谷戸中央支線(仮称)を辿る
分岐点に戻り、再びカラーリングされた道を進むと大田黒公園北側を荻窪駅方面に向かう道に出る。左に折れれば、地形図で確認した高野ケ谷戸の上部で北東に等高線が切れ込む窪地である。左に進もうか、などと思っていると、少し右手の民家の間に土嚢が見え、その先は如何にも水路跡と思しき道が北に続く。とりあえず民家の間の道を辿ってみる。

民家の間の細路を進む
コンクリート蓋の暗渠を進み、左に折れると道はいよいよ狭くなる。先に進み直角に右に折れるところには網戸が置いてあり道を塞ぐ。少し動かし、元の位置に戻し先に進む。道の右手は年代物の高い石垣が組まれており、往昔の水路跡の趣が感じられる。その先、草生した石垣の辺りを過ぎると宅地開発された辺りに入り、道の両側も少し新しいコンクリート塀で囲われることになる。

公園の池手前の道に出る
水路跡を進むと鉄柵で行く手が阻まれる。鉄柵の先は車道となっている。鉄柵も低かったので、申し訳ないとは思いながら柵を越えて車道に出る。車道の右手の北には中央図書館脇の公園の池がある。そこまで続いているのだろうかと、 水路跡を探す。



北に水路跡が続く
と、車道北の民家の間に水路跡が見える。道は厳重に鉄柵で遮られており、歩くことはできない。地図を見ると、水路跡が北に延びる先に駐車場がある。そこに右から迂回し、駐車場まで進んできた水路跡を確認することにする。



駐車場からさらに北に
駐車場東南端の民家脇から駐車場に水路跡が現れる。予想では杉並区中央図書館左の「読書の森公園」に見える池に繋がると思っていたのだが、予想に反し、水路跡は真っ直ぐに北に向かう。
水路跡は誠に細く、また「読書の森公園」公園は柵で囲まれているため水路跡に沿って進むことはできない。仕方なく、道を迂回し水路跡が北の車道にあたる箇所に向かう。



中央図書館北の車道に水路跡が現れる
駐車場から一筋北の道に。その道はJR荻窪駅から杉並区中央図書館に向かう幾度も通った道であった。その道の公園東端から細い暗渠が道まで続き、道の北、民家の間を、これも誠に細いコンクリート蓋の暗渠となって更に北に向かう。 ここまで来ると、窪地から離れてしまう。思うに、桃園川の窪地散歩の折にメモしたように、桃園川を養水した千川上水の六ヶ村分水から水を取り入れたのかとも思えてきた。
千川上水・六ヶ村分水
千川上水・六ヶ村分水は、練馬区関町で本流から分かれ、青梅街道に沿って台地上を下り、上井草・下井草・下荻窪・天沼・阿佐ヶ谷の六つの村に水を送る用水路。乏しい水量の桃園川への養水の役割を担った。

青梅街道・天沼陸橋付近・中央支線・取水口(?)
ついでのことであもるので、千川上水・六ヶ村分水が通った青梅街道まで進み、何か水路跡の痕跡でもないものかと確認に向かう。
道を少し東に戻り、青梅街道の天沼陸橋脇の道に出る。天沼陸橋交差点を少し西に進み、北に進んだ水路跡を探してビルの間の駐車場などの入り込むが、駐車場の南はそれらしき雰囲気なのだが、遮蔽物があり水路の確認はできなかった。
それはそれで少々残念ではあったが、高野ヶ谷戸から揚堀に注ぐ水は窪地からの水だけでなく、確証はないものの、千川上水・六ヶ村分水からの養水も含まれいたようだ、という可能性を感じただけで少々満足。

高野ケ谷戸西側支線(仮称)を辿る

大田黒公園北側の道を進む
青梅街道から高野ケ谷戸中央支線(仮称)と分かれた太田黒公園北の分岐点に戻る。地形図によれば、窪地は太田黒公園北の道に沿って北東に延びている。仮に高野ケ谷戸東側支線と名付けることにして公園北の道を進む。
大田黒公園
明治26年(1893)生まれ。裕福な環境で育ち、大正から昭和に渡って音楽評論家・批評家として活躍。音楽にあまり興味のない私でもその名を知る吉田秀和氏をして「大正リベラリズムが生んだひとつの典型。今でもあの人が私の唯一の先輩」と評されるほどの人物である。大田黒公園はその邸宅跡を整備し昭和56年(1981)に開園した区立公園である。

車止めのある細路
天沼陸橋南交差点から下る道と交差する先に、車止めある細路が直進する。地形図でも確認した高野ヶ谷戸の東北端はその先である。人ひとり通れるかどうか、といった細路を進むと車道にあたる。






源流点付近
車道の先には、更に狭くなった水路跡らしき道が民家の間に見える。細路を進むと道は右に曲がり、車道にあたる。地形図によれば、この辺りが高野ヶ谷戸の北東端と一致する。





分流
「Tokyo Terrain 東京地形地図」をもとに作成
上でメモした「更に狭くなった水路跡らしき道」が見える車道で水路は分岐するといった記事もあった。等高線44mで引いた高野ヶ谷戸は上記源流点辺りが塔北端となるのだが、そのさらに一段高い等高線45mラインで見ると、荻窪駅手前まで扇形に大きく広がっている。
高野ヶ谷戸は地形図で見る限り標高44mラインで形成される窪地と思うのだが、標高45mラインで囲まれた一帯からの水も集め、高野ヶ谷戸の水路に合していたのだろうか。または、先ほどの中央支線と同様、千川上水・六ヶ村分水からの「養水路」であったのだろうか。不明である。
車道分岐点から道なりに左に進み、車道を右に折れ荻窪駅方面に向かう。これといった水路跡の痕跡は見つからなかった。荻窪駅から善福寺川に架かる忍川橋を越え環八・桃井二小交差点に向かう車道と交差する地点まで歩き、今回の散歩を終えることにする。

杉並の窪地・水路跡散歩もこれで終わりか、と思ったのだが、チェックすると善福寺川の南の成田西地区に旧水路跡・揚堀がある。また、善福寺川を上った中央線の北、西荻窪に窪地、上荻にも水路跡が地図に見える。ついでのことでもあるので、杉並区の窪地・水路跡をほぼカバーすべく、次回も地味に杉並の窪地、旧流路を歩くことにする。
先回の散歩は善福寺川筋の窪地散歩と共に、メモの過程で気になってきた善福寺川の旧流路、その流路を活用した(と思われる)揚堀を辿ることになった。堀ノ内の揚堀を進み、窪地に残る松ノ木支流、成田東支流を辿った後、成田東の善福寺川旧流路・揚堀を進み、更に成田東・成田西の善福寺川旧流路・揚堀を進んだのだが、途中で合流してきた桃園川の養水路である天保新堀用水の取水口が気になり、旧流路・揚堀が荻窪に入った辺りで天保新堀用水の水路跡に乗り換えた。

今回は歩き残した、荻窪を進む旧流路・揚堀散歩とするのだが、天保新堀用水の水路に乗り換えた地点まで、そのためだけに歩くのは少々ウザったい。なにかいいルートの組み合わせがないかと地図を眺めていると、西荻窪駅付近から下る松庵川水路跡の善福寺川合流点が、成田東・西を進んできた揚堀と天保新堀用水の分岐点のすぐ近くにある。
ということで、今回の散歩は松庵川水路跡からはじめ、先回歩き残した成田東・西から荻窪に入った善福寺川の旧流路・揚堀を歩き、更に荻窪を流れた揚堀・旧流路に合わさる高野ヶ谷戸からの支流を辿ることにした。


本日のルート:JR西荻窪駅>松庵川源流点付近>本田東公園>上流部の水路跡を探す>松庵川の水路跡が現れる>車道に出る>水路跡は消える>水路跡が現れる>高井戸第四小学校>宮前3丁目で水路跡が消える>神明道路わきに水路跡が現れる>民家の間を細路となって南に下る>車道の先にも水路跡が続く>通行禁止の看板>水路跡が消える>慈光寺境内に水路跡>慈光駐車場で水路跡が消える>不可解な地形>神明通りへ>民家敷地に水路跡>環八とクロス>柳窪公園>水路跡が現れる>旧環八に沿って民家の間を北に>コンクリート蓋の暗渠が現れる>暗渠はふたつに分かれる>善福寺川との合流箇所①>分岐点から下流への暗渠を辿る>水路跡が消える>松渓橋から西田端橋へ>善福寺川との合流点②

JR西荻窪駅
松庵川の源流点の最寄り駅である西荻窪駅に向かう。大正11年(1922)開業の駅である。当時の井荻村の村長である内田秀五郎が私財を擲ち、誘致活動を行った、とのこと。氏は井荻土地区画整理事業で知られるが、西荻窪駅だけでなく、西武新宿線(当時の西武村山線)の上井草・井荻・下井草各駅の開設、電灯の敷設置(大正10年;1921)、井荻水道の完成(昭和7年;1932)など、地域住民の住環境整備に尽力した。
いつだったか、善福寺池を訪れ池畔にある浄水所取水井近くで氏の銅像を見たことがある。そのときは、それほどの人物といったことも知らず、軽く眺め通り過ぎてしまっただけであった。



井荻土地地区区画事業
井荻村(現在の井草、下井草、上井草、清水、今川、桃井、善福寺、荻窪(一部)、上荻、西荻北、西荻南(一部)、南荻窪にほぼ相当する)一帯の整然とした区画され、落ち着いた街並みは、大正14年(1925)から昭和10年(1935)にかけて実施された区画整理事業の賜物である。井荻村に隣接した高円寺や野方の入り組んだ街並みと比べて、その差は歴然としている。
事業策定のきっかけは大正12年(1923)の関東大震災。壊滅した都心を離れ東京西郊に宅地を求める状況に、無秩序な宅地開発を防止すべく区画整理事業を立案した。
工区は全8工区:中央沿いのA地区(1,2,7,8)と西武沿線のB地区3,4,5,6区からなり、それまで整備された道もなく雨が降れば往来にも苦労した一帯は、碁盤目状に道が整備され、現在の閑静な住宅街の礎が築かれた。

松庵川源流点付近
松庵川の源流点に向かって西荻窪駅から西に向かう。源流点は吉祥女子校辺りの「松庵窪」と言う。カシミール3Dで作成した数値地図5mメッシュ(標高)の地形陰影段彩図で事前に確認すると、善福寺川から切れ込んだ窪地は蛇行しながら西荻窪駅辺りまで切れ上がり、西荻窪駅の西で中央線の南北を囲み、松庵3丁目と吉祥寺南町5丁目の境辺りで中央線の北、現在の吉祥寺東町4丁目を囲むように形成されている(注;数値地図5mメッシュ(標高)の地形陰影段彩図と同様の地形図がWEB(「Tokyo Terrain 東京地形図」)公開されており、kmlファイルをダウンロードすれば地形陰影段彩がマッピングされたGoogle Earthで閲覧できる)。

源流点はこの吉祥寺東町4丁目辺りであろうとチェックすると、松庵川は自然河川ではなかったようであり、源流点という言葉も適切かどうか、といた「川」であった。『杉並の川と橋』によれば、松庵川はこの窪地・松庵窪に集まる吉祥寺方面からの下水・悪水と、甲武鉄道敷設工事にともなう工事用土採掘後の湧水を処理する水路とのことである。水路は大正後期に開削されたようだが、昭和初期には宅地開発の影響ですでに下水路となっていた、と言う。
それはそれでいいのだが、それにしては松庵川筋の窪地は結構大きく長い。ちょっと昔は下水・悪水処理の水路ではあったのだろうが、標高点は井之頭池や善福寺池、妙法寺池、石神井川の水源地といった、東京の川の源流となった湧水点と同じ標高50m辺りである。はるか昔には豊かな湧水が湧きし今に残る窪地を形成したのであろうか。
松庵
松庵とは趣のある地名である。由来をチェックすると、江戸の頃、荻野松庵が拓いた松庵新田に拠る、とのことであった。
男窪・女窪
上に、「甲武鉄道敷設工事にともなう工事用土採掘後の湧水を処理する水路」とメモしたが、この鉄道敷設用土砂採取跡は中央線の北に女窪、南に男窪があり、男窪からの流れが松庵川の本流水路といった記述が『杉並の川と橋:杉並区立郷土博物館』ある。しかしながら。地図が少々大雑把であり、また、同書の男窪の位置が地形図の松庵窪と大きくはずれているので、参考にするのは止めにした。

本田東公園
自然河川ではない以上、源流点探しは無意味と止めにし、吉祥寺女子校辺りを彷徨い、窪地らしき雰囲気を感じることにする。何となく窪地といった感じもするのだが、いまひとつはっきりとした「窪地」の実感はない。
水路に関する何らかの痕跡はないものかと辺りを見回しながら歩いていると、吉祥寺東町4丁目と西荻北3丁目の境、中央線と接するところに公園があった。今までの街歩きからの経験で、公園は元行政の敷地跡のことも多い。ちょっと気になりチェックすると、この公園には昔、下水処理のポンプ場があった、とのこと。大正末期より宅地開発された吉祥寺地区から松庵窪に流れ込む下水を処理する施設であった、と言う。
「Tokyo Terrain 東京地形地図」をもとに作成
吉祥寺の南、玉川上水が走る尾根道が神田川と善福寺川の分水界である。ために、吉祥寺近辺からの生活廃水は自然とこの松庵窪に集まることになる。しかし、松庵川下水路の規模では西荻窪近辺の下水処理で手一杯であり、しかも行政区の異なる吉祥寺の下水を、松庵川>善福寺川に流すのも筋違いと、この地に下水処理場を設け、神田川に送水していたと言う(『杉並の川と橋』)。 下水処理場は昭和27年(1952)に建設が開始され、完成したのは昭和35年(1960)。その後昭和44年(1969)に下水処理網として善福寺幹線が完成したため、昭和45年(1970)には下水ポンプ場が休止になり、その跡地は「下水ポンプ場公園」となった。現在は合流式下水改善施設(大雨時に一時的に下水を貯める施設)を兼ねた本田東公園となっている。
なお、本田東の由来は、この辺りの昔の小字に「本田北」とか「本田南」といった地名があったようであるので、地名故のものだろう。

上流部の水路跡を探す
数値地図5mメッシュ(標高)の地形陰影段彩図で見ると、窪地は本田東公園から中央線の南北を囲み、西荻窪駅近くまで東西に延び、駅手前から中央線の南を南東に向かって続く。西荻窪駅の南側を上る坂があるが、そこが窪地と台地の境ではあろう。
その中央線沿いの緩やかな坂を上り切った辺りと、その手前に南に下る二筋の坂道に古い趣の橋の欄干が残る。坂道の両側は民家が立ち並び水路跡の痕跡を見つけることはできないが、松庵窪から下った水路は、この坂道の下あたりを進んだのだろうか。

松庵川の水路跡が現れる
道を西荻窪駅方向に向かい、中央線高架下を通る道路から、少し東を南に進む坂を下り水路跡を探す。と、橋の欄干といった石柱が残る坂を下りきったところに、東に延びる、如何にも水路跡といった細路が見えた。
それはそれで嬉しいのだが、それでは坂にあった橋の欄干は何だったんだろう?橋の欄干下に水路があったとすれば、今出合った水路と繋がるのは欄干下で直角に曲がらなければならない。少々無理がある。
水路跡と暗渠化工事された下水路が同じルートとも限らないし、橋の欄干自体が元々の場所なのか、道路工事に際し移されたものなのかもはっきりしないわけで、疑問は抱きながらも、とりあえず、坂下で見つけた水路跡を松庵窪からの水路跡と「思い込み」、先に進むことにする。

車道に出る
狭い水路跡を進む。水路跡にはマンホールも埋められてあり、それらしき雰囲気の道となっている。直角に曲がる箇所があったが、自然河川であれば不自然ではあるが、下水路であれば、それほどの違和感はない。宅地化された民家の敷地を避けて下水路がつくられたのだろう。直角に2度ほど曲がり、車道にでる。

水路跡は消える
車道に出ると水路跡は消える。地形図を見ると窪地は南へと延びている。とりあえず道なりに南に進む。『杉並の川と橋』に下水は高井戸第四小学校前を進んだとあるので、その道筋まで水路跡は無いものかと、区画整理された道を「カクカク」と直角に折れて進む。





民家の間に細い水路跡が現れる
「カクカク」と車道を直角に折れ、西荻窪駅前からの車道の二筋東の通り、西荻窪2丁目17と16の間を南に下り西荻首2丁目11との境まで進む。 そこから東西に延びる道を西に進めば高井戸第四小学校にあたる。と、その道筋に、車道と分ける鉄柵が並ぶ。何か地中に埋まっている予感。
その鉄柵の始点に向かって東に少し進むと、西荻窪2丁目17-2辺りの民家の間に金網が張られてあり、民家の間に如何にも水路跡といった細路が北に延びている。人ひとりも通れないほどの狭い道筋である。ここで再び水路跡が登場してきた。

高井戸第四小学校
水路跡を確認し、高井戸第四小学校方向へと道を進むと、水路跡と車道の仕切り柵が道の北から南に移る箇所からコンクリート蓋の暗渠が登場する。 暗渠は高井戸第四小学校前を進む。『杉並の川と橋』には「昭和12年高井戸第四小学校建設が決められた時、「大宮前下水の汚水停滞、汚染甚だしく保健衛生上からも改修しておかないと、万一の洪水によって新設の学校が被害を受けるという事があってはいかないので、至急改修してほしい」旨の陳情が出されている」とある。
暗渠がこの改修と関係あるのかどうか不明ではあるが、松庵川が下水路であったことはこれではっきりわかる。また、松庵川は「大宮前下水」とも呼ばれていたようである。この場合の大宮は宮前3丁目にある春日神社のことだろう。

金太郎の車止め
高井戸第四小学校のある西荻南1丁目を進み、天照院あたりで宮前3丁目に入る。道の南側にあった車道との区切り柵が北に移った先で水路跡は北に折れる。入口には「金太郎の車止め」があり、そこを少し進むとすぐに右にコンクリート蓋の暗渠が続く。金太郎の車止めは、杉並区では水路跡・暗渠を示す行政の標識である。

宮前3丁目で水路跡が消える
暗渠を辿ると車道に出て水路は消える。水路跡の消えた先には新築のマンション(関根マンション)があり、水路跡のラインに沿って通り抜けができるため、何か痕跡でもないものかと進むが、何もなく、一筋先の車道に出る。 消えた水路跡のその先を想うに、『杉並の川と橋』には、誠に大雑把ではあるが、水路跡は「新田街道」へと向かっている。とりあえず成り行きで新田街道、現在の「神明通り」へと北にに向かう。

神明道路わきに水路跡が現れる
宮前通3丁目と南荻窪2丁目の境を下る神明通りを進み、杉並宮前3郵便局を越えると、道脇の山手ハリスト正教会の辺りからコンクリート蓋の暗渠が現れる。一安心。
新田街道
現在の神明通り。新田街道とも北街道とも呼ばれたようだ。由来はこのあたりの地名であった「大宮前新田村」より。その大宮前新田の由来は、江戸の頃、17世紀の中頃、関村(現在の練馬区関)名主であった井口八郎衛門が、幕府用達の茅狩場であったこの辺り一帯を、五日市街道に沿って開墾をはじめ新田を開発した。その完成を記念して建立したのが五日市街道沿いにある春日神社である。
神明通り
新田街道が神明通りとなった由来は?南荻窪2丁目には神明天祖神社とか神明中学に「神明」が残るのだが、地名に神明は見当たらない。チェックすると、神明町は昭和9年(1934)に成立し、昭和44年(1969)に廃止された町名であった。成立前は杉並区上荻窪町、廃止後は南荻窪2町目・4丁目になった、とある。天祖神明神社に由来する神明町故の命名だろうか。
南街道
新田街道・神明通りは北街道とも呼ばれた、とのこと。であれば南街道もあるだろう、ということでチェック。京王井の頭線・久我山駅の北から、三鷹台の立教女学院の裏手に向けて通る道の事を指すらしい。北の松庵・宮前と南の久我山町の境を区切る。
思うに、北街道と南街道は昔の松庵村(松庵1丁目から3丁目)、大宮前新田村(宮前および西荻南1丁目および2丁目)、そして中高井戸村(松庵1丁目から3丁目)の南北の境界を区切る道のように見える。

民家の間を細路となって南に下る
コンクリート蓋暗渠を歩くと、ほどなく如何にも水路跡といった細路が民家に挟まれ南に下る。コンクリート蓋の敷き詰められた水路跡を南に進み、道なりに直角に曲がると車道に出る。





車道の先にも水路跡が続く
車道で水路跡が途切れるか、と一瞬不安がよぎる。が、車道の向かいの駐車場の北端を水路跡らしき道筋が進む。道に沿って進むと、駐車場東端で水路跡は直角に曲がり、駐車場から南も民家の間を細路となって下ってゆく。コンクリート蓋で覆われた暗渠となっている。


通行止めの看板
コンクリート蓋の暗渠は車道を一筋越えて更に南に進む。と、突然板の遮蔽物が道を塞ぐ。遮蔽板の先は車道となっている。ここまで下って突然の通行止め?あれこれ板を触ってみると、なんとか動かすことができ、先に進めた。板の表面には「通行を禁ず 宮前三丁目防災会」と書いてあった。
一筋北の車道とクロスする水路跡にでも「通行止め」の案内でもあれば歩かなかったであろうが(?)、出口にあっても、ちょっとなあ、と自分に『納得』させる。

行き止まり
「通行禁止」の案内のあった車道から南にも水路跡は続く。特に何も通行禁止の案内もないので先に進むが、道はすぐに行き止まりとなる。 この先の水路は?『杉並の川と橋』には「高井戸第四小学校の正面前を流れて(暗渠にした後、そよ風通りと命名)慈光寺裏の湿地の悪水や柳窪の悪水を集め、後の荻窪公園となった所の水も集めて善福寺川に流していた」とある。とりあえず、慈光寺を目指す。
悪水
田畑で使用した後の不要となった水や生活排水などを指す。

慈光寺境内に水路跡
水路が消えた地点の一筋東の車道を下る。なにか水路跡の痕跡はないものか、湿地があったとある慈光寺裏手に進める道はないものかと注意しながら進むが、水路跡痕跡も慈光寺に入る道もない。結局、都道7号・五日市街道に出て慈光寺に入る。
本堂にお参りし、水路跡を求めて境内を彷徨うと、コンクリート蓋の水路跡が残っていた。境内を横切るその水路跡を東に進むと、宮前中学校手前の慈光寺の駐車場に出た。水路跡は駐車場手前で消える。
慈光寺
案内には「井口山慈宏寺は日蓮宗です。寛文十三年(一六七三)に創建、開山は南大泉妙福寺の慈宏院日賢上人、開基は大宮前新田開墾の名主井口杢右衛門、檀家は新田開発に力をそそいだ人々が主体となりました。
当山安置の「荒布の祖師」について、江戸名所図会にはつぎのように書かれています。
弘長元年(一二六一)日蓮上人が伊豆の伊東に流される時、日朗上人は「是非おともに」と願いましたが許されず、鎌倉に留まり日蓮聖人の無事を日夜懇願しました。ある日、浜に荒布を巻きつけた流木を見つめて持ち帰り、日蓮聖人の影像を二体彫り上げました。
一体は座像で、目黒区の法華寺に安置され、後に堀之内妙法寺に移されました。もう一体は旅姿の立像で、当山の「荒布の祖師」です。
創建当時の伽藍は明治十一年に焼失、現在の堂宇は昭和四十七年に建立されました。釈迦如来などの仏像と「荒布の祖師」は昔のままです。
なお、当寺には明治八年高井戸学校の前身である郊西学校がおかれました。平成十一年三月 杉並区教育委員会」とあった。

慈光駐車場で水路跡が消える
消えた水路跡のその先だが、『杉並の川と橋』の略図に拠れば、水路跡はこの後、五日市街道の少し北を平行に進み、再び新田街道(現在の「神明通り」)に向かって北上している。
この記事の行間を埋めると、「五日市街道の少し北を平行に進み」と言うのは、慈光寺境内を東西に進む水路ラインではあろう。また水路は元の大宮体育館裏(2016年2月現在)は更地になっている)を進んだとも言われるが、そのラインは慈光寺境内の水路跡ラインの延長線上にあるので、消えた水路は慈光寺駐車場から宮前中学と元の大宮体育館の間を東に進んだのだろう。

不可解な地形
宮前中学と元の大宮体育館の間を進む道は無いので、五日市街道まで下り、春日神社脇を東に曲がり、一筋先の道を宮前中学の辺りまで進む。そこには大善公園があるのだが、中学校の敷地と結構な段差となっている。この高い段差は五日市街道に向かって続いている。これでは元の大宮体育館と宮前中学の間を進んできた水路は進みようがない。台地南端の五日市街道まで迂回したのだろうか。ちょっと困惑。




「Tokyo Terrain 東京地形地図」をもとに作成
自宅に帰り地形図を見ても、台地は宮前中学の校庭の北から、学校敷地・元大宮体育館跡東端を囲むように五日市街道まで続いている。この台地の東には、北に向かって窪地が続くのだが、台地の東西の窪地がうまく繋がっていないように見える。台地を五日市街道辺りまで迂回して窪地が繋がっているようにも見えない。
どう解釈していいものか?不明である。最もシンプルで乱暴な「解法」は、台地を堀割って水路が進んでいたが、不要となって埋め戻された、または、窪地の連続を分ける台地は人工的なもの、といったもの。
学校の北と東を囲む台地が直線となって形成されており、如何にも人工的、と言えなくもない。水路が宮前中学の東の台地に当たる箇所にある「大善公園」は開発業者によって区に提供された、もの、と言う。実際大善公園北には宅地開発された民家が整然と建つ。大善公園を境に、なんとなく雰囲気が異なる。宅地開発の時、公園辺りに東西に通じていた窪地が埋められたのだろうか。どちらの解釈にしても単なる妄想。根拠なし。

春日神社
案内には「大宮前  春日神社 この神社は、「新編武蔵風土記稿」多摩郡大宮前新田の条に春日神社とあって、「除地・二段五畝六歩・小名本村にあり、神体は木の坐像長五寸許・太神宮八幡を相殿とす。木の坐像各長五寸許、覆屋一間半四方、内に小祠を置、当村の鎮守にして、例祭は十月廿二日に修す、慈宏寺持」とあるように旧大宮前新田の鎮守で、大宮前開村の万治年間(一六五八?一六六〇)に、農民井口八郎右衛門の勧請によって創建されたと伝えられています。
祭神は、武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売命の四柱です。
本社は、明治五年十一月に村社となり、拝殿は明治十年、本殿は明治二十一年の建築です。
境内末社に第六天神社、御嶽神社・稲荷神社があります。境内の石燈籠二基は文久二年(一六八二)十月の造立です。石造りの大神鹿一双は明治二十七年四月に、小鹿一双は明治三十三年四月に、それぞれ氏子の奉納といわれています。 社殿前の「大宮前鎮守」の石碑は、この地域の地名変更に伴って"大宮前"の地名を保存する意図で造立されたと言われています。
本社では、元下高井戸八幡神社宮司斎藤近大夫の指導によると伝えられる"早間の大宮前ばやし"が、今も郷土芸能として例祭日に奉納されます。杉並区教育委員会」とある。

神明通りへ
慈光寺から宮前中学南端辺りを東に進んだ後、北に流路を変える松庵川の水路跡に関する地形上の疑問は残したまま、五日市街道近くの台地の東から神明通りへの流路を探す。
松庵川の窪地を東西に分ける台地の東端は、地形図によれば少し窪地が深いようであり、それならば、少し東に離れた辺りを北に折れたであろう水路跡を探すと大善公園の北東に「宮前けやき緑地」がある。水路跡が公園となっているのはよくあること。
成り行きで公園に向かうと、公園内の道は水路跡をイメージするように蛇行している。なんでもかんでも、というか、水路跡らしきものはすべて水路と関連づけて見てしまうため、如何なものかとは思うのだが、松庵川はこの公園辺りを北に向かったといった記事もあったので、一応水路跡と「思い込む」。

民家敷地に水路跡
「宮前けやき緑地」から民家の間を進む水路跡は痕跡がない。『杉並の川と橋』の略図に拠れば、水路跡は神明通りの少し手前で左に折れる。「宮前けやき緑地」の一筋東を神明通りに上る車道に水路跡がないかとチェックするが、見つからない。
神明通りまで進み、道を東に進み一筋先の車道を南に下り、神明通り少し手前で東に向かったとされる水路跡を探す。と、神明通りから少し南に下った民家の敷地の中にコンクリート蓋の暗渠が残っていた。粘り勝ち、とひとり悦に入る。


環八・神明通り交差点とクロス
民家の敷地内に一瞬姿を現した松庵川の暗渠は、その先姿を消す。南に下る道筋をチェックするも痕跡は何もなかった。『杉並の川と橋』に拠れば、水路跡は神明通りに沿って環八とクロスする。南荻窪1丁目と宮前2丁目の境を走る神明通りにそって環八へ。

神明通りはどこから始まり、どこまで続く
  ところで、この神明通りって、どこからどこまで続くのだろう。ちょっと気になりチェック。結構長く、千川上水・吉祥寺橋(練馬区立野町・関町南4丁目と武蔵野市北町三丁目の境)から南東に一直線に下り、西荻窪駅を経て下、環八通り・環八神明通り交差点へ。その先も南西に下り五日市街道を越え高千穂大学前を通り方南通り・永福図書館前まで続く。
杉並区和泉の自宅から環八への抜け道に使う道が神明通りであった。前述の「新田街道」の呼称は、大宮新田のあった西荻窪窪駅から環八あたりまでのものであろうか。なお、吉祥寺橋以西は、鈴木街道や深大寺道に繋がってゆく。結構古い道かとも思える。
環八
現在交通の大動脈となっている環八であるが、この幹線道路は昭和2年(1927)の構想から全面開通まで、80年近くかかっている。戦前も、戦後も昭和40年(1965)代までは、それほど交通需要がなく、計画は遅々として進むことはなかった。
昭和21年(1946)に建設計画が決定されるも、渋滞の激しい瀬田交差点(世田谷区)を挟むわずかな区間の既存の道路が拡幅された程度で、実際に本格的に着工されたのはそれから10年後の1956年(昭和31年)。しかし本格着工後も実際の施工は遅々として進まなかったようである。
その状況が一変したのは、昭和40年(1965)の第三京浜の開通、昭和43年(1968)の東明高速開通、昭和46年(1971)の東京川越3道路(後の関越自動車道路)昭和51年(1976)の中央自動車道の開通などの東京から放射状に地方に向かう幹線道路の開始。幹線道路は完成したものの、その始点を結ぶ環状道路がなく、その始点を結ぶ環八の建設が急がれた。
しかしながら、地価の高騰や過密化した宅地化のため用地取得が捗らず、全開通まで構想から80年、戦後の正式決定からも60年近くという、長期の期間を必要とした。最後まで残った、練馬区の井荻トンネルから目白通り、練馬の川越街道から板橋の環八高速下交差点までの区間が開通したのは平成18年(2006)5月28日、とか。
深大寺道
深大寺道とは、関東管領上杉氏が整備した軍道、と言う。本拠地の川越城と、小田原北条勢への備えに築いた深大寺城と結んでいる。清瀬を歩いた時に出合った「滝の城」は、その中継の出城、とも。深大寺道は滝の城からほぼ南に下り、武蔵境通り、三鷹通りをへて深大寺に至る。また、この道は「ふじ大山道」との説もあるようだ。

鈴木街道
武蔵野大学前にある庚申塚の脇に沿って西に進む道は鈴木街道とも呼ばれる。鈴木新田と上谷保新田を結ぶもの。鈴木新田は八代将軍吉宗の頃、武蔵野台地に開かれた新田のひとつ。小金井から小平にかけ、武州多摩郡貫井村(現小金井市)の名主、鈴木利左衛門により開発された。阿波洲神社の北側の道を進み小金井公園の北抜ける。その先の小金井街道との交差点のあたりに鈴木町という町名が残る。鈴木新田って、このあたりだろう、か。

柳窪公園
環八・神明通り交差点を越えると、神明通りは南の高井戸東4丁目と荻窪1丁目の境を進む。ほどなく道脇に「柳窪公園」がある。『杉並の川と橋』に「柳窪の悪水も集め」とあるので、ちょっと公園に立ち寄り。が、公園は一段高いところにあり、これといって窪地といった風情はない。





柳窪
帰宅し地形図でチェックすると、窪地は標高45mラインとなって、五日市街道の柳窪交差点の東、五日市街道を南に越えた辺りが南端の袋状の窪地となっていた。また、この標高45mラインは北に向かい西田小学の北、松渓公園を北端とし、善福寺川の流れに平行に南へと続いている。
松渓公園
縄文中期の住居跡3基が発掘され、「西田町大ヶ谷戸遺跡」と呼ばれたが、保存のため地下に埋められ、昭和51年(1976)に松渓公園となっている。「松湲(しょうかん)遺跡公園」との記述もある。「渓」も「湲」も、「水がゆっくりめぐる」と言った意味である。

水路跡が現れる
柳窪公園前を東に進み、旧環八・高井戸東4丁目交差点を境に高井戸東4丁目から荻窪1丁目に入る。交差点を越えると直ぐ、民家の間を水路跡と思しき細路が北に入る。
旧環八
この辺りの旧環八が、どこからどこを指すのか詳しい記事は見当たらないが、今昔マップなどを参考にチェックすると、現在の環八と人見街道とのクロス地点の少し下から環八を右に入り、弧を描きながら井の頭通り、五日市街道柳窪交差点を越え、川南交差点で環八に合わさる区間を指すと思われる。
この区間を今昔マップでチェックすると、この道筋は「今昔マップ1927-1937」ではじめて登場する。この時期のルートは人見街道下で現在の環八ルートに合わさるが、その南、甲州街道より南に道はない。「今昔マップ1965-1968」もルートに変わりなく、「今昔マップ1975-1978」となって、現在の環八ルートが地図上に現れる。この頃から従来の道筋が旧環八と呼ばれるようになったのだろう。

旧環八に沿って民家の間を北に
マンホールが異常に多く感じる水路跡を北に進む。道は旧環八の少し東の筋を、旧環八に沿って上る。荻窪1-19と荻窪1-35・1-36の境となる車道を越えた辺りから、西に弧を描く旧環七から逆方向、東に向かって弧を描いて水路跡は進み、荻窪1-16と1-17の北端辺りで狭い民家の間の道から出る。

中道寺
ここから少し北、春日橋の南に中道寺がある。開創は天正10年(1582)、本尊日蓮上人像は通称「黒目の祖師」といわれる。山門は欅作りの二階建。二階には梵鐘が吊ってある。

コンクリート蓋の暗渠が現れる
少し周囲が開けた道をほんの少し進むと、荻窪1-13辺りで水路跡は再び民家の間の狭い道に入る。コンクリート蓋の暗渠となって進む水路跡は松渓中学の一筋東を南北に走る車道に出た後、再びコンクリート暗渠となって進み、松渓中学東端の北で流路を北に向ける。


松渓
松渓の由来は何だろう?特に地名も無いようだ。し、あれこれ調べても不明である。唯一、それっぽいものとすれば、上にメモした縄文中期の住居跡を発掘・保存している「松渓遺跡公園」があるのだが、「西田町大ヶ谷戸遺跡」と呼ばれたこの遺跡が「松渓遺跡公園」となったのは昭和51年(1976)とのこと。ちょっと新しすぎる。
念のため地図にあった松渓中学校の沿革をチェックすると、昭和24年(1949)には同名の中学校となっている。松渓中学に由来がありそうだ。と、『杉並の川と橋』を見ていると、同校の元校長のコメントとして「学校から眺めるこの風景が中国雲南省桂林の松と渓谷の風景に似ているので校名を松渓と名付けた」とあった。松渓の出処は校長先生にあった。
学校は柳窪を形成する標高45mラインから数段下がった等高線上、善福寺川に突き出た台地上にある。往昔は一面に松林が茂り、台地下を流れる善福寺川と相まって「松渓」の景観を呈していたのであろう。

暗渠はふたつに分かれる
コンクリート蓋の暗渠を北に進むと、暗渠は二手に分かれる。コンクリート蓋の暗渠は直進する。『杉並の川と橋』には「柳窪の水を集め、後の荻窪公園となった所の水も集めて善福寺川に落ちしていた」とある。排水口の少し東には荻窪公園がある。とりあえず直進して荻窪公園方向の暗渠を進む。どうもこちらの水路跡が「本流」のようではある。
荻窪公園
『杉並の川と橋』には、「杉並の区立公園第一号(昭和十二年)となった「荻窪公園」は(中略)その多くを占めていた池沼を埋め、盛り土・地ならしをして公園にした」とある。松案川は下水路とは言いながら、処々の池沼からの水を集めた自然の流れも合せたと言うことであろう。
分離された松庵川
これは散歩のメモの段階でわかったことではあるが、『杉並の川と橋』には、松庵川の水路が神明通りから慈光寺方面へと南に下る辺りから、北に水路が延び、善福寺川と繋がっている。これは洪水対策として上流部からの下水をこの中流域で分離し善福寺川に流したとのこと。この時点で松庵川の上流部と下流部は分離され、下流部は柳窪からの水を流すのが主眼となったようである。松庵川とは言いながら、全区間がつながっていたのは数十年程度と言う。

善福寺川との合流箇所①
水路跡を辿ると善福寺川に出る。暗渠が善福寺川に当たる箇所には排水口があった。松見橋の少し下流であった。
因みに、台地を下りたところに松渓橋があり、そのひとつ上流にあるのがこの松見橋であるが、この「松見」も松渓と同じく、地形・景観に由来する名とされる。


分岐点から下流への暗渠を辿る
松庵川が善福寺川に合流する箇所から暗渠分岐点(荻窪2-5)に戻る。右に折れる水路跡は普通のコンクリート道である。民家と社宅の塀の間を少し進むと道が開ける。荻窪2丁目3とある。






水路跡が民家敷地に潜る
車止めのある道を進み、民家が切れ、左手に善福寺川が見える辺りで水路跡が消える。ここで水路は終わり?地図をチェックすると、少し下流の松渓橋を少し南に下った辺りから、如何にも水路跡らしきゆるやかなカーブの道が続く。とりあえず行ってみる。

松渓橋から西田端橋へ
川筋を松渓橋まで進み、橋の南詰を少し南に下り、善福寺川に沿ってゆるやかにカーブする道筋を進む。川の向こうは先回の散歩で歩いた天保新堀用水の取水口のあった大谷戸橋がある。民家の間を進み西田端橋から東に進む車道に出る

暗渠が崖方向から合わさる
車道を越えて先に進むと、右手からコンクリート蓋の暗渠が合流する。何だろう?ちょっと気になり暗渠を進むと窪地に都営アパートが建ち、その先は崖となり、台地上には西田小学校が建っている。西田小学校は柳窪から続く標高45mライン上にある。「今昔マップ首都1927-1939」には窪地辺りは「大ヶ谷戸」と記載されてある。「大ヶ谷戸」の水を集めた暗渠ではなかろうか。




善福寺川との合流点②
その先で道は左に折れ善福寺川に当たるが、その道筋はコンクリート蓋の暗渠となっていた。善福寺川との合流点には排水口もあり、辿った水路跡・暗渠は大ヶ谷戸の水も集め善福寺川に合わさったのではないだろうか。場所は西田端橋と神通橋の中間辺りである。


神通橋
『杉並の川と橋』に拠ると、「神通橋は、五日市街道の高井戸境から青梅街道へ抜ける通称「砂川道」に架かる橋である。この道は鎌倉道とも言われる古道で途中に田端神社が祀られている。田端神社は明治四十四年に現在名となるまでは、北野天満宮とか天満宮・田端天神と呼ばれていた。この神社は腰痛、足痛が治るということで参詣者も多く有名であった。その霊験にあやかって神通橋の名が付けられた。神通tpは、神通力と言われるように、仏語では「無碍自在で超人的な不思議な力やその働きを意味する」とあった。橋名の由来も地形や縁起などいろいろである。

・ これでJR西荻窪駅から辿った松庵川跡散歩を終える。当日はこの後、先回の散歩で途中、天保新堀用水に乗り換えた成田東・成田西を進んだ旧流路・揚堀が、その先、荻窪地区に入り善福寺川に合わさる辺りまで歩き、またその旧流路・揚堀に荻窪駅辺りから注ぐ高野ヶ谷戸の水路跡を歩いたのだが、松庵川のメモが思いのほか長くなった。このメモは次回に廻す。
善福寺川の窪地散歩をはじめ、メモの段になり往昔の善福寺川は現在の姿とことなり、幾筋もの流れが錯綜して下っていたことがわかった。『杉並の川と橋』によれば、昭和10年(1935)頃に善福寺川流出口から鉄道橋下まで、昭和13年(1938)頃に中野境から駒が坂下流500m付近まで、その後戦争で中断した後、昭和21年(1946)に工事再開し、堀之内本村橋下流まで、昭和25年(1950)には済美橋下まで、昭和26年(1951)には大松橋上流まで、昭和38年(1963)には松渓橋下まで、昭和39年(1964)から45年(1970)にかけて松渓橋上流の工事が行われ、河川が次第に一本化され、これに寄って田用水路などが暗渠化されていった、とある。「今昔マップ首都 1944-54」では幾筋かに分かれている善福寺川の流路が、「今昔マップ首都 1965-68」ではほぼ一本化されているのはこういった河川改修工事の結果であろう。
散歩のはじめの思惑は、善福寺川の窪地に残るであろう水路跡を辿る、ということではあったのだが,メモの過程で登場してきた善福寺川の複雑な旧流路が気になり、結果的には旧流路を活用した(と思われる)揚堀(田用水)も辿ることになってしまった。
今回のメモは先回歩いた後半部分であるが、窪地散歩ではなく、幾筋も流れていた旧流路を一本化する河川工事の過程で、田畑を潤すため旧流路の一つを活用したと思われる揚堀(田用水;川の上流で取水し田圃を潤し下流で排水する)をメモする。


本日のルート;
成田東の揚堀跡を辿る
 旧流路・揚堀散歩スタート地>白山神社前>成田下橋>成田上橋>尾崎橋 ■成田東・成田西の揚堀を辿る
成田東・成田西の揚堀を辿る
成田東・成田西揚堀(仮称)スタート地点に>民間信仰石塔>水路跡スタート地点>東田中学校に沿って細路が続く>杉並税務署前に続く車道に出る>細路に入る>須賀神社前の通りに出る>杉並高校の敷地に沿って水路は進む>杉並高校敷地から出た水路>金太郎の車止め>崖下の水路跡>矢倉台先端部(揚堀と天保新堀用水が合わさる)>揚堀と天保新堀用水の分岐点>揚堀のルートを離れ天保新堀用水のルートに乗り換える>天保新堀用水・善福寺川の取水口に

成田東の揚堀跡を辿る

旧流路・揚堀散歩スタート地点
成田東支流の源流点から同じ水路跡を成田東支流散歩のスタート地点に戻る。成田東支流はこの地点から少し南に下り、御供米橋から大宮橋辺りに向かう旧流路と合わさっているのだが(「今昔マップ首都 1896‐1909」)、「今昔マップ首都 1944‐54」を見ると五日市街道の尾崎橋あたりから流路らしき「点線」が描かれている。地図には蛇行し時に合わさりながら下る「実線」で記されたふたつの流れも見えるので、この水路は少し細い流れであったのだろうか。流路は崖下を進んでいる。成り行きに尾崎橋へと向かうことにする。

白山神社前
崖下の舗装道路を進む。これといって水路跡の痕跡はない。ほどなく白山神社旧成宗村字白旗の鎮守さま。創建の時期は不明だが、古墳時代の土器などが発見されており、大宮神社と同じ頃にできたのではないか、と言われる。地名の白幡は、源頼義が奥州征伐のおり、このあたりで空に白旗の如くたなびく雲を見て、勝利の証と慶び一社(大宮八幡)を勧請した、と。
「成宗」とは永禄2年(1559年)の「小田原衆所領役帳」に「永福、沼袋、成宗の三カ村、弐拾壱貫文、島津孫四郎」との記述がある。古くからの村であった。その後、成宗村は幕府の天領となるまでは、旗本岡部忠正氏の知行地であった。
成宗
成宗はこの地域の開発者野口成宗に由来する。館は成田西4丁目辺りの通称矢倉山にあったとされる。矢倉山の名称は後年、太田道灌が見張台(矢倉)を築いたことに由来する。成田の地名は成宗村と田端村の合成したもの。
岡部忠正
ちなみに、「杉並」の地名はこの岡部氏に由来する。江戸時代に田端・成宗両村を領していた岡部氏が、境界の目印に植えた杉の木が杉並木となり、旅人や市場に通う百姓の道中のランドマークとなった。 で、区ができるとき、どの地区にも当たり障りなく、かつまた、この地域の俗称ともなっていた、俗称となっていた「杉並〔木〕」とした、とか。ついでのことだが、この岡部忠正って薩摩守忠度を討ち取った岡部六弥太田忠澄の末裔。薩摩守忠度(ただのり)のことは熊野散歩でメモしたとおり。

成田下橋
白山神社横を下る道をクロスした先に「車止め」があり、民家脇の道は一瞬狭くなるが、その先はふたたび結構広い道に戻る。左手に成園橋を見遣りながら進む。成園橋の由来は不詳。成田と和田堀公園の合成だろうか。
成園橋辺りまでは台地の崖面南端を辿って来た水路跡は、成田下橋の手前あたりで向きを北に変える。
 成田下橋は明治の頃、吉六橋と呼ばれる丸太一本の橋からはじまった、とのこと。吉六は尾崎橋まで迂回するのが面倒と丸太を渡した人の名、と言う。その川筋は、いくつにも分かれた善福寺川の、どの流れが不明であるが、ともあれ、丸太一本で十分な幅の水路ではあったのだろう。

成田上橋
成田下橋への道を越えると車止めがあり、道の右側の崖面との段差が大きくなる。高い塀や玄関に通じる数段の石段など、水路跡を思わせるような道筋となる。
道を進み成田上橋への道を越えると「車止め」があり、道が急に狭くなる。その道は民家に通じ行き止まり。民家を迂回し尾崎橋へと向かう。

尾崎橋
水路は善福寺川に架かる尾崎橋辺りに向かう。この辺りに揚堀の取水口があったのだろか。よくわからない。「今昔マップ首都 1896‐1909」を見ると、尾崎橋辺りでは善福寺川は3本の水路となって描かれており、今歩いて来た水路は尾崎橋辺りで中央を流れる水路に合わさるようにも見えるし、現在の善福寺川の左岸を下る水路と繋がっているようにも見える。はっきりしないが、一応尾崎橋辺りで河川整備された善福寺川と繋がり、取水されたとしておこう。そのうちはっきりするかもしれない。これで成田東を潤した揚堀散歩を終える。
尾崎橋
橋の袂の案内板をもとに、簡単にメモ:「上流に向かって左側の台地が「尾崎」と呼ばれる。「おざき」とは「突き出した台地の先端=小さな崎」を指す。発掘された土器などから見て、8,000年前から人が住んでいた、と想定される。 源頼義が奥州征伐の折、白旗のような瑞雲が現れ大宮神宮を勧請することになったが、その頭を白旗地区、尾の部分を尾崎とした、との説もある。このあたりは風光明媚なところで、江戸には文人墨客が訪れた、とか。橋の上流に続く善福寺川緑地公園って、春の桜は素晴らしい。今年の春も会社の仲間と花見と洒落た、場所でもある。
尾崎の七曲
「馬橋村のなかばより、左に折れて山畑のかたへのほそき道をゆく」「つつらおりめいたる坂をくだりて田面の畔を(進む)。田の中に小川ありて橋を渡る。これを尾崎橋」、といった記述も案内板に記してあった。この「つつらおりめいたる」って記述、尾崎の七曲のこと。
現在の五日市街道は工事により直線にはなっているが、昔は尾崎橋あたりはカーブの続く坂道であった、とか。そうえいば、橋の西・東に、大きく曲がる道筋が残っている。またまた、そういえば、結構最近まで、このあたりの五日市街道の道筋は曲がりくねっていたように思う。なんとなく、そういった記憶が残っている。
五日市街道
五日市街道のメモ;「地下鉄新高円寺駅あたりで青梅街道を離れ、松庵1丁目を通り、武蔵野市・小金井市を経てあきるの市に達する街道。江戸時代初期は、「伊奈道」と呼ばれ、秋川谷で焼かれた炭荷を江戸に運ぶ道。その後、五日市道・青梅街道脇道・江戸道・小金井桜道・砂川道など呼ばれ、農産物の運搬や小金井桜の花見など広く生活に結びついた道であった。
明治以降、五日市街道と呼ばれる。この街道に沿った区内の昔の村は、高円寺村・馬橋村・和田村・田端村飛地・成宗村・田端村・大宮前新田・中高井戸村・松庵村で、沿道の神社や寺院・石造物の数々に往時をしのぶことができる」、と。


成田東・成田西の揚堀を辿る

尾崎橋から先のルートを想う。「今昔マップ首都 1896‐1909」に拠れば、現在の本流の左右に水路が見える。右岸の流路は成園橋あたりで本流(現在の川筋に近いと言う意味で)と合流しているので、カバーするには少し戻る必要がある。それは少々ウザったく、次回に廻すことにして、本流左岸の旧流路、多分河川工事の後は揚堀となった、かと思える水路跡を辿ることにする。
この揚堀の名称を仮に、「成田東・成田西揚堀」とする。単に成田東と成田西を流れている、というだけの仮称である。

成田東・成田西揚堀(仮称)スタート地点に
尾崎橋の北、善福寺の左岸を通る、如何にも水路跡といった道を地図でチェック。と、東田中学校の東側から旧阿佐ヶ谷住宅敷地跡の再開発地端を回り、蛇行する善福寺川に沿って、杉並高校から成田西へと南西に進み、さらにはその先で田端神社の建つ台地突端を迂回し川に沿って北東へと続く道が見える。
「今昔マップ首都 1896‐1909」に記された「点線」とほぼ同じルートを進む。田圃の畦道なのか水路なのかはっきりしないが、とりあえず水路跡であろうとスタート地点を探す。

民間信仰石塔
道は尾崎橋の杉並土木事務所裏辺りのようだ。橋を渡り道を進む。道の分岐点に3基の石仏群がある。案内には。「民間信仰石塔 ここに建立されている石塔は、向かって右から元禄十一年(1698)十一月二十日銘の地蔵塔、宝暦十年(1760)十月吉日銘の馬頭観世音塔、宝暦三年(1753)十月吉日銘の地蔵塔です。これらの石塔には、何れも「念仏講中」「念仏講中拾六人」などと記され、ここ武蔵国多摩郡成宗村白幡の人々が、現世での幸福と来世での往生安楽を願い、講を組織し建立したものであることがわかります。地蔵菩薩の信仰は、仏教の民衆化とともに宗派を超えて広まりました。地蔵は冥界と現実界との境に立って人々を守護するということから村の安全を守護すると考えられ、村境や追分、辻に建てられました。
馬頭観音は頭に頂く宝馬が四方の四魔を駆逐することを表しているが、そのため馬の守護神と考えられ、路傍、馬捨場などにも建立されました。石塔の南側の道路は、五日市街道の旧道で通称「白幡の坂」、西側の道路は「馬橋みち」といわれた古い道で、共に急坂な難所の一つでした。これらの石塔を建立した白幡念仏講中も、昭和15年頃までは毎月この場に集い、念仏供養を行なっていましが、現在では毎年10月15日に供養会を盛大に行っています。昭和62年3月 杉並区教育委員会」とあった。

水路跡スタート地点
石仏をお参りし道なりに進むが、どうも台地に上っているよう。道を間違えたようで、崖下を進む道を探すと、土木事務所と隣接する白幡児童遊園の北端から下る坂があり、その坂が民家と当たる手前から左に細い道が通じている。そこが水路跡の道であった。





揚堀排水口への水路?
因みに、白幡児童遊園から善福寺川に向かって、如何にも水路跡といった道がある。先で杉並土木事務所の敷地に阻まれ先に進めない。一旦土木事務所の善福寺川に戻り善福寺川に排水口でもないものかとチェックするも、それらしきものはみつからなかった。はっきりはしないが、これが成田東・成田西揚堀の排水口かもしれない。時期がいつ頃のものかはっきりしないので、なんとも言えないのだが、もしここに揚堀の排水口があったのなら、先ほど辿った成田東の揚堀は、尾崎橋あたりに取水口があったとしてもおかしくはないかと思う。


東田中学校に沿って細路が続く
民家に挟まれた細い水路跡の道を進むと東田中学校の校庭入口に出る。その先は学校の塀と民家に挟まれ、人ひとり通れるといった幅。民家側が少し高くなっているのも水路跡といった趣を感じさせる。
東田
現在地名に東田は残っていない。その割には東田小学校とか東田中学校という名が残る。成田が成宗と田端の合成、ということであるので、東田は東田端と類推。チェックすると、成宗は田端に挟まれており、成宗の東側を東田、西側を西田とした。その後、成宗1丁目と東田1丁目・2丁目の一部が合わさり成田東となった。
同様に、成宗2丁目と1丁目、西田町2丁目の一部を合わせてできたのが成田西である。昭和44年(1969)の新住居表示にともなう施行であった。

杉並税務署前に続く車道に出る
細路を進むと車道に出る。杉並税務署前を通る道である。その先、旧阿佐ヶ谷住宅跡地を再開発している箇所の南端を進む。昔、阿佐ヶ谷住宅が取り壊さされずあった頃、よく歩いたところだが、今はこ洒落れた宅地に様変わりしはじめている。
旧阿佐ヶ谷住宅
日本住宅公団(現、都市再生機構;UR )が造成した350戸の分譲型集合住宅地。 昭和33年(1958)竣工。所謂公団住宅に良く見る中層集合住宅とテラスハウスタイプの低層集合住宅からなる。完成当時はモダンであったのだろうが、散歩で訪れた頃(何年前だろう?)には人の気配も少なく、寂れた様相を呈していた。
昭和の頃から、何度か建て替え計画があったようだが、意見がまとまらず、結局合意し取り壊しがはじまったのは平成25年(2013)。平成28年(2016)には竣工予定となっている。

細路に入る
旧阿佐ヶ谷住宅の敷地の東端を進むと道は左へと折れるが、水路はそのまま真っ直ぐ進む。車止めのある道を進み、道なりに左へ折れる。蛇行する善福寺川に平行に「折れ曲がって」道は進んでいる。車止めのある道を進むと変則三差路に。



須賀神社前の通りに出る
変則三差路から「車止め」のある道を進むと大きな車道に出る。須賀神社前の道である。須賀神社の横に現在弁天社が建つ。先日の桃園川窪地・水路跡散歩でメモしたように、この地は桃園川を養水するため善福寺川から導水した天保新堀用水の「要衝」の地である。


須賀神社
旧成宗村字本村の鎮守さま。創建は天慶5年(942年)とも伝えられるが不詳。出雲の須賀神社にならった、とも。慶長4年(1559年)に領主・岡部氏が社殿を再興したとの伝承があるほか、詳しいことは伝わっていない。江戸時代は牛頭天王社、と呼ばれていた。

成宗弁財天社
案内には「当社は、成宗村がつくられたのと同じ頃、水神様のご加護を祈って、湧水池(弁天池、現在、神社裏手の住友銀行社宅内)のほとりに建立されたのが始まりと伝えられていますが、詳細は不明です。ご神体は、鎌倉時代に江ノ島弁財天で焚いた護摩の灰を練り固めて作ったという伝説のある、素焼きの曼荼羅像です。
近世の当社は、近在の村々の水信仰の中心地で、日照りが続くと人々は雨乞いのため、弁天社にお詣りし、弁天池の水を持ち帰る習慣であったといわれています。近代になっても大正初期頃までは富士登山・榛名詣り・大山詣りの歳には、弁天池で水ごりをして、道中の安全を願ったということです。
この弁天池は天保十一年(一八四〇)、馬橋村等が開さくした新堀用水の中継池として利用されましたが、その際池を盛り上げた土で富士講のための築山をつくりました。成宗と呼ばれた富士塚がそれです。この富士塚は、大正七年頃にとりこわされましたが、境内の大日如来像・惣同行の碑・浅間神社・手水鉢などは、かつての成宗富士のおもかげを伝えています。
また、鳥居前に残る石橋・水路跡は天保用水の名残りで、板型の用水路記念碑と共に貴重な文化遺産です。
当社は、弁天講中の人々により手厚く守られてきましたが、現在は隣接する須賀神社役員により引きつがれ、維持管理されています 杉並区教育委員会」とある。

天保・新堀用水
先回の桃園川の窪地・水路跡の散歩の折のメモを再掲。
天保新堀用水の水源は青梅街道の南を流れる善福寺川である。天沼の弁天池を水源とする桃園川は水量が乏しく、千川上水・六ヶ村分水からの養水で水量を補っていた。しかしこの養水では天沼村・阿佐ヶ谷村は辛うじて潤うものの、更に下流の馬橋・高円寺・中野村には十分な水が届かず、その解決策として、水源を水量豊かな善福寺川に求めることにした。
取水口は現在の大谷戸橋付近。そこから善福寺川に沿って矢倉台を迂回し、途中胎内堀り(素掘り)で進み、現在の都立杉並高校の北にある須賀神社辺りの弁天池(明治に作成された「関東平野迅速測図」にも大きな池が記されている)に貯め、そこから先は、再び青梅街道の走る台地の下4mから5mに、高さ1.3m、幅1.6mの地下トンネルを穿ち(胎内堀り、と称する)、青梅街道の北、桃園川に下る窪地に水を落とすことにした。この窪地には用水開削以前から新堀用水と呼ばれる自然の水路が流れていたようである。
天保11年(1840)9月に貫通した天保新堀用水であるが、その2カ月後には善福寺川に沿って迂回していた田端・矢倉台付近の土手が崩壊。その原因は「カワウソ」であった、とか。実際は大雨による土手の決壊ではないだろうか。 それはともあれ、この対応策として川筋迂回は止め、大谷戸橋付近から弁天池にほぼ直線に進む水路を計画。途中の矢倉台は、550mを胎内堀りで抜く工事を再開。天保12年(1841)のことである。
胎内堀りは馬橋村の水盛大工である川崎銀蔵が五百分の一という極めて緩やかな勾配を掘り進め、新堀の窪地と繋げた。この用水の完成により、馬橋・高円寺・中野の村は、大正の頃までその地の田圃の半分ほどをこの用水で潤した、という。

杉並高校の敷地に沿って水路は進む
水路は須賀神社前の道路を進む。弁天池を経由する天保新堀用水も並走し、共に杉並高校の敷地に沿って道路を離れ南に折れる。如何にも水路跡といった道もすぐに行き止まり。水路は杉並高校と道路の間に建つ民家の間を進むようだ。 車道に戻り、民家の間に道があれば往って確認するも、それらしき痕跡は見当たらない。

杉並高校敷地から出た水路
水路は民家の間を進み、車道から少しはいった杉並高校のグランド付近に出るとのことで、辺りを彷徨うがそれらしき痕跡は無し。この辺りも揚堀と天保・新堀用水の水路は並走していたようである。






金太郎の車止め
グランド脇の道から車道に戻り、一筋先の角に進むと、水路跡を示す「金太郎の車止め」があり中央にロータリー風になった脇にも「車止め」があり、その先は遊歩道となって水路跡が続いて行く。
天保新堀用水と分かれる
水路跡は崖下を進む。この水路跡は揚堀の水路跡であろうが、天保・新堀用水は「金太郎の車止め」のあったあたりから台地の中を胎内堀で進んでいたようだ。もっとも、この第一期の天保・新堀用水はカワウソや大雨により土手を壊され、結局大谷戸橋から弁天橋に向け直線で進み、胎内堀で弁天池と繋いだことは上でメモした通り。

崖下の水路跡
夥しい数の「車止め」、そして「金太郎のイラストのある車止め」を見ながら水路跡を進む。コンクリート蓋の暗渠を過ぎると道脇に民家はなくなり、高い崖上に民家が建つ。矢倉台と称される台地を実感として感じる。
矢倉台
既にメモしたが、再度メモ。矢倉は本来は矢を備える倉の意味だが、物見・見張り台も矢倉>櫓と称するようになった。阿佐ヶ谷へ抜ける鎌倉道に面し、太田道灌が物見台を建てたとも伝わる。なお、この矢倉台には成宗の開発者である野口成宗の館があった、とも伝わる。

矢倉台先端部(揚堀と天保新堀用水が合わさる)
矢倉台の先端部をグルリと迂回。「金太郎の車止め」の辺りで崖下を進む揚堀と分かれた天保新堀用水は、矢倉台の台地を胎内堀で穿ち、この辺りに出ていたようである。詳しい地図は見つけることができなかったが、「今昔マップ首都 1896‐1909」に金太郎の車止めから点線が描かれており、この辺りに続いている。その点線が天保新堀用水との確証はないのだが、道のようにも思えず、水路跡と思い込むことにした。

揚堀と天保新堀用水の分岐点
その先、揚堀と天保新堀用水は同じルートを進む。揚堀と天保新堀用水のどちらが古いのかわからないが、普通に考えれば天保新堀用水のほうが古いかと思う。天保新堀用水として開削した水路が、その水路が変更となり(カワウソや大雨による土手決壊)使われなくなった後、いつの頃か田畑を潤す田用水としての揚堀を通すとき、その水路を活用したのかと思う。「今昔マップ首都 1896‐1909」を見るに、現在公園となっている矢倉台と川筋の間は一面の田圃のマークである。
同じルートを進んだふたつの水路は矢倉台の台地上にある田端神社の西の崖下で分かれる(同じ時期にふたつの水路があったわけではないだろうから「分かれる」という表現は適切ではないかもしれない)。途中巨大なマンホール蓋が目についた。
田端神社
田端村の鎮守。社伝によれば、応永年間(1394年-1429年)、足利持氏と上杉禅秀が戦ったとき、品川右京の家臣・良影がこの地に定住し、北野天神を勧請したことにはじまる。往時は北野神社とも、社の場所が「田の端」にあったため、田端天神とも呼ばれ、土地の産土神に。田端という地名は神社の名前に由来する。境内は古墳であった、とも。
田端
ちなみに、上で、成田の由来として、「成」宗+「田」端>成田、との合成語とメモした。昭和44年ごろに、もとの成宗村と田端村(西田端)一帯を成田西、成宗村と田端村飛地(東田端)を成田東と呼ぶようになったわけだが、成宗村は田端村に挟まれていたようで、西側は現在の荻窪1丁目から3丁目あたりも田端村だったようである。

揚堀のルートを離れ天保新堀用水のルートに乗り換える
これまで揚堀の水路跡を辿ってきたのだが、先日、桃園用水の養水路である窪地散歩で天保新堀用水の青梅台地の桃園川側を辿ったこともあり、その水源となった善福寺川の取水口を見ておこうと急遽計画変更、台地に沿って進む揚堀から離れ天保新堀用水の水路に乗り換える。天保新堀用水の水路跡は公園となっている。

天保新堀用水・善福寺川の取水口に
公園を進み、西田端橋に続く大きな車道の先も公園となっており、そこを少し進むと善福寺川に出る。場所は大谷戸橋の少し手前であった。公園が善福寺川に接する箇所には特段取水口といったものはなかったが、取水口から公園とそて水路跡が残ってる、ということは、天保新堀用水の水路としては使われなくなったものの、用水路として活用されたのではなかろうかと思う。
昭和22年(1947)の航空写真には、大谷戸橋下流の取水口から現在の公園を南に下る水路が見える。また、揚堀も二手に分かれた箇所に合流している。天保新堀用水として開削された水路は昭和の頃まで揚堀の一部として田畑を潤していたようである。

今回はこれでお終い。次回は今回途中から天保新堀用水に乗り換えた揚堀の続きを歩こうと思う。
善福寺の谷筋から青梅街道の尾根筋に上る途中、思いがけず出合った窪地を走る小沢川の水路跡散歩のメモに際し、カシミール3D(無料のソフト)を使い数値地図5mメッシュ(標高)の段彩図を作成した。そして、そこにくっきりと表示された、青梅街道の南北の川筋から切れ揉む窪地が気になり、歩き始めた杉並の川筋窪地散歩も3回目。
第一回の青梅街道南の善福寺川から北に切れ込む小沢川の窪地散歩、第二回の青梅街道の北の桃園川の川筋から切れ込む窪地散歩を終え、今回は第一回の小沢川、第二回での堀ノ内支流と同様、善福寺川から北に切れ込む窪地を歩くことにする。
第一回のメモに際し、作成した段彩図によると、善福寺川に繋がる窪地は結構ある。散歩は一回では終わらないだろう。ルートは、段彩図にくっきり浮かび上がる窪地にカシミール3Dでルートを描きトラックに変換、そのトラックデータをKMLファイルでエクスポートし、Googleのマイページに読み込む。次いでiphoneの無料アプリGmap Toolsに読み込み、そのルート図を頼りに歩くことにする。


本日のルート;
堀之内の善福寺川旧流路・揚堀(?)を辿る
揚堀排水口>車止め>堀之内橋への道とクロス>崖線下の水路>本村橋への道とクロス>済美小学校の校庭に水路は潜る>鉄柵で囲われた水路跡>武蔵野橋に

松ノ木支流を辿る
松ノ木地区を北に源流点に向かう>水路跡に出合う(成田東1-46)>五日市街道とクロス>松ノ木支流源流点(成田東3-1)>成田1-44と41の境>世尊院別院の東を下る>車道に出る(成田東1-14)>道に水路跡の案内図>松ノ木遺跡>松ノ木支流が善福寺川旧流路に合わさる

成田東支流を辿る
善福寺川の旧流路との合流点>和田堀公園北から水路跡らしき道を進む>松ノ木中学一筋北の車道に>金太郎の車止め(成田1-9)>水路跡が途切れる>遊歩道のような水路跡>成田東支流源流点

堀ノ内の善福寺川旧流路・揚堀(?)を辿る

先回の散歩で、善福寺川松ノ木支流のスタート地点である武蔵野橋に向かう途中、現在済美山運動公園、昔の富士銀行グランド付近を進んだ。その時、済美山運動公園の台地下にある済美小学校の北に、鉄柵で塞がれた水路跡らしき箇所が目にとまった。
その時は何だろう?といった程度で先に進んだのだが、メモの段になり『杉並の川と橋(杉並区郷土博物館)』の中の「日本済美学校・敷地概念図」を見ていると、日本済美学校の敷地であった、現在の済美山運動公園やその台地下の善福寺川の流路との間に、三つの流れが描かれていた。
その流れは、河川改修が行われ、複雑に流れる流路を一本化する以前の善福寺川の流れのようである。で、先回の散歩で偶然目にした済美小学校の北に残る流路跡は善福寺川の旧流路を活用した揚堀跡ではなかろうかと窪地散歩に向かう道すがら、揚堀跡(?)を辿ることにした。


堀ノ内の旧流路・揚堀排水口(?)
揚堀の下流排水口がどの辺りにあるのか、あれこれ調べる。『杉並の川と橋;杉並区立郷土博物館』には昭和25年(1950)には済美橋(武蔵野橋のひとつ上流)まで河川改修工事がなされた、とある。この河川工事がどの程度のものか不明である。カシミール3Dのプラグインのタイルマップにある「東京今昔マップ1944‐1954」を見る限りでは、河川の一本化はなっておらず、現在の環七の前身の道の手前で複数の川筋が北に向かって蛇行している。道とクロスする川に架かるのは方南橋(現在は残っていない)だろうか。
「東京今昔マップ1965‐1968」には善福寺川は一本化され現在の川筋を流れており、環七が通っている。環七は昭和39年(1964)の東京オリンピックに間に合うよう整備されたもので、この辺りの工事は昭和36年(1961)に実施されたという。
『杉並の川と橋』によれば、水田であった一帯は環七によって二分され、田圃は埋め立てられ、善福寺川の一本化にともなう排水路工事が実施され、多くの排水管が埋め込まれ水処理を実施した、と言う。
とすれば、排水口が環七を越えた先にあるとも思えない。確証はないが、とりあえず、善福寺川が環七とクロスする和田堀橋の西側手前辺りに排水口の名残を求めることにする。
ということで、方南通りの通る台地尾根筋から環七を善福寺川の谷へと下る。 和田堀橋から善福寺川を少し上流に進むと、如何にも水路跡といった細路がある。排水口はないが、「東京今昔マップ1944‐1954」に記される一本化以前の複数の流れの一筋の流路に近い。確証はないが、旧流路を活用した揚堀跡であろう、と思い込む。
今昔マップ
上に、カシミール3D(フリーソフト)のプラグインのタイルマップにある「東京今昔マップ1944‐1954」とメモしたが、WEBにも公開されている。Google Mapと左右並べて表示してあり、位置も同期するので今昔を比較するのに便利である。

車止め
細路を進むとほどなく広い道に出る。水路跡の痕跡はないのだが、ゆるやかな蛇行が水路跡を想起させる。道なりに進むと定塚橋の南、民家の間に車止めがあり、その先にも車止めが立ち並ぶ。
『杉並の川と橋』によれば、このあたりは「定塚窪」と呼ばれ、環七ができるまでは、環七の西にある和田南田圃とつながった水田が広がっていたとのことである。複雑な流れの善福寺川の川筋流路一本化の工事以前の、水田の中を幾多の水路が流れた光景を想像するのは今となっては難しい。
定塚
定塚の由来は何だろう。高岡大仏で知られる高岡市にある定塚(じょうづか)の由来は、僧が入定(生きたまま土中に入り即身成仏する)したとも、旅人が入定した塚、とも言われる。この地の由来は不詳。

堀之内橋への道とクロス
少し狭くなった道を進む。左右が道より高くなっており、時に道と段差のある石段なども見える。如何にも水路跡といった姿である。その先で堀ノ内橋への道とクロスする。
堀之内
館を意味する。和田の地名にあるように、和田義盛の館との説もあるが、中野の哲学堂のある公園も義盛の館跡とも言うし、そもそも「わだ」って「湾曲」するという意味もあるようだ。地名の由来は諸説あり、定まることなし。
堀之内の由来もさることながら、もっと気になるのが「和田堀」。和田堀橋とか和田堀公園とかいろいろ登場するので気になってチェック。明治の頃町村制施行に際し、このあたりを名高い妙法寺のある「堀之内村」とすべし、との案に和田村が難色を示し「和田堀之内村」となった。が、あまりに、長すぎるとして、大正15年(1926)の町制施行時に「和田堀町」となった、という歴史がその背景にあった。

崖線下の水路
堀之内橋への道を越えると水路跡は細路となる。石段でドアに入る民家、高い段差の上に建つ民家など如何にも水路跡といった雰囲気。その先にはマンション(ガーデン堀ノ内住宅)の敷地との境に鉄柵があり、水路はゆるやかに曲がり進む。北の崖面は高く、「7段ほどの梯子でドアに入る民家もある。水路跡は方南通りが通る台地尾根筋からマンション入口へと下るアプローチ手前で鉄柵で行く手を遮られる。

本村橋への道とクロス
マンション入口アプローチの先に水路跡の道が続く。鉄柵で囲まれており、入ることができないのか、とも思ったのだが、その道を散歩している人がいる。入口は鉄柵で遮れているので、そこを乗り越え割と広い水路跡を進む。 堀ノ内子供園と呼ばれる公園を右手に見ながら車道にクロス。方南通りから大正寺坂を下り本村橋へと続く道である。「本村橋」はこの辺りの地名であった「堀之内本村」由来のものだろう。
大正寺坂
『杉並の川と橋』には、済美運動公園の南を下る坂を「大正寺坂」と記してある。昔、坂の手前、大宮小学校のある辺りに大正寺と呼ばれるお寺さまがあったようだ。また、同書には大正寺坂を下ったところに「大聖寺橋」が記載されている。大正寺の本尊が「大聖不動明王」故の橋名だろうか。
カシミール3Dのプラグインのタイルマップにある「今昔マップ首都 1896-1909」に記載された水路を見ると、丁度今歩いてきた道が水路と重なり、本村橋への通りとクロスする地点が「大聖寺橋」が架かっていたように思える。

済美小学校の校庭に水路は潜る
結構広い道を進むと済美小学校にあたる。「今昔マップ首都 1896-1909」には、小学校の辺りに大きな池が記載されている。『杉並の川と橋』には、「清明が池」とある。明治40年(1907)に済美運動公園のある台地(小屋の台、通称済美山)一帯に創設された、日本済美学校の憩いの場として水田を池に造り替えたとのことである。
日本済美学校
明治40年(1907)、今井恒郎によって創設された私立校。全寮制の少人数教育をもとに、自然の中で働き、かつ学ぶことを重視した教育を実践したとのこと。校舎は済美山運動公園のある台地(「小屋の台」、済美山と呼ばれた)に、台地から善福寺川の本流までの間は学校の水田や茶畑、野菜畑そして前述の池があったようである。戦後校舎と用地が杉並区に寄贈された。障害児教育にも取り組んだようで、それが現在の済美養護学校に繋がるのだろう。

済美運動公園
かつて池であった済美小学校を迂回し、日本済美学校の校舎のあった済美運動公園にちょっと立ち寄る。昔は富士銀行のグランドで気軽に入ることはできなかったが、今は区民の運動場であり、オープンな広場となっている。







鉄柵で囲われた水路跡
運動場を下り、済美小学校から通りを挟んだ民家の間に鉄柵で囲われた水路跡に向かう。今回の善福寺川旧流路・揚堀散歩のきっかけとなった場所である。水路跡は厳重に締め切られており、中に入ることはできない。民家の間をぐるっと迂回し、水路跡出口に。そこも厳重に鉄柵で囲われていた。民家に囲まれた、何とも不思議な空間である。
向山橋
『杉並の川と橋』によれば、この済美小学校前から熊野橋に通じる道の「清明が池」の北に向山橋が記載されている。何か痕跡がないものかと彷徨うも、特にそれらしきものは見つからなかった。

武蔵野橋に
鉄柵で囲われた水路出口辺りは台地の裾となる。崖に沿って進むと済美公園にあたる。水路跡は公園を突き抜けて武蔵野橋の辺りに向かったようだ。「今昔マップ首都 1896-1909」には武蔵野橋のひとつ上流に架かる済美橋辺り(当時は橋は無いが)から二筋に分かれ、崖線下を進む水路と武蔵野橋方向へと流れる水路が記載されている。また、武蔵野橋方向に流れる水路も熊野橋(当時は無い)の北で二手にわかれ、一筋は現在の善福寺川筋に近いルート、もうひとつは「清明が池」に注ぎ、池から南に下り、崖線筋の水路と合流する。その分岐点は「堀之内堰」と記されている。
思うに、今辿って来た水路跡は、済美橋辺りで二つに分かれた崖線側の水路跡を核にして、複雑に乱れる善福寺川の水路を一本化した後に造られた揚堀(田用水路)ではないだろうか。揚堀の取水口は武蔵野橋の辺りのようではあるが、周辺が川辺まで公園化されており、取水口は残っていなかった。


松ノ木支流を辿る

窪地散歩のついでに寄った堀之内の揚堀、というか、水路一本化工事以前の善福寺川の旧流路の一つを辿り終え、次は善福寺川の窪地に残る(であろう)水路跡散歩に向かう。
窪地はカシミール3D(無料のソフト)を使い数値地図5mメッシュ(標高)の段彩図を作成したわけだが、武蔵野橋から青梅街道の台地に切れ込んだ窪地に残る堀ノ内支流(仮称)跡は先回の桃園川の窪地散歩への道すがらカバーした。 今回の窪地散歩で最初に訪れる窪地は、和田堀公園辺りから北に、五日市街道の少し先まで、おおよそ松ノ木と成田東の境をなしている。仮に松ノ木支流とする。


松ノ木地区を北に源流点に向かう
武蔵野橋から善福寺川を上流に進み、荒玉水道道路に架かる済美橋を越え、大松橋に。そこからは数値地図5mメッシュ(標高)の段彩図であたりをつけた、窪地の北端部、松ノ木支流の源流点とされる梅里中央公園の南東下に成り行きで進む。
大松・松ノ木
大松橋は南の大宮と北の松ノ木を繋ぐ故の命名だろう。大松橋から善福寺の川筋を離れ、松ノ木地区を北に進む。松ノ木の地名は、大宮神社参道に残る「鞍掛けの松」がその由来とされる。
鞍掛けの松
平安時代、源義家が奥州征伐の途中、この松に蔵を掛けたとの伝承が残り、『江戸名所図会』にも記載されている松である。この辺りには鎌倉街道中ツ道・奥州道が通っていた、とのことである。
荒玉水道道路
荒玉水道とは大正から昭和の中頃にかけて、多摩川の水を砧(世田谷区)で取水し、野方(中野区)と大谷口(板橋区)に送水するのに使われた地下水道管のこと。荒=荒川、玉=多摩川、ということで、多摩川・砧からだけでなく、荒川からも水を引く計画があったようだ。が、結局荒川まで水道管は延びることはなく板橋の大谷口で計画中止となっている。
野方と大谷口に合った給水塔は、現在その機能を終え、野方給水所は、災害用給水槽として、また大谷口給水塔は大谷口配水所として災害非常の給水施設として使われている、と。配水系統も野方は野方大谷口線から導水され、大谷口配水所は朝霞浄水場の配水系とつながっているようである。 砧給水所(現在は砧浄水場となり世田谷区の一部に給水しているようだ)からこの杉並の妙法寺あたりまで一直線に延びている10キロほどの道筋を荒玉水道道路、と呼ぶ。

水路跡に出合う(成田東1-46)
松ノ木地区を成り行きで北に進み、五日市街道の手前で東に向かい成田東に入る。と、目の前に「車止め」のある、以下にも水路跡といった細路が民家の間を抜けている。位置からして、松ノ木支流であろう。実際のところ、源流点が簡単に見つけられるか心配していたのだが、偶然にも水路跡に出合った。これで、水路跡の痕跡を辿れは源流点に到達できると、ちょっと安心した。



五日市街道とクロス
水路跡を北に進むとほどなく五日市街道とクロス。道を隔てて斜め北の方向に「車止め」のついた細路が見える。
五日市街道
五日市街道であった。五日市街道は、秋川筋の檜原や五日市の木材や炭を江戸の町に運ぶため整備されたもの。また秋川筋・伊奈の石工が江戸城の普請に往来した街道でもある。武蔵野台地の新田開発は五日市街道に沿って進んだ、と言われる。文字面で見ても今一つ実感がわかなかったのだけれど、玉川上水やその分水を辿った時、五日市街道に沿った新田の地を実際に歩くことにより、結構リアリティをもって感じられるようになった。

松ノ木支流源流点(成田東3-1)
五日市街道からゆるやかなカーブを描く細路を進むと車止めがあり(成田東3-1)、その先は、道が広がっている。その道を少し北に進んでみたり、東の梅里にある梅里中央公園辺りに、なんらかの水路跡の痕跡でもないものかと彷徨うも、特に何も見つけられなかった。車止めのあったところが源流点のようである。『杉並の川と橋』によれば、公園の西側に水源となった湿地があった、とのことである。
成田・梅里
成田の地名は、成宗村と田端村を合せたもの。地名によくあるパターン。梅里は青梅街道の近く、ということで命名。元は馬橋村・高円寺村域であったが、「馬橋」を避け、少し趣のある「梅里」とした、とある。

成田1-44と41の境
源流点から、偶然水路跡に出合った成田1-46まで戻り、そこから南に続く水路跡を進む。成田1-44と41の境で車道に出るが、すぐに民家の間の細路に曲がり込む。
この成田1-44と41の境までは、松ノ木と成田東地区の境の一筋東を下ってきたが、この先の水路跡は松ノ木と成田東地区の境となっている。昔の村境に水路・川などが利用されたと言うが、如何にもその通りである。

世尊院別院の東を下る
民家の間に入り込んだ水路跡を進む。左右が高くなっている箇所、石段で段差がわかる箇所など、如何にも水路跡といった趣の細路である。細路の東に世尊院別院がある。阿佐ヶ谷にあった世尊院の別院とのことである。




世尊院
世尊院は阿佐ヶ谷駅の北、中杉通りに沿ってある。昭和27年(1952)、中杉通りの開削にともない、境内が分断され、本堂と観音堂が通りを挟んで泣き別れの状態になっている。
桃園川散歩、そして先日の桃園川の窪地散歩の折などに傍を掠っているこのお寺様の歴史は古い。永享元年(1429)に阿佐ヶ谷にあった宝仙寺が中野に移った頃、それを惜しんだ地元民が小寺として残したのがそのはじまりと言う。宝仙寺は大宮八幡宮の別当寺であった、とも。阿佐ヶ谷に居を構えた江戸氏の庶流・「あさかや殿」の庇護のもと作られたのであろうか。
「あさかや殿」が歴史に現れた記録は応永27年(1420年)の『米良文書』にある。熊野那智神社の御師が武蔵国の大檀那の江戸氏一門の苗字を書き上げた中に、中野殿などとともに登場する。「あさかや殿」はこのあたりを拠点に土地を拓きながら、戦乱の続く南北朝を生き抜いたのであろう。その衰退の時期はつまびらかではない。が、上にメモしたように、永享元年(1429年)頃に中野に移ったということは、その頃には庇護する威勢を失っていたのであろうかと思う。一般公開はしていない。観音堂にまつられている聖観音像は南北朝の作と言われる。ちなみに阿佐ヶ谷の地名の由来は「浅ケ谷」から。桃園川が流れる「浅い谷〔地〕」、であったということだろう。


車道に出る(成田東1-14)
左右に水路跡との段差のある道を進むと車道に出る。水路跡は依然として成田東と松ノ木地区の境を下っている。上で、昔の村境などに川筋が利用されたとメモしたが、川跡を行政区の境としているところで記憶に残るのは根岸の里の音無川跡。荒川区と台東区の境となっていた。


道に水路跡の案内図
松ノ木1-6と成田東1-8の車道を越え、8段ほどの段差のある水路跡からの石段を見遣りながら進むと、車道に斜めからクロスし先に道は続く。車道は松ノ木中学の一筋北の道である。道を進むと、道に水路跡を地図に書き込んだコンクリートの案内が埋め込んである。余りに唐突で、いまひとつ意図がよくわからない。

松ノ木遺跡
水路跡は松ノ木中学のある台地の崖下を進み、和田堀公園へと進むようではあるが、ついでのことでもあるので、久しぶりに松ノ木遺跡に立ち寄ることにした。
水路跡の道から松ノ木中学のある台地に上り、公園となっている台地端を進むと松ノ木遺跡(松ノ木1-13)に着く。松ノ木遺跡には古墳時代の復原住居と土師式保存竪穴がある。30戸くらいの家族が住んでいたと想定されている。善福寺川中流域の松ノ木や済美台といった台地群は、杉並の古代人の「はじまり」の地ではないかと言われる。善福寺川を隔てて南の台地上には大宮遺跡がある。大宮八幡宮の北門を出た崖の縁がその場所である。
松ノ木遺跡
松ノ木遺跡の案内板によれば、「昭和40年夏、ここで弥生時代末期の墓三基本発掘した。中央に墓穴を設け、周囲に溝がめぐらされていた。形が四角なので方形周溝墓と呼ばれ、墓より壷形土器五個、勾玉一個・ガラス玉十二個出土した」、と。
人々は集落を環り・区切り、区画ごとにまとまった生活集団をしていたのであろう。台地から見下ろす崖下の河川敷、現在の和田堀運動場とか、和田堀公園では水稲耕作がおこなわれていたのだろう。川では魚を捕り、川を離れれば一面の原野。台地の奥に出かけては狩をしていたのであろう。『和名類聚抄』によれば、平安前期の武蔵野・多摩郡は10の郷からなっており、そのひとつ、「海田(あまだ)郷」に現在の杉並区が含まれる。で、この海田(あまだ)が変化し「わだ(和田)」となった、との説もある。このあたりに点在した原始期からの集落がそのまま古代に受け継がれ、古代期においても地域の中心となり、地名も「あまだ>わだ」と受け継いできたとも想像できる。

松ノ木支流が善福寺川旧流路に合わさる
松ノ木遺跡のある台地、といっても数メートルなのだが、その台地を下り、松ノ木支流の流路らしき水路が記載される「今昔マップ首都 1896-1909」に従い善福寺川に向かう。
その「今昔マップ首都」には御供米橋の少し上流から現在の大宮橋辺りにむけて旧水路のうちのひとつが流れている。その地図を参考にすると松ノ木遺跡の下辺りで松ノ木支流は旧流路に合わさるようだ.。今は公園の一帯も当時は田圃ではあるが、松ノ木支流は善福寺川筋の田圃よりも、天水田圃と呼ばれ、雨水を頼りとしていた上流部の一帯を潤すのが目的ではあったのだろう。



成田東支流を辿る

カシミール3D(無料のソフト)を使い作成した数値地図5mメッシュ(標高)の段彩図で浮かび上がった善福寺川に切れ込む窪地を辿る散歩も、東から堀之内支流、松ノ木支流と辿った。次は松ノ木支流と下流部は同じ窪地だが、途中で北東に切れ込み、現在の東田小学校あたりまで続く窪地を辿ることにする。

善福寺川の旧流路との合流点
善福寺川との合流点は、「今昔マップ首都 1896-1909」を見ると、松ノ木支流と同じく、御供米橋の少し上流から現在の大宮橋辺りにむけて流れる旧水路跡に合流している。和田堀公園の中、釣り堀武蔵野園の南、大成橋と御供米橋の間、といったところだろうか。

和田堀公園北から水路跡らしき道を進む
水路スタート地点を探すに、和田堀公園から東田小学校辺りに向けて緩やかにカーブを描きながら進み道筋を探すと、「釣り堀 武蔵野園」の西からそれらしき道筋見える。とりあえず、そこからスタートすることに。
和田堀公園と宅地の境を進み、小公園のあるところで北東にカーブを描く道に入る。公園に沿って続く舗装された小径には下水のマンホールがあり、水路跡である予感。


松ノ木中学一筋北の車道に
道を進み松ノ木中学一筋北の車道とクロスするところに車止めが現れる。水路跡の予感がぐっと高まる。その先も道にはマンホール、道の左右は高くなり、如何にも水路跡の趣である。





金太郎の車止め(成田1-9)
民家の間の細路を進むと比較的広い車道に出る。車道の先に続く水路跡には、杉並区で川跡・暗渠を示す「金太郎のイラスト」の車止めがある。ここで水路跡と確信する。
金太郎の車止め
昭和47年(1972)頃から、杉並区内の古い小川や用水路などを暗渠化し遊歩道として整備した際、 その車止めの柵として金太郎のイラストの付いた柵が立てられたようだ。何故金太郎?
ひとつには子供の遊び場である、ということをはっきりさせるため、また、家族で昔話を話し合うきっかけとして「金太郎」が選ばれたとも、金太郎が熊と遊ぶ=子ど同士が遊ぶ場所であることを示すためとも説明される。

水路跡が途切れる
コンクリート蓋のある水路跡を進む。道は誠に狭くなり、人ひとり通るのがやっとといったほどになる。その狭い水路跡を進むと水路跡が行き止まりとなる。マンションを迂回し、水路が続く、であろう先に向かうと、そこから北に水路跡が見えた。
しかし、狭い水路跡暗渠である。それでも、この辺り一帯は所謂「天水田圃」であり、台地から湧き出す僅かな湧水でも貴重なものとして、水路がひかれたのではあろうと思う。

遊歩道のような道
迂回した先に現れた水路跡は、道の中央に置かれた横置きのコンクリート柱によって区切られ、水路跡はコンクリート蓋で覆われた暗渠として北に向かう。先でコンクリート蓋の暗渠は狭まり、駐車場脇に出る。




成田東支流源流点
その先は唐突に広い遊歩道といった造りの道が続く。そして東田小学校の北から南西にカーブする道筋にT字路で辺り、水路跡の痕跡は消える。彩段図の最奥部にピンを立て、「今昔マップ首都 1998-05」で確認すると、その場所は五日市街道を越えた、杉並東洋幼稚園の東辺である。昭和の始まりの頃まで、この辺りは「水流し」と呼ばれていたようでもあり、遊水でも湧いていたとすれば、この辺りが成田東支流の源流点かとも思うのだが。 水路跡を想起させるような道もなく、成田東支流散歩はここでお終いとする。 
当日は、これから先、善福寺川に沿って成田東、五日市街道に架かる尾崎橋をへて、成田西、そして田端神社の先荻窪地区の大谷戸橋まであるいたのだが、後半は次回に廻す。
とある日曜日。これと言って歩きたい所が想い浮かばない。それではと、池袋にある山や沢用品の店に出かけることにした。バーゲンでもやっていないか、という思いである。自宅のある杉並の和泉から池袋までおおよそ8キロ程度だろうか。足慣らしには丁度いい距離である。
杉並区和泉の自宅を出て、神田川に沿って谷筋に下り、環七を越え屋根に釜を置く、その名も釜寺の脇から方南通りの通る尾根筋の坂を上る。方南2丁目から弥生6丁目へと延びる台地を成り行きで下り、善福寺川の谷筋の「駒が坂橋」を渡る。
そこからしばし善福寺川が開いた沖積地を進み、和田2丁目交差点を越えると、ほどなく緩やかな坂を上ることになる。そのときは、その坂を上り切れば青梅街道の通る尾根筋に出ると思っていた。が、和田1丁目の台地をしばらく進むと道は下りとなる。何だこれは?ちょっと混乱する。で、下り切ったところに如何にも水路跡といった細路が東西に通る。その北は緩やかな上りとなっている。
これってなんだ?善福寺川と青梅街道の間に川があったのだろうか。それとも用水路跡だろうか。ともあれ、用水フリークの我が身としては、好奇心抑えがたく、池袋行きを即中止し、川跡なのか用水路跡なのか定かではないが、ともあれ窪地に続く水路跡らしき細路を辿ることにした。その時は、この水路跡が小沢川の流路であったことは知る由もなかった。


本日のルート;
「気づき地点」の窪地から神田川合流点へ下る
窪地に水路跡>都営和田一丁目アパート20号棟の南を進む>五差路を民家の間の細路に入る>十貫坂上からの道に出る>富士見橋西交差点へと南に下る道に向かう>水路跡が富士見橋へと下る>富士見橋脇で神田川に注ぐ
「気づき地点」の窪地に戻る
蛇窪・清水窪にちょっと立ち寄り
蚕糸の森に向かう
「気づき地点」から上流に>和田中央公園>「堀内道」とクロス・水路跡が切れる>水路跡らしき道が東から合流する>蚕糸の森の池
源流点の真盛寺に向かう
真盛寺>新鏡の池>真盛寺の新鏡ヶ池から下流に下る>民家の間の水路跡の道>堀内道から蚕糸の森に進む道筋に合流
千川上水の六ヶ村分水からの養水・分水口に向かう
真盛寺>妙祝寺境内に水路跡>五日市街道・養水・分水箇所


「気づき地点」・窪地に水路跡
思いもよらず、突如登場した窪地は和田1丁目の女子美術大学短期大学部の少し南。水路跡と思しき細路は窪地の底を東西に通る。上流部に向かうか、下流部に向かうか少し悩む。結局、下流部に向かい、神田川と合流するであろう箇所を確認することにした。



「気づき地点」・窪地の水路跡を下流に

都営和田一丁目アパート20号棟の南を進む
上流部に向かう水路跡は、民家の間を抜ける細路ではあるが、下流に向かう水路跡は、水路跡に良く見られる「不自然」に幅広の道となっている。ポールで仕切られた道の北端を進む水路跡を辿ると、細路となる。水路跡の南側に建つ家の敷地が少し高くなっている。
水路跡の北に建つ4階建てのアパートを見遣りながら進むと、アパートの東側の開けたところに出る。後からチェックすると、このアパートは都営和田一丁目アパート20号棟であった。

五差路を民家の間の細路に入る
都営和田一丁目アパートの東はちょっとした公園となっており、その先で道は 変則五差路となっている。水路はどちらに?中央にポールの建つ、細路が民家の間に見えるが、如何にも水路跡のよう。とりあえず道を進む。




十貫坂上からの道に出る
緩い弧を描いた細路を進むとほどなく結構大きな道に出る。中野通りの「十貫坂上交差点」から青梅街道の台地の崖線南を環七に抜ける道筋である。

十貫坂
「十貫坂」の由来は、付近から十貫文の入った壷がでてきたとか、十貫文を埋めたのは中野長者であるとか、中野長者が坂の上から見渡す限りの土地を十貫文で買った、とか諸説あり。

中野長者
中野長者とは鈴木九郎のこと。神田川が山手通りと交差する少し北にある成願寺が屋敷跡という。鈴木九郎は応永年間、というから14世紀末から15世紀はじめに、熊野よりこの地に来る。もとは、馬喰であった、とか。
この地は多摩と江戸湊、そして浅草湊への交通の要衝。荷駄を扱う問屋場を押さえ勢力をのばす。もちろん、熊野衆であるわけだから、水運を抑えていたわけで、陸運・水運を支配することにより「長者さま」となったのであろう。
青梅街道が神田川を跨ぐ「淀橋」は「姿見ずの橋」とか「面影橋」などと呼ばれていた。その名は鈴木九郎の伝説に由来する。長者となった九郎は、隠し場所に財産を運んだ下僕を、そのありかを隠すためこの橋で殺した。ために、下僕の姿が見えなくなったから、との説。また、長者のひとり娘が父親の悪行のゆえ婚礼の直前に呪われて蛇となり、それを悲しみ投身自殺し、その姿が見えなかったことに由来する、とか諸説あり。後世、婚礼の時、花嫁はこの橋を避けて嫁入りした、とも伝わる。

富士見橋西交差点へと南に下る道に向かう
民家の間の細路から十貫坂からの道に出ると水路跡の痕跡は消える。細路を出た先に、ゆるやかなカーブで西に進む比較的大きな道があるが、その下に埋まってしまったようだ。とりあえずその道を進むと、富士見橋西交差点へと南に下る道にあたる。

水路跡が富士見橋へと下る
この辺りから、神田川へと下ったのであろうから、なにか痕跡がないものかと四差路を少し西に進む。と、角の9階か10階建のマンションの西に、水路によくあるポールの建つ細路がある。
富士見橋へと南下する細路は道の北にも延びている。少し気になるのだが、とりあえず富士見橋に向かって一直線に下ってゆく。

富士見橋脇で神田川に注ぐ
細路は神田川に続く。富士見橋からチェックすると、橋のすぐ下流に、蓋をされてはいるが神田川に注いでいたであろう箇所が確認できた。また、橋の上流には排水口が見える。どうも、雨水幹線として工事が行われ、もとの下流排水口に続く流れを神田川に注ぐ手前で、上流の排水口に付け替えられたようである。

「気づき地点」の窪地に戻る
とりあえず、水路を下流へと辿り、神田川への合流点を確認。今度はスタート地点まで戻り、そこから上流へと向かうことにする。源流点を想像するに、地図を確認すると青梅街道の南に広がる「蚕糸の森公園」に池が見える。そこが源流点だろうか?ともあれ、女子美術大学の南のスタート地点に戻ることに。

蛇窪・清水窪にちょっと立ち寄り


スタート地点に戻る途中、先ほど富士見橋へと南に下った地点に、北から下る細路があり、少し気になっていたので、ちょっと立ち寄り。
細路を進むとT字路に当たるが、その少し西側、「和田さくらの坂公園」の脇から草の茂る道が北に続く。先に進むと、その道筋は杉並区と中野区の境ともなっている。川筋が行政区域の境となることが多いので、水路跡かと思える。 西は防衛省の宿舎などが崖上に建ち並び、東は民家が連なる間の草地を進むと行き止まりとなる。メモの段階でチェックすると、この水路跡は蛇窪とも清水窪とも称された窪地から流れ、小沢川に注ぐ支流のようであった。

十貫坂地蔵堂
蛇窪に向かう途中、細路がT字路にあたり、その先の水路跡を探していたとき、T字路の少し東に「十貫坂地蔵堂」があった。
案内には、「ここに建立されている石塔は、元禄5年(1692)銘・正徳2年(1712)銘の庚申塔、享保2年(1717)銘の地蔵塔、建立不明の庚申塔1基と、地蔵塔2基の計6基があります。
庚申信仰は、「長生きするためには庚申の夜は身を慎しみ、諸善を行い、徹夜をすべきである」という中国の道教説から始まったようです。それが日本に伝わってからは、中世以降仏教や神道の信仰と習合して庶民の間にひろまりました。
江戸時代には、本尊を青面金剛とし、不見、不聞、不言の三猿が彫られるようになり、ここに見られるような庚申塔の建立が盛んになりました。
地蔵菩薩の信仰は、仏教の民衆化とともに宗派を超えてひろまりました。地蔵菩薩は、冥界と現実界の境に立って人々を守護するということから、村や道の境や村の安全を守護する菩薩とされ、村の路傍又は辻に多く建立されています。 ここの石塔は、この辺りが武州多摩郡和田村字本村、又は砂利田と称された頃、この地域の講中の人々によって悪病退散、村民安全などを祈願して建立されたものといわれています。
現在でもこの信仰の気持ちは変わらず、参拝に来る人も年々増えているとのことです。私たちもこのような文化財を、一層大切に守りつづけたいものです。 昭和55年2月20日 杉並区教育委員会」とあった。

「気づき地点」から上流・蚕糸の森に向かう

蛇窪・清水窪を終え、十貫坂の道筋を下り、その道筋に合流する水路跡の細路まで戻り、そこから来た道を遡り、水路跡らしき窪地に気付いた箇所まで戻る。そこからは、上流に続く細路を辿ることにする。

和田中央公園
細路を進むとほどなく左手に公園がある。和田中央公園とある。親水公園といった雰囲気の人工的な流れも造ってある。この辺りに池でもあり、ここが源流かな?とは思えども、公園に沿って水路跡と思しき道は先に進む。どうも、ここが源流点はないようだ。因みに、メモの段階でチェックすると、交通局の職員寮の跡地を利用して造られたようだ。公園の西端には和田中央児童館が建っていた。


「堀内道」」とクロス・水路跡が切れる
和田中央公園から先も、車止めのついた、如何にも水路らしき道を進む。弧を描いて進む有様は、水路跡と考えてもよさそうである。しばらく民家の間を進んだ水路跡の道は、東西に走る少し大きな車道に出たところで、その痕跡が消える。因みに、メモの段階でカシミール3Dのプラグイン「タイルマップ一覧」にある関東平野迅速地図を併せると、東西に進むこの道は昔の堀内道であった。

堀内道
堀内道は堀内にある妙法寺に向かう道。私のお気に入りの田山花袋の『東京近郊 一日の行楽』にも、妙法寺と新井薬師が人気の行楽地として描かれている。 道筋は新宿から淀橋を渡り、中野村の鍋世横丁で青梅街道から分岐し、和田村を経て堀内村の妙法寺へと進んだ。

妙法寺
妙法寺は寛永9年(1635年)の開創。元禄5年(1692年)、目黒碑文谷の法華寺より日蓮上人の木像を移して本尊とした。碑文谷の法華寺、って「不受不施」で物議をかもしたあの円融寺 の旧名、である。
法華寺・円融寺;もとは天台宗のお寺としてはじまった寺は、弘安6年(1283)日蓮宗に改宗。「法華寺」として世田谷城主吉良氏や徳川氏の保護を受け大寺院として約400年間大いに栄えた。が、不受不施、つまりは、他宗派からは何も受けず、何も施さず、ただ信仰を同じくする人とのみ供に生きる、ってかたくなな教義のゆえ為政者からにらまれる。秀吉しかり。また、徳川幕府から大弾圧を受ける。
結果、元禄11年(1698)に法華寺は取り潰され、円融寺、となった、と。「目黒碑文谷の法華寺より日蓮上人の木像を移して本尊とした」って、その混乱・騒乱のときに起こった出来事ではなかろうか。

水路跡らしき道が東から合流する
水源は蚕糸の森公園の池であろう、との想いから、水路の痕跡は消えてはいるが結構広い道を北に進む。と、ほどなく道の左手から水路跡と思しき細路が車道に合わさる。なんとなく気にはなるのだが、とりあえず源流点を確認しようと先に急ぐ。この左手から合流する水路がこの沢筋の本流であったのだが、その時は知る由もなし。





水路跡らしき痕跡の細路
道なりに進み、「高南中学校」の塀に沿って進む。なにか水路跡らしき痕跡なないものかと周囲を見遣りながら進むと、高南中学校の正面入口のすぐ東側に東に入る道がある。堀内道のところで消えた水路痕跡はないものかと、路地に入ると、車止めのパイプの先に廃屋となったアパートがあり、その前に細路が入り込んでいる。如何にも水路跡といった趣だが、その細路もすぐに行き止まりとなった。

蚕糸の森の池
「高南中学校」の正面入口まで戻り、道を北に進むと「蚕糸の森公園」に到着。公園の案内図にある池に向かって公園の南端を西に進み池の脇にある四阿(あずまや)に到着。休憩を取りながら、とりあえず川跡らしき道を辿った、その水路跡が川なのか、用水なのかチェックする。と、この川筋は「小沢川」と呼ばれた文字通り、小さな沢であった。




小沢川
休憩しながらWEBでチェックすると、小沢川は、蚕糸の森公園から環七を隔てた西にある真盛寺にある新鏡ヶ池を源流とし、青梅街道の通る台地と善福寺川の北にある和田の台地の間の沢を流れ、善福寺川が神田川に合流した富士見橋脇で神田川に注ぐ2キロほどの川とあった。
源流は新鏡ヶ池とするが、その池だけでは水量が乏しく、先ほど立ち寄った蛇窪・清水窪からの支流、更には青梅街道の台地に沿って下る仙川上水の「六ヶ村分水」を養水としていたとのこと。「六ヶ村分水」からの養水の分水箇所は五日市街道が青梅街道から分かれる辺り、とのことである。
ということで、休憩の後、源流点である真鏡ヶ池へと向かうことにする。

千川上水・六ヶ村分水
千川上水・六ヶ村分水は、練馬区関町で本流から分かれ、青梅街道に沿って台地上を下り、上井草・下井草・下荻窪・天沼・阿佐ヶ谷の六つの村に水を送る用水路。乏しい水量の桃園川への養水であったことは知ってはいたが、高円寺まで下り、小沢川の養水ともなっていたことは今回初めて知った。もっとも、杉並の区立郷土博物館で買い求めた『杉並の川と橋』には、小沢川への養水の記述はなかった。

蚕糸の森の池は支流水源?
ところで、当初小沢川の水源かと予測した蚕糸の森の池であるが、本流の水源ではなかったようだ。といって、支流の水源であったという記録もみつからない。明治の「関東平野迅速地図」にも池の記載がない。公園の池も蚕糸試験所跡地を公園としたときに造成された人工の池かとも思える。
といったことで、蚕糸の森からは、はっきりと支流といったものは確認できなかったが、先ほどの水路跡らしき細路などや、ゆるやかな勾配の台地から小沢川に注ぐ沢はあったのだろう。

蚕糸の森
Wikipediaに拠れば、「当地は1911年5月の設置された「農商務省原蚕種製造所」に起源を持ち、1914年に「農林水産省蚕業試験所」、1937年に「蚕糸試験所」に改称した旧研究所跡地に設置された区立公園である。
1980年に蚕糸試験場が茨城県つくば市へ移転した事に伴い、跡地を公園と小学校として再整備し、旧杉並区立杉並第十小学校が移転した。旧杉並第十小学校跡地はセシオン杉並として再整備された」とある。

小沢川の源流点に向かう

真盛寺に向かう
蚕糸の森公園を離れ、小沢川の源流点の水源であったという真盛寺の新鏡ヶ池に向かう。成り行きで道を西に進みほどなく環七に。真盛寺は環七を隔てた対面にある。信号を渡り真盛寺に。

新鏡ヶ池
長く広い参道の先には山門が見える。境内にある新鏡ヶ池を見ようと思ったのだが、参道に「檀家以外の立ち入りはご遠慮ください」、といった案内があるため立ち入りは遠慮する。
が、なんとか池が見えないものかと、お寺さまと環七の間にある梅里公園の南端に沿って続く、お寺様の立派な塀に沿って西に進む。道が行き止まりとなった辺りに汲みあげポンプがあったり、お寺さまから流れ出るコンクリート造りの水樋があったりと、「水気」を感じる。地図を見ると公園西端に接する境内に池が見える。公園の石組みの段差を上り、境内を見ると池が見えた。それが新鏡ヶ池ではあろう。

真盛寺
境内に入るのは遠慮したが、参道に木遣塚記念碑とお寺さまの案内があった。案内には、「当寺は、天羅山養善院真盛寺と称し、真盛上人の興した天台真盛宗の東京別院で、本山は滋賀県大津市坂本の西教寺です。本尊は阿弥陀三尊立像です。
「江戸本所真盛寺之記」によれば伊賀国(現三重県)出身の真観上人によって寛永八年(1631)に湯島天神前樹木谷(現文京区湯島)に開創されました。その後、寺域が御用地となって天和三年(1683)谷中清水町に、更に東叡山拡張のため元禄元年(1688)本所小梅寺町(現墨田区横川)にと移り、のち煤煙と浸水を避けて大正十一年に現在の地に移転しました。
当寺は延宝元年(1673)に三井高利が江戸日本橋に越後屋創業して以来の菩提寺で、俗に三井寺とも称され、三井一門の香華院として知られています。 本所から移築した本堂は安永五年(1776)、元三大師堂は文政三年(1820)、中玄関書院は慶應元年(1865)と、いずれも区内では数少ない江戸時代の建物です。また客殿・庫裡は明治天皇の行幸を仰ぐため細川侯爵邸を譲り受け、目白高田老松町から移築したものです。
境内右手の「新鏡ヶ池」は旧高円寺村字中小沢の地名の由来となった古池で、中島に弁財天を祀り放生池となっています。門前の木遣塚は元禄年間、江戸城普請のときうたい始めた木遣節を後世に伝えるために建てたもので、毎年五月三日に鳶職和泉会の有志によってうたい継がれています。
なお当寺には、「真観上人画像」、雪舟銘「商山四皓」図をはじめ数多くの文化財が所蔵されています」とあった。
壇家は三井家ということ、そして、小沢川の由来が地名から来ていることがわかった。その地名も、ささやかな沢といった地形に由来するものではあろう。

真盛寺の新鏡ヶ池から下流に

小沢川の源流はわかった。ここから小沢川に沿って水路跡を下ることにする。地図を見ると、新鏡ヶ池から塀に沿った環七の先に、如何にも流路らしきカーブを描く細路がある。これが小沢川の流路であろうと環七を渡り流路跡と思しき細路へと。そこには、まぎれもなく水路跡と確信できる道筋が先に続いていた。

民家の間の水路跡の道
道は南側が高くなっている。民家との段差には石段や木で造られた階段が残る。高南中学校の運動場の南端を進む水路跡の道と民家の間には6段の鉄梯子が残っていた。水路フリークではあるが、暗渠萌え、と程ではないのだが、これほどまでの水路跡を見ると、なんだか嬉しくなってくる。


堀内道から蚕糸の森に進む道筋に合流
道に水路跡によく見る、車止めを見遣りながら道を進むと比較的広い道に出る。そこは、堀内道から蚕糸の森に向かう途中、高南中学校手前で左手から水路跡らしき道が見えたと先にメモした地点であった。





千川上水の六ヶ村分水からの養水・分水口に向かう

小沢川の源流点から神田川までの流路跡はカバーした。小沢川はその名の如く小さな沢であり、水源を新鏡ヶ池だけに求めるには心もとなく、支流や養水で水量を増やしたようだが、その支流である蛇窪・清水窪は既に訪れた。残るは千川上水の六ヶ村分水からの養水・分水口のあった、青梅街道と五日市街道の分岐点辺り。ついでのことでもあるので、養水・分水口に足をのばすことにする。



妙祝寺境内に水路跡
行き当たりばったりの散歩のため、如何にも効率が悪い。同じ道を行ったり来たりを繰り返している。養水・分水口に向かうのも、真盛寺から下ってきた水路跡を戻り、真盛寺の敷地を通る養水路の西側出口辺りと検討を付けた妙祝寺へと。
真盛寺の南側に続く塀に沿って進み、真盛寺の西隣にある妙祝寺に。境内に入り本堂にお参り。一見して水路らしきものは見当たらない。で、境内を出て通りからお寺様を見遣ると、寺の北東端に塀の一部が竹垣風の造りとなった箇所がある。そこから中を見ると如何にも水路といった風情の通路が真盛寺方向へと向かっていた。

妙祝寺
お寺さまにあった、案内には「当寺は、日栄山と号する日蓮宗の寺院で、本尊は十界曼荼羅並びに日蓮上人像です。開創は「文政寺社書上」によると、寛永5年(1628)江戸麻布桜田町(現港区六本木)とされていますが、度々の類焼により古記録を焼失したため詳細については不明です。
開山は興善院日為聖人、開基は常法院殿妙祝日栄大姉といいます。開山日為は、千葉の生まれで、所々に寺院を起立していますが、当寺を改葬の後は寺を弟子に譲り、寛永10年に港区元麻布の妙善寺を起立し本山小湊(現千葉県鴨川市)の誕生寺の二十世となりました。
開基日栄大姉は、伊予西条藩主一柳監物直盛の室で、家伝の開運不動尊の諸霊験に感銘し、桜田町の邸内に御堂を開創したのが当寺の始まりといわれ、生前、開山の日為と親子の縁を結び大姉の死後、日為がその恩に感じ、菩提のため大姉の法名に因んで山号を日栄山、寺号を妙祝寺としました。
以来、一柳家一族の菩提寺となり、墓地には累代の立派な墓があります。大正3年(1914)、寺院の発展をはかるため現在地へ移転してきましたが、大正12年9月の関東大震災で堂宇が倒壊し、大正14年に再建され、さらに昭和11年(1936)に現在のような伽藍を再興しました。
文化財としては、江戸初期に作られたといわれる不動明王像などがあります。昭和六十一年一月 杉並区教育委員会」とあった。

千川上水の六ヶ村分水からの養水・分水箇所へ

妙祝寺前を南北に通る道の一筋西に北西へと向かう道がある。曲がった当初は結構広い道幅も、ほどなく細路となり、車止めが道を防ぐ。車止めには「遊歩道」と記され、「金太郎」のマークが描かれている。




金太郎の車止め
昭和47年(1972)頃から、杉並区内の古い小川や用水路などを暗渠化し遊歩道として整備した際、 その車止めの柵として金太郎のイラストの付いた柵が立てられたようだ。何故金太郎?
ひとつには子供の遊び場である、ということをはっきりさせるため、また、家族で昔話を話し合うきっかけとして「金太郎」が選ばれたとも、金太郎が熊と遊ぶ=子ど同士が遊ぶ場所であることを示すためとも説明される。


養水分水箇所
道を進むと青梅街道の少し手前に左に曲がる細路に車止めがあり、先に進むとそこは青梅街道から分かれた五日市街道が西へと大きくカーブする箇所であった。

六ヶ村分水の小沢川への養水の分水箇所を確認。関町で千川上水本流から分かれ青梅街道を下った六ヶ村分水は、この地から更に東へと中野坂上まで下ったとも言われる(前述の如く『杉並の川と橋』にはその記述はない)。武蔵野台地は南東に向かって緩やかに傾斜しているわけで、尾根筋を外れない限りは東へと何処までも下れるのは道理ではある。
それはともあれ、本日の散歩はこれで終了。思いがけず出合った窪地を辿り、結果小沢川の沢筋であったわけだが、地形のノイズから何か気になるものを感じるセンサーが頼りの散歩ではあった。

カシミール3D・数値地図5mメッシュ(標高)

家に帰りカシミール3Dで何年も前に7500円で購入した数値地図5mメッシュ(標高)を読み込み、ちょっと驚いた。地形図では小沢川の川筋が見事に窪地として表示されている。清水窪・蛇窪の窪地もはっきりわかる。
地形図を見ていると、阿佐ヶ谷の辺り、荻窪の辺りから桃園川の谷筋に向かって窪地が見える。また、堀之内の妙法寺の西に、弧を描いて善福寺川に繋がる窪地も見える。何となく気になる。
次回の散歩は善福寺川に繋がる窪地や、阿佐ヶ谷や荻窪から桃園川の谷筋に続く窪地を辿ってみようと思う。尾根筋からの窪地であるので、千川上水の六ヶ村分水だろうか。ともあれ、歩いてみてそれから調べることにする。
6月末のとある日曜、朝起きると快晴。その1週間前の週末、沢ガールのガイドで秋川筋の大岳沢に入る予定であったが、雨で中止。その時の沢入りの準備ができていたので、どこかの沢に行こうと想う。どこに行こうか、ちょっと考え、水根沢に行くことにした。
水根沢には未だ一度も行ったことがない。奥多摩の沢登り、といえは「水根沢」と言うことで、いつも人で溢れているといったイメージがあり、初心者集団を引連れて「渋滞」を起こすのが申し訳ないと、いうのが最大の理由であった。 今回は急に思い立ったわけで単独行。ひとりであれば、沢を楽しみに来ている皆さんに迷惑をかけそうな滝や岩場は高巻きすればいい、沢は初級レベルと言われているが、キツそうであれば沢にそって続く水根沢林道に這い上がればいい、また、単独行の場合、基本、怖がりの我が身は、通常であれば常に携帯する山地図をインストールしたGPS端末も持たず、遡行図のコピーだけ。林道といえば、倉沢海沢など、沢に沿う広い道が刷り込まれており、すぐに見つかるだろうと思い込んでいたわけである。少々お気楽な水根沢行きであった。

沢には予想に反し、誰も居ない。これはラッキー! 迷惑をかけることもないので、のんびりと試行錯誤を繰り返し遡行していたのだが、途中で如何にも経験豊富な風情の方に後ろから声を掛けられた。岩に這い上がろうとする姿を見て、心配になったのか、一緒に行きましょうとの申し出である。
有り難い申し出ではあるが、誠に申し訳ないので一度ならずお断りしたのだが、結局ご一緒することに。よほど心配にみえたのだろう。CSトイ状の滝から先はその方のリードで半円の滝まで進み、そこで遡行終了し、ふたりで林道に向かうことにした。
これで、本日の沢上りは終わり、と思ったのだが、林道が見つからない、踏み跡はいくつかあるのだが、すぐ行き止まり。結構上下し林道を探したのだが、わからず、結局沢を入渓点まで戻りましょう、ということになった。水根沢の林道は、林道と言うより鷹ノ巣山への登山道と言ったものであったようだ。
 二段12mのナメ状の大滝辺りでは岩場を下る懸垂下降のロープが10mでは足りず、結構苦労したが、岩場では腹這いになり、ズルズルと足懸りを探しながらクリアするなど、はじめての本格的「沢下り」も楽しめた。


本日のルート;水根沢キャンプ場>入渓点>(最初のゴルジュ)>2mの小滝>CS3m滝>橋>二条CS滝>(二番目のゴルジュ帯)>2m滝>CS3m滝>小滝>4m滑滝>4m滑滝>CSトイ状の滝>2段12m滝>滑滝>山葵田>三番目のゴルジュ帯>6mトイ状半円の滝>遡上終了>林道が見つからない>(沢を下る)>2段12m滝>CSトイ状滝>小滝>水根バス停

水根沢キャンプ場
突然決めた沢入でもあり、家を出る時間も遅く、奥多摩駅に着いたのは11時前。偶々、10時50分だか55分だったか忘れたが、丹波行きのバスがあり、奥多摩湖バス停のひとつ手前の「水根」停留所で下車。
沢に沿って入渓点である、水根沢キャンプ場へと向かう。水根キャンプ場とはいうものの、道脇にそえらしき建物はあるものの、如何にもキャンプ場といった場所もなく、沢に沿った広場といった場所があったが、それが水根キャンプ場なのだろう。
ただ、そこは民家の私有地といった風で、入り口に車止めといったものがあり、民家の前を通るのも申し訳なく、道を先に進む。と、道端でお喋りを楽しんでいた集落の方が、沢に入るのは、この道を先に行けばいい、と教えてくれた。







入渓点:11時52分
しばらく進むと舗装が切れ、山道に入る。これが水根沢登山道だろうか(注;後日、登山道とは別の道と判明)。ほどなく、道下に沢が見え、少々傾斜が急ではあるが、そこから沢に下りることにした。

 道で入渓準備。極力高巻きで水に浸からないようにしようと思うが、「水の水根沢」であるので、時に、胸くらいまで水に浸かることを覚悟し、山用の防水雨合羽を上から着込み、沢に入る。入渓点は穏やかな沢相である。

◎最初のゴルジュ
2mの小滝;11時56分
左岸に取り付き、岩場に手懸かり・足懸かりを見付けながら、水際を進み(沢の用語では「へつり」)滝横の岩に這い上がる。








CS3m滝;11時58分
その先には5mほどの淵あり、如何にもゴルジュといった風情。淵の先にはCS3mの滝。淵を進むが、深さはそれほどない。かつてはもっと深い淵であったようだが、砂で埋まってしまったようだ。
滝横の岩場まで進み、そのまま岩を這い上がる。水中から平坦な撮り付き岩場まで微妙な段差があり、そえなりに難儀ではあったが、滝自体はそれほど難しい滝ではなかった。
因みに、CSとは「チョックストーン(chockstone)=岩の割れ目にがっちり挟まった岩」を意味する。



橋;12時2分
その先に橋が架かる。どこに向かうのだろう。









二条CS滝;12時7分
橋を越えると、川の中央に大岩が座り、水流が両側から勢いよく流れ落ちる。二条CS滝である。水に濡れるのを避け、左岸を高巻きしようと思ったのだが、結構難く、撤退。仕方なく滝を二つに分ける岩に取り付く。
腰の深さの淵を進み、下の岩は簡単に登れたのだが、上の岩場に這い上がるに、手掛かり、足掛かりがない。撤退しようにも、下りるに下りられず、岩の右手の水流に足懸りをと思えども、昨日の雨の影響か水の流れが強くホールドする自信がない。
なんとか上の岩に這い上がろうと悪戦苦闘。水濡れを防ぐために着た雨具がつるつる滑り、岩場に張り付くもずり落ちる。結構苦労したがなんとか這い上がれた。多くの人は岩の右手の水流を上るようである。

二番目のゴルジュ帯

最初の2m滝;12時31分
左岸を滝の少し手前から「へつる」。が、行くも、戻るもできなく、淵にドボン、と思った時、岩場左上に残置スリングが見えた。スリングを掴み、岩場をクリア(注;後日残置スリングは2箇所にあるのがわかった)。










CS3m滝;12時35分
淵に入るのを避け、「へつり」をしながら左岸岩場を登り高巻しようとしたのだが、途中でこれも進むも退くもできなくなった。ずり落ちるのを避けるため、両手両足で滑る岩場をホールドし、なんとか下まで戻る。
そこからは水に胸辺りまで浸かり、滝の下まで進みるのを腰まで水に浸り右岸を上る。

声を掛けてもらう
滝上に上り下流を見るとひとりの男性が目に入った。そして、御一緒しませんか、との申し出。高巻でグズグズしている姿などを見るにみかね声をかけてくれたのだろう。沢はほどほど、ロッククライミングとかケービング(洞窟探検)を楽しんでいる方であった。
有難い申し出ではあるが、申し訳なく丁重にお断りするも、結局ご一緒することに。よほど心配してくれたのだろう。

小滝;12時51分
ご一緒に進み小滝右岸を上り、ゴルジュ帯を抜ける。













深い釜をもつ4m滑滝
ここが一番キツかったように思う。岩場に手懸り・足懸りが見つからず、這いずり廻り、少々無様な恰好でなんとかクリアした。疲れ果て写真を撮るのも忘れてしまった。

CSトイ状の滝;13時14分
その先にトイ状の滝。雨水を集め下に流す樋(トイ)のように、狭い岩場を勢いよく水が流れ落ちる。ご一緒した方は、滝壺下まで進み、流れに抗いながらもステミング(両手両足で両側の岩場をホールドし滝を登る。蟹の横這い、といった格好である)でトイを突破するとのこと。
一方私は、少々疲れ気味。ステミングで体を支える気合が足りない。ステミングをしないとすれば、右岸の急な崖を這い上がり、10mの垂直な崖を下りることになる。迷うことなく右岸に崖に取り付く。
崖を這い上がり、先端部にくると10mの垂直の崖。崖の先端には残置スリングと、そこから下にロープが垂れる。が、ロープは水面まで届いていない。「画龍点晴を欠く」と言った残置ロープである。
それではと、ロープを取り出し6ミリの10mロープを結び、スリングに通し、フリクション(摩擦)を保ち、かつロープの回収を容易にすべく6ミリ二本のロープを8環に通し、懸垂下降で10mの垂直な崖を下りる。ロープも10mでギリギリではあったが、無事崖を下りた。崖下でステミングで上ってきた男性と合流し先に進む。

2段12m滝;13時17分
CSトイ状の滝の先には2段12m滝。右岸を這い上がる。水に浸かり、たっぷりと水を吸い込んだリュックやロープの重みが結構きつい。後でもメモするが、林道の踏み跡が見つからず、沢を下るとき、最も苦労した箇所である。









滑滝;13時26分
2段12m滝の先に小滝とカーブした滑状の滝が続く。難しい滝でもなく、滑状の滝の風情は結構美しい。











山葵田;13時33分
その先、右岸に小屋が見える。付近は山葵田とのことである。ここで休憩をとる方が多いようだが、そのまま先に進む。









三番目のゴルジュ帯

山葵田の先は、両岸にが岩に挟まれた、ちょっとしたゴルジュ帯(?)となる。小さな滝が二つあった。最初の滝はどうということはなかったのだが、2番目の滝は、見た目は簡単ではあったが、手懸かり・足懸かりがなく、体力も大分消耗した我が身は、なんとか這い上がる、といった為体(ていたらく)ではあった。






6mトイ状半円の滝;14時
このゴルジュ帯を抜けると、小滝がありその先に水根沢で最も名高い半円の滝が見えてくる。ステミング(蟹の横ばいといった案配)で登っていくのが本道ではあろうが、その体力はない。ご一緒した方はステミングで進むも、私は右岸を高巻き。高巻きは誠に簡単であった。








遡上終了;14時5分
ご一緒の方は、数回この沢に来ており、これから上はそれほど面白い箇所もないので、ここで切り上げましょうとの提案。誠に有り難いお話。成り行きで林道へと向かう。







林道が見つからない:14時23分
林道は直ぐに見つかるとのことであったが、なかなか見つからない。踏み跡はいくつかあったのだが、途中で消える。成り行きで彷徨っていると、左右に沢を分ける尾根道に入る。左手の沢は何だ?益々混乱。
ご一緒してくれた方も、記憶を頼りに林道を探すが、見つからない。で、結局、沢を下りましょう、ということになった。
家に帰り地形図を見ると、沢を分けた尾根と思ったのは、水根沢にグンと突き出した尾根であり、単に水根沢が突き出した尾根の岩壁をぐるりと回っているだけであった。場所は最終地点である半円トイ状の少し下流といった箇所であった。この尾根筋のため少々混乱したが、もう少し高いところまで登れば林道に出合っていのかとも思う。水根沢のレポに林道探しに苦労した、といったものは皆無である。皆さんは何の苦労もなく林道に登れているのだろうか。

沢を下る

2段12m滝;14時58分
水根沢に突きだした尾根筋に沿って踏み跡があるので、とりあえずその道を進む。が、ほどなく踏み跡が切れる。跡は成り行きで沢に沿って下ると、2段12m滝の上に出た。岩場を下るのは滑って危なそう。ロープを出して下降。安全な箇所まで下りるには15mほどの長さがあったほうがよさそうであった。








CSトイ状滝;15時
高巻きをエスケープし懸垂下降で降りた箇所は、下りはステミング(蟹の横ばいといった案配)で下りるしか術はない。トイ状の滝をステミングで下り、適当な所で淵にドボン。










小滝;15時24分
登りはどうということもなかったCSの小滝も下りは難しい。腹這いになり、手懸かりをホールドしながら、ゆっくりズリ落ちる要領で足懸かりを探しながらクリアする岩場が2箇所ほどあった。

入渓点に:15時45分
水に濡れるのを避けるため、極力高巻で、といった「計画」も下りのトイ状の滝での滝壺にドボンのため、結局全身ずぶ濡れになりながらも、なんとか入渓点まで戻る。そこはスタート時点では遠慮した民家前を通るアプローチ地点ではあった。

水根バス停;16時10分
沢から出ると、四駆で駅まで送ってくれる、と言う。さすがに、そこまでは甘えることはできず、御礼を申し上げデポ地点で別れる。林道脇で着替えを済ませ 水根バス堤に。16時23分のバスに乗り、16時57分のホリデー快速おくたまで一路家路へと。

今回の沢は反省点ばかり。単独行でありながら、地図もGPSも持たず遡行図だけて沢に入り、撤退や復路の林道は沢に沿って直ぐに見つかると高を括っていた。偶々この方が親切にご一緒して頂いたから良かったものの、独りだったら、倉沢とか海沢の林道と言った大きな「林道」を探して山中を彷徨っていたかとも思う。よくよく考えれば、入渓地点での林道を考えれば、そんな大きな林道ではない、ということはわかるはずではあったのだが。。。

結構沢をこなし、ちょっと半端な余裕をもちはじめていたのだろう。初心に戻るべし、との思いをかみしめた水根沢遡行となった。

後日談(2回目)
 
7月の中旬、酷暑の都心を離れて元会社の仲間と水根沢に入った。当日はピーカン。これは水を存分に楽しめるだろうと入渓点に。
が、前回と同じ個所で着替えをしている時に沢から聞こえる水の音が半端ではない。轟轟たる水音である。快晴ではあるが、この水音を聞き、防水雨具を上から着込み入渓点に。 思った以上に強烈な水勢である。

第一のゴルジュ帯
2m小滝
最初のゴルジュ帯の2mの小滝は、「へつり」で進む。強烈な水勢を見遣りながら第一関門はクリア











CS3mの滝
がその先のCS3mの滝は、先回は滝下まで進み、楽々滝を登ったのだが、今回はとてもではないが直登などできそうもない。迷うことなく大きく高巻き。






第二のゴルジュ帯
2m滝
再び沢に入り第二のゴルジュ帯の2m滝に。水量も多く、先回と様変わり。水量が多いこともあり、左岸が丁度いい感じにへつりがしやすくなっている。手掛かりを探り、水中に足がかりを探りながら滝の手前まで、水線の中に足がかりを見つけ、クリアする。






CS3m
このCS3m滝は水量は多いものの、どういうわけか水勢が激しくなく、先回と同様に右岸を這い上がる








4m滑滝
その先、先回辿った小滝だったか4m滑滝だったか。それもわからないほど水が滝を覆う。異常なほど水勢が激しく、水線を進もうにも跳ね返される沢ガール。幾度かトライするも断念。で、高巻しようと崖に張り付き、足場の悪い崖を上り切るも、その先のルートが読めない。このまま進むのは危険、ということで撤退決定。





登山道に這い上がる
登山道に這い上がるにも、この地点から這い上がるのはキツイ。少し下り、CS3m滝辺りから崖を這い上がる。登山道まで比高差は90mほどあるだろうか。あまりに急登に、シダクラ沢以来の四足歩行でなんとか這い上がる沢ガール。悪戦苦闘し登山道に。






登山道
先回見つけることのできなかった登山道ではあるが、結構しっかりした踏み跡のある道ではあった。
それにしても、強烈な水勢であった。数日前まで何日か降り続いた雨の影響が、これほどまで残っているとは想像もできなかった。しかし、誠に面白い沢登りの一日であった。











水根沢再々訪(3回目)

8月末日、先回の途中撤退のリベンジにとの沢ガールのご下命により、水根沢に。パーティは退任前の会社の沢ガールと沢ボーイと私の3名。先回同様、民家前を通る入渓点を避け、道を進み「むかし道休憩所」を越え、舗装も切れる民家脇の小径の入渓地点上に。
入渓点上の登山道と思っていた道は、先回の途中撤退で這い上がった登山道の下り口とは異なっており、沢遡上の途中で出合った橋に続く道のようではあった。
それはともあれ、入渓点上の道で入渓準備をしながら耳を澄まして聞く沢の水音は轟々と響いていた先回とは異なり、静かな響き。一安心し入渓点に下りる。


入渓
先回の大水の後の沢入りは、入渓早々に左岸の「へつり」でしか進めなかった箇所も、今回は水線上をのんびり進む。

CS3m滝
先回はその水勢激しく高巻きしたCS3m滝は右岸を進み岩場に這い上がる。最初に水根沢にひとりで訪れたときはそれほど難しいと思わなかったのだが、岩場に這い上がるには水中からは微妙な段差。男ふたりは何とか這い上がるが、腕力のない沢ガールは悪戦苦闘。
長時間水に浸かり体力消耗を避けるため、結局ロープを出し、ハーネスのカラビナに固定し、引き上げることにした。岩場には残置スリングが吊り下がっていたが、位置が高く水中からの手掛かりとはなり得なかった。

CS2条の滝
先回は水量が多く、結果左岸をへつりで進むことができたCS2条の滝(多分CS2条の滝だと思うのだが、ゴルジュ帯の2m滝だったかもしれない。なにせ水勢激しく、滝が水に埋もれどちらだったか確認できない)は、今回は中央岩場に取り付き、岩の右手から流れ下ちる水線の岩に足を踏み出しホールドし上るのが常道のようだが、一歩踏み出す「勇気」を躊躇する沢ガールのため、ここもハーネスのカラビナにロープを固定し引き上げる。

2番目のゴルジュ帯
2m滝
最初に一人で訪れたときは左岸をへつり、残置スリングに助けられたとメモしたが、今回も左岸をへつると2箇所に残置スリングが残っていた。もっとも、 残置スリングを手掛かりに進むが、その先は滑りやすい岩場であり、釜がそれほど深くもなかったため、他の二人は左岸に沿って水中を進み岩を這い上がって進んだ。





CS3m滝
その先のCS3m滝は最初に訪れたときも、先回の大水の時も、不思議に水がそれほど多くなく、右岸に沿って進み岩場を這い上がって進むことができた。今回も同じく右岸を這い上がる。







釜のある4mナメ滝
最初に訪れた時も難儀し、2回目には強烈な水勢のため途中撤退を決めた、釜のある4mナメ滝(当日は圧倒的な水量のため撤退箇所は特定できず、帰宅しログを確認し釜のあるナメ滝と推察したわけではあるが)に到着。釜を泳ぎナメの岩場の水中に足がかりを探し、なんとか這い上がる。今回もやはりここが少し難儀する箇所となった。
沢ガールには、ハーネスのカラビナにロープを固定し、水中を引っ張り、最短時間でナメ岩下に取り付き、ナメの岩場を這い上がる。


CSトイ状の滝
深い釜を泳ぎ、ステミング(蟹の横這い状態)で上るトイ状10mほどの滝に到着。釜も深く、水に濡れ体が冷えた我々3人は釜を泳ぐ気は毛頭ない。最初と同様、10mほどの垂直の崖を懸垂下降で下りようと右岸の崖を這い上がる。 先回懸垂下降で下りた崖の先端の岩に掛けられたスリングは残るが、そこから吊るされていたロープは切れて崖端に放置されていた。
先回は岩に掛けられた残置スリングにロープを通し、懸垂下降で垂直の岩場を下りたのだが、よくよく見ると残置スリングが心もとない。またスリングを支える突き出た岩場も、なんとなく「ひ弱」な感じ。スリングもそれを支える岩も、見れば見るほど少々怖くなり、結局懸垂下降は危険と判断。釜を泳ぐ気持にはならないため、今回はここで左岸高巻きすることに決定し、水線に戻る.。

登山道に這い上がる
左岸を見遣り、這い上がる箇所を探し岩場に取り付き、高巻き開始。極力左手に進もうと思うのだが、傾斜がきつく、滑り始めると釜に向かって一直線に落ちて行きそうな急斜面のため、トラバースするのは少々危険と、結局一直線に崖を這い上がることに。
また、最初の水根沢遡上で登山道が見つからず、沢を入渓点まで戻るため、支尾根の左手を成り行きで下ると2段12mのナメ滝上に出たのだが、その時の印象ではトラバースできるような斜面ではなく、結局2段12mのナメ滝へと下りざるを得なかったわけで、トイ状の大滝を高巻きしても、とても沢に復帰できるような斜面でなかったことが頭に残っていたのも、登山道へと一直線に這い上がることにした理由でもある。

急登に難儀する沢ガールにはハーネスのカラビナにロープを結び、斜面の立木を支点に安全を確保しながら崖を這い上がる。結局は高巻き、というより登山道までエスケープした、といったほうがいいだろう。30分ほどかけて登山道に這い上がった。

登山道を支尾根に
当初のゴールである半円の滝へと登山道を進む。最初に水根沢を訪れたとき見つけられなかった、半円の滝から支尾根に上った先にある登山道を「繋ぐ」ことも目的のひとつではある。
登山道を進むと、左手に支尾根が見える。道脇の過ぎに白のペンキが塗られていた箇所から支尾根に下りる道がある。支尾根への斜面を下り、平坦な支尾根上の踏み跡を進み、沢に下りる箇所を探す。
支尾根を進むと尾根筋を切り開いた箇所があり、そこから支尾根の右手を沢に下りる。これで半円の滝で終了した後の、登山道への道が繋がった。最初の沢入りで、登山道が見つからず沢を入渓点まで戻ったときは、この尾根の左手を成り行きで下り、トイ状滝の上にああttる2段12mの上に出たわけである。

半円の滝
沢に下り、少し沢を下流に戻り半円の滝に。トイ状の大滝は高巻きと言うか、登山道にエスケープしたが、本日のゴールに到着。沢ガールも先回の途中撤退のリベンジ達成と、トイ状の滝脇の岩場を滑り台に釜に流れ落ちたり、半円の滝をステミング(蟹の横這い)で登ったりと、しばし水遊びを楽しみ、本日の水根沢の沢上りを終える。

むかし道休憩所
先回の大水の後の水根沢を訪れ、途中撤退し登山道を下ってきたとき、登山道を舗装された道に下りきったところから少し先に進み。左手の沢側に入ったところに「むかし道休憩所」があった。まことに立派な施設でお手洗いもあるし、着替えもできる。今回も、休憩所までは沢スタイルで下り、ここでゆったりと着替えすることができた。水根沢の着替えはこの休憩所を使わせてもらうのがいいかと思い、メモをする。

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