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四国霊場四十三番札所・明石寺から久万高原町にある四十四番札所・大宝寺までの80キロ以上ある遍路道。その西半分を歩き、以前歩いた東半分の遍路道と繋ぐ散歩の2回目。初回は四国霊場四十三番札所・明石寺から鳥坂峠を越えて大洲まで歩いた。
2回目は大洲から既に歩き終えた東半分、四十四番札所・大宝寺への峠越えの始点とした内子の石浦へと向かった。が、出だしの大洲で同名の永徳寺違など二度ほど道間違いで時間をロスし、最終地点の石浦と繋ぐ数キロの水戸森峠越え手前で時間切れとなってしまった。
1回目で見逃した鳥坂峠を下った林道(大正9年(1920)の県道)の道標の確認、またメモに際してわかった大洲の子安大師堂の道標と合わせ、次回もう一度訪ねることになるだろう、か。



本日のルート;予讃線・内子駅>大洲・柚木尾坂の道標>大洲神社>旧志保町の遍路道>おおず赤煉瓦館>肱川橋>大洲市内を抜け国道56号に>永徳寺間違い>霊場十夜ヶ橋脇の道標>霊場十夜ヶ橋 永徳寺の徳右衛門道標>新谷(にいや)古町の三差路>新谷に>新谷の徳右衛門道標>高柳橋>金毘羅橋>矢落橋>遍路休憩所>二軒茶屋の大師堂>黒内坊の徳右衛門道標>土径を駄馬池へ>思案堂の道標>郷之谷橋>栄橋から本町通りを進む>八日市・護国地区>清栄橋>常夜灯と道標>福岡大師堂の道標>麓橋>五城橋>水戸森峠取り付口

予讃線・内子駅
今回は大洲からの散歩開始。終点近くの内子の駅に車をデポし列車で大洲に向かうことにした。内子の駅前にロータリーがあり、駅のスタッフの方に確認すると駐車は問題なし、とのこと。有り難い。

大洲・柚木尾坂の道標
列車で大洲に向かい、駅を下りて前回の終点である大洲の町への入り口、柚木尾坂の道標地点に歩を進め2日目の散歩を開始する。






大洲神社
遍路道は道標から直進し大洲神社の参道前に出る。拝殿は長い石段を上り、肱川に突き出た尾根筋の突端にある。大洲神社は恵比寿・大黒を祭神とする商売繁盛の神。鎌倉時代の元弘元年(1331)宇都宮氏が大洲城を築いたとき、下野国の二荒神社より勧請され太郎宮として祀られる。その後も戸田・藤堂・脇坂・加藤と続いた藩主の庇護を受けた社とのことである。




旧志保町の遍路道
大洲神社の参道前を突き切って北に向かう遍路道は旧志保町(現在大洲市大洲)の古い町並みに入る。「えひめの記憶」には、「ここから遍路道は、大洲神社の参道前を通って志保町と呼ばれる町並みに入るが、その通りは古い家並みが残り、昔の繁栄ぶりを今に伝えている。
遍路道は、志保町の通りから中町三丁目の通りかまたは本町三丁目の通りかで左折するか、あるいは肱川の左岸の堤を進み、旧油屋旅館(現在、旅館にしかわ)の前に出る」とある。
中町も本町も志保町と同じく大洲市大洲となっており、また旧油屋旅館(現在、旅館にしかわ)も場所が変わり、現在はこの地にはなかった。
この志保町、中町などの家並みは江戸の頃、17世紀中頃の家並みとほとんど変わっていないようである。肱川と並行して東西に、丘陵部に向かって垂直に南北の通りが交わる。
江戸の終わりの頃の町屋の戸数は400戸弱。商家が軒を並べていたようだ。遍路道として、大洲神社参道前を南から北へと歩いた志保町(塩屋町)は、藤堂高虎が、塩売買のため城下町のうち最初に建設させた町とのことであり、木蝋屋、生糸製造元、問屋、料理屋、みやげ物屋などが道路沿いに軒を並べた、と。

おおず赤煉瓦館
街並みに張られた遍路シールの案内に従い、旧志保町から左に折れる遍路道を進み、おおず赤煉瓦館に。「えひめの記憶」には「旅館(私注;油屋旅館)の向かいには、煉瓦(れんが)造りの旧大洲商業銀行(現在、おおず赤煉瓦館)があり、その横に「河原大師堂」がある。地元の人の話では、この大師堂は、昔は肱川(ひじかわ)の河原にあったが、幾度か場所を変えて現在の場所に移されたもので、川の安全に関係を持つものであるという。
前から営業していた油屋は、増水のために幾日も足止めをくった人も宿泊して大変にぎわっていたとも伝えられている」とある。
おおず赤煉瓦館の北に、まことにささやかな祠とも言うべき「河原大師堂」があった。
肱川の渡し
「えひめの記憶」には「『四国邊路道指南』に(大ず城下、諸事調物よき所なり。町はずれに大川有、舟わたし。」と記されている肱川渡しは、明治以後、城下(しろした)渡し、桝形渡し、油屋下渡し、柚木下渡しの公認の四渡しがあった。 それぞれの渡しには、一隻の船と一人の船頭がいて、大洲町と中村側、大洲町と柚木村(菅田(すげた)方面の人の通路)を往来する人々を渡していた。
船が向こう岸で客待ちしている時は、こちらへ客を運んで来るまで川べりで待たねばならなかったので、急ぐ人の中には裸になって浅瀬を渡る者もいたという。
その後、肱川に橋をかける夢の実現を願う人々の中には、明治6年(1873)になると、油屋下渡しに13隻の川舟を杭でつないで横に並べ、洪水になると容易に取り外しのできるように板を並べた簡単な浮き橋を考案した。この橋は遠望すると形が亀の首をさしのべたように見えるところから一般に浮亀橋と言い、肱川橋が開通するまでの間、交通上の重要な役割を果たしていた。
しかし、大正2年(1913)に肱川橋が完成すると、遍路はこの新しい橋を渡るようになった。そのため中町三丁目から中町二丁目を通って国道56号に合流する中町一丁目の入ロに、大正4年建立の「すがわさんへ十三里 へんろ道」と刻んだ道標があったとされるが、現在は行方不明になっている」とある。

肱川橋
肱川に架かるその肱川橋を渡る。左手に大洲城が見える。私の子供の頃に大洲に城は建っていなかったのだが、数年前大洲に遊びに行ったとき天守が建っていたのを見て驚いたことがある。
城は明治維新に本丸の天守・櫓の一部を残し破却され、その天守も明治21年(1888)に老朽化により解体されたが、平成16年(2004)に復元されたようだ。天守は資料を基に当時の姿を正確に復元したとのことである。

「えひめの記憶」に拠れば、「大洲は藩政時代には加藤氏6万石の城下町として栄えていた。文化2年(1805)に土佐朝倉村の兼太郎が記した『四国中道筋日記』によると、「いろいろ売物有、宿屋・はたご(旅籠)・きちん(木賃宿)、三つニて多し」とある。
また、明治40年(1907)に遍路した小林雨峯は、『四國順禮』の中で、「此町(このまち)、肱川(ひぢかは)に臨(のぞ)みて、小繁華(せうはんくわ)の土地(とち)なり。(中略)雨合羽(あまがっぱ)の名所(めいしょ)ときヽて、鹽屋町(しほやまち)に求(もと)む。(中略)上等旅館(じゃうとうりょくわん)に泊(とま)らんとして、二三軒尋(げんたず)ね合(あは)せしも悉(ことごと)く拒絶(きよぜつ)され、合羽屋(かっぱや)の紹介(せうかい)にて、すぐ前(まへ)の北岡屋(きたおかや)と云(い)う宿屋(やどや)に陣取(じんど)る」と記している。遍路はここ大洲で諸物資を調達したり、宿泊していた模様である」とある。
大洲城
肱川を眼下に望む大洲城は、鎌倉時代末期、元弘元年(1331年)に守護として国入りした宇都宮豊房によって築城され、8代豊綱まで約200年間宇都宮氏が代々この城を継いだが、天正13年(1585)の秀吉の四国征伐で、小早川隆景により城は落ちた。
その後、小早川隆景、戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂安治と領主がかわり、この時期に近世城郭としての大洲城の基礎が固められとのことだが、特に築城家として名高い藤堂高虎等によって大規模に修築がなされた、と。
大坂の陣後は、加藤貞泰が大洲6万石に封ぜられて入城し、明治の廃藩まで加藤氏13代の治めるところとなり、伊予大洲藩の政治と経済の中心地として城下町は繁栄した。戦国の頃には大津とも呼ばれていたこの地を大洲としたのは大洲藩2代目藩主・加藤泰興の頃と言う。

大洲市内を抜け国道56号に
肱川を渡ると大洲市中村になる。「えひめの意億」には「油屋の対岸には船着き場があり、上陸地点には「渡場」という地名が残っている。遍路道はこの「渡場」から弁財天の横を進み、すぐに国道と交差するが、国道を横断すると殿町(とのまち)、常盤町(ときわまち)の町並みを通って県道大洲長浜線(24号)を直進し、やがて古い町並の残る若宮に入る。そののち若宮を抜けると、国道に合流」 とある。

渡場、殿町は現在中村地区に含まれるが、常盤町は古い街並みに沿った一画だけがその名を留める。常盤町を進み、県道43号進み、喜多小学校手前で肱川を渡る県道を離れ若宮地区をそのまま進み県道56号に合流する。
国道に合流する手前を少し肱川の堤へと向かうと子安観音があり、そこには茂兵衛道標があったようであり、ということは、そこが遍路道ということだろう。

永徳寺間違い
ここから国道56号を進めば、大洲市徳森に入り、十夜ヶ橋(とよがはし)に至るのだが、ここで大きな間違いをしてしまった。十夜ヶ橋と検索すると「十夜ヶ橋 永徳寺」とあり、永徳寺を検索し「大洲市徳森1296」にある永徳寺に向かった。
すぐ傍に「都谷川(とやかわ)」も流れており、ここに架かる橋下にてお大師さんが一夜を過ごしたものと思い込み、国道を逸れて永徳寺に向かったのだが、それっぽいものはなにもなく、検索をし直す。
と、国道56号の「十夜ヶ橋交差点」の東、都谷川に架かる橋に「霊場十夜ヶ橋」を確認。気を取り直し都谷川の堤に沿って霊場十夜ヶ橋に向かった。こんな初歩的な間違いをする方はいないとは思うが、ご注意あれ。念のため、

霊場十夜ヶ橋脇の道標
都谷川に沿って北に進み、国道56号と交差する橋の手前に道標が立つ。「へんろ道 すごう)山 十二里」「左 長濱道」と読める。道標から橋の下に。横たわるお大師さんに御布団をかけてある。
「えひめの記憶」には、「『四国遍礼名所図会』には、当時の十夜ヶ橋の面影を伝えている絵図が掲載されており、「十夜の橋大師此辺にて宿御借り給ひし時、此村の者邪見ニて宿かさず。大師此橋の下二て休足遊ばしし時、甚だ御苦身被遊一夜が十夜に思し召れ給ひし故にかく云、大師堂橋の側にあり」と弘法大師にまつわる伝承を紹介している。



十夜ヶ橋の由来については、一般的には、弘法大師にとって一夜の野宿が十夜にも思うほどであったということから起こったと伝えられているが、十夜ヶ橋は実は都谷橋(とやはし)であったのが、弘法大師の伝説と結びついて十夜ヶ橋の文字を当てるようになったという説もある」とあった。

霊場十夜ヶ橋 永徳寺の徳右衛門道標
都谷橋の西詰めに永徳寺がある。境内の国道脇に徳右衛門道標。「是〆菅生山迄拾弐里」と読める。境内にあった「弘法大師御野宿所十夜ヶ橋」に拠ると、「今を去ること一千二百有余年の昔、弘法大師が四国御巡錫中、この辺りにさしかかった時、日が暮れ、泊まるところもなく空腹のまま小川に架かる土橋の下で一晩野宿をされた。その晩大師は「生きることに悩んでいる人々を済いたい」「悟り(即身成仏)へと導きたい」という衆生済度のもの思いに耽られた。それはわずか一夜であったが十夜のように長く感じられ『ゆきなやむ 浮世の人を 渡さずば 一夜も十夜の 橋とおもほゆ』と詠まれた。
これから十夜ヶ橋(とよがはし)と名がついたと伝えられ、弘法大師の霊跡として今に至る。またお遍路さんが橋の上を通る時には杖をつかないという風習は人々を想うお大師さまに失礼にならないようにとの思いから起こったものである」とある。

「えひめの記憶」にあった説明と少々ギャップがあるが、それはいいとして、それでは歌は一体誰が詠ったものだろう。チェックすると、これはこのお寺様のご詠歌とのこと。

「えひめの記憶」に拠れば、『東海道中膝栗毛』で名高い十返舎一九は、「四国遍路旅案内」に於いて、「この御詠歌といふものは、何人の作意なるや、風製至て拙なく手爾於葉は一向に調はず、仮名の違ひ自他の誤謬多く、誠に俗中の俗にして、論ずるに足ざるものなり、されども遍路道中記に、御詠歌と称して記しあれば、詣人各々霊前に、これを唱へ来りしものゆゑ、此双紙にも其儘を著したれども、実に心ある人は、此の御詠歌によりて、只惜信心を失ふことあるべく、嘆かはしき事なるをや、と辛辣な御詠歌批評を記しているのは、遍路の普及による信仰の卑俗化への厳しい批判をこめたものとして、当を得ている」とある。弘法大師空海の作ではないようだ。

大師堂にお参りし先を急ぐ。「えひめの記憶」に拠れば、「十夜ヶ橋から内子に至る主な遍路道は大洲街道(以下、旧街道と記す)であった。しかし、明治37年(1904)に国道(以下、旧国道と記す)が開設されると、次第に遍路は旧国道を通るようになった」とあるが、大洲街道(旧街道)の道を進むことにする。

新谷(にいや)古町の三差路
「えひめの記憶」には「旧街道を通る遍路道はここ(私注:十夜ヶ橋)から左折して都谷川沿いに北進し、肱川の支流矢落川に出て、その川沿いに東に向かって進んでいた。この道はJR予讃線と矢落川の間あたりを曲がりくねって東に向かっていたらしいが、河川改修や圃(ほ)場整備などで今はほとんどが消滅している。ただ、新谷(にいや)古町の三差路の周辺にかけて旧街道の一部がわずかに残り、三差路には、中江藤樹(1608~48)の頌徳(しょうとく)碑、常夜灯や道標がある」とする。

今ひとつ道筋ははっきりしないが、とりあえず成り行きで進み新谷古町の三差路を目指す。橋の東詰め、都谷川の右岸に木標が見える。案内に従い、橋を渡ると直ぐに左に折れ、松山道の高架傍にある木標(矢落橋4.3km)を右に折れる。
東に進んだ道はほどなく矢落橋を示す木標箇所で左に折れ、予讃線の高架を潜り肱川支流の矢落川の土手手前に出る。T字路に矢落橋を示す木標があり、左折とあるが、多分左折し矢落川の堤防に沿って東に進むのであろうと、木標の指示とは逆方向、右に折れる。
成り行きで進むと松山道高架の南側に出て、高架に沿って東に進むと道は左右に分かれる。「えひめの記憶」にあるように、JR予讃線と矢落川の間を進んではいるのだが、これも記述にあるように「曲がりくねった道」など何処にも見当たらない。
どちらに曲がればいいものやら?畑仕事をしていた方に、新谷古町三差路の目安となる中江藤樹の頌徳碑の場所を尋ねると、運よくその方の自宅前とのこと。「道を左に曲がり、松山道に沿って東に進むと、フットサルの練習場がある。その南側の道を進むと旧国道にあたる。そこを少し先に進み、理髪店の角を右に折れ、道なりに進むと中江藤樹の頌徳碑のある三差路に出る」と御親切に地図を書いて頂いた。
地図の通りに進むと三叉路に中江藤樹頌徳碑と常夜灯、その下に道標が建っていた。地元の方の案内がなければ到底この三差路には到底行きつけなかっただろう。
中江藤樹(1608~1648)
儒学者。日本陽明学の始祖。近江国高島郡小川村(現、滋賀県)出身。通称は与右衛門(よえもん)。9歳の頃伊予国に来て、成長して大洲藩家臣となり、独学で朱子学を学んだ。27歳のとき、郷里に住む母への孝養と自身の持病とを理由に、藩士辞職を願い出るが許可されず、脱藩して近江に帰り、酒の小売業で生計を立てながら学問に専念した。
藤樹は朱子学の教える礼法を厳格に守ろうとしたが、やがて形式的な礼法の実践に疑問を抱くようになり、道徳的な形式よりも精神の方が重要であるとして、「時・処・位」の具体的な条件に応じ、その状況に適切な正しい行動をとること、またその状況に応じた正しい行動の在り方を自主的に判断する能力を持つことにこそ学問の目標があるとする、自由な道徳思想を唱えた。
これは、朱子学の道徳思想を日本社会に適応させようとした藤樹独自の思想である。後に『陽明全集』を手に入れてから「知行合一」を基とする陽明学を研究するようになり、我が国の陽明学の始祖となった。自宅に藤の木があったことから門人に「藤樹先生」と呼ばれた(「えひめの記憶」より)。
大洲とのかかわりは、9歳の時に伯耆米子藩主・加藤氏の150石取りの武士である祖父・徳左衛門吉長の養子となり米子に赴く。1617年(元和2年)米子藩主・加藤貞泰が伊予大洲藩(愛媛県)に国替えとなり祖父母とともに移住したことによる(「Wikipedia」)。

稲田橋を渡り新谷に
今回の散歩で最後まで場所が特定できていなかった新谷古町三差路の道標をクリアし、旧国道に出て矢落川に架かる稲田橋を渡り新谷の集落に。「えひめの記憶」に拠れば「矢落川の川岸から木製の旧稲田橋(現稲田橋の100mほど上流)を渡って新谷の町に入っていたが、この道も消滅している。
新谷の町は昔から遍路道の要所の一つであった。真念は『四国逞路道指南』に、「にゐやの町、調物よし、はたご屋も有。」と記し、松浦武四郎も『四国遍路道中雑誌』で、「新屋町商戸、茶店有。止宿する二よろし。)」と紹介している。現在、県指定の文化財となっている陣屋遺構(現麟鳳閣)や武家屋敷跡があり、商家などのたたずまいに昔の面影が偲(しの)ばれる」とある。

新谷の徳右衛門道標
新谷の街を抜け、道を挟んで北に運動場、南に校舎と運動場をもつ帝京第五高校の敷地を少し超えた辺りに、お地蔵さまや常夜灯と並んで二基の道標がある。 大きな道標が徳右衛門道標である。「これより菅生山へ十里」と刻まれる。

「えひめの記憶」には「道は新谷の町を過ぎる辺りから帝京第五高等学校の敷地を斜めに横切り、矢落川に架かる高柳橋に至る。『四国遍礼名所図会』には「高柳橋町はなれ土橋(ばし)也、」とあり、かつては小さな土橋が架かっていたが、現在は歩行者用の小さな鉄の橋が架かっている。
この高柳橋の辺りは遍路の休息する場所でもあったという。その橋のたもとには、武田徳右衛門道標と道標の2基があった(現在は2基とも帝京第五高等学校前に移設されている)」とある。

高柳橋
この橋のたもとにあった二基の道標が先ほど見たものだろう。この道標も成り行きでみつかったが、案内にある「帝京第五高校の敷地を斜めに横切る」との記述が地図と合わず結構悩んだ。昔は校舎の南にあるグランド辺りを道が通っていたのだろか。斜めに突き進んだ箇所に昔の遍路道の面影を残す細路とその先に高柳橋があった。




金毘羅橋
高柳橋から土手を進む。ほどなく旧国道と合わさる地点に金毘羅橋が架かる。地図を見ると、川の南、内子線喜多山駅の南に突き出た尾根筋の上に金毘羅の社があった。







矢落橋
金毘羅橋から旧国道筋に戻り、先に進むと矢落橋。いくつかの地点での木標で案内のあった橋である。で、ここで遍路道は橋を渡るとの遍路道案内を見逃し、そのまま矢落川に沿ってしばらく進んでしまった。途中でなんとなく現在地を確認すると、あらぬ方向に向かっている。折り返し矢落橋に戻る。

遍路休憩所
矢落橋を渡り、国道56号と合流する手前に遍路案内所。お願いすればお風呂のご接待も受けることができる旨の案内があった。休憩所で少し休み、国道56号を東へと進む。


二軒茶屋の大師堂
トラックの風圧に怖い思いをしながら国道56号を進むと二軒茶茶屋の集落。国道56号から右へと集落を抜ける道がある。旧国道であろうと右に折れると、集落が切れた辺りに「弘法大師尊」の額のかかるお堂があった。大師堂であろう。

黒内坊の徳右衛門道標
二軒茶屋の旧国道から元の国道56号に出て、先に進む。しばら歩くと国道は数回川を橋で渡る。「えひめの記憶」には、「新谷で一宿した澄禅は『四国遍路日記』に、「此川ヲ十一度渡テ内ノ子ト云所ノ町二至。」と記すが、蛇行して流れる矢落川を五十崎町の黒内坊(くろちぼう)に向かって何度も渡っていた様子がうかがえる。現在はこの辺りの道も河川改修などで消滅している」とある。昔の街道の様子が少し感じられる。
道を進むと黒内坊の集落に入る手前に左に入る細路があり、その角に徳右衛門道標が立つ。「是〆菅生山迄九里 左へんろちかみち」「内之子六日市大師講中」と刻まれる。「左へんろちかみち」には追加彫りされた痕跡(こんせき)がある(「えひめの記憶」)、とのことである。

土径を駄馬池へ
三差路から左の道に入り先に進み小川に架かる橋を渡る。この小川は矢落橋の辺りで矢落川に合流し、国道56号に沿って二軒茶屋、黒内坊と並走してきた川の上流域である。橋には遍路道の案内。橋を渡ると土径となる。
土径は田圃や畑地が谷奥に切れ込むちょっとした谷戸の雰囲気も感じる。緩やかな坂道をなんとなく「水気」を感じながら歩き、池を越えると簡易舗装の道に出る。
遍路道案内に従い泉ヶ峠への車道と合わさる辺りから、内子運動公園、そして駄馬池に向かっての下りとなる。
「旧街道からの眺め ここから東に広がる家々は、内子の集落発祥の地「廿日市」の町並みでこの場所は大洲からその集落に向かう旧街道の入口でした。右手には遊行上人を祀った願成寺があり、真下に見える駄馬池のかたわらには弘法大師にゆかりのある思案の堂が、その歴史を今に伝えています(後略)」を見遣りながら下ると、駄馬池の東端には二基の地蔵さんが内子の町を背に立つ。横には駄馬池災害復旧の石碑も建っていた。

思案堂の道標
駄馬池の北東端に思案堂が建つ。弘法大師が泊まるかどうか思案したと伝わるお堂の前に「右 へんろ道」「昭和十年八月」と刻まれた道標がある。金比羅道標、秩父・西国札所などへの巡礼供養塔を見遣りながら、車道の脇にある遍路道案内に従い細路を下る。目の前に内子の駅が見える。





郷之谷橋
内子駅北の高架を潜り、二十日の街並みを遍路道案内のシールに従い斜めに横切ると小川に架かる郷之橋に出る。「えひめの記憶」では遍路道は橋を渡り中町通りを直進するとあるが、遍路道シールは小川の右岸を下るようになっている。

栄橋から本町通りを進む
とりあえず遍路シールに従い一筋下り本町通りに架かる栄橋を左折する。この川を境に廿日市から六日市の街並みに入る(現在は内子町内子)。何度か訪れている内子座などを見遣りながら、古き趣の街並みを進む。下芳賀邸を越すとその先で道は左に曲がり、「国選定重要伝統的建造物群保存地区」である八日市・護国地区に入る。

八日市・護国地区
八日市・護国地区に入ると街並みの地図とともに「国選定重要伝統的建造物群保存地区」の案内。
「国選定・重要伝統的建造物群保存地区
内子町八日市護国伝統的建造物群保存地区
選定年月日 昭和57年4月17日
面積 約3.5ヘクタール
内子は、江戸時代の中期から、在郷町として栄えた町である。かつての市街地は、願成寺を中心にした廿日市村、現在の商店街を核にした六日市村、八日市村、小田川の対岸の知清村の4つから成り立っていた。
肱川支流に点在する集落で生産される和紙は、六日市、八日市の商家を経て阪神へ出荷され、大洲藩の財政の一端を担っていた。江戸時代の末期から明治時代には、ハゼの実から搾出した木蝋を良質の晒蝋に精製し、広く海外にまで輸出するなど、大きい地場産業として多いに繁栄したところである。
八日市・護国の伝統的な町並みは、かつてこんぴら参詣や四国へんろの旅人が往き交ったところで、蝋商芳我家を中心に、二階建て、平入り、瓦葺きの主屋が600mにわたって連続する。伝統的な建物の多くは、江戸時代末期から明治時代に建てられたもので、白あるいは黄色味を帯びた漆喰の大壁造りである。正面はしとみ戸や格子の構えで、袖壁をつけ、往時の姿をよくとどめている。

内子町は、これらの伝統的な町並みを後世に伝えるため、積極的に保存事業に取り組んでいる。 昭和58 年3 月 愛媛県内子町」とあった。
国の重要文化財となっている大村邸や本芳我(はが)邸・上芳我邸などを見遣り古き街並みを進むと小川に架かる橋にあたる。この内子の町は、旧街道の要衝の地また物資の集散地としても賑(にぎ)わい、遍路にとっても、「此所ハ店もよし」と記されているように、山道に入る前の要所の地であった(「えひめの記憶」)。


清栄橋

清栄川に架かる橋を渡ると、護国地区(現在は内子町城廻)に入る。道は直ぐY字に分岐する。






常夜灯と道標
Y字形の分岐点に文政8年(1825)建立の常夜灯と道標がある。道標には「こんぴら道 へんろ道」と刻まれる。遍路道はこの分岐を右に曲がるが、左手の道にある高昌寺にちょっと立ち寄り。




高昌寺
創建は室町の頃とされる古刹。本堂から中雀門まで回廊など、風格のあるお寺さまであった。もとは内子町松尾(現在の内子町城廻)に浄久寺として創建したのが始まりとのことだが、その後曽根城主、曽根氏の帰依深く、天文2年(1533年)現在地に移築、曽根家の菩提寺となり、弘治2年(1556年)に曽根高昌逝去の折に高昌寺と改称されたとのことである。
250年の歴史をもつ「ねはんはつり」で知られ、そのためか、平成10年(1998)に長さ20m,高さ3m,重さ約200トンといわれる巨大な涅槃仏が造られた。
曽根(曽祢)氏
室町期にこの地に居を構えた国人領主。曽根城は中山川と麓川に囲まれた舌状尾根筋の突端にある。現在清栄川を境に、その北は内子町城廻となるが、この地姪は曽根城所以のものだろう。
戦国時代には境目地帯として乱世を切り抜けるも、秀吉の四国征伐の折に小早川勢により廃城となり、曽根氏は毛利を頼り、江戸期には萩藩の家臣となった、とのことである。



福岡大師堂の道標
Y字形の分岐を右に進むと右手が開ける。中山川、その向こうの水戸森峠辺りを走る松山道の見える辺り、道の右手に福岡大師堂があった。
大師堂の下の道脇に道標がある。「へんろ道」らしき文字が刻まれているように見えるのだが、「えひめの記憶」には「福岡大師堂があり、かつてはそこに元禄11年(1698)建立の道標(内子町歴史民俗資料館に保管)があった」とある。はてさて。
道標から道が二手に分かれる。左は「旧松山大洲街道」とある。今回の遍路道散歩のため、大洲・内子辺りを往復するとき、松山と内子・大洲を結ぶ旧街道が結構気になっていた。そのうちに辿りたいものである。
旧松山大洲街道
分岐点にあった案内には。旧松山大洲街道はこの地を進み、麓川と中山川にはさまれ、南に突き出た舌状尾根筋の首根っこあたりで麓川を渡り千部峠に進むとある。その先は大雑把に国道56号の道筋を中山に向かい、榎峠、犬寄峠を経て伊予大平、向井原、郡中、松山へと通じていたようである。

麓橋
とまれ、今回は、右手に道をとり、道なりに坂道を下り、成り行きで先に進むと麓川に架かる麓橋に出た。麓橋を渡り国道56号にあたる左手の尾根筋突端が、曽根城跡とのことであった。


五城橋
左手に曽根城址のある尾根筋突端を見遣りながら、切通しのような道を真すぐ抜けると国56号に出る。その先に「四国のみち」の木標のあるガードレールが「欄干」の五城橋を渡る。


水戸森峠取り付口
橋を渡り松尾集会所の前に「遍路道案内板」があり、水戸森峠を経て石浦に出るルートが描かれていた。往きたしと思えど、ここで時間切れ。後数キロを次回に残し、実家に戻る。

あと数キロの峠越えを残し、四十四番札所・大宝寺へと辿った東半分の遍路道と繋ぐことができなかった。来月の月例帰省のお愉しみとする。
宿敵細川氏との和議も整い、外敵侵入の怖れから解放され、一時の平穏を取り戻した河野氏であるが、今度は家督相続を巡る一族間の抗争が勃発。河野一族間の抗争には、河野惣領家には管領畠山氏、対する予州家には細川氏が支援するなど、中央政界の勢力争いも絡み、伊予は内戦状態に陥ったという。
伊予守護も惣領家、予州家と中央政界の勢力図に応じて交代するなど混乱を極めるが、畠山氏の衰退により庇護を失った惣領家は威を失い、予州家が細川氏の庇護のもと伊予を制圧することになる。
予州家を尖兵に伊予の支配を目した細川氏であるが、予州家を外し直接伊予の支配を目するにおよび、予州家は大内氏と結び細川氏と対峙することになる。 このような状況の中、室町幕府の管領である細川氏と山名氏が対立し応仁の乱が勃発。河野惣領家は細川氏、予州家は山名氏に与し国元でも相争うも、内乱終結後、予州家当主で河野家第34代当主・通春没後、惣領家が勢を回復することになる。100年におよぶ一族間の抗争は惣領家の勝利に終わるが、この抗争のため河野氏は疲弊し、戦国大名として名をなすことができなかった。と言う。

惣領家と予州家のは終結するも、国内外の危機的状況に対応する力は河野氏にはすでになく、毛利氏と同盟。毛利氏の支援も得て内外の敵に対するが再び家督相続が勃発。来島村上家の村上通康を後継者と目する河野通直(第36代)と河野家重臣が対立。抗争の末和議が成立するも、国内の叛乱勢力に苦慮し河野氏の疲弊は続く。
こうした状況の中、秀吉の四国攻めがはじまる。進退の結論もまとまらず、結局は秀吉勢の先鋒である毛利の小早川の勧めで降伏し、歴史ある河野氏は滅亡することになる。





室町時代

河野氏は、惣領家と予州家に一族分裂し、伊予は内戦状態に。
100年余にわたる一族の抗争により河野氏は衰退し、
戦国大名へと成長することはなかった


河野通之(第31代)・通久(第32代)・教通(第33第);河野家内紛の火種

第30代当主・通義の逝去にともない、弟の通之(予州家の租)に家督が譲られ、義満からも伊予守護職に補任される。第31代当主となった通之であるが、通義の嫡子が湯築城で元服するとともに通之から家督、伊予守護職を譲られ、応永16年(1409)、第32代通久(当初は、持通)となる。しかしながら、このことが通久の家督相続に不満をもつ通之の嫡子・通元との対立の火種となる。
通久は、豊後の大内氏の内乱での反幕方の追討に出陣するも討死。河野家の家督は嫡子・教通(第33代)が継ぐ。教通は永享の乱、嘉吉の乱など幕府の命に従い討伐軍として出兵した。この頃までは幕命に従い中央に出兵する力をもち、かつての南朝方の勢力を配下に入れ細川氏と和睦を保ちながら一応守護大名としての力を保っていたようである。が、伊予国内では惣領の座を狙う予州家の通元や、その嫡子通春との対立が深まる。この惣領家と予州家の対立により、伊予国内は内戦状態にあったとされる。
永享の乱
永享の乱(えいきょうのらん)は、室町時代の永享10年(1438年)に関東地方で発生した戦乱。鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実の対立に端を発する、室町幕府6代将軍足利義教が持氏討伐を命じた事件、戦いである(「Wikipedia」より)。
嘉吉の乱
嘉吉の乱(かきつのらん)は、室町時代の嘉吉元年(1441年)に播磨・備前・美作の守護赤松満祐が室町幕府6代将軍足利義教を暗殺し、領国の播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の騒乱である。嘉吉の変(かきつのへん)とも呼ばれる(「Wikipedia」より)。


予州家・通春(第34代当主);細川氏の庇護で勝利するも、細川氏の「通春外し」対策で大内氏と結ぶ

教通は室町時代の永享10年(1438)、鎌倉公方と関東管領の間で発生した戦乱に室町幕府6代将軍足利義教の命をうけ討伐軍として出陣、赤松氏が足利義教を暗殺した嘉吉の乱(嘉吉10年;1441)に赤松氏討伐軍として出陣するなど中央政界でも活躍。細川氏との和睦を保ちながら、伊予の守護大名の体制を整えていった。
しかしながら、伊予ではこの間も宗家と予州家の抗争が続く。嘉吉の乱の後幕政の実権を握った細川氏と畠山氏の両管領家は、予州家・通春には細川氏、宗家・教通には畠山氏が支援するといった「代理戦争」の様相も呈する。 文安6年(1449年)に予州家の通春(第34代当主)は伊予守護に就任するも、翌年に教通に交替。享徳2年(1453年)には、再び守護職に補任されるといった混沌とした状況が続く中、享徳4年(1455年)には畠山氏の衰退に乗じ細川勝元が「強引に」伊予守護職になる。結局予州家を先兵とし細川氏が伊予を支配し、「四国管領」を実現することになる。
畠山氏の庇護を失った惣領家・教通は威を失い、伊予国内は予州家の通春が影響力を強める。教通は京で守護職回復の嘆願をしていた、と言う。細川氏の庇護のもと伊予を事実上制圧した通春であるが、次第に細川氏と敵対するようになる。
寛正4年(1463)、重見・森山・南・得能・和田氏が細川氏と結び、細川軍を伊予に引き入れる。このとき、通春は惣領家と講和を結び細川勢に対抗する。細川氏と予州家の通春の手切れの理由は不明だが、細川勝元は通春を排除し、大野・森山・重見氏と結び、伊予の直接支配を目したのがその因との記事もある。 河野氏は伊予に侵攻した勝元の軍勢のため危機に陥るが、通春は細川氏と対立関係にある大内教弘の援軍を受けて細川氏を撃退する。畠山・細川の対立の図式から、今度は細川・大内の伊予を巡る対立図式に模様替えの様相を呈する。 伊予の勢力は、細川・大内氏といった大名間の対立抗争に翻弄されながら、応仁の乱へと向かうことになる。

応仁の乱後の惣領家と予州家の抗争
第34代河野家当主・通春は、応仁元年(1467年)からの応仁の乱では山名宗前の西軍に与したが、通春の在京中に東軍についた河野惣領家の教通が、細川勝元死後の文明5年(1473年)に伊予の守護職となり、伊予における基盤を固めてしまう。通春は、乱後に伊予に帰国し文明9年(1477年)に4度目の伊予守護に任じられ、翌文明10年(1478年)には教通と和気郡にて戦ったが、敗れている。
文明11年(1479年)、阿波から侵攻してきた細川勢に対しては、宗家・教通(通久と改名)と一時的に和睦し撃退している。応仁の乱で教通が在京のため阿波・讃岐の兵を率い侵入した細川義春に対し、教通の弟通生が指揮をとり、その子の勝生に世田山城(「伊予西条 河野氏ゆかりの地散歩 そのⅤ」でメモ)を守らせた。また、通春も宗家の危機を憂いその子通篤に命じ大熊城(「伊予西条 河野氏ゆかりの地散歩 そのⅡ」でメモ)を守らせた。
文明14年(1482年)は通春が病没した。予州家の家督は子の通元(通篤)が後を継ぐ。

通春没後もその子通元(通篤)と惣領家の通直(教通の改名)・通宣の対立は続く。明応9年(1500)、通直(第33代・教通が改名)は湯築城(松山市)で没し、その子の通宣が家督を嗣ぎ第35代当主となる。その後も、20年ほど宗家・通宣と予州家・通篤との対立が続けられたが、通篤の勢力はしだいに衰退し、ついに敗れて防州宇部に去り、予州家は没落していった。

通春(予州家)と教通(河野宗家)の抗争は一応の終結をみるも、100年余りに渡る予州家と宗家の抗争は河野氏の衰退を招き、河野氏が守護大名から戦国大名へ成長できなかった一因となった。



河野通之(『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』より)

兄通義の病死の直前、夫人が懐妊中の子が男子であれば成長後に家督を継がせることを条件に家督を譲られたが、死後に生まれて成長した通久に家督を譲った。細川頼之より「之」を賜る。
応永元年(1394)、桑原摂津守通興(のちに壬生川氏と改める)に鷺の森城を築かせた。
続柄;通義の弟
家督:応永元年(1394)-応永16年(1409)
関係の社・寺・城:鷺の森城(東予市)

河野井戸

応永元年(1394)11月(南北朝合一後3年目、伊予国守護職河野六郎通之、その一族桑原攝津守通興をして鷺の森に城を築かせた。その後桑原氏は姓を壬生川と改めた。
此処はその頃「仕出しの館」といって鷺の森の出城であった。また口碑によると鎌倉時代、丹生川豪族井門五郎氏(河野家の一族)の館跡で、この屋敷には名泉があった。人々これを「河野井戸」と呼び愛用した

河野氏ゆかりの地を辿る

河野井戸;西条市壬生川196‐1(辺り)

通之ゆかりの地である鷺の森城は、「伊予西条 河野氏ゆかりの地散歩 そのⅣ」での第27代・河野通盛の項で神社を勧請し大杉を植えたとあった説明を受け、その地を訪れ、後世通之の時に城を築いたとメモした(伊予西条 河野氏ゆかりの地散歩 そのⅣ)。鷺の森城のメモはそれに譲るとして、小冊子にあった「河野井戸」を訪ねることにする。
場所は鷺の森城跡から今治街道・国道196号を越え、壬生川小学校の南、住所ははっきりしないが西条市壬生川196‐1辺りにあった。
井戸自体はうっかりすると見逃しそうなものではあるが、道脇に上にメモした案内があり見つけることができた。


河野通久(『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』より)

父、通義病死のあと出生。幼少の時は叔父の通之が河野家を継承したが、成人したあと、通之から家督をついだ。
大友氏を討つため豊後へ出兵し、姫嶽城の戦いで討死。
綾延神社(丹原町)に通久の安堵状が残されている。
続柄;通義の子
家督;応永16年(1409)-永享7年(1435)
関係の社・寺・城:綾延神社(丹原町)



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綾延神社

河野通久ゆかりの綾延神社については、「伊予西条 河野氏ゆかりの地散歩 そのⅢ」の第26代河野通有の項でメモしたので、ここでは省略する。








河野教通(『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』より)

父、通久戦死ののち河野家の家督をつぐ。文明11年(1479)細川義春が伊予に侵入したが、弟の通生や通生の子である勝生・明生らの活躍により反撃を受け敗走した。
教通は子の通宣(刑部大輔)が家督をついだあとも補佐して実権をにぎる観念寺文書に壁書がある。
続柄;通久の子
家督:永享7年(1435)-長禄元年(1457)
関係の社・寺・城:観念寺(東予市)


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観念寺
伊予西条 河野氏ゆかりの地散歩 そのⅣ」の第27代当主・河野通盛の項目でメモしたので、ここでは省略。









河野通生『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』より)

通久の二男で、兄の教通を助けて河野家を守る。
文明11年(1479)細川義春が伊予に侵入したとき、一族を率いて世田山城にこもり、激戦の末細川軍を撃退した。義春は「二度と伊予には攻め入らぬ」と言った。報恩寺を創建し、当寺には寄進状が残されている。
続柄;通久の子
家督
関係の社・寺・城:報恩寺(丹原町)、世田山城(東予市)
墓や供養塔;報恩寺(丹原町)


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報恩寺;愛媛県西条市丹原町高知甲589

得能通綱氏の項(「伊予西条 河野氏ゆかりの地散歩 そのⅣ」)でメモした常石山の少し北、丹原町高知地区の高縄山地の裾にある。小振りではあるが、石垣と白い塀が印象的な臨済宗東福寺派のお寺さま。
小冊子の説明にあるように、第33代河野家当主・教通の弟である通生の創建。在京することが多かった兄の教通に代わり河野惣領家のため戦った。軍略知略優れた武将で敗れた戦は一度もなく、河野惣領家を護った。ささやかな境内の本堂向かって左手に通生が眠る。


通生ゆかりの世田山城は「伊予西条 河野氏ゆかりの地散歩 そのⅤ」の 河野通朝(第28代)の項でメモしたので、ここでは省略。








河野明生『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』より)

続柄;通生の子
家督
関係の社・寺・城:瑞巌寺(丹原町)、常石城(丹原町)、興隆寺(丹原町)
墓や供養塔;瑞巌寺(丹原町) 
通生の三男で、父の通生、兄の勝生とともに、文明11年(1479)の細川氏の侵入を激戦の末に敗走させた。
得能の常石城を居城とし、瑞巌寺を再建し菩提寺として信仰。
西山興隆寺とも縁があり、禁制状、懸仏、宝篋印塔など信仰の深さがわかる。


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瑞巌寺;愛媛県西条市丹原町得能550

得能通綱の居城・常石城の登山口の少し北、常石山の北の支尾根の山裾にある。堂宇ひとつのささやかなお堂、といった趣。お堂の前には「東予周桑新四国霊場第三十一番札所」の石碑が建つ。
境内にあった案内は、手書きで結構古くなっており、読める範囲を簡単にメモする。「開基:河野秋生公(又明生とも書く)。報恩寺開基通生公の三子(常石城に居る)。天文13年没。
勧請開山:観念寺鉄牛大和尚。永正9年(1512)興隆寺懸仏寄進。(注;続く説明はつながりがわからない)観念寺25世霊仙和尚の頃兵火にかかり灰燼となり小宇を結ぶ。天明7年(1787)修理一新。然れども鐘なく、村内の善男発願し小鐘鋳造。「之を懸ぐ」として寛政4年(1792)吉祥日として明記されている。 境内に「蚊帳懸杉」があり周り10メートル、高さ60メートルもあったが、明治17年(1773)の台風で倒れた」とある。

小冊子の案内にあるように、河野明生公の開基のお寺さま。開山は観念寺中興の僧・鉄牛和尚。鉄牛は越智郡か桑村郡の菅氏の一族と伝わり、京で臨済宗東福寺での修行の後、元に渡り10年滞在し、正慶元年(1332)帰国の後、ほどなく観念寺に迎えられ臨済宗の名刹としての基礎を築いた。
「興隆寺懸仏寄進」とあるが、「懸仏」とは、銅などの円板に仏の姿を鋳たもので、堂宇に懸けて礼拝した、と言う。観念寺25世の霊仙和尚の頃兵火にかかかり灰燼に帰すとあるが、年代は不明。鉄牛和尚の観念寺開山は14世紀初頭の頃と言うから、それから25世ということは、百数十年後、文明11年(1479)細川義春が伊予に侵入したとき、常石山を居城とした通生・明生が、細川軍と激戦を繰り返した折のことだろうか。

その他小冊子に説明された通明ゆかりの常石城は「伊予西条 河野氏ゆかりの地散歩 そのⅣ」の得能通綱の項で、興隆寺は「伊予西条 河野氏ゆかりの地散歩 そのⅤ」の第28代当主・河野通朝の項でメモしているので、ここでは省略する。


戦国時代

一族間の抗争は終結するも、国内外の危機的状況に対応すべく毛利氏と同盟。
毛利氏の支援も得て内外の敵に対するが再び家督相続が勃発。 
衰退した河野氏は秀吉の四国征伐で滅亡する


河野通宣(第35代);一族間の抗争は終結するも、内憂外患に対応するため毛利氏と同盟を結ぶ

長く続いた河野惣領家(教通―通宣)と予州家(通春―通篤)との対立抗争は終わり、河野氏は宗家通宣(第35代)によって統率せられる時代となった。Wikipediaに拠れば、「通宣が家督を継いだ頃の河野氏は、家臣の謀反や豊後国の大友氏、土佐国の一条兼定の侵攻を受け、国内では宇都宮豊綱とも対立し、領内はまさに危機的状態にあった。
重臣の村上通康や平岡房実が遠征を繰り返し、鎮圧に及んだが、もはや国内を独力でまとめる力もなかった通宣は、以前より姻戚関係であった中国地方の雄・毛利元就と従属的同盟を結び、小早川隆景を中心とする毛利軍の支援によって、土佐一条氏や伊予宇都宮氏を撃退している(毛利氏の伊予出兵)。
しかし、伊予国内への相次ぐ侵略や家臣団の離反など、内憂外患が続き心労がたたったのか、通宣は病に倒れる。嗣子が無かったため、1568年に家督を一族の河野通直(第36代)に譲って隠居し、天正9年(1581)に死去した。ただし、近年の研究によるとその死は永禄13年(1570年)頃ではないかとも言われる」とある。
宇都宮氏
出自については諸説あるが、下野宇都宮郷を本貫とする地方豪族であったことは間違いない。源平争乱記に軍功は記録として見られないが、鎌倉幕府開幕後、有力御家人として重きをなし、守護・地頭の制度施行時に伊予の守護であった佐々木氏の後、13世紀前半頃に伊予の守護職となる。後鳥羽上皇の討幕挙兵である承久の乱における軍功故とも云われる。鎌倉幕府滅亡までその職にあった、と。
伊予に移ったのは14世紀の前半。伊予宇都宮氏は大洲を拠点に戦国時代まで続き、天正13年(1585)土佐の長曾我部氏によって滅ぼされることになる。

●村上通康:来島村上氏については「伊予 高縄半島海賊衆の古跡散歩」や 「伊予・来島群島の歴史散歩」で数回にわけてメモした。そちらを参照してください。

平岡房実
Wikipediaをもとに、簡単にメモする「平岡 房実(ひらおか ふさざね、永正10年(1513年) - 元亀3年(1572年))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。河野氏の家臣。浮穴郡荏原城城主。
平岡氏の出自についての詳細は不明であるが、徐々に浮穴郡を中心に15世紀後半から勢力を伸ばしたようである。また、房実は婚姻関係をもとに周辺勢力との連携強化にも努めていた。
房実が家臣になった頃の河野氏は、家臣団の離反や大友氏などの侵攻で衰退していたが、房実は智勇兼備の武将で、斜陽化する河野氏に最後まで忠義を尽くし、村上通康と並んで軍事・政治の両面において活躍した。


河野通宣(刑部大輔)『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』より)

続柄;通教の子
家督:寛正5年(1464)‐永生16年
関係の社寺:善光寺(東予市)
通宣(刑部大輔)が通堯、西園寺公俊両君公の霊を祀ったのが善光寺(安川)である。当寺には両氏の位牌が残されている。
また、本尊の薬師如来は北条恵良城内医王堂の本尊であったが、落城の後に当寺に持参したといわれている。
永生5年(1508)に善光寺を建立し、通宣(刑部大輔)の位牌も当寺にある。

善光寺
天授5年(1377)の佐々久原の戦いで、細川頼之に敗れた河野通堯、西園寺公御霊を祀るため建立された寺である。本堂に祀られる両公の位牌は近郊例を見ない大きなものである。本尊薬師如来像は風早(北条市)の恵良場内薬師堂に祀られていたもので、戦火に遭ったためこの地に移し祀られたものと伝えられる。


河野氏ゆかりの地を辿る

善光寺:愛媛県西条市安用甲1044  

善光寺は「伊予西条 河野氏ゆかりの地散歩 そのⅥ」の第29代当主・河野通暁の項でメモしたので、ここでは省略。









河野通直(第36代):来島村上氏を巻き込んだ家督騒動が勃発

通直(第36代)は通宣の嫡男、永正16年(1519)父の跡を受け、大いに家運の隆昌を図ろうとした。しかし大永3年(1522)、享禄3年(1530)には鷹取山(今治市玉川)城主正岡経貞、府中石井山(近見山の別称)城主重見通種など国内の恩顧の武将の相次ぐ反意に苦慮することになる。
ここに至り、河野家の重臣として来島村上氏が登場。重見勢討伐に勝利する。また、隣国からの侵攻も続き、讃岐の細川氏、防州大内氏など、内憂外患の状態であった、よう。
通直の晩年に河野家の相続争いが勃発する。通直には嗣子がなく、一族老臣らは評議して予州家の惣領通政(第37代)を迎えることを進言するも、通直はそれを聴かず、妾腹の娘の聟、来島城主村上通康を嗣子とし、湯築城に入れた。老臣たちは、あくまでも通政を擁立し、通康を討ち、通直を湯築城から追放の盟約を結び、通政を奉じて湯築城を囲んで、烈しく攻め立てた。
通直に従う者は少なく、通康の家臣のみで防戦するも、村上通康の居城である来島城に逃れ帰った。通政は諸将とともに、湯築城に入り、来島城攻略を命ずるも、堅固な要害の城を落とすこと叶わず和議となる。交渉の結果は、河野家惣領は通政とし、村上通康を家臣の列に下げる代わり河野姓と家紋の使用を許すという条件で和談が成立した。これによって通直・通康は湯築城に帰還して事件は落着した。

正岡経貞
戦国時代の越智郡の領主。もと風早郡正岡郷(元の北条市。現在松山市)を本貫としたが、のちに越智郡に移ったという。河野氏の重臣。
正岡経貞は大永3年(1523)朝倉村古谷地区の西方、高取山の山頂の鷹取城を居城とする。大永三年(1523)鷹取山城主正岡経貞が一族とともに謀反を企て、近隣を攻略。そこで通直は重見・来島氏らに、その討伐に当たらせた。正岡氏も防戦につとめたが陣に下った。後年経貞は罪を許されて帰城している。
重見通種
重見氏は伊予守護河野氏の一族得能氏の支流で、吉岡殿と称する通宗を祖とするといわれている。重見氏の発祥地は諸説あり不詳。
南北朝期から戦国期に重見氏は、桑村・伊予・浮穴・風早の四ケ郡に分散していたとみられる。河野家の重臣として活躍。戦国期に至っても重見氏は、河野氏の宿老として重きをなした。
享禄3年(1530)、伊予石井山城主の重見通種は河野氏に背いた。しかし、河野通直の命を受けた来島氏に攻められて、敗れ周防に逃れる。
重見氏の家督はもう通種の弟通次が継ぎ当主となった。天正13年(1585)、豊臣秀吉の四国征伐に際して小早川隆景軍に降伏した。



河野通直;『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』より)

続柄;通宣の子
家督;永正16年(1519)-天文13年(1544)
関係の社寺城;長福寺(東予市)、世田山城(東予市)
父通宣(刑部大輔)病没のあと家督をつぐ。天文8年(1539)細川晴元が伊予侵入の計画があり、世田山城で戦いの準備をしていたが、細川軍の内紛により戦わすして終わる。通直には嗣子がなく、後継者争いで村上通康をかつぐも、反村上派がかついだ晴通がなる。長福寺文書(書状)に名がある。

河野氏ゆかりの地を辿る

長福寺・世田山城

長福寺は「伊予西条 河野氏ゆかりの地散歩 そのⅢ」の第26代当主・河野通有の項で、世田山城は「伊予西条 河野氏ゆかりの地散歩 そのⅤ」の第28代当主・河野通朝の項でメモしたので、ここでは省略する。


河野通政(第37代)・通宣(第38代);家督紛争は解決するも内憂外患が激化

通政は性廉直で武備に長じ、上洛して将軍義晴から名を晴通と賜った。彼によって久しく欝屈していた河野氏の家運も開けるかに見えたが、その期待も空しく、天文12年(1543)四月に早逝した。
その跡は予州家から通政の弟通宣(第38代)が迎えられたが、幼少のため、しばらくは通直(第36代)が後見として政務を見ることになった。これによって、家督の後継をめぐって続いた河野氏の混乱もやっと落ちつくかに見えた。 が、今度は久万山大除城の大野氏や久米郡の岩伽良城主和田通興など国内の対立抗争、さらに豊後大友氏やそれと結んだ土佐一条氏、同じく土佐の長宗我部元親が、しばしば南予の宇和・喜多両郡に侵入し、河野氏の領国を侵す状況に対応を迫られる。


河野通宣(左京大夫):『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』より)
続柄;通存の子
家督;天文13年(1544)‐永禄11年(1568)
関係の社寺城:長敬寺(東予市)、長福寺(東予市)、観念寺(東予市)、光明寺(東予市)、実報寺(東予市)、十地院(東予市)

兄、晴通に嗣子がなく早世したので。死後その跡を嗣ぐ。通宣(左京大夫)は病気がちなため、仏の救いを求めて血でお経を書くということになったのであろう。
「仏説無量寿経乾」「仏説無量寿経*」「仏説観無量寿経全」「仏説阿弥陀経」四冊、長敬寺(周布)
観念寺文書、長福寺文書の安堵状にその名がみられる。天文2年(1533)光明寺、実報寺、十地院再建。


河野氏ゆかりの地を辿る

光明寺;西条市三芳1603

予讃線伊予三芳駅の南東、大明神川の左岸にある真言宗御室派のお寺さま。両側から伸びたソテツ(?)を潜り本堂にお参り。通宣との繋がりを示す案内は特に見当たらなかった。
◇三芳地区の天井川
光明寺から大明神川を少し下ると、予讃線が天井川となった川床下を走る。流路定まらぬ暴れ川の頃はそうでもなかったのだろうが、永禄年間(1560-1571)に現在の流路になり、それ以降治水工事により流路が固定されると、大雨のとき上流から押し流された土砂が積み上がり、それを掘り上げて堤防を積み上げる。その繰り返しにより堤防そして川床が平地より高くなり、光明寺のある三芳地区より下流では家の屋根より川床が高い天井川ができあがった、と言う。


河野氏ゆかりの地を辿る■

実報寺;西条市実報寺甲758


高縄山地から流れ出し、河原津で瀬戸内に注ぐ北川が山地から平地に出る辺り、実報寺地域の山裾に建つ真言宗御室派のお寺様。風格のある本堂が、いい。 堂宇の前に地蔵菩薩の案内。「実報寺の地蔵菩薩像 市指定文化財 有形文化財彫刻 現在本尊としてまつられている地蔵菩薩像は、木像(材質は楠)寄木造、坐像で一丈(約3メートル)ある。
寺伝では行基菩薩作と言われてきたが、鎌倉初期の作と推定される。厨子の扉は平素閉じられいて三十三年に一度の御開帳法要の時に開かれるしきたりとなっている 西条市教育委員会」とある。県内第一とも言われる高さをもつ地蔵菩薩、とか。土佐の長宗我部軍が乱入した際、この地蔵尊を持ち帰ろうとしたが大しけに遭い、仏像を海に投げ捨てて逃げ帰り、仏像は浜に漂着したといわれている。

境内に河野氏ゆかりの案内でもないものかと彷徨うと桜の木の前に案内。「実報寺の一樹(ひとき)桜 市指定文化財 天然記念物
遠山と見しは是也花一本
寛政7年(1795年)小林一茶が一樹桜を訪ねて来て、この句をつくったことが「寛政紀行」という一茶の旅日記に記されている。 エドヒガンとかウバヒガンと言われるこの種類は、染井吉野に先がけて咲き、その純白の花は実に見事である。同種の古木が境内になお二本ある 西条市教育委員会」とある。本堂前に歌碑があったが、そこには一茶の句が刻まれているとのことである。
実報寺地区
境内には、河野通宣再建といった案内は特になかった。それはそれとして、このお寺さまの周囲の地名も実報寺と言う。お寺様の規模に比して、地域名にその名を残す理由とは?ちょっと気になりチェックすると、このお寺様、結構歴史があるようだ。
山号の聖帝山も舒明天皇の勅願故とのこと。舒明天皇12年(640)の道後湯治の折のことのようである。それが事実か否かは別にしても、当日見逃したが境内には平安期にの寺の住職が書いた「俊盛聖帝来由記」と称される寺の縁起があるようだから、開基はそれ以前ということ。結構由緒あるお寺様であり、一帯に伽藍が建っていたようだが戦乱で焼失し現在の地に移されたようである。


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十地院;西条市旦之上543

大明神川が山地から出て開析した大黒山の裾盆地、河川左岸の旦之上集落にある。山門、一宇の本堂からなる真言宗のお寺様である。
山門脇にある案内には「天武天皇の勅願所として白鳳13年(685)に大黒山の裾盆地(十地院谷といわれる所)に建てられていたが、約150年前の文化2年に現在地に移転建立された。本尊は薬師瑠璃光如来。移転前は七堂伽藍を備えた堂々たる格式の大寺であったという。河野家より寄進された寺宝の仏画が32幅保存されている」とあった。
山門を潜り本堂(薬師堂?)にお参り。堂宇の前に3つの案内。

○「仏画十地院の十二天 市指定文化財 有形文化財絵画
十地院は天武天皇の白鳳13年(685)泰量上人によって大黒山の麓に建立されたが、戦火によって焼失。天保3年(1831)現在地に移った。
立派な仏像・仏画が多数あり、十二天もその一つ。(十二天とは帝釈天など十二の天部で、道場を守護する神である。)
平安末期、牧谿の作と伝えられる。

○「十地院の仏画不動明王像出釈迦弘法大師涅槃図 市指定文化財 絵画 十地院は、大黒山城主旦之上小三郎の祈願寺として河野家より、寺領・仏像・仏画を寄進されたと伝えられている。
諸祈願の本尊である不動明王像は、鎌倉時代末期の作、出釈迦弘法大師像は室町時代中期の作、常楽会の本尊である涅槃図は南北朝時代の作であるといわれており、いずれも見事な仏画である」。

○「十地院聖観音菩薩像 市指定文化財 彫刻
本像は、像高102cm、総丈165cmで、寄木造り、漆箔、玉眼で、左手に持つ未敷蓮華を右手で開く通形の聖観音である。
胴体部分の着衣や肉取りなどには平安時代の様式が見受けられるが、頭部の髷の高さから鎌倉時代初期の作と考えられる。また、その作風には、天台宗の傾向が見られる」

現在は誠にあっさりとしたお寺様であるが、天武天皇の勅願寺として建立され、これも上記実報院と同じく七堂伽藍を誇ったのだろうが、貞治2年(1363年)、第28代河野通朝と細川頼之の合戦の時、細川の軍勢により諸堂が焼き払われたとのことである(「伊予西条 河野氏ゆかりの地散歩 そのⅤ)。
旦之上村上一族の大祖先
境内に「旦之上村上一族の大祖先」の案内があった。概略をメモすると、「村上頼房の墓石。旦之上の村上一族は明治44年、窪田の村上頼房の墓を十地院境内に移築した。(清和源氏の流れである)旦之上村上一族の大祖先村上頼房は「故あって道前桑村郡旦之上に転住す」とあるが、伊予越智郡大島鳴河図城士であった村上義清の一子である。
父の村上義弘は瀬戸水軍として大活躍し、村上一族の勢力を伸ばし暦応3年(1340)逝去する。
義弘の没後、信州から村上天皇の後胤である北畠帥清が跡目相続にやってきて、義弘の根拠地である大島を急襲。頼房は応戦叶わず、この旦之上に逃げ延びた」とあった。
村上義清については諸説あり、案内は案内としてメモするに留める。



河野通直(第39代);秀吉の四国攻めに抗し、河野氏は滅亡する

伊予の武将の叛乱、土佐などの外敵の侵入などの危機に対し、河野家を預かる病弱の通宣は責務に耐えられず、永禄11年(1568)に隠居し、跡は一族の野間郡高仙山城主(越智郡菊間町種)河野(池原)通吉の子、わずか五歳の牛福丸(通直;第39代)が継ぐ。Wikipediaに拠れば、「村上通康、もしくは河野通吉の子とも言われるが定かではない。 先代の河野通宣(伊予守、左京大夫)に嗣子が無かったため、その養嗣子となって永禄11年(1568年)に後を継いだ。
しかし幼少だったため、成人するまでは実父の通吉が政治を取り仕切った。この頃の河野氏はすでに衰退しきっており、大友氏や一条氏、長宗我部氏に内通した大野直之の乱に苦しんでいたが、毛利氏から援軍を得て、何とか自立を保っていた。
通直は若年の武将ではあったが、人徳厚く、多くの美談を持つ。反乱を繰り返した大野直之は、通直に降伏後その人柄に心従したという。

豊臣秀吉による四国攻めが始まると、河野氏は進退意見がまとまらず、小田原評定の如く湯築城内に篭城するが、小早川隆景の勧めもあって約1ヶ月後、小早川勢に降伏した。この際、通直は城内にいた子供45人の助命嘆願のため自ら先頭に立って、隆景に謁見したという。この逸話はいまだ、湯築城跡の石碑に刻まれている。
通直は命こそ助けられたが、所領は没収され、ここに伊予の大名として君臨した河野氏は滅亡する。通直は隆景の本拠地である竹原にて天正15年(1587年)に病死(隆景が通直を弔った墓は竹原に現存)。養子に迎えた宍戸元秀の子・河野通軌が跡を継いだ」とある。

秀吉の四国平定と来島村上氏
来島村上の祖とされる村上通康は河野通直(第36代)の重臣として活躍。後継者として指名されるほどの結びつきであったが、宇都宮氏との鳥坂合戦の陣中で倒れ急逝。その後を継いだのが村上通総。元亀元年(1570)頃から河野氏と家督や新居郡を巡る処置などで不和が生じ、二度に渡る木津川口の合戦には毛利・河野方として参戦するも、織田・秀吉の誘いに応じ、反河野・毛利として反旗を翻すことになる。
秀吉の四国平定において、村上三家のうち、来島村上氏のみが豊臣方として動く。来島村上氏は、秀吉の四国平定以前、未だ毛利氏と織田氏が対立していた頃、秀吉の誘いに応じ来島村上氏は河野氏を見限り、織田勢についたことに遡る。その当時は、河野氏と同盟関係にあった毛利の小早川氏に攻められ、この後で訪れる鹿島城に逃げ込んだとも、秀吉の元に走った,ともされるが、四国平定時には、村上三家のうち、ひとり家を存続され得ることになる。
来島村上氏が村上三家や河野氏と分かれた要因は、「永禄年12(1569)、北九州の地で毛利・大友両氏が対陣した時、毛利氏に属して出陣した能島家が、大友・尼子両氏と通じて日和見をしたため来島家が苦戦し、それ以後能島家は元亀3年(1572)まで来島家と対陣して、はげしい攻防戦を繰り返した。
来島家は、能島家と争ういっぽう、河野氏に対しても不穏な態度をとるようになった。その原因は、村上通総の父通康が河野家第36代当主・通直の後継者に指名されながら、重臣団の排斥を受けて失格して以来の怨念が爆発したことにあるといわれる。総通は河野通直の指示にもまったく耳をかそうとはしなかったが、これを武力で討伐する力も、通直にはなかったようである(「えひめの記憶」)」。

伊予大野氏
出自は不明。三河国設楽郷の豪族設楽氏流れである兵頭氏の被官をその祖とする記事もある。経緯は不明ながら、その兵頭氏が喜多郡出海に拠る。そこで被官の大野氏が頭角を現した、と。
その大野氏は国人と言うより幕府との直接の結びつきが強く、河野氏との結びつきは強くなく、独立的な性格をもっていた、と言う。
大野氏が久万へと勢力を伸ばす。その地を所領した美濃守護土岐氏が威を失うに及び、その地の管理を大野氏に願った故のこと、とも言う。
守護である河野氏はその領国支配のため、土佐への抑えとして久万を重視し、熊山に大除城を築城。大野氏の拠点とする。河野氏の重臣として活躍するも、一門は一枚岩というわけでもなく、土佐の長曾我部氏と内通し、河野氏から攻撃を受けることもしばしばであった、と。
秀吉の四国征伐に際し、河野通直とともに、大野氏も河野家とともに軍門に降った。

和田氏
和田通興(わだ みちおき) 河野氏の家臣。和田通俊の孫。伊予国岩伽羅城(いわがら)主。天文23年(1554年)に勢を拡大した通興は主君・河野通宣に従わなくなったため、通宣は棚居城主・平岡房実に通興討伐を命じ、岩伽羅城を攻撃させ岩伽羅城は落城し、通興は自害して果てる。後に一族とされる和田通勝が召し出され、通宣によって岩伽羅城を与えられている。



河野通吉;『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』より)

続柄;明生の子。
関係の社寺城:鷺の森城(東予市)、甲賀八幡神社(東予市)

通直(牛福丸)の父。通直の後見人。元亀3年(1572)三好伊予侵入に際し、通吉自ら軍を率いて鷺の森城に入る。その夜書かれた必勝の祈願と統制厳守の誓約書が甲賀神社に残っている。戦いは、はじめ三好勢は優勢となり河野勢は鷺の森城へ退くが、油断している三好勢に夜襲を加えて大勝する。
甲賀八幡神社の祈請文
「甲賀八幡神社の祈請文 市指定文化財 有形文化財古文書
元亀三年(1572)阿波讃岐の三好勢が伊予に侵入して来た時、これを迎え討ち戦勝するため、河野一族が甲賀八幡神社に誓詞祈願した願文で、社宝として伝わる古文書である。
同年九月十二日付けの七十五名連判所と十三日付けの二十名連判所の二通が継ぎ合わされ、現在一巻となっている。氏名の下には、それぞれ花押がある 西条市教育委員会」とあった。




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鷺の森城(東予市)、甲賀八幡神社(東予市)

鷺の森城は、「伊予西条 河野氏ゆかりの地散歩 そのⅣ」の第27代・河野通盛の項でメモ、甲賀八幡の祈請文は「伊予西条 河野氏ゆかりの地散歩 そのⅥ」の第29代河野通暁の項でメモしたので、ここでは省略。







河野通直(牛福丸);『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』より)

家督;永禄11年(1568)‐天正13年(1585)
関係の社寺城;観念寺(東予市)、鷺の森城(東予市)
墓や供養塔;長生寺(竹原市)
通宣(左京大夫)が病弱で嗣子がなかったので、通吉の子(牛福丸)が元服したあと家督をつぐ。元亀3年(1572)三好・織田連合軍の侵入に備え、父通吉と共に戦い勝利をおさめる。
天正13年(1585)秀吉の四国征伐のとき、小早川隆景の軍に降伏し河野家の湯築城を明けわたした。
観念寺文書(禁制)に名がみえる。


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観念寺(東予市)、鷺の森城(東予市)

観念寺は、「伊予西条 河野氏ゆかりの地散歩 そのⅣ」の第27代当主・河野通盛の項でメモ、鷺の森城は、「伊予西条 河野氏ゆかりの地散歩 そのⅣ」の第27代・河野通盛の項でメモしたのでここでは省略す

これで『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』に掲載されていた河野氏ゆかりの地のメモは終了。伊予と言えば河野氏でしょう、越智氏でしょう、といった処までは分かるのだが、どういった氏族であったのかまるっきり知らず、頭の整理のメモが結構ながくなった。 もとより、歴史家でも。郷土史研究家でもなく、いつものことながら「えひめの記憶;愛媛県生涯教育センター」を頼りに、大雑把にまとめただけであり、事実誤認も多いかと思うのだが、それは素人の散歩メモの補足といったところでご勘弁願いたい。 で、『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』に説明のあった河野氏ゆかりの地はほぼ歩きおえた。次は、前々からきになっていた河野氏の本貫地である旧北条市(現松山市)に足をのばし、高縄山の山裾にある河野氏の館跡・善応寺、その館を囲む山城である雌甲山・雄甲山、高穴山、そして河野氏の合戦の折々に登場する恵良山の山城・砦跡を辿ろうと思う。 なお、メモに度々登場する湯築城についても、道後温泉に行くたびに、その名前は目にしていたのだが、誰の城かもわからず足も踏み入れていない。これもそのうち訪ねてみようと思う。

●アーカイブ

伊予国内の宮方との抗争とともに、同じ武家方ではあるも四国支配を目する細川氏の伊予侵攻に苦慮した第28代通朝の後を継いだのが第29代河野通堯。通堯も、細川氏と対するも敗れ南朝に帰順し細川氏と対抗する策をとる。 伊予の宮方と共に細川氏の支配下にあった宇摩郡、新居郡に侵入し細川氏を排除、南朝守護河野通直として府中に入った通堯であるが、中央での細川氏の失脚を受けて、中央の反細川勢力と結ぶため再び武家方に復帰する。

細川氏の伊予侵攻に対する河野家存亡の危機に対応すべく、武家方から宮方への帰順、さらに武家方帰順と、御家を守るため苦慮した通暁であるが、細川氏の伊予侵攻にて敗死。
その後を継いだ第30代当主・通義の頃に、幕府の斡旋により和議を結ぶことになる。和議により宇摩・新居郡を細川氏に割譲することになるが、河野氏は宇摩・新居郡を除く伊予の守護となる。これ以降、河野氏は伊予国守護職を相伝することになった。





南北朝騒乱の時代

武家方から宮方帰順、そして再び武家方へと、
武家方・細川氏の四国支配対策に苦慮。


河野通堯(第29代当主):細川氏対策として宮方への帰順、そして武家方への復帰。河野家存亡の危機を脱し旧勢力を一時的ではあるが回復する
通朝の子・第29代の通堯も同様に細川氏の動向に苦慮。細川勢に攻勢をかけるも、細川勢の反撃に遭い立て籠もった高縄山城も落城し、恵良城に逃れる。この状況に「宮方」の在地豪族が支援の手を差し伸べ、「河野家の安泰をはかるために、南朝に帰順するように勧誘した。すでに東予・中予の重要な拠点を占領した優勢な細川氏に対抗するためには、まず伊予国内における宮方・武家方の協力一致によって、陣容の整備をはかる必要がある(「えひめの記憶」)、と。 また「通堯にとって、武家方の勢力が潰滅した時であるから、ライバルであった土居・得能・忽那氏らをはじめとして宮方の兵力を利用する以外に、よい打開策はなかった(「えひめの記憶」)」とする。

河野通堯の宮方帰順
こうして通堯は九州の宮方の征西府へ帰順。細川氏に対抗するため宮方に与することになり、南朝から伊予国守護に補任された、との記事もある。正平23年(1368)伊予に戻った通堯は河野氏恩顧の武将とともに武家方の勢力を府中から掃討し、勢いに乗じ東予の新居郡・宇摩郡まで侵入し細川勢を排除。府中に南朝守護河野通直(通堯改名)と知行国主西園寺氏が入る。通堯の刑部大輔任官は南朝への貢献故のことである。

河野通堯の武家方復帰
武家方の管領として足利義満を補佐した細川頼之であるが、山名氏や斯波氏、土岐氏といった政敵のクーデター(康暦の政変)により管領職を失い、四国に落ちる。この中央政界の激変に際し、対細川対策として通堯は「宮方」から離れ、幕府に降伏し反細川派の諸将との接近をはかることになる。義満は通堯に対しあらためて伊予守護職に補任する旨の下文を与えた。
「えひめの記憶」に拠れば、「通堯が武家方に復帰した事情は、いちおう伊予国における失地回復に成功したこと、これまで利用した征西府、および伊予国の宮方の権勢が衰退して、昔日の姿を失ったこと、将来河野氏の政局安定をはかるためには、幕府の内部における反細川派の勢力と提携する必要があったことなどによると考えられる」とある。

北朝方から南朝帰順、そして再び北朝帰順と、対細川氏対策として16年に渡り、河野家の危機を防いだ通堯は、河野氏の旧勢力を回復し、その勢力は安定するかにと思われた。しかしながら、四国に下った細川頼之氏追討の命を受け進軍の途中、天授5年/康暦元年(1379年)、伊予の周桑郡の佐々久原の合戦で通堯は討死する。この戦で西園寺公も共に戦死する。


河野通堯(通直);(『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』より)▼

父の通朝の戦死の後、各地を転々とし、正平23年(1368)帰郷して失地を回復していく。
天授5年;(北)康暦元年に細川頼之が東予地区に侵入し、通堯は桑村郡吉岡郷佐志久原に陣をとったが、頼之の奇襲戦法にかかり総攻撃を受けて自害。佐々久山に五輪塔、善光寺に位牌がある。
甲賀神社境内に通堯と西園寺公俊を祀る。
続柄:通朝の子
家督:正平19年;(北)貞治3年(1364)?天授5年(1379);(北)康暦元年
関係の社・寺・城:善光寺(東予市)、甲賀神社(東予市)
墓や供養塔;佐々久山

千人塚;所在地:新町434‐4
「天授5年(1379)11月6日、佐々久原に於いて伊予の将河野通堯軍七千と阿波・讃岐・土佐の将細川頼之軍四万が激突。河野軍の敗北に終わった。このとき両者の戦死者を此の地に埋葬した。
別名四方塚、太平塚、鬼塚とも呼ばれ、今後このような悲惨な戦いが無いように、四方太平を願ったとも云われ、又「このような大石は鬼でなければ積めない」との意味から鬼塚の名もある。
この塚は甲賀原古墳群の南端に位置する古墳と云われ、直径30メートルを越える円墳であったとも云われる。千人塚に利用されたため唯一残ったと伝わる 吉岡公民館 吉岡地区生涯教育推進委員会」

西園寺氏と伊予
上のメモでお公家さんの西園寺氏の名前が河野氏とペアとなって登場する。宮方に帰順し伊予の守護となった通堯とともに知行国主として府中に入城したこと、そして武家方に復帰した通堯に与し同じ武家方の細川氏と戦い討死している。この場合の西園寺氏とは西園寺公俊公のことではあろう。
西園寺公俊の妻は河野通朝の娘というから、通堯とペアで動くその動向はわからなくもないが、それはともあれ、京のお公家さんである西園寺氏の流れが伊予に土着したのはこの公俊の頃と言う。
西園寺氏と伊予の関りは鎌倉期に遡る。鎌倉幕府が開かれ守護・地頭の制度ができた頃、当時の当主西園寺公経は伊予の地頭補任を欲し、橘氏からほとんど横領といった形で宇和郡の地頭職となっている。当時は、地頭補任は言いながら、伊予に下向したわけではなく代官を派遣し領地を経営したようである。 その後鎌倉幕府が滅亡し建武の新制がはじまると、幕府の後ろ盾を失った西園寺氏は退勢に陥る。伊予の西園寺家の祖となった西園寺公俊が伊予に下ったのは、そのような時代背景がもたらしたもののようである。
伊予西園寺氏は宇和盆地の直臣を核にしながらも、中央とのつながりをもち、その「権威」をもって宇和郡の国侍を外様衆として組み込んだ、云わば、山間部に割拠する国侍の盟主的存在であったとする(「えひめの記憶」)
橘氏
橘氏ははじめ平家の家人であったが、源平合戦期に源氏に与し多くの軍功をたてる。鎌倉幕府開幕時の守護・地頭の制度により、鎌倉御家人として宇和の地の地頭に補任される。その橘氏の所領の地に西園寺氏が触手をのばす。橘氏は、宇和は警護役として宇和島の日振島で叛乱を起こした藤原純友を討伐して以来の父祖伝来の地とも、頼朝よりの恩賞の地とも主張するも願い叶わず、宇和は西園寺氏の手に移り、橘氏は肥後に領地替えとなった、とのことである(「えひめの記憶」)。

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善光寺;愛媛県西条市安用甲1044


『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』に挙げられた東予市の善光寺に向かう。場所は同冊子に説明のあった激戦地・千人塚の南西、安用(やすもち)地区から高縄山地の山麓を少し上ったところにある。お寺様というより、お堂といった趣。
お堂脇の案内には「善光寺 天授5年(1377)の佐々久原の戦いで、細川頼之に敗れた河野通堯、西園寺公御霊を祀るため建立された寺である。本堂にのこる両公の位牌は近郊例を見ない大きなものである。本尊薬師如来像は風早(北条市)の恵良城内薬師堂に祀られていたもので、戦火に遭ったためこの地に移し祀られたものと伝えられる」とあった。


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甲賀神社;愛媛県西条市上市甲460番地

大明神川が形成した扇状地が、高縄山地からの「出口」部分の扇の要の地から広がり始め、左右を高縄山地の支尾根に挟まれた「盆地状」の旦の上地区を離れ平野部を瀬戸の海に下る辺り、県道155号が大明神川を渡る少し東に甲賀神社がある。平坦地に盛り上がる緑の社叢が印象的な社の構えである。
県道155号を東に折れて境内に駐車。境内社をお参りし、市指定文化財 天然記念物の紅葉杉(コウヨウザン)を見遣りながら境内を進むと「甲賀八幡神社の祈請文」の案内。
案内には
「甲賀八幡神社の祈請文 
市指定文化財 有形文化財古文書
元亀三年(1572)阿波讃岐の三好勢が伊予に侵入して来た時、これを迎え討ち戦勝するため、河野一族が甲賀八幡神社に誓詞祈願した願文で、社宝として伝わる古文書である。
同年九月十二日付けの七十五名連判所と十三日付けの二十名連判所の二通が継ぎ合わされ、現在一巻となっている。氏名の下には、それぞれ花押がある 西条市教育委員会」とあった。
○祈請文は39代当主・通直の頃のもの
元亀三年(1572)というから、この起請文が書かれたのは、この項の主人公である通堯より、時代を下った河野家第39代当主・通直、その父である通吉の頃の話ではあろう。土佐の長曾我部氏の宇和郡侵攻の機に乗じ、阿波の三好氏が織田信長と結び伊予に侵攻した。それを迎え撃つ河野氏の決意表明といったものだろう。

境内を進み石段を上り拝殿にお参り。社の建つ独立丘陵の周りには、6世紀後半から7世紀初頭のものと推定される古墳時代後期の古墳群があるようだ(社殿の建つ丘陵自体が古墳、といった記事もあった)。拝殿横にある境内社に、河野通暁、西園寺公俊公を祀る祠などないものかと彷徨うも、これといった案内はなかった。
護運玉甲甲賀益(ごうんたまかぶとかがます)八幡神社
石段を下り甲賀神社の案内を見る。案内には「護運玉甲甲賀益(ごうんたまかぶとかがます)八幡神社  沿革 勧請年月不詳。往古、仲哀天皇・神功皇后が紀伊の国より南海道に巡幸のとき、行宮(宿泊所)をこの地に作り給いし夜、その夢裏の示現により天皇この山に登り、諸神を礼尊した。よってこの山を「神齋山カミイワイヤマ」と云う。、この時の祭神は吉岡宮に坐す吉岡二神と伝えられ御一神は猿田彦神に坐す。
天智天皇6年(667)2月朔(1日)、国司土師連(ハジシノムラジ)千嶋公この地を通行のとき、老翁忽然と現れ、我八幡大神と共にこの地を守護せんと神示あり。この翁こそ猿田彦命に坐す。国司は勅許を得て宮殿を建て合祀す。

其后、興國4年(1343年)2月3日、南朝勅願所の旨を持って新宮殿を建立し、猿田彦命を祀り八幡社を合祀した。興国4年(1343年)2月3日、南朝勅願所の旨を以て再建勅旨之有り、御衾田を下賜、御書今尚之を存す。文明7年(1475年)2月将軍足利義尚公より社領寄付状あり。
伊予守源頼義公より六孫王(経基王)以来相伝の密法たる開運護甲の秘法を祀主友麿に授けしが社名の由来であり、此の秘法を以て河野家数代の祈願所となる。後、松山藩主久松定行、永應2癸巳(1653年)社殿を再修し、久松家祈願所となり、明治5年(1872年)郷社に編入され今日に至る。

結構古い社である。が、吉岡宮って?近くに延喜式に記載される佐々久神社がある。仁徳天皇(大鸛鷯尊:おおささぎのみこと)の崩御に際し、その徳を慕い。社を建てたのがその始まりと伝わる古き社である。「おおささぎのみこと」の音にあわせ、社の名を「佐久」としたというこの社が建つ地の旧地名が吉岡村というから、佐々久神社のことだろうか。
また、土師連千嶋って誰?チェックすると、壬申の乱のとき、大友王子軍=天智天皇勢の将軍に土師連千嶋の名がみえる。野州川の戦いで敗死している。どういったコンテキストで土師連千嶋が登場するのか、ちょっと興味もあるのだが、話があらぬ方向にむかってしまいそうであり、本筋でもないのでここで思考停止とする。


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千人塚;西条市新町434‐4

甲賀神社の南に続く長い参道を進み鳥居を出て更に南に下る。鳥居に「御運宮」とあった所以は、上記案内故のこと。境内を出て、車道の西側の畑の中に千人塚がある。
上述『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』の説明にあるように、天授5年(1379)河野通堯と阿波・讃岐・土佐をその支配下に置いた細川氏が戦い、通暁が敗死したとの佐々久原の合戦で亡くなった両軍の将士の霊を弔った塚である。
武家方から宮方、そして武家方へと、お家存続のため細川氏対策として複雑な動きをした通暁であるが、この千人塚が祀られた佐々久原の合戦の頃は、宮方から武家方に復帰し中央の反細川勢力と合力し、細川討伐を目した頃である。 細川頼之は細川討伐軍の機先を制し伊予に侵攻。主力を宇摩・新居郡に派遣した通堯の本陣が手薄と見た頼之は本陣に総攻撃を加え、敗れた通堯は自害、通堯の伊予に帰着以降、河野勢に与していた南予地域の実力者西園寺公俊も、佐志久原で通堯と運命をともにした。


河野氏ゆかりの地を辿る■ 
佐々久山の通堯供養塔

『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』には佐々久山に供養塔があると記載されている。佐々久山は千人塚の南にある結構大きい独立丘陵である。それ以上の手掛かりはない。佐々久山には上に述べた延喜式内社の佐々久神社があるので、そこを手掛かりに供養塔を探そうと考える。
「河野通堯公御墓」と刻まれた石標
ところが、成り行きで車を丘陵の周囲を走らせても、この佐々久神社に辿りつけない。丘陵を一周回って再び甲賀神社、千人塚から南に下る道に戻り、丘陵北東端を回り込もうとしたとき、道脇に「河野通堯公御墓」と刻まれた石標があった。どちらに行けばいいのかはっきりしないが、とりあえず丘陵に向かい南に進む道に入り込む。





通堯供養塔
成り行きで進むと水道施設があり行き止まり。道筋には何も案内はない。丘陵側もコンクリート塀でガードされ丘陵には入れそうもない。さてどうしたものかとあきらめかけたのだが、丘陵手前の畑地がある。手前には侵入を阻むロープが張られているのだが、なんとなく、何かを感じる。ロープを越え丘陵裾を進み丘陵北東端部に成り行きでのぼると、そこに供養塔が建っていた。お参りしもとに戻る。





南北朝騒乱の時代

幕府の斡旋で宿敵細川氏との和議が成立。宇摩郡・新居郡を割譲し、 
その地以外の伊予の守護職として以降、相伝することになる


河野通義(第30代当主);細川氏との和議と河野氏の伊予守護職安堵
父通堯の戦死のあとをうけて、河野氏の家督を継承した嫡子(後の通義;第30代当主)は当時10歳。細川氏の攻勢を退けることは困難であり、また、細川氏の勢力が四国全域に拡大することを危惧した将軍足利義満は和議を斡旋。四国の守護職を分割し、讃岐・阿波・土佐三国を細川氏に、伊予(宇摩・新居の両郡を除く)を河野氏に与えて勢力均衡策をとった。
和議の背景は、頼之が再び管領となって上洛し、執政に多忙で領国を顧みる余裕のなかったことが挙げられる。これ以降、河野氏が伊予国守護職を相伝することになる。

「伊予西条 河野氏ゆかりの地散歩 そのⅣ」の通盛の項で、拠点を湯築城に移したことに異説があるとしたが、湯築城に河野氏が移ったのは、河野氏が室町幕府の統制下、伊予国守護職を相伝することになった、この頃との記事もある(『湯築城と中世の伊予』)。

河野通義(通能):(『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』より)▼

父、通堯の戦死のあとをうけ、幼少で家督を継ぐ。(北)永徳元年弘和(1381)に宿敵細川氏と和議を結び、宇摩・新居二郡を細川氏が領し、残りの地については河野氏が領することになる。
細川氏が通義に書状を送り、周布郡北条郷の多賀谷衆の保護を依頼している。 元中9年(北)明徳3年(1392)将軍義満より「義」を賜る。同年三島神社(桑村)を再建。
続柄;通堯の子
家督:天授5年(1379);(北)康暦元年-応永元年(1394)
関係の社・寺・城:北条里城(東予市北条)、桑村三嶋神社(東予市)



 ■河野氏ゆかりの地を辿る
多賀谷氏北条里城址(多賀小学校:愛媛県西条市北条1504番地)

四国支配を目する細川氏との伊予侵攻に対し、幕府の斡旋により和議のととのった河野氏はしばしの小康状態を得る。和議に際し宇摩郡と新居郡を割譲することにはなったが、細川氏に侵された周敷・桑村の旧領を回復することになる。 ここで問題となるのが北条里城をその館とした多賀谷氏の存在。
「えひめの記憶」に拠れば、多賀谷氏は、はじめ河野氏に属したが、細川氏の勢力が強大になると、旧領主から離反して細川氏に仕え忠勤をはげんだ。ところが周敷郡が河野氏の勢力圏に復帰すると、多賀谷氏は同氏の復讐を恐れるの余り、頼之に懇願してその保護を求めた」とある。
『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』に「多賀谷衆の保護を依頼」とあるのは、和議によって河野氏の領地に属すことになった多賀谷衆に、圧迫を加えないことを求めたわけである。「頼之は通義に書簡を送り、彼らに課せらるべき国役等は勤仕させるから、屋敷奪取の強行措置に出ないように要請した(築山本河野家譜)」とある。
北条里城址
北条(西条市)には、鎌倉時代から室町中期まで多賀谷修理太夫の館があった。天正の頃まで飯塚氏の館(北条里城)と云われたが、秀吉の四国侵攻によって破却された。
その後、塩見氏、黒河氏の屋敷となり、江戸末期には西の庄屋の屋敷となった。明治になって多賀小学校の校地となる。近藤篤山と黒川石漁の母親、菅女の手植の松と云われる大木(根廻り4.3m)があったが、昭和62年10月、自然に倒れた。切り株は小学校、公民館、東予郷土館に残る(「今どきの西条」HPより)。

宇摩・新居二郡
和議の結果、細川氏に割譲された伊予の二郡について。「えひめの記憶」をもとに、その後の経緯を掲載する。
「宇摩・新居両郡が細川氏の支配下になってのちは、この両郡を実質上支配したのは石川氏であると思われる。石川氏は元来細川氏の一族で、同氏の指示によって伊予に入国し、新居郡高峠(高外木)城を拠点として、細川氏の代官として両郡を支配するようになったのではないかといわれているが、その辺の事情は明らかではない。
石川氏は、戦国時代に入るころには、細川氏にかわってほぼ両郡の支配権を確立していたのではないかと思われるが、しばしば武将たちの反抗に悩まされた。天文二〇年(一五五一)ころには兵乱で領国内は騒然としたが、金子城の金子元成らの活躍で鎮定することができた。さらに弘治二年(一五五六)にも兵乱が発生したが、この時にも、元成らの活躍で事なきを得た。そこで、石川氏は細川氏にかわって新しく台頭した三好氏と結んで勢力の維持につとめたが、領内の動揺はその後も続いた。
元成は、二郡の政情の安定を願ってか、河野氏の実力者村上通康に使者を立てて厚誼を求めたが、このような状況のなかで、金子氏の勢力がしだいに台頭し、戦国末期には実質上金子氏が宇摩・新居両郡旗頭の地位に立ったものと思われる(「えひめの記憶」)。



河野氏ゆかりの地を辿る
桑村三嶋神社;愛媛県西条市桑村448‐1

社は前述の甲賀八幡から大明神川を少し下ったところにある。鳥居から誠に長い参道を進む。もとは松並木であったものを檜の並木に植え替えたとのことである。
参道の中程に道場の趣がある建物が建つ。境内にあった案内に拠れば、「建武館」と呼ばれる県下有数の剣道場で、昭和9年(1935)に宮司により建てられたとのこと。
車を建武館の脇にデポし、拝殿にお参り。境内には絵馬殿があり、多くの絵馬が掲げられていたが、その中でひとつ、ガラスの額に入った絵馬は伝狩野元信の筆になる、と。

伝狩野元信の絵馬
境内にあった案内には「狩野元信の*(注;読めない)馬の図は愛媛新聞社編「伊予の絵馬」にも掲載され、作者については疑義あり伝元信としながらも、「県下の絵馬の中でも群を抜いた作品の一つ」と称賛している。あまりに迫力に夜中額面から馬が抜け出して野草を食うとの伝説がある。(本県第二の古額という)。同様の話が河野氏ゆかり地の最初の回、赤滝城址に向かう途中、大野霊神社の絵馬にもあった。

で、本筋の河野氏との関連であるが、境内にあった案内には「(前略)和同5年8月23日創建。社記によれば、慶雲3年(706)国司越智祢玉興が勅を奉じて大三島から勧請し、以降度々遣使奉幣があったという。一説には和同4年(711)大山祇神を祭祀し、一の宮三島大明神と称し、同5年大三島より雷・高?(たかおがみ)二神を勧請合祀して三島別宮地の御前宮と号したともいう。 その後、河野家の尊崇を受け、国司河野通信をはじめ通村、通綱らはそれぞれ社領を寄進した。

興国3年(1342)細川頼春侵攻し社殿焼失したが、明徳3年(元中9年;1392)、河野通能によって再興され、元亀元年(1570)象ヶ森城主櫛部兼氏は神鏡を奉納し社殿を修復した。これより先郡司越智深躬は新市の桑村館に拠って威を張り、春秋の祭祀料として水田1町3反を寄進したという。
永禄年間(1558-1569)桑村少輔俊直これに居り神鏡を奉納、崇敬篤かったが天正13年(1585)小早川隆景のために滅亡した。当社も再び炎上し社宝日記を失い、社領もことごとく没収された。当時の三島田・神楽田などの名が明治初年地租改正の頃まで残っていた。
元禄12年(1669)、(中略)三島神宮社殿を造立、寛保3年(1743)松山藩主の寄進を受けた。昭和10年、拝殿、渡殿を造営し旧拝殿は祓殿及び絵馬殿に改築した」とある。

通能=通義
 『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』に、この三島神社を再建したという通義の名が見当たらない。チェックすると、河野通能がその人であった。通義とも通能とも称されたようだ。
それはそれとして、案内には今まで登場しなかった氏名が挙がる。チェックすると、越智玉興とは越智河野氏系図に拠れば、玉興は河野氏の祖とされる越智玉澄の兄で、文武天皇の頃、越智郡大領となる、とある。また、通村、通綱は宮方で活躍した得能氏。通村は通綱の父である。
象ヶ森城主櫛部兼氏は既に観念寺(伊予西条 河野氏ゆかりの地散歩 そのⅣ)でメモしたように河野家の重臣のひとり。案内ではその櫛部氏の後に、「これより先郡司越智深躬は新市の桑村館に拠って威を張り」とあるが、文の流れとしては少々唐突。「これより先、とは「ずーっと遡り、河野氏の祖の玉澄の2、3代後、桑村に館を構えた。時代は平城天皇の頃だろうから8世紀末の話である。
桑村少輔俊直は平安末期郡司として居住した桑村氏の後裔。天文22年(1553年)、桑村治部少輔俊直公が再居住して以来、代々この地を治める。ために桑村氏中興の祖といわれる。天正13年(1585年)通俊公の代に、豊臣秀吉の四国征伐で小早川隆景と戦い、陣没した、とあるので河野氏の家臣であったのだろう。

南北朝争乱記の河野氏の動向とそのゆかりの地についてメモした。次回は無る町時代をメモする。また、メモの中に出てきた高縄山城や恵良城は、善応寺、雄・雌甲山とまとめて、旧北条市(現在松山市)の河野氏ゆかりの地として後日訪ねようと思う。
南北朝争乱期、武家方に与する総領家と宮方に与する庶家の得能・土居氏など、一族が分裂。中央では、延元3年(北朝建武5年;1338)、南朝の重臣である北畠顕家、新田義貞の相次ぐ戦死により武家方が優勢になるも、九州西征府を反撃の拠点とし、そのためにも瀬戸内の制海権を支配せんとする宮方は伊予を重視。新田氏をその祖とする大館氏明氏を伊予の守護として下向させ、新田義貞と共に北陸に散った伊予の宮方である得能通綱・土居通増の後を継いだ忽那・土居氏と共に伊予を一時宮方の拠点とした。
伊予の更なる体制強化のため脇屋義助(新田義貞の弟)を伊予に送った宮方であるが、脇屋義助の病死、阿讃両国を掌握した武家方細川氏の伊予侵攻による大舘氏明の世田城での戦死などにより、伊予での宮方優勢が次第に崩れることになる。
この間、武家方に与した河野総領家は宮方に分かれた一族間の抗争に加え、四国支配を目する武家方細川氏の伊予侵攻に苦慮する。





南北朝騒乱の時代

宮方との抗争とともに、同じ武家方・細川氏の伊予侵攻に苦慮する


河野通朝(第28代):同じ武家方・細川氏の侵攻に苦慮
河野通盛の隠退のあとをうけて、惣領職を継承した通朝(第28代)が苦慮したのは、同じ武家方(北朝)の細川氏の動向である。はじめて資料を流し読みしたとき、何故に幕府の管領をも務める細川氏が、同じ武家方の河野氏を攻めるのか、さっぱりわからなかった。「えひめの記憶」を少し真面目に読み込むと、細川氏の動向は、四国支配がその根底にある、といったことが見えてきた。
細川氏の四国制覇の野望
「えひめの記憶」には「足利尊氏は、すでに幕府開設以前の建武三年(一三三六)二月、官軍と戦って九州へ敗走する途中、播磨国室津で細川一族(和氏・顕氏ら七人)を四国に派遣し、四国の平定を細川氏に委任した(梅松論)。 幕府成立後も、細川一族は四国各国の守護職にしばしば任じられ、南北朝末期(貞治四年~応安元年)、細川頼之のごときは、四国全域、四か国守護職を独占し、「四国管領」とまでいわれている(後愚昧記)。
もちろんこの「四国管領」というのは正式呼称ではなく、鎌倉府や九州探題のような広域を管轄する統治機構ではない。四国四か国守護職の併有という事態をさしたものであろう。頼之の父頼春も「四国ノ大将軍」と呼ばれているが(太平記)、これも正式呼称ではあるまい。
ともかく幕府は細川氏によって、四国支配を確立しようとしたことは確かである。その結果、細川氏は四国を基盤に畿内近国に一大勢力を築き上げ、さらにその力を背景に頼之系の細川氏(左京大夫に代々任じたので京兆家と呼ぶ)が本宗家となり、将軍を補佐して幕政を主導した。
南北朝末期、細川氏は二度(貞治三年、康暦元年)にわたって伊予へ侵攻し、河野通朝・通堯(通直)父子二代の当主を相ついで討死させた。侵攻にはそれぞれ理由があるが、その根底には、細川氏による四国の全域支配への野望があったのではないだろうか」とあった。

伊予での宮方・武家方の騒乱に、武家方内部での同じ武家方である細川氏との抗争と少々入り組んだ絵柄となっている。それは足方尊氏が伊予の国人勢力の拡大を牽制する意図もあった、と言うが、それはともあれ、この記事にもあるように、通朝(第28代)は貞治3年(1363)、細川頼之の東予侵攻により今治の世田山城で2カ月にわたる攻防の末、敗死。通盛も河野郷で病死する。


河野通朝(『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』より)

貞治3年(1364)四国統一をめざす細川頼之が侵入、これを世田山城に迎えうったが、城内に寝返るものがあって城が落ち討死。伊予温故録には墓は道場寺(河原津)、伊予史精義には西山興隆寺にあると記されている。
続柄;通盛の子
家督:正平18年;(北)貞治2年(1363)?正平19年;(北)貞治3年
関係の社・寺・城世田山城(東予市)道場寺(東予市)、興隆寺(丹原町) 墓や供養塔;伊予温故録;道場寺(東予市)、伊予史精義;興隆寺(丹原町)、大通寺(北条市)

世田山 328米
東予市旧楠河村に属し、峰続きに朝倉の笠松山に連なり国立公園地帯である。興国3年の頃(1342)守将大舘氏明は伊予官軍の勢力を盛り返そうとして脇屋義助卿を迎えたが不幸にも病没し、そのすきに阿波讃岐の敵将細川勢が大挙して来襲し世田城を包囲攻撃した。
守兵達はこれに対してよく奮戦したが遂に落城し氏明は戦死した。この時脇屋卿の家来篠塚伊賀守はただ一人城門より打って出て、自慢の鉄棒を揮い敵中を突破して、今張の浦に至り敵船を分捕って沖ノ島に上陸したという。沖の島は今の魚島といわれている。
守将氏明や戦死した家来を祀る碑が山麓の医応院(瀬田薬師)の傍にある。


河野氏ゆかりの地を辿る
世田山城

Google Earthをもとに作成
河野氏ゆかりの地として、貞治3年(1363)河野通朝が細川頼之により敗死した世田山城に向おうと思うのだが、上記『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』の河野通朝の項の「世田山」の説明には通朝はなく、細川氏と戦い討死した大館氏明氏の案内があった。
通朝と同じ武家方の細川氏との抗争に関しては、上でメモしたが、宮方の大館氏と武家方の細川氏の抗争については今一つはっきり理解できていない。そもそもが、大館氏って誰?といった程度の知識である。丁度いい機会でもあるので、大館氏をとりまくあれこれをチェックしておこうと思う。
大館氏の四国への下向
先ず、時代からいえば、大館氏と細川氏の交戦は興国3年の頃(1342)と言うから、河野通朝が細川氏と交戦し敗死した貞治3年(1364)より少し前、時代背景から言えば、新田義貞、北畠顕家といった南朝の重臣、伊予の宮方に与した得能通綱・土居通増も新田義貞の北陸への退却戦の途中討死するといった、南朝の威勢に陰りが見える頃のことである。
Google Earthをもとに作成
制海権支配の地としての伊予の戦略的重要性
「えひめの記憶」に拠れば、「中央では、延元三年(北朝建武五年;1338)、南朝の重臣である北畠顕家、新田義貞の相次ぐ戦死により武家方の地盤はますます強力なものとなった。この時南朝では、奥羽の諸国ならびに瀬戸内海の沿岸および九州地方の経営に力をつくし、背後から武家方の活動を間接的に阻止しようと企図した。この難局にあたったのが、宮方柱石の重臣といわれる北畠親房であった。
大舘氏は新田氏の支族
親房は上記戦略のもと、内海では忽那・土居・得能氏らと連和して、肥後国の菊池氏と相通じて、内海の制海権を完全に掌握し、あわせて九州の宮方の活動を援助しようとしたようである。
この当時、伊予の宮方は忽那氏が瀬戸の海を中心に、土居通重・同通世らが久米郡を根拠地として活動を続けていた。さらに、伊予の南朝勢を強化すべく大館氏明が伊予国守護として来任し、桑村郡世田山城に居を構える。時期ははっきりしないが、後醍醐天皇が吉野に逃れた後とのこと、というから建武3年(1336)以降のことではあろうと思う。
大館氏は新田氏の支族であって、上野国新田郡大館に居住し、その地名をもって氏とした。大館宗氏(氏明の父)は新田義貞に従って鎌倉幕府攻略の節、極楽寺坂に戦没した、といった「大物」の下向である。
宮方が伊予で優位にたつ
その頃の河野氏は、建武4年(1337)通盛が都から伊予に戻ったとするから通盛の時代である。その通盛に対して宮方は、「土居通世の軍と協力して、通盛の本拠である湯築城を攻撃し、さらに土居氏の拠る土肥城を後援し、すすんで道前地域の武家方の諸城を撃破して、宮方のために気勢をあげた。(中略)その結果、伝統的に偉大な権勢を維持してきた河野氏は、一大打撃をうけたのに対して、一時忽那・土居氏を中心とする宮方の隆盛期を迎えた」とある。
細川氏の伊予侵攻
中央での劣勢に反し宮方の拠点となった伊予では、その体制を更に強化すべく新田義貞の弟である脇屋義助を伊予に下向させた。興国3年(北朝暦応5年;1342)のことと言う。「えひめの記憶」には「義助の胸中に描かれた経営策は、東は北畠氏によって吉野朝廷と連絡を保ち、西は九州の征西府と相通じ、南は土佐国の宮方と提携し、北は備後国の宮方および忽那氏の率いる水軍の援助によって、武家方の総帥の細川氏の権勢を抑圧して、南朝の一大勢力を樹立しようとするにあったといっても、決して過言ではないであろう」とある。
しかしながら、義助の病死により南朝方の思惑は崩れることになる。そこに伊予の宮方の最大の脅威として登場するのが細川氏である。
「えひめの記憶には」、伊予を南朝の一大拠点とした宮方にとっての「最大の強敵は阿讃両国を掌握した細川氏であった」、とし、続けて「頼春は義助の急死を知り、宮方の形勢の動揺に乗じて、伊予侵略の歩をすすめた。頼春はまず国境を越えて、土居氏の拠る川之江城を攻撃し(中略)。頼春は、勢に乗じて宇摩・新居両郡地域を征服し、ついに大館氏明の拠る世田山城を目ざして進撃し(中略)陥落(中略)。宮方にとって世田山城の喪失は一大痛撃となり、この地域の形勢が全く逆転する結果となった。
義助・氏明らの相つぐ不幸により、統率者を失った伊予の宮方の活動が、以前に比較すると、次第に孤立的になったのも当然であろう」とある。
『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』にあった、細川勢とは細川頼春のことであり、この世田山城での宮方・大館氏の敗北により伊予の宮方の威は衰え、伊予は宮方と細川氏の抗争から、同じ武家方である河野氏と四国支配を目する細川氏の抗争の時代へと向かうことになる。その間の状況は上で通朝のメモで示したとおりである。 
土居氏
伊予国の豪族河野氏の支族。蒙古襲来に活躍した河野家第26代当主・通有の弟伊予国久米郡石井郷南土居に住したのに始まる。
土居氏は、元弘3年(1333)後醍醐天皇に与し挙兵し、同族得能氏や忽那氏と連合して伊予の武家方を攻め、後醍醐天皇の伯耆よりの帰着を兵庫に迎えた。 建武の新政が破れ、河野通盛が足利尊氏から河野氏の惣領職を認められ、帰国して伊予の南朝方に攻撃を加えた頃、土居氏は得能氏らと共に新田義貞傘下で各地を転戦、義貞の北陸退却戦の折、土居家当主は越前で討死した。
土居氏一族はその後も忽那氏と提携して、宮方として重きをなしたが、興国3年(1342)細川勢と戦いで敗れ、土居氏の威は消えることになる。


世田山に上る
愛媛に育ちながら、伊予での南北朝の騒乱、一族敵味方に分かれての抗争、大物・新田氏支族の伊予下向など、あまりに知らないことが多すぎ、山に上る前に少々メモが長くなった。とっとと山に向かう。

世田薬師;12時16分
世田山城のある世田山へは世田薬師から登ることになる。実家のある新居浜市から西条の国道196号を今治へと向かい、周桑平野が山地に阻まれる西条市と今治市の境を、少し今治市に入ったところ、予讃線が国道196号にほぼ接するところをヘアピンで曲がり、再び西条市へと山麓の道を走ると世田薬師がある。 広い駐車場に車をデポ。
本堂にお参り。「世田のお薬師さん」と子供の頃から聞き知っているが、正式には世田山 医王院 梅檀寺と称する。寺伝によれば、奈良時代の神亀元年(724年)、行基が四国を巡錫している折に、世田山上に薬師如来の姿を見つけ、栴檀の木にその姿を刻んだとある。梅檀寺と称する所以である。
きゅうり封じ
お寺さまは、元は山腹にあったようだが、昭和2年(1927)大師堂と三宝荒神堂を山麓に移し本坊を構え、山腹の本堂は奥の院とした(Wikipedia)。 このお寺様は厄除け「きゅうり封じ」で知られる。きゅうりに名前や病名などを記入し祈祷ののち家に持ち帰り、体の悪い部分をそのきゅうりで撫で土に埋めて病気平癒を祈願する。体力の衰えやすい夏、とりわけ土用の丑の時期に江戸の頃からおこなわれている「きゅうり加持」とのこと。 何故「きゅうり加持」?弘法大師空海が中国から伝えたという厄除けの秘法とのこと。秘法は秘法としておくとして、「きゅうり加持」はこの世田の薬師さんに限らず、京のお寺様など各地に見られるようである。
大館氏明公位牌殿
登山口を探して境内を彷徨って居ると、本堂に向かって右手、道路から境内に入ってすぐのところに石碑があり、「嗚呼忠臣大館氏明公至誠存。。。」と刻まれる。
石碑脇の案内には「大館氏明公位牌殿」とあり、「大館氏明公は新田義貞公の甥にあたり、南北朝時代(14世紀)に南朝方の重鎮として全国各地で大活躍し、伊予の守護とし、世田山城の城主となる。
1342年に北朝方細川頼春と壮烈な戦いの後、戦死す。墓は山上本堂横に有り、位牌はこの三宝荒神尊社横にまつられている。
太平洋戦争終了戦までは命日の9月3日には位牌殿前で盛大に大館祭りがおこなわれていた。社殿前には大正12年に大館保存会にて顕彰碑が建てられている」とあった。

実のところ、この世田山に登ったのは、河野氏ゆかりの地を辿る散歩の一年ほど前のこと。大館氏って誰?細川氏と何故この地で交戦?とは思えど、それ以上の深堀りをすることもなく、当日は「えひめの自然100選」に選定されており、瀬戸内海国立公園の一部になっている世田山から笠松山の景観を楽しみに上っただけのことである。以下の散歩の記録もその時のログをメモしたもの。

登山口
駐車場からお寺様に向かう石垣には「世田山」の案内、「世田山遊歩道入口」への案内、「世田山(1.5km)奥の院」の案内があり、境内を少し右に出たところにある登山口はすぐわかる。
奥の院までの「遍路道」の案内、笠をかぶったお地蔵さんを見遣りながら進み、竹林の中を抜け、次第に傾斜もきつくなる山道を進む。時に見晴らし台を兼ねたベンチがあり、周桑の平野の展望が楽しめる。



石灯籠:12時34分
二つ目の展望所、ベンチを越えると石灯籠が建つ、「笠松山1.6km」、「奥之院400m」の木標を見遣りながら進むと石段状の登山道となる。左手に見える今治方面の海の眺めを楽しみながら道を進むと平坦地が見えてくる。






船曳地蔵・不動明王;12時39分
うぐいす谷と称される平坦地入口にはお地蔵様が並び、船曳地蔵が祀られる。 「船曳地蔵」には「日本一体 海上・交通案内」とある。船に乗っているように見える。「日本一体」とあるが、googleで検索しても他にヒットしない。「船曳地蔵」と称する石仏はこの一体だけ、ということだろうか。右手の崖面には不動明王が造立途中であった(2014年7月)。

奥の院;12時43分
「奥之院200m」の案内を見遣り、左手が開け、古代城跡のある永納山の向こうに瀬戸の海を眺めながら先に進むと右手に石段がある。直進しても道があるようだが、石段を上る。108段あるようだ。
上り切ったところに注連縄のついた大きな石がある。「腹こわり石」と称され触るとお腹をこわす、とか。何故にそのような言い伝えが出来たのか興味はあるのだが、チェックしてもそれらしき資料は見つからなかった。奥の院にお参り。
古代城跡
永納山城は百済救援のための白村江の戦いに敗れた大和朝廷が、新羅・唐の侵攻に備え築造した防御拠点。

大館氏明公墓所
本堂向かって右手に大館氏明公墓所。案内には「大館氏明公墓所(世田城主贈勢四位)
南朝の忠臣大館氏明公は、新田義貞の甥にあたり武勇すぐれ、伊予の守護に任ぜられ世田城主となる。
伊予の宮方(南朝)を守るべく活躍するも、1342年(興国2年;注ママ)北朝方細川頼春の大軍1万余騎が攻め入り遂に力尽き城に火を放ち17勇士と共に切腹する。
時9月3日、氏明38才なり。これを世田山の合戦という。(大平記より) この墓は1837年(天保8年)氏晴(17代)建立する。寺説では左後の小さな墓が元々の墓といわれる。
世田山城はその後も二度の大戦(1364年)と(1479年)がある。名実共に世田山城は中世伊予の国の防衛の拠点であった」とあった。

上にもメモしたが、はじめて「大館氏明氏」の名を見たとき、大館氏って誰?また、何故に細川氏が伊予で戦う?など??満載であったが、その時は、瀬戸内国立公園に指定された世田山の景観を楽しこの山に登っただけであり、特段散歩のメモをすることもなく疑問のまま残っていたのだが、今回河野氏ゆかり地を辿る散歩で世田山が登場し、大館氏、細川氏のあれこれについてはなんとなく疑問は解消した。因みに案内に興国2年とあるのは3年の間違い、かと。
なお、お墓は基本的に写真を撮らない方針なので写真は遠慮した。


大館氏明
大館氏が伊予の守護に下向する背景は既にメモしたが、大館氏の宮方の大物たる所以を、守護下向以前の軍歴から補足する。まずは、新田義貞の鎌倉攻めに参陣、その後北畠顕家に従い近江佐々木氏を攻撃、尊氏西国に敗走後は播磨の赤松氏を攻撃。尊氏の再起による湊川の合戦に参陣。宮方敗北後、後醍醐天皇の叡山への避難・抵抗に従う。新田義貞の北陸転戦に従うことなく、吾醍醐天皇の吉野入り・南朝宣言後、守護として伊予に下ることになる。
なお、氏明自刃後の大館氏であるが、氏明の子義冬は九州に隠れていたが、北朝方の佐々木道誉に見いだされる。室町幕府に出仕。この系統の大舘氏は室町幕府内では、足利氏と同族(源義家子息義国流)の新田氏支族であったという由緒ある家柄故か、一族は政所奉行人を務めるに至った、とのことである。

世田山頂;12時55分
大館氏明公墓所の左手の道を進み、杉木立の中を進み、途中右手に開ける周桑の平野を見遣りながら10分ほど進むと尾根に出る。木に無造作に「世田山 339m」の標識が括り付けられていた。







城址展望所;12時58分
登山道が尾根に合わさったところから左右に通る尾根道がある。とりあえず左手に向かうと『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』に記載「世田山328米」の案内があった。その先には木標に「世田城址(展望所)」とある。その先の大岩の左手を迂回すると素晴らしい展望の岩棚に出る。
周桑の平野、その先の四国山地も一望ももと。往昔迫りくる細川勢を大館氏、河野氏共に、この地から物見をしたのではあろう。
山に上り、その戦略上の要衝たる所以を実感
また、散歩の当日は、なんと景色のいい所よ、さすが瀬戸内海国立公園に指定されるだけのことはある、などとお気楽に景色を眺めていたのだが、この城を巡って、細川氏と大館氏、その後も正平19年(1364)には河野通朝(第28代当主)と細川頼之との戦い、それから更に時代を下った文明11年(1479年)には細川義春と河野通生(第33代当主・教通の弟)との戦も繰り広げらたことを知る及び、美しい景観も異なる視点で見えてくる。
周桑平野と国府のあった今治平野を画する山地の頂きにあり、その周囲を睥睨する眺めは軍事上の要衝の地であったと思われる。周桑の平野を侵攻した敵から伊予の中心である府中を守る最後の盾といった山城である。「世田山城が落ちると伊予の国は亡ぶ」と言われる所以がよくわかる。

笠松山へ向かう
城址展望所から尾根道を引き返し、登山道との合流点を越えるとすぐに展望台。少し荒れており、休憩する勇気なし。また草木に遮られ、見晴らしもそれほど良くはなかった。
展望台を即離れ、笠松山に向う。散歩の当日は、特に河野氏ゆかりの云々で歩いたわけではなく、とりあえずついでのことだから行ってみようと思った程度ではあった。結果的には、笠松山にも河野・大館氏ゆかりの事蹟もあり、なによりも尾根道からのすばらしい景観を楽しむことができた。成り行き任せではあるが、結果オーライの散歩とはなった。

笠松山への尾根筋;13時5分
尾根道を笠松山に向う。市域は今治市になる。尾根の稜線の左右が開け、素晴らしい展望が楽しめる。進行方向正面には岩肌の見える小ピーク、右手は今治市と瀬戸の海、左手は県道155号が走る朝倉谷。この眺めだけで、この地が瀬戸内海国立公園に指定されているのが納得できる。石段になった小ピークを上り、先に進む。

笠松山が見える;13時11分
小ピークから緩やかな下りを進むと道は直角に曲がる箇所に来る。ここが世田山から笠松山への尾根道の乗り換えポイント。左手前方に笠松山の電波塔が見えるのだが、一度山を下り、笠松山に登る石段の登山道が前方に見える。
一度下り、また上り返しの道筋がこうもはっきり見えると、少々気が重くなる。

笠松山・姫宮神社;13時34分
下り切ったあたりに木標があり、笠松山・世田山へそれぞれ0.5kmとあった。丁度中間点である。またその木標には「水大師」への案内もあった。笠松山を通らず、谷筋を集落へと下る道が地図にあった。
その先は、笠松山への上り返し、尾根道に上り切れば、ほぼ平坦となった尾根道からの景観を楽しみながら進み、アンテナ手前で少し上ると神社があし、そこが笠松山の頂上となっている。
社は姫宮神社の観音堂のようである。また、お堂そばの尾根平坦地には笠松山の案内があった。
笠松山
「笠松山 357米 朝倉村の笠松山は国立公園の一つであり昔名木傘の形の松があったが現在は枯れてない。
わたくしにふる雨しのぐかさまつの
滝の水木のあらんかぎりは 河野為世 詠
年代は明らかでないが河野四郎為世の隠居所があったといわれ、南北朝の忠臣篠塚伊賀守の居城があった笠松山観音堂は伊賀守が城を落ちのびる際、兜の内側に秘めていた一寸八分の黄金観音像を笠松山頂に安置して去ったものを戦の後、村人がこの地に小祠を建てて祀り、その後度々改築されて現在に至っている」とあった
河野四朗為世
越智氏の流れをくむ玉澄を初代当主とする河野氏の系図には、第15代当主として四朗為世の名が掲載されている(子の系図では、このメモの当主表示の家系図。通清が22代当主となっている)。ただ、四朗為世を同じく越智氏の流れをくむとする新居氏の祖とする記事もある。
メモの初回に述べたように、鎌倉以前の確たる記録は残ってにないようであり、河野氏であれ新居氏であれ、その祖を伊予の豪族越智氏と結びつける家系図作成故の「交錯」ではあろう。玉川町鍋地には四朗為世の霊を祀る四朗明神があるという。

●気になった山肌の質感は山火事跡
当初の予定ではこの笠松山で引き返すことにしていた。が、笠松山から眺める朝倉谷方面に延びる尾根筋の景観が気になり、そのまま成り行きで下ることにした。下りてしまうと、高縄山地から海岸部に延びた山地の峠を越え、ぐるっと山麓を一周して車のデポ地に戻ることになる。結構距離がありそうだが、なんとかなるだろうと道を下る。
で、気になった朝倉谷方面に延びる尾根のむき出しになった山肌だが、後日チェックすると、どうも山火事による木々の焼失跡のようである。独特の質感の山肌と見えたその原因は山火事のようであった。

水大師;13時57分
それはともあれ、20分ほど道をくだると、ふたつの沢が合わさるあたりに祠があった。山道の案内にあった「水大師」のようである。伊予府中八十八番霊場の第16番・野々瀬水大師と称するこの祠は、近在の農民が農作業に必要な水をお祀りしている、とか。
因みに、この野々瀬口が世田山合戦最大の激戦地であったと『太平記』にあるようだ。成り行き任せで歩いても、それなりの地に巡り合うものである。

野々瀬古墳群;14時9分
野々瀬の谷の道を下ると、道脇に野々瀬古墳8号の案内がある。案内がなければ草の繁った塚といったもの。更にその先に「七間塚古墳」の道案内がある。道を右に折れて進むと「野々瀬古墳3号」の案内。塚の下に石室の口が開いていた。その先に「野々瀬古墳2号」。この古墳も石室への口が開いていた。












七間塚古墳
道なりに進むと「七間塚古墳」があり、手前には案内があった。 案内には「野々瀬古墳具の中で最大の積室を有する。巨石を用いて見事に築造された典型的な横穴式円墳として県下でも有名である。特に天井石は素晴らしい。
墳丘 直径18m 高さ6m
石室 奥行9m 高さ2.2m」とあった。
また石室口の手前には「野々瀬古墳1号(七間塚)の案内と共に石碑があり、 「この古墳群は県下最大のもので、昭和初期の記録によると百基を超していたが現在は跡と共に四六基となり、なかでもこの七間塚は大規模なもので群を代表するものであろう。これらの古墳は横穴式円墳で、建立の年代は六世紀の終わりから七世紀半ばまでのものと考えられる。埋葬された人の数は多く、身分階級の範囲は広いものと推定される。」とあった。
笠松山北麓から朝倉谷の田園地帯には古墳だけでなく弥生時代の遺跡も多数残っているようである。鉄製農具の普及により豊かな地を耕し、富を蓄積した有力豪族が出現していたのでああろう。

県道;14時36分
思いがけなく出合った古墳群を離れ、右手に北に延びる高縄山地からの支尾根を見遣りながら朝倉地区を県道162号に出る。
朝倉
今治平野の内陸部に位置。北は開けるが、他の三方は山地で囲まれている。山地は森林でおおわれている。東予市(現:西条市)に源流を発する頓田川の上流域にあたり、頓田川は朝倉地区を貫き、今治市東部を経て、燧灘(瀬戸内海)に注いでいる。
村名の由来は、周囲を山に囲まれ朝暗いから「あさくら」との説、斉明天皇が、百済への援軍を派遣する際に、この地に約滞在され、その後、九州の朝倉に兵を進められた故との説、斉明天皇が滞在の時、木で御殿を建てたが、建築様式が校倉づくりであったことから、「あぜくら」が「あさくら」に転訛したものなど諸説あり。なお、斉明という地名も残っており、何らかの形で斉明天皇にちなむものとみるのが適当といわれている(Wikipediaより)。

石打峠;14時43分
県道を進み、ほどなく支尾根の峠に。そのときは、車道が走る、ありふれた峠と通りすぎたのだが、帰宅後地図を見ると「石打峠」とある。なんとなく気になりチェックすると河野氏に関係するエピソードが登場した。
話はこういうことである;頼朝の平氏打倒に呼応して四面楚歌の中挙兵した第22代当主・通清であるが、備後より渡海し攻め寄せた平氏方の奴可(ぬか)入道西寂に「山の神古戦場」で敗れ、討死した。通清の子、河野家第23代当主・通信は奴可入道西寂を攻めこの朝倉の地まで追い詰める。追撃戦の途中、矢玉を切らした通信軍は近くを流れる頓田川の小石を礫に投げかけ、西寂軍は峠を越え、桜井郷長沢に逃れた。ために、この峠を「石打峠」と称するようである。

国道196に;14時51分
峠を下り長沢地区に出る。あとはひたすら国道に沿って歩き、50分ほどかけて瀬田薬師への分岐点に。時刻は15時38分になっていた。

世田薬師に戻る;15時53分
分岐点から20分弱あるき、世田薬師に。後さきを考えず笠松山から下ってしまったのだが、おおよそ2時間半ほど歩くことになった。また、途中で野々瀬古墳にも出合えたし、石打峠と言う河野氏ゆかりの地も出合えた都いう事で、良しとする。



河野氏ゆかりの地を辿る
興隆寺;愛媛県西条市丹原町古田1657

世田山城と同じく、西山興隆寺には別の機会に既に訪れていた。いつだったか丹原地区の利水史跡を辿った折、かつての西山興隆寺の門前町とも云われた古田(こた)の水路を探しに訪れ、その時に興隆寺にも足を運んだ。
河野氏ゆかりの地とは言いながら、河野通朝が眠るとの説があるお寺さまであるので、その時のメモをもとに簡単にまとめる;
興隆寺は河野家第27代当主・河野通盛(伊予西条 河野氏ゆかりの地散歩 そのⅣ)の項の中でメモした、南朝方忠臣・得能通綱の居城・常石城の少し南、急傾斜の扇状地を形成した新川支流が流れ出す谷合の山中にある。
御由流宜橋
県道151号を山に向かって急な坂道を登り駐車場に車を置き、沢に架かる風情のある橋を渡る。御由流宜橋(みりるぎ)橋の由来は弘法大師がこの橋のたもとで、「み仏の法のみ山の法の水 流れをも清く みゆるぎの橋」と詠んだことから。橋裏には梵語で経文が書かれていることから無明から光明への架け橋ともされる。





仁王門・本堂
仁王門をくぐり頼朝が本堂再建に折、この地で力尽きた牛を弔った牛石、千年杉の古株、寺男に化けて参拝人を助けた狸の夫婦が棲んでいたと伝わる楠の大木・お楠狸を見遣り、石垣を見ながら最後の石段を上り本堂にお参り。
Wikipediaによれば、「西山興隆寺(にしやまこうりゅうじ)は、真言宗醍醐派の別格本山。山号は仏法山。仏法山仏眼院興隆寺と称する。本尊は千手千眼観世音菩薩。紅葉が有名で、紅葉の名所である「西山」を付して「西山興隆寺」と呼ばれている。四国別格二十霊場第十番札所、四国三十六不動尊第八番札所、四国七福神(えびす)。
創建の経緯は定かでない。寺伝によれば、皇極天皇元年(642年)に空鉢上人によって創建されたといい、その後報恩大師、空海(弘法大師)が入山し、桓武天皇の勅願寺ともなったという。源頼朝、河野氏、歴代の松山藩主、小松藩主をはじめとする地元の有力者の尊崇を得て護持されてきた。現在では、真言宗醍醐派の別格本山となっている。
興隆寺は、多数の国・県・市指定文化財を有しているが、本堂 (寄棟造、銅板葺き。文中4年(1375年)の建立。寄棟造であるが、大棟が著しく短いため、宝形造のように見える)、宝篋印塔、銅鐘は重要文化財(国指定)に指定されている」とあった。



河野氏ゆかりの地を辿る■
道場寺;西条市河原津甲123

国道196号を走り西条市と今治市の境、国民休暇村のある大崎ヶ鼻の手前、車で走るときに、「カブトガニ繁殖地」といった大きな看板のある海岸の南が河原津地区。道場寺は国道196号の海側傍にある。
集落の中を通る道は車一台がギリギリ、といったもの。昔の集落のつくりが今に残っているのだろうか。その狭い道を進むと道場寺があった。天暦元年(947)に越智氏が再建した河原道場がその前身。道場寺と呼ばれる臨済宗のお寺さまとなっている。
河野通朝が眠ると記録にあるお寺さまのようだが、同じく通朝が眠ると別資料にある西山興隆寺共々、これといった案内はない。河野氏ゆかりの案内はなかったが、他の寺社でも見かけた小松藩主・一柳直卿の扁額の案内があった。
河原津の埋め立て

河野氏との「有るか無いか」といったお寺さまの話より、気になったのがお寺さまの海側に広がる埋立地。地域の南に大明神川、北に北川が流れこんでいる。ふたつの河川から流れ込む土砂によって堆積され形成された干潟をもとに、壬生川と同じく江戸の幕政時代に埋め立てたのかと思ったのだが、この地の埋め立て工事は昭和32年から開始されたものであった。
「えひめの記憶」に拠れば、元々の河原津の集落は「大明神川河口より燧灘の海岸線に沿って、海抜二・五mの浜堤が続く。河原津の集落はこの浜堤上に立地する細長い列状の集落であり、付近は遠浅の海岸で干潟が分布する。七〇年に一度は干拓が可能であるといわれるぐらいに土砂の堆積がすすむ干潟」とあった。
その干潟を、計画では大明神川から北川まで、北川から大崎ヶ鼻まで埋め立てる計画であったようだが、大明神川から北川までの「河原津新田」、北川から先の漁港のある「河原津」地区まで埋め立て、その先の計画は中止となったよう。その理由は、昭和四〇年東予国民休暇村に指定され、休養地、観光地的面から汀線の保存が配慮されたとのことだが、戦後の食糧不足の時期に立案した新田開発が時代の趨勢とともに食料増産の埋め立て計画が不要となった、ということである。結果的にはそのおかげで「カブトガニ」の生息地が保護されたことになるのだろうか。
因みに、埋め立てされた、漁港のある河原津の埋立地は漁業関係者との調整がつかず、現在も放置され、雑草が生い茂ったままになっていた。

なお、河野通朝ゆかりの地として北条市(現在の松山市)の大通寺が挙げられているが、北条地区の河野氏ゆかりの地は別の機会にメモすることにして、今回のメモを終える。

アーカイブ
伊予西条 河野氏ゆかりの地散歩 その




通有の元寇の変における活躍によって往時の勢を回復した河野氏であるが、通有没後、家督相続や嫡庶間の競合や対立により、一族間の抗争が激化。河野一族は、通有の後を継いだ通盛(第27代)の率いる惣領家と、土居通増や得能通綱らの率いる庶家とに分裂し、鎌倉末期から南北朝時代へと続く動乱のなかにまき込まれていくことになる。


(地図左上の四角の部分をクリックすると旧跡一覧が表示されます)


南北朝騒乱の時代

建武親政と河野一族の分裂

河野通盛(第27代);建武の中興から南北朝争乱期、武家方に与し、天皇方についた一族と分裂するも、最終的に武家方として威を張ることになる

鎌倉後期、天皇親政を目指す後醍醐天皇により、北条鎌倉幕府の倒幕運動・元弘の乱(1333年)が起こる。風早郡高縄山城(現北条市)に拠った河野宗家の通盛(第27代)は幕府側に与するも、一族の土居通増・得能通綱氏は天皇側につき、河野一族は分裂。土居・得能氏の活躍により、伊予は後醍醐方の有力地域となる。
天皇側に与した足利尊氏、新田義貞の力も大いに寄与し、結果は天皇側の勝利となり、天皇親政である建武の新政となる。鎌倉幕府は滅亡し、最後まで幕府に与した通盛は鎌倉に隠棲することになる。
足利尊氏の新政離反と河野通盛の復帰
建武の新政開始となると得能氏が河野の惣領となり伊予国守護に補任されたとある(『湯築城と伊予の中世』)。しかしながら、恩賞による武家方の冷遇などの世情を捉え、足利尊氏は新田義貞討伐を名目に天皇親政に反旗を翻す。世は宮方(のちの吉野朝側)と武家方(足利氏側)とに分かれて抗争を続け、南北の内乱期に入ることになる。
この機をとらえ、鎌倉に隠棲中の通盛は尊氏に謁見し、その傘下に加わる。尊氏は、通盛に対し河野氏の惣領職を承認し、建武4年(1337)伊予に戻った通盛は新田義貞に従軍中の土居・得能氏の不在もあり、南朝方を府中から掃討し伊予での勢力拡大を図る。
宮方の脇屋義助(新田義貞の弟)の伊予国府での病死、伊予の守護であり世田城主大舘氏明の世田城での戦死などが伊予での南朝優勢が崩れる「潮目」となったようだ。
足利尊氏も一度は新田勢に大敗し、九州に逃れるも、天皇親政に不満を抱く武家をまとめ、京に上り宮方に勝利する。尊氏は通盛に対して、鎌倉初期における通信時代の旧領の所有権を確認し、通盛は根拠地を河野郷から道後の湯築城(異説もある)に移して、足利方の中心勢力となる。


河野通盛(通治);(『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』より)
続柄;通茂の子
家督;応長元年(1311)‐(北)貞治2年(1363);正平18年
関係の社・寺・城:壬生川浦の浜(鷺の森)、観念寺(東予市)、大智寺(東予市)
墓や供養塔;善応寺(北条市)

足利尊氏中興政府に反すると、その配下で宮方の軍と戦う。帰郷すると、本拠を高縄山から道後に移し、湯築城を築いた。
正平7年(北)文和元年(1352)壬生川浦之浜を埋立て神社勧請し、記念に楠を植える(現在の鷺の森の大楠)。
観念寺文書(禁書)に名が残っている。貞治年間(1362から1367)大智寺(吉井)創建。

▽鷺の森神社の楠
市指定文化財 天然記念物
楠は大きいものでは樹高約25メートル、胸高幹周6.1メートル、樹齢600年余りである。多数群生していたが、国道の改修や台風の被害で半減した(現在は5本が保存指定)伊予國守護職河野通盛(通有の七男)が、この地に伊勢神宮を勧請したという。この地は、鷺の森城址である。





河野氏ゆかりの地を訪ねる

壬生川浦の浜(鷺の森);西条市壬生川20◆

JR壬生川駅の北東、国道196号・今治街道脇、大曲川が瀬戸に注ぐ少し北に鷺森神社の社叢があるが、そこが鷺の森。国道に面した西を除き、北は港の水路、東と南は堀の面影が残る水路で囲まれている。
国道から海側に折れ鳥居前に車を停める。鳥居脇に「鷺森城跡」と刻まれた石柱が建つ。境内に入ると『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』に記載のあった大きな楠が目に入る。参道には旧日本軍の砲弾(だろう?)が左右に並び立つ。
社殿にお参りし、境内に鷺森城跡の遺構でもないものかと彷徨うが、特に何があるわけでもない。本殿向かって右手の三穂神社脇に「藩政の頃年貢米庫倉の跡」と刻まれた石柱があった。

鷺の森は4つの歴史のレイヤーを示す。時系列で挙げると、最初が河野家第27代当主である河野通盛が壬生川浦之浜を埋立て、伊勢神宮を勧請した鷺森神社。楠に白鷺が群生したのが社名の由来と言う。
次はこの地に鷺森城を築いた第31代当主・河野通之。河野通之については後述する。3つ目が江戸期の松山藩。鷺森城跡に浦番所があった、という。「藩政の頃年貢米庫倉の跡」はその名残ではあろうか。そして最後が旧日本軍(?)の砲弾。戦後に敢えて砲弾のモニュメントを社に奉納するとも思えないにで、戦前のものだろか。それぞれの時代を示す石柱、樹木、社、モニュメントが残る。

それはともあれ、地図で鷺森神社の辺りを見ていると、如何にも人工的な水路に見える埋め立て地が気になった。如何なる経緯で現在の地形となったのかチェックすると藩政時代の当地の歴史が現れてきた。

藩政時代の鷺の森周辺
『えひめの記憶』を参考に私見を交えまとめると、「藩政以前、現在の鷺森神社の南を流れる大曲川には三津屋浦と呼ばれる湊があった。国道196号と予讃線の中間、厳島神社の辺りにあった、と言う。
また鷺森神社の北、現在は「堀川港」となっている水路は幕政時代以前には小島川(本川・古子川とも呼ぶ)と呼ばれる川であり、そこには壬生川浦という湊があった。
如何に周桑が豊かな穀倉地とは言いながら、こんな近くにふたつも湊・船寄場があったのは、行政区域が異なっていたため。鷺森神社を含む北側の壬生川湊は旧桑村郡壬生川村であり、三津屋湊は周布郡三津屋村に属していた。共に中世にはすでに船運の拠点となっていたようだ。

三津屋浦と壬生川浦の整備
で、幕政時代になると、三津屋浦については、周布の後背地である在町(農村に開いた交易・商業中心の地域;江戸時代の1644年、時の藩主が代官に命じて、池田・今井・願連寺の原所に新たに町を作り、商業地として免租し、他村より商家の移住を奨励して周布郡内における唯一の商業地として発展させた)として開いた丹原方面からのアプローチ道を整備。
一方、壬生川浦については新町を開き代官所を置き、壬生川村沿岸の干潟干拓と壬生川浦の堀川新港の造成を計画。現在の本河原町筋から鷺森城趾の前を通って大新田に直流していた小島川(本川・古子川とも呼ぶ)を五、六町北へ掘り替えし、今の新川へ流し、その下流両岸に大新田・北新田六三町を開拓した。 それとともに、小島川の鷺森前の廃川部分を浚せつして堀川港を造り(明歴三年(一六五七)―万治二年(一六五九)河口を大曲川につなぎ、その土砂で旧川筋を埋め立てて本河原町と新地を造り、三津屋浦へも新道で結んだ。
この結果、旧小島川河口左岸の船着場も廃止され、それに代わって堀川新港岸が栄え、港頭には壬生川浦番所が建てられ、鷺森城跡には松山藩各村の年貢米蔵所や会所が設けられ、また船問屋や、商人蔵、市場等が立ち並んだ」、とのことである。

大曲川と堀川港の水路の如何にも不自然な、人工的な地形の「ノイズ」は最近のことではなく、江戸の頃にその原型が出来上がっていた、ということであった。周桑平野は米・麦の大供給地であり、それゆえに旧桑村郡壬生川村の湊、周布郡三津屋村からの湊を整備していったのだろう。桑村には代官所、周布には丹原という在町を開いたということをみても、力の入れ具合がよくわかる。
丹生川から壬生川へ
壬生川は、元は数条の川が流れる一帯であったため、「入り川(ニュウガワ)」と呼ばれていたようではあるが、川の上流で水銀が採集されだし、水銀を焼くと赤くなることから、延喜の頃(901~923)には「丹生川」と改名された、と。 丹は朱砂を意味し、その鉱脈のあるところに丹生の名前があることが多い。 日本には丹(に・たん)のつく地名が各地にあるが、いずれも丹砂(タンシャ=硫化水銀)の産地であることを示している。中国の辰州が一大産地だったことで辰砂(シンシャ)とも呼ばれる水銀と硫黄の化合物で、朱砂や丹朱とも呼ばれる、とWIKIPEDIAにあった。
「壬生川」の初見は一四世紀ころで『伊予温故録』には文和元年(一三五三)に丹生川を壬生川と改めたとある。そのきっかけは文和元年の伊勢神宮の勧請。天照大御神の御妹を祀る「丹生川上の神社」の社号と文字が同じであるので、恐れ多いということで、「壬生川」に改名し。で、「丹」の字を「壬」の字に変えたのは、文和元年が「壬辰(ミズノエタツ)」の年であったため、「壬」の字に変えて「ニュウガワ」と読ませた、とか。なんだかわかりにくい。



河野氏ゆかりの地を訪ねる

観念寺(東予市);西条市上市1017◆

JR予讃線が川底を抜ける天井川で知られる大明神川が、山地から周桑平野に顔を出す辺り、左岸に丹之上集落とその北の山地のある大明神川の右岸に突き出た支尾根の東端山麓に観念寺がある。
車でこの臨済宗東福寺派のお寺さまに向かうと、竜宮城のような山門と、城のような山門左右の石垣が正面に見える。風格のある構えである。
山門手前の駐車場に石垣と山城の案内があった。

観念寺の山門と石垣 (現地案内板) 
「市指定文化財 有形文化財建造物  観念寺は延応(えんおう)2年の創建。山門は天保13年再建。唐様で竜宮門に似て風格がある。正面に寺位を示す「南海諸山」、楼上に雄大な眺望を示す「呑海楼」(どんかいろう)の扁額がある。 高石垣は、松山藩4代定直公が「郡普請」(こおりふしん)で築造した。粒の揃った流石を集め、面を小さく奥行きを深くした入念な「野面積」(のづらづみ)の妙技で、300年の天災地変に耐え、当時の姿を残し、美しい。 西条市教育委員会」。

象ヶ森城址(ぞうがもりじょうし)  
「市指定文化財 記念物史跡  城主は、風早、河野家18将の一人、櫛部肥後守兼久で、天正7年(1579)新居郡金子城主、金子元宅(もといえ)に攻略され、天正8年に討死する。
山城は、海抜185メートルで、庄内側から象、吉岡側がら蝙蝠(こうもり)の姿に見える。曲輪(くるわ)6、堀切(ほりきり)6、土塁(どるい)3、土橋(どばし)1、堀割(ほりわり)1、切岸(きりぎし)多く、横井戸など防御機構の規範を備えている。 西条市教育委員会」。

庄内は、大明神川左岸の旦之上地区に庄内小学校があるので、支尾根の北側、吉岡は山麓の南東に吉岡小学校があるので南側から見たものだろう。
重層の入母屋造りの山門を潜り境内に。本堂左手に本堂、鐘楼堂、仏殿の案内

観念寺の本堂及び鐘楼堂
「市指定文化財 有形文化財建造物  現在の本堂は、文化8年(1811年)に再建されたもので、正面入口の桟唐戸(さんからど)や正面と側面の弓形格子の欄間や花頭窓を持った唐様式の建物である。天井板には一枚一枚草花・鳥獣・人物の絵が描かれている。
鐘楼堂は、本堂と書院とを結ぶところに位置している。楼の朱色に塗られた桟唐戸と柱や欄干が一層唐様式の感を深めている。 西条市教育委員会」。


観念寺仏殿文化八年上梁棟札(じょうりょうとうさつ)
「市指定文化財 考古資料   観念寺仏殿文化八年上梁棟札は、総高151.2センチ、肩高149.1センチ、上・下幅とも24.2センチ、厚さ2.7センチ、頭部の形状は尖頭で、仕上げは台鉋(だいがんな)、材質は桧である。
棟札には、当時の住職太髄文可(たいずいぶんか)和尚自筆の観念寺改築の状況が表面に、裏面には、同筆による観念寺沿革の概要や再建に至る経緯等が鮮明に記されている 西条市教育委員会」。

本堂に向かって右手の鐘楼堂の前に「観念寺文書」の案内がある。

文化財  観念寺文書 
「観念寺は、文永年間(1264年~1274年)に越智盛氏の創建にかかり、元弘2年(1332)鉄牛和尚の開基による新居氏の氏寺で、昔は末寺三十ヶ所があって、松山久松候の祈願寺でもあった。
この寺には、足利尊氏の禁制書など同寺の創立から江戸時代初期におよぶ古文書(教書、禁制、置文、下状、譲渡状)102通があり、絹本掛軸に装幀14軸に納められ保存されていて、伊予の豪族神野・越智・新居氏の盛衰を知る必見の資料となっている。
境内には単層入母屋造りの雄大な本堂があり、古来「観念寺の門を見ずして結構をいうな」といわれた名建築の楼門もある。 又、裏山の三基の宝筺印塔は完全に保存された鎌倉時代の素晴らしい石造文化財である。山頂には中世の城象ヶ森城跡があって、近くの山中には片山古墳もある。 西条市教育委員会  観念寺」とある。

『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』に河野通盛ゆかりの社・寺・城、とあったため観念寺は通盛開基の寺かとも思ったのだが、どうも観念寺文書に通盛に関する記載がある、といったことのようだ。「えひめの記憶」でチェックすると、貞治元年(1362)の観念寺文書に「河野通盛、観念寺に禁制を掲げる」といった記載が見つかった。

越智氏?新居氏?
足利尊氏に関する記載は見つからなかったが、案内に越智氏創建とあるように、越智氏からの寄進に関する記載は多数見つかった。それはともあれ、観念寺創建の越智盛氏を新居盛氏と記載する資料もある。観念寺創建は新居一族による、との記述もある。越智?新居?少々混乱。
ちょっと整理すると、越智氏は伊予の豪族がその祖として挙げる古代の豪族。一族で武士団化したものもあるだろうが、河野氏が登場する頃に威を張るといった勢力としては登場しない。
一方新居氏は、その祖を他の豪族同様、越智氏とし、その氏族には当初越智を名乗る支族もある、という。Wikipedia1に拠れば、新居氏とは「古代から中世にかけての伊予国(愛媛県)の豪族。古代の豪族越智(おち)氏の流れをくむと伝えられる。平安時代の中期から台頭し,後期には東・中予地方に大きな勢力を有した。新居郡(新居浜市,西条市)を中心にして周敷(しゆふ∥すふ)郡(東予市,周桑郡),桑村郡(東予市),越智郡(今治市とその周辺),伊予郡(伊予市とその周辺)等に進出し,風早郡(北条市)からおこった河野氏と勢力を競った。平安末期には平家との関係が深くなり,その家人化していた」とある。
「コトバンク」には「源平争乱時には,源氏にくみした河野氏と戦って敗れ,乱後は河野氏に服属,承久の乱では盛氏が河野通信軍に属して京方として戦った。また盛氏は桑村郡に観念寺を建立し(建立時期は延応年間(1239‐40)とも文永年間(1264‐75)とも),以後同寺が一族の菩提寺となった」との記述もある。 どうも、観念寺のコンテキストに登場する越智氏とは新居氏と読み替えてもいいような気がしてきた。

本堂裏にある開山堂に向かう。その途中に宝筐印塔が建つ。

観念寺の宝筐印塔(ほうきょういんとう)
「市指定文化財 有形文化財石造美術  宝筐印塔とは、塔中に宝筐印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)を納めた塔とされている。
観念寺には三基並んで建立されており中央の台座は複弁反花(かえりばな)を刻み、両側の二基は二段の段形で、共に側面に格狭間(こうさま)を入れている。 三基とも塔身に種子梵字(しゅじぼんじ)の刻入はない。何人(なにひと)がどのような発願(ほつがん)で何時建立したかは記録がなく定かでないが、鎌倉時代の作で、石造文化財として貴重である。西条市教育委員会」とある。
宝筐印塔の背後に石柱が建ち、「新居盛氏」の墓と刻まれていた。上に観念寺の開基は越智を新居と読み替えてもいいか、とメモしたが、この石柱をみるにつけ開基は越智氏と言うより、越智氏をその祖と称した新居氏によるものと思える。

本堂裏の山道を少し上ると開山堂がある。

観念寺関山堂
 「市指定文化財 建造物  関山堂の創立年月日は不詳であるが観念寺誌によると寛永八年(一六三一)の再建をはじめ、その後幾度もの修復を重ねて、文政十年(一八二七)に再建の際、屋根は瓦に葺き替えられて現在に至る。 内部の仏壇上に花園春澤(はなぞのしゅんたく)筆「機関」(きかん)の額を掲げ、仏壇には三基の祖師像(鉄牛和尚像 南溟(なんめい)和尚像他)が安置され、その真下に三基の石塔(観念寺・黄竜庵(こうりゅうあん)各歴代の住職)を祀る。 このような形式を持つ開山堂は他にあまり例をみない珍しい建造物である。 西条市教育委員会」とあった。


鉄牛和尚は中興開山の僧。越智郡か桑村郡の菅氏の一族と伝わる。京で臨済宗東福寺での修行の後、元に渡り10年滞在し、正慶元年(1332)帰国の後、ほどなく観念寺に迎えられ臨済宗の名刹としての基礎を築いた。南溟和尚は鉄牛入山以前の僧と。新居(越智)盛氏開基から新居氏3代、または4代後、建武2年(1335)以前に短期間住持であったようだ。

開山堂から山道をしばらく進むが、道標も見当たらなかったため引き返す。帰宅後チェックすると、中世山城・象ヶ森城(吉岡城)址は山頂にあり、また、北東に伸びる尾根上には、5世紀中頃の豪族の墓ではないかといわれる片山古墳があるとのこと。銅鏃が発掘されたとあった。

象ヶ森城
築城年代は不明。南北朝時代に重見通宗によって築かれたと伝わる。重見氏は得能氏の一族で、重見氏の通宗が祖とも。 その後、城は案内にあった櫛部氏(櫛戸とも)の居城となり、櫛部肥後守兼久の時、天正7年(1579年)金子城主金子備後守元宅に後略される。防戦かなわず、河之内村に逃れ、後に近田ヶ原城主近田三郎経治を頼るも、天正8年(1580年)金子元宅の近田ヶ原城攻撃により近田氏と共に櫛部氏は自刃して果てた。

河野氏との繋がり具合はほどほどではあったが、風格のあるお寺さまに出合え、気持ちも嬉しく、次のゆかりの地大智寺に向かう。



河野氏ゆかりの地を訪ねる

大智寺(東予市):西条市石田844

県道144号が中山川に架かる吉田橋を渡る北詰を左に折れ、県道149号に乗り換えてすぐ、中山川の堤から右に入る道に入り、右手に結構大きな池を見遣りながら進み、池が切れるとほどなく大智寺がある。臨済宗東福寺派のお寺さま。 境内に入り本堂にお参り。『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』に、「貞治年間(1362から1367)大智寺(吉井)創建」とあったので、何らかの案内でもないものかと境内を彷徨うも、それらしき案内は見当たらない。
『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』には、吉井の大智寺とあり、どこか別のところだろうかとも思ったのだが、吉井はこの辺りの吉田郷と井出郷(小松の古名)を合わせたものであるので、間違いはなさそう。しかし、河野氏の「名残」は何も見当たらなかった。
帰宅後、なんらかの河野氏の名残でもないものかとチェックすると、河野氏ではなく武田氏一族の墓所がある、とあった。甲斐武田氏で有名な武田氏が安芸(広島)にあり、その一族が伊予に移り伊予武田氏を興したとのこと。
伊予武田氏
境内墓所に「武田宗家朝倉龍門山城主「武田近江守信勝」天正10年12月8日落城 自刀 難をのがれ幼児、家来に背負われ来住 石田武田家大祖武田源三尉郎信猶(後略)」と刻まれた一族のお墓があるようだ。
伊予武田氏がこの石田の地に移り住むまでの経緯をメモする。武田氏は甲斐源氏の流れ。源平争乱期に頼朝に与し武功を挙げ、甲斐守護職となり、甲斐武田氏が甲斐源氏の嫡流となる。
その後、承久の変などで活躍し安芸守護職となり、時を経て甲斐武田から分かれできたのが安芸武田氏。その安芸武田家が大内氏に敗れ、一族が伊予に逃れ、伊予武田氏の祖となる。越智郡玉川の里(龍岡)に移り住んだ伊予武田家は河野家に属し、南北朝の戦い・長曽我部の四国統一・九州戸次川の戦いに参戦するなど活躍するも、第7代信勝(龍門山城主;今治市朝倉龍門山(標高439m)の山頂にある)の時、来島城主「来島通総」の襲撃を受け闘死・落城。5男の信猶がこの石田に逃れ住んだとのことである。
因みに、信勝の兄は、既に訪れた文台城の城主とある。兄と共に、来島通総・秀吉勢と戦ったのではあろう。

追記;伊予武田家系の方から、「丹原町古田新出に、石田に逃げ延びた 武田信猶の分家である武田信盛が開墾した地があり、宗家の住居や顕彰碑が残っております」とのコメントを頂いた。
先月田舎に戻った折、ご案内頂いた顕彰碑を訪れた。
大智寺に一族の墓所があった。顕彰碑を探し大智寺近くを彷徨う。近くにはみつからない。偶然、大智寺から北東に少し歩いた、西条市石田545の辺りに武田源三郎尉信猶墓が祀られていた。
が、ご案内頂いた信勝公の顕彰碑が見つからない。この辺りに住所は「石田」「新出」とあるので間違いないのだが?と、あれ?ご案内頂いたのは「石田」ではなく「古田新出」。
地図で古田新出をチェック。国土地理院の標準地図に今治小松自動車道の東予丹原ICの北、新川の右岸に古田新出がある。武田信盛公頌徳碑と刻まれた石碑が古田新出集会所(西条市丹原末古田35-4)傍に建っていた。
5 ◆石田
大智寺のある石田は中山川の氾濫原に残る微高地集落である。石田は「手漉き和紙」で知られていた、という。中山川の伏流水が湧き出る豊かな水に恵まれてのことだろう。堤防から大智寺に向かう途中に見えた大きな池も「ひょうたん池」と呼ばれる中山川の伏流水の湧水池であった。大智寺には石田和紙の先覚者森田重「頌功碑(しょうこうひ)」が建てられていたようだ。最盛期は50軒を超えたという紙漉き場も現在は1軒残るのみ、と言う。

今まで東予市(一部丹原)、現在の西条市西部に残る河野氏ゆかりの地を時系列で巡ってきた。ために、場所が北へ南へ、西へ東へと飛び散っている。ここで周桑平野の地形と、それにともない開かれた集落を整理しておく。

周桑平野の地形と集落
「えひめの記憶」をもとにまとめると、「周桑平野は石鎚山脈と高縄山地のなす狭隘部の湯谷口を頂点とし、燧灘に向かって扇形に傾斜する沖積平野で、山麓部には扇状地が発達し、沿岸部は広い遠浅海岸となっている。古来より米・麦の大供給地であった。
江戸の藩政時代に、桑村郡二六村と周布郡二四村が松山藩領で、別に周布郡一一村は西条藩領を経て小松藩領として独立し、近代には松山市・西条市・今治市に囲まれる周桑郡となり、そのうちの壬生川町が壬生川市、東予市となり、現在は西条市となっている。

周桑の農業集落
周桑郡の集落はその地形、地理上の立地条件により、農業集落と商業集落に大別される。西部の山麓一帯は大明神川・新川・中山川支流関屋川の形成する扉状地が発達しており、ほぼ五〇mの等高線をはさんで扇状地集落が並んでおり、北から旦之上・上市・安用・徳能・古田・長野・石経・来見などがそれにあたる。その中でも、石経や来見は扇央部に近い乏水地帯で、むしろ松山よりの金毘羅街道の宿場集落としの性格が強い。
これらに対し一五m等高線附近は地下水も豊富で国安・新市・安出などの大規模集落を成立させると共に、国安には全国的に知られる手漉和紙農村工業を立地させた。また、これらの平野の中央部へは山麓集落からの新田開拓による分村が多く行われ、安用―安出、徳能―徳能出作、古田―古田新田などがそれにあたる。
中山川氾濫原にも玉之江・石田・吉田などの微高地性集落や、新出などの新田集落がみられる。低湿地の農村集落としては寛永―元禄期にかけての松山藩新田開発による大新田や北条新田などに列状の堤防集落が形成されている。
商業集落
周桑郡には古くは南海道官道に沿う周敷駅(東予市周布)や、松山よりの金毘羅街道に沿う大頭・小松、今治―西条街道に沿う三芳・国安・壬生川・三津屋、松山道に沿う丹原など、宿場機能や商業機能を備えた集落が形成されている。その中で小松は小松藩陣屋町として、丹原・吉岡新町は新たに造られた松山藩在町(在町とは商業活動を目して農村地帯につくられた集落)として発達したものである。また、三津屋や壬生川は松山藩の港市として栄えた。藩政時代には代官所(新町・丹原)や浦番所(壬生川)も置かれ、豊かな米・麦の輸送の管理に努めた。




得能通綱;河野一族。惣領家と別れ南朝の忠臣として活躍する

『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』には河野通盛に続き、得能通綱の項が記載されていた。
南北朝の頃、武家方についた河野惣領家と分かれ、土居通増氏や忽那氏・祝氏とともに宮方として長門探題・北条時直を破り、伊予を南朝の一大拠点とした武将である。
得能氏は宮方の新田勢に加わり、宮方から離れた足利尊氏の軍勢と湊川で敗れ、比叡山に逃れた後醍醐天皇に従い奮戦を続け、土居氏は北陸に逃れる途中、また得能氏は越前にて討死。伊予を遠く離れた地でむなしくなった。



得能通綱:(『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』より)

得能氏は通信と新居氏の女の間に生まれた通俊が桑村郡得能に居住したのに始まる。幕府軍の通盛と対決した元弘の変(1331-1333)では、反幕府軍として挙兵、北条軍を破る。新田義貞の配下に属して活動し幕府軍と戦う。延元2年金ヶ崎城(福井県)にて戦死。常石山に忠魂碑。
関係の社・寺・城;常石山(得能城)(丹原町)
墓や供養塔;常石城(丹原町)西山幼稚園北(丹原町)





河野氏ゆかりの地を訪ねる

常石山城

得能通綱公の忠魂碑があるという常石山に向かう。地図をチェックすると丹原町得能にある。壬生川浦、鷺の森の箇所でメモした新川は常石山の南の山地にその源を発し、常石山の南裾を流れ、丹生川裏に向かう。








常石山への案内の木標

常石山への山道は、等高線が北西に切り込んだ最奥部まではあるのだが、その先、山頂迄の道は表示されていない。所詮、標高163mほどの山である。道がなければ藪を這い上がってもいいか、といった塩梅で、得能地区を進み、成り行きで常石山方向に向かうと「常石山 直進」とある。
どこまで進めるかわからないため、道が山間部に入る手前で車をデポ。



「得能公忠魂碑」の木標
車のデポし、たところから、等高線が北西に切り込んだ尾根の間の道を10分弱すすむと、道端に「得能公忠魂碑左」の木標。しっかりした道でもなく、前途を少々危ぶむが、数分で尾根に向かう整備された道に出る。








常石山
道を上り、尾根道を先端に向かって進む。5分程度で尾根の先端部に到着。車のデポ地からおおよそ20分強で常石山に到着。







忠魂碑
尾根の先端部は平坦地となり開けている。そこに大きな石碑が建つ。案内にあった「得能公忠魂碑」である。碑表には「贈正四位得能通綱忠魂碑 陸軍大将 秋山好古書」と刻まれる。日露戦争で騎兵を率い活躍し、退役後故郷に戻り北豫中学(現在の松山南校)の校長をしていた秋山好古陸軍大将の揮毫によるものである。碑裏には上でメモしたように、宮方の忠臣として活躍した得能通綱の事蹟が刻まれている。
この忠魂碑は昭和天皇の御大典(昭和3年)の記念事業のひとつとして企画され、建立には、得能の老若男女が総出で、小学校の綱引きの綱を石に巻き、コロをしいて山頂まで引き上げたという。昭和5年に序幕式が執り行われた。秋山好古元陸軍大将も列席した。高さ2m・横幅 1.33mという石碑であった。



  ■河野氏ゆかりの地を訪ねる

得能通綱・土居通増供養塔

常石山を下り、丹原町古田の徳田小学校と保育園の間(小冊子の西山幼稚園北(丹原町)のこと)に得能通綱・土居通増供養塔が建つ。先ほどの常石山での得能通綱の忠魂碑にもあるように、得能・土居氏は南朝方が威を下げるなか、一貫して宮方への忠勤を励んだようであり、『太平記』の中にも、「就中世の危を見て弥命を軽せむ官軍を数ふるに、先つ上野国に新田左中将義貞の次男左兵衛佐義興(中略)、四国には土居得能(中略)皆義心金石の如くにして一度も変せぬ者ともなり」と描かれている。
土居氏
伊予国の豪族河野氏の支族。元寇の乱に武功をたてた河野通有の弟孫九郎通成が、伊予国久米郡石井郷南土居に移り、土居氏を称する。
供養塔にあった土居通増は通成の子。後醍醐天皇の宮方に与し、河野氏の同族得能氏、また忽那氏と共に武家方の、宇都宮氏、長門探醍北条時直を撃退、後醍醐天皇の伯耆よりの帰着を兵庫に迎える。
伊予を宮方の重要拠点とするに貢献し、建武の中興が成ると、伊予権介となり、風早郡に反旗をあげた赤橋重時を倒している。
足利尊氏の宮方からの離反により、建武の新政が破れ、河野通盛が足利尊氏から河野氏の惣領職を認められ、帰国して伊予の南朝方を圧した頃は、前述の如く通増は得能氏らと共に新田義貞軍に属して京都にあり、神戸・湊川の合戦、後醍醐天皇の籠る比叡山での攻防戦に義貞に従い足利尊氏と戦うも、利あらず、再起をかけての北陸への退却戦の途中敗死する。
その後も伊予国南朝方として重きをなしたが、一族の惣領が武家方の細川勢と戦い戦死。以後、土居氏は衰退してゆく。
なお、河野通盛ゆかりの地として北条の善応寺が挙げられているが、後日、善応寺の前身であった河野氏の館、それを囲む高穴城とか雄甲・雌甲城をまとめて訪ねることにする。



頼朝の平氏打倒の挙兵に呼応し、四面楚歌の中通清は敗死するも、その子通信の武功により鎌倉御家人としての確固たる地位を築いた河野氏であるが、承久の変において後鳥羽上皇に与し敗れ、河野氏は没落。一族の内、ひとり幕府側に与した通久によって河野家の命脈は保たれる、といった状況。
この衰退した河野家を復権させたのが河野通有。元寇の変で武功を立て盛時の威を取り戻す



(左上の四角部分をクリックすると旧跡一覧が表示されます)


鎌倉時代;元寇での武勲で河野氏復権

弘安の変における通有の武功により、盛時の河野氏の威が復活


河野通有(第26代);元寇の変での活躍と河野家の復権

承久の変による河野家の衰退といった状況が大きく変わったのが「元寇」。通継の後、家督争いの真っ最中に河野家の家督を継いだ通有(通久家を継いだ通久の甥)の弘安の役での武功により、河野氏は再び伊予での勢力を取り戻す。恩賞により与えられた領地は正確な記録は残らないが、九州の備前の地のほか、「かなり多い」と推測されている。
上に恩賞により九州の地を領したとメモしたが、『湯築城と伊予の中世』には、元寇の変以前から通有は肥後国下久具村など九州に領地を既に持っていたとする。河野=伊予と考えていたのだが、河野通有と九州の繋がりは強い。伊予の豪族とは言いながら、御家人として在鎌倉、在京御家人として各地を転戦した河野一族がその恩賞として九州に領地を既に持っていたようである。
同書では、恩賞で得たとされる肥前国神崎荘内小崎郷も、元寇以前から有していた筑前国弥富郷との替地と記載する。肥前への替地は蒙古来襲に備える水軍結集の根拠地であり、幕府は河野水軍を瀬戸の海賊鎮圧も含めた海防の中核と考えていた、とのこと。
九州・鎮西に居を構えていた通有が、伊予に戻り、土居通増とともに海賊警護の任に従ったのは、元応3年(1321)とのことである。
ついでのことながら、通信の孫である時宗の開祖一遍が仏門に入ったのは河野氏の家督相続を巡る紛争の頃、と言う。一族間の家督争いから避けるため、といった記事もあった(『湯築城と伊予の中世』)。



▼河野通有(『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』より)▼

元の襲来した文永の役(1274)、弘安の役(1281)で活躍した。特に弘安の役では、石塁を背にして陣をはったので、「河野の後築地」と呼んで豪胆さに驚嘆。戦いのあと、戦没者供養のため周布郡北条郷に長福寺を建立し菩提をとむらった。
当寺は、北と西に堀があり、土塀には△や○矢狭間がある。浄明寺文書に元寇のとき通有の活躍の記述がある。
続柄:通継の子
家督:応長元年まで
関係の社・寺・城:長福寺(東予市北条)、浄明寺(丹原町)
墓や供養塔;長福寺



河野氏ゆかりの地を訪ねる

長福寺;愛媛県西条市北条655◆

JR壬生川駅の南西、多賀小学校の少し南西にある臨済宗妙心寺派のお寺さま。『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』に記されるように、塀には○や△の矢狭間が残る。北と西の堀は用水路となっていた。
境内に入る。品のいい風情。本堂も風格がある。山門も小振りながら堂々としている。本堂前の藤棚は季節の頃には境内を美しく飾るのであろう。

河野通有供養塔
山門を入ると本堂に向かって右手に河野通有の供養塔とされる石塔がある。案内には
「市指定文化財 石造美術 長福寺宝篋印塔
長福寺宝篋印塔は寺伝によると、元寇で活躍した鎌倉時代の武将、河野通有の供養塔だという。
材質は花崗岩で相輪、笠、塔身、基台およびその下の二段の敷石から構成されており、全高約238センチ、基台より相輪までは約188センチである。制作年代は不明であるが、その様式から南北朝時代とも推定される。
塔身部分のみ赤いことや、下部2段の敷石が昭和33年に加えられていることなど留意すべき点はあるが、保存状態は良好で全体に均整がとれており、工芸的にも優れた貴重な歴史的遺産である。 西条市教育委員会」とあった。
宝篋印塔(ほうきょういんとう)とは、墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種。説明に塔身部分が「赤」とあるが、薄い茶色といったところだろう。

境内には「長福寺開基河野通有卿」と刻まれた比較的新しい石碑がある。概略をメモすると、「越智氏を祖とする河野氏の第48代河野通有は、元寇の役でその勇猛ぶりで名を高め、共に戦い討死した叔父の通時など敵味方を弔うため自らの館があったこの地を寺とし長福寺を開基した」とある。

伯父通時と共に戦う?
この記事で気になったことがふたつ。叔父通時と共に戦ったという箇所と、第48代という記述。上で通有が家督を継いだときは一族間の家督争いの真っ最中。通継>通有に対抗する一派の代表が通時とも聞く。通時は通継が家督を継いだ第24代通久の長子との説もあり(通継は次子との説も)、そのことが家督相続争いの火種ではあったのだろう。
で、その敵対する通有と通時が共に戦う?幕命であろうからそれはそれでいいとして、通有の元寇の役での奮闘の因として、通時より武功をたて、家督相続の正当性を幕府にアピールすることにあったとの説もあった(『湯築城と中世の伊予』)。なんとなく面白い。

第48代?
また、石碑にあった48代とは?チェックすると、通有を第26代とする系図より更に祖を遡った「越智宿禰姓 河野氏系図」に拠るもの。越智姓は孝靈天皇の第三皇子、彦狭嶋命より出るとする系図である。祖を古き貴種に求めるのは世の習い。とはいえ、鎌倉以前の河野氏に関する記録は特にないのは前述の通りではある。
なお、孝靈天皇からはじまる系図については、境内にあった「予州記・河野系図」にも記されてあった。

「予州記・河野系図」
「予州記」は中世伊予に栄えた河野氏が自らの来歴を記した文書であるが、現在原本は確認されておらず、伝本が残されているのみである。長福寺所蔵のものは、その中でも「長福寺本」と呼ばれる、最も広く一般に流布しているもので。長福寺中興開山であり、河野家の地を引く南明禅師の手によって江戸時代中期に書き写されたと考えられる。
「河野系図」は第7代孝霊天皇から河野家最後の当主である通直に至る、河野氏歴代を記す4m余りの系図で、これも南明禅師によって、「予州記」と同時期に作られたと推測される。江戸時代初期に作られたと推測される。 「予州記」については、資料批判の必要はあるものの、「河野系図」とともに、中世の伊予、河野氏を研究する上で貴重な資料である。 西条市教育委員会」とあった。

なお、案内にある南明禅師は、河野家没落後、長福寺を再興し、その際に元は海印山長福寺と号した臨済宗東福寺派の当寺を、山号を東海山に改め、臨済宗妙心寺派に転じた。

境内には、通久ゆかりの長敬寺周辺のメモに記した周敷神社と同じく「一柳直卿の扁額」と「長福寺梵鐘」の案内があった。
「一柳直卿の扁額」は当時の三百諸侯中第一の能書家で、将軍家に習字の手本を治めたほどの小松藩三代藩主であった一柳直卿の手によるもの。「長福寺梵鐘」は県指定文化財であり、明徳年間、織田信長の息女が大徳寺の末寺・守禅庵に寄進したものを、明治に守禅庵が別寺に合寺された時、譲り受けたものであり、朝鮮の鐘を模した流麗な鐘との案内があった。



大気味神社
長福寺に向かう途中、丹生川駅の南を東西に通る県道48号から、予讃線の踏切の少し東手前で南に分岐する県道13号に入り、崩口川に架かる「つるおか橋」を渡ってすぐのところに社があり、大気味神社とあった。
名前に惹かれてちょっと寄り道する。散歩の折々神社仏閣に立ち寄るが、はじめて聞く名前である。お参りを済ませ、境内を彷徨うと「大気味神社と喜左衛門狸」の案内があった。
概要をメモすると「神社の創建は宝永2年(1705年)。この地方一帯が虫害や風水害によって飢饉となった時、村人が神に助けを求めて創建したとされる。 祭神は大気都姫神、大国主、大年神、御年神、若年神、猿田彦神。また、境内の老大木には喜左衛門という大狸が棲み、その神通力は上方まで知られていた。怨霊の祟りを鎮めるようにもなった喜左衛門は大気味神社の眷属(神様の使い)として祀られることになり、喜野明神(喜の宮)と呼ばれた。
喜左衛門狸の伝説は数多く残され、合田正良「伊予路の伝説」や井上ひさし「腹鼓記(新潮社)」などに取り上げられている。
社の名前は、大気都比売(おおげつひめ)神または。その祭神名に由来するように思える「喜野明神(喜の宮)などから命名されたものだろうか。同名の社はチェックした限りでは、伊予の久万に小祠として祀られる他は見当たらなかった。

□大気都比売神
祭神の大気都比売神は食物の神。飢饉に際し祀られたとされるので、筋は通っているのだが、大気都比売神を祭神とするのは伊予のふたつの社と阿波・徳島のいくつかの社以外に見当たらない。大気都比売神は『古事記』において、阿波国名として登場するわけで、徳島で祀られるのは当然だろうが、それにしても少ない。
大気都比売神は食物の神とされるが、その神話での話はあまり「美しく」ない。高天原を追放されたスサノオは食物を求めるに、大気都比売神はどんどん食物を与える。不審に思ったスサノオは大気都比売神が体のあらゆる「穴」から食物を作り出していた。怒ったスサノオは大気都比売神を誅する。と、大気都比売神の頭から「蚕」、目から「稲」、耳から「栗」、鼻から「小豆」、陰部から「麦」、尻から「大豆」が生まれた(Wikipedia)とある。

殺害されものから栽培植物が生まれるというのは世界各国でよくある話ではあるようだが、なんとなく。。。それよりも、ということで同じ食物の神であるお稲荷さんが宇迦之御魂神とよく似た神であり、お稲荷さんが盛んに祀られた故の、大気都比売神の知名度の低さであろうか。単なる妄想。根拠なし(因みに、『日本書紀』では「保食神(うけもちの神)」として登場する)。

喜左衛門狸
大気都比売神の話が長くなったが、喜左衛門狸。四国には狸の伝説が多いが、喜左衛門狸は、屋島の禿狸、子女郎狸とともに四国三大狸とも云われる。案内には怨霊を鎮めた故の喜野明神とあるが、悪戯が過ぎたため村民に焼き殺されたが、その後不審火が頻発し、喜左衛門狸の祟りであると、喜野明神として祀ったとの話もある。また、このお狸さん前述の長福寺の南明和尚と仲良しで、小僧に化けてお供していた、といった話も残る。
子供の頃から聞いている子女郎狸など、伊予の狸伝説の跡を辿るのも面白そう。



河野氏ゆかりの地を訪ねる

浄明寺:愛媛県西条市丹原町田野上方1467

『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』の河野通有の項に、「浄明寺文書に元寇のとき通有の活躍の記述がある」とされるお寺さまである。
今治小松自動車道の伊予丹原IC辺りを南東に下る県道48号が緩やかにS字を描く田野上方地区にある。
真言宗のお寺さま。広い駐車場があったが、このお寺様では定期的コンサートなどが催されているようであり、そのお客様の便宜を図ったものだろう。 山門を潜り、本堂にお参り。境内には鳥居のある社、さらには綾延八幡本地堂などもある。明治の神仏分離令以前は綾延姫命をお祀りしていたとのこと。近くに綾延神社がある。その別当寺であったものが、明治の神仏分離令に伴い、寺の場所をこの地に移したのだろうか。現在の本尊は不動明王とのことではある。八幡様の本地は阿弥陀如来というから本地堂には阿弥陀如来が祀られているのだろう。
で、本題の河野氏との「ゆかり」であるが、浄明寺文書に通有の元寇での活躍が記されている、ということであり、境内に特段河野氏に関するものは見当たらなかった。


▽綾延八幡;西条市丹原町田野上方1548
浄明寺の東隣りにある綾延八幡に向かう。落ち着いた風格のある社である。社の名は「綾延神社」と刻まれる。社殿にお参り。
境内にあった「平成大造営記念碑」に刻まれた説明の由緒部を抜粋すると「総鎮守 綾延神社 当社は周敷郡田野郷の総鎮守にして国史に墓邊神と所載あり。近古に衰徴せしを貞享元禄年中に松山藩周敷郡代官所の肝煎りにより改築す 現今の社殿これなり。その後老朽著しく、平成の御代に社殿悉く修復造営し、田野郷六千石の本社に相応しき景観となる」とあった。


墓邊神?
「国史に墓邊神と所載あり」とは、「えひめの記憶」の伊予の古社の項に、「延喜式神名帳」に記載漏れとなった古社およびその後にできた神社を、式内社に対して式外社と称する。このうち、『日本書紀』以下『三代実録』までの六国史に、祈請・奉幣・授位などのことに関連して神名の記される神社を「国史見在社」とか 「国史現在社」といい、古来より式内社に準ずる由緒ある社として認識されてきた」とあり、続けて「国史に見て詳ならぬ神の御名を左に付録す」として「墓辺神」が記載されている。
で、「墓邊神」とは?チェックすると、この社の社伝に、「西条市今在家の黒須賀の浜に漂着した綾延姫命は、旧家汐崎氏 に奉じられて田野郷に移り住み綾織の技を伝えた。里人は生前の賢徳を慕って霊亀二年(716)墓辺に祀を建設し、お祀りしたと 伝えられています」とあるとのこと。姫は墓邊神として祀られ、社は「墓邊社(はかべのやしろ)」と称されたのだろう。
平安時代には、朝廷より 「従五位下」の神階を授与されたことが「日本三大実録」に書かれてあり、その後、室町時代には宇佐八幡の分霊を勧請し「綾延八幡宮」となる。
その後、明治維新に至るまで松山藩の祈願社の一つとして篤く崇敬され、明治12年(1879)に綾延神社となった。神仏分離までは別当寺は長福寺であった。


なお、「えひめの記憶」に「墓辺神については、綾延神社文書の中に「田野郷内墓辺社井八幡宮社領等事、言彼言是任先例不可相違、仍為後証之状如件」という、応永二五年(一四一八)の河野通久安堵状がみられる」とある。意味はよく分からないが、結果的に、河野通久ゆかりの社でもあった。但し、この場合の通久は前述の第24代当主の「通久」ではなく、時代を下った第39代当主の河野通久と思われる。

国広館跡
県道48号を左に折れ、長福寺に向かう田圃の中を通る道脇に石碑があった。一時停止して石碑をみると、「国広館跡」とあり「鎮守府将軍藤原秀郷の子孫下河辺行平は、源頼朝の功臣であって、その子朝昌もまた頼朝に仕え弓の名人であった。
石橋山の戦功によって伊勢之守に任せられ桑名城主となり、後に伊予の国に来たり、地頭職となり、田野郷をその本拠とした。その館跡がこの中屋敷一帯の地である。
時に頷下に良馬を産したので朝昌之を頼朝に献上した。寿永3年(1184)宇治川の先陣争いで梶原景季が乗った名馬「磨墨(するすみ)」がこれである。 国広館は、南北朝の世、細川頼春・頼之両度の来襲の兵火にかかって焼失。 それ以後は河野氏と共に代々郷士として守備開発に尽くした。
「磨墨」の母馬「紅梅鹿毛(こばかげ)」は、ここに併せて祀っている」とあった。
下河辺氏?磨墨?
国広館とは馬を育てた館の主が国広氏ということだろうが、それ以外の案内は???下河辺氏も、磨墨も何故にこの地に登場するのだろう?

下河辺
いつだったか、茨城の古河辺りを彷徨ったことがあるが、古河の歴史博物館に下河辺氏のことが記されていた。その時のメモでは「12世紀のころの文書には下河辺の名前がしばしば登場する。下河辺荘という地名も登場する。この下河辺荘って、八乗院御領の寄進系荘園。北は古河・渡良瀬遊水地あたりから、南は葛西、東は下総台地・江戸川から西は元荒川あたりまで含む広大なもの。下河辺氏ってこの荘園の荘司から興った氏族であろう。治承4年(1180)、以仁王の平家追討の令旨を受け源頼政が挙兵。下河辺は頼政に従軍。が、平家軍に敗れる。で、自害した頼政の首をこの地まで持ち帰り、菩提をとむらった、と。記念館の北西に頼政神社がある。何故かと思っていたのだが、こういう所以かと納得」と記してあった。
で、下河辺行平であるが、頼朝挙兵時、武勲をたて頼朝近習として活躍した人物。頼朝没後、北条氏の畠山重忠謀略に加担した記録以降、詳しい資料はよくわからない。「えひめの記憶」をチェックしても伊予の地頭職に、それらしき記録は見当たらなかった。

伊予と下河辺
それでも、なにか伊予と下河辺氏に「繋がり」がないかとチェックすると、宇摩郡の地頭職として武蔵七党・小川氏の流れ(本貫地は多摩の馬の飼育場・小川牧)である小河氏、また秀吉の四国征伐の後、今治七万石城主となったのも豊臣大名小川氏。小川氏は藤原系下河辺氏の末裔と称したとする。微かながら、下河辺と伊予の接点があった。それにしても、ちょっと「遠すぎる」?
磨墨
また、名馬「磨墨」であるが、この話も相模原の津久井・半原を散歩していたときに、半原で同じ伝説にであった。「磨墨(するすみ)沢の伝説の碑;平家物語の宇治川の先陣に登場する名馬・磨墨(するすみ)は、この沢の近くに住んでいた小島某が育てた、との伝説。とはいうものの、源頼朝に献上されこの名馬にまつわる伝説は東京都大田区を含め日本各地に残るわけで、真偽のほど定かならず」とメモしていた。
で、相模の半原といえば、「小川家譜」に、伊予今治城主となった小川土佐守の後裔が、関ケ原の合戦後、相模国津久井郷に落去したとある。名馬「磨墨」の伝説の残る地である。関係は無いと思うも、偶然の一致が面白い。
有名な「オルレアンの噂」ではないけれど、噂>伝説誕生のプロセルって、どういったパターンがあるのか、ちょっと興味がわいてきた。

伊予の守護と地頭
上で、地頭職の話が出た。鎌倉時代は守護・地頭の制度により、旧来の朝廷・寺社勢力を削いでいったというが、守護と地頭の違いがよく分からない。ちょっと整理。
守護・地頭の制度は、東国鎌倉の御家人を全国に配置し幕府の支配力を強めるためのもの。守護は国の警護を司るものであり、地頭は全国の朝廷領や貴族・寺社が所有していた荘園を管理するための役職。
「えひめの記憶」に拠れば、鎌倉期の伊予の守護は東国御家人である佐々木盛綱と宇都宮頼綱のふたり。佐々木盛綱は早くから頼朝につかえ、山木兼隆襲撃、石橋山の合戦など、争乱の初期から頼朝の側近であった。その後争乱の進展にともなって、西上する範頼軍に従い、京都近郊での義仲の追討、備前児島での平家軍との合戦などに名をあげた。盛綱は、伊予の他に、讃岐・越後・上野においても守護の地位を得ている。
一方の宇都宮頼綱も、梶原景時糺断に加わり、元久二年(一二〇五)には畠山重忠討伐に参加した鎌倉の有力御家人の後裔である。(上記地図はgoogle earthを元に作成しました)

また、伊予の地頭職であるが、これにはふたつのタイプがあり、ひとつは東国御家人、他方は在地勢力で本領を安堵されたもの。「えひめの記憶」には、在地地頭としては河野氏、忽那氏、金子氏など。東国御家人としては、北条得宗家、大仏氏、金沢市氏、桑村には武蔵七党・野与党の多賀谷氏などの名がある。肝心の周敷郡は「頼秀」という名が残るだけであり、下河辺氏との縁を辿ることができなかった。

今回は河野家第26代当主・河野通有のメモで終わりとする。

アーカイブ
東予市に残る河野氏ゆかりの地を辿る1回目は、赤滝城で思いのほか時間がかかり、予定していた文台城跡、大熊城跡を歩けなかった。
2回目は文台、大熊の城跡巡りからはじめるが、この城は1回目でメモした赤滝城と同じく、河野氏第22代当主・通清が、嫡子の23代当主・通信とともに攻め立てた城でもある。


(マップは左上の四角部分をクリックすると旧跡一覧が表示されます)


鎌倉期;勝利と没落
鎌倉幕府御家人として武功を立て威を示すも、承久の変で宮方に与し没落


河野通信(第23代);源氏方として武功をたて東・中予に強い勢力を築く

 当初不利であった戦況も、源氏方の攻勢により伊予での雌伏の時から反攻に転じ、高市氏を撃破。源氏の軍勢の一翼としても、壇の浦の海戦などで軍功をたてる。鎌倉幕府の開幕に際しては、頼朝に臣従を許された数少ない西国御家人のひとりとなり、奥州平定にも出陣する。
伊予への帰国に際し、通信は破格の待遇を得ることになる。それは、既に伊予の守護となっていた佐々木盛綱の支配を受けず、一族を率いることができるという許しを得たことである。鎌倉幕府が施行した守護。地頭の制度下、伊予の国の守護に補任された佐々木盛綱の指揮を受けることなく伊予の半分近くを治め得るという「半国守護」と称される所以である(異説もある)。 通信はこの特権を最大限に活用し、伊予の競合武将を圧倒し、13世紀には伊予の東予・中予に強い勢力を築き上げる。その直接の領地は所領五三箇所、公田六十余町に及んだと推測されている。

承久の変と河野通信の反幕挙兵
頼朝亡き後の承久3年(1221)、後鳥羽上皇が北条氏の支配する鎌倉幕府に対し倒幕の兵を挙げた際、河野通信は宮側に与する。幕府は伊予の反河野勢に命じ高縄城を攻めるも攻略叶わず、阿波・土佐・讃岐、さらに備後国の御家人の遠征軍の合力により高縄城は落城する。
幕府の恩顧にも反し、宮側に与した要因は、諸説ある。一説には桑村以東、また南予に勢力を伸ばそうとする河野氏の思惑があるとも説かれる。桑村以東は守護、南予は東国の有力御家人が抑えており、この乱を契機に東予への領地拡大、南予支配を目した故、と言う。

承久の変後の河野氏の没落
戦に敗れた河野氏は、一族のうち、ひとり幕府方に与した五男・通久(第24代)の軍功が認められ、阿波国富田荘(現徳島市)地頭職を認められたほかは、上記、河野氏の所領五三箇所、公田六十余町、一族一四九人の所領も幕府に没収され、河野氏はその勢を失う。通信は通久の働きに免じ平泉配流となるも、一族の大半は討ち死や斬首に処される。

河野通信(『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』より)

父の通清とともに、伊予の兵士の目代を追放、父を戦死させた額入道西寂を倒し父の仇を打つ。源平合戦では源氏を助け活躍する。
承久の変(1221)では上皇側につき幕府軍と戦うが、敗れて帰郷、高縄山で反抗を続けるが、捕らわれて奥州に流される。
続柄:通清の子
家督;不明
関係の社・寺・城;東禅寺(今治市)、大山祇神社、文台城、大熊城、赤滝城(丹原町
墓や供養塔;北上市(岩手県

東禅寺の由緒;今治市東禅寺の歴史は極めて古く、伊予の国司河野氏の祖先小千命の十五代の孫予州太守越智益躬公によって建立されたものである。
推古天皇の十年、大陸より夷狄鉄人が兵は八千を率いて九州に侵攻し京都を窺わんとしたとき、益躬公は勅命を受けて兵庫蟹坂に於いて激戦の末、これを打ち取ったが、その際多数の臣下を討ち死にさせ、その菩提を弔う為伽藍を建立し東禅寺と号した。
益躬公没後詔により文武天皇はその勲功を賞し、太政大臣の位を贈られ鴨部大神と号された。(現在東禅寺の東方鴨部神社の祭神である)。
その後承久の忠臣河野通信公は東禅寺に於いて生誕成人され七堂伽藍を再建、又聖武天皇の御時(天平九年)、行基菩薩が本尊薬師如来を自作、安置される等輪奐の美を極めていたが、その後、幾たびかの戦火に逢い、又大東亜戦争の際子国宝本堂を焼失したが、幸い薬師如来は難を逃れ現在本堂に安置され御利益あらたかな佛さまとして広く尊宗をあつめている。

google earthをもとに作成


河野氏ゆかりの地を訪ねる

『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』には通信ゆかりの地として、赤滝城、文台城、大熊城の他、東禅寺、大山祇神社、岩手県北上市が記載されいるが、とりあえず東予市内の河野氏ゆかりの地、ということで文台城、大熊城、そして、ちょっと東予市(現在の西条市)からはずれるが、お隣の今治市にある東禅寺を訪ねることにする。

文台城散歩

文台城の登山口は、中山川が形成した扇状地である前平野の扇の要の辺り、国道11号・湯谷口交差点から志河川にそって志河川ダム方面へと車道を少し上り、松山道と交差する高架下にある。
この辺りは丹原の利水史跡を辿る散歩で、劈巌透水路や志川堀抜隧道などを訪ねて歩いたところであり、土地勘もあり、スムーズに登山口に。


登山口;9時38分
高架下、車道の山側に斜めに登山道が見える。ほどなく、竹林の中を進む。等高線を緩やかに横切る形で進み、最後は等高線をほぼ垂直に30mほど上ると平坦地に出る。少し藪を掻き分けると城址に到着。おおよそ10分程度で着いた。比高差も90m弱だろうか。先回の赤滝城とは違い、拍子抜けするほどの城跡散歩ではあった。

文台城址:9時50分:標高180m
藪を掻き分けるとその先に小祠と「史跡 文台城址」と書かれた、誠にあっさりとした木の標識があった。城からの眺め藪に遮られよくないが、木々の切れ目から見える周桑・道前平野の眺めは、見張台・砦として十分なものではあったのだろう。

文台城に関する概要は、先回メモした『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡東予市郷土館』)の河野通清項にあった。ここに再掲する。

文台城跡
南方山上且地方山上且地 丹原町志川
伊予の国司平維盛の目代は豪族河野通清に敗れて赤滝城(明河)にたてこもり、その部下は文台城(志川)、大熊城(鞍瀬)の両城によって河野軍を防いだ。 中山川に流れ込むふたつの支流がある。一つが鞍瀬川、もう一つが此処志古川である。
それぞれの河口の喉頚にあたる地点であり、両城も赤滝本城を守る前哨的の砦の役目であったが、激戦の末城は落ちた 丹原町文化協会」

下山;10時8分
下りもあっと言う間に下山。車のデポ地点の先に志河川ダムがあるので、ちょっと立ち寄り。

志河川ダム
案内には「道前・道後平野は瀬戸内海に面し、雨量が少ない地域で、たびたび旱魃の被害を受けてきました。このたけ1957-1967(昭和32-42)年に面河ダムや道前・道後の両平野に水を送る施設を国(農林水産省)が作りました。その後、夏季の農業は、水の心配をすることなく安心して営めるようになりました。
そして、1989-2008(平成元―20)年に古くなった施設の改修を行い、冬季用水などを確保するため佐古ダムと志河川ダムをつくりました(以下略)。」 ところで、志河川ダムの横の案内には「志古川湖」とある。「志河」、「志古」? 近くにあった記念碑には「志河川に依存する農民は元より、地元住民は、先祖代々志古の清流を命の水として、、、」とある。何らかのルールで使い分けているのだろうか?

その後の文台城
あれこれチェックしていると、武田信重(信勝の兄)が文台城主、との記録があった。伊予武田当主信勝が来島通総に討たれたとあるので、時代を下った秀吉の四国征伐の頃の話である。主家である河野氏から離反し織田>秀吉に与した来島通総により、河野氏に与した伊予武田氏が敗れた。伊予武田氏のあれこれは27代当主・河野通盛のとことでメモする。


大熊城散歩

文台城城址をゲットし、次に大熊城址に向かう。大熊城は小冊子の通清・通信の項にゆかりの地として記載されている。場所は昨年金毘羅街道を歩いた折に辿った笹ヶ峠近く。中山川が道前平野に流れ出す手前、鞍瀬川が中山川に合流する箇所を見下ろす標高302mの山にある。先回訪れた赤滝城は、その鞍瀬川を遡った処にあるので、赤滝城の前哨的砦として、文台城は中山川右岸、この大熊城は中山川左岸を固めていたのだろうか。


登山口;10時43分(標高194m)
笹ヶ峠手前、車道から右に旧道が下る辺りに車をデポ。かつての金毘羅街道が中山川と鞍瀬川が合流する落合から丹原に抜ける道筋であるが、国道11号・落合側は山道状態であるので、車で登山口に向かう場合は丹原方面からのアプローチしかない。 峠南側に、車道に沿って法面を斜めに上る道が登山道。登山道は大熊山のふたつのピークに立つ送電線の巡視路を利用することになる。登山口には送電線の巡視路杭があり、「四国電力 北松山線 57」とある。

西のピーク;11時10分(標高327m)
道を進むと竹林が現れる。その先、等高線を垂直に30mほど上ると尾根筋に出る。緩やかな尾根道をしばらく進み、右手が開けけた先に大熊山西側のピーク。57番送電線が建つ。比高差140mほど。登山口から20分強といった距離であった。
大熊城はこの西のピークも城砦の一部であった、とのこと。藪を漕いで辺りを彷徨うと、大岩の前に小祠が祀られていた。
北松山線
北松山線を「追っかける」と、西は石手ダムから更に西に、東は中山川の谷を横切り西ノ谷山から、石鎚連峰の北麓を進み西条市の西条変電所に続いていた。

大熊城址;11時27分(標高303m)
西のピークから東のピークに向かう。送電線巡視路の鉄杭があり、「58」の示す矢印が登山道となっている。ふたつのピークの鞍部に下り、15分ほど歩き、東ピーク手前で左手が開ける。その辺りで巡視路を離れ、右に上る踏み跡を進むと東ピークに到着する。
西のピークと異なり、送電線はピークの少し先にある。東のピークあたりの藪を漕ぎ、大熊城址の石柱と三角点を確認する。木々に遮られてはいるが、道前平野は一望。
その後の大熊城
通清・通信以降、大熊城が記録に残るのは、応仁の乱の頃。惣領家・教通(第33代当主)と予州家・通春に別れ内紛の真っただ中ではあったが、通春は河野家の危機を憂い、阿波・讃岐の兵を率い侵入した細川義春に備えるべく、その子通篤に命じ大熊城を守らせている((『伊予の歴史(上);景浦勉(愛媛文化双書刊行会)』))。明11年(1479)のことである。
この要衝の地の城に関係する人物は平氏の目代、目代を攻めた河野通清・通信親子。その他、時代をくだって予州家の河野通篤(後にメモする)が文明11年(1479)に、伊予に侵攻した細川義春と激闘の末、撃退している。

下山;11時50分
東のピークから折り返し、巡視路を登山口まで戻る。往復1時間ほどの行程であった。因みに登山口の少し左に、鉄塔巡視路の案内杭47番があった。こちらも巡視路だが、大熊城址は「57番」が目安。

次に、東予市のお隣、今治市にある東禅寺。丁度今治に用事があったので、ちょっと立ち寄り。




東禅寺:今治市蔵屋敷2-14-2◆

東予市のお隣の今治市にある。今治城から少し西側にある真言宗醍醐派のお寺さま。門前に遭った東禅寺の由緒は、前述の『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡東予市郷土館』)の河野通信公の項に上にメモした。



由緒に拠れば、このお寺さまは河野氏だけでなく、伊予の名族越智氏ゆかりのお寺さまでもあった。由緒にあった「夷狄鉄人」って?チェックすると、西アジアで甲冑を纏った部族を率いた首領のこと。伝わるところによれば、鉄人に率いられた部族が朝鮮半島を経て九州に上陸。周囲を平定し都へ向かう。推古天皇より討伐の命を受けた益躬は、大三島の大山祇より神の勝利の託宣と矛を受け、鉄人の傘下に下るふりをし、播州に上陸した後、隙を見て鉄人を誅した、といったお話し。







それはともあれ、河野通信に話を戻す。門前の由緒にはあっさりと説明されていたが、境内に「河野通信公塔」があり、そのわきに「東禅寺と河野通信」と刻まれた石碑があった。

案内をまとめると、「河野四朗通信は、保元元年河野通清の三男として東禅寺で誕生し、伊予国府で伊予権介という在庁官人として勤めていた。神仏に深く帰依し、東禅寺伽藍再興にも尽力。
屋島の合戦では平氏の地上軍主力を伊予に引きつけ討ち破り、義経の屋島占領を容易にする。壇ノ浦の合戦では村上氏らの水軍を率い、海に慣れない義経を助け平氏水軍を撃破。頼朝夫人政子の妹を娶り頼朝と義兄弟となり、鎌倉幕府内での権勢が約束されたにみえたが、頼朝と義経の対立により、義経と親しすぎた通信は幕府より疑いをもたれることになる。

源氏が三代で滅び、鎌倉幕府の実権が北条氏に移ると、鎌倉武士団に乱れがあるとみた後鳥羽上皇は、承久三年、朝廷に政権を取り戻すべく討幕の挙兵。上皇方についた通信は平泉に配流され、承応2年、義経と同じ平泉の地で68年の生涯を終えた。

弘安3年、通信の孫で時宗を開いた一遍上人により奥州平泉にある通信の墓参りがなされ、後に東禅寺に位牌が納められた。東禅寺は菩提所となり、通信を永代にて祀っている。
また、大正天皇により、大正5年11月28日、承久の乱における通信の忠勤を嘉賞し従五位の勲位が贈られている」といった旨の記述があった。
供養塔には「従五位」と刻まれていたので、この塔が建てられたのは、大正5年11月28日以降ということだろう。

「聖如意輪観世音菩薩」
「当寺に安置し奉る如意輪観世音菩薩は、其の由来極めて古く 天智天皇の代、当国の名族河野氏の祖越智直唐土にて得たる霊像にして此の尊像の加護により 直ら八名海上の波の難を免がれ無事本国に到着せることが出来た。
依って永久に尊信せんが為に当寺に安置し奉れる尊像にして除災招福の佛として霊験あらたかなり」と越智氏ゆかりの案内であった。





■河野通久(第24代);河野一族でひとり幕府方に与し、河野氏の命脈を保つ

承久の変において宮側につき大半が討死や斬首に処された河野一族のうち、通信の五男通久のみが幕府方に与した。その軍功が認められ、阿波国富田荘(現徳島市)地頭職を認められ、第24代河野家当主となる。
貞応二年(1223)、通久は幕府に願い出て伊予国久米郡石井郷の領有を認められ、河野家は伊予国に戻る。その通久没後、河野家の家督は通久の弟である通継(第25代)が継承する。通継については家督相続を端に発する嫡庶の所領を巡る係争の他、見るべき事象が見当たらない。河野氏の衰退は続く。 なお、通継は通久の次子との説もある。長子は通時とされ、二度にわたる通時「義絶」の末、通継が総領家を継いだとされる。両者間では深刻な家督争いが行われていたようである(『湯築城と伊予の中世』)。
また。通久の頃から在鎌倉御家人から在京御家人と、在京奉公が中心となってゆく。


河野通久(『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』)

承久の変(1221)では高野氏側でただひとり幕府側に味方をし、貞応2年(1223)久米郡石井郷を領有して、同地の縦渕城を本拠とする。 長敬寺は、土地を寄進して建立したともいわれ、一説では、通久の娘が父の菩提を弔うために通久の名で寄進したともいわれている。
続柄;通信の子
家督:貞応2年(1223)から
関係の社・寺・城;長敬寺(東予市周布)

長敬寺
寿光山長敬寺無量寿院は、浄土真宗本願寺派の寺で御本尊は阿弥陀如来である。寺伝によると、信州よりこの地に来られた成然坊という偉い僧を、伊予の豪族河野九郎左衛門通久は尊信され、鎌倉時代の弘安六年(1283年)十町四方の土地を寄進されて寺を建立した。一説では弘安の役に手柄をたてた河野六郎通有の妻で通久の娘が父の菩提を弔うために通久の名で寄進したとも言われている。 このように長敬寺は伊予の豪族河野家ゆかりの寺である。第三代西念坊は京都本願寺 第三世覚如上人より寿光山無量寿院の号を賜わり、又第十四代唯円坊は京都本願寺第八世蓮如上人より法名を賜わっている。
永禄十一年、長曽我部元親が南予に侵入の時、河野通直の出陣要請を受けて越智、周敷、桑村の武将と共に、長敬寺からも唯円律師と河相太郎が兵を率いて出陣、長曽我部軍を土佐へ追い返している。
寺に河野左京大夫道宣が自分の血で書いた血書三部経が四冊残されており、市の文化財に指定されている。周布公民館 周布地区生涯学習推進委員会



河野氏ゆかりの地を訪ねる


長敬寺:愛媛県西条市周布141

小松今治自動車道の東予丹原ICの少し南にある浄土真宗本願寺派のお寺さま。山門を入り鐘楼を見遣りながら本堂にお参り。境内にある長敬寺の案内は上掲の通り。
河野氏との関係は強く、坊守には河野家惣領家の娘もいるようだ。また、上の案内にもあるように、この寺には僧兵勢力といった武士団を有したようで、長曾我部元親が南予・喜多郡に侵入し、西園寺氏、宇都宮市が元親の軍門に下り河野家に叛したとき、河野通直(第36代当主)に従い南予に出兵している。 秀吉の四国平定時、河野惣領家の滅亡とともに長敬寺も破壊され、武士団も解体された、と言う。
血書三部経
境内には血書三部経の案内がある。「市指定文化財 有形文化財古文書
血書(けっしょ)三部経 昭和58年7月18日指定
長敬寺(ちょうきょうじ)にある三部経は、無量寿経(乾)と無量寿経(坤) 観無量寿経(全) 阿弥陀経の四冊で、何れも横19cm、縦25cmの和綴本である。伊予守河野左京大夫道宣(みちのぶ 天正9年没)が病弱の上、下剋上(げこくじょう)の時代にあって、仏の救いを求め自ら血でこの三部経を書いた。現在、血の色は大分褪(あ)せて薄くなっているが、伊予の豪族河野氏と寺の歴史を物語っている。 東予市教育委員会」とあった。通宣は後述するが、35代河野家当主である。

周布
長敬寺のある辺りは、往昔道前平野の中心地であったよう。長敬寺から少し南に下った豊栄神社のある傍に、「古代文化の里」の案内があった。概略をメモすると、「周布は古代文化の里と伝えられ、今から2000年前の弥生時代には道前平野における弥生人の生活の拠点で、中国地方や讃岐地方から多くの物資や人が集まり栄えていた。

奈良時代には、都から伊予の国府に通じる南海道が村中を通り、周敷(しゅうふ)駅が設けられ、奈良の都や各地の文化が入ってきた。また周敷郡の郡役所があって、周敷村は政治・経済。文化・交通の中心地であった。 このことは、平成年から9年にかけて小松今治自動車道建設に伴っておこなわれた発掘調査で郡役人の用具や装飾具、高級役人か豪族の装飾具と思われる大陸の楽浪郡からの石製指輪、豪族の権威を示す石剣や祭祀供物、石器や弥生土器、弥生住居跡が出土したことからも証明されている」といったことが説明されていた。

案内のある辺りには古き趣の造酒屋も残る。造酒屋が残るということは、水にも恵まれていたのだろう。中山川や幾多の河川の伏流水が湧出する地点ではあったのだろう。
地図を見ると、この辺りの字は「本郷」とある。その意味は「郷」の中心地ということ。本郷には古代の郡家も 周敷駅が付近にあったという式内社である周敷神社もある。周敷連の姓を賜った先祖を祀ったもの、と言う。

徳威神社
少し南に下った吉田には「特威神社」もある。古き社で、案内を大雑把にまとめると「社伝によると顕宗天皇の3年(487年)阿閉事代の創始という。往古は「徳威神明宮」と称していたが、元慶3年(879年)に応神天皇を勧請して「徳威八幡宮」または「吉田八幡宮」と称した。また、南北朝時代には南朝方の軍勢催促のため、伊予に来られた日野中将が徳威八幡宮に参拝したことから、「勅使八幡宮」とも称せられた。
戦国時代、石根の剣山城、黒川氏の庇護を受ける。その後秀吉の四国征伐により黒川氏は滅び、社運は衰えた。
江戸になり、寛永13年小松藩の成立により、藩主一柳公が再興し郡内総鎮守とした。寺宝に、三百諸侯随一の能書家と称された藩主一柳直卿公の扁額がある」といった由緒ある社である。
周布が古くからの当地の中心地との案内も結構納得。2回目のメモはここまで。
毎月定例の田舎帰省。何処か歩けるところはないものかと、新居浜市の図書館で郷土史の棚を探す。と、小冊子で『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡 東予市郷土館』が目にとまる。
伊予と言えば「河野氏」というキーフレーズは知っているのだが、昨年来島村上氏の史跡を辿った折、成り行きで高縄山に行き、そのときのメモで河野氏のあれこれが、少しだけわかってきた、といった為体(ていたらく)である。 そのときのメモで、河野氏の本貫地が高縄山の西裾、旧北条市にあり、館の背後には、高穴城とか雄甲・雌甲城といった山城があるようで、そのうちに訪れてみたいと思っていた。
来島村上氏の史跡巡りも一段落したので、今回から河野氏ゆかりの地を辿ることにする。とりあえず、小冊子に記載されている東予市内(一部丹原町)、現在は共に西条市に合併した当該地域のゆかりの地からはじめようと思うのだが、同小冊子は河野氏の系譜を時系列で家督相続人を中心に説明されている。先般、高縄山を訪ねた時、河野氏興亡の推移を時系列でまとめてはいたので、そのメモを軸に、小冊子に記載の河野氏ゆかりの地を訪ねることにする。


(マップは左上の四角部分をクリックすると旧跡一覧が表示されます)



●鎌倉期以前;河野氏の記録ははっきりしない●

国衙の役人であったらしい

小冊子『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡 東予市郷土館』は河野通清からはじまる。あれこれチェックした結果としては、それ以前、つまり、鎌倉以前の河野氏については、国衙の役人であったらしい、というほか、詳しいことは分からない。その本貫地は伊予北条(現在松山市)の南部、河野川と高山川に挟まれた高縄山の西麓であったようだ。この地を開墾し、開発領主として力をつけていったと言われている。
河野通清以前は詳細不明である、とはいいながら、第22代当当主とある。その所以は世の常の如く、先祖を貴種に求め、河野氏もその祖を伊予の古代豪族越智氏とする家系図故のこと。その越智氏の一族で白村江の戦いに出陣した越智守興と現地の娘との間に生まれた子・玉澄が河野郷に住み、河野を号した。その玉澄を初代として22代目が通清、ということである。因み祖をもっと古く遡る家系図(「越智宿禰姓 河野氏系図」;第26代通有の項でメモする)もある。



●鎌倉期;河野氏が歴史に登場●

四面楚歌の中、源氏に与し平氏と戦う

■河野通清(第22代);頼朝挙兵に呼応
源氏の棟梁、源頼朝が平氏打倒の兵をあげたとき、河野家当主・通清は頼朝挙兵に呼応し平氏に反旗を翻す。挙兵は高縄城であったとも言われる。
当時の西国は平氏方一辺倒であり、無謀とも言える決断である。源氏に与した要因としては、伊予で覇を争う高市氏(新居氏ともある)が平氏の家人として平氏政権と強い絆を結んでおり、それに対抗するため、また、平氏による瀬戸内の制海権支配に対する不満などが挙げられる。
挙兵するも、当初は四面楚歌にて、戦局は圧倒的に不利。豪勇の聞こえ高い嫡子の通信が九州の源氏方を応援すべく九州へ出向している間、阿波の田口成良、備後の奴可(ぬか)入道西寂に「山の神古戦場」で敗れ、討死したと言われる。

山の神古戦場」は先日、花遍路散歩で訪れた。その近くには百回忌にあたる弘安2(1279)年、通清の曾孫にあたる一遍上人(1239~1289)がこの地で供養を営み、建立して万霊塔が建っていた。


◆高縄城
小冊子では高縄城で討死とある。先日歩いた「山の神古戦場跡」にあった案内には「松山市指定文化財(史跡)指定 昭和41年4月10日 治承3年(1179)源頼朝より河野通清に依頼状があり(現在高野山金剛三昧院に保存)、これを快諾した通清は四面平家の勢力の中で敢然として頼朝に呼応したが、備後の奴可入道西寂が兵船3000をもって高縄城に侵攻、注進により道後館より一族16騎、兵120人をもって帰城途中、敵の伏兵と遭遇、大いに戦うも利あらず、治承4年1月15日山中の大松のもとで割腹し、家来の者その首級を持ち大栗へ落ちのびたと伝えられる。大松は昭和40年枯死した」とあった。
古戦場にあった案内では、古戦場で敗れたのはわかるが、討死した山中の大松がどこか不明である。その山中をして高縄城としたのだろうか。 で、その高縄城であるが、「えひめの記憶:愛媛県生涯学習センター」では、河野氏の本貫地は北条平野の中央部、風早郡五郷の一つ河野郷であり、館は高縄山西麓、現在の善応寺の辺りとし、高縄城はその館の居館の背後の雄甲(標高238m)・雌甲(標高192m)の二岩峯と、館の北東、河野川を挟んだ高穴山(標高292m)に築いた3つの山城と、その背後に高く聳える高縄山(986m)一帯を総称して高縄山城と称したとする。
この説明からすれば、高縄山の西麓であれば、「どこでも」高縄城と受け取ることができる。「高縄城で討死」との説明もそれほど違和感はない。 因みに、地図を見ていると、雄甲・雌甲の山城は館の後詰、そして高穴の山城は背後からの敵に対する防御渠拠点、高縄山の山城は道後方面から石手川の谷合を侵攻する勢力、道前の蒼社川から立石川を経て侵攻する東予からの敵側への備えの要のようにも見える。単なる妄想ではある。

◆高市氏
平安末期、河野氏、新居氏、別宮氏とともに伊予に台頭した武士団。高市氏は国衙の役人として、越智郡・道後平野南部の久米・浮穴・伊予の各郡に勢力を伸ばす。伊予郡は早くより荘園開発が進み、ために中央権門との結びつきも強く、高市盛義の元服時の烏帽子親は平清盛である。
新居も国衙の役人であり、新居・周敷・桑村・越智・野間の各郡と、東予一帯に勢力を広げた。
別宮氏も同じく国衙役人であり、越智郡を領としたが、大山積神社の最高神官「大祝(おおはふり)」として、祭祀権を握っていた(『湯築城と伊予の中世;川岡勉・島津豊幸(創風社出版)』)。


▼河野通清(『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』より)▼

各地の源氏があいついで反兵士の兵をあげていた治承4年(1180),伊予国で反兵士の兵を起こし、兵士の目代のたてこもる赤滝城、文台城、大熊城(いづれも丹原町)を攻める。養和元年(1181)には平氏方の額入道西寂に攻められ高縄城で戦死。
家督;治承5年まで
関係の社・寺・城;文台城、大熊城、赤滝城(丹原町)
墓や供養塔;北条市粟井坂

▽文台城跡
南方山上且地 丹原町志川
伊予の国司平維盛の目代は豪族河野通清に敗れて赤滝城(明河)にたてこもり、その部下は文台城(志川)、大熊城(鞍瀬)の両城によって河野軍を防いだ。 中山川に流れ込むふたつの支流がある。一つが鞍瀬川、もう一つが此処志古川である。
それぞれの河口の喉頚にあたる地点であり、両城も赤滝本城を守る前哨的の砦の役目であったが、激戦の末城は落ちた 丹原町文化協会」


■河野氏ゆかりの地を訪ねる■


この記事をもとに通清ゆかりの地を辿ることにするが、粟井坂は既に訪れた(注:旧北条市であり東予市ではない)。文台城、大熊城、赤滝城を訪ねることにするが、地図でチェックすると、文台城と大熊城は、高縄山地と石鎚山地を分ける中山川が山地から道前平野に出る喉元、そして赤滝城は中山川を遡り、中山川に合流する鞍瀬川沿いの山中にある。手始めは赤滝城からとする。


◆赤滝城◆

実家の新居浜を出て国道11号を走り、国道が道前平野から中山川が高縄山地と石鎚山地の山塊を分かつ山峡部に入る。道はほどなく鞍瀬川が中山川に合流する落合に。そこから県道153号に乗り換え鞍瀬川に沿っておおよそ8キロほどだろうか、県道を進む。

登山道入口の橋
地図に児美谷神社とある手前、拉(ひしゃ)げた「赤滝城跡」の案内の傍にある名もない橋が城跡へと登山口。案内には「赤滝城跡  赤滝城跡は御祓川の源流青滝山(1303米)の山腹あたりがそうである。
文台大熊の前哨戦に敗れた平家勢が最後の拠点として逃げ落ちたのが赤滝城であった。断崖絶壁の中に洞窟がある。本城の岩屋、野地の岩屋、木釣の岩屋である。
しかし、洞窟戦はしょせんは負戦であった。今はこれまでと覚悟を決めた目代とその一族九人は岩屋から討って出て乱戦の末、自害して果てた。その地が九騎峠で温泉郡川内町滑川近くである。
源平両氏の興亡を占う戦いが丹原町で起き、源氏方の河野勢が大勝した文台、大熊、赤滝の城跡は、日本史を飾る大史跡である。 平成六年三月吉日 丹原町文化協会建立」

林道が崩壊
橋を渡ると左手に鞍瀬川に沿って林道がある。舗装もされていないので、橋を渡ったところにある空き地に車をデポ。10時55分、城跡に向けて出発する。城跡までの情報はちゃんと調べていない。途中の山中に社があるとのことで、その社を見つけるのが当面の目標ではある。
沢に沿って10分強歩くと林道が崩壊している。途中道端に石の仏さまが祀られていたので、なんとなくこの林道がオンコースと思うのだが、ひょっとして橋から右方向に道があったかも、などと思い、確認のため一旦車のデポ地まで引き返す。が、右に道はない。この林道を更に進むしかないだろうと再び橋脇から歩きはじめる。時刻は11時20分頃となっていた。

橋が崩壊:11時35分
再び川に沿って歩き始める。帰宅後地図を見ると、林道を少し進むと鞍瀬川に御祓川が合流。林道はその御祓川に沿って進んでいた。また、その林道も道脇にあった案内によれば、御所線と呼ばれ、車をデポした地点を起点に延長1.2キロ、幅員3.6mと、誠に大雑把なルート図とともに説明があった。
崩壊した林道箇所を再び越え(11時29分)先に進むと祓川に架かる橋が崩壊している。手前に架かる人道橋を渡り、沢の右岸に出る。

鳥居が建つ;11時38分;標高310m
沢を渡り、沢に突き出た尾根筋の突端部で道は大きく曲がり、尾根筋に垂直に上ってゆく。その尾根筋の突端に鳥居があり、社に向かっていることがわかりちょっと安心。社は車のデポ地かあらすぐにあると思っていたのだが、20分ほど歩いてやっと社への「手掛かり」が見つかった。





大野霊神社;;11時44分;353m
等高線に垂直に、といっても、等高線の間が広く、それほど急坂ではないが、ともあれ、坂を上ると5分ほどで社が見えてきた。大野霊神社とある。結構構えの立派な社だが、何故にこんな山中に?
由緒も何もなく、あれこれチェックすると先ほど渡った沢の右岸に「西之子集落」があり、戦前まで数軒の民家があった、とのこと。林道は沢の右岸に通しているが、旧道は沢の左岸にあった、と。
また、この社も、もとはその集落の近くにあり、「おおもと神社」と呼ばれていたとのことだが、いつの頃かこの地に移し、名も大野霊神社とした。何故に「大野」なのか不明である。集落の祖が大野さんかと思うも、神社の奉納者はほとんど佐伯さんではあった。
社殿天井には、伝説で馬が農作物を食い荒らすため、手綱を書き加えたという白馬の絵馬があったようだ。社の周囲には杉の大木が残る。社殿再建時には、そのうちの一本を売り、費用に充てたとのことである。それにしても、こんな山中に、こんな立派な社?などと当日は疑問を感じながらも先に進んだ。

尾根道に道標識;12時7分
神社にお参りし、城跡への登山口を探す。社の周囲をチェックしていると、神社の少し手前の藪の中に「赤滝城址登山道 丹原中生徒会 丹原公民館」の標識があった(城跡と城址が混在するが、登山口の案内では城跡とあった、ため)。 因みに、道標はこの丹原中生徒会のものを含め、城址まで4つほどあった。この道標がなければ城址には到底たどり着くことはできなかっただろう。感謝。 11時50分頃登山道に入る。尾根筋の等高線を垂直に進む。最初は緩やかではあるが、小ピークの手前辺りは結構急坂となっている。

小ピークから尾根を下る。社から20分ほど歩いているのだが、案内にあった青滝山の中腹にあるという赤滝城であれば上りではあろうが、それとは裏腹に、下ってゆく。一体いつ城に、と思った頃、2番目の道標。「赤滝城址」とともに。同方向に「野地之岩窟」の案内もある。あとどの程度の距離があるのか不明だが、とりあえずオンコースではあるようだ。
ここで尾根筋から離れ、道は下ってゆく。因みに帰宅後、尾根道をチェックすると、しばらく尾根道を進んだ後、北に突き出た別の尾根筋に阻まれ御祓川が大きく北にその流路を変える辺りで御祓川とクロスし、旧丹原町と旧温泉郡川内町の境にある黒森山の尾根筋暗部、九騎峠へと向かっていた。
なお、林道の名称にある御所は、北に突き出た尾根筋に阻まれ御祓川が北に大きく弧を描き流路を変えた、その尾根筋西側にあった集落の名とのことである。

再び沢を渡る;沢;12時11分;428m
下り切ったところに沢がある。車をデポし歩きはじめてから2番目の沢である。こんな大層なところにある城跡などと思いもせず、誠にお気楽にでかけたのだが、念のためにと持参したGPS専用端末が心強い。






道標;⒓時⒓分
沢を渡り切った先に道標。丹原中生徒会のものとは違う。「赤滝城(砦)跡 1K」とあった。やっと城跡までの距離がわかった。ここから尾根筋に這い上がる感じ。踏み跡らしきものを頼りに先に進み、尾根筋に乗る。






道標:⒓時30分;標高580m
尾根道を等高線に垂直に踏み分け道を進む。沢から20分ほど歩いたところに沢脇にあったものと同じ道標。「赤滝城(砦)0.2」とある。あと200mのところまでとなった。





赤滝城跡;12時34分;608m(621m)
標高600m付近にあった「野地之岩窟」の道標を見遣り、標高210mまで上ると平坦地となる。南北に長い平坦地に「赤滝城址」の案内が建っていた。出直し出発時間が11時20分であったので、1時間20分弱かかったことになる。こんな大変なところに来るとは、夢想だにしなかった。
城址とはいうものの、周りに何があるわけでもない。
「城址」の案内があるところは南北に長い平坦地であるが、その案内の先は小高く盛り上がっているので、土塁と言われれば土塁かななどと思いながら、何等か遺構でもないものかと、進む。完全な藪漕ぎ。
藪の先のピーク部分に、「谷向こうの地 御所古戦場跡」の案内と621m三角点があった。「谷向こうの地 御所古戦場跡」の案内のある方向に進んではみたのだが、踏み分け道も見当たらない。そこで折り返し、車デポ地に引き返すことにした。


野地之岩窟への分岐;12時45分
赤滝城跡からすぐのところに行きに見た「野地之岩窟」の案内。距離の案内もないのだが、近くにあるのであれば寄ってみようと分岐から左手に入る。等高線に沿って進む山道を10分ほど進んだのだが、案内もないので引き返す。
帰宅後チェックするとはじめこそ等高線に沿っての道ではあるが、野地之岩窟は標高750mの箇所にあるようで、最後の詰めは尾根筋を這い上がることになったようだ。岩窟は高さ2m・幅10m・奥行き5mほどの唇形をしたものと言う。


道に迷い深いゴルジュの沢に下りる;13時23分
分岐点に戻り、赤滝城からの細尾根を下ったのだが、沢に下りる箇所を間違い(13時17分)、沢に迷い込む(13時23分)。上はゴルジュ、下は滝。GPSで位置をチェックすると、行きに渡った沢の少し下流。
力技で、とも思ったのだが、道迷い対策の基本に立ち戻り尾根に這い上がり、GPSのトラックログに従い、行きに尾根道に這い上がった沢からのルートに戻り、無事に原点復帰(13時48分)。少々パニクっていたのか、肝心のゴルジュ沢の写真を撮るのを忘れていた。

赤滝城址に向かう時も、沢からの上りと細尾根の合流点(帰りでいえば分岐点)はわかりにくいなあ、などと思ってはいたのだが、その通りに、その箇所を通り過ぎた。細尾根には沢からの合流点から下流にも沢に沿って踏み跡が続いているので注意が必要。

車のデポ地点に戻る;14時44分
その後は、これといったトラブルもなく車のデポ地点に戻る。11時20分に出発し、道迷いのトラブルがあったにしても、往復でおおよそ3時間20分ほど。こんなに時間がかかるとも思わなかった。

最後にどんなところを歩いたのか赤滝城まで歩いた山を対岸から眺めてみようと、鞍瀬川の右岸、川から少し山肌を上ったところにある明長寺まで車で上り、赤滝城がその中腹にあるという青滝山らしきピークを見遣り、本日の〆とする。

●何故に、こんな山中に城が
Google Earthをもとに作成
城に歩きながら、何故にこんな山中に城が?との疑問。チェックすると、往昔この地は周桑郡旧丹原町と温泉郡旧川内町、すなわち道前と道後を結ぶ往還道であったよう。城は道前と道後を結ぶ往還の抑えとなる地にあったように思える。
往還には、登山途中まで歩いた林道御所線が道前の鞍瀬川の谷筋から、道後の滑川の谷筋の九騎の集落を結ぶのと同じく、車をデポした少し北、成・下影の集落から尾根筋を進み、黒森山の稜線鞍部の念上峠を越えて九騎に通じる「ねんじょ越え」と呼ばれる道筋もあったようだ。
尚、九騎から川内へのルートは、てっきり滑川の谷筋を下ったものと思っていたのだが、往還ルートは「九騎から海上を経て、深い森を越え西の郷(川内町河之内地区)」へとある。
今でこそ滑川渓谷に沿って県道302が整備されているが、その昔は谷沿いに道はなく、海上集落から山越えの道を進んだのだろう。地形図を見ると、海上から西の山塊の等高線の間隔は比較的広く、少し緩やかな山越えの道が想像できる。

●赤滝城攻防戦の規模
ところで、赤滝城を巡る河野通清と平氏方の双方の軍勢はどの程度の規模だったのだろう?河野勢は周囲すべて平氏方という四面楚歌の状態であり、高縄山の麓、河野の郷の一門ではあろうが、一門でも三谷郷の武市氏(新居氏ともある)が平家側につくなど、一門でも一枚岩でない。 一方、平氏目代、国司とはいいながら京の都に住み、遙任として伊予に道前と道後に二人の目代を派遣し、道前の目代は弓削島、道後の館は不明。目代が軍事力を持っているとも思えず、また、河野通清が攻めた目代が道前なのか道後なのか、両方なのか、はっきりわからない。
資料が見当たらないのでなんとも言えないが、どちらにしても、それほどの軍勢ではないだろうかと思う。平氏方が籠った野地之岩窟にしても、その規模からすれば、数十名収容といったものだろう。

●九騎峠・御所
案内にあった九騎峠は、赤滝城から西に御祓川の谷筋に下り、黒森山の稜線部に上ったところにある。現在は、黒森山の登山口ともなっている。 御所は、上でメモしたように、鞍瀬川に向かって北東に下る御祓川が、南に突き出た九騎峠の尾根筋と、北に突き出た尾根筋に挟まれ大きくS字を描く、その北に突き出た尾根筋の西側にある。
御所の由来は、屋島の合戦で敗れた平氏野本隊が伊予の吉井村(東予市)の浜に上陸し、平氏方の新居氏の助けを受けて中山川を遡り、赤滝城を拠点に源氏を迎え撃つにあたり、安徳天皇の行宮所としたところ、との伝承から。平家落人伝説の拡大版といったものだろうか。
ところで、平氏の武将のがこれを最後と討って出た九騎峠も、城址にあった「御所古戦場跡も、歩いてきた御祓川の奥、どちらかと言えば、滑川の谷筋に近い。河野氏の主力は城の西、滑川の谷筋に陣をひいたということだろうか。それとも、平氏は脱出路を求めて九騎峠>滑川の谷筋に向かったのだろうか?妄想だけが膨らむ。

●赤滝城のその後
河野通清が攻め寄せた以降、赤滝城が記録に登場するのは南北朝の頃。河野通盛(第27代当主)とともに幕府方で戦った武将の中に、赤滝城主・大森長治の名がみえる。伊予郡砥部荘を領した大森盛直、越智郡府中城に立て籠もった伊予国守護宇都宮貞宗、喜多郡根来山城の宇都宮貞泰とともの武家方として戦っている。
建武新制後も武家方の蜂起が続き、政情は不安定。伊予でも通盛が尊氏に与する以前、宇都宮氏の一族である野本氏と河野通任(通盛の孫で、通堯の弟)が蜂起し、その勢は赤滝城まで及んでいたとする(『伊予の歴史(上);景浦勉(愛媛文化双書刊行会)』)。これに対し、宮方(南朝)方の得能・土居・大祝氏は赤滝城を攻撃、数カ月に及ぶ戦闘の後、これを落とした。

●大野霊神社
上に、人も通らぬ山中に、何故に立派な社が?との疑問を抱いたが、往昔この地は道前・道後の往還道であり、また、その往還を扼する赤滝城の立地上の重要性から考えると、かつては現在からは想像できない重要な地であった故の、立派な社と妄想する。

東予市(一部丹原町)に残る河野氏ゆかりの地を巡る散歩の第一回。予定では 赤滝城跡、文台城跡、大熊城跡「をカバーする予定であったが、赤滝城だけで終わってしまった。次回は文台城跡、大熊城跡からはじめることにする。


来島海峡の急な潮流に囲まれた来島群島のふたつの、来島村上水軍の拠点であった「来島」と明治の砲台要塞として知られる「小島」の散歩。前回の来島散歩であれこれ気になることが多く、メモが少々長くなり、砲台要塞の島である小島まで「辿り着けなかった」。
で、今回は来島から小島に渡り、周囲3キロほどの島に残る明治時代の砲台要塞の散歩をメモする。



本日のルート;波止浜港>龍神社>来島に渡る>八千矛神社>心月庵>村上神社>本丸跡>小島に渡る>28cm榴弾砲(レプリカ)>(南部砲台跡周辺)>発電所跡>南部砲台跡>(南部砲台跡から中部砲台跡へ)>弾薬庫跡>兵舎跡>(中部砲台跡周辺)>中部砲台跡>地下兵舎跡>司令塔跡>(北部砲台跡周辺)>軽砲の砲座跡>発電所跡と地下兵舎跡>24センチ砲4門の砲座跡>司令塔跡>(小島南端部)>探照灯跡

小島に渡る
来島の桟橋で11時15分発の定期船に乗り、5分ほどで小島に到着。桟橋の傍ビジターセンターの脇に誠に大きな砲が据えられている。砲台要塞のシンボルとしてビジターを迎える。

28cm榴弾砲(レプリカ)
大きな砲の案内には「明治35(1902)年帝政ロシアの侵攻に備え、旧日本陸軍は広島県(安芸)竹原市の大久野島と愛媛県(伊予)の小島に芸予要塞を築く。小島には南部・中部・北部の3か所に砲台が築かれ、中部砲台に築かれた28cm榴弾砲6門をはじめ、加農砲、速射砲などが備えられていた。
28cm榴弾砲は、明治20年に海岸防御の主砲とされ、大阪砲兵工廠で造られた。 明治37(1904)年2月に日露戦争が勃発し、国内の海岸要塞から28cm榴弾砲が旅順等に送られた。小島から送られた6門のち2門が旅順要塞攻略に用いられたとされる。
芸予要塞は、大正13(1924)年に廃止されたのち、当時の波止浜町(現今治市)に払い下げ保存が図られたことから、要塞としての実質的な期間が短く、結果として、全国的にみても日露戦争前の要塞の状況を今日まで良く残している。
ここに設置している榴弾砲のレプリカは、平成21(2009)年から23(2011)年にかけて放送されたNHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』の撮影のため、当時の資料をもとに忠実に勢作されたもの。松山市が譲り受けた後、今治市が頂き、ゆかりの地、小島に設置した」とあった。

榴弾砲と加農砲
榴弾砲はこの砲だけが榴弾を発射するわけではない。榴弾(high explosive)とは弾の内部に火薬を詰めて破壊力を大きくした砲弾のこと。その昔の大砲は鉄製の弾丸を発射し、爆発力ではなく弾丸そのものの運動エネルギー、平たく言えば鉄の塊で目標物を「壊して」いたわけである。
ために、加農砲も榴弾を使う。榴弾砲と加農砲の違いは、同じ口径であれば榴弾砲は加農砲に比べて砲身長が短く、低初速・低射程であるが、軽量。加農砲はそれに比べて高初速・長射程であり、低仰角の射撃を主用する。そのため砲座の場所がわかりにくいようであるが、そのかわり、重量とサイズは大きくなるとのことである。

(南部砲台跡周辺)

南部砲台跡に向かう。島の案内を見ると砲台要塞跡は「南部砲台跡」、「中部砲台跡」、「北部砲台跡」と大きく分かれ、南部砲台跡の周辺には発電所跡、弾薬庫跡、兵舎跡がある。中部砲台跡の周辺には司令塔跡があり展望台となっている、と。また北部砲台跡の周辺には発電所跡、探照灯跡、司令塔跡が残る。そして島の南端にも「探照灯跡」がある、と言う。
ルートは南部砲台跡、中部砲台跡、北部砲台跡と順に進み、北部砲台跡を見終えた後は、来た道を戻り、途中南部砲台跡辺りで島の西岸に下り、海岸線を辿り、島の南端の探照灯跡を見て桟橋に戻ることにした。距離的には早足で歩けば1時間半程度で済むだろうから、小島発波止浜行12時55分の定期船で戻ろうとの思惑である。

小島と芸予要塞
南部砲台跡に向かって海の家風の民家の脇の道を上る。上り始めるとすぐ道脇に「小島と芸予要塞」の案内がある。案内には「小島と芸予要塞;来島海峡の中央に位置する小島は、周囲3キロメートル、標高100mの島で、来島海峡の観潮や海水浴、キャンプ、磯釣りなどで親しまれている。
小島は、また芸予要塞の地でもある。明治時代の沿岸要塞跡として完形に近い形で保存されていて、砲台跡や兵舎跡、弾薬庫跡など、山中各地に配地された施設は、大半が往時の形が残る、歴史的な近代化遺産として貴重な史跡と言える。
小島砲台は、明治31年(1898)の陸軍省の告示を経て、工事に着手され、完成までに5年の歳月と、当時の30万円という巨費を投じて築造された。日露戦争ではその主砲が旅順攻略戦に使用されたと言われる。
その後戦術は艦船・航空機重視に変化し、要塞の見直しから、大正13年(1924)に芸予要塞の廃止が決まり、昭和2年(1929)波止浜町に払い下げられ現在に至る」とあった。

当時の30万って、現在の価値に直すといくらぐらいだろう?はっきりした基準はないが一説には当時の1円は現在の2万円程度とも言われる。とすれば、30万円とは現在で60億円。明治8年の日本海軍の予算が325万円、国家予算も3億円程度であろうから、当時の30万円は現在の60億円より、ずっと価値があったように思える。

発電所跡
歩きはじめて5分弱。煉瓦造りの建物が見えた。発電所跡である。建物の前には「防火水槽」の木標があった。発電所は煉瓦造りの平屋建て。煉瓦はドイツのハンブルグから持っていたもので、建築様式もドイツにならったとか(「えひめの記憶」)。
建物の入り口は3つ。小さい左手の中は特に何もない。左手の入り口を入ると竃(かまど)のようなものがある。炊事室だったのだろうか。水道の蛇口も残っている。中央部に入ると、銭湯のようなコンプリートの基礎部分が残っている。発電機を据え付けていた跡なのだろう。火力発電であろうとは思うが、燃料は当時であれば石炭ということだろう。
Wikipediaに拠れば、日本で最初の火力発電所は明治20年(1887)、東京電燈により建設された「第二電燈局」(現:東京都中央区日本橋茅場町)というから、日本でも結構早い時期の火力発電所ではあろう。石炭の置き場や発電規模などについての発電所に冠する説明が欲しいと願うのは、少々「ディープ」過ぎるだろうか。

小島砲台の歴史
発電所の前は海峡が開ける。道脇に「小島砲台の歴史」の案内があった。案内よ内容は前述のものと少々ダブルがメモする;「小島砲台の歴史 ;瀬戸内海は古代から大陸につながる海の道であり、様々な歴史の重なりと文化の広がりを持っている。中でも来島海峡は対岸の三原水道と共に芸予海峡を通過する交易船の主要航路であった。その来島海峡の中心部に位置する小島は、周囲約3kmの美しい島である。
19世紀末になると、西欧先進国の植民地拡大競争は激しくなり、その矛先は世界各地に向けられた。帝政ロシアの場合は、冬でも凍らない港を求めて南満州に進出し、大連に総監府をおき、旅順に軍港をつくり、極東艦隊を派遣して黄海を制したので、わが国は国家存亡の危機に見舞われた。
この事態を重視した政府は露・独・仏の三国干渉後、東京湾や瀬戸内海周辺の要塞建設を積極的に進めロシア海軍の侵攻に備えた。このとき小島は「芸予要塞」に編入され、三原水道の大久野島と共に建設工事が始まった。そして中部、北部、南部砲台を構築し、司令塔、弾薬庫、火力発電所、地下兵舎などの付帯設備が相次いで建設され、明治35年(1902)完成を見た。
小島砲台の調査設計には、城塞学の権勢であった陸軍工兵中佐上原勇作があたった。上原は都城の人。明治15年、フランス砲工学校に留学、築城工学を学んだ。帰国後、陸軍士官学校で教鞭を執る傍ら、日本各地の要塞建設を指導した。のち、上原は陸軍大臣となり、元帥に叙された。
しかし、小島砲台は一度も使用される事なく、明治38年(1905)9月、日露戦争はわが国の勝利に終わった。戦争が終わると、もはや局地的な国防の必要もなくなり、小島砲台は大正13年に廃止処分された。
そしてその2年後、軍用機の爆撃演習の目標に供され、のち、波止浜町(現今治市)に払い下げられた。ここに小島砲台は28年間にわたる軍事要塞としての役割を終えた。しかし小島要塞の遺構は100年経た今も明治の面影を留めており、特に英国式工法による赤レンガの建造物は美しく、歴史の証人として見事な光彩を放っている(以下略)(小島砲台顕彰実行委員会)」とのことである。

南部砲台跡
発電所跡から南部砲台跡に向かう。ほどなく煉瓦造りの兵舎と砲座跡が見えてくる。兵舎には「地下室跡」との木標があった。砲座はその先にある。
南部砲台跡の案内によれば、「この南部砲台は小島で一番南側で規模も小さかったが、馬島から糸山間の来島海峡を防衛する配地にある。当時の日本(陸軍)は、帝政ロシアの東アジアへの侵攻に対して、国内の沿岸に防衛態勢として要塞の配備を進めた。
石垣の石は当時1個が3銭で、人夫の賃金が27銭であったと伝えられ、小島全要塞の構築費用は、当時の金で30万円といわれた。
砲台の設計図は上原勇作大佐(のちの元帥)によって作成された。整地工事は広島側の業者が請け負った労力だけでは足りず、今治側からも数百人が参加し、明治33年(1900)に終わったとされる。
大砲の据え付け工事は軍の機密を保つため、要塞司令官と地元有力者が選定した作業人員で務め、厳しい秘密厳守を課し、近辺の地元住民にも守秘を強いた。 南部砲台には、竣工当時は軽砲二門(12cm加農砲)が据え付けられていた。現在は、砲座跡と地下兵舎が残るのみである」とある、

兵舎の上は土でおおわれて、草木が茂っている。地下の掘ったのか、煉瓦造りの建物の上に土盛りをしたものか、どちらであろう。「えひめの記憶」には「無筋コンクリートのヴォールト(アーチをもとにした曲面天井)は、その上を蔽(おお)った大量の土圧に耐えて、今日でもゆるぎなく残っている」との記述があるが、これだけではどちらか判別できない。
兵舎の入口には入口に沿ってRのついた溝が掘られていた。建物内部に雨が入らないようにしたものだろう。また、入口脇には幾つもの四角の窪みが造られている。臨戦時の砲弾格納(砲側砲弾置場)のためとも言われるが、はっきりわからない。砲座部にも同じような四角の窪みが幾つもあった。砲座部の右の小丘には社が祀られる。昔は砲台指揮所か観測所があったのだろう。

(南部砲台跡から中部砲台跡へ)

弾薬庫跡
南部砲台跡から中部砲台跡に向かう。椿に囲まれた道は地元の人たちが藪となった軍用道を整備してくれたもの。昭和40年(1965)代後半とのことである。舗装されている道も軍用道路の中心部1.4m幅を後に舗装したものであり、道を囲む椿も戦後植えられた、とのことである(「えひめの記憶)。
道を進むと「左弾薬庫・右兵舎跡」の案内。まずは弾薬庫跡に向かう。「陸軍 明治32年」と刻まれた標柱も足元に残る。左右を山の斜面で囲まれた道を進むと弾薬庫の建物があった。屋根が落ちた煉瓦造りの建物は、下部にアーチ形の隙間が造られていた。湿気を防ぐための構造と言う。建物内部は崩れた屋根瓦の他は特に目立ったものはなかった。
案内によれば、「弾薬庫跡は、山の傾斜面を現在の様に掘り下げて、深い谷間のような窪地とし、周囲は山肌で護(まも)られています。
当時のモッコとスコップを用い、人力でこのような工事は並大抵のことではありませんでしたが、危険な弾薬を貯蔵するために周囲は強じんな防壁が必要でありました。
小島の地質は閃緑岩計(せんりょくがんけい)の岩石で、東側に斑れい岩が部分的にあります。何れも有色鉱物が多く岩盤が軟らかい為、要塞工事には都合がよかったであろうと想像されます。
小島砲台の備砲は28cm榴弾砲と24cm加農砲などで、主にそれらの砲弾を備蓄するための弾薬庫であったと思われます。 現在は屋根が落ちて煉瓦作りの側面が残るだけでありますが、弾薬という一番大事なしかも危険度の高い軍用品を貯蔵するために、非常に厳重な工事と完璧な設計が施されていることがわかります」とあった。

兵舎跡
弾薬庫と兵舎跡の分岐点まで戻り、兵舎跡へ。道を進むと周囲は畠となっている。農作業をしていた方に兵舎跡を訪ねると、畑地となり特に建物などは残っていないとのこと。唯一、弾薬庫と兵舎跡の分岐点から中部砲台へと上る坂道に向かって、畑地から砲台建設当時の石段が残ると。兵舎からショートカットし一直線に砲台へと向かう石段ではあったのだろう。

(中部砲台跡周辺)

中部砲台跡
椿の覆う気持ちのいい道を進む。右手には島々を繋ぐ「しまなみ海道」が一望のもと。ほどなく道は二手に分かれる。真っ直ぐ進むと「北部砲台跡」。「中部砲台跡」へは分岐点を折り返す形で坂を上る。しばらく進むと煉瓦造りの地下室。地下室の内部には部屋の周辺に沿って小さな排水溝も造られていた。円形の砲床が完全な形で残る六つの砲座はその先にあった。南部砲台跡周辺から歩いて、おおよそ15分程度だろか。
案内によると、「中部砲台跡; 小島の芸予要塞の中核をなす中部砲台跡は築造当時28cm砲6門を備砲し、また周囲には地下室4ヶ所、地下兵舎6箇所、雨水を溜めた井戸や、この水を浄化する浄化装置などが配置され、山の頂上には司令台も設けられここには遠望施設があったと言われています。

この中部砲台の28センチ砲6門は日露戦争の旅順の鶏冠山北砲台攻撃の時、日本軍は兵隊また兵隊をつぎこんでも陥落しない。そこでこの中部砲台の28センチ砲も旅順へ運ばれ攻撃を開始したので、不落といわれた旅順北砲台がついに陥落しました。この28センチ砲が旅順攻略に重大な役割をはたしたと言われています。

現在では6ヶ所の砲座跡が残るのみでありますが、ドイツのハンブルグから取り寄せられた西洋煉瓦で築かれた赤レンガの地下兵舎とともに貴重な遺物であり、当時の様子を物語っています。この砲座跡の通路の奥から山頂への階段があり、山頂には司令台跡、電話室跡があり山頂からは来島海峡や瀬戸内の島々のすばらしい展望を満喫することができます」とあった。
砲座は三カ所。ひとつの砲座にふたつの砲床があり、その連続した姿を眺めるため、砲座後方の砲座を護る後方背檣部土塁に上り、しばし時を過ごす。

地下兵舎跡
砲座から奥に進むと「浄化装置跡」、そして煉瓦造りの地下兵舎がある。地下へ医者は将校用と兵士用が分かれており、将校用のほうが少し広いように思えた。また、南部砲台のところで、地下兵舎を覆う土は、土を盛ったものか、それとも土質の柔らかな土に横穴をあけたものかはっきりしなかったが、この中部砲台跡の地下兵舎は、地下兵舎に覆い被さる土の高さからして明らかに、山腹に横穴を掘ってつくったものであると思える。

司令塔跡
地下兵舎跡の辺りに、一直線で上に上る石段がある。そこを上ると司令塔跡である。司令塔はコンクリートの土台を残すのみであるが、司令塔跡からは瀬戸の海が一望のもと。
その脇に来島海峡の説明。案内には「来島海峡 瀬戸内しまなみ海道・世界初の三連吊橋「来島海峡大橋」が架かるこの海峡は、来島村上水軍の根拠地として、また、瀬戸随一の海の難所として知られてきた。鳴門、関門海峡と並ぶ日本三大急潮は、ときに高低差4m、最高10ノットにも達し、狭く4つに分かれた水道に無数の渦潮を見ることができる。



春から夏にかけて発生する濃霧も海峡事故多発の原因となり魔の海峡と呼ばれてきた。1日1000隻以上の船舶が航行するこの海峡の中水道と西水道は国際航路に指定されている。中水道は潮の流れどおりに、西水道は潮の流れに逆らって、交互に一方通行となる世界でもここだけのルートである」とあった。

伝声管
瀬戸の海の眺めを堪能し、司令塔を下りようとすると、石垣になにやら丸い穴があり、その穴は司令塔下にある部屋に続いていた。伝声管であろう。指揮所から作戦参謀が詰めたであろう司令塔下の部屋に情報が伝えられ、更に砲座へと伝わるように伝声管がつくられていたのだろう。そういえば、砲座の所でも、それらしき丸い穴があったように思う。



(北部砲台跡周辺)

軽砲の砲座跡
中部砲台跡を離れ、北部砲台跡に向かう。上って来た道を分岐点まで戻り、小刻みにアップダウンを繰り返しながら60mほど坂を下る。分岐点から10分強で北部砲台跡に着く。
北部砲台跡の木標の脇に、「北部砲台跡 軽砲4門」と記された案内があり二つの砲座が描かれていた。軽砲4門の砲座跡ということは、ひとつの砲座に2門の軽砲が配置されていたのだろう。保存状態はいい。スロープを上り砲座を見るに、先ほど中部砲台で見た砲床に比較すると誠に可愛い砲床が残っていた。戦闘時に置いたであろう、四角の砲弾格納用の窪みもあった。




発電所跡と地下兵舎跡
二つの砲座の先に「井戸」とか「浄化装置跡」と書かれた木標で道はふたつに分かれ、左は「地下兵舎跡」と「発電所跡」、右手はさらに砲座へと続く。まずは「三点濾過式」の浄化装置、とくに井戸の跡も見られない分岐点から、左手の道を進み地下兵舎跡」と「発電所跡」に向かう。
発電所跡は南部砲台にあった発電所にくらべて結構荒れていた。「地下兵舎跡」は2連式の内部がつながっている。美しい曲線を描く「無筋コンクリートのヴォールト(アーチをもとにした曲面天井)は、その上を蔽(おお)った土の重さに堪え、兵舎を今に留めていた。

24センチ砲4門の砲座跡
分岐点に戻り先に進むと「北部砲台 24センチ砲4門」と書かれた案内があり、4つの砲座が描かれている。その脇にあった案内によると、「北部砲台跡 小島北東部に位置する北部砲台には、24cm加農砲4門と軽砲4門が配備されたほか、発電所、兵舎、浄化槽、探照灯などが造られ、明治35年(1912年)2月に竣工しました。
しかし明治37年の日露戦争時には、中部砲台の榴弾砲が外されて旅順ほかに運ばれるなど、小島砲台の武装は軽くなっていきました。そして豊予要塞の完成によりこの芸予要塞も不要となり、大正13年(1924年)に廃止となりました。 大正15年には北部砲台は陸海空軍合同の航空機による爆撃演習が行われ一部破壊されています。
要塞の廃止後、当時の波止浜町長であった<原真十朗>氏は、要塞の街への払い下げを国に熱心に請願し、この芸予要塞の歴史的価値を永遠に伝える公園としての保存公開を訴え、昭和2年に波止浜町に払い下げられました。 この当時、北部砲台の加農砲4門は、当地に残っていましたが、太平洋戦争の際に金属回収のために供出され今は砲座跡が残るのみです」とある。

□爆撃演習による破壊跡

砲座を見るに、結構破壊されている。「爆撃演による破壊跡」と書かれた木標や演習で破壊された当時の写真などもあった。演習当時の案内には「大正15年8月17日の新聞の切り抜きに、「旧芸予要塞小島砲台爆撃演習第1日は15日に開始された。陸軍立川飛行隊と海軍霞ヶ浦航空隊からかわるがわるに飛来して爆弾透過の物凄いところを見せたが、わが国で要塞の飛行機爆撃はこれまでに前例のない壮挙で海峡は危険区域に船舶の通行を禁じて、呉軍港所属の駆逐艦数席が警戒し、さながら実戦の如く又陸海軍の爆撃腕くらべとも見られ、波止場公園や来島、馬島などの島々には多くの観衆が見物に集まっていた。」
この記事は北部砲台への爆撃演習で、他の砲台は人家に近く危険であるので行われなかった。
現在の砲台跡には爆撃によって破壊された跡が残っているが当時上原元帥は飛行隊の爆撃で俺の造った要塞は破れるものかと豪語したという。直撃弾も数発当たったけれども砲台全部は破壊することが出きず、現在の残っている一部の残骸に終わっている。
爆撃は8月15日から1週間に行われた。この小島要塞は日露戦に備えて築造された芸予要塞の一翼で明治33年完成し、大正13年の軍縮で廃止され、爆撃演習に供された後、地元へ払い下げられたもので、全国で残っている砲台跡は小島だけであります」とあった。

司令塔跡
道を進み正面突き当たりにある「地下兵舎」に入った後は、兵舎入口脇から直線に上る石段を進み司令塔跡に。ここも演習による爆撃跡が残っていた。司令塔からの眺めは一部竹藪が茂り、中部砲台ほどの広がり感はなかった。
実のところ、24センチ砲の砲座手前に「探照灯跡」の案内があったので、雨上がりの泥濘で滑る坂を上り先に進んだのだが、余りの藪に引き返した。

これで北部砲台跡も一応見終えたことになる。後は島の南端にある「探照灯跡」を残すだけである。

(小島南端部)

探照灯跡
来た道を戻り、「弾薬庫・兵舎跡辺りで、島の西岸に下りる道に折れ、海岸に出る。こじんまりとした砂浜、ちょっとワイルド(?)な「海の家」を見遣りながら、海岸に沿った小径というか堤防を進み、島の南端を越え、成り行きで堤防より一筋上の道に上り、その道を島の南端へと向かうと「探照灯跡」があった。
山を掘り抜き土台を巨石で石組みし、その下にレンガ造りの地下室入口があった。内部は吹き抜けとなっており、必要に応じ探照灯を台座上部に繰り出して光を照射したとのことである。
石段を上ると山を切り開いて造られた台座部が残る。中央円形部が吹き抜け部分。ここから探照灯をせりだしていたのだろう。探照灯台座上部からは来島海峡が眼下に見えた。
案内には「探照灯跡; 石の階段と赤レンガで築かれたこの探照灯跡は、北部灯台跡の探照灯とともに芸予要塞の一翼として重要な機能であります。探照灯(サーチライト)は、夜間に海峡を往来する船舶を確認するための照明で、一説には灯火は波方町の大角鼻の岩場まで照らしたと言われています。 今は台座の施設しか残っておらず、探照灯がいつの時期に撤去されたかは資料も残ってはいません。先端の灯台(黒灯台)付近は、浅瀬で干満時には川のように流れる潮流が見られます。向かいの波止浜湾ではこの自然の干満差を利用して塩田や造船業が発達しました」とあった。

探照灯跡を離れ、桟橋に向かう。桟橋には桟橋に向かって道が続いており、途中から島の西岸へと抜ける道が分岐していた。急ぎ足で遺構を辿ったため12時55分小島発の定期船に間に合った。夕方用事があったため、少々せわしい散歩となったが、ゆったりと歩き14時30分発の定期船に乗るようにすれば、もっと何かの発見があった、かも。
桟橋で定期線を待ち受け、波止浜桟橋に戻り、跡は車で一路実家へと。
八菅修験の行者道散歩はスタート地点の八菅神社、往昔の誇り高き修験の一山組織であった八菅山光勝寺の、文字通り「一山」を彷徨い、そのメモが多くなったため、先回のメモでは行者道まで辿りつけなかった。
今回は八菅山を離れ。第二の行所から第五の行所である塩川の谷までをメモする。八菅神社から塩川の谷までは中津川に沿って、のんびり、ゆったりの散歩ではあったが、塩川の谷に入り込み、瀧行の行われた瀧を探すには少々難儀した。塩川の谷では塩川の滝の他にもあると言う、胎蔵界の瀧、金剛界の瀧といった曼荼羅の世界を想起させる瀧を求めて雪の残る沢を彷徨うことになった。



本日のルート;八菅神社>幡の坂>第二行所・幣山>第三行所・屋形山>金比羅神社>馬坂>愛宕神社>日月神社>琴平神社>第四行所・平山・多和宿>勝楽寺>第五行所・滝本・平本宿(塩川の谷)

八菅修験の行者道
八菅の行者道をメモするに際し、先回のメモで山林での修行者か山岳修行と結びつき、密教・道教などがないまぜとなった修験道が成立するまでのことはちょっとわかったのだが、よくよく考えてみると、丹沢の行者道を辿った「峰入り」がいつの頃からはじまり、いつの頃その終焉を迎えたのか、よくわかってはいなかった。先回のメモとの重複にもなるが、八菅修験の経緯をまとめながら丹沢山塊への「峰入り」の開始、そして終焉の次期についてチェックする。

八菅修験のまとめ
『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』によれば、八菅(はすげ)修験とは、 中津川を見下ろす八菅山に鎮座する現在の八菅神社(愛甲郡愛川町八菅山141-3)を拠点に山岳修行を行った修験集団のこと。八菅神社とのは明治の神仏分離令・修験道廃止令以降の名称。それ以前は山伏集団で構成された一山組織「八菅山光勝寺」として七所権現(熊野・箱根・蔵王・八幡・山王・白山・伊豆の七所の権現;室町時代後期)を鎮守としていた。
山内には七社権現と別当・光勝寺の伽藍、それを維持する五十余の院・坊があったと伝わる。 山林に籠り修行する山林修行者を「山伏」,「修験者」と呼び始めたのは平安時代。鎌倉から室町にかけて、修験者の行法は次第に体系化され、教団組織が成立。そのうちで最も有力な熊野修験を中央で統括する熊野三山検校職を受け継いだのが園城寺(三井寺)の流れをくむ聖護院であった。その聖護院を棟梁として成立したのが本山派である。
八菅山と聖護院が結びついたのは戦国時代。江戸時代には、聖護院宮門跡の大峰・葛城入峰に際しては、八菅の山伏が峰中(ぶちゅう)の大事な役を果たすなど、八菅修験は本山派聖護院門跡直末の格式高い修験集団として全国に知られた。
自前の修行エリアと入峰儀礼を持たない他の山伏と異なり、この地では綿々と峰入修行が行われていた、と言う。とはいうものの、「江戸時代の一般の山伏の生活は、中世以前の山林修行者とは異なり村落や町内にある鎮守の別当や堂守として生活しながら、地鎮祭やお祓い、各種祈祷など地域ニーズに応えていた」と述べている(『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』)。

江戸時代の修験道
この記述から江戸時代とそれ以前では、為政者と修験者の関係が大きく変わっていることが忖度できる。八菅修験ではないが、大山寺修験は徳川幕府の政治的圧力を受け、一山組織が事実上壊滅したとのことである。『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』によると、天正18年(1590)、家康が江戸に入府し、相模の有力寺社に寄進するもそこには大山の名前ななく、大山に寄進されたのは慶長13年(1608)になってのことである。
その理由は家康とその意向を受けた別当(一山の領主的僧侶)と大衆(だいしゅう;一山の大半を占める宗教者達)との対立であった。大衆の多くが修験者・山伏であり、山岳修験を禁じ、「お山」」を下りることを求める為政者と対立したわけではあろうが、所詮幕府の力に抗すべくもなく、お山を下りることになる。
天保年間に記された『新編相模国風土記稿』には「師職166軒、多く坂本村に住す。蓑毛村にも住居せり。皆山中に住せし修験なりしが、慶長10年、命に依りて下山し、師職となれり」と伝える。師職とは御師・先達のこと。こうして山を下りた山伏は山麓の「御師」に転身して門前町を形成、江戸時代の「大山参り」の流行を支えたと言われている(『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』)

丹沢の峰入りの開始時期
江戸になり大山修験では山伏がおこなっていた峰入りの行法は途絶え、修行の道であった行者道も途絶えたと言われる峰入りであるが、はたしていつの頃から「峰入り」はじまったのだろう。
あれこれチェックすると、山林修行者が個人で行っていた抖?(とそう)が集団で行う「峰入」儀礼に発展したのは院政期、大峰・熊野で成立したと考えられる。おおよそ11世紀頃とのことである。
で、この地、大山・八菅山での「峰入」がいつの頃はじまったのか、その時期ははっきりしない。はっきりとはしないが、抖?(とそう)ルートが「上人登峰。斗藪三十五日也」とあり、その行所も記載されている『大山縁起』の成立期が中世前期とのことであり、それから考えるに丹沢での峰入りが開始されたのは中世前期を下ることはない、ということではある。

春の峰入り
この八菅修験の道は春と秋の峰入りがあったようだが、秋のルートの記録は残っていないようである。以下、『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』をもとに。春の峰入りについてメモする。
春の峰入は旧暦2月にはじまることになる。修験は神社脇の経塚付近にあった禅定宿から始まる。身を清め、諸堂舎の本尊を巡る行道など前行(ぜんぎょう)が何日も続き、峰入は2月21日に始まる。最初の3週間は八菅山内堂舎に籠り、勤行、作法の伝授、真言・経典の暗唱、断食などの修行が堂内で繰り返された。 3月18日、山岳抖?(とそう)に入る。そして第30行所大山寺不動堂(現在の阿夫利神社下社)に勢ぞろいしたのは3月25日であった。ということは、修験35日のうち八菅山で27日を過ごし、峰入りは行者道を1週間程度をかけて辿ることになる。

修験の最大の眼目は"不動"になる、有体に言えば「自然になること」と言う。白山修験は白山権現で始まり、その終わりも大山の白山不動で終わり、そして生まれ変わるということのようである。

春の峰入りの行者道
で、八菅修験の行者道であるが、行所は30ヵ所。この八菅山を出立し中津川沿いに丘陵を進み、中津川が大きく湾曲(たわむ)平山・多和宿を経て、丹沢修験の東口とも称される修験の聖地「塩川の谷」での滝行を行い身を浄め、八菅山光勝寺の奥の院とも称され、空海が華厳経を納めたとの伝説も残る経ヶ岳を経て尾根道を進み「仏生寺(煤ヶ谷舟沢)」で小鮎川に下り、白山権現の山(12の行所・腰宿)に進む。
八菅修験で重視される白山権現の山(12の行所・腰宿)での行を終え、小鮎川を「煤ヶ谷村」の里を北に戻り、上でメモした不動沢での滝行の後、寺家谷戸より尾根を上り、辺室山から物見峠、三峰山、唐沢峠を繋ぐ尾根道への峰入りを行う。
唐沢峠からは峰から離れ、弁天御髪尾根を不動尻へと下り、七沢の集落(大沢)まで尾根を下り、里を大沢川に沿って遡上し、24番目の行所である「大釜弁財天」を越えて更に沢筋を遡上し、再び弁天御髪尾根へと上り、すりばち状の平地のある27番行所である空鉢嶽・尾高宿に。そこからは尾根道を進み、梅ノ木尾根分岐を越え、再び三峰山、唐沢峠を繋ぐ尾根道に這い上がり、尾根道に沿って大山、そして大山不動に到り全行程53キロの行を終える。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

八菅修験の峰入の行所
1.八菅山>2.幣山>3.屋形山(現在は採石場となり消滅)>4.平山・多和宿>5.滝本・平本宿(塩川の谷)>6.宝珠嶽>7.山ノ神>8.経石嶽(経ヶ岳)>9.華厳嶽>10.寺宿(高取山)>11.仏生谷>12.腰宿>13.不動岩屋・児留園宿>14.五大尊嶽>15.児ヶ墓(辺室山)>16.金剛童子嶽>17.釈迦嶽>18。阿弥陀嶽(三峯北峰)>19.妙法嶽(三峯)>20.大日嶽(三峯南峰)>21.不動嶽>22.聖天嶽>23.涅槃嶽>24.金色嶽(大釜弁財天)>25.十一面嶽>26.千手嶽>27.空鉢嶽・尾高宿>28.明星嶽>29.大山>30.大山不動

と、峰入りのことをまとめてきたが、上でメモしたように江戸時代に為政者による政治的圧力によりその下山を余儀なくされたわけであり、「蟻の熊野詣で」といったように、修験者が盛んに峰入りをおこなったわけではない。文政年間以降の記録では入峰者数は多い年で24人しかいない。
上で「江戸時代,八菅山は本山派聖護院門跡直末の格式高い修験集団として全国に知られた」と引用した。しかしそれも、入峰者の数、多いとき24人といった程度では、山から下山させた「山伏・修験者」を教団傘下に組み入れ管理するといった宗教政策の一環として本山派聖護院門跡の統制下に置いたといったことではないか、とも妄想する。
明治に入ると、明治の神仏分離令と修験道廃止令の結果、明治4年(1871)の11人を最後に峰入りは途絶えることになる。多くの山伏が還俗(僧尼が俗人になる)を余儀なくされるが、神官に転じた人も多かった、とのことである。




幡の坂
八菅神社を離れて、第二の行所である「幣山」へと向かう。ルートを想うに、八菅山を彷徨ったときに出合った、「幡の坂」経由で進む事にした。実のところ、幡の坂の少し八菅神社側にある「石碑」に刻まれた文字がどうしても読めず気になっており、もう一度じっくり見ればわかるかも、といった想いで、このルートを選択した。
道を進み、石碑に到着。ためつすがめつ眺めては見たものの、一部欠けている石碑の文字を読み解くことはできなかった。 ちょっと残念ではあるが、石碑を離れ「幡の坂」の道標を見遣り、沢筋に下り、鹿なのか猿なのか、ともあれ獣が里の作物を荒らすのを防ぐ防御柵に沿って里に下りる。

かわせみ大橋
道は崖に張り付くように通っていいる。先回の散歩で八菅橋へと下る大橋がそうだったように、大掛かりな桟道といった道であり、特段川を渡っているわけではないようだ。この道・幣山下平線ができたのは2011年4月。それまでは中津川の右岸の道は整備されていなかったように聞く。今はゆったりのんびりの道ではあるが、往昔の行者は道なき道を辿っていたのだろうか。単なる妄想。根拠なし。



第二行所・幣山(愛川町角田)
里に下り、丘陵裾に沿って野道を進む。成り行きで山裾の道から車道に出てしばらく歩く。八菅神社から2キロほどのところ、幣山(へいやま)地区の田園風景を抜けた東端の道脇に鳥居が見えてきた。
鳥居脇に案内。「?天岩屋(タテンイワヤ)は八菅修験の峰入修業における第2番目の行所。この岩屋はかつて山伏以外の者の立ち入りを禁じていた聖地で、中津川に臨む断崖の頂にはたいへい岩と称する巨岩があり、毎年3月7日に此処で山伏が秘水をもって灌頂したという。岩屋に鎮座する石神社は大宝3年(703)役小角によるものと伝えている。また、幣山の名は峰入りのときに五色の幣(ヌサ)を納めた故事に由来している』とある。

『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』には、「この聖地は荼枳尼天と倶利伽羅明王を祀る「幣山ダキニ天岩屋」と記載されている。?天岩屋(タテンイワヤ)=「ダキニ天岩屋」ということだろうか。
石段を上り、石神社にお参り。石神社の社殿の左手に岩場が見える。そこが幣山ではあろう。神社の脇には「是より登山禁止」と刻まれた文久年間に造られた石碑が建つ。これより先の岩場は、平安末から鎌倉時代の経塚が発見されたように、古代から祭祀を行う聖地であった、と言う。
説明を追加
聖地がどのようなところか岩場に向かう。左手は中津川の崖。高所恐怖症の我が身には結構辛い。岩場に続く踏み分け道はあるのだが、右手の崖を想えば、とてもそころ歩く度胸はない。左手の木の根元にしがみ付き、極力断崖絶壁を見ないようにして、へっぴり腰で岩場に這い上がる。 岩場に這い上がると、ちょっとした平場になっている。説明では「そそり立つ巨岩」とあったが、そんな岩はどこにもなかった。落石したのではあろう幣山は「山」とはいうものの、山ではなく、ちょっと大きな岩塊といったものであった。
祠も何もない岩場でしばし過ごし、さて引き返す、ということだが、往きはの上りだが、帰りは下り。これが結構怖い。木の根元から手を話さないように、恐々と元に戻る。距離、というほどの長さでもないのだが、緊張の時を過ごした。

丸山耕地整理竣工記念碑
幣山を離れ車道を進む。中津川に突出した山塊の手前の川側道脇に丸山治水碑。中津川から水を引き込み幣山地区の中津川堤防の内側に耕地が続いていたが、それは丸山治水碑のところに見えた取水口から取り入れられた水の恵みであろう、か。





海底地区
かわせみ大橋の「架かる」幣山下平線は中津川に架かる角田大橋からの道との合流点が終点。道は中津川に突出した辺りで山塊を回り込み海底地区に入る。海底は「おそこ」と読む。「おそこ」の意味はよくわからない。「かわうその棲むところ」といった記事をみたことはあるが確証はない。海底地区はかつて、楮を原料とする伝統的手漉きで障子神用の和紙製造で栄えたとのことである。




金毘羅神社
海底橋を渡り、車道を離れ、成り行きで愛宕神社へと向かう。耕地を鹿や猿から守る防護柵に沿って山裾を進むと「金毘羅神社」と記された鳥居があり、石段を上ると小祠があった。

馬坂
鳥居の近くに「馬坂」の道標。どんな坂か少し上り、なんとなく雰囲気を感じて元に戻る。馬頭観音なども祀られており、馬を使って和紙などを運んだのではあろう。
馬坂を先に進むと「打越峠」を経て荻野川筋の谷に到る。厚木市上荻野の丸山地区である。往昔。厚木市上荻野の打越から、海底を経て、中津川を渡り、関場坂から田代、上原に至り、そこから志田峠を越え、津久井の鼠坂の関所を過ぎて吉野宿へと通じる道があったという。はっきりとはわからないが、馬坂は小田原から甲州への通路であるこの道は「甲州みち」と称された道の一部ではないだろうか。
因みに、「打越」って「直取引」の意味もあるようだ。海底と萩野の間でそれっぽい取引が行われていたのだろか。また、連歌・連句で前々句のことを意味することより、次の宿に泊らず、その先の宿まで行く、といった意味もあり、よくわからない。

愛宕神社
金毘羅社から山裾を左手に進むと赤い小さな橋の向こうに愛宕神社。「新編相模国風土記稿」によれば、八菅修験巡峰の第三番の行所になっており、もとは屋形山東側の山頂に鎮座していたが山砂利採集のためこの地に移された、とのこと。社の裏手は砂利採取の現場となり、山の姿は消えていた。
愛宕神社って、火伏せ・防火にある社として知られるが、山城」・丹後の国境の愛宕山に鎮座する本社は、修験道の祖とされる役小角と、白山の開祖として知られる泰澄によって創建されたとの縁起が伝わるように、神仏習合の頃は、修験の道場として愛宕権現を祀る信仰を霊山であったようだ(Wikipedia)。八菅修験第三の行所であったとの説明も頷ける。

日月神社
里に下って行くと日月神社がある。月読神社に最初であった時も、こんな神社があるんだ、と驚いたが、結構多く出合った。それと同じく日月神社も初めて出合った社であるが、これも結構各地にあるようだ。
それはともあれ、祭神は大日霎尊(オオヒルメノミコト)と月読尊(ツキヨミノミコト)。「新編相模国風土記稿」には「小名海底ノ鎮守ナリ 石ニ顆ヲ神体トス 永禄ニ年(1559)ノ棟札アリ」とある。境内入口には安永6年(1777)の庚申塔、安政3年(1856)の廿三夜塔、寛政12年(1800)の百番供養塔、馬頭観音などが並んでいます。
祭神は大日霎尊(オオヒルメノミコト)とは天照大神ともその幼名とも。と月読尊(ツキヨミノミコト)は天照大神の弟神との説もあるが諸説ある。ツクヨミは太陽を象徴するアマテラスと対になり、月を神格化した、夜を統べる神であると考えられているが、異説もあり。門外漢はこの辺りでメモを止めるのが妥当か。とも。

第三行所「屋形山」
海底(おぞこ)地区と平山地区の間の丘陵中にあったが、愛宕神社でメモした通り、採石場となり「屋形山」自体が消滅してしまった。愛宕神社の裏、道路脇、それに後日中津川対岸の台地上から眺めたことがあるが、山容は残っていなかった。



第四行所「平山・多和宿」(愛川町田代)
広大な採石場を左手に見やりながら、車道を道なりにすすみ道脇にささやかな祠に祀られる「琴平神社」を越えると中津川の左岸を進み平山大橋を渡ってきた県道54号に当たる。そこは平山地区である。
『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』によれば、正確な場所は不明だが、全国の修験霊山に共通する「多和宿」という宿名から、平山地区が「タワ」、つまり、中津川沿の丘陵と経ケたけを含む山塊の間にある、鞍部の宿として認識されていた」とある。この多和宿という名称をチェックすると、実際、吉野大峯奥駈道、日光。白山など修験の霊地にその名が残る。

「タワ」は「撓む=他から力を加えられて弓なりに曲がる」という意味。山では鞍部ということで、先日の大山三峰の行者道を掠ったとき、山の鞍部というか、平場に行所・宿があったが、この地は『丹沢の行者道を歩く』での説明もさることながら、ここの地形そのものが「撓んで」いる。平山地区の北で大きく蛇行した中津川の流路そのものが「撓み」そのもののように思える。平山地区の対岸の田代地区は蛇行する中津川によって流されてきた土砂が堆積した中洲のようにも思える。実際、田代地区の真ん中にぽつんと残る独立丘陵は撓む中津川の流路の変更により取り残された丘陵(還流丘陵「)と言われる。

琴平神社

琴平神社から真っ直ぐ進むと国道412号が走る。平塚より相川・半原を経て相模原にむかう国道412号をくぐると趣のある重厚な山門が見えてくる。


田代の半像坊
国道手前の案内には、「ここ勝楽寺は、遠州奥山方廣寺(静岡県引佐郡)より勧請した半僧坊大権現が祭られているところから、『田代半僧坊』と呼ばれています。毎年4月17日に行われる春の例大祭は、この付近では見られない賑やかな祭りです。かつてこの日は、中津川で勇壮な奉納旗競馬、大道芸、相撲大会などの催しがありました。また、近郷近在の若い花嫁が、挙式当日の晴れ姿で参拝する習わしがあり、『美女まつり』ともいわれました。環境庁・神奈川」とあった。
山門の阿吽の仁王さまを見やりながら、本堂や十六羅漢像が祀られる堂宇、鐘楼、そして半僧坊大権現。境内に再び案内。「名刹勝楽寺 山号 満珠山 曹洞宗 本尊 釈迦牟尼仏
  草創は古く、弘法大師が法華経を書き写した霊場と伝えられています。もとは真言宗に属し、「法華林」の名があり、背後の山を「法華峯」と呼んだ。初めは永宝寺と称した。後に常楽寺から勝楽寺に変わった。天文年間(1532-1554)に能庵宗為大和尚が開山し曹洞宗となる。開基は内藤三郎兵衛秀行でお墓もある。 歴代の住職には名僧が多く、越後良寛の師、国仙禅師などあった。寛政5年(1793)に焼失し、後再建され現在の姿になった。
建物のうち山門は名匠右仲、左仲、左文治の三兄弟の工によるもので、楼上に十六羅漢の像がある。寺内には遠州奥山方広寺からの勧請した半僧坊大権現があって、4月17日の春まつりには、近郷近在の新花嫁が、参拝して「花嫁まつり」ともいわれ、植木祭りとともに賑わう」とあった。

ここ勝楽寺は、堂々とした禅寺にもかかわらず、「遠州奥山方廣寺(静岡県引佐郡)より勧請した半僧坊大権現が祭られているところから、『田代半僧坊』と呼ばれている」とある。半僧坊って一体全体、どれほど有難い「存在」なのであろう。
最初に半僧坊と出合ったのは鎌倉の建長寺。そのときのメモ:建長寺の境内を北に向かい250段ほどの階段を上ると半僧坊大権現。からす天狗をお供に従えた、この半僧半俗姿の半僧坊(はんそうぼう)大権現、大権現とは仏が神という「仮=権」の姿で現れることだが、この神様は明治になって勧請された建長寺の鎮守様。当時の住持が夢に現れた、いかにも半増坊さまっぽい老人が「我を関東の地に・・・」ということで、静岡県の方広寺から勧請された。建長寺以外にも、金閣寺(京都)、平林寺(埼玉県)等に半僧坊大権現が勧請されている。
方広寺の開山の祖は後醍醐天皇の皇子無文元選禅師。後醍醐天皇崩御の後、出家。中国天台山方広寺で修行。帰国後、参禅に来た、遠江・奥山の豪族・奥山氏の寄進を受け、方広寺を開山した、と。半僧坊の由来は、無文元選禅師が中国からの帰国時に遡る。帰国の船が嵐で難破寸前。異形の者が現れ、船を導き難を避ける。帰国後、方広寺開山時、再び現れ弟子入り志願。その姿が「半(なか)ば僧にあって僧にあらず」といった風体であったため「半僧坊」と称された」と。
奥山の半僧坊が有難いお寺さまであることはわかった。が、それでもなんとなく、しっくりこない。あれこれチェックすると、半僧坊への信仰が広まった時期は明治10年以降とのこと。建長寺も勧請は明治23年(1890)、埼玉の名刹平林寺も勧請は明治27年。方広寺の鎮守に過ぎなかった半僧坊は、明治10年代に入ってから、急速にその信仰が拡大し、静岡や愛知の寺院にいくつか勧請された他、名古屋・長野・鎌倉・横浜などに別院が置かれた、と。
で、明治10年代とは明治政府の政策によって、修験道系の宗教が抑圧された時代。その時期に半僧坊が急速に発展したのは修験道と関係があるように思える。カラス天狗といった姿は役行者というか修験道を想起させるし、実際奥山方広寺を訪れた時、境内に役行者の像もあった。政府の修験道禁止にやんわりと抵抗したお寺さまの知恵であろうか。単なる妄想。根拠なし。


国道412号
半僧坊を離れ国道412号を北に進む。上にもメモしたが、平塚より相川・半原を経て津久井湖南岸を相模原に向かう国道である。もっとも平塚から厚木までは他の国道と併用であるので、実際は厚木の市立病院前交差点から国道412の名が地図に載る。
この国道412号は半原の北の台地へと登り切ると、志田峠の北に広がる台地・韮尾根を通る。いつだったか、武田氏と後北条氏が戦った三増合戦の跡を志田峠を越え、また武田軍の甲州への退却路を辿ったとき、志田峠の北に広がる台地・韮尾根を通る国道412号を歩きながら、その発達した河岸段丘に比べ、誠にささやかな流れである串川とのアンバランスが誠に気になったことがある。
 チェックすると、現在は中津川水系となっている早戸川は往昔串川と繋がり、その豊かな水量故に発達した河岸段丘ができたわけだが、その後、といっても、気の遠くなるような昔ではあろうが、河川争奪の結果中津川筋にその流路を変えたため、串川は現在のささやかな流れとなり、発達した河岸段丘が残ったということである。 また、韮尾根の台地から半原へとバイパス道として整備された国道412号を下ったこともある。このバイパスが完成する前は、さぞかし難路・険路であったのだろう。そんなバイパスとして台地に張り付くように整備された国道412号を塩川の谷へと進む。


第五行所「塩川の谷」
国道412号を田代半僧坊から15分程度進むと、国道の右側にフィッシングフィールド中津川。中津川の中洲を利用した釣り場であろう。釣り場の北に塩川の谷からの流れが中津川に合わさっている。
国道から釣り場に下るアプローチの坂を下り、コンクリートで護岸工事が施された塩川を渡り、料理旅館手前を塩川左岸に沿って谷筋へと向かう。国道412号下をくぐり、民家を越えると橋がある。橋の右手、廃屋の裏手から沢が流れ込む。

塩川の滝
塩川の滝は橋を渡り塩川の右岸の遊歩道を進むことになる。先に進むと塩川の滝の案内があった。「塩川滝のいわれ 塩川滝は、八菅修験の第五番の行所であり、同修験は、熊野修験の系列に属していたことがあったので、滝修行は熊野の行事に準じていたことが察せられる。これによると滝そのものに神性を認め、滝本体が神体であり、本尊であり本地物であった。
この社の祭神は大日?貴神(おおひるめのみこと)、となっているが、系列を同じゅうする熊野那智の滝における滝神社は、祭神を大己貴尊(大国主命)とし、本地物に千手観音を祀っており、神仏習合の姿を整えていた。そして「滝籠り」による厳重な修行が行われていた 愛川町商工観光課」とあった。
大日?貴神(おおひるめのみこと)とは天照大神であるのはわかるのだが、熊野那智の滝における、大己貴尊>千手観音にあたるものが説明されておらず、なんとなく言葉足らずの説明。
チェックすると、奈良時代、良弁上人が清瀧大権現を祀ったとの伝えがあった。半原地区に、開山が良弁上人、本尊作者を願行とする「今大山不動院清瀧寺」という古義真言宗お寺が明治2年(1869)まであったようであり、大山と同じ開基縁起をもつ由緒あるお寺のようであるので、塩川の滝は我流解釈ではあるが、大日?貴神>清瀧大権現のラインアップとしておこう。実際滝そばの石碑には「塩川大神 青龍権現 飛龍権現」とあった。
案内から左手の谷に入り、便利ではあろうが少々趣に欠ける赤い歩道橋を進あむと塩川の滝が現れた。幅4m.落差30mの滝は水量も多く如何にも瀧行の行所という大きな瀧であった。

『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』によれば、この塩川の谷には江ノ島の洞窟と繋がるとの伝説がある。また、塩川の滝以外に瀧が存在するようである。地元の伝承にも金剛瀧と胎蔵瀧が伝わる。『今大山縁起』と『大山縁起』にもそれを示す表現が残るようであるので、ふたつの縁起を見比べながら、チェックする。

『今大山縁起』と『大山縁起』
『今大山縁起』
「東者有塩竈之滝(東には塩竈之滝がある)、七丈有余而(七丈有余)、是名金剛滝(この名は金剛滝)、常対胎蔵界之滝(これに対して胎蔵界之滝がある)、西者有明王嶽(西には明王嶽(仏果山)、望法華方等之異石、花巌般若之岑直顕(法華方(経ヶ岳)などの異石(経石)をみて花巌般若之岑(経ヶ岳から華厳山)が直ぐに現れる。
彼滝下安飛滝権現之鎮座(滝下には飛滝権現が鎮座)又有高岩、岩下有仙窟(高岩があり岩の下に仙窟がある)別真之所、鈴音響干朝夕(別真之所で朝夕鈴音が響く)其外霊石燦然而、表五仏之尊容(それ以外には霊石が燦然とし、五仏之尊容を表す)」。

『大山縁起』
次有瀧。名両部瀧。阻山北有瀧。瀧高七丈餘。是爲金剛界瀧。時々放圓光。對胎蔵瀧有高岩。下有仙窟。列眞之所都也。有振鈴之聲。今聞。有岩窟。亦有霊石。表五佛形。或華厳般若峰。或法華方等異岩。(次に瀧がある。両部瀧との名。山を阻んで北に瀧がある。瀧の高さは七丈餘。時々圓光を放つ。これに対し胎蔵瀧と高岩がある。下には仙窟がある。列眞之所都である。振鈴之聲がある。今も聞こえる。岩窟がある。また霊石もある。五佛の形を表す。あるいは華厳般若峰(経ヶ岳から華厳山)、法華方(経ヶ岳)などの異岩(経石)がある。)

『今大山縁起』には塩川の滝(塩竈之滝)が金剛滝と呼ばれ、そのほかに胎蔵界之滝があり、金剛滝の滝下には飛滝権現が鎮座し、高岩があり岩の下に仙窟がある、とする。
一方『大山縁起』では「両部瀧(金剛滝と胎蔵滝)があり、山を阻んで北に高さは七丈餘の滝(これが金剛滝?)がある。これに対し胎蔵瀧と高岩がある。胎蔵瀧下には仙窟がある、とする。
塩川の滝と金剛界之滝、胎蔵界之滝が入り繰りとなっており、微妙に滝の名や場所が異なってはいるが、塩川の滝以外にも滝の存在を示していることは間違いない。また、洞窟・仙窟の存在も示している。

仙窟
大山修験の行所である塩川の谷には、江ノ島の洞窟と繋がるとの伝説がある。中津川の川底には洞窟があり江ノ島の洞窟と繋がっており、江ノ島の弁天さまが地下洞窟を歩き、疲れて地表に出て塩川の滝の上流の江ノ島の淵まで歩いていった、とのことである。
弁天様って七福神のひとりとして結構身近な神として、技芸や福の神、水の神など多彩な性格をもつ神様となっているが元々はヒンズー教のサラスヴァティに由来する水の神、それも水無川(地下水脈)の神である。弁天様が元は地下水脈の神であったとすれば、それなりに筋の通った縁起ではある。
この縁起の意味するところは何だろう?チェックすると、弁天さまって、我々が身近に感じる七福神とは違った側面が見えてきた。弁天様って二つのタイプがあるようで、そのひとつは全国の国分寺の七重の塔に収められた「金光明最勝王経」に説く護国鎮護の戦神(八臂弁才天)であり、もう一つは、空海唐よりもたらした真言密教の根本経典である大日経に記され、胎蔵界曼荼羅において、琵琶を奏でる「妙音天」「美音天」=二臂弁才天。いずれにしても結構「偉い」神様のようである。
江ノ島に祀られた弁天さまは二臂弁才天。聖武天皇の命により行基が開いた、とも。聖武天皇は国分寺を全国に建立した天皇であり、その国分寺の僧元締めが東大寺。東大寺初代別当良弁は大山寺開き初代住職。大山寺三代目住職とされる空海も東大寺別当を務めたことがある。ということで、すべて「東大寺」と関係がある。
で、東大寺で想い起すのが「二月堂」のお水取り。二月堂下の閼伽井(若狭井)は若狭(福井県小浜市)と地下で結ばれ神事の後、10日をかけて地下水脈を流れ二月堂に流れ来る、と。上で大山寺の良弁は八菅山光勝寺を国分寺の僧侶の大山山岳修行の拠点としたとメモした。東大寺の二月堂の地下水脈の縁起を、この江ノ島から中津川を遡った塩川の谷に重ね合わせ、その地に修験の地としての有難味を加え、塩川の谷に大山山岳修験の東口として重みを持たせたのであろう、か。単なる妄想。根拠なし。

江の島とつながる仙窟があるとも思われないので、それはそれとして、塩川の滝以外の滝を探すことにする。

金剛瀧と胎蔵瀧
実のところ、この両部瀧探しは2回になってしまった。第一回目は塩川の滝へと左に折れる辺りを直進すると小高いところに塩川神社があり、その先に大きな堰堤が聳える。その沢に入り込めばなんとか成るかと思ったのだが、猪だか鹿だか、ともあれ猟師と猟犬が塩川の瀧の上流部に接近しており、ビビりの小生としてはとても散弾に当たるのも、猟犬に噛まれるのもかなわんと、上流の沢に入り滝を探すことを諦めた。
日も空けずリターンマッチ。『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』には「金剛滝」(蜀江滝、高さ約30m)は大椚沢上流 愛川町半原塩川添948番地と950番地の間、「胎蔵界滝」(飛龍滝・地蔵滝、高さ約30m)は小松沢の上流 愛川町半原塩川添947番地と948番地の間はあるのだが、大椚沢がどこだか小松沢がどこだかわかるわけもない。
可能性としては塩川の谷に入り、民家の切れる辺りに右側から塩川に流れ込む沢と、堰堤のある沢。このふたつの沢を彷徨えば、なんとかなるか、とは思ったのだが、チェックしていると愛川図書館に「あいかわの地名 半原地区」という小冊子があり、そこにふたつの滝の場所が詳しく書かれているといった記事を目にし、2回目の瀧探しの途中で図書館に立ち寄り小冊子を閉架棚から取り出してもらい、その場所を確認する。
その小冊子には詳しい沢の場所に関する記載もあり、それによると、小松沢は民家が切れるあたりで右から流れ込む沢。上流で二手にわかれ、右手が両玄沢、左手が小松沢であった。また、大椚沢は堰堤のある沢であった。 また滝の場所は、「地蔵滝(飛龍滝、胎蔵界滝);小松川の上流、扨首子との小字境に近いあたり、小字塩川添947番地と948番地の間にある。高さは35メートルほどで、落ちたとこから飛龍沢となり大椚沢に合している」、「蜀江滝(金剛瀧);大椚沢の上流、扨首子との小字境に近いあたり、小字塩川添948番地と950番地との間にある。滝より下を蜀江滝とも呼び、塩川に合する」とあった。
この記述によれば、小松沢上流の胎蔵界滝は大椚沢に合しているようだ。沢の地図では二つの沢は合流していないのだが、上流の支流が大椚沢へと流れ込んでいるのであろうか。

金剛滝

ということで、アプローチは堰堤を越え大椚沢から滝探しを始めることに。堰堤前にある塩川神社にお参りし、巨大な堰堤に接近。高巻きが必要かとおもったのだが、堰堤保守の便宜のためか堰堤左手にステップがついており、苦労せず堰堤上に。
堰堤から上流を眺めると沢は一面の雪。堰堤の左隅から沢に下り、ずぶずぶの雪に足を取られながら進むと正面に大岩壁が見えてきた。冬場で水量は乏しいが『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』に掲載されている写真から判断すると、金剛滝のようである。水量は乏しいとは言うものの、一枚岩の岩壁から流れ落ちる30m滝はそれはそれで、いい。
滝の左手に岩場があり、上って先に進めるかチェックするが、その先の絶壁はザイルやハーネスといった装備がなければ、とてもではないが恐ろしくて勧めそうもない。
岩場から下り、しばし滝を眺めた後、もうひとつの胎蔵瀧を探す。岩壁の右手のほうに濡れた岩場があり、その先の岩壁からかすかに水が落ちている。瀧の説明では共に小字境に近い辺りであり、住所も小字塩川添947番地と948番地の間、小字塩川添948番地と950番地との間ということだからお隣といった場所のように思えるのだが、『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』に掲載された滝の姿とは何となく異なるように思える。装備準備でもしておけば先に進むのだが、今回はパス。
その代案として、塩川の谷の入口近くにあった小松沢を遡上することした。が、結構上るも滝を見付けることもできず、日没も近くなってきたので引き返す。雪も溶けた気候のいい頃、再び胎蔵瀧を探すことをお楽しみとして残しておくことにする。

『大山縁起』にある両部瀧のうち、金剛界瀧はみつけた、胎蔵瀧は、確証はないものの、それらしき滝を目にした。『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』によれば、この意味することは、大山修験も塩川の谷を行所としていた、ということである。実際、江戸初期には大山から清瀧寺に移った僧もあるとの記録ある。「丹沢山地で峰入を行っていた山伏たちにとって、多くの滝をもつ塩川の谷は、大山が修行エリアの東南の出入り口とすれば、塩川の谷は北東の出入り口として、また金剛界マンダラと胎蔵界マンダラを繋ぐ特別な場所であった(『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』)」と説く。 下に大山修験の行所をメモし、今回の発菅修験の行者道、第一の行所から第五の行所までのメモを終える。大山三峯の行者道を辿ったその影響か、メモが長くなってしまった。

大山修験の行者道
大山寺不動堂(阿不利神社下社)、二重の瀧での修行の跡>大山山頂より峰入り>大山北尾根を進み>金色仙窟(北尾根から唐沢川上流の何処か)での行を行い>大山北尾根に一度戻った後、藤熊川の谷(札掛)に下る>そこから再び大山表尾根に上り>行者ヶ岳(1209)>木の又大日(1396m)>塔の岳>日高(1461m)>鬼ヶ岳(十羅刹塚)>蛭ヶ岳(烏瑟嶽)と進む>蛭ヶ岳からは①北の尾根筋を姫次に進むか、または②北東に下り早戸川の雷平に下り、どちらにしても雷平で合流し>早戸川を下り>①鳥屋または②宮が瀬に向かう>そこから仏果山に登り>塩川の谷で滝修行を行い(ここからは華厳山までは八菅修験の行者道と小名氏>経石(経ヶ岳)>華厳山>煤ヶ谷に下り①辺室山(644)大峰三山から大山に向かう山道か②里の道を辿り>大山に戻る(『丹沢の修験道を歩く;城川隆生(白山書房)』より)。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

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