丘陵歩きの最近のブログ記事

ここ何回かに渡り、善福寺川筋の台地に切り込む窪地に残る水路跡や旧善福寺川の流路を辿った。そしてそこでは、折に触れて五日市街道とクロスし、またその道筋を辿ったりもした。
現在五日市街道と呼ばれるその道筋は、近世以前にはその表示がなく、「伊奈みち」とある。伊奈は秋川筋、武蔵五日市の手前,現在のあきるの市にあり、古くより石工の里として知られる。その近くで採れる良質の砂岩を求め信州伊那谷高遠付近の石切(石工)が平安末期頃より住み着き、石臼、井戸桁、墓石、石仏をつくった、とのことである。

「伊奈みち」が何時の頃から呼ばれはじめたのか、詳しくは知らない。が、その名がメジャーになったきっかけは、徳川家康の江戸開幕ではあろう。城の普請、城下町の建設に伊奈の石工も動員され、江戸と伊奈の往来が頻繁となり、その道筋がいつしか「伊奈みち」と呼ばれるようになった。
「伊奈みち」が江戸と深いかかわりがあるのと同じく、「伊奈みち」が「五日市道」と現在の五日市街道に繋がる名となったのは、これも江戸の町と関連がある。江戸の城下町普請も一段落し、百万都市ともなった江戸の町が必要とするのは、城下町をつくる「石」から、そこに住む人々の生活の基礎となる燃料に取って替わる。

国木田独歩の『武蔵野』に描かれる美しい雑木林も、江戸のエネルギー源・燃料供給のため、一面の草原であった江戸近郊に木が植えられ人工的に造られたものである。利根川の船運を利用し関東平野の薪が江戸に送られた。そして、この秋川谷からは木炭が江戸に送られることになる。
その秋川谷の木炭集積所は元々は伊奈であったが、檜原や養沢谷からの立地上の利点から、五日市村が次第に力を延ばし、かつての「伊奈みち」を使い、江戸に木炭を運ぶようになった。そしてその往来の名称も「伊奈」から「五日市道」と変わったようである。

それはともあれ、今回の散歩の目的は、信州伊那谷高遠の石工がこの伊奈に移った最大の要因である、良質の砂岩の石切場跡をこの目で見ること。いつだったか、鎌倉街道山ノ道を高尾から秩父まで歩いたとき、石工の里・伊奈を掠ったのだが、その時には気になりながらも、先を急ぎ石切場跡はパスしていた。 杉並の窪地散歩で五日市街道に出合い、それが「伊奈みち」であったことがきっかけで、頭のとこかに残っていた伊奈の石切場を想い起こし、今回の散歩となったわけである。

また、今回の散歩は無料のGPS アプリ・Geographicaのパフォーマンスチェックも兼ねる。街歩きでは設定を機内モードにするなどして、電波の通じない状態でも結構重宝しているのだが、実際に電波の通じない山間部でどの程度のパフォーマンスを出してくれるのか試してみることにする。位置情報だけでなく、キャッシュに残る地図の表示時間なども気になる。
今回訪れる石切場跡は、山間地といっても里山といったところであり、うまく機能しなく、道に迷っても、なんとかなるといったロケーションであり、はじめての使用感確認には丁度いいかと、専用のGPS端末を持たずにiphoneのGPSアプリだけで歩くことにする。


本日のルート;五日市線・引田駅>連木坂>もみじ塚>山田の天神社>能満寺>旧五日市街道の道標>鎌倉街道山ノ道と交差>鍵の手>伊奈宿新宿>伊奈宿本宿>市神様>成就院>岩走神社>秋川>五日市線を渡る>大悲願寺>横沢入りの道標>横沢入>富田ノ入分岐>富田ノ入の最奥部・尾根道の分岐点>富田ノ入最奥部>尾根道から石山の池へのルートと合流>石山の池>横沢小机林道への尾根筋(横沢西側尾根)に合流>天竺山(三内神社)>横沢・小机林道に>秋川街道に合流>五日市線・武蔵五日市駅

拝島で五日市線に
自宅を出て立川駅を経て拝島駅に。そこで五日市線に乗り換える。この五日市線(いつかいちせん)は東京都昭島市の拝島駅から東京都あきる野市の武蔵五日市駅までを結ぶJR東日本の鉄道路線(幹線)である。現在は旅客中心の路線ではあるが、はじまりは青梅線と同様、石灰の運搬がその中心であった。
歴史は明治の頃、五日市鉄道にさかのぼる。明治22年(889年)甲武鉄道が立川駅-八王子駅間で開業、明治27年(1894)に青梅鉄道が開業した時勢、五日市の実業家が中心となり構想され、大正10年(1921)に認可される。
ルートは青梅鉄道拝島駅を起点に、五日市、そして増戸村坂下から分岐して大久野村地内勝峰石灰山に至るもの。勝峰山までの路線を申請しているということは、当初より石灰の運搬をその事業主体にしていたと推察される。
大正10年(1921)に認可は受けたものの、事業予算が当初の目論見と大きく違い、事業は難航。大正12年(1923)に工事が開始されるも、同年に起きた関東大震災の影響もあり、地元事業家だけでは事業存続が不可能となる。

そこに登場するのが財閥系の浅野セメント。川崎工場のセメント原料は青梅鉄道沿線の石灰を使っていたが、採掘権を買収した青梅線沿いの雷電山や日向和田も思ったほどの埋蔵量がなく、埋蔵量の豊富な五日市の勝峰山に目をつける。 大正11年(1922)には既に五日市鉄道の大株主となっていた浅野セメントであるが、石灰採掘権の権利を持つまでは資金不足の五日市鉄道を援助することなく、地元実業家より勝峰山の石灰採掘権を入手するに及び全面的に五日市鉄道の経営に乗り出し、大正14年(1925)5月にに拝島・武蔵五日市、同年9月に武蔵五日市駅 - 武蔵岩井駅間が開業した。
五日市鉄道最大の眼目である勝峰山の石灰採掘事業は、大正15年(1926)から開始され、昭和2年(1927)には浅野セメント川崎工場への輸送が開始される。そのルートは五日市鉄道→青梅鉄道→中央本線→山手線→東海道線と経由して浜川崎駅で専用線を使い工場へ運ばれていた。
立川から南に進む南武鉄道の大株主でもある浅野セメントは、この輸送ルートをショートカットすべく、拝島と立川の南武鉄道を繋ぐルートの延長を計画。昭和4年(1929)に工事に着手し、昭和5年(1930)には、拝島駅-立川駅間、青梅電気鉄道の路線と多摩川の間に路線を開き、南武鉄道と結んだ。
当初貨物主体で始まった五日市鉄道も、次第に旅客輸送も増えてはきたが、日華事変の勃発にともない、五日市鉄道は南武鉄道と合併、さらには戦時体制の強化のため南武鉄道は青梅電気鉄道共々国有化され、昭和19年(1944)には国有鉄道五日市線となる。
その際、青梅電気鉄道の立川・拝島区間は軍事施設を結ぶため複線化が続行されるも、五日市鉄道の立川・拝島区間は「不要」として休止されることになった。
青梅線
青梅線は立川から奥多摩駅を結ぶ。はじまりは青梅鉄道。明治27年(1894)、立川・青梅間が開通する。翌明治28年(1895)には青梅・日向和田間が貨物区間として開通。明治31年(1898)になって青梅・日向和田の旅客サービスもはじまった。日向和田・二俣尾間が開通したのは大正9年(1920)のことである。
昭和4年(1929)、青梅鉄道は青梅電気鉄道と名前が変わる。この年に二俣尾・御嶽間が開通した。昭和19年(1944)、青梅電気鉄道は御嶽・氷川(現在の奥多摩駅)間の開通を計画していた奥多摩電気鉄道とともに国有化となる。国有化となったこの年御嶽・氷川間も開通。これで立川・氷川間(奥多摩駅となったのは昭和46年;1971年)のこと)が繋がった。
青梅鉄道が造られたのは石灰の運搬がその目的。石灰を運んだ貨車の一番後ろに1両か2両の客車がつながれていた。「青梅線、石より人が安く見え」といった川柳もある(『青梅歴史物語;青梅市教育委員会』。いつだったか青梅の山稜を辛垣城へと辿ったとき、辛垣城跡が崩れていたのだが、それは石灰をとったため、などとの説明があった。それを挙げるまでもなく青梅は往古より石灰の産地である。江戸城のお城の白壁の原料として青梅の石灰を運ぶ道、それが青梅街道の始まりでもある。
青梅鉄道が早い時期に日向和田にのばしたのは、そこが石灰の積み出し場所であったから。実際、宮の平駅と日向和田駅の間に石灰採掘場跡が残るという。全山掘り尽くし山が消えた、とか。Google Mapの航空写真でチェックすると、山稜が南に張り出し青梅線が大きく湾曲するあたりの山中に緑が消えている箇所がある。御嶽から氷川へと路線を延ばしたのは、この地の石灰を掘り尽くし、更に奥多摩の産地からの積み出しが必要となったからである。

五日市線・武蔵引田駅
五日市線に乗り換え、さて、どこで下りるか考える。伊奈の最寄り駅は武蔵増戸駅ではあるが、目的地である石切場跡までの距離が短か過ぎ、歩くには少々物足らない。どうせのことなら、「伊奈みち」を少し辿ろうと、武蔵増戸駅のひとつ手前の武蔵引田駅で下りることにした。
武蔵引田駅は昭和5年(1930)、五日市鉄道・病院前停留所として開業した。駅の北に阿伎留医療センターがある。この病院と関係があるのだろうかとチェック。大正14年(1925)に伝染病院として開院。当初は赤痢や結核の治療に重点が置かれていたようだが、現在は一般疾病の治療病院となっている。

引田
「引田」は灌漑水田と関係あるとの説もあるが、「田を引く」は意を成さぬとの説もある。『五日市の古道と地名;五日市町郷土館』には、秋川の南、「網代地区の「引谷」の地名の由来として、引谷、引田は蟇(ひきがえる)の生息地に因んだ地名とし、蟇田>引田となったとの説明があった。

引田駅を下り、一面に広がる秋留台地の畑の畦道といった小径を南に下る。南には秋川丘陵が見える。いつだったかこの丘陵を歩き、古甲州街道を辿ったことが思い出される。目を西に移すと山肌が白く大きく抉られた山塊が目につく。石灰採掘をおこなう勝峰山(かっぽやま)ではあろう。

秋留台地
Wikipediaに拠れば、秋留台地は「島のような河岸段丘なので、地形は特殊。北の端は平井川、東の端は多摩川、南の端は秋川で、それぞれ川へ向かって標高が低くなっている(中略)西は関東山地なので、そこから東へ堆積し、その後に上記の3河川が浸食してできたものと推測できる」とある。
地形は特殊と言う。なにが特殊か門外漢には不明であるが、河岸段丘と湧水がその特色との記事があった:よくわからないなりにも、「あきる野市の自然 あきる野市の地質・地形」をもとにメモだけしておく。
秋留台地は西端の伊奈丘陵南麓から東端の二宮神社まで、東西約 7.5km、南北約 2.5km である。西端標高 186m、東端標高 138m、勾配 6.4/1,000 である。 河岸段丘は 8 段 9 面あり、上位から 1.秋留原面 2.新井面 3.横吹面 4.野辺面 5.小川面 6.寺坂面 7.牛沼面 8.南郷面 9.屋城面の8段9面からなる。
秋留台地には年間約 1,500mm の降水量があり、そのうち約半分は地下に浸透する。浸透した水は、水を通しやすい表土(約30cmの火山性黒土や氾濫性土壌)、立川ローム層(0.5~2m 約3万年前からの富士山起源の火山灰)、段丘礫層(約8m 関東山地からの堆積層)を通し、五日市砂礫層・上総層(60~150cm 100~300万年前の河成~海成層)に達する。上総層は砂礫の間に砂屑やシルト層を多く挟んでいるため、水を通しにくい地層である。このため浸透してきた水は上総層の上に溜まり台地の6.4/1,000の傾斜に沿って下り、段丘の崖から湧水となって流れ出す。
それぞれの段丘面の崖地、傾斜地から代表的なものだけでも18箇所ほどの湧水点がある、と言う。段丘面の湧水点を歩いてみれば、「特殊な地形」を実感できるのであろうか。とりあえず近々歩いてみようと思う。

連木坂
道なりに進むと道はふたつに分かれる。そこは坂となっており、蓮木坂(ムナギ・ムラキ)と呼ばれる。由来は不明。「ねん坂」とも呼ばれるようである。







もみじ塚
道を南にとり、五日市街道に出る。街道・原店交差点北側にフェンスで囲われた塚があり、いくつかの石碑が建つ。大きな石には「寒念仏」と刻まれた文字が読める。横に建つ石塔は庚申塔のようである。
チェックすると、この塚は「もみじ塚」と呼ばれるようだ。かつては塚の中央にもみじの大木があったのが名前の由来。「寒念仏」と刻まれた石仏は、嘉永5年(1852)建立の「寒念仏塔」。寒念仏とは、寒中30日間、鉦を叩きながら各所を巡って念仏を唱える修業のこと。その右は庚申塔。庚申塔の右にある石仏は神送り場にあった「寒念仏供養塔」とのことである。
寒念仏供養塔
引田交差点の西、引田と山田の境の街道辻に「神送り場」があった、と言う。疫病退散を祈り、祭りを執り行った場所とのことである。その場所には延命地蔵が建っていたが、新しいものようで写真を撮らなかった。

山田の天神社
道脇に「キッコーゴ醤油」との商号のある古き趣の醤油醸造所を越え、五日市街道・下山田交差点の南に天神社がある。少々寂しき佇まい。社伝に拠れば、貞治・応安(1362~75年)のころ、足利基氏の母が開き、古くは天満宮と称し、少し西にある能満寺持ち常照寺が別当であった。明治の神仏分離令の際、寺と分かれ名も天神社と改めた。とのことである。

能満寺
社を出て街道を少し西に進むと能満寺。境内に、地獄道の教主・法性地蔵、餓鬼道の教主・陀羅尼地蔵、畜生道の教主・宝陵地蔵、阿修羅道の教主・寶印地蔵、人間道の教主・鶏兜地蔵、天上道の教主の地持地蔵の六地蔵が佇むこのお寺さまは臨済宗建長寺派のお寺さま。開基は先ほどの天神社と同じく足利基氏の母とのこと。
何故にこの地に鎌倉公方足利基氏の母が寺を建てる?チェックするとあきる野市には、この能満寺の南にある瑞雲寺も基氏の母瑞雲尼の開基である。また、市内には基氏開基と伝わるお寺さまが下代継に真城寺、金松寺とふたつほどあった。
基氏とあきる野
基氏、そして基氏の母とあきる野の地の関係は?ここからはあくまでも妄想ではあるが、基氏は入間川殿とも呼ばれ、入間の地に9年も陣・入間御殿を構えたことがある。そのことが要因なのだろうか。
入間御殿は、足利尊氏が弟の直義を倒し室町幕府を開いた際、直義に与した関東管領上杉氏を追放するも、関東北部に依然勢をもつ上杉氏や新田氏に備えるための拠点である。入間とあきる野はそれほど離れてはいない。この地を通る鎌倉街道山ツ道から連絡道を通じ入間と往来は容易ではあろうと思う。
また思うに、入間御殿との関連を考えなくても、この鎌倉街道山ツ道は往昔の幹線道路である。実際、あきる野市には頼朝が檀越となり平山氏開基の大悲願寺、北条時宗開基の普門寺など有力武将ゆかりの寺院も多い。今は都心を離れた地ではあるが、江戸開幕以前は湿地・葦原を避けて通れる、この山裾を進む道が、当時のメーンルートであったのだろうから、そう考えれば、鎌倉公方ゆかりの寺社があってもそれほど不思議ではないのかとも思えてきた。
ついでのことで、またまた思うに、秋留台地の端に二宮神社がある。武蔵総社六所宮の第二神座といった由緒ある社である。この社、往古小川大明神と呼ばれていた。古代にあった四つの勅使牧のひとつ、小川牧のあった一帯でもある。古代にもこのあたり一帯は開けていたようだ。
もっと歴史を遡ると、平井川沿いにはいくつもの縄文遺跡や古墳が残る。北に羽村草花丘陵を控え、南に平井川を隔てて秋留台を望むこの地は、古くから人の住みやすい環境であったのだろう。 古代から江戸が武蔵の中心地になるまで、この辺りは往還賑やかな一帯ではあったのだろう。

旧五日市街道の道標
街道を西に進むと、秋川に架かる山田大橋を越えて北に延びる山田通りの手前から右手に入る道がある。それが旧五日市街道とのこと。山田通り手前に道標が建つ。西に向かう矢印には「五日市 檜原」、東は「八王子 拝島 福生」、北は「大久野 青梅」、南に向かう矢印は「川口村 恩方」とある。川口村ができたのは明治22年(1889)の町村制施行時であるから、明治の頃の道標だろうか。
もっとも、川口村が八王子市に編入されたのは昭和30年(1955)であるから、少なくとも昭和30年(1955)までは「川口村」が存在したわけで、もっと新しい時期かもしれない。ともあれ、刻まれた文字が赤のペンキで塗られているのは読みやすくはあるのだが、少々風情に欠ける。文化財としての価値がそれほどないということであろうか。

鎌倉街道山ノ道と交差
道標を越えると山田通りにあたる。この道筋は鎌倉街道山ノ道の道筋。高尾から秋川丘陵の駒繋石峠(御前石峠)を越え、秋川南岸の網代から秋川を渡り、山田通りから五日線・武蔵増戸駅辺りを通り、青梅谷筋、名栗谷筋を経て秩父に向かった「鎌倉街道山ノ道」散歩が想い起こされる。
武蔵増戸(ますこ)駅
山田通りを北に進むと武蔵増戸駅がある。増戸は地名にはない。チェックすると、『五日市の古道と地名』には、「この辺りの網代、山田、伊奈、横沢、館谷、三内という六つの地域は中世から近世、明治まで独立村として続いたのだが、明治22年(1889)の町村制施行時に館谷を除いた五ヶ村が合併し、将来の戸数増加を願い「増戸村」となる。昭和30年(1955)の改革で五日市町と合併し、「増戸」の地名は消滅した」とあった。

鍵の手
山田通りを越えると山田地区から離れ伊奈地区に入る。旧街道を進むと道は二手に別れ、ひとつは南に大きくカーブする。城下町や宿場の出入口に見られる『鍵の手道』と言う。宿場が残るわけでもなく、そう言われなければ、普通の道といった程度の道ではあった。

伊奈宿新宿
鍵の手道を南に下ると五日市街道にあたる。ほどなく「伊奈新宿」のバス停。1キロほどの伊奈宿は西から東へと宿が発展した、という。西が本宿(上宿)、東は新宿と呼ばれた。

伊奈宿本宿
伊奈新宿バス停の少し西に「伊奈」バス停。この辺りが本宿(上宿)と新宿の境とも言われる。バス停の街道を挟んだ北、細い道脇の土手上に「塩地蔵尊 千日堂跡」がある。
塩地蔵は全国各地にあるが、お地蔵さんを自身に見立て、患部に塩を塗り、イボを取るとか、患部を治癒するといったもの。千日念仏供養塔は千日念仏の完結記念、百番供養塔は、西国33番、坂東33番、秩父34番の計百番札所巡りの完結を記念して建立するもの。この地の供養塔の由来は不詳。

千日堂は「武蔵風土記」に「小名新宿にあり本尊阿弥陀生体にて長さ一尺余り大悲願寺持ち(中略)伊奈村は36か村寄り場、名主時代この千日堂に牢屋あり罪人入獄したるきは伊奈村中各戸にて順番に牢番をしたること確実」とある。牢獄であったということだろう。千日堂は3回あった伊奈の大火の三度目、明治8年(1875)の大火で焼失した。
場所は現在の図書館のところ、とある。増戸分室のことだろうか。であれば、すぐ西隣といったところだろう。

市神様
街道に戻り先に進むと「伊奈坂上」バス停があり、その手前、街道南側にささやかな祠がある。祠傍に案内があり「伊奈の市神様」とあった。
案内には「伊奈村は、中世から近世初期にかけて、秋川谷を代表する集落でした。伊奈村に市が開かれたのは中世の末といわれています。農具や衣類、木炭などをはじめ、この地域で生産された石(伊奈石)で作られた臼なども取引されたと考えられ、伊奈の市は大いに賑わったといわれています。
江戸時代になって江戸城の本格的な建築が始まると、この石の採掘に携わった工員たちが動員されたと考えられ、村と江戸とを結ぶ道は「伊奈みち」と呼ばれるようになりました。
やがて江戸の町が整い、一大消費地として姿を現すと、木炭の需要が急に高まりました。すると木炭の生産地である養沢、戸倉などの山方の村々に近い五日市の村の市に、伊奈村の市は次第に押されるようになりました。更に、月三回の伊奈村の市の前日に五日市でも市が開かれるようになると、ますます大きな打撃を受け、伊奈村の人々は市の開催を巡ってしばしは訴えを起こしました。 この祠は伊奈村の市の守り神である「市神様」と伝えられています。地元の伊奈石で作られ、側面には寛文二年(1662))の年号が刻まれています。伊奈の移り変わりを見つめてきたこの「市神様」は地域の方々により今も大切に祀られています。平成十九年 あきる野市教育委員会」とあった。

この地で採れる良質の砂岩を求め、信州伊那高頭の谷から移り住んだ石工は、石臼、井戸桁、墓石、石仏、五輪塔、宝筐印板碑、石灯籠、供養塔、石像などを製造し伊奈は開ける。また、戸倉、乙津、養沢、檜原といった秋川筋の木炭の取引所は当初、伊奈宿にあり、伊奈の市は賑わったようだ。
その伊奈宿も、木炭の集積地としての立地上の優位性から五日市村が次第に伊奈宿の市を侵食することになる。それを巡る諍いは上記説明にある通りであるが、享保20年(1835)には「炭運上金」の徴収所「札場」が五日市下宿と設定されて以降、木炭取引の市は完全に五日市に移る。これにともない、伊奈宿までの「伊奈みち」を五日市まで伸ばし、名称も「伊奈みち」から「五日市道」と変わることになった(『五日市の古道と地名』)。

伊奈宿
ところで、宿の規模はどの程度であったのだろう?チェックすると、平安末期(室町の頃との説もある)、12人で開いた伊奈は18世紀後半世帯数200戸強、人口900人弱まで増えるが、昭和2年(1927)で世帯数200戸強、千人強であるので、江戸までは急成長するも、江戸から以降は、それほど大きくは増えてはいない。五日市に経済の中心が移ったこともその一因であろうか。

成就院
「伊奈坂上」バス停のすぐ西に「新秋川橋東」交差点があり、直進すると新秋川橋へと進むが、旧道は橋の東詰めを右手北側に折れ、坂を下ることになる。坂の入口に成就院がある。
後ほど訪れる古刹大悲願寺の末。お寺の塀の外側に自然石の大きな「寒念仏塔」が建っていた。伊奈宿はここで終わる。

岩走神社
坂道を下ると左に秋川へと下る道があり。その下り坂が旧道のようであるが、道なりの先に「岩走神社」が見えるのでちょっと立ち寄り。宮沢坂と呼ばれる坂を進むと大きな石の鳥居がある。
旧伊奈村の鎮守。平安末期(室町?)、12世紀の中頃、信州伊那谷高遠から十名余の石工がこの地に村を拓くに際し、故郷の戸隠大明神の分身を勧請したのがそのはじまり。当初は「岸三大明神」とも称したようだが、「岩山大明神」とも呼ばれた時期もあるようだ。
「岩山」は想像できるが。「岸三大明神」は不詳。祭神は戸隠大明神の手刀男の命(たちずからおのみこと)をまっていたが数年たってから推日女尊(わかひるめのみこと)、棚機姫尊(たなきひめのみこと)の三柱を祀ったとある。岸辺の三柱、故の岸三大明神の命名だろうか。単なる妄想。根拠なし。
社はその後、寛政6年(1794)に「正一位」を授けられ、以来「岩走」と改めた。「岩走」は秋川の激しい流れの滝から命名したとのこと。
本殿も、現在より奥まったところにあったようだが、昭和3年(1928)の道路改修に合わせて現在の姿になった、と。
正一位
正一位って、諸臣や神社における神階の最高位にあたる。何故にこの社が「正一位」?
チェックすると、この村を拓いた12人の一家、宮沢家が代々社の宮司となるが、その後裔である宮沢安通が天皇の書の師として京に招かれ正一位を授かったとある。
正一位を授けられた諸臣は数少ない。日本の歴史を代表するような百人強である。当然のことながら宮沢某の名は見当たらない。諸臣に授けられる位階と神に与えられるものは別物のようであった。全国各地にあるお稲荷さんが正一位であることからも、神階としての「正一位」と諸臣の「正一位」とは少々ニュアンスが異なることは容易に想像し得る。

秋川
岩走神社から少し宮沢坂を戻り、旧道に折れる。結構急な坂道である。『五日市の古道と地名』には、木炭集積所を巡る伊奈と五日市の争いの際、伊奈村から奉行所に提訴した文書に、「伊奈から五日市の道は険路であるため、五日市は市としては不適」といった例として、岩走神社前の坂を挙げている。確かに舗装もない時代、荷の運搬は難儀を極めたことだろう。
それはともあれ、旧坂を下り民家の前の道を進む。左手は秋川。集落の中程から川床に下りる道があったので秋川の川床でちょっと休憩。
秋川・秋留・阿伎留
休みながら、ふと考える。「秋川」の由来は?Googleでチェックすると、秋川は荒れ川で洪水の度、畔を切ることが多かったため「畔切川」と。これが音韻転化して「アキカワ」といった記事があった。秋留・阿伎留の由来でもある。
それなりに納得したのだが、メモの段階で『五日市の古道と地名』を読むと、参考程度ではあるとしながらも、別の解釈が説明されていた。話はこういうことである;『古事記』でのお話し。その昔、新羅の国であれこれの経緯の末、女性が光り輝く見事な玉・「赤瑠」産み落とす。そしてまた、あれこれの経緯の末、王子である天日矛(あめのひぼこ)が赤瑠を手に入れる。
と、あら不思議、赤瑠が美女に変身。王子寵愛するも、諍いの末、美女は唐津の沖の小島・姫島に逃げる。姫を追っかける王子。逃げる美女。逃げる先々の島は今も瀬戸に姫島として残る。で結局逃げついた先は難波の地。
そこに住まう新羅系帰化人はその姫・赤瑠姫を敬い、姫の住まいの近くを流れる川を「吾が君の川」>「吾君川」;アキカワ、と呼んだ、と言う。
秋留台地の小川牧の頭は新羅系、といったことに限らず、武蔵国を拓いたのは大陸からの帰化人である。この地、秋留も帰化人との関係を考えれば、事実か否かは別にして、上記解釈は誠に面白い。ちょっと気になる。
あきる野市
因みに、この地あきる野市は秋川町と五日市町が合併してできたもの。市名決定を巡っては秋留市を主張する秋川町と、阿伎留市を主張する五日町との協議の結果、「あきる野市」となった、とか。「野」がついたのは、「あきる市」だけではなんとなく収まりがよくなく、秋留台地をイメージする「野」をつけたのだろうか。

五日市線を渡る
秋川の川床から離れ、集落の中を進む「五日市道」に戻る。岩走神社から西は伊奈地区から横沢地区に入る。集落の途中から舗装された急坂を上り、岩走神社前を通る車道に出る。車道の北に石段が見える。結構長い石段を上り切ると前方に大悲願寺の山門が見える。その手前に通る五日市線の踏切を渡り大悲願寺に向かう。
横沢
横沢地区から山内地区を挟んだ五日市駅寄りの地区に館谷がある。元々は縦谷>立谷と呼ばれていたようである。で、「横」沢と「館谷=縦(立)」谷の関係だが、横と縦の関係に拠る。その横・縦の軸となるのは秋川。
秋川から見て、秋川に南北に注ぐ沢をもつ地区が横沢、東西に注ぐ三内川(大雑把には東西だが?)をもつ地区が館谷とされた、とのこと(『五日市の古道と地名』)。
縦横はあくまで相対的なもの。都内の墨田区・江東区を東西に流れる運河が堅川(たてかわ)江と呼ばれているのは、江戸城に対して縦(東西)に流れるからである。当然、南北に流れる運河は横十間川と呼ばれる。

大悲願寺
堂々たる仁王門から境内に入る。仁王門(楼門)天井には幕末の絵師による天井絵が描かれる。境内正面には観音堂。お堂は江戸に造られたが、堂内には国指定重要文化財の仏像三体が祀られている。
境内右手には書院造りの本堂、そして彫刻の施された中門(朱雀門)なども江戸期の建造である。本堂前に「伊達政宗 白萩文書」の案内があり、政宗の末弟がこの寺に修行のため在山の折り、川狩りにこの地に出向いた政宗が当寺の白萩が見事であり、それを所望したい」との書面が残るとあった。歌舞伎の「仙台萩」は当寺に由来する。
寺伝に拠ると、この古刹は建久2年(1191)、武蔵国平山を領する平山季重が頼朝の命を受け開山した。一時衰退するも、江戸になり幕府より朱印状を受け、観音堂を建立し、内陣を華麗に整えていたとのことである。




平山季重
いつだったか、多摩の平山城址散歩で出合った。源平一の谷の合戦で、熊谷直実と武勇を誇った源氏方の侍大将である。平安末期から鎌倉初期の武蔵七党のひとつ西党(日奉氏)の武将であり、平井川と秋川に挟まれた秋留台地には鎌倉の頃、武蔵七党のひとつ、西党に属する小川、二宮、小宮、平山氏といった御家人が居を構えた、と言う。そんな状況も季重開基に関係するのだろうか。
日奉氏
武蔵七党のひとつ、西党の祖。日奉氏は太陽祭祀を司る日奉部に起源を持つ氏族。6世紀の後半、大和朝廷はこの日奉部を全国に配置した。農作物のための順天を願ってのことであろう。日奉部の氏族は、この武蔵国では国衙のある府中西方日野(土淵)に土着し、祭祀集団として存在していたと伝わる。
西党の祖・日奉宗頼は、もとは都にあって藤原氏の一族であった、とか、それが中央の政争に敗れたとか、国司の任を得て下向したとか、あれこれと説があり定かではないが、ともあれこの武蔵国に赴き牧の別当となる。任を終えても都に戻らず、この日野の地に土着していた日奉部の氏族と縁を結び、父系・藤原氏+母系・日奉氏という一族が成立した、と。
日奉氏はこの地域を拠点とし、牧の管理で勢力を広げ、国衙(府中)の西、多摩の西南である「多西郡」を中心に勢力を伸ばした。ために多西ないし西を称するようになったというのが西党の由来である。もっとも、日奉(日祀)の音読みである「ニシ」から、とりの説もある。


横沢入りの道標
大悲願寺を離れ、門前の道を東に進み増戸保育園を越えた先の畑地の脇に古い道標がある。そこが石切場へと続く横沢入の谷戸への分岐点である。右手には五日市線が東西に走る。
分岐点に立つ古き道標には、東方面は「五日市」、西は「伊奈 平井」、北は「大久野」と刻まれていた。北方向、横沢入の谷戸を越え、大久野に向かう道が昔からあったのだろう。
なお、ここでiphoneのGPSアプリGeographicaを起動。念のため機内モードにして電波を完全にシャットアウトとして、このアプリのパフォーマンスチェックを始める。こいの地点では位置情報はほぼ問題なし。





横沢入
分岐点を左に折れ横沢入に向かう。小径を進むと眼前に美しい谷戸が開ける。谷戸へのアプローチ入口にビジターセンター、というかボランティアセンターといった建物があり、多くのボランティアの方が谷戸の保全に尽力されていた。 エントランス近くの案内には「横沢入里山保地域; 横沢入は、丘陵に囲まれた都内でも有数の谷戸です。七つの谷戸と中央湿地では、かつては稲作が行われ、里山の環境が保たれていました。しかし、近年は耕作されず、荒廃が進んでいます。
そのような状況の中、東京都は横沢入を「里山保全地域」に指定し、ボランティアの皆さんやあきる野市と共に、自然と人間が共生する身近な自然「里山」を復元し、貴重な動植物の生息生育環境を回復し、保全していくこととしました(後略)」との説明とともに、横沢入の地図があった。
その地図には中央の湿地を挟み、進行方向向かって左手手前から、草堂ノ入、富田ノ入、釜ノ沢、右手手前から下ノ川、宮田東沢、宮田西沢、最奥部に荒田ノ入が記載されており、目的の石切場跡は、富田ノ入の谷戸の北を東西に進む尾根筋に「石山の池・石切場跡」として記載されていた。
石山の池・石切場跡の近くの南北に延びる尾根筋の南端には天竺山(三内神社)が見える。また南北に延びる尾根道を北に向かうと「横沢・小机林道」に合流できそうである。
地図を見て大雑把なルート決定。富田ノ入の谷戸に入り、谷戸を最奥部まで進んで尾根に這い上がるか、途中から尾根に逃げるか、成り行きとし、天竺山の三内神社にお参りし、尾根道を北に進み、横沢入の分岐にあった道標の「大久野」の道筋ではあろう横沢・小机林道に向かうこととする。
横沢入
都下の谷戸で5つしかないAランクの谷戸として保全されることになったこの横沢入は、かつて旧五日市町が大規模宅地開発地として計画しJR東日本が土地を取得したが、住民の環境保全の努力の結果、東京都の里山保全の第一号として決定し、この美しい里山が残された。
今回は、これほどの谷戸が残っているとも思わず、時間的にも富田ノ入の先にある石切場跡を辿るのが精一杯であるが、いつか、この七つの谷戸を彷徨いたいと思う。宮田西沢にも石切場跡が残っているとも言われる。


富田ノ入分岐
中央湿地の中の小径を進むと分岐点に地図と「富田ノ入」の案内がある。 「富田ノ入」には「ここは富田ノ入と呼ばれる谷戸で、田圃が奥まで続いていました。昔は、山の上の石山の池から伊奈石を切り出して運ぶ道でした」とあり、その下に「マムシに注意」とイラスト付きの注意がある。
怖がりのわが身は、さっそく沢登り用の膝下部分をガードする「脚絆」を巻き、近くに落ちてあった適当な木を前方チェックの杖代わりとする。
いつだったか秋川筋の沢でマムシを寸でのところで踏みつけようとしたことがあり、それ以来、より一層マムシにナーバスになっている。GPSアプリ・Geographicaの位置情報もほぼ正確な位置を示している。

富田ノ入の最奥部・尾根道の分岐点
道を左手に折れ少し進むと道標があり、「富田ノ入をへて石山の池」と「尾根道をへて石山の池」との案内。中央湿地で見た地図には「富田ノ入から石山の池」への道は記載されておらず、成り行きで、谷戸最奥部から石山の池とはルーティングしたものの、結構不安であったのだが、道標にはっきりと案内があるのであれば、なんとかなるだろうと谷最奥部経由での道をとることにする。マムシだけがちょっと嫌である。



富田ノ入最奥部
分岐点から先は美しい谷戸の景観。自然観察らしき学生さんたちも見受けられるが、谷戸の最奥部に近づくにつれ、丸太が道に倒れるなど道が荒れてくる。少々不安になるあたりに「石山の池」への道案内があり、気を取り直し先に進む。
谷頭あたりからは荒れた山道を上る。所々にロープが張られており、進む道をリードしてくれる。

尾根道から石山の池へのルートと合流
ジグザグの山道をしばし進み、尾根に這い上がったあたりで前方に道標が見える。下りてきた道が「富田ノ入」、左右が「中央湿地 石山の池」となっている。この尾根道が富田ノ入の入口辺りにあった「尾根道をへて石山池へ」のルートではあろうと思う。一安心。






石山の池
尾根道ルートとの合流点から先に進むと、ほどなく道傍に案内板があり、「石山の池 ここは室町時代から江戸時代にかけて、石臼、墓石などにするため伊奈石を切り出していたところです。今も、割りとった跡(矢穴)がわかる石辺が見られます 東京都」とある。
案内板の先が大きな窪地となっており、そこが石切場跡のようである。露天堀で掘り割っていたのだろから、山塊を掘り込んだ結果、窪地状となったのだろう。最も深く掘り込まれた底には水が溜まっており、故に石山の池と名付けられたのではあろう。
道なりに進むと、ルートは一度窪地底部に下りる。その近くには山神社のささやかな祠が祀られていた。
採石地層
底部から見ても、一見した印象では、予想したほどのスケール感は無かった。思うに石切場はここだけではなかったのではなかろうか。実際、横沢入の宮田西沢にも石切場跡が残るとのことである。
帰宅後チェックすると、採石地層は横沢入の北、平井の日の出団地東から西に延び、横沢入の北尾根を通り最奥部で南に曲がり、天竺山東側で南に大きく曲がって西尾根付近を南に進み、三内で秋川を越え更に高尾山(秋川筋の高尾山で、「有名な」高尾山ではない)の西側を尾根伝いに網代方面まで伸びている、と。
横沢入の伊奈石を採掘してきた石工は、秋川を越え、高尾山そして、いつだったか古甲州道を辿り秋川丘陵を歩いたときに訪ねた網代城跡辺りまで採掘しているようであった。石山池は石切場跡としてはっきりその姿を残す場所ではあるが、石切場は想像の通り、横沢入の南北に大きく広がっていた。納得。

横沢小机林道への尾根筋(横沢西側尾根)に合流
石切場跡の窪地を離れ、天竺山に向かう。道成りに進むと道標があり、左「天竺山」、右「行き止まり」とある。横沢小机林道への尾根道(横沢小机林道)が封鎖されたのだろうか?また同じ道を戻るのもウザったいので、林道へは藪漕ぎ覚悟で「行き止まり」道を進もうか、などと思いながら「天竺山」方向に向かうと、ほどなく、左「横沢・小机林道」、右「天竺山(三内神社)」の標識がある。ここが横沢西側尾根であった。
帰宅後チェックすると、「行き止まり」箇所は、石切場跡から等高線に沿って北東に切り込んだ最奥部であり、道はそこからU字に曲がり横沢西側尾根に向かっていた。

天竺山(三内神社)
横沢西側尾根合流点から高圧線鉄塔・小峰線見遣り先に進むと、ほどなく北が開ける。谷戸に入り込んで以来の開けた景観を楽しむ。そのすぐ先が天竺山山頂。標高301m。
頂上平坦地には三内神社が祀られる。三内神社は山内地区の氏神様。天竺山へと辿った横沢西側尾根が横沢地区と三内地区の境をなしているようである。山裾にも三内神社が祀られる。この社は奥宮といったものだろう。
社伝には多くの神々が登場する。その中に住吉の神々も祀られる。表筒男命、中筒男命、底筒男命がそれである。どのような由来で住吉さんが、とも思うのだが、社伝の中に「享保改元の頃発願して(?)三年村内天竺山の頂上に宮を移す」とある。「三年村」?書き間違い?三内の由来は「山の内>三内」と伝わる。三年村ってなんだろう?

横沢・小机林道に
横沢西側尾根を辿り、ゆるやかな坂を下ると前方に結構広い道が見えてくる。横沢入の荒田ノ入、釜ノ沢の谷戸を越え、釜ノ久保を経て横沢西側尾根に上った箇所である。
沢の水音を聞きながら、林道を秋川街道に向かってゆるやかな坂となった林道を下る。


秋川街道に合流
林道はほどなく秋川街道に合流。合流点のすぐ上に「小机」バス停。「小机」は「小高い台地や平地」に由来する(『五日市の古道と地名』)。
秋川街道を武蔵五日市駅に向かって坂を下る。五日市線の高架を越えた先には「小机坂下」バス停もあった。横沢・小机林道と称する所以である。
この秋川街道はいつだったか武蔵五日市駅から北に辿ったことがある。本来の秋川街道は八王子の本郷横町で甲州街道を離れ、川口川に沿って西に進み小峰峠を越えて秋川筋の武蔵五日市に至る道、川口街道とも八王子道とも呼ばれていた。都道32号・八王子五日市線筋である。
しかし、今歩く秋川街道は都道31号・青梅あきるの線。東京都青梅市から、西多摩郡日の出町を経由してあきる野市五日市に至る道である。この道も秋川街道と呼ばれているようだ。

五日市線・武蔵五日市駅
小机坂を下り武蔵五日市駅に。この道筋は、五日市線・岩井支線が通っていたようだ。岩井支線は、今回の散歩のはじまりである五日市線の武蔵引田駅を下りたときに石灰採掘の勝峰山(かっぽやま)の山肌を眺めたが、その勝峰山の山裾まで主として石灰運搬用の支線が武蔵五日市駅から分岐していた。 貨物は武蔵五日市駅の手前にある三内信号所から分岐していたが、旅客用は武蔵五日市に一度入り、スイッチバックで支線に入っていたようである。
大正14年(1925)に武蔵五日市・岩井駅が開業。昭和46年(1971)に旅客運輸を廃止。昭和57年(1982)には貨物運輸も廃止した。そのうちに廃線跡を辿ってみたいと思う。

本日の散歩はこれでお終い。石工の里の石切場跡をみようと始めた散歩であるが、美しい谷戸に出合ったり、石灰採掘と言えば青梅線と思っていたのだが、五日市線も勝峰山の石灰運搬がそのはじまりであったりと、思いがけないこともいくつか登場した。基本成り行き任せの散歩の妙である。
予想とおりとは言いながら、「羽村・山口」軽便鉄道の廃線歩きは、あっけなく終了した。後は、少々物足りなさが残るであろう廃線歩きを「埋め合わせる」企画ツアーと言ったもの。
堰堤から山口貯水池や狭山丘陵に集まる芝増上寺の石灯籠の「謎」、トトロの森の自然、そして最後は都下唯一の国宝建造物であるお寺さまで最後を締めることにする。


本日のルート:立川駅>横田バス堤>野山北公園自転車道>1号隧道(横田トンネル)>2号隧道(赤堀トンネル)>3号隧道(御岳トンネル)>4号隧道(赤坂トンネル)>5号隧道>藪漕ぎ>谷津仙元神社>湧水箇所>多摩湖周遊道路>フェンスが周遊道路から離れる>周遊道路に戻る>県道55号線・所沢武蔵村山立川線>玉湖神社>6号隧道>西向釈迦堂>山口貯水池堰堤>狭山不動尊>西武遊園地駅>八国山緑地>将軍塚>正福寺>東村山駅

玉湖神社
「羽村・山口」軽便鉄道の最後の隧道(6号隧道)をフェンス越しに見遣り、あっけなく終わった廃線歩きから気分を切り替え、狭山湖周辺のハイキングのガイドとして先に進む。





西向釈迦堂
道脇の少し小高いところに西向釈迦堂。丘陵下にある金乗院・山口観音の一堂宇である。釈迦堂の境内には歌碑が建つとのことだが見逃した。ダム管理事務所の所長を務め、一帯を桜の名所とした方の詠んだ句碑とのこと。「浮寝して 湖(うみ)の心を 鴨はしる」と刻まれる、と。
山口観音は一度訪れたことがある。新田義貞が鎌倉攻めのときに戦勝祈願をしたとも伝えられる古いお寺さま。ダムができる前からこの地にあったのだろうが、現在はマニ車があったり、中国風東屋、ビルマ風パゴダなどが建ち、いまひとつしっくりしないので今回はパスしダム堰堤に向かう。

山口貯水池堰堤
桜の植樹をひとりではじめ、一帯を桜の名所とした所長が勤務したであろうダム管理事務所前を通り山口貯水池堰堤に。西は広大な貯水池、東は柳瀬川が開析した谷筋の眺めが美しい。
狭山丘陵ははるか昔、多摩川が造り上げた扇状地、それは青梅を扇の要に拡がる武蔵野台地も含んだ巨大な扇状地であるが、そこにぽつんと残る丘陵地である。
狭山とは、「小池が、流れる上流の水をため、丘陵が取りまくところ」の意とも言う。この語義の通り、かつては柳瀬川が浸食した狭い谷あいの水を溜め、農業用水や上水へと活用していたこの狭山丘陵の浸食谷を、昭和9年(1934)に堰止めつくりあげたのが狭山湖(山口貯水池)である。
羽村取水堰と小作取水堰より導水され狭山湖(山口貯水池)に貯められた水は、ふたつの取水塔をとおして浄水場と多摩湖に送られることになる。第一取水塔からは村山・境線という送水管で東村山浄水場と境浄水場(武蔵境)に送られ、第二取水塔で取られた原水は多摩湖に供給される。また、多摩湖(村山貯水池)からは第一村山線と第二村山線をとおして東村山浄水場と境浄水場に送られ、バックアップ用として東村山浄水場経由で朝霞浄水場と三園浄水場(板橋区)にも送水されることもある、と言う。

狭山不動尊
堰堤を離れ、次は狭山不動尊に向かう。このお不動さんに訪れたのはこれで三度目である。最初は全国から集めた著名な建造物や幾多の徳川家ゆかりの石灯籠・宝塔が並ぶ、といったそれなりの印象で通り過ぎたのだが、いつだったか辿った清瀬散歩で気になった出合いを深掘りすると、狭山不動にからむおもしろい歴史が登場し、そのエビデンスを確認しに再訪。そして今回は三回目。そのストーリーをパーティの皆さんに「共有」すべくご案内することにした。

経緯はこういうことである;清瀬を散歩しているとき、それほど大きなお寺さまでもないのだが、その境内に誠に立派な一対の宝塔が並び、それは徳川将軍家の正室の墓碑であった。また、境内には15基の立派な石灯籠もある。徳川将軍家の法名や正室、側室の法名が記されている、とのことである。
はてさて、何故に清瀬のこの地に徳川将軍家ゆかりの宝塔(墓碑)や石灯籠があるのだろうと気になったのでチェックすると、なかなか面白い歴史が現れてきた。
ことのはじめは昭和20年(1945)の東京大空襲。徳川将軍家の霊廟(墓所)がある増上寺の大半が灰燼に帰した。廃墟となった霊廟跡は昭和33年(1958)に西武鉄道に売却され、東京プリンスホテルや東京プリンスホテルパークタワーとなる。そして廃墟に散在していた将軍家ゆかりの宝塔や石灯籠は、西武鉄道の手により狭山の不動寺に集められる。
一部は狭山不動寺に再建されるも大半は野ざらし。その敷地も西武球場とするにあたり、宝塔や石灯籠の引き受け手を求めたようである。清瀬のお寺様で見た、宝塔や石灯籠はその時に狭山不動寺から移したものであった。
桜井門
堰堤から狭山不動に向かう。丘陵下の正面から入ることなく、堰堤に続く道から直接お不動さんの境内に入る。奈良県十津川の桜井寺の山門を移築した桜井門から境内に入る。灯籠群脇、道の両側に石灯籠が並ぶ。




青銅製唐金灯籠群
中を先に進むと灯籠群に四方を囲まれ、港区麻布より移築された井上馨邸の羅漢堂が佇む。その裏手の囲いの中にはおびただしい数の青銅製唐金灯籠群。増上寺の各将軍霊廟に諸侯がこぞって奉納したものであろう。その数に少々圧倒される。



石灯籠群
参道を下り本堂に。もとは東本願寺から移築した堂宇があったとのことであるが、不審火にて焼け落ち、現在は鉄筋の建物となっている。その本堂を取り囲むように幾多の石灯籠が並ぶ。銘を見るに、増上寺とある。全国の諸侯より徳川将軍家、そしてその正室や側室に献上され、霊廟や参道に立ち並んだものである。

第一多宝塔
本堂右脇をすすむと第一多宝塔。大阪府高槻市畠山神社から移築したもの。その脇には桂昌院を供養する銅製の宝塔。桂昌院とは七代将軍家継の生母である。





丁子門
 本堂の裏手にも無造作に石灯籠や常滑焼甕棺が並ぶ。将軍の正室や側室のもと、と言う。また、本堂裏の低地には丁子門。二代将軍秀忠の正室崇源院お江与の方の霊牌所にあったもの。本堂左手脇には滋賀県彦根市の清涼寺より移した弁天堂がある。
本堂脇、左手の参道を上ると第二多宝塔。兵庫県東條町天神の椅鹿寺から移築。室町時代中期建立のものである。その右手には大黒堂。柿本人麿呂のゆかりの地、奈良県極楽寺に建立された人麿呂の歌塚堂を移築したもの。


総門
本堂下に総門が建つ。長州藩主毛利家の江戸屋敷にあったものを移した。この門は華美でなく、素朴でしかも力強い。いかにも武家屋敷といった、印象に残る門である。誠に、誠に、いい。この門に限らず、この不動院には徳川将軍家ゆかりの遺稿だけでなく、全国各地の由緒ある建物も文化財保存の目的でこの寺に移されている。



御成門
正門に下る途中に御成門が迎える。これも台徳院霊廟にあったもの。飛天の彫刻があることから飛天門とも呼ばれる。都営三田線御成門駅の駅名の由来にもなっている門である。勅額門も御成門も共に重要文化財に指定されている。







勅額門
石段を下りるとエントランスには勅額門。芝増上寺にあった台徳院こと、二代将軍秀忠の霊廟にあった門である。東京大空襲で残った数少ない徳川家ゆかりの建物のひとつ。勅額門とは天皇直筆の将軍諡号(法名)の額を掲げた門のことである。門の脇には御神木。この銀杏の大木は太田道灌が築いた江戸城址にあったもの、と言う。




西武遊園地駅
次の目的地は「隣のトトロ」の舞台モデル地のひとつと言われる「八国山緑地」。ひとりであれば、多摩湖(村山貯水池)をふたつに分ける村山上貯水池辺りから村山下貯水池の北を村山下貯水池堰堤まで歩くのだが、パーティの皆さんはそれほど歩きたい訳でもなさそうであり、狭山不動の近くにある西武球場駅から西武レオライナーに乗り西武遊園地まで進むことにする。西武園線西武園駅で下車。多摩湖堰堤にちょっと立ち寄る。



八国山緑地
多摩湖堰堤にちょっと立ち寄った後、いかにも西武園への入口といったエントランスの脇に沿って道を進み、八国山緑地の入口に。芝生の丘のむこうに森が見える。案内版によれば八国山の散歩道は何通りかあるが、今回は尾根道ルートを選ぶ。
丘陵を登り尾根道を進む。いつだったか、以前この八国山を訪れたとき、雨上がりでむせかえるような木の香りに圧倒されたことを想い出した。森の香り・フィトンチッドではあった、

トトロの森
この森のことを「トトロの森3号地」と呼ぶ。トトロの森は5号地まであり、八国山の対面、柳瀬川に開析された谷、といっても、現在は宅地で埋め尽くされてはいるのだが、その対岸の丘陵、狭山丘陵の東の端の鳩峰公園に隣接して「トトロの森2号地」。村山下貯水池の堰堤防の手前、清照寺方面に右折した堀口天満神社あたりから入る森が「トトロの森1号地」。狭山湖の北側に「トトロの森4号地と5号地」。1号地から5号地までは幾度かの狭山散歩の下りに辿った。 と、メモしながら確認のためにトトロの森をチェックすると、現在では29号地まで増えていた。直近で狭山丘陵を訪れた以降も、ナショナルトラストにより集まった基金で自然保護地区を増やしていったのであろう。

ナショナルトラスト
はじめて「トトロの森」を歩いた時は、「隣のトトロ」の舞台となったモデル地故に「トトロの森」と称された、といった程度に考えていた。が、実際は狭山丘陵の自然を守る基金集めのキーワードとして、宮崎駿監督の承諾を得た上で「トトロの森」を冠したナショナルトラスト事業のことであった。

ナショナル・トラストとは、市民や企業から寄付を募り、自然や歴史的建造物などを買い取り保全され、後世に残そうとす運動のこと。明治28年(1895)に英国ではじまった。この狭山丘陵ではいくつもの市民団体により「トトロのふるさと基金」として誕生。平成3年(1991)に「トトロの森1号地」を取得、以後も活動を拡げ1998年に財団法人トトロのふるさと財団となって活動を続けている。その結果が29もの取得地となっているのだろう。
宮崎駿監督
これも、いつだったか、清瀬を散歩しているとき、西武池袋線・秋津駅の近くに秋津神社があった、その神社の端から柳瀬川方向を見下ろすと豊かな林が目に入る。林に向かって小径を下ると湧水とおぼしき池、そして美しい雑木林が拡がっていた。林の中を彷徨うと「淵の森」とある。柳瀬川の両岸に拡がるこの森は、市民が自然環境を守るため活動を行っている、とのことである。 会長はジブリの宮崎駿さん。秋津三郎とのペンネームをもつ宮崎さんは、このあたりに住んでいる(いた)のだろう。柳瀬川を遡り、狭山丘陵の現在では「トトロの森」と名付けられた森のあたりを散策し、トトロの構想を練った、とも聞く。

将軍塚
尾根道を進み将軍塚に。将軍塚のあたりが八国山の東の端。八国山の名前の由来によれば、「駿河・甲斐・伊豆・相模・常陸・上野・下野・信濃の八か国の山々が望められる」わけだが、木が生い茂り遠望とはほど遠い。
将軍塚とは新田義貞が鎌倉幕府軍に相対して布陣し、源氏の白旗を建てたことが名前の由来。この地域で新田の軍勢と鎌倉幕府軍が闘った。府中の分倍河原で新田軍が鎌倉幕府軍を破った分倍河原の合戦に至る前哨戦であったのだろう。戦いの軌跡をまとめておく。



新田義貞
元弘三年(1333)、新田義貞は鎌倉幕府を倒すべく上州で挙兵。5月10日、入間川北岸に到達。鎌倉幕府軍は新田軍を迎え撃つべく鎌倉街道を北進。5月 11日に両軍、小手指原(埼玉県所沢市)で会戦。勝敗はつかず、新田軍は入間川へ、鎌倉軍は久米川(埼玉県東村山市)へ後退。
翌5月12日新田軍は久米川の鎌倉幕府軍を攻める。鎌倉幕府軍、府中の分倍河原に後退。5月15日、新田軍、府中に攻め込むが、援軍で補強された幕府軍の反撃を受け堀兼(埼玉県狭山市)に後退。
新田軍は陣を立て直し翌日5月16日、再度分倍河原を攻撃。鎌倉軍総崩れ。新田軍、鎌倉まで攻め上り5月22日、北条高時を攻め滅ぼす。鎌倉時代が幕を閉じるまで、旗挙げから僅か14日間の出来事であった。
いつだったか東村山から小手指まで歩いたことがある。その折りに、久米川古戦場跡、小手指原の古戦場跡を辿ったのだが、小手指原の古戦場跡はそれなりの風情を伝えていたが、久米川古戦場跡は普通の公園といったものであった記憶が残る。

正福寺
将軍塚から次の目的地である正福寺に向かう。八国山の尾根道から成り行きで丘陵を南に下り、新山手病院、東京白十字病院脇を抜ける。「隣のトトロ」の七国山病院のモデルとなった病院とか。
地蔵堂
道なりに進み都下唯一の国宝建造物の残る正福寺に。境内には鎌倉の円覚寺舎利院とともの禅宗様式の代表美を伝える堂宇が建つ。それが都下唯一の国宝建造物である地蔵堂である。上層屋根は入母屋造の?葺き(こけらぶき)で、下層屋根は板葺とのこと。元は茅葺(かやぶき)屋根だった、と。
いつだったかこのお寺様を訪れたときは、地蔵堂を囲む垣根は造り直されて間もないようで、お堂の渋さとシンクロしてはいなかったのだが、今回は風雪に耐え、堂宇と少しは調和するようになっていた。地蔵堂の前に案内。

正福寺千体小地蔵尊像
「東村山市指定有形民俗文化財 正福寺千体小地蔵尊像
所在:東村山市野口町4-6-1 指定:昭和47年3月31日指定第11号
正福寺地蔵堂は千体地蔵堂と呼ばれるとおり、堂内には、多くの小地蔵尊が奉納されています。一木造り、丸彫りの立像で、高さが10-30cm位のものが大部分です。何か祈願する人は、この像を一体借りて家に持ち帰り、願いが成就すればもう一体添えて奉納したといわれます。
指定されている小地蔵尊は約900体です。背面に文字のあるものは、約270体で、年号のわかるものは24体です。正徳4年(1714)から享保14年(1729)のものが多く、奉納者は現在の東村山、所沢、国分寺、東大和、武蔵村山、立川、国立m小金井の各市にまで及んでいます。なお地蔵堂内には1970年代に奉納された未指定の小地蔵尊像約500体も安置されています。平成5年(1993)3月 東村山市教育委員会」
正福寺千体地蔵堂本尊
「東村山市指定有形文化財 正福寺千体地蔵堂本尊
所在:東村山市野口町4-6-1 指定:昭和48年3月31日 指定第12号 地蔵堂の本尊は、木像の地蔵菩薩立像で堂内内陣の須弥壇に安置されています。右手に錫杖、左手に宝珠をもつ延命地蔵菩薩で、像の高さ127cm、台座部分の高さ88cm、光背の高さ175cm、錫杖の長さ137cm。
寺に伝わる縁起には古代のものと伝えられ、また一説には、中世のものとも伝えられていますが、昭和48年の修理の際に発見された墨書銘によって、文化8年(1811)に江戸神田須田町万屋市兵衛の弟子善兵衛の作であることがわかりました。 平成5年(1993)3月 東村山市教育委員会」
地蔵尊建立時期
「寺に伝わる縁起には古代のものと伝えられ、また一説には、中世のものとも伝えられていますが」とあるのは、本尊の延命地蔵菩薩は古代、長谷寺の観音像を像流した仏師であるとか、中世、北条時宗がこの地での鷹狩りの折り、疫病にかかり、夢枕に出た地蔵菩薩に救われたことを感謝して飛騨の匠をして七堂伽藍を造営したといった縁起があるが、その時に地蔵尊を造立した、と伝えられてきたのだろう。なおまた、地蔵堂の建立時期も昭和33年からの解体工事の際に見つかった資料により、室町時代の1407年の建立と推定されるようになった。
千体地蔵信仰
千体地蔵信仰は、平安の中頃からひろまった末世思想の影響のもと、京都を中心に本尊に合わせて千体の小さな地蔵菩薩立像が並べられる幾多のお堂が現れる。功徳を「数」で現そうとして信仰形態。2000年に焼失した大原の寂光院、栂尾高山寺や蓮華王院三十三間堂にその形を残す。
しかしながら、この正福寺の千体地蔵は、上記信仰と少しニュアンスが異なる。案内にあるように、菩薩の功徳を数の多さで現した信仰とはことなり、願いを叶えた衆生の感謝の気持ちが集まった結果の千体、ということであろう。

貞和の板碑
貞和の板碑(じょうわのいたび)東村山市指定有形民俗文化財(昭和44年3月1日指定) この板碑は、都内最大の板碑と言われ、高さ285cm(地上部分247cm)、幅は中央部分で55cmもあります。
貞和5(1349)年のものです。碑面は、釈迦種子に月輪、蓮座を配し、光明真言を刻し、銘は「貞和五年己丑卯月八日、帰源逆修」とあり、西暦1349年のものです。
この板碑はかつて、前川の橋として使われ、経文橋、または念仏橋と呼ばれていました。江戸時代からこの橋を動かすと疫病が起きると伝えられ、昭和2年5月、橋の改修のため板碑を撤去したところ、赤痢が発生したのでこれを板碑のたたりとし、同年8月に橋畔で法要を営み、板碑をここ正福寺境内に移建したとのことです。昭和38年には、板碑の保存堂を設けたそうです。

東村山駅
所定の散歩ルートを終え、最寄りの駅である西武線・東村山駅に。この駅は西武国分寺線と西武新宿線が合わさる。駅の東口に大小ふたつの石碑が建つ。共に東村山停車場関連の石碑である。
東村山停車場の碑
脇の案内に拠ると「東村山停車場の碑  東村山は北多摩地域でも早い時期に鉄道が開通した所です。明治二十二年(1889)に甲武鉄道(現中央線)の新宿と立川間が開通すると、やがてその国分寺と埼玉県の川越を結ぶ川越鉄道が計画されました。そして明治二十七年(1894)に国分寺と東村山間の工事が完成しましたが柳瀬川の鉄橋工事が難行したので、やむなく現在の東村山駅北方に仮設の駅(久米川仮停車場)を置き、国分寺‐久米川仮停車場間で営業を開始しました。翌明治二十八年(1895)鉄橋も完成し国分寺‐川越間が開通するのに伴い、仮設の駅は廃止されることとなりました。しかし、東村山の人々は鉄道の駅の有無は地域の発展に大きく影響すると考え。約二百五十人もの寄付と土地の提供により、同年八月六日にようやく東村山停車場の設置にこぎつけました。
時の人々の考えたとおり鉄道は地域の発展に欠かせないものとなり、その後の東村山の発展の基礎となりました。東村山停車場の碑は、こうした当時の人々の努力を後世に残すため、明治三十年(1897)に建てられたものです。 東村山市教育委員会」とある。
鉄道開通100周年記念碑
小さな石碑は「鉄道開通100周年記念碑」。石には「明治27年(1894年)国分寺 久米川間に川越鉄道が開通して今年(平成6年)で100周年を迎えました。 往時の東村山駅は現在より所沢寄りにあり、久米川停車場と呼ばれておりました。
私共は満100年の節目にあたり 歴史を振り返り、まちのさらなる発展と、これからのまちづくりを考える機会とするため、駅周辺の有志が集まり 写真展 お祭り広場 そして臨時列車「銀河鉄道」の運行など多くの記念事業を実施いたしました。
この事業を記念し未来の市民に継承するため碑をここに建立します。
平成6年9月吉日  鉄道開通100周年記念事業実行委員会」と刻まれていた。
川越鉄道と東村山駅
川越鉄道は、明治22年(1889)に新宿と八王子間に開通した甲武鉄道の支線として国分寺から、当時の物流の拠点であった川越へと結ばれた。川越は江戸の頃から新河岸川の舟運を利用し、川越近郊だけでなく、遠く信州・甲州からの荷を大江戸に送る物流幹線の拠点であった。
この舟運業で潤っていたためでもあろうか、「川越」を冠する川越鉄道ではあるが、その発起人には川越の商人の名は独りとしていない。舟運との競業を危惧したため、とも言われる。
同じく、立派な石碑の建つ東村山にも発起人はいないようだ。それでも駅ができたのは、上でメモした柳瀬川架橋の反対運動がきっかけ。柳瀬川架橋の長さが十分でなく、増水時に洪水を引き起こす原因になると激しい反対運動が起こり、橋梁の設計変更となったため工事が大幅に遅れることになった。そのため柳瀬川手前に暫定駅・久米川仮停車場を設け川越鉄を暫定開業した。
その後、橋梁が完成し、久米川仮停車場は廃止されることになるが、住民は停車場の設置を川越鉄道に陳情し、工事資金と用地を提供することにより、東村山停車場が開業することになった、とのことである。

 ●東村山軽便鉄道
鉄道と言えば、東村山停車場の碑の右手に高層ビルがある。この地は村山貯水池建設のところでメモした東村山軽便鉄道の始点。大正9(1920)年に敷設された。
村山貯水池建設の砂利・資材は、中央線国分寺駅を経由し、川越鉄道で東村山駅まで運ばれ、駅前にあった材料置き場に集められた。軌道の違い故に、材料置き場で東山軽便鉄道に積み替えられた建設資材は南に少し下り、鷹の道(清戸街道)を右に折れ、村山貯水池の北を進み、現在の多摩自転車で右に折れ、武蔵大和駅へと北西に進む。ルートはそこでふたつに別れ、ひとつは村山下貯水池堰堤下に清美橋を渡って進む。もうひとつは宮鍋隧道を抜け貯水池内に入っていたようである。

本日の散歩はこれで終了。羽村・山口軽便鉄道の廃線歩きは、予想通り、あっけなく終了となったが、散歩の最後で、思いもかけず村山貯水池建設資材を運搬した東村山軽便鉄道始点辺りにも出合い、それなりに収まりのいいエンディングともなった。少し涼しくなったとき、今回パスした羽村から横田トンネルまでの羽村・山口軽便鉄道(羽村・村山軽便鉄道でもあり、羽村・村山送水路渠跡でもある)を歩いて見ようと思う。

いつだったか、奥多摩の水根貨物線跡を退任前の会社の仲間と辿ったとき、「廃線」歩きにフックが掛かったのか、どこか近場の廃線を歩きたい、との話になった。
結構な難題である。最初に行った廃線歩きが、廃線歩きの「切り札」といった水根貨物線跡を歩いたわけで、それ以上の「廃線」が都内近郊にあるわけもない。あれこれ考えた結果、軽便鉄道「羽村・山口」線跡に残る隧道を「廃線」歩きのコアとし、それだけでは到底物足らないであろうから、狭山湖、そして「隣のトトロ」のモデルともなった、トトロの森を歩き、最後は都下唯一の国宝建造物である東村山の正福寺で締める、といった「廃線+自然+文化」の合わせ技で難題を切り抜けることにした。
狭山湖多摩湖トトロの森正福寺といった狭山丘陵やその周辺は幾度となく辿っているのだが、狭山丘陵を掘り抜き、通称「狭山湖」、正式には「山口貯水池」建設の土砂や資材を運んだ軽便鉄道「羽村・山口」線跡の隧道には行ったことがなく、一度は行って見たいと思っていたのも、このルートを選んだ主因でもある。
軽便鉄道「羽村・山口」線跡の狭山丘陵を穿つ隧道は6箇所、そのうち4箇所は「自転車道」として整備され通り抜けできるが、残りの二つは閉鎖されており、通り抜けできないようである。今回の散歩の私の興味関心は、この軽便鉄道「羽村・山口」線跡の隧道歩きだけであり、後のルートは同行者へのカスタマー・サティスファクション(顧客満足度)のためのもの。閉鎖隧道が、ひょっとして通り抜けれ得る?との想いも抱きつつ、待ち合わせ場所のJR立川駅に向かった。


本日のルート:立川駅>横田バス堤>野山北公園自転車道>1号隧道(横田トンネル)>2号隧道(赤堀トンネル)>3号隧道(御岳トンネル)>4号隧道(赤坂トンネル)>5号隧道>藪漕ぎ>谷津仙元神社>湧水箇所>多摩湖周遊道路>フェンスが周遊道路から離れる>周遊道路に戻る>県道55号線・所沢武蔵村山立川線>玉湖神社>6号隧道>西向釈迦堂>山口貯水池堰堤>狭山不動尊>西武遊園地駅>八国山緑地>将軍塚>正福寺>東村山駅

立川駅
立川駅で下車し、北口より立川バスで最寄りのバス停である「横田」に向かう。軽便鉄道「羽村・山口」線は多摩川の羽村から現在の米軍横田基地敷地を横切り「横田」バス堤付近へと繋がっていた。
自分ひとりであれば、羽村から歩いたではあろうが、現在ではこれといった遺構もない住宅地を同行者に9キロ弱歩いてもらう訳にもいかず、軽便鉄道が狭山丘陵に接近し、隧道が始まる地である「横田」バス停をスタート地点とした訳である。

横田バス堤
30分弱で横田バス堤に到着。バス停は青梅街道に沿ってある。バス停少し西に戻ると、青梅街道を斜めに横切る道がある。現在は「野山北公園自転車道」となっているが、そこが軽便鉄道「羽村・山口線」の跡地を利用したサイクリングロードである。

野山北公園自転車道
野山北公園自転車道は、現在、羽村で取水され、地下導管によって多摩湖(村山貯水池)に送られる羽村・村山線の送水ルート上を走る。自転車道は米軍横田基地の東から青梅街道を越え、都立野山北・六道山公園の東端辺り、狭山丘陵に開削された6つの隧道のうち、4つ目まで続く。
野山北・六道山公園は、いつだったか3度に分けて狭山湖周辺を散歩したときに出合った。六地蔵を越え、宮戸入谷戸の里山の景観を楽しみながら、箱根ヶ崎を経て狭山湖を一周したことが想い出される。

1号隧道(横田トンネル)
野山北公園自転車道を進み、都道55号とクロスする先にトンネルが見える。それが最初の隧道である1号隧道(横田トンネル)。夕刻にはシャッターが閉じられるようだ。
少し水漏れもする隧道の長さはおおよそ150mほど。照明設備も整ったトンネルを抜けると住宅地が目に入る。地形図で見ると、隧道は130m等高線が南に舌状に突き出た西から入り東へ出ている。出たところは谷戸状になっており、そこに宅地が建っているようだ。

2号隧道(赤堀トンネル)
宅地の間の道を先に進むと、ほどなく二番目の2号隧道(赤堀トンネル)が見える。少々水漏れがする90m強の隧道を抜けると宅地になっている。
2号隧道も1号隧道と同じく、130m等高線が南に舌状に突き出た西から入り東へ出ており、ここも同じく谷戸状となっており、そこに宅地が建っている。

3号隧道(御岳トンネル)
2号隧道を抜けるとほどなく3号隧道に。入口付近は狭山丘陵の森が茂る。このまま丘陵地帯に入るのかと思い、120mほどの隧道を抜けると、なるほどフェンスに仕切られた舗装道の左右は木々が茂る。
そのまま森林に、と葉思えども、緩やかにカーブする道を進むと、車道にあたり、周辺に宅地が見える。隧道には車道にあたる箇所で直角に曲がり進むことになる。

4号隧道(赤坂トンネル)
100mほどの隧道を抜けるとその先に車止めがあり、自転車道はここで終わる。車止めの先で道は左右、そして直進と3方向に分かれる。5号隧道は、道を直進することになる。ここから先は丘陵地の緑に包まれる。




5号隧道
舗装も切れ、左右を草木に覆われた道を進むと5号隧道が現れる。隧道は完全に閉鎖されている。この先は東京都水道局の管理下となっている。ひょっとして、立ち入り可能?などと思ってはいたのだが、ここで行き止まり。内部は泥濘となっており、入れたとしても靴はグズグズとなるだろう。軽便鉄道「羽村・山口」線の廃線歩きは、あっけなく終了した。

軽便鉄道「羽村・山口線」敷設までの経緯
ところで、いままでの廃線を軽便鉄道「羽村・山口線」とメモした。確かに横田トンネルから先は軽便鉄道「羽村・山口線」ではあるのだが、この軽便鉄道「羽村・山口線」の敷設ルートはふたつのレイヤーが関係している。ひとつは村山貯水池建設(多摩湖)にともなう水路渠建設の土砂・資材を運んだ軽便鉄道「羽村・村山線」であり、もうひとつは、その軽便鉄道「羽村・村山線」の路線を活用し、山口貯水池(狭山湖)建設に必要な箇所まで路線を延長し土砂や資材を運んだ軽便鉄道「羽村・山口線」である。ダム建設とそれにともなう二つの軽便鉄道を簡単にまとめておく。

村山貯水池建設と軽便鉄道「羽村・村山線」
明治の御一新により都となった東京は水問題に直面する。ひとつは人口増大に伴う水不足、そしてもうひとつは水質汚染である。折しも明治19年(1886)コレラが大流行。玉川上水を水源とし、市内(明治22年(1889)には現在の23区が東京市となった)に張り巡らされた木樋の腐朽や下水流入による水質汚染を防ぐべく、明治23年(1899)には現在の新宿西都心に淀橋浄水場の建設が計画され、明治31年(1898)、鉄管による近代的水道建設が竣工する。
この計画により水質汚染問題は改善されるも、急増する人口の水需要に対応できず、明治45年(1912)には玉川上水の他に水源を求め、検討の結果、村山貯水池の建設が決定され、大正2年から8年(1913~1919)の継続事業として施行され、大正13年(1924)に村山上貯水池が完成。昭和2年(1927)には村山下貯水地地が完成。昭和4年(1929)には、村山貯水池の水を水道水として東京市民に送る境浄水場施設補強、和田堀浄水場、境浄水場間の送水管整備などが完成した。
因みに、何故に村山貯水池を上と下のふたつに分けて建設したのか気になった。粘土を核に盛り土する当時の建設技術では、二つ合わせた巨大な貯水池の水圧に耐えうる堰堤建設が困難だったからかな?などと思いながらあれこれチェックすると、その要因は丘陵地の高低差を調整する必要があったため、とのようである。

羽村・村山線(導水渠)」の建設
村山貯水池に送る原水は羽村で取水し村山貯水池に導水する。「羽村・村山線(導水渠)」と呼ばれるこの導水路は全長8.6キロ。3つの隧道と二つの暗渠で工事現場と結ばれる。路線は羽村取水堰から第三水門まで開渠(300m)>4.4キロの隧道(青梅線・八高線・横田基地・グリーンタウン)>第一暗渠(2.4キロ)が横田の空堀川まで(現在の野山北公園自転車道路、横田トンネル手前まで)>第二隧道(647m)>第二暗渠(73m)>第三隧道(564m)と進み村山上浄水池引入導水路に接続する。
軽便鉄道「葉村・村山線」
この導水渠工事に必要な資材運搬のため建設されたのが軽便鉄道「葉村・村山線」である。大正8年(1919)起工、9年(1920)完成のこの軽便鉄道は大雑把に言えば、羽村から横田トンネル手前までがその路線であるが、正確には小作で砂利を採取>多摩川を横断橋で渡る>1キロの専用線>青梅線で福生駅まで>東京市専用軌道で「東京市材料置場」へ運ばれた、ということではあるので、軽便鉄道「葉村・村山線」の起点は福生の「東京市材料置場」とされる。
そのルートは「東京市材料置場」>第一隧道の羽ヶ下斜坑(現在の羽村市水木公園・駐車場)>その先は葉村・村山線(導水渠)に沿って第一暗渠の終わる横田トンネル手前まで続いていた。
丘陵手前で終点となる軽便鉄道「羽村・村山線」は、その先の村山上浄水池引入導水路まで続く第二隧道(647m)>第二暗渠(73m)>第三隧道(564m)> 村山上浄水池引入導水路の建設に必要な砂利・資材は、馬などを利用し運んでいた、と言う。
軽便鉄道「葉村・村山線」は、軽便鉄道とは言うものの、写真で見る限りではトラックが線路軌道に乗った木製のトロッコ数台を曳いている。そのどう見てもトラックのような形の駆動車を機関車と呼んでいたようである。
なお、この軽便鉄道「葉村・村山線」は導水路渠の敷設資材運搬のために建設されたもので、村山貯水池本体の砂利・資材の運搬は(砂利)>青梅鉄道>中央線>川越鉄道(現、西武鉄道)>(砂利・資材)>東村山で東村山軽便鉄道(東京市軽便鉄道)のルートで貯水池堰堤へと運ばれたとのことである。

山口貯水池建設と軽便鉄道「羽村・山口線」
昭和4年(1929)に完成した村山貯水池であるが、その建設中には既に人口増大に伴う水不足が予見され、大正14年(1936)には対策が検討され、結果、村山貯水池の北側に隣接する、三方を丘陵に囲まれた袋地の口元の上山口に堰堤を築く山口貯水池建設が計画される。
建設は昭和2年(1927)から昭和8年(1933)の継続事業とされ、昭和3年(1928)着工、昭和4年(1929)堰堤敷掘削、盛土工事は昭和5年(1930)に着工し堰堤工事は昭和7年(1932)に竣工し通水、昭和9年(1934)貯水池工事が完了する。
山口貯水池の原水は村山貯水池の導水渠「羽村・山口」線の終端の開渠部分(引入導水路)に引入口を設け、山口貯水池の堰堤付近まで延長し導水した。全長10.4キロ。村山貯水池の導水渠「羽村・山口」線と共用したためだろうか、多摩川の水量豊富な時期に導水・貯水することにした、とのことである。昭和5年(1930)7月着工、昭和7年(1932)に竣工。なお、現在は昭和55年(1980)に完成した小作取水堰(羽村取水堰の2キロ上流)より多摩川の道を取り入れ、地下導水管で山口貯水池まで水を送っている。
軽便鉄道「羽村・山口」線
で、やっと今回歩く軽便鉄道「羽村・山口」線のまとめ。この軽便鉄道「羽村・山口」線と前述の軽便鉄道「羽村・村山」線の最大の相違点は、「羽村・村山」線が村山貯水池への導水渠の工事に関係した砂利・資材の運搬であったのと事なり、「羽村・山口」線は山口湖建設に必要なすべての砂利・資材の運搬に使用されたということである。
ルートは羽村取水堰から横田までの8.7キロは羽村・村山線導水渠上に軌道を敷設、その先、横田より山口貯水池堰堤南端までの3.9キロは羽村・村山線(導水渠)沿いに進み、村山上貯水池を抜け、山口貯水池堰堤まで続いた。工事は昭和3年(1928))起工、昭和4年(1929)中頃完成した。
村山貯水池の本体工事の砂利・資材は前述の通り、幾つもの路線、いくつもの民間業者を経て村山から東村山軽便鉄道で工事現場に運ばれたが、効率が悪かったようで、敷設工事は東京市の直轄事業としたとのことである。

軽便鉄道「羽村・山口線」のルート
砂利採取場>砂利運搬路>砂利運搬桟橋>インクライン>川崎詰替所>石畑交換所(横田基地内)>岸交換所>残堀砕石場>(山王森公園あたりで引き込み線から本線に)桃ノ木交換所>横田交換所(村山市第一中学校北)>横田車庫(横田児童公園)>(材料運搬軌道)>交換所>車庫

その後の東京の水道事業
この村山貯水池、山口貯水池の建設を「第一次水道拡張事業」と称するが、この事業が完成する前より、水不足が予見され、「第二次水道拡張事業」が計画される。目玉は奥多摩の小河内ダムと東村山浄水場の建設。昭和11年(1936)着工するも、戦時で中断。昭和23年(1948)再開し昭和32年(1957)の竣工式。昭和35年(1960)には東村山浄水場への通水が開始された。
続いて、「第三次水道拡張計画」。昭和15年(1940)、利根川を水源とする第三次水道拡張計画答申されるも、戦争のため延期され、昭和39年(1964)起工。同年、荒川の水が東村山浄水場に導水、昭和40年(1965)、利根川と荒川を結ぶ武蔵水路も完成した。
この武蔵水路の完成により、利根川・荒川の水と多摩川の水を相互に利用できるようになった。現在、東村山浄水場と朝霞浄水場の間には、原水連絡管が設置され、利根川・荒川の水と多摩川の水を「やり取り」できるようにもなっている。東京の水のネットワークは時代と共に拡大しているわけである。

藪漕ぎ
5号隧道前で行き止まり。左右は木々に覆われている。道を戻るのも「うざったい」。地図を見ると、隧道上には多摩湖周遊道路が通っており、その手前、右手の丘陵を登った辺りに谷津仙元神社が見える。特段の道はないけれど、藪漕ぎし谷津仙元神社を目安に丘陵を登れば多摩湖周遊道路に行けそうに思う。
ということで、適当な所から成り行きで藪漕ぎ開始。パーティの皆さんは、木々を踏みしだき、道なき道を力任せで進む藪漕ぎは初体験。ちょっと戸惑ったようだが、谷津仙元神社までそれほど距離もなく、木を掴みながら何とか上ってきた。

谷津仙元神社
谷津仙元神社は誠にささやかな社であった。社殿は文化3年(1806)の再建、と言う。社の石段下に案内。案内には、「谷津仙元神社富士講 武蔵村山市指定無形民族文化財 指定十八号 平成13年12月10日指定
谷津仙元神社は、富士講を信仰行事とする都内でも数少ない団体です。武蔵村山の谷津地区に富士講を伝えたのは星行で、谷津の農民の山行星命(俗名藤七)が直接教えを受けました。谷津富士講が興ったのは、寛政から文化期であったようです。社の裏の小高い富士塚は、登山できない人達がここに登り富士山を遥拝しました。谷津富士講の主な行事は、1月1日の「初読み」、5月5日の「本祭り」、冬至の日の「星祭り」があります」とあった。
社裏の小高い塚は富士塚であった。富士塚の上には「浅間神社」の小祠があるようで、浅間>仙元と変わったのだろう。同じようなケースが、いつだったか、東日原から秩父に抜けた峠にあった。峠の名は仙元峠。そこには「浅間神社」の小祠が祀られ、富士に行けない村人がそこから富士を遙拝した、という。また、その峠の「仙元」の意味は「水の源」とあった。「谷津」も丘陵に挟まれた地で、その最奥部には崖下から湧水が涌くことが普通である。「谷津」との関連で浅間が仙元へと転化したのだろうか。単なる妄想。根拠なし。

富士講
散歩の折々で富士塚に出会う。散歩をはじめて最初に出合ったのが、狭山散歩での「荒幡富士」と称される富士塚であった。また、葛飾(南水元)の富士神社にある「飯塚の富士塚」や、埼玉・川口にある木曾呂の富士塚など、結構規模が大きかった。
富士講は江戸時代に急に拡大した。「江戸は広くて八百八町 江戸は多くて八百八講」とか、「江戸にゃ 旗本八万騎 江戸にゃ 講中八万人」といった言葉もあるようだ。
富士塚は富士に似せた塚をつくり、富士に見なしてお参りをする。富士信仰のはじまりは江戸の初期、長谷川角行による。その60年後、享保年間(17世紀全般)になって富士講は、角行の後継者ふたりによって発展する。ひとりは直系・村上光清。組織を強化し浅間神社新築などをおこなう。もうひとりは直系・旺心(がんしん)の弟子である食行身禄。食行身禄は村上光清と異なり孤高の修行を続け、富士に入定(即身成仏)。この入定が契機となり富士講が飛躍的に発展することになる。
食行身禄の入定の3年後、弟子の高田藤四郎は江戸に「身禄同行」という講社をつくる。これが富士講のはじめ。安永8年(1779)には富士塚を発願し高田富士(新宿区西早稲田の水稲荷神社境内)を完成。これが身禄富士塚のはじまり、と伝わる。その後も講は拡大し、文化・文政の頃には「江戸八百八講」と呼ばれるほどの繁栄を迎える。食行身禄の話は『富士に死す:新田次郎著』に詳しい。

湧水箇所
谷津仙元神社を離れて多摩湖周回道路へと向かう。その出合い箇所にふたつの石柱が建ち、その前に涸れてはいるが湧水箇所が目に入る。石柱には「金命水」、「銀命水」と刻まれる。







多摩湖周遊道路
多摩湖周遊道路に出る。両側は高いフェンスで囲まれており、5号隧道の出口方面へと入り込める箇所は見あたらない。残念ながら5号隧道出口確認は諦め、 道に沿って整備されたサイクリングロードを見遣りながら先に進む。






フェンスが周遊道路から離れる
しばらく進むと多摩湖を囲む、というか東京都水道局の管理地域を囲むフェンスが周遊道路から離れ、右に向かう。フェンスに沿って道があるかどうか不明だが、大きく弧を描く周遊道路と合わさっており、うまくいけばショートカットになる。後から地図で見ると、このフェンス沿いの道が東京都と埼玉県の境となっていた。





周遊道路に戻る
フェンスに沿って進むと周遊道路に出合った。出合ったのはいいのだが、結構高い石垣に阻まれる。フェンス横の石垣に木が立て掛けられている。誰かが、この石垣を登るため置いたものだろう。取り敢えず木に取り付いてみるが、微妙に石垣上端へと取り付きが足りず、さて、と思っていると、その隙に木登りなど勘弁と思ったパーティ諸氏が石垣下を進み、周遊道路に簡単に登れる箇所を見付け、さっさと周遊道路に登っていった。私も後を追う。



県道55号線・所沢武蔵村山立川線
周遊道路を進む。この道も東京都と埼玉県の境を画する。しばらく進むと周遊道路は県道55号線・所沢武蔵村山立川線と併走する。これから山口貯水池(狭山湖)堰堤まで、山口貯水池と村山貯水池を隔てる丘陵地の尾根道を進むことになる。

途中、水道局管理地に入るゲートと、導水管が村山上貯水池に注ぐ辺りに続く巡視路といった道が見える。中に入りたい、歩きたいとは思えども致し方なし。
勝楽寺
道を境に、東京都側の地名は「多摩湖」、一方、埼玉県側は「勝楽寺」とある。山口貯水池の引入水路、引出水路の用地は埼玉県の山口、宮寺、元狭山、吾妻、東京都西多摩郡の石畑、北多摩郡の村山、東村山の7ヶ村がその対象となったとのことだが、貯水池中心部は山口村。勝楽寺は上山口とともに山口村の大字の地名であった。
湖底に沈む前は狭山丘陵の谷奥の山口村は所沢から青梅、八王子へと抜ける道筋で、村民は農業や所沢絣・飛白(かすり)の生産に従事していた、とのことである。

玉湖神社
東京都水道局の管理ゲートを過ぎ、村山上貯水池と山口貯水池を隔てる丘陵が最も狭まった辺りに玉湖神社。「たまのうみ」と詠むようだ。コンクリート造りの社は昭和9年(1934)竣工したもの。東京都水道局の職員が、貯水池には水神様が必要でしょう、ということで昭和10年(1935)に府中の大国魂神社の宮司により遷宮式が執り行われた、と言う。




6号隧道
玉湖神社を少し村山貯水池に向かって下る。5号隧道を抜けた軽便鉄道「羽村・山口線」の路線が、玉湖神社の少し南を進み6号隧道に続く、と言う。 成り行きに下ると、如何にも路線敷地跡といった風情を残す道筋がある。5号隧道方面は直ぐ閉鎖され行き止まり、と言う。山口貯水池へと向かう6号隧道方面に進むが、こちらも直ぐにフェンスで行く手を遮られる。県道55号を潜る線路跡の先に6号隧道が見えるが、ここで行き止まり。
5号隧道から先は線路跡に沿っては進めないだろうとは思っていたので、予定通りといえばそれまでだが、少し残念ではある。

予想通りとはいいながら、廃線歩きはあっけなく終えた。今回のメモはここまで。残りのフォローアップ、というか「顧客満足度向上」のルートメモは次回に廻す。
先日、八菅修験の行場を八菅山から4番行場である塩川の谷へと辿った途中、半僧坊で知られる勝楽寺の対岸、中津川が大きく湾曲する田代地区に環流丘陵が残ることを知った。好奇心に駆られながらも、そのときは塩川の谷に有るという金剛瀧や胎蔵瀧探しのことで頭は一杯。とてもではないが環流丘陵を辿る気持ちの余裕はなかった。
で、今回気分も新たに田代地区の環流丘陵を見に出かける。環流丘陵とは流路の変化によって取り残された丘陵のこと。地形図でチェックすると、成るほど、田代地区の沖積地の真ん中に独立した丘陵がぽつりと残る。山地の谷間を蛇行する流れを「穿入蛇行」と呼ぶが、この地において何らかの原因による流路の変更によって旧流路と新たな流路の谷の間に丘陵が取り残されたのではあろう。 アプローチは環流丘陵を俯瞰できればと、中津川の崖面上の中津原台地から田代地区へ下るべし、といった大雑把なルートを想い散歩にでかける。



本日のルート;小田急線・本厚木駅>愛川バスセンター>県道65号>県道54号>桜坂>姫の松>地神社>横須賀水道道路・半原系統>角田八幡神社>市杵島神社>中津川台地の高位段丘面>中央養鶏場>辻の神仏>三増合戦記念碑>志田南遺跡出土遺物>首塚>胴塚>田代の環流丘陵>船繋場跡>「水道みち」の石碑>平山橋>中津神社>馬渡橋>木戸口坂>清雲寺

小田急線・本厚木駅
小田急線に乗り本厚木駅下車。バスは半原行きか、愛川バスセンター行のどちらか成り行きで乗ろうと本厚木バスセンターに向かうおうとすると、丁度本厚木駅前のバス停に「愛川バスセンター」行きが来た。
愛川バスセンターといえば、先日、金剛瀧や胎蔵瀧のあると言う塩川の谷の大椚沢や小松沢に冠する資料(「あいかわの地名 半原地区)を求め訪れた愛川図書館の近く。とりあえず終点までバスに乗り、そこから中津川方面へと向かうことにする。

○木売場
本厚木駅を出たバスは中津川水系の小鮎川と荻野川が合流した流れに架かる橋を渡る。その先、国道129号とクロスする手前には「木売場」といったバス停もある。厚木の地名の由来は木材を集める「アツメギ」との説もある。かつて水量豊かであった中津川水系の半原や宮ヶ瀬から筏を組んで流した木材をこの地で集めていたようである。

○才戸橋
国道129号に合流したバスはすぐに左に折れ、北西に向かって中津川と荻野川に挟まれた沖積地を進む。先に進むと沖積地から鳶尾山の山裾へと進み、宿原で右に折れたバスは山王坂を下り、睦合北公民館前から再び中津川に沿った沖積地を北上し、「才戸橋」を渡り中津川と相模川に挟まれた中津原台地へと入る。

現在の才戸橋の辺りに、往昔「才戸の渡し」があった、とのこと。「才戸の渡し」は北は武蔵国八王子から南は大住郡矢名村(現秦野市)をつなぐ矢名街道の渡しのひとつであり、矢名街道にはこの他、相模川を渡る「上依知の渡し」があり, 江戸時代には大山参詣道として大変な賑わいをみせたとのことである。 「才戸」の由来は、はっきりとはしないのだが、「サイト」は「斎灯」と書き、「サイトバライ」に拠る、との説もある。「「サイトバライ」こと、左義長(とんど、とんど焼き、どんど、どんど焼き、とんど(歳徳)焼き、どんと焼き、さいと焼)は、小正月に行われる火祭りの行事のことを意味する、とか。どんと焼き、さいと焼が行われていた場所であったのだろう、か。

愛川バスセンター
中津川台地へと移ったバスは、美しく弧を描いた崖線下の中津川氾濫原を進むが、坂本のあたりから台地へと上る。その地点は大きく分けて3段からなる中津原段丘面の中位面である。ハスは先日八菅神社を訪れた折りに下車した「一本松」バス停を越え、終点の相川バスセンターに到着する。

■中津原台地
相模原台地の西端、相模川と中津川に挟まれた中津原台地は高位面、中位面、低位面の3段階の段丘面よりなる。高位面は愛川町三増(海抜約150m)、中位面は中津から上依知あたりまで。内陸工業団地が立地する一帯である。下位面は下依知から国道129号と246号がクロスする金田(海抜約30m)。台地の東西端、台地が相模川・中津川に臨むところは急崖であるが,段丘面はおおむね平坦で、おおよそ南北10キロを細長くなだらかに下る。この3段の段丘面は3回に渡る土地の隆起によるものと言われる。





○相模原台地
相模原(相模野)台地は、多摩丘陵と相模川に挟まれた地域に広がる台地。相模川中下流部の左岸に位置し、主に相模川の堆積作用によって形成された扇状地に由来する河成段丘である。大きく分けて3~5段、詳細には十数段の段丘面に区分される。台地の大部分は古い順に相模原面群(高位面)、中津原面(高位面)、田名原面群(中位面)、陽原(みなはら)面群(低位面)に分けられる。(中略)台地上は相模川によって運ばれた堆積物だけでなく、富士山や箱根山などからの噴出物を中心とする火山灰層(関東ローム層)によって覆われている(Wikipediaより)。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)


桜坂
終点の愛川バスセンターから中津原段丘面と中津川とのギャップを感じるべく県道65号を北に少し進み、箕輪交差点を左に折れ県道54号を台地端の崖線に向かう。成り行きで西に向かうと崖線上から中津川へと下る坂道に出る。崖下の下之街道に下る坂は結構急勾配の坂道である。比高差も20m以上もありそうだ。
その坂道の取っ付き部に案内板。この坂道の名は「桜坂」とのこと。説明板によると古くは「刺坂」と呼ばれていたそうで、刺はあて字で本来は焼畑耕作を意味する「サス」とのことです。その昔、字蔵屋敷あたりは焼畑地であり、そこへ通じる坂道ということで「サス坂」となった。
また、小沢城の姫が落城に際し、身をはかなみ坂下の大沼に投身した。そのおり、悲嘆にくれた供の者がここで胸を刺して自害した。それで刺坂の名が起こったのだと言う伝説もあるそうです。傾斜の急なこの坂は古来より人や馬が災禍をこうむることが多かったので、不吉な刺坂の名を忌み、明治36年桜坂に改称されました。愛川町教育委員会」とあった。
(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

姫の松
坂を下ると道脇に合掌タイプの双体道祖神が祀られている。程よく風化しいい感じのお地蔵様となっている。手を合わせて道を進むと高峰村役場跡の石標があり、その斜め前に「姫の松」の碑が立っていた。

説明板によると、「かつてここは底なしと呼ばれた大沼で岸辺には姫の松という老松があったそうです。遠い昔、相模川べりの小沢城には美しい姫がいて、戦国乱世で落城した際、悲運にみまわれた姫は侍女ともども城を出て、ここまで逃れてきたが身の行く末をはかなんで自ら大沼に身を投げて果てたとのこと。姫の松はそのとき岸辺につきさしてあった姫の杖が根付いたとも、姫の死を憐れんだ土地の人が植えたものとも伝わる。現在の松はその遺名を継ぐ樹である (愛川町教育委員会)」とあった。

○高峯村
高峰村(たかみねむら)は、かつて愛甲郡にかつてあった村である。明治22年(1889)4月1日 - 町村制が施行され、角田村と三増村が合併し高峰村となったが、昭和30年(1955)1月15日に愛川町(旧)と合併し、愛川町となった。

○小沢古城
相模川中流域、県道54号に架かる高田橋が相模原市田名と愛川町を結ぶ愛川側の丘陵上に小沢城と小沢古城がある。この地は八王子と小田原をむすぶ街道の相模川渡河地点であり、街道監視の要衝として重要な地点であった。
小沢古城は平安末期に横山党の小沢氏が館を築いたことに始まる。松姫は小沢古城の主、小沢太郎の息女とのこと。その小沢氏は和田合戦において横山党とともに滅び、その後を大江氏が領したとのこと。室町になると小沢城は長尾景春の家臣金子掃部助がこの城に入り、扇谷上杉氏の太田道灌と戦い落城。その後北条氏が街道監視の出城として機能した、と。
時代はずっと下って戦後。農地解放で沼が小作人に田圃になる。が、その持ち主のひとりが怪我をすると、占いによりその因が松姫の供養が足らない故とのこと。既に沼がどこにあったかも不明であるため、碑をたて松を植え松姫を供養することになった、とか。

地神社
松姫の碑から少し進んだところに地元の案内の地図があった。そこに「地神社」といった社が目に入った。「地」などと素朴な名称の社が如何なるものかと訪ねることに。崖下の畦道を進もうとしたのだが、なんとなくアプローチが不安になり、結局桜坂を上り直し台地面から下ることに。
坂を戻り、ヘアピンの急坂をくだり「地神社」に。予想以上のしっかりした構えの社であった。案内によれば、「神社改築の誌:昭和47年(1972)、集中豪雨により裏山が土砂崩れ。中宮大破。人畜に被害なきは地神さまのご加護、犠牲によると箕輪地区の住民感謝。裏山の砂防工事を3年に渡り完成。その後も再建の声高く浄財をもとに、昭和50年5月本格的に再建着手。9月に完成」とあった。
縁起など不明のためチェックすると、「地神社」という社は全国にあるようだ。社の祭神は埴山姫命(はにやまひめのみこと)。伊邪那美命の大便から生まれたとされる。「埴」は粘土、それも祭具を造る土であるが、大便から赤土を連想した命名であろう、か。とはいうものの、埴山姫命は『日本書紀』での表記であり、『古事記』には「波邇夜須毘売神」と表記される。ともあれ、土の女神、ひいては、田畑の神、陶磁器の神とされる。
神社の脇の坂に「宮坂」と刻まれた石碑。地神社から箕輪辻付近に至る坂であり、名前は神社に由来する。

横須賀水道道路・半原系統
地神社を離れ往昔、中津川の氾濫原ではあったであろう耕地を中津川方面に出る。そこには一直線の道。「横須賀水道道路」である。横須賀の海軍工廠をはじめとする海軍施設や艦船の補給水として用いられた。
Wikipediaによれば、「日露戦争後の軍備増強の結果、走水系統では供給が間に合わなくなった。海軍当局は、愛甲郡愛川町半原石小屋地区の中津川に取水口を設け、約53km離れた横須賀まで20インチの鋳鉄管を使用し、落差約70mの自然流下による半原系統の建設工事を1912年(明治45年 / 大正元年)に着手、1918年(大正7年)10月に通水開始した。(中略)
今日この水道管が埋設されている土地は横須賀水道道、横須賀水道路、横須賀水道みち、あるいは単に水道みちと呼ばれ、国土地理院の地形図にも「横須賀水道」として表示されている。ただし水道専用橋の上郷水管橋を始め、至る所で通行不能な場所が存在している。
この半原系統の経路は詳細な市街図で以下のように容易に辿ることができる。 愛川町の宮ヶ瀬ダム近くにある半原浄水場から中津川沿いを通り、内陸工業団地のそばを経由して厚木市に入り、国道129号・国道246号をほぼ一直線に横切り、向きを変えて相模川を上郷水管橋で渡る。
海老名市に入るとアツギの敷地を切り取り海老名SAの北側(吉久保橋)を通り、綾瀬市まで起伏の上下に関わらずほぼ一直線に通り、藤沢市に入るといすゞ自動車の敷地内を通り抜けて、国道1号を越えるまで藤沢市内を再びほぼ一直線に通る。鎌倉市に入り由比ヶ浜駅の前を通り水道路交差点を過ぎたあたりから横須賀線と並走して逗子市を通り、横須賀市の逸見浄水場に至る。なお、この半原系統の取水は2007年(平成19年)より停止されている」とある。
説明を補足すると、走水とは京急・馬掘海岸駅近くの走水海岸の辺りにある湧水池。また、半原系統の取水は年平成19年(2007)より停止されている、とあるが、半原取水口、半原沈殿地や逸見浄水場は現存しており、大正10年完成の逸見浄水場内には、平成17年(2005)7月12日、国指定の有形文化財に登録された施設が残っている。

○水道坂・弁天坂
横須賀水道道に立ち、一直線の上流と下流を眺める。下流の上熊坂方面には上りの坂が見える。水道坂と称する。また、上流の「中の平」方面にも弁天坂が上る。上の説明で横須賀水道道は自然流下での通水とあったが、このようなアップダウンがあるところはどのようにしているのだろうとチェックすると、開水路では順勾配(ずっと下り)である必要があるが、管路(管水路)の場合は入口より出口の方が低ければ良い、ということで、通水途中での多少のアップダウンは問題ないようである。
巷間伝わるに、中津川の水は道志川の水とともに、「赤道を越えても腐らない」水であった、とか。ために日本海軍が重宝し、この軍港水道ができたとのことであるが、同様の話が横須賀と同じく海軍拠点となる鎮守府の呉にも伝わるようである。

角田八幡神社
水道道を進み、崖線下を湿地を避けて通していたのであろう下之街道が右手から合流する辺りを越え、弁天坂を上ると「中の平」の集落に角田八幡神社がある。鳥居をくぐり、ケヤキ、カゴの木、銀杏の巨木、また、愛川町天然記念物指定のタブノキ(途中で折れている)などの巨木の繁る境内に。神仏集合の名残か鐘楼も残る。
社殿にお参り。社の祭神は誉田別命 ( ほむたわけのみこと )。15代応神天皇のことである。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると角田村の鎮守で、神体は銅像および円石で、天正19年(1591年)に社領二石の御朱印を賜ったとのこと。東照宮が境内摂社にあったが、御朱印と関係あるのだろう、か。

それはそれとして、この社の裏手には江ノ島の岩屋に繋がる穴があると伝わる。穴がどこにあるのか案内もなく不明であるが、八菅修験の行者道でメモしたように、大山修験の行所である塩川の谷には、江ノ島の洞窟と繋がるとの伝説がある。中津川の川底には洞窟があり江ノ島の洞窟と繋がっており、江ノ島の弁天さまが地下洞窟を歩き、疲れて地表に出て塩川の滝の上流の江ノ島の淵まで歩いていった、との話であるが、この穴も弁天様が疲れて地表に出た縁起の一環ではあろう、か。軍港水道道に突然「弁天坂」が登場したものこの縁起に関係したものだろう、か。
ついでのことではあるが、軍港水道道は八幡さまの先で道から離れ、一度台地の方に向かい、少し進んで角田大橋の少し先で再び水道道路に戻る。昔は道路もなく、地盤も弱かったため水管は迂回して通したとのことである。

○福泉寺
境内北端にはお堂があり福泉寺とあった。曹洞宗のお寺さま。愛甲郡制誌には開創は文禄2年(1593)とある。入口に石標があり、ここには角田学校(養成館第一支校)跡とのこと。明治6年(1873)に寺の建物を借りて開校、明治27年(1894)高峰小学校に統合しまた。境内片隅には地蔵菩薩と光明真言供養塔が並んでいる。

市杵島神社
角田大橋を越え弁天坂を下った辺りに市杵島神社。ささやかなる祠が祀られる。 祠の脇の案内には、「伝説 弁天社と弁天淵 ここの裏手の中津川の淵底は、江の島の弁天さまの岩屋まで穴で通じているうえ、なお、その穴は西にのび、半原、塩川滝上の江の島淵の底まで至っているという。
むかし、江の島の弁天さまが、岩屋から穴伝いに江の島淵に向われたとき、あまりにも疲れたので、ひとまずここの淵に浮かびあがりからだを休めた。そのおり、弁天さまのお姿を見つけた村人たちは「もったいないことだ」と伏し拝み、淵の上の森に社をたててお祀りしたという。これが、今の弁天社で、裏手の淵を弁天淵と呼ぶようになった。
また、この淵が江の島に通じていることから、満潮のときには海の潮がここまでさしてくるといわれている。(愛川町教育委員会)」とあった。

上で角田八幡の縁起でも江ノ島の弁天様の逸話をメモしたが、どうやらこの社が弁天様縁起の本家本元のようである。市杵島神社(いちきしまじんじゃ)、または市杵島姫神社(いちきしまひめじんじゃ)は、宗像三女神の市杵島姫神を主祭神とする神社であり、市杵島姫神は仏教の弁才天と習合したことから、通称で弁才天(弁財天、弁天)と呼ばれている神社が多いと(Wikipedia)言うことであるから、筋は通っている。弁天坂の由来も、角田八幡ではなく、こちらの社のものかとも思い直す。江ノ島から歩いてきた弁天様は一度この地の「弁天淵」で姿を現し、再び中津川の川底に続く洞窟を塩川の谷の「江ノ島淵」まで辿っていったのだろう。

○江ノ島の弁天さま
弁天様は七福神のひとりとして結構身近な神として、技芸や福の神、水の神など多彩な性格をもつ神様となっているが、元々はヒンズー教のサラスヴァティに由来する水の神、それも水無川(地下水脈)の神である。弁天様が元は地下水脈の神であったとすれば、江ノ島の弁天様が中津川の川底を歩いてきたという話はそれなりに筋の通った縁起ではある。
この縁起の意味するところは何だろう?チェックすると、弁天さまって、我々が身近に感じる七福神とは違った側面が見えてきた。弁天様って二つのタイプがあるようで、そのひとつは全国の国分寺の七重の塔に収められた「金光明最勝王経」に説く護国鎮護の戦神(八臂弁才天)であり、もう一つは、空海が唐よりもたらした真言密教の根本経典である大日経に記され、胎蔵界曼荼羅において、琵琶を奏でる「妙音天」「美音天」=二臂弁才天。いずれにしても結構「偉い」神様のようである。
江ノ島に祀られた弁天さまは二臂弁才天。聖武天皇の命により行基が開いた、とも。聖武天皇は国分寺を全国に建立した天皇であり、その国分寺の僧の元締めが東大寺。東大寺初代別当良弁は大山寺開き初代住職となる。大山寺三代目住職とされる空海も東大寺別当を務めたことがある。ということで、すべて「東大寺」と関係がある。
で、東大寺で想い起すのが「二月堂」のお水取り。二月堂下の閼伽井(若狭井)は若狭(福井県小浜市)と地下で結ばれ神事の後、10日をかけて地下水脈を流れ二月堂に流れ来る、と。大山寺の初代別当である良弁(相模の出身)は八菅山光勝寺を国分寺の僧侶の大山山岳修行の拠点としたと言われる。東大寺の二月堂の地下水脈の縁起を、江ノ島から中津川を遡った塩川の谷に弁天様が辿るって縁起を整え、その地に修験の地としての有難味を加え、中津川・塩川の谷に大山山岳修験の東口として重みを持たせたのであろう、か。単なる妄想。根拠なし。

中津川台地の高位段丘面
中津原台地の段丘面と中津川によって削られた段丘崖の「ギャップ」を見るため下った中津川沿いの集落で、江ノ島の弁天様の縁起ゆかりの地に出合い、思いがけない幸運に成り行き任せの散歩の妙を感じながら、再び台地上の段丘面に戻る。台地から田代の環流丘陵を見下ろすためである。
地図で確認すると角田八幡神社方向に少し戻らなければ、台地上の段丘面へと上る道はないようである。少し道を戻り、成り行きで道を進み段丘面に。ルートは出来る限り崖線に沿って進むことにする。ついでのことでもあるので、中津川を越えた対岸の「屋形山」の崩れ具合を見ることができるかな、といった想いではある。


八菅修験の第三行所であった「屋形山」は採石場となり消滅している、とのこと。先日の八菅修験の行者道散歩で山裾から、その崩れ具合を見てはいたのだが、対岸の台地上から再度確認してみよう、との思いである。予想通り、採石されている一帯は、周囲と山肌の色は異なり、山容は残っていなかった。

中央養鶏場
ずっと台地の崖線上を進もうと思ったのだが、台地を削る沢(深掘沢)があり北に進まなければ沢を渡る橋もない。成り行きで北に進むと巨大な養鶏場群の中に紛れこんだ。辺り一帯すべてが養鶏場である。地図には中央養鶏場と記されていた。昭和32年(1957)設立と言うから、50年以上の実績を誇る農業協同組合によって運営されているようである。

辻の神仏
養鶏場の「工場地帯」を抜け、北の山容を眺めると、一度見た景色のように思える。実のところ、思わず知らず、三増合戦の地に足を踏み入れていた。数年前のことになるが、武田信玄と小田原の後北条が戦った三増合戦の地を訪ね、この三増の地から三増峠を越えたり、志田峠を越えたりしたのだが、この地は将にその時に彷徨った一帯であった。
田代の集落から台地を上り台地を横切り、県道65号・三増交差点に向かって東に続く車道に出る。その車道を左に折れ、台地を削る「深掘沢」を越えて少し進むと道の北側に幾つものお地蔵様を祀られていた。案内によると、「辻の神仏 辻(岐路)はそれぞれの地域への別れ道であるため(最寄)の境界となっていることが多い。そのうえ、この境目は民間信仰において季節ごとに訪れる神々を迎える場所でもあり村落へ入ってくる悪魔や邪鬼を追い払う所でもあった。そのため、いつしか祭りの場所としての特殊な考え方が生じ、いろいろな神仏をここへ祀るようになった。この辻にあるのは「馬頭観音」「如意輪観音」「観音地蔵供養塔」「聖徳太子供養塔」「庚申供養塔」「弁財天浮彫坐像」「舟形浮彫地蔵像」などである。平成9年(三増中原町内会。愛川町教育委員会)」とあった。


三増合戦場の石碑
お地蔵様にお参りし、道を西へと向かうと三増合戦場の石碑と案内が現れた。案内によれば、「三増合戦のあらまし 永禄12(1569)年10月、甲斐(今の山梨県)の武田信玄は、2万の将兵をしたがえて、小田原城の北条氏康らを攻め、その帰り道に三増峠を選んだ。
これを察した氏康は、息子の氏照、氏邦、娘の夫綱成らを始めとする2万の将兵で三増峠で迎え撃つことにした。ところが武田軍の近づくのを見た北条軍は、半原の台地上に移り体制を整えようとした。
信玄は、その間に三増峠の麓桶尻の高地に自分から進み出て、その左右に有力な将兵を手配りし、家来の小幡信定を津久井の長竹へ行かせて、津久井城にいる北条方の動きを押さえ、また山県昌景の一隊を韮尾根に置いて、いつでも参戦できるようにした。北条方は、それに方々から攻めかけたのでたちまち激戦となった。そのとき、山県の一隊は志田峠を越え、北条軍の後ろから挟み討ちをかけたので、北条軍は総崩れとなって負けてしまった。この合戦中、武田方の大将浅利信種は、北条軍の鉄砲に撃たれて戦死した。
北条氏康、氏政の親子は、助けの兵を連れて荻野まで駆けつけてきたが、すでに味方が負けてしまったことを知り、空しく帰っていった。
信玄は、勝ち戦となるや、すぐに兵をまとめ、反畑(今の相模湖町)まで引き揚げ、勝利を祝うとともに、敵味方の戦死者の霊をなぐさめる式を行い、甲府へ引きあげたという(愛川町教育委員会:看板資料より)」とあった。

三増合戦のあれこれは、数年前辿ったときの、三増峠越え、志田峠越え、信玄の甲州への帰路の散歩メモを参考にしていただくことにしてここでは省略するが、この三増合戦の碑を目安に志田峠へと向かったことは数年前のことではあるが、はっきりと憶えている。三増峠越えで道を間違い山道を東へと相模川に向かった直後のことであり、果たして志田峠を無事越えることができるものかと不安一杯であったのだろう(実際の志田峠越えは嶮しくもなく、すんなりと越えることができた)。


志田南遺跡出土遺物
三増合戦の碑の脇に「志田南遺跡出土遺物について」の案内があった。「平成10年正月5日、ここから東へ130メートル程の桑畑の中、「塚場」と呼ばれる地点で、人骨及び六道銭が発見されました。この周辺は北条・武田の二大戦国大名が戦った三増峠合戦主戦場ということもあり、戦死者の骨である可能性があります。鑑定の結果、骨の主は筋肉が良く発達した壮年後半の男性であることが分かりました。また、一緒に出土した銭は全て中世の渡来銭でした。地元では「相模国風土記稿」に見える北条氏の家臣間宮善十郎の墓であるとの説もあり、三増合戦場碑の傍らに埋葬することにいたしました」とある。

案内のタイトルを見たときこの地に古墳でもあったのだろうかと思ったのだが、実際は合戦で亡くなった将士を弔う碑であった。昔から畑の中に塚のような土堆が三カ所あり、耕地所有者の願を受けた有志が一カ所に集め懇ろに弔っていたものが、行政レベルまでに到り、「三増合戦まつり実行委員会」の設立にともないこの碑ができたようである。

首塚
台地を下るべく更に西へと道を進む。再び台地を刻む「志田沢」を越える。「志田沢」に沿って進んだ志田峠越えが懐かしい。志田沢を越え先に進むと、道の一段高いところに小祠と案内がある。足を止めて案内を見ると「首塚」とあった。「不動明王を祀る小高い所を首塚という。宝永3(1706)年建立の供養塔がある。このあたりは、三増合戦(1569)のおり、志田沢沿いに下ってきた武田方の山県遊軍が北条軍の虚をつき背後から討って出て、それまで敗色の濃かった武田方を一挙に勝利に導くきっかけをつくったところという。
この戦いのあと、戦死者の首を葬ったといわれるのが首塚であり、県道を隔てた森の中には胴を葬ったという胴塚がある。なお、三増合戦での戦死者は北条方3269人、武田方900人と伝えられる」とあった。

三増合戦の時、志田沢は戦死者の血で染まり「血だ沢」などと称されたとも言われる。ために合戦後、戦死者の首を葬ったこの首塚であるが、江戸の頃幽霊騒ぎが起こり、供養塔を建てたところ騒ぎは収まった、とか。その供養塔は今も首塚のところにあると言う。

数年前、三増合戦の地を辿ったとき、この首塚には出合うことなかった。あれこれ考えるに、三増合戦散歩の際のアプローチは、三増峠越えには本厚木からバスで県道65号を直接「上三増」バス停へと向かいそこから直接北に向かって峠を越え、また志田峠の時も「上三増」バス停から「三増合戦の碑」までは歩いて来たのだが、そこから北へと志田峠へと向かっており、この田代から台地を上がるルートは通っていなかったようである。

胴塚
首塚の説明にあった胴塚を訪ねる。場所は首塚から車道を少し田代方向へと下った志田沢脇にあった。案内には「永禄12(1569)年10月、当町三増の原で行われた「三増合戦」は、甲州の武田、小田原の北条両軍が力を尽くしての戦いだったようで、ともに多くの戦死者が出た。そのおり、討ち取られた首級は、ここから150メートルほど上手の土手のうえに葬られ「首塚」としてまつられているが、首級を除いた遺骸は、すぐ下の志田沢の右岸わきに埋葬され、塚を築いてそのしるしとした。この地では、それを「胴塚」と呼び、三増合戦にゆかりのひとつとして今に伝えている」とあった。

田代の環流丘陵
胴塚から舌状に突き出た上原の台地の坂を南に下り、折り返して崖線に沿って田代へと坂を下る。道の左手には本日の目的地である環流丘陵が田代の集落の中にぽつんと聳える。
坂を下りきり、環流丘陵の周囲を、ぐるっと一周することに。如何にも水路跡らしき道筋をぐるりと一周し、あれこれ思う。環流丘陵とは流路の変更により、旧流路と新流路の間に取り残された、独立丘陵のことを言う。いつの頃か、遙か昔のことではあろうと思うが、丘陵の東、上原の台地との間を流れれていた中津川が、なんらかの原因によりその流れを現在のように丘陵の西を大きく迂回するようにその流れを変え、そのため取り残されることになったわけであろう。


一応本日の目的地はゲットしたのだが、いまひとつ中津川の流れと沖積地としての田代の集落、そしてその中の環流丘陵といった全体の姿が見えてこない。全体を俯瞰することも兼ね、対岸の清雲寺まで足を伸ばし、対岸の丘陵から還流丘陵を俯瞰すことにする。

船繋場跡
清雲寺に向かう前に、先回、田城半僧坊まで足を伸ばしながら準備不足で見逃しが「平山橋」を訪ねることに。
成り行きで道を進むと「船繋場跡」の石碑。「昔はこの近くを中津川が流れており、ここに舟を繋いで出水に備えた。また、非常の時のために、番小屋もあったとゆう」とあった。
この中津川の流れが旧流路のことか、新流路のことか、どちらかわからない。が、流路変更が近世になってからのこととも思えないので、新流露として考えてみるに、現在の流れは「船繋場跡」から少々離れている。
とは言うものの、流れが蛇行するようになれば、流れの外側の流水の速度は速くなり、それゆえに更に侵食が進む。一方、流れの内側は、外側に比べて流水速度が遅くなり、上流からの砂礫が堆積が進むことになる。そのため、河川はさらに大きく蛇行するようになるわけで、結果的に「船繋場跡」と中津川の流れが開いたのかもしれない。単に護岸工事故の理由かもしれず、単なる妄想であり、根拠なし。

「水道みち」の石碑
「船繋場跡」の先の交差点近くに「水道みち」の案内石碑。先ほど角田で出合った、横須賀軍港への水を供給していた水管が埋められている道筋がここに続き、この田代の交差点から上流の馬渡橋へと向かう。

平山橋
田代の交差点から中津川に架かる「平山橋」に。橋脇の案内に「平山橋は、大正2年に全長の3分の1にあたる左岸側のみが鉄製、それ以外は木製の姿で開通しました。全てが鉄製になったのは大正15年のことです。
先の大戦末期には、米軍機の銃撃を受け、構造材の各所に弾痕を残すなど、町域に残る数少ない戦災跡の1つとなっています。下って平成15年1月、「平山大橋」の開通に伴い、幹線道路設置としての任を終え、その後は人道橋として利用されています。
平成8年の文化財保護法改正により、近代建造物保護の制度が新たに設けられました。これにより平成16年11月8日、平山橋は国の登録有形文化財となり、町に残る近代化遺産として保存されることになりました」とあった。

この橋はリベット構造トラスト橋(リベットを使用して、トラスと呼ぶ、三角形をいくつも組み合わせた枠組みの構造でできた鉄橋)。明治の頃によく使用された工法と言う。説明にもあるように、左岸1連の鋼製トラスと右岸2連の木造トラスで開橋し、大正15年(1926)には木造トラスを鋼製トラスに架け替えた、とのことである。
米軍の機銃掃射を受けたという弾痕などを眺めながら、なにゆえこんな山間の地へと米軍機が来襲したのかとのことだが、現在内陸工業団地となっている中津原台地一帯(中津原台地中位段丘面)は昭和16年(1941)に陸軍の相模陸軍飛行場ができたとのことであるので、その飛行場への来襲の余波とでもいったものではなかろうか。

中津神社
平山橋を離れ、清雲寺に向かうべく県道54号を馬渡橋方面へと向かう。と、中津神社があった。県道から続くちょっと長い参道を進み社にちょっと立ち寄り。境内に入り拝殿にお参り。拝殿脇には稲荷社などの境内摂社がある。
鳥居脇に社の案内がある。「勧請年不明なるも、文治の頃より存在すること記録に残る。文治年間は後鳥羽時代で約811年前。その後、この地毛利の庄たり。永亨年中、北条長氏伊豆に興り、その後本州に威なり。弘治3巳卯年本村及び近傍の其臣内藤下野守秀勝の所領となる。依って内藤氏は字上田代富士山麓なる天然の要地を囲み城を築きて居住す。而して本神社を氏神として信仰せられたり。内藤氏居を本地に定めらるるや、次第に住民も増加し、神社の尊厳を高め、祭祀の方法も定まれり。
往時は中津川清流の中心にして、孤嶽をなしており、孤嶽明神と唱え、御祭神は大日?命を祀り、旧田代村の鎮守たり。
境内に東照宮、八坂社、稲荷社、金毘羅社の4社を祀る。東照宮は天正年中(423年前)入国の節、又左衛門外二名なるもの三河国より供仕の由緒により勧請。明治6年示達に基づき部内に存在する八幡神社、日枝神社、浅間神社、蔵王神社の合祀し、祭祀の方法を確立し永遠維持の基礎を定めて中津神社と改称され、殊に合祀社の内、八幡神社、浅間神社は内藤氏の守護神として武運長久を祈願せられ、殊に八幡神社には二石の御朱印を下し賜った。
また当社は中津川流域の中心にし、孤嶽を残し中洲をなして曾て洪水の被害を受けたことなし。中津の称、これより来る。
爾来、諸般の設備ととのい、基本財産確立せるにより、大正4年、神奈川県告示をもって村社に昇格する。戦後昭和21年届け出により宗教法人となる」とあった」とある。
少々長く、かつ明治の頃の説明が相前後してちょっとわかりにくい。毛利の庄は後にメモすることにして、簡単にメモすると、北条長氏こと北条早雲により小田原に後北条が覇を唱える。その家臣である内藤下野守秀勝がこの地を領した。秀勝は上田代、馬渡橋の東岸の要害の地に田代城を築き、この社を氏神とする。その後の「又左衛門外二名なるもの三河より云々」は不詳。
更に、明治の頃の説明に「内藤氏の守護神として武運長久を祈願せられ、殊に八幡神社には二石の御朱印を下し賜った」とは、少々わかりにくい。この説明は明治の合祀の説明の流れではなく、明治に合祀された八幡神社が内藤氏の守護神であり、徳川の御世に御朱印を下賜された、ということだろう。因みに内藤氏は津久井城主の内藤氏の一族であり、三増合戦の折、城は落城したとのことである。また、内藤氏は小田原北条氏の滅亡に順じたと言い、その後の消息は不明である。

○毛利の庄
厚木やその東の海老名の辺りは古代、相模国愛甲郡と呼ばれる。国府は海老名にあった、よう。国分寺は海老名にあった。古代の東海道も足柄峠から坂本駅(関本)、箕輪駅(伊勢原)をへて浜田駅(海老名)に走る。この地は古代相模の中心地であったのだろう。
平安末期には中央政府の威も薄れ、各地に荘園が成立する。この地も森の庄と呼ばれる荘園ができた。で、八幡太郎義家の子がこの地を領し毛利の庄と呼ばれるようになる。12世紀の初頭になると、武蔵系武士・横山党が相模のこの地に勢力を伸ばす。和戦両面での攻防の結果、毛利の庄の南にある愛甲の庄の愛甲氏、海老名北部の海老名氏、南部の秩父平氏系・渋谷氏をその勢力下に置いた。
鎌倉期に入ると相模・横山党の武将は頼朝傘下の御家人として活躍し、各地を領する。頼朝なき後、状況が大きく動く。北条と和田義盛の抗争が勃発。相模・横山党はこぞって和田方に与力。一敗地にまみれ、この地から横山党が一掃される。毛利の庄を領した毛利氏も和田方に与し勢力を失う。
主のいなくなった毛利の庄を受け継いだのが大江氏。頼朝股肱の臣でもあった大江広元より毛利の庄を受け継いだその子・大江季光は姓も毛利と改名。安芸の毛利の祖となったその季光も、後に北条と三浦泰村の抗争(宝治合戦)において、三浦方に与し敗れる。ちなみに、安芸国の毛利は、この抗争時越後にいて難を逃れた季光の四男経光の子孫である。

馬渡橋
道なりに北西に進むと中津川に架かる馬渡橋。橋には中津川を渡る水道管が見える。横須賀水道の導水管である。馬渡橋の由来は、橋を隔てて中津川の両岸の台地に築かれた田代城と細野城の将士が馬で行き来した故とのこと。今でこそ上流に宮ヶ瀬ダムがあり、流れも緩やかではあるが、往昔水量豊かで船運の往来もあったと言うので,人馬の渡河などできたのだろうか。



木戸口坂
馬渡橋を渡ったところにある「馬渡橋バス停」でバスの時刻を確認し、最後の目的地である清雲寺へと向かう。それほど時間に余裕があるわけでもなく、結構の急ぎ足となる。
橋を渡り少し進んだところで県道54号を左に折れる道に入る。折れるとすぐに道は分岐するが、右に上る道脇に「木戸口坂」の石碑。「ここから忠霊塔の脇を経て昔あったという細野城木戸口あたりへ至る坂をいいます」とあった。細野城も田代城と同じく内藤氏の一族の城であったとのことである。

馬渡坂
清雲寺へは左の坂を上る。「馬渡坂」と刻んだ石碑がある。「愛川町町役場半原出張所脇から国道412号に至る坂」とある。国道412号もこのあたりはバイパスとなり半原の町を迂回して台地を上るわけで、それほど昔の道ではない。ということは、この「馬渡坂」も最近命名されたものだろうか。石碑の説明だけからの推測ではあるので全くもって根拠なし。

清雲寺
坂を上り国道412号を越え、急ぎ足で台地上の清雲寺に向かう。入口に六地蔵。境内には豊川稲荷堂や不動堂が祀られる。臨済宗建長寺派の本堂にお参り。開山は鉄叟慧禅師、開基は内藤三郎兵衛秀行とのこと。
内藤三郎兵衛秀行は田代半僧坊の開基の武将でもあり、武田信玄との三増合戦の時には田代城に詰めたと言われる。城が落城した後、秀行は剃髪したとの伝承もあるようだが、そもそも田代城攻略戦が行われたか否か自体が不明である。

○一背負門

境内を台地端へと向かう途中に山門があり。そこに案内板。「神奈川のむかし話五十選 ひとしょい門;むかしむかし、このあたりに善正坊という大力の坊さんがおった。あるとき中津川べりの材木集積場にゆき、山門の材料にする、ケヤキがほしい旨を申しいれたところ「一人で背負えるだけの量なら、ただでやろう」と木流しの役人は心よくその願いを許した。
すると善正坊は山門建立に必要な材木を山のように積みあげ驚き呆れる役人をしり目に、ひと背負いで此の処まで運んできてしまったという。この山門はその材木でつくられたので、いつの間にか「ひとしょい門」と呼ばれるようになった」とあった。

一背負門をくぐり、台地端に向かい田代の還流丘陵を眺める。大きく湾曲する中津川、中津川の流れにる砂礫などにより形成されたであろう田代の沖積地、そしてその中央に緑の丘陵地が一望のもと。これで今回の散歩は終了。急ぎ足で馬渡橋のバス停に向かい、一路家路へと。



いつだったか、越生から毛呂山町へと歩いたことがある。大類の毛呂山町歴史民俗資料館あたりに鎌倉街道が走っており、北へと道筋を辿ると比企丘陵の笛吹峠を越えて畠山重忠の菅谷館があった武蔵嵐山へ続いていた。笛吹峠という、何となく惹かれる名前の峠を知ったのはそのときである。それから1年ほどたったある週末、そういえば、最近埼玉を歩いていないよな、であれば、気になっていた笛吹峠を歩いてみよう、と。
ルートは東武東上線・高坂からはじめ、比企の丘陵を越えて岩殿観音を訪ね、観音道を笛吹峠へと進む。峠からは丘陵を南北に貫く鎌倉街道の道筋を武蔵嵐山へと大雑把に決めた。比企丘陵ってどの程度の山容なのかよくわからない。ちゃんと調べればいいかとも思うのだが、いつもの通り、基本は成り行き。たまたま古本市で手に入れた『埼玉ふるさと散歩(比企丘陵編);梅沢太久夫(さきたま出版会)』をポケットに散歩にでかける。



本日のルート;東武東上線・高坂駅>九十九川>桜山窯跡群>県道212西本宿交差点>足利基氏館址>正法寺・岩殿観音>物見山>比企丘陵自然公園>地球観測センター>観音街道>県道41号線>笛吹通り>笛吹峠>将軍澤>大蔵館址>大蔵神社>向徳寺>都幾川>国道254号嵐山バイパス>東武東上線・武蔵嵐山駅

東武東上線・高坂駅
はるばる来たぜ、と小声で歌い東武東上線・高坂駅に。西口に下りると、西の比企丘陵に向かって真っ直ぐな道が通る。低地から丘陵地へなだらかな坂が続くのが高坂の由来、と言う。駅前や道脇に大東文化大学や東京電機大学と書いたスクールバスが目に付くが、Googleの航空写真を見ると、比企丘陵にはいくつかのゴルフコースのほか、これもいくつかの大学が点在している。結構開かれている丘陵地のようである。
いつだったか、金子丘陵を歩いた時、結構山が深く、また山中から突如現れたマシンガン武装の迷彩服の一団に大いに驚いたことがある。結局はサバイバルゲームを楽しんでいたようなのだが、少々肝を潰した。今回はそれほどの山道では無いだろう、と故無き安堵。


桜山窯跡群
最初の目的地は桜山窯跡群。この比企の地には古墳時代から帰化人が持ち込んだ窯業技術が発達し、幾多の窯跡がある。いつだったか東松山から吉見へと辿ったとき、大谷瓦窯跡など、どこかひとつくらい窯跡を、とは思いながら結局は時間切れ。桜山窯跡群は高坂駅から少し南西に下ったところにあり、ちょっと遠回りとなるが、いい機会でもあるので、今回散歩のスタート地点とする。

駅前の通りを西に進み、元宿あたりで左に折れる。道なりに進むと九十九川にあたる。九十九川は関越の西の丘陵(岩殿丘陵)よりはじめ、越辺川に合わさり、その流れは都幾川に注ぐ。川の向こうの高台に学校らしき建物。桜山窯跡群は桜山小学校の裏手にある。建物を目安に進みむと学校裏手に深い林がある。桜山窯跡群はその林の手前、「はにわの丘公園」と記された公園となっていた。
案内によれば、物見山丘陵の南斜面にある桜山窯跡群は須恵器を焼いた窯跡が2基、埴輪を焼いた窯が17基、それと竪穴住居3軒からなり、須恵器窯は関東最古(六世紀前半)。六世紀半ばから後半にかけてはじまった埴輪窯(円筒埴輪、人物、動物埴輪など)では、その一部が行田の埼玉(さきたま)古墳群でも使用された、とか。
それにしても比企の辺りって、古墳や窯跡が多い。古墳は八百とも。また窯跡は鳩山町を中心に、嵐山町、玉川町にかかる南比企窯跡群だけでも、その数、数百基と言われる。六世紀後半から七世紀にかけて比企や吉見の窯では埴輪や須恵器の生産がおこなわれ、八世紀になると鳩山町のある南比企丘陵で国分寺や古代寺院の瓦が生産された、と言う。このあたり一帯は、古墳時代から奈良・平安にかけて北武蔵の中心地であり、一大工業地帯であった、よう。事実、帰化人である男衾郡の太領壬生吉士福正が、835年(承和2年)に焼失した武蔵国分寺の七重塔の再建を願い出て、造営したという記録がある。それほどの財力をもつ支配者がこの地に登場していた、ということである。


県道212西本宿交差点
成り行きで関越自動車を西に抜け、白山台の地を北に向かう。岩殿のあたりで先ほど渡った九十九川を二度越える。どちらが本流で、どちらが支流であろう、か。なんとなく北側のものが本流のような気もする。
川を越えると西本宿交差点。駅前から西に進んだ道がここに続く。結構交通量が多い。西本宿って、なんとなく気になる地名。先ほども元宿といった地名もあった。江戸の頃、この高坂は江戸からこの地を経て上州に至る川越・児玉往還と、八王子から高坂・東松山をへて日光に至る日光脇往還(千人同心街道)が通り、宿場町として賑わった、と言う。その名残の地名だろう。


足利基氏館址
西本宿交差点を西に進む。ほどなく「足利基氏館址」への案内。県道212号から離れ、畑脇の小径を北西に進むと、民家脇に館址の道案内。畑の縁を林へと進むと館址の案内があった。林というか森の中に分け入り、なんらかの名残を探すが、先に進むとゴルフ場のフェンスで遮られる。案内によれば、土塁や堀跡、水堀が残る、というが、素人目には単なるブッシュではあった。南面は九十九川と谷筋の湿地により敵に備えた、と。なるほど林の中程に湿地が乗っていた。館は堀を含め東西180m、南北80mといった規模であった、とか。
この館址は長期在陣の館址ではなく、1363年に行われた芳賀高貞(宇都宮氏の一族で下野の豪族)との間で行われた岩殿山合戦の本陣であろうと伝わる。とはいうものの、足利基氏も芳賀高定も、いまひとつよくわかっていない。この地で基氏と高定が争うに至った経緯をちょっとおさらい。
足利基氏は尊氏の次男として誕生。1394年、尊氏の命を受け鎌倉公方として鎌倉に着任。1340年生まれというから、わずか十歳前後ではあろう。北朝の争乱に加えて、尊氏と直義という兄弟の争い(観応の擾乱)も加わり、なにがなんだかわからない政情の中、1353年には鎌倉を離れ、入間に陣(入間川御陣・入間川御所)を移す。鎌倉を離れその地に6年とも9年とも在陣した、と言う。北関東の南朝方新田勢や元関東管領上杉憲顕(越後・上野守護職)の勢力に備えるためである。新田はわかるとして、上杉憲顕は幼い基氏を補佐した執事。それが、敵方となったのは直義に与し、畠山国清らによって追放されたため。越後・上野守護職も宇都宮氏綱が取って替わる。
1361年、基氏は畠山国清を更迭。1363年には、上杉憲顕を関東管領、越後守護職に復職を計る。この動きを受けた越後守護職宇都宮氏綱は、上杉憲顕と上野において戦端を開く。芳賀高貞は宇都宮氏綱配下の武将。上野守護代として基氏とこの地で戦うことになった。 いつだったか、毛呂山を歩いたとき苦林野古戦場跡あたりをかすめたことがある。基氏方三千、 芳賀高貞方八百で激戦が繰り広げられたとのことであったが、この岩殿山の合戦はこの苦林野と同時期であり、岩殿山・苦林野合戦と一括りにしてもいいようだ。そのときの基氏の本陣がこの地である、ということだろう。それにしても、鎌倉公方になったのが十歳、入間滞陣が十三歳、畠山国清更迭が二十歳、岩殿山合戦が二十三歳の頃。幼い公方を担ぎ、この争乱舞台を演出したのは誰なのだろう。


弁天池
足利基氏館址を離れ小径に戻る。道脇に九十九川が近づく。一見湿地帯のような風情を呈する。先に進むとほどなく池が見える。岩殿観音の僧が里人のために造った用水池。弁天池とも鳴かずの池とも呼ばれるが、鳴かずの池の名前は坂上田村麻呂にまつわる伝説、から。岩殿山に棲む悪龍を退治し、この池に埋めるが、それ以来、蛙が棲まなくなった、との話が伝わる。池の中程の弁天島への小橋を渡り、ささやかな祠にお参り。
池の脇に休憩所と阿弥陀堂跡にある板石塔婆(板碑)の案内。十四世紀の中頃、岩殿観音・正法寺の僧が願主となり、五十人の人たちが真言の功徳を願わんがために建立した、とある。案内の近くに石塔や庚申塔といったものは並んでいるのだが、肝心の板石塔婆は、見つからなかった。案内板と少し離れたところにあったよう、だ。


正法寺(岩殿観音)の門前町
北西に進んできた小径は、弁天池の先で南西に折れる。道なりに進み九十九川にかかる小橋(総門橋)を渡ると岩殿観音の門前町に入る。江戸の頃書かれた『新編武蔵風土記』には、「当初は名高き板東札所の観音の建てるを以て、参詣の人常に集い、村民自ずから貧しからず」とある。昭和の初めまで17の宿坊や小間物屋、菓子屋といった商店が門前町としてにぎわった参道だが、今は店が一軒ほどしか見あたらない、静かな農村の村といった風情となっている(『埼玉ふるさと散歩(比企丘陵編);梅沢太久夫(さきたま出版会)』)。


正法寺・岩殿観音
石畳の参道を進むと正法寺・岩殿観音に。石段を上り仁王門をくぐる。仁王像を見やり先に進むと石段脇に高札。戦国時代の東松山の松山城主上田宗調朝直が発したもので、岩殿山一帯の木や草を刈り取る事を禁じる、といった内容である。戦国時代の実物をモデルに復元している、とあった。
石段上に草葺き屋根の鐘楼が見える。品のいい佇まい。銅鐘(梵鐘)は十三世紀初頭の作。外面の傷は天正18年(1590)、秀吉による関東征伐の折りについたもの。鐘楼からの眺めはなかなか、いい。

本堂にお参り。板東三十三札所の十番である。本尊は千手観音。本堂右横の観音堂は、奈良時代の養老年間というから、八世紀初頭に創建。正法庵と称した。観音堂右手の崖には多くの石仏。百観音と四国八十八カ所の石仏が並ぶ。
鎌倉期には頼朝の命で比企能員が復興。頼朝の妻・北条政子の守り本尊として発展。続く室町時代も大いに栄えるも、1567年の東松山・松山城を巡る北条・武田連合軍との合戦(山城の合戦)で焼失。その後1574年に中興されるも、江戸の寛永期、また明治にも火災に遭い、現在の構えとなっている。現在のお堂は明治になって高麗村から移築した。
岩殿観音は北条政子の守り本尊であった、と言う。そういえば鎌倉散歩の折、逗子にある岩殿寺も政子の守り本尊。化粧坂近くの岩殿地蔵尊も政子、そしてその娘の大姫の信仰篤き祠であった。


政子と岩殿って何らかの因縁があるのだろうか。それとも、共に板東観音札所であり、観音信仰故の偶然の一致なのだろうか。それとも、この岩殿観音近く、一説には先ほど訪れた弁天池あたりにあったとも言われる比企能員の館、それ故の頼朝・政子への因縁付け故のことだろう、か。比企能員は頼朝の乳母であった比企尼の係累。岩殿というキーワードをフックに、比企一族と頼朝・政子の関係を強化するストーリーを組み立てていったのだろう、か。単なる妄想。根拠無し。
岩殿寺は岩殿山の山腹の崖を削って建てられている。四十八峰九十九谷よりなる岩殿山は別名九十九谷とも呼ばれる。伝説に拠れば弘法大師が真言密教の修行の地を求めこの地を候補に挙げるも、谷の数でひとつ勝る高野山に決めた、と言う。この九十九伝説、散歩の折に触れて現れる。新百合ヶ丘の近くの弘法松にも同様の話があった。百谷、というか九十九谷伝説は日本各地にあるが、それだけでなく、能の「通小町」などには九十九日、男女が恋する相手の元に通い、願を遂げようとする話がある。熊野古道にも九十九王子の祠が並ぶ。九十九と百の間には、結構大きな意味があるのだろう、か。九十九(つくも)は「つつも」の訛ったもの、と言う。「つつ」は足りない、「も」は「百」。「九十九(つくも)」は「百に(ひとつ)足りない>完成=成就にあと一歩」という意味だろう、か。これまた単なる妄想。根拠なし。


物見山
岩殿観音の本堂脇の石段を上る。奥の院でもあろうかと、先に進むと整備された車道にでる。高坂の駅前から続く県道212号であった。道路を横切り物見山に。標高135mというから、山と言うより丘といったもの。とは言うものの、この岩殿丘陵(南比企丘陵)の最高峰。それなりの眺めが楽しめる。名前の由来は、坂上田村麻呂が東北征伐の折、この地より周囲を見下ろした、との伝説から。



比企丘陵自然公園
笛吹峠への道を確認。物見山を少し進んだあたりから県道から別れ、小径を進むようである。物見山入口にあった笛吹峠への案内に従い、道を進むとほどなく車道から別れた細道がある。先に進むと比企丘陵自然公園の案内。しかし、笛吹峠への案内はどこにも、ない。この道ではないのだろうか、と車道に戻り、道を下る。しばらく歩くと山村学園短期大学の案内。さすがに、これは行き過ぎ、と先程の比企丘陵自然公園への小径まで引き返し、先に進む。案内はなにも、ない。しばし進むと公園を散歩する人を見かけ、道を確認すると、オンコース。JAXA地球観測センターを目安に進めばいい、と。雑木林の中をどんどん進みJAXA地球観測センターまで進む。このセンターでは人工衛星からのリモートセンシング(遠隔探査)により地球環境を調べている、とか。衛星からのデータを受信する四つのパラボラアンテナを見やりながら、敷地北側に沿った細路を進む。

観音街道
ところで、物見山の峠から尾根道を進み、笛吹峠をへて西に向かう道を観音街道と呼ぶ。板東札所十番の岩殿観音から札所九番の慈光寺へ続く道である。草笛峠を境に、西に向かう道を慈光寺観音道、東に向かう道を岩殿観音道、と呼ぶ。いつだったか八高線・明覚駅から都幾川村にある慈光寺まで歩いたことがある。七十五坊の伽藍をほこった古刹も、戦乱の巷、焼き討ちに遭い、現在は、誠に広い寺域の中に、いくつかの堂宇が静かに佇む、のみ。

県道41号線
JAXA地球観測センターを越え、ほどなくすると「笛吹峠」の道標。もう少々手前にあってもよかろうに、と思いながら先に進むと里が開ける。もうこれで山中日没の怖れ無し、と一安心。溜池らしきところで釣りを楽しむ人もいる。山道を抜け、田畑の脇の道を進むと県道41号・東松山越生線に出る。T字路に笛吹峠への案内。
左に折れ、すぐさま県道41号を離れ、丘陵の裾を辿り先に進むと、笛吹峠への道の合流点、奥田と須江の境に地蔵堂。新編武蔵風土記には「羽黒堂」、地元では「はぐれ堂」と呼ばれている。お歯黒の大将の首を埋めたとか、出羽の国(羽黒)の人をとむらった、とか、戦ではぐれた人をとむらったとか、あれこれ伝わる。笛吹峠の合戦故話であろう、か。

笛吹峠
笛吹峠へと続く笛吹通りを北に向かう。ゆったりとした傾斜の坂道をのんびりと進む。この道筋は往古の鎌倉街道。それなりの感慨をもち、時に後ろを振り返り、鳩山の景観を楽しむ。このあたり一帯は古代武蔵最大の窯跡のあった南比企窯跡群のあった所。樹枝状に入りくんだ谷津(谷戸)には、それぞれ窯跡があるのだろう、などと想いながら先に進むと笛吹峠に到着した。標高80m。
「史跡笛吹峠」石碑の近くに鎌倉街道と十字に交わる道筋がある。これが観音道。峠から西は西国観音札所九番・慈光寺道。峠から東は岩殿観音道である。当初の予定では、この笛吹峠までは、この岩殿観音道を辿るはずであった。どこからどうそれてしまったのだろう?地図をチェックすると、JAXA地球観測センターの先で見た「笛吹峠」への道標のところで道が分岐している。道案内に従ってすすんだのが今回のルート。右に進むと、里に下りることなく少し北に向かい、一度県道41号に出た後、再び山中を進み、直接この峠へ辿れたようである。後の祭り、ではある。 
この峠は足利尊氏と新田義貞の三男・義宗が戦った合戦の地。1352年(正平7年)のことである。義宗が後醍醐天皇の皇子である宗良親王を奉じて鎌倉街道を南下。一時は鎌倉まで進撃するも尊氏の反撃に遭い、退却。小手指ヶ原の合戦で敗れ、決戦最後の地としたのがこの峠。尊氏軍八万余騎、義宗軍二万。善戦むなしく義宗は破れ、越後へと落ちる。この戦の勝利を境に室町幕府による関東統治がはじまることになる。笛吹峠の由来は、敗軍の中、宗良親王が笛を吹いたことによる、と伝わる。



将軍澤
笛吹峠を離れ、鎌倉街道を北に下り、大蔵の地を目指す。いつだったか、武蔵嵐山に鎌倉武士の鑑である畠山重忠の館址を訪ねたことがある。そこで、思いがけなく木曽義仲産湯の水のある鎌形八幡や義仲の妻・山吹姫ゆかりの斑渓寺に出合った。その時、鎌形の東にある大蔵に義仲の父の館を訪ねようと思っていたのだが、時間切れ。そのうちに、と思っていたので、今回いい機会と大蔵方向に下ることにした。
ゆるやかな坂を下ると、視界が開け
南西から北東へと道を横切る小川(前川)がある。これが将軍沢ではあろう。名前の由来は征夷大将軍・坂上田村麻呂ゆかりの地とか、また藤原利仁ゆかりの地とか、あれこれ。藤原利仁って、東松山を歩いたとき将軍塚古墳で出合った。古墳に上ると後円部の頂きに「利仁神社」。上野介、上総介、武蔵守を歴任し、延喜15年(915年)には鎮守府将軍となった藤原利仁を祀る、と言われる。藤原利仁は平安時代の代表的武人として多くの伝説があり、『今昔物語』にも登場している。芥川龍之介の『芋粥』はこの今昔物語のこの題材を小説にしたものである。

縁切橋
将軍沢を越え、道脇の明光寺を見やり、入口付近にある庚申塔にお参りし、その先の日吉神社に足を運ぶ。つつましやかなる境内には将軍神社。坂上田村麻呂ゆかりの祠、と言う。祠を離れ、ゆったりと丘陵を下る。辺りは既に里の風景である。
将軍沢の集落を過ぎ、坂を下りきると道脇に大きな案内板。近づいてみると「縁切橋」とある。坂上田村麻呂を案じ京より訪ね来たる妻女を、「軍役時に訪ね来るとは不謹慎。その行い許すべからず」といった案配で夫婦の縁を切った、とか。それにしても、この地には坂上田村麻呂にまつわる伝説が多い。比企と田村麻呂に、なんらかの深い関連があるのだろう、か。古代、この比企の地は北武蔵の中心地。奥州の蝦夷征伐の兵站基地として征夷軍と深い関係があったのだろう、か。単なる妄想。根拠なし。

安養寺
少し先に進むと、道の左右に神社というかお寺というか、なんとも賑やかなるお寺さま。大行院とあった。左右を見やり先に進むと道の左に落ち着いたお寺さま。野道のような参道を進み山門に。誠に趣のある構え。江戸後期の作で、籠彫りの唐獅子・龍・花鳥が配されている。このお寺、昭和30年頃、作家の今東光が住職をしていた。と。岩手・平泉の中尊寺の貫首として金色堂の大修理で知られるが、この地で今東光ゆかりの地に出合うとは思わなかった。

大蔵館址
県道17号大野東松山線・大蔵交差点に。左に折れ少し進むと公園脇のブッシュの中に大蔵跡の案内。木曽義仲の父である源義賢の館跡に割には少々寂しい。館跡は、案内の隣にある大蔵神社もふくめた東西170m・南北200m余りの構えてあった、よう。神社にお参りし、往古を想う。
都幾川をのぞむこの台地上に館を構えた源義賢は源氏の棟梁源為義の次子。1139年、京にあって東宮の警護隊長の職にあり、その呼称をもって「帯刀先生(たてわき、たちはきせんじょう)」と呼ばれた。もっとも、その職はすぐに解任されている。
1153年、父為義と不仲になり関東に下っていた長兄義朝が南関東に勢力を拡げると、それに対抗するべく、父為義の命を受け北関東に拠点を設ける。武蔵の国の最大勢力である秩父重隆の娘を娶り、この大蔵の地に館を構えた。木曽義仲もこの地で誕生した、とも。
源義賢は当地を拠点に武威を高めるも、1155年、源義朝の長子である甥の悪源太義平に館を急襲され義父・秩父重隆共々滅ぼされた、と世に伝わる。悪源太義平と名前は少々怖いが、当時義平は十五歳程度。首謀者としてはなんとなく収まりがよくない。対立の構図をチェックすると為義・義賢VS義朝・義平だけではないようだ。この源氏の内紛に秩父一族の内紛が絡んでくる。秩父重隆と家督を巡って争う秩父の一族畠山重能が登場する。また、秩父重隆と抗争を繰り返す新田、足利一族も登場する。結局は、(為義・義賢+秩父重隆)VS(義朝・義平+畠山重能+新田、足利)といった対立の構造の中で、この大蔵合戦を見た方がよさそう、だ。
大蔵合戦において、義賢の次子で当時二歳の駒王丸は畠山重能に助けられ、斉藤別当実盛により木曽の中原兼遠に預けられた。これが後に旭将軍と呼ばれた木曽義仲である。また、鎌倉武士の鑑・畠山重忠は畠山重能の嫡子である。

向徳寺
神社を離れ、県道172号を少し西に進み、西を見やる。いつだったか、この地の西、鎌形の地にある木曽義仲産湯の水・鎌形八幡や、義仲の妻・山吹姫ゆかりの寺・斑渓寺、そして都幾川の川筋を想い、神社へと戻り、武蔵嵐山駅へと向かう。 大蔵交差点あたりから成り行きで都幾川の川筋に向かう途中に向徳寺。時宗の寺であり、藤沢遊行寺の末。いい構えのお寺さま。新しく建て替えられた山門脇に板碑が並んでいた。鎌倉から南北朝、室町に渡るもの。板碑は正確には「板石塔婆」とか「青石塔婆」と呼ばれる。戦乱の世に、生前に極楽往生を念じ建立した供養塔とされ、美しい梵字で如来や菩薩を描く。埼玉には2万近い板碑が見られる、と言う。





都幾川
向徳寺を離れ、北にすすむと都幾川にあたる。比企郡ときがわ町大野地区の高篠峠あたりが源頭部。嵐山で槻川を合わせ比企郡川島町で越辺川に注ぐ。都幾川(とき)の語源は、「清める」を意味する「斎(とき)」からとWikipedia,が言う。
川の向こうの台地は鎌倉武士の鑑・畠山重忠の菅谷館跡。いつだったか、この館からはじめ、台地を都幾川に下り、槻川が合流するあたりを見やりながら、都幾川の堤を鎌形八幡へと下ったことを思い出す。台地の坂を上り、国道254号嵐山バイパスを越え成り行きで東武東上線・武蔵嵐山駅に進み、本日の散歩を終える。ちなみに、本日歩いた比企の語源は、「低地、低湿地」とか、古代の太陽祭祀を司る、日置(へき、ひき)部からとの説がある。  
先日八王子南郊の湯殿川を源流へと辿った。南高尾の山稜を切り開いて流れるこの湯殿川には、南高尾から多摩丘陵へと連なる丘陵地帯から寺田川や殿入川などの支流が合流する。合流といっても、ささやかな流れ、ではある。地形図を見ると、そのささやかな流れは樹枝状に入り組んだ谷戸から下っている。寺田川は鍛冶谷戸、殿入川は殿入谷戸。源流点となる谷戸や谷戸奥の丘陵って、どういう景観なのだろう。ということで、湯殿川のふたつの支流を辿り源流点の谷戸を訪ねることに。
ルートは、寺田川を辿り源流点に。そこから成り行きで丘陵を越えて殿入谷戸に向かい殿入川源流点に。そこから谷戸を湯殿川の合流点まで下る、といったもの。谷戸の風景が楽しみである。



本日の散歩;京王線山田駅>湯殿川・大橋>湯殿川・白幡橋>鍛冶谷戸>寺田川源流点>法政大学グランド>殿入谷戸>淡島神社>龍見寺>湯殿川・和合橋>京王線狭間駅

京王線山田駅
京王線に乗り、京王線山田駅に向かう。寺田川と湯殿川の合流点最寄りの駅である。京王線片倉駅を越えたあたりから、車窓より湯殿川の南に広がる丘陵が見えてくる。時には遠く富士山が姿を現すこともあるのだが、本日は雲に遮られ眺めは、なし。
山田駅で下車。駅名の由来は駅北を下ったところを流れる山田川から、だろう。川に沿って古刹・広園寺がある。それはともかく、本日の散歩は広園寺とは真逆の方向。駅前の道を南に下る。東京都道・神奈川県道506号八王子城山線。八王子市の甲州街道・横山交差点から町田市西部・相原十字路を経て相模原市北西部へと下る。相原で七国峠を越える多摩丘陵横断ルートである。

湯殿川・大橋
道なりに南に進み椚田遺跡公園通りとの分岐交差点に。丘陵下に湯殿川の流域が広がる。誠にいい眺めである。道の左手に五重塔に見えたので、ちょっと回り道。道からちょっと境内を眺め、成り行きで崖線を下る。比高差30m弱の段丘崖を下る坂道の廻りは住宅がビッシリ。
北野街道・小比企町交差点に下り、湯殿川に架かる大橋に進む。「比企=ヒキ」はハケ=崖、から。ちょっとした崖がある町、といった意味か。大橋からは湯殿川に沿って白旛橋に。

寺田町
白旗橋の先に南から寺田川が合流する。ここからは湯殿川を離れて寺田川を源流点へと辿ることになる。合流点にある公園を抜け、川筋を意識しながら道なりに進む。川筋と付かず離れず寺田町の民家の間を進む。ほどなく川筋はふたつに分かれ、ひとつは西に、もうひとつは南へと進む。今回の目的地である鍛冶谷戸は西への川筋。南に分岐した川筋は大船町の先の谷へと続き、その谷戸奥の丘陵を進むと七国峠の山稜にあたる。
七国峠には鎌倉街道が通っていた。峠から北は南のシティの宅地開発により道は断ち切れているが、峠から南、相原十字路近くから七国峠には古道跡が残る。掘割りや切り通しの道が懐かしい。それはともかく、西への水路に沿って道なりに進むとほどなく車道に出る。この道は、先ほど京王線・山田駅前から下った都道506号線であった。

めじろ台グリーンヒル通り
都道を少し南に進み、道に交差する寺田川を確認する。川筋は西へと流れるが、川筋に沿って道はない。少し北に戻り寺田橋交差点に。そこを左に折れ、めじろ台グリーンヒル通り・寺田町東交差点に進み、大きく迂回して再び川筋に合流する。
寺田川は更に西に進む。再び川筋には道がない。しばし直進し、成り行きで右に折れる。雑木林の残る丘陵の裾を回りこみ、ふたたび川筋に。川筋の向かいの丘陵には榛名神社が鎮座していたが、気付かないで通り過ぎた。川の西を進むと、ほどなく川筋に向かう道がある。小径を進み、川というか小川となった寺田川を東に移る。ゆるやかな坂の道を成り行きで進むと大恩寺の裏手の駐車場に出る。駐車場から本堂への道はあるような、ないような。本堂脇の小径を進み道路に出る。小径脇には牛舎。数頭の牛がこちらを凝視。道脇の地蔵尊を見やりながら、水路と付かず離れず進み寺田町西交差点に。

寺田川源流点
寺田町西交差点を越えると車道の東側に細路が続く。道を離れ水路に沿って進む。民家の裏、犬に吠えられながら進むと水路は再び車道下に潜る。地図では水路がここで切れているのだが、ひょっとして、と車道の西側をチェックする。ささやかな水路が先に続く。ほとんど民家の軒先といった水路脇を遠慮がちに進む。道などない。畑の畦道を浸み出すといった水路に沿って谷戸奥に向かう。谷戸の最奥部で水路は丘陵へと入り込んでいく。ブッシュの中、藪こぎでもすれば源流点まで進めないことのないのだが、これで十分。寺田川がはじまる地点から谷戸の景観を眺める。三方を丘陵で囲まれ、その間の平地には畑地が広がる。如何にも谷戸の典型といった景観である。

谷戸とは丘陵が湧水に因って削られた谷間の低地のことを言う。三方が丘陵によって囲まれた平地のとっつき、扇の要のところは小川の源流域。丘陵の湧水を集め平地へと流れ出す。人はその水を水田となし、豊穣を祈って谷神を祀る。これが小山田とか山田と呼ばれる景観である。柳田国男は「古い土着の名残を留めた昔懐かしい良風景の地(『海上の道』)」と描く。
往古、人は安住の地を求めて川を遡った。「地理測量のまだおぼつかない世の中では原は木がなくてもなお一つの障壁であり、これを跋渉することは湖をわたるほどの困難であった。その上に外界の不安面が広がるので、人は近代になるまでくだってこれにつくことをこのまず、依然として水の音を慕って川上にさかのぼった(『地名考察;柳田国男』)」、と。川を遡り、その行き止まりの地が谷戸の里である。三方を丘陵で囲まれ外敵への備えも容易。丘陵からの清浄な水も手に入る。谷戸の里を人は安住
の地をとなした。谷戸の風景に惹かれるのは、終の棲家の歴史的原風景である、といったことも、その遠因であろう、か。  

丘陵越え
畑の畦道を戻る。来た道を再び、というのも芸がないので、辺りを見渡すと谷戸の西側丘陵に一筋の道が見える。丘陵に上っている、よう。地図を見ても道はないのだが、成り行きで進むことに。農道を丘陵へと進む。一面に畑地が広がる丘陵地を進む。畑地が切れ雑木林がはじまる辺りに丘陵地散策コースの案内。今ひとつわかりにくい地図ではあるのだが、とりあえず先にも道が続く、ということである。ちょっと安心して雑木林の中をゆったり進む。


前方は穎明館(えいめいかん)という学校の敷地の、よう。雑木林の中を道なりに進むと館清掃工場裏に出る。その南は法政大学のグランド。野球部が練習している。道は二つに分かれる。さてどちら?と、分岐点のところに、ほとんど消えかけた道案内。なんとなく、「館町バス停」といった文字が見える。右に折れ、清掃工場のフェンスに沿って進み「館町清掃工場入口交差点」に出る。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

殿入川源流点
地図を見るとこのあたりが殿入川の上流端。清掃工場のすぐ近くまで水路が続くが、どうも清掃工場の構内のようである。中には入れそうもない。どこか川筋へと道を探すと、すぐ北にある穎明館(えいめいかん)という学校付近に橋がある。橋から川筋へでも、などと思い描く。道を下り橋に向かうが、谷筋が深く辿れるような道もない。
橋の上から源流あたりを眺める。橋を渡れば穎明館(えいめいかん)。校名は、明治10年に初号を発刊した子供向けの井の投稿雑誌「穎才新誌」に因る。子供達が投稿した作文・詩・書画を掲載した。山田美妙、尾崎紅葉、大町桂月といった文学者も、この投稿誌で文才を磨いた、と。ちなみに、穎明=英明。すぐれた才能。また、その持ち主。秀才、と言うこと。

殿入谷戸
橋から道に戻り、坂道を下る。左右を丘陵で囲まれた谷戸の景観が広がる。坂道の右下、川横の自動車や家電の廃棄工場が谷戸の風景には少々の違和感もあるが、それでも典型的な谷戸の景観を残している。なかなかに広がり感のある谷戸である。ちなみに、「殿入」の由来はなんだろう。宮中を警護する舎人(とねり)は殿入から、とも言われるが、この地を舎人と関連づけるのは違和感がある。なんだろう?ちょっと閃いた。殿って「しんがり・最後部」って意味がある。谷の最奥部、とでも言ったものであろう、か。単なる妄想。根拠なし。

淡島神社
谷戸の道を下ると道脇に小さな祠。淡島神社とある。誠に、誠に小さな祠に惹かれてあれこれ眺めていると、近くで農作業をしていた方が親切にも声を掛けてくれた。お話によると、淡島さまは享保の頃に祀られた。元々は丘陵の頂に祀られていたのだが、それではお年寄りがお参りするのに難儀だろう、ということで、この地に移した、と。
淡島神は、安産・子授けなど、女性への強力なサポーターである。淡島さまとは住吉神の妃神である、との説がある。このあたりが遠因だろうか。淡島様が全国に広まったのは淡島願人と呼ばれる半僧半人の願人坊主に負うところが大きい、とか。祠を背負い、鈴を振りお祓いをして全国を廻った。
願人坊主で思い出すのは葛飾半田稲荷の願人坊主。時は明和・安永の頃(1764 - 81年)、体中赤ずくめの衣装を着で「葛西金町半田の稲荷、疱瘡も軽いな、発疹(はしか)運授 安産守りの神よ。。。」と囃し江戸を練り歩き、チラシを配る坊主がいた。この坊主は神田在の願人坊主。半田稲荷のキャンペーン要員として雇われた。で、この販促企画が大ヒット。この坊主が来ると、景気がよくなるとまで言われ、半田稲荷への参拝者も増え、」その人気故、歌舞伎にまで取り上げられた、と言う。

湯殿川・和合橋
淡島神社を離れ、右手に殿入中央公園の丘を見やりながら道を下る。道脇に殿入川のささやかな流れを見ながら道なりに進む。時々後ろを振り返り、谷戸の景観を眺める。ほどなく道の右手に、先日訪れた龍見寺大日堂の小高い丘を眺め、先に進むと湯殿川・和合橋に出る。和合橋って各地にあるが、隣接する村々が「合い和す仲良く」しましょう、といった命名由来が多い。この橋は、さて如何に。

京王線・狭間駅
湯殿川を渡り、北野街道を越え段丘崖の坂道を上り国立東京工専前に出る。椚田遺跡公園通りを西に進み狭間駅入口を北に折れ京王線・狭間駅に。狭間は丘陵と丘陵の間に奥深く入り込んだ谷地を指すのだろう。この駅周辺は丘陵地の上であり「挟まれる」ものはないが、丘陵を下った町田街道の狭間交差点あたりは、如何にもの「狭間」であった。台地上は新開地、台地下が昔の狭間の集落だったのだろう、か。ともあれ、本日の散歩はこれでお終い。
先日高幡不動から平山城址へと歩いたとき、平山城址公園のところで七生丘陵散策路に出会った。百草園のあたりから七生丘陵を辿り平山城址へと続くハイキングコース、である。百草園あたりを未だ歩いたことは、ない。百草園のある丘陵には幻の寺・真慈悲寺があった、とも伝えられる。百草八幡さまも結構古い社のよう。丘陵の自然だけでなく歴史的事跡も楽しめそう。ということで七生丘陵散歩の第二回は七生丘陵散策路を辿ることに、する。 散歩は聖蹟桜ヶ丘の小野神社からはじめる。百草の地に真慈悲寺が建てられたのは聖蹟桜ヶ丘と少々関係がある、とか。平安時代、武蔵一宮・小野神社のある聖蹟桜ヶ丘の一之宮地域から見て、西の方角に美しい夕日が沈むところ、そこが百草の丘陵。ために、その地を西方浄土の霊地として見立て、真慈悲寺を建立した、と言う。コースは聖蹟桜ヶ丘の小野神社から百草園に進み、七生丘陵を辿って高幡不動へと進むことにする。



本日のルート;京王線・聖蹟桜ヶ丘>「一ノ宮の渡し」の碑>小野神社>七生丘陵>百草園>真慈悲寺>百草八幡>草観音堂>ちょうまんぴら緑地>百草団地>高幡台団地>日野市郷土資料館>中の台公園>かくれ穴公園>高幡城址


京王線・聖蹟桜ヶ丘
自宅を離れ京王線で聖蹟桜ヶ丘駅へ。大正14年(1925)の開業時には関戸駅と呼ばれていた。このあたりの地名が関戸である、から。駅名が変わったのは昭和12年(1937)。関戸の北、桜の名所である「桜ヶ丘公園」と明治天皇が足跡を残した地を意味する「聖跡」をコンバインしたわけである。
明治14年、八王子で兎狩りを楽しんだ明治天皇は、ことのほかこれを喜び、もう一日遊びたいと、急遽、この地に宿泊。翌日雪の連光寺(関戸の北)の丘陵での兎狩り、多摩川の清流での鮎漁などを楽しんだ。天皇は翌年再度行幸されただけ(4度行幸があった、とも)のようだが、皇族方はあれこれこの地に訪れた、とも。
聖蹟桜ヶ丘、と言うか関戸は往古、交通の要衝。大化の改新で府中に国府が設
置されると、府中を結ぶ官道がこの関戸を通ることになる。平安時代には関戸に関所・「霞ヶ関」がおかれた。鎌倉期には、鎌倉街道がこの地を貫く。府中分倍(河原)から関戸、乞田、貝取をへて鶴川(小野路川村=町田市)に通じていた。
鎌倉防衛の戦略要衝であったこの関戸の地で幾多の合戦が繰り広げられる。建武の中興の時、分倍河原おいて、新田義貞との合戦に敗れた北条氏は総崩れ。関戸の地を敗走する。新田方の追討戦がこの地で繰り広げられる。関戸合戦と言う。太平記などで、合戦の模様が伝えられる。
戦国時代に入ると関戸宿は 小田原北条氏のもと発達。市が開かれ、商業も活発になり農民から商人になるものも現れる。が、江戸になると衰退する。鎌倉街道といった南北の道がそれほど 重要なルートとはならなくなった。甲州街道といった、東西の道がメーンルートになったわけである。

「一ノ宮の渡し」の碑
駅を離れ宮下通りを西に進む。道脇に「一ノ宮の渡し」の碑。この一ノ宮の地と府中の四谷を結んでいた。昭和12年、関戸橋の開通まで使われていた、とか。ちなみに、鎌倉街道の渡しとして、府中の中河原を結んでいた「関戸の渡し」は関戸橋の少し下流。一ノ宮の渡しとおなじく、関戸橋が開通する昭和12年まで存続していた。

小野神社
ほどなく宮下通りを離れ、神南せせらぎ通りに入る。石畳の参道の傍らに用水が流れる。この用水は一宮関戸連合用水だろう。程久保川から取水されている。いい感じのプロムナードを進むと小野神社に。小野神社を訪れたのはこれで2度目。うっすらとした記憶の中の小野神社は、もっと大きい社のはず、であった。が、あれあれ、少々慎ましやかな構え。「その昔、武蔵国の一宮であった」、という、この小野神社の枕詞にイメージが引っ張られていたのだろう、か。
いつだったか埼玉県の大宮にある氷川神社を訪れたことがある。この社も武蔵国一宮、として知られる。武蔵国一宮がふたつ?チェックする。どうも古代は小野神社が武蔵国一宮。大宮の氷川神社は室町期以降武蔵国の一宮と称された、と。これって、どういうポリテックスが要因なのだろう。あれこれ推論してみる。
昔秩父に小野利春という人がいた。近江にはじまる小野篁の流れと言われる。その利春は宇多院の私領である秩父牧(馬の飼育場)の管理者として実績を上げ、同じく宇多院の御給分の国であった武蔵国に人事異動。ついには国司にまで出世する。と、この日野の地には小野牧を領する小野一族がすでに住んでいた。近江の小野一族の直系ではなかったようで、祀る神様も天神さま、というか雷神さまであった、とか。
国司になった小野利春は、領内を治めるのはまずは神様から、ということで先住の小野一族がまつっていた社を武蔵国一宮とする。そのとき祭神は土着の雷神(火雷天神)さまに変えて秩父で祀っていた神様を輸入。小野神社の祭神が秩父国造の先祖とされる「天下春命」となっているのはこのため、である。古代、小野神社が武蔵一宮となったのは、秩父よりこの地の国司となった小野利春に負うところ多い、かと。

では、なぜ室町期以降、大宮の氷川神社が武蔵一宮となったか、ということだが、それはよくわからない。が、小野神社が力を失った理由は推測できる。そのひとつの理由は最大の庇護者であった小野氏の一党が力を失ったためであろう。小野利春以降、目立って活躍した小野氏は登場しない。
武蔵七党のひとつ横山氏が勢力を拡大していれば状況も変わったかも知れない。横山氏は近江小野氏の末裔と唱えた。小野神社の祭神に天押帯日子命・天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)があるが、この神様は、近江の小野一族の本拠地で祀られている神様。近江小野氏とのつながりをしっかりとするために、その横山氏によって輸入されたのか、とも思う。ともあれ小野氏の末裔としてこの地に勢を唱えた横山党も和田義盛の乱に連座し一族は壊滅的打撃を受ける。小野神社を祀る小野氏一党、庇護者がいなくなったわけだから、その神社が存在感を失ったのは道理、ということだろう。

ちなみに、多摩川を隔てた京王線中河原の少し北、中央高速の手前に小野神社がある。多摩川の氾濫のため遷座を繰り返し小野神社がふたつできた、とか、どちらかが本社でどちらかが分祠である、との説もある。武蔵国一宮にかかわりあり、との社であれば、それなりのもの、と想像していたのだが、それはそれはつつましやかな社となっていた。
ついでのことながら、土着の小野一族が祀っていた火雷天神はどこに行ったのか、ということだが、近くの谷保に谷保天神様、北野に天神様がある。菅原道真が太宰府に流されたとき、この地に流された道真の三男・道武が祀
ったのがはじまり。小野神社の火雷天神様はこれらの天神様に合祀されたのだろう、か、とも。

七生丘陵
一ノ宮地区を進む。美しき夕陽の落ちる西方浄土の地・百草の丘陵を、と眺めやるが、伸びをしても建物が多く見晴らし効かない。百草の丘陵遠望はあきらめ、道なりに進み都道20号線・野猿街道に一ノ宮交差点を渡り都道41号線・川崎街道に。
川崎街道を百草園へと向かう。左手に迫る丘陵がいかにも気になる。どこかで丘陵への道はないものかと山側を気にしながら先に進む。と、ほどなくそれらしき脇道。丘陵へと上る道筋があり、成り行きで進むと尾根の切り通しに出る。

道はその先にも続いている。丘陵を百草園まで進めるかどうか少々の不安もあったのだが、とりあえず先にすすむ。と、周囲が開ける。なかなかに美しい里山の風景。ログハウスがあったり、牛舎に牛が寝そべっていたりと、誠に、ゆったりとした美しい景観。昔の多摩丘陵って、こういった景観が広がっていたのだろう、か。東へと開ける先には桜ケ丘の丘陵が見える。低くなっているところは大栗川によって開かれた低地だろう。桜ケ丘と七生丘陵を区切っている。思いがけない美しい景色であった。ちなみに大栗川って、真慈悲寺の大庫裡に由来するとの説、も。

先に進むと道は左に折れる。が、七生丘陵散策路は直進。里から雑木林の中に入っていく。散歩のときはよくわからなかったのだが、途中百草園駅から大宮神社脇を上る道に合流するようだ。大宮神社脇あたりが七生丘陵散策路東コースのスタート地点、とか。鬱蒼とした雑木林をしばし進むと人声が。雑木林が開け百草園通りに出る。松蓮坂の急坂を登りきったところなのだろう。皆さん、結構息のあがっている。

百草園
道の筋向かいに小さな木戸がある。百草園の入り口。幾ばくかの木戸賃を払い園内に。梅園として知られるとのことではあるが、紅葉も終わりの初冬ゆえ、少々寂しき趣き、のみ。明治の頃、若山牧水が百草の丘に訪れ詠んだ歌がある、「われ歌をうたへり けふも故わかぬかなしみどもに打追われつつ」。牧水がどの季節に百草を訪ねたのが定かではないが、貧窮に苦しみ、恋愛に悩み、失意落胆から抜け出すすべも見つからない焦燥の心を読んだものであろうから、この冬枯れの季節が望ましい。

真慈悲寺
往古、この地には幻の寺・真慈悲寺があった、とされる。聖蹟桜ヶ丘のところでメモしたように、平安の頃、西方浄土の地と見立てられたこの地に真慈悲寺が建てられた、と。『吾妻鏡』に真慈悲寺の記録が二カ所ある。最初の記事は文治2年(1186)。「祈祷所の霊場なのに、荘園の寄進もなく荒れ果てている」、と。建久3年(1192)には、頼朝が鎌倉で行った後白河法皇の法要に真慈悲寺から僧侶三名送った、とある。後白川法皇の法要って、先日の飯山観音・金剛寺のメモで登場した武相の僧侶百名が集まった四十九日の法要である。この頃には真慈悲寺は幕府の御願寺として再興され武蔵有数の大寺院となっていたようである。
真慈悲寺が廃寺となった時期は不明。現在発掘作業が行われているので、そのうちに明らかになるのだろうが、現段階では建武2年(1335)、鎌倉大仏や高幡の不動堂を倒した台風により倒壊したのではないか、と言われている。その後真慈悲寺が再興された、という記録は、ない。
その後、いつの頃か定かではないが、真慈悲寺の跡に松連寺が建てられる。江戸の頃、とも。その松連寺も一時廃れ亨保2年(1717)、小田原藩主大久保公の室により、再建され、 文化文政(1804から1817年)の頃には庭園として整備され、多くの文人墨客が招かれた。園内に松尾芭蕉の句碑もあったが,芭蕉もそのひとりだろう、か。
江戸から明治にかけて江戸の人々に親しまれた松連寺も、明治6年(1873)の廃仏毀釈で廃寺となる。その後明治18年には遣水の生糸商人青木某が売りに出た寺を買い取り、庭園を一般に公開。「百草園」という名称もこの時に名付けられた、とか。この百草園も大正の大不況で維持できなくなり荒れるに任せる状態に。現在の百草園は昭和34年、京王帝都電鉄が買収し整備し、往時を偲ばせる趣の庭園としたものである、と。

百草八幡
庭園を散策し、成り行きで百草八幡に。入り口まで戻らなくても直接神社に進む門があった。この神社の歴史は古い。康平5年(1062)、奥州征伐の途中、この地を訪れた源頼家・義家親子が、武運長久を祈って八幡大菩薩の木像を奉納したのがはじまり。その後。鎌倉期に鎌倉の鶴ヶ岡八幡を勧請し百草八幡となる。この神社には阿弥陀如来像が伝わる。頼朝が源氏の祈願寺となった真悲願寺に寄進したもの。神社に仏像とはこれ如何に、というのは、真慈悲寺や松連寺と一帯となった神仏混淆・習合の故。
ところで散歩の折々に源頼義・義家親子の話に出会う。はじめの頃は、またか、などと思っていたのだが、先日足立区を歩いた折、この思いを改めた。源頼義・義家親子の因縁の地を結ぶと、どうやら奥州古道の道筋が現れてきた。ものごとには、それなりの理由がある、ということだろう。

百草観音堂
本殿を下り鳥居下に。どちらに進むか少々考える。地図をチェックすると高幡不動から南に延びる多摩都市モノレールの程久保駅の近くに日野市郷土資料館がある。どの程度の施設かわからないのだが、とりあえずそこに向かうことに。
鳥居下を南北に走る百草園通り、この道は昔の鎌倉街道とも呼ばれているようだが、ともあれ道筋を進む。鳥居下から南は下り坂。マシイ坂と呼ばれる。名前の由来は桝井、から。往古、このあたりに湧水があり、その湧水源を桝井と呼んだ。マシイは桝井の訛ったもの。坂の途中に洋画家・小島善太郎氏の邸宅。青梅に美術館がある。
道なりに進む。前を進む如何にも散歩大好きといった趣の方が道脇に上る。後に続く。「武相九番百観音札所」とある。石段を上ると、こじんまりとした堂宇。百草観音堂があった。お堂は昭和59年に改修。その昔は藁屋根・土蔵造りのお堂であった、とか。本尊は聖観音像。もとは真慈悲寺にあったもの。寺がなくなった後、地元の人によって護られ倉沢の百草観音として親しまれてきた。武相観音めぐりは12年に一度、卯歳に開扉され盛大に札所巡りが行われる、とか。

ちょうまんぴら緑地
観音堂を先に進むと風景はのどかな里山の景観から一変して住宅街となる。南に下り、帝京大学サッカー場手前を右に折れ道なりに進む。名前に惹かれて「ちょうまんぴら緑地」に。案内をメモ;寒い北国をさけて渡ってくる「つぐみ」を土地の言葉で「ちょうまん」という。「ちょうまんぴら」は「ちょうまん」が棲みついた「たいら(平)」の意。つぐみは秋の終わりごろからこのあたりの雑木林に住みついて、冬を過ごした。昭和四十二年(一九六七年)頃までは、このあたりはつぐみの楽園といってよかった、と。

百草団地
道脇の緑地を見やり、少し北に折り返し日本信販住宅交差点をへて日本信販住宅入口交差点に。道はT字路にあたる。北に進めば川崎街道の三沢交差点。南に下れば帝京大学キャンパスから清鏡寺を経て野猿街道の大塚に出る。
日野市郷土資料館のある程久保への道は百草団地をU字に迂回する外周道路となっているが、ここはショートカットを試みる。団地内を横切り外周道路に。道は谷に向かって下りていく。谷筋の向こうに開ける三沢地区の景観はのどかで美しい。三沢という地名は湯沢、中沢、小沢といった三つの沢があったから。ちなみに、三沢には戦国時代、小田原北条の武士団が転住し三沢衆と称した、と。

高幡台団地
下りきったところが湯沢橋。百草台団地からの比高差は20mといったところ。橋を渡り、再び台地を少し上る。上りきったとことが高幡台団地のバス停あたり。道なりに坂を下る。下り切れば程久保川筋・程久保橋に出る。目的地の日野市郷土資料館は坂の途中から左に分かれる。坂道を跨ぐ陸橋を渡り、南西に進む。道は尾根筋といったもの。道の北は崖。とはいうものの、崖一面住宅がびっしり。程久保川の谷地を隔ててた向かいの丘陵も家並みで埋まっている。

日野市郷土資料館
高幡城址のある丘陵を見やりながら進む。ほどなく日野市郷土資料館。廃校になった学校の一部を施設としている、よう。民具、農具といった展示が教室に並べられている。未だ整理の過程といった案配である。郷土史に関する資料や書籍などは手に入らなかった。

中の台公園
郷土資料館を離れ、ゴールの高幡不動に向かう。先ほど左に折れてきた坂道の分岐まで戻るもの味気ない。結構な崖地、といっても住宅でびっしりの崖地ではあるが、どうせのことなら成り行きで住宅値の中の道を下ることに。
道なりに進むと中の台公園。案内をメモ;「下程久保から南に深く入り込んだ大きな谷戸を「がんぜき」と呼んだ。がんぜきの西隣に雑木林を切り開いた山畑があり、それを中の台と読んだ。西のくろどん(九朗どの)の台地、と東の八幡台の中間にあった、から。雑木林には狐が棲み、昭和20年代まで畑を荒らした、と。公園は中の台でも「がんぜき」寄りの山上尾根近くにあたる。三沢八幡社前および下程久保から湯沢をへて落合に通じる古道があった」、と。
がんぜき、って熊手の意味のあるのだが、何か関係があるのだろう、か。不明である。ちなみに程久保の地名の由来だが、程=保土+久保=窪から、との説がある。文字
からすれば、常に土地を保持しなければ耕地を保てない、といった窪地といったところ。地形を見れば大いに納得。

かくれ穴公園
さらに成り行きで坂をくだる。と、道脇に公園の案内文。「かくれ穴公園(程久保1-749-2)」:「三沢の八幡台と程久保のくろどん(九朗どの)台との中間にあり、下程久保の台と呼ばれた高台で農家が3軒あった。公園の西側畑の畦にあった赤土の横穴には、九朗判官が奥州に逃れるとき隠れたという伝説がある」、と。

高幡城址
なりゆきでどんどんくだる。線路に突き当たる。京王動物園線だろう。線路に沿って細路を辿り車道に。坂を下りきり程久保橋を渡る。このまま北に進み川崎街道に出れば高幡不動駅はすぐそば。が、前方にそびえる高幡城址のある丘陵がちょっと気になる。先日高幡城址を歩いたのだが、今ひとつ地形の全体像が「つかめ」ない。ということで、多摩都市モノレールの走る高架下を横切り、三沢4丁目を成り行きで丘陵に向かう。成り行きで進んだ割には、ドンぴしゃで丘陵に上る散策路に当たる。坂を上り、再度高幡城址の周囲を歩き地形の全体像をつかみ直し、尾根道を南平の住宅街に辿り、多摩丘陵自然公園の西縁を下り一路高幡不動駅に。本日の散歩はこれでお終いとする。
晩秋というか、初冬と言おうか、12月初旬のとある週末、会社の仲間と高幡不動に向かった。紅葉見物と洒落てみた。高幡不動は何度か訪れたことがある。地形フリークとしては裏に控える丘陵(七生丘陵の一部)が気になってはいたのだが、時間切れで、いつも寺域のみ。紅葉もさることながら、今回は高幡不動をスタート地点に、その裏に続く丘陵歩きを楽しむことにした。大まかなコースは高幡不動から丘陵に上り尾根道へ。尾根道の散策路・かたらいの路を辿り平山城址に向かう。その後はなりゆきで進み、最後の目標は野猿街道を南に下った永林寺へ、といったもの。紅葉と丘陵、古刹と中世の城址、といった結構変化に富んだお散歩を楽しむことにする。




本日のコース;京王線・高幡不動駅>高幡不動>高幡城址>かたらいの路>都道155号線>京王線。・平山城趾駅>季重神社>平山城址公園>南陽台交差点>野猿街道>永林寺

京王線・高幡不動駅
家を出て仲間と3名で高幡不動駅に。駅から高幡不動への参道は人で賑わっていた。紅葉見物なのだろう。境内手前には結構大きな道が走る。北野街道(都道173号線)かと思っていたのだが、その北野街道は八王子の北野町から始まり浅川に沿って進み、高幡不動の少し西にある高旛橋南交差点でお終い。高幡橋南交差点から東は川崎街道となっている。お不動さんの前の道は川崎街道、ということだ。JR日野駅の少し東、日野市本町で都道256号線から分かれた川崎街道こと都道41号線は、高幡橋を渡り高橋橋南交差点へと下る。交差点からは、ここ高幡不動駅前をかすめ、稲城市大丸へと続き都道41号線はそこで終わる。川崎街道はそこから都道9号線となり南にくだる。

高幡不動
仁王門をくぐり久しぶりの高幡不動へ。室町の作とも伝えられる仁王様を拝し境内へ。高幡不動って、こんなに大きな構えだったのかと改めてその寺域を見やる。真言宗智山派の別格本山。開基は大宝年間(701年)以前とも、奈良時代に行基菩薩によるもの、とも伝えられる。行基にまつわる縁起は縁起としておくとしても、成田山(千葉県)、大山(神奈川県)と共に関東三大不動のひとつ。関東屈指の古刹である。
不動堂は平安初期、清和天皇の勅願により慈覚大師円仁が山中にお堂を建てたのがはじまり。不動明王を安置し関東鎮護の霊場とした。慈覚大師円仁って、第三代天台座主。最澄が開いた天台宗を大成させた高僧である。45歳の時、最後の遣唐使として唐に渡る。三度目のトライであった、とか。9年半におよぶ唐での苦闘を記録した『入唐求法巡礼記』で知られる。
円仁さんが開いたというお寺は関東だけで200強ある、と言う。江戸時代の初期、幕府が各お寺さんに、その開基をレポートしろ、と言った、とか。円仁の人気と権威にあやかりたいと、我も我もと「わが寺の開基は、円仁さまで...」ということで、こういった途方もない数の開基縁起とはなったのだろう。高幡不動は、開基縁起の人気者である行基も円仁も登場する。はて、その真偽のほどは。
それはそれとしてもう少し円仁さんのこと。日本で初めての「大師」号を受けたお坊さん、と言う。とはいうものの、円仁さんって最澄こと伝教大師のお弟子さん。弟子が師匠を差し置いて?また、「大師」と言えば弘法大師とも云われる空海を差し置いて?チェックする。大師号って、入定(なくなって)してから朝廷より与えられるもの。円仁の入定年は864年。大師号を受けたのが866年。最澄の入定年は862年。大師号を受けたのが866年。と言うことは、円仁は最澄とともに大師号を受けた、ということ、か。一方、空海の入定年は835年。大師号を受けたのが921年。大師と言えば、の空海が大師号を受けるのに、結構時間がかかっているのが意外ではある。どういったポリテックスが働いた結果なのだろう。

鎌倉、室町時代に入ると高幡不動は有力武将や鎌倉公方・関東管領・上杉氏等有力武将の信仰を得る。『鎌倉大草紙』には不動尊に篤き信仰心をもつ平山城址ゆかりの源氏武士・平山季重が頂に御堂を建立した、とある。このお不動さんは「汗かき不動」と呼ばれる。戦乱の度毎に不動明王が全身に汗を流されて不思議なできごとを起こしたため、と言う。『鎌倉大草紙』にはその由来らしき記述がある。「天下風水疫病等の諸災あらんとする時は、仏体汗を生じたもうなり」、と。不動ではないが、「汗かき観音」の由来話が、西国札所12番の岩間寺に残る。この寺の千手観音は、毎晩、厨子を抜け出して、苦しむ衆生を救済し、寺に戻られた時には汗びっしょりになられていた、とか。高旛のお不動さまも、衆生済度に汗を流した、と言うことだろう、か。
紅葉を眺め境内を歩く。不動堂を越え、露天の並ぶ参道を山門に向かい、境内の奥にある大日堂へ。お堂の前の紅葉が見事。先週、紅葉を求めて秩父の長瀞まで向かったのだが、高幡不動で十分であった、よう。道を五重塔へと戻る。途中にお鼻井戸。建武2年大嵐のため、山頂の御堂が倒れ、本尊の頭が落ちた所。そこに泉が湧き出た。発熱、腫れもの、眼疾に効能あり、と。ちなみにこの御堂は先にメモした平山季重が寄進したものと、伝えられる。
五重塔脇を抜け弁天池まで戻る。境内をぐるっと一周、というところ。途中に丘陵へと続く「かたらいの路」。丘陵歩きは後ほど、ということで先に進むと近藤勇・土方歳三のことを称えた「殉節両雄の碑」があった。土方歳三の実家は高幡不動の少し東、浅川に架かる新井橋を渡った先にある。篆額の筆者は元会津藩主松平容保、撰文は元仙台藩の儒者大槻磐渓、書は近藤・土方の良き理解者であった元幕府典医頭の松本良順。
松本良順はすこぶる魅力的な人物。安政4年、幕命により長崎遊学し、オランダ軍医ポンペの元で西洋医学を学ぶ。日本初の洋式病院である長崎養生所の開設などに尽力。江戸にて西洋医学所の頭取となる。幕医として近藤勇と親交。戊辰戦争時は、会津若松に入り、藩校・日新館に診療所を開設し、戦傷者の治療にあたる。 幕府方として働いたため投獄。のちに兵部省に出仕し、明治の元勲のひとり山県有朋の懇請により陸軍軍医部を設立。初代軍医総監。貴族院議員。男爵。

ぐるっと巡った高幡不動、正式には高幡山明王院金剛寺。名前の由来は、西党のひとつ高幡氏からだろう、か。鎌倉から戦国期にかけて、高幡高麗氏の一族が高幡不動あたりの浅川流域を支配していた、と。戦国時代の末、この地に北条家の家臣・高幡十右衛門の館があった、との記録もある。『武蔵名所図会』に「同村金剛寺より南よりの山の中腹に馬場跡などあり。八王子城主氏照の家臣に高幡十右衛門という人の居地なり。この人は八王子城に籠もりて、落城の砌に討死せり」と。
もう少し時代を遡ると、『鎌倉大草紙』に、享徳の乱のとき、足利成氏と分倍河原での合戦で敗れた上杉憲顕は「高幡寺」で自刃した、とある。その頃既に「高幡」という言葉は使われていたのだろう。実際境内には上杉憲顕をまつる祠もあったし、それはそれで理屈は通っているのだが、よくよく考えると、高幡不動って、戦国期よりもっと、すっと歴史が古い、はず。戦国期以前はどのように呼ばれていたのだろう、とチェック。元々は「元木の不動尊」と呼ばれていた、と。由来はよくわからない。オーソドックスに地名由来からなのか、それとも、「元の木」から幾つかの仏像を造った、といった縁起であろう、か。実際、大田区の安泰寺の本尊である元木不動には、慈覚大師が一木を以って三体の不動尊をつくった、といった縁起がある。

高幡城址
かたらいの路を丘陵へと進む。不動ケ岡とも愛宕山とも呼ばれている。少し上ったあたりで「山内八十八ケ所入り口」の案内。四国八十八ケ所霊場のうつし札所。裏山一帯に渡って広がっており、少々時間がかかりそう。今回はパス。成り行きで頂を目指す。標高130m、麓との比高差50mといったところ、である。
頂上近く、石垣が組まれた手前に高幡城址の案内。石段を上ると開けた場所となっている。案内には本丸址とあるが、南北に延びる尾根の一画といった程度。本丸址のその先、一段下ったところにも開けた場所があり、それは郭址とも伝えられるが、それとてもささやかなスペースである。お城と言うよりは物見の城砦といったもののように思える。
高幡城の詳しいことはほとんどわかっていない。鎌倉公方と関東管領上杉氏との抗争時、また関東管領である山内上杉と扇谷上杉の抗争時、この近辺で幾多の合戦が行われてはいるものの、高幡城の名は登場しない。上でメモした享徳の乱・分倍河原での合戦でも、上杉憲顕が「高幡寺」で自刃との記録が残るが、高幡城がそこに登場することはない。
高幡城が記録に登場するのは、小田原北条の頃になってから。上でメモした高幡十右衛門しかり。また、天正8年(1580年)の北条氏照印判状に、「高幡之郷平山大学助知行分」とある。平山氏が北条の家臣としてこの地を守っていたのだろう。小田原北条と言えば、その築城技術で知られるが、この高幡城に本格的縄張りが行われたことはなかった、よう。
交通の要衝、渡河地点を抑える城として高幡城は、北の滝山城への中継基地として北条の滅亡時までは存続したようだ。とはいうものの、武田信玄の滝山城攻め、秀吉の小田原攻めの時も、この城は素通りしている。どれほどのこともない、城砦ではあったのだろう。

南平・鹿島台団地
城址を離れ、次の目的地である平山城址へと向かう。道案内に「多摩動物園方面」のサイン。平山城址へと続く「かたらいの路」は多摩動物園の北端を通っている。方向としてはこれだろう、と先に進む。尾根道が先に続く。右手は高幡不動境内から続く谷戸が切り込んでいる。左手下には三沢地区の住宅街が見える。紅葉を楽しみながら緑深い尾根道を進むとほどなく住宅街に出る。
瀟洒な趣の住宅街を進む。南平・鹿島台団地だろう。ところどころに「かたらいの路」の案内がある。塀にペンキで、といった大胆なものもあった。このあたりは丘陵一面が宅地開発されている。丘陵の名残はまったく、ない。別の機会に、谷を隔てた程久保の丘陵から、この高幡の丘陵を眺めたとこがある。耕して天に至る、ならぬ、建て並べ天に至る、といった立錐の余地なき住宅街が広がっていた。

かたらいの路
住宅の向こうに緑の森が見える。多摩動物園の森であろう。多摩動物園の北端らしき緑を目安に道なりに進む。京王バス・鹿島台バス停の少し先、南平東地区センターの横に石段がある。かたらいの路は、ここから雑木林の中を進む山道に入る。路の左手は動物園。場所から見て、チンパンジー園のあたりだろう。動物園の外周フェンスに沿って路は続く。右へ左へアップダウンの道は続く。ほどなく森の中に円筒形のタンク。給水塔のように見える。タンクの周囲は少し開かれている。「みはらし公園」と呼ばれている。
公園の先は下り坂。くねった坂を下ると道は平たんになり、林が途切れる。眼下の眺めが素晴らしい。うねる流れは浅川だろう。日野や八王子が一望のもと。道はほどなく住宅街に下りる。新南平台団地の住宅街。少し右に戻ったところに水鳥救護研究センター、日本野鳥の会・鳥と緑の研究センターなどがある。
住宅街の道はおよそ100m程度で終わる。かたらいの路は崖路に沿って左に折れ、再び雑木林へと入ってゆく。右手に見える緑は南平丘陵公園。雑木林の中を進む。左手は多摩動物園のオランウータン園のあたり。ゴリラの檻などが裏から見える。道を進み、南平丘陵公園への分岐をやり過ごし、先に進む。フェンス越しに動物園内の通路と最接近。園内の家族連れとフェンスを隔てて平行に歩く、といった感じ。互いに気になる距離感ではある。
坂を少しくだる。高圧線の鉄塔を越えると動物園の裏門がある切り通しに出る。多摩動物園に隣接する七生公園南平地区を繋いでいる道、かも。ここまでくれば山中の散策路はほぼお終い。路は七生公園南平地区を通り里に下り、都道155号線の元の多摩テック入口付近に出る。かたらいの路はこのあたりが終点のようだ。

都道155号線
多摩テックの入口は少し東。子どもが小さいときはよく来たものである。が、2009年9月30日をもって48年の歴史に幕を閉じた。都道155号線を西に平山城址公園に向かう。道を進むと同行の士が「お昼は」とノタマウ。一旦歩き始めれば休むことなく、ひたすらに歩くだけが散歩の身上、とは思うのだが、なにせ貸し借りありの身過ぎ・世過ぎの身とすれば、致し方なし。「食」を求めて平山城址公園駅へと向かう。
都道155号線・町田平山八王子線は町田からはじまり、小山田の里を経て尾根道幹線に上り、京王堀之内脇を北に進む。大栗川を越え野猿街道の先で二手に分かれ、ひとつはバイパスとして直進し京王線・平山城址公園駅に進む。もうひと手は多摩テック入口交差点へと上り、交差点で西に向かい平山城址公園駅点前の奥山橋交差点でバイパスと合流する。道は北に上りJR豊田駅の西をかすめ、JR八高線・北八王子の東で国道20号線に合流する。
この都道は以前鶴見川源流の泉を歩いたときに出会った。その小山田の地では都道というよりも農道。車が交差するには難儀するような道であった。しかも、尾根道幹線あたりでは道はなくなっている。御嶽山の単なる尾根道・関東ふれあいの道が都道184号線といったことに比べればどうということはないのかもしれないが、それにしても途中に道がなく都道もあるもんだ、と少々の意外感が心に残る。

京王線・平山城址公園駅
住宅街を下り奥山橋交差点に。バイパスと合流した都道155号線を進み、北野街道・都道173号線を西に折れ平山城址公園駅交差点に。北に折れ駅前に。なにか食事処は、と探す。が、つつましやかなる駅前にはそれらしき賑わいは、ない。駅前のパン屋さんでパンを買い求め、さてどこかに座って食事でも、と思って北野街道に戻ると、あれあれ、少し先に蕎麦屋の幟。パンはおやつにと思い込み、即暖簾をくぐる。

平山季重
お蕎麦屋さんに行く途中、駅から北野街道に出る少し手前に「平山季重ふれあい館」があった。このあたりに源氏武者である平山季重の館があったとの説がある。季重は、武蔵七党のひとつ西党・日奉(ひまつり)氏の一族。源義朝に従い、平治の乱(1159)の折、圧倒的多勢の平重盛の軍勢に少人数で戦いを仕掛ける。義経のもとで戦った宇治川合戦では木曾義仲の軍勢に先陣を切って斬り込む。一の谷の合戦では逆落しに駆け降り平家を破る。頼朝・義経兄弟の対立後は頼朝に従い、奥州平泉の義経征伐に加わる。その後も幕府の元老として活躍。実朝将軍就任の儀式には鳴弦の儀の大役を務めている。
季重の後の平山氏はしばらく歴史の記録から消える。北条一門による鎌倉幕府草創期からの戦武者粛正の嵐を避けようとしたのだろう、か。時をへて平山氏が登場するのは小田原北条氏の家臣として。室町期滝山城主でもあった大石氏の配下であったようだが、大石氏が北条に下った後は、同じく北条の家臣となる。高幡城のメモで北条の家臣として平山氏が築いた物見城砦としたが、正確には大石氏の家臣であった、ということ、か。秋川筋の檜原城にて甲斐の武田に備えたのも平山の一党。平山氏の出自である西党・日奉氏は平山・小川・由井・川口氏といったその支族を多摩川・浅川・秋川の流域に広げていたわけであるから、檜原に拠点を持っても不思議ではない。
ちなみに日奉氏ってその祖が武蔵守として下向。任期を終えた後も都に帰ることなく、この地に留まり、小川の牧、由井の牧を支配し勢力をのばす。日奉氏が西党と呼ばれる所以は、日野とか八王子といった西党の支族の活躍した場所が、国府のあった国分寺の西であったため、とか、日奉を音読(「にし」)したものである、とか、あれこれ。お蕎麦休憩も終え、再び散歩に出かける。

七生丘陵散策路
次の目的地は季重神社。丘陵の尾根にある。季重神社には以前訪れたことがある。そのときは駅の正面に見える平山丘陵中腹にある宗印寺におまいりし、寺の西脇から丘陵を上った。宗印寺は平山季重がねむる。もともとは、平山城址公園駅前の大福寺にあったようだが、大福寺が明治に廃寺になったときに宗印寺に移された、と。
ついでのことながら、宗印寺のはじまりは小田原北条の家臣・中山勘解由の嫡子の開基による。勘解由は秀吉による小田原北条攻めのとき落城した八王子城の家老。勘解由の奮戦・忠臣ぶりに感銘を受けた家康が、戦後その兄弟を探しだし側に置く。宗印寺はその後家光の馬術指南になった兄が開いた庵がもとになった、と。
宗印寺のあれこれはさておき、今回は別コースを通り季重神社へ進む。北野街道脇に公園への道案内。宗印寺経由がどちらかといえば平山緑地「直登ルート」といったものだが、こちらは平山緑地の丘陵を巻いて上る、といった案配。道案内には七生丘陵散策路とある。かたらいの路が消えて、少々唐突に七生丘陵散策路が現れた。チェック。高幡不動の裏や、この平山城址公園のある丘陵など、浅川の南に続く丘陵のことを七生丘陵と呼ぶ。その丘陵を東から西に歩くお散歩コースが七生丘陵散策路。コースは東と西に分かれており、東コースは百草公園のあたりから多摩動物公園あたりまでの5キロ。西コースは多摩動物公園から平山城址公園までの4キロ。次回のお散歩はこの七生丘陵散策路、とくに今回カバーできていない、百草公園からの七生丘陵散策路東コースを歩いてみたい、と思う。

季重神社
上りきったところは丘陵の景観から一転して住宅街となる。平山城址公園は住宅街の西端を南に向かって坂を上る。坂を登り切った少し東に崖を一直線に上る石段。京王研修センターとグランドの間を抜け、下から上ってきた車道を尾根に沿って西に進むと平山城址公園の入り口につく。白壁の塀があったりして城址っぽいのだが、ここにお城があったわけではない。物見程度の城砦があった、とか。平山「城址」公園としたのは京王電鉄。レジャー施設として公園を開発。どうせのことならと、物見城砦があったこの地を平山城址公園と命名。少々拡大解釈。ついでのことながら、駅名も昭和30年に平山駅から平山城址公園駅とした。
公園入り口から少し北へ進む。崖端近くに季重神社。古くは日奉明神社と呼ばれていた。日奉氏って平山氏など武蔵七党のひとつである西党の祖であるので、それはそれでいいのだが、ここに昔から神社があったわけではなさそう。ここは昔丸山と呼ばれ物見の城砦があったところ、と言う。ここに祠ができたのは昭和の頃。平山季重の館内にあった稲荷社をこの地に移した。もともと、この地にも石祠があったようで、そこに合祀し祠ができた。現在のようにこぎれいな祠となったのは平成17年、というから、それほど昔のことではない。季重神社って、いつ、だれが命名したのであろう、か。不明である。

平山城址公園
季重神社を離れる。西へと尾根道が続く。野猿の尾根道と呼ばれていた。以前、このあたりを歩いたときは野猿の尾根道を西に向かった。「行き止まり」のサインがあったのだが、なんとなく尾根道を進んでみたかった。気持ちのいい尾根道を進むと放火で焼けた民家跡のあたりで完全ブロック。その先は個人所有とのことで、厳しい立ち入り禁止サイン。さすがに歩を止めた。で、今回は尾根道を避けて尾根道の南東斜面に広がる平山城址公園を下る。比高差は30m程度。クヌギやコナラの雑木林の中を下ると湧水を集めた池など、も。道なりに進むと東京薬科大学のキャンパスに。キャンパス内の池の畔の紅葉が誠に美しい。守衛さんに挨拶し車道に出る。

南陽台交差点
東京薬科大学前交差点を西に向かう。この道は都道155線バイパスの東京薬科大学東交差点から分かれ西に向かう道。住宅街の広がる南陽台を進み南陽台交差点に。ここを北に進むと平山城址公園と長沼公園の丘陵を分ける切り通し。その先は長沼町・北野街道へ抜ける。当初の予定では、この道筋を辿り長沼公園の丘陵から尾根道を進み野猿峠に。そこから野猿街道を南東に下りて永林寺に行くつもりであった。が、如何せん時間がない。のんびりと慣れないお昼などとったためだろう、か。で、スケジュール変更。この交差点から直接永林寺に向かうことに。

野猿街道
道なりに南に下る。ほどなく野猿街道・都道160号線に。野猿(やえん)街道は八王子市の中心部と多摩市とを結ぶ道。八王子市側の起点は八王子市横山町。甲州街道・国道20号線から分かれJR中央線を越え、八王子駅南口を経て東へ進み北野に。北野から南東へと丘を登り、野猿峠を越えて下柚木に。そこで東進して多摩市一ノ宮で川崎街道に合流する。 現在では八王子市街と多摩ニュータウン方面を繋ぐルートとして交通量の多い道路だが、かつての野猿峠はかなり険しい山道であった、よう。
野猿峠の名前の由来だが、このあたりお猿でも多いのかとも思ったが、どうもそうではないようだ。「武蔵名勝図会」によれば、大石道俊(定久)がこの峠に甲を埋めて碑を建てた、とか。当時は「甲山峠」と呼ばれたようだが、その後、甲を申(さる)と書き間違え、「申山峠」と。それが、猿山峠となり、江戸の末期には何故だか知らねど、「猿丸峠」となった。で、結局、野猿峠となったのはいつの頃からなのかはっきりしない。国土地理院が正式に「野猿峠」と書くようになったのは、昭和28年から。当時、京王電鉄が峠付近をハイキングコースと整備し、「野猿峠」という名前を使い始めたともいわれるが、確証はない。

御嶽神社
野猿峠街道を下る。道脇に御嶽神社の案内。その方向を見やると、あたりは住宅街も切れ、谷戸の風情の残る落ち着いた里山が広がる。一帯は殿が谷戸と呼ばれている。畑の中の細路を上る。上りきったあたりに御嶽神社が佇む。社殿に向かって左手にスダジイ。樹齢400年。根元から幹が分かれ幹の大きさも3mほどある、という。下柚木御嶽神社のスダジイとして結構有名な、よう。スダジイって、ブナ科の常緑樹。シイの木の一種。
境内にいくつかの祠がまつられる。お稲荷さん、金比羅さん、そして猿丸さん。それぞれ宅地開発や農地開発のときに、この地に合祀されたもの、という。お稲荷さま、金比羅様はそれとして、猿丸さまはなんとなく気になる。野猿峠はその昔、猿丸山と呼ばれていたわけだから、そのこととなんらかの関係があるのだろう。

永林寺
御嶽神社から谷戸を隔てた先にこんもりとした緑が広がる。永林寺の森であろう。御嶽神社脇から畑に通じる石段があった。下りたのはいいが道はない。畑地の中を失礼し、成り行きで先に進む。道を下りきり、森の裾をぐるりと回りこみ永林寺の境内に。
寺の構えは立派。こんなに堂々としたお寺様があるとは思わなかった。寺の開基は上にメモした大石定久。大石定久って滝山城とか戸倉城とか高月城とか、散歩の折々に出会う。そう言えば、東久留米の浄牧院も大石氏ゆかりの寺であった。
所沢の久米に永源寺ってお寺がある。その寺はこの永林寺の本寺。大石氏中興の祖でもある大石信重のお墓もある。そのあたりが大石氏発祥の地との説もある。信州大石郷より出たため大石氏との説もある。木曾義仲の子孫とも称する。信重が木曽氏の出自で、この地の土豪である大石氏の女婿となった、との説からである。が、出自はいまひとつよくわからない。
ともあれ在地土豪としておこった大石氏は、室町・戦国期の争乱に関東管領上杉氏の家臣として武功をたて武蔵国の守護代をつとめるまでになる。多摩一帯が大石氏の領地となり、高月城とか滝山城などを築く。転機は川越夜戦。上杉管領方が小田原北条家により壊滅的打撃受けた後、大石氏は北条家に下る。北条氏照を女婿として滝山城に迎え入れ、定久は秋川渓谷入り口の戸倉城に隠居した、と。
で、この永林寺であるが、この寺の落慶した天文15年は、小田原北条氏が川越夜戦で上杉を打ち破り、関東全域をその支配に納めた年。この寺が立派なのは大石氏の力もさることながら、婿である氏照の援助が大きかったのだろう。落慶法要には僧千名参列したと言う。伽藍造営には氏照家人である横地監物と中山勘解由が奉行として差配した、と。そうであれば、この立派な構えも納得できる。
永林寺に大石定久がねむる。とはいうものの、定久の最後はどうもはっきりしていない。どうしても北条に屈するのを潔しとせず、背後であれこれ反北条勢力と連携。上杉謙信の小田原攻め呼応し、青梅一帯を支配する三田一揆をといった反乱勢力と結ぶ。が、その動きが露見してし、野猿峠で割腹したとか、柚木城に移されたとか、はたまた、この永林寺に押し込められたとか、諸説あり。
その由木城址。境内奥にある。ちょっとした広場に由木城址の石碑と、太田道灌そっくりのポーズをとる大石定久の像が立つ。由木城は武蔵七党のひとつ横山党に属する由木氏が築く。その後、大江広元の流れをくむ長井氏が拠る。14世紀後半、南北朝末期長井氏が片倉城に移った後、戦国期になり大石氏が館を構えた、と。城址とは言うものの、館址といったものだろう。丘陵地の谷谷間の低地には館が築かれることが多い。平山城址や高幡城址も谷戸らしき景観のところにあった。谷戸奥って湧水ポイントでもある。水を確保でき、農耕に適した谷戸は古代から中世にかけての生活の場。各谷戸に武士団が館を構えていたのだろう。

本日の散歩はこれでお終い。野猿街道に戻りバスに飛び乗り南大沢駅まで。後は一路家路へと。 歩き始めた頃、何故に高幡不動といった古刹が彼の地に建てられたのかちょっと気になった。つらつら考えるに、ちょっと離れたところに国府・国分寺がある。聖蹟桜ヶ丘のあたりには鎌倉街道が通っている。その側には武蔵一宮の小野神社もある。日野一帯は武蔵七党の一つ西党のおこった地でもある。現在から見れば東京都下ではあるが、当時の東京は芦原の湿地。このあたりが当時の武蔵の中心地であったわけ、だ。
高幡不動のお隣、七生丘陵の東端の百草園のあたりには、鎌倉幕府の祈願寺でもあった真慈悲寺があった、と言う。その地に真慈悲寺が建てられたのは小野神社のある一宮・桜ヶ丘から見て、美しい夕日の沈む地、西方浄土の地と見立てられたため、とか。高幡不動も古代の政治の中心地から見てはたして美しき夕日の沈む西方浄土の地であったのだろう、か。そのうちに多摩川端に座りその景観を確かめたいものである。 
都下稲城市と川崎市多摩区の境あたりを歩く。過日多摩丘陵の横山の道散歩のとき、途中の車窓から眺めたこのあたり、多摩川を渡ると迫り来る丘陵地帯が結構気になっていた。いつか歩こう、と思っていた。が、なんとなくきっかけがつかめない。と、思っていたところ、ふとしたきかっけである本を見つけた。仕事で一ツ橋大学に出かけたときに、国立・学園通りにある古本屋に立ち寄り『多摩丘陵の古城址;田中祥彦(有峰書店新社)』を手に入れた。稲田堤のあたりに小沢城址がある、とのこと。いいきっかけができた。行かずばなるまい、ということで京王稲田堤に降り立った。



本日のルート;京王稲田堤>府中街道>JR稲田堤駅入口を右折>(三沢川・国士舘大学裏あたりが源流点>黒川>鶴川街道に沿って稲城・稲城からは鶴川街道から離れて)>天宿橋>多摩自然遊歩道・小沢城址緑地の入口を確認>旧三沢川>指月橋>大谷橋>薬師堂>菅北浦緑地>法泉寺>子ノ神社>福昌寺>玉林寺>小沢城址緑地の入口>浅間山・小沢城址(高射砲探照灯・物見・浅間神社・鷹狩・)>寿福寺>フルーツパーク>菅仙谷3丁目>NTV生田スタジオ>多摩美ふれあいの森>多摩美公園>細山6丁目・細山5丁目>西生田小前交差点で右折>細山神明社>香林寺・五重塔>細山郷土資料館>千代ヶ丘2丁目・1丁目を経てもみじケ岡公園東側>万福寺>十二神社>新百合ヶ丘駅

京王稲田堤

駅前で案内地図チェック。駅前を走る府中街道を少し南に下り、三沢川の南にある薬師堂のあたりから始まり丘陵地帯を越え、小田急のよみうりランド駅に抜ける遊歩道がある。案内図には「小沢城址」のマークはない。が、途中寿福寺を通る。小沢城址は寿福寺の近く。遊歩道にそってあるけば小沢城址に行けるだろう。ということで、この案内図に沿って歩くことにした。

京王稲田堤駅は京王線の中では数少ない、川崎市に位置する駅。駅のある川崎市多摩区あたりの歴史は古い。奈良時代、大伴家持らの手によって編纂された 『万葉集』にも「多摩川」の名で登場するいくつかの歌がある。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


稲田堤の由来
稲田堤の名前の稲田の由来:多摩川は暴れ川。洪水・氾濫により上流から土や砂を運び堆積されて肥沃な土地が生まれた。で、「稲毛米」という高品質な米が生産された。これが「稲田」の由来。また暴れ川の治水工事のゆえに堤防ができ。「稲田」+「堤」=稲田堤、ってわけ。稲田堤は昔、桜並木で有名であったようだ。が、いまはその面影はない。

三沢川
府中街道に沿って菅、菅稲田堤地区を少し下る。菅小学校を超えたあたりで三沢川と交差。鎌倉・室町の頃多摩川は多摩丘陵の山裾を流れていた。が、川筋が次第に北に移り、天正年間の大洪水により現在の流路に。で、このあたりにスゲが群生していたのが「菅」の由来。

三沢川筋を遡り丘陵地帯に向かう。地図で確認すると、三沢川は多摩横山の道散歩の時に目にした国士舘大学近くの黒川が源流点のよう。鶴川街道に沿って黒川駅、若葉台駅を経て京王稲城駅近くまで北東に走り、稲城からは東に向って稲田堤の近くで多摩川に合流する。

旧三沢川
ともあれ、川筋を丘陵方向に向かって西に歩く。川が丘陵に近づくところに「小沢城址緑地」の案内図。ラッキー。いつも上り口を探すのに苦労するのだが、今回はついている。上り口を確認し、気分も軽やかに薬師堂に向う。

指月橋
丘陵に沿った別の川筋・旧三沢川に沿って歩く。指月橋。義経・弁慶主従が頼朝の勘気を蒙り、奥州・藤原氏を頼って落ち行くとき、この地で月を眺めた、とか。

薬師堂

小沢城址とは別の丘陵・菅小谷緑地を越え、またもうひとつ東の丘陵の麓に薬師堂。稲毛三郎重成建立。毎年9月12日、魔除神事の獅子舞が行われる。東に更にもうひとつの丘陵。法泉寺、福昌寺、玉林寺がある。

子ノ神社
おまいりをすませ、東隣にある子ノ神社(ねのじんじゃ)に。名前に惹かれる。由来書は読んだが要点わからず;「菅村地主明神は大己貴神であるが、創立の年代不明。本地は十二面観音。薬師第一夜叉大将を習合し子ノ神と。保元の乱の白川殿夜討ちの折、鎮西八郎為朝が、左馬頭義朝に向けて放った矢を義朝のこどもが受け継ぎ参籠の折、地主明神に納め以降根之神と。新田義貞鎌倉攻めのとき社殿焼失。北条氏康により再興」、といった由来書。
根之(ねの)神社は南 関東から東海地方にかけて集中的に分布するローカルな神様。18人も子どもがいたという、子だくさんの神様である大己貴神=子ノ神と、神代の根之国の神様である根之神の関連などよくわからない。今度ちゃんとしらべておこう。ちなみに白川院は先日の京都散歩のとき、岡崎で偶然出会った。

小沢城址緑地への上り口

再び旧三沢川を西に、小沢城址緑地への上り口に戻る。丘陵に上る。尾根道が続く。案内板が。高射砲探照灯基地がこの地下あった、と。ここで首都圏場爆撃に来襲のB29を探照灯で捉え、登戸近くの枡形城のある丘陵地の高射砲が射撃した。
「物見台」の案内。江戸から秩父連峰まで関八州が見渡せたとか。「鷹の巣」の案内。家光公が鷹狩のみぎり、稲城の大丸、というからJR南武線・南多摩駅あたりからはじめ、夜はこの地の寿福寺とか、庄屋の屋敷に泊まる。で、鷹匠が泊まる屋敷を鷹の巣と。
「浅間神社」の案内。尾根道に一握りといった小さな石のお宮さま。これが浅間神社。富士山の守り神。富士山への民間信仰・富士講にでかける多摩の人々がこの尾根道を越えて菅村、そして調布、甲州街道を経て富士山に。道中の無事を祈ってつくられたものであろう。結構続く尾根道を歩き、城址に。

小沢城址

小沢城の案内が。「この地域は、江戸時代末から「城山」と言い伝えられ、新編武蔵風土記にも小沢小太郎の居城と記録されています。この小沢小太郎は、源頼朝の重臣として活躍した稲毛三郎重成の子でこの地域を支配していた人です。ここは、丘陵地形が天然の要害となり、鎌倉道や多摩川の広い低地や河原がそばにあったことから、
鎌倉時代から戦国時代にかけてたびたび合戦の舞台となりました。城の形跡として、空堀、物見台、馬場などと思われる物があり当時を偲ばせますが、現在は小沢城址緑地保全地区に指定され、自然の豊かな散策路としても貴重な存在です」、と。「馬場址」の案内。鎌倉から戦国時代に至る380年の間、この地は鎌倉幕府の北の防衛線。この馬場で武士たちが武術を磨いた。その間6,7回の合戦。
最も激しい戦いは新田義貞と北条高時の分倍河原合戦。鎌倉時代末、1333年。新田軍は分倍河原。高時軍は関戸に布陣。新田軍の勝利。怒涛の新田軍は関戸もこの小沢城も陥落。一気呵成に鎌倉を陥落させた。

南北朝には、足利尊氏と足利直義の対立から起きた観応の乱の舞台となる。1351年、小沢城にこもる足利直義の軍勢と尊氏軍との間で合戦がおこなわれる。戦国時代には、後北条、つまりは北条早雲の「北条」氏と上杉氏との勢力争いのフロントライン。

1530年には武蔵最大の支配力をもつ上杉朝興に対し、後北条氏の軍勢は小沢城に陣を張り、これを撃破。北条氏康の初陣の合戦でもある。世に言う小沢原合戦がこれ。

小沢小太郎重政

丘陵地形が天然の要害を形づくっているこの地は、鎌倉道が通る戦略的要衝(ようしょう)の地。多摩川の広い低地や河原をひかえていたため、鎌倉時代から戦国時代にかけてたびたび合戦の舞台になったわけだ。ちなみに案内板にあった小沢小太郎重政は、鎌倉幕府が源氏3代で滅びたあと、北条一族の時代になって悲劇的な最期を遂げる。

小沢小太郎重政の最後は、鎌倉武士の鑑とされた畠山重忠の謀殺と大いに関係する。直裁に言えば、畠山重忠謀殺に加担したのが、この小沢小太郎重政。武蔵を歩けば折にふれ、畠山重忠由来の地に出会う。そんな「有名人」重忠の騙し討ちから自滅までの小沢小太郎重政の軌跡を時系列にまとめる;
1.稲毛三郎重成は執権・北条時政の娘婿に
2.時政とその後妻・牧の方は稲毛三郎重成に「あなたの従兄の畠山次郎重忠・重保父子が謀反」と、いう謀略を仕組む。
3.畠山重忠は、源頼朝の旗揚げから忠臣・重臣。その重忠の従弟である稲毛三郎重成は、北条時政と牧の方の謀略に加担。畠山父子を殺す手引きし、父子を鎌倉へ呼び出す。
4.鎌倉は「謀反人を討つべし」との声、騒然。自分たちがトラップにかけられていることなど露思わず、畠山重保は郎従3人とともに由井ヶ浜へ。
5.北条時政の命を受けた三浦義村軍に取り囲まれ、重保は奮戦むなしく惨殺。二俣川では重忠が謀殺された。
6.翌日には稲毛三郎重成・重政父子も誅殺される。畠山一族に代わって稲毛一族が強大になることを恐れた北条時政は、「畠山父子を謀殺したのは稲毛の策略」と、二重のトラップをかけていたわけだ。

寿福寺雑木林の城址で少々休憩の後、丘陵を下る。臨済宗の仙石山寿福寺。このあたりは菅仙石と呼ばれる。山あり、谷あり、仙人の住む谷戸、である。寺伝によれば、とある仙人が子の地で修行。ために、「仙石」と呼ばれた、とも。
寿福寺の歴史は古く、『江戸名所図会』によれば、古墳文化時代の「 推古天皇6(598)年に聖徳太子が建立」とも書かれている。指月橋にも登場したが、このお寺にも義経と弁慶主従の伝説が。鎌倉から奥州平泉に逃れる途中、ここに隠れ住み、その間に「大般若経」を写した経文がある、とか。また、義経と弁慶の鐙二具と袈裟も残されている、とか。本堂裏の五財弁尊天池の近くには「弁慶のかくれ穴」、千石の入り口には「弁慶渡らずの橋」という土橋、その近くには、「弁慶の足跡石」もある、とか。

西南にゆったりと下る丘陵地、そこに広がる景観は美しい。 しばし休憩し、再び歩きはじめる。歓声が聞こえる。読売ランドからの響きだろう。しばらく進むとフルーツパーク。温室栽培の果物が。イチゴ狩りがあるのかどうか知らないが、宅地化が進んだこのあたりは桃や梨で有名、と聞いたことがある。たしか、「多摩川梨」だった、と
思う。とはいうものの、男ひとりでフルーツ園もなんだかな、ということで先に進む。

多摩自然遊歩道

菅仙石3丁目の交差点近くに菅高校。ちょっとした登りの坂をNTV生田スタジオ、読売日本交響楽団の練習場に沿って登る。
上りきったあたりに「多摩自然遊歩道」。小田急・読売ランド駅方向に下っている。「市民健康の森」を右手に眺めながら雑木林を歩く。と、後ろから追い抜かれたご夫人に声をかけかられる。散歩好きの感じ。稲田堤から読売ランド駅まで歩いてきた、と。話の中で少し戻れば、丘陵地帯を新百合ヶ丘に進む道がある、という。
どこかで読んだのだが、新百合丘の近くの丘陵地に万福寺あたりに鎌倉古道が残っている、と。行かずばなるまい。とは思いながらも、結構分かりにくそうではある。が、このまま進み読売ランドの駅から百合丘、新百合ヶ丘に津久井道を進むのもなんだかなあ。ということで、「市民健康の森」あたりまで引き返すことに。

五重塔が見える

「市民健康の森」に入り込み、雑木林を進む。「多摩美ふれあいの森」の裾に沿って少し歩くと住 宅地。多摩美2丁目。ちょっと離れた西の別尾根筋に五重塔が見える。多摩の地に五重塔があるなど、思ってもみなかった。行かずばなるまい。一体どのあたりかは定かではない。成り行きで進むしかない。
細山神明社
もう少し丘陵地の裾を進む。細山6丁目で交通量の多い道筋にでる。この道は読売ランドの丘陵地を越え、京王読売ランド駅の西から南武線・矢野口駅近くで鶴川街道に連なる道。読売ランドとは逆方向に進み、なんとなく西生田小学校交差点で右折。少し進むと細山神明社。とりあえず道の脇にある鳥居をくぐり石段を登る。

社殿は丘の上の鳥居をくぐり別の石段を下りたところにある??普通は坂を登ったり、石段を登ったところに社殿があるはず?これって一体なんだ?由来書にその理由が書いてあった。
神社を創建時、社殿は東向きだった。が、一夜にして西向きに。村の人々は不思議に思いながらも再び東向きに戻す。が、夜が明けるとまた西向きに。そんなことが3度も続いたある夜、名主の夢枕に神様が立ち曰く、「神明社は細山村の東端。東向きでは村の鎮護ができない。氏子をまもるため西に向けよ。西の伊勢の方向へ向けよ、大門が逆になっても良い」というお告げ。それ以後、社殿は西向きになり、大門はいわゆる「逆さ大門」となった。ちなみに、「逆さ大門」は関東に3社ある、とか。

五重塔は香林寺

道を進む。が、五重塔が見えなくなった。はてさて。細山2丁目の細山
派出所交差点あたりに偶然、五重塔への案内が。ラッキー。車道筋からはなれ、小高い丘をの ぼる。香林寺。里山の斜面に諸堂が並ぶ。三門、本堂、鐘堂、そして岡の最上部に五重塔。ここからの眺め、里山の姿は本当に美しい。こんな景観が楽しめるなど考えてもみていなかった。偶然散歩の途中に五重塔が目に入り、それを目指して歩いてきた、といったいくつかの偶然の恩寵。里山百景として絶対お勧め。
ちなみに、この五重塔は1987年創建。結構新しいのだが、外装は木造、内部は鉄筋コンクリート、といった意匠のため落ち着いた雰囲気を出していた。いやはや、この眺めはいい!

細山郷土資料館

香林寺を出る。すぐ前に細山郷土資料館。江戸時代だったかどうか忘れてしまったが、この細山から金程といったあたりの立体地形図があった。細山と呼ばれたように、細い丘陵が幾筋も広がっていた。

千代ヶ丘

道に戻り、一路新百合丘を目指す。千代ヶ丘の交差点まで直進。このあたりが丘陵地の南端か。あとは下るだけ。千代ヶ丘1丁目の住宅地を下り、もみじケ丘公園東側交差点に。南に新百合丘に至る道。人も車も急に増える。

道を進む。道脇の標識でこのあたりが万福寺である、と。宅地開発の真っ最中。いくつかの不動産会社が共同して開発しているよう。自然の丘などありゃしない。削り取られ、整地された分譲開発地。これでは鎌倉古道跡など望むべくもなし。

新百合ヶ丘駅

丘の南端に十二神社。このあたりだけが昔のまま、か。神社への石段を登る。宅地開発の恩恵か、石段もなにも、新調されている。分譲地のアクセントとしてはいいかも、といった印象。早々に引き上げる。で、目的の万福寺を探す。が、それっぽいお寺などありゃしない。どうも万福寺って、お寺の名前ではなく地名で あった。ということで少々収まりが悪いながらも、本日の予定は終了。新百合ヶ丘駅から家路に急ぐ。

帰宅し調べたところによると、江戸時代江戸時代に林述斎を総裁に間宮士信ら四十数人が編纂した『新編武蔵風土記稿』にすでに「古、万福寺と云寺院ありしゆへかゝる名もあるにや、今は土地にも其伝へなし、またまさしく寺跡と覚ゆる地も見えず」と記されていた。

2009年の3月に再び小沢城址から香林寺へと歩いた。香林寺からの眺めを楽しんでいると、南の高台に神社らしき構えが見える。このあたりで最も高い場所のように思える。さぞや眺めもいいだろう、と歩を進める。高石神社であった。まことにいい眺めであった。

青梅の丘陵地を歩いた。先日買った本『多摩丘陵の古城址;(田中祥彦;有峰書店新社)』にも記載のあった二俣尾の辛垣城跡、中世の奥多摩渓谷を支配した三田一族の終焉の地を歩こうと思った。



JR青梅線・青梅駅
Jr青梅線・青梅駅で下車。駅前に青梅観光案内所。近辺の地図を手にいれる。青梅丘陵ハイキングコースを経て、その先の辛垣城までの山道の案内が載っている。ガイドに従い、線路脇を少し東に戻る。
すぐにT字路。左折し青梅線を跨ぐ陸橋を越え道なりに進む。永山公園通りに。テニスコートを左に眺めながら坂道を上る。おおきくS字に蛇行する急勾配の坂。上りきり尾根道に。十字路の右手は青梅鉄道公園。道標に従い左に折れると青梅丘陵ハイキングコース。

青梅丘陵ハイキングコース
ハイキングコースはすこぶる気持ちいい。左手に青梅の市街が広がる。木の名前でも知っておれば、あれこれ情景描写もできるのだろうが、なにせ、スギ・ヒノキではない、と自信なく言える程度の我が身が少々情けない。

金比羅社
少し進むと「風の子太陽の子広場」への分岐。かまわず直進。ちょっとした上り。上りきったあたりに金比羅社。さらに進み、さらに坂を登ると第一休憩所。このあたりで簡易舗装は切れる。

叢雨橋
少し歩き第二休憩所。休憩所近くに大きな石の塔と石仏が。石仏からは多くの手が出ている。千手観音菩薩だ。道なりに進むと叢雨橋(むらさめばし)。橋の下は川という感じではなく、峠道といった雰囲気。とはいっても誰も歩いている感じはしない。
橋の下は丁度、小曽木街道の青梅坂トンネルの上あたり。昔はこの小曽木街道を通り、丘陵北側の成木地区で算出する石灰や、山々で伐採された木材を江戸に運んでいたのだろう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


第四休憩所
先に進む。尾根下の森下町とか裏宿への分岐が。かまわず進む。麻利支天尊梅園神社経由裏宿町への分岐。麻利支天は武士の護り本尊。
再び急な坂。南側斜面が開ける。送電線の鉄塔を越え第四休憩所に。ここからの青梅市街の眺めは美しい。しばし眺めを楽しみ再び歩を進める。

矢倉台の休憩所
ゆるやかな上り坂。樹林の中を進むと宮の平駅・日向和田駅方面への分岐。かまわず進むと急な坂。本日の散歩道で最大の勾配。上りきったところが矢倉台の休憩所。第四休憩所よりさらに美しい眺め。

由来書によれば、ここは物見櫓のあったところ。物見櫓(矢倉台)の由来書;青梅市、かつての杣保(そまほ)に拠点を置いた豪族三田氏は代々、市内東青梅の勝沼城に居住していたが、北条氏照の八王子滝山入場による、多摩地方の情勢の変化を受け、永禄年間(1556年から1569年)の初め頃、二俣尾の辛垣山に城を築いたと言われる。物見櫓(矢倉台)はこの辛垣城(西城)から南東役3キロメートルに位置し、戦略上重要な物見の場所であった」という。

三方山の頂上
矢倉台を下り樹林の中を進む。道標。「左 日向和田 右辛垣城」。ここからはアップダウンの激しい山道となる。「辛垣城 左へ2.7km」と。左折して西へむかう尾根道に。樹林を越えると送電線の鉄塔。さらに尾根道そして上り。結構きつい。ピークに上り切る。北側が開ける。眺めは圧倒的に素晴らしい。三方山の頂上だろう。標高454m。

名郷峠

ピークを越え尾根道を進む。右手斜面が伐採されている。足元は少々怖いが、眺めは素晴らしい。「辛垣城跡700m 電電山1.2km」の道標。アップダウンの尾根道が続く。いやはやきつい。

「二俣尾方面」の道標のある分岐点からは急激な下り。下りきったところが名郷峠。標高400m。道標によれば「辛垣城200m 電電山700m 二俣尾1.6km 成木1.2km」。城跡まであと一息。それと、ここから二俣尾に下りられる。それがなによりうれしい。いま降りてきたあの坂を、また上りたいなどとは金輪際思わない。
名郷峠は二俣尾から成木地区に抜ける峠道の交差点。往時の交通の要衝。長尾峠の別名もある。この峠道を「おかね道路」と呼んだとも。

辛垣城跡

峠を越え尾根道を進む。道の左手にある山に登る分岐が。「辛垣城跡登り口」と手書き文字。すごい坂道。勘弁してほしい、って感じ。膝というか足の蝶番(ちょうつがい)がギクシャク。
狭小な曲輪跡を越え大岩を切り取った急な坂を登りきる。削平地が。200坪程度か。周囲は急斜面。城址と言われれば、そういうもんか、といった状況。少なくともここに篭城できる、といった城構えではない。山の砦でといえば正確であろうか。

辛垣城の由緒書が。辛垣城跡;「この辛垣山(標高450メートル)の山頂には、青梅地方の中世の豪族三田氏がたて籠もった天嶮の要害である辛垣城があり、市内東青梅6丁目(旧師岡)の勝沼城に対して西城と呼ばれる。
永禄6年(1563年)、八王子の滝山城主北条氏照の軍勢に攻められ落城、城主三田綱秀は岩槻城(埼玉県岩槻市)に落ち延びたが、同年10月その地で自害し、三田一族は滅亡した。
城跡にあたる山頂の平坦部は大正末期までおこなわれた石灰岩の採掘により崩れ、往時の遺構ははっきりしない」、と。

三田氏
平将門の後裔とする三田氏、奥多摩・青梅地方の50数カ村、つまり日向・日蔭の河岸段丘とその周辺、つまりは多摩川の谷奥=三田谷と呼ばれ杣の保を支配し文化を伝えた三田一族は小田原・北条氏と奥多摩の谷筋で激戦を繰り返す。上杉の勇将・岩槻の太田正資と連携しながら奮戦。しかし、五日市、戸倉、檜原での戦いに破れ、二俣尾の辛垣城での決戦で敗れた。「カラカイノ南ノ山ノ玉手箱アケテクヤシキ我身ナリケリ」。落城の時、三田綱秀が詠んだと言われる歌。二俣尾の谷合家に日記に伝わる。辛垣城の南にあるなにか、多分砦かなにかだろう、そこでなにか予想外の展開が起こり、結果的に勝敗を決するなにかが起きた、のだろう。一説によれば、辛垣城の南尾根にある砦・桝形城がその舞台とか。

ともあれ、この激しい武蔵野合戦は谷底の合戦、段丘上の合戦と呼ばれる。付近には軍畑、首塚などの激しい合戦にまつわる地名がのこる。とはいうものの、当時の合戦は殲滅戦ではない。主郭の家屋が炎上した時点で勝敗が決し、主将の降伏か自刃で終了し、それ以上の殺戮はなかったわけだから、常のこととして少々の誇張もある、かも。

二俣尾駅
しばし休憩し再び急坂を名郷峠まで戻り、二俣尾へのルートを下りる。二俣尾は交通の要衝。西は青梅街道または甲州裏街道とも呼ばれ大菩薩へ通じる道。北は名栗を経て秩父大宮へいく古道がここでわかれるので二俣尾という名前がついた。現在は北の飯能へと県道193号線が走っているが、この道は往時の鎌倉街道山ノ道、 通称秩父道。いつだったか、高尾から秩父に向かって歩いた道。昔は軍事、経済の往還として賑わったことだろう。勿論、信仰の道としても北の秩父盆地から御岳権現社への参拝道もここを通ったのだろう。で、二俣尾駅に戻り本日の散歩の予定終了。

青梅の由来

そうそう、青梅の由来。昔平将門が杖代わりにしていた梅の木をこの地に植える。が、実が赤くなることなく、青いままであるので青梅となったとか。それからまた、青梅の梅の名所を吉野郷と。何故。吉野って、桜の名所。実のとこと、この郷、桜の郷にしようとした、とか。それがうまくいかず、梅の郷とはなったが、吉野の名前だけが残った。桜の話はどこかで聞きかじった話。吉野の解釈は自分なりの田舎解釈。真偽の程は定かならず。

ちなみに日向道(ひなた)と日蔭道。お世話になっている先生に日向先生がいる。気になって調べてみた。あたりまえの解釈は「陽の当たる道と陽が当たらない道」。なかには神奈川日向薬師
のように、日向薬師までの「日向道は、もともと修験者が通る道で、それ以外の参拝者は、日陰道を通ったそうです」と。先生の名前の由来はどちらからであろうか。

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