山歩きの最近のブログ記事

先回、少々難儀したが立川川の谷筋を柳瀬から旧立川番書院跡まで辿った。これで高知城下を発し、伊予の川之江で瀬戸の海に舟出するまでの土佐藩の参勤交代道・土佐北街道の途次にある権若峠、国見越え()、笹ヶ峰法皇山脈・横峰越えなどの山道を歩き終え、残すは土佐城下から権若峠まで、国見峠越えから立川川筋の柳瀬まで、そして法皇山脈を越えた金田集落から川之江までの里道のみとなった。
今回は 国見山を越えた下山口から立川川筋の柳瀬まで、実際は柳瀬で立川川左岸から右岸に渡る橋が大雨で落橋しているため柳瀬のひとつ南の集落、一の瀬に架かる金五郎橋を渡ることになるのだが、ともあれ立川川右岸山道に入る土佐北街道までを繋ぐこととする。

ルートを想うに、いまひとつはっきりとした道筋がわからない。あれこれチェックすると『土佐の道 その歴史を歩く;山崎清憲(高知新聞社)』という書籍があり、そこに土佐北街道の記事が載っているようである。内容を見たいのだが愛媛の田舎の家のある近隣の公立図書館にはなく、高知の南国市立図書館に蔵書があることがわかった。
どの程度詳しくルートが記載されているのかわからないが、取り合えずその書籍を頼りに南国市まで車で走り、内容を確認。大雑把ではあるが国見越えから立川川筋までの記載があった。 それによれば、国見越えの後は樫ノ木川右岸の吉延集落まで下り、そこで樫ノ木川左岸に移り、本山の町に。参勤交代の一行は本山に一泊した後、現し在の国道439号を吉野川右岸に沿って本山東大橋辺りまで進み、そこで吉野川を渡り吉野川左岸、現在の県道262号を立川川が吉野川に合流する川口まで進み、現在の新川口橋下流の立川川の渡しで立川川左岸に移り、現在の県道5号に沿って柳瀬(実際は一の瀬)まで北進したようである。
途中土佐北街道筋のお堂、石仏、燈明台、藩主休憩所など比定されたポイントの記載はあるが、詳細なルートの記載はない。ポイントとポイントの間は「感」を頼りに行くしかないか、と思い乍らGoogle mapを見ると、本山への道筋には「土佐北街道」と記載された道筋が見える。なんとなく「見えて」きた。依然「空白」部分もあるが、そこは「感」を頼りに進むべしと南国市図書館を後にし、一路スタート地点の国見越え下山口まで急ぐことにした。



本日のルート;
国見越え下山口>参勤交代道標識>分岐点>燈明台>>大杉と阿弥陀堂>石仏>大吉橋の西詰・東詰に見渡し地蔵>地図に記された「土佐北街道」と繋ぐ>展望所>十二所神社>「本山城跡周辺史跡めぐり」案内>下井>上井>土居屋敷跡>上の坊>山内刑部夫妻の墓所>本山の町を離れ国道439号に乗る>下津野>上関の渡し>本村の旧山下家薬医門>>奈路の切通し>葛原>立川川の渡し>一の瀬・金五郎橋>柳瀬


国見越え下山口
いつだったか国見山を越えた下山口、と言うか車で乗り入れられることができたピストンデポ箇所に。そこに「参勤交代道」の標識。国見方向と、車道下り方向を示す標識が立つ。車道に沿って吉延集落へと下る。
道の左手は崖。右手山側に標識などないものかと注意しながら車道を下る。

参勤交代道標識
しばらく車道を下ると道の右手にあらぬ方向を向いた木標が立つ。車道から右に逸れる道もあり、とりあえず右に入るが直ぐに行き止まり。元に戻り車道を下る。標識は左、車道道なりを示していたのだろう。

分岐点
そこからしばらく車道を下ると右に逸れる道がある。標識はないのだが、国土地理院の地図をチェックすると、如何にも吉延の集落へと下る旧道のように思える。地図にも??延集落へと実線が描かれている。取敢えず車道を右に逸れて集落の中を抜ける道を進む。

燈明台
標識もなくちょっと不安になった頃、道の左手に常夜灯が見える。ひょっとしてオンコース?常夜灯傍に「参勤交代道・北山越えの道 カバヶ岡の燈明台」とあった。特に案内はなく「カバヶ」の意味不詳。鰻の蒲焼(かばやき)は「蒲の穂(がまの穂)」に由来するけど、「蒲の穂」と関係あるのかな、などと妄想する。
燈明台と道を隔てた反対側に広い平坦地がある。上述書籍には街道筋に「大休場」があり、参勤交代の隊列を整え、また茶店や宿屋も数軒建っていたとの記事がある。この平坦地は休耕田のようにも思えるが、国見山から下る途次、大休場らしき場所を見ることはなかった。「大休場」何処にあるのだろう?平坦地から国見山方面を借景に写真を一枚。なかなか、いい。

大杉と阿弥陀堂
灯明台からほどなく右手に仁井田神社。その直ぐ先に大きな杉の木とその根元に阿弥陀堂が建つ。阿弥陀堂の周りは古き石仏が並び、その雰囲気は、いい。
杉は樹齢千年、高さ40mhどの古木。「オリドの杉」とも称される。「オリド」は地名のようだ。この大杉は土讃線大杉駅近く、八坂神社境内の樹齢三千年とも称される、日本一の大杉に次ぐ古木のようである。
仁井田神社
仁井田神社にはじめて出合ったのは浦戸湾の渡しに向かう途次。仁井田という地に鎮座する。由来をチェックすると、社の由緒には「古くは五社大明神とも言われていた。天正15年(1587)頃、高岡郡の仁井田明神(現四万十町窪川の高岡神社)を勧請して祀ったのが当社という」とあった。この説明だけでははるか離れた仁井田(現在の窪川一帯)と浦戸湾にほど近い仁井戸由神社の関りなどがわからない。さらにチェック。

あれこれデータを調べていると、『四万十町地名辞典』に、「仁井田」の由来については、浦戸湾に浮かぶツヅキ島に仁井田神社があり、由緒書きには次のように書かれてある。
伊予の小千(後の越智)氏の祖、小千玉澄公が訳あって、土佐に来た際、現在の御畳瀬(私注;浦戸湾西岸の長浜の東端)付近に上陸。その後神託を得て窪川に移住し、先祖神六柱を五社に祀り、仁井田五社明神と称したという。
神託を得て窪川に移住とは?、『四万十町地名辞典』には続けて、「『高知県神社明細帳』の高岡神社の段に、伊予から土佐に来た玉澄が「高キ岡山ノ端ニ佳キ宮所アルベシ」の神勅により「海浜ノ石ヲ二個投ゲ石ノ止マル所ニ宮地」を探し進み「白髪ノ老翁」に会う。「予ハ仁井ト云モノナリ(中略)相伴ヒテ此仕出原山」に鎮奉しよう。この仁井翁、仁井の墾田から、「仁井田」となり。この玉澄、勧請の神社を仁井田大明神と言われるようになったとある」と記す。
仕出原山とは窪川の高岡神社(仁井田五社明神)が鎮座する山。仁井田の由来は「仁井翁に出合い里の墾田」とする。
物語の主人公である伊予の小千玉澄公は『窪川史』に新田橘四郎玉澄とあるわけで、普通に考えれば仁井田は、「新田」橘四郎玉澄からの転化でろうと思うのだが、仁井翁を介在させることにより、より有難味を出そうとしたのだろうか。
もっとも、新田橘四郎玉澄も周辺の新田開発を行ったゆえの小千(後の越智)から「新田」姓への改名とも思えるし。。。?ともあれ、土佐を歩くと仁井田神社に時に出合う。

石仏
大杉の残る阿弥陀堂前から道は幾筋か分かれる。西へと下る道は新しそう。南に向かう道を進むと先ほど逸れた車道に合流。その合流点に石仏が立つ。石仏が佇むとすれば、ひょっとしたらこの道筋が土佐北街道のオンコースかも。






大吉橋の西詰・東詰に見渡し地蔵
『土佐の道』には、参勤道はここから樫ノ川を渡り本山に向かったとする。道を下ると樫ノ川に大吉(おおよし)橋が架かり、その東詰め・西詰に見渡地蔵と彫られた石仏が祀られていた。嘉永六年と刻まれる。1853年に祀られたということだ。
往昔、この地は飛び石により渡河したとのことである。

地図に記された「土佐北街道」と繋ぐ
樫ノ川を渡ると大岩地区。その先、土佐街道はどう進む?地図をチェックすると北東に突き出た尾根筋を廻り込んだ辺りまで「土佐北街道」と記載されている。橋からその間のルートは不詳だが、地図に記載されている「土佐北街道」まで成り行きで、それらしき道を進む。特段の標識はない。ともあれ、地図に記載の「土佐北街道」と繋げた。

展望所
北東に突き出た尾根筋をぐるりと廻り先に進むと、道脇に本山の町を見わたす展望所があった。そこで少し休憩。本山の町は吉野川によって形成された河岸段丘に開かれたような景観を呈する。
本山の町
地図を見ると本山周辺では吉野川が大きく蛇行して流れる。そのため河岸段丘が発達し、四国山地の中に位置するにもかかわらず古くより人々が暮らしていた。町内には上奈路遺跡、永田遺跡、銀杏ノ木遺跡、松ノ木遺跡と縄文・弥生時代の遺跡が残る。中でも松ノ木遺跡(本山町寺家周辺)はほぼ完全な土器が出土し注目を集めている、という。古代、四国山地を越えて土佐の国府に通じる官道の駅、吾椅(あがはし)がこの地に比定されるのも故無きことではないように思える。  
大岩
上述『土佐の道』には本山に廻り込んだ道筋には高さ9m、幅18mほどの大岩が道筋にあるとのことだが、気がつかなかった。大岩地区の地名由来の岩である。

十二所神社
地図に記される「土佐北街道」、といっても舗装された快適な道ではあるが、本山の町並みの少し高台を走る山裾の道を西進する。山側には道に平行して水路が続く。道と水路が北に向きを変えるところに鳥居が建つ。参道を南に進めば十二所神社が鎮座する。
社の由来案内に拠れば、沿革は「長徳寺文書」に承元2(1209)年の「十二所、供田」が初見とあるように古き社である。また弘安11(1288)年2月の文書には「土佐国吾橋山長徳寺若王子古奉祀熊野山十二所権現当山之地主等為氏伽藍経数百歳星霜之処也(以下略)」と、ある。熊野十二所権現を勧請したものだろう。平安末期、この地は熊野社領の荘園・吾橋(あがはし)荘が設置されており、熊野十二社権現が勧請されることは至極自然なことであろうかと思える。
「土佐州郡志」に「帰全山、或は之を別宮山と謂う 旧(もと)十二所権現社有り今は無し」と記し、当社が古代から中世にかけて、??野川対岸の帰全山に鎮座して居たが、戦国乱世の永禄年中、本山氏と長宗我部氏との合戦で兵火に罹災し、帰全山から永田村今宮に移り、慶長15(1610)年5月に再建され、寛永15(1638)年12月、領主野中兼山公のとき、現在地に遷った。
明治元(1868)年、十二所大権現を十二所神社と改称。
十二所権現
熊野の神々のことを熊野権現(くまのごんげん)と称する。熊野三山(本宮・新宮・那智)のそれぞれの主祭神をまとめて呼ぶ場合は熊野三所権現といい、熊野三所権現と熊野三山に祀られる他の神々(五所王子・四所明神)を合わせて熊野十二所権現と称する。
領主野中兼山
領主野中兼山?本山は野中兼山の領地であった。江戸時代初期の土佐藩家老。藩政改革を実践し、港湾修築、河川の利水・治水事業による新田開発など功績を上げるも、その過酷とも言われる施策により政敵との対立を深め、後年は罷免・失脚し失意の中虚しくなった。 残された家族への処遇も過酷であり、男系が絶えるまで幽閉生活が40年以上続いたという。この間の事は『婉という女;大原富枝』に詳しい。婉は兼山の娘。4歳で幽閉され、以降40年間外部との接触を禁じられ、43歳で幽閉を解かれた。

過日遍路歩きの途次、折に触れた兼山の事績に出合った。津呂の港の改修工事新川川・唐戸の切通し物部川流域の治水・利水事業春野の治水・利水事業などが記憶に残る。

「本山城跡周辺史跡めぐり」案内
十二社神社を離れ本山の藩主宿泊所であった土居屋敷跡、別名本山御殿に向かって南へと向かう。途中西進する水路と分かれ坂道を下りると四つ辻があり、そこに」本山城跡周辺史跡めぐり」案内があった。
実のところ、この案内を見るまで本山町のことは何も知らず、何故にこの山間の町が古代官道の駅・吾椅(あがはし)として開けたのだろう、などと思っていたのだが、本山城跡や十二所神社、土居屋敷や上の坊といった史跡案内をみて古代より近世に至るまで要衝の地として開けていたことがわかり、この町が古代官道の駅と比定されたことも少しリアリティをもって感じることができた。
上井と下井
土佐北街道沿いの下井
十二社神社前を流れる下井
それはともあれ、案内で最もフックがかかったのはそこに描かれたふたつの水路。上井(ゆわゆ)の道、下井(したゆ)の道と記され、野中兼山が作った水路沿いの道、とある。しかも土佐北街道に沿った水路は下井の流れであった。 「疏水萌え」としては見逃してはならじと、知らず歩いた疏水へと引き返すことに。
坂を上り返し十二社神社鳥居まで引き返し、道の山側を流れる下井を少し戻る。水路は途中土佐北街道から上側に逸れ先に続く。また、十二社神社傍の下井から少し山を上ると上井の流れが東西に走る。時間があれば上井も下井もどこからどこまでとカバーしたいのだが、残念ながら本日はその時間がない。心残りではあるが元に戻る。

上井
上井から見た本山の町
途中地元の方にお聞きすると、上井は樫ノ川の??延、下井は同じく樫ノ川の高角に取水堰(頭主工)があり、本山の天神前へと進むとのこと。あれこれチェックするが、まったく記事がヒットしない。流路がわからない。樫ノ川に架かる大吉橋の上流と下流に取水堰らしき(思い込みだろうが)記号が見えるが、標高の関係でうまく流路が繋がらない。これはもう、機会をみて再訪すべしと今回はここで思考停止としておく。ともあれ、兼山の領地にも疏水があったことがわかっただけでよしとしておく。

土居屋敷跡
上井、下井の疏水から「本山城跡周辺史跡めぐり」案内の立つところまで戻る。案内図の地図に従い土井屋敷跡に成り行きで向かう。ほどなく土居屋敷跡。現在は公園となっていた。
案内には、「史跡 土居屋敷跡 Remains of the Doi Residence 土居屋敷跡は戦国時代に本山地方を本貫とした本山氏の土居(館)であった。近世初頭には本山に封ぜられた山内刑部・但馬父子、続いて野中玄番・兼山父子の4代にわたる屋敷となった。兼山時代の土居は上段・中段・下段からなり、入り口下段に文武館、中段に長屋門の諸建物があり、上段に本宅があった。(皆山集)
兼山失脚後は藩士の在番が置かれ、享保3(1718)以降は本山倉番、土居門番が配置された。 参勤交代に土佐街道(北街道)が用いられるようになると参勤交代時の藩主の宿泊所にあてられ、以後「本山御殿」と称されるようになる。この土居屋敷を中心に周辺に「土居下町」と呼ばれる小規模な町場が形成されていた。明治になって建物は取り壊され、跡地は桜の公園として整備されている。(史跡) 本山町教育委員会」とあった。
少し昔の「本山土居跡」案内
Google Street Viewで土井館跡を見ていると、現在の案内ではない古い案内が立っていた。説明が少し詳しいので掲載しておく:
「本山土居跡土地の豪族本山氏の土居の一つで 天正十七年(1586)長宗我部検地当時は本山采女が住んでいた。山内一豊の土佐入国後 慶長六年(1601)山内刑部 (永原一照)が本山千 三百石を与えられてここに住んだが、その子但馬は私曲の罪によって元和六年(1620)知行を没収されて 佐川の深尾家に預けられたためそれ以来本山土居はしばらく領主不在となった。
寛永七年(1630)野中直継が本山土居を預けられて千石を加増せられ養嗣子兼山も当然これを受けついだ。 兼山は藩主忠義の厚い信頼をえて藩奉行職として敏腕を発揮したが本山領主としても吉野川の支流の樫ノ川や本能津川に下津野堰、トドノ堰、ノボリ立堰、カタシ山堰 井口堰を設けて用水をひいて多くの新田を開発し、その余沢を現在にまで及ぼしている。又寛永二十年(1643)に発せられた「本山掟」は兼山と領民をつなく歴史的文書といえよう。
寛文三年(1663)兼山失脚後本山土居は山内下総に次いで孕石頼母らによって管理されたが明治になってすべての建物が取りこわされ、今はその石垣にわずかに面影をしのぶばかりである」。
下津野堰は樫ノ川にあったようだが、その他は不詳。
本山掟
兼山は、本山掟とか、国中掟、広瀬浦掟などを作って、農政を行っている。本山掟(643 )の内容は;
〇お上や法律にそむかないこと。
〇荒地が少しでも残らないように開き、田地にせよ。精を出して開けば開 けばほうびをあたえる。3年・5年・7年の間は年貢を取らない。
○年貢は全部11月までにおさめよ。畑作の年貢分は6月までに全部おさめよ。
○作った米の3分の1は百姓のとり分であるが、秋冬はぞうすいを食べよ。春までたくわえずに、めしや酒にして食べてしまったものは死刑にする。
庄屋はよく調べて、そむいているものがないようにせよ。かくしておいてあとでわかったら、庄屋もともに処分する。
○酒を買って飲んだり、朝ねをしてはならない。そむく者があれば銀三匁(およそ6000円)の罰金をとる。赤面三匁〉赤面三匁、生酔い五匁、千鳥足十匁。
○家や着物がそまつなことはかまわない。法で定めているより良くすることは許さない。 このおきてにそむく者があれば、本人はもちろん庄屋も罰する」といったもの。

厳しい施策をとったと言われるが、実際にこんな掟を見ると農民の怨嗟を買ったということも頷ける。
土居
土佐では城館のことを「土居」と称していた。幕府の一国一城制により支城は破却されるが支城のあったところは要衝の地。山内氏も土佐入国に際し、佐川、窪川、本山、宿毛、中村、安芸といった要衝の地に土佐入国以前の掛川以来の重臣を配し、破却された城近くに館を構え領国経営にあたった。これが土居制度であり、本山土居、安芸土居などと称された。
参勤交代の人数
ところで20万2600石余りとされる土佐藩の参勤交代の人数はどのくらいだったのだろう。「二文研叢書;ヴァポリス コンスタンチン」には。「初期の記録によると、正保2年(1645)には、1,477人であつたが、次第に増加して、元禄一10年(1,697)には、2,813人に上った。(中略)享保元年の改革(私注;将軍吉宗による幕政改革:1716)で一 時急に528人までに減って、享保三3年(1,718)に部分的に取り戻し1,799人に上った。それ以後、数字は見たらないので、よくわからない。それにしても、天明頃(1781-1789)には土佐藩の大名行列の評判はまだ高いように思われる。天明の革命に参加した役人によると、「 所々にて評す、今に西国四国諸侯の御人数土州ほど大勢なるはなし」とのことだ」とある。
なお、上述供揃えの人数に占める士分の数は正保2 年(1645)の、1,477人中、198名。行列に占める割合は13.4%,全士分1,695人に占める割合は11.7%となっている。記録に残るその他のケースをみうと、行列に占める割合は4.6%から13.4%,全士分に占める割合は4.5%から11.7%となっていた。
それにしても供揃えの数が多い。参勤交代は常在戦場を表すため、旅装というより軍装であり、享保6年(1721年)、幕府は参勤時の従者の数を定めた。その『御触書寛保集成』に拠れば、1万石の大名は騎馬侍3~4騎、足軽20人、人足30人。10万石の大名は騎馬侍が10騎、足軽80人、人足140~150人、合計で240人。20万石以上で、騎馬侍15-20、足軽120-130、人足250-300と定められている。
これからすれば20万2600石の土佐藩は500名ほどとなる。が、実際はその4倍もの人が動いているときもある。この数には先遣隊も含めたものであり、実際の参勤交代時に動く人数はずっとすくなかったともいうが、それにしても多い。
あれこれチェックすると、参院交代に際しては幕府の定めた数は守られなかった、という。その因は、大名が己が格を世間にアピールするため、とのこと。
これでは世に喧伝される参勤交代は各藩の経済力を削ぐための施策という話と辻褄が合わない。 新田開発に努め幕末の頃は20万2600石余りという本石高と同等の新田収穫があり、実勢石高は49万40007石余に達していた豊かな藩となっていた土佐藩ゆえの「西国四国諸侯の御人数土州ほど大勢なるはなし」ということだろうか。よくわからない。

上の坊
西進する下井
「本山城跡周辺史跡めぐり」案内にあった上の坊は土居館跡からそれほど離れていない。案内に兼山が山崎闇斎を招いて土佐南学を講究したとあった。ちょっと立ち寄る。

土居館跡前の道を西進。下井の流れを跨ぎ少し山に入ると小さな祠があり、その脇に「上の坊」の案内があり、「史跡 上の坊 本山南学寮跡 野中兼山が儒学者山崎闇斎を招いてこの場所にあった古寺で土佐南学を講究したといわれる。兼山は禅学より儒学に転向し、勉学に励み南学(海南朱子学)といわれるまでにその学問を発展させた」とあった。
南学
土佐を歩いていると、、雪蹊寺の案内にもあったように時に「南学」という朱子学派が顔を出す。歩き遍路で三十三番札所を打ったとき、そこには「江戸時代初期には「南学発祥の道場」といわれ天室僧正が朱子学南学派の祖として活躍、野中兼山などの儒学者を生み出した」との案内もあった。コトバンクによれば「天文 17 (1548) 年南村梅軒により南海の地土佐に興った朱子学派。海南学派ともいう。京学,東学に対する称。四書を重んじ,道学者的態度を固持するとともに実践躬行を尊び,実際政治に参与した。
梅軒のあと,吸江庵の忍性,宗安寺の如淵,雪蹊寺の天室らを経て,谷時中にいたって仏教から完全に独立し,基礎を固めた。その門人に野中兼山,小倉三省,山崎闇斎が出た。のち三省の門下から,谷一斎,長沢潜軒,大高坂芝山らが出,また闇斎の門弟,谷秦山が帰国して,南学を振興した。
人間系譜は以上のようにたどれるものの,三省が世を去り,兼山が失脚して藩府より南学派は弾圧を受けて両人の門人や闇斎も土佐を去り,土佐における南学派は一時中絶した。秦山が復興した教学は三省,兼山までの本来の南学と質を異にし,京,江戸の学風の移入とみることができる。もっとも秦山は大義名分論に立つ尊王思想を説き,幕末勤王運動に影響を与えたが,こうした政治と結びついた強い実践性の点では,広い意味での南学は一貫している」とあった。
山崎闇斎
江戸時代前期の儒学者・神道家・思想家。朱子学者としては南学派に属する。闇斎によって論じられた朱子学を「崎門学」または「闇斎学」という。君臣の厳格な上下関係を説き、大義名分を重視した。
闇斎は朱子学だけでなく神道についても論じた。吉川惟足の吉川神道を発展させて神道と儒教を合わせた「垂加神道」を創始し、そこでも君臣関係を重視した。垂加神道は、神を信仰し、天皇を崇拝するというもの。天照大御神に対する信仰を大御神の子孫である天皇が統治する道を神道であると定義づけ、天皇への信仰、神儒の合一を主張し、尊王思想の高揚をもたらした 以上のような闇斎の思想は、水戸学・国学などとともに、幕末の尊王攘夷思想(特に尊王思想)に大きな影響を与えた。

山内刑部夫妻の墓所
上の坊から山道を少し上ったところに山内刑部墓所があるとのこと。土居屋敷の案内にもあった山内氏が土佐藩に入国後、本山に封ぜらえた山内家家老。ここにもちょっと立ち寄り。案内には「山内家の家老であった。山内一豊の土佐入国に際して、その軍功から本山千三百石知行本山城に配され、本山土居初代藩主として慶長6年(1601)に本山に入っている。
慶長8年の瀧山一揆の鎮定に努め、元和元年(1615)の大阪の役には高知城の城代を務めた。元和6年、63歳で病没」とあった。
瀧山一揆
土佐に入国した山内家に対し、改易された長曾我部氏の遺臣、下級武士である郷士に扇動されて起きた百姓一揆。年貢の納入を拒み北山の瀧山に籠り抵抗するも鎮圧される。首謀者は断罪とするも百姓らの罪を不問に伏す。但し、一領具足とも言われ、長曽我部氏の兵農未分離の農兵隊でもあった百姓より武器を召し上げるのが条件でもあった。
この一揆は山内家に対する長曽我部遺臣の最後の抵抗とも言われ、この事件以降、長曽我部氏の影響下にあった一領具足衆は弱体化することになる。
本山町の吉野川対岸の山中に北山の地名がある。瀧山はその辺りなのだろう。
本山城跡
時間がなく上ったわけではないのだが、案内にあった本山城跡をメモしておく;
「本山の東西にそびえる田井山北東尾根の先端部にある。戦国時代以降、本山郷を中心に勢力を伸ばした本山氏の居城跡。本山氏は弘治2年(1556)の長曽我部国親との泰泉寺攻撃に始まる攻防で高知平野の支城潮江城、長浜城、朝倉城を失い本山に退いた後、本山での戦いに敗れ親茂の時、長曽我部氏の軍門に下った。土佐における戦国群雄中の城であった本山氏の居城は今もその遺構を留め、堀切や詰めの段、二の段、三の段、郭などの遺構が残っている」と。

本山氏は長岡郡本山を拠点に勢力を伸ばし、土佐郡の山地を越えて南下し「東は一宮を堺、西は二(仁)淀川、南は浦戸を限り二郡の主也。朝倉の城を居城に持つ」と『元親記』に記されるまでになり、吾川郡や高岡郡までも進出することになる。
朝倉城を中心に土佐の中原に覇を唱え、東の長曾我部氏、西の一条氏と対峙するも、永禄5年(1562)その存亡をかけた朝倉城の合戦で長曽我部氏に敗れ本山に退却した。
案内には本山の戦いに敗れとしているが、本山では利あらずと瓜生野谷口の要害の地まで退き4年間の抵抗の末、長曽我部の軍門に下ったとのことである。

本山の町を離れ国道439号に乗る
「本山城跡周辺史跡めぐり」案内のところに戻る。地図には、そこから国道439号を繋ぐ道筋に「土佐北街道」と記される。
土佐北街道を東進し国道439号に合流。国道北に蛇行する吉野川が流れる。南に突き出しU字に吉野川の流れをなす丘陵は兼山ゆかりの帰全山と称する。
帰全部山・秋田夫人の墓
帰全山は現在公園となっており、兼山廟、また兼山の母である秋田夫人の墓がある。兼山廟は兼山の徳を偲び嶺北地方の町村長が中心となり呼びかけ、昭和27年に竣工したもの。それほど古いものではない。
廟の右奥に兼山の母である萬、姓より秋田夫人と称される墓がある。慶安4年(1651)4月4日、66歳でこの世を去った母のため儒学の礼に従って直方体のひつぎに母の遺体を葬り土葬した。それまで火葬の風習があった土佐において、それは特異なことでもあった。

墓穴は、千人ともいわれる人々によって掘られ、穴の壁も石で築かれた立派なもの。台上にある石碑は、高さ六尺五寸(約一・八メートル)、幅二尺五寸(約七五センチメートル)、厚さ一尺(三〇センチメートル)で、柵を巡らせ屋根が造られている。兼山は、高知から本山まで、約七里(約二七・五キロメートル)の山道を母のひつぎとともに歩き、帰全山に葬った後は、三年間の喪に服した、とのことである。これは、兼山の母親に対する孝心(こうしん)を精いっぱい表現したものと言われる。「孝心(こうしん)を精いっぱい表現した」との意味合いは、友人の山崎闇斎が墓所を中国の古典「 父母全生之、子全而帰之、可言孝矢」より引用し「帰全山」と名付けた如く、「父母の五体を完全なまま大地に帰すのが子の第一の孝行である」とすれば、火葬ではなく土葬にしたことをもって精いっぱいの孝心であり、帰全>全部を(大地に)」帰すということではと妄想する。
ただ、礼を尽くして盛大に営まれた母の葬儀は、幕府への謀反の嫌疑をかけられることになる。 上述大原富江の『婉という女』には、「それは父上が無上に敬愛した母万女の死に遭って、純粋な儒葬を営んだことで、吉利支丹と謀叛の疑惑を受けたときである。
問題の墓地は父上の采邑本山に、二ヵ月の日数と千人の夫役を使って、雁山と呼ばれるやさしい丘陵の美しい雑木林の静寂の中に完成した。十数里の山路を、父上は粗衣、裸足で棺側に従った。すべては晋の文公の家例にならい、荘厳純粋な儒葬であった。殆ど恋しあうほど慕いあった母のためにならば、父上は許されるなら帝王の墓にも劣らぬものを、構築したかったにちがいない。自分の憧れる美の最高のもののなかに母を眠らせたいと思ったにちがいない。
規模構築の壮大さと、儀式の儒礼による珍奇さとで、この葬儀は天下の評判になった。それはやがて「野中大夫、吉利支丹に帰依し、采邑本山に築城し、謀叛の気配がある」という流言になって江戸表まで聞えていった。
幕府の不審の詮議を受けて、参観中の藩公は愕然とし、国許の父上に出仕を命ずる急使が立てられた。 |十余年前、島原の吉利支丹一揆があって以来、吉利支丹は厳禁され、隠れ吉利支丹はいまも執拗に捜索されている。発見されれば打首、磔 は免れない。吉利支丹の流説はいつの場合も不吉な運命の予告に似ていた。破滅を導く白い箭(や)であった。
父上は、喪服のまま夜を日についで江戸に到き、儒葬の形式と精神とを説明、流説の反駁に努めた。幕府では、お抱えの儒者、林羅山に命じて、父上の弁明の真偽を吟味させた。羅山は、「土佐国老の母の葬儀は、儒葬礼の正道に従ったものと考えます。邪宗門の習俗とは異にいたします」と言上した。
こうして父上は嫌疑を晴らすことができ、将軍にも謁を賜り帰国した」とある。
が、続けて
「無事―果して無事だったのであろうか」とあり、長兄はわずか3歳で「人質」として江戸に止まることになったとし、
更に続けて「この年慶安四年四月は、三代将軍薨去、四代家綱公の立たれた八月前後から、何とはなしに人心に不安動揺の兆しがあって、七月、由井正雪、丸橋忠弥など浪人の謀叛の発覚があり、父上の事件はその直後であった。そして父上は不幸にもすでに経世家として高名になっていたのであった。
「土佐二十四万石は実収三十余万石」といわれ、それが父上の器量が招いたものであると噂され、しかも国老の地位にある父上が、仮にも「吉利支丹」「謀叛」などいまわしい言葉によって将軍家の心象に照らしだされたということは、不吉なことであった。
かねて父上が堺その他から刀鍛冶、鞘師、飛道具など技術に優れたものを破格に抜擢したこと、土佐の治安にいつも支障となっていた、困窮して自棄的になっている一領具足(長宗我部の遺臣である浪人たち)一万人を郷士にとりたてて、世上の不安を除いた「郷士制度」をも、父上を快からず思う者どもには、いざの場合に意のままに動かすことのできる「野中の手勢」と噂されていること、なども将軍家は知っていた。これらはすべて藩松山の松平勝山公から将軍家に注進されたという」と書かれる。
事件後も兼山はその功により得意の絶頂期ではあったが、婉のつぶやいた「果たして無事だったのだろうか」との不安は現実のものとなるのは、歴史の知るところである。
嶺北
高知県長岡郡大豊町、長岡郡本山町、土佐郡土佐町、土佐郡大川村の4町村を言う。四国中央部の吉野川源流地域にあり、高知平野から望むと分水嶺の北に位置し、四国の水瓶「さめうらダム」がある。地域の北側には四国山地の峰々が連なり、吉野川の流れが北東に渓谷をなし徳島県側に開いているのみで、周囲を山々に囲まれた特異な地形となっている(れいほくNPOWeb siteより)。
地域面積は965平方キロメートルと高知県の13.6%を占め、標高は200mから1800mの山岳地形です。土地利用状況は地域の89.6%を森林が占め、農用地面積は1.4%、宅地面積は0.4%と、典型的な山村地域となっています

下津野
樫ノ川を渡り国道を東進すると下津野で北に突き出た丘陵に遮られ吉野川は大きくU字を描いて流れる。参勤交代はこの下津野で吉野川を対岸の渡津に渡ったとの説もある。『土佐の道』には、参勤交代の吉野川渡河地点はもう少し下流、東本山大橋の少し下流、上関で渡河下と記される。今回は『土佐の道』の記述に従い進むことにする。
吉野川と早明浦ダム
地図をみていると、本山の直ぐ上流に早明浦ダムがあった。四国の水瓶とも称されるダムである。思いがけないところで早明浦ダムと出合った。
いつだったか銅山川疏水を歩いたとき、吉野川水系銅山川の水を求める愛媛とそれを拒む徳島との「水争い」の歴史をメモしたことを思い出した。その長年の「水争い」を落ち着かせたのが早明浦ダムであり、吉野川総合開発である。
その経緯を再掲する;
〇吉野川水系の水を巡る「水争い」の歴史
吉野川は四国山地西部の石鎚山系にある瓶ヶ森(標高1896m)にその源を発し、御荷鉾(みかぶ)構造線の「溝」に沿って東流し、高知県長岡郡大豊町でその流路を北に向ける。そこから四国山地の「溝」を北流し、三好市山城町で吉野川水系銅山川を合わせ、昔の三好郡池田町、現在の三好市池田町に至り、その地で再び流路を東に向け、中央地溝帯に沿って徳島市に向かって東流し紀伊水道に注ぐ。本州の坂東太郎(利根川)、九州の筑紫次郎(筑後川)と並び称され、四国三郎とも呼ばれる幹線流路194キロにも及ぶ堂々たる大河である。
吉野川は長い。水源地は高知の山の中。この地の雨量は際立って多く、下流の徳島平野を突然襲い洪水被害をもたらす。徳島の人々はこういった大水のこととを「土佐水」とか「阿呆水」と呼んだとのこと。吉野川の洪水によって被害を蒙るのは徳島県だけである。
また、その吉野川水系の特徴として季節によって流量の変化が激しく、徳島県は安定した水の供給を確保することが困難であった。吉野川の最大洪水流量は24,000m3/秒と日本一である。しかし、これは台風の時期に集中しており、渇水時の最低流量は、わずか20m3/秒以下に過ぎない。あまりにも季節による流量の差が激しく、為に徳島は、洪水の国の水不足とも形容された。
さらにその上、徳島県の吉野川流域の地形は河岸段丘が発達し、特に吉野川北岸一帯は川床が低く、吉野川の水を容易に利用することはできず、「月夜にひばりが火傷する」といった状態であった、とか。
つまるところ、吉野川によって被害を受けるのは徳島県だけ、しかもその水量確保も安定していない。その水系からの分水は他県にはメリットだけであるが、徳島県にとってのメリットはなにもない、ということであろう。銅山川分水をめぐる愛媛と徳島の協議が難航した要因はここにある(「藍より青く吉野川」を参考にさせてもらいました)。

以上銅山川からの分水事業の歴史を見るに、基本は分水を求める愛媛県と、それを是としない徳島県の鬩ぎあいの歴史でもある。「分水問題とは分水嶺の遥か彼方に水を持って行こうとするものである。分水は愛媛の農民を助けることかもしれないが、分水のせいで徳島の農民が水不足にあえぐことは認められない。また、愛媛側が水を違法に得ようとした場合、下流の徳島側は絶対的に不利である。一度吉野川を離れた水は二度と戻らない」。これは銅山川分水に反対する徳島県議の発言であるが(『銅山川疏水史;合田正良』)、この基本にあるのは銅山川も含めた吉野川水系全体の分水事業が徳島県に与えるその影響と、その他の愛媛・香川・徳島に与える影響が全く異なることにある。
早明浦ダムおよび吉野川総合開発計画
この各県の利害を調整し計画されたのが吉野川総合開発計画。端的に言えば、吉野川源流に近い高知の山中に早明浦ダムなどの巨大なダムをつくり、洪水調整、発電、そして香川、愛媛、高知への分水を図るもの。高知分水は早明浦ダム上流の吉野川水系瀬戸川、および地蔵寺川支線平石川の流水を鏡川に導水し都市用水や発電に利用。愛媛には吉野川水系の銅山川の柳瀬ダムの建設に引き続き新宮ダム、更には冨郷ダムを建設し法皇山脈を穿ち、四国中央市に水を通し用水・発電に利用している。
そして、池田町には池田ダムをつくり、早明浦ダムと相まって水量の安定供給を図り、香川にはこのダムから阿讃山脈を8キロに渡って隧道を穿ち、香川県の財田に通し、そこから讃岐平野に分水。徳島へは池田ダムから吉野川北岸用水が引かれ、標高が高く吉野川の水が利用できず、「月夜にひばりが火傷する」などと自嘲的に語られた吉野川北岸の扇状地に水を注いでいる。(「藍より青く吉野川」)。

上関の渡し
上関に向け木能津と国道439号を東進する。東本山大橋を越え、その下流辺りに上関の渡しがあったというので、なにか痕跡でもないかと吉野川右岸を助藤手前、如何にも渡河点らしきところまで進むが特段のものはなし。見渡地蔵も立っていた、とのことだが、「過去形」であり現在はないのだろう。
東本山大橋まで戻り、橋を渡り吉野川左岸に移る。橋の北詰めに仁井田神社。土佐北街道はここから立川川との合流点まではおおむね県道262号を進むことになるが、橋を渡るとほどなく右に逸れる道があり吉野川へと接近する。何気に右に逸れ旧道をを進むと、道の右手に「上関の渡し」の案内があった。大河である吉野川は飛び石ではなく、舟で渡ったようである。
木能津
「土佐地名往来」には、「木能津 筏の組み立て地に由来(坂本正夫)。「木の津 (港)」。木材水運の拠点」とある
助藤
「介当」「介藤」「助任」などとも書いた。戦国時 代、阿波国助任村から来た開拓者の集落。「菅の 峠」説も、と「土佐地名往来」にある。

本村の旧山下家薬医門
県道に戻り行川を渡る。この行川(なめかわ)の谷筋にも兼山の井筋が残る。上関、下関の辺りと言う。林業盛んな頃の森林鉄道跡に岸壁を穿った隧道も残るとのこと。本山の上井、下井再訪の折、この行川筋も歩いてみたいものである。
それはともあれ、行川を越えると右手に立派な灯明台。その先、道の左手に「旧山下家薬医門」の案内。坂を少し上ると薬医門。2本の本柱の背後だけに控え柱を立て、切妻屋根をかけた門であり、社寺だけでなく城郭や邸宅など門の形式としてよくみるもの。薬医の由来は門扉の隣に出入りが簡単な戸を設け患者の出入りを楽にした故とも、敵の矢の攻撃を食い止める「矢食い」からとも所説ある。
この山下家は参勤交代の折の藩主の休憩所となっていた。薬医門と石垣が往昔の名残を留める。 吉野川対岸は田高須。「元鷹巣村とて大鷹の巣を構へりしより地名」と郷土史。「たかす」は川の蛇行地に土砂堆積の「高い砂州」と「土佐地名往来」にある。





奈路の切通し
山下家を離れると奈路。吉野川は南に突き出た丘陵に阻まれU字に大きく蛇行する。『土佐の道』には県道は大きく弧を描き進むが、土佐北街道は切通の道を抜けるとあるが、現在の県道は切通となって奈路の丘陵部を抜けていた。
少し進むと道の道手に「井内の渡し」の標識が立っていた。
対岸は山崎。「長岡郡介当名に山サキ。阿州山崎村から麻の種を移植栽培、集落も山崎。助藤も阿波の開拓者」と「土佐地名往来」は記す。
奈路
土佐を歩くと奈路(ナロ)に出合う。「四万十町地名辞典」には「山腹や山裾の緩傾斜地を表す地名地名を高知県ではナロ(奈路)という。奈路(なろ)の全国分布は高知県だけで、それも中西部に多い。ナロ地形にふさわしい地名がこの地「奈路」である 『愛媛の地名』の著者・堀内統義氏はナロ・ナル地名について「東北の平(たい)、九州の原(はる)、四国の平(なる)と同じ地名の群落。奈良も千葉県の習志野も、ナラス、ナラシの当字で、平らな原野を表現している。」と書かれている。 ちなみに「奈路」地名も愛媛県に越せば「成・平(なる)」が断然多くなり、四万十町内でも成川・鳴川がよく見られる。

葛原
割木、葛原と進む。『土佐の道』には葛原の名本である久保家で休憩したとある。名本(なもと)は土佐藩における民衆支配の職制のひとつのようだ。『日本大百科全書』には「民衆支配は町・郡(こおり)・浦の奉行がおり、その下で地域の行政事務を助けたのが庄屋(しょうや)である。高知城下には町会所が置かれ、総年寄、庄屋、年寄、総組頭などの町役人が町政をつかさどったが、豪商が総年寄となって庄屋以下を統率した。
郡奉行は村役人を監督したが、村には庄屋・老(としより)(年寄)・組頭が置かれた。山間部の小村には名本(なもと)・老・組頭がおり、小村をあわせたものを郷といい、郷には大庄屋(おおじょうや)・総老・総組頭が置かれた。国境には道番所(関所)が設置され、大庄屋が番頭(ばんがしら)を、名本が番人を兼ねることが多く、国境を警備し、商品の移出には口銀(くちぎん)を取り立てた。農民の年貢米は村方役所に置かれた納所(なっしょ)に集められた」とあった。

立川川の渡し
県道を進み川口大橋の木田詰めを過ぎると「川口の送り番所」があったと言う。更に東進すると新川口橋。この橋の下流に立川川の渡しがあったとのこと。橋の少し下流、道の川側に常夜灯があり、そこから下に行けそうにも思える。当日は先を急ぐあまり素通りしたのだが、今となってちょっと残念。
新川口橋の直ぐ下流にかかる古い橋を渡り立川川左岸に渡る。『土佐の道』には「川口」には長瀬酒屋があり藩主の昼食場となっていたため「川口御殿」と称されたとある。
川口の送り番所、立川川の渡し、川口御殿も特段の案内もなく、どこにあったのか不明であろう。
 
柳瀬へ
柳瀬集落の橋は崩壊
一の瀬集落の金五郎橋を渡り立川川右岸へ
参勤交代の一行はここから立川川左岸を柳瀬まで進み、そこからは先回歩いた立川川右岸の山道を立川番書院へと進むことになる。
但し現在は柳瀬の土佐北街道に入る橋が落ちており、ひとつ手前の集落に架かる金五郎橋を渡り立川川右岸に入るしかない。また、その立川川右岸の土佐北街道は千本しらや橋手前の斜面が大規模崩壊しており、通行禁止となっている(2021年1月現在)。
大規模崩壊地は崩壊斜面ごとずり落ちた幾多の杉の大木が行く手を阻むが、20分ほど倒木を潜りまた乗り越えるつもりで崩壊斜面をトラバースするれば通れないことはない(関係者の方、ごめんなさい)。

これで土佐北街道散歩も残すところ、法皇山脈を越えた四国中央市の川之江までの里道、高知城下から権若峠までの道を残すのみとなった。次回はさてどちらを歩こうか。
バリエーションに富む、今回の散歩の第一のパートである「仲持ち道」の道に続き、東平から上部鉄道跡まで上り、一度魔戸の滝に下り、再び尾根に折り返し「犬返し」から立川の龍河神社のメモ。
上部鉄道から魔戸の滝までの繋ぎのルート確認が弟の今回の散歩の眼目。 600mほどは藪漕ぎとなる、とのことであったが、結果は思いがけず整地された作業道が見つかり、あっけなく「繋ぎの道」は確認できた。
そこから先は急坂を下り、豪快な魔戸の滝を眺め、折り返した「犬返し」では少々腰が引けたが、なんとかクリア。龍河神社に下る最後の詰めは、途中竹林を見た瞬間に、もう里に下りたと安心し、最後の詰めが甘く、コースを大きく逸れグズグズの道を下ることにはなったが、無事龍河神社に到着。
別子銅山の遺構や四国山地の美しい滝、いつも実家から見てはいたのだが、初めて歩いた「犬返し」など、四国の山を歩き倒している弟ならではのコース取りの妙に感謝し、散歩を終える。


本日のルート:

Ⅰ仲持ち道パート;遠登志(おとし)=落トシ ~東平・第三広場  約2時間10分
○車デポ>遠登志橋>遠登志からの登山道と合流>坑水路会所跡>坑水路会所跡>索道施設跡>坑水路会所跡>軽い土砂崩れ箇所>支尾根に索道鉄塔基部跡>>鉄管>切り通しにお地蔵さん>中の橋(ペルトン橋)>東平遠望>滝が見える>;辷坂地区(すべり坂)社宅跡地>第三広場

Ⅱ上部鉄道パート;第三広場>一本松停車場跡>上部鉄道>石ヶ山丈(いしがさんじょう) 約1時間30分
○第三広場>一本松社宅跡>一本松停車場跡>橋台に木橋>第二岩井谷>第一岩井谷>紫石>東平が見える>切り通し>地獄谷>索道施設>石ヶ山丈停車場跡

Ⅲ 魔戸の滝パートへの繋ぎ道探索 石ヶ山丈分岐~魔戸の滝・造林小屋分岐~魔戸の滝~滝登山口 約1時間
○石ヶ山丈分岐>沢に橋台>道が切れる>下段に林道が見える>下段林道を石ヶ山丈方面へと戻る>石ヶ山丈分岐直下に戻る>魔戸の滝登山道合流点へ向かう>魔戸の滝登山道合流点>魔戸の滝上部分岐標識

Ⅳ 魔戸の滝パート;魔戸の滝上部分岐~西種子川・魔戸の滝登山口 約 40分
○魔戸の滝上部分岐標識>大岩展望所>魔戸の滝に急坂を下る>魔戸の滝に到着>魔戸の滝登山口

Ⅴ 犬返しパート;魔戸の滝登山口~鉄塔尾根~犬返し~龍河神社分岐~龍河神社 約2時間30分
○魔戸の滝登山口>種子川林道を下る>林道石ヶ山丈線分岐>四国電力鉄塔保線路への分岐>種子川林道崩壊地の上部>犬返し>「種子川林道」の分岐標識>龍河神社分岐>保線路分岐>林道へ着く>龍河神社のデポ地点に



□Ⅱ 上部鉄道パート;第三広場>一本松停車場跡>上部鉄道>石ヶ山丈(いしがさんじょう) 約1時間30分

この上部鉄道跡パートは、以前端出場発電所導水路を辿った折り、その復路を石ヶ山丈から一本松停車場跡まで歩いたことがある。今回は、そのコースを逆に進むことになる。

一本松社宅跡:9時48分(標高871m)
第三広場から「一本松停車場跡」の木標に従い道を上る。10分程度登ると住友共同電力の「「高萩西線46」鉄塔。標高は820mほど。
そこから更に10分強登り標高870m辺りに、「一本松社宅」の案内がある。かつてこの地 には別子銅山の「一本松社宅」があった。戸数185。飯場と人事詰所、クラブ、派出所が各1、その他3つの職員貸屋と2箇所の浴場があった、とのことである(「えひめの記憶」)。

一本松停車場跡;10時1分(標高960m)
社宅跡から10分弱のぼると平坦地。「銅山峯へ 石ヶ山丈をへて種子川へ 東平へ」との三方向の案内がある標識」のあるここが上部鉄道の西端の角石原駅と東端の石ヶ山丈駅の中間にあった「一本松停車場跡」である。一帯は平坦に整地されていた。結構広い。引き込み線もあったようだ。

上部鉄道
「えひめの記憶」に拠れば、明治22年(1889)に欧米を視察した広瀬宰平は、製鉄と鉱山鉄道の必要性を痛感し、石ヶ山丈-角石原問5532mに山岳鉱山鉄道建設を構想し、明治25年(1892)年5月に着工、翌26年(1893)年12月に竣工した。標高1100mの角石原から835mの石ヶ山丈を繋ぐ、日本最初の山岳軽便鉄道は急崖な山腹での工事に困難を極めたと、言う。
この上部鉄道であるが、明治44年(1911)に東延斜坑より嶺南の日浦谷に通した「日浦通洞」が繋がると、嶺北の東平と嶺南の日浦の間、3880mが直結し、嶺南の幾多の坑口からの鉱石が東平に坑内電車で運ばれるに到り、その役目を終える。上部鉄道が活躍したのは18年間ということである。

橋台に木橋;10時6分(標高952m)
一本松停車場跡から東へと、石ヶ山丈へと向かう。小さな沢に橋台が設けられ木の橋跡が残る。沢を迂回し先に進むと保線小屋や給水タンクが残る。






第二岩井谷;10時12分(標高945m)
次の沢には橋台の上に鉄板の仮橋が架けられていた。案内には「第二岩井谷」とある。上部鉄道の橋は鉄橋ではなく木製であったようだ。






第一岩井谷;10時14分(標高944m)
第二岩井谷の先にも橋跡が現れる。木橋は朽ちており、沢を迂回する。谷は「第一岩井谷」との案内がある。橋台は煉瓦造りだが、上に架かる橋は木であった。






紫石;10時28分(標高907m)
東平をみやりn第一岩井谷から20分弱進むと、線路脇に大きな岩が鎮座している。紫岩と呼ばれる。雨に濡れると紫が際立つ、とか。それはともあれ、この辺りは、端出場発電所水路跡散歩で出合った「山ずれ」の上部箇所。紫岩手前辺りで線路跡の道にギャップがある。上部鉄道の上を通る「牛車道」も山ズレ状態にあるようだ。

橋跡:10時31分(標高898m)
紫石の先に2箇所、上部鉄道の橋跡が残る。手前の橋は朽ちた木が残っており、迂回する。その先の橋跡には木製の橋が架けられていた。






東平が見える;10時36分(標高889m)
紫石から5分ほどで谷側が開け東平が遠望できる地2点に。ポールに赤い旗が巻かれているが、これは東平からこの地点確認しやすくするためなのだろう。弟が捻れた旗を直していた。





切り通し;10時50分(標高856m)
東平を遠望できる地点を過ぎると、再び谷側も木々覆われ見通しが悪くなる。10分程度進むと、切り通しに。切り通しも2箇所あり、上部鉄道の写真でよく目にする箇所は2番目の箇所。岩壁手前の岩盤を切り通した箇所から貨車を繋いだ蒸気機関社が映る。貨車には人が乗っている。
上部鉄道の機関車2両、客車1両、貨車15両はドイツのクラウス製。開通当時は運転手もドイツ人であった、とのこと。蒸気機関車2両が交替で貨車4,5両繋ぎ1日6往復。片道42分、平均時速およそ8キロで走った、と。
切り通し部の写真ではフラットな路線のように見えるが、最大斜度が18分の一、133回ものカーブのある断崖絶壁を走ったわけで、結構スリルのある山岳鉄道ではあったようだ。
当時は岩場だけの緑のひとつもない、禿山の切り通しではあったが、現在は線路跡にも木々が立ち並び、緑豊かな一帯となっている。
禿山の植林
禿山と言えば、明治22年(1893)頃より、別子銅山は銅山用の木材伐採と製錬所から排出される亜硫酸ガスで山は荒れ果て、一面の禿山となってしまっていた。
明治27年(1894)、初代総理事廣瀬宰平が引退した後、別子銅山の煙害問題に取り組んだのが、のちの第二代総理事である伊庭貞剛。煙害問題解決のため、製錬所を新居浜沖約20kmにある四阪島(宮窪町)へ移すなど対策を講じる(後年、この四阪島も周桑郡に大きな煙害を齎すのだが)とともに、荒廃した山を再生させる植林事業を開始。それまで年間6万本程度であった植林本数を100万本までへと拡大し、現在の美しい緑の山の礎を築いた。

地獄谷;10時56分(標高836m)
切り通しから8分程度で地獄谷。谷に橋台が残る。急峻な谷に石が敷かれ、地盤を固めているように見える。







索道施設;11時 1分(標高839m)
地獄谷よりほどなく、石ヶ山丈駅のすぐ傍に深い溝をもった遺構がある。索道施設跡である。上部鉄道により角石原より運ばれた粗銅は石ヶ山丈からは索道で立川の端出場(黒石駅)に下され、そこからは同じく明治26年(1893)運行を開始した「下部鉄道」により市内へと運ばれた。
ところで、石ヶ山丈の索道基地は明治24年(1891)に完成している。上部鉄道の建設が開始されたのは翌明治25年(1892)と言うから、上部鉄道開通までは明治13年(1880)に開通した第一通洞の銅山峰北嶺の角石原から石ヶ山丈までは牛車道で粗銅が運ばれ、ここから延長1,585メートルの索道で端出場まで下ろされたのであろう。
なお、明治24年(1891)に完成した索道は「複式高架索道」とのこと。明治30年(1897)には単式高架索道となっている。単式(高架)索道は、端出場火力発電所の電力を使った「電力」で動く索道とのこと。ということは、「複式」とは「上りと下り」の索道の動力モーメントで動かしたものかと思う。

石ヶ山丈停車場跡;11 時4分(標高946m)
索道施設の傍にある「石ヶ山丈駅」跡に着く。杉の木に「石ヶ山丈停車場」の案内があり、その脇には石組みのプラットフォームらしきものが残る。石ヶ山丈停車場跡は上部鉄道の東端の駅であった。
「中持ちさん」・「牛車道」と石ヶ山丈
既にメモしたように元禄3年(1690)四国山地、銅山峰の南嶺の天領、別子山村で発見された別子銅山は、初期は銅山峰南嶺より直線で新居浜に出ず、土居の天満浦に大きく迂回した(第一次泉屋道)。その理由は、銅山峰を越えた北嶺には西条藩の立川銅山があり、西条藩より通行の許可がおりなかったためである。
その後、元禄15年(1702))、住友の幕閣への交渉が功奏したのか、西条藩が別子村>銅山峯>角石原>「石ヶ山丈」>立川 >角野>泉川>新居浜に出る銅の運搬道を許可した(第二次泉屋道)。仲持ちさんの背に担がれての運搬である。
明治に入り、明治13年(1880) には延長22kmの牛車道が完成。銅山嶺南嶺の別子山村>銅山越>銅山峰北嶺の角石原>「石ヶ山丈」>立川中宿>新居浜市内が結ばれた。
この牛車道も明治19年(1882)に銅山峰の南嶺の旧別子より北嶺の角石原まで貫通した長さ1010mの「第一通洞」の完成により、銅山峰を越えることなく角石原から結ばれる。通洞内は牛引鉱車で運搬されたとのことである。

牛車道も一度歩いて見たいのだが、傾斜を緩くするため曲がりくねった道となっており、立川からの登りには5時間ほどかかる、と言う。端出場にある銅山観光施設「マイントピア別子」から東平にシャトルバスが出ているということであるので、東平から逆に下ってみようかとも思っている。

Ⅲ 魔戸の滝パート;繋ぎ道探索 石ヶ山丈分岐~魔戸の滝・造林小屋分岐~魔戸の滝~滝登山口 約1時間

今回の弟のメーンテーマ。石ヶ山丈から魔戸の滝上部登山道への繋ぎを藪漕ぎで進んだようだが、先般ゲストを案内するに際し、山行で疲れたパーティを藪漕ぎで不確かなルートを魔戸の滝へと案内することを断念した、と言う。それが誠に、申し訳なかったようで、再びパーティを安心してガイドできるように、ルートを確定しておきたいとの思いであろう。

石ヶ山丈分岐;11時15分((標高827m))
石ヶ山丈から魔戸の滝に向かう。「左 魔戸の滝 右 一本松」の分岐標識を東へ進む。まるで上部鉄道の続きの様な広い道が続く。
石ヶ山丈分岐
弟のメモに拠れば、「登山道の交差点としてキーポイントとなる石ヶ山丈(いしがさんじょう)分岐はこの辺りのバリエーションルート十字路として重要な場所である。
1)西側へは今歩いて来た上部鉄道が一本松停車場跡~兜岩登山道分岐~角石原(銅山峰ヒュッテ)を経て銅山峰へと続く。
2)東側には今から歩く魔戸の滝・西種子川造林小屋ルートの分岐へ至る。 3)南へ石ヶ山丈尾根道を経由して兜岩~西赤石山へ至る。
4)北へ下りると旧端出場発電所貯水池(沈砂池)を経由して立川山尾根の犬返し~生子(しょうじ)山・煙突山へ至る」とある。

沢に橋台;11時19分(標高826m)
5分ほど歩くと、沢にあたり、沢の両側は石組みとなっている。その上に2本の木を渡しているが、そんなところ通れるわけもなく、沢を迂回。







道が切れる;11時30分(標高809m)
沢から10分ほどで突然道が無くなる。地図で見るとその地点から魔戸の滝登山道まで距離にして600m程。以前この地を辿った弟によれば、ここから魔戸の滝登山道までは、斜面を等高線に沿って真っ直ぐ進むと、のことである。弟にとっては、いままでは私のお付き合い。ここからが本番。この道の切れる辺りから魔戸の滝登山道までのルートを確定すべく、藪漕ぎを「宣言」する。




下段に林道が見える;11時26分(標高806m

ちょっとした藪を少しすすむと、弟が下に林道らしき道が見える、と言う。取り敢えず斜面を下ると結構広い林道が東西に整備されている。道がどこから進んでくるのかと、確認に石ヶ山丈方向へ引き返す。

下段林道を石ヶ山丈方面へと戻る;11時36分(標高810m)
少し引き返すとテープがあり、左上に踏み跡がある。林道は西に進んでいるのだが、このテープの示す場所の確認に上にむかうと、先ほどの道が切れる箇所に出た。







石ヶ山丈分岐直下に戻る;11時37分(標高810m)
次いで、下段の西に向かう林道がどこと繋がるのか確認に向かう。少し藪とはなってはいるが、それでもしっかりとした林道を進むと、先程出合った小さい沢の下を通る。下からは沢に整備された石垣や二本の木橋も見える。
更に先に進むと、石ヶ山丈分岐から旧端出場発電所沈砂池へ少し下った岩のある所に突き当たる。石ヶ山丈分岐の下側,大岩を巻いて「沈砂池」に至る箇所から東に進む林道があったわけだ。林道の切れるあたりが少し荒れているので、幾度となくこの箇所を歩いている弟も、ここから林道が続くとは思っていなかったようである。

魔戸の滝登山道合流点へ向かう;11時40分

石ヶ山丈直下の林道が切れるところから、今来た道を戻る。上段の道が切れる箇所から先も、東に向かって下段林道が続く。
下段の林道は上段から来る林道と合わさり更に先に進む。道は作業林道として現役で使われているようであり、植林されて間もない幼木杉や作業の痕跡が目立つ。







魔戸の滝登山道合流点;11時50分(標高789m)
道が切れた箇所から下段林道を10分ほど歩くと「魔戸の滝登山道」に繋がった。要は、石ヶ山丈分岐から一段尾根を下がった場所から東へ延びた林道(少し荒れ気味ではあるが)からスタートすれば一直線で魔戸の滝上部登山道に合流する、と言うことである。魔戸の滝登山道合流点への繋ぎ道のルート確定が最大の眼目であった弟は、予想外の展開ではあるが、初期の目的が達成できたわけである。



魔戸の滝上部分岐標識;11時54分(標高780m)
魔戸の滝登山道合流点からは更に上に登山道は延びるが、我々は魔戸の滝へと尾根を下る。トラバース気味に尾根を下り、左手に植林作業場を見遣りながら進むと魔戸の滝上部分岐標識が立つ地点に到着。ここから下には魔戸の滝へ又、斜面に沿っては西種子川造林小屋跡への下側道が延びているとのことだが、魔戸の滝の標識以外は錆びて読めない。





Ⅳ 魔戸の滝パート;魔戸の滝上部分岐~西種子川・魔戸の滝登山口 約 40分

大岩展望所;12時00分(標高749m)
魔戸の滝に向かって下る。最初は岩尾根を少しだけトラバースしながら下る。尾根に平たい大岩がある。この岩が魔戸の滝尾根道ルート確認ポイントのひとつ、とのこと。ほどなく尾根から突きだした大岩に出合う。弟は大岩の尖端近くまで這っていったが、高所恐怖症の我が身は、見守るだけにする。昔より木々が生い茂り、眺めが悪くなっていた、とのこと。




魔戸の滝に急坂を下る;
大岩から先は踏み跡に従って進む。ここはテープも随所に現れる。先に進むと尾根を少し外れて左側斜面へとルートが変わる。結構急な斜面もある。この尾根道はガイドの弟がいるから心配はないものの、ひとりで辿るのは少々腰が引ける。
魔戸の滝尾根道ルート確認ポイントでもある「根上がり樹」前を通過し、最後はなだらかな笹の斜面を右に廻り込むと魔戸の滝が見えてくる。




魔戸の滝に到着;12時22分(標高599m)
圧倒的な水量で、スケールの大きな美しい滝である。滝は三段になっており上から上樽・中樽・下樽と呼ばれて下樽の落差は40m。新居浜の三大名滝の一つで他には大生院・渦井川の「銚子の滝」と国領川の「清滝」がある。 魔戸の滝には西種子川に沿って辿ろうとしたことがある、が、途中の道が崩壊し通行止めとなっており、滝まで進めなかった。今年の夏は沢を遡上し魔戸の滝まで辿ろうと思っていたのだが、山を下ってのアプローチで、子供の頃、父親と一緒に歩いた魔戸の滝にやっと出合えた。緑に覆われた巨大な岩盤から流れ落ちる滝を十分堪能し、滝を後にする。

魔戸の滝
魔戸の滝、とは少々怖ろしそうではあるが、元は「窓の滝」と称されていたようだ。「窓」のようにくり抜かれた峠から、この淵が遠望でき、故にその地を「窓」、そこから見えるこの滝を「窓の滝」と呼ばれていたが、いつしか「窓」が「魔戸」に変わった、と。
この文字の転化に関わりあるのかどうか不詳だが、この滝には龍王伝説が伝わる。如何なる時にも水が涸れることなく、地元の民の水源であった龍王の棲むこの滝壺(淵)であるが、大干魃に際し雨乞いを願い、若い娘を人身御供として龍王に献上することになった。と、空は一転かき曇り大雨が降り、民はその娘に感謝の気持ちを表すべく龍王様を祀るすぐ傍に、「百合姫大明神」という祠を建て、その霊を慰めた、と。よくある話ではあるが、龍王さまには「窓」より「魔戸」がよく似合う。

魔戸の滝登山口;12時32分(標高557m)
西種子川にそって10分ほど下ると林道から分岐する魔戸の滝登山口に出る。橋の名前は「樽ワ淵橋」とある。水の絶えることのない魔戸の滝の滝壺に、渇水時には村人は一斗樽を背負って龍王様にお水を頂いて帰ったことから、誰言うともなしにこの滝壷を「樽淵」と呼ぶようになり、滝も「樽(たる)」とも「樽淵」とも称された。
とはいうものの、天城河津七滝(ななたる)を挙げるまでもなく、滝のことを「たる」と呼ぶのはよくあることで、一斗樽と関連つけなくてもいいようにも思うのだが。


Ⅴ 犬返しパート;魔戸の滝登山口~鉄塔尾根~犬返し~龍河神社分岐~龍河神社 約2時間30分

種子川林道を下る;12時33分
魔戸の滝登山口から種子川林道を下る。林道は少し下ったところで崩壊し、通行止めとはなっているのだが、登山者のものであろう車が停まっている。週末は工事もお休みで、車の通行も可能なのだろう。






林道石ヶ山丈線分岐;12時41分(標高518m)
種子川林道から林道石ヶ山丈線に入る。林道石ヶ山丈線は石ヶ山丈の貯水池跡まで続く。目指す立川山の犬返しピークも遠くに見える。






四国電力鉄塔保線路への分岐;(標高595m)
曲がりくねった道を15分ほど進むと、四国電力鉄塔保線路と兼用した林道を分ける。ここから石ヶ山丈の貯水池跡へと上に向かう林道石ヶ山丈線は、等高線に抗うことなく東西に異常なほど大きくスイングしている。どうも、昔の「牛車道」を活用しているようである。
鉄塔尾根へは右の道を進むことになる。この尾根道も平行して牛車道が通っているようだ。この尾根に近づくとチェーンが張られていた。危険通行禁止、ということではあろう。

種子川林道崩壊地の上部;13時05分(標高559m)
種子川林道崩壊地の上部の尾根に出る。四電の鉄塔は崩壊部のすぐ近く。危うく崩壊を免れた、という状況である。崩壊部は大規模な補強工事が行われている。一面がコンクリートらしきもので塗り固められ、その上にシートを被せ崩壊を防止しているようだが、この急斜面に崩壊防止工事が耐えうるものだろうか。
鉄塔からちょっと荒れ気味の尾根に進むがすぐに快適な道となる。弟は三等三角点「種子川山」を確認に寄り道(13時12分)。すヤマツツジが数本鮮やかに咲いていた。

犬返し;13時21分(標高523m)
15分ほど進むと犬返しに。とっかかりである岩壁を這い上がる。前方に犬返しのピークが見える。岩場を西側からトラバース。足元に切れ込んだ崖にへっぴり腰の我が姿を見て、弟は笑いを堪える。
コルを巻き犬返しのピークに出る。犬が怖じけて引き返したのか、愛犬をこの難所で引き帰えさせたのか、どちらかは定かではないが、ともあれ、犬の気持ちはよく分かる。
この犬返しピークは実家のある新居浜市角野地区からも、その切り落とされたような特徴のある地形故に、名前と山容は見知っていたのだが、実際に歩いたのはこれがはじめて。言い得て妙なる地名である。ピークから新浜側の展望は無いが、逆の石ヶ山丈~串ヶ峰の南側が開けて良く見える。

「種子川林道」の分岐標識;13時35分(標高521m)
犬返しを乗り越え平坦な尾根を15分ほど進むと「種子川林道」の分岐標識が右手の木に取り付けられている。種子川林道のヘヤピンカーブにある「犬返し」標識の場所へ下がるのだろう、と弟の言。






龍河神社分岐;13時40分(標高498m)
もう四電西条線20番鉄塔を過ぎると等高線500mが北に突きだした先端部手前に「龍河神社」分岐の案内。尾根筋を直進すればエントツ山こと、生子山(しょうじやま)に繋がるようだ。
車をデポした龍河神社へは分岐を左に折れる。植林地帯を20分ほどジグザグに下ると竹藪の中に出る。竹藪=里、との刷り込みがあり、里は間近との思いから、どうしたところで直ぐに里に出るだろうと高を括っていたのだが、これがミステイク。メモの段階でチェックすると、竹藪から立川集落の林道まで標高差で200mもあった。
予想に反して竹藪からすんなりと里には下りることができなかった。踏み跡がほとんどわからない。枯れた笹の葉は滑りやすい。

保線路分岐;14時3分(標高316m)
ほぼ成り行きで左手へ進むと明確な道に出た。送電線鉄塔も建つ。そこから先に下ると左に四電保線路、右に住友共電保線路の分岐に出る。 ここを四電保線路へと左に向かえば龍河神社の真上に出たはすではあるが、このときは右の共電保線路に下ってしまった。







林道へ着く;14時21分 
竹林を抜けて道が進む。さてそろそろ里、と思えども、道は消え、足元が掘れ込んだ荒れた道が続く。いい加減に勘弁してほしいと思った頃、やっと立川集落の林道に出た。この道は昔の牛車道とのことである。




龍河神社のデポ地点に;14時35分(標高124m)
少し北に下がり過ぎた地点から、道の下の立川集落を眺めながら林道を南に進む。ほどなく林道、というか牛車道は、龍河参道の参道を横切る。牛車道から拝殿に上りお参りし、参拝道を下りてデポした車に帰る。
龍河神社
「リュウカワ」神社と読むようだ。
新居浜市誌に拠れば、 「龍河神社 角野立川 龍古別命、高おかみの神、外数柱の神を祀る。御諸別君武国凝別命の子孫に当たる龍古別命がこの地立川に入り、既に大和時代において鉱山の開発に努力されたと伝えられている。
当社は文化年間及び天保年間に火災に罹り、現在の社殿は天保9年に再建されたものである」とある。
龍古別命は、太古の時代、この地を治めていた武国凝別命(たけくにこりわけのみこと)の子孫で、国領川上流地域、今日の新居浜市角野近辺を治めていた。別子の地名の由来も、「別の子が治める地={別子}との説もあるようだ、 「高おかみ(神)」は、龍神さまで国領川の水源を司る神とも伝えられる。「山の尾根筋の神」との説もあるが、尾根筋=川の水源、と考えれば同じかも。 集落の立川は、もとは龍古別命からだろうか「龍古」と呼ばれていたが、川に竜が住んでいるとの伝説から「竜河」更に立川となった、と言われる。


龍河神社したにでデポした車に乗り、上り口の落登志渓谷入り口に向かい、もう一台の車をピックアップし一路実家へと。それにしてもバリエーション豊かな山行であった。四国の山を歩き倒している弟のルーティングに感謝。
伊予 別子銅山遺構散歩のメモも結局3回となってしまった。メモを書きはじめて、端出場発電所導水路のこと、上部鉄道のこと、また、そもそも別子銅山について、近所に居ながらあまりに何も知らず、メモの前提となるあれこれの整理、発電所導水路のあまりの難路・険路ゆえにメモが長くなってしまった。 2回のメモでメモの前提および往路の端出場発電所導水路跡を書き終え、第三回の導水路の終点である沈砂池から復路である「上部鉄道」跡を辿り、出発点の東平までをメモする。



本日のルート;(山根精錬所>端出場;端出場発電所跡・水圧鉄管支持台>東平;)
(往路;端出場発電所導水路跡)東平・第三発電所跡スタート>水路遺構>住友共同電力の「高藪西線」48番鉄塔>第一導水隧道出口>第一鉄橋>第二鉄橋>第二導水隧道>第三鉄橋>第三導水隧道>第一暗渠>第二暗渠>山ズレ>第四鉄橋>大岩と第三暗渠>第五鉄橋>第四>渠>第五暗渠>木の導水路跡>第四導水隧道>トタン小屋>第六鉄橋>第五導水隧道>第七鉄橋・第八鉄橋>第六導水隧道>第六暗渠>第七暗渠>第七導水隧道・第八暗渠・第八導水隧道>第九鉄橋>第九導水隧道>排水門と第九暗渠>第十暗渠>第十一暗渠>第十二暗渠>第十三暗渠>沈砂池>水圧鉄管支持台
(復路;上部鉄道)
沈砂池>水圧鉄管支持台>石垣>魔戸の滝への分岐?石ヶ山丈停車場跡>索道施設>地獄谷>切り通し>東平が見える>紫石>第一岩井谷>第二岩井谷>一本松停車場跡>東平



沈砂池;13時5分
端出場発電所への導水路の終点。ここで水に混ざった砂を分け、水圧鉄管で落差約600mの水圧で端出場発電所のペルトン水車を回し、生産力買増大により必要となった別子銅山の電力需要に応えたことは既にメモで延べた。 沈砂池を囲む煉瓦造りの縁上をぐるりと廻り、下の水圧鉄管の支持台などを幾つか目に留めて、東平へと戻ることにする。復路は「上部鉄道跡」を一本松停車場跡まで戻り、そこから東平へと下る。




石垣跡;13時25分
水圧鉄管支持台より沈砂池の傍に戻り、山道を上部鉄道跡へと上り始める。杉の木に括られた「まとの滝上部 停車場」の標識(13時12分)に従って上に進む。
50mほど上ると立派な石垣が残る。この石垣は何の遺構だろう。沈砂池からは大分はなれている。往昔この辺りを上ったであろう「仲持ち」さんの施設なのだろうか、「牛車道」関連の施設があったのだろうか、それとも10mほど上にあった上部鉄道の施設なのだろうか?
あれこれチェックすると、上部鉄道石ヶ山丈の地盤を安定させるため、3段に渡る石垣を築いた、といった記事を目にした。位置からして上部鉄道関連の遺構のように思える。
石垣の前に「銅山峰ヒュッテ 停車場跡」の標識がある。銅山峰ヒュッテは上部鉄道の西端・角石原駅の辺り、停車場跡は同じく上部鉄道の東端・「石ヶ山丈駅」のことである。

魔戸の滝への分岐;13時30分
標識から10mほど上ると人の手が入った平坦地に出る。東に下れば種子川の魔戸の滝に下る山道、西は上部鉄道の「石ヶ山丈駅」である。この辺りは上部鉄道が開通する以前、別子銅山から粗銅を運び、銅山村へ日用品を運んだ「仲持さん」の泉屋道であり、牛車道として往還の拠点ではあったのだろう。

○「中持ちさん」・「牛車道」と石ヶ山丈
銅山遺構散歩の「そのⅠ」でメモしたように元禄3年(1690)四国山地、銅山峰の南嶺の天領、別子山村で発見された別子銅山は、初期は銅山峰南嶺より直線で新居浜に出ず、土居の天満浦に大きく迂回した(第一次泉屋道)。その理由は、銅山峰を越えた北嶺には西条藩の立川銅山があり、西条藩より通行の許可がおりなかったためである。
その後、元禄15年(1702))、住友の幕閣への交渉が功奏したのか、西条藩が別子村>銅山峯>角石原>「石ヶ山丈」>立川 >角野>泉川>新居浜に出る銅の運搬道を許可した(第二次泉屋道)。仲持ちさんの背に担がれての運搬である。
明治に入り、明治13年(1880) には延長22kmの牛車道が完成。銅山嶺南嶺の別子山村>銅山越>銅山峰北嶺の角石原>「石ヶ山丈」>立川中宿>新居浜市内が結ばれた。
この牛車道も明治19年(1882)に銅山峰の南嶺の旧別子より北嶺の角石原まで貫通した長さ1010mの「第一通洞」の完成により、銅山峰を越えることなく「角石原から結ばれる。通洞内は牛引鉱車で運搬されたとのことである。

石ヶ山丈停車場跡;13時33分
山側に組まれた石垣をみやりながら平坦な道を進むと「石ヶ山丈駅」跡に着く。杉の木に「石ヶ山丈停車場」の案内があり、その脇には石組みのプラットフォームらしきものが残る。
石ヶ山丈停車場跡は上部鉄道の東端の駅。「えひめの記憶」に拠れば、明治22年(1889)に欧米を視察した広瀬宰平は、製鉄と鉱山鉄道の必要性を痛感し、石ヶ山丈-角石原問5532mに山岳鉱山鉄道建設を構想し、明治25年(1892)年5月に着工し、翌26年(1893)年12月に竣工した。標高1100mの角石原から835mの石ヶ山丈間の日本最初の山岳軽便鉄道は急崖な山腹での工事に困難を極めたと、言う。
この上部鉄道であるが、明治44年(1911)に東延斜坑より嶺南の日浦谷に通した「日浦通洞」が繋がると、嶺北の東平と嶺南の日浦の間、3880mが直結し、嶺南の幾多の坑口からの鉱石が東平に坑内電車で運ばれるに到り、その役目を終える。上部鉄道が活躍したのは18年間ということである。

索道施設;13時34分
石ヶ山丈駅のすぐ傍に深い溝をもった遺構がある。索道施設跡である。上部鉄道により角石原より運ばれた粗銅は石ヶ山丈からは索道で立川の端出場(黒石駅)に下され、そこからは同じく明治26年(1893)運行を開始した「下部鉄道」により市内へと運ばれた。
ところで、石ヶ山丈の索道基地は明治24年(1891)に完成している。上部鉄道の建設が開始されたのは翌明治25年(1892)と言うから、上部鉄道開通までは明治13年(1880)に開通した第一通洞の銅山峰北嶺の角石原から石ヶ山丈までは牛車道で粗銅が運ばれ、ここから延長1,585メートルの索道で端出場まで下ろされたのであろう。
なお、明治24年(1891)に完成した索道は「複式高架索道」とのこと。明治30年(1897)には単式高架索道となっている。単式(高架)索道は、端出場火力発電所の電力を使った「電力」で動く索道とのこと。ということは、「複式」とは「上りと下り」の索道の動力モーメントで動かしたものではあろう。

地獄谷;13時38分
索道施設からほどなく谷に橋台が残る。急峻な谷に石が敷かれ、地盤を固めているように見える。橋台跡など、本来なら結構感動するものだろうが、なにせ、往路での導水路の強烈な橋跡を見たわが身には、あまり「刺さる」ことはなかった。






切り通し;13時46分
地獄谷から8分程度で切り通し。上部鉄道の写真でよく目にする箇所である。岩壁手前の岩盤を切り通した箇所から貨車を繋いだ蒸気機関社が映る。貨車には人が乗っている。
上部鉄道の機関車2両、客車1両、貨車15両はドイツのクラウス製。開通当時は運転手もドイツ人であった、とのこと。蒸気機関車2両が交替で貨車4,5両繋ぎ1日6往復。片道42分、平均時速およそ8キロで走った、とのこと。 切り通し部の写真ではフラットな路線のように見えるが、最大斜度が18分の一、133回ものカーブのある断崖絶壁を走ったわけで、結構スリルのある山岳鉄道ではあったようだ。
当時は岩場だけの緑のひとつもない、禿山の切り通しではあったが、現在は線路跡にも木々が立ち並び、緑豊かな一帯となっている。

東平が見える;13時56分
切り通しを越え10分程度歩くと谷側が開けたところに出る。切り通しから先は。谷側には木々が茂り、昔のような禿山の断崖絶壁を歩く怖さは緩和されているが、その分見通しがわるかったのだが、ここでやっと東平が見えた。ポールに赤い旗が巻かれているが、これは東平からこの地点確認しやすくするためなのだろうか。よくわからない。

禿山と言えば、明治22年(1893)頃より、別子銅山は銅山用の木材伐採と製錬所から排出される亜硫酸ガスで山は荒れ果て、一面の禿山となってしまっていた。
明治27年(1894)、初代総理事廣瀬宰平が引退した後、別子銅山の煙害問題に取り組んだのが、のちの第二代総理事である伊庭貞剛。煙害問題解決のため、製錬所を新居浜沖約20kmにある四阪島(宮窪町)へ移すなど対策を講じる(後年、この四阪島も周桑郡に大きな煙害を齎すのだが)とともに、荒廃した山を再生させる植林事業を開始。それまで年間6万本程度であった植林本数を100万本までへと拡大し、現在の美しい緑の山の礎を築いた。

紫石;14時1分
東平を眺め5分程度進むと、線路脇に大きな岩が鎮座している。紫岩と呼ばれる。雨に濡れると紫が際立つ、とか。それはともあれ、この辺りは、往路で出合った「山ずれ」の上部箇所。紫岩手前辺りで線路跡の道にギャップがある。上部鉄道上を通る「牛車道」も山ズレ状態にあるようだ。




第一岩井谷;14時19分
紫石から20分弱で朽ちた木が残る橋跡に着く。谷は「第一岩井谷」との案内があった。橋台は煉瓦造りだが、上に架かる橋は木。木橋であったのだろうか。







第二岩井谷;14時22分
第一岩井谷から数分で第二岩井谷。ここは橋台の上に鉄板の仮橋が架けられている。上部鉄道の三つの谷を渡る橋を見てきたのだが、橋は鉄橋ではなく木製であったようだ。








一本松停車場跡;14時34分_標高960m
給水タンクや保線小屋の案内を見遣り、小さな沢に架かる橋台、橋台に渡されている木橋などを越えて10分強進むと「銅山峯へ 石ヶ山丈をへて種子川へ 東平へ」との三方向の案内がある標識」のあるところに出る。ここが上部鉄道の角石原駅と石ヶ山丈駅の中間にあった「一本松停車場跡」である。一帯は平坦に整地されていた。結構広い。引き込み線もあったようだ。
上部鉄道はここから角石原へと向かうが、本日のメーンイベントは端出場発電所導水路散歩であり、上部鉄道散歩の残りは次の機会として東平へ戻る道を下ることにする。



東平に下る:15時2分、
14時40分、一本松停車場跡の平坦地を離れ、「東平」への道標に従い尾根を下る。6分程度下り、標高870m辺りに木に「一本松社宅」の案内。かつてこの地 には別子銅山の「一本松社宅」があった。戸数185。飯場と人事詰所、クラブ、派出所が各1、その他3つの職員貸屋と2箇所の浴場があった、とのことである(「えひめの記憶」)。
社宅跡から10分程度(14時50分)、標高820m辺りに住友共同電力の送電線鉄塔。そのすぐ下に上の方向を「高萩西線46 」と示した住友共同電力の標識があったので、その鉄塔は「高萩西線46」ではあったのだろう。
鉄塔から10分程度下り東平のスタート地点に15時2分到着。長かった端出場発電所導水路および、上部鉄道散歩を終える。

伊予 別子銅山遺構散歩の端出場発電所導水路・上部鉄道跡を辿るメモは、メモする段になり、別子銅山のことをあまりに知らず、端出場発電所導水路や上部鉄道の別子銅山での「位置づけ」を自分なりに整理するだけで「力尽きた」。 2回目のメモは東平から端出場発電所導水路を往き、上部鉄道を戻るメモをするつもりであったのだが、今回も往路の端出場発電所導水路歩きのメモで「力尽きた」。
導水路は7 キロほどであり、2時間強で歩き終えるかとも思ったのだが、8時半に出発し沈砂池到着が12時半と4時間ほどもかかった。険路・難路、崩壊鉄橋、山ずれによる導水路の山腹下への「ずれ」、また途中で落とした携帯バッテリーを拾いに戻るなどのトラブルで30分以上ロスしたため、実質は3時間半弱といったところではあろう。それにしても強烈な散歩となった。
復路の「上部鉄道跡」は結局3回目のメモに廻すことになったが、いくつか崩落鉄橋があるも、導水路の「めちゃくちゃ」な散歩を体験した我が身には、なんということもない「平坦地」をのんびり戻る、といった風情とはなった。


本日のルート;(山根精錬所>端出場;端出場発電所跡・水圧鉄管支持台>東平;)
(往路;端出場発電所導水路跡)東平・第三発電所跡スタート>水路遺構>住友共同電力の「高藪西線」48番鉄塔>第一導水隧道出口>第一鉄橋>第二鉄橋>第二導水隧道>第三鉄橋>第三導水隧道>第一暗渠>第二暗渠>山ズレ>第四鉄橋>大岩と第三暗渠>第五鉄橋>第四>渠>第五暗渠>木の導水路跡>第四導水隧道>トタン小屋>第六鉄橋>第五導水隧道>第七鉄橋・第八鉄橋>第六導水隧道>第六暗渠>第七暗渠>第七導水隧道・第八暗渠・第八導水隧道>第九鉄橋>第九導水隧道>排水門と第九暗渠>第十暗渠>第十一暗渠>第十二暗渠>第十三暗渠>沈砂池>水圧鉄管支持台
(復路;上部鉄道)
沈砂池>水圧鉄管支持台>石垣>魔戸の滝への分岐?石ヶ山丈停車場跡>索道施設>地獄谷>切り通し>東平が見える>紫石>第一岩井谷>第二岩井谷>一本松停車場跡>東平

第三発電所跡スタート;8時26分
端出場発電所の導水路散歩は「第三発電所跡」の右手から始まる。出発点にはいくつもの道標が立つ。「一本松停車場跡」、「登山口;鹿森ダム 銅山峰」、「辻坂経由遠登志 角石原経由銅山峰」など。導水路へのアプローチは「登山口;鹿森ダム」への道を取る。道標には「端出場発電所導水路」といったディープな散歩の案内などあるはずもない。
道を進み「木樋」なのか、橋なのかはっきりしないが、梯子状に岩にぶら下がった崩れた木の「残骸」を見遣りながら道を辿る。と、その先に四角い煉瓦造りの遺構が道脇に残る。水路施設のようであるが、はっきりしない。

水路遺構;8時36分
端出場発電所導水路は、この辺りは山中を隧道で抜けているので、端出場発電所導水路の「余水吐」か?などと思いあれこれチェックする。と、「東平ペルトン水車」が登場してきた。どうも、今、歩いている道は「東平ペルトン水車」の導水路跡のように思える。であれば、ペルトン水車導水路関連の施設かもしれない。
「東平ペルトン水車」の導水路は第三通洞脇の「柳谷川・寛永谷」の合流点辺りで取水し、木樋で等高線750mに沿って進み、住友共同電力の「高藪西線」48番鉄塔辺りまで続き、そこから100mほど下、辷坂地区(すべり坂?何と読むのだろう)にあった発電所に水を落している、とのこと。端出場発電所導水路跡には、その送電線鉄塔を経由して進むことになるわけであるから、「東平ペルトン水車」導水路関連施設って推論は、結構いい線いってるかも。 この水路施設らしき遺構の別の可能性としては、第三通洞の所でメモした、銅や鉄が溶け込んだ坑内排水を国領川水系に流れ込むのを防ぐために造った、坑水路の流路変更点に設けられた「坑水路会所」も捨てがたい。形は写真で見た「坑水路会所」とそっくりではある。

住友共同電力の「高藪西線」48 番鉄塔;8時52分
崩落した木樋跡なのか橋跡(8時38分)なのか定かではないが、何らかの遺構を左手に見遣りながら進むと、山側にしっかりした石垣なども組まれている。石垣部分を越えると岩壁を削ったような道となる。沢に架かる鉄板を渡した「橋」を渡ると水平・平坦に切り開かれた道となる。
ほどなく住友共同電力「高藪西線」の鉄杭があり「左が47鉄塔、右が49鉄塔」とあり、その先に住友共同電力の「高藪西線」48番鉄塔が建っている。

○東平ペルトン水車
Wikipediaによれば「ペルトン水車は、水流の衝撃を利用した衝動水車、タービンの一種である」とある。通常は水の落差を利用しタービンを回し発電するわけであるが、明治28年(1895)に設置されたこの「東平ペルトン水車」の主たる目的は、圧縮空気をつくり、その圧縮空気を活用し削岩機を動かすこと。その削岩機は第三通洞の開削に使った。削岩機を使うことにより、それまで手掘りであった隧道開削のスピードが6倍になった、と言う。別子採鉱課で石油発動機によって電灯が灯されたのが明治34年(1901)のこと。 東平ペルトン水車は電気が別子銅山に最初の電燈が灯る6年も前に稼働したことになる。

取水口は前述の如く、「柳谷川・寛永谷」の合流点辺りで取水し、木樋で等高線750mに沿って、おおよそ500mの距離を1mから2m程度下る緩やかな、ほとんど平坦地といってもいいほどの横水路を進み、この鉄塔辺りにあった「会所(水槽)」から鉄管で100m下の「東平ペルトン水車」に落としていた。
ところで、この「東平ペルトン水車」の導水路は、今回の散歩のテーマである端出場発電所導水路が貫通するまでの間、端出場発電所の発電運転のテスト用の水としても使われたようである。明治27年(1894)から35年(1902)にかけて「東平ペルトン水車」の圧縮空気を使った削岩機は第三通洞開削に使われたわけだが、銅山峰南嶺の日浦からの通洞が繋がり、水が流れはじめたのは明治44年(1911)の2月のこと。端出場発電所の試験運転がはじまったのは明治43年(1910)の12月というから、3ヶ月ほど「東平ペルトン水車」導水路の水を端出場発電所まで延ばし試験運転に使ったのだろうか?それとも端出場発電所が正式稼働するのが明治45年(1912)というから、もう少し長い期間この「東平ペルトン水車」の導水路の水をつかったのだろうか?詳しいことはわからない。
それはともあれ、実際、第三通洞から少し上った柳谷川には堰が築かれ、端出場発電所(東平ペルトン水車系)への取水口が残るとのことである。とすれば、道端にあった水路施設跡は端出場発電所(東平ペルトン水車系)への導水路の一部かもしれない。単なる妄想。根拠なし。

第一導水隧道出口;9時5分
突き出た山塊の先端部にある送電線鉄塔を越え等高線はスタート地点から10mほど下り740m辺りを山塊に沿ってぐるりと廻る。鉄塔先は藪となっており、少々不安ではあったが、藪はすぐに抜け山肌に沿って踏み分け道を進むと、突き出た山塊に沢が切り込んだ辺りに四角い水路遺構が現れる。廻り込むと隧道出口となっている。第一導水隧道(仮に名付ける)出口である。
隧道出口で導水路は直角に曲がる。隧道出口の正面は「排水路」となっており、配水操作をしたのであろう鉄のハンドルが残る。第三通洞からこの出口まではおおよそ600mほどであろうか。

第一鉄橋;9時8分_ 標高740m
隧道出口を直角に曲がった導水路はすぐ沢を渡る鉄橋となる。鉄橋の枠は鉄製ではあるが、底は木製の箱形の水路となっている。結構朽ち果てており、鉄脇に腕を伸ばし、それを支えに慎重に橋を渡る。







○日浦から導水路第一隧道出口までの端出場発電所導水路

銅山峰南嶺を流れる銅山川の水を日浦で取水した導水路は、日浦通洞・第三通洞内に設けられた水路を流れ、東平の第三通道入口手前で柳谷川を抜け、山塊を開削した隧道を北に進む。そして、送電線鉄塔へと下る尾根筋辺りで流路を少し東に向きを変え、この出口へと続く。
第三通洞は明治27年(1894)に起工され明治35年(1902)に東延斜坑まで開削完了、日浦通洞は明治14年(1881)東延斜坑底から日浦谷に向けて開削をはじめ開通したのは明治44年(1911)。これで日浦谷と東平が繋がった。 では、端出場発電所導水路の建設はいつからはじまったのだろう?そもそもの最終目的である「端出場発電所」建設計画は明治43年(1910)に認可され、工事は同45年(1912)5月に竣工、7月から本格的に稼働することになった、ということであるから、計画が認可された明治43年(1910)から建設が始まり、テスト期間は前述の「東平ペルトン水車」導水路を延長・活用しながら、明治45年(1912)7月の正式稼働までの間に建設が完成したのではあろう。「東平ペルトン水車」の削岩機も大活躍、ということ、かと。

第二鉄橋;9時16 分
第一鉄橋を渡り、岩壁を切り開いた導水路を進む。導水路の中を進むのが安全ではあるが、導水路縁上を少々おっかなびっくりで歩く。この辺りには下から見れば煉瓦造りのアーチ橋となっている箇所もあるようだが、見逃した。 第一導水隧道出口から10分程度歩くと朽ちた木の橋が見えてきた。近くに寄ると底は鉄で両サイドが木でできている。沢もそれほど切り込んではいないので、橋脇を抜ける。その先には隧道入口が見える。



第二導水隧道;9時17分
導水路二つ目の隧道はせり出した岩盤を穿ち、740mの等高線がわずかに山側に切り込んだ辺りへ向かい一直線に進む。迂回路は740mの等高線に沿ってせり出した岩場の谷側を進むことになる。







第三鉄橋:9時24分

第二導水隧道を出るとすぐに第三鉄橋が続く。僅かに切り込んだ沢に2mもない鉄骨だけが残る。橋を渡り終えた辺りには巨大な岩が崩落し、導水路を塞いでいた。その先は往昔の姿を保つ導水路がしばらく続く。カーブする導水路の辺りでは、導水路下に組まれたしっかりとした石垣が良く見える。また、このあたりにもアーチの形をした煉瓦造りの橋が導水路下に組まれているようだが、見逃した。




第三導水隧道;9時30分
導水路はアーチ形に組まれた煉瓦が美しい隧道へと入り込む。三番目の隧道である。隧道入口手前には迂回路となる石段が整備されていた。この隧道は短く少し出っ張った尾根を迂回すると、往昔の原型を保つ隧道出口に出る。




第一暗渠;9時34分
第三導水隧道からはしばらく美しい導水路をのんびりと進む。導水路の縁上を歩くのも大分慣れてきた。と、等高線が山側に少し入り込んだ辺りが岩と言うか土砂が崩れガレ場となっている。ガレ場の下は3m程度の暗渠となっているようだが、土砂に覆われた導水路を進むだけ。





第二暗渠;9時36分
第一暗渠から50mほどで第二暗渠。2mもないほどの小さいもの。沢が切れ込んでいるようにも見えないのだが、土砂崩れか、上からの土砂を含んだ山を下る水から導水路を防いでいるのだろう。







山ズレ;9時40分
第二暗渠から岩壁に沿って、前進を塞ぐ蔦を折り敷きながら、ぐるりと尾根を廻り切ったあたりで突然導水路は消え、一面の土砂。さらにその先には導水路自体が谷方向に落ち込んでいる。山側だけ残し谷側だけ崩れたもの、崩壊したもの、原型を保ったまま「ズレ」た導水路も見える。最下部でおおよそ10mほどズレ落ちているようだ。



第四鉄橋;9時45分

山ズレ箇所の先、等高線が少し山側に切り込んだところに鉄骨だけの橋が残る。長さは2m強といったもの。沢も深くなく、橋脇を通り導水路に復帰する。







大岩と第三暗渠;9時49分
少し張り出した尾根を等高線に沿って導水路をぐるりと廻ると、導水路の谷側に巨大な岩が見える。その大岩の手前には三番目の暗渠(第三暗渠)の入口が見える。その先は土砂崩れで出口ははっきりしない。沢はそれほど深く切れ込んではいないのだが、大岩ゴロゴロの沢である。








第五鉄橋;9時50分
大岩を回り込むと、崩壊し、ほとんど原型をとどめていないグシャグシャの鉄骨が残る。五番目の鉄橋ではある。それにしても強烈な壊れ具合である。










第四暗渠;9時52分
先に進むと谷側が崩れ、山側のみに煉瓦が残る遺構がある。5mほど先にこれも壊れた煉瓦造りの出口が残る。どうも崩壊した暗渠跡のようである。









第五暗渠;9時57分?標高730m
余水吐らしき施設を足元に見遣りながら進むと、沢が切り込んだ手前に五番目の暗渠がある。暗渠は切り込んだ沢をU字に曲がり出口に向かうが、途中、谷に向かって排水路らしき遺構が残る。なんだろう?よくわからない。沢の辺りではスタート地点から20ほど下った730m等高線となっている。








木の導水路跡;10時3分
五番目の暗渠を越えると、崩壊した木の導水路跡があった。煉瓦とコンクリートで固められた導水路の部分だけ木製である。なんでだろう?導水路は突き出した尾根筋に向かって等高線に沿って横水路を進む。






第四導水隧道;10時6分
先で導水路が石で埋まる箇所がある。その先には尾根筋を迂回せず直進する四番目の隧道がある。

トタン小屋;10時7分
隧道入口から尾根筋先端部を迂回する。入口付近から谷側に迂回路があり、尾根筋の先端部に壊れた「トタン小屋」跡があった。小屋は原型を留めず完全に崩壊していた。





第六鉄橋;10時11分
突き出した尾根筋を等高線に沿ってぐるりと迂回し、沢が切り込んだところに隧道出口があり、出口は第六鉄橋に繋がる。第六鉄橋は大岩が崩れてきたのか、グシャグシャに曲がっている。完全に崩壊した鉄橋である。

沢にかろうじて引っかかる鉄橋の先には再び山地を穿つ五番目の隧道入口が見える。弟は昔、この鉄橋を渡ったとのことだが、今回は沢を少し高巻し、蔦などを頼りに沢を渡り、10時38分第五導水隧道入口側に下りる。迂回に20分ほどかかった。



第五導水隧道;10時42分


隧道入口からの迂回路は今までの等高線に沿った迂回ではなく、先に突き出す尾根筋に向かって一度登り、そこから山側に切り込んだ沢に向かって下ることになる。40mから50mほどの上り下り、といったところ。
アプローチの出だしは石組のしっかりした道をのぼることからはじまる。尾根筋の先端部に上り切ったあたりの岩場からは東平が良く見える。
先端部を回り込み第七・第八鉄橋のある沢に向かって進んでいた11時頃、落し物に気が付き探しに第六鉄橋辺りまで探しに戻る。結局見つからず戻ったのだが、弟が途中の急斜面にそれらしき形跡を認め慎重に降りて探し出してくれていた。この探し物に30分程度かかってしまった。




第七鉄橋・第八鉄橋;11時37分
第七鉄橋・第八鉄橋に11時37分到着。落し物がなければ11時過ぎには到着したものと思う。岩に張り付き沢筋に下ると骨組みたけの鉄橋がある。鉄橋は間に短いコンクリートの導水路を挟み二つに分かれている。どちらも鉄骨だけが沢に架かるだけである。






第六導水隧道;11時38分
第八鉄橋は六番目の隧道口に繋がれている。この隧道の迂回路も等高線を突き出した尾根筋に向かって40mほど上り下りし出口に至る。隧道出口で導水路はほぼ直角に曲がり先に進むことになる。出口辺りは等高線は720mラインになっている。








第六暗渠:11時52分
美しい導水路を進むと短い暗渠。山から下り落ちる水を導水路に入らないように造られたものだろう。短いけれど煉瓦を組んだしっかりした暗渠となっている。







第七暗渠;11時53分
しっかりした導水路を、少し山側に切り込んだ沢に向かう手前に先ほどの第六暗渠よりは少し長い暗渠となっている。これも煉瓦造りのしっかりした暗渠が残っている。

第七導水隧道・第八暗渠・第八導水隧道;11時54分
第七暗渠の先、尾根筋が少しだけ突き出している方向に進む導水路の先に隧道口が見える。七番目の隧道である。10mほどの短い隧道である。
隧道を抜けるとすぐに第八暗渠があり、その暗渠から10mほどで第八導水隧道となる。第八導水隧道は導水路から直角に開削されていた。
この頃になると、隧道や暗渠にお腹が一杯になり、疲れもあって写真を撮り忘れた。写真は第七導水隧道である。迂回路は谷側にあった。



第九鉄橋;12時
導水路第八隧道を出るとすぐに排水門があり、その先に「木箱」の形が残る九番目の鉄橋がある。導水路で結構崩れてはいるが原型が想像できる木橋ははじめてである。木箱は幾多の木々が落ち込んであり前進を阻むが、背を屈めて橋を渡る。橋は隧道の入口に繋がる。





第九導水隧道;12時2分
隧道の迂回路は谷側にあり、突き出した尾根筋に向け10mほど上る。突きだした尾根筋を越える辺りで踏み込まれた道に当たる(12時10分)。この道は牛車道である。突き出した尾根筋から山側に切り込んだ沢に向かって牛車道を進み20mほど上ると、道の左下に水路が見える(12時13分)。第九導水隧道を抜けた導水路であろうから、成り行きで導水路まで下る。

○牛車道
牛車道は、開坑以来、「中持さん」という人手に任せていた粗銅や日用品の運搬を牛に変更するために建設されたもの。明治9年(1876)に開削開始するも、翌年の西南の役の影響などで一旦中止。その後明治11年(1878)、住友家初代総理事である広瀬宰平翁の尽力により再開。明治13年(1881)に銅山峰から石ヶ山丈を経て立川までの牛車道が完成した。
この牛車道は明治19年(1882)に銅山峰の南嶺の旧別子より北嶺の角石原まで貫通した長さ1010mの「第一通洞」の完成により、銅山峰を越えることなく「角石原から結ばれ、さらには、さらには明治26年(1893)には第一通洞の北嶺出口の角石原から石ヶ山丈までの5キロほどをむすぶ日本最初の山岳鉱山鉄道が敷設される。石ヶ山丈からは索道で立川の端出場(黒石駅)に下され、そこからは同じく明治26年(1893)運行を開始した下部鉄道により市内へと運ばれることとなり、牛車道は運搬の主役の座を降りる。

排水門と第九暗渠;12時18分
牛車道から導水路に下り、先に進むと山側に少し入り込んだ箇所(沢)に煉瓦造りの原型を保つ九番目の暗渠がある。暗渠手前にはちょっと崩れた排水門も残る。








第十暗渠;12時19分
横水路を辿るとアーチ型コンクリートの暗渠がある。コンクリートのアーチ上に煉瓦はない。








第十一暗渠:12時21分
次に現れた暗渠はアーチ型コンクリートの上が石組みで覆われていた。美しい造形物である。








第十二暗渠;12時22分
第六導水隧道辺りから等高線720mに沿って延々と続く横水路を進むと十二番目の暗渠。ここは煉瓦で組まれている暗渠上は土砂崩れの土に覆われていた。







第十三暗渠;12時24分
笹で覆われた13番目の暗渠を越え導水路を進むと沈砂池の水門が見えてくる。

■端出場発電所が建設された経緯
ここまで歩いてきて、このような険路・難路、岩壁を穿ってまで発電所用の導水路を切り開いた端出場発電所の建設の理由を再度メモしておく。
建設の最大の理由は銅山の発展に伴い、輸送設備のための電気、削岩機の導入や電灯設備などのため発電設備の開発が必要になったため。明治30年(1897)の端出場(打除)火力を皮切りに、明治35年(1902)には端出場工場内に本格的な発電所として「端出場火力(当初90kW) 」が完成し、端出場工場、新居浜製錬所及び惣開社宅に電灯がともされ、動力の一部が電化された。
その後、明治37年(1904)、「落シ(おとし)水力(当初90kW))、明治38年(1905)には「新居浜火力(当初360kW)」と、次々と発電能力の拡大を図っていたが、明治末期には事業の発展とともに、採鉱用動力だけでも4,000kwに達する需要があり、年々増加する電気の需要に追いつけないような状況となった。
この状況を踏まえ、当時のわが国では先端をいく約600 m の比高差をもつ高水圧の端出場3000kw水力発電所の建設が計画された。これが「端出場発電所」建設の理由である。
また、端出場に移った主因は、江戸時代、標高1300mの銅山峰南嶺より掘り進んだ銅山の採鉱箇所が次第に下部へと進み、採鉱本部が標高1100m辺りの東延地区、標高750mの東平地区へと移動し、大正4年(1915)には第四通洞が標高175m辺りの端出場に通じたことにある。

沈砂池;12時25

長かった導水路もやっと沈砂池に到着。7キロほどを実質3時時間半ほどで歩き終えた。沈砂池の水門はふたつある。砂を落とし水圧鉄管に落とす沈砂池への水門と、もうひとつは余水吐の水門とも言われる。
沈砂池を囲む煉瓦の上を歩き沈砂池の出口に。鉄格子のごみ除去フィルターが残る。導水路はここまで。ここからは端出場発電所に向けて、およそ600mの落差を水圧鉄管が下る。

水圧鉄管支持台;12時31分
沈砂池から谷側に下り、水圧鉄管の支持台を確認に行く。端出場発電所近くの 水圧鉄管で見た水圧鉄管だけの支持台、丸い鉄管を通す穴と四角の作業人の通路と言われる支持台を確認し、長かった端出場発電所導路散歩を終える。後は上部鉄道に沿って東平へと戻るだけである。
これで往路の端出場発電所導水路散歩は終了。往路の「上部鉄道」は三回目のメモにまわすことにする。
定例の月次実家帰省の折り、弟に別子銅山の遺構をどこか歩こうか、と話す。四国の山を歩き倒している弟からは、江戸の頃より、人(仲持ちさん)の背に乗せ銅山の粗銅を四国山地の銅山峰を越え湊へと運んだ道(泉屋道)、明治期その泉屋道の険路を改修し牛が荷物を運べるようにした「牛車道」、牛に代わり四国山地の標高1000mあたりを5キロ強に渡り拓いた日本最初の山岳鉱山鉄道(上部鉄道)、銅山峰の南嶺の別子村に住み採鉱に従事する坑夫や職員に水を届ける「上部鉄管道」や「下部鉄管道」、そして銅山の発展に伴う電力需要のため、これも四国山地標高750m辺りに4キロほどの導水路を拓き、比高差560mの端出場発電所に水圧鉄管を通した「端出場発電所導水路」など、別子銅山の足元に住みながらも、まったく知らなかった遺構ラインアップが次々と飛び出した。
どれも魅力的ではあるのだが、「疏水・用水・導水」萌えの我が身としては、まずは「端出場発電所導水路」に行こう、と言うことに。その時は、先に待ち構えている、「険路・難路・悪路」、というか、導水路が崩落、橋が崩壊といった、結構「しびれる」ルートであることを知る術もなく、いつものようにお気楽に導水路のアプローチ始点である、「東陽のマチュピチュ」こと「東平」に車で向かった。



本日のルート;(山根精錬所>端出場;端出場発電所跡・水圧鉄管支持台>東平;)
(往路;端出場発電所導水路跡)東平・第三発電所跡スタート>水路遺構>住友共同電力の「高藪西線」48番鉄塔>第一導水隧道出口>第一鉄橋>第二鉄橋>第二導水隧道>第三鉄橋>第三導水隧道>第一暗渠>第二暗渠>山ズレ>第四鉄橋>大岩と第三暗渠>第五鉄橋>第四>渠>第五暗渠>木の導水路跡>第四導水隧道>トタン小屋>第六鉄橋>第五導水隧道>第七鉄橋・第八鉄橋>第六導水隧道>第六暗渠>第七暗渠>第七導水隧道・第八暗渠・第八導水隧道>第九鉄橋>第九導水隧道>排水門と第九暗渠>第十暗渠>第十一暗渠>第十二暗渠>第十三暗渠>沈砂池>水圧鉄管支持台
(復路;上部鉄道)
沈砂池>水圧鉄管支持台>石垣>魔戸の滝への分岐?石ヶ山丈停車場跡>索道施設>地獄谷>切り通し>東平が見える>紫石>第一岩井谷>第二岩井谷>一本松停車場跡>東平

山根精錬所跡
実家を出て、国領川に架かる新田橋を越え、かつては別子銅山現場で働く坑内作業従事者の社宅であった川口新田社宅跡(戸数570戸)である山根運動公園を南に進む。道の左手には生子山(「通称エントツ山」)山頂に煙突が残る。この煙突は「山根精錬所施設跡」。山根運動公園あたりに建設された精錬所の煙を山頂まで煙管を通し、この煙突から煙を排出していた。
明治21年(1888)完成のこの施設は、銅を精錬するだけでなく、精錬の過程で硫酸を生成し、残り滓から銑鉄を製造していたとのことであるが、位置づけは実験的施設であったよう。亜硫酸ガスでの農作物への煙害などもあり、明治28(1895)には閉鎖された。

端出場
「えんとつ山」を見遣りながら、愛媛県道47号・新居浜別子山線を国領川に沿って10分程度進むと観光施設「マインとピア別子」がある。観光坑道、鉱山鉄道などの観光施設の他、「第四通洞」、「端出場貯鉱庫」などの銅山遺構が残る。
足谷川(国領川上流部の呼称)左岸に拡がる「マインとピア別子」辺りの広い平坦地は人工のもの。後述する坑道(第四通洞)の開削での排石をもって造成されたものである。子供の頃、この地にあった巨大な工場群、それは砕石場であり、選鉱所であったのだろうが、その当時の記憶が蘇る。

○端出場貯鉱庫跡
「マイントピア別子」の駐車場脇に聳え立つ高さ約15m、幅約35mの巨大なコンクリート製の建造物。大正8年(1918)に端出場に完成した選鉱場のための銅鉱石の貯蔵施設。 第四通洞から運び出された鉱石をここに貯蔵し、隣接した場所にあった破砕場に送られ、砕かれた後、選鉱場へ送られていた。

○第四通洞
マイントピアの足谷川を隔てた対岸に坑口がある。足谷川には坑口へと続く鉄橋が架かる。案内によると、「明治時代に入ると採掘技術が進み、鉱体に似合う効率の良い設備の大型化が必要となった。 明治43年(1910)に約4,600米の第四通洞を掘り始め、又明治44年(1911)には第三通洞の奥から大立坑約600米を掘り、第四通洞と連絡する工事が始まった。
この工事は大正4年(1915)の秋に貫通して中部地域の開発や採鉱がしやすくなり、鉱石や資材、坑内作業従事者の出入などが容易になった。又坑内の空気流通や坑内水の排出経路も改められて文字通り別子銅山発展の大動脈となった。 昭和10年(1935)から、別子山村の余慶・筏津地区の鉱石は探鉱通洞・第四通洞を経てこの坑口から運び出されるようになった。 又昭和35年(1960)採掘が海面下深部になったこともあって第四通洞のそばから約4,500米の大斜坑を掘り始め昭和44年(1969)からは深部(-960米)の鉱石をスチールコンベアベルトによって連続して運び出された。 第4通洞・探鉱通洞・大斜鉱は別子銅山の両輪として昭和48年(1973)の閉山までその役割を果たした。
この坑口は約60年にわたって毎日約1,000人の入・出坑を見守り続けてきた。 ほかの坑口もみな同じだが、坑口を通る者は皆ここに祀ってある守護神大山祇神に頭を下げ御加護を祈った」とある。
案内には別子銅山の坑道の概要と、第四通洞に出入りする鉱夫と鉱石を積んだトローリー坑内電車の写真があった。坑口に立つと、第四通洞と探鉱通洞を合わせると10キロほどになる地下を吹き抜ける冷風が心地よい。

この地・端出場は、江戸時代からの長い歴史をもつ別子銅山において、昭和5年(1930)から銅山が閉山となる昭和48年(1973)まで銅山採鉱本部があり、銅山現場運営の本部であった場所である。
端出場の標高は156mほど。それまでは四国山地の標高750mあたりの東平にあった採鉱本部がこの端出場に移った主因は、江戸時代、標高1300mの銅山峰南嶺より掘り進んだ銅山の採鉱箇所が次第に下部へと進み、鉱石の搬出口である前述の第四通洞が大正4年(1915)に端出場に通じたことにある。
別子銅山の歴史を見ると、鉱石の搬出ルートの変遷に伴い採鉱本部が移転している。今回歩く「端出場発電所導水路」が何故に山地を穿ち、岩壁を削り水を通したのか、そして発電所を端出場に設けた背景にも関係あるようではあるため、簡単に整理しておく。

○端出場が銅山・採鉱本部になるまでの経緯

元禄3年(1690)四国山地、銅山峰の南嶺の天領、別子山村で発見された"やけ"(銅鉱床の露頭)からはじまった別子銅山であるが、鉱石は江戸から明治にかけては「仲持さん」と呼ばれる人たちの背によって運ばれた。その道は時期によってふたつに分かれる。

■第一次泉屋道を「中持さん」が土居の天満へと運ぶ
第一期、住友の屋号「泉屋」をとった「第一次泉屋道(元禄4年[1691]から元禄15年(1702)」は、銅山川に沿って保土野を経て小箱峠、出合峠を越え浦山までの23キロを仲道さんが運ぶ。浦山からは牛馬によって12キロ、浦山川に沿って土居(現四国中央市)に下り、土居海岸の天満浦まで進む。天満浦からは船で大阪にある住友の銅吹所(精錬所)へと運んでいた。
このルートは峠越え36キロにおよぶ長丁場であった。銅山峰南嶺より直線で新居浜に出ず、土居の天満浦に大きく迂回したのは、銅山峰を越えた北嶺には西条藩の立川銅山があり、西条藩より通行の許可がおりなかったためである。

■第二次泉屋道を「中持さん」が新居浜の口屋へと運ぶ

第二期の搬出ルートは、銅山峰を越え角石原に出て、馬の背を経て石ヶ山丈へ。そこから立川に下り、角野、泉川を経て、新居浜市内西町の口屋へと向かうもの。
第二次泉屋道(元禄15年(1702)から明治13年(1880)まで)と呼ばれるこの道は、別子から立川までの12キロを中持さん、そこから新居浜浦までの6キロは牛馬で運ばれた。距離は16キロに短縮されることになった。住友は当初よりこのルートを望み、銅山峰を越えた北嶺の立川銅山を領する西条藩と折衝、また住友より幕閣への懇願の効により実現したものである。
なお、第二次泉屋道に関しては、元禄13年(1700)、西条藩は、新道設置を許可し、銅山峯から雲ヶ原を右に折れ、上兜の横手から西赤石に出て、種子川山を通過して国領川に下り、国領川の東岸に沿って新須賀浦に下りたとするとか、元禄15年(1702)の銅山越えのルートは、別子-雲ケ原-石ケ山丈-立川山村渡瀬を経て新居浜浦に出たもので、銅山越-角石原-馬の背―東平―立川を経て新居浜に出るルートは、寛延2年(1749)に立川銅山が別子銅山に併合された移行との記述もある(「えひめの記憶」)。

第一通洞(標高1110m)と「牛車道」で新居浜の口屋へと運ぶ;東延時代

開鉱わずか7年目の元禄11年(1698)には年間1521トンという藩政時代の最大の生産高(国内生産の28%を占める)に到った別子銅山は、財政不足の幕府の政策により決済を銀にかわって銅とした、長崎での交易の30%を占めるなど、幕政に大きく貢献するも、「深町深舗」と言う言葉で表されるように、坑道が深くなり採算が悪化。幕末から明治にかけて閉山をも検討したと言う。
しかし、住友は広瀬宰平翁などの努力により明治2年(1869)粗銅から精銅をつくる吹所を大阪から立川山村に移し輸送の無駄を省くなど合理化を進め、事業継続を決定。
明治7年(1874)、フランスより鉱山技師・ルイ・ラロックを招聘し鉱山近代化の目論見書を作成。論見書に従い鉱脈の傾斜に沿った526mもの大斜坑・東延斜坑(明治28)の開削、明治13年(1880)、別子山村と立川村、金子村惣開(現新居浜市)に精錬所を建設。そして明治15年(1886)には標高1110mの銅山峰の北嶺の角石原から嶺南の東延斜坑下の「代々坑」に抜ける燧道の開削着工し、明治19年(1882)に貫通。これが長さ1010mの「第一通洞」である。この通洞の貫通により銅山越(標高1300m)をすることなく鉱石・物資の輸送が可能になった。
第一通洞は、明治8年(1875)に着工し、明治13年(1880)に完成した新居浜の口屋と別子山村を結ぶ「牛車道」と角石原で結ばれ、さらには明治26年(1893)には第一通洞の銅山峰北嶺・角石原から石ヶ山丈までの5キロほどを繋ぐ日本最初の山岳鉱山鉄道(上部鉄道)が敷設され、鉱石の新居浜の口屋への輸送ルートが大きく改善された。
明治初期から開始された鉱山近代化により、別子銅山は窮地から脱し産銅量も明治30年(1897)には3065トンまで増え、第一通洞の南嶺口から高橋地区にかけの東延地区には運輸課、採鉱課、会計課、調度課などの採鉱本部や選鉱場や多くの焼く鉱路炉(高橋精錬所)などが並んだ。明治28年(1895)には別子山村の人口は12000人に達したとのことである。この時代のことを別子銅山の「東延時代」と称する。

■第三通洞と索道そして下部鉄道により惣開へ;東平時代
明治32年(1899)8月、台風による山津波で大被害を被ったことを契機に別子村での精錬を中止し精錬設備を新居浜市内の惣開にまとめ、また明治35年(1902)に銅山峰の嶺北の東平より開削し東延斜坑と結ばれた「第三通洞(標高765m)」、明治44年(1911)に東延斜坑より嶺南の日浦谷に通した「日浦通洞」が繋がると、嶺北の東平と嶺北の日浦の間、3880mが直結し、嶺北の幾多の坑口からの鉱石が東平に坑内電車で運ばれ、東平からは、明治38年(1905)に架設された索道によって、明治26年(1893)開通の下部鉄道の黒石駅(端出場のひとつ市内よりの駅;現在草むしたプラットフォームだけが残る)に下ろし、そこから惣開へと送られた。
この鉱石搬出ルートの変化にともない東平の重要性が高まり、大正5年(1916)には、標高750mほどの東平に東延から採鉱本部が移され、採鉱課・土木課・運搬課などの事業所のほか、学校・郵便局・病院・接待館・劇場などが並ぶ山麓の町となった。その人口は4000とも5,000人とも言われる。



■第四通洞から下部鉄道で惣開へ;端出場時代
前述の「第四通洞」の案内にもあったように、赤石山系、標高1300mの銅山峰の南嶺直下より掘り進められた銅山は、第一通洞では標高1100m、第三通洞では標高750mへと次第に下部に掘り進められ、更に東平より下部に採鉱現場が下るにつれ、明治43年(1910)より海抜156mの端出場坑口から掘り勧められた水平坑が、大正4年(1915)に第三通洞からの立坑「大立坑」と繋がり、第四通洞が貫通。端出場からは明治26年(1893)開通の下部鉄道によって惣開まで運ばれた。
その後、第四通洞と大立坑部より筏津坑の下部に向けて、延長約5100mの「探鉱通洞」が昭和10年(1935)から開削され、昭和17年(1942)に貫通。第四通洞と探鉱通洞が繋がったことにより、全長約10000mの大通洞となり、銅山峰南嶺・銅山川辺りの筏津坑の鉱石も端出場に搬出され、銅山で採掘された鉱石はすべて端出場に集中させることになる。
昭和2年(1927)には端出場手選鉱所が建設され、東平にあった東平収銅所、東平選鉱場が廃止され、昭和5年(1930)には採鉱本部が端出場に移され、この地が別子銅山の銅山現場運営の中心地となった。

端出場発電所
現在観光施設「マイントピア別子」となっている端出場の銅山工場群跡の対岸に赤煉瓦の建物が見える。これが端出場発電所であり、今回歩く導水路の水をもって発電した施設である。
建築面積528平方メートルの煉瓦造。煉瓦積みは長手の段と小口の段を一段おきに積む「イギリス積み」。屋根は鉄板葺で、採鉱・煙貫の越屋根二ヶ所を設ける。建物の平側は上に二連のアーチ窓、下には大きく欠円アーチ窓を設ける。壁面が所々黒く塗られているのは、戦時の空襲を避けるためとのこと。また、建物脇に水車が見えるが、これは発電所と特に関係なく市内高柳にあった製氷会社のものを移した、と。意図不明。
明治45年(1912)完成のこの発電所の最大出力は3000kw。落差597.18mの水圧鉄管で山麓の「沈砂池」から水を落とし、ドイツジーメンス製の発電機とドイツ・フォイト社製の水車で発電した、と言う。
因みに、ここでは「水を落とす」と説明したが、水を勢いよく落差600mを落としているわけではなく、正確には「水圧鉄管」と呼ばれるように、鉄管内部は水は一杯になっており、最下部でその水圧によって水車を回し発電するようである。

それはともあれ、端出場発電所の建設は別子銅山の発展史と大きく関係している。以下、その経緯をまとめておく。

○端出場発電所建設までの経緯
銅山の発展に伴い、輸送設備のための電気、削岩機の導入や電灯設備などのため発電設備の開発が必要になった別子銅山は、明治30年(1897)の端出場(打除)火力を皮切りに、明治35年(1902)には端出場工場内に本格的な発電所として「端出場火力(当初90kW) 」が完成し、端出場工場、新居浜製錬所及び惣開社宅に電灯がともされ、動力の一部が電化された。
その後、明治37年(1904)、「落シ(おとし)水力(当初90kW))、明治38年(1905)には「新居浜火力(当初360kW)」と、次々と発電能力の拡大を図っていたが、明治末期には事業の発展とともに、採鉱用動力だけでも4,000kwに達する需要があり、年々増加する電気の需要に追いつけないような状況となった。
この状況を踏まえ、当時のわが国では先端をいく約600 m の比高差をもつ高水圧の端出場3000kw水力発電所の建設が計画された。これが「端出場発電所」である。
この計画は明治43年(1910)に認可され、工事は同45年(1912)5月に竣工、7月から本格的に稼働することになる。この端出場発電所の完成により住友の新居浜における電気供給の基盤が確立され、電力供給不足の悩みは、ひとまず解消するに至った。
「えひめの記憶」に拠れば、「住友は電力事情のこのような好転によって、懸案の肥料製造の実現化を進め、大正二年、新居浜に肥料製造工場(住友化学工業株式会社の前身)が創設された。また同年から、新居浜町・金子村・角野村・中萩村(ともに現新居浜市)及び別子山村に所在する同社の事務所、社宅、その他の建物に電灯がつけられた。さらに大正四年には、開削された大堅抗に昇降機捲揚機が施設され、第四通洞の開通に伴う抗内電車線の延長とともに、別子銅山採鉱の大動脈が完成した」とある。
大正12年(1923)には、四阪島製錬所に電気を供給するため、発電機と、水車各1台を増設して、出力4,500kwに増強し、新居浜と瀬戸内海に浮かぶ四阪島製錬所まで約20キロの海底ケーブルを施設し送電が開始された、と言う。

水圧鉄管支持台跡
端出場発電所跡の県道47号を隔てた山側にある石段を上り一枚の鉄板を渡した沢を渡ると、山腹へと一直線に石のステップが続く。急な斜面の石のステップを少し上ると四角いコンクリート構造物の中に水圧鉄管跡の丸い穴のある「水圧鉄管支持台跡」が見える。
支持台には水圧鉄管の穴のほか、四角の穴のあいたものもある。「通路」とも言われるが、わざわざコンクリートに穴を開けてまで通路を造る理由が分からない。なんだろう?
それはともあれ、この水圧鉄管は比高差600mの山腹、石ヶ山丈にある導水路の水を溜める「沈砂池」まで続く。その「沈砂池」が本日の導水路散歩の目的地ではある。弟はこの水圧鉄管を藪漕ぎしながら沈砂池まで上り切ったとのことである。


東平への分岐
水圧鉄管跡から戻り、県道47号を進み、すばらしい渓谷美が今でも記憶に残る「遠登志渓谷」に建設した「鹿森ダム」を越え、左手から合流する足谷川の谷筋に架かる橋を渡り、小女郎川とも呼ばれる足谷川に沿って進み、西鈴尾谷川(山地図には「西鈴尾谷川」とあるが、分岐点の橋には「足谷川」とあった)の手前で「東平」への道標から県道を離れ山麓の東平へと向かう。 広く快適だった県道から一転、対向車が来ないことを祈りながらの一車線のクネクネ道を進み、ピークにある「宿泊施設・銅山の里自然の家(昔の東平小学校・中学校の辺り)」から急な下りを進み、「接待館跡」などの案内を見やりながら坂を下りきったところにある広い駐車場に到着する。

東平
東平の広い駐車場にデポ。東平は「とおなる」と読むが、昔は「当の鳴」と呼び、後に「東平」と呼ぶようになった。拓かれて平坦になった土地を「鳴」とか「平」と書くとのこと。
それはともあれ、東平は近年「東洋のマチュピチュ」とのブランドで観光地としてPRしている。本家マチュピチュのあるペルー大使を招待し、秋祭りに出す新居浜名物・太鼓台を特別に組み上げご披露するなどして「マチュピチュ」使用を続けている、といった話も聞くが、「東洋のマチュピチュ」はちょっと言い過ぎ、かとも。
とはいえ、天空の城こと兵庫県朝来市の「竹田城」も「東洋のマチュピチュ」と称しているようであり、竹田城を訪れたことがある我が身には、どちらもちょっと?「マチュピチュ」は誰にでも、「わかりやすい」のは理解できるが、歴史・産業遺産であり、歴史・文化遺産であるだけで十分の価値がどちらにもあるように思う。

駐車場から眺める新居浜市街は美しい。駐車場下には貯蔵庫跡、索道基地跡、坂を繋ぐインクラインなどが残る。この貯蔵庫跡、索道基地跡が「マチュピチュ」を想起させる、ということだろう。
駐車場は昔の坑内電車の発着場や機械修理工場跡地を整地したもの。駐車場の上にある「マイン工房」の建物は昔の保安本部の建物跡である。また、駐車場の東端にある「東平歴史資料館」裏手にトンネルが残るが、これは東平と「第三通洞」を繋いでいた線路のトンネル(小マンブ:間符(まぷ;坑道の意味)で、中には採鉱のために使用していた当時の機械やそれらを積んだ鉄道車両が展示されている。
新居浜市観光課のHPには東平を「マイントピア別子東平(とうなる)ゾーンは、市内の中心部から車で約45分、標高約750mの山中の「東平」と呼ばれる地域にあります。
東平は、大正5年から昭和5年までの間、別子銅山の採鉱本部が置かれた所で、地中深くから掘り出された銅の鉱石を坑内電車で東平まで運搬し、そこで選鉱した後、貯鉱庫に貯め、索道を利用して、現在のマイントピア別子(端出場ゾーン)のある端出場へと輸送していた中継所となっていたところです。 最盛期には、社員・家族を含めて約5,000人が周辺の社宅で共同生活する鉱山町でもあり、病院や小学校、郵便局、生協、プール、娯楽場、接待館などの施設も整備され、一時期の別子銅山の中心地として賑わっていました。 当時の施設の多くは取り壊され、植林によって自然に還っていますが、貯鉱庫、索道基地、変電所、第三通洞、保安本部などの鉱山関連施設の一部が風化の痕跡を残しつつ現存し、中でも重厚な花崗岩造りの索道基地跡の石積みは、東平の産業遺産観光の目玉となっています」とある。

「マイントピア別子公式HP」の記事や施設案内をもとに上記案内を補足すると、社宅は東平地区には9つあり、これらの社宅は第三通洞の開通により東平に別子銅山の拠点が移行し始めた明治35年(1902)から徐々に建設が始まり、明治38年(1905)から明治39年(1906)にかけて完成した。その中の東平社宅は職員用、それ以外は坑夫の社宅であった。
坂の途中に案内のあった「接待館」は明治42年(1909)開設。「東平荘」ともよばれ、現在の貨幣価値で1.2億円を費やしたとのこと。病院は「接待館」から駐車場に下る坂道の途中で左に入ったところにあり、正式名称・住友別子病院東平分院と呼ばれ明治38年(1905)開設。明治42年(1909)には内科・外科の診療も行われ、優秀な医師のため、銅山関係以外の患者が新居浜や今治方面からも訪れた、と言う。
「宿泊施設・銅山の里自然の家」辺りにあった東平小学校は、明治39年(1906)に私立住友東平尋常高等小学校として設立。この東平小学校は、明治6年(1873)、別子銅山における最初の小学校である旧別子地区の足谷小学校の流れを汲むもの。日本で学制が公布されたのが明治5年(1872)でることを考えると、学業を如何に重視したことがわかる。昭和43年(1968)の閉校まで、2,574名の子を育んだ。東平中学校は小学校の横。昭和21年(1946)に戦後の学制改革により設立され、閉校までの22年間に600名の卒業生を送り出した。

■今に残る東平の銅山遺構
東平の多くの施設のうち、現在も残る遺構を「マイントピア別子公式HP」の記事をそのまま掲載させて頂く。

○貯蔵庫
貯鉱庫は銅山から運ばれてきた銅鉱石を麓に運ぶために一時的に保管するための倉庫です。貯鉱庫は上段の上貯鉱庫と下段の下貯鉱庫の二つから構成されていました。第三通洞から電車にのせて運ばれてきた銅鉱石は一旦、上貯鉱庫に保管され、上貯鉱庫と下貯鉱庫の間の選鉱場において、銅の含有率の度合いによって鉱石と岩石とに手作業で選別されました。
貯鉱庫は、愛媛県と広島県の間のしまなみ地方で産出された花崗岩を使って建造されており、その重厚さから東平の代表的な産業遺産の一つとして知られています。その外観や周辺の景色はペルーにある旧インカ帝国の世界遺産「マチュピチュ」にもたとえられ、東平が「東洋のマチュピチュ」と称される所以のひとつとなっています(「マイントピア別子公式HP」)

○東平索道基地
索道とは、採鉱された鉱石を搬器(バケット)と呼ばれる専用のカゴに入れ、山間の空中に張り巡らされたラインを伝って運搬するロープウェイのような施設です。こうした索道の拠点となっていた索道基地では、索道の操作や点検を行いました。東平索道基地では貯鉱庫から運び出された鉱石を搬器にのせ麓の端出場へ運んだり、逆に端出場から食料や日用品、坑内で使用される木材が引き上げられるなど、昭和43年の閉坑までの間、東平における物資輸送に欠かせない施設として広く利用されていました。
索道の長さは全長3,575メートル、搬器のスピードは時速約2.5メートル、一日の鉱石の搬出量は900トンもありました。索道にはモーターなどの動力がついておらず、搬器内の鉱石の重みを利用して動かしていました。点検の際には給油士と呼ばれる作業員が搬器の上に乗って索道のロープを支える鉄塔へ赴き、高いところでは地上30メートルにもなる鉄塔の上で滑車の給油などの点検作業を行っていました。現在でも、レンガ造りの索道基地の跡地を見学することができます(「マイントピア別子公式HP」より)

○インクライン
インクラインとは傾斜面にレールを敷いてトロッコを走らせるケーブルカーの一種で、高低差の激しい東平の生活にはなくてはならない運搬施設でした。 大正5年(1916)頃に設置され、端出場から索道を使って送られてきた生活物資を生協や社宅に荷揚げするために利用される一方で、第三通洞を利用して別子山地区から運ばれた木材を降ろすためにも利用されており、生活面だけでなく銅山の作業面でも重要な施設でした。原則として人が乗ることは禁止されており、生協などに直接人の手で荷物を運ばなければならないときだけ乗ることが許されていたそうです。
荷物を載せる台車が左右のレールに1台ずつ設置され、それぞれがワイヤーで結ばれ、電気によるモーターの力でロープを巻き上げ、片方が上がればもう片方が下がるという仕組みでした。現在は220段の長大な階段に生まれ変わっており、階段の両脇にはあじさいやドウダンツジなどが植えられ、季節ごとに多彩な表情を見せ、訪れる人々を楽しませてくれます(「マイントピア別子公式HP」より)。

○保安本部跡
駐車場脇の石垣上に見える建物。「明治35年(1902)頃に第三通洞の開鑿(かいさく)や電車用の変電所として設置された。その後、林業課の事務所になりその隣が電話交換所となった。明治38年(1905)頃から消防部門や警備部門を担当した保安本部として使用するようになった。
時代とともに建物の一部は、坑内作業者の入出勤を確認する就労調所として使用された。昭和26年(1951)頃からはキャップランプの充電場として使用された。その後、端出場調査課の東平分室として昭和32年(1957)頃まで使用された。第三変電所の建物とともに、東平地区ではめずらしいレンガ造りの建物である。現在、銅板レリーフが体験できる「マイン工房」として活用している

 ○小マンプ
東平歴史資料館の裏手に隧道が残る。「小マンプ」である、「マイントピア別子公式HP」に拠れば、「「小マンプ」とは一つは東平の集落近くに位置したトンネルで、その長さが短いことから「小」マンプと呼ばれました。マンプという名前は、坑道を意味する昔の言葉「間符(まぷ)」から転じてついた名前とされています。小マンプは今も当時の姿のまま残っており、自由に入って見学することができます。さらに、採鉱のために使用していた当時の機械やそれらを積んだ鉄道車両が展示されています。車両は住友金属鉱山㈱別子事業所から新居浜市に寄贈されたもので、坑内から運び出される銅鉱石を運搬するための車両である「三角鉱車」や、鉱石などをすくい取って鉱車に積み込むブルドーザーのような機械「600Bローダー」、鉱車や人のけん引をするための車両「2t蓄電車」など様々な種類の機械や車両が展示されています。別子銅山の人々が行っていた当時の採鉱作業を学ぶことができる価値のある展示物です、とある。

○大マンプ
東平歴史資料館から先に進むと「東平臨時駐車場」。西赤石山などに登る登山客は、この駐車場に車をデポするようだ。駐車場の南に沢筋が見える。地図には「喜三谷(きそうだに)」とある。喜三谷の豊かな水は駐車場下を暗渠となって通り、小女郎川(国領川水系)に注ぐ。
駐車場のある平坦地の東端に封鎖されたトンネルが見える。「大マンプ」である。「マイントピア別子公式HP」に拠れば、「「大マンプ」とは、かつて東平と第三通洞の間を行き来していた鉄道車両の線路上にあった鉄道用のトンネルです。トンネルは二つあり、一つは東平の集落近くに位置しトンネルの長さが短いことから「小」マンプと呼ばれ、もう一つのトンネルは、喜三谷から第三通洞にかけての「大」マンプでした。現在は、大マンプは閉鎖されており、内部を見学することはできません。これら大小二つのマンプでは、かつて「かご電車」と呼ばれた人を乗せるための電車が運行していました。鳥籠のような形をしていたことからそのような名前で呼ばれていましたが、サイズも縦が約2.2メートルで、横幅が約0.8メートル、定員は8名までという小ささであり、鳥籠と形容されるのにふさわしい電車でした。
かご電車が運行し始めるまでは、別子山地区に行くために険しい銅山を越えなければなりませんでしたが、かご電車ができてからは往来が容易となり、普段の通勤から通学、買い物まで、広く生活に欠かせない交通手段として人々に利用されていました。現在、かご電車は小マンプ内に展示されています」とあった。

第三社宅
喜三谷を埋め立てたのであろう平坦地を進むと、車道は終わり渓流散策炉となる。平坦地を先に進むとわずかの間舗装された上りの道となるが、その脇に用水路が流れる。地図で確認すると水路は先で小女郎川に注ぐ。単なる「余水吐」だろうか。
舗装が切れる辺りで道は大きく回りこみ小女郎川と山地に挟まれた渓流散策路となる。道脇の水路遺構らしきものや古い石組みを見遣りながら進むと、数段の石垣があり、そこには「第三社宅跡」の案内があった。案内を簡単にメモすると、「第三社宅跡 第三社宅の名前の由来は、第三通洞の第三(三番目に掘った通洞)からです。第三社宅は、大正10年11月9日現在で、9戸の社宅がありました。その後、昭和42年(1967)に18戸あった社宅をすべて撤去しました(後略)」とあった。

東平採鉱本部跡
足谷川の支流「小女郎川」に沿って続く「渓谷遊歩道」をしばらく進むと広い平坦地に出る。広場東側の山肌には閉鎖された「大マンプ」出口もある。 広場には「東平採鉱本部跡」の案内。案内には、「採鉱の中心は、第三通洞の八番坑道準と九番坑道準に移行しつつあったので、第四通洞、大立坑の完成を機会に、大正5年(1916)、採鉱本部を山頂に近い旧別子の東延(とうえん)から中腹の東平(第三地区)に移した。
採鉱本部の建物は第三通洞前に暗渠(あんきょ)を築き、その上に二階建てで建築された。採鉱本部前には柵がめぐらされ、その内には、火薬庫、機械修理工場、木工場も設けられた。
採鉱本部は、昭和3年(1928)に、選鉱場、調度課販売所、病院、土木課、山林課、運輸課、娯楽場、接待館などの中枢機能が集積していた東平地区に移転した。そして、採鉱本部の建物は東平倶楽部になった。採鉱本部は、昭和5年(1930)に東平から端出場に移された」とあった。
「第三通洞前に暗渠(あんきょ)を築き」とは、東から西に流れる唐谷川を合わせ東から西に流れ下る「柳谷川」が、南から北に流れる「寛永谷」に合流する地点から先を埋め立て、その下を水を小女郎川に吐き出す隧道を造った、ということだろう。寛永谷側から合流点から暗渠に流れ込む隧道入口部が見える。

第三通洞
柳谷川が寛永谷へと合流する地点近くに鉄橋が架かり、その先に閉鎖された坑口が見える。これが第三通洞である。「天空の町 東平HP(新居浜市)」に拠ると、「第三通洞」は明治27年(1894)に起工され、8年の歳月を経て完成した主要運搬坑道です。今も残る第三通洞の扉には西洋文化が取り入れられ、別子銅山の近代化がいかに早かったかを伺い知ることができます。第三通洞の長さは1,795メートルで、のちに連結した日浦通洞と合わせると全長は3,915メートルにもなり、別子銅山の北と南とを繋ぐ大動脈でした。


明治38年(1905)には第三通洞に電車が導入され物資の運搬能力が高まり、長年の採掘で坑内にたまった水の排出や通気面の改善にも貢献しました。その結果、別子銅山全体の産出量は飛躍的に向上し、東平には採鉱本部などの主要な施設が設置され、採鉱の中心地となりました。昭和13年(1938)からは「かご電車」が運転を開始し、東平と別子山地区を結ぶ唯一の交通手段として人々の暮らしも支えました。第三通洞はその後、昭和48年に廃止され、66年間の歴史に幕を下ろしました。現在は、第三通洞の入口が当時の石垣のまま残っています。第三通洞・日浦通洞を通れば、かご電車を利用すると銅山峰北嶺の東平から南嶺の日浦まで僅か30分で到着する」とあった。

坑水路会所
第三通洞から鉄橋に戻るとき、橋の南詰に煉瓦造りの水路遺構が目についた。なんだろう?あれこれチェックすると、住友家二代目総理事である伊庭貞剛翁が明治38年(1905)、坑内排水を国領川水系に流れ込むのを防ぐべく、第三通洞の出口から、新居浜市内惣開の海岸まで坑水路を造ったとの記事を目にした。鉱石内の銅や鉄などが水に溶け出し強い酸性の水となるわけで、そのために環境汚染を防止するため16キロにも及ぶ坑水路を造った、という。別子銅山の煙害被害など公害対策に尽力した翁ならではの対策ではあろう。
第三通洞からは木樋で通し、途中流路変更箇所には坑水路会所(流路変更の継目の施設)を設け、東平から端出場までは山道に沿って、端出場から惣開までは下部鉄道沿いに進んだという。この水路施設は坑水路会所だろうか?
実家の直ぐ裏手の山沿いに下部鉄道が通っており、その線路跡の脇に今も水路が続く。端出場に第四通洞が通った後は、坑内排水は第四通洞にまとめられ、 そこから坑水路が下ったとのことである。実家の裏手の下部鉄道脇には「山根収銅所」、通称「沈殿所」があるが、そこでも坑内排水より銅の成分を抜く作業が現在も行われている。

第三変電所
採鉱本部跡のあった埋め立て広場の東、二段の石垣上に煉瓦造りの建物が見える。第三変電所である。案内によれば、「第三変電所は、第三通洞がある集落に明治37年(1904)9月に建設されました。そして、東平坑閉坑になる少し前の昭和40年(1965)まで、61年間使用されていました。
第三というのは三番目というのではなく、第三という地名からついたものです。 赤煉瓦造りの建物は、現在も外観をとどめながら残されています。
また、東平で当時のままの建物が残されているのは、この第三変電所と採鉱本部(現在はマイン工房として利用されています)だけですが、内部までそのままで残されているのはここだけです(後略)」とある。

この第三変電所は「落シ水力発電所」から送電されてきた電力を変圧し、第三通洞内を走行する坑内電車の動力源や、社宅の電気としても使用されていた、。 建物内部は宿直室や炊事場はそのままの姿が残っている。
「落シ水力発電所」は明治37年(1904)完成の別子銅山で初の水力発電所。90kWの発電能力があった。今から歩く導水路の水をもとに動いた端出場水力発電所ができるまでは、東平への送電の要であった。場所は鹿森ダム脇の遠登志橋近くの山の中腹にあった、と言う。

端出場発電所導水路散歩のメモをはじめたのだが、そもそもの、別子銅山について何も知らないことがわかり、頭の整理に時間がかかった。銅山施設の端出場などは帰省の折の散歩コースといった自宅の目と鼻の先にあり、子供の頃までは操業しており、小・中学校には銅山関係者の子供も同級生として共に学んでいたわけだが、まったくもってゼロから整理しないことには、山地を穿ち水を通してまで前端出場発電所を動かす「理由」がよくわからず、結局は別子銅山の歴史の概略をまとめることになってしまった。
別子銅山遺構散歩の第一回はここまでとし、当初の散歩である端出場発電所導水路散歩のメモ次回からとする。
冬のとある日、旧友のS氏より丹沢・大山三峰の修験の道を歩きませんか、とのお誘い。S氏は奥多摩から秩父に抜ける仙元峠越えや、信州から秩父に抜ける十文字峠越えを共にした山仲間。で、今回の山行の発案者はそのS氏の山行・沢遡上の御師匠さんでもあり、私も奥多摩のコツ谷遡上本仁田山からゴンザス尾根への山行などをご一緒させて頂いたS師匠とのこと。峠歩きの成り行きで山を登るといった我が身には少々荷が重いのだが、「修験の道」というフレーズに惹かれご一緒することに。
丹沢の修験の道に興味を持ったのは、大山日向薬師を散歩したときのこと。この丹沢の峰々を辿る大山修験、日向修験、八菅修験の行者道があることを知り、行者道のすべては無理にしても、その一部だけでも辿ってみたいと思っていた。今回のルートには八菅修験や大山修験が大山三峰の尾根を辿る行者道、日向修験や八菅修験が尾根を登る弁天御髪(べんてんおぐし)尾根が含まれている。行者道全体からみれば、ほんの触りだけではあるが、それでも先達の足跡を辿れる想いを楽しみに当日を迎えた。



本日のコース;小田急線・本厚木駅>煤ヶ谷バス停>寺家谷戸>不動沢分岐>宝尾根取り付き>512m標高点>777m標高点>大山三峰南峰>不動尻分岐>唐沢峠>弁天御髪尾根分岐>778標高点>梅ノ木尾根分岐>見晴台>すりばち広場>見晴台A>見晴台B>弁天見晴>上弁天>中弁天>下弁天>見晴広場>林道に出る>林道から離れ大釜弁天に下る>大釜大弁才天尊>大沢>広沢寺温泉入口バス停

小田急線・本厚木駅
本日の散歩スタート地点は清川村の「煤ヶ谷バス停」。バスは小田急線・本厚木駅から出る。小田急には厚木駅と本厚木駅がある。あれこれ経緯があるのだが、それはそれとして厚木駅は厚木市ではなくお隣の海老名市にある。本厚木は本家の厚木といった矜持の駅名であろう、か。

煤ヶ谷バス停;午前7時30分_標高136m
バスは午前6時55分発の神奈川中央交通・「宮ヶ瀬行」。市街を離れ、いつだったか、白山巡礼道を日向薬師まで辿った飯山・白山の山塊に遮られ大きく迂回する小鮎川を越え、清川村の煤ヶ谷バス停で下車。時刻は午前7時30分。 「煤ヶ谷(すすがや)」って、惹かれる地名。炭焼きの煤かとも思ったのだが、「ススタケ・スズダケ」と呼ばれる竹に由来する、と。スズダケといえば、旧東海道箱根西坂でのスズタケのトンネルを思い出すのだが、それはそれとして、治承年間(12世紀後半)、この地に館を構える毛利太郎景行の館の周囲をこの竹で囲み垣根としていた、と。『我がすゞがき小屋よ』と呼んでいたとの記録もあるこの館(御所垣戸の館)は、小鮎川が白山を大きく迂回する北西の「御門」の辺り。御門の由来は文字通り「御門」から。『清川村地名抄』によれば、毛利太郎景行が御所垣戸の館から鎌倉への往還のとき、この六ツ名坂を利用しそこに門(御門)を設けたから、と言う。

 ■毛利の庄

古代、この厚木の辺りは相模国愛甲郡と呼ばれる。国府は海老名にあった、よう。国分寺は海老名にあった。古代の東海道も足柄峠から坂本駅(関本)、箕輪駅(伊勢原)をへて浜田駅(海老名)に走る。この地は古代相模の中心地であったのだろう。
平安末期には中央政府の威も薄れ、各地に荘園が成立する。この地も森の庄と呼ばれる荘園ができた。で、八幡太郎義家の子がこの地を領し毛利の庄と呼ばれるようになる。12世紀の初頭になると、武蔵系武士・横山党が相模のこの地に勢力を伸ばす。和戦両面での攻防の結果、毛利の庄の南にある愛甲の庄の愛甲氏、海老名北部の海老名氏、南部の秩父平氏系・渋谷氏をその勢力下に置いた。
鎌倉期に入ると相模・横山党の武将は頼朝傘下の御家人として活躍し、各地を領する。頼朝なき後、状況が大きく動く。北条と和田義盛の抗争が勃発。相模・横山党はこぞって和田方に与力。一敗地にまみれ、この地から横山党が一掃される。毛利の庄を領した毛利氏も和田方に与し勢力を失う。 主のいなくなった毛利の庄を受け継いだのが大江氏。頼朝股肱の臣でもあった大江広元より毛利の庄を受け継いだその子・大江季光は姓も毛利と改名。安芸の毛利の祖となったその季光も、後に北条と三浦泰村の抗争(宝治合戦)において、三浦方に与し敗れる。かくの如く、この厚木あたりは古代から鎌倉にかけ交通の要衝、鎌倉御家人の栄枯盛衰の地であったわけである。ちなみに、安芸国の毛利は、この抗争時越後にいて難を逃れた季光の四男経光の子孫。

寺家谷戸;午前7時33分_標高150m
煤ヶ谷バス停から谷太郎川に沿って歩を進める。集落の名は「寺家谷戸」とある。寺家とは入峰修行を監督する役職名に因むと伝わる(『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』)。実際、この少し先の不動沢での滝行(八菅修験第13行場)で身を浄めた八菅修験の行者は寺家谷戸より辺室山から物見峠、三峰山、唐沢峠を繋ぐ尾根道への峰入りを行う。

不動沢分岐;午前7時38分_標高163m
寺家谷戸からほどなく、不動沢分岐。右に沢を上ると八菅修験第13行場である、「不動岩屋 児留園地宿」がある、と言う。一の滝(不動の滝)と二の滝があり、滝行を行い、上でメモしたように翌日には寺家谷戸から尾根道の峰入りとなる。不動の滝は10mほどの滝のよう。夏には沢遡上でも、とも想う。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)
note;赤い線が今回のルート。黄色が八菅修験の道。紫が日向修験の道。三峰から大山までの黄色のルートは大山修験の帰路のひとつ。

八菅修験の行者道
八菅(はすげ)修験とは、 中津川を見下ろす八菅山に鎮座する現在の八菅神社(愛甲郡愛川町八菅山141-3)を拠点に山岳修行を行った修験集団のこと。八菅神社とのは明治の神仏分離令・修験道廃止令以降の名称。それ以前は山伏集団で構成された一山組織「八菅山光勝寺」として七所権現(熊野・箱根・蔵王・八幡・山王・白山・伊豆の七所の権現;室町時代後期)を鎮守としていた。明治維新までは神仏混淆の信仰に支えられてきた聖地であり、山内には七社権現と別当・光勝寺の伽藍、それを維持する五十余の院・坊があったと伝わる。
八菅山縁起によると日本武尊が東征のおり、八菅山の姿が蛇の横わたるに似ているところから「蛇形山」と名付けたという。また、八菅の地名の由来は、大宝3年(703)修験道の開祖役の小角(えんのおずぬ)が入峰し修法を行ったとき、「池中に八本の菅が生えたこと」に拠る。和銅2年(709)には僧行基が入山、ご神体及び本地仏を彫刻し伽藍を建立して勅願所としたとも。因みに、役の小角は行基と同時期の実在の人物のようではあるが、修験道といえば役の小角、といった「修験縁起の定石」として定着したのは、鎌倉から室町の頃と言う。
で、八菅修験の行者道であるが、行場は30ヵ所。この八菅山を出立し中津川沿いに丘陵を進み、中津川が大きく湾曲(たわむ)平山・多和宿を経て、丹沢修験の東口とも称される修験の聖地「塩川の谷」での滝行を行い身を浄め、八菅山光勝寺の奥の院とも称され、空海が華厳経を納めたとの伝説も残る経ヶ岳を経て尾根道を進み「仏生寺(煤ヶ谷舟沢)」で小鮎川に下り、白山権現の山(12の行場・腰宿)に進む。
八菅修験で重視される白山権現の山(12の行場・腰宿)での行を終え、小鮎川を「煤ヶ谷村」の里を北に戻り、上でメモした不動沢での滝行の後、寺家谷戸より尾根を上り、辺室山から物見峠、三峰山、唐沢峠を繋ぐ尾根道への峰入りを行う。
唐沢峠からは峰から離れ、弁天御髪尾根を不動尻へと下り、七沢の集落(大沢)まで尾根を下り、里を大沢川に沿って遡上し、24番目の行場である「大釜弁財天」を越えて更に沢筋を遡上し、再び弁天御髪尾根へと上り、すりばち状の平地のある27番行場である空鉢嶽・尾高宿に。そこからは尾根道を進み、梅ノ木尾根分岐を越え、再び三峰山、唐沢峠を繋ぐ尾根道に這い上がり、尾根道に沿って大山、そして大山不動に到り全行程53キロの行を終える。
なお、この八菅修験の道は春と秋の峰入りがあったようだが、秋のルートは残っていないよう。上のルートは春の峰入り、2月21日の八菅三内での修行からはじまり、峰入りを3月18日に開始し大山不動には3月25日に到着したとのこと。最後の峰入りは明治4年(1871)。修験道廃止令故のことである(『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』より、以下、丹沢修験の行者道に関する記事は同書を参考にさせて頂きました)。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

○八菅修験・春の行者道
1.八菅山>2.幣山>3.屋形山(現在は採石場となり消滅)>4.平山・多和宿>5.滝本・平本宿(塩川の谷)>6.宝珠嶽>7.山ノ神>8.経石嶽(経ヶ岳)>9.華厳嶽>10.寺宿(高取山)>11.仏生谷>12.腰宿>13.不動岩屋・児留園宿>14.五大尊嶽>15.児ヶ墓(辺室山)>16.金剛童子嶽>17.釈迦嶽>18。阿弥陀嶽(三峯北峰)>19.妙法嶽(三峯)>20.大日嶽(三峯南峰)>21.不動嶽>22.聖天嶽>23.涅槃嶽>24.金色嶽(大釜弁財天)>25.十一面嶽>26.千手嶽>27.空鉢嶽・尾高宿>28.明星嶽>29.大山>30.大山不動

宝尾根取り付き;午前8時5分_標高196m
不動沢分岐から30分程度進むと、道の右の木々の間に「清川宝の山」と刻まれた石標がある。ここが宝尾根への取り付き部分。特に道標があるわけではないので、ちょっとわかりにくい。
S師匠のリードで尾根に向かう。次のポイントである標高点512m地点まで直線1キロを300mほど登ることになる。時に標高線が密になるところもあるが、好い頃合いで標高線の間隔が広がる尾根筋であり、それほどキツクはない。


512m標高点;9時15分

進行方向右手には、手前の尾根の向こうに八菅修験の行者道の尾根とその向こうに辺室山、左手には清川村と厚木市の境界を成す境界尾根、そして境界尾根が谷太郎川の谷筋に落ちたその先に鐘ヶ嶽。鐘ヶ嶽は丹沢で最も古い行者道と言う。宝尾根への取り付きからおおよそ1時間で512m標高点に。




○鐘ヶ嶽 
鐘ヶ嶽(561m)には明治の頃に整備された丁石が残る。1丁から28丁の丁石を辿ると山頂近くに浅間神社が祀られる、とか。江戸の頃庶民の間で流行った浅間信仰の社である。また17丁辺りにはその昔、権威の象徴とも言える瓦で屋根を葺いた平安期の古代山岳寺院である「鐘ヶ嶽廃寺」跡がある、とも。謎の寺院ではあるが、海老名にあった相模国分寺の僧侶の山岳修験の場である大山を中心とした丹沢の山地修行の拠点として創建された、とも(『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』)。そのうち辿ってみたい山であり社である。

777m標高点;10時15分
植林地帯も切れてきた512標高点の平場を越え、次の目標777標高点に向かう。おおよそ1キロ強を250mほど登ることになる。上るにつれて展望がよくなる。進行方向左手の鐘ヶ嶽を上から見下ろし、その向こうには相模の平地や江ノ島、そして666mの辺りからは新宿副都心のビルの向こうに東京スカイタワーも目に入る。777m地点に近づくと残雪も残る。512mからおおよそ1時間で777m標高点に。




大山三峰南峰:午前11時5分_標高900m
標高777m地点から尾根道を進み大山三峰への尾根道とクロスところにある大山三峰南峰まで直線距離1キロ弱を130mほど登る。尾根道は今までの道筋と一変し、痩せ尾根、露岩が露わな尾根道となる。高所恐怖症の我が身には少々キツイ。極力切り立った尾根の左右から目を逸らし、露岩に生える木の根っこに縋りつきながら恐々なんとか南峰に。45分程度の痩せ尾根歩きであった。南峰は大日嶽とも称される八菅修験20番の行場でもある。




不動尻分岐:午前11時15分_標高845m
当初の予定では大山の北峰(八菅修験18番行場・阿弥陀嶽)、主峰(八菅修験19番行場・妙法嶽)までピストンも検討していたようだが、時間的に無理ということで、大山南峰からは大山へと続く唐沢峠への尾根筋を進む。
大山南峰から唐沢峠へと続く尾根道は先ほどメモした寺家谷戸から峰入りした八菅修験の行者道。寺家谷戸から辺室山、物見峠を経て大山三峰を越え唐沢峠に向かい、唐沢峠からは不動の坂を下り不動尻から七沢集落の大沢に下る。 10分ほどで不動尻分岐。八菅修験の22番行場である聖天嶽(不動尻)へのショートカットルートのよう。ここのベンチで小休止。



唐沢峠;午後12時15分_標高807m
尾根道を唐沢峠へと向かう。この尾根道は大山三峰南峰への痩せ尾根、露岩の尾根とは異なりそれほど怖そうな箇所は少ない。1時間ほど尾根を歩き唐沢峠に。八菅修験の行者道は不動嶽と呼ばれる21番の行場である唐沢峠(不動嶽)で、峰を離れて不動の坂を経て、不動尻から七沢集落の大沢に下り、そこから再び峰入りを行い、弁天御髪尾根の分岐点へと上ってくることになる。峠から大山三峰の三峰がくっきり見える。



弁天御髪尾根分岐;午後12時55分_標高882m
唐沢峠を越え次のポイントである弁天御髪尾根分岐まで尾根道を進む。後ろを見れば大山三峰、前方左手には雪に微かに覆われた大山(1252m)の山容が目に入る。
ところで、唐沢峠で八菅修験の道と分かれたこの尾根道は大山修験の行者道でもある。大山修験のあれこれは、いつだったか訪れた散歩のメモに預けるとして、この尾根道は、大山修験の行者が峰入りを行い、35日(大山初代住職・良弁上人のケース)の行を行い、煤ヶ谷から大山に戻る里道と山道ルートのうちの山道ルートと比定される。煤ヶ谷からを経て辺室山、物見峠、大山三峰、唐沢峠を経て大山に戻ったようである。

大山修験の行者道
相模の里を見下ろし、丹沢山塊東端の独立峰とし、その雄大な山容を示す大山(標高1251m)。別名「あふり(雨降)山」とも称される大山は、命の源である水をもたらす「神の山」として崇められ、古代より山林修行者の霊山であった。 古代の山林修行者はこの山から南に流れる三つの川、東の日向川、中央の大山川、南の春岳沢(金目川)を遡り、この霊山で修行を行った、と言う。その山林修行者の拠点が山岳寺院と発展していったのが日向川を遡った日向薬師(にかつて霊山寺の一宇)、大山川の大山寺、春岳沢(金目川)の蓑毛に残る大日堂であろう(『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』)。
これら山岳寺院の中で最大のものが大山寺。寺伝によれば、初代住職は華厳宗の創始者であり東大寺の初代別当である良弁、三代目の住職は真言宗の開祖空海、9世紀末地震で崩壊した大山寺を再興したのが、天台宗の安然(円仁の弟子で最澄の同族)といった宗教界指導者の豪華ラインナップ。
が、真言宗の東密、天台宗の台密の密教修験はわかるとして、華厳の良弁はどういった関係?チェックすると、東大寺は聖武天皇の命により全国に設けられた国分寺の元締め、といったもの。空海も東大寺の別当もしており、大山は海老名にあったと言われる国分寺の僧侶の山岳修行の拠点としての位置づけであるとの説があるようだ。
ちょっと話が離れるが、この国分寺の僧侶の山岳修行の拠点との説の中に、八菅山光勝は大山と国分寺を結ぶ山岳修験の東端の拠点として設けられたとの説明もあった。実のところ、何故に丹沢東端の地に山岳修験の拠点があるのか疑問であったのだが、この説明で少し納得。
それはともあれ、大山寺の修験者の行者道は以下の通り(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

○大山修験の道
大山寺不動堂(阿不利神社下社)、二重の瀧での修行の跡>大山山頂より峰入り>大山北尾根を進み>金色仙窟(北尾根から唐沢川上流の何処か)での行を行い>大山北尾根に一度戻った後、藤熊川の谷(札掛)に下る>そこから再び大山表尾根に上り>行者ヶ岳(1209)>木の又大日(1396m)>塔の岳>日高(1461m)>鬼ヶ岳(十羅刹塚)>蛭ヶ岳(烏瑟嶽)と進む>蛭ヶ岳からは①北の尾根筋を姫次に進むか、または②北東に下り早戸川の雷平に下り、どちらにしても雷平で合流し>早戸川を下り>①鳥屋または②宮が瀬に向かう>そこから仏果山に登り>塩川の谷で滝修行を行い(ここからは華厳山までは八菅修験の行者道と小名氏>経石(経ヶ岳)>華厳山>煤ヶ谷に下り①辺室山(644)大峰三山から大山に向かう山道か②里の道を辿り>大山に戻る(『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』より)。

丹沢山岳修験の中心であった大山であるが、江戸時代には徳川幕府の命により。山岳修験者は下山し里に下りることになる。慶長10年(1605)のことである。 修験者は小田原北条氏とむすびつき、僧兵といった性格ももっていたので、そのことに家康が危惧の念を抱いた、との説もある。この命により修験者は蓑毛の地などに住まいすることに。で、これらの修験者・僧・神職が御師となり、庶民の間に大山信仰を広め大山参拝にグループを組織した。それを「講」という。江戸時代には幕府の庇護もあり、大山講が関東一円につくられる。最盛期の宝暦年間(1751年から64年)には、年間20万人にも達した、とか。

尾根道を40分ほど歩き弁天御髪尾根の分岐に。弁天御髪尾根方面は通行を妨げるような綱が張られている。分岐点には道標があり、大山まで1.8キロとある。大山修験の行者道はこの尾根を大山に進むが、我々はこの分岐から弁天御髪尾根へと下るが、この弁天御髪尾根分岐は八菅修験の28番目の行場・明星嶽である。
先ほど通り過ぎた八菅修験の21番の行場である不動嶽こと唐沢峠から七沢の集落に下った八菅修験の行者道は大沢川を遡上し再び峰入りし、この弁天御髪尾根の行場を辿りこの弁天御髪尾根分岐(八菅修験の28番目の行場・明星嶽)に上り、そこから大山へと向かうことは既にメモした通り。

778標高点;午後1時20分
弁天御髪尾根を下る。次のポイントは標高778地点。直線距離で500mほどを100mほど下る。急な岩場をもあるためだろうか、778標高点まで1時間ほどかかった。
幾度もメモしたようにこの尾根道は、尾根を下った弁天見晴までは八菅修験の道であるが、同時に日向修験の行者道でもある。






日向修験の行者道

日向薬師は上でメモしたように、大山を水源とする三つの川の東端、日向川を遡上したところにある。古代の山林行者の拠点ではあったのだろうが、密教修行の山岳寺院として10世紀頃に開かれたようだ。寺伝には行基の開基とのことであるが、そのエビデンスは不詳(そのコンテキストで考えれば、大山の良弁開基も伝承ではある。良弁が相模の出身であり、東大寺住職>国分寺>大山での国分寺の僧の修行との連想で創作されたものかもしれない。単なる妄想。根拠なし)。
現在は日向薬師で知られるが、江戸の頃までは、日向川を遡った坊中より奥は山林修行者、山伏、禅僧、木喰僧などが混在する山岳修験の聖地であり、薬師堂(日向薬師)、社(白髭神社)を核に多くの堂社から構成された一山組織・霊山寺と称された(『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』より)。 ここでも八菅山光勝寺と同じく七社権現が祀られたが、そのラインアップは、熊野・箱根・蔵王・石尊(大山)・山王・白山・伊豆権現。八菅の八幡が石尊(大山)と入れ替わっている。入れ替わっているというか、全体の流れから言えば八菅の「八幡」が少々違和感を抱くが、それは15世紀頃衰退した八菅山光勝寺の庇護者としての源家ゆかりの武家への配慮であろうか。
このことは単なる妄想で根拠はないのだが、ひとつだけシックリしたことがある。それは、15世紀に山伏の本家・聖護院門跡である道興(この人物には散歩の折々に出合う)が大山寺や日向霊山寺を訪ねているのに、本山派聖護院門跡直末の八菅山光勝寺を素通りしているのが結構気になっていた。が、当時八菅山光勝寺が「八菅山光勝寺再興勧進帳」を出すまでに零落していたのであれば納得できた、ということである。日向薬師のあれこれは散歩のメモをご覧いだだくことにして、行者道を下にメモする。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)


 ○日向修験の行者道
日向薬師>二の宿・湯尾権現(場所不明)>大沢川の谷筋に下り>(ここから大山までは八菅修験の行者道と同じ)>弁天見晴(標高597m)へと峰入り>弁天尾根の地蔵観音の峰(「見晴広場A(674m)から「すりばち広場」の尾根筋)>山の神(場所不詳;八菅修験も札を納めたとある)>弁天尾根分岐に>大山>(奥駆の行場)>藤熊川の谷筋へ下る>丹沢問答口(門戸口)>(丹沢表尾根)>鳥ヶ尾(三の塔;1205m)>向こうの峰(鳥尾山;1136m)>塔の岳遙拝所>塔の岳(尊仏山;1491m)>行者ヶ岳(1209m)>>龍ヶ馬場(1504m)>丹沢山(弥陀ヶ原:1567m)>神前の平地(不動の峰;16143m)>峰から離れ早戸大滝での滝行>峰に戻り蛭ヶ岳(釈迦ヶ嶽;1673m)>姫次>尾根を下り青根村の里に>青野原村>宮が瀬・鳥屋村>煤ヶ谷村>七沢村>日向村(『丹沢の修験道を歩く;城川隆生(白山書房)』より)。

梅ノ木尾根分岐;午後1時33分_標高711m
778m標高点から10分程度で梅ノ木尾根分岐に。ささやかな道標がふたつ。北に「大山<大沢分岐>鐘岳」、南には「梅の木尾根」と。大沢分岐とは、八菅修験の22番行場聖天嶽こと、不動尻へと下り大沢に向かうのだろう、か。梅ノ木尾根は薬師尾根とも、日向尾根とも称される。尾根を進めば日向山(標高404m)に到り、途中弁天の森分岐から弁天岩分岐までは日向修験の行者道。弁天の森分岐からは尾根を下り「弁天の森キャンプ場」、往昔の日向修験25番の行場十一面嶽に、弁天岩分岐を南に下ると日向薬師に出る。


見晴台;午後1時47分_標高651m
梅ノ木尾根分岐から強烈な崖をトラロープに縋り10分強で見晴台に。休憩所があり、その屋根から管が休憩所のテーブルの中に続いている。S師匠の説明によれば、雨水を溜め防火水槽となっているとのこと。ここでちょっと休憩。眺望豊かな見晴台といった風ではないが、大沢川の谷筋と、これから下る弁天御髪尾根が目に入る。

すりばち広場;2時15分_午後 標高622m
見晴台で休憩し、少し下ると「すりばち広場」。八菅修験の27番の行場であり、宿でもあった空鉢嶽・尾高宿である。日向修験の行場でもある。文字通り「すり鉢」の鞍部となったこの地は、大山寺や日向霊山寺、八菅光勝寺といった山岳寺院が開かれ僧都が山岳での密教始業を行う以前からの山林修行者の行場・宿でもあった、とか。地蔵尊が祀られていたため地蔵平とも称されるようである(『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』より)。
右の谷側には鹿除けの柵。柵越しに先ほどの見張台よりしっかりと大沢川の谷筋や弁天御髪尾根と思しき尾根筋が見える。その先には相模の里も見えてきた。道標にキャンプ場とあるが、この谷筋を下り大沢川の沢にある「弁天の森キャンプ場」に続いているのだろう。南西に目を移すと大山山頂の電波塔もはっきり見て取れる。

見晴台A;午後12時43分_標高658m
すりばち広場から30分ほど尾根を進むと見晴台A。木の根元の辺りに、ほとんど消えかけた文字で書かれた木製の標識があった。左右の稜線が開けてくる。






見晴台B・鐘ヶ嶽分岐:午後2時52分_標高645m


見晴台Aから10分ほど、痩せ尾根を進むと見晴台B。やっと前面が見晴らせるロケーションとなるが、木々が邪魔し展望はそれほどよくなかった。ここから鐘ヶ嶽への分岐がある。谷太郎川の谷筋に下り、鐘ヶ岳に向かうのだろう。ここの標識は茶色の土管(鉢植えの鉢程度の大きさ)に挟まれた木にペンキで書かれている。よくはわからないが、こういった見晴らし台とかキャンプ場は神奈川県の自然公園として整備されたのだろうが、それにしては手作り感が強い。だれかアウトドア活動に燃えた担当者が推進した事業が、担当者の配置換えとともにその熱が消え去ったのだろうか。単なる妄想、根拠なし。

弁天見晴 :午後3時2分_標高597m
見晴台Bから急坂をロープ頼りに10分ほど下ると、やっと前面一杯に展望が広がる見晴らし台となる、相模の里が一望のもとである。道標に「ひょうたん広場(弁天の森キャンプ場・広沢寺)とあるが、この道が八菅や日向修験の行者道だろう。右へと沢に向かって八菅修験26番行場・千手嶽をへて谷に降り切った弁天尾森キャンプ場の辺りが八菅修験25番行場・十一面嶽。この八菅行者道は既にメモした通り、同時に日向修験の行者道でもある。
S師匠の元々の計画では、この弁天見晴から行者道の逆側、左手の尾根筋を辿って大沢集落へ下ることにあったようだが、なんとなく呟いた、上弁天、中弁天、下弁天、そして大釜弁財天って面白い地名、というフレーズに応えてくれたようで、計画を変更しここから尾根筋を上弁天、中弁天、下弁天と真っ直ぐ下り、一直線に大釜弁財天(八菅24行場・金色嶽)へと向かうことに。

中弁天:午後3時28分_標高536m
またまた強烈な下りを進み、鹿除け柵を越える脚立を乗り越え先に進む。後からわかったのだが、この脚立のところが上弁天であったよう。弁天見晴らしから30分弱で中弁天に。
上弁天とか中弁天などとのフレーズから何らか祠でもあるのかと期待したのがだが、それらしきものはない。最近になってハイキングコースの目印に付けられた地名なのだろうか、それとも、直線下にある大釜弁財天が雨乞いの祠であったとのことであるので、なんらか雨乞いの神事が行われたところなのだろか、などとあれこれ妄想だけは広がる。





下弁天:午後3時44分_標高515m
中弁天からは坂は少し緩くなる。10分強進み下弁天に。ここからの眺めは素晴らしい。奥多摩の山もいいのだが、如何せん里を見下ろす「広がり感」がない。それに比べ今回歩いた丹沢の尾根道は、相模の里を見下ろすことができ気持ちいい。標識はここも茶色の土管。土管にはP515と書いてある。





見晴広場;午後3時49分_452m
下弁天から急坂を下り終えると見晴広場。今までとは異なり立派な道標がある。標識に「キャンプ場」とあるのは弁天の森キャンプ場であろう。何度かメモしたように、弁天尾森キャンプ場の辺りが八菅修験25番行場・十一面嶽。

林道に出る:午後4時6分_午後標高346 m
鹿柵に沿って尾根を進むと、傾いてはいるが、鹿柵に門扉がある。そこから弁天の森キャンプ場へと下れるのだろう。先に進むとヒノキの植林体に。薄暗い植林体を抜けると茅の繁る一帯に。踏み跡もはっきりしないため、力任せに一直線に下り林道に。







林道から離れ大釜弁天に下る:午後4時10分_標高343 m
林道を少し進み、道がカーブするあたりで林道を離れ、柵に沿って藪漕ぎをしながら大釜大弁才天尊にこれまた一直線に下ることに。下りきったところには大沢川が流れるが、踏み石で反対側に渡れるとS師匠。結構きつい坂を大沢川まで下り、鹿柵を越える脚立を利用し大沢川筋に。適当な踏み石を見つけ、水に濡れることもなく対岸に。

大釜大弁才天尊:午後4時33分_標高250m
八菅修験の行者道でもあった大沢川沿いの道を下ると大釜大弁才天尊。八菅修験24番の行場・金色嶽(大釜弁財天)である。滝の横の大岩の中に弁財天が祀られていた。この弁天さま古くから雨乞いの滝として里人の進行を集めていたとのことである(『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』より)。 ところで、弁天様って七福神のひとりとして結構身近な神として、技芸や福の神、水の神など多彩な性格をもつ神様となっているが元々はヒンズー教のサラスヴァティに由来する水の神、それも水無川(地下水脈)の神である。
八菅修験、大山修験の行場である塩川の谷には、江ノ島の洞窟と繋がるとの伝説がある。中津川の川底には洞窟があり江ノ島の洞窟と繋がっており、江ノ島の弁天さまが地下洞窟を歩き、疲れて地表に出て塩川の滝の上流の江ノ島の淵まで歩いていった、とのことである。弁天様が元は地下水脈の神であったとすれば、それなりに筋の通った縁起ではある。
この縁起の意味するところは何だろう?チェックすると、弁天さまって、我々が身近に感じる七福神とは違った側面が見えてきた。弁天様って二つのタイプがあるようで、そのひとつは全国の国分寺の七重の塔に収められた「金光明最勝王経」に説く護国鎮護の戦神(八臂弁才天)であり、もう一つは、空海唐よりもたらした真言密教の根本経典である大日経に記され、胎蔵界曼荼羅において、琵琶を奏でる「妙音天」「美音天」=二臂弁才天。いずれにしても結構「偉い」神様のようである。
江ノ島に祀られた弁天さまは二臂弁才天。聖武天皇の命により行基が開いた、とも。聖武天皇は国分寺を全国に建立した天皇であり、その国分寺の僧元締めが東大寺。東大寺初代別当良弁は大山寺開き初代住職。大山寺三代目住職とされる空海も東大寺別当を務めたことがある。ということで、すべて「東大寺」と関係がある。
で、東大寺で想い起すのが「二月堂」のお水取り。二月堂下の閼伽井(若狭井)は若狭(福井県小浜市)と地下で結ばれ神事の後、10日をかけて地下水脈を流れ二月堂に流れ来る、と。上で大山寺の良弁は八菅山光勝寺を国分寺の僧侶の大山山岳修行の拠点としたとメモした。東大寺の二月堂の地下水脈の縁起を、この江ノ島から中津川を遡った塩川の谷に重ね合わせ、その地に修験の地としての有難味を加え、塩川の谷に大山山岳修験の東口として重みを持たせたのであろう、か。単なる妄想。根拠なし。

大沢:午後4時50分_標高250m
大釜弁天を離れ大沢集落へと向かう。日も暮れてきた。愛宕神社の辺りでは日も落ち、日向薬師散歩の時に訪れた「七沢城址(七沢リハビリテーション病院)」の案内をライトで照らして眺め広沢寺バス停に。

広沢寺温泉入口バス停;午後5時15分_標高96m
五語5時15分バス停に到着。午後5時21分発のバスに乗り、午後5時50分に本厚木駅到着し一路家路へと。出発午前7時半。バス停着午後5時15分。結構歩いた。

暑かった夏の締めくくりの沢遡上をしましょう、との沢ガールの御下命。さてどこに行こうかとあれこれ考える。越沢からはじまり、倉沢本谷、海沢とガイドし、沢登りにも少し慣れてきたし、装備もリュックサックからはじまり、沢シューズ、ヘルメット、中にはハーネスまで揃える人も登場してきた。
それではと、奥多摩の沢遡上としては代表的な水根沢かシダクラ沢のどちらか、と少々迷う。水根沢は沢に沿って林道がありエスケープというか復路が楽なのだが、水に濡れそう。一方のシダクラ沢は水には濡れることはなさそうだが、復路の林道がないので、源頭部まで詰めた後は急登を尾根に這い上がり、そこから登山道を奥多摩湖まで下らなければならないようである。で、あれこれ考えた末、シダクラ沢に決めた。水に濡れることを避けるのもさることながら、水根沢は結構人が多そうであり、我ら素人集団が通行の妨げとなることを躊躇したためである。
シダクラ沢は沢自体はそれほど難しくはなさそうではあるが、源頭部を詰めた後の尾根への這い上がりの急登が難儀なよう。その尾根への急登がどの程度のものか、途中撤退の場合の沢脇の山道がどのようなものかチェックするため、事前踏査をパートナーのTさんと実施。さすがに尾根への急登は厳しかった。また、沢脇の山道はグズグズしてはいそうだが、予想より下りやすそう。で、Tさんとも相談し、基本方針を以下の如く決める。

メンバーはTさんと私以外に4名。二人の事前踏査より時間がかかりそうであるから、午後1時時点での到着地点で前進か引き返すか決める。引き返すには数カ所の滝は懸垂下降が必要。ハーネスを準備できない人はスリングで簡易ハーネスをつくり懸垂下降をおこなうため、できれば120,80のスリングとカラビナ、ヘルメットの用意をと連絡。ヘルメットを安くあげるには、ワークマンであれば2500円程度であるよ、などとの要らぬお節介を焼きながら当日を迎える。
Tさんと私は遡上に時間がかかり、途中での引き上げを心の中で願う。なにせ、事前踏査を行ったのは1週間前。あの急登を再び、と考えると少々辛い。



本日のルート;奥多摩駅>惣岳(そうがく)バス停>奥多摩むかし道>しだくら橋>入渓>4m滝>4m滑滝>4m二条の滝>2段6mの滝>4mの滑滝>大岩>4m滝>二俣>4m滝>美しい苔の岩場>奥の二俣>小尾根への取り付き>小尾根を登る>最後の詰め>大ブナ尾根の登山道に到着>サス沢山>奥多摩湖


奥多摩駅:
午前7時に立川駅に集合。沢ガール一人が体調すぐれず参加できずパーティは5名。天候は曇り。7時15分奥多摩行の予定が7時5分発の青梅行に間に合う、ということで予定変更。結果的には青梅からの奥多摩行きは7時15分立川初に乗ることになるので同じことではあった。奥多摩着8時29分。6分程度の待ち合わせで奥多摩湖・鴨沢方面行きのバスに乗り、最寄りのバス停・惣岳(そうがく)に。

奥多摩むかし道
バス停の少し手前から川筋に下る石段。民家の間を抜け、奥多摩むかし道を先に進む。奥多摩むかし道とは奥多摩駅前から奥多摩湖までの10キロほどを結ぶ旧青梅街道筋。道の右手に鳥居が見える。惣岳の不動尊。案内によると、「明治年代、水根の奥平大乗法印と信仰心の厚い惣岳の奥平庄助によって成田不動尊を勧請した」とあった。
道の左手は深い惣岳渓谷。「太古以来の大洪水と、近くは寛保2年(1742)、明治40年(1907)の奥多摩一帯を襲った未曾有の大洪水によって、多摩川南岸しだくら谷より押し出した多数の巨岩怪石が累々として惣岳の荒と呼ばれ渓谷美をなしている」と案内にある。 数年前、奥多摩むかし道を辿ったのだが、未だメモをしていないのを思い出した。最近少し気になっている、奥多摩駅から奥多摩湖を結んだダム工事用の水根貨物線の廃線跡を辿り、折り返しを奥多摩むかし道を再び歩いていようかとも思う。

しだくら橋
奥多摩むかし道としてハイキングを楽しむ人も多いのだろう、道脇にはお手洗いも整備されている。先に進み多摩川に架かる吊り橋を渡る。吊り橋の名は「しだくら橋」。橋の手前に案内;「惣岳の荒」といわれて。多くの巨岩が渓谷美を見せている。巨岩から巨岩をつなぐように直径約20センチ程の杉丸太を4、5本を藤蔓(ふじつる)で結び架橋していた。現在は吊り橋となっている、とあった。
5人までしか同時に渡らないようにとの注意に従い、二手に分かれて橋を渡る。渓谷美が美しい。







入渓点;9時24分_標高385m
シダクラ沢の入渓点は吊り橋の南詰。橋を渡りきったところで入渓準備。沢ガールの皆さんはヘルメットやハーネスなど結構立派なものを揃えてきている。ワークマンで買ったヘルメットは我が身のみ。ハーネスの無いメンバーには120のスリングを上体に、80のスリングを八の字に足に通し、カラビナで上下を結び簡易ハーネスをつけ準備万端。南詰脇から急坂を下り入渓点に。





4m滝:9時32分_標高394m
入渓点付近は倒木が行く手を遮り、少々荒れている。最初に現れる4m滝は右の岩場を巻く。












4m滑滝;9時40分_標高428m
先に進むと4m程度の滑滝。二条になっているような滝を左手の岩場を滑らないように慎重に進む。

4m二条の滝:9時52分_標高442m
3mクラスの小さ滝を越えると滑(ナメ)となり、その先に取水口が現れる。取水口を越えると水流が二条に分かれる滝が現れる。滑りやすい滝の左手を慎重に越えると3mクラスの小滝がふたつ続く。一つ目は岩を上るが、二つ目は小さい釜の先にある滑状の滝。ともに特に苦労なく進み、倒木が沢を跨ぐ岩場あたりで小休止。時刻は10時12分。

2段6mの滝;10時29分_標高514m
その先にはシダクラ沢で最大の滝。それほど厳しい滝ではないのだが、トレーニングも兼ねて簡易ハーネスとザイルを結び、滝上の木立とザイルを固定しビレイ確保。沢ガールは自分の力で滝を上る。ヘルメットを被るだけでワンランクアップした技量に思える。


4mの滑滝;10時54分_標高525m
2段6mの先の4mクラスの滑滝)を越えると左手から涸沢が合流。途中撤退のことも考えながら沢の左右を見やりながら進む。切り立ったV字の谷とはなっていないので、撤退の下山も沢を歩かなくてもなんとかなりそうに思える。






大岩;11時17分_標高593m
涸沢の先に少しハングになった小滝を越えると右手に大岩が見える。








4m滝;11時53分
右手に大岩を眺めながら4m滝を二つ越える。沢ガールの皆さんには、ここも念のためとトレーニングを兼ねて簡易ハーネスとザイルを結び、ビレイ確保の上自力で滝を上ってもらう。










二俣;12時8分_標高735m
二つの滝を越え、次第にV字谷の様相を呈する大岩がゴーロを進むと沢が左右に分かれる「二俣」に到着。1週間前の事前踏査と同じく右の沢に入る。ここでおおよそ12時。予想以上のスピード。メンバーが一人少なくなった分スピードアップしているし、それほど難しい滝や高巻きがないためだろう。この辺りで13時頃であれば、沢の左右の山道を入渓点まで撤退の予定であったのだが、先に進むことにする。予想に反し、奥の二俣の先の急登を上ることになってしまった。致し方なし。



4m滝;12時18分_標高752m
二俣からの岩場を少し進むと結構な滝が現れる。ここも簡易ハーネスとザイルを結びビレイ確保しながら滝を登る。この滝を越えると水流が減ってくる。






美しい苔の岩場;12時29分_標高804m
4m滝の先は誠に美しい苔が覆う岩場となる。苔といえば信州から秩父に抜ける秩父往還・十文字峠越えのときの十文字峠近辺に美しい苔が想い起こされる。十文字小屋には苔調査に来ていた先生方も泊まっていた。



奥の二俣;12時35分_標高825m
奥の二股到着が午後1時半。沢を二つに分ける大岩の手前で大休止。食事を摂りながら右の沢を直登するか、先日踏査した左の沢の先の小尾根にするか少々悩むも、大変さを確認している事前踏査ルートに進むことを決める。私たちの後から来たパーティは右の沢を直登していった。



小尾根への取り付き:12時40分
奥の二股の岩場したから小尾根に向かって取りつき開始。水は無いものの、グズグズの沢を斜め上に向かってトラバース。あまりの急登に文字通り、手足を使った四足歩行で這い上がる沢ガール。グズグズに足をとられ、おまけに急登。身動きできないと這いつくばったままでフリーズ状態。先を登るTさんにザイルを渡し、木に固定し20mのザイルを下ろし、それを掴みなんとか小尾根に取り付く。




小尾根を登る:13時_標高852m
小尾根に取り付くも、グズグズはないものの、依然として急登に変わりない。時に木にザイルを結び、お助けザイルで尾根を登る。たまに緩やかな傾斜があるも、基本は急登。今までの沢登りのように、帰りは沢脇の林道、といった「なんちゃって沢上り」ではなく、沢を源頭部まで詰め、そこから尾根に這い上がり、そして尾根を下るといった、所謂オーソドックスな沢登りは沢ガールの皆さんはこれが初体験。今までと勝手が違うと泣きが入るも、何とか小尾根を進む。先に進むしか術はなし。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)





最後の詰め;13時59分_標高1091m
小尾根に這い上がりはじめてからほぼ1時間20分、尾根道を1時間ほど悪戦苦闘しながら進むと空か開けてくる。大ブナ尾根がやっと視界に入ってきた。岩場の脇から最後の詰めを終え、大ブナ尾根に転げ込む沢ガール。



大ブナ尾根の登山道に到着;14時5分_標高1127m
大ブナ尾根の登山道に到着。皆の顔も心持ち晴れやか。着替えは行わず、沢シューズをトレッキングシューズに履き替えるだけにして登山道を下る。

サス沢山;14時49分_標高940m
登山道を30分ほど下るとサス沢山。この辺りから奥多摩湖が一望のもと。事前踏査の時は天気が悪く奥多摩湖は見えなかったが、今回は美しい姿を現した。沢ガールもピースサインの余裕もでる。





奥多摩湖;15時37分_標高504m

奥多摩湖の展望を楽しんだ後は、ひたすら山道を下る。途中、お助けロープが張られている急坂を下り、尾根の登山道に這い上がった地点バスからおおよそ1時間半。奥多摩湖に到着。バスを待ち奥多摩駅に向かい、一路家路へと。
少し前のことになるのだが、春に田舎の愛媛県新居浜市に戻った時、例によって弟と四国八十八ヵ所を歩こうということになった。で、地元の山や沢を登り倒している弟が選んだのが札所61番・香園寺から「逆打ち」で札所60番・横峰寺へと比高差600mほど尾根道を登り、復路は西の谷筋を湯浪へと下り、湯浪から往路を辿った尾根筋へと続く尾根に這い上がり、札所61番・香園寺に戻ろうといったもの。国道11号の大頭から湯浪をへて60番札所・横峰寺に辿る道は「お山道」とも称され、今治市にある59番札所・国分寺から60番札所・横峰寺への「順打ち」遍路道であるわけで、今回のルートは「ダブル逆打ち歩き遍路」となった。
しかし、往路での湯浪から尾根道へとの計画は尾根への取り付き道が見つからず、結局は松山自動車道が走る里まで戻ることになってしまい、しかも、松山自動車道の脇も予想に反し途中で道が切れ、結局結構な藪漕ぎをしながら出発地点までもどることになった。
結構面白い札所巡礼ではあったのだが、今に至るまで散歩のメモをしないでいた。理由は特にないのだが、霊場散歩が実家とそれほど離れてなく、それだけのことで「有難味」が薄れていたのかとも思う。そろそろメモを残さなければと、夏に実家に戻ったおりにメモにとりかかった。



本日のルート;61番札所・香園寺>大谷池>香園寺奥の院>駐車地点>尾根道>尾根分岐>林道交差>本谷林道交差>綱付山からの尾根道と合流>平野林道との合流点>60番札所・横峯寺>西の遥拝所>古坊地蔵堂>滝>巡礼道入口>御来迎所>尾根道へのアプローチ地点>尾崎八幡神社>太子堂>高森神社>露出地層(?)>松山自動車道>藪漕ぎ>大谷池>車デポ地点

札所61番・香園寺;午前8時半_標高46m
実家のある新居浜から国道11号を西に進み、JR伊予小松駅の先で今治方面へと向かう国道196号を別けたすぐ先の西条市小松町南川交差点を左に折れると栴檀山香園寺。境内には本堂と大師堂を兼ねた近代的大聖堂が構えるが、このお寺さまは聖徳太子の開基という四国霊場屈指の古刹である。
縁起によると、用明天皇の病気平癒を祈願し、その皇子である聖徳太子が建立したと伝わる。この時、太子の前に金衣白髪の老翁が平石、本尊の大日如来を安置した、とも。真偽のほどは、それはそれとして、道後温泉への太子湯行など瀬戸内海の両岸に太子足跡の事例が多い。どこかの本で瀬戸内の両岸随処に領地と持っていたとの記事を読んだ覚えがある。兵庫には太子町といった地名も残る。尾道にも太子開基と伝わる寺がある。尾道といえば瀬戸内の海運の要衝地。各地の領地をもとに海運の支配をもしていたのだろう、か。単なる妄想。根拠無し。
香園寺には天平年間(668?749)には行基菩薩、大同年間(806?10)には弘法大師が順錫。弘法大師にまつわる縁起には、弘法大師が寺の麓で難産に苦しむひとりの女性を見かけ、祈祷をすると男の子を安産。大師は、唐から持ち帰った大日如来を本尊の胸の中に納め、栴檀の香を焚いて護摩修法をおこない、「安産、子育て、身代わり、女人成仏」の4誓願と祈祷の秘法を寺に伝え霊場に定められた、と。
以来、安産、子育ての信仰を得て栄え、七堂伽藍と六坊を整えたが、長曽我部元親の「天正の兵火」ですべて焼失し、寺運は衰退の一途を辿る。何カ月か前、阿波の忌部氏ゆかりの神社を尋ねたことがあるが、そこでも四国統一を図る長曽我部勢に焼き落とされた寺社の多いことを知ったが、田舎の新居浜など愛媛に長曽我部勢により焼失した寺社は多い。
「天正の兵火」で焼失し、衰退の一途を辿った 寺運が復興したのは明治になってから。明治36年(1903)住職となった山岡瑞園師は大正のはじめ「子安講」を創始し、四誓願をスローガンに、日本国内はもとより、朝鮮、台湾、満州、関東州、青島、そしてアメリカまで行脚し昭和23年(1948)に亡くなるまでに20万名の講員を成した、とも言う。こうした山岡瑞園師の献身により、荒廃した寺は現在「子安の大師さん」として親しまれている。
このためもあってか、本尊は大日如来ではあるが、信仰は脇仏の子安大師に集まっているようである。実際、私もこどもを連れて帰省の折り、両親からまず一番に連れてこられたのがこの「子安のお大師さん」であった。

大谷池;午前8時45分_標高52m
香園寺を離れ車で進むと大きな池。大谷池と呼ばれる。案内よると;明治30年(1897)以降、農業立国推進の中、この小松大谷池築造計画が持ち上がった。しかし堤防決壊による洪水を怖れる周囲農民の理解を得るのは難しく反対運動が起き、結局地域農民の理解を得て小松町耕地整理組合が成立したのは大正3年(1914)のことである。
増築工事は人力による土木工事で、堤防の搗き固めには亀の子を使用。亀の子に8人から10人(婦人労力)が必要で、毎日20個の亀の子を使用し、毎日200名もの人が働き、事業開始から3年の歳月をかけて大正6年(1017)に完成した、とあった。

香園寺奥の院;午前8時53分_標高86m
大谷池からおおよそ1キロ進むと香園寺奥の院。昭和8年(1933)、香園寺住職・山岡瑞円和尚が創建。本尊は不動明王で、両脇に「金伽羅(コンガラ)」「制多迦(セイタカ)」二童子を従えた銅像を5mほどの滝の上の岩に造設し、滝に打たれる修行の場になっている。滝は白滝と呼ばれ、御不動様は白滝不動とも称される。

駐車地点;午前8時55分_標高115m
奥の院から車を進め、横峰寺への道標がある辺りに停車。これから横峰寺へと直線距離7キロ、比高差600mほどの山道を上ることになる。道標には「下城方面」との案内もある。
○下城
下城ってなんだろう、と好奇心にかられてチェックすると、築城年代は定かではないが南北朝の時代に岡氏によって築かれた「幻城」と呼ばれる山城の砦のひとつのよう。砦は下城と上城からなり南北に尾根続き2キロに渡る山城である。上城は綱付山の西方1キロ程、標高488.3mの山頂に築かれ、下城は直線距離で1.1キロ、比高差250m下の所に築かれている。
この砦は河野一族の支配下にあり、南北朝の頃、一族の信家が岡の庄を領し岡氏を称するようになる。その後信家の七代の孫である通昌が田滝村に住み幻城代となった。
因みに、岡の庄がどこにあるのか承知しないが、越智郡の生名島に「岡庄」と呼ばれる集落がある。この島は河野水軍の支配下にあった島であるので、この辺りだろう、か。田滝村は丹原町(現在は西条市に合併)の田滝地区だろう。道前平野の南西、高輪山の裾にある。

興国3年(1342)後村上天皇は新田義貞の弟脇屋義助を伊予に派遣したが、義助は伊予国府にて病死した。この機に乗じて北朝方の四国総大将細川頼春は伊予へ侵攻し、川之江城などを落として新居郡(新居浜市も昔は新居郡)に侵攻、大保木天河寺に陣を構えて幻城に攻め寄せた。このとき、上城には大将岡若丸、下城には岡弾正が詰めていた。
下城の城主岡弾正は城兵600余騎を率い討って出て合戦となり、敵将の香西出雲守と戦って相討ちとなって討死した。上城の大将の岡若丸は細川方の二陣の将矢野肥前守と切り結んで討ち取ったが、城に入って自刃して果てた。このとき玉砕した将兵600余人の霊を祀る五輪の塚が下城ふもとにあり、千人塚と呼ばれている、と。
天文年間(1532年~1555年)になると剣山城(大谷池の南西)城主黒川肥前守元春が幻の古砦を改修して出城としていたが、天正13年(1585年)、豊臣秀吉による四国征伐の後に廃城となった。

○大保木天河寺
興味を抱きちょっと深堀りすると自分の知らなかった地元の歴史が現れてくる。上にメモした下城などもそうであるが、その中に「大保木天河寺に陣を構え」と簡単にメモしこの天河寺も興味深い。現在西条市から鴨川に沿って石鎚山ロープウエイに行く途中、大保木地区に極楽寺というお寺様がある。室町期末に焼失したという天河寺の法灯を伝えるお寺さまである。
天河寺があった場所などをチェックしていると、弟のホームページに天河寺のメモがあった。そのメモや極楽寺のHPを参考にまとめると、「修験道の祖である役の行者神変大菩薩が、伊予國石鎚山に白鳳八年(675年)入山し、龍王山に籠もられ、密言浄土の実現を祈りつつ、厳しい修行を続けられたと云う。金色燦然(さんぜん)と輝く御来迎を拝され「阿弥陀院三尊」を感得、その姿を永遠に留めるべく、龍王山に堂宇を建て、日々一礼三刀をもって霊木を彫り刻み阿弥陀三尊(本尊の阿弥陀如来、両脇立の観世音菩薩、勢至菩薩)と、三体の権現さま(本尊の阿弥陀如来を石鎚蔵王大権現、両脇立を「龍王吼蔵王大権現」「無畏宝吼蔵王大権現」)を祀った。これが天河寺であり、役の行者の修行の聖地であった。
この、石鎚山の根本道場であった天河寺が、室町時代末期には焼失するに至ったのであるが、その時、蔵王権現御分霊を瓶ヶ森に祀り、天河寺より山を拝し、且つ、修業のため登るようになるも、天長5年(828)、今の石鎚山頂に遷座して今日に至る。そして天河寺が焼失の折、「阿弥陀院三尊」を奉持し、龍王山を下り、大保木の地に天河寺を仰ぎ見られる場所を探し建立したのが極楽寺である」、と。
どうも、石鎚山や瓶が森が開山される前は、龍王山が修験道場であったようだ。また瓶ヶ森が石鎚権現の霊山の時代には、天河寺が常住としての役割を果たしていたものと思われる。石鎚信仰と言えば前神寺、横峰寺と思っていたのだが、それは天河寺が焼失し、石鎚山に蔵王権現が祀られるようになって以降のことのようである。なお、龍王山や天河寺の場所は弟のホームページに掲載されている。それにしても、自分の足元のことを知らないなあ、と少々反省。



尾根道;午前9時21分_標高305m
駐車したところから沢に沿って山道に入る。標高200mまでは沢筋を進み、その先は尾根に向かって直線距離で500mほどを100m上ることになる。道脇には横峰寺までの距離を示すものであろう「丁石」があり「丁」数が刻まれているのだろうが、よく読めない。道を登り切ったところに「道標」があり、「下城方面 横峰方面」の案内があった。

尾根分岐;午前9時41分_標高403m
右手が開けた尾根道を進む。尾根道にはふたつほど「丁石」があったが、丁数は読めなかった。尾根道を20分、100mほど高度を上げたところに休憩所があるが、そこには東からの尾根が合流する。予定では、帰路は湯浪の辺りから続くこの尾根道に這い上がり、この分岐点に出るつもりではある。



林道交差;午前9時50分_標高405m
尾根の合流点を南へと横峰寺への尾根道を進むと、10分ほどで山を切り開いた林道が現れる。地形図でチェックすると、現在辿っている香園寺から南に続く尾根筋と東にある綱付山を隔てる小松川(?)の谷筋を通る本谷林道(?)から分かれた支沢に沿って東に向かい、この地で尾根をクロスして湯浪方面に進む林道だろう、か。地形図を見ると、このクロスポイントが小松川の谷筋と西の妙之谷の谷筋を隔てる最も「薄い」尾根となっている。



本谷林道交差;午前10時17分_標高464
尾根道を20分ほど進むと林道がクロスする。はっきりした名前はわからないのだが、小松川の谷を登ってきた本谷林道ではないだろうか。クロスポイントの右に下る道脇に「三穂」と神社らしきマークが杉の木にペンキで書かれていた。何のマークだろう。






綱付山からの尾根道と合流;午前10時26分_標高457m
綱付山からの尾根道と合流点あたりに「香園寺道 奥之院ヲ経テ一里十六丁 香園寺へ一里二十丁」と刻まれた石標がある。その先にも「舟形地蔵丁石」が見える。

平野林道との合流点;午前11時15分_標高656m
綱付山から2キロほどの尾根道を進む。道脇に舟形地蔵丁石がいくつか目につくが、唯一読めたのは「21丁」と刻まれた舟形地蔵丁石ではあった。これらの舟形地蔵丁石「は「新屋敷村地蔵講中」の刻字があり、ふもとの旧新屋敷村(小松町新屋敷)の人々が建てたものとのことである。
雑木林を進み、最後に20段ほどの階段を登ると、西条市大保木平野から伸びてきた平野林道と合流する。

60番札所・横峰寺;午前11時43分_標高740m
舗装された林道を進み横峰寺に。神社風の権現造りの本堂と、境内にある大師堂にお参り。本堂から大師堂の横の山一面に「石楠花(しゃくなげ)」が植えられている。
境内にあった案内によると;たて横に峰や山辺に寺たてて あまねく人を救うものかな」と、御詠歌に詠われるこの寺は、標高750m、八十八か所のうち第三番目の高さにあり、四国遍路における三番目の「関所」。
修験道の開祖、役小角の開基といわれ、弘法大師が石楠木に刻んだ大日如来が本尊として安置されている。ここから600mほど登ったところに、弘法大師が厄除けの星供養をしたと言われる「星が森」があり、石鎚山の西の遥拝所となっている。
関所;悪いことをした人、邪心をもっている人は、お大師さんのおとがめを受けて、これから先には進めないと言われている。 四つの関所;19番札所・橋池山立江寺、27番札所・竹林山神峰寺、60番札所・石鉄山横峰寺、66番札所・雲辺寺山雲辺寺」、とあった。

http://yoyochichi.sakura.ne.jp/yochiyochi/2010/01/post-123.html 役小角 

西の遥拝所;午前11時59分_標高815m
本堂を離れ西の遥拝所に。天気がよければ鉄の鳥居より石鎚山を一望とのことであるが、当日は天気が悪く残念ながら石鎚山を拝むことは叶わなかった。 石で囲われた祠にお参りし、脇の石碑を読むと、「白雉2年(651)役小角この地より石鎚山を遥拝し蔵王権現を感得せらる。弘法大師四国巡錫の砌り四十二歳厄除けのため星祭を修し給う因ってこの地を星森と名づく。寛保2年建立の鉄の鳥居があるので「かねの鳥居」と云う」、とあった。



この石碑の縁起によれば、役小角がこの地より石鎚山を遥拝し蔵王権現を感得せらる、とされる。ところが、先にメモした大保木天河寺の縁起によれば、役小角は龍王山に籠もり、石鎚山を遥拝し厳しい修行を続け石鎚蔵王大権現を祀る堂宇として天河寺を建てた、とあった。天河寺が役の行者の修行の聖地であり、蔵王権現の分霊も瓶が森に祀られ、前神寺やこの横峰寺が石鎚信仰の中心となっていったのは天河寺が焼失した室町末期、石鎚山に蔵王権現が祀られるようになって以降のこと、とも言う。
横峰寺の縁起にはその他にも、行基菩薩も巡錫し大日如来を刻み、その胸に役小角作の蔵王権現を納めた、と言ったものもある。縁起は所詮縁起と思い込むことだろう、か。
因みに、横峰寺は、廃仏毀釈の嵐に巻き込まれ。明治4年(1871)に石鎚神社西遥拝所横峰社となって廃寺となった。60番札所は、小松町新宮にある清楽寺に移されたが、明治10年(1877)に横峰寺の再建願いが出され、翌年愛媛県令から再興を認められ、明治13年(1880)に「大峰寺」という名称で復活。その後明治18年(1885)にはの清楽寺との和解によって清楽寺は前札所となり、再び60番札所に戻り、明治41年(1908)、ようやく横峰寺の旧称に復帰することになった。この間、遍路は59番国分寺より清楽寺を経て香園寺へと巡拝していたのだろう。

○石鎚への参道
西の遥拝所から南に「モエ坂」が加茂川に向かって下る。加茂川が左右の谷から合流する河口地区に三碧橋が架かるが、その昔石鎚山への参道は横峰寺からこの河口(こうぐち)地区に下り山麓の成就社に上っていった。ルートはふたつ。ひとつは今宮王子道、もうひとつは黒川道。今宮王子道は河口から尾根へと進む。尾根道の途中に今宮といった地名が残る。昔の集落の名残だろう。
一方黒川道は行者堂などが地図に残る黒川谷を辿り、尾根へと上っていくようだ。どちらも成就社まで6キロ前後、3時間程度の行程、といったところ。今宮王子道にはその名の通り王子社が佇む。石鎚頂上まで三十六の王子社の祠がある、とのこと。数年前、熊野古道を歩いたことがある。そこには九十九王子があった。『熊野古道(小野靖憲;岩波新書)』によれば、熊野参拝道の王子とは、熊野権現の分身として出現する御子神。その御子神・王子は神仏の宿るところにはどこでも出現し参詣者を見守った。
王子の起源は中世に存在した大峰修験道の100以上の「宿(しゅく)」、と言われる。奇岩・ 奇窟・巨木・山頂・滝など神仏の宿る「宿」をヒントに、先達をつとめる園城寺・聖護院系山伏によって 参詣道に持ち込まれたものが「王子社」、と。石鎚の王子社の由来もまた、同様のものであったのだろう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

古坊地蔵堂;午後12時29分_標高632m
西の遥拝所から仁王門に戻り、遍路道を湯浪へと下る。「湯浪 3.3km」とあるから仁王門のある辺りの標高735mから湯浪の標高185m地点へと、3.3キロを550m ほどを一気に下ることになる。今回は逆打ちであるので下りではあるが、今治市にある59番国分寺から順に札所を打てば、大頭から湯浪を経ての上りとなるわけで、四国札所の難所のひとつと称されるのも納得できる。





遍路道を下ると道端に舟形地蔵丁石が佇む。愛媛県学習センターの資料によると、「湯浪地区では昔から、横峰寺への登り道の舟形地蔵丁石のほとんどは、「寿し駒」によって建てられたと語り伝えられてきたという。「寿し駒」本名日野駒吉(1873~1951) は、「西條人物列伝」(『西條史談』)によると、周桑郡玉之江(東予市)に生まれ、西條吉原(西条市吉原東)ですし屋を営むかたわら大師信仰に生涯をかけたことで知られる人物である。先達として本四国50回・小豆島島四国100回・石鎚登山100回という行者信仰の旅を重ねるとともに、大師蓮華講(れんげこう)を組織したといわれる。西条市の六十四番前神寺境内には、大正5年(1916)、日野駒吉が蓮華講員に呼びかけ、寺に寄進した弘法大師修行の石像が立っている。その右には、大正15年(1926)に建立された五輪塔の日野駒吉頌徳碑(しょうとくひ)が立っている」、とある。
仁王門から20分弱。杉並木の中を下り、小さな沢を越えると古いお堂がある。「南無観世音菩薩」の赤い幟が建つ道内には特に何も祀られてはいないようだが、本尊は横峰寺の大師堂に祀られる、とか。堂の周囲には六地蔵や石仏が佇む。

滝;午後12時 51分_標高412m
雑木が倒れ荒れた沢に沿って下る。下るほどに大岩が沢に転がる。地蔵堂から1キロほどを200mほど下ると小滝が現れる。3mほどの高さがありそうだ。

巡礼道入口;午後13時17分_標高276m
滝から1キロ程、「湯浪1.0km 横峰寺1,9km」といった道標をみやりながら歩き遍路の山道を下ると舗装された県道147号(県道石鎚丹原線)に出る。ここが今治市にある59番札所・国分寺から西条市小松町大頭、湯浪を経て横峰寺に上る歩き遍路の上り口である。




○四国のみち
ここまで61番札所・香園寺から60番札所・横峰寺をへて12キロほどの歩き遍路道を辿ったが、現在このルートの随処に「四国のみち」との標識があった。WIKIPEDIAによれば「四国のみち」とは、四国全域にある歴史・文化指向の国土交通省ルート(1300㎞)と、長距離自然歩道構想に基づく自然指向の環境省ルート「四国自然歩道」(約1600km)からなる遊歩道。起点は徳島市鳴門町、終点は徳島県板野郡板野町となっている。全部で11の区間から成り、この香園寺・横峰寺ルートは10番の「瀬戸の海、燧灘を感じながら、点在する霊場をめぐる東予から中讃へのみち(愛媛県今治市と西条市(旧東予市)の境から、香川県善通寺市までの約160km)」のハイライトのひとつ。あとひとつのハイライトは香川県と徳島県にまたがる札所66番・雲辺寺への山道である。


御来迎所;午後13時31分_標高189m

県道147号(県道石鎚丹原線)を妙之谷に沿って下る。前方には東西に伸びる尾根が見えるが、首尾よくいけばその尾根道を辿り香園寺からの山道にあった分岐点に進めることになるのだが、などとあれこれ考えながら20分ほど歩くと道脇のコンクリートの擁壁に「御来迎所 文化十四年」と刻まれた石碑、「横峰寺御来光出現」と刻まれた石碑、そして祠の中に地蔵様が祀られている。
祠のお地蔵さまは「三十丁の地蔵丁石(大師坐像とも)」、「横峰寺御来光出現」には「弘法大師曰く神仏は死んでも無きものではない 生きて此世で救けるものなり 教えに従うところには自由自在に現われて救けるものなり 昭和48年9月12日 出現の時刻10時30分より40分まで」と刻まれ、その横には高知市の58才の女性と56才の男性の名前と住所、そして「同行2人拝す」と刻まれていた。妙ノ谷川の滝(現在は堰堤になっている、と)辺りで、日の光を受けたお大師さまの姿が見えた、と伝わる。

尾根道へのアプローチ地点;午後13時48分_標高204m
御来迎所から湯浪(ゆうなみ)の集落に。ここから東西に延びる尾根に這い上がり、香園寺からの巡礼道の途中にあった尾根の分岐点に進もうとの計画。妙之谷川の支流を越え、山麓の農家の辺りから尾根への道を探すが、それらしき踏み分け道が見つからない。藪漕ぎ専門の弟はミカン畑を這い上がり、道を探すが見つからない。弟ひとりであれば藪漕ぎをして尾根に這い上がったのだろうが、腰が引けている私を見て尾根への藪漕ぎを断念したようである。 後から地図を見て確認すると、この尾根は単純に東西に伸びているわけではなく、途中に山塊に切れ込む沢があり、一旦北に進み、しばらくして東西に延びる尾根に乗り換えるようであった。
予定にしていた尾根道ルートを諦め、遠回りではあるが、妙之谷川に沿って高速道路の松山自動道辺りまで下り、そこから松山自動車道に沿って車のデポ地点である大谷池へと進むことにする。

尾崎八幡神社;午後13時58分_標高172m
県道に戻り妙之川の本流と支流が合流する辺りに尾崎八幡。参道鳥居の先に古き趣の拝殿、本殿。「おざき」の由来は「突き出した台地の先端=小さな崎」を指すことが多い。妙之川の本流が支流と合流する突起部分にある故の命名だろうか。それとも、杉並区の尾崎地区の地名に由来によれば、源頼義が奥州征伐の折、白旗のような瑞雲が現れ大宮神宮を勧請することになったが、その頭を白旗地区、尾の部分を尾崎とした、と言う。この地の尾崎も同様に「頭」に相当する地区があるのだろうか。単なる妄想。根拠なし。

太子堂;午後14時32分_標高84m
尾崎八幡神社から3キロ弱進むと道脇に大師像と祠。太子堂と称される。地名は「馬返」とある。馬返の由来は不詳だが、日本全国にある馬返の由来は、険路で馬を下りたところ、女人禁制・牛馬禁制の地の境の地名といったものが多い。この地の馬返由来を考えて見るに、昔の遍路道は現在の県道と異なり、大郷(おおご)地区で左に大きくカーブする辺りで分岐し、県道の50mほど上の杉林の中を進んでいたようである。険路であったのだろう。

高森神社;午後14時45分_標高51m
大師堂から1キロほど「山ノ神」地区などと言う興味深い地名がある。農村では春になると「山ノ神」が山から降りて「田ノ神」となり、秋には再び山に戻るという信仰がある。地名の「山ノ神」とは、稲の生育を守っていた「田ノ神」が収穫を終え帰ってゆく場を示すことも多い。この地の田ノ神の由来は如何なるものであろう。因みに山ノ神は一般的に女神であるとされ、これが妻のことを「山ノ神」と称する所以ではあろう。
田ノ神地区を進むと道脇に、誠にささやかな社がある。パイプもどきの鳥居と小祠。小祠の前には車のホイールが無造作におかれていた。その脇には愛媛出身の政治家・村上誠一郎氏(大蔵政務次官当時)寄贈らしき石碑が建つ。幸福の栞といった内容のもので高森神社の縁起とは関係ないものであった。
縁起などは全くわからないが、相模にある高森神社は加茂族の祖である高彦根命を祀っているわけで、西条市には加茂族の本拠地がその名も加茂川の東にあり、加茂神社も鎮座する。この高森神社も加茂族に関わる祠であるのだろうか。因みに、三河の松平家は賀茂神社の社家である加茂氏の末裔という説があり、徳川の三つ葉葵は加茂氏の二葉葵が源との説もあるようだ、

露出地層?;午後15 時5分_標高35m
妙之川に沿って下る。川の所々で目にするこの川の川床、護岸工事をしないで自然のままに残している崖面の岩の形状に惹かれる。鋸状の川床の岩盤、柱条になった崖面の岩肌などである。西条市は中央構造線が地区西武を縦貫しており、中央構造線に沿った地域では丹原の中山川の衝上断層のように、古代期からの地質が露出されているところがあると言うが、護岸工事を逃れ露出されたままの地質は、なにか意図的に残された断層のサンプルなのだろうか。地質学的に門外漢の私には詳細はわからないのが少し残念である。


松山自動車道;午後15時7分_標高35m
露出地層(?)のすぐ先に松山自動車道(高速道路)が走る。ここからはショートカットをと、松山自動車道に沿って大谷池まで進むことにした。真っ直ぐ進み、国道11号大頭(おおと)交差点へと進めば妙雲寺とか石土神社といった寺社が四国札所ゆかりの寺社があったのだが後の祭り。別の機会のお楽しみとする。
○お山道 大頭から湯浪、横峰寺を経由して石鎚山に登る道は「お山道」として親しまれた。大大頭とその東の妙口(ようぐち)地区は藩政時代より讃岐街道の宿場町としえ賑わったようである。
その石鎚への西の登山口であるお山道に沿ってあるこの地には石土神社と妙雲寺があり、神仏混淆で蔵王権現を祀ってきた。妙雲寺は札所60番横峰寺の前札所・石鎚登山者の礼拝所として賑わった。

藪漕ぎ;午後15時37分_標高99m
松山自動車道に沿った脇道を東に進む。松山自動車道が瀬戸内海を跨ぐ「しまなみ海道」へと進む「今治小松自動車道」と分岐する「いよ小松ジャンクション」辺りで東に向かう道がなくなる。
ジャンクション手前で自動車道を跨ぎ国道11号まで続く道はあるのだが、それでは結構大回りとなるので、自動車道に沿って道なき道を藪漕ぎして進むことに。畑地の辺りでアプローチ地点を探し、成り行きで藪を進み、自動車道脇まで引っ張られながら藪漕ぎすること約30分、午後16時7分に大谷池脇の道に下りることができた。

車デポ地点;午後16時41分_標高115m
車のデポ地点に向けて道を進むと道脇に「道前道後農業水利事業」の案内;雨量の少ない道前道後平野に農業用水を安定的に確保するため、昭和に入り恒久的な用水対策が実施され、昭和32年(1957)から10年かけて面河ダムや道前道後の両平野に水を送る施設を農林省が建設。現在では、古くなった施設の改修と、新たな水需要に対応するため、東温市に佐古ダム、西条市丹原町に志河(しこ)川ダムを造りより安定した農業がおこなえるようになっている。 虹の用水;面河ダムから道前道後平野に届けられる水はいくつもの山並みを越えてやってくる水の連なりが、まるで虹のようであるので、「虹の用水」と呼ばれている。面河渓谷の水をひくにあたっては高知県の協力がなければ完成できなかったため、「感謝の用水」とも。
大谷池;大谷池の1キロ上流に面河ダムより送水している農業用水が地下のパイプをとおして導かれる(通称;右岸幹線用水路)またすぐ傍らに分水工と呼ばれる建物(通称;道前右岸10号分水工)があり、ここのバルブを開き、すぐ下流にある水路を通り大谷池に農業用水を送る、とあった。

地図を見ると、面河ダムに貯留された水は、四国山地の山塊を隧道(トンネル)で抜き、中山川の逆調整池まで流下。逆調整池で道前平野側と道後平野側に分水され、道前平野側では逆調整池で中山川に放水され、流下した水を中山川取水堰から取り入れた後、両岸分水工で道前右岸幹線水路と、道前左岸幹線水路に分水。道前左岸分水は南下するが、道前右岸幹線水路はこの大谷池を経て加茂川辺りまで続いている。
また、中山川水系志河川に建設された志河川ダム(平成16年度に本体工事に着手し、平成22年度に完成)に貯留された水は、中山川を横断する水管橋を通り、上述した両岸分水口に放出され、右岸幹線水路と、左岸幹線水路に分水している、ようである。

大谷池の西岸を進み、車で乗り入れた東岸の道と合流、香園寺の奥の院へ。車のデポ地点まで車を取りに行ってくれる弟を奥の院で待ち、全行程;24キロ。8時間の歩き遍路を終える。 

2012年9月22日、会社の仲間と倉沢の沢上りを計画した。いつだったか、倉沢谷に沿った林道を進み、魚留橋から棒杭尾根を這い上がり三ツドッケへと山行を楽しんだことがある。そのとき、倉沢谷脇の林道を歩きながら、そのうちにこの美しい沢を遡上してみたいと思っていた。
今年の夏、7月に会社の仲間と古里・寸庭橋辺りの多摩川合流点から越沢バットレスキャンプ場(現在は休業中)まで越沢の沢遡上を楽しんだ。その時、沢ガール、沢ボーイデビューをした会社の仲間が、思いのほか沢登りにフックがかかり、再びの沢登り企画と相成った。そしてその沢候補としたのが件(くだん)の倉沢である。今回のパーティは越沢で沢ガールデビューしたうら若き女性2人と沢上りの経験豊かな中年(?)男性、そして、なんちゃって沢ボーイである還暦をはるかに過ぎた私の4人パーティ。
当日はあいにくの曇り。前日の雨の影響もあり、それまで続いた猛暑と言うか、残暑とは打って変わった涼しい朝。男性陣ふたりは、水の冷たさに恐れを成し、はやくも及び腰。沢登りを止めて、高尾山から日の出山を経てつるつる温泉でのんびりと、とか、鳩ノ巣から海沢渓谷で滝を見ようか、などとそれらしき代替案を出すも、沢ガールの無言ではあるが、強烈なる「沢へ」との目力に負け、結局は倉沢谷に。もっとも、ロープやハーネス、そして沢シューズ、着替えといった沢登りグッズで一杯のリュックを背負っての山行も大変だ、というのは男性陣二人の共通した思い、でもあった。

本日のルート;奥多摩駅>倉沢停留所>入渓>八幡沢合流>鳴瀬沢合流>釜をもった美しい3mの滝で終了>倉沢停留所>

奥多摩駅

倉沢橋奥多摩駅から東日原行きのバスに乗り、倉沢で降車。そこは倉沢谷が日原川に合わさるところ。谷は深く切れ込み、谷に架かる倉沢橋は橋下の高さが61m。東京都内にある1200強の橋のうちで一番高い橋、と言う。

倉沢谷に下りる
倉沢谷に沿った林道に入る。少し進むと駐車スペースがあり2台車が止まっていた。先に進み、林道脇にある標識の少し先辺りで倉沢へと下るルートを探す。切り通しの先、ガードレールが切れている辺りに、沢へと下れそうなルートがある。林道から沢までの比高差は50mほどあるだろうか、かすかに下に倉沢の流れが見えている。

ガードレール直下は足元が危うそう。念のため、ガードレールにスリングを架けて、慎重に林道から急斜面に降りる。急斜面でもあり、杉にロープをかけて安全に、とも思ったのだが、なんとか倉沢谷まで下りることができた。






入渓
入渓準備。沢ガールには念のため、スリングをふたつ合わせカラビナで固定した簡易ハーネスをつくり装着。10時少し前に入渓する。
2段5mの滝は高巻き
入渓点は広々としていたが、その先に深そうな釜があり2m滝左岸を高巻き。その先は沢に入るも、すぐにすぐさま2段5mほどの滝となり、再び左岸を小滝もまとめて高巻き。足元が危ういこともあり、安全のため一応ロープを張ってクリア。降りたところは小さな沢が合流し沢が急角度で曲がっていた。

「ゴーロ」を進む
その先にある釜はスリングでサポートしながら右岸をへつり、やや大きめの岩がゴロゴロする「ゴーロ」を水に打たれながら進む。枝沢が注ぐ先にある2m滝は釜があり右から巻く。







大岩の間の滝を上る
先に進むと大岩の間に滝がある箇所があり、水を浴びながら岩を右から巻く。前日の雨故か、急流に耐えられず、足元を掬われ転びつ・まろびつの沢ガールではある。




S字状の岩場を抜けると釜と3m滝
左岸から注ぐふたつの枝沢を越えた先のS字状の岩場にはふたつの小滝と釜。ここは沢筋を直進する。S字状の岩場を抜けると先に釜と3m滝があり、少々厳しそう。時刻も知らずお昼となっており、休憩を兼ねて昼食をとる。いつもの散歩ではメモが結構長くなるのだが、沢のメモは、至極短い割りには時間は結構たっている。2時間近くかかっただろう、か。






 

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)


鳴瀬橋
休憩を終え、3mの滝は左岸の岩場は安全のためロープを使い、岩を這い上がる。岩場をクリアすると八幡沢が右岸から入るが、その先には2mの滝。右から巻いて進むと前方に大きな橋がみえてきた。鳴瀬沢にかかる鳴瀬橋である。

巨岩
鳴瀬橋の先で倉沢は右に曲がる。曲がるとすぐに釜があり、右岸をへつり、岩によじ登る。岩の降り場の足場は悪く、残置スリングと簡易ハーネスをカラビナで結び、慎重に降りる。降りると今度は2m滝。左岸の岩場をロープでサポートしながら這い上がる。這い上がった先には巨大な岩が現れる。





釜をもった美しい3mの滝
大岩の先の滑滝を、水を浴びながら進む。その先は左岸の岩場を、ロープを使って這い上がる。と、その前には釜をもった美しい3mの滝が現れる。釜は結構深そうである。


ここで時刻は2時前。倉沢バス停発2時50分頃のバスの便を逃すと、4時過ぎまで便はない。本日の沢遡上はここでお終いとする。沢用の上下で完全武装の中年の沢ボーイは名残にと釜を泳ぎ、滝に取り付き、残置スリングを支えに滝上に這い上がり、滝を滑り落ちて本日の締めとした。私は、眺めるだけで十分。

林道に上る
急斜面を林道に這い上がり、人目を少々気にしながら着替えを済ませ、30分弱歩き倉沢バス停でバスに乗り、一路、家路へと。




倉沢谷に沿って林道が通るので安心
倉沢遡上は、誠に楽しかった。倉沢谷は日原川に注ぐ一支流であり、合流点は深い谷を形成している。倉沢谷に沿って林道が通っており、いざという時にエスケープできるのは心強いし、通常の沢遡上では源流まで進むと、後は尾根を這い上がり、別の尾根を下ることになるが、倉沢谷は、帰路は林道を戻ればいいわけで、誠に気が楽である。




入渓地点は深い谷に下って進むが、上流に進むにつれて林道との比高差が減る
倉沢橋近くの入渓地点は深い谷に下って進む事になるが、上流に進むにつれて、倉沢谷と平行して通る林道との差がなくなってくる。今回は時間切れで辿れなかったが、魚留橋のあたりでは、倉沢谷と林道との比高差はほとんどなくなる。このことも初心者中心の我々沢登りパーティには心強い。

多くの小滝と釜で初心者でも十分楽しめた
沢自体も、それほど大きな滝はなく、多くの小滝と釜が現れ、また滝を直登しなくても左右の岩場を巻いて勧めるので、初心者でも楽しく沢上りが楽しめた。






次回は魚留橋を越え、その先の長尾谷とか塩地谷まで遡上したい
今回は当初目標としていた倉沢鍾乳洞の先にある魚留橋まで辿ることはできなかった。来夏は今回の到達点からはじめ、魚留橋を越え、その先の長尾谷とか塩地谷まで遡上してみようと思う。





友人から本仁田山からゴンザス尾根へと抜けませんか、とのお誘い。本仁田山はともあれ、ゴンザス尾根は一度歩いてみたいと思っていたので、一も二もなく"諾"、と。
ゴンザス尾根を辿ってみたいと思ったきっかけは、「数馬の切り通し」で出合った「根岩越え」、から。いつだったか、鳩ノ巣渓谷を辿ったときJR白丸駅近くの「数馬の切り通し」に立ち寄ったのだが、江戸の頃、多摩川にせり出す岩場を穿つ、この数馬の切り通しが開削されるまで、棚沢村鳩ノ巣から奥多摩の氷川に進むには、鳩ノ巣からゴンザス尾根に這い上がり、尾根からは氷川へと逆落としの道筋を辿る急峻な山道を辿る「根岩越え」しかなかった、とか。峠越えフリークとしてはいつか、この根岩越えと呼ばれる尾根道の一端にでも触れたいと想っていたわけである。
本日のルートは平石山への尾根道を上り本仁田山からゴンザス尾根を日向へと下るもの。根岩越えを辿ることはできそうにないが、ゴンザス尾根の鞍部だろうとは思う、根岩越えの上り・下りのアプローチ点など確認し、いつか辿りたい根岩越えの予備山行との思いで、奥多摩へと向かうことにした。

本日のルート;奥多摩駅>大沢バス停>12号鉄塔>安寺沢分岐>平石山>本仁田山>大休場尾根分岐>花折戸尾根分岐>ゴンザス尾根>日向

大沢バス停_8時45分;標高396m
奥多摩駅より東日原行きのバスに乗り、10分ほどで大沢バス停にて下車。現在の日原街道は、バス停の先で日原川に架かる平石橋を渡り川の東を進むが、旧日原道は大沢から倉沢の間、現日原街道の対岸を通っていた。その道は今をさる500年の昔、天正というから16世紀後半、戦乱の巷を逃れ原島氏の一族が武蔵国大里郡(埼玉県熊谷市原島村のあたり)よりこの地に移り住み日原を開いた頃から昭和20年頃まで使用されていたとのことだが、道幅が狭く、地形はほとんどが断崖絶壁といった難路であった、と言う。因みに日原の由来は、新堀、新原といった、新しい開墾地といった説もあるが、原島氏の法号「丹原院」の音読みである「二ハラ」からとの説もある。

大沢・小菅の集落
平石橋を渡ることなく直進すると、日原川に注ぐ狩倉沢の先の山腹に集落が見える。大沢と小菅の集落ではあろう。大沢は文字通り、日原川の「大沢」の中にある。昭和7年頃、この地を訪れた高橋源一郎氏は大沢を「水面を去ることあまり遠くなく、いわば薬研の底のようなところにあるけれども、東南面せる斜面であるから、割合に日当たりはよい。人家は何分大沢の中であるから、相当に急峻な斜面を幾段にも切り開いて僅かばかりの平地を作り、そこに建ててあるので、前の家の屋根と後ろの家の土台石が相接する位込み合っている。雛段式などといえば立派なようではあるけれども、ここはまるで梯子段とでもいいたい位である。(中略)大沢の集落の上に数戸の人家が見える。(中略)あれは小菅だという。小菅には伽藍神社というのがあって。。。」と描く(『多摩ふるさと叢書 多摩の山と水 下;高橋源一郎(八潮書店)』)。
大沢・小菅の集落は標高差の大きな山腹に連なっており、大沢集落の最上部には薬師堂、小菅の集落の鎮守である伽藍神社は標高600mのところにあるそうだ。地図を見ると瑞雲寺も伽藍神社の近く、集落の最上部にある。集落には養蚕のための跳ね上げ屋根をもつ「かぶと造り」の民家も残る、とか。往昔の日原道は、この山腹の集落を経て倉沢へと進んだのではあろう。そのうちに昔し道を辿ってみたいものである。




日原線12号鉄塔_9時45分;標高681m
昭和30年架橋のトラス橋である平石橋を渡り、そこからは倉沢・日原へと向かう日原街道を離れ、日原川の東側を逆方向に続く砂利道に入る。道の下には川魚の養殖場らしき施設がある。
川に沿って緩やかな坂を上っていくと、一時簡易舗装の小径となる。数分進むと川沿いの道から山へと分岐する道が現れる。川沿いの道を進めば平石山荘へと進んだようではあるが、現在営業しているのだろう、か。
分岐点から山へと入る。東電の送電線巡視路ではないだろう、か。道を進み、「平尾尾根を経て安寺沢へ2.7Km」「平石橋0.3km」「向寺地1.1km 鍛冶屋1.8km」の標識の地点で、「平尾尾根を経て安寺沢」方面へと左後方に入る。
少し上ると落石防止柵が見えてくると、そこからは尾根に向かうジグザグの急斜面となり、植林された林の向こうに岩肌らしきものが見える。大沢・小菅地区の案内に、日原川に落ち込む山の中腹に烏帽子型をした御前石という将門伝説とも、瞽女(ごぜ;盲人女性芸能者)ゆかりの岩場があるとのことだが、その岩場だろう、か(『奥多摩;宮内敏雄(百水社)』)。

先に進むと道沿いに「日原線12号に至る」と書かれた黄色いポールが現れる。送電線の鉄塔12号に続く、と言った意味である。黄色いポールの近くには昭和21年頃、索道施設として造られた隧道の遺構が残る、と。循環式索道であり、幅1m強、高さ2。5m強、長さ100mほどの2本の隧道跡とのことだが、残念ながら見逃した。尾根の向こうの川苔谷の谷筋は500m以上もあるので、結構長大な索道が動いていたのではあろう。
道を進むと送電線の鉄塔。日原線12号鉄塔である。日原線は海沢の東京電力の氷川発電所から日原方面へと向かう送電線の12番目のもの、という意味であろう。
この送電線鉄塔で尾根に出る。鉄塔付近から西の石尾根方面には六ツ石山の東の狩蔵山が見えた。この山に黒い雲がかかると日原には、俄雨(にわかあめ)が降るとの言い伝えが、日原に残る、とか(『多摩ふるさと叢書 多摩の山と水 下;高橋源一郎(八潮書店)』)。

平石山_11時10分;標高1075m
12号鉄塔から数分上がったところの、「安寺沢2.2km 平石橋0.9km」とある道標に従い安寺沢方向への尾根道を登る。分岐から先の尾根筋は道があいまい、踏み跡を拾いながら行く。
10分ちょっとで754mピーク。露岩が現れる。ここからは小さなピークをいくつか(3つほど)越えて登って行く。唐松の森も現れる。800m付近では何度か尾根はフラットになり、少し楽。840mピークは北方切り開かれ川苔谷を隔て、川苔山、蕎麦粒山方面の展望が得られる。850mのピークから、これから上る平石山を望む。木の間から西の石尾根やそれの前衛の狩倉山などが望める。




850mピークから鞍部に下り少し登り返したところから、左手の川苔山とウスバ尾根がしっかり見え、さらに進んだところ900m付近には苔蒸した山の神の石祠がある。







石の祠を過ぎ、露岩帯の少し急な上りを上る。左に広葉樹、右手に杉林などを見ながら進むと、立木に看板があり「平石山1075m」とある。ここが平石山であった。








(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)

 

安寺沢分岐_11時15分;標高1053m
平石山から先はしばらく植林が多くなる。尾根の左手には白樺などがある。鞍部を少し下ると、安寺沢からの道との合流地点。道案内に「安寺沢方面」と書かれていたのが、この分岐点なのであろう。作業道といった道筋を確認する。とは言うものの、この肝心な分岐点にその地点を示す道標が無かったように思うのだが、単なる見落としなのだろう、か。

ところで、この「安寺沢」は「あてらさわ」と詠む。その語意は「日当たりの悪い場所」とのこと。日本各地に「あてら」と言う地名があり、「阿寺」とか「左(あてら)」と書く。『多摩ふるさと叢書 多摩の山と水 下;高橋源一郎(八潮書店)』には安寺沢ではなく、左沢と書かれてあった。
山形県には「左沢」を「あてらさわ」、「右沢」を「かてらさわ」と呼ぶ地名がある。

「左」が「あちら」、一方の「右」は「こちら」といったところであろう、か。登山口の標識にもあったように、奥多摩の安寺沢の近くに、向寺地(むこうてらち)があるようで、向寺=こう>かてら、との牽強付会にて、「あちら、こちら」説も捨てがたくはあるが、はやり「日当たりの悪い場所」というのが妥当なところであろう。因みに、安寺沢の近くに除ヶ野地区があるが、「除け(ヨゲ)」とは「通行困難な悪場」とのこと。理由はないが、「悪罵」つながりで「あてら」を「日当たりの悪い場所」と、思い込む、ことに。

杉の殿尾根と本仁田山方面への分岐点_11時42分;標高1212m
安寺沢への分岐がある鞍部を越えると上りが続くあとわずかで尾根も終わりと思われる頃、尾根をモノレールの軌道が横切る。このモノレールは「安寺沢」から「大ダワ」の先まで繋がっているようである。害獣駆除された動物を処理施設まで運ぶために山から下ろすもの、との記事をどこかで見かけたことがある。
モノレールをまたぐと最後の登りになり、川苔山・大ダワ・コブタカ山方面からの「杉の殿尾根」と本仁田山方面への分岐点に合流。標識には「本仁田山0.1km 奥多摩駅4.7km」「川苔山3.5km 鳩ノ巣駅4.7km」とある。 川苔山(かわのりやま)の名前の由来は、昔、この付近の沢で良質な川苔が採れたために"川苔山"と名付けられたということだ。

本仁田山_11時45分;標高1224.5m
合流点をわずかに右へ尾根を進むと「本仁田山」頂上に着いた。亀甲山とも、高指山とも呼ばれたとの記録もある。山頂の西南の方角は林の切れ目から山稜を眺めるだけではあるが、東南方向は大きく開けており眺めはいい。
本仁田山は本荷駄山とも呼ばれる。青梅街道が往昔、この山腹を搦んで、棚沢村鳩ノ巣あたりから氷川に抜けた頃、旺んに荷馬も往来したので駄馬が通行する山ということで名付けられた、とか。また、猪や鹿の「ぬたば」から、との説も。交尾期に猪や鹿が体を冷やしたり、飲料にするための泥土を掘り起こして湿地とする「ヌタバ」がヌタ>ニタ、と転化したとの説もある(『奥多摩;宮内敏雄(百水社)』)。
駄馬が盛んに往来した、とは言ってもそれは本仁田山から尾根を下ったゴンザス尾根の根岩越えの辺りであろうし、距離が少し離れているようも思える。それよりは、本仁田山を少し下ったチクマ山(池の平の峰)の東側、西川の源頭部に有名な「ヌタバ」があるとのことであるので、「ヌタバ」由来のほうが何となくしっくりする。ともあれ、奥多摩には、ぬたくぼ、ほぬた、大荷田、といった「ぬたば」を意味する集落名が残っている。




大休場尾根分岐_12時30分;標高1200m
本仁田山頂で少し休憩し、ゴンザス尾根に向かって山稜を下る。ほどなく道標が現れ「本仁田山」「花折戸尾根」「安寺沢・奥多摩駅」とある。「奥多摩駅「4.5km」と追記もあった。ここは大休場尾根を下り「安寺沢・奥多摩駅」方面へと向かう分岐点である。
大休場(おおやすんば)尾根は急登の尾根として知られる。平均斜度が24.2°とか。それが「大休場」というのは少々皮肉ではあるが、標高差で100~150m登るごとに一息つける平らな尾根が現れることが、その名の由来、とか。

チクマ山_13時5分;標高1040m
大休場尾根と分岐の先は急な下りとなる。急傾斜のざれた斜面を下るとほどなく平坦な尾根道となる。本仁田山から下る山稜は懐中に凹を抱くようになっており、フラットな尾根道を進むと少し上り返すことになる。この凹部は上でメモした西川の源頭部であり、昔はこの地に塘があり、その湿潤なる平には大蛇が棲んでいた、との言い伝えもあった、とか。池ノ平などとも呼ばれていたようでもある(『奥多摩;宮内敏雄(百水社)』)。
凹部の平坦な尾根を少し上り返すとチクマ山。とは言うものの、張り紙での山名表示と、三角点があるだけではある。棚沢ではチクマ山のことを「池の平の峰」、と呼ぶようである。

ゴンザス尾根・花折戸尾根分岐_13時12分;標高1006m
チクマ山から少し下ると、花折戸尾根とゴンザス尾根との分岐点。「本仁田山」「花折戸尾根」「日向(ゴンザス尾根)」の標識がある。花折戸尾根を下ると鳩ノ巣に出る。「花折戸」は「山路を越える旅人が山霊に小枝を折って捧げ、身の安全を祈願する」ことによる。元は尾根を乗り越した青梅街道の地にあった地名のようだが、それが尾根の名前に使われるようになった、とか。奥多摩には「ヲリバサマ、ハナタテバレ、山ノ神ノ花立」、などの名前も残るようである(『奥多摩;宮内敏雄(百水社)』)。




分岐からゴンザス尾根に入ると、しばらくは、急傾斜の岩場交じりの道となる。ところで、この「ゴンザス尾根」って、どういう意味なのだろう。いつだったか、日原かヨコスズ尾根・長沢脊稜を経て仙元峠を越えて秩父の浦山へと抜けた時にも、ゴンジリ峠という峠があった。「権次入峠」と書くが、元より漢字表記は「音」に合わせたケースが多く、漢字の意味から推測するのは少々危険。あれこれチェックしていると、ゴンザスの「サス=差、指」は「焼き畑」の意味があるとこ記述があった。これって、良い線いってると思うのだが、「ゴン」の意味がわからない。「ゴン」には方角の「丑寅(北東)」、「鬼門」の意味もあるとのことだが、はてさて。そのうちにどこかで語義に出合うことを想い、妄想ゲームはここで終える。

根岩(ねえや)越え_13時52分;標高705m

細尾根の露岩や滑り易い急傾斜を過ぎ、植林地来まで下るとテレビ電波の受信アンテナが林立する。このゴンザス尾根の鞍部の辺りが棚沢の鳩ノ巣から氷川に抜ける根岩越えの尾根道とのクロスする辺りではないか、とのことである。

根岩越えは、江戸の頃、多摩川の断崖絶壁を穿つ、と言うか、絶壁を削り鳩ノ巣から氷川へと道を通した、「数馬の切り通し」ができるまでは鳩ノ巣と氷川・奥多摩を結ぶ唯一の道であった。元禄12年(1699)に独りの六部と百姓が3年かけて開削したとか、元禄16年(1703)に氷川村や栃久保村の名主が中心になって開いたとか、はたまた元禄16年頃、奥氷川神社の神官である河辺数馬藤原永義が開いたとか諸説あるが、それはともあれ、人一人かろうじて通れる多摩川に屹立する断崖絶壁の「壁道」ではあるが、それでも「平地」を通る道が開かれるまで、ゴンザス尾根を横切る難路の根岩越えが青梅から氷川・奥多摩を結ぶ唯一の道であった。

根岩越えのルートは、白丸駅裏手の老人ホーム脇から「根岩越え」の道が始まる。畑の間に挟まれて石畳の古道を進むと山道へと向かう。山道は一直線に尾根に這い上がる。道の途中には山ノ神の石祠や茶屋の跡、古い石積なども残る、とか。
急峻な尾根を越えると、日原線6号鉄塔の辺りに向かって岩混じりの尾根を下り、そこからは、氷川へと逆落としの道筋を下る。現在、6号鉄塔から先は、ケーブルに沿って下り、日原線7号鉄塔への黄色いポールの案内に従い、ケーブルが右に尾根を外れた辺りで左側の道を下る。急な斜面を据え付けのロープや鉄梯子を使って氷川の浄水場に向かって下っていく、とのことである。

ゴンザス尾根の根岩越えがクロスする辺りから東の植林帯に入り、送電鉄塔の巡視路標柱を目安に、巻き道に入り6号鉄塔へ、そこから氷川に下るのもいいか、とは思えども、山道の左手には「氷川の屏風岩」の岩頭や岩登りゲレンデなどがあるような逆落としの山道。高所恐怖症の我が身には、少々敷居の高い道筋ではあろう。それにしても、そのうちに越えてみたい道ではある。

ところで「根岩」であるが、根が生えたような大岩がその由来なのか、テレビのアンテナ群のところに岩がゴロゴロしているためなのか、急峻な岩盤地質のゴンザス尾根自体を指すのか、「納屋」の転化がその由来など、その由来は諸説ある。「納屋」は、いつだったか中世の甲州街道である大菩薩峠から牛の根尾根を越えて奥多摩の小菅へと歩いたとき、大菩薩峠に「荷渡し場跡」があったが、そこの案内に「萩原村(塩山市)から丹波、小菅まで行ったのでは1日では帰れないので途中に荷を置いて戻った。萩原村からは米、酒、塩などを、丹波、小菅側からは木炭、こんにゃく、経木などが運ばれた」、と。納屋はこのような「無言貿易」の荷を収納する小屋であり、「ナヤ」→「ナーヤ」→「ネーヤ」→「ネエヤ」になった、とする。

日原線3号鉄塔
根岩越えの尾根道とのクロスする辺りを離れ、そこから植林地帯を少し上り返し、先に進むと日原線3号鉄塔の足下に出る。鉄塔の周囲は伐採されており、大岳山や御嶽山方面の眺めが楽しめる。
日原線の送電線は海沢の東京電力(現在は東京発電)氷川発電所からゴンザス尾根を一気に上り、尾根道をクロスし、日原川の東岸山腹を川苔川との合流点辺りまで進み、そこから先は日原川の西岸を倉沢谷に進み、そこにある変電所まで18の鉄塔で電力を送電する。また、氷川の先、除ヶ野の辺りから一本線を分岐させ、氷川の変電所に下りる送電線を奥工氷川線とも呼ぶようだ。奥工とは、石灰の採石・販売をおこなう奥多摩工業の略であろう、か(『東京鉄塔;サルマルヒデキ(自由国民社)』。

テレビ中継アンテナ
3号鉄塔から少し下ったところにテレビ中継施設。奥多摩テレビ中継所というこの施設で、奥多摩の氷川地域でのテレビ受信が可能となる。アナログ放送の頃はNHKとMXテレビだけであったようだが、デジタル放送となり民法各局の視聴も可能になった、とか。ということは、根岩越えの辺りで見かけたテレビアンテナ群はアナログ放送時代に視聴できなかった民放を見るために氷川の住民がつくったものであろうか。奥多摩には町内単位でテレビ視聴の共同組合なるものがある、とか聞いたこともある。単なる妄想。根拠なし。




奥多摩テレビ中継所を越えるとNHK巡視路と鉄塔の案内に従い植林地帯の九十九折れの道を進み、日向地区の登山口へと下り、本日の散歩を終える。




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