古道を辿るの最近のブログ記事

先回は予土往還の山越え部をクリアした高岡郡越知町堂ノ岡より高岡郡日高村までメモした。ルートは堂ノ岡より越知の町に入り、赤土峠を越えて高岡郡佐川町に入り、土佐藩筆頭家老深尾氏の領地であった落ち着いた佐川の町を少し彷徨った後、予土往還の道筋とされる国道33号を通ることなく、土佐藩松山征討軍の進路でもあり、往昔の松山街道に架かっていた大岩が残されると言う海津見神社の鎮座する県道297号を辿り高岡郡日高村入口まで辿った。
今回は日高村から吾川郡いの町を経て高知城下の西の番所、思案橋番所跡までをつなぐ。その間、国道を阻む丘陵が3カ所ある。今の建設工事の技術であれば丘陵を切り崩し、トンネルを抜きと、どうといった丘陵ではないだろうが、往昔の丘陵越えは難路であったろうと、丘陵に向き合うたびに往昔の往還道としては丘陵を迂回したろうか、難路でも丘陵を越えただろうかとほとんど妄想で道筋を選び先を進み、最終地点である思案橋番所を繋いだ。ために、資料がなかったとはいえ、予土往還を歩き終えたといった感慨は今ひとつといったところではある。
何故に資料が少ないのか、それとも単に見つけられなかっただけなのか、それもはっきりしない。先回もメモしたように、予土往還を辿ると言うのは少々面映いが、とりあえずメモをはじめる。


日のルート;高岡郡日高村から高知市へ
高岡郡日高村から吾川郡いの町へ
日高村の調整池>日高橋の東、丘陵部を迂回>小村神社>丘陵部を迂回>吾川郡いの町・国道33号に戻る>仁淀川>椙本神社>いの町の中心地へ
吾川郡いの町から高知市へ
国道194号(国道33号並走区間)に合流>高知西バイパスを越え高知市域へ>咥内(こうない)坂>朝倉駅前より旧国道筋に入る>鏡川橋を渡り「とさでん蛍橋停留場」手前を右に逸れ思案橋跡へ>思案橋番所跡案内


高岡郡日高村から高知市へ

高岡郡日高村から吾川郡いの町へ

先回の散歩でメモした海津見神社の先、土佐加茂駅を越えると高岡郡佐川町を離れ高岡郡日高村に入る。日高村は(1954年)、 日下村・能津村および加茂村の一部が合併して発足。村名は「日本」と「高知県」から1文字ずつ取ったことに由来する、とある(Wikipediaより)。日は日下からかともおもったのだが、それは合併に際して他の村からの異議が出そう。日本の高知の村。人口5000名弱。町になる要件は人口8000名とも5000名とも言われる。

日下調整池
高岡郡日高村に入ると、道の右手の日下川は一見里池とも見える大きな湿地が見える。案内には「内陸型洪水調整池」とある。地図を見るとその東で日下川に合流する戸梶川にも調整池が整備されている。これってなんだろう。
チェックすると、日下川の低平地部は、仁淀川との合流点より上流に向かって堤内地盤が低くなる極めて特殊な"低奥型地形"となっており、また日下川が緩勾配であるため水はけが悪く、仁淀川本川の水位上昇の影響などを受け、内水氾濫を引き起こしやすい地形特性となっている。更に日下川と仁淀川の合流点では丘陵が南に突き出し、仁淀川が大きく蛇行している。仁淀川の水が「滞留」しやすいような流路ともなっている。
この地形特性に加えて野中兼山による治水事業が仁淀川の河床上昇・水位上昇に輪をかけることになる。藩政時代の慶安元年(1648)より6年の歳月をかけ日下川が仁淀川に合流する少し下流、仁淀川左岸の地を潤すため設けられた八田堰、承応3年(1654)より2年の月日をかけて、八田堰上流に設けられ仁淀川右岸を潤すことになる鎌田堰により仁淀川の河床が上昇し、逆流による内水氾濫が多発することになったと言う。仁淀川流域は全国屈指の多雨地帯でもあり、仁淀川の水位が上昇すると甚だしく、その度に日下川流域の日高村は内陸型洪水被害に悩まされた。
昭和に入ってもその状況は大きく変わらない。昭和30年(1955)には日下川下流域に日下放水路隧道工事を計画し、昭和35年(1960)に完成。日下川に溢れた水を3キロ弱トンネルを通し八田堰下流で仁淀川に水を流す対策を施工するも、昭和50年(1975)8月台風第5号による洪水では日高村の平野部のほぼ全域が水没し、また昭和51年(1976)9月台風第17号による洪水でも前年と同規模の被害が発生。その他の台風でも床上浸水被害が頻発している。
その間、昭和50年(1975)には二本目の放水路を計画。日下川治水抜工事(派川日下川)を行い、これも八田堰下流南の谷に水を逃がすといった工事が行われているが、それでも洪水を防ぐことができず、平成26年(2014)の台風12号で日高村の浸水、国道通行止め・土讃線不通といった被害が出たため、内陸型洪水への対策として、平成29年(2017)より3本目の放水路トンネル、日下川から東へ5キロ以上の放水路トンネルを抜き八田堰近くで仁淀川に落とす計画(日下川新規放水路)が進んでいるようである。
あまりに自然な景観を呈する調整池より話が広がってしまった。この辺りにしてさ、先に進む。

日高橋の東、丘陵部を迂回
日下橋先の丘陵を迂回
日下川に戸梶川が合流する箇所に架かる日高橋を渡ると、その先に丘陵部がある。予土往還の道筋についてちょっと悩む。地図には国道33号を松山街道としているのだが、丘陵部を抜ける土讃線・国道が如何にも坂を切り下げ、切通しとしたように思える。荷馬車往来を常とする平地の往還としえだては坂の丘陵を越えるより、少し遠回りでも丘陵部を迂回するのではないだろうか。何かそれを証するエビデンスは?
チェックすると土讃線は大正13年(1924)3月30日に須崎・日下駅間が開通し、日下駅が終点となっている。そして日下・高知間が開通したのが同年11月15日。何故に日下を終点としたのだろうか。諸要因は不明のため地形だけで判断すれば、日高村から高知まで3カ所、道を遮る丘陵地があり、それぞれ国道を抜くために困難に直面したようである。この丘陵もそのひとつ。とすれば、確たる根拠はないが、往昔の往還はなんとなく丘陵部を迂回するのではと思えて来た。
実際、『日高村史』には、「(1961年(昭和36年)国道橋及び鉄橋の工事困難を極め、七月に入りて漸く完成。正寺岡橋・福良橋間、戸梶川下流域柿の木畑岡花の切り取り工事に着手」とある。正寺岡橋は国道33号・日下川に架かる日下橋の一筋下流に架かる。福良川はその下流にあり、この文字面だけで見れば、旧国道は丘陵部を迂回しているようにも思える。
で、正寺岡橋をもう少し深堀すると、この橋は藩政期、日下大橋と称され橋の袂には日下大橋番所があったとのこと。どうも往昔の予土往還は丘陵部を迂回していたように思える。
因みに、これも確たる根拠ではないが、予土往還の資料を探すため途次図書館に拠ったとき、気分転換に手に取った坂本龍馬脱藩の道として、丘陵を迂回し国道33号日高橋の一筋上流に架かる正寺岡橋を渡るルートが記されていた(書名は覚えていない)。土佐藩内の脱藩道に関する資料が残っているわけでもなく、推定ルートではあろうが、日下大橋番所跡を抜ける丘陵迂回ルートを辿ることにした。
日下川放水路呑口
日下川と戸梶川の合流点、日下橋の近くに日下川放水路の呑口がある。この放水路のことはメモの段階でわかったこと。水路フリークとしては寄ってみたい施設であるが、常の如く後の祭りであった。

小村神社
洪水多発地帯であったとすれば山裾の道を辿ったのであろうと、日下駅から北に山裾を進む道に入り、日下川に架かる正寺岡橋を渡り、道なりに鍛冶屋、福良の集落を辿り丘陵部を迂回し国道33号に出る。その直ぐ先、道の左手に小村(おむら)神社が建つ。
長い杉並木の参道の先に社殿。案内には「小村神社と牡丹杉(村文化財指定 昭和三十六年 人皇三十一代用命帝の二年、高岡の首(郡長のこと) と日下氏 (当時この付近を支配していた人)が、先祖の国常立命を祭って創建し御霊に環頭の大刀を奉納したと伝えられる国史現在社で、元国の安上官幣の御社であった。往古は土佐二の宮で、二の宮天神と称し日下の総鎮守である。祭神は国常立命で御神体は太刀である。
御神体の環頭大刀は国宝に、木造の菩薩面二点は重要文化財にいずれも一九三七年指定された。その他の社宝に南北朝時代の銅鏡三面 三十歌仙額、小野道風の書等がある。 社殿の背後に樹齢千年の燈明杉 又は牡丹杉と称する老杉がウッ蒼と天を摩し荘厳さを感じさせている。この杉の大木は下枝は杉葉であるが中程より上は檜がハクの葉様で稀れに見る珍種である。伝説によると宝永二年七月仁淀川大氾濫の夜、また安政元年の大地震の前晩、、日露戦役の時など何か異変ある時には杉の精に大きな霊火が欄々と懸ったとのことで、里人は神木として崇拝して来たものである」とある。
国史現在社
10世紀の初頭にまとめられた《延喜式》には,全国で2861の神社,3132座の神名が記載されているが,そこに見える神社を後世式内社(しきないしや)という。また式内社以外に六国史に名が記されている神社が391社あり,それらを国史現在社といった。こうした三千数百の神社は,国家が公認した特殊な勢力のある神社。。。」といった説明があった(「コトバンク」より)
〇六国史
官撰(かんせん)の6種の国史の総称。奈良・平安時代に編纂(へんさん)された『日本書紀』『続日本紀(しょくにほんぎ)』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳(もんとく)天皇実録』『日本三代実録』がそれである(「日本大百科全書」より)。
安上
案上?。案上とは祈年祭(としごいのまつり)、新嘗祭(にいなめのまつり)、月次祭(つきなみのまつり)などの時に、神祇官(じんぎかん)が社格の高い大社の幣帛(へいはく)を案上に置いて奉ること。また、その社。案は机の意(「コトバンク」より)。
国史現在社、案上共に、この社が由緒ある社であったということだろう。
仁井田神社
境内に摂社として仁井田神社が祀られる。予土往還の途次幾度かメモしたように仁井田神社は伊予の越智氏ゆかりの社である。
Wikipediaには「越智国造の小知命(小千命/乎致命)の墓が今治市の「日高」に伝わること等から、この小知命が当地に至り、国土開発の神として国常立命を祀り大刀を神体としたとする」とし、続けて「なお創建に関わる伝承として、元々は伊予国御三戸(現在の愛媛県上浮穴郡久万高原町の地名:おみど)に鎮座したが、洪水で流されて越知町宮地(古名を「小村」とする)に移り、さらに貞観3年(861年)秋に大洪水で大刀・社殿とも流れて神谷に、ついで日高村に移ったともいわれる」とあった。
何となく仁淀川水系をおさえた豪族との関連を感じさせる縁起である。

丘陵部を迂回
小村神社先の丘陵を迂回
小村神社社殿から国道33号に戻る。と、国道の前面は仁淀川に突き出た丘陵に遮られ、国道・土讃線は如何にも切通しといったところを抜けて行く。国道の南北を囲む最西端の丘陵の内、北側の丘陵は往昔、南の谷より仁淀川に注いだであろう感のある河川の流れによって切りとられた独立丘陵となっている。その独立丘陵は仁淀川まで突き出ているため、この丘陵を迂回することはできない。
南北を丘陵に挟まれた切通しを進み独立丘陵の東端に。ここでちょっと悩む。国道33号を直進するのか、それとも独立丘陵の東端とその東の丘陵部との間の「谷筋」を北に進み、丘陵部を迂回するのか、どちらが往昔の予土往還だろう。
国道33号は独立丘陵東端から下り気味となっておりそれほどの難路とはなっていないが、道路改修時には往々にして坂の切り下げが行われるので、現在の地形からだけでは往昔の丘陵部の姿の判断は難しい。
で、結局丘陵部を迂回することにした。確たる根拠はないのだが、上述図書館で見た龍馬脱藩時の道としては、この丘陵部を迂回しているということだけが迂回の因。脱藩の道といっても記録があるわけでもなく推定ルートであろうが、他に頼るべき資料もなく、取敢えず迂回ルートを選択した。

吾川郡いの町・国道33号に戻る
少し北に進み、これも仁淀川沿いに残る小さな独立丘陵を右に折れ先に進む。日高村より吾川郡いの町となった丘陵北側の道を進み茂地、波川北、宮ノ東の集落を抜け県道33号に戻る。
日下川・仁淀川合流点
地図に「日下川・仁淀川合流点」が記される。仁淀川沿いに残る小さな独立丘陵を右に折れず、仁淀川の川筋に進んだところである。当日は「日下川・仁淀川合流点」にどんな意味があるのか?とそのままパスしてしまったのだが、メモの段階でその合流点には昭和12年(1937)に造られた井筋への取水口があった。また、丘陵地を迂回しないで国道33号を進むと、取水口から取り込んだ用水路の開渠部が地図に記されている。これも、行きあたりばったりゆえの後の祭りとなった。
鎌田井筋
鎌田井筋は野中兼山の治水・利水事績のひとつ。仁淀川西岸、高岡郡を潤すため承応3(1654)年鎌田堰築造に着工。取水堰は現在の土讃線が仁淀川を渡る箇所に造られた。この堰の長さは545m(300間)、18.1m(10間)、高さ12.7m(7間)に及び、鎌田(右岸)に近いところに"水越し"を設け、ここを通過する舟筏で賑わい「鎌田堰の筏越し」として名高かったといのこと。現在その場に記念堰石碑が残る。
堰の工事は記録によると着工が承応3年(1654)、完成まで2ヵ年の歳月を要した、と。その後天和3年(1683)まで、おおよそ30年の歳月をかけ用水路を整備。鎌田井筋と呼ばれるその水路は、23㎞弱(5里24町32間)に及び、東岸に設けられた兼山の事績である八田、弘岡井筋と合わせると、幹流2、支流6となり、30年にも及ぶ井筋開削の結果、その延長48.32㎞、灌漑面積は1549ha(1549町4反4畝)もの大新田、沃野を作り出した。
なお、上述仁淀川の取水口は昭和12年(1937)、堰を築くことなく水門を設け、トンネルを掘り抜き、自然流水の方法に改築した。ために、約300年に近い歳月利用されてきた「鎌田堰」は昭和17年(1942)年をもって取り除かれることとなった。
鎌田井筋は現在ではほとんどその姿を留めず、土讃線鉄橋近くのいの町の川内小学校の東と仁淀川堤防の間に大きく掘削された井筋の跡が残っているのみ、という。
とは言うものの、土佐の歩き遍路の折、35番札所清瀧寺を訪ね土佐市高岡町を歩いたのだが、町中を縦横に走る用水路を鎌田井筋とする写真が結構あった。はてさて。

仁淀川
国道筋に戻り仁淀川を渡る。Wikipediaに拠れば、「四国の最高峰である石鎚山に源を発する面河川と、分水嶺である三坂峠から流れる久万川が、御三戸(愛媛県上浮穴郡久万高原町)で合流して形成される。四国山地に深いV字谷を刻みながら南下し、やがて高知県高知市/土佐市付近で太平洋へと注ぎ込む。
愛媛県内では面河川(おもごがわ)と呼ばれる。石鎚山などの源流から太平洋に注ぐ河口まで流路延長124km。吉野川・四万十川に次ぐ四国第三の河川で.水質は全国1位(2010年)で、水面が青く美しい「仁淀ブルー」と呼ばれる淵や滝壺などがある。
仁淀川の川名の由来は諸説あり、平城天皇の皇子であった高岳親王が土佐国(現在の高知県)に来た際、山城国(京都府南部)の淀川に似ているので「仁淀」と名付けたというもの、また有力な説としては、『延喜式』に貢ぎ物として「贄殿川」のアユが登場した。「贄殿」とは宮中の厨房で、諸国から魚などの貢ぎ物(贄)を納める所である。のちに贄殿川から転じて仁淀川になったというもの、更には古代の仁淀川は、大神に捧げる酒をこの川で醸造したことから、「神河」(みわがわ、三輪川)と呼ばれ、いつしか仁淀川となったと言われる」、といった由来説が記されていた。
今回の伊予の久万高原越ノ峠からはじめた予土往還の旅も、越ノ峠から山を越えた先で仁淀川水系面河川筋の七鳥に下り、そこから南下する面河川と分かれ黒滝峠・水ノ峠と山地を進み、一度仁淀川水系土居川の谷筋の町池川に下り、さらに山入りし鈴ヶ峠を越えて越知の堂ノ岡で四国山地を南流・東進・北流してきた仁淀川本流に再会。そこから越知の町、佐川の町を経てこの地で仁淀川に再々会した。予土往還は仁淀川が蛇行する四国山地を東北に突き切ってきた感がある。

椙本神社
釈超空の歌碑
仁淀川橋を渡ると国道33号は北から下ってきた国道194号との並走区間となる。直ぐ椙本神社。道に接する一の鳥居を潜るとすぐ二の鳥居。鳥居前に釈超空の歌碑。[いののかみ この川くまに よりたまひし 日を かたらへば ひとの ひさしき]と刻まれる。
釈超空は日本の民俗学者、国文学者、国語学者である折口 信夫(おりくち しのぶ(のぶを)の詩人・歌人として号である。
境内の案内には「いの大国さま 椙本神社 神社の創建は延暦 12年と伝えられ、「いのの大国さま」の名で親しまれる。財福、縁結び、商売繁盛の神として厚い信仰が寄せられる。神社には鎌倉時代の作「八角形漆塗神輿」(国重要文化財)が伝わり、高知県三大祭りの一つに数えられる秋の大祭には、神輿(複製)を先頭に、古式豊かなおなばれが町並みを練り歩く」とある。
大国さまとは祭神である大国主命ゆえであろうか。拝殿前に「さすり大国」さまの像が立つ。その姿は七福神の大黒さま。大国主が大黒さまと習合した所以であろう。
社伝では、祭神の事蹟は寛文六年(1666年)の仁淀川洪水で古記録が流失したため不詳ではあるが、大和の国三輪から神像を奉じて、阿波を経て吉野川を遡り、伊予国東川の山中に至り、その後、仁淀川洪水の時に河畔に流着したのを加治屋谷に斎き祀ったといわれているとのこと。 創祀は延暦十二年(793年)。その後、元慶年間(880年代)に現在地へ祀られるようになった。 いのの大国さまと称されて古くから上下の信仰を受けている。
伊予の東川・仁淀川水系の鍛冶屋谷
伊予の国東川ってどこだろう。予土往還を久万高原の越ノ峠から山を越え面河川の谷の七鳥に出たとき、そこから予土往還はふたつあり、ひとつは今回辿ってきた予土国境黒滝峠を抜ける通称、予土往還高山通り。もうひとつは現在の国道494号に沿って進む往還道。
で、この国道494号筋の往還国境の塩野峠(サレノ峠)を源流域とする「東川」があった。とはいえこの東川は??野川筋ではなく仁淀川水系。吉野川を遡上しても分水界を越えて仁淀川水系の東川に流れるにはちょっと大変。 また鍛冶屋谷もどこだろう。は仁淀川支流上八川川支流小川川枝支流西浦川支流鍛冶屋谷がある。 東川も鍛冶屋谷もどこなのかはっきりしないが、とりあえずチェックだけしておいた。吉野川から分水界を越えて仁淀川に乗り換えるのはちょっと難しそうに思えるが、縁起は縁起として「置いておく」べきか。

境内にあった案内板;
〇「伊野町保護文化財 第六一号 昭和六三年四月十八日指定
(歴史資料)椙本神社の宝物類 絵馬群
宝物類は宸筆額(天子の筆跡)をはじめ山内氏ゆかりと伝えられる茶釜、山内一豊の折紙、野中与左衛門の手紙、師子頭、田楽面その他計一四点。
絵馬群は正保四年(一六四七)中内甚右衛門奉納の彫刻銅版「つなぎ馬」安永八年(一七七九)藤原茂樹奉納「七福神」その他で計五九点。大正時代以降の奉納絵馬はすべて除外しています。 今次指定の絵馬は、奉献者が各年代各階層多方面にわたり、量、質共に多彩で県下随一と称されています。 信仰の歴史を探る貴重な資料であり、また美術工芸的な面での価値も高いとされております。
〇伊野町保護文化財 「第三八号 昭和五九年四月十一月七日指定
有形(絵画) 長谷川信秋の曽我物語 所有者 椙本神社
絵師信秋は長谷川等伯の族。正保三年(一六四六)の作品で奉納絵馬。画題は曽我物語の中の「朝比奈三郎草摺引の図」。設定大磯の長者の家。兄十郎を気づかつて駆けつけた曽我五郎を大力の朝比奈三郎が力任せに引き入れようとする場面である。
第三九郷昭和五九年四月十一月七日指定
有形(絵画)
吉井源太翁の富嶽
わが国製紙の功労者として知られる吉井源太翁、明治二三年(一八九〇)の作品で奉納絵馬。翁は早くから絵を嗜み、、楠瀬大枝のち徳弘董斉に南画を受けてよく山水の密画を残し、特に富縦にすぐれていた。絵馬には珍しい南画で一種の風格を備えた異色の作品である。
賑恤米記 田中光顕家訓
その他、「賑恤米記 田中光顕家訓」と記された案内のある石碑があった。賑恤(しんじゅつ)と読む。Wikipediaには「賑恤(しんじゅつ) 律令制において高齢者や病人、困窮者、その他鰥寡孤独(身寄りのない人々)に対して国家が稲穀や塩などの食料品や布や綿などの衣料品を支給する福祉制度、あるいは支給する行為そのものを指す」とある。
石碑に刻まれた文字をつぶさに読んだわけではないが、困窮者に対して二十四袋を頒」とか「以て社会政策上、其の功績の顕著・・」といった文字が読める。賑恤の心をその家訓としたということだろうか。「賑恤米記」「田中光顕家訓」で検索したがヒットせず詳細はわからない。

いの町の中心へと予土往還を進む
琴平神社参道東にとさ電の車止め
椙本神社を離れ先に進む。椙本神社で地図を見ると、国道33号から一筋東、町の中心に向かって進む道の地図上に「松山街道」の文字が記され、カクカクと曲がりながら町の中心部に向かう。いの町役場前を通り、琴平神社参道前に出ると、その東に線路の車止め。先にとさ電の軌道が続く。
和紙発祥の地
いのは土佐和紙発祥の町として知られる。伊野村に紙漉きの技術がもたらされた時期は長曾我部氏の頃と言われ、秀吉の四国征伐後土佐に山内一豊が入国した際には、七色紙の和紙が献上されたという。
伊野村に商家が建ちはじめたのは野中兼山の治水事業により洪水の危険が緩和された頃と言われる。元禄年間の初めころ(17世紀末)椙本神社の門前に商業集落が形成された、と。
商家の中でも紙を取り扱う商人の増加は目覚ましく、土佐藩御用紙漉きの地として24軒の業者が選ばれ、幕府への献上紙や御用紙漉きを命ぜられ、その屋号は130を越えたという。
明治になると藩政の縛りから解放されたゆえか、明治12年(1879)の記録には伊野村の総戸数810戸であり、その内紙漉き253戸、諸卸商43戸、諸小売商61戸と「和紙の町」となっている。 いの町の案内に「始まりの町」とあり、現在では日本最古となった路面電車が、明治41年(1908)伊野町まで開通したとあったが、これも和紙などの物資を高知港に運ぶためでもあったと言われる。 また、伊野村は紙漉きだけでなく、近世後期には在郷町として発展したとされるが、それは仁淀川水運の発達により上流の物資が集散地となったゆえとのこと。現在も天神地区、また旧市街には往昔の繁栄を誇った商家の町並みが残ると言う。
在郷町
「在郷(ざいごう、ざいきょう)」とは、「田舎」「農村部」を意味する。つまり在郷町とは、農村の中に形成された町場を意味する。主要な街道・水運航路が通る農村においては、その街道沿いに形成されている場合もある(Wikipedia)。
吾川郡いの町
吾川郡いの町の行政域は南北に長い。土佐街道歩きのため愛媛県西条市から国道194号に乗り、5キロ以上もある寒風山トンネルを抜けると吾川郡いの町に入る。吉野川水系の谷筋を進み、仁淀川水系の分水界となる山稜を越えるといった、四国の水系を代表するふたつの水系を南下し高知市と境を接する区域までをその町域とする。人口も高知の町村では最大の2万名以上からなるとのことである。
平成16年(2004年)吾川郡伊野町、吾北村、土佐郡本川村が合併(新設合併)し誕生。その際、現在の平仮名表記になった。


吾川郡いの町から高知市へ

国道194号(国道33号並走区間)に合流
とさ電・伊野停留場
琴平神社参道脇の電車車止めのすぐ先に停留場。とさでん交通の伊野停留場。明治41年(1908)、土佐電気鉄道(とさでん交通の前身)伊野線として伊野と高知間が開業し、伊野で生産された紙が高知港へと運ばれた。貨物列車も運行され、製品や原材料の輸送が行われていたが昭和20年(1945)ごろに廃止された。
停留所の東から北に延びる線路が見える。開業当初から平成11年(1999)まであった車庫への留置線だろう。その直ぐ先に伊野駅前停留場。大正13年(1924)土讃線伊野駅の開業に合わせて開業した。
土佐電気鉄道株式会社(とさでんきてつどう)
かつて高知県高知市にあった路面電車と、路線バスを運営していた会社。平成26年(2014)10月1日より、高知県交通・土佐電ドリームサービスとともにとさでん交通株式会社へ事業統合した(Wikipedia)。

高知西バイパスを越え高知市域へ
高知西バイパスを越えると構内坂の丘陵
土讃線伊野駅の少し東で合流した国道194号(国道33号並走区間)を東に進む。道の南を流れていた宇治川は枝川駅手前で道の北側に移る。上述日下川と同じく、この宇治川も平地部の地盤が奥に行くに従って低くなり、三方を山で囲まれた内水の溜まりやすい鍋底地形。それに加え、川床勾配が極めて緩く、内水氾濫が頻発したようである。日下川流域がそうであったように、昭和50年(1975)の台風5号では甚大な被害を蒙ったとのことである。
先に進むと前面を丘陵が阻む。その手前、国道は高知西バイパスとして北に向かう。災害による通行止めや交通渋滞の解消のため、昭和49年(1974)4月に高知市鴨部~いの町波川間9.8kmを事業化。平成3年(1991)2月に米田(高知西)トンネル(635m)が貫通し、平成9年(1997)12月に開通、供用開始した。
旧国道は高知西バイパスより先は県道386号となり丘陵切通し部の咥内坂へと向かう。咥内坂はいの町と高知市の境となっている。

咥内(こうない)坂
咥内坂(左・とさ電、中央・高知道、右・土讃線)
丘陵切通状の咥内坂には南北に高知自動車道、東西に県道、土讃線、とさでん交通伊野線が通る。現在は戦後の道路改修工事により峠部が数メートル切り下げられており、なんということのない「峠」ではあるが、明治時代以前は伊野と高知の間を遮る唯一の難所として、旅人、また紙の原材料や紙製品の往来にとって大きな難所となっていた、と。
明治になり現在の国道の前身である道が開かれ、峠に向かって蛇行しながら上り峠を越えていたようである。また峠部には明治時代の土佐電鉄伊野線開通時に開削された咥内坂隧道があり、その狭さゆえに輸送上の問題を抱えていた、と。
で、戦後、昭和33年(1958)から37年(1962)にかけて改良工事が行われ、峠部を切り下げ隧道を撤去し、国道と電車軌道の直線化を行ったとのことである。
丘陵迂回路
咥内坂の丘陵
で、ここでちょっと悩む。往還道としてこの難路と言われる峠を牛馬が往来したのだろうか。どこか咥内坂を迂回する道はないだろうか?チェックすると咥内坂の北、宇治川の上流部に切通し状の地形があり、高知自動車道が丘陵を抜けている。高知自動車道が整備される以前、国土地理院の昭和50年(1975)の地図には丘陵を蛇行しながら越える道は見えるが、切通しは地図に無い。切通しは高知自動車道工事の折に開削されたもののように思える(根拠はない)。
予土往還ではないようには思えるが、取敢えず丘陵越えの風情が如何なるものか、予土往還の痕跡でもないものかと寄り道することに。
昭和50年(1975)の地図
切通しは見られない(国土地理院)
成り行きで山裾の道に入り宇治川の上流域へと向かい高知自動車道が丘陵を抜ける箇所に着く。高知自動車道に沿って2車線の車道が丘陵を上る。地形図でチェックすると比高差20mほどありそうだ。旧道らしきもの、予土往還の「何か」を示すものは何もない。
いの町と高知市を隔てる丘陵は東西南北に幅広く、元の国道筋に復帰するには結構な遠回りとなる。高知自動車道開通以前の蛇行する丘陵越えの坂を上り、大きく遠回りするくらいなら、難路であっても咥内坂を越えた方がよさげな気がする。予土往還は咥内坂越えの道筋であろうと思い込み、元に戻る。
八代八幡八代の舞台
地図を見ると、迂回丘陵越えの近く、宇治川の北の山裾に八代八幡がある。そこの神楽殿は国の重要有形民俗文化財に指定されている、と。上述の如く迂回路チェックの道を八代神社に続く山裾の道を辿ったのはこの故でもある。
当日は神楽殿は修繕工事のようで見ることはできなかった。境内の案内はふたつあり、
ひとつは「国指定 重要有形民俗文化財 「八代の舞台」
指定の日昭和五十一年八月
八代の舞台
神楽殿は、約百年前に再建された歌舞伎廻り舞台で、昔のままの素ぼくなる姿態、稚拙な形式装置を残しており、全国でも珍しく糞重な文化の資料である。舞台は皿回式、二重台。
太夫座、花道 、スッボン等を有している。毎年、地芝居を上演する農村舞台の一典型をなすもので、独特な存在である。この舞台を通じて神祭の日(十一月五日)土地の老若男女が相集い、共に豊作を祝い日頃の労苦を忘れ、遊び戯れた平和で素ほくな昔の人々の生活が偲ばれる」と。
もうひとつには「国指定重要有形民俗文化財 「八代の舞台」
指定の日 昭和五十一年八月二十三日
この舞台は昔、神楽殿として神楽が奉納されていたが、徳川時代後期、全国的な歌舞伎流行のとき、「氏神様は芝居がお好き」とて歌舞伎奉納が行われ、以来、氏子の若い衆により十一月五日の神祭の夜、毎年演じられ、神も人も老若男女共に楽しむ。
舞台の構造は皿回式、二重台、太大座、花道、スッポン等を有し、建設以来星霜数百年旧時の姿をとどめ素朴古拙も変わる事無し、演技これに相応しき姿をとどめる。全国的に珍重すべき存在の文化財である 伊野町教育委員会」とあった。
「伊野町」と漢字表記であるのは、平成の合併により「いの」となる以前に立てられ故であろう。

朝倉駅前より旧国道筋に入る
朝倉駅前からとさ電路線道に逸れる
咥内坂の切通部を抜けると、とさでん咥内停留場。明治40年(1907)、土佐電気鉄道の堀詰(高知市本町)から咥内停留場までが開通した。難所である咥内坂故に、伊野と枝川間を先に開業し、咥内坂改良工事を終え、高知・伊野間が開通したのは翌明治41年(1908)。
路面電車の軌道が走る県道386号を東進し、土讃線朝倉駅前でとさでん路線は県道386号から分かれ右に逸れ朝倉駅前停留場に。とさでんが走る路線が旧国道とのこと。
朝倉城址
朝倉駅南の丘陵に朝倉城址。四国山地の真ん中、現在の長岡郡本山に城を構えた本山氏が土佐中央部へと侵出の橋頭保として築いた城。天文元年(1532年)頃とも言われる。
その後、長宗我部氏や土佐一条氏と土佐一国の覇権をめぐり抗争するも、永禄5年(1562年)に長宗我部元親が攻城。これを撃退するも翌永禄6年(1563年)に本山城に退去。城は退去時に焼かれ、廃城となった。
土佐一条氏
土佐国の西部、幡多郡を拠点とした戦国大名で、一条家が、応仁の乱を避けて京から下向したことに始まる。幡多郡に土着後も土佐にありながら高い官位を有し、戦国時代の間、土佐国の主要七国人(「土佐七雄」)の盟主的地位にあった。伊予国への外征も積極的に行うが、伸長した長宗我部氏の勢いに呑まれて断絶した(Wikipediaより)。

鏡川橋を渡り「とさでん蛍橋停留場」手前を右に逸れ思案橋跡へ
用水路に沿って思案橋へ
とさでんの走る旧国道筋を東進し鏡川を渡る。地図を見ると、とさでん蛍橋停留場の少し手前より右にそれる道筋に「松山街道」と記載され、その先で思案橋に繋がっている。思案橋傍には高知城の西の出口、伊予に繋がる街道始点でもある思案橋番所があったとのことであり、予土往還はこの道筋であったのだろうと蛍橋場手前で道を右に逸れる。
国道を右に逸れると直ぐ、道の左手に用水路。フェンスに遮られた用水路に沿って道なりに東進。 鏡川に架かる新月橋から北に延びる県道37号と交差する西詰めに思案橋跡。半分埋没した状態で残っていた。

思案橋番所跡案内
思案橋
交差点を越えると、水路は道の真ん中を東進。30mほど進んだところに高知城下の案内と共に「思案橋番所」の案内。「歴史の道史跡案内-6  思案橋番所しあんばし ばんしょ  上町5丁目、新月橋の通り周辺には、旧水通町の思案橋や秋葉神社、水丁場の石碑や観音堂など、藩政時代の名残があちらこちらに残っています。
思案橋は城下町の最も西に位置し、町と周辺を区切る水路に架けられた橋です。ここに西出入口として城下三番所の一つである思案橋番所が置かれていました。
橋名の由来は、城下町へ入る際に南の通りにしようか、それとも北の本丁筋にしようか、いっそのこと中央の水通町を通ろうか、と3本の道を前にして思案したため、と伝えられています。ここは、伊予方面への街道筋にあたり、たくさんの旅人が往来したことでしょう。
また、この街道北側には水路が流れています。この清らかな水が流れていることからこの付近は玉水という名で呼ばれていました。この水は城下町に入ると上町ではいろいろな製品を作るために、郭中では生活用水として使われた生活に密着した用水路でした。以来、「水通の川」として地域の人々に親しまれています。なお、小説でも有名な料亭である陽暉楼は、明治期にこの付近にでき、隆盛を極めました。
思案橋番所案内板(水路道)
すぐ近くの鏡川北岸の堤防には、藩政時代の水防活動を物語る水丁場の石碑が現在でも残っています。ここから下町の雑喉場橋までの間を12の区域に分け、武士、町人ともに水防活動にあたりました。
水丁場の石碑のそばには観音堂があります。もとは平安時代の大同2年(807)に井口村(現在の井口町付近)に建てられたと伝えられており、後にこの地に移されました。本尊は十一面観音です。観音堂にはお供え物が絶えることもなく、地元の方々によって大切に祀られています」とある。
案内に「玉水」とあったが、そこには玉水新地と呼ばれる遊郭があったとも。悪所に行こうかどうしよううかと思案した、とは勘ぐり過ぎか。
上町・郭町・下町
高知城下はお城を中心とした重臣が住む郭町、その西の家臣と商人・職人の住む上町、郭町の東の家臣と商人・職人の住む下町に分かれていた。
水丁場
国分川、久万川、鏡川などの河川が織りなすかつての氾濫平野、三角州に立地する高知城下はデルタ地帯故の治水施策が重要であった。
その施策は大きく分けてふたつに分かれる。ひとつは城下の北から浦戸湾に流れ込む河川への治水事業。久万川、国分川、舟入川がこれにあたる。もうひとつは城下町の南を流れる鏡川の対策である。
国分川、舟入川、久万川の治水対策
国分川や舟入川には霞堤とか水越(越流堤)が目につく。これらの堤は洪水を防ぐというより、洪水時には水が堤防を越ることをあらかじめ想定し、その下流を水没させ、中堤(水張堤)により一帯を遊水池とすることを目する。河川上流部を水没されることにより河口部の洪水を抑制し、城下町を護るといった治水施策をとっているようだ。国分川水系の洪水をそのまま河口部まで流すと鏡川などの城下町を流れる川の水位が上がり、逆流現象が起き水が城下に流れ込むのを防ぐこととも意図しているのではないだろうか。
久万川には洪水を防ぐ中堤(水張堤)が見られる。支流からの洪水が久万川に流れ込み久万川の水位が上がるのを防いでいるのだろうか。
洪水に対しては防ぐというよりは、堤防を越水させて遊水池となし、洪水が一挙に流下するのを抑え、それにより下流域の被害を少なく抑える「伊奈流」関東流と呼ばれる越流堤の治水施策となっている。
鏡川の治水対策
一方鏡川の城下町に対する治水対策は極めてシンプルである。洪水になれば鏡川右岸(南側)の堤が決壊し(いざとなれば人為的にでも「切る」)、鏡川の南一帯を水没させることにより、北側の城下町を洪水から防ぐ、というもの。
寛文 元 年(1661 年)から安政4 年(1857 年)の約 200 年間に 17 回、鏡川南岸の潮江堤防の決壊記録が残っている。一方、鏡川北岸の堤防決壊の記録はない。城下町を守るため、鏡川右岸堤防を鏡川左岸堤防なみに強く高く築くことをせず、城下側堤防よりも低く強度もいくらか弱めに築いていたとも言われる。事実、鏡川北岸には下述の上町あたりから「大堤防」、郭中から下町にかけては「郭中堤防」が築かれているが。南岸にはこれといって名前のついた堤防は見当たらない。
水丁場
水丁場標識(高知市の資料より)
上町(家臣と商人・職人)・郭中(城と重臣)・下町(家臣と商人・職人)からなる城下町を12の区画に分け、水帳場と呼ばれる受け持ち区画には標柱が立っていたとある。高知市鷹匠町(柳原橋西)に残る標柱の案内には「この石柱は、江戸時代、鏡川流域の洪水による災害を防ぐために設けられた受け持ちの区域(丁場)の境界を示す標柱です。
西は、上町の観音堂より、東は喉場に至る鏡川沿いの堤防に、この丁場を示す標柱が建てられ、出水時には武士、町人らが協力して、十二に分かれた丁場を十二の組が出動して水防にあたりました。各組の長は家老があたり、その下に組頭がおり、組を率いていました。水丁場には、目盛りをつけた標本も建てられており、これで増水状態を確認しながら、その程度に応じて、出勤の人数を決めていたといわれています。他に同様の標柱が、上町二丁目・上町五丁目にのこっています」とある。標柱には「従是西六丁場、従是東七ノ丁場」 と刻まれる。
上町上流端に中堤(水張堤)、上町と郭中の間には升形堤防と呼ばれる中堤(水張堤)、郭中と上町の間にも中堤(水張堤)、さらにその東、下町の下流端にも比島中堤、宝永堤といった中堤(水張堤)が築かれ城下町への浸水に対処しているようである。

これで伊予の久万高原町の越ノ峠から始めた予土往還、伊予から土佐へと向かったわけだから土佐街道と呼ぶのがいいかとも思うが、その藪の激しい山間部を越え、越知の町から平地を辿り高知城下まで繋いだ。山間部はそれなりに資料もあり、土佐街道を歩いた感はあるが、越知から先、高知まではほんの一部を除き確たる旧路資料がみつからず、ほぼ成り行きで辿るしかなく、なんとなくしっくりこない締めとなってしまった。
当初はその予定はなかったのだが、「確」たる予土往還を歩き街道歩きを締めくくりたいとの思いもあり、調査がなされ旧予土往還の旧路が比定されている伊予の越ノ峠から三坂峠、その先松山まで繋いでみようかと思い始めた。
愛媛県上浮穴郡久万高原町の越ノ峠からはじめた予土往還 土佐街道・松山街道の山越え部も先回で終了。後は仁淀川本流の谷筋の高岡郡越知町横畠の堂ノ岡から高知城下を繋ぐだけとなった。道筋は仁淀川本流に面する横畠の堂ノ岡からはじめ、仁淀川を渡り越知の町に。越知町と高岡郡佐川町の境を画する赤土峠呼ばれる標高140mほどの丘陵(比高差70mほど)を抜けた後は仁淀川水系の谷筋を辿り高岡郡日高村を経て吾川郡いの町に入る。
越知の町より蛇行をくりかえし北流・東進、そして南下してきた仁淀川本流を渡りいの町を抜けると高知市。その先鏡川水系・鏡川本流を渡り高知城下に入り土佐藩の西の番所・思案橋番所に至る。この間、峠越えらしき箇所は赤土峠のみ。それも比高差70mほどの「可愛い」ものであり、その他はいくつかの丘陵はあるものの、概ね平坦な道を進むことになる。
と、ザックリとした道筋を示したが、堂ノ岡から先の予土往還 土佐街道・松山街道に関する詳しい旧道ルート図はみつからない。ルート情報などないものかと途次図書館に立ち寄っては情報を探したのだが、これといった旧路図は見つからなかった。
で、今回のメモは予土往還 土佐街道・松山街道と称するにはちょっと面映い。資料にあった赤土峠は別にして、それ以外のルートは堂ノ岡から高知城下までの間、予土往還 土佐街道・松山街道の道筋にあったと記される越知町、佐川町、いの町を繋いだだけである。
町と町を繋ぐルートは、赤土峠やその他資料にあった僅かなポイントは辿るも、基本松山街道・土佐街道の道筋とされる国道33号を進むことにした。但し途中国道33号の道筋ではあるものの、如何にも丘陵部を堀割った切通し部らしき箇所は丘陵を迂回する道を辿った。その道筋が予土往還 土佐街道・松山街道という根拠はなにもないのだが、往昔牛馬が往来する街道はそれがあまりに遠回りとならないのであれば、雨などふった折のぬかるみの坂道となる丘陵越えは避けて平地を迂回するだろうと思っただけのことである。
また、現国道33号を大きく外れた道筋も辿った。その根拠は幕末の土佐藩松山討伐軍の進軍路。多くの軍勢・小荷駄が進むルートは当時の本道ではないだろうかと妄想したものである。

それにしても山越えを終え里道を辿るこのルートには予土往還 土佐街道・松山街道の資料、里程石といった史跡もほとんど見あたらなかった。同じ予土往還でも土佐北街道はそれなりに史跡や資料が残っていた。土佐北街道は土佐藩主参勤交代の道であったとはいうものの、この差の因は何なんだろう。
また予土往還の伊予側には久万高原町から松山までの里道(途中、片峠の三坂峠はあるが)については予算がついてのこととは思うが調査がなされ結構な史跡が残っている。この差も結構気になる。
藩政時代の土佐藩は人々の往来に厳しい制限を課し、公用以外の旅を認めることはなかったようである。公用であっても宿は指定され、江戸時代中期頃まで一般の人々向けの旅籠などもなかったと言われる。特に他藩との往来は厳しく制限されており、ために往還道利用者は極めて限られていたとのこと。このような土佐藩の政策も予土往還に関する資料が少ない一因だろうか。
とは言え、堂ノ岡から鈴ヶ峠までの予土往還の資料の充実ぶりと、その他の土佐藩内の資料の少なさ、そのギャップの因は何なのだろう。国の予算がつけば、その他の往還道も浮かび上がるのだろうか、それとも資料はあるが単に見付けられなかっただけなのだろうか。疑問がグルグルとループする。
ともあれ、大雑把というか確たるものではないのだが、予土往還 土佐街道・松山街道の山越え部をクリアした地より高知の城下までを2回に分けてトレースする。今回は堂ノ岡から越知の町を抜け、赤土峠を越えて佐川に。そしてその先、高岡郡日高村までをメモする。



本日のルート;
郡越知町町横畠の堂ノ岡から高岡郡日高町へ:
堂ノ岡から越知の町へ
高岡郡越知町横畠の堂ノ岡>今成トンネル手前を左に逸れる>中仁淀橋(沈下橋)>三つ尾の渡し跡>越知の町
高岡郡越知町から高岡郡佐川町へ
国道494号(国道33号)から旧国道分岐点>赤土峠>旧国道を逸れ土径に>川内ケ谷集落に道標>旧国道と国道合流点に石碑>佐川の町
高岡郡佐川町から高岡郡日高村へ
県道302号を右折し県道296号に>県道297号を海津見神社へ>土佐加茂駅を越え高岡郡日高村に

高岡郡越知町町横畠の堂ノ岡から高岡郡日高町へ

堂ノ岡から越知の町へ

高岡郡越知町横畠の堂ノ岡
予土往還の山越え部を終えた横畠の堂ノ岡より高知へと向かう。この地より山越え・鈴ヶ峠までは国の予算のもと、標識・史跡案内など予土往還のルート案内は整備されていたが、山越えを終え高知城下までの往還ルートは越知町と佐川町の境にある赤土峠を越える以外、はっきりした資料は見つからなかった。取敢えず成り行き任せで越知の町へと県道18号を進む。


今成トンネル手前を左に逸れる
今成トンネル手前を左に逸れる
県道18号を進むと今成トンネルがある。このトンネルの竣工は昭和58年1983)11月、初通過平成2年(1990)年とのこと。またトンネルを抜けた先、仁淀川に架かる横倉橋の開通は昭和63年(1988)と言う。この道筋が往昔の予土往還とは思えない。
と、今成トンネル手前に県道18号から左に逸れる道がある。道は仁淀川が大きく迂回する南に突き出た平坦地を南東に進み仁淀川を渡る。地図には中仁淀橋(沈下橋)とある。この道が予土往還であろうと道を進む。
今成
『土佐地名往来』には今成の由来として「「今」はもともと「新たに」という意味。今成は川の 蛇行地点に形成された河岸段丘。新たにできた土地の意」とある。

中仁淀橋(沈下橋)
橋の幅は対向通過できないこともないが、橋桁がないのが沈下橋。ちょっと怖いため、対岸に対向車がいなことを確認し沈下橋を渡る。
橋を渡り終えると途次幾度か出合った「旧松山街道」「旧松山街道まっぷ」が立つ。オンコースを確認。で、なにか往還道の目安などないものかと案内マップを見るが、越知の町を抜け赤土峠への道筋は概略表示のみ。成り行きで進むしかないようだ。

三つ尾の渡し跡
が、有り難い情報がひとつ。「松山街道まっぷ」に沈下橋南詰め傍に「三つ尾の渡し」の案内。「明治時代から舟運が発達し、越知町の市街地には上・中・下の3カ所に渡しがあった。下渡しは、旧松山街道の要で「三つ尾の渡し」とも呼ばれ通行量が多かった。
郡道開通予定に伴い中渡しが発展し、大正8年に下渡しは閉鎖されたが、往時を忍ぶ有志により記念碑が建てられている。その後、県道昇格により、昭和31年中渡しに沈下橋が完成した」とある。 


中渡しであった現在地より記念碑のあると言う「下渡し」に向かう。
少し東に歩くと「史跡 三尾の渡し」と刻まれた石碑。「昔仁淀川本流坂折川柳瀬川は現在の今成で合流し柴尾宇田(今成)と柳瀬川を挟んで越知村は北方に及んだ雑木林であった。
文明四年八月(一四七三)仁淀川の大洪水は妙見より南下し坂折川と合し越知村の北部と宇田を押流し未曾有の大惨事と供にに流勢を現在の如く変更した。それ以前の流が三ツの尾の形に似た所から越知を三尾村とも呼ばた。而して此処下渡しは高知松山の二大城下を結ぶ大街道の中間に位し舟運との交差点で往來物資の集散船場として繁栄し三ッ尾の渡しは有名な渡船場であった」とあった。
柳瀬川は沈下橋の下流、坂折川は地図には大桐川と記されていた。妙見の地名は地図にないが、今成トンネルをぬけた横倉橋傍に星神社がある。星と言えば妙見さんではなかろうかとチェック。この社に祀られる天之御中主神は、近世において天の中央の神ということから北極星の神格化である妙見菩薩と習合されたもの、とある。妙見さんとして一般の信仰の対象になったのだろう。なお、現在、天之御中主神を祀る神社の多くは、妙見社が明治期の神仏分離・廃仏毀釈運動の際に天之御中主神を祭神とする神社となったものとされる。案内に「妙見より南下し」とある妙見とはこの星神社のある辺りのことだろう。

越知の町
旧大川薬舗
谷脇旅館
三つ尾の渡し跡より沈下橋南詰めに戻り、越知の町並みへと成り行きで入る。昭和初期に建てられたと言われる旧大川薬舗(雛祭りの時期には明治・大正期の雛人形が飾られる、とか)、大正初期創業の谷脇旅館などが建つが、案内にあった往来物資集散船場として繁栄した往時の名残りを留めるそれらしき「町並み」は特段認められなかった。
ついでのことではあるので、越知の町に建つ峰興寺を訪ねることにした。堂ノ岡から薬師堂集落へと予土往還を辿る途次に出合った「峰興寺植樹林石碑」をきっかけにあれこれメモしたお寺さまである。国道494号との共有区間となっている国道33号を越え、町の南端、山地が平地に落ちる山裾に峰興寺が建っていた。
峰興寺
五輪塔群
本堂にお参り。本堂横に幾多の五輪塔が並び、十三重石塔も建つ。「峰興寺縁起」には「当寺はもと松山市豊田臨済宗妙心寺派興禅寺であり、寛永十二年中開祖密山演静大禅師 三河の国より迎え開山したと伝ふ、開基は徳川家康の異母弟松平定行*眞常院殿道賢勝山大居士である。松山藩主の菩提寺提寺として栄えていたが継新のあと起こった廃仏毀釈で衰退、名跡を惜しみときの佛海禅師 明治中頃官許を得て土佐越知町往古の寺屋敷に移転再建したもので県内外の信仰は智恵文殊である」とあった。
予土往還を歩きながら峰興寺にフックが掛ったのは、何故に松山からこの地に?ということ。その時のメモには;
「峰興寺 なぜ松山から高知の越知に?
越知は伊予の豪族越智氏の流れが南北朝時代、この越知一帯を支配していた、という。また峰興寺が再建された地にはかつて越智氏の菩提寺・円福寺が建っていたとの記事もあった。峰興寺が再建された越知の地が伊予と繋がりがあった、ということだけはわかったが、この地に再建された経緯は不詳。
十三重石塔(右端)

本尊の智慧の文殊菩薩への県内外からの信仰篤く、加持祈祷の専門道場として名高いというから、再建への動機は十分にあったようには思える」と記していた。
なお、境内に並ぶ幾多の五輪塔は南北朝から室町にかけてのものと言う。当時この地には古刹・円福寺が建っていたとのこと。縁起にある寺屋敷跡とは円福寺跡ということだろう(円福寺は文化年間(1804~1817年)の頃には既に越知の西、横倉山に退転していたとのこと)。五輪塔に使われる花崗岩はこの近辺にはなく遠く山陽路に求めなければならない。円福寺は越智氏の菩提寺とも言われるが(異説もある)、とすれば遠路、陸路・海路を運び建立する「力」があったと言うことだろう。
伊予の越智氏と土佐の越智氏
越智氏と言えば、堂ノ岡の旧松山街道の取り付き口に建つ仁井田五所神社も越智氏との関係浅からぬ社。最初に仁井田神社に出合ったのは土佐の遍路歩きの折、高知市仁井田であった。地名ともなっているその地に立派な仁井田神社があった。
その由緒などをチェックすると、『四万十町地名辞典』に、「仁井田」の由来については、浦戸湾に浮かぶツヅキ島に仁井田神社があり、由緒書きには次のように書かれてある、とする。
伊予の小千(後の越智)氏の祖、小千玉澄公が訳あって、土佐に来た際、現在の御畳瀬(私注;浦戸湾西岸の長浜の東端)付近に上陸。その後神託を得て窪川に移住し、先祖神六柱を五社に祀り、仁井田五社明神と称したという。
神託を得て窪川に移住とは?、『四万十町地名辞典』には続けて、「『高知県神社明細帳』の高岡神社の段に、伊予から土佐に来た玉澄が「高キ岡山ノ端ニ佳キ宮所アルベシ」の神勅により「海浜ノ石ヲ二個投ゲ石ノ止マル所ニ宮地」を探し進み「白髪ノ老翁」に会う。「予ハ仁井ト云モノナリ(中略)相伴ヒテ此仕出原山」に鎮奉しよう。この仁井翁、仁井の墾田から、「仁井田」となり。この玉澄、勧請の神社を仁井田大明神と言われるようになったとある」と記す。
仕出原山とは窪川の高岡神社(仁井田五社明神;四国遍路37番札所岩本寺の元札所)が鎮座する山。仁井田の由来は「仁井翁に出合い里の墾田」とする。
仁井田の由来については、伊予の小千玉澄公は『窪川歴史』に新田橘四郎玉澄とあるわけで、普通に考えれば仁井田は、「新田」橘四郎玉澄からの転化でろうと思うのだが、仁井翁を介在させることにより、より有難味を出そうとしたのだろうか。
それはともあれ、仁井田神社も伊予・越智氏とは深い関係があったことがわかる。とはいえ、土佐には33社ほどの仁井田神社があるわけで、越知が越智氏と深い関係があったとしても、何故峰興寺がこの越知に再建されたかは不明のままではある。
横倉山
横倉山(左)
上で円福寺が移ったとメモした横倉山。予土往還の途次出合った「合中(あいなか);八里塚と九里塚の真ん中。清水村と栂森村の街道普請の境の目安として置かれた」の実物標石を求めて横倉山自然の森博物館に出向いたのだが、この横倉山が修験の聖地であると共に、平家落人伝説の地でもあった。山麓上り口には「安徳天皇越知町陵墓」の石碑が建ち、山には「安徳天皇越知陵墓参考地」もある。安徳天皇が壇ノ浦で入水することなくこの地に逃れて来たと言う。横倉山自然の森博物館は安徳天皇の逃避行途次の行宮など伝説を「裏打ち」する資料が多く展示されていた。また山裾には仁井田神社も建っていた。

高岡郡越知町から高岡郡佐川町へ

越知の町を離れ佐川町との境を画する赤土峠へと向かう。峠とはいい条、標高140mほどの丘陵であり、国道494号と分岐する旧道からの比高差70mほど。道は舗装されており、Google Street Viewでチェックすると旧道は舗装されている。赤土峠の下を抜く国道494号(国道33号)赤土トンネルの完成は昭和33年(1958年)とされるから、それ以前の越知と佐川の往来はこの旧道で成っていたのだろうか。とはいえ道幅は車一台ギリギリ。上述赤土トンネル開削計画は昭和22年(1947)にはじまっているようであるから、その頃には越知と佐川の往来は車馬から車往来へと替わり始めていたのだろう。
赤土トンネル
昭和22年9月に赤土トンネル開さくが計画され、昭和26年1月に県営着工と決定され、佐川側トンネル入り口までの道路の付け替え工事が始まった。昭和27年5月に県営から国営に切り替え着手、佐川側南取り合わせ道路1,330m、幅員7.5mを昭和27年度に完成した。昭和28年度から越知町側北取り合わせ道路延長1,370mを完成させ、トンネル工事を南北入口から同時着工し、昭和33年4月に赤土トンネルが開通した。延長385mで、電灯が10m間隔に設置された。トンネル開通により、佐川~越知間は1.4km短縮された(「四国社会資本アーカイブス」より)。
赤土峠の道路改修は難工事であったよう。着工から開通まで7年近くかかっている。

赤土峠越え

国道494号(国道33号)から旧国道に入る
国道から右に逸れる
赤土峠へと越知の町を離れ国道を山間部へと進むと直ぐ右に分岐する箇所がある。曲がりくねった道を久万目川左岸を進むと行政区は越知町から佐川町に変わる。




石仏と「四国のみち」標識
三面石仏
国道からの合流点の「四国のみち」標識
分岐点から道を1キロ強歩き高度を50mほど上げると道の右手に三面石仏がある。摩耗が激しく文字は読めないが道中の無事を祈る、三面馬頭観音だろうか。なんとなくこの道筋が旧道であることを実感する。
その先直ぐ「四国のみち」の木標。国道から繋がっている。こちらが旧国道?わからない。また直ぐ先にも「四国のみち」の標識。これは赤土峠へと案内しているようだ。

赤土峠
ほどなく赤土峠。道脇に重機や車の置かれた作業小屋があり鞍部といった雰囲気はない。道の右手に石碑や案内板、小祠が建つ。案内には「脱藩志士集合之地」とあり、「元治元年(1864)、死を決した血盟の佐川勤王党五士が脱藩のため習合した地である。昭和14年(1939)この地に記念碑が建てられ、題字「脱藩志士集合之地」は元13代佐川領主男爵、深尾隆太郎の筆である。
題字の上に 
まごころの あかつち坂に まちあはせ いきてかへらぬ 誓なしてき
の青山 田中光顕の詩吟は、志士の心中をあますことなく伝えている」とあった。

青山は田中光顕の号。田中光顕の初名は浜田辰弥。土佐藩脱藩に際して田中光顕と改名したと言う。幕末、御一新の後も活躍し正二位、宮内大臣へと上る。

なお脱藩五士は浜田辰弥(田中光顕)の他大橋慎三、片岡利和、山中安敬と井原応輔。御一新後、大橋慎三は太政官大議生、片岡利和は侍従、山中安敬は宮中の雑掌となるも、ひとり井原応輔は元治二年(1865)中国諸国を遊説中、賊と間違われ自刃して果てた、と。

旧国道を逸れ土径に
木に括られた赤いリボン
旧国道から逸れる土径下り口
赤土峠を離れ先に進み、、立野川がつくる東西へと続く谷筋・丘陵南麓へと廻り込む。道を少し東に進むと道の右手の谷川に唐突に木に括られた赤いリボンが見える。旧道から逸れるルート?などと辺りを見渡すが切り立った崖でとても歩けそうもない。
このリボンって何だろう、何か意味がなどと辺りを彷徨うとリボンの少し東に旧道を逸れて里へと下る急坂の土径があった。

川内ケ谷集落に道標
赤土トンネル開削のため旧道の改修工事は佐川側トンネル入り口まで1.3キロほど新たに造られたというから、旧国道はここより更に東に進み中岡神社の先で南に折れ大乗院の西の道を現国道へと繋がっていたのでは、とは妄想するのだが、この土径がなんだか気になる。旧道開通以前の予土往還ではと思い込み急坂を下ることにした。

土径ヵら里に下りる

越知道・山室道と刻まれた道標

5,6分急坂を下ると直ぐに集落に出る。集落の道を成り行きで進むと道標があり「*大*記念 右越知道 左山室道」とある。山室はこの地の西、山越えの先大樽谷川の最奥部にその地名が見える。道標があるということは、往昔この地を通る道があったということだろう。ひょっとすると往昔の予土往還の道筋?とひとり納得する。
道標から先はこれまた成り行きで立野川を越え国道に出る。

旧国道(?)と国道合流点に石碑
旧国道(?)と国道合流点に石碑
国道に繋がる旧国道
国道を少し東に進むと旧道と妄想した道筋が現国道に合流する箇所に至る。その角には結構新しい石碑が建ち「大乗院 国指定重要文化財 仏像 / 脱藩志士集合の地 町指定文化財 千八百米峠 佐川町教育委員会 平成七年三月建立」と記される。
「脱藩志士集合の地」は赤土峠だろう。この石碑により、大乗院の西を進み山麓の中岡神社をへて赤土峠へと続く道が旧国道であったろうとの妄想は、ひょっとするとあたっていたのかもしれない。
大乗院
旧国道筋の大乗寺への標識
実物を見れるとも思えないが「国指定重要文化財」を有したお寺さまてどんな風情とちょっと立ち寄り。道を少し戻り「大乗院」と記された木標を右に折れ、民家の奥まったところにぽつんと古寂びた堂宇が建っていた。境内の力石など見遣り、薬師堂にお参り。境内にあった案内には「大乗院は、中世初期(1193)太政大臣藤原師長の末子、藤原中山信恒がこの地の守護代として都より入り、高吾北にその霸を称えていた時代に、その中山氏の建立によるものと伝えられ、当時は壮大な寺構を持つ大伽藍寺であり、12の末寺を領有し高吾北地方の鎮護の要として祭政の中心的存在であったと伝承されている。

「本尊」 薬師如来(座高八六・五糎、寄木造、結跏趺坐座 「脇仏」日光・月光菩薩(像高一〇五糎)は共に鎌倉時代の名仏師快慶の作であるとされ、高吾北唯一の国指定の重要文化財である。また、眷属の「十二神将」は、高知県下に珍しく、その数が揃っており、それぞれ七千の部下をもって本尊護衛の任に当たるとされており佐川町指定の重要文化財である。
中世近世共に修験宗を教義としていたが、明治初年天台宗となり、現在は天台宗井寺門派園城寺法類となっている。
本寺はこうした由来をもち、土佐中世史にその名を留めた大伽藍であったが、守護代藤原中山氏の没落と共に戦国時代の兵乱に焼かれ、新仏教の進出に抑され、薬師堂のみ再建され今日に至っている」とあった。
修験の名残は霊峰横倉剣峰山での大修法については数々の伝承があり、いまだに高吾北各地に語り伝えられているとのことである。

佐川の町
旧国道33号(?)合流点より現国道33号を進む。現国道は佐川の町を迂回し柳瀬川、春日川を跨ぎバイパス道として佐川トンネルに入る。佐川トンネルの着工・竣工は昭和47年(1972)6月~昭和48年(1973)8月とのこと。これは旧国道ではない。
地図を見ると、国道494号が南に折れるT字路を越えた先、国道から右に逸れて佐川市街に入る道がある。旧国道筋であろうと、右に逸れて柳瀬川を渡り盆地状谷底平坦地を進み、柳瀬川支流・春日川に沿って佐川の中心部に向かう。
佐川の地形
複雑に丘陵・低地が入り組む佐川盆地
佐川町域は、四国山地の支脈である虚空蔵山(674.7m)、勝森(544.8m)、蟠蛇が森(769.2m)などの山に囲まれた中央が盆地状となった地形で、盆地内には丘陵や低山と佐川、斗賀野・永野・尾川・黒岩の各平坦地からなっている。
丘陵の尾根や盆地周辺の山脚は、東西、南北方向へと複雑に並び、その間に柳瀬川や春日川による谷底平坦地が形成されている。また、平坦地も東西・南北方向へと、丘陵を横切る幅広い平坦地が広がっている。この佐川町の地形は日本では代表的な構造盆地と言われる。
構造盆地
構造盆地(こうぞうぼんち、tectonic basin、structural basin)は、プレート運動により、本来は平坦であった岩石層が、歪力を受けて形成される、大規模な地質構造のひとつである。 構造盆地は、上記の力により生じた沈降地域であり、同じ原因により隆起した場所が、背斜などのドーム状地形である(「Weblio」辞書より)。に
佐川の旧市街

丘陵突端部により東西を挟まれた春日川谷筋右岸を南下し、その丘陵が南北を遮るところから、谷筋を東に向かい佐川の旧市街に入る。土佐街道と地図に記された道の一筋南に「酒蔵の道」の案内。往時の家並が残るとのこと。ちょっと立ち寄り。


旧浜口家住宅
入ると直ぐ白壁の旧家。旧浜口家住宅。江戸の頃酒屋であったが平成25年(2103)観光施設として改装された、と。
名教館
道の対面に名教館。安永元年(1772年)、ときの領主、六代領主 深尾重茂澄が家塾「名教館」を創設。後に享和二年(1802年)七代繁寛がこれを拡充して郷校とした。この名教館は明治維新に再開して多数の先覚者を輩出している。
その後「名教館」の玄関部分を明治20年(1887)に佐川尋常小学校(現佐川小学校)に移築。平成26年上町地区に再移築され、「文教のまち」佐川のシンボルとなっている。上述田中光顕や植物学者牧野富太郎もこの学舎で学んでいる。
司牡丹の工場
道を進むと清酒司牡丹の工場が道を挟んで南北に続く。85mほどもある堂々とした酒蔵は結構、いい。歴史は古く、深尾氏が佐川領主となった折、深尾氏に従って佐川へ来た名字帯刀を許された御用商人のうち、酒造りを業といする「御酒屋」をそのはじまりとする。
佐川町出身、元宮内大臣田中光顕伯は、佐川の酒を愛飲し、「天下の芳醇なり、今後は酒の王たるべし」と激励の一筆を寄せ、「司牡丹」と命名され、司牡丹酒造となった、とのこと。「牡丹は百花の王、さらに牡丹の中の司たるべし」ということである。水は土讃線佐川駅前で春日川に注ぐ谷筋の伏流水を使っている、とあった。
竹下家
その先には重要有形文化財竹下家。江戸の頃の呉服商。土佐の西部では唯一の絹織商として栄えた、と。
青源寺
佐川は土佐藩筆頭家老・深尾氏の領地である。佐川と深尾氏の関係を始めて知ったのは、予土往還の途次、土佐藩の松山征討軍の副総督として、征討軍副総督に佐川家老深尾刑部の名があり、村人は「佐川様」と呼んでいたことに因する。
あれこれチェックすると、深尾氏は土岐氏、斎藤氏、織田氏に仕えた後、掛川藩主山内一豊に招かれ、慶長6年(1601)一豊が土佐の新国主となった折、国内要所に重臣を配し領内支配体制を整えたが、筆頭家老深尾重良は佐川城一万石の領主に封ぜられた。以来、その絶大な権力ゆえに藩主との軋轢も生じながらも、明治 2 年(1869)の版籍奉還に伴う土佐藩消滅まで、土佐藩筆頭家老としてで存続した。なお、深尾家は佐川本家のほか、高知城下に居住していた分家が四家あり、この五家が土佐藩中枢12名の約半数を占めていたとのことである。
藩主家から迎えた養子が二代目領主となったことも相まって、江戸初期にさまざまな特権が与えられた。それはまるで、土佐藩の中に別の小藩が存在するかのような状況であった、とも。
酒蔵の道の少し南に深尾氏の菩提氏である青源寺がある。落ち着いた佇まいのお寺さま。三門へのアプローチが誠に、いい。
お寺様の案内には「県指定名勝 青源寺庭園 (昭和三十一年二月七日指定) 青源寺は臨済宗妙心寺派寺院で、山号は龍淵山。
当山は慶長八年(一六〇三) 土佐藩主山内一豊に招かれ入国した丈林和尚を開山(初代和尚)に拝請し、佐川領主深尾家の菩提寺として創建された。
享保十三年(一七二八)の大火で建物は山門を残し悉く焼失、現在の庫裏は同十六年に、本堂は明和三年(一七六六)に、観音堂は文化十二年(一八一五)に再建されたものである。 当山の様々な寺歴の内、明治初頭の苛酷な廃仏稀釈に対して身命を賭して法灯と伽藍を護り抜いた十三世愚仲和尚の奮闘は偉大でこの功績により廃絶をまぬがれ、現在の堂宇が今日に伝えられた。
庭園については縁起の記録はなく、築堤の時期について二説あり、一つは当山創建時に作庭されものとする説と、伽藍の再建時に作庭されたとの説があるが、諸寺歴等からの推定により今日では寺創建時つまり江戸初期の築庭と考えられている。以来、長い年月の間に修築がなされたものと思われる。
書院正面の岸壁がこの庭の主題とされていて、山側南端の空滝石組みから池につながる景観とで構成された枯淡な庭園である。
池は築庭後一部縮小されており、二つの池の庭とみられているが、北側の池は昭和初期に新しく掘られたものである。
昭和十年に文部省の指定名勝、昭和三十一年より高知県指定名勝に移行している。土佐三名園の一つである。平成二十五年十二号一日 佐川町教育委員会」とある。
青山文庫
青山文庫は、名前に「文庫」とついているため図書館と間違われるようだが、坂本龍馬・中岡慎太郎・武市瑞山らの維新関係資料や、江戸時代に佐川の領主であった土佐藩筆頭家老深尾家の資料などを展示している博物館。
幕末維新の生き証人であった、佐川町出身の元宮内大臣田中光顕(みつあき)が収集した志士たちの書状や画などの遺墨コレクションを中核に、主に近世・近代の歴史資料を収蔵している(「佐川町」資料より)。
牧野公園
青山文庫の周囲には牧野公園が整備されている。牧野公園は、佐川町出身の植物学者・牧野富太郎博士により贈られたソメイヨシノの苗を植えたことを契機に桜の名所として整備され、昭和33年(1958)に公園内の町道が完成したときに「牧野公園」と称することとなった。
平成20年(2008)からは公園の桜が老木となったことから、地域住民で桜を蘇らそうと、古い桜の伐採をおこない、リニューアルを進めている。
中腹には、佐川の偉人牧野富太郎と田中光顕の墓がある(「佐川町」資料より)。
公園の南端には深尾城跡があるようだが、時間がなくなりそうでありパスした。さらっと歩いただけではあるが、佐川の町は土佐藩最大の実力者深尾氏の領地として落ちついた街並みとなっていた。
佐川の由来
佐川の由来は「逆川」に拠る、との説がある。その因は、通常南流する川の流れが、春日川は逆に北流するためとする。とは言うものの柳瀬川も北流するわけであり、仁淀川でさえだ蛇行し北流するわけで、今ひとつしっくりこない。佐川の由来として、「川幅が狭い狭川、川が流れ下る坂川、集落の境になる 境川、川が普通と逆に流れる逆川」などがある。佐川の由来は何だろう。

高岡郡佐川町から高岡郡日高村へ


霧生関坂を通る現国道33号筋の地形
佐川から日高村へ向かう。地図には現在国道33号に土佐街道・松山街道と記される。がそのルートを眺めていると途中に霧生関トンネル(70m)があり、その着工が昭和34年(1959)4月、完成が昭和36年(1961)4月とある。そしてこの霧生関坂の改修とトンネル工事が、赤土峠のそれと同様、佐川地区の国道33号の改修工事の最大の工事であった、という。そんな難所を平地の往還道として使用していたのであろうか。ちょっと気になりチェックする。
国道33号の前身、県道高知松山線は明治17年(1884)に県道開削の議が起き、翌18年(1985)に決議された。が、当初の計画では県道ルートは現在の国道33号筋ではなく、丘陵の北、東の日高村より土讃線に沿って走る県道287号から298号に乗り換え庄田を経て越知を結ぶもので、佐川が外されてていた。
このルート選定の因は難所である霧生関坂。ために佐川の篤志家が私財を当時、霧生関坂を切り下げるなどの努力の結果、佐川を通る県道ルートは現在の国道33号と決まった。 が、往昔の予土往還としては難所霧生関坂を通るこのルートはなんとなくしっくりこない。 当初県道高知松山線として計画された現在の県道297号筋ではないだろうか。県道として計画されたということは道を開くにそれほどの難所がなかったということで予土往還としては違和感がないのだが、その他にもう少し確としたエビデンスがないだろうか? 

加茂下山通り(県道297号筋)の地形
チェックすると、『幕末・土州松山征伐進軍記録(山崎善敬)』のP127にに征討総督深尾左馬之助が率いる土佐本藩の軍勢は加茂下山通り(県道297号筋)を進軍し、越知を本陣とした佐川領の軍勢と合流した、とある。小荷駄や大砲を運ぶ軍勢が選んだ道であればそれほどの難路であったとは思えない。平地の往還として違和感ない。
また、土佐加茂駅近くの海津見神社に「宇治谷川の一枚大岩橋」があり、その一枚大岩は松山街道の宇治谷川に架かっていたとある。
どうも往昔の予土往還は現在地図に土佐街道・松山街道と記される国道33号筋ではなく、県道297号筋のように思える。ということで、予土往還として県道297号を辿ることにした。

県道302号を右折し県道296号から287号へ
土讃線に沿って県道287号切通部を進む
切通し部は日下川源東部
佐川の中心部から春日川左岸・県道302号を下流へと少し道を戻り柳瀬川手前で県道296号を右折する。
柳瀬川右岸を少し下ると国道494号とクロス。その先道なりに県道297号に入る。土讃線西佐川駅を越えると下山。上述、土佐藩松山征討軍が進んだと言われる下山通り由来の地であろう。土佐藩松山征討軍は下山で県道297号と分かれる県道298号を庄山を経て越知へと向かったのであろう。
県道298号をわけた県道297号は切通部を土讃線にそって緩やかにくだってゆく。県道297号分岐を越える辺りは柳瀬川と日下川の分水界。境界差は5mほど。分水界の東は日下川の源流域。

県道297号を海津見神社へ
海津見神社と一枚大岩
土讃線、県道297号に沿って東進する。土讃線土佐加茂駅の手前に海津見(わたつみ)神社
その境内に上述「宇治谷川の一枚大岩橋」がある。その案内に「この大石を用いた橋は、江戸時代の終わりごろ、加茂地区を通り高知から松山に通じる松山街道の宇治谷川に架けられていたもので、「一枚岩の大石橋」として旅人や道行く人々により広く世間に知らされていた。
この巨石は加茂本村の山中で発見され、大型機械の無かった時代、多くの村人が駆り出さ れ、力を合わせ運び出されて架けられた。死者も出たといわれるこの難工事を、見事に完成させた住民の苦労がしのばれるが、同時に、この大石橋は当時の道路事情を物語る証としても貴重なものである。
右の側面に竣工した「嘉永四年(1851)辛亥春成」の文字が刻まれている」とある。はっきり「松山街道」と記されている。

土佐加茂駅を越えると高岡郡佐川町を離れ高岡郡日高村に入る



堂ノ岡から「道分れ」へ(Google Earthで作成)
予土往還 土佐街道・松山街道散歩もこれで9回目。思えば、四国遍路歩きの途次、愛媛の久万高原町越ノ峠で偶々「土佐街道」の標識に出合ったことがすべてのはじまり。それから数年を経て高知から愛媛の川之江に抜ける「土佐北街道」の全行程をトレースした後、「土佐街道」つながり、というわけでもないのだが、ついでのことではあるので遍路道の途次に出合った「土佐街道」、松山から高知に抜けるもうひとつの予土往還もトレースしてみようと歩きはじめたわけである。
先回は仁淀川水系土居川の谷筋・池川の町のほど近く、狩山川を渡河し見ノ越から尾根筋に取り付き鈴ヶ峠までを繋いだ。今回から二回に分けて仁淀川本流の谷筋、高知県高岡郡越知町横畠の堂ノ岡から鈴ヶ峠を繋ごうと思う。

当初鈴ヶ峠から仁淀川本流の谷筋・横畠の堂ノ岡へと下ろうかと、鈴ヶ峠へ近くまで車を寄せ得るルートをチェックし、Google Street Viewで鈴ヶ峠近くの峯岩戸集落まで車を寄せ得ることを確認したのだが、結局仁淀川本流谷筋の堂ノ岡から鈴ヶ峠を繋ぐことにした。
その因のひとつは、このルートは10キロ強あり、ピストン往復で20キロ。痛めた膝を考えれば、このルートをカバーするには2回に分ける必要があり、鈴ヶ峠からこのルートのほぼ中間点にある薬師堂地区までと、薬師堂から仁淀川谷筋の堂ノ岡とするのがよさそう。が、鈴ヶ峠から薬師堂までの道の状態がはっきりしないため、日没・夜間彷徨はもう勘弁と、怖がりの我が身としては取り付き口にルート案内図が立つと言う堂ノ岡側で情報を集め鈴ヶ峠へと繋ぐことにしたわけである。 で、今回は堂ノ岡からスタートし薬師堂集落の少し先、予土往還が車道から分かれ山道に入る「道分れ」地点までカバーした。その距離5キロほど。国の予算のもと標識はきちんと整備され、道に迷うことはなかった。
ルートの概要は取り付き口から2.6キロほど焼坂と呼ばれる坂を2時間半ほどかけて高度を350mほど上げ、尾根筋に乗り樺休場に至る。そこから薬師堂集落までの1.5キロは少々のアップダウンはあるもののほぼ水平道。1時間半弱で地蔵堂集落に着く。薬師堂集落から「道分れ」と称される、車道より逸れて鈴ヶ峠へと向かう分岐点までは距離は500m。大山祇神社に寄り道しても20分程度。往路で4時間、復路は3時間半で歩けた。
道の状態は樺休場までの焼坂は、取り付き口からすぐ2箇所とその先で1カ所強烈な藪があるが、それ以外は踏まれた道、薄い藪道、農道を標識に従って歩けば道に迷うことはない。強烈な藪の箇所も、旧松山街道と何度も交差しながら蛇行し山に上る舗装道を迂回してもそれほど距離が長くなるわけでもなく、藪漕ぎ好きの方でなければ舗装道を歩くことをお勧めする。
樺休場から先は少々荒れてはいるが、分岐もなくはっきりした道筋を辿れば、これも道に迷うことはなく薬師堂集落に着く。薬師堂集落から「道分れ」までは完全舗の一本道となっている。

取り付き口の堂ノ岡にはルートに関する情報が記された「松山街道散策まっぷ」も立ち、安心して道をトレースすることができた。途地上述のとおり藪漕ぎ箇所もあったが、舗装道が傍を走っており気分的には随分と楽な藪漕ぎではあった。その後は仁淀川の流れを眼下に、その美しい眺めを楽むこともできた。
長かった予土往還の山越え箇所も鈴ヶ峠から仁淀川の谷筋の高岡郡越知町横畠の堂ノ岡まで繋げばほぼ終了。越知と佐川の町の間には脱藩志士の碑が建つ赤土峠があるが、地図でみる限りそれほどキツそうではない。その先は佐川からいの町をへて高知へと平地を進むだけかと思う。予土往還 土佐街道・松山街道 の難関部・山越え箇所クリアもあと一息となった。ともあれ、メモをはじめる。



本日のルート;高岡郡越知町横畠・堂ノ岡の旧松山街道取り付き口>「旧松山街道」標識>標識1(焼坂)>標識2(坂本)・焼坂案内板>標識3(野稲ヶ窪)>標識4>標識5(焼坂)と焼坂遺跡案内板>標識6(西ノ向)>標識7>標識8(クツ打場)>標識9;靴打場>標識10>八里塚の石碑>標識11>標識12(宮ノ下)・茶店跡案内板>標識13>標識14>標識15(野岩)>標識16(石佛之下>標識17(大谷水源)>標識18>標識19(樺休場)・「樺休場」案内>峰興寺植樹林石碑>合中(あいなか)>壱口水>石畳標識>標識20(石神)>薬師堂集落>キリスト教会碑・大山祇神社参道>大山祇神社>標識21>道分れ

堂ノ岡から「道分れ」へ

高岡郡越知町横畠・堂ノ岡の旧松山街道取り付き口
田舎の愛媛県新居浜市から国道194号線を走り全長5キロ強の寒風山トンネルを抜け高知県の山間部を南下。上八川川が仁淀川に合流する吾川郡いの町柳瀬で県道18号に乗り換え仁淀川に沿って東進し高岡郡越知町横畠の堂ノ岡にある松山街道取り付き口に向かう。目印は仁井田神社。
しばらく走り、県道左手に仁井田神社の社殿と社叢、県道右手に集会所らしき建物があり、その前に広いスペース。「仁井田五所神社」と書かれた標識と鳥居の傍に「松山街道散策まっぷ」や「松山街道」の案内、そして「堂ノ岡」と記された木柱に「旧松山街道」方向を指す標識が立つ。ここが旧松山街道取り付き口だ。ここに車をデポする。
「松山街道散策まっぷ」
「松山街道散策まっぷ」には今から進む旧松山街道のルートとポイントとなる箇所の案内、ポイント間の距離が記される。結構助かる。
ポイントの案内
旧松山街道(私注;番号は「松山街道散策まっぷ」に記されたポイントの番号 )
この道は土佐と伊予とを結ぶ重要な往還で、両国の物償交易・文化の道であり、百姓一揆勢や脱藩志士が命がけで駆けぬけた世直しの道のでもあった。道幅が一間という基準があり、歩道としては広い。石神から樺休場の間には、珍しい石畳が残っている。
鈴ケ峠の燈明台
鈴ケ峠には重要文化財に指定されてもおかしくないと思えるような燈明台が2基建っている。「天晴」という年号が刻まれているが、日本の年号にはない。全国では土佐だけにしか見えない。解説:天晴元年は、慶応3年(1864)。
黒森山(1017m)
越知町横畠と仁淀川町(私注;越知町は高岡郡、仁淀川町は吾川郡)の境界点にある。薬師堂から山頂までの松山街道は3.5km。山頂からの展望は絶景だ。
大山祇神社(町指定文化財)
1879年、今井浅治、今井宗吉、今井友祐の3人の長州大工によって改築された。本殿は鞘堂(私注;建物を覆う覆屋)で囲まれているため、新築同然の状態で保存されている。
清水井手、虎吾堀
この用水路は1860年、生活や農業用水の確保に苦労していた清水・八頭・薬師堂の先覚者「左京義三、左京常吾、山本虎吾、山本広次」が中心となり、稲村谷から清水集落までの約7kmを地元の人約100人が昼夜を問わず掘り続け、1年6ケ月間で完成させたという。その後虎吾は、この水を溜めて使うべく、1反5畝の畑をコツコツ掘り、1887年に用水池を完成させた。平成になり町の事業でパイプラインが埋設された。
八里塚、⑦九里塚、⑧合中
焼坂に自然石に八里塚と書いた道標がある。高知の江口番所から8里であることを示したものだ。樺休場から清水集落の方へ約15分歩いた所には八里塚と九里塚との真中という意味の合中(相中)という石の道標もある。清水村と栂ノ森村とで街道の道普請の境に置いたものであろうか。
ポイント間の距離
下ノ宮(注;現在地)から焼坂を上り⑥八里塚まで1300m>⑥八里塚から樺休場まで1300m>樺休場からひと口水まで250m>ひと口水から石神まで800m(途中石畳)>石神から薬師堂まで400m>薬師堂から道分れまで500m、とある。本日の予定はこの道分れまで。計4550mの行程となる。
次回予定のルートについては
道分れから商人休場まで300m(傍に虎吾堀)>商人休場から稲村分岐まで600m(途中耳切れ)>稲村分岐から⑦九里塚まで500m>⑦九里塚から朽木峠まで500m>朽木峠から②鈴ヶ峠まで①松山街道を経由し1800m(②黒森山まで1200m。そこから鈴ヶ峠までは記載されていない)、と記される。黒森山を経由しない松山街道は3700mとなっている。道分れに車をデポすれば1回でピストン往復できそうだ。
清水の主な出来事と松山街道を通った著名人
「松山街道散策まっぷ」の下部に「清水の主な出来事と松山街道を通った著名人」が記される。唐突に「清水」が現れたが、チェックすると国土地理院地図に薬師堂集落の少し西、横畠展望所あたりに「清水」の地名が載る。清水の主な出来事。。。、の清水とはこの地のことのようにも思えるが、何ゆえにここに清水が登場するのか不詳。それはともあれ案内板には
□ 出来事 「自由は土佐の山間より出ず」という言葉ば、明治15年大山祇神社で行われた自由民権集会場でも筵旗に書かれていたという。
西暦     元号   人物                  出来事
1852 嘉永5   ジョン万一郎  アメリカより帰国のとき、役人11とともに7月11日に高知に着く
1859  安政6   長岡謙吾        医学を学ぶため長崎へ。シーボルトの子供に日本語を教える
1859  安政6     岩崎弥太郎     10月21日、長崎へ行くとき
1864  元治1   勤王志士脱藩   田中光顕ら5人が赤土峠に集合して脱藩
1868  明治1   松山征討    将兵1610人が1月23日、越知で一泊し黒森越えで松山へ進駐
1882   明治15   自由民権集会    5月22日、大山祇神社で「自由は土佐の山間より出ず」という額を掲げ大演説会
1906  明治39年 キリスト教会建つ  9月26日、薬師堂に2階建ての教会が建つ
と記されていた。
ジョン万次郎、勤王志士脱藩、松山征討は鈴ヶ峠で既に出合った。
「旧松山街道」案内板
「松山街道散策まっぷ」の横に「松山街道」案内板
「この道は土佐と伊予を結ぶ重要な往還で道幅が1間(一・八メートル)ありあり、当時としては結構広い。
伊予では、松山から土佐界までの道を土佐街道と呼び、土佐では高知城下から伊予界までを松山街道と言う。
薬師堂は、街道沿いの重要な宿場であり、明治のころは店屋や宿屋が七軒も並んでいたという。
藩政時代の土佐・伊予間の通行にはこの街道が主に利用されており、両国の物質交易や文化のほか百姓一揆や脱藩の志士たちが命がけで駆け抜けた道でもある。 一八五二年にはアメリカから十一人の役人とともに帰国したジョン万次郎、一八五九年には長崎へ行くために岩崎弥太郎や坂本龍馬の右腕といわれる長岡謙吾など、歴史上の著名人もこの街道を使用している。
一八六四年八月十四日には田中光顕、大橋慎三、山中安敬、井原応輔、片岡利和の五人の志士が、堂岡の仁井田五所神社で勤王の大願成就を祈願し、黑森越えで脱藩している。その途中で腹痛を起こした井原は薬師堂の店屋「与市」で馬を借り、黒森まで与市も同行したという。
一八六八年には 土佐藩の兵一六一○人が松山征討に行く時は地元の人たちも街道の広場に集まって見送り、一八八二年に薬師堂の大山祇神社で行われた自由民権集会など世直しの人たちも使用している。
街道は車社会の到来とともに荒れ果てていましたが、二○○八ー二○○九年度に実施した国交省の「新たな公」モデル事業等により「虹色の里横畠」と越知町が主導となって再整備し、登山道として親しまれるようになりました。
この説明板は二○○九年度の「新たな公」モデル事業により「虹色の里横畠」が設置したものです。 二○一○年三月」」と記される。
〇「新たな公」モデル事業
「新たな公」モデル事業って何だ?チェックすると、「「新たな公」とは、国土形成計画(平成20年7月閣議決定)において、今後の地域経営の機軸となるべきものと位置づけられているもので、行政が提供していたサービスを行政に代わって提供していく、というだけではなく、従来行政が行ってこなかったような公共的な仕事(過疎地有償運送等)を行っていくもの、さらには、もともと民間の仕事であったものに公共的な意味を与えて提供するもの(空き店舗を活用した活性化活動等)など、多様な活動に係る「担い手」となるもの。地域づくりに取り組む住民、NPO、商工会、町内会等の多様な主体が「新たな公(こう)」という事だろう。この地においては地域グループ「虹色の里 横畠」がその主体となっているということだろう。
土佐街道の愛媛側は藪道ではあるが、それでもルート調査が実施され標識も充実していた。が、土佐に入ると状況は一変。調査ルートもなく、標識もほぼ皆無といった状態であった。が。この地において標識、案内などが充実して一体なにがおきたのだろうと思っていたのだが、その因がやっとわかった。伊予と土佐の国境、黒滝峠から水ノ峠を経て池川、池川から鈴ヶ峠までも旧土佐街道のルート調査、標識設置などがなされば、いいなあ、とは思うのだけれど、そんなことを望むのは酔狂者の戯言ということだろうか。

「旧松山街道」標識;午前8時7分(標高70m)。・標識1(焼坂):午前8時9分(標高90m)
取り付き口の旧松山街道標識
木柱に「堂ノ岡」と記され、坂をのぼる方向を指す「旧松山街道」標識より街道歩きスタート(午前8時7分)。県道18号から続く舗装された緩やかな坂を上る。道は小型車一台が通れる道幅。その直ぐ先で道はヘアピン状に曲がる。曲がって直ぐ道の右手に標識が立つ(午前8時9分)。

標識1(焼坂)
藪が行く手を阻む
「焼坂」と記された木柱に「樺休場」の標識(便宜上「標識1」とする;以下同じ)に従い舗装道を逸れる。その先は強烈な藪。まさか藪漕ぎをするとは予想外。どちらに進んだらいいものかはっきりしないが、地図を見ると10mほど藪を上れば標識1で別れた舗装道に出る。それを目安に6分ほど肩まで埋まるような藪を掻き分け舗装道に出る(午前8時12分)。
この箇所は藪漕ぎフリークはともあれ、そのまま舗装道を進むことをお勧めする。ヘアピン状に曲がる道を進むことになるが、それほど距離はない。

標識2(坂本)・焼坂案内板;午前8時15分(標高110m)
スロープに案内板が見える
スロープ下に標識2(坂本)

県道から続く道に出たあたりで、下へと指す標識を探すが見当たらなかった。上り口・入り口の標識(標識1)があって、その下り口・出口がないのは?
ともあれ、車道を先に進むと直ぐヘアピンカーブ。
曲がり角の先に、道の左を斜めに上るスロープが見え、その中程に案内板らしき掲示板も見える。スロープが車道に接するところに標識。木柱には「坂本」、標識は「樺休場」と記される(標識2(坂本);午前8時15分)。

標識2(坂本)
焼坂案内板
標識に従いちょっと足元の不安定な斜めに上るアプローチを進むと案内板。案内板には「焼坂 仁井田五所神社から樺休場まで登るこの坂道は「焼坂」と呼ばれ、昭和三十八年までは栂ノ森(つがのもり)の人々の生活道であり通学路であった。 昔は、栂ノ森へ荷物を上げる時、特別に重い物は牛の背に着けて運んだが、たいていは担ったり背負ってあげていた。
昭和五十年代ある老婆は、三八樽に入った醤油(約七十キログラム)を主人と二人でかき上げた時、余りのしんどさに、もうなんちゃあ食べんちかまん」と思ったと語ったそうである」とあった。

標識3(野稲ヶ窪);午前8時22分(標高135m)
掘割道も
標識3(野稲ヶ窪)
焼坂案内板から先は草が茂るが藪漕ぎをするほどではない。途地、掘割風の道もある。標識2より7分ほど歩き、高度を30m弱上げると車道に出る。県道18号から続く曲がりくねった道である。
車道に出た山側に標識。木柱に「野稲(?)ヶ窪」と記され、「樺休場」「堂岡」の標識が道筋を示す(標識3(野稲ヶ窪);午前8時22分)。
この箇所は車道を迂回しなくても、それほど苦労しない。

標識4;午前8時34分(標高145m)
仁淀川を背に藪漕ぎ
藪が薄くなったところに標識4
標識3(野稲ヶ窪)から舗装道を逸れ、「樺休場」の標識が指す道を進むが、すぐに再び強烈な藪。藪漕ぎをしながらちょっと後ろを見ると、仁淀川の流れが見える。県道筋より80mほど高度をあげただけ。
標識3より10分強、藪と格闘し高度を20m弱あげると、先に舗装道が見え、その手前の草叢に標識4が立つ(午前8時34分)。標識は「樺休場」と「堂岡」の方向を指し、「樺休場」は標識を右折と示す。右折すると直ぐ県道から続く舗装道に出た。
ここも標識3より舗装道を迂回しても、それほど距離はない。ここも舗装道を歩くことをお勧めする。

標識5(焼坂)と焼坂遺跡案内板;午前8時38分(標高150m)
標識5(焼坂)と案内板
焼坂遺跡案内板
舗装道に出た山側に木柱に「焼坂」と記され、「樺休場」と「堂岡」の方向を示す標識が立つ(午前8時38分)。標識3で舗装道を逸れ、藪漕ぎ15分ほどで道に出たことになる。
その標識の先、草叢の中に白い案内板が見える。案内板には、「焼坂遺跡 昭和四〇年の秋、当時中学1年生だった小崎 秀彦 さん(栂ノ森)が、この辺りで弥生時代の石包丁を発見した。それを確認した堂岡中学校 の武田先生は、クラス全員を連れてここで社会科の授業をしたそうである。
その日、更に長 さ 十センチメートルの石斧が発見されたためここが「焼坂遺跡」 と名付けられた。(設置者「虹色の里横畠(二〇一〇年三月)」とあった。

標識6(西ノ向);午前8時45分(標高175m)
藪漕ぎするほどの藪ではない
藪の先は防御ネットに沿って進む
焼坂遺跡の案内の先は結構な草藪ではあるが、藪漕ぎするほどではない。草藪の先には作物防止ネットが見える。防御ネットに沿って8分ほど歩き、高度を30mほど上げると県道から続く道に出た。
道の山側に標識(標識6(西ノ向):午前8時45分)。木柱に「西ノ向」と記され、「樺休場」と「堂岡」の方向を示す。
この箇所は舗装道を迂回すると結構遠回りとなる。深い草叢はあるものの、藪漕ぎはしなくていいので、ここは標識通りにすすんでも問題ないだろう。
標識6(西ノ向)が見えてくる
標識6(西ノ向)
なお、藪漕ぎと記してはいるが、この旧松山街道は「新たな公」のモデル事業とあるとすれば、道の整備も時に応じなされているのかもしれない。私が歩いた時期は草刈りの端境期であったの、かも。また季節によっては藪も枯れている時期もあるかもしれない。なんとなく気になったので追記しておく。

標識7;午前9時14分(標高190m)
作業小屋の先で道は左右に分かれる
左は藪と急登
標識6(西ノ向)より標識に従い土径に入る。土径の東に立つ農作業小屋を越えたところで道は土径は左右に分かれる。標識はない。その分岐点を往路は左に進み、その先で10mほど藪の急登を這い上がり午前9時過ぎに県道から続く舗装道に出た。
右は強烈な藪
標識7は右の藪道と繋がる
道に出たところに標識はない。どこにあるのかと道を少し下ると、「樺休場」と「堂岡」を指す標識(標識7;午前9時14分)があった。「堂岡」の指す先は足を踏み入れたくない深い藪であった。
復路、この「堂岡」の指す藪に入ってみた。勘弁してほしいといったキツイ藪。草木を踏みしだき、立木を折り成り行きで進むと、往路で左右に分かれる土径分岐点に出た。標識6へと進むのであれば、往路左に折れたルートではなく、右へと折れて進むことになるが、結構な藪漕ぎが必要となる。この箇所も舗装道を迂回するのがいいかと思う。距離もそれほど余分に歩くこともない。

標識8(クツ打場):午前9時18分(標高200m
標識8(クツ打場)
標識8で舗装道を左に逸れ土径に入る
標識7の先、舗装(ほとんど簡易舗装といった状態)道がヘアピンカーブする手間のショートカット道(といっても直ぐ先がヘアピンカーブのためあまり有難味はない)を抜け、舗装道を少し進むと道の左手に標識(標識8(クツ打場):午前9時18分)。木柱に「焼坂」と記され、「樺休場」と「堂岡」の方向を示す。旧松山街道はこの標識より舗装道を左に逸れ土径に入る。

標識9・靴打場;午前9時21分(標高205m)
靴打場
ここは右の草道へ
直ぐ先に作業小屋がありその前に角柱の標識。「靴打場」と記されていた(午前9時21分)。「靴打場」の先、掘割風の道を進むと分岐点。左はよく踏まれた道。右は草に覆われている。一瞬左と思ったのだが、なんとなく下り道のよう。ここから下ることは無いだろうと右手の草に覆われた道を進む。結構深いが、藪漕ぎをするほどではなく、なんとなく踏まれた風の草の中を進むことになった。

標識10;午前9時32分(標高250m)
薄い藪を抜けるとガードレールが見える
スロープを上り切ると標識10
薄い藪といった道を進むと前方にガードレールが見えてくる。土径よりガードレールに続くスロープを上りきったところは広い車道(午前9時32分)。この車道は今まで幾度か交差した堂ノ岡の県道から続くものではなく、堂ノ岡の東、本村から栂の森(つがのもり)方面を繋ぐ道のようだ。堂ノ岡から続く舗装道は、直ぐ東でこの広い車道に合流していた。標識8(クツ打場)で舗装道から逸れた松山街道は、この舗装道に沿って一筋西を進んでいたようだ。
スロープを上り、広い車道のガードレールが切れたところに標識。「堂岡」と下り方向だけを指す標識となっていた(標識10)。

八里塚の石碑;午前9時32分(標高252m)
中央の石碑が八里塚跡
八里塚案内板
広い道路に出ると前面の法面を斜めに上るスロープがあり、そこに石碑と自然石、その傍に白い案内板が見える。石碑には「松山街道 焼坂 史跡八里塚」と刻まれる(午前9時32分)。
スロープを上ると八里塚の案内板、「八里塚 ここは高知市の江口番所から八里の所に当たるので「八里塚」と呼ばれている。
昔は一里塚といって街道沿いに一里ごとに土盛をし、木を植えて道標にしていたが、ここは土盛りの代わりに自然石を置いてあった。(設置者「虹色の里横畠」(二〇一〇年三月)」とあった。
石碑の横に加工された感のある石が置かれる。これが八里塚として置かれた自然石とは思えないが、特段の案内もなく不詳。
なおまた案内にある江口番所って?高知城下での番所は東の松ヶ鼻、西の思案橋、北の山田橋の三カ所とされるが、場所から考えれば西の思案橋番所だろう。近くに江の口川が流れている。それゆえ江口番所とも呼ばれたのであろうか。

標識11;午前9時42分(標高270m)
仁淀川
八里塚を離れ、よく踏み込まれた道を上る、左手下には先ほど分かれた広い車道、仁淀川の流れが見える。藪の中で眺めた仁淀川は堂ノ岡より上流域、ここから眺める仁淀川は堂ノ岡より下流域だろう。


標識11
掘割道を進む
掘割風の道、畑の脇を10分ほど上り、高度を20mほど上げると簡易舗装された農道らしき道に出る。国土地理院地図には描かれていない。そこに標識(標識11;午前9時42分)。木柱には何も記されず「樺休場」「堂岡」の方向のみをを示す。

標識12(宮ノ下)・茶店跡案内板;午前9時48分(標高300m)
振り返ると仁淀川
上り坂
標識の指す「樺休場」方向に進むと土径。直ぐ畠の横を上る簡易舗装の道となる。5分ほど歩き高度を30mほどあげると標識が立つ(標識12;午前9時48分)。木柱に「宮ノ下」と記され、「樺休場」と「堂岡」の方向を示す。

標識12(宮ノ下)
茶店跡案内板
標識の直ぐ上に案内板。「茶店跡 昔ここには店屋があり、きれいな水でトコロテンを冷やして売っていたそうである。
この難所を登ってきた旅人にとって、ここの店屋 は英気を養うありがたい存在だったに違いない。店屋は昭和の初期まであったという。(設置者「虹色の里横畠」」(二〇一〇年三月)」とあった。

標識13;午前9時53分(標高315m)
一瞬藪
標識13
茶店跡案内板の先は一瞬藪となるが、直ぐ先によく踏まれた道が現れ、5分ほど歩き高度を15mほど上げると簡易舗装の農道に出る。国土地理院地図をみると、八里塚跡のところで出合った栂の森方面へと伸びる道から分かれた枝道がこの地に続く。
この枝道農道との合流点に標識(標識13;午前9時53分)。「樺休場」「堂」を指す標識が立つ。

標識14;午前9時57分(標高325m)
標識14
復路、標識14を下道に
「樺休場」の標識が指す枝道農道を数分進むと西に進む農道との分岐点にあたる。その角に「堂岡」とだけ記された標識(標識14;午前9時57分)。
往路は道なりに進めば問題ないが、復路はここで道に迷いそう。道なりに西へ向かう枝道の枝道(?)に進んでしまいそう。
この標識は「堂岡」方向だけを指していることから、枝道農道の枝道を進まず左に下る農道枝道を進め、という地蔵堂方面から下ってきた人のために立てられたものだろう。

標識15(野岩);午前10時(標高330m)
上に逸れる道に標識が見える
標識15(野岩);旧松山街道
枝道農道を数分進むと農道から上に逸れる道が現れ、その分岐点の先に標識が見える。枝道農道を逸れ一段上を進む道に乗り換え標識に。木柱には「野岩」と記され、標識に「旧松山街道」と進行方向を指す(標識15;午前10時)。
予土往還は高知城下から松山城下へ向かう場合は「松山街道」、松山城下から高知城下へ向かう場合は「土佐街道」と呼ばれるが、松山方向を指すこの標識はそれゆえに「旧松山街道」と記されるのだろう。
思えば、予土往還の伊予から土佐の国境までの標識は「土佐街道」と記され、今回歩く土佐から伊予へのルートは「旧松山街道」と記されていた。

標識16(石佛ノ下);午前10時3分(標高330m)
標識16(石佛ノ下)
仁淀川
右手に棚田を見遣りながら数分進むと前面が開け、眼下に仁淀川の眺望が楽しめる。そこにも標識。木柱に「石佛之下」と記され、標識は「樺休場」を指す(午前10時3分;標識16(石佛之下))。
仁淀川の流れをみながら木のベンチで一休み。

標識17(大谷水源);午前10時10分(標高360m)
標識17(大谷水源)
標識16(石佛之下)から先は、尾根筋稜線に向かうことになる。はじめは等高線の間隔も広く緩やかな上り。藪はあるが藪漕ぎはしなくてもよかった。その先、踏み込まれた道を進むと簡易舗装された農道に出る。そこに標識。木柱に「大谷水源」と記され、「樺休場」「堂岡」を指す標識が立つ(標識17(大谷水源);午前10時10分)。

標識18;午前10時24分(標高400m)
此処で道が切れる。右端を上段に上る
防御ネット脇の草道を進む
標識17(大谷水源)の標識に従い、農道を逸れ山側に進む簡易舗装の道を上る。5分ほど歩くと明瞭な道須筋は畠手前で切れる。整備された道はこの畑の農作業用の道であったようだ。
さてどうしたものかと畑手前で手掛りを求め辺りを見回す。と、畑の上段に防御ネットが見える。根拠はないのだが、どうしたところで尾根筋へと高度を上げる必要があるだろうと、畑端を上段に上り防御ネットに沿って先に進む。
その先杉林へ。尾根稜線へ
上り切ると標識18
草は結構深い。道筋は分からないが、踏まれた感のある草の中を進むと杉林の中、ふみこまれた坂道に出た。
坂を上りきったところに林道らしき道。その合流点に「堂岡」と記された標識が立っていた(標識18;午前10時24分)。

標識19(樺休場)・「樺休場」案内;午前10時27分(標高400m )
標識19(樺休場)
周りは平坦地
林道に乗って直ぐ先に平坦地がありそこに標識と案内板が立つ(午前10時27分 )。標識の木柱には「樺休場 標高三五〇m」と記され、「薬師堂へ2.5km」と薬師堂方向を指す。
その傍にある案内板には、「樺休場 ここは標高三五〇メートル。越知町役場から約三〇〇メートルも上がっている。昔は、通行人や旅人がここで一服して体調を整えた場所である。
慶応四年一月の松山征討の時は、佐川様が通るというので栂森の人たちがここで茶を沸かして接待したが、行列の後尾が越知まで続いており、その長さにびっくりしたそうである。(設置者「虹色の里横澤」(二〇一〇年三月)」とあった。
で、佐川様って誰?チェックすると征討軍副総督に佐川家老深尾刑部とあった。佐川様とはこの人物であろう。
土佐藩の松山征討軍
樺休場案内板
慶応四年一月十一日、朝廷は土佐藩主へ次の勅書を発せられ、錦旗を下賜された。
勅書
土佐少将江
徳川慶喜反逆妄挙ヲ助候条、其罪天地二不可容候間、讃州高松、豫州松山、同川之江始メ、是迄幕領、惣而征伐没収可有之被仰出候、宜軍威ヲ厳ニシ、速ニ可奏追討之功旨、御沙汰候事、
正月十一日
但、両国中幕領之義ハ勿論、幕吏卒ノ領地ニ至迄、惣而取調、言上可有之、且又人民鎮撫、偏ニ可致王化様可致処置候事、
土佐少将江
征討被仰付候ニ付、御紋付御旗二流下賜候事、
正月
この勅書に従い土佐藩は松山、高松藩征討の軍を編成。松山征討軍は一月二十日、本藩家老深尾左馬之助を総督、佐川家老深尾刑部を副総督に命じ、深尾刑部には軍律を保つ旨の命令が藩主より下されている。
一月二十一日鬆督深尾左馬之助率いる本隊は城下を進発、副総督深尾刑部率いる佐川隊は二十二日進発、越知で合流した。両隊は降りしきる雪中を仁淀川を渡り、街道最大の難所、黒森越えで池川に宿営し。街道の村々では、草鞋・松明・弁当などの提供を命ぜられていた。
征討軍は用居・瓜生野を経て、伊予の七鳥村に入った。ここで万一に備えて弾込めして、標高千メートルの尾根道を越えて、休む暇もなく行軍した。二千名近い行軍は寺院や民家に分宿できない者もあり、焚火をして野宿し、藁をかぶって仮眠する状態であった。
二十六日、久万に到着し大宝寺に宿営。久万山郷の庄屋・百姓共のあたたかい接待 を受けた。この日松山より飛報来り、長州軍出陣の由、一刻も早く進発すべしとの事で、二十七日早暁土砂降りの大雨の中を急いで進発した。
三坂峠を降ると、荏原で道後・立花口・麻生の三方面進軍の作戦をとり立花橋で合流し、午後六時ころ八股に到着した。城下の街並は藩主が朝敵となったためか、ひ っそりと静寂そのものであった。
征討軍は八股で集合した後、大砲や小銃の空砲を松山城に向かって一斉に発砲した。その響きは城山にこだまして、城下にたれ込めた夕間を貫き街並一帯にひろがった。すっかり暗くなった午後七時ころ、征討軍は隊列を正して堂々と入城した。土佐藩兵は総数九一五名、荷駄夫を合わせると約二千名の人員であった。

堂ノ岡の旧松山街道取り付き栗から直線距離2.6kiro ,比高差300mほどを2時間20分で尾根筋へと上った。ここでちょっと休憩。

峰興寺植樹林石碑(午前10時43分)
峰興寺植樹林石碑
樺休場は400m等高線が北東に突き出た尾根の稜線部(標識には標高約350mとあるが国土地理院地図では標高400m)。道はここから薬師堂集落手前まで多少のアップダウンはあるものの、尾根の北麓、等高線400mに沿ってほぼ平坦な道を進み、薬師堂集落手前で50mほど下ることになる。

10分程度休憩の後、午前10時40分前、薬師堂集落に向けて進む。杉林の中、右手が崖となっている道を数分進むと、道の右手に「峰興寺植樹林石碑」が立つ(午前10時43分;)。そのときはあまり気にもせず道を進んだのだが、植樹林らしき杉林、伐採された杉林が結構長く続くためメモの段階で「峰興寺」ってどんなお寺様とチェック。と、伊予との深い繋がりが現れてきた。
峰興寺
越知町に建つ法相宗のお寺さま。徳川家康の異母弟松・伊予松山藩初代藩主平定五行が三河の国より密山演静老師を松山に招き菩提寺とし栄えたが、明治の廃仏稀釈で衰退。が、その名跡を惜しみ官許を得て明治の中頃越知の屋敷跡に再建された、とある。
なぜ松山から高知の越知に?
越知は伊予の豪族越智氏の流れがこの越知一帯を支配していた、という。また峰興寺が再建された地にはかつて越智氏の菩提寺・円福寺が建っていたとの記事もあった。峰興寺が再建された越知の地が伊予と繋がりがあった、ということだけはわかったが、この地に再建された経緯は不詳。
本尊の智慧の文殊菩薩への県内外からの信仰篤く、加持祈祷の専門道場として名高いというから、再建への動機は十分にあったようには思える。
仁井田五所神社
堂ノ岡の仁井田五所神社
越智氏と言えば、堂ノ岡の旧松山街道の取り付き口に建つ仁井田五所神社も越智氏との関係浅からぬ社。最初に仁井田神社に出合ったのは土佐の遍路歩きの折、高知市仁井田であった。地名ともなっているその地に立派な仁井田神社があった。 その由緒などをチェックすると、『四万十町地名辞典』に、「仁井田」の由来については、浦戸湾に浮かぶツヅキ島に仁井田神社があり、由緒書きには次のように書かれてある、とする。
伊予の小千(後の越智)氏の祖、小千玉澄公が訳あって、土佐に来た際、現在の御畳瀬(私注;浦戸湾西岸の長浜の東端)付近に上陸。その後神託を得て窪川に移住し、先祖神六柱を五社に祀り、仁井田五社明神と称したという。
神託を得て窪川に移住とは?、『四万十町地名辞典』には続けて、「『高知県神社明細帳』の高岡神社の段に、伊予から土佐に来た玉澄が「高キ岡山ノ端ニ佳キ宮所アルベシ」の神勅により「海浜ノ石ヲ二個投ゲ石ノ止マル所ニ宮地」を探し進み「白髪ノ老翁」に会う。「予ハ仁井ト云モノナリ(中略)相伴ヒテ此仕出原山」に鎮奉しよう。この仁井翁、仁井の墾田から、「仁井田」となり。この玉澄、勧請の神社を仁井田大明神と言われるようになったとある」と記す。
仕出原山とは窪川の高岡神社(仁井田五社明神;四国遍路37番札所岩本寺の元札所)が鎮座する山。仁井田の由来は「仁井翁に出合い里の墾田」とする。
仁井田の由来については、伊予の小千玉澄公は『窪川歴史』に新田橘四郎玉澄とあるわけで、普通に考えれば仁井田は、「新田」橘四郎玉澄からの転化でろうと思うのだが、仁井翁を介在させることにより、より有難味を出そうとしたのだろうか。 それはともあれ、仁井田神社も伊予・越智氏とは深い関係があったことがわかる。とはいえ、土佐には33社ほどの仁井田神社があるわけで、越知が越智氏と深い関係があったとしても、何故峰興寺がこの越知に再建されたかは不明のままではある。

合中(あいなか・文政十二年の石碑跡);午前11時01分
石の転がる少し荒れた道を進む。雨で崩れた沢筋を越え15分ほど歩くと道の左手に案内板。「合中(相中) 平成五年に越知町史談会の人たちよって「文政十二年丑九月吉日・合中・せわや紀・順 蔵」と書かれた砂岩製の石碑が発見された。
現在は町立横倉山自然の森博物館に保存されており、ここにあるのは、その後に造った代わりの石だ。
合中案内板
「文政十二・・・」といった文字が読める
ここは八里塚と九里塚の真ん中に当たるところだが、他所では見当たらない大変珍しいものだという。おそらく、当時の清水村と栂森村とで街道の道普請の境として置いたものであろう。(設置者「虹色の里横畠」」(二〇一〇年三月)」とあった。 案内板傍には薄いプレート状の石造物。文字が記されているがほとんど消えかかっているが「文政十二・・・」といった文字が読める。案内板にある、代わりの石だろう。

壱口水;午前11時11分
壱口水の案内板
荒れた沢筋
土砂崩れて荒れた沢を越え10分ほど歩くと「壱口水」の案内板。「壱口水 今は空谷だが、昔から多くの通行ど人の喉を潤してきたところだ(設置者「虹色の里横畠」」(二〇一〇年三月)」とあった。

傍には丸い木の柱に「一口水」と記された標識も立っていた。



石畳標識
地蔵堂の集落が見えてきた
多少のアップダウンはあるもののほぼ平坦な道を15分ほど進むと前面が開ける(午前11時25分)。先に見える集落は薬師堂の家並かと思う。
前面が開けた直ぐ先で道は鞍部に向けて下り始める。

石畳標識
石畳といえは石畳
坂道を20mほど下った道の左手に「石畳」と記された木柱がある。実のところ往路では見逃していた。復路でこの辺りに「石畳」があると注意して見つけたもの。辺りには明瞭に石畳と言えるようなものは見当たらない。よくよく見れば、それらしき少し大きめの石が敷かれているところもある。坂道ゆえに馬などが滑らないように敷かれてはいたのだろうが、今はその面影はあまり、ない。

標識20(石神);午前11時34分(標高360m)
標識20(石神)
標識20の建つ町道合流点
「石畳」から10m強下ると町道柚ノ木薬師堂線に合流。その合流点に標識。 「石神」と記された木柱に「栂ノ森」「薬師堂」「柚ノ木」の方向を示す標識が立つ(午前11時34分)。


石神様
石神様案内板
町道合流点、町道左手に小さな祠が建つ。その横に案内板。「石神様 昔の子供たちは、正月が近づくと「正月様、正月様、どこまござった。石神様までござった。 山草の蓑で若葉の杖でのそりのそりとござった。」と言って 正月を心待ちにしていたという。
右神様とは集落界や峠道に祀られた道祖神で、耳、鼻、口など穴の病気に霊験ありとして、解顔には穴あき石が供えられたりする。 設置者「虹色の里横畠」」(二〇一〇年三月)」とあった。

薬師堂集落;午前11時48分(標高360m)
町道を進む
左手下は仁淀川の谷筋だろうか
標高350mの鞍部を走る町道柚ノ木薬師堂線を進む。道の左手はるか下の谷筋に見える川は仁淀川だろう。
10分強歩くと大きな車道が集まる三差路に出る。周囲に民家が並ぶ。薬師堂の集落に到着。結構大きな集落だ。
地蔵堂集落の三差路
正面に大山祇の鳥居が建つ

横畠は7つの集落からなり200名の住民が住むというが、この薬師堂が最も大きな集落かもしれない。正面に大山神祇神社の鳥居が建つ。
因みに横畠の地名由来は、集落の畑はほとんどが南西を向き、横に長く広がっていることから来るとの説もあるようだ。
ともあれ、直線距離4キロ強、比高差350mほどを4時間ほどで歩き薬師堂集落に着いた。

薬師堂・
カトリック教会聖堂碑
プール手前にが薬師堂
カトリック教会聖堂跡地
薬師堂集落にも堂ノ岡の旧松山街道取り付き口で見た「旧松山街道マップ」があった。薬師堂集落であれば薬師堂などないものかと探すがそれらしき案内はない。ただ、集落の盆踊りはお薬師様盆踊りと称され、その所以は60年前、村に疫病がはやった折、お薬師様にお祈りし疫病退散しそのお礼のためとも伝わるようである。どこにあるのかと郵便局の方にお聞きすると、町道が集落三差路に出る手前、進行逆方向に上るスロープがあり、その先元小学校プール手前に建つとのこと。そこには祠と共に案内板も立っていた。
薬師堂案内板
「薬師堂 薬師如来が厨子とともに祀られており、一番古い棟札には元文元年(一七三八)と書かれている。
昔、横畠村は宮原寺 (佐川町宮ノ原)の管轄であり、祭祀は宮原寺の住職が行っている。
この辺りの地名も薬師堂といい、昔は盆踊りで大変有名であり、現在も八月には小学校 の校庭で盛大に行われている。(設置者「虹色の里 横畠」二〇二〇年 三月)」。

次いで、「旧松山街道案内マップ」で、最終目的地である「道分れ」へのルートを確認すると、車道三差路より大山祇神社鳥居前の車道を進むようだ。その分岐点に進むと角に「カトリック教会聖堂跡地」と刻まれた石碑が立つ。これが「旧松山街道マップ」にあった、 「1906 明治39年 キリスト教会建つ  9月26日、薬師堂に2階建ての教会が建つ」のことだろう。
「道分れ」はこの道を真っすぐ進めばいいのだが、これも「旧松山街道マップ」に 「大山祇神社(町指定文化財) 1879年、今井浅治、今井宗吉、今井友祐の3人の長州大工によって改築された。本殿は鞘堂で囲まれているため、新築同然の状態で保存されている」とあった大山祇神社に立ち寄ることに。鳥居を潜り参道を社殿へと向かう。

大山祇神社;午前11時55分(標高385m)
境内に入る。古き趣の社。境内に案内板がふたつ。ひとつは「大原千歳,自由懇親会で演説と書かれた案内板。
「大原千歳,自由懇親会で演説」
「明治5年(1882)5月9日、大山祇神社参道の鳥居に自由党万歳と大書したむしろ旗を立て、「自由は土佐の山間より出」と解される額を揚げ演説会が行われた。
来賓として、自由民主党幹部の西原清東、自由民権運動家坂本南海男(竜馬の甥・後に直寛と改名)等を迎え、発起人である横畠村の医師秦気魯男の開会宣言の後、西原清東、坂本南海男等 10人を越す壮士が熱弁し聴衆は沸き立った。
居並ぶ壮士の間をしとやかに地元の弁士 7才の大原十戚が登壇すると、興奮し沸き立っていた空気が和み、参加者の目は千歳に集中した。
「男女同等」という演題を与えられた千歳は、落ち着いた口調で「たくさんの方々から自由民権について貴重なお話を聞かせていただき、お礼をのべさせていただきます」と女性解放という先駆的な内容を十分理解した水準の高い話しをされ、最後に「たまあえる今日のまとひに日の本の大和和心のおくもしられて」と澄んだ声で朗詠した。当時の土陽新聞は会員員一同覚えず拍手して感動の意を表せりと報じた。千歳は、清水の大原輝夫氏の祖祖母に当たる。(令和元年10月吉日 虹色の里横畠 大原泰生建立)」とあった。
「旧松山街道案内マップ」に
「出来事。 「自由は土佐の山間より出ず」という言葉ば、明治15年大山祇神社で行われた自由民権集会場でも筵旗に書かれていたという。
1882 明治15  自由民権集会  5月22日、大山祇神社で「自由は土佐の山間より出ず」という額を掲げ大演説会」と記されていた。
大山祇神社(越知町指定文化財)
もうひとつの案内板は大山祇神社に関するもの。
大山祇神社社殿
本殿は鞘堂(覆屋)で覆われていた
「大山祇神社(越知町指定文化財)
本殿は明治十三(一八七九)年十一月に今井治郎、今井宗吉、今井友佑の三人の長州によ大工って新築されたものだが、本殿外部に施されている緻密で精巧な彫刻は、見る者を唸らせてしまう。
その本殿は、鞘堂で覆われているため彫刻は外部から見ることはできないが、築後一三〇年たった現在も新築時同然の状態で保存されている。
本殿彫刻(by仁淀ブルー観光協議会)
本殿天井絵(by仁淀ブルー観光協議会)
拝殿の天井には、当時地元の人が描いた三十八歌仙の人物画や花鳥画がきれいに残っている。三十八歌仙というのは紀貫之や 小野小町なと平安時代の有名な歌人たちである。
境内では、明治十五(一八八二)年五月、堂岡の医師秦気魯男らの世話で坂本直寛 (龍馬の甥)ら数人を招き「自由党万歳」と大書した筵旗を立て、鳥居には「自由は土佐の山間より出づ」という額を掲げ、自由民権集会が盛大に開かれた。
この説明文は二〇〇九年に実施した国交省の「新たな公」モデル事業により「虹色の里横畠」が設置したものです。二〇一〇年三月
本殿の彫刻をご覧になりたい方は大原泰生(携帯番号)までご連絡ください」とあった。

立派な彫刻や天井絵があるようだが鞘堂(覆屋)で覆われて内部は窺いしれない。どんなものかチェックすると「仁淀ブルー観光協議会」のページに彫刻や天井絵の写真が掲載されていたので、ここで使わせて頂くことにした。

道分れ;午後12時9分(標高410m)
標識21
「道分れ」がみえてきた
社殿脇に先に進む道がある。成り行きで下ると鳥居前で別れた車道に出た。そこから10分ほど、途中「堂岡」を指す標識(標識21)を見遣り車道を進むと車道から左に逸れる道があり、その角に標識と案内板が見える。そこが「道分れ」。


「道分れ」の旧松山街道標識
旧松山街道案内板
木柱には「道分れ」と記され、「樺休場」「稲村・日の浦」の方向を示す標識が立つ。稲村・日の浦はこの先、稲村谷川の谷筋に下ったところに日の浦集落の地名が国土地理院地図に記される。
標識の左手には「旧松山街道」の案内。堂ノ岡の旧松山街道取り付き口でみたものと同じもの。その傍には「黒森山登山口 ジョン万次郎帰国道 志士脱藩道」そして「旧松山街道」」と書かれた標識が左を指す。
今回はここまで。次回はこの「道分れ」から鈴ヶ峠を繋ぐ。


追記;後日、地蔵堂の先、「道分れ」から鈴ヶ峠を繋ぎに行った折、越知の町にある横倉山自然の森博物館に展示されるという,合中の標石を見に行った。実物は思ったより小振りな直方体の石造物だった。



先回の大規模林道から黒滝峠を繋ぐピストン復路での日没・夜間行動。一刻も早く下山しようとGPSとライトを頼りに右往左往するも、同じ処を堂々巡りするだけで気が付けば夜が明けていた。
夜は沢の水で渇きを癒すも夜が明けるころには水も切れ、ほとんど脱水状態でなんとか車デポ地に辿りついた。
山中での日没・夜間行動の一因は道なき道の藪漕ぎゆえの道迷いと撤退決断ができなかったこと。久万高原の越ノ峠からはじめた土佐街道の山入り道は、面河川に面した七鳥から尾根筋に這い上がるころから延々と続く藪漕ぎ。日没を意識して途中撤退を繰り返しながらなんとか道を繋ぎ予土国境の黒滝峠まで辿りついた。
で、先回の土佐側・高知県淀川町町の大規模林道から黒滝峠を繋ぐピストン往復。藪が激しく道迷いで時間がかかり、黒滝峠への往路途中でちょっと撤退も考えたのだが、このルートは途中撤退した場合の適当な繋ぎアプローチが見つからず、日没ギリで戻れるだろうとエイやで突き進み上述の道没・夜間彷徨の為体となった。

この顛末に懲りたというわけでもないのだが(少々気分的に参ってはいた)、道のあるところを歩きたいと、行きそびれていた札所第六重番横峰寺から香園寺の順打ち遍路道を二度にわけて歩き、そうこうするうち時が癒してくれたのか、再び土佐街道歩きに戻る気力が戻ってきた。

今回は大規模林道から水ノ峠を繋ぐ。距離は1キロほど。比高差も230mほど。それほどのルートでもないのだが、ビビリの我が身としては念のためにとツエルト(ビバーク用簡易テント)をザックに入れ現地に向かった。
歩いた後のルート概要雑感は、後半部は踏み込まれた道、前半部は一部踏み込まれtれ道筋があるものの藪と草に覆われたちょっと道迷いしそうなルートだった。ただ、ルートに沿って10個ほどのオンコ―スを確認できるリボンが木に括られてあり、ちょっと安心できる。
少しルート取りで難しいところは、北に突き出た1050m等高線箇所と途中で2箇所出合う砂防堤防。北に突き出た稜線部は迂回せず西から東に横切ること、また砂防堤箇所では最初の砂防堤防は右端から上り、二番目の砂防堤は左端まで進み、「水ノ峠」の標識が指す藪へと入り込む。藪を抜ければその先は踏み込まれた道が水の峠まで続いていた。
時間はルート探しや道迷いなどもあり往路は1時間半ほどかかった。念のためにと用意したツエルトの出番もなく大規模林道から水ノ峠を繋ぐピストンを終えた。

なお、当日は水ノ峠から先に残るという「雑誌越え予州高山道」も下ろうとの思惑でもあった。が、下山口が見つからない。水ノ峠に繋がる林道を少し下ったところから国土地理院地図に描かれた破線が下の舗装道と繋がっている。比高差200m、その距離600mほど。その破線が下山口かと歩いてみたのだが、「下山口」の案内もなく急斜面には踏み跡らしきものも見つからない。
それではと、下から攻めてみようかと車デポ地から国土地理院地図に描かれる破線が繋がる下の舗装道へと向かった。そこには 「雑誌越え予州高山道 旧水ノ峠登り口」の標識が立っていた。どうもこの「破線」が旧土佐街道のようだ。
それではと標識の立つ箇所から上ってみようそこに足を踏み入れた。が、スタート地点からものすごい藪。30分ほど藪木を折りしだき急坂に取り付いたのだが、あまりの藪の激しさに気が萎える。急坂を上りながらの藪漕ぎは勘弁してほしいと撤退。
こんなところ誰も歩くとは思えないが、トレースするのであれば、上りより下りのほうがいいかとも思い、冬の藪も落ち着いた頃、気が向けばロープを用意して急坂を下ってみようかとも思う。
そしてまた、これはメモの段階で見たのだが、急坂の途中から左に折れ、南の橋ヶ藪方面から水ノ峠に続く国土地理院の「破線」に合流して峠へと上るトラックログもあった。どちらが旧土佐街道ルートかわからない。いつか訪れた時は両方のルートをチェックするしかないだろう。
ともあれ今回は本題の大規模林道から水ノ峠までのルートをメモする。



本日のルート;大規模林道から水ノ峠への取り付き口>踏み跡のあるルートを進む>最初のリボン>「黒滝峠」標識とリボン>池川町有林標識と小さな枯沢にリボン>草の覆われたルートにリボン3>藪にリボン4>藪が切れる辺りにリボン5>草に覆われたルートにリボン6>リボン7>最初の砂防堤>砂防堤を上るとリボン9>第二の砂防堤前にリボン10>「水ノ峠」標識>踏み込まれた道が現れる>水ノ峠

大規模林道から水ノ峠へ

大規模林道から水ノ峠への取り付き口;午前8時29分
黒滝峠から大規模林道へ出たところから450mほど東へと戻るところ、国土地理院地図に大規模林道から水ノ峠に繋がる破線が描かれる箇所が大規模林道から水ノ峠への取り付き口のようだ。本来の土佐街道は黒滝峠から大規模林道に下りる途中にあった「黒滝峠」の標識から山腹を進んだようだが現在は「危険」ということで通行できないとのこと。
ともあれ、国土地理院地図に描かれる破線が大規模江印藤に合わさる辺りでアプローチ点を探す。と、木に括られら赤いリボンが二つ見つかった。そこが取り付口であろうとは思うのだが、アプローチ部は刈り込まれてなく結構な藪。また藪漕ぎかと少々気が滅入る。

踏み跡のあるルートを進む;午前8時32分
草木を掻き分けルートに入ると予想に反し、その先は踏み込まれた道が続く。嬉しい。藪漕ぎなくこの道が続いて欲しいと願う。




最初のリボン;午前8時36分
リボン
数分歩き高度を10mほど上げると道の右手の細木に赤いリボンが括られる(「リボン1」とする)。踏み込まれた道が続く。






「黒滝峠」標識とリボン:午前8時38分
数分歩くと道の右手に木が立てられ、そこにピンクのリボンが括られている。その傍に「黒滝峠」と書かれた木の標識がある。またその先に「危険」と書かれた木の標識も転がっていた。ここが前述黒滝峠から大規模林道に出る途中出合った「黒滝峠」木標から繋がる旧土佐街道の合流点。理由は不詳だが「危険」のため一旦大規模林道へと迂回することになったのだろう。

池川町有林標識と小さな枯沢にリボン
小さな枯れ沢にリボン
等高線を斜めに進む緩やかな道を5分ほど歩き高度を10mほど上げると道の右手に「池川町有林」の木標(午前6時43分)。その直ぐ先に小さな枯れ沢があり立ち木に赤いリボン(リボン2)が括られる。

草の覆われたルートにリボン3;午前9時46分
細い立ち木にリボン
沢を渡ると踏まれた道は消え一面草に覆われたルートとなる。木々の間に囲まれており、なんとなくルートであろうと推測はつく。3分ほど歩くと道の左手、細い立ち木にリボン(リボン3)が括られており、オンコースであることを確認。

藪にリボン4;午前8時53分
道の左手、杉の木にリボン
リボン3から5分ほど歩くと草木が行く手を阻む。背丈より高い草藪を進むと道の左手、杉の木にリボンが括られていた(リボン4)。オンコース確認し一安心。




藪が切れる辺りにリボン5;午前8時58分
道の右手、杉の木にリボン
その先も藪。なんとなくルートっぽい筋を選び5分ほど進むと道の右手、杉の木にリボンが括られていた(リボン5)。オンコース。その先で藪が切れる。




草に覆われたルートにリボン6;午前9時1分
背丈ほどの藪から解放され、一面草に覆われたルートを数分進むと道の右手、杉の木にリボンが括られていた(リボン6)。数分歩くと再び背丈より高い草木が道を塞ぐ。



藪の中にリボン7:午前9時9分
藪は直ぐ切れその先に踏み込まれた道。が、直ぐ藪となる。藪の中、道の左手の細い立ち木にリボンが括られていた。





最初の砂防堤;午前9時9分
リボン傍から砂防堤の上に
その先、数分歩くと前方に砂防堤が現れる。ルートがはっきりしない。取敢えず砂防堤の東端まで行ってみるが、ルート案内もルートらしき筋も見当たらない。で、砂防堤西端まで戻ると木に括られた黄色いリボン(リボン8)が見えた。リボンを頼りに砂防堤の上に進む。

砂防堤を上るとリボン9;午前9時17分
リボン9
二番目の砂防堤
砂防堤前で右往左往し少し時間を取られたが、砂防堤の上に上ると足元は一面草が茂る。成り行きで少し進むと木に括られたリボンがあった(リボン9)。その先には二番目の砂防堤も見える。



第二の砂防堤前にリボン10;(午前9時23分)
水抜き水路溝
リボン10

リボンの位置から判断しルートは砂防邸東端方向であろうと一面草に覆われたところを成り行きで進む。途中、砂防堤からの水抜き水路溝を乗り越え先に進むと木に括られた黄色のリボンがあった(リボン10)。



「水ノ峠」標識;午前9時27分
「水ノ峠」標識
標識右手の藪に入る
リボン10から先、ルートがはっきりしない。右往左往していると砂防堤の東端辺りに偶然木の標識が目に入った。近づくと「水ノ峠」とあり指す方向ははっきりしないが左方向を指す。
左手は藪となっているので砂防堤の上へと辿ってみるがどうもそれらしきルートとは思えない。元に戻り左手の藪に入る。

踏み込まれた道が水ノ峠まで続く;午前9時37分
藪は直ぐ切れ、踏み込まれた道が現れる
踏まれた道が続く
と、藪は直ぐ切れ、踏み込まれた道が現れた。「水ノ峠」標識から10分もかかっているのはルート探しで右往左往したため。実際の藪は数分で抜ける。
これから先、水ノ峠まではこの踏み込まれた道、またその先では掘割道が続く。この道筋から外れないように進めばいい。

掘割道が続く
掘割道が続く
とはいうものの、途中道の分岐もありそうそう簡単にはいぁない。実際往路では踏み込まれた道からあらぬ方向に進み、力任せに尾根筋へと軌道修正し偶然掘割道に出た。往路はこの掘割道を進みその後は道に迷うことなく水ノ峠に到着した。 トラックログとして記載したのは復路のルート。峠から道なりに掘割道を進み、踏み込まれた道を進むと「水ノ峠」標識の立つ手前の藪まで迷うことなく下りることができた。そのルートを記載したものである。
迷い道注意地点
スムーズに下りた復路のトラックログは等高線1070m辺りから北に突き出た1050m等高線お尾根筋を西に横断している。往路のログを見ると「水ノ峠」標識から藪を抜け踏み込まれた道に入ったのだが、等高線1040m辺りで掘割道から外れ北に突き出た1050m等高線に沿って廻り込んでいた。そこで根拠はないのだ、国土地理院地図に描かれた「破線」に戻ろうと力任せに尾根筋へと軌道修正し幸運にも掘割道に出合ったわけだ。
この箇所をクリアするには、大まかに言えば、国土地理院に描かれる破線が1050m等高線に合わさるあたりから1070m等高線に向け西から東へと抜けるということだろう。

水ノ峠;午前10時5分
枯沢の先に鞍部が見える
鞍部に到着
往路、幸運にも出合った堀割道を進むと広い枯れ沢が現れる。峠手前は等高線が南東に切れ込んでいる。雨が降ればこの地から水が下るのだろう。その先は木々の間から空が開け鞍部らしき地形となる。
沢ゆえか少しザレ気味の道を上り切ると左右の高まりに挟まれた鞍部に出る。

鞍部右手には登山口の案内
鞍部左手にはミニ四国霊場
鞍部に水ノ峠の標識はない。左手の高まりへの道筋には幾多の石仏が並ぶ。ミニ霊場が祀られている。右手には「明神山登山口10km 雑誌山3.7km」の案内が立つ。 鞍部から少し下ると広場となってる。「登山口 明神登山口10km カラ池5.7km」の標識が立つ広場には左手から林道が繋がる。広場に設けられた木のベンチで小休止。

鞍部南の広場に林道が繋がる
大師堂と中島與一郎殉難の地石碑
休憩の後、ここが水ノ峠であるエビデンスを探す。と、広場の西にお堂が建つ。猿楽岩でもみた大師堂。こんな山中にも大師信仰の跡が残る。
お堂の左手に「勤王の志士 中島與一郎 殉難の地」と刻まれた石碑が立つ。その右に「水の峠 水神」と刻まれた石碑を祀る祠が立つ。現在水が流れているようにはみえなかったが、この水ゆえの水ノ峠ではあろう。この地が水ノ峠であることを確認。
中島與一郎
「水の峠 水神」の祠
この人物には黒滝峠でも出合った。元治元年(1864)、中島信行、中島与一郎、細木核太郎の3名は脱藩を決意。佐川より仁淀川に沿って進み、現在の県道363号筋の名野川を経て水ノ峠に至り、雑誌越えの道を黒滝峠に上る。その後中島与一郎は足の腫物のため一行と分かれ水ヶ峠に戻り、南東に下り橋ヶ藪から室津(国道439号室津川が仁淀川水系土居川に合流する辺り)まで進むも見とがめられ、再び水ヶ峠まで逃れ、その地の大師堂で捕り方により最後を遂げた。
池川紙一揆逃散の道
また、この水ノ峠は、これも黒滝峠で出合った池川紙一揆逃散の道でもある。 池川はこの地の東、現在の国道494号と493号が合流する辺り。紙一揆とは山間部において米納の代わりに紙を藩に現物していたわけだが、搾取に苦しみ起こした農民一揆。農民一揆には徒党を組み暴徒と化すもの、強訴に及ぶもの、他国に逃亡する逃散があるが、この池川紙一揆逃散の道とは、天明七年(17 87)2月26日、土佐藩への貢祖である紙の現物納入に苦しむ池川の農民六百人が逃散を決め伊予に逃亡したもの。
そのルートは寄居の集落から水ノ峠、雑誌山北麓の通称「雑誌越え」を経て黒滝峠で伊予に入る。黒滝峠からは数回に渡り歩いて来た土佐街道の逆ルート、猿楽岩から尾根筋を進み七鳥に下る通称「予州高山通り」を進み(七鳥に下る山麓に高山集落の地名が地図にある。高山通りの由来だろうか)、久万の四国遍路第44番札所大宝寺に庇護を求めた。
結局、この寺において帰国後処罰されないことを保証され、3月21日大宝寺を離れ帰国の途につく。帰路は土佐街道・松山街道のもうひとつのルートである、現在の国道494号筋を進み瓜生野峠(サレノ峠?)を経て用居の番所で取り調べを受けた後、池川に戻ったとのことである。

これで大規模林道から水ノ峠を繋いだ。次回は、やっぱり順番からして水ノ峠から下る旧土佐街道を辿るか、その先池川まで旧土佐街道の情報もみあたらないため、池川の先見ノ越から鈴ヶ峠への山入とするか、さてどうしよう。


予土往還 土佐街道・松山街道歩きの5回目。先回は予土国境の黒森峠まで繋いだ。今回から高知県域の土佐街道・松山街道に入る。
黒森峠へのアプロ―チは高知県阿川郡仁淀川町の池川、坂本、寄合、ツボイの集落へと高度を上げ、山中を走る完全舗装の大規模林道に車をデポする。標高は933mほど、目的地の黒滝峠は直線距離で4キロもない。比高差も黒滝峠は1175mほどだから250mほど。それほど厳しくはないだろうと思っていた。
大規模林道から黒滝峠(赤は実行ログ。緑は想定ルート)

が、ついにやってしまった。復路半分を残し日没。なんとかデポ地に戻ろうとライトとGPSを頼りに夜も行動を続けたのだが、デポ地まであと四分の一ほど残して気が付けば午前4時半。夜の藪漕ぎは同じところをグルグル回るだけでほとんど進むことはできなかった。
往路車デポ地出発は午前8時半、黒滝峠着は午後2時。往路で5時間半かかっていた。滝峠発午後2時半、車デポ地は日没ギリに戻れるかと思ったのだが読みが甘かった。往路途中でちょっと「撤退すべき」との想いが頭をよぎったのだけど、途中撤退すると黒滝峠への繋ぎがまた面倒だと突っ走ってしまったのが結局朝まで歩くことになったすべての因。
それにしてもなぜ往路で5時間以上かかったのだろう。勿論藪が多く、はっきりした踏み跡も少なく、その上途中3つの沢では数メートルのギャップがあり、その度に沢を上った先のルート取りが難しかったりもしたが、それでもデポ地から黒森峠までの前半部にはルート案内らしき白や赤のリボンが木の枝に巻かれており、それなりにオンコースであることを確認しながら進んだ。後半部はほどんどリボンに出合わなかったのだが、多分どこかで見逃したのだろう。
ルートのほぼ中間点、復路日没地点には午前10時半、そこまで2時間を要しており、その先ほとんどリボンと出合わなかった黒滝峠までで3時間半ほどかかっている。雑誌山から黒滝樋を経て大規模林道に下りる方も多いかと思うのだが、皆さんどの程度の時間で歩かれているのだろう。
このような為体のためメモでは当初黒滝峠からのピストン復路をメモする予定でいたのだが、それは叶わず、往路大規模林道から黒滝峠までをメモする。普通に歩けば3時間ほどかと思うのだが、膝の痛みを庇いながらの行程であり、上述の如く大層な時間がかかっている。コースタイムはあまりあてにならないかとは思う。地図には途中みつけたルート案内の赤や白のリボンをプロットしてある(リボンはRで示す)。こちらはオンコース確認に少しは役立つかと思う。
それにしてもこのルートには「土佐街道」とか「松山街道」といった標識はひとつもなかった。特段街道筋が比定されてはいないようだ。実行ログも想定ルートも「予土往還 土佐街道・松山街道」と言うわけではない。往昔土佐と伊予の往還としてこのルート辺りを歩いたのだろうといった程度のルートではある。



本日のルート;大規模林道デポ地>国土地理院破線箇所に合流>黒滝峠標識>枝尾根稜線部の前後にリボン>沢>枝尾根廻り込み>沢>大きな沢>大きな沢沢>リボン>リボン>一瞬道幅が広がる>リボン>黒滝峠


大規模林道から黒滝峠前半部(赤は実行ログ。緑は想定ルート)

大規模林道デポ地l午前8時38分
池川から坂本、寄合、ツボイの集落と車一台ギリギリ、時には谷川はガードレルもなく山側は用水路といったちょっと慎重にならざるを得ない道を抜けると二車線完全舗装の大規模林道を走り車デポ地へ。場所は国土地理院地図に黒滝峠から大規模林道へと破線が繋ぐ地点の少し手前、沢傍のガードレールが切れたところ。道を沢へと少し入ったところに木に吊るされた赤いリボンがアプロー地点。成り行きで山入り。

国土地理院破線箇所に合流;午前8時48分(標高970m)
草に覆われた間、踏み跡は感じられないがそれっぽいるルートをジグザグに10分、高度を50mほど上げると、国土地理院地図に記載された破線部に到着。破線交差部に木に吊られたリボン(R1)があった。
このリボン、往路は問題ないのだが復路ではリボンの指す道は国土地理院の破線の示す方向に進むように見える。この路を下ると、途中破線部からも分かれ大規模林道に下りるのだが、林道手前は藪、また林道とのギャップが大きく地理院破線部まで藪漕ぎをしてそこから大規模林道に出ることになる。ちょっと注意が必要。

黒滝峠標識;午前9時30分(標高1030m)
国土地理院地図の破線部に乗った先は、破線部に沿って進む。この辺り山相が草から林は木立の中を進む。破線部交差部から直ぐリボンが3つほど吊るされていたが、その先黒滝峠の標識までリボンをみることがなかった。実行ログは国土地理院地図破線(以下「破線」)の北側を進んでいるが結構フラフラしており、復路では@破線を下っておりそこにリボン(R4)があった。当初想定したルート図がオンコースであったのかしれない。

枝尾根稜線部の前後にリボン;午前9時39分(標高1040m)
その先10分ほどで枝尾根稜線部、等高線1040mに沿ってぐるりと廻る。稜線部の前後にリボンがありオンコースを確認。
この辺り復路では午前5時頃となっており、夜が明け往路で見逃した3つのリボン(R5,R-,R7))が目に入った。往路ログ上にあり、この辺りの実行ログはオンコース間違いないかと思う。

大規模林道から黒滝峠中半部(赤は実行ログ。緑は想定ルート)


沢;午前9時58分'(標高1050m)
枝尾根稜線部を回り込んだ先にもリボンが続く。安心できる。ほどなく沢音が聞こえてくる。この先もリボンが続く。実行ログも右往左往していないので割と成り行きで進めるところだったのだろう。
リボンを確認しながら枝尾根の廻り込み部から20分ほど歩くと沢に出合う。途中枯沢はあったが水流のある沢(沢1)ははじめて。この沢は道筋(?)とあまりギャップがないため沢の先のルートも想定しやすい。実際沢を渡るとほどなく大岩がありその傍にリボンがあった。

枝尾根廻り込み;午前10時12分
リボンを見遣りながら10分ほど進むと1000mの等高線が大きく北に延びた枝尾根があり、その広い出っ張り部に30mほどの小丘があり、ルートは等高線1030mに沿って枝尾根の鞍部を英賀廻り込む。
昼間の明るく先が見通せるときは鞍部をを何の問題もなく成り行きで進めたが、復路真夜中の行動ではここを抜けるのが最も難しく、1時間以上も同じ処をグルグル回っているだけだった。日没後の藪漕ぎは誠に難しいことを実感。

沢;午前10時40分(標高1054m)
この辺り、短い間隔でリボンが木の枝に吊られている。安心して30分ほど歩を進めると小さな沢(沢2)。どうということのない沢ではあるが、この先も4つほどの沢があり、中には2つほど道筋とギャップのある沢がある。往路沢を越えた先のルート取りがむずかしかったため、日没までには「大物」の沢だけは越えておこうと急ぎ、この辺りでライトなど準備し始めたところでもある。

大きな沢;11時5分(標高1020m
枝に吊られた多くのリボンにオンコースであることを確認しながら20分ほど歩くと「池川町有林」の木標(午前11時)。その直ぐ先に結構大きな沢(沢3)。道筋と結構ギャップがあり、その先も水草のような低い草が一面にひろがっておりルート取りが難しい。
とりあえず想定ルートに沿って歩を進めるとリボンがあり一安心(午前11時20分)
 
大規模林道から黒滝峠後半部(赤は実行ログ。緑は想定ルート)

大きな沢;午前11時34分(標高1000m)
その先のリボン(午前11時27分)を過ごすと1000m等高線が南に切れ込んだところにまた割と大きな沢(沢3-1)にあたった。道筋とのギャップもあり、その先のルートは不安であったが、沢を渡るとすぐリボンがありオンコースを確認できた。 その直ぐ先にも沢があった(11時43分)

沢;午後12時17分(標高1030m)
その先20分ほど進むとリボン(R40;午前11時54分)。これまでコンスタントに目にしたリボンはこれから先しばらく目にしなくなる。午後12時17分沢(沢4)にあたる。実行ログを見ると想定ルートより南に振れている。オンコースはもう少し北、「破線部」付近を進むのかもしれない。

リボン;午後13時6分(標高1060m)
等高線1030m付近から1050mにかけて、等高線を斜めに上る。1050m等高線が西に切れ込んだあたりに沢(沢5)があった(午後12時50分)。そこから10分ほど成り行きで進むと突然リボンが現れた。ほぼ1時間ぶりのリボン。この間、オンコースから逸れて歩いていたのだろう。とはいっても踏み込まれた筋があるわけでもなく、偶々出合ったといったものである。




沢;午後13時24分(標高1100m )
更に進み1100m等高線が東に突き出たところ、1110m等高線との間隔が少し広くなった平坦部にリボン(R42)があった。その傍にはギャップはないが結構広い沢(沢6)があった。








一瞬道幅が広がる;午後13時36分(標高1120m)
等高線1110m地点から1120mに向けて斜めに上って行くと山中ではあるのに道幅が広がる。先回黒森峠に着いた時、下山道は結構広く、その道がここまで続いているのか、これは楽かも、と思ったのもつかの間、すぐに草に覆われてしまった。簡易舗装道かと思うくらいのあの一瞬の道の風情は、いったい何だったのだろう。






リボン;午後13時42分(標高1130m)
6分ほど進むと赤いリボン(R43)。オンコースのようだ。黒滝峠までは残り40mほど高度をあげればいい。




黒滝峠;午後14時9分(標高1175m)
30分ほどかけ高度を40mあげ黒滝峠に到着。峠からの広い下山道はそれほど長く続いてはいなかった。
峠で先回確認し忘れた里程石の文字を確認。「松山札辻より十二里十八丁」とあった。この地に「松山札辻より十二里十八丁」と刻まれた里程石があったとする伝承をもとにつくられたレプリカのようだ。
なんとか黒滝峠をつないだが、復路は上述の如く途中日没。一刻も早く家に戻ろうと夜間も行動。が気が付けは夜が明けていた。夜は沢の水と柿の種でなんとかしのいだが、夜が明けるころには水も切れ、少々きつかった。
結局車デポ地に戻れたのが午前10時半。一晩中なんとか下山しようと動いてはいたのだが同じところをグルグルまわってるばかりで、体力の消耗だけで距離はほとんど進んでいなかった。ライドとGPSがあっても漆黒の闇の藪漕ぎはコストパフォーマンスはあまりよくなかった。最後には立ちあがる元気もなくなり、座り込んだままズルズルと山を下る為体。大した距離でもないのみ車デポ地に戻ったのが午前10時を越したのはそのためである。
結構怖がりの性格のため、日没だけは避けようといままで歩いてきたが、これが最初の日没遭遇。もう少し慎重に行動しようと思う。
ちなみに水がのめたのは11時頃。池川へと下る道の途中、沢の小滝から下ちる清流を浴びるほど飲んだ。やっと生き返った。水のない半日が一番きつかった それにしても予土往還は楽させてくれない。







土佐街道・松山街道散歩の四回目。 松山から高知を結ぶ主要往還道であったこの街道の山越え部分をまずは歩いてみようとはじめ,初回は久万高原町の越ノ峠から面河川の谷筋の七鳥まで。二回目は七鳥から面河川を渡り山稜部に取り付き尾根筋を目指すも道迷いで尾根筋手前で撤退。三度目は撤退箇所からはじめ尾根筋を猿楽岩を経由して予土国境の黒滝峠を目指すも、笹・草・藪の道なき道のため黒滝峠は夢のまた夢、猿楽峠までも届かず途中撤退となった。
黒滝峠を目したのはアプローチの都合上。黒滝峠まで繋ぐことができれば、その先は黒滝峠の東2キロほどのところまで大規模林道が続いているためそこに車をデポし黒滝峠ピストンで道を繋ぐことができる、が、途中撤退の場合、尾根筋を藪漕ぎで再び辿ることになるため、それはかなわんと黒滝峠を目したわけだが、黒滝峠への尾根筋の半分も行けず時間切れ撤退となった。
黒滝峠をつなぐため、首まで埋まるような草や笹原、藪漕ぎ再びと覚悟していたのだが、捨てる神あれば拾う神あり、ではないけれど撤退地点近くを猿楽岩に向かって林道が通っており、しかも路面は結構しっかりと踏み固めらみれていた。
なんとなく撤退箇所まで車で寄せることができりだろうとルーティング。簡易舗装されているわけではないため、おっかなびっくりではあるがノロノロ運転で撤退地までなんとか車を寄せることができた。撤退地傍に車をデポし、尾根筋を猿楽岩を経由して黒滝峠までを繋ぐことができた。
猿楽岩から黒滝峠;赤が往路実行ルート。緑が久万高原遊山会のルート。緑が復路道迷い箇所

ルートは先回の尾根筋と同じく基本踏まれた道はほぼ無い、といってもいい。笹原・草原・藪の繰り返しといったルートで距離からすれば3キロほどだと思うのだが、道迷いもあり往路4時間弱かかってしまった。猿楽岩から黒滝峠までの間には久万高原遊山会の皆さんが立てた30もの道標があるようであり、であれば道に迷うこともなく、うまくいけば黒滝峠を越えて大規模林道まで繋げるかも、などと思っていたのだが、事はそれほど簡単でもなかった。
黒滝峠からピストン復路で車デポ地に戻ったのが午後5時40分頃。復路も往路と同じくらい時間がかかってしまった。常時GPSギアと睨めっこしておればルートから外れることもないのだろうが、お気楽に成り行きで進んではルート修正の繰り返しといった為体ではあった。
前回撤退地まで車を寄せることができたのでよかったのだが、そうでなく尾根筋を辿って黒滝峠ピストンした場合、確実に途中で日没となっていただろう。 ともあれ、土佐街道の山間部クリアの愛媛側はこれで終了。道迷いはしたが、愛媛側は久万高原遊山会の土佐街道ルート図が県境まであったのでよかったのだが、次回から辿る高知県側はルート概要はなんとなくわかるが、詳しいルートは全くわかっていない。さてどうなることやら。とりあえず現時点では出たとこ勝負ということになる。



本日のルート;車デポ地へ>笹道>土佐街道標識>右手下にササミネ林道が見える>笹道と合流点の手前に「旧土佐道」標識>分岐を右の道を進む>2基の土佐街道標識1と土佐街道石碑>猿楽大師堂前に里程石>「土佐街道」標識2>土佐街道標識x>「土佐街道」標識3>木の根元に「土佐街道」の案内が吊られている>「土佐街道」標識4>分岐手前に「土佐街道」標識19>「土佐街道」標識5>「土佐街道」標識6>「土佐街道」標識7>「土佐街道」標識8>「土佐街道」標識>「土佐街道」標識10 >「土佐街道標識」11>「土佐街道」標識12>「土佐街道」標識17>「土佐街道」標識13>「土佐街道」標識14>「土佐街道」標識15>黒滝峠


猿楽岩から黒滝峠前半部;赤が往路実行ルート。緑が久万高原遊山会のルート。緑が復路道迷い箇所


車デポ地へ;午前9時36分(標高1072m)
笹道から林道を見る
自宅を出て久万高原町に。そこから県道12号に入り道なりに県道210号美川川内線に乗り直瀬川に沿って四国札所45番岩屋寺前を抜け面河川の谷筋へ。直瀬川が面河川に合流する箇所を左折、古味の集落で面河川を左岸に渡り山稜部に入る。ほどなく箕川集落へと向かう県道210号支線に乗り換え、箕川集落を越え尾根筋に向かう。
途中、面河川を越えて尾根筋へと上った土佐街道交差部を見遣りながら尾根筋を越え前川の谷筋へと木地の集落へ下る。途中、林道長崎線(幅4m 延長2460m)の起点標で県道支線を離れ林道に入る。
ここからは舗装は切れる。林業盛んな地のためか木材運搬のトラックで結構踏み固められてはいる。それでも土道。小石が転がる道をパンクを避けてゆっくりと車を進める。
左手に赤蔵神社を見遣りながら700mほど進むと左に分かれる道がある。「林道ササミネ線(幅3m 延長640m)」とある。ここを左に折れ「林道ササミネ線」を進む。時に現れるちょっと荒れたところは更に慎重に車を進め2.5kmほど進み先回撤退した箇所近くの広いスペースに車をデポする。

笹道
車デポ地の林道から北に抜けるスペースがあり、その直ぐ先に笹に囲まれ踏み込まれた道が東に続く(仮称「笹道」とする)。先回の最終部ではこの笹に囲まれた快適な道を少し踏んだ。尾根筋より少し南に外れているのだが、GPSの差分かな?などと思ったのだが、今回は笹に踏み込み尾根筋、国土地理院地図に描かれる破線と位置を合わせてみることにした。

土佐街道標識;午前9時41分(標高1077m)
笹道から膝くらいまで笹原が茂る一帯に足を踏み入れる。踏み込まれた跡など望むべくもない。この尾根筋、左右が落ち込んだ分かりやすい尾根筋とは異なり、「少し南北にフラットになっており、どこが尾根筋中央かよくわからないのだが、GPSをチェックしながら国土地理院の地図に破線が東西に続くラインに乗るよう先に進むと、笹原に突然「土佐街道」と記された円柱のポールが立っていた。やはり土佐街道は笹道ではなく、尾根筋中央部に茂る笹原の中を進むようだ。

右手下にササミネ林道が見える;午前10時5分
「土佐街道」のポール標識の先も道があるわけでもない。根拠はないのだが、木に巻かれた白テープを目印に東進する。5分ほど進むと右手下にササミネ林道がみえてくる。
久万高原遊山会の資料にはこのルート上、笹原の中に「盗人岩」と称される岩があるようで、それなりに注意しながらあるいたのだが、それらしき風情の岩を見付けることはできなかった。

笹道と合流点の手前に「旧土佐道」標識;午前10時8分
右下にササミネ林道を見遣りながら数分進むと「旧土佐道」の標識が立つ。笹原の中、オンコースを進んできたようだ。その標識の直ぐ先で笹道と合流する。



分岐を右の道を進む;午前10時12分
笹道との合流点から先は数分踏み込まれた道となる。その先右手下のササミネ林道が尾根筋に最接近するあたり、細くなった踏み跡を抜けると道が分岐する。右手の道は重機が通っているようなキャタピラ跡が道に残る。
左手の道が土佐街道っぽいのだが、地図でチェックする限りでは左手の道は尾根の北、国道494号の東川谷筋の中村、または同谷筋の横滝から二箆山(ふたつのやま)の北麓を上ってくる林道からこの地に上り、更に南の前川の谷筋の「うつぎょう」の集落を結ぶ山道のようにも思える。
結局、キャタピラー跡が残る少々情緒はないが、藪漕ぎの必要もない至極快適な右側の道を進むことにした。只、実行ログをみるとプロットしたルートから南に少しずれてる。ひょっとしたら左に道をとれば尾根筋を進めたのかもしれない。

土佐街道標識1と土佐街道石碑;午前10時26分
キャタピラ跡の残る道からもほどなく分かれ、尾根筋の道を進む。この辺りは比較的踏み込まれており迷うことはない。15分ほど進むと道の左手に「土佐街道」の木標、その反対側には「土佐街道」と刻まれた石碑が立つ。
「土佐街道」の木標は久万高原遊山会の立てたもの。このあたりから黒滝峠まで30基設置されているとのこと。便宜上、以降久万高原遊山会設置の木標に番号を付けて記載する。ここは「土佐街道」標識1。

猿楽大師堂前に里程石;10時27分
標識の先開けた場所があり古さびたお堂が建つ。結構新しい「猿楽大師堂」の扁額がお堂にかかる。その右前に里程石。「松山札辻より十二里」と刻まれる。 左手には石碑。「**大師おわしまします」といったお大師さん讃える句が刻まれていた。





**大師おわしまします
大師堂の前の平場の南に小山があり、その前に「猿楽岩」の案内がある。小山と見えたものはよく見ると大岩のようであった。
「えひめの記憶(愛媛県生涯学習センター)」には、「昭和30年(1955年)くらいまでは建築の材を積んで駄賃持ちが通行していました。戦前には土佐から干物、伊予からダイズ、アズキなどの産物が運ばれ、猿楽の大師堂の所では、相撲が行われることもあり、人の行き交うことも多かったのです」とある。その頃には人の往来により踏み込まれた道筋が通っていたことかと思う。

「土佐街道」標識2;午前10時40分
里程石前を東に下る
猿楽岩に上るなど10分ほど猿楽大師堂あたりを彷徨い、10時38分頃に大師堂を離れる。土佐街道の案内はないのだが、十二里石の立つ辺りから踏まれた道筋を東に下る。
数分歩き10mほど下った道の左手に「土佐街道」標識2が立つ。足元は一面草覆われるがなんとなく道筋っぽいところを東進する。

土佐街道標識x;午前10時45分
朽ちた木橋
数分歩くと小さな沢に木を渡した橋がある。結構古そうであり折れないかと心配で、傍にある立ち木に手を添えてクリアする。その先も草に覆われたところを2 分ほど進むと「土佐街道」X標識が立つ。
土佐街道標識xとしたのはGPSに位置情報を入れ忘れたためメモの段階で追加しただけのこと。

「土佐街道」標識3;午前10時52分
首まで埋まる草を掻き分け7分ほど進むと道の左手に「土佐街道」の標識。猿楽大師堂から先は、尾根筋を離れ1162mピークから黒滝峠に続く山稜を巻くように等高線1100m辺りを東進する。


木の根元に「土佐街道」の案内が吊られている;午前10時55分
標識の直ぐ先、左手の木の根元にビニールのようなものに「土佐街道」と文字が刷られた街道案内があった。どのようなものであれ、道なき道を進むには誠にありがたい。



「土佐街道」標識4;午前10時58分
数分歩くと右手に「土佐街道」標識。久万高原遊山会によって設置された土佐街道標識はこの辺りまでで10基ほどあるようだが、注意力散漫なのか草に覆われ見付けることができなかったのか、出合ったのは5基。設置されたものの半数であった。この先笹原となる。

猿楽岩から黒滝峠中間部;赤が往路実行ルート。緑が久万高原遊山会のルート。緑が復路道迷い箇所

分岐手前に「土佐街道」標識19;午前11時2分
5分ほど進むと笹原の間を抜いた踏み分け道に合流。その手前に「土佐街道」の標識19が立っていた。「19」としているのは往路見付けることができず、黒滝峠からの復路で見つけたもの。結局30基のうち、20基の標識に助けられながらピストンで車デポ地に戻れたことになる。
それはともあれ、しっかり踏まれた道は直ぐに消える。この辺り、今までの左が高く右が低い地形とちょっと異なっている。左手は1169mピークから二箆山(ふたつのやま)に連なる尾根筋への上り。右手も南に突き出た広い1100m頭高線の中に10m程の小丘が形成されている。土佐街道は両サイドの高みの間を抜けていく。

「土佐街道」標識5;午前11時13分
10分ほど成り行きで両サイドの高みの境を抜け、再び1100m等高線にあたる箇所に「土佐街道」標識5が立つ。
この標識までの10分ほど、往路はなんとなく成り行きで下り標識5に出合った。
復路
ピストンされる方がそれほどいらっしゃるとも思えないが取敢えずメモするが、復路はルート取りが結構大変。標識の立つあたりは一面の笹原であり踏まれた跡など望むべくもない。
木標の指す方向に歩を進めるが直ぐ藪で行く手を阻まれる。何度か同じことを繰り返したのだが両サイドの高みの境、割とフラットな笹原で結構右往左往するこことになった。往路はなにゆえにすんなり標識5に出合ったのか狐につままれた感。
最後はGPSと睨めっこしながら、国土地理院の地図の記載される破線からはずれることなく進みなんとかクリアできた。この間久万高原遊山会の設置した木標が2基ほどあるようだが、見付けることはできなかった。

「土佐街道」標識6;午前11時23分
少し北に振れる等高線1100m辺に沿って10分ほど進むと右手に「土佐街道」標識6が立つ。





「土佐街道」標識7;午前11時30分
その先7分ほど進むと左手に「土佐街道」標識。この辺りは割と踏み込まれた道が残っていた。





「土佐街道」標識8;午前11時32分
標識から直ぐ、南に振れる等高線1100mが東に向かう辺りにも右手に「土佐街道」標識8。この先木々の間の踏み込まれた道を進む。



「土佐街道」標識9;午前11時37分
5分ほど進むと右手に「土佐街道」標識9。その先は木々の間のフラットな道を進む。このような快適な道を歩きたいとおもうのだけど、それhど長くは続かなかった。ルートは心持ち1090m等高線へと振れている。

「土佐街道」標識10 ;午前11時42分
等高線1090m辺りまで降り、そこから再び1100mへと振り直すあたり、5分程歩いた右手に「土佐街道」標識10が立つ。
久万高原遊山会のプロットしたルート図からは南にずれているのだが。GPSの測定誤差なのかどうかはっきりしないが、復路はほのプロットしたルートを戻っているのでGPSの測定誤差の範囲なのかもしれない。

猿楽岩から黒滝峠後半部;赤が往路実行ルート。緑が久万高原遊山会のルート。緑が復路道迷い箇所


「土佐街道標識」11;午前11時54分
その先、12分ほど1090mから1100m等高線の間を抜け、等高線1100m辺りに戻った処、右手に「土佐街道」標識11が立つ。
標識11から先、標識12までの間のルート取りが往路・復路とも結構難しかった。
往路
久万高原遊山会のルート図では標識11から12まではほぼ東進するとあるのだが、行きつ戻りつ東進するアプローチを探したのだが、それらしき箇所は見つからず、少し踏まれた感のある道(?)を進むとプロットした土佐街道ルートから南へ結構離れてしまった。
この沢を上りオンコースに復帰
踏み跡も消え藪となった辺りで、もうこれ以上は勘弁とプロットしたルートに復帰すべく北に向かう。と前面に深い沢。3mほどのギャップがあるだろうか。
 沢の右岸をプロットしたルートに戻るべく北に向かうが結構な藪。これは沢を上るほうが楽だろうとギャップが低くなった辺りで沢に入り込み、沢伝いに北進し地図にプロットした地点に戻る。そこは沢も切れ踏み跡もあり、また沢のすぐ東側には「土佐街道」標識12が立っていた。この間50分ほどかかった。これが往路。


「土佐街道」標識12;午後12時43分
沢から久万高原遊山会のルートに復帰した直ぐ東に標識12が立つ。藪漕ぎ、沢上りで少々萎えた気持ちがちょっと元気になる。難儀した往路ではあるが、復路はこの標識12で偶々ではあるが久万高原遊山会のルートに乗ったわけであり、標識11までの戻りは楽勝かと思いは早々に崩れてしまった。
復路
復路では標識12から地図にプロットした土佐街道ルートを西進すると直ぐに「土佐街道」標識18がみつかった。これは楽勝かと思ったのだが、その後は踏み跡がはっきりせず、お気楽にすすむと北に振れ、南に振れと軌道修正に結構時間がかかり標識11まで、おおよそ1時間かかってしまった。常時GPSと睨めっこしながら進めばいいのだろうが、この筋だろうとお気楽にすすんだ結果の為体である。往路、アプローチ口を探した標識11から東進する分岐にどこで合流したのかはっきりしないまま標識11に進んだ。
結論としてこの標識11と12の間は、東西に連なる二箆山(ふたつのやま)からの尾根須が黒滝峠へと南東に向きを変えたその尾根筋に向かい、等高線1100mから1150mへとGPSを頼りに東進するしか術はないかと思う。
標識4と標識5の間は復路が結構大変であったが、この標識11から12の間は往路・復路ともに結構大変かと思う。
藪漕ぎで疲れ果てズボンに引っかかる茨を外す気力もなくなり、力任せに突破し、案の定ズボンが大きく裂けていた。土佐街道歩きだけてこれで3回目のカケツギ修繕依頼となる。新品のズボンが買えるほどの修繕費。お店も気の毒がってくれ3回目はちょっとサービスしてくれた。

「土佐街道」標識17
等高線1150mとクロスするあたりに土佐街道標識17.これは復路で出合ったもの。往路は少し南を巻き、出合うことはなかった。



「土佐街道」標識13;午後13時3分
標識17辺りから黒滝峠へと南東に向かう尾根筋に沿って等高線1160mから1170m辺りをトラバース気味に進む。等高線1160mとクロスするあたりに「土佐街道」標識13。標識12から20分程度かかったことになる。


「土佐街道」標識14;午後13時7分
標識13から4分ほど、等高線1160mと1170mの間に「土佐街道」標識14。この辺りはキツイ藪や草もなく迷うことはなかった。




「土佐街道」標識15;午後13時13分
更に5分ほど南東に進み、等高線1170mとクロスするあたりに「土佐街道」標識15があった。





黒滝峠;午後13時24分
標識15から10分ほど南東に進み,南北が等高線1190mに囲まれた鞍部に「土佐街道」標識16と里程石が立つ。里程石は結構新しい。「松山札辻より十二里」と読み、そのときはそれで納得していたのだが、十二里程石は猿楽岩にあった。 どういうことかチェックすると、久万高原遊山会の報告書に、この地に「松山札辻より十二里十八丁の里程石があったとの伝承があるとする。草に隠れた下部に「十八丁」が刻まれたレプリカかもしれない。次回高知側から黒滝峠をつないだときに「十八丁」とあるかどうか確認することする。

それはともあれ黒滝峠は何処?この鞍部とは思うのだが標識がない。土佐街道筋の他、南と北に道が抜けるが下り気味。念のため両方の道を少し進むが峠といった風情のところはない。
鞍部に戻ると土佐街道の木標と里程石の裏手、北側に上る踏み込まれた細い道筋があった。その道筋を上ると鞍部より一段高い笹原に「黒滝峠」と書かれた木標が立っ。木標の傍に2基の石仏。地蔵と馬頭観音が笠原に隠れるように佇んでいた。 その前に円柱が立ち、「黒滝峠 雑誌(ぞうし)越え 予州道」「池川紙一逃散の道揆(1787)  中島与一郎脱藩の道1864)」とあった。
池川紙一揆逃散の道
池川はこの地の東、現在の国道494号と493号が合流する辺り。紙一揆とは山間部において米納の代わりに紙を藩に現物していたわけだが、搾取に苦しみ起こした農民一揆。農民一揆には徒党を組み暴徒と化すもの、強訴に及ぶもの、他国に逃亡する逃散があるが、この池川紙一揆逃散の道とは、天明七年(17 87)2月26日、土佐藩への貢祖である紙の現物納入に苦しむ池川の農民六百人が逃散を決め伊予に逃亡したもの。
そのルートは寄居の集落から水ノ峠、雑誌山北麓の通称「雑誌越え」を経てこの黒滝峠で伊予に入る。黒滝峠からは数回に渡り歩いて来た土佐街道の逆ルート、猿楽岩から尾根筋を進み七鳥に下る通称「予州高山通り」を進み(七鳥に下る山麓に高山集落の地名が地図にある。高山通りの由来だろうか)、久万の四国遍路第44番札所大宝寺に庇護を求めた。
結局、この寺において帰国後処罰されないことを保証され、3月21日大宝寺を離れ帰国の途につく。帰路は土佐街道・松山街道のもうひとつのルートである、現在の国道494号筋を進み瓜生野峠(サレノ峠?)を経て用居の番所で取り調べを受けた後、池川に戻ったとのことである。
中島与一郎脱藩の道
元治元年(1864)、中島信行、中島与一郎、細木核太郎の3名は脱藩を決意。佐川より仁淀川に沿って進み、現在の県道363号筋の名野川を経て水ノ峠に至り、雑誌越えの道を黒滝峠に上る。その後中島与一郎は足の腫物のため一行と分かれ水ヶ峠に戻り、南東に下り橋ヶ藪から室津(国道439号室津川が仁淀川水系土居川に合流する辺り)まで進むも見とがめられ、再び水ヶ峠まで逃れ、その地の大師堂で捕り方により最後を遂げた。

これで先回取りこぼした猿楽岩の手前から予土国境・黒滝峠までをつないだ。距離の割には時間がかかり過ぎている。距離は3キロ強程度なのだが往路・復路ともに4時間弱かけて歩いている。道迷いのロスを1時間としても3キロ3時間。体力の衰えか、痛めた膝ゆえの歩行スピードの遅れなのか、ほとんど藪こぎといったルートゆえか、多分にこれら要因の合わせ技ではあろうが、これから先、佐川までは雑誌越え、鈴ヶ峠越えなどが控えている。
鈴ヶ峠越えは比高差600mほどを一気に上るようだ。体力の衰えはしかたないにして、せめて藪漕ぎだけは勘弁してほしいの願うののみ。ともあれ。次回は土佐側の大規模林道から黒滝峠を繋ぎ、状況によっては水ヶ峠まで進むことができればと予定を立てる。
予土往還 高山通り山入り道の二回目。当初尾根筋からスタートし、尾根道を辿り猿楽岩を経由して予土国境の黒滝峠まで進む計画ではあった。が、初回の山入道での道迷いなどで想定以上に時間がかかり、尾根筋まで1キロ、比高差160mほどを残すところで撤退となった。初回から皮算用の思惑が外れてしまった。
で、当日。先回の最終地・撤退地点である県道210号支線(蓑川集落経由)に車をデポし出発したのが午前8時過ぎ。11里石の先の尾根筋に到着したのが午前10前。これも少し道に迷い1時間半ほど時間がかかってしまった。
そこから予土国境の黒滝峠までは尾根筋を辿るおおよそ6キロ、比高差250mほどのアップダウンルート。踏み込まれた道でもあれば往復12キロのピストンもなんとかなるかと思ったのだが、ルートは基本踏み込まれた道はなく、木立が茂る藪と腰というか胸まで埋まる笹や草の中を藪漕ぎ、草を掻き分けて進むしか術はない。時に現れる踏み込まれた道は林業の作業道のよう。快適さに惹かれ道を進むとあらぬ方向に連れて行かれる。山登りが好きな方には何事のこともないのだろうが、街道歩きの結果として峠を越えるため仕方なく山入りするわが身には延々と続く藪漕ぎは難儀した。
尾根筋から外れないように久万高原遊山会(以下「遊山会)」のサイトからダウンロードしGPSギアにプロットしたトラックを目安に、ひたすら藪の木々を踏みしだき、腰まで茂り足元の見えない笹原・草の中を歩くこと3時間、黒滝峠ははるかかなた、尾根筋スタート地点から3.5キロほどの猿楽岩の手前で時間切れ撤退となった。 時刻は午後1時前ではあるが、復路ピストンに必要な時間を考慮し尾根道は3時間で撤退と決めていた。ピストンで車デポ地に戻るために4時間ほどかかるだろうし、順調にいってもデポ地戻りは午後6時頃。往路の尾根筋への道などはすんなりと下れるとも思われず道迷いを考慮しての、途中、中途半端な地点ではあるがピストン復路へと折り返した。

当初の計画で黒滝峠まで辿りつかねば、と思ったのは車デポでのアプロ―チの段取り。黒滝峠の2キロほど先、水ノ峠の北には車の走れる大規模林道が整備されており、黒滝峠から先は大規模林道に車をデポし、黒滝峠をピストンし予土国境を越えた土佐街道を黒滝峠・水ノ峠、そして寄合の集落へと繋ぐことができそうと思ったからである。 
で、今回その黒滝峠まで辿りつけず尾根筋の途中で引き返したわけだが、その引き返し点の直ぐ傍(数メートル南)まで猿楽岩付近まで続く林道が上ってきており、舗装はされていないが、木材伐採のトラックに踏み固められたためだろうか路面状況は結構、いい。これなら撤退地点まで車を寄せることができそうだ。尾根推近くまで林道が上ってきているのは地図で確認していた。が、Street Viewで見ることはできず、車を乗りいれることができるかどうか不明であった。尾根筋を藪漕ぎしながら、これではとても黒滝峠までは無理。猿楽岩辺りまで進むにしても、次回は尾根筋からスタートし同じ藪漕ぎをすることになろうと覚悟を決めていたのだが、何とか再びの延々と続くと思われた藪漕ぎから解放され次回に臨めそうでだ。次回は折り返し地点の尾根筋まで林道を走り車をデポし、当初の計画である黒滝峠までは3キロほど。往復6キロほどのピストンで事足る。少し余裕をもって歩けそうに思える。

で、今回の総括。尾根筋は基本、道はない。たまに藪や草原が切れて植林の杉林となってもはっきりとした踏み跡はないし、藪でない杉林には林業の作業道が幾筋も走ることもあり逆に厄介かもしれない。この尾根筋のルートは尾根筋を外さないよう、ひたすらGPSでのルートを確認しながら進むしか術はない。GPSギアは必須ではないだろうか。
因みに私はGarminのGPS専用端末と、iphoneにはカシミール3Dの作者がつくったアプリである「スーパー地形(1000円)をインストールしている。



本日のルート;
県道210号支線(蓑川経由)を逸れ山道を上り、尾根筋の県道210号支線(蓑川経由)に出る。
県道210号支線(蓑川経由)の「旧土佐道」標識から山道に県道210号支線(蓑川経由)に一度出る>県道210号支線(蓑川経由)に出たところに「土佐街道」標識>「旧土佐道」標識から山道に入る>標高900mの尾根に乗る>土佐街道に復帰>十一里石>杉林の平坦部>尾根筋の県道支線(蓑川経由)に出る。
尾根筋の道を猿楽岩へと向かう■。
尾根筋の県道支線(蓑川経由)を逸れ林道へ>標識箇所から尾根筋に入る>950m ピークに三角点>尾根筋の鞍部から林道への分岐道>「旧土佐道」標識>南が開ける>965mピーク三角点>馬道?>旧土佐道標識>1050mピーク三角点>旧土佐道標識>1100m三角点南すぐ傍に林道が接近>撤退・引き返し地点。


本日のルート(「遊山会」ルート(青)、実行ルート(赤)、補足(緑)


県道210号支線(蓑川経由)を逸れ山道を上り、
尾根筋の県道210号支線(蓑川経由)に出る■

先回の最終到達地点である県道210号支線(蓑川経由)、標高760mほどのところから山道に入り比高差160mほど上り尾根筋に出る。尾根筋に出たところは、車デポ地より曲折しながら尾根へと上ってきた同じ県道210号支線(蓑川経由)である。
県道210号支線を逸れ山道に入った土佐街道は尾根筋に出る前に一度県道210号支線(蓑川経由)に出る。県道支線に出る手前は腰ならぬ、胸まで埋まるような草の中を進むことになる。
県道210号支線に出た土佐街道は道をクロスし。しばらく県道210号支線に沿って上るのだが、等高線900m辺りの尾根筋辺りで道がわかりにくくなる。GPSギアにプロットした「遊山会」のトラックログは900m等高線に沿って廻り込むように進むのだが、これが結構なザレ場。このザレ場をトラバース気味に進むのが土佐街道であることは後でわかったのだが、その時は、そんなはずは、などと思い尾根筋を垂直に南へと上り、あまりにプロットしたルートと離れるため標高930m辺りで東へと尾根筋を下りプロットした土佐街道のルートに復帰した。尾根筋からトラバース気味にザレ場へと進む等高線900mライン辺りがルートトレースの注意箇所かと思う。
道に復帰し十一里石に出合えばオンコース。その先、少し平坦になった杉林、そこは沢への水を集める少し湿ったところとなっているが、この辺りも少し道がわかりにくい。往路はそれでも前方は尾根筋が近く明るく開けた感があるため、そちらの方向へと向かっていけばいいのだが、復路はトラックログと睨めっこしながら進まなければ、まず道に迷うことになるだろう。私も復路、お気楽に成り行きで道を下り道迷いで「泣いた」。ピストンをする方がそれほどいるとは思えないが、念のため。結局距離1キロ弱、比高差160mの尾根筋まで1時間半強かかった。

尾根筋へ上るルート図


県道210号支線(蓑川経由)の「旧土佐道」標識から山道に;午前8時2分(標高760m)
県道210号支線(蓑川経由)に車をデポし「旧土佐街道」の標識より山道に入る。踏み込まれた感のない山道をトラックログを頼りに進むと、掘割の道に出合う。このまま続いて欲しいとの願いではあるが、道は直ぐに笹に覆われる。なんとなく道筋っぽい笹の茂みを先に進む。

県道210号支線(蓑川経由)に一度出る;午前8時39分(標高835m)
県道支線下の藪を進み
県道支線に出る(ここが出口)
50分弱進むと県道210号支線(蓑川経由)に近づく。県道支線に近づく辺りから茂った草が行く手を遮る。
西に突き出し大きく曲がる県道支線に出るのが一番近いのだが、プロットした「遊山会」のトラックログは、そこに上がることなく、その東のカーブの辺りまで進めとある。上に県道支線が走っているのがわかっているのでいいのだが、この県道支線の下あたり一面は腰というか胸あたりまで埋まるような草に覆われている。結構強烈な藪漕ぎとはなったが県道210号支線(蓑川経由)に這い上がる。
実行ログ
成り行きで進めば
ここで県道支線に出る
往路成り行きで、踏み込まれた道を進むと、上述西に突き出し大きく曲がる県道支線に出た。「遊山会」のトラックログはこの地で県道支線に出ることなく、県道に沿って少し西に進むことになっており、ログに従い少し引き返し進んだのだが、これが強烈な藪であった。トラックログを意識せず、成り行きで進むとこのルートを進むことになるかと思う。


県道210号支線(蓑川経由)に出たところに「土佐街道」標識;午前8時40分(標高835m)
県道支線出口に「土佐街道」標識
県道支線に出たところに「土佐街道」の標識。その標識は真北を指すのだが、藪漕ぎでやっとたどり着いたところであり、踏まれた道などなにもない。往路はそれでも県道支線という目安があるからいいものの、復路この標識に従い再び藪に入るのかと思うと、少々腰が引ける。
復路
復路では県道への出口下の強烈な藪というか草に右往左往し、上述「西に突き出し大きく曲がる」箇所に出てしまい、その先の藪を進む気力も既に無く、そのまま県道支線を車デポ地まで歩いて戻ることになった。

「旧土佐道」標識から山道に入る;午前8時44分(標高835m)
「土佐街道」の標識の対面、カーブを曲がるところに「旧土佐道」の標識が立つ。少し奥まった草の中に埋もれ、うっかりすれば見逃しそう。踏み込まれた道が県道210号支線に沿って上ってゆく。
途中で県道支線から離れないようにと、踏み込まれた道筋の右側の尾根筋に入る。踏み込まれた道を進み、あらぬ方向に引っ張られたことが頭に過ったためである。
土佐街道ルート
確認はしていないのだが、この踏み込まれた道筋をそのまま進めば、下に記すザレ場につながっていたのかもしれない。

標高900mの尾根に乗る;午前8時55分
尾根筋を進み900m等高線辺りで尾根に乗る。左手は崖。土佐街道はその崖のザレ場を進むのだが、その時は、そんなはずは、と思いながら尾根に乗った。
が、プロットした土佐街道のトラックと次第に離れていくため、尾根を東に下りようと崖面端を進む。

土佐街道に復帰;午前9時7分(標高908m)
掘割道に出る
ザレ場道
標高930mの尾根筋辺りまで上ると、尾根を東に下りることができそうになった。取り合えず崖端近くの尾根筋を下りると掘割の道に出た。プロットした「遊山会」のトラックログとも合致した。


ザレ場道を確認
復帰した土佐街道をログに従い少し道を戻ると、そこは崖面のザレ場。プロットしたトラックログはそのザレ場を抜けているようだ。土佐街道は尾根筋に乗ることなく、等高線900m辺りから等高線に沿って崖面のザレ場を進むのがオンコースのようである。

十一里石;午前9時33分(標高906m)
ザレ場道確認のため折り返したりしたため少し時間がかかったが、掘割の道を先に進むと道の左に「十一里石」の案内。右手山側に「松山札辻より十一里」と刻まれていた。
面河川に面した七鳥集落にあった十里石のところでもメモしたが、十里と十一里石の立てる位置を取り違え、運び直すのも面倒であったのか、七鳥の「十一」からは「一」を削り、この地の「十」には「一」を刻み加えたと言う。「十」と「里」の間が気持ち窮屈そうなのはそのためだろう。

杉林の平坦部;午前9時34分
十一里石から成り行きで先に進むと900m等高線と910m等高線の間隔が広くなり、平坦な場所に出る。足元は水気で湿っている。これは復路の道迷いでわかったのだが、ザレ場の下は切り込んだ沢となっていた。この杉林あたりも沢の源頭部のひとつになっているのだろう。
●迷い道注意箇所
この平坦部で道は消える。それでも往路は30mも高度を上げれば県道210号支線が通り前方は気持明るくなっておりトラックログを追っかければ尾根筋を走る県道支線に出ることができるが、復路は結構注意していても道に迷ってしまうようなところ。
実際復路は道に迷い右往左往。東に振りすぎ「遊山会」のトラックログのルートに戻るため西に向かうが、そこにはザレ場下の切れ込んだ沢があり迷い地点まで引き返した。そこから、ログを見ながらオンコースを進んでいたつもりでいたのだが、知らず道を逸れ、結局県道支線にはで出たものの、往路アプローチ口から少し東に離れたところに下りることになった。藪が激しくルート復帰を諦め県道へ降りればいいと思ったためでもある。ともあれ、上述ザレ場から杉林の平坦部あたりまでは往路も復路も結構トレースが難しそうに思える。

尾根筋の県道支線(蓑川経由)に出る;午前9時42分
平坦な杉林部から10分弱で県道支線(蓑川経由)に出る。県道支線出口には「土佐街道」の標識と石碑が立つ。石碑は大正八年(1919)建立の頌徳石碑。「天下泰平」「記念」「石」の文字と地域に貢献したであろう三人の功を記す。 県道前面の木々は伐採され、前川の谷筋の南に聳える明神山(中津山)に連なる山稜が見える。ここで小休止。


尾根筋の道を猿楽岩へと向かう

ここから先はひたすら尾根筋を辿ることになる。当初の計画ではこの頌徳石碑のある尾根筋からスタートし猿楽岩を経由して予土国境の黒滝峠まで6キロ。ピストンで12キロを歩く予定であったが、初回での山入で尾根筋まで達することができず今回尾根筋に辿りついた時刻は既に午前10時。黒滝峠ピストンはちょっと無理そう。ピストンの時間も考慮し、3時間ほど進んだ箇所で折り返すことにした。猿楽峠までは3.5キロほど。そこまで辿りつければいいか、といった思い。
で尾根道を進んだのだが、このルートは基本「道」はない。尾根筋を外さないよう、藪であり笹原であり草の中をひたすら「漕ぎ」進むことになる。時に藪から出るが直ぐまた藪といった状態。厄介なのは時に踏み込まれた道に合うがそれは植林・森林伐採の作業道。快適さに惹かれ道なりに進むと、あらぬ方向に連れていかれる。GPSにプロットしたトラックログと睨めっこしながら、尾根筋を外さないようにひたすら進むしか術はない。木立が遮る藪はまだ足元が見えるのでいいのだが、腰というか胸あたりまで埋まるような草・笹原の茂みでは足元が見えず、何かにひっかけ転びつつまろびつつ、といった有様であった。
メモではいくつかの標識を記しているが、これは往路・復路の合わせ技で偶々出合ったもの。特段のはっきりとした踏み込まれた道筋などほぼ無いわけであるから、成り行きで尾根筋らしきところを進み出合ったわけで、一筋外したところを歩いておれば出合うこともなかったかと思う。
ことほど左様に今回のルート案内は説明が難しい。基本、ひたすら尾根筋を外さず進むこと、というしか言いようがない。で、歩き始めて3時間。折り返し地点は猿楽岩までもたどり着くことができず、その少し手前で撤退・引き返しとなった。

イントロでメモしたように当初黒滝峠を目指す計画としたのは車デポ地の関係。黒滝峠を越えた先、水の峠の北に大規模林道が走っており、そこに車をデポし黒滝峠を繋ごうと思ったわけである。が、今回猿楽岩手前で引き返すことになった。大規模林道から猿楽岩手前の撤退地点のピストン11キロ。ちょっときついなあ、などと思いながら念の為にと、引き返し地点の数メートル南に見える林道をチェックする。猿楽岩あたりまで続く林道があるのはチェックしていたのだが、車を寄せることができる路面状況かはわかっていなかった。
で、路面を見ると舗装はされていないが、伐採木材運搬のトラックなどの往来ゆえか、結構踏み固められている。林道すべてがこの路面状況であれば撤退・引き返し地点まで車を寄せることができそうだ。
「捨てる神あれば拾う神あり」の言ではないが、次回は取敢えずこの地点まで車を寄せてみようということにしてピストンで尾根筋スタート地点に戻る。林道路面がすべて踏み固められていることを願うのみ。

折り返し地点より尾根筋を辿りスタート地点に戻った時刻は午後15時30分頃となっていた。距離は3キロ弱、ピストン往復でも6キロほど。最大標高200m弱の尾根筋ピストンに6時間かかったことになる。少し時間がかかり過ぎのようにも思うが、延々と続いた藪漕ぎであればこんなもんであろうか。

根筋のルート

尾根筋の県道支線(蓑川経由)を逸れ林道へ;午前9時56分(標高915m)
10分ほど休憩し土佐街道歩き再開。歩き始めて直ぐ先、県道210号支線が西へと大きく曲がる突端部から東に林道が逸れる。その角には「土佐街道」の標識が立つ。 Street Viewでこの標識は確認していたのだが、その時点では鬱蒼とした木々の間に立っていたのだが、辺り一面の木々は伐採され空が大きく開けていた。

標識箇所から尾根筋に入る;午前10時7分(標高914m)
「土佐街道入口」標識

東へと林道を進む。この林道がずっと続いてくれたら楽だろうな、などとお気楽に歩を進めると、林道は尾根筋からどんどん離れていく。途中、尾根筋が林道にあたる辺りから山入するのではと林道を引き返し、それらしきアプローチ口を探しながら進むと、林道から少し入ったところに小さな木の標識が立ち、「土佐街道入口」と記してある。今まで出合った「土佐街道」とか「旧土佐道」とは異なった小さな木の標識。うっかりすると見逃してしまうかもしれない。
ともあれ、その標識より尾根筋に入る。

950m ピークに三角点;午前10時22分
尾根筋へのアプロ―チ部は少し踏み込まれた感があるが、進むに従い笹に覆われ道筋など何も見えなくなる。GPSと睨めっこしながら尾根筋を進むと950mピークに標識が立ち、「美川村 三角点を大切にしましょう」とある。「美川村」とあるので、四等三角点だろう。取敢えずオンコースを辿っているようで一安心。
三角点
三角測量にもちいる緯度・経度の基準となる点。一等三角点(設置間隔約40キロ)、二等三角点(設置間隔約8キロ)、三等三角点(設置間隔約4キロ)、四等し三角点(設置間隔約2キロ)などに分類される(Wikipedia)。一等から三等までの三角点はほとんどが明治時代に設置されたものであるが、四等三角点は市町村等の要望基づき国土調査(地籍調査)を実施するために必要な基準点として設置される、と。
美川村
昭和30年(1955)、弘形村、仕七川村、中津村が合併し美川村となる。昭和34年(1959)大字七鳥の一部が分離し、久万町、川瀬村、父二峰村と合併して、久万町となり、平成16年(2004年)には上浮穴郡内4か町村の合併により久万高原町となる。「美川村」とあるので、この四等三角点は昭和30年から34年の間に設置されたものだろう。
尚、「美川」の由来は「昭和の市町村合併の際に考案された。村内を面河川と久万川とが合流し、やがて仁淀川となって流れることから、三つの川の「み」、面河川は古名を「味川」と称したこと、御三戸(みみど)呼ばれる地に役場がおかれたこと、美しい自然の「美」などから「美川」としたもの。古味という集落も村内にある」とWikipediaにある。

「旧土佐道」標識;午前10時44分(標高960m)
950mピークを離れ、次のピークに向かい一度鞍部に下りる。笹藪は依然激しい。時に赤いリボンが木に巻きつけられている。道筋などなにも見えないが鞍部に下りる。
鞍部から次のピークへと進む辺りは杉林となっている。尾根筋を少し上ると杉林の中に「旧土佐道」の標識が立つ。
この標識は往路では気が付かなかった。復路で偶々出合ったもの。特段の明瞭な道筋があるわけでもないため、往路は少し離れた尾根筋を上ったため出合わなかったのだろう。ことほと左様に、尾根筋を快適に尾根道を歩くといった風情とはほど遠い尾根筋歩きではある。
林道への道
鞍部に踏まれた道が尾根筋から北に分かれる。往路で東に続いていた林道に合流するのだろうと、復路ではこの道筋を辿り林道に合流しスタート地点に戻った。

南が開ける;午前10時52分(標高960m)
杉林の中を進むと前が明るくなってくる。ほどなく右手(南側)が大きく開けた場所に出る。南に連なる山稜は明神山(中津山)から続く尾根筋だろう。中津山の方位をチェックすると156度。写真南東(左手)に見えるピークが明神山(中津山)だろうか。
南に開けた尾根筋は次のピークに続く60mほどの鞍部。南端部のみが伐採されており、切株を乗り越えて進む。

965mピーク三角点;午前11時1分
次の965mピークへの尾根筋は藪となる。上り切ったところに「美川村 三角点を大切にしましょう」の標識。これも四等三角点だろう。
三角点あたりから杉林が密になってくる。
この辺りピークと鞍部が小刻みに続く。そしてそのピークに四等三角点が設置されている。四等三角点は山間部では2キロに1点、というか約4平方キロに1点設置されると言うのだが三角点間の間隔が狭いように思えるのだが、どういう基準で設置されているのだろう。門外漢にはよくわからない。

馬道?;午前11時10分
鞍部に下りるとその先、960m等高線と970m等高線の間の尾根筋の間隔が広くなっている。そこには中央と左右に掘割風の道が見える。この辺りに「馬道」が残ると言う。馬の蹄で堀割られ、固められた道とのことだが、馬道と作業道の句別はできない。取敢えずこの辺りに馬道が残るといったことで先に進む。
馬道か作業道か不明だが、掘割の道を進むのが楽そうではある。が、どこに連れて行かれるか不安であり、取敢えず尾根筋をトレースして先に進む。

旧土佐道標識;午前11時18分(標高983m)
尾根筋を進むと「旧土佐道」の標識。この標識も往路では出合うことなく、復路で偶々出合ったもの。実行ログを見ると往路では尾根筋を少し南に振れて進んでおり出合うことなく、復路では少し北側に振って歩いていると作業道に出合い、知らず北へとあらぬ方向に引っ張られ、これはまずいと引き返した尾根筋で偶々標識に出合ったといったもの。ことほど左様に、はっきりとした道筋などない、ということだ。

1050mピーク三角点;;午前11時42分
尾根筋を進む。実行ログを見ると南に振れている。作業道に入り込み知らず南に振れたのだろう。これはまずいと尾根筋へと戻ると、杉林と足元は一面の笹原。そこに偶々「美川村 三角点を大切にしましょう」の四等三角点。1050mピークだろう。

旧土佐道標識;午前11時46分(標高1044m)
三角点の先、杉の林は続くが足元は草が茂る。杉の木に巻かれた赤いテープを目安に進むと「旧土佐道」の標識が立っていた。この標識が往路尾根筋で出合った唯一の土佐街道を案内する標識であった。

1100m三角点付近;午後12時10分
北西に長くのびた尾根筋となっている等高線940mと950mの間の杉林を進み尾根筋を上ると、そこは一面の笹原。腰まで埋まるどこまでも続く笹原といったもの。笹原は1100m辺りまで切れることなく広がる。
尾根筋を辿っているようでも、GPSで尾根筋をチェックしないで進んでいると、知らずあらぬ方向へ向かう。結構南に振れ、尾根筋に復帰。
地図に記号が記される1100m三角点に出合うことを願ったが、それは叶わなかった。メモの段階でこの1100m三角点は途中出合った三角点と異なり、三等三角点であったことがわかり、三角点に思い入れは無いものの、どうせのことならもう少し笹原と格闘して探し出せばよかった、と今になって思うが、当日は、できりだけ早く笹原から抜け出したい思いのほうが強かった。致し方なし。
因みに、この1100m三角点は「笹峰三角点」と称されるようである。全くその通りの笹原であった。
石鎚遥拝所付近;午後12時14分
1100m三角点の傍、少し北東に石鎚遥拝所がある、と。笹原をさまよったのだがそれらしき構えはなかった。また北は木々に遮られ石鎚山に連なる山稜を見ることもできなかった。
メモの段階でチェックすると、特段の遥拝所跡はなく、石鎚の峰が見える展望所といったものであったよう。結構北の嶺を見ようと藪漕ぎならぬ、笹漕ぎを続けたのだが、それは叶わなかった。
実行ログをチェックすると、石鎚遥拝所の辺りに北に続く作業道に一度出ていた。そこを進めは北の嶺を遠望できる場所に出たのだろうか。よくわからない。

南すぐ傍に林道が接近;午後12時21分(標高1080m)
直ぐ北に林道が接近
踏み込まれた道を東進
笹原を抜け足元に草が茂る杉林を進むと、右手が開けてくる。ほどなく右手に抜ける道があり、その先数メートルといったところに林道が見える。この林道は本日のスタート地点である尾根筋を経由し、前川への谷筋へと下る県道210号支線(蓑川集落経由)が南麓の木地の集落から分かれ猿楽岩へと上ってきたもの。
さすがにGoogle Street Viewを見ることはできず、路面状態がどういったものか確認できなかったのだが、結構しっかり踏み固められている。木材伐採作業のトラックの往来によるものだろうか。この状態が全線保たれているなら、車を寄せることができそうだ。
当初の計画で黒滝峠まで進む必要があるとしたのは上述如く、確認できた車デポ地が黒滝峠を越えた2キロほど先にある大規模林道であったため。黒滝峠まで行けなければ再度尾根筋からスタートし黒滝ピストン(往復12錐)するか、大規模林道側からアプロ―チし黒滝峠・猿楽岩を経由して撤退地点まで繋ぐことになる、それはかなわんとの思いであったため。
全面的に安心できたわけではないが、幸運なことに、なんとなく撤退地点まで車を寄せることが出来そうでちょっと安心。

撤退・引き返し地点;午後12時36分(標1080m)
撤退地点。直ぐ北に林道
県道に沿って踏み込まれた道筋を進み、午後12時半頃数メートルで林道へと抜ける道を確認。そこも路面はしっかり固められている。ここまで車で寄せることができそうだ。こので撤退・引き返しとする。
当初往路3時間でピストン引き返しとした予定より30分ほど早いが、途次の藪や笹原の状態をみて、それほどスムーズに戻ることもできないだろうし、また尾根筋から車デポ地への復路は結構道に迷いそうとの思い。

尚、地図を見ると撤退地点は「盗人岩」を越えている。途中それらしき岩はわからなかった。GPSの実行トラックログと「遊山会」のトラックが少し離れているのは分かっていたのだが、GPSの御誤差の範囲かと思い、撤退地付近は草が刈り込まれ結構快適な道筋を辿った。土佐街道はもう少し北に振ったほうがいいのかもしれない。次回、「盗人岩」を目安に土佐街道のルートを確認しようと思う

復路雑感
尾根筋道は途中から950mピークを巻く林道に下り尾根筋スタート地点に戻ったのが午後15時33分。おおよそ3時間で戻れた。
が、その先尾根筋から車デポ地へ戻る道は予想していたザレ場で結構難儀し「土佐街道」と「旧土佐道」の立つ県道210号支線に出たのが午後16時55分。往路1時間ほどであったので、30分ほど右往左往したことになる。
その先も車デポ地に向けて往路歩いた土佐街道ルートに入ったのだが既述の如く激しい藪で右往左往していると、車デポ地より80mほど高い西南に突き出て大きくカーブする県道支線に出てしまった(午後17時11分)。もうこれ以上藪を進む気力もなく、あとは県道支線をとぼとぼと30分ほど下り車デポ地に到着。時刻は午後17時40分となっていた。午後12時半撤退・引き返しはいい判断であったようだ。

で、次回は撤退地点まで林道を走り車をデポし、猿楽岩を経て黒滝峠まで進みピストンでデポ地へと戻ることにする。林道全線が踏み固められていることを願うのみ。

予土往還 土佐街道・松山街道歩きの2回目。どのルートをどこまで進むかあれこれチェック。先回もメモしたようにここから先、ルートはふたつ。ひとつは現在の国道494号筋を辿るもの。仁淀川水系面河川支流の東川に沿って東進し源頭部まで上りサレノ峠(瓜生野峠?)で予土国境を越え土佐に入り、瓜生野、桧谷、舟形、出丸、用居の集落を経て池川(高知県吾川郡仁淀川町)に至るもの。このルートは幕末動乱期、幕府方の松山藩征伐のため土佐藩が伊予へと進軍したルートと言う。 
もうひとつのルートは七鳥から面河川を渡り山稜に取り付き尾根筋を東進し、猿楽岩を経て黒滝峠で予土国境を越える。土佐に入った街道は雑誌山の北を東西に走る尾根筋を辿り水ノ峠(みずのとう)へと抜け、そこから寄居、坂本を経て吾川郡仁淀川町池川に至るもの。「予州高山通り」とも称される。
国道494号筋の往還のほうが楽そうなのだが、国道筋を離れて続いたであろう土佐街道に関する詳しい資料が見つからない。他方、通称「高山通り」はこれも先回メモした久万高原遊山会(以下、「遊山会」)の調べた予土国境の黒滝峠までの資料があり、トラックログもダウンロードでき、道筋がはっきりしている。結構キツそうではあり、また予土国境を越えた土佐側の詳しいルート図はないのだが、成り行きに任そうと取敢えず今回は「高山通り」を歩くことにした。

ルートは決めたが、さて何処まで進むか。ルートをチェック。面河川の谷筋から面河川を渡り山入りした道筋は、11里石の立つ尾根筋あたりまで比高差500m強、距離は側面距離で5キロ弱。11里石の立つ尾根筋から先は、猿楽岩を越え予土国境の黒滝峠までおおよそ6キロ強だろうか。国境を越えた先も尾根筋が続き水ノ峠を下りた寄合の集落まで6キロ弱ある。

次いで車デポ地の確認。仁淀川町池川の辺りまでバスの便はないため、基本ピストン行。Google MapとGoogle Street Viewでルート付近で車を寄せることができる場所を探す。と、山入りした尾根筋近くの11里辺りを越え尾根筋より南、前川の谷筋に下る県道210号・美川川内線の支線が通っており、Google Street Viewでチェックすると舗装され車で行けそう。
黒滝峠までの尾根筋に接近する林道をチェック。猿楽岩の北まで見えるがGoogle Street Viewではチェックできず、舗装された道かどうかわからない。黒滝峠を越え水ノ峠への途次には、水の峠ノ北に大規模林道が整備されており、黒滝峠から3キロ弱進んだ水ノ峠の北西辺りまで車を乗り入れることができそうだ。
つまるところ、はっきりした車デポ可能地は面河川から尾根筋へ上る県道210号線支線と、黒滝峠から3キロ弱進んだ水ノ峠近くの大規模林道のふたつ(猿楽石近くに続く林道は未確認)。
で、ルートの距離、車デポ地、ピストン坑を前提として「予州高山通り」クリアの行程プランは;
1.面河川を渡り山入りし、11里石の先の尾根筋まで進みピストンで七鳥に戻る。距離はピストン往復で10キロ弱。比高差500m強。
2.再び尾根筋辺りまで車を寄せデポ。予土国境・黒滝峠まで往復ピストン12キロ。尾根筋のアップダウンで比高差300mほど。
3.土佐に入ると水ノ峠の北を走る大規模林道に車をデポし、黒滝峠まで往復6キロ(比高差250mほど)。大規模林道の車デポ地から水ノ峠まで往復2キロほどのピストン2キロ(比高差200mほど)

以上の3回に分けて歩けば「水の峠」の先にある寄合の集落へと下りることができそうだ。とはいいながら、尾根筋に上る道、また尾根筋を辿る道のルートははっきりしているが道の状況がよくわからない、更には土佐に入った土佐街道は詳しい資料が見つからない。水ノ峠から寄合集落までは現地に行ってみないと何とも言えない。はっきりはしないのだが、取敢えず上記プランを基本にして「予州高山通り」の池川までをクリアしようとの皮算用。

で、今回はその「予州高山通り」山入りの第一回。七鳥の集落から面河川を越え11里石を目指した。が、結果は11里石までも辿りつけず、尾根筋まで1キロ程を残し、標高760m付近の「土佐道」、「旧土佐道」の標識の立つ県道210号線支線で時間切れ撤退とした。時刻は午後3時半頃。
撤退時間を3時半としたのは往路で結構道に迷ったため。復路すんなりと下れるとも思えず、ピストンも尾根筋までの一気通貫は止めてピストンを小分けにし、土佐街道が県道210号支線とクロスする地点に数回デポ。最終デポ地は尾根筋まで1キロ弱といった筒城集落まで寄せていたのだが、それでも復路は道に迷い車デポ地に元った時刻は午後17時。午後3時半撤退は正解であった。

で、総括。午前10時に出発しており最終車デポ地に戻ったのが午後5時頃、おおよそ7時間かかったことになる。
実際の時間だが、ピストン行を考慮すれは往路ではその半分の3時間半ほど。予想以上に道が荒れ、道迷い、また膝痛のため下りでスピードがでないことを考慮すれば、スムーズに進めば往路3時間弱といったところだろうか。

初回から皮算用破綻。次回は11里石の先の尾根筋までその距離1キロ弱、比高差160mほど上げた後、尾根道を予土国境黒滝峠までピストン12キロとなる。ちょっと計画クリアのハードルが高くなってしまった。
黒滝峠途中の猿岩峠までが精一杯とは思うが、それでは次回同じ尾根筋を歩かなければならない。これは困った。唯一の望みは尾根筋近く、猿楽岩辺りまで上ってくる林道に車を寄せることができるかどうか。これが可能なら同じ尾根道を再度歩くこともない。まあ、これも行ってみなければわからない。
ともあれ、計画未達の山入り・一回目のメモをはじめる。



本日のルート;
七鳥の集落から面河川へ下る
県道212号に下りず山裾の道を東進>十里石と常夜塔>東光寺>県道212号の七鳥バス停から面河川に下りる
面河川を渡り山入し県道210号に出る
面河川に架かる沈下橋を渡る>簡易舗装の林道を左(東)へ進む>林道が分岐する>等高線の間隔の広い等高線440mから450mの間の平坦な地に>等高線450m地点でGPSにプロットした土佐街道トラックに合流>数基のお墓が残る>県道210号に出る
県道210号から筒城集落の県道210号支線に出る
県道210号をクロスし再び山入り>沢を渡る>県道210号支線(地図では高山集落で切れている)に出る>県道210号支線(高山で切れる)をクロスし尾根筋をショートカットする>筒城の集落に出る
筒城集落の県道210号支線を逸れ、山道を進み蓑川集落経由の県道210号支線に出る
筒城集落の県道210号支線を逸れ山道に>四つ辻を左折等高線670m‐680m辺りで道が消える>県道が見えてくる>210号支線(蓑川経由)に「土佐街道」標識>藪を這い上がり、直ぐ上を走る県道210号支線(蓑川経由)に出る>撤退と判断し筒城の車デポ地に戻る


本日の全ルート図(「遊山会」ルート(青)、実行ルート(赤)、補足ルート(緑))


七鳥の集落から面河川へ下る

県道212号に下りず山裾の道を東進;午前9時50分(標高415m)
県道手前分岐を左に
先回、七鳥かしが峠を越え七鳥を抜ける山裾の道を辿り、丘陵が県道へと突き出し集落の民家が切れた辺りにある工場(お茶の工場?)脇から県道212号に下りた。 
付近に十里石のあることはわかっていたのだが、疲れ果て探す気力もなく、迷うことなく県道212号に下り、県道を東進し久万高原町へと戻る岩屋寺口バス停へと急いだ。
今回は十里石からスタートすべく、十里石への道は県道212号に下りることなく山裾の道を東へと続くのであろうと見当をつけ先回の県道への下り口に車を進める。 下り口近くにあった県道脇のスペースに車をデポし、県道下り口を少し上がると上述工場(お茶?)脇に分岐点があり山裾を東に向かう道があった。県道212号の一段上を東に向かう道に沿って進む。

十里石と常夜塔;午前9時55分(標高415m)
木々に覆われた道を5分ほど進むと道の右手に常夜灯。その直ぐ先、道の左手に「松山札辻より十里」と刻まれた十里石里程標が立つ。
十里の「里」の辺りが削り取られたように見える。どうも十里と十一里の里程標の立てる位置を間違い、運び直すのも大変だったのだろうか、それぞれ里程標の文字を削り修正したと言う。十一里の里程標は「一」を削り、この地の十里の里程標は「一」を付け加えたとのこと。里の辺りが削られているのはそのため、と。
里程石
先回もメモしたが再掲載;里程石は松山市内本町三丁目の電停辺り、かつて「札の辻」と称されていた松山藩の高札場から土佐街道を進む目安として立てられた里程標である。予土国境まで一里ごとに12里までの里程標が建てられたとのこと。
古くから伊予と土佐を結ぶ主要往還ではあるが、往来を盛んに行き来するようになったのは藩政時代に入ってから。従来木で造られていた里程標も、寛保元年(1741)3月に石に改めた。文字は松山藩祐筆の水谷半蔵らに書かせたとある。これが今に残る里塚石である。
尚、現存するのは森松の二里標石と六里から十二里まで。また、レプリカではあろうが、三坂峠を下り47番札所の手前に「三里塚」が立っていた。

東光寺;午前10時
更に山裾の道を東へ5分ほど進むと東光寺。このお寺には「土佐の高知のはりまや橋でぼんさんかんざし買うを見た」の坊さん、純信の過去帳が残るとのこと。
過日土佐の歩き遍路の途次、27番札所神峯寺への山道入り口、安田の地にこの事案に関する案内板が立っていた。
そこには「〇よさこい秘話「土佐の高知のはりまや橋で坊さん かんざし買うをみた ヨサコイヨサコイ
よさこい節に登場する坊さんかんざし騒動の主人公お馬さんが、ここ安田、東谷の旅籠「坂本屋」で働いていた。幕末の土佐に、恋の自由を求めて奔放した 「よさこい、かんざし騒動」は、維新の志士達より早く自由精神を実践した。
由来
五台山、竹林寺の学僧、百余名を預る指導僧の純信と五台山麓、鋳掛屋の娘、お馬との恋の「かけおち」のため純信がお馬に花かんざしを買い求めたもので、安政元年(一八五四)の大地震の直後の翌二年、五月十九日の夕刻、純信、お馬と土佐山田出身の道先案内として安右衛門の三人で、物部村から国抜けし、讃岐の金比羅、百段目の旅籠「高知屋」で捕えられ、高知の山田町奉行所で取調べられた。
この時の奉行は、ここ安田に生まれ育った儒学者、岡本寧浦の門下生である松岡毅軒であった。 この取調べの際、松岡奉行が「なぜ年が二〇も違う親の様な人と好きで逃げたのか」との問いに、お馬は平然として「好きになったら、年の差などどうでもよい。」と答えたと毅軒は後世に書き残している。
やがて裁きが終り、お馬は安芸川以東へ追放、この安田・東谷の神峯登り口、旅籠「坂本屋」で奉公をする身になった。
一方、純信は仁淀川以西へ追放となったが、自らの意志で国外追放を願い、伊予国、川之江の 塩屋の三軒屋炒娚石の亀吉の世話により、学問一筋の家柄、井川家の私塾の教授となって、子弟の教育に専念する。 一方、お馬は、ここ坂本屋で奉公中、突然、追放先の変更を受けた。理由は、純信がお馬を連れもどしに来たとのことであった。
事実不明のままお馬は、今度は高岡郡、須崎池ノ内の百姓に、預けられ、のちに土地の大工と 世帯を持ち、二男二女をもうけた。
お馬の子供達もそれぞれ成長し、明治一八年(一八八五)お馬夫婦は、長男の住む東京小石川に引越し、更に明治二一年(一八八八)に「二男の家で余生を送り、お馬は煙草屋の店先で店番をしていたという。東京都北区豊島で明治六年(一九〇三)六五歳で病没し、北区の西福寺で出かに眠っている」とあった。
なお。「歴史の道調査報告書(久万高原町)」に拠れば、純信はその後、この地を東に進んだ東川に戻り、東川にお墓があるとのことである。

県道212号の七鳥バス停から面河川に下りる:午前10時5分(標高400m)
県道合流点
七鳥バス停
東光寺前の生活道を少し東進し道なりに県道212号に下りる。その県道対面に七鳥バス停があり、傍に「近世土佐街道(三坂越え)」の案内。先回もメモしたが再掲; 「近世土佐街道(三坂越え)
名称 土佐街道というのは、伊予国から土佐国へ向かう街道のことである。時代によって地域によっていろいろな街道がある。この土佐街道は、近世つまり江戸時代のもので、三坂越えと呼ばれている地域のものである。
成立 一六〇三(慶長八)年戸幕府開始ととも日本橋を起点に諸街道に一里塚を築かせ始めていることにより、松山藩も、かなり早い時期に街道整備を始めたものと思われる。一七四〇(元文五)年から一七四一(寛保元)年にかけて一里塚を木製から石製に作り替えた記録が残っている。
路程 松山札の辻を起点に森松・荏原を経て、三坂峠から久万町・七鳥・二箆(私注;ふたつの)に至るコースである。久万高原町内の里塚石は次のようになっている。
六里 東明神、七里久万町村
、 八里 菅生村、九里 有枝村、
十里 七烏村、十一里 東川村、
十二里 蓿川村 以上すべて現存する。
特色と利用
①松山藩の久万山支配の道である。
(松山藩士等人馬の往来の便を図ったもの。中世城館の配列に沿っている。) ②人の往来の開けたところである。
(駄賃持ちたちの馬による物流の道でもあった。)
③百姓一揆の道である。
(一七八七年土佐用居・池川の百姓、一八四二年土佐名野川の百姓いずれも大宝寺に逃散)」と記される。

三坂峠は久万高原から松山へと下りる典型的な片峠。通常の峠は「上り」そして「峠」から下りとなるが、片峠は平坦な台地端からの下り(逆から言えば上りのみ)。片峠を見るため、高知や丹波篠山辺りまで足を延ばしたのだが、よくよく考えれば片峠ってそれほど珍しいものではないかも知れない。いつだったか歩いた中山道の碓井峠、東海道の鈴鹿峠も片峠であった。

七鳥から県道210号交差部まで


面河川を渡り山入し県道210号に出る

面河川に架かる沈下橋を渡る:午前10時10分(標高380m)
「土佐街道「の案内板にあった土佐街道の概略地図も久万高原遊山会(以下「遊山会」)の作成したトラックログも、土佐街道はこのバス停より県道212号を逸れガードレールの切れ目より面河川へと下り川を渡り山入りするとある。
県道212号を逸れ面河川へと下ると川に沈下橋が見える。コンクリート造りの橋は面河川の途中で切れ、その先は河原に岩の転がる川床。ゴロゴロ岩の間を進み対岸に渡る。

簡易舗装の林道を左(東)へ進む;午前10時15分
林道へのアプロ―チ箇所
林道
対岸まで進むが橋が途中で切れており、山入りのアプローチ点がはっきりしない。資料には簡易舗装の林道がアプローチ道とのことであるので、草に覆われた山裾を注意深く見ると、緩やかに東にのぼる道らしきものが見える。そのスロープが最も低くなる辺り、ブッシュを掻き分けて林道に入る。アプロ―チ口探しにちょっと時間がかかった。

林道が分岐する;午前10時21分(標高400m)
林道分岐点;直進道(倒木)と右折道
簡易舗装、といったも土砂に覆われステックで確認しなければ簡易舗装とは見えないのだが、ともあれ林道を5分ほど東進すると道は西に大きく曲がる。簡易舗装もここで切れる(といってもステックで確認しなければわからない)。直進方向には倒木が道を塞ぐが、その先にも道が続いている。
当日はあれこれ資料をチェックした時に見付けた土佐街道歩きの資料をもとに直進した。



「遊山会「のトラックログは右折・西進
ピストン復路;林道分岐点への掘割道
当日は直進。GPSにプロットした「遊山会」のトラックログをチェックすると結構離れている。その時は、こんなに離れているようでは、プロットしたトラックって大丈夫かな?困ったなあ、などと思いながら先進み結果、後述するよようにルート探しに結構難儀したのだが、ピストン復路で道なりに踏み跡を下るとこの分岐点に下りた。そのルートは「遊山会」のトラックログと重なっていた。
以下当日歩いた直進ルートをメモするが、土佐街道はこの分岐点を右折する「遊山会」のトラックログを進むのがいいかと思う。後述するが実行ルートは「遊山会」のルートに等高線450m地点で偶々合流した。

等高線の間隔の広い等高線440mから450mの間の平坦な地に;午前11時26分 
この先で道は行き止まり
藪漕ぎし平坦地に這い上がる
見つけた記事に従い分岐点を直進し、道なりに右に廻りその先で直ぐ心持ち左に折れると、記事にあったように道は行き止まりになった。そこから先は「藪漕ぎ」と記事にあったためアプローチ口を探す。行き止まりの先は小さな沢だった(?)ようにも思うのが、その手前が這い上がりやすそう。踏み跡らしきものは無いのだが、とりあえずブッシュを掻き分け、特に根拠はないが目安とした等高線の間隔の広い等高線440mから450mの間の平坦な地に向かう。
途中踏み込まれらた感のある道をみつけ、成り行きで平坦地に出る。この時点では「遊山会」のトラックログが「ずれている」と思い込んでおり、西へ突き出た平坦部の西端に上る「遊山会」のトラックログとは異なったところに這い上がっていた。

と、あっさりと書いてしまったが、この時点では頼りとした「遊山会」のトラックログが「ずれていると思い込んでおり」どちらに進むべきか指針がなく、道に迷い行きつ戻りつ、時にははじめからやり直しと林道分岐点まで戻ったりしたため気が付けば1時間以上の時間が経過してい(右往左往の実行トラックログは省略。)。実行トラックログを見ると、途中「遊山会」のサイトからダウンロードしてた土佐街道のトラッログを踏んでいた。

等高線450m地点でGPSにプロットした土佐街道ルートに合流;午前11時27分
平坦地を成り行きで高度を10mほど上げた地源でGPSギアにプロットした「遊山会」の土佐街道トラックログと合流する。その時は別ルートから進み偶々一緒になったことなど知るよしもなく、狐につつまれた感。
このもやもやが解消されるのは、復路成り行きで踏まれた感のある道を下り、偶々上述林道分岐点に出たため復路の実行トラックログをチェック。それが「遊山会」のトラックログと重なり、そういうことか、と分かるまで時を待たねばならなかった。
上述したが、復路実行ログとプロットしておいたトラックをチェックすると等高線430mあたりでふたつのトラックは一度合流していた。

数基のお墓が残る;午前11時38分(標高490m)
掘割道の先にコンクリート壁
450m等高線を越え、踏み込まれた感のある道を進む。途中小さな沢を越え少し左にルートを振った先、標高490m付近の杉林の中に数基の墓がぽつんと残されていた。 この辺りも等高線の間隔が広く平坦な地。山中の平坦地は木々の枝葉が道を覆い往々にして道を読み難いところが多いのだが、ここも常に漏れず道が消え西へ東へと少し彷徨う(結構彷徨ったのだが実行トラックログは省略)。最後にお墓のあるところから少し西にある沢筋のような掘割に入り、そこを上に進むと成り行きでそれらしき踏み込まれた道へと入っていった。
掘割道を先に進むと前方が少し明るくなり、石垣のようなものが見える。近づくとコンクリート壁であったが、道はこのコンクリート壁の西端の段差のない所で林を抜けて草叢に出る。

常はGPSギアにプロットしたトラックログがあれば、そのログを追っかけるのだが、今回はスタート地点で、実行ルートとプロットしたトラックの差分が大きす、頼りにならないと思い込んでいたため(実際は正しく、自分の思い込みだったのだが、それがわかったのは上述の如くピストン復路を戻り終えた時であった)

県道210号に出る;午後12時3分(標高520m)
その先にはガードレールが見える。やっと県道210川内美川線に近づいた。
草叢を抜けガードレールの切れ目から県210号にでる。ガードレール切れ目の草叢の中に数基のお墓。その中の1基、丸い自然石の墓石は時代ははっきりしないが近世のものとされるようである。
この間少し時間がかかっているのは標高490m辺りにあった墓石辺りで道探し・道迷いで時間をロスしたためである。

なんとか県道まで出たけれど距離は1キロ強、比高差150mほどを2時間ほどかかった。プロットしたトラックと実行トラックがあまりに違い過ぎ少々混乱し、プロッしたトラックログに信を置けず道迷い、ルート検証のためスタート地点近くの林道まで戻ったりと1時間以上、また途中杉林のお墓の辺りでも時間をロスしたのがその因。
この間のメモはあまり参考にならない。自分のための記録といったものである。このルートを歩かれる方は林道分岐点から先のメモは無視し、
面河川の沈下橋を渡り、簡易歩道の林道を東に上る。最初の分岐を(直進せず)右に折れ踏み込まれた掘割の道を道なりに進みトラックログに従い県道210号に出る。
このコースがいいのかと思う。復路県道210号下のコンクリート壁の西端から掘割の道筋をトラックログを見ないで(この時点ではGPSギアにプロットしたトラックログを信頼していなかったため)成り行きで下り、知らず林道分岐点に下りたわけだから、あながち間違っているとは思えない。


県道210号山入部から引き返し地点まで


県道210号から筒城集落の県道210号支線に出る

初っ端から道に迷い、これでは復路スムーズに戻れるとも思えず、当初予定していた尾根筋まで一気通貫で上り、ピストンで戻るといった計画を変更。土佐街道が県道支線に出たところ、車デポできるところを確認し折り返し,ピストン小出しで進むことにし、七鳥の車デポ地まで戻ることにした。
おぼろげながらも道の記憶が残っているうちに戻ろうとの思惑ではあったのだが、上りと下りで見える景色が異なり、実際は道に迷うこと多々ではあったのだが、それはともあれ、以下の時刻が上述県道210号に出たときと大きくずれているのはこのためである。
七鳥の集落の車デポ地より、県道212号を直瀬川が面河川に合流する地点・岩屋寺口バス停で県道210号に乗り換え東進、仕七川(しながわ)の集落で面河川を左岸に移り、曲折する山道をこの地まで戻ってきた。
前もってStereet Viewで舗装道であることは確認していたのだが、時にガードレールの切れる車一台が走れる道。対向車が来ないことを願いながらこの地まで戻り、土佐街道が210号に出た辺りに車をデポ。次の目的地である県道210号支線の筒城の集落に向かう。

県道210号をクロスし再び山入り;午後13時33分(標高520m)
スロープを上る
直ぐ沢。道が切れる
県道210号をクロスし山入りのアプローチ口を探す。道の左手、廃屋の西隣に法面を斜めに上る鉄の手摺のついたアプローチがあった。廃屋傍から道がないものかと進むが直ぐ沢に遮られて行き止まり。取敢えず法面を斜めに上る道に入り、廃屋を左手下に見ながら先に進む。
県道から山道に入ると直ぐに沢に行く手を遮られる。

沢を渡る;午後13時46分
沢の対岸に掘割道が見える
崖面をトラバースし沢に下り、対岸に渡る
崖となってギャップもあり、さてどうしたものかと。右上には県道210号の支線(地図には高山集落で切れている)があるのだが、「遊山会」のトラックログは県道支線に乗ることなく、その東を進んでいる。沢を渡れ、ということだ。
上述の如く復路ピストンで上述林道分岐点に出たトラックログが「遊山会」の土佐街道トルートと合致しており、この時点ではGPSギアにプロットした「遊山会」のログを信頼しており、その気になって対岸を見ると掘割の道が沢に出合っているように見える。慎重に崖を下り、トラバース気味に沢床の岩場を渡り、対岸の堀割道に這い上がった。
沢を渡らず掘割道に出るルート
草の茂みℋを東に進むと
沢を越えた掘割道にあたる
沢で行き止まりになる地点のすぐ上に、上述県道210号支線が走る。そこに這い上がり、大きくU字にカーブする突端部から県道210号支線を逸れ、草に覆われた場所を東に進むと沢を渡ってきた掘割道に出る。復路ピストンで沢を迂回しようとして見つけたルートである。

県道210号支線(地図では高山集落で切れている)に出る;午後13時55分(標高555m) 
掘割道を進む。途中ブドウ棚のような造りの棚の下を潜り先に進むと前面が開け、林から抜ける。
草に覆われた道を進むと農作業小屋が現れ、その先で県道210号支線(高山集落まで続く)に出る。前述の沢を渡る辺りで出合った高山集落へ向かう県道支線である。
高山
予土往還のひとつ、今回辿ろうとしているルートではあるが、七鳥から面河川を渡り山稜に取り付き尾根筋を東進し、猿楽岩を経て黒滝峠で予土国境を越え、雑誌山の北を東西に走る尾根筋を辿り水ノ峠へと抜け、そこから寄居、坂本を経て池川に至るルートは、予州高山通とも称されるようだ。この呼称は土佐側から見たものだろうから、予州高山通とは県道210号支線が切れる高山集落由来のものかもしれない。

県道210号支線(高山で切れる)をクロスし尾根筋をショートカットする;午後14時3分
農家脇を抜け
簡易舗装の生活道に
県道支線をクロスし土径を進むと数軒の農家が道筋に現れる。道はその傍を抜け道なりに西向きに曲がり掘割の道を進む。西に突き出た尾根筋をショートカットする道筋になっている。
尾根筋を廻り込むと前方が開け道も集落の簡易舗装された生活道となる(標高585m)。

筒城(つつじょう)の集落に出る;午後14時4分(標高580m)
簡易舗装の道を下ると直ぐ県道210号支線に沿って建屋が並ぶ筒城の集落に出る。この支線は前述高山へ向かう支線とは別支線。筒城集落の先で地図から消えている。 比高差65m、距離500m、沢のトラバースは予想外ではあったが、特段道に迷うこともなく30分で筒城の集落の県道210号支線に出た。前面に広がる山並みの遠景を楽しみ、車デポ地に戻る。


筒城集落の県道210号支線を逸れ、蓑川集落経由の県道210号支線に出る

車デポ地に戻り県道210号を進み、途中県道210号を逸れ筒城へと向かう支線に入り筒城集落の県道支線にスペースを見付け車をデポ。当日はダウンロードした「遊山会」のトラックログに従い、集落を走る県道210号支線を少し先に進み、県道を逸れ山道に入り、同じ県道210号支線ではあるが今までメモした県道210号支線とは全くの別路線、蓑川集落経由の県道支線に出る。
その県道210号支線へ出たとこに、「土佐街道:「旧土佐道」の標識が立つ。本日はじめての標識であった。
このルートも途中道が消え、道迷いの箇所がある。楽はさせてくれない。但し、後述するが道迷い箇所とピストンの合わせ技で土佐街道と思われる道を辿ることができたようにも思える。それで良しとすべしか。

筒城集落の県道210号支線を逸れ山道に;午後14時41分(標高595m
県道支線から「遊山会」のトラックログが山入する地点を探す。民家の左手に山に入る道がある。標識はないが、トラックログでは山入りアプローチ点のようだ。道の右手に水路が流れる土径を進む。
土佐街道はどちらの道筋?
上に簡単にメモしたが、土佐街道のルートの話。先走った話になるが、蓑川集落経由の県道210号支線まで道を繋ぎ、ピストンで車デポ地に戻るに際し、往路で道が消え道に迷った辺りから結構踏み込まれた道筋に入り、あまりに快適な道筋のためGPSのトラックログを見ることもなく成り行きで下っていった。
が、なんとなく筒城の集落へ時間がかかりすぎ。ということでログを見ると往路の実行ルート(プロットしたルートに合致)から大きく東にずれている。ためにプロットしたトラック地点まで戻り筒城の集落まで戻った。
上掲写真;この辺りから左折し進むのかも
が、メモの段階で「遊山会」のルート図を見ていると、そのルートは筒城の県道支線を進むことなく、集落に下りる手前、西に突き出た尾根筋を廻り込んだ辺りで左折し山道を進んでいる。前述の県道支線に出る直ぐ手前、簡易舗装の生活道になったあたりである。そしてその道筋は復路間違え道として引き返した道筋に繋がっているようにみえる。復路下っていた道はしっかり踏み込まれており、道なりに進み、引き返さずそのまま進めば、「遊山会」の地図に記されてた筒城集落手前の分岐点に出たのかとも思う。
この箇所だけダウンロードした「遊山会」トラックログと同会の地図に記された土佐街道が異なっているが、県道支線を進むより山中を進み道のほうが「土佐街道」っぽいので、参考のため復路の間違いルートと思い引き返した道筋を先に延ばして分岐点まで繋いだルート図を記しておく。

以下は往路のダウンローしたトラックログに従った実行ルートである。

四つ辻を左折;午後14時46分(標高618m)
四つ辻を左折
左手が開けた先は杉林
道なりに進むとほどなからく四つ辻。ダウンロードした土佐街道トラックログは左折し道を進む。ログに従い道を進むと左手が開かれた場所に出るが、直ぐ林の中に入る。道は荒れてはいるがなんとか踏み跡らしい土径を進む。



等高線670m‐680m辺りで道が消える;午後15時
道を15分ほど進むと等高線670mと680mの間の間隔が少し広く杉林の中、道が消える。ルート探しに難儀するだろう。この辺りではGPSのトラックログを注意深くチェックしながら進んでいただければと思う。
復路でのセレンディユピティ
往路でルート探しに難路したところであるが、復路でもこの辺りで道が分からず、偶々見つけた踏み込まれた道を成り行きで下り、間違いルートと思い往路トラックログ地点まで戻ってきたところでもある。この道筋はひょっとすると土佐道であったかもしれないのは前述の通り。とすれば詣迷い道・ピストン復路合わせ技でのセレンディユピティ(思いがけない贈り物)のきっかけとなった箇所かもしれない。

県道が見えてくる;午後15時17分(標高735m)
道迷い地点をクリアし少し踏み込まれた感のある山道を進む。途中倒木が道を塞ぐが木に斧の切れ込みがある。なんとなく人が乗り越えやすいようなステップのようにも思える。オンコースであろうと思い込む。
その先、前方にガードレールが見えてくる。一安心。道迷い地点からおおよそ17分 で一安心地点にたどり着いた。

210号支線(蓑川経由)に「土佐街道」標識;午後15時20分(標高750m)
ガードレール下、草に覆われたところをガードレールに沿って進み県道210号支線に出る。出たところに「土佐街道」の標識。本日はじめての「土佐街道」の標識であった。


県道210号支線(蓑川経由)
この別支線は面河川を左岸に渡ると直ぐ県道210号から左に分かれ、蓑川集落を経て尾根筋まで上り、その先で前川の谷筋に向かって下ってゆく。

藪を這い上がり、直ぐ上を走る県道210号支線(蓑川経由)に出る;午後15時27分(標高760m)
「土佐街道」(左)と「旧土佐道』(右)標識
「旧土佐道」標識から藪を這い上がる
210号支線に出ると道の山側・法面が切れるとこるに「旧土佐道」の標識が立つ。直ぐ上に「旧土佐道」の標識の先でU字に曲がって上る県道210号支線のガードレールが見える。
「旧土佐道」の指す方向は藪。上に見える県道210号支線のガードレールを目指して藪の中を這い上がる。数分で支線に這い上がることができた。

撤退と判断し筒城の車デポ地に戻る:午後17時3分
山入の「旧土佐道」標識
時刻は午後3時半になっている。本日の予定としていた11里石の先の尾根筋までは1時間以上かかりそう。ピストン往復するとスムーズに道を辿ったとしてもこの地に戻ると午後時半から6時頃になりそう。そこから車デポ地の筒城の集落まで1時間弱。とすると車デポ地着はうまくいっても午後7時前となる。今日のルートは結構道に迷った。復路をスムーズに下りる自信はない。その思いが強く、本日はここで終了とする。
取敢えず県道支線から尾根筋に向かって山入する場所だけを確認する。直ぐ先のコーナー傍に「旧土佐道」の標識が立っていた。次回のスタート地は決まった。少し県道支線を上ったところに車をデポできるスペースもある。

真下を指す「土佐街道」標識
山入の土佐街道アプローチ点の標識、車デポ地も確認し筒城車デポ地に戻ることにする。と、山入する「旧土佐道」の標識の対面傍に「土佐街道」の標識が立つ。方向は真っすぐ下りろと指す。上述、210号支線(蓑川経由)に出たところにあった藪の方向を指す「旧土佐道」の方向とは異なっているように思える。が、取敢えず標識の指す方向へと真っすぐ進むと直ぐ県道支線に出た。カーブ先端部をショートカットしているだけのようだった。なんとなく?

復路雑感
それはともあれ、車デポ地に戻るまで結構道に迷った。前述、本来の土佐街道かもいしれない踏み込まれた道をお気楽に下ったりし、結局筒城の車デポ地に戻った時刻は午後5時頃になっていた。戻りに1時間半ほどかかったことになる。尾根筋まで進むのを止めてよかった、と改めて思い起こし、筒城の集落からの遠景をしばし楽しみ、対向車がいないことを願いながら県道210号支線を下り、一路自宅に向かった。

次回は当初の計画である、尾根筋からのスタートし予土国境の黒滝峠までの思惑とは異なり、尾根筋まで1時間半ほど必要となる。黒滝峠途中の猿楽岩までが再一杯だろう。猿楽岩までは距離は6キロほどだろうが、ピストンでもあり、また尾根筋の道はほぼ藪のようである。次回はどこまでいけるか出たとこ勝負となりそうだ。
但し、黒滝峠まで行けなければ、当初の計画である高知の水の峠の北を走る大規模林道から黒滝峠までを繋ぐ計画を延長し猿楽岩まで8キロ、ピストン往復で16キロとなる。膝が持ちそうにない。
望みはイントロでメモした猿楽岩近くで尾根筋に接近する林道の状態。車で乗り入れることができれば猿楽岩で撤退しても林道を走り、撤退地点から猿楽峠を経て黒滝峠までカバーできそう。ひとえに林道のコンディション次第。これも出たとこ勝負ではある。さて、どうなることやら。



伊予の松山から土佐の高知へと抜ける土佐街道・土州道、土佐からみれば松山街道と称されるのだが、その土佐街道・松山街道歩くことにした。過日、土佐の高知から伊予の川之江に抜ける土佐藩参勤交代道、土佐北街道を辿り終えたのだが、どうせのことなら、伊予と土佐を繋ぐもうひとつの主要往還である土佐街道・松山街道をもカバーしてみようと思ったわけである。
ルートをチェックすると松山の城下を出た街道は三坂峠を上り上浮穴郡久万高原町に至る。久万高原町の町並みを抜けた街道は越ノ峠から峠道へと入り面河川の谷筋の久万高原町七鳥に。そこからルートは仁淀川水系土居川筋の池川(高知県吾川郡仁淀川町)までふたつに分かれる。
ひとつは現在の国道494号筋を辿るもの。仁淀川水系面河川支流の東川に沿って東進し源頭部まで上りサレノ峠で予土国境を越え土佐に入り、瓜生野、桧谷、舟形、出丸、用居の集落を経て池川(高知県吾川郡仁淀川町)に至るもの。このルートは幕末動乱期、幕府方の松山藩征伐のため土佐藩が進軍したルートと言う。 もうひとつのルートは七鳥から面河川を渡り山稜に取り付き尾根筋を東進し、猿楽岩を経て黒滝峠で予土国境を越える。土佐に入った街道は雑誌山の北を東西に走る尾根筋を辿り水ノ峠へと抜け、そこから寄居、坂本を経て池川に至るもの。予州高山通とも称される。
池川で合さったふたつのルートは仁淀川水系狩山川の谷筋の集落、見ノ越または丸岩から山稜に取り付き鈴ヶ峠、峯岩戸を経て横畠を経て今成(高知県高尾郡越知町)で仁淀川筋に下りる。
仁淀川を渡った街道は越知の町並み抜け赤土峠を越えて佐川の町に入り日下、佐川を経て高知の城下に入る。
ルート概要はわかった。さて、どこからはじめようか。ルートを見るに、久万高原町の越ノ峠から予土国境をを越えて仁淀川の谷筋にある越知の町までが山あり谷ありの険路部のようである。膝にトラブルを抱える身ではあるが、峠越えフリークとしてはまず最初にこの山間部をクリアし、その後平地部をトレースすることにした。

越ノ峠から七鳥へ;Google earthで作成
さて、越ノ峠からスタートするとして初回はどこまで。常の如く越ノ峠に車をデポし峠を越えて車道に出るまで進み、そこから車デポ地までピストン?バスの便でもないだろうか?バス停の記載のある地図マピオンでチェック。と、面河川谷筋の七鳥の少し東に岩屋寺口バス停がある。ここから久万高原町まで伊予鉄南予バスが走っているようだ。時刻を問い合わせると岩屋寺口発は午後は17時45分(夏の時期)一便のみ。このバスに間に合うように歩けばピストンをしなくてもよさそう。 ルートをちょっと詳しくチェック。ネットを検索すると久万高原遊山会の調査した記録がヒットした。トラックログもダウンロードできGPSギアにプロットしルートは確保。ルート沿いには標識も立てて頂いているようだ。
ダウンロードしたトラックログをもとに七鳥までのルートをチェック。越ノ峠から山入りした街道は南に山稜を150mほど上げ、標高700mの「はじかみ峠」に進み、そこから東に270mほど高度を下げて仁淀川水系久万川支流有枝川筋に下り、そこからに西に2キロ、高度を250mほど上げ「色の峠(標高650m)」に達する。 色の峠からは、東に100mほど高度を下げて仁淀川水系面河川支流・程野川の谷筋に下り、谷筋を南東に下り、途中七鳥はしがみ峠に取り付き面河川に面する七鳥に出る。
距離はおおよそ9キロ弱だろうか。痛めた膝で下りのスピードが出ないにしても4,5時間もみておけばいいだろう。越ノ峠を午前中に出発すれば十分バスに間に合いそう。ということで、車デポ・ピストンを取りやめ、バス利用とすることにした。

越ノ峠から七鳥へ

で当日、実際には7時間ほどかかってしまった。トラックログはあったのだが、藪が激しく、また標識を見落としたのか無くなってしまったのか道に迷い、それでもその後見つけた標識を手掛かりに、久万高原遊山会のトラックログを全部つなげようと道迷い地点まで引き返すなどしたため結構時間がかかったのかと思う。 越ノ峠を午前9時に出発し、七鳥に下り岩屋寺口バス停についたのが午後4時過ぎ。膝の痛みに倒れ込む。あまりに身も世もない(語用が間違ってる?)姿であったのか、パトロール中のパトカーのお巡りさんが心配してか、声をかけられてしまった。
それはともあれ、建屋もないバス停で1時間半ほどバスを待ち久万高原町の久万営業所終点まで戻る。当初の予定ではバス停から車デポ地の越ノ峠まで3.3キロほどを歩くつもりではいたのだが、そんな気力はどこにもなく、久万郷源町のタクシーを利用し越ノ峠まで送ってもらい、長い一日を終えた。 こんな為体(ていたらく)で、七鳥から先、延々と続く山越えができるのかちょっと不安であるが、膝と相談しながらぼちぼち土佐街道を辿って行こうと考えている。
とりあえずメモを始める。



本日のルート; 
はじかみ峠越え 
越ノ峠>八里石>林道を離れ山道に>林道に出る>標識1より林道を左に逸れ山道に入る>はじかみ峠>標識3>大きな林道に出る>標識4から林道を左に逸れて再び山道に>標識が続く>枝尾根の間の杉林に標識6>杉林を進む>林道に出る>林道に標識7>標識8で林道を左に逸れ再び山道に入る>標識(A標識2)>石仏>標識が続く>標識10>県道209号手前に標識(A標識4 
色ノ峠越え 
県道209号右手、沢の手前に標識11>道の右手に標識12>林道支線分岐点に標識13>標識14より林道を左に逸れ山道に>標識(A標識5)>九里石>杉林の中を進む>色ノ峠>標識が続く>四つ辻に標識15>標識(A標識9)>農家の傍に標識16 
七鳥かしが峠越え 
標識17>標識18>標識19より舗装道を左に逸れ山道に>標識(A標識10)>七鳥かしが;峠標識20>標識21>標識22>県道212号に下りる>土佐街道の案内>岩屋寺口バス停



■はじかみ峠越え■



越ノ峠;午前9時(標高555m)
家のある愛媛県新居浜市を出て松山道を川内インターで下り、県道23号、国道33号を走り久万高原町に。越ノ峠は久万高原町の中心部から南に3.3キロほど離れてたところ、宮の前で国道33号を左に折れ、有枝川の谷筋の菅生の集落へと向かう県道153号の峠道を上ったところである。
越ノ峠(コシノトウ)は過日四国遍路歩きの折、岩屋寺へのバリエーションルートとして有枝川支流の集落・槇谷から八丁坂上の茶屋跡に上る途地、一度通ったことがある。その折、県道脇に残る旧道に「土佐街道」の標識を見付け、いつか歩いてみたいと思っていたところである。
きれいに整備された県道153号の越ノ峠に車をデポ。当初は峠から南に入る道らしきものがあり、そこが土佐街道かと思っていたのだが、GPSギアにプロットしたルート図では峠から少し西に戻り気味に進む。峠から西を見ると県道153号に沿って緩やかに上るガードレールのついた舗装道が続く。そのを進みガードレールが切れるあたりで舗装も切れ山入り道となる。

八里石;午前9時8分(標高565m)
山入りして数分、道がふたつに分かれる。分岐点には「林道 宮の前・落合線 起点」とあった。その左手、分岐点を林道に入らず直進する道の脇に「八里塚」の案内ともに、「松山札辻より八里」と刻まれた石柱が立つ。横の案内に「旧土佐街道里程標石」と記される里塚石である。土佐街道はこの八里塚の前を直進する。
里程石
里程石は松山市内本町三丁目の電停辺り、かつて「札の辻」と称されていた松山藩の高札場から土佐街道を進む目安として立てられた里程標である。予土国境まで一里ごとに12里までの里程標が建てられたとのこと。
古くから伊予と土佐を結ぶ主要往還ではあるが、往来を盛んに行き来するようになったのは藩政時代に入ってから。従来木で造られていた里程標も、寛保元年(1741)3月に石に改めた。文字は松山藩祐筆の水谷半蔵らに書かせたとある。これが今に残る里塚石である。
尚、現存するのは森松の二里標石と六里から十二里まで。また、レプリカではあろうが、三坂峠を下り47番札所の手前に「三里塚」が立っていた。

林道を離れ山道に;午前9時21分(標高600m)
右端に踏み込まれた土径がある
右端に踏み込まれた土径
道を進むと林道はヘアピン状に大きく右に曲がる。土佐街道はこのヘアピンカーブの突端部で林道から逸れ枝尾根の間へと直進する。久万高原遊山会のデータではこの地に「土佐街道」の標識が立つとのことだが、見落としたのか無くなったのか、ともあれ標識は見つけることができなかった。
小さな枝尾根の間には、それらしき踏み跡もみつけることができす、取敢えず藪の中に足を踏みいれる。先に進むが藪が激しい。勘弁してほしいと左右を見ると、右手に踏み跡らしき筋が見えた。藪を右に廻り込むと結構踏み込まれた土径に出た。 念のため道を林道まで下りアプローチ口を確認。アプローチ口はヘアピン突端部の東端、時節から入り口も土径も草に覆われりにくいが、よく見れば他とはことなる踏み込まれた風の土径がある。アプロ―チはここから入ること。
注意
到着時間は21分となっているが、これはヘアピン部を通り過ぎ、途中での気が付き戻ったため、余文の時間がかかっている。実際は八里石から5分程度でこのアプローチ部に着くかと思う。

林道に出る;午前9時48分(標高670m)
林道に出る
藪から出て草に覆われてはいるが踏み込まれた道を進むと林道に出る。アプローチ口から20分以上かかっているが、これは藪漕ぎ、アプローチ点確認のためヘアピン部まで引き返し道を繋いだ、といったことが要因。本来のアプローチ部からオンコースを歩けば10分程度で林道に出るのかと思う。

標識1より林道を左に逸れ山道に入る;午前9時58分(標高680m)
「土佐街道」の標識標識1)
林道から左に逸れる箇所
林道は先ほど分かれたヘアピン部から続いている。林道を10分ほど歩くと道の左手に「土佐街道」の標識(以下便宜上「土佐街道」の標識に連番を振る。ここは標識1)。アプローチ部はちょっとわかりにくいが久万高原遊山会のトラックログによれば標識1から林道から逸れるようである。トラックログをGPSギアにプロットしておいたため、草に覆われた中へと足を踏み入れたが、そうでなければ林道をそのまま進んでいたように思う。トラックログをダウンロードできるようにしていただいた配慮に感謝。

はじかみ峠;午前10時9分(標高709m)
はじかみ峠と手前の「土佐街道」(標識2)
激しい藪の中を進む。参考トラックログがなければ進むことは躊躇われるが、トラックログを頼りに、「踏み込まれた」と見えなくもない道を進む。
10分ほど進むと道の左手に「土佐街道」の標識(標識2;午前10時8分)。一安心。その先に鞍部が見える。そこが「はじかみ峠」であろうと進む。
はじかみ峠と標識(A標識0
はじかみ峠右手に木材伐採作業道
峠に到着。「はじかみ峠」の広い鞍部は木材が伐採され、「はじかみ」の由来と言われる「山椒」の茂る峠の面影は無い。
峠の右手には伐採用の作業道が開かれており下に続いていた。峠には久万高原遊山会とは別のグループが立てた「旧土佐道」の標識も立っていた(A標識0)。峠には石仏が祀られるとのことだが見つけることはできなかった。
便宜上「旧土佐道」の標識はA標識に連番をつけることにする。この「旧土佐道」は「A標識0)

越ノ峠からはじかみ峠へと標高を上げた土佐街道は、ここから有枝川の谷筋に向かって高度を270mほど下げることになる。

標識3;午前10時34分(標識677m)
「土佐街道」の標識(標識3
道迷い箇所;左の伐採作業道に出た
峠で小休止の後、道を探す。伐採で一帯が荒れており道筋ははっきりしない。が、伐採用の作業道ではないだろうと、作業道の左の草叢に入り込む。何となく踏み込まれたような気もする。10分ほど歩くと左手に「土佐街道」の標識(標識3)があり。一安心。

林道に踏み込まれた道が合流する
伐採作業道を下る
標識の直ぐ先で右手を下る伐採用作業道が最接近する。直進するのか作業道に出るのかちょっと迷う。上述「土佐街道」標識は何となく作業道の方向を示しているようでもあり、また、土径の先は藪が激しく、しかも段差もあるように思え、その時は作業道に出て道を下り、その先で大きな林道に合流。左に折れる。
林道を左に折れた直ぐ先、踏み込まれた道が大きな林道に合流している。ひょっとして先ほど伐採作業道に出たところに繋がるのではと、取敢えず上り返してみることにした(午前10時45分;標高645m)。

道迷い箇所から伐採作業道左の土径を歩き直す
道迷い箇所から伐採作業左の土径を進む
土径から林道に出る
道を戻ると作業道に出た箇所に繋がった。標識から先も伐採作業道に出ることなく、作業道を右手に見ながら草に覆われた土径を下れば大きな林道に出る。久万高原雄山会の資料では作業道に出るのが土佐街道のようにも思えるのだが、この箇所ははっきりしない。

標識4から林道を左に逸れて再び山道に;午前11時5分(標高633m) 
「土佐街道」標識(標識4)
「土佐街道」の標識(標識5)

道迷い地点へのピストンに時間がかかり、上記時間とのギャップが大きいのは、土径と大きな林道が合流する箇所から先に進んだのが午前11時を過ぎたため。 歩きはじめて数分で林道から少し奥まったところに「土佐街道」の標識(標識4)が見える。ここで林道から左に逸れ山道に入る。
標識箇所で林道を逸れ数分、「土佐街道」の標識(標識5;午前11時7分;標識630m)。

「旧土佐道」の標識(A標識1)の先、道は枝尾根の間に入って行く
「旧土佐道」の標識(A標識1)
「土佐街道」の標識(標識5)の直ぐ先、「旧土佐道」の標識(A標識1)。上述の如く「旧土佐道」の標識はA標識に連番をつけることにした。この「旧土佐道」は「A標識1)道は西に切れ込んだ枝尾根の間へと下ってゆく。

枝尾根の間の杉林に標識6
「土佐街道」の標識(標識6)
枝尾根の間へと進むと小さな沢が現れる(11時14分)。枝尾根の間の杉林を中を進む。その先に「土佐街道」の標識(標識6;午前11時19分;標高603m)。




杉林を進む
標識を越えると、杉林の先が開けてくる。枝尾根の間から抜けることになるのだろう。
再び小さな沢筋(午前11時21分)を越えたあたりから道は倒れた木々、落ちた枝葉で覆われはっきりしない。取敢えず開けた方向に向かって杉林を進む。

林道に出る
作業道に出る
作業道・林道に合流点
枝尾根の間から抜け出た道は一旦作業道(午前11時35分)に出た後、その先で林道に合流する(午前11時39分;標高525m)。林道は先ほど山道に逸れた林道であった。
久万高原遊山会の資料にはこの間、2つ標識があるとのことだが、見つけることはできなかった。

林道に標識7
「土佐街道」標識(標識7)
林道を少し下ると道の左手に「土佐街道」の標識が立つ(標識7;午前11時44分)。林道は結構広い。「林道 有枝線」。このまま下れば有枝川の谷筋、県道209号まで下りる。




補足;標識を見のが県道209号迄下り、県道脇の標識箇所から
「見逃し標識(標識8)まで折り返す

「旧土佐道」の標識(A標識4)
県道209号に合流
当日は次にメモする標識を見落とし、結局この林道有枝線を進むことになった。GPSギアにプロットした参考トラックログからどんどん離れていく。どこかにプロットしたトラックログへのアプローチはないかと注意しながら歩くも道はなく、結局県道209号まで下ることになった。
県道209号に出た後は参考トラックログが県道とクロスするところまで北に進み、土佐街道の標識などないものかと辺りを探すと、道の左手ガードレールの内側に「旧土佐道」の標識があった(後述するがA標識4)。
ここからルートを逆に辿り道を繋ぐべしと、トラックログに従い、林道を左に逸れ標識見落とし箇所まで戻り、道を繋いだ。「土佐街道」案内標識(以下に記すが、「標識8」)が林道より一段低いところ、しかも文字面が林道に背を向けていたため見逃したようだ。

以下、その「標識8」見落とし箇所からオンコースのルートをメモするが、標識8を見落とし林道を下りはじめたのが午前11時45分。そこから県道209号を経由して林道を逸れる見落とし標識8の立つ箇所に戻り道を繋いだのが午後12時37分。おおよそ1時間ほどかかってしまった。以下の時刻が直前の標識7と1時間弱のギャップがあるのはそのためである。以下の時刻表示はそのことを考慮して読み直して頂ければと思う。

標識8で林道を左に逸れ再び山道に入る;午後12時37分(標高515m)
「土佐街道」の標識(標識8)
「土佐街道」の標識(標識8)
林道に出た土佐街道はその直ぐ先、道が東に向かい大きく曲がる先端部から林道を逸れ山道に入る。繰り返しになるが、上にメモしたように土佐街道の標識8は林道より一段低いところに「土佐街道」の案内面を背にして立っており見逃しやすいので注意が必要。

標識(A標識2);午後12時47分(標高494m)
「旧土佐道」標識(A標識2
分岐は下道へ
 
山道を10分ほど歩くと道の左手に「旧土佐道」の標識(A標識2)。「土佐街道」の標識は久万高原遊山会の文字が木標に記されるが、「旧土佐道」の標識は複数のグループ名が記されていた。この間に久万高原遊山会の立てた標識があるようだが、目につくことはなかった。
道はその先分岐が現れるが、基本下り方向へと進めばいい。 


石仏;午後12時50分(標高474m)
「旧土佐道」の標識(A標識2)から数分、沢に近く谷側が石組で補強された岩場の下に石仏が祀られていた。
大岩の下ところ仏を祀るには風情のあるロケーションだが、結構危なっかしい箇所。そんなところに祀られる因は?あれこれ妄想は拡がる。

標識が続く
「土佐街道」の標識(標識9)
「旧土佐道」の標識(A標識3)
石仏から数分、「土佐街道」の標識(標識9;午後12時52分)。更に5分ほど下ると今度は「旧土佐道」の標識(A標識3:午後12時57分;標高448m)。この辺りまで下ると前方が少し開け里が近くになったと感じる。


標識10;午後13時3分(標高427m)
「土佐街道」の標識(標識⒑)
道を下ると右手に民家の屋根がみえてくる。結構大きな建屋である。「標識8」を見落とし県道迄下ったとき、正面からその家屋をみたのだが、現在はトタン屋根ではあるが、昔は如何にも茅葺であったであろう風情であった。
道はその民家の裏、山裾を下り里に下りる。そこには「土佐街道」と記された標識が立っていた(標識10)。

県道209号手前に標識(A標識4);午後13時5分
「旧土佐道」の標識(A標識4)
里に下り草に覆われた土径を進み仁淀川水系久万川支流有枝川に架かる橋を渡る。前面、一段高いとこりにに県道209号のガードレールが見える。ガードレール下を道なりに曲がり県道209号手前に「旧土佐道」の標識(A標識4)がある。ここが前述標識見落とし箇所へと戻ったところではある。

これで最初の峠越え、「はじかみ峠」越えは終えた。距離は3キロ強ほどではないかと思う。時間は4時間ほどかかってしまった。道を繋ぐための往ったり来たりが3度あり、1時間半ほど余分に時間がかかってしまっており、オンコースで進めば実質2時間興といったところだろうか。上り150m、下り270mほどであり、峠越えそのものはどうということはないのだが、ほとんど人が歩いている気配がなく藪が激しくちょっと難儀した峠越えとなった。



色ノ峠越え


久万高原町から「はじかみ峠」を越えて仁淀川水系久万川支流の有枝川の谷筋まで下り、本日最初の峠越えはクリア。次は有枝川の谷筋から高度を250m上げ「色の峠」を越え、仁淀川水系面河川支流の程野川の谷へと100mほど下る、本日2度目の峠越えとなる。距離は2キロ強といったところだろうか。

県道209号右手、沢の手前に標識11;午後13時6分
「土佐街道」の標識(標識11
左岸の道はすぐ行き止まりになる
ガードレールが切れる「旧土佐道」の標識(A標識4)の立つところから県道209号に出る。すぐ先に有枝川に注ぐ支流というか沢がある。
その沢を渡る手前、道の右手に「土佐街道」の標識(標識11)。標識泊りはなんとなく橋を渡らず沢の左岸を進む方向を示しているように見える。
左岸を少し進むが行き止まり。その先は崖となって川に落ち込んでいる。行き止まり箇所の沢の両岸になんとなく石組みらしきものが残る。橋があったのかもしれない。プロットしたトラックログは沢を渡っている。ロープでもあれば沢に下りれないこともないがロープは持ってきていない。取敢えず県道まで戻り橋を渡り右岸に移ることにする。

道の右手に標識12;午後13時14分
「土佐街道」の標識(標識12
対岸に左岸行き止まり箇所が見える
県道209号に架かる橋を渡り、沢の右岸を走る林道に入る。「林道 イロノトウ線」とある。舗装された林道に入ると直ぐ、道の右手に「土佐街道」の標識(標識12)。標識は沢方向を指す。対岸は先ほど左岸を進み行き止まりになった辺り。往昔はここを対岸に渡っていたのだろう。近くに馬頭観音が祀られるとのことだが、見つけることができなかった。

林道支線分岐点に標識13;午後13時26分(標高497m)
「土佐街道」標識(標識13)
林道を10分強進むと左に折れる道がある。案内には。「林道 イロノトウ線」の支線とある。その角に「土佐街道」と書かれた標識が立つ(標識13)




標識14より林道を左に逸れ山道に;午後13時41分(標高544m)
「土佐街道」の標識(標識14)
林道支線分岐点から沢に沿っておおよそ20分弱歩くと、林道より一段高いところに「土佐街道」の標識が立つ(標識14)。林道をそのまま進むのか、山入りするのか少し分かり難いが、林道一段高いところにある以上、それなりの理由があってのことだろうと標識のところに上がる。なんとなく踏み込まれた道のようにも思える。取敢えず先に進むことにする。

標識(A標識5);午後13時45分(標高589m)
「旧土佐道」の標識(A標識5)
林道を逸れて土径を5分ほど歩くと道が上下に分かれる。その分岐点に「旧土佐道」の標識(A標識5)。標識は下を進む道脇に立っている。下側の道を進む。 道は東に切れ込んだ有枝川支流(沢)の源頭部の近くまで進んで来た。

九里石;午後13時52分(標高615m)
「旧土佐街道」の標識から7分ほど歩くと「松山札辻より九里」と刻まれた里程石が立つ。標石や石碑は場所を移されることが結構多いが、この里程石は越ノ峠のスタート地点近くで見た八里石もそうだが、元の位置に立つとのこと。こんな山奥、道路整備もないだろうから移される必要もないだろう、かと。
九里石の先は杉の林。

杉林の中を進む
杉の林は落ちた枝葉で踏み跡は全くわからない。ほとんど成り行き、というか前方を塞ぐ山稜に一箇所見える鞍部(というほど広くはないのだが)が目指す色ノ峠であろうと、その凹部に向かって這い上がる。

色ノ峠;午後14時(標高660m)
[土佐街道」の標識
這い上がった鞍部、というか切通しといった凹部に[土佐街道」の標識。特に峠名の案内はないが、ここが色ノ峠であろう。読みは「イロノトウ」。面白い地名とチェックするが、その由来に関する記事はヒットしなかった。ここで小休止。

標識が続く
「旧土佐道」標識(A標識6)
「旧土佐道」標識(A標識6)
小休止の後、峠を程野の谷筋に向かって下る。峠への上りは杉の落ちた枝葉でまったく踏み跡がわからなかったが、下りはしっかりと踏み込まれた道筋となっている。
10分ほど下ると「旧土佐道」と書かれた標識(A標識6;午後14時13分;標高628m)、さらにそこから5分ほど下ると再び「旧土佐道」の標識が立つ(A標識7;午後14時19分;標高590m)。

四つ辻に標識15;午後14時22分(標高560m)
「土佐街道」の標識(標識15)
「土佐街道」の標識(標識15)
「旧土佐道」の標識(A標識7)を越えると竹林が現れ、里に近づいた予兆。その先、ほどなく道に合流。角に「土佐街道」の標識(標識15)があり、道をクロスし直進方向を指す。よくみれば踏み込まれた道が先に続いている。 。このクロスポイントは四つ辻と称されるようだ。

標識が続く;午後14時26分(標高550m)
「旧土佐道」の標識(A標識8)
「旧土佐道」の標識(A標識9)
道をクロスすると左手に「旧土佐道」の標識(A標識8)も立つ。四つ辻を直進し数分歩くと「旧土佐道」の標識(A標識9)が立つ。その先数分で農家の屋根が見えてくる。




農家の傍に標識16;午後14時28分(標高540m)
「土佐街道」の標識(標識16)
道は農家の裏手を廻り里道に合流する。合流点角に「土佐街道」の標識(標識16)。標識に従い右に折れ、花柴の畑を見遣りながら道なりに進む。




程野川を渡り舗装道に合流;午後14時33分
道は程野川を渡り、その先で舗装道に合流する。これで本日2度目の峠越えを終える。仁淀川水系久万川支流・有枝川の谷筋から高度を250m上げ「色の峠」を越え、仁淀川水系面河川支流の程野川の谷へと100mほど下った。距離は2キロ経強。特段の迷い道などもなかったのだが膝の痛みがちょっときつく、おおよそ1時間強かかってしまった。普通に歩けばこんなに時間はかからないと思う。



七鳥かしが峠越え



本日最後の峠越え。谷筋の集落、程野から程野川に沿って2,2キロほど歩き、「七鳥かしが峠」への山道に入る。程野川の谷筋から七鳥かしが峠への比高差は50mといったもので、峠越え、と言うより丘陵をショートカットするといったもの。距離も峠への取り付き口から七鳥の集落に下りるまでおおよそ1キロほどだろうか。

面河川に面した七鳥が本日の最終目的地だが、そこから直瀬川が面河川に合流する地点にある岩屋寺口バス停までは1キロほど。合計4キロ強ほど歩くことになる。

標識17;午後14時46分(標高508m)
「土佐街道」の標識(標識17)
仁淀川水系面河川支流の程野川の谷筋を面河川への合流点に向かって谷筋を下ってゆく。20分弱歩くと道の左手に「土佐街道」の標識(標識17)が立つ。



標識18;午後15時2分(標高474m)
「土佐街道」の標識(標識18
更に20分弱進むと、同じく道の左手に「土佐街道」の標識(標識18)。膝の痛みが激しく立ち止まり屈伸の繰り返しでスピードが出ない。結構時間がかかっているが、普通に歩けばこんなに時間はかからないだろう。

標識19より舗装道を左に逸れ山道に;15時21分(標高465m)
「土佐街道」の標識(標識19)
20分ほど歩き、南東へと下っていた程野川が南に流れを変える箇所、「林道イイノタニ線」が左へと上る湾曲部を越えてほどなく道より一段高い所に「土佐街道」の標識が立つ(標識19)。そこから舗装道を逸れ山入りする。
舗装道をそのまま直進すれば面河川に合流し、面河川に沿って走る県道212号に出るが、面河川は大きく湾曲しているため大廻りして七鳥に向かうことになる。この峠道は迂回・大廻りのショートカットルートとなっているようだ。

標識(A標識10);15時35分(標高487)
「旧土佐道」の標識(A標識10)
等高線をゆっくりと斜めに横切るといったルートを丘陵鞍部に向かって進む。道は踏み込まれており迷うことはない。林道を逸れ15分弱進むと「旧土佐道」の標識が立つ(A標識10)。




七鳥かしが峠(標識20);午後15時36分(標高494m)
「旧土佐道」の標識の直ぐ先に鞍部が見える。「七鳥かしが峠」であろう。久万の峠はどこも峠名の標識はない。鞍部には「土佐街道」の標識が立つ(標識20)。 
かしが峠の由来は不明。「返峠」とも表記すると「えひめの記憶;愛媛県生涯学習センター」にある。道は鞍部を境に「切り返し」て面河川に面した丘陵地を下ってゆく。「切り返し」ゆえの「かしが(返)峠」だろうか。
峠に石仏が祀られるとの記事もあったが、見つけることができなかった。

標識21;15時53分(標高427m)
「土佐街道」の標識(標識21)
面河川に面した丘陵地を七鳥の集落に向かって下ってゆく。峠から15分ほど歩くと道の左手に「土佐街道」の標識が立っていた(標識21)。
山裾の道を辿る。振り返る都と七鳥の集落が見える。


標識22;15時58分(標高422m)
「土佐街道」の標識(標識22)
七鳥の集落の集落をみやりながら更に5分ほど歩くと左手に「土佐街道」の標識(標識22)。その先で県道へ降りる道と山裾を進む道のふたつに分かれる。標識はないが、取敢えず山裾の道を進む。道は舗装されている。


県道212号に下りる;16時5分(標高404m)
標識もなく成り行きで舗装された道を進み、その舗装された道が県道212号に下りるに任せ、県道212号に下りる。
県道212号に下り本日の3本の峠越を終える。県道を岩屋寺口に向かって歩くと東光寺参道の石碑。東光寺の手前には十里石が残るとのこと。県道筋には十里石を見ることはなかった。成り行きで県道に下ったが、更に山裾を進む道があり、そこに十里石があるのかもしれない。

土佐街道の案内;16時10分(標高402m)
十里石、そして東光寺へのルートハンティングは次回のお楽しみとして岩屋寺口バス停に向かうと県道の右手、川添いのガードレールが切れるところに土佐街道の案内があった。
案内には「近世土佐街道(三坂越え)
名称 土佐街道というのは、伊予国から土佐国へ向かう街道のことである。時代によって地域によっていろいろな街道がある。この土佐街道は、近世つまり江戸時代のもので、三坂越えと呼ばれている地域のものである。
成立 一六〇三(慶長八)年戸幕府開始ととも日本橋を起点に諸街道に一里塚を築かせ始めていることにより、松山藩も、かなり早い時期に街道整備を始めたものと思われる。一七四〇(元文五)年から一七四一(寛保元)年にかけて一里塚を木製から石製に作り替えた記録が残っている。
路程 松山札の辻を起点に森松・荏原を経て、三坂峠から久万町・七鳥・二箆(私注;ふたつの)に至るコースである。久万高原町内の里塚石は次のようになっている。
六里 東明神、七里久万町村
、 八里 菅生村、九里 有枝村、
十里 七烏村、十一里 東川村、
十二里 蓿川村 以上すべて現存する。
特色と利用
①松山藩の久万山支配の道である。
(松山藩士等人馬の往来の便を図ったもの。中世城館の配列に沿っている。) ②人の往来の開けたところである。
(駄賃持ちたちの馬による物流の道でもあった。)
③百姓一揆の道である。
(一七八七年土佐用居・池川の百姓、一八四二年土佐名野川の百姓いずれも大宝寺に逃散)」と記される。

GPSギアにプロットしたトラックログは、東光寺から県道を越えこの案内板のあるガードレールの切れ目から面河川へと下り、山入りしていた。次回はここを左に逸れて面河川を渡るのだろう。

岩屋寺口バス停
膝の痛みを騙しだまししながら、なんとか午後16時半前に岩屋寺バス停に到着。午後17時45分到着のバスを待ち、30分弱バスに乗り久万の町に戻り、車デポ地までタクシーで向かい、本日の行程はすべて終了。午後19時前家に向かう。
次回は県道212号に下りたあたりから土佐街道を探し、十里石を見つけた後東光寺の先で面河川を渡り山入り道を歩いてみようと思う。
4キロはどで650mほど高度を上げ、尾根道は予土国境黒道峠まで6キロ強。ピストン20キロはちょっとキツイ。尾根道までのピストンがせいぜい、といったところだろうか。ともあれ、膝と相談しながらぼちぼち土佐街道をカバーしていこうと思う。



先回の散歩のメモでは、高知城下から参勤交代初日の宿泊地、布師田までをメモした。繰り返しになるが、今回の土佐北街道ルートハンティングの元となる『土佐の道 その歴史を歩く;山崎清憲(高知新聞社)』にある、布師田から權若峠取り付き口の釣瓶までのルートを記しておく;
布師田から先で市域は高知市から南国市に入るが、ここでルートはふたつにわかれる。ひとつは国分川南岸の中島を経由し国分川を八幡渡瀬で渡り返し北進し南国市岡豊町八幡に向かう。この道筋は初期の参勤交代道である野根山街道、通称「東街道」への道筋でもあったようだ。 そしてもうひとつは高知大学医学部の北を進み、右手に長曾我部氏の居城・岡豊城の建つ丘陵地を見遣りながら岡豊町八幡に出て、ここでふたつのルートは合流する。八幡は長曾我部氏ゆかりの別宮岡豊八幡宮由来の地名だろう。
合流点から先も二つのルートに分かれる。ひとつは現在の県道384号を領石に向かうもの。もうひとつは合流点から直ぐ、笠ノ川川を越え比江を経由して領石に向かうもの。比江経由の道は北街道が参勤交代に開かれた当初の道筋。比江の高村家を初日の宿泊所とした頃のもの。布師田に布師田御殿ができて以降は、直接領石を目指すようになったという。
領石川右岸の地にある領石で合流したルートは領石の送り番所を経て北進。一の瀬渡瀬で領石川を左岸に渡り、その先楠木渡瀬で右岸に、更に亀の本渡瀬で再び左岸に渡り直し、谷筋の小さな渡瀬を経て最後に梼山川の「下着渡瀬(私注;「着」はママ)を北に渡ると權若坂の登山口に着く、とある。
亀の本渡瀬から先は、過日土佐北街道・權若峠越えのとき、上述『土佐の道』に記載のないふたつの渡瀬を確認しており、そのルートを補足すると、亀の本渡瀬で領石川左岸に移った土佐北街道は、「左手渡瀬」で中谷川の右岸に移り、その先中渡瀬で左岸に渡った後、中谷川に合わさる梼山川の左岸から下り付け渡瀬で右岸(北)に渡り權若坂の登山口に着くことになる。

ルートは以上の通りである。計画では『土佐の道』に記載されるポイント、Google Mapに記載される「土佐北街道」、それと別の機会に既に確認済のポイントを頼りに道を繋ぐつもりであったのだが、思いがけなかった賜り物が布師田御殿跡にあった土佐北街道の詳しいルート図。この地図のおかげで、布師田から八幡合流点までは、ほぼ往昔のルートを辿れたと思う。
また当初渡瀬や送り番所など見つかるかどうか不安であったが、ほぼ見つかった。ために領石から釣瓶まではほぼ往昔のルートを辿れたとは思うのだが、八幡の合流点から領石まで、特に比江経由の北山道はあれこれ調べた上ではあるが、それでも推定の域を出ていない。八幡合流点から領石までのルートは参考程度と考えて頂きたい。
ともあれメモを始める。



本日のルート;
高知城下から布師田御殿跡まで
高知城>追手筋>山田橋・山田番所>茂兵衛道標(100度目)>比島橋>掛川神社>鳥付橋>土佐神社お旅所>お堂>石淵送り番所>岡村十兵衛先生住居跡>社>一木権兵衛先生の墓所>布師田御殿跡
布師田から岡豊町八幡の北岸・南岸ルート合流点まで
国分川北岸ルート
権兵衛井流>前田元敏先祖の墓所>奥官慥斎・奥宮健之父子の屋敷跡>西山寺>葛木橋>>葛木男神社>丘陵切通し>国分川筋に右折>山崎川・蒲原橋>山崎川橋>県道384号に出る>岡豊城跡>岡豊別宮八幡宮>県道を右に逸れ県道252号に出る
国分川南岸ルート
葛木橋を渡り国分川左岸に>郡境石>県道252号を左折し国分川に向かう>岡豊橋>県道252を北進し北岸ルートと合流
□地図に記載された「土佐北街道」ルート
山崎川・蒲原橋>山裾を水路に沿って東進>岡豊橋北詰めに出る
北岸・南岸ルート合流点から領石まで
□直接領石を目指すルート□
県道252号を右に逸れる道に>県道384号右手に笠ノ川地蔵>県道384号を左に逸れ丘陵土径に>県道384号をクロス>高知道インター高架下を進みルート合流点に
□比江経由のルート□
笠ノ川川渡河地点>検地帳>左折・検地帳>県道256号に出る>左折し国分小学校東の道に>国府小学校の東の里道を北進>阿波塚神社>道のえき風良里(ふらり)>丘陵地の土径を進み国道32号に出る>高知道インターの北のルート合流点に
領石より権若峠取り付き口の釣瓶まで
県道384号に出る>領石の送り番所>天満宮>一の瀬渡瀬>楠木渡瀬>清川神社>県道33号に出る>亀(瓶)の本渡瀬>県道を右折し林道釣瓶線に>左手渡瀬>中渡瀬>下り付きの渡瀬>権若峠・釣瓶取り付き口



布師田から岡豊町八幡の北岸・南岸ルート合流点まで

布師田から先で市域は高知市から南国市に入るが、ここでルートはふたつにわかれる。国分川北岸ルートと南岸ルートがそれ。まずは北岸ルートから。上述の如く布師田から国分川にそって北岸を進み、高知大学医学部キャンパス辺りから道を北に変え、キャンパス敷地北側を進み 右手に長曾我部氏の居城・岡豊城の建つ丘陵地を見遣りながら岡豊町八幡に出てるルートである。 当初、Google mapに「土佐北街道」と記載される、高知大学医学部キャンパス南を進む計画であったが、布師田御殿跡に土佐北街道の詳しいルート図があり、この道を辿ることにした。

国分川北岸ルート

権兵衛井流
布師田御殿跡を離れ案内にあった北街道の道筋のひとつ、国分川北岸ルートを進む。布師田ふれあいセンターの直ぐ先は国分川。堤防に沿った道を少し北に進むと左に逸れ山裾を進む道がある。北街道はこの左へと逸れる道に入るが、その分岐点に「権兵衛井流(ゆる)」の案内。 「布師田の国分川北岸の用水路に設けられた水門施設。通常は水量の調節を行うが、洪水など増水時には用水路の水門は閉めて下流への浸水を防ぎながら、近くに設けた別の水門を開けて国分川に水を流し、上流を浸水から守ったり堤防の崩壊を防ぐための仕組みです。 同じような施設が約 520m 離れた場所に一ヶ所ずつ計二ヶ所設けられていて一本権兵衛先生が発案して普請した水門として、権兵衛井流"と呼ばれています。布師田の誇る義人で一領具足出身の一木先生が野中兼山に抜擢され活躍されるきっかけとなったと言われる水門です。 現在も普請された当時とほとんど同じ場所にあって、当初の目的通りの運用を基本として地域で管理されています。
当時土佐藩の基盤を拡大強固にするため、土木・灌漑・干拓・港湾事業等を強力に進めていた執政野中兼山は物部川の山田堰工事の検分に行く途中布師田でこの"権兵衛井流"を目にして驚き、村人に問いただして一木先生を呼び出し、どのような考えでえこの水門を作ったか述べさせました。
一木先生は上記のような機能を考えて普請したことを話しました。それは兼山が山田堰から多くの用水路を作る計画の中で考えていた仕組みと正に符号するものでした。
すぐに郷士に取り立てられ一族百名ぐらいとともに山田堰に関係して用水路の建設に関わり、技 術の確かさや有能さが証明されたそうです。
その後兼山の計画する重要な工事で責任者を務めました。山田堰の工事をはるかに上回る仁淀川の治水灌漑工事や手結港の浚渫・津呂港の工事などがあります。兼山失脚後多くの部下が責任を問われる中で一木先生は珍しくお咎めなしとされ、土佐藩を挙げての三年がかりの大工事、室津港拡張工事の普請奉行として着任し、延宝七年(1679 年)六月工費十万三千五百両・役夫百七十三万人を投入して完成しました。
一木先生は難工事着手に当たって海神にわが身を捧げることを誓って成功を祈り、工事が無事完成した六月十七日夜、港上に場を構え、鎧・兜・太刀を海神に献じた後、未明に自ら人柱となり 切腹して亡くなられました。予算を何倍も越えた工事の責任を取ったと言われていますが、生前の 兼山からの、「御普請には存分の金銀を費やしても構わぬ、ただ、完全なものに仕上げることだ。」 を正に実践したのであって、また、郷士として取り立てられた恩を忘れずに、兼山一族に対する処 置への抗議の意思も込められていたとも言われています。
野中兼山の偉大な業績は失脚によって色あせるものではなく、兼山の元で実際に多くの工事に関わり現在の布師田や室戸方面・仁淀川流域等の発展の基礎を作って下さった一木権兵衛先生の業績を出身地のこの布師田から長く語り継いでいきたいものです。 布師田の未来を考える会」とあった。

前田元敏先祖の墓所
權兵衛井流に沿って道を進むと、道の左手に「前田元敏先祖の墓所」の案内;
「前田元敏は、幕末から明治大正にかけて活躍した日本を代表する英学者の一人です。安政4年(1857年)土佐藩士前田元幸(致道館槍術取立役、歌人)の嫡男として高知市廿代町に生まれました。致道館(植木枝盛や奥宮建之と同窓)、共立学舎英語学校にて英国人教師マイヤーらの指導のもと英学を修め、明治7年に上京。東京外国語学校等にて英語を修業後、東京開成学校に優秀な成績で合格。明治10年、東京大学理学部に入学(千頭清臣等と共に高知県貸費生)。明治14年、大学卒業まで数カ月というところで病により退学しましたが、高い学識と抜群の語学力が認められ、帰郷直後から教壇に立ちます。
高知共立学校(現土佐女子高等学校)、高知中学校(現高知追手前高等学校)、嶽洋社学課局、第五高等中学校(現熊本大学)、鹿児島高等中学造士館(現鹿児島大学)、岐阜県尋常中学校大垣分校(現岐阜県大垣北高等学校)校長。明治24年、従七位。明治29年、思想家・教育者の杉浦重剛に招かれて上京、私立日本中学校、同文書院(教頭)、私立郁文館中学校(激石『ぼっちゃん』の舞台)、同中学校教頭などを歴任。野武士のような風格と威厳があったと伝えられています。昭和2年没、享年71歳、墓所は東京都多磨霊園にあります。
教え子の中には、明治の文豪・大町桂月、内間総理大臣・濱口雄幸(濱口家への養子縁組を取持つ)などがいます。新渡戸稲造、内村鑑三、宮部金吾等と机を並べて英語を学び、英国人 (John.N. Penlington) が主宰する英字新聞(The Far East)に特別記事 (Japanese Views and Reviews) を寄稿するなど、殊に英語に優れており、日本英学史にその名を残しています。主な業績に『英和対訳大辞業』明治18年、『訂正増補 英和対訳大辞彙』明治19年、ベストセラーの教科書 Kambe's Readers 明治29年などがあります。
前田家は長宗我部元親家臣初代前田利國に始まり元敏は12代で、布師田西谷には4代から6代までの初期の墓所があり、布師田では珍しい古い時代の大きいお墓で、これ以降は筆山や秦泉寺山へと移っていっています。2代平兵衛利益は、元親が四国統一の途上の讃州引田の合戦時、敵の武将仙石勘解由を打ち取ったとの記録があり、妻は布師田・金山城主石谷民部少輔の息女で金山城と深い関係があります。3代源十郎利春は、長宗我部地検帳に多数の所領が記されており豊臣秀吉の命により薩摩軍と戦った豊後戸次川の合戦で長宗我部信親等と共に討ち死にしています。また4代彦九郎家勝は、万々城主吉松十衛門に嫁した元親の第四息女の孫娘を妻に迎えていて長宗我部氏とも深い関係があります。
また、上記説明文中の元敏と同窓の奥宮健之については、"奥宮慥斎・健之父子の住居跡"がここより約150m東方にあるのも何かの縁です。(奥宮慥斎は土佐藩の陽明学者で安政元年(1858年)江戸に出る時、後に三菱財閥の基礎をつくった岩崎弥太郎を従者として連れて行っています。)
前田元敏先祖の所へは説明板に向って右手の山道を道しるべに従って道なりに約3分上った左側にあります。 布師田の未来を考える会」とあった。
大町桂月
教え子の中に大町桂月の名があった。東京都文京区散歩の折、大町桂月の旧宅跡を訪ねたことがある。詩人・随筆家・評論家として知られる、というが、散歩フリークとしては紀行文しか知らない。誠に、いい。終世酒と旅を愛し、大雪山系にはその名からとった桂月岳が残る。与謝野晶子の「君死にたもうことなかれ」に対して、「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」などと非難し戦後は少々評価をさげてはいたようだ。が、紀行文は誠に、いい。田山花袋の紀行文に『東京の近郊 一日の行楽』がある。これも、いい。同じく桂月に明治40年に書かれた「東京の近郊」がある。これもまた、いい。「一日に千里の道を行くよりも 十日に千里行くぞ楽しき」は桂月の言。

奥官慥斎・奥宮健之父子の屋敷跡
更に続けて「奥官慥斎・奥宮健之父子の屋敷跡」の案内。
「奥宮値姦(1811~1877)
幕末明治初期の思想研究家。藩吏奥宮正樹の長男で、土佐藩主山内容堂の特講の陽明学者です。儒学を岡本寧浦に学び、文政12年(1829年)に江戸に出て陽明学者佐藤一斎にも学びました。
土佐へ帰った後に私塾「蓮池書院」を興し、藩校致道館の儒官や教授館教授をつとめました。土佐藩伝統の南学(土佐の朱子学)から排撃されながらも陽明学の土佐の地での中心的な存在となりました。
明治2年(1869年) 12月、板垣退助が高知県大参事となった時、協力して学制の改革や宣教の事務を担当、明治6年立志社の民選議員設立建白書起草案の修正などにもかかわっています。慥斎は、平井善之丞・佐々木高行・武市半平太・大石弥太郎らと交わり勤王の影響を与えています。門人に長岡健吉・中江兆民・河田小龍・淡中新作・北代正臣・島本伸道ら勤王の志氏を輩出しています。墓所は東京谷中墓地にありますが、父奥宮弁三郎正樹や母・妻などの墓所はこの屋敷跡より少し東方の西山寺の右手階段上にあります。(徒歩7分)
(陽明学とは中国の王陽明のとなえた哲学です。)《儒学とは孔子に始まる中国古来の政治・道徳の学問です。)
実業家で三菱財閥の創始者岩崎弥太郎は少年時代、それまで師事していた叔父で儒学者の岡本寧浦が没した後、奥宮慥斎にも師事し、安政元年(1854年)慥斎に従いこの屋敷跡前の道を通って江戸に出て行きました。奥宮慥斎は左遷のような形で老母梶子と従者伊太郎を伴って江戸藩邸詰めに出張して当代一流の佐藤一斎や安積艮斎らと交わりました。
この江戸行きの時、師として岩崎弥太郎を最初に江戸に連れていった人物です。布師田を発って安芸の岩崎の家で宿泊し室戸方面から徳島を通って江戸までの日記が残っています。慥斎の日記によると安政元年九月二十五日に出発し、六十日目の十一月二十三日築地の土佐藩下屋敷に到着しています。互いに詩を吟じ冗談を言いながらの楽しい旅だったようです。出発に際して弥太郎は裏の妙見山に登り、星神社の扉に"吾志得ずんは再びこの山に登らず"と大書した逸話はよく知られています。
弥太郎は三菱を創立した後も奥宮家を気に掛けていて何かと援助をしたと言われています。自らの漢詩の素養は慥斎の影響も大きいと言っていたようです。
慶応三年(1867年)二月、山内容堂に四侯会議出席を求めるため島津久光の命で土佐に来ていた西郷隆盛を訪問、意気投合して互いに漢詩を交換する仲となり、この時の漢詩は後に高知市民図書館に寄贈されています。
慥斎の長男正治は後に宮城控訴院検事長になりますが、弟の奥宮健之が大逆事件で罪を問われた時、健之を支えますが責任を感じてか辞職しています。
また、岩崎東山先生傳記(岩崎弥太郎の伝記)の編集もおこなっています。
慥斎の父正樹は藩の下役人でしたが、文化五年(1808年) 幕府測量使伊能忠敬一行が土佐を測量に来た時、土佐藩の案内役として普請方宮崎竹助と共に甲浦から伊予宇和島に出るまで約一カ月余り随行して測量の世話をしています。
〇奥宮健之
明治期の社会運動家・英学者。安政4年陽明学者奥宮慥斎の三男として土佐郡布師田村に生まれました。慶応3年(1867年) 致道館で漢学を学び、明治3年(1870年)上京し英人メーカーに英学を学びました。明治5年から湯島の共慣義塾に学び、同塾の教師や山内家の海南私塾の教師をつとめ、自ら英学塾育英舎も開いています。
一時三菱に勤めていますが、明治13年頃から政談演説に深く関わるようになり、明治14年(1881 年) 自由党結成に参加し、入党して全国各地で遊説しました。明治15年(1882年)には6月創刊の「自由新聞」に入社しています。また、同年に馬車鉄道の出現で失業した人力車夫を組織化し、自由民権論者と共に「車界党」(車会党)を結成、反資本主義的な運動も展開しています。
その後、政談演説などで植木枝盛と各地遊説も行っています。演説中止や集会条例違反などでたびたび投獄されたりもしました。幸徳秋水に爆弾製造法を教えたという罪で明治44年(1911年) 明治天皇暗殺計画という大逆事件に巻き込まれ、無罪を主張しましたが刑死となりました。
絞首刑 12名無期懲役12名を出した大逆事件は、社会主義者や無政府主義者への時の政府の大思想弾圧事件でした。現在は冤罪が定説になっています。奥宮健之や植木枝盛は布師田自由党の結成にも大きな影響を与えたのではないでしょうか。
明治17年3月25日布師田自由党は一宮村自由党と協力し、時の太政大臣三条条実美宛てに住民402 名の署名と共に 43 ページにもわたる『減租請願書』を提出したりしています。健之と同じ布師田西谷に先祖の墓所のある高知出身の英学者前田元敏とは致道館で同窓でした。」とあった。

「西山六本松(旧布師田橋の所在地の一つ)」の案内
直ぐに「西山六本松(旧布師田橋の所在地の一つ)」の案内;「布師田橋の位置(「南路志」の解釈) 布師田橋の位置については「南路志」に、『七つ城に長さ三十三間(60m)・幅二間(3.64m)の橋が川の東から西にかかっている。万治三年(1660年)に現在の場所(七つ城)に架け替えられた。以前は西山六本松に架かっていた。更に明暦年間(参考:明暦元年=3D1655年)には東山(場所不明)の端に架かっていた。』とあります。
"七つ城の布師田橋"=現在の布師田橋の少し上流付近と思われます。
万治三年(1660年)以前には布師田橋はここ西山六本松に架かっていて、甲浦まで陸路を通る場合や北山道を取って国分川を渡るときは、この橋を利用したと思われます。1660年以降はここより約600m下流にある"七つ城の布師田橋"が利用されました。
"西山六本松"は現在の地蔵堂部落の"地蔵堂"から国分川を隔てた北側。現在は土手上が道路になっているが、以前の土手(昭和35年頃)は上部の幅員が狭くて車は通行できませんでした。その土手の"西山六本松"と思われる付近は二十畳ぐらいの広場になっていて、昔からの地名を残すような形でちょうど松の木が六本ぐらい植えられていました。
ホノギで"西谷"の北の山裾の小川に沿った西谷部落の道から分岐して斜めに"スカ"を横切り土手を上がってきた所(この道は現在も大部分が残っている)が西山六本松"でした。ろっぽん"と呼んで子供の遊び場所でもありました。
また、国分川の河原に置かれていたという葛木男神社のお神輿の休む畳二畳ぐらいの御旅所 の石(現在は少し下流の左岸道路わきに移されている)が中心に置かれていました。
西山六本松付近の国分川は現在も浅瀬で、昔から歩いて往来できたそうで、秋祭りのお神演も 川の中を担がれて渡っていたそうです。 布師田の未来を考える会」とある。

現在は中島経由の北街道は葛木橋を渡ることになるが、往昔は葛木橋の少し下流にあった古布師田橋を渡り国分川左岸に移ったようである。この旧布師田道を渡り中島に向かう道は土佐北街道南岸ルートであると共に、土佐北街道が開かれる以前の土佐藩参勤交代道である野根山街道をを越えて甲浦に出る、通称「東街道」のルートでもある。

西山寺の案内
さらに直ぐ、「西山寺:の案内;「真言宗善通寺派に属し、正式名称は普門山観明院西山寺といい本尊は聖観音です。江戸時代に成立した土佐の歴史・地理書である。南路志にもその名が見られる古いお寺です。尚、南路本では西山寺は五台山の末寺で本尊同弥陀 運慶作となっています。
明治初年の廃仏稀釈運動により廃寺となり一時私塾「球磨学舎」として使われたこともありましたが、昭和5年に再興され同21年宗教法人となり現在に至っています。第6番西国観音場(私注:土佐三十三観音霊場)としての参拝者もあります。
近くに石渕送番所や布師田御殿があった関係でしょうか、土佐山内家の藩政下では西山寺は、 他藩からの使者等をここでお迎えして城下に案内などもする重要な役割を担っていました。 事実、山本周五郎の「桜の木は残った」で有名な原田甲斐の登場する"伊達騒動"で、土佐藩預かりになっていたの騒動当事者の伊達兵部が延宝七年十一月四日に亡くなった時、江戸からの検使が西山寺で土佐藩の出迎えを受けた記録があります(有路志第八巻p246)。
〇西山寺主要な所蔵物
本尊聖観音菩薩立像; ヒノキ材の一木造り、彫眼の彩色像、平安時代作 ふくよかで伏し目の思やかなお顔
黑沙門天立像 ;ヒノキ材の寄木造り、玉眼の彩色像、鎌倉時代作 目を見開き正面を見据えたりりしいお顔
弘法大師像; ヒノキ材の寄木造り、玉眼の彩色像、江戸時代作 西山寺の棟札により意政6年(1794)五台山法印慶隆の導師で開眼供養が執り行われていることがわかります。
記録で確認のできる西山寺
「南路志」の布師田村の項には、応永 15年(1408)山田氏が西山寺の聖観音菩の厨子を寄進したことが記されています。
「長宗我部地検帳土佐國土佐那布師田村地検」天正16年(1588)に「西山寺」の記述があります。
〇江戸時代の西山寺の役割
現在布師田地区の氏神である墓木男神社の棟札からこの神社を管轄していたことが窺えます。 地区を複家として管轄し、「南路志」の記述から土佐藩政の一旦を担っていたことも競えます。 境内の石造物
境内には地蔵仏や五輪塔・供養塔など多数あり歴史の古さを物語っています。見かけることの少ない遍路の墓石も発見されました。(三頭のカラス天時は室内収納)
〇周辺情報
西山寺下の市道少し西の用水路北側には、奥官慥斎の住居跡があります。
西山寺の東側山道を道なりに進み階段を登った少し上段に「布師田奥宮家の墓所」があります。伊能忠敬測量隊を土佐藩の命により案内したうちの一人で、奥宮弁三郎三部正樹一族の墓所があります。正樹の妻や正樹の父、忠蔵正性、奥官慥斎の妻等です。正樹は奥宮慥斎、奥宮暁峰兄弟の父親です。 布師田の未来を考える会」とあった。

西山の六本松とか西山寺とあるように、石淵の送り番所にあった龍馬青春の道、「布師田橋は渡らずに国分川北岸を、西谷・折越峠・蒲原・小蓮と通って、藩境の立川番所をめざした」とある西山がこの辺りである。

国分川堤防道に出る
山裾の道は国分川添いの道に合流。合流点付近には水門や堰がある。上述権兵衛井流の案内のあった水門から距離も500m強。このあたりにふたつあった水門のひとつがあったのだろうか。本音を言えば、この規模の用水路で説明にあった洪水調節機能、土手崩壊を防ぐ機能を果せるのだろうかとの疑問もある。洪水調節機能、土手崩壊を防ぐ機能は国分川ではなく井流域というのであればそれは納得できるが、この辺り西山の丘陵から国分川の間の耕作地もそれほど広くなく井流が灌漑用に大きなインパクトを与えるとも思えない。水門での調節といった仕組みの有り難さはわかるのだが、その距離が500m強という井流自体の役割のポイントは門外漢にはいまひとつわからなかった。

葛木男神社
葛木橋を越え先に進むと、北山道はほどなく堤防沿いの道から左に逸れる。道の左手に葛木男神社。葛木男神社由緒には、「祭神 高皇産霊大神 葛木男大神 葛木咩大神
勸請年月日縁起沿革等は未詳であるが第六十代醍醐天皇延喜七年(皇紀一五六七年)神祇官の延喜式神明帖に登録せられた延喜式内社で土佐国二十一座の一座である。
古来より布師田の総鎮守で中古高結大明神と称す。即葛木氏は高皇産霊神(私注;たかみむすびのかみ)五世孫劍根命(私注;つるぎねのみこと)の後裔布師臣武内宿禰の男葛城襲津彦を祖とする。葛城氏族は布としての仕事を営む傍ら生活の糧を得るため布師田の原始林を開始し。永住の地と定め太祖高皇産霊神を氏神として奉祀したものである。
近世は布師田全山城主源信も太祖神を斎き祀りしものである
布師田は布師の人の住む里なるか故に布師と号け昔より田地の多い処なるが故に布師田と唱へ今の地名となりたりと伝えられる
縁起式内社葛城襲津彦命妃命を奉祀する葛木神社は昭和四十七年十二月合祀しました」とある。
葛木男大神は葛城襲津彦、 葛木咩大神は葛城襲津彦妃命とWikipediaは云う。伝承では、元は両社とも現社地の南東方において同じ境内に鎮座したが、葛木咩神社は東南方に移り、葛木男神社も国分川の増水を避け北西方の現在地に移ったが、昭和47年に葛木咩神社は合祀された。
由緒丘陵はともあれ、この社が布師田の地名の由来ではある。

丘陵の切通し
左に逸れた道は丘陵を切通しで抜ける。石淵の案内にあった龍馬青春の道「布師田橋は渡らずに国分川北岸を、西谷・折越峠・蒲原・小蓮と通って、藩境の立川番所をめざした」とある折越峠がこのあたりかもしれない。
道の左手は高知刑務所。切通を抜けて先に進むと高知県警交通機動隊の建屋前に出る。布師田御殿跡にあった北街道ルートによると、道は高知県警交通機動隊の建屋の先辺りで右折し国分川t堤防に向かう。


山崎川・蒲原橋北詰めに
右折というが、右折点の先は道と言うより水路沿いのブッシュ。取敢えず土手まで進み、堤防上の道を進むみ山崎川・蒲原橋北詰めに出る。
龍馬青春の道にあった「布師田橋は渡らずに国分川北岸を、西谷・折越峠・蒲原・小蓮と通って、藩境の立川番所をめざした」の蒲原がこの辺りだろう。


山崎川橋手前で左に逸れ山崎川右岸を進む
北街道は蒲原橋北詰めをそのまま直進し、山崎川右岸を進み山崎川橋。橋の手前に左に逸れる道がある。布師田御殿跡にあった地図によれば、この道が土佐北街道のようでもある。
左に逸れ山崎川右岸を進み、水路が山崎川に合流する先で左岸に渡り返し、水路に沿って東進し山崎川橋を渡ってきた道に出る。



高知大学医学部附属病院北を県道384号に抜ける
土佐北街道は道をクロスし高知大学医学部敷地の北を進み、医学部敷地東を走る道路を横切り更に東進し、道が岡豊城跡のある丘陵に当たる手前で左折し県道384号に出る。
高知大学の北に岡豊町小蓮の地名がある。龍馬青春の道にあった「布師田橋は渡らずに国分川北岸を、西谷・折越峠・蒲原・小蓮と通って、藩境の立川番所をめざした」の小蓮がこの辺りだろう。
補足メモ
当日は上述の如く山崎川橋を渡り先に煤んdのだが、メ。モの段階で山崎川橋手前で左に逸れ山崎川右岸を進み、水路が山崎川に合流する先で左岸に渡り返し、水路に沿って東進し山崎川橋を渡ってきた右折点の水路に続く道がある。確証はないが、この道筋のほうが旧路っぽい

岡豊別宮八幡の先で県道384号を右に逸れ県道252号に出る
県道384号を東進すると道の左手に岡豊別宮八幡。布師田御殿跡にあった地図には、そのすぐ先で県道を右に逸れ、「谷泰山先生先塋の地」の傍に出るとある。
「谷泰山先生先塋の地」は道の右手の丘陵地にあるようだ。岡豊八幡宮の直ぐ先にある右に逸れる道に入り、丘陵裾の道を辿ると県道252号に出る。ここで布師田から国分川を渡り中島経由の北山道と合流する。
岡豊別宮八幡
元親の信仰が篤く、出陣にあたっては必ず戦勝を祈願したといわれている。八幡宮の宮司谷氏の祖である大神氏は、大和の国三輪山から土佐に移り、その子孫は谷左近、谷秦山、谷干城などにつながる。
谷左近
長曾我部元親に仕えた。左近の伝えた八幡大菩薩のご神託が元親の阿波出陣のきっかけとなった、と。長宗我部盛親の改易後は浪人となる。
谷泰山
江戸前・中期の儒学者,神道家。名は重遠,秦山は号。土佐(高知県)に生まれる。17歳で京都に出て,山崎闇斎や浅見絅斎に学ぶ。土佐に帰ったのち,さらに闇斎門下の渋川春海に書簡を送り,天文・暦算や神道を学ぶ。藩主山内豊房に用いられて,藩士に学を講じるが,宝永4(1707)年豊房死後の政変で蟄居,10年余におよぶ。朱子学に神道をあわせた学問を展開し,一時絶えていた土佐南学派を再興した。その国体論は,幕末の勤皇倒幕運動にも影響を与えた。
谷干城
幕末から明治にかけて活躍したの武人。幕末は、土佐藩の勤皇派として、乾退助(板垣退助)の片腕を為し、薩摩藩・小松帯刀、西郷隆盛らと「薩土討幕の密約」を締結する。戊辰戦争に際し、軍事の才能、智略に秀で最前線で戦った武将。熊本鎮台司令長官であった西南戦争においては、熊本城攻防戦の官軍指揮者として手腕を発揮し、更に武名を挙げた。後に政治家となる。

国分川南岸(中島経由)ルート

布師田御殿跡にあった国分寺川南岸のルートを辿る。国分川南岸の中島を経由し国分川を八幡渡瀬で渡り返し北進し南国市岡豊町八幡に向かう。
八幡渡瀬」は大雨などの時は渡河できず、この道筋は敬遠されることが多かった、と言う。では何故にこの南岸ルートが開かれたのだろう。距離が大幅に短縮されるようにも思えず、北岸ルートに難所といった箇所も見受けられない。
あれこれチェックすると、この中島への参勤交代道は、土佐北街道が開かれる以前の参勤交代道である土佐の城下から甲浦に出る野根山街道、通称「東街道」への道筋であった。その名残りかと思える。この道筋は初期の参勤交代道である野根山街道、通称「東街道」への道筋でもあったようだ。北街道のルートとしても初期の頃利用されたものかと思える

葛木橋を渡り国分川左岸に

往昔は上述、「西山六本松(旧布師田橋の所在地の一つ)」の案内にあった、現在の葛木橋の少し下流、旧布師田橋を渡ったのだろうが、現在その橋はない。葛木橋を渡り国分川左岸に移る。






郡境石
左岸に移り県道249号を国分川左岸に沿って進むと、国分川・小山橋から下ってきた道がT字に合流。その合流点に郡界石が立つ。「是東長岡郡」・「是西土佐郡」と刻まれる。現在は高知市布師田と南国市岡豊町中島の境となっている。








県道252号を左折し国分川に向かう
郡境石より更に西進し県道252号を左折し北へと国分川へと向かう。少し北に進むと、県道を左に逸れる道がある。布師田御殿跡にあった北街道はこの左に逸れる道のように思える。 左に道を逸れ北に進む道筋には水路が流れる。水路に沿って北に進むと国分川の土手にあたる。布師田にあった「ぬのしださんぽ」案内には、この辺りに国領の水越跡が記されていた。
水越
高知大悪の資料
水越とは越流堤のこと。洪水時には水が堤防を越えることをあらかじめ想定し、その下流を水没させ、中堤(水張堤)により一帯を遊水池とすることを目する。河川上流部を水没されることにより河口部の洪水を抑制し、下流域、国分川、久万川、鏡川などの河川が織りなすかつての氾濫平野、三角州に普請した高知の城下町を護る治水対策のひとつである。国分川水系の洪水をそのまま河口部まで流すと鏡川などの城下町を流れる川の水位が上がり、逆流現象が起き水が城下に流れ込むのを防ぐこととも意図しているのではないだろうか。
参考に高知大学の飼料「高知の藩政期の水防災対策の再評価平成 25 年自然災害フォーラム論文,2013」を掲載しておく(高知城下の治水事業に興味があるかたはこちらの記事をご覧ください)。
「伊奈流」とも関東流と呼ばれる越流堤の治水施策は埼玉の見沼などで出合った。

岡豊橋を左折し県道252を北進し北岸ルートと合流
土手に出た北街道は国分川左岸を進み岡豊橋の南詰めに出る。岡豊橋南詰を左折し県道252号を北進し、上述国分川北岸ルートと合流する。
合流点手前の丘陵地側に「谷泰山先生先塋の地」の案内。先塋(せんえい)とは先祖の墓の意である。



地図に記載された「土佐北街道」ルート

ついでのことでもあるので、Google Mapに記載された「土佐北街道」のルートもメモしておく。国分川北岸ルートではあるが、高知大学医学部の北を通ることなくその南、国分川に沿って進むルートであり、29番札所国分寺から30番札所善楽寺へと向かう遍路道でもある。

山崎川・蒲原橋
山崎川・蒲原橋で北岸ルートと分かれ国分川に沿って高知大学キャンパス南を東進する。しばらく進み国分川の支流に架かる橋を渡ると、道は岡豊城の建つ丘陵南裾に入る。




山裾を水路に沿って東進
山裾に入った北街道は、国分川から少し離れしばらく木立が日陰をつくる水路脇の道を進む。ほどなくして集落の里道出ると、その先は国分川に沿って進む。




岡豊橋北詰めに出る
道は岡豊橋北詰めに出る。遍路道はそのまま直進するが、北街道はこの地で中島を経由してきた南岸ルートと合流し県道252号を北進し、北岸・南岸ルート合流点に向かう。




北岸・南岸ルート合流点から領石まで

この間の土佐北街道もふたつのルートがあったようだ。布師田御殿跡の案内に「北山道を取る場北街道合、発駕後一泊目は主として比江高村家に宿しましたが、天保頃から布師田に転じ、天4(1833)年 12代豊資以降は布師田御殿泊が中心となります」とあったように、参勤交代初期の頃は比江戸経由のルート、天保頃からは布師田御殿に泊まりそのまま領石へと向かったようである。 資料が少なくはっきりしないが、とりあえずこの二つのルートを追っかけてみる。

直接領石を目指すルート

県道252号を右に逸れ旧道を県道384号に

布師田御殿跡にあった地図に拠れば、北街道は北岸・南岸ルート合流点辺りから県道252号を右に逸れ笠ノ川川方向に向かっている。水路に沿ってほとんど畦道といった道を進み。県道32号の少し手前で左折し県道384号に向かう。



比江ルート渡河地点
布師田御殿にあった地図には、土佐北街道は県道32号を越え、その先で笠ノ川川にあたる。
笠ノ川川の対岸が国分でありその東が比江である。これが初期の比江経由のルートの渡河地点であろうと思い込む。







県道384号右手に笠ノ川地蔵
道より一段高いところにあるお堂にあった案内には、土佐の殿さまも参勤交代の途次立ち寄り参拝されたとの言い伝えが残り、通称笠取地蔵、特に首から上に御利益あらたかとされるお地蔵さまとのことであった。首から上って頭痛や目の病に霊験あらたか、ってことだろうか。

県道384号を左に逸れ丘陵土径に
布師田御殿跡にあった地図に拠れば、北東に進む県道が高知道南国インター手前で北に向きを変える手前で土佐北街道は県道を左に逸れている。はっきりしないが、なんとなくそれらしきところ、民家の間の細路を進み小さな丘陵を越える。


県道384号をクロス
道はすぐ県道に合流する車道に出るが、布師田御殿跡にあった地図に従えば、道は県道手前で北に進み高知道南国インター手前で県道を越えている。地図にあるルートに従い進むことにしたが、道はなく畑跡といった場所を進み、民家の裏手を越えた先で県道に合流。なりゆきで県道を渡る



高知道インター高架下を進みルート合流点に
県道を渡り高知道の高架下を潜り、その先集落の細い里道を進むと右手から細い道が合流するところに出た。はっきりしないが、そこが比江経由の北山道の合流点と思い込む。






比江経由のルート

比江経由の北山道をトレースしてみようと思ったのだが、はっきりとしたルート図がわからない。ポイントとなる宿泊地である比江の高村家でもわかれば、それなりに道筋もわかるだろうが、それも検索でヒットしない。あれこれチェックすると、上述笠ノ川川の渡河地点から先は、ジグザグに県道256まで進み、国府小学校の裏を通り阿波塚神社前を抜けて高知道インター北のふたつのルート合流点まで進んだようである。
以下はっきりしたルートであるとの確証はないが、それらしき道筋を歩いてみることにする。

笠ノ川川渡河地点
上で布師田御殿跡にあったルートに従い笠ノ川川の土手までメモした。現在そこに橋はない。少し右岸を上流に進み、県道256に架かる無名の橋を渡り、笠ノ川川左岸を下り、渡河地点(実際渡河したのかどうか不明だが)まで戻る。
そこからは田圃の中の道を成り行きでジグザグに進み県道256号に出る。




県道256号に出る
途中道筋に長曾我部検地帳の案内が立つ。このあたりには随所に長曾我部検地帳の案内が立っていた。
長曾我部検地帳
豊臣政権期に土佐国主であった長宗我部氏が実施した、土佐一国の総検地帳。天正15(1587)年から数カ年かけて行われた検地の成果で、土佐七郡全域にわたる368冊が現存する。初代土佐藩主山内一豊は慶長6(1601)年の土佐入国時、長宗我部氏の居城浦戸城に入城し、地検帳を接収。七郡の郡奉行がそれぞれ保管し、初期の土佐藩政に利用した。その後写本を作成し、原本は実務的な使用からは離れるが、近代まで土佐一国の基本台帳として大きな意義を持った(「文化遺産オンライン」より)。

府小学校の東の里道を北進
県道256号に出るとそのまま東進。その先で北に向かう県道を離れ、県道より少し東、国府小学校裏を進む道に入る。先に進むと道は少し小高い丘に上る。




阿波塚神社
成り行きでそれらしき道を進むと道の左手に阿波塚神社。長曾我部氏ゆかりの社、というか小洞といったお堂である。お堂のまわりには幾多の小さな五輪塔が並んでいた。
この祠の由来は鎌倉時代まで遡る。当時、長宗我部家7代目兼光のころ、大豊町豊永地域を本拠とした小笠原左近太夫という豪族がいた。左近太夫は阿波の一部まで領地をもち、香長平野に進出する好機を窺い、時を得て阿波兵を配下として南に下り岡豊に向かって一挙に進撃を開始。守戦一方の兼光は、日頃から信心する岡豊八幡宮に戦勝を祈願。 と、あら不思議にも一振の金の鉾が飛び 出し、阿波勢の陣の上を縦横無尽 に飛びまわった、と。
長曾我部勢は金の鉾に恐れおののく阿波兵を追撃し多くの阿波兵を打ちとった。阿波塚は討死した阿波の兵士を埋葬したところ。が、それ以降も怪異な現象が続くため、永禄年間、元親は長門国(今の山口県)壁雲寺の高僧通安が、土佐の山野を行脚して法力を見せているのを知り、魂鎮めの法会を行ったところ怪奇な事件はぱったりと止んだといわれている。

道のえき風良里(ふらり)東北端の駐車場

阿波塚神社の先は双葉台の中央木材工業団地となっており、古い道は消える。工業団地内を成り行きで進み、「道のえき風良里(ふらり)」の東北端の駐車場に出る。



丘陵地の土径を進み国道32号に出る
「道のえき風良里(ふらり)」から先、旧路はないかと地図をチェックすると丘陵地を北に進む道筋が見える。それが土佐北街道かどうは不明だが、とりあえずそこを進むことにする。 道の法面に斜めに上る道に入る。直ぐに竹林の中を北に進む土径が分岐。なりゆきで北に進む。

高知道インターの高架を潜り北進
丘陵を出て里道を下り国道32号の陸橋を渡り国道西側に出る。国道に沿って北進するが道は高知道インターへの出入り口アプローチ道に阻まれ先に進めない。しかたなく、迂回しアプローチ道高架下を潜る。迂回したため直ぐ下の道は先ほど歩いた直接領石を目指す道筋〈推定)。


合流点に
高架を潜りアプローチ道に阻まれたであろう道の続き箇所らしきところまで進む。そこから旧路を北進するとほどなく、上でメモした「直接領石を目指すルート」との合流点らしきところに出る。

以上、北岸・南岸ルート合流点から、領石で直接領石を目指すルートと比江経由のルートが合流する箇所までをトレースしたが、資料がなくはっきりした道筋とは言い難い。取敢えず、それらしき道筋を辿った、といったところである。




領石より権若峠取り付き口の釣瓶まで

南国市の図書館まで行ってチェックした『土佐の道 その歴史を歩く;山崎清憲(高知新聞社)』にも領石より権若峠取り付き口の釣瓶までの詳しいルートは記されていない。ただ、領石の送り番所とか、領石川の浅瀬を渡河した一の瀬渡瀬、楠木渡瀬、亀の本渡瀬、下着(私注;ママ)渡瀬といったルートの目安となる地名が記されている。
また同書には記載されていなかったが、過日土佐北街道・權若峠越えのとき、確認隅のふたつの渡瀬、左手渡瀬と中渡瀬を加え権若峠の取り付き口を目指すことにする。

ルートは領石川右岸の地にある領石の送り番所を経て北進。一の瀬渡瀬で領石川を左岸に渡り、その先楠木渡瀬で右岸に、更に亀の本渡瀬で再び左岸に渡り直し、「左手渡瀬」で領石川支流中谷川の右岸に移り、その先中渡瀬で左岸に渡った後、中谷川に合わさる梼山川の左岸から下り付け渡瀬で右岸(北)に渡ると權若坂の登山口に着く。
これらのポイントを追っかけて領石より権若峠取り付き口の釣瓶まで進むことにする。
領石
領石の由来は「根曳峠への登り口の集落。地検帳には龍石。竜に似 た奇岩?竜石寺という寺名に由来?(土佐地名往来)」とある。

領石の送り番所
領石へ直接進むルートと比江経由の北街道合流点とおぼしき箇所から少し北に進むと直ぐ県道384号に出る。そこから少し北に進み県道384号が国道32号に合流する手前に左に逸れる道がある。北街道はここを左に逸れる。
ゆるやかな坂を上るとすぐ左手に天満宮の鳥居があり、そのすぐ先に「領石の送り番所跡」と刻まれた石碑が立つ。割と新しい。
天満宮と石灯籠
天満宮鳥居前に天満宮と石灯籠の案内があった。
天満宮
「天満宮 領石部落の氏神、産土神である。「天神様」とも呼ばれ、祭神は菅原道真である。鳥居は参道入り口と、急な石段の下の二基、狛犬も大正八年に建立され、変遷を物語る棟札も数枚残されている。文化十二年(一八一五)南路志には「天満天神社岡屋敷祭九月二五日・僧壱人社地三十代林八十間 横十間」とある。
菅原道真(八四五~九〇三)平安時代の貴族、学者、政治家 朝廷で右大臣まで上ったが、藤原時平との政争に敗れ、太宰府へ左遷され、二年後にその地で失意のうちに病没した。その後、藤原時平は早世、天皇家では皇子が相次いで病死、京で疾病がはやり、天変地異が続いた。道真公のたたりを恐れた朝廷は、身分を戻し、京都「北野天満宮」を建立、神号を「天満大自在天神」とした。やがてそのような記憶の風化と共に道真が生前優れた学者だったことから、学問の神様として信仰されるようになった。
天満宮の境内の中に三基の小さなお社が祀られ、まとめて「小宮さま」と呼ばれている。右から「白山神社」「竃戸神社・山神社」「清川神社」「大神宮」と書かれている。勸請の時期などは不明である。
鳥居の下に、明治四十三年に建立された「日露戦役記念碑」には植野・領石から従軍した人々の名前が刻まれている。 平成二十三年一月吉日 久礼田地区史談会」

天晴の石灯籠
この石灯籠には「天晴 丁卯 十月吉日」と刻まれている。
『天晴』という年号は存在しない。丁卯とは、幕末最後の年、慶応三年(一八六七)のことで翌慶応四年には明治に改元されている。
朝廷の定めたものでない年号は「私年号」といわれるが、「天晴」という年号は土佐に限られて使われ、現在確認されている石灯籠は、領石のものを含めて四ヵ所しかなく、非常に貴重である。 慶応三年十月、領石の住民がこの石灯籠に、「天晴」の年学を刻んだいきさつについては一説がある。参勤交代北山道の要所であった領石には、中央の情報もいち早く伝わっていたことから「国内不穏につき改元する。新しい年号は天晴である」という話が誤って伝わり、住民は「来年は天晴という年号になる」と信じたに違いない。
翌年は「明治」に改元された。領石の住民はどのような思いで明治元年を迎えたのであろうか。 平成二十三年一月吉日」とあり、またその下には
「天晴の棟札
領石で作られた「天晴」の石灯籠に続いて棟札が新たに見つかりました。この棟札は、これまで領石天満宮境内社の小宮さま(大神宮)に納められていましたが、平成二十七年六月の調査の折に発見され、領石での「天晴」年号二例目として貴重であることから保存・管理のため高知県立歴史民俗資料館に寄いたしました。
(表)
天下太平国家安全氏子安全 奉建立 弁才天客
(裏)
「天晴元年丁卯 九月十七日 願主北村金次郎」と記される。

一の瀬渡瀬
「領石の送り番所」の石碑から里道を北進する。先に進むと民家がありそこで道はふたつにわかれる。右へと川筋に下る道をとり国道32号の高架下、更には高知自動車道の高架下を潜り、大きく曲がる領石川右岸の道を進む。山裾を流れる水路に沿って少し進むと「一の瀬渡瀬」と刻まれた石碑が立っていた。これも比較的新しいものであった。
往昔、ここから領石川を左岸へと浅瀬を渡っていったのだろう。
この渡瀬に石碑があった、とすれば、その他の渡瀬にも石碑か標識などが立つ可能性が高い。ここで渡瀬のポイントハンティングのモチべーションが結構高まった。

楠木渡瀬
一の瀬渡瀬で領石川左岸に渡り宍崎に出る。北山道は領石川左岸を北進し楠木渡瀬で再び領石川を右岸に渡り清川神社前を進むと『土佐の道』にある。地図をチェックし領石川右岸の清川神社へ向かう道をチェックすると、楠木橋を渡る道筋がそれに一番近い。取敢えずその地に向かう。 一の瀬渡瀬辺りに橋はないため、一度引き返し県道384号が領石川を渡る領石橋まで戻り領石川左岸に移る。高知自動車道の高架を潜ってすぐ領石川左岸に沿って進む道筋に入る。道の左手に南国市立たちばな幼稚園を見遣りながら道を進むと楠木橋がある。
橋を渡ると「楠木渡瀬」と書かれた木の標識が立っていた。ここがかつての楠木渡瀬であった。楠木渡瀬のゆらいは、かつて川岸に対岸にまで枝が届く大きな楠木があり、身軽な者は枝につかまり川を渡った故、と『土佐の道』は記す。
標識の傍に「北山越え」と刻まれた石碑があり、裏面には「律令制度の昔、都と土佐の国府は南海道で結ばれていた。古代文献よると、勅によって北山越えの開かれたとある。山また山の険しい道だけに、のち海路とってか知られた
この北山越えは近世なり享保三年(一七一八)第六代藩主山内豊高公が参勤交代道に利用する。それ以後土佐上方 江戸を結ぶ幹道して参勤交代また文物や人々の交流の舞台となった 根曳越えの新道の開通などにより機能を失うこととなるが、地域に残貴重な歴史的遺産であり(後略)」といった文字が刻まれていた。
尚、国道32号から分かれた県道33号から楠木橋に分かれる分岐点にも「参勤交代北山道」の標識が立っていた。

県道33号に出る
楠木橋を渡り丘陵へのゆるやかな坂を上り、切通しを抜けると亀岩の集落へと下る坂道となり、左手に清川神社を見遣りながら里道を進むと領石川右岸を走る県道33号に出る。





亀ノ本(瓶の本)渡瀬
次の目安は領石川を左岸に渡る亀ノ本(瓶の本)渡瀬。県道33号を少し進むと県道33号右手に「亀ノ本渡瀬 領石川を左岸に渡る」と書かれた木の標識があった。
標識には「対岸の左方にハンド岩 坂道の右下にクツヒキ岩」と記された写真も張り付けられていた。
標識脇からスロープを下りる。そこは水草栽培をしている民家敷地。丁度家の方がいらっしゃったのでお話しを聞く。クツヒキ岩はスロープ脇にある岩とのこと。岩の窪みには祠が祀られていた。「クツヒキ」とは蝦蟇ガエルのこと。


「ハンド岩」は領石川対岸、樹木の間に見える大岩のこと。「ハンド」はこの辺りで「水瓶」のことを言う。この辺りの地名、亀岩の由来となった岩である(瓶>亀に転化)。
この「ハンド岩」と「クツヒキ」岩にまつわる伝説が伝わる;はるか昔、木花之開耶姫(このはなさくやひめ)がこの地に住い、瓶石川(領石川)の水で酒をつくる。が、出来上がる頃には瓶は常に空っぽ。どうも蝦蟇ガエルが酒を飲みほしているようだ。で、 木花之開耶姫は酒が飲めないようにハンド(瓶)を逆さにしてこの地を離れ、朝峯神社のある地に移った、とか。高知市介良にあるこの社は酒造りの人々からの信仰篤き社と聞く。
よく見ればハンド岩は酒瓶〈水瓶)を逆さにした形になっている、と。また、悪さをしたクツヒキ(蝦蟇ガエル)をハンド岩の傍に祀るって、なんだか、いい。

県道を右折し林道釣瓶線に
亀ノ本(瓶の本)渡瀬の標識のある領石川は、現在浅瀬でもなく渡ることはできない。県道33号を少し進み、領石川に奈路川が合流する箇所にある橋を渡り、領石川左岸に移る。
取敢えず亀ノ本(瓶の本)渡瀬を領石川左岸に渡った箇所から道を繋いでおこうと渡河点に向かう。川沿いは採石工場があり道らしきものは続かない。少し山際を走る里道を渡河点まで戻る。渡河点から川沿いに道筋らしきものは残っておらず、林道釣瓶線に戻り次の目安である左手渡瀬に向かう。
奈路
土佐を歩くと奈路(ナロ)に出合う。「四万十町地名辞典」には「山腹や山裾の緩傾斜地を表す地名地名を高知県ではナロ(奈路)という。奈路(なろ)の全国分布は高知県だけで、それも中西部に多い。ナロ地形にふさわしい地名がこの地「奈路」である 『愛媛の地名』の著者・堀内統義氏はナロ・ナル地名について「東北の平(たい)、九州の原(はる)、四国の平(なる)と同じ地名の群落。奈良も千葉県の習志野も、ナラス、ナラシの当字で、平らな原野を表現している。」と書かれている。 ちなみに「奈路」地名も愛媛県に越せば「成・平(なる)」が断然多くなり、四万十町内でも成川・鳴川がよく見られる。

左手渡瀬
林道釣瓶線を進み、領石川に支流中谷川が合わさる辺り、道の左手に「左手渡瀬 中谷川を西岸に渡る」の木の標識が立つ。
川との段差があるが川は渡れなくもない。下りてみようと思った矢先、近くから作業音がする。確認すると左手渡瀬の直ぐ先に橋があり、対岸に工場があり作業中。左手渡瀬を渡っても工場敷地に出るようで渡河は断念。

中谷川西岸(右岸)に渡る箇所を探すと、工場に渡る橋の直ぐ先にも橋が架かっている。林道用の橋かと思う。橋を渡り中谷川右岸に沿って続く林道を進む。
ほどなく林道は左へと曲がり山に向かう。曲がり角から先、川沿いに道は無くブッシュを掻き分けて進むことになる。



中渡瀬
次の目指すポイントは中渡瀬。この渡瀬は過日土佐北街道権若峠を歩くときに見つけたもの。権若峠釣瓶取り付き口には中谷川に合流する梼山川左岸にある「下り付きの渡瀬」から渡河するとあり、とすれば左手渡瀬で中谷川右岸に渡った北街道は、下り付き渡瀬までの間で中谷川左岸に渡る渡瀬があったはずとチェックしておいた。その時はそれだけのことであったのだが、今回誠に役立つこととなった。中渡瀬の右岸は藪で中渡瀬を示す標識もなく、右岸を進んでもどこが渡瀬かわからなかっただろう。
中谷川左岸にあった中渡瀬の標識までGPSを頼りに中谷川右岸を進む。途中まで林道が続き結構快適。が、林道が左手の山に大きく曲がる辺りから先は踏み込まれた道はない。中谷川に沿っての藪漕ぎ、岩場をクリアしながら先に進む。
中谷川左岸、林道釣瓶線に立つ「中渡瀬」の木の標識のある辺りまで力任せんに右岸を進む。大岩が転がる中谷川であるが、中渡瀬の標識のあたりは浅瀬となっており水に濡れることもなく左岸に渡り、崖を這い上がり「中渡瀬」の標識までの道を繋ぐ。はじめて渡瀬を徒河した。なんとなくの達成感がある。

下り付きの渡瀬
中渡瀬で中谷川左岸に移り、林道釣瓶線を先に進む。途中林道釣瓶線は中谷川の谷筋から離れそのまま梼山川の左岸を進むことになる。
ほどなく林道左手の梼山川側に「下り付きの渡瀬 梼山川を渡る飛石あり」の木の標識。川床に岩が転がるがどれが飛石かわからない。林道から川床まで結構段差もあり、ロープも持ってなかったため直ぐ先にある梼山川に架かる橋を右岸に渡る。

橋への分岐点には「釣瓶登り口左手200m」「梼方面右」の標識が立つ。

「ゆすの木」が多くある地ではあるのだろう。龍馬脱藩の道を梼原から歩いた、その梼原も同じ由来である。
釣瓶
釣瓶の由来は不明。瓶は「かめ・びん」のことだろう。途中亀石川があったが、その由来は瓶の形をした岩があることに拠る。地検帳では亀石だが、州郡志には瓶岩とある。で、釣瓶だが、「釣瓶落とし」というフレーズがある。一直線に落ちていく様を表す。垂直な大岩でもあった故の命名だろうかと妄想。 因みに,『高知の地名;角川書店』の亀石村の項に、「梼山の西に菎蒻坂を隔てて釣瓶落山がある」とする。上述の妄想、あながち妄想とは言えない、かも。

権若峠・釣瓶取り付き口
梼山川を右岸に渡ると「下り付きの渡瀬」の標識の立つ対岸あたりが権若峠・釣瓶取り付き口。「権若峠登山口」「峠まで二千三百三十米 約2時間半かかる 標高五百五十米」とある。


下り付きの渡しの案内
標識の手前の立ち木に登山者のために竹の杖が用意されている。なにか手頃なものは無いかと寄ってみると、手書きで「ここが「下り付の渡瀬」です。昔のとび石が残っています。ゴンニャク峠までは2㎞430m」と書かれたプレートが立ち木に括られていた。この案内によってひ左手渡瀬からこの下り付き渡瀬の間に「渡瀬」がなければ辻褄が合わないと、中渡瀬を見付けた(といっても林道に立っていただけなのだが)わけである。


これをもって土佐北街道のほぼすべての道筋を歩き終えた。新宮から四国中央市に抜ける法皇山脈横峰越、笹が峰越え、国見越えなどの険路もあったが、印象に強く残るのが権若峠越えと立川川谷筋の山腹を進む道。どちらもそれほど険しくもないのだが、権若峠越えでは倒木やブッシュに阻まれ、立川川谷筋の山腹道は道が「消え」、ともに途中撤退。再訪しなんとか道を繋いだ。 簡単に行けそうと高を括っていた箇所で痛い目にあった。
さて次はどこを歩こう。松山から高知の佐川に抜ける土州街道(松山街道)、龍馬脱藩の道散歩で予土国境の峠道部分といった脱藩の道中間部はクリアしたが、前半部と後半部が残っている。そこにしようか。それとも土佐北街道の本山で出合った野中兼山の残した上井、下井、また本山近くの行川にも残る兼山の井流といった用水路散歩がいいか、膝と相談しながら歩くことにする。

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