古戦場を辿るの最近のブログ記事

天目山が武田家終焉の地である、ということは知っていた。が、天目山がどこにあるのか、つい最近まで知らなかった。それがわかったのは数ヶ月前。笹子峠を越えたときのことである。雪の峠を越え、甲斐大和・駒飼の里まで下ってきたとき、山腹に「武田家終焉の地、甲斐大和」と書かれた特大看板が眼に入った。あれ?ひょっとして天目山って、このあたり?チェックする。天目山って、甲斐大和駅から日川渓谷を大菩薩方面に7キロほど上ったところにあった。こんな近いところに、天目山が!
天目山。山とはいうものの、「山」でもないようで、しいていえば峠の名前。甲州市大和町田野にある。場所はJR甲斐大和駅方面から甲州街道を東に進み、笹子峠を貫通する新笹子峠の手前を日川に沿って大菩薩方面へ北東に進んだところにある。もともとは木賊(とくさ)山と呼ばれていたが、峠近くにつくられた棲雲寺の山号が天目山と称されたので、峠も天目山と呼ばれるようになった、とか。
道も車道が走っておりアクセスは容易。日川渓谷に沿って遊歩道もある、ようだ。歴史も自然もまとめて楽しめそう。ならば、行かずばなるまい、と言うことで、笹子峠越えから日を置かず、甲斐大和、へと。




本日のルート;甲斐大和駅>日川渓谷>四郎作古戦場碑>鳥居畑古戦場跡>景徳院>竜門峡入口>土屋惣蔵片手切跡の碑>大蔵沢>天目山栖雲寺>竜門峡遊歩道>甲斐大和駅

甲斐大和駅
中央線で甲斐大和駅に。地名は甲州市大和町初鹿野。平成17年11月1日に塩山市・勝沼町・大和村が合併して甲州市となった。駅のホームは切通しの底。駅舎は切通しに架けた橋の上。駅を離れ国道20号線・甲州街道に出る。
国道を1キロほど進むと景徳院入り口。道はここから国道20号を離れ、県道218号線に。県道は日川(にっかわ)渓谷に沿って上日川峠へと続く。国道との分岐点の標高は660m程度。ゆるやかな坂道を上っていく。
道の左手を見やると、分岐点で離れた国道20号線が新笹子隧道(トンネル)に吸い込まれてゆく。新笹子トンネルが完成したのは昭和32年。33年には有料トンネルとして開通した。このトンネルができるまで、東京方面から山梨へは標高1096mの笹子峠を越えていた。県道があったわけだが、とてものこと幹線道路とは言えない峠道。ために、東京と山梨を結ぶ幹線道路は河口湖方面から御坂峠を越える国道8号線であった、よう。

日川渓谷
道は日川に近づく。日川は大菩薩から南に伸びるふたつの尾根筋に挟まれた渓谷。ひとつは、大菩薩嶺(2057m)―大菩薩峠―小金沢山(2014m)―牛奥ノ雁ガ腹摺山(1985m)―黒岳(1988m)―湯ノ沢峠―大蔵丸(1781m)―米背負峠―大谷ヶ丸(1643m)―大鹿峠―笹子雁ガ腹摺山(1357m)―笹子峠(1096m)とのびる尾根筋。もうひとつは、大菩薩嶺から上日川峠(1590m)―砥山(1607m)―下日川峠―源次郎岳(1477m)―宮宕山(1309m)とのびる尾根筋。つまりは、日川渓谷を上っていけば、大菩薩峠に進む、ということ。
この地を歩くまで、天目山と大菩薩峠はまったく結びつかなかった。それがむすびついたのは、どこだったか、日川沿いの道筋でバス停の案内を見たとき。行き先に「上日川峠」とある。上日川峠、って大菩薩峠に上るロッジ長兵衛があるところ。大菩薩を越えれば奥多摩である。勝頼が何ゆえ、天目山などという山峡の地に進むのかよくわからなかた。武田家ゆかりの地で自刃するため天目山を目指した、との説もあるが、いまひとつ納得できなかった。だが、峠を越え奥多摩・秩父へと脱出するため、天目山から大菩薩峠を目指した、と思えば結構納得。真偽のほどは知らないけれども、自分なりに一件落着、と思い込む。

四郎作(つくり)古戦場碑
国道分岐点から1キロ程度進む。日川に沿った道の脇に石碑がある。立ち寄ると、四郎作(つくり)古戦場碑。武田家の忠臣・小宮山友晴を顕彰するもの。主家存亡の危機に臨み、蟄居の命を破り勝頼のもとに馳せ参じた忠臣。跡部勝資・長坂光堅、秋山摂津守といった武田勝頼の側近、また、穴山梅雪・木曽義昌といった武田御親類衆と相容れず、讒言などもあり勝頼より疎んじられ蟄居させられていた、と。織田方に寝返った穴山梅雪や木曽義昌、一戦も交えず逃亡した武田信廉や武田信豊といった武田御親類衆の動向を見るにつけ、勝頼は己の不明を恥じた、と言う。幕末の儒学者・藤田東湖は、友晴のことを「天晴な男、武士の鑑、国史の精華」と称えている。
四郎作は織田方を迎え撃つための柵といったもの、か。織田方滝川一益の軍勢は数千。対する四郎作を守る小宮山友晴等の武田軍は数名であった。と言う。友晴は奮戦するも衆寡敵せず討死を遂げた。

鳥居畑古戦場
四郎作(つくり)古戦場碑のすぐ先、日川に架かる橋を渡ると道脇に鳥居畑古戦場の碑。天正15年(1582)3月11日、この地で武田家最後の戦いが始まった。とはいうものの、武田方は総勢50数名、そのうち16名は姫や御付の女性であり、戦闘勢力は40名強といったものであったらしい。
古戦場跡は現在、広い車道が通っている。が、昔は渓谷沿いの細路ではあったろうし、いくら軍勢が多くとも一時に大軍勢が攻め込めるわけもなく、少人数でもそれなりに防御はできるだろう。とは言うものの、ものには限度がある。戦いになるとも思えない。この地のすぐそばに勝頼自刃の地があるわけで、主家の最後をまっとうするための時間をつくる、戦いであっただけ、か、とも思える。
それにしても、武田方の人の減り方。これまた、ものには限度がある。天下の武田軍が 50名弱とは。ちょっと推移を振り返る。木曽義昌の謀反を鎮圧すべく諏訪に向かったときの軍勢は1万五千名とも言う。途中で引き返し、新府城に入城。軍議の末、大月の小山田氏の居城・岩殿城への撤退決定。3月3日、新府城を打ち棄て撤退するときには700名に。武田信虎の弟・勝沼友信の娘である理慶尼が庵を構える勝沼の大善寺に一泊し、岩殿城に向かうべく笹子峠に。このときには200名。小山田氏の裏切り。笹子越えは諦め、3月10日、天目山を目指し日川 渓谷に入る。
で、3月11日、日川渓谷田野の地にある鳥居畑の戦いのときには50名弱となっていた。なんだか、なあ。
武田家武将の勝頼離反の理由は良く知らない。長篠の合戦で譜代の重臣を多数失った。ために、重鎮・纏め役がいなくなったのだろう、か。徳川勢の高天神城攻撃に際し、援軍送らず。勝頼頼むに足らず、と威信大いに失墜。これを契機に一門や重臣の造反がはじまった、とも。防御拠点として縄張りを始めた韮崎の新府城築城の是非、また金銭負担に穴山梅雪など家臣の間に不協和音が高まっていた、ことも一因、だろう、か。また、近習・側近の重用も家臣間での諍いの火種でもあった、などなど遠因は想像できるのだが、それにしても、ものには限度がある。なんだか、なあ。

景徳院
鳥居畑古戦場を離れ先に進む。ほどなく景徳院。国道20号線から1.5キロ程度。ここは武田勝頼自刃の地。四郎柵でメモした小宮山友春の弟で僧侶となっていた拈橋が、勝頼と一門をとむらう。で、天正16年(1588年)、家康がこの地に田野寺、現在の景徳院を建立。拈橋をその住持とした。
山門は安永8年(1779年)建立。本堂前に旗堅松。武田家累代の重宝「御旗」を松の根元に立て、勝頼の嫡子「楯無の鎧」を着させて、「かんこうの礼(元服の儀式)」を執り行ったという伝説がある。甲将殿には勝頼、夫人、信勝の影像を祀る。甲将殿の裏に勝頼、夫人、信勝の墓。没200年を期し、安永4年(1775年)に建てられた。
甲将殿前に3名の生害石。自害したと言われる平らな大きい石が残る。勝頼37歳、嫡男信勝16歳、夫人19歳。勝頼の辞世の句;「朧なる月もほのかに雲かすみ晴れて行衛(ゆくゑ)の西の山の端」。信勝は鳥居畑で武運つたなく討ち死に。夫人は小田原北条の出。小田原に戻れとの勝頼の言にも関わらず、勝頼と運命を共にした。
境内には首洗い池が残る、と言う。勝頼の首を洗った池、と。なんとなく行く気になれず、パス。境内を出て、道路に面した駐車場に。駐車場の奥、日川の崖上に姫ケ淵の案内。勝頼の正室・北条夫人の侍女16人が身を投げた淵である、と。

竜門峡入口
寺を離れ天目山栖雲寺を目指す。おおよそ4キロ強といた行程。1キロほど進むと道脇に大和村福祉センター。温泉施設があり、一般の人も歓迎との案内。そこを越えると橋があり、竜門峡入口の案内。橋を渡ると日川渓谷に沿った遊歩道がある。竜門峡散歩は帰り道のお楽しみとして車道を先に進む。

土屋惣蔵片手切跡の碑
ほどなく道脇に土屋惣蔵片手切跡の碑。千人切りの碑、とも。碑の脇に大正時代の写真。いまでこそ、立派な車道ではあるが、大正の頃を狭い崖路。往時は人ひとり通れるかどうか、といった崖路である。この地で武田の家臣・土屋惣蔵は川上から攻めよせる織田軍に対し、片手で藤蔓につかまりながら奮戦。その流された血により川は三日三晩、朱に染まった。「鮮血流れて止まず河水赤きこと三日」との記述が残る。ために川を「三日血川(みっかち)」と呼ぶようになった。後 に、三日(みっか)川となり、現在は「日川(にっかわ・ひかわ)」となった、とか。

大蔵沢
土屋惣蔵片手切跡の碑から道脇のお蕎麦屋などを見やりながら500m弱も進むと大蔵沢。どうもこのあたりで織田方が勝頼主従の行く手を阻んだらしい。一説には、武田を裏切った小山田一党が、勝手知ったるこの地へと織田軍を先導した、とも。
武田を裏切った小山田信茂は、笹子峠や大鹿峠など大菩薩から大月方面へと通じる主な峠を抑え勝頼の進路を阻む。ために、勝頼主従は、田野から日川渓谷を遡り武田家ゆかりの天目山栖雲寺(せいうんじ)に入る。そこから大菩薩峠を越えて多摩秩父方面へ。その後は真田一門を頼って上州に抜けようとした、とも言われる。
いっぽうの織田軍は、小山田軍の先導のもと天目山方面へ進出。大月・小菅方面から湯ノ沢峠や米背負峠(湯ノ沢峠と大谷ケ丸)などの峠を越えて日川の支流・大蔵沢一帯へと進出。天目山へ向かう勝頼一行の逃避行を阻んだ、と。また、勝沼深沢口から栖雲寺を経て大蔵沢方面に進出していたとの説もある。
僅か数十人の落ち武者一向に対し、少々大仰な気もするのだが、ともあれ行く手を阻まれた勝頼一行は日川を戻る。が、川下から攻め上ってきた織田方の滝川一益の軍勢により挟み撃ち。で、鳥居畑で最後の合戦となる。

天目山栖雲寺
大蔵沢を越え、ほどなく橋を渡ると日川渓谷レジャーセンター。バーべキュー、釣堀、キャンピング、バンガローなどアウトオアを楽しむ家族の姿を見やる。先に進むとヘアピンカーブの急坂。上りきったところが天目山トンネル。トンネルを抜けると「やまとふれあいやすらぎセンター」という温泉施設がある。その先に沢。焼山沢。沢を上ると湯の沢峠に進む。沢にかかる橋を渡りしばらく歩くと木賊(とくさ)の集落に。景徳院からおよそ4キロ。天目山栖雲寺はこの集落にある。
天目山栖雲寺。武田氏の招聘により業海本浄が開く。寺号の天目山は、業海本浄が修行した中国の杭州天目山に地形が似ていたから。庫裏は文禄元年(1592年)建立。解体修理が終わり、新しくなっている。
境 内には武田信満の墓と伝えられる宝篋印塔がある。応永23年(1416)上杉氏憲(禅秀)の乱に甲斐守武田信満(禅秀の舅))は氏憲に与し都留郡で戦う。が、武運つたなく、応永24 年(1417年)2月6日天目山にて自害した。宝篋印塔は高さ1m。周囲に家臣の塔が囲んでいる。
このとき、武田は一度滅んだと言われる。ということは、この天目山、勝頼も含めると二度滅んだとも。それと、いろんなところで、勝頼が天目山を目指したのは、先祖の武田信満が自害した、ここ天目山を死地と定めて登ってきた、と書かれている。が、先にメモしたように、どうもそういう気はしない。根拠はないのだけど、この日川をずっと上って行けば大菩薩峠に出るわけで、大菩薩峠から小菅へと歩いたわが身とすれば、なんとなく、天目山への遡行は脱出行であったように思える。なんとなく、である。
庫裏の右手裏山は巨大な花崗岩の庭園。2ヘクタールある、とか。確かになかなか迫力のある巨石が山腹に見える。磨崖仏もある、とか。禅僧が修行したとのことである。
天目山はこの栖雲寺の寺号から、とメモした。それはそうなのだが、栖雲寺の近くに木賊山とか大天嶽とか、大天狗山と呼ばれたりする山がある。その山も天目山 と呼ばれるようだ。寺が先か、山が先か、普通に考えれば寺が先なのだろから、やはり天目山ってお寺、から、と思い込む。

竜門峡遊歩道
寺を離れ県道に戻る。道を上り、そのまま上日川峠まで進みたいとは思うのだが、距離をチェックすると13キロほどもある。即中止。予定通り、竜門峡へと下ることに。このあたり、天目地区から田野地区にかけての日川渓谷を竜門峡と呼ぶ。看板でチェックした、「竜門峡遊歩道天目地区入口」を探す。天目山栖雲寺を少し戻ったあたりの道脇に案内がある。
急な下りを一気に下りる。栖雲寺のあたりの標高が1030mほど。川沿いは960mであるので、比高差70m程度。渓谷沿いに遊歩道、と言うより、山道と言ったほうがいい、かも。あたりは花崗岩の巨石がゴロゴロ。栖雲寺の巨石も、このあたりの巨石群を見れば、あって当たり前、といった雰囲気。
渓谷に蜘蛛淵。花崗岩の谷に多い、巨石で埋められた淵といったもの。道を進むと「木賊の石割けやき」。転げ落ちてきた花崗閃緑岩が二つに割れ、その間からけやきが伸びている。その先にで「平戸の石門」をくぐる。これも転げ落ちてきた巨大礫であろう。
休憩舎のあたりで日川を対岸に渡り、ゆるやかな傾斜となった遊歩道を進む。秋の紅葉はさぞ美しいであろうな、などと思いながら進むと、今度は竹林が現れる。 天鼓林、炭焼窯跡、そして東電取水口などを経て竜門峡入口に戻る。2キロ強。標高810m程度であるので、比高差200mほど下ってきた。あとは上ってきた同じ道を甲斐大和駅まで戻り、本日の散歩終了。    

会津若松を歩く

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飯盛山から鶴ケ城に
会津若松の大学に行く事に成った。アポイントは金曜日。どうせのことなら、ということで一泊し、会津若松を歩く。今までに何度か通り過ぎたことはあったのだが、市内見物ははじめて。飯盛山とか鶴ヶ城とか、戊辰戦争の旧跡を訪ねる事にする。
土曜の午前10時前、ホテルをチェックアウト。荷物を預け、駅の観光案内所に。地図を手に入れ、ルート検討。駅から東2キロ弱のところに飯盛山。そこから南に2キロほどのところに西軍砲陣跡のマーク。お城を見下ろす小山にあるのだろう。そして、その西、1キロ強のところに鶴ヶ城。で、それから街中の旧跡を巡り北へと駅に戻る。会津若松の市街をぐるっと一周するといったルート。15キロ弱といったところ。これなら午後3時4分発の列車に乗れそう。ウォーキンング仕様とはいうものの、足元はビジネスシューズ。ぬかるみの道などないようにと祈りながら、散歩に出かける。



本日のルート;JR磐梯西線・会津若松駅>飯盛山>白虎隊自刃の地>郡上藩凌霜隊之碑>宇賀神社>さざえ堂>厳島神社>戸ノ口堰洞窟>滝沢本陣跡>白河街道>戸ノ口堰>近藤勇の墓>会津武家屋敷>湯川・黒川>西軍砲陣跡>会津若松城>茶室麟閣>JR会津若松駅

JR磐梯西線・会津若松駅
駅から飯盛山に向かう。道は東にほぼ一直線。白虎通りと呼ばれている。歩きながら、なんともいえない、捉えどころのない「広がり感」が気になる。会津盆地という地形からくるのだろう、か。実際、グーグルマップの航空写真モードでチェックすると、猪苗代湖の西に周囲を緑に囲まれた盆地がぽっかりと広がる。北は喜多方方面まで含む大きな盆地である。
が、なんとなく感じる「広がり感」は、どうもそういったものでもない。広がり感と言うよりも、収斂感の無さ、といったほうが正確かもしれない。広い平地の中に、広い道路が真っすぐ走る。建物もそれほど高いものは無く、また、古い街並といった趣もそれほど、無い。会津戦争で市街地が壊滅したからなのだろう、か。また、敗戦後、青森の斗南藩に移封され、市街地の迅速な回復がなされなかったから、なのだろうか。勝手に想像するだけで、何の根拠があるわけではないのだが、今まであまり感じた事のなかった街のフラット感が至極気になった。

飯盛山

駅から1キロ強進み、会津大学短期大学部を過ぎる辺りになると前方に小高い山。背面もすべて山ではあるが、その山の中腹に建物らしきものも見える。こんもりとした小山。飯盛山の名前の由来は、お椀にご飯を盛ったような形から、と言う説もあるので、多分、飯盛山であろう。さらに近づくと、石段が続く。間違いなし。標高300m強の山である。
石段を上る。両側にお店。如何にも年期のはいった雰囲気。朝から何も食べていないので、何か口に入れたいのだが、ちょっとご遠慮差し上げたい店構え、ではある。
石段を上ったところは広場になっている。正面左手の奥には白虎隊の隊士のお墓。その手前には、会津藩殉難烈婦の碑。会津戦争で自刃、またはなくなった婦女子200余名をとむらうもの。山川健次郎さんなどが中心になり建てられた。山川氏は東大総長などを歴任。兄の山川大蔵(浩)ともども魅力的人物。山川大蔵(浩)は如何にも格好いい。『獅子の棲む国:秋山香乃(文芸社)』に詳しい。
お参りをすませ広場右手に。なんとなく不釣り合いなモニュメント。ローマ神殿の柱のよう。イタリア大使からの贈り物。その手前にはドイツ大使からの記念碑。どちらも戦前のもの。第二次大戦前の日独伊三国同盟の絡みではあろう。戦意高揚、というか、尚武の心の涵養には白虎隊精神が有難かったのであろう、か。ちなみに、ローマの円柱に刻まれた文字は、終戦後、占領軍によって削除されたが、現在は修復されている。


白虎隊自刃の地
広場からの見晴らしは、正面である西方向と北側は木々が邪魔し、それほどよくない。一方、南方向は開けており、会津の街並が見渡せる。開けている方向に進むと「白虎隊自刃の地」への案内。崖一面に墓石が広がる。石段を少しおりて進むと、すぐに「白虎隊自刃の地」。この地で炎上する鶴ヶ城を目にし、もはやこれまでと自刃した、と。お城の緑、そしてその中に天守閣が見える。とはいうものの、直線距離で2キロ弱。市街地の炎上・黒煙をお城の炎上と見間違えてもおかしくはない。
ところでこの自刃の地であるが、想像とは少し違っていた。世に伝わる「白虎隊自刃の図」では、松の繁る崖端が描かれており、墓など何もない。墓地の真ん中とは予想外である。墓石を見ても結構古そうではあるので、それ以前からお墓があったようにも思うのだが、明治以降に墓地となったのだろう、か。何となくしっくりしない。

郡上藩凌霜隊之碑

しばらく眼下の街並を眺め、元の広場へと戻る。途中に、飯沼貞夫氏のお墓。白虎隊ただ一人の生き残り。白虎隊のことはこの飯沼さんの証言により世に知られるようになった。更に進むと道端に「郡上藩凌霜隊之碑」。時勢に抗い新政府軍と戦った人物として上総請西藩主林忠崇、井庭八郎などが記憶に残っていたが、郡上藩と会津藩の関わりは忘れてしまっていたようだ。『遊撃隊始末;中村彰彦(文春文庫)』など読み直してみよう。
で、郡上藩凌霜隊についてチェックする。と、時代に翻弄された幕末小藩の姿が現れた。郡上藩青山家は徳川恩顧の大名。とはいうものの、官軍か佐幕か、どちらにつけばいいものやら趨勢定かならず。ために、表向きは新政府に忠誠を尽くすそぶりをしながら、江戸詰めの藩士を脱藩させ会津に派遣。それが、凌霜隊。万が一の保険のためである。が、結局は新政府の勝利。 凌霜隊は郡上藩から見捨てられた。投獄の後解き放たれた隊士は、その冷たい仕打ちに嫌気をさし、郡上に残る事はなかった、と。

宇賀神社
石段脇の「女坂」を下る。如何にも風雪に耐えてきた、といった土産物店。石段脇に並んでいた土産物屋もそうだが、この飯盛山って、それほど観光客が来ないのだろうか。なんとなく、儲かってそうに、ない。
土産物屋の前に宇賀神社。17世紀の中頃の元禄期、会津藩3代目藩主松平正容公が弁財天像と共に、五穀の神、宇賀神をも奉納。宇賀神は中世以来の民間信仰の神様。神名は日本神話に登場する宇迦之御魂神(うかのみたま)から。
で、宇迦之御魂神(うかのみたま)って、お稲荷さまのこと。五穀豊穣を祈るこの民間信仰が仏教の教義に組み込まれる。仏教を民間に普及する戦略でもあったのだろう。結果、仏教の神である弁財天に習合し宇賀弁財天と。飯盛山は元々は弁天山とも呼ばれていた。神仏習合の修験の地でもあったのだろう。宇賀神社がおまつりされている所以など大いに納得。

さざえ堂

土産物屋の横にさざえ堂。確かに栄螺(さざえ)のような形をしている。内部は螺旋の 階段がある,と言う。いつかテレビでも紹介されていたし、なによりもチケット売り場のおばさんの口上に急かされ少々のお金を払い木製の螺旋階段を上る。上りが、あら不思議、いつの間にか下りとなる、との宣伝文句。果たして、と先に進む。ほどなく最上部。そこには下りに導くリードがある。いつの間にか、という感じではないけれど、下りは上りとは別の螺旋階段となっていた。
このさざえ堂は、さきほどの宇賀神などとともに神仏習合のお堂であった、とか。観音様が祀られていたが、明治の廃仏毀釈で仏様を取り除いた、という。現在は、国の重要文化財とのことではあるが、建物を護るトタン板ならぬビニールの覆いが少々興ざめではある。

厳島神社

さざえ堂の下に厳島神社。厳島=水の神様、と言われるように周囲に豊かな用水が流れる。厳島神社となったのは明治から。そもそも「神社」という呼称が使われ始めたのは神仏分離令ができた明治になってから。この厳島神社もそれ以前は宗像社と呼ばれていた。祭神は宗像三女神のひとり、市杵島姫命。杵島姫命は神仏習合で弁財天に習合。先ほどの宇賀神共々、弁天様のオンパレード。ここまで弁天が集まれば、飯盛山が弁天山と呼ばれていたことに全く違和感はない。
社殿が建てられたのは14世紀後半、蘆名義盛公の頃。その後、会津藩主松平正容公が神像と土地を寄進。この地を飯森山と呼び始めたもの、その頃のようである。

戸ノ口堰洞窟

厳島神社脇を流れる水路を辿ると、岩山の崖下に掘られた洞窟から水が流れ出していた。これは戸ノ口堰(用水)。今から400年前、17世紀前半の元和年間に猪苗代湖の水を引くため用水を起工し17世紀後半の元禄期まで工事が続けられた。飯盛山の西、7キロのところにある戸ノ口から水を引き、会津若松までの通水を計画。ために戸ノ口堰と呼ばれる。猪苗代湖の水面の標高は500mほど。この会津若松の標高は180mほど。間には山地が連なる。水路は山間を縫い、沢を越え、うねりながら、延々と30キロ以上も続き飯盛山のこの洞窟に至る。
この用水は、もともとは飯盛山の山裾を通していた、が、土砂崩れなどもあり、飯盛山の山腹を150mほど穴をあけることになる。使用人夫5万5千人、3年の歳月を費やして完成。これが戸ノ口堰洞窟である。
で、この洞窟、白虎隊が戸ノ口原での合戦に破れ、お城に引き返すときに敵の追撃を逃れるために通り抜けてきた、と言う。二本松城を落とし、母成峠の会津軍防御ラインを突破し、猪苗代城を攻略し、会津の城下に向けて殺到する新政府軍。猪苗代湖から流れ出す唯一の川である日橋川、その橋に架かる十六橋を落とし防御線を確保しようとする会津軍。が、新政府軍のスピードに間に合わず、防御ラインを日橋川西岸の戸ノ口原に設ける。援軍要請するも、城下には老人と子どもだけ。ということで、白虎隊が戸ノ口原に派遣されたわけではあるが、武運つたなく、ということで、このお山に逃れてきた、ということである。

滝沢本陣跡

飯盛山を下り、飯盛山通りを少し北に滝沢交差点。あと1キロ強行けば大塚山古墳。4世紀後半の大和朝廷と関係の深い人物を祀るということで、ちょっと興味はあるのだが、なにせ時間がない。今回はパスして旧滝沢本陣に向かう。
滝沢交差点からほんの少し山側に歩くと滝沢本陣跡。茅葺き屋根の趣のある建物。家の前を西に滝沢峠に向かって続く道があるが、これが白河街道。会津と白河を結ぶ主街道。ために、参勤交代とか、領内巡視の折など、ちょっと休憩するためにこの本陣が設けられた。
会津戦争の時は戸ノ口の合戦で奮闘する兵士を激励するために藩主・松平容保がここを本陣とする。で、護衛の任にあたったのが白虎隊。戸ノ口原の合戦への援軍要請に勇躍出撃したのはこの本陣からである。

白河街道

山に向かって車道を進む。地図と見ると滝沢峠に続く古道がある。これって会津と白河を結ぶ白河街道。白虎隊もこの道を進み、滝沢峠を越え、戸ノ口原の合戦の地に出向いた、と言う。時間がないので峠まで行くことは出来ないが、古道の入口あたりまで行くことにする。
車道が大きく迂回するところを、そのまま山方向に向かって小径を進む。なんとなく成り行きで進み、小さな川に当たるところから如何にも峠道といった雰囲気の道筋がある。道脇に「旧滝沢峠(白河街道)」の案内があった。
白河街道は、もともとはこの道筋ではない。もう少し南、会津の奥座敷などと呼ばれている東山温泉のあたりから背あぶり山を経て猪苗代湖方面に抜けていた。15世紀の中頃、当時の会津領主である蘆名盛氏がひらいたもの。豊臣秀吉の会津下向の時も、また秀吉により会津藩主に命じられた蒲生氏郷が会津に入る時通ったのは、こちらの道筋。
滝沢峠の道が開かれたのは17世紀の前半。1627年に会津入府した加藤嘉明は急峻な背あぶり山を嫌い、滝沢峠の道を開き、それを白河街道とした、と言う。加藤嘉明は伊予の松山から移ってきた。愛媛出身の我が身としては、なんとなく身近に感じる。

戸ノ口堰
峠に進む上り道をしばらく眺め、歩いてみたいとは思うのだが、何せ戸ノ口原までは7キロほどあるようだし、ちょっと無理だろう、などと自問自答し、元に戻ることに。少々心残り。道の途中、先ほど交差した川、これってひょっとすると戸ノ口堰、というか戸ノ口用水の水路ではなかろう、か。この流れが飯盛山の山腹に進み、戸ノ口堰洞窟へとながれこむのであろう。入口まで歩いてみたいとは思うのだが、時間が心配でパス。これも少々心残り。次回会津に仕事で来たときに、この峠道のあたりを歩いてみよう。
ちなみに、このあたり、駅でもらった地図に「(滝沢)坂下」と書いてある。この地名をどう読むのか定かではないが、(会津)坂下という地名は「ばんげ」と読む。「バッケ」から来たらしい。「バッケ」って東京近郊での「ハケ」のこと。国分寺崖線にそって続く「ハケの道」で言うところの「崖下」である。確かにこのあたりも崖下に違い、ない。

近藤勇の墓

飯盛山通りに戻る。山裾の道を南に進む。市街より少し小高い道筋となっている。2キロ弱進むと大龍寺。門前の畑の柿の木に惹かれる。こういったのどかな風景に柿の木は、如何にも、いい。
大龍寺を越え、このあたりまで続く戸ノ口堰の流れと交差し、しばらくすると道ばたに「会津の歴史を訪ねる道」の案内。新撰組の近藤勇、会津藩家老である萱野権兵衛、そしてその息子である郡長正の墓がある。と言う。ちょっと山道を迂回することに。
アプローチは200段弱の愛宕神社の石段。少し気が思いのだが、それよりなにより、愛宕神社から続く山麓の道が心配である。ビジネスシューズが汚れない程度の山道であることを祈りながら、とりあえず進む。
愛宕神社でお参りをすませ、山道を進む。それほどのぬかるみは無く、ちょっと安心。ほどなく近藤勇の墓。宇都宮から会津に逃れ、会津藩主・松平容保に拝謁し、近藤の死を知った土方歳三がこのお墓をたてた、と。近藤勇のお墓って、散歩の時々に顔を表す。板橋の駅前にもあったし、三鷹の竜源寺にも祀られていた。
山麓の道から天寧寺裏手に下りる。途中、萱野権兵衛、そしてその息子である郡長正の墓の案内。萱野権兵衛は会津戦争の時に国老の主席として籠城戦を万端指揮した。降伏の際は、藩主・松平容保とともに、降伏文書に署名。戦後は、戦争責任をすべて引き受け、切腹を命じられた。まことに魅力的な人物。ちょっとお参りもしたいのだが、再び山麓に少し上っていく。 ぬかるみが気になり、今回は見送る。

会津武家屋敷
天寧寺の境内を抜け、飯盛山通りに戻る。少し進むと東山街道と交差。奴郎ケ前交差点を左に折れるとすぐに会津武家屋敷。なんとなく最近移築、建築したような。チェックすると家老西郷頼母の屋敷を中心に復元されたもの、と。
西郷頼母って藩主の京都守護職に反対し藩主の不興を買っている。また、戊辰戦争では白河口の戦線には参加するも、二本松口の母成峠が破られて以降は和議恭順のスタンスであり、徹底抗戦派に命を狙われていた、とか。ために会津を去り、榎本武揚、土方歳三と合流し函館で戦った。合気道をよくし、息子の四郎に技を伝授。「山嵐」という大技は、姿三四郎のモデルとなった、とか。
会津武家屋敷には今ひとつ気が乗らず立寄をパス。時間もなかったし、ないより入場料が850円というのは少々高い、かも。次の目的地、西軍砲陣跡に向かう。

湯川・黒川
東山街道を隔てて南西方向に小高い山が見える。多分その山の中腹に砲陣跡があるのだろう。地図でチェックすると、東山街道を少し南に進んだところから、その小山方向に進む小径がある。成り行きで行けばなんとかなるだろうと先に進む。
道脇にある鶴井筒という会津料理の店のところから東山街道を離れる。この鶴井筒、明治の創業という趣のある建築物であった。ともあれ、右に折れ、田舎道を進むと山の手前に川が流れる。この川は湯川。猪苗代湖の南西端の布引山が源流のこの川はもとは黒川と呼ばれていた。湯川は、近くの東山温泉に由来するのだろう。
会津若松は黒川(湯川)が会津盆地に流れ出し、阿賀川に合流するまでの扇状地に造られた。ために、往時この会津の地は黒川と呼ばれており、前述の蘆名氏が築いた城も黒川城と呼ばれていた。黒川が若松となったのは蒲生氏郷が移ってきてから。蒲生氏の生まれ故郷にあった「若松の杜」に由来する、と。ちなみに、会津の由来って、古事記によれば、神々が湿地帯(津)であったこの地で合流したから、とか、安曇族に由来するとか、例によって諸説あり。ちなみに、阿賀、吾妻、安積(あさか)、安達、といった地名は安曇族に由来する。
ついでのことながら、この地が会津若松市となったのは、昭和30年。それまでは若松市。明治32年に福島県で最初の市となった。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

西軍砲陣跡
黒川に架かる橋を渡り、山裾の小径を進む。ほどなく、山裾から少し離れ、開けた田舎道を柿の木を眺めながら進む。道なりに進むと、再び山裾に接近。小山田公園への入口の案内。200m程度の小山である。木立の中、ゆるやかな坂道をのぼってゆく。途中、蘆名家壽山廟跡や観音堂跡といった案内がある。この山には蘆名氏の城であった小山田城がある。黒川城(会津若松城)が主城に移るまで、この地に館を構えていたのであろう、か。
少し進むと見晴らしのいい場所が現れる。そこに西軍砲陣跡。確かにお城が眼下に見渡せる。距離は1.5キロ程度。ここから砲弾を撃ち込むには、着弾地の調整も容易だし、会津方としては万事休す、であろう。
西軍砲陣跡しばしお城を眺め、下山。西軍砲陣跡から少し戻ったところに、「柴五郎の墓」の案内。会津人として最初の陸軍大将になった人物。なんとなく気にかかる軍人でもあるので、お参りのために脇道に入る。山道を足元を気にしながら少し下るとお墓があった。おまいりを済ませ墓石の中、山道を下る。成り行きで下り、恵倫寺の境内に出る。次の目的地はお城である。

会津若松城

恵倫寺を離れ、小田橋通りに出る。ちょっと北に湯川に架かる橋名から来ている。蘆名氏が最初に構えた館の名前が、小高木館とか小田垣館と呼ばれたようであるので、昔、この辺りは小田と呼ばれていたのだろう、か。
小田橋通りを越え、湯川に向かって成り行きで進む。地名は天神町。天神様でもあるのだろうと思っていると、川の近くにつつましい天神様があった。お参りを済ませ、湯川に架かる天神橋を渡ると鶴ヶ城南口。湯川というか黒川はお城を囲む外堀でもあったのだろう。
南口からお城を進む。土塁を抜け先に進むと大きな濠と立派な石垣が見えてきた。大きな構えのお城である。濠からの眺めを楽しみながら、壕と本丸を結ぶ廊下橋を渡る。石垣の間の道が直角に曲がっている。敵の進撃を防ぐためのものであろう。中世の山城では虎口と呼ばれていた、もの。
大きな石垣に沿って進む。弓矢の時代には攻めるのは大変であったろう。が、砲弾を打ち込まれては、どうにもならない。先ほど西軍砲陣を見ただけに、その思いは一層強い。
本丸には天守閣。お城は戊辰戦争で破壊され、現在の天守閣は昭和40年頃に再建されたもの。立派な天守閣ではあるが、時間もないので表から眺める、のみ。このお城、元々は蘆名氏により黒川城として造られた。その後、蒲生氏郷により本格的に普請される。天守閣もこの頃造られたようだ。大大名にふさわしい城下町も整備され、お城の名前も黒川城から鶴ケ城に。蒲生氏郷の幼名に由来する、と。蒲生氏の後は越後から上杉景勝が移る。120万石の大大名である。が、関ヶ原の合戦で西軍に与し合戦に敗れた上杉氏は30万石に減封され、山県の米沢に移る。
上杉に替わり蒲生氏が一時この地に移る。が、すぐに伊予の松山に移封され、替わりに伊予松山の藩主加藤嘉明が入封。で、加藤氏が改易された後にこの地に入ったのが名君の誉れ高い保科正之。家光の庶弟。出羽山形から移ってきた。保科から会津松平と名前は変わったが、明治維新まで藩主としてこの地を治める。戊辰戦争の時の松平容保公も保科の流れである。保科正之については『名君の碑;中村彰彦(文春文庫)』に詳しい。

茶室麟閣
本丸跡の広場をぶらぶら歩いていると趣のある建物があった。蒲生氏郷が千利休の子・少庵のために建てた茶室。千利休が秀吉の悋気に触れ、切腹を命じられたとき、氏郷が少庵をこの地に匿った、とか。戊辰戦争の後、移築されていたが、平成2年、ここに戻された。

JR会津若松駅

そろそろ列車の時間が迫ってきた。とっとと駅に向かう。本丸から北出丸を抜け、城を出る。北出丸大通りのお城近くに西郷頼母の屋敷跡。屋敷は先ほどの会津武家屋敷の地に移されているが、ここで母や妻子21名が自刃。合掌。
北出丸通りを北に進み、栄町あたりで適当に道を折れ、市役所近くを北に進み蒲生氏郷のお墓のある興徳寺に。つつましやかなお墓にお参りし、野口英世青春通りに進む。如何にも城下町の道といった直角に曲がる道を折れて野口英世青春通りを進む。野口英世が青春を過ごし、初恋の人に出合ったという場所などをさらっと眺め、西軍の戦死者をまつる西軍墓地をお参りし、駅に戻り、本日の予定終了。軽くメモするつもりが、結構長くなってしまった。歴史のある街をメモするのだから、仕方がない、か。 


先回のメモでは、倶利伽羅合戦前夜までのメモで終わった。今回は両軍が戦端をひらくあたりからメモをはじめる。(水曜日, 11月 29, 2006のブログを修正)


より大きな地図で 倶梨伽羅峠 を表示

本日のルート;JR石動駅>埴生・護国神社>伽羅源平の郷 埴生口>医王院>若宮古墳>旧北陸道>たるみ茶屋>峠茶屋>源氏ケ峯>矢立堂>矢立山>万葉歌碑>猿ケ馬場>芭蕉句碑>火牛の碑>倶利伽羅不動>手向神社>JR倶利伽羅駅


平氏の本陣は猿ケ馬場
先回のメモで、峠の隘路を押さえるべく、源氏方先遣隊・仁科党が源氏の白旗を立て、主力軍が布陣済みとの偽装した、と書いた。平氏の主力は11日朝、倶利伽羅峠に到着。が、山麓に翻る白旗を見て偽装を信じ、進軍を止め、倶利伽羅、国見、猿ケ馬場付近に陣を敷く。前線は「源氏ケ峰」より「党の橋」を経て、北の「埴生大池付近」に渡って布陣。「猿ケ馬場」の本陣跡に軍略図があった。それによると、中央に三位中将・維盛。軍議席、維盛に向かって右側に薩摩守忠度・上総判官忠綱・高橋判官長綱、向かって左側に左馬守行盛・越中権頭範高、河内判官季国が陣取る。「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)  

薩摩守忠度

ちょっと脱線。薩摩守忠度って熊野散歩のときメモした。魅力的武将であった。が、倶利伽羅合戦で名がでることはないようだ。合戦の後日談として、平氏西走の途中、忠度は京都に引き返し、藤原俊成に歌を託し、「勅撰集がつくられる時には一首だけでも加えてほしい」とたのんだ逸話が残る。「さざなみや 志賀の都はあれにしを 昔ながらの山桜かな」。この歌が詠み人知らずとして、千載和歌集におさめられたのは周知のこと、か。

源氏の前線は矢立山
平氏の陣立ては上でメモした。一方、源氏の前線は「矢立山」。源平軍、数百メートルを隔てて相対陣。小競り合いはあるものの、戦端は開かない。源氏側は夜戦・夜襲の準備を整えていたわけだ。
陣立ては以下のとおり;「源氏ケ峰」方面には根井戸小弥太、巴御前の軍が対峙。「猿ケ馬場」方面には今井兼平軍。「塔の端・猿ケ馬場」の側面には義仲軍、「埴生大池」方面への迂回隊は余田次郎が。そして、樋口兼光率いる部隊は現在の北陸本線の北を大きく迂回し、竹橋に至り平家軍の背後に回りこんだ。

源氏方の夜襲により戦端が開かれる
長旅の行軍と数度の小競り合いに疲れた平氏が夜半になり少々の気の緩み。甲冑を脱ぎ、鎧袖を枕にまどろむ。午後10時を過ぎる頃、竹橋に迂回した樋口隊が太鼓、法螺貝を鳴らし「ときの声」とともに平氏の背面より夜襲。機をいつにして正面の今井軍、迂回隊の余田軍、左翼の巴・根井戸軍の一斉攻撃開始。三方、しかも背後からの攻撃を受けた平氏軍は大混乱。

義仲は数百の「火牛」により平氏を攻めたてた
このとき、義仲は数百の「火牛」により平氏を攻めたてた、という。が、真偽の程定かならず。中国の故事に同様の戦術があるので、それを「盗作」したのでは、とも。「火牛」がいなくても、三方から奇襲され、逃れる一方向は「深い谷」。折り重なって谷筋へと逃れたのであろう。で、あまりに平氏の犠牲が大きく、この谷を後世「地獄谷」と呼ぶようになった。こうして砺波山一帯は源氏が確保。平氏は「藤又越え」、というから倶利伽羅峠の南西方向の尾根を越え加賀に敗走した。以上が倶利伽羅合戦の概要である。

巴御前
ちょっと脱線。巴御前ってよく話しに聞く。木曽義仲の妻。女武者振りが有名である。巴は義仲を助けた中原兼遠の娘、とか。樋口兼光・今井兼平の妹でもある。倶利伽羅合戦では左翼に一部隊を率いて勝利に貢献。その後、義仲が源範家・義経の率いる追討軍に敗れた後は、頼朝に捕らえられ和田義盛と再婚。
頼朝亡き後、和田義盛は北条打倒の陰謀に加担したとの嫌疑。北条義時の仕掛けた謀略とも言われるが、挙兵するも敗れる。巴は出家し越中に赴いた、と伝えられている。
今回の散歩では行かなかったのだが、旧北陸道から少し南に入ったところに「巴塚」がある。ここでなくなったわけではないが、陣立てからしてこの方面から倶利伽羅峠に攻め入ったのであろう。碑文:「巴は義仲に従ひ源平砺波山の戦の部将となる。晩年尼となり越中に来り九十一歳にて死す」、と。

猿ケ馬場を歩く

源平散歩に戻る。平家本陣となった「猿ケ馬場」には多くの記念物が残る。大きな石板は平氏軍議に使われたもの。石板を囲む席次は先ほどメモしたとおり。源平盛衰記に記された有名な「火牛の計」をイメージした牛の像も。この「火牛の計」、ネタ元は中国の史記に描かれた「田単の奇策」とも。もっとも田単のケースは、角に刃、尻尾に火のついた葦をくっつけて牛を追い立てた、とか。
源平供養の塔。近くに源氏太鼓保存会寄贈の「蟹谷次郎由緒之地」の碑。合戦に勝利した源氏軍は酒宴を張り、乱舞しながら太鼓を打ちならした。この「勝鬨太鼓」が源氏太鼓として伝承された、と。蟹谷次郎は源氏軍左翼根井小弥太軍の道案内をつとめた越中の在地武士。
「為盛塚」。平氏の勇将・平為盛を供養するため鎌倉時代にまつられたもの。倶利伽羅合戦に破れ敗走する平氏軍にあり、源氏に一矢を報いんと五十騎の手勢を引き連れて逆襲。樋口兼光に捕らえられあえなく討ち取られたという。
芭蕉の碑。「義仲の寝覚めの山か月かなし」。俳聖松尾芭蕉がはるばる奥の細道を弟子の曽良と共にこの地を通ったのは、元禄二年七月十五日のこと。が、この歌自体は芭蕉が敦賀に入った時に詠んだもの、とか。
「聞くならく 昔 源氏と平氏」からはじまる、砺波山を歌った木下順庵の詩も。順庵は江戸時代の館学者。藤原惺窩の門下。加賀藩の侍講をつとめ、のちに将軍綱吉に召され幕府の儒官に。人材育成につとめ、新井白石・室鳩巣といった人材を輩出した。

倶利伽羅公園
先に進むと倶利伽羅公園。この倶利伽羅峠の頂上付近には、7000本近くのの桜がある。高岡市の高木さんご夫妻が長い年月をかけて植樹したもの。「昭和の花咲爺さん」とも呼ばれる。

倶利伽羅不動

倶利伽羅不動。日本三不動の一尊と言われる倶利迦羅不動尊の本尊は、718年(養老2年)、というから今から1300年前、元正天皇の勅願によりインドの高僧・善無畏三蔵法師がこの地で国家安穏を祈願した折、不動ヶ池より黒龍が昇天する姿をそのままに刻んだ仏様をつくったのがはじまり。
前回の散歩でメモしたように、倶利伽羅不動尊って、サンスクリット語で「剣に黒龍の巻き付いた不動尊」の意味。黒龍が昇天する姿が、倶利伽羅不動、そのものであったのだろう。

手向神社
お不動さんの隣に手向神社。ここはもと長楽寺跡。倶利伽羅不動明王や弘法大師がこの寺にとどまり七堂伽藍を建て布教をおこなった。が、倶利伽羅合戦の折、兵火にあい焼失。その後頼朝の寄進により再興。慶長年間(1596年から1615年)には加賀藩の祈祷所となり、堂宇の復興が続けられる。天保7年(1836年)山門・不動堂が再び焼失。再建されないまま明治維新を迎え、神仏分離により長楽寺を廃し手向神社となった。
『万葉集』に大伴池主が 大伴家持から贈られた別離の歌に答えて贈った長歌の中に、「刀奈美夜麻 多牟氣能可味个 奴佐麻都里」(となみやま たむけのかみに ぬさまつり)と手向の神が詠まれている。そのあたりも名前の由来、かも。倶利伽羅不動、手向神社を離れる。あとは、麓のJR倶利伽羅駅に向かってのんびりと下り、倶利伽羅峠散歩を終える。

倶利伽羅合戦後の源平両軍の動向
倶利伽羅合戦後の源平両軍のメモ;能登方面、源氏・源行家隊と対峙した平氏・志雄 山支隊は形勢有利であった。が、主力が倶利伽羅峠で大敗の報に接し、退却。大野・金石付近、というから現在の金沢市の北端・日本海に面する金沢港付近で敗退してきた平氏・本隊に合流し源氏軍に対峙する。
源氏軍は源行家の志雄山支隊と石川郡北広岡村、というから現在の石川軍野々市町か白山市あたりで合流し平氏軍に対する。小競り合いの末、平氏軍は破れ、安宅の関あたりまで退却。そして、加賀市篠原の地における「篠原の合戦」を迎えることになる。平家方は畠山庄司重能、小山田別当有重兄弟を正面に布陣。対するは今井兼平。辛くも今井方の勝利。次いで、平氏の将・高橋判官長綱と樋口兼光軍との戦い。戦意の乏しい高橋軍、戦うことなく撤退。平氏の将・武蔵三郎左衛門有国と仁科軍が応戦。有国おおいに武勇を発揮するも敗れる。

斉藤別当実盛

平家軍の敗色濃厚な6月1日、平家方よりただ一騎進む武者。源氏・手塚太郎光盛との一騎打ち。平家方の武者、あえなく討ち死に。この武者が斉藤別当実盛。義仲が幼少の頃、悪源太・源義平から命を救ってくれた大恩人。義仲は恩人のなきがらに、大いに泪す、と。
ちなみに、老武者と侮られることを嫌い、白髪を黒く染め合戦に臨んだ実盛の話はあまりに有名。倶利伽羅峠散歩の前日、車で訪れた「首洗池(加賀市手塚町)」は、実盛の首を洗い、黒髪が白髪に変わった池。ここには芭蕉の句碑。「むざんなや兜の下のきりぎりす」。
きりぎりす、とは直接関係ないのだが、実盛にまつわる伝承;実盛は稲の切り株に足を取られて不覚をとった。以来実盛の霊はイナゴなどの害虫となって農民を悩ました。で、西日本の虫送りの行事では実盛の霊も供養されてきた、と。もっとも、田植の後におこなわれる神事である「サナボリ」が訛った、といった説もあり真偽の程定かならず。

実盛塚(加賀市篠原)

前日には「実盛塚(加賀市篠原)」にも足を運んだ。実盛のなきがらをとむらったところ、と伝えられる。見事な老松が塚を覆う。「鏡の池(加賀市深田町)」は髪を染めるときに使った鏡を沈めた、と伝えられる。実盛が付けていた実際の兜は小松市の多太神社の宝物館に保管をされている、と。前日レンタカーで訪れたが、夕暮れ時間切れではあった。
斉藤実盛のメモ;武蔵国幡羅郡長井庄が本拠地。長井別当とも呼ばれる。義仲のメモできしたように、当時の武蔵は相模を本拠地とする源義朝と、上野国に進出してきたその弟・義賢という両勢力の間にあり、政情不安。実盛は最初は義朝に、のちに義賢に組する。義朝の子・悪源太義平が義賢を急襲し討ち取る。実盛は義朝・義平の幕下に。が、義賢への忠義の念より、義賢の遺児・駒王丸を畠山重能より預かり、信濃に逃す。この駒王丸が木曽義仲である。
その後、保元の乱、平治の乱では義朝とともに上洛。義朝が破れたあとは、武蔵に戻り、平家に仕えることになる。義朝の子・頼朝の挙兵。しかし実盛は平氏方にとどまり、富士川の合戦、北陸への北征に従軍。倶利伽羅合戦を経て、篠原の合戦で討ち死にする。
畠山重能・小山田別当有重兄弟のメモ

ついでに畠山重能・小山田別当有重兄弟のメモ:

秩父平氏の流である秩父一族。重能の代に男衾郡畠山(現在の埼玉県大里郡川本町)の地に移り、畠山と号する。 鎌倉武将の華・畠山重忠の父でもある。源義朝の長男・義平に駒王丸こと義仲の命を発つよう命ぜられるが、不憫に思い斉藤別当実盛に託し、その命を救ったたことは既に述べたとおり。
両兄弟のもつ軍事力は強力であった、とか。保元の乱(1156年)において、源義朝と平清盛の連合軍に敗れた源為義が、為義の長男である源義朝の情けにすがって降服を、と考えたとき、為義の八男・為朝が「坂東下り、畠山重能・小山田別当有重兄弟を味方に再起を図るべし」と 諌めたほど。
平治の乱(1159年)に源義朝が平氏に破れ、源氏の命脈が衰えたのちは平氏に仕え、篠原の合戦に至る。平氏敗走。都落ちの際、既に 頼朝の重臣となっていた畠山重忠の係累ということで、首を切られるところを平知盛の進言を受けた平宗盛に許され東国下行を許される。兄弟は平氏とともに西 国行きを望むが許されず、泪ながらに東国に下った、と。
この小山田氏って、多摩・横山散歩のときに歩いた小山田の里でメモしたように、源氏の御家人として活躍。が、重能のその後はよくわかっていない。

散歩の備忘録
倶利伽羅散歩の旅の前後に源平ゆかりの地も訪れた。実盛塚などいくつかの地は既にメモした。そのほか訪れたところでは、義経・弁慶の話で有名な安宅の関、安宅の関での詮議の厳しさ、その後の足手まといになることを憂い、断崖から身を投げた尼御前にまつわる尼御前岬など、メモしたいところも無いわけではない。 が義経の足跡までメモしはじめたらいつ終わるやら、との少々の恐れもあり、倶利伽羅合戦にまつわる尼御前岬の近くの「平陣野」のメモで終わりにしようと思う。

平陣野


「平陣野」は義仲軍を叩くべく北征する平維盛の大軍が陣をはったところ。加賀市黒崎町、黒崎海岸にある。海岸近くには、旧北陸道・木曽街道が通る。道幅は狭く、黒松・草木が茂る道であった。
「平陣野」近辺は松林はなく、展望が広がり、日本海が見渡せる。往古、見通しのよい砂原であった、とか。この景色を眺めながら平家軍は北に進んだのだろう。 「源平盛衰記」に、安宅の関から延々黒崎海岸に続く平氏の進軍の姿が描かれ れいる;「五月二日平家は越前国を打随へ、長畝城を立、斉明を先として加賀国へ乱入。源氏は篠原に城郭を構て有けれ共、大勢打向ければ堪ずして、佐見、白江、成合の池打過て、安宅の渡、住吉浜に引退て陣を取。平家勝に乗り、隙をあらすな者共とて攻懸たり。其勢山野に充満せり。先陣は安宅につけば、後陣は黒崎、橋立、追塩、塩越、熊坂山、蓮浦、牛山が原まで列たり。権亮三位中将維盛已下、宗徒の人々一万余騎、篠原の宿に引へたり」、と。倶利伽羅散歩というか、そこから拡がった倶利伽羅合戦の時空散歩はこれで終わりといたしましょう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」) 
晩秋の連休を利用し、倶利伽羅峠を歩くことになった。源氏だか平氏だか、どちらが主人公かは知らないが、源平争乱の時代を舞台にした恋愛シミュレーションゲームがあるそうな。そのゲームに嵌った同僚諸氏が、行きませんか、とのお誘い。源平争乱絵巻は別にして、歩くことができるなら、と二つ返事で承諾。倶利伽羅峠って、木曽義仲が平家を打ち破った合戦の地。それなりに興味はあるのだが、どこにあるのかもよくわからないまま、加賀路に飛んだ。

2泊3日 の行程では、倶利伽羅峠を歩くほか、安宅の関、斉藤実盛ゆかりの地などあれこれ源平合戦の跡、また、名刹・那谷寺などを巡る。が、そこはレンタカーでの旅でもあり、散歩というほどのこともない。メモしたい思いもあるのだが、散歩のメモという以上、少々歩かないことには洒落にならない。ということで、今回は10キロ程度の行程ではあった倶利伽羅峠越えをメモすることにする。(火曜日, 11月 28, 2006のブログを修正)



本日のルート;JR石動駅>埴生・護国神社>伽羅源平の郷 埴生口>医王院>若宮古墳>旧北陸道>たるみ茶屋>峠茶屋>源氏ケ峯>矢立堂>矢立山>万葉歌碑>猿ケ馬場>芭蕉句碑>火牛の碑>倶利伽羅不動>手向神社>JR倶利伽羅駅


倶利伽羅峠

倶利伽羅峠とは、正式には砺波山のこと。倶利伽羅はサンスクリット語。「剣に黒龍の巻き付いた不動尊」を意味する、とか。峠に倶利伽羅不動寺があり、日本三大不動でもある、ということで、砺波山ではなく「倶利伽羅」が通り名となったのだろう。
こ の倶利伽羅峠、富山県小矢部市埴生より石川県津幡町倶利伽羅・竹橋に至るおよそ10キロの行程。旧北陸街道が通る。標高は70mから270m程度。メモの前にカシミール3Dで地形図をつくりチェックしてみた。越中・砺波平野と加賀を隔てる山地の、最も「薄い」、というか「細い」部分となっている。どうせの山越え・峠越えであれば、距離が短く、標高差の少ないとことを選んだ結果の往還であったのだろう。
和銅6年(713年)、この地に関が設けられる。砺波の関と言う。越の三関のひとつである。古伝に曰く;「京都を発し佐渡にいたる古代の越(高志)の道は、敦賀の愛発(あらち;荒乳山)を越える。ここから越前。次いでこの砺波山を越える。ここから先が越中。最後に名立山を越える。この地が越後。で、この峠の関を越の三関」、と。
この砺波山・倶利伽羅峠が有名になったのは、寿永2年(1183年)、木曽義仲こと源義仲が平家・平維盛(たいらのこれもり)を破ってから。天正13年(1586年)、豊臣秀吉が前田利長とともに佐々成政を破ったのも、この峠である。

JR石動駅(いするぎ)
さてさて、散歩に出発。今回のルートは富山側から石川県へと歩く。JR石動駅(いするぎ)からはじめ峠を越え、JR倶利伽羅峠駅に下りる、といったルーティング。金沢を出発し石動駅に。このあたりは昔「今石動宿」と呼ばれた北陸街道の宿場町。大名の泊まる本陣から庶民が宿をとる旅籠、木賃宿が集まり、大いに繁盛した、と。駅を降り、倶利伽羅峠への上り口のランドマーク、護国八幡宮に向かう。

護国八幡宮
もとは埴生八幡宮。奈良時代・養老年間に九州の宇佐八幡を勧請してつくられた、と伝えられる。万葉歌人としても有名な大伴家持、実は越中の国守でもあったわけだが、この神社で国家安寧・五穀豊穣を祈願したとも伝えられる。上に述べた「砺波の関」を舞台に東大寺の僧・平栄を接待して家持が詠んだ、『焼太刀を礪波の関に明日よりは守部やりそへ君をとどめむ』という歌が万葉集に載っている。「(奈良への)お帰りは早すぎます。もっとゆっくりしてください」といった意味、のよう。ちなみに、万葉集には家持の歌が473首載っているが,そのうち223首は越中で過ごした5年間に詠んだもの、とか。

大伴家持
ちょっと脱線。大伴家持って、万葉集の選者として知られる。が、万葉集のほとんどは、家持が親ともたのむ橘諸兄がまとめ終えてあり、家持が諸兄から依頼されたのは、「怨みの歌」であった、といった説もある。王家のために怨みをのんでなくなった人々、政治的犠牲者の荒魂を慰める、ために集められた、とか。悲劇の人々の歌を連ね、最後に刑死した柿本人磨呂の歌で終わらせる、といった構成。政敵・藤原氏の「悪行」を「表に出す」といった思惑もあった、とも言われるが、仏の力で鎮護国家を目指す大仏建立と相まって、言霊によって荒魂の怨霊を鎮め、王道の実現を目指すべく「恨みの歌」が集められた、とか。

木曽義仲は埴生八幡様に陣を張る
埴生八幡様に戻る。この埴生八幡が護国八幡宮となったのは、江戸慶長年間。領主・前田利長が凶作に苦しむ領民のために豊作を祈願。その効著しく、ために「護国」という名称をつけた、とか。埴生八幡が有名になったのは、源平・倶利伽羅峠の合戦において、倶利伽羅峠に布陣する平家の大軍を迎え撃つ源氏の大将・木曽義仲がこの地に陣を張り、戦勝を祈願。華々しい戦果を挙げた、ため。武田信玄、佐々成政、前田利長といった諸将が篤い信仰を寄せることになったのも、その霊験ゆえのことであろう。

佐々成政
そうそう、そういえば佐々成政も、この倶利伽羅峠で豊臣秀吉、前田利長と戦い、そして敗れている。佐々成政のメモ;織田信長に14歳で使えて以来、織田信長の親衛隊である黒母衣組(ほろ)の筆頭として活躍。上杉への押さえとして越中の国主として富山に城を構える。で、本能寺の変。信長の忠臣としては、その後の秀吉の所業を良し、とせず、信長の遺児・信雄(のぶかつ)を立て、家康を味方に秀吉と対抗。が、信雄が秀吉と和睦・講和。ために、家康も秀吉と講和。それでも成政はあきらめることなく、家康に立ち上がるよう接触・説得を図る。が、周囲は完全に包囲され、残された唯一の手段は真冬の立山越え。これが有名な「さらさら越え」。
この「さらさら越え」を描いた小説を読んだ覚えがある。確か新田次郎さんの作?ともあれ、雪の立山を越え、家康のもとにたどり着く。が、家康は動くことはなかった。天正13年(1585年)、秀吉の越中攻め。このとき、倶利伽羅峠での戦いに破れ、成政は降伏。秀吉の九州征伐に従い肥後一国を与えられるが、国人一揆の責めを負わされ切腹させられることになる。もっとも、雪の立 山越えに異論を唱える人も多い。またまた寄り道に。散歩に戻る。

倶利伽羅峠源平の郷 埴生口

護国八幡の前に「倶利伽羅峠源平の郷 埴生口」。歴史国道整備事業の一環として設立された施設。歴史上重要な街道である倶利伽羅峠の歴史・文化をまとめてある。峠の全体を俯瞰し、またいくつか資料を買い求め峠道に向かう。

旧北陸街道・ たるみ茶屋跡

道筋に医王院といったお寺。その裏手には若宮古墳。6世紀頃につくられた前方後円墳。埴輪が出土されている。
医王院を先に進み旧北陸街道に入る。整備された道を進むと「たるみ茶屋跡」。碑文には藤沢にある時宗・遊行寺総本山清浄光寺の上人とこの地の関わりが説明されていた。石動のあたりにあった、とされる蓮沼城主・遊佐氏と因縁が深かった、ため、と。「旅の空 光のどけく越路なる砺波の関に春をむかえて」といった上人さまの歌も。
ちなみに、この時宗ってこの当時、北陸の地にもっとも広まっていた宗教であった。そういえば、この倶利伽羅峠の前日に訪れた斉藤別当実盛をまつる実盛塚も、時宗・遊行上人がその亡霊を弔った、と。当時、この地の有力な宗教勢力が時宗であったとすれば、大いに納得。ちなみに浄土真宗というか、真宗というか、一向宗、というか、どの名前がいいのかよくわからないが、この宗派が北陸にその勢を拡大したのは、もう少し後のこと。もっとも時宗も浄土教の一派ではあるのだが。時宗の開祖・一遍上人は愛媛の出身。ちょっと身近に感じる。
 
峠の茶屋
先に進む。「峠の茶屋」の碑。碑文のメモ;「東海道中膝栗毛」の作者・十返舎一九がこの地を訪れ、「石動の宿を離れ倶利伽羅峠にかかる。このところ峠の茶屋いずれも広くきれいで、東海道の茶屋のようだ。いい茶屋である。たくさんの往来の客で賑わっている」、と。倶利伽羅峠にはこういった茶屋が10軒もあった、とか。
道の途中、どのあたりか忘れたが藤原顕李(あきすえ)句碑があった:堀川院御時百首の一首 「いもがいえに くものふるまひしるからん 砺波の関を けうこえくれば」。藤原顕李、って何者?

源氏方の最前線・矢立山

峠の茶屋の少し先、旧北陸道と車道が合流するあたりが矢立山。標高205m。そこに「矢立堂」。ここは倶利伽羅合戦時の源氏方の最前線。300m先の「塔の橋」あたりに進出していた平氏の矢が雨あられと降り注ぎ、林のように矢が立った、ということから名づけられた。

源氏ケ峰

「塔の橋」で北の「埴生大池」方面からの道と車道が交差し十字路となる。車道を南に下ると「源氏ケ峰」方面、西に直進すると「砂坂」。この砂坂、かつては「七曲の砂坂」と呼ばれた倶利伽羅峠の難所であった。難所・砂坂に進む、といった少々の誘惑もあったが、結局は「源氏ケ峰」方向に。理由は、その道筋が「地獄谷」に沿っているようであった、から。

地獄谷は「火牛の計」の地

地獄谷って、あの有名な「火牛の計」というか、松明を角につけた牛の大群によって平家方が追い落とされた谷、のこと。はたしてどんな谷なのか、じっくり見てみよう、といった次第。「源氏ケ峰」には展望台がある。が、木々が茂り見晴らしはよくない。「源氏ケ峰」と言うので、源氏が陣を張ったところか、と思っていたのだが、合戦時は平家方が陣を張ったところ。義仲が平氏を打ち破った後に占領したためこの名がついた、と。勝てば官軍の見本のような命名。
近くに芭蕉の句碑。「あかあかと 日は難面も あきの風」。もっともこの句は越後から越中・金沢にいたる旅の途中でえた旅情を、金沢で詠ったもののよう。

猿ケ馬場に平家の本陣が

地獄谷を眺めながら進む。砂坂からの道と合流するあたりが「猿ケ馬場」。平家の大将・平維盛の本陣があったところ、である。
平家の本陣まで歩いたところで、倶利伽羅合戦に至るまでの経緯をまとめる。それよりなにより、木曽義仲って、一体どういう人物?よく知らない。で、ちょっとチェック。

木曽義仲
祖父は源為義。源義朝は伯父。両者敵対。祖父の命で武蔵に下ったのが父・源義賢。義仲は次男坊として武蔵国の大蔵館、現在の埼玉県比企郡嵐山町で生まれる。義朝との対立の過程で父・義賢は甥・源義平に討たれる。
幼い義仲は畠山重能、斉藤実盛らの助けを得て、信濃の国・木曽谷の豪族・中原兼造の元に逃れ、その地で育つ。木曽次郎義仲と呼ばれたのは、このためである。
で、治承4年(1180年)8月の源頼朝の挙兵。義仲は9月に挙兵。2年後の寿永元年(1182年)、信濃・千曲河畔の「横田川原の合戦」で平家の城資永(資茂との説も)氏の軍を破り、その余勢をかり、越後の国府(現在の上越市の海岸近く)に入城。諸国に兵を募る。

倶利伽羅峠での合戦
までの経緯
一方、当時の平家は重盛が早世、維盛が富士川の合戦で頼朝に破れ、清盛が病没、といった惨憺たる有様。平家の総大将・平維盛の戦略は、北陸で勢を張り京を覗う義仲を叩き、その後、鎌倉の頼朝を潰す、といったもの。で、寿永2年(1182年)全国に号令し北陸に大軍を進める。

平氏北征の報に接し義仲は平氏と雌雄を決し京に上ることに決す。先遣隊は今井兼平。寒原、黒部川を経て富山市から西に2キロの呉羽山に布陣。寒原って、親知らず・子知らずで知られる難所のあたり。「寒原の険」と呼ばれたほど。

一方の平氏。先遣隊長・平盛俊は5月、倶利伽羅峠を越えて越中に入る。小矢部川を横断し庄川右岸の般若野(富山県礪波市)に進。が、今井隊による夜襲・猛攻を受け、平氏は敗走。これが世に言う、「般若野の合戦」。結局、平家は倶利伽羅峠を越えて加賀に退却する。


本隊・義仲は越後国府を出立。海岸線を進み、5月9日六動寺国府(伏木古国府)に宿営。一方平氏の主力軍はその頃、加賀・安宅付近に到着。進軍し、安宅、美川、津幡、倶利伽羅峠に達する。また、平通盛の率いる別動隊は能登方面に進軍。高松、今浜、志雄、氷見、伏木付近に。

義仲は志雄方面に源行家を派遣。自らは主力を率い般若野に進軍。今井隊と合流。5月10日の夜、倶利伽羅に向かった平氏の主力は既に倶利伽羅峠の西の上り口・竹橋付近に到着の報を受ける。倶利伽羅峠を通せば自軍に倍する平家軍を砺波平野・平地で迎え撃つことになる。機先を制して倶利伽羅峠の隘路を押さえるべし、との軍令を出し、先遣隊・仁科党を急派。隘路口占領を図る。
仁科党は11日未明、石動の南・蓮沼の日埜宮林に到着。白旗をたなびかせ軍勢豊なりしさまを演出。同時に、源氏軍各部隊は埴生、道林寺、蓮沼、松永方面、つまりは倶利伽羅峠の東の上り口あたりまで進出。義仲の本陣は埴生に置いた。倶利伽羅峠を挟んで源平両軍が対峙する。思いのほかメモが長くなった。このあたりで一休み。次回にまわすことにする。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

八王子城址散歩も三回目。今回のメンバーは私を含め大学時代の友人3名。東京赴任の友人が関西に戻るに際しての記念散歩。散歩の希望コースなどを訪ねていると裏高尾辺りなどどうだろう、という希望が出てきた。が、裏高尾といっても旧甲州街道を進み小仏峠を越えて相模湖に出る、といったコースであり、「歩く」ことが大好きな人ならまだしも、それほど「歩き」に燃えることがなければひたすら街道を歩き、厳しい小仏峠を越えるコースは、少々イベント性に欠ける、かと。
その替わりとして提案したのが、少々牽強付会の感はあるも、「歴史と自然」が楽しめる八王子城址散歩。個人的にもこの機会を利用して、二回の八王子城址散歩を終え、唯一歩き残していた、オーソドックスな絡め手口からのコースを辿りたいといった気持ちがあったことは否めない。
で、コース設定するに、それほどの山歩きの猛者といったメンバーでもないので、誠にオーソドックスに八王子城址正面口、城下谷から御主殿跡などの山裾の遺構を訪ね、その後、山麓、山頂の要害部に上り、「詰の城」まで尾根を辿る。そこで大堀切を見た後、再び山頂要害部へと折り返し、城山からの下りは、私の希望を入れ込み、八号目・柵門台から城山沢・滝沢川に沿って城山絡手口方面に向かい、心源院をゴールとした。
搦手ルートの「隠し道」といった棚沢道、詰の城から「青龍寺の滝」に続く尾根道、「高丸」へ上る尾根道など、少々マイナーではあるが辿ってみたいルートはあるものの、それは後のお楽しみとして、今回の散歩でオーソドックスな「八王子城城址攻略ルート」はほぼ終わり、かと。



本日のルート;JR高尾駅>中宿・根小屋地区>宗関寺>北条氏照墓所>八王子ガイダンス施設_午前9時28分>近藤曲輪>山裾遺構_午前9時52分(御主殿跡)>山麓遺構_午前10時42分(高丸)>山頂要害部_午前11時(山頂曲輪)>尾根道を詰の城に_午前11時50分(詰の城)>ピストン往復>八合目・柵門台_午後1時20分>城沢分岐_午後1時25分>清龍寺の滝分岐_午後1時35分>清龍寺の滝_午後1時50分>松嶽稲荷_午後2時15分>松竹バス停‗午後2時36分>心源院‗午後3時>河原宿大橋バス停>JR高尾駅

JR高尾駅
集合は常の通りJR高尾駅。タイミングよく、「八王子城城跡」行きのバスがあり、これも常の如く廿里(とどり)の古戦場跡の丘陵を越え、城山川の谷筋に下る。左手に先回の散歩で辿った左手に御霊谷の谷戸や太鼓尾根を眺めながら、梶原八幡の谷戸と御霊谷の谷戸を切り裂いた中央高速をくぐり抜け、八王子城跡入口交差点を左折。終点手前の「八王子霊園南口」で下車し、最初の目的地である宗関寺に向かう。

中宿・根小屋地区
バスを下り、中宿地区を進む。この辺りは、かつては「中宿門」を隔てて城下町と区切られた内城地域。小宮曲輪の案内に「城山川の谷戸部分にある根小屋地区(現、宗閑寺周辺)」とあったが、根小屋とは「城山の根の処(こ)にある屋(敷)」という意味であり、「城山の麓につくられた家臣団の屋敷のあるところである。とすれば、この辺りが根古屋地区だろう。根小屋は「根古屋」とも表記され、千葉であり埼玉であれ、古城散歩の折々に登場する地名である。

宗関寺
道の正面に鐘楼が見えてくる。朝遊山宗関寺である。この曹洞宗の禅寺は卜山和尚(ぼくざん)の開山とされる。もとは、北条氏照が再興した牛頭山(ごずさん)寺。その寺が天正18年(1590)の八王子合戦により類焼したため、文禄元年(1592)に卜山和尚により建立。寺号を氏照の法号をもって、「宗関寺」と改めた。宗関寺の元の地は、現在の寺の西北の谷合にあり、この地に移されたのは明治25年(1892)のこと、と言う。

◯卜山和尚
『多摩歴史散歩2;有峰書店』によると、卜山和尚はその弟子3万7千余名と称される大指導者。この地に生まれ、13歳で山田の広園寺で出家、その後全国の名だたる禅寺に遊学し、天文10年(1541)に再び故郷の地を踏む。弘治2年(1556)、北条氏照の知遇を得、牛頭山寺に迎えられた。これを契機に北条一門より私淑尊敬され、正親町天皇により紫衣を賜り、また「宗関神護禅寺」の扁額を贈られるという高僧であった、とか。

○中山信治
宗関寺境内には銅造の梵鐘があった。案内には「元禄2年、氏照100回忌供養のため中山信治によって鋳造。中山信治は中山勘解由の孫。水戸藩家老三代目当主である。第二次世界戦時中、元禄年間以降の梵鐘は押すべて押収されたが、この梵鐘だけが残った」、とあった。中山勘解由は八王子合戦では山頂要害部の松木曲輪を守り、多勢に無勢で破れはしたが、その勇猛さが家康の耳に入り、その遺児が取り立てられ水戸家の家老にまでなった、とか。
遺児が取り立てられ、如何なる経緯で御三家水戸家の家老になったのか少し気になりチェック。八王子城落城時、中山勘解由の遺児ふたりは武蔵七党の一族である中山氏の本拠地、現在の埼玉県飯能に落ち延びる。家康はそのふたりを見つけ出し、小姓に取り立てる。長男が照守。家康・秀忠に仕え御旗奉行まで昇進。二男が信吉。駿府城の火災のとき家康の第11子である頼房の命を救うなど、家康の小姓としてよく仕え、その人柄故に家康の信任篤く、頼房(当時5歳)が水戸家を興すとき付家老としてその任にあたる。信吉33歳の時である、
その後二代将軍秀忠のとき、水戸家は徳川御三家となり、その二代目藩主に光圀を推挙したのが信吉とのこと。信治はその信吉の第四子である。宗関寺の本堂正面の「宗関寺」の扁額の文字も梵鐘銘も水戸光圀公が重用した明の僧・心越禅師の筆となる、との所以も納得。


横地堤
宗関寺を取り巻く築堤は「横地堤」と称される。もと、この地には八王子城代・横地監物の屋敷があり、その城の防御施設として長大な土塁と堀が築かれていた。といっても、寺を囲む石垣は新しそうだし、どこかに土塁でも残っているのだろう、か。いまだ、「これが横地堤」といった堤には出合っていない。
宗関寺から先に進む。寺の角が心持ち「クランク状」になっているのは、枡形の名残とも。『多摩歴史散歩2;有峰書店』によると、宗関寺が移る前の明治24、5年頃には枡形が残っており、また、現在幅の広い車道となっている宗関寺以西の道も未だ無く、荷車も通れないほどの道があっただけ。その道が2間幅に広げられたのは大正になってから、と言う。
よくよく考えるに、横地屋敷にしても、またそれ以外の家臣の屋敷にしても、屋敷はこの車道を跨いで南北に広がる敷地ではあったろうし、先回の散歩でもメモしたように、家臣が日常使用する「下の道」は城山川の北岸に沿って通っていた、とのことであるから、屋敷の門も川沿いにあるのが自然ではあろう。川沿いの道は整備されることはあっても、現在の車道あたりに道は必要ない、かとも。
また、八王子城落城後、戦乱で焼失した「根小屋地区」の家臣団の屋敷跡はどのような状態であったか門外漢には定かではないが、城山は幕府の直轄林とされ、代官・江川太郎左衛門のもと植林が進み、「江川御山」とも呼ばれ厳重に管理されていた、と言う。伐採した木材を運び出すことはあっただろうが、明治になり日露戦争のために大量の木材を伐り出す必要が生じてはじめてこの辺りに「道」が開かれ、木材伐採が本格化した大正期に現在の車道のもとになる道が整備された、と言うことだろう。
八王子城を初めて訪れた頃、攻城軍の陣立てを見て、どうしてこんなに「快適な」城下谷の道筋を侵攻しなかったのだろう、などと思っていたのだが、当時は現在のように平地の真ん中に道、といった「風景」はなく、この辺り一帯は、城山川の南の「上ノ道」に築かれた防御台と一体となった家臣屋敷の土塁と堀に阻まれ、川沿いにしか道はなく、しかも合戦時は城山川を堰止めて沼湿地と化していたであろうから、それほど「快適な」侵攻路ではなかったか、とも。単なる妄想で根拠はないのだが、謂わんとするところは、現在の地形・地理・町の姿から、昔をあれこれ想うのは相当慎重にすべしと、改めて心に刻む。

北条氏照墓所
宗閑寺から八王寺城の方へ向かい、「北条氏照の墓」の道標を目安に道を右に折れ。小径を進むと小高い丘の上に北条氏照と家臣の墓がある。墓というより、供養塔といったものではあろうが、供養塔は氏照の百回忌追善の際に水戸藩家老の中山信治によって建てられた。上でメモしたように中山信治は中山勘解由の孫。氏照の両脇に建つ供養塔は中山勘解由と中山信治のもと、と伝わる(中山信治ではなくその父の信吉との説もある)。

○妙行和尚
供養塔のある台地からは先日歩いた心源院から城山へと続く尾根道に(368ピーク手前の344ピーク辺り)道は続くようだが、台地の右下にある竹林のあたりが旧宗関寺の敷地跡と言われる。供養塔から続く台地の上にも石仏、宝筐印塔(ほうきょういんとう)残り、なんとなく厳かな雰囲気を感じる。また、台地の左、けいが谷川が開く華厳谷戸(けいがやと)の谷奥は延喜13年(913)に妙行上人が庵を結んだ地と伝わる。台地上でお参りした宝筐印塔が妙行和尚(後の華厳菩薩妙行)のもの、とも伝わる。 この妙行和尚、八王子城の命名と、その城下町としての「八王子」という地名に深く関係する伝説をもつ高僧である。

◯妙行上人と八王子の地名起源
宗関寺に伝わる『華厳菩薩記』によれば、平安時代の延喜13年(913)、京都から妙行という学僧がこの地に訪れ、深沢山と呼ばれていたこの城山で修行。夢の中に牛頭天王(ごずてんのう)が現れ、八人の王子(将神:眷属(けんぞく)、従者。薬師如来の眷属が十二神将、釈迦如来の眷属が阿修羅を含めた八部衆、といったもの)をこの地に祭ることを託され、延喜16年(916)深沢山を天王峰に、周辺の8つの峰を八王峰とし、それぞれに祠を建て牛頭天王と八王子を祀った。これが八王子信仰の始まりである。 翌延喜17年(917)、妙行和尚の手により深沢山の麓 に寺が建立され伽藍も整備される。人々の間にも次第に八王子信仰がひろまり 、天慶(てんぎょう)2年(939)には妙行の功績が都の朱雀(すざく)天皇に認められ、「華厳菩薩(けごんぼさつ)」の称号が贈られる。それ以前は華厳院(蓮華院との説も)と称された寺名も八王子信仰ゆかりの「牛頭山神護寺(ごずさんじんごじ)」と改められた。
時代が下り、天正10年(1582)、北条氏照が居城を滝山城からこの深沢山(現在の城山)に山城を築くにあたり、その守護神、城の鎮守として、牛頭八王子権現を祭り、城を八王子城と名づけた。これが八王子という地名の由来になったとのである。

中山勘解由館跡
北条氏照の墓より車道に戻り先に進む。道脇の生垣に中にひっそりと中山勘解由館跡の石碑がった。八王子城は数回訪れているが、今回はじめて気がついた。道路南側の民家の敷地内のようであり、石碑を眺めるのみ。当然のことながら館は現在の道路を跨いだ敷地であったろうし、門は城山川の南岸に沿う「下の道」に面し、昭和30年(1955)代までは「勘解由」と呼ばれる土橋が城山川に架かっていたようである。登城のときは、橋を渡り太鼓尾根の中腹を御主殿へと向かっていたのではあろう。

八王子ガイダンス施設_午前9時28分
道を進むと近藤曲輪のあった手前当たりに「八王子城跡ガイダンス施設」がある。平成34年(2013)の4月にできたばかり、とのこと。施設内には八王子城とその時代を解説したビデオや、八王子城また城主北条氏照に関するパネル展示がされていた。また、八王子城に関する書籍の紹介や地図、そしてコンピュータグラフィックで八王子城を取り巻く山容や合戦の状況をジオラマ風に再現し、八王子城の全体像を把握するには誠に便利な施設となっている。

近藤曲輪_午前9時36分
八王子城跡ガイダンス施設を離れ駐車場の先の小高い場所が「近藤曲輪跡」。小高い場所の上は平坦地となっているが、この地にはかつて東京造形大学が建設された歴史があり、地ならしされてしまったのだろう。平坦地の中央には八王子城を取りまく山容のジオラマが展示されている。
近藤曲輪は八王子城の東端部。かつて家臣が日常の通路、物資運搬などに使用していた「下ノ道」は、中宿門から城山川の北岸を川に沿って進むが、この近藤曲輪の手前で川から離れ、近藤曲輪の下、馬防柵に沿って山裾に向かう。近藤曲輪を大きく迂回した「下ノ道」は「花かご沢」を「登城橋」で渡り登城門に向かっていた、と言う。登城橋があったのは現在の一の鳥居の先、新道と旧道が別れる辺り、とも。

◯近藤出羽守
近藤曲輪は近藤出羽守助実に由来する。近藤出羽守は北条氏照の重臣であり、氏照が大石家の女婿となったときに付き従った家臣のひとり。氏照の信任も厚く、氏照の下野攻略の後には下野国榎本城を預かる。八王子合戦に際しては榎本城を嫡子と家臣に任せ、八王子城に馳せ参じる。
合戦時には近藤曲輪、山下曲輪、アシダ曲輪を守り、前田勢や、降伏し最前線に投入された元北条方の松山衆(上田禅秀氏)や川越衆(大道寺政繁)との激戦の末に討ち死にした。
いつだったか八王子の湯殿川を散歩した降り浄泉寺に出合ったが、このお寺さまは近藤出羽守の開基とのこと。天正15年(1587)というから、北条市が秀吉勢を迎え撃つ臨戦体制をはじめた頃である。近藤出羽守の館はこの浄泉寺および御霊神社の当りにあったとのことである。


近藤曲輪から先は、八王子城の山裾の遺構、山麓遺構、山頂要害部の遺構、山頂要害部からは、尾根道を八王子城の西端の防御拠点である「詰の城」へのピストン山行となるが、以下概略のみをメモする。それぞれの詳しいメモは過去2回の、「八王子城趾散歩 そのⅠ」「八王子城趾散歩 そのⅡ」を必要に応じてご覧ください。


山裾遺構_午前9時52分(御主殿跡)
近藤曲輪を離れ、管理棟のある山下曲輪から林道に下り、城山川を渡り大手道に。左手に太鼓曲輪や堀切の残る太鼓尾根を眺めながら曳橋を渡り、御主殿跡に。御主殿跡から林道に下り、御主殿の滝でお参りし、林道を折り返し、管理棟へと戻る。






山麓遺構_午前10時42分(高丸)
管理棟から、山下曲輪と近藤曲輪を隔てた「花かご沢」の切れ込みを見やりながら、「一の鳥居」をくぐり登山道に。ほどなく登山道は新道と旧道に分かれるが、旧道は現在(2013年5月)倒木のため通行止めとなっていた。
ささやかな石垣の遺構、馬蹄段を見ながら金子曲輪に。金子曲輪から八号目の柵門台跡に。この地は搦手口からの道や山王台への道が合流する。九合目の「高丸」では、「下段の馬廻り道」が合流する。先に進むとほどなく東が一面に開け、見晴らしのいい場所にでる。山頂要害部まではもう少し。

山頂要害部_午前11時(山頂曲輪)
眼下に広がる景観を楽しみ少し進むと「中の曲輪跡」に設けられた休憩所。休憩所の裏手から「小宮曲輪」に向かう細路に入り、小宮曲輪から尾根道を「山頂曲輪」に。そこから中の曲輪の八王子神社、その傍の横地社にお参りし、「松木曲輪」に。

尾根道を詰の城に_午前11時50分(詰の城)
「高尾・陣馬山縦走路」の道標を目安に山頂要害部の南をぐるりと廻る。ほどなく「坎井(かんせい))と呼ばれる井戸があるが、そこに続く道は「上段の馬廻り道」。「井戸」からジグザグ道を下り、山頂要害を廻り切ったところに「駒冷やし」。山頂要害部を守るため、尾根道を切り取った大きな「堀切」となっている。
「駒冷やし」から緩やかなアップダウンを繰り返し600mほど尾根道を進むと「詰の城跡」。その西にある堀切を眺め、再び山頂要害部に戻る。そこから八号目・柵門台まで下り、そこから搦手口への道へと下りてゆく。


ここからは新規ルートのメモ

八合目・柵門台_午後1時20分
柵門台から「松竹バス停」への道標に従い登山道を離れて左に折れる。正確にはこの道は登山道の旧道なのだが、現在旧道は通行止めとなっている。その旧道を少し下ると更に左に分岐する道に入る。この道が搦手口からの道筋である。この辺りは数回過去数回トライしたのだけれど、ブッシュに阻止され進めなかったように思う。その後道の整備をしたのだろうか。不思議である。

城沢分岐_午後1時25分
道筋を数分進むと、先日心源院から城山へと尾根道を辿り搦手口からの道と合流した地点に着く。そこから「松竹橋バス停」の道標に従い、左手の道に入る。道は思いのほか整備されている。この道は城沢道と呼ばれる。搦手口から柵門台へと向かう搦手口からの正式な登城道である。道の左には名前の由来でもある「城沢」と呼ばれる沢がある。城沢は滝沢川に合流する沢のひとつである棚沢の支沢である。


清龍寺の滝分岐_午後1時35分
木々に覆われた道を下ると全面が開けてくる。木々が一面伐採されている。伐採されたところを下り終えた辺りに「清龍寺の滝」の道標。予定にはなかったのだが、時間も十分余裕があるので、ちょっと寄り道。
少々ブッシュっぽい踏み分け道を進むと沢に当たり、それも二つの沢に分岐している。進行方向右手が清龍寺へ向かう「滝の沢」、左手の城沢道に近いほうが「棚沢」である。この棚沢からの道が八王子合戦の時、平井無辺の内通により秘密裡に搦手口から攻め上り、背後から小宮曲輪を攻撃した上杉勢の侵攻路との説がある。

○棚沢口からの侵攻路
『戦国の終わりを告げた城;椚国男(六興出版)』によると、この棚沢道が上杉勢の侵攻路とある。城沢道は正規ルートで奇襲はできないし、清龍寺の滝のある滝の沢は城外であり、修験者が住む信仰の沢で、西側の尾根に上る道はあるが細路で、しかも小宮曲輪に遠すぎる。棚沢道は正規の城沢道に対して背後から馬廻り道に上る通用路または「隠し道」であったのだろう。この道を這い上がれば棚門台を通らず直接山頂要害部にでることができる、とある。
地形図をチェックすると、沢頭は山頂要害部のすぐそばまで続いている。棚沢を山頂に上るには、棚沢の左岸を進み横沢までは急な道であるが、その先はほぼ水平の道となる。岩を割ってつけた道を進み、棚沢の滝の上を跨ぎ水汲み谷と呼ばれる小さな沢に至ると、そこが11段ある馬蹄段の最下段。この最下段には棚沢の滝から左手の斜面をよじ上っても這い上がれるようである。 上杉勢はこのような棚沢口を這い上がり、小宮曲輪に背後から奇襲をかけ、八王子合戦の勝敗を決した、と。詰の城からの石垣跡のある尾根道を下ると、棚沢の滝の近くに下れるようである。そのうちに棚沢を山頂要害部へと這い上がるか、詰の城から下ってみたい。

清龍寺の滝_午後1時50分
棚沢との分岐から15分ほど、倒木や沢道など足場の悪い道を進むと「清龍寺の滝」。活水期で水は全く流れていない。滝下にある水量計が手持無沙汰な風である。滝は3段に分かれており、水があれば結構見栄えがする滝ではあろう。

松嶽稲荷_午後2時15分
沢道を戻り、清龍寺の滝への分岐から林道を松竹バス停へと下る。ちょっとした段状地やその昔家臣の屋敷があったとも言われる平坦地を想い、左手には先日心源院から辿った尾根道を見やりながら800mほど道を進むと杉の巨木に囲まれた朱色の社が佇む。かつては、この辺りに搦手口の城門があったとも言われる。
既にメモしたように、初期の八王子城は北側の案下谷側に大手口が構えられていたとされ、後年八王子城を大改修する時期に大手口城下谷(中宿)側に変更されたとの説があるが、城山(深沢山)の北側に広がる「案下谷」には、下恩方地区の浄福寺城とその山麓の浄福寺や、上恩方の興慶寺といった室町期創建の寺院が点在する。甲斐の武田に備えたこの案下の谷筋は、比較的古い時代から開けていたのであろう。夕焼け小焼けの里から案下道を辿った記憶が蘇る。


○城山北川防衛ライン
城山搦手口の防衛ラインは、松嶽稲荷辺りの搦手口城門一帯と心源院から城山に続く尾根道、川町の城下谷丘陵北端部、そして大沢川。『戦国の終わりを告げた城;椚国男(六興出版)』によると、「搦手口の松嶽稲荷から西方一帯は、山裾から北へ河岸段丘面・氾濫原・案下川と続き、川は水堀、段丘崖は防塁となっている。段丘崖は4,5mあり、段丘崖下に空堀。段丘面の端には柵が築かれ内側に家臣が詰める」とある。そう言われれば、松嶽稲荷南の段状崖も「土塁」のようにも思えてくる。
心源院からの尾根道の防御ラインは、心源院の土塁、尾根道上の向山砦、松嶽稲荷の東の尾根道下には「連廓式砦跡」が残る、とも。川町の城下谷丘陵北端部には小田野城(現在の都道61号小田野トンネル上)。小田野城は八王子城主・北条氏照の家臣小野田太左衛門屋敷があり、八王子城の出城のひとつと言われる、城は天正18年(1590)の八王子城攻防戦の際、城の搦手口(城の表口である大手門に対し、「裏口」にあたる搦手門のある場所)を攻めた上杉景勝の軍勢により落城した
大沢川沿いには段状地が築かれ、遠見櫓があったような尾根上の平坦地もあり、搦手口同様に重要な拠点であった、とのことである。

松竹バス停‗午後2時36分
松嶽稲荷から成り行きで東に進むと行く手を瀧の川に阻まれる。橋はないので、松竹橋まで引き返すことになったが、搦手口の場所は滝の沢川と案下川の合流点付近とか、松竹橋付近といった説もあるので、その雰囲気を味わったことでよしとする。 松竹橋まで戻り、本日の最後の目的地である心源院へと向かうが、先日の散歩でもメモした深沢橋まで橋は無い。陣馬街道を東に戻り、かつての鎌倉街道山の道の道筋で右に折れ、深沢橋へと進む。

○陣馬街道
陣場街道という名前は古いイメージがあるが、その名称は最近付けられた、とか。東京オリンピックの頃と言う。それまでは「案下道」とか、「佐野川往還」と呼ばれ、和田峠を越えて藤野・佐野川に通じていた。街道筋には、四谷宿(八王子市四谷)、諏訪宿(八王子市諏訪)、川原宿、高留宿(上恩方町;夕焼け小焼けの里のあたり)といった宿場があった。
この案下道は、厳しい小仏関のある甲州街道を嫌い、江戸と甲州を結ぶ裏街道として多くの人が利用したと言う。因みに「案下」とは仏教の案下所から。修行を終え入山する僧が準備を整え出発する親元(親どり;親代わり)の家のこと。なんともいい響きの名前だ。また、この辺りの地名である恩方も美しい響き。奥方が変化した、との説がある。山間の奥の方、と言うところだろうか。

○鎌倉街道山の道
鎌倉街道とは世に言う、「いざ鎌倉」のときに馳せ参じる道である。もちろん軍事面だけでなく、政治・経済の幹線として鎌倉と結ばれていた。鎌倉街道には散歩の折々に出合う。武蔵の西部では「鎌倉街道上ノ道」、中央部では「鎌倉街道中ノ道」に出合った。東部には千葉から東京湾を越え、金沢八景から鎌倉へと続く「鎌倉街道下ノ道」がある、と言う。
「鎌倉街道上ノ道」の大雑把なルートは;(上州)>児玉>大蔵>苫林>入間川>所沢>久米川>恋ケ窪>関戸>小野路>瀬谷>鎌倉。「鎌倉街道中ノ道」は(奥州)>古河>栗橋>鳩ヶ谷>川口>赤羽>王子>二子玉川> 荏田>中山>戸塚>大船>鎌倉、といったものである。
鎌倉街道といっても、そのために特段新しく造られた道というわけではないようだ。それ以前からあった道を鎌倉に向けて「整備」し直したといったもの。当然のこととして、上ノ道、中ノ道といった主要道のほかにも、多くの枝道、間道があったものと思える。 で、この鎌倉街道山ノ道、別名秩父道と呼ばれる。鎌倉と秩父、そしてその先の上州を結ぶもの。鎌倉からはじめ、南町田で鎌倉街道上ツ道と別れ。相原、相原十字路、七国峠を越えて高尾に至り、高尾から北は、秋川筋に、次いで青梅筋、名栗の谷、そして最後は妻坂峠と、幾つかの峠、幾つかの川筋を越えて秩父に入る。

心源院‗午後3時
深沢橋から少し南に戻り、大きな石の柱を目印に心源院に。山号は「深沢山」。八王子城の築かれている山の名前である。深沢はこの深沢山の山麓から流れ出す滝沢川が刻む棚沢とか横沢といった深い沢を現すように思える。深沢山の南側にそれほどに深く刻まれた沢は見られない。
それはともあれ、心源院に入る。広い境内の奥に本堂。広い境内の割に堂宇が少ないのは、昭和20年(1845)の八王子大空襲で七堂伽藍すべてが灰燼に帰したため。現在の本堂も昭和47年(1972)に再建されたもの。お寺の東側に10mほどの高さの台地があるが、それは八王子城の土塁跡とのこと。城山北側から尾根道を八王子城へと進軍する秀吉方への防御拠点として、小田野城(心源院の少し東)、浄福寺城(心源院の少し西)とともに、心源院も砦として組み込まれていたのであろう。そのためもあってか、小田原合戦の際、豊臣勢の上杉景勝の軍勢との攻防戦の際に焼失している。更には江戸時代の河原宿の大火でも延焼しているため、古文書などは残っていないようである。
この寺はもともとはこの地に勢力を誇った武蔵国の守護代である大石定久が開いた寺。滝山城を築き北条と覇を競った大石氏であるが、北条の力に敵わずと北条氏照を女婿に迎えに滝山城を譲り、自らは秋川筋の戸倉城に隠居した。
とはいうものの、木曾義仲を祖とする名門・大石氏は北条に屈するのを潔しとせず、面従服背であった、とも。大石氏ゆかりの地には散歩の折々に出会う。戸倉城山にも上り、結構怖い思いもした。多摩の野猿街道あたりにも大石氏にまつわる話もあった。東久留米の古刹浄牧院も滝山城主大石氏が開いた、と。この大石定久の最後については、よくわかっていないようだ。

○松姫
この心源院は武田信玄の娘である松姫ゆかりの寺である。武田家滅亡の折り、甲斐よりこの地に逃れた悲劇の姫として気になる存在である。7 歳で信長の嫡男・信忠と婚約。元亀3年(1572)武田と徳川が争った三方原の合戦に織田が徳川の味方をした。ために、婚約は破棄。松姫11歳の時である。元亀4年(1573)信玄、没するにおよび、兄の仁科盛信の居城・高遠城に庇護される。が、天正10年(1582)、信長の武田攻めのため、盛信や小山田信繁の姫を護って甲州を脱出。道無き道を辿り、和田峠を越え、陣馬山麓の金照庵に逃れ、北条氏照の助けを求めた、と。もっとも、松姫の脱出路は諸説ある。先日大菩薩峠を越えた時、牛尾根の東端に松姫峠があった。伝説では、松姫はこの峠を越えた、と言う。
天正10年(1582)、武田勝頼は天目山で自害し武田家滅亡。この武田攻めの総大将は元の婚約者織田信忠。何たる因縁。信忠は松姫を救わんと迎えの使者を派遣せんとするも、本能寺の変が勃発。信長共々信忠自刃。何たる因縁。
ともあれ、金照庵から移ってきたのが、この心源院。22歳のとき。当時の心源院六代目住職は宗関寺でも登場した卜山禅師。卜山禅師の庇護のもと松姫は出家し信松尼となる。しかし、この心源院も八王子合戦で焼失し、天正18年(1590)、八王子市内にある草庵に移り、近辺の子どもに読み書きを教えながら、幼い姫君を育て上げた、と。八王子は武田家遺臣が多く住む。八王子千人同心しかりである。大久保長安を筆頭とする武田家遺臣の心の支えでもあった、とか。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

松姫の悲劇で思い出す姫君が源頼朝の娘・大姫。木曾義仲の嫡子・義高との婚約。が、義仲と頼朝の争い。頼朝の命による義高の誅殺。頼朝・政子に心を閉ざし生きる大姫。唐木順三さんの『あずまみちのく(中公文庫)』の大姫の記事などを思い出す。

河原宿大橋バス停
心源院で先日歩いた秋葉神社やその尾根道から眺めた「寺の谷戸」や「寺の西谷戸」の地形をじっくりと下から確認し、北秋川に沿って河原宿大橋バス停に進み、本日の散歩は終了。バスでJR高尾駅に戻り、一路家路へと。
初回の散歩から日をおかず、二回目の八王子城址散歩に出かける。メンバーは元会社の同僚とのふたり旅。今回のルートは、八王子城の南を護る「外廓」でもあった太鼓尾根を辿り、先回の散歩で富士見台から下った尾根道を逆に上り返し、富士見台、詰の城を経て城山へと向かう。
太鼓尾根にはいくつかの堀切、そして太鼓曲輪がある、と言う。また太鼓尾根の中腹には城への登城路であった「上の道」が続く、とも。現在八王子城址へは霊園口バス停から宗閑寺をへて城山方面に広い道が開かれているが、大正の頃までは道と言えるような道もなかったようである。戦国の頃はこの太鼓尾根の東端にある「上ノ山」の麓に大手口があり、そこから太鼓尾根の北の山腹を辿る「上の道」がメーンルートであった、とか。
現在では「上の道」は藪で覆われているとのことだし、太鼓尾根のルートもはっきりしない。人によっては険路、とあったり、何ということのない「軽い」ルートなどコメントもさまざま。念のためロープとハーネスと、ちょっと大層な準備をして散歩に出かける。



本日の本日のルート;JR高尾駅>宮の前バス停>梶原八幡>御霊谷神社>太鼓尾根への取りつき口>中央高速にかかる不思議な橋>上の山>太鼓尾根の尾根道>第一堀切>片堀切>第二堀切>第三堀切>太鼓曲輪>第四堀切>第五堀切>見晴らし所>太鼓尾根分岐>荒井バス停分岐>城山林道からの道の合流点(現在通行禁止)>城山川北沢への分岐(標識なし)>小下沢道分岐(悪路)>富士見台>詰の橋・大堀切>堀切>馬廻り道(下段)>高丸>中の曲輪>八王子神社>山頂曲輪>小宮曲輪>松木曲輪>見晴らし所>八合目・棚門台跡>殿の道>山王曲輪>殿の道>御主殿跡>御主殿の滝>曳橋>大手道・大手門跡>上の道>大手道・大手門跡>山下曲輪>近藤曲輪>八王子城址ガイダンス施設>宗関寺>中山勘解由屋敷跡>霊園口バス停

JR中央線高尾駅
JR中央線高尾駅で下車。駅前のバス乗り場より、最初の目的地である御霊谷の太鼓曲輪取り付き口の最寄りのバス停である「宮の前」に向かう。バスは大久保行きのほか、陣馬高原行き、室生寺団地行き、恩方車庫行き、美山行きなど、でも川原宿大橋のバス停に行くようではある。
駅前を離れ、バスは北に向かう。この道は都道46号、別名、「高尾街道」と呼ばれる。高尾街道はJR高尾駅からはじまり、北東に上り「滝山街道」の戸吹交差点で終える。高尾街道は別名「オリンピック道路」とも呼ばれる。東京オリンピックのとき、自転車ロードレースのコースであった。

廿里(とどり)古戦場
南浅川にかかる敷島橋を渡ると、道は山裾を縫って上る。坂道の途中には「廿里(とどり)古戦場の碑」がある。小田原北条と武田の古戦場跡。永禄12年(1569年)、武田軍主力が上州の碓氷峠を越えて武蔵に侵攻。小田原攻略のためである。で、この八王子に南下し北条の戦略拠点である滝山城を攻める。この主力部隊に呼応し、小仏峠筋より奇襲攻撃をかけたのが大月城主・小山田信茂。難路・険阻な山塊が阻む小仏筋からの部隊侵攻を想定していなかった北条方は急遽、この廿里に出陣。合戦となるもあえなく武田軍に敗れた。北条氏がこの地の主城を滝山城から八王子城に移したのも、この負け戦が大きな要因、とか。小仏筋からの侵攻に備え、小仏・裏高尾筋を押さえる位置に城を築いたわけである。

宮の前バス停
森林総合研究所のある山裾の坂道を上る。多摩森林科学館前交差点で大きな道路に合流。甲州街道の町田街道入口からのびる高尾街道のバイパスである。合流点より先にも上り坂。左右は緑の山稜。道の東は多摩御陵、多摩東陵、武蔵野陵といった皇室のお墓。道の西は森の科学館が広がる。豊かな緑を目にしながら坂を下ると城山大橋の三叉路。高尾街道は北東に進むが、バスは高尾街道を離れ、都道61号に乗り換え三叉路を北西方向に進む。
新宮前橋で北淺川の支流・城山川を渡り、少し進むと宮の前バス停。太鼓尾根への取り付き口に進む前に、宮の前の名前の由来でもある梶原八幡様に向かう。

梶原八幡_午前9時24分
御霊谷と逆方向の東側に道を渡り参道を八幡様に。この八幡様は鎌倉幕府の御家人・梶原景時が建てたと言われる。鎌倉の鶴ケ岡八幡の古神体をこの地に奉祀したもの、とか。参道に梶原杉といった切り株も残る。で、そもそも何故この地に梶原か、ということだが、梶原景時の母がこのあたりに覇をとなえた横山氏の出。この地に景時の領地もあった、よう。
梶原景時って、義経いじめ、といったイメージが強い。また、鎌倉散歩のとき、朝比奈切り通しで「梶原大刀洗水」といった清水の流れを目にした。頼朝の命により、上総介広常を討ち、その太刀を洗ったところ、とか。いずれにしても、あまりいい印象はない。 どういった人物か、ちょっとメモ;もともとは平氏方。坂東八平氏である鎌倉氏の一族であり、頼朝挙兵時の石橋山の合戦では一族の大場氏とともに頼朝と戦う。で、旗揚げの合戦に破れた頼朝の命を助けたため、後に頼朝に取り立てられ、頼朝の側近として活躍。教養豊かで都人からも一目置かれるが、義経とは相容れず対立。頼朝と義経の関係悪化をもたらしら張本人と評される。頼朝の死後は、鎌倉を追放され、一族もろとも滅ぼされた。


御霊谷の谷戸
梶原八幡からバス停まで戻り、バス停脇の雑貨店の南の道を御霊谷の集落に。この御霊谷の谷筋は鎌倉期より開けており、信長の安土城に倣い八王子城を大改修するに際し、大手口を案下谷(恩方谷)から御霊谷に移し、御霊谷川の左岸に朱色の御霊谷門が食い違い虎口,内枡形などを伴い建っていた、と。 当時の家臣の登城道はこの御霊谷門を大手口とし、御霊谷地区の北の太鼓尾根の東端、現在は中央高速により分断されている「上の山」の鞍部を経て太鼓尾根の北側(城下川側)の丘陵中腹を城山の麓にあった御主殿へと続いていたようである。

御霊谷(ごりやつ)神社_午前9時40分
御霊谷地区に入り、太鼓尾根やその東端の「上の山」を見やり、御霊谷地区の谷戸を進む。道が中央高速をくぐる手前に御霊谷神社。まずはお参り。古き趣のこの社は、梶原景時の祖先神である坂東八平氏のひとり、鎌倉を拠点とした故に「鎌倉権五郎影政」と称された平安後期の武将を祀る。神社の裏手にはいくつかのささやかな社が祀られるが、稲荷の裏手には、「北条菱」が刻まれた石塔が建つ、とのことだが見逃した。
天正18年(1590)の八王子城の戦いの際は、この神社辺りに南本営が置かれ、鈴木彦八の指揮のもと、豊臣勢の攻撃に相対した、と。当時は谷戸の一帯は湿地であったようで、御霊谷川を堰止めて池沼とし防御ラインを構築したとのことである。

太鼓尾根への取り付き口へ_午前9時51分
御霊谷神社を折り返し、太鼓尾根の東端である「上の山」に。取り付き部の目安は「竹藪とその手前の梅ノ木」といった情報を目安に、道から分かれる取りつき口を探す。今ひとつ確信はないものの、バス停脇から入ってきた道筋と沿って流れる御霊谷川が大きく湾曲して道から離れるあたりに建つ民家の西脇から竹藪へと向かう踏み分け道を見つけ、とりあえず車道を離れ竹藪へと向かう。

中央高速に架かる橋・中宿橋‗午前10時
踏み分け道を竹藪に入る。道らしきものはなく、竹藪の中をとりあえず中央高速の車の音のするほうへと突き進む。力任せの藪漕ぎで中央高速が見えるところまで這い上がる。と、左手に中央高速に架かる人道橋が見える。この橋を渡って太鼓尾根に入る、とのことであるので、中央高速と離れないように竹藪を進み、人道橋のある、と思うあたりで再び這い上がり人道橋南詰に。
しかし、不思議な橋である。橋を渡った南には橋から続く道はなく、崖を下りて道なき竹藪の中を進むしかない。なんとなく気になりチェックすると、中央高速建設に際し、当時の建設省と八王子市そして地域住民が協議し、高速道路によって行き止まりになってしまう杣道や畦道なとの「赤道」を、この橋の建設で代替とした、とのこと。
それにしても、疑問が残るのは中宿橋と呼ばれる橋の名称。中宿は、御霊谷の東端である「上の山」と梶原八幡のある丘に挟まれたところであり、外郭部の城下町と内城部分を仕切る中宿門(中門とも)が在った地区の名前である。場所からすれば、御霊谷橋といったほうが自然と思えるのだが、昔には御霊谷川に御霊谷と称する橋があったのだろう、か(今は見当たらない)、それとも、御霊谷の谷戸から中宿に抜ける道があったのだろう、か。妄想は広がるが、このあたりで止めておく。

御霊谷門・上の山
中宿橋の辺りは中央高速によって削られた太鼓尾根の東端は「上ノ山」のあったところ。上に御霊谷門が御霊谷川の左岸にあったようだとメモした。その位置は上ノ山の丘の南麓にあったとのこと。その場所は不詳であるが、『戦国の終わりを告げた城』には「(中宿橋を)御霊谷側に下ると竹林の中に小刻みの段状地が4段あり、ここを大手口と推定した」、とある。とすれば、御霊谷門は先ほど上り下りの藪漕ぎをした竹藪辺りかもしれない。
御霊谷門からは上ノ山の鞍部を越えて太鼓尾根の北側中腹を御主殿に向かって登城道が通り、その北には中宿門から西にはか新屋敷が連なる。そして尾根の南北に重要な門を見下ろす上ノ山には見張り台があり、ふたつの門の防御する指揮所でもあったのだろう。とはいうものの、合戦では中宿門も御霊谷門も、あっと言う間に破られている。(『戦国の終わりを告げた城』)を参考に合戦の状況をまとめておく。


 ○八王子合戦
攻城軍は寄居の鉢形城を落とし東松山の松山城に駐屯していた前田利家と上杉景勝の軍勢。その数は、降伏した大道寺(松井田城主)、難波田・木呂子勢(松山城の籠城軍勢;東松山)を含め2,3万と伝わる。攻城軍は松山城を出立。関東山地山麓よりの道を南下し、旧暦6月22日の夜更け、多摩川を大神(昭島)から金扇平(八王子市平町)に渡り(注;現在八高線が多摩川を渡る辺り)、南加住丘陵、北加住丘陵を越え暁町の名綱神社辺り(注;現在の小宮公園の南)で二手に分かれる。
一隊は搦め手口攻撃隊。川口川の北岸を西に進み、甲原(注;現在工学院大学のある辺り)をへて南に向かい調井の丘(注;現在の八王子市立川口小学校んの東;昔川口氏館跡あたり)から北浅川の北岸を西に進み、川を渡って案下(恩方)の搦め手口に。
別の一隊は名綱神社から南に進み浅川を渡って大義寺(元横山町)の辻から西に進み、南浅川を渡り横川を経て月夜峰(現在協立女子学園がある辺り)の丘陵に向かう。
一方の八王子城の北条勢。籠城態勢に入ったのは天正16年(1588)の1月。天正17年(1589)の夏には、城主の北条氏照は精鋭数千を引連れ小田原城に。留守を老将である横地監物、狩野一庵、中山勘解由に託す。城内には将士の他、各郷から集められた雑兵、番匠、鍛冶、修験者、僧、そして人質としての妻子など数千。

攻撃当日の天正18年(1590 )6月23日。攻撃開始は午前2時。上杉景勝勢8000は月夜峰から出羽山砦(注;は現在の出羽山公園辺り;八王子市城山手1-4近藤出羽守が築いたとされる砦。近藤出羽守は合戦当日には山下曲輪を護る。)へと尾根伝いに進み、御霊谷門を打破って上ノ山に上がり、更に尾根伝いに太鼓曲輪へと進撃。別働隊は御霊谷の湿地を進撃し、御霊谷神社辺りにあった南本営を打ち破り、御霊谷の谷戸の更に奥の駒ケ谷戸や大谷戸方面から太鼓曲輪の奥に進み攻め入った、と。
一方、降伏した大道寺勢を前面に押し出した前田利家の軍勢15000は横山口の大城戸に攻め入り、中宿門を護る馬場対馬守を破り、午前4時頃には太鼓曲輪を破った上杉勢と合流し、八王子城の守備の要である山下曲輪に襲い掛かり守将の近藤出羽守を打ち取っている。
山下曲輪を破り城山にある金子曲輪に攻め入り、山頂の小宮曲輪で激戦となるも、内通者に率いられ、搦め手側から攻め上った上杉別働隊が背後から攻め寄せ落城となる。明け方には勝負がついていたようである(午後4時頃との説もある) 八王子合戦は秀吉の小田原征伐で唯一の「殲滅戦」とも言われる。埼玉・寄居の鉢形城の攻防戦など、その他の攻城線での穏便な、秀吉に言わせれば「緩慢な」攻城戦を秀吉に咎められ、面目を失った前田・上杉勢はこのときとばかり八王子で大殺戮戦を行った、とか。合戦の後の両軍の死者は諸説あるも、それぞれ1000名を越える、とも。いつだたか、八王子の湧水を辿っていたときに出合った相即寺には戦いで亡くなった将士を供養する地蔵堂があった。

埼玉・寄居の鉢形城攻防戦での「緩慢」なる攻城戦を秀吉に咎められ、面目を失った前田、上杉がこの時とばかり攻めかかった、とか。小田原攻めで唯一とも言われる大殺戮戦が行われた、とある。

太鼓尾根に入る
中宿橋を渡り、右にも左にも細道があるようなのだが標識がなく、なんとなく踏み分け道っぽい右側に回り込み緩やかな上りを太鼓尾根に入る。途中、御霊谷門から上ノ山の鞍部を越えて南に繋がるという「上ノ道」への道筋などないものかと注意しながら進んだのだが、それらしき踏み分け道も見つけることができなかった。安土城の6mを越える8m幅の登城路跡らしき道筋も残っているようである。そのうちに歩いてみたい。

286mピーク_10時23分
木々に覆われた緑の尾根道を進むと、竹林のトンネルが現れる。いつだったか歩いた旧東海道箱根越え・西坂を三島に下ったときの笹竹のトンネルを思い出した。270mピークの「じゅうりん寺山」を越え、ゆるやかなアップダウンを繰り返し尾根道を進む。じゅうりん寺山から北西に進んだ尾根道が南西へと向きを変える辺りの254m地点に「見張台」があったとのことだが、素人には遺構などはわからない。
尾根道南麓の木々の隙間から民家の屋根などを見やりながら10時23分に286mピークに。ここまで尾根道の踏み跡はしっかりとしており、道に迷うことはなかった。


第一堀切_10時35分;標高275m
尾根道を進み、286mピークから10分強歩くと、突然尾根道が寸断され崖っぷちに。ここが太鼓尾根の第一堀切。尾根道からの敵の侵攻を防ぐために人工的に岩盤を掘り切っている。掘り切った石は石垣などに利用されているようである。第一堀切の場所は、御主殿跡に向かう大手道東端の「進入禁止」の柵のあるところより少し東に入ったあたりである。
足元を注意しながら底に下り、左右の堀切崖面を見る。底から5m程度といったところだろうか。また、岩盤故か、倒木が多い。堀切の幅は結構広いが、これは倒木による掘り返しにより次第に幅は広く、丸くなってしまったのだろう。縄張り当時はもっと狭く、V字になっており、曳橋が架けられていた、と。

片堀切_午前10時41分;標高287m
第一堀切からほどなく「片堀切」の案内。両側を掘らず、片側だけを掘ったもの。比高差は4m程度である。この辺りから太鼓曲輪北麓下には御主殿続く大手道が見える。








第二掘切_午前10時52分:標高290m
片堀切から10分程度で第二堀切。底に下りて左右の崖を見る。東崖との比高差3m、西崖面との比高差12mほど。薬研堀と称されるようにV字に切れ込んだ雰囲気を残す。場所は御主殿に繋がる曳橋の少し手前といった辺りである。







第三堀切_午前11時7分;標高298m

第二堀切から10分強で第三堀切。太鼓尾根最大の堀切で「大堀切」とも呼ばれる。底から堀切東崖の比高差6m、西崖面の比高差15mとのことである。底が落石で埋まっているため、石を除けばもっと巨大な堀切であったのではあろう。尾根の北麓下には城主の館である御主殿がある。なお、第三堀切を過ぎたところに上杉勢が御主殿に侵攻する為に使った「連絡道」があるとのこと。連絡道は「御主殿の滝」に造られた堰の上を通り御主殿につながる、とのことである。

太鼓曲輪_午前11時13分;標高300m
第三堀切から少し進み、御霊谷の城山病院辺りから続く長尾根と交差するあたりのちょっとした平坦地に太鼓曲輪があった、とのこと。平坦地の幅は10m程度であり、それほど多くの兵士が詰めれるようにも思えないのだが、太鼓尾根全体の防御陣地を指揮する指令所でもあったのだろう、か。単なるも妄想。根拠なし。





第四堀切_午前11時18分;標高321m
太鼓曲輪から5分程度で第四堀切。位置は北沢と南沢が城山川として合わさる少し上流の南の尾根部分。底に下りて左右を見ると、今までの堀切の中では少し小振りで、東西ともに底から堀切の崖面の比高差は4m程度である。






第五堀切_午前11時25分;標高325m
更に尾根を進むとほどなく第五堀切。今までの堀切と異なり、御主殿に近い東端のほうが底からの高さが高く、その比高差は7mほど。一方西側は少し低く4m程度となっている。









これで本日のメーンイベントである太鼓尾根の太鼓曲輪と堀切を辿るコースは終了。後は先日富士見台から下ってきた「城山尾根」に上り、そこから城山へと上り返すルートを辿ることになる。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)















見晴らし所_午前11時43分;標高376m
第五堀切を越えると「城山尾根」の合流点に向かって上りが急になってくる。今までの尾根道の、のんびり、ゆったりとは異なり少々息が上がる。第五堀切から20分程度のところで、左手が一瞬開け、眼下の景観が楽しめる。見晴らし所という名称は便宜上名付けただけであり、正式名称ではない。





太鼓尾根分岐_午前11時47分;標高407m
見晴らしを楽しみ先に進むち、そこからほどなく太鼓尾根が城山尾根に合流する。標識には「城山入口 405m」と道標にあるが、太鼓尾根には城山へ下る標識はなかったように思う。太鼓尾根から城山(「御主殿跡」のことだろうか?少々曖昧な表現である)に下るには、尾根道を切り取った堀切部分から大手道の東端に下るのだろうが、それにしては大手道へと下る道標はなかったように思う。 太鼓尾根を下ると、今辿ってきたようにその東端は中央高速に架かる不思議な人道橋に至り、橋を渡った先には道がなく、竹藪を藪漕ぎして御霊谷の集落の道にでることになる、と思うのだが。道標の見落としであろう、か。
太鼓尾根分岐を東に下れば、先日辿った地蔵ピークをへて裏高尾の駒木野の小仏関所に出るが、今回は逆に城山尾根を西へと上り返す。太鼓尾根分岐点で少し休憩。

荒井バス停分岐_午後12時14分;標高417m

休憩の後、10分程度で裏高尾への分岐点。「荒井バス停 摺指バス停 駒木野バス停 高尾駅」の道標がある。数年前、この尾根道を裏高尾から上り、工事中の圏央道当たりから山に入り、中央高速に沿って進み尾根へと入っていったのだが、圏央道が完成した現在、ルートはどうなっているのだろう、か。

城山林道からの道の合流点(現在通行禁止)_午後12時17分;標高410m
荒井バス停分岐のすぐ傍に「城山林道」から尾根に上る道の合流点がある。現在岩場の梯子が壊れており「危険 通行禁止」となっていた。

城山川北沢への分岐(標識なし)_12時37分;標高479m
城山林道の合流点当たりからは525mピークに向かって急坂を上り、ピークを越えて下りきったあたりが城山川北沢からの山道の合流点。分岐点の標識はない。当初の予定では、この合流点が見つかれば、そこから御主殿跡へと下ろうと考えていたので、相当真剣に道を探したのだが結局見つからず、富士見台から城山へと向かうことになった。後日地元の方に聞いたところでは、見つけにくいが道はある、とのことであった。

小下沢道分岐(悪路)_12時44分;標高541m
城山川北沢からの合流点辺りからは再び富士見台に向かっての上りが続く。先回は逆の下りだったので、あまり厳しいとも思わなかったのだが、結構きつい上りであった。富士見台の少し手前に小下沢への分岐の道標。悪路とある。どの程度のものか、逆に訪ねてみたくもなる。






富士見台_12時57分;標高542m
小下沢から10分強で富士見台に。今まで数回富士見台に来たが、富士山が見えたのは今回がはじめて。休憩台では数グループが食事をしているのはいつもの通り。







詰の城・大堀切_13時8分;標高463m
富士見台で富士山の眺めを少し楽しみ、休憩することもなく富士見台の直ぐ傍の「陣馬山縦走路分岐点」を右に折れ、詰の城へと向かう。分岐点には「荒井バス停2.7キロ 堂所山(6キロ)・明王峠(7.2キロ)・陣馬山(9.1キロ)」の道標がある。
10分程度、結構急な下りを進むと「詰の城」の西崖となっている「大堀切」に到着。西からの敵の侵攻を防ぐため尾根を断ち切った「大堀切」は、その名の通り、堀切底辺部と詰の城の比高差は10mほどもある巨大なもの。堀切部の幅も広く下辺10m、その幅24mにもなる、と言う。実際この大堀切に下りたって左右の岩場そしてその堀切の幅を眺め、その大きさを実感する。この規模の掘割をおこなうには20名の石切人足が200日かけてはじめて完成する規模のものであると言う(『戦国の終わりを告げた城』)。
大堀切から崖面の道を上り「詰の城」に。「大天守跡」といった石碑の残るこの地は八王子城の西の守りの要衝。尾根道には石垣が組まれと言うし、詰の城から北に横沢へと下る尾根にも石垣が組まれていたようである。また、詰の城から横沢の分岐点までの間には二本の水平道が棚沢を横切って馬冷やしまで続いていた、とのこと。これは棚沢方面からの敵に備えた帯曲とも考えられているようだ。北に下る尾根道を少し下ってみたが、石垣は残っていなかった。

馬冷やし・堀切_13時35分;標高401m
詰の城からおおよそ400m、城山が目の前に聳える姿を見ながら進むと、「詰城 富士見台 北高尾山稜 堂所山」の道標のあるところに出る。大きな堀切となっているが、これは馬廻り道を一周させるため人工的に尾根道を断ち「切り通し」としていると同時に、切り通しの東上にある「無名曲輪」の堀切として、西の尾根道からの敵の防御拠点としている。
また、この地は、馬廻り道、城山裏手の棚沢からく2本の水平道、詰の城からの尾根道、太鼓曲輪や城山川北沢と城山川南沢を分ける丘陵部からいくつかの谷頭を縫ってくる道など多くの道が合流する要衝であった。

馬廻り道(下段)
駒冷やしの堀切からは、いつも歩く山頂要害部の南側を周り井戸のある「坎井(かんせい)」から上段の馬周り道を通り松木曲輪に出るコースと異なり、堀切から山頂要害部の北側をぐるりと回る「下段馬周り道」を辿る。道標もなく、はじめての道で、ちゃんと続いているかどうか定かではないが、とりあえず先に進む。途中切り立った崖面の細路があるなど、ハイキングコースとして案内しない理由も納得。どこに出るのかも分からず進むと、「9合目・高丸」のすぐ上に出た。そこにも道標はなかった。下段馬廻り道は上段馬廻り道のおおよそ20m下を巻いているとのことである。
ここからは下に下りたいところではあるが、同行の元同僚は八王子城址ははじめて。山頂要害部を見ないことにはと、山頂の曲輪跡へと向かう(以下は「八号目・柵門台」まで基本的に、前回メモのコピー&ペースト)

高丸_13時41分;標高431m
下段馬廻り道から城山登山道に出ると、「九号目」と刻まれた石標があり、その右手に「高丸 この先危険」の案内。この案内があるところが「高丸」なのか、案内が示す方角に「高丸」がある狭い台地まで続いかははっきりしないが、崖端から下を見ると尾根筋が高丸の標識に上ってきている。思うに、高丸は先回心源院からの尾根道と城沢道(搦手)道が合流する十字路に、「正面の道は「×急坂」」とあった、その急坂を登りつめた尾根上に築かれた帯曲輪のようである。
名前の由来は、城沢道から山頂要害部が翼を広げた鷹のように見えたから、とか、城沢道が急坂になり、その高まった岩場にあるため、とも(『戦国の終わりを告げた城』)。岩が露出した急斜面に100mに渡って石垣が組まれ、敵の侵入を防いだとのことである。ともあれ、これだけ、どこにも「危険」と書かれては、場所を特定すべく尾根を下ってみようという気持ちにはなれない。

見晴らし
九号目を越えて先に進むと左手の展望が開ける。足元には、八王子城の山裾地区、その先には、城の城下町であった元八王子の丘陵を縫って裏高尾の谷へと進む中央高速が見える。はるか遠く、白いドームが丘陵に頭を出しているが、狭山丘陵の西武球場だろう、か。その右手には新宿の高層ビル群、その右に見える尖塔は東京スカイツリーだろう、か。霞の中にかすかに見える。関東平野が一望のもと、誠に美しいながめである。

休憩所
先に進むと、休憩所のような小屋があり、その脇に「本丸周辺の曲輪」の案内と、その地図がある。案内には「本丸周辺の曲輪;標高460mの深沢山山頂に設けられた本丸を中心に、松木曲輪、小宮曲輪などの曲輪が配地された要害部は、籠城のための施設と考えられている。急峻な地形を利用した山城は、下からは攻めにくく、上から攻撃できる守りには有利な構造になっている。
天正18年(1590)旧暦6月23日、豊臣秀吉の命を受けた前田利家、上杉景勝、真田昌幸らの軍勢に加え、降参した北条勢を加えた数万の大軍が八王子城に押し寄せた。一方、小田原に籠城中の城主北条氏照を欠いた留守部隊は必死に防戦したが、激戦の末、守備した北条方はもちろんのこと、攻めた豊臣方にも多くの犠牲があった」とある。
先回同様に、この小屋の裏手あたりから「小宮曲輪」、そこから「本丸」へと続く道を進む。

小宮曲輪
小屋の裏手の細い道を少し上ると平坦な場所にでる。廃屋となった社跡、狛犬が佇むこの平坦地が小宮曲輪である。脇に立つ案内には「小宮曲輪;狩野一庵が守っていたといわれる曲輪。三の丸とも一庵曲輪とも呼ばれていた。天正18年(1590)6月23日上杉景勝の軍勢の奇襲にあい、落とされた、と。
コラム 八王子城の範囲;北条氏照は、深沢山(城山)を中心とした要害地区、その麓にある居館地区(現在、御主殿跡として整備したあたり)、城山川の谷戸部分にある根小屋地区(現、宗閑寺周辺)、居館地区の南で城山川をはさんだ対岸にある太鼓曲輪地区、太鼓曲輪からのびる丘陵の東端と南端の台地にある御霊谷地区、小田野城のある小田野地区(現、小田野トンネル周辺)というように、八王子城を壮大な城郭として構想していたと考えられる。しかし、八王子城は完成を見ることなく、天正18年(1590)に落城した」とある。
案内に「小宮曲輪は(中略)上杉景勝の軍勢の奇襲にあい、落とされた」とあるが、これは上杉隊の藤田信吉が内通者である平井無辺を道案内に、搦め手口(裏口)から滝の沢川に沿って進み、棚沢方面から崖を這い上がり、背面より小宮曲輪を攻めた、との説(『武蔵名所図会』)ではあろう。この背面からの突如の攻撃により、正面より攻め上る前田勢を防いでいた八王子勢が崩れたとのことである。
攻撃軍の陣立ては諸説あり、大手門(表門口)が上杉勢、搦手口が前田勢、といったものや、大手門口(表門口)は前田勢であるが、上の案内にある太鼓曲輪を上杉勢主力が攻め、その支隊が搦手口から攻め上ったなど、あれこれあり定説はないようだ。

○藤田信吉
上杉隊の藤田信吉とは、もともとは関東管領上杉家の家臣。関東管領方が小田原北条に川越夜戦で敗れたため後北条の家臣に。後北条勢として上杉謙信の跡目争いである御館の乱に出兵。沼田城の城代に。が、後北条に信を置けず真田昌幸の勧めに応じて武田方に。その武田氏が滅亡するに及び関東管領となった織田方の滝川一益に反抗し、上杉景勝のもとに走る。これが、この八王子城攻防戦までの藤田信吉。その後もなかなか面白い動きをする武将である。

本丸
小宮曲輪から本丸へと続く道を進む。小宮曲輪の崖下を見るに、東端は鋭く切り立っており、這い上がるのは大変そうだが、西端辺りからであれば這い上がることもできそうだなあ、などと先回同様の妄想しながら道を進み、左手下に八王子神社を見ながら本丸へと上る。
案内に、「本丸跡:城の中で最も重要な曲輪。平地があまり広くないので大きな建物はなかったと考えられる。ここは横地監物吉信が守っていたと考えられる」。と。本丸とは言うものの、山頂の平坦部は150平米程度で、櫓とか見張りの砦程度しか建たないように思えるので、本丸というより、山頂曲輪とか、天守曲輪といったものである。山頂平坦地には祠と「八王子城本丸址」と刻まれた石碑が建つ。
横地監物は北条氏照不在の八王子城代として戦の指揮をするも、形勢利あらず、と再起を決し城を落ち延びるも、奥多摩にて自決した、とのことである。

中の曲輪
本丸から八王子神社の佇む平坦地に降下りる。この平坦地は山頂曲輪のある主尾根から北に延びる支尾根にある小宮曲輪と南に延びる松木曲輪に挟まれた上下2段からなる曲輪で「中の曲輪」と呼ばれている。八王子神社のある上段はおよそ600平米。石段下の下段部はおよそ500平米と山頂ではもっとも広い曲輪となっている。
上段にある八王子神社とその横に横地社と呼ばれる小さな祠が祀られる。本丸(山頂曲輪)にあった案内によると、「八王子神社と横地社;延喜13年(913)、華厳菩薩妙行が、山中で修行している際に出現した牛頭天王と八人の王子に会ったことで、延喜16年(916)に八王子権現を祀ったといわれる。この伝説に基づき、北条氏照は八王子城の築城にあたり、八王子権現を城の守護神とした。これが「八王子」の地名の起源。
その八王子神社の横にある小さな社は、落城寸前に奥多摩に落ち延びた横地監物が祀られる。もともと、東京都奥多摩町にあったが、ダム建設で湖底に沈んでしまうためにここに移された」、と。
このダムとは東京の上水道水源として昭和32年に竣工した小河内ダムのこと。当時、奥多摩村熱海蛇沢に祀られていた横地社をこの地に遷したわけである。

松木曲輪
中の曲輪の南、小宮曲輪と相まって逆八の字に主尾根から突き出している支尾根上にある。岩山を削って平らにしたような平坦部は900平米。北側中の曲輪との比高差は2、3m。南側には比高差5mほどの下に腰曲輪がある。案内によれば、「松木曲輪:中山勘解由家範が守ってきたといわれる曲輪。中の丸とも二の丸とも呼ばれる。近くには坎井(かんせい)と呼ばれる井戸がある。天正18年(1590)6月23日には前田利家の軍勢と奮戦したが、多勢に無勢で防ぎきれなかった。このときの家範の勇猛さが徳川家康の耳に入り、その遺児が取立てられ、水戸徳川家の家老にまでなった」、とある。
松木曲輪から南に広がる高尾山を眺めながら小休止。本来ならここから富士見台への尾根道を経て裏高尾の旧甲州街道へと向かうのだが、今回同行の元同僚は、八王子城ははじめて。やはり山麓の御主殿跡とか、戦国時代の城では珍しい石垣を案内すべしと、一旦城山を下りることにする。地図を見るに、御主殿跡の先に富士見台から裏高尾へと延びる尾根道への山道らしき案内があるので、うまくいけばその道筋を尾根に向かって上ろう、などとの算段ではあった。

八合目・棚門台跡_午後14時13分;標高362m
城山山頂の要害部をひと回りし、城山を下り八合目・棚門台跡に。「八合目」と刻まれた石標がある。八合目の石標脇には、「松竹橋方面」と書かれた木の標識脇に、「柵門台」と書かれた木標がある。道脇に「柵門跡」の案内。「山頂の本丸方面に続く尾根上に築かれた平坦部。詳しいことはわかっていない」と。『戦国の終わりを告げた城;椚国男(六興出版)』によると、「柵門台は登城口と搦手口から来る道(敵)への関門として山腹の岩を切り取ってつくった50から60平米の舌状地。背後の高さ8mの崖の上にもほぼ平で80平米ほどの広さがあり、上から敵を迎え撃つ防御台である」と。また、「柵門台の入口と出口には柵門が設けられ、山上には出口の柵門から登り、柵門内からは金子曲輪を経て登城口へと下る道と、山王台(注;山裾にある城主の屋敷である御主殿から山頂に上る「殿の道」にある関門)に通じる道があり、五差路となっている」とあった。

山王台_午後14時20分;標高376m
通常、この八合目からは金子丸から馬蹄段を経て登山口である一の鳥居へと下るのだが、今回はこの八合目から辿れるという山王台へと向かうことにする。道案内はないのだが、柵門台の案内のあるあたりの少し北に左へ入る細路があり、これが山王台への道であれかし、と願いながら先へと進む。道は沢頭に沿って通るが、整備されていないようで、少々難儀ではあったが、10分もあるなかいうちに平坦地に出る。そこが山王台であった。
地形図を見ると、山王台は柵門台と沢を隔てた舌状台地上にあり、その広さは80平米ほど。岩を削り取ってつくったものである。「南無妙法蓮華経」と刻れた石碑は昭和8年(1933)に戦いで亡くなった将士の霊を慰めるべく建てられた。

殿の道・石垣群
山王台から御主殿との間は「殿の道」で結ばれていた、と言う。その下り口を探すと、舌状台地南に西に向かって折り返すような小道があった。それが殿の道であろうと。ジグザグの道を下る。
道の途中には何段にもなった石垣群がある。石垣群は全部で4群あり、それぞれの群には数段に分かれて石段が築かれている。崩れている箇所もあるが、結構しっかりと組まれたままの状態で残っている石垣もある。
何故に山腹にこれほどまでの石垣を築いたのか、ということだが、この沢が比較的浅く傾斜であったため、石垣を築き敵が這い上がるのを阻止するため、と言う。
思わぬ石垣群に魅せられながら下山口に。場所は御主殿跡の西北端あたりにある。道標はない。

御主殿跡
御主殿跡は東西約120m、南北45mから60m、およそ4000平米の広い敷地である。案内によると、「八王子城の中心部。城主北条氏照の居館のあったところ。「主殿」「会所」と想定される大型礎石跡や、庭園、敷石通路、水路等の遺構が検出された。主殿では政治向き「の行事が、会所では庭園を眺めながらの宴会などが催された。(中略)会所跡には50cmから80cmの床面を再現し、敷居。間取りも表してある。(中略)遺構の確認された範囲(2900平米)には小舗石を並べ、その範囲を示してある」、とあった。
「御主殿の滝」にあった案内のコラムには「戦国時代はいつも合戦とその準備をしていたイメージがあるが、八王子城から出土した遺構・遺物はそのイメージから程遠い。中国から輸入された五彩ではなやかなお皿で、領国内で取れたアワビやサザエを食べたり、ベネチアでつくられたレースガラス器や信楽焼の花器を飾り、そのもとでお茶をたしなみ、枯山水の庭を眺めてお酒を飲んだ日々が思い浮かばれます。これらの品々はさぞかし北条氏照の心を和ませていたのではないだろうか」と。

御主殿の滝
御主殿跡の西南端から林道に下りる道を下り「御主殿の滝」へ。滝に下りる入口には石仏とともに千羽鶴が祀られる。案内によれば、「落城の際に、御主殿にいた女性やこども、将兵たちが滝の上で自刃し、次々と身を投じたといわれる。その血で城山川の水は三日三晩、赤く染sまったと言われる」、と。合掌。
昔の水勢は知る由もないが、現在は滝壺とは言い難い、ささやかな滝下となっている。滝の上には如何にも水場といった石組みが残る。

櫓門(やぐらもん)
御主殿の滝から再び御主殿跡に戻り、入口の冠木門から石段に出る。25段の石段の途中には櫓門(やぐらもん)の案内。「踊り場から礎石が発見された。東西(桁行)約4.5m、南北(梁間)3.5m。通路の重要な位置にあることから物見や指揮をするための櫓門とも。礎石の傍には排水のための石組側溝も発見されている」、と。

虎口
石段を下りると道は右に折れる。ここは虎口虎口の案内には、「城や曲輪の入口は虎口と呼ばれ、防御と攻撃の拠点となるために工夫がなされている。御主殿の虎口は、木橋を渡った位置から御主殿内部まで、高低差約9mを「コ」の字形の階段通路としているのが特徴。(中略)階段は約5mの幅。途中の2か所の踊り場とともに、全面石が敷かれているのは、八王子城独特のものである」とあった。







曳橋
虎口を左に折れる城山川を跨ぎ御主殿跡と大手道を繋ぐ木製を模した橋がある。大手道の脇にあった案内によると、「コラム曳橋;古道から御主殿に渡るために城山川に架けられた橋。橋台部のみが残っているだけなので、どのような構造の橋が架けられていたかはわかっていない。現在の橋は、当時の道筋を再現するため、現在の技術で戦国時代の雰囲気を考えて木製で架けられた」とあった。
橋脇にも「橋台石垣と曳橋」の案内があり、「当時はこの石垣のうえに簡単な木橋を架け、この橋(曳橋)を壊すことにより敵の侵入を防いだ」と・。

大手道_午前10時28分;標高255m
曳橋を渡り、きれいに整地された大手道を下る。右手の太鼓尾根は先ほど堀切や太鼓曲輪を辿ったところであるなあ、などと想いを巡らしながら山腹中腹の道を下る。道を下り切り、城山川方面へと道が曲がる辺りに木の柵があり、大手道はここで終える。木の柵の脇にある案内には、;「大手道 発掘調査では、当時の道は明確にできなかったが、門跡や橋台石垣の検出、さらに平坦部が尾根の中腹に連続していることから、ここが御主殿にいたる大手道であったことが明らかになった。 現在の道は、この地形を利用して整備したもの。当時は、ここから城山川の対岸にアシダ曲輪や御主殿の石垣、さらに城山の稜線にそって連なる曲輪や建物が見わたせたと思われる」、とある。
現在大手道は、この場所から御主殿跡に向かって整備されているが、既にメモした通り、往昔は、太鼓尾根の南側の御霊谷側に大手口があり、そこから太鼓尾根の東端、現在は中央高速により分断されている「上の山」に上り、太鼓尾根の北側(城下川側)の丘陵中腹を城下川に沿って続き、この地まで続いていた。
御霊谷の谷筋は鎌倉期より開けており、信長の安土城に倣い八王子城を大改修するに際し、大手口を案下谷(恩方谷)から御霊谷。に移し、御霊谷川の左岸に朱色の御霊谷門が食い違い虎口,内枡形などを伴い建っていた、と。 この大手道は「上の道」と呼ばれ、家臣が公用路として通る道であり、基準幅8m、それより広い箇所が5か所、狭いところが3か所といった立派なものであった、とか。

○上の道
上の道の名残はないものかと木の柵を越え、小道に入る。木々の間の踏み分け道を進むも、次第に踏み分け道もなくなり、城山川の傍の藪に入り込み、今回はそこで撤退。冬になって藪が減った時にもう一度歩いてみようと思う。






山下曲輪
上の道跡といった小道を大手道の木の柵まで戻り、城山川を渡り山下曲輪に。山下曲輪は大きく二段に分かれる。南と東に土塁が築かれ、曲輪の東北隅に御主殿や山上への小道が通じ、東と南からの敵の侵攻を防ぐ山麓の最重要拠点であった。上段には観音堂が佇む。数年前八王子城訪れたときは自由にお参りできたのだが、現在は「私有地につき立ち入り禁止」となっていた。






近藤曲輪
山下曲輪から花かご沢の深いV字の谷を隔てた一帯が近藤曲輪。現在は公園となっている。空堀とか馬防柵があったとのことだが、特に案内もないようで、今回は公園にあるジオラマで本日辿った山稜を確認するに留める。もうあれこれ調べる気力も体力も少々乏しくなっているようである、


八王子城跡ガイダンス施設
近藤曲輪からすぐ傍の「八王子城跡ガイダンス施設」に。今年(2013年)の4月にできたばかりとのこと。八王子城合戦のビデオや資料を眺め、道脇の中山勘解由屋敷跡の案内を眺め、霊園口のバス停に本日の散歩を終える。
 八王子城址は幾度か訪ねている。オーソドックスに表口の宗閑寺方面からアプローチし城山や御主殿跡を歩いたり、裏高尾の荒井バス停方面から尾根に這い上がり富士見台を経て城山へと向かったり、城主北条氏照の居城を歩こうと八王子城から滝山城へと向かったこともある。
散歩のメモは八王子城から滝山城へのルートは書き残しておいたのだが、八王子城そのものについてのメモは今一つ気乗りしなかった。その最大の理由は、八王子の城山から北の恩方谷へと下る道が地図にあるのだが、どうしても見つけることができず、なんとなくピースの一片がかけているような感じがし、メモをするのはこの城の搦手口へのルートを辿った後にまとめようと思っていたわけである。
今回のルートを選ぶに、城山からの下り口が見つけられないのであれば、逆に恩方谷から城山に向かえばいいか、などと、ルートをチェック。結果、選んだルートは信玄の娘ゆかりの心源院から尾根道を城山に辿るルート。搦め手口から城山に上るには滝沢川に沿って城沢を上るのがオーソドックスではあろうが、心源院=松姫というキーワードに抗することができず、今回のコース設定となったわけである。
で、散歩を終えメモをとりはじめ、八王子城攻防戦での搦手口から攻め上った上杉勢のことなどを知るにつけ、はやり滝沢川、棚沢、横沢といった辺りを歩かなければ、などと思ったり、また、城の縄張りなどを知るにつけ、八王子城の南の外郭といった位置づけの太鼓尾根の堀切や曲輪、そしてその尾根の中腹を通ったという「登城道」なども辿りたい、と言うことで結局連続して3回の八王子城址散歩となってしまった。 今回は八王子城址散歩メモの一回目。太鼓尾根にある堀切といった、ちょっとディープな八王子城址散歩のきっかけともなった散歩もある。同行者は元会社の仲間。ルートは心源院から尾根道を上り城山山頂の八王子城遺構を訪ね、そこから山裾の館跡に下る。そこからは城山川を少し上流に進み、地図にある城山川北沢の北の山道を富士見台近くの尾根まで上り、そこから尾根道を裏高尾に向かって下ろう、といったもの。が、実際は、城山川北沢からの山道の入口が見つけられず、結局再び城山山頂まで戻り、詰の城への尾根道を辿り富士見台を経て裏高尾に下ることになった。おおよそ6時間、12キロ程度の散歩となった。心源院からの尾根道ははっきりしたルート図があるわけではないのだが、山のベテランである元同僚Tさんと一緒であるので、怖がりの小生には心強きパートナーである。



本日のルート;JR中央線高尾駅>河原宿大橋バス停>鎌倉街道山の道>心源院>秋葉神社>寺の谷戸・寺の西谷戸>285mピーク>見晴台>131nnし基準点>368mピーク>搦手道(城沢道)との合流点>八合目・棚門台>九合目・高丸>見晴らし>休憩所>小宮曲輪>本丸>八王子神社・中の曲輪>松木曲輪>中の曲輪>下山>金子曲輪>馬蹄段>二の鳥居>山下曲輪>林道>大手前広場大手道>曳き橋>御主殿跡>御主殿の滝>城山川上流端>(山頂に)>高尾・陣馬樹走路道標>坎井(かんせい>堀切>馬冷やし>詰の城>大堀切>陣馬山縦走路分岐点>富士見台>城山北沢方面分岐>荒井バス停・摺指バス停分岐>太鼓尾根分岐>地蔵ピーク>中央高速交差>駒木野・小仏関所跡>JR高尾駅

JR中央線高尾駅
JR中央線高尾駅で下車。駅前のバス乗り場より、最初の目的地である心源院の最寄りのバス停・川原宿大橋に向かう。バスは大久保行きのほか、陣馬高原行き、室生寺団地行き、恩方車庫行き、美山行きなど、でも川原宿大橋のバス停に行くようではある。
駅前を離れ、バスは北に向かう。この道は都道46号、別名、「高尾街道」と呼ばれる。高尾街道はJR高尾駅からはじまり、北東に上り「滝山街道」の戸吹交差点で終える。高尾街道は別名「オリンピック道路」とも呼ばれる。東京オリンピックのとき、自転車ロードレースのコースであった。

廿里(とどり)古戦場
南浅川にかかる敷島橋を渡ると、道は山裾を縫って上る。坂道の途中には「廿里(とどり)古戦場の碑」がある。小田原北条と武田の古戦場跡。永禄12年(1569年)、武田軍主力が上州の碓氷峠を越えて武蔵に侵攻。小田原攻略のためである。で、この八王子に南下し北条の戦略拠点である滝山城を攻める。この主力部隊に呼応し、小仏峠筋より奇襲攻撃をかけたのが大月城主・小山田信茂。難路・険阻な山塊が阻む小仏筋からの部隊侵攻を想定していなかった北条方は急遽、この廿里に出陣。合戦となるもあえなく武田軍に敗れた。北条氏がこの地の主城を滝山城から八王子城に移したのも、この負け戦が大きな要因、とか。小仏筋からの侵攻に備え、小仏・裏高尾筋を押さえる位置に城を築いたわけである。

都道61号
森林総合研究所のある山裾の坂道を上る。多摩森林科学館前交差点で大きな道路に合流。甲州街道の町田街道入口からのびる高尾街道のバイパスである。合流点より先にも上り坂。左右は緑の山稜。道の東は多摩御陵、多摩東陵、武蔵野陵といった皇室のお墓。道の西は森の科学館が広がる。豊かな緑を目にしながら坂を下ると城山大橋の三叉路。高尾街道は北東に進むが、バスは高尾街道を離れ、都道61号に乗り換え三叉路を北西方向に進む。
新宮前橋で北淺川の支流・城山川を渡り、少し進むと宮の前交差点。宮前とか宮の前といった地名があるのは、道の東にある八幡様に由来する。この八幡様は鎌倉幕府の御家人・梶原景時が建てたと言われる。鎌倉の鶴ケ岡八幡の古神体をこの地に奉祀したもの、とか。

河原宿大橋バス停


バスは中央高速の高架をぐぐり、八王子城跡入口交差点に。ここはオーソドックスなルートで八王子城址に行くバス停である。今回はこのルートを避けて、八王子城址のある深沢山の北からのアプローチであるため先に進み、左右に霊園の広がる丘を上る。坂を下り切るとまたまた前方に上り道。この上り道をそのまま進み小田野トンネルを抜け、河原宿大橋バス停で下車。小田野トンネル上の丘陵には小田野城址が残る。
○小田野城
小田野城は八王子城主・北条氏照の家臣小野田太左衛門屋敷があり、八王子城の出城のひとつと言われる、城は天正18年(1590)の八王子城攻防戦の際、城の搦手口(城の表口である大手門に対し、「裏口」にあたる搦手門のある場所)を攻めた上杉景勝の軍勢により落城した。

鎌倉街道山の道・深沢橋
北浅川に架かる河原宿大橋を折り返し、橋の南詰より川に沿って上流に続く小道にはいり、深沢橋のある通りに出る。深沢橋のある通りはその昔の「鎌倉街道山の道」である。「鎌倉街道山の道」は高尾駅辺りからはバス道とほぼ同じルートを進むが、都道61号の左右に霊園の広がる丘を上り、道が再び上って小田野トンネルに入る手前で左に折れ、この地に至る。
深沢橋を渡った鎌倉街道は、一旦陣馬街道に出るが、そこを右に折れ「川原宿」交差点に向かい、そこからまた都道61号を北に向かう。川原宿って、いかにも宿場といった名前。陣場街道の宿場であったのか、と、チェック。が予想に反し、陣場街道という名前は最近付けられた、とか。東京オリンピックの頃と言う。それまでは案下道とか、佐野川往還と呼ばれ、和田峠を越えて藤野・佐野川に通じていた。街道筋には、四谷宿(八王子市四谷)、諏訪宿(八王子市諏訪)、川原宿、高留宿(上恩方町;夕焼け小焼けの里のあたり)といった宿場があった。
この案下道は、厳しい小仏関のある甲州街道を嫌い、江戸と甲州を結ぶ裏街道として多くの人が利用したと言う。因みに「案下」とは仏教の案下所から。修行を終え入山する僧が準備を整え出発する親元(親どり;親代わり)の家のこと。なんともいい響きの名前だ。また、この辺りの地名である恩方も美しい響き。奥方が変化した、との説がある。山間の奥の方、と言うところだろうか。
○鎌倉街道山の道
鎌倉街道とは世に言う、「いざ鎌倉」のときに馳せ参じる道である。もちろん軍事面だけでなく、政治・経済の幹線として鎌倉と結ばれていた。鎌倉街道には散歩の折々に出合う。武蔵の西部では「鎌倉街道上ノ道」、中央部では「鎌倉街道中ノ道」に出合った。東部には千葉から東京湾を越え、金沢八景から鎌倉へと続く「鎌倉街道下ノ道」がある、と言う。
「鎌倉街道上ノ道」の大雑把なルートは;(上州)>児玉>大蔵>苫林>入間川>所沢>久米川>恋ケ窪>関戸>小野路>瀬谷>鎌倉。「鎌倉街道中ノ道」は(奥州)>古河>栗橋>鳩ヶ谷>川口>赤羽>王子>二子玉川> 荏田>中山>戸塚>大船>鎌倉、といったものである。
鎌倉街道といっても、そのために特段新しく造られた道というわけではないようだ。それ以前からあった道を鎌倉に向けて「整備」し直したといったもの。当然のこととして、上ノ道、中ノ道といった主要道のほかにも、多くの枝道、間道があったものと思える。 で、この鎌倉街道山ノ道、別名秩父道と呼ばれる。鎌倉と秩父、そしてその先の上州を結ぶもの。鎌倉からはじめ、南町田で鎌倉街道上ツ道と別れ。相原、相原十字路、七国峠を越えて高尾に至り、高尾から北は、秋川筋に、次いで青梅筋、名栗の谷、そして最後は妻坂峠と、幾つかの峠、幾つかの川筋を越えて秩父に入る。

心源院_午前7時45分;標高189m
深沢橋から少し南に戻り、大きな石の柱を目印に心源院に。山号は「深沢山」。八王子城の築かれている山の名前である。深沢はこの深沢山の山麓から流れ出す滝沢川が刻む棚沢とか横沢といった深い沢を現すように思える。深沢山の南側にそれほどに深く刻まれた沢は見られない。
城山を山の北側(裏側)から眺めた姿で形容するということは、ちょっと不自然。築城当時の八王子城大手口は後世のそれとは異なり,この滝沢川側にあったのではないだろう、か。城の北側の案下道は甲斐に通じる要衝路であるし、室町に遡る古刹も城山の北側に多い。心源院の山号からちょっと妄想を拡げてしまったが、識者の中には築城当初は山の北側にあった可能性を示唆する方もいるようだ。
とは言うものの、城山のある深沢山は慈根寺山、牛頭山とも称される。慈根寺(じごうじ)は先ほどバスで通過した、宮の前付近の元八王子の古い名である古神護寺村に由来する。延喜の頃華厳菩薩がこの地へ八王子権現を勧請しその別当寺を神護寺(神宮寺)と称したわけだが、それが村名となり、またそこのあった西明寺の山号に「音」をあてて、慈根寺山としたと言う。また、牛頭山も八王子城址へと表口から向かう途中にある宗閑寺の前身の牛頭山寺に由来する、とも。とすれば、城山の北側、深沢谷に大手口があった、というのはちょっと説明が苦しくなってくる。


根拠のない妄想はこのくらいにして心源院に入る。広い境内の奥に本堂。広い境内の割に堂宇が少ないのは、昭和20年(1845)の八王子大空襲で七堂伽藍すべてが灰燼に帰したため。現在の本堂も昭和47年(1972)に再建されたもの。お寺の東側に10mほどの高さの台地があるが、それは八王子城の土塁跡とのこと。城山北側から尾根道を八王子城へと進軍する秀吉方への防御拠点として、小田野城(心源院の少し東)、浄福寺城(心源院の少し西)とともに、心源院も砦として組み込まれていたのであろう。そのためもあってか、小田原合戦の際、豊臣勢の上杉景勝の軍勢との攻防戦の際に焼失している。更には江戸時代の河原宿の大火でも延焼しているため、古文書などは残っていないようである。

この寺はもともとはこの地に勢力を誇った武蔵国の守護代である大石定久が開いた寺。滝山城を築き北条と覇を競った大石氏であるが、北条の力に敵わずと北条氏照を女婿に迎えに滝山城を譲り、自らは秋川筋の戸倉城に隠居した。
とはいうものの、木曾義仲を祖とする名門・大石氏は北条に屈するのを潔しとせず、面従服背であった、とも。大石氏ゆかりの地には散歩の折々に出会う。戸倉城山にも上り、結構怖い思いもした。多摩の野猿街道あたりにも大石氏にまつわる話もあった。東久留米の古刹浄牧院も滝山城主大石氏が開いた、と。この大石定久の最後については、よくわかっていないようだ(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)



○松姫
この心源院は武田信玄の娘である松姫ゆかりの寺である。武田家滅亡の折り、甲斐よりこの地に逃れた悲劇の姫として気になる存在である。7 歳で信長の嫡男・信忠と婚約。元亀3年(1572)武田と徳川が争った三方原の合戦に織田が徳川の味方をした。ために、婚約は破棄。松姫11歳の時である。元亀4年(1573)信玄、没するにおよび、兄の仁科盛信の居城・高遠城に庇護される。が、天正10年(1582)、信長の武田攻めのため、盛信や小山田信繁の姫を護って甲州を脱出。道無き道を辿り、和田峠を越え、陣馬山麓の金照庵に逃れ、北条氏照の助けを求めた、と。もっとも、松姫の脱出路は諸説ある。先日大菩薩峠を越えた時、牛尾根の東端に松姫峠があった。伝説では、松姫はこの峠を越えた、と言う。
天正10年(1582)、武田勝頼は天目山で自害し武田家滅亡。この武田攻めの総大将は元の婚約者織田信忠。何たる因縁。信忠は松姫を救わんと迎えの使者を派遣せんとするも、本能寺の変が勃発。信長共々信忠自刃。何たる因縁。
ともあれ、金照庵から移ってきたのが、この心源院。22歳のとき。ここで出家し信松尼となる。しかし、この心源院も八王子合戦で焼失し、天正18年(1590)、八王子市内にある草庵に移り、近辺の子どもに読み書きを教えながら、幼い姫君を育て上げた、と。八王子は武田家遺臣が多く住む。八王子千人同心しかりである。大久保長安を筆頭とする武田家遺臣の心の支えでもあった、とか。
松姫の悲劇で思い出す姫君が源頼朝の娘・大姫。木曾義仲の嫡子・義高との婚約。が、義仲と頼朝の争い。頼朝の命による義高の誅殺。頼朝・政子に心を閉ざし生きる大姫。唐木順三さんの『あずまみちのく(中公文庫)』の大姫の記事などを思い出す。v

秋葉神社
さてと、心源院から八王子城へと延びる尾根に取りつくことにする。心源院の境内の南端に舌状に伸びる尾根・丘陵部の先端部が落ちる。丘陵裾に鳥居があるが、それは丘陵上に鎮座する秋葉神社の鳥居。
丘陵に取りつき、折れ曲がった小道を上り、竹林の中を進むと道は二手に分かれるが、その先で合流していた。S字状の参道らしき道を進むと秋葉神社の境内に到着。これといって由来書はない。お参りを済ませ、社殿の左手にある、少々錆びついた「八王子城址に至る」の道標に従い先に進むと、ささやかな祠がある。その祠の左側に細路があり尾根道に入って行く。笹竹なども茂が道はしっかりしている。

寺の谷戸・寺の西谷戸
尾根道に入り少し進み、「寺の谷戸」を隔てた短い舌状の支尾根(東尾根)との分岐点を超えると西側が開ける。寺の西谷戸を隔て、植林のためだろうか禿坊主となった長い尾根(北尾根)が北に見える。このふたつの尾根が合わさる285mピークの辺りに「向山北砦」とも、「北遠見番所」とも称される見張り台があったようである。とりあえず、この285ピークを目指して尾根道を進む。

285mピーク_午前8時9分
同行者がいるからいいようなものの、ひとりでは心細くて引き返しそうな踏み分け道を先に進む。道がふたつに分かれているところの木に青色のテープ。八王子城址は左手の踏み分け道に入るが、右に進むと285mピーク。往昔このピークの辺りにあった見張台・番所で心源院方面からの東尾根道を攻めてくる敵勢とともに、北尾根の東の谷であり、八王子城の搦手口である、滝沢川沿いの松竹口方面からの敵情を見張っていたのだろう。

見晴台_午前8時15分
285mピークから分岐点まで戻り(1分もかからない)、城址に向かって青いテープを左に入り、常緑樹の繁るゆるやかなアップダウンの続く尾根道を進む。道が心持ち傾斜するあたりで道が分岐する。ここにも木に青いテープがまかれているが、小さいテープであるので見逃してしまいそうである。
八王子城址はここを右手に進むが、左手に進むと見晴らしのいい場所がある、と。いくつかの資料に「大六天曲輪」が登場するが、この地が大六天曲輪かとも思い、ちょっと寄り道。木々が生い茂り見晴らしはそれほどよくないが、右手は奥多摩、正面は都心方面の180度景観が広がる。

131基準点_午前8時37分;標高328m
緩やかなアップダウンを繰り返し尾根道を進み、少しの上りを越えると東西に延びる尾根にあたる。木の白のテープに右方向のサインがあり、尾根を少し右に進むとちょっとした高みがあり、そこに「八王子市道路台帳1級基準No.131」と刻まれた石標が埋め込まれていた。
この基準点は緯度経度・標高などが正確に測量された三角点、水準点、電子基準点など、国が設置した基準点を補完するために地方公共団体が設置した基準点であろう。一等三角点の設置間隔は40キロ、二等三角点は25キロ、1級基準点の点間距離は1キロ、とのことである。

368mピーク_午前8時42分
131基準点を南に下り、東に流れるふたつの支尾根をやり過ごし、尾根道のピーク部分を南に進むと368mピーク。とりたてて標識はない。ここまでくればもう支尾根に迷い込む心配もなく、南に伸びる尾根道を滝沢川沿いの松竹方面からの搦手道との合流点に進むだけである。松竹口からの搦手道は、滝沢川の支流である棚沢に入り、清滝不動のあたりで棚沢の支沢である城沢に沿って八王子城へと上る道筋である。

搦手道(城沢道)との合流点_午前8時56分;標高362m
368mピークからはゆるやかな尾根道、そして下り、その下りも結構な勾配もあり慎重に進み鞍部に下りる。鞍部を越えると再びちょっとした上りとなり、そこを越え鞍部に下りると道は十字路になっている。搦手道(城沢道)との合流点である。
十字路にはいくつものささやかな道標がある。右手からの搦手道(城沢道)は 「松竹方面」,「松竹橋(バス停)」,「松竹ばしへ40分」、 左手に下る道は「八王子城跡20分」,「しろ山へ」、 正面の道は「×急坂」、今登ってきた道は「霊園方面」,「行き止まり」とあった。

八合目_午前9時;標高362m
十字路を左に下りる道を進むと小道に合流。この道は八王子大手口方面から八王子城址の山中遺構、山頂遺構、八王子神社などへと上るふたつの登山道である新道と旧道(2013年5月現在倒木のため。登山口辺りは閉鎖中)のうち、旧道の道筋である。旧道との合流点を少し進むと新道と合流。「八合目」と刻まれた石標がある。

○柵門台 
八合目の石標脇には、「松竹橋方面」と書かれた木の標識脇に、「柵門台」と書かれた木標がある。道脇に「柵門跡」の案内。「山頂の本丸方面に続く尾根上に築かれた平坦部。詳しいことはわかっていない」と。これではなんのことかわからないので、チェック。
『戦国の終わりを告げた城;椚国男(六興出版)』によると、「柵門台は登城口と搦手口から来る道(敵)への関門として山腹の岩を切り取ってつくった50から60平米の舌状地。背後の高さ8mの崖の上にもほぼ平で80平米ほどの広さがあり、上から敵を迎え撃つ防御台である」と。また、「柵門台の入口と出口には柵門が設けられ、山上には出口の柵門から登り、柵門内からは金子曲輪を経て登城口へと下る道と、山王台(注;山裾にある城主の屋敷である御主殿から山頂に上る「殿の道」にある関門)に通じる道があり、五差路となっている」とあった。
坂道を進み、登山道を脇に入り柵門台の崖の端へと向かう。端から柵門台下を眺め比高差を崖上から実感し、登山道へと戻る。なお、山王台への道標はない。柵門台の案内のあるあたりの少し北に左へ入る細路を進むと山王台に至る。

高丸
八合目から、山頂の遺構群へと向かう。道を進むと「九号目」と刻まれた石標があり、その右手に「高丸 この先危険」の案内。この案内があるところが「高丸」なのか、案内が示す方角に「高丸」がある狭い台地まで続いかははっきりしないが、崖端から下を見ると尾根筋が高丸の標識がている。思うに、高丸は先ほど心源院からの尾根道と城沢道(搦手)道が合流する十字路に、「正面の道は「×急坂」」とあった、その急坂を登りつめた尾根上に築かれた帯曲輪のようである。
名前の由来は、城沢道から山頂要害部が翼を広げた鷹のように見えたから、とか、城沢道が急坂になり、その高まった岩場にあるため、とも(『戦国の終わりを告げた城』)。岩が露出した急斜面に100mに渡って石垣が組まれ、敵の侵入を防いだとのことである。ともあれ、これだけ、どこにも「危険」と書かれては、場所を特定すべく尾根を下ってみようという気持ちにはなれなかった。

見晴らし
九号目を越えて先に進むと左手の展望が開ける。足元には、八王子城の山裾地区、その先には、城の城下町であった元八王子の丘陵を縫って裏高尾の谷へと進む中央高速が見える。はるか遠く、白いドームが丘陵に頭を出しているが、狭山丘陵の西武球場だろう、か。その右手には新宿の高層ビル群、その右に見える尖塔は東京スカイツリーだろう、か。霞の中にかすかに見える。関東平野が一望のもと、誠に美しいながめである。

休憩所
先に進むと、休憩所のような小屋があり、何気なく小屋に近づくと、その脇に「本丸周辺の曲輪」の案内と、その地図があった。案内には「本丸周辺の曲輪;標高460mの深沢山山頂に設けられた本丸を中心に、松木曲輪、小宮曲輪などの曲輪が配地された要害部は、籠城のための施設と考えられている。急峻な地形を利用した山城は、下からは攻めにくく、上から攻撃できる守りには有利な構造になっている。
天正18年(1590)旧暦6月23日、豊臣秀吉の命を受けた前田利家、上杉景勝、真田昌幸らの軍勢に加え、降参した北条勢を加えた数万の大軍が八王子城に押し寄せた。一方、小田原に籠城中の城主北条氏照を欠いた留守部隊は必死に防戦したが、激戦の末、守備した北条方はもちろんのこと、攻めた豊臣方にも多くの犠牲があった」とあった。
地図を見ると、この小屋の裏手あたりから「小宮曲輪」、そこから「本丸」へと続く道が描かれている。今まで数度八王子城跡の山頂には来てはいるのだが、例の如く事前準備なしの、お気楽散歩であるので、小宮曲輪にも本丸にも訪れたことがなかった。今回の偶然の出合いに感謝しまずは小宮曲輪に。

小宮曲輪
小屋の裏手の細い道を少し上ると平坦な場所にでる。廃屋となった社跡、狛犬が佇むこの平坦地が小宮曲輪である。脇に立つ案内には「小宮曲輪;狩野一庵が守っていたといわれる曲輪。三の丸とも一庵曲輪とも呼ばれていた。天正18年(1590)6月23日上杉景勝の軍勢の奇襲にあい、落とされた、と。
コラム 八王子城の範囲;北条氏照は、深沢山(城山)を中心とした要害地区、その麓にある居館地区(現在、御主殿跡として整備したあたり)、城山川の谷戸部分にある根小屋地区(現、宗閑寺周辺)、居館地区の南で城山川をはさんだ対岸にある太鼓曲輪地区、太鼓曲輪からのびる丘陵の東端と南端の台地にある御霊谷地区、小田野城のある小田野地区(現、小田野トンネル周辺)というように、八王子城を壮大な城郭として構想していたと考えられる。しかし、八王子城は完成を見ることなく、天正18年(1590)に落城した」とある。

案内に「小宮曲輪は(中略)上杉景勝の軍勢の奇襲にあい、落とされた」とあるが、これは上杉隊の藤田信吉が内通者である平井無辺を道案内に、搦め手口(裏口)から滝の沢川に沿って進み、棚沢方面から崖を這い上がり、背面より小宮曲輪を攻めた、との説(『武蔵名所図会』)ではあろう。この背面からの突如の攻撃により、正面より攻め上る前田勢を防いでいた八王子勢が崩れたとのことである。
攻撃軍の陣立ては諸説あり、大手門(表門口)が上杉勢、搦手口が前田勢、といったものや、大手門口(表門口)は前田勢であるが、上の案内にある太鼓曲輪を上杉勢主力が攻め、その支隊が搦手口から攻め上ったなど、あれこれあり定説はないようだ。
○藤田信吉
上杉隊の藤田信吉とは、もともとは関東管領上杉家の家臣。関東管領方が小田原北条に川越夜戦で敗れたため後北条の家臣に。後北条勢として上杉謙信の跡目争いである御館の乱に出兵。沼田城の城代に。が、後北条に信を置けず真田昌幸の勧めに応じて武田方に。その武田氏が滅亡するに及び関東管領となった織田方の滝川一益に反抗し、上杉景勝のもとに走る。これが、この八王子城攻防戦までの藤田信吉。その後もなかなか面白い動きをする武将である。

本丸_午前9時20分;標高449m
小宮曲輪から本丸へと続く道を進む。小宮曲輪の崖下を見るに、東端は鋭く切り立っており、這い上がるのは大変そうだが、西端辺りからであれば這い上がることもでいそうだなあ、などと妄想しながら道を進み、左手下に八王子神社を見ながら本丸へと上る。
案内に、「本丸跡:城の中で最も重要な曲輪。平地があまり広くないので大きな建物はなかったと考えられる。ここは横地監物吉信が守っていたと考えられる」。と。本丸とは言うものの、山頂の平坦部は150平米程度で、櫓とか見張りの砦程度しか建たないように思えるので、本丸というより、山頂曲輪とか、天守曲輪といったものである。山頂平坦地には祠と「八王子城本丸址」と刻まれた石碑が建つ。
横地監物は北条氏照不在の八王子城代として戦の指揮をするも、形勢利あらず、と再起を決し城を落ち延びるも、奥多摩にて自決した、とのことである。

中の曲輪
本丸から八王子神社の佇む平坦地に降下りる。この平坦地は山頂曲輪のある主尾根から北に延びる支尾根にある小宮曲輪と南に延びる松木曲輪に挟まれた上下2段からなる曲輪で「中の曲輪」と呼ばれている。八王子神社のある上段はおよそ600平米。石段下の下段部はおよそ500平米と山頂ではもっとも広い曲輪となっている。
上段にある八王子神社とその横に横地社と呼ばれる小さな祠が祀られる。本丸(山頂曲輪)にあった案内によると、「八王子神社と横地社;延喜13年(913)、華厳菩薩妙行が、山中で修行している際に出現した牛頭天王と八人の王子に会ったことで、延喜16年(916)に八王子権現を祀ったといわれる。この伝説に基づき、北条氏照は八王子城の築城にあたり、八王子権現を城の守護神とした。これが「八王子」の地名の起源。
その八王子神社の横にある小さな社は、落城寸前に奥多摩に落ち延びた横地監物が祀られる。もともと、東京都奥多摩町にあったが、ダム建設で湖底に沈んでしまうためにここに移された」、と。
このダムとは東京の上水道水源として昭和32年に竣工した小河内ダムのこと。当時、奥多摩村熱海蛇沢に祀られていた横地社をこの地に遷したわけである。

松木曲輪
中の曲輪の南、小宮曲輪と相まって逆八の字に主尾根から突き出している支尾根上にある。岩山を削って平らにしたような平坦部は900平米。北側中の曲輪との比高差は2、3m。南側には比高差5mほどの下に腰曲輪がある。案内によれば、「松木曲輪:中山勘解由家範が守ってきたといわれる曲輪。中の丸とも二の丸とも呼ばれる。近くには坎井(かんせい)と呼ばれる井戸がある。天正18年(1590)6月23日には前田利家の軍勢と奮戦したが、多勢に無勢で防ぎきれなかった。このときの家範の勇猛さが徳川家康の耳に入り、その遺児が取立てられ、水戸徳川家の家老にまでなった」、とある。
松木曲輪から南に広がる高尾山を眺めながら小休止。本来ならここから富士見台への尾根道を経て裏高尾の旧甲州街道へと向かうのだが、今回同行の元同僚は、八王子城ははじめて。やはり山麓の御主殿跡とか、戦国時代の城では珍しい石垣を案内すべしと、一旦城山を下りることにする。地図を見るに、御主殿跡の先に富士見台から裏高尾へと延びる尾根道への山道らしき案内があるので、うまくいけばその道筋を尾根に向かって上ろう、などとの算段ではあった。

金子丸
松木曲輪を離れ、中の曲輪に下り、先ほど上ってきた九号目、八合目までと下り、右側に梅林の見えるあたりの「金子丸」に。案内に「金子三郎右衛門家重がまもったといわれる曲輪。尾根をひな段状に造成し、敵の侵入を防ぐ工夫をしている(後は略)」。ひな段状とは上下二段の平坦部に分かれ、上段はおよそ60平米程度、下段はおよそ400平米。下段の下には七段の馬蹄段を設け敵の侵入を防ぐ。この曲輪はこの馬蹄段や梅林のあるあたりの緩斜面を這い上がる敵と、登城門から柵門台へと攻め上る両面の防御を受け持ち、八王子合戦の時には激戦となった曲輪ではあろう。

馬蹄段
金子丸から、7段あるという馬蹄段を眺めるながら下る。結構しっかり残っている。馬蹄段とは馬蹄形の曲輪を階段状に並べたものであり、階段状曲輪とも呼ばれるようである。登山道は馬蹄段の北端を下る。

二の鳥居
馬蹄段を過ぎ、道端に石垣らしき遺構を眺めながら下ると「二の鳥居」。鳥居の辺りで山頂へと向かう登山道の新道と旧道(2013年5月現在閉鎖中)が分かれるが、このあたりに登城門(城戸)があった、と。登城門とは、小宮曲輪の案内にあった「城山川の谷戸部分にある根小屋地区(現、宗閑寺周辺)」に住んでいた家臣が御主殿とか山上に上るために通る門のこと。
往昔の登城門への道は、現在の一の鳥居から直線に上る参道(登山道)の南側にあり、登城門から20mほど下ったところでL字形に曲がり、城山川の支沢である花かご沢川を越えて「近藤曲輪」方面に繋がっていたようである(『戦国の終わりを告げた城』)。 なお、家臣が通用路として登城門へと向かう道は「下の道」、家臣が公用路として登城する道は「上の道」と呼ばれ別々になっていた。大雑把に言って「下の道」は城下川の北、「上の道」は城下川の南、小宮曲輪の案内に「居館地区(注;御主殿地区)の南で城山川をはさんだ対岸にある太鼓曲輪」のある太鼓尾根を南から越えて丘陵の中腹を御主殿地区へと向かっていたようである。

山下曲輪
一の鳥居を越えると深く切れ込んだ「花かご沢川」の橋を渡る。この「花かご沢川」の北というか東側が「近藤曲輪」、沢の南と言うか西が「山下曲輪」である。花かご沢の深いV字の谷が山下曲輪の堀の役割を果たしているようである。近藤曲輪は現在公園として整備されており、広い平坦地となっているが、かつては東京造形大学の学舎が建っていたようである。今回は近藤曲輪は眺めるだけで、山下曲輪にある管理棟で地図など資料を手に入れる。
山下曲輪は大きく二段に分かれる。南と東に土塁が築かれ、曲輪の東北隅に御主殿や山上への小道が通じ、東と南からの敵の侵攻を防ぐ山麓の最重要拠点であった。上段には観音堂が佇む。数年前八王子城訪れたときは自由にお参りできたのだが、現在は「私有地につき立ち入り禁止」となっていた。

アシダ曲輪
山下曲輪を離れ御主殿跡へと向かう。管理棟のあるところから坂を下り、城山川沿いの林道に下りる。林道の右手、山下曲輪と御主殿との間にはアシダ曲輪がある。比高差は20mほどである。「アシダ蔵」との記録があり、「足駄の形をした蔵」があった、とも。また、曲輪の西側、御主殿に近い地区は、現在残る御主殿ができる前の御主殿があった場所とも言われる。アシダ曲輪と御主殿は細い沢で隔てられ、小橋で連絡していたようである。

林道
城山川に沿って林道を進む。この林道の原型ができたのは江戸の頃といわれる。江戸時代、八王子城のある深沢山は幕府の直轄林として代官・江川太郎左衛門のもと植林が進み、この山は「江川御山」とも呼ばれていた。『多摩歴史散歩2佐藤孝太郎(有峰書店)』によると、現在城跡の東にある宗閑寺方面から一直線で結ばれえている道は大正時代に造られたものであり、それ以前は道らしきものもなく、明治の日露戦争のときになってはじめて、江川御林を伐り出す必要が生じたために道がつくられた、とのことであるので、本格的に林道として整備されたのは明治以降ではあろう・

ちょっと脱線;八王寺城があった頃は宗閑寺あたりの根小屋地区(山麓の家臣団の住居地区)から登城門へと向かう「下の道」はあったにせよ、それは通用路であり、現在の立派な車道の南、城山川にそった小道程度のものだろう。初めて八王子城を訪れたときは、城正面に続く大きな道を見て、なんと正面が無防備な城なんだろう、などとおもったのだが、当時は道もなく、川をせき止めれば泥沼地と化すような地形であり、むしろ攻めるに困難な地形だったのかとも思えてきた。実際豊臣勢も太鼓尾根といった尾根筋から攻め入ったとの話もあり、現在の地形をもって、昔を安易に妄想するなかれ、との戒めを再確認。

大手門前広場
ともあれ、昔はなかったであろう林道を少し進むと木橋に似せた橋があり、そこで城山川の右岸に渡る。前面を塞ぐのは太鼓尾根である。
橋を渡ると広い平坦地となっている。『戦国の終わりを告げた城』にあった、「大手前広場への寺院移転計画にともなうブルドーザーでの整地」、また、「民間企業が倉庫を造るためにブルドーザーを入れ約2ヘクタールを雑木ごと根こそぎ削り取り、大手門前広場と接するところでは約5mの深さに削った」とあったのがこの地だろう、か。不自然に平坦な場所が出現している、といった風情である。このケースだけでなく、林道の拡張、料亭や大学の建設で遺構が破壊されている、とのことである。

大手道_午前10時28分;標高255m
それはともあれ、平坦地から山麓中腹にある道に上る。上りきったところに、「大手道」の案内;「大手道 発掘調査では、当時の道は明確にできなかったが、門跡や橋台石垣の検出、さらに平坦部が尾根の中腹に連続していることから、ここが御主殿にいたる大手道であったことが明らかになった。
現在の道は、この地形を利用して整備したもの。当時は、ここから城山川の対岸にアシダ曲輪や御主殿の石垣、さらに城山の稜線にそって連なる曲輪や建物が見わたせたと思われる」、とある。
現在大手道は、この場所から西の御主殿跡に向かって整備されているが、往昔は、太鼓尾根の南側の御霊谷側に大手口があり、そこから太鼓尾根の東端、現在は中央高速により分断されている「上の山」に上り、太鼓尾根の北側(城下川側)の丘陵中腹を城下川に沿って続き、この地まで続いていたようである。 御霊谷の谷筋は鎌倉期より開けており、信長の安土城に倣い八王子城を大改修するに際し、大手口を案下谷(恩方谷)から御霊谷。に移し、御霊谷川の左岸に朱色の御霊谷門が食い違い虎口,内枡形などを伴い建っていた、と。
この大手道は既にメモしたように「上の道」と呼ばれ、家臣が公用路として通る道であり、基準幅8m、それより広い箇所が5か所、狭いところが3か所といった立派なものであった、とか。上の道が中腹を通る太鼓尾根には掘切や曲輪が残る、と言う。藪漕ぎの予感はするが、城の南の外郭として整備されていた「上の道」や曲輪や堀切の残る太鼓尾根を求め、彷徨ってみたいと思う(後日、大手道の東端に通行止めの柵があり、それを越えて大手道を少し辿ったが案の定薮に遮られ途中で撤退した)。

曳橋
大手道を進むと、城山川を跨ぎ御主殿跡を繋ぐ木製を模した橋がある。大手道の脇にあった案内によると、「コラム曳橋;古道から御主殿に渡るために城山川に架けられた橋。橋台部のみが残っているだけなので、どのような構造の橋が架けられていたかはわかっていない。現在の橋は、当時の道筋を再現するため、現在の技術で戦国時代の雰囲気を考えて木製で架けられた」とあった。
橋脇にも「橋台石垣と曳橋」の案内があり、「当時はこの石垣のうえに簡単な木橋を架け、この橋(曳橋)を壊すことにより敵の侵入を防いだ」と。

虎口
曳橋を渡ると正面は石垣。右に折れると虎口があり、左折して石段を上ることになる。虎口の案内には、「城や曲輪の入口は虎口と呼ばれ、防御と攻撃の拠点となるために工夫がなされている。御主殿の虎口は、木橋を渡った位置から御主殿内部まで、高低差約9mを「コ」の字形の階段通路としているのが特徴。(中略)階段は約5mの幅。途中の2か所の踊り場とともに、全面石が敷かれているのは、八王子城独特のものである」とあった。

櫓門(やぐらもん)
25段の石段の途中には櫓門(やぐらもん)の案内。「踊り場から礎石が発見された。東西(桁行)約4.5m、南北(梁間)3.5m。通路の重要な位置にあることから物見や指揮をするための櫓門とも。礎石の傍には排水のための石組側溝も発見されている」、と。

御主殿跡_午前10時40分;標高259m
石段を上り切ると左手に冠木門が建つ。門柱の礎石が発見されたため再現されたとのことである。冠木門の西に広がる平坦地が御主殿跡。東西約120m、南北45mから60m、およそ4000平米の広い敷地である。案内によると、「八王子城の中心部。城主北条氏照の居館のあったところ。「主殿」「会所」と想定される大型礎石跡や、庭園、敷石通路、水路等の遺構が検出された。主殿では政治向き「の行事が、会所では庭園を眺めながらの宴会などが催された。(中略)会所跡には50cmから80cmの床面を再現し、敷居。間取りも表してある。(中略)遺構の確認された範囲(2900平米)には小舗石を並べ、その範囲を示してある」、とあった。
この後訪れる「御主殿の滝」にあった案内のコラムには「戦国時代はいつも合戦とその準備をしていたイメージがあるが、八王子城から出土した遺構・遺物はそのイメージから程遠い。中国から輸入された五彩ではなやかなお皿で、領国内で取れたアワビやサザエを食べたり、ベネチアでつくられたレースガラス器や信楽焼の花器を飾り、そのもとでお茶をたしなみ、枯山水の庭を眺めてお酒を飲んだ日々が思い浮かばれます。これらの品々はさぞかし北条氏照の心を和ませていたのではないだろうか」と。
散歩をはじめてわかったことだが、関東のどこに行っても小田原北条の事蹟に出合う。広大なその領国経営は概イメージしか記憶に残らない。秀吉相手に無謀な挑戦、とはその後の歴史の結果がわかっている者だから言えることであろう。

御主殿跡でのんびりしながら、山腹の「山王曲輪」に続く「殿の道」の上り口を探す。道標はなかったが、如何にも山腹へと向かいそうな細道入口を御主殿跡の西端の辺りに確認。今回はパスするが、次回に備える。
○山王曲輪
柵門台から沢を隔てた南側にあり、沢頭につけた約100mの小道で結ばれる。柵門台よりやや高い辺りに、岩を切り取って人工的に造られたおよそ80平米の舌状台地で、沢に面した側には石垣が組まれている(『戦国の終わりを告げた城』)。

御主殿の滝
御主殿跡の西南端から林道に下りる道を下り「御主殿の滝」へ。滝に下りる入口には石仏とともに千羽鶴が祀られる。案内によれば、「落城の際に、御主殿にいた女性やこども、将兵たちが滝の上で自刃し、次々と身を投じたといわれる。その血で城山川の水は三日三晩、赤く染sまったと言われる」、と。合掌。
昔の水勢は知る由もないが、現在は滝壺とは言い難い、ささやかな滝下となっている。滝の上には如何にも水場といった石組みが残っていた。

城山川上流端に_午前10時46分;標高269m
さて、これからのルートは、と地図を見る。城山川林道を突き進み、富士見台(八王子城山頂のある尾根から西に続く尾根にあるポイント。景信山や陣馬山への分岐点でもある)から裏高尾に下る尾根筋に合流するルートは途中危険のマークがあるが、御主殿の滝から少し進み、城山川がふたつに分かれるあたりから北側の沢に沿って上る登山道のマークがあった。この上り口が見つかれば、この沢道を進み富士見台近くの尾根に這い上がれるかと、それらしき入口を探すもブッシュに阻まれ撤退。諦めて八王子城山頂の「中の曲輪」まで戻り、尾根筋を富士見台へと向かうことにする。一度下りた登山道を上り返すのは少々鬱陶しいが仕方なし(後からわかたのだが、もう少し先に、尾根への上り口があるとの地元の人の話。次のお楽しみとしよう)。

高尾・陣馬樹走路道標_午前11時19分;標高429m
城山川上流部より大急ぎで林道を戻り、一の鳥居、二の鳥居をくぐり登山道に入る。下りでは気が付かなかった石垣跡などを見ながら、これも下から見る馬蹄段跡をじっくりと眺め、金子曲輪を越え、中の曲輪の先、松木曲輪の裏手にある「至る 高尾山・陣馬山」の道標まで戻る。おおよそ30分強といった時間で戻れた。道標識に従い、本丸と言うか、山頂曲輪のある城山(深沢山)の山頂部の山塊をぐるりと取り巻く道に出る。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

坎井(かんせい)_標高428m_午前11時21分
道を進むとほどなく井戸がある。坎井(かんせい)と呼ばれるこの井戸は築城時に掘ったもので、深さは4m弱とのこと。昔は釣瓶井戸ではあったのだろうが、現在はポンプ式になっており、ポンプを押すと水が出た。井戸の傍には如何にもゴム製の送水パイプ(?)が備わっており、現在も自然水かどうか不詳である。
坎井(かんせい)の井戸を通る道は、その昔の「馬廻りの道」。上下2段あり、この道は上馬廻り道。松木曲輪、山頂曲輪のある要害部、小宮曲輪をぐるりと囲む。攻防戦の時の兵員の移動を容易にしたものだろう、か。

馬冷やし_午前11時27分;標高409m
坎井(かんせい)からジグザグ道を少し下り、再び城山山頂の要害部を囲む道に出る。この道は下段の馬廻り道。上馬廻り道よりおおよそ20m低い部分の山頂部を取り囲んでいる。5,6分歩くと「詰城 富士見台 北高尾山稜 堂所山」の道標のあるところに出る。大きな堀切となっているが、これは馬廻り道を一周させるため人工的に尾根道を断ち切り切り通しとしていていると同時に、切り通しの東上にある「無名曲輪」の堀切として、西の尾根道からの敵の防御拠点としている。
また、この地は、馬廻り道、城山裏手のj棚沢からく2本の水平道、詰の城からの尾根道、太鼓曲輪や城山川北沢と城山川南沢を分ける丘陵部からいくつかの谷頭を縫ってくる道など多くの道が合流する要衝であった。機会があれば、これらの道を辿ってみたい。なお、ここで切取られた石は、八王子城の石垣として利用されたようである(後日、堀切から北に続く馬周り道を一周した。高丸のすぐ傍に続いていた)。

詰の城_午前11時40分;標高479m
馬冷の堀切部から元の尾根道に少し上り返し、少々のアップダウンはあるものの、おおよそ緩やかな上りを400mほど歩くと「詰の城」に着く。「大天守跡」といった石碑の残るこの地は八王子城の西の守りの要衝。尾根道には石垣が組まれと言うし、詰の城から北に横沢へと下る尾根にも石垣が組まれていたようである。また、詰の城から横沢の分岐点までの間には二本の水平道が棚沢を横切って馬冷やしまで続いていた、とのこと。これは棚沢方面からの敵に備えた帯曲とも考えられているようだ。北に下る尾根道を少し下ってみたが、石垣は残っていなかった。
それはともあれ詰の城の最大の防御の縄張りは、西の尾根を断ち切った「大堀切」。堀切底辺部と詰の城の比高差は10mほどもある。堀切部の幅も広く下辺10m、その幅24mにもなる、と言う。実際この大堀切に下りたって左右の岩場そしてその堀切の幅を眺め、その大きさを実感する。この規模の掘割をおこなうには20名の石切人足が200日かけてはじめて完成する規模のものであると言う(『戦国の終わりを告げた城』)。

陣馬山縦走路分岐点_午前11時55分;標高540m
詰の城から少々きつい上りを15分程度進み、詰の城から西に伸びる尾根道が堂所山を経て陣馬山に向かう尾根道との分岐に到着。分岐点には「荒井バス停2.7キロ 堂所山(6キロ)・明王峠(7.2キロ)・陣馬山(9.1キロ)」とある。荒井バス停は裏高尾の旧甲州街道にある。分岐を左に「荒井バス停」方面に

富士見台_午後12時_標高552m
分岐を折れるとほどなく富士見台。富士の山は見えなかった。ここには休憩台があり数グループが休憩を兼ねた食事中。我々も小休止。
城山北沢方面分岐_12時18分;標高479m
富士見台で少し休憩し、下り道を10分程度進むと、当初計画した城山北沢から富士見台の尾根道に向かう山道との分岐点にあたる。道標を探したのだが見当たらなかった。後ほど地元に聞いたところ、見つけ難いが下りる道はある、とのこと。今回は上り口がみつからず断念したが、次回を期す。

荒井バス停・摺指バス停分岐_12時35分;標高404m
城山北沢分岐から少し下り、そのあと一度525mピークに上り、その後は標高404mにむかって20分弱下ると荒井バス停との分岐点。「荒井バス停 摺指バス停 駒木野バス停 高尾駅」の道標がある。数年前、裏高尾の荒井バス停から富士見台を経て八王子城址へと辿ったことがある。バス停から中央高速下をくぐり、中央高速に沿って進み、工事中の圏央道を見ながら成り行きで尾根へとはいっていったのだが、それがこの道であろう(GPSでのトラックデータをとっていなかったので散歩のメモはつくってい)。
当初の計画ではここから荒井バス停に下る予定ではあったのだが、時間も十分にあるので、ここから裏高尾に出るのをやめ、駒木野に下る尾根道に乗り換えて先に進むことにした。
なお、この分岐少し手前に。城山林道を突き進み尾根道に合流する山道があるのだが、現在岩場の梯子が壊れており「危険 通行禁止」となっていた。

太鼓尾根分岐_12時43分;標高400m

荒井バス停との分岐から10分弱で太鼓尾根との分岐点に至る。標識では「城山入口 405m」といた案内であったが、後日、太鼓尾根を辿った記憶では、太鼓尾根から城山へ下る標識はなかったように思う。太鼓尾根から城山、これも正確には「御主殿跡」とかに下るには、尾根道を切り取った堀切部分から、力任せに下るほかないように思うのだが、道標を見落としたのだろうか。ともあれ、太鼓尾根を下った東端は中央高速に架かる不思議な人道橋に至る。橋を渡った先には道がなく、竹藪を藪漕ぎして御霊谷の集落の道にでることになる。



地蔵ピーク_午後1時3分;標高360m
「駒木野バス停 高尾駅」方面へと向かう。ゆるやかなアップダウンを繰り返し20分強進むと地蔵ピーク。2体の地蔵が佇んでいた。

中央高速交差_標高221m_13時22分
地蔵ピークから20分程度、ひたすら下ると中高高速をくぐる。中央高速を越えると民家が見えてきた。やっと裏高尾に到着である。

小仏関所跡_標高195m_13時30
旧甲州街道の駒木野にある小仏関跡に到着。小仏関はともとは小仏峠にあったものがこの地、駒木野宿に移された、とか。小仏関の石碑の前に、手形石とか手付石といったものがあった。旅人が手形を差し出したり、手をつき頭を下げて通行の許しを待つ石であった、と。 因みに、小仏関所跡のある駒木野の由来ははっきりしない。青梅筋の軍畑の近くにある駒木野は、馬を絹でまとって将軍様に献上した、からと言う。「こまきぬ」>『こまぎぬ」ということ、か。駒木野宿は戸数70戸ほどの小さな宿。関所に付属した簡易宿で、なんらか馬に関係はしたあれこれがあったのだろう。関所跡前にあるバス停でバスを待ち、おおよそ12キロ、6時間の散歩を終え一路家路へと。

津久井から相模湖に

ふとしたことから目にした三増合戦の記事に惹かれ、その戦いの地を二度に分けて歩いた。今回はその仕上げ。武田なのか北条なのか、どちらが勝ったのか、負けたのか今ひとつはっきりしないのだが、ともあれ、武田軍の甲斐への帰路を相模湖まで歩こうと思う。

武田軍の引き上げルートは、斐尾根から長竹三差路、三ヶ木をへて寸沢嵐(すあらし)に進み、そこで道志川を渡り相模湖へ、と伝えられている。ということで、今回の散歩のスタート地点は長竹三差路。先回辿った斐尾根から少し北にすすんだところにある。交通の便は少々よくない。先日と同じく、本厚木からバスに乗り、半原に、それから志田峠を越えて斐尾根へと進むのも芸がない。で、今回は橋本から三ヶ木行きバスに乗り、途中の太井で降り、そこから城山の南を進み、長竹三差路へ。長竹三差からは三ケ木、寸沢嵐、相模湖へと歩くことにする。(2009年9月の記事を移行)



本日のルート:太井>諏訪神社>パークセンター>巧雲寺>根小屋>串川>三増峠への道>串川橋>長竹三差路>青山神社>三ケ木>道志橋>寸沢嵐石器時代遺跡>正覚寺>鼠坂>相模湖

太井
京王線で橋本駅に。そこから三ケ木行きのバスに乗る。川尻、久保沢、城山高校前を過ぎると津久井湖。城山大橋というかダムの堰堤を通り、津久井城跡のある城山の北麓にそって湖畔を進むと太井に。太井は津久井城跡のある城山の麓、相模湖にかかる三井大
橋の近くにある。昔は太井の渡しがあり、津久井往還が相模川を越えるところであった、とか。ちなみに、ここから北に三井大橋を渡れば、峰の薬師への道がある。峰の薬師から城山湖への道もなかなかよかった。

諏訪神社
本日は太井のバス停から南に向かう。左手に津久井城のある城山を見やりながら、台地へと坂道を上る。この台地は相模川の河岸段丘。山梨から下る桂川と丹沢から流れ落ちてきた道志川の流れが合わさった大きな流れによってかたちづくられたのだろう。上りきったあたりに諏訪神社。道端にあるお地蔵さん。なかなか風情があった。境内にある樹齢800年の杉で知られる。

パークセンター
諏訪神社から南は下りとなる。尻久保川への谷筋に下る坂道の途中、道を少し東にはいったところにパークセンター。津久井城や城山についての歴史やハイキングコースなどの資料が整っている。
いつだったか津久井城跡を訪ねた折、このパークセンターに訪れたことがある。そこで見たジオラマに惹かれた。城山の南の地形、河岸段丘がいかにもおもしろい。城山の南を流れる串川の両側は、複雑で発達した河岸段丘が広がっていた。地形大好き人間としては、この先が楽しみではある。

巧雲寺
パークセンターを離れ、尻久保川へと下る。尻久保川にかかる根小屋橋の手前を東へと折れ、ゆるやかな坂を少し上ると巧雲寺。戦国時代の津久井城主内藤景定の開基。景定の子景豊の墓もある。景豊は三増合戦のときの津久井城主。三増合戦の折、城からの援軍を出すことも無く、「座視」。『八王子南郊 史話と伝説;小泉輝三郎(有峰書店新社)』によれば、合戦後、北條氏照が上杉に送った書状に「山家人衆、自由を遣うに依り罷り成らず(勝利が)、今般信玄を打留めざる事無念千万候」、とある。「津久井衆(山家人衆)が命令に従わず勝手に行動したため、信玄を撃ちもらし、悔しくてたまらん」、といった意味。「役御免、今後永久この分たるべし」と、禄高も10分の一に減額している。よほど腹に据えかねたのだろう。景豊の言い分はなにも残されていないので、真相は不明。

根小屋

巧雲寺を離れ、尻久保川にかかる根小屋橋を渡り、再び台地へと上る。ここから当分は台地の上を歩くことになる。なんとなく高原の地、といった雰囲気。先日歩いた斐尾根あたりと雰囲気が近い。発達した河岸段丘によってつくられた地形がもたらすものであろう。
根 小屋地区をのんびり歩く。根小屋って、城山の麓につくられた、家臣団の屋敷があるところ。散歩するまで知らなかった「単語」だが、歩いてみると結構多い。秩父であれ千葉であれ、「時空散歩」には、折にふれて登場する。「城山の根の処(こ)にある屋」という、こと。「根古屋」とも書く。

串川
台地を進み、道が大きく湾曲するあたりから台地のはるか下に串川の流れが見えてくる。結構な比高差。深い谷、といった雰囲気。現在の串川の規模には少々似つかわしくないほどの発達した河岸段丘である。気になり調べてみる。
かつての串川は早戸川(現在は中津川水系の支流。宮ヶ瀬ダムに注ぐ)とつながっていた。水量も豊富。発達した河岸段丘はその時のもの、である。その後、早戸川は中津川水系に流れを変えた。河川争奪である。5万年以上の昔、地殻変動によって引き起こされた、と。ために、早戸川は串川から切り離され、現在のような小さな川になってしまったよう、だ。
大きく弧を描き串川へと下る坂道の途中に飯綱神社。津久井ではこの飯綱神社をよく見かける。津久井城跡のあ る城山にもあった。津久井湖の東、津久井高校あたりから城山湖に上る道の途中にも飯綱大権現があった。高尾山もそうである。飯綱信仰は信州の飯綱より発し た山岳信仰。戦の神としても上杉謙信を筆頭に、戦国の武将に深く信仰された。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


三増峠への道
坂を折りきると車道に交差。城山の東、相模川にかかる小倉橋から南西に、串川に沿って城山の南を走る道である。交差点を少し西に進むと、南から上ってくる道に合流。この道は、先日歩いた三増峠方面からの道。三増峠下のトンネルをとおり、一度串川に向かってくだり、再びこの道筋へとのぼってきている。
合流点から南の山稜を見る。正面方向が三増峠であろう、か。先日、峠を東に進まず、西に折れれば、この道におりることができたわけだ。道の雰囲気を感じるため、串川に向かって下る。串川にかかる中野橋まで進み、峠下のトンネルへと向かう上りの道を眺め、少々休憩し、もとの合流点へと戻る。
地図の上では三増峠と津久井城って結構離れている、と思えたのだが、実際に歩いてみると、そうでも、ない。武田軍が津久井城の動静に気を配ったわけが、なんとなく分かった、気がした。ちなみに、三増峠からの道は県道65号線。これって津久井の中野で国道413号線に合流している。つまりは、太井から歩いた道は、ほぼこの県道を進んできた、ということであった。

串川橋
合流点から串川に沿って進む道筋を長竹へと進む。西というか、南西に道を進む。道の北に春日神社。ちょっと立ち寄る。このあたりまで来ると、串川は山稜から離れてくる。離れるにしたがって串川も渓谷といった雰囲気もなくなり里をゆったりと流れる小川といった姿となる。串川の名前の由来は例によってあれこれ。櫛を川に落とした姫君の由来譚もそれなりに面白いのだが、実際は、地形から名づけられたものであろう。『相模川歴史ウォーク;前川静治(東京新聞出版局)』によれば、「くし」は海岸線や河川などの屈曲部のところを指す、という。
御堂橋で串川を渡る。このあたりでは串川は少し大きな「小川」といった雰囲気。更に進み、串川橋で再び串川を渡る。道はここで国道412号線と合流。412号線、って半原から斐尾根の台地を抜け進んできた道。先日、半原へと歩いた道である。
このあたりは、三増合戦のとき、武田軍が津久井城の北條方への抑えとしていたところ。『八王子南郊 史話と伝説;小泉輝三郎(有峰書店新社)』によれば、その場所は、山王の瀬の下、と。確かに串川橋の南に山王社がある。


長竹三差路

串川橋を離れ、道を西に。串川中学、串川小学校を過ぎると長竹三差路に当たる。三増合戦に登場する地名。津久井湖畔の中野から下る道、相模湖へと向かう道、串川沿い、または半原へと南に下る道が交差する。『八王子南郊 史話と伝説;小泉輝三郎(有峰書店新社)』によれば、津久井城から出撃するときは、三増峠に進もうが、半原・志田峠を目指そうが、必ずこの長竹三差路を通らなければならなかった、と。と言うことは、三増峠を貫く県道65号線の道筋などなかったのであろう。ともあれ、今も昔もクロスロードであった、ということ。

青山神社
先に進む。相模湖方面と、串川に沿って宮ケ瀬方面へと分岐する手前に青山神社。諏訪社、諏訪宮、諏訪大明神と呼ばれていたが、明治6年(1873年)八坂神社(天王宮)と御岳神社(御岳宮)を合わせ、青山神社と改称された。
境内に「咢堂桜」。尾崎行雄(咢堂)が東京市長のとき、日米友好を記念し、ワシントン市に贈った桜が里帰りしたもの。尾崎行雄がこの津久井出身と言うことで、この津久井に戻ってきた桜の苗木が32本のうちの一本。尾崎行雄は憲政の父。

三ケ木

青山神社を越えると412号線は三ケ木に向かって、北西に進む。道の両側に開けた青山集落を過ぎ、道の両サイドに山容が迫るあたりから青山川が顔を出す。しばらくは青山川に沿って進む。青山交差点で道志方面へと進む国道413号線との分岐手前に八坂神社。結構な石段をのぼる。
八坂神社を越えると青山川は北西に、道は北にと泣き別れ。青山川はそのまま進んで道志川に合流する。道をしばらく進むと周囲が開け、三ケ木の集落、に到着、だ。
三ケ木は「みかげ」と読む。由来は良く分からない。中世、「日影之村」の「三加木村」として現れる。集落と書いたが、このあたりではもっとも「にぎやかな」ところだろう。橋本からのバスも結構動いている。逆の相模湖方面にもまあまあ動いているよう、だ。

道志橋
三ツ木の交差点から1キロ弱北西に進むと道志橋。道志川が津久井湖に注ぐところにある。橋の対岸は相模湖町寸沢嵐(すあらし)。信玄軍が道志川を渡ったところ言われる。一隊は三ヶ木から、落合坂を下り沼本の渡し(落合の渡し)を経て、また、他の一隊は三ヶ木新宿からみずく坂(七曲坂)を下り道志川を渡った、とある。
現在橋は川面よりはるか高いところ、高所恐怖症のひとであれば少々足がすくむ、といったところに架かっている。が、もとより、合戦当時の道は、ずっと低いところに下りていだのろう。実際、落合坂を下り切ったところは道志川と相模川の合流点であったという。湖も無いわけで、川幅も現在よりずっと狭かったのだろう、か。

寸沢嵐石器時代遺跡
道志橋を離れ、沼本地区を越え、津久井警察署の先から国道を離れ少し南に入ったところに寸沢嵐石器時代遺跡。地元の養蚕学校教諭、長谷川一郎氏が発掘し発表した。寸沢嵐は「すわらし」と読む。「スワ」は低湿地・沼沢・斜面。「アラシ」は川の斜面から材木を投げ下ろす場所、と(『相模川歴史ウォーク;前川静治(東京新聞出版局)』より)。近くに「首洗池」もある。武田軍が討ち取った首を洗ったと言われる池。その数3269、とも。またこの地ではじめて勝鬨をあげた、とも。戦場を大急ぎで離脱し、ここ、道志川を越えた台地上に着くまでひたすらに駆け抜けた、と。それって勝者の姿でもあるまいといった評価もあり、それが三増合戦の勝者を分かりにくくしている、という識者も多い、とか。

正覚寺
寸沢嵐石器時代遺跡を離れ、国道に戻る。少し西に進み阿津川にかかる阿津川橋を渡る。ここから道は阿津川に沿って進む。蛇行する川を、山口橋、正覚寺橋と渡る。道の北は相模湖林間公園。道のそば、深い緑の中に品のいいお寺様が見える。正覚寺。丁度境内
には五色椿が咲いていた。
縁起はともあれ、このお寺は柳田国男を中心とするチームによっておこなわれた日本で最初の民俗学の調査の本拠地。大正7年(1918年)のことである。チーム(郷土会)がこの地(内郷村)を選んだのは、その地形が「一方は高い嶺の石老山を境界とし
、他の三方は相模川と道志川に囲まれ、近年まで橋のない弧存状態にあり、農山村としての調査条件がそろっていた(『相模川歴史ウォーク;前川静治(東京新聞出版局)』より)」ということはもちろんである。が、同時に、長谷川一郎(寸沢嵐石器時代遺跡の発掘・発表者)さんの存在も大きい、かと。当時長谷川さんは地元の小学校の校長さん。こういった理解者があったことも実施を実現した大きなファクターであろう。長谷川さんはその後村長さんまでになった。柳田国男の句碑。「山寺やねぎとかぼちゃの十日間」

鼠坂
正覚寺を 離れ先に進む。道の北はさがみ湖ピクニックランド。しばらく歩く
と国道から分岐する道。分岐点に八幡神社。近くの民家、というか喫茶店のそばに「鼠坂関址」。メモする;「この関所は、寛永八年(1638)9月に設置された。ここは、小田原方面から甲州に通じる要塞の地で、地元民の他、往来を厳禁し、やむを得ず通過しようとする者は、必ず所定の通行手形が無ければ通れなかった。慶安四年(1651)には、由井正雪、丸橋忠弥の陰謀が発覚し、一味の逃亡を防 ぐため、郡内の村人が総動員し、鉄砲組みっと共にこの関を警固したという。この道は甲州街道の裏街道。この関も甲州街道の小仏関に対する裏関所といったものであったのだろう。ともあれ、一般庶民が往来するといったところではなかった、よう。

相模湖
鼠坂を離れ西に進む。峠を越えた辺りに関所跡。このあたりから道は下る。道の左手に湖が見えてくる。鼠坂より1.5キロほどで相模湖大橋。橋を渡り台地に上る。甲州街道を越える中央線相模湖駅に到着。三増合戦ゆかりの地を巡る津久井散歩もこれでお仕舞い、とする。

ちなみに、津久井って、もともとは三浦半島に覇をとなえた鎌倉期の武将三浦一族にはじまる。三浦一族の一武将が津久井の地(現在の横須賀市)に移り住み津久井氏を名乗った。その後、この地に移り築城。津久井城と名づけ、津久井衆と名乗った、ということだ。
武田の遊軍が進んだ志田峠、そして、北条方が陣を構えた半原の台地をぐるっと巡る

三増合戦の地を巡るお散歩の二回目。今回は志田峠を越えようと思う。相模と津久井をふさぐ志田山という小山脈の峠のひとつ。先回歩いた三増峠の西にある。『八王子南郊;史話と伝説(小泉輝三朗;有峰書店新社)』によれば、「道はよいが遠いのが本通りの志田峠、いちばん東にあり、いちばん低く、いちばん便利なのが三増峠」、とある。はてさて、どのような峠道であろう、か。
で、本日の大雑把なルーティングは、志田峠から菲尾根(にろうね)の台地に進み、そこから折り返して半原に戻る。武田の遊軍が進んだ志田峠、津久井城の押さえの軍が伏せた菲尾根の長竹ってどんなところか、また北条軍が陣を構えたとされる半原の台地、ってどのような地形であるのか、実際に歩いてみようと、の想い。(2009年9月の記事を移行)



本日のルート;三増合戦みち>三増合戦の碑>信玄の旗立松>志田峠>清正光・朝日寺>韮尾根>半原日向>半原・日向橋>郷土資料館>辻の神仏>中津川

三増合戦みち
小田急線に乗り、本厚木で下車。半原行きのバスに乗れば、志田峠への道筋の近くまで行けるのだが、来たバスは先回乗った「上三増」行。終点の手前で下りて少し歩くことになるが、それもいいかと乗り込み、「三増」で下車。
三増の交差点から「三増合戦みち」という名前のついた道が半原方面に向かって東西に走っている。交差点から300m程度歩くと道は下る。沢がある。栗沢。結構深い。三増峠の少し西あたりから下っている。

三増合戦の碑
栗沢を越え台地に戻る。北は志田の山脈が連なり、南に開かれた台地となっている。ゆったりとした里を、のんびり歩く。再び沢。深堀沢。三増峠と志田峠の中間にある駒形山、これって、信玄が大将旗をたてた山とのことだが、その駒形山の直下に源を発する沢。誠に深い沢であった、とか。現在は駒形山あたりはゴルフ場となっており、地図でみても沢筋は途中で切れていた。
深堀沢を越えて300m程度歩くと「三増合戦の碑」。このあたりが三増合戦の主戦場であったようだ。
「三増合戦のあらまし(愛川町教育委員会)」を再掲する。:永禄十二年(1569年)十月、武田信玄は、二万の将兵をしたがえ、小田原城の北条氏康らを攻め、その帰路に三増峠越えを選ぶ。これを察した氏康は、息子の氏照、氏邦らを初めとする二万の将兵で三増峠で迎え討つことに。が、武田軍の近づくのをみた北条軍は、峠の尾根道を下り、峠の南西にある半原の台地上に移り体勢をととのえようとした。
信玄はその間に三増峠の麓の高地に進み、その左右に有力な将兵を配置、また、峠の北にある北条方の拠点・津久井城の押さえに、小幡信定を津久井の長竹へ進める。また、山県昌景の一隊を志田峠の北の台地・韮尾根(にろうね)に置き、遊軍としていつでも参戦できるようにした。
北条方からの攻撃によりたちまち激戦。勝敗を決めたのは山県昌景の一隊。志田峠を戻り、北条の後ろから挟み討ちをかけ、北条軍は総崩れとなる。北条氏康、氏政の援軍は厚木の荻野まで進んでいたが、味方の敗北を知り、小田原に引き上げた。
信玄は合戦の後、兵をまとめ、寸沢嵐・反畑(そりはた・相模湖町)まで引き揚げ、勝鬨をあげ、甲府へ引きあげたという。
とはいうものの、新田次郎氏の小説「武田信玄」によれば、北条方は三増峠の尾根道に布陣し、武田方の甲斐への帰路を防ぎ、小田原からの援軍を待ち、挟み撃ちにしようと、した。一方の武田軍がそれに向かって攻撃した、となっている。先回、三増峠を歩いた限りでは、尾根道に2万もの軍勢を布陣するのはちょっと厳しそう、とも思うのだが、とりあえず歩いたうえで考えてみよう、ということに。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


信玄の旗立松
「三増合戦の碑」のすぐ西隣に、北に進む道がある。志田峠に続く道である。「志田峠」とか「信玄旗立松」といった標識に従い道なりに進むと「東名厚木カントリー倶楽部」の入口脇に出る。「信玄旗立松」は現在、ゴルフ場の中にある。
案内標識に従い、ゴルフ場の中の道を進む。結構厳しい勾配である。駐車場を越えると、前方に小高い丘、というか山がある。更に急な山道を上ると尾根筋に。ここが信玄が本陣を構えた中峠とも、駒形山とも呼ばれたところ、である。
「信玄旗立松」の碑と松の木。元々あった松は枯れてしまったようだ。旗立松はともあれ、ここからの眺めはすばらしい。180度の大展望、といったところ。南西の山々は経ヶ岳、仏果山、高取山なのだろう、か。半原越え、といった、如何にも雰囲気のある峠道が宮ヶ瀬湖へと続いている。とのことである。
尾根道がどこまで続くのか東へと進む。が、道はすぐに切れる。この山はゴルフ場の中に、ぽつりと、取り残されている感じ。しばし休息の後、山道を降り、ゴルフ場の入口に戻る。

志田峠
ゴルフ場に沿って道を北に進む。田舎道といった雰囲気も次第に薄れ、峠道といった風情となる。道の西側には沢が続く。志田沢。足元はよくない。小石も多い。雨の後ということもあり、山肌から流れ出す水も多い。勾配はそれほどきつくはない。しばし山道を進むと志田峠に。ゴルフ場入口から2キロ弱、といったところだろう。
志田峠。標高310m 。展望はまったく、なし。峠に愛川町教育委員会の案内板;志田山塊の峰上を三分した西端にかかる峠で、愛川町田代から志田沢に沿ってのぼり、
津久井町韮尾根に抜ける道である。かつては切り通し越え、志田峠越の名があった。
武田方の山県三郎兵衛の率いる遊軍がこの道を韮尾根から下志田へひそかに駆け下り、
北条方の背後に出て武田方勝利の因をつくった由緒の地。
江戸中期以降は厚木・津久井を結ぶ道として三増峠をしのぐ大街道となった。」 と。

清正光・朝日寺
峠を越えると道はよくなる。1キロほどゆったり下ると道の脇にお寺様。志田山朝日寺。200段以上もある急な石段を上る。境内に入ろうとしたのだが、犬に吠えられ、断念。トットと石段を戻る。案内によれば、13世紀末に鎌倉で開山されたものだが、昭和9年、この地に移る。本尊は清正光大菩薩。現在は「清正光」という宗教法人となっている、と。
「清く、正しく、公正に」というのが、教えなのだろう、か。

韮尾根(にらおね>にろうね)
道なりにくだると、東京農工大学農学部付属津久井農場脇に。このあたりまで来ると、ちょっとした高原といった風情の地形、となる。北東に向かって開かれている。のどかな畑地の中をしばし進む。と国道412号線・韮尾橋の手前に出る。韮尾根沢に架かる橋。住所は津久井市長竹である。
長竹と言えば、武田方の遊軍・山県勢5千に先立ち、津久井城の押さえのため進軍した小幡尾張守信貞の部隊が伏せたところ。1200名の軍勢が、中峠から韮尾根に下り、串川を渡り、山王の瀬あたりの窪地に隠れ、津久井城の北条方に備えた、と。現在の串川橋のあたりに長竹三差路と呼ぶところがある。そこは三増峠に進むにも、韮尾根・志田峠に進むにも、必ず通らなければならない交通の要衝。小幡軍が布陣したのは、その長竹三差路のあたりでは、なかろう、か。
韮尾橋から長竹三差路までは2キロ程度。串川橋や長竹三差路まで行きたしと思えども、本日の予定地である半原とは逆方向。串川、長竹三差路は次回、武田軍の相模湖方面への進軍路歩きのときのお楽しみとし、本日は412号線を南へと進むことにする。

半原日向
韮尾橋から国道412号線を1キロ弱歩くと、峠の最高点に。もっとも、現在は大きな国道が山塊を切り通しており、峠道の風情は、ない。が、この国道412号線が開通したのは1982年頃。それ以前のことはよくわからないが、少なくとも、三増合戦の頃は切り立った山容が、韮尾根と半原を隔てていたのだろう。峠を越えると、真名倉坂と呼ばれる急勾配の坂道が北へと下る。どこかの資料で見かけた覚えもあるのだが、江戸以前は志田越えより、この真名倉越えのほうがポピュラーであった、とか。これが本当のことなら、三増合戦のいくつかの疑問が消えていく。
何故、北条方が半原の台地に陣を構えたか。その理由がいまひとつ理解できなかったのだが、武田軍がこの真名倉越えをすると予測した、とすれは納得できる。半原の南の田代まで進んだ武田軍は半原の台地に構える北条軍を発見し、真名倉越えをあきらめる
。そうして、駒形山方面の台地に進路を変える。志田峠、三増峠、中峠と進む武田軍を見た北
条軍は、半原の台地を下り、武田軍を追撃。そのことは織り込み済みの武田軍は踵を返し、両軍衝突。で、志田峠を引き返した山県軍が北条軍の背後から攻撃し、武田軍が勝利をおさめる。真名倉越えが峠道として当時も機能していたのであれば、自分としては三増合戦のストーリーが美しく描けるのだが。はてさて、真実は?

半原・日向橋
半原日向から中津川の谷筋を見下ろす。半原の町は川筋と台地に広がる。国道12号線は台地の上を南に進む。北条方が半原の台地に陣を構えた、というフレーズが実感できる。台地下を流れる中津川に沿って南から進む武田軍をこの台地上から見下ろしていたのだろう、か。
半原日向交差点から中津川筋に降りる。結構な勾配の坂である。中津川に架か
る橋に進む。日向橋。南詰めのところにあるバス停で時間をチェック。結構本数もあるようなので、町の中をしばし楽しむことに。鬼子母神とあった顕妙寺、半原神社へと進む。宮沢川を越え、県道54号線から離れ、台地に上る。愛川郷土資料館が半原小学校の校庭横にある、という。結構きつい勾配の坂道を上る。途中に、「磨墨(するすみ)沢の伝説」の碑。平家物語の宇治川の先陣に登場する名馬・磨墨(するすみ)は、この沢の近くに住んでいた小島某が育てた、との伝説。とはいうものの、源頼朝に献上されこの名馬にまつわる伝説は東京都大田区を含め日本各地に残るわけで、真偽のほど定かならず。

郷土資料館
坂を上り台地上の町中にある半原小学校に。野球を楽しむ地元の方の脇を郷土資料館に。残念ながら、閉まっていた。郷土館は小学校の校舎を残した建物。半原は日本を代表する撚糸の町であるわけで、撚糸機などが展示されているとのことではある。八丁式撚糸機が知られるが、これは文化文政の頃につくられた、もの。電気もない当時のこと、動力源は中津川の水流を利用した水車。盛時、300以上の水車があった、とか。

辻の神仏
郷土館を離れる。道端に辻の神仏。案内をメモ;辻=境界は、民間信仰において、季節ごとに訪れる神々を迎え・送る場所でもあり、村に入ろうとする邪気を追い払う場所でもあった。そのため、いつしか辻は祭りの場所として、さまざまな神様を祀るようになった、と。

中津川

台地端から急な崖道を下る。野尻沢のあたりだろう、か。川筋まで下り、中津川に。この川の水、道志川の水とともに、「赤道を越えても腐らない」水であった、とか。水質がよかったのだろう。ために日本海軍などが重宝し、この地の貯水池から横須賀の海軍基地に送られ、軍艦の飲料水として使われていた、と言う。水源は中津川上流の宮ケ瀬湖に設けられた取水口。現在も、そこから横須賀水道路下の水道管を通って横須賀市逸見(へみ)にある浄水場まで送られている。距離53キロ。高低差70m。自然の高低差を利用して送水している、と。中津川を日向橋に戻り、バスに乗り一路家路へと。

一回目の三増峠、今回の志田峠、韮尾根の高原、半原台地と三増合戦の跡地は大体歩いた。次回は、ついでのことなので、合戦後の武田軍の甲斐への帰還路を相模湖あたりまで歩いてみよう、と思う。
 武田・北条が相争った三増合戦の地・三増峠を越える

何時だったか、何処だったか、古本屋で『八王子南郊;史話と伝説(小泉輝三朗;有峰書店新社)』を買ったのだが、その中で「三増合戦」という記事が目にとまった。津久井湖の南の三増峠の辺りで、武田軍と小田原北条軍が相争った合戦である、と。両軍合わせて5千名以上が討ち死にした、との記録もある。日本屈指の山岳戦であった、とか。
「三増合戦」って初めて知った。そもそも、散歩を始めるまで、江戸開幕以前の関東、つまりは小田原北条氏が覇を唱えた時代のことは、何にも知らなかった。お散歩をはじめ、あれこれ各地を歩くにつれ、関東各地に残る小田原北条氏の旧跡が次々にと、登場してきた。寄居の鉢形城、八王子の滝山城、八王子城、川越夜戦、国府台合戦、などなど。三増合戦もそのひとつである。
三増合戦についてあれこれ調べる。と、この地で激戦が繰り広げられたのは間違いないようだが、合戦の詳細については定説はないよう、だ。新田次郎氏の『武田信玄;文春文庫』の「三増合戦」の箇所によれば、峠で尾根道で待ち構えていたのが北条方とするが、上記書籍では、北条方が山麓の武田軍を追撃した、と。峠を背に攻守逆転している。峠信玄の本陣も、三増峠の西にある中峠という説もあれば、三増峠の東の山との言もある。よくわからない。これはう、実際に歩いて自分なりに「感触」を掴むべし、ということに。どう考えても一度では終わりそうにない。成り行きで、ということに。
(2005年9月の記事を移行)


本日のルート:小田急線・本厚木>金田>上三増>三増峠ハイキングコース>三増峠>小倉山林道>相模川>小倉橋と新小倉橋>久保沢・川尻>原宿​・二本松>橋本

小田急線・本厚木
三増への道順を調べる。小田急・本厚木駅からバスが出ている。北に進むこと40分程度。結構遠い。だいたいの散歩のルーティングは、三増峠を越え、津久井湖まで進み、そこからバスに乗り橋本に戻る、ということに。
小田急に乗り、本厚木駅に。北口に降り、線路に沿って少し東に戻り、バスセンターに向かう。バスの待ち時間にバスセンター横にあるシティセンター1階にあるパン屋に立ち寄る。奥はレストランになっている。店の名前は「マカロニ広場」。サツマイモを餡にしたくるみパンが誠に美味しかった。
厚木の名前の由来は、この地が木材の集散地であったため「あつめ木」から、といった説もある。が、例によって諸説あり。ともあれ、厚木が歴史書にはじめて登場したのは南北朝の頃。江戸の中期は、宿場、交易の場として繁盛した、と。

金田
バスに乗り、北に向かう。市街を出ると川を越える。小鮎川。すぐ再び川。中津川である。川に架かる第一鮎津橋を渡ると、妻田あたりで道は北に向かう。ちょうど、中津川と相模川の間を進むことに成る。
金田交差点で国道246号線を越えると、道は国道129号線となり、更に北に進む。下依知から中依知に。この辺りは昔の牛窪坂といったところ。三増合戦にも登場する地名である。
小田原勢の籠城策のため、攻略戦を一日で諦めた武田軍は小田原を引き上げる。どちらに進むのかが、小田原方の最大の関心事。武田方が陽動作戦として流布した鎌倉へと進むか、相模川を渡り八王子方面に進み甲斐路を目指すか、はたまた三増峠を経て甲斐に引き上げるのか、はてさて、と思案したことだろう。
で、結局のところ、平塚から岡田(現在の東名厚木インターあたり)、本厚木、妻田、そしてこの金田へと相模川の西を進んできた信玄の軍勢は、相模川を渡ること無く、牛窪坂の辺りで相模川の支流である中津川に沿って進むことになる。それを見届けた北条方の物見は、三増峠に進路をとると報告。中津川を上流に進めば、三増峠の麓へと続くことに、なるわけだ。

上三増
国道129号線を進み、山際交差点で県道65号線に折れる。この県道は、三増峠下をトンネルで貫き、津久井に至る。道は中津川に沿って進んでいる。三増に近づくにつれ、山容が迫る。『八王子南郊;史話と伝説(小泉輝三朗;有峰書店新社)』によれば、「三増は、丹沢・愛甲の山々が相模川まで押し出して、南相模と都留・津久井がつながる狭い咽首(のどくび)になっているところだから、昔も今も交通の生命線である。(中略)。その咽首の狭いところを志田山という小山脈がふさいでいて、越すにはどうしても小さいが峠を通らなければならない。東に三増峠、真ん中に中峠、西に志田峠の三カ所があった」、とある。北に見える尾根が三増峠のあたりなのだろう、か。
終点の上三増でバスを降りる。バス停は峠に上る坂道のはじまるあたり。近くには三増公園陸上競技場などもあった。バス停の近くにあった史跡マップなどをチェックし、三増峠へと進むことにする。

三増峠ハイキングコース
県道65号線を峠方面に進む。車も結構走っている。道の先に尾根が見える。標高は300m強といったところだろう。しばらく進み、三増トンネルのすぐ手間に旧峠への入り口がある。「三増峠ハイキングコース」とあった。スタート時点は簡易舗装。しばらく進むと木が埋め込まれた「階段」。上るにつれ古い峠道の趣となる。深い緑の中を進み、峠に到着。それほどきつくもない上りではあった。
三増合戦のとき、この三増峠を進んだ武田方は、馬場信房、真田昌幸、武田勝頼の率いる軍勢。新田次郎の『武田信玄』によれば、峠の尾根道で待ち構える北条方では「勝頼の首をとるべし」と待ち構えていた、とか。もっとも、先にメモしたように、陣立てには諸説あり、真偽のほど定かならず。愛川町教育委員会の「三増合戦のあらまし」を以下にまとめておく。

三増合戦のあらまし :
永禄十二年(1569年)十月、武田信玄は、二万の将兵をしたがえ、小田原城の北条氏康らを攻め、その帰路に三増峠越えを選ぶ。これを察した氏康は、息子の氏照、氏邦らを初めとする二万の将兵で三増峠で迎え討つことに。が、武田軍の近づくのをみた北条軍は、峠の尾根道を下り、峠の南西にある半原の台地上に移り体勢をととのえようとした。
信玄はその間に三増峠の麓の高地に進み、その左右に有力な将兵を配置、また、峠の北にある北条方の拠点・津久井城の押さえに、小幡信定を津久井の長竹へ進める。また、山県昌景の一隊を志田峠の北の台地・韮尾根(にろうね)に置き、遊軍としていつでも参戦できるようにした。
北条方からの攻撃によりたちまち激戦。勝敗を決めたのは山県昌景の一隊。志田峠を戻り、北条の後ろから挟み討ちをかけ、北条軍は総崩れとなる。北条氏康、氏政(うじまさ)の援軍は厚木の荻野まで進んでいたが、味方の敗北を知り、小田原に引き上げた。
信玄は合戦の後、兵をまとめ、寸沢嵐・反畑(そりはた・相模湖町)まで引き揚げ、勝鬨をあげ、甲府へ引きあげたという。「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


三増峠

峠に到着。2万とも言われる北条の軍勢がこの尾根道で待ち構えるとは、とても思えない。愛川町教育委員会の説明のように、尾根道を下り、半原の台地で待ち構えていたのでは、などと思える。足もとから車の走る音。峠を貫く三増トンネルの中から響くのだろう。
さて、峠を西に向かうか、東に向かうか。標識が倒れておりどちらに進めばいいのかわからない。
少々悩み、結局東に向かう。これが大失敗。当初の予定である津久井の根小屋への道は、西方向。そうすれば、峠を下り、トンネルの出口あたりに進めたのだが、後の祭り。あらぬ方向へ進むことになった。

小倉山林道
東へと進む。快適な尾根道。後でわかったのだが、この道は小倉山林道。歩いておれば、麓が見えるか、とも思うのだが、山が深く、どちらが里かさっぱりわからない。なんとか里に下りたいと思うのだが、道が下る気配もない。山腹を巻き道が続く。人が歩く気配もない。心細いこと限りない。分岐で成り行きで進み、行き止まりになりそうで引き返したりしながら、小走りで林道を進む。頃は春。山桜が美しい。
結局、4キロ程度歩いたただろうか。東へと東へと引っ張られ、気がついたら、小倉山の南の山腹を進んでいた。車の音も聞こえる。ここはどこだ。川らしきものも眼下にちょっと見える。どうも相模川のようだ。やっと、下りの道。結構な勾配。どんどん下る。車の往来が激しい道筋に。道路への出口は鉄の柵。車、というかバイク、などが入れないようにしているのだろう、か。

相模川

道のむこうに相模川。このあたりは城山町小倉。三増峠から、津久井の長竹・根小屋、津久井城の南麓を串川に沿って相模川に進み橋本へ、といったルートは大幅に狂ってしまったが、小倉から串川・相模川の合流点まで2キロ強。どうせのことなら、串川・相模川の合流点まで進み、橋本まで歩くことにする。橋本まで、7キロ強、といったところ、か。
橋を渡り、大きく曲がる上りの坂を進み、新小倉橋の東詰めに。谷は如何にも深い。

小倉橋と新小倉橋

相模川を眺めながら北に進む。串川を越えると小倉橋。趣のある橋ではあるが、幅は狭い。相互通行しかできなかったようで、結果大渋滞。ために、バイパスがつくられた。小倉橋の北に聳える巨大な橋がそれ。新小倉橋、という。2004年に開通した、と。   

久保沢・川尻
台地の道を久保沢、そして川尻へと進む。途中に川尻石器時代遺跡などもある。久保沢とか川尻と行った地名は少々懐かしい。はじめて津久井城跡を歩いたとき、橋本からバスにのり、城山への登山口のある津久井湖畔に行く途中で目にしたところ。江戸時代の津久井往還の道筋でもある。
津久井往還は江戸と津久井を結ぶ道。津久井の鮎を江戸に運んだため、「鮎道」とも。もちろんのこと、鮎だけというわけではなく、木材(青梅材)、炭(川崎市麻生区黒川)、柿(川崎市麻生区王禅寺)などを運んだ。道筋は、三軒茶屋>世田谷>大蔵>狛江>登戸>生田>百合ケ丘>柿生>鶴川>小野路>小山田>橋本>久保沢>城山>津久井>三ヶ木、と続く。

原宿​・二本松
川尻から城山町原宿南へと成り行きで進む。原宿近隣公園脇を進む。この原宿の地は江戸・明治の頃には市場が開かれていた、とか。原宿から川尻を通り、小倉で相模川を渡り厚木をへて大山へと続く大山道の道筋でもあり、津久井往還、大山道のクロスする交通の要衝の地であったのだろう。
二本松地区に入るとささやかな社。二本松八幡社。なんとなく気になりお参りに。由来を見ると、もとは津久井町太井の鎮守さま。その地が城山湖の湖底に沈んだためこの地に移る。二本松の由来は、津久井往還の道筋に二本の松があったから、とか。

橋本

車の往来の激しい道を進み、日本板硝子の工場前をへて橋本の駅に。橋本の名前の由来は境川に架かる両国橋から。現在の橋本駅の少し北、元橋本のあたりが、本来の「橋本」である。橋本が開けたのは黄金の運搬がきっかけとなった、と前述、『八王子南郊;史話と伝説(小泉輝三朗;有峰書店新社)』は言う。

久能山東照宮にあった黄金を、家康をまつる日光東照宮に移すことになった。久能山から夷参(座間市)までは東海道を。そこから八王子へと進むわけだが、座間宿から八王子宿までは八里ある。馬は三里荷を積み進み、三里戻るのが基本。途中には御殿峠などもあるわけで、座間と八王子の間にひとつ宿を設ける必要があった。で、どうせなら峠の手前で、ということで元橋本のあたりに宿が設けられた、と。社会的は必要性からつくられた、というより、黄金運搬という政治的目的にのためにつくられた「人工的」宿場町がそのはじまりであった、とか。
少々長かった本日の散歩、ルートも当初の予定から大幅に変更になった。次回は、三増合戦の舞台となった峠のひとつ志田峠、信玄が本陣の旗をたてたとも言われる駒形山などを歩いてみようと思う。

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