水を辿るの最近のブログ記事

過日、土佐北街道を辿った折、長岡郡本山町で知らず野中兼山の利水事績である上井(うわゆ)、下井(しもゆ)に出合った。水路歩歩きフリークとしては水路を辿りたいと思えども当日は時間の余裕もなく,後日再訪し上井と下井を取水堰から吉野川への落とし口まで辿り終えた。
その折、偶々のこと、本山の町を流れる吉野川を少し下った行川筋にも兼山の利水事績である井筋(ゆすじ)が流れることを知った。これは歩かねば、とあれこれチェックするが、井筋がありウォーキングイベントなどが行われているといった案内以外に資料がまったく見当たらない。そういえば本山町の上井、下井の流路に関する資料も全くなく、これら井筋は地元の方にとっては特段の事績ではなく、日々の生活に根付いたごく当たり前の用水路としてみなされているのだろう。
はてさて、どうしたものか。とりあえず衛星写真で行川の谷筋をチェックするりすと耕地は行川左岸に多く見られる。利水井筋であるとすれば耕地に養水するのだろから、水路は行川左岸を流れているのだろうと推測。それも耕地に広範に水を落とすのであれば川筋から離れた比較的高い所を進むのであろうと、衛星写真とGoogle Street Viewで水路らしきポイントをチェック。いくつか水路らしき箇所をを見つけ出した。で、まずはその井筋に向かい、それが如何にも兼山の井筋と感じ取れば取敢えず水路を辿り、途次地元の方にその水路が兼山の井筋かどうかお聞きし、オンコースであればそれでよし、でなければ歩き直しも如かずとの方針で行川に出かけた。
当日は高知道大豊インターで下り、国道439号を本山方面に向かい本山東大橋で吉野川左岸に移り、土佐北街道歩きのとき辿った県道262号を東に向かい上関地区を抜け、行川に架かる橋の西詰を左折、最初の橋を渡り行川左岸に移り予測を付けた水路筋まで少し上る。
水路は上流から蛇行しながら続いているようでもあり、取敢えず落とし口まで辿ることにした。水路は行川筋の山裾の少し高台を進み、吉野川に面した丘陵をぐるりと東に曲がり県道262号に沿って高台を進み、土佐北街道散歩の折出合った山下家の少し先で沢に落ち、県道262号を潜り吉野川に落ちていた。
途次、地元の方に合うこともなく結局落し口まで来てしまったが、落とし口の辺りで地元の方にお聞きし、歩いてきた水路が兼山の造った井筋であることが確認できた。途中崩壊箇所と隧道があるとのこともお聞きした。井筋の長さも4キロ程とのことである。
当日は吉野川への落とし口から折り返し、水路を追っかけ取水堰まで辿った。4キロを歩き60mほど高度を上げるという、誠に緩やかな上りであった。崩壊箇所も1カ所であり、それほど険しいこともなかった。また、大岩を抜いた隧道も迂回路が整備されており念のために用意したロープの出番もなかった。結構快適な水路歩きではあった。

さてと、落とし口からはじまるメモを書き始めたのだがない、どうも書きにくい。流れに逆らう描写に慣れていないためだろう。ということで、メモは「逆回し」、取水口から落とし口へと辿るといった「編集」をおこない記すことにする。写真は上流へと追っかけ時に撮ったものであり、方向が逆になっていることをご容赦願いたい。



本日のルート;取水堰>水門>沢と分水門>分水門>車道をクロス>上轟>隧道>合茶集落の生活道をクロス>分水門>水路の段差>獣侵入防止高電圧鉄線>沢に水を落とす>沢から井筋に分水>沢に分水門>崩壊箇所>水路を跨ぐ古い橋の先、急傾斜で流れ落ちる>>沢に分水門>集落に出る>沢に分水門>沢に分水門>丘陵先端部に分水門>集落の生活道をクロス>丘陵先端部に分水門>本村集落の生活道とクロス>小さな分水>>旧山下家前で水路は右に折れる>水路は石垣に沿って東進>民家の中を抜ける>井筋落とし口

取水堰
取水堰は地図に上轟と記される名勝の地の北、遅越橋を行川左岸に渡った先、車道をクロスし行川左岸に沿って少し上流に進んだところにある。
取水堰はコンクリートで石組を固めた堰の左岸端から導水路で水を流していた。 堰の上側は下流の岩場と異なり、堰によって留められた砂と澄んだ水が美しいコンビネーションを呈する。なんだか、いい。標高は292mほどだろうか。

 水門と余水吐け
導水路の先には井筋水門とその前に余水吐けの水門。堰で取水された水が余水吐けの水門から大量に川に戻されていた。






沢と分水門
直ぐ先、小沢とクロスする箇所に分水門。大水時などに水門を開けて川に水を落としているのだろうか。水路は行川に沿って進む。





分水門
また、すぐ分水門。先に進むと左手に車道が見えてくる。道は行川に沿って谷筋を進み、地図には蛇野(はがめの)辺りまで記されている。蛇野とは面白い地名。「土佐地名往来」には「本山白髪山の小字。蛇は古来神霊の化身。毒をもっ た蛇を方言で「はめ」」と記されていた。


車道とクロス
ほどなく水路は車道をクロスする。車道は上下二本走り、ひとつは行川に沿って上流へと進み、もうひとつは山へと入る。行川沿いの車道を潜った水路は、続いて山に向かう車道下を走り二つの車道をを横切って下流へ向かう。山に向かう道を潜る水路蓋のグレーチング上はメンテナンスのためか、水路を覆う道路のグレーチングとの間はすっぽりと抜けていた。
遅越橋
二つの車道が分かれる直ぐ南に遅越橋がある。橋を渡った行川右岸に遅越地区の文字が地図に記載される。行川筋の最奥の集落のようだ。面白い地名。チェックするが、この地の地名由来はヒットしない。土佐にある別の遅越の由来として「遅い時刻に越えた峠道。「オソ」はうと(空)に通じる言葉から切り通しの峠道」といった説明が四万十地名辞典に記されていた。

上轟(かみとどろ)
車道をクロスし再び土径に入る。水路右手に木々の間から行川の清流が見える。仁淀ブルーではなく吉野ブルーとでも呼びたほど美しい。ゆっくりと弧を描く水路の姿もなかなか、いい。
メモでは堰から下ってはいるが、実の所、当日は兼山井筋の落とし口から取水堰まで辿った後、行川に架かる遅越橋を渡り車デポ地まで戻ったわけだが、その途次、「上轟」の標識を見かけ𠮷野ブルーを堪能した。誠に美しい色であった。
下轟(しもとどろ)
水路の対岸、上轟から少し車道を下ったところに下轟の標識がある。上轟ほどのインパクトはなかったが、車道から川へと下りる石段が整備されていた。紅葉の頃はまた違った景観を呈するのかもしれない。


隧道
水路に沿って5分ほど進むと前方に大岩が見える。水路は大岩の下を穿ち抜けてゆく。隧道があることは地元に方にお聞きしていたのだが、隧道出口へのアプローチを聞いておらず高巻などしなければいけないのか、などと思っていたのだが、大岩の谷側に沿って迂回路が整備されており、すべて杞憂に終わった。
隧道入り口手前には分水門。時に応じて行川に水を落としているようだ。隧道内部のメンテナンス時など、隧道内部の水を抜くためのものだろうか。
それにしても隧道は誠に狭い。人ひとり寝っ転がって体を入れるのが精一杯。大岩を抜くのは大変だったかと思う。


迂回路を進むと、大岩には石仏なのか双体道祖神なのか2体の像が彫られた石仏、そして小祠が大岩の窪みに祀られていた。
大岩を迂回し隧道出口のところに進む。


行川森林鉄道隧道
水路隧道の谷側に堰森林鉄道の隧道が残っていると地元の方のお話し。水路からのアプローチはできない。これも当日、取水堰まで水路を追っかけ、上轟、下轟を見遣りながら車道を下り、その先にあった橋を渡り水路隧道の谷側へと成り行きで歩く。途地、人の声に誘われ知らず「ふれあいの里なめかわ」の敷地に入る。
そこは私有地であり、本来は叱られるところ、この施設を経営するご夫妻のご厚意で「ふれあいの里なめかわ」から森林鉄道の隧道まで案内して頂いた。 「ふれあいの里なめかわ」の平地から少し上ると、線路跡筋。下流から続く軌道跡は草で覆われていた。この草道を辿れば「ふれあいの里なめかわ」の私有地を取らなくても隧道に行けるのかもしれない。
それはともあれ、線路跡を先に進むと隧道がある。素掘りの隧道を抜けた先は橋が落ちており行き止まり。県道262号、行川に架かる橋の東詰めを少し上ったところに:行川森林鉄道跡の標識があったので、そのあたりからこの隧道を経て更に上流へと伐採木材を運搬する鉄道が敷設されていたようである。「ふれあいの里なめかわ」の御主人のお話によれば、線路は戦中の鉄需要のため取り外されたとのことであった。

合茶集落の生活道をクロス
隧道を過ぎると行川に沿った水路は樹林帯を出て合茶の集落に入る。集落の舗装された生活道を越えると、地形に抗わず流れる水路の下には耕作地が広がる。 この集落は「会茶」とある。面白い地名でありその由来をチェックするが検索にはヒットしなかった。


分水門
水路は東に切れ込んだ沢筋を廻り込むが、その沢筋との合流点に分水門がある。ここまで土径であった水路脇の道は、簡易舗装の道となる。




水路の段差
簡易舗装の道も集落を離れると再び土径に戻る。沢の分水門から5分ほど歩いたところで水路が段差となっている。何故に段差となっているのだろう?兼山当時のものか、コンクリート補強工事の折に造られたものか不明ではあるが、段差を設ける理由のひとつとして考えられることは傾斜を一定にするため段差で調整することが考えられる(素人考え)。流れが速くなることでなにか不都合なことでもあったのだろうか。

獣侵入防止高電圧鉄線
水路が西に突き出た丘陵部先端を廻りこむ辺りに、水路脇の道を塞ぐように低い鉄線が張られ、「高電圧」「危険」「さわるな」の看板。その先は水路に沿って高電圧鉄線が張られている。獣侵入防止の柵なのだろうが、高電圧とは言え、このような低い鉄線で獣の侵入を防ぐことができるのだろうか。

沢に水を落とす
電気が通っているかどうかわからないが、鉄線に触れないように慎重に水路脇を進む。と、突然水路U字壁が切れ、その先で水が沢に流れ落ちる。水路歩きでよく出合う光景だ。
沢に水を落とし、沢の水も加え、沢の下流で取水し水路は更に下流に続くことになる。水路と沢の比高差が大きく、沢に水門を設け取水することができなかったのだろう。
先ほど出合った水路の段差による水流の速さの調整も、この沢の落としに関係あるのだろうか。

沢から井筋に分水
水路壁が切れた沢の手前で成り行きで下ると沢に分水門があった。この沢より分水された水路が兼山の井筋である。井筋を少し進むと、再び「高電圧」「危険」「さわるな」の看板の掛る鉄線。その先で鉄線が消える。合茶集落の耕作田を獣被害から防ぐ高圧鉄線はその役目を終えたということだろう。

分水門が続く
水路は合茶の集落を離れ丘陵部へと入って行く。
ほどなく沢に分水門。合茶南端部の耕作田に沢を介して水を落とすのだろうか。それとも単なる余水吐け?

行川に向かって突き出た丘陵先端部手前の沢に分水門。下に作田はなく行川への余水吐けの分水門かもしれない。

崩壊箇所
その直ぐ先で水路のすぐ右手、行川の谷側は大きく崩壊している。地元の方が一箇所崩壊しているところがある、とおっしゃっていたところだろう。水路部分まで大きく抉られており、水路はGoogle Lensでチェックすると「SP官ともダブル管」とも言う、ポリエチレン樹脂の管で補強されていた。

水路を跨ぐ古い橋の先、急傾斜で流れ落ちる
崩壊箇所の先、ゆるやかな傾斜の水路を少し進むと行川に突き出た丘陵突端部で水路は急傾斜で流れ、流路もグイッと右に曲げる。その先、水路を跨ぐ古い橋を越えた水路はなお急傾斜で流れ落ちる。
斜面を流れる水路はコンクリート補強されたU字溝ではあるが、その姿はなかなか、いい。

沢に分水門

その先、再び緩やかな流れとなった水路を進み、切通しっぽい大岩の間を抜けると沢に分水門。このあたりは未だ丘陵部。行川への余水吐け調整用の水門だろうか。

集落に出る
分水門を越えると水路は丘陵部を抜け集落に出る。集落に出た水路は民家の納屋の中を抜け、地形に抗うことなく東に切り込んだ沢筋へと進む。水路下には耕作田が広がる。
この集落の名前はわからない。行川の対岸は佐賀野、集落の南、丘陵を隔てた吉野川筋は本村とある。本村の集落なのだろうか。

沢に分水門
等高線に沿って東へと弧を描き進むと水路は沢にあたり、そこには常の如く分水門がある。集落の耕作田へ水を落とすのだろう。
分水門から少し進むと舗装された集落の生活道にあたる。ここが衛星写真で当たりをつけ最初に訪れた水路地点。上流を見ると沢筋の先に如何にも流路らしき「筋」が田圃の上に続いている。ということで、この水路が兼山n井筋であろうと「思い込み」取敢えず落とし口へと下った箇所である。
水路歩きの際、衛星写真とGoogle Street Mapの合わせ技でポイントを推定することが多いのだが、今回もなんとかうまくった。

丘陵先端部に分水門
水路は集落を離れ行川へと突き出た丘陵地に向かう。丘陵先端部に分水門。衛星写真を見ると行川との間に耕作田がある。そこへ水を落としているのだろう。



行川森林鉄道跡標識
丘陵先端部と行川の間を走る道脇に「行川森林鉄道跡」の標識が立つ。既にメモした合茶集落の隧道を抜け、行川左岸を更に上流へと進み、既述蛇野の東、新頃の辺り(標高430m)で東から合流する行川支流を迂回し、更に上流に進み標高600m辺りで(兼山井筋取水堰の標高が292mほどであるので、相当上流である)行川を右岸に渡り上関の蛇野(はがめの)で木材を搬出していたようである。全長11キロほどと言う。
上関と下関
この森林鉄道、上関林用軌道とも称したとの記事をどこかで見た。行川の左岸が下関、右岸が上関。左岸の下関を走る森林鉄道が何故に「上関森用軌道」と称するのか疑問に思っていたのだが、軌道の終点、というか始点が上関の蛇野にあることがわかり納得。

集落の生活道をクロス
分水門を越えると水路は舗装された集落の生活道をクロス。その先、生活道の下の樹林帯に入り、吉野川へと南に突き出た丘陵先端部に向かう。




丘陵先端部に分水門
丘陵杉が罰先された箇所に分水門。その先、草の生い茂った水路脇の道を進む。丘陵先端部を回り込んだ後は、行川筋から離れ吉野川を左手に見ることになる。
当初は落とし口は行川筋ではないかと予測していたのだが、行川筋は越えてしまった。吉野川とはまだまだ比高差があり、沢に落とすのであればそこが落とし口ではあろうが、でなければどこまで吉野川に沿って歩くことになるのか予測がつかなくなった。

本村集落の生活道とクロス
丘陵南端部を回り込み水路は東進。ほどなく舗装された生活道にあわさる。地図を 見ると先ほどクロスした生活道の続きであった。




小さな分水
生活道を越えるとほどなく誠に小さな分水箇所。水路脇の土径は草に覆われている。のんびりゆったり先に進む。とは言え、それは既にこの道を歩いたゆえのこと。最初は先がどうなることやら、どこまで吉野川筋を引っ張られるのだろうか、とは言え本集落の東には耕作田など何もないよな、であればもうすぐ落ち口があるのだろう、などととあれこれ考えながら歩いたのが本当にとことである。

旧山下家前で水路は右に折れる
草叢の土径を進むと左手に立派な石垣。どっかで見たことがあると思いながら進むと水路は石垣のお屋敷前で右に折れ、下に下る。このお屋敷は土佐北街道散歩の折訪れた旧山下家であった。

旧山下家
このお屋敷は参勤交代の折の藩主の休憩所。石垣と医薬門が往昔の名残を留める。薬医門は2本の本柱の背後だけに控え柱を立て、切妻屋根をかけた門であり、社寺だけでなく城郭や邸宅など門の形式としてよくみるもの。薬医の由来は門扉の隣に出入りが簡単な戸を設け患者の出入りを楽にした故とも、敵の矢の攻撃を食い止める「矢食い」からとも所説ある。



水路は石垣に沿って東進
吉野川に向かって右折した水路、これでお終いかと思ったのだが、水路は直ぐ左に折れ、石垣下を県道262号、土佐北街道の少し上を進する。



民家の中を抜ける
その先、水路は民家の裏手に入り込む。さすがに敷地に入ることは躊躇われ、一度県道下りて再び民家を抜けた水路へ戻る。
水路は県道262号の一段上の石垣に沿って進む。


井筋落とし口
石垣に沿って進む水路は直ぐ先、民家手前で右に折れ、県道を潜り沢に落ちる。その先は吉野川。ここが兼山井筋の落とし口だろう。近くにいらっしゃった地元の方に確認すると、この沢でもあり直ぐ東の太陽光発電パネルの辺り、とも。陽光発電パネルの辺りを彷徨ったが水気を感じることができず、取敢えず、沢が落とし口と思い込み、本日の散歩を終える。

行川の井筋は全長4キロほど、取水堰と落とし口付近の比高差は60mほどだろうか。斜度は0.85度。一度にも満たない緩やかな勾配角度であった。 これで土佐北山街道散歩の折に出合った、本山町の野中兼山の利水事績である本山町の上井と下井、行川筋の井筋を辿り終えた。さて、次はどこを歩こうか。
過日、土佐藩の参勤交代道である土佐北街道を辿った時、四国山地のど真ん中、嶺北の地・長岡郡本山町で土佐藩家老野中兼山の利水事績・灌漑用水路である上井と下井に出合った。
土佐の遍路歩きの途次、香長平野を流れる物部川や高知市の春野町(かつての吾川郡春野町)の利水・治水事業、足摺の呂津の湊造成などで野中兼山の事績メモは していたのだが、本山が野中家の所領地であったことも知らず、上井(うわゆ)、下井(したゆ)のことなど何も知らず、街中にあった案内によりはじめて知ることになった。
水路フリークには上井、下井という言葉の響きも相まって水路を辿ってみたいと思いながらも、当日は時間に余裕がなく水路歩きは後日を期し、案内にあった略図を頼りに上井と下井の流れる場所の確認に留めた。
案内図の概略図を頼りに流路を探すと、ふたつの流れは本山町の山裾、少し高台に鎮座する十二所神社の参道を横切っていた。上井は神社の二の鳥居辺りで参道を東西にクロスし、下井は一の鳥居傍をクロスしていた。土佐北街道散歩で十二所神社の一の鳥居前を辿っており、知らず下井に沿って歩いていたわけである。
本山の街中を流れる上井、下井の手掛かりとなる場所はわかった。また、地元に方にお話を聞き、取水口は土佐北街道歩きで渡った樫ノ川にあること、上井の取水堰は吉延、下井の取水堰は高角にあり、本山の町へと東流し天神地区で??野川支流に落ちるということも教えて頂いた。
で、土佐北街道をすべて歩き終えた後、日も置かず上井、下井歩きに出かけることにしたのだが、情報がまったく検索でヒットしない。兼山の事績であるからには、情報に困ることなないだろうとの思惑が外れてしまった。
仕方なく、当初のプラニングでは上井、下井ともその流れを確認した十二所神社の参道口から水路を追っかけ取水堰まで辿り、折り返し支流に落ちるところまで歩くか、上井に関しては土佐北街道散歩の参考にした『土佐の道 その歴史を歩く:山崎清憲(高知新聞社)』にあった、吉延で樫ノ川を渡ると兼山の造った用水路の取水堰が見えるとある記事を頼りに、その取水堰からスタートする選択肢はこのふたつ。 あれこれ考え、結局上井は取水堰が見付かればそこから下流に十二所神社まで下る。そこから下井に乗り換え取水堰まで追っかけ、十二所神社まで戻り、今度はそこから上井に乗り換え用水路が落ちる吉野川支流まで辿り、再び十二所神社まで戻り下井を下るという段取りとした。
上井の取水堰からスタートとしたのは、国土地理院の地図をチェックすると樫ノ川に架かる大吉橋の少し上流に堰らしき記号が記されていたためである。実際はこの地図に記された場所とは異なっていたのだが、すぐに取水堰は見つかりおおよそ上述の計画通りで歩けた。また、水路が天神地区で吉野川支流に落ちるという情報も、散歩に途次出合った地元の方に上井は伊勢谷川に落ち、下井はその手前の八郎谷に落ちる、といったことをお聞きした。この情報がなければ終点がはっきりせず相当混乱することになったかと思う。誠にありがたかった。
で、当日。水路歩きであれば手堀り隧道もあるだろう、とすれば隧道部迂回路で藪漕ぎもあるだろう、場合に拠れば高巻きする必要があるかもしれないとロープなども用意し散歩にでかけたのだが、下井で一箇所だけ大岩下を抜けるといった箇所があったがその横には鉄の桟道がつけられており、なんの問題もなし。藪漕ぎも高巻も必要なく、ロープの出番もない。距離も上井が5キロ強、下井が4キロ強ほどの誠に快適な水路歩きであった。

なお当日は行きつ戻りつの水路トレースではあったが、水路メモはそれぞれ取水堰から落ち口まで一気通貫に記することにする。



本日のルート;
上井を辿る
上井堰>土佐北街道の右手、谷側を進み最初の沢を越える>石橋のある沢を越える>土佐北街道の左手に移る>土佐北街道を左に逸れる>車道を逸れて山に入る獣防止柵>沢に水門>本山の町並みが見えてくる>「城山の森」の標識>沢を越える>歌碑2基>工事箇所>十二社神社の二の鳥居傍をクロス>散策路案内>山裾の生活道を西進>上の坊への道をクロス>八郎谷を渡る>天神参道クロス>沢をクロス>里の舗装道をクロス舗装された道をクロス>伊勢谷川に落ちる
下井を辿る
下井堰>分水門>分水門>沢と分水門>隧道と桟道分水門>沢と水門>土佐北街道筋に出る>土佐北街道から逸れ山側を水路は進む>2基の歌碑>土佐北街道筋に出る>十二所神社一の鳥居前を横切る>俳句の道の標識>崖手前で南に折れる>崖を旧道に下る坂道を左に逸れる>分水門>八郎谷に落ちる

上井と下井の流路


高知県長岡郡本山町の上井と下井を辿る

吉延の樫ノ川・大吉橋へ
高知自動車道の大豊インターで下り、国道439号を東進し、本山の町並の手前、井窪で国道を左折し県道267号を樫ノ川に沿って北進し吉延の集落に。そこから樫ノ川の谷筋へと右に逸れ大吉橋を渡り、橋の西詰に車を停める。
この道筋は先日歩いた土佐藩参勤交代道である土佐北街道。その時は気づかなかったのだが、道の右手、谷側に水路が流れる。上井の流れのようである。
上流に目を転じると、橋の西詰、水路が土佐北街道を潜った先、樫ノ川に沿って水路が南に延びている。この水路を辿れば取水堰に向かえそうだ。取水堰から手堀り隧道などに入ればトレースが厄介だなあ、などと思っていたのだがその心配はなかった。もっとも、自然水路は高きから低きに流れるわけで、等高線から考えれば隧道を抜いた場合、その理屈に合わなくなり、とすれば水路は樫ノ川に沿って流れるだろうとの予測はしており、その予測があたったようだ。




■上井を辿る■

上井堰
大吉橋西詰から人工水路に沿って先に進む。水路は補強され往昔の面影はない。橋から10分弱歩くと分水門があり、その先に川に堰が設けられ水門へとコンクリートの導水路が続く。そこが上井の取水堰であろう。
国土地理院に記載された堰らしき記号はその少し上流。堰の場所の予測は外れたが、結果オーライではあった。標高は329m。

土佐北街道の右手、谷側を進み最初の沢を越える
大吉橋西詰ではおおよそ土佐北街道直ぐ傍(標高327m)を流れていた水路は、樫ノ川に沿って進むにつれて道との比高差を増す。
18分ほど歩き、おおよそその比高差が20mほどのギャップとなったところで最初の沢とクロスする。水路には簡易水門が設けられている。下は直ぐ川であり時に応じ水を川に放流するのだろう。

水路橋のある沢を越える
沢を越えると左手から一時離れていた土佐北街道が水路に接近してくる。最初の沢から数分、土佐北街道との比高差が10mを切った辺りで二番目の沢。水路はコンクリート造りの水路橋で沢を渡る。標高はおおよそ319m。ゆるやかな傾斜で下っている。

土佐北街道の左手に移る
更に数分歩くと上井は土佐北街道筋に出て、道を潜りその山側、道の左手に移る。ここからしばらく上井は土佐北街道に沿ってその山側を進むことになる。標高は317m。
下井堰との連絡道
上井が土佐北街道に合わさりその下を潜る地点から右手に下りる簡易舗装の道がある。そこを下ると田圃に出るが、その畦道を樫ノ川に向かって進むと下井堰の近くに出る。
下井は取水堰の場所がはっきりせず、上述の如く十二所神社から下井堰まで追っかけたのだが、その戻りに上を通る土佐北街道に出る道として利用した。下井堰傍から杉林を這い上がろうかとも思ったのだが、国土地理院地図に上述、土佐北街道合流点から樫ノ川に向かって実線が描かれている。川の近くで線は途切れるが、なんとかなるだろうと歩いてみたら土佐北街道に出た。軽々に杉林を這い上がらなくてよかった。なお、国土地理院の地図に記載されていない部分は田圃の部分である。

土佐北街道を左に逸れる
土佐北街道の山側を側溝といった趣の上井とお付き合いしながら15分ほど歩くと、水路は土佐北街道から左に逸れる。標高はおおよそ312m。水路の山側には大石の集落を結ぶ道が走る。




車道を逸れて山に入る
水路は数分で大石の集落と繋がる道の下を潜り(標高309m)、道の山側に移る。その直ぐ先、水路は車道を離れ山へと入っていく(標高307m)。




獣防止柵
車道を逸れると直ぐ獣防止柵が行く手を防ぐ。初めて獣防止柵に出合ったときは、どうしたものかと結構驚いたのだが、基本、柵の開け閉めはでき、柵内に入った後はちゃんと閉め戻すことがマナーである。
水路の谷側にも柵が設けられていたが、それも直ぐに無くなり、竹林や杉林の中を10分ほど歩くと南に切れ込んだ沢に出合う。

沢に水門
水路は南に切れ込んだ沢の突端部をコンクリート補強されて渡る。鉄製水門が設けられ沢の水も含め、水は沢に落ち、水門から先水路に水は無くなる。標高は305m程だろうか。沢を越えると直ぐ、山側に貯水槽といった施設(標高300m辺り)。



本山の町並みが見えてくる
そこから数分歩くと木々の間から本山の町並み、吉野川に架かる橋が見えてくる。貯水槽の辺りから水路に水がかすかに現れ始める。どこかで養水されているようには思えない。自然に溜まったものだろうか。



「城山の森」の標識
貯水槽から5分弱、「城山の森」と書かれた木の標識が立つ(標高298m)。標識は水路進行方向を指す。地図を見ると水路の20mほど下を走る土佐北街道の道筋から標識まで実線が記される。町からこの道筋を上井筋まで上り、水路に沿って先に進み十二所神社のあたりから城山へと上るようである。
城山
本山城。本山氏の居城。全盛期は土佐郡、吾川郡そして高岡郡の東部までをその領地とした。勢力の拡大により居城を本山城から朝倉城に移るも、永禄3年(1560)長曾我部勢が本山城を攻撃。本山氏は朝倉城を焼き本山城に戻り長曾我部勢と対峙。が、長曾我部勢の攻勢に抗せず城を開き東の瓜生野に退くも元亀年間に本山氏は長宗我部氏の軍門に降った。
Wikipediaに拠れば、「江戸時代には既に城は廃れており、山内一豊は家老の山内刑部(永原一照)に本山一帯の支配を任せ、本山市街の西側の丘に邸(土居)を作りこれを支配した。これが現在の上街公園であり、本山城とは別の場所である。ここには奉行職野中兼山も住んだと言われている」とあった。

沢を越える
「城山の森」の標識の先、前面が開け本山の町並み、北へと突き出た枝尾根を迂回する上井筋の走る「筋」が山肌に見える。なんだか、いい。
水路を進み南に入り込んだ沢筋に。ここで沢水が水路へと養水する。標高299m。


歌碑2基
沢を越えた先に2基の歌碑。標高297m。「ぽんかんの 皮のぶあつさ 土佐の国 桂信子」「朝の雨 あらくて 夏に入りにけり 日野草城」と石碑に刻まれる。平成10年(1998)建立。歌碑の傍から土佐北街道へと下る道があった。
その先、北に突き出た枝尾根を水路が廻り込む手前にも歌碑。「みちにしく 花吹雪とはなりにけ理 阿波野青畝」とあった。平成12年(2000)建立。標高296m。
俳句の道
本山町には同町出身の俳人右城暮石先生を顕彰し、著名俳人の句碑を20基ほど町の各所に建てて巡れるようにしているようだ。

砂防工事箇所
枝尾根の先端部を回り込んだ水路は、南に切れ込んだ沢筋に向かう。沢は砂防対策の工事中。コンクリート砂防堰らしきものが造られていた。水路はこの工事箇所の前後は地中に埋まり、沢を渡るところで顔を出す。標高294m。


十二社神社の二の鳥居傍をクロス
沢を渡ると前方に鳥居が見えてくる。過日、土佐北街道散歩の折、町中にあった案内図で上井の場所を確認したところである。標高288m。
鳥居手前には地神さまらしき幾多の祠が並ぶ。どこかからか移されたのだろうか。 水路は二の鳥居傍をクロスし西に抜ける。

鳥居前には「↑66m 十二所神社」「→495m本山城跡」「→594m 上の坊」「→662m 山内刑部墓所」といった散策案内があった。
本山城は上述した。上の坊、山内刑部墓所は後程メモする。
十二所神社
社の由来案内に拠れば、沿革は「長徳寺文書」に承元2(1209)年の「十二所、供田」が初見とあるように古き社である。また弘安11(1288)年2月の文書には「土佐国吾橋山長徳寺若王子古奉祀熊野山十二所権現当山之地主等為氏伽藍経数百歳星霜之処也(以下略)」と、ある。熊野十二所権現を勧請したものだろう。
平安末期、この地は熊野社領の荘園・吾橋(あがはし)荘が設置されており、熊野十二社権現が勧請されることは至極自然なことであろうかと思える。
「土佐州郡志」に「帰全山、或は之を別宮山と謂う 旧(もと)十二所権現社有り今は無し」と記し、当社が古代から中世にかけて、吉野川対岸の帰全山に鎮座して居たが、戦国乱世の永禄年中、本山氏と長宗我部氏との合戦で兵火に罹災し、帰全山から永田村今宮に移り、慶長15(1610)年5月に再建され、寛永15(1638)年12月、領主野中兼山公のとき、現在地に遷った。
明治元(1868)年、十二所大権現を十二所神社と改称。
十二所権現
熊野の神々のことを熊野権現(くまのごんげん)と称する。熊野三山(本宮・新宮・那智)のそれぞれの主祭神をまとめて呼ぶ場合は熊野三所権現といい、熊野三所権現と熊野三山に祀られる他の神々(五所王子・四所明神)を合わせて熊野十二所権現と称する。 
領主野中兼山
本山は野中兼山の領地であった。江戸時代初期の土佐藩家老。藩政改革を実践し、港湾修築、河川の利水・治水事業による新田開発など功績を上げるも、その過酷とも言われる施策により政敵との対立を深め、後年は罷免・失脚し失意の中虚しくなった。
残された家族への処遇も過酷であり、男系が絶えるまで幽閉生活が40年以上続いたという。この間の事は『婉という女;大原富枝』に詳しい。婉は兼山の娘。4歳で幽閉され、以降40年間外部との接触を禁じられ、43歳で幽閉を解かれた。

散策路案内
参道をクロスした水路は北に突き出た山裾に沿ってすすむ。町から繋がる道が合わさるあたりに十二所神社参道にあった散策路と同じ案内。↑370m本山城跡」「→469m 上の坊」「→537m 山内刑部墓所」「←190m 十二所神社」とあった。 山裾を進む水路は町に近づく。


山裾の生活道を西進
山裾の生活道を西進し、舗装された山裾の道に出る。水路は周囲に民家の建つ生活道路を進む。標高283m。






上の坊への道をクロス
西進すると「上の坊」への道をクロスする。上の坊への道を交差した先は崖。水路は南に廻り崖上を進むことになる。標高275m。




上の坊
水路がクロスする箇所から山に上る道を少し進むと、「史跡 上の坊 本山南学寮跡 野中兼山が儒学者山崎闇斎を招いてこの場所にあった古寺で土佐南学を講究したといわれる。兼山は禅学より儒学に転向し、勉学に励み南学(海南朱子学)といわれるまでにその学問を発展させた」とある。
南学
土佐を歩いていると、、雪蹊寺の案内にもあったように時に「南学」という朱子学派が顔を出す。歩き遍路で三十三番札所を打ったとき、そこには「江戸時代初期には「南学発祥の道場」といわれ天室僧正が朱子学南学派の祖として活躍、野中兼山などの儒学者を生み出した」との案内もあった。コトバンクによれば「天文 17 (1548) 年南村梅軒により南海の地土佐に興った朱子学派。海南学派ともいう。京学,東学に対する称。四書を重んじ,道学者的態度を固持するとともに実践躬行を尊び,実際政治に参与した。
梅軒のあと,吸江庵の忍性,宗安寺の如淵,雪蹊寺の天室らを経て,谷時中にいたって仏教から完全に独立し,基礎を固めた。その門人に野中兼山,小倉三省,山崎闇斎が出た。のち三省の門下から,谷一斎,長沢潜軒,大高坂芝山らが出,また闇斎の門弟,谷秦山が帰国して,南学を振興した。
人間系譜は以上のようにたどれるものの,三省が世を去り,兼山が失脚して藩府より南学派は弾圧を受けて両人の門人や闇斎も土佐を去り,土佐における南学派は一時中絶した。秦山が復興した教学は三省,兼山までの本来の南学と質を異にし,京,江戸の学風の移入とみることができる。もっとも秦山は大義名分論に立つ尊王思想を説き,幕末勤王運動に影響を与えたが,こうした政治と結びついた強い実践性の点では,広い意味での南学は一貫している」とあった。
山崎闇斎
江戸時代前期の儒学者・神道家・思想家。朱子学者としては南学派に属する。闇斎によって論じられた朱子学を「崎門学」または「闇斎学」という。君臣の厳格な上下関係を説き、大義名分を重視した。
闇斎は朱子学だけでなく神道についても論じた。吉川惟足の吉川神道を発展させて神道と儒教を合わせた「垂加神道」を創始し、そこでも君臣関係を重視した。垂加神道は、神を信仰し、天皇を崇拝するというもの。天照大御神に対する信仰を大御神の子孫である天皇が統治する道を神道であると定義づけ、天皇への信仰、神儒の合一を主張し、尊王思想の高揚をもたらした 以上のような闇斎の思想は、水戸学・国学などとともに、幕末の尊王攘夷思想(特に尊王思想)に大きな影響を与えた。
山内刑部夫妻の墓所
上の坊から山道を少し上ったところに山内刑部墓所がある。山内氏が土佐藩に入国後、本山に封ぜらえた山内家家老。
案内には「山内家の家老であった。山内一豊の土佐入国に際して、その軍功から本山千三百石知行本山城に配され、本山土居初代藩主として慶長6年(1601)に本山に入っている。
慶長8年の瀧山一揆の鎮定に努め、元和元年(1615)の大阪の役には高知城の城代を務めた。元和6年、63歳で病没」とあった。
瀧山一揆
土佐に入国した山内家に対し、改易された長曾我部氏の遺臣、下級武士である郷士に扇動されて起きた百姓一揆。年貢の納入を拒み北山の瀧山に籠り抵抗するも鎮圧される。首謀者は断罪とするも百姓らの罪を不問に伏す。但し、一領具足とも言われ、長曽我部氏の兵農未分離の農兵隊でもあった百姓より武器を召し上げるのが条件でもあった。
この一揆は山内家に対する長曽我部遺臣の最後の抵抗とも言われ、この事件以降、長曽我部氏の影響下にあった一領具足衆は弱体化することになる。
本山町の吉野川対岸の山中に北山の地名がある。瀧山はその辺りなのだろう。

八郎谷を渡る
舗装された生活道から離れた水路は再び木々に覆われた山裾部の少し上を進むことになる。「上の坊」への道から9分ほど歩くと、南に切れ込んだ谷筋を渡る。
後程記すことになるが、この谷へと「下井」が落ちる。水路歩きの途中出合った地元の方より「上井」は「伊勢谷」に落ち、「下井」は「八郎谷」に落ちるとお聞きしていた。音だけで表記は確認しなかったのだが、この谷が「八郎谷」だろう。
沢には鉄製の水門が設けられていた、時に応じ水門を閉じ先に水を流したり、水門を開け沢に排水したりと調節しているのだろう。標高273m。

天神参道クロス
八郎谷から先に進むと水路の周囲の木々が伐採されている。6分くらい歩くと水路は天神参道の石段をクロスする。水路は木々が切り開かれた参道の石段下に見える町並みからおおよそ10mほど高いところを流れているようだ。標高272m。


沢をクロス
木々が伐採された箇所を越えると、水路は再び木々に覆われた中を進む。数分歩くと南に切れ込んだ沢をクロスする。標高270m。
その先で水路は山を離れ里に向かう。



里の舗装道をクロス
里に出た水路は舗装された里道をクロスする。その先水路は竹林の中を抜ける。標高268m。竹林を抜け里の民家の傍を水路は進む。




舗装された道をクロス
なんだか、いい。その先で水路は舗装された道をクロスする。標高261m。舗装された道を越えると水路は急な傾斜で落ちる。




伊勢谷川に落ちる
その先に谷筋が見える。舗装された道から急な傾斜を田圃の畦道といったところに下り、水路に沿って少し進むと水路は谷筋に落ちる。これが地元の方に教えて頂いた伊勢谷川であろう。標高は260m。
上井は𠮷野川本流ではなく、その支流に落ちる、という事を知らなければこの谷筋を越えた先に水路を求め彷徨うことになったかと思う。偶々上井筋で出合った地元の方に挨拶し、何気ない話の中で教えて頂いた情報が誠に役立った。感謝。

上井散歩はここまで。予想に反し、手堀り隧道の迂回や藪漕ぎもなく結構快適に歩くことができた。距離はおおよそ5キロほどだろうか。樫ノ川の上井堰での取水口の標高は329m。この地が280m。5キロを70m、ということは100mで1.4mほど下ることになる。傾斜角は0.80度といったところだろうか。


下井を辿る


上井のトレースを終え、下井に移る。上井の取水口・上井堰は『土佐の道 その歴史を歩く;山崎清憲(高知新聞社)』に、樫ノ川に架かる大吉橋辺りにあるといった、大雑把ではあるが何となくそれらしき場所は予測でき、また取水堰もすぐ見つかり上井堰より下ることができたのだが、下井堰の場所は全く予測がつかない。
地元の方の話では高角に取水堰があるとのことで国土地理院の地図をチェックすると高角に堰らしき記号が記される。が、この記号、上井堰の辺りにもあり、当初はその記号箇所が上井堰と予測していたのだが、結果的には上井堰はその記号よりずっと下流であり堰とは一致しなかった。ために、下井堰の場所の参考にはなりそうもない。
ということで、下井を辿るスタート地点は町にあった史跡案内図をもとに確認した十二所神社一の鳥居傍を流れる下井からはじめ、上流へと水路を追っかけ取水口・下井堰を確認。そこから十二所神社まで折り返し、地元の方にお聞きした八郎谷に落ちる地点まで水路を辿った。八郎谷がどこかは分からないが、取敢えず水路が落ちる谷が八郎谷であろうとの思いで下流へと下ったわけである。上井のメモで八郎谷の沢と記したが、それは下井が落ちた沢を確認したゆえの記載ではある。
で、下井のメモであるが、当日の行きつ戻りつを時系列でメモすることはやめ、取水口・下井堰からはじめ、八郎谷に落ちるところまでを上流から下流まで順をおってメモすることにする。そのほうがわかりやすいだろう、といった便宜上の「編集」ではある。

下井堰
下井堰は地元の方がおっしゃった通り、高角地区にあった。場所は樫ノ川に架かる大吉橋の西詰より、土佐北街道の谷側を進んだ上井の流れが土佐北街道に合わさる地点を少し北東に下った辺りである。
上井のメモで上井と下井の連絡道(私注;私が勝手につけた名称)と記したが、上井は土佐北街道に合わさり道の山側に移る地点に川に向かって下りる簡易舗装の道があり、そこを下ると田圃に出るが、その畦道を進むと樫ノ川筋に下りることができ、その少し上流が下井堰である。
堰はコンクリート造り。左岸側に導水路がつくられ水が下る。下井のはじまりの地点である。標高272m。

分水門
導水路の少し下流に水門があり、余水はそこで樫ノ川に戻されていた。水門部は自然地形を石組で補強したものか、石組だけで造られたものか水路を覆い梯子で下りなければならないようになっている。何故にこのような造りにしたのだろう。素人考えでは、洪水時にこの石組で大量の水や砂から水路を護っていたようにも思える。そういえば、上井も取水堰からの導水路水門のある辺りは、今は鉄製のゲートとはなっているが、その隧道と水路の間は小高く築かれた堤状になっていた。

分水門
数分で水路谷側に分水門。下は樫ノ川。時に応じて水路の水を川に落とすようにしているのだろう。
ほどなく水管を通り地中に入るが直ぐ地表に現れる。何故に少々唐突にこの箇所だけ水管で抜ける?地図をチェックするとこの水管部に小さな沢が落ちていた。沢を水管で越えているのだろう。

沢と分水門
5分程歩くと大きな沢とクロスする。そこには水路下流に流れる水を堰止める水門、樫ノ川に水を落とす水門が設けられる。沢水の下井への養水、時によっては川に水を落とすなどの水量調節をおこなっていたのだろう。標高270m。


大岩と桟道
沢をクロスし数分歩くと水路をが阻む。水路は大岩の下を潜る。大岩の谷側には鉄製の桟道が設置されており、難なく大岩を迂回できた。標高269m。



分水門
大岩を越えると右手、木々の間から谷側に耕地が見えてくる。大岩から数分で分水門。このあたりから分水された水は灌漑用に落とされているように思える。
その先、数分歩き、水路が枝尾根を廻り込む突端部にも分水門。標高267m。


沢と水門
数分歩くと小さな沢にあたり、そこに分水門。更に数分先にも水門。上井に比べて分水門の数が多いように思える。これは単なる素人の妄想ではあるが、上井と下井の役割がちがっていたのではないか、とも思えてきた。下井から水を落とせない本山の西部に灌漑用の水を供するために上井が掘られたことは自明のことではあろうが、それと共に傾斜角度の緩い下井への養水の機能も上井にはあったようにも思える。とすれば、上井と下井の掘られた時期も、上井のほうが遅い時期であったのだろうか。
あれこれと疑問が生じてきた。本山町史でもチェックすれば記録はあるのだろうか。本山町から吉野川を少し下った行川(なめかわ)にも兼山の遺構水路が残るとのこと。その井流も歩いてみたいので、その時にでもどこかの図書館で調べてみようとも思い始めた。
なお、この辺りから標高表示を止める。あまりに緩やかな傾斜のため、GPSのデータでは下流が上流より標高が高くなる。後述するが傾斜角が全体で0.12度程度といったものであり、標高270m弱を誠に緩やかな傾斜で下って行くといった状態である。

土佐北街道筋に出る
先に進むと水路左手上に道路が見えてくる。過日歩いた土佐北街道の道筋である。ほどなく水路は土佐北街道下を潜り、道の山側に移る。




土佐北街道から逸れ山側を水路は進む
土佐北街道を潜り道の山側に出た水路は、道を左に逸れて山側、一段高いところを進む。
前方、一段低いところにに本山の町並みが見えてくる。用水路が開かれらた当時は一面の田圃ではあったのだろう。

2基の歌碑
ほどなく水路傍に2基の歌碑。「秋の暮れ 山脈いづこへか帰る 山口誓子」「長き日の なお永かれと野に遊ぶ 山口渡津女」と刻まれる。平成9年(1997)建立。標高266m。
水路はその先で土佐北街道へと緩やかに下ってゆく。


土佐北街道筋に出る
水路は土佐北街道筋にあわさる。そこに「俳句の道 山口誓子」と書かれた木の標識が立つ。水路は道の山側を溝となって先に進む。土佐北街道を歩いた時、道脇に水路を見ながら歩いたのだが、その時は兼山遺構の水路なとど知る由もなかった。水路の周囲には家屋が多くなってくる。

十二所神社一の鳥居前を横切る
土佐北街道に沿って流れる水路は十二所神社一の鳥居に向かう。下井の取水口の場所が分からず、元山の街中にあった下井、上井の案内をもとに下井の流れる場所を比定し、上流へと遡った場所に戻ってきた。
ここからはその先、地元の方が落ちるという八郎谷(表記は推定)まで辿ることになる。
一の鳥居下を潜った水路は北に流れを変えその直ぐ先で町中に落ちることなく、町並みより一段高い山裾を西進する。

俳句の道の標識
西進し、本山の町並みを見下ろす地に石碑が立つ。川村一族を顕彰する碑のようだ。嶺北地方の郷族であったよう。
その先、「俳句の道 青々・暮石・和生句」と書かれた木の標識が立つ。水路沿いには歌碑は見当たらなかった。
西進する下井の少し上を平行して上井が進む。
歌碑
「日盛りに蝶のふれあう音すなり 早梅に見し向上の一路哉 松瀬青々」「いつからの一匹なるや水馬 天上へ赤消え去りし曼珠沙華 右城暮石」「つばめかと 思う速さに 土佐の蝶 茨木和生」といった歌碑が土居屋敷跡(上街公園)の東に並ぶようである。
土居屋敷跡
案内には、「史跡 土居屋敷跡 Remains of the Doi Residence 土居屋敷跡は戦国時代に本山地方を本貫とした本山氏の土居(館)であった。近世初頭には本山に封ぜられた山内刑部・但馬父子、続いて野中玄番・兼山父子の4代にわたる屋敷となった。兼山時代の土居は上段・中段・下段からなり、入り口下段に文武館、中段に長屋門の諸建物があり、上段に本宅があった。(皆山集)
兼山失脚後は藩士の在番が置かれ、享保3(1718)以降は本山倉番、土居門番が配置された。 参勤交代に土佐街道(北街道)が用いられるようになると参勤交代時の藩主の宿泊所にあてられ、以後「本山御殿」と称されるようになる。この土居屋敷を中心に周辺に「土居下町」と呼ばれる小規模な町場が形成されていた。明治になって建物は取り壊され、跡地は桜の公園として整備されている。(史跡) 本山町教育委員会」とあった。
少し昔の「本山土居跡」案内
Google Street Viewで土井館跡を見ていると、現在の案内ではない古い案内が立っていた。説明が少し詳しいので掲載しておく:
「本山土居跡土地の豪族本山氏の土居の一つで 天正十七年(1586)長宗我部検地当時は本山采女が住んでいた。山内一豊の土佐入国後 慶長六年(1601)山内刑部 (永原一照)が本山千 三百石を与えられてここに住んだが、その子但馬は私曲の罪によって元和六年(1620)知行を没収されて 佐川の深尾家に預けられたためそれ以来本山土居はしばらく領主不在となった。
寛永七年(1630)野中直継が本山土居を預けられて千石を加増せられ養嗣子兼山も当然これを受けついだ。 兼山は藩主忠義の厚い信頼をえて藩奉行職として敏腕を発揮したが本山領主としても吉野川の支流の樫ノ川や本能津川に下津野堰、トドノ堰、ノボリ立堰、カタシ山堰 井口堰を設けて用水をひいて多くの新田を開発し、その余沢を現在にまで及ぼしている。又寛永二十年(1643)に発せられた「本山掟」は兼山と領民をつなく歴史的文書といえよう。
寛文三年(1663)兼山失脚後本山土居は山内下総に次いで孕石頼母らによって管理されたが明治になってすべての建物が取りこわされ、今はその石垣にわずかに面影をしのぶばかりである」。
下津野堰は樫ノ川にあったようだが、その他は不詳。
本山掟
兼山は、本山掟とか、国中掟、広瀬浦掟などを作って、農政を行っている。本山掟の内容は;
〇お上や法律にそむかないこと。
〇荒地が少しでも残らないように開き、田地にせよ。精を出して開けば開 けばほうびをあたえる。3年・5年・7年の間は年貢を取らない。
○年貢は全部11月までにおさめよ。畑作の年貢分は6月までに全部おさめよ。
○作った米の3分の1は百姓のとり分であるが、秋冬はぞうすいを食べよ。春までたくわえずに、めしや酒にして食べてしまったものは死刑にする。
庄屋はよく調べて、そむいているものがないようにせよ。かくしておいてあとでわかったら、庄屋もともに処分する。
○酒を買って飲んだり、朝ねをしてはならない。そむく者があれば銀三匁(およそ6000円)の罰金をとる。赤面三匁〉赤面三匁、生酔い五匁、千鳥足十匁。
○家や着物がそまつなことはかまわない。法で定めているより良くすることは許さない。 このおきてにそむく者があれば、本人はもちろん庄屋も罰する」といったもの。

厳しい施策をとったと言われるが、実際にこんな掟を見ると農民の怨嗟を買ったということも頷ける。

土居
土佐では城館のことを「土居」と称していた。幕府の一国一城制により支城は破却されるが支城のあったところは要衝の地。山内氏も土佐入国に際し、佐川、窪川、本山、宿毛、中村、安芸といった要衝の地に土佐入国以前の掛川以来の重臣を配し、破却された城近くに館を構え領国経営にあたった。これが土居制度であり、本山土居、安芸土居などと称された。

崖手前で南に折れる
町並みの中を西進する水路は時に上に鉄網やコンクリートで蓋をされる。少し進むと鉄網の下、水路から下に分流する箇所がある。昔は一面の田圃であったのだろうが、は家並みが軒を連ねる。
ほどなく水路は崖の手前で南に道路に沿って流路を変える。流路を変える地点の道の反対側に「←上の坊・山内刑部の墓」「土居屋敷 170m→」の標識が立つ。

崖を旧道に下る坂道を左に逸れる
南に流路を変えた水路は直ぐ、崖を旧国道へと下る坂道に沿ってゆるやかに下ってゆく。ほどなく水路は坂道を左に逸れ先に進む。




分水門
草に覆われた水路脇の土径を進むと水路崖側に鉄製の手摺が現れる。何のために手摺が設けられたのか、その理由はよくわからない。手摺が切れるその先、分水門が設けられ、コンクリート補強された分水路から猛烈な勢いで水が旧国道筋へと落ちてゆく。
旧国道へ落ちた水は何処へ
余りに勢いのいい分水が何処に流れ落ち、何処に向かうのか、ちょっと気になる。いい塩梅、というか水門調整の作業道が旧国道へと下りている。作業道を下りると旧国道へと下る坂道を潜り、旧国道に沿って町へと東進していた。


八郎谷に落ちる
分水門の先は一瞬水路脇に土盛はなく、コンクリート水路枠上をバランスを取りなながら進む。直ぐ水路に沿った土径が現れ先に進むと水路が急傾斜となった先で水が谷に落ちる。この谷が地元の方に教えて頂いた八郎谷(表記は「はちろうだに」の音から推測)だろう。これで樫ノ川の取水口、下井堰から下った下井はお終いとなる。
下井堰の標高は272m、八郎への落ち口は標高261mだが、八郎谷に急斜面で落ちる地点の標高は265mほど。おおよお4キロを7mから8mといった落差で流れてきたことになる。角度は0.12程度といった超緩やかな傾斜で下ってきたことになる。
八郎谷の西
地元の方の話では兼山が造った下井はこの八郎谷に落ちてお終いのようであるが、水路は八郎谷を越えて西に進むという。
下井とは関係ないのだが、どのようにして谷を越えて西進するのかと、一度旧国道に下り八郎谷に足を踏み入れる。直ぐ八郎谷に落ちる水路確認。

一度谷に落ちた水はその直ぐ下流にある堰で分流され旧国道に沿って西進。少し進んだところで民家裏手に入り込み、その直ぐ先で水路に落ちて終わっていた。

これで、土佐北街道散歩の時に出合った野中兼山の遺構、水路歩きフリークには少々萌えながらも時間がなく辿ることのできなかった上井と下井をカバーした。イントロでもメモしたように、藪漕ぎもなく隧道迂回にと念のために用意したロープを使うこともなく、至極快適な水路歩きであった。
次回は、本山町の少し下流、行川(なめかわ)筋にも残るという兼山の利水遺構を辿ってみようと思う。この井筋もほとんど詳しい資料がない。一応ロープは用意するが、今回の上井、下井のような快適な井流歩きであることを願う。
利根川東遷事業により瀬替えされた元の利根川本流(古利根川)を辿る散歩も、その東遷事業の嚆矢となる羽生市の会の川締め切り跡(異説もある)からはじめ、東遷事業により源頭部を失った元の利根川(古利根川)の廃川跡、といってもその廃川跡はその後の新田開発のため葛西用水、また葛西用水の送水路として大落古利根川となって整備されているのだが、ともあれ、その廃川跡を春日部まで下り、春日部で大落古利根川を離れ古利根川筋である古隅田川に。古隅田川筋を辿り大落古利根川筋から元荒川筋に移り、越谷を抜け元荒川が中川に合流する吉川市へと下って来た。

で、今回から下る中川であるが、この川は昔からあった自然の川ではない。利根川東遷事業により取り残された河川を利水のために繋いだ人工の川である。大雑把に言って、上流部は利根川東遷事業によって取り残された島川や庄内古川と言った幾つかの河川、下流部は東遷事業以前に江戸に流れ込んでいた利根川本流である古利根川筋を繋いで整備されたものである。
上流部では廃川となっていた権現堂川の河道を整備し島川と繋ぎ、権現堂川筋から庄内古川は新たに6キロほど開削し両河川を繋いだと言う。
下流部では元荒川が中川に合流する吉川の少し上流で、庄内古川と大落古利根川を繋いだ。元は江戸川に落としていた庄内古川の水を、その水捌けの悪さ故に落とし先を大落古利根川に変え、松伏の大川戸から下赤岩までの4キロ弱を開削し両川を繋いだわけである。
これらの工事は大正5年(1916)から昭和4年(1929)にかけて実施されたようであり、中川の誕生はそんなに昔のことではないようだ。
因みに、かつての利根川の主流は春日部から古利隅田川筋に流れていたようであり、古隅田川以南の大落古利根川は支川といったもの、といった記事をどこかで目にしたことがある。ということは、古隅田川との分岐点以南の大落古利根川も庄内古川との繋ぎ分岐点まで、上記工事期間中に開削・整備工事がなされたということであろうか。
それはともあれ、現在では中川となっている古利根川筋を吉川から八潮に向けて下ることにする。

本日のルート:武蔵野線・吉川駅>新中川水管橋>東京電力送電線・小松川線鉄塔>道庭緑地>二郷半領用水>彦糸公民館の庚申塔>七芳弁天社>内田排水樋管>中堰排水樋管(排水機場)>ガス導管専用橋>八潮排水機場傍の石塔>八潮排水機場>中川合流点の綾瀬川放水路・八潮水門>久伊豆神社>八条用水>葛西用水(南部葛西用水)と合流>ふれあい桜橋>葛西第一水門>小溜井引入水門>成田エクスプレス・八潮駅

武蔵野線・吉川駅
先回散歩の最終地点である武蔵野線・吉川駅に。南口に降り、成り行きで中川筋に向かう。
吉川は葦川(あしかわ)から。葦の生い茂る川。あし>悪し、と語呂が悪いからと、よし(良し)かわ>吉川に。するめ>あたりめ、亀無し>亀梨(なし)>亀有と転化したものと同じ命名パターン。
ついでのことながら、本日の目的地である八潮は八条・八幡村と潮止村とが合併し、両者痛み分けの八潮に。この命名法も市町村合併時によくあるパターンである。
八潮は海抜2m。潮止村は東京湾の潮がここまで遡上してきた故の村名。潮止橋の名が残る、と言う。
武蔵野線
横浜市鶴見区の鶴見駅と千葉県船橋市の西船橋駅を結ぶ。鶴見駅と府中本町間(武蔵野南線)は臨時列車を除き基本貨物専用線、府中本町と西船橋間は貨物・旅客兼用路線となっている。なお、西船橋から京葉線と繋がり東京まで結ばれている。
この路線は元々山手貨物線(現在の湘南新宿ラインが走っている線路)の迂回路線として戦前に企画されたが、戦争で計画は凍結。戦後になり昭和39年(1964)着工、昭和48年(1973)に府中本町・新松戸間が貨物・旅客兼用として開通。昭和51年(1976)には府中本町・鶴見間が貨物専用線として開通。昭和53年(1978)には新松戸・西船橋間が旅客専用線として開通した。
当初の府中本町・新松戸間は貨物線がメーンとしてスタートしたが、貨物輸送の減少・近隣地域の人口の増加に伴い、現在では旅客輸送が増便されている。 一方、府中本町・鶴見間の通称武蔵野南線は基本的に貨物専用である。昭和42年(1967)新宿駅構内でジェット戦闘機用燃料を積んだ貨物列車の脱線・炎上事故が起きた。当時、立川にある米空軍基地のジェット戦闘機用燃料は山手貨物線を経て輸送されていたわけだが、都心での爆発事故の教訓から郊外を走る武蔵野貨物線の完成が急がれたようである。現在では米軍のジェット戦闘機用燃料は武蔵野南線・南武線を経由し拝島から横田基地へ送られているようである。

新中川水管橋
木売地区を進み中川の堤に出る。木売地区から高富地区に下る。上流は武蔵野線の鉄橋、下流には4連続アーチの橋が見える。近づくと橋の両側に水管が見える。水管橋であった。
新中川水管橋と称されるこの橋は、新三郷浄水場から県南東部へ水を送る。左岸吉川市から右岸越谷市側へと水を送るこの水管橋は、人が渡れる人道橋ともなっていた。
地盤沈下を避けるため江戸川より取水した新三郷浄水場の水は、三郷市、吉川市、草加市、越谷市、川口市、八潮市の約110万人に水道水を供する。
木売(きうり)
「地名のおこりは明らかではないが、古利根川沿いの自然堤防にあって早くより開けていたと思われ、一時的な領土の境界が近くにあって、その境としての柵(キ)とか城(キ)があり、ウリを浦(ウラ)と解せば、河や水の引いてあるところ、柵浦(キウラ)とすれば川が境界とするところと解釈ができ、その後に木売の字を用いた説と、舟着き場として木材の集散地として起こった説があるが、両方の説も明らかではない(吉川市のHP)」

東京電力送電線・小松川線鉄塔
高久、中曽根、道庭(どうにわ)と下る。道庭地区の南端、地図に中川に繋がるような水路跡がある。が、その地に至るも中川に排水口とか取水口といったものは見えない。また、水路も見えず柵に囲まれた緑地となっており、そこには一直線に東に延びる送電線鉄塔が並ぶ。逆の中川右岸には、遮るものとてない平野に送電線鉄塔が連なる。
送電線はどこからどこへ続くのだろう。何となく気になりチェックする。東京電力送電線・小松川線鉄塔と呼ばれるようだ。東京電力送電線・小松川線は北葛飾変電所から小松川変電所まで130の送電線鉄塔で電気を送る。??川市にある北葛飾変電所からスタートし、吉川市>三郷市>??川市>(中川を跨ぎ)>草加市>(綾瀬川を跨ぎ)>八潮市>(中川を跨ぎ)>三郷市>東京都葛飾区>(江戸川を跨ぎ)>千葉県松戸市>(江戸川を跨ぎ)>東京都葛飾区>東京都江戸川区>小松川変電所へと続く、とのことである。
小松川変電所のある東京都江戸川区を結ぶには真すぐ南に進めばいいものを、あっちこっちと進むのは、途中の変電所や他線への分岐などがその要因だろうか。
北葛飾
北葛飾変電所の由来は、往昔の北葛飾郡からの命名だろう。古代の下総国北葛飾郡が江戸の頃、利根川東遷事業により利根川の西となり、武蔵国に編入される。さらに明治の頃、その北部の埼玉県域を北葛飾郡、東京府域を南葛飾郡とした、と。
高久(たかひさ)
「地名のおこりは明らかではないが、高久の久を(ク)と呼ぶことによって、潰れる、切れるという意味があるようで、これらを引用すると古利根川の荒れるがままに、たびたび堤防が切れたりすることがあり、久しく高い所であってほしいという語をもって前の地名を高久の字をもって変えたことがあったのではないかと思われるが、前の地名が残されていない現在では地名を想像するしかない(吉川市のHP)」
中曽根
「中曽根のソネの意味には岬の意味があるところからすれば、古くは東京湾がこの近辺まで入り込んでいたころには小さな美しい岬を、あるいは古利根川の流域の変遷による河川の分岐点としての一つの岬をなしていたのではないかと思われる(吉川市のHP)」

道庭緑地
水路は見えず、代わりに送電線鉄塔が並ぶ緑地が気になりちょっと立ち寄る。地図で見れば水路は二郷半領用水と繋がっているように見える。送電線鉄塔が水路上に建つとも思えないが、緑地がどこで切れているのだろう?との好奇心から。 桜並木となっている緑地を進むが、水路が現れる気配はなく、結局二郷半領用水にあたるところまで水路が開くことはなかった。
地理院地図にある水路は?
この緑地は道庭緑地と呼ばれ、吉川市と三郷市の境となっている。それはそれでいいのだが、地理院地図に記されている水路は?地図では二郷半領用水と繋がっているように見えるが、中川に吐口はなかったように思う。
二郷半領用水の支川ではなく、中川堤防側から二郷半領用水に水が流れていたのだろうか?が、明治中期に作成された関東平野迅速図にも水路の記載はない。 地理院の治水地形分類図を見ると、この水路(?)の中頃の南北は自然堤防に囲まれた氾濫原として示されている。氾濫原に溜まる水の吐口・悪水落としの水路だったのだろうか?まったくわからない。
ついでのことながら、送電線鉄塔用敷地としての整備がいつ頃実施されたか定かではないが、地理院の「空中写真〈1984〉」にはそれらしき敷地が見える。
道庭(どうにわ)
「古くはドバと呼んだのを後世に道庭の文字をあてたものと思われる。ドバの意味には平らな地形という意があり、おそらくは古利根川沿いの砂地で流域の変化によってできた自然堤防上の平地をなしていただろうことが推測される(吉川市のHP)」

二郷半領用水
送電線鉄塔敷地は県道67号で途切れるが、その先も武蔵野線辺りまで続く。武蔵野線を越えた送電線鉄塔はその先で北に折れ大場川手前の北葛飾変電所へと続く。
それはともあれ、県道67号と合わさる送電線鉄塔敷地の北に二郷半両用水が見える。用水は緑道となっており、県道を越え緩やかな弧を描き南へ下る。弧を描く理由は?地理院の治水地形分類図には氾濫原と自然堤防の境が弧を描く。用水路はその境に沿って下る。分水を容易にするため、少しでも標高いところを選んだ流路となっているのだろうか。
緑道に「二郷半緑道」の案内。「由来 吉川市や三郷市の二郷半領用水路一帯は、かつて「二郷半領」と呼ばれ、三輪野江地区にある定勝寺にある銅鐘(寛文9年〈1669〉制作)の銘文中に、「吉川、彦成ノ二郷アリ諸邑戸コレニ属ス。而シテ彦成以南ヲ下半郷ト称ス。故ニ二郷半ノ名」とあり、二郷半領の由来が刻まれています。
経緯 この地域は江戸幕府の直轄領であり、早稲米の産地として栄え、収穫したコメを江戸に運ぶため、中川を利用した舟運で大いに賑わいました。
しかし、中川・江戸川に挟まれた低地であるため、度々水害に悩まされていました。このため、幾多の灌漑排水事業を行ったことにより、豊かな穀倉地帯となりました。
この二郷半緑道は、国営利根中央農業利水事業の水路整備に伴い、余剰地を有効に活用し、憩い安らげる場所として整備された緑道です」とあった。
●二郷半領用水の取水口
現在の主取水口は松伏町大川戸の二郷半領揚水機場(平成15年(2003)から)。水源を利根大堰に求め、用水は埼玉用水路、葛西用水路を経由して一旦大落古利根川に注水する。これを大落古利根川に新設した二郷半領用水機場で取水し吉川市、三郷市へと進み、三郷放水路を越え、第二大場川と合流した先で大場川と合流する閘門橋(猿又閘門)へと下る。
寛永年間(1624~43)に開削された当時の二郷半領用水の取水口は、現在の野田橋辺りの江戸川右岸にあった。この地で自然取水されていた用水も、昭和14年(1939)頃から江戸川の水位の低下により取水が困難となり、昭和21年(1946)から26年(1951)にかけて県営かんがい排水事業により中川に渇水時用の機場を設けることになる。
その後、この中川の機場も老朽化のため取水に支障をきたし、昭和42年(1967)に県営事業により、江戸川の取水口の改修をおこない、また揚水機4台を新設し再び江戸川から取水することになった。
しかし、その後も江戸川の河床低下は続き、水位低下により不足する水量は中川の機場を暫定的に使用して補ったようであるが、江戸川から取水する揚水機場の老朽化・施設の廃止もあり、安定的な水源確保のため新たにその水源を利根大堰に求め、現在に至る。
二郷半と三郷
二郷半とは、かつてのふたつの郷(郷はいくつかの村を合わせたもの)と、郷とするには少々戸数の少ない故の半郷を合わせたものとのことであった。
で、二郷半領と三郷、けっこう近い。二郷半領と三郷の関係は?まったく関係なし。昭和31年(1956)に三つの村が合併するに際し、三村からの「三」と、二郷半領であった故の「郷」を合わせて三郷村とした、と。
三郷団地
ゆるやかにカーブする二郷半領用水の東、自然堤防上に三郷団地(現在はみさと団地)が並ぶ。昭和48年(1973)より入居が開始された日本有数のマンモス団地である。ピーク時には2万3千余りの入居者がいた、とのこと。
それはそれでいいのだが、通勤の足。上の武蔵野線のメモで、昭和48年(1973)に府中本町・新松戸間が貨物・旅客兼用として開通したと記した。が、この当時現在の新三郷駅はなく、貨物の武蔵野操車場があった。通勤の足は武蔵野線・三郷駅へのバスであったようである。
駅ができたのは昭和60年(1985)。貨物操車場を廃止したためだが、開業当時の駅は、広大な操車場の南北に分かれ、上下線のプラットフォームは300mも離れていたようだ。世界一離れたプラットフォームとして平成6年(1994)にはギネスに登録されている。上下線がひとつにまとまった駅(北側に合わせる)となったのは平成11年(1999)のことである。現在操車場敷地跡には商業施設が建っている。

彦糸公民館の庚申塔
二郷半領用水で折り返し中川筋に戻る。成り行きで中川筋への道を進むと、途中「実相院・東福寺」と記された建物があった。敷地内にはお堂や石仏が並ぶが寺はない。廃寺となり現在三郷市彦糸公民館となっていた。敷地東には七芳弁天社があり、東福寺は七芳弁天社の別当寺とのこと。敷地は東福寺の跡地とも言われる。
境内の観音堂、地蔵堂にお参り。並ぶ石仏の中に青面金剛が刻まれた庚申塔があった。憤怒の形相の青面金剛が多いが、この像は穏やかな顔である。台座に刻まれた三猿(見ざる、言わざる、聞かざる)がはっきり見える。何故に庚申塔に三猿?またそもそも何故に庚申塔に青面金剛?
庚申塔と三猿
庚申塔と三猿の関係は?庚申(かのえさる)からとも、また庚申の夜、天帝に宿主の罪を告げ口する三尸(さんし)の虫に己が罪を見なかった、聞かなかった、そして告げ口しないで、との願いから、とも。
道教では人には魂(コン)、魄(ハク)、三尸(さんし)という三つの霊が宿る、と言う。宿主が亡くなると魂(コン)は天に、魄(ハク)は地下に戻る。幽霊の決まり文句「恨めしや~、コンパクこの世にとどまりて恨みはらさずおくものか~」のコンパクがそれ。
三尸は宿主が亡くなると自由になれるとされる。自由になりたいがため、宿主がむなしくなることを待ち望むわけだ。この三尸、旧暦の60日ほどで一回というから、年に6,7回巡りくる庚申(かのえさる)の日、人が眠りにつくと宿主の体を抜け出す。天帝に宿主の罪を告げるためだが、そのレポートにより天帝は宿主の寿命を決める、とか。
宿主をむなしくし、はやく自由になりたい三尸に、あることないこと告げ口されたらかなわんと、人は寝ないで朝を迎えた。これが庚申待ち。眠らなければ三尸は体を抜けだすことができないためである。
庚申塔と青面金剛
で、庚申塔と青面金剛の関係は? 道教の天帝を仏教では帝釈天とみなすようであり、青面金剛がその帝釈天の使者であるが故と。また三尸の語呂合わせでもないだろうが、伝尸病(でんし;結核)に霊験あらたかとされるのが青面金剛であった故、とも。

七芳弁天社
彦糸公民館の西隣に七芳弁天社が祀られる。付近には三郷七福神巡りの幟が並んでおり、小振りではあるがこの七芳弁天社がそのひとつであろうかと思ったのだが、どうもそうではないようだ。そこから少し北東、道庭緑地に面した安養寺に弁天社が祀られる。
三郷七福神は3つの地区に分かれており、ここはそのひとつである「彦成巡り」のコースであった。
彦糸
この地区は「彦糸」、七福神巡りは「彦成巡り」。三郷には「彦」がつく地名が多い。地図を見ると彦糸、彦音、彦成、彦名、彦川戸、彦倉、彦沢、彦江などが目につく。おおよそ中川に沿って連なる。
由来は、引く>連なるにあるようだ。中川(元の利根川)と江戸川にはさまれた低地である三郷は、流路定まらぬ河川の氾濫により自然堤防や後背湿地が発達し連なっている。このような連なる自然堤防・後背湿地よりなる〈成る〉という地形から彦成村が出来、その大字として彦を冠した地名がつくられたようである。
自然堤防が連なるところは、この三郷以外にも数多くあるのだが、こういった命名パターンははじめて。何故にこの地だけに?わからない。

内田排水樋管
中川筋に戻り堤防を少し下ると内田排水樋管のプレートがある水門がある。堤防に向かって住宅の間を排水路が通っている。上述の道庭緑地の箇所には吐口がなかったが、ひょっとしてここに落としている?
あれこれチェックすると、埼玉県の作成した「川の国 埼玉はつらつプロジェクト「二郷半領用水地区」」の地図には水路と繋がる内田川という小川が記されている。そこから繋がっているのだろうか。そうであれば、上述の道庭緑地に記された「消えた」水路は、東の二郷半領用水へ水を落とすのではなく、二郷半領用水から分水された水が西へと流れこの地で中川に落とされることになる。
真偽のほどは別にして、あれこれと妄想を巡らすのは結構楽しい。

中堰排水樋管(排水機場)
彦音、彦成と下り県道29号八条橋の手前に中堰排水樋管の水門がある。堤防内部には中堰排水機場も見える。三郷市に限ったことではないのだが、低地部の治水施設はどうなっているのだろう?チェックすると三郷市には47の排水樋管、排水機場、調整池があった。
埼玉県南東部の中川・綾瀬川流域は、利根川、江戸川、荒川 に囲まれ、水がたまりやすい『お皿』 のような地形となっている。そのうちこの三郷市は東側に江戸川、西側には中川が流れ、市内を北から南に大場川さらに第二大場川が流れる。東側を流れる江戸川(の水位)が高く、そこから西側の地形は低いため、中川などの河川が増水した場合、水はけを行うことが難しく、たびたび氾濫が発生していた、とのこと。その治水対策として47もの施設が整備されている、ということだろう。

ガス導管専用橋
県道29号八条橋を渡り中川右岸に。市域は八潮市となる。中川に沿った土径に入り成り行きで進む。釣り人を見遣りながら外環道中川橋梁、それに並走する国道298号潮郷橋を潜り更に先に進むが、ブッシュが激しく撤退。ブッシュの向こうに見える水管橋らしき橋辺りまで行こうとしたのだが、諦めて右岸堤防に上がり県道102号に入ることにした。
メモの段階でチェックすると、ブッシュの先に見えたのは水管橋ではなくガス導管橋とのこと。東京ガスの工場から都市ガスを送る。首都圏には約640キロに渡る幹線が整備されているとのことだが、ガス管が地上に現れるのは結構珍しいのではないだろうか。

八潮排水機場傍の石塔
県道102号を南に下ると綾瀬川放水路にあたる。その手前、八潮排水機場の傍に4基の石塔が並ぶ。左端に青面金剛の彫られた庚申塔、その横に「庚申」と文字だけが刻まれた庚申塔がある。この文字庚申塔は道標ともなっており、側面に「江戸道」、右側面に「野道」と刻まれる。
下妻街道がすぐ傍を通るわけで、とすれば綾瀬川放水路工事の折に、他の2基の石碑と共にここに移されたのだろう。
下妻街道は、千住宿で水戸街道と日光街道と分かれ、荒川、中川、江戸川、利根川、鬼怒川を渡って下妻(茨城県下妻市)に通じる。

八潮排水機場
綾瀬川放水路手前に八潮排水機場。案内には「八潮排水機場は、人工的に開削した綾瀬川放水路と中川の合流点に位置しています。古くより大きな洪水を被っている綾瀬川流域一帯の被害を軽減するため、洪水流の一部を中川に排水等することを目的に建設されました」とあり、続けて「中川流域は、かつて利根川、荒川が、洪水のたびに流路を変え、昔から洪水被害に悩まされてきました。地形的にも利根川、江戸川、荒川の大河川に囲まれ、水がたまりやすい皿のような地形になっています。さらに、河川の勾配が緩やかで水が流れにくい特徴があり、ひとたび大雨に見舞われるとすぐには水位が下がらず、危険な状態が続いていました」との説明が中川・綾瀬川の地形断面図、草加市の洪水被害の写真と共にあった。
この断面図は八潮のあたりではあろうし、その比高差は異なるとは思うが、江戸川の水位は大落古利根川より高い。かつて江戸川に落としていた庄内古川(中川)の水を、水位の低い大落古利根川に落とすべく、現在の中川・大落古利根川合流点まで人工的に開削し中川を造ったということが、この断面図により少々のリアリティをもって感じることができた。




中川合流点の綾瀬川放水路・八潮水門
綾瀬川穂水路を渡り中川合流点へと川筋に向かい、八潮水門・八潮排水樋管を見る。
綾瀬川放水路は草加市の綾瀬川から八潮市の中川を結ぶ。八潮排水機場にもあったが、昭和57年(1982)、61年(1986)に綾瀬川が溢れ水に浸かった草加市域など綾瀬川流域一帯の治水対策事業の一環であろう。
放水路開削は東京外環道の工事に合わせ実施され、外環道の完成した平成4年〈1992〉に外環道に沿って北側水路、平成8年(1996)に南側水路が完成。八潮水門は平成10年(1998)に完成した。

久伊豆神社
綾瀬川放水路から先は中川筋を離れ、八条用水へと向かう。大落古利根川の松伏溜井から逆川を経て元荒川筋に入った葛西用水は、越谷の瓦曽根溜井で南部葛西用水と八条用水に分かれて取水される。南部葛西用水は南下し八潮で垳川(がけかわ)に注ぐが、八条用水は地図上で水路が消え去り、余水吐けがどこに繋がっているのかよくわからない(注:一旦水路が消えるが、メモの段階でよく見ると下流部に水路が描かれていた)。
であれば八条用水の末端部を確認してみようと八条用水に向かう。県道102号を少し南に進むと、道は南西方向に進路を変えるが、直進すると久伊豆神社が ある。どうせのことならと立ち寄り。八潮市の鶴ケ曽根地区に久あるふたつの伊豆神社が一つであった。
何度か久伊豆神社についてメモしたが、再掲。
祭祀圏マップ
鈴木理生さんの『幻の江戸百年:鈴木理生(ちくまライブラリー)』に、古き利根の流れの東は香取の社、西は氷川の社とその祭祀圏がくっきりと分かれ、その間、元荒川流域だけに80ほどの久伊豆神社が鎮座するマップがあった。 香取神社の祭神はフツヌシノオオカミ(経津主大神)。荒ぶる出雲の神・オオクニヌシ(大国主命)を平定するために出向いた神。氷川神社の祭神はスサノオ・オオナムチ(オオクニヌシ;大国主命)・クシナダヒメといった出雲系の神々。が、久伊豆神社の由来はよくわからないと書かれていた。
未だによくわからないのだけれど、また誰が言っているわけでもないのだけれど、ちょっと妄想。
久伊豆神社は出雲の土師連ゆかりの社のようで、土師連の祖先神は天穂日命とその子の武夷鳥命、および大己貴命、と言う。天穂日命って、アマテラスの子供(「連」とは天孫系の氏族を意味する姓)。大国主を平定するために出雲に出向くが、逆に大国主に信服し家来となり、出雲国造の祖となった神さまである。
天孫・天津神系(大和朝廷)の香取と、国造・国津神(出雲族)の氷川の間に、天孫系(大和朝廷)でありながらも国津神(出雲族)の神・大国主と仲良くなった神を祖先神とする部族がいた、ということ、か。なんだか、なんだかおもしろい。

八条用水
県道102号に戻る。八條小学校前交差点で南下する県道102号から県道327号に乗り換え鶴ケ曽根地区から小作田地区へと進む。
吉川市のHPには、曽根(そね)は「岬」とあった。『角川地名大辞典』には曽根は自然堤防とある。川によって運ばれた砂礫の多い荒れ地を古語では「埇(そね)」という字をあてている。そこからの転化だろう。岬も自然堤防の一形状であろう。
小作田は湿地の間にある小さな水田という。国土地理院の治水地形地図を見ると、鶴ケ曽根は自然堤防、小作田は後背湿地となっている。地形を表した地名となっている。
暗渠に
南に下るとほどなく用水は暗渠となる。地図で水路が消えているのはこのあたりだろう。緑町一丁目・二丁目の辺りで暗渠は左に分かれる道筋に沿って進む。 少し下った中央一丁目西交差点で用水は先ほど分かれた県道102号に合わさり、交差点で南に折れる県道の道筋に沿って用水も南に下る。
県道102号が県道54号と交差する中央交番前交差点で用水は県道102号と分かれ、民家の間の狭い路地を下る。
開渠に
民家の軒先を進む。どこに連れていかれるのか、用水の落としを何処で、どうやって処理するのか、ちょっとワクワクしたのだが暗渠は直ぐに開渠となって、開けた道筋を下ることになる。
八条用水の流路をチェックしたとき、地図にあるこの開渠部を見落とし、今回の八條用水末端部探索とはなったわけである。

葛西用水(南部葛西用水)と合流
開渠に沿って下り首都高速6号線の高架を潜ると用水は葛西用水(南部葛西用水)に合流する。散歩当日は地図上で開渠になっていることを見逃しており、八条用水は結構大きく、この余水吐をどこで・どう処理するのかと、末端部へと辿ったのだが、ちょっとあっけない、というか至極まっとうな始末ではあった。

ふれあい桜橋へ
葛西用水に沿って下り新葛西橋に。その先につくばエクスプレスの線路高架があるが、右岸も左岸も用水に沿っては進めない。左岸のふれあい桜橋へと向かう道路に沿って南に進む。
道路と葛西用水の間には、如何にも後背湿地といった箇所が残されていた。一帯は宅地分譲されていたが、分譲地の案内に記された調整池の多さが宅地造成される以前の後背湿地の名残を伝える。国土地理院の治水地形分類図にも、この辺り一帯は中川の自然堤防と綾瀬川・毛長川の自然堤防に囲まれた後背湿地・氾濫原と示されていた。

葛西用水が垳川に合流
橋の北詰にある「ふれあい桜橋」交差点を少し西に進み葛西用水に架かる橋に。右岸も左岸も葛西用水に沿って進めない。橋から葛西用水が垳川(がけかわ)に合流する箇所を確認し交差点に戻りふれあい桜橋に。
この橋は八潮市と東京都足立区の境となっている。古利根川散歩も羽生市から下りやっと東京都。はるばる来たぜ、と小声で叫ぶ(呟く)。



葛西第一水門
ふれあい桜橋を渡り、南詰めから垳川に沿った径・遊歩道に入り垳川の南側から葛西用水の合流部を確認。遊歩道を進むと水路があり水門が設けられている。水門は葛西第一水門という。往昔垳川を越え南に下った葛西用水の水門である。
この水門、現在は洪水時の水量調整以外は基本閉じられており、用水には南の花畑運河の水を流しているようだ。浄化のためだろう。花見で知られる目黒川の水が落合浄水場から送られる浄化された下水であることを想い起こした。玉川上水もそう。小川監視所より下流は昭島市の多摩川上流水再生センターで高度浄化処理された水を、玉川上水の浄化のために流している。散歩をするとあちこちで高度処理された下水で浄化がおこなわれる河川・用水に出合う。 それはともあれ、葛西用水を浄化するという花畑運河から送られた水がどこで用水に落とされるのか、次回の散歩で確認しようと思う。

小溜井引入水門
葛西第一水門のすぐ傍、葛西用水が垳川に合流する地点のすぐ上流に小溜井引入水門がある。これってどういうこと?葛西用水への導水溜井用であったとすれば(現在水門は閉じられているが)合流地点より下流でなければならないわけで、理屈に合わない。
チェックすると、元は綾瀬川の本流であった垳川筋ではあるが、江戸の頃には既に垳川筋が綾瀬川本流と切り離されている。洪水対策のため垳川との接続部下流が直線化工事を施され、綾瀬川は南に下る。
綾瀬川との接続部は閉じられた。その後、これも江戸時代に中川との接続部も閉じられ、垳川は川ではなく葛西用水の「溜め」となっていたようである。往昔綾瀬川接続部からこの水門までの「溜め」を小溜井と称した。
で、件(くだん)の水門であるが、現在は基本開けっ放しで水門の機能を果たしていない、とか。それはそれでいいのだが、その名称の小溜井引入水門の「引入」ってどういうこと?
左;葛西第一水門、中央;小溜井引入水門、右;葛西用水
さらにチェックすると、用水合流点の少し下流、ふれあい桜橋が架かる辺りにかつて葛西第二水門があった、とか。ここで用水を堰き止めれば、小溜井に必要に応じて水を引きいれることができるわけで、「引入」の疑問氷塊。
○旧小溜井排水機場・垳川排水機場
垳川の両端、綾瀬川との接続部に旧小溜井排水機場(平成7年(1995)に閉鎖された)、中川との接続部に垳川排水機場がある。排水機場と言う以上、垳川の水を両河川に排水していたことになる。これってどういうこと?
チェックすると垳川では葛西用水の合流点あたりが最も標高が高かったとのこと。垳川の水は排水機場を通して両河川に排水されていたようだ。
が、平成7年(1995)に旧小溜井排水機場閉鎖された。葛西用水合流部が最も水位が高いとすれば、東に流れる垳川の水は垳川排水機場のポンプ、また排水機場近くの稲荷下樋管の自然流下により中川に排水されるだろうからいいものの。葛西用水合流部から西、旧小溜井排水機場までの間は水が滞留し水質が悪くなる。実際その滞留環境の溜井には生活排水などが流れ込み水質が悪化したようだ。
その対策として平成20年(2008)より水質改善の実験的取り組みが行われ、潮の干満による水位差を利用して綾瀬川から垳川に通水、浚渫などが実施された。平成26年度(2014)からの本格的運用に際しては、通水量の問題、またそもそもの綾瀬川の水質の問題などが取り上げられているようである。
垳川
「がけかわ」と読むこの名の由来は?垳地区を流れるからであろうが、そもそも「垳」の意味は。この漢字は本来中国からもたらされた漢字ではなく、峠などと同じく日本で造られた国字とのこと。
「土」+「行(く)」>土が行く>土が崩れる>水がカケ(捌け)る様子が起源となり、水が流れるとき「土」が流されて「行」く、といった意味があるようだ。 現在、所謂「がけ」には崖という感じがあてられるが、江戸時代中期までは一定でなく、「崖」の他、「峪」、「岨」、「?」などの漢字があてられたという。が 「垳」もそのひとつであったよう。「崖」と言えば切り立った斜面のイメージがあるが、土が削り取られた結果としての形と思えばそんなに違和感はない。 垳という字は、垳川と垳という地名以外に使われることはないようだ。
「垳」がこの地に残る故、当用漢字として残されているが、「青葉」という地名に変わる可能性もあるとのこと。暴れ川の綾瀬川によって土が流された、といった地形のニュアンスを伝える地名が消え去るとすれば、ちょっと残念ではある。

本日の散歩はこれでお終いとし、最寄りの成田エクスプレス・八潮駅に向かう。次回の散歩で、既に歩き終えている足立区・葛飾区の境を流れる古隅田川まで歩き、古利根川筋繋ぎの旅の大団円としたいものである。
先回は久しぶりに利根川旧路を下る散歩を再開し、岩槻から越谷市袋山まで辿った。春日部で大落古利根川から分かれた、かつての利根川流路・古隅田川が元荒川に注ぐ岩槻から下ったわけである。
メモの過程で偶々知ることとなった国土地理院の治水地形分類図のおかげで、今は消え去った旧利根川(古隅田川・元荒川)をはっきり確認することができた。また、その地形分類図で岩槻城の縄張りも、台地・自然堤防・後背湿地といった地形から読み解くこともできた。地形分類図を知るまでは、地形から見て何となく台地では?自然堤防では? などと想像するだけであったので、これは結構嬉しい発見であった。 今回は、日暮れ終了となった越谷市の東武i伊勢崎線大袋駅から越谷市街を抜け、元荒川が中川に合流する地点まで進もうと思う。


本日のルート; 東武東上線・大袋駅>水路を辿り元荒川堤防に>宮内庁埼玉鴨場>元荒川堤桜並木>逆川>天嶽寺>久伊豆神社>建長元年板碑>逆川伏越の吐口>瓦曽根溜井>谷古田用水・東京葛西用水・八条用水取水堰>道標付き庚申塔>瓦曽根堰>堂端落し>大聖寺>日枝神社>久伊豆神社>八坂神社>大成排水機場>元荒川・中川合流点>武蔵野線・吉川駅

東武伊勢崎線・大袋駅

国土地理院・利水地形分類図をもとに作成

先回の散歩終了点である東武伊勢崎線・大袋駅に向かう。元荒川筋から駅に向かう途中で偶々みかけた土手が、かつての元荒川筋が造った自然堤防であり、河川改修により直線化工事される以前の元荒川は、大袋駅やそのひとつ北の千間駅を囲むように大きく蛇行していた。
また、昭和36年(1961)の国土地理院空中写真には、未だ宅地が密集していないこともあり、蛇行する元荒川の旧流路、自然堤防上に並ぶ民家が見事に移されていた。
どうせのことなら、駅から元荒川筋へは旧流路跡をトレースしょうと地図をチェック。駅の近辺はそれらしき道筋が見えないが、国道4号を渡った先から元荒川に向かって、如何にも流路跡のようなゆるやかな蛇行の道がある。そこに向かって成り行きで進む。

水路を辿り元荒川堤防に
国道4号の袋山交差点をわたり、地図にあるゆるやかに曲がる道筋に。北は道路わきに水路跡らしき煉瓦敷の歩道がある。南に進むと車止めがあり、その先は水路暗渠といった小さな歩道が南に続く。
ポンプ制御盤も歩道脇に立つ。水路跡に間違いないだろうと思った先、歩道脇に小さな水路が現れる。水はないが途中木橋なども置かれた道を進むと元荒川に出る。元荒川へと合流した先の堤防には排水ゲートといった施設があった

宮内庁埼玉鴨場
堤防を進むと緑の森が前方に見えてくる。越谷梅林公園を左下に見遣りながら堤防に立つ、かつては「立ち入り禁止」の用をなしていた(?)石柱の間を抜けると、左下に宮内庁埼玉鴨場がある。敷地はフェンスで厳重に守られている。 明治41年(1908)、元荒川の旧河道を利用して造られた、という。国土地理院の治水地形図には氾濫原と色分けされていた。
鴨場それ自体には特段の興味もないので、さらりと流すが、鴨場脇を抜ける元荒川の土手の景観は落ち着いた風情で、誠に美しいものであった

元荒川堤桜並木
元荒川左岸を進むと前方に桜波木が堤防上に並ぶ。国土地理院の治水地形分類図をみると、右岸文教大のキャンパスのある辺り、元荒川がS字に大きく蛇行する左岸に自然堤防が描かれる。
昭和36年(1961)の国土地理院の高級写真には自然堤防上に民家が建ち、現在民家が密集する氾濫原は畑地となっている。自然堤防には洪水を避けて人が住むという地形と人の関わり合いの基本の姿が見てとれる。
堤防上の道を進む。堤防は人手で盛り土したとのこと。堤防内側と段差が有るところ、無い所がある。当時はその違いはなんだろう?と思いながら歩いたのだが、件(くだん)の地形分類図をみると、段差があるのは氾濫原、段差がないのは自然堤防と接しているようにも思える。なお、この自然堤防の内には北越谷河畔砂丘があるとのことだが、宅地にその痕跡を認めるのは困難だろうとも思う。
桜並木
堤を先に進むと「元荒川堤桜並木」の解説がある。まとめると;
「万葉集には梅が110首、桜が43首詠まれている。外来種の梅が主流であり、桜が主流になったのは元禄(17世紀末)のころ。
天海僧正が上野のお山に吉野と同じく吉野桜、山桜、八重桜を植え、江戸一番の名所となる。八代将軍吉宗も王子の飛鳥山に1270本を植え、自らも宴を催す。その他隅田河畔の木母寺と寺島の間の大堤、品川の御殿山にも植樹され花見の名所となった。
越谷では日露戦争〈1905〉の戦勝記念に、瓦曽根溜井から寺橋(私注;天嶽寺橋。現在の久伊豆神社参道前に架かる宮前橋)までの土手道に植樹されたが、瓦曽根溜井の埋め立や道の拡張工事により昭和30年頃には姿を消した。起源2600年〈1940〉には、越谷町年団が寺橋から東武鉄道鉄橋まで戦意高揚のため「興亜の桜」として植樹したが、今はない。
現在の桜並木は、昭和30年(1956)、地元有志による桜苗木1200本の寄送、および植樹奉仕により元荒川両岸に植えられたものである」とあった。
河畔砂丘
「関東地方では旧利根川流域にのみ見られる、自然堤防上に堆積した砂。形成された時期は年代順に3つの時期に分かれる。
第一期は平安時代に形成されたもの;古墳時代榛名山の噴火により利根川に流された火成岩の砂が火山性堆積物の自然堤防を造る。平安時代の寒冷期季節風により吹き飛ばされた砂が自然堤防上に河畔砂丘を形成した。
越谷の袋山、この北越谷河畔砂丘がこれにあたる。 第二期は鎌倉時代;平安時代の浅間山の噴火、鎌倉期の寒冷期季節風による。羽生や加須で見た河畔砂丘はこの時期のもの
第三期は室町期以降のもの;浅間山の噴火物が室町以降に自然堤防に堆積したもの、とのことである。(越谷市郷土研究会の資料より」

逆川
東武東上線が元荒川を渡る鉄橋下を潜ると逆川の呑口がある。この辺りはいつだったか一度訪ねたことがあり、ちょっと懐かしい。それはともあれ、「呑口」と書いたのは、逆川は伏越しで元荒川下を潜っており、左岸はその水を「呑み込む」口であるため。逆川が伏越で元荒川を潜る辺りの景観は美しい。
逆川
逆川は元荒川への加用水として開削された人工の川である。寛永9年(1629)、荒川の背替え(荒川西遷事業)により源頭部を失い廃川となった元荒川は水量が減少。西遷事業以前に元荒川筋に設けられていた溜井は水不足に陥る。この地にも少し下流に瓦曽根溜井があるが、元荒川の背替え、さらには先回訪れた末田須賀堰(大戸の堰)での堰止めなどにより水不足に直面した。
その対策として水を利根川(大落古利根川)に求め開削されたのが逆川。古利根川の松伏溜井から開削し、新方川を伏越し(現在は古利根堰で伏越しで潜っているが、開削当時は新片川が潜っていたようだ。新方川が大きくなり逆転させた)で抜け、この地で元荒川に注ぎ、瓦曽根溜井への加用水とした。
開削当時は元荒川に注いでいた逆川が現在伏越しとなっているのは、葛西用水・八条用水・谷古田用水を分水する瓦曽根溜井の水質汚染を避けるため。葛西用水の流路の一部となっていた大落古利根川の水を通す逆川は、元荒川を伏越しで抜け、元荒川と逆川の流れを切り離され瓦曽根溜井へと加水し下流域へ水を供したようである。分離工事は昭和42年頃(1967)と言う。
逆川の由来は時に逆流した故だろう。開削当初,非灌漑期や増水時に,水が元荒川から古利根川に逆流したことに由来すると云う。両川の標高もほとんど同じようなものであり、溜井の水位が上がることにより容易に逆転したのだろう。
かつて伏越し下流に逆流止門樋があった、と言う。逆川はそこから元荒川に流入していたというから、水位の上昇した瓦曽根溜井水が、逆川が逆流することを防止するためにも設けられたのだろう。

天嶽寺
逆川の呑口施設を越え、注連縄の張られる久伊豆神社参道手前に天嶽寺がある。参道入り口正面及び参道に沿って並ぶ石塔群を見遣り境内に。いつだったか越谷を訪れた時は久伊豆神社に気が急きパスお参りすることはなかったのだが、山門、楼門などの構えのある立派なお寺さまであった。本堂にお参り。
境内あった解説には、「天嶽寺は浄土宗の寺で、山号を至登山遍照院と称し、文明十年(一四七八)専阿源照の開山と伝えられている。
古くは小田原北条氏の城砦に用いられたといわれ、北条氏により寺領寄進状を蔵していたと伝えられる。天正十九年(一五九一)十一月、徳川家康より高十五石の寺領寄進朱印状が交付されている。徳川家康は越谷宿をしばしば訪れているが、二代将軍の秀忠、三代将軍家光は狩猟のついでにこの寺にたちよっている。
なお、天嶽寺は雲光院、法久院、遍照院、美樹院、松樹院という五か寺の塔頭があり、格式の高い寺院であった。
また、入口には庚申塚と呼ばれた小高い丘があり、ここには延宝元年(一六七三)の文字庚申塔や元禄八年(一六九五)の青面金剛彫像庚申塔など、数多くの庚申塔が建てられている。また、参道にそった庚申塚の下にも「かハしも二郷半、川かみかすかべ」などと道しるべが付された大供養塔や猿田彦大神塔などが並んでいる。このほか境内には方言学の祖といわれる越ヶ谷吾山の句碑などが建てられている。
天嶽寺の本尊は阿弥陀如来であるが、釈迦仙の涅槃像(寝仏)も安置されている。これは珍しい金仏として越谷市指定の文化財となっている」とあった。
庚申塔道標
解説にあった参道に沿った庚申塚は、参道入口右側に6基並ぶ。道しるべのある供養塔とは、六十六部供養塔のこと。「かハしも二郷半、川かみかすかべ」が読める。また、左端の猿田彦大明神と記された石塔の基部にも文字が刻まれる。「南 こしがや 北 のし間 い王(わ)つき 東 志めきり ま久り かす可べ」。「志めきり」は地名にないが、大袋での元荒川旧流路が蛇行していた辺りに〆切橋が架かる、この石塔が文化四年(1808)k建立と言うから、既に直線化された(普請は宝永3年;1706)元荒川に架けられた橋だろう。尚、道標の示す方角は実際と合っていない。とこからか移されたものだろう。

久伊豆神社
注連縄を潜り久伊豆神社の長い参道に入る。この社は二度目。いつだった、東の香取神社、西の氷川神社の祭祀圏に挟まれ、この元荒川一帯のみに祀られる社ってどのようなものだろう、久伊豆神社の名前の由来は、との好奇心から訪れた。その時思いがけなく、境内で地元の方手作りの「柴餅」、サルトリ茨の葉で包んだ田舎饅頭が売られており、子供の頃の祖母の作った懐かしい味を今一度と期待したのだが、残念ながら今回は見当たらなかった。
原植生のスダジイが茂る社叢に覆われた参道を進む。途中社寺でしばしば目にする力石の案内、美しい池の庭園などを見遣りながら社殿にお参り。
当日は知る由もなかったのだが、メモの段階で久伊豆神社は大きく弧を描いて曲がる元荒川の自然堤防上に鎮座していた。
元荒川の旧流路
国土地理院・治水地形分類図をもとに作成
国土地理院・治水地形分類図をみると現在は直線化されている伊豆神社前を流れる元荒川は、往昔大きく弧を描き蛇行し、久伊豆神社は祖の自然堤防上に鎮座する。 直線化工事は寛永6年(1629)に実施されたものと言うが、昭和36年(1961)の航空写真にも未だその痕跡が見て取れ、川筋跡らしき影、自然堤防上に並ぶ民家が視認できる(下記、瓦曽根溜井の写真参照ください)。

三ノ宮卯之助銘の力石
「力石とは力仕事を人力に頼らざるを得なかった時代において、力くらべをしたり、体力を鍛えるために用いられた石のことである。
三ノ宮卯之助は江戸時代後期に、三野宮村(現在の越谷市大字三野宮)出身で、力石や米俵などの重量物を持ち上げる興行を行いながら全国各地を回り、日本一の力持ちと言われた人物である。興行先であったと考えられる神社などには、「三ノ宮卯之助」の銘が刻まれた力石が残されている。
越谷市内では越ケ谷久伊豆神社に1個、三野宮香取神社に4個、三野宮向佐家に1個の計6個が確認されている。久伊豆神社の力石には「奉納天保二辛卯年(1831年)四月吉日 五十貫目 三ノ宮卯之助持之 本庁 會田権四郎」と刻まれており、卯之助が24歳の時に、五十貫目(約190kg)の力石を持ち上げたとされる文字が刻まれている(境内解説)」
久伊豆神社の藤
「この藤は、株廻り七メートル余り、地際から七本にわかれて、高さ二・七メートルの棚に枝を広げています。枝張りは東西二〇メートル、南北三〇メートルほどあり、天保八年(一八三七)越ヶ谷町の住人川鍋国蔵が下総国(現千葉県)流山から樹齢五〇余年の藤を舟で運び、当地に移植したものといわれています。樹齢およそ二〇〇年と推定されます。
花は濃紫色で、枝下一・五メートルほど垂れ、一般に"五尺藤"と呼ばれています。花期は毎年五月初旬が最も見ごろで、毎年このころに「藤まつり」が盛大に開かれます。
フジはマメ科に属する蔓性の落葉樹で、日本、中国、アメリカ、朝鮮に少しずつ異なったものが自生しています。わが国のフジは、大別して、ツルが右巻きで花は小さいが花房は一メートル以上になるノダフジと、左巻きで花は大きいが花房は二〇センチメートル前後のヤマフジとがあります。当神社の藤は前者に属し、基本胤は本州、四国、九州の山地に自生しています。(境内解説より)」。
由緒
境内にあった由緒には;「久伊豆神社は、祭神として大国主命、事代主命など五柱が祀られ、例祭は毎年九月二十八日である。
当社の創立年代は不詳であるが、社伝によると平安末期の創建としい、鎌倉時代には武蔵七党の一つである私市党の崇敬を受けたという。古来、武門の尊崇を集めて栄え、室町時代の応仁元年(一四六七)に伊豆国(静岡県)宇佐見の領主宇佐見三郎重之がこの地を領したとき、鎮守神として太刀を奉納するとともに社殿を再建したと伝えられる。江戸時代には、徳川将軍家代々の信仰が厚かった。
当社は、災除招福、開運出世の神として関東一円はいうまでもなく、全国に崇敬者がある。また、家出をしたり、悪所通いをする者に対して、家族の者が"足止め"といって狛犬の足を結ぶと必ず帰ってくるといわれている。
境内には、県指定史跡となっている幕末の国学者平田篤胤の仮寓跡や、篤胤の門人が奉納したといわれる県指定天然記念物の藤の老樹が枝をひろげている。
なお、当社は昭和五十九年度に県から「ふるさとの森」の指定を受けている」とあった。

東の香取神社、西の氷川神社の祭祀圏に挟まれ、この元荒川一帯のみに祀られる久伊豆神社については、先回散歩の折、岩槻久伊豆神社であれこれ妄想した。そのメモを再掲する。


久伊豆神社・香取神社・氷川神社
『幻の江戸百年:鈴木理生(ちくまライブラリー)』
久伊豆神社の名前をはじめて知ったのは、鈴木理生さんの『幻の江戸百年:鈴木理生(ちくまライブラリー)』を読んだとき。関東における神社の祭祀圏がクッキリとわかれ描かれていた。利根川から東は香取神社。利根川の西の大宮台地・武蔵野台地部には氷川神社。この香取・氷川の二大祭祀圏に挟まれた元荒川の流域だけに80近い久伊豆神社が分布する。
大国主
香取神社の祭神はフツヌシノオオカミ(経津主大神)。荒ぶる出雲の神・オオクニヌシ(大国主命)を平定するために出向いた神。氷川神社の祭神はスサノオ・オオナムチ(オオクニヌシ;大国主命)・クシナダヒメといった出雲系の神々。が、この久伊豆神社の由来はよくわからないと書かれていた
。 未だによくわからないのだけれど、以下妄想:この社の由緒には御祭神は出雲の神・オオクニヌシ(大国主命)とある。これでは氷川神社の出雲系の神を祖先神として武蔵国に入った部族と違いがよくわからない。違いのヒントは?と、由緒に出雲の土師連の創建とある。
土師連
出雲の土師連創建といえば、鷲神社の系の由来と同じである。久伊豆神社の祭祀圏とほぼ同じ(東西に少しはみ出してはいるが)元荒川流域に鷲宮神社、大鷲神社、大鳥神社などと言う名で祀られる。土師宮とも称される鷲神社系の祭神は天穂日命とその子の武夷鳥命、および大己貴命。天穂日命って、アマテラスの子供。大国主を平定するために出雲に出向くが、逆に大国主に信服し家来となり、出雲国造の祖となった、とか。土師連創建の久伊豆神社が大国主命を御祭神とするのはこういった事情だろう。
なんだか面白い。氷川、香取、久伊豆、これらすべて核に大国主命がいる。大国主を祖先神とする氷川、大国主を平定しようとする香取、その間に大国主を平定しようとするが逆に信服した久伊豆。国津神(国造系)の氷川、天津神(天孫系)の香取、天津神から国津神(天孫系から国造系)となった久伊豆と読み替えてもいいかもしれない。
国津神系(国造)と天孫系(中央朝廷)の間に位置するのが、天孫系から国津神系となった久伊豆創建の土師連の祖先神。が、ここでもうひとつひねりがあるようだ。土師連の「連」とは天孫族であることの証明といったもの。もとは土師臣(天皇直属の部;技術者集団)であったものが、ある時期から「連」のカバネとなっている。ということは、土師氏の祖先神は天孫系から国津神系に一度はなったが、最終的には天孫系に戻ったと、と言える(?)かもしれない。国津神系の氷川祭祀圏と天孫系の香取祭祀圏の間に、国津神系と天孫系の間をとりもつような久伊豆や鷲神社系の神を祖先神とする部族がいたということだろうか。すべて素人の妄想であるが、それなりに結構面白い。
私市党
我流解釈、妄想ではあるが土師連と久伊豆神社の関係は上述の通りであるが、この越谷久伊豆神社の由緒には「鎌倉時代には武蔵七党の一つである私市(きさい・きさいち)党の崇敬を受けた」とある。同じくその勢力範囲をほぼ同じくする武蔵七党のひとつ・野与(のよ)党の崇敬を受けた、とも言う。私市党と野与党の勢力範囲はほぼ重なるが、抗争したとの記録はない。勢威の時期がずれており、私市党の威が衰えた頃に野与党がそれに代わった、とも言う。
久伊豆神社の命名
それはともあれ、私市党・野与党と土師連の関連はよくわからない。が、チェックの過程で面白い話が登場してきた。以下、妄想の極みではあるがちょっとメモする;
江戸後期に編まれた『新編武蔵風土記稿』に、「延喜式神名帳に載る所、埼玉郡四座の内、玉敷神社祭神大己貴命とありて、今いずれの社たるを伝へず。岩槻城内に久伊豆社あり、其餘郡内所々に久伊豆社ととなふるものあれども、何れもさせる古社とも思はれざれば、若しくは『式』に見え『東鑑』にも沙汰あるは当社(玉敷神社)ならんか。
されど、千百年の古へを後の世より論ずれば如何にといいがたし。久伊豆と改めしは騎西郡内にありて騎西、久伊の語路相通ずれば唱え改めしといえど、これも付会の説とおぼしく、社伝等には據なし」とある。
江戸の頃には既に何故、久伊豆となったかわからなくなっており、騎西が久伊(きさい>ひさい)と転化したとする話はちょっと強引としている。因みに、騎西(きさい)は私市(きさい)党が拠を構えた地(加須市騎西)であるが、これもどのようなプロセスで表記が変わったかわかっていない。
騎西が久伊となるという話はともあれ、私市党の拠点である騎西町〈現在加須市騎西〉に何かヒントは?チェックするこの地に久伊豆神社の総本社とされる玉敷神社がある。江戸の頃までは久伊豆大明神と称された。
そしてその社の北東近くに久伊豆大明神の旧宮跡を持つ龍花院がある。源頼朝の創建とされ、山号を伊豆山正音寺と称する。ために「伊豆堂」とも称されたようだ。「伊豆」というキーワードが登場した。
私市党は頼朝を戴き武家政権樹立に努めたわけだが、その頼朝は伊豆殿と称された。であれば、創建者の伊豆(殿)が「いさ久しく」、という願いから社を「久伊豆」大明神とした、というストーリーは?
『新編武蔵風土記稿』には、久伊豆の社はいくつもあるが、どれもそれほど古い社ではない、という。とすれば、土師氏と私市氏の関係は不明ではあるが、拠点に鎮座していた古き社を久伊豆と名付け、私市党の勢力範囲に各地に勧請し、私市党の勢力範囲を引き継いだ野与党も武蔵七党としてその久伊豆の社勧請を引き継ぎ、現在の久伊豆祭祀圏として残ったというストーリーも面白い。妄想の際たるものではあるが、自分なりに結構納得。

とはいうものの、頼朝創建>「伊豆山」の山号>「伊豆殿」>「久伊豆」の類推など、誰にでもできそうなわけで、それが久伊豆神社の由来としてどこにも登場しないのは、それなりの理由があるのだろう。不明である。

建長元年板碑
久伊豆神社を離れ宮前橋を渡り逆川伏越の吐口に向かう。上述桜並木の説明にあった寺橋(天嶽寺橋)は宮前橋の旧名。
橋を渡り道を右に折れ、元荒川右岸を少し上流に進みむと道脇に板碑が立つ。解説には「建長元年板碑 越谷周辺で発見されている板碑は、秩父の緑泥片岩で造られている。板碑は、塔婆の一種であることから、板石塔婆とも呼ばれている。この板碑は、板碑初発期にあたる鎌倉時代の建長元年(1249)銘の年号が刻まれたもので、市内で発見された板碑の中では最古のもである。しかも高さ155cm、幅56cmに及ぶ最も大きな板碑である。種子(仏をあらわした梵字。しゅじと呼ぶ。)は弥陀一仏で、その彫りは深く、初発期板碑の特徴が現れしている」とある。

板碑が何故この地に?何らかの歴史的事象と関連があるのでは、とは思いながら当日は先に進んだのだが、メモの段階でチェック;この地は越谷の開発土豪、野与党の一派である古志賀谷氏の館のあった所では、といった記事も見かけた。真偽のほどは不明だが、結構納得。
因みに、古志賀谷は関東管領上杉氏と古河公方と抗争に際し、古河公方に与したが上杉勢に敗れ一族の事績はほとんど残らないようである。
越ケ谷の由来
「越ヶ谷」は「越(腰)の谷」の意で、「こし」は「山地や丘陵地の麓付近」の意、「谷」は「低地」の意であると思われる。つまり、「大宮台地の麓にある低地」を指す地名であると推測される(Wikipedia)。

逆川伏越の吐口
元荒川の下を潜った逆川伏越の吐口に。上述の如く伏越工事は昭和42年(1967)に実施された。下流の瓦曽根溜井の水質汚濁対策のためである。吐口から下る逆川を見遣る。
越ケ谷御殿跡
伏越の吐口に「越ケ谷御殿跡」の石碑が立つ。今は御殿町という地名のほか何の痕跡も留めないが、当時は6ヘクタールもの規模であり、元荒川上流、東武野田線手前の大沢橋あたりまでその敷地があったようだ。国土地理院・治水地形分類図を見ると、南側に氾濫原が描かれる。御殿は氾濫原を避け元荒川に沿った自然堤防御上に築かれたのだろうか。
御殿の築造は慶長9年(1604)、当地の土豪会田氏の敷地内に築かれたとのこと。家康、秀忠が鷹狩の折訪れたようだが、明暦3年(1657)江戸城焼失に際し二の丸に移された。

現在は前面が元荒川、真ん中に逆川が流れ少々窮屈な感があるが、築造当時は未だ元荒川の直線化工事がなされておらず、天嶽寺や久伊豆神社と地続きであったろうし、当然の如く伏越しの吐口から流れる逆川もないわけで、元荒川を見下ろす、ゆったりとした地形ではあったのだろう。
会田氏
上でこの地に古志賀谷氏の館があったのでは、とメモした。古志賀谷氏は関東管領上杉氏により滅びたわけだが、それでは会田氏の館ができるまでのいきさつは?チェックする;信州会田郷出自の氏族。武田信玄の侵攻により信州を逃れ越谷に移り、岩槻城主太田資正に仕える。太田資正は関東管領上杉氏の武将。上杉氏により滅びた古志賀谷氏の後に入ったということ?
その後上杉方から離反し、敵対する小田原北条勢となった大田氏のもと、天正18年(1590)小田原征伐の秀吉勢に敗れ岩槻城落城。会田氏は越谷に隠れ住む。家康関東入府。鷹狩の地を求める家康に拝謁し家臣となり屋敷の一部を提供した。

瓦曽根溜井
逆川を下る。元荒川との間には背割堤が築かれ両川を画する。堤は昭和42年(1967)の逆川と元荒川の分離(合流を伏越しに変え両川を分離)の際に築かれたものだろう。




国土地理院・昭和36年(1961)空中写真

昭和36年(1961)、両川分離前の航空写真でみると、堤防もないし、それ以上に西側に大きく溜井が広がっている。治水地形分類図でチェックすると、現在の越谷4丁目は、ほとんど埋め立地・盛土によってつくられたようだ。埋め立てや中央の背割堤がない。昭和36年(1961)、両川分離前の空中写真に写る姿が瓦曽根溜井であった。
先回この地を訪れたときは、元荒川と画された逆川の流れの下流に広がる堰の辺りが瓦曽根溜井と思い、なんだか狭いよな、などと思っていたのだが、大いなる勘違いであった。

葛西用水と溜井
逆川の説明でこの人工的に開削された水路・逆川は、松伏溜井と瓦曽根溜井を結ぶ葛西用水の流路であるとメモした。現在では行田市下中条の利根大堰(昭和43年;1968)で取水され、東京都葛飾区まで延びる大用水であるが、これははじめから計画されたものではない。新田開発が進むにつれ、不足する水源を、上流へと求めた結果として誕生したものであり、その歴史的経緯の転換点に溜井が登場する。溜井が葛西用水を特徴づけるとする所以である。「江戸の米倉 江戸の礎を築いた葛西用水」をもとに、瓦曽根溜井を含め、葛西用水と溜井の関係をまとめておく。
溜井
溜井とは、灌漑用貯水池と遊水池を兼ねたもの。江戸の川普請に度々登場する伊奈氏の「関東流」治水開発モデルでもある。その特徴とするところは、上流の排水を下流の用水として使用する「循環型」の思想、また洪水対策も霞堤とか乗越堤といった名の通り、河川を溢れさすことで洪水の勢いを制御するといった思想である。
こういった「自然に優しい工法」が関東流の特徴である。しかし、それゆえに問題もあり、なかでも洪水の被害、そして乱流地帯が多くなり、新田開発には限界があった、と言われてもいる。因みに関東流に対するものが見沼代用水に見られる井沢弥惣兵衛為永を祖とする紀州流と呼ばれるものである

第一フェーズ;亀有溜井
そもそも、葛西の地をはるか 離れた地・埼玉の行田から延々と葛西の地に下る用水を葛西用水とするのは、この用水のはじまりが葛西領を潤した亀有溜井をもってその嚆矢とする故である。
文禄2年(1593),利根川東遷第一次の工事として伊奈忠次は当時の会の川を川俣地点で締切り,浅間川筋に落とし、川口(加須市川口地内)の地で二流に分ける。その主流は渡良瀬川の水も合わせ東へと、現在の中川の川筋(当時中川という川は、ない)である島川・権現堂川、庄内古川を経て金杉で太日川(現在の江戸川)に落とした。
また西遷事業(寛永6年;1629)施行以前の荒川(現在の元荒川)の水も、川口から南に下った古利根川(現在の大落古利根川)と越谷で合さり、これも小合川を経て太日川に落とし、江戸の町を直接利根川の水害から守るという、利根川東遷事業の当初の目的は果たした。
次いで、東遷事業の大きな目的のひとつである新田開発であるが、この目的で最初に設けられたのが「亀有溜井」。水源は荒川西遷事前で水量豊富な綾瀬川に求め葛飾区新宿で水を溜めて葛西領を潤すことになる。
おおよその流路を現在の川に合わせると、綾瀬川>桁川>中川(昔の古利根川)>亀有ということだろう
綾瀬川
Wikipediaに拠れば、「綾瀬川は戦国時代の頃、荒川の本流であった。当時の荒川は、今の綾瀬川源流の近く、桶川市と久喜市の境まで元荒川の流路をたどり、そこから今の綾瀬川の流路に入った。

現在の元荒川下流は、当時星川のものであった。戦国時代にこの間を西から東につなぐ水路が開削されて本流が東に流れるようになり、江戸時代に備前堤が築かれ(慶長年間;1596‐1615)綾瀬川が分離した。この経緯により、一部の地図には綾瀬川(旧荒川)の括弧書きが行われる事がある」とある。
地図を見ると久喜市、桶川市、蓮田市が境を接する辺りにある「備前堤」から南に綾瀬川、東に元荒川が流れ、その元荒川は東に進んだ後、久喜市飛地で星川に合流している。上述Wikipediaの説明を元に推測すると、この備前堤から東に流れる元荒川は「戦国時代に開削された西から東へつなぐ水路」であり、星川との合流地点の下流は、現在は元荒川ではあるが、かつては星川の流れであり、元来の元荒川は備前堤から南に下る綾瀬川筋であった、ということだろう。
第二フェーズ;瓦曽根溜井
慶長19年(1614)には新田開発を上流に伸ばし、荒川(現在の元荒川)本流を越谷の瓦曽根で締切り瓦曽根溜井を築堤し、下流域を潤した。
寛永6年(1629)に伊奈忠治は,荒川の西遷事業を開始。これにより元荒川は,水源を失い,瓦曽根溜井の水は枯渇していくことになる。このため幕府は寛永7,8年頃から,元荒川の加用水として水源を太日川に求め、寛永18年(1641)になると太日川を北に掘り抜いた現在の江戸川開削後は,江戸川に圦樋を移し用水を引いた。
中島用水
流路ははっきりしないが、幸手市中島で江戸川の水を取水し、椿・才場・大塚・不動院野・八丁目と下り古利根川に落ちた、とする(落口はもっと上流との記事もあり、はっきりしない)。
第三フェーズ;松伏溜井
中島用水は,現在の春日部市八丁目で古利根川(現在の大落古利根川)に落とされることになる(異説もある)が,下流松伏村に松伏溜井が造られる。ここで堰き止められた水は、その一帯を潤しながらも、その流量のほとんどは松伏溜井の末流大吉村から元荒川までの問に新たに開削された逆川用水に流され,瓦曽根溜井まで送水された。この一連の工事の完成は寛永11年(1633)とされる。
また,この一連の工事により,荒川の瀬替えにより水量が激減していた綾瀬川を水源とする亀有溜井への加用水も可能となる。瓦曽根溜井から一帯を潤していた用水・悪水落を延長し瓦曽根溜井から綾瀬川(古綾瀬川)へと落とす水路(葛西井堀)が完成し、亀有溜井は瓦曽根溜井・松伏溜井と繋がった。
第四フェーズ;川口溜井
承応3年(1654)には利根川東遷による関東平野の治水と利水が一応の安定を得る。それにともない新田開発が一層推進されることになるが,古利根川左岸から旧庄内川の右岸一体、水源を池沼にゆだねていた幸手領(幸手市,杉戸町,春日部市,鷲宮町)においては用水不足をきたすようになる。
その水源として求めたのが東遷事業の完了した利根川である。万治3年(1660)に古利根川本川の本川俣地点に圦樋を設けて南東に水路を開削し,会の川の旧河道を流し,川口地点に川口溜井(加須市川口地内)を造り,権現堂川(島川)筋の加用水として北側用水を開削した。
この川口溜井は葛西用水の水路というわけではなく、幸手領の灌漑のためのものである。
第五フェーズ;琵琶溜井
さらに,川口溜井から水路を開削して古利根川の河道につなげられ、琵琶溜井(久喜市栗原地内)も造成された。そこに中郷用水と南側用水の2用水が開削され流域の灌漑に供する。
琵琶溜井には幸手用水の余水流しに圦樋が設けられ,青毛堀,備前堀等の悪水と一緒に古利根川(現在の大落古利根川)に落し,下流の松伏溜井への加用水として供した。これをもって幸手領用水とした。

葛西用水の成立
その後,宝永元年(1704)の大洪水の際に中島用水が埋没したため,享保4年(1719),関東郡代伊奈忠蓬は,幸手領用水の加用水として新たに本川俣の少し上流の上川俣の利根川本線に圦樋を設け,幸手領用水に接続させ,川口溜井と琵琶溜井では圦樋を増設して水量を確保した。以来,本川俣および上川俣の利根川取水から葛西井堀末端までを「葛西用水」と称するようになり,ここに関東地方切っての大用水が形成された。

以上、溜井のまとめをしながら、結局は葛西用水成立の歴史ともなった。葛西用水は利根川の東遷事業、荒川の西遷事業と密接に関連しながら、廃川となった荒川(元荒川)や利根川(大落古利根川)の川筋跡を活用し、上流へと延びる新田開発に伴い下流から上流へと水源を求め、最終的に利根川にまでたどり着いた、ということであろう。

谷古田用水・東京葛西用水・八条用水取水堰
逆川(葛西用水水路)の右岸を進む。右手に市役所や中央市民会館が建つ。この辺りも埋め立てにより造成されたところである。中央市民会館から先は川に沿って遊歩道を進む。先に取水堰が3つ見える。一番手前が谷古田用水、次いで東京葛西用水、最後が八条用水である。瓦曽根溜井に堰止められた水を下流へと供する。
谷古田用水
取水堰から堤防上の道路を渡り用水出口に向かう。道脇に案内があり道路から一段下ったところに取水堰からの用水出口があり、煉瓦で組まれている。傍にあった案内には、「谷古田用水元圦煉瓦樋管 明治24年に完成した日本最古の煉瓦水門」とあった。
道路に戻る手前にも解説があり、まとめると「谷古田用水は、1680年(江戸時代延宝8年)に開削された農業用水で、その名前は谷古田領(草加市)に由来する。当時、越谷から草加にかけては湿潤地で、安定的なコメ作り・治水には農業用水が必要であった。用水の長さは6220m。越谷では三ケ村にまたがることから:さんが(さんがわ)」、草加地区では五ケ村にまたがることから「五ケ村用水」と呼ばれていた。
幅は2.7mと広く、豊富な水量と受益面積の広さから地域の基幹用水として機能した。 現在は草加では農業用水として使う地域もあるが、越谷では農業用水としては使われず、用水路敷を利用してこの公園から3.8キロ、谷古田河畔緑道として整備されている」とある。
谷古田用水は綾瀬川より越谷市蒲生のあたりで取水していたが、延宝8年(1680)に綾瀬川に堰を設けるのが禁止されたため、水源を瓦曽根溜井に求めたようだ。備前堤防により元荒川と分離され綾瀬川の水量が減ったためであろうか。


東京葛西用水〈南部葛西用水〉
流れは、南東にほぼ一直線に草加市・八潮市を貫き、足立区の神明に下る。神明から先は、曳舟川の川筋となり、足立区を南下。葛飾区亀戸からは南西に流路を変え、四ツ木で荒川(放水路)を越え(といっても荒川放水路が人工的に開削されたのは、昭和になってから)、墨田区の舟曳・押上に続いている。
本所上水
葛西井堀として阿曽根溜井と亀有溜井結んだ水路は、綾瀬川(現在の桁川)から中川(当時の古利根川)をへて下流の亀有溜井に下ったとのことであるから、上記ルートの神明から桁川・中川筋(当時中川という川はない)に入っていったのだろう。
神明から南に下る水路は本所上水として開削されたもののようだ。当初は亀有溜井から導水していたが、延宝3年(1675)に亀有溜井が廃止されたため、水を瓦曽根溜井に求めた。葛西用水の東に沿って上水路が設けられ古綾瀬(桁川筋)を掛樋で渡り葛西用を南に下った。
本所上水は享保7年〈1772〉に廃止されるが、葛西領内では農業用水として残り、江戸後期には帝釈天や水戸街道への往来に曳舟が開始される。曳舟川と称される所以である。

八条用水
ここ瓦曽根溜井から南東に、ほぼ葛西用水と平行してくだり、足立区の手前、八潮で葛西用水に合流している。








道標付き庚申塔
説明の便宜上、あとさきが逆になったが、谷古田用水から道路に上がったところに道標付き庚申塔がある、「これより上 じおんじ 三里はん これより左 吉川 壱里はん 大さかみ内 これより右 市川まで五里」とある。
解説には上述本所上水が葛西用水の東側を流れると記載されていた。本日のゴールである吉川まで大さかみ(大相模)を経てあと6キロ。先を急がねば

瓦曽根堰
遠方からも印象的な「しらこばと橋」に。建設省の「ふるさとの川モデル事業」に指定された(元荒川と逆川の分離、瓦曽根溜井の埋め立て故?)この橋は、市の鳥である「しらこばと」と「水郷越谷」のシンボルとして斜帳橋の美しい姿を見せる。
橋の南詰の少し下流に背割堤と右岸を繋げる公園があり、そこに瓦曽根堰が建つ。平成9年(1887)改築されたこの堰で瓦曽根溜井の余水が元荒川に流される。堰の下流、元荒川へと合流するまでの流れの景観は美しい。
公園には大正13年(1924)に造られた瓦曽根堰、通称「赤門」の展示や瓦曽根溜井・堰に関する石碑や葛西用水を含めた流路図があった。流路図は複雑な水のネットワークの確認に誠に役に立つ。
瓦曽根溜井・瓦曽根堰の譜
石碑の表面には、 瓦曽根溜井・瓦曽根堰の譜 「この瓦曽根溜井は慶長十九年頃(1614)徳川幕府が八条領と四ヶ村(瓦曽根、 西方、登戸、蒲生)の地域の水田用水として利用するため、荒川の流れを、この地で堰き とめ溜井としたことが始まりであり、その貯水面積は20㌶余りに及んだ。
この時は荒川の流水を利用していていたが、寛永の年(1629)に幕府の治水対策で荒川の西遷が行われると、元荒川となり、流水が激減し、溜井が枯渇した。そこで水源を庄内領中島の利根川(現在の江戸川)に求め、用水路を開削して古利根川に導水し、松伏堰で堰き上げして、溜井とし、鷺後用水(逆川)によって瓦曽根溜井に送水する、中島用水が翌寛永七年 に造られた。 この後寛永八年には、葛西井堀が開削され、亀有溜井(現在の東京)まで送水されると共に、延宝三年(1675)に、本所上水が引かれ、生活用水として利用された。
瓦曽根堰は水害等で何度となく修改築され、大正十三年これまでの石堰を廃止し鉄筋 コンクリート造り鋼製水門(10門)の堰が築造され、管理の為、塗装した錆止めの色彩が朱色であったため「赤門」と呼ばれ、地域の風景の一部として親しまれていた。
この溜井や瓦曽根堰も時代と共に変貌を遂げることになるが、特にこの堰止めによる、上流の岩 槻市、越谷市の一部地域の排水不良等の改善が求められ、昭和四十一年逆川の元荒川の合流点より瓦曽根堰を背割堤にし、元荒川と瓦曽根溜井の用排水を分離し現在の形が造られ、溜井の規模も縮小した。
更に平成九年には葛西下流地盤沈下対策事業で旧堰を、取り壊し、親堰二門を造成した。葛西用水土地改良区として越谷市では、この地に永年親しまれてきた、溜井と堰の歴史を記し、合わせて先人の労苦と英知を後世に引き継ぐべく、記念の譜 として建立する」平成十五年三月吉日」
瓦曽根為井に係る利水の変遷
石碑裏面には、「瓦曽根為井に係る利水の変遷 慶長19年(1614)為井造成と同時に八条用水と四ヶ村用水が引かれた。
八条用水・・・八条領の32ヶ村で利水(現在の八潮市 草加市 越谷市の一部)
四ヶ村用水・・八条領の4ヶ村で利水(現在の越谷市)
寛永8年(1631)瓦曽根溜井から葛西領の亀有溜井に送水する葛西井堀から引かれ東西葛西領で米造りに使われた。
延宝3年(1675)江戸の本所、深川の生活用水として本所上水が引かれた。
なお、葛西井堀と本所上水は後年、溜井亀有が廃止されると西葛西用水(東京葛西用水)として利用され、その水路の本所小梅から亀有までは、水戸佐倉街道に沿っていたので旅人を船で運ぶ「曳舟川」としても利用された。
延宝8年(1680)谷古田用水が引かれ谷古田領5ヶ村(現在の草加市)の水田に利用された。
瓦曽根堰の移り変わり
草堰 溜井造成のときに築造されたもので、丸太を二列に打ち込み、そだを編み込み間に草を編み込み土俵で押さえた堰
石堰 寛文4年〈1664〉本所上水を引くために改築されたもので、雑石積の堰で上部にかや組の余水流しと水叩きに竹を使った堰
ストニー式鋼製堰 大正13年〈1924〉県営十三河川改修事業で改築された鋼製巻上げ式ゲート十門の堰で、錆び止めで赤く塗装していたので赤門と呼ばれた。
現在 平成9年に葛西下流地盤対策事業で改築された鉄筋コンクリート造り鋼製ローラーゲート二門
葛西用水の成立
享保4年(1719)概に開削されていた幸手領用水(万治3年1660年)の利根川の川俣圦樋が増設され、琵琶溜井、松伏溜井、亀有溜井を連結させた十ヶ領300村、領石高十三万三千石(年貢米)の代用水が成立し、葛西用水と呼ばれた」
既述の内容と重複する部分もあるが、おさらいもかね掲載した。
葛西下流地盤対策事業
この解説もあったので、重複避け簡単にまとめる;
葛西下流地域は、地下水の大量汲み上げにより昭和30年(1955)頃より地盤沈下を引き起こし、昭和50年(1975)頃になると越谷では最大沈下量は130㎝に達する。このため農業用水路は不等沈下を起こし、用水不足・排水不良・堤防沈下により溢水などの問題を生じた。
そのため施設の改善と、八潮・草加・越谷・松伏・春日部への安定的な水の供給をはかるため昭和54年(1979)度より着手し、古利根堰改築・古利根川堤*補強・逆川。八条用水路などの幹線用水路と支線用水路の改修・瓦曽根堰の改築などを行い平成9年に完成した。(私注;不等沈下とは越谷130cmに対し、下流の草加では11㎝であることなどを指す)

なお、この解説には葛西用水の流れとして、利根川にある利根大堰(行田市須加地内)より取水し、埼玉用水(羽生市本川俣地無内)を経て葛西用水路へ導かれ、その後川口分水工(加須市川口地内)、琵琶溜井分水工(久喜市栗原地内)を経て大落と古利根川を流下し、古利根堰(越谷市大吉地内)より取水し、逆川・八条用水へ導かれる、とあった。現在の葛西用水の流を把握するのに役立つ思いメモした。
県営十三河川改修事業
大正末期から昭和初期にかけ埼玉県が実施した、中川水系、利根川水系、荒川水系の13の河川改修事業。中川水系は大落古利根川とその支川である青毛堀川、備前堀川、姫宮落川、隼人堀川の5河川と、元荒川そしてその支川星川・忍川・野通川の4河川、そして綾瀬川の計10河川。利根川水系は福川の、荒川水系は芝川と新河岸川の2河川からなる。 同事業は当時の内務省による庄内古川(中川水系)、利根川、荒川の改修事業に合わせて実施された。
事業目的は排水量の増大への対策。食料増産を目し実施された河川改修・水路補修に際し、橋や水路橋、取水堰も改築・建設されており、散歩の折々に出合うことになる。

堂端落し
瓦曽根堰を離れ、元荒川右岸堤防を中川との合流点へと進む。堤防を進むと「堂端落し」と書かれた案内と取水堰がある。堤下には堂端落し排水機場もあった。地図を見ると水路は八条用水へと下っているように思える。
堂端落しの由来でもわかる何かがあるかと、民家の間に隠れた水路に沿って進み左に折れるとH鋼で補強された水路が下り、その東側に十一面観音堂があった。堂端って、このお堂だろうか。

大聖寺
お堂の東にも大きな仁王門をもつお寺さまがある。気まぐれに訪ねた堂端落としから、結構なお寺さまが現れた。
阿吽の仁王様が護る仁王門を潜り境内に。立派な仁王門の構えの割に境内がさっぱりしている。明治の頃焼失した故だろうか。境内にある各種解説を読むと、開基は奈良の頃と言われ、越谷最古の寺であるようだ。
室町から戦国期にかけては関東管領上杉勢の庇護を受け、それ故に岩槻の上杉勢を支配下においた小田原北条が懐柔に務め、大寺としての威を示している。
江戸の頃は家康の庇護を受けている。
こういった大寺ではあったが、最も印象的だったのは東門に並ぶ庚申塔群ではあった。


大聖寺の山門
「大相模の不動様」で親しまれている真大山大聖寺は天平勝宝二年(七五〇)の創建といわれ本尊は不動明王である。古くは「不動坊」といわれ天正十九年(一五九一)徳川家康公遊猟の折、当寺に立寄り、水田六〇石を与えて「大聖寺」と号した。
山門は正徳五年(一七一五)に建立した茅葺き屋根であったが文化元年(一八〇四)瓦葺きとなり、その後破損、明治十七年修繕して銅板葺きが完成し今日に至っている。この山門は鎌倉風建築といわれ正面左右には「阿吽の二王」といわれる一対の仁王尊がある。正面額字「真大山」は寛政時代の老中松平定信の筆である(越谷市教育委員会掲示)」
家康夜具
「天正十八年(一五九〇)関東に入国した徳川家康は、領国統治のため鷹狩りをしながら巡遊した。
はじめ家康の休泊所は、在地の土豪層や寺社がこれにあてられたが、のちに御殿やお茶屋が取立てられていった。大聖寺の家康垢付の寝具は、まだ御殿やお茶屋が設置される以前、家康が大聖寺に宿泊したときその宿泊接待の御礼として置いていったものとみられる。
この寝衣は絹地で、菊を配した柄のほか徳川の紋である三ツ葉葵が所々に配されている。(越谷市教育委員会)」

北条氏繁掟書
「大相模大聖寺に所蔵されているこの掟書は、小田原北条氏一族の氏繁が元亀3年(1572)に大相模不動院(現大聖寺)に与えたもので、市内最古の中世文書である。
この要旨は「大相模不動院は古来より岩付の祈願所として諸役を免除してきたが、只今妄りに横合から、非分を申しかける者がいるそうである。一段と不埒なことである。今より後は、前々のように岩付の祈願所として武運長久の祈願を懈怠なく勤めるよう、さすれば前々与えなかった役も与えるであろう、ならびに横合より非分申しかける者がいたときは申し出るよう、速やかに糺明を遂げるであろう」というものである。
元亀3年〈1575〉頃、当時、越谷地域に大きな影響を与えていた岩槻太田氏は、永禄10年(1567)太田氏資が、里見氏との三船台での戦いで里見氏に敗れた後、岩槻城は北条氏の支配下におかれた。
長い間、太田氏と深い関係にあった岩槻や越谷の土豪層にとっては、北条氏の岩槻進出に対し不満があり、大相模不動院もこうした中で、北条氏に抵抗を示した一勢力であったと思われるそこで、当時岩槻城代であった北条氏繁が大相模不動院を味方にするために発給したのがこの掟書である。これらの歴史の流れを把握し、越谷地域の歴史を知る上で、需要な文書と言える(越谷市教育委員会)」
庚申塔
本堂にお参りし、見事な五葉松を見遣りながら成り行きで東門へ。右手に大きな基壇の上に庚申塔が立つ。手前両脇に侍る猿の顔が削られているように見える。天保9年(1838)建立の青面金剛立像。百庚申供養と刻まれていた。東門への参道両側に多くの「文字庚申塔」が並ぶが、それが百庚申のようだ。




参道左手にも三猿庚申塔、青面金剛立像の庚申塔。百庚申塔が何故このお寺様に。チェックすると、元はお寺近くの元荒川土手にあったものを、河川改修の際この地に移した。平成3年(1991)の頃、と言う。








日枝神社
大聖寺を離れ元荒川の堤防に戻る。不動橋を越え不動排水機場辺りで地図を見ると、自然堤防上に寺社が並び建つ。中川との合流点までは祭祀圏のこともあり、どのような社か立ち寄ることに。
社叢を目安に進むと日枝神社。堤防側から、社殿裏手から境内に。眷属の猿が社殿前に佇む。案内には、「日枝神社の勧請年は不詳であるが、元荒川をひかえた奥州街道に面した古社の一つである。もとは山王社と称され、東光院、利生院、神王院、安楽寺、薬王寺、観音寺の六寺院を配下におさめていた大きな社であった。
その後江戸時代に四寺が大相模大聖寺の塔頭に移され、一寺が廃寺となったが、山王社は西方村の鎮守に位置づけられた。
明治の初年山王社は日枝神社と改称、明治四十年同村の八幡神社、稲荷神社、愛宕社、天神社などを合祀している、現在は大山咋命、素盞嗚尊、菅原道真、大己貴命など十五柱を祭神として祀っている。
境内には古い石塔はみられないものの、神社にほど近いおしゃもじ橋と称された祠堂には、嘉暦三年(一三二八)在銘のものと、元弘三年(一三三三)在銘の弥陀一尊板碑が神体として祀られている(埼玉県・越谷市掲示)」、とあった。
日枝と山王
日枝神社は、日吉山王権現が明治の神仏分離令によって改名したもの。「**神社」って呼び方はすべて明治になってからであり、それ以前は「日吉山王権現の社(やしろ)」のように呼ばれていた(『東京の街は骨だらけ』鈴木理生:筑摩文庫)。その日吉山王権現という名称であるが、これって、神+仏+神仏習合の合作といった命名法、かも。日吉は、もともと比叡山(日枝山)にあった山岳信仰の神々のこと。日枝(日吉)の神々がいた、ということ。
次いで、伝教大師・最澄が比叡山に天台宗を開いき、法華護持の神祇として山王祠をつくる。山王祠は最澄が留学修行した中国天台山・山王祠を模したもの。ここで、日吉の神々と山王(仏)が合体し日吉山王権現が誕生した。
権現は仏が神という仮(権)の姿で現れている、という意味。つまりは、仏さまが日吉の神々という仮の姿で現れ、衆生済度するということ。
おしゃもじ橋を探し、少し彷徨ったが見つからなかった。

久伊豆神社
その先にも社が続く。堤防側から境内に入れない。堤防側が奥州街道の道筋、かとも思ったのだが、一筋南の社殿参道前の道がそれであろうか。境内から社殿に。
案内には「この地はもと大相模郷の東方村で、久伊豆神社はこの村の鎮守社であった。当地は元荒川をひかえた奥州旧街道の道筋にあたり、早くから開けたところで、武蔵七党野与党の一族、大相模次郎能高が本拠とした地と伝えられている。久伊豆神社はもと野与党の氏神といわれ、野与党の武士が居住した地に久伊豆神社が勧請されている。当社は明治四十一年同村の稲荷社、八幡社、天神社、神明社などを合祀し、現在大己貴命、菅原道真、天照大神、与田別命など七柱が祭神として祀られている。
境内入口には樹齢数百年と言われている直径一・五メートルにも及ぶ銀杏の大木があり、太いしめ縄が張られている。また、境内には文化四年(一八〇七)銘の御手洗石などがある。(埼玉県・越谷市)」とあった。

久伊豆神社のあれこれは上述。大相模次老の館はここから少し南の大成二丁目にある、とのことである。

八坂神社
散策ルートになっているのだろうか、社の道案内をもとに東に進むと八坂神社。どういった事情かさっぱりした社となっていた。
案内には「八坂神社は、元荒川の河畔、奥州街道(日光道中)に面した元大相模郷の一村である見田方村の鎮守社で、天王社と称された古社である。
見田方の地は元郷の御田であったとも言われており、早くから開けたところと伝えられる。江戸時代は、忍藩(現行田市)の支配地、柿ノ木領八ヶ村に組み入れられた。
境内には、文化八年(一八一一)銘の改刻塞神塔や文久三年(一八六三)銘の猿田彦大神塔などが建てられている。
改刻塞神塔はもと庚申塔であったが、明治元年(一八六八)、神仏分離令の処置担当者として忍藩に抱えられた平田篤胤の門人木村御綱が、「庚申塔などと申すな。塞神と唱えよ。」と説いて、藩内の庚申塔をすべて塞神塔に改刻させたと言われている。このため、見田方村を中心とする柿ノ木領八ヶ村には、改刻塞神塔が数多く見られる。
また、八坂神社裏手脇にはかつて沼があり、そこに内池辨天が祀られていた。この沼は天明六年(一七八六)の関東洪水の時、元荒川の堤防が崩れてできたと言われており、人々はこの沼を"オイテケ堀"と名付けている。沼の主の大きな白蛇は人が通ると「オイテケ、オイテケ」と呼びかけ、沼に引き込むと言われたことから、人々は決して子供たちを近づけなかったと言われている。
なお、見田方の地からは、昭和四十一年・四十二年の発掘調査により、水稲農耕を営んでいたと推定される古墳時代後期(六世紀後半頃)の住居跡などが確認され、現在、その遺跡は越谷レイクタウン駅前に「見田方遺跡公園」として現状保存されている(越谷市掲示より)」とあった。
八坂と牛頭
天王とは牛頭天王のこと。牛頭天王が八坂神社となったのは明治の神仏分離令以降。本家本元・京都の「天王さま」・「祇園さん」が八坂神社に改名したため、全国3,000とも言われる末社が右へ倣え、ということになったのだろう。八坂という名前にしたのは、京都の「天王さま」・「祇園さん」のある地が、八坂の郷、といわれていたから。ちなみに、明治に八坂と名前を変えた最大の理由は、「(牛頭)天王」という音・読みが「天皇」と同一視され、少々の 不敬にあたる、といった自主規制の結果、とも言われている。
で、なにゆえ「天王さま」・「祇園さん」と呼ばれていたか、ということだが、この八坂の郷に移り住んだ新羅からの渡来人・八坂の造(みやつこ)が信仰していたのが仏教の守護神でもある「牛頭天王」であったから。また、この「牛頭天王さま」 は祇園精舎のガードマンでもあったので、「祇園さん」とも呼ばれるようになった。

大成排水機場
を東に進むと道脇に用水路が現れる。水路フリークとしては故なく水路に沿って進むことに。国道4号を越え、畑の端などもお邪魔しながらひたすら進み元荒川の堤防に出た。その先には大成排水機場があった。
メモの段階でチェックすると、国道4号の南詰めにある大きな取水堰(レイクタウンにある大相模調整池につながっているようだ)の更に少し上流に取水堰があり、そこからつながっているようだが、この用水路は結局名称がわからなかった。

元荒川・中川合流点
元荒川・中川合流点に到着。長かった。元荒川を下る前はずっと大落古利根川を下ってきたので、大落古利根川と中川の合流点に足跡をとは思うのだが、そこはいつだったか一度歩いているので良しとし、本日の散歩を終えも寄りの駅である武蔵野線・吉川駅に向かう。
中川
中川は羽生市を起点とし、埼玉の田園地帯を流れ東京湾に注ぐ全長81キロの河川。起点をチェック。羽生市南6丁目あたり。宮田橋のところで葛西用水を伏越で潜り、宮田落排水路(農業排水路)とつながるあたりが起点、とか。
結果としてこのような概要とはなっているが、葛西用水と同じく、中川も元からあった川ではない。利根川東遷・荒川西遷事業により「取り残された」川を治水・利水のために繋いで結果的に出来上がった川である。
ために、中川には山岳部からの源流がない。低平地、水田の排水を34の支派で集めて流している。源流のない川ができたのは、東遷・西遷事業がその因。江戸時代、それまで東京湾に向かって乱流していた利根川、渡良瀬川の流路を東へ変え、常陸川筋を利用して河口を銚子に移したこと。また、利根川に合流していた荒川を入間川、隅田川筋を利用して西に移したことによって、古利根川、元荒川、庄内古川などの山からの源流がない川が生まれた。このことは幾度か触れた。

現在の中川水系一帯に「取り残された」川筋は、古利根川筋(隼人堀、元荒川が合流)と島川、庄内古川筋(江戸川に合流)に分かれていた。幕府は米を増産するために、この低平地、池沼の水田開発を広く進め、旧川を排水路や用水路として利用した。が、これは所詮「排水路」であり「用水路」。「中川」ができたわけではない。
中川水系の水田地帯を潤し、そこからの排水を集めた島川も庄内古川も、その水を江戸川に水を落としていた。が、江戸川の水位が高いため両川の「落ち」が悪く、洪水時には逆流水で被害を受けていたほどである。低平地の排水を改善するには、東京湾へ低い水位で流下させる必要があった。そこで目をつけたのが古利根川。古利根川は最低地部を流れていた。島川や庄内古川を古利根川つなぐことが最善策として計画されたわけである。実際、江戸川落口に比べて古利根川落口は2m以上低かったという。
この計画は大正5年(1916)から昭和4年(1929)にかけて外周河川である利根川、江戸川および荒川の改修に付帯して実施された。島川は利根川の改修で廃川となった権現堂川を利用したうえで、幸手市上宇和田から杉戸町椿まで約6キロを新開削して庄内古川につながれた。庄内古川は松伏町大川戸から下赤岩まで約3.7キロして大落古利根川につながれた。こうして「中川」ができあがったわけである。

武蔵野線・吉川駅
中川左岸に渡り、成り行きで武蔵野線・吉川駅に向かい本日の散歩を終える。次回は中川を下る。既に歩き終えて終えている古利根川下流域、足立・葛飾区境を流れる古隅田川には、あと数回歩けば届くところまで下りてきた。

利根川東遷事業により瀬替えされ源頭部を失い廃川となった元の利根川本流(古利根川)、その廃川跡、といってもその後の新田開発のため用・排水路として整備されてはいるのだが、ともあれその流路を辿る散歩もやっと岩槻まで下ってきた。
東遷事業の嚆矢となる羽生市会の川締め切り跡(異説もある)からはじめ、数回に渡って歩いた古利根川散歩ではあるが、その間古利根川下流域である足立区と葛飾区の区境を流れる古隅田川を彷徨ったこともあり、もうすっかり歩き終えた気分になっていた。

いやいや、それはダメでしょう。と、久しぶりに空白部分を埋める散歩にでかけることにした。会の川から葛西用水、そして大落古利根川筋を下り、先回は往昔大落古利根川から古隅田川筋(春日部を流れる)に入り、現在は逆川となっている旧流路跡を元荒川に合流する岩槻まで歩いた。今回は岩槻から越谷に向かって下ることにする。

散歩に出かける前、今回は元荒川に沿ってのんびりゆったりのコースではあろうと思っていた。勿論当日はあれこれ??に思いながらも、基本のんびりゆったりではあったのだが、メモの段階で??をチェックすると、市街地に突然現れた不自然に広い空地が元荒川の旧流路であったり、また同じく民家の近くに続く小高い土手が、これも元荒川の自然堤防跡のようであったりと興味深い事象が現れた。
チェックの過程で知った国土地理院の「治水地形分類地図」も思わぬ副産物。旧流路や自然堤防が確認できる。水路フリークには誠にありがたい地図である。今回はこの地図を多用させてもらう。
基本、常の如く事前準備なしの散歩。散歩で見聞きした疑問を解決する過程で得られる「思わぬプレゼント」が誠に嬉しい。ともあれ、散歩に出かける。


本日のルート;大宮台地を岩槻駅へ>東武野田線・岩槻駅>龍門寺 >元荒川旧流路>南辻>赤間堀緑地>久伊豆神社>元荒川堤防に>岩槻城跡 >大野島水管橋>金山堤>武蔵第六天神社>末田須賀堰>地蔵尊と馬頭観音>金剛院>浄山寺>三野宮橋>一乗院>東武東上線大袋駅

大宮台地を岩槻駅へ
先回の散歩は春日部市で大落古利根川と分かれ、往昔の利根川流路であった古隅田川跡を辿り元荒川との推定合流地点へと歩いた。源頭部を閉ざされ廃川となり、水位が下がったためか(異説もある)、ささやかな水の流れも現在では元荒川方面から大落古利根川へと「逆川」となっており、元荒川に繋がってもいない。かつての流路跡であろう自然堤防の樹林帯を目安に元荒川筋へと進んだわけである。

先回の散歩の終点は岩槻大橋の近く。自然堤防はもう少し下流へとのびているが、当日は知る由もなく、そこが古利根川筋の流路跡と、故なき達成感に浸りながら最寄りの駅・東武野田線の東岩槻駅へと向かった。
今回の散歩は元荒川右岸、岩槻駅から先回散歩の終点へと向かい散歩をはじめることにした。特に理由はない。何となくである。
東武野田線・岩槻駅に向かう。JR大宮駅で東武野田線に乗り換え。電車は大宮のある大宮台地(北足立台地とも)の浦和大宮支台を東に進み、見沼代用水西縁や芝川の流れる低地を抜け大宮台地片柳支台に上り、さらに見沼代用水東縁や綾瀬川の低地を走り大宮台地岩槻支台に入り岩槻駅に着く。
いつだったか見沼代用水を歩いたのだが、その時、そして今回まで見沼代用水西縁、柴川、見沼代用水東縁は同じ低地にあるものだと思っていた。これらの流れが合流する八丁堤・見沼溜井の辺りが開けた低地となっているためそう思い込んでいたのだが、見沼代用水西縁、柴川と見沼代用水東縁は大宮台地片柳支台の東西に分かれて流れていた。分岐箇所は大宮台地から支台として分かれる片柳支台の北端辺りとなっていた。
大宮台地
国土地理院「治水地形分類図」をもとに作成
Wikipediaをもとにまとめる;
大宮台地(おおみやだいち)とは、関東平野中央部、埼玉県川口市から鴻巣市にかけて広がる関東ローム層からなる洪積台地である。かつての郡名(北足立郡)にちなんで北足立台地とも称された。
西を荒川および荒川低地、東を元荒川および中川低地に挟まれて南北に長い。北部は細く、南部に行くほど東西に厚くなる三角形をしており、南の川口低地へと張り出した形である。 大宮台地はその核となる台地から支台が分かれる。洪積世後期、海中に堆積した化成岩層が隆起し侵食され谷によって区切られたとされる支台とは以下の通り。
指扇支台 - 西に入間川および荒川。東に鴨川。現在の桶川市からさいたま市西区指扇を経て三橋まで。
与野支台 - 西に鴨川、東に高沼用水路。さいたま市北区日進町から中央区鈴谷まで。
浦和大宮支台 - 西に高沼用水路、東に芝川。各支台中最大の面積を持ち、大宮台地の主部をなす。
片柳支台 - 西に芝川、東に綾瀬川。上尾市東部からさいたま市見沼区片柳まで。以東で南東の鳩ヶ谷支台とつながる。
鳩ヶ谷支台(安行台地) - 片柳支台の南東で大宮台地の最南部をなす。川口市へ張り出している。
岩槻支台(岩槻台地) - 西に綾瀬川、東に元荒川。岩槻区に分布。
慈恩寺支台(慈恩寺台地) - 西に元荒川、東は大落古利根川。その名の通り慈恩寺が位置する事にちなむ。春日部市及び岩槻区に分布。

岩槻駅
駅を下り、先回散歩の最終地点に向かう。で、ルートを想うに、いつだったか岩槻から慈恩寺を経て豊春駅まで歩いたことがある。その時、古隅田川に出合い、それが逆川であり、かつ元の利根川流路跡であることを知ったのだが、それはともあれ、その時は駅の南(東口)を岩槻城方面へと向かった。ということもあり、今回は駅の北側(西口)を歩き成り行きで進み、先回も訪れた久伊豆神社にお参りして先回散歩の最終地点へ向かうことにした。
愛宕町を抜け道なりに進むと県道65号に出た。時に現れる古い民家などを見遣りながら進むと道脇に「龍門寺 久伊豆神社」の案内がある。どのようなお寺さまか知らないまま、とりあえず龍門寺に向かう。民家が切れその先には、なんだか不自然な空地が広がる手前、県道左手に龍門寺参道が現れた。

龍門寺
「将軍家 側用人 大岡氏」ゆかりの寺といった案内が入口に立つ。側用人 大岡?などと思いながらとりあえず参道を進む。
山門
参道を山門に向かう。落ちついた雰囲気の山門横にあった案内には:

龍門寺の文化財
戦国時代の天文十九年(1550)、小田原後北条氏の重臣佐枝若狭守が自らの館内に開創したのが龍門寺です。そのため、境内の西側と北側に残る土塁は佐枝氏の館の名残りと言われており、山号の玉峰山もこの若狭守の法号に因みます。
江戸時代には、幕府の祖、徳川家康を祀った日光東照宮に将軍が参詣する日光御成道に面するようになり、岩槻藩主大岡忠光の菩提寺としての歴史を刻んできました。
国指定重要文化財(工芸品) 刀 無銘 伝助真 一口
長さ七十センチメートルあまり、銘は失われていますが、備前国(岡山県)の福岡一文字派の名工助真(すけざね)の作と伝えられています。豪壮華麗で、鎌倉時代中期の特徴を持っています。岩槻藩主大岡忠光の遺品で、現在は埼玉県立歴史と民俗の博物館に寄託。
市指定有形文化財(歴史資料) 龍門寺所蔵資料 一括
宝暦十年(1760)に死去した岩槻藩主大岡忠光の墓誌のために、子の忠喜が、後に幕府を批判した思想書『柳子新論』を著した医師兼儒官・岩槻藩士山縣大弐に作成させた「大岡忠光行状記」や大岡忠光公関係甲冑その他や龍門寺の開基佐枝家関係資料、龍門寺経営資料など龍門寺に伝来した資料です。
現在は埼玉県立歴史と民俗の博物館、埼玉県立文書館に寄託。
市指定有形文化財(建造物) 龍門寺山門 一棟
  一間一戸で、柱が四本からなる薬医門形式。桁行約三・五メートル、梁間約ニ・四メートルを測ります。本柱は断面長方形の材の長辺を正面に据え、重厚な外観を創出しています。建立年代は明確ではありませんが、建築部材の絵様は江戸時代前半の特徴を示しています。なお、解体修理の際に、東側の破風登裏甲上面で寛政十年(1798)の墨書銘が発見されました。
市指定史跡 大岡家の墓
江戸幕府側用人で、岩槻藩主大岡忠光(1760年没)の墓。石組の基壇上に巨大な五輪塔を据え、他にも忠光の墓碑や石灯籠を配しています。 境内南側(山門入って左側)にあります。 平成二十八年三月 さいたま市教育委員会」とあった。
どのような人物が知らなかったが岩槻藩主・大岡忠光ゆかりのお寺さまであった。
大岡家の墓
本堂にお参りし、案内に従い「大岡家の墓」に向かう。案内には「大岡家の墓 江戸幕府側用人で、岩槻藩主大岡出雲守忠光(一七六〇年没)の墓です。扉に大岡家の家紋を配した瑞垣の中、石組の基壇上に上から空、風、火、水、地を表す巨大な五輪塔を据え、地輪の正面には「得祥院殿義山天忠大居士」、右側面には「武州岩槻城主従四品前雲州太守大岡氏藤原忠光之墓」と刻まれています。他にも明和事件の中心人物となる山縣大弐が関係した忠光の墓碑や石灯籠が残されています。
大岡家は三河以来の徳川家の譜代の幕臣で、一族の中からは名奉行として知られる大岡越前守忠相を輩出しました。
忠光は三〇〇石の旗本の家の生まれでしたが、その才能を発揮して、御側衆・御用御取次・若年寄(奥勤兼帯)、さらに側近として最高職の側用人まで出世し、第九代将軍徳川家重近くに仕えて厚い信任を得、幕府政治を長い間動かしてきました。 宝暦元年(一七五一)には勝浦(千葉県)一万石の大名となり、その後加増が続き、宝暦六年には二万石の岩槻藩主となりました。 岩槻藩主としての忠光の在任期間は四年間と短く、幕政の中心人物として多忙を極めました。宝暦十年四月に亡くなり、後の側用人田沼意次ほか幕閣要人や諸大名が関与する中、僧侶五十人余による盛大な葬儀が当山で行われています。
明治維新まで続く岩槻藩主大岡家八代の基礎を作った名君で、幕藩体制の維持に尽力した忠臣でもありました。さいたま市教育委員会掲示より」とあった。
忠光公墓誌
五輪塔の墓の手前、覆屋の下に石碑がある。忠光公の墓誌である。傍にあった説明には、「山県大弐関与 墓誌裏側 山形大弐が撰文・井書した墓誌の部分がザックリ削られた跡が見られる。大弐のおこした明和事件後、岩槻藩が改易転封を恐れて、大弐に関する物件の隠蔽を行ったのであろう。奇しくも、明和事件に対する幕府の厳しい追求を窺わせる物的証拠となっている。。。」とあった。尚、墓誌表面は、昌平黌の林大学頭の撰文とのことである。
山県大弐
尚また、傍に山県大弐についての解説もあった。
説明には、「革命思想家・山県大弐と龍門寺大岡忠光公は経王暦10年(1760)4月23日病没した。その際、忠光公側近の儒学者の山県大弐は忠光公の墓誌造立に深く関係し、さらに忠光公の生涯についてまとめた「行状記」を当山の一室に籠もって書き残した。これが現在当寺に残されている「大岡忠光公行状記」(市指定文化財)である。
山県大弐は忠光公の家臣時代に藩幕府思想の「柳子新論」を脱稿した。忠光公側近として幕府政治をつぶさに見、その実体験をもとに幕藩体制を痛烈に批判したものである。忠光公没後、当寺に残る行状記を書き記し、岩槻藩を致仕した。そして江戸に出て塾を開いた。そこで、兵学の話として「江戸城攻撃」について議論したため、先の「柳子新論」とあわせて幕府の怒りにふれ大弐に関係した者は捕らえられ、大弐は処刑された。これを明和事件という。大弐の著述は、没後も多くの人に密かに写本として読まれ百年後の明治維新の思想的原動力となった。
当山に残る「行状記」は、大弐が実践活動に移る、その転機に書かれた日本の近代成立史上の極めて重要な史料と言うことができる」とあった。
◎大岡忠光と忠相
大岡忠光の説明の中に、「一族には大岡越前守忠相がいる」、とある。どういう係累関係?チェックする;大岡家系譜では戦国時代、三河松平氏に仕えた大岡忠勝をその祖とする。忠勝の子忠政は家康の関東入府に従い武蔵国に。大岡家3代目当主は忠政の三男忠世が本家を継ぐ(資料により忠世の子・忠種が宗家養子に入り3代目当主となるともある)。忠政の長男・次男が戦死したためである。忠政の四男が忠吉。忠光も忠相も忠吉の系であり、忠相は忠吉の孫、忠光はひ孫にあたる。
忠光は忠吉の子・忠房の系。忠光は岩槻藩系大岡氏の祖となる。忠相は忠吉の子忠章の系であるが、忠相は本家筋3代目本家中世の子、第4代忠真の養子となったため、本家第5第当主となった。また三河の岡崎を領する西大平藩系大岡氏の祖となった。
側用人
側用人と言えば柳沢吉保であり田沼意次の名が思い浮かぶが、大岡忠光が側用人ということは知らなかった。チェックすると、柳沢吉保や間部詮房などの側用人制の弊害により一時衰えていた側用人制が忠光の時に復活した。その因は、将軍家重が極度の言語障害でありその言を聞き取れるのが忠光ただ一人であったためとも言う。また意次とは先輩後輩の関係であり、忠光により復した側用人の制を田沼意次が継いだとのことである。
解説にあった「土塁」は?と辺りを彷徨ったのだが、それらしき顕著な「高み」を認めることはできなかった。とまれ、知らず立ち寄ったお寺さまでちょっと歴史のお勉強ができた。

元荒川旧流路
国土地理院「治水地形分類図」をもとに作成
龍門寺のメモで時間をとった。先に進む。参道を出て県道65号に戻ると前面が不自然に開けた空地となっている。散歩しながらGoogle Mapの衛星写真でチェックと元荒川に架かる慈恩寺橋上流からU字の、如何にも「河川敷」といった空地があり、U字ラインが元荒川に繋がる手前に調整池らしき施設も見える。
メモの段階で国土地理院の治水地形分類図でチェックすると旧流路跡が見て取れる。また、少し先走るが、後程訪れる岩槻城跡にあった岩槻城の縄張図にも龍門寺すぐ傍に元荒川が流れており、田中橋が架かっていた。
この流路はいつの頃河川改修が行われたのだろう。明治初年から中頃にかけて陸軍が作成した「関東平野迅速測図」には旧流路が記されている。はっきりした資料を見つけることができなかったが、大正末期から昭和初期にかけて元荒川支川改修事業が実施されているので、この時期かもしれない。

南辻
県道65号を進む。右手に人間総合科学大学岩槻キャンパスがある。元荒川の河川敷であったところに立地する。ということは、今はない田中橋を渡り、往昔の元荒川左岸に渡っているということだろう。
地名は南辻。明治22年、南辻を含め元荒川左岸の十ケ村が集まり慈恩寺村となっている。少なくとも明治22年までは元荒川は旧流路を流れていた、ということだ。

赤間堀緑地
久伊豆神社に向かい、成り行きで県道65号を右に曲がる。久伊豆神社の社叢の前に緑地が続く。赤間堀緑地とある。衛星写真で見た元荒川旧流路のつくった自然堤防だろう。メモの段階で、国土地理院の治水地形分類図でも自然堤防が確認できた。赤間堀の南は岩槻城の縄張りにあった新正寺曲輪。久伊豆神社の建つ新正寺曲輪は大宮台地岩槻支台の端かと思う。新正寺は久伊豆神社の塔頭に由来するようだ。

久伊豆神社
岩槻駅西口駅から成り行きで歩いた結果、龍門寺や元荒川の旧流路、そして元荒川の自然堤防などに出合った。ここまではよかったのだが、赤間堀緑地から傍に見える久伊豆神社は塀で囲まれ、緑地から直接入ることができない。結局、ぐるっと大きく迂回し東武野田線傍にある久伊豆神社参道入口まで歩くことになった。
台地と低地の境
参道から南、東武野田線の先は緩やかに下りとなっていた。ちょっと気になり治水地形分類図でチェックすると、東武野田線を境に台地と後背湿地に分かれている。後背湿地の南に岩槻支台が、ちょこっと突き出している。岩槻城の縄張りから見れば、堀に囲まれた本丸辺りではないかと思う。実際本丸跡とされる大田2-2-16はこの台地上に乗っていた。主郭部・曲輪は台地上、堀は後背湿地に元荒川の水を取り入れ、自然を生かした縄張りとなっている。



久伊豆神社由緒
鬱蒼とした社叢に覆われた参道を進む。枯山水の庭があった。この社には一度訪れたことがあるのだが、すっかり記憶から抜け落ちていた。拝殿にお参り。
境内にあった案内には「岩槻市総鎮守 御祭神大国主命 久伊豆神社は、今を去る千三百年前、欽明天皇の御代出雲の土師連の創建したものと伝えられる。その後相州鎌倉扇ヶ谷上杉定正が家老太田氏に命じ、岩槻に築城の際城の鎮守として現在地に奉鎮したといわれている。江戸時代歴代城主の崇敬厚く、特に家康公は江戸城の鬼門除けとして祈願せられた。
神社境内は城址の一部で、元荒川が東北に流れ、市内でも数少ない貴重な社叢として知られている。
明治八年一月十一日、火災に遭い、時の城主、町民より寄進された社殿等烏有に帰し、現社殿は、その後氏子崇敬者の誠意により再建されたものである。現在神域は次第に整い、神威はいよいよ高く神徳ますます輝きわたり岩槻市総鎮守として広く人々の崇敬をあつめている」とある。
久伊豆神社・香取神社・氷川神社
『幻の江戸百年:鈴木理生(ちくまライブラリー)
久伊豆神社の名前をはじめて知ったのは、鈴木理生さんの『幻の江戸百年:鈴木理生(ちくまライブラリー)』を読んだとき。関東における神社の祭祀圏がクッキリとわかれ描かれていた。利根川から東は香取神社。利根川の西の大宮台地・武蔵野台地部には氷川神社。この香取・氷川の二大祭祀圏に挟まれた元荒川の流域だけに80近い久伊豆神社が分布する。
大国主
香取神社の祭神はフツヌシノオオカミ(経津主大神)。荒ぶる出雲の神・オオクニヌシ(大国主命)を平定するために出向いた神。氷川神社の祭神はスサノオ・オオナムチ(オオクニヌシ;大国主命)・クシナダヒメといった出雲系の神々。が、この久伊豆神社の由来はよくわからないと書かれていた。
未だによくわからないのだけれど、以下妄想:この社の由緒には御祭神は出雲の神・オオクニヌシ(大国主命)とある。これでは氷川神社の出雲系の神を祖先神として武蔵国に入った部族と違いがよくわからない。違いのヒントは?と、由緒に出雲の土師連の創建とある。





土師連
出雲の土師連創建といえば、鷲神社の系の由来と同じである。久伊豆神社の祭祀圏とほぼ同じ(東西に少しはみ出してはいるが)元荒川流域に鷲宮神社、大鷲神社、大鳥神社などと言う名で祀られる。土師宮とも称される鷲神社系の祭神は天穂日命とその子の武夷鳥命、および大己貴命。天穂日命って、アマテラスの子供。大国主を平定するために出雲に出向くが、逆に大国主に信服し家来となり、出雲国造の祖となった、とか。土師連創建の久伊豆神社が大国主命を御祭神とするのはこういった事情だろう。
なんだか面白い。氷川、香取、久伊豆、これらすべて核に大国主命がいる。大国主を祖先神とする氷川、大国主を平定しようとする香取、その間に大国主を平定しようとするが逆に信服した久伊豆。国津神(国造系)の氷川、天津神(天孫系)の香取、天津神から国津神(天孫系から国造系)となった久伊豆と読み替えてもいいかもしれない。
国津神系(国造)と天孫系(中央朝廷)の間に位置するのが、天孫系から国津神系となった久伊豆創建の土師連の祖先神。が、ここでもうひとつひねりがあるようだ。土師連の「連」とは天孫族であることの証明といったもの。もとは土師臣(天皇直属の部;技術者集団)であったものが、ある時期から「連」のカバネとなっている。ということは、土師氏の祖先神は天孫系から国津神系に一度はなったが、最終的には天孫系に戻ったと、と言える(?)かもしれない。国津神系の氷川祭祀圏と天孫系の香取祭祀圏の間に、国津神系と天孫系の間をとりもつような久伊豆や鷲神社系の神を祖先神とする部族がいたということだろうか。すべて素人の妄想であるが、それなりに結構面白い。


元荒川堤防に
久伊豆神社を離れ、大宮台地岩槻支台の東端辺りを成り行きで元荒川の旧流路跡に戻る。調整池なのか遊水池なのか治水施設がある。国土地理院の治水地形分類図と合わせてみると、池の幅が丁度元荒川旧流路の河川敷の幅のようだ。衛星写真でもそれが見て取れる。
先に進むと元荒川にあたる。旧流路らしき水路が元荒川に合わさるが、遊水地に水門があったので、そこから排水する流れかと思える(根拠はない)。

元荒川の土手を進む。東武野田線を潜り、少々ブッシュとなった箇所もあるが力任せに進むと岩槻橋西詰に出る。岩槻橋から先は土手を進むことはできない。上述治水地形分類図を見ると、岩槻橋の少し北辺りから自然堤防の微高地が氾濫平野となっている。氾濫平野とは河川の堆積作用によって形成された起伏の小さい低平地、有り体に言えば過去の洪水により造られた平野(氾濫原)で、地図では元荒川右岸のひとつ下流の岩槻大橋辺りまで氾濫平野が河川に沿って細長く続いているが、現在は護岸工事されたのであろう、それらしき風情は認められない。

岩槻城跡
岩槻橋を走る県道2号を右折し、最初の交差点の少し手前にある遊歩道を左に折れ、岩槻城址公園に向かう。道なりに進み、左手に城址公園の菖蒲池の見える辺りで城址公園に入る。池の畔には紅葉も残っていた。







白鶴城址碑
いつだったかこの城跡に訪れたことがある。おぼろげな記憶を頼りに城門のあった場所に向かう。途中に「白鶴城址碑」。白鶴城の由来は、この城を築いた(異説もある)とされる大田道潅が、二羽の白鳥が木の枝を沼に落としその上に舞い降りたことから、竹を束ねて沼を埋め盛土をして城を築いたことによる。ために「竹たばの城」「浮城」とも称されるようである(Wikipedia)。





空堀
成り行きで進むと左右に空堀が見える。結構深い。後でわかったことだが、この下に北条氏築城の特色ともなっている障子堀(箱根越え・西坂の山中城跡で出合った)が埋められており、現在より3mも深かったとのことである。なおまた、この空堀は新曲輪(北側というか内側)と鍛冶曲輪(南側というか外側)を画する、と。






岩槻城裏門
空堀に沿って進むと車道に出る。その角に新曲輪と書いた石碑が立っていた。車道に沿ってあったよな、と微かな記憶を頼りに道を進み岩槻城裏門に。案内を簡単にまとめると、 「門扉を付けた本柱と後方の控柱で屋根を支える薬医門形式の岩槻城城門。江戸時代の明和7年(1770年)に当時の岩槻城主大岡氏が建立し、文政6年(1823年)に補修の手が加えられたことが、ホゾの墨書銘に記される。城内での所在位置は不詳で、「裏門」とのみ伝えられている。廃藩置県に伴う岩槻城廃城後、個人に払い下げられたが、昭和55年(1980)に市に寄贈され、現在地に移築復原された。門扉右の袖塀はこの時付け加えられた。


岩槻城城門
更に車道を進むと岩槻城城門。案内をまとめる;「門扉の両側に小部屋を付けた長屋門形式の城門。木材部分が黒く塗られており「黒門」とも称される。城内での本来の位置は不明だが、三の丸藩主居宅の長屋門の可能性が高いとされる。
岩槻城廃城(1871年)後、浦和に移され、埼玉県庁や県知事公舎の正門、岩槻市役所の通用門などに利用されたが、昭和29年(1954)岩槻市に払い下げられ、昭和45年岩槻公園内の現在地に移築された」。
岩槻城縄張案内
岩槻城城門から菖蒲池方面に向かうとすぐ傍に往昔の岩槻城の縄張り図とその解説がある。前述の岩槻城縄張り図とはここに掲載されていたものである。解説には;
「埼玉県指定史跡岩槻城跡 岩槻城は室町時代の末(15世紀中頃)に築かれたといわれています。江戸時代には江戸北方の守りの要として重要視され、有力譜代大名の居城となりました。
戦国時代には何回も大改修が行われ、戦国時代の末期には大幅に拡張されました。本丸・二の丸・三の丸などの城の主郭部、その周囲を取り囲む沼の北岸に位置する新正寺曲輪、南岸に位置する新曲輪という、3つのブロックから構成されていました。さらに城の西側及び南側の一帯には武家屋敷と町家、寺社地からなる城下町が形成・配置され、その周囲を巨大な土塁と堀からなる大構が取り囲んでいました。
この岩槻公園のあたりは、そのうちの新曲輪部分にあたっており、その大部分が埼玉県史跡に指定されています。新曲輪は戦国時代末の1580年代に、豊臣政権との軍事対決に備え、その頃岩槻城を支配していた小田原北条氏が岩槻城の防衛力を強化するために設けた曲輪と考えられ、新曲輪・鍛冶曲輪という二つの曲輪が主郭部南方の防備を固めていました。
明治維新後、開発が進んで城郭の面影が失われている主郭部とは対照的に新曲輪部分には、曲輪の外周に構築された土塁、発掘調査で堀障子が発見された空堀、外部との出入り口に配置された二つの馬出しなど、戦国時代末期の城の遺構が良好な状態で保存されています。
曲輪;城郭を構成する区画
土塁;土塁は土を土手状に盛り上げた防御施設。堀は地面を細長く堀り窪めた防御施設。多くの場合、堀を掘った土で土塁を造る。
堀障子;堀の底に設けられた障害物の一種。
馬山し;城の出入り口外側に設けられた施設で、出入り口の防備を固め、敵の城内への侵入を防ぎ、味方の出撃を容易にする」とある。

大田道潅
この解説ではあっさりと記されていた、室町時代の築城から小田原北条の支配までの間を補足する。

先回この城跡公園にあった解説を目にした解説には「岩槻城は室町時代に築かれた城郭。築城者については大田道潅とする説、父の大田道真とする説、そして後に忍(現行田市)城主となる成田氏とする説など様々。16世紀の前半には太田氏が城主。が、永禄10年(1567年)、三船台合戦(現千葉県富津市)で大田氏資が戦死すると小田原の北条氏が直接支配するところとなる」とあった。
築城は大田道潅とするのが通説のようだが、この地に城を築いた理由は下総古河に拠を構える古河公方に対するため。室町幕府は関東統治のため鎌倉に鎌倉公方を置き関東管領がそれを補佐したわけだが、両者に軋轢が起き公方は古河に逃れ古河公方と称した。古河公方の勢力範囲は利根川以東。上杉管領方はおおむね利根川以西。昔の荒川筋、利根川筋などが乱流する低湿地帯を挟んで両陣営が対立することになる。
大田道潅は関東管領上杉氏の重臣としてこの地に城を築いた。江戸城、川越城とともに古河公方に対する戦略的拠点ともされる。前面に流路定まらぬ元荒川(本来の荒川)、古利根川(本来の利根川)のつくった低湿地を配した、天然の要害ではあったのだろう。
大田氏と岩槻城
岩槻城は道潅が主家扇谷上杉氏の謀略により憤死した後、一時期古河公方の城となるも、大永2年(1522)大田資頼がこれを奪還。資頼は江戸系と岩槻系に分かれた道潅の子孫、岩槻系の武将。道潅のひ孫にあたる。
その後、岩槻城は関東管領上杉氏勢として、武蔵支配を目指し侵攻する小田原北条氏に抗する。天文⒖年〈1546〉の有名な「川越夜戦」により北条氏の関東支配が決定的になった後も、資頼の子資正は北条に抗するが永禄7年〈1564〉、資正の嫡子氏資が北条に内応し、以降北条方となった。以降は上掲解説の通りである。
縄張り
公園にあった解説には、「岩槻城が築かれた場所は市街地の東側。元荒川の後背湿地に半島状に突き出た台地の上に、本丸・二の丸・三の丸などの主要部が、沼地をはさんで北側に新正寺曲輪、沼地をはさんだ南側に新曲輪があった。
主要部の西側は掘によって区切られ、さらにその西側には武家屋敷や城下町が広がっていた。また城と城下町を囲むように大構が建てられていた。 岩槻城の場合、石垣は造られず、土を掘って掘をつくり、土を盛って土塁をつくるという関東では一般的なもの」とあった。
国土地理院の治水地形分類図と見比べると、前述の如く、主要部は大宮台地・岩槻支台、堀は後背湿地と重なるように思える。自然を生かした縄張りとなっている。土塁は先回の岩槻散歩の時、愛宕神社で大構跡に出合った。
堀障子(ほりしょうじ) 
岩槻城縄張案内のある場所から菖蒲池へと向かうと、すぐ右手に空堀が見え、手前に堀障子の案内。「堀障子(ほりしょうじ) 現在地は新曲輪と鍛冶曲輪との間の空堀である。 発掘調査の結果、掘底まで3メートル程度埋まっており掘底には堀障子ほりしょうじのあることが確認された。
堀障子は畝(うね)ともいい、城の堀に設けられた障害物のことである。堀に入った敵の移動をさまたげたり,飛び道具の命中率を上げることなどを目的として築かれたと考えられ、小田原の後北条氏の城である小田原城(神奈川県)、山中城(静岡県)や埼玉県内の 伊奈屋敷跡(伊奈町)などからも見つかっており後北条氏特有の築城技術とみられている。
岩槻城跡では三基の堀障子が見つかっており 底そこからの高さ約90センチ,幅が上で90センチ,下で150センチあり その間隔かんかくは約9メートルあった。 この遺構発見で、堀が戦国時代の終わり頃に後北条氏 によって造られたことなど様々な事が判明した」とあった。
遊歩道となった空堀の中を進み、途中先ほど出合った空堀を左右に分ける通路を上り下りし、元荒川に沿った車道へと戻る。

大野島水管橋
元荒川右岸を新曲輪橋、新岩槻大橋の西詰を抜け岩槻文化公園に。治水地形分類図を見ると後背湿地帯となっている。公園に池も残るが沼の痕跡ではあろう。明治の関東平野迅速図には「葦」といった記述もされている。
現在はきれいに整備された公園を進む。行き止まりにならないかと少々心配しながらではあったが、公園から堤防に戻る道がついていた。
堤防を進むと大野島水管橋がある。歩行者も渡れるようなので、何気なく左岸に渡る。橋を下りた県道325号手前に地蔵が彫られたような石碑が立つ。慈恩寺道を示す道標とのことである。この水管橋のあたりに村国の渡しがあったという。それと関係あるのだろうか。
慈恩寺
坂東観音霊場12番の札所。天長年間(824~34)慈寛大師の草創という。慈覚大師・円仁。下野国の生まれ。第三代比叡山・天台座主。最後の遣唐使でもある。慈寛大師にはて、いままでの散歩で、鎌倉の杉本寺、目黒不動・龍泉寺、川越の喜多院などで出合った。
慈恩寺は往時本坊四十二坊、新坊二十四坊といった大寺ではあったよう。境内も13万坪以上あった、と。このあたりの地名が慈恩寺と呼ばれているのはその名残りであろう。 江戸期には徳川家の庇護も篤く家康より寺領100石を賜っている。また、本尊は天海僧正の寄進によるもの、とか。ともあれ、天台宗の古刹であった。『坂東霊場記』に「近隣他境数里の境、貴賎道俗昼夜をわくなく歩を運び群集をなせり」、と描かれている。

金山堤
左岸堤防に沿った道を進むと、左手斜めから元荒川堤防に向かって雑木林が続く。当日は何だろうとは思いながら歩を進めたのだが、メモの段階でチェックするとそれは往昔の利根川の流れが造った自然堤防・微高地の名残であった。金山堤と称され奥州古道の道筋でもあった、と。



国土地理院「治水地形分類図」をもとに作成
先般の散歩では大落古利根川流路を辿り、春日部から古隅田川を元荒川との合流点と思しき南平野5丁目の大光池辺りから元荒川の堤防に出たのだが、国土地理院の治水地形分類図によると利根川の旧流路(古隅田川)は南平野5丁目で元荒川に最接近した後、逆S字を描いて更に南に下っていた。元荒川へと繋がる雑木林はその逆S字に沿った自然堤防であった。Google Mapの衛星写真で見ると、樹林帯背後の自然堤防上には民家が建ち並んでいる。先般であった大光寺に続き、3つの香取神社も鎮座する。洪水を避け自然堤防上に神も人も住まいする、ということだろう。

武蔵第六天神社
元荒川左岸を進む県道325号から右に折れ道を進むと第六天神社がある。この辺りが上述金山堤、古利根川の旧流路がつくった自然堤防が元荒川筋にあたる。往昔の古利根川と元荒川の合流点ということだろう。
社にお参り。結構な参拝客だ。最近新築されたのか拝殿が新しい。由緒を見る。「主神;面足尊(おもたるのみこと)と吾屋惶根尊(あやかしこねのみこと)
合祀神;経津主命(ふつぬしのみこと)・別雷神(わけいかづちのみこと)・市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)・ 熊野久須美命(くまのくすみのみこと)・家津御子命(けつみこのみこと)・速玉男命(はやたまおのみこと)
その昔、岩槻城下の繁栄を極めたる当時、江戸城の忌門寺として有名な華林山慈恩寺や、日光廟に往来した諸人は、日光街道を曲げて現在の元荒川沿いを下って岩槻城外の第六天神社に奉拝したといわれる。
武蔵国第六天の一として、古来より火難除け・盗賊除け・疫病を除去し、以て家内安全、五穀豊穣、商売繁盛の霊験著しく、江戸界隈の人たちや武蔵国の諸処から、崇敬者が加わり、今日では県内を始め、千葉県・茨城県・栃木県・群馬県・東京都の関東各地より講中を結成し、毎年三月より五月にかけて、大神の御加護を賜りて、自家の安泰と吾人永遠の幸福を祈り奉らんと、御眷属・授与品である天狗の神額を綬ける参拝者でにぎわい、一陽来福を祈る個人参拝者は全国より四季絶えることなく綿々と続き、これ偏に広大無辺、神徳無量なる御神徳と御威光の賜と存じております。
当社の創建は第119代光格天皇の御代、天明二年六月十五日の御鎮祭と伝えられており、 明治四十年六月二十八日、村社香取神社・無格社鳴雷神社・無格社厳島神社・無格社熊野神社を合祀し、 現在に至っております。
尚、境内には、樹齢数百年と言われる藤の花を始め、躑躅。牡丹・西洋藤・紫陽花が咲き乱れ、岸頭には桜並木が続き、門前には川魚料理家が建ち並ぶ埼玉の自然百選に認定された観光名所となっております」とあった。
第六天魔王
第六天神社も不思議な社である。祭祀圏は東日本に限定され、静岡・山梨以西に第六天神社は見当たらない。その因は?
神社という名称は明治以降のことというから、第六天の社とでも称されたのかと思うが、その主祭神は面足尊(オモダル)と吾屋惶根尊(アヤカシコネ)とされるが、それは明治の神仏分離令以降のこと。それ以前の神仏習合の時代は第六天魔王を祀ったとされる。
そしてその第六天魔王の化身と称したのが織田信長。Wikipediaに葛飾北斎が描く「仏法を滅ぼすため釈迦と仏弟子たちのもとへ来襲する第六天魔王」の絵があるが、信長の叡山焼き討ちなどを合わせてみれば、自身を第六天魔王(仏道修行を妨げる魔)とするのは頷ける。
それはともあれ、西日本に第六天が無いのは、信長の信奉した第六点の神威を恐れた秀吉が、勢力圏であった西日本の第六天の社を悉く廃社としたため、とWikipediaにある。なんとなくしっくりこない。
神世七代の第六天
天皇親政にそぐわない明治政府の方針故との記事も見る。これも東国は政府の威令に従わなかった故とする。アマテラスとその親であるイザナギ、イザナミをその祖先神とする天皇家を中核に置いた明治政府にとって、第六天魔王と習合された第六天神の社の主祭神である面足尊(オモダル)と吾屋惶根尊(アヤカシコネ)は「不適切」な存在であったとする。
日本神話において天地開闢のとき生成した七代の神・神世七代(かみのよ ななよ)において、足尊と吾屋惶根尊は第六代、イザナギ、イザナミは第七代。天皇の祖先神より古い神がいることは、恰好がつかない、といったところだろうが、この説もなんとなくしっくりこない。
魔王の力で悪霊を鎮める
とりあえず祭祀圏偏在の因は少し寝かしておくことにして、この社について;社の創建は天明二年〈1782〉と結構新しい。創建の背景は病魔や飢饉がその背景にあるのでは、との記事も多い。天魔故、それを祀ることによりその霊力でもって安寧を祈ったとする。天明3年(1783)には浅間山の大噴火、それにともなう大飢饉に見舞われており、何となく納得できる。
案内には関東各地から講を組み参詣したとする。この地域限定の社ではなく、その威は関東各地に及んでいたようで、各地に第六天を祀るに際し、この武蔵第六天を勧請したとも言う。
尚また、眷属を天狗とするのは神仏習合の時代、その基盤となった密教、そのうちの雑密である修験道との関りを感じさせる。

末田須賀堰
県道325号に戻り、少し進み永代橋北交差点を右に折れ、県道214号に乗り換え元荒川に架かる永代橋に進むと末田須賀堰がある。この堰は大戸の堰と呼ばれた歴史のある堰であり、堰き止められた水は溜井となり左岸は須賀用水、右岸は末田用水となって下る。また溜井により水位の上がった元荒川は、上流3キロ程までのいくつかの用水への水の供給源であったようだ。舟運の河岸もあったとのこと。
最初に堰が設けられたのは慶長19年(1614)頃と言う。寛永9年(1629)、荒川の背替えが行われる。ために、源頭部を失った元荒川の水量が減少。この堰で水を停めることにより、更に下流の越谷に設けられた瓦曽根溜井の水が不足し、その対策として水を利根川に求め逆川が開削されることになった、とのことである。
いつだったか逆川を訪ねたことがあるが、その開削に関わる堰であった。歩けばあれこれと繋がるものである。
須賀用水
末田用水
元荒川右岸を野島・砂原・西新井・七左・大間野を経て綾瀬川に注ぐ
須賀用水
元荒川左岸を、三野宮・大町・恩間・間久里・大間の灌漑に供した






 ●御定め杭
永代橋皆南詰にある遊歩道に御定め杭がある。寛延三年(1750)建立。元は右岸少し下流にあったものが、平成4年の堰改修の折、ここに移された。
「此定杭頭ヨリ石堰上端迄八尺五寸下リ」と刻まれるとのこと。堰の高さを定めるもの。堰が高ければ貯水量が増え下流用水への流量が増えるが、上流域は水位の上昇で排水不良となる。その上・下流の利害調整のため堰の高さを定めている。
上に溜井で堰止められ、水位を上げた元荒川の水は上流3キロほどの用水に供したとメモしたが、水位が高ければいいというわけでもなかった。用排水のバランスのいい水位上昇を定めていたのだろうか。
なお、「石堰」とはあるが、基礎に石をおき、その上に小石を詰めた蛇籠を並べた洗堰ではあったのだろう。

地蔵尊と馬頭観音
武蔵第六天参道と刻まれた石柱の立つ橋詰めから永代橋交差点を左に折れ、県道48号に入るが直ぐに県道から左に分かれる道に入る。特に理由はないのだが、地図にお寺さまのマークがふたつあったので、ちょっと訪ねてみようと思った。少し進むと道傍(旧岩槻道)に二体の石仏が立つ。Google Mapには地蔵尊と馬頭観音とある。大きい石仏は堰安全祈願碑とも言われる。


金剛院
道なりに進むと、左手に落ちついた門が見える。金剛院の仁王門。仁王門を潜り境内に入り本堂にお参り。
仁王門と金剛力士像
門傍にあった解説を簡単にまとめると、「金龍山妙音寺。元は岩槻にあり金剛坊と称したが寛正年間(15世紀中頃;室町後期)この地に移り金剛院と称した。
天正19年〈1591〉には家康から寺領10石の御朱印状を賜り、常法談林として僧侶を教化し、武蔵国移転寺十一か寺の一として由緒ある格式を誇る。
仁王門は、元禄10年(1697年)には、将軍徳川綱吉の生母桂昌院の寄進と伝えられ、簡素な造りではあるがが、三段に組み込まれた重木や屋根の形などに、当時の優雅な名残を伝えている建築です。屋根瓦の大部分を失っているのは惜しいが、堂々とした風格をもつ。
門の左右に配された阿吽の金剛力士像は、共に江戸時代前期の作と思われ、寄木造り、玉眼嵌入、胸上で着手式とし、体幹部は左右二材を基本として、各々補材を充て、仕上げは下地漆の上に布着せを行い彩色されている。
阿形は左手に金剛杵を執り、右手を力いっぱい広げて降ろし、吽形は左手を広げ挙げ、右手は強く握って降ろすという一般的な形だが、胸や腕、背中の筋力の表わし方や、均整のとれた姿態はこの時期のものとして優れた出来栄えを示し、昭和56年5月12日に、市指定文化財となっている」と。
談林は仏教学問所。常法ははっきりしないが、公の、とか正式の、といった意味だろうか。武蔵国移転寺と格式の関係は不明。

浄山寺
道を進むと行政域はおおみや市岩槻区を離れ越谷市に入る。道脇に道標と、「野島地蔵尊 浄山寺」の案内。なんとなく地蔵尊の言葉に引かれて右に折れちょっと立ち寄り。朱塗りの山門を入ると境内には朱塗りの鐘楼。あまり見かけない。
本堂にお参り。国の重要文化財に指定されている木造地蔵菩薩立像を本尊とする。毎年2月と8月の2回御開帳されるようだ。鰐口も大きなものであり、岩槻市の文化財に指定されている。
境内にある由緒や解説を読むと、ご本尊は江戸の頃から出開帳で評判を集めていたようだ。「早く行きたい 野島の地蔵に 好い子出来るように願がけに」と詠われた、とも。 「武州埼玉野島地蔵尊於湯島天神境内開帳之図」と呼ばれる三枚つづりの浮世絵も発売された。人気のほどが窺える。
なお、この地蔵菩薩が文化財として評価されたのはそれほど昔のことではない。平成23年(2010)の東日本大震災で倒れ両足が損壊。修復の過程で平安初期の木彫像に多いかや材を使った一本づくりであることなどから平成26年(2013)県の文化財、そして平成28年(2015)には地蔵菩薩としは屈指の古例であるとして国の文化財として指定されたようである。
木造地蔵菩薩立像
「本尊。縁起では貞観二年(八六〇)、天台宗の高僧・慈覚大師円仁が浄山寺(当時は慈福寺)を建建した折、自ら彫った三体の仏像の一体と言う。
古くから安産・子育ての「野島の地蔵尊」として信仰を集め、江戸時代には湯島天神で出開帳を行い大変な盛況であったと記録にある。一木造。肉付豊かな体躯、深く鋭い衣文表現に平安前期の特色をよく見せ9世紀前半に遡る可能性があり、地蔵菩薩像の屈指の古例として重要であることから国の重要文化財に指定されている(境内解説の重複を省きまとめる)」

浄山寺の御朱印状
「野島浄山寺は、貞観二年(八六〇)慈覚大師の建立、本尊延命地蔵尊は大師一刀三礼の作と伝えられる。もと天台宗に属し慈福寺と号したがのち曹洞宗に転じ寺号も浄山寺と改められた。
天正十九年(一五九一)德川家康が当寺に詣でた折、寺領として三〇〇石を寄進したが、時の住職はこの寄進を過分であると辞退、それで家康は懐紙をとりだし高三石と記して住職に与えた。このため家康の朱印状を「鼻紙朱印状」と呼んだと伝える。なお、当寺には二代秀忠を除き、代々の朱印状が保存されている。 越谷市教育委員会掲示」

野島浄山寺の大鰐口
「大鰐口は天保12年〈1841〉に奉納されたもので厚さ二尺(60センチ)、直径六尺(176センチ)、重量二百貫(750kg)という全国でも稀にみる大きさである」
鰐口の表面には80名ほどの奉納者の名が刻まれており、在所は江戸から粕壁など広範囲に渡る。「大鰐口」の解説にも、「本尊の木造地蔵菩薩の出開帳を安永7年(1778)頃より行い評判を得、天明5年〈1785〉には同所を出張所と定めている。その間にも関東一円に出開帳し信者は各地に広がった(境内解説の重複を省きまとめる)」とあるが、このお寺様への関東各地の人々の信仰のほどが窺える」。

三野宮橋
浄山寺を離れ元荒川筋に戻る。途中、地図に浄山寺の南を走る水路を確認にちょっと立ち寄り。金剛院の南、末田鷲神社あたりから野島久伊豆神社を経て浄山寺の南へと続く水路が地図にあったため。水路自体は小さな溝状のものであったが、メモの段階で治水地形分類をみると、旧流路跡が描かれていた。元荒川の旧流路のように思える。社寺は川筋を避けて自然堤防上に並んでいた。
水路を確認し元荒川に架かる三野宮橋を渡り左岸に移る。
野島
野島の由来は、「シマ」は耕地を指すようで、野の中の耕地からとする。

一乗院
元荒川の左岸を進む。自然堤防には三野宮香取神社が建つ。冬の日暮れは近い。気になりながらもパスし道を進むと一乗院がある。 山門もないようだが、取敢えず境内に。参道左手に大きな石碑があった。明治23年(1890)の洪水に際し、排水を巡る地元人の紛争に巻き込まれ殉職した巡査。左岸の三野宮・大道が洪水で冠水。恩間の古堰を開けて排水する、しないで恩間の住民と騒動になった、と言う。本堂にお参り。
一乗院の建具
境内に「一乗院の建具」の解説がある。建具とは一枚板戸や欄間のとのことだが、「慶長15年(1610)、家康が建てた神奈川御殿の建具。元禄10年〈1697〉、将軍綱吉の母・桂昌院が金剛院に寄進したものであるが、平成11年()、一乗院の本堂再建に際し金剛院から譲り受けた、とあった。
三野宮
元仁元年(1224)源頼朝の妻政子のよる建立とされ、本尊の阿弥陀如来は、政子の安心仏とも。
室町中期、豪族三之宮氏の供養を一乗院で行われた、ために地名が風早村から三之宮に改められ、山号寺号も「稲荷山一乗院」と改名されたと伝えられる。
なお、三野宮の地名は、応永11年(1404)、将軍足利義満の三男(三の宮)が亡くなったとき、この地に三の宮稲荷大明神を祀った故とも伝わる。




東武東上線大袋駅
日も暮れ始めた。最寄りに駅の東武東上線・大袋駅に向かう。元荒川左岸を少し進み左に折れ、一直線に大袋駅へと抜ける、如何にも再開発地といった辺りを進む。左手には大きな調整池が見える。
その先になんだか奇妙な地形が現れる。土手が民家の間に数回、南北に続く。人工的に土手を築く必要もないよな、自然堤防?などと思いながらも、当日は大袋駅に急いだ。


元荒川旧路の自然堤防
国土地理院「治水地形分類図」をもとに作成
メモの段階で件(くだん)の国土地理院。・治水地形分類図を見ると、元荒川の堤防から駅までの間に5つの自然堤防が描かれていた。また、調整池は後背湿地の南端でもあった。
現在は河川改修により直線化されている(宝永3年;1706)元荒川であるが、治水地形分類図に描かれる旧流路は駅へと左に折れた少し下流から大袋駅を取り囲むように大きく蛇行している。いくつもの自然堤防があるのは、流路定まらぬ暴れ川故のことだろうか。
国土地理院1961空中写真をもとに作成;左上が大袋
昭和31年(1961)の国土地理院・空中写真にも、自然堤防上に並ぶ民家がみえる。窪状の影の影のように見える弧は旧流路の痕跡だろうか。また、現在の衛星写真(注;Google Mapを衛星モードに切り替えてください)にも旧流路の痕跡らしきものが見える。大袋駅から元荒川にかけての宅地は、見事なくらい自然堤防の内側に密集しているのが、それ。自然堤防より元荒川側は後背湿地であり氾濫原。人が住むには適していなかったのだろう。調整池あたりに開発されている再開発地は、氾濫原を商業地とする計画であろうか。
また、幾筋もある自然堤防の多くは宅地化で明瞭な土手は散歩では見えなかったが、衛星写真には南北に続く微かな緑の帯が、密集した宅地の中に続いていた。往昔の自然堤防跡かとも思える。
河畔砂丘
自然堤防の内側には河畔砂丘がある、という。河畔砂丘は会の川古隅田川など、古利根川散歩の折に触れて出合った。利根川特有のものであり、それゆえ元荒川が古利根川の旧流路とされる所以でもあるが、宅地化が進むこの地ではこれだ、と確認することはできなかった。
袋山
因みに大袋駅はかつての大袋村から。大竹、大道、袋山村などが合併してできた村。その中で、かつて蛇行していた元荒川に囲まれた地域が袋山村。文字通り元荒川が袋の様にこの地を囲み、押し流されてきた砂が山のように積み重なった故の命名であろう。ということは、往昔の袋山村は現在と異なり、元荒川右岸にあった、ということだ。 ついでのことながら、袋山と自然堤防を境に接する恩間も、もとは押し廻し、から。元荒川が土砂を押し廻したのだろう。
これで今回の散歩のメモは終わり。次回は大袋駅から越谷へと下る。

見沼散歩の二回目。今回は見沼通船堀・八丁堤の西端からスタート。見沼代用水西縁を起点に芝川経由で見沼代用水東縁に。そこから上流・見沼公園に向かう。見沼田圃を先回とは逆方向から見れば、なんらか新たな発見が、といった心持ち。その後北向きの歩みを、どこかで適当に切り上げ、南に折り返す。歩くなり、または成り行き次第で電車に乗るなりして、最後の目的地伊奈氏の赤山代官跡に進もう、と。

赤山代官跡って、外環道路のすぐそば。一体全体、どういった雰囲気のところにあるのか、興味津々。伊奈氏は見沼溜井を作り上げた治水のスペシャリスト。玉川上水工事をはじめ、散歩の折々で顔を出す名代官の家系。先日たまたま読んだ新田二郎著『怒る富士』にも関東郡代・伊奈半左衛門が登場。宝永の大噴火で田畑を埋め尽くされた農民を救済すべく奮闘する姿が凛として美しかった。見沼散歩の仕上げとしては、伊奈氏でクロージングのが「美しかろう」とルートを決めた。

伊奈氏について、ちょっとまとめる。堀と堤は時代が異なる。先日の散歩メモの繰り返しにはなるのだが、頭の整理を再びしておく。

見沼のあたり一帯は、芝川の流れによってできた一面の沼というか低湿地。これを水田の灌漑用水として活用しようとつくったのが八丁堤。大宮台地と岩槻台地が最も接近するこの地、浦和の大間木と川口の木曽呂木の間、八丁というから、870mにわたって土手を築く。流れを堰き止め、灌漑用の溜井(たるい)としたわけだ。この工事責任者が伊奈氏。しかしながら、この溜井、灌漑用の池としては十分に機能しなかった、よう。全体に水量が乏しかったこと。また、溜井の北の地区には農業用水が供給されなかった。にもかかわらず、雨期にはそのあたりは洪水の被害に見舞われた、といった有様。見沼はこういった問題を抱えていた。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

見沼溜井を干拓し水田に変える試みがはじまる。上でメモした諸問題があったこともさることながら、それ以上に、当時水田開発が幕府の大いなる政策課題となっていた。幕府財政逼迫のためである。で、米将軍とも呼ばれた八代将軍・吉宗の命により、水田開発の切り札として吉宗の故郷・紀州から呼び出されたのが、伊沢弥惣兵衛為永。見沼溜井の干拓に着手。まず、芝川の流路を復活させる。溜井の水を抜き溜井を干拓する。ついで、灌漑用水を確保するため、用水路を建設。はるか上流、利根川から水を導く。これが見沼代用水。見沼の「代わり」とするという意味で、「見沼代」用水、と。で、代用水を西と東に分流。新田の灌漑用水路とするため、である。これが見沼代用水西縁と見沼代用水東縁。この西縁と東縁を下流で結んだ運河のことを見沼通船堀、という。目的は、代用水路を活用した船運の整備。代用水路近辺の村々と江戸を結んだ、ということだ。

本日のルート:
武蔵野線・東浦和駅 > 見沼通船堀公園 > 見沼通船堀西縁 > 八丁堤 > 附島氷川女体神社 > 芝川 > 見沼通船掘東縁 > 木曽呂富士塚 > 見沼代用水東縁 > 武蔵野線 > 浦和くらしの博物館 > 大崎公園東 > 見沼代用水縁 > 国道46号線交差 > 東沼神社 > 川口自然公園 > 武蔵野線にそって東に > 東北道 > 北川口陸橋 > 石神配水場 > 妙延寺地蔵堂 > 外環交差 > 赤山陣屋跡 > 山王社 > 源長寺 > 新井宿 


武蔵野線・東浦和駅

武蔵野線・東浦和駅下車。駅前の道を南に附島橋の方向に進む。すぐ東浦和駅前交差点。東に折れ、ゆるやかな坂道をほんの少しくだると水路にあたる。見沼代用水西縁。見沼通船堀公園の西縁でもある。公園の南縁は八丁堤の土手。土手の上には赤山街道が走る


見沼通船堀

通船堀を進む。土手道・八丁堤は堀の南に「聳える」。竹林が美しい。土手の向こうはどういった景色がひろがるのか、附島氷川女体神社に続く道筋をのぼる。赤山街道に。赤山街道、って関東郡代伊那氏が陣屋を構えた川口の赤山に向かう街道。年貢米を運んだ道筋、ってこと、か。赤山街道、とはいうものの、現在では車の行きかう普通の道路。道の南とは比高差あり。土手を築いたわけだから、あたりまえ、か。附島氷川女体神社におまいり。道路わきに、つつましく鎮座する。このあたり附島の地は先回歩いた氷川女体神社の社領があったところ。その関連で、この地に氷川女体神社が鎮座しているので、あろう。

再び通船堀に戻る。しばらく進むと、関がある。これって水位を調節し船を進めるためのもの。東西を走る代用水と中央を流れる芝川には3mもの水位差があった、ため。船が関に入る。前後を締め切る。水位を調節し、先に進む、といった段取り。ありていに言えば、パナマ運後の小型版。パナマ運河より2世紀も早くつくられた。日本最古の閘門式運河の面目躍如。こういった関が芝川に合流するまで二箇所あった。見沼代用水西縁から芝川まで654mほど。見沼通線堀西縁と呼ばれる。

芝川合流点。橋がない。一度赤山街道まで南に下り、といっても、どうという距離ではないのだが、芝川にかかる八丁橋を渡り、芝川の東側に。道に沿って進む。見沼代用水東縁まで390mほど。見沼通船堀東縁、と呼ばれる。その間に2箇所の関があった。西縁は竹林であったが、こちらは桜並木。あっという間に見沼代用水東縁に。


見沼用水東縁・富士塚

突き当たり正面に台地が聳える。なんとなく気になり、たまたま近くに佇む地元の方に尋ねる。富士塚とのこと。どんなものだろう、とちょっと寄り道。赤山街道に戻り、台地南を迂回して富士塚方面に。途中ありがたそうな蕎麦屋さん。あまり食に興味はなにのだが、なんとなく気になり立ち寄ることに。それにしても、このあたりの「木曽呂」って面白い地名。アイヌ語かなにかで、「一面の茅地」といった意味がある、とも言われる。が、定説なし。ちなみに。西縁の大間木の由来は、「牧」から。近くに大牧って地名もある。馬の放牧場があったのだろう、か。

しばし休息し富士塚に。蕎麦屋さんのすく横にあった。高さ5.4m、直径20m。「木曽呂の富士塚」と呼ばれ、国指定の重要有形民族文化財となっている。結構な高さのお山にのぼり、成り行きで見沼代用水への坂道を下る。


浦和くらしの博物館民家園

見沼用水東縁を北に。水路に沿ってしばらく進むと武蔵野線と交差。遠路を越えたあたりで水路からはなれ、「浦和くらしの博物館民家園」に寄り道。芝川と国道463号線が交差するところにある。道筋はなんとなく昔の見沼田圃の真ん中を進むといった感じ。とはいっても田圃があるわけでもなく、一面の草地。調整池をかねているようで、敷地内には入れない。フェンスにそって進む。下山口新田とか行衛(ぎょえ)といったところを進む。行衛って面白い地名。ところによっ ては、「いくえ」って読むところもあるが、ここでは「ぎょえ」。由来定かならず・

「浦和くらしの博物館民家園」に。なんらかこの地域に関する資料があるか、と訪ねたのだが、民家が保存されている公園といったものであった。先に進む。国道の北にある「グリーンセンター大崎」の東側にそって進む。園芸植物園を超えると水路にあたる。見沼代用水東縁。ここからは用水路に沿って南に戻る。 東沼神社
公園があった。大崎公園。先に進む。ちょっと大きな道を越え、どんどん進む。右手には広々とした風景。見沼田圃の風景である。どんどん進む。お寺を眺めながら湾曲する水路に沿って歩く。大きな神社。太鼓の音が聞こえる。その音に誘われ境内に。太鼓や神楽のイベントがおこなわれていた。この神社は東沼神社。結構大きなお宮様。もともとは浅間社。明治期にいくつかの神社を合祀して、東沼神社と。「とうしょう」神社と読む。


武蔵野線から女郎仏に

しばらく神楽の舞を楽しみ散歩に出発。先に進むと左手に公園。川口自然公園。その先に線路が見える。武蔵野線。赤山陣屋への道筋は、大雑把に言えば、武蔵野線に沿って東北道まで進み、その先は南に東京外環道まで下ればいけそう。武蔵野線に沿って残間の地を歩く。電車は台地の切り通しといった地形の中を進む。しばらく進む。東北道と交差する手前で南に折れる。高速道路に沿って下る。西通り橋を過ぎ、大通り橋を越え、北川口陸橋に。陸橋を渡り道路東側に。すぐ南に川筋が。見沼代用水からの水路のようだ。水路の南にはいかにも給水塔、といった建物。石神配水場であった。水路に沿って東に進み配水場を越える。南に下る車道。その道筋を進み、新町交差点に。交差点を東に折れる。少し進むと妙延寺。「女郎仏」がまつられている。昔、いきだおれになった美しい女性をこの地で供養したという。

女郎仏のそばで少々休憩。少し東に進み、すぐ南に折れる。道なりに南に進み、神根中学、神根東小学校脇に。今まで平坦だった地形がこのあたりちょっと、うねっている。学校の南には外環道の高架が見える。赤山陣屋はすぐ近く。外環道の下を南に渡り、落ち着いた住宅街を進む。新興住宅地といったものではなく、洗練された農村地帯の住宅街といった雰囲気。のんびり進むと森というか林がみえきた。地形も心持ち盛り上がっているように思える。微高台地というべきか。道筋から適当に緑地に向かう。赤山城跡に到着した。


赤山陣屋跡

赤山城跡、または赤山陣屋は代々関東郡代をつとめた伊奈氏が三代忠治から十代・忠尊までの163年間、館をかまえたところ。初代忠次は家康入府とともに伊奈町に伊奈陣屋を構えていた。当時は関東郡代という名称はなく、代官頭と呼ばれていた。関八州の天領(幕府直轄地)を治め、検地の実施、中山道その他の宿場の整備、加納備前堤といった築堤など、治水・土木・開墾等の事業に大きな功績を挙げる。常に民衆の立場にたった政治をおこない、治水はいうまでもなく、河川の改修、水田開発や産業発展に貢献。財政向上に貢献した。関東郡代と呼ばれたのは三代忠治から。関東の代官統括と河川修築などの民政に専管することとなる。治水や新田開発のほか、富士山噴火被災地の復旧などに力を尽くす。が、寛政年間、忠治から10代目にあたる忠尊の代に失脚。家臣団の内紛や相続争いなどが原因とか。

散歩のいたるところで、伊奈氏に出会った。川筋歩きが多いということもあり、ほとんどか治水、新田開発のスペシャリストとして登場する。玉川上水、利根川東遷事業、荒川の西遷事業、八丁堤・見沼溜井など枚挙にいとまなし。が、見沼散歩でちょっと混乱した。井沢弥惣兵衛である。はじめは、井沢氏って伊奈氏の配下かと思っていた。が、どうもそうではないようである。互いに治水のスペシャリスト。チェックする。

伊奈氏と伊沢氏はその自然へのアプローチに違いがあるようだ。伊奈氏は自然河川や湖沼を活用した灌漑様式をとる。伊奈流とか関東流と呼ばれる。自然に逆らわないといった手法。一方、見沼代用水をつくりあげた伊沢為永は自然をコントロールしようとする手法。堤防を築き、用水を組み上げる。紀州流と呼ばれた。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

伊奈流の新田開発の典型例としては、葛西用水がある。流路から切り離された古利根川筋を用排水路として復活させる。上流の排水を下流の用水に使う「溜井」という循環システムは関東流(備前流)のモデルである。また、洪水処理も霞堤とか乗越堤、遊水地といった、河川を溢れさすことで洪水の勢いを制御するといった思想でおこなっている。こういった「自然に優しい工法」が関東流の特徴。しかし、それゆえに問題も。なかでも洪水の被害、そして乱流地帯が多くなり、新田開発には限界があった、と。

こういった関東流の手法に対し登場したのが、井沢弥惣兵衛為永を祖とする紀州流。八代将軍吉宗は地元の紀州から井沢弥惣兵衛為を呼び出し、新田開発を下命。関東平野の開発は紀州流に取って代わる。為永は乗越提や霞提を取り払う。それまで蛇行河川を堤防などで固定し、直線化する。ために、遊水池や河川の乱流地帯はなくなり、広大な新田が生まれることに。また、見沼代用水のケースのように、溜井を干拓し、用水を通すことにより新たな水田を増やしていく。用水と排水の分離方式を採用し、見沼代用水と葛西用水をつなぎ、巨大な水のネットワークを形成している。こうした水路はまた、舟運としても利用された。

とはいえ、伊奈氏の業績・評価が揺るぐことはないだろう。大水のたびに乱流する利根川と荒川を、三代六十年におよぶ大工事で現在の流路に瀬替。氾濫地帯だった広大な土地が開拓可能になる。1598年(慶長三年)に約六十六万石だった武蔵国の総石高は、百年ほどたった元禄年間には約百十六万石に増えた、と言う。民衆の信頼も厚く、ききんや一揆の解決に尽力。その姿は上でメモした『怒る富士』に詳しい。最後には、ねたみもあったのか、幕閣の反発も生み、1792年(寛政四年)、お家騒動を理由に取りつぶされた、と。とはいえ、素敵な一族であります。
赤山城は微高台地に築かれている。周囲は低湿地であった、とか。本丸、二の丸、出丸が設けられ自然低湿地を外堀としている。陣屋全体は広大。本丸と二の丸だけで東京ドームと後楽園遊園地を合わせたほどの規模となる。郡代とはいうものの、8千石を領する大名格。家臣も300名とか400名と言うわけで、むべなるかな。城跡を歩く、北のほうは林、中ほどはちょっとした庭園風。南は畑といった雰囲気。あてもなくブラブラ歩き、東に進み山王神社に。そこから赤山陣屋を離れ源長寺に向かう。

源長寺

源長寺。城跡で案内を見ていると、伊奈氏の菩提寺となっている、と。きちんとおまいりするに、しくはなし、と歩を進める。南に下る道を進み首都高速川口線と交差。赤山交差点。東に折れ、江川運動広場を越え、東に折れ、微高地に建つ源長寺に。いまでこそ、ちょっとした堂宇ではあるが、お寺の資料を見ると、明治のころには祠があっただけ、といったもの。伊奈氏の業績を考えれば少々寂しき思い。

新井宿

台地を下り、埼玉高速鉄道・新井宿に。このあたりは日光御成道が通っていた、と。日光御成道、って鎌倉街道中道がその原型。江戸時代に日光街道の脇往還として整備された、文字通り、将軍が日光参詣のときに利用された街道である。道筋は、東大近くの本郷追分で日光街道から離れ、幸手宿(埼玉県幸手市)で再び日光街道と合流する。宿場は、岩淵宿(東京都北区) 、川口宿(埼玉県川口市) 、鳩ヶ谷宿(埼玉県鳩ヶ谷市)、大門宿(埼玉県さいたま市緑区) 、岩槻宿(埼玉県さいたま市岩槻区) 、幸手宿(埼玉県幸手市)。新井宿とは、いかにもの名前。ではあるが、日光御成道に新井宿という宿場名は見当たらない。そのうちに調べてみよう、ということで、地下鉄に乗り家路へ と。

見沼田圃を通船堀に
2009年8月の記事を移す

見沼田圃 見沼田圃を歩こうと、思った。大宮台地の下に広がる、という。大都市さいたま市のすぐ横に、それほど大きな「田圃」があるのだろうか。ちょっと想像できない。が、先日の岩槻散歩の途中、大宮から乗り換えて東部野田線で岩槻に向かう途中、緑豊かな田園風景に接したような気もする。たぶんそのあたりだろう、と、あたりをつけて大宮に向かう。 
見沼と見沼田圃。沼と田圃?相反するものである。これって、どういうこと。それと見沼代用水。代用水って何だ?沼や田圃との関係は? 見沼というのは文字通り、沼である。昔、大宮台地の下には湿地が広がっていた。芝川の流れが水源であろう。その低湿地の下流に堤を築き、灌漑用の池というか沼にした。関東郡代・伊奈氏の事績である。
堤は八丁堤という。武蔵野線・東浦和駅あたりから西に八丁というから870m程度の堤を築いた。周囲は市街地なのか、畑地なのか、堤はどの程度の規模なのだろう、など気になる。その堤によって堰き止められた灌漑用の池・沼、溜井は広大なもので、南北14キロ、周囲42キロ、面積は12平方キロ。山中湖が6平方キロだから、その倍ほどもあった、と。 
見沼田圃とは水田である。見沼の水を抜き水田としたものである。伊奈氏がつくった「見沼」ではあるが、水量が十分でなく灌漑用水としては、いまひとつ使い勝手がよくなかった。また、雨期に水があふれるなどの問題もあった。そんな折、米将軍と呼ばれる吉宗の登場。新田開発に燃える吉宗はおのれが故郷・紀州から治水スペシャリスト・伊沢弥惣兵衛為永を呼び寄せる。為永は見沼の水を抜き、用水路をつくり、沼を水田とした。方法論は古河・狭島散歩のときに出合った飯沼の干拓と同じ。まずは中央に水抜きの水路をつくる。これはもともとここを流れていた芝川の流路を復活させることにより実現。つぎに上流からの流路を沼地の左右に分け、灌漑用水路とする。この水路を見沼代用水という。見沼の「代わり」の灌漑用水、ということだ。見沼代用水は上流、行田市・利根大橋で利根川から取水し、この地まで導水する。で、左右に分けた水路のことを、見沼代用水西縁であり、見沼代用水東縁、という。上尾市瓦葺あたりで東西に分岐する。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



本日のルート:
JR 大宮駅 > けやき通り > (高鼻町) > 市立郷土資料館 > 氷川神社 > 県立博物館 > 盆栽町 > 見沼代用水西縁 > (土呂町・見沼町) > 市民の森 > 芝川 > 東武野田線 > 土呂町 > 見沼代用水西縁 > 寿能公園 > 大和田公園 > 大宮第二公園 > 鹿島橋 > 大宮第三公園 > 堀の内橋 > 稲荷橋 > 自治医大付属大宮医療センター > 大日堂 > 中川橋・芝川 > (中川) > 中山神社・中氷川神社 > 県道65号線 > 芝川 > 見沼代用水西縁 > 氷川女体神社 > 見沼氷川公園 > 見沼代用水西縁 > 新見沼大橋有料道路 > (見沼) > 芝川 > 念仏橋 > 武蔵野線 > 小松原学園運動公園 > 見沼通船掘 > JR 東浦和駅

大宮駅
散歩に出かける。埼京線で大宮下車。大宮といえば武蔵一之宮・氷川神社でしょう、ということで最初の目的地は氷川神社とする。とはいうものの、見沼関連でよく聞くキーワードに氷川女体神社がある。また八丁堤って名前は知ってはいるが、どこにあるのか、よくわかっていない。観光案内所を探す。駅の構内にあった。地図を手に入れ、それぞれの場所を確認。駅の近くに郷土資料館とか県立の博物館もあるようだ。見沼に関する資料もあろうかと、とりあえず郷土館に向かう。コースはそこで決めよう、ということにした。

郷土資料館
駅の東口に出る。道を東にすすみ「けやき通り」に。そこを北に折れる。この道筋は氷川神社の参道。中央の歩道を囲み左右に車道が走る。参道の長さも結構ある。一の鳥居からは2キロ程度ある、とか。参道をしばらく進むと道の脇、東側に図書館。市立郷土資料館はその隣にある。地下にある常設展示で見沼に関する情報を探す。見沼溜井というか、見沼たんぼの概要をまとめたコーナーがあった。さっと眺め、見沼代水路西縁とか、芝川とか、見沼代水路東縁、氷川女体神社、八丁堤・見沼通船堀、といったキーワードと場所を頭に入れる。また、展示してあった見沼の地図で、見沼の範囲を確認。形は「ウサギの顔と耳」といった形状。八丁堤のあたりでせき止められた溜井が「ウサギの顔」。西の大宮台地と東の岩槻台地、そしてその間に岩槻台地から樹皮状に伸びた台地によって左右に分けられた溜井の端が「ウサギの耳」。西は新幹線の少し北まで、東は東部野田線の北あたりまで延びている。
郷土資料館であたらしい情報入手。見沼を左右にわける大和田の台地にある「中川神社」がそれ。氷川神社と氷川女体神社とともに「氷川トリオ」を形成している。氷川神社が上氷川、中川神社が中氷川、氷川女体神社が下氷川。一直線に並んでいる、ということである。見沼に面して、氷川神社が「男体宮」、氷川女体が「女体宮」、そして中間の中川神社が「簸王子(ひのおうじ)宮」として、三社で一体となって氷川神社を形つくっていた、とか。簸王子社は大己貴命(大国主神)、男体社はその父の素戔鳴命、女体社には母の稲田姫命を祀る、って按配だ。で、いつだったか、狭山を散歩しているとき、所沢・下山口の地で、中氷川神社に出会った。その時チェックした限りでは、奥多摩の地に奥氷川神社があり、これもトリオとして、一直線に並び、奥多摩は「奥つ神」、所沢は「中つ神」、そして大宮は「前つ神」として氷川神社フォーメーションを形つくっていた、と。

 氷川神社
氷川神社
郷土資料館を後に、氷川神社に。武蔵一之宮にふさわしい堂々とした構え。氷川神社については折にふれてメモしているのだが簡単におさらい;氷川神社は出雲族の神様。出雲の斐川が名前の由来。武蔵の地に勢を張った出雲族の心の支えだったのだろう。昔、といっても大化の改新以前、この武蔵の地の豪族・国造(くにのみやつこ)の大半が出雲系であった、とか。うろ覚えだが、22の国のうち9カ国が出雲系であった、と。
その出雲族も、大化の改新を経て、大和朝廷がこの武蔵の地にも覇権を及ぼすに至り、次第にその勢力下に組み入れられて、いく。行田の散歩で出会った「さきたま古墳群」の主、中央朝廷の意を汲む笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が、先住の豪族小杵と小熊を抑えたのがその典型例であろう。小杵は朝廷から使わされた暗殺者によって「誅」された、と。
ともあれ、政治的にはその勢力を奪い取った大和朝廷ではあるが、さすがに出雲族の宗教心まで奪うことはできなかったようだ。利根川以西に広がる出雲系神社の数の多さをみてもそのことがわかる。 氷川神社は武蔵一之宮、と。が、多摩の聖蹟桜ヶ丘にある小野神社も武蔵一之宮と称する。武蔵国に二つも一之宮があるって、どういうことであろう。チェックした。
一之宮って正式なものではない。好き勝手に、「われこそ一ノ宮」と、称してもいい、ということ。もちろん、おのずと納得感が必要なわけで、いまはやりの、それらしき「説明責任」がなければならない。氷川神社は大宮の地に覇を唱えた出雲系氏族が、「ここが一番」と称したのだろう。また小野神社は府中に設けられた国府につとめる役人たちによって、「ここが一番」と主張されたのかも知れない。小野神社は武蔵守として赴任した小野氏の関係した神社であるので、当然といえば当然。また、先住の出雲系なにするものぞ、といった気持もあったのかしれない。  (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



県立博物館
次の目的地は県立博物館。境内を北に進む。それにしても池が多い。湧水なのだろう、か。台地の上にあるだけに、水源が気になる。池に沿って進むと県立歴史と民俗の博物館。見沼の情報をさっと眺め休憩をとりながら、先の計画を練る。いままで得た情報から、出来る限り見沼の上流からスタートする。さすがに最上端・上尾まで行くわけにはいかない。新幹線ならぬ、JR宇都宮線近くの市民の森・見沼グリーンセンターに向かう。そこから芝川に沿って下り、岩槻台地の樹枝台地先端にある中山神社に。そのあと見沼に下り、今度は大宮台地の先端にある氷川女体神社に。そのあとは見沼田圃を南にくだり、八丁堤に進む、という段取りとした。


盆栽町
県立博物館を離れる。すぐ北に東武野田線・大宮公園駅。北に抜けると盆栽町。西には植竹町。盆栽との関連は、とチェック。大正末期、当時土呂村であったこの地に盆栽業者が移り住んだ。昭和15年に旧大宮市に編入される際、「盆栽町」とした。盆栽町から土呂町に進む。台地をくだる。土呂町というか見沼地区にある市民の森に。すぐ手前に水路。チェックすると「見沼代用水西縁」。水路に沿って下りたい、とは思えども、とりあえず当初の予定どおり、芝川に進むことにする。市民の森を過ぎるとすぐに芝川。

芝川
芝川の土手を南に下る。周りは水田、というより畑。西にちょっとした台地。東に大宮の台地。その間を芝川は流れる。博物館で見た資料によれば、八丁堤で堰き止められた溜井の水は、このあたりの少し上流、JR宇都宮線の少し上あたりまできていたようだ。芝川に沿って下る。東武野田線と交差。あら?道がない。川の西側の道は車道であり、交差している。が、こちらは行き止まり。線路に沿って西に戻る。結構長い。が、仕方なし。少し進むと見沼代用水西縁。その先に踏み切りがあった。

見沼代用水西縁
見沼代用水西縁
踏み切りを渡り、東に戻ると見沼代用水西縁。芝川まで戻るのをやめ、この水路を下ることにする。水路脇は遊歩道として整備されている。少し下ると水路東に大和田公園、市営球場、調整池、大宮第二公園が広がる。水路西は寿能町。西に坂をのぼった大宮北中学のあたりに寿能城。そして見沼を隔てた大和田の台地には伊達城(大和田陣屋)があった。これらの城は、川越夜戦により北条方に落ちた川越城への押さえとして築かれたもの。寿能城には潮田出羽守資忠。軍事的天才と称された太田三楽斉資正(道潅の子孫)の四男。伊達城主は太田家家老、伊達与兵衛房が守る。これらの城は、岩槻の太田三楽斉資正、とともに、軍事拠点をつくっていた、と。
photo by Uhock

中山神社・中氷川神社
鹿島橋に。ここからは水路の東は大宮第三公園となる。白山橋、堀の内橋、稲荷橋と進む。水路東に自治医大・大宮医療センター。芝川小学校を超え朝日橋に。水路を離れる。見沼を隔てた東の台地にある中川神社に向かう。東に折れ芝川にかかる中川橋に。中川橋で芝川を渡り、中川地区を進み中山神社に。中氷川神社と呼ばれた中川の鎮守。中山神社となったのは明治になってから。中氷川の由来は、先にメモしたように、見沼に面した高鼻(大宮氷川神社)、三室(氷川女体神社;浦和:現在の緑区)、そしてこの中川の地に氷川社があり、各々、男体宮、女体宮、簸王子宮を祀っていた。で、この神社が大宮氷川神社、氷川女体神社の中間に位置したところから中氷川、と。 この神社の祭礼である鎮火祭りは良く知られている。この地区の中川の名前は、この鎮火祭りの火によって、中氷川の「氷」が溶けて「中川」になった、とか。本当であれば、洒落ている。

さきほどのメモで見沼の格好が「うさぎの頭:顔と耳」と書いたが、正確には、この中山神社あたりまで延びている沼がある。大きい耳の間に、ちょっとおおきな角が生えてる、って格好。こうなれば兎ではないし、どちらかといえば、鹿の角というべきであろうが、ともあれ、沼が三つにわかれている格好。三つの沼があったので「みぬま>見沼」って説もある。真偽の程定かならず。

氷川女体神社
氷川女体神社
次の目的地、氷川女体神社に向かう。県道65号線を下る。西には第二産業道路が走る。芝川の手前に首都高埼玉新都新線の入口があるよう、だ。芝川にかかる大道橋を渡るとすぐ見沼用水西縁にあたる。ここからは見沼用水西縁に沿って進む。北宿橋を越え、ここまで東に向かっていた水路が、大きく湾曲し、南に向かうところに氷川女体神社がある。 氷川女体神社。神社のある台地に登る。あれこれの資料や書籍に、「見沼を見下ろす台地先端にある」と表現されているこの神社の雰囲気を実感する。確かに前に一面に広がる沼に乗り出す先端部って雰囲気。しばし休息し、先に進む。これから先が見沼田圃の中心地(?)。敢えて兎というか、鹿で例えれば、「顔」の部分、ということか。


見沼田圃
芝川
氷川女体神社の前にある見沼氷川公園をぶらっと歩き、その後は見沼用水西縁を離れて、芝川に向かう。本日は予定に反してほとんど芝川脇を歩いていないので、なんとなく締めは芝川にしよう、と思った次第。成行きで東に進み芝川に。それほどきちんと整地されてはいない。土手を進む。周囲を眺める。「田圃」というより、畑地。低湿地であった雰囲気は残っている。見沼田圃を思い描きながら、しばらく下ると新見沼大橋有料道路と交差。下をくぐり進む。見沼地区を経て念仏橋を越え、大牧、蓮見新田、大間木を過ぎると武蔵野線と交差。

武蔵野線・東浦和駅
線路を過ぎると芝川を離れて西に向かう。小松原学園運動場の脇を南に下ると見沼通船堀公園。結構高い堤が前方に「聳える」。じっくりと歩いてみたい。が、残念ながら日が暮れてきた。通船のための水路もぼんやりと見える、といった按配。次回再度歩くことにして本日はこれで終了。公園近くの武蔵野線・東浦和に向い、一路家路を急ぐ。
昨年に沢登りデビューした娘の旦那に、崖を降りるテクニックである8環を使った懸垂下降や、基本的なロープの結び方のトレーニングでもをしようかと適当な沢を探す。10mクラスの滝があり、きりのいい所に滝があり、そこまでの遡行時間が短い沢はないものかと、あれこれチェック。
で、選んだのが秋川水系・熊倉沢左俣東沢。通常であれば、源頭部まで登り、熊倉山へと這い上がり、笹尾根・浅間峠をたどり上川乗バス停まで下るか、笹尾根の途中から熊倉沢左俣西沢に降りて沢を下降して東沢合流点付近に戻るようだが、今回は懸垂下降・崖下りのトレーニング。尾根に這い上がる奥の二股手前で沢を引き返すことにした。
トレーニングにお付き合い願うのもなんだかなあ、とは思いながら沢仲間に連絡するとベテランのTさんと、8環を使った懸垂下降をこの夏にマスターしたいとのS嬢も参加してくれるとのこと。数年前、その名に惹かれ娘と沢上りを楽しんだ月夜見川以来の秋川筋の沢に4人のパーティで出かけることにした。



本日のルート;五日市線・武蔵五日市駅>南郷バス停>矢沢林道>落合橋>熊倉沢林道>>熊倉沢右俣・左俣分岐点>作業道>入渓点(作業道3番目の木橋)
往路
東沢・西沢出合い>4m滝>2段2m滝>2段?m滝>5m滝
復路
5m滝>2段?m滝>東沢・西沢出合い>西沢・作業道4番目の木橋>作業道>熊倉沢林道>落合橋>矢沢林道>南郷バス停


武蔵五日市駅発;9時

集合場所はJR五日市線の終点・武蔵五日市駅。熊倉沢左俣東沢の最寄りのバス停・南郷は数馬行のバスに乗る。時刻標をチェックすると8時代はなく、午前9時、その次は10時35分。9時発のバスに乗る予定とし、8時50分バス停集合とする。 ホリデー快速が8時48分に着く(2018年9月休日時刻表)

南郷バス停;9時32分着
武蔵五日市駅から30分強走り、南秋川筋の南郷バス停に到着。乗客は数馬行が大半のよう。この駅で降りたのは我々のパーティだけであった。

矢沢林道
バス停から南に下る坂道があり、そこを下り切ると、南郷バス停手前で都道33号から分かれ南秋川に沿って進む矢沢林道に当たる。林道は直ぐに南秋川に架かる橋を渡り、南秋川に注ぐ矢沢に沿って南に進む。

落合橋で熊倉沢林道に入る;9時40分
矢沢林道を10分強歩くと落合橋がある。その名の通り、この地が矢沢と熊倉沢の落ち合うところ。矢沢林道は落合橋を渡り道なりに進むが、熊倉沢林道は橋の手前で右に折れる。
矢沢林道方面も「工事用作業出入口」「作業中」の立て看板と車止めのA型バリケード、また熊倉沢林道も「民有地林道」であるとの案内とともに、A型バリケードで車止めとなっている。A型バリケードの脇を熊倉沢林道に入る。




熊倉沢林道の熊倉沢右俣・左俣分岐点;10時10分
熊倉沢に沿って大よそ30分ほど歩くと熊倉沢右俣と左俣の分岐点に。道の左手に作業道に入る踏み跡がある。立ち木にも赤いリボンが括られている。またその先、熊倉沢の右岸に渡る木橋も見える。この踏み跡から作業道に入る。

作業道3番目の木橋:10時20分
作業道を沢に下りるとすぐに最初の木橋がある。熊倉沢右俣からの流れを跨ぎ熊倉沢左俣の右岸に渡る。橋を渡るとほどなく熊倉沢左俣に架かる木橋があり右岸渡る。熊倉沢林道から見えて木橋がこれだろう。木橋は雨の翌日でもあり滑りやすく、慎重に歩を進める。

右岸に渡った仕事道を10分弱歩くと3番目の木橋が現れ、熊倉沢左俣の左岸に渡ることになる。木橋を渡った先は山に向かって少し上り坂となっている。沢から離れる?ガイドブックには四番目の橋が入渓の目安として記されているのだが、この3番目の橋は中程にある岩を境に二つに分かれている。そこが4番目の橋?少々混乱。結局この3番目の橋から入渓することにした。
補足;復路、熊倉沢左俣西沢に少し入ってみたが、そこに4番目の橋があった。3番目の橋を渡り坂道を少し登ったところである。 入渓は3番目でも4番目でも構わない。3番目から入れば熊倉沢左俣東沢に直接入り、4番目から入れば熊倉沢左俣西沢に入り西沢・東沢出合いに少し下り熊倉沢左俣東沢に入ることになる。

入渓;10時40分
3番目の橋から沢に入り、スペースを見付けて入渓準備。スペースがあまりなく、入渓準備は、熊倉沢林道の熊倉沢右俣・左俣分岐点から作業道に入る辺りでするのがいいかと思う。特に雨の後など、木橋が滑り結構危ない。復路は作業道から熊倉沢林道に戻り終えて着替えをしたのだが、沢靴は木橋で滑ることもなく安全に渡れた。 のんびりと準備し10時40分頃入渓する。

東沢・西沢出合い;10時43分
滑っぽい沢を少し進むと右手から熊倉沢左俣西沢が合流する。東沢・西沢出合いを少し西沢に入ったところに2mの小滝も垣間見える。
今回は熊倉沢左俣東沢を登ったが、直前まで熊倉沢左俣西沢にしようか、熊倉沢左俣東沢にしようか少々迷っていた。東沢には2段?mや5m滝があり、懸垂下降の練習にはいいと思うのだが、支柱になる適当な木があるかな?そもそも、初回から10m級崖の下降トレーニングって如何なものか?などとあれこれ思い、小滝の多い熊倉沢左俣西沢からはじめ、適当なところで折り返し熊倉沢左俣東沢に入るのはどうかな?などと思った次第。 結局は、その場の成り行きで困難度の高そうな熊倉沢左俣東沢に決め、出合いを熊倉沢左俣東沢へとルートをとる。

4m滝;10時46分
出合いのすぐ先に4m滝がある。傾斜もそれほど急でもなく、また岩場に適当なホールドがあり、水線直登もできそうだが、当日は少し気温が低かったこともあり左岸側の滝端を這い上がった。


2段2m滝;10時55分
10分ほど歩くと滑状の小滝に出合う。長さは4mほどはあるだろう。ガイドブックにある2段2mの滝かもしれない。この辺りの渓相は美しい。ガイドブックでチェックする段階では渓相は倒木の多い、ちょっと荒れたイメージであったのだが、予想に反して美しい沢であった。

2段15滝;11時5分
2段2m滝から10分、今回の核心部である2段?m滝が現れる。娘の旦那が水線中央突破を試みるが、途中で適当なホールドがなくフリーズ。下ることは危険のためそのまま待機指示。





Tさんが滝の右側端に取り付き1段目の滝をクリア。セルフビレイで自身の安全を確保した後、ロープを下し娘の旦那のハーネス・カラビナと結び、娘の旦那は滝を上り切った。 私は雨の翌日で、ズブズブの右岸を高巻きし滝上に。S嬢にはロープを下し安全確保しズブズブの右岸を上ってもらった。
ここで結構時間をとり全員が滝上に揃ったのは10時35分を過ぎていた。

5m滝;11時45分
ついで本日の最終ポイントとした5mの滝。滝の左手の岩場は急ではあるが、適当なホールドがあり、岩場を這い上がることができた。S嬢には安全確保のロープを結び、岩場を上ってもらった。
上りはここまで。少し休憩し、懸垂下降の練習をしながら、今来たルートを下降することにする。



下降

5m滝を懸垂下降;12時10分‐12時30分
5m滝を懸垂下降で下りる。全員がハーネス、8環、カラビナを装備済み。ロープはTさんの8㎜ x 30mを使うことに。理由は娘の旦那のガタイがよく、私の6㎜ x 10m 二本繋ぎでは少々こころもとないことと、崖の長さ。





滝自体は5mなのだが、滝上に支柱になる立木がなく、滝の左手上にある立木にロープを回すと、滝の右岸に屹立する崖下まで?mのロープで丁度くらいの長さになった。 立木に結んだスリングとハーネスをカラビナで結び、セルフビレイで自身の安全確保をし、8環にロープを通し、崖下に落としたロープを右手で軽く握り、セルフビレイのスリングを外すように指示。
右手のロープは絶対離さないこと、ロープを引っ張っておればテンション・フリクションがかかり止まり、緩めると下降する、という基本を教え即本番に。
最初に私が下り、懸垂下降はじめてのふたりが続き、最後にTさんが下りた。はじめてのふたりは、最初体を崖から離すときは少し不安そうな腰つきが下から見て取れたが、特に怖がることもなく、軽々と下りてきた。






2段15m滝の懸垂下降;12時45分‐12時55分
こちらの滝も同じく滝上に適当な立木がない。唯一滝の落ち口に大きめの岩があり、その岩の底部にロープを回せば滝の水線を下りることはできそうだが、それもなんとなく心もとない。


結局滝の左岸を高巻した、雨水を含みズブズブの急斜面の上に適当な立木があり、そこを支柱に懸垂下降で下りることにした。ロープの長さが心配だったが、?mでギリギリ崖下まで届き、2段階に分けることなく一回で下り切ることができた。 5m滝の懸垂下降が10m以上の垂直な崖を下りることになったため、急斜面ではあるが所詮斜面ということで、懸垂下降はじめてのふたりも軽く舞い降りた。



東沢・西沢出合い;13時40分
2段?m滝を下り、1時頃遅めの昼食。武蔵五日市行のバスは南郷バス停を15時11分に出る。時間はゆったりある。
のんびり休憩し、足元に気をつけながら小滝を下りて東沢・西沢出合いに。西沢に2m滝が見える。結構美しい。滑状に流れる小滝を上る。



作業道の4番目の木橋;13時45分
西沢の小滝を登った先に木橋が見える。これがガイドブックにあった前述4番目の木橋であろう。先には3段の小滝もあるようで、少々惹かれるが、先回の川乗水系逆川の沢登りで私が足を引っ張りバスに乗り遅れるという為体(ていたらく)であったこともあり、木橋から作業道を熊倉沢林道に戻ることにした。

熊倉沢林道;14時
作業道を戻り熊倉沢林道の熊倉沢右俣・左俣分岐点に戻る。右俣に沿って続く林道を少し上り、適当な場所をみつけ着替えを済ませ熊倉沢林道を戻る。

落合橋;14時34分
矢沢との合流点である落合橋に。往路は気づかなかったのだが、沢は落合橋の下流でも結構美しい渓相をしていた。

南郷バス停;14時45分
15時前に南郷バス停に到着。15時11分発のバスを、余裕をもって迎え武蔵五日市駅に戻り本日の散歩を終える。

熊倉沢左俣東沢の所感

●標準的なルートは、源流まで登り、熊倉山へと這い上がり、笹尾根・浅間峠をたどり上川乗バス停まで下る。
●バリエーションルートとして、笹尾根の途中から熊倉沢左俣西沢に降りて沢を下降して東沢合流点付近に戻る。
●今回は懸垂下降の練習ということで、尾根に這い上がることなく奥の二俣手前の5m滝をピストンで上り・下りした。
●入渓から5m滝までの遡行時間が1時間ほど。適当な距離・時間である。 ●5m滝は適当な立木がなく滝の水線を下りることはできず、10m級の崖を懸垂下降することになる。懸垂下降の練習には丁度いいかもしれない。
●また2段?m滝も滝上に適当な立木がなく、これは崖ではないが急な斜面を懸垂下降で下りることになる。上記5m滝の垂直な崖の懸垂下降が負担に感じる人には、こちらの斜面で懸垂下降の練習ができる。
●只、斜面の長さが10m ほどあり、今回は仲間が30mのロープを持っていたので一気に下りることができたが、その長さのロープを持たない場合は、中間点の「踊り場」に下り、次いで川床へといった2段階で下りることになるだろう。
●懸垂下降や滝上りのトレーニングの沢としては時間もちょうどいい。
●2段?mも5m滝も滝を上れなければ巻くことができる。
●渓相は予想ではあまり期待していなかったのだが、結構美しい沢であった(奥の二俣より先は少し荒れているようではある)。
●今回は懸垂下降の練習が目的であったので途中で引き返したが、いつか源流まで登り、熊倉山へと這い上がり、笹尾根の途中から熊倉沢左俣西沢に降りて沢を下降して東沢合流点付近に戻る、という標準&バリエーション組み合わせルートを辿ってみたいと思う。
利根川東遷事業以前の旧利根川の流路を辿る散歩も、会の川からはじめ大落古利根川筋を南埼玉郡宮代町の姫宮まで下った。今回は姫宮から少し下ったところで大落古利根川筋から離れ、往昔利根川の主流であったと言われる古隅田川筋らしき水路を辿り元荒川へと歩く。
さて散歩のメモを、という段になったのだが、先回の散歩から少々時間が過ぎてしまい、ここに至る旧利根川流路の記憶も曖昧になってしまった。記憶を呼び起こすため、ちょっと整理;

利根川東遷事業以前の旧利根川流路を辿る散歩は、往昔の利根川主流であった会の川筋()、浅間川筋からはじめ、このふたつの旧利根川主流が合わさる旧川口溜井のあった川口分水工(加須市川口)に進んだ。
その地で旧利根川筋の主流はふたつに分かれる。ひとつは旧渡良瀬川筋とも称され、東へと流れる現在の中川筋。この流路は結構昔になるが既に歩いていたこともあり、今回は南に下るもうひとつの旧利根川筋、現在の葛西用水に乗り換え、東に大きく弧を描く葛西用水の流路を辿り琵琶溜井を経て青毛堀川との合流点へと歩いた。その合流点は葛西用水の流路の一部に組み込まれた大落古利根川の起点でもあった。
大落古利根川はその名の示す如く、源頭部を締め切られた当初は低湿地の内水や農業用水の悪水落しであったのだろう。利根川東遷事業でその流れを締め切られ、水源を絶たれ泥川となった旧利根川の流路は、大河であったが故に深く刻まれ、その川床の水位は低く、流域の悪水落としとして使い勝手がよかったのだろう。
その悪水落しとしての旧利根川筋は、新田開発のために開削された葛西用水の一部に組み込まれることにより本格的に農業「用水路」となる。また、旧利根川筋の主流のひとつである旧渡良瀬川筋の河川を繋ぎ地域一帯の農業用水路として開削された人工河川・中川の「排水」落としとして整備されることになる。地域一帯のさまざまな用排水路を合せることになった旧利根川筋を「大落古」と冠する所以でもあろう。
先回は、この葛西用水の流路の一部に組み込まれた大落古利根川の起点から南埼玉郡宮代町の姫宮まで下ったわけである。

頭の整理はこのくらいにして、話を戻す。
今回の散歩では大落古利根川を離れ、往昔の利根川の主流であったとされる古隅田川筋へと乗り換え、西に進み元荒川筋へと進んだ。古隅田川筋が主流と言うことは、この地より下流は枝流であったということだろう。
地図を見ると、現在ではこの地より下流の大落古利根川は堂々とした本流となっている。その因について、未だちゃんと調べたわけではないが、万治3年(1660)から1760年代にかけて実施された葛西用水の送水路として整備されていったのではあろうが、本格的な河川改修は上述した中川の排水落整備事業と平行して、大正7年(1918)から昭和3年(1928)が行われたのではないだろうか。
上流部で島川・庄内古川筋を繋ぎ、農業用水水路として開削された中川の排水は当初江戸川に落とされていた。が、水はけが悪く、結果江戸川より2mも水位が低かったと言われる大落古利根川に水を落とすべく、松伏町大川戸から下赤岩までの37キロを堀り抜き、大落古利根川と繋いだとのことである。大正7年(1918)の頃と言う。

現在の古隅田川は大落古利根川に注いでいる。往昔の流路は大落古利根川から元荒川筋へと流れていた、という。源頭部を締め切られ、水位の低くなった大落古利根川に古隅田川流域一帯の水が逆流したのだろうか。
元荒川も利根川の西遷事業で瀬替えが行われ、当然水位が下がっただろうし、何故元荒川ではなく大落古利根川へと逆流したのだろう。これもきちんと調べたわけではないが、元荒川の締切は1629年、利根川の締切である会の川の締切は1594年。このタイムラグがその一因でもあろうか。

それはともあれ、この古隅田川はいつだったか岩槻散歩で偶然出合った。業平橋などもあり、有名な在原業平の都鳥云々の歌詠み地として、墨田区の業平橋と本家はどちら、の論争があるようだ。

それはそれとして、当日は特段の事前準備もなく、とりあえず成り行きで辿った川筋が、メモの段階で「古隅田川」筋ではなく、「旧古隅田川」と称される川筋であったり、川筋に沿って残る緑の帯は自然堤防だろうとは思ったのだが、対岸にも残ると言う自然堤防については、当日は知る由もなく、その両岸幅からして往昔の古隅田川が現在の細流では想像できないくらいの大河であったことを実感することなく散歩を終えた。常のことではあるが、後の祭りの想いの大きい散歩となってしまった。


本日のルート;東武伊勢崎線・姫宮駅>大落古利根川に>隼人堀川>古隅田川・大落古利根川合流点>十文橋>女体神社>国道16号・隅田橋(古隅田橋とも)>豊春用水(黒沼用水)が左岸から合流>古隅田川緑道・古隅田川の旧流路>城殿宮(きどのみや)橋>古隅田公園>上院落が合流>古隅田川公園にやじま橋>古隅田川・旧古隅田川合流点>「旧古隅田川」バス停>業平橋>香取神社>旧古隅田川と古隅田川・西流水路筋との分岐点>大光寺堤>南平野排水機場と南平野調整池>国道16号西に増野川用水>大堀池・小池>元荒川に

東武伊勢崎線・姫宮駅
先回のゴール東武伊勢崎線・姫宮駅に向かう。先回は葛西用水・大落古利根川管理起点から大落古利根川下り、姫宮駅の東から「笠原沼落」の流路に沿って姫宮の駅に戻った。
で、地図を見ると、駅の西側に水路が見える。これって何?チェックすると、この水路は笠原沼用水の支流・百間(もんま)用水の末であり、姫宮駅近くで笠原沼落に合わさるとのことである。合流部分は暗渠となっているのか地図では確認できない。
百間用水(もんまようすい)
姫宮駅付近の百間用水
百間用水(もんまようすい)は、埼玉県白岡市、宮代町を流れる江戸時代中期に開削された灌漑農業用水路である。 かつては笠原南側用水とも呼ばれていた。百間用水は笠原沼用水の支線用水路である。笠原沼用水から宮代町西粂原地区にある中須百間分水堰で中須用水と分水し、姫宮駅付近で笠原沼落右岸に至る用水路である。(中略)主にかつての笠原沼や姫宮落川の南側地域(旧百間村)を灌漑している。流域は主に水田地域で、末端区間は住宅地となっている。水幅は中須用水より広い」とある。
笠原沼用水と笠原沼落
でこの百間(もんま)用水と中須用水を分ける笠原沼用水と、先回の散歩で出合った上述、笠原沼落とは文字面は似ているが別ものである。

中島用水分水工
除堀調節堰

Wikipediaによれば笠原沼用水とは「1728年(享保13年)に開削された中島用水の支線用水路である。中島用水(黒沼笠原用水)として見沼代用水から分水し(私注;中島分水工)、久喜市江面地区にて黒沼用水と笠原沼用水とに分水(私注;除堀分水工)し南東方向へ流下する。途中庄兵衛堀川、姫宮落川、備前堀川の3つの河川が交差し、姫宮落川は架け樋、庄兵衛堀川・備前堀川は伏せ越ししている。宮代町西粂原地区にある中須百間分水堰で中須用水と百間用水とに分水し、終点となる。笠原沼用水は久喜市内においては笠原用水(かさはらようすい)と称される」とある。
笠原沼落
Wikipediaに拠れば、「この笠原沼落は江戸中期に井沢弥惣兵衛為永が中心となり笠原沼を掘り上げ田形式にて新田開発した際、沼の中央部からの排水のために開削・整備された排水路である。
笠原沼落[川端橋)
このため、起点付近の流路はかつての笠原沼のおおよそ中央部を横断するような流路となっている。今日においては起点付近では東武動物公園の園内を流下し、園内に所在している多くの池とも接続する。新しい村や宮代町立図書館周辺付近より下流から東武伊勢崎線橋梁付近までの流域周辺は水田などの農地となっており、東武伊勢崎線橋梁より下流域の流域周辺は一部農地などもみられるが、主に宅地などの市街地となっている」とある。

笠原沼落は、白岡市爪田ヶ谷の水田などの農地(かつての笠原沼の西部)からの農業排水を集めながら東北東へ流下し、東武動物公園内を蛇行しながら進み、東武動物公園を出ると姫宮落川の南側に並行し流下。東武伊勢崎線を越えるとS字に弧を描き、姫宮駅前を進み大落古利根川に合流する。
昔は、笠原沼の水を抜くため姫宮落に繋がれたこともあったようだが、水捌けが悪く享保14年(1729)には排水先を大落堀に付け替えたようである。
中須用水
Wikipediaに拠れば、「中須用水(なかすようすい)は、埼玉県南埼玉郡宮代町を流れる灌漑農業用水路である。かつては笠原北側用水とも呼ばれていた。
中須百間分水堰
中須用水は笠原沼用水の支線用水路である。笠原沼用水から宮代町西粂原地区にある中須百間分水堰で百間用水と分水し、姫宮落川の左岸沿いを流れ、宮代町川端地区で姫宮落川左岸に合流する(私注;宮原町道佛で姫宮落川左岸に合流する箇所までしか確認できない)用水路である。笠原沼の干拓に際して用水を供給するために開削された用水路で、主にかつての笠原沼や姫宮落川の北側地域(旧百間中島村・須賀村・蓮谷村)を灌漑している。 流域は主に水田地域で、東武動物公園駅付近は住宅地となっている。水幅は自転車1台分ほどで非常に狭い。また、用水路沿いに桜が植栽され、水と緑のふれあいロード(遊歩道)が整備されている。

大落古利根川に
大落古利根川と笠原沼落合流点
大落古利根川
先回歩いた「笠原沼落」の流路に沿って南東に進み、川端4丁目交差点で県道85号に乗り換える。少し県道に沿って進み成り行きで左に折れて大落古利根川に出る。
川に沿って道は無く、一度県道に戻り、成り行きで川筋の道に入る。

隼人堀川
大落古利根川に沿って少し下ると水路が大落古利根川に注ぐ。「隼人堀川(はやとほりかわ)」である。
隼人堀川と大落古利根川合流点
隼人堀川
Wikipediaに拠れば、「隼人堀川(はやとほりかわ)は、埼玉県北東部を流れる河川である。1594年(文禄3年)に利根川の本流であった会の川を仕切り流路が変更されたため、利根川から分流する日川の水量が減少した。これに伴い後背湿地を開発する事が可能になり備前堀、庄兵衛堀、姫宮堀、三ヶ村落堀などと共に農業排水路として開削された。また、上流部は1728年(享保十三年)に井澤弥惣兵衛為永による「栢間(かやま)沼の干拓の際に排水路として開削された。
以前は庄兵衛堀川の合流地点より下流を隼人堀川、上流側を栢間堀と呼んでいたが、現在は河川行政上、管理起点より下流を通して隼人堀川と呼ばれている。1919年(大正8年)から野通川伏越から下流にかけての河川改修工事が行なわれ、1930年(昭和5年)に完成している。
三十六間樋管
久喜市菖蒲区域より流下する農業排水路の栢間堀川(中落堀)が三十六間樋管(昭和初期竣工)を流れ、野通川・埼玉県道5号さいたま菖蒲線・見沼代用水の下部を横断し、白岡市柴山の三十六間樋管の吐口が隼人堀川の管理起点となる。主として水田地域の中を流れ、白岡市・宮代町・春日部市を流下し大落古利根川へと至る。途中、白岡市篠津地区にて星川と交差する箇所を伏越している。
栢間堀(かやまほり)
栢間堀(かやまほり)は、埼玉県久喜市菖蒲区域を流れる河川であり、庄兵衛堀川の合流地点より上流を指す(下流は隼人堀川)。中落堀(なかおとしぼり)とも称される。行政上は隼人堀川の一部である。
弁天沼
かつて、現在の流路周辺に存在していた栢間沼において新田開発をする際、井沢弥惣兵衛為永により1728年(享保13年)に栢間堀(中落堀)とし、この一帯に開発した掘り上げ田からの排水路として整備された。このため、流路はおおよそかつての栢間沼の中央部を流下している。また今日の栢間沼は栢間堀川の調節池としての機能も果たしている。現在、流域周辺はほぼ全域水田などの農地の中を流下する。流末は隼人堀川へと至り終点となる。
この川は隼人堀川の庄兵衛堀川との合流地点までの流路においても栢間堀川と称されていた」とある。

地図をチェックすると、隼人堀川が東北道を越えた西に庄兵衛堀川との合流点が見える。上流へと辿ると、流路は西へと方向を変え伏せ越しでクロスする黒沼用水を越え、その西で今度は隼人堀川が伏せ越しで星川を潜る。
水路は更に西に延び、柴山沼の北を進み圏央道手前で見沼代用水、野通川を伏せ越で潜る。伏せ越しで見沼代用水を越えて開渠となった部分が、上述三十六間樋管の吐口であり、隼人堀川の管理起点となっている。
水路は圏央道に沿って続き、上述の栢間沼の南東端を進んだ先で北西に折れ、県道12号を越えた先の弁天沼に至る。この弁天沼が栢間堀(かやまほり)の源流点とされる。
かつての栢間沼は菖蒲町下栢間から小林(おばやし)をカバーとのことであり、現在の栢間沼とは比較にならないほど大きな沼ではあったのだろう。 同じく現在の柴山沼もかつては下大崎~荒井新田にあった沼地・皿沼の周囲を干拓された名残ではないだろうか。
日川
羽生市砂山で会の川と分かれた日川は加須市、久喜市、白岡市と下り蓮田市とさいたま市岩槻区の境界の蓮田市笹山で元荒川に合流していたようである。結構長い流路だが、現在は明瞭な水路跡は残っておらず、その大雑把な流路は、後世開削された古川落、見沼代用水、新川用水(騎西領用水)と進み白岡市の中心を南に下り、元荒川に合流したようだ。
白岡市内の流路ははっきりしないが、現在白岡市内を流れる一級河川の備前堀川・姫宮落川・庄兵衛堀川・隼人堀川・野通川、普通河川の高岩落川・三ケ村落堀などは東遷事業により低湿地化した日川跡を新田とするため開削された排水路とのことである。

古隅田川・大落古利根川合流点
隼人堀川を越える。川に沿って道は無く、少しの間県道85号を進み小淵橋の袂から川沿いを進み春日部大橋を越え、成り行きで川沿いに入り、少々草深い堤防を進み古隅田川・大落古利根川合流点に到着する。
古隅田川は大落古利根川に南東方向に向かって合流する。現在古隅田川の水は大落古利根川に注ぐわけで、この「出口形状」に違和感はないのだが、往昔古隅田川が大落古利根川から元荒川へと流れた時の「入り口形状」としては少々違和感がある。いつの時か現在の「形」に開削されたのだろう。
現在の古隅田川の流れ
地図を辿って現在の古隅田川の流路をチェックする。蓮田市の黒浜沼にその源を発し、南東に流れ元荒川に接近。さいたま市岩槻区上野で元荒川の水を取水し更に南下し東武野田線を越えた先で流路はふたつに分かれる。この地点が古隅田川の管理起点となっている。管理起点から上流は山城堀と呼ばれる農業用水路とのことである。
管理起点でふたつに分かれる流路は、東に向かうのが「古隅田川」、南に弧を描き東武野田線・豊春駅の北で古隅田川と再び合流するのが「旧古隅田川」と称される。合流し、ひとつの流れとなった古隅田川は北上した後、向きを東に変え、大落古利根川に合流する。

十文橋
古隅田川・大落古利根川合流点から県道85号に戻る。そこに架かる橋は十文橋と呼ばれる。往昔の十文橋はこの橋の少し上流、東流してきた流路が南東へと流れを変える辺りに鎮座する女体神社(下に記す)付近に明治23年に架けられた、という。
春日部と鴻巣を結ぶ菖蒲往還(ルート不詳)への道筋であった此の地には橋が無く、渡し場となっていたようだが、上流に浜川戸橋(現在の梅田橋;後述)が石橋に架け替えられた。結果、渡し場が廃止され付近住民は迂回を余儀なくされ、この不便を解消すべく岩松氏が個人で賃取橋を架け、その橋銭が十文であったことが橋名の由来である。

女体神社
古隅田川右岸を少し進むと女体神社がある。社殿は参道を進み少し奥まったところにある。境内にあった案内には「日光街道粕壁宿の北に位置し、周囲を大落古利根川と古隅田川に囲まれた低湿地である。この梅田の地名は「埋田」の意である。梅田東、梅田西、新田に分かれており、当社はそのうちの梅田東の鎮守である。
醍醐天皇の延喜元年(901)の創立で、当時梅田に住んでいた綾部という人が、村内の子供が幼くして亡くなることが多かったことを憂い、子供が健やかに育つようにと天神に祈願し国生みの神である伊邪那美(イザナミ)尊を産土神として祀ったのが当社の起源。古隅田川の最も高地に当たる場所(現在地)に神殿を造営し、祭事を行うようになったと言う。
また、元和八年(1622)に二代将軍徳川秀忠が、はじめての日光社参に際し、街道筋の由緒ある社寺を訪ねた時、当社にも金百疋(私注;一貫=1000文・銭)の寄付があり、以来近隣の信仰を集め大いに栄えたと伝えられる。
当地の土壌は牛蒡の栽培に適し、太くて味の良い「梅田牛蒡」ができることで知られている(後略)」とあった。
社は低湿地の微高地に建てられたのだろうが、低湿地を形成した因は、大落古利根川から古隅田川が分かれた地にあり、大落古利根川から流された大量の土砂が堆積した。そのため古隅田川が氾濫し流路定まることなく周辺に水や土砂を運んだ故であろう。

国道16号・隅田橋(古隅田橋とも)
東武伊勢崎線の鉄橋を潜り、前述の梅田橋、下川戸橋、国道16号に架かる隅田橋(古隅田橋とも)を過ぎる。
左岸の国道16号沿いに雷電神社がある。「雷電神社の由来 当雷電神社は、古代武蔵国太田庄百間領梅田村古隅田川の河畔に鎮座し、別雷神を祭祀とし、その創立は詳かならざりしも古老の伝承によれば今を去る壱阡有余年の古から鎮守の神として信仰をあつめたり、と。また当神社境内前南側には「神池」と称する小池あり農作物の枯死せんとする時、直ちに池より水を汲み当神社に供えて祈願するや忽ちにして雷雲と共に慈雨をみ、霊験あらたかなり、と。以来、先人より神徳を崇め益々篤き信仰のお社と奉る。
境内地に樹齢五百余年の老杉木等あり神社風致上伐採するに忍びざるも、保存の手段もなく、止むなく昭和二十七年十月、伐採された。四十年代に神社前に国道十六号が開通、これに伴ない区画整理事業も推進されて社殿周辺にも住宅街が現出するに至った(後略)」とある。
Wikipediaに拠れば、「雷電神?(らいでんじんじゃ)は、関東地方を中心に日本全国に点在する神社。一様に雷除けの神とされるが、祭神や由緒は必ずしも一定ではない。群馬県邑楽郡板倉町板倉にある板倉雷電神社が関東地方の「雷電神社」「雷電社」の事実上の総本社格とされている」とあった。

豊春用水(黒沼用水)が左岸から合流
国道16号・隅田橋、栄橋、さらにふたつの名称不詳の橋を越えると左岸から黒沼用水の支流である豊春用水が合流する。豊春用水は見沼代用水から別れた中島用水の支流である黒沼用水から更に別れた枝流といったものである。






中島用水
中島用水分水工
黒沼用水は中島用水路の支流である。Wikipediaに拠れば、「中島用水路は見沼代用水路の支線用水路である。 埼玉県久喜市菖蒲町菖蒲にある中島用水分水工にて見沼代用水(星川)より分水し、星川の北側を並行し東へ流下する。久喜市江面地区の除堀にある除堀調節堰にて黒沼用水路と笠原沼用水路(笠原用水)とに分水し、終点となる。流域は主に水田地域である。
中島用水とは菖蒲区域での名称である。これは起点付近の小字である「上中島」並びに「下中島」に由来する。久喜区域では黒沼笠原用水(くろぬまかさはらようすい)と称される」とある。
中島用水は黒沼用水と笠原沼用水に分かれる
除堀調節堰
久喜市江面地区の除堀にある除堀調節堰にて中島用水は黒沼用水路と笠原沼用水路(笠原用水)とに分水される。笠原沼用水については姫宮駅東で見た中須用水の項でメモした。
黒沼用水
で、黒沼用水は、「1728年(享保13年)に黒沼干拓のために井澤弥惣兵衛為永によって開削された見沼代用水路の支線用水路である。黒沼笠原用水として見沼代用水から分水された水路は、久喜市江面地区にて黒沼用水と笠原沼用水(笠原用水)に分水し南東方向へ流下し、白岡市の太田新井にて黒沼の北側を流れる内牧用水と南側を流れる豊春用水とに分水し終点となる、延長9 kmの用水である。
三ヶ村落堀交点
隼人掘川交点
流域は主に水田地域で、白岡駅付近は住宅地となっている。途中三ヶ村落堀が架け樋で、隼人掘と新堀排水路(通称、新堀)の二つの河川が伏せ越しで立体交差を形成している。また、用水路を改修した際に生じた用地を活用し水と緑のふれあいロード(遊歩道)が流路沿いに整備されている(Wikipedia)」とある。
黒沼用水は内牧用水と豊春用水に分かれる
内牧・豊春用水分水堰付近
白岡市の太田新井にて黒沼の北側を流れる内牧用水と南側を流れる豊春用水に分かれた用水のうち、豊春用水はこの地で古隅田川に落ちて終点となる。もうひとつの内牧用水は最終的に隼人堀川に落ちて終点となる(とあるが地図で流路を特定することはできなかった)。



古隅田川緑道・古隅田川の旧流路
合流点から南に、如何にも流路らしきカーブを描く道筋があり古隅田川緑道と呼ばれる。昭和20年代の河川改修以前の古隅田川は国道16号を越えた栄橋辺りから南に下り、弧を描いてこの古隅田川緑道を流れていたようである。






八幡公園の富士塚
栄橋
当日訪れたわけではないのだが、国道16号の東にある春日部八幡に隣接する八幡公園には高さ12mもの富士塚があるようだが、これは川の氾濫により蛇行部に上流から流された砂が堆積し、それが冬の季節風によって吹き集められた河畔砂丘を利用し江戸時代に造られたもの。往昔の古隅田川が国道16号を越えた栄橋辺りから八幡神社近くを大きく蛇行しながら流れていたエビデンスでもある。

城殿宮(きどのみや)橋
黒沼用水(豊春用水)が左岸から合流するその先は畑地となっており、道はない。水路に沿って成り行きで進むと城殿宮橋に出合う。嘗て内牧村にあったと言われる城殿明神社がその名の由来とのことである。
城殿宮(きどのみや)橋を越えた古隅田川は南に向かうが、その川筋に沿って歩くことはできそうもない。橋から南に下る道を進む。

古隅田公園
城殿宮(きどのみや)橋から南に道を進むと前方に緑の林が見え、微高地となったその林は南に続く。この微高地はかつての古隅田川の土手であったようだ。元来は自然堤防であったものを洪水被害から護るため人工的に盛り土し築堤とした、とのこと。現在の古隅田川の西にも築堤跡が残ると言い、その幅300mほどにもなる、と。古隅田川が利根川の主流としての大河であった名残と言える。この築堤を新方領囲堤(古隅田堤)と称する。衛星写真で見ると、緑の帯は上述古隅田緑道の緑の帯と続いている。
新方領囲堤
西を元荒川、東を大落古利根川に囲まれた地域を新方領と称す。水路の西側に明瞭な築堤跡を見るのは少し難しそうだが、東側のこの古隅田公園はその名残を留める。

上院落が合流
古隅田川の築堤跡の林に沿って南に下ると宮川小学校に当たり、築堤はここで一時分断される。道なりに川筋に向かうと対岸から上院落の水が落ちる。
上院落
上院落は慈恩寺沼の排水路として開削されたもので、途中、古隅田川の旧堤防を樋管で横断して流れて来る。古隅田川の右岸側が、自然堤防の発達した低地なのに対して、左岸側は侵食され、谷が発達した台地(慈恩寺台地)となっている。
地図で彩色してみると、なるほど左岸は浸食された台地となっている。ついでのことながら、上述隅田公園や春日部八幡当たりの微高地も確認できた。

古隅田川公園にやじま橋
川沿いの道から宮川小学校によって分断された古隅田川の築堤跡である古隅田公園に戻る。築堤に石橋が残る。元文2年(1737)に構築された埼玉県内でも最古の石橋の一つ。古隅田川と旧古隅田川(後述)の合流点の上流(現在の矢島橋)に架かっていたものを移したとのことである。公園の南には香取神社が建つ。

古隅田川・旧古隅田川合流点
川筋に戻る。地図を見ると下流から辿ってきた川筋がほぼ1対1で二つに分かれている。川筋に戻ったところに架かる橋は矢島橋とあり、更にひとつ上流の名称不詳の橋の袂にバス停があり、そこには「旧古隅田川」とあった。矢島橋の少し下流で西から合わさるのが「古隅田川」であり、矢島橋を南に向かうのが「旧古隅田川」であったのだが、事前準備なしの散歩を身上とする我が身は、当日その事実も知らず、単にバス停の名前だろうと何も迷うことなく「旧古隅田川筋」に向かうことにした。

いつだったか岩槻を歩いたとき、知らずこの川筋の業平橋に出合ったことがあるのだが、その時、この川筋が「古隅田川」とメモしたことが刷り込まれていたのも一因でもあり、また、往昔大落古利根川から西流し元荒川に注いだという古隅田川の流路としては南流し、南平野へと向かう流れが「本流」であろうと思ったわけである。

古隅田川筋
山城堀・古隅田川管理起点
当日辿ることなく終わった矢島橋の少し下流で西から合わさる「古隅田川」筋をチェックすると、合流点から南東に向かい上院調整池の南端を掠め、東武野田線を越えた先で直角に曲がる。この交点が「古隅田川」の管理起点とのことであり、北から直角に合わさる水路は山城堀と言う。
山城堀
元来は蓮田市黒浜の黒浜沼から下る農業用水の落しとして開かれた排水路ではあったが、昭和初期に新堀が開削され、黒浜沼は隼人堀川に落ちており、山城堀は現在都市下水路となっている。
古隅田川管理起点で古隅田川・旧古隅田川に分かれる
古隅田川管理起点付近の暗渠
古隅田川管理起点辺りを地図で見ていると、少し南の「こばと南公園」の先から南に水路が見える。Google street Viewで管理起点辺りをチェックすると公園に向かって暗渠が見える。また、明治の頃の古隅田川の流路も、この管理起点から東流・南流している。黒浜沼からの水路は、途中元荒川の水を取水しこの管理起点から東と南に分かれて流れていたようである。
地図を見ると、古隅田川・旧古隅田川合流点から別れた旧古隅田川と思われる水路は大きく弧を描き「こばと南公園」から南の水路に繋がっている。ということは「こばと南公園」の南で開渠となる水路は旧古隅田川ということだろうか。

「旧古隅田川」バス停
古隅田川・旧古隅田川合流点から旧古隅田川を辿る。西から合わさる上豊川を見遣り、「旧古隅田川」と記したコミュニティバス停のあった名称不詳の橋から上下流の水路の姿をチェックする。上述の如く、「旧古隅田川」とは何だろう?とは思ったのだが、水路名とも思わず、この川筋が古隅田川と思い先に進んだ。 ひとつ上流に架かる川面橋を越える。水路の両側にはぎっしりと民家が並んでおり、水路に沿って辿ることはできない。成り行きで先に進み、東武野田線の踏み切を渡って南に進む。

業平橋
上述の如く、いつだったか岩槻から春日部を歩いた時、知らずこの橋に出合った。またその折、橋の銘板に「古隅田川」と書かれており、この水路が古隅田川と思っていた。正確には「旧古隅田川」と称されるようだが、総称として「古隅田川」としているのだろう。
それはそれとして、この業平橋は「名にしおわばいざ言問わん都鳥、わが思ふ人はありやなしやと」と呼んだ在原業平ゆかりの地と言う。前述春日部八幡神社の境内には「都鳥の碑」が建ち、都鳥云々の歌について、「この歌は在原業平が奥州に旅したとき、武蔵国と下総国との境にある隅田川の渡しで読んだものである。往古神社の当りが両国の境になっており、奥州への通路にもなっていました。この石碑は、その故事を後世に伝えんと、江戸末期嘉永6年(1853年)粕壁宿の名主関根孝□(ことえりでは無理)が千種正三位源有功に依頼し由緒をあらわしたものです」とある。
「古隅田川」と記される
また、前述古隅田緑道に立つ満蔵寺には「梅若伝説と梅若塚」もあり、案内板には「今からおよそ千年前、京都の北白川に住んでいた吉田少将惟房卿の一子梅若丸は七歳の時父に死別し、比叡山の稚児となった。十二歳の時、宗門争いの中で身の危険を思い下山したが、その時に人買いの信夫(現在の福島県の一地域)の藤太にだまされて東国へ下った。
やがて、この地まで来た時、重病になり、藤太の足手まといとなったため、隅田川に投げ込まれてしまった。
幸いに柳の枝に衣がからみ、里人に助けられて手厚い介抱を受けましたが、我身の素姓を語り、「尋ね来て 問わば答えよ 都鳥   隅田川原の 露と消えぬ」という歌を遺して息絶えてしまった。
時に天延2年(974)3月15日であった。里人は、梅若丸の身を哀れと思い、ここに塚を築き柳を植えた。
これが隅田山梅若山王権現と呼ばれる若梅塚である。一方、我が子の行方を尋ねてこの地にたどり着いた若梅丸の母「花子の前」は、たまたま若梅丸の一周忌の法要に会い、我が子の死を知り、出家してしまった。
名を妙亀(みょうき)と改め、庵をかまえて梅若丸の霊をなぐさめていたが、ついに世をはかなんで近くの浅芽が原の池(鏡が池)に身投げてしてしまったという。これが有名な謡曲「隅田川」から発展した梅若伝説であるが、この梅若丸の悲しい生涯と、妙亀尼の哀れな運命を知った満蔵寺開山の祐閑和尚は、木像を彫ってその胎内に梅若丸の携えていた母の形見の守り本尊を納め、お堂を建てて安置したという。これが、安産、疱瘡の守護として多くの信仰を集めてきた子育て地蔵尊である」とする。

もっとも、東京都墨田区を流れる隅田川にも業平橋が架かり、「言問橋」も架り、墨田の墨堤に建つ木母寺には梅若伝説が残る。どちらが「本家」か不詳である。

香取神社
道順川戸橋を豊春小学校側に移り、流路を南東から南西に変えた川筋に沿って進む。H形鋼で補強された水路を左に見遣りながらしばらく進むと、川沿いの道は行き止まりとなる。
住宅街を成り行きで進み、下蛭田に架かる名称不明の橋を渡り、水路の南側に移る。橋の上流も川に沿って道はない。水路一筋南の道を西に進むと、春日部市富増に香取神社がある。上述古隅田公園の南にも香取神社があった。香取神社について少し深堀りする。
香取神社
香取神社は下総国の一ノ宮の分祀。香取神社は武蔵国にはほとんど見られない。武蔵国は氷川神社が一ノ宮であり、祭祀圏がはっきりと分かれている。
埼玉は基本武蔵国である。何故武蔵国のこの地に香取神社が?チェックすると、埼玉ではあるがこの辺りでは一部下総葛飾郡が入り込んでいる。吉川市にある平方新田と深井新田地区と北葛飾郡松伏町、金杉、築比地、魚沼地区、更に杉戸町の中川より東側と共に、春日部市の古利根川の東側、現在は春日部市となっているが旧庄和町領の全域がそれである。この地に香取神社が祀られるのはこういった事情ではあろう。
香取神社と氷川神社の祭祀圏
鈴木理生さんの『幻の江戸百年:鈴木理生(ちくまライブラリー)』に拠れば、古利根川から東は香取神社。古利根川の西の大宮台地・武蔵野台地部には氷川神社。この香取・氷川の二大祭祀圏に挟まれた元荒川の流域に80近い久伊豆神社が分布する、とある。
香取神社は、下総の国、つまりは隅田川の東、川筋で言えば大落古利根川に沿って数多く分布しているが、隅田川の西、つまりは武蔵国にはまったく無いといってもいいほど。一方、武蔵の国、つまりは隅田川の西、埼玉県や東京を中心におよそ230社も分布しているのが氷川神社。本社は大宮にある武蔵一ノ宮の氷川神社。川筋でいえば少々大雑把ではあるが荒川・多摩川水系といってもいいだろう。
これほどきっちりと分かれているということは、それぞれの地域はまったく別系統の人々によって開拓されたといってもいいかと思う。香取神宮の神様は経津主(フツヌシ)。『日本書紀』によるとフツヌシとはアマテラスの命を受け天孫降臨の尖兵として、タケミカヅチ神とともに出雲の国へ行き、大国主命に国譲りをさせた神様。沼を隔てて鎮座する茨城県鹿島市の鹿島神宮の祭神・タケミカズチの神と同神とされる。アマテラスの尖兵といったことであるから、大和朝廷系・有力氏族とかかわりの深い神さまの系統であるのだろう。
本来は物部系の氏神とのことだが、物部氏の勢力が衰えて以降は中臣・藤原氏が氏神とした、と。

一方の氷川神社。祭神はスサノオノ命。考昭天皇の代に出雲大社から勧請された。「氷川」とは出雲の「簸川(ひのかわ)」に由来するとも言われる。大和朝廷に征服された部族の総称=出雲族系統の神様である。
○久伊豆神社
ついでのことながら、東西にくっきり分かれる氷川神社と香取神社の祭祀圏の間に分布する神様がいる。つまりは、そういった神様を祭る部族がいる、ということ。その神様は「久伊豆神社」。元荒川と古利根川の間に100社近くが分布している。祭神はスサノ須佐之男直系の「大己貴命」というから氷川系に近い部族であるのだろう。この「久伊豆神社」の祭祀圏はほとんどが河川の氾濫によりできた沖積地帯。台地上の立地は既に氷川さんとか、香取さんに占拠されている、ということであろから比較的新しい時代の開拓民の集団であったのだろう。本社は不明である。

旧古隅田川と古隅田川・西流水路筋との分岐点
旧古隅田川筋
元荒川方面からの水路

香取神社の少し先で旧古隅田川がふたつに分かれる。ひとつは北西へと弧を描き、県道2号を越えて、前述「こばと南公園」の南の開渠に繋がる。当日は知る由も無かったのだが、この水路が旧古隅田川ではあろう。
で、もうひとつの水路は南西に向かう。現在は西から東に流れているが、この水路は往昔大落古利根川から西流し元荒川に流れた古隅田川の川筋ではないだろうか。当日は、如何にも自然な「西流」筋のように思え,迷うことなくこの水路筋を進んだのだが、メモの段階で地図をしっかり見ると面白いことが見えてきた。
面白いこととは、北西と南西に二つに分かれた水路筋が春日部市と岩槻市の境となっている、ということ。つまりは、ふたつに分かれた水路筋は武蔵国と下総国の境となっている、ということだ。ふたつの水路の間に割り込んでいる岩槻市平野地区が自然というか、不自然で誠に面白い。

大光寺堤
往昔古隅田川が西流していた時の川筋跡とも思える水路に沿って春日部市と岩槻市の境を南西に進む。水路の南に林が続く。如何にも自然堤防跡の趣である。 衛星写真を見ると、水路に沿って緑が続く。チェックすると、旧古隅田川と古隅田川の西流水路筋との分岐点から南西へと元荒川近く、国道16号脇の大光寺を越え、元荒川近くまで続いている。それもあってか、この緑の帯は大光寺堤と称される築堤とのことである。この緑の帯が往昔西流時の古隅田川の流路に沿った自然堤防跡と考えてもいいかと思う。
因みに、現在は、宅地で分断れてはいるが往昔は、前述新方領囲堤へと繋がっていたとのことである。

南平野排水機場と南平野調整池
往昔古隅田川が西流していた時の川筋跡とも思える水路に沿って、春日部市と岩槻市の境を南西に進む。開渠が一瞬暗渠となるも直ぐに開渠となって進むが、南平野排水機場手前で暗渠となる。
暗渠は南平野排水機場の南を進む。南平野排水機場の西には南平野調整池が見える。地域の排水対策として20mほど掘り下げた池に溜まる水は、大雨時に備えて常時ポンプで排水しているとのこと。今歩いて来た水路の水は南平野公園につくられた調整池の水を排水機場でポンプアップし旧古隅田川筋へと流しているのだろうか。

国道16号西に増野川用水
南平野排水機場南の如何にも暗渠らしき道を進むと、暗渠の趣はないのだけれど、水路跡を想起させるような緩やかな曲線を描く道に出る。道の左手には大光寺堤の緑が続く。往昔の水路跡ではないだろうか。
大光寺堤は国道16号で一瞬分断されるが、国道を渡った先で大光寺を取り囲むように先に続いている。地図を見ると一筋東に水路がある。大光寺堤と思える緑の帯も水路の東に続いているように見える。道を開渠で流れる水路・増野川用水に乗り換える。
増野川用水
元荒川から引水された用水である。用水の始まりは不明であるが、国道16号が元荒川を渡る岩槻大橋から3キロほど下った永代橋の直ぐ北にある末田須田堰、往昔の末田須賀溜井が形成された頃、およそ400年前には引水されていたようである。
末田須田堰により堰上げされた水を岩槻大橋の少し下流から取水し新方領の北部(現在の春日部市、岩槻市、越谷市)へと引水する。末流は複雑に水路が巡り、どこが終点なのかトレースすることはできなかった。
また用水路も国道16号辺りまでは往昔の古隅田川の流路と重なるのではないだろうか。

大堀池・小池
増野川用水に沿って南西へ進む。左手に大きな池、右手に小さな池の間を水路が抜けて行く。大きな池は大堀と地図にある。周囲200m強。おっぽり沼・岩槻押堀(いわつきおっぽり)・摺鉢池・大光池とも称され、元荒川が決壊した際の跡地とのことである。
右手の周囲120m強のこの池は小池と称されるようだ。大堀池と同じく護岸工事もされておらず、これも元荒川決壊時の名残であろうか。

元荒川へ
水路に沿って進むと県道80号にあたる。県道の元荒川側にはフェンスが張られ、その先に進むことはできない。フェンス越しに元荒川に向かう増野川用水を眺め、国道16号に架かる岩槻大橋から増野川用水の取水口を確認し、東武野田線・東岩槻駅に向かい本日の散歩を終える。

今回の散歩は、全くの事前準備なしで、往昔大落古利根川から元荒川へと西流したという流れ跡らしき水路を成り行きで辿った。結果的には、ほぼその流路を辿ったことになったように思う。
何時だったか歩いた足立区と葛飾区の境を流れる古隅田川と繋ぐ日はまだまだ遠い。

■利根川東遷事業;古利根川散歩のアーカイブ■













8月初旬の週末、酷暑の街を離れ沢仲間と水根沢に行く。最初に水根沢に入ったのは2015年。もう3年も前のことになる。

最初は単独行。途中で出合った方と核心部の7mトイ状の滝は、その方はトイ状の滝をステミング(蟹の横ばい)、私は10mの崖を懸垂下降で下り、所定のゴール地点まで進むも、戻りは林道が見つからず、沢筋を入渓点まで戻った。

それ以降、退任前の会社の沢仲間と毎年水根沢に入っているのだが、大雨の後水量が多くトイ状の滝のはるか手前で撤退し林道へと急登を這い上がったり、トイ状の滝まで進むも滝を落ちる水量が多く、また崖を下りようにも残置ロープがこころもとなく撤退と核心部をクリアできないでいた。
とはいうものの、沢筋を進むのは途中撤退ではあったが、初回で見つけることができなかった林道を所定のゴール地点まで進み、沢から林道への尾根筋のルートはその間に確認できた。初回に林道が見つからず引き返した少し先に林道があったわけだ。

そうこうして、核心部であるトイ状の滝の水線を突破したのは2017年。娘の旦那と二人で水根沢に入り、元陸上部の体力で沢デビューにもかかわらず、トイ状の滝をステミングで軽々とクリアし所定のゴール地点まで進むことができた。林道へのルートも既に確認済であり、特段のトラブルもなく夏の一日を楽しんだ。

そして2018年、沢仲間と水根沢に。2番目のゴルジュ帯にある2mの滝での2本の残置ロープを使ってのへつりで少々苦労するメンバーもいたが、なんとかクリア。深い釜をもつ4m滑滝部は泳ぐしかないと思っていたのだが、大きく高巻すればクリアできるルートがあった。
そして核心部のトイ状の滝部。ステミングで上るもの、10m崖を懸垂下降で下るもの、
トイ状の滝をステミングすることなく、途中で右岸の岩場を進むルートをみつけクリアするものと、ルート取りも各自各様に進み、所定のゴールまで進めた。沢ガールが核心部をクリアしたはじめての夏となった。

酷暑の折、Google Analyticsのアクセスランキングにも沢のメモが2本入っており、水根沢がユニークユーザー月間1万名ほどのこのブログのベストスリーに入っている。水根沢のメモは2015年にブログに掲載しているのだが、それ以降、2017年・2018年のメモも今回追加して以下、掲載することにした(2015年のブログも残しておく)。


2015年


6月末のとある日曜、朝起きると快晴。その1週間前の週末、沢ガールのガイドで秋川筋の大岳沢に入る予定であったが、雨で中止。その時の沢入りの準備ができていたので、どこかの沢に行こうと想う。どこに行こうか、ちょっと考え、水根沢に行くことにした。

水根沢には未だ一度も行ったことがない。奥多摩の沢登り、といえは「水根沢」と言うことで、いつも人で溢れているといったイメージがあり、初心者集団を引連れて「渋滞」を起こすのが申し訳ないと、いうのが最大の理由であった。 今回は急に思い立ったわけで単独行。ひとりであれば、沢を楽しみに来ている皆さんに迷惑をかけそうな滝や岩場は高巻きすればいい、沢は初級レベルと言われているが、キツそうであれば沢にそって続く水根沢林道に這い上がればいい、また、単独行の場合、基本、怖がりの我が身は、通常であれば常に携帯する山地図をインストールしたGPS端末も持たず、遡行図のコピーだけ。林道といえば、倉沢海沢など、沢に沿う広い道が刷り込まれており、すぐに見つかるだろうと思い込んでいたわけである。少々お気楽な水根沢行きであった。

沢には予想に反し、誰も居ない。これはラッキー! 迷惑をかけることもないので、のんびりと試行錯誤を繰り返し遡行していたのだが、途中で如何にも経験豊富な風情の方に後ろから声を掛けられた。岩に這い上がろうとする姿を見て、心配になったのか、一緒に行きましょうとの申し出である。
有り難い申し出ではあるが、誠に申し訳ないので一度ならずお断りしたのだが、結局ご一緒することに。よほど心配にみえたのだろう。CSトイ状の滝から先はその方のリードで半円の滝まで進み、そこで遡行終了し、ふたりで林道に向かうことにした。
これで、本日の沢上りは終わり、と思ったのだが、林道が見つからない、踏み跡はいくつかあるのだが、すぐ行き止まり。結構上下し林道を探したのだが、わからず、結局沢を入渓点まで戻りましょう、ということになった。水根沢の林道は、林道と言うより鷹ノ巣山への登山道と言ったものであったようだ。 二条12mの滑状の大滝の辺りでは岩場を下る懸垂下降のロープが10mでは足りず、結構苦労したが、岩場では腹這いになり、ズルズルと足懸りを探しながらクリアするなど、はじめての本格的「沢下り」も楽しめた。


本日のルート;水根沢キャンプ場>入渓点>(最初のゴルジュ)>2mの小滝>CS3m滝>橋>二条CS滝>(二番目のゴルジュ帯)>2m滝>CS3m滝>小滝>4m滑滝>4m滑滝>CSトイ状の滝>2段12m滝>滑滝>山葵田>三番目のゴルジュ帯>6mトイ状半円の滝>遡上終了>林道が見つからない>(沢を下る)>2段12m滝>CSトイ状滝>小滝>水根バス停

水根沢キャンプ場
突然決めた沢入でもあり、家を出る時間も遅く、奥多摩駅に着いたのは11時前。偶々、10時50分だか55分だったか忘れたが、丹波行きのバスがあり、奥多摩湖バス停のひとつ手前の「水根」停留所で下車。
沢に沿って入渓点である、水根沢キャンプ場へと向かう。
水根キャンプ場とはいうものの、道に沿ってそれらしき建物はあるものの如何にもキャンプ場といった場所もなく、沢に沿った広場といった場所があったが、それが水根キャンプ場なのだろう、か。
ただ、そこは民家の私有地といった風で、入り口に車止めといったものがあり、民家の前を通るのも申し訳なく、道を先に進む。と、道端でお喋りを楽しんでいた集落の方が、沢に入るのは、この道を先に行けばいい、と教えてくれた。



入渓点:11時52分
しばらく進むと舗装が切れ、山道に入る。これが水根沢登山道だろうか(後日登山道とは別の道であることが判明)。ほどなく、林道下に沢が見え、少々傾斜が急ではあるが、そこから沢に下りることにした。 林道で入渓準備。極力高巻きで水に浸からないようにしようと思うが、「水の水根沢」であるので、時に、胸くらいまで水に浸かることを覚悟し、山用の防水雨合羽を上から着込み、沢に入る。入渓点は穏やかな沢相である。

◎最初のゴルジュ
2mの小滝;11時56分
左岸に取り付き、岩場に手懸かり・足懸かりを見付けながら、水際を進み(沢の用語では「へつり」)滝横の岩に這い上がる。








CS3m滝;11時58分
その先には5mほどの淵あり、如何にもゴルジュといった風情。淵の先にはCS3mの滝。淵を進むが、深さはそれほどない。かつてはもっと深い淵であったようだが、砂で埋まってしまったようだ。
滝横の岩場まで進み、そのまま岩を這い上がる。水中から這い上がる岩場まで微妙な高さがあり少し難儀するが、それほど難しい箇所ではなかった。
因みに、CSとは「チョックストーン(chockstone)=岩の割れ目にがっちり挟まった岩」を意味する。



橋;12時2分
その先に橋が架かる。どこに向かうのだろう(この橋は登山道とは関係なく、入渓準備した道がこの橋に続くように思う)。









二条CS滝;12時7分
橋を越えると、川の中央に大岩が座り、水流が両側から勢いよく流れ落ちる。二条CS滝である。水に濡れるのを避け、左岸を高巻きしようと思ったのだが、結構難く、撤退。仕方なく滝を二つに分ける岩に取り付く。
腰の深さの淵を進み、下の岩は簡単に登れたのだが、上の岩場に這い上がるに、手掛かり、足掛かりがない。撤退しようにも、下りるに下りられず、岩の右手の水流に足懸りをと思えども、昨日の雨の影響か水の流れが強くホールドする自信がない。
なんとか上の岩に這い上がろうと悪戦苦闘。水濡れを防ぐために着た雨具がつるつる滑り、岩場に張り付くもずり落ちる。結構苦労したがなんとか這い上がれた。多くの人は岩の右手の水流を上るようである。

二番目のゴルジュ帯

最初の2m滝;12時31分
左岸を滝の少し手前から「へつる」。が、行くも、戻るもできなく、淵にドボン、と思った時、岩場左上に残奥スリングが見えた。スリングを掴み、岩場をクリア。












CS3m滝;12時35分
淵に入るのを避け、「へつり」をしながら左岸岩場を登り高巻しようとしたのだが、途中でこれも進むも退くもできなくなった。ずり落ちるのを避けるため、両手両足で滑る岩場をホールドし、なんとか下まで戻る。
そこからは水に胸辺りまで浸かり、滝の下まで進みるのを腰まで水に浸り右岸を上る。

声を掛けてもらう
滝上に上り下流を見るとひとりの男性が目に入った。そして、御一緒しませんか、との申し出。高巻でグズグズしている姿などを見るにみかね声をかけてくれたのだろう。沢はほどほど、ロッククライミングとかケービング(洞窟探検)を楽しんでいる方であった。
有難い申し出ではあるが、申し訳なく丁重にお断りするも、結局ご一緒することに。よほど心配してくれたのだろう。

小滝;12時51分
ご一緒に進み小滝右岸を上り、ゴルジュ帯を抜ける。














釜のある4m滑滝
ここが一番キツかったように思う。釜を泳ぎ岩場に取りつくも、水中に足懸りが見つかるまでは、少々難儀するも、なんとか足懸りを見つけ、なんとかクリアした。疲れ果て写真を撮るのも忘れてしまった。








CSトイ状の滝;13時14分
その先にトイ状の滝。雨水を集め下に流す樋(トイ)のように、狭い岩場を勢いよく水が流れ落ちる。ご一緒した方は、滝壺下まで進み、流れに抗いながらもステミング(両手両足で両側の岩場をホールドし滝を登る。蟹の横這い、といった格好である)でトイを突破するとのこと。
一方私は、少々疲れ気味。ステミングで体を支える気合が足りない。ステミングをしないとすれば、右岸の急な崖を這い上がり、10mの垂直な崖を下りることになる。迷うことなく右岸に崖に取り付く。
崖を這い上がり、先端部にくると10mの垂直の崖。崖の先端には残置スリングと、そこから下にロープが垂れる。が、ロープは水面まで届いていない。「画龍点晴を欠く」と言った残置ロープである。
それではと、ロープを取り出し6ミリの10mロープを結び、スリングに通し、フリクション(摩擦)を保ち、かつロープの回収を容易にすべく6ミリ二本のロープを8環に通し、懸垂下降で10mの垂直な崖を下りる。ロープも10mでギリギリではあったが、無事崖を下りた。崖下でステミングで上ってきた男性と合流し先に進む。

2段12m滝;13時17分
CSトイ状の滝の先には2段12m滝。右岸を這い上がる。水に浸かり、たっぷりと水を吸い込んだリュックやロープの重みが結構きつい。後でもメモするが、林道の踏み跡が見つからず、沢を下るとき、最も苦労した箇所である。










滑滝;13時26分
2段12m滝の先に小滝とカーブした滑状の滝が続く。難しい滝でもなく、滑状の滝の風情は結構美しい。













山葵田;13時33分
その先、右岸に小屋が見える。付近は山葵田とのことである。ここで休憩をとる方が多いようだが、そのまま先に進む。











三番目のゴルジュ帯

山葵田の先は、両岸にが岩に挟まれた、ちょっとしたゴルジュ帯(?)となる。小さな滝が二つあった。最初の滝はどうということはなかったのだが、2番目の滝は、見た目は簡単ではあったが、手懸かり・足懸かりがなく、体力も大分消耗した我が身は、なんとか這い上がる、といった為体(ていたらく)ではあった。






6mトイ状半円の滝;14時
このゴルジュ帯を抜けると、小滝がありその先に水根沢で最も名高い半円の滝が見えてくる。ステミング(蟹の横ばいといった案配)で登っていくのが本道ではあろうが、その体力はない。ご一緒した方はステミングで進むも、私は右岸を高巻き。高巻きは誠に簡単であった。









遡上終了;14時5分
ご一緒の方は、数回この沢に来ており、これから上はそれほど面白い箇所もないので、ここで切り上げましょうとの提案。誠に有り難いお話。成り行きで林道へと向かう。









林道が見つからない:14時23分
林道は直ぐに見つかるとのことであったが、なかなか見つからない。踏み跡はいくつかあったのだが、途中で消える。成り行きで彷徨っていると、左右に沢を分ける尾根道に入る。左手の沢は何だ?益々混乱。
ご一緒してくれた方も、記憶を頼りに林道を探すが、見つからない。で、結局、沢を下りましょう、ということになった。
家に帰り地形図を見ると、沢を分けた尾根と思ったのは、水根沢にグンと突き出した尾根であり、単に水根沢が突き出した尾根の岩壁をぐるりと回っているだけであった。場所は最終地点である半円トイ状の少し下流といった箇所であった。この尾根筋のため少々混乱したが、もう少し高いところまで登れば林道に出合っていのかとも思う。水根沢のレポに林道探しに苦労した、といったものは皆無である。皆さんは何の苦労もなく林道に登れているのだろうか。


沢を下る

2段12m滝;14時58分
水根沢に突きだした尾根筋に沿って踏み跡があるので、とりあえずその道を進む。が、ほどなく踏み跡が切れる。跡は成り行きで沢に沿って下ると、2段12m滝の上に出た。岩場を下るのは滑って危なそう。ロープを出して下降。安全な箇所まで下りるには15mほどの長さがあったほうがよさそうであった。









CSトイ状滝;15時
高巻きをエスケープし懸垂下降で降りた箇所は、下りはステミング(蟹の横ばいといった案配)で下りるしか術はない。トイ状の滝をステミングで下り、適当な所で淵にドボン。












小滝;15時24分
登りはどうということもなかったCSの小滝も下りは難しい。腹這いになり、手懸かりをホールドしながら、ゆっくりズリ落ちる要領で足懸かりを探しながらクリアする岩場が2箇所ほどあった。

入渓点に:15時45分
水に濡れるのを避けるため、極力高巻で、といった「計画」も下りのトイ状の滝での滝壺にドボンのため、結局全身ずぶ濡れになりながらも、なんとか入渓点まで戻る。そこはスタート時点では遠慮した民家前を通るアプローチ地点ではあった。

水根バス停;16時10分
沢から出ると、四駆で駅まで送ってくれる、と言う。さすがに、そこまでは甘えることはできず、御礼を申し上げデポ地点で別れる。林道脇で着替えを済ませ 水根バス堤に。16時23分のバスに乗り、16時57分のホリデー快速おくたまで一路家路へと。

今回の沢は反省点ばかり。単独行でありながら、地図もGPSも持たず遡行図だけて沢に入り、撤退や復路の林道は沢に沿って直ぐに見つかると高を括っていた。偶々この方が親切にご一緒して頂いたから良かったものの、独りだったら、倉沢とか海沢の林道と言った大きな「林道」を探して山中を彷徨っていたかとも思う。
結構沢をこなし、沢登りを結構こなし、ちょっと半端な余裕をもちはじめていたのだろう。初心に戻るべし、との思いをかみしめた水根沢遡行となった。



後日談(二回目)
7月の中旬、酷暑の都心を離れて元会社の仲間と水根沢に入った。当日はピーカン。これは水を存分に楽しめるだろうと入渓点に。
が、前回と同じ個所で着替えをしている時に沢から聞こえる水の音が半端ではない。轟轟たる水音である。快晴ではあるが、この水音を聞き、防水雨具を上から着込み入渓点に。 思った以上に強烈な水勢である。

第一のゴルジュ帯
2m小滝
最初のゴルジュ帯の2mの小滝は、「へつり」で進む。強烈な水勢を見遣りながら第一関門はクリア













CS3mの滝
がその先のCS3mの滝は、先回は滝下まで進み、楽々滝を登ったのだが、今回はとてもではないが直登などできそうもない。迷うことなく大きく高巻き。








第二のゴルジュ帯
2m滝
再び沢に入り第二のゴルジュ帯の2m滝に。水量も多く、先回と様変わり。水量が多いこともあり、左岸が丁度いい感じにへつりがしやすくなっている。手掛かりを探り、水中に足がかりを探りながら滝の手前まで、水線の中に足がかりを見つけ、クリアする。







CS3m
このCS3m滝は水量は多いものの、どういうわけか水勢が激しくなく、先回と同様に右岸を這い上がる









4m滑滝
その先、先回辿った小滝だったか4m滑滝だったか。それもわからないほど水が滝を覆う。異常なほど水勢が激しく、水線を進もうにも跳ね返される沢ガール。幾度かトライするも断念。で、高巻しようと崖に張り付き、足場の悪い崖を上り切るも、その先のルートが読めない。このまま進むのは危険、ということで撤退決定。






登山道に這い上がる
登山道に這い上がるにも、この地点から這い上がるのはキツイ。少し下り、CS3m滝辺りから崖を這い上がる。登山道まで比高差は90mほどあるだろうか。あまりに急登に、シダクラ沢以来の四足歩行でなんとか這い上がる沢ガール。悪戦苦闘し登山道に。






登山道
先回見つけることのできなかった登山道ではあるが、結構しっかりした踏み跡のある道ではあった。
それにしても、強烈な水勢であった。数日前まで何日か降り続いた雨の影響が、これほどまで残っているとは想像もできなかった。しかし、誠に面白い沢登りの一日であった。











水根沢再々訪(三回目)

8月末日、先回の途中撤退のリベンジにとの沢ガールのご下命により、水根沢に。パーティは退任前の会社の沢ガールと沢ボーイと私の3名。先回同様、民家前を通る入渓点を避け、道を進み「むかし道休憩所」を越え、舗装も切れる民家脇の小径の入渓地点上に。
入渓点上の登山道と思っていた道は、先回の途中撤退で這い上がった登山道の下り口とは異なっており、沢遡上の途中で出合った橋に続く道のようではあった。
それはともあれ、入渓点上の道で入渓準備をしながら耳を澄まして聞く沢の水音は轟々と響いていた先回とは異なり、静かな響き。一安心し入渓点に下りる。


入渓
先回の大水の後の沢入りは、入渓早々に左岸の「へつり」でしか進めなかった箇所も、今回は水線上をのんびり進む。

CS3m滝
先回はその水勢激しく高巻きしたCS3m滝は右岸を進み岩場に這い上がる。最初に水根沢にひとりで訪れたときはそれほど難しいと思わなかったのだが、岩場に這い上がるには水中からは微妙な段差。男ふたりは何とか這い上がるが、腕力のない沢ガールは悪戦苦闘。
長時間水に浸かり体力消耗を避けるため、結局ロープを出し、ハーネスのカラビナに固定し、引き上げることにした。岩場には残置スリングが吊り下がっていたが、位置が高く水中からの手掛かりとはなり得なかった。

CS2条の滝
先回は水量が多く、結果左岸をへつりで進むことができたCS2条の滝(多分CS2条の滝だと思うのだが、ゴルジュ帯の2m滝だったかもしれない。なにせ水勢激しく、滝が水に埋もれどちらだったか確認できない)は、今回は中央岩場に取り付き、岩の右手から流れ下ちる水線の岩に足を踏み出しホールドし上るのが常道のようだが、一歩踏み出す「勇気」を躊躇する沢ガールのため、ここもハーネスのカラビナにロープを固定し引き上げる。



2番目のゴルジュ帯
2m滝
最初に一人で訪れたときは左岸をへつり、残置スリングに助けられたとメモしたが、今回も左岸をへつると2箇所に残置スリングが残っていた。もっとも、 残置スリングを手掛かりに進むが、その先は滑りやすい岩場であり、釜がそれほど深くもなかったため、他の二人は左岸に沿って水中を進み岩を這い上がって進んだ。






CS3m滝
その先のCS3m滝は最初に訪れたときも、先回の大水の時も、不思議に水がそれほど多くなく、右岸に沿って進み岩場を這い上がって進むことができた。今回も同じく右岸を這い上がる。








釜のある4mナメ滝
最初に訪れた時も難儀し、2回目には強烈な水勢のため途中撤退を決めた、釜のある4mナメ滝(当日は圧倒的な水量のため撤退箇所は特定できず、帰宅しログを確認し釜のあるナメ滝と推察したわけではあるが)に到着。釜を泳ぎナメの岩場の水中に足がかりを探し、なんとか這い上がる。今回もやはりここが少し難儀する箇所となった。
沢ガールには、ハーネスのカラビナにロープを固定し、水中を引っ張り、最短時間でナメ岩下に取り付き、ナメの岩場を這い上がる。



CSトイ状の滝
深い釜を泳ぎ、ステミング(蟹の横這い状態)で上るトイ状10mほどの滝に到着。釜も深く、水に濡れ体が冷えた我々3人は釜を泳ぐ気は毛頭ない。最初と同様、10mほどの垂直の崖を懸垂下降で下りようと右岸の崖を這い上がる。 先回懸垂下降で下りた崖の先端の岩に掛けられたスリングは残るが、そこから吊るされていたロープは切れて崖端に放置されていた。
先回は岩に掛けられた残置スリングにロープを通し、懸垂下降で垂直の岩場を下りたのだが、よくよく見ると残置スリングが心もとない。またスリングを支える突き出た岩場も、なんとなく「ひ弱」な感じ。スリングもそれを支える岩も、見れば見るほど少々怖くなり、結局懸垂下降は危険と判断。釜を泳ぐ気持にはならないため、今回はここで左岸高巻きすることに決定し、水線に戻る.。



登山道に這い上がる
左岸を見遣り、這い上がる箇所を探し岩場に取り付き、高巻き開始。極力左手に進もうと思うのだが、傾斜がきつく、滑り始めると釜に向かって一直線に落ちて行きそうな急斜面のため、トラバースするのは少々危険と、結局一直線に崖を這い上がることに。
また、最初の水根沢遡上で登山道が見つからず、沢を入渓点まで戻るため、支尾根の左手を成り行きで下ると2段12mのナメ滝上に出たのだが、その時の印象ではトラバースできるような斜面ではなく、結局2段12mのナメ滝へと下りざるを得なかったわけで、トイ状の大滝を高巻きしても、とても沢に復帰できるような斜面でなかったことが頭に残っていたのも、登山道へと一直線に這い上がることにした理由でもある。

急登に難儀する沢ガールにはハーネスのカラビナにロープを結び、斜面の立木を支点に安全を確保しながら崖を這い上がる。結局は高巻き、というより登山道までエスケープした、といったほうがいいだろう。30分ほどかけて登山道に這い上がった。

登山道を支尾根に
当初のゴールである半円の滝へと登山道を進む。最初に水根沢を訪れたとき見つけられなかった、半円の滝から支尾根に上った先にある登山道を「繋ぐ」ことも目的のひとつではある。
登山道を進むと、左手に支尾根が見える。道脇の過ぎに白のペンキが塗られていた箇所から支尾根に下りる道がある。支尾根への斜面を下り、平坦な支尾根上の踏み跡を進み、沢に下りる箇所を探す。
支尾根を進むと尾根筋を切り開いた箇所があり、そこから支尾根の右手を沢に下りる。これで半円の滝で終了した後の、登山道への道が繋がった。最初の沢入りで、登山道が見つからず沢を入渓点まで戻ったときは、この尾根の左手を成り行きで下り、トイ状滝の上にああttる2段12mの上に出たわけである。

半円の滝
沢に下り、少し沢を下流に戻り半円の滝に。トイ状の大滝は高巻きと言うか、登山道にエスケープしたが、本日のゴールに到着。沢ガールも先回の途中撤退のリベンジ達成と、トイ状の滝脇の岩場を滑り台に釜に流れ落ちたり、半円の滝をステミング(蟹の横這い)で登ったりと、しばし水遊びを楽しみ、本日の水根沢の沢上りを終える。

むかし道休憩所
先回の大水の後の水根沢を訪れ、途中撤退し登山道を下ってきたとき、登山道を舗装された道に下りきったところから少し先に進み。左手の沢側に入ったところに「むかし道休憩所」があった。まことに立派な施設でお手洗いもあるし、着替えもできる。今回も、休憩所までは沢スタイルで下り、ここでゆったりと着替えすることができた。水根沢の着替えはこの休憩所を使わせてもらうのがいいかと思い、メモをする。


2017年
CSトイ状の滝をクリアし、所定のゴールに。帰路も間違うことなく林道を戻る


2017年には、娘の旦那と水根沢に。行く前は偉そうなことを言ってはいたのだが、実際は沢デビューの娘の旦那に助けられっぱなし。

CS3Mの滝
最初のCS3Mの滝は、2015年には腰の上まで水に浸かりながらも何とかテーブル状の岩場に這いあがれたのだが、川床が低くなったの現在はちょっとむずかしそう。滝の手前の右岸岩場に残置ロープがあり、それを頼りに体を右に振り、手懸り・足懸りを確保してテーブル状の岩場に移る。
もっとも、身軽な若者はテーブル状の岩場を囲む岩壁に手懸り・足懸りを見つけて軽々と上っていた。
娘の旦那は身長も高く、元陸上部の腕力で、これも軽々とテーブル状の岩場に這い上がっていった。



CSトイ状の滝
通常であればCSトイ状の滝の右岸を高巻きし、10mの崖を懸垂下降で下りるのだが、娘の旦那は沢デビューで懸垂下降の経験もないため、はじめて釜を泳ぎ、トイ状滝下に取りつき、なんとか足場を見つけ滝の水圧に耐えながら上る。
私は膝を痛めており、トイ状滝をステミング(蟹の横ばい)で進むことはできなかったのだが、娘の旦那は軽々とステミングでトイ状の滝を登っていった。








2段12mの滝
CSトイ状の滝を越えた直ぐ先にある2段10mの滝は左岸の岩場を這い上がるのだが、慎重に手懸り・足懸りを見つけロープを出ずにクリア。

6mトイ状半円の滝を越えた先の所定のゴールをクリア。トイ状の滝部を水線を上るルートでの初めてのゴール










2018年8月

沢ガールとのメンバーではじめてトイ状の滝をクリアし、所定のゴールへ

退任前の会社の沢・山仲間とその知人のスコットランドの若者、更に娘の旦那の7人のパーティ。沢仲間のメンバーではじめてトイ状の滝部をクリアし、所定のゴールに進めたはじめての夏となった。
因みに、沢登りを英語でどういうのか、適当な訳が辞書では見つけることはできなかったのだが、スコットランドの若者はGorge walkingと言っていた。なんとなくニュアンスが伝わる訳語だ。

CS3mの滝
トップの仲間右岸岩場の残置ロープを使い体を右に振り、手懸り・足懸りを確保してテーブル状の岩場に移る。若干のへつりが必要で、手懸り・足懸りが確保できない者はトップが用意したロープを右手で掴みテーブル上の岩場に上る。








二条CS滝
橋を越えると、川の中央に大岩が座り、水流が両側から勢いよく流れ落ちる二条CS滝がある。
腰の深さの淵を進み、下の岩は簡単に登れるのだが、上の岩場に這い上がるのが結構大変なところ。今回は左岸の岩場に手懸り・足懸りを見つけクリアした。
水線を進み中央の大岩に取りついたメンバーは、上のフラットな大岩に這い上がるのに苦労していた。左の岩場をへつるのがいいかと思う。


二番目のゴルジュ帯の2m滝
ここは左岸に2本の残置ロープがあるので、慎重にへつればクリアできる。水量が少ない時は右岸を上っていたと思うのだが、今回は水量が多く左岸の残置ロープ2本を使って進むしかなく、へつりに難儀するメンバーもいた。メンバーの中にはここが一番大変だったと話す者もいた。

深い釜をもつ4m滑滝
ここは泳いで滝下の岩場で泳ぎながら手懸り・足懸を見つけクリアしたが、メンバーの多くは大きく高巻きしていた。高巻もできるようだ。滝からの水圧に耐えながら水中に足場を探すわけで、高巻きすればいいかと思う(今回は私は泳いで岩場に取りついたので高巻ルートは経験していない)

CSトイ状の滝
滝下まで泳ぎ、ステミングでトイ状の滝を登るもの、10m崖を懸垂下降で下るもの、また滝下まで泳ぎ、滝の水線から右岸の岩場にルートを見つけCSトイ状の滝をクリアする者と様々。各自の技量・好みに応じて3種類の選択肢がある。

CSトイ状の滝をクリアすれば2段10mの滝はあるものの、あとはそれほど困難な箇所もない。6mトイ状半円の滝を越えた先の所定のゴールをクリア。沢ガールとのメンバーではじめて所定のゴールまで辿ることができた。


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