古城を辿るの最近のブログ記事

河野氏のゆかりの地を訪ねる散歩も、東予の西条(旧壬生川、丹原)を終え、本貫地である伊予北条にある河野氏ゆかりの寺院、館跡、山城跡を辿る散歩の2回目。今回は恵良山城を訪ねる。

恵良山城は河野氏、村上氏の足跡を辿るに際し、折に触れて顔を出す。独立峰として目立つその姿故、周囲に「威」を示す象徴としての存在感も築城の因であったのだろうか。

Google earthで作成
城の築城年代は定かでないが、『伊予旧跡史』には天暦2年(948)に河野親経が築城との記載があるようだ。河野親経は、治承5年(1181年)源氏に呼応して挙兵した通清の祖父にあたる。
河野通清が頼朝に呼応し高縄山城(高縄山城とは雄甲・雌甲山、高穴山城を含め高縄山麓の城砦群の総称。恵良城も含まれるのだろう)に挙兵するも、平氏方・備後国の奴可入道西寂が大軍をもって押し寄せ賓兵敵せず落城すると『河野家譜』に記されている

南北朝期に入ると、北条氏の一族・赤橋重時という武将が当城に拠って挙兵するも、宮方の攻撃を受けて滅亡したという。建武2年(1335)のことである。その結果、宮方の土居通世が当城に拠るも、暦応4年(1341)には武家方の河野通盛が攻めよせ、河野氏が勝利したものと思われる。
その河野氏も、貞治3年(1364)に、四国制覇を目する同じ武家方の細川頼之の大軍に包囲されたとのこと。29代当主・河野通堯の頃である。このとき通堯を宮方の村上義弘と今岡通任が通堯らを救出したとあるので、通堯が武家方から宮方に変わったのはこの頃ではあろう。

室町時代には得能・土居氏の子孫である得居氏の居城となったようである。戦国期に入ると得居氏は勢を増してきた来島村上・通康の傘下に入る。とはいうものの、この場合の得居氏とは来島村上・通康の嫡男である通幸(通年、通久、通之とも)が得居家の跡を継いだわけであるから(来島村上家を継いだのは次男通総。母が河野の流れの正室であったため)、当たり前と言えば当たり前である。
その後、来島村上氏は主家河野氏に叛し、織田方に与したため、恵良山城は、元亀3年(1572年)毛利氏・小早川の軍勢により落城するも、豊臣秀吉による四国征伐の後は再び得居氏の居城となる。
関ヶ原合戦で来島氏は西軍に与し西軍敗北となるも、来島村上当主・長親の妻の伯父である福島正則の取りなしもあり家名存続し、慶長6年(1601年)、豊後国森へ転封となったため恵良城は廃城となった。

「恵良」という地名の由来はよくわからない。「江浦」を由来とするところもある。立地からすれば、この「恵良」も「江浦」でもそれほど違和感はないが、不詳である。

本日のルートを想う。東予の新居浜から中予の伊予北条まで行くわけで、恵良山だけでは、もったいない。恵良山の直ぐ北に腰折山がある。先日、鎌大師から鴻之坂越をした時に右手に眺めながら歩いた山である。ついでのことなので、腰折山もカバーする。それと、『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』に河野通朝(第28代当主)ゆかりの寺とあった伊予北条の大通寺(北条市)も併せて訪ねることにする。




本日のルート;
大通寺>最明寺
恵良城跡
車デポ地>土径が分かれる>腰折山への分岐>平坦地に>恵良神社奥之宮の鳥居>山道を山頂削平部へ>主郭部;12時7分>鎖場を下りる>車デポ地に戻る;
腰折山
鎌大師>車デポ地>腰折山登山口>「イヨスミレ・エヒメアヤメ」の案内>エヒメアヤメ石碑>腰折山山頂


大通寺
実家の新居浜市を出て今治、菊間を越え、瀬戸内に沿って走る国道196号が、恵良山・腰折山と続く山稜と、鴻之坂越えの鞍部を隔てて瀬戸内に突き出す山稜(新城山)裾の海岸線を抜け、伊予北条の開けた風早平野に入った辺りで左折し、成り行きで腰折山の裾にある大通寺に向かう。『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』に記載のあった河野通朝ゆかりのお寺様である。


大通寺の由緒 
山門脇に大通寺の由緒の案内:「四季の風情豊かな日本庭園と河野・来島家ゆかりの寺 曹洞宗安楽山大通寺 開創八紀平安前期、風早当時の古寺群のひとつ。貞和年間(1348-50)河野通朝が崇徳三世大暁禅師を開基として創営した。獅吼山普門院大通寺と称し七坊あり。飛び地境内の大師堂は空海行脚のみぎり此の地に留錫、里家の鎌を得て彫刻の鎌大師を祀る。
室町時代、当寺衰運のところ、通朝の遠孫通宣が曹洞宗永平寺の道元・狐雲らの法脈を継ぐ備中華光寺より玄室守腋大和尚を拝請し再興開山(曹洞宗)と仰ぐ。爾来法灯五百余年三十五代に至る。
二世代と七世代、兵火により炎上のところ、来島通康(河野通宣の資通直の娘婿)と、その資通総(共に豊臣秀吉の幕下、本来来島・鹿島城主)が風早一万四千石の領主になったとき寺領をつけ再興。
慶長6年(1600)豊後森へ移封(水軍を山領の地え)。当山は江戸時代二度焼失、本堂は天明年間(1783)、庫裏は弘化年間(1845)に焼失」。

河野氏ゆかりの寺として寄ってみたのだが、来島村上氏とも因縁浅からぬお寺さまであった。また、先般、花へんろの里を辿り、鴻之坂越えから浅海に歩いた時に出合った鎌大師は、このお寺様の大師堂のようである。
大通寺の由緒の横に木造大暁禅師倚像と木造宝冠釈迦如来坐像の案内もある。

木造大暁禅師倚像
「大暁禅師は峰翁祖一と称し九州大徳寺派臨済宗の崇福寺開山南浦紹明(大応国師)の門下の逸材で北条時宗の同母弟と言われる。祖一は師南浦紹明に従って上京し紫野大徳寺の宗峰に学び、崇福寺三世として帰住する。
のち遠山氏に招かれ美濃国(岐阜県)に大円寺を建て大虫宋岑や月庵宗光らを指導した。さらに筑前(福岡県)の鶉浜に海蔵寺を興こし、ついで風早のこの地に河野通朝の招きにより大通寺を開基したのである。
禅師の木造は高さ80cm、重さ7㎏、桧材を用いた寄木造りで、頭部は首の基部より胸へはめ込み式になっている。多眼を使用した彩色像で寺伝によれば南北朝時代につくられたものであるとされる。
木造宝冠釈迦如来坐像
正面本堂に木造彩色の宝冠釈迦如来坐像が祀られている。この仏像は河野通朝発願によって建立された。大通寺の寺伝によると、大通智勝仏となっているが、現在は宝冠釈迦如来と呼ばれている。
像の高さは88cm桧材の寄木造りとなっており、像容の高い宝髻、宋朝風の顔(私注;写真ピンボケで詠めず)複雑な衣紋の彫法などから、南北朝時代の末、或いは室町期の作であろうとみられている、なお、近世に金箔補修されている」
◇大通智勝仏
あまり聞いたことのない仏様。仏像も数少なく四国八十八箇所・第五十五番札所光明寺南光坊、また、大三島の東円坊にある木造金剛界大日如来坐像が、古仏としては唯一存在している大通智勝如来と言われている、とWikipediaにあった。

由緒にある開山の大暁禅師は立派なお坊さんのようである。で、何故この地に?チェックすると、元寇の変で勇名を馳せた第26代当主・河野通有が大宰府にて大応国師門下の参禅者であり、大暁禅師も大応国師18哲のひとりとして修行中でもあり、河野家と縁ができたのであろう。
また、開山時は臨済宗であるが、後年第35代当主・河野通宣に招かれて中興開山の租となった玄室大和尚の時に曹洞宗に変わったようである。

来島通総の供養塔
山門を潜り本堂、境内にある観音堂、一畑薬師如来を祀る薬師堂に御参り。薬師堂の横に山に入る道があり、そこを上ると来島水軍の墓所がある。一番左に建つ宝篋印塔は来島通総の墓(供養塔)とのこと。河野通朝ゆかりの地を訪ねたのだが、来島村上家・通総の供養塔に出合うとは思わなかった。4回に渡って辿った高縄半島の来島村上氏の古跡散歩が懐かしい(そのⅠそのⅡそのⅢそのⅣ)。

通総の供養塔は江戸時代に作られたようである。既述の如く、主家河野に離反し毛利に攻められ一度は秀吉の元に逃れたとも伝わる通総であるが、秀吉の四国征伐では先鋒を務め、姓も村上から来島と改めた人物。朝鮮出兵の慶長の役で戦死。
(なお、基本お墓とか供養塔の写真は撮らないことにしているので写真はなし、;です;以下同じ)

来島通之の墓
さらに道を上ると「来島通之」の墓がある。既述、来島村上家の長男であるが庶子故に得居家を継いだ得居通幸(通之)のことである。兄通総が毛利に攻められ秀吉の元に逃れるも、通之は鹿島城、恵良城を守る。兄と同じく、朝鮮出兵の文禄の役で戦死している。

此の地に来るまで知らなかったのだが、来島通総の供養塔、来島(得居)通之の墓があるのは、山門前の由来にあった、当寺を再興した故のことだろう。

童話碑

境内には「開基家遠孫久留島武彦先生は童話の大家にして、世人より童話の神様とあがめられる高階龍仙禅師より諡号せられて禅機殿誠心話徳童訓大居士と称す、その偉徳を顕彰するために豊後森京都嵐山についで伊予水軍のゆかりの当山に童話碑を建立して後代に伝えるものなり。昭和51年10月居士の17回忌に誌す、大通寺34世 大進廓明代建之、とある。池内功先生「エヒメアヤメの里」より」と刻まれた石碑がある。
Wikipediaには「久留島 武彦(くるしま たけひこ、1874年6月19日 - 1960年6月27日)は、大分県玖珠郡森町(現・玖珠町)出身の児童文学者。童謡『夕やけ小やけ』の作詞者でもあり、中野忠八や忠八の弟で久留島の娘婿の久留島秀三郎らとともに日本のボーイスカウト運動の基礎作りにも参画した。運動の一環として訪れたアンデルセンの生地などでアンデルセンの復権を訴え、心を動かされたデンマークの人々から「日本のアンデルセン」と呼ばれた」とある」とある。

『夕やけ小やけ』は「夕焼け小焼けで日が暮れて・・・」とは違う童謡である。WEBで音源をチェックすると、中村雨紅の詞に、草川信が曲をつけた『夕焼け小焼け』の物悲しい曲想とは異なり、軽快な調べの童謡であった。『夕焼け小焼け』を口ずさみながら中村雨紅の生まれ故郷、陣馬街道の「夕焼け子焼けの里」を歩いた頃のことを思い起こした。

久留島 武彦は説明の通り、関ケ原の戦で反徳川の西軍に加わった来島氏が、豊後の森に転封となった森藩の末裔で、姓も来島から久留島と改め、明治維新後華族(子爵)となった。


最明寺;11時24分
大通寺を離れ、恵良山裾の最明寺に向かう。恵良山城に上るに際し、車をデポさせてもらえば、といった心持ちではあったのだが、駐車場にはお寺に関係ない駐車は遠慮願いたい、といった案内。デポは諦め、ついでのことでもとお寺様にお参り。
小林一茶
境内に小林一茶の石像と句を刻んだ石碑。その横には句の案内。石像下の句は「雀の子 そこのけ そこのけ御馬が通る」「やれ打つな蠅が手をすり 足をする」「痩せ蛙 まけるな一茶ここにあり」といった、詩心に縁遠い我が身でも知っている句ではある。
「痩せ蛙 まけるな一茶ここにあり」の句は、足立区の炎天寺を訪ねた時に出合った句。炎天寺のある当時の竹塚村は一面の水田地帯。初夏ともなると、あちこちでカワズが鳴き合う、蛙合戦として江戸でも有名であった、と言う。

その傍にあった案内には二つの句と説明がある。そのひとつは一茶の句で「朧々 ふめば水なり まよい道 小林一茶;西(最)明寺に辿りついた一茶は西明十一代住職竹苑文淇上人(月下庵茶来)に面会を求めたが、既に十五年前(天明元年)に亡くなっていた。更にここでの宿も断られ、一茶は大いに落胆した」との説明があった。
もうひとつは「枝折れて 何と這うべき蔦かづら 月下庵茶来;句碑は本堂横に建っている。茶来は一茶の師二六庵竹阿の俳友で、一茶は茶来を頼りに西明寺を訪れた」とある。
一茶の道
上述の如く、先般鎌大師から鴻之坂越をするとき、鎌大師の傍に「一茶の道」の案内があった。その案内には「俳人小林一茶がこの風早の地を訪れたのは、寛政7年(1795)旧1月13日のことでした。「寛政七年紀行」により、その様子を知ることが出来ます。寛政7年、観音寺の専念寺(五梅法師)で新年を迎え正月8日に寺を出て松山へと向ったのです。
「松山の十六日桜を見るために」と記されていますが、本来の目的は師茶来(俳号。月下庵茶来又は竹苑とも称した。文淇禅師という高僧)や、当時既に全国的に知られていた竹阿の遺弟である松山の俳人栗田樗堂に会うことであったと言われます。
その茶来が住職をつとめていたのが風早上難波村の西明寺(現最明寺)です。 そのときのことを、次のように記しています。
十三日 槌□(樋口)村などいへる所を過て七里となん、風早難波村、茶来を尋ね訪ひ侍りけるに、巳に十五年迹に死き(と)や。
後住西明寺に宿り乞に不許。
前路三百里、只かれをちからに来つるなれば、たよるべきよすがもなく、野もせ庭もせをたどりて
朧々ふめば水也まよひ道、
百歩ほどにして五井(私注:高橋五井。庄屋で俳人。名水を求めて井戸を堀り5本目で求める水を掘り当てたのが名前の由来)を尋当て、やすやすと宿りて 月朧よき門探り当たるぞ(後略)」とあった。

「一茶の道」が集落を通ることは覚えていたのだが、最明寺のことはすっかり忘れていた。説明を読むに、この句は、俳友を頼りに訪ねてきたのに、その人は既に亡くなっており、寺に泊まることもできず、朧月夜のもと、水溜まりに足を取られながら、心細げに歩く姿が目に浮かぶ。詩心の乏しい我が身にも、結構伝わる。
それはともあれ、宿泊を断った寺が、その句を堂々と案内に載せる?チェックすると、茶来が住職の頃、寺は火災で焼失。茶来の没後は寺も困窮し、接待しようにもその余裕が無かったようである。

一茶の風貌
ところで、境内にあった一茶の石像。結構ふっくらしている。30代の7年間、伊予など西国を彷徨った「漂白」の俳人のイメージとそぐわない。チェックすると、二宮崇さん作成のWEB「伊予細見」に以下の記述があった;
「金子兜太著『一茶句集 古典を読む9』(岩波書店)から孫引し、勝手に口語に書き換えてみる。「今となっては、一茶の風貌を知る手だてはほとんどない。しかし、土地の古老たちに尋ねてみると少しは想像できなくもない。背はあまり高くなく、横に広がって見えるほど肥っていた。
顔はでかくて頬はふっくら、目は細く口はでかい。広い額には深い皺が刻まれ、頬骨が張っていて目尻は長く切れていて、鼻は小鼻が大きい。でかい口の唇は厚く、耳たぶは豊かに垂れている。手足はわりと大きく、ことに手の指が太くて節くれ立っていたのだそうだ」。
一読して、一茶について啓蒙されることの多かった金子の本には一茶研究で知られる作家瓜生卓造の「長身痩躯の良寛の俤(おもかげ)は薄れ、赫(あか)ら顔怒り肩の一茶が濃くなっていく(「伊予細見」より)」とあった。 漂泊の俳人のイメージではなかった。

最明寺の歴史
単に車をデポしようと寄った最明寺であるが、一茶のこともありあれこれチェックしていると、結構歴史のあるお寺さまであることがわかった。
「えひめの記憶」に拠れば、「名前の最明寺とあるように、出家後、最明寺入道と称し廻国伝説の残る鎌倉幕府五代執権・北条時頼により弘長元年(一二六一)開山とも伝わるが、それは全国各地に残るお話であり、開山は不詳。その後荒廃し、中興の祖は月菴宗光(一三二六~一三八九)とのこと。応安七年(一三七四)頃とのことである。
月菴宗光は、前述大通寺開山大暁の法嗣で、北条の里に宗昌寺を開山した大虫宗岑の厳しい教えに耐え、ひとり奥義を継承し、宗昌寺二世となるも最明寺を再興し中興開山となった。最明寺は、その後長く衰退の後、慶長八年(一六〇三)松山天徳寺開山南源によって中興している。

北条市の大通寺・宗昌寺・最明寺の三寺は、鎌倉建長寺の南浦紹明(大応国師、~一三〇八)の法系の高僧(峰翁祖一(大暁禅師)―大虫宗岑(大証禅師)―月奄宗光(大祖禅師))の開山になっている。
鎌倉で蘭渓道隆に参禅後入宋、帰朝後大宰府崇福寺、京都万寿寺を経て建長寺に止住、その門から宗峰妙超などの高僧を輩出し、大応派の祖となった南浦紹明(大応国師)法系と北条のかかわりは大通寺でメモした通り、元寇の変で勇名を馳せた第26代当主・河野通有が。大宰府にて南浦紹明(大応国師)門下の参禅者として、大応国師18哲のひとり大暁禅師との縁ができたことがすべてのはじまりかと思える。




■恵良城跡■

「県指定文化財(史跡)恵良城跡 恵良山へ」の木標;11時31分 
車デポだけの予定にしていた大通寺で思いがけずのあれこれに出合い、結構メモがながくなった。しかも、寺関係者以外の駐車はご遠慮願いたいとのことであり、デポは諦め、お寺様に向かう途中見かけた「県指定文化財(史跡)恵良城跡 恵良山へ」の木標がある分岐点に戻る。


車デポ地;11時35分
分岐点から1.5車線の簡易舗装された農道(林道?)を上るとふたつ溜池。農道から溜池の間の急坂を登る。かろうじて車の向きを変えるスペースもあり、農作業に向かう軽トラックなどの邪魔になることもなさそうであり、車をデポ。農道に戻り、正面に恵良山を見上げながらミカン畑の間をのんびりと進む。

土径が分かれる
道を少し進むと簡易舗装の道から右手に土径が分かれる。登山道のようだが、道が途中で切れている。行き止まりとなれば藪漕ぎとも思ったのだが、距離もそれほどあるわけでもないので、結局そのまま簡易舗装道を進むことにした。

腰折山への分岐
道を進み、ヘアピンカーブの手前に腰折山への分岐。地図を見ると、登山路は途中で切れており、推察するに、恵良山を150m等高線に沿って巻き、腰折山との間の鞍部を抜けて、最後は腰折山のピークに這いあがるようだ。藪の時期でなければ「プチ縦走」もいいかも知れない。

平坦地に;11時46分
ヘアピンカーブを曲がり石段の奥に鳥居が見える辺りは平坦地となっている。駐車するスペースもある。簡易舗装ではあるが、車でここまで来れそうだ。
平坦地の端に「城構えのイラストと恵良城の案内」がある。その脇に下からの土径が見える。先ほど分岐した土径がここまで続いているのかも知れない。

「城構えのイラストと恵良城の案内」
「恵良城(上難波): 伊予旧跡史に「天暦2年(948年)河野散位親経が城を恵良山に築いた」とあり、標高302メートルの山頂に天険を巧みに利用した石積みや延長130メートルの帯状の腰曲輪、各所に張り出した桝形郭の名残り等、中世の山城として貴重な資料を提供してくれる城跡で、湯築の本城の控え要地として河野氏盛衰に直接的役割を果たした城である」との説明があった。






恵良神社奥之宮の鳥居;11時48分
舗装道から石段を上り鳥居を潜る。恵良神社奥之宮の鳥居であろう。鳥居手前は平坦地となっており、「恵良城」と「ノブキビャクシン」の案内がある。

恵良城
「恵良城跡 愛媛県指定史跡 昭和52年4月15日指定
浅海地区と難波地区との境にある恵良山を中心とした城で、湯築城の控え要地として河野氏盛衰に直接的役割を果たした。
天険を巧みに利用した石積みや延長130メートルの帯状の腰曲輪、各所に張り出した桝形郭、貯水井戸の遺構などが残存する。
更に西南方の斜面には、三段の土塁跡があり、腰折山に向う鞍部高地に拠点を構え、敵を谷間や尾根に誘い込み前後あるいは左右から挟撃する、水軍戦法をめざした構え、また一度に多くの兵が殺到できないよう地形を利用したかためをしていたもののようである。
養和元年(1181年)備後の奴何入道西寂が来攻したとき河野通清は恵良城などを守らせたとするのが初見で、南北朝時代には河野通堯をはじめ河野氏諸将の居城となった。
天正13年(1585年)河野氏滅亡ののち、来島康親の居城となったが、関ヶ原の戦い後、豊後国森へ移封され、この恵良城は廃城となった。

イブキビャクシンの自然林
松山市指定天然記念物  昭和38年2月16日指定
ここ恵良山では、この地方に珍しいイブキビャクシンの自然林が見られる。 林はこの恵良山の八合目、通称「崖」の下段から上一帯の安山岩地帯にわたっている。幹の大きさは根回り1m~1.5m前後のものが多く、総立木数は、15に及んでいる。最大のものは山の東南の崖上に見られ、根回り4.1mもあり、目通りの高さから数本の巨枝を分かち、更に枝葉を茂らせて樹齢は約600年と推定されている。
この地方では、古くからイブキビャクシンは水分をよく保存する植物として大切にせられ、また河野一族がここに居城を構えるにあたっても防風林として保護し伐採を禁じたため、山麓の住民は地下水に不足しないと伝えられている。

山道を山頂削平部へ;12時
鳥居を越えると石段も無くなり、九十九折れの山道となる、石垣の遺構らしきものを見遣りながら進むと左手が開けてくる。その先は山頂部の削平地である。






山頂削平部
広場から北条沖の鹿島が一望のもと。広場に立つ建屋は通夜堂とのことである。通夜堂の周囲にはイブキビャクシンの巨木が聳える。







主郭部;12時7分
城の主郭部は通夜堂の裏、平坦部より少し小高い岩場の上にある。小さな木の通りを潜り、岩場を辿る。岩に張り付く巨大な根はイブキビャクシンのそれであろうか。
岩場の上は恵良山神社、石鎚神社が祀られる。岩場の山頂は結構広い。四方の眺めを楽しみながら少し休憩。

鎖場を下りる
頂上岩場を廻っていると、鎖場があった。山頂へのアプローチは鳥居から岩場をゆっくり上るコースと、鎖場から一気に山頂に上るコースがあるようだ。
それほど長くもない鎖場を下り、岩場を巻いて削平地に戻る。

車デポ地に戻る;12時54分
ここからは来た道を下り、車デポ地の池の近くで、簡易舗装道を池に向かう亀を池に戻してあげ、車に乗り込み次の目的地である腰折山に向う。






■腰折山■




鎌大師;13時14分
腰折山の車デポ地として鴻之坂越への時に訪れた鎌大師に向かう。が、ここもお寺の御参りにちょっと境内に停める分にはいいだろうが、駐車場といったものはなく、諦める。
鎌大師
案内には「鎌大師境内 弘法大師が行脚の途次、この地に悪疫が流行しているのを哀れんで、村人に鎌で刻んだ大師像をあたえたところ、無事平癒したので、その大師像を本尊として、この地に堂を建て、「鎌大師」と呼んで深く信仰されて来たと言い伝えられる。
昭和48年、境内にある芭蕉塚、十八人塚、大師松とあわせて文化財に指定されたが、大師松は平成6年、松喰虫の被害により枯死した。 芭蕉塚は表に「芭蕉翁」、裏に「寛政五葵丑歳中秋十九日藤花塚築之 松山の白兎、二要、扇??、風早の兎文、壺茗、圃方、杜由、可興、梅長、恕由」と刻まれている。
十八人塚は、南北朝の戦乱に敗れた赤橋重時主従をいたんで、鎌倉末期に立てられた墓所と言い伝えられている。(松山市教育委員会)」。
十八人塚
石室の奥に祀られてる。赤橋重時は北条高時の一族。南北朝動乱期に北朝側として恵良城を本拠に宮軍の土居勢と戦うも敗れ、逃れて立烏帽子城(西条市の面木山(おものきやま)の山頂あった城)にて宮軍勢と対抗。戦いに利あらず、最後は打ち首とも自決とも伝えられる。
恵良城を烏帽子城、冠城とも称すようで、立烏帽子城と混乱したが、『伊豫温故録』に「赤橋重時は北條の一族にして當國の守護に置たるものなり、初は當城(私注;恵良城・烏帽子城・冠城)に居たるが土居得能のために攻め破られて城を守る能はす偽りて自殺と称し、潜に城を逃げ出つ、其の後周布郡鞍瀬山の険に據り、砦を構へて立烏帽子と称し、再び兵を挙げしが、得能今岡等に攻められ、遂に虜となり、誅に伏せり」とあるので、恵良城(烏帽子城)とは異なる西条の城のことのように思う。
因みに、根拠はないのだけれど、最明寺開山の縁起に北条時頼が登場するが、それはこの赤松重時と北条氏の繋がり故の伝説だろうか。全国に伝わる時頼廻国伝説は、北条氏の領地に多いといった記事を目にしたことがある。単なる妄想。根拠なし。

車デポ地
鎌大師への車デポを諦め、先日この辺りを歩いたときに出合った、鴻之坂線と呼ばれる2車線のえらく立派な道路脇にデポしようと集落を抜けて鴻之坂線との合流点に向かう。地図に破線で描かれる(途中で切れているが)腰折山登山口と思われる地点の傍である。

腰折山登山口;13時25分
車デポ地から車で上って来た坂を下ると、道脇に「腰折山 エヒメアヤメ登山口」の木標が見える。矢印に従い左に折れる。簡易舗装の道の右手には、腰折山から鴻之坂を隔てた北の新城山や瀬戸の海が見える。




「イヨスミレ・エヒメアヤメ」の案内;13時28分
腰折山をトラバース気味に20mほど標高を上げると「イヨスミレ・エヒメアヤメ」の案内があった。

イヨスミレ 松山市指定愛媛県指定天然記念物
イヨスミレは、この腰折山で、明治31年(1898)4月17日に、松山市の梅村甚太郎が発見し、牧野富太郎が命名したものである。しかしその後、樹木繁茂とともにその姿を消してしまって、幻のスミレと言われて来た。が、昭和24年(1949)湯山勇が再発見した。
命名後、長野県などでも見つかり、現在では本州、四国に隔離分布しているゲンジスミレの別名とされている。
小型の無茎種で、葉は少数で卵形または円形、基部はハート形で若い葉には細毛があり、表面は紫色で、ときに葉脈に沿って淡泊色の斑が入る。裏面は淡緑色または紫色をおびている。花は小さくごく淡い紅紫色で、距は萼片よりも長くて細い円筒形、花柄と果実にも細やかな毛がある。
前川文夫の説によると、氷河時代に大陸から南下し生き残った植物の一つとされておいて、エヒメアヤメと共に大陸の遺存植物が二つともこの腰折山にあることは不思議というほかはない」

エヒメアヤメ自生南限地帯 国天然記念物
エヒメアヤメは、明治32(1899)年、牧野富太郎によって名づけられたが、古来よりダレユエソウと呼ばれている植物と同種であったことから、ダレユエソウ(別名エヒメアヤメ)と改められた。しかし大正14(1925)に国内6カ所の自生地が「エヒメアヤメ自生南限地帯」として指定されたことから、エヒメアヤメの名で呼ばれるようになった。また伊予節のコカキツバタもエヒメアヤメの別名である。
エヒメアヤメは、アヤメ科の小型の植物で、根茎はやや偏平で細くやせ形、葉は線形で薄く、長さは15センチメートル内外である。
3月下旬に開花し、高さ10センチメートル前後の花茎に一花をつける。花色はうすい紫色で外花被片の中央から基部にかけて黄色をしている。
元来中国東北部から朝鮮半島に分布する植物であるが、我国では中国、九州、四国の瀬戸内海に沿う各地に自生し、当地を含め広島県三原市・山口県下関市・防府市・佐賀県佐賀市・宮崎県小林市の六ヶ所が自生南限地帯として天然記念物に指定されている。

エヒメアヤメ石碑:13時33分
ゆるやかだった登山道も、「イヨスミレ・エヒメアヤメ」の案内を越すと、等高線に垂直に尾根筋を上ることになる。山頂地帯は木々に覆われているが、その下の開けた山稜を少し上ると「エヒメアヤメ自生南限地帯」と刻まれた石碑がある。周囲にネットで覆われた一帯に季節の頃エヒメアヤメが咲くのだろう。 見下すと鹿島が美しく瀬戸の海に浮いている。

腰折山山頂;13時47分
ジグザグの登山道を進むと鬱蒼とした木々に覆われた一帯に入る。道もあまり踏まれておらず、わかりにくい。成り行きで何とか「腰折山 214m」と書かれた木標のある地点に辿りつく。木々に覆われ、山頂からの見通しはほとんど、無い。山頂で休憩しようにも、それらしき場所もない。
戻りは案の定踏み分け道を読み違え、あらぬ方向へと下っていった。結構な藪となっており、少々難儀しながらも、GPS を頼りにエヒメアヤメ石碑辺りまで戻り、下山。
本日の計画であった恵良山と腰折山をカバーし、2回に渡った旧北条市に残る河野氏ゆかりの寺や山城歩きを終える。
今年の夏だっただろうか、たまたま図書館で『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』を見つけ、そこに記載されている旧壬生川・丹原(現西条市)と一部今治に点在する河野氏ゆかりの地を辿った。br> 7回にわたるメモの最後に、「これで、『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』に説明のあった河野氏ゆかりの地は、ほぼ歩き終えた。次は、前々から気になっていた河野氏の本貫地である旧北条市(現松山市)に足をのばし、高縄山の山裾にある河野氏の館跡・善応寺、その館を囲む山城である雌甲山・雄甲山、高穴山、そして河野氏の合戦の折々に登場する恵良山の山城・砦跡を辿ろうと思う」と記した。

今回はその河野氏の本貫地である伊予北条(現在松山市)に出向き、高縄山の西麓、河野川と高山川に挟まれた河野氏の旧館跡や館を囲む山城を辿る。河野氏は、この地を開墾し、開発領主として力をつけていったと言われている。

河野氏の居館
Google earthで作成
河野氏の館について「えひめの記憶;愛媛県生涯学習センター」には、「北条平野の中央部に、風早郡五郷の一つ河野郷があり、平野から約四キロメートルほど東へ入り込み、南・北両側を平行して東西に連なる標高約一二○~一三〇メートルの低い丘陵に挾まれた馬蹄形の小平地―善応寺部落がある―に、両丘陵を天然の土塁として土居は構築された。
高縄山(標高九八六メートル)の西斜面に発し、山麓西部を開析して、高穴山(標高二九二メートル)の南側を西流する河野川と、雄甲山(標高二三八メートル)・雌甲山(標高一九二メートル)の南側を河野川と平行して西流する高山川とが、土居内を防衛する濠の役割をつとめた。
東へ向かって緩傾斜の耕地をのぼりつめると、土居の内全体から斎灘までの展望がきく標高七〇メートルの高台があり、建武年間河野通盛が、土居館を改築して創建した河野氏の氏寺善応寺がある。『善応寺縁起』などによって(善応寺文書・一二四一)、寺創建以前の土居館が広壮雄大な居館であったと推察される。この居館の周辺には、河野館の防衛にあたる一族郎従の屋敷が設けられていた」とあった。

善応寺は、鎌倉末期から南北朝期にかけて活躍した第27代当主・河野通盛が、一族の本拠を河野郷から道後湯築城に移すにあたって、それまでの居館を寺院に改めたものといわれている(異説もある)。

高縄山城
河野氏の足跡をチェックすると、「高縄山城を攻める」「高縄山城落城」といった表現が記録に残る。この高縄城については「河野郷土居の東部、居館の背後にそそり立つ雄甲・雌甲の二岩峯と、土居の北東端に聳える高穴山には、天嶮を利用してそれぞれ山城を構築して、三つの山城があいまって土居全体の防衛を堅固にしていた。
とくに高穴城は、源平合戦当時築かれていた河野氏の主城で、「山高、谷深、四方嶮難」(予陽河野家譜)の要害堅固の城であった。(中略)この三城と背後に高く聳える高縄山一帯を総称して高縄山城といったとおもわれる(「えひめの記憶」)」とあった。
高縄山城とは雌甲山・雄甲山、高穴山の山城と、背後に高く聳える高縄山一帯を総称して高縄山城と称したようである。


本日のルート;
■善応寺;12時11分
■雌甲山・雌甲山
城山道(北口)>舗装された道を進む>尾根手前分岐
◆雌甲山に向う>尾根分岐点>雄甲山
◆雌甲山
雌甲山に向う>城山道標>善応寺に戻る
■高穴山
高穴山取り付口>削平部に>堀切>山頂>下山

善応寺に向かう
実家の新居浜から西条、今治を国道196号で進み、斎灘の海岸線を走り、菊間・浅海を越え、鴻之坂越えの際に目にした恵良山、腰折山の特徴的な山容を見遣りながら進むと旧北条市(現松山市)に入る。
北条に入り、JR北条駅前を越え、河野川に架かる橋を渡り左折し県道178号に乗り換える。県道を少し南に進むと、県道脇に沿うように右に分岐する車道があり、道なりに進み集落の間を抜けると善応寺に到着する。
県道178号
瀬戸内の沿って進む国道196号と高縄山地・石ヶ峠を経て高縄山中の国道317号を結ぶ。河野氏ゆかりの高縄寺が建つ高縄山に向かうには、石ヶ峠で県道を離れ、一車線(1.5車線?)の道を進むことになる。
河野川
いつだったか高縄寺を訪れたとき、石ヶ峠から高縄寺に向かう道、ヘアピンカーブの曲がり角に河野川の源流点があった。通常の地図では、川筋は結構下流で切れているのだが、カシミール3Dのプラグインである「タイルマップ」を使い、国土地理院地図に「川だけ地図」をオーバーレイ(重ね合わせ)すると、川筋は石ヶ峠の少し西まで伸びており、源流点から「川だけ地図」の川筋跡までは、等高線の谷筋を結べば繋がった。
河野川はその名前の通り河野氏の本貫地、風早平野(往昔の風早郡河野郷)を流れ、JR 予讃線・柳原駅の東で瀬戸内に注ぐ。


善応寺;12時11分
地蔵菩薩、馬頭観音を祀る小祠の手前に、平成に建てられた「河野 善応寺」の石碑がある。右手の坂を上り駐車場に。石組の塀に囲まれた境内前に「中世伊予の豪族 河野氏発祥の地 風早郡河野郡」と刻まれた大きな石碑が建ち、その傍に「碑誌」と、往昔の善応寺の威容を示すイラストがあった。
碑誌
河野氏は、伊予国第一の大族で、風早郡(現北条市)河野郷土居(善応寺)この地より起こる。
中世伊予を代表する武士であった河野氏は、河野郷を中心として発展するが、確かな記録では、平安時代の末期から地方豪族として、広く世に知られるようになった。
特に源平合戦で活躍した河野通信が、確固不動の地位を獲得し、瀬戸内海に面する伊予の実権を掌握した。
瀬戸内海に突出する高縄半島にある河野氏発祥の地、河野氏の本拠である河野郷土居は、中世伊予の軍事・経済・文化の中心で、日本の政治と深く係わり合って、波瀾にみちた歴史を生んだところである。

往昔の善応寺の威容を示すイラスト
イラストには、「(創建当時の好成山善応寺)河野氏の館、土居館を寺城として建武2年(1385年)京都の東福寺に模して建てた伊予の守護職通盛の時である」とのキャッチコピーの下に七堂伽藍・塔頭が建ち並ぶ大寺群が描かれ、その下に説明がある;
「建武年間、河野通盛が道後に湯築城を築き、河野氏の本拠地を道後に移し、それまでの河野の土居館を寺院に改築し、河野一族の氏寺として、好成山善応寺を創建した。
創営当時は、善応寺古文書によると、七堂伽藍・十三塔頭寺院が並び、近世の善応寺村全域にわたる広大な大禅刹であったが、天正年間、豊臣軍の四国攻めにより、諸堂一朝の灰塵となる。
江戸中期、徳川将軍吉宗の厚遇を受け、今の地、明智庵跡に、松山藩主松平定長により、現在の善応寺を再建した」とある。

境内に入る。雌甲山を背後に控えた本堂の姿は予断故か、戦いに備えた館の風格が感じられる。本堂にお参り。お寺様の縁起案内には;

善応寺縁起(冶革)
開基河野通盛(1364没)は、通有の末子に生まれ 河野総領家を継いだが、元弘の乱(1331)に失脚し、鎌倉建長寺の南山士雲をたより、旧勢を保つことができた。
この時、南山士雲の恩に報いるため、河野郷土居館を京都東福寺に擬して寺院に改築し、建武2年(1335)に河野一族の氏寺として好成山善応寺を創営した。 通盛(法名善恵)は、南山士雲の法嗣正堂士顕を東予市長福寺(私注;通有建立の寺)から迎え開祖としたが、正堂法嗣の寺として永代住持(住職)を定めた。 この後、貞治3年(1364)には、諸山の列(官寺)に加えられた。
古文書によれば、寺域を「東限鳩谷之透、南限揚岐庵山過山峰之透、西限裟婆山之透、北限土居山尾新宮山」とし、現在の善応寺部落全域にわたり、その面積は60町歩に及ぶ広大なものであった。
七堂(仏殿・法堂・僧堂・万丈・庫司・東司・浴室)十三塔頭(通玄庵・萬松院・千手院・養寿院・大崇院・宗玄院・林少院・萬年寺・一心庵・見寿庵・明智庵・霊雲庵)を有する大禅利であった。
その後、善応寺は代々河野氏の帰依を受け盛観を呈したが、天正13年(1585)7月河野氏没落と共に戦火に焼失荒廃した。
江戸時代中期、善応寺17世の黙翁士徹によって、将軍徳川吉宗の厚遇を受け、明智庵のあとに現在の善応寺を再建した。

河野通盛の墓
本堂の左手に石組の小高い塚があり、河野通盛が眠る。墓にお参りし、本堂に戻る。寺仏や寺所蔵文書の案内がある。

木造釈迦如来及び両脇侍坐像(県指定有形文化財;彫刻)
「中尊の釈迦如来坐像は、像高104センチメートル、台座96センチメートル。衲衣(のうえ)や台座の彫が力強く、肉感的のある写実的な面相をもった釈迦仏である。
脇侍の文殊菩薩像は像高54センチメートル、普賢菩薩像は像高52センチメートル。騎乗する獅子と象は肉感にあふれ、鎌倉時代の特徴をよく表している」。

木造達磨大師倚像・木造大建修利菩薩倚像・三牌(松山市指定有形文化財;彫刻)
重複する部分はカットして、概略をまとめる;
「木造釈迦如来及び両脇侍坐像とともに造像されたもので、寺伝によれば安阿作と。檜材の寄木造り。仏像の前に並ぶ「三牌」は開山正堂士顕の法兄である広智国師の真跡と縁起にある。広智国師は鎌倉の円覚寺、建長寺、京都の東福寺に住した高僧である」。

三牌
「三牌」ってはじめて聞いた。説明よれば、仏さまの前に並ぶ三つの「牌」のようだ。中央に「今上皇帝聖躬万歳」、両脇に「南方火徳星君聖衆」、「檀那本命元辰北斗」と刻まれた三つの牌がある。
案内には三牌とは何?の説明がない。チェックすると、「今上皇帝聖躬万歳」と刻まれた「牌」は、都の大寺において、天皇の健康と長寿を祈るもの。天牌、天皇牌、皇帝牌などと称されるようで、宋時代に禅宗寺院に祀られたものが日本に伝わった。両脇に控えるふたつの牌は詳細不詳。天皇牌を護るためのものだろうか?
それにしても、都の大寺はともあれ、伊予に天皇牌が祀られる所以は?開山正堂士顕の法兄、鎌倉の円覚寺、建長寺、京都の東福寺に住した高僧・広智国師故のものか、在京期間の長かった河野家当主・通盛故のものか不詳である。

金銅誕生仏立像(県指定有形文化;彫刻)
奈良時代後期とみられる像高10センチの銅像・鍍金の仏さま。大正13年(1924)に善応寺塔頭万年寺跡の灰層より掘り出された。

善応寺文書(県指定有形文化;文書)
南北朝時代から江戸時代にわたる河野氏と河野氏にゆかりの深かった西園寺氏関係の文書。内容は、足利義詮の御教書(写し)、庁宣状(役所から出す公文)、河野氏の下知状、寺務状、譲渡状、禁制、西園寺氏の寄進状作職権、半済(室町時代の租税の一つ)など五巻六十九通の巻物で、河野家の勢力台頭を物語る重要資料である。

西園寺氏と伊予
河野氏にゆかりの深かった西園寺氏」のエビデンスとしてお公家さんの西園寺氏が河野氏とペアとなって登場する例を挙げると、宮方に帰順し伊予の守護となった通堯(第29代当主)とともに知行国主として府中に入城したこと、そして武家方に復帰した通堯に与し同じ武家方の細川氏と戦い討死している。この場合の西園寺氏とは西園寺公俊公のことではあろう。
西園寺公俊の妻は河野通朝の娘というから、通堯とペアで動くその動向はわからなくもないが、それはともあれ、京のお公家さんである西園寺氏の流れが伊予に土着したのはこの公俊の頃と言う。
西園寺氏と伊予の関りは鎌倉期に遡る。鎌倉幕府が開かれ守護・地頭の制度ができた頃、当時の当主西園寺公経は伊予の地頭補任を欲し、橘氏からほとんど横領といった形で宇和郡の地頭職となっている。当時は、地頭補任は言いながら、伊予に下向したわけではなく代官を派遣し領地を経営したようである。
その後鎌倉幕府が滅亡し建武の新制がはじまると、幕府の後ろ盾を失った西園寺氏は退勢に陥る。伊予の西園寺家の祖となった西園寺公俊が伊予に下ったのは、そのような時代背景がもたらしたもののようである。
伊予西園寺氏は宇和盆地の直臣を核にしながらも、中央とのつながりをもち、その「権威」をもって宇和郡の国侍を外様衆として組み込んだ、云わば、山間部に割拠する国侍の盟主的存在であったとする(「えひめの記憶」)
橘氏
橘氏ははじめ平家の家人であったが、源平合戦期に源氏に与し多くの軍功をたてる。鎌倉幕府開幕時の守護・地頭の制度により、鎌倉御家人として宇和の地の地頭に補任される。その橘氏の所領の地に西園寺氏が触手をのばす。
橘氏は、宇和は警護役として宇和島の日振島で叛乱を起こした藤原純友を討伐して以来の父祖伝来の地とも、頼朝よりの恩賞の地とも主張するも願い叶わず、宇和は西園寺氏の手に移り、橘氏は肥後に領地替えとなった、とのことである(「えひめの記憶」)



■河野氏の盛衰(通盛まで)■

善応寺の開基は河野通有の末子、河野通盛とある。通有は河野家第26代当主、通盛は第27代当主である。7回にわたる壬生川・丹原地区(現西条市)に残る河野氏ゆかりの地を訪ね、歴代当主について、その事蹟をまとめてきたのだが、既に記憶が薄れてきた。ここに第27代当主通盛に至るまでの河野家当主の概要を整理しておく。

鎌倉以前;伊予国衙の役人であったよう
鎌倉以前の河野氏については、国衙の役人であったらしい、というほか、詳しいことは分からない。その本貫地は善応寺の一帯。伊予北条(現在松山市)の南部、河野川と高山川に挟まれた高縄山の西麓であったようだ。この地を開墾し、開発領主として力をつけていったと言われている。

鎌倉幕府開幕期;源氏に与し威を張るも、承久の変で宮に与し衰える
記録が残るのは第22代当主河野通清からである。第22代当主・通清は頼朝の平氏打倒の挙兵に呼応し四面楚歌の中、通清は敗死するも、その子通信(第23代)の武功により鎌倉御家人としての確固たる地位を築く。
しかし、頼朝没後、承久の変において後鳥羽上皇に与し敗れ、河野氏は没落。一族の内、ひとり幕府側に与した通久(第24代)によって河野家の命脈は保たれる、といった状況となる。

元寇の変の武功で勢を回復するも、内紛で一族は分裂
この衰退した河野家を復権させたのが第26代当主・河野通有。元寇の変で武功を立て盛時の威を取り戻す。
通有の元寇の変における活躍によって往時の勢を回復した河野氏であるが、通有没後、家督相続や嫡庶間の競合や対立により、一族間の抗争が激化。河野一族は、通有の後を継いだ通盛(第27代)の率いる惣領家と、土居通増や得能通綱らの率いる庶家とに分裂し、鎌倉末期から南北朝時代へと続く動乱のなかにまき込まれていくことになる。

善応開基の通盛までの河野家の盛衰を簡単にまとめた。で、開基通盛であるが、少し詳しくメモする。

河野通盛(第27代);
建武の中興から南北朝争乱期、武家方に与し、天皇方についた一族と分裂するも、最終的に武家方として威を張ることになる

鎌倉後期、天皇親政を目指す後醍醐天皇により、北条鎌倉幕府の倒幕運動・元弘の乱(1333年)が起こる。風早郡高縄山城(現松山市)に拠った河野宗家の通盛(第27代)は幕府側に与するも、一族の土居通増・得能通綱氏は天皇側につき、河野一族は分裂。土居・得能氏の活躍により、伊予は後醍醐方の有力地域となる。
天皇側に与した足利尊氏、新田義貞の力も大いに寄与し、結果は天皇側の勝利となり、天皇親政である建武の新政となる。鎌倉幕府は滅亡し、最後まで幕府に与した通盛は鎌倉に隠棲することになる。
足利尊氏の新政離反と河野通盛の復帰
建武の新政開始となると得能氏が河野の惣領となり伊予国守護に補任されたとある(『湯築城と伊予の中世』)。しかしながら、恩賞による武家方の冷遇などの世情を捉え、足利尊氏は新田義貞討伐を名目に天皇親政に反旗を翻す。世は宮方(のちの吉野朝側)と武家方(足利氏側)とに分かれて抗争を続け、南北の内乱期に入ることになる。
この機をとらえ、鎌倉に隠棲中の通盛は尊氏に謁見し、その傘下に加わる。尊氏は、通盛に対し河野氏の惣領職を承認し、建武4年(1337)伊予に戻った通盛は新田義貞に従軍中の土居・得能氏の不在もあり、南朝方を府中から掃討し伊予での勢力拡大を図る。
宮方の脇屋義助(新田義貞の弟)の伊予国府での病死、伊予の守護であり世田城主大舘氏明の世田城での戦死などが伊予での南朝優勢が崩れる「潮目」となったようだ。
足利尊氏も一度は新田勢に大敗し、九州に逃れるも、天皇親政に不満を抱く武家をまとめ、京に上り宮方に勝利する。尊氏は通盛に対して、鎌倉初期における通信時代の旧領の所有権を確認し、通盛は根拠地を河野郷から道後の湯築城(異説もある)に移して、足利方の中心勢力となる。
湯築城へ移った時期
湯築城に河野氏が移ったのは、河野氏が室町幕府の統制下、伊予国守護職を相伝することになった、第30代当主・河野通義の頃との記事もある(『湯築城と中世の伊予』)。
第22代当主・河野通清とは?
河野通清以前は詳細不明である、とはいいながら、第22代当主とある。その所以は世の常の如く、先祖を貴種に求め、河野氏もその祖を伊予の古代豪族越智氏とする家系図故のこと。その越智氏の一族で白村江の戦いに出陣した越智守興と現地の娘との間に生まれた子・玉澄が河野郷に住み、河野を号した。その玉澄を初代として22代目が通清、ということである。因み祖をもっと古く遡る家系図(「越智宿禰姓 河野氏系図」;第26代通有の項でメモする)もある。


■雌甲山・雌甲山■



城山道(北口);12時23分
善応寺に城山たる雄甲山・雌甲山への案内があろうかと思っていたのだが、特段の案内はない。境内を出て、農作業をしていたご婦人に尋ねると、山裾の善応寺集落の中を通る道を少し東に進めば「城山道」の案内がある、と。 善応寺から数分歩くと「城山道」の石の道標と、手書きで「男甲山・女甲山」とかかれた木の標識の立つT字路があり、そこから右に民家の間を抜ける坂道が城山道であった。

簡易舗装された道を進む
左手に雄甲山を見遣りながら簡易舗装されて道を進むと、「城山道 是より25米先右」と刻まれた石の道標が立つ。ほどなく舗装は切れ、竹藪の中にある木の道標に従い土径を進む





尾根手前分岐;12時35分
集落のT字路から10分強く上ると「右 女甲山  左 男甲山」と刻まれた石の標識がある。石の道標の脇に木の道標があり、それを見ると左右にここで分かれる道は尾根道に繋がっている。とりあえず左手の男甲山へと道を取る。





●雌甲山(標高238.62m)●

尾根分岐点:12時38分
落ち葉の敷き詰められた気持ちのいい道は数分で尾根筋にのぼり、そこにも「右 女甲山  左 男甲山」と刻まれた石の標識がある。城山道(北口)から15分弱といったところである。左の男甲山へと道を取る。




雄甲山(おんごやま);12時46分
尾根道を6分程度進み、最後は少し岩場っぽい箇所を上り雄甲山に到着。国土地理院の四等三角点とともに、小さな祠が祀られる。木々に遮られ展望はあまりよくないが、北条沖の鹿島は木々の間から顔を出していた。




●雌甲山(189.1米)●

雌甲山(めんごやま)に向う
雄甲山を離れ尾根道を戻り、分岐点を越えて雌甲山に向う。こちらは雄甲山のように、山頂直前に岩場もなく、大岩の脇を迂回して山頂に向かう。






雌甲山;13時1分
雌甲山の山頂からの眺めは誠に美しい。四方が見渡せる。瀬戸の海、雄甲山に続く稜線とその先には高縄山(993.2m)・大月山(953.1m)の山塊。雌甲山は高縄山・大月山の山塊の支尾根の北端部である。
山頂の小祠には役行者像が祀られる。傍にあった石碑には「記 中世、文武両道に優れた伊予の豪族河野氏の発祥の地善応寺は、建武2年(1335年)通盛公が土居の館に七堂伽藍、十三の塔頭を建立し善応の里と改めて、五山の一つ此、女甲山に役行者の像を小さき石に刻み、眼下の仏塔を見守る如く龍中に安置したとの伝えが残っている。
道後の湯築城へ建武年間(1334~1337年)に移るまで通盛公の居城であったと。 天正13年(1584年)豊臣の天下統一により湯築城は開城、善応の里の仏閣も一朝の灰塵に。
河野氏滅亡後は、村人たちは代々、上石丸、城木家を宿として役行者を青葉の薫る五月八日にお山講としてお祭りし今に至るも、河野氏の遺徳を忍んでいる」とあった。

城山道標;13時13分
雌甲山を離れ尾根道を戻り、雄甲・雌甲山への分岐点に戻る。成り行きで道を下るが、どうも上って来た道とは違うようだ。道はしっかり踏まれているので、そのまま下ると「左 城山道」と刻まれた古い石の道標が立つ。






城山道(南口);13時16分
少々混乱しながらも、とりあえず道を下ると里に出た。道脇には「左 城山道」と刻まれた石の道標が建っていた。上った道と真逆の道を下りてきた。城山道は南からも北からも上れるようになっていたわけだ。少々混乱した理由もわかった。
善応寺に戻る;13時35分
城山道(南口)から道なりに20分ほど進み車をデポした善応寺に戻る。来た時は気付かなかったのだが、お寺への坂道の脇に「丁石、延命地蔵、馬頭観音」を祀る祠が建っていた。丁石は高縄寺まで一丁毎に建てられていたもののひとつ。旧道にあったものが移された、とのことである。
これで、善応寺、雄甲・雌甲山散歩を終え、次の目的地である高穴山に向う。



高穴山



高穴山取り付口;13時47分
善応寺を離れ、高穴山に上る取り付口を探す。県道178号を高縄山方面に向かい、河野川に架かる岩壺橋を渡った先に高穴山に入る石段が見えた。登山道は特段表示されていないため、どこから上ろうと同じではあるが、なんとなくその石段を取り付口とする。車を道脇にデポし頂上に向かう。

削平部に;14時4分
石段を上り山に入る。が、その先に踏み跡は何もない。とりあえず山頂に向かって適当に上るだけである。Iphone アプリのGmap Toolsで現在地を確認しながら、高穴山のピークに向かって這い上がる。シダ、杉林を力任せに進むだけ。 20分弱で平坦な箇所に出た。地図で確認すると、高穴山は250m等高線の台地の上に三つのピークがある。最高ピークは北端292.1m。そこが高穴山の山頂ではあろう。
城というか砦は三つのピークにそれぞれあったようだ。また250m等高線の平坦な地形は自然のものでなく、東西に連なる尾根を削平して人工的に造りあげたもののようである。

堀切跡(?);14時4分
250m等高線の台地から292.1mピークに向かう。結構藪がキツイ。堀切り(?)らしき遺構に見えなくもない、如何にも人工的に掘り切った箇所から、これまた強烈な藪を40mほど上る。





山頂;14時8分
藪を掻き分けて進むと山頂に。広くはないが、平坦地となっている。中央に小さな祠が祀られる。周囲は木々で覆われ見通しはよくない。平坦地には小さな池が残る。水は枯れることがないと伝わる。
  この山城にあった城、というか砦は、なかなかの堅城であったようで、四国攻めの小早川勢も攻略に難儀した、と言う。

高穴城
「えひめの記憶」には、「当城は東西に連なる尾根を削平して構築した関係で、東西一二五メートル×南北一七メートルで東西に細長く、東高西低の階段式構造の郭配置をとっている。
東部に二六メートル×一四メートルの長円形をした本丸が、長さ一〇メートルの石垣をもつ三メートル×二〇メートルの帯郭を西側に配して南東→北西に連なり、本丸の西、比高一五メートルの段差をもって東西二一メートル×南北一〇メートルの長方形をした二の丸があり、その西斜面は三〇メートルから二つの尾根に分かれ、両尾根に深さ一~三メートル、幅二~八メートルの空堀が掘られ、城の大手口の防衛にあたった」とある。

下山;14時50分
山を下りる(14時15分)。頂上に出た上り口をしっかり確認せず、適当に下り、しばらくして、どうも上ってきたルートとは違うように思えてきた。Gmap Toolsで現在地をチェックすると、あらぬ方向に向かっている。270m等高線あたりから南に下りるのを、そのまま北西に下っていた。
引き返し(14時25分)。Gmap Toolsを頼りに登山地点に向けて藪を避けながら下る。途中150m等高線辺りのU字溝越える辺りまで来ると河野川の流れの音も聞こえ、安心して登山口に。

当初の計画では恵良山もカバーする予定であったが、時間切れ。恵良山は次回に廻す。

高縄半島北端部の来島村上氏の城砦群を巡る旅も、回を重ねて四回目。今までほとんど馴染みのなかった今治市の波止浜、波方地区を彷徨い、来島村上氏の城砦群を20か所以上訪ねることができた。御大雑把に言って、残すは現在松山市となっている北条地区にある鹿島城、日高城、恵良山城といったところである。
北条は結構遠い。日高城、恵良山城は山城であり、ルートやアプローチをちょっとは調べる必要もあり、とりあえず今回は、何も前もって調べる必要もない鹿島城を訪ねることにした。
鹿島城に行くことは決めたのだが、これだけでは行き帰りの手間を考えれば、ちょっと勿体ない。途中どこか寄るところはないものかと少し考える。そう言えば、高縄半島の散歩の割には、半島のシンボルでもある高縄山には訪れていない。高縄山には来島村上氏の主家でもある河野氏の祈願所・高縄寺もある、と言う。
ということで、来島村上氏の城砦群と言うわけではないが、河野氏ゆかりの地であれば、関係なくもない、と思い聞かせ、今回は鹿島城と高縄寺を訪ねることにした。




来島村上氏ゆかりの城砦群

波止浜
来島城>糸山砦跡>遠見城>近見山城
波方
波方古館>玉生城>対馬山砦>長福寺鼻砦>大浦砦
玉生八幡神社
塔の峰
大角鼻
大角の砦>大角鼻番所跡>天満鼻見張代跡>西浦砦(西浦荒神社)
梶取鼻
宮崎城>御崎神社>番所跡>梶取鼻の狼煙台
岡・小部地区
白山(岡城跡)>龍神鼻砦
白玉神社>白椿
波方駅の周辺
弁天島砦>片山砦>庄畑砦>瀬早砦>養老館
北条地区
鹿島城>日高城


本日のルート;国道317号>県道178号>石ヶ峠>河野川源流点>高縄寺山門>高縄寺本堂・大師堂>高縄山>鹿島城跡

石ヶ峠
新居浜を出るとき、ナビで高縄寺を入れる。行けるところまで車で進み、そこら先は歩けばいいと思っていたのだが、予想と異なり、高縄寺まで車で行けそうである。とは言うものの、山道は狭いだろうな、との怖れ。
国道11号から国道196号、予讃線伊予富田駅の手前で県道155号に乗り換え、北西に進み国道317号に。国道317号を進み、「水が峠」下をトンネルで抜け、石手川に沿って奥道後への国道を進み、「高縄山入口」を目安に県道178号で右に折れ、高縄山方面へと上る。道は舗装されてはいるが、基本一車線といった山道であり、対向車のないことを祈りながら車を進め石ヶ峠へに。

河野川源流点
峠には「左北条左 右高縄山」と示す標識がある。県道178号はこの峠から北条に向かって下るが、高縄寺にはこの峠で県道から離れ、高縄寺への道に入る。道は県道178より気持ち狭く、対向車の来ないことを祈りながら、少し車のスピードを速め先に進むと、最初の強烈なヘアピンカーブのところに「河野川源流」の案内。
ちょっと気になり車を停め、源流点を確認に。そこには小さな祠・河野水天宮が祀られていた。

●河野川
カシミール3Dのプラグインである「タイルマップ」を使い、地理院地図に「川だけ地図」をオーバーレイ(重ね合わせ)すると、川筋は石ヶ峠の少し西まで伸びており、源流点から「川だけ地図」の川筋跡までは、等高線の谷筋を結べば繋がった。
河野川の流れを辿ると、石ヶ峠から北条に向かう県道178号に沿って北条の風早平野へと下り、JR 予讃線・柳原駅の東を流れて瀬戸内に注ぐ。 河野川はその名前の通り、今から訪ねる高縄寺をその氏族の祈願所とした、伊予の豪族・河野氏の本貫地を流れる。河野氏の本貫地は河野川と、その南を流れる高山川に挟まれた山裾。山裾にある善応寺は河野氏の館跡とのことである。

駐車場
河野川源流を離れ、次に現れるヘアピンカーブを越えると誠に広い広場に出る。高縄寺の駐車場として使われているのだろう。広場の手前には道標があり、「高縄寺 0.3km 石ヶ峠 1.0km 立石・今治方面」との案内があった。この地から宝坂谷を下り、立岩川の谷筋を走る県道17号に続く道もあるようだ。

高縄寺山門
駐車場に車を停め、高縄寺に向かう。木立の中、左手に四阿(あずまや)を見遣りながら進むと、道が上下のふたつに別れる。分岐点には「高縄山頂 高縄寺 0.1km、石ヶ峠 1.2km」の道標があり、高縄山頂には上の道を、高縄寺は右に入る下の道を進むことになる。
高縄寺の案内を示す石柱から緩やかな坂を下ると、ほどなく山門に。昭和33年(1958)改築がなされた鐘楼門となっている。



●高縄寺の案内
山門脇に高縄寺の案内。「高縄寺 この高縄寺は、高縄山頂(標高986m)から東へ300m標高約900mに位置し、その昔、この地方を治めていた河野氏の戦勝祈願所となったところで、木造の「十一面千手観音立像」が安置され、八百年の歴史と共に残されている真言宗の名刹で、河野氏の菩提寺となっています。現在の建物は1767(明和4)年に再建されたものです。
寺の周辺には、本堂上手の「千手杉」のほか「七本杉」「大師名残の杉」などの老杉、巨樹があり、この寺の歴史を物語っています」とあった。

●「大原観山」の歌碑
山門左手に石碑がある。案内には「大原観山」の歌碑とあり、「遊高縄 越家百世舊金湯 今日空餘選佛場  姦骨忠魂同一夢 無人知道注連梁」と刻まれる。 案内に拠れば、
「遊高縄  越家百世舊金湯 今日空餘選佛場  姦骨忠魂同一夢 無人知道注連梁
大原観山(1818‐1875 文政5年‐明治8年)
本名 有恒。子規の外祖父に当たる。明教館の教授を務め、幕末期の松山藩の子弟教育に尽くした。
碑面にはないが、『大原観山遺稿集』には、「連梁は人名、其の君高箕を諫めて死す。高箕或いは高縄と称す。山の名は蓋し此れに由る。」と小さい字で注釈がある
。 「越家」とは、古代伊予の豪族「越智氏」で、後に河野氏が出て高縄山付近を領した。 俳句の里 松山市教育委員会」とある。

歌の意味は、「越智氏が長きにわたって治めた堅固な城(金湯=金城湯地)跡。今はむなしく寺が残るだけ。奸臣、忠臣のいずれもが同じ夢を見ただろうが、 連梁を知る人はもういない」。この場合の越智氏とは、河野氏のこと。河野氏がその祖を越智氏としたことを以て「越家」とした、ようである。

大原観山は江戸の昌平黌で学び、帰藩後松山藩にて地域の子弟教育に尽力。また、藩主にも仕える。高縄山に遊ぶこと一再ならず。この歌は春に訪れた時、河野氏の居城であった高縄山を偲ぶとともに、河野氏の栄枯盛衰の世の無常を綴っている、とのことである。
観山は正岡子規を大層可愛がった、と言う。が、大の西洋嫌いであり、一生髷を結い続けた。ために子規も小学校に入るまで髷を切ることを許されなかったようだが、子規の父親の願いを聞き入れ、不本意ながら断髪を許したとのこと。子規は観山を尊敬し「後来、学者となりて、翁の右に出でんと思へり。」と記している。

●子持杉
同じく山門手前には「子持杉」の案内があり、「谷底に鶯鳴くや峰の寺」と郷土俳人によって詠まれている。この高縄寺は、旧記によると天智天王の御世に、この地方の国造であった河野氏の祖、小千守興が横谷に創営したと言われている。その後、天文元年(1736)に河野通宣がこの高縄山に移したと記録されている。
さて、この寺の山門の右前に老杉があった。高さ30m根回り13.8mに及び、その枝張りが周囲を覆って幽すいの気を深めていたのである。樹齢は、約800年ともいわれ、樹幹の西側10mの高さにくぼみがあり、そこに若い杉苗が育ち、あたかも親杉が子杉を抱いて立つように見えるところから子持杉と呼ばれ高縄山の名物の一つであった。
昭和39年3月27日、市の天然記念物に指定されていたが、昭和45年8月の台風により被害甚大で伐採し古木の根の中心部に小苗(枯れる前にさし木したもの)を植え今日に至っている」とあった。
横の切り株が、その名残だろうか。

●小千守興
「小千守興が横谷に創営」とある。「小千」は越智のこと。「小千」「小市」「乎千」などとも記される伊予の古代豪族である。伊予では名族とされ、河野氏を含め越智氏をその祖とする氏族が多いが、元々在地豪族であったとする説、律令制施行に伴い国造として任ぜられた「物部大新河」の孫「小市国造小致」をその祖とする説、孝霊天皇の第三皇子伊予皇子の第三王子を祖とする説(信憑性に乏しい)など、あれこれあり、伊予といえば越智氏と言われるほどの名族にしては、わからないことが多いようである。
なお、「横谷」とは上でメモした河野氏の本貫地である、河野川が北条の風早平野から高縄山系に入った谷合の地にある。

本堂・大師堂
本堂、そして大師堂にお参り。寺は天文元年(1736)に河野家第35代当主・通宣がこの高縄山に移した、とある。寺は天正13年(1544)、四国平定を目する秀吉の先鋒として伊予に上陸した、毛利家の小早川軍との戦いにおいて焼失。明和年間(1764年から1771年)に再建され、江戸末期に改修された。
本尊は千手観音。Wikipediaに拠れば、小千守興が一寸八分の千手観音を勧請、行基がこの尊像を拝し、五尺余りの大像を彫刻して頭中に納め、さらに、弘法大師が巡錫の折、寺号を「高野山 髙縄寺」と改め、行基作の千手観音を安置した、といった豪華なラインアップの縁起を持つ。

●千手観音
案内には「千手観音 木造千手観音立像 一躯
愛媛県指定有形文化財(彫刻)
昭和55年3月21日指定
像高147センチメートル、台座高33センチメートル、重量50キログラムの檜の一木造。彫眼、頭髪、合掌手、宝鉢手を含め一木で彫成し、髻の上に2列10面の仏面を頂いている。
耳朶環(耳輪)、条帛(肩にかけた衣)、天衣(腕にかけた衣)をかけ、合掌・宝鉢以下42臂(腕)両足をそろえて直立する。
頭部の形、衣文の形態、両膝前の二重の天衣等像容は地方色が顕著である。 作者不祥であるが、平安時代藤原期の作とみられる。
昭和53(1978)年京都美術院で修理され持物を除いて原形に復しており、当時の面影をよく残している。 松山市 松山市教育委員会」とあった。

千手杉
境内を離れ、境内左手の山道を奥へ進むと、登ってすぐ左手に千手杉の案内。 「千手杉  一本 松山市指定天然記念物 平成二一年二月一〇日指定 このスギは、根本回り七メートル、幹回り五・四メートル、樹高三〇メートルで、幹の下部から上部までに多数の大枝が出ているが、その大多数は主幹に寄り添うように直立状または斜め上に伸びている。
下部の大枝は枯れているが、他の大枝や根元も空洞や腐食部は見られず健全である。スギの巨樹でこのような樹形をしているのは稀であり、貴重な存在である。
また、その樹形は、あたかも近くの河野氏ゆかりの高縄寺の本尊「十一面千手観音立像」に似ていることにも存在意義がある 松山市 松山市教育委員会」とあった。

高縄山の案内
高縄山頂への舗装された道を進むと道脇に「高縄山」の案内。
「高縄山 この高縄山は、標高986mの山で、昭和37年に奥道後玉川県立自然公園に指定されています。山頂付近は、温帯性の落葉高木であるブナの原生林が残され、動植物にとってたいへん快適な環境が保たれており、豊かな生態系を育んでいます。
この山系では、リス・イノシシ・タヌキ・ニホンジカ等の捕乳類や、600種を超える植物が見られるほか、昆虫類の宝庫でもあります。また、年間70種に余る鳥類が観察できる愛媛県の代表的な、探鳥地の一つです」と説明されていた。

●登山道・林道が合流
道を進むと山頂に向かう舗装道に右手から道が合流。折れるとすぐに北条の院内からの登山道、林道はそのまま先に続く。林道は立石川の谷筋にある猿川に下っているようだ。その途中に「七本杉」があるとのことで、結構下ったのだが、なかなか出合えず、途中で撤退した。

◆七本杉の案内
「七本杉 千手杉の北方約400mの山中にある。樹齢は推定500年といわれ目通り約9mで、根元内部は空洞となっている。地上2mで4本に分かれていて、内2本は裂け折れている。近くに、6.4m、3.3m、2.8mの大杉があり、北条市街から遠望すると稜線上に鋸歯のように見える」。





高縄山頂
山頂に上る舗装された道に戻り、道なりに進むと「高縄山」と書かれた平場にでる。平場の端からコンクリートの小径を上ると高縄山山頂。電波塔の施設の脇に「高縄山大権現」が祀られる。
鉄骨の階段を上り展望台に。瀬戸内や石鎚方面の展望を楽しむ。瀬戸内の展望台と言えば、糸山公園の展望台しかし知らなかったのだが、来島村上氏の城砦群を辿る一連の散歩を通して、高縄半島の各所に、瀬戸内や四国山地の大パノラマを楽しむことのできる場所があることを知ったのも、来島村上氏の城砦群巡りに伴う大きな収穫のひとつではあった。


河野氏について

愛媛に生まれた者として、河野氏のことは鎌倉から戦国時代の終わりにかけて、およそ400年、伊予に覇を唱えた武将であることは知っているのだが、詳しいことは何も知らない。道後の湯築城が河野氏ゆかりの城であることも、この散歩のメモで初めて知る、といった為体(ていたらく)である。
今回、来島村上氏の主家という理由だけで、河野氏の祈願所でもある高縄寺を訪ねたわけではあるが、いい機会でもあるので、「えひめの記憶」やWikipediaをもとに、河野氏の歴史をまとめておく。
河野氏について

●鎌倉以前
国衙の役人であったらしい、というほか、詳しいことは分からない。その本貫地は伊予北条(現在松山市)の南部、河野川と高山川に挟まれた高縄山の西麓であったようだ。この地を開墾し、開発領主として力をつけていったと言われている

●鎌倉時代

◆河野通清(第22代);頼朝挙兵に呼応
源氏の棟梁、源頼朝が平氏打倒の兵をあげたとき、河野家当主・通清は頼朝挙兵に呼応し平氏に反旗を翻す。挙兵はこの高縄城であったとも言われる。
当時の西国は平氏方一辺倒であり、無謀とも言える決断である。源氏に与した要因としては、伊予で覇を争う土居氏が平氏の家人として平氏政権と強い絆を結んでおり、それに対抗するため、また、平氏による瀬戸内の制海権支配に対する不満などが挙げられる。
挙兵するも、当初は四面楚歌にて、戦局は圧倒的に不利。『東鑑』によれば、阿波の田口成良、備後の奴可(ぬか)入道西寂に「山の神古戦場」で敗れ、討死したと言われる。
「山の神古戦場」は先日、花遍路散歩で訪れた。その近くには百回忌にあたる弘安2(1279)年、通清の曾孫にあたる一遍上人(1239~1289)がこの地で供養を営み、建立して万霊塔が建っていた。

◆河野通信(第23代);源氏方として武功をたて東・中予に強い勢力を築く
通清の子。当初不利であった戦況も、源氏方の攻勢により伊予での雌伏の時から反攻に転じ、土居一族の高市氏を撃破。源氏の軍勢の一翼としても、壇の浦の海戦などで軍功をたてる。鎌倉幕府の開幕に際しては、頼朝に臣従を許された数少ない西国御家人のひとりとなり、奥州平定にも出陣する。
伊予への帰国に際し、通信は破格の待遇を得ることになる。それは、既に伊予の守護となっていた佐々木盛綱の支配を受けず、一族を率いることができるという許しを得たことである。
通信はこの特権を最大限に活用し、伊予の競合武将を圧倒し、13世紀には伊予の東予・中予に強い勢力を築き上げる。その直接の領地は所領五三箇所、公田六十余町に及んだと推測されている。

■承久の変と河野通信の反幕挙兵
頼朝が亡くなった後の承久3年(1221)、後鳥羽上皇が北条氏が支配する鎌倉幕府に対し倒幕の兵を挙げた際、河野通信は宮側に与する。幕府は伊予の反河野勢に命じ高縄城を攻めるも攻略叶わず、阿波・土佐・讃岐、さらに備後国の御家人の遠征軍の合力により高縄城は落城する。
幕府の恩顧にも反し、宮側に与した要因は、諸説あるも、一説には南予に勢力を伸ばそうとする河野氏の思惑があるとも説かれる。南予は守護勢力が抑えており、この乱を契機に南予支配を目した故、と言う。

◆承久の変後の河野氏の没落
戦に敗れた河野氏は、一族のうち、ひとり幕府方に与した五男・通久(第24代)の軍功が認められ、阿波国富田荘(現徳島市)地頭職を認められたほかは、上記、河野氏の所領五三箇所、公田六十余町、一族一四九人の所領も幕府に没収され、河野氏はその勢を失う。通信は通久の働きに免じ平泉配流となるも、一族の大半は討ち死や斬首に処される。
貞応二年(1223)、通久は幕府に願い出て伊予国久米郡石井郷の領有を認められ、河野家は伊予国に戻る。その通久没後、河野家の家督は通久の弟である通継(第25代)が継承する。通継については家督相続を端に発する嫡庶の所領を巡る係争の他、見るべき事象が見当たらない。河野氏の衰退は続く。

●元寇と河野通有の活躍
その状況が大きく変わったのが「元寇」。通継のあと河野家の家督を継いだ通有(通久家を継いだ通久の甥;第26代当主)の弘安の役による武功により、河野氏は再び伊予での勢力を取り戻す。恩賞により与えられた領地は正確な記録は残らないが、九州の備前の地のほか、「かなり多い」と推測されている。
通有によって往時の勢を回復した河野氏であるが、通有没後、家督相続や嫡庶間の競合や対立により、一族間の抗争が激化。通有の後を継いだ通盛(第27代)の率いる惣領家と、土居通増や得能通綱らの率いる庶家とに分裂し、鎌倉末期から南北朝時代へと続く動乱のなかにまき込まれていくことになる。

●南北朝騒乱の時代

◆建武親政と河野一族の分裂
鎌倉後期、天皇親政を目指す後醍醐天皇により、北条鎌倉幕府の倒幕運動・元弘の乱(1333)が起こる。風早郡高縄山城(現北条市)に拠った河野宗家の通盛(第27代)は幕府側に与するも、一族の土居・得能氏は天皇側につき、河野一族は分裂。
天皇側に与した足利尊氏、新田義貞の力も大いに寄与し、結果は天皇側の勝利となり、天皇親政である建武の新政となる。鎌倉幕府は滅亡し、幕府に与した通盛は鎌倉に隠棲することになる。

◆足利尊氏の新政離反と河野通盛の復帰
建武の新政開始となるも、恩賞による武家方の冷遇などの世情を捉え、足利尊氏は新田義貞討伐を名目に天皇親政に反旗を翻す。世は宮方(のちの吉野朝側)と武家方(足利氏側)とに分かれて抗争を続け、南北の内乱期に入ることになる。
この機をとらえ、鎌倉に隠棲中の通盛は尊氏に謁見し、その傘下に加わる。尊氏は、通盛に対し河野氏の惣領職を承認し、伊予に戻った通盛は新田義貞に従軍中の土居・得能氏の不在もあり、伊予での勢力拡大を図る。
足利尊氏も一度は新田勢に大敗し、九州に逃れるも、天皇親政に不満を抱く武家をまとめ、京に上り宮方に勝利する。
尊氏は通盛に対して、鎌倉初期における通信時代の旧領の所有権を確認し、通盛は根拠地を河野郷から道後の湯築城に移して、足利方の中心勢力となる。

◆細川氏の侵攻と河野氏の宮側(南朝)への帰順
河野通盛の隠退のあとをうけて、惣領職を継承した通朝(第28代)が苦慮したのは、同じ武家方(北朝)の細川氏の動向である。はじめて資料を流し読みしたとき、何故に幕府の管領をも務める細川氏が、同じ武家方の河野氏を攻めるのか、さっぱりわからなかった。「えひめの記憶」を斜め読みすることなく読み込むと、細川氏の動向は、四国支配がその根底にある、といったことが見えてきた。
■細川氏の四国制覇の野望
「えひめの記憶」には「足利尊氏は、すでに幕府開設以前の建武三年(一三三六)二月、官軍と戦って九州へ敗走する途中、播磨国室津で細川一族(和氏・顕氏ら七人)を四国に派遣し、四国の平定を細川氏に委任した(梅松論)。幕府成立後も、細川一族は四国各国の守護職にしばしば任じられ、南北朝末期(貞治四年~応安元年)、細川頼之のごときは、四国全域、四か国守護職を独占し、「四国管領」とまでいわれている(後愚昧記)。
もちろんこの「四国管領」というのは正式呼称ではなく、鎌倉府や九州探題のような広域を管轄する統治機構ではない。四国四か国守護職の併有という事態をさしたものであろう。頼之の父頼春も「四国ノ大将軍」と呼ばれているが(太平記)、これも正式呼称ではあるまい。
ともかく幕府は細川氏によって、四国支配を確立しようとしたことは確かである。その結果、細川氏は四国を基盤に畿内近国に一大勢力を築き上げ、さらにその力を背景に頼之系の細川氏(左京大夫に代々任じたので京兆家と呼ぶ)が本宗家となり、将軍を補佐して幕政を主導した。
南北朝末期、細川氏は二度(貞治三年、康暦元年)にわたって伊予へ侵攻し、河野通朝・通堯(通直)父子二代の当主を相ついで討死させた。侵攻にはそれぞれ理由があるが、その根底には、細川氏による四国の全域支配への野望があったのではないだろうか」とあった。

この記事にもあるように、通朝(第28代)は貞治3年(1363)、細川頼之の東予侵攻により今治の世田山城で敗死する。

◆河野通堯の南朝帰順
通朝の子・第29代の通堯も同様に細川氏の動向に苦慮。細川勢の手薄な時に攻勢をかけるも、細川勢の反撃に遭い立て籠もった高縄山城も落城し、恵良城に逃れる。この状況に「宮方」の在地豪族が支援の手を差し伸べ、「河野氏の安泰をはかるために、南朝に帰順するように勧誘した。すでに東予・中予の重要な拠点を占領した優勢な細川氏に対抗するためには、まず伊予国内における宮方・武家方の協力一致によって、陣容の整備をはかる必要がある(「えひめの記憶」)、と。
また「通堯にとって、武家方の勢力が潰滅した時であるから、従来ライバルであった土居・得能・忽那氏らをはじめとして宮方の兵力を利用する以外に、よい打開策はなかった(「えひめの記憶」)」とする。

こうして通堯は九州の宮方の征西府へ帰順。細川氏に対抗するため天皇方に与することになる。伊予に戻った通堯は河野氏恩顧の武将とともに武家方の勢力を中予から掃討することになる。

◆河野通堯の武家方復帰
武家方の管領として足利義満を補佐した細川頼之であるが、山名氏や斯波氏、土岐氏といった政敵のクーデター(康暦の政変)により管領職を失い、四国に落ちる。この中央政界の激変に際し、対細川対策として通堯は「宮方」から離れ、幕府に降伏し反細川派の諸将との接近をはかることになる。義満は通堯に対しあらためて伊予守護職に補任する旨の下文を与えた。
「えひめの記憶」に拠れば、「通堯が武家方に復帰した事情は、いちおう伊予国における失地回復に成功したこと、これまで利用した征西府、および伊予国の宮方の権勢が衰退して、昔日の姿を失ったこと、将来河野氏の政局安定をはかるためには、幕府の内部における反細川派の勢力と提携する必要があったことなどによると考えられる」とある。

北朝方から南朝帰順、そして再び北朝帰順と、対細川氏対策として16年に渡り、河野家の危機を防いだ通堯は、河野氏の旧勢力を回復し、その勢力は安定するかにと思われた。しかしながら、四国に下った細川頼之氏追討の命を受け進軍の途中、天授5年/康暦元年(1379年)、伊予の周桑郡で通堯は討死する。

◆細川氏との和議と河野氏の伊予守護職安堵
父通堯の戦死のあとをうけて、河野氏の家督を継承した嫡子(後の通義;第30代当主)は当時10歳。細川氏の攻勢を退けることは困難であり、また、細川氏の勢力が四国全域に拡大することを危惧した将軍足利義満は和議を斡旋。四国の守護職を分割し、讃岐・阿波・土佐三国を細川氏に、伊予(宇摩・新居の両郡を除く)を河野氏に与えて勢力均衡策をとった。
和議の背景は、頼之が再び管領となって上洛し、執政に多忙で領国を顧みる余裕のなかったことが挙げられる。これ以降、河野氏が伊予国守護職を相伝することになる。

●河野家内紛の火種
第30代当主・通義の逝去にともない、弟の通之(予州家の租)に家督が譲られ、義満からも伊予守護職に補任される。第31代当主となった通之であるが、通義の嫡子が湯築城で元服するとともに通之から家督、伊予守護職を譲られ、応永16年(1409)、第32代通久(当初は、持通)となる。しかしながら、このことが通久の家督相続に不満をもつ通之の嫡子・通元との対立の火種となる。
通久は、豊後の大内氏の内乱での反幕方の追討に出陣するも討死。河野家の家督は嫡子・教通(第33代)が継ぐが、惣領の座を狙う予州家の通元や、その嫡子通春との対立が深まる

●宗家・教通と予州家・通春の抗争
教通は室町時代の永享10年(1438)、鎌倉公方と関東管領の間で発生した戦乱に室町幕府6代将軍足利義教の命をうけ討伐軍として出陣、赤松氏が足利義教を暗殺した嘉吉の乱(嘉吉10年;1441)に赤松氏討伐軍として出陣するなど中央政界でも活躍。細川氏との和睦を保ちながら、伊予の守護大名の体制を整えていった。
この間も宗家と予州家の抗争が続く。Wikipediaによれば、予州家・通春には細川氏、宗家・教通には毛利の吉川、小早川氏が支援。文安6年(1449年)に予州家の通春(第34代当主)は伊予守護に就任するも、翌年に教通に交替。享徳2年(1453年)には、再び守護職に補任されるも、享徳4年(1455年)には細川勝元が伊予守護職に、といった混沌とした状況が続く。
通春は長禄3年(1459年)には3度目の伊予守護職に補任されるも、細川勝元と対立。伊予に侵攻した勝元の軍勢のため危機に陥るが、細川氏と対立関係にある大内教弘の援軍を受けて細川氏を撃退する。
このような混乱の中、河野家の第34代当主となったのは予州家の通春とされる(Wikipediaでは)が、この頃の資料は無く、はっきりしたことはわからない。

◆応仁の乱後の宗家と予州家の抗争
第34代河野家当主・通春は、応仁元年(1467年)からの応仁の乱では西軍に与したが、通春の在京中に東軍についた河野宗家の教通が、細川勝元死後の文明5年(1473年)に伊予の守護職となり、伊予における基盤を固めてしまう。通春は、乱後に伊予に帰国し文明9年(1477年)に4度目の伊予守護に任じられ、翌文明10年(1478年)には教通と和気郡にて戦ったが、敗れている。
文明11年(1479年)、阿波から侵攻してきた細川勢に対しては、宗家・教通(通久と改名)と和睦し撃退。文明14年(1482年)は通春が病没した。予州家の家督は子の通元(通篤)が後を継ぐ。

通春没後もその子通元(通篤)と宗家の通直(教通の改名)・通宣の対立は続く。明応9年(1500)、通直(第33代・教通が改名)は湯築城(松山市)で没し、その子の通宣が家督を嗣ぎ第35代当主となる。その後も、20年ほど宗家・通宣と予州家・通篤との対立が続けられたが、通篤の勢力はしだいに衰退し、ついに敗れて防州宇部に去り、予州家は没落していった。

通春(予州家)と教通(河野宗家)の抗争は一応の終結をみるも、100年余りに渡る予州家と宗家の抗争は河野氏の衰退を招き、河野氏が守護大名から戦国大名へ成長できなかった一因となった。

戦国時代

●第35代河野通宣;来島村上氏の台頭と毛利氏との同盟
長く続いた河野宗家(教通―通宣)と予州家(通春―通篤)との対立抗争は終わり、河野氏は宗家通宣(第35代)によって統率せられる時代となった。Wikipediaに拠れば、「通宣が家督を継いだ頃の河野氏は、家臣の謀反や豊後国の大友氏、土佐国の一条兼定の侵攻を受け、国内では宇都宮豊綱とも対立し、領内はまさに危機的状態にあった。
重臣の村上通康や平岡房実が遠征を繰り返し、鎮圧に及んだが、もはや国内を独力でまとめる力もなかった通宣は、以前より姻戚関係であった中国地方の雄・毛利元就と従属的同盟を結び、小早川隆景を中心とする毛利軍の支援によって、土佐一条氏や伊予宇都宮氏を撃退している(毛利氏の伊予出兵)。
しかし、伊予国内への相次ぐ侵略や家臣団の離反など、内憂外患が続き心労がたたったのか、通宣は病に倒れる。嗣子が無かったため、1568年に家督を一族の河野通直(伊予守)に譲って隠居し、1581年に死去した。ただし、近年の研究によるとその死は永禄13年(1570年)頃ではないかとも言われる」とある。

●第36代河野通直:来島村上氏を巻き込んだ家督騒動が勃発
通直(第36代)は通宣の嫡男、永正16年(1519)父の跡を受け、大いに家運の隆昌を図ろうとした。しかし鷹取山(今治市玉川)城主正岡経貞、府中石井山(近見山の別称)城主重見通種など国内の恩顧の武将の反意に苦慮することになる。ここに至り、河野家の重臣として来島村上氏が登場。重見勢討伐に勝利する。また、隣国からの侵攻も続き、讃岐の細川氏、防州大内氏など、内憂外患の状態であった、よう。
通直の晩年に河野家の相続争いが勃発する。通直には嗣子がなく、一族老臣らは評議して予州家の惣領通政(第37代)を迎えることを進言するも、通直はそれを聴かず、妾腹の娘の聟、来島城主村上通康を嗣子とし、湯築城に入れた。 老臣たちは、あくまでも通政を擁立し、通康を討ち通直を湯築城から追放の盟約を結び、通政を奉じて湯築城を囲んで、烈しく攻め立てた。
通直に従う者は少なく、通康の家臣のみで防戦するも、通康の居城である来島城に逃れ帰った。通政は諸将とともに、湯築城に入り、来島城攻略を命ずるも、堅固な要害の城を落とすこと叶わず和議となる。交渉の結果は、河野家惣領は通政とし、村上通康を家臣の列に下げる代わり河野姓と家紋の使用を許すという条件で和談が成立した。これによって通直・通康は湯築城に帰還して事件は落着した。

◆家督紛争は解決するも内憂外患が激化
通政(第37代)は性廉直で武備に長じ、上洛して将軍義晴から名を晴通と賜った。彼によって久しく欝屈していた河野氏の家運も開けるかに見えたが、その期待も空しく、天文12年(1543)四月に早逝した。
その跡は予州家から通政の弟通宣(第38代)が迎えられたが、幼少のため、しばらくは通直が後見として政務を見ることになった。これによって、家督の後継をめぐって続いた河野氏の混乱もやっと落ちつくかに見えた。
が、今度は久万山大除城の大野氏や久米郡の岩伽良城主和田通興など国内の対立抗争、さらに豊後大友氏やそれと結んだ土佐一条氏、同じく土佐の長宗我部元親が、しばしば南予の宇和・喜多両郡に侵入し、河野氏の領国を侵す状況に対応を迫られる。

●河野氏の滅亡
第39代河野通直;こうした危機に河野家を預かる病弱の通宣は責務に耐えられず、永禄11年(1568)に隠居し、跡は一族の野間郡高仙山城(越智郡菊間町種)主河野(池原)通吉の子、わずか五歳の牛福丸(通直;第39代)が継ぐ。Wikipediaに拠れば、「村上通康、もしくは河野通吉の子とも言われるが定かではない。 先代の河野通宣(伊予守、左京大夫)に嗣子が無かったため、その養嗣子となって永禄11年(1568年)に後を継いだ。しかし幼少だったため、成人するまでは実父の通吉が政治を取り仕切った。この頃の河野氏はすでに衰退しきっており、大友氏や一条氏、長宗我部氏に内通した大野直之の乱に苦しんでいたが、毛利氏から援軍を得て、何とか自立を保っていた。
通直は若年の武将ではあったが、人徳厚く、多くの美談を持つ。反乱を繰り返した大野直之は、通直に降伏後その人柄に心従したという。
豊臣秀吉による四国攻めが始まると、河野氏は進退意見がまとまらず、小田原評定の如く湯築城内に篭城するが、小早川隆景の勧めもあって約1ヶ月後、小早川勢に降伏した。この際、通直は城内にいた子供45人の助命嘆願のため自ら先頭に立って、隆景に謁見したという。この逸話はいまだ、湯築城跡の石碑に刻まれている。
通直は命こそ助けられたが、所領は没収され、ここに伊予の大名として君臨した河野氏は滅亡してしまった。通直は隆景の本拠地である竹原にて天正15年(1587年)に病死(隆景が通直を弔った墓は竹原に現存)。養子に迎えた宍戸元秀の子・河野通軌が跡を継いだ」とある。

◆毛利氏と河野氏
記事に「毛利氏から援軍を得て」とあるが、これは来島村上氏の城砦群巡りでメモしたように、天文24年(1555)毛利氏と陶氏の厳島の合戦に、来島の村上通康らの伊予の水軍が毛利方として加勢し勝利に貢献したことを契機とし、村上三家は毛利から領地を得る。毛利氏は、村上三家の主筋にあたる河野氏との結びつきを強めるべく、毛利輝元の姪を第36代当主・河野通直に嫁すことになる。
南予における一条氏との鳥坂合戦に毛利氏の重臣である小早川が河野氏に与力し勝利に貢献。毛利の出兵は「来島の恩かえし」と呼ばれるが、厳島合戦の支援の恩をここで返す、ということであろう。

◆秀吉の四国平定と来島村上氏
秀吉の四国平定において、村上三家のうち、来島村上氏のみが豊臣方として動く。来島村上氏は、秀吉の四国平定以前、未だ毛利氏と織田氏が対立していた頃、秀吉の誘いに応じ来島村上氏は河野氏を見限り、織田勢についたことに遡る。その当時は、河野氏と同盟関係にあった毛利の小早川氏に攻められ、この後で訪れる鹿島城に逃げ込んだとも、秀吉の元に走った,ともされるが、四国平定時には、村上三家のうち、ひとり家を存続され得ることになる。
来島村上氏が村上三家や河野氏と分かれた要因は、「永禄年12(1569)、北九州の地で毛利・大友両氏が対陣した時、毛利氏に属して出陣した能島家が、大友・尼子両氏と通じて日和見をしたため来島家が苦戦し、それ以後能島家は元亀3年(1572)まで来島家と対陣して、はげしい攻防戦を繰り返した。
来島家は、能島家と争ういっぽう、河野氏に対しても不穏な態度をとるようになった。その原因は、村上通総の父通康が河野家第36代当主・通直の後継者に指名されながら、重臣団の排斥を受けて失格して以来の怨念が爆発したことにあるといわれる。総通は河野通直の指示にもまったく耳をかそうとはしなかったが、これを武力で討伐する力も、通直にはなかったようである(「えひめの記憶」)」。

■村上総通 
来島村上の祖とされる村上通康は宇都宮氏との鳥坂合戦の陣中で倒れ急逝。その後を継いだのが村上通総。元亀元年(1570)頃から河野氏と家督や新居郡を巡る処置などで不和が生じ、二度に渡る木津川口の合戦には毛利・河野方として参戦するも、織田・秀吉の誘いに応じ、反河野・毛利として反旗を翻すことになる。

県道178号の仮想散歩
高縄寺を離れ、北条の鹿島に向かう。予定では「石ヶ峠」から北条に向かって県道178号を下る予定であったのだが、工事のため時間通行規制。運悪く通行規制の時間にあたっていたので、県道178号を北条の反対側の国道317号に下り、奥道後方面へと車を進め北条に向かった。
が、このメモをしながら、県道178号を北条に下れば河野氏の本貫地である河野郷や館跡と称される善応寺、また高縄寺の創建の地である横谷などがあることがわかった。Google Street Viewでも県道178号筋は見ることができる。ということで、実際に車で走ったわけではないのだが、県道178号の仮想散歩をすることにした。

●横谷
石ヶ峠から一車線の道を、河野川を右に左にと下る。等高線に逆らわないように道を開いているためか、強烈なヘアピンカーブも随処に見られる。谷合の横谷には30戸ほどの集落があり、天満神社が祀られる。
高縄山への登山道は横谷の北に聳える高穴山(292m)の北の谷筋にある院内から、とあるが、この地にも高縄山登山口があった。道は途中で院内からの登山道と合流し高縄山に続いている。

●河野氏の本貫地
横谷から北に高穴山、南に306mピークをもつ山に挟まれた谷合を進むと、ほどなく前方が開け、風早平野に出る。道の左手に標高238mの雄甲山(おんごうやま)、その海側に192mの雌甲山(めんごうあま)が並び立つ丘陵麓に善応寺がある。この地が伊予の豪族・河野氏が発祥し、居館・城郭を築き伊予の中予・東予をその支配下においた本貫地、河野郷土居である。

◆河野氏の居館
河野氏の館について「えひめの記憶」には、「北条平野の中央部に、風早郡五郷の一つ河野郷があり、平野から約四キロメートルほど東へ入り込み、南・北両側を平行して東西に連なる標高約一二○~一三〇メートルの低い丘陵に挾まれた馬蹄形の小平地―善応寺部落がある―に、両丘陵を天然の土塁として土居は構築された。高縄山(標高九八六メートル)の西斜面に発し、山麓西部を開析して、高穴山(標高二九二メートル)の南側を西流する河野川と、雄甲山(標高二三八メートル)・雌甲山(標高一九二メートル)の南側を河野川と平行して西流する高山川とが、土居内を防衛する濠の役割をつとめた。
東へ向かって緩傾斜の耕地をのぼりつめると、土居の内全体から斎灘までの展望がきく標高七〇メートルの高台があり、建武年間河野通盛が、土居館を改築して創建した河野氏の氏寺善応寺がある。『善応寺縁起』などによって(善応寺文書・一二四一)、寺創建以前の土居館が広壮雄大な居館であったと推察される。この居館の周辺には、河野館の防衛にあたる一族郎従の屋敷が設けられていた」とあった。
善応寺は、鎌倉末期から南北朝期にかけて活躍した第27代当主・河野通盛が、一族の本拠を河野郷から道後湯築城に移すにあたって、それまでの居館を寺院に改めたものといわれている。

◆高縄城
また、高縄城については「河野郷土居の東部、居館の背後にそそり立つ雄甲・雌甲の二岩峯と、土居の北東端に聳える高穴山には、天嶮を利用してそれぞれ山城を構築して、三つの山城があいまって土居全体の防衛を堅固にしていた。とくに高穴城は、源平合戦当時築かれていた河野氏の主城で、「山高、谷深、四方嶮難」(予陽河野家譜)の要害堅固の城であった。当城は東西に連なる尾根を削平して構築した関係で、東西一二五メートル×南北一七メートルで東西に細長く、東高西低の階段式構造の郭配置をとっている。東部に二六メートル×一四メートルの長円形をした本丸が、長さ一〇メートルの石垣をもつ三メートル×二〇メートルの帯郭を西側に配して南東→北西に連なり、本丸の西、比高一五メートルの段差をもって東西二一メートル×南北一〇メートルの長方形をした二の丸があり、その西斜面は三〇メートルから二つの尾根に分かれ、両尾根に深さ一~三メートル、幅二~八メートルの空堀が掘られ、城の大手口の防衛にあたった。この三城と背後に高く聳える高縄山一帯を総称して高縄山城といったとおもわれる」とあった。
地図を見ていると、雄甲・雌甲の山城は館の後詰、そして高穴の山城は背後からの敵に対する防御渠拠点、高縄山の山城は道後方面から石手川の谷合を侵攻する勢力、今治の蒼社川から立石川を経て侵攻する東予からの敵側への備えの要のようにも見える。単なる妄想ではある。


鹿島
県道178号を瀬戸の海岸線近くまで進み、県道179号に乗り換え鹿島の渡船口に。駐車場に車を停め鹿島に渡る。北条の沖合400mほどのところにある、お椀の形をした鹿島を前面に見ながら、船はほどなく鹿島の桟橋に。鹿島の桟橋近辺は平場となっている。
船を下ると、正面に登山口があるが、右手に鹿島博物展示館がある。とりあえず概要を知るため展示館に。
●鹿島博物展示館
館内には鹿島の歴史や地形、植生などの展示があり、鹿島の概要を知るには大変役立った。この展示館は昭和28年(1953)に開設し、その後昭和52年(1977)に県が立て直し現在に至る、とのこと。展示の説明を以下メモしておく。

◆鹿島の歴史
■7世紀の中頃、外国からの攻撃に備えて、九州と瀬戸内に海の砦(海防城)が築かれました。そのうちの一つが、風早の下門島(鹿島)でした。
■その後、鹿島は伊予を治めた河野水軍の根拠地の一つとなり、建武年間(1334‐1338)に今岡四郎通任によって、階段式連廓構造の鹿島城が築かれました。
■天正十三年(1585)、小早川隆景軍によって河野氏は敗北、その後は来島氏が治めましたが、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いのあと来島氏は九州に移され、鹿島は城主を失いました。
■現在、城郭遺跡としては、島の北東にある二ノ段郭と、長さ約50mの石垣を残すのみです。
■この島には、神功皇后の伝説をはじめ、その出征の物語を残す、髪洗磯、山頂御野立の巌、また河野通有元寇への進発、壇の浦へ馳せ向かう河野通信の語り草など、幾多の歴史物語が刻まれています。

◎「7世紀の中頃、外国からの攻撃に備えて」とあるのは、天智2年(663)に倭国・百済遺臣(百済は西暦660年に滅亡)と唐・新羅連合軍との間で行われた「白村江の戦い」に敗れた倭国(大和大王家)が、唐・新羅(外国)からの侵攻に備えた防衛態勢の一環の砦。

◎今岡四郎。岡部四郎とも。室町の南北朝騒乱の頃の武将。上に述べた河野家の歴史で、伊予に侵攻した細川氏により苦境に陥った河野家第29代当主の通堯に対し、宮方の武将の手引きにより九州の懐良親王に謁見の機会をつくり、武家方(北朝)から宮方(南朝)に移り、伊予に戻り宮方の力を借り復権したとメモした。
今岡四は通堯を九州へ送り届け、また伊予に戻る軍船を提供し、河野家臣団の一翼を担った武将のようである。ややこしい細川氏と河野氏の抗争を上でまとめた甲斐があった。

◎「小早川隆景軍によって河野氏は敗北、その後は来島氏が治めましたが」とは、秀吉の誘いにより織田方となり、河野家・毛利家と敵対した来島村上氏であるが、秀吉の軍門に下った毛利家の小早川の軍勢により河野家は滅亡する。 この四国平定戦における、来島通総の活躍がめざましく、その先鋒をつとめた。戦後、来島氏は、鹿島城主一万四千石の大名として風早・野間の両郡を統治し、戦国の乱世を生き抜くことになる。なお、通総の兄得居通之も、風早郡に三千石を与えられた。

◆北条地域の地形
■北条地域は松山市の最北部に位置し、東と北は今治市に接し、西は瀬戸内海の斎灘に面しています。
■東西および南北ともに約10㎞のほぼ正方形で、面積約102.4平方km,そのうち山地が約84%を占めています。
■東方は山岳地帯で、その主峰・高縄山(986m)に源を発する大小の河川は、西に向かて流れ、海岸付近に広がる沖積平野を経て、斎灘にそそいでいます。

◆北条地域はどのようにつくられたのでしょう
■中世代にはまだ瀬戸内海はつくられてなく、高縄半島付近から南は海でした。 ■新生代の中頃、日本列島の誕生と共に、四国の元になる島ができ、数百万年前に今の高縄山から石鎚山にかけて激しい火山活動が起こりました。
■約2百万年前頃から高縄山や石鎚山系が隆起し、浸食を受けてそれぞれの火山体はけずられ、マグマの上ってくる通路だけが岩頸(溶岩などが塔状に露出して残った岩)として残り、現在の鹿島や恵良山、腰折山、雄甲山、雌甲山などが形作られました。
鹿島や恵良山が安山岩で出来ているのはこのためです。この頃の瀬戸内海にはナウマン象がたくさん棲んでいました。

◎「約2百万年前頃から高縄山や石鎚山系が隆起し」とあるが、「約2百万年前頃」といえば説明にもあるように、「新生代」である。先回のメモで、「予讃線に沿って、東の波止浜から沢池のあたりまで里の帯が続き、山地が南北に分けられている。また、同じく南の国道196号にそった道筋も、近見山のある山地と高縄山のある山地を分けている。河川によって開析された、というだけにしてはあまりに美しく高縄半島の山地を帯状に分けている。
河川の開析作用以外に、なにかの要因がないものかと地質をあれこれしらべていると、今治の地質地図があり、そこに「第四系」と「領家花崗岩類」に色分がしてあり、「第四系」が今治の平野部と山地を分けるふたつの平地と重なる。 地質学のことなどよくわからないのだが、「領家花崗岩類」は中世代(9000万年から6000万年前頃)の地層で、「第四系」は新生代(260万年ほど前から現在まで)の地層という。山地部分が中世期の造山活動の名残りで、平坦地が新世紀の洪積層、沖積層ということだろうか」とメモしたのだが、この説明と矛盾が生じた。どちらが正しいのか地質学の門外漢ではあるが、地形図では山地部分は中世代の「領家花崗岩類」とぴったり重なって入る。はてさて。

◆高縄山の植物、鹿島の植物
高縄山の植物、鹿島の植物の説明もあったのだが、いまひとつフックがかからないため、メモは省略。

鹿島城跡
説明に「現在、城郭遺跡としては、島の北東にある二ノ段郭と、長さ約50mの石垣を残すのみです」とある鹿島城跡へと向かう。

●石垣跡
鹿島城跡への道を上ると、頂上にある展望台の手前に平坦地があり、その手前にそれらしき石垣が残る。道から少し逸れているので、崖の斜面を這い上がり石垣を確認。





●鹿島城跡
石垣上の平坦地には「鹿島城跡」の案内があり、「中世における伊予の国の覇者、河野氏の海域の古城跡であるが、最後の城主来島通総は豊臣秀吉の四国征伐に先鋒水軍として活躍した功により、鹿島城主に任ぜられたが、関ヶ原の戦いの際、西軍に加わった関係から、豊後国森に転封され廃城となった。島の頂上、南角等に築城、当時のものらしい石積の崩れた姿が残っている」とあった。 この平坦地は「二の段」とも「二の平」とも称される。




●郭跡
平坦部から展望台に向かう途中、如何にも郭跡といった崩れた石組み跡が残る。「当時のものらしい石積の崩れた姿」と説明にあったので、この辺りが郭跡であろうか。





◆鹿島城の経緯

◎築造;建武年間(1334‐1338)に今岡四郎通任によって、階段式連廓構造の鹿島城が築かれる。但し、確定されてはいないようだ。尚、今岡四郎については上にメモしているので、ここでは省略。

◎鹿島城の初見;明応8年(1499年)に第35代・河野通宣の頃

◎天正年間(1573年~1592年)初期には二神豊前守が城代:来島城主村上通総は、元亀元年(1570)河野氏に背き、天正7年には風早郡鹿島城代二神豊前守と結んで、河野氏に反抗した。
この二神氏と野間郡高仙城主池原氏との間に紛争が起こり、この海域で合戦が行われ、池原氏が勝利したとも、二神氏が池原氏を城に招き闇討ちするも失敗に終わり、河野氏により城は落城したとも言われる。
この頃の来島村上氏の当主は村上通総。河野家は第39代河野通直。この河野通直は野間郡の池原通吉の嫡男であり、対する村上通総は第36代河野通直の後、河野家の家督を継げなかった村上通康の嫡子である。家督相続を巡る通総の遺恨が根底にあるのだろうか?単なる妄想。根拠なし。

◎来島城主村上(来島)通総の兄得居通幸が城主:天正6年(1578年)から天正8年(1580年)頃に伊予国松山の島嶼にある鹿島城主になったと考えられ、家臣達を悉く鹿島(現在の松山市沖)へ渡らせている。後に城主となった。
天正10年(1582年)来島村上氏は、織田信長の部将羽柴秀吉の調略を受けて河野氏を離反し織田氏に付いた。河野氏は毛利氏とともに来島村上氏を攻め、通総は来島城を脱して秀吉の元に逃れたが、鹿島城の得居通幸は攻撃を退けた(Wikipedia)。

◎村上(来島)通総が城主に:秀吉の元に逃れていた通総も羽柴氏と毛利氏が和睦したのち旧領に戻り、天正13年(1585年)秀吉による四国征伐では小早川隆景の指揮下で先鋒を務めた。この功により風早郡一万四千石が来島通総に与えられ、通総は来島城を廃して鹿島城を居城とした。

◎廃城;慶長2年(1597年)来島通総は慶長の役で討死し、家督は次男の長親が継いだ。 慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で来島長親は西軍に属し、豊後国森一万四千石で転封となり廃城となった。

御野立の巌(おのだちのいわお)
郭跡の崩れた石積みの箇所から少し上ると展望台。鹿島城の「一の平」とも称されていた場所でもある。高縄山や瀬戸の斎灘のパノラマが広がる。「伊予の二見岩」とも称される夫婦岩も沖合30mほどのところに見える。
その崖端に岩が残り、そこを「御野立の巌」と称する。案内に拠れば、「神功皇后は西征の途中、軍船を風早郷の鹿島に止め、軍備・旅装を整えられると この巌に立って、弓に矢をつがえ、沖に放たれて戦勝を祈願し、勇躍大津地の湊を出発されたと伝えられている。
他に御野立の巌に立ち思いにふけったとの伝説や西海(朝鮮地方)を眺めたとの伝説がある」とあった。
「大津地」とは北条の港の古称。津地港(辻港)とも呼ばれていたようである。「神功皇后は西征とは、朝鮮半島の新羅への出兵を指す。神功皇后は仲哀天皇の妃、応神天皇の母とされるが、実在の人物かどうか不詳である。直木幸次郎氏は、朝鮮半島への出兵を画した斉明天皇、持統天皇をそのモデルとする。

鹿島神社
道を下り桟橋に向かう。道を成り行きで下ると、鹿島神社脇に出た。この武人の神である鹿島神社の創建は不詳だが、鎌倉期以降、河野氏によって勧請されたものと伝わる。鹿島城の築城は建武年間とされるが、当時本拠地を本貫地である北条の河野郷から道後の湯築城に移すに際し、海上防御の拠点として築城した鹿島城の守護として祀られたのかもしれない。

●要石
境内に要石。案内には「この地方では、昔から地底に大鯰がいて、常には静まっているが目覚めてあばれだすと地震となって大地が震動すると考えられていた。
この地震を起こす大鯰の頭を、鹿島の神様が「要石」で抑えているので、この風早地方には地震が少ないと言い伝えられてきた。かたわらの石に次の歌が刻まれている。
ゆるぐとも よもやぬけじな要石 鹿島の神のおわすかぎりは」とあった。

●鹿島の案内
同じく境内に「鹿島」の案内。「鹿島 鹿島は古くからあった花崗岩の中へ新第3紀中新世(1,000万年以上前)頃の火山活動によって、安山岩が噴出し、その後長い間の浸食によって残った山と考えられます。
島には暖地性の植物が自生し、野生の鹿が、生息しています、島の周りの岩礁には、海岸動物や海藻もかなり多く見られます」とあった。

◎鹿島博物展示館での「200万年前頃からの火山活動云々」との説明と矛盾するように思うのだが。逆に、私が見つけた地形図からの資料とは合致する。どちらにしても、気の遠くなるような昔々のこと。どちらがどうだかわからないが、とりあえずは火山活動の結果として出来た島、ということで良しとする。

●鹿島と渥美清さん
境内を出たところに歌碑があり、「お遍路が 一列に行く 虹の中 渥美清」と刻まれる。その横に「鹿島と渥美清さん」との案内。
案内には、「この俳句は、俳優『渥美清』さんが鹿島で詠んだ句です。寅さんで知られる俳優『渥美清』さんは、鹿島を第二の故郷として、たびたび来島し、宿泊しました。
親友であった北条出身で『花へんろ』の作者でもある早坂暁さんに連れられて鹿島を訪れた渥美さんは、名物の鯛めしに舌鼓を打ち、島の時間を楽しんだそうです。句碑の文字は早坂暁さんの文字です。
お遍路が 一列に行く 虹の中」とあった。
渥美清さんは俳句を詠んだとのことで、俳号「風天」を持つ、と言う。 これで本日の散歩は終了。河野氏の歴史を纏めるのは結構難儀ではあったが、愛媛と言えば河野氏、という以上、愛媛の散歩に際し、いつかはまとめの作業は必要ではあったかと思う。実際、まとめながら、雄甲・雌甲山、善応寺などそのうち歩いてみたい所も現れてきた。次回帰省のお楽しみとする。

来島村上氏の城砦群を辿るアーカイブ

伊予・来島群島の歴史散歩 そのⅠ;村上水軍の拠点・来島と明治の要塞島・小島を辿る

伊予 高縄半島海賊衆の古跡散歩 そのⅠ

伊予 高縄半島海賊衆の古跡散歩 そのⅡ

伊予 高縄半島海賊衆の古跡散歩 そのⅢ


一昨年、来島村上氏の居城のあった来島を訪ねたことがきっかけとなりはじめた高縄半島 海賊衆の古跡散歩も3回目となった。当初、如何に潮流渦巻く自然の要害とは言いながら、周囲1キロほどの小島である来島で一帯に覇を唱えるといった水軍・軍事行動・海賊働きができるとも思わず、チェックすると、なるほど16世紀頃には来島氏はその本拠を波方浦に移し、そこに館を構えるとともに、高縄半島一帯に波方城砦群とも称される山城や砦、狼煙台を築いていた。
その波方城砦群を訪ねるに海賊働きとは縁遠い山城が多くある。気になりチェックすると、『海賊衆 来島村上氏とその時代;山内譲』に拠れば、来島村上氏は伊予の豪族である河野氏の重臣といった性格が強く、海賊大将と称された能島村上の村上武吉、因島村上氏ほど海賊の生業は活発ではなかったようである。来島村上氏の役割は① 室町幕府との交渉窓口 ②領内統治 ③海賊の生業とされるが、河野氏の重臣としての立場が強くなるにつれ、海賊的性格が薄れてきたとのことであった。
この散歩のタイトルも「伊予 高縄半島 海賊衆の古跡散歩」としてはじめたが、実態とは少しかけ離れたタイトルとはなったようである。それはともあれ、いままで二度の散歩で取り残した古跡を辿ることにする。


来島村上氏ゆかりの城砦群

波止浜
来島城>糸山砦跡>遠見城>近見山城
波方
波方古館>玉生城>対馬山砦>長福寺鼻砦>大浦砦
玉生八幡神社
塔の峰
大角鼻
大角の砦>大角鼻番所跡>天満鼻見張代跡>西浦砦(西浦荒神社)
梶取鼻
宮崎城>御崎神社>番所跡>梶取鼻の狼煙台
岡・小部地区
白山(岡城跡)>龍神鼻砦
白玉神社>白椿
波方駅の周辺
弁天島砦>片山砦>庄畑砦>瀬早砦>養老館
北条地区
鹿島城>日高城


本日のルート:塔の峰>高縄半島四国遍路八十八箇所・七十一番 千手観音>龍神鼻砦>弁天島砦>片山砦>庄畑砦>潮早砦>養老館>長泉の鼻砦>長泉寺

塔の峰
今回最初の目的地は塔の峰。国道196号のバイパスを走り、四国八十八箇所・54番札所である延命寺近くで、県道38号に乗り換え波方方面へ折れる。途中右手に先日訪れた近見山の城山を見遣り、高縄半島の首根っこを横切る予讃線を越え、波止浜の町で、これも先日訪れた遠見山(海山)城のある山稜と海岸線近くにある独立丘陵の間を通る道を波方に向かう。
波方の町の手前、「波方 ふるさとこみち ③塔の峰」の案内のあるところを左に折れ、突き当たりのT字路を左に折れると「塔の峰公園 ここから1.5km」の案内。案内に従い、道を右手に山道へと入る。どういった道なのか少々不安であるが、所詮は1.5キロ。対向車の来ないことを祈り先に進む。
溜池をふたつ見遣りながら一車線の道を進むと分岐点がある。塔の峰は右に上る。しばらく進むと「塔の峰遊公園」に到着。広い駐車場に車を停めて砦跡な どないものかと先に進むことにする。

◆高良山砦
なお、途中、溜池のある道の左手にある高良山があり、高良山砦があったようであり、道があれば辿ってみようとは思ったのだが、それらしき踏み分け道も見つからず断念した。後で山地図を見るに、波方から尾根道を辿れば上って行けそうではあった。

●高縄半島四国遍路八十八箇所
駐車場脇に小さな祠が四つ並ぶ。「七十二番 大日如来」、「七十四番 薬師如来」、「七十五番 薬師如来」、「七十六番 薬師如来」とある。祠の造りは、先日の散歩で大角鼻を歩いた時に出合った「六十六番 千手観音」と同じである。(高縄)半島四国遍路八十八箇所の祠ではあろう。
(高縄)半島四国遍路八十八箇所は昭和32年1957年に波方の長泉寺が提唱してはじまったもので、高縄半島を周遊できるように設置された石仏を巡るものである。

「七十三番」が抜けている。と、駐車場から山頂へと向かう階段道脇に、「半島四国88ヶ所 73番札所まで約200m」の案内があった。後か「73番」の案内があるのなら、駐車場脇の祠にも「半島四国遍路八十八箇所」の案内があってもいいかと思う。先日「六十六番 千手観音」で出合ったから予測はできたものの、はじめての方にはわからないだろう。
もっとも、四つ並ぶのも不自然ではあるので、道路整備の折にでも、どこからから移されたものだろうか。ともあれ、「七十三番」は後から訪ねてみよう。
●塔の峰の案内
山頂に向かっては舗装道路と階段のコースがふたつある。階段コースを進むと左手に四阿(あずまや)などもあり。公園として整備されている。右手に来島海峡大橋などを見遣りながら進むと、道は舗装路と合流。そのあたりに「塔の峰」の案内があり、「塔の峰 波方の主峰で、山頂の標高は149.7メートル、展望台からの眺望はすばらしく斎灘、燧灘をはじめ、芸予諸島を結ぶしまなみ海道を一望できる。見晴らしの良さから、中世にはこの山頂に来島村上家の遠見番所(見張り所)が設けられていた。
また、山の西斜面に良質の「瓦土」が出るため、幕末から明治にかけて山の形が変わるほど「瓦土」を採取したと言われている。
付近は桜の名所でもあり春になると多くの人が訪れる」とあった。

案内に拠り、この山は来島村上氏の遠見番所(見張り所)であったことを確認。また、先日窓坂峠から菊間へと遍路道を辿ったとき、菊間で瓦製造が発展要因のひとつとして、付近から瓦製造に適した粘土が採れたこと、しかし、それはすぐに採り尽くされ、波方の粘土を活用するようになった、とメモしたが、そのエビデンスが此処の案内にあった。散歩をするとあれこれと繋がってゆくものである。

●展望台
「塔の峰園地」の案内に従い、木の階段を進むと、木組みの展望台がある。瀬戸内、近見山、遠見山などが一望のもと。遠見番所(見張り所)たる所以である。

 ●峯荒神社
展望所からの階段を下りた先に階段があり、その向こうにコンクリートの建物が見える。訪ねると「峯荒神社」とあった。塔の峰に祀られる荒神様ということだろう。祠は厳重にカードされていた。
◆荒神信仰
荒神さま、って竃神(かまど)として台所に祀られるお札としては知ってはいるのだが、この神様は未だ解明できない謎の神様のようである。Wikipediaに拠れば、大雑把に言って、荒神信仰には2系統あり、ひとつは竃神として屋内に祀られる「三宝(寶)荒神」、そしてもう一方は屋外に祀られる「地荒神」である。
屋内の神は、中世の神仏習合に際して修験者や陰陽師などの関与により、火の神や竈の神の荒神信仰に仏教、修験道の三宝荒神信仰が結びついたものである。地荒神は、山の神、屋敷神、氏神、村落神の性格もあり、集落や同族ごとに樹木や塚のようなものを荒神と呼んでいる場合もあり、また牛馬の守護神、牛荒神の信仰もある。
また、Wikipediaには「荒神信仰は、西日本、特に瀬戸内海沿岸地方で盛んであったようである。ちなみに各県の荒神社の数を挙げると、岡山(200社)、広島(140社)、島根(120社)、兵庫(110社)、愛媛(65社)、香川(35社)、鳥取(30社)、徳島(30社)、山口(27社)のように中国、四国等の瀬戸内海を中心とした地域が上位を占めている。他の県は全て10社以下である」とあるが、これは地荒神のことであろうか。屋内の竃神としての「三宝荒神」のお札は、あたりまえのように東京の我が家にも祀られているわけだから、大方の家には「三宝荒神」のお札が祀られているのではないだろうか。

●高縄半島国遍路八十八箇所・七十三番札所
荒神社から元に戻り、遊歩道といった道を先に進む。道が少し下りになり荒れた辺りの左上に小さな祠があり「七十三番 釈迦如来」と案内があった。








高縄半島四国遍路八十八箇所・七十一番 千手観音
駐車場に戻り、次の目的である龍神鼻砦に向かう。波止浜から予讃線で高縄半島を西に抜けた辺りまで戻ることになる。駐車場からのルートをチェックすると、塔の峰に上ってきた道がそのまま高縄半島の北端にある天満鼻の手前、先日訪れた西浦砦のある西浦に下っている。
同じ道を戻るのも,なんだかなあ、ということで道の状態がいいことを願い、西浦に向かって下る。少し下ると、道脇に小さな祠がある。車を停めてチェックすると「七十一番 千手観音」とある。高縄半島国遍路八十八箇所のひとつであった。

龍神鼻砦
道を西浦に下り、高縄半島波方地区の西海岸を県道166号に沿って、波方町森上、波方町馬刀潟、波方町岡、波方町小部と下る。来島村上氏の砦巡りを始め、今では通いなれたる県道である。
龍神鼻砦は小部漁港の最南端にある。県道から漁港の堤防に沿った道を進み突き当たりに。そこに龍神社が建つが、龍神鼻砦はその裏手。海に突き出た支尾根の先端部、標高40mほどのところから海に向けて4つの郭があったようである。
神社の裏から這い上がれないか、海岸の岩場から這い上がれないか、とあちこちアプローチを探すが、それらしき道もなく、藪も激しく砦跡まで上ることは諦める。

●高縄半島国遍路八十八箇所・二十四番 虚空蔵菩薩 
少々さびしき風情の龍神社の下に小さな祠があり、「二十四番 虚空蔵菩薩」とある。造りからして、高縄半島国遍路八十八箇所のひとつではあろう。







弁天島砦
龍神鼻砦を離れ、次は弁天島砦に向かう。県道166号に戻り、龍神鼻砦へと突き出した尾根を切り開いたような道を上り、そして里へと下る途中に結構大きな池がある。沢池と呼ばれるこの池に突き出した台地の上に弁天島砦があったと言う。
県道を離れ、その突き出した台地へと向かうが、そこは企業の私有地となっており、先端部には入ることができなかった。この丘城の詳細は不明である。



片山砦
次の目的地は予讃線波方駅の南にある片山峠。弁天池の南東に進むと、この辺りは予讃線に沿って、東の波止浜から沢池のあたりまで山地が切れ平地となって南北の山地を分けている。その平地を走る県道15号に出てすぐ、予讃線波方駅の南、里が南の山地に接する辺りに明比城主神社があり、砦は神社の建つ尾根筋にあったようである。
明比城主神社には明比家の先祖様を敬うべしとの案内があった。明比家の先祖と片山峠の関係は不詳である。明比神社は西条市にあり、そこに祀られる武将は天正の陣に於いて、豊臣の先兵である小早川勢と戦い討死したとのこと。明比、または明比(あけひ)姓が残る。

●新世紀の地層が中世期の山地を別ける?
次の目的地は庄畑砦。この砦は里を挟んで北側の山地の裾にある。そこに行く道を地図で見ていると、ちょっと気になることが見えてきた。予讃線に沿って、東の波止浜から沢池のあたりまで里の帯が続き、山地が南北に分けられている。 また、同じく南の国道196号にそった道筋も、近見山のある山地と高縄山のある山地を分けている。
波止浜からの里の帯には水路が見える。沢池から始まり、高縄半島突端部の山地を開析し、支尾根を形成した川筋が合わさり波止浜に注いでいる。また、国道196号に沿っては、半島西岸に注ぐ品部川、今治市街へと下る浅川といった川筋が見える。これらの河川によって開析された、というだけにしてはあまりに美しく高縄半島の山地を帯状に分けている。



河川の開析作用以外に、なにかの要因がないものかと地質をあれこれしらべていると、今治の地質地図(今治市の現状と課題;今治市の自然環境・地質:今治市の地質概略)があり、そこに「第四系」と「領家花崗岩類」に色分がしてあり、「第四系」が今治の平野部と山地を分けるふたつの平地と重なる。 地質学のことなどよくわからないのだが、「領家花崗岩類」は中世代(9000万年から6000万年前頃)の地層で、「第四系」は新生代(260万年ほど前から現在まで)の地層という。山地部分が中世期の造山活動の名残りで、平坦地が新世紀の洪積層、沖積層ということだろうか。ともあれ、高縄半島を帯状に二筋、山地を南北に分ける平坦地の成り立ちが、事実かどうかは別にして、自分としては納得できた。



庄畑砦
高縄半島先端部の山地を二つに分ける波止浜から延びる里の帯を走る予讃線を越え、北側の山地裾にある庄畑八幡大神社に向かう。川によって開析された丘陵の支尾根の西側南端に鎮座する。開析谷を隔てたもう一方の支尾根には海山城が建つ。
県道15号から北に成り行きで進み、庄畑八幡大神社の鳥居前に車を置き、石段を上り拝殿にお参り。曲輪が残るとのことだが、よくわからなかった。



潮早砦
次は庄畑砦のある支尾根から開析谷を隔てた、もう一方の支尾根の南端にある潮早砦に向かう。この支尾根には海山城が建つ。
潮早砦は県道15号に最接近した支尾根の南端部にあり、現在は潮早神社の境内となっている。
県道15号から、開析谷を北に進む道に折れ、すぐに支尾根の裾に向かう田圃の中の道を成り行きで潮早神社の境内に向かう。拝殿にお参り・境内には来島村上氏の家紋のついた水瓶が残っていた。砦跡としては2段になった曲輪が残る、とのことだが、素人にはよくわからなかった。
開析谷によってふたつに別れた支尾根の入口部分に建つ、この潮早砦と、先ほど訪れた庄畑砦は、次に向かう開析谷の中ほどにある来島村上氏の館を護る砦であったようである。

養老館
山地を開析し支尾根を形成したのであろう川筋に沿って北に進み、波方小学校の北で右に折れ、現在厳島神社の境内となる養老館に向かう。
成り行きで道を進み、鳥居脇に車を停める。右手には池がある。
鳥居脇に案内があり、「養老館があったという所は、現在別台と呼ばれるこの地である。別台は来島家の居館(住居)波方館の別館が置かれていたところからきた名であると言われている。
この館は遠見山を背にして側面を堀で固め、ここから山麓に向けて丘陵上にいくつかの曲輪(土や石の囲い)を配置するという館と詰の城(山岳城郭)を兼ねた珍しい形態である。
館跡は現在厳島神社となっており、養老中の小宮が集められて合祀されている。また、この下の石垣の上に窯跡(登り窯・山麓の傾斜に沿って階段状に築き、下のほうから焼き上げる)がある。付近に東照寺の跡もあるので、瓦を焼いた跡か、土器を焼いた跡か分からないが数少ない珍しいものである」とあった。

境内には来島村上家の家紋の着いた手水舎があった。参道を進み拝殿にお参り。拝殿の裏手に回り、なにか遺構でもないものかと少し丘陵を上るが、それらしきものもありそうにないので引き返す。

長泉の鼻砦
次の目的地は波方地区で取りこぼした長泉の鼻砦。県道15号を波止浜方面に向かい、波止浜の町に入る手前で県道38号に乗り換え波方の町に。長泉の鼻砦は先日訪れた玉生八幡の交差点で県道166号に乗り換え、海岸線を少し波止浜方面に戻ったところにある。
県道を少し尾根を切り取った感のある切り通し手前・海側に「郷・大浦ふるさとこみち 長泉の鼻」の案内と「半島四国88ヶ所へんろ道 第83番札所まで50m」の案内がある。

●半島四国
車を案内手前のスペースに停め、コンクリートで固められた急な参道を8mほど上るとお堂と、その手前に小さな祠があり、「八十三番 聖観音」とある。「半島四国88ヶ所へんろ道 第83番札所」がこの祠。

●旧野間郡四国八十八ヶ所・三十番地蔵堂
お堂の横には「三十番地蔵堂」「四国第二十八番**」とある。はっきりとはわからないが、このお堂は「旧野間郡(ごおり)四国八十八か所」のようである。現在は観音堂とのことである。
旧野間郡四国八十八ヶ所のはじまりは古く天保2年(1982)のこと。当時、享保・天明、天保と大飢饉が続く中、農民は御大師さまに助けを求め、その願いを叶えるべく八十八の札所をつくった、とのことである。
◆「四国第二十八番**」の案内は、写真にはっきり写っておらず、何を示しているのかチェックできなかった。

●「長泉の鼻」の案内
地蔵堂(現在は観音堂)から海の方向に突き出たところに進むと、海を見つめるお大師さんらしき石仏がある。見つめる崖下には工場が建ち少々風情は損なわれるが、それでも結構いい感じではある。
屋根だけで守られ、四方はまるっきりオープンなお大師さんの脇に「長泉の鼻」の案内があり、「波方海賊城砦群の一つで、長泉の鼻城砦跡といわれ、波方の東を守るだいじな所であった。海岸の岩礁には桟橋跡の柱穴も残っていた。朝鮮の役のとき、九州に下る豊臣秀吉の船団がこの沖に停泊し、秀吉は長泉寺(当時は前の県道の向側にあった)に泊まったといわれている。
南側の海岸には、石風呂があり、大勢の入浴客でにぎわったが、いつのまにか止み、崖くずれで、今はほとんどわからなくなっている」とあった。

長泉寺
「長泉の鼻」の案内を読み、そういえば長泉寺に訪れていないことを思いだした。玉生八幡を訪れたとき、その別当寺ということで行ってみようと思いながらもパスしたのだが、今回の散歩で「半島88ヶ所四国遍路」を提唱した寺ということもわかり、立ち寄ることに。
「長泉の鼻」から県道166号を玉生八幡まで戻り、県道38号へと左折すると、玉生八幡の南に長泉寺があった。
本堂にお参り。本堂脇に「長泉寺と五重の石塔」の案内があり、「祟徳天皇の世、保延6年(1140年)の春のこと伊予国の人で紀州(和歌山)根来寺の瑞長という僧が帰国した際、波方浦に来て説法した。その時、瑞長は、この里に寺はあるのかと尋ねたところ「この郷には寺はない。ただし、山谷の間に行基作の如意輪観音像が一体あり。昔より、里人は常にこれを拝むのみ。」と答えた。
そこで瑞長は早速これに参拝したところ立派な霊像であったので里人と相談して、この像を本尊として寺院を創建した。時に康治元年(1142年)5月のことと言われている。
中世には、来島水軍村上家の祈とう所として、同家の信仰が厚かったと言われている。境内には鎌倉期の五重の石塔がある」とあった。
「半島88ヶ所四国遍路」を提唱したこのお寺さまは、「八十八番 薬師如来」が祀られる。

●半島四国遍路の順路は?
ところで、半島四国遍路って、どこにあるのか、その所在地の全容は不明。断片的な情報を繋げると、10番は波方の町の南、波止浜に近い波方郷、24番は先ほど訪れた高浜半島西岸、波方町小部にある龍神砦、 66番が半島東海岸の大角鼻、71番が西浦から塔の峰への上り、73番が塔の峰、83番はこれも先ほど訪れた長泉の鼻砦、88番が長泉寺となっている。
半島四国遍路の主旨は、高縄半島の最北端に位置し、三方を海に囲まれている愛媛県今治市波方地区を一周し、道路脇に設置された石仏を巡る、ということであるとすれば、上にメモした札所から想像するに、基本波方の町から始まり、波方の南を半島東岸から西岸に進み、半島西岸から東海岸に移り、大角の鼻辺りまで進み、そこから塔の峰を経由して波方の長泉寺にもどってくるのだろうかとも思える。
今後も、あれこれと歩いているうちに、半島四国遍路の祠に出合うかとも思う。そのうちにピースが埋まるであろう。

大浦砦
そろそろ時間切れ、県道166号を波止浜方面へと向かう。途中波止浜の手前の波方町大浦、大浦荒神社が建つ丘陵先端部に大浦砦があるとのこと。丘陵を切り開いた県道の左手にあるようだが、次回のお楽しみということで今回の来島村上氏の旧蹟巡りを終えることにする。

●来島村上氏の城砦群を辿る・アーカイブ

伊予・来島群島の歴史散歩 そのⅠ;村上水軍の拠点・来島と明治の要塞島・小島を辿る

高縄半島海賊衆の古跡散歩 そのⅠ 

高縄半島海賊衆の古跡散歩 そのⅡ

高縄半島海賊衆の古跡散歩 そのⅣ
第一回から日も置かず、高縄半島に散在する来島村上氏の城砦群を辿る散歩に出かける。今回は高縄半島から斎灘に向かって西に突き出した梶取鼻一帯の城砦群をカバーしようと思う。
実家の新居浜市を出発し、国道196号バイパスを進み、今治市街で国道317号に乗り換え梶取鼻へと向かうのだが、途中で先日の遠見山城の案内にあった、近見山が如何なる風情の山か立ち寄ることに。「大宝律令時代(8世紀ごろ)から番所が置かれ、宮崎の火山(ひやま)であげた狼火(のろし)は、金山・海山(遠見山)、近見山を経て今治市(府中)の国府へと伝達されていた」とのことであるので、見晴らしはいいだろうが、果たして遠見山や今治市街の展望が如何なるものかと、まずは最初に尋ねることにした。


来島村上氏ゆかりの城砦群

波止浜
来島城>糸山砦跡>遠見城>近見山城
波方
波方古館>玉生城>対馬山砦>長福寺鼻砦>大浦砦
玉生八幡神社
大角鼻
大角の砦>大角鼻番所跡>天満鼻見張代跡>西浦砦(西浦荒神社)
梶取鼻
宮崎城>御崎神社>番所跡>梶取鼻の狼煙台
岡・小部地区
白山(岡城跡)>龍神鼻砦
白玉神社>白椿
波方駅の周
弁天島砦>片山砦>庄畑砦>瀬早砦>養老館
北条地区
鹿島城>日高城


近見山
国道317号を進み、しまなみ海道に続く西瀬戸自動車道を越えて最初の信号、旭方入口バス停のすぐ先を左に折れる道を進む。ホテル山水閣など看板を見遣りながら山道を進む。道はそれほど狭くもなく、怖い思いもしなくてすむようだ。
しばし道なりに進むと、道の左手に如何にも駐車場といったスペースと案内がある。案内には、先に進みロータリー辺りから展望台への道と、この駐車場から続く「近見山展望台」への遊歩道が記されている。道路の先行きに不安を感じる我が身は、迷うことなくこのスペースに車を停め、遊歩道を歩いて展望台に向かう。
15分ほど歩くと展望台。瀬戸内、国府のある今治、遠見山などを確認し、狼煙連絡網を体感する。
展望台からの戻りは、同じ遊歩道を歩くものなんだかなあ、ということで、成り行きで展望台から下る階段を下ることにする。
その時は、同じところに下りていくのだろうと気楽に考えていたのだが、階段を下りて車道を相当下っても車をデポしたところに出合わない。これはまずいとiphoneの地図をチェックすると、あらぬ方向に向かっている。最終的には車のデポ地点には行けるようだが、結構大回りとなってしまう。道の途中に「遊歩道へ」といった案内があった場所まで引き返し、そこから車道を離れ、道なりに進むとロータリーの辺りに出た。そこから車のデポ地まで戻り一安心。この山には道がいくつも付けられており、ちょっと注意が必要ではある。
近見山城址
当日は狼煙台の雰囲気でも見てみよう、ついでに瀬戸の美しい眺めも楽しもう、といった程度の気持ちではあったのだが、メモの段階で近見山をチェックすると、来島村上氏に関係する歴史が登場してきた。
今はその痕跡は何も残らないが、戦国時代の応永年間(1394~1428)に北条の日高城主である重見通昭がこの地に城を築き、それ以降重見氏の居城となったとされる。
重見氏は伊予守護河野氏の一族得能氏の支流で、吉岡殿と称する通宗を祖とするといわれている。南北朝から室町期にかけ、重見氏は河野氏の重臣・奉行人として記録にその名を残す。桑村・伊予・浮穴・風早の四ケ郡にその領地を有していたが、上でメモした日高城は風早(北条)郡に築いた城である。 戦国時代に至っても河野家の宿老としてその領国支配に重きをなした重見氏であるが、享禄三年(1530)、近見城主(伊予石井山城とも)重見通種は河野氏に背く。この動きに対し河野通直の命を受けた来島氏に攻められて、敗れた重見通種は周防に逃れた、と。
通種の反乱失敗後、重見氏の家督は弟である通次が継ぎ当主となった、とのこと。ということは、重見氏は河野家臣団に復帰したのだろう。

その後の近見山城に関する記録には、天正12年(1582)3月頃、近見山近辺で合戦があったとの言い伝えが残る。これって、天正9年(1581)に織田方の誘いにより主家河野氏より離反した来島村上氏に対し、天正10年(1582)の4月頃より、開始された来島村上氏と河野・毛利連合軍との戦闘が展開された時期(和議が整い両軍の戦闘が終結したのは天正12年の頃、と言う)であり、近見城は来島村上氏の城砦群の一翼を担っていたのかもしれない。

また、その後の記録としては、近見城は秀吉の四国征伐に際し侵攻してきた毛利の小早川勢に降伏した、とある。これは、秀吉の軍門に下った毛利勢に対し、四国全土を支配下においた土佐の長曾我部の軍門に下った河野氏が小早川氏のとりなしもあり、降伏するに至ったことに関係する記述ではあろう。合戦があったかどうか、この記述だけでは不明であるが、この時期日高城主であった重見通晴は小早川勢と戦い(来島通総、得居通久の軍勢との説もある)、日高城は落城し一族の多くは自害した、との記録もある。とすれば、この近見城においても合戦があった末での重見氏の降伏かもしれない。城主名は不明である。

玉生八幡神社
近見山を下り、梶取鼻へと向かうのだが、先回に散歩で波方にあった来島村上氏の氏神である大きな社をパスしたことが気になっており、その波方の社にも立ち寄ることにした。国道317号を波止浜まで進み、そこから県道160号、166号と乗り換え波方の玉生(たもう)八幡神社に到着。
誠に広い境内を歩き、石段を登り拝殿にお参り。境内にあった案内には、「639年舒明天皇が伊予国へ下向された時、波方沖に御停泊船になった。その夜、沖の潮が二又に流れ、その間に光り輝くものがあったので、小舟を行かせて調べてみると、箱の中に三つの玉があった。
「これは不思議な住吉大神(海上の守護神)である。この里の産土神としてお祀りさなさい。」とお言葉があり、玉生宮を創祀した。
後に清和天皇の貞観元年(859)大分県の宇佐八幡大神を山城国(京都)男山へお移しになられる途中、当地に碇泊したとき、玉生宮より五色の異様な雲気が立ち上がら、同時に船中からも光り輝くものがあったので、社壇を築き分霊を祀った。その後、宇多天皇の寛平八年(896)に両社を併せて玉生八幡宮とした。 源頼義を始め歴代の伊予守等の武将の信仰が厚く、特に来島家は氏神として崇敬した。現在も北の号10ヶ村の総氏神として、特に海運業者の信仰を集めている」とあった。

因みに案内にある源頼義は、先回の散歩でメモしたように、村上氏の祖とされる清和源氏頼信の子であり、前九年の役の後に、伊予守として赴任したことが、その所以であろう。

宮崎城跡
玉生八幡を離れ、先回の散歩で訪れた大角鼻の半島部を横切り、高縄半島の西岸に移り、西浦から県道166号を海岸に沿って南に下り、梶取ノ鼻の岬が西に突き出た辺りで県道166号から県道301号に乗り換える。西に突き出た岬を登り、そして坂を下りきった辺り、海に面して突き出た丘陵が宮崎城跡。
案内には「この城砦は、最もすぐれた海賊城で、ピット(桟橋跡柱穴)、堀切などの城郭跡がはっきり残っており、本来港湾の監視を主な目的とするもので、根城を中心に港の出入口等の丘陵上の要衝(軍事上大切な場所)に城塞(砦)を配置した典型的な城跡とも言える。
鎌倉末期から室町時代にかけて、来島水軍の枝城的存在であったが、江戸時代に入り廃止された」とあった。

現在は道路で海岸と切り離されてはいるが、往昔は海と直接繋がっていたのだろう。高差30mほどの丘陵の先端部は二の丸、二の丸から続く丘陵尾根には空堀、本丸、堀切、そして詰の郭を配した200mほどの城が築かれていたとのことである。

案内には、「鎌倉末期から室町時代にかけて、来島水軍の枝城的存在。。。」と、あったが、『三代実録』には、貞観9年(876)に「...伊予国宮崎村海賊群居掠奪尤切...」との記録があるようで、その頃にはこの宮崎地区には海賊働きをする集団が存在していたようである。

来島散歩でメモしたように、瀬戸内海は、日本の交通の大動脈であり、古代から瀬戸内海の人達は穏やかな気候の中、魚漁や農作業をしながら、船の水先案内をしたり、行き交う舟と交易をしていたと考えられる。そして瀬戸内海で航海や貿易がさかんになるにつれ、瀬戸内の海で暮らしていた人達も集団化・組織化され、海賊働きをする集団が現れる。その海賊衆の中でも最も力をもったのが村上氏であり、鎌倉末期から室町にかけて、海賊衆は村上氏の傘下に統合されていったのではあろう。

お頭の家跡
宮崎城の辺りに「波方町ふるさとこみち案内」があり、そこに「お頭の家跡」の記載があった。場所も、宮崎城跡から先の海岸線を進み、最初の角を山側に向かったところ。
車を走らせその地に向かう。そこには屋敷も既に無く、畑の脇に案内あり、「ここは海賊の頭領の屋敷跡である。当時この家で「おかしら」という家号を持ち、赤い旗、火縄銃砲、なぎなたなどが残っていたと言われている。この谷のように宮崎の人々は、外部(海)から見えないところに散らばって住居や田畑を持ち、敵の襲撃から身を守ったと言われている。北側の墓地に「ご先祖さん」と呼ばれている二基の墓がある。表面は風雨で摩滅して文字は判別できないが、元禄時代(1688―1704)のものではなかろうかと思われる」とあった。

唐津崎トンネル
車をUターンすべく、お頭の家跡への道を先に進むとトンネルがあり、入口が閉鎖されている。Google Mapの衛星写真でチェックすると、トンネルの抜ける丘陵部の北の海岸部にいくつもの備蓄タンクと桟橋が見える。地図には波方ターミナルとあった。チェックすると、波方ターミナルとは会社名であり、国内外からの製油所から石油・液化石油ガスを貯蔵・管理し、国内に出荷する石油・液化石油ガスの物流基地であった。
が、トンネルの銘板には「2002年6月竣工 日本液化石油ガス備蓄株式会社 施行大成建設」とある。(株)波方ターミナルと日本液化石油ガス備蓄株式会社の関係は?チェックすると、日本液化石油ガス備蓄株式会社とは全国5箇所に計画された国家石油備蓄基地の建設施行社。平成14年(2002)に作業トンネル工事に着手し、平成15年(2003)には地下貯槽工事に着手、平成16年(2004)には国家石油備蓄体制の移行により事業主体は石油天然ガス・金属鉱物資源機構が継承し平成25年(2013)に石油備蓄施設は完成した。とのこと。
この石油備蓄施設は地下180mのところにあり、このトンネルを20分ほど勾配率12.5%という急坂を下ると日本最大の備蓄施設に着くと、言う。ということは、このトンネルは工事用のトンネルであり、出口のないトンネルということだ。
で、(株)波方ターミナルと日本液化石油ガス備蓄株式会社の関係であるが、国の政策で当時の日本液化石油ガス備蓄株式社が施工主として建設した石油備蓄基地を波方ターミナル(株)が管理・運営している、ということである。

海の中に鳥居
お頭の家跡を離れ、次の目的地である梶取ノ鼻に向かう。県道301号を岬に向けて海岸線を走ると、防波堤の直ぐ先の海中に鳥居が建つ。そのときはどこの社の鳥居かわからなかったのだが、それは後ほど出合う御崎神社の鳥居であった。







●やまももの小道
海中の鳥居を眺め、県道301号を岬に向けて海岸線から山道に入ったのだが、取り付き箇所の道幅が狭く、海岸線の崖地で万が一対向車に出合ったらかなわん、と言うことで、車を鳥居脇の防波堤の辺りにあったスペースにデポし、徒歩で進むことに。(後からわかったことではあるが、道幅が極端に狭いのは取り付き部だけであり、その先は結構しっかりした道であり、車で走っても何の問題もなかったと思うが、後の祭り)。
車のデポ地から取り付き部の狭い道を進むと、右手に駒犬が見え、そこから山道が分岐する。「やまももの小道」と案内がある。この道がとこまで続くのか分からないが、とりあえず「やまももの小道」に折れる。 樹齢数百年と言うやまももの木々のトンネルは300mほども続いたろうか。誠に気持ちのいい散歩道である。その道を進むと「御崎神社」と刻まれた石碑が建つ。思うに、この道は往昔の「御崎神社」への参道であったのだろう。実際成り行きで先に進むと、御崎神社の少し先の道に出た。

御崎神社
境内に入ると石碑が建つ。「御神灯架設の由来碑」と刻まれる。
御神灯架設の由来碑
大雑把にまとめると、「終戦後の昭和23年(1948)、宮崎地区に電灯架設工事施工に際し、助成金もない当時、この社のご神木を伐採売却しその原資とし、また部落民の奉仕により経費を抑え、早期の完成をみた。その後、四十余年を経て七五三浦に架電したのを契機に、平成2年(1990)5月、御崎神社にも御神灯が灯り、ご神木伐採への報恩を記念して建立した」とのことであった。





拝殿に向かう途中に銅製の牛が寝転ぶ。牛と言えば菅原道真の天神様と関係あるのかと思ったのだが、拝殿脇の案内に拠れば、「この神社は、以前梶取鼻(古御崎)にあった香取神社と烏鼻(御崎)にあった烏明神が祀られている。梶取と香取の語源は同じであり、香取の神は海の守護神であるから、海上安全を祈って祀られ、また烏明神は農耕の神として牛馬が祀られている。
昭和30年頃迄は田植えの終わった近郊の農家が牛馬を休ませてこの神社に参詣し、また牛の草鞋を造って奉納し、牛馬の護符を受けて畜舎に飾って農作業の安全と豊作を祈った。
又、この御崎は戦国時代来島水軍の砦となっていた所であり、海岸の岩の上には無数のピット(桟橋跡柱穴)が残っており、付近には「磯の七不思議」といわれる見事な岩がある」とあり、牛は烏神社との関連のものであった。それにしても、烏神社って、あまり聞いたことのない社名ではある。

烏信仰
今でこそ、不吉な存在といった感のある烏ではあるが、往古は神武東征の際、熊野の山で先に立ち、松明を掲げ大和へ先導したといわれている紀記の八咫烏(やたがらす)のエピソードに端的に示すように、烏は神の使いであり、未来の光明、光明や吉事を指し示す「ミサキ神」としての性格をもっていたようだ。 御崎も「ミサキ神」との関連があるのだろうか。関連があった欲しいとも思う。

梶取鼻
御崎神社を離れ、見張り台のあった梶取鼻に向かう。距離はおおよそ2キロ弱といったところ。眼下に時に現れる斎灘を見遣りながら島の突端に向かってのんびり歩く。途中、縄文遺跡の地として知られる七五三ヶ浦の海浜に下る道があったが、戻りに訪れるべく、先に進み梶取鼻に。
半島突端の灯台手前のちょっとした広場にあった「梶取鼻」の案内には、「わが国が大陸文化の輸入やその中継地である九州との往来はすべて海路によった。その点で波方町宮崎の地は重要な地点であった。大宝律令(701)の中の軍防令によって各国に軍団が置かれ、この軍団には外敵の侵入に備えて、その進入経路にあたると予想される地に、?燧(のろし台)と戌(まもり;砦)を置き、国府(現在の今治市富田付近)との連絡、防備にあたった。
左方の山を火山といい、?燧跡の決め手となる灰の層がいくつか発見されている。
また松山藩の参勤交代の際には「のろし場」として使用され、歓迎の意味でも利用された。 眼下の海岸(七五三ヶ浦)には番所という地名が残っている。現在この付近一帯は瀬戸内海国立公園に指定され、梶取鼻灯台と無線信号所で海の男達に知られている」とあった。
海賊衆の見張り台以前、古代、百済救援のため新羅・唐の連合軍と戦った白村江の戦いに敗れた大和朝廷は、外敵の侵攻に備えこの地に?燧(のろし台)と戌(まもり;砦)を置き、国府への連絡網を整備したわけである。烽火リレーは、既にメモしたように、梶取鼻の火山(ひやま)であげた狼火(のろし)は、金山・海山(遠見山)、近見山を経て今治市(府中)の国府へと伝達されていた。来島村上氏も伊予の国内の反河野勢力、また外敵の侵攻の連絡網として、この烽火リレー網を活用したのではあろう。

「烽山の賦(ほうざんのふ)」の案内
道脇に「烽山の賦(ほうざんのふ)」の案内。「この頂きのあたりを火山(ひやま)という。狼火をあげし水軍や興亡のあと松籟胸をゆすりて荒猛き防人をしのぶよすがもなし?鞳たる来島のひびきのみ僅かに残る城塞の石くれに谺す小道をゆけば斎灘の潮の香ただようなかうらうらと山桃の紅熟れて木洩れ日に光るぞ哀し  昭和52年5月 森繁久彌」とあり、その意味を説明していた(説明文は省略)。
昭和42年(1967)、映画「仰げば尊し」の撮影でこの地を訪れた森繁久彌は、先に通り過ぎた七五三ヶ浦を見おろすこの地の美しさに感動し、歴史を踏まえ景観をかくの如く表した。因みに森繁久彌は瀬戸内の小学校の教師役であった、よう。

「烽山の賦歌碑」
梶取鼻を少し彷徨う。後から分かったことだが、半島突端からロープが整備された海岸に下りる道があったようだ。道を少し元に戻り、「火山」に向かう。 道脇に「烽山の賦歌碑」への道案内。
山道を進むとほどなく歌碑。「この山上を火山という 水軍の攻防松籟に聞くのみ 狼火焚く舟手たちの 道あれば 山桃の熟れて潮騒にゆるる」と刻まれる、と案内にあった。
広場にあった歌碑よりやや小ぶり。また、歌もコンパクトになっている。共に森繁彌氏の詠んだものとのことである。このあたりに見張り台・烽火台があったようである。

七五三ヶ浦遺跡
梶取鼻を離れ、車のデポ地へと元来た道を引き返す。途中、七五三(しめ)ヶ浦に下る道を右に折れ、海岸へ下りる。
海岸にあった案内には、「七五三ヶ浦 この入り江の展望は、御崎神社、梶取鼻どちらから見ても四季を通じ、訪れた人々の目を楽しませてくれる。また、燈台付近には、来島水軍の見張台があり、通行税をとっていたと言われ、番所という地名が残って居る。
この付近は、昔から湧水が豊富で、窪地には天水による水田、畑があり、古代から人が住んでいたと言われている。県道から少し海岸へ下った谷あいに住居跡と見られる灰の層が露出しており、付近からは土器片も発見されている」とあった
七五三ヶ浦遺跡
また、七五三ヶ浦遺跡の案内もあり、「波方町の歴史は古く、人々の生活したあとが数多くの縄文時代の遺跡として発見されている。ここ七五三ヶ浦遺跡もそのひとつである。
七五三ヶ浦遺跡は、縄文時代前期から同晩期(約5000年前から2500年前)に至るもので、各年代の土器石器などが出土し、また住居跡と思われる遺跡も検出されている。
道路下のケース内には地層が展示されているが、発掘当時のそのままを剥ぎとり、旧位置におかれたもので、あまり他では見られない珍しいものである。(土器は縄文時代後期)」との説明があった。

岡城跡
七五三ヶ浦を離れ、車のデポ地までのんびり歩いて戻る。海中に建つ御崎神社の通り近くの堤防脇にデポしていた車は、レッカー移動されることなくそこにあり、一安心。
車の置いた宮崎地区から次の目的地である岡城跡のある波方の岡地区に向かう。県道301号を進み、県道166号に乗り換えて直ぐ、岡のバス停を越えた次の交差点を左に折れたあたりで適当な車のデポ地を探す。
岡城跡は道脇にある消防団の詰所手前の道を左に入り、岡地区の集会所へと道を更に左に折れたところにあった。
集会の前にある岡城跡は、城跡とはいうものの、雑草が生い茂った小丘。案内 には、「海賊城砦群のひとつ岡城跡であるが、三方を削られて、当時の原型は不明である。また、小部の白玉神社の跡と言われている。
ある年、小部では不漁が続き、岡でも不作で領民が苦しんでいた。そこで、岡の白玉神社を小部に移しスサノオ神社とともにお祭りしたところ、両部落とも豊かになったよくなったといわれている。岡から「新こも」が届かないと神輿のお祭はできないとのことである」とあった。


●白椿
岡城跡の北東、直ぐのところに町指定天然記念物の白椿がある、という。ついでのことなので立ち寄り。
白椿 町指定天然記念物
「樹高6m、枝張6m、目通り0.9mあり、地上約1 mのところで、二股に分かれている。樹齢150年余の大樹であるが、樹勢は極めて旺盛で、毎年八重の白い花を一面につける珍しいものである。
当家の人が、旅先から、持ち帰ったものといわれている。 また、岡部落は、椿の多いところで、ピンクヤブ系の大木もある。ピンクヤブとはピンクヤブ椿のことである。

白玉神社
次は、岡城跡の説明にあった「白玉神社」を訪れることに。社は岡城跡から一筋南に鎮座する和霊神社の前、県道166号脇にあった。岡城跡の案内にもあったお祭は春祭の獅子舞が知られる。
社は弘仁元年(810)、加賀の白山神社を勧請。元は、白山権現と称されていた。祭神はイザナギ、イザナミと菊理姫(くくりひめ)。菊理姫(くくりひめ)はイザナギが黄泉の国から逃げるとき迎えただけの不思議な神ではある。 ところで、白玉神社ってあまり聞いたことのない社名。あれこれとの解釈のある白玉稲荷との関連も妄想してみたのだが、先ほど訪れたこの地の町指定天然記念物である白椿は「白玉」とも称されるため、その関連ではないかと自分なりに結論。

今回はここで時間切れ。この近辺で取り残した龍神鼻砦、弁天島砦、庄畑砦、瀬早砦、片山砦、養老館や波方地区の長福寺鼻砦、大浦砦、そして北条の鹿島城、日高城など未訪の来島村上氏ゆかりの城砦群は、時間をみつけては辿ろうと思う。


昨年、来島村上氏の居城である来島を訪ねた。島に渡り来島城本丸跡などを辿りながら気になったことがあった。如何に渦巻く潮流に護られた自然の要害にしても、果たして、このような周囲1キロといった小島で一帯に覇を唱えるといった水軍・軍事行動・海賊働きができるのであろうか、ということである。 チェックすると、16世紀頃に至って、来島村上氏は、その発展にともない、本拠の城を来島城から西方の波方浦に移し、そこに館を構え、その館を中心に当地周縁の海岸部に複数の城砦を配置した、と。代表的な城は館の南の遠見山城や対岸の糸山城(現在の糸谷公園辺り)であるが、その他の主だった城砦としては、東岸部(波方港の北部)では大浦砦・長福寺鼻砦・対馬山砦、北岸部(波方港の北に突き出た半島部)では大角の砦・大角番所・天満鼻見張り台、西浦砦(黒磯城とも)、西岸部(波方ターミナルがある西に突き出た半島部)では梶取鼻砦・御崎城・宮崎城などがあったとのことである。波方城・黒磯城・御崎城・宮崎城・大角砦・梶取鼻砦など七砦、天満鼻見張台・大角番所・波方館・養老館などを総称して波方城砦群とも称する。
これで少し納得。とはいいながら、瀬戸内で海賊働き(警護料・帆別銭;通行料徴収)をするだけにしては、山城があったりするわけで、そうすると、そもそもが、この城砦群は誰からの攻撃を防御するためのものなのだろう、などと新たな疑問も出てきた。
散歩を終えた後、実家のある愛媛県新居浜市の図書館で見つけた『海賊衆 来島村上氏とその時代;山内譲』などにより、来島村上氏の概要などは少しは理解できたが、散歩を始めるときは何の情報もなし。とりあえず現地を訪れてみれば、そこにあると思われる説明文などで、あれこれの疑問も少しは解けるかと、常の如く誠にお気楽に来島村上氏の城砦跡巡りの散歩にでかけることにした。
出掛けてはみたものの、往復だけで結構時間がかかる。2回に分けて訪れたが、それでも未だ全てを辿り終えていない。とりあえず、今まで辿ったところをメモし、今後も時間を見つけては城砦跡を辿り、その都度メモを追加していこうと思う。


来島村上氏ゆかりの城砦群

波止浜
来島城>糸山砦跡>遠見城>近見山城
波方
波方古館>玉生城>対馬山砦>長福寺鼻砦>大浦砦
玉生八幡神社
大角鼻
大角の砦>大角鼻番所跡>天満鼻見張代跡>西浦砦(西浦荒神社)
梶取鼻
宮崎城>御崎神社>番所跡>梶取鼻の狼煙台
岡・小部地区
白山(岡城跡)>龍神鼻砦
白玉神社>白椿
波方駅の周辺
弁天島砦>片山砦>庄畑砦>瀬早砦>養老館
北条地区
鹿島城>日高城

糸山砦跡
糸山城には城砦跡とは知らず何度も訪れている。来島海峡やしまなみ海道の来島海峡第三大橋の景観を県外からのゲストに案内すべく、糸山公園展望台に訪れているのだが、そこが糸山砦の三の曲輪跡とのことであった。
公園の駐車場から遊歩道を登り詰めた鞍部が主郭部と三の曲輪を繋ぐ帯曲輪であり、そこから西に斜面を登ると削られた平坦地があり、糸山城の主郭部とのことである。三つの曲輪が確認されているとのことだが、規模は小さく砦と推測されている。
幾度も訪れているところでもあるので、今回はパス。道は、国道317号を今治方面から進み、しまなみ海道・今治北IC入口を越えて直ぐ、国道から右に分岐した県道161号を進み糸山トンネルを抜けて右に曲がれば駐車場となる。
合戦の記録
『海賊衆 来島村上氏とその時代;山内譲』に拠れば、天正9年(1581)、主家河野氏に反旗を翻し、長きに渡る毛利との誼を絶ち、毛利征伐を図る織田方に与した当時の当主・村上通総の弟義清が、糸山で主家である河野、毛利・因島村上・能島村上連合軍と戦ったとの記録がある。
このときは、本拠地の来島城をはじめ、北条沖の鹿島城、この糸山砦、そしてこの後訪ねる海山(遠見山)砦を含めた合戦となったようだ。当主・村上通総は天正10年(1582)には来島城から鹿島城(通総の兄得居通降が守る)に移ったとも、秀吉の元に庇護を求めとも。
天正9年(1582)には織田・秀吉と毛利の和議は成立しており、秀吉の先兵としての来島村上と毛利との和議も成立するも、それを良し、としない義清は、糸山から北条の日高城(立石川上流の山城)に移り抵抗したようだが、天正12年(1584)までには抵抗を止め下山し和議は整った、とのことである。

海山(遠見山)砦
海山(遠見山;おみやま)城は波止浜港の西、標高155mの山頂にある。県道38号を波止浜から波方方面に向かう途中、郷山バス停を越えた少し先に、「海山城展望台」の案内があり、道なりに車で山を登ると駐車場に着く。一帯は「海山城公園」となって整備されている。v 駐車場から山頂に登る道を進むと小振りな二層の天守が建つ。展望台をそれっぽく造っているものであり、昔の姿を再現しているわけではないようだ。 模擬天守の展望台ではあるが、その展望は素晴らしい。今までは県外からのゲストに瀬戸の島々としまなみ海道の景観を楽しんでもらうためには、糸山城跡の展望台しか頭になかったのだが、こちらのほうが断然、いい。
東は瀬戸の島々、しまなみ海道、北は大角鼻、西は梶取ノ鼻、北条の鹿島らしき島も遠望できる。
案内に拠れば、「遠見山(現在は海山という)とは、遠見番所(見張所)に由来する地名であるが、ここには大宝律令時代(8世紀ごろ)から番所が置かれ、宮崎の火山(ひやま)であげた狼火(のろし)は、金山・海山(遠見山)、近見山を経て今治市(府中)の国府へと伝達されていた。
中世初頭には、現在の養老地区の「別台(べだい)」に「館(やかた)」を構えた在地勢力があり、海山を「詰の城」として活用していたが、室町時代に来島村上氏が勢力を増し、その勢力下に吸収された。
守りの拠点であった海山の砦も「来島城」や「波方館」防衛のための水軍城砦群の一つとなったが、来島氏も海山を重視し、ここに遠見番所を置いた。しかし、関ヶ原合戦後、来島氏が豊後の森(大分県玖珠町)に転封後は、砦も壊され、当時の遺構の面影は失われ、犬走りの一部がわずかに散見されるのみである。
この城塞型の展望台は、構造、規模は異なるが、当時の面影を偲んで建設したものである。 波方町  波方町教育委員会」とあった。

この案内にある「宮崎の火山」は梶取ノ鼻の先端部を指す、また近見山はこの地より南東にある標高244mの山。金山は何処を指すのか不明。「関ヶ原合戦後、来島氏が豊後の森(大分県玖珠町)に転封後」とあるのは、毛利との友好関係を絶ち織田・豊臣方に与した当主・来島通総の子である来島長親(後に康親)は、豊臣の天下になり1万4千石を有していたが、関ヶ原の合戦で西軍に参陣。西軍敗北となるも、長親の妻の伯父である福島正則の取りなしもあり家名存続し、慶長6年(1601年)、豊後森に旧領と同じ1万4千石を得て森藩が成立した。
2代通春は、元和2年(1616年)、姓を久留島と改めた、ということである。どうでもいいことではあるが、佐伯泰英さんの痛快時代小説『酔いどれ小藤次』の主人公は、この久留島藩の下級武士との設定である。

合戦の記録
この城砦を巡っては天正9年(1581)、能島・因島の水軍が波方浦へ攻めよせたとき、この城砦も含めた大規模な戦いが行われたようである。この戦は糸山砦でメモしたように、主家河野氏に反旗を翻し、長年誼を通じた毛利ともその誼を絶ち織田・秀吉方に与したことによる。ここで、長年誼を通じた毛利と来島村上の関係を時系列で整理してみる。

毛利と来島村上
毛利と来島村上の協力関係の代表的ケースとしては、天正9年から12年にかけて行われた「天正の合戦」の時、毛利氏と争った村上通総の父である通康が、天文24年(1555)、陶晴賢と毛利元就が戦った厳島合戦において毛利に与したことが挙げられる。この合戦においては、来島を含めた村上三家(因島・能島・来島)が水軍として毛利に与し、勝利に結びついたとされる。
とは言うものの、来島村上は厳島の合戦後も完全に毛利と誼を通じたというわけでもなく、阿波の三好氏、豊後の大友氏などとも友好関係を保ち一定の距離を置いていたようだが、永禄4年(1561)頃には毛利と密接な関係を結んだと言う。
それもあってか、永禄10年(1567)、土佐の一条氏の支援を受けた喜多郡(愛媛の南予)の宇都宮氏が守護の河野氏に対し戦端を開いたとき、伊予守護職である河野方の中心勢力として出兵した来島村上を支援するため、毛利の小早川勢が出兵している。毛利の出兵は「来島の恩かえし」と呼ばれるが、厳島合戦の支援の恩をここで返す、ということであろう。毛利の援軍を得た河野勢はこの鳥坂合戦で大勝することになる。
その後、毛利と織田の戦いにおいて毛利水軍の大勝利となった天正5年(1576)第一次木津川口の水戦では毛利水軍に与し勝利に貢献している。が、天正7年(1578)の第二次木津川口の水戦では毛利に与するも完敗。この敗戦で織田方の力を知ったのか、主家河野氏との不和なのか、その理由はわからないが、天正9年(1581)には織田・秀吉の誘いに応じ、毛利に与する主家・河野氏に反旗を翻しその結果が、糸山砦、海山砦でメモした、河野氏・毛利氏・能島村上・因島村上との合戦となったわけである。

来島村上氏って海賊衆?
来島村上氏と毛利氏の関係を整理しながら、来島村上氏って海賊衆?といった誠に素朴な疑問が出てきた。土佐の一条氏の支援を受けた喜多郡(内子辺り)の宇都宮氏と戦った「鳥坂合戦」は山中での合戦であり、海戦とはほど遠い。これって、どういうことだろうとチェックすると、単に海賊衆とは呼べない来島村上氏の姿が見えてきた。
先回の来島散歩のメモでは、来島村上氏の祖を、波止浜の船着き場にあったパンフレットを元に、南北朝の頃村上師清がその子を因島、能島、来島に配し村上三家を成したとしたが、そもそも村上師清という人物自体がはっきりしない。南朝方として活躍した村上義弘の子とされるが、血の繋がりはなく、為に南朝の重臣であり、海事政策を掌握していた北畠親房の子が村上家に入ったとの説もある。
『海賊衆 来島村上氏とその時代;山内譲』に拠れば、来島村上氏の祖として辿れるのは戦国時代の村上通康(1519-1567)までとする。東予での反河野勢力の鎮圧などの功もあり、河野通直の重臣としての地位を築いている。通康の正室は河野惣領家の当主・河野通直の女。通康の名も当主の名の「通」を使っているのも、その信頼の証しではあろう。
その信頼の証し故か、河野通直は後継者としてこの村上通康を指名する。これに不満を持つ河野氏の譜代・老臣は予州家(惣領家とは別の河野氏の流れ)河野通政を担ぎ、湯築城(松山市の道後温泉辺り)の通直を攻め、河野通直は村上通康の来島城の逃れることになる。
予州勢も来島城を落とせず和議が成立。和議の結果、通直は隠居となるも、予州家・通政の急逝により事態は急変。幼少の通宣(通政の弟)の後見人として河野通直が復活。再び河野通直・村上通康が政治の表舞台に登場することになる。
その後、通宣の成長に伴い、河野通宣と河野通直の反目。その理由は不明だが村上痛康は河野通宣に味方し、村上通康は権力の中枢に登り詰める。その村上通康は厳島合戦に毛利に与し勝利。また、伊予国内での反河野の軍をあげた南予の宇都宮氏を毛利氏の援助もあり鎮圧。毛利との繋がりも強く伊予での第一党の勢力となる。
来島村上の祖とされる村上通康は宇都宮氏との鳥坂合戦の陣中で倒れ急逝。その後を継いだのが村上通総。元亀元年(1570)頃から河野氏と家督や新居郡を巡る処置などで不和が生じ、二度に渡る木津川口の合戦には毛利・河野方として参戦するも、これも前述の通り、織田・秀吉の誘いに応じ、反河野・毛利として反旗を翻すことになる。糸山砦、海山砦での河野・毛利・能島・因島村上との攻防はこれも前述の通りである。

少し長くなったが、このような来島村上氏の行動を見るに、いわゆる海賊働きといった要素は多くない。『海賊衆 来島村上氏とその時代;山内譲』によれば、河野氏の重臣として活躍した来島村上氏の役割は
① 室町幕府との交渉窓口 ②領内統治 ③海賊の生業
この3つに分けられるが、通行料や警護料の資料が少ないことから、海賊大将と称された能島村上の村上武吉など他の村上氏ほど海賊の生業は活発ではない、とのこと。河野氏の重臣としての立場が強くなるにつれ、海賊的性格が薄れてきた、と説く。最初想像していた「海賊衆」とは違った姿が現れた、とはこういうことである。
なお、来島氏を称したのは村上通総の頃から、とのこと。秀吉が。「来島、来島」」と称したのが来島姓となった所以とか。
村上通康
上で、『海賊衆 来島村上氏とその時代;山内譲』に拠れば、南北朝の頃村上師清が長男義顕(雅久)を因島、次男顕忠(吉房)を能島、三男顕長(吉豊)を来島に配し村上三家を成したとの説はその資料に乏しく、資料として辿れるのは村上通康(1519-1567)であり、通康を来島村上の祖とメモした。 ではその村上通康以前には来島村上に繋がる資料は全くないか、と言えばそうでもなく、乏しいながらも来島村上との関係を推測し得る資料は残ると同書は説く。
応永11年(1404)、前伯耆守通定と称する人物が東寺から塩の荘園と称された弓削島の庶務請負を依頼される記録が残るが、この前伯耆守通定は東寺からすれば「関方」、つまりは「海賊」との位置づけであるが、伊予守護である河野通之の求めに応じ上京するなど、河野氏と親しい関係であることを示す。また、「関方」とも関連するが、幕府から唐船(遣明船)警護を命じられるなど、海上軍事力を有する人物であるとも説く。
応永27年(1420)には、当時の伊予守である河野通元が村上右衛門尉に同じ弓削島荘の庶務職を命じている。康正2年(1456)には村上治部進が東寺に書状を出しているが、そこでは伊予の河野家の内紛を詳しく報告している、と説く。

これらの資料に登場する人物は、通康以前の来島村上氏に関わりを持つ人物と同書は比定し、来島村上氏は15世紀初頭から、東寺の弓削島庄の所務請負、幕府より唐船警護を命じられるなど海上勢力として活発に活動。また河野氏との関係も密接であり、このことが河野家の重臣として登場する通康の下地であろう、と推測している。
何故に村上氏が瀬戸内に?
では何故に村上と称する勢力が、この地域に登場するのか、ということだが、 村上氏は清和源氏頼信の後裔とされる。村上姓を名乗ったのは源頼信の後裔が信濃国の更級郡村上郷に住み村上信濃守を称したことによる。時期は頼清の子仲宗のとき、あるいは仲宗の子盛清の代とも言われるがはっきりしない。文書の記録には白川上皇に仕えていた盛清が、上皇を呪咀したとして信濃に配流となったとされるから、遅くとも盛清の代には「村上姓」を名乗ったのではあろう。
信濃に下った「村上氏」は、盛清の子(為国)や孫の代、保元の乱や源平合戦時の源氏方として活躍し、村上氏繁栄の礎を築いたとされる。
で、この村上氏と伊予の村上氏との関連であるが、村上氏繁栄の礎を築いた為国の弟である定国は保元の乱(1156)後、信濃から海賊衆の棟梁となって淡路、塩飽へと進出。「平治の乱(1160)」の後には、父祖の地越智大島に上陸し、瀬戸内村上氏の祖になったとする。
「父祖の地越智大島に」の意味するところは、村上氏の祖とされる清和源氏頼信の子源頼義が前九年の役の後に、伊予守として赴任し、河野親経と甥の村上仲宗に命じて寺社の造営を行わせたとされ、この頃仲宗は今治の対岸、伊予大島(能島)に城を築いていたと伝えられることに拠る。村上氏は村上仲宗の代に既に瀬戸内に勢力を築いていた、ということであり、その旧領に定国が「戻った」ということであろう。
つまりは、12世紀にはこの辺りには「村上」を姓とする勢力が移り住んでおり、資料は見あたらないにしても、その後裔が15世紀には伊予の豪族。河野氏と深い関係をもつ勢力となっていたのであろう。単なる妄想。根拠なし。

合戦の記録からあれこれ疑問が広がり、メモが結構長くなってしまった。が、来島村上氏について結構自分なりに納得できた。次の目的地に向かうことにする。

波方古館
遠見山を下り、次の目的地である波方古館に。この館は16世紀、来島村上氏が本拠を来島城から波方浦に移した地。ここに館を構え、その周囲に複数の城砦を配置した。『海賊衆 来島村上氏とその時代;山内譲』に拠れば、来島村上の領地は来島周辺、菊間、弓削島、周防大島の一部であった、とのこと。

来島村上氏の氏神と称される古社の玉生八幡や来島村上氏の尊崇を受けたとされる長泉寺を見遣りながら、波方古館のあったという「白岩明神社」に向かう。 誠に狭い集落の道をなんとか抜け、港から少し奥まった社らしき石垣の手前に車を置き白岩明神社に。
特に来島村上氏に冠する案内などもない。社はあるものの、神社の由来もない。地区名の白岩が、その名の由来であろうと思うのみ。
境内から波方浦を眺めるに、北を海、社の両側を山に囲まれた景観。防御に適した立地と思える。

玉生(たまう)城
波方古館の両側を囲む丘陵突起部の、波方浦に向かって右手の丘陵部には「玉生城」があった、とのこと。資料は残らないが、館を守る砦といった規模ではあろう。丘陵部へと続く道も地図になく、白岩明神社から城跡らしき丘陵部を眺めるのみに留める。


対馬山砦
波方浦に向かって左手の丘陵突起部には「対馬山砦」があった、とのこと。こちらも資料は残っていないようだ。生玉城とこの対馬山砦のふたつが館防御の最後の拠点であろうか。
地図に丘陵に続く道がある。道を辿り丘陵部へと進むが、特に何といった遺構が残るわけでもなく、適当な箇所で引き返す。

瀬野帯刀神社
対馬山砦を地図でチェックしているとき、砦下に「瀬野帯刀神社」が目に付いた。個人名そのままの神社に興味を引かれ、ちょっと立ち寄ることに。
白岩明神社に向かう細路に難儀したこともあり、この社には車を港近くにデポし歩いて向かう。対馬山砦を背にした社にお参り。社の傍に石碑があり、瀬野家略歴が刻まれていた。石碑を詠むと、「瀨野家略歴 天安年間、紀元1517年、瀨野の祖は京都より当地方に下り、その子孫栄えて豪族となり瀬戸内に威を振ふ。後伊予水軍の雄として保元の乱後崇徳上皇に忠誠を盡し源平の戦には源家の召に応じ壇ノ浦に参戦す。また元寇の役には河野氏に従い、博多湾にて武勲を表す。
中興の祖丹波守帯刀公南北朝時代南朝に奉じ脇屋義助大館氏明らとともに足利方と戦う。
弘和年間来島城主村上氏の重臣となり遠く高麗明国まで倭寇として飛躍す。 元亀天正年間土佐長曽我部と戦い又豊臣氏の朝鮮征伐に参戦す。後松山城主加藤氏蒲生氏に仕う。
子孫開運に従事海商として活躍し日本海運の隆盛に貢献するところ大なり。末孫合力しして社を改建するに当たり当家の略歴を撰してここに記す。 昭和51年吉日」とあった。

天安年間とは9世紀中頃のこと。碑文に「紀元1517」、とあるのは戦前日本で使われていた神武天皇即位を元年とする表記ではあろう。で、この天安年間であるが、それは瀬戸内を揺るがした藤原純友の乱よりも1世紀ほど古く、河野氏の祖である河野通清が歴史の姿を現すのが12世紀末であるから、それよりもはるかに古く、信濃に生まれた村上氏が源平の合戦で源氏に味方し、それもあってか村上定国が越智大島に勢を張り、瀬戸内村上氏の祖となったのは「平治の乱(1160)」の後とされるので、それよりも古くから当地に京から下っていることになる。
その後の略歴をみると、なんとなく河野氏の傘下で活躍したようである。そして、来島村上氏の傘下となったのは弘和年間とする。弘和年間とは南北朝時代の14世紀初頭であり、『海賊衆 来島村上氏とその時代;山内譲』が来島村上氏の祖とする村上通康が登場するのは16世紀の中頃(村上通康;1519-1567)であり、時代が合わないが、それはそれとして来島村上氏の傘下で活躍するが、来島村上が九州に移った後もこの地に残り、松山藩に仕えているようである。

歴史上に登場しない人物ではあるが、このような人物の履歴を読むことにより、歴史にリアリティを感じる。何気なく立ち寄った社で、何気なく読んだ石碑の刻字から、あれこれと想いが拡がる。


大角鼻

波方海賊城砦群(大角の砦)
波方の港を離れ県道166号を高縄半島の突端部に向かう。ほどなく県道は高縄半島を横断すべく左に折れるが、その分岐点で海岸線の道へと右に折れ、先に進むと海岸へと迫り出した丘陵部の切り通しが現れる。「大角の砦」は、この切り通し部の海に面する箇所にあったよう。
切り通し近くに車を停める。切り通し箇所から海に沿って丘陵下を通る道がある。道の途中に「波方海賊城砦群(大角の砦)」の案内があり、「室町時代、波方には来島村上家の居館(住居)の「波方館」があった。来島水軍の里波方は波方館防御ため、付近のいたるところに小規模な海賊城や見張台が構築されて防御態勢が整えられていた。この波方海賊城砦群のように、領主の館(城)を中心に同規模程度の土豪(勢力のある一族)の小砦(小さい城)の集合体で緊密に統一され、いつでも活動できるように構成されている城郭の形態を「群郭複合式」と呼んでいるが、この砦もそのひとつである。この大角の砦は海に面しており、海岸の岩礁の上に無数のさん橋跡の柱穴(ピット)がみられる。」とあった。

道を進むと「六十六番 千手観音」の標識と小祠。(高縄)半島四国遍路八十八箇所のひとつ、とか。昭和32年1957年に波方の長泉寺が提唱してはじまったもので、高縄半島を周遊できるように設置された石仏を巡るものである。
道を進むと、丘陵突端部は少し藪にはなっているが、切り通しとなっており、一周することができた。ついでのことでもあるので、案内にあった「さん橋跡の柱穴(ピット)」を見るため岩礁部に。いままで来島や小島で満潮のために見ることにできなかったピットにはじめて出合えた。


大角鼻
大角の砦跡を離れ、高縄半島の北端にある大角鼻に向かう。斎灘へと北に着き出す岬の丘陵裾は大角海浜公園キャンプ場として整備されている。車を公園キャンプ場の駐車場に停め、道なりに岬の丘陵部へと進む。
千間礒
坂を上り切ったあたりに「千間礒」の案内。「千間磯 伝説では、約10軒の家があったが、夜のうちの嵐にあい流されてしまった。それで千間磯と言われているとも、磯の長さが千間あるので千間磯だともいわれている。海の難所であるが、なかなか景色のよい磯であり、また、魚釣りの名所である」と説明がある。
とは言うものの、千間礒って何処?あれこれチェックすると、どうも大角鼻の北西の沖合にある沖磯を指すようである。磯には灯台があるが、満潮時には灯台のみを残し、磯は水没するとのこと。散歩当日は千間礒が何処を指すのかわからなかったのだが、何気なく撮った大角鼻の沖合に、幸運にも灯台らしきものが映っていた。

大角鼻番所跡
岬の突端にある展望書の四阿(あずまや)から階段を下りきった、岩礁部手前に「大角鼻番所跡」の案内。「大角鼻番所跡 大角鼻の平坦部に伊予水軍の番所跡の曲輪が残っているが、付近は風波により侵食されつつある。また人前方岩礁上には、桟橋跡の柱穴(ピット)が残っている」とあった。大角鼻には近世の松山藩の番所もあったようである。
ところで、「大角」って何だろう?気になってチェックすると、どうも戦闘時に兵士を鼓舞する角ふえ、のことを指すようである。「村上水軍の「軍楽」の研究 第二章 「軍楽」史の考察(せとうちタイムズ)」のページに、以下のような記述があった;
「本朝ノムカシ鼓鉦ヲ用フルノミニアラズ大角小角トイフ吹モノヲモ用フスベテ此ノ事ヲ鼓吹司ニツカサトリ(日本は古代、鼓鉦だけではなく大角小角という吹物も用いた。その全ては鼓吹司が担った)」 「楊氏漢語抄ヲ引キテ大角ヲ波羅乃布江小角ヲ久太能布江トヨミタリ(『楊氏漢語抄』(八世紀頃の辞書)によると、大角を波羅乃布江、小角を久太能布江と読む)」
「我ガ朝ニハ宝螺ヲ用ヒ来タリシヨリ此ノ物ハスタリシニヤ(日本では、法螺貝を用いたため、これらの角ブエは廃れてしまったようだ)」 どういったものは定かにはわからないが、日本では法螺貝が取って替わった「角笛」といったものだろう。
で、その角笛を何に使ったか、ということだが、大宝律令制定の昔、大角(角笛>法螺貝)と烽燧(とぶひ:狼煙:のろし)により、敵の襲来を知らしるものではあったようである。

メー卜ル立標建造の由来について
岩礁部を歩き、ピットらしき窪みを探す。岩礁先端部に立つ施設は何だろう? と右手を見ると、海岸近くの岩礁横に石柱が立つ。ちょっと気になり元に戻ると案内があり、「メー卜ル立標建造の由来について」とある。説明には「1904(明治37)年に勃発した日露戦争当時、小島にバルチツク艦隊を迎え撃つために12門の砲台が作られたが、砲台と敵艦隊との距離、方位を測定するため当地に建造されたものである。
建造材料は主として石灰を使用しており、先人の話によると時折、小島の見張所から探照灯で照射する姿が見えたそうである。
しかし1916(大正5)年倒壊してしまい、現存しているものは復旧後の物である。
その後小島の砲台は不要となり、日本軍の手で破壊されたが、立標はそのまま現在まで残された。
当時国民は計量の単位として尺貫法を用いていたが、海軍は英国との関係が深かったため立標にメートル単位を刻んでいる事から、『メートル棒』と呼ばれていた」とあった。先日訪れた小島の要塞跡を想い出す。

天満見張台跡(狼煙台跡)
大角鼻を離れ、岬突端部から西岸部を少し南に下ったところにある天満見張台跡に向かう。一度駐車場に戻り丘陵に登り、そして道なりに海岸に下る。防波堤手前に車を停め、防波堤を越えて西に突き出た岬の下の岩礁部を歩くと、岬突端下の岩礁部に案内があり、そこには「大角鼻遺跡群 ここ大角鼻には、縄文時代以降の遺跡が数多く残されている
(イ) 天満見張台跡(狼煙台跡)
岬の先端の丘の上にあったもので、宮崎の?燧(とぶひ)と同時期に設置されたもので、狼煙の大角(ほら貝)を使って合図していたようである (ロ) 水軍住居跡
天満見張台から東側大角鼻に向かう谷間は海からまったく見えないため、伊予水軍(海賊)の良い隠れ場所であった。付近には古井戸・住居跡などの遺跡が点在している
(ハ) 大角鼻の平坦部に伊予水軍の番所跡の曲輪が残っているが、付近は風波により侵食されつつある。また、前方岩礁上には、桟橋跡の柱穴(ピット)が残っている、とある。

天満見張台は岩礁部から見上げる丘陵部尖端にあったのだろう。また宮崎の?燧(とぶひ)とは、後ほど訪れる梶取ノ鼻にある?燧(のろし台)と戌(まもり;砦)のことだろう。大宝律令(701)の中の軍防令によって各国に軍団が置かれ、外敵の侵入に備えて、敵の侵攻ルートと想定される箇所には?燧(のろし台)と戌(まもり;砦)が設けられたとのことであるので、古く8世紀初頭にまでその歴史は遡ることになる。
水軍住居跡は、車で防波堤まで下る途中の丘陵に囲まれた一帯のことだろう。「大角鼻の平坦部云々」は先ほど大角鼻にあった番所案内のこと。

高縄半島の突端である大角鼻は、梶取ノ鼻と同じく、大宝律令後に大角(だいかく:法螺貝:ほらがい)と、烽燧(とぶひ:狼煙:のろし)の場が設けられ、戦国時代には、村上氏来島城を守るための番所が設けられた。隣接する天満鼻見張台、大角ノ砦と相まって、来島海峡の守りを固める拠点として機能していたのではあろう。

西浦砦跡
次の目的地は「西浦砦」跡。天満見張台跡の南の海岸脇にある。車のデポ地から一度丘陵に登り返し、道なりに下り県道166号を海岸線に沿って下った西浦荒神社の辺りがその地とのこと。
神社下の道脇に車を停め社にお参り。手書きの素朴な案内があり、「主祭神は大己貴命、事代主命、素戔嗚尊で、いつごろできたかはっきりしないが、玉生八幡神社末社としておかれていた。来島水軍時代、来島に大根城を置いたが、来島城を守りぬくため、そのまわりに幾多の城砦を築造したが、その砦群の一つではないかと思われる」とあった。

荒神信仰
荒神さま、って竃神(かまど)として台所に祀られるお札としては知ってはいるのだが、この神様は未だ解明できない謎の神様のようである。Wikipediaに拠れば、大雑把に言って、荒神信仰には2系統あり、ひとつは竃神として屋内に祀られる「三宝(寶)荒神」、そしてもう一方は屋外に祀られる「地荒神」である。
屋内の神は、中世の神仏習合に際して修験者や陰陽師などの関与により、火の神や竈の神の荒神信仰に仏教、修験道の三宝荒神信仰が結びついたものである。地荒神は、山の神、屋敷神、氏神、村落神の性格もあり、集落や同族ごとに樹木や塚のようなものを荒神と呼んでいる場合もあり、また牛馬の守護神、牛荒神の信仰もある。
また、Wikioediaには「荒神信仰は、西日本、特に瀬戸内海沿岸地方で盛んであったようである。ちなみに各県の荒神社の数を挙げると、岡山(200社)、広島(140社)、島根(120社)、兵庫(110社)、愛媛(65社)、香川(35社)、鳥取(30社)、徳島(30社)、山口(27社)のように中国、四国等の瀬戸内海を中心とした地域が上位を占めている。他の県は全て10社以下である」とあるが、これは地荒神のことであろうか。屋内の竃神としての「三宝荒神」のお札は、あたりまえのように東京の我が家にも祀られているわけだから、大方の家には「三宝荒神」のお札が祀られているのではないだろうか。

第一回の散歩はここで時間切れのため終了。高縄半島から斎灘に向かって西に突き出す梶取鼻は次回に廻す。
毎月の田舎帰省。お袋との話相手の合間を縫って四国のあちこちを歩いているのだが、今回は来島海峡の激しい潮流に囲まれた来島群島のふたつの島を歩く。そのひとつは、来島村上水軍の拠点であった「来島」。そしてもうひとつは明治の砲台要塞のひとつ「小島」である。
島を訪ねるきっかけは、お盆に田舎に戻った娘をどこか歴史を感じる史跡に連れていこうと、あれこれチェックしていると来島、そして小島が目に止まった。同じ伊予、と言うか愛媛に住みながら、また、来島群島を眼下に見下ろし「瀬戸内しまなみ海道」を幾度となく往来しながらも、来島のことはなんとなく来島海峡の辺りということは知ってはいたが、全島砲台要塞化していたという小島については全く知らなかった。
ということで来島と小島を辿ることに。チェックすると、この二つの島はお隣同士。島を巡る定期船もこのふたつの島を繋いでいる。定期船の時間を調べると、午前10時10分に波止浜桟橋を出発し、10時15分に来島到着。次の来島発小島行きは11時15分。来島は周囲1キロほどの島であるとのことであり、村上水軍の史跡を辿っても1時間もあれば十分だろうと、11時15分の小島行きの定期船に乗り、小島には11時20分着。
小島は周囲3キロ程度。1時間半もあれば全部辿れそうではあり、小島発波止浜行12時55分の船に乗る予定とし、時間が足りなければ14時30分発を利用すべしと計画。娘とふたりで田舎の新居浜市から今治市の波止浜へと向かった。



本日のルート;波止浜港>龍神社>来島に渡る>八千矛神社>心月庵>村上神社>本丸跡>小島に渡る>28cm榴弾砲(レプリカ)>(南部砲台跡周辺)>発電所跡>南部砲台跡>(南部砲台跡から中部砲台跡へ)>弾薬庫跡>兵舎跡>(中部砲台跡周辺)>中部砲台跡>地下兵舎跡>司令塔跡>(北部砲台跡周辺)>軽砲の砲座跡>発電所跡と地下兵舎跡>24センチ砲4門の砲座跡>司令塔跡>(小島南端部)>探照灯跡

国道317号を今治市波止浜へ
実家の新居浜を出て、西条市を経由し今治市波止浜にある定期船乗り場に向かう。国道196号を進み、蒼社川を越えた先で国道317号に乗り換え波止浜に。この国道317号は波止浜港辺りで行き止まり。何故に波止浜で?チェックすると、この国道は瀬戸の島々を縫い、瀬戸内海を越えて広島県尾道市まで続いていた。「瀬戸内しまなみ海道」ができるまではフェリーボートを乗り継いでの、四国と中国地方を繋ぐ道ではあったのだろう。

波止浜港
カーナビナビの案内で波止浜の定期船乗り場に。波止浜湾の対岸や波止浜の東、今治市波方に大規模な造船所が見える。Wikipediaによれば、「波止浜港は港口には来島・小島の2島を控え、古来、箱港と呼ばれている。燧灘・斎灘を航行する船舶が、来島海峡の急潮と風波を回避するため利用していたほか、漁港としても利用されてきた。また、湾奥は古くは塩田であり、塩の積出港として発展してきた歴史もある。
港湾は埋め立ての歴史でもある。港内には、今治造船、新来島どっく、浅川造船、檜垣造船等の造船所がひしめき、クレーンが林立し活況を呈している。西側は古くから港町で栄えてきた歴史を感じさせる建築物・構築物もみられ、来島・小島への定期船もこちらの桟橋から発着する。東側は西側に比べると新しく開けたエリアであり、造船所等の集積する工業港区である」とある。

○灯明台
波止浜港の定期船待合室横に灯明台があった。Wikipediaにもあるように、奥深い入江が箱のような形をした波止浜湾は、筥潟湾(はこがたわん)と呼ばれ、古くから船の重要な風待ち、潮待ちの天然の良港であり、戦国時代は来島水軍の船溜まりとして、また、和3年(1683)以降の塩田開発による町家の増加、塩運搬船の出入りが多くなり、港町として発展し、伊予の小長崎といわれるほどに成長した、とのこと。
元禄16年(1703)には港の入り口に出入船舶を監督する船番所が置かれ、船舶と他国者の往来の取り締まりや船税の徴収にもあたった。船番所があった所は御番所前と呼ばれ、定期船桟橋対岸のドックの中あたりにあったようであるが、この大燈明台は、嘉永2(1849)年、その御番所前に建てられた。花崗岩の切石を積み重ねたこの石造灯明台は、嘉永2(1849)年の築造。「金毘羅大権現」の文字が刻まれ、航海安全への思いが込められている。

波止浜の町並み
村上水軍の根拠地であった来島への定期船の出発時間である10時10分までは少し時間がある。港の近くを少し歩くことにする。港に来る途中に「龍神社」があった。そこの往復ぐらいはできるであろうと港から道なりに神社に向かう。如何にも港町といった波止浜港辺りを離れ東に向かう、
Wikipediaに拠れば、「波止浜町(はしはまちょう)は愛媛県の越智郡にあった町である。旧野間郡。波止浜湾の西岸から波方町と接する小山までの地域。 東は今治市、南は乃万村と接し、北は来島海峡に面す。
かつては塩田で栄えたが、時代ともに消滅した。その後塩田は埋め立てられ造船所が立地するようになり現在では今治造船、新来島波止浜どっくなどの造船会社の本社、工場がある。造船が盛んなことから造船関連の産業も発達し渦潮電機、潮冷熱の工場が立地している」とある。

○八木亀三郎翁
道脇に誠に立派なお屋敷が目に入った。八木亀三郎翁(1863年~1938年)の御屋敷とのこと。大正初期に建てられた近代和風建築で、各地から高級資材を取り寄せて建てられ、裏山を取り込んだ回遊庭園は、様々な石が歩くごとに変化するように配置されている、とのことである。
波止浜には明治期に塩田業で財をなし、その資金をもとに多角的に事業展開をおこなった塩地主が幾人かいるようであるが、八木翁もそのひとり。「えひめの記憶」に拠れば、「シベリア鉄道の着工を踏まえ明治24年にはロシアに渡り、翌年からシベリアの巨商クインスト・アルベルスと日本塩の輸送を特約した。のちニコライスクに日本人で初めての漁区を占有し,以降十数年大量のサケ・タラを輸入した。
函館に八木本店を設け,北洋の力ニ漁業に着目,大正13年に業界にはじめての3,000トン級のカニ工船樺太丸を建造,近代的な母船式カニ漁業の先がけとなった。北洋漁業経営は長男八木実通が受げ継ぎ,昭和工船会社に発展した。亀三郎は帰省して今治製氷会社の設立に貢献,今治商業銀行の頭取に就任した。
昭和2年同行が休業した時,全私財を提供して処理したため,政府の同情を得て融資が与えられ,預金者には迷惑をかけなかったという」とあった。
帆船に波止浜の製塩を積んでロシアで商い、サケやタラを積んで帰り水産事業家として大成功をおさめる。また、蟹操業は活況を呈し巨万の利益を得、その後、愛媛第一の多額納税者になった、とか。

龍神社
道なりにすすみ龍神社に。波止浜港を見下ろす、やや高台に鎮座する。境内の案内には「御祭神:彦火火出見尊・鵜茅葺不合命・豊玉比古命・豊玉比賣命 延宝年間(1673~1681)に松山藩主松平定直により塩田が築造された際に、浦手役長谷部九兵衛並びに、代官郡奉行園田藤太夫成連が海面埋立の難工事を成功させるには神のご加護によらねばならないと、成連の先祖が信奉する八大龍を近江国勢多郷から勧請し、仮宮(入亀旭方)を建て完成を祈ったという。天和3年(1683)に現在地(出亀)に新社殿が完成し遷宮し、ここに波止濱が誕生した。
塩田の増加につれ祟敬者益々繁栄し藩主代官所よりも篤く祟敬されるようになった。藩主より葵紋付き箱提灯一対、また野間代官所よりも提灯が奉納された。祭典には藩より検使が派遣せられ代官所よりは代官が参列するようになった。 安永六年(1777)には京都の公郷桜井少将より菊花御紋章付きの提灯二張りが献納せられた。安永七年、神祇管領朝臣卜部より八大の二字を削除した自筆の神額を賜り龍神宮と社名を改めた。また安永九年には公郷桜井少将の(注;この箇所読めず)祈願所となった。
明治六年、境内素我神社を相殿に奉祀して再び社名を龍神社と改めた。当社は古来より水を司る神社として五穀豊穣を祈り海上安全の神として、又、河川堤防を防ぎ雨乞いの神としても霊験あらたかで人々に篤く信仰された。 境内神社;神明神社、塩竈神社、亀山稲荷神社」とあった。

○波止浜と製塩業
波止浜は造船・海運の拠点であることは知ってはいたが、製塩業で栄えた町であるということは知らなかった。実際、波止浜という地名も塩田のために埋め立てた地を護る堤防=「波止」と「浜」と呼んだ塩田が合わさった言葉であり、往昔、この地は「箱潟」と呼ばれていたようである。
波止浜で製塩業が発展した主たる要因は3つ。ひとつは瀬戸内は晴れの日が多い地域であること、第二は波止浜湾が遠浅であり、また満潮・干潮の差が大きく塩田開発に適したこと、そして3つ目は製塩業が発達していた竹原が瀬戸内を隔てた近隣の地にあったこと。
実際県内長谷部九兵衛も竹原で製塩技術を学んでいる。「えひめの記憶」には「長谷部(注;九兵衛)義秀をして、芸州竹原に赴かしむ。時に世尚ほ未だ開けず、食塩製造は芸州の秘法にして之を他国に洩さざりし、然れども義秀力を盡し遂に其方法を詳にして帰る」とある。
天和3年(1683)、長谷部九兵衛により県内で最も古い「入浜式塩田」が作られ、世を経るにつれ大塩田が形成され大いに繁栄した波止浜の製塩業も化学製塩の時代には抗せず、昭和34年(1959)廃止されることになる。
南は予讃線、北は龍神社、東は北郷中学辺り、西は波止浜湾を隔てた対岸まで広がって塩田跡は埋め立てられ宅地や船関係の工場となっている。

○製塩業と造船
「えひめの記憶」に拠れば、「波止浜の造船業は、明治35年(1902年)に設立された波止浜船渠(せんきょ)が始まりで、同社は大正13年(1924年)からは鋼船の建造も始めている。第二次世界大戦中から戦後にかけて造船所が次々と設立されたが、これらは木造船から鋼船の建造に切りかえて発展していった。昭和40年(1965年)の調査によると、波止浜湾岸には鋼造船所9工場と木造船所1工場が立地している」とある。
製塩業の地か造船の町となったのは、それなりの理由がある。塩を造る>全国各地に船で塩を運ぶ>船の修理が必要になる>船大工が育つ、といった因果関係が考えられる。
もっとも、造船業発展の要因は製塩業の発展だけと言うわけではない。波止浜は、天然の良港で、古くより船の風待・風邪待ち、あるいは避難港として利用され、港町として栄えたこと、西隣には、古くから海運業の町として知られた波方(なみかた)町(現在の今治市波方)があり、大正期から昭和の戦後まで石炭輸送が盛んであり、海運に使用した船の建造や修理を手がけたことが基礎になっていることは論を待たない。

■「ウバメガシの樹林」
龍神社の境内を歩く。大鳥居の背後には繁茂した「ウバメガシの樹林」がある。この地方では珍しい貴重なものとして今治市の天然記念物に指定されている。 案内には「市指定天然記念物 ウバメガシの樹林 ウバメガシ(ブナ科)はバヘ・ウマメガシともいう。塩分・乾燥・公害に耐えてよく生育する。竪果(ドングリ)は海水によっても運ばれ、かこう岩地帯の海岸近くや絶壁によく繁茂する。
昔はこの辺り一帯がウベメガシの樹林であったのが、開拓されるにつれて切り払われ、当時の自然がわずかにこの樹林に残されたもので、昔の状態を想像することのできるただひとつのものといえよう。目通りの幹の大きさ50~100cmのもの26本、100cm以上23本、合計約50本のウバメガシの老木がある。 台風で倒れた目通り250cmの木の年輪が200年以上あり、龍神社創建当時より残された貴重な森といえる(今治市教育委員会)」とあった。
バベとは方言。ウバメガシの名前の由来は姥がこの葉に含まれるタンニンをお歯黒に使ったとの説、新芽の茶褐色の色、葉に皺があること、幹のごつごつした木肌から、などあれこれあるようだ。

■神明橋
境内の石垣にアーチ型の石橋が「埋め込まれ」ていた。案内には「神明橋    径間:3.0m  環厚:33cm(要石45cm)  明治42(1909 )年」とあり、神明橋碑文が続く。
「抑く吾が神明橋は明治三十三年石工藤原清八郎が精魂籠めて作り上げた実に頑丈無類の立派な橋であったが道路拡張整備といふ時代の要求に抗し得ず、可惜撤去せざるを得ざる羽目と相成ったとは云へ此のメガネ橋こそ吾が全町民の愛着遣る方なき橋、せめてその原形だけでも永久に遺したいと云う切なる願黙し難く昭和五十六年十二月此の神域に復元したものである」とあった。

定期船で来島に
そろそろ定期船の出航時間が近づいた、波止浜港を挟んで対岸に龍神社の仮宮であった荒神社や、波止浜湾の岸壁の海中に半分海に浸かった龍神社の鳥居があるとのこと。鳥居は遠浅の海岸線が広がっていた参拝口に、竜神様が往来しやすいように建てられたようである。誠に興味深いのだが、次回のお楽しみとして定期船乗り場に向かう。

10時10分発の来島行の定期船に乗る。船は来島>小島>馬島と巡航している。切符は波止浜港の切符売り場で往復とか、島から島への料金を調べて買うことになる。各島には切符売り場はないようだ。乗船時に半券も含めてすべて乗務員に手渡すのがちょっと新鮮ではあった。


来島
波止浜港を出ると5分程度で来島に接近。途中来島海峡の渦潮も小規模ながら見えた。時間によってはもっと激しいものにはなるのだろう。それにしても小さな島である。周囲1キロ、と言う。ここが村上水軍の拠点のひとつ、と言われても今一つ実感がない。桟橋から桟橋脇にある社に向けて「来島村上水軍」の幟が立つ。

村上水軍
桟橋から島の散策に向かう。資料は波止浜港の待合室に置いてあった「来島保存顕彰会(発行)、資料提供;今治地方観光協会」作成の1枚ペラのパンフレットのみ。島に残る村上水軍の概要や遺構が簡単に紹介されている。パンフレット表面には「村上水軍城」イメージ図とともに城の遺構、裏面には「来島村上水軍の歴史」が説明されていたので、裏面の資料をもとに「村上水軍」のあれこれをちょっとまとめておく。

■来島村上水軍の歴史
瀬戸内海は、日本の交通の大動脈。古代から瀬戸内海の人達は穏やかな気候の中、魚漁や農作業をしながら、船の水先案内をしたり、行き交う舟と交易をしていたと考えられる

□平安後期・鎌倉・室町時代
○瀬戸内海に水軍登場
瀬戸内海で航海や貿易がさかんになるにつれ、瀬戸内の海で暮らしていた人達も集団化・組織化されるようになる
○芸予諸島、瀬戸内海を支配
海賊衆の中でも最も力をもった村上水軍の村上師清は、三人の子供を因島、能島、来島に配置し、芸予諸島(しまなみ海道)を封鎖し、瀬戸内海を支配するようになる。

□戦国時代
○伊予の守護大名である河野氏の重臣となる
戦国時代の来島村上氏は、伊予国の守護大名、河野氏と姻戚関係をもつ。当主村上通康は、河野家で最も有力な武将であった。
○日本の歴史を変えた厳島合戦
陶晴賢と毛利元就が争った厳島合戦で勝利した毛利氏は中国地方の覇者として歩み始める。村上水軍は、「毛利氏の勝因は村上水軍を味方につけたこと」と、言われるほど大活躍をした。
○戦国時代末期・三家分裂
織田信長と毛利氏の戦いに参加した村上水軍は大きな変化を強いられる。村上三家は分裂し、因島・能島は毛利方に、来島は織田方へと分かれて戦う。このころから村上通総は来島通総と名のるようになる。

□安土・桃山時代
○来島通総は、秀吉の命令で水軍大将として二度の朝鮮出兵に参加し、二度目の慶長の役での鳴梁海戦で戦死。戦死した水軍兵士を地元人が埋葬してくれた遺跡が珍島に残る

□江戸時代
九州・豊後の森藩に 因島・能島・来島の中で唯一大名として生き残った来島氏も、家康の命令で 九州の海のない森藩(現在の大分県玖珠町)に移動となり、姓を来留島と改める。その後森藩は12代、明治維新まで存続した。
海のない九州森藩に行くことなく、多くの家臣はこの地に留まった。その人達は、その後塩田開発を行い、開運の仕事や舟を造る仕事に従事。現在の今治市の海運・造船の礎を築いたと言われている。

以上が、パンフレットに記載された村上水軍の歴史である。
いくつか説明の「行間」を埋めていく。

水軍
まず、「水軍」と言う言葉。この言葉ができたのは昭和になってから、と言われる。有力御家人として「海賊」=「海の盗賊」の取り締まりを行ったり、戦国大名の傘下で一種の「海軍」勢力として活躍した「海賊衆」の後裔としては、所謂「海賊=海の盗賊」と一括りにされるのは、あまりにイメージ良くないし、実態と異なるということから造られた言葉かと思える。

集団化・組織
次に平安後期・鎌倉・室町時代の項に「集団化・組織化されるようになる」とある。これは、もともと漁業を生業とし、戦いが起こると在地の小豪族に率いられ舟や乗組員を提供し、戦働きが終えればまた漁業に戻るといった漁業者集団が、在地の有力豪族か都から下った貴種の後裔なのか不詳であるが、ともあれ「有力者」のもとで海上警護や海賊取締を生業とする戦闘要員専従者となっていくことであろう。

村上師清
次に、芸予諸島、瀬戸内海を支配したという「村上師清」が唐突に現れる。村上師清」って誰?チェックすると、不詳ではあるが、村上氏は清和源氏頼信の後裔とされる。村上姓を名乗ったのは源頼信の後裔が信濃国の更級郡村上郷に住み村上信濃守を称したことによる。時期は頼清の子仲宗のとき、あるいは仲宗の子盛清の代とも言われるがはっきりしない。文書の記録には白川上皇に仕えていた盛清が、上皇を呪咀したとして信濃に配流となったとされるから、遅くとも盛清の代には「村上姓」を名乗ったのではあろう。
信濃に下った「村上氏」は盛清の子(為国)や孫の代、保元の乱や源平合戦時の源氏方として活躍し、村上氏繁栄の礎を築いたとされる。

で、この村上氏と伊予の村上氏との関連であるが、村上氏繁栄の礎を築いた為国の弟である定国は保元の乱(1156)後、信濃から海賊衆の棟梁となって淡路、塩飽へと進出。そして、「平治の乱(1160)」の後、父祖の地越智大島に上陸し、瀬戸内村上氏の祖になったとする。
「父祖の地越智大島に」の意味するところは、村上氏の祖とされる清和源氏頼信の子源頼義が前九年の役の後に、伊予守として赴任し、河野親経と甥の村上仲宗に命じて寺社の造営を行わせたとされ、この頃仲宗は今治の対岸、伊予大島(能島)に城を築いていたと伝えられることに拠る。村上氏は村上仲宗の代に既に瀬戸内に勢力を築いていた、ということであり、その旧領に定国が「戻った」ということであろう。

ここでやっと「村上師清」の登場。パンフレットに記載された「村上師清」は瀬戸内の村上氏の祖ともされる「定国」から数えて八代ほど後の人物である。ついでのことながら、村上師清の先代は南北朝に南朝方として活躍した(伝説上の人物とも)村上義弘とされるが、血の繋がりはないようである。為に、村上師清は南朝の重臣であり、海事政策を掌握していた北畠親房の子孫との説もあるが、信濃村上氏から入り後継者となったとする説が有力のよう。そのためもあってか、定国から七代目の義弘までを前期村上氏、師国以降を後期村上氏と称する。

村上師清は、三人の子供を因島、能島、来島に配置
パンフレットでは「師清は、三人の子供を因島、能島、来島に配置」とあるが、師清の子である義顕が長男雅房を能島(越智郡宮窪町)へ、次男吉豊を因島(広島県因島市)、三男吉房を来島(今治市)へと入城させ、能島・因島・来島の村上三家を成した、とも言われる。
ここで気になるのは師清が三家創設した人物の父なのか祖父ということより、パンフレットにある村上三家創設の物が北畠親房の流れ、ということである。それはそれでいいのだが、更に気になるのは、来島村上家の系図には北畠系の流れはこの村上三家の祖である三名の人物以降の記述がない。
一方、この師清>義顕>雅房・吉豊・吉房の系列とは別に、師清を祖父とし、その子顕忠の三人の子供を能島(義顕)・因島(顕長)・来島(顕忠)に入れ村上三家をなしたとする流れがある。こちらはこの三名以降も系図が続いている。思うに、この流れが信濃村上の血を受け継ぐとする系列ではあろう。どちらの系列が正しいのか詳しい資料もないようであり、そのためもあってか、パンフレットには敢えて三人の名をいれてないのだろうか。

伊予国の守護大名、河野氏
河野氏が伊予の守護大名であったかどうかはっきりしない。平家方であった新居氏に対抗するといった意味合いもあり、伊予において源氏挙兵にいち早く呼応実績を挙げた河野四郎通清が恩賞として伊予の守護大名に遇されたとの説があるが確証はないようだ。
その四郎通清の子である通信は義経の傘下で戦績を挙げるも、承久の乱(1221年)で宮方に与し、幕府勢に敗れ河野氏は苦難の時代を迎える。生き延びたのは一族で幕府方に与した河野通久。
通久の孫である通有は13世紀末の元寇の役で活躍し、通有の子の通盛は鎌倉末期から南北朝期にかけて活躍し,勢を伸ばし一族の本拠を河野郷(北条)から道後湯築城に移した、とのことである。
「伊予国の守護大名、河野氏と姻戚関係をもつ。当主村上通康は、河野家で最も有力な武将であった」とある河野氏は通盛から数えて七代後の河野通直ではないだろうか。

■村上通総
村上通総は河野家で最も有力であり、河野氏の当主より後継者として指名された村上通康の子。それがもとで河野氏子飼いの武将より反発をうけ、河野・来島村上の抗争にまで発展したのだが、それはともあれ、その通康の子である村上通総は天正10年(1582)、信長が中国攻めをはじめたとき、他の村上氏と袂を分かち、毛利・河野氏からも離反し、織田方に走った。ために、能島・因島の両村上水軍は、来島城をはじめとする来島村上氏の拠点を次々と攻略し、来島城を捨て、秀吉の下に敗走した。
因みに、この村上通総は師清>顕忠>義顕・顕長・顕忠の流れ、信濃村上系の後裔のようである。
■家康の命令で九州の海のない森藩に移動
通総の子である来島長親(後に康親)は1万4千石を有していたが、関ヶ原の合戦で西軍に参陣。西軍敗北となるも、長親の妻の伯父である福島正則の取りなしもあり家名存続し、慶長6年(1601年)、豊後森に旧領と同じ1万4千石を得て森藩が成立した。2代通春は、元和2年(1616年)、姓を久留島と改めた。

これでなんとなくパンフレットに記載された村上水軍の歴史が自分なりに整理できた。村上水軍と言えば、城山三郎さんの『武吉と秀吉』に登場する能島の村上武吉や、南北朝に南朝方として活躍した(伝説上の人物とも)村上義弘など魅力的な人物がいるのだが、それはそれとして、あまりに前置きが長くなった。とっとと散歩にでかける。


八千矛神社
桟橋脇に古き趣の八千矛神社がある。隣接して東側には御先神社、岩戸神社などが祀られている。神社にお参り。祭神は大己貴命(おほなむちのみこと)と日本磐余彦命(やまといわれひこのみこと)。八千矛神とは大国主神(おおくにぬしのかみ)の別名であり、大国主神=大己貴命である。 前述のパンフレットには「松山・道後湯築城の河野氏が城の守り神として、建立したと伝えられる」とある。
神社由緒はいくつかある。ひとつは「文治2年(1186)8月、河野出雲守通助が箱潟の島に城を築き、八千矛神社を奉祀した」との記述。河野出雲守通助は上でメモした、源氏挙兵にいち早く呼応した河野通清の子である。
「来島八千矛(くるしまやちほこ)神社は、松山・道後湯築城(ゆづきじょう)の河野氏が来島築城の時、守り神として建立したものだと伝えられています」ともある。「松山・道後湯築城(ゆづきじょう)の」という記述は、文字通りに解釈すれば、河野氏が湯築に移ったのは14世紀初頭であろうから、創建年数がグーンと遅くなる。もっとも、「松山・道後湯築城(ゆづきじょう)の」を{後に松山・道後湯築城(ゆづきじょう)の}と読めば、初めの記述とも違和感がなくなる。
期待していた、「えひめの記憶」には「南岸の八千矛神社は、来島築城と共にその守護神として建立されたものである」とあった。誰がという記述は省略されていた。
この由緒からは、はっきりとはわからないが、来島村上氏との関連性は見て取れず、伊予の河野氏が来島に城を築いたと読み取れる。河野氏も水軍で覇を唱えたわけで、この地に橋頭保を築いても不思議ではない。

心月庵
八千矛神社を離れ、来島城址へと向かう。神社から桟橋方向に北に戻り、道なりに進むと「来島村上水軍」の幟が立つところがT字路となり、そこに標識がある。左に折れると城址、そのまま進むと往昔の水軍が使ったと言われる桟橋を支えた柱穴が岩礁に残る、とのこと。
道を左に折れ民家の間を進み石段を上ると「来島城址」と刻まれた石標が立つ。石標の後ろは石垣が組まれている。結構最近築かれたような風情ではあったので、スルーしたのだが、一部築城当時の石組みも残るようである。
石垣を上に進むと村上神社と本丸跡があるようだが、その先に右に折れ来島城主の館であったと伝わる「心月庵」に向かう。本丸らしき一帯を見上げ、足元の草叢に、かつては本丸や館を護ったであろう堀割りを想像しながら進むと城主館跡があった。館の裏手は本丸より一段低い廓が前述パンフレットに見て取れる。東側には館を囲んだ土塁が残る、とか。城主館跡は現在、薬師如来が祀られる薬師堂となっていた。

村上神社
道を戻り、石垣から上に進み石段を上ると、小振りだが趣きのある鳥居があり、その先に村上神社が祀られていた。来島村上氏の祖霊社である。社にお参り。小振りな拝殿の奥に更に小振りな本殿があった。前述パンフレットを見ると、村上神社は二の丸とその東に一段低く比較的広い廓との境辺りにあるように見える。

本丸跡
社を後に本丸跡に向かう。来島城は島の東端、北から南にかけて続く細い尾根を活用し三の丸、二の丸、そして本丸を構えている。三の丸は平坦地と見えるが、二の丸は本丸に向かって上り勾配の構えとなっている。
左手は海に落ちる崖脇といった道を上るとほどなく平坦地。本丸跡である。広いところで30mといった台地形の構えに見える。
遺構といったものは残らず、鉄塔が建つのみである。本丸跡からは島の南の波止浜側や、北の「しまなみ海道」下を行き交う船舶が見える。来島海峡を扼する地であることを実感する。
上で、「文治2年(1186)8月、河野出雲守通助が箱潟の島に城を築き、八千矛神社を奉祀した」とメモした。伊予における新居氏との抗争、また水軍というか海賊衆としての勢力を有した河野氏が来島に城というか砦に築いたのではあろうが、来島村上勢としてこの島に城を築いたのは村上吉房とされる。応永26年(1419)のことである。室町幕府第4代将軍、足利義持のころである。

村上吉房は上でメモしたように、祖父を村上師清、父は義顕とし、長男雅房を能島(越智郡宮窪町)へ、次男吉豊を因島(広島県因島市)、三男吉房を来島(今治市)へと入城させ、能島・因島・来島の村上三家を成した、その三男吉房のことである。それはそれでいいのだが、この師清>義顕>良房といった北畠系の系図には、良房以降の記述がないのは前述の通りである。

ところで、本丸から周囲を眺めながら気になったことがあった。如何に渦巻く潮流に護られた自然の要害にしても、果たして、このような周囲1キロといった小島で制海権を抑えるといった「水軍」が機能するものであろうか。
チェックすると、16世紀頃に至って、来島村上氏は、本拠の城を来島城から西方の波方浦に移し、そこに館を構え、その館を中心に当地周縁の海岸部に複数の城砦を配置した。代表的な城は館の南の遠見山城や対岸の糸山城(現在の糸谷公園辺り)であるが、その他の主だった城砦としては、東岸部(波方港の北部)では大浦砦・長福寺鼻砦・対馬山砦、北岸部(波方港の北に突き出た半島部)では大角の砦・大角番所・天満鼻見張り台、黒磯城、西岸部(波方ターミナルがある西に突き出た半島部)では梶取鼻砦・御崎城・宮崎城などがあったとのことである。
「えひめの記憶」には「これら海城の特徴は、①瀬戸の狭小な水路中の島嶼に立地している。②急潮による難所を要害として利用している。③島全体を城郭として縄張りしている。④島の本城の周辺に本城防衛のための支城・番城・砦などが設置されている。この点の例を来島瀬戸の西口海中にある来島城にとると、城主来島村上氏の発展に伴い、対岸の波方浦を中心とする波方城砦群(波方城・黒磯城・御崎城・宮崎城・大角砦・梶取鼻砦など七砦、天満鼻見張台・大角番所・波方館・養老館など)を築き、一六世紀以降大根城を来島から波方に移している。⑤城の周囲に桟橋・船入りなどの繋船施設を備えている。⑥用水が欠乏している城の給水施設(井戸)を島外の海浜に持っている。これらの特徴をもった海城に、上記三城のほか温泉郡中島と怒和島の間のクダコ水道中の久多児城がある」とあった。これで「水軍」として覇を唱えた規模感が納得できた。

小島に渡る
城址を下り、定期船が到着するまで少し時間があるので、パンフレットにあった岩礁に残る桟橋を支えた柱穴跡を見ようと東海岸を歩く。途中幾体かのお地蔵さまが並ぶ地蔵堂にお参り。岩壁が切れるところまで進むが、満潮のため柱穴の跡を見ることはできなかった。
桟橋に戻り11時15分発の定期船を待つ。で、来島という周囲1キロの島ではあるが、あれこれ気になることが多くメモが長くなった。砲台要塞である小島のメモは次回に回すことにする。 



 来島村上氏の城砦群を辿るアーカイブ


伊予 高縄半島海賊衆の古跡散歩 そのⅠ

伊予 高縄半島海賊衆の古跡散歩 そのⅡ

伊予 高縄半島海賊衆の古跡散歩 そのⅢ

伊予 高縄半島海賊衆の古跡散歩 そのⅣ
後北条氏の防御ライン:鶴川の沢山城址から中山の榎下城址に

先日来、数回に渡って多摩丘陵の南端、というか東南端を歩いた。きっかけは川崎市麻生区にある新百合丘という小田急線の駅。なんとなく、この名前に惹かれ、「戯れに」はじめた多摩丘陵南部の散歩であった。が、これが思いのほか魅力的な散歩となった。丘陵や開析谷といった地形の面白さ、古墳から中世城址といった歴史的史跡、里山そして尾根道といった心地よい散歩道などにフックがかかり、結局、幾度か足を運ぶことになった。
この散歩でカバーしたところは、川崎市の宮前区・多摩区・中原区、そして横浜市の青葉区・都築区といった地域である。勢いに任せて多摩丘陵の南端を越え、下末吉台地・鶴見にまで足を運ぶことになった。で、気がつけば、あと「ひと山」、というか「ひと丘」を越えれば多摩丘陵の西端、である。ついでのこと、というわけでもないのだが、どうせのことなら、多摩丘陵の西部一帯を歩き、多摩丘陵を西に越えようと思う。丘の向こうは相模原台地。境川という、文字通り武蔵の国境を流れる川を越えれば相模の国、である。
多摩丘陵西部の地形図をつくりチェックする。奈良川とか恩田川によって開かれた谷地が見て取れる。そこには、かならずや美しい里山・谷戸が残っているのであろう。はてさて、どこからはじめるか。取り付く島として、『多摩丘陵の古城址;田中祥彦(有峰書店新社)』を眺める。と、小田急線・鶴川駅近くに沢山城跡がある。駅近くには鶴見川が流れる。南に下って、横浜線・中山駅近くに榎下城がある。その間は奈良川、そして恩田川で繋がる。更に恩田川下れば鶴見川に合流。少し下った新横浜駅近くには有名な小机城跡もある。いすれも小田原北条氏の出城である。ということでコース決定。鶴見川水系に並ぶ北条氏の城跡を訪ねることにした。


本日のルート;小田急線・鶴川駅>鶴見川交差>(岡上地区)>(三輪町)>高蔵寺>**古墳群>沢谷戸自然公園>熊野神社>沢山城址>三輪中央公園前交差点>鶴川緑山交差点>三輪さくら通り交差点>子どもの国西口交差点>(奈良町)>住吉神社前交差点>な奈良川交差>徳恩寺>子ノ辺神社>鍛冶谷公園(遊水地)>(あかね台)>東急車輛工場>恩田駅>中恩田橋交差点>田奈小交差点>恩田川・浅山橋交差点>(長津田2丁目)>長津田駅>国道246号線・下長津田交差点>いぶき野中央交差点>東名高速交差>環状4号・十日市場交差点>三保団地入口>榎下城址・奮城寺>JR横浜線交差>円光寺>恩田川>杉山神社>横浜商科大学キャンパス入口>東名高速交差>梅が丘交差点>藤が丘小下交差点>田園都市線・藤が丘駅

小田急線鶴川駅

鶴川駅で下車。駅前は予想に反して、のんびりとした雰囲気。とはいうものの、一日の乗降客は7万人程度いるようで、小田急線の駅の中でも、十位台。結構大きな駅である。で、いつものことながら、鶴川の由来が気になった。チェックする。明治の頃に付近の8つの村(大蔵、広袴、真光寺、能ケ谷、三輪、金井、野津田、小野路)が集まり旧鶴川村ができた、とある。が、もとの村には鶴川という村は、ない。はてさて、地図を見る。鶴川駅近くを鶴見川が流れている。ということで、鶴川は鶴見川の短縮形、とか。ちなみに
、鶴(つる)って、「水流(つる)」=水路、から。鶴見は、つる+み(廻)=水路のあるところ、ということ。ついでのことながら、鶴川駅のある町田市能ケ谷であるが、これは紀州の「尚ケ谷」から神蔵・夏目・鈴木・森氏がこの地に移りすんだ、から。「尚ケ谷」が、後に「直ケ谷」、そして「能ケ谷」となった、ということ、らしい。

鶴見川
駅の南口に出る。駅前は未だ再開発されておらず、素朴なる趣き。鶴川は鶴見川により開かれた谷地である。四方は丘陵によって囲まれている。駅を南に少し下ると鶴見川。町田市北部、多摩市に境を接する緑豊かな小山田地区に源をもち、真光寺川、麻生川、真福寺川、黒須田川、大場川、恩田川、鳥山川、早渕川、矢上川の水を集め、鶴見で東京湾に注ぐ。それぞれの川 については、じっくり歩いたり、ちょっとかすったりと、その濃淡はあれど、川沿いの風景が少々記憶に残る。水源の湧水の池もなかなかよかった。ともあれ、睦橋を渡り、南に進む。南前方に丘陵が見える。目指す沢山城跡は、その丘の上。

岡上神社
丘に上り、岡上地区に。地形通りの地名。岡の上を鶴川街道が走る。岡上駐在所前交差点を少し南に歩き、岡上神社に立ち寄る。剣神社、諏訪神社、日枝山王神社、宝殿稲荷社、開戸(開土)稲荷社の五社を集め、岡上神社とした。明治42年のことである。 まことに岡の上にある。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


 
高蔵寺
岡上駐在所前交差点に戻り 東に進む。沢山城跡、といっても地図に載っているわけでもない。目印は高蔵寺。鶴川街道より一筋東の台地に進む。わりと大きい道路道に出る。道が丘を下る手前あたりに高蔵寺があった。

三輪の里
沢山城跡を求め、お寺の脇を高みに向かって東に進む。案内もなにもない。沢山城は荻野さんという個人の所有物、という。個人の好意で保存して頂いているわけで、案内などないのは、当たり前といえば当たり前。道を進むと荻野さんの表札。道の南にみえ
る緑の高地が城跡なのだろう。ちなみに、このあたりの地名・三輪の由来であるが、元応年間(14世紀初頭)大和国城上郡三輪の里より、斎藤・矢部・荻野氏がこの地に移り住んだことによる。沢山城跡を護ってくれている荻野さんは、その子孫なのだろう。
白坂横穴古墳群
道を進む。が、北に入る道は見当たらない。成行きで進む。道は下りとなる。崖面 に古墳跡。多摩丘陵でよく見た横穴古墳。白坂横穴古墳群、と。案内;「この土地は、むかし沢山城(後北条時代における重要な出城の一つ)のあったところで、白坂は「城坂」の意であるともいわれます。この白坂には古くから横穴古墳が十基ちかく開口しており、未開口のものを含めると十数基になります。昭和三十四年にそのうちの二基を発掘しましたが、内部には五センチから十センチぐらいの川原石が敷きつめられており、数体の遺骨、須恵器などが発見され、これらの横穴は七世紀ごろにつくられたものと推定されました。この地域は多摩丘陵のなかでも横穴群の集中しているところですが、白坂横穴群は最も充実しているものの一つであると考えられます」、と。

沢谷戸自然公園

道を進む。どんどん下ってゆく。谷は深い。峠道を下る、といった趣き。とりあえず先に進む。どこが城跡への道筋がさっぱりわからない。結局谷地まで下りてしまった。谷地は「沢谷戸自然公園」として整備されている。昔は鶴見川河畔に繋がる谷戸ではあったのだろうが、現在は古の面影は何も無い。調整池として使われているような運動場、というか多目的広場が目に入る。小さい池にかかる木造の散策路を進む。北の台地上が城跡なのだろうが、上りの道はなし。西端まで進む。昔は谷戸の最奥部だったのだろう。現在では台地に上る階段が整備されている。とりあえず台地に上る。

沢山城址
台地上は結構大きな車道。先ほど歩いた高蔵寺前を通る道筋である。道を北に戻ると熊野神社。少し先に東に入る細路がある。とりあえず入って見る。先に進むと畑地に当たる。畦道といった風情の踏み分け道を進むと杉林の中に。更に進むと神社の祠
。七面社。このあたりが城跡、櫓があったところと言われる。『新編武蔵風土記稿』;三輪村、「七面堂」の項:「今その地を見るにそこばくの平地あり、東より南へ廻りては険阻にして、
西北の方は塀平地続きたり、そこには掘りあととおぼしき所見ゆ、且此辺城山などと云う名あれば、かたがた古塁のあとなるべし」、と。七面社のあたりをぶらぶら歩く。空堀に囲まれた郭っぽい雰囲気が残る。
この沢山城は戦国盛期(16世紀中頃)、後北条氏により築城ないしは改修されたもののようだが、詳しいことは分かっていない。北条氏照印判状には、「馬を悉く三輪城(沢山城)に集めて、筑前(大石筑前守)の部下の指示に従い、御城米を小田原古城に輸送するよう」とある。氏照は八王子城の城主なのだから、この城が八王子城の支配下にあり、小机城・榎下城などとフォーメーションを組んだ後北条氏の防御ラインであったのではあろう。実際、東南小机城からの道は沢山城北端の白坂(城坂)に続いていた、とのことである。
城跡への道筋がわからず、結局台地を一巡したわけだが、なるほど結構攻め難い立地のように思える。台地の北側下は鶴見川が西から東へと流れており、往古は低湿地であったの、だろう。鶴見川は外堀の役割を果たしていたものでもあろう。城の両側には細長い支谷が食い込んでいる。特に東側の谷は城の南、現在の沢谷戸自然公園のところまで入り込んでおり、台地上との比高差40mもある。台地全体が城域であったのだろう
し、要害の地にある、城であったのだろう。ちなみに城址への道は、道路側からのアプローチだけでなく、高蔵寺側の道からのものもあった。荻野さん宅の西側から進むが、案内はないので、見過ごした。

椙山神社
お を離れ台地東端に。鶴見川の低地を見ながら坂をくだる。途中に結構大きな社。椙山神社。神社のある山、というか岡が、奈良の三輪山に似ているため勧請された、との説もある。創建877年のことである。椙山神社って、19世紀のはじめ頃、武相に70余社ほどあった、とか。鶴見川、帷子川、大岡川水系で、多摩川の西の地域だけ、とはいうものの、現在の旭区にはなにもない、といった誠にローカルな神様。杉山神社が歴史に
登場するのは平安の頃、9世紀中頃。『続日本後記』に「武蔵国都筑郡の枌(杉)山神社が霊
験あるをもって官弊に預かった」、とか、「これまで位の無かった武蔵国の枌(杉)山名神が従五位下を授かった」とある。また10世紀の始めの『延喜式』に、都筑郡唯一の式内社とある、当時最も有力な神社であったのだろう。が、本社はどこ?御祭神は誰、といったことはなにもわかっていない。ちなみにほとんどが杉山で、椙山と表記するのはこの社、だけ。

西谷戸
椙山神社を離れ、台地下の低地を歩く。谷戸の風景が美しい。谷地を隔てて南に立つ丘陵地をまっすぐ進めば「寺家ふるさと村」に出る。のどかな里山の風情が思い出される。そのまま真っすぐ進みたい、といった気持ちを押さえ、鶴川街道方面に。途中に広慶寺。車道から続く参道の両側に羅漢さまが並ぶ。その先、台地に上る坂の手前に西谷戸横穴墓群。古墳時代後期の古墳。坂を上り切ると一転し、新興住宅街。瀟洒な住宅地が開発されている。

こどもの国

鶴見川グリーンセンターに沿って進むと、道は「こどもの国」の北端に当たる。突き当りを西に折れ、三輪さくら通り公園をぐるっと迂回し南に折れる。「こどもの国」の敷地に沿って進む。あまり人も通ることが少ないのか、少々ごみっぽい。「こどもの国」の外周道路としては、少々興ざめである。道を下ると鶴川街道・こどもの国西側交差点に合流する。
こどもの国、って昔は子供を連れて幾度か来た。少々懐かしい。東京都町田市と横浜市青葉区が境を接するこの丘陵地は戦前・戦中には弾薬庫があった。田奈弾薬庫。正式には「東京陸軍兵器補給廠田奈部隊」という。薬莢に火薬を装填した弾丸を製造・保管していた、と。散歩の都度、陸軍の施設跡に出会うことが多い。大体は公共機関・施設となっている。逆に言えば、病院・大学などが密集しているところは大体陸軍施設・ 
用地跡と考えてもいいかもしれない。典型的な場所は、世田谷の三軒茶屋の南一帯、北区の赤羽台、松戸の駅前台地上、といったところが思い浮かぶ。ともあれ、軍事施設が現在では公共施設・こどもの国となった、ということだ。

奈良町
鶴川街道を南に下る。このあたりの住所は横浜市青葉区奈良町。由来はよくわからないが、鶴川の三輪町が、大和の国・三輪の里から移り住んだ人たちが、この地の景観が三輪山に似ている、ということに由来する。とすれば、この奈良町も、大和の奈良に由来するのか。はたまたは、『吾妻鏡』にこのあたりの御家人として登場する奈良氏に由来するのか、はてさて、どちらでありましょう。道に沿って流れる川は奈良川。TBS緑山スタジオ裏手、玉川学園裏手あたりを源とする鶴見川の支流。水源のひとつでもある、本山池(奈良池)といった源流域には「土橋谷戸」「西谷戸」といった緑地が残る、という。いつだたか奈良川の源流域を歩いたことがある。それなりの風景ではありました。

住吉神社

道を進む。「こどもの国線・こどもの国駅」を越えると住吉神社前交差点。住吉神社は交差点東、多摩丘陵南端の上にある。標高はおよそ60m。豊かな緑に惹かれて台地をのぼる。神社は、徳川三代将軍家光の時代に、領主・石丸石見守が大阪の住吉神社から勧請したもの。石丸石見守は大阪の東町奉行を歴任。名奉行であった、げな。
住吉神社は全国に2000余りある、という。住吉三神は「底筒之男神、中筒之男神、上筒之男神。で、「筒」とは星のこと。航海の守り神。ちなみに、読みは、古くは「墨江・住吉」と書いて「すみのえ」と読んだ、と(『神社の由来がわかる小事典;三橋健(PHP新書)』)

中恩田橋交差点

交差点を越え南に進む。恩田地区に「子の辺神社」。名前に惹かれてちょっと寄ることに。奈良川を徳恩寺あたりで西に折れ、台地の際を少し進むと、台地の中ほどに小さい祠。由来などは書いていない。神社でUターン。台地南に鍛冶谷公園。調整池といった雰囲気。このあたりは昔、谷戸であったのだろう。東に進み、こどもの国線・恩田駅に。駅の南には東急の車両工場。付近に橋はない。もと来たところに戻り、奈良川を渡る。南に下ると成瀬街道・中恩田橋交差点。成瀬街道って町田市の本町田から川崎市川崎区南町まで走る県道・140号線。この地の西の台地が成瀬台。その地名に由来するのだろう。ちなみに、成瀬の名前は、町田あたりを治めた横山党の武将・鳴瀬某に由来するとか、恩田川の流れの音=鳴る瀬>成瀬となったとか、例によってあれこれ。

恩田川

この交差点で鶴川街道を離れ、奈良川に沿って南に下る。樋の口橋を過ぎ、日影橋のところで恩田川に合流する。恩田川の源流を地図でチェック。町田市本町田の今井谷戸交差点付近のようだ。いつだったか、鎌倉古道を辿り、町田の七国山とか薬師池公園などを歩いたとき、今井谷戸交差点付近に足を運んだことがある。そのときは東に進み、台地に上り、鶴川街道から玉川学園へと進んだわけだが、南に鎌倉街道を進むと恩田川の源流点あたりに出会えた、ということだろう。恩田とは日陰の田圃という意味であるようだ。

長津田駅
鶴見川と恩田川の合流点から南の台地に上る。恩田川段丘崖。どうも長津田駅って、台地上にあるようだ。長津田3丁目、4丁目と進み長津田駅に。田園都市線・JR横浜線、こどもの国線が集まる。昔より、矢倉沢往還=大山街道、と横浜道が交差する交通の要衝。大山街道の宿場町でもあり、道脇に大山街道の常夜灯が残る。長津田はまた、横浜開港後は、八王子で集められた上州・信州・甲州の絹を輸送する中継地として発展。JR横浜線も、もともとは生糸を横浜に運ぶため明治41年につくられた、とか。ちなみに、長津田の地名の由来は、長い谷津田が続く地形から来た、とされる。谷津田とは谷津にある田=湿原。長津田を通る大山街道に沿って延々と湿原=田が続いていたのであろう。


十日市場

長津田駅を北口から南口に抜ける。JR横浜線に沿って成行きで進む。下長津田交差点で国道246号線・厚木街道を渡る。横浜線に沿って大きな道ができている。いぶき野中央交差点を越え、東名高速下をくぐり、十日市場交差点で環状4号線と交差。十日市場って名前は古そうだが、道の周辺は宅地開発され、宝袋交差点あたりで、横浜線と最接近。台地下の眺めが美しい。恩田川が開いた谷と、そこにひろがる水田、そしてその向こうに見える台地の高まり。なかなかの眺めである。

榎下城跡

新治小入口交差点を越え、恩田川の支流を跨ぎ、三保団地入口交差点に。交差点を西に折れ、道の南にある台地に向かう。榎下城跡は、この台地の上・舊城寺の敷地内。田圃だったか、畑だったか、いづれにしても農地の中の道を進み台地を上ると境内に着く。山門のあたりが虎口。本堂裏手の少し小高くなっているあたりに主郭があった、とか。
この城は室町初期、上杉憲清によってつくられた。その子憲直は鎌倉公方・足利持氏に仕える。で、永享の乱の勃発。室町幕府と鎌倉公方の軋轢。鎌倉公方・持氏と管領・上杉憲実の対立、である。持氏敗れる。榎下城主・上杉憲直は持氏と運命を共にする。その後この城は山内上杉家の所領となった、とか。その後、廃城となるも、戦国時代となり、小田原北条氏が小机城、沢山城とともに江戸城の太田道潅への押さえとして修築。現在の遺
構はその当時のものである。城は、それほど高い台地でもない。南から北へとゆるやかに下る台地の端である。要害性には欠けるが、荏田城をへて府中に至る鎌倉道中の渡河地点を押える役割を果たしたのではないか、といわれている。

田園都市線・藤が丘駅
城跡を離れる。予定ではここから恩田川を5キロ弱下り、小机城へ、と考えていた。が、日が暮れてきた。小机城自体は一度歩いたこともある、ということで予定変更。最寄りの駅に戻ることに。恩田川の向こうに見える台地の上に田園都市線・藤が丘駅がある。先ほど眺めた美しい風景の方向である。即ルート決定。

台地を下り、鶴川街道・恩田川支流との交差点まで戻る。横浜線のガード下をくぐるとすぐに円光寺。畑の中の道を進む。恩田川に交差。橋を渡り、再び畑の中を進み台地下の車道に。道を北にとり極楽寺、杉山神社前を少し進むと横浜商大みどりキャンパスへの入口。台地の上り道を進み、大学脇の道を進むと東名高速にあたる。丁度港北パーキングエリアのところ。台地を一度下り、東名高速のガード下をくぐり、再び台地に向かって上る。梅ヶ丘交差点、藤が丘小交差点を越え、しばらく進むと田園都市線・藤が丘駅に到着。本日の予定はこれで終了。
散歩の後から気がついたのだが、今日歩いた道筋って、昔の鎌倉街道。鎌倉街道中ツ道と上ツ道をつなぐ。中ツ道の通る中山と上ツ道の道筋である鶴川方面を結んでいるわけだ。鶴川に城があった理由も、ちょっとわかった。「いざ鎌倉」の早馬がこの道筋を駆け巡ったのであろう。
八王子城址散歩も三回目。今回のメンバーは私を含め大学時代の友人3名。東京赴任の友人が関西に戻るに際しての記念散歩。散歩の希望コースなどを訪ねていると裏高尾辺りなどどうだろう、という希望が出てきた。が、裏高尾といっても旧甲州街道を進み小仏峠を越えて相模湖に出る、といったコースであり、「歩く」ことが大好きな人ならまだしも、それほど「歩き」に燃えることがなければひたすら街道を歩き、厳しい小仏峠を越えるコースは、少々イベント性に欠ける、かと。
その替わりとして提案したのが、少々牽強付会の感はあるも、「歴史と自然」が楽しめる八王子城址散歩。個人的にもこの機会を利用して、二回の八王子城址散歩を終え、唯一歩き残していた、オーソドックスな絡め手口からのコースを辿りたいといった気持ちがあったことは否めない。
で、コース設定するに、それほどの山歩きの猛者といったメンバーでもないので、誠にオーソドックスに八王子城址正面口、城下谷から御主殿跡などの山裾の遺構を訪ね、その後、山麓、山頂の要害部に上り、「詰の城」まで尾根を辿る。そこで大堀切を見た後、再び山頂要害部へと折り返し、城山からの下りは、私の希望を入れ込み、八号目・柵門台から城山沢・滝沢川に沿って城山絡手口方面に向かい、心源院をゴールとした。
搦手ルートの「隠し道」といった棚沢道、詰の城から「青龍寺の滝」に続く尾根道、「高丸」へ上る尾根道など、少々マイナーではあるが辿ってみたいルートはあるものの、それは後のお楽しみとして、今回の散歩でオーソドックスな「八王子城城址攻略ルート」はほぼ終わり、かと。



本日のルート;JR高尾駅>中宿・根小屋地区>宗関寺>北条氏照墓所>八王子ガイダンス施設_午前9時28分>近藤曲輪>山裾遺構_午前9時52分(御主殿跡)>山麓遺構_午前10時42分(高丸)>山頂要害部_午前11時(山頂曲輪)>尾根道を詰の城に_午前11時50分(詰の城)>ピストン往復>八合目・柵門台_午後1時20分>城沢分岐_午後1時25分>清龍寺の滝分岐_午後1時35分>清龍寺の滝_午後1時50分>松嶽稲荷_午後2時15分>松竹バス停‗午後2時36分>心源院‗午後3時>河原宿大橋バス停>JR高尾駅

JR高尾駅
集合は常の通りJR高尾駅。タイミングよく、「八王子城城跡」行きのバスがあり、これも常の如く廿里(とどり)の古戦場跡の丘陵を越え、城山川の谷筋に下る。左手に先回の散歩で辿った左手に御霊谷の谷戸や太鼓尾根を眺めながら、梶原八幡の谷戸と御霊谷の谷戸を切り裂いた中央高速をくぐり抜け、八王子城跡入口交差点を左折。終点手前の「八王子霊園南口」で下車し、最初の目的地である宗関寺に向かう。

中宿・根小屋地区
バスを下り、中宿地区を進む。この辺りは、かつては「中宿門」を隔てて城下町と区切られた内城地域。小宮曲輪の案内に「城山川の谷戸部分にある根小屋地区(現、宗閑寺周辺)」とあったが、根小屋とは「城山の根の処(こ)にある屋(敷)」という意味であり、「城山の麓につくられた家臣団の屋敷のあるところである。とすれば、この辺りが根古屋地区だろう。根小屋は「根古屋」とも表記され、千葉であり埼玉であれ、古城散歩の折々に登場する地名である。

宗関寺
道の正面に鐘楼が見えてくる。朝遊山宗関寺である。この曹洞宗の禅寺は卜山和尚(ぼくざん)の開山とされる。もとは、北条氏照が再興した牛頭山(ごずさん)寺。その寺が天正18年(1590)の八王子合戦により類焼したため、文禄元年(1592)に卜山和尚により建立。寺号を氏照の法号をもって、「宗関寺」と改めた。宗関寺の元の地は、現在の寺の西北の谷合にあり、この地に移されたのは明治25年(1892)のこと、と言う。

◯卜山和尚
『多摩歴史散歩2;有峰書店』によると、卜山和尚はその弟子3万7千余名と称される大指導者。この地に生まれ、13歳で山田の広園寺で出家、その後全国の名だたる禅寺に遊学し、天文10年(1541)に再び故郷の地を踏む。弘治2年(1556)、北条氏照の知遇を得、牛頭山寺に迎えられた。これを契機に北条一門より私淑尊敬され、正親町天皇により紫衣を賜り、また「宗関神護禅寺」の扁額を贈られるという高僧であった、とか。

○中山信治
宗関寺境内には銅造の梵鐘があった。案内には「元禄2年、氏照100回忌供養のため中山信治によって鋳造。中山信治は中山勘解由の孫。水戸藩家老三代目当主である。第二次世界戦時中、元禄年間以降の梵鐘は押すべて押収されたが、この梵鐘だけが残った」、とあった。中山勘解由は八王子合戦では山頂要害部の松木曲輪を守り、多勢に無勢で破れはしたが、その勇猛さが家康の耳に入り、その遺児が取り立てられ水戸家の家老にまでなった、とか。
遺児が取り立てられ、如何なる経緯で御三家水戸家の家老になったのか少し気になりチェック。八王子城落城時、中山勘解由の遺児ふたりは武蔵七党の一族である中山氏の本拠地、現在の埼玉県飯能に落ち延びる。家康はそのふたりを見つけ出し、小姓に取り立てる。長男が照守。家康・秀忠に仕え御旗奉行まで昇進。二男が信吉。駿府城の火災のとき家康の第11子である頼房の命を救うなど、家康の小姓としてよく仕え、その人柄故に家康の信任篤く、頼房(当時5歳)が水戸家を興すとき付家老としてその任にあたる。信吉33歳の時である、
その後二代将軍秀忠のとき、水戸家は徳川御三家となり、その二代目藩主に光圀を推挙したのが信吉とのこと。信治はその信吉の第四子である。宗関寺の本堂正面の「宗関寺」の扁額の文字も梵鐘銘も水戸光圀公が重用した明の僧・心越禅師の筆となる、との所以も納得。


横地堤
宗関寺を取り巻く築堤は「横地堤」と称される。もと、この地には八王子城代・横地監物の屋敷があり、その城の防御施設として長大な土塁と堀が築かれていた。といっても、寺を囲む石垣は新しそうだし、どこかに土塁でも残っているのだろう、か。いまだ、「これが横地堤」といった堤には出合っていない。
宗関寺から先に進む。寺の角が心持ち「クランク状」になっているのは、枡形の名残とも。『多摩歴史散歩2;有峰書店』によると、宗関寺が移る前の明治24、5年頃には枡形が残っており、また、現在幅の広い車道となっている宗関寺以西の道も未だ無く、荷車も通れないほどの道があっただけ。その道が2間幅に広げられたのは大正になってから、と言う。
よくよく考えるに、横地屋敷にしても、またそれ以外の家臣の屋敷にしても、屋敷はこの車道を跨いで南北に広がる敷地ではあったろうし、先回の散歩でもメモしたように、家臣が日常使用する「下の道」は城山川の北岸に沿って通っていた、とのことであるから、屋敷の門も川沿いにあるのが自然ではあろう。川沿いの道は整備されることはあっても、現在の車道あたりに道は必要ない、かとも。
また、八王子城落城後、戦乱で焼失した「根小屋地区」の家臣団の屋敷跡はどのような状態であったか門外漢には定かではないが、城山は幕府の直轄林とされ、代官・江川太郎左衛門のもと植林が進み、「江川御山」とも呼ばれ厳重に管理されていた、と言う。伐採した木材を運び出すことはあっただろうが、明治になり日露戦争のために大量の木材を伐り出す必要が生じてはじめてこの辺りに「道」が開かれ、木材伐採が本格化した大正期に現在の車道のもとになる道が整備された、と言うことだろう。
八王子城を初めて訪れた頃、攻城軍の陣立てを見て、どうしてこんなに「快適な」城下谷の道筋を侵攻しなかったのだろう、などと思っていたのだが、当時は現在のように平地の真ん中に道、といった「風景」はなく、この辺り一帯は、城山川の南の「上ノ道」に築かれた防御台と一体となった家臣屋敷の土塁と堀に阻まれ、川沿いにしか道はなく、しかも合戦時は城山川を堰止めて沼湿地と化していたであろうから、それほど「快適な」侵攻路ではなかったか、とも。単なる妄想で根拠はないのだが、謂わんとするところは、現在の地形・地理・町の姿から、昔をあれこれ想うのは相当慎重にすべしと、改めて心に刻む。

北条氏照墓所
宗閑寺から八王寺城の方へ向かい、「北条氏照の墓」の道標を目安に道を右に折れ。小径を進むと小高い丘の上に北条氏照と家臣の墓がある。墓というより、供養塔といったものではあろうが、供養塔は氏照の百回忌追善の際に水戸藩家老の中山信治によって建てられた。上でメモしたように中山信治は中山勘解由の孫。氏照の両脇に建つ供養塔は中山勘解由と中山信治のもと、と伝わる(中山信治ではなくその父の信吉との説もある)。

○妙行和尚
供養塔のある台地からは先日歩いた心源院から城山へと続く尾根道に(368ピーク手前の344ピーク辺り)道は続くようだが、台地の右下にある竹林のあたりが旧宗関寺の敷地跡と言われる。供養塔から続く台地の上にも石仏、宝筐印塔(ほうきょういんとう)残り、なんとなく厳かな雰囲気を感じる。また、台地の左、けいが谷川が開く華厳谷戸(けいがやと)の谷奥は延喜13年(913)に妙行上人が庵を結んだ地と伝わる。台地上でお参りした宝筐印塔が妙行和尚(後の華厳菩薩妙行)のもの、とも伝わる。 この妙行和尚、八王子城の命名と、その城下町としての「八王子」という地名に深く関係する伝説をもつ高僧である。

◯妙行上人と八王子の地名起源
宗関寺に伝わる『華厳菩薩記』によれば、平安時代の延喜13年(913)、京都から妙行という学僧がこの地に訪れ、深沢山と呼ばれていたこの城山で修行。夢の中に牛頭天王(ごずてんのう)が現れ、八人の王子(将神:眷属(けんぞく)、従者。薬師如来の眷属が十二神将、釈迦如来の眷属が阿修羅を含めた八部衆、といったもの)をこの地に祭ることを託され、延喜16年(916)深沢山を天王峰に、周辺の8つの峰を八王峰とし、それぞれに祠を建て牛頭天王と八王子を祀った。これが八王子信仰の始まりである。 翌延喜17年(917)、妙行和尚の手により深沢山の麓 に寺が建立され伽藍も整備される。人々の間にも次第に八王子信仰がひろまり 、天慶(てんぎょう)2年(939)には妙行の功績が都の朱雀(すざく)天皇に認められ、「華厳菩薩(けごんぼさつ)」の称号が贈られる。それ以前は華厳院(蓮華院との説も)と称された寺名も八王子信仰ゆかりの「牛頭山神護寺(ごずさんじんごじ)」と改められた。
時代が下り、天正10年(1582)、北条氏照が居城を滝山城からこの深沢山(現在の城山)に山城を築くにあたり、その守護神、城の鎮守として、牛頭八王子権現を祭り、城を八王子城と名づけた。これが八王子という地名の由来になったとのである。

中山勘解由館跡
北条氏照の墓より車道に戻り先に進む。道脇の生垣に中にひっそりと中山勘解由館跡の石碑がった。八王子城は数回訪れているが、今回はじめて気がついた。道路南側の民家の敷地内のようであり、石碑を眺めるのみ。当然のことながら館は現在の道路を跨いだ敷地であったろうし、門は城山川の南岸に沿う「下の道」に面し、昭和30年(1955)代までは「勘解由」と呼ばれる土橋が城山川に架かっていたようである。登城のときは、橋を渡り太鼓尾根の中腹を御主殿へと向かっていたのではあろう。

八王子ガイダンス施設_午前9時28分
道を進むと近藤曲輪のあった手前当たりに「八王子城跡ガイダンス施設」がある。平成34年(2013)の4月にできたばかり、とのこと。施設内には八王子城とその時代を解説したビデオや、八王子城また城主北条氏照に関するパネル展示がされていた。また、八王子城に関する書籍の紹介や地図、そしてコンピュータグラフィックで八王子城を取り巻く山容や合戦の状況をジオラマ風に再現し、八王子城の全体像を把握するには誠に便利な施設となっている。

近藤曲輪_午前9時36分
八王子城跡ガイダンス施設を離れ駐車場の先の小高い場所が「近藤曲輪跡」。小高い場所の上は平坦地となっているが、この地にはかつて東京造形大学が建設された歴史があり、地ならしされてしまったのだろう。平坦地の中央には八王子城を取りまく山容のジオラマが展示されている。
近藤曲輪は八王子城の東端部。かつて家臣が日常の通路、物資運搬などに使用していた「下ノ道」は、中宿門から城山川の北岸を川に沿って進むが、この近藤曲輪の手前で川から離れ、近藤曲輪の下、馬防柵に沿って山裾に向かう。近藤曲輪を大きく迂回した「下ノ道」は「花かご沢」を「登城橋」で渡り登城門に向かっていた、と言う。登城橋があったのは現在の一の鳥居の先、新道と旧道が別れる辺り、とも。

◯近藤出羽守
近藤曲輪は近藤出羽守助実に由来する。近藤出羽守は北条氏照の重臣であり、氏照が大石家の女婿となったときに付き従った家臣のひとり。氏照の信任も厚く、氏照の下野攻略の後には下野国榎本城を預かる。八王子合戦に際しては榎本城を嫡子と家臣に任せ、八王子城に馳せ参じる。
合戦時には近藤曲輪、山下曲輪、アシダ曲輪を守り、前田勢や、降伏し最前線に投入された元北条方の松山衆(上田禅秀氏)や川越衆(大道寺政繁)との激戦の末に討ち死にした。
いつだったか八王子の湯殿川を散歩した降り浄泉寺に出合ったが、このお寺さまは近藤出羽守の開基とのこと。天正15年(1587)というから、北条市が秀吉勢を迎え撃つ臨戦体制をはじめた頃である。近藤出羽守の館はこの浄泉寺および御霊神社の当りにあったとのことである。


近藤曲輪から先は、八王子城の山裾の遺構、山麓遺構、山頂要害部の遺構、山頂要害部からは、尾根道を八王子城の西端の防御拠点である「詰の城」へのピストン山行となるが、以下概略のみをメモする。それぞれの詳しいメモは過去2回の、「八王子城趾散歩 そのⅠ」「八王子城趾散歩 そのⅡ」を必要に応じてご覧ください。


山裾遺構_午前9時52分(御主殿跡)
近藤曲輪を離れ、管理棟のある山下曲輪から林道に下り、城山川を渡り大手道に。左手に太鼓曲輪や堀切の残る太鼓尾根を眺めながら曳橋を渡り、御主殿跡に。御主殿跡から林道に下り、御主殿の滝でお参りし、林道を折り返し、管理棟へと戻る。






山麓遺構_午前10時42分(高丸)
管理棟から、山下曲輪と近藤曲輪を隔てた「花かご沢」の切れ込みを見やりながら、「一の鳥居」をくぐり登山道に。ほどなく登山道は新道と旧道に分かれるが、旧道は現在(2013年5月)倒木のため通行止めとなっていた。
ささやかな石垣の遺構、馬蹄段を見ながら金子曲輪に。金子曲輪から八号目の柵門台跡に。この地は搦手口からの道や山王台への道が合流する。九合目の「高丸」では、「下段の馬廻り道」が合流する。先に進むとほどなく東が一面に開け、見晴らしのいい場所にでる。山頂要害部まではもう少し。

山頂要害部_午前11時(山頂曲輪)
眼下に広がる景観を楽しみ少し進むと「中の曲輪跡」に設けられた休憩所。休憩所の裏手から「小宮曲輪」に向かう細路に入り、小宮曲輪から尾根道を「山頂曲輪」に。そこから中の曲輪の八王子神社、その傍の横地社にお参りし、「松木曲輪」に。

尾根道を詰の城に_午前11時50分(詰の城)
「高尾・陣馬山縦走路」の道標を目安に山頂要害部の南をぐるりと廻る。ほどなく「坎井(かんせい))と呼ばれる井戸があるが、そこに続く道は「上段の馬廻り道」。「井戸」からジグザグ道を下り、山頂要害を廻り切ったところに「駒冷やし」。山頂要害部を守るため、尾根道を切り取った大きな「堀切」となっている。
「駒冷やし」から緩やかなアップダウンを繰り返し600mほど尾根道を進むと「詰の城跡」。その西にある堀切を眺め、再び山頂要害部に戻る。そこから八号目・柵門台まで下り、そこから搦手口への道へと下りてゆく。


ここからは新規ルートのメモ

八合目・柵門台_午後1時20分
柵門台から「松竹バス停」への道標に従い登山道を離れて左に折れる。正確にはこの道は登山道の旧道なのだが、現在旧道は通行止めとなっている。その旧道を少し下ると更に左に分岐する道に入る。この道が搦手口からの道筋である。この辺りは数回過去数回トライしたのだけれど、ブッシュに阻止され進めなかったように思う。その後道の整備をしたのだろうか。不思議である。

城沢分岐_午後1時25分
道筋を数分進むと、先日心源院から城山へと尾根道を辿り搦手口からの道と合流した地点に着く。そこから「松竹橋バス停」の道標に従い、左手の道に入る。道は思いのほか整備されている。この道は城沢道と呼ばれる。搦手口から柵門台へと向かう搦手口からの正式な登城道である。道の左には名前の由来でもある「城沢」と呼ばれる沢がある。城沢は滝沢川に合流する沢のひとつである棚沢の支沢である。


清龍寺の滝分岐_午後1時35分
木々に覆われた道を下ると全面が開けてくる。木々が一面伐採されている。伐採されたところを下り終えた辺りに「清龍寺の滝」の道標。予定にはなかったのだが、時間も十分余裕があるので、ちょっと寄り道。
少々ブッシュっぽい踏み分け道を進むと沢に当たり、それも二つの沢に分岐している。進行方向右手が清龍寺へ向かう「滝の沢」、左手の城沢道に近いほうが「棚沢」である。この棚沢からの道が八王子合戦の時、平井無辺の内通により秘密裡に搦手口から攻め上り、背後から小宮曲輪を攻撃した上杉勢の侵攻路との説がある。

○棚沢口からの侵攻路
『戦国の終わりを告げた城;椚国男(六興出版)』によると、この棚沢道が上杉勢の侵攻路とある。城沢道は正規ルートで奇襲はできないし、清龍寺の滝のある滝の沢は城外であり、修験者が住む信仰の沢で、西側の尾根に上る道はあるが細路で、しかも小宮曲輪に遠すぎる。棚沢道は正規の城沢道に対して背後から馬廻り道に上る通用路または「隠し道」であったのだろう。この道を這い上がれば棚門台を通らず直接山頂要害部にでることができる、とある。
地形図をチェックすると、沢頭は山頂要害部のすぐそばまで続いている。棚沢を山頂に上るには、棚沢の左岸を進み横沢までは急な道であるが、その先はほぼ水平の道となる。岩を割ってつけた道を進み、棚沢の滝の上を跨ぎ水汲み谷と呼ばれる小さな沢に至ると、そこが11段ある馬蹄段の最下段。この最下段には棚沢の滝から左手の斜面をよじ上っても這い上がれるようである。 上杉勢はこのような棚沢口を這い上がり、小宮曲輪に背後から奇襲をかけ、八王子合戦の勝敗を決した、と。詰の城からの石垣跡のある尾根道を下ると、棚沢の滝の近くに下れるようである。そのうちに棚沢を山頂要害部へと這い上がるか、詰の城から下ってみたい。

清龍寺の滝_午後1時50分
棚沢との分岐から15分ほど、倒木や沢道など足場の悪い道を進むと「清龍寺の滝」。活水期で水は全く流れていない。滝下にある水量計が手持無沙汰な風である。滝は3段に分かれており、水があれば結構見栄えがする滝ではあろう。

松嶽稲荷_午後2時15分
沢道を戻り、清龍寺の滝への分岐から林道を松竹バス停へと下る。ちょっとした段状地やその昔家臣の屋敷があったとも言われる平坦地を想い、左手には先日心源院から辿った尾根道を見やりながら800mほど道を進むと杉の巨木に囲まれた朱色の社が佇む。かつては、この辺りに搦手口の城門があったとも言われる。
既にメモしたように、初期の八王子城は北側の案下谷側に大手口が構えられていたとされ、後年八王子城を大改修する時期に大手口城下谷(中宿)側に変更されたとの説があるが、城山(深沢山)の北側に広がる「案下谷」には、下恩方地区の浄福寺城とその山麓の浄福寺や、上恩方の興慶寺といった室町期創建の寺院が点在する。甲斐の武田に備えたこの案下の谷筋は、比較的古い時代から開けていたのであろう。夕焼け小焼けの里から案下道を辿った記憶が蘇る。


○城山北川防衛ライン
城山搦手口の防衛ラインは、松嶽稲荷辺りの搦手口城門一帯と心源院から城山に続く尾根道、川町の城下谷丘陵北端部、そして大沢川。『戦国の終わりを告げた城;椚国男(六興出版)』によると、「搦手口の松嶽稲荷から西方一帯は、山裾から北へ河岸段丘面・氾濫原・案下川と続き、川は水堀、段丘崖は防塁となっている。段丘崖は4,5mあり、段丘崖下に空堀。段丘面の端には柵が築かれ内側に家臣が詰める」とある。そう言われれば、松嶽稲荷南の段状崖も「土塁」のようにも思えてくる。
心源院からの尾根道の防御ラインは、心源院の土塁、尾根道上の向山砦、松嶽稲荷の東の尾根道下には「連廓式砦跡」が残る、とも。川町の城下谷丘陵北端部には小田野城(現在の都道61号小田野トンネル上)。小田野城は八王子城主・北条氏照の家臣小野田太左衛門屋敷があり、八王子城の出城のひとつと言われる、城は天正18年(1590)の八王子城攻防戦の際、城の搦手口(城の表口である大手門に対し、「裏口」にあたる搦手門のある場所)を攻めた上杉景勝の軍勢により落城した
大沢川沿いには段状地が築かれ、遠見櫓があったような尾根上の平坦地もあり、搦手口同様に重要な拠点であった、とのことである。

松竹バス停‗午後2時36分
松嶽稲荷から成り行きで東に進むと行く手を瀧の川に阻まれる。橋はないので、松竹橋まで引き返すことになったが、搦手口の場所は滝の沢川と案下川の合流点付近とか、松竹橋付近といった説もあるので、その雰囲気を味わったことでよしとする。 松竹橋まで戻り、本日の最後の目的地である心源院へと向かうが、先日の散歩でもメモした深沢橋まで橋は無い。陣馬街道を東に戻り、かつての鎌倉街道山の道の道筋で右に折れ、深沢橋へと進む。

○陣馬街道
陣場街道という名前は古いイメージがあるが、その名称は最近付けられた、とか。東京オリンピックの頃と言う。それまでは「案下道」とか、「佐野川往還」と呼ばれ、和田峠を越えて藤野・佐野川に通じていた。街道筋には、四谷宿(八王子市四谷)、諏訪宿(八王子市諏訪)、川原宿、高留宿(上恩方町;夕焼け小焼けの里のあたり)といった宿場があった。
この案下道は、厳しい小仏関のある甲州街道を嫌い、江戸と甲州を結ぶ裏街道として多くの人が利用したと言う。因みに「案下」とは仏教の案下所から。修行を終え入山する僧が準備を整え出発する親元(親どり;親代わり)の家のこと。なんともいい響きの名前だ。また、この辺りの地名である恩方も美しい響き。奥方が変化した、との説がある。山間の奥の方、と言うところだろうか。

○鎌倉街道山の道
鎌倉街道とは世に言う、「いざ鎌倉」のときに馳せ参じる道である。もちろん軍事面だけでなく、政治・経済の幹線として鎌倉と結ばれていた。鎌倉街道には散歩の折々に出合う。武蔵の西部では「鎌倉街道上ノ道」、中央部では「鎌倉街道中ノ道」に出合った。東部には千葉から東京湾を越え、金沢八景から鎌倉へと続く「鎌倉街道下ノ道」がある、と言う。
「鎌倉街道上ノ道」の大雑把なルートは;(上州)>児玉>大蔵>苫林>入間川>所沢>久米川>恋ケ窪>関戸>小野路>瀬谷>鎌倉。「鎌倉街道中ノ道」は(奥州)>古河>栗橋>鳩ヶ谷>川口>赤羽>王子>二子玉川> 荏田>中山>戸塚>大船>鎌倉、といったものである。
鎌倉街道といっても、そのために特段新しく造られた道というわけではないようだ。それ以前からあった道を鎌倉に向けて「整備」し直したといったもの。当然のこととして、上ノ道、中ノ道といった主要道のほかにも、多くの枝道、間道があったものと思える。 で、この鎌倉街道山ノ道、別名秩父道と呼ばれる。鎌倉と秩父、そしてその先の上州を結ぶもの。鎌倉からはじめ、南町田で鎌倉街道上ツ道と別れ。相原、相原十字路、七国峠を越えて高尾に至り、高尾から北は、秋川筋に、次いで青梅筋、名栗の谷、そして最後は妻坂峠と、幾つかの峠、幾つかの川筋を越えて秩父に入る。

心源院‗午後3時
深沢橋から少し南に戻り、大きな石の柱を目印に心源院に。山号は「深沢山」。八王子城の築かれている山の名前である。深沢はこの深沢山の山麓から流れ出す滝沢川が刻む棚沢とか横沢といった深い沢を現すように思える。深沢山の南側にそれほどに深く刻まれた沢は見られない。
それはともあれ、心源院に入る。広い境内の奥に本堂。広い境内の割に堂宇が少ないのは、昭和20年(1845)の八王子大空襲で七堂伽藍すべてが灰燼に帰したため。現在の本堂も昭和47年(1972)に再建されたもの。お寺の東側に10mほどの高さの台地があるが、それは八王子城の土塁跡とのこと。城山北側から尾根道を八王子城へと進軍する秀吉方への防御拠点として、小田野城(心源院の少し東)、浄福寺城(心源院の少し西)とともに、心源院も砦として組み込まれていたのであろう。そのためもあってか、小田原合戦の際、豊臣勢の上杉景勝の軍勢との攻防戦の際に焼失している。更には江戸時代の河原宿の大火でも延焼しているため、古文書などは残っていないようである。
この寺はもともとはこの地に勢力を誇った武蔵国の守護代である大石定久が開いた寺。滝山城を築き北条と覇を競った大石氏であるが、北条の力に敵わずと北条氏照を女婿に迎えに滝山城を譲り、自らは秋川筋の戸倉城に隠居した。
とはいうものの、木曾義仲を祖とする名門・大石氏は北条に屈するのを潔しとせず、面従服背であった、とも。大石氏ゆかりの地には散歩の折々に出会う。戸倉城山にも上り、結構怖い思いもした。多摩の野猿街道あたりにも大石氏にまつわる話もあった。東久留米の古刹浄牧院も滝山城主大石氏が開いた、と。この大石定久の最後については、よくわかっていないようだ。

○松姫
この心源院は武田信玄の娘である松姫ゆかりの寺である。武田家滅亡の折り、甲斐よりこの地に逃れた悲劇の姫として気になる存在である。7 歳で信長の嫡男・信忠と婚約。元亀3年(1572)武田と徳川が争った三方原の合戦に織田が徳川の味方をした。ために、婚約は破棄。松姫11歳の時である。元亀4年(1573)信玄、没するにおよび、兄の仁科盛信の居城・高遠城に庇護される。が、天正10年(1582)、信長の武田攻めのため、盛信や小山田信繁の姫を護って甲州を脱出。道無き道を辿り、和田峠を越え、陣馬山麓の金照庵に逃れ、北条氏照の助けを求めた、と。もっとも、松姫の脱出路は諸説ある。先日大菩薩峠を越えた時、牛尾根の東端に松姫峠があった。伝説では、松姫はこの峠を越えた、と言う。
天正10年(1582)、武田勝頼は天目山で自害し武田家滅亡。この武田攻めの総大将は元の婚約者織田信忠。何たる因縁。信忠は松姫を救わんと迎えの使者を派遣せんとするも、本能寺の変が勃発。信長共々信忠自刃。何たる因縁。
ともあれ、金照庵から移ってきたのが、この心源院。22歳のとき。当時の心源院六代目住職は宗関寺でも登場した卜山禅師。卜山禅師の庇護のもと松姫は出家し信松尼となる。しかし、この心源院も八王子合戦で焼失し、天正18年(1590)、八王子市内にある草庵に移り、近辺の子どもに読み書きを教えながら、幼い姫君を育て上げた、と。八王子は武田家遺臣が多く住む。八王子千人同心しかりである。大久保長安を筆頭とする武田家遺臣の心の支えでもあった、とか。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

松姫の悲劇で思い出す姫君が源頼朝の娘・大姫。木曾義仲の嫡子・義高との婚約。が、義仲と頼朝の争い。頼朝の命による義高の誅殺。頼朝・政子に心を閉ざし生きる大姫。唐木順三さんの『あずまみちのく(中公文庫)』の大姫の記事などを思い出す。

河原宿大橋バス停
心源院で先日歩いた秋葉神社やその尾根道から眺めた「寺の谷戸」や「寺の西谷戸」の地形をじっくりと下から確認し、北秋川に沿って河原宿大橋バス停に進み、本日の散歩は終了。バスでJR高尾駅に戻り、一路家路へと。
初回の散歩から日をおかず、二回目の八王子城址散歩に出かける。メンバーは元会社の同僚とのふたり旅。今回のルートは、八王子城の南を護る「外廓」でもあった太鼓尾根を辿り、先回の散歩で富士見台から下った尾根道を逆に上り返し、富士見台、詰の城を経て城山へと向かう。
太鼓尾根にはいくつかの堀切、そして太鼓曲輪がある、と言う。また太鼓尾根の中腹には城への登城路であった「上の道」が続く、とも。現在八王子城址へは霊園口バス停から宗閑寺をへて城山方面に広い道が開かれているが、大正の頃までは道と言えるような道もなかったようである。戦国の頃はこの太鼓尾根の東端にある「上ノ山」の麓に大手口があり、そこから太鼓尾根の北の山腹を辿る「上の道」がメーンルートであった、とか。
現在では「上の道」は藪で覆われているとのことだし、太鼓尾根のルートもはっきりしない。人によっては険路、とあったり、何ということのない「軽い」ルートなどコメントもさまざま。念のためロープとハーネスと、ちょっと大層な準備をして散歩に出かける。



本日の本日のルート;JR高尾駅>宮の前バス停>梶原八幡>御霊谷神社>太鼓尾根への取りつき口>中央高速にかかる不思議な橋>上の山>太鼓尾根の尾根道>第一堀切>片堀切>第二堀切>第三堀切>太鼓曲輪>第四堀切>第五堀切>見晴らし所>太鼓尾根分岐>荒井バス停分岐>城山林道からの道の合流点(現在通行禁止)>城山川北沢への分岐(標識なし)>小下沢道分岐(悪路)>富士見台>詰の橋・大堀切>堀切>馬廻り道(下段)>高丸>中の曲輪>八王子神社>山頂曲輪>小宮曲輪>松木曲輪>見晴らし所>八合目・棚門台跡>殿の道>山王曲輪>殿の道>御主殿跡>御主殿の滝>曳橋>大手道・大手門跡>上の道>大手道・大手門跡>山下曲輪>近藤曲輪>八王子城址ガイダンス施設>宗関寺>中山勘解由屋敷跡>霊園口バス停

JR中央線高尾駅
JR中央線高尾駅で下車。駅前のバス乗り場より、最初の目的地である御霊谷の太鼓曲輪取り付き口の最寄りのバス停である「宮の前」に向かう。バスは大久保行きのほか、陣馬高原行き、室生寺団地行き、恩方車庫行き、美山行きなど、でも川原宿大橋のバス停に行くようではある。
駅前を離れ、バスは北に向かう。この道は都道46号、別名、「高尾街道」と呼ばれる。高尾街道はJR高尾駅からはじまり、北東に上り「滝山街道」の戸吹交差点で終える。高尾街道は別名「オリンピック道路」とも呼ばれる。東京オリンピックのとき、自転車ロードレースのコースであった。

廿里(とどり)古戦場
南浅川にかかる敷島橋を渡ると、道は山裾を縫って上る。坂道の途中には「廿里(とどり)古戦場の碑」がある。小田原北条と武田の古戦場跡。永禄12年(1569年)、武田軍主力が上州の碓氷峠を越えて武蔵に侵攻。小田原攻略のためである。で、この八王子に南下し北条の戦略拠点である滝山城を攻める。この主力部隊に呼応し、小仏峠筋より奇襲攻撃をかけたのが大月城主・小山田信茂。難路・険阻な山塊が阻む小仏筋からの部隊侵攻を想定していなかった北条方は急遽、この廿里に出陣。合戦となるもあえなく武田軍に敗れた。北条氏がこの地の主城を滝山城から八王子城に移したのも、この負け戦が大きな要因、とか。小仏筋からの侵攻に備え、小仏・裏高尾筋を押さえる位置に城を築いたわけである。

宮の前バス停
森林総合研究所のある山裾の坂道を上る。多摩森林科学館前交差点で大きな道路に合流。甲州街道の町田街道入口からのびる高尾街道のバイパスである。合流点より先にも上り坂。左右は緑の山稜。道の東は多摩御陵、多摩東陵、武蔵野陵といった皇室のお墓。道の西は森の科学館が広がる。豊かな緑を目にしながら坂を下ると城山大橋の三叉路。高尾街道は北東に進むが、バスは高尾街道を離れ、都道61号に乗り換え三叉路を北西方向に進む。
新宮前橋で北淺川の支流・城山川を渡り、少し進むと宮の前バス停。太鼓尾根への取り付き口に進む前に、宮の前の名前の由来でもある梶原八幡様に向かう。

梶原八幡_午前9時24分
御霊谷と逆方向の東側に道を渡り参道を八幡様に。この八幡様は鎌倉幕府の御家人・梶原景時が建てたと言われる。鎌倉の鶴ケ岡八幡の古神体をこの地に奉祀したもの、とか。参道に梶原杉といった切り株も残る。で、そもそも何故この地に梶原か、ということだが、梶原景時の母がこのあたりに覇をとなえた横山氏の出。この地に景時の領地もあった、よう。
梶原景時って、義経いじめ、といったイメージが強い。また、鎌倉散歩のとき、朝比奈切り通しで「梶原大刀洗水」といった清水の流れを目にした。頼朝の命により、上総介広常を討ち、その太刀を洗ったところ、とか。いずれにしても、あまりいい印象はない。 どういった人物か、ちょっとメモ;もともとは平氏方。坂東八平氏である鎌倉氏の一族であり、頼朝挙兵時の石橋山の合戦では一族の大場氏とともに頼朝と戦う。で、旗揚げの合戦に破れた頼朝の命を助けたため、後に頼朝に取り立てられ、頼朝の側近として活躍。教養豊かで都人からも一目置かれるが、義経とは相容れず対立。頼朝と義経の関係悪化をもたらしら張本人と評される。頼朝の死後は、鎌倉を追放され、一族もろとも滅ぼされた。


御霊谷の谷戸
梶原八幡からバス停まで戻り、バス停脇の雑貨店の南の道を御霊谷の集落に。この御霊谷の谷筋は鎌倉期より開けており、信長の安土城に倣い八王子城を大改修するに際し、大手口を案下谷(恩方谷)から御霊谷に移し、御霊谷川の左岸に朱色の御霊谷門が食い違い虎口,内枡形などを伴い建っていた、と。 当時の家臣の登城道はこの御霊谷門を大手口とし、御霊谷地区の北の太鼓尾根の東端、現在は中央高速により分断されている「上の山」の鞍部を経て太鼓尾根の北側(城下川側)の丘陵中腹を城山の麓にあった御主殿へと続いていたようである。

御霊谷(ごりやつ)神社_午前9時40分
御霊谷地区に入り、太鼓尾根やその東端の「上の山」を見やり、御霊谷地区の谷戸を進む。道が中央高速をくぐる手前に御霊谷神社。まずはお参り。古き趣のこの社は、梶原景時の祖先神である坂東八平氏のひとり、鎌倉を拠点とした故に「鎌倉権五郎影政」と称された平安後期の武将を祀る。神社の裏手にはいくつかのささやかな社が祀られるが、稲荷の裏手には、「北条菱」が刻まれた石塔が建つ、とのことだが見逃した。
天正18年(1590)の八王子城の戦いの際は、この神社辺りに南本営が置かれ、鈴木彦八の指揮のもと、豊臣勢の攻撃に相対した、と。当時は谷戸の一帯は湿地であったようで、御霊谷川を堰止めて池沼とし防御ラインを構築したとのことである。

太鼓尾根への取り付き口へ_午前9時51分
御霊谷神社を折り返し、太鼓尾根の東端である「上の山」に。取り付き部の目安は「竹藪とその手前の梅ノ木」といった情報を目安に、道から分かれる取りつき口を探す。今ひとつ確信はないものの、バス停脇から入ってきた道筋と沿って流れる御霊谷川が大きく湾曲して道から離れるあたりに建つ民家の西脇から竹藪へと向かう踏み分け道を見つけ、とりあえず車道を離れ竹藪へと向かう。

中央高速に架かる橋・中宿橋‗午前10時
踏み分け道を竹藪に入る。道らしきものはなく、竹藪の中をとりあえず中央高速の車の音のするほうへと突き進む。力任せの藪漕ぎで中央高速が見えるところまで這い上がる。と、左手に中央高速に架かる人道橋が見える。この橋を渡って太鼓尾根に入る、とのことであるので、中央高速と離れないように竹藪を進み、人道橋のある、と思うあたりで再び這い上がり人道橋南詰に。
しかし、不思議な橋である。橋を渡った南には橋から続く道はなく、崖を下りて道なき竹藪の中を進むしかない。なんとなく気になりチェックすると、中央高速建設に際し、当時の建設省と八王子市そして地域住民が協議し、高速道路によって行き止まりになってしまう杣道や畦道なとの「赤道」を、この橋の建設で代替とした、とのこと。
それにしても、疑問が残るのは中宿橋と呼ばれる橋の名称。中宿は、御霊谷の東端である「上の山」と梶原八幡のある丘に挟まれたところであり、外郭部の城下町と内城部分を仕切る中宿門(中門とも)が在った地区の名前である。場所からすれば、御霊谷橋といったほうが自然と思えるのだが、昔には御霊谷川に御霊谷と称する橋があったのだろう、か(今は見当たらない)、それとも、御霊谷の谷戸から中宿に抜ける道があったのだろう、か。妄想は広がるが、このあたりで止めておく。

御霊谷門・上の山
中宿橋の辺りは中央高速によって削られた太鼓尾根の東端は「上ノ山」のあったところ。上に御霊谷門が御霊谷川の左岸にあったようだとメモした。その位置は上ノ山の丘の南麓にあったとのこと。その場所は不詳であるが、『戦国の終わりを告げた城』には「(中宿橋を)御霊谷側に下ると竹林の中に小刻みの段状地が4段あり、ここを大手口と推定した」、とある。とすれば、御霊谷門は先ほど上り下りの藪漕ぎをした竹藪辺りかもしれない。
御霊谷門からは上ノ山の鞍部を越えて太鼓尾根の北側中腹を御主殿に向かって登城道が通り、その北には中宿門から西にはか新屋敷が連なる。そして尾根の南北に重要な門を見下ろす上ノ山には見張り台があり、ふたつの門の防御する指揮所でもあったのだろう。とはいうものの、合戦では中宿門も御霊谷門も、あっと言う間に破られている。(『戦国の終わりを告げた城』)を参考に合戦の状況をまとめておく。


 ○八王子合戦
攻城軍は寄居の鉢形城を落とし東松山の松山城に駐屯していた前田利家と上杉景勝の軍勢。その数は、降伏した大道寺(松井田城主)、難波田・木呂子勢(松山城の籠城軍勢;東松山)を含め2,3万と伝わる。攻城軍は松山城を出立。関東山地山麓よりの道を南下し、旧暦6月22日の夜更け、多摩川を大神(昭島)から金扇平(八王子市平町)に渡り(注;現在八高線が多摩川を渡る辺り)、南加住丘陵、北加住丘陵を越え暁町の名綱神社辺り(注;現在の小宮公園の南)で二手に分かれる。
一隊は搦め手口攻撃隊。川口川の北岸を西に進み、甲原(注;現在工学院大学のある辺り)をへて南に向かい調井の丘(注;現在の八王子市立川口小学校んの東;昔川口氏館跡あたり)から北浅川の北岸を西に進み、川を渡って案下(恩方)の搦め手口に。
別の一隊は名綱神社から南に進み浅川を渡って大義寺(元横山町)の辻から西に進み、南浅川を渡り横川を経て月夜峰(現在協立女子学園がある辺り)の丘陵に向かう。
一方の八王子城の北条勢。籠城態勢に入ったのは天正16年(1588)の1月。天正17年(1589)の夏には、城主の北条氏照は精鋭数千を引連れ小田原城に。留守を老将である横地監物、狩野一庵、中山勘解由に託す。城内には将士の他、各郷から集められた雑兵、番匠、鍛冶、修験者、僧、そして人質としての妻子など数千。

攻撃当日の天正18年(1590 )6月23日。攻撃開始は午前2時。上杉景勝勢8000は月夜峰から出羽山砦(注;は現在の出羽山公園辺り;八王子市城山手1-4近藤出羽守が築いたとされる砦。近藤出羽守は合戦当日には山下曲輪を護る。)へと尾根伝いに進み、御霊谷門を打破って上ノ山に上がり、更に尾根伝いに太鼓曲輪へと進撃。別働隊は御霊谷の湿地を進撃し、御霊谷神社辺りにあった南本営を打ち破り、御霊谷の谷戸の更に奥の駒ケ谷戸や大谷戸方面から太鼓曲輪の奥に進み攻め入った、と。
一方、降伏した大道寺勢を前面に押し出した前田利家の軍勢15000は横山口の大城戸に攻め入り、中宿門を護る馬場対馬守を破り、午前4時頃には太鼓曲輪を破った上杉勢と合流し、八王子城の守備の要である山下曲輪に襲い掛かり守将の近藤出羽守を打ち取っている。
山下曲輪を破り城山にある金子曲輪に攻め入り、山頂の小宮曲輪で激戦となるも、内通者に率いられ、搦め手側から攻め上った上杉別働隊が背後から攻め寄せ落城となる。明け方には勝負がついていたようである(午後4時頃との説もある) 八王子合戦は秀吉の小田原征伐で唯一の「殲滅戦」とも言われる。埼玉・寄居の鉢形城の攻防戦など、その他の攻城線での穏便な、秀吉に言わせれば「緩慢な」攻城戦を秀吉に咎められ、面目を失った前田・上杉勢はこのときとばかり八王子で大殺戮戦を行った、とか。合戦の後の両軍の死者は諸説あるも、それぞれ1000名を越える、とも。いつだたか、八王子の湧水を辿っていたときに出合った相即寺には戦いで亡くなった将士を供養する地蔵堂があった。

埼玉・寄居の鉢形城攻防戦での「緩慢」なる攻城戦を秀吉に咎められ、面目を失った前田、上杉がこの時とばかり攻めかかった、とか。小田原攻めで唯一とも言われる大殺戮戦が行われた、とある。

太鼓尾根に入る
中宿橋を渡り、右にも左にも細道があるようなのだが標識がなく、なんとなく踏み分け道っぽい右側に回り込み緩やかな上りを太鼓尾根に入る。途中、御霊谷門から上ノ山の鞍部を越えて南に繋がるという「上ノ道」への道筋などないものかと注意しながら進んだのだが、それらしき踏み分け道も見つけることができなかった。安土城の6mを越える8m幅の登城路跡らしき道筋も残っているようである。そのうちに歩いてみたい。

286mピーク_10時23分
木々に覆われた緑の尾根道を進むと、竹林のトンネルが現れる。いつだったか歩いた旧東海道箱根越え・西坂を三島に下ったときの笹竹のトンネルを思い出した。270mピークの「じゅうりん寺山」を越え、ゆるやかなアップダウンを繰り返し尾根道を進む。じゅうりん寺山から北西に進んだ尾根道が南西へと向きを変える辺りの254m地点に「見張台」があったとのことだが、素人には遺構などはわからない。
尾根道南麓の木々の隙間から民家の屋根などを見やりながら10時23分に286mピークに。ここまで尾根道の踏み跡はしっかりとしており、道に迷うことはなかった。


第一堀切_10時35分;標高275m
尾根道を進み、286mピークから10分強歩くと、突然尾根道が寸断され崖っぷちに。ここが太鼓尾根の第一堀切。尾根道からの敵の侵攻を防ぐために人工的に岩盤を掘り切っている。掘り切った石は石垣などに利用されているようである。第一堀切の場所は、御主殿跡に向かう大手道東端の「進入禁止」の柵のあるところより少し東に入ったあたりである。
足元を注意しながら底に下り、左右の堀切崖面を見る。底から5m程度といったところだろうか。また、岩盤故か、倒木が多い。堀切の幅は結構広いが、これは倒木による掘り返しにより次第に幅は広く、丸くなってしまったのだろう。縄張り当時はもっと狭く、V字になっており、曳橋が架けられていた、と。

片堀切_午前10時41分;標高287m
第一堀切からほどなく「片堀切」の案内。両側を掘らず、片側だけを掘ったもの。比高差は4m程度である。この辺りから太鼓曲輪北麓下には御主殿続く大手道が見える。








第二掘切_午前10時52分:標高290m
片堀切から10分程度で第二堀切。底に下りて左右の崖を見る。東崖との比高差3m、西崖面との比高差12mほど。薬研堀と称されるようにV字に切れ込んだ雰囲気を残す。場所は御主殿に繋がる曳橋の少し手前といった辺りである。







第三堀切_午前11時7分;標高298m

第二堀切から10分強で第三堀切。太鼓尾根最大の堀切で「大堀切」とも呼ばれる。底から堀切東崖の比高差6m、西崖面の比高差15mとのことである。底が落石で埋まっているため、石を除けばもっと巨大な堀切であったのではあろう。尾根の北麓下には城主の館である御主殿がある。なお、第三堀切を過ぎたところに上杉勢が御主殿に侵攻する為に使った「連絡道」があるとのこと。連絡道は「御主殿の滝」に造られた堰の上を通り御主殿につながる、とのことである。

太鼓曲輪_午前11時13分;標高300m
第三堀切から少し進み、御霊谷の城山病院辺りから続く長尾根と交差するあたりのちょっとした平坦地に太鼓曲輪があった、とのこと。平坦地の幅は10m程度であり、それほど多くの兵士が詰めれるようにも思えないのだが、太鼓尾根全体の防御陣地を指揮する指令所でもあったのだろう、か。単なるも妄想。根拠なし。





第四堀切_午前11時18分;標高321m
太鼓曲輪から5分程度で第四堀切。位置は北沢と南沢が城山川として合わさる少し上流の南の尾根部分。底に下りて左右を見ると、今までの堀切の中では少し小振りで、東西ともに底から堀切の崖面の比高差は4m程度である。






第五堀切_午前11時25分;標高325m
更に尾根を進むとほどなく第五堀切。今までの堀切と異なり、御主殿に近い東端のほうが底からの高さが高く、その比高差は7mほど。一方西側は少し低く4m程度となっている。









これで本日のメーンイベントである太鼓尾根の太鼓曲輪と堀切を辿るコースは終了。後は先日富士見台から下ってきた「城山尾根」に上り、そこから城山へと上り返すルートを辿ることになる。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)















見晴らし所_午前11時43分;標高376m
第五堀切を越えると「城山尾根」の合流点に向かって上りが急になってくる。今までの尾根道の、のんびり、ゆったりとは異なり少々息が上がる。第五堀切から20分程度のところで、左手が一瞬開け、眼下の景観が楽しめる。見晴らし所という名称は便宜上名付けただけであり、正式名称ではない。





太鼓尾根分岐_午前11時47分;標高407m
見晴らしを楽しみ先に進むち、そこからほどなく太鼓尾根が城山尾根に合流する。標識には「城山入口 405m」と道標にあるが、太鼓尾根には城山へ下る標識はなかったように思う。太鼓尾根から城山(「御主殿跡」のことだろうか?少々曖昧な表現である)に下るには、尾根道を切り取った堀切部分から大手道の東端に下るのだろうが、それにしては大手道へと下る道標はなかったように思う。 太鼓尾根を下ると、今辿ってきたようにその東端は中央高速に架かる不思議な人道橋に至り、橋を渡った先には道がなく、竹藪を藪漕ぎして御霊谷の集落の道にでることになる、と思うのだが。道標の見落としであろう、か。
太鼓尾根分岐を東に下れば、先日辿った地蔵ピークをへて裏高尾の駒木野の小仏関所に出るが、今回は逆に城山尾根を西へと上り返す。太鼓尾根分岐点で少し休憩。

荒井バス停分岐_午後12時14分;標高417m

休憩の後、10分程度で裏高尾への分岐点。「荒井バス停 摺指バス停 駒木野バス停 高尾駅」の道標がある。数年前、この尾根道を裏高尾から上り、工事中の圏央道当たりから山に入り、中央高速に沿って進み尾根へと入っていったのだが、圏央道が完成した現在、ルートはどうなっているのだろう、か。

城山林道からの道の合流点(現在通行禁止)_午後12時17分;標高410m
荒井バス停分岐のすぐ傍に「城山林道」から尾根に上る道の合流点がある。現在岩場の梯子が壊れており「危険 通行禁止」となっていた。

城山川北沢への分岐(標識なし)_12時37分;標高479m
城山林道の合流点当たりからは525mピークに向かって急坂を上り、ピークを越えて下りきったあたりが城山川北沢からの山道の合流点。分岐点の標識はない。当初の予定では、この合流点が見つかれば、そこから御主殿跡へと下ろうと考えていたので、相当真剣に道を探したのだが結局見つからず、富士見台から城山へと向かうことになった。後日地元の方に聞いたところでは、見つけにくいが道はある、とのことであった。

小下沢道分岐(悪路)_12時44分;標高541m
城山川北沢からの合流点辺りからは再び富士見台に向かっての上りが続く。先回は逆の下りだったので、あまり厳しいとも思わなかったのだが、結構きつい上りであった。富士見台の少し手前に小下沢への分岐の道標。悪路とある。どの程度のものか、逆に訪ねてみたくもなる。






富士見台_12時57分;標高542m
小下沢から10分強で富士見台に。今まで数回富士見台に来たが、富士山が見えたのは今回がはじめて。休憩台では数グループが食事をしているのはいつもの通り。







詰の城・大堀切_13時8分;標高463m
富士見台で富士山の眺めを少し楽しみ、休憩することもなく富士見台の直ぐ傍の「陣馬山縦走路分岐点」を右に折れ、詰の城へと向かう。分岐点には「荒井バス停2.7キロ 堂所山(6キロ)・明王峠(7.2キロ)・陣馬山(9.1キロ)」の道標がある。
10分程度、結構急な下りを進むと「詰の城」の西崖となっている「大堀切」に到着。西からの敵の侵攻を防ぐため尾根を断ち切った「大堀切」は、その名の通り、堀切底辺部と詰の城の比高差は10mほどもある巨大なもの。堀切部の幅も広く下辺10m、その幅24mにもなる、と言う。実際この大堀切に下りたって左右の岩場そしてその堀切の幅を眺め、その大きさを実感する。この規模の掘割をおこなうには20名の石切人足が200日かけてはじめて完成する規模のものであると言う(『戦国の終わりを告げた城』)。
大堀切から崖面の道を上り「詰の城」に。「大天守跡」といった石碑の残るこの地は八王子城の西の守りの要衝。尾根道には石垣が組まれと言うし、詰の城から北に横沢へと下る尾根にも石垣が組まれていたようである。また、詰の城から横沢の分岐点までの間には二本の水平道が棚沢を横切って馬冷やしまで続いていた、とのこと。これは棚沢方面からの敵に備えた帯曲とも考えられているようだ。北に下る尾根道を少し下ってみたが、石垣は残っていなかった。

馬冷やし・堀切_13時35分;標高401m
詰の城からおおよそ400m、城山が目の前に聳える姿を見ながら進むと、「詰城 富士見台 北高尾山稜 堂所山」の道標のあるところに出る。大きな堀切となっているが、これは馬廻り道を一周させるため人工的に尾根道を断ち「切り通し」としていると同時に、切り通しの東上にある「無名曲輪」の堀切として、西の尾根道からの敵の防御拠点としている。
また、この地は、馬廻り道、城山裏手の棚沢からく2本の水平道、詰の城からの尾根道、太鼓曲輪や城山川北沢と城山川南沢を分ける丘陵部からいくつかの谷頭を縫ってくる道など多くの道が合流する要衝であった。

馬廻り道(下段)
駒冷やしの堀切からは、いつも歩く山頂要害部の南側を周り井戸のある「坎井(かんせい)」から上段の馬周り道を通り松木曲輪に出るコースと異なり、堀切から山頂要害部の北側をぐるりと回る「下段馬周り道」を辿る。道標もなく、はじめての道で、ちゃんと続いているかどうか定かではないが、とりあえず先に進む。途中切り立った崖面の細路があるなど、ハイキングコースとして案内しない理由も納得。どこに出るのかも分からず進むと、「9合目・高丸」のすぐ上に出た。そこにも道標はなかった。下段馬廻り道は上段馬廻り道のおおよそ20m下を巻いているとのことである。
ここからは下に下りたいところではあるが、同行の元同僚は八王子城址ははじめて。山頂要害部を見ないことにはと、山頂の曲輪跡へと向かう(以下は「八号目・柵門台」まで基本的に、前回メモのコピー&ペースト)

高丸_13時41分;標高431m
下段馬廻り道から城山登山道に出ると、「九号目」と刻まれた石標があり、その右手に「高丸 この先危険」の案内。この案内があるところが「高丸」なのか、案内が示す方角に「高丸」がある狭い台地まで続いかははっきりしないが、崖端から下を見ると尾根筋が高丸の標識に上ってきている。思うに、高丸は先回心源院からの尾根道と城沢道(搦手)道が合流する十字路に、「正面の道は「×急坂」」とあった、その急坂を登りつめた尾根上に築かれた帯曲輪のようである。
名前の由来は、城沢道から山頂要害部が翼を広げた鷹のように見えたから、とか、城沢道が急坂になり、その高まった岩場にあるため、とも(『戦国の終わりを告げた城』)。岩が露出した急斜面に100mに渡って石垣が組まれ、敵の侵入を防いだとのことである。ともあれ、これだけ、どこにも「危険」と書かれては、場所を特定すべく尾根を下ってみようという気持ちにはなれない。

見晴らし
九号目を越えて先に進むと左手の展望が開ける。足元には、八王子城の山裾地区、その先には、城の城下町であった元八王子の丘陵を縫って裏高尾の谷へと進む中央高速が見える。はるか遠く、白いドームが丘陵に頭を出しているが、狭山丘陵の西武球場だろう、か。その右手には新宿の高層ビル群、その右に見える尖塔は東京スカイツリーだろう、か。霞の中にかすかに見える。関東平野が一望のもと、誠に美しいながめである。

休憩所
先に進むと、休憩所のような小屋があり、その脇に「本丸周辺の曲輪」の案内と、その地図がある。案内には「本丸周辺の曲輪;標高460mの深沢山山頂に設けられた本丸を中心に、松木曲輪、小宮曲輪などの曲輪が配地された要害部は、籠城のための施設と考えられている。急峻な地形を利用した山城は、下からは攻めにくく、上から攻撃できる守りには有利な構造になっている。
天正18年(1590)旧暦6月23日、豊臣秀吉の命を受けた前田利家、上杉景勝、真田昌幸らの軍勢に加え、降参した北条勢を加えた数万の大軍が八王子城に押し寄せた。一方、小田原に籠城中の城主北条氏照を欠いた留守部隊は必死に防戦したが、激戦の末、守備した北条方はもちろんのこと、攻めた豊臣方にも多くの犠牲があった」とある。
先回同様に、この小屋の裏手あたりから「小宮曲輪」、そこから「本丸」へと続く道を進む。

小宮曲輪
小屋の裏手の細い道を少し上ると平坦な場所にでる。廃屋となった社跡、狛犬が佇むこの平坦地が小宮曲輪である。脇に立つ案内には「小宮曲輪;狩野一庵が守っていたといわれる曲輪。三の丸とも一庵曲輪とも呼ばれていた。天正18年(1590)6月23日上杉景勝の軍勢の奇襲にあい、落とされた、と。
コラム 八王子城の範囲;北条氏照は、深沢山(城山)を中心とした要害地区、その麓にある居館地区(現在、御主殿跡として整備したあたり)、城山川の谷戸部分にある根小屋地区(現、宗閑寺周辺)、居館地区の南で城山川をはさんだ対岸にある太鼓曲輪地区、太鼓曲輪からのびる丘陵の東端と南端の台地にある御霊谷地区、小田野城のある小田野地区(現、小田野トンネル周辺)というように、八王子城を壮大な城郭として構想していたと考えられる。しかし、八王子城は完成を見ることなく、天正18年(1590)に落城した」とある。
案内に「小宮曲輪は(中略)上杉景勝の軍勢の奇襲にあい、落とされた」とあるが、これは上杉隊の藤田信吉が内通者である平井無辺を道案内に、搦め手口(裏口)から滝の沢川に沿って進み、棚沢方面から崖を這い上がり、背面より小宮曲輪を攻めた、との説(『武蔵名所図会』)ではあろう。この背面からの突如の攻撃により、正面より攻め上る前田勢を防いでいた八王子勢が崩れたとのことである。
攻撃軍の陣立ては諸説あり、大手門(表門口)が上杉勢、搦手口が前田勢、といったものや、大手門口(表門口)は前田勢であるが、上の案内にある太鼓曲輪を上杉勢主力が攻め、その支隊が搦手口から攻め上ったなど、あれこれあり定説はないようだ。

○藤田信吉
上杉隊の藤田信吉とは、もともとは関東管領上杉家の家臣。関東管領方が小田原北条に川越夜戦で敗れたため後北条の家臣に。後北条勢として上杉謙信の跡目争いである御館の乱に出兵。沼田城の城代に。が、後北条に信を置けず真田昌幸の勧めに応じて武田方に。その武田氏が滅亡するに及び関東管領となった織田方の滝川一益に反抗し、上杉景勝のもとに走る。これが、この八王子城攻防戦までの藤田信吉。その後もなかなか面白い動きをする武将である。

本丸
小宮曲輪から本丸へと続く道を進む。小宮曲輪の崖下を見るに、東端は鋭く切り立っており、這い上がるのは大変そうだが、西端辺りからであれば這い上がることもできそうだなあ、などと先回同様の妄想しながら道を進み、左手下に八王子神社を見ながら本丸へと上る。
案内に、「本丸跡:城の中で最も重要な曲輪。平地があまり広くないので大きな建物はなかったと考えられる。ここは横地監物吉信が守っていたと考えられる」。と。本丸とは言うものの、山頂の平坦部は150平米程度で、櫓とか見張りの砦程度しか建たないように思えるので、本丸というより、山頂曲輪とか、天守曲輪といったものである。山頂平坦地には祠と「八王子城本丸址」と刻まれた石碑が建つ。
横地監物は北条氏照不在の八王子城代として戦の指揮をするも、形勢利あらず、と再起を決し城を落ち延びるも、奥多摩にて自決した、とのことである。

中の曲輪
本丸から八王子神社の佇む平坦地に降下りる。この平坦地は山頂曲輪のある主尾根から北に延びる支尾根にある小宮曲輪と南に延びる松木曲輪に挟まれた上下2段からなる曲輪で「中の曲輪」と呼ばれている。八王子神社のある上段はおよそ600平米。石段下の下段部はおよそ500平米と山頂ではもっとも広い曲輪となっている。
上段にある八王子神社とその横に横地社と呼ばれる小さな祠が祀られる。本丸(山頂曲輪)にあった案内によると、「八王子神社と横地社;延喜13年(913)、華厳菩薩妙行が、山中で修行している際に出現した牛頭天王と八人の王子に会ったことで、延喜16年(916)に八王子権現を祀ったといわれる。この伝説に基づき、北条氏照は八王子城の築城にあたり、八王子権現を城の守護神とした。これが「八王子」の地名の起源。
その八王子神社の横にある小さな社は、落城寸前に奥多摩に落ち延びた横地監物が祀られる。もともと、東京都奥多摩町にあったが、ダム建設で湖底に沈んでしまうためにここに移された」、と。
このダムとは東京の上水道水源として昭和32年に竣工した小河内ダムのこと。当時、奥多摩村熱海蛇沢に祀られていた横地社をこの地に遷したわけである。

松木曲輪
中の曲輪の南、小宮曲輪と相まって逆八の字に主尾根から突き出している支尾根上にある。岩山を削って平らにしたような平坦部は900平米。北側中の曲輪との比高差は2、3m。南側には比高差5mほどの下に腰曲輪がある。案内によれば、「松木曲輪:中山勘解由家範が守ってきたといわれる曲輪。中の丸とも二の丸とも呼ばれる。近くには坎井(かんせい)と呼ばれる井戸がある。天正18年(1590)6月23日には前田利家の軍勢と奮戦したが、多勢に無勢で防ぎきれなかった。このときの家範の勇猛さが徳川家康の耳に入り、その遺児が取立てられ、水戸徳川家の家老にまでなった」、とある。
松木曲輪から南に広がる高尾山を眺めながら小休止。本来ならここから富士見台への尾根道を経て裏高尾の旧甲州街道へと向かうのだが、今回同行の元同僚は、八王子城ははじめて。やはり山麓の御主殿跡とか、戦国時代の城では珍しい石垣を案内すべしと、一旦城山を下りることにする。地図を見るに、御主殿跡の先に富士見台から裏高尾へと延びる尾根道への山道らしき案内があるので、うまくいけばその道筋を尾根に向かって上ろう、などとの算段ではあった。

八合目・棚門台跡_午後14時13分;標高362m
城山山頂の要害部をひと回りし、城山を下り八合目・棚門台跡に。「八合目」と刻まれた石標がある。八合目の石標脇には、「松竹橋方面」と書かれた木の標識脇に、「柵門台」と書かれた木標がある。道脇に「柵門跡」の案内。「山頂の本丸方面に続く尾根上に築かれた平坦部。詳しいことはわかっていない」と。『戦国の終わりを告げた城;椚国男(六興出版)』によると、「柵門台は登城口と搦手口から来る道(敵)への関門として山腹の岩を切り取ってつくった50から60平米の舌状地。背後の高さ8mの崖の上にもほぼ平で80平米ほどの広さがあり、上から敵を迎え撃つ防御台である」と。また、「柵門台の入口と出口には柵門が設けられ、山上には出口の柵門から登り、柵門内からは金子曲輪を経て登城口へと下る道と、山王台(注;山裾にある城主の屋敷である御主殿から山頂に上る「殿の道」にある関門)に通じる道があり、五差路となっている」とあった。

山王台_午後14時20分;標高376m
通常、この八合目からは金子丸から馬蹄段を経て登山口である一の鳥居へと下るのだが、今回はこの八合目から辿れるという山王台へと向かうことにする。道案内はないのだが、柵門台の案内のあるあたりの少し北に左へ入る細路があり、これが山王台への道であれかし、と願いながら先へと進む。道は沢頭に沿って通るが、整備されていないようで、少々難儀ではあったが、10分もあるなかいうちに平坦地に出る。そこが山王台であった。
地形図を見ると、山王台は柵門台と沢を隔てた舌状台地上にあり、その広さは80平米ほど。岩を削り取ってつくったものである。「南無妙法蓮華経」と刻れた石碑は昭和8年(1933)に戦いで亡くなった将士の霊を慰めるべく建てられた。

殿の道・石垣群
山王台から御主殿との間は「殿の道」で結ばれていた、と言う。その下り口を探すと、舌状台地南に西に向かって折り返すような小道があった。それが殿の道であろうと。ジグザグの道を下る。
道の途中には何段にもなった石垣群がある。石垣群は全部で4群あり、それぞれの群には数段に分かれて石段が築かれている。崩れている箇所もあるが、結構しっかりと組まれたままの状態で残っている石垣もある。
何故に山腹にこれほどまでの石垣を築いたのか、ということだが、この沢が比較的浅く傾斜であったため、石垣を築き敵が這い上がるのを阻止するため、と言う。
思わぬ石垣群に魅せられながら下山口に。場所は御主殿跡の西北端あたりにある。道標はない。

御主殿跡
御主殿跡は東西約120m、南北45mから60m、およそ4000平米の広い敷地である。案内によると、「八王子城の中心部。城主北条氏照の居館のあったところ。「主殿」「会所」と想定される大型礎石跡や、庭園、敷石通路、水路等の遺構が検出された。主殿では政治向き「の行事が、会所では庭園を眺めながらの宴会などが催された。(中略)会所跡には50cmから80cmの床面を再現し、敷居。間取りも表してある。(中略)遺構の確認された範囲(2900平米)には小舗石を並べ、その範囲を示してある」、とあった。
「御主殿の滝」にあった案内のコラムには「戦国時代はいつも合戦とその準備をしていたイメージがあるが、八王子城から出土した遺構・遺物はそのイメージから程遠い。中国から輸入された五彩ではなやかなお皿で、領国内で取れたアワビやサザエを食べたり、ベネチアでつくられたレースガラス器や信楽焼の花器を飾り、そのもとでお茶をたしなみ、枯山水の庭を眺めてお酒を飲んだ日々が思い浮かばれます。これらの品々はさぞかし北条氏照の心を和ませていたのではないだろうか」と。

御主殿の滝
御主殿跡の西南端から林道に下りる道を下り「御主殿の滝」へ。滝に下りる入口には石仏とともに千羽鶴が祀られる。案内によれば、「落城の際に、御主殿にいた女性やこども、将兵たちが滝の上で自刃し、次々と身を投じたといわれる。その血で城山川の水は三日三晩、赤く染sまったと言われる」、と。合掌。
昔の水勢は知る由もないが、現在は滝壺とは言い難い、ささやかな滝下となっている。滝の上には如何にも水場といった石組みが残る。

櫓門(やぐらもん)
御主殿の滝から再び御主殿跡に戻り、入口の冠木門から石段に出る。25段の石段の途中には櫓門(やぐらもん)の案内。「踊り場から礎石が発見された。東西(桁行)約4.5m、南北(梁間)3.5m。通路の重要な位置にあることから物見や指揮をするための櫓門とも。礎石の傍には排水のための石組側溝も発見されている」、と。

虎口
石段を下りると道は右に折れる。ここは虎口虎口の案内には、「城や曲輪の入口は虎口と呼ばれ、防御と攻撃の拠点となるために工夫がなされている。御主殿の虎口は、木橋を渡った位置から御主殿内部まで、高低差約9mを「コ」の字形の階段通路としているのが特徴。(中略)階段は約5mの幅。途中の2か所の踊り場とともに、全面石が敷かれているのは、八王子城独特のものである」とあった。







曳橋
虎口を左に折れる城山川を跨ぎ御主殿跡と大手道を繋ぐ木製を模した橋がある。大手道の脇にあった案内によると、「コラム曳橋;古道から御主殿に渡るために城山川に架けられた橋。橋台部のみが残っているだけなので、どのような構造の橋が架けられていたかはわかっていない。現在の橋は、当時の道筋を再現するため、現在の技術で戦国時代の雰囲気を考えて木製で架けられた」とあった。
橋脇にも「橋台石垣と曳橋」の案内があり、「当時はこの石垣のうえに簡単な木橋を架け、この橋(曳橋)を壊すことにより敵の侵入を防いだ」と・。

大手道_午前10時28分;標高255m
曳橋を渡り、きれいに整地された大手道を下る。右手の太鼓尾根は先ほど堀切や太鼓曲輪を辿ったところであるなあ、などと想いを巡らしながら山腹中腹の道を下る。道を下り切り、城山川方面へと道が曲がる辺りに木の柵があり、大手道はここで終える。木の柵の脇にある案内には、;「大手道 発掘調査では、当時の道は明確にできなかったが、門跡や橋台石垣の検出、さらに平坦部が尾根の中腹に連続していることから、ここが御主殿にいたる大手道であったことが明らかになった。 現在の道は、この地形を利用して整備したもの。当時は、ここから城山川の対岸にアシダ曲輪や御主殿の石垣、さらに城山の稜線にそって連なる曲輪や建物が見わたせたと思われる」、とある。
現在大手道は、この場所から御主殿跡に向かって整備されているが、既にメモした通り、往昔は、太鼓尾根の南側の御霊谷側に大手口があり、そこから太鼓尾根の東端、現在は中央高速により分断されている「上の山」に上り、太鼓尾根の北側(城下川側)の丘陵中腹を城下川に沿って続き、この地まで続いていた。
御霊谷の谷筋は鎌倉期より開けており、信長の安土城に倣い八王子城を大改修するに際し、大手口を案下谷(恩方谷)から御霊谷。に移し、御霊谷川の左岸に朱色の御霊谷門が食い違い虎口,内枡形などを伴い建っていた、と。 この大手道は「上の道」と呼ばれ、家臣が公用路として通る道であり、基準幅8m、それより広い箇所が5か所、狭いところが3か所といった立派なものであった、とか。

○上の道
上の道の名残はないものかと木の柵を越え、小道に入る。木々の間の踏み分け道を進むも、次第に踏み分け道もなくなり、城山川の傍の藪に入り込み、今回はそこで撤退。冬になって藪が減った時にもう一度歩いてみようと思う。






山下曲輪
上の道跡といった小道を大手道の木の柵まで戻り、城山川を渡り山下曲輪に。山下曲輪は大きく二段に分かれる。南と東に土塁が築かれ、曲輪の東北隅に御主殿や山上への小道が通じ、東と南からの敵の侵攻を防ぐ山麓の最重要拠点であった。上段には観音堂が佇む。数年前八王子城訪れたときは自由にお参りできたのだが、現在は「私有地につき立ち入り禁止」となっていた。






近藤曲輪
山下曲輪から花かご沢の深いV字の谷を隔てた一帯が近藤曲輪。現在は公園となっている。空堀とか馬防柵があったとのことだが、特に案内もないようで、今回は公園にあるジオラマで本日辿った山稜を確認するに留める。もうあれこれ調べる気力も体力も少々乏しくなっているようである、


八王子城跡ガイダンス施設
近藤曲輪からすぐ傍の「八王子城跡ガイダンス施設」に。今年(2013年)の4月にできたばかりとのこと。八王子城合戦のビデオや資料を眺め、道脇の中山勘解由屋敷跡の案内を眺め、霊園口のバス停に本日の散歩を終える。

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