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秋留台地の湧水散歩も、秋川筋、多摩川筋と辿り、先回の散歩でやっと平井川筋へと辿りついた。あきる野市が作成した『報告書』にある湧水リストで残すは4箇所。平井川筋と秋留台地の段丘面から少し離れるが、草花丘陵の湧水点となっている。
ルートを思うに、五日市線・東秋留駅から平井川筋を遡り、最後の目標を草花丘陵の崖線が多摩川に落ちる折立(おったて)坂の湧水とし、湧出点を確認した後、多摩川を跨ぐ羽村大橋を渡り青梅線・羽村駅に向かうことにする。


本日のルート;五日市線・東秋留駅>五日市街道>松海道の一本榎>平沢八幡>平澤617番地湧水>高瀬橋>平高橋>平井川右岸を進む>平沢滝の下湧水>南小宮橋>草花公園湧水>羽村大橋西詰>折立坂湧水>羽村大橋を渡る>玉川上水>牛坂通り>旧鎌倉街道>青梅線・羽村駅


五日市線・東秋留駅
あきる野市の報告書より
最初の目的地、あきる野市の『報告書』にある「平沢617番地」湧水の最寄駅である五日市線・東秋留駅で下車。「東」と対になる「西秋留駅」は秋川市成立時に「秋川駅」となり、その後あきる野市となった後も「秋川駅」として続く。東秋留駅は大正14年(1925)の五日市鉄道(拝島・武蔵五日市間)開業時の駅名のまま今に続く。

五日市鉄道
五日市鉄道は、明治22年(889年)甲武鉄道が立川駅-八王子駅間で開業、明治27年(1894)に青梅鉄道が開業した時勢、五日市の実業家が中心となり構想され、大正10年(1921)に認可される。
ルートは青梅鉄道拝島駅を起点に、五日市、そして増戸村坂下から分岐して大久野村地内勝峰石灰山に至るもの。勝峰山までの路線を申請しているということは、当初より石灰の運搬をその事業主体にしていたと推察される。
大正10年(1921)に認可は受けたものの、事業予算が当初の目論見と大きく違い、事業は難航。大正12年(1923)に工事が開始されるも、同年に起きた関東大震災の影響もあり、地元事業家だけでは事業存続が不可能となる。
そこに登場するのが財閥系の浅野セメント。川崎工場のセメント原料は青梅鉄道沿線の石灰を使っていたが、採掘権を買収した青梅線沿いの雷電山や日向和田も思ったほどの埋蔵量がなく、埋蔵量の豊富な五日市の勝峰山に目をつける。 大正11年(1922)には既に五日市鉄道の大株主となっていた浅野セメントであるが、石灰採掘権の権利を持つまでは資金不足の五日市鉄道を援助することなく、地元実業家より勝峰山の石灰採掘権を入手するに及び全面的に五日市鉄道の経営に乗り出し、大正14年(1925)5月にに拝島・武蔵五日市、同年9月に武蔵五日市駅 - 武蔵岩井駅間が開業した。
五日市鉄道最大の眼目である勝峰山の石灰採掘事業は、大正15年(1926)から開始され、昭和2年(1927)には浅野セメント川崎工場への輸送が開始される。そのルートは五日市鉄道→青梅鉄道→中央本線→山手線→東海道線と経由して浜川崎駅で専用線を使い工場へ運ばれていた。
立川から南に進む南武鉄道の大株主でもある浅野セメントは、この輸送ルートをショートカットすべく、拝島と立川の南武鉄道を繋ぐルートの延長を計画。昭和4年(1929)に工事に着手し、昭和5年(1930)には、拝島駅-立川駅間、青梅電気鉄道の路線と多摩川の間に路線を開き、南武鉄道と結んだ。
当初貨物主体で始まった五日市鉄道も、次第に旅客輸送も増えてはきたが、日華事変の勃発にともない、五日市鉄道は南武鉄道と合併、さらには戦時体制の強化のため南武鉄道は青梅電気鉄道共々国有化され、昭和19年(1944)には国有鉄道五日市線となる。
その際、青梅電気鉄道の立川・拝島区間は軍事施設を結ぶため複線化が続行されるも、五日市鉄道の立川・拝島区間は「不要」として休止されることになった。

五日市街道
増渕和夫さんの論文より
五日市線・東秋留駅で下車し、道なりに北に向かうとほどなく都道7号・五日市街道にあたる。現在五日市街道と呼ばれるその道筋は、近世以前にはその表示がなく、「伊奈みち」とある。伊奈は秋川筋、武蔵五日市の手前,現在のあきるの市にあり、古くより石工の里として知られる。その近くで採れる良質の砂岩を求め信州伊那谷高遠付近の石切(石工)が平安末期頃より住み着き、石臼、井戸桁、墓石、石仏をつくった、とのことである。
「伊奈みち」が何時の頃から呼ばれはじめたのか、詳しくは知らない。が、その名がメジャーになったきっかけは、徳川家康の江戸開幕ではあろう。城の普請、城下町の建設に伊奈の石工も動員され、江戸と伊奈の往来が頻繁となり、その道筋がいつしか「伊奈みち」と呼ばれるようになった。
「伊奈みち」が江戸と深いかかわりがあるのと同じく、「伊奈みち」が「五日市道」と現在の五日市街道に繋がる名となったのは、これも江戸の町と関連がある。
江戸の城下町普請も一段落し、百万都市ともなった江戸の町が必要とするのは、城下町をつくる「石」から、そこに住む人々の生活の基礎となる燃料に取って替わる。国木田独歩の『武蔵野』に描かれる美しい雑木林も、江戸のエネルギー源・燃料供給のため、一面の草原であった江戸近郊に木が植えられ人工的に造られたものである。利根川の船運を利用し関東平野の薪が江戸に送られた。そして、この秋川谷からは木炭が江戸に送られることになる。
その秋川谷の木炭集積所は、元々は伊奈であったが、檜原や養沢谷からの立地上の利点から、五日市村が次第に力を延ばし、かつての「伊奈みち」を使い、江戸に木炭を運ぶようになった。そしてその往来の名称も「伊奈」から「五日市道」と変わったようである。

松海道の一本榎
道なりに目的地である「平沢617番地」湧水の目安となる平沢八幡へと歩いていると、道脇に大きな榎が立つ。「松海道」の一本榎と称される。あきる野市の保存樹木に指定されるこの巨木は、古墳の上の立つ、と言う。
古墳は、東と西は舗装道路で削られ、北は畑で削られ、コンクリートで囲まれた姿で残る。
松海道
「段丘図」には、松海道の辺りが窪地と表示される。この窪地は既述の如く、横吹面・野辺面形成期(1万年から1万2千年前)に平井川系の水流が秋留原面にオーバーフローした氾濫流路跡とされ(角田、増淵)る。氾濫流の本流は東本宿から蛙沢に向かって南東の窪地であり、この北東に残る窪地は古秋秋川筋と記されていた。
鎌倉街道
地質についての門外漢であり、上記記述の深堀はできないが、この松海道の一本榎の道筋は、かつての鎌倉街道と言う。もとより、鎌倉街道は新たに開削された道というわけでもなく、既存の道筋を鎌倉へと繋げていった道の「総称」であり、幹線のほかその幹線をつなぐ支線が数多くある。この「鎌倉街道」もそのひとつ。
鎌倉街道の三大幹線である、「上ッ道」「中ツ道」「下ツ道」、それと秩父道とも称される「山ツ道」。四回に分けて歩いた「山ツ道」は五日市線・増戸駅を南北に貫く。
で、この一本榎を通る「鎌倉道」は、羽村の川崎から羽村大橋下流付近にあった「川崎の渡し」で多摩川を渡り、草花の折立(折立八雲神社)から草花丘陵の裾野(慈勝寺)を多摩川に沿って進み、現在の平高橋あたりで平井川を渡り、この平沢の一本榎に出る。その先は、二宮、野辺を経て、雨間の西光寺脇を通り、雨間の渡しで秋川を渡り高月から日野、八王子方面へと向かったようである。
ついでのことながら、秋留台地を通る鎌倉街道の道筋はもうひとつ、青梅から草花丘陵を越えて進む道もあったようである。道筋は青梅から草花丘陵の満地峠を越え菅生に下り、平井川を越えて瀬戸岡から雨間に下り、西光寺脇で上記ルートと合わさり、南に下ったとのことである。

平沢八幡
一本榎から北に進むと平沢八幡がある。鎌倉街道沿いにあるこの社は旧平沢村の鎮守。大梅院(現在は無い。跡地は平沢会館;平沢八幡の南)持ちから先日訪れた広済寺持ちとなったが、明治の神仏分離で寺から離れた。 戦国の頃、滝山城主となった北条氏照は城の戌亥の方角に二宮神社・小宮神社と共篤く敬ったとのことである。




平澤617番地湧水
平澤八幡の辺りから坂が意識できるようになる。湧水に関する情報は『報告書;あきる野市』にある「平沢617 秋留原面下・傾斜地」だけが頼りである。とりあえず坂を下ると、平井川手前にある比高差数メートルと言った崖地が川筋に沿って続く。崖手前には民家があるが、その裏手、崖下に水路があり、その水路を辿ると崖上の民家の池に続いていた。
民家敷地内に見える池はポンプアップしているように思える。「段丘図」と照合すると、この崖面は小川面と屋代面を画する崖のようにも思える。『報告書』にある「秋留原面下 傾斜地」ということは、小川面にあるのだろうから、この池のことなのだろうか。
他に何か痕跡は無いものかと彷徨うと、池のある民家の道路を挟んだ西側に小さな祠が立ち、下に水路が見え、その先に小さいながら湧水池といった雰囲気の水場があった。また、池のある民家の少し南、平澤八幡の真東の辺りに、湧水湿地といった趣の空き地もあった。が、結局、どれが平澤617番地湧水か確認はできなかった。

平高橋に
次の目的地、「平沢滝の下湧水」に向かう。「平沢滝の下」で検索しても、何もヒットしない。『報告書』にマークされる箇所を見るに、平澤八幡の西、平井川が南に突き出た氾濫原突端を迂回する辺りにあるようだ。
平澤八幡から成り行きで西に向かい、建設中の高瀬橋の南詰に出る。成り行きで進み、平井川に下りれる箇所を探すのだが、結構な崖で下りる道がない。更に西の新開橋まで進んで折り返すか、平澤八幡を下った先に架かる平高橋まで戻るか、ちょっと考え、結局平高橋まで戻りながら、川筋への下り口を探すことにした。下り道がなくても、地図には平高橋南詰から平井川に沿って道が記載されており、なければ平高橋から折り返せがいいか、といった心持である。 戻りの道で、川筋に下る道はないものかと、結構注意しながら歩いたのだ、平高橋まで、川筋に下りる道はなかった。

これは、メモの段階でわかったことではあるのだが、「平沢滝の下」湧水辺りは「オオタカ」の棲息地保護など、環境保護運動が進められているようであり、結構大規模な「高瀬橋」の建設も、環境保護との兼ね合わが検討されているような記事もあった。そんなところは手つかずのままがいいのだろうし、崖上から平井川筋への道が造られていないのは、そういった因に拠るのだろうと妄想する。

平井川右岸を進む
平高橋の南詰から平井川筋に入り西に向かう。いつだったか平井川筋を歩いたことがある。その時のメモを再掲:平井川は日の出山山頂(標高902.3m)直下の不動入りを源流部とし、いくつもの沢からの支流を集めて南東に流下。日の出町落合で葉山草花丘陵の裾に出た後、支流を合わせながら草花丘陵南岸裾に沿って東流し多摩川に合流する。
いつだったか、御岳山から日の出山を経てつるつる温泉へと歩いたことがある。急坂を下りて里に出たところにあったのが、今になって思えば平井川の上流部であった。ぶらぶらと平井川の上流部を五日市に向かって歩いた道筋に肝要の里があった。「かんよう」の里、って面妖(めんよう)な、と思いチェック。「かんにゅう」と読むようだ。御岳権現の入り口があったので「神入」からきた、とか、四方を山で囲まれたところに「貫入」した集落であるという地形から、とかあれこれ(『奥多摩風土記;大館勇吉(有峰書店新社)』)。
将門伝説の残る勝峯山のあたりに岩井という地名もあった。将門の政庁があった茨城の岩井と同じ。故に将門伝説に少々の信憑性が、とはいうものの読みは「がんせい」、とか。有難さも中位、か。

平沢滝の下湧水
平高橋辺りでは開けていた平井川右岸も、高瀬橋に近づくにつれて崖が迫ってくる。また、高瀬橋の下辺りからは崖側道脇に自然の水路が現れ、水路先と崖地の間も湿地となってくる。高瀬橋の下を潜った先に「秋留台地」の地下水の案内。
「秋留台地には二宮神社や八雲神社の池を始めとし、至るところに湧水があり、それを元に古くから水田や集落が発達してきました。ここは国分寺や日野、東村山などと並ぶ、地下水の宝庫なのです。でも、台地なのになぜこんなに地下水が豊かなのか不思議です。この謎を解く鍵がこの崖にあります。
この崖の地層は湧水のあるところを境に、上のゴロゴロした礫の層と、下の硬い礫交じりの粘土層に分かれます。上の礫層は2万年ほど前の氷河時代に堆積したもので、よく水を通します。しかし下の粘土層は100万年ほど前に浅い海に堆積したもので、がっちりと固まっているために、水は通しません。
秋留台地の中央部を占める一番高い段丘面は、礫層が8mほどもあるために、もっぱら畑に使われてきました。しかし、二宮神社の池があるところのように、一段下がった段丘面では、礫層が薄いために地下1mほどのところに、もう地下水が現れます。これが豊かな水の原因になっているのです。
この崖ではかつて地層をよく見ることができました。しかし崖が防災工事によって固められることになったため。私たちは東京都と話し合って、地層の一部が観察できるよう、保存してもらうことにしました。それがこの案内板の横にある地層です。湧水を見て秋留台地の歴史に思いをはせてください。 東京学芸大学教授 小泉武栄」の解説と共に、秋留台地の段丘・段丘崖、地層、湧水などがイラストで説明されていた。

「平沢滝の下」とは言うものの、滝があるわけでもなく、地名が「滝の下」といったエビデンスも見つからず、この地が「平沢滝の下」湧水なのかどうかわからないが、ともあれ、『報告書』にあった地図の位置の辺りではあるし、「秋留原面下 崖地、(水量)大」にも齟齬がないので、ここを「平沢滝の下」の湧水と思い込む。

南小宮橋
次の目的地は、原小宮地区にある草花公園の湧水。平井川の右岸を進み、新開橋、北から平井川に注ぐ氷沢川を見遣り南小宮橋に。橋の手前に石段があり、そこを上って公園に入るのかと思ったのだが、行き止まり。元に戻り橋下を潜るとそのまま草花公園に入って行けた。


草花公園湧水
公園についたものの、手掛かりは?地図を見ると、池があり、そこに水路が続いているので、とりあえずそこからはじめて見る。
池に沿って歩き、池に繋がる水路に。結構な水量である。緩やかに蛇行する水路を進むと、公園内の舗装道路に水路は遮られるが、水路は道路下に続いているようで、コンクリート造り水路壁下部から水が流れ出している。 道路の反対側に向かうと、石造りの水路が顔を出し、公園周辺道路で水路は終わる。水路終端部の石の間から水が流れ出している。ここが草花公園湧水ではあろう。
水路終点の南、公園周辺道路を隔てた先に崖地が見える。草花公園湧水とその崖面とをつなぐ水路などないものかと崖地手前を彷徨うが、それらしき痕跡は見つけられなかった。
草花
既述「郷土あれこれ」に拠ると、「草は草花が咲く地>開墾地。草が生えそして枯れ。それを肥料として土地を肥やしは耕作地としていく。花は鼻>出っ張り=突端部。草花は「開墾地の端」との意味という。地名はすべからず「音」を基本とすべし。文字に惑わされるべからず。


羽村大橋西詰
これで『報告書』に記載された秋留台地の湧水調査地点は一応終了。後は同『報告書』にあった草花丘陵の折立坂の湧水を残すのみ。草花公園を離れ都道165号を東に向かい、氷沢橋交差点で都道250号に乗り換え、軽い峠越え。



道を少し上ると、道脇に案内。「智進小学校跡地と橋場遺跡」とある。簡単にまとめると、「氷沢川を見下すこの地に、現在の多西小学校の前身である智進小学校が明治30年(1897)に建てられた。また、この近辺からは都道の新設や大型店舗の建設に伴う発掘調査により、縄文時代や古墳時代、奈良・平安時代の竪穴式住居跡などが多数発見されており、土地の小字をとって橋場遺跡と呼ばれる」、とあった。
峠にあった大澄山登山口の標識を見遣り、多摩川を見下しながら江里坂を下り、羽村大橋西詰めに。羽村大橋西詰めに薬師堂が立つ。

折立坂湧水
羽村大橋西詰に着いたのはいいのだが、どこが折立坂が見当がつかない。上で都道250号を羽村大橋西詰に下る坂を江里坂とメモしたが、それは後日わかったこと。既述『報告書』に記された箇所を参考に、都道250号と多摩川の間を走る都道29号を画する江里坂下の崖線下を探したりもしたが、湧水らしき箇所は見当たらない。とすれば、湧水箇所は都道29号と多摩川の氾濫原を画する崖線下ではないかと、都道29号から河川敷に下ることにした。
都道を少し南に下ると崖線を斜めに氾濫原に下りていく坂道がある。メモの段階でこの坂が折立坂であるのがわかったのだが、当日は知らず坂を下りる。氾濫原に下りる、とは言うものの、坂と氾濫原の間には縦長に家が立ち並ぶ。崖線に注意しながら坂を下るも、それといった湧出点は見当たらなかった。

坂を下り切り、崖線に沿って羽村大橋西詰めへと向かう。民家も切れた氾濫原の畑地を崖線に沿って進むと、足元がぬかるんできた。水の溜まった自然の水路も崖線の藪下に続く。湧出点は藪の先にあり、そこまで踏み込む気にもならず、これが折立坂の湧水の一部と自分に思い聞かせ、羽村大橋の下辺りから崖上に上る道を見つけ、羽村大橋西詰に戻る。
折立坂
「折立」は「降・落」+「断」>崖が連なるの意味。で、この折立坂は、既に一本榎でメモした通り、鎌倉道の道筋。羽村の川崎から羽村大橋下流付近にあった「川崎の渡し」で多摩川を渡り、この草花の折立(折立八雲神社)から草花丘陵の裾野(慈勝寺)を多摩川に沿って進み、現在の平高橋あたりで平井川を渡り、この平沢の一本榎に出たようである。今は道路が整備されているが、かつては折立の崖地を難儀しながら進んだのであろうか。



羽村大橋を渡る
これで『報告書』にあった秋留台地の調査箇所として記載された湧水はすべて廻り終えた。最寄の駅である青梅線・羽村駅へと羽村大橋を渡る。橋の少し上流には玉川上水の羽村取水堰がある。




玉川上水
橋を渡り都道29号・羽村大橋東詰交差点手前で玉川上水を渡る。相当昔の話になるが、玉川上水を羽村取水堰から四谷大木戸まで7回に分けて歩いたことが懐かしい(玉川上水散歩Ⅰ玉川上水散歩Ⅱ玉川上水散歩Ⅲ玉川上水散歩Ⅳ玉川上水散歩Ⅴ玉川上水散歩Ⅵ玉川上水散歩Ⅶ)





牛坂通り
羽村大橋東詰交差点で都道29号・奥多摩街道を越え、成り行きで青梅線・羽村駅に向かう途中、都道29号バイパス・新奥多摩街道手前の道脇に「牛坂通り」の案内があり、「五ノ神の都史跡「まいまいず井戸」が、江戸時代中期に改修された時、多摩川の石などを運んだ牛車が、この道を通ったといわれています」とあった。牛坂は、都道29号バイパス・新奥多摩街道を越えた先にある。
五ノ神社・まいまいずの井戸
五ノ神社は創建、推古九年、と言うから西暦601年という古き社。羽村駅東口傍にある。『新編武蔵風土記稿』によると、熊野社と呼ばれていた、とか。この辺りの集落内に「熊野社」「第六天社」「神明社」「稲荷社」「子ノ神社」の神社が祀られており、ためにこの辺りの地名を五ノ神と呼ぶ。地域の鎮守さま、ということで五ノ神社、となったのであろう、か。熊野五社権現を祀っていたのが社名の由来、との説もある。
いつだったか、玉川上水散歩の折、「まいまいずの井戸」を訪れたことがある。「まいまいずの井戸」は神社境内にある。すり鉢状の窪地となっており、螺旋状に通路が下る。すり鉢の底に井戸らしきものが見える。すり鉢の直径は16m、深さ4mもある、とか。何故に、井戸を掘るのに、これほどまでの大規模な造作が、とチェックする。井戸が掘られたのは鎌倉の頃。その頃は、井戸掘りの技術も発達しておらず、富士の火山灰からなるローム層、その下に砂礫層といった脆い地層からなる武蔵野台地では、筒状に井戸を掘り下げることが危険であったので、このような工法になった、とか。狭山にある「堀兼の井」を訪ねたことがある。歌枕にも登場する堀兼の「まいまいずの井」よりも、こちらのほうが、しっかり昔の形を残しているようだ。

旧鎌倉街道
牛坂通りを進み、都道29号バイパス・新奥多摩街道に出る。左に折れて、羽村駅からの道への都道29号バイパス・新奥多摩街道交差点に。玉川上水散歩の折り、交差点の多摩川サイドに「鎌倉街道」の案内があったのを思い出し、ちょっと立ち寄り。
「旧鎌倉街道」とあり、「この道は、八百年の昔を語る古道で旧鎌倉街道のひとつと言われています。現座地から北方へ約3キロ、青梅市新町の六道の辻から羽村駅の西を通り、羽村東小学校の校庭を斜めに横切って、遠江坂を下り、多摩川を越え、あきる野市折立をへて滝山方面に向かっています。入間市金子付近では竹付街道ともいわれ、玉川上水羽村堰へ蛇籠用の竹材を運搬した道であることを物語っています(後略)」とあった。
この鎌倉街道のいくつかのポイントを実際に辿った後で説明文を読むと、周辺の風景も浮かび上がり、結構リアリティを感じる。

青梅線・羽村駅
これで3回に渡った秋留台地の湧水散歩もお終い。藍染川と八雲神社からの細川、そして舞知川の繋がりなど、少しはっきりしないところもあるので、そのうちに訪ねてみようと思いながら、一路家路へと。
増渕和夫さんの論文より
秋留台地散歩の2回目。山田、引田、代継、牛沼と秋留台地の南側、秋川に面する段丘を歩いた。とはいうものの、比高差のある崖面のほか、それぞれの段丘面は知らず通り過ぎていた。それはともあれ、今回も前回に引き続き、秋川筋の段丘を辿り、その後で多摩川に面した段丘に廻り込み、段丘崖から湧出する湧水を探し、時間次第ではあるが平井川筋まで歩こうと思う。


ところで、秋留台地の湧水の仕組みであるが、基本は水を通しにくい秋留台地の基盤層・五日市砂礫層(上総層)の上の段丘礫層に溜まり、段丘の崖から湧出するわけだが、角田さんの論文を見ると、秋留台地の下には地下水谷が走り、低水時と豊水時ではその流れに違いがある、と言う。
で、この地下水谷は秋留原面形成より古く、古秋川筋とも言われる。その谷筋は、「伊奈丘陵内を流れる横沢が秋川に合流する付近から始まり,伊奈一武蔵増戸駅を経て西秋留駅(注;現在は秋川駅)の北方を通り,平沢に至っている。地下水谷の深さは武蔵増戸駅で4m 前後,武蔵引田駅付近で4?6m ,西秋留駅(注;現在は秋川駅)付近では3?6mとなっている」、とのこと。


角田清美さんの論文より
更に、「地下水谷の南側には,伊奈から東秋留へのびる地下水の尾根が形成されており、低水時には、地下水の尾根より南側では,地下水は南あるいは南東方向へ流下している。ここには小規模な段丘が数多く分布し,基盤(五日市砂礫層)の上位の段丘礫層の層厚が2 ?4m と比較的薄いため,地表の段丘地形に対応して各所に地下水瀑布線が形成されている。平井川に沿っては,地下水瀑布線は全く見られない。以上のことから,低水時における秋留台地の不圧地下水の涵養は,主として平沢より上流の平井川によって行われていると考えられる」、とする。
一方豊水時には、「低水時の地下水面等高線図とは大きく異なり,台地のほぼ中央を東西にのびる地下水谷は認められない。地下水量は著しく増加し,台地のほぼ中央を伊奈丘陵から東端の二宮まで地下水の尾根がのびており,地下水面は地下水の尾根から北東および南東方向へ傾斜している。台地の西端の伊奈においても,地下水谷の存在は認められず,地下水面は北西から南東方向へ傾斜している。
秋留台地の南側,秋川に面する側の横吹面より下位の段丘においては, 低水時の際と同様, 段丘地形と段丘礫層の厚さに対応して数本の地下水瀑布線が形成されている。地下水面が下位の段丘面より相対的に高いところでは,各所で地下水が湧出している。秋留台地の北側,平井川に面する側においては,段丘崖に沿ってほぼ全面にわたって地下水瀑布線が形成されている」とする。

門外漢であり、いまひとつ理解はできていないのだが、とりあえず、秋留台の地下水流は低水時と豊水時とはその流路が異なり、その因は秋留原面形成以前の古秋川筋とされる地下水谷とその尾根に拠る、ということのようだ。 上記論文には,「低水時における秋留台地の不圧地下水の涵養は,主として平沢より上流の平井川によって行われていると考えられる」、とあるが、これは秋留台の大半を占める地下水位谷の北の秋留原面のことをさすのだろうか。低水時には平井川水系の地下水は地下水谷の尾根を越えられないだろうから、低水時における地下水谷尾根の南を流れる地下水の涵養は、平井川ではなく、伊奈丘陵の横沢あたりからの地下水ということだろうか。

門外漢の妄想はこのくらいにして、今回のルートであるが、雨間から野辺、小川と進み、小川地区から秋川筋を離れ多摩川筋を二宮地区、更には平井川筋の平沢地区へと向かうことにする。



本日のルート;雨間湧水(雨間地区)>小川湧水(小川地区)>小川湧水群(小川地区)>八雲神社境内湧水(野辺地区)>梨の木坂(平沢地区)>広済寺境内(平沢地区)>二宮神社のお池(二宮地区)
あきる野市の報告書より


五日市線・秋川駅
今回は雨間地区にある雨間湧水から始める。最寄りの駅である五日市線・秋川で下車し、南の秋川筋に下る。途中、都道5号・五日市街道の手前に油平地区。既述、あきる野市教育お委員会の「郷土あれこれ」には、その地名の由来を、油をとるための作物(荏胡麻)などを栽培した平坦な畑地から、とする。このン場合の「油」は明かりとりのためのものである。
同ニューズレターには、油菜は江戸時代の中頃に関西で作られ、急速に全国に広まった。また、障子に使う和紙が安価に手に入るようになり、日本の生活が「明るくなった」、と。そうだよな。

雨間湧水:あきる野市雨間698番地
都道5号・五日市街道の油平交差点を東に折れ、目安となる「カメラのキタムラ」に向かう。雨間湧水はカメラのキタムラの手前、五日市街道の南の石垣下から流れだしていた。崖面をしっかりと石垣で補強した底部に管があり、そこから豊かな水が流れ出していた。
管の先はコンクリートで固められた水場となっており、その先も暗渠となって下る。暗渠に沿って少し下ると、東秋留橋に通じる車道の石垣に行く手を遮られる。石垣をよじ登り道の東を見ると茂った草に覆われた水路が続いていた。地図を見ると途切れてはいるが秋川に繋がる水路が見える。 あきる野市作成の『報告書』によれば、雨間湧水は野辺面下にあるとのこと。湧出する崖下は小川面であるが、野辺面になんらか水路跡でもないものかと彷徨うが、これといった水路の痕跡を見つけることはできなかった。
蛙沢
角田さんの論文には「蛙沢は西秋留駅の南東の長者久保にある池に源を発し,途中,段丘崖下の数ケ所からの湧水を集め,約1.3km 流れて秋川に合流する」とある。西秋留駅は現在は秋川駅、また長者久保は秋川駅の西を南北に下る都道411号、秋川駅近くの油平北バス停の東辺り、とのこと。池も五日市街道から北の水路跡も確認していないが、雨間湧出点以下の水路からして、この流れが蛙沢のように思える。
雨間
「郷土あれこれ(あきる野市教育委員会)」に拠れば、この「雨間」は全国唯一の地名とのこと。雨は高いところ(=天;あま、ということだろうか)。間は場所。雨間は「高いところ」の意。秋川近くの蛙沢沿いに雨武生(あめむす)神社がある。雨間は「高いところ」故に、田をつくるのに水に困るためこの社を祀った、と。

八雲神社の手前に水路
県道7号を東へ向かうと、ほどなく県道176号が分岐。睦橋通り(多摩川に架かる)と称されるようになる県道7号を進み、県道の北にある八雲神社の手前の道を北に、野辺地区に入ると道の東に突然水路が現れる。地図を見ると。その一筋東の道にも水路が見える。地図では切り離されていた水路は暗渠で結ばれていた。

藍染川
その時は地図に見える八雲神社の池からの流れかと思っていたのだが、帰宅後チェックすると、角田さんの論文に「藍染川は、東秋留の南西の東秋留小学校の裏にある比高約1.5m の横吹面の段丘崖下に源を発し,約1.8km 流れて多摩川に合流する」とあり、また、「郷土あれこれ(あきる野市教育委員会)」には小川の地名由来の項に「武蔵名所図会:普門寺境内より流れ出づる藍染川が、これを小川といった」といった記事もあった(普門寺は五日市線・東秋留駅の南にある。境内を囲むように四分の一円の弧を描く水路が地図に見えるが、流路の方向は不明)。
散歩で水路を見かけたときは、八雲神社からの流れと思い込み、流れの方向をあまり意識せず、流れの向かう方向を思い出せないのでなんとも言えないのだが、ひょっとすると、この水路は上記説明から、東秋留小学校の崖下、また普門寺からの水を集めた藍染川なのかも知れない。
とはいうものの、八雲神社の周辺には水の涸れた水路が数条通っており、どれが藍染川の流れなのか、はっきりしない。それはともあれ、藍染川は八雲神社の湧水を源流とする「細川」と前田小学校付近で合流し舞知川(もうちかわ)となって秋川に注ぐ。
野辺
「郷土あれこれ(あきる野市教育委員会)」に拠れば、由来は文字どおり、「野の辺り」。野は原(平で畑となるところ)と異なりやや起伏があり山が交るところ。山は平でも木が生えているところは山と呼ぶとのことである。

八雲神社境内の湧水;あきる野市野辺316番地
八雲神社境内に入ると大きな池があり、澄み切った水が豊かな湧出を想わせる。境内は平坦地となっており、『報告書』に「野辺面下・平地」とあるように、崖地から湧出しているわけでもない。野辺面下はこの辺りでは小川面である。が、段丘図を見ると、この辺りは野辺面からそう遠く離れた場所でもない。第一回の散歩のメモでの野辺面の説明にあったように、「東秋留駅の東から南にのびる段丘崖は比高1.5m?2mを示すが,段丘崖の各所から地下水が湧出している」とあるので、比高差があまりなくわかりにくいが、野辺面段丘崖からの湧出水のひとつとも妄想する。
崖線からの湧出であれば、池を囲む石組みの間から湧き出る箇所はないものかと湧出箇所を探すも、見つけることはできなかった。池の中央部分が一段深くなっており、そこから湧出するといった記事も見かけたが、それらしき湧出は確認できなかった。ただ、池から流れ出す水路の水は豊富であり、湧出量が大きいことは想像できる。
池から流れ出す水路は境内で左右に分かれていた。上で藍染川の事をメモしたが、それは帰宅後にわかったこと。散歩の折は、右に流れる水路が、八雲神社手前で見つけた水路であり、左に折れる水路が「細川」と称され前田小学校付近で合流し舞知川となるようである。

なお、社殿裏手には水が流れていない水路が通っている。境内には繋がっていないようだが、なんだろう?藍染川と八雲神社の湧水、八雲神社近くの水流の方向、同じく普門寺脇の水路の方向、こういったあれこれがさっぱり整理できない。近いうちにこれらの水路を全部追っかけてみる必要があるかと思う。
八雲神社
社の入口にあった案内によると
「長禄年中(一四五七-六〇)の創立であって、京都(祇園)牛頭天王を勧請し、野辺新開院が別当として、毎年六月十五日を祭日としていた。明治維新の大改革で神仏併合が禁じられ八雲神社と改称、明治六年十二月村社に列格、以後、例祭日を七月二十五日とする」
八雲神社の五輪塔(群)
湧水池から流れ出す水路脇に八雲神社の五輪塔(群)の案内; 「あきる野市指定有形文化財(建造物) 五輪塔一基のほか、五輪塔の一部である火輪一点、水輪二点が残されています。全て市内から産出される伊奈石で作られ、最下部ぼ地輪には正面中央に種子(仏や菩薩をあらわした梵字)、左に 「応永七年十月九日」(応永七年=1400年)、右に 「浄林禅門」(供養者名)の文字が刻まれています。
この配置は室町時代の伊奈石製の五輪塔に多い形式ですが、本資料はその古い例です。形態はこの時代の様式をよく示していて、室町時代最初頭における伊奈石製五輪塔の基準的な資料として貴重です あきる野市教育委員会」

細川
境内を出ると八雲神社湧水池から流れ出した「細川」が南に下る。ただ、境内を出た箇所から東に進む水路が見える。前述の前田小学校へと向かっている。これが藍染川の流れなのだろうか。前田小学校のあたりで舞知川となって秋川に下るようだ。但し、何回も述べたように、藍染川・細川・舞知川の繋がりは全くの未確認。





後日談
上記メモの如く、藍染川と八雲川、さらには普門寺川からの流れと藍染川の繋がりなど、気にな
ったことを整理に後日再訪。わかったことを整理すると;

藍染川が細川と合わさり南に下る
上記、八雲神社手前で現れた水路は、東秋留小学校の崖下辺りからはじまる藍染川のようだ。その水路は上記メモの如く、一筋東の通りで暗渠となるも直ぐに開渠となって八雲神社の南端を東に進み、八雲神社湧水から流れ出た「細川」と合わさり、五日市街道に向かって南に下る。


また、八雲神社手前で現れた水路・藍染川が暗渠となって南に弧を描く箇所から一直線に東に向かう水路は、八雲神社湧水からの水が左右に分かれる箇所に繋がっている。

細川・藍染川分流が東に分流する箇所
舞知川
ここで八雲神社湧水からの水路と合わさり「細川」となった水路は境内を出ると南に下り、前述の藍染川の水路と合わさり南に下るが、その少し手前で東に向かう分水点があり、その水路は前田小学校へと向かい、舞知川となって進む。

普門寺裏水路
細川・藍染川分流と合わさり舞知川に
で、普門寺からの水路と藍染川、細川、舞知川との関係だが、普門寺裏の水路(開渠)は五日市線・東秋留駅の東にある都道168号を越え、暗渠となって南に下り、前田小学校の辺りで八雲神社の境内を出た後、東へと進んだ水路と合わさり、舞知川となって進んでいた。

既述メモでの疑問点を整理すると
●「普門寺は五日市線・東秋留駅の南にある。境内を囲むように四分の一円の弧を描く水路が地図に見えるが、流路の方向は不明」

流路は西から東に。普門寺裏の水路は、水が枯れており流れは見えないが、東側が一段水路底が高くなっており、西から東へ向かうものと思い、都道168号の先の道を進むと上でメモの如く舞知川とつながった。 

●「散歩で水路を見かけたときは、八雲神社からの流れと思い込み、流れの方向をあまり意識せず、流れの向かう方向を思い出せないのでなんとも言えないのだが、ひょっとすると、この水路は
上記説明から、東秋留小学校の崖下、また普門寺からの水を集めた藍染川なのかも知れない」

方向は東から西。「東秋留小学校の崖下」からかどうかは、トレースしていないが「多分そうだろう」。
また「普門寺からの水を集めた藍染川なのかも知れない」は誤り。上上述の如く普門寺からの水路は東から南に進み前田小学校のあたりで藍染川から、というか「細川」+「藍染川の分流」の水路と合わさる。

●山田神社の「社殿裏手には水が流れていない水路が通っている。境内には繋がっていないようだが、なんだろう?」

社殿裏手の水路らしきものは、単なる叢。藍染川からの分水は境内南端を進み、湧水池からの水路とT字に合流し細川となって境内を出る。

◆普門寺からの水路脇に湧水池が
普門寺裏の水路が都道168号に阻まれるのだが、その東に如何にも水路跡らしきノイズを感じる道があり、そこを辿ったおかげで、普門寺からの水路と細川・藍染川・舞知川がつながったのだが、その暗渠となった道を進んでいると、暗渠下から強い水流の音がする。 普門寺裏ではほとんど水がなかったのに?道の東側に如何にも湧水池といった窪地が見える。
その先、塀の中を覗くと、これは巨大な湧水池が見える。また、その先にも湧水池が。 ということで、疑問整理の散歩で、思いがけず3箇所の湧水池がみつかった。小川湧水群ではないけれど、東秋留湧水群とでも勝手に名前をつけておこうか。  






屋敷林
道なりに進み都道7号・睦橋通りに。屋敷林と言うか、巨大な樹木を敷地内に持つ民家を見遣りながら小川地区に入り小川交差点に。交差点北西の角に熊野神社が建つ。


小川
小川の名は奈良時代の記録に残る。延長5年(927)制定の『延喜式』には勅使牧(天皇家直属の馬牧)としてこの地の小川牧が記録される。小川牧からの貢馬数は10疋。牧で飼育される馬の数は貢馬の二十倍とされる。ということは小川牧の馬の総数は200疋。牧の管理は牧長と記録係の牧帳、それと馬100疋につき二人の牧子であるから、200疋では四人の牧子の総勢6名の運営体制ということであろうか(Wikipediaを参照)。
で、小川の地名の由来は、藍染川のことろでメモしたが、「郷土あれこれ(あきる野市教育委員会)」の小川の地名由来の項に「武蔵名所図会:普門寺境内より流れ出づる藍染川が、これを小川といった」とあるので、「小川」の流れるところ、と言ったところだろう。

小川交差点湧水;あきる野市小川820番地
『報告書』に湧水点は交差点南西とある。都道166号を南に少し進むと宝清寺へと東に入る道があり、その角(宝清寺と刻まれた大きな石標の裏)にポッカリ穴のあいたような、水車跡の残る石組みの水路がある。錆びた水車の横の石垣から管が出ており、当日水は出ていなかったが、そこが湧出点であろうか。 『報告書』には小川面下とある。段丘図を見ると、この辺りの小川面下は氾濫原とあった。



宝清寺
参道を進み宝清寺にちょっと立ち寄り。本堂にお参り。境内に小祠があり、「たわしでこすって祈願成就」のコピーとともに「浄行菩薩縁起」の案内がある。簡単にまとめると、浄行菩薩とは妙法蓮華経に登場し衆生を救う菩薩のこと。お地蔵様の中でも最上位の菩薩で、お地蔵様を自分に見立て、患部をたわしでこすると御利益がある、とのこと。絵馬に願いを書きたわしでこするようだが、今回は「撫で仏」で御利益をお願いした。
御利益はともあれ、境内の南端から東秋川橋の向こうに見える加住丘陵の北端、 秋川に突き出た箇所にある高月城を辿った記憶が蘇る。

◆宝清寺の歴史
お寺さまのHPに拠れば、「宝清寺(ほうせいじ)は、西多摩では唯一の日蓮宗身延山久遠寺の末寺で、開山は法清院日億上人、開基は青木勘左衛門(武田勝頼の縁者)
甲州武田勝頼公滅亡後、その青木勘左衛門は、八王子城落城後、関東に入国した徳川家康に見出されてこのあきる野市小川の地を賜った。勘左衛門は、戦国時代に滅んだ武士達の霊を弔うために出家し、元和年間(1615~1624)故郷甲斐国雨利郷(甘里)にあった東照山教林寺をこの地に移し東照山法清寺と号し創立した。
最初は、東照山と号していたが、宝永年間(1704~1711)九世圓妙院日亮上人の代に、東照山とは徳川家に対して畏れ多い山号だとして、領主水谷信濃守より身延山に申し出て、寺禄等を寄進して祈願処としたことにより水谷山宝清寺と改められたといわれる」とあった。

小川湧水群;あきる野市小川837番地辺り
小川交差点に戻り、睦橋通りを東に進む。地図を見ると、あきる野市小川郵便局を過ぎた辺り、通りの北側に池が五カ所記載される。そこが湧水池ではと推測し道を進むと、民家の敷地に池があり、池から水が流れ出している。その横の家の敷地には結構大きな池がある。また、その隣の民家敷地にも、小振りながら如何にも湧水池といった趣の池が続く。ここが小川湧水群ではないだろうか。
『報告書』には、「小川面下・傾斜地」とある。角田さんの段丘図ではこの辺りの小川下は南郷面とされる。







法林寺
小川湧水群からの水はどちらに向かうのだろうと、睦橋通りの南を彷徨う。何ら痕跡は見当たらなかったが、法林寺というお寺さまがあったので、ちょっと立ち寄り。本堂脇に石造りの水場があり、少量だが竹筒から水が流れ落ちる。また、水場の対面に手押しのポンプがあり、ポンプを押すと結構な勢いで水が流れ出す。

寺伝によれば、開山の僧が二宮神社の龍に功徳を施し、そのお礼に絶えざる水が湧出するようになった、とのことだが、近くの小川湧水群を見るにつけ、小川の崖線からの湧水なのでは、とも妄想する。
境内の南端、河岸段丘の崖線上から、下の氾濫原、そして秋川、その川向うの高月城を北端とする加住丘陵の眺めを楽しみながら、少し休憩。このロケーションに身を置くにつけ、この臨済宗南禅寺派のお寺様は、かつては戦乱期の武将の館跡との説明も納得できる。秋川を自然の要害とし、対岸の高月城、その南に控える滝山城と一体となった大石氏、またその女婿である北条氏照との関連を示唆する記事もあった。確たる文書はないようだが、土塁跡は残るようである。

舞知(もうち)川
次の目的地は梨の木坂の湧水。秋川筋を離れ、北の平井川筋へと向かうことになる。法林寺から小川交差点まで戻り、小川熊野神社にお参りし都道166号を北に進む。
小川地区と二宮地区の境に舞知川が流れる。東秋留の南西の東秋留小学校の裏・横吹面の段丘崖下から、またまた、普門寺境内よりの湧水を集めた藍染川と八雲神社の湧水から流れ出す「細川」が前田小学校辺りで合流し舞知川となって秋川に下る、とのことである。

平沢
二宮地区を進み、二宮本宿交差点で都道166号から多摩川方面に向かう都道7号に乗り換える。多摩川の対岸に福生方面を見遣りながら弧を描く坂を下ると平沢交差点。平沢東と平沢地区の境となっている。「地名あれこれ(あきる野市教育委員会)」には平沢の由来を「平井川沿いの浅い平らな谷地のこと」とする。

梨の木坂湧水;あきる野市平沢859‐1辺り
●東京都水道局平沢増圧ポンプ場の裏手の崖面から湧出
平沢交差点で都道7号を離れ、一筋東の坂を上る。東京都水道局平沢増圧ポンプ場の裏手に崖がある。その崖からパイプが出ており、そこから水が落ち、ポリタンクに溜まった後、下の水路に落ちていた。『報告書』には「小川面下・崖地」とある。段丘図で見ると、小川面下は氾濫原となっている。

民家脇から湧水
東京都水道局平沢増圧ポンプ場裏の崖面に向かう坂道の途中に西に向かう道がある。次の目的地の広済寺への道筋であるが、その曲がり角の民家脇に、鯉が泳ぐ細長い水路が見える。水路の先には管があり豊かな水が流れ落ちている。 これって湧水?ためつすがめつ水路を眺めていると、その家の御主人が現れ、かつてこの辺りに湧水池があったのだが、それが埋め立てられるとき、管を引いて水を流すようにしたと話して頂いた。道の下に水路跡が続くが、昔は下は一面の田圃で、その灌漑に使われていたとのことであった。
ざくざく婆の湧水跡
梨の木坂湧水のメモをしている時、梨の木坂に「ざくざく婆」の湧水跡があることを知った。Google Street Viewで梨の木坂をチェックすると、増圧ポンプ場裏の崖線の道を隔てた石垣下に湧水らしきものが見える。そこが「ざくざく婆」の湧水跡だろう。
ざくざく婆の由来はお婆さんが小豆を洗う「ざくざく」という音が聞こえていたから、と。
因みに梨の木沢は「ところてん坂」とも呼ばれるようだ。由来は二宮での芝居見物に向かう人に、この湧水を使ったおいしい「ところてん」が評判になった、故と。

湧水湿地
坂道を広済寺に向かって上って行くと、道の北側に如何にも湧水湿地といった場所がある。湿地の中に入っていくと、一面から「浸みだす」湧水を見ることができた。今回の湧水散歩ではじめての、自然な湧水湿地であった。滾々と湧き出す湧水もいいのだが、こういった「じわり」系の湧水湿地も結構、いい。勝手ながら、このままの状態で保存されることを望む。

広済寺境内湧水;あきる野市平沢732番地
湧水湿地の先に広済寺。明るく品のいいお寺さまである。境内に石組みで窪みとなった水路がある。そこが広済寺境内湧水ではあろう。水路上の竹筒から水鉢に豊かな水が落ちていた。
『報告書』には「小川面下・傾斜地」とある。小川面と氾濫原の境の崖というほどではないが、傾斜地から湧出しているのだろう。

田中丘隅回向墓
次の目的地へとお寺様を出ようとすると、「田中丘隅回向墓」と書いた矢印がある。田中丘隅は大丸用水散歩や二ヶ領用水散歩で出合った民政家である。矢印に従い先に進むと石碑が建つ。脇にあった案内には「田中丘隅回向墓 東京都指定有形文化財(歴史資料)平成10年3月13日指定
田中丘隅(休愚)は江戸時代を代表する民政家の一人で、自らの経験をもとに近世を通じて最もすぐれた経世の書といわれる 「民間省要」 を著述している。 その著書は八代将軍吉宗に献上され、享保改革に少なからぬ影響を与えたといわれている。
丘隅は、自著が将軍吉宗の上覧に達したことを契機に、江戸幕府の地方役人に抜擢され、荒川・多摩川・酒匂川の治水エ事、さらに大丸用水、六郷用水・ニヶ領用水の普請工事などに手腕を振るい、そして、のちには代官(支配勘定格)に任ぜられ、武蔵国などの幕領支配にもあたっていた。
彼は旧多摩郡平沢村(現・あきる野市平沢)出身で、享保14年(1729)12月22日に死去しているが、回向墓は彼の死後間もない時期に、兄の祖道が願主となり一族縁者の助成によって建立されたものと考えられる。
建立時やその後の状況についてはまったく不明である。材質は伊奈石。台座は白河石。回向墓の高さは台座を含め約166・7センチメートル。 彼の生家の菩提寺である広済寺境内に建つ回向墓は、丘隅の事績を簡潔にまとめた銘文が刻まれており、民政家田中丘隅の活躍を偲ぶことができる貴重な歴史資料である」とあった。

広済寺
お寺様のHPに拠れば、
「臨済宗建長寺派 本尊釈迦牟尼如来 開山椿山仙禅師 開基平澤院来山正本大居士
開創安土桃山時代天正15年(1587)
廣済寺を建立された開基は、平沢村名主八郎左衛門の先祖とされています。 創建当時の境内には三間四方の阿弥陀堂がありました。
文政3年(1820)の大火で山門を残しすべて焼失したものの、天保7年(1836)すぐに再建されました。
昭和24年(1949)羅災により再び本堂、庫裏を焼失。その後、平成6年(1994)檀信徒が力を合わせ旧姿に復しました。以来、この地域の信心・信仰の道場として今日に至っております」とあった。

玉泉寺
広済寺を離れ、本日最後の目的地である二宮神社の湧水に向かう。都道168号と都道7号がT字に合わさる二宮神社交差点に向け成り行きで歩いていると、これまた品のいいお寺様があった。天台宗・玉泉寺とある。ちょっと立ち寄り。仁王様が佇む赤い仁王門を潜り境内に入り、落ち着いた雰囲気の本堂にお参り。境内には醤油樽の中に安置された恵比寿さま、観音さまなどがあった。地元の早川醤油の樽を使ったもののよう。
そういえば、仁王さんも常のごとくの剣の替りに、赤子を抱き鳩が頭上にといったもの。酒樽にしろ仁王様にしろ、家光から寺領20石の御朱印状を賜り、信州善光寺の別院として秋川流域の浄土信仰の中心であったという伝統だけに囚われない洒脱さが心地よい。
本堂には明治の頃、成田山より遷座された不動明王が安置され、ために当寺は秋川不動尊とも称されるようである。



二宮神社のお池; 東京都あきる野市二宮2252
二宮神社交差点から都道168号を南に下るとほどなく道の東側に大きな池がある。この地には一度訪れたことがある。その時は湧水が目的ではなく、武蔵六宮のひとつ、道の西側にある二宮神社が目的であったのだが、大きく清冽な湧水池に結構嬉しくなった。
湧水池は誠に大きい。水は枯れることがないと言う。池の底から湧出しているとのことだが、大きな池からなんとなく「不自然」に、細長く都道方向に延びる箇所がある。また、都道から池に水路が続き、都道脇の石組みの中に造られた管からも水が流れ出しているように見える。
『報告書』には「秋留原面下・崖地」とある。道の西側、二宮神社は崖上に鎮座する。秋留原面と小川面を画する二宮神社の崖地の「何処から」か湧出しているのではあろうが、湧出点ははっきりとは確認できなかった。
湧水池は日本武尊(やまとたけるのみこと)が国常立尊(くにたちのみこと)を祀ったところ水が湧き出た、と伝わる。国常立尊は水の神さまである。公園となっている湧水池からは水路となって水が東に流れている。特に水路に名はないようだ。

二宮神
神社の案内;創立年代不詳。小川大明神とか二宮大明神と呼ばれていた。小川大明神の由来は、古来この地が小川郷と呼ばれていたため。二宮大明神の由来は、武蔵総社六所宮の第二神座であった、ため。二宮神社となったのは明治になって、から。
この神社には、藤原秀郷にまつわる由来がある。秀郷は天慶の乱に際し、戦勝祈願のためこの神社におまいりした、と。故郷にある山王二十一社のうち二宮を尊崇していたため、である。天慶の乱とは平将門の乱のこと。
またこの神社は、源頼朝、北条氏政といった武将からも篤い信仰を寄せられていた。滝山城主となった北条氏照も、ここを祈願所としている。
武蔵一の宮である小野神社の周囲には小野牧があった。この二宮のある小川郷にも小川牧がある。因果関係は定かではないが、馬の飼育・管理と中央政府の結びつきってなんらかインパクトのある関係だったのではなかろうか。実際小野牧に栄転した小野氏も、それ以前は秩父での牧の経営で実績をあげての異動であったように思える。
藤原秀郷と二宮のかかわりは、母が近江の山王権現に祈願して授かった子、であったため。山王二十一社とは、 上七社・中七社・下七社の総称。そのなかでも特に重要な位置を占める上七社は大宮・二宮・聖真子・八王子・客人・十禅師・三宮である。秀郷は二宮にお願いして生まれたのであろう、か。
武蔵六社
武蔵六宮とは一宮・小野神社、二宮は小川・小河神社(現二宮神社、東京都あきる野市)、三宮は氷川神社(のち一宮。さいたま市)、四宮は秩父神社(埼玉県秩父市)、五宮は金鑽神社(埼玉県神川町)、六宮は杉山神社(横浜市)である。
大石氏
二宮神社の地は大石氏の館があったところ、と。『武蔵野 古寺と古城と泉;桜井正信(有峰書店)』によれば、貞和年間(1345年)鎌倉幕府の命により、木曽義仲の七代の孫・大石信重が築いた、とか。信濃国佐久郡、大石郷から移ってきた、とも。正平11年(1356年)には入間・多摩郡のうち、13郷を領している。
大石氏はこの二宮神社の南に館を構えた。正平11年(1356年)から至徳元年(1384年)の間の28年間である。その後、陣場山麓上恩方案下に山城を築く。甲斐の武田信玄に対して西の備えとしたわけだ。この恩方城に至徳元年(1384年)から長禄2年(1458年)までの74年間居を構え、鎌倉公方持氏の滅亡、足利成氏と長尾影春の戦いなど、戦乱の巷を乗り切った。
二宮考古館
二宮神社にお参りし、その傍にある「二宮考古館」に久しぶりに立ち寄る。二宮神社周辺の遺跡や、市内で発掘された土器、石器などが展示されている。先回訪れた時に考古館で購入した『五日市町の古道と地名』は、その後の秋川筋の散歩で誠に役にたった。先人の研究に深謝。

これで秋留台地段丘の湧水散歩も平井川筋を残すのみ。お楽しみは次回に廻し五日市線・東秋留駅に向かい、一路家路へと。
先日、石工の里・伊奈を辿り秋留台地を歩いたとき、秋留台地が8面9段からなる段丘によって形成されることを知った。段丘であれば各段丘面を画する段丘崖があるだろうし、その崖下には湧水があるのでは?
帰宅後チェックすると湧水点が記載された資料が見つかった。「Ⅲ あきるの市の地質・地形」とタイトルにあるそのpdf資料は、URLに「city.akiruno.tokyo」とある。あきる野市の調査報告書(以下『報告書』)の一部かと思う。 その『報告書』の「湧水と段丘」に記載されている「秋留台地の湧水」に拠ると;
「◇秋留台地の概要 
西端の伊奈丘陵南麓から東端の二宮神社まで、東西約 7.5km、南北約 2.5km である。 西端標高 186m、東端標高 138m、勾配 6.4/1,000 である

秋留台地の地質構成
表土 約30cmの火山性黒土や氾濫性土壌
立川ローム層 0.5~2m 約3万年前からの富士山起源の火山灰
段丘礫層  約8m 関東山地からの堆積層
上総層(大荷田層・加住層) 60~150cm 100~300万年前の河成~海成層

秋留台地の段丘構成 
 段丘は 8 段 9 面あり、上位から
1.秋留原面 2.新井面 3.横吹面 4.野辺面 5.小川面 6.寺坂面 7.牛沼面 8.南郷面 9.屋城面 と区分されている
湧水のしくみ
秋留台地には年間約 1,500mm の降水量があり、そのうち約半分は地下に浸透する。浸透した水は、水を通しやすい表土、関東ローム層、段丘礫層を通過し、五日市砂礫層(上総層)に達する。上総層は礫層の間に砂屑やシルト層を多く含んでいるため、水を通しにくい地層である。このために透過してきた水は上総層の上に溜まり、台地の6.4/1,000の傾斜に沿って流れ下り、段丘の崖から流れだしてくる。
秋留台地の湧水の源は、台地西側の山地であり、ここから流れでた水は地下水として東に流れ、平沢地区、二宮地区、野辺地区、小川地区などで湧出している。

「あきる野市の報告書」より
秋留台地の一層目の帯水層は秋川や平井川で運ばれた砂利層であり、その下にある上総層は、その間に詰まった粘土が不帯水層をつくり、その上に帯水する。何層にもなった帯水層の最上部の層の地下水が湧水となって地表に流れ出すと考えられている」との概説の後、以下18の湧水点がその所在地区・標高・段丘面・流量などともに記載されていた(調査日時省略)。



また、同報告書には記載のなかった各段丘に関する説明、その概要図は「秋留台地の地形と不圧地下水;角田清美」や「多摩川の洪水と環境変動:増淵和夫」といった論文がWebで見つかったので、素人ながらそれを参考に湧水散歩のメモをはじめることにする。


今回のルート;山田八幡神社裏(山田地区)>瑞雲寺(山田地区>秋川フィッシングセンター(山田地区)>引田橋>真照寺(引田地区)>真城寺(上代継地区)>白滝神社境内(上代継地区)>秋川神明社から50m東の崖下(牛沼地区)>石器時代住居跡群崖下(牛沼地区)


五日市線・武蔵増戸(ますこ)駅
湧水散歩は、上述『報告書』にあった番号の1番から順に18番まで辿ることにして、最初は山田地区の山田八幡神社に向かう。最寄駅は五日市線増戸駅。 増戸は地名にはない。チェックすると、いつだったかあきる野市の二宮考古館で買い求めた『五日市の古道と地名;並木米一』には、「この辺りの網代、山田、伊奈、横沢、館谷、三内という六つの地域は中世から近世、明治まで独立村として続いたのだが、明治22年(1889)の町村制施行時に館谷を除いた五ヶ村が合併し、将来の戸数増加を願い「増戸村」となる。昭和30年(1955)の改革で五日市町と合併し、「増戸」の地名は消滅した」とあった。駅名はその名残だろう。


都道185号を南に秋川方面へ
武蔵増戸駅を下り、直ぐ西を南北に通る都道186号を南に下る。この道筋はかつての「鎌倉街道山ノ道」。高尾から4回にわけて(鎌倉街道山ノ道そのⅠ:高尾から秋川筋に、鎌倉街道山ノ道そのⅡ:秋川筋から青梅筋に鎌倉街道山ノ道そのⅢ:青梅筋から名栗筋に、鎌倉街道山ノ道そのⅣ:妻坂峠を越えて秩父路に)秩父まで歩いたことを思いだす。

山田八幡神社;あきる野市山田477番地
南北を走る都道185号・通称「山田通り」は、東西を走る都道7号、かつて伊奈の石工たちが江戸の町普請に往来しした伊奈道と交差。その「山田交差点」から先も「山田通り」と称されるが、道は都道61号となって秋川を山田大橋で渡り、加住丘陵を網代トンネルで抜ける。
山田八幡神社は都道61号・山田通りを少し南に進み、山田大橋が秋川を跨ぐ左岸段丘崖下にある。山田大橋手前から左に入る脇道を下り、巨大な橋の桁下を潜ると正面に瑞雲寺、その左手に山田八幡神社の鳥居が見える。

山田八幡湧水
鳥居手前には如何にも湧水湿地といった趣の水草が繁る。水の流れはないのだが、その水路に沿って境内に入る。社の左手に水汲み場があり、そこにパイプがあるのだが水は流れていない。とりあえずそのパイプに崖地の湧水を集めてはいるのだろうと社裏手の崖地を探すが、これといって崖地からの湧出箇所は見当たらなかった。上述『報告書』には水量は「小」とあった、とはいうものの、最初のポイントで湧水点が見つからないのは、ちょっと残念。
山田八幡神社
鎮座地 東京都あきる野市山田477番地
御祭神 応神天皇
御由緒 文和年間(1352‐)足利尊氏公家人景山大炊介貞兼の建立で瑞雲寺が奉任していた。明治2年神仏分離令により神職の奉任となる。
明治6年社殿再建 昭和60年社殿再建





瑞雲寺;あきる野市山田496番地
山田八幡の湧出箇所を探し、崖面を彷徨っていると、神社左手の瑞雲寺の裏手崖下に池が見える。ひょっとして、この池は湧水からの池では?と崖地をお寺さま側に移る。
瑞雲寺湧水
と、池の脇に竹筒があり、それを辿ると崖地に大きな管が埋め込まれていた。山田神社と同じく水は流れていなかったのだが、この管が崖地からの湧出箇所ではないだろうか。





瑞雲寺 
所在地:あきる野市山田496番地
境内にあった案内
「足利尊氏坐像 あきる野市指定有形文化財(彫刻)
臨済宗建長寺派に属する瑞雲寺は、南北朝時代に開かれたと考えられています。開基(創立者)は尊氏の子である基氏の母(あるいは伯母)という寺伝がありますが、この像はこの伝承と符合しています。また、南朝、北朝にわかれての全国的な戦乱の時代に、当地方は北朝系地侍の地盤であったことを示しています。
制作年代は江戸時代と考えられ、尊氏像はあまり類例を見ないことから希少価値があります。なお、昭和40年代に修復が行なわれ、彩色が施されています」
瑞雲寺板碑 あきる野市指定有形文化財(歴史資料)
「板碑は、鎌倉時代から室町時代にかけて、追善や供養などの目的で作られた石製塔婆の一種です。この板碑は蓮華台の上に、草書体で「南無阿弥陀仏」と「阿弥陀仏」の称号(明号)が大きく彫られ、その下方中央に「門阿」(供養者名)、右に「建武二年乙亥(一三三五)、左に「七月廿一日」の文字が刻まれています。
秩父産の緑泥片岩が使用され、市内では大型に属し、保存状態も良好です。 (全長122センチ、幅32.6センチ、厚さ2.8センチ)」

多摩川流域の臨済宗建長寺派
鎌倉時代、宋から栄西によってもたらされた禅宗の一派。蘭渓道隆など中国から来朝した名僧によって鎌倉・室町期に公家・武家の庇護を受け隆盛。
建長5年(1253)、鎌倉幕府5代執権北条時頼が鎌倉に蘭渓道隆を招き建長寺を建立するに及び臨済宗は発展。中でも建長寺は鎌倉五山第一として幕府の庇護を受けると、その末寺は鎌倉末期から相模・武蔵を中心に関東に広がり、南北朝以降は関東臨済宗の中心となる。
特に多摩川流域に顕著。戸倉の光厳寺(建武元年1334)、芝崎村の普済寺(文和4年;1355)、小和田村の広徳寺(応安6年;1373)が創建され、その末が多摩に広がる。


その他、鎌倉五山第三の寿福寺を拠点とする寿福寺派(明治以降建長寺派に)の普門寺(あきるの市)も南北朝期に再興され末を広げる。
更に南禅寺派の広園寺(八王子)松の法林寺も康応元年頃(1389)発展

山田の地名の由来
「山」は所謂高く聳える「山」を指すだけではない。平坦地であってもそこき木々が生えているところを「山」と称することも多い。「山田」の由来は平坦地に木々が茂る辺りに開いた水田地帯、といった説もある。
また、『新編武蔵風土記稿』には、「山田村ハ其地名ノ起リヲ尋ルニ村内瑞雲寺ノ開基瑞雲尼ハシメ勢州山田慶光院ニ住シテソレヨリ當所ニ移住アリシユヘカノ勢州ノ地名ヲコヽニウツシテ山田ト號スト云」といった説もあるようだ。勢州とは伊勢のこと。

山田八幡と瑞雲寺の湧水と段丘
上述したあきる野市の『報告書』には山田八幡神社の湧水は「牛沼面下」の「崖地」にあると記される。瑞雲寺も状況からみて同じと考えてもいいかと思う。で、「牛沼面下の崖地」ということは、「秋留台地の地形と不圧地下水;角田清美」や「多摩川の洪水と環境変動:増淵和夫」の論文にあった秋留台地の段丘図を見るに、牛沼面の下は、秋川の「氾濫原」となっている。
ということは、山田神社や寺瑞雲寺は崖面直下ではあるものの、氾濫原に建てたということ?秋川の川床の標高は144mといったところだから、比高差は5,6m。護岸工事もない室町期、洪水の心配はなかったのだろうか?、何故に氾濫原に寺社を建てたのか結構気になる。

奇妙な分布を示す新井面と横吹面
増渕和夫さんの論文より
で、山田八幡や瑞雲寺の位置する段丘面を確認するため「秋留台地の地形と不圧地下水;角田清美」や「多摩川の洪水と環境変動:増淵和夫」の論文にあった秋留台地の段丘図を凝視していると、気になることが現れた。
五日市線・武蔵増戸駅から山田八幡・瑞雲寺に下るまでに、知らず秋留台を形成する最上位面の秋留原面、新井面、横吹面、小川面、寺坂面を歩いて来たようである。
それはそれでいいのだが、各段丘面を見ていると、新井面、横吹面、野辺面、特に新井面、横吹面が通常河岸段丘で見られるように連続した階段状にならず、新井面は武蔵増戸駅の南東側および西秋留駅の東側に狭い面積で分布し、また横吹面も武蔵増戸駅の南西側や東秋留駅の南西側などに分布しているだけである。そして、「切り離された」新井面や横吹面の間には秋留原面が「割り込んでいる」ように見える。
平井川水系の氾濫による秋留原面のオーバーフローがその要因?
これってどういうことだろう?と、好奇心にまかせあれこれチェックすると、上述「多摩川の洪水と環境変動:増淵和夫」の論文に、「横吹・野辺面形成期(約12000から10000年前)に平井川系の水流が秋留原面にオーバーフロー」し、「秋留原面上に分布する浅い谷や凹地はその氾濫流路跡」とあった。
「オーバーフロー」ってどういうことは詳しいことは分からないが、素人なりの妄想によれば、上位面の秋留原面の地層が氾濫流によって下位の段丘面を埋めてしまった、ということだろうか。段丘図にある東本宿から五日市線・武蔵引田、秋川駅を経て蛙沢へ南東に延びる氾濫流路跡の窪地と下位段丘面に「割り込む」秋留原面のラインが見事に一致している。また、野辺面の下位段丘である小川面が、通常の段丘に見られる階段状の段丘の姿を残しているのも、オーバーフローの時期が横吹・野辺面形成期であり、小川面の形成以前のことからして、素人なりに納得できる。

秋留台の段丘
以下、「秋留台地の地形と不圧地下水;角田清美」をもとに秋留台の段丘の概要をまとめておく;

秋留原面
秋留原面は秋留台地の主要部を占め,標高は西端の伊奈丘陵の南麓で約186m,東端の東秋留駅近くで138m。基盤は五日市砂礫層。その上に立川礫層=段丘礫層、そして最上段にローム層が堆積する。
段丘中央部は基盤まで地表から20mを越える箇所もあるが、段丘周辺部では基盤の位置は相的に高く、段丘東端部では地表から2mほどのところもある。

新井面
新井面は秋留原面より4?6m 低く, 武蔵増戸駅の南東側および西秋留駅の東側に,狭い面積で分布している。段丘礫層は2,3mほどと推定される。

横吹面
横吹面は武蔵増戸駅の南西側や東秋留駅の南西側などに分布し, 平面形は釛錘形をしている。新井面との比高は2-4m。東秋留駅の南西部においては,比高約1.5m の段丘崖下において大雨後には湧水が見られ,藍染川の水源地となっている。このことから段丘礫層の層厚は2?3m 程度で,その下位には秋留台地の基盤となっている上総層群(五目市砂礫層)があると考えられる。

野辺面
野辺面は伊奈から引田にかけて, 西秋留駅前付近および東秋留駅前付近に分布している。上位や下位の段丘面との比高は1?3mとなっている。
段丘礫層は東秋留駅の東端で約4m,東秋留駅の西にある東秋留小学校でも約4mとなっている。東秋留駅の東から南にのびる段丘崖は比高1.5 ?2mを示すが,段丘崖の各所から地下水が湧出している。引田では下位の小川面とは1?2.5m の緩傾斜の段丘崖で境されるが,大雨の際には段丘崖から地下水が湧出するところから, 段丘礫層は2 ?4mの層厚と推定される。

小川面
小川面は関東ローム層におおわれない段丘としては発達が最も良く,伊奈から代継にかけて,あるいは牛沼から小川・二宮にかけて広く分布している。
段丘礫層の層厚は6m前後のところもあるが、おおむね3?5mではあるが、層厚が1.5?4mの幅をもつ箇所もあり場所によって異なる。
段丘崖では段丘礫層との不整合面から不圧地下水が湧出している。
粘土層は段丘礫層とは層相が著しく異なるところから, 段丘礫層を堆積させた多摩川・秋川によって運搬されたのではなく,横吹面および野辺面の段丘崖下に水源をもつ舞知川,あるいは秋留原面の段丘崖下に水源をもつ千人清水によって運搬され, 堆積したものと考えられる。粘土層の基底部からは先土器時代終末あるいは縄文時代初頭のものと思われる尖頭器をはじめとする遺物が多数出土している。また粘土層内からは縄文時代以降の遺跡・遺物も出土している。

寺坂・牛沼・南郷面
寺坂面は武蔵増戸駅の南に狭い面積で分布し,秋川の現河床からの比高は23?25m ,上位の小川面との比高は約1.5rnである。
牛沼面は牛沼をはじめとして数ヶ所に狭い面積で分布している。秋川の現河床からの比高は伊奈付近で18?20m ,牛沼16?18m ,秋川と多摩川の合流点付近で10?14m となっている。南郷面は上位の段丘面の縁に点在して分布して秋川の現河床からの比高は10m前後。これらの段丘はいずれも五日市砂礫層とその上に堆積する層厚2?4mの段丘礫層からなる。

屋城面
屋城面は秋川・平井川および多摩川によって形成された河岸段丘のうち最下位の段上面で,氾濫面との比高は0.5?3mである。秋川の現河床からの比高は4?6m,平井川の現河床からの比高は3m前後を示すが,多摩川の現河床からの比高は7?10mとなっている。
多摩川の現河床からの比高が高いのは,多摩川の河川敷における砂利採取の影響によるもので,第2次大戦後その影響は特に大きく現れたようである。段丘面はに示されているように,いくぶん起伏があるが,これは河床面だった時代の礫堤あるいは礫州がそのまま残っているものと考えられる。段丘礫層の層厚は2?3mである。


秋川フィッシングセンター北の崖下に湧水路
次の目的地は、前述『報告書』の湧水番号2.にあった「元山田釣堀敷地内隣接崖」。地図で確認すると護岸工事された秋川と段丘図の牛沼面の間に広がる氾濫原に「秋川フィッシングセンター」がある。そこが「元山田釣堀」ではないだろうか。
瑞雲寺から道なりに進むと、護岸工事された秋川脇に出る。その道を進むと「秋川フィッシングセンター」があった。そこから北を見ると結構比高差のある崖地が見える。崖下の手前は民家の敷地や畑地があり、道はない。仕方なく畑地の畦道を進み崖下に。そこには水路があった。如何にも崖地からの湧水を集めたような自然な水路である。

水路は源流点近くまで崖下を東に進めるのだが、水路が切れる「源流点」らしき辺りは民家の敷地となっており、それ以上は進めない。崖地側から進もうとも思ったのだが、藪がひどく迂回は諦めた。とりあえず、崖下から湧出したであろう結構豊かな水の流れを確認し湧水点2番目をクリアしたとみなす。なお、この水路は西南に進み秋川に注いでいた。
崖面は牛沼面氾濫原を画する崖ではあろう。また、角田さんの論文には「伊奈丘陵内に源を発し,台地上を南東方向に流れる溝ッ堀という川があり、堀が丘陵から台地上に出たところには小規模な扇状地を形成している。普段は尻無川のようになっているが, 豪雨の際には氾濫することもある。約2.2krn流下して秋川に合流している」との記事があったが、上流・中流は水路跡がわからないが、下流部は崖下の湧水の流れと同じように思える。

牛沼面崖が秋川に突き出す箇所を進み引田橋に
秋川に沿って進む。前方はブッシュが激しく進めるかどうかよくわからない。が、とりあえず左手に崖面を見遣りながら護岸堤に沿って進むと通行止めの案内。ここまで来て戻るのも何だかなあ、行き止まりとなれば川床に下りればいいか、などと思いながら先に進む。
段丘図を見れば、牛沼面下の崖が秋川へとせり出している箇所である。氾濫原にあった道もなくなり、牛沼面の崖が直接秋川に接する箇所は、護岸堤のコンクリートの上を慎重に進み、ほどなく引田橋に出た。秋川右岸の秋川丘陵には 六枚屏風岩が見えた。

六枚屏風岩
「六枚屏風岩は、大規模の土柱が並列する特異な崖の地形として天然記念物に指定されたものである。奥多摩山地の麓に南北に広がる丘陵をつくる礫層(加住礫層)が、秋川の洪水時の激流によって急な崖をつくり、更に浸食されて、後退していく過程で、ほぼ等間隔に高さ10メートル以上の六つの土柱が形成され、それが六枚折り屏風に見立てられ六枚屏風の俗称が与えられた。この土柱は六枚屏風として、文政四年(1821)の『武蔵名勝図会』に描かれている。このうち、現在、第四柱が消失している。六枚屏風岩の崖では、数百年以上前から土柱が成長、崩壊を繰り返したと推定され、自然環境の移り変わりを知るうえで貴重な文化財である。東京都教育委員会」

真照寺湧水;あきる野市引田863番地
成り行きで進む。地域は引田に入る。あきる野市発行の「郷土あれこれ」に地名の由来があり、それによれば、「曳き;ヒキ>ヒクイ=低いの意味。秋川沿いの低地に集落が開け、そこに低田を開いて生活していたのだろう」と記されていた。
引田地区を進む。帰宅後段丘図をチェックすると。牛沼面と屋代面の境を進んで行ったようである。ほどなく趣のある木塀に囲まれた真照寺に。
境内に入り湧水点を探す。本堂の右手に薬師堂があり、その前に池がある。この池に繋がる湧水の手掛かりはないものかと辺りを彷徨うが、これといった痕跡はなかった。市の報告書には流量は極少とあった。
また、市の『報告書』には「小川面下・傾斜地」とある。段丘図でチェックすると、このお寺様の辺りは小川面と屋代面の境のようでもある。
真照寺
真言宗豊山派のお寺さま。寛平3(891)年、僧義寛上人によって創建されたと伝えられている。本尊は不動明王である。享禄4(1531)年に現在の地に遷された。都指定有形文化財の薬師堂と、市指定有形文化財の山門がある。朱印寺領7石。



真照寺山門
真照寺山門 あきる野市指定有形文化財(建造物)
薬師堂(東京都指定文化財)に伴う門として、元禄元年(1688)に建立されました。
構造は、本柱の前後に二本ずつ計4本の控え柱をもつことから四脚門と呼ばれ、和洋を基本としています。当初より彩色が施されていたようで、部材の保存もよく、江戸時代中期初めの特徴をよくとどめています。
また棟札により建立年代、寄進者、住職、大工名もわかり、歴史資料として貴重です」

薬師堂
「真照寺薬師堂 東京都指定有形文化財(建造物)
木造で屋根は宝形造、桁行3間、梁間3間の建物で、間口・奥行ともに約4.42m(19.5㎡)です。外回り切目縁付き、軒回り柱上部に舟肘木があり、建築年代は室町時代と考えられています。
寺には廷文元年(1356)、関東管領足利基氏建立の棟礼写しがあります。『新編武蔵風土記稿』には寛平3年(891)造立の柱を用いて、廷文元年に再建したと見え、すでに江戸中期頃には柱に虫穴などがあって古色を呈していたと記されています。
昭和44年解体修理を行い、屋根はもとの茅葺を銅板葺に改めました。真照寺は引田山金蓮院と号する真言宗豊山派の寺院で、寛平3年に義寛上人によって開山されたと伝えられています。なお、宮川吉国寄進の厨子も附として指定されています」

殿沢
左手に大宮神社の社を見遣りながら進むと氾濫原に拓かれたような畑地が広がる。と、足元を見ると水流のない水路が東へと続く。畑地を道なりに進むと、南に曲がり秋川に向かう水路と交差する。チェックすると、殿沢と呼ばれるようだ。上述角田さんの論文に「殿沢は秋川市引田の小川面の段丘崖下にある海老沢沼に源を発する。さらに,途中,段丘崖下の各所から湧出する地下水を合わせ, 約1.8km 流れて秋川に合流している」とあった。海老沢沼がどこか不明だが、真照寺の北西の牛沼面と接する小川面崖下辺りであろうと思う。

真城寺湧水;あきる野市上代継344番地
殿沢を越え上代継地区に入る。代継は余次、世継とも表記される。四ツ木榾(ほだ)から。家の囲炉裏の四隅から樫などの堅い榾木をくべて赤々と燃やすことに由来するとある(前述「郷土あれこれ」より)。
ほどなく真城寺。湧水点を探し境内を彷徨うと幾つかの池があり、池に樋から水が注がれている。樋に沿って裏の崖地に入ると、小石の間から浸みだす湧水箇所が見つかった。市の『報告書に』は「小川面下・崖地 」とある。段丘図から推測するに、小川面と屋代面を画する崖地ではあろう。今回の湧水散歩ではじめて目にした、ささやかではあるが湧出点である。

真城寺
臨済宗建長寺派。観応2(1351)年、足利基氏が開基となり、大光禅師復庵宗己を請じて開山としている。その後、天正7(1579)年に八王子城主北条氏照が再興したと伝えられている。本尊は延命地蔵菩薩。市指定天然記念物のシダレザクラがある。御朱印寺領7石2斗。


沢に入る
新城寺の境内西に結構水が流れる水路がある。地図を見ると、真城寺の北から下っている。沢の源流が如何なものかちょっと寄り道。水路は石をコンクリートで固めた両岸とコンクリートの底部から成る。水路底部に下り北に向かうとすぐに護岸工事部は切れ、藪に覆われた沢となる。
沢の中程に湧出点もあったのだが、更に上流からの伏流水かとも思い、藪漕ぎで更に上流に進む。水はほとんど見あたらない。と、沢は崖地で阻まれる。崖上には民家が見える。都道7号のすぐ南といった箇所である。この崖地は秋留原面と小川面を画するものと思う。

御滝堀
沢を戻り、水路に沿って進もうと思うのだが、水路は民家の中を通っており、仕方なく南を大きく迂回し次の目的地である白滝神社境内湧水に向かう。道を東に進み白滝神社に向かって北に折れると水路にあたる。この水路は先程の沢からの水と、白滝神社境内湧水からの水を合わせて下っている。
角田さんの論文には御滝堀とあり、「御滝堀は秋川市下代継の白滝恵泉に源を発する。白滝恵泉は小川面の段丘崖に位置し,層厚約3,5m の段丘礫層の基底付近から地下水が湧出している。常に湧水量は多く, 約1.7km 流れて秋川に合流する」と記載されていた。

白滝神社境内湧水;あきる野市上代継331番地
滝からの流れであろう水路を辿り白滝神社に。社に上る石段横に沢があり、石組みの堰堤から豊かな水が数条の滝となって落ちる。今回の湧水散歩ではじめて目にした、豊かな湧水である。
堰堤の先の沢に入り湧出箇所を確認したいのだが、水神様脇に竹で作られた進入禁止の柵。普通なら先に進むのだが、神様の「霊地」に入り込むのは何だかなあ、と今回は遠慮する。報告書によれば「秋留原面下・崖地」とあるので、秋留原面と小川面を画する崖地から滾々と水が湧き出ているのだろう。


白滝神社
鳥居を潜り正面石段を上ると社がある。その昔には「白滝の社」と称されたようだ(「**神社」と呼ぶようになったのは明治以降のこと)。社脇には八雲神社の小祠も祀られていた。社の上は五日市街道・都道7号が走る。
鎮座の年代は不詳。この地の郷士・代継縫之介が自宅の鬼門除けとして、不動堂を建立。この地は日本武尊のゆかりの地とされ、村民に篤く崇敬されていた地とされる。
『新編新日本風土記』には「村の中程にあり わずかなる堂にて 上屋二間(約三,六メートル)四方 南向きなり 不動は木の立像長一尺二寸最古色に見ゆ されど作詳らかならず前に石段三十四段あり境内に入りて左の方に滝あり 槻(欅の一種)の大木一本あり 囲八十九尺許り 其の外雑樹蓊鬱として繁茂し 年経たるさまの境内なり 村内東海寺の持」と記載される。

秋川神明社湧水;あきる野市牛沼88番地
秋川神明社は白滝神社の南東、圏央道秋川インター傍にある。地図には秋川神社となっているのだが、秋川神明社であろうと圏央道の高架を潜り、その東の国道41号を南に下り、圏央道あきる野インターへの出入り口手前にある秋川神社に。
『報告書』に神明社から50m東、牛沼面下の崖とある。それらしきところを彷徨うが、湧出点らしき箇所は見当たらない。段丘図で見ると、牛沼面と南郷面の境とは思うのだが、秋川神社の南は圏央道あきる野インターへの出入り口で車道に立ち入ることができない。
『報告書』の湧水調査日は2011年6月、あきる野インターのサービス開始が2005年であるので、調査日は、インターの工事以降と考えられる。インターのアプローチ下に隠れているのか、それとも社の東50mほどのところに2、3mほどの比高差の崖があるのだが、その辺りなのだろうか。崖下を彷徨うも、湧出点らしき箇所は確認はできなかった。

秋川神社
もと日吉山王大権現と称していたが、同村神明神社と合祀して秋川神明社と改めた。永禄年代末(1569)一面の唐銅円鏡を鋳造し(洪水時に秋川を流れてきたとも、真照寺の山王権現の神体が流れてきたとも)ご神体としたと言われる。 また、境内にある大杉は市の天然記念物である。
牛沼
青梅線の牛浜に限らず牛がつく地名は全国に散見されるが、「牛」は必ずしも動物の牛と限ることはないようである。前述「郷土あれこれ」には、「牛はウシ>ウス>薄い色>浅い色>浅い沼」といった説明があった。地名の由来は諸説あることが多く、何が正しいか不明だが、少なくとも漢字ではなく、「音」からの解釈が必要かと思う。はじめに「音」があり、それに物知りが「漢字」をあてるわけであり、まずは「音」からの解釈が必要とは思うので、上記説明にはそれなりに納得。

石器時代住居跡群崖下湧水;秋留の市牛沼265‐2番地
秋川神社の北東に石器時代住居跡群崖下湧水があるとのこと。成り行きで進むとフェンスに囲まれた一角があり、そこに「国指定 西秋留石器時代住居跡」の案内があった。住居跡の南は崖。崖下で草刈りをしているご婦人に遠慮しながら石垣下を回り込むと、史跡西端の石垣の奥から水が流れ出していた。そこが湧水であろう。『報告書』に、「牛沼面下・崖地」とある。段丘図を見るに、牛沼面と氾濫原の境を画する崖面であろうと思う。

「国指定 西秋留石器時代住居跡 指定日昭和8年4月13日
昭和七年、後藤守一氏を中心として、東京府(現東京都)によって調査が行われ縄文時代後期の敷石住居跡5軒や石棺墓2基、石組の炉一基などが発見された。 当時、敷石住居跡が単独で出土した例はあったが、このように狭い範囲にまとまったものはほとんど無く、昭和8年国の史跡に指定された。
また、これらの遺構の他、縄文時代後期の土器や石皿、凹石、石棒、打製石斧、石錘などの石器も多数出土している。
調査当時、発見された住居の床面と周囲とが同じ面と認められたため、竪穴式住居ではなかったと判断され、それ以降の敷石住宅が平地住宅であるとする説の有力な根拠とされるなど、学史的にも貴重な遺跡である あきる野市教育「委員会」

今回はここで時間切れ。最寄りの五日市線・秋川駅に戻り、一路自宅へ.。
先回の相模原段丘面(高位)と田名原段丘面(中位)を画する崖線下を流れる姥川、道保川、そのふたつの河川を合わせて相模川に分水する鳩川散歩に続き、今回は田名原段丘面(中位)と陽原(みなはら)段丘面(低位)を画する崖線下を流れる八瀬川を辿る。大きく分けて3段階の階段状に形成される相模原台地の最下位段丘面散歩でもある。
田名の由来は諸説あるが、相模川対岸の中津川台地から眺めた地形が段々状の「棚」のようであり「棚村」と名付けられたとする説もある。また、陽原(みなばら)は、平坦な地、「皆原」に由来する、とか。どちらにしても、段丘面の地形を表す地名ではあろう。因みに「陽原」となったのは陽原山南光寺の山号からである。
今回の大雑把なルートは橋本駅からスタートし、相模原段丘面を進み、相模原段丘面と田名原段丘面を画する段丘崖下を流れる鳩川源流点に向かい、そこから田名原段丘面が相模川に接する相模川崖線の湧水(地元では「やつぼ」と呼ぶ)を探し、南下して田名原段丘面と陽原段丘面の段丘崖下を流れる八瀬川の源流点に。その後は崖線斜面林に沿って南下し、時間次第ではあるが、陽原段丘面や相模川の沖積地であろう「水郷田名」を彷徨い、再び段丘崖に戻り、地形図から予測するに陽原崖線が田名原崖線に合わさり埋没すると思われる鳩川分水路辺りまで下ろうとの思惑。
実際は途中でちょっとしたトラブルがあり、結局一度でカバーできなかったのだが、それは後々メモすることとして、まずは京王相模原線で橋本へと向かう。



本日のルート;京王線・橋本駅>橋本五叉路>川崎第二水道>鳩川源流域>相模原総合高校>上大島>県道48号>渓松園>中ノ郷のやつぼ>常磐のやつぼ>日々神社>水場のやつぼ>神澤不動尊>古清水上組のやつぼ>横浜水道みち>三角山公園>八瀬川源流>やつぼ>田名葭田(よし)公園>大杉池からの水路合流>L字の固定堰>こぶし橋>塩田さくら橋>塩田天地社>横浜水道みち>相模線・番田駅

橋本五差路
橋本駅から最初の目的地である鳩川源流点と言われる相模原市緑区大島の大島団地へと向かう。駅から成り行きで進むと立体交差のある大きな交差点。「橋本五差路」と呼ばれる。五つの道とは、今歩いて来た橋本駅方面からの道、この交差点を経て横浜から八王子方面に抜ける国道16号。この交差点から平塚へと向かう国道129号、そして城山方面へと抜ける道の5本である。
国道16号が立体交差となる前は渋滞の名所であったが、現在は改善されている、とのこと。地下道となっている歩行者用通路を抜け、津久井湖・城山方面への道に入る。

○相模原の軍都構想
道の周囲は大小の工場地帯が続く。江戸の頃、新田開発によって開かれた畑と雑木林の広がる「相模原」の状況が変わるのは昭和に入ってから。昭和11年(1936)、旧陸軍第一師団より相模原各地の村役に呼び出しがあり、陸軍士官学校、練兵場の用地買収の申し出、と言うか通達。あれこれ悶着はあるも、軍に抗すべくもなく買収に応じる。
計画は日中戦争下、1930年後半に更に進み、陸軍施設の相次いでの移転・開設が計られた。陸軍造幣工廠(在日米軍相模原補給廠)、陸軍兵器学校(麻布大学)、陸軍航空技術飛行機速度検定所(淵野辺、矢部辺り)、陸軍通信学校(相模女子大)など枚挙に暇がない。
こうして貧しい養蚕の集落地が一転して軍事都市となってゆくわけだが、県も軍事施設の進出を受け「10万人の軍都構想」のもと区画整理を行うも、幹線道路整備の段階で敗戦。戦後も区画整理事業が進み昭和25年(1950)に区画整理事業は完成した。
いつだったか、多摩丘陵を歩いているとき、相模原を眺める尾根道に「戦車道」とあった。相模原陸軍工廠で製造された戦車の走行実験が行われた道とのことであった。

川崎第二水道
道を進み「峡の原」といった、「峡(はけ)」=崖線が近づいたことを予感させる地名を越え、クヌギ、コナラなどが植林された「二本松ふれあい公園」辺りで北西に向かっていた道が西に方向を変え県道508号・二本松小学校入口交差点に。
県道508号は「谷ヶ原浄水場」方面」へと西に向かうが、国土地理院の2万5000分の一の地図を見ていると、橋本五差路から県道508号・二本松小学校を経て相模川傍の「谷ヶ原浄水場」へと向かう道は「川崎第二水道」と表記されている。この道の下には水管が埋設されているのだろう。

川崎第二水道は津久井分水地から導水管で川崎に送られる水のネットワークのひとつ。径路は、沼本取水口>津久井隧道>津久井分水池>導水路>淵野辺接合井(ここで酒匂川水系の水を合わす)>潮見台配水池(企業:西長沢浄水場;川崎市宮前区潮見台)>鷺沼配水池(川崎市宮前区土橋)>末吉配水池(横浜市鶴見区上末吉)と進む。今歩いて来た道は、津久井分水池から横浜線・淵野辺 駅に向かって南東に直線に進む導水管敷設道路の一端であった。

○川崎第一水道
因みに、川崎第一水道の経路は津久井分水池>相模隧道(横浜水道と同じ)>下九沢分水池(横浜市導水隧道)>第一導水隧道>千代ケ岡配水池塔(川崎市麻生区千代ヶ丘)>長沢浄水場(川崎市多摩区三田)。津久井分水地から相模川に沿って下り、上大島で西に方向を変え下九沢分水池を経て相模線・南橋本駅の東に進む。そこで方向を北東に変え、町田方面へと向かうが、南橋本駅の東の国道16号の辺りで川崎第二水道とクロスしている。下九沢分水池は円筒分水施設と言う。そのうち訪れてみたい。

相模原段丘面と田名原段丘面の境
鳩川源流点に向かうべく、県道508号・二本松小学校入口交差点を南に折れる。道なりに進むと下り坂となる。相模原段丘面と田名原段丘面の境の段丘崖なのだろうが、地形図の彩色では結構はっきりと色分けされているが、周囲は宅地で埋められ、崖線がよくわからなかった。崖線斜面林など望むべくもない。

鳩川源流域
坂を下り終えた打出交差点のすぐ東に鳩川の水路があった。鳩川に架かる、といっても南側にささやかな水路があるだけで、北側は暗渠となり橋の名残もない。湧水を水源とする、といった趣は全くなく、単なる少々汚れた小規模都市河川と言ったものであった。
源流点はもう少し暗渠を詰めた辺りであろうが、そこに向かう気持ちも萎え、民家の間を下る鳩川から少し離れた道を下り、道なりに進み鳩川に架かる名も波小さな橋を渡り返し、鳩川から離れ、田名原段丘面が相模川に接する辺りへと向かう。

○鳩川
Wikipediaによれば、「鳩川(はとがわ)は、神奈川県相模原市から海老名市にかけて流れる相模川水系の河川。神奈川県相模原市の大島団地付近に源を発し南東に流れる。JR東日本相模線と平行し、海老名市河原口付近で相模川に合流する。全体的に川幅は狭い。相模原市磯部には平行する相模川への分水路があり、そのため磯部以南では流量が減り、座間市入谷付近では農業用水路のように川幅が細い。下流の海老名市上郷では相模三川公園の敷地内を通過しており、遊歩道が整備されている」とある。また、江戸時代は籏川と呼ばれていたようで、鳩川となったのは明治時代に入ってからのこと。九沢辺りの孟宗竹は江戸時代、江戸城の煤払い用に献上されていた、とか。

県道48号
川を渡るとすぐ八坂神社。社にお参りし、南西へと進み相模原総合高校脇を進む。この辺りは宅地も無く、一面の平坦な耕地の西に中津川台地や丹沢の山塊が見えてきた。
高校を過ぎた先で県道48号・上大島交差点へと西に向かう結構大きな車道を進み、上大島交差点の少し南辺りの県道48号に出る。

渓松園
道を進むと「渓松園」の案内。現在相模原市の老人福祉センターとなっている建物は「横浜水道みち」の施設を転用したもの。入口に「横浜水道みち 三井用水取入所からここまで7.5km;旧大島送水井」とある。大島送水井は昭和9年(1934)に完成し、相模川崖下の大島臨時揚水ポンプ場からくみ上げた水を横浜の川井浄水場に送っていたとのことだが、その後の横浜水道拡張事業(下九沢分水池、相模原沈澱池など)などにより、昭和29年(1954)に相模湖系の取水網が完成しその使命を終えた。
老人福祉センターは当時の円筒形の送水井の建物をそのまま生かし、円形の建物の畳は丸くなっている、とか。

○横浜水道みち
詳細は先回の散歩を参考にしてもらうことにして、大雑把な径路は津久井分水池から相模川に沿って大島・清水地区まで下り、そこから田名原段丘面と陽原段丘面を画する段丘崖辺りを一直線でこの地まで進み、相模原公園の南を通り横浜市保土ヶ谷区の川井浄水場に向かい、そこから鶴ヶ峰を経て少々方向を変えながらも、基本一直線で野毛山浄水場に向かう。

■やつぼ
次の目的地は、田名原段丘面や陽原段丘面が相模川と接する段丘崖急斜面の中腹から流れ出す湧水探し。地質の観点から言えば、相模川が運んだ礫層と、小仏層・中津層や依知礫層と呼ばれている基盤岩との接合部分から湧き出ているとのこと。
この湧水を溜めた池をこの辺りでは「やつぼ」と呼ぶ。大島地区に11箇所、田名地区に7か所あったという。段丘害斜面から流れ出す湧水を飲料水や生活用水に活用するため、崖面に石組みの水場を造っている、とのことである。名前の由来は「谷津、谷地=湿地」+「壺」との説が有力であるが定説はない。 現在は水道網が整備され、やつぼの多くはその使命を終え、あるいは潰され、あるいはコンクリートで埋められているが、いくつか原型をとどめるものがある、と言う。基本個人の自宅に属するものであり、残っている「やつぼ」も、どの程度訪ね得るものかはっきりしないが、とりあえず代表的なものを北から幾つか探してみようと思う。まずは「中ノ郷のやつぼ」である。

中ノ郷のやつぼ
「中之郷のやつぼ」に向かうが、場所が特定できてはいない。とりあえず、大島地区にある県道48号・中の郷バス停辺りから成り行きで相模川の崖線に向かう。
崖線沿いに建つ民家の前の道を進んでいると、竹藪の繁る手前に「大島中ノ郷やつぼ 相模原市登録史跡」、崖の小径を進むとほどなく「中ノ郷のやつぼ」の案内があり、案内に従って左に少し下ると「やつぼ」と刻まれた石碑があり、その横に2mx5m程度の湧水池と、その上に「八大龍王」と刻まれた石塔が祀られていた。湧水池は大石や丸石で組まれ、流れ出る湧水を溜めていた。



八大竜王は水中の主である八王であり、その中でも娑羯羅(沙伽羅とも;しゃから)が雨乞いの神として全国に祀られている。弘法大師に関係深く、京の都・神泉苑で八大竜王に祈って雨を降らせたといった伝説や、弘法大師が名付けた清瀧権現もこの娑羯羅にまつわるものである。

田名原段丘面と陽原段丘面の境

「中ノ郷のやつぼ」を離れ成り行きで南に進む、ほどなく緩やかな坂が現れる。おおよそ県道48号・大島北交差点の東の相模川の段丘崖線近くである。周辺は住宅が建ち、崖線も斜面林も見えないが、田名原段丘面と陽原段丘面の境に差し掛かったのではなかろうか。
田名原面に入る(入ったと思うのだが?)。周囲は住宅が立ち並び、はっきとした崖線は見えないのだが、所々に残る緑が斜面林の名残のように思える。崖線をはっきりと確認するため、田名原崖面から湧き出た「常盤のやつぼ」を探しに向かう。

常盤のやつぼ
県道48号・大島交差点の南東の常盤地区に入る。住宅の間を彷徨っていると結構な坂道が崖を上っている。この崖線が田名原面と陽原面を画する段丘崖ではなかろうかとの予測で、崖線のどこかに「常盤のやつぼ」があるのだろうと、行きつ戻りつしていると、民家の方が親切にも場所を教えてくれた。同じように「やつぼ」を探す人もあるようで、見るに見かねて家から出てきてくれたようである。感謝。
「常盤のやつぼ」は崖下にある民家の駐車場となってコンクリートで埋め立てられていた。その駐車場の直ぐ下にある民家の生垣の中には湧水池が残っている。側溝から音を立てて水が流れているので、現在でも地中からの湧水は保たれているのだろうか。

日々神社
地図を見ていると、「常盤のやつぼ」の崖線上に「日々神社」という社が目についた。「日々」と言った名前にも惹かれ、また、崖線上の景色も見てみようと日々神社に向かう。
崖上には県道48号が通る。周囲に住宅が立ち並ぶ県道を少し進み左に折れて社へと。結構広い境内ではある。鳥居をくぐり社殿にお参り。境内の石碑に「日々神社 日之宮跡」とある。「日々神社 創立年不詳。保元2年、寛文5年、元禄元年再建。祭神、勧請年不詳。伊弉諾命、天照皇太御神を奉祀し「日之宮」と称した。明治2年、日々神社と改称し現在地に再建」と刻まれる。 歴史は古いが縁起など詳細不詳。元は「日之宮」と称し、別の場所にあったようだが、明治2年(1869)に「日々神社」と改称し、この地に移した、とのことである。

○徳本念仏塔
境内には「徳本念仏塔」が祀られる。神社にあった案内によると、「徳本は、宝暦8(1758)年に紀州に生まれ、江戸時代後期に伊豆や関東の各地に念仏を広めた僧です。徳本が近隣を訪れた際に、各村々の念仏講中(ねんぶつこうじゅう)がその特徴ある書体で書かれた名号(みょうごう;六字名号=南無阿弥陀仏)を求め、それをもとに念仏塔を建てたとされます。
側面に「文政二己卯年」(1819年)の銘があります。主体部の高さ143センチメートル、幅69センチメートル、奥行き41センチメートルです。以前は香福寺の参道沿いにありました。地域の念仏講や村の生活史を知る上で貴重な資料です」とのこと。
□徳本上人
徳本(とくほん;徳本上人)は、27歳のとき出家し、木食行を行った。各地を巡り昼夜不断の念仏や苦行を行い、念仏聖として知られていた。大戒を受戒しようと善導に願い梵網戒経を得、修道の徳により独学で念仏の奥義を悟ったといわれている。文化11年(1814年)、江戸増上寺典海の要請により江戸小石川伝通院の一行院に住した。一行院では庶民に十念を授けるなど教化につとめたが、特に大奥女中で帰依する者が多かったという。江戸近郊の農村を中心に念仏講を組織し、その範囲は関東・北陸・近畿まで及んだ。「流行神」と称されるほどに熱狂的に支持され、諸大名からも崇敬を受けた。徳本の念仏は、木魚と鉦を激しくたたくという独特な念仏で徳本念仏と呼ばれた。墓所は一行院(Wikipedia)。
境内に掲示板があり、神事や昔話、このあたりの地名である「常盤」の由来など興味深い内容が記載されている。ちょっと長くなるが気になったものをメモする。
○日々神社・雨乞いの話
八壺のひとつ・鏡の滝より「御新水」を汲み神殿に奉納し、その新水を撒きながら神殿を3回廻り、神官が「詞」をあげて終了。この神事の数日後には雨が降った、とか。
○鏡の滝
水量は多くないが、神沢不動堂近くの北方に「鏡の滝」がある。名前の由来は、日々神社の祭礼の際、神輿がこの滝を渡御する(滝降の神事)のだが、ある年の神事の際、滝から一枚の鏡が出た。円形で直径三尺五分の裏面には「鳥蝶」の模様があり、人々はこれを天照皇太神と尊敬し、日の宮に合祀し、滝を鏡の滝、土地を神沢と称するようになった。
○鏡の滝の昔話

茅ケ崎の商人、吾助は相模川を往来し、海産物を津久井で売り、そこで薪や炭を仕入れ下流で売るといった商いをしていた。ある日、商売がうまくいき、田名の宿場で博打で無一文。つい、日々神社のご神体である鏡を盗み売り払おうと企てる。首尾よく盗み出し神沢の滝壺まで来たとき体が動かなくなり、盗んだ鏡も滝壺に沈む。すると滝壺から煙が立ち上がり、神のようなものが現れた。 怖ろしくなった吾助は、悔い改め、鏡をもとの場所に戻してもらい、元の体に戻った吾助はその後、商いに努めた、と。
○淤能碁呂(おのころ)の松
源頼朝が平家に追われ伊豆に流された保元2年(1157)、10歳の時に植えたと伝わるが、昭和41年(1955)の台風で倒木したが、その跡が残されている。
○地名「常盤」の由来
淤能碁呂(おのころ)の松の別名を「常盤木」と言い、明治の頃、常盤木のように常に若々しく発展するようにと、地名を「常盤」と命名し、それが「字」として残った。


日々神社から崖線の坂を下る
地図を見ると相模川沿いに神沢不動がある。その北辺りに鏡の滝があるようだ。後から訪ねてみようと思う。
神沢不動へと向かうべく、iphoneであれこれチェックしていると、神沢不動の手前に「水場のやつぼ」があり、そこには日々神社の御神水として利用されているとのこと。
日々神社から崖線の坂を下る。比高差は数メートルといったところ。段丘崖下の道を南に下ると唐突に暗渠から沢筋が現れる。この沢もどこかの「やつぼ」、場所からすれば「常盤のやつぼ」のようにも思えるのだが、ともあれどこかの「やつぼ」を水源とするようだが、コンクリートで蓋をされ暗渠となって道の下を流れている。沢に沿って進むと「相模原市登録史跡 大島水場のやつぼ」の道標。道標に従って沢筋に下りると「やつぼ」が現れる。


水場のやつぼ

壺状の石組み湧水池には「御神水」と刻まれた石の辺りから滾々と水が湧き出てくる。その水音も気持ちいい。湧水の流れ出す石組みの崖線は、陽原段丘面と相模川川床の間の段丘崖である。
湧水池の脇には「倶利伽羅不動尊」が祀られる。風雪に耐え、摩耗も激しいように見えるが、龍が4本の手足を剣に絡ませ、なおも口に含んで睨んでいる。倶利伽羅不動尊(竜王)は竜神や水神信仰と結びつきや滝口や湧水池などに祀られる。
「水場のやつぼ」からは沢を越えて崖を上る道が整備されている。この沢は前述のとおり、やつぼを水源とする流れが浸食谷を形造っており、谷を下れば日々神社でメモした「鏡の瀧」に出合うとのことであるが、それはメモする段階でわかったこと。よくある「後の祭り」ではあった。とはいうものの、谷は結構V字切れ込みが激しく、それほど簡単に下れそうにもなかった。

神澤不動尊
沢を越え、相模川の段丘崖を上り、段丘崖上の道を進み、日々神社の案内にあった、「北方に鏡の瀧」があると言う「神澤不動尊」に向かう。道を進むとほどなく相模川の崖線を下る道があり、ヘアピンの神澤坂を下りた崖下に神澤不動尊。
「神澤不動尊 長徳禅寺」と刻まれた石碑の横に弁天池がある。水量は多くなく、池からの湧水と言うより、崖からの水路が弁天池に続いている。本堂にお参りし、境内にある「稲荷大明神」のある崖面への石段を上りお参り。「北方にある、と言う「鏡の瀧」を探して崖面を彷徨う。結構な藪漕ぎをしながら滝を探したのだが結局見つけらなかった。
既にメモしたように、鏡の瀧は「水場のやつぼ」のあった沢筋にあるようであり、見つかるはずもなし。結局諦めて境内に戻る。境内から相模川方面を眺め、ゆったりする。広い河川敷が前面に広がる。








古清水上組のやつぼ
神澤不動尊でしばし休憩。神沢坂を再び上る。下りるときには気が付かなかったのだが、ヘアピンのところに「古清水上組のやつぼ」の案内。ヘアピン部分から坂道を離れ、南に向かう道を進み、道が民家に当たり左に折れるところに「やつぼ」の案内。
陽原段丘面が相模川に接する段丘崖急斜面を少し下りると4~5m程度の壺状の丸石で組まれた湧水池があった。
ここでちょっとしたトラブル。「やつぼ」の写真を撮ろうと足元に注意せず、後ろ向きのままバックして写真を撮ろうとしたとき、足元の踏み石グラリで、見事な一回転で「やつぼ」下の水路に落下。ちょっと伸びていた爪が石垣の端に引っ掛かり、剥がれた状態で二つ折れ。先日も足元の石に躓いて、これまた見事な「五体投地」で水路にダイブし今回と同じ指を脱臼したばかりである。気をつけねば。

横浜水道みち
痛む指を気にしながら崖を戻り「清岸寺」方面へと少し戻り、清岸寺の東の道を進み県道48号に合流する。メモする段階で25000分の一の地図を見ると、県道48号に当たり、そこから南東へと一直線に続く道筋に「横浜水道みち」とある。その道を先に延ばすと、先回の散歩で出合った「横浜水道みち」の緑道に当たる。思わず知らず、津久井分水池から相模川に沿って大島・清水地区まで下る「横浜水道みち」の導水管上を歩いていたようである。

○「横浜水道みち」の歴史
横浜市水道局のHPの記事をもとにメモをまとめる。戸数わずか87ほどであった横浜は、安政6年(1859)の開港をきっかけに急激に人口が増加。しかし横浜は、海を埋立て拡張してきた地であり、井戸水は塩分を含み、良質の水が確保できない状況にあった。
このため当時の神奈川県知事は、横浜の外国人居留地からの水確保への強い要望や、明治10年(1877)、12年(1879)、15年(1882)、19年(1886)と相次いで起きた伝染病コレラの流行もあり、香港政庁の英国陸軍工兵少佐H.S.パーマー氏を顧問として、相模川の上流に水源を求め、明治18年(1885)近代水道の建設に着手し、明治20年(1887)9月に完成した。その後、明治23年(1890)の水道条例制定に伴い、水道事業は市町村が経営することとなり、同年4月から横浜市に移管され市営として運営されるようになり、現在横浜市水道局の管轄にある。
相模川が山間を深く切り開く上流部、案内にもあった、川井接合井から野毛山浄水場までの起伏の多い丘陵などを、基本、一直線に貫く水路の建設は難航したと言う。また、近代水道の要ともなる水路管(グラスゴーから輸入)を現場に運ぶには、相模川を船で上流に運び上げたり、この案内にもあるように、トロッコ路を敷設し水管を運び上げたとのことである。

経路を見るに、津久井分水池から相模川に沿って大島・清水地区まで下り、そこから田名原段丘面と陽原段丘面を画する段丘崖辺りから、田名原段丘面を一直線で進み、相模原公園の南を通り横浜市保土ヶ谷区の川井浄水場に向かい、そこから鶴ヶ峰を経て少々方向を変えながらも、基本一直線で野毛山浄水場に向かう。
経路や施設なども創設時と現在では状況も大分異なっているとは思う。実際、上記の相模原段丘面にある相模原沈殿地は、昭和29年(1954)の第四回拡張工事の際に竣工された横浜水道みちの施設と聞く。そのうち、一度実際に歩いて実感してみたいと思う。

県道48号
八瀬川の源流域である県道48号・上田名交差点に向かう。道を進むとほどなく「大島地区」から「田名地区」に入る。田名地区の最初の集落は「清水地区」。地形図を見ると、陽原段丘面が相模川に接する崖線上に見える。崖線下は相模川の氾濫原のようにも思える。崖線上と氾濫原の比高差は20m以上あるだろうか。
清水地区を進むと次は「堀之内地区」。もともとは相模川崖線上の「はけ(=崖線)ばた」集落と、大杉公園周辺の「ほりのうち」集落から成っていた、とのこと。
○堀之内と田名氏
堀之内とは、武蔵七党のひとつ横山党の庶流、横山広季がこの地に進出し田名を称し、館を築いたことに由来する、と。横山広季は横山党として建暦3年(1213)の和田合戦に参戦。侍所別当の和田義盛に与みするも北条氏に敗れ討死。「吾妻鏡」の中に討ち死にした武将として「たなの兵衛。たなの太郎」の名があるが、それは広季と、その子の時季とのこと、と言う。

県道はおおよそ陽原段丘面が相模川と接する崖線上を通っていると思うのだが、田名原段丘面と陽原段丘面の境の崖線ははっきり見えない。道の東側との比高差は2mもないだろう。建物も多く段丘崖を感じるような趣はない。建物の間に所々畑地も残り、右手には中津台地も見られる頃に県道48号・上田名交差点に。ここを左に折れて八瀬川の源流域に向かう。

三角山公園
上田名交差点から成り行きで進んで行くと、石碑の並ぶ公園に出た。田名中学校の対面にあり、「三角山公園」と呼ばれている、と。かつて、この公園の南西方向には深い谷があり、そこから見上げたこの公園の姿を以てして「三角山」と称した、とか。その谷って、往昔の八瀬川源流域の谷戸であろうか。公園には日清戦争・日露戦争から第二次世界大戦での戦没者の慰霊碑が建っていた。

八瀬川源流域
田名中学校と田名郵便局に挟まれた辺りから突如として水路が南に延びる。下水路のようなつくりであり、湧水からの水路の趣きは全くない。野水路(地面にしみ込まず溢れ出た雨水が流れる堀)と説明する記事もある。下水道が整備される以前に生活排水を流していたようだが、下水道が整備された現在、水はほとんど流れてはいない。

○八瀬(やせ)川
Wikipediaによれば、「八瀬川(やせがわ)は、神奈川県相模原市を流れる延長約5kmの準用河川。相模原市上田名付近に源を発し、相模原市磯部上流のJR相模線下溝駅付近の新八瀬川橋よりすぐ先で一級河川相模川に合流する。沿川の概況は、中流域にある閑静な住宅地と上・下流域にある水田や段丘斜面の樹林帯、そして段丘崖からの湧水が水路により導かれ流量も比較的豊富な自然環境が良好な中小河川であり、相模原市の都市部における住民や生物にとって貴重な水辺空間となっている。
この八瀬川は、事業実施済みの区間を含め、平成18年度策定による国の「多自然川づくり基本指針」を取り入れ、水源地域の河川として、川の持つ自浄能力や水循環機能を高め、地域に密着した河川環境の保全・再生を図る川づくりを目的として、昭和63年策定済みの整備計画の見直しによる八瀬川多自然川づくり基本計画の策定を行い、今後、多自然川づくり事業を推進する」とあった。 源流域ではこの説明にはなんの説得力もないのだが、おいおい、その川の状況も変わって来るのだろうと、川に沿って南下することにする。

半在家地区
八瀬川を進み「半在家」地区に。この辺りは平安後期には既に人が住んでいたとのことで、平時は農民、非常時には武士として戦ったことから「半分在家武士」が地名の由来とか、寺領と官領が折半された故とか例によって地名の由来は諸説あり。

やつぼ
「やむかい橋」辺りから下流は八瀬川の水も知らず増えている。この辺りまで来ると田名原段丘面と陽原段丘面を画する崖線もしっかりし、斜面林も見えてくる。水量が増えるのはどうも、崖線からの湧水がその因のようである。斜面林のガードレールに切れ目があり、成り行きで下ると大きな「やつぼ」があり、豊かな湧水が八瀬川に注がれていた。特に名前は付けられていなかった。




田名葭田(よし)公園
南下する水路が東に向かい、川の両側緑の森で囲まれる辺り、右岸は田名葭田(よし)公園と呼ばれるようだが、その公園の北に沿って別の水路が八瀬川に平行に進む。二つの水路は水面の高さも異なり、コンクリートで別水路として管理されている。ふたつ並んで流れる水路は結構美しい。





○大杉池系統の八瀬川

□大杉池
合流、と言うか平行に流れるこの水路は田名小学校の南東にある「大杉池」を水源とする水路、とのこと。合流点までは「紅葉川」との呼ばれているようである。大杉池は近くに「でいの坂(屋号から)」があるように、段丘崖下の結構大きな池であり、雨の後でもあるからだろか水量も豊富であった。
池脇には弁天社。陰石と陽石の一対が並ぶ。道祖神ではあろう。池から溢れた水は開渠として流れはじめるが、途中暗渠となっており県道48号・田名団地入口交差点辺りまで地中に隠れる。




□半在家自治会館のやつぼ
県道48号・田名団地入口交差点から再び開渠となり、半在家自治会館辺りにある「やつぼ」からの「湧水」も集め田名葭田(よし)公園に下る。建物脇の石垣下から流れ出す湧水にしばし見とれる。

L字の固定堰
田名葭田(よし)公園から平行して下ってきたふたつの八瀬川源流域からの水路のうち、田名郵便局辺りから下ってきた水路は、相模原田名団地東の名も無い橋の手前でL字の固定堰で阻まれ、開口部からゴルフ場方面へと潜る。下流で再び入流しているようではあるが、下水としての扱いとして地中を進むようである。
水路を二つに分けたのは、大杉池方面からのきれいな水と、田名郵便局方面からの所謂「野水路」、下水が整備される前は生活排水で汚れた水を分けるためのものであったようである。現在は下水道も整備され、崖線や「やつぼ」からの清流が流れているわけで、別系統に分ける必要もないのかとも思う。

で、ふと悩む。田名郵便局からの八瀬川は、源流域では野水路ではあるものの、途中、崖線からの湧水や「やつぼ」からの清流を集め水量豊かに田名葭田(よし)公園まで下るが、このL字固定堰から地中に潜り、これより下流は大杉池からの水流が八瀬川となる。と言うことは、大杉池系統の水が八瀬川の源流と言うことだろう、か。

こぶし橋

L字の固定堰で地下に入った八瀬川に替り、大杉池系統の水路に乗り替へ、下流に進む。水路がゴルフ場の南西端辺りで流路を東へと変える辺りから民家の風情から農村の景観となる。左手遠くには、段丘崖の斜面林が見えてくる。 農村の灌漑用水路といった姿を見せる八瀬川には農業用の水門も幾つか設けられている。段丘崖からの湧水も多く流入されているとのことである。
進むにつれて八瀬川が崖線に近づいていく。「こぶし橋」辺りから崖線下を流れる川と南北に連なる段丘崖の斜面林を眺め、そしてその左手に広がる平坦な耕地。田名原段丘面と陽原段丘面を画する崖線。比高差は10m以上もあるだろう。そしてその東に広がる陽原段丘面。本日の散歩の目的はこの姿を見ることでもあった。

塩田さくら橋
こぶし橋から下流は「田名塩田」地区に入る。「塩田」の由来は塩の交換所があった、との説もある。塩田地区に入り耕地に代わって宅地化が進んだ一帯を崖線斜面林の下を流れる八瀬川を見ながら先に進むと「塩田さくら橋」。当初はこの辺りから、未だ南に連なる斜面林下を流れる八瀬川を辿るか、水郷田名を彷徨う予定ではあったのだが、「やつぼ」で大転倒したときに傷が少々痛む。医者に診てもらわねばと、予定を変更し、ここから最寄の駅である相模線・番田駅に向かう。

塩田天地社
大きな車道の通る崖線坂道の途中に天地社。案内によれば、「天地社は古くは天地大明神、または天地宮と称し全国に同名の神社は兵庫県、愛知県と当社の三社のみである。
塩田に天地大明神の称名がみられるのは享保十一年(1727)の記録と安永二年(1773)の奉納塔で天地宮の名は社額に残されている。
天地大明神は延暦十七年(798)の勧請といわれ、その奉納神事が一月六日に行われる、田名八幡宮の的祭である。この的祭は塩田の天地大明神を起源とし一月五日の夜半から六日の早暁にかけ、塩田で行った儀式のあと奉納されたもので当地が発祥の地である。と古くから言い伝えられている。現在の天地社には明治末期の整理統合により山王社、御嶽社が合祀されている」とのこと。
祭神は国常立命、大山咋命、日本武尊。他の天地社も祭神を国常立命としているようである。国常立命は、天地開闢の際に出現した神であり、日本神話の根源神とされる。享保十一年(1727)の頃は堀之内の明覚寺支配とされている。境内には江戸期の庚申塔、御神燈が残る、と言う。
明覚寺は鎌倉期に開かれたお寺様であり、田名の諏訪社、水郷田名の八幡社の別当寺でもあり、明治期は隣に役場が置かれるなど田名の中心的存在でもあったようだ。場所は先述の大杉池辺りであったようだが現在は廃寺となっている。

横浜水道みち
段丘崖の車道を上り切ると国道129号・上溝バイパス・上溝バイパス交差点。交差点の脇に斜めに一直線に進んで来た道がある。先ほど「古清水上組のやつぼ」の辺りから南東に一直線に下ってきている。道は緑道として整備されているように見える。ここから先は、先回の散歩で出合った相模原沈澱池付近へと一直線に向かう。

相模線・番田駅
上溝バイパスを越え成り行きで相模線・番田駅に。この駅、昔は上溝駅と呼ばれ、上溝駅は相模横山駅と呼ばれていたようである。番田の由来は不明だが、番所の役人のための田、とする地名が全国にある。
本日の散歩はこれで終了。思わぬ怪我で「途中退場」となってしまい、塩田さくら橋から南に続く段丘崖を終点まで歩くことも、水郷田名を彷徨うこともできなかった。次回のお楽しみとする。


先日、中津川台地を散歩したとき、この中津原台地って幾つかに分けられる相模原台地の段丘面のひとつであることを知った。Wikipediaに拠れば、「相模原(相模野)台地は、多摩丘陵と相模川に挟まれた地域に広がる台地。相模川中下流部の左岸に位置し、主に相模川の堆積作用によって形成された扇状地に由来する河岸段丘である。
大きく分けて3~5段、詳細には十数段の段丘面に区分される。台地の大部分は古い順に相模原面群、中津原面、田名原面群、陽原(みなはら)面群に分けられる。(中略)台地上は相模川によって運ばれた堆積物だけでなく、富士山や箱根山などからの噴出物を中心とする火山灰層(関東ローム層)によって覆われている」とある。
相模原台地のイメージとしては相模原にしても、橋本にしても、昔軍の軍需工廠があったところであり、現在は工廠に代わって工場群が建ち並ぶ平坦な台地にといったイメージしかなく、高位段丘面(相模原面群、中津原面)、中位段丘面(田名原面群)、低位段丘面(陽原(みなはら)面群)といった数段に分かれる段丘面から成るといったことは結構新鮮な驚きであった。
で、段丘面がある、ということはそれぞれの段丘面の境には崖線があるだろう、崖線があれば湧水もあるだろう、湧水があれば、それを水源とした清流もあるだろうと、俄然相模原台地散歩にフックがかかった。実際カシミール3Dで等高線に従い色分けした彩色図をつくると、明らかに段丘面が色分けされる。そして、その色分けされた段丘面を見るに、相模原面には境川、田名原面には道保川、姥川、鳩川が流れ、陽原面には八瀬川が流れていた。
ということで、相模原台地の崖線・湧水巡りに出かけることに。最初は上位面の相模原面と中位面の田名原面を区切る崖線・湧水散歩。二回目は中位面の田名原面と低位面の陽原面の崖線・湧水散歩とし、その後はどうせのこと、「後の祭り」があるだろうから、成り行きで、そのフォローの散歩でも、といった大雑把な段取りではある。



本日のルート;京王線・橋本駅>相模線・南橋本>国道129号>日枝神社>鳩川>姥川源流点>横山丘陵緑地・姥沢地区>照手姫遺跡の碑>横丘陵緑地・日金沢上地区>せどむら坂>榎神社>鏡の泉>日金沢橋>てるて橋>県営企業団・北相送水管>公共下水道雨水吐き室>道保川源流域>道保川公園>道保川>淡水魚増殖試験場>横浜水道みち緑道>姥川・枡田橋>姥川・鳩川合流点に >大正坂下交差点>道保川から鳩川との分水界を辿る>下溝八幡宮>姥川が鳩川に合流>鳩川・道保川合流>姥川分水路が相模川に>三段の滝>相模線・下溝駅

相模線・南橋本駅
京王線橋本から相模線に乗り換え南橋本駅に。相模線は神奈川県茅ケ崎駅と相模原市の橋本駅を結ぶJR東日本の路線。もとは、大正10年(1921)、相模川の砂利運送を目的に私鉄の相模鉄道として建設されたが、戦時中、首都東京が攻撃されたときに備え、首都圏の迂回ルート路線として国有化され、国鉄の民有化を経て現在に至る。
駅から成り行きで南に下り、国道129号・上溝バイパス「下の原」交差点に。この辺りから道は下りとなる。相模原段丘面と田名原段丘面の境に差し掛かった、ということだろう。

日枝神社
バイパス脇の坂を下る。道の北に日枝神社。作ノ口地区の鎮守さま。道脇に幾つかの石碑が建つ。中には「百番観音」と刻まれた石碑もあるようだ。その石碑は日枝神社の逆側、バイパスから分かれる脇道の「観音辻」にあったものが、道路拡張にともなってこの社に移された、と言う。日枝神社のあたりの坂を観音坂と称するようだが、その由来となる観音様であろうか。
鳥居を見ると、左は「日枝神社」、右は「蚕影山神社」、拝殿前の石碑は「御嶽神社」とある。幾多の神様が同居しているのは、明治期に集落の社を合祀したものだろう。拝殿にお参り。創建不詳。祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)。

○大山咋命
Wikipediaに拠れば、「名前の「くい(くひ)」は杭のことで、大山に杭を打つ神、すなわち大きな山の所有者の神を意味する、と。『古事記』では、近江国の日枝山(ひえのやま、後の比叡山)および葛野(かづの、葛野郡、現京都市)の松尾に鎮座し、鳴鏑(なりかぶら;注「音をたてて飛ぶ鏑矢」)を神体とすると記されている。
比叡山に天台宗の延暦寺ができてからは、天台宗および延暦寺の守護神ともされた。(中略)太田道灌が江戸城の守護神として川越日吉社から大山咋神を勧請して日枝神社を建て、江戸時代には徳川家の氏神とされ、明治以降は皇居の鎮守とされている。
比叡山の麓の日吉大社(滋賀県大津市)が大山咋神を祀る全国の日枝神社の総本社である。日吉大社には後に大物主神が勧請されており、大物主神を大比叡、大山咋神を小比叡と呼ぶ。山王は二神の総称である。大物主神は西本宮に、大山咋神は東本宮に祀られている」とある。

ところで、山王権現は日吉山王権現と称される。日吉山王権現という名称は、神+仏+神仏習合の合作といった命名法。日吉は、もともと比叡山(日枝山)にあった山岳信仰の神々のこと。日枝(日吉)の神々がいた。次いで、伝教大師・最澄が比叡山に天台宗を開き、法華護持の神祇として山王祠をつくる。山王祠は最澄が留学修行した中国天台山・山王祠を模したもの。ここで、日吉の神々と山王(仏)が合体。権現は仏が神という仮(権)の姿で現れている、という意味。つまりは、仏さまが日吉の神々という仮の姿で現れ、衆生済度するということ。本地垂迹というか神仏習合というか、仏教普及の日本的やり方、とも。

○蚕影神社・御嶽神社
蚕影神社(こかげじんじゃ)は、茨城県つくば市神郡に総本社のある社。正式表記(旧字体)は蠶影神社。蚕影神社は神衣を織るための養蚕、製糸、機織の技術伝来の地として養蚕の神を祀っている(Wikipedia)。
境内にある小さな祠が蚕影神社だろう、か。また、御嶽神社は明治期、一時合祀されたが、悪いことが続いたため再び元の場所に戻して祀るようになった、という。下九沢に御嶽神社があるが、それがこの御嶽神社だろう。
○観音辻
観音辻には「大山道」の石標が残る、という。八王子、橋本から作ノ口、上溝を経て下当麻に進み、当麻の渡しで上依知に渡り大山へ向かった道である。「埼玉往還」、「八王子道」などとも呼ばれた。
また観音辻付近、現在の「作の口踏切」辺りにその昔「相模線・作の口駅」があったが、相模線の国有化の際に廃止されたようである。

田名原段丘面
観音坂を下り切り、後ろを振り返るに崖線の斜面林が相模原段丘面と田名原段丘面を区切り、南西へと弧を描いて連綿と続く。段丘面の比高差は30mほど。フラットと思っていた相模原台地の段丘面のギャップをはじめて実感する。

■相模原台地
田名原段丘面も、はるか昔に相模川によって形作られたものと言う。相模原面の等高線を見ると、南西に向かって地形が下っている。もともと、といっても、はるか昔の、その又昔(50万年前)、相模川は多摩川方面へと流れ東京湾に注いでいた。それが、なんらかの地殻変動により地形に変化が起こり、30万年前頃、その流路を南に変え、橋本から藤沢にかけて大きな扇状地をつくった。これが相模原台地の土台となっている。その台地には40万年前から活動をはじめた箱根火山からの大漁の火山灰・軽石が降り注ぎ台地を覆っていった。これが5万年前頃まで続いた、とか。
その相模台地に変化が起こったのは5万年前から1万年前に起きた氷期。2万年前をピークとする氷期により海面が低下し現在より100mも低くなった、とのこと。その結果傾斜が急になった相模川の流れは急流となり、台地を開析し、新たな段丘面を形成した。これが田名原段丘面であり、おおよそ3万年ほど前のこととも言われている。
現在相模原段丘面にも田名原面に相模川は流れていない。氷期がピークを越えた後、6000万年前の頃と言うから縄文時代に温暖化が進み、氷が解け海面が上昇し、相模川の谷筋に海水が入り込んだ、とか。この縄文海進期に緩やかな傾斜となった相模川が「探し当てた」流路が現在の流路なのだろう。
相模原面の境川は往昔の相模川の名残とも言われる。また田名原面には現在、鳩川、姥川、道保川が流れる。往昔は崖線より湧き出した湧水が源流だろうが、さて現在はどうだろう。実際に歩いて確かめてみる。

鳩川
段丘面を分ける崖線の下を流れる姥川の源流点が最初の目的地ではあるのだが、「作ノ口交差点」のすぐ先に鳩川が流れる。この地の北、相模原の上九沢の大島団地付近にその源を発し田名原面を下り、海老名で相模川に合流する姥川は、この作ノ口交差点辺りでは、崖線から離れ段丘面の真ん中を流れるが、地形図をチェックすると源流部辺りでは相模原段丘崖傍を下っている。田名原段丘面形成に「貢献」したであろう鳩川に「敬意」を表し、ちょっと立ち寄る。市街地をゆったり流れる鳩川を眺め、姥川源流点に向かう。

姥川源流点
上溝バイパスを「作ノ口交差点」まで戻り、その右手にある姥川源流点に向かう。成り行きで道を進むと緑の植え込みといった一隅があり、そこから暗渠が続いている。この緑の植え込みの辺りが源流点でのようである。姥川源流付近は、工業用地からの排水や雨水対策のため河川改修工事が行われたようであり、その結果として現在の姿ではあろう。現在では崖線からの湧水といった風情とはほど遠い姥川の源流点である。

横山丘陵緑地・姥沢地区

源流点からの暗渠はすぐ終わり、排水兼流量調節用のような水門からコンクリート溝の開渠となって民家の間を流れる。この水門は昔の工業用地からの排水を行っていたときの名残なのだろうか。さすがに工場排水を垂れ流しはしていないだろうが、現在でも処理された工場排水や雨水が姥川の源流点へと流されているのだろうか。
源流からの流量の名残も見えない姥川が、この水門から先には清冽とは言い難い水が流れ出ていた。現在はわからないが、平成22年(2010)の記事には「姥川では上流部で水質管理されていない排水が流れ込んでいる」とあるので、現在もその状況が続いているのかもしれない。
突如水路が現れた姥川の流路を少し辿った後、流路から離れ相模原段丘面と田名原段丘面の崖線に整備された横山丘陵緑地に向かう。案内に従って歩を進めると、かつては崖線からの豊かな湧水に浸されてだろうと思われる緑地が現れた。

○「照手姫遺跡の碑」
緑地は谷戸と言った景観を呈し、緑地入り口から湧水によって刻まれた「谷」へと崖道を下る。緑地には木道が整備されたおり、先に進むと「照手姫遺跡の碑」があった。
碑文には「この地は姥川の水源地として常に清水こんこんと湧き出づる泉であった。里俗称するところによればかっては横山将監の娘照手姫の産湯の水に使い、長じては朝な夕なにその玉の肌をみがいたともいう。照手姫は小栗判官満重との説話の主である。
往時茫々 今や市勢進展とともに工業用地の排水路となり、清泉涸れはてて僅かにその伝承のみを残すにいたった。
巷間謡わるる ほんに横山照手の前の 眉に似たよな三日月がかかり 虫も音を引くほそぼそと の風情を偲びつつ 永くその跡を伝えんとするものである」と刻まれていた。

この石碑はもともとは、先ほど訪れた姥川の源流点辺りに昭和37年(1962)頃、河川改修を記念して建立されたようであるが、平成 14 年(2002)頃、姥沢地区の横山緑地が整備された時にこの地に移された。碑文にあった、「工業用地の排水路となり、清泉涸れはてて」といった下りは、当時の源流点での工事を記念して建立されたものであり、この地のことを指すのではないようだ。

○照手姫
照手姫って、説教節で名高い『小栗判官』の悲劇のヒロイン。この緑地の地名の由来とも言われる横山党一族の館がこの崖線上にあり、照手姫は横山氏の姫とか、あれこれ説はあるが、そもそも実在の人物かどうかもはっきりしていない。実際、甲州街道の小仏峠を越えた時、美女谷温泉に照手姫出生の地との伝説が伝わっていた。

 ○小栗判官
先日、相模のサバ神社を辿る散歩の折り、西俣野で「伝承小栗塚之跡」の石碑に出合った。諸説あるなかで、照手姫と小栗判官が最初に出合った地とされる西俣野に伝わる小栗判官と照手姫の話をメモする。
「小栗判官」は遊行上人が、仏の教えを上手な語りで人々に説き教える「説教節」のひとつ。中世(室町期)にはじまった口承芸能であるが、江戸期には歌舞伎や浄瑠璃の流行で廃れ今は残っていない。森鴎外の「山椒大夫」も説教節の「さんせう大夫」をもとにしたものである。

 で、その「小栗判官」であるが、常陸国の小栗城主がモデルとはされるも、「小栗判官」自体は創作上の人物ではある。物語も各地を遊行した時宗の僧(遊行僧)により全国に普及し、縁のある各地にそれぞれ異なった伝承が残り、また浄瑠璃、歌舞伎などで脚色され、いろいろなバージョンがあるようだが、西俣野に伝わる小栗判官の物語は、各地を遊行した時宗の僧侶の総本山である藤沢市遊行寺の長生院(元は閻魔堂とも称された)に伝わる物語をベースにしたものである。

その原型は室町時代、鎌倉公方と関東管領の争いである上杉禅秀の乱により滅亡した常陸国の小栗氏の御霊を鎮める巫女の語りとして発生。戦に破れ常陸を落ち延びた小栗判官。相模国に潜伏中、相模の横山家(横山大膳。戸塚区俣野に伝説が残る)に仕える娘・絶世の美女である照手姫を見初める。しかし盗賊である横山氏の知るところとなり、家来もろとも毒殺される。照手姫も不義故に相模川に沈められるが、金沢六浦の漁師に助けられる。が、漁師の女房の嫉妬に苦しめられ、結果人買いの手に移り各地を転々とする。
閻魔大王が登場。裁定により、小栗判官を生き返らせる。そのとき閻魔大王は遊行寺の大空上人の夢枕に立ち「熊野本宮の・湯の峰の湯に入れて回復させるべし」、と。上人に箱車をつくってもらい「この車を一引きすれば千僧供養・・」とのメッセージのもと、西へと美濃へ。
その地、美濃国大垣の青墓で照手姫が下女として働いていた。餓鬼の姿を見ても小栗判官とはわからないながら、5日の閑をもらい大津まで車を曳いていく。その後は熊野詣の人に曳かれ湯の峰の湯に浸かった餓鬼は回復し元の美男子に。やがて罪も許され常陸国の領主となり、横山大膳を討ち美濃の青墓で照手姫とも再会しふたりは結ばれた、って話。

なお、下俣野には小栗判官ゆかりの地が残る。下俣野の和泉川の西には閻魔大王が安置され、名主である飯田五郎右衛門宅にあったものが移管された地獄変相十王絵図、閻魔法印、小栗判官縁起絵が残る花応院などがある。

横山丘陵緑地・姥沢地区を彷徨う
「照手姫遺跡の碑」から少し谷頭に近い崖線方向へと彷徨っていると、排水管なのか導水管なのか、ともあれ水管が残っていた。その時は、乏しくなった姥川源流域の湧水を補う相模原段丘面の雨水「養水」口だろうか。
崖線から「照手姫遺跡の碑」に戻り、緑に囲まれた木道を先に進む。嘗ては豊であっただろう湧水地も、現在ではちょっと湿った、といった程度でしかない。それでも足元の一面の緑は気持ちいい。崖線上下の比高差も20m以上はありそうだ。

○照手姫伝説伝承の地・イラストマップ
歩を進め、横山丘陵緑地が姥川に接する辺りに到ると、地面はまったく「湿気」はなくなる。姥川脇には「照手姫伝説伝承地」の案内と「てるて姫の里 ロマン探訪の小路イラストマップ」。
「照手姫伝説伝承地」には、市内に残る照手姫伝説伝承地として、この横山段丘崖を中心に、姥沢地区の他、姥沢源流域や姥沢地区に接する日金沢(ひがん)沢、横山台の榎神社、下溝の古山地区などにその伝承が残されている、とあった。古山地区はここからちょっと離れているため今回辿ることはできそうもないが、そこには伝承地は「十二塚」とか「ババヤマ」といった伝承地が残ると案内されていた。
また、「イラストマップ」には、照手姫遺跡の碑は、清水の湧き出る姥川最上流部からこの地に移されたこと、現在地から少し姥川を遡ったところに照手姫と乳母の日野金子の姿を描いた「姥沢幻想の碑」、姥川を少し下ったところには照手姫が姿を映し化粧をしたという「鏡の泉」、台地上には榎神社などが残ると紹介されていた。その案内を頼りに榎神社と鏡の泉を訪れることにする。

横山緑地・日金沢地区
先に進むと、横山丘陵緑地の姥沢地区と日金沢地区の境を示す道標。日金沢は「ひがんさわ」と読む。照手姫の乳母である日野金子由来の地名、と言う。

せどむら坂
ほどなく「せどむら橋」。橋から「せどむら坂」が崖線を上るが、橋の脇に道祖神や「せどむら坂改修記念」の石碑が並ぶ。坂の名の由来は坂下にあった村名、から。
ヘアピンカーブの坂を上る途中に横穴。入口が木の柵で守られえている。横穴古墳なのか、鎌倉に見られる「やぐら;墓穴」なのか、説明もなく不明である。

榎神社
坂を上り切り崖線を切り裂く相模線を越え、道を右に折れ線路に沿って進み、行き止まりを左に折れると榎神社があった。ささやかな境内に照手姫が祀られている。
案内には「この神社は「榎さま」として親しまれ、伝説の人物照手姫を祀っている。照手姫は武将横山将監の娘で、敵方の武将小栗判官と恋仲になる悲劇の主人公であり、相模原の昔話にも残されている。
榎神社の神木であるこの大榎は、明治18年(1885)に植えられた二代目であるが、初代の榎は照手姫がさした杖に根づいたもので、枝が下を向いた「さかさ榎」であったと伝えられている」とあった。
その初代の榎であるが、あまりにも大きくなり、付近の耕地の日当たりが悪くなり、ために明治16年(1884)頃切り倒したところ、村民に疫病が蔓延したため二代目の榎を植えたとのことである。




○姥沢の横山党

横山党とは児玉党、村山党など共に鎌倉幕府の中核となった武蔵七党のひとつ。多摩の横山庄を中心に武蔵の各地に勢力を拡げた。またその勢力は南下して愛甲氏を破り相模に橋頭堡を確保。一族が愛甲氏を名乗り、海老名氏や波多野市との姻戚関係を結ぶなど相模に勢力を拡げ各地に進出。その地名を性として相模に覇を唱える。相原、小山、矢部、田名など、現在も地名にその名残を残す。その横山党は建保元年(1213)の和田合戦で和田義盛に与し北条氏に敗れ勢力を失うことになる。
で、この照手姫伝説との関連での横山氏であるが、時代は室町で横山党は和田合戦で壊滅しているわけで、由緒ある「横山党」、というより、最初に『小栗判官』ありき、ということで、その話の中に登場する横山某がこの地に住んでいた故の後付けではないか、という説が妥当なところ、かと。

鏡の泉
榎神社を離れ、再び崖線の坂を下り姥川脇に戻る。緑の斜面林に覆われた崖線下を流れる姥川に沿って少し下ると流路脇に「鏡の泉」。崖線下の岩の間から湧水が流れ出している。姥川に湧水からの水が注ぐのは、ここがはじめて。上にメモしたように、照手姫が姿を映し化粧をしたいという話が残る。

日金沢橋
鏡の泉を少し下った川脇に「相模原市の多自然川つくり(姥川)」の案内。「姥川は、中央区上溝1丁目からはじまり田名原段丘を東に流れ南区下溝で鳩川に合流し相模川へ流れ込む延長6.5キロの河川です。
河川改修を実施する上で、自然環境等に配慮した「多自然川つくり基本方針」を踏まえ、横山丘陵地からの地下水・湧水が自然と流れ込むよう、石材等を詰めた鉄線カゴ(カかごマット)を使用し、常時水が流れる部分は捨石等により蛇行させ、瀬や淵など多様な流れを創出する整備を行っています。これらにより安定的な水循環を確保し、併せて川自身が持つ浄化作用の再生を図る事業を行っております」とあった。
川に沿って歩くと、なるほど説明にあった護岸整備が見て取れる。日金沢橋を越えた辺りでは、鉄線カゴ(カかごマット)の護岸がよくわかる。目には見えないけれど崖線からの湧水が上流部で排水に少々汚れた姥川の水を浄化しているのであろう。

てるて橋
日金沢橋を越えた辺りから姥川は崖線を離れ始める。それにつれて、川の周囲には住宅が建ち並び、自然の景観は乏しくなってくる。先に進むと大きな通りに橋が架かる。この通りは相模線・上溝駅前からの通りでもあり、人通りも多い。少し読みにくいのだが、「てるて橋」と刻まれているようだ。

姥川の源流点辺りから崖線を切り割って走ってきた相模線も上溝駅から大きく弧を描いて田名原段丘面に下りてくる。相模鉄道も南武線や東急玉川線、京王相模原線、西武多摩川線など多くの鉄道事業者と同様、その発足時の主要事業が「砂利採取」であったわけであるから、相模川に近づくのは当然ではあろう。

県営企業団・北相送水管
「てるて橋」を越え、「堰の橋」から「田中橋」へと下る間に姥川にブルーにペイントされた大きな送水管が見える。何となく気になってチェックすると、この水管は神奈川県企業庁(神奈川県が経営する地方公営企業。住民の福利厚生を目的に税金ではなく、独立採算で運営される)がおこなう水道事業網の水管。県営企業団の水道事業は相模川水系の寒川や谷ヶ原で企業庁が取水した自己水源、そして酒匂川・相模川の水を水源とする神奈川県内広域水道企業団(神奈川県、横浜市、川崎市、横須賀市が昭和44年に共同で設立した「特別地方公共団体」)からの受水をもとに、湘南、県央、県北及び箱根地区など12市6町を給水区域とし、神奈川県民の約31パーセントにあたる約278万人に給水している。
で、この水管はその中でも、相模ダムでの発電放流水を下流の沼本ダムで取水し、津久井隧道を経て津久井分水池(津久井湖から西に下る相模川が大きく南に流路を変える辺り)に導き、分水池で県営水道、横浜水道、川崎水道などに分水。県営水道に分水された水は、津久井分水地のお隣にある県営谷ヶ原浄水場で浄水され水道水となり、相模原、厚木、愛川町の45万人を潤している水道網の一環のよう。

○北相送水管の経路
北相送水管の大雑把な経路は谷ヶ原浄水場から、相模川に沿って大島地区に下り、渓松園辺りから県道48号を大島北交差点まで進み、交差点から左に折れ北東に向かい六地蔵に。そこから南東に「作の口交差点」方向へと下り、この地で姥川を渡る。
姥川を渡った水路は南東へと南下を続け、虹吹、七曲をへて、途中相模原に分水しながら、下原交差点で県道52号に当たる。北相送水管は県道で右に折れて県道にそって進み、相模川を昭和橋で渡り中津工業団地当たりの中津配水池に到る。
何気なく撮った一枚の水管写真から、神奈川の送水ネットワークの一部が見えてきた。ちょっとしたことにでも好奇心を、って成り行きまかせの散歩の基本を改めて想い起こす。

公共下水道雨水吐き室
田中橋から川筋を離れ、築堤上を走る相模線をくぐり、久保ヶ谷戸地区に入る。左手に再び崖線の緑の斜面林を見遣りながら宅地化された一帯を成り行きで進むと水道施設らしき構造物と敷地がある。名称をチェックすると「公共下水道雨水吐き室」とあった。
雨水調整池は散歩の折々によく出合うのだが、「雨水吐き室」って言葉ははじめてなのでチェックする。下水道には下水と雨水を別々の管渠で管理する「分流式」と同一の管渠で管理する「合流式」のふたつがあり、「雨水吐き室」は「合流式」の管理方式のひとつ。
この方式では、通常下水は処理場に送られるが、大雨時などに大幅に(晴天時の下水量の3倍から5倍程度)流入したとき、大雨で希釈された下水を室内にある堰を越流させ河川に排出方式のよう。その吐き出し口だろうか、雨水吐き室の少し下流の姥川右岸に、おおきく口を開けた箇所が見える。

道保川源流点
蛇行し、一時崖線に近づいた姥川と離れ崖線方向へと進む。次の目標は少し崖線から離れた姥川に代わり、相模原面と田名原面を画する崖線下を流れる道保川への「乗り換え」のためである。
道脇の小祠にお参りし、崖線を切りさいた車道の「丸崎交差点」に出る。交差点から崖線下を通る道を進んでいると、道脇に崖線に入るアプローチが目に入った。このアプローチが道保公園に続くかどうか不明ではあるが、とりあえず小径に入り込む。小径は道保川公園へと続いていた。
道保川の源流点であろう一帯は湿地と水草に覆われて誠に美しい。湿地には木道が整備されているが、道保川の源流点を求め一帯を彷徨う。グズグズの泥湿地ではあるが、崖下から流れ出すささやかな湧水を見てはちょっと幸せな時を過ごす。
○道保川
道保川は相模原市の上溝地区の道保川公園にその源を発し、模原段丘面と田名原段丘面を画する崖線下を流れ、下溝で鳩川に合流する延長4キロ弱の河川。水源は段丘崖線からの湧水を主源とし、ポンプアップされた環境用水(地下水)。源流点から続く崖線の斜面林と合わせその豊かな環境保全への取り組みが成されている。

道保川公園
源流点一帯から崖線に沿って整備されている道保川公園を進む。進むにつれて如何にも公園といった風情となり、水草の茂る湿地の中の木道を進む。湿地は崖線に沿って南北に延びているが、湿地からは崖線の斜面林に向かって大小いくつかの沢が伸びている。
最初に現れるのが「さえずりの沢」。この沢は野鳥観察をテーマとしている。ついで「こもれびの沢」は山野草観察、「ふたご沢」は森林生態観察がそのテーマとなっており、公園南端の「水鳥の池」の周囲は「せせらぎの沢」と名付けられている。そのせせらぎと野鳥のさえずり故か、平成8年(1996)には環境庁より「残したい"日本の音風景100選"」のひとつに選定されている。
公園内を気ままに彷徨う。沢のテーマに関係なく、沢の谷頭辺りで滲み出す湧水、それが溜まった小池、いかにも「山葵田」跡といった石組みが残る。まさしく「谷戸」といった景観が残る。実際、この地が公園として整備される前は谷戸田であり、山葵が栽培されていたようである。

この豊かな湧水に恵まれる道保川源流域も、昭和55年(1980)代より湧水量の低下が顕著となり、沢が涸れるといった状況になったとのこと。原因は崖線上の湧水涵養地である相模原段丘面の宅地化。
相模原を象徴する地形のひとつである、「河岸段丘と斜面林、豊富な湧水、せせらぎを包括的に保全するための施策」が実施され、現在は湧水だけでなく補助水源として地下水を6基のポンプで揚水、また10mから20mの井戸掘削も計6本整備されている。現在、湧水とポンプ揚水量の構成比は豊水期は湧水が10倍程度、渇水期(1月下旬から)でも2,3倍はあるというから、湧水量が低下したというものの、豊かな崖下からの湧水に恵まれている。
豊かな水を湛えた水鳥の池の脇を抜け、久しぶりに湧水を源流とする川の源流域を堪能し公園を離れる。

南へと続く崖線の斜面林
公園を出ると、相模段丘面よりの七曲り坂の下り口辺りで道保川の水は一瞬地表から姿を消すが、道の対面で再び顔をだす。水路は公園での風情とは異なり、深く刻まれた谷となる。南へと連綿と続く崖線の斜面林や道保川の谷筋は野趣豊かであり、谷筋を歩くことはできそうもない。
道保川の谷筋を見下ろしながら道を進む。道保川も道から離れたり、近づいたはするものの、谷筋は整備されておらず道から見下ろすのみ。崖線から流れる沢水を合わせた先に、相模段丘面から下る車道の上中丸交差点に。

淡水魚増殖試験場
道を進み、成り行きで道保川近くを通る小径を進むと道保川と道の間に、いくつかの水槽をもつ施設がある。地図には「淡水魚増殖試験場」とあった。が、あまり活動をしている雰囲気はない。昭和40年(1965)から全国に先駆けて鮎人工種苗生産技術の開発などをおこなったようだが、平成7年(1995)に水産総合研究所内水面試験場として相模原市大島に移転した、とのことである。

横浜水道みち緑道
小径から「下原やえざくら通り」にそって少しすすむと、道の左手の住宅街の中から異様に一直線の道がクロスしてきた。ちょっと気になり周囲を注意すると、道脇に案内があり、「横浜水道みち緑道」とあった。
案内によると、「横浜水道みち トロッコの歴史;三井用水取入れ所から17.5km。この水道みちは、津久井郡三井村(現:相模原市津久井町)から横浜村の野毛山浄水場(横浜市西区)まで約44kmを、1887年(明治20年)我が国最初の近代水道として創設されました。運搬手段のなかった当時、鉄管や資機材の運搬用としてレールを敷き、トロッコを使用し水道管を敷設しました。横浜市民への給水の一歩と近代消防の一歩を共に歩んだ道です(横浜市水道局)」とのこと。
緑道を道保川に向かう。水路橋か水路管など見えないものかと先に進むと橋がある。水路橋はない。それでは水路管など橋下を通っていないものかと橋の両岸をチェックするが柵や木々に遮られ橋下を見ることができない。で、辺りを彷徨っているとフェンスに案内があり「深度;計画川床下6.338m下 外径Φ1500mmコンクリート管 内径Φ1500mmダクタイル鋳鉄管」といった表記がある。昔は水管橋があったようだが、現在は水路管はコンクリート管と二重構造となって川床下を通っているようである。
「横浜水道みち緑道」は崖線から相模原段丘面へと上る。横浜水道みちは自然流下方式であり、下から上って、とは思うのだが、開渠でなく鉄管であれば、取水口と最終配水池の標高差があれば、途中での凸凹は問題ない、とのことである。実際取水口辺りの標高は142m、最終地の野毛山は40m程度である。もっとも、これは創設期の明治の頃であり、その後の改修工事などでポンプによる揚水なども可能になっているのかとも思うのだが、確証はとってはいない。

○横浜水道みち
戸数わずか87ほどであった横浜は、安政6年(1859)の開港をきっかけに急激に人口が増加。しかし横浜は、海を埋立て拡張してきた地であり、井戸水は塩分を含み、良質の水が確保できない状況にあった。
このため当時の神奈川県知事は、横浜の外国人居留地からの水確保への強い要望や、明治10年(1877)、12年(1879)、15年(1882)、19年(1886)と相次いで起きた伝染病コレラの流行もあり、香港政庁の英国陸軍工兵少佐H.S.パーマー氏を顧問として、相模川の上流に水源を求め、明治18年(1885)近代水道の建設に着手し、明治20年(1887)9月に完成した。その後、明治23年(1890)の水道条例制定に伴い、水道事業は市町村が経営することとなり、同年4月から横浜市に移管され市営として運営されるようになり、現在横浜市水道局の管轄にある。
相模川が山間を深く切り開く上流部、案内にもあった、川井接合井から野毛山浄水場までの起伏の多い丘陵などを、基本、一直線に貫く水路の建設は難航したと言う。また、近代水道の要ともなる水路管(グラスゴーから輸入)を現場に運ぶには、相模川を船で上流に運び上げたり、この案内にもあるように、トロッコ路を敷設し水管を運び上げたとのことである。

経路を見るに、津久井分水池から相模川に沿って大島・清水地区まで下り、そこから田名原段丘面と陽原段丘面を画する段丘崖辺りを、一直線でこの地まで進み、相模原公園の南を通り横浜市保土ヶ谷区の川井浄水場に向かい、そこから鶴ヶ峰を経て少々方向を変えながらも、基本一直線で野毛山浄水場に向かう。 経路や施設なども創設時と現在では状況も大分異なっているとは思う。実際、この地から緑道を辿った崖線の相模原段丘面にある相模原沈殿地は、昭和29年(1954)の第四回拡張工事の際に竣工された横浜水道みちの施設と聞く。そのうち、一度実際に歩いて実感してみたいと思う。

姥川・枡田橋
横浜水道みち緑道を離れ、先に進むと県道52号に当たる。この辺りが道保川と姥川が再接近しているところ。ふたつの川を分ける地形は一見する限りは平坦な市街地といったもの。道保川筋から姥川へと乗り換えるべく県道52号を西に向かうと、ほどなく姥川にかかる枡田(しょうだ)橋に出合った。坂を上った実感もなく、地形図で標高を確認すると、道保川脇が標高70m、姥川への分水界の標高は73mといったものであった。




姥川・鳩川合流点に

地図を見ると枡田川から少し下った辺りで、姥川は鳩川に合流する。合流点の雰囲気を確認すべく、姥川に沿って下る。川脇に道はないため、道なりに南に進み姥川が鳩川に合流する地点に。散歩の初めに、田名原段丘面に下りたとき、崖線から既に離れ、崖線下の流れを姥川に「任せた」鳩川が、この地でやっと合流した、といった様である。

鳩川から道保川に乗り換え大正坂下交差点に
都市河川といった趣きの鳩川を成り行きで下り、これまた成り行きで道保川へと分水界を越える。分水界といっても姥川の標高が68m、分水界が70m、そこから65mの道保川筋へと下る、といったものであり、エッジの効いた分水界越えとはほど遠い。下りきったところは大正坂下交差点。再び南に連綿と続く崖線の斜面林が見えてきた。
葛篭(つずら)折れ大正坂は地質フリークには有名な坂のようである。切り通しには関東ローム層が剥き出した露頭を観察できる階段まで整備されているようだ。地質・地層にフックがそれほどかからない小生はそのままスルー。

道保川から鳩川との分水界を辿る
美しい緑を保つ道保川を下り、道保川が鳩川に再接近するあたりで鳩川に乗り換えるべく分水界に向かう。道保川の標高は62mほどだが、比高差3mほどの分水界というか「尾根道」に上り、鳩川を眺め、再び分水界に戻る。

下溝八幡
道なりに進むと、広い境内の社が見える。鳥居をくぐって参道をすすむと、少々小振りな本殿。境内右手にはトタン葺きの神楽伝や不動堂があった。祭神は応神天皇。本殿は新築されている。平成24年(2012)不審火で焼失したようである。
境内にある案内によると、「この神社は、天文(1532~55)年間に溝郷が上溝と下溝の両村に分かれた際に、下溝村の鎮守として上溝村の亀ヶ池八幡宮から勧請されて創建された神社と伝わる。また、中世の屋敷跡と思われる「堀の内」と呼ばれる地点からみて、その裏鬼門(西南)にあたるので、ここに建立されたとの説もある。
参道の脇にある小祠には、市の重要文化財に指定されている不動明王坐像が安置されている。これは享保9年(1724)に後藤左近藤原義貴(よしたか)が製作したもので、もともとは別当大光院の本尊であった」とある。

○堀之内
堀の内の由来は、北条氏照の娘・貞心尼が家臣山中大炊助に嫁いだ館および家臣団の居住域とか。また化粧田として上溝、下溝の地が与えられたという。 中世には鳩川・姥川沿いに「溝」という地名があり、その後上と下に分かれるが、その地はおおよそ田名原段丘面であり、八王子往還(大山道)が通り、定期市が開かれ、明治には警察所や学校が置かれるなど行政・経済の中心地であったようだ。その頃、水の乏しい段丘上の相模原は文字通り一面の原野が拡がっていたようであり、相模原段丘面が開けていったのは昭和5年(1930)頃からの相模原面での軍都構想の進展による、とのこと。

道保川と鳩川の合流点
下溝八幡を離れ、道なりに進み道保川筋に戻る。下溝八幡の標高は65m、坂を下りきったところの道保川に架かる泉橋の標高は59mであるから、6m程度の比高差があった。泉橋の上流には川床に緑も多く、自然のままなのか、環境整備の故なのか定かにはわからないが、ともあれ未だ美しい川の姿を保っている。
泉橋から西に向かい鳩川に架かる大盛橋に。こちらは都市河川といった趣きである。大盛橋を下流に進むと鳩川に道保川が合流する。道保川も鳩川との合流点はコンクリートの壁がつくられている。ここでやっと田名原段丘面を流れる鳩川・姥川・道保川が一本になった。

鳩川分水路
道保川の水を集めた鳩川は流れを東に向け相模川に注ぐ。水路を相模川方面に進むと大下(おおじも)橋が架かるが、そこには「鳩川分水路」とあった。鳩川の水を相模川に「吐く」ために昭和63年(1988)に建設されたもの、と言う。大下橋の先は相模線が走り、その先の県道46の先には相模川、その向こうには丹沢の山塊が拡がる。

南下する鳩川
鳩川放水路が相模川に合流する姿を見る前に、道保川と鳩川の合流点あたりを彷徨っていると、道保川が鳩川に合流する手前から南に水路が延びる。地図で確認すると「鳩川」とあった。鳩川はこの分水路の先も南下し、海老名辺りで相模川に注ぐ、と言う。水量もこの地から南は大幅に少なくなっている。
地図で鳩川流路をチェックしていた時は、鳩川と道保川が合流し相模川に注ぐこの地が鳩川の終点であろうし、そうすれば崖線もこの辺りで切れる、ということは田名原段丘面も此の辺りで相模川の沖積地へ埋没するものと思っていたのだが、崖線の斜面林は南に連綿と続いている。田名原段丘面はこの先も南に続くようである。地形を見るに、なるほど鳩川分水路は崖線を切り通し、相模川に力技で水を抜いているようである。
鳩川分水路建設の主因は何だろう。この鳩川分水路だけであれば、都市化・宅地開発による大雨時の洪水対策などと妄想もできるのだが、この鳩川放水路のすぐ南に昭和8年(1933)に建設された鳩川の分水路、正式には「鳩川隧道分水路」があるわけで、その頃に都市化がそれほど進んでいるとも思えない。鳩川自体が暴れ川であったのだろうか。はてさて。

三段の滝
相模線の鉄路に遮られる鳩川分水路を離れ、成り行きで鉄路を迂回し。県道46号・新磯橋を渡り相模川の崖線上にある新磯橋入口交差点に。この崖線は中位の田名原段丘面と低位の陽原段丘面を画するものであろうが、大雑把に言って、この地で陽原段丘面の崖線が田名原段丘面の崖線に合わさり埋没することになるのだろう。
崖線上からは相模川の広大な河川敷、対岸の中津原段丘面、その向こうに丹沢の山塊が一望のもと。誠に雄大な景観である。
交差点脇から河川敷の整地された公園に下りる階段がある。最後の仕上げに、相模川から鳩川の分水路を眺めるため階段を下りる。公園には分水路正面に橋が架かり、そこからは「三段の滝」がよく見える。滝といっても、自然のものではなく、段丘上からの放流水勢を緩やかにするため設けられた段差によって生じる「滝」ではあるが、水量も多く、なかなか迫力があった。

相模線・下溝駅
上にメモしたように、鳩川分水路の南には昔の分水路である「鳩川隧道分水路」もあり、そこにも三段の滝がある、とのことだが、想定と異なり田名原崖線は更に南に続きここで田名原崖線散歩は、この地で終わりとはならず、更に先に進む必要もある、ということで、「鳩川隧道分水路」は次回以降のお楽しみとする。 公園から崖線上に戻り、県道46号を少し北に戻り相模線・下溝駅に向かい、一路家路へと。
京王線の駅で何げなくポスターを見ていた。府中郷土の森博物館で宮本常一さんの展示がある、と。民俗学者。とはいうものの、ひたすらに日本各地を歩き回った、といった断片的なことしか知らない。いい機会でもあるので宮本常一さんの業績・人生の一端にでも触れるべし、ということで、府中散歩にでかけることに。

地図を眺めていると、郷土の森博物館から6キロ程度西の国立に、城山公園とか「くにたち郷土文化舘」のマーク。距離も丁度いい。郷土館のあとは、府中から国立に歩くことにした。
(2009年9月の記事を移行)



本日のルート;京王線・分倍河原駅>南武線に沿って東に>かえで通り>税務署前>本町西・中央高速と交差>新田側緑道>郷土の森博物館>多摩川堤通り・府中多摩川かぜの道>県道18号線・関戸橋北(鎌倉街道)>京王線交差>府中四谷橋>石田大橋>100m程度で北に>泉地区>中央高速交差>南養寺南・くにたち郷土文化舘>青柳河岸段丘ハケの道>谷保地区・城山公園>浄水公園>厳島神社・谷保天満宮>国道20号線・甲州街道>南武線・谷保駅

京王線分倍河原駅

京王線に乗り分倍河原に。いつだったか、この駅の北にある高安寺に訪れたことがある。平安時代に俵藤太こと藤原秀郷が開いた見性寺がはじまり。俵藤太って、子供の頃「むかで退治」の物語を読んだことがある。また、先般の平将門散歩のときにメモしたように、将門を討伐した武将でもあった。
この見性寺、義経・弁慶主従も足を止めている。頼朝の怒りを解くべく、赦免祈願の大般若経を写した「弁慶硯の井」跡が残る。南北朝期には新田義貞が本陣を構える。戦乱の巷炎上し荒廃。室町期にはいり、足利尊氏が高安護国寺として開基。関東管領上杉憲実討伐のため鎌倉公方・足利持氏がここに陣を構えている。永享の乱のことである。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
また、足利成氏のこもるこの寺に攻め込んだ上杉軍を成氏が破っている。享徳の乱における「分倍河原の合戦」のことである。その後も鎌倉街道の要衝の地ゆえに、上杉・後北条軍の拠点として戦乱の舞台となる。で、度々の戦乱で荒廃し、江戸期に復興され現在に至る。

駅を下り、南武線に沿って東に100mほど進む。けやき通りを南に折れる。けやき、って府中市の市の木だったか、と。ちなみに市の花は梅。南に進む。税務署前交差点を越え、本町西で中央高速と交差。

新田川緑道

先に進むと新田川緑道に。分倍河原って、新田義貞と北条軍が争った分倍河原の合戦の地。新田川の名前の由来は新田義貞からきているものであろう、と思っていた。が、どうもそうではないらしい。読みも「しんでんがわ」。江戸時代の新田開墾に由来する、とか。

郷土の森博物館

新田川緑道に沿って、東南にくだる。緑の中に「郷土の森博物館」はある。入口で入場料200円を払って館内に。単に郷土館があるだけではなく、昔の民家などの復元建築物や水遊びの場所といった施設もある。

宮本常一さん

展示ホールに。「宮本常一生誕100年記念事業;宮本常一の足跡」という特別展示が行われていた。入口で宮本常一氏の足跡をたどった30分のビデオ放映。大雑把にまとめる;広島県の瀬戸内に浮かぶ周防大島の生まれ。教師になるべく、大阪の高等師範学校に。徴兵で大阪の8連隊に入営。
8連隊といえば、子供の頃父親に「大阪の8連隊はあまり強くなく、また負けたか8連隊」といったせりふが言われていたと、聞いたことがある。事実かどうか定かではない。ともあれ、この8連隊に入隊しているとき同期の人から民俗学のことを教わった、と。
除隊後、小学校の教員。このとき田舎の周防大島のことを書いた原稿が民俗学者・柳田國男の目にとまる。同好の士を紹介され研鑽に励む。渋沢敬三氏の突然の来訪。敬三氏は渋沢栄一の孫として、第一銀行の役員といった実業界での要職とともに、民俗学者としても活躍。宮本氏は渋沢敬三氏の援助もあり、大阪から東京に上京。敬三氏の邸内のアチック(屋根裏部屋)・ミュウジアム、後の「常民文化研究所」の研究員となる。

宮本常一は旅する民俗学者として有名。生涯に歩いた距離は16万キロにもおよぶという。全国各地を旅し、フィールドワークを行い、地元の古老から聞き書きをし、貴重な記録をまとめあげる。著作物も刊行し、実績もあげる。が、第二次世界大戦。渋沢邸も焼け、大阪の自宅も焼失。膨大な量のノートが消え去ったと。戦後は民俗学者というだけでなく、農林振興・離島振興に尽力。また、佐渡の鬼太鼓座とか周防の猿まわしといった芸能の復活にも尽力した。

後半生は武蔵野美術大学の教授、日本観光文化研究所(近畿日本ツーリスト)の所長として後身の育成に努める。ちなみに、研究所発行の月刊誌『あるくみるきく』のサンプルにおおいに惹かれる。どこかで実物を手に入れたい。
で、宮本氏と府中との関係は、昭和36年からなくなるまでの20年、自宅を府中に置いたこと。また、郷土の森博物館の建設計画にも参与した、と。著作物には『忘れられた日本人』など多数。未来社から『宮本常一著作集』が現在まで50巻刊行。すべてをカバーすると100巻にもなるという。

素敵なる人物でありました。歴史学者・網野善彦さんも『忘れられた日本人』についての評論を書いている。30分の紹介ビデオでも網野さんからの宮本常一さんに対するオマージュといったコメントもなされていた。
網野さんは『無縁・苦界・楽;平凡社』以来のファン。網野さんが大いに「良し」とする人物であれば本物に違いない。更に惹かれる。ちなみに網野さんは宗教学者の中澤新一さんの叔父さんにあたる。その交流は『ぼくのおじさん;集英社』に詳しい。

特別展示を眺め、関連図書を購入。買い求めた『忘れられた日本人を旅する;宮本常一の軌跡;木村哲也(河出書房新社)』を、帰りの電車で読んでいると、その本文に司馬遼太郎さんの宮本常一さんに対するコメントがあった;「宮本さんは、地面を空気のように動きながら、歩いて、歩き去りました。日本の人と山河をこの人ほどたしかな目で見た人はすくないと思います」、と。折に触れ著作物を読んでみたい。手始めに『忘れられた日本人』『塩の道』あたりを購入しよう。

多摩川堤「府中多摩川かぜの道」

2階の常設展示会場を眺め、博物館を離れ多摩川堤に。次の目的地である国立の城山(じょうやま)公園には、この堤防上の遊歩道・「府中多摩川かぜの道」を辿ることにする。距離はおよそ6キロ強、といったところ。
実のところ、先日の秩父の山歩きで膝を少々痛めていた。今週はアップダウンのある地域への散歩は控えるべし。ということで、この平坦な遊歩道は丁度いい。唯一の「怖さ」はサイクリング車。高性能の自転車なのだろうが、すごいスピードで走ってくる。それも半端な数ではない。「歩行者優先。自転車スピード注意」と路面に表示してはあるが、あまり効き目なし。こんな気持ちのいいサイクリングロード。飛ばす気持ちはよくわかる。

川の南に多摩の丘陵

川の南に聳える多摩の丘陵を意識しながら堤を進む。博物館の対岸の丘陵は多摩市・連光寺あたり。明治天皇行御幸の地とか小野小町の碑がある、と。乞田川が多摩川に合流している。後方、東方向に見える鉄道橋は武蔵野貨物線と南武線。先日南武線の南多摩駅で下り、城山公園をへて向陽台に向かったことを思い出した。城山は大丸城があった、というが、城主などはわかっていない。城山公園から西に続く広大な丘陵は米軍多摩レクリエーションセンターであろう。フェンスに沿って山道を城跡のある山頂までのぼっていったことが懐かしい。

関戸橋

1キロ程度西に進むと関戸橋。関戸橋の南は乞田川によって分けられた谷地。乞田川(こったかわ)は多摩市唐木田が源流。唐木田駅近くの鶴牧西公園あたりまでは水路を確認できるが、それより上流は暗渠となっている。
乞田川によって開析されたこの道筋は多摩センターに続く。鎌倉街道上道と言われている。関戸5丁目と6丁目の熊野神社のところに霞ヶ関という関所があった。新田義貞と北条軍が戦った古戦場跡でもある。世に言う関戸合戦である。

関戸の小野神社に想いを馳せる

多摩川堤を少し西に進むと京王線と交差。対岸は関戸地区。関戸の渡しのあったところ。鎌倉街道の関戸と中河原を結んでいた。昭和12年の関戸橋の開通まで村の経営で運営されていた、と。
その少し東は一ノ宮。小野神社が鎮座する。古来、武蔵一の宮と称される古社。とはいうものの、先日歩いた埼玉・大宮の氷川神社も武蔵一の宮。大宮のほうが格段に規模も大きい。この小野神社はそれなりに大きいとはいうものの、氷川神社に比すべくもない。
どちらが「本家」という「元祖」一の宮かと、いろいろ説明されている。武蔵国成立時、それまでの中心地であった大宮を牽制すべく府中に国府を置き、国府に近い小野神社を一の宮とした、といった説もある。氷川神社に代表される出雲系氏族を押える大和朝廷の宗教政策、とも考えられるが、これは私の勝手な解釈。こ れといった定説は聞いていない。
もっとも、一ノ宮って、公的な資格といたものではなく、いわば、言ったもの勝ち、といったもののようだ。なにがしか、周囲が納得できる、「なにか」があれば、それで「一ノ宮」たり得た、とか。
小野神社の祭神は秩父国造と大いに関係がある。これは小野氏が秩父牧の牧司であったため。武蔵守に任官してこの地に来るときに秩父神社の祭神をこの地にもたらしたのではないか、と。ともあれ秩父と府中を結ぶつよいきずながあった、よう。大国魂神社も含めそのうちにちゃんと調べてみたい。

府中・四谷橋
更に西に1キロ程度進むと「府中・四谷橋」。国立・府中インターで下り、多摩センターのベネッセさんに行くときに通る道。その東は百草園。
いつだったか高幡不動から分倍河原に向かって歩いたとき、程久保川に沿って進んだ道筋。淺川も合流しており、川筋も広くこころもち、野趣豊かな風情である。ほどなく「石田大橋」。府中・四谷橋から2キロ程度の距離だった。

程久保川は日野市程久保の湧水を源流とし、多摩動物公園とか高幡不動の前を通り多摩川に合流する4キロ程度の川。古い名前が「谷戸川」。名前の通り、河岸段丘を穿って里山に谷戸とか谷津とよばれる谷地を形成していた、と。淺川は陣場山あたりを源流とする全長30キロ強の河川である。流路の長さに比して川床が高かったよう。ために氾濫を頻発する暴れ川であった、とか。川床が高かったことが、「浅川」と関係あるのかも?

国道20号線・日野バイパス

国道20号線・日野バイパスの通る「石田大橋」を越え、100mほど進み北に折れる。先日、娘の陸上競技会の応援で甲府に。帰路中央高速が渋滞し、甲州街道をのんびりと戻ってきたのだが、八王子の先、日野バイパスに出た。昔は、甲州街道を豊田・日野、そして多摩川をわたり、といった大騒動であったが、このバイパスだと、一挙に国立インター近くに。便利になりました。

くにたち郷土文化舘

しばらく進み、中央高速下をくぐると行く手に森の緑。これは南養寺の森。くにたち郷土文化舘はこの森の南端にある。森の端にそって東に進む。入口脇には近辺のハイキングコースをまとめた資料など用意されていた。助かる。
常設展示は半地下。デザイナーマンションならぬ、デザイナー郷土館といった特徴ある建物。常設展示場でビデオ放映を眺め、国立のあれこれを頭に入れる。
印象に残ったのは、このあたりの地形。武蔵野段丘、立川段丘、青柳段丘といった河岸段丘が並ぶ。河岸段丘とは階段状の地形のこと。河川の中流域や下流域に沿って形成される。当たり前か。階段状という意味合いは、平坦地である段丘面と崖の部分である段丘崖が形成されている、ということ。段丘崖の下には湧水が多いのは、国分寺崖線散歩で見たとおり。

地形について
地形についてちょっとおさらい。武蔵野段丘面の崖の部分が国分寺崖線。崖に沿って野川が流れる。この野川が流れる平地が立川段丘面。その崖の部分が立川崖線。その崖下を流れるのが矢川。そこは青柳段丘面。「くにたち郷土文化舘」はこの青柳段丘面の端。青柳段丘崖の近くにある。下には湧水が流れる、川というほどではないようだ。で、そこから多摩川にかけて沖積面が広がっている。
ということで、文化舘を離れ、崖線下の湧水に沿って先に進むことにする。この細流は矢川の支流のような気がする。矢川の源流はすこし北、南武線・西国立駅近くの矢川緑地あたりの湧水を集め、国立市外を流れ府中用水に合流。およそ1.5キロ程度の川である。

崖線下の湧水路に沿って城山公園に

崖線下の湧水路に沿って進む。崖線のことは「ハケ」と呼ばれる。中野の落合のあたりでは「バッケ」と呼ばれていた。また、このあたりでは「ママ」とも呼ばれるようである。本来であれば多摩川への沖積低地がひろがるはず、ではあるが、南は中央高速に遮られ、いまひとつ見通しはよくない。

城山公園
崖面を意識しながら進む。湧水路の上には木道が整備されている。細流である。ハケ下の道をしばらく進む。ヤクルト中央研究所の裏手を通る。細い道筋を進むと城山公園。
鬱蒼とした森が残されている。ここは城山と呼ばれる中世の館跡。青柳段丘崖を利用してつくられた室町初期の城跡。城主は三田貞盛とも菅原道真の子孫である津戸三郎ともいわれるが、定説はない。しばし森を歩き、次の目的地谷保天満宮に向かう。

城山公園を離れると、すこし景色が広がる。田畑が目につく。南に浄水公園がある、とのことだが、どれがその公園なのかよくわからない。東前方に広がる緑が谷保天満宮の鎮守の森だろう。

谷保天満宮

あたりをつけて進むと天神様の境内に。厳島神社。本殿裏手にある。弁天さまをおまつりした祠の周りは池。西側の「常盤の清水」からの湧水が境内に流れ込んでいる。天神さまのあたりは立川段丘と青柳段丘が交るあたり、とか。崖下からの遊水がこの「常盤の清水」となって湧きだしているのであろう。この清水は境内の中だけでなく、外にも流れだしている。周囲の水田の灌漑用水源としても使われたのであろう、か。

谷保天満宮は菅原道真をまつる。1000年の歴史をもち、関東最古の天神さまである。亀戸天神、湯島天神とともに関東三大天神様とも。このあたりの地名は「やほ」というが、この天神さまは「やぼ天満宮」と読む。通称「やぼてん」さまとも。「野暮天」の語源でもある。
由来は、道真が太宰府に配流になったとき、その三男道武もまた、この谷保の地に流された。わずか8歳のとき。そののち道真が亡くなったのを知り、それを悲しみ父の像を彫った、とか。が、その像があまりにあかぬけない、洒落ていない。ということで、「やぼてん>野暮天」となった、と言う。10歳の子供が彫ったわけで、あかぬけない、とは少々腑に落ちない。

また、別の説もある。この天神様のご神体を江戸の目白不動尊で出開帳することがあった。が、そのときは10月・神無月。八百万の神々が出雲に行く季節。そんなときに、江戸に出向くといった無粋なことを、と、揶揄した歌がある。「神ならば出雲の国に行くべきに 目白で開帳谷保の天神」、と。この歌に由来する、という人もいるようだが、定説はないよう。

あれあれ、鳥居が本殿より上にある??

本殿におまいり。もともとは多摩川の中州にあった。菅原道武が自ら彫った「野暮な」像を天神島にまつっていたようだが、後世、道武の子孫・津戸為盛がこの地に写した。あれあれ、鳥居が本殿より上にある。石段をのぼり、表大門に向かう。出たところは甲州街道。なんとなくしっくりこない。
チェックした。ことは簡単。昔の甲州街道は本殿より南にあった、ということ。新道ができたとき参拝の便宜をはかり現在の甲州街道沿いに表大門を設けたのであろう。

谷保の由来
メ モし忘れたのだが、谷保の由来。これは、文字通り「谷を保つ=谷を大切に守る」といった意味。段丘上にできた小さな谷地、谷上をなした湿地帯にその豊かな環境ゆえに人々が住み着いた。その環境の「有難さゆえ」にその環境を守るって地名にしたのだろう、か。別の説もある。谷地には違いないのだが、谷が八つあった。その八つの谷を守る、という意味で「八ツ保」、それが転化して「八保>谷保」との説である。はてさて。

南武線・谷保駅
今日の予定はここまで。甲州街道を越え、南武線・谷保駅まで歩き、分倍河原まで戻り、一路家路へと急ぐ。

北杜市散歩2日目。天候は曇天の昨日とは打って変わり快晴。南には甲斐駒ケ岳を中心に南アルプスの山稜、その東には冠雪の富士、北東の方角には奥秩父の山々、北を見やると八ヶ岳が聳える。誠に素晴らしい景観である。小淵沢に移宅したM氏に限らず、八ヶ岳山麓に移り住む友人・知人が多いのだが、その理由の一端を垣間見た思いである。








さて、本日は快晴の中、四方に山々を見やりながらの散歩となる。ルートは小海線の甲斐小泉駅近くに車を停め、すぐそばの「三分一湧水」からはじめ、武田信玄が信濃攻略のため開いたと言う軍用道路・棒道を辿る。棒道の途中には女取湧水から流れ、八ヶ岳山麓の村々の田畑を潤した女取用水路にも出合えそうである。
信玄の棒道は八ヶ岳山麓を縫って進み、西麓の原村から大門峠へと進み、信濃へと向かうわけだが、今回は車を停めてある甲斐小泉まで戻る必要もあり、八ヶ岳高原ラインあたりで棒道から離れ南に折れ、成り行きで甲斐小泉まで戻ることにする。








本日のルート;甲斐小泉駅>高川>三分一湧水>小荒間古戦場跡>小荒間番所跡>棒道>女取湧水の用水路>火の見跡>手作りパンの店虹>八ヶ岳高原ライン・馬術競技場入口交差点>延命の湯>甲斐小泉駅

高川
M氏宅を離れ、甲斐小泉駅近くの「三分一湧水」に向かう。甲斐小泉駅のすぐ西を流れる高川(こうかわ)脇にパーキングスペースがあり駐車。高川は八ヶ岳南麓を流れる九つの川、東から大門川、川俣川西沢・東沢、西川、甲川(油川)、鳩川(泉川・宮川)、大深沢川(高川、古杣川、女取川)、小深沢川、甲六川のひとつ。標高1300mを境にその上部は深い谷、下流は裾野を直線に下る。八ヶ岳南麓には標高500mから1000m地帯に集落と農地が広がるが、これらの河川は、標高1500mから1000m付近で地表に現れる湧水とともに八ヶ岳南麓の集落や農地を潤す。

三分一湧水
高川の東に緑の一帯が広がる。森に入る前に、森の東にある「三分一湧水館」に向かう。そこには大きな駐車場もあった。湧水館にはお土産・お休み処のほか、三分一湧水に関する資料館がある。棒道に関する小冊子(『棒道の本;北杜市郷土資料館』。以下の記事作成の参考にさせて頂いた)を買い求める。湧水館の2階は南アルプスの眺望が楽しめるとのことであるが、道すがら十分にその姿を堪能しているのでパスし、森に向かう。
駐車場脇に「三分一湧水」の案内:『三分一湧水;名前の由来は、その昔、湧水の利用をめぐり長年続いた水争いを治めるため、三方の村々に、三分の一づつ平等に分配できるように工夫したことからきています。湧水は、 利水権を持つ地区住民で組織する管理組合や地元住民によって管理され、農業用水として重要な役割を果たしています。湧水量は、1日8,500トン、水温は年間を通して摂氏10度前後を保っています』、とある。

成り行きで森に入る。「三分一湧水公園」として整備されていた。森の中を水路が流れる。水路に沿って進むと少し平坦になったところに分水の地があった。縦4m弱、横5m弱の石組、と言うか、一部コンクリートつくりの枡形の池に奥から水が流れ込み、用水路が三方に分かれている。造りをよく見ると、奥から流れ込む水は枡形の石組みの中に設置された三角形の石にあたり、撹拌され三方に分水する役を果たしているようである。三方の用水路の分水口の幅は61cmとなっている。
世に、三分一湧水は、村々の水争いを調整すべく武田信玄が造った、と伝わる。湧出口の分水枡に三角石柱を立てて、水を3等分するようにした、とのことである。が、実際に現在ある石は昭和22年(1947)に設けられたもの。また、分水施設の原型がつくられたのは、江戸時代中期に起こった水争いがきっかけだったようだ。当初は木造の施設で、水を配分する石も普通の自然石だった、とか。施設が石積みのものになったのは大正12年(1923)。昭和19年(1944)に現在見られる施設が完成、昭和22年(1947)に石が現在の三角形のものに置き換えられたとのことである。

湧水点がどのようなものか、枡形から先へと進む。水路の先には窪地があり、窪地の中から水が湧き出ている。1日の湧水量は8500トンほど、とのこと。すぐ脇を高川が流れているので、その伏流水かとも思うのだが、大泉町の大泉大湧水(標高920m),八衛門出口(標高1,000m),鳥の小池(北杜市大泉町谷戸),鳩川湧水(標高1,240m)。長坂町の女取湧水(1,160m)。小淵沢町の大滝湧水(標高820m;日本名水百選)延命水,勘左衛門湧水(八ヶ岳アウトレット内),井詰湧水(標高950m)などとともに八ヶ岳山麓湧水群と称される。とすれば、この辺りの標高が1000mと言うから、八ヶ岳山麓に降った雨水が50年から60年の歳月をかけて、不透水層が地表に現れるこの地に湧き出たのではあろう。
森の中を彷徨と顕彰碑。『三分一湧水と水元坂本家;三分一湧水は古くから下流集落の生命の源泉であり、住民はこれにより田畑を耕やし、くらしを立ててきました。三方向に等量に分水する独特の手法は、争いを避けるための先達の知恵であり、学術的にも高く評価されています。そのような歴史の中で、二十六代を数える旧小荒間村の坂本家は、累代、「水元」と敬称され、湧水の維持はもとより、村落間の和平を維持するために心を砕かれてきました。今も毎年六月一日に、同家を主座に関係集落立ち合いのもと分水行事が行われるのはその故です。平成十四年七月甲府市にお住まいの坂本家当主静子様には町の懇望に応え、三分一湧水周辺一帯の所有地をお譲り下さることになりました。ここに本湧水と水元坂本家の由来の一端を記し深く感謝の意を表します。 平成十五年三月三十一日 長坂町』とあった。
八ヶ岳南麓の北杜市高根町、大泉町、長坂町、小淵沢町は標高600mから1000mの間に谷地田が広がり山梨県内でも屈指の稲作地帯となっているが、それにはこの顕彰碑に刻まれたように、八ヶ岳山麓からの湧水や河川を管理しそれを活用する村人の努力の賜物ではあろう。「三分一湧水公園」は坂本家より寄付された地を整備したものである。

小荒間古戦場跡
三分一湧水を離れ信玄の棒道に向かう。途中、甲斐小泉駅の東に小荒間古戦場跡がある。ちょっと寄り道。古戦場跡は何ということもない、少々荒れた林の中にある。中に足を踏み入れると信玄の御座石、遠見石、刀架石、鞍掛石などと称する石が点在する。ここは信濃の村上義清の軍勢と信玄の軍勢で行われた合戦の際、信玄が本陣を敷いたところ、と伝わる。

村上義清は信濃の武将。長野県上田市と千曲市の間にある長野県埴科郡坂城町の葛尾城に生まれ、信濃東部、北部を勢力下に版図を拡げる。信玄との敵対する端緒は信玄による父武田信虎の追放劇。信濃東部攻略の盟友として共に戦った信虎を庇護し信玄と相対峙することになる。
当初は武力で信玄を圧するが、真田氏による義清の家臣の調略などにより力を失い、最後は上杉謙信を頼って越後に落ちのびることになる。信玄と謙信が戦う川中島の合戦の「遠因」のひとつが義清と信玄の抗争、とも言える。 このプロセスの中で起きた小荒間合戦であるが、時期は天文9年(1540)。天文17年(1548)の上田原の合戦(長野県上田市)、天文19年(1550)の砥石城の合戦(長野県上田市)で義清が信玄に完勝している時期であるので、義清の覇が盛んな頃である。
小荒間合戦では3500余の軍勢を率いてこの地に侵入した義清勢に対し、信玄は旗本だけを率いて出陣し勝利を収めた、とのことである。

小荒間番所跡
古戦場跡の林の中を彷徨と、踏み分け道が小海線方面へと続く。棒道の名残かとも思い、先に進み簡易踏切で小海線を渡り成り行きで道を辿るも結局車道に出る。何ということもない踏み分け道であったようだ。車道を下り、小海線のガードをくぐり高川を越え、再び小海線を越えて北に進むと道の分岐点に小荒間番所跡があった。
石垣に囲まれ石灯籠や道祖神の小祠が佇む番所跡に「小荒間口留番所」の案内。「国境で旅人や物資の移動を監視するのが口留め番所です。江戸時代甲斐の国には25か所存在していました。小荒間口留番所は天文年間(1532-55)に信州大門峠へ通じる棒道(大門嶺口)に設置されたものといわれており、江戸時代には近隣の農民が村役で警備を担当する番役に当たりました。
門(高さは3.6m) 矢来(門をはさんで左右は10m) 茅葺屋根の番所小屋(5.4m×3.1m)などからなり、明治になると民間に払い下げられ、さらに1933年(昭和8年)の小海線の開通によって移築され、消失しました」とあった。元はガードの辺りにあったようだ。

棒道
道脇にあった「棒道(大門嶺口)」によると「棒道とは、戦国時代、甲斐の武将武田信玄が北信濃(長野県長野盆地)攻略にあたって開いた軍用道路。八ヶ岳西麓をまっすぐに通じていることから、棒道(ぼうみち)と呼ばれる。 棒道には上中下の3筋あり、小荒間地区を通るこの道は「上の棒道」に当たる。逸見路の穴山(現韮崎)から分かれ若神子新町(現北杜市須玉町)、渋沢(現北杜市長坂町)、小荒間を経て、立沢(現長野県富士見町)を通り大門峠に出て、長野盆地への道と接続する。「上の棒道」が実際に侵攻につかわれたかどうかは不明である。
江戸時代末期、この地域の棒道沿いに一丁(約109m)おきに30数基の観音像が安置されたことから、現在に棒道の一部が残された」とあった。
「上の棒道」をもう少し詳しくチェックするに、甲府から進む穂坂路(別名川上口ともいう。茅ヶ岳山麓を横断し、甲府と信州佐久の川上とを最短距離で結ぶ古道。)から分かれた逸見路(別名諏訪口とも言う。甲州街道開設以前は諏訪方面に至る重要な交通路であり、しばしば軍用道路としてされた)を進み、穴山(現韮崎)で逸見路から分かれ、北に向かい若神子新町(現北杜市須玉町)、渋沢(現北杜市長坂町)、大八田(現北杜市長坂町)、白井沢(現北杜市長坂町)、谷戸村(現北杜市大泉町谷戸)を経て小荒間に続く。
「中の棒道」は大八田で「上の棒道」と分かれ、大井ケ森(現長坂町)を通り。小淵沢を経て葛窪(長野県富士見町)から立沢に向かい、「上の棒道」と合流する。「下の棒道」は逸見路から渋沢、小淵沢を通り、蔦木・田端(長野県富士見町)に抜ける(異説もあり)。
棒道がいつごろ整備されたのかは不明である。不明ではあるが、天文21年(1552)に信玄が「甲府から諏訪郡への道を造ること。そのため架橋用に木材の伐採を許可している」との文書(「高見澤文書)がある。天文21年とは有名な川中島の合戦の前年である。



信玄が諏訪一帯を制圧し、その後30年におよぶ信濃攻略を開始したのは天文11年(1542)のこと。天文11年(1542 )、現在の長野県富士見町一帯で、武田信玄と信濃4将(諏訪頼重・小笠原長時・村上義清・木曾義昌)が戦った「瀬沢の戦い」で信玄が信濃勢に初めて勝利、また同年の「大門峠の戦い」で信玄が村上義清・小笠原長時を破ったときも、そのルートはともに「大井ケ森」を通る道筋を進軍したようであり、その道筋は所謂「中の棒道」と称されるものである。
これら諏訪勢との合戦に使われた「中の棒道」は、棒道とは言うものの、この道筋は古くから諏訪方面に通じる道筋であったようであり、軍用道として新たに切り開いたものではないようである。結局のところ、諏訪一帯を制圧し、本格的に北信濃攻略に臨むに際し、諏訪盆地攻略には有効であるが、善光寺平のある北信濃に出るには遠回りとなる大井ケ森を通る道ではなく、大井ケ森より標高の高いこの小荒間を通り八ヶ岳山麓を直進する道を新たに切り開いたのではないだろう、か。とすれば、高見澤文書にある天文21年頃が、軍用道として新たに切り開かれた「棒道」が出来た時期ではないだろうか(『棒道の本;北杜市郷土資料館』)、と。

観音さま
道脇の棒道の案内に「江戸時代末期、この地域の棒道沿いに一丁(約109m)おきに30数基の観音像が安置された」とあった。そういえば、小荒間番所の辺りに千手観音(中央にふたつ、左右に20の手)、如意輪観音(6つの手、右手で頬杖をついている)、聖観音(頭に冠。天衣をまとい、蓮華の花のつぼみをもつ)さまの立像が道脇に佇んでいた。チェックすると、谷戸村大芦(現北杜市大泉町谷戸)から「上の棒道」に沿って小荒間をへて女取川近くまでが「西国三十三観音」、その先を小淵沢あたりまで「坂東三十三観音」とのこと。小荒間村と谷戸村の人々が江戸時代に建立した。当初は100体の観音を建立する計画であったようだが、西国観音は三十三番まで(7体ほど紛失)、坂東観音は十六番(5体紛失)までが建立されている(『棒道の本;北杜市郷土資料館』より)。観音を構想した、と言うことは、秩父34m観音札所34をも建立しようとしていたのだろう、か。単なる妄想。根拠なし。

道を辿ると「富蔵山公園」。馬頭観音や蚕玉太神碑が建つ。29番馬頭観音(頭の上に馬)、30番の千手観音を見やり、古杣川を渡りほどなく33番十一面観音(頭上に11の顔)があり「西国33観音」が終わる。棒道の脇に佇むのは千手観音、如意輪観音、聖観音、馬頭観音、十一面観音の5体の観音様とのことである。

女取湧水
棒道も次第に林の中に入り、それらしき趣を呈してくる。ほどなく庚申塔があり、道が分岐している。この道を右に折れると水道施設をへて女取湧水の源流点に進めたようだが、案内がわかりにくく見逃した。庚申塔の裏にある電柱に「発砲注意」との張り紙があり、その脇に「湧水へ」との案内があるようだが、どうみてもそれらしき案内はなかったように思える。
分岐点の先の道脇に十一面観音さまが佇むが、これは「坂東観音一番」。坂東三十三観音(実際は十六番まで)がここからはじまる。先に進むと再び十一面観音。この坂東二番観音を過ぎると石造りの用水路らしき水路が道を横切る。先に進むと沢に下りる。女取川である。ということは先ほどの用水路は女取湧水からの水路であろう。ということで、棒道を外れ女取湧水の源流点へと辿ることに。
女取川の沢筋を上流に向かう。辿るにつれて沢筋の足元が悪くなる。また、沢のエスケープルートもブッシュに遮られてきたので、沢沿いの台地上を辿るべく沢を離れ、数メートルほどの崖を上る。と。崖を上り切ったところに、台地を開削した荒削りの水路があり、女取川に沿って上流に続く。この水路は先ほど棒道で跨いだ石橋に続く水路ではあろう。水路に沿って上流へと進めば女取湧水の源流点にたどり着くだろうと先に進む。 しばらく水路に沿って進むと、水路は女取川の谷筋に合流する。合流点から先にしばらく進む。が、湧水点が見えてこない。メンバーのうちふたりは湧水・用水フリークであり、途方に暮れながらも、あちこち彷徨ことは一向に苦にならないのだが、湧水・用水に特に思い入れもないだろう他2名のメンバーを引き廻すのは申し訳ない。ということで、ここで撤収とし、用水路に沿って成り行きで下り、女取川の沢遡上をはじめた地点に戻る。
後にチェックしてわかったのだが、もう少し我慢すれば湧水点があったよう、が、例によって後の祭り。事前準備を「極力しない」を基本とする成り行き任せの散歩であるので、致し方なし。で、その後の祭りの女取湧水ではあるが。八ヶ岳南麓の標高凡そ1,200m、深い山林の中の大きな岩の下から湧く、とのこと。湧水量10,000トン/日を誇り、この水は女取川となり、流域の地を潤し、又、長坂町の飲料水としても利用されている。また、女取川と途中で分かれ、台地上を開削し流れていた用水路は、より高い標高地域を潤すために造られたものではあろう。
女取川、という、何とも面妖な名前の由来は、文字通り、女性を引き込む川、との伝説から。その昔、谷戸村に住む若者が奉公先の一人娘と相思相愛委に。が、娘に会いにいく途中で、折からの雨で増水した川でおぼれ死ぬ。その若者の母親は、娘を恨み、「川の主となり、息子の仇を討つ」と川に身を投げる。その後、川の近くを通る若い女性は淵に引き込まれるようになった、とか。なんともよくわからないロジックではある。

防火帯
沢を越え、緩やかな坂を上り台地に上る。道端には十一面観音、千手観音、聖観音などが佇む。周囲は別荘地帯だろうか、林の中に家屋が見えてくる。ほどなく北からの道が合流するが、その先は道幅が急に大きくなっている。今まで辿った棒道野小径に比べて不自然に広い。チェックすると、防火帯として樹木を伐採し道を広くしているようである。防火帯の辺りにも、千手観音、聖観音などが佇んでいた。
防火帯の辺りを辿っていると後ろから白馬に跨った2組ライダーが追い抜いていく。棒道に騎馬隊、と戦国の世を想い描く。近くに牧場や乗馬クラブや馬術競技場があるので、その関係の人たちであろう、か。 先に進み南のサントリーの工場敷地が切れるあたりで防火帯は切れ、道幅も狭くなる。更に進み北の八ヶ岳牧場に折れる道を越えたあたりに坂東16番千手観音が佇み、棒道の観音さまの立像は終わりとなる。八ヶ岳牧場へと北に続く道の先に冠雪の八ヶ岳が美しい。

火の見跡
道の南に小淵沢ゴルフ場を見やりながらすすむと道が交差し、道の交差する手前の北に「火の見跡」。信玄ゆかりのものかと思うも、説明も何もない。チェックすると、戦後植林されたこの一帯の山火事の監視所跡とのこと。火の見櫓があったようだが、老朽化され取り壊された、とか。それにしても、なんのために設置されているのが案内に主旨が不明である。






手作りパンの店虹
交差点より先にも棒道は続くが、今回は棒道散歩はここまでで終了。火の見跡より八ヶ岳高原ラインを右手に見て、小淵沢カントリークラブに沿って南に下る道を進む。ほどなく「手作りパンの店虹」。パン好きの私のために昨日M氏がわざわざこのお店のパンを用意してくれていた。おいしく頂いたパンを再び買い求め先に進む。




延命の湯
先に進むと道は八ヶ岳高原ラインと合流。更に進み、八ヶ岳高原ライン・馬術競技場入口交差点を左に折れる。交差点脇に「スパティオ小淵沢」。レストラン、宿泊施設、そして日帰り温泉「延命の湯」がある。延命の湯は地下1500mから湧き出すミネラル豊富な温泉とのことである。平成1998年オープン。延命の湯に限らず昨日の尾白の湯も古来からの湯ではなく、つい最近できたものである。古来より八ヶ岳南麓には温泉脈は確認されていなかったが、技術の進歩により、地下1000m以上でもボーリングが可能となった。こういった技術の進歩を背景に、温泉湧出の可能性を信じ幾多の温泉掘削が計画されたのだろう。延命の湯は平成7年(1998)の7月に掘削開始、12月に温泉掘削に成功した。
延命の湯のあるスパティオ小淵沢で名物の延命蕎麦頂き、一路甲斐小泉駅へと。 別荘街の道を進み、小深沢川を渡り豊平神社に。そこからは小海線に沿って更に道を進み八ヶ岳山麓より流れを発する女取川、古杣川、高川を越えて小荒間番所跡へと戻る。駐車場で車に乗りM氏宅でしばし休息し、再会を約して家路へと。
9時23分スタートし、14時11分駐車場到着。おおよそ5時間、15キロの散歩となった。それにしても、小淵沢というか北杜市って、素晴らしい山稜に囲まれ、ダイナミックな河岸段丘、開析谷、八ヶ岳山麓からの河川、湧水、そして最近のものではあろうが、幾多の温泉と魅力的な場所である。繰り返しになるが、多くの友人が「八ヶ岳山麓を」というセリフに、やっとリアリティを感じることができた今回の散歩となった。
 先日、秩父・信州往還を信州最東端の川上村からはじめ、十文字峠を越えて秩父の栃本へと辿った。その道すがら、北杜市の小淵沢に移り住んだ元同僚宅を訪ねたのだが、あれこれの話の中から、雪が降る前に北杜市にある幾多の湧水と武田信玄が信濃侵攻のために整備したと伝わる「棒道」を歩きましょう、ということになった。

話のきっかけとなったのは平成24年(2012)10月24日付けの日経新聞に掲載された「戦国武将思い 歩く古道;山梨北杜市」の記事。「雑木林の間をぬう棒道には途中、石仏が点在する」といったキャプションのついた、観音像が佇む雑木林の写真の魅力もさることながら、フックがかかったのは棒道のスタート地点辺りにある「三分一湧水」の記事。信玄が下流の三つの村に均等に流れるように三方向に水路を分ける、とあった。
湧水フリークとしては、「三分一湧水からはじめ棒道を歩きましょう」、と話を切り出したのだが、M氏によれば、この辺りには三分一湧水だけでなく大滝湧水とか女取湧水など、湧水点が多数ある。と言う。また小淵沢近辺には幾多の温泉も点在するとのこと。小淵沢と言えば、清里や八ヶ岳への通過点としてしか認識していなかったので、少々の意外感とともに、湧水フリーク、古道フリークとしては湧水・古道が享受でき、かつまた温泉にも入れる、ということで早々に小淵沢再訪を決めたわけである。
今回のメンバーは十文字峠を共に越えた同僚のT氏と幾多の古道・用水を共に歩いたS氏。スケジュールを決めるに、行程は1泊2日。初日は東京を出発し、大滝湧水を訪ねた後、清里に移住した元同僚であり山のお師匠さんであるT氏宅にお邪魔。その後、甲斐駒ケ岳山麓の尾白沢傍にある尾白の湯でゆったりしM氏宅に滞在。2日目は小海線・甲斐小泉駅近くの三分一湧水からはじめ、棒道を歩き甲斐小泉駅に戻る、といったもの。旧友との再会、山のお師匠さんへのご無沙汰の挨拶、湧水、古道、そして温泉など、ゆったりとしたスケジュールで、嬉しきことのみ多かりき、の旅となった。



初日
本日のルート;中央線小淵沢>身曾岐(みそぎ)神社>大滝湧水>川俣 川>清里>釜無川>尾白の湯

小淵沢
新宿を出て、特急あずさに乗り、2時間ほどで小淵沢に。駅に迎えに来てくれた元同僚宅で少し休憩した後に大滝湧水に向かう。途中に身曾岐(みそぎ)神社があるとことで、ちょっと立ち寄り。境内に入るに、結構な構えではあるのだが、古き社の風情とは少し異なる、曰く言い難い「違和感」を感じる。というか資金の豊かな新興宗教の施設のように思える。
如何なる由来の社であろうかと境内を彷徨と「井上神社」の石碑があった。由来書を読むと、元は東上野にあった「井上神社」を昭和61年(1986)にこの地に移し、神社名も「身曾岐(みそぎ)神社」と。
井上神社とは?チェックすると、江戸末期の宗教家である井上正鐵が伝えた古神道の奥義「みそぎ」の行法並びに徳を伝えるべく、明治12年(1879)に弟子によって建てられたもの。これだけでは今一つ神社の姿がわからなかったのだが、境内を出るときに鳥居に「北川悠仁奉納」と刻まれていた。北川悠仁さんって、歌手、というか「ゆず」の北川さんだろう。どこかで北川悠仁のご家族が宗教活動をしている、といったことを聞きかじったことがある。であれば、なんとなくすべて納得。

大滝湧水
身曾岐神社を離れ南に下り、中央高速をくぐり、道を西に折れ県道608号を少し進み、中央線を越えて大滝神社の鳥居脇に駐車。参道の先には中央線があり、神社には線路下のトンネルをくぐって向かう。
大滝神社の社は鬱蒼とした杉林の崖面に鎮座する。社殿左手にある樋から大量の水が滝となって落ちる。大滝湧水であろう。石垣上の社殿は、ほぼ南東を向き、本殿は覆屋の中に鎮座する。案内板によると「武淳別命が当地巡視のおり、清水の湧出を御覧になり、農業の本、国民の生命、肇国の基礎と賞賛し自ら祭祀し大滝神社が起こったと伝えられる」とある。祭神の武淳別命(たけぬなわけのみこと)とは、『日本書紀』にある、崇神天皇によって、北陸、東海、西道、丹波の各方面に派遣された四道将軍のうち、東海に派遣された 武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)のことであろう、か。
社殿の西側には石祠が立ち並び、石祠の脇から崖面に急な石段があり、石段上には大きな磐座が鎮座している。仰ぎ見るに、磐座の辺りは如何にも荘厳な風情。石段の上り口には注連縄が低い位置に張られており、石段に足を踏み込むには少々恐れ多い雰囲気であり、一同顔を見合わせるも。結局、石段を上るのを止めにした。
で、せめて磐座に建てられた石碑の文字を読もうと思えども、どうしても読めない。それもそのはず、後からチェックするに「蠶影太神(こかげおおかみ)」と記されている、とか。「蠶」は「蚕」の旧字体。読めるわけもなかった。蠶影太神とは養蚕の神。つくば市の蠶影神社が世に知られる、と。
社殿にお参りし大滝湧水へ。その大滝湧水は崖面下の岩の間からわき出ていた。湧水点は何カ所もあり、その水を集め、太い丸太をくりぬいた樋を通し滝となって落ちる。圧倒的であり圧巻の水量である。「延命の水」とも称される大滝湧水の湧出量は、八ヶ岳南麓に幾多ある湧水の中でも最大の22,000トン/1日を誇る。木樋から滝となって落ちる下には山葵田があり、境内を少し離れた池ではニジマス、ヤマメの養殖がおこなわれているようである。釣り堀らしき施設も見受けられた。
湧水後背地の山林は滝山と称し江戸時代は御留林となっていた。水源涵養のため甲府代官が民有地を買い上げ、湧水の保全を図ったとのこと。此の地域の井戸水が濁ったとき大滝湧水を井戸水に注げば清澄な水になる、といった言い伝えの所以である。


(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平23業使、第631号)」)

八ヶ岳南麓高原湧水群
この大滝湧水に限らず、八ヶ岳の山麓には幾多の湧水がある。八ヶ岳の西側を除いた東側、というか南麓だけでも56箇所、名前のついている湧水だけでも28カ所もあるとのことである。これらの湧水を総称して、八ヶ岳南麓高原湧水群と称する。
何故に八ヶ岳山麓に湧水が多いのか?チェックすると、八ヶ岳の成り立ちが火山であったことにその要因があるとのこと。今は静かな山稜である八ヶ岳であるが、はるかな昔、この山は火山であった。フォッサマグナ(中央地溝帯)の東端(西端は新発田小出構造線または柏崎千葉構造線)である糸魚川・富士川構造線上にある八ヶ岳は、西端から東端までおよそ100キロにわたって8000mほど日本列島が一挙の落ち込み中央地溝帯ができたときに火山活動をはじめた火山群のひとつ。地溝帯が落ち込んだときにできた南北の断層を通り地下のマグマが上昇し火の山となったようである。八ヶ岳のひとつである阿弥陀岳など、今から20万年ほど前は富士山より高い山容であったが、大噴火で山容が一変した、とか。
火山と湧水の関係は?火山は「火の山」、と称されるのは当然であるが、同時に「水の山」とも称され、天然の貯水池ともなっている。その最大の要因は、火山は浸透力が非常に高い、ということにある。火山の山麓上部は溶岩帯であるが、この溶岩は水をよく透す。溶岩の浸透力が高いというのはちょっと意外ではあるが、溶岩の割れ目から水を透すようである。
また、火山の山麓は表土が浅く、火山礫や火山砕屑物が地表に現れている。そのため、水が地下に浸透しやすくなっている、とか。特に、八ヶ岳の山麓は氷河期と間氷期との間に巨大な湖が形成されたようであり、八ヶ岳山麓はその時に堆積した湖成層(湖ができたときにに堆積した砂層)からなっており、その浸透力は特に高い、とのことである。
こうして地表からどんどん浸透してきた水は地下水となり溶岩の中を通って火山の中に天然の貯水池をつくる。八ヶ岳の中には西側山麓に規模の大きい滞水層、東側山麓に少し規模の小さな帯水層がある、とか。山中に浸透し帯水層に溜まった水は溶岩中や泥質層の境目から地表に湧き出すことになるわけだが、八ヶ岳南麓湧水群は標高800から1,2000mと1,500mから1,600m地帯に点在する、とのこと。標高1,600m付近の湧水は浸透後2年から7年,標高1,200m付近の湧水は20年から30年、標高1,000m付近の湧水は50年60年かけて地表に湧き出る、とのことである。大滝湧水の標高は820mであるので、60年以上八ヶ岳の山中で濾過され湧き出たものではあろう。

川俣川渓谷
大滝湧水を離れ、清里に住むT氏宅に向かう。県道11号・八ヶ岳高原ライン を清里に進む途中に巨大な渓谷が現れる。渓谷は川俣川渓谷。渓谷には全長490m、谷の深さ110m、橋脚74mの八ヶ岳高原大橋が架かる。進行方向前面には八ヶ岳が聳える。
それにしても巨大な渓谷である。フォッサマグナの西端である糸魚川・富士川構造線は、このあたりを南北に続いているわけであり、フォッサマグナの断層かとも思ったのだが、それにしては渓谷の左右の段差が感じられないので断層ではないようである。チェックすると、この渓谷は今から20万年から25万年前に活発な火山活動を繰り返した八ヶ岳の噴火によってできた溶岩台地が八ヶ岳から湧き出る清流によって浸食されて形成されたもの。川俣川溶岩流と称される噴火で埋め尽くされた台地が、気の遠くなるような時間をかけて開析され、現在のような雄大化な渓谷をつくりあげたものだろう。
川俣川渓谷には渓谷に沿って遊歩道が整備されているようであり、「吐竜の滝」と称される湧水滝もあるようだ。湧水滝と言う意味合いは、湧水が透水層の下部にある岩屑流の地層との境目から滝として吐き出される、とのことである。因みに、岩屑流とは今から20万年から25万年前に火山活動の最盛期を迎えた八ヶ岳の最高峰阿弥陀岳が磐梯山のように山体崩壊を起こして発生したもの。厚さは最大200mにも達し、甲府盆地を覆い尽くして広がり,御坂山地の麓に広がる曽根丘陵にぶつかって止まるまで50㎞以上の距離を流れ下った、とのことである。


(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平23業使、第631号)」)

釜無川
清里のT氏宅でしばし時を過ごし、本日の最後の目的地である尾白の湯に向かう。尾白の湯は八ヶ岳および茅ヶ岳山麓に広がる火山性の台地部分と南アルプス山麓の沖積平野を区切る釜無川の南、旧甲州街道・台ケ原宿の近くにある。県道28号を南に下り、中央道長坂IC辺りまで戻り、その後の道順は運転手M氏任せ故に定かではないが、ともあれ、釜無川の谷筋に向かってどんどん下る。 釜無川の両岸は大きな河岸段丘が作られている。大滝神社の標高が860m、釜無川の川床の標高が630mであるので、中央線の走る台地あたりから直線で2キロ強を200mほど下ることになる。幾層もの段丘面と段丘崖によって形作られているのであろう。緩やかに下る段丘面と釜無川の谷筋、そしてその南に広がる沖積平野と更にその南に聳える南アルプスの山稜。誠に美しい。
釜無川は南アルプス北端、鋸岳に源流を発し、当初北東に向かって流れ、その後中央線信濃境駅の西で南東へと直角にその流路を変え、甲府盆地に入って笛吹川と合流する。笛吹川と合流するまでの流長61キロを釜無川と呼ぶが、河川台帳の上では富士川となっている。専門家でもないので詳しくはわからないが、源流部から北東に向かうのは釜無川断層に沿って流れ、南東に方向を変えて甲府盆地へと向かうのは糸魚川静岡構造線に沿って下っている、とか。

「釜無」の由来については「甲斐国志」をはじめ各種の説があり、下流に深潭(釜)がないので釜無川、河が温かいので釜でたく必要がない、河川のはんらんがないので釜無など。しかし巨摩地方を貫流する第一の川という意味で巨摩の兄(せ)川がなまったと見るべきであろう。明治時代から水害が続き、1959(昭和34)年の7号、伊勢湾台風では大きな被害を受けた。韮崎市南端の舟山には舟山河岸の碑があるが、明治中期まで舟運があった証拠である。 釜無川の由来は、下流に「深い淵(釜)」が無いから、とか、巨摩地方を流れる第一の河川>巨摩の兄(せ)>釜無、など諸説ある。

少々脱線するが、釜無川の川筋をチェックしていると、富士見の辺りで釜無川に合わさる支流の上流部が、宮川の支流の上流部と異常に接近している。釜無川は富士川水系、宮川は天竜川水系である。大平地区を流れる釜無川の支流の一筋北の支流と、同じく大平地区を流れる名もなき宮川支流の間は100mもないように見える。これが天下の富士川、天竜川の分水界であろうが、それにしてもささやかな分水界(平行流間分水界)である。
断線ついでに、釜無川から分水される用水路があるが、この水は宮川水系へと流れているようである。分水界を越えた水のやり取りとは、なかなか面白い。これを水中分水界と呼ぶようだが、水中分水界はここだけでなく(、釜無川の支流の立場川には山麓に「立場堰」が造られており、そこで分水された水は宮川水系へと流れている(『意外な水源・不思議な分水;堀淳一(東京書籍)』)。

旧中山道台ケ原宿
釜無川の谷筋に下り、国道20号を西に向かう。国道は釜無川とその支流である尾白川に挟まれた台地を進む。道は程なく旧中山道台ケ原宿に。国道を外れ旧道に入り、古き宿場の雰囲気を楽しむ。もう日も暮れ、時間もないので、M氏の案内で北原家と金精軒に。ふたつとも古き宿場の趣を伝える。北原家は寛延3年(1750)年創業。260年の伝統をもつ造り酒屋。「七賢」との銘柄の名前の由来は、天保6年(1835)に信州高遠城主内藤駿河守より「竹林の七賢人」の欄間一対を贈られたことによる、と。金精軒は明治36年(1903)創業。「信玄餅」は金精軒の商標登録、とか。因みに「台ケ原」の由来は「此の地高く平らにして台盤の如し」との地形より。

尾白の湯
台ケ原宿を離れ、尾白川に沿って南アルプスの山麓へと向かう。尾白の由来は「甲斐の黒駒」から。甲斐駒ケ岳東麓に産する黒駒は、馬体が黒く鬣(たてがみ)と尾が白く神馬として朝廷に献上されていた、と。
ほどなく尾白の湯。平成18年(2006)創業開始の新しい温泉。「温泉の成分は日本最高級を誇るナトリウム・塩化物強塩温泉」「イン含有量が1kg当たり31,600mgで、有馬温泉に匹敵する日本一の高濃度温泉」などとある。脱衣場には『大地ロマンの湯 本温泉は、プレート運動による大変動のドラマにより生まれた、大展望と超高濃度の温泉であり、大地の神様『ガイヤ』が授けてくれた『地球の体液』と呼んで良いような最高級の温泉相である(大月短期大学の名誉教授 田中収)』ともあった。ともあれ尾白川の地底1500mから湧き出るマグマの賜物であろう。古くから有名な有馬温泉と同じ『塩化物強塩温泉』の源泉(赤湯)は露天風呂だけあとは全て水で10倍に薄めた湯を使っているのとことであった。
有難味はよくわからないが、とりあえずゆったりと温泉に浸る。それにしても小淵沢近辺には温泉が多くある。パンフレットを見ると「フォッサマグナの湯」とか「延命の湯」とか10以上もある。なんとなく、そんなに古そうではないようではある。昨今の日帰り温泉ブームの影響だろう、か。 北杜市散歩の初日はこれでおしまい。散歩することはほとんどなかったが、湧水と八ヶ岳の関係とか、釜無川の段丘面とか、地形フリークには嬉しい一日ではあった。

いつだったか和光の白子の宿を歩いた。散歩随筆の達人、岩本素白さんの「独り行く(二)白子の宿」の書き出し、「川はみな曲がりくねって流れている。道も本来は曲がりくねっていたものであった。それを近年、広いまっすぐな新国道とか改正道路とかいうものができて、或いは旧い道の一部を削り、或いはまたその全部さえ消し去ってしまった。走るのには便利であるが、歩いての面白みは全く無くなってしまったのである」といったフレーズの断片を思い起こしながら、あちこちと彷徨った。白子川に出合ったのはそのときである。
白子川は練馬区大泉学園の南西、大泉井頭公園をその源流点に、練馬区そして和光市・板橋区の境を進み、板橋区三園で新河岸川に合流する。全長10キロ、武蔵野台地の湧水を集めて流れる白子川は昭和30年代までは豊かな田園風景の中を流れる清流であった。大泉の地名も白子川を流れる湧水の、その豊かさ故に名付けられたものである。その清流・白子川も昭和30年代の後半から40年代かけ大きくその姿を変える。高度成長に伴い、急速に工場の拡大・宅地開発が進むも下水道設備がその速度に追いつかず、川は工場排水、生活排水で汚染。昭和50年から58年にかけては都内で水質ワースト一位といったあまりうれしくない「タグ」付けされたりしている。現在は下水処理も完備し、地域住民の白子川の環境をよくする運動なども盛んに行われている、と聞く。清流復活の姿を感じてみたいと思う。また、川沿いの湧水も辿りたい。
白子の由来は、新羅(しらぎ)が変化した、と言われる。奈良時代、武蔵国には高麗郡、新羅郡が置かれた。新羅や高句麗、百済からの渡来人が移住したわけだが、新羅郡は平安時代の頃には新座郡と記され、大和言葉で爾比久良郡(にいくらこおり)と読まれるようになる。で、新座郡の中で、現在の成増の辺りは志楽木(しらき)郷と称し、のちに志未(志木)郷となる。志未は志楽の草書体からきたもの、とか。 「白子」も「しらぎ」が変化した地名と云われている。古い歴史をもつ一帯である。川沿いに幾多の遺跡も残る、とのこと。古本屋で見つけた『練馬区の歴史;練馬郷土史研究会(名著出版)』を手元に、白子川流域を辿り自然と歴史を楽しむことにする。

本日のルート;大泉学園駅>妙延寺>北野神社>白子川>井頭池>妙福寺>諏訪神社>四面塔>大乗院>本照寺>中島橋>旧大泉村役場>善行院>法性院>学園橋>外山橋>教学院>氷川神社>びくに公園>八の釜湧水>」比丘尼橋下流調整池>関越・外環・目白通り>清水憩いの森公園>稲荷山憩いの森>中里幼稚園の湧水>越後山憩いの森緑地>笹目通り>白子の宿>新河岸川合流点

西武池袋線・大泉学園駅
池袋より西武池袋線に乗り、大泉学園駅で下車。駅前は再開発され大きなショッピングセンターなどが並ぶ。北口に下りると、住所は東大泉となっている。駅の名前の大泉学園町は駅のはるか北、関越道を越え都立大泉公園や陸上自衛隊朝霞駐屯地近くにある。小学校や中学校はあるものの、取り立てて「学園」と銘打つほどのものではない。それにはそれなりの理由があるようだ。 1924年(大正13年)、箱根土地会社(後のコクド。現在はプリンスホテルと合併)は、関東大震災後の郊外宅地へのニーズに応えるべく、当時の東京府北豊島郡大泉村の地に学園都市の開発を始める。大学の誘致し学園都市をつくる、というのが基本構想。開発地は大泉学園の最北端。駅から一直線の道を通し、両側を桜並木とし、宅地を坪10円で売り出した。駅(東大泉駅)も建設し、当時の武蔵野鉄道に寄贈した。
大泉学園町という地名が誕生したのは昭和7年(1932)板橋区成立のときである。駅名も東大泉駅から大泉学園駅に改められた。かくして、一大学園都市を構想した大泉学園町ではあるが、大学誘致は不首尾に終わる。また、折からの不況の影響も受け宅地販売も不調。開発途中で投げ出された土地は遊休地として残った。それではもったいないと、企画したのが一坪農園。昭和9年(1934年)頃、「学園用地跡」を都民に売り出した。それが都民農園である。学園ならぬ農園となったわけである。現在都民農園はバス停にその名残を残すだけであり、その跡地は都立大泉公園となっている。大泉学園には大学が無く、都民公園近くに都民農園というバス停が残るのは、こういった経緯を踏まえてのことである。ちなみに、現在このあたりは板板橋区ではなく練馬区になっている。練馬区ができたのは1947年(昭和22年。板橋区の一部を分離して発足した。

妙延寺
駅前でiPhoneを開き、近辺の神社・仏閣などをチェック。駅を少し北に上った通りに妙延寺がある。山門など全体にモダンな構え。本堂もインド風(?)。正確には和風重層唐破風造りとのことである。案内によると、「開基は永禄11年(1568)の日蓮宗のお寺さま。本堂前には樹齢400年を経た大銀杏。幕末から私塾(寺子屋)が開かれており、明治7年(1874)には区内最初の私立明倫学校となる。同9年からは公立豊西小学校に昇格。現在の区立大泉小学校の前身、と。寺の門前を東西に通る道路は清戸道。昔から大泉や石神井の人々が農産物を江戸へ運ぶ重要な路であった」、と。
永禄11年と言えば結構古いと思うのだが、それでも大泉近辺の日蓮宗の寺院の中では最も新しいもの、と言う。新しい開基ではあるが、このお寺様は上土支田村の鎮守様の別当寺としてこの辺り一帯の信仰を集めていた、よう。『新編武蔵風土記』に、「三十番神社(現北野神社)、村ノ鎮守ナリ。妙延寺ノ持。」との記載がある。
また、明治初年頃の「妙延寺境内図」によると、寺は、スギ、ケヤキ、ヒノキなどの樹木に覆われていた、よう。現在その面影はなく、本堂前の大銀杏が唯一の名残、かと。

清戸道
お寺の前を東西に走る道は、清戸道とある。文京区関口の江戸川橋を起点に、武蔵国多摩郡清戸村(現在の清瀬市清戸)を結ぶ道。清戸村にあった尾張藩の鷹場への道、とも言われるが、近郊の野菜を江戸に運ぶ道として使われた。距離が20キロ強、といったものであり、夜明けに村を発ち、大江戸に野菜を運び、その日の内に村に帰るのに丁度いい距離であった、とか。帰り道には江戸野町の下肥を引き取って村に運ぶため、尾籠な話で恐縮ではあるが、別名「汚穢(おわい)道」とも呼ばれた。
道筋は、江戸川橋から椿山荘へと上り、目白通りの道筋を進む。山手通りを越えた先、中落合郵便局あたりで右に別れ、目白通りに平行に進み中野通りに交差するところで千川通りに入る。西武池袋線と平行に千川通りを進み、環七通りを越え西武池袋線・練馬駅の先の豊玉北6丁目交差点で再び目白通りに合流。
西武線を越え、中杉通りとの合流の少し手前で右にわかれ、向山を北西に登り石神井川を渡った先で再び目白通りと合流。笹目通りを越え、谷原小交差点先で目白通りから左に分岐、都道24号線を大泉学園駅北の妙延寺前に。妙延寺から先は都道24号線に沿って北に進み四面塔稲荷交差点に。そこから先の道筋は今ひとつよくわかっていない。が、直進する道筋も、大きく迂回する道筋も、どうしたところで、清瀬は指呼の間、である。

北野神社
都道24号線を西に進む。大泉学園町に向かって北に延びる大泉学園通りと交差したその先に北野神社がある。現在は菅原道真を祭神とするが、江戸の頃は番神様として地元の信仰を集めていた。明治になり神仏分離の令により、三十番神を妙福寺に返上。ために、祭神不在となり、さて如何にしたものかと思案の末、菅原道真を祭神に勧請し北野天神となった、とか。
三十番神とは神仏習合の30柱の神々。日替わりで現れ国家・国民を守るとされる。元々は最澄が比叡山に祀ったのが始まりであるが、中世以降は特に日蓮宗で重要視された。京に日蓮宗をひろめるべく比叡の神々を取り入れた、とのことである。1日目の熱田大明神(本地仏;大日如来)からはじまり30日目の吉備大明神(虚空蔵菩薩)に至るまで、全国の神々大集合と言った案配である。

井頭のヤナギ
北野神社横を北に向かう都道24号線と別れ、都道233号線を西に進む。ほどなく白子川に架かる泉橋に。川の両側はフェンスで囲まれ、これといった趣は、ない。左に折れて源頭部へと進みたい、とは思えども橋の南は西武池袋線が走り、道はない。都道233号線を少し西に進み踏み切りを渡り、成り行きで川筋へと戻る。
川筋に沿って緑橋、松殿橋、火之橋と進む。火之橋を越えると公園の中を通る。水草も多い。ほどなく暗渠。その先に井頭橋。井頭橋を越えると「井頭のヤナギ(二株)」の案内。川の両岸に立つ。マルバヤナギは低地の川岸や池沼岸、放棄水田などの多湿地に多く成育する。

大泉井頭公園
公園脇の白子川は湧水池の趣を呈している。河床や護岸から湧き出るのか、豊かな水に水草が茂る。池には木橋を渡し、その上で子供達が遊んでいる。公園付近には昔、井頭池と呼ばれる湧水地があった、とか。東大泉7丁目38番地あたりには縄文中期の集落址があり、集落址のほか祭祀址などの遺構・遺物も出土している。井頭池豊かな湧水を中心に日々を過ごしていたのだろう。
白子川の源流点というか源頭部は井頭池とされる。井頭池が大きな水源であったことはまちがいない。が、実際はその上流部にも水路があったようだ。白子川源頭部はコンクリート蓋水路で遮られているが、それは生活排水で汚れた上流部の水を池に落とさないようにしたもの、と言う。下水道の整備により、生活排水の迂回は不要となったため、現在は大雨時の雨水排水口のみが残っている、とのことである。

新川
コンクリート蓋水路の先に橋。七福橋とある。橋の上流を興に任せ成り行きで進む。いかにも川跡といった趣きの道を旧早稲田通りあたりまで進み、軽く得心して井頭公園にに戻る。跡からチェックするとこの川筋は新川とも呼ばれる白子川の上流部であった。源頭部は東大農場あたりであり、田無市の東から保谷市、というか今では西東京市となっている一帯を経て、この地に続く。

妙福寺
大泉井頭公園に戻り、来た道筋を白子川に沿って都道233号線に架かる泉橋まで戻る。泉橋の少し北西に妙福寺がある。境内に足を踏み入れると、誠に「結構」な構え。案内によると、西の中山と呼ばれるほどの日蓮宗の名刹であった。案内をメモ;元は大覚寺と称する天台の寺。開基は嘉祥3年(850)と伝わる。その後、鎌倉時代の元亨2年(1322)、日祐上人により法種山妙福寺として日蓮宗となり、以来この地での日蓮宗の中心となり、「西の中山」とも称される(中山とは千葉・中山の法華経寺)。現在の山号も「西中山」となっている。天正年間(1573-92)より寺領21石5斗を与えられ、3代将軍徳川家光から14代家茂に至る9通の朱印状(写)も残る。
寺域には祖師堂、本堂、仁王門、鬼子母神堂、鐘楼などがあり、庫裏の玄関に残る「からかさ造り」と呼ばれる小屋組は元禄14年(1701)の上棟と伝えられる貴重なもの」、と。「からかさ造り」とは、芯柱を中心に、唐傘を広げたような形で屋根の支えが組まれている。吹き抜けのため暖をとるのに難儀したようだ。
鬼子母神は日蓮宗によく見られる。江戸の三代鬼子母神と呼ばれる雑司ヶ谷・法明寺も入谷・真源院も、そして千葉中山・法華経寺も日蓮宗のお寺さまであった。それと、仁王門の左には三十番神堂があった。先ほど訪れた北野神社から移したものである。

さて次はどこに行こう、と思案する。付近に見どころなどないものかとiPhoneのマップをチェック。妙福寺を北に進んだところに四面塔稲荷前という地名がある。四面塔題目碑って碑があるようだ。また、道の途中に諏訪神社とか、ちょっと東に入ったところに本照寺というお寺さまもある。神社仏閣はそれとして、この道筋は清戸道。先ほど訪れた妙延寺を西に進み、北野神社手前を北に上り、白子川を越えたところで西に折れる。そうして本照寺の前を通り、その先の小泉橋交差点で北に折れ、諏訪神社前を進み四面塔交差点へと進むことになる。

本照寺
ということで、妙福寺前の道を北に進み小泉橋交差点に。少し東に折れ商店街の間にある道を少し北に入ると本照寺の山門。本堂の前には幾多の水子地蔵が佇む。案内をメモ;本山は身延山久遠寺(旧中山法華経寺)で、昔から中山法華経寺の隠居寺であった。とはいうものの、現住職の境野姓は、田安家城代家老境野某より出ている、と。江戸末期から昭和初期にかけて武士の転籍が多く、この寺もその一例であるとのこと。開基は、天正10年(1582)と伝わる。本堂は小榑村(現在の大泉学園町・西大泉・南大泉)の役場として使われたこともあった、とか。

諏訪神社
小泉橋交差点に戻り北に進み諏訪神社に。広い境内に樹木が茂る。往古、大樹に蔽われた鎮守の森であった名残を伝える。この神社も北野神社と同じく、もとは「三十番神」であったが、明治の神仏分離令で三十番神を返上する際に、三十番神のひとつ、2日目に登場する諏訪大明神を勧請し祭神とした、と。境内には稲荷社とともに三十番神社も祀られていた。それにしても、この大泉の地で三十番神さまに幾度も出会った。三十番神さま、と言えば日蓮宗、ってことは刷り込まれたように思う。

四面塔稲荷
諏訪神社から少し北に進むと四面塔稲荷交差点。脇に堤稲荷神社がある。その昔、この境内に四面塔題目碑があったため、四面塔稲荷とも呼ばれる。四面塔とはお題目を刻した石塔。境内に四面塔の実物を見ることはできなかったが、池袋駅の東口にあった四面塔は正面がお題目、左右は道標として道案内が刻まれていた。題目とは日蓮宗・法華宗の勤行に使われる「南無妙法蓮華経」のフレーズ。なお四面塔は大泉西小学校北側、瀧島家の墓地内に安置されている、とか。また、堤稲荷と呼ばれるのは、昔はこの辺は小榑(こぐれ)村の小名である「堤村」と呼ばれていた、から。

大乗院
さて、次はどちらに。マップを見ると四面塔交差点を南西に下ったところに大乗院がある。関宿藩主・久世大和守の祈願所と言う。ちょっと遠回りとなるが、寄ってみることにする。道なり・成り行きで進む。道脇に芝生が多い。どこかでこのあたりの西大泉の農産物は芝生、大根、キャベツ等との記事を読んだことがある。芝生栽培の「畑」などだろう。
成り行きで進み大乗院に。開基は永徳2年(1382)というから結構古い。小じんまりとはしているが、開創以来600年の古刹。慶長年間(16世紀末から17世紀初頭)に関宿藩主・久世大和守の祈願所となった、と言う。本堂、庫裡は明治に焼失し後に建てられたものだが、山門は宝暦8年(1758)の姿を残す。帝釈堂には柴又帝釈天題経寺の帝釈天の御分身である帝釈天王像が祀られており、庚申の日には信者の人びとによって帝釈天例祭が行なわれている、と言う。
久世大和の祈願所となった経緯はよくわからない。よくわからないが、想像はできる。久世大和が生まれたのは東久留米の南沢と言う。父親が家康の勘気を被り、東久留米の前沢に蟄居していたわけだ。東久留米には南沢の氷川神社などに寄進者として久世大和の名前が残る。大乗院が祈願所となったのは、かくのごとき「地縁」故であろう、か。単なる妄想。根拠なし。

大泉堀との合流点
大乗院を離れ、道なりに小泉橋交差点に戻る。そこからは成り行きで白子川に戻る。相変わらず周囲をフェンスで囲まれた、少々趣きに欠ける風景。水は澄み、水草が揺れる。泉橋の先には宮本橋、日の出橋、一新橋と続く。一新橋の先に開口部が現れる。白子川の支流である大泉堀(だいぜんぼり)の合流点。西武線ひばりヶ丘辺りを上流端とし、西東京市をほぼ西から東に進み、白子川と繋ぐ。「下保谷窪地のシマッポ」(シマッポとは窪地の底にある小川のこと) などとも呼ばれたようだが、現在はすべて暗渠となっている。

中島橋
人道橋である「みやの橋」を越え中島橋に。駅前方面からの人や車の往来が結構ある。この道筋は清戸道でもあり、橋を渡ったT字路を少し東に寄ったところに旧大泉村役場があったくらいだから、往古このあたりが地域の中心地であったのだろう。
T字路の東を左に折れ少し北にいったところに善行院と法性院。ともにこの地に多い加藤氏とつながりがある。善行寺の開基に加藤氏の名前があり、また法性院は加藤氏の氏寺、とか。大泉には元々大きな地主が五つあり、加藤はその筆頭とも。四面塔を安置する瀧島家もそのひとつ、と。旧石器、縄文期の遺跡である大泉中島遺跡もこのあたり、とか。

都営東大泉アパート
東西橋、前田橋、大泉学園橋と進む。北豊島橋のあたりの右手には都営東大泉アパートが並ぶ。御園橋、月見橋と都営アパートは続く。都営アパートに囲まれたところに、東大泉弁天池公園がある。その昔湧水池であった弁天池と白子川によって作られた低湿地からは縄文時代の遺物が出土している。縄文時代後期、中世・近世の複合遺跡、と言う。また、平成9年から10年にかけての都営アパートの建て替え工事のとき調査された外山遺跡からは、石器時代の黒曜石や縄文時代の遺構が見つかった、とか。

東映大泉撮影所
外山橋を越えると洒落た風情のマンションが川脇に建つ。プラウドシティ大泉学園と呼ぶようだ。400戸以上もあるという大型レジデンスの裏手には東映大泉撮影所がある。このレジデンスは撮影所の敷地を使ったものだろう。撮影所といえば、その昔、学園都市として売り出すのに、軽佻浮薄なる撮影所があるとは何事ぞ、と大泉学園の駅に学園エリアと区分けした出口を、設置したとか、しない、とか。
外山橋の下にある排水口は弁天池(昔は久保の池と呼ばれたようだ)からの流路。昔は湧水からなる白子川の一支流。現在は地下から汲み上げられた水を白子川に流す。

北大泉氷川神社
外山橋からちょっと寄り道。目白通り・放射七号線の北に北大泉氷川神社に向かう。なにがどう、ということはないのだが、氷川とか熊野といった社にはとりあえず歩を進めることにしている。成り行きで進み氷川神社に。この社は、土地の旧家・荘一族がこの地に入ったとき、一族の番神として鬼門に祀った、とも言われる。「新編武蔵風土記稿」橋戸村の項に「氷川社 村民庄忠右衛門ガ宅地ノ内ニアル小祠。祭神は在五中将ナリ。其家ニテハ。中将東国下向ノ時。庄春日江古田ト云3人ノモノ慕ヒ来リテ。此地ニ祭リシト相伝レドモ。信ズベカラズ」、とある。縁起には少々疑問符が付けられてはいるが、この庄、とは荘氏のことだろう。社はこの地・橋戸村の村社として住民の信仰を集めた。境内には伊賀組奉納の御手洗が残るmとか。

橋戸村・小榑(こぐれ)村・上支田村
橋戸村とか小榑(こぐれ)村、そして散歩の最初に訪れた妙延寺あたりは上支田村。大泉一帯の昔の地名を練馬区のホームページを参考にちょっと整理しておく。
上支田村は現在の東大泉、そして三原台、大泉町の一部。大雑把に言って白子川の南の地域である。その昔は豊島郡に属する。明治初年上支田村、明治22年の町村制施行のとき、石神井村と合併し石神井村となる。上支田の名前の由来は土器をつくる「土師」からとか諸説あるが、いまひとつしっくりこないのでパス。
小榑(こぐれ)村は現在の大泉学園、西大泉、南大泉。白子川の北。その昔は新座郡に属する。江戸の頃は幕府直轄領であったが、元禄16年(1703年)、武州久喜藩主米津(よねづ)氏の領地となり幕末まで続く。地名の由来は諸説ある。練馬区のHPによれば以下の通り;「榑(くれ)とは山出しの木材や薪(まき)のこと。地名はそうした作業を行った所と解する説が有力である。一方、クレは呉に通じ、帰化人に関係あるとする説もある。天平宝字2年(758年)新羅(しらぎ)の帰化僧らを武蔵国に移し新羅郡を置いた(続日本紀)。新羅郡はのちに新座郡となった。座はザともクラとも読み、今も隣接して新座市があり、和光市に新倉(にいくら)の地名がある。これに対して小榑は「ふるい(古)クレ」か、という。
橋戸村は現在の大泉町一帯。江戸の頃、幕府直轄の小榑村とは異なり私領である伊賀組の給地。氷川神社に伊賀正組奉納の御手洗が残るのはそのため、とか。地名に由来は白子川の地形から。「端の瀬戸」が転化した、と。
明治22年の町村制の施行のとき、小榑と橋戸村が合併し埼玉県榑橋村(くれはしむら)となる。同24年には東京府に編入。このときに元の土支田村(石神井村)も合併する。きっかけは小学校運営のコスト負担軽減。上支田村の妙延寺と、その隣り合わせの榑橋村の本照寺に小学校があり、村費に占める割合が大きいため、ひとつにしてコストカットを計った、とか。結果、埼玉県榑橋村が東京府に編入し、大泉村が成立した。三村が合わさって新しい村をつくるとき、名前をどうするか、あれこれ案があった、よう。はじめは湧水の「泉」に三村の中で一番大きい「小榑村」を足し、「小泉」との案があったようだが、小泉=コイズミ>オイズミ、ということで、大泉となった、とか(練馬区HPより)

教学院
帰りの道すがら教学院に。日蓮宗の多いこの地にあって真言宗の寺院であった。案内によると、正平9年(1354)、児玉郡本荘城主・荘弘泰、広朝親子が武蔵野合戦の後、橋戸村に土着し、この寺を菩提寺にした、とある。武蔵野合戦とは14世紀の中頃、足利尊氏ら北朝方と新田義興らの南朝方の軍勢が武蔵・相模を舞台に相争った一連の合戦のことである。

比丘尼橋上流調整池
川筋に戻り東映橋、水道橋、三ッ橋と進み「びくに公園」に。地表はテニスコートや運動公園として使われているが、公園は調整池となっており、本河川が増水すれば公園内に流れ込む。比丘尼橋上流調整池と呼ばれる。
白子川は神田川、渋谷川・古河、石神井川、目黒川、呑川、野川とともに洪水重点対策地域として指定されている。昭和55年に1時間30mm対応の河川として整備されたが、洪水重点対策の施策として1時間に50mmの降雨に対処することとなった。とはいうものの、下流部分の河道拡張が長期間を要するため、この地に調整池を設け洪水の一部を貯めることにした。この比丘尼橋上流調整池、関越と目白通りの間に地下調整池、そして関越の北には比丘尼橋下流調整池が計画され上・下調整池は完成し、地下調整池は現在工事中とのこと。
ちなみに東京の洪水は現在下町地域ではあまり発生していない。従前よりその対策を講じ、被害が誠に少なくなっている。上でメモした洪水重点地域からもわかるように、中野や杉並、そしてこの白子川のように武蔵野台地を開析する河川流域が洪水多発地帯となっている。下町低地=洪水、といった図式は既に無くなっているようである。

八の釜湧水
びくに公園に沿って進み、目白通り・放射7号線の下前で右に折れ崖線に沿って進む。八の釜憩いの森とも呼ばれる緑の崖下には豊かな湧水。かつて、この辺りは「橋戸村字谷(や、やつ)」と呼ばれていたようで、湧水を意味する「釜」と合わさり「谷(や)の釜」と呼ばれていたものが、いつしか「八(や)の釜」と。釜から流れ出す水は放射7号線に沿って大泉氷川橋下で白子川に落ちている。その昔は放射7号を潜り先に進んでいたが、外環道路建設に伴い流路を変えた、とか。

関越・外環・目白通り
目白通りを越え関越道と東京外環道路とが合わさる辺りを進む。一度川筋を離れ、目白通りを少し東に戻り外環に沿って進み、関越道の下を潜り精進場稲荷神社のあたりに進む。精進場稲荷神社の由来ははっきりしないが、先ほどの八つ釜の湧水は富士や御嶽への参拝に向かう人たちが水垢離した精進の場であったというから、そのこととなにか関係があるのか、とも。
坂道を成り行き出下り、川筋に戻る。この辺り一帯では、関越や外環道工事の時にいくつもの遺跡が見つかっている。この関越と外環が交差するあたりには比丘尼遺跡、外環道路を北に進んだ一帯にもいくつもの遺跡が見つかっている。どれも石器から近世までの複合遺跡、とか。
関越道と外環に囲まれたところの比丘尼橋、関越道をくぐった直後の新橋戸橋を超えると川の両側に大泉橋戸公園。川の西側の公園のところに比丘尼橋下流調整池がある、柵を越えた水が施設の地下に入っていく。その先にある弥生橋右岸の先は行き止まり。左岸に移り進むと向下橋。右岸の「あかまつ緑地」をかすめて全薬橋に。全薬工業がある。工場内の池からの支流がある、とか。

清水憩いの森公園
その先は行き止まり。右岸に移り万年橋に。その先の中里橋を越えると中里泉公園。泉という名前に惹かれて階段を上り、公園脇の泉を確認し元に戻る。次の橋は別荘橋。別段、分限者の別荘があった、というわけではなく、橋戸村の荘さんと区別するため。別の荘さん、と言うことだ。別荘橋に下る坂は別荘坂。ここは引又道の道筋。土支田で生産した産物を志木の引又に送られ、引又からは新河岸川の船便で江戸に運ばれた。
別荘橋を越えると清水憩いの森公園。不動橋手前の入り口から公園に入る。湧水の水をためた池で子供が遊ぶ。泥濘に足をとられ泥まみれ。誠に楽しそう。公園内を細流に沿って湧水点まで進み、北斜面の雑木林の崖下より浸み出す湧水をしばし眺める。東京の名湧水57選のひとつ、とか。

稲荷山憩いの森
下中里橋を越えると稲荷山憩いの森。入り口が今ひとつわからず結局八坂中学あたりまで進み、八坂小学校との間を進み、坂を上る。坂の途中に土支田八幡宮。その昔は、天神社・明治になり北野神社。土支田八幡宮となったのは昭和10年以降だ、とか。
成り行き出稲荷山憩いの森へと進む。あれこれと彷徨ったのだが、森の中にある、と言う湧水池を見つけることができなかった。近くには縄文時代の住居址である稲荷山遺跡もあったようだ。

中里幼稚園の湧水
八坂小学校あたりの川筋に戻り先に進む。川向こうの護岸から勢いのいい水が川に注がれている。その向こうには崖線がある。ひょっとして湧水、かとも思い、八坂歩道橋を渡り崖下に。誠に豊かな水量である。残念ながら水辺は工事中。崖上からアプローチしようと池に沿って坂を上る。崖上からなんとか池まで行けないかとあらこれ道を探すが、進むことはできなかった。この湧水は中里幼稚園の湧水と呼ばれるようだ。幼稚園は坂を上がりきったところにあり、幼稚園のプールも湧水で供給されている。

越後山憩いの森緑地
崖上の道をちょっと進む。緑の雑木林は越後山憩いの森緑地と呼ばれる。弥生時代を中心にした複合遺跡がある、と言う。しばし彷徨い、中里幼稚園まで戻り、坂を下り再び川筋へ。先に進むと越後橋。このあたりは練馬区と和光市の境。越後橋を越えると舗装から一転砂利道に。一時的ではあるが「深い自然」の一帯となる。

笹目通り
芝屋橋を越えると笹目通り。オリンピック道路とも呼ばれるこの道には向山橋が架かる。笹目通りを越え、八雲神社あたりを見やりながら小源治橋に。趣のある石橋。橋からは黒格子の旧家や白壁土蔵の眺めが落ち着いて美しい。橋の名前の由来は橋を造った人の名前。天保2年(1831年)、白子牛房(ごぼう)の富沢小源治が板橋では覚束ないと石橋として整備したから。先に進み、子安橋に。川の対岸には出世稲荷や妙安寺、そしてそこには白子道が通るとのことではあるが、そろそろ日暮れが心配になってきた。先を急ぎ川越街道に。

白子の宿
川越街道は江戸の頃、日本橋を起点に中山道を進み、板橋宿の平尾追分で別れ川越を結ぶ街道である。いつだったか白子の宿から川越街道を平林寺まで歩いたことが懐かしい。それはともあれ、川越街道を通す新東埼橋を見やり、川越街道を渡り、旧川越街道に架かる東埼橋に。橋の名は東京と埼玉を足して二で割った名前である。ここから先は川に沿って道がるのだが、ルートは東京都と埼玉県を行き来することになる。都県境が昔の白子川の川筋であるから、新しく付け替えられた川筋は都県を交互にすすんでいるのだろう。地域の境界を川とするのは散歩の折々で出会う。
東埼橋のあたり一帯は昔の白子の宿である。いつだったかこの辺りを彷徨い、川越街道と旧川越街道に挟まれた「大阪ふれあいの森」や熊野神社の湧水を巡ったことを思い出す。白子川と出会ったのも、金子みすずと出会ったのも、そして散歩エッセーの達人として知られる岩本素白と出会ったのもこの地である。白子の宿も再び、というか三度歩きたいとは思えども、誠に以て日暮れが近い。先を急ぐ。

新河岸川との合流点
東埼橋の先には白子橋。橋脇に清水かつら記念碑があった。童謡「靴が鳴る」の作詞家である。その先にが東部東上線の高架橋。その先に寺前橋。寺前橋あたりからは、典型的な都市河川となる。城口橋、大成橋、成和橋、水木橋、藤木橋と跳ぶがごとく駆け抜ける。白藤橋を越え都営成増団地を見やり、成増橋に。東に向かえば吹上観音。溝下橋を越え、三園橋に。ここでふたたび笹目通りと交差。橋を少しすすんだところに三園浄水場。荒川の秋ヶ瀬取水堰で取水された水は朝霞水路に導かれ、三園浄水場に。ここで浄水された水は、玉川浄水場からの処理水とブレンドされ、練馬給水所、板橋給水所に送られ配水される。浄水場の先に落合橋。白子川はこの先で新河岸川に合流する。日暮れ寸前。滑り込みで間に合った。後は見知った白子の町を成り行きで成増駅に戻り、本日の散歩を終える。


先日の八王子湧水散歩では日没時間切れのため、川口川脇にある清水公園、加住南丘陵の小宮公園、そして、八王子駅近くの子安神社など、いくつかの湧水ポイントが残った。湧水散歩の第二回。スタート地点は圏央道の少し手前、川口川に架かる川口橋あたりとする。近くには武蔵七党のひとつ西党・川口氏の館址がある、と言う。湧水散歩もさることながら、どうせのことなら、武蔵七党・西党が割拠した川口川流域をも辿ろう、ということに。
川口川流域の歴史は古い。流域には中田遺跡、長房遺跡、楢原遺跡、宇津木遺跡、春日台遺跡など幾多の古代住居跡が残る。川口郷の地名が記録に登場するのは承平5年、と言うから平安時代の後半の頃(935年)。源順(したがう)により撰述された『和名類聚抄』に川口郷の名が残る。
多摩は国造の抗争に勝利した笠原直使主(かさいのあたいおみ)により天皇家に献上された屯倉の地である。645年、大化の改新によって国・郡・郷が成立したわけだから、川口郷の歴史は此の頃からはじまったのだろう。旧屯倉の地域は奈良、平安時代に庄園や牧へと変わり、その地を拠点に武蔵七党と呼ばれる武士団が登場する。川口郷も、奈良・平安には藤原荘園の船木田庄へと変わり、その地に広がる由比牧には武蔵七党の西党・由比氏が入植。庄園の庄官・牧の別当(管理者)として力をつけていった。
今回訪ねる川口氏はその由比氏を祖とする、と言う。その名のとおり、川口川流域に居を構え、川口郷の地頭として鎌倉末期から南北朝、室町時代にかけて武名を残した。
大雑把なルートは、川口川中流域を清水公園まで辿り、そこから加住南丘陵へと進み、市内に戻るといったもの。さて、散歩にでかける。




本日のルート;八王子駅>川口橋>川口氏館址>鳥栖観音>法蓮寺>安養寺>都道46号線>清水公園>甲ノ原>国道16号線・谷野街道入口南>小宮公園・大谷弁天池>浅川大橋>永福稲荷神社>竹の鼻の一里塚碑>子安神社>京王八王子駅

川口橋
八王子駅からバスに乗り甲州街道を西に進む。本郷横町で甲州街道を右に折れ秋川街道に。秋川街道は川口街道とも五日市街道とも呼ばれていた。川口川に沿って西に進み、小峰峠を越えて秋川筋の武蔵五日市に至る。
元本郷町を北に進み荻原橋で北浅川を渡る。萩原橋は明治初期の実業家の名前から。一代で財をなすも、晩年は零落した、と。中野地区を進むと道脇に日本機械工業の工場。現在は消防自動車の製造工場であるがは、その昔、片倉財閥の製糸工場であった。八王子は養蚕、絹織物で名高い「桑都」であったわけだ。
中央高速をくぐり、楢原地区に入る。道の南は楢原台地。比高差20m弱の、わずかなる地形のうねりではあるが、北浅川と川口川の分水界となる。湧水のある清水公園は楢原台地の逆サイド、秋川街道の少し北を流れる川口川脇にある。後ほど、川筋を戻ってくることになる。 都道46号線・八王子あきる野線を越え更に進む。川口小学校の辺りまで進むと秋川街道は川口川に急接近。これより先、秋川街道は川口川に沿って走ることになる。このあたりが川口氏の館があったところ。川口橋バス停で下りる。

川口氏館址
バス停から辺りを見渡す。川口川もこの辺りでは川幅もささやか。川の両側に丘陵が迫る。北は川口丘陵。秋川丘陵へと続き、秋川水系との分水界となっている。滝山街道・戸吹から秋川丘陵の尾根道を進み網代、五日市へと抜ける中世の甲州道を辿ったことが懐かしい。一方、川口川の南の丘陵は南浅川との分水界。丘陵を越えた南浅川流域一帯は往古の由比牧。川口氏の祖でもある武蔵七党のひとつ、西党・由比氏が牧の別当として勢を養ったところ、である。 川口氏館址を探す。場所は川口小学校あたり、とか。秋川街道を少し戻り、小学校手前の道を折れ丘陵に向かう。道は丘陵にどんどん入っていく。これといって城址といった場所は見当たらない。道も行き止まりの、よう。引き返す。
後からわかったのだが、川口氏館址は小学校の東、調(ととのい)台という舌状台地の先端あたり。文献によれば、高尾、丹沢の山々も遠望できる場所、と言う。そこには川口氏館跡の碑が残る、とか。
川口氏は武蔵七党のひとつ西党・由比氏をその祖とする。由比氏は浅川流域、由比牧の別当として八王子市弐部方に館を構えた。甲州街道・追分の分岐から北西に一直線に進む陣馬街道が浅川に当たる手前、直角に曲がる切り通し上の日枝神社がその館址とも。この由比氏も和田合戦に横山氏共々、和田義盛に与力し戦いに敗れる。ために、牧の別当の地位も失い、子孫は八王子由木村に移り由木氏を称した、と。川口氏はこの由木氏の末裔が川口川流域に移住。川口氏と称し、代々勢力を広げていった、とのことである。

鳥栖(とりのす)観音
川口川を渡り鳥栖観音に。長福寺の西脇、山の中腹に鳥栖観音堂がある。本尊は千手観音の立像。行基の作とも伝えられる。この観音様は「火防(ひぶせ)」の観音さまとして知られる。幾度か火事に見舞われるも、この観音様は常に類火を免れたとの伝説が伝わる。鳥栖の名前の由来は、火事を逃れ飛び移ったところが鳥の巣であった、ため。長福寺は別名「萩寺」と呼ばれる。仙台の「宮城野萩」が移された、と。









法蓮寺
長福寺の少し東に法蓮寺。山門をくくり本堂へ。本堂は平成10年に再建されている。この寺は鎌倉時代、川口氏が造立したもの。往時、時宗の道場として大きな構えを誇った、と。時宗は鎌倉末期におこった浄土教の一宗派。一遍上人をその祖とする。日々を常に命終える「時」と心得、念仏を唱えるべし、と。
この法蓮寺は仁科五郎信盛の娘、督姫(小督)が出家したところ。仁科信盛は武田信玄の五男。相次ぐ重臣の裏切りの中、最後まで武田家のために奮戦し高遠城にて討ち死。その娘・督姫は信玄の娘・松姫に導かれ甲斐を逃れ、山中の難路を越えて案下の里に辿り着く。案下の金昇庵、川原宿の心源院、市内の信松院などを経て、この法蓮院で出家した、と。武田家にゆかりのこの寺にはふたりの千人同心も眠る。千人同心って旧武田家家臣である。




安養寺
丘陵の裾を成り行きで東に向かう。ほどなく安養寺。いい雰囲気のお寺様。六地蔵が佇む。このお寺には困民党・塩野倉之助の碑がある。困民党といえば秩父困民党が知られる。知られる、と言うか、それしか知らなかった。が、この川口の地もそうだが、困民党って全国規模の騒乱であった。
明治17年、世界恐慌の影響もあり明治日本は維新以来はじめての不景気に襲われる。未だ基盤の脆弱な日本経済、特に農業は深刻な不況に見舞われ、多くの農民が困窮に喘ぐ。折からの自由民権運動の影響もあり、農民が集まり結成した政治組織が困民党。活動は全国に広がったが、養蚕農家が多く生糸急落の被害を被った武蔵・相模の農民の困窮は特に深刻。武装蜂起ともなった秩父困民党事件、数千人が八王子・御殿峠に集結した武相困民党など歴史を刻む事件が起きることになる。で、この川口川流域で起きたのが川口困民党。この地の豪農・塩野倉之助のもとに集まり決起を計るも官憲の弾圧で鎮圧される。この寺の碑は昭和29年、指導者塩野倉之助の徳を称え建てられた。

清水公園
寺のすぐ南に川口川が流れる。川に沿って進み都道46号線・明治橋北詰に。この辺りの地名は犬目。なんと面妖な、とは思えども犬目は「井の目」からとの説がある。「井」は「居る」、「(水が)溜まる・集まる」。「井の目」って、「地面の裂け目から水が集まる・湧き出るところ」、と言った意味。犬目丘陵の裂け目・崖線からの湧水が多いのだろう、か。湧水に期待を抱かせるような地名である。

明治公園を越え川口川に沿って進むと清水公園。予想に反し整備された公園。池は自然の湧水を集めたもの、とのこと。公園を辿り湧水源を探すが、それらしき場所は見あたらない。チェックする。この公園は往時、井戸尻湧水跡とも呼ばれる大湧水地であった。が、昭和30年代後半からはじまった都市開発の影響を受け、大学や宅地開発に伴う道路工事、川口川の河川改修工事などにより湧水地は地下に埋没してしまった、と。昔はいざ知らず、現在も「八王子の湧水」にリストアップされているのは、ちょっと無理がある「湧水地」ではあった。

甲の原
次の目的地は小宮公園。川口川を離れ丘陵地の中ほどを進むことになる。公園の西の端から裏手の工学院大学、隣接する戸板女子短大のグランドに沿って丘陵を上る。丘陵といっても周囲は宅地開発されており、野趣豊かな趣はまるで、なし。東西に走る道路には車の交通量も多い。
工学院キャンパスの交差点を越え甲ノ原中入口交差点に。この名のとおり、この辺りは「甲ノ原」と呼ばれる。現在は「こうのはら」ではあるが、往時は「かぶとがはら」と呼ばれていた。小田原北条軍が武田軍の追撃を避けるため、この地の桑の木に甲をかけ、あたかも大軍の備えがあるように偽装したというのが地名の由来。追撃は小田原攻めの時の上杉景勝軍、との説もある。いずれにしても、このあたりは滝山城から八王子城への往還路であった、と言うことだろう。

谷野街道入口南
甲ノ原の台地を成り行きで進み中央高速脇に。iPhoneのマップに子安神社の表示。先を急ぐあまりパスしてしまったのだが、この神社は湧水ポイントとして有名であった。中野の明神様として知られるこの神社には「明神様の泉」がある、と。後日Webでチェックするに、なかなかもって素敵な湧水。また、この神社には安養寺で出会った困民党の指導者・塩野倉之助の碑も残る、とか。塩野倉之助を先頭に農民二百数十名がこの地に集結したとのことである。機会を見つけて訪ねてみようと思う。

中央高速を交差することなく、高速に沿って少し進み、台地を下り気味に進む。開析されたような地形である。一筋北の開析谷には谷地川の支流が残っている。この道筋もその昔は川が流れていたのではないか、などと思いを巡らせながら進み、国道16号線の谷野街道入口南交差点に出る。
谷野街道は都道166号線のうち、谷野街道入口交差点から滝山城址脇の峠を抜け、あきるの市二宮に至る区間。二宮神社から高月城、滝山城へ下ったとき、この道筋を辿ったことがある。ここに続いていたのか、などと故なく懐かしい。

小宮公園・大谷弁天池
谷野街道南入口交差点から国道16号線を南に進む。道は峠の切り通しを越える。峠を越え、八王子の市街を見渡しながら下りながら、東に折れる道を探す。最初にみつけた道筋を左に折れ、再び台地へと上る。稲荷坂と呼ばれている。曲がりくねった舗装道路を進み小宮公園に。 整地された公園を進む。成り行きで進むと左手の雑木林に向かう道。谷へと下っている、よう。行き止まりの不安を抱きながらも、とりあえず進む。なんとなく谷へと続いている、よう。周囲は誠に野趣豊かな景観。浅川北岸の加住丘陵に位置するこの公園は20ヘクタール程の広さがある、と言う。確かに、歩けども歩けども雑木林が続く。
谷戸に下りるといくつもの散策路。沢に沿って木道が雑木林の中に幾筋も延びている。散策路脇の水路を辿り上流に向かい、滲みる出るが如き湧水をみて少々和む。沢を辿り源流点へ、とは思えども日暮れが近い。そのうちに、大谷沢とか、ひよどり沢といった沢を進み源流をチェックしたい、と思う。中野の子安神社共々、次回のお楽しみ、である。

木道を引き返し大谷弁天池に向かう。池は大谷沢の湧水を集めたもの、と。この池は、天明年間(18世紀の後半)、八王子千人同心頭・萩原氏が干魃に困窮する農民を助けるため掘ったもの。池の畔には弁財天をまつるお堂が佇む。

ひよどり山
弁天池を離れ公園前の道を西に、国道16号線に向かう。緩やかな坂の切り通しに橋が架かる。石造りの水道橋かとも思ったのだがクリート製の橋。1980年の頃までは吊り橋であった、というから水道橋でもないようだ。
切り通しを越えると下り坂。成り行きで進むとトンネル。全長1028mの「ひよどり山トンネル」。中央高速八王子インターなどもあり交通量の多い国道16号線の渋滞を緩和するためにつくられた。とは言うものの、このロケーションって、地元の人しかわからないのでは、とも思える。
それはそれとして、「ひよどり山」って、川口困民党の塩野倉之助を筆頭に二百数十名の農民が集結したところ。小宮公園のある丘陵地に集結したのだろう、か。雑木林とは言いながら、現在では「公園」っぽい景観の小宮公園ではあるが、かつては昼なお暗い森であった、と言う。「ひよどり山」、って別名、明神山とも呼ばれる。その場所は子安明神の北にある現在の「みつい台」の辺りとの説もある。「ヒヨドリ山」って、大雑把に「このあたり一帯」ということで、とりあえず納得しておく。

永福稲荷神社
先に進み浅川に掛かる浅川大橋を渡る。浅川大橋南交差点を越え、成り行きで左に折れる。新町を進むと道脇に永福稲荷神社。境内には松尾芭蕉の句碑や江戸中期に活躍した八王子ゆかりの力士、八光山権五郎の碑があった。江戸を代表する力士であった、とか。この神社が勝負の神様と崇められるのは、この力士の実力ゆえのことであろうか。それとも、この神社を寄進したのが八光山である、ということがその理由であろうか。この神社では9月に「しょうが祭り」が行われている。古来、生姜は邪気除けの薬味であった、よう。








竹の鼻の一里塚の碑
神社横の公園に碑がある。何気なく見やると、「竹の鼻の一里塚」、と。江戸の頃、五街道に一里おきに整備された目印の塚。通常は塚が築かれその上に木が茂るわけだが、その名残は既に、ない。
お江戸日本橋から数えて12番目のこの一里塚は、甲州街道八王子宿の入口。当時の甲州街道は大和田橋南詰めを西に折れ、現在の八王子市立第五中学校の先、市立五中交差点を左斜めに入り、この永福稲荷神社の前に進む。その先のT字路を南に下り、現在の甲州街道で西に折れ八王子三宿である横山、八日市、八幡と続いた、と。横山、八日市、八幡は滝山城にも八王子城にもあった城下町の宿。秀吉の小田原攻めの折、壊滅的被害を被った八王子城下町より、江戸開幕時にこの地に移された。
ちなみに、この八王子三宿は後に八王子横山十五宿とも呼ばれるようになる。横山宿、新町、ホ宿、八日市宿、寺町、八幡宿、八木宿、横町、島の坊宿、小門宿、馬乗宿、子安宿、久保宿、本郷宿、上野原宿など十五の宿である。大久保長安が宿の建設に取り組み、甲州街道に沿って何町も連なる街道随一の宿場町となった、ということだ。




子安神社
一里塚跡を離れ南に下り、八王子駅入口東交差点あたりで甲州街道を渡り、少し進むと子安神社。八王子最古の神社。天平宝字3年、と言うから西暦759年、淳仁天皇の皇后・粟田諸姉(あわたのもろね)の安産祈願のために、橘右京少輔が創祀したと伝えられる。多西郡(多摩川の西側一帯)の総鎮守として武将の崇敬も篤く、八幡太郎義家が奥州出兵の折、戦勝を祈念するためこの神社に参拝したとの伝説も残る。
湧水を探す。本殿脇、一段下ったところに池。池の上には建物が建っているため、全容はよくわからないが、結構大きな池である。子安大明神の池と呼ばれる。往古、この池を取り巻く欅の大樹があった、そう。木々は船の形に立ち並び、ために「船森」とも呼ばれていた。森は竹の鼻の一里塚のあたりまで続いていた、と伝わる。
本日の散歩はこれでお終い。中野の子安明神は小宮公園の湧水源流チェックと合わせ、そのうちに再訪、ということにする。

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