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書写のお山へと東坂参道を上り、広い境内を巡り、今回は西坂参道下山ルートをメモする。下山の参道にも丁石が立ち、特段のメモすることもないところは上りと同じく、「山を下りながら こうかんがえた」妄想を付け加える。


本日のルート;
JR姫路駅>書写山ロープウエイ乗り場>東坂露天満宮
東坂
東坂参道上り口>壱丁>二丁>三丁>宝池>四丁>五丁>五丁古道>六丁>七丁>八丁>九丁>十丁>十一丁>紫雲堂分岐>紫雲堂跡>十二丁>十三丁>和泉式部の案内>十七丁
圓教寺境内
仁王門>壽量院>五重塔跡>東坂・西坂分岐点の標石>十妙院>護法石>湯屋橋>三十三所堂>魔仁殿>岩場の参詣道>姫路城主・本多家の墓所>三之堂>鐘楼>十地院>法華堂>薬師堂>姫路城主・松平直基(なおもと)の墓所>姫路城主・榊原家の墓所>金剛堂>鯰尾(ねんび)坂参道>不動堂>護法堂>護法堂拝殿>開山堂>和泉式部歌塚塔>弁慶鏡井戸>灌頂水の小祠>西坂分岐点に戻る
西坂
妙光院>二丁>三丁>四丁>五丁>六丁>七丁>八丁>九丁>十丁>十一丁>十二丁>十三丁>十四丁>十五丁>十六丁>十七丁>下山口


西坂参道

東坂・西坂の分岐点の「一丁」標石
摩尼殿下の東坂・西坂の分岐点に立つ「一丁」標石を右に折れ西坂参道に入る。道の左手には元金輪院塔頭であった。常のことながら成り行き任せ。当初の予定では上りも下りもロープウエイで利用予定であったのだが、上りの東坂も、下りの西坂参道も成り行きで出合い、急遽予定を変更したもの。
下る前は坂の状態もわからず痛めた膝の優しい参道であれかしと、とりあえず道を先に進んだ。



妙光院
ほどなく道の右手に妙光院。「安養院跡地に建立されたのが今のものであるが、壽量院の北側に元あったものである。創建は不詳で、明応四年(1495)鎮永が再興するまでは妙光坊と称していた。
享和年中(1801~1804)祖渓が再修したが、明治の末年に至って修理の見込みがたたないので、ついに本尊を他に移し建物を取りたたんだ。その後「妙光院」の名称だけが残っていたのを現地に再建し、本尊を安置した」と案内にある。



二丁;13時33分
妙光院の先で道はふたつに分かれる。左に折れるとロープウエイ山頂駅へと向かう。往路で仁王門へと西国三十三観音道へと折れた慈悲の鐘(こころの鐘)鐘の立つ分岐点である。 西坂参道は右というか、道なりに進む。分岐点には二丁標石が立つ。




和泉式部の絵巻風パネル
ここから先、六丁標石辺りまでは単調な道を下り、時に丁石を見るくらいであり、特段メモすることもない。ということで、書写の山に性空上人を訪ねて上った多くの貴人、聖を差し置いて、パネル解説されていた和泉式部についての解説を、折角のことでもあるので載せておく(1から3までは掲載済みであり、4から)。

■「(パネル番号」4 和泉式部の生涯のあらましを、お話ししましょう。幼名は許丸(おもとまる)。名だたる儒家の大江家に生まれました。父は大江雅致(まさむね)。一家は学問のほかに、母の妙子(昌子(しょうし)内親王のおん乳母)とともに、昌子内親王様のお守役をつとめました。
昌子内親王さまは冷泉天皇の皇后(御父は朱雀亭)です。和泉式部は、そうした教養溢れる雰囲気の中で、歌才に恵まれた美少女して、おほらかに育ちます」。
■「 幼い日の和泉式部(お許丸)の毎日は、内親王さまがお育てになっている幼いご兄弟の皇子さまと、仲よく遊ぶことでした。皇子の御名は、兄宮さまは為尊(ためたか)親王さま、弟宮さまは敦道(あつみち)親王さま。そして別邸には、その上の二人の兄宮さま(のちの花山天皇と三条天皇)がお暮らしでした。
お許丸のお相手は、こうしたご身分のかたばかりでした。このご縁が、彼女の生涯のコースをのちのちまで定めてゆきます」。

■「 やがて三人は成人してゆきます、兄宮さまは弾正ノ宮(だんじょうのみや)(司法官)に、弟宮の敦道親王は帥ノ宮(そちのみや)(行政官)になられます。お許丸も彩色秀でた新進歌人・和泉式部として名をあげてゆきます。
その頃、三人が幼い時からお慕いしてきた昌子内親王様が、ご病気療養のために和泉の大江邸に滞在して、その家で薨去なさいます。
その時、兄宮さまは淡い恋心を和泉に抱かれますが、翌年に早逝されます。そして弟宮敦道親王と和泉の"大きな恋"が始まります」

三丁;13時35分
道を進むと「西坂参道 日吉神社・姫路工大へ」の案内。どこに下りるのか地図をチェックする。麓に姫路県立大がある。姫路工業大学など県立三大学が統合されて姫路県立大学となったようである。
その直ぐ先に、小さな石造五輪塔や数基の石仏と共に「三丁」の標石が立つ。

■「 弟宮の敦道親王は和泉にぴったりの多感な貴公子でした。容姿端麗、立居もきわ立っていました。和泉は言います。「敦道親王こそ、幼い日から わたしが夢みてきた最高の男性像です」。初めての添寝の翌朝、和泉は、心身の深い満足度をこう歌います。
世のつねの ことともさらに思(おも)ほえず はじめて物を思う朝(あした)は 教養を突き破って自分の感動を歌いあげる大胆さ。この"歌魂"(かこん)こそ、彼女の歌の特性であり、目のさめる近代性でした」。

■「 敦道親王は自邸の南院に和泉を住まわせました。翌春の加茂大祭(かものたいさい)には、二人が相乗りした牛車が、御簾を揚げて都大路へ出ました。
そうした相愛の歌を、彼女は「和泉式部日記」の中に、たくさん遺します。親王の御子石蔵宮(いしくらのみや)も生まれ、生涯を賭けた大恋愛でした。

しかし、二年後、この最愛の敦道親王も二十七歳で亡くなりました。その魂祭の夜、和泉は涙を涸らしてうたいます。 亡き人の 来る夜と聞けど君もなし わが住む里や魂(たま)なきの里」。

■「 弟宮を亡くしてやつれ果てる和泉の姿を心配して、関白道長は肩をたたいて、「中宮の彰子は わしの娘だが、中宮御所へいって、歌でも教えてやってくれないか」と気分転換をすすめます。
道長は器の大きい人でした。彰子も利発で教養高い美妃でした。中宮御所には、紫式部、伊勢大輔(いせのたいふ)、赤染衛門(あかぞめえもん)など超一流の女性メンバーが揃った文学サロンがあります。彰子は「お美しいお子さんの小式部の内侍(こしきぶのないし)も ご一緒にどうぞ」と温かく和泉を迎えてくれました」。

■「10 小学生にも人気の高い軽快な「大江山いくのの道の遠ければ まだふみもみず天の橋立」の百人一首の歌は、小式部十二才頃の御所での即興作です。「さすが母似(ははに)よ」と公卿たちは騒ぎました。
一方、和泉式部と紫式部は、お互いにライバル意識がありました。が、やがて、「歌は和泉式部、小説は紫式部」と、しぜんと定まってゆきました。文芸サロンでは、和泉と中宮彰子は互いに親しみ、敬し合う仲となりました。

四丁;13時38分
数分で四丁標石。ここまで歩いて、上った東坂参道に比して、この西坂参道は道がきれいに整備され車でも登れそうである。「参道」といった趣には少し乏しいが、痛めている膝には優しい。

■「11 中宮彰子は年若く、信心の篤い人でした。性空上人の教えを受けたくて、遥々と書写山を訪ねます。権勢を好まない性格の上人は、居留守を使って中宮との面会を避けました。中宮はひどく失望して下山し始めます。傍にいた和泉式部は、自作の歌を上人へ届けます。
冥きより 冥き道にぞ入りぬべき 遥かに照らせ山の端の月
和泉の歌の、格調の高さと宗教性の深さに、上人は非常に感動して、すぐ中宮を呼び戻して、中宮のためにみ佛の道を説きました」
上述の如く和泉式部が中宮彰子に仕えたのは1008年から1011年頃までと言う。性空上人は1007年に没しており、この逸話には無理があるとも言う。

五丁;13時39分
直ぐに五丁標石。
■「12 あらざらむこの世の外(ほか)の思い出に 今ひと度(たび)の逢ふこともがな 白露も夢もこの世もまぼろしも たとえて言えば久しかりけり
和泉はこうした名歌を生涯かけて生みつづけます。勅撰(ちょくせん)歌集もおさめられた歌の数は、日本の女流歌人の首位となりました
「天才のみが、よく天才を知る」と申しますが、本邦第一級の天才、能楽創始者の世阿弥(ぜあみ)は、和泉をテーマに、幽玄能の傑作「東北」(とうほく)を創作して、和泉の地位を永遠化しました」。

■「13 お能「東北」のあらすじ。 ある早春、京へ上った東北の僧が、洛東・東北院(中宮彰子の持寺)の庭に咲く梅に見とれていると、「和泉式部ゆかりの軒場の梅です」と教えられました。その夜、僧がその梅の前で法華経を唱えると、女の霊が現れ「私はここの方丈に住む和泉式部の霊です。御佛のお陰で今は極楽で歌舞菩薩にして頂いて毎日幸福です」と語って、序の舞を舞いながら方丈へ消えました。
僧は「あの霊は観音様の化身かも知れない」と合掌しました。(終)」

パネルはこれで終わる。何となく落ち着かない終わりかたとも思えるが、あまりよく知らなかった和泉式部のあれこれが少しわかったことをもって良しとしよう。

六丁;13時42分
道脇に「左一丁 蜜厳院墓地」の標石(13時41分)を見遣り六丁の標石。その先に石に彫り込まれ並び立つ石仏が2基並ぶ。2体並ぶ石造は道祖伸では男女像としてたまに見ることがあるのだが、石仏では初めて見た。はっきりとはわからないが、どうも双石仏、双体石仏、地蔵双体仏などと呼ぶようだ。



双石仏、双体石仏、地蔵双体仏
刻まれた石仏の姿を見ると、左手の像は錫杖を肩に架けたその姿は地蔵尊のように見える。また右の像は阿弥陀如来の姿のようにも見える。あれこれチェックすると、阿弥陀地蔵双仏石と呼ばれる石像もあるようだ。現世に現れて衆生を済度する地蔵尊と、来世を阿弥陀浄土で迎えてくれる阿弥陀仏の2体を1つの石に彫り、現世と来世のご利益を同時に願うためのもの、といった記事もあった。地蔵尊と阿弥陀如来のコンビネーション?といった妄想もあながち的外れでもなさそうに思える。

七丁;13時44分
七丁標石のところにはお堂が建ち、案内には文殊堂跡とある。「康保三年(966)紫雲のたなびくのを瑞兆と感じた性空上人は、この西坂を登ってきたとされる。入山の途中、文殊菩薩の化身と云われる白髪の老人に逢い、この山の由来を伝えられた。その伝えられた場所がこの地であるといわれている。
文殊堂はもと正面三間、側面三間、入母屋造りで。文殊菩薩を本尊とする堂であったが、昭和62年(1987)10月に焼失した。現在の文殊堂はその後の再建」との案内。
お山の由来
文殊菩薩の化身に伝えられたこの山の由来とは?この山に登るものは菩提心をおこし、峰にすむものは六根を清められるという文殊菩薩のお告げがあり、摩尼殿上の白山で六根清浄の悟りを得たと伝えられる、といった記事が多く見受けられる。
『一遍聖絵』にある「大聖文殊異僧に化現して性空上人に誘へて云く、「山名書写 鷲頭分土 峰号一乗、鶏足送雲 踏此山者、発菩提心、攀此峰者 清六情根、云々」などを踏まえてのことかと思える。

八丁;13時46分
尾根筋を少し巻き気味に下り、標高250m等高線を少し下ったあたりに八丁の標石が立つ。
文殊菩薩と性空
性空上人の逸話には文殊菩薩がこのシーン以外にも登場する。幼き頃より仏心篤き上人の出家の願いがかなえられたのも、母の夢枕に現れた文殊菩薩のお告げによる、とも伝わる。 それはそれとして、幼名・小太郎、橘善行と呼ばれていた上人が性空と名乗り仏に仕えることとなったと伝わるが、Wikipediaに拠れば、上人が天台の高僧慈恵大師に師事し出家したのは36歳の頃という。名門橘家に生まれた上人の36歳までの足跡が少し気になるが、詳しいことはよくわからない。

九丁;13時48分
性空の由来
ところで、性空ってどういう意味?性空上人の「性空」についての解説は見当たらなかったが、『摩訶般若波羅蜜経問乗品第十八』には「内空。外空。内外空。空空。大空。第一義空。有為空。無為空。畢竟空。無始空。散空。性空。自相空。諸法空。不可得空。無法空。有法空。無法有法空」といった十八の空が挙げられる。その中にある「性空」について、コトバンクには「十八空の一。一切のものは因縁和合によって生じたもので、万有の本性は空であるということ」とある。この性空に由来するのだろうか。
また,Wikipediaに拠れば文殊菩薩は釈迦に代わって般若の「空」を説いたとある。上述性空上人と文殊菩薩との関りを考えれば十八空に由来との妄想も、当たらずとも遠からずのように思えてきた。

十丁;13時49分
普賢菩薩と性空上人
文殊菩薩もさることながら、性空上人と普賢菩薩に関わる話も見受けられる。生を受けたとき、普賢菩薩の生まれ変わりとされたこと、また鎌倉時代の説話集である『十訓抄』には上人が普賢菩薩に出合えた話が載る;普賢菩薩との感得を願う上人に「生身の普賢菩薩に出合いたければ神崎(江口の里とも。ともに色里)に赴き、そこの遊女を見なさい」との夢のお告げ。お告げに従いその地に出向く。遊宴乱舞の中、閑に信仰・恭敬する上人に、彼女が普賢菩薩となって白象にのって消えてゆくところが見えた、と。

十一丁;13時51分
『十訓抄』に描かれる性空上人
上人が遊女に普賢菩薩の姿を見たくだり。私でもなんとなく理解できる。以下掲載。
「上人閑所に居て、信仰、恭敬して、横目もつかはず、まもりゐ給へり。この時に、たちまちに普賢菩薩の形に現じ、六牙の白象に乗りて、眉間の光を放ちて、道俗、貴賤、男女を照らす。すなはち微妙の音声を出して、実相、無漏の大海に五塵六欲の風は吹かねども随縁真如の波の立たぬ時なしと。
感涙おさへがたくして、眼を開きて見れば、またもとのごとく、女人の姿となりて、周防室積の詞を出す(私注;遊女の歌う歌のこと、だろう)
眼を閉づる時は、また菩薩の形と現じて、法門を演べ給ふ。
かくのごとくたびたび敬礼して、泣く泣く帰り給ふ時、長者(私注;遊女の、だろう)、にはかに座を立ちて、閑道より上人のもとへ来りて、 「このこと口外に及ぶべからず」といひて、すなはちにはかに死す。異香、空に満ちて、はなはだ香ばし。
長者の頓滅のあひだ、遊宴興さめて、悲涙することかぎりなし。上人、ますます悲涙におぼれて、帰路にまどひけりとなむ
かの長者、女人、好色のたぐひなれば、たれかはこれを権者の化作とは知らむ。仏菩薩の悲願、衆生化度の方便に形をさまざまに分ちて、示し給ふ道までも、賤しきにはよらざること、かやうのためしにて心得べし」

十二丁;12時52分
直ぐ十二丁。その先で道は簡易舗装となる。性空上人がはじめて上ったお山への道も古き面影は消え去っている。車で荷物を寺に運ぶ車道としても使っているように思える道である
『十訓抄』に描かれる性空上人
性空は普賢菩薩を大変、尊敬していたようだ。六牙の白象が登場するのは、 『法華経』 「普賢菩薩勧発品」にある 「此の経を読誦せば、我、爾の時、六牙の白象王に乗り、大菩薩衆と倶に其の所に詣りて、而も自ら身を現し、供養し守護して、其の心を安んじ慰めん」に拠る。実際、普賢菩薩像は白象に乗る。
また、普賢菩薩の語る「実相、無漏の大海に五塵・六欲の風は吹かねども、随縁真如の波の立たぬ時なし」は苦しみに沈む衆生に対しひとときも休むことなく救いの手を差し伸べる、といったこと。
性空上人と普賢菩薩の因縁話は、性空上人が普賢菩薩に深く帰依し、己が菩薩行(他者の救済>人すべて仏となる、といった法華経の教え)を表しているのであろうか

十三丁;14時1分
いままですべて道の左手、谷側にあった標石であるが、この十四丁の標石は道の右手、弥m側に立っていた。見逃し十四丁まで進み、あれ?となり少し戻って見つけることができた。
釈迦三尊
文殊菩薩、普賢菩薩のことをメモしながら、釈迦三尊像のことを思い起こした。いくつかバリエーションがあるものの、多くは釈迦如来の左右に両脇侍として左脇侍(向かって右)に文殊菩薩、右脇侍に普賢菩薩が配される。釈迦三尊像がこれである。文殊菩薩は釈迦の知恵、普賢菩薩は釈迦如来の慈悲を表す、とか。
如来は知恵と慈悲を兼ね備え、知恵と慈悲で衆生を済度する、と。文殊菩薩と普賢菩薩って結構重要な存在であったわけだ。
で、ここで言いたいのは、釈迦如来と一心同体といった、そんな重要な文殊菩薩と普賢菩薩との深い関りが伝えられる性空上人って、当時の人にとって、それほど重要な存在であったということがわかる、というか、わからそうと縁起譚を創り上げた上人に対する強い崇敬の念を感じる。

十四丁;14時3分
如来と菩薩
釈迦如来と文殊菩薩、普賢菩薩と書いて、如来と菩薩の違いをちょっと整理。上にちょっとメモしたが、Wikipediaには「広い意味での「仏」は、その由来や性格に応じ、「如来部」「菩薩部」「明王部」「天部」の4つのグループに分けるのが普通である。「如来」とは「仏陀」と同義で「悟りを開いた者」の意、「菩薩」とは悟りを開くために修行中の者の意、なお顕教では、十界を立てて本来は明王部を含まない。これに対し密教では、自性輪身・正法輪身・教令輪身の三輪身説を立てて、その中の「明王」は教令輪身で、如来の化身とされ、説法だけでは教化しがたい民衆を力尽くで教化するとされる。そのため忿怒(ふんぬ)といって恐ろしい形相をしているものが多い。(中略)「天部」に属する諸尊は、仏法の守護神・福徳神という意味合いが濃く、現世利益的な信仰を集めるものも多数存在している」とある。
如来、菩薩は挙げるまでもないだろう。明王は不動明王が代表的。天部の諸仏は梵天、帝釈天、持国天・増長天・広目天・多聞天(毘沙門天)の四天王、弁才天(弁財天)、大黒天、吉祥天、韋駄天、摩利支天、歓喜天、金剛力士、鬼子母神(訶梨帝母)など。金剛力士が寺の仁王門に立つ所以である。
なお、菩薩に関しては如来としての「力量」はあるものの、衆生済度のために敢えて「菩薩」ステータスに留まるものもあるようだ。

十五丁;14時5分
十三丁、十四丁標石辺りで一度途切れ再び現れた簡易舗装の道を下ると十五丁標石。
如来の誕生
如来・仏陀には阿弥陀如来、薬師如来、大日如来など、また釈迦の代わりにはるか未来に仏陀となることを約束されている弥勒如来(菩薩)などが代表的なもの。
常行堂のところでちょっとメモしたが、「如来」って紀元前5世紀に生きた歴史的実在者としての釈迦を永遠の存在として絶対化にするための「装置」のように思える。
釈迦の死後、原始仏教の時代、自己の悟りに重きを置く小乗仏教の時代を経て、紀元1世紀頃に衆生すべて仏といった大乗仏教の時代を迎える。ここで重きをなすのが菩薩行。自己の解脱より他者の救済、利他行に重きをおく動きである。
ここで、救済者・仏陀である釈迦を歴史的存在者として留めることなく、仏陀は釈迦の遥か昔から、またはるかかなたの未来にも存在するとした。所謂「過去仏」であり「未来仏」である。 『相応部経典』の第6章「梵天相応」には、「過去に悟ったブッダたち、未来に悟るブッダたち、現在において多くの人々の憂いを取り除くブッダ、これらブッダはすべて正しい教えを重んじて、過去にも現在にも未来にもいるのである。これがブッダと言われる方々の法則である」とする(『仏陀たちの仏教:並川孝儀(中公新書)』)。
釈迦を含めた過去七仏が構想された。未来仏として弥勒仏が構想された。大乗仏教に『法華経』や『華厳経』が生まれる紀元4世紀から5世紀にかけては華厳の巨大な廬舎那仏が構想され、それが密教の影響もあり大日如来として世界の中心に君臨する普遍的存在とした。世界の中心だけではなく各方面にも仏陀が必要だろうと西方極楽浄土の阿弥陀如来、東方瑠璃光浄土の薬師如来も登場することになったわけである。こうして歴史的存在者であった釈迦は永遠の絶対的存在者である仏陀のメンバーとして「止揚」されたわけである。

十六丁;14時7分
再び簡易舗装が切れたところに十六丁標石。書写山を貫く山陽自動車道書写山第二トンネルの真上あたり。ほぼ山を下りてきた。
釈迦・仏陀・釈迦如来
本来、釈迦を永遠の絶対的存在とするために考えられたであろう「如来」であるが、どうもその構想があまりに巨大化し、元々の主人公であったお釈迦さまが大構想の中に埋没したように感じる。実際、このメモをするまで釈迦如来ってお釈迦さんと関係あるのかなあ、といった為体であった。
また、仏・仏陀とお釈迦さんの関係もよくわかっていなかった。仏・仏陀とは悟りをひらいたもの、ということであり、お釈迦さまもその巨大な構想力の中の一人であった。 性空上人のあれこれにフックがかかり、多分に素人の妄想ではあるが、それなりに結構納得し、空白スペースを埋めるメモを終える。

十七丁;14時8分
十七丁まで下ると山裾の街並みが木立の間から垣間見える。少し下ると赤い鳥居が立つ。宗天稲荷大明神とある。「宗天」って、あまり聞いたことがない。あれこれチェックしたが、その由来を見つけることはできなかった。



下山口;14時10分
宗天稲荷大明神にお参りし、安養寺・日吉神社を見遣り兵庫県立大学姫路工学キャンパスを南に下り、広い車道に出た少し西にあるバス停に到着。本日の散歩を終える。







性空上人ゆかりの書写の山。思うだに大変そうと、長年寝かせておいた上人と観音霊場巡礼の縁、その観音霊場巡礼のはじまり、またそもそも巡礼って?といったテーマや、メモをしながら気になってきた上人が何故に世に知られるようになったのだろう、などといった新しい疑問を、多分に妄想ではあるのだが、自分に納得できるストーリーとしてまとめるのに少々スペースを使ってしまいメモが長くなってしまった。
書写のお山と性空上人に関するメモの2回目は、圓教寺の仁王門からはじめ境内を辿り、奥の院までをカバーする。当初のメモの予定では境内を巡る途中で出合った西坂を麓まで下りるところまでカバーしようと思っていたのだが、さすが広い境内に建つ幾多の堂宇。メモに少々スペースをとってしまった。西坂参道下山のメモは次回に廻す。

本日のルート;
JR姫路駅>書写山ロープウエイ乗り場>東坂露天満宮
東坂
東坂参道上り口>壱丁>二丁>三丁>宝池>四丁>五丁>五丁古道>六丁>七丁>八丁>九丁>十丁>十一丁>紫雲堂分岐>紫雲堂跡>十二丁>十三丁>和泉式部の案内>十七丁
圓教寺境内
仁王門>壽量院>五重塔跡>東坂・西坂分岐点の標石>十妙院>護法石>湯屋橋>三十三所堂>魔仁殿>岩場の参詣道>姫路城主・本多家の墓所>三之堂>鐘楼>十地院>法華堂>薬師堂>姫路城主・松平直基(なおもと)の墓所>姫路城主・榊原家の墓所>金剛堂>鯰尾(ねんび)坂参道>不動堂>護法堂>護法堂拝殿>開山堂>和泉式部歌塚塔>弁慶鏡井戸>灌頂水の小祠>西坂分岐点に戻る
西坂
妙光院>二丁>三丁>四丁>五丁>六丁>七丁>八丁>九丁>十丁>十一丁>十二丁>十三丁>十四丁>十五丁>十六丁>十七丁>下山口


圓教寺境内

壽量院;12時47分
仁王門を潜り境内を進むと参道右手に壽量院。「圓教寺の塔頭の一つ。承安四年(1174)に後白河法皇が参籠したという記録が残されており、山内で最も格式の高い塔頭寺院として知られている。
建物の構成は、仏間を中心として中門を付けた書院造風の部分と、台所を設けた庫裡とに区分され、唐破風の玄関を構えて両者をつないでいる。当時の塔頭寺院としては極めて珍しい構成で、圓教寺型ともいえる塔頭の典型である」の説明がある。
●五重塔跡
壽量院傍に五重塔跡の案内。「「書寫山圓教寺参詣図」「播州書寫山縁起絵巻」「播磨書寫山伽藍之図」に壽量院のあたりに五重塔が描かれ、その礎石と思われるものが確認されている。
それ等には大講堂横の五重塔は描かれておらず、この塔は元徳三年(1331)三月五日落雷により焼失、大講堂・食堂・堂行堂の全焼という大火災になった。
壽量院横から大講堂まで延焼してゆくことは考えにくい。そういうことから壽量院横と大講堂横との東西二つの五重塔があり、西の塔が金剛界五仏であることから、この東の塔は胎蔵界五仏を安置していたのであろうか」とある。

東坂・西坂分岐点の標石;12時50分
道の左手、T字路分岐点に標石。「すぐほんどう 右西坂 左東坂」「一丁」の文字が刻まれる。下りはロープウエイで、などと思っていたのだが、標石を見てしまった以上、帰りも参道をとの思いが強まる。







十妙院
分岐点の先に白い塗塀の美しい建物。十妙院との案内があり、「天正七年(1579)正親町天皇により「岡松院」(こうしょういん)の勅号を賜った。これは、赤松満祐がわずか十六歳で亡くなった女の冥福を祈るために建てたものとされる。
圓教寺第百六世 長吏實祐(ちょうりじつゆう)の住坊となり、實祐を中興第一世とする。その後同じく正親町帝より「十妙院」の勅号を賜った。塔頭壽量院とは左右逆であるが、ほとんど同じ平面構成をもつ圓教寺独特の塔頭形式である」と書かれる。
赤松満祐(あかまつ みつすけ)
室町時代中期の武将で守護大名。播磨・備前・美作守護。室町幕府六代将軍足利義教を暗殺したことで知られる。

護法石(別名/弁慶のお手玉石);12時54分
道の右手に護法石の案内。「昔、この石の上に乙天、若天の二人の童子がこの石に降り立ち、寺門を守ったという伝説が残っている。また別名「弁慶のお手玉石」と呼ばれ、この大きな護法石を、弁慶はお手玉にしたといわれている」とあった。
乙天、若天童子とは、性空上人が康保三年(966)当山で修業中、いつも傍らで仕えた乙天護法童子と若天護法童子のことで、乙天は不動明王、若天は毘沙門天の化身で容貌は怪異であるが怪力、神通力を持ち、上人の修行を助けた山の守護神、と後述する護法堂の案内にあった。
また、乙天、若天童子これも後述する性空上人が九州の背振山での修行時に現れたと伝わる。

書写山圓教寺縁起
境内 by 圓教寺
傍に石に刻まれた円教寺縁起があった;「開基は康保三年(西暦966年)、性空上人による。上人は敏達天皇の御末、橘善根卿の御子として生まれ、十歳にして妙法蓮華経に親しみ、読誦の行を積み、三十六才にして九州霧島に至り、母を礼して剃頭し、二十年にわたり、九州各地に聖地を求めて修行される。
後、瑞雲の導きに従って当山に入り、草庵を結び、法華経読誦の行を修め、六根清浄を得悟され、世に高徳の宝と仰がれる。
寛弘四年三月十日九十八歳にして入寂されたが、御徳、世に広まり大衆の帰依も悠々厚く、花山法王は特に尊崇され二度も御来駕。後白河法王も七日間、御参籠される。御醍醐天皇は隠岐より帰京の途次御参詣、大講堂に一泊される。亦、平清盛、源頼朝をはじめ、武将の信仰も厚く、寺領を寄せ、諸堂を建立する。  昭和五十九甲子年一月吉日 (1984年1月吉日)」とあった。

湯屋橋;12時55分
少し弧を描いた石橋を渡る。湯屋橋とある。案内には「湯屋橋の擬宝珠は昭和十九年に戦時供出され、昭和三十年に旧刻銘「奉寄進 播州飾西郡書寫山圓教寺御石橋 願主 本多美濃守忠政」を刻銘した擬宝珠が寄進された。
本多忠政は元和三年(1617)に池田光政転封のあと姫路城主となり、元和六年(1620)書写山に参詣してその荒廃に驚き、一門・家臣・城下で寄進を募り復興に尽力し、湯屋橋もこの時再興された。書写山の荒廃は天正六年(1578)三木城の別所長治離反に対し羽柴秀吉が当地に要害を構え布陣したことによる。
湯屋橋の名はこの辺りに湯屋(沐浴所)があったことにちなむといい、「播磨国飾磨郡円教寺縁起事」によると、釜一口・湯船一隻・湯笥一・水船一口を備える四間板葺、西庇一面の湯屋を記し、特に釜は性空上人から依頼された出雲守則俊朝臣が鉄を集めて鋳造し人夫を整えて運搬した」ととある。
●出雲守則俊朝臣
出雲守則俊朝臣って誰?少々唐突な登場だが、出雲の国司に則俊の名がある。朝臣は古代、皇族に次ぐ高い地位を示す姓(かばね)であるのはわかるが、人物不詳。ともあれ、たたら製鉄で知られる出雲で造られたものだろう。

三十三所堂;12時56分
橋を渡ると空が大きく開け、広場に出る。右手には「はづき茶屋」があり、休憩をとる参拝者で賑わう。はづき茶屋の対面に三十三所堂。「西国三十三観音をまつる堂である。西国三十三所観音巡礼が広く庶民の間で行われるようになったのは、江戸時代である。社会情勢や交通の不便な時代にあって、誰でも三十三観音にであえるように、各地に「うつし霊場」ができた。
有名なものは坂東、秩父霊場であり、播磨にも「播磨西国霊場」がある。他にも全国各地にこのような霊場があり、このような「うつし霊場」を更にミニチュア化したものが、この三十三諸堂の発生であると考えられる」とある。このお堂をお参りするだけで、西国三十三観音霊場巡礼と同じ滅罪の功徳が得られるということか

魔仁殿;12時59分
三十三所堂をお参りし、石段を上り摩尼殿に。堂々たる構えのお堂。靴を脱いでお堂に入る。お堂を囲む回廊から書写の山の緑を眺める。案内には「摩尼殿(如意輪堂)書写山の中心を成す圓教寺の本堂。天禄元年(970)創建と伝え、西国三十三所観音霊場の第二十七番札所。桜の霊樹に天人が礼拝するのを見た性空上人が、その生木に如意輪観音を刻み、これを本尊とする堂を築いたのが始まりと伝わる。
幾度か火災に見舞われており、現本堂は大正十年(1921)に焼失した前身建物の残存遺構や資料をもとに、ほぼ前身を踏襲した形で昭和八年(1933)に再建。近代日本を代表する建築家の一人である武田五一が設計し、大工棟梁家の伊藤平左衛門が請負った。懸造り建築の好例で、伝統的な様式を踏襲しながらも木鼻・蟇股などの彫刻等に近代和風の息吹が感じられる。本尊は六臂如意輪観世音菩薩(兵庫県指定文化財)で、四天王立像(国指定重要文化財)も安置されている」とある。
摩尼
摩尼とはサンスクリット語の「マニ;宝珠」から。「意のままに願いを叶える(サンスクリット語の「チンター」)宝珠(マニ)」とされる。如意輪観音をサンスクリット語で「チンターマニチャクラ」と称するようであり、本尊として祀られる如意輪観音ゆえの「摩尼殿」ではあろう。因みに「チャクラ(法輪)」は「元来古代インドの武器であったチャクラムが転じて、煩悩を破壊する仏法の象徴となったものである。六観音の役割では天上界を摂化するという(Wikipedia)」にあった。



岩場の参詣道
摩尼殿の右手から大講堂に抜ける道案内。矢印と共に「重要文化財 大講堂・常行堂・食堂 金剛堂 鐘楼順路  大講堂(釈迦三尊)常行堂(阿弥陀如来)食堂2階(宝物展示) 薬師堂(播州薬師霊場第16番・食堂の納経所で) 奥之院(性空上人 左甚五郎作力士像)姫路城主本多・榊原・松平家三廟所 三の堂(大講堂・常行堂・食堂)へ徒歩5分 三の堂より奥之院へ徒歩1分 金剛堂へは2分」と記される。
摩尼堂の庇(ひさし)の下、山崖の間の通路を抜けると岩肌を進む道となる。道脇には小堂、石仏が並び、なかなかいい雰囲気

姫路城主・本多家の墓所
山道を抜けると三之堂。その手前に姫路城主・本多家の墓所。案内には「5棟の堂は、本多忠勝・忠政・政朝・政長・忠国の墓です。本多家は江戸時代、初期と中期の二度、姫路城主になりました。忠政・政朝・忠国の3人が姫路城主です。
忠政は、池田家のあとをうけて元和三年(1617)、桑名より姫路へ移り、城を整備したり船場川の舟運を開いた城主です。政朝は忠政の二男で、あとをつぎました。忠国は、二度目の本多家の姫路城主で、天和二年(1682)に福島より入封しました。
忠勝は忠政の父で平八郎と称し、幼少より家康に仕え徳川四天王の一人。政長は政朝の子で、大和郡山城主となりました。
堂の無い大きな二基の五輪塔は、忠政の子・忠刻(ただとき)と孫・幸千代の墓です。忠刻は大阪落城後の千姫と結婚し、姫路で暮らしましたが、幸千代が3歳で死去。忠刻も31歳で没し、ここに葬られました。
五棟の堂は、江戸時代の廟建築の推移を知るのに重要な建物で昭和四十五年に兵庫県指定文化財となっています」とある。
寶蔵跡
廟所傍に寶蔵跡の案内。「明治三十一年(1898)五月二十八日焼失本多廟との位置関係は不明だが西面に門を設けた土塀を巡らし、西妻に御拝庇ありと記されている。寛政二年(1790)の「堂社図式下帳」にはその記載がないが、本多廟建立【慶長十五年(1610)最古】以前より存在したことが古版木「播磨國書寫山伽藍之図」によってあきらかである。安政五年(1858)春の「霊仏霊宝目録」に収蔵されていたと思われる品々が明記されている。「性空聖人御真影」「源頼朝公奉納の太刀」「和泉式部の色紙」等七十八点をあげているがそのうちほとんどが焼失した」とあった。

三之堂;13時8分
眼前の広場の先堂々としたお堂がコの字に並び建つ。右手が大講堂、中央が食堂、左手が常行堂である。ハリウッド映画、「ラストサムライ」やNHK大河ドラマ「軍師黒田官兵衛」の撮影にも使われたと言う。
大講堂
「大講堂は食堂、常行堂とともに「三之堂(みつのどう)」と称され、修行道場としての円教寺の中心である。建物をコの字型に配置した独特の空間構成で、かつては北東の高台に五重塔も建てられていた。
大講堂は、円教寺の本堂にあたる堂で、「三之堂」の中心として、お経の講義や議論などを行う学問と修行の場であった。永延元年(987)の創建以来、度重なる災禍に見舞われたが、現大講堂は、下層を永享12年(1440)、上層を寛正3年(1462)に建立したものである。雄大な構造で、和洋を基調とした折衷様式に、内陣を土間とした天台宗の伝統的な本堂形式になっている。 極めて古典的で正式な様式を駆使しながら、一部に書写の大工特有の斬新な技法を用いており、創建以来の伝統を残しながら、時代の要請を取り入れて存続してきた貴重な建造物である。 内陣には木造釈迦如来及両脇侍像(平安時代・国指定重要文化財)が安置されている」と案内にあった。
食堂
案内が見当たらなかったため、姫路市のWebサイトから引用:「本来は、修行僧の寝食のための建物。承安四年(1174)の創建。本尊は、僧形文殊菩薩で後白河法皇の勅願で創建。二階建築も珍しく長さ約40メートル(別名長堂)においても他に類を見ないものである。
未完成のまま、数百年放置されたものを昭和38年の解体修理で完成の形にされた。 現在1階に写経道場、2階が寺宝の展示館となっています。国指定重要文化財」
常行堂
「常行三昧(ひたすら阿弥陀仏の名を唱えながら本尊を回る修行)をするための道場。 建物の構成は、方五間の大規模な東向きの常行堂。
北接する長さ十間の細長い建物が楽屋、その中央に張り出した舞台とからなり立っている。 内部は、中央に二間四方の瑠璃壇を設け本尊丈六阿弥陀如来坐像が安置されている。
舞台は、大講堂の釈迦三尊に舞楽を奉納するためのもの。国指定重要文化財。(姫路市Webサイト拠り)
天台宗と阿弥陀如来
天台宗の僧の多くは「朝題目に夜念仏」と、現世は法華に来世は弥陀を頼みとした、と言う。大乗経典とは大雑把に言って般若経から法華経を経て浄土三部経に及ぶものであるから、それほど違和感はない。性空も胸に阿弥陀仏の刺青をしていたとも言うし、上述の浄土経の祖とされる恵心僧都源信との交誼からも阿弥陀仏への信仰が見てとれる。源信は天台宗に学ぶも名利の道を捨て、極楽往生するには、一心に念仏を唱えるべしとし、浄土教の基礎を築いたとされる。
阿弥陀如来
西方極楽浄土に臨する如来。如来とは悟りをひらいたもの、とされる。最初の如来は釈迦如来。生身の釈迦を永遠の存在とするための「装置」として誰かが創り出したのだろう。何世紀にもわたる釈迦の教え、または釈迦になる教えをまとめ上げる経典整備の過程において、如来が釈迦ひとりってことはなかろうと、いろいろな如来が誕生した。阿弥陀如来誕生は西域からの影響が強いと聞く。
三之堂から奥之院へ

三之堂を離れ奥の之院に向かう。成り行きで常行堂の左手を廻り先に進む。

鐘楼
「袴腰付で腰組をもった正規の鐘楼で、全体の形もよく整っている。 寺伝によれば、鐘楼は元弘二年(1332)に再建、鐘は元亨四年(1324)に再鋳とされる。いずれも確証はないが、形や手法から十四世紀前半のものと推定されている。 鎌倉時代後期の様式を遺す鐘楼として県下では最古の遺構であり、全国的にも極めて古いものとして貴重である。銅鐘は、兵庫県指定文化財(昭和二十五年八月二十九日指定)で、市内では最古のつり鐘である。








十地院
「もとは開山堂西の広大な敷地にあったが、妙光院と同じく名称のみが残っていたのを、勧請殿跡地に建立したものである。庭越しに瀬戸内海を眺望することのできる唯一の塔頭である」とある。










法華堂
「法華三昧堂といい、創建は寛和三年(985)播磨国司藤原季孝によって建立された。もとは桧皮葺であった。現在のものは、建物、本尊ともに江戸時代の造立。昔は南面していた。










薬師堂
「根本道とも呼ばれ、圓教寺に現存する最古の遺構。元々あった簡素な草堂を性空上人が三間四面の堂に造り替えたのが始まりと伝わる。寺記によると延慶元年(1308)に焼失し、現在の建物は元応元年(1319)に再建された。幾度か改修されており、当初の形は明らかではないが、もと方一間の堂に一間の礼堂(外陣)を付設したようである。挿肘木など大仏様の手法が見られ、組物や虹梁に当時の特色が残る。本尊(薬師如来)等は、現在食堂に安置されている。
なお、昭和五十三年の解体修理の際、奈良時代の遺物が出土しており、この地には圓教寺創建以前、既に何らかの宗教施設があったと推定されている。


姫路城主・松平直基(なおもと)の墓所
「松平直基は、徳川家康の孫にあたります(家康二男、秀康の第五子)。もと出羽国の山形城にいましたが、慶安元年(1648)西国探第職として播磨国の姫路城主を命じられました。 しかし、山形から姫路へ移封の途中、江戸で発病し姫路城に入らず亡くなり、遺骨は相模国(神奈川県)の最乗寺に葬られました。
のちになって、直基の子・直矩が姫路城主になってから寛文十年(1670)に分骨し、ここ書写山に墓所をつくりました」と。




姫路城主・榊原家の墓所
「榊原家は、江戸時代初期と中期の2回にわたって姫路城主となりました。前期、榊原忠次・政房 慶安2年(1649)~寛文7年(1667)
後期、榊原政邦・政祐(すけ)・政岑(みね)・政永 宝永元年(1704)~寛保元年(1741) ここの墓所には、上の城主のうち、政房と政祐の二人の墓碑が並んでいます。政房は寛文5年(1665)父忠次のあとをつぎましたが、わずか2年後に27歳で亡くなりました。墓碑には故刑部大輔従四位下源朝臣と刻んであります。
両墓碑とも政祐の養子政岑が享保十九年(1734)に建てました。忠次・政邦の墓所は姫路市内の増位山にあります。

金剛堂;13時15分
開けた展望公園を経て金剛堂へ。
「三間四方の小堂で、もとは普賢院という塔頭の持仏堂であった。内部には仏壇を設け、厨子を安置しており、天井には天女などの絵が描かれている。
性空上人は、この地において金剛薩?にお会いになり、密教の印を授けられたという。普賢院は永観二年(984)の創建で上人の居所であったと伝えられているが、明治四十年明石・長林寺へ山内伽藍修理費捻出のため売却された(戦災で焼失)。本尊の金剛薩?像は、現在、食堂に安置されている」


鯰尾(ねんび)坂参道
金剛堂の先、杉木立に「書写山参道 鯰尾坂」の案内が括りつけられている。書写のお山への参道は南へと上り下りする東坂、西坂以外にもあるようだ。チェックする;
鯰尾(ねんび)坂参道
お山の北西、新在家からの参道。距離はおよそ3キロ。かつての裏参道。登山口にある地蔵堂には、「かつて利用した人 数知れず」とあるようだ。国土地理院の地形図にはルート表示がない
刀出(かたなで)坂参道
お山へ西からの参道。新在家の南、刀出栄立町から奥の院までおよそ2.4キロ。近畿自然歩道といなっており、地形図にもルート表示がある。刀出の由来は、15世紀に古墳から刀が出土したとも伝わるが、定説とはなっていないようだ。
六角坂参道
これも西からの参道。刀出坂参道の登山口である、刀出栄立の少し南、六角地区から摩尼殿へとお山を上る。沢筋が六角から摩尼殿まで続いている。地形図に六角から沢筋途中まで破線が描かれている。
置塩坂参道
東からお山に上る参道。夢前町書写から摩尼殿へと上る。夢前川を北に登ったところに赤松氏の 居城であった置塩(おきしお・おじお)城跡があるという。孫見たさの姫時途中下車の折り、そすべての参道、そして置塩城跡を訪ねたものである。

不動堂;13時19分
「延宝年中(1673~1681年)に堂を造り明王院の乙天護法童子の本地仏不動明王を祀る。元禄10年(1697年)に堂を修理し、荒廃していた大経所を合わせて不動堂としている。俗に赤堂と呼ばれていた。
乙天童子の本地仏であるが、若天童子のそれはない。一説には若天はその姿があまりに怪異なため、人々が怖れたので姿を人々が恐れたので、性空上人が若天に暇を出したともいわれている」との案内。



護法堂(乙天社と若天社)
案内に「性空上人が康保三年(966)当山で修業中、いつも傍らで仕えた乙天護法童子と若天護法童子をまつる祠である。乙天は不動明王、若天は毘沙門天の化身で容貌は怪異であるが怪力、神通力を持ち、上人の修行を助け、上人の没後はこの山の守護神として祀られている。同寸同形の春日造で、小規模ながら細部の手法にすぐれ、室町末期の神社建築の特色をよく表している。向かって右が乙天社、左が若天社」とある。
乙天と若天は上人が九州、福岡県福岡市早良区と佐賀県神崎市の境に位置する背振山で法華経三昧の修行の折より生涯上人に仕えたとされる仏教の守護神、とか。

護法堂拝殿(弁慶の学問所)
「奥の院の広場をはさんで護法堂と向かい合っている。このように拝殿と本殿(護法堂)が離れて建てられているのは珍しい。今の建物は、天正十七年(1589)に建立されたもので、神社形式を取り入れた仏殿の様な建物で、一風変わった拝殿である。
この拝殿はその昔、弁慶が鬼若丸と呼ばれていた頃、七歳から十年間、この山で修業したことから、弁慶の学問所と呼ばれている。今もその勉強机が残っている。(食堂に展示中)」との案内。



開山堂(奥の院):13時21分
「圓教寺開山の性空上人をまつったお堂で、堂内の厨子には上人の御真骨を蔵した等身大の木像が納められている。寛弘四年(1007)上人の没年に高弟延照が創建、弘安九年(1286)消失。現存のものは江戸期寛文十一年(1671)に造り替えられたもの。
軒下の四隅に左甚五郎の作と伝えられる力士の彫刻があるが、四力士のうち北西隅の一人は、重さに耐えかねて逃げ出したという伝説がある」との案内。




和泉式部歌塚塔
開山堂脇の奥まったところにあるという和泉式部の歌碑を訪ねる。お堂右手に廻りこんだ山肌に歌塚塔が見える。案内には「高さ二〇三cmの凝灰岩製の宝篋印塔で、塔身各面に胎蔵界の種子(梵字)を刻み、天福元年(1233〔786 年前〕)の銘がある。
県下最古の石造品であり、和泉式部の和歌「暗きより 暗き道にぞ入りぬべき 遥かに照らせ 山の端(は)の月」にちなむ和泉式部歌塚と伝えられる。
この歌は長保四年(1002)~寛弘二年(1005)に詠まれ「法華経」の「化城喩品(けじょうゆほん)」をもとに悟りへの導きを願い性空上人に結縁を求めた釈教歌と呼ばれるもので、勅撰「拾遺和歌集」に収録されている。
性空上人は「日は入りて月まだ出ぬたそがれに掲げて照らす法(のり)の燈(ともしび)」の返歌をしたといい、また建久七年(1196)~建仁二年(1202)に成立した「無名草子」には和泉式部が性空上人からこの歌の返しに贈られた袈裟を身に付けて往生を遂げたという逸話を載せている。 平成二七年二月 姫路市教育委員会」とある。
●「法華経」の「化城喩品(けじょうゆほん)」
「法華経」の「化城喩品(けじょうゆほん)をもとに」とは「法華経の巻第三化城喩品第七の「衆生常苦悩、盲冥無導師、不識苦尽道、不知求解脱、長夜益悪趣、減損諸天衆、従冥入於冥、永不聞仏名」、世に導きの師なく人は苦しみ、長い夜に悪道は増し神々さえも堕ちてしまい、人は冥がりを出ては冥に入るだけであり、長く仏の名を聞くこともない、にある「従冥入於冥」を踏まえたもの、という。
人に会うこと避けていた上人も、法華持教者故だろうか、その教養に感じ入り面会を許したという。それにしても、拾遺和歌集の成立は1006年頃とされるわけで、和泉式部の生まれは978年とされるので(Wikipedia), 「性空上人のもとに、よみてつかわしける」と題されたこの歌が詠まれたのは和泉式部が30歳前のこと。如何に法華経が宮廷貴族の間で広く読誦された時代背景であったとは言え、煩悩ゆえに苦界を転々輪廻しそこから脱することのできない衆生の生きざまを表す「冥」を、本当にわかるのだろうか。
和泉式部がもっと歳を重ねて、とは思っても、性空上人の没年は1007年と言うし、習い覚えた言葉をその才気に任せて詠んだようにも思える。が、そうとすればそれに性空上人が感じ入ることもないだろうし、ということは、返歌は創作?などと不敬な妄想がふくらむ。
因みに、上述の「書写山と和泉式部」には、和泉式部は中宮彰子のお伴で圓教寺を訪れたともあるが、和泉式部が中宮彰子に仕えるようになったのは1008~1011年頃の頃というから、性空上人は既に没している。
和泉式部と阿弥陀如来
それはともあれ、上人と和泉式部の問答が伝わるが、そこに興味を惹く一節があった。浄土往生を問う式部に対して上人は阿弥陀如来にすがるべし、と。上に天台僧は「朝題目に夜念仏」と、現世は法華に来世は弥陀にすがった、とメモしたが、法華三昧の上人ではあるが、胸に阿弥陀仏の刺青を彫っていたとも伝わる上人の阿弥陀信仰のほどを、逸話の真偽のほどは定かでなないが、その信仰を強める話となっている
因みに、式部は京都誓願寺の阿弥陀如来に帰依し出家、誠心院専意法尼と名を改め生涯を終えたとされる。万寿2年(1025年)、と言うから47歳までの生存は記録に残るが没年は不詳。

弁慶鏡井戸;13時24分
奥の院より三之堂に戻る。往路の北を成り行きで進むと弁慶井戸があり、「書写山には武蔵坊弁慶が少年時代を過ごしたという伝説があり、この鏡井戸や勉強机が今に伝えられている。
昼寝をしていた弁慶の顔に、喧嘩好きな信濃坊戒円(しなのぼうかいえん)がいたずら書きし、小法師二、三十人を呼んで大声で笑った。目を覚ました弁慶は、皆がなぜ笑っているのか分からない。弁慶は、この井戸に映った自分の顔を見て激怒し、喧嘩となる。その喧嘩がもとで大講堂を始め山内の建物を焼き尽くしてしまったといわれている」とある。
『義経記』には、性空上人を慕って比叡山を下り書写の山に修行に訪れたとも書かれる。

灌頂水の小祠
弁慶鏡の井戸の傍に小さな覆屋。仏事の際の灌頂水を汲む井戸。
灌頂
「灌頂(かんじょう)とは、菩薩が仏になる時、その頭に諸仏が水を注ぎ、仏の位(くらい)に達したことを証明すること。密教においては、頭頂に水を灌いで諸仏や曼荼羅と縁を結び、正しくは種々の戒律や資格を授けて正統な継承者とするための儀式のこと(Wikipediaより」」。
仏・仏陀
「菩薩が仏になる時」って、ちょっとわかり難い。ここで言う仏とは仏陀ということだろう。仏陀とは悟りをひらいたもの。菩薩は悟りをひらくための行をおこなっているもの。
仏陀も元々は釈迦ひとりであったものが、時代を経るにつれ東方極楽浄土、西方瑠璃光浄土などが構想され、そこに阿弥陀仏や薬師如来などの仏陀が存在するとした経典が現れてくる。仏陀とは所謂如来と言い換えてもいいかもしれない。既述の如く、この如来・仏陀とは生身の釈迦を永遠の存在とするための「装置」のような気もする。

灌頂水の覆屋を先に進むと大講堂と食堂の間を抜け、三之堂の広場に戻った。

西坂分岐点に戻る
復路も参道を下ることにして、摩尼殿下の東坂・西坂の分岐点に立つ「一丁」標石へと向かう。 三之堂から摩尼堂へは往路辿った道の下側にもうひとつ、大黒堂や瑞光院経由の道がある。三之堂からゆるやかな坂を「下り、左手に大黒堂、右手に瑞光院を見遣り標石に戻る。
瑞光院は一般公開はしていないようで、切妻、本瓦葺の門は閉じられていた。長く古さびた土塀が印象的な落ち着いた塔頭であった。塔頭は講中の宿坊として供することが多いが、ここは網干観音講の宿坊との記事を見かけた。
道を進み摩尼殿下の東坂・西坂の分岐点に立つ「一丁」標石へと戻る。

今回のメモはここまで。分岐点から先の西坂参道下山メモは次回に廻す。

娘の旦那が姫路に転勤。愛媛の田舎から東京に戻る途中、孫の顔見たさに姫路に途中下車。その折に、姫路と言えば姫路城でしょうを差し置いて、姫路市街の北にある書写山圓教寺を歩いてきた。
圓教寺は前々から気になっていたお寺さまである。気になっていたのはお寺さまそのものより、その創建者である性空上人。性空上人は、10年ほど前に秩父三十四観音霊場を歩いたとき、その開創縁起に登場した高僧であるのだが、何故に西国・播磨の上人が東国・秩父に「出張って」くるのか、その物語伝承が気になっていた。
もとより、性空上人は西国三十三観音霊場の開創縁起にも登場しており、そのコンテキストの延長線上での秩父観音霊場縁起への登場であろうことは妄想できるのだが、そもそも何故に西国観音霊場開創縁起に登場するのか、またそもそも観音霊場巡礼はどうしてはじまったのか、またまた、そもそも参詣と巡礼とは何が違うの、といった疑問が次々と頭を過り、これは手に負えないと思考停止し、しばらく「寝かせる」ことにしていた。
今回、その性空上人の本拠地である圓教寺を歩く。秩父を歩いたのは2009年であるので、その間は10年。少々「寝かせすぎ」のきらいはあるのだが、圓教寺を歩くその過程で性空上人へのリアリティを感じることができるだろうし、そうすれば「寝た子を起こす」きかっけになろうかとお寺さまのある書写山に出かけた。

本日のルート;
JR姫路駅>書写山ロープウエイ乗り場>東坂露天満宮
東坂
東坂参道上り口>壱丁>二丁>三丁>宝池>四丁>五丁>五丁古道>六丁>七丁>八丁>九丁>十丁>十一丁>紫雲堂分岐>紫雲堂跡>十二丁>十三丁>和泉式部の案内>十七丁
圓教寺境内
仁王門>壽量院>五重塔跡>東坂・西坂分岐点の標石>十妙院>護法石>湯屋橋>三十三所堂>魔仁殿>岩場の参詣道>姫路城主・本多家の墓所>三之堂>鐘楼>十地院>法華堂>薬師堂>姫路城主・松平直基(なおもと)の墓所>姫路城主・榊原家の墓所>金剛堂>鯰尾(ねんび)坂参道>不動堂>護法堂>護法堂拝殿>開山堂>和泉式部歌塚塔>弁慶鏡井戸>灌頂水の小祠>西坂分岐点に戻る
西坂
妙光院>二丁>三丁>四丁>五丁>六丁>七丁>八丁>九丁>十丁>十一丁>十二丁>十三丁>十四丁>十五丁>十六丁>十七丁>下山口

JR姫路駅
姫路駅前の神姫バス乗り場で「書写ロープウエイ行」バスに乗る。
姫路
姫路って、何となく姫を連想する。が、この地方を「姫路」と呼ぶようになったのは室町以降とする。それ以前は「日女路(ひめじ)」と呼ばれたようである。奈良時代に編纂された『播磨風土記』には、神世の昔、この辺り一帯が未だ海であった頃、大己貴(おおなむち:大国主命)命がその子の火明(ほあかり)命があまりに乱暴者であるが故に、この地の島に置き去りにした。が、その仕置きに怒り狂った火明命が嵐を起こし大己貴命の乗る船が難破。船の積み荷の蚕子(ひめこ;かいこ)が流れついた場所を「日女道丘」としたのがその名の由来とする。 蚕子(かいこ)を「ひめこ」と呼ぶ?蚕のうち、眼状紋のある種類を形蚕(かいこ)、ないものを姫蚕(ひめこ)と呼ぶようであり、さらに古語では「ひめじ」とも呼んでいたとも言う。 神話由来とは別の有力な説としては、この地方は養蚕が盛んであったため、蚕子(ひめこ)の古語である「ひめじ」由来するものもある。どちらにしても蚕子がコアにあるようだ。

ちなみに姫路には14ほどの独立丘陵が散らばるが、それぞれの山、というか往時の島には上述難破し漂着した船荷由来の地名が残る。日女道丘もそのひとつであり、それは現在姫路城の建つ姫山である。

書写山ロープウエイ乗り場
バスを30分ほど乗ると書写山ロープウエイ乗り場に到着。実の所、当日東京に戻る予定であり、圓教寺にはロープウエイを利用しようと思っていたのだが、ひょっとして、と乗り場の方に登山道を尋ねると、ロープウエイ乗り場近くに登山口があると言う。
国土地理院の地図でチェックすると、登山道と思しき実線がふたつ描かれている。ひとつはロープウエイ乗り場の近くから圓教寺まで。もうひとつはもう少し西に描かれている。標高もそれほど高くない(標高371m)。ということで、急遽予定を変更し登山道を上ることにした。

東坂露天満宮
ロープウエイ乗り場手前を左に折れ、山陽自動車道の高架を潜る。高架下に「書写山登山口 250m先右折」の案内があった。
高架を越え道なりに進むと露天満宮の案内。ルートからは少しはずれるのだが、「露天満宮」名という、あまり耳にしない天神様に惹かれてちょっと立ち寄り。
道を右に折れ、山陽自動車道が書写山のトンネルに入る少し西に露天満宮があった。社殿は比較的新しい。山陽自動車道の建設に伴い移転したとも言う。
境内にあった案内には「東坂露天満宮」とあり、「創建不詳。慶長六(1601)、『池田輝政公御検地明細地図』と付箋のある絵図に、天満宮が書写山東麓に描かれている。明治四(1871)年四月の記録には、東坂本村氏神と記されている。
祭神は学問の神様と言われている菅原道真。露天満宮は県下ではこの一社のみで、崇敬な天満宮と伝えられている。
由来は道真が都を離れ大宰府で、「露と散る 涙に袖は朽ちにけり 都のことを想ひいずれば」と呼んだ歌によるとされる。境内には露泉がある 平成二十年」とあった。

露天神と言えば、近松門左衛門の「曾根崎心中」で知られる大阪市にある通称「お初天神」が知られる。
その社名由来も上述「露と散る・・・」の歌にあるとされ、こちらは大宰府配流の途次、その社で詠ったとされる。もっとも由来には近くに露の森があったため、とか、露の時期に神社の前の井戸から水が湧き出たといったものもある。
その伝からいえば、この社にも露泉があるというから。それが社名の由来とするほうが、なんとなくしっくりくる。単なる妄想。根拠なし。境内には露泉と案内のある、覆屋に囲まれれた湧水らしき、ささやかな泉があった。

東坂参道上り口;11時37分
天神さんから道に戻り、山裾の民家の間を進むと四つ辻に標石らしき石と、登山道は右折の案内がある。右折し北に向かうと近畿自然歩道の木標に「東坂参道」と書かれた案内が取り付けられていた。ここにきてはじめて東坂とは圓教寺に上る参道であったことがわかった。
東坂参道の案内の傍には「紫雲堂跡展望広場」の案内もある。紫雲堂跡が有り難いのか、展望広場が有り難いのか、どちらに重点を置いた案内か不明だが、ともあれ東坂参道の案内に従い左折し山道に入る。

壱丁;11時41分
参道口の石碑を見遣りながら山道に入るとほどなく「壱丁」と刻まれた丁石が立つ。

■性空上人
ここからしばらく標石を辿りながらの登山であり、特段メモすることもない。漱石の『草枕』の有名な書き出し、「山に登りながら、こうかんがえた」ではないけれど、書写のお山に上りながら、性空上人と観音霊場巡礼のあれこれについてメモしようと思う。
メモするにあたっては、WEBで目にした『中世巡礼の精神史 山林修行者と冥界の問題;舩田淳一(2012年度大会シンポジウム』、『書写山の一遍上人;竹村牧夫(東洋学論叢)』、松岡正剛氏のWEB書評である『千夜千冊』の法華経や大乗仏教に関するページなどを参考にさせてもらった。

秩父観音霊場縁起と性空上人
まずは、そもそもこの書写の山に来てみようと思ったきっかけとなった秩父札所縁起。そこに書写山圓教寺開山の性空上人が登場する;
縁起によると、文暦元年(1234)に、十三権者が、秩父の魔を破って巡礼したのが秩父観音霊場巡礼の始まりという。十三権者とは閻魔大王・倶生神・花山法王・性空上人・春日開山医王上人・白河法王・長谷徳道上人・良忠僧都・通観法印・善光寺如来・妙見大菩薩・蔵王権現・熊野権現。 また、「新編武蔵風土気稿」および「秩父郡札所の縁起」によれば、「秩父34ヶ所は、是れ文暦元年3月18日、冥土に播磨の書写開山性空上人を請じ奉り、法華経1万部を読誦し奉る。其の時倶生神筆取り、石札に書付け置給う。其の時、秩父鎮守妙見大菩薩導引し給い、熊野権現は山伏して秩父を七日にお順り初め給う。その御連れは、天照大神・倶生神・十王・花山法皇・書写の開山性空上人・良忠僧都・東観法師・春日の開山医王上人・白河法皇・長谷の開山徳道上人・善光寺如来以上13人の御連れなり・・・。時に文暦元年甲牛天3月18日石札定置順札道行13人」、と。
それぞれ微妙にメンバーはちがっているようなのだが、奈良時代に西国観音霊場巡りをはじめたと伝わる長谷の徳道上人や、平安時代に霊場巡りを再興した花山法皇、熊野詣・観音信仰に縁の深い白河法皇、鎌倉にある大本山光明寺の開祖で、関東中心に多くの寺院を開いた良忠僧都といった実在の人物や、閻魔大王さま、閻魔さまの前で人々の善行・悪行を記録する倶生神、修験道と縁の深い蔵王権現といった「仏」さまなどが登場する。

二丁;11時45分
数分で二丁標石。舟形地蔵も祀られる。

西国観音霊場縁起
上述秩父観音霊場縁起の元になったのは西国三十三観音霊場縁起。観音霊場巡礼をはじめたのは大和・長谷寺を開基した徳道上人と伝わる。上人が病に伏せたとき、夢の中に閻魔大王が現れ、曰く「世の人々を救うため、三十三箇所の観音霊場をつくり、その霊場巡礼をすすめるべし」と。起請文と三十三の宝印を授かる。
冥途より蘇った上人は三十三の霊場を設ける。が、その時点では人々の信仰を得るまでには至らず、期を熟するのを待つことに。宝印(納経朱印)は摂津(宝塚)の中山寺の石櫃に納められることになった。ちなみに宝印の意味合いだが、三十三箇所を廻ったことを証するもの。
今ひとつ盛り上がらなかった観音霊場巡礼を再興したのは花山(かざん)法皇とされる。徳道上人が開いてから300年近い年月がたっていた。花山法皇は、御年わずか17歳で65代花山天皇となるも、在位2年で法皇に。寛和2年(986)の頃と言う。愛する女御がなくなり、世の無常を悟り、仏門に入ったため、とか、藤原氏に皇位を追われたとか、退位の理由は諸説ある。
出家後、比叡山や播磨の書写山、熊野・那智山にて修行。霊夢により西国観音霊場巡礼を再興することになったとされる。ここには聖徳太子の墓所を護る石川寺の仏眼上人(熊野権現の化身とも称される)が中山寺の宝印を掘り出し先達として霊場を巡ったとか、『西国霊場縁起』には徳道上人の冥途・蘇生譚に続き、書写山の性空上人が法華経十万部の書写の導師として閻魔大王に召され、西国観音霊場巡礼を勧められ、聖徳太子開山の中山寺の弁光上人らをともなって三十三観音霊場を巡ったとかいくつかのバリエーションがあるようだ。

三丁;11時49分
二丁と同じく舟形地蔵と三丁の標石

●冥途・蘇生譚と罪滅信仰
縁起はともかく、記録に残る観音霊場巡礼の最初の記録は園城寺(三井寺)の僧・行尊の「観音霊場三十三所巡礼記」。寛治4年、というから1090年。一番に長谷寺からはじめ、三十三番・千手堂(三室戸寺)に。その後院政期天台宗寺門派の高僧、長谷上人とも称される園城寺(三井寺)の覚忠が応保元年〈1161〉那智山・青岸渡寺からはじめた巡礼が今日まで至る巡礼の札番となった、とか。そして、この覚忠に関して、醍醐寺の『枝葉抄』には、「覚忠頓滅して閻魔王宮に参ず。炎王問いて云う。日本国中に生身観音三十三ヶ所これ有。知るや否や。。」といった記述がある。
ここに秩父霊場巡礼縁起、西国巡礼縁起といった「縁起」だけでなく、その元となった実際の巡礼の記録にも共通するプロットというかモチーフが浮かび上がってくる。冥途・蘇生譚、そして在滅信仰としての観音巡礼がそれである。冥途に行くも閻魔大王より地獄に墜ちる衆生を済度すべしと蘇り、現世での衆生の罪を滅すべく霊場を巡るという物語である(『中世巡礼の精神史 山林修行者と冥界の問題;舩田淳一(2012年度大会シンポジウム』より)。

宝池;11時51分
三丁標石から直ぐ、道脇に「宝池 日本一小さい池」とある。

法華持経者の冥途・蘇生譚と罪滅信仰
西国巡礼の先駆者とされる行尊・覚忠は共に天台宗寺門派の山岳修行者・法華持経者として知られる。覚忠の記録に冥途・蘇生譚と罪滅信仰としての観音巡礼が見られたが、これは覚忠に限ったことではなく、法華経持経者として山岳に修行する天台宗の行者の伝記集成である『法華霊験記(1043年頃)』には同様のモチーフが数多くみられるとする(『中世巡礼の精神史 山林修行者と冥界の問題』)。
天台宗は法華経を根本経典とし天台法華宗とも呼ばれるわけで、上述基本モチーフ、そして中でも興味関心のトピックである滅罪信仰としての観音霊場巡礼は法華経にその源を求めなければならないように思えてきた。

四丁;11時52分
四丁は標石だけ。

法華経と菩薩・菩薩行
法華経のことは何も知らない。今回メモするにあたり駆け足で法華経をスキミング&スキャニング。と、法華経は「人はだれも平等に成仏できる」とする。これが、自己の解脱を目指す小乗仏教と異なる大乗仏教の根本思想と言う。
が、その根本思想の実現はそれほど簡単ではない。そこで登場するのが「菩薩」であり、「菩薩行」というプロット。「法華経の第? 従地湧出品」には幾萬もの菩薩が地を割り現れ、「利他行」者として仏陀の教えである衆生済度をアシストすることになる。上述山岳で修行する法華持経者とは、自己の解脱修行者というだけではなく、仏陀の根本思想である利他行・菩薩行を実践するものであった、ということだろう。

五丁;11時54分
数体の舟地蔵の先に五丁標石。

法華持経者と観音菩薩
それでは菩薩行者としての法華持経者の冥途・蘇生そして罪滅信仰としての巡礼に、幾多の菩薩を差し置いて何故に観音菩薩が登場するのだろう。
法華経をスキミング&スキャニングする過程で観音巡礼の深い関係が見えて来た。観音信仰のもとになる観音教は28品(章?)からなる法華経の第25 「観世音菩薩普門品」とあり、法華経の中に含まれるものであった。
冥途で閻魔大王に会うというストーリーは、閻魔大王が衆生の現世での罪を秤にかけ、地獄に墜ちるか否かを審判する故のことであろうが、蘇生する所以は現世での菩薩行を重ね、地獄に墜ちる衆生を減じるべし。そのためには観音菩薩がベストプラクティスとする。
観音菩薩がチョイスされたのは当時の時代風潮も影響したのかもしれない。来世での往生もさることながら、現世利益も欲しいよね、といった要望に、基本は現世利益の菩薩である観音さまが最適であったのかもしれない。観音さまは、その字義の如く、離れた来世で衆生の発する音(苦悩?)を聞き、はるばるこの世(現世)に来たりて救いの手を差し伸べるという菩薩行を担ってくれるわけである。
「(三十三所を)一度参詣の輩は縦い十悪五逆を造ると雖も、速に消滅し永遠く悪趣を離れん」、とか「観音の霊地、その庭に一度も参詣を遂げる輩は、無量劫の罪消滅、現世安穏なれば後生又善所に生を遂げて。。(「三十三所巡礼縁起之文」)」に観音様の現世功徳の程が見て取れる(『中世巡礼の精神史 山林修行者と冥界の問題』)。
法華持経者が罪滅の菩薩行として観音菩薩を選んだのは自然の流れであったように思えてきた。なお、三十三箇所というのは、衆生済度のため、観音菩薩が三十三変化することに由来するとされる。

五丁古道;11時56分
大日如来の石像を越えた先に「五丁古道」の案内。整備された登山道を離れ木々に覆われた道に入る。1分ほど歩き、再び整備された登山道に戻る。

法華持経者としての性空上人
それでは何故に性空上人が西国観音巡礼縁起に登場したのか、ということだが、Wikipediaには、「性空(しょうくう、延喜10年(910年) - 寛弘4年3月10日(1007年3月31日))は、平安時代中期の天台宗の僧。父は従四位下橘善根。俗名は橘善行。京都の生まれ。書写上人とも呼ばれる。
36歳の時、慈恵大師(元三大師)良源に師事して出家。霧島山や筑前国脊振山で修行し、966年(康保3年)播磨国書写山に入山し、国司藤原季孝の帰依を受けて圓教寺(西国三十三所霊場の一つ)を創建、花山法皇・源信(恵心僧都)・慶滋保胤の参詣を受けた。
980年(天元3年)には蔵賀とともに比叡山根本中堂の落慶法要に参列している。早くから山岳仏教を背景とする聖(ひじり)の系統に属する法華経持経者として知られ、存命中から多くの霊験があったことが伝えられている。1007年(寛弘4年)、播磨国弥勒寺で98歳(80歳)で亡くなった」とある。




六丁;11時59分
すぐに六丁休堂跡の石碑。傍に石仏も立つ。その先に六丁標石。

性空上人と観音巡礼縁起への登場
性空上人は高名な法華持教者であった。であれば法華持教者の菩薩行により誕生した冥途・蘇生、そして現世における滅罪信仰としての観音霊場巡礼に登場するのは何の違和感もない。
ただ、性空上人が実際に冥途・蘇生譚の当事者であったかどうかは別問題である。上述の如く、『西国霊場縁起』には「書写山の性空上人が法華経十万部の書写の導師として閻魔大王に召され、西国観音霊場巡礼を勧められ。。(1536)」といったくだりがあるが、これと似た話が13世紀の中頃編纂された『古今著聞集』に載る。曰く、性空上人があまりに熱心に法華経の写経をするため、地獄に堕ちる者が著しく減った。ために、もうこれ以上写経をするのをやめてほしいと閻魔大王の使者にお願いされた、って話である。が、これは北摂津一帯に広く伝わる清澄寺の尊恵上人の冥途・蘇生譚をその固有名詞を性空上人に置き換えただけとも言う(『中世巡礼の精神史 山林修行者と冥界の問題』より)。
そう言い出したら、観音巡礼をはじめたとされる徳道上人など7世紀とも8世紀ともいわれる頃の伝説の僧侶であり、観音巡礼に出たといった記録はないようで、11世紀から12世紀の頃、行尊や覚忠によりはじまり、室町期に盛んとなった三十三観音霊場巡礼の源を、時代をずっと遡らせるためだけに登場させているようにも思える。
また花山法皇もそうである。観音信仰・浄土信仰の聖地として知られる熊野は天台宗寺門派である園城寺(三井寺)の修験僧が奈良時代の後期、世俗的な寺から離れ開いたところである。修験道は平安時代に霊山で修行した法華持経者などを淵源としたわけで、「菩薩の勇猛精進深山に入りて仏道を思惟するを見る」とする法華経を依経とする天台宗と密接に関わって成立展開した。で、西国巡礼の先駆者とされる天台宗寺門派の山岳修行者行尊・覚忠に替え、観音信仰の有難みを出すべく、熊野信仰で知られる花山法皇をキャスティングしたように思える。
要は、この観音霊場の縁起で必要なのは冥途・蘇生譚、そして在滅信仰としての観音巡礼というストーリーであって、極端に言えば登場人物は誰でもいい。であれば、世にわかりやすい人物を適宜配置しておこう、といったところかもしれない。弘法大師伝説、行基伝説など高名な人物によくあるパターンである。
では世にわかりやすい人物として登場した性空上人って、どれほど高名であったのだろう。

七丁;12時
直ぐ七丁標石。

慕われる性空上人
上述Wikipediaの性空上人の説明には「花山法皇・源信(恵心僧都)・慶滋保胤の参詣を受けた」とある。後述するが清少納言との関りも深い。上人存命中は叶わなかったが、後白河上皇、一遍上人なども上人を慕ってお山に登っている。後白河法皇の梁塵秘抄にも謡われている。御醍醐天皇は隠岐より帰京の途次御参詣している。また、平清盛、源頼朝をはじめ、武将の信仰も厚く、寺領を寄(よ)せ、諸堂を建立する。14世紀中頃の『徒然草』にもその名が出る。性空上人は高徳・高名な僧であったことはまぎれもない。
以下、上記登場人物と性空上人との関りを簡単にメモする。
〇花山法皇
花山法皇は寛和2年(986)と長保4年(1002)の二度、書写山を訪れている。性空と結縁ののち比叡山や熊野に参籠修行し、西国三十三所巡礼を、性空らとともに再興したとされるのは上述のとおり。

恵心僧都源信
『往生要集』の作者、浄土教の祖として知られる恵心僧都源信は、性空上人と密な交流を重ね、上人を尊敬し「此の聖ほめ申させ給へ」と言う。また、晩年に性空上人は源信を書写山に招き、所蔵の書物供養の後、源信帰途の途中で性空上人はむなしくなる。
〇慶滋保胤)(よししげのやすたね)
『日本往生極楽記』の作者として知られる寂心(俗名は、慶滋保胤。1002年寂)も書写山にしばしば上り、性空と親しく交わったと言う。
性空上人存命のころ上人と縁とあった清少納言は後述。

八丁;12時2分
八丁標石と続く。

慕われる性空上人
以下は性空上人没後に上人を慕い書写のお山に登った人物。

後白河法皇
後白河法皇は承安4年(1174)、厳島神社参詣の帰途、七日の間参籠し書写山の本尊である如意輪観音を拝んだとのこと。また後白河法皇は『梁塵秘抄』の選者としても知られるが、そこには、「聖の住所は何処何処ぞ、箕面よ勝尾よ、播磨なる、書写の山、出雲の鰐渕や日の御崎、 南は熊野の那智とかや」と「聖の住所は何処何処ぞ、大峰・葛城・石の槌、箕面よ勝尾よ、播磨の書写の山、南は熊野の那智新宮」といった今様2首が載る。法皇の上人を敬する気持ちの表れでもあろうか。

九丁;12時5分
八丁を越えると空が開け、里の遠望も。その先に九丁標石。

慕われる性空上人
一遍上人
一遍は弘安10年(1287)春、書写山に登った。一遍は性空を尊敬し、上人手彫りと伝わる圓教寺の本尊を拝みたいと住僧に願うが、「久修練行の常住僧のほか余人すべてこれを拝したてまつることなし」とし、余人では後白河法皇のみが拝んだだけと拒絶される。
と、一遍は次の四匂の偈と和歌一首を作る。
書写即是解脱山  書写は即ちこれ解脱の山
八葉妙法心蓮故  八葉妙法は心蓮の故に
性空即是涅槃聖  性空は即ちこれ涅槃の聖
六字宝号無生故  六字の宝号無生の故に
かきうつすやまはたかねの空に消えて ふでもおよばぬ月ぞすみける
これをみた住僧は「この聖の事は他に異なり、所望黙止しがたし」と述べ、一遍が本尊を拝むことを許した。
一遍は内陣に入り、本尊を拝んで落涙。曰く、「本尊等を拝したてまつり、落涙していで給けり。人みなおくゆかしくぞ思ひ侍りける。聖のたまひけるは、「上人(性空)の仏法修行の霊徳、ことばもをよびがたし。諸国遊行の思いでたゞ当山巡礼にあり」と。長い聖遊行の旅もこのお山にすべてあり、といったところだろうか。
一遍は、「一夜行法して、あくれば御山をいで給けるに、春の雪おもしろくふり侍りければ、 世にふればやがてきへゆくあはゆきの 身にしられたる春のそらかな』と詠んだと言う(『書写山の一遍上人;竹村牧夫(東洋学論叢)』)。

十丁;12時7分
九丁の辺りから山肌が岩場の趣き。十丁標石の辺りでは尾根筋が一面に岩場となる。

慕われる性空上人
『徒然草』
鎌倉時代末期、14世紀の前半に吉田兼好により書かれた『徒然草』にも上人が以下の如く描かれる;「書写の上人は、法華読誦の功積りて、六根浄にかなへる人なりけり。旅の仮屋に立ち入られけるに、豆の殻を焚きて豆を煮ける音のつぶつぶと鳴るを聞き給ひければ、「疎からぬ己れらしも、恨めしく、我をば煮て、辛き目を見するものかな」と言ひけり。焚かるゝ豆殻のばらばらと鳴る音は、「我が心よりすることかは。焼かるゝはいかばかり堪へ難けれども、力なき事なり。かくな恨み給ひそ」とぞ聞えける。
法華の教えを体現し、眼耳鼻舌身意(げんにびぜつしんい)でという煩悩の根源である六根を清浄した上人が、豆の殻で火を焚きぶつぶと音をたてて煮られる豆を見たときのエピソード;「まんざら知らない間柄でもない豆の殻よ、なんの恨みで私を煮て熱く辛い思いをさせるのだ」、と豆がぶつぶつと言うの対し、豆の殻も「好き好んでやってるるわけじゃない。火で焼かれる自分たちも耐え難いのだけど、どうすることもできないのだ」と言っているように聞こえた、と。
なんだか意味深いエピソードにも思えるのだが、凡俗のわが身に解釈すること能わず。六根清浄なるがゆえに豆と豆柄の話も上人には聞こえた、といった辺りでメモを止めておく。

十一丁石あたりから、あれこれメモすることが現れた。性空上人に関するメモはちょっと中断する。

十一丁;12時10分
上下に続く岩場を見遣り十一丁に。「砥石坂」の案内がある。説明はない。東坂参道のことを「砥石坂」と呼ぶ、また、7歳から10年間に渡りこの書写山で修行した弁慶が長刀を研いだ故に「砥石坂」といった記事がWEBにあった。
その先に「岩の中の小石」の案内。「足元の岩場の中に見える小石は火山の爆発で吹き飛ばされた流紋岩などの破片で、火山灰の中に閉じ込められ岩となったもの。このような火山性の岩を角礫凝灰岩と呼ぶ。風化によって閉じ込められた岩が表面に現れて現在の岩肌を見せる」といったことが書かれていた。
「今からおよそ1億年前の白亜紀にこの辺り一帯で大規模な火砕流が起き、書写山にはその火砕流でできた広峰層が分布する。スレートやチャートなどの基盤の岩石をレキとして多く含む溶結凝灰岩が主な岩層である」といった記事をWebで見かけた。ということは帯となって尾根を覆う岩場は溶結凝灰岩で、その中に見える小石が流紋岩や安山岩からなる角礫凝灰岩、ということであろうか。



紫雲堂分岐;12時13分
数分上ると木標。「ロープウエイ山頂駅0.2km 円教寺0.7km 」「紫雲堂跡展望広場を経て圓教寺へ」と言った案内がある。、紫雲堂が如何なるものか知らないが、取り敢えず紫雲堂跡へと登山道を右に折れる。






紫雲堂跡;12時15分
数分で開けたところに。地形図で見ると東に張り出た210m等高線に囲まれた平坦部となっている。南面だけが開け、東西は木々に覆われ見通しはそれほどよくない。
案内には「創建は不詳。東坂上ノ休堂として、参詣者の湯茶の接待所としても長く愛されてきたお堂であった。昭和30年代半ば老朽化したので、建物を取りたたんだ。
その建物は元和9年(1623)に再建されたものと伝えられる。その由来は、康保3年(966)御開山性空上人が九州背振山より東上の折、紫雲がたなびく「素盞の杣(すさのそま)」に稀にみる霊性を感じ、終生の道場として入山、寺を開基された。その紫色の雲がたなびいていたのがこのあたりと伝えられ、阿弥陀如来を安置し紫雲堂が建てられた」とあった。堂跡を示すのだろうか、円形の造作物が置かれていた。
●素盞ノ杣
素盞ノ杣は元々、素盞嗚命が山頂に降り立ち、一夜の宿としたとの故事に拠る。往昔よりこの地には「素戔嗚命」の祠が祀られていたとも。圓教寺の山号の由来はこの「素盞(すさ)」からとの説もある。書写山一帯は昔、飾磨郡曽左村と呼ばれていたが、その「曽左(そさ)」も素盞(すさ)を由来とする、と。
『西国霊場縁起』に「書写山の性空上人が法華経十万部の書写の導師として閻魔大王に召され」といったように、性空上人のエピソードに、法華経の書写があちらこちらで登場する。書写の由来は、てっきりこの法華教書写からと思っていたのだが。。。
ちなみに寺号である、「圓教寺」の「圓」は円の形(園輪)は欠けたところがない境地、諸仏・諸法の一切の功徳を欠けることなく具足した「圓輪具足」であり、サンスクリットの曼陀羅の意。最高の悟りの境地を教える寺、といった意味だろうか。

十二丁;12時17分
紫雲堂跡を離れ、道脇に立つ石仏を見遣りながら進むと十二丁の標石が立つ。

性空上人はなぜ世に知られたのだろう
再び標石だけでスペースが空いたので、性空上人に関わるメモ再開。

性空上人を慕って多くの人がお山を登ったのは前述のとおり。あれこれの奇瑞譚、観音霊場開山縁起の冥途・蘇生譚、善光寺には渡唐譚もあるというが、それはすべて高徳・高名の僧となってからのこと。それでは世に名を知られるようになったのきかっけは?
何となくではあるが書写の山に登るころには、既に世に知られるようになっているように思える。とすれは、上人が世に知られるようになったのは、それ以前、どの解説にも、さらっと書かれている「霧島・背振山での修行」の時期のように思える。
「大日本国法華経験記」には性空上人の修行の様子を伝えるが、「人跡途絶えた深山幽谷に住み、暮らしぶりは日々の糧を求めることもなく、ひたすらに行を積む」とある。ひとり山に籠っての法華持教者の修行がその名を世に知らしめることになるとは思えない?

あれこれチェックすると、霧島では霧島六所権現を核とした霧島山信仰を創り上げたとされる。霧島山を天台の山として、観音霊山の骨格をつくりあげた、ともいう。
また、背振山に至っては、そこは深山幽谷での修験といったイメージとは異なり、8世紀開基の大寺院での修行であった。比叡山・高野山・英彦山と並び称される山岳仏教の聖地であった。『背振千坊・嶽万坊(たけまんぼう)』と称された大寺には伝教・弘法・慈覚・智証の諸大師や栄西といった数々の名僧智識が入山修行している。その大寺で性空は天暦元年(947)から康保3年(966)までの19年修行し、多くの堂坊を再建し法華経読誦に励み、お山を霧島山と共に一大山岳修行の霊山となしたようである。
深山にひとり籠っての修行三昧といったイメージとはまるで異なる上人像が現れてきた。であれば背振山を後にし、書写のお山に登ったときに上人の名が都まで届いていたというのは納得できる。

十三丁;12時20分
コンクリートで固められたステップを進むとロープウエイの山上駅。その道脇に十三丁の標石。

再び秩父観音巡礼縁起に戻る
秩父観音霊場開基縁起で登場した性空上人。あれこれ疑問があったのだが、テーマがややこしそうで、ずっと寝かせておいたのだが、圓教寺へと上りながらメモをまとめた。ついでのことでもあるので、秩父観音霊場を歩いたときにメモしたことをコピー&ペーストする。上記メモを踏まえて読むと、なんとなく以前とは違った風景がみえてきた;
「(秩父観音霊場は」修験者を中心にして秩父ローカルな観音巡礼をつくるべし、と誰かが思いいたったのであろう。鎌倉時代に入り、鎌倉街道を経由して西国や坂東の観音霊場の様子が修験者や武士などをとおして秩父に伝えられる。が、西国巡礼は言うにおよばず、坂東巡礼とて秩父の人々にとっては一大事。頃は戦乱の巷。とても安心して坂東の各地を巡礼できるはずもなく、せめてはと、秩父の中で修験者らが土地の人たちとささやかな観音堂を御参りしはじめ、それが三十三に固定されていった。実際、当時の順路も一番札所は定林寺という大宮郷というから現在の秩父市のど真ん中。大宮郷の人々を対象にしていたことがうかがえる。
秩父ローカルではじまった秩父観音霊場では少々「ありがたさ」に欠ける。で、その理論的裏づけとして持ち出されたのが、西国でよく知られ、霧島背振山での修行・六根清浄の聖としての奇瑞譚・和泉式部との結縁譚など数多くの伝承をもつ平安中期の高僧・性空上人。その伝承の中から上人の閻魔王宮での説法・法華経の読誦といった蘇生譚というのを選び出し、上にメモしたように「有り難味さ」を演出するベストメンバーを配置し、縁起をつくりあげていった、というのが本当のところ、ではなかろうか。
実際、この秩父霊場縁起に使われた性空蘇生譚とほぼ同じ話が兵庫県竜野市の円融寺に伝わる。それによると、性空が、法華経十万部読誦法会の導師として閻魔王宮に招かれ、布施として、閻魔王から衆生済度のために、紺紙金泥の法華経を与えられる、といった内容。細部に違いはあるが、秩父の縁起と同様のお話である。こういった元ネタをうまくアレンジして秩父縁起をつくりあげていったのだろ。我流の推論であり、真偽の程定かならず」と。
当たらずとも遠からずといった秩父巡礼散歩時のメモではあるが、今回の上述メモで、その行間を埋めることが少しできたようにも思える。
「寝た子を起こした」ためちょっと頭の整理が大変だったが、それなりのリターンを得たようにも思える。

和泉式部の案内;12時23分
先に進むと入山ゲート(志納所)。拝観料を払い入山。ゲートの辺りには「書写山と和泉式部」と題された案内に続いて、10枚の絵巻を切り取ったようなパネルに和泉式部の人となりが書かれていた。
「書写山と和泉式部」の案内には、西の叡山と呼ばれた書写山圓教寺の説明、性空上人の開山縁起、和泉式部と性空上人との関りが書かれる;「1.西の叡山と呼ばれて 書写山圓教寺は平安中期、西暦966年に性空上人が開いた天台宗の寺。この時期は平安女流文学が花開いた時期でもある。人々は当時の大寺を数え上げ、長谷山、石山、比叡山、書写の山と歌った。以来千年、圓教寺は西の比叡山と呼ばれ現在に法灯を伝える。上人は敏達天皇の末、橘姓
2.白雲に導かれて書写山へ 上人は幼いころから仏心篤く、出家して九州の霧島山で法華経による修行を重ね、新しい霊地を求めて旅に出る。白雲に導かれ播磨に至り、書写山に紫の瑞雲が漂うのを見て、この地に庵を結び、「六根清浄」の悟りを開き、崖の桜の木に観音像を刻み礼拝の日々となす。
3.恩賜の寺号と和泉式部の名歌がシンボル 上人が悟った報せは、直ちに京に届き、花山法皇は書写山に行幸し、大講堂を寄進し「圓教寺」の寺号を賜る。さらに上人のすすめで西国三十三観音巡礼を中興する。
一方、和泉式部は平安女流歌人の第一人者として 「冥(くら)きより 冥きみちにぞ入りぬべき 遥かに照らせ 山の端の月」の名歌を上人に献じる。恩賜の寺号と和泉式部の絶唱の名歌は圓教寺の象徴となっている」といったことが書いてあった。

十七丁:12時40分
ふたつに分かれる道の分岐点に慈悲の鐘。「こころの鐘」と読むようだ。比較的新しいよう。平成4年(1992)建立とのこと。和泉式部の絵巻風パネルの近くにあった「和泉式部歌塚案内図」にあった境内の地図に拠れば、左に折れると円教寺会館、妙光院、そして西坂参道へと進むよう。右に折れ、仁王門への参道へと歩を進める。
参道に「西国三十三観音道」の案内。「摩尼殿(本堂)まで約15分。摩尼殿から諸堂まで6分。文化財諸堂から奥の院・和泉式部歌塚まで2分」とある。参道に立つ銅製の西国三十三観音像を見やりながら進む。
十九番行願寺の千手観音立像を超えた辺りで右手が開け、展望台。播磨の里を見る。
先に進むと道脇に十七丁の標石が立つ。十四丁から十六丁の標石もあったのだろうか。

仁王門;12時42分
十七丁標石から数分で仁王門。「圓教寺の正門。東坂の終点にあたり、これより中は聖域とされる。
門は、両側に仁王像を安置し、中央が通路となっており、日本の伝統的な門の形を受け継いだ「三間一戸の八脚門」である。天井には前後に二つの棟をつくり、外の屋根と合わせて「三つ棟造り」となっている」との案内がある。
ここから境内にはいっていくのだが、「寝た子を起こした」ためのメモがちょっと長くなってしまった。取り敢えずここでメモは中断。仁王門から先のメモは次回に回す。
加古川の谷中分水界を辿る旅の二日目。先回に続き、堀淳一さんの『誰でも行ける意外な水源・不思議な分水:東京書籍』にある加古川の谷中分水界を辿る。今回は同書にある「日本海と瀬戸内海の水争い:由良川による加古川の争奪」の地である鼓峠と栗柄峠、そして「真っ平でファジーな分水界:源流で水のつながる加古川と武庫川」の舞台であるJR宝塚線・篠山口駅辺りを訪れる。
栗柄峠と鼓峠は共に由良川水系による加古川水系の河川争奪の地ではあるが、鼓峠にはその結果としての「片峠」を見ることができると言う。片峠自体は、先日訪れた土佐・窪川盆地を囲む幾多の片峠に限らず、中山道の碓井峠、東海道の鈴鹿峠、愛媛の三坂峠など、それほど珍しいものではない。また河川争奪も都内でも王子付近の石神井川、世田谷等々力渓谷の谷沢川、そして相模湖の南を流れる串川など、これも結構見かける。
だが、河川争奪による片峠といった「合わせ技」の地を訪れるのはこれがはじめてであり、文字面(づら)だけでないリアリティを感じることができ誠に面白かった。
また、篠山口の「真っ平でファジーな分水界」では、今回の旅の起点となる篠山口へと向かう際、つかず離れずその流れを見せていた武庫川がその主人公であった。前回のメモで記載の如く下流域では渓谷を刻む武庫川が、篠山口近くになると「知らず」消え去っており、その源流付近は真っ平な谷底平野で加古川水系の水路と繋がっている。通常の河川発達のプロセスからすれば「普通」ではない。
結論から言えば、両水系を繋ぐ水路は人工的に掘削されたものではあるが、それでも、真っ平な谷底平野で両水系が「超接近」するその因は、遥かはるか昔、加古川による武庫川の河川争奪にあった。旅の初日に見た、石生の日本一低い中央分水界形成のその因が、由良川流路の南流から北流への「逆転」にあったと合わせ、思いもかけず川の歴史での大きなドラマの一端に触れることができたように思う。丹波篠山、結構遠いよな、などと少々腰が重たかったのだが、行ってよかった。
以下、メモはじめるが、見出しのコピーは前述書籍の記事コピーを使わせて頂いた。地名は平成の大合併以前のものであり、現在の地名は本文にメモする。



(2日目) 本日のルート;
日本海と瀬戸内海の水争い・鼓峠と栗柄峠
篠山口から鼓峠と栗柄峠に向かう>「くりから谷中(こくちゅう)分水界」の案内
 ■鼓峠;河川争奪による片峠と谷中分水界(中央分水界)
鼓峠>由良川水系・友淵川の谷筋>鼓峠を越えて上る友淵川>谷中・中央分水界>宮田川を下る
栗柄峠;河川争奪
倶利伽羅不動尊の案内>杉ヶ谷川>倶利伽羅不動に>栗柄峠の谷中分水界

真っ平でファジーな分水界
JR宝塚線篠山口駅>北の堰(第一水門)>田松川>南の堰(第二水門)


■日本海と瀬戸内海の水争い・鼓峠と栗柄峠■

由良川による加古川の争奪(兵庫県多紀郡西紀町・氷上郡春日町)

篠山口から鼓峠と栗柄峠に向かう
篠山口のホテルを出発し鼓峠と栗柄峠のある篠山市栗柄に向かう。篠山口から15キロ弱、車でおおよそ20分ほどの距離である。折悪しく当日は朝から雨。足元は悪いが、分水界散歩であり、晴れの日より水の流れはわかりやすいか、と。 カーナビの誘導で、国道176号を北に進み、篠山川に栗柄峠から下る宮田川が合わさる篠山市明野で県道97号に乗り換える。
2車線の広い県道を宮田川に沿って北東に上り、篠山市栗柄に。『誰でも行ける意外な水源・不思議な分水:東京書籍』には多紀郡西紀町とあるが、平成の大合併で篠山町、今田町、丹南町と合併し篠山市栗柄となったこの地に栗柄峠と鼓峠が隣り合って並ぶ。

篠山市栗柄・「くりから谷中(こくちゅう)分水界」の案内
道脇に大きな「くりから谷中(こくちゅう)分水界」の案内が立つ。「河川争奪の見える不思議な水分(みくまり)の里 栗柄は三方を山で抱かれた山間盆地の狭い平地で水田が開けていますが、この付近は、たいへん珍しい谷中分水界の地形を形成しています。
右側の県道(丹南三和線)を2kmほど進むと、鼓(つづみ)峠の頂上に至ります。この鼓峠も日本海と瀬戸内海への分水界で、鼓峠から瀬戸内海側に流れた水は宮田川(右側の河川)となり、篠山川、加古川を経て瀬戸内海に注ぎます。 正面から流れる「杉ヶ谷川」は、この辺りで宮田川と合流するのがごく自然な形と思われますが、前方観音堂横で突如西へ折れ倶利伽羅不動の滝で4m近く落下し、滝の尻川、竹田川、由良川を経て日本海へ注ぐ不思議な谷中分水の地形となっています。
約2万年前、河川争奪によって形成されたと言われるこのふたつの川(私注;宮田川と杉ヶ谷川)が、谷中の平地内で百数拾米まで相寄り、しばらくは同じ方向に流れながら、突如方向を転じる地形は実に珍しく、しかも、二つの川が見渡せる位置で、中央分水界の形状が目のあたりに観察できる希少な地であります。一つの地区に二つもの分水界があるというのも、またきわめて珍しいことです」とあった。

さて、ふたつの分水界のどちらからはじめよう。なんとなく「杉ヶ谷川」と「宮田川」の栗柄峠・谷中分水界は解説にもあるように、結構わかりやすそう。一方、河川争奪による片峠となっている鼓峠、そしてその谷中分水界ってどんなものか、今一つ想像できない。「?」を早く解決しようと、先ずは鼓峠へと向かう。

■鼓峠;河川争奪による片峠と谷中分水界(中央分水界)■
鼓峠


左手は栗柄峠で谷中分水界となった中央分水界(日本海と太平洋へと水を分ける)が、再び山稜の分水界となり鼓峠の鞍部へと落ちる山地。右手は水田など。水田の南には晴れていれば多紀連山の西ヶ嶽や三嶽が連なるのだろうが、生憎の雨。山霧にかすみ、その姿はみえなかった。
車はほどなく鼓峠に。この鞍部が由良川水系と加古川水系の分水界となる。栗柄峠の谷中分水界から再び山稜に登った中央分水界がこの峠に落ち、10mほどだろうかその鞍部を谷中分水界となして南の山稜へと上ってゆく。
鼓峠から先の中央分水界
Google Earthで作成
鼓峠からの先の中央分水界となる山稜を、由良川水系と加古川水系に注意しながらチェックする;分水界は鼓峠から南東の小金ヶ嶽に上り、稜線を北東に進み藤坂峠に。藤坂峠の東西で由良川水系と加古川水系・藤坂川が接近している。ほとんど繋がりかけている。藤坂峠から先は、板坂峠、雨石山へと続いているようである。
水系を頼りに中央分水界を辿ることに嵌ってしまいそうだが、本筋からあまりに離れてしまうため、この辺りで思考停止とする。

由良川水系・友淵川の谷筋


鼓峠までは緩やかな坂・平坦な県道であったが、峠を越えるとしばらくはちょっと急、その先ではドーンと落ちる。ドーンと落ちるとは言っても、県道は等高線に沿って100mほど高度を下げると緩やかな勾配で流れる由良川水系・友淵川支流の谷底に至るが、県道から見る対岸は多紀連山への連なりもあり、谷の深さが一層増し屏風のように屹立して見える。典型的な片峠となっている。
県道を下り、ヘアピンカーブを曲がり切ったところにある四阿(あずまや)近くに車を停める。そこから下流は友淵川支流が緩やかに谷底を流れる。一方その上流は友淵川が谷を刻みはじめる境目。下流の開けた谷と真逆の、木々に覆われた狭く深い谷を水路が上る。谷筋を少しだけ上り、谷を刻む雰囲気だけを感じ車に戻る。
中央分水界の峠を越えても篠山市
当日は気にならなかったのだが、メモの段階で鼓峠を越えても行政区は篠山市であることが気になった。通常、峠を境に行政区が変わるのが普通だろうと、その経緯をチェック。
この地は前述書籍の記事にあるように、元は兵庫県多紀郡西紀町。それが平成の大合併で篠山市となった。西紀町は、もと南河内村、北河内村、草山村が合併した西紀村がその母体。鼓峠を越えた一帯は草山村であったようだ。
それはそれでいいのだが、峠の向こうの草山村は福知山のほうがなにかと便利そう。何故に峠を越えた村々と合併し、かつまた福知山市ではなく、篠山市となったのだろう?幕政期の篠山藩の領地を見ると、草山村が含まれていた。その故だろうか。

鼓峠を越えて上る友淵川への流れ
峠近くに車を停め、谷を刻み峠に近づく友淵川支流の流れをチェック。深い谷を刻み県道からしばらく見えなかった友淵川支流は、峠近くで県道に接近し道脇を自然な溝となって峠を越えて上に続く。当日は雨であり、水の流れが日本海側へと流れるのをはっきり確認できた。
友淵川支流へ続く自然に刻まれた溝は、そのまま鼓峠を越え、耕地と山地の境、畦端を細い溝となって上へと続き、鼓峠へと南から落ちる山地の谷からの流れと繋がる。

水田の中、1メートルを隔てた谷中分水界
一方、ゆるやかな傾斜となる右手の耕地の畦道に沿った水路、というか溝を流れる水は、瀬戸内へと注ぐ宮田川に向かって下る。耕地の中、ほんの1メートルを隔てて日本海と瀬戸内に流れる水がニアミスしている。耕地の畦が中央分水界ということになる。

友淵川水系による宮田川上流部の河川争奪と片峠の形成
鼓峠へと落ちる南側山地の谷筋の水が友淵川支流の谷へと流れ、宮田川流域とニアミスする姿を眺めながら、この南側山地の谷筋も本来は宮田川へと流れていたのでは? そのほうが自然だよな、などと妄想する。
堀淳一さんの『誰でも行ける意外な水源・不思議な分水:東京書籍』には、「鼓峠という片峠も、おそらく友淵川支流による宮田川上流部の奪取によって生じたものであろう。宮田川の源流は、昔は鼓峠の北東部にあったが、争奪後鼓峠の西側に引っ越してきたのだ。ただ、この場合は多分一度にすっ飛んできたのではなく、宮田川の源流部が頭のほうからじわじわと友淵川支流にかじり取られるのにつれて、徐々に今の場所まで後退してきたのであろうと思われる」とある。

遥かはるかの昔、今眼前に見る鼓峠へと落ちる谷筋の、更に大きく水量も多い谷筋が宮田川へと下っていたのだろうが、深い谷を刻んできた友淵川水系によってその上流部の谷を奪取された、ということだろう。
峠近くに流れ落ち、宮田川上流域とニアミスしながらも、友淵川支流へと下るささやかな谷筋の流れと書籍の記事を重ね合わせ、なんとなく同書の河川争奪・片峠形成の記事がわかったように思う。

光秀と鼓峠
鼓峠は織田信長の下知のもと、奥丹波攻め主将であった明智光秀が危機に瀕した峠とも言う。猛将赤井(荻野)直正のこもる黒井城(JR福知山線黒井駅北)の攻略戦に敗れた光秀の軍勢を、草山城(鼓峠を下った本郷)主・細見氏、八百里(篠山市北東の八百里山)城主・畑氏がこの峠で待ち伏せ光秀軍を敗走させた、と言う。
時期は天正6年(1578)との記述があるが、黒井攻めは二度あり、第一次攻略戦は天正3年(1575)、第二次攻略戦は天正5年から7年(1577‐1579)とされ、第一次攻略戦は光秀が敗れ、第二次攻略戦で黒井城を落としたという。天正6年と光秀敗走と繋がらないのだが、とりあえず「ママ」にしておく。

宮田川を下る
鼓峠近くでは源流部を失い、耕地の畦の雨水を集めた宮田川上流部も田圃を少し下ると沢からの水を集め川の姿を呈す。鼓峠の地名の由来は、山地に囲まれたこの地が、真ん中がくびれた鼓形で、その両側に川(>皮)がある「鼓田」に由来すると言われるが、両側に川があるところは、この沢が合流するあたりではあるのだが、くびれた鼓は想像できなかった。ともあれ、宮田川は県道97号を北に横切り左右の沢からの水を集め栗柄峠の南へと下る。

■栗柄峠;河川争奪■
倶利伽羅不動尊の案内

「くりから谷中(こくちゅう)分水界」の案内地点に戻り、駐車する場所を探す。なかなか適当なところが見つからなかったのだが、行き来しているとき、案内板の箇所のある県道97号から分かれ、栗柄峠へと向かう県道69号から右に入り観音堂に向かう道脇に「倶利伽羅不動尊」の案内があった:
「郡内で一番高い高所に営まれた栗柄集落。竹田川に水を分かつ谷中分水界の起点となる峠に落差4メートル余りの滝があり、この滝壺に石造りの不動明王が祀られています。古くは三嶽修験の行場として栄えたと伝えられます。
この場所に立つと、激しく落ちる滝と憤怒の形相で静立する不動明王が、訪れる人々の心の内まで見透かし、隔世と安堵といった一種独特の雰囲気に誘ってくれます」とある。
三嶽
郡内とあるのは、この案内が篠山市に合併以前に制作されたと言うことだろう。三嶽?御嶽?地図を見ると、南の多紀連山に三嶽があり、その頂上付近に鳥居が記されている。この三嶽が山岳修験の場であり、お山に向かう身を清める水垢離の場所であったのだろうか。不詳である。それはともあれ、栗柄峠は、この倶利伽羅不動尊に由来する。

杉ヶ谷川
結局車は案内板にもあった、観音堂の境内にデポし、由良川水系・滝の尻川による加古川水系・杉ヶ谷川の河川争奪の地を辿る。
観音堂の少し西に柵に囲まれた杉ヶ谷川が北から下る。コンクリート護岸された川の上流にはダムが見える。栗柄ダムと呼ばれるこのダムの目的にはFNWとある。F:洪水調節・農地防災、N:不特定用水・河川維持用水、W:上水道用水であるから、多目的ダムということだろうか。
堤高26.7メートル、総貯水量383立法メートル。それほど規模が大きいわけではないが、ダムを造れるぐらいであるから杉ヶ谷川はそれなりの水量があった、ということだろう。

倶利伽羅不動に
観音堂から倶利伽羅不動参道を少し西に歩くと、杉ヶ谷川の手前が柵でブロックされている。猪でも出るだろうか。ともあれ、厳重な柵の閂を外し、さらに元に戻したうえで参道を先に進む。
河川争奪の地
参道に沿って流れる杉ヶ谷川は支尾根先端部でその流れを西に変える。もとは南へと下り加古川水系・宮田川に合わさっていた杉ヶ谷川が、倶利伽羅不動尊のある谷を刻んできた滝の尻川によって河川争奪され西へと下ることになったということが実感できる。
参道下を流れる水路の傾斜は緩やか。コンクリート護岸も無く、自然な姿でゆったり西に下る。
倶利伽羅不動の滝
ほどなく倶利伽羅不動尊に。落差4mという滝が見える。滝壷のお不動様にお参り。滝もさることながら、その下流も谷が深く刻まれている。滝のある固い岩盤に阻まれ、それより上流には谷を刻めなかったとはいえ、ゆるやかな宮田川の勾配と比較すれば、こちらの谷筋への流勢に抗し得なかった杉ヶ谷川の「事情」も現地に来て、はじめてわかったように思う。
片峠
栗柄峠も滝の尻川の谷底との比高差は70mほど。峠付近に谷筋を囲む山地がそれほど高くなく、鼓峠ほどの「屏風」感はないが、峠を隔てた栗柄の平坦な地を思うにつけ、ここも片峠と言ってもいいのではないだろうか。

栗柄峠の谷中分水界
倶利伽羅不動から戻り、流域を確認。おおよそ県道97号の北は杉ヶ谷川から滝の尻川といった由良川水系、県道から南は加古川水系宮田川に耕地畦からの水が流れ込んでいた。
宮田川と杉ヶ谷川という異なる水系、それも日本海と瀬戸内へと分かれる分水界を挟み、その間の距離は100メートル強、ではあるが、そのインパクトは、先ほど規模は違えども鼓峠で見た、その距離1メートル弱でニアミスする、沢から日本海へと流れる水、そして耕地の畦を瀬戸内へと下る雨水の印象に勝ることはなかった。


■真っ平でファジーな分水界■
源流で水のつながる加古川と武庫川(兵庫県多紀郡丹南町)


篠山口
鼓峠・栗柄峠を離れ「真っ平でファジーな分水界」の舞台である、JR宝塚線篠山口駅に戻る。地図で確認すると、「源流で水のつながる加古川と武庫川」の水路は、JR宝塚線篠山口駅のすぐ東に見える。成り行きで車をデポし、フラットな谷底平野にある日本海と瀬戸内を分ける中央分水界、しかもそれが区切れることなく一本に繋がる水路を辿る。

北の堰(第一水門)
国道176号大沢交差点を東に折れ、JR篠山口駅の北で福知山線(福知山線の篠山口駅までは「宝塚線」が愛称となっている)の踏切を渡り五差路を南東に進み丹南弁天交差点に。交差点から北東に進む県道299号に橋が架かり、その下をコンクリート護岸の水路が流れる。水は北へと流れ加古川水系・篠山川に注ぐ。(安田川と呼ばれるといった記事を目にした)。
水路に沿って南に進むがほどなく民家で行く手を遮られる。なりゆきで迂回し県道299号篠山口駅東交差点で水路へと向かい、橋を少し篠山川方向へと戻ると水門(堰)がある。堰を区切りに、ささやかではあるが北に流れる水と、堰に止められ淀む水に分けられる。

田松川
水路は南にも堰があり、南北どちらにも動いていない。地図にはこの水路を「田松川」と記す。明治7年(1874)篠山川と武庫川を繋ぐため人工的に開削されたもの。高瀬船を使って舟運を構想した当時の豊岡県役人田中光義氏と松島潜氏の頭文字をとったもの。舟運は数年で廃止されたが、用水路として整備されているようだ。

谷中分水界を掘り割り、人工的に開削された水路のため、加古川水系と武庫川水系を分ける分水界は曖昧とはなっているが、この水路のどこかだろう。とはいうものの、この辺りの等高線は標高200メートルと一面同じであり、どちらに「転ぶか」は人工的な何か次第ということだろうか(水路に分水界を示す木標が立つといった記事もあったが木標は見逃した)。

南の堰(第二水門)
左右に水田の広がる水路に沿って進み、田松川が篠山盆地に入る狭隘部の少し南に堰があった。その堰から、水は南へと下り武庫川となる。



武庫川源流
現在武庫川の起点は、この堰より少し南に下った宝塚線南矢代駅辺りで田松川に西から注ぐ真南条川の合流点とされる。源流は真南条川が谷底平野を遡り、真南条上で右へと山地に入った愛宕山の山麓であるようだ。
ところで、地図を見ていると、真南条川が谷底平野を遡った上流部と、篠山川へと下る水路が鍋塚池を境にニアミスしている。と言うか、鍋塚池で両水系が繋がっているようにも見える。この地武庫川と篠山川水系が繋がる谷中分水界となっているように見える。

●「真っ平でファジーな分水界」形成のプロセス●
真っ平でファジーな分水界を歩き、それではこのような地形がどのようにして造られたのかちょっと気になりチェック。その因は、これも遥かはるか昔、武庫川と加古川で起きた河川争奪にあるようだ。
「武庫川のふしぎな地形と地質;加藤茂弘」にあった野村亮太郎氏の説に拠ると、その川幅に比してアンバランスに広い谷底平野を形成することから、かつての武庫川は水量も多く、浸食力も強かったとし、そのことから篠山盆地一帯は武庫川上流の広い谷と繋がっていたと言う。そのプロセスは以下の通り;

◆約3万年前まで、古武庫川は幅広い河谷を砂礫で埋めながら、篠山盆地から当野付近の狭窄部を抜けて、丹波山地・三田盆地へと抜けていた
◆約3万年前頃、当野付近の山地小流域から武庫川に向けて大量の土砂が供給され、麓屑面や扇状地が造られる。古武庫川は堰止められ、当野付近から篠山盆地にかけて湖や湿地(古篠山湖)が造られた。その後、湖や湿地は埋め立てられていく
◆一方、約3万年前に、篠山盆地西の山間部を源流としていた古篠山川は、その後も山地を掘り込み、篠山盆地を流れる古武庫川との分水界を低下させた。 (私注;この篠山川は現在の篠山川の中・下流域、篠山盆地の西の山地、現在の川代渓谷辺りを源流点とし西に流れ加古川に注いでいたようだ)。
◆堰止めによる古武庫川上流部の川床高度の上昇もあり、古武庫川と古篠山川の分水界の差がなくなり、約1万年前、古篠山川は古宮田川を争奪し、次いで武庫川の上流部も争奪した。
(私注;この場合の武庫川上流部とは篠山盆地に注ぐ現在の篠山川をも含むものである。ここで先ほど栗柄峠で出合った宮田川が登場した。遥か昔、武庫川水系であった古宮田川は上流域であった杉ヶ谷川を由良川水系に争奪され、下流域では加古川水系に争奪されたということ、か)。
◆古武庫川を争奪した古篠山川は水量をまし、浸食力を強め、それまでの盆地床を掘り下げて両岸に現在の川代渓谷に見られるような河岸段丘を形成し、加古川へと注いだ。

そして、上流部を奪取された武庫川は水源を失い、埋め立てられた湖・湿地の真っ平な谷底平野に取り残されることになる。こうして真っ平な谷底平野の中に加古川水系と武庫川水系のファジーな分水界が形成され、しかも、舟運のため両水系を繋ぐ水路が開削された結果、武庫川水系と加古川水系がひとつに繋がった、ということだろう。

Wikipediaの武庫川の説明にも「最終氷河期までの武庫川は篠山川の下流であった。これは川代渓谷の標高が176mであることと篠山盆地の堆積物を除いた基盤の丹波層群の基盤の標高が160mであることから判明している。最終氷河期までの篠山川は傾斜の緩やかなことから排水が悪く、当野付近の基盤岩が武庫川に堆積し、さらに流れを堰き止めた。川代渓谷の誕生とともに排水は改善し、盆地に堆積されていた堆積土の侵食が始まる。武庫川の水は篠山川に奪われた結果、分水嶺は盆地南部に移動する。篠山川の流れは速くなり、盆地を侵食していった」との同様の説明があった。

源流部を失い、この辺りでは小川となった武庫川であるが、周辺の谷筋からの水を集め往路で眺めた武庫川渓谷の姿を呈し瀬戸内へと下っている。
相野川
地図を眺めていると、武庫川が三田盆地に出る手前、宝塚線藍本駅辺りで強烈に蛇行しているが、その蛇行起点辺りから宝塚線に沿って如何にもかつての川筋といった地形が見える。そこには相野川が流れるが、どうも元の川筋はこの相野川のようだ。
さらに地図を睨むと、相野川の源流域付近で西に流れる東条川と谷中分水界を成しているように見える。更に言えば、武庫川はこの東条川へと流れていても違和感がない。チェックすると、30万年以上前、武庫川は東条川を下り加古川に合わさっていた、との記事も目にした。本日の本筋とは関係ないが、地図を睨んでいると先ほどの真南条川といい、この相野川といい、好奇心を擽り妄想をたくましくする。

これで一泊二日の加古川に見る谷中分水界の散歩を終える。結構好奇心を擽るトピック満載の散歩であった。
先日堀淳一さんの『誰でも行ける意外な水源・不思議な分水:東京書籍』を読み,毎月の田舎帰省の折り「海に背を 向けて流れる」土佐の四万十川の源流と片峠を辿った。これが結構好奇心に「刺さる」旅であり、それならと、今度は田舎への行き帰りに立ち寄れる「意外な分水水源・不思議な分水」は他にないものかと同書をチェック。
すると兵庫を流れる加古川に関係する谷中分水界、河川争奪やそれに伴う片峠などの4つの記事が目に止まった。谷中分水界には標高95mといった、日本で一番低い中央分水界もある。
これは面白そうとルーティング。記事にある4箇所は西から、加古川が市川と繋がりそうな青垣峠,日本一低い中央分水界(加古川と由良川)のある石生、加古川と武庫川の谷中分水界がある篠山口,加古川が由良川水系に河川争奪された結果誕生した片峠(鼓峠と栗柄峠)である。

地図を睨むと、起点を篠山口にとり、お昼前後からレンタカーで走れば1泊2日ですべてカバーできそうである。初日は午後に青垣峠と石生、翌日は午前中に鼓峠・栗柄峠と篠山口とし、篠山口にあるホテルとレンタカー(24時間)を予約。田舎から東京に戻る途中、起点となる篠山口に向かった。



(初日)
本日のルート;
丹波篠山口に
水がつながりかけている?
笹山口から青垣峠へ
国道176号から県道7号に>丹波市青垣町で県道7号から国道429号(427号併用)に>峠近くの狭い国道を進む>青垣峠
日本海と瀬戸内海に分かれる水
石生(丹波市氷上町石生)>「中央分水界と石生の水分れ」の案内板>中央分水界を水分れ公園へ>𡶌部(いそべ)神社>水分れ資料館>谷中分水界を歩く>藤の木橋>おおかみ橋>水分れ橋>石生交差点>由良川水系・黒井川の水路に向かう

(初日)

丹波篠山口に

丹波篠山口に昼前には着きたいものと、田舎の新居浜を7時過ぎに出発。新大阪駅から大阪駅に移り、JR宝塚線丹波路快速に乗り篠山口に。大阪駅発10時21分、篠山口駅着11時28分。
およそ1時間強の列車の旅。はじめて訪れる地であり、列車の進行と地図を見比べながら進む。大阪駅を出た列車は、大阪平野から伊丹台地に入り、伊丹台地と北摂山地の境を走った後、六甲・北摂山地に入り、武庫川渓谷をトンネルと鉄橋で越え三田盆地に。
三田盆地を武庫川に沿って北に抜けると丹波山地に入り、武庫川に沿って北に進むと篠山盆地に目的地である篠山口駅があった。平野から台地、そして山地、次いで盆地、その先に山地がありそして盆地と変化に富んだ地形でもあり、篠山口までの景観をメモしておく:
大阪平野と伊丹台地
大阪駅を出たJR宝塚線(福知山線の篠山口までの愛称、とか)丹波路快速は尼崎駅で北に折れ,伊丹駅、川西池田駅へと猪名川に沿って北に進む。猪名川と武庫川によって造られた伊丹台地のほぼ東端辺りだろうか。
北摂山地
川西池田駅から西に折れ、北摂山地の麓を西に宝塚駅へと向かい、そこからは伊丹台地と分かれ、武庫川の河岸段丘上にある生瀬駅を越えると長いトンネル(生瀬トンネル)に入る。
六甲・北摂山地と武庫川渓谷
トンネルを出ると西宮名塩駅。武庫川を跨ぐように感じる駅のすぐ先にも六甲山地を穿つトンネルが迫る。何故にこんな山間の地に駅が?チェックすると、西宮名塩ニュータウン開発に応じたもののようだ。元の福知山線は武庫川を縫うように走っていたが、昭和61年(1986)福知山線の複線・電化に際し従来の武庫川沿いのルートを大幅に変更し、山地を穿つ長いトンネルのルートとなり、その際に当駅が新設されたとのことである。
西宮名塩駅から長い名塩トンネルを抜けると武田尾駅。この駅も武庫川を跨いでおり、ホームは川向うの第一武田尾トンネルに続く。第一武田尾トンネルを抜けると直ぐに第二武田尾トンネル、トンネルを一瞬抜け直ぐに第一道場トンネル、第二道場トンネル、第三道場トンネルと続き道場駅に。
福知山線
明治32年(1899)、阪舞鉄道によって尼崎・福知山間が開業。明治37年(1904;日露戦争開戦年)対ロシア軍用路線として舞鶴鎮守府まで急ぎ敷設された官設の福知山・舞鶴間の路線の貸与を受け阪舞鉄道は大阪と舞鶴を結んだ。明治40年(1907)には国有化され阪舞線となり、明治45年・大正元年(1912)の山陰本線の開通を受け、尼崎・福知山間を福知山線とした。
武庫川渓谷の旧福知山線
複線・電化以前の旧福知山線は、基本屈曲する武庫川に沿って進んでいる。生瀬駅から武庫川右岸を進み、途中左岸に移り武田尾に。武田尾の先でトンネルに入り、東南に突き出た馳渡山の尾根筋を抜けると武庫川右岸に移り、道場駅手前で左岸に移る。
廃線跡は道場から武田尾は未整備。武田尾から生瀬方面は整備されて廃線歩きが可能となっているようだ。歩いてみるのも面白そうだ。
三田盆地
六甲・北摂山地のトンネルを抜け、武庫川を鉄橋で渡った鉄路も道場駅を越えると三田盆地に入る。渓谷から一転、平坦な谷底平野となる。宝塚線(福知山線)は武庫川に沿って進む。武庫川は直線化工事がなされているようだ。平坦な谷底平地の水の出口が渓谷の狭隘部となっているわけで、往時は洪水被害も多かったのだろう。
丹波山地
三田盆地を進むと広野駅辺りから丹波山地に入る。宝塚線は蛇行する武庫川から離れ相野川沿いを進み、相野駅辺りから弧を描き東に向かい藍本駅付近で武庫川に接近し、丹波山地の間を流れる武庫川に沿って北上する。宝塚からずっとつかず離れず流れていた武庫川は、知らずその姿を消していた。
篠山盆地
山地を抜けると篠山盆地に入り、目的地である篠山口駅に到着する。

加古川
これから「加古川に見る中央分水界と谷中分水界、そして河川争奪の峠を辿る」ことになるのだが、散歩に先立ち加古川についてWikipediaを参考に概要をまとめておく;
加古川(かこがわ)は、兵庫県中央部を流れる一級河川。本流(幹川)流路延長96km、篠山川など支流数も多く、兵庫県に河口を持つ河川水系の中では、本流流路延長・流域面積ともに最大である。
その流域は東播磨全域及び丹波南部だけでなく、神戸市北区、灘区の一部(六甲山系北稜)、さらには県外の大阪府能勢町天王峠周辺の地域も含む(篠山川上流域水無川上流部)。瀬戸内海の明石海峡・鳴門海峡以西に流れ込む水系としては、流域面積で高梁川、吉井川、旭川に次ぐ規模である。
現在本流(幹川)と比定されている河流の源流は、丹波市の北西の粟鹿山(標高962m)付近に発する一の瀬川である。この河流は大名草で石風呂川と合流した後、佐治川と名を変え、篠山川合流点まではこの名で呼ばれてきた。
佐治川・篠山川合流点から美嚢川が合流する三木市が中流域。その先は加古川市と高砂市の境として播磨灘に注ぐ。市川、夢前川、揖保川、千種川とともに、播磨灘に流れ込む「播磨五川」と総称される。本流の河床勾配は日本列島の河川としては緩い。

加古川水系の大きな特徴の一つは、隣接水系との谷中分水界の多さである。隣接水系のうち、武庫川水系(①田松川、篠山市当野)、由良川水系(②「石生の水分れ」、③栗柄峠および鼓峠:篠山川支流宮田川と由良川水系竹田川及び友淵川、篠山市栗柄)、市川水系(④青垣峠:双方本流源流部)とはそれぞれの本・支流で谷中分水界を形成する。
④以外の谷中分水界については、およそ一億年前を境とする長期間、大きな湖が篠山盆地に位置していたことによるところが大きい。③のように二つの異なる谷中分水界かつ本州中央分水界がわずかの距離に並ぶのは非常に珍しい。また、鼓峠の場合、一枚の小さな田圃から水が両水系に流れ出ている」とある。

今回訪ねることにした4箇所は『誰でも行ける意外な水源・不思議な分水:東京書籍』にある以下の記事である。

(初日)
■水がつながりかけている?■
市川と加古川の分水界・青垣峠(兵庫県朝来郡生野町・氷上郡青垣町)
■日本海と瀬戸内海に分かれる水■
黒井川・高谷川間の水中分水界(兵庫県氷上郡氷上町)
(二日目)
■日本海と瀬戸内海の水争い・鼓峠と栗柄峠■ 由良川による加古川の争奪(兵庫県多紀郡西紀町・氷上郡春日町)
■真っ平でファジーな分水界■
源流で水のつながる加古川と武庫川(兵庫県多紀郡丹南町)

この4箇所は前述Wikipediaの挙げる、以下の4箇所と一致する。
●(加古川水系と)市川水系(④青垣峠:双方本流源流部)●
●(加古川水系と)由良川水系(②「石生の水分れ」)●
●(加古川水系と)由良川水系(③栗柄峠および鼓峠:篠山川支流宮田川と由良川水系竹田川及び友淵川、篠山市栗柄)●
●(加古川水系と)武庫川水系(①田松川、篠山市当野)●

特に意図したわけではないのだが、奇しくも今回前述の書籍よりプラニングした4箇所は、Wikipediaに記されたこの4つの谷中分水界を辿ることとなっていた。プラニングの際は、地理不案内の土地であり、4記事の地を1泊2日でカバーするのは厳しいかとも思ったのだが、エイやで性根を決めてよかったと、メモの段階で自画自賛。

水がつながりかけている?
市川と加古川の分水界・青垣峠(兵庫県朝来郡生野町・氷上郡青垣町)

篠山口から青垣峠へ
11時28分、定刻にJR宝塚線・篠山口に到着。駅の少し南のレンタカー会社に向かう。その会社のすぐ裏手が、今回の訪問地のひとつ、「真っ平でファジーな分水界 源流で水のつながる加古川と武庫川(兵庫県多紀郡丹南町)」の舞台ではあるのだが、段取り上、「知らず消えてしまった」武庫川と、これも当たり前のように「北の篠山川水系と繋がる水路」を辿る旅は最後に廻し、最初の目的地である青垣峠へ向かう。
国道176号から県道7号に
篠山口から青垣峠へのナビ設定。43キロ、おおよそ58分とある。国道176号沿いにあるレンタカーを借りた場所から、そのまま国道176号に乗り、加古川水系・篠山川を越え、篠山川の支流・大山川に沿って北に進み新鐘ヶ坂トンネルを抜ける。新鐘ヶ坂トンネルの峠の尾根筋が篠山市と丹波市の境となっている。 加古川水系・柏原川の支流の谷を下り柏原の町を越え、加古川によって開かれた平地を進み、これも後ほど訪れる「日本海と瀬戸内海に分かれる水 黒井川・高谷川間の水中分水界」の舞台である石生の加古川水系・高谷川を越えた先で県道7号に乗り換える。
丹波市青垣町で県道7号から国道429号(427号併用)に
加古川、そして北近畿豊岡自動車道に沿って北上し、西から東へと流れてきた加古川が、その流れを南に変える丹波市青垣町で県道7号から国道429号(427号併用)に乗り換え、しばらく進み、途中427号と分かれ左に折れて青垣峠へと国道429号を進む。 国道429号と427号が分かれる辺りで、青垣峠への谷筋とは別に、左に分かれる川筋が栗鹿山へと向かう。これが加古川本流の源流点のある一の瀬川だろうか。
峠近くの狭い国道を進む
国道429号を進むと里は切れ、二車線の道も一車線となり、車一台分の谷筋の道を杉林の中上る。カーブは少なく走りやすい道ではあるが、予想以上に車、特にバイクが多くゆっくり走る。「酷道」とのもっぱらの評価ではあったが、四国の険路を走りまわっている我が身には、なんということはない道であった。 次第に深くなる谷筋を見遣りながら進むと前方に「青垣峠」の看板。3月にもかかわらず雪の残る切り通しの鞍部を乗り越え、すこし下った先は平坦地。水田、そしてその先に民家も見える。先日土佐で出合った「片峠」となっていた。

青垣峠
『誰でも行ける意外な水源・不思議な分水:(堀淳一)東京書籍』では兵庫県朝来郡生野町・氷上郡青垣町を分ける峠となっているが、現在は平成の大合併を経て生野町側は朝来市黒川、青垣町側は丹波市青垣町大名草となっている。




●市川が北から下る
道脇に車をデポし、「つながりかけている?」加古川と市川の最接近場所を探す。峠を少し下り平坦地となったところを北から小川が流れる。この川が市川。地図を見ると少し北から下る。
その市川と「つながりかけている?」加古川源流を探す。峠から下る道の左手に水の流れる筋があり、市川の手前辺りが如何にも源流域といった風情である。

●加古川源流部は国道改修により峠で断ち切られていた
「つながりかけている?」と言えばそうでもあるのだが、如何せん青垣峠手前まで谷を刻んできた加古川の支流・石風呂川とつながってはいない。前述書籍に拠れば、石風呂川源流域の谷筋は現在の峠道の少し下を刻んでいた、とのことだが、現在の青垣峠の前後は国道の法面補強されており、昔の姿は残っていない。
雪の残る峠を行きつ戻りつ、谷筋が残っていないかと探したのだが、峠鞍部の左右は比高差30mほどの尾根筋が迫っており、峠を抜ける水路が通る余地はなかった。

市川とつながりかけた加古川(石風呂川)源流域の水は、峠の前後で完全に切り離されており、今では市川に向かって下るしか術はない。自然の力でつながりかけていた加古川と市川は、人の手によって切り離されてしまったようである。



市川
加古川はそれなりに聞く川ではあるが、市川ははじめて聞く。残念ながら、加古川とつながりかけてはいなかったが、加古川と分水界をなす水系でもあるのでちょっとチェック。 Wikipediaに拠れば、市川は「兵庫県中部、丹波国、播磨国との境界近くにある朝来市生野町(旧但馬国)の三国山(標高855m)に源を発して南流。途中神崎郡各町と姫路市を流れ、姫路市飾磨区で播磨灘に注ぐ」とある。三国山は青垣峠から南東、丹波市、朝来市、多可郡多可町の行政区が接する箇所にある。で、何気なく市川の流路を地図で見ていると、生野ダム湖を経て播但線・生野駅辺りまで下った市川の北に円山川源流が接近している。
市川・円山川が日本海と瀬戸内を繋ぐ
地図を見て驚いた。日本海へと流れる円山川と市川を隔てるものは、ささやかな生野北峠だけである。この峠を越えれば播磨国から但馬国となる。日本海と瀬戸内を繋ぐ道が、こんなに敷居の低いものであれば、古来往還道として重宝したのではとチェック。
古代瀬戸内を通る海路が確立するまでは、この市川(播磨)・円山川(但馬)ルートが、加古川(播磨)・由良川(丹後)ルートとともに重用された。日本海と瀬戸内海という逆方向に向かうこのふたつの河川を舟運として使い、繋がらない部分は舟を担いで峠を越えた、とのことである。
近世に入っても、西廻り海運の捷路として両河川を利用した舟運輸送路が計画されたようだが、わずかな距離ではあるが陸路部分がネックとなり大量輸送が実現できず、西廻り海運の捷路としての目的は達成できなかったようである。

今回の散歩での最初の「つながりかけている?」加古川と市川は残念ながら切り離されてしまった事実を確認しただけに終わったが、偶々ではあるが、市川とつながりかけている円山川、そして両河川を通しての日本海と瀬戸内を結ぶルートといった歴史を知ることができ、それなりに満足。とは言ってもの、このことはメモの段階。当日は出だしからこれ?といった心持ではあった。


日本海と瀬戸内海に分かれる水
黒井川・高谷川間の水中分水界(兵庫県氷上郡氷上町)

青垣峠を離れ、次の目的地である「日本一低い中央分水界」のある丹波市氷上町石生に戻る。中央分水界は日本列島の「背骨」として、水を日本海側と太平洋側に分ける分水界のこと。その中央分水界がこの石生では聳える山地の脊稜部ではなく、わずか標高100m前後の谷底低地にある、という。書籍の記事を読んでもいまひと実感が湧かないのだが、現地に行けばなんとかなるだろうと来た道を石生へと戻る。

石生(丹波市氷上町石生)
とりあえず石生の水分公園に向かう。青垣峠から来た道を逆に国道429号、国道427号、県道7号へと乗り換え福知山線・石生駅の西、稲継交差点に。ここまで支流・本流を集めて次第に川幅を広げる加古川に沿って国道を下ることになる。
稲継交差点で左に折れ、加古川から分かれ、国道175号を進み、石生交差点、福知山線を越え水分れ交差点に。水分れ交差点からは並木の続く小川に沿ってそのまま東に向かうと、道の北側に広い水分れ公園の駐車場(公園大駐車場)があった。車を停め「水分れ公園」に向かう。

「中央分水界と石生の水分れ」の案内板
駐車場脇に案内板があり、地図とともに「中央分水界と石生(いそう)の水分(みわか)れ ここは日本列島の背骨『中央分水界』の線上にあるところです。この看板の右側の道路の中央が「分水界」で、中央より左側(北側)の雨水は由良川を流れて日本海へ、一方右側(南側)の雨水は高谷川から加古川に注いでいます。後方に見える山のふもと「石生交差点」から前方の山すそ「水分れ公園」の奥までの1,250メートルの間は全く平地のなかで分水しており標高95.45メートルは日本一低い谷中分水界です」との解説があった。

石生交差点から、知らず「中央分水界」を走ってきたようだ。道の右の小川が瀬戸内へと下る加古川水系の高谷川であった。また、車を停めた駐車場は日本海へと注ぐ由良川水系ということになる。

中央分水界を水分れ公園へ
知らねばごくありふれたん舗装道を、これが日本で一番低い中央分水界か、などと左右を見遣りながら水分れ公園へと高谷川に沿って進む。ほどなく公園に。公園自体はなんということのない、少々人工的過ぎる親水公園といった風情。

水分れ公園の分水堰
公園脇の高谷川に如何にも人工的な水分れの水路が造られていた。高谷川の真ん中に水を北の由良川水系へと分ける水路が造られ水門ゲートもある。ゲートの先には特に川といったものはなく、畑地に沿って側溝が続く。水門ゲートからの水路はそこに繋がっているのだろうか。

𡶌部(いそべ)神社
水分れ水路を離れ、公園案内図にあった水分れ資料館に向かう。手前に𡶌部(いそべ)神社。古社の風情を残す神社にお参り。案内には; 「𡶌部(いそべ)神社 剣爾山は、三角形の美しい形をしています。こういう山を昔の人は「神奈備山(神様の山)」と言いました。山上近くにある大岩は、神様が天から下りてこられる拠り所と考えて、こういう岩を「磐座」(いわくら)と言いました。
その山の前に建てられたのが𡶌部神社です。このあたりのご先祖、部の民は、大きな岩をつかって、古墳を造ったり、たんぼを造ったり(後には条里制水田造りもした)する土木工事が得意な人たちでした。
その部の人達の祖先、奇日方命(くしひがたのみこと)をおまつりしたのが𡶌部神社のはじまりは(和銅三年、今から約一,三〇〇年前頃)です(私注;ママ記載)。後に、八幡宮を勧請(神様のおいでを願う)して、八幡さんとなりました。 なお、この八幡さんは、柏原の八幡さんより歴史が古く、昔から、この𡶌部神社のお祭をして、その次の日に神様を、柏原の八幡様にお送することになっておりました。その後、𡶌部神社には、いろいろな神様をお招きして、たくさんの神様がおまつりされて、石生の人達の守り神さまとしてお祭りされております」とあった。

水分れ資料館
社の西に水分れ資料館。入場料〈200円だったか〉を払って入館。ビデオで水分れの概要をかじった上で、解説のボードを読みジオラマを見ながら、館内を巡る。
石生の谷中分水界
「この平地の分水界(谷中分水界)は、石生奥山から流れる高谷川の右側(北側)の堤防上で、奥山から尾根を下り、山裾から西に向かい、石生宿畑まで約1,250m。そこからは行者山、城山へと山を上っていきます。最も低い所は宿畑で標高94.5mです。水分橋では標高101.04mです」との解説パネル。
谷中分水界とは尾根筋ではなく、谷底平野にある分水界のこと。奥山から尾根(𡶌部神社の前の西ヶ原の尾根)を下った石生の谷中分水界は、石生交差点のある宿畑までであるが、その先は行者山・城山へと尾根を上っていくようだ。 石生では山を下りた谷中分水界とはなっているが、この分水界は日本列島の脊稜として日本海と太平洋へと水を分ける中央分水界の一部である。
石生前後の中央分水界
石生前後の中央分水界は「多紀郡の山岳連山から西へ鏡峠・黒頭峰を経て、柏原町の清水山等の頂上をつらねて走る稜線で、それはさらに延びて石生奥山の最高点に達し。それより少し南から、急に西へ降る支稜を伝わって西ヶ原に至り平地と接する。
西ヶ原の稜線端からは奥山から流れ出る高谷川の右岸(北側)の堤防上を通って、石生新町の宿畑に至る。この西ヶ原の稜線端から宿畑までの約1250メートルの間が平地で、谷中分水界。
宿畑から再び山へ上り、石生の行者山・城山の丘陵を経て、愛宕山・五台山、さらに青垣町の穴の裏峠、烏帽子岳等の頂上をつらねる山稜を経て遠阪峠に達する(「森と水と人のふれあいの径 水分れ」より)」とある。

谷中分水界から南北への流れ
「ここより北の水は竹田川から由良川に入り、南側の水は高谷川に入るか、溝を流れて稲継で共に加古川に合流して瀬戸内に入る。(中略)現在水分橋より下流は国道175号線が最も高い所となっているけれども、高谷川堤防と国道との間の水は、暗渠によって国道の下をくぐり、北側に抜けるようになっており、前から高谷川右岸が分水界であったことを示している。現在JR福知山線と国道176号線は分水界を横切って通っている。しかし、分水界を通っている感じは何もしない。生郷村志 細見末男より」

北の水は竹田川に入る、とはいうものの、中央分水界から川は見えず、側溝の水、悪水落しの水を集めた水路が石生の中央分水界の北に見える黒井川に繋がる。この黒井川が竹田川に落ちている。
国道175号云々は、国道175号が高谷川に沿って少し北を通っているが、中央分水界より北に落ちた水は、分水界より高くなった国道は暗渠を通して北に流している、ということだろう。
南への流れは高谷川を西に下り、先ほど通った稲継の先で加古川に注ぐ。分水界であれば、分水界と垂直に下っているかと思っていたのだが、分水界は西に向かってゆるやかに傾斜している故であろう。

由良川の分水界
展示パネルには「由良川の分水界 移動説の模式図」というものがあり、「もと由良川は福知山付近から南に流れて、現在の竹田川を逆流し、石生付近を通って、加古川に注いでいたといわれています。これを古加古川といいます。ところが、由良川下流の大江町付近が低下したため排水が悪くなって湿原が生まれたとされています」という解説とともに、「由良川下流の各時期の河床縦断面の変化から見た分水界移動の模式図」というタイトルで、由良川の分水界が南有路(私注;大江町)から福知山、竹田、石生と南に移っている図があった。
何の事?さっぱり理解できずにいたのだが、その傍に「石生を含む氷上盆地(私注;柏原・青垣・春日町などの平地は山に囲まれた盆地)は丹波山地の西の端に当たります。丹波山地が隆起するとともに、その西の端は沈降しました。その沈んだところに上流や付近から流されてきた小石、砂、粘土等が積もり、長い間に埋まって平になり盆地となりました。
ところが水はけが悪いため一時(2万年ほど前)は湿原となり、湿原植物は今、地下に泥炭層となっています。この湿原の上に石生奥山から雨毎に流れ出て扇状地ができ、その上を高谷川が流れ、大水ごとに土砂があふれて自然堤防をつくり、その自然堤防がこの付近で最も高いところになったため、堤防の上が分水界になったのです」との解説があった。

谷中分水界形成のプロセス
また、上のふたつのパネルの解説をまとめたような記事が、水分れ資料館で購入した前述の小冊子「森と水と人のふれあいの径 水分れ」にあった。以下概要を引用する。
「この盆地の東側は古い地層から成る丹波山地で、遠く琵琶湖まで続く。西側の山は播但山地といい、火成岩よりなる。この平地は東西の山地が隆起するとともに、逆に沈降したところである。
沈降したところを地溝帯といい、そこに周囲の山や上流から流れてきた土砂が埋まり、さらに大雨ごとに洪水の中の泥が沈んで、長い間に厚い粘土層を堆積して地溝帯は埋まった。
今から2万年ばかり前。石生附近は氷上郡春日町から柏原町に続く平坦な湿原であった。それは、もと由良川が福知山付近から、現在の武田川を逆に流れて、石生を経て氷上町稲継付近から加古川に注入していたが、京都府大江町附近の地盤が低下して傾斜がほとんどなくなったためである。この平らな湿地に、石生奥山から雨ごとに風化した土砂を流し。それが積もって石生の扇状地をつくった。
扇状地ができると、平らな湿地はここで南北に分断されることになった。そうして、奥山から流れ出る谷川(高谷川)は、扇状地の上を流れ、大雨ごとに水と土砂があふれ、両岸に自然堤防ができた。そのためこの自然にできた堤防は、この付近の最高所となり、この上に降った雨は、北側に流れると、下流の低下によって日本海側に注ぐようになった由良川に入り、南に流れると、高谷川に入り、加古川に流入して瀬戸内海に注ぐようになったのである(丹波史第八号遺稿より抜粋)」。

ふたつの解説パネルと小冊子の記事を読み、最初は何の事か分からなかった分水界の移動と、西の端(分水界移動前の由良川源流域)の標高低下、緩やかな傾斜、湿地、分水界形成を繋ぎ合わせてみる:
もとは北から南に傾斜をもって流れていた由良川が、地殻変動により上流部の標高が、遥かなる年月をかけてではあろうが次第に低下、傾斜がなくなった由良川は石生の辺りで湿地となり、流れを失った湿地は山地からの土砂で扇状地が造られ分水界が形成された。分水界の移動は、流れを失った由良川が、北へと流れる河川により争奪されてゆくプロセスであったように思えてきた。
また、この地で分水界が形成されたのは、傾斜がほとんどなく、北へ流れる由良川に下刻・浸食して谷を刻み、更に南へと分水界を移す力がなかったためではないだろか。

こんなことを考えながら地図を見ていると、稲継辺りで高谷川ともに加古川に注ぐ柏原川は、その流路から見て、遙か昔のある時期、由良川水系であったものが加古川に争奪されたのではないかと妄想してしまった。

希少魚ミナミトミヨ
展示パネルには「希少魚ミナミトミヨ」の解説があり、本来は由良川水系のこの魚が、谷中分水界を越えて加古川水系にも生息していたとあった。由良川が南に流れていた頃に遡ったものの、分水界が石生に形成され、取り残されたもののようだ。
この魚以外にも日本海系の「ヤマメ」が加古川水系に生息していた(「森と水と人のふれあいの径 水分れ」)ことなどにより、由良川の南流があったことのエビデンスとして挙げられていた。もっとも、最近はヤマメも人の手で放流されているので、境界は無くなってはいるのだろうが。。。

氷上回廊
「加古川と由良川は、石生の水分れをはさんで坂がなく、氷上回廊と称されるほど低いので古代より南北の交通路となっていました。弥生時代の磨製石剣や銅鐸は、この二つの川に沿って出土し、石剣の道と名付けられています。
江戸時代には加古川に舟路が開かれて、頻繁に舟が行き来しました。由良川流域の福知山や丹後の物資も、青垣町穴裏峠を陸路で越し、同町東芦田から小舟で船座のある氷上町本郷へ運ぶか、または石生へ廻って本郷に達し、本郷から滝野や高砂へ下りました。こうして南北の交流がおこなわれ、物資や文化も伝わりました。
このルートは、さらに北陸から上方へ物資を運ぶ北前船の通路を短縮する計画も考えられ、大阪天満の岡村善八が丹後栗田から穴裏峠を経て本郷に至る通路の改修を試み、後には石生付近を運河とする松宮構想も生まれましたがいずれも実現しませんでした。しかし、なんと言っても低い分水界を利用して南北を結ぶ計画でした」。

青垣峠でメモしたように、古代瀬戸内を通る海路が確立するまでは、市川(播磨)・円山川(但馬)ルートとともに、この加古川(播磨)・由良川(丹後)ルートも、日本海と瀬戸内海という逆方向に向かうこのふたつの河川を舟運として使い、繋がらない部分は舟を担いで峠を越えたということであろうか。

本郷の船座
加古川は石剣の道と言われ、弥生時代から南北を結ぶ交通路であった。この川に丹波まで舟運が開かれたのは慶長4年(1604)で、河東郡滝野の阿江与助と多可郡黒田庄の西村伝入斉が滝野から本郷まで開いた。
水路は本郷から高田(黒田庄)までを本郷川といい、高田から滝野までを高田川と呼んだが、船座は本郷・滝野間を運営しはじめは西村伝入斉の経営であった。
寛永17年(1640)からは二年毎の入札により落札者が請負い、幕府(京都奉行)に運上金を納めて営業した。認められた舟は16そうで、底の浅い高瀬舟を用い、本郷では長さ8mの⒖石積が多く、積荷は川の水量の多数により加減した。通船期間は灌漑用水の不要となる秋の彼岸から、翌年の八十八夜までであった。 高瀬船には3人が乗り、船頭は舳に、中乗は櫂を持ち、ともは櫓を漕ぎ、ムシロの帆も用いた。板橋があると船から下りてこれをのけ、船を通すとまた元のように直して通った。
上りの急な所では、岸の船道から綱で引き、船頭だけが舵をとり、これを「さる引き」といった。
荷物は領主の大阪蔵詰にする年貢米が最も多く、その他米・大豆・薪炭等を下し、上りは塩・藍玉等で明治の頃からは燈油があった」。

加古川の舟運のことも、面白そうだが、本筋から離れていきそうでもあり、展示パネルの引用に留めて置く。

谷中分水界を歩く
水分れ資料館での知識をもとに、日本一低い中央分水界を水分れ公園から西の端、谷中分水界が尾根道に上る宿畑まで歩き、そこから北に流れる水路を辿ることにする。

藤の木橋
高谷川に沿って中央分水界となる道を下ると、ほどなく藤の木橋詰めに案内。 「藤の木橋物語 昔、地頭に、石負(いそう)の玉の太夫という大金持ちが住んでいました。 一人娘の玉姫は、玉のように美しく近在の若者達のあこがれの的でした。そのうちどこからともなく真っ青な直垂(ひたたれ)をつけた、りりしい水もしたたる美しい若者が玉姫のもとに通ってくるようになりました。
その若者がどこから来るのかつき止めようと腰に赤い糸をつけて 後を追っていくと藤ノ木橋を渡り遠い山里の大きな池の深みに入って行きました。古池の大蛇の化身だったのです。驚いた玉の太夫は、 の神様のお告げを受け藤ノ木橋の 「藤ノ木」にお願いしたところ、その夜のうちに藤のツルが伸びて橋を塞ぎ蛇のうろこがいっぱい落ちていました。それからは二度とその男は来なくなったということです」とあった。

おおかみ橋
更に下ると、おおかみ橋。橋詰の案内には、「昔、このあたりに狼が住んでいました。この狼をとらえて、売ったお金でこの橋をかけたから「おおかみ橋」と名付けられたと、伝えられています(丹波史より)。
しかし、上となりの「藤の木橋」は「縁切り橋」、下となりの「水分れ橋」は「身分れ橋」。だから、真ん中の「おおかん橋」「おかん橋」は、神様が守って下さる安全な「大神橋」「お神橋」だ、とも言われたと伝えられています」とあった。 藤の木橋の伝説が、何を言いたいのか今一つわからなかったのだが、「縁切り」を伝えんとしていたようだ。

水分れ橋
国道176号にT字で合わさる水分れ交差点には高谷川に水分れ橋が架かる。橋の傍に「水分れ橋と氷川回廊」の案内。水分れ資料館で氷上回廊のことはメモしたように、「(前略)山地に挟まれた南北に伸びる細長い低地帯で、両水系を繋ぐ一つの道であり『氷上回廊』と名付けられています。太古の昔から人・物・文化、さらに生き物が行き交うルートであり、交通の要衝としても栄えました」との案内があった。

石生交差点
国道175号を西に進むと、前方に丘陵が見えてくる。案内にあった宿畑で谷中分水界が終わり、山へ上り、石生の行者山・城山の丘陵を経て、愛宕山・五台山、さらに青垣町の穴の裏峠、烏帽子岳等の頂上をつらねる山稜を経て遠阪峠に達する中央分水界の尾根筋に入るところである。取り付き部分には「これより山に登る」との木標があった。

由良川水系・黒井川の水路に向かう
分水界から南北に分かれる水系のうち、南流系加古川に注ぐ水路は高谷川としてはっきり目にすることができたのだが、北流系由良川に注ぐはっきりとして川筋は分水界から直ぐには流れていない。
地図をチェックすると、国道175号が中央分水界の尾根でもある城山を穿つ城山トンネルを抜けたあたりから悪水落としといった水路が見え、その更に北、春日和田山道路の大崎横田トンネルが中央分水界の尾根筋を抜けたあたりから少し水路がはっきりし、黒井川となって北へと進む。
とりあえず、黒井川の始まり部分でも確認しようと、石生交差点から国道175号に向かう。成り行きで進むと側溝に集まった水が北へと向かう。地図には国道175号の先から水路がはじまっていたが、如何にも川筋に「発達」しそうな側溝が国道手前から始まり、国道を越えた北からはコンクリート溝ではない、自然の流れとなって畑地の中を北に流れていた。
これで初日の散歩は終了。起点とした篠山口のホテルに向かいゆったりと。
奈良 山の辺の道散歩 そのⅤ:天理市の石神神宮から桜井市の三輪山裾・大神神社まで
長かった山の辺の道散歩も、やっと最後の目的地である三輪山・大神神社にやっと辿りついた。やっと辿りついた、という意味合いは、散歩それ自体は14キロ程度で、どうということもないのだが、その道に次々と現れるヤマト王権にかかわるあれこれに、古代史に特に思い入れもないにもかかわらず、疑問に感じたこと、わららないことを自分なりに納得できるまでチェックしてみようと思った結果の難路であった、ということではある。
その結果、山の辺の道が、「山の辺」を通る理由、そこにヤマト王権の古墳群が造営された理由、古墳の周濠の意味合いなど、そして今までややこしい人名故にパスしていた記紀の神話の神様など、散歩をはじめる前には想像もしていなかったあれこれが登場し、少々メモは大変であったが、なかなか面白い散歩となった。
で、今回は三輪山の裾をぐるりと廻り、最終目的地である大神(おおみわ)神社に向かうことにする。

本日のルート;石上神宮>高蘭子歌碑>阿波野青畝歌碑>僧正遍照歌碑>白山神社>大日十天不動明王の石標>芭蕉歌碑>内山永久寺跡>十市 遠忠歌碑>白山神社>天理観光農園>(東乗鞍古墳>夜都伎神社>竹之内環濠集落>「古事記・日本書記・万葉集」の案内>「大和古墳群」の案内>波多子塚古墳>柿本人麻呂の歌碑>西山塚古墳>萱生環濠集落>大神宮常夜灯>五社神社>手白香皇女衾田陵>燈籠山古墳>念仏寺>中山大塚古墳>大和神社の御旅所>歯定(はじょう)神社>柿本人麻呂歌碑>長岳寺>歴史的風土特別保存地区(祟神・景行天皇陵)>祟神天皇陵>櫛山古墳>作者不詳の歌碑>武田無涯子歌碑>景行天皇陵>天理市から桜井市穴師に入る>額田女王歌碑>柿本人麻呂歌碑>柿本人麻呂歌碑>桧原神社>前川佐美雄歌碑>高市皇子歌碑>玄賓庵>神武天皇歌碑>伊須気余理比売の歌碑>狭井川>三島由紀夫・「清明」の碑>狭井神社>磐座神社>大神(おおみわ)神社

桧原神社
県道50号を少し上り、道標に従い右に折れる。長かった散歩もやっと三輪山の山裾に辿りついた。道を進むと檜原神社に。神奈備の三輪山を祀る境内奥には拝殿はなく、神宮旧内宮外玉垣の東御門の古材を使った「三つ鳥居」が建つようだが、散歩当日はシートに覆われ、その姿を前にお参りすることはできなかった。

境内にあった案内には「大神神社の摂社 桧原神社 御祭神 天照大神若御魂神(あまてらすおおかみのわかみたま) 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)伊弉册尊(いざなみのみこと)
第十代崇神天皇の御代、それまで皇居で祀られていた「天照大御神」を皇女豊鍬入姫に託し、ここ桧原の地(倭笠縫邑)に遷しお祀りしたのがはじまりです。 その後、大神様は第十一代垂仁天皇二十五年に永久の宮居を求め各地を巡行され、最後に伊勢の五十鈴川の上流に御鎮まり、これが伊勢の神宮(内宮)の創始と言われる」とある。

同じく、境内には「(元伊勢)桧原神社と豊鍬入姫の御由緒」の案内があり、「大神神社の摂社「桧原神社」は、天照大御神を、末社の「豊鍬入姫宮」(向かって左の建物)は、崇神天皇の皇女、豊鍬入姫をお祀りしています。
第十代崇神天皇の御代まで、皇祖である天照大御神は宮中にて「同床共殿」でお祀りされていました。同天皇の六年初めて皇女、豊鍬入姫(初代の斎王)に託され宮中を離れ、この「倭笠縫邑」に「磯城神籬」を立ててお祀りされました。その神蹟は実にこの桧原の地であり、大御神の伊勢御遷幸の後もその御蹟を尊崇し、桧原神社として大御神を引続きお祀りしてきました。そのことより、この地を今に「元伊勢」と呼んでいます。
桧原神社はまた日原社とも称し、古来社頭の規模などは本社である大神神社に同じく、三ツ鳥居を有していることが室町時代以来の古図に明らかであります。 萬葉集には「三輪の桧原」とうたわれ山の辺の道の歌枕となり、西に続く桧原台地は大和国中を一望できる景勝の地であり、麓の茅原・芝には「笠縫」の古称が残っています。
また「茅原」は、日本書紀崇神天皇七年条の「神浅茅原」の地とされています。更に西方の箸中には、豊鍬入姫の御陵とされる「ホケノ山古墳(内行花文鏡出土・社蔵)」があります」とあった。

左にある社殿は大神神社末社 豊鍬入姫宮。案内には「大神神社末社 豊鍬入姫宮 御祭神  豊鍬入姫命 御祭神は第十代崇神天皇の皇女であります。皇女は「天照大御神」をこの「倭笠縫邑」にお遷しし、初代の御杖代(斎王)として奉仕されたその威徳を尊び奉り、昭和十一年十一月五日に創祀されたものであります。
斎王とは天皇にかわって大神様にお仕えになる方で、その伝統は脈々と受け継がれ、現代に於いても皇室関係の方がご奉仕されています」とあった。

●祟神天皇のエピソード
この社は、3回目のメモで訪れた大和(おおやまと)神社での、祟神天皇の謎の行動に登場する社のひとつであった。重複にはなるが、松岡正剛さんのWEBに掲載される「松岡正剛の千夜千冊」の「1209夜 物部氏の正体(関祐二)」にあった記事をもとにまとめると、こういうことである:「第10代・崇神天皇(ミマキイリヒコ;)は、都を大和の磯城(しき;桜井市など近隣一帯)の瑞籬宮(みずがきのみや)に移した。ところが疫病が多く、国が収まらなかった。 その理由は「其の神の勢を畏りて、共に住みたまふに安からず」とあるように、それまで宮中で、天照大神アマテラスと日本大国魂神(ヤマトノオオクニタマ)の二神を一緒くたにして、祀っていたのが問題なのだろうという気になってきた。
そこで崇神天皇の皇女・豊鋤入姫(トヨスキイリヒメ)を斎王とし、天照大神(アマテラス)を大和の笠縫に祀り、また同じく崇神天皇の皇女である淳名城入姫(ヌナキイリヒメ)に日本大国魂神(オオクニタマ)を祀らせた。大和の笠縫に祀った地がこの桧原神社の地である。
エピソードは続き、地主神を祀るだけでは不都合であったようで、結局は三輪の大物主を祀ることによって事なきを得る。
何故に皇租神を追い出してまで、大物主を祀ることになったのか、祟神天皇の行動に対する妄想は既にメモしている、というかはっきりとした説明もできてはいないのここでは省略する。

●伊勢への経緯
祟神天皇と大物主の関係などについての疑問とは別に、上の案内の「永久の宮居を求め各地を巡行され、最後に伊勢の五十鈴川の上流に御鎮まり」という説明が気になった。皇租神の行き場所がなかなか決まらないって、どういうこと? チェックすると、娘が通った学校の校長先生から頂いた『飛鳥の風;生江義男(桐朋教育研究所)』に以下の記事があった。
「たとえば、直木孝次郎氏は、伊勢神宮は、もと、日の神を祭る伊勢の地方神で、皇室の東国発展にともない雄略朝頃から皇室との関係を有するにいたったが、それが皇室の神となったのは、壬申の乱に天武天皇がその援助を受けて勝利した後である。
また、渡会(伊勢神宮の地域)は、もと太陽信仰の聖地で、渡会氏が太陽神を祭っていたが、天皇勢力の東方計略が積極的に進められた雄略朝のときに、ここに天皇の神が祭られることになり、従来の渡会氏の神はその御餞都神に変じ、外宮のトヨウケヒメとなった」とあった。
神話においても物部氏の租先神である饒速日命に「遠慮」しているように、初期、奈良盆地の先住豪族との連合王権といったヤマト王権は、次第に力をつけ武力でもって先住豪族を支配し、東国へとその威を進めるまでは、祖神神もヤマトの地に安住の宮居を置けなかった、ということだろうか。先住の神々の居るヤマトから離れ新天地を伊勢に構えたということであろうか。ともあれ、伊勢に宮を構えたのは、直木孝次郎氏は雄略天皇の頃とする。

●二上山の案内
境内端に「二上山」の案内があり、「正面のラクダのコブのような形をしたトロイデ式火山が二上山です。 右側の雄岳の山上には大津皇子のお墓があります。大津皇子は天武天皇の 皇子でしたが、あまりにもすぐれておられたので謀反の罪を着せられ二十四歳 で死を賜りました皇子の死を悼んで、お姉さまの大伯(おおく)皇女がうたった 「現身(うつせみ)の人なる吾(われ)や明日よりは二上山を弟背(いもせ)と吾 見む」という有名な歌が万葉集にのこっています」とあった。
当日は曇りであったが、かすかに浮かび上がる二上山を認めた。

前川佐美雄歌碑
境内を離れると、社の前に歌碑がある。「春がすみいよよ濃くなる真昼間のなにも見えねば大和と思え」と刻まれる。前川佐美雄という有名な歌人の歌と言う。文字通りに解釈すれば「春になり霞がこくなり何も見えなくなる。それが大和の地」といった意味に取れるのだが、この歌は、「春霞みの激しい大和の風土を踏まえ、何もみえないからこそ逆に浮かび上がる大和の歴史の重みが見えてくる」といった意味をもつとの解説が多かった。情感乏しきわが身も、なんだか気になる歌である。ちなみに、この歌は万葉歌碑のラインアップではない。



歌碑の傍に「桧原神社 山辺の道キーワード 元伊勢」の案内があり、「この神社は元伊勢の称があるように、豊鍬入姫宮が笠縫邑に祀った天照大神の社がこのあたりにあったと考えられています。
この神社からと、ここより少し西に行った井寺池から見る景観は、日本を代表する景観百景にも選ばれ、毎年「二上山に沈む夕日を見るハイキング」が行われています」とある。天気がよければ井寺池に行き、日本を代表する景観百景を、とも思うのだが、如何せん曇りでは仕方なく、先を急ぐことにする。

高市皇子歌碑
緑の木々の間の小径を進むと山からの清水が流れ落ちる、小さな滝、僧都之滝とも呼ばれるようだが、その傍に歌碑がある。「山吹きの立ちしげみたる山清水酌みに行かめど道の知らなく」と刻まれる。
天武天皇の皇子である高市皇子の歌と言う。十市皇女の葬ってある山吹の咲く地に清水を汲みに行くのか、十市皇女の(霊)が清水を汲みに来るから、そこに行くのか、いくつか解釈があるようではあるが、それよりも、十市皇女って、てっきり高市皇子の妃かと思ったのだが、どうも違うようだ。
夫婦であったとの説もあるが、異母姉で弘文天皇の妃との説もある。その十市皇女が急死したとき、情熱的挽歌を詠んだといったエピソードもWikipediaに解説されていた。

玄賓庵
高市皇子歌碑の先からはじまる塀にそって道をぐるりとまわると玄賓(げんぴ)庵の山門入口に。「三輪山 奥の院 玄賓庵密寺」とある。真言宗醍醐寺派の寺。境内には本堂と庫裏がある。傍にあった案内には「ここは玄賓僧都が隠棲していた庵で、ここは重要文化財の木造不動明王坐像が伝わっています。謡曲で有名な「三輪」は玄賓と三輪明神の物語を題材にしたものです。玄賓は弘仁九年(818年)になくなりました」とある。
謡曲で有名な「三輪」は玄賓と三輪明神の物語を題材にしたもの、とのこと。案内はあまりにそっけないのでチェックすると、玄賓庵とは、「桓武・嵯峨天皇に厚い信任を得ながら、俗事を嫌い三輪山の麓に隠棲したという玄賓(げんぴん;注;ママ)僧都の庵と伝えられる。世阿弥の作と伝える謡曲「三輪」の舞台として知られる。かつては山岳仏教の寺として三輪山の檜原谷にあったが、明治初年の神仏分離により現在地に移されたとあった。
玄賓は高徳の僧都。玄賓庵は謡曲『三輪』に「秋寒き窓の内、秋寒き窓の内、軒の松風うち時雨れ、木の葉かき敷く庭の面、門は葎や閉ぢつらん。下樋の水音も、苔に聞こえて静かなる、この山住みぞ淋しき」と描かれるようだ。現在は明るい雰囲気のお寺さまではあるが、かつては三輪山の檜原谷にあったようであるので、昔隠棲の風情のある庵ではあったのだろう。
また重要文化財の不動明王は幕末まで、大神神社の神宮寺・大御輪寺に本尊として安置されていたものであるが、神仏分離令に際し、大御輪寺が神社となったため、この寺にこちらに移されたと言う。
●謡曲『三輪山』
三輪山の麓に庵を結び隠棲する玄賓のもとへ常に参詣に訪れる女人がある日玄賓の衣を乞う。玄賓は衣を与え女の素性を尋ねる。女は「我が庵は三輪の山本恋しくは訪い来ませ杉立てる門」の古歌をひき、杉立てる門が目印だと住みかを教えて消える。玄賓が歌の女の言葉を頼りに、三輪明神の近くまで訪ね行くと、杉の木に玄賓が与えた衣がかかっており、その裾に一首の歌があり。それを読んでいると、女姿の三輪明神が現れる。
三輪明神は天の岩戸の前での神楽の再現、伊勢と三輪の神が一体分神であり、それが二つに身を分けて出現なさったと物語り、夜明けと共に消え行く、といったあらすじのようである。
「伊勢と三輪の神が一体分神」の意味するところも深堀したいのだが、いままでのメモの流れで、おおよその見当がつくので、それで、良し、としておく。

神武天皇歌碑
小径を進み溜池端にでると、弁天社、そしてその先に貴船神社がある。弁天社の立て看板が、あまりに大仰であったので、パスしたのだが、その先に貴船神社があり、共に「水」に関係するので、気になり弁天社に少し戻る。が、なんとなく、イメージした古社といったものでもなかった。
道を進むと、左手の少し小高いところに歌碑が建つ。「葦原の しけしき小屋(おや)に 菅畳み いやさや敷きて わが二人寝し」と刻まれるこの歌碑は神武天皇の歌とのこと。」桜井市の万葉歌碑の案内には「葦のいっぱい生えた原の粗末な小屋で、管で編んだ敷物をすがすがしく幾枚も敷いて、私たち二人は寝たことだったね」の意味とあった。
揮毫者の北岡壽逸氏は大正・昭和期の経済学者で国学院大学名誉教授。

伊須気余理比売の歌碑
道を進むと、途中に大額田女王の歌碑があった(と思うのだが)のだが、句は先に出合ったものと同じであった(ように思う)ため、なんとなくパスし、先に進むと万葉歌碑が道脇に。「狭井川よ 雲立ち渡り 畝傍山 木の葉騒(さや)ぎぬ 風吹かむとす」と刻まれる。桜井市の万葉歌碑の案内では「狭井川の方からずっと雨雲が立ち渡り、畝傍山では木の葉がざわめいている。今に大風が吹こうとしている」の意味。
この歌の作者は伊須気余理比売、と言う。伊須気余理比売って誰?1Wikipediaには。『古事記』では「比売多多良伊須気余理比売」(ヒメタタライスケヨリヒメ)と記す神武天皇の妃とあった。夫婦ふたり並んでの歌碑である。
ところで、この伊須気余理比は出雲の国津神である大国主命の幸魂・和魂とされる三和大物主の娘とされている。「タタラ」は古代の製鉄法である「たたら吹き」を暗示し、出雲族出自の出とされる。神武天皇=祟神天皇とされることも多いので、祟神天皇に出雲系の妃がいるかな?とチェックしたのだが、それらしき人物は見つからなかった。

狭井川
歌碑からほどなく狭井川、細い流れの脇に木標が建ち「狭井川 雲立ち渡り 畝傍山 木の葉騒(さや)ぎぬ 風吹かむとす」とかかれていたのでわかったが、普通なら通り過ぎるほどの小川である。
歌に詠まれる狭井川は、三輪山から流れ出るささやかなる小川であった。神体山から流れ出る聖なる川ゆえか、この川は古事記にも登場する。「その河を佐韋河(さいかわ)という由(ゆえ)は、その河の辺に山由理草(やまゆりそう)多(さわ)にありき。故(か)れその山由理の名を取りて佐韋河と名付けき。山由理の本(もと)の名は佐韋と言ひき」とある。
神武天皇が后の伊須気余理比売を訪ねてこの地に来た際に、佐韋が咲いていたので、「佐韋川」と名付けたといった記事もあった。

狭井神社
道を進み、池に沿って左に折れ鳥居を潜り「狭井神社」に向かう。途中、石碑があり「清明」と刻まれる。よこに詳しい案内があり、三島由紀夫の揮毫であり、作家と三輪山信仰と大神神社の神事とを、本格的に、作品の主題との深い関わりにおいて書いてあるのは、三島由紀夫の『豊饒の海』第二巻「奔馬」(昭和四十四年二月)である。
●三島由紀夫・「清明」の碑
三島氏は、古神道研究のため、昭和四十一年六月率川神社の三枝祭に参列。ついで親友のコロンビヤ大学教授ドナルド・キーン氏と八月二十二日再度来社、社務所に三泊参籠した。二十三日、三輪山の裾山の辺の道を散策。二十四日、念願の三輪山頂上へ登拝。この日、お山を下りた後、拝殿で神職の雅楽講習終了報告祭に参列。感銘を受けた氏は、直ちに色紙に「清明」「雲靉靆」と認めた。後日、左の感懐が寄せられた。
大神神社の神域は、ただ清明の一語に尽き、神のおん懐ろに抱かれて過ごした日夜は終生忘れえぬ思ひ出であります。
又、お山へ登るお許しも得まして、頂上の太古からの磐座をおろがみ、そのすぐ上は青空でありますから、神の御座の裳裾に触れるやうな感がありました。東京の日常はあまりに神から遠い生活でありますから、日本の最も古い神のおそばへ寄ることは、一種の畏れなしには出来ぬと思ってをりましたが、畏れと共に、すがすがしい浄化を与へられましたことは、 洵にはかり知れぬ神のお恵みであったと思ひます。
山の辺の道、杉の舞、雅楽もそれぞれ忘れがたく、又、御神職が、日夜、清らかに真摯に神に仕へておいでになる御生活を目のあたりにしまして、感銘洵に深きものがございました。
ここに、三島由紀夫と三輪の大神様との御神縁を鑑み、作家三島由紀夫揮毫の「清明」記念碑を篤信家によって奉納建立する。平成十六年八月吉日     大神神社社務所」とあった。

●拝殿
拝殿にお参り。案内には「狭井坐大神荒魂神社(さいにますおおみわあらたまじんじゃ)
主祭神   大神荒魂神(おおみわのあらみたまのかみ)
配祠神   大物主神
      媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)
      勢夜多々良姫命(せやたたらひめのみこと)
      事代主神(ことしろぬしのかみ)
当神社は、第十一代垂仁天皇の御世(約二千年前)に創祠せられ、ご本社大神神社で大物主神「和魂(にぎみたま)」をお祀りしているのに対して、「荒魂(あらみたま)」をお祀りしています。「荒魂」とは進取的で活動的なおはたらきの神霊で、災時などに顕著なおはたらきをされます。特に心身に関係する篤い祈りに霊験あらたかな御神威をくだされ、多くの人々から病気平癒の神様として崇められています。
今「くすり祭り」と知られる鎮花祭は、西暦八三四年施行の「令義解」に『春花飛散する時に在りて、疫神分散して癘を行ふ。その鎮遏の為必ず此の祭あり。故に鎮花といふ也。』と記され、万民の無病息災を祈る重要な国家の祭として定められております。予って、別名、華鎮社・しづめの宮と称されています。 又、御社名の「狭井」とは、神聖な井戸・泉・水源を意味し、そこに湧き出る霊泉は太古より「くすり水」として信仰の対象になっています。 御例祭  4月10日  鎮花祭  4月18日 」とあった。

大物主の荒魂である大神荒魂神(おおみわのあらみたまのかみ)は当社に、和魂は大神(おおみわ)神社に祀られるということはわかったのだが、今まで大国主の荒魂は出雲に祀り、大国主の和魂である大物主を三輪山の地に祀ったとメモしてきたのだが、この三輪の地にも大国主の荒魂を祀る社があった。創建年度がはっきりしないため(社伝には垂仁天皇の頃とある)、いつの頃からどのような事情で大国主の荒魂も祀る必要があったのかわからない。それとも単に、神のもつふたつの「魂」を一体として祀ることで、より「完全」にお祀りできる、といったことなのだろうか。伏兵の登場に、少々困惑。

●薬井戸
拝殿の横を進むと「薬井戸(くすりいど)」がある。ご神水が湧き出る。案内にあった「霊泉は太古より「くすり水」として信仰の対象になっています」とある湧水である。あれこれの社の由来はあるが、根拠はないのだが、この湧水がこの社のはじまりのような気がする。神奈備の山から湧き出る水、神体山とは山=豊かな水への信仰でもあろうから、大物主のあれこれは記紀編纂時の後付けの理屈のように思えてきた。



●三輪山に登る参道
社境内の右手に、左右の丸木に注連縄が結ばれた縄鳥居がある。「しめ柱」と呼ばれ鳥居の原型といわれるもののようである。そこは三輪山に登る参道の入口ともなっている。狭井神社で許可を得れば三輪山に登れるようである。神奈備の山を歩いてみたいとは思えど、今回はその余裕もなく、次回のお楽しみとする。





磐座神社
大神神社への道を進むと、道から少し山側に入ったところに鳥居も社殿もない社がある。案内には「磐座神社」とあった。案内には「大神神社摂社 磐座神社 御祭神  少彦名神 御例祭  十月十一日(御由緒) 御祭神の少彦名神は大物主大神と共に国土を開拓し、人間生活の基礎を築かれると共に、医薬治療の方法を定められた薬の神様として信仰されています。
三輪山の麓には辺津磐座と呼ばれる、神様が鎮まる岩が点在し、この神社もその一つです。社殿がなく、磐座を神座とする形が原始の神道の姿を伝えています」とあった。磐座そのものが祭祀の対象ではあったのだろうし、祭神の少彦名神も後世の後付けの神様ではあろうと思う。

大神(おおみわ)神社
長かった山の辺の道散歩も、やっと今回の散歩の終点である大神神社に辿りついた。参道を進み、狭井神社と同じ「しめ柱」の「鳥居」を潜り、拝殿にお参り。

●拝殿
大神神社のHP をもとに、簡単にまとめると、「拝殿は鎌倉時代に創建された伝わるが、現在の拝殿は寛文4年(1664)徳川四代将軍家綱公によって再建されたもの。白木造りの質実剛健な切妻造で、正面には唐破風の大きな向拝がつき、檜皮葺の屋根となっている。この拝殿は江戸時代の豪壮な社殿建築として、三ツ鳥居と共に国の重要文化財に指定されている」とある。
◆三ツ鳥居
同じく同社HPの記事をまとめると、「石神神宮と同じく、大神神社拝殿の奥は聖なる場所「禁足地」があり、その禁足地と拝殿の間に結界として三ツ鳥居と瑞垣が設けられている。三ツ鳥居の起源は不詳で、古文書にも「古来一社の神秘なり」と記され、本殿にかわるものとして神聖視されてきている。この鳥居は明神型の鳥居を横一列に三つ組み合わせた独特の形式で「三輪鳥居」とも呼ばれています。中央の鳥居には御扉があり、三輪山を本殿とすれば、三ツ鳥居は本殿の御扉の役割を果たしていると言える」とあった。
●祭神は大物主大神
祭神は大物主大神。これまで何度となく、エピソードをメモしてきたように、祟神天皇の御世、疫病や災害がつづいたとき、それまで宮中に天祖神と地主神を共に祭祀していたことがその因であろうかと、天祖神と地主神を宮から出し、それでも治まらず、結局は崇神天皇の大叔母の倭迹迹日百襲姫(ヤマトトビモモソヒメ)の憑依・神託により、三輪氏の租であり大物主神の子とされる太田田根子が大物主神を三輪山に祀ることで天下は治まった、と。
で、大物主って誰?については、第三回散歩で訪れた大和(おおやまと)神社御旅所のところで妄想を逞しくしてメモした。そのメモを一部端折って再掲する。
「(前略)しかし、何とも解せないのは、崇神天皇が侵攻する前の豪族が祀っていた地主神(日本大国魂神)と崇神天皇の祖先神・天照大神(天照大神は持統天皇をモデルに創られたものと言うから、祟神の頃はいなかっただろうが、ともあれ大王家の祖先神)を宮から追い出し、大物主を祀る、といったこと。 大物主を祀った太田田根子って、大三輪氏とか倭氏の後裔とされる。どちらにしてもヤマト王権の系譜ではない。ヤマト王権と別系統の神を祀らなければ国が治まらない、って?
◆大物主って誰?
それ以上にわからないのが大物主。大物主って誰?ということになるのだが、大物主=出雲の大国主の和魂(にきみたま;大国主は荒魂)とか、大物主=饒速日命(『古代日本正史;原田常治』)などあれこれ諸説あり、古代史の書籍を数冊スキミング&スキャンングした程度の我が身にはよくわからない。 ◆大物主=大国主
一般的にはどのように定義されているかWikipediaでチェック。そこには「大物主(おおものぬし、大物主大神)は、「日本神話に登場する神。大神神社の祭神、倭大物主櫛甕魂命(ヤマトオオモノヌシクシミカタマノミコト)。『出雲国造神賀詞』では大物主櫛甕玉という。大穴持(大国主神)の和魂(にきみたま)であるとする。別名 三輪明神」とあり、続けて「『古事記』によれば、大国主神とともに国造りを行っていた少彦名神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光り輝く神様が現れて、大和国の三輪山に自分を祭るよう希望した。大国主神が「どなたですか?」と聞くと「我は汝の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)なり」と答えたという。『日本書紀』の一書では大国主神の別名としており、大神神社の由緒では、大国主神が自らの和魂を大物主神として祀った」とある。

◆大物主=大国主神は「国譲り」の条件?
この説明では大物主=大国主神といった印象を受ける。では何故に出雲の神がヤマトに祀られるのだろう?との疑問。古代史に門外漢ではあるが、上の説明にある「大和国の三輪山に自分を祭るよう希望した」というフレーズを前後のコンテキストをもとに妄想を続けると、力を付けたヤマト大王家は出雲に侵攻し、神話では「国譲り」というストーリーでその地を支配下におさめたわけだが、その条件としてヤマト大王家は「大国主を祀り続けること」を約束した、と考え方がひとつ。

◆大物主祭祀は、出雲系先住支配豪族とヤマト王権の連盟合意の条件? 
そして、もうひとつは、ヤマト王権がヤマト降臨(侵攻)以前に、すでに降臨(侵攻)し、先住部族を支配下に置いていた豪族がおり、その豪族が祀っていたのが「大物主」であり、ヤマト王権に協力する条件として「大物主」の威力を称えつづけること、祀りつづけることを約束させた。
これまで何回かメモしたように、当初のヤマト王権は、武力で先住豪族を支配する力の無かったようであり、それ故、先住侵攻・支配豪族この条件に合意した、という考えもあるかと思う。「大和国の三輪山に自分を祭るよう希望した」というフレーズはヤマト王権の面子もあるので、パートナーとなった豪族の希望を受け入れた、といった表現となっているのだろうか。
で、後者の考えを更に妄想を膨らますに、ヤマト王権以前にこの地に侵攻・支配した豪族は出雲系の部族であり、出雲の神を祭っていたと考えられる。上のメモで大物主=饒速日命とした原田常治氏は「ニギハヤヒは出雲から大和にやってきたオオモノヌシだ」と言う。とすれば、関東の散歩で出合う物部氏はどうも出雲系っぽい、と思っていたことは、それほど間違っていなかったのかとも思う。実際、物部氏の租は吉備からヤマトに侵攻してきた出雲系部族といった説も聞いたことがある。

あれこれ妄想を重ね、自分なりの結論はヤマト王権の侵攻以前にこの地に侵攻・支配していた先住支配豪族は出雲系豪族であり、ヤマト王権への協力の条件として、豪族の租先神である大物主を祀り続けることを、その盟約の条件とした。そして、その先住支配豪族は、どうやら物部氏に繋がる部族ではないか、ということである。

◆祟神天皇の頃、大物主が登場するのは国史編纂時の「後付け」?
大物主には、何となくヤマト朝廷が出雲を制圧し、「国譲り」のエピソードを下敷きにしたストーリーを感じる。
と同時に、大物主=物部氏の祖・饒速日命(ニギハヤヒ)と言った自分の妄想も同様に、国史編纂時期に大王家に対しても力を保持していた物部氏故の「後付け」といった気がしてきた。その因は、ヤマト王権において物部氏がその軍事力をもって大活躍したのは雄略天皇の頃であり、ヤマト王権初期の頃はそれほど活躍していたとは思えないからである。

◆大物主って、神奈備山としての三輪山そのもの?
以上の妄想で、神話に登場する三輪山に祀られたとする大物主は、自分なりの勝手な解釈ではあるが、それなりに納得できるストーリーとなった。しかし、この解釈は神話としてのレベル。この祟神天皇の御世に、大物主が登場することには違和感がある。どう考えても、それは国史編纂時の「後付け」ではないかと思う。
そもそも、第10代祟神天皇の頃のヤマト王権は、同じ奈良盆地の西の葛城山麓に覇を唱える葛城王朝との対立で、どちらが勝つか負けるかわからない、といった状況であり、出雲侵攻などあり得ない。それは第21代雄略朝以降の話であり、祟神天皇の頃に、出雲の国譲りの話などあり得ない。
同様に、物部氏が物部という部民制を元に「物部」氏として登場しその軍事力をもって活躍するのも、雄略天皇以降の話であり、祟神天皇の頃に出雲系の神・大物主が登場することはあり得ないと思う。

それではこの祟神天皇の話に登場する大物主は?上で、大物主を祀った太田田根子って、大三輪氏とか倭氏の後裔のよう、とメモした。大物主祀ったとあるが、祀ったの大三輪氏の名の通り、神奈備山としての三輪山ではないだろうか。それを後世、国史編纂の際に神奈備山の三輪山を大物主に差し替えたのかとも妄想する。差し替えた理由は、ヤマト朝廷と出雲の関係、また、ヤマト大王家と物部氏の関係と言った、政治的思惑ではあったのではなかろうか。単なる妄想。根拠なし」。

以上のメモのように、大物主を祀ったとするのは記紀編纂時の「後付け」であり、祟神天皇のコンテキストに登場する大物主って、先住豪族の祀る神奈備山である三輪山、水分神として豊かな水を育む神体山そのものではなかったのだろかと妄想を締めくくった。

◆「巳の神杉」は大物主>三輪山=神奈備山=水分神
その時は、これといったエビデンスがあったわけではないのだが、大神神社の境内にそのエビデンスと考えられる案内があった。「巳の神杉」がそれである。 「巳の神杉」の由来に、「ご祭神の大物主大神が蛇神に姿を変えられた伝承が『日本書紀』などに記され、蛇は大神の化身として信仰されています。この神杉の洞から白い巳(み)さん(親しみを込めて蛇をそう呼びます)が出入することから「巳の神杉」の名がつけられました。
近世の名所図会には拝殿前に巳の神杉と思われる杉の大木が描かれており、現在の神杉は樹齢400年余のものと思われます。
巨樹の前に卵や神酒がお供えされているのは巳さんの好物を参拝者が持参して拝まれるからです」とある。

説明にある『日本書紀』の伝承と言うのは、祟神天皇の大物主を祀るべし、との神託を行った倭迹迹日百襲姫(ヤマトトビモモソヒメ)のその後の話。倭迹迹日百襲姫は、その後大物主に嫁いだ。が、大物主は昼には現れず、夜に忍んでくるだけ。倭迹迹日百襲姫は姿を見たいと願うと、大物主は、「翌朝に櫛箱を見よ」、と。そこには蛇がいた。驚いた倭迹迹日百襲姫は自死し、巨大な箸墓に祀られる(箸墓は纏向古墳の中にある、と言う)、大物主は御諸山(みもろやま;「神が守る」山=三輪山)に帰って行った、という話である。
このエピソードからわかるのは、大物主は蛇体であった、といこと。蛇は水神であり、水を涵養する山、つまりは水分神であった、ということだろう。

また、このエピソードからは、倭迹迹日百襲姫と大物主の婚姻がうまくいかなかったとことを暗示する。つまりは、ヤマト王権と先住豪族の関係で、ヤマト王権の支配が完全でない、といった印象を受ける。かといって、この先住豪族が誰を指すのか、記紀編纂の政治的思惑、時空をまぜこぜにしたお話から考えても詮無いことかとも思う。
結論として、祟神天皇当時の初期大和王権は、奈良盆地の先住諸豪族との微妙な力関係で成り立っており、軍事力で諸豪族を支配したのは雄略天皇の頃、と言うから、その初期の不安定は大和王権の姿を暗示している、ということであろうか。

最後にWikipediaにある大神神社の解説を載せておく:神武東征以前より纏向一帯に勢力を持った先住豪族である磯城彦が崇敬し、代々族長によって磐座祭祀が営まれた日本最古の神社の一つで、皇室の尊厳も篤く外戚を結んだことから神聖な信仰の場であったと考えられる。旧来は大神大物主神社と呼ばれた。 三輪山そのものを神体(神体山)としており、本殿をもたず、江戸時代に地元三輪薬師堂の松田氏を棟梁として造営された拝殿から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残している。三輪山祭祀は、三輪山の山中や山麓にとどまらず、初瀬川と巻向川にはさまれた地域(水垣郷)でも三輪山を望拝して行われた。拝殿奥にある三ツ鳥居は、明神鳥居3つを1つに組み合わせた特異な形式のものである。三つ鳥居から辺津磐座までが禁足地で、4~5世紀の布留式土器や須恵器・子持勾玉・臼玉が出土した。三輪山から出土する須恵器の大半は大阪府堺市の泉北丘陵にある泉北古窯址群で焼かれたことが判明した(注;大物主神の子とされる太田田根子は堺市に住んでいたと伝わるが、それと関係あるのだろうか?最後の疑問)。

大神神社を離れ、JR 桜井線・三輪駅に向かい散歩を終える。

今回の散歩は、歩く道はそれほどでもなかったが、メモの道筋は結構厳しかった。妄想ばかりで多くの学者が喧々諤々のヤマト王権にまつわる古代史の謎をメモしてきた。門外漢がこんな領域は触らない方がいいか、さらっと流そうかとも思ったのだが、湧いた疑問は解決すべしと結構長いメモとなった。
メモは大変ではあったが、ヤマトについて知るいい機会、土地勘を得るいい機会となった。恥ずかしながら山の辺の道から少しだけ外れたところに箸墓古墳があることともはじめて知った。もっとも古墳や古代史にそれほどフックはかからないにため、古墳めぐりもさることながら、途中で手に入れた地図に載る、奈良盆地の中、あるいは外へと通る伊勢街道、多武峯街道、磐余の道などを歩いてみたくなった。
そしてなりより辿ってみたいのは、奈良盆地に14ほど点在する水分の神を祭る山口と名の付く社である。これも私のお気に入りの本のひとつである『日本の景観;樋口忠彦(ちくま学術文庫)』に「水分神社」型景観という記事があるのだが、そこの文章はこのヤマトの地を歩くまであまり理解できなかった。が、実際に歩いて、なんとなくリアリティが出てきた。近いうちに奈良盆地の水分の神を祭るを辿り、その景観を実感してみたいと思ったのが、今回の散歩の最大の成果かとも思う。



先回に散歩では「大和古墳群」の中を進む山の辺の道を辿った。大和古墳群は 古墳出現期から前期にかけての大型古墳群である。『天皇陵古墳への招待;森浩一(筑摩書房)』には、「古代の日本人は、何かに取憑かれたように古墳の造営に狂奔した時期があったその時期はおよそ3世紀末から7世紀初頭までの三百数十年間である」とする。
そして、Wikipedia では「3世紀後半から、4世紀初め頃が古墳時代前期、4世紀末から古墳時代中期、6世紀初めから7世紀の半ば頃までを古墳時代後期としている」とあり、続けて、「3世紀の後半には奈良盆地に王墓と見られる前代より格段に規模を増した前方後円墳が現れ」、その「前方後円墳はヤマト王権が倭の統一政権として確立してゆく中で、各地の豪族に許可した形式であると考えられている」と言う。先回の散歩で見てきた前方後円墳はヤマト王権の全国支配のシンボルでもあったわけである。
今回は、その大和古墳群の中でも、ヤマト王権の天皇陵と比定される陵墓からはじめ、神奈備の山である三輪山の手前までを辿り、感じたことをメモすることにする。

本日のルート;石上神宮>高蘭子歌碑>阿波野青畝歌碑>僧正遍照歌碑>白山神社>大日十天不動明王の石標>芭蕉歌碑>内山永久寺跡>十市 遠忠歌碑>白山神社>天理観光農園>(東乗鞍古墳>夜都伎神社>竹之内環濠集落>「古事記・日本書記・万葉集」の案内>「大和古墳群」の案内>波多子塚古墳>柿本人麻呂の歌碑>西山塚古墳>萱生環濠集落>大神宮常夜灯>五社神社>手白香皇女衾田陵>燈籠山古墳>念仏寺>中山大塚古墳>大和神社の御旅所>歯定(はじょう)神社>柿本人麻呂歌碑>長岳寺>歴史的風土特別保存地区(祟神・景行天皇陵)>祟神天皇陵>櫛山古墳>作者不詳の歌碑>武田無涯子歌碑>景行天皇陵>天理市から桜井市穴師に入る>額田女王歌碑>柿本人麻呂歌碑>柿本人麻呂歌碑>桧原神社>前川佐美雄歌碑>高市皇子歌碑>玄賓庵>神武天皇歌碑>伊須気余理比売の歌碑>狭井川>三島由紀夫・「清明」の碑>狭井神社>磐座神社>大神(おおみわ)神社

歴史的風土特別保存地区(祟神・景行天皇陵)
長岳寺から山の辺の道に戻り、少し進むと道の前方に堤と、その向こうに、如何にも古墳、それも巨大は古墳が姿を見せる。道なりに進むと堤の手前に案内がある。「歴史的風土特別保存地区(祟神・景行天皇陵)」と書かれた案内には、「景行天皇陵や祟神天皇陵をはじめとする柳本古墳群や、青垣の山に続く道である山の辺の道は、訪れる人を神話や古代のロマンに誘います。これらの歴史的文化資産は、後世の国民に継承すべき大切なものです。この貴重な財産を守るため、古都保存法(古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法)が昭和41年に制定されました。この法律により、歴史的風土を保存するのに必要な土地を「歴史的風土保存区域」として指定し、その中で特に重要な地域を「歴史的風土特別保存地区」として指定しています。
ここは、「天理市・橿原市及び桜井市歴史的風土保存区域(2,712ha)の中の「祟神・景行天皇陵特別保存地区(52.5ha)」となっています。「祟神・景行天皇陵特別保存地区」は、両天皇陵と山の辺の道等と一体となる自然的環境を保存するため、指定されました。奈良県では天理市(2地区)以外に、奈良市(6地区)、桜井市(1地区)、橿原市(4地区)、斑鳩町(1地区)、明日香村(5地区)で、特別保存地区が指定されています」とあった。
これから、いままでも何度となくメモしたヤマト王権のはじまりの頃の大王の古墳地区に足を踏み入れることになる。

行燈山古墳(古墳時代前期);崇神天皇陵
堤に沿って道を進むと、古墳を囲む周濠がはっきりと見える。山の辺の道すがら、いくつもの古墳に出合ったが、古墳の周囲を取り巻く周威濠がこれほどきれいに残っている古墳ははじめてである。
道傍にある案内には「行燈山古墳(古墳時代前期)」とあり、「行燈山古墳は天理市柳本町に所在し、龍王山から西に延びる尾根の一つを利用して築かれた前方後円墳です。現在は「崇神天皇陵」として宮内庁により管理され、アンド山古墳・南アンド古墳を含む周辺の古墳4基が陪塚に指定されています。
墳丘は全長242メートル、後円部径158メートル、前方部幅100メートルを測り、前方部を北西に向けています。柳本古墳群では渋谷向山古墳(景行天皇陵)に次ぐ大きさです。

墳丘は後円部、前方部ともに3段築成です。周濠は3ケ所の渡り堤によって区切られ、前方部側は高い外堤によって囲まれていますが、現在の状況は江戸時代末に柳本藩がおこなった修陵事業によるもので、古墳築造当時の姿とは異なるものになっています。
周濠の護岸工事に先立つ宮内庁書陵部の調査では、円筒埴輪、土器が出土しました。また、江戸時代末の修陵の際に、後円部周濠の南東くびれ部から銅板が出土したと伝えられます。
残されている拓本によると、片面には内行花文鏡に似た文様が、もう一方の面には田の字形の文様が表現されています。
行燈山古墳の築造時期については、埴輪の特徴や銅板の存在から古墳時代前期後半(4世紀中葉)と想定されています。柳本古墳群の盟主墳として、渋谷向山古墳(景行天皇陵)とともに重要な古墳です。平成23(2011)年3月  天理市教育委員会」とあった。

この古墳は祟神天皇陵であった。散歩をはじめるまでは、祟神天皇陵がヤマト王権の租(応神天皇との説もあるが)といったことも知らず、メモをしながらはじめてわかったことでもあり、散歩の当日はヤマト王権の歴史とはまったく別のことにフックがかかった。それは周濠への疑問である。

●周濠
仁徳天皇陵などで見るように、天皇陵って周囲を濠で囲まれている。何となく神聖な場所への「立ち入り禁止」、進入を防ぐためのものだろうと思っていたのだが、ひょっとして元は「灌漑用」の水濠として使われていたのでは?との疑問である。
そのきっかけとなったのは、2回目の散歩の時にメモした『日本人はどのように国土をつくったか;上田篤他(学芸出版社)』の「秋津洲の山と神々(奈良盆地はいかにつくられたか)」の中にある「溜池灌漑と小河川灌漑」の解説である。 頭の整理のために再掲すると、「弥生時代から古墳時代(ほぼ西紀3世紀末から7世紀前半頃)にけて、各地で小地域ごとの部族国家が統合し始める。やがて前方後円墳に代表されるような階級支配が進むのである。その大きな経済的基盤となったのは溜池築造を中心とした乾田開発の拡大だと考えられる」とし続けて、「谷間や小川に小さな堰堤を築いて溜池とし、そこから水のかからない土地に、緩傾斜を利用して水を導き、水稲耕作が可能な乾田を開発する。この溜池灌漑の適地は、年間降水量が比較的少なく、夏期高温地帯で緩傾斜地形の山の辺であったという」と述べる。
更に、「奈良盆地の大和川に流れ込む支流は、その分水界の狭き故、流量の乏しい小河川であち、、この流量の乏しい小河川であったことが奈良盆地において小河川灌漑を発展させた要因とする。
即ち、溜池灌漑で富を蓄積した部族の支配者たちは、四方の山から流下してくる小河川から直接取水し、「用水の乗りやすい緩斜面の小規模な谷底低地や扇状地などに水田開発」を拡げて行った。そして、河川から用水を直接取水するには高度な技術が必要であるが、奈良盆地は水量の乏しい小河川であったが故に、それが容易であった、と説く。実際、古墳時代の豪族の支配地は、小河川に沿った、段丘から扇状地そして平地に至る山の辺にある。

◆古墳の周濠は灌漑用に使われていた
こういったを想い起すに、古墳の周濠が単に神聖な場所を護る、といったものではないだろう、と思ったわけである。水が乏しく、灌漑によって豊穣の地を造り、富を蓄えていった大王家が、貴重な水を実用に使わないわけがないだろうと思い、それをサポートする記事をチェックすると、結構それに関連した記事が見つかった。

外池昇氏の「村落の陵墓古墳と周濠」には、白石太一郎氏の「古墳の周濠」という論文を引用し、その論文の末尾で古墳築造期の周濠の性格について、「水稲耕作を基盤とする初期ヤマト政権の中枢を構成していた、大和。河内の首長たちの灌漑王的性格を象徴するものであり、それは又、農耕祭祀の司祭でもあった首長が豊な水を保証するための呪的な機能をもつもの」としている、とする。 また、図書館で偶々見つけた『天皇陵古墳への招待;森浩一(筑摩書房)』の「祟神陵としての行燈山古墳」の箇所には、若き日の論文とのコメントをつけつつも、「(この古墳を見たとき)能力からいって堂々たる大貯水に相当する」という印象を受け、大古墳の濠は墳丘をきわだたせるだけでなく、灌漑の役割、つまり農耕的な機能もあわせ有している、と書いてあった。

◆周濠は造営当初からあったわけでもなさそうだ
何となくフックがかかった、周濠と灌漑用水の関連はそれほど間違った推論でもなかったようだ。で、それ以上に、ちょっと興味深い記述が外池昇氏の「村落の陵墓古墳と周濠」にあった。
それは、先ほどの白石太一郎氏の論文に続け、外池昇氏のコメントとして、「古墳の周囲を水をたたえた周濠が取り巻くという古墳の構造は、本来的に墳丘部、外提部の水際の部分を自ら破壊するという、矛盾した構造をもっている」、と述べ、「そうしてみると、今日古墳の周濠部に水がたくわえられているのは、古墳がその築造期の形態をそのまま伝えているためというよりは、むしろ地形等の自然条件や築造期以降のそのときどきの古墳の周辺に生活する人々の必要によって、周濠部に意図的に水がたくわえられてきたことによるのではないか」との推論が成り立つのでは、と述べる。端的に言えば、周濠がはじめからあったと思い込むべからず、ということだ。そうだよな。結構納得。

◆柳本藩がおこなった修陵事業
この事業についての記事が、これも偶然『天皇陵古墳への招待;森浩一(筑摩書房)』の「祟神陵としての行燈山古墳」に記されていた。簡単にまとめると、天皇陵墓の荒廃を嘆いた下野の蒲生君平は。近畿の天皇陵古墳を調査し1803年に『山陵志』を著す。それがきかっけで山陵復旧の機運が生じ、下野・宇都宮藩が修陵の名乗りを上げる。文久の修陵と称されるこの事業は文久3年(1863)の神武陵からはじまり、行燈山古墳(当時は景行天皇陵とされていた)は元治元年(1864)、そして渋谷向山古墳(当時は祟神天皇陵とされていた)の修陵工事が行われた。
この宇都宮藩による行燈山古墳修陵の話を聞いた柳本藩は、農業用用水不足に長年困っており、この工事を水不足解消の絶好の機会と捉え、工事に協力し、 嶋池と呼ばれた前方部正面の濠を大拡張し貯水量を増やそうとした。
思惑は大きく異なるが、宇都宮藩も地元の農民の協力なくして工事はできないため妥協し工事は進められた。
結果、幕府・宇都宮藩の目する山陵を荘厳にするという目的も達し、一方の柳本藩も水不足解消ができたわけである。そして同書では「このようなことは他の天皇陵古墳でもおこなわれていて、とくに濠の現形を原形と即断してはいけない」と記す。
◆柳本藩
織田信長の弟で、茶人として有名な織田有楽斎の所領であった大和の領地のうち、1万石を分与された織田有楽斎の子が立藩したもので、陣屋を天理市柳本の黒塚古墳の辺りに構えたとのことである。

櫛山古墳
行燈山古墳の後円部の周濠部の外提を隔て、その山側に櫛山古墳がある。このふたつの古墳は、尾根筋を堀切って、ふたつにわけているように思える。いままで見てきた古墳も、一から土を積み上げたというより、支尾根を掘り切って築造したような印象が強かったのだが、このふたつの古墳は、疑いなく士尾根の稜線を断ち切ったものであろう。
道端にあった案内(位置的には行燈山古墳の案内より先にあり、どちらが櫛山古墳か少し混乱したが)には、「天理市柳本町に所在する櫛山古墳は、古墳時代前期後半(4世紀後半)に築造された全長155メートルの大形古墳で、柳本古墳群を構成する。墳形は、東西に主軸をもつ前方後円形を基調とするが、前方部とは反対側の後円部先端にも前方部に匹敵する大形の祭壇を伴うため、双方中円墳と呼ばれている。
昭和23・24年に行われた発掘調査では、この大形祭壇上から排水施設を伴う白礫を敷き詰めた遺構や白礫層の下部に赤色顔料を含む砂層を施した土坑などが検出されている。遺物も鍬形石・車輪石・石釧などの腕輪形製品や、高坏形土師器の破片が白礫層の上部から出土し、古墳の墓前祭祀に関係する遺構が見つかっている。
中円部の頂上に築かれた竪穴式石室は、すでに攪乱を受けていたが、全長7.1メートル、幅1.4メートルの南北に主軸をもつ埋葬施設で、扁平な石材を用いて石室の側壁を築いている。石室床面の中央には、石棺を据えたと思われる方形の落ち込みがあり、長持形石棺の一部が出土している。
調査では、石棺を据えてから石室の側壁を築いたものと考えている。同様な石室の構造をもつ古墳として、御所市宮山古墳の南石室がある。
櫛山古墳の西側には全長260メートルの巨大前方後円墳、行燈山古墳(崇神天皇陵)がある。そうした巨大古墳に隣接して櫛山古墳が造営されていること、石棺を用いた石室の存在、大形祭壇に白礫を敷き詰めた墓前祭祀跡など特別な印象を秘める櫛山古墳の様子は、この被葬者が行燈山古墳と関係する有力な人物であったことを想像させてくれる。天理市教育委員会」とあった。

案内に「墳形は、東西に主軸をもつ前方後円形を基調とするが、前方部とは反対側の後円部先端にも前方部に匹敵する大形の祭壇を伴うため、双方中円墳と呼ばれている」とあるように、一目で古墳と判別するのはむずかしかった。案相に写真があり、濠の対面がそれとわかった、という有様であった。

作者不詳の歌碑
櫛山古墳からほどなく、道傍に歌碑。「玉かぎる 夕さり来れば 猟人の 弓月が嶽に 霞たなびく 作者不詳」と刻まれる。「玉がほのかに輝くような夕方になると、狩人の弓ならぬ、弓月が嶽に霞がたなびくことよ」の意味。







武田無涯子歌碑
山田の集落に行く手前に歌碑。「二古陵に一人の衛士やほととぎす」と刻まれる。 二古陵とは祟神天皇陵と景行天皇陵とのこと。意味は「ふたつの一人の守衛が守っている。ほととぎすが啼く静かな光景である」と。とはいうものの、ふたつの天皇陵は結構離れているし、守衛は作者の投影のような気もするのだが。因みに無涯子とは桜井市生まれの明治の俳人とのこと。





大和の集落の案内
その歌碑の横に「大和の集落 青垣山に囲まれた大和の田園風景は整然とした美しいたたずまいを見せています。
集落は奈良時代の条里制にもとづいては位置されてきました。この山の辺の道沿いの集落も条里制に対応しています。こうした集落の配置と、大和棟の農家によって特色ある農村風景がつくられています」とあった。




●条里制と集落
「山の辺の道沿いの集落も条里制に対応しています」と言われても、何の事がさっぱりわからない。条里制と集落の関係についてチェック。
条里制とは、「古代から中世にかけて行われた土地区画制度。1町(約109m)の四角を基本単位である「坪」とし、それを縦横6X6並べたもの、つまりは縦横648m四方を「里」とした。一里は36坪ということである。そして、「里」の横列を「条」、縦列を「里」として、各区画単位を「1条1里」、「3条3里」となどとし、「地番」管理をしたわけである。
で、それと集落の関係であるが、おおよそ1里に50戸を集落の単位とした、と言う。日本最古の計画的集落ということだろう。ただ、条里制によって整然と規則正しく区分されるのは田地であって、集落は塊形、長方形、方形などさまざまである、とのこと。
◆一定の自然空間に、おおよそ同じ規模の集落の塊が見える景観
奈良盆地をGoogleの衛星写真でみると、条里制の姿ははっきりとわかる。が、歩いていても、それほどわかるわけでもないのだが、この案内がある以前から山の辺の道に沿って集落が、ほどよい間隔を持って現れると感じていた。一定の広さ毎に、一定の数の集落が、ほどよい「リズム感」で登場していた。ある一定の自然空間に、おおよそ同じ規模の集落の塊が見える景観が、説明にあった「特色ある農村風景」ということかとも感じる。

渋谷向山古墳
山田の集落、渋谷の集落を越えて先に進むと前方に巨大な山陵が見えてくる。周濠に囲まれたこの古墳は「渋谷向山古墳」と呼ばれる。案内に拠れば、「渋谷向山古墳(古墳時代前期) 渋谷向山古墳は天理市渋谷町に所在し、龍王山から西に延びる尾根の一つを利用して築かれた前方後円墳です。現在は「景行天皇陵」として宮内庁により管理され、上の山古墳を含む古墳3基が陪塚に指定されています。墳丘は全長約300メートル、後円部径約168メートル、前方部幅約170メートルを測り、前方部を西に向けています。古墳時代前期に築造されたものとしては国内最大の古墳です。
墳丘の形状については諸説ありますが、後円部4段築成、前方部3段築成とする見方が有力です。また周濠は後円部6ケ所、前方部4ケ所の渡り堤によって区切られていますが、現在の状況は江戸時代末におこなわれた修陵事業によるもので、古墳築造当時の姿とは異なるものです。
これまでの宮内庁書陵部の調査等により、普通円筒埴輪、鰭付円筒埴輪、朝顔形埴輪、蓋形埴輪、盾形埴輪が確認されています。このほか、関西大学所蔵の伝渋谷出土石枕が本古墳出土とされたこともありますが、詳しいことは分かっていません。また、渋谷村出土との伝承がある三角縁神獣鏡の存在も知られています。
渋谷向山古墳の築造時期については、埴輪の特徴から古墳時代前期後半(4世紀中葉)と想定されています。柳本古墳群の盟主墳として、先に築造された行燈山古墳(崇神天皇陵)とともに重要な古墳です。平成23(2011)年3月  天理市教育委員会」とある。

案内にあった「現在の状況は江戸時代末におこなわれた修陵事業によるもの」との説明は、祟神天皇陵のところでメモした、下野・宇都宮藩と柳本藩による修陵工事のこと。現形を原形とみなすべからず、ということである。
また、かつては景行天皇陵と祟神天皇陵が逆に比定されていたようだが、景行天皇陵のことは『古事記』には「御陵は山辺の道の上にあり」、『日本書紀』「大和の国の山辺の道の上の陵に葬りまつる」とあり、祟神天皇陵は『古事記』には「御陵は山辺の道の勾(まがり)の岡の上にあり」、『日本書紀』には、「山辺の道の上の陵に葬りまつる」とある。これで陵を比定するのは難しいだろうかと思う。
●景行天皇
巨大な陵墓であるが、景行天皇って、日本武尊の父と言うこと以外、あまり存在感がない。チェックすると、実在を疑うといった説もあるようだ。祟神天皇から始まるヤマト大王家は仲哀天皇でその系譜が絶えるとされるが、その間、祟神>垂仁>景行>成務>仲哀と続く天皇の内、景行天皇の他、成務、仲哀天皇もまたその実在を疑問視する説もある、とか。
天皇陵でも、ヤマト大王家のはじまりの地とされる、この辺りにあるかとチェックすると、陵墓と比定されている陵墓も垂仁は奈良市、景行はこの地、成務は奈良市、仲哀は藤井寺とバラバラであった。これ以上の深堀は力の及ぶ限りではないにで、ここでストップとする。

天理市から桜井市穴師に入る
道を進むと天理市から桜井市に入る。地域名は「穴師」と呼ぶ。穴師の地名由来は、採鉱に従事した鋳金に優れた穴師部からとか、丹入(水銀)との関連を説く人、否、「あなせ」と読むとか、「あらし」とよんで風神との関連を説くとか、常の地名の由来の如く諸説定まることなし。
穴師は旧称「巻向村」と呼ばれ、ヤマト王権の頃には垂仁天皇の巻向球城宮、景行天皇の巻向日代宮が置かれていたとの説もあるようだ。

額田女王歌碑
道標脇に歌碑がある。「額田女王歌碑」である。「額田女王歌 うま酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際に い隠るまで 道の隈  い離かるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見離けむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや
反歌 三輪山を  しかも隠すか  雲だにも  心あらなむ  隠さふべしや 中河与一書」と刻まれる。

「三輪山を、奈良の山間に隠れてしまうまで、道の曲がり角ごとに、繰り返し眺めて行きたいのだが、無情にも雲が隠していいものだろうか」と言った長歌に続け、反歌で、「三輪山を雲が隠してしまう。せめて雲だけでも思いやりの心を持って三輪山を隠さないでほしい」と詠う。
●近江遷都
この歌は、天智6年(667)、都を奈良の明日香から近江へと移すときの歌。朝鮮半島の「白村江の戦い」で百済に与し新羅・唐と戦い、結果、敗れた朝廷は新羅・唐の侵攻を怖れ都を近江へと移す。その遷都を悲しみ、魂の拠り所でもあった三輪山との別れ、明日香との別れを刻む最後の時の心を詠んでいるのだろう。
揮毫は中河与一。香川県生まれの小説家・歌人である。横光利一、川端康成と共に、新感覚派として活躍した(Wikipedia)。
●額田女王
大海人皇子(天武天皇)の妃。歌の才、その美貌故に大海人皇子の兄の天智天皇の寵愛を受けたとの話の小説なども多いが確証はないようである。
◆黒須紀一郎
因みに、いつだったか黒須紀一郎さんの『役小角』、『覇王不比等』を読んだことがある。そこには、中国大陸、朝鮮半島、日本列島を巻き込んだダイナミックな、「一衣帯水」そのものの国際情勢が描かれていた。百済系の天智、新羅系の天武、多武峰から睨みをきかす中国から勢力など、誠に面白く読み終えた。当時の朝廷の会話は朝鮮半島の言語ではなかったのだろうか、と思ったほどであった。

柿本人麻呂歌碑
穴師地区の田地の中を進む、道から離れ山の方向に上れば、相撲神社とか穴師坐兵主神社神社、里に下れば「珠城山古墳群」と言った、少し気になるところもあるのだが、それを言い出したら、JR桜井線・巻向駅の少し南に話題の「箸墓古墳」もあるわけで(これも散歩しながらこの地にあるのをはじめて知ったのだが)、時間も押してきた関係もあり、少々気になりながらも、山の辺の道を突き進むことにした。
田地の先にある穴師の集落の先、県道50号の少し手前に歌碑がある。「柿本人麻呂歌碑」の歌碑である。
「ぬばたまの 夜さり来れば 巻向の 川音高しも 嵐かも疾き 実篤」と刻まれる。「万葉集」巻七:柿本人麻呂歌集の歌とのこと。「漆黒の闇夜、巻向川の川の音が激しい。川の上流はもう嵐かもしれない」と言った意味だろう。
 ●巻向川
古くは、穴師川、痛足川とも表記。読みは共に「あなし」ではある。三輪山の西に境を接する巻向山を源流点とし、巻向山、三輪山の北の谷を県道50号に沿って下り、穴師地区で山麓を出た後、箸墓古墳付近で南西に向きを変え大和川に合わさる。

柿本人麻呂歌碑
県道50号に出ると前方に三輪山が見えてくる。県道50号を三輪山方向へ向かって進むと、巻向川が県道に右手から接近する辺りに歌碑がある。「巻向の 山辺響みて 行く水の 水沫のごとし 世の人われは」と刻まれる。揮毫名は読めなかったが、フランス文学者の市原豊太氏とのことである。
「巻向の山辺を、水が勢いよく流れゆくが、人の世は川の流れに一瞬出来ては消える泡のようにはかないものだ」と言った意味のようだ。

先ほど出合った歌麻呂の「衾道を引手の山に 妹を置きて 山路を行けば 生けりともなし」では龍王山に葬った妻を想ったのか、龍王山に行けば亡き妻に会えると思ったのか、どちらにしても、亡き妻を思い出して悲しむ歌であった。 この歌碑にある人の世のむなしさも、亡き妻に関係あるものかチェック。
どうも、妻は穴師川が流れる山峡の村里に住んでいたようだ。都での勤めを終え、妻問婚の当時、穴師川の瀬音を聞きながら妻の元に通ったからこその、人の世のあわれを穴師川の瀬音と流れの泡で引き立てているのだろうか。素人の解釈、あてにならず。
●万葉歌碑
ところで、山の辺の道に沿って建てられる歌碑が結構多い。特に歌を詠んだ箇所でもなく、碑も新しく、古くから残る碑ではないようだ。何時、誰が、如何なる理由で建てたのか気になりチェック。
広報『わかざくら平成10年8月15日号』というから桜井市の広報誌だろうとはおもうのだが、そこに万葉歌碑の経緯らしき記事があった。その記事によると、きっかけは山の辺の道を多くの人が歩き始めた、昭和43年頃、市の観光協会・商工観光課の方が、道を辿る小中学生のために万葉集を12首ほど選ぶことからはじまった。当初は丸太材に墨書であったが、後に石にすることになった。 その後、歌の数を増やし130首を選び、そのうえ揮毫者を選び依頼。揮毫者の一人であった川端康成氏の発案で万葉だけでなく記紀からも選ぶことになったようだ。万葉歌碑は五十数首建てられている、とのことである。
桜井市はある程度わかったのだが、天理市の山の辺の道傍にあった歌碑・句碑はチェックしたが、その経緯はわからなかった。
因みに、上の広報誌には、川端康成氏の選んだ日本武尊の歌「大和は国のまほろば たたなづく青垣 山こもれる 大和しうるはし」を書く前に亡くなられたため、ノーベル賞の授賞式の原稿から文字を選びだし、揮毫として刻んだといったエピソードが載っていた。

三輪山の麓手前で今回のメモはお終い。次回は三輪山の裾を辿り、最後の目的地である大神神社までの散歩をメモする。

2回目の散歩のメモは、石神神宮を離れ「山の辺の道」を歩いた。道は大和高原の山裾、おおよそ標高100mから150mの間を辿ることになる。奈良盆地は標高おおよそ60m程度であるので、山の辺の道を歩きはじめた頃は、はるか昔は湖であったとも言われる奈良盆地の湿地を避け、山裾に道を開いたのだろうと思っていた。
もちろん、それも一因ではあろうが、途中出合った環濠集落が契機となり、昔読んだ書籍『日本人はどのように国土をつくったか;上田篤他(学芸出版社)』にある「溜池灌漑と小河川灌漑」の解説を思い出し再読。奈良盆地の部族の経済的基盤となった谷底低地や扇状地での水田開発は、奈良盆地に注ぐ河川の、その特徴である「小河川」故に水勢の制御を容易にし、四方の山から流下してくる小河川から直接取水し、そこから緩傾斜を利用し、水のかからない土地に水を導くことによって可能となった、といったことを思い起こした。山の辺の斜面、小河川が奈良盆地の部族、ひいてはヤマト王権の経済的基盤であった、ということである。
今回の散歩は、そのヤマト王権の残した「大和古墳群」の案内からメモを開始することにする。


本日のルート;石上神宮>高蘭子歌碑>阿波野青畝歌碑>僧正遍照歌碑>白山神社>大日十天不動明王の石標>芭蕉歌碑>内山永久寺跡>十市 遠忠歌碑>白山神社>天理観光農園>(東乗鞍古墳>夜都伎神社>竹之内環濠集落>「古事記・日本書記・万葉集」の案内>「大和古墳群」の案内>波多子塚古墳>柿本人麻呂の歌碑>西山塚古墳>萱生環濠集落>大神宮常夜灯>五社神社>手白香皇女衾田陵>燈籠山古墳>念仏寺>中山大塚古墳>大和神社の御旅所>歯定(はじょう)神社>柿本人麻呂歌碑>長岳寺>歴史的風土特別保存地区(祟神・景行天皇陵)>祟神天皇陵>櫛山古墳>作者不詳の歌碑>武田無涯子歌碑>景行天皇陵>天理市から桜井市穴師に入る>額田女王歌碑>柿本人麻呂歌碑>柿本人麻呂歌碑>桧原神社>前川佐美雄歌碑>高市皇子歌碑>玄賓庵>神武天皇歌碑>伊須気余理比売の歌碑>狭井川>三島由紀夫・「清明」の碑>狭井神社>磐座神社>大神(おおみわ)神社

「大和古墳群」の案内
竹之内環濠集落から先に進むと、道脇に「大和古墳群」の案内があった。「大和古墳群 古墳時代前期  奈良盆地東南部の東山山麓沿いには、古墳出現期から前期にかけての大型古墳が多数存在します。
こうした造墓地帯の最北部に位置し、天理市萱生町(かよう)、中山町一帯の丘陵上から成願寺町付近の緩やかな斜面上点在する古墳群を指して、かつて萱生古墳群とも呼ばれていた一群が大和古墳群(おおやまとこふんぐん)です。 当古墳では、その立地条件の違いから丘陵上の前方後円墳のみで形成される中山支群と、扇状地の緩やかな斜面上に点在する前方後円墳、前方後方墳、円墳などの萱生支群に区分することができます。
中山支群では、埴輪の起源となる吉備地方の特殊器台片が発見され出現期の古墳と考えられる中山大塚古墳や、特殊器台形埴輪が樹立し当古墳群の中で最大規模の前方後円墳となる西殿塚古墳、それに墳丘裾に特異な埴輪配列をもつ東殿塚古墳などがあり、同じ尾根筋上での累世的な造立が考えられています。 また、萱生支群では最古級の大型前方後方墳と考えられるノムギ古墳をはじめ、中山支群で出現した初期埴輪と同系統の埴輪をもつ波多子塚古墳(はたご)、大型内行花文鏡の副葬例を見た下池山古墳など、盆地東南部の前期古墳群のなかでも、この支群にのみ前方後方墳築造の系譜が認められています。
以上のように、大和古墳群では各支群の群形成に異なる特色が認められる 天理市教育委員会」とあった。

案内にはこの解説と共に、航空写真、そして古墳の位置を示した地図がついていた。名前のついた古墳だけで21基ほどある。夥しい数である。
散歩の最初にメモしたことだが、この山の辺に道を歩くまで、奈良盆地にこれほど多くの古墳があるとは思ってもみなかった。否、正直に言えば、飛鳥の石舞台とか、高松塚、そして箸墓古墳くらいは知っていたが、奈良に巨大な古墳があるとは思ってもみなかった。箸墓古墳が話題になった時も、巨大古墳としてのイメージをもつことはまるでなかった。
また、奈良と言えば大和朝廷=飛鳥>藤原京>平城京、といった短絡的な理解だけで、奈良盆地の山の辺に大和朝廷成立以前の豪族が割拠し、また大和朝廷につながる大和王権の豪族が、奈良盆地の、今回歩く山の辺の道からはじまったことなど知る由もなかった。
大和王権(朝廷)と大和朝廷を使い分けているのを知ったのも、このメモをはじめてからである。昔の日本史では、4世紀から7世紀の大和の王権も「大和朝廷」と習ったように思うのだが、現在では「大和王権(ヤマト政権)」と表記されることが多いようである。
その理由は、国名としての「大和」の表記が8世紀の養老律令施行後であること、また初期の大和王権の中心は大和国全域ではなく、奈良盆地東南部の東山山麓沿いでしかなかったこと、そして、初期の大和王権は大王家を中心とする政治連合であり、後年のように武力をもって各地の豪族支配し、百官を従える「朝廷」の実態を示していなかった、ということのようである。 ともあれ、これから先、大和王権の大王が降臨(侵攻)し、溜池灌漑と小河川灌漑によって豊かな水田を開発し、力を蓄え築いた幾多の古墳に沿った「山の辺」の道に入ることになる。

波多子塚古墳

道を進み、萱生の集落に入る手前、道の西、丘陵の少し下に小高い塚が見える。如何にも古墳といった趣である。道端に案内があり「波多子塚古墳」とあった。 案内には、「波多子塚古墳(古墳時代前期) 波多子塚古墳は萱生町集落西方の斜面に位置し、西向きに延びる低く長い丘陵上に立地する前方後円墳です。
現状の墳丘規模は全長140メートル、後方部東西幅50メートル、前方部幅14メートル、前方部長90メートルを測ります。前方部の形態が細長いことがこの古墳の大きな特徴であるとされることもありますが、墳丘が畑や果樹園等として開墾されていることから、築造当時の本来の墳丘形状からは大幅に改変されているものと考えられます。とくに、後方部は葺石石材を転用した石垣により段状に改変されています。また、墳頂部外縁の石垣には板状の石材が多く使われていることから、埋葬施設が竪穴式石室であったことがうかがえます。
平成10(1998)年に天理市教育委員会が後方部北側でおこなった発掘調査では、墳丘裾の葺石と周濠の存在が明らかとなり、外堤上では板石積みの小石室も見つかりました。また、周濠からは多くの埴輪片が出土し、波多子塚古墳の築造時期を知る手がかりが得られました。出土した埴輪には朝顔形埴輪、鰭付埴輪、特殊器台形埴輪などがあり、西殿塚古墳や東殿塚古墳でおこなった発掘調査により出土した初期埴輪とともに、大和古墳群における埴輪の成立と波及を考える好材料となりました。古墳の築造時期については、出土した埴輪の年代から、おおむね4世紀前葉と考えられます。平成22(2010)年3月  天理市教育委員会」とあった。

説明にあるように、畑や果樹園として崩されており、畑の中にぽっかりと浮く塚といった印象で、それほど大規模な古墳のようには見えなくなっていた。

柿本人麻呂の歌碑
波多子塚古墳の案内から少し先に進むと、歌碑が建つ。「あしひきの 山川の瀬の 響るなべに 弓月が嶽に 雲立ち渡る 柿本朝臣人麿」と刻まれる。
「万葉集」巻七:一〇八八番」の歌。「響る」は「なる」と読む。「山川の瀬音が響き流れるとともに、弓月が嶽には雲がわき立っている」の意味。あまり情感豊かとはいえない私ではあるが、この歌のどこがいいのかよくわからない。

どこがいいのか気になりチェックすると、この歌は「雲を詠む」という二首で一組となったもの。その対の歌は「痛足川(あなしがは) 川波立ちぬ 巻向の 弓月が岳に  雲居(くもゐ)立てるらし」であり、川の波と山の雲が対になり、その川の波と山の雲の盛んな姿を歌い、豊穣なるを前祝いした歌と考えられる、といった記事があった。そういう意味合いであれば、なんとなく納得。 因みに、歌碑はどういった経緯で建てられたのかチェック。「天理市に文学碑を建てる会」により平成15年(2003)11月24日に設置された、山の辺の道文学碑第6号基との記事があった。「天理市に文学碑を建てる会」も山の辺の道文学碑に関する詳細は不詳。

西山塚古墳
萱生の集落に入る手前、道に沿って南に濠に囲まれた如何にも古墳らしき緑の高まりが見える。それが西山塚古墳である。道沿いにあった案内には「西山塚古墳(古墳時代後期) 西山塚古墳は萱生町集落西端の緩斜面に位置する、古墳時代後期前葉の前方後円墳です。前期古墳が大半を占める大和古墳群の中で、後期の大型前方後円墳はこの古墳だけです。墳丘は前方部二段、後円部三段になるものと思われ、現状では全長114メートル、後円部径65メートル、後円部の高さ13メートル、前方部幅70メートル、前方部の高さ8メートルの規模を持ちます。
大和古墳群の中では唯一、前方部を北側に向けているのが特徴です。古墳の周囲を囲む幅12~20メートルの溜池は周濠の痕跡と考えられ、後円部南西側の溜池の外側には幅10メートル、高さ2メートルほどの外堤が残っています。
発掘調査は行われておらず、副葬品や埋葬施設は不明ですが、墳丘の地面から古墳時代後期前葉の埴輪が採集されています。明治20(1887)年ごろに墳頂部が開墾された際、石棺や勾玉、管玉、鈴、土器、人造石が出土したとの記述が『山辺郡誌』に見られますが、現在その所在は明らかになっていません。
なお、この古墳の南東に所在する西殿塚古墳が「手白香皇女衾田陵」に治定されていますが、西殿塚古墳が3世紀後半ごろの築造と考えられるのに対し、手白香皇女は6世紀後半ごろの人物であり、西山塚古墳が手白香皇女の真陵ではないかとする考え方があります。 平成22(2010)年3月  天理市教育委員」とある。

「前方部を北側に向けている」とあるから、集落の入り口部分の藪は前方部と言うことだろう。で、この西山塚古墳の主と比定される「手白香皇女(たしから)」って誰?チェックすると第26代継体天皇の皇后であり、第29代欽明天皇の母とのこと。
●継体天皇
古代史にあまりフックのかからない私でも継体天王のことは、少しは知っている。大和王権(大和朝廷とこのメモまでは思っていたのだが)の大王家(25代武烈天皇)の後継者がいなくなり、大連である大伴氏、物部氏などが後継者を探し越(越前?)の国から呼び寄せ、河内にて即位するも、大和に入るまで20年の時を必要とした、ということと、天皇家は万世一系とはするものの、継体以前には断続があり、現在に続く天皇家の祖とする、といったものである。これが継体天皇に関する知識であり、それほど間違ってはいないかと思う。

ここからはチェックした内容だが、大和に入る前に複数の妃そして子もいたようだが、大和に入り、第21代雄略天皇の孫娘で、第24代仁賢天皇の皇女であり、第25代武烈天皇の妹(姉との説もある)である手白香皇女を妃とする。ヤマト大王家(ヤマト王権は雄略天皇の頃から、それまでの「王」から「大王」という称号に格上げされていると記録にある)と系譜ではない継体天皇の、大王家の系譜に対する融和政策であり、正当性を示す政治的施策とも思える。

◆継体天皇陵は大阪府茨木市。その妃の陵墓が何故ここに?
で、その妃の古墳がこの地にある、と。それでは継体天皇陵は?チェックすると大阪府茨城市の三嶋藍野陵(三島藍野陵、みしまのあいののみささぎ)が継体天皇陵と比定されている。結構な泣き別れ?Wikipediaには「継体天皇が、ヤマトの王統につながる手白香皇女の墓をヤマト王権の始祖たちの墓が並ぶ大和古墳群や柳本古墳群のなかに営むことによってみずからの王権の連続性・正統性を主張したものではないかと推測し(後略)」とあった。この記事は継体天皇が出自不明の王ではなく、大和王権の系譜を継ぐものとしてのエビデンスとして挙げている説明でもあるので、そのまま鵜呑みにすることもできないが、なんとなく納得感もある。

萱生環濠集落
道に沿って西山塚古墳の周濠が続く。道が周濠を横切る古墳裾に何軒かの民家が建つ。これが萱生(かよう)環濠集落ではあろうが、竹之内環濠集落のように多くの集落を囲むといったものではなく、Googleの衛星写真で見る限り、ほとんどが古墳である。古墳は耕地として数段に開墾されているように見える。昔はもっと多くの人の住む集落でもあったのだろうか。




大神宮常夜灯
集落を抜け、行く手の左手、山稜が開ける道の分岐点に大きな常夜灯が建つ。正面には「太神宮」と刻まれる。太神宮ということは「伊勢神宮」のことだろう。山の辺の道の終点である三輪山の南西麓から、初瀬川の谷を進む伊勢街道がある。お伊勢参りの道標であろうか。嘉永元戊申年(1848年)に建ったもの、と。
大神宮常夜灯の脇にはささやかな道祖神とともに、猿田彦大神と刻まれた石碑があった。Wikipediaには「天孫降臨の際、天照大神に遣わされた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を道案内したということから道の神、旅人の神とされるようになり、道祖神と同一視された。そのため全国各地で塞の神・道祖神が「猿田彦神」として祀られている」とあった。
●道祖神
塞の神・道祖神と言えば、いつだったか信州と越後を繋ぐ塩の道を歩いたときに出合った大杉を思い出す。その道端に大きな一本の杉は塞の大神と呼ばれていた。「塞の神」って村の境界にあり、外敵から村を護る神様。石や木を神としておまつりすることが多い、よう。
この神さま、古事記や日本書紀に登場する。イサザギが黄泉の国から逃れるとき、追いかけてくるゾンビから難を避けるため、石を置き、杖を置き、道を塞ごうとした。石や木を災いから護ってくれる「神」とみたてたのは、こういうところから。
「塞の神」は道祖神と呼ばれる。道祖神って、日本固有の神様であった「塞の神」を中国の道教の視点から解釈したもの、かとも。道祖神=お地蔵様、ってことにもなっているが、これって、「塞の神」というか「道祖神(道教)」を仏教的視点から解釈したもの。「塞の神」というか「道祖神」の役割って、仏教の地蔵菩薩と同じでしょ、ってこと。神仏習合のなせる業。
お地蔵様問えば、「賽の河原」で苦しむこどもを護ってくれるのがお地蔵さま。昔、なくなったこどもは村はずれ、「塞の神」が佇むあたりにまつられた。大人と一緒にまつられては、生まれ変わりが遅くなる、という言い伝えのため(『道の文化』)。「塞の神」として佇むお地蔵様の姿を見て、村はずれにまつられたわが子を護ってほしいとの願いから、こういった民間信仰ができたの、かも。 ついでのことながら、道祖神として庚申塔がまつられることもある。これは、「塞の神」>幸の神(さいのかみ)>音読みで「こうしん」>「庚申」という流れ。音に物識・文字知りが漢字をあてた結果、「塞の神」=「庚申さま」、と同一視されていったのだろう。

五社神社
道を進み中山の集落の中に入ると五社神社が建つ。ささやかな社である。元は「五社の森」と呼ばれる広い森に鎮座していたとのことだが、明治時代に中山の歯定神社に合祀され、社地は開墾されて畑地となるも、昭和26年(1951)、この地に戻り社が造られた、と言う。
五社神社ってどのような神を祀るのかチェックすると、この社は武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比咩大神。これらは春日神社の四柱。五社なのに四柱? チェックすると、全国の五社神社に特に決まった神のライアンアップは見当たらない。春日四柱との関連でいえば、浜松の五社神社が元は大玉命(ふとだまのみこと)を祀っていたが、それに春日四祭神を加え五社神社としたとあったが、これもあまり関係なさそう。結局四と五の差分はわからずじまいである。

手白香皇女衾田陵
五社神社から衾田陵の案内に従い、柿の木を見遣りながら小径を進むと手白香皇女衾田陵に。天皇陵によく見る、宮内庁管轄を示すような鳥居と石柱で正面がガードされている。
傍にあった案内には「西殿塚古墳・東殿塚古墳は大和古墳群のなかでも最も高いところに位置する前方後円墳で、ともに前方部を南に向けて築かれています。これら2基の古墳が築かれた丘陵の尾根上には、中山大塚古墳・燈籠山古墳など前方後円墳が連なるように立地し、大和古墳群中山支群と呼ばれています。 西殿塚古墳 西殿塚古墳は全長230m。後円部径145mm前方部幅130mを測ります。墳丘は東側で三段、西側四段の段築により形成されており、後円部及び前方部の墳頂に方形壇が存在します。
現在、墳丘部分については「手白香皇女衾田陵」として宮内庁により管理されています。平成元年(1989)には宮内庁書陵部により墳丘の調査が実施され、墳丘の各所から特殊器台形土器や特殊器台形埴輪・特殊壺形埴輪などの遺物が採集されています。
また、平成5年(1993)~平成7年(1995)には天理市教育員会により墳丘周辺の範囲確認調査がおこなわれ、墳丘東部くびれ部と前方部東裾において墳丘斜面の基底石と掘割(周濠相当の落ち込み)が存在することが確認されました。この調査の際にも、有段口縁が特徴の特殊円筒埴輪など多量の初期埴輪が出土されました。
東殿塚古墳 東殿塚古墳は全長139m、後円部径65m、前方部幅49mを測り、周囲には古墳の外周を区画する長方形の地割が残っています。後円部頂には多数の板石が散乱していることから、埋葬施設は竪穴式石室であると推定されています。
平成9(1997)に天理市教育員会が前方部西側で実施した発掘調査では、墳丘上段部の基底石列や墳丘下段裾の葺石、掘割(周濠相当の落ち込み)と外堤を検出するなど、多くの大きな知見が得られました。とくに、墳丘裾と外提の間の掘割内で見つかった祭祀施設では、初期埴輪と二重口縁壺や甕(かめ)、高坏(たかつき)など布留式土器(ふる)、さらに近江系や山陰系など外来系土器との共存が確認され、初期埴輪の年代的位置づけと古墳の築造時期を考える上で非常に重要な資料が得られました。
埴輪配列を構成した初期の円筒埴輪には、朝顔形埴輪・鰭付円筒(ひれつき)・特殊器台形埴輪などがあります。その中でも鰭付円筒埴輪の1点には船をモチーフとして描かれた線刻絵画があり、当時の葬送観念を反映するものと考えられる重要な発見として知られています。
築造時期  西殿塚古墳・東殿塚古墳の築造時期については、これまで発掘調査等で出土した初期埴輪からみて、特殊器台形埴輪を主体とする西殿塚古墳が先行し、次に朝顔形埴輪・鰭付円筒埴輪が出現する東殿塚古墳が築造されたものとみられます。しかし、出土遺物が示すそれぞれの古墳の時期に大きな隔たりはなく、埴輪の出現から成立期(3世紀後半)に連続的に築造されたものと考えられます 天理市教育委員会」とあった。

巨大な「山容」を留める西殿塚古墳は、先ほどの西山塚古墳の案内には「手白香皇女衾田陵」との案内があったが、西山塚古墳でメモしたように、西山塚古墳が「手白香皇女衾田陵」との議論もあるようだ。どちらにしても、門外漢には??
●東殿塚古墳
それより、案内にある東殿塚古墳。西殿塚古墳のすぐ東に平行に並ぶとのことだが、ちょっとした高まりのある茂みはあるのだが、東殿それらしき「高み」は見えない。チェックすると古墳の墳丘は開墾され、ほとんどが果樹園となっており、古墳らしき姿は留めていないようであった。案内を読む限りでは結構な古墳をイメージするのだが、「今は姿を留めない」とでも書いてもらえば、それなりの感慨も抱いだだろうが。。。

燈籠山古墳
手白香皇女衾田陵から山の辺の道に戻り、小高い塚がある。その東側には墓地。が広がるが、そこに「燈籠山古墳」の案内。「燈籠山古墳は天理市中山町に所在する全長110mの前方後円墳で、大和古墳群を構成する大型古墳のひとつである。前方部は念仏寺の墓地として利用されている。墳丘上には埴輪が散布し、埴輪の特徴から古墳時代前期、4世紀前半の古墳と思われる」とあった。

説明にあるように、前方部は完全に墓地となってしまっている。墳丘を眺め、山の辺の道に戻り、墓地を迂回し念仏寺への道を進む。と、また「燈籠山古墳」の説明があった。さきほどより詳しい案内であるので、再掲しておく。 「燈籠山古墳(古墳時代前期) 燈籠山古墳は、東殿塚古墳・西殿塚古墳・中山大塚古墳などと同じ丘陵に位置する前方後円墳です。
この丘陵上に位置する古墳は前方部を南に向けますが、燈籠山古墳だけは西に向けています。
古墳の規模は、現状では全長110メートル、後円部径55メートル、後円部高さ6.4メートル、前方部幅41メートル、前方部高さ6.3メートルを測ります。墳丘は大きく改変されていますが、前方部・後円部とも3段に築かれていた可能性があります。墳丘の北・南・東の三方に平坦面があり、東側は墓域を区画するために丘陵を切断した痕跡、南側と北側は墳丘に盛る土を取った痕跡と考えられています。
発掘調査は行われておらず、埋葬施設は不明ですが、後円部では竪穴式石室の部材と見られる板石が多く採集され、石材鑑定の結果、大阪府柏原市や遠くは徳島県で産出する石材であることがわかりました。また、墳丘各所で円筒埴輪や朝顔形埴輪の破片が採集され、埴輪列が墳丘を囲んでいたと考えられています。
その他の出土品には、埴製枕、埴質棺、石釧、勾玉・管玉など装身具が知られています。特に埴製枕は長辺36.8㎝、短辺29.4㎝、厚さ8.0㎝の長方形で全面に朱が塗られており、中央を頭の形にくぼませて周囲に鋸歯文や幾何学文などを線刻したものです。
これらの特徴から、古墳の築造時期は古墳時代前期前半(4世紀前葉)と考えられます。平成23(2011)年3月  天理市教育委員会」とあった。

中山大塚古墳
念仏寺を越えると前方に古墳と思しき独立丘陵が見える。中山大塚古墳である。 道傍にあった案内には「中山大塚古墳 (築造時期 古墳時代初頭) 中山大塚古墳は、萱生町と中山町の一帯に展開する大和(おおやまと)古墳群の南側に位置する前方後円墳です。標高約90メートルの尾根上に前方部を南西に向けて築かれており、前方部付近には大和神社のお旅所がおかれたために削平を受けています。古墳の規模は、全長132メートル、後円部径約73メートル、後円部の高さ約11メートルを測ります。
1985年以降、1994年までの学術調査の結果、墳丘表面が葺石で覆われ、後円部に2段、前方部に1段の段築による築成であることが知られています。
また、外部施設として西側くびれ部に作られた三角形の張り出し部と後円部北側の張り出し部があり、いずれも古墳への通路的な施設と考えられています。 埋葬施設は、後円部墳頂の中央に墳丘主軸に沿って築かれた竪穴式石室が見つかっており、長さ7.5メートル、天井までの高さ約2メートルの規模をもちます。なお、石室の南北両小口は隅に丸みをもつように石材が積まれています。石室の石材は大阪府羽曳野市と太子町の間に位置する春日山で採取された輝石安山岩が使用されています。
出土遺物では、銅鏡2点、鉄器36点などが石室内より見つかりましたが盗掘が石室内全体におよんでいたため細片化したものがほとんどでした。銅鏡は二仙四禽鏡で、鉄器には鉄槍、鉄鏃などがあります。
ほかに、墳頂部からは土器のほか、特殊壷形埴輪、二重口縁壷系の埴輪、特殊円筒埴輪、特殊器台形土器、特殊壷形土器などが出土しており、埋葬主体部を囲うように樹立していたものと考えられています。
これまでの発掘調査の成果から、当古墳の墳丘は戦国時代の山城として再利用されていたために若干改変され、現状の墳丘形状が築造当初のものではないこともわかっています。しかしながら、石室や墳丘構造、あるいは埴輪などに認められるそれぞれの初源的な要素から、当古墳が前方後円墳の築かれ始めたころの古墳であると判断されています。 1999年8月天理市教育委員会(2008年3月改訂)」とあった。

大和神社の御旅所
中山大塚古墳の案内にもあったように、古墳の前方部の大和(おおやまと)神社の御旅所がある。朱に塗られたささやかな祠が祀られる。御旅所坐神社(おたびしょにいますじんじゃ)、とのことである。
「大和神社(おおやまとじんじゃ)御旅所の由来」の案内には「中山大塚古墳(百三十㍍)アラチガ原に坐す皇女渟名城入姫(ぬなきいりひめ)の塚。約二千年前煌々と輝き現れる神々は、大歳大神(五穀豊穣)、主神日本大国魂神(大地主神)、須治比賣大神(天照大神)
大和神社の春の大祭、橘花神幸のちゃんちゃん祭りに天皇(亦は特使)が参列。 千四百年前に始まる。その以前、橘花祭りは、今から約二千年前始まるとある。 橘渡御は、はじめ大和神社の瑞籬、水砂道(みささぎの道=日本最古の道)から、笠縫を通り、中山邑、岸田邑を経て市場の休み所御神輿石、長岡岬大市坐、 皇女渟名城入姫神社、御祓い休憩、柳本新地の手前左に曲がり、中山都・古道、斎主御前の住い道を通り、長山日暮上道より、御旅所、霊薬井戸で清める。 石段を登り、赤鳥居こぐり、清霊舞を執り行う。

一日目は、斎持御前、塚上に屋形を建て、夜に宮司祭。
二日目は、石段を下がり、中山邑から長岡邑川を渡り、高槻、天照大神祭り。
三日目は、水垣で倭大国魂大神、采女の橘の舞、千戈の舞、長岡の道を下り市場へ向かう」とある。
●大和神社
御旅所(おたびしょ)とは、「神社の祭礼(神幸祭)において神(一般には神体を乗せた神輿)が巡幸の途中で休憩または宿泊する場所(Wikipedia)」。大和神社の春の大祭、橘花神幸のちゃんちゃん祭の御旅所である。
大和神社は山麓を下ったJR桜井線・長柄駅の少し南にあり、日本大国魂大神(倭大国魂神)が祀られる(祭神は三柱ではあるが、倭大国魂神以外は諸説あるので省略)。説明はその大和神社のお祭りの巡行ルートは詳細に説明されている。

それはそれでいいのだが、「中山大塚古墳(百三十㍍)アラチガ原に坐す皇女渟名城入姫(ぬなきいりひめ)の塚。約二千年前煌々と輝き現れる神々は、大歳大神(おおとしのおおかみ;五穀豊穣)、主神日本大国魂神(やまとおおくにたまのおおかみ:大地主神;おおどこぬし)、須治比賣大神(すじひめ;天照大神)」って何を伝えようとするのか皆目わからない?

●天の神・天照大神と地主神・倭大国魂
また、境内には「畏れし神の勢い 大和の地主神・日本大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)」といったタイトルで以下のような説明があった。「これより先、天の神・天照大神と地主神・倭大国魂を皇居の内に祀った。しかし、天皇はニ神の神威の強さを畏れ、共に住むには不安があった。
そこで天照大神は豊鋤入姫命に託して大和の笠縫邑に祀り堅固な石の神籬(ひもろぎ)を造った。また、日本大国魂神を渟名城入姫に祀らせた。いま、天照大神は伊勢神宮内に、日本大国魂神は大和神社に鎮座さる。
四月一日は、大和神社よりここ御旅所(大和稚宮神社;おおやまとわかみや)まで神輿渡御が行われます。「祭りはじめは、ちゃんちゃん祭り 祭り納めはおん祭り」大和の里謡に歌われる大和の代表的な祭りです。「チャンチャン」と鉦鼓の音が大和に春を告げます」とある。

●大歳大神って誰?
この案内で、大和神社御旅所の由来冒頭部の意味するところが、少しわかってきたが、それでも、御旅所の由来にあった「大歳大神」がどう関係するのか説明がない。そもそも大歳大神って誰?チェックすると、大歳大神とは「大物主;おおものぬし」のことのようである。それを踏まえ、もう少し深堀すると、大和神社の説明は『日本書紀』の祟神記に描かれるエピソードをベースにしたものであった。




●大歳大神(大物主)と日本大国魂神(大地主神)、そして須治比賣大神(天照大神)の関係
松岡正剛さんのWEBに掲載される「松岡正剛の千夜千冊」の「1209夜 物部氏の正体(関祐二)」をもとにまとめると、こういうことである:第10代・崇神天皇(ミマキイリヒコ;天皇と呼ばれたのは7世紀後半、大宝律令で「天皇」号が法制化される直前の天武天皇ないしは持統天皇の時代からであるが、便宜的に「天皇」と書く)は、都を大和の磯城(しき;桜井市など近隣一帯)の瑞籬宮(みずがきのみや)に移した。ところが疫病が多く、国が収まらなかった。
その理由は「其の神の勢を畏りて、共に住みたまふに安からず」とあるように、それまで宮中で、天照大神アマテラスと日本大国魂神(ヤマトノオオクニタマ)の二神を一緒くたにして、祀っていたのが問題なのだろうという気になってきた。
そこで崇神天皇の皇女・豊鋤入姫(トヨスキイリヒメ)を斎王とし、天照大神(アマテラス)を大和の笠縫に祀り、また同じく崇神天皇の皇女である淳名城入姫(ヌナキイリヒメ)に日本大国魂神(オオクニタマ)を祀らせた。
しかし、渟名城入姫は髪の毛が抜け落ち、痩せて病気になり、祀ることが出来なくなった。そこで崇神天皇は神浅茅原に御幸し卜占する。その時、崇神天皇 の大叔母である倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)が激しく神懸かりトランス状態になり、倭迹迹日百襲姫命の口を借りた神託は、「三輪の大神オオモノヌシを敬って祀りなさい」というもの。その意外な展開に崇神はまだ納得がいかない。すると大物主(オオモノヌシ)は「わが子の太田田根子を祭主として祀れ」と言ってきた。
いったい大物主とか太田田根子とは何者なのか。けれども崇神は従った。茅渟県陶邑(大阪府堺市)にいた太田田根子を捜し出し、大物主大神を三輪に祀った結果、ようやく国は治まった。

◆皇祖神・地主神を宮から追い出し大物主を祀る?
このエピソードで御旅所にあった登場人物全員をカバーした物語の全容はわかった。しかし、何とも解せないのは、崇神天皇が侵攻する前の豪族が祀っていた地主神(日本大国魂神)と崇神天皇の祖先神・天照大神(天照大神は持統天皇をモデルに創られたものと言うから、祟神の頃はいなかっただろうが、ともあれ大王家の祖先神)を宮から追い出し、大物主を祀る、といったこと。
大物主を祀った太田田根子って、大三輪氏とか倭氏の後裔とされる。どちらにしてもヤマト王権の系譜ではない。ヤマト王権と別系統の神を祀らなければ国が治まらない、って?
もっとも、宮から追い出した皇祖神も、いかなる理由か不詳(注;私は)だが、結局は伊勢に「出し」ているわけで、明治になって樫原神宮に祀られるまでは王権のあるヤマトの地に祀られてはいないようであり、ヤマトの地にそれほど「未練は」なかったのだろうか?門外漢にはよくわからない。

◆大物主って誰?
それ以上にわからないのが大物主。大物主って誰?ということになるのだが、大物主=出雲の大国主の和魂(にきみたま;大国主は荒魂)とか、大物主=饒速日命(『古代日本正史;原田常治』)などあれこれ諸説あり、古代史の書籍を数冊スキミング&スキャンングした程度の我が身にはよくわからない。

◆大物主=大国主
一般的にはどのように定義されているかWikipediaでチェック。そこには「大物主(おおものぬし、大物主大神)は、「日本神話に登場する神。大神神社の祭神、倭大物主櫛甕魂命(ヤマトオオモノヌシクシミカタマノミコト)。『出雲国造神賀詞』では大物主櫛甕玉という。大穴持(大国主神)の和魂(にきみたま)であるとする。
別名 三輪明神」とあり、続けて「『古事記』によれば、大国主神とともに国造りを行っていた少彦名神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光り輝く神様が現れて、大和国の三輪山に自分を祭るよう希望した。
大国主神が「どなたですか?」と聞くと「我は汝の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)なり」と答えたという。『日本書紀』の一書では大国主神の別名としており、大神神社の由緒では、大国主神が自らの和魂を大物主神として祀った」とある。

◆大物主=大国主神は「国譲り」の条件? 
この説明では大物主=大国主神といった印象を受ける。では何故に出雲の神がヤマトに祀れれるのだろう?との疑問。古代史に門外漢ではあるが、上の説明にある「大和国の三輪山に自分を祭るよう希望した」というフレーズを、ヤマト大王家と出雲の神話をもとに妄想を続けると、力を付けたヤマト大王家は出雲に侵攻し、神話では「国譲り」というストーリーでその地を支配下におさめたわけだが、その条件としてヤマト大王家は「大国主を祀り続けること」を約束した、と考え方がひとつの解釈。

◆大物主祭祀は、出雲系先住支配豪族とヤマト王権の連盟合意の条件?
そして、もうひとつは、ヤマト王権がヤマト降臨(侵攻)以前に、すでに降臨(侵攻)し、先住部族を支配下に置いていた豪族がおり、その豪族が祀っていたのが「大物主」であり、ヤマト王権に協力する条件として「大物主」の威力を称えつづけること、祀りつづけることを約束させた、という解釈。
これまで何回かメモしたように、当初のヤマト王権は、武力で先住豪族を支配する力の無かったようであり、それ故、先住侵攻・支配豪族この条件に合意した、という考えもあるかと思う。「大和国の三輪山に自分を祭るよう希望した」というフレーズはヤマト王権の面子もあるので、パートナーとなった豪族の希望を受け入れた、といった表現となっているのだろうか。
で、後者の考えを更に妄想を膨らますに、ヤマト王権以前にこの地に侵攻・支配した豪族は出雲系の部族であり、出雲の神を祭っていたと考えられる。上のメモで大物主=饒速日命とした原田常治氏は「ニギハヤヒは出雲から大和にやってきたオオモノヌシだ」と言う。とすれば、関東の散歩で出合う物部氏はどうも出雲系っぽい、と思っていたことは、それほど間違っていなかったのかとも思う。実際、物部氏の租は吉備からヤマトに侵攻してきた出雲系部族といった説も聞いたことがある。

あれこれ妄想を重ね、自分なりの結論はヤマト王権の侵攻以前にこの地に侵攻・支配していた先住支配豪族は出雲系豪族であり、ヤマト王権への協力の条件として、豪族の租先神である大物主を祀り続けることを、その盟約の条件とした。そして、その先住支配豪族は、どうやら物部氏に繋がる部族ではないか、ということである。

◆神話は「歴史?」からの「後付け」?
以上の妄想で、神話に登場する三輪山に祀られたとする大物主は、自分なりの勝手な解釈ではあるが、自分だけにではあるが、それなりに納得できるストーリーとなった。しかし、この解釈は神話としてのレベル。この祟神天皇の御世に、大物主が登場することには違和感を抱く。どう考えても、それは国史編纂時の「後付け」ではないかと思う。
そもそも、第10代祟神天皇の頃のヤマト王権は、同じ奈良盆地の西の葛城山麓に覇を唱える葛城王朝との対立で、どちらが勝つか負けるかわからない、といった状況であり、出雲侵攻などあり得ない。それは第21代雄略朝以降の話であり、祟神天皇の頃に、出雲の国譲りの話などあり得ない。
同様に、物部氏が物部という部民制を元に「物部」氏として登場しその軍事力をもって活躍するのも、雄略天皇以降の話であり、祟神天皇の頃に出雲系の神・大物主が登場することはあり得ないと思う。「後付け」と感じる所以である。

◆大物主って、神奈備山としての三輪山そのもの?
それではこの祟神天皇の話に登場する大物主は?上で、大物主を祀った太田田根子って、大三輪氏とか倭氏の後裔のよう、とメモした。大物主祀ったとあるが、祀ったの大三輪氏の名の通り、神奈備山としての三輪山ではないだろうか。それを後世、国史編纂の際に神奈備山の三輪山を大物主に差し替えたのかとも妄想する。差し替えた理由は、ヤマト朝廷と出雲の関係、また、ヤマト大王家と物部氏の関係と言った、政治的思惑ではあったのではなかろうか。単なる妄想。根拠なし。

●歯定(はじょう)神社
大和神社御旅所の境内、一段高くなったところに春日造の小祠がかつての「歯定大権現」。歯の神様とか「葉状」>農業・特に葉物野菜の種蒔きに際して、当社に豊作を祈願した神、といった説明もあるが、なんとなく出来過ぎ感があり、しっくりこない。どこかは特定できなかったが、小字に「歯上(定)堂」というところがあるようで、旧地はその地にあったものが、明治初年にこの地に移された、といった記事があったが、地名故の社名といったほうが、少し納得感がある。


柿本人麻呂歌碑
山の辺の道を進むと、道脇に歌碑がある。「衾道乎 引手 乃山尓妹乎置而  山徑徃者 生跡毛無 孝書」と刻まれる。「衾道を 引手の山に 妹を置きて 山路を行けば 生けりともなし」と読むようだ。
歌碑の横に意味を説明してあり、「引き手の山(龍王山)に妻の屍を葬つておいて 山路を帰ってくると悲しくて生きた心地もしない」とあった。
なんとなく気になりチェックすると、この歌は、柿本朝臣人麻呂、妻みまかりし後、泣血哀慟して作る歌二首、とある長歌の反歌の一つであった。もうひとつの歌は、「去年見てし 秋の月夜は 照らせれど 相見し妹は いや年離かる」 と「去年妻と一緒の見た秋の月は今同じだが、一緒にこの月を眺めた妻は、亡くなり遠ざかって行く」と言った意味だろう。
で、長歌とは「5・7・5」音の句を繰り返し、最後は「7・7」音で終える。その反歌とは、長歌の終わりに添えるうたのことで、長歌の意を反復・補足または要約するもの。1首ないし数首からなる。
それでは、この二首の長歌はどのようなものか「うつせみと  思ひし時に  取り持ちて  我が二人見し。。。」と続く長歌をチェックしてみた。長歌など読んだこともないのだが、これがなかなかいい。亡き妻への思い、残された子供と昼も夜もなく、寂しく、そして嘆き、恋しく思っても会う手だてもないので、羽易の山に恋しい妻はいると人の言うままに、難路を辿り来たが、うれしいことは無かった。この世で会えると思っていた妻は、ほのかにさえも見えないから、と詠っていた。
この流れで半歌を詠むと、少しリアリティが増すようだ。因みに、この長歌の意からすれば、山に葬った帰りのさみしさ、というより、さみしさゆえに、この山に入れば妻に会えるかも、といったニュアンスをかんじるのだが。。。素人の感想ではある。尚、「孝書」とは万葉集の碩学である犬養孝博士とのことである。
●犬養孝
万葉学者。万葉集研究に生涯をささげ、万葉故地の保存にも尽力。日本全国の万葉故地に所縁の万葉歌を揮毫した「万葉歌碑」を建立。犬養揮毫の万葉歌碑は131基におよぶとのこと(Wikipedia)

長岳寺
人麻呂の歌碑から先に進み、集落をひとつ越えたあたりで、中山地区から柳本地区に入る。最初の集落の中、山の辺の道から少し山麓へと向かったところに長岳寺がある。
拝観料を惜しんだわけではないが、先を急ぐのあまり、大門を潜った先で、お参りし寺を離れる。
高野山真言宗のこのお寺さまのWEBに拠れば、「平安初期(天長元年824年)淳和天皇の勅願により弘法大師が創建された古刹である。盛時には僧兵三百、宿坊四十八、境内94,000坪の壮大な寺院であった。 千古の歴史の中で栄枯盛衰を経たが、今なお多くの文化財を残し、国指定重要文化財としては仏像5体、建造物4棟を有する」と。
弘法大師が大和神社(おおやまと)の神宮寺として創建したとも伝わる。

歴史的風土特別保存地区(祟神・景行天皇陵)
長岳寺から山の辺の道に戻り、少し進むと道の前方に堤と、その向こうに、如何にも古墳、それも巨大は古墳が姿を見せる。道なりに進むと堤の手前に案内がある。「歴史的風土特別保存地区(祟神・景行天皇陵)」とある。
今回のメモはここで御しまい。次回、この案内にある、ヤマト王権の始まり頃の王の陵墓地帯のメモからはじめることにする.。
第一回の散歩のメモは石上神宮でのあれこれで力尽きた。饒速日命とか物部氏についての書籍は結構出版されている。喧々諤々のテーマのようだ。今まで黒須紀一郎さんの『役小角』、『覇王不比等』などでその名を知った程度の知識で、饒速日命や物部氏とヤマト王権についてメモすることもできず、図書館で数冊本を借りてきてスキミング&スキャンング。
単なる妄想には過ぎないが、自分なりに疑問に感じたことを、考える好い機会とはなった。 実際、関東を歩いていると、物部氏の痕跡に出合うことが多い。このメモを書くまでは、物部=出雲族、といった程度に単純化してメモしてきたのだが、未だにはっきりとはしないが、それなりに物部氏のこともわかってきたように思う。
さて、石上神宮からやっと解き放たれ、山の辺の道を辿ることにする。

本日のルート;石上神宮>高蘭子歌碑>阿波野青畝歌碑>僧正遍照歌碑>白山神社>大日十天不動明王の石標>芭蕉歌碑>内山永久寺跡>十市 遠忠歌碑>白山神社>天理観光農園>(東乗鞍古墳>夜都伎神社>竹之内環濠集落>「古事記・日本書記・万葉集」の案内>「大和古墳群」の案内>波多子塚古墳>柿本人麻呂の歌碑>西山塚古墳>萱生環濠集落>大神宮常夜灯>五社神社>手白香皇女衾田陵>燈籠山古墳>念仏寺>中山大塚古墳>大和神社の御旅所>歯定(はじょう)神社>柿本人麻呂歌碑>長岳寺>歴史的風土特別保存地区(祟神・景行天皇陵)>祟神天皇陵>櫛山古墳>作者不詳の歌碑>武田無涯子歌碑>景行天皇陵>天理市から桜井市穴師に入る>額田女王歌碑>柿本人麻呂歌碑>柿本人麻呂歌碑>桧原神社>前川佐美雄歌碑>高市皇子歌碑>玄賓庵>神武天皇歌碑>伊須気余理比売の歌碑>狭井川>三島由紀夫・「清明」の碑>狭井神社>磐座神社>大神(おおみわ)神社

高蘭子歌碑
摂社拝殿の前を参道から右に折れる道に「山の辺の道」の案内がある。杉の林を進むと歌碑があり、「みじかかるひと世と思へ布留宮の神杉のほのそらに遊べる 蘭子」と刻まれる。作者の高蘭子は「山の辺短歌会」を主宰されている天理市在住の歌人とのこと。





阿波野青畝歌碑
続いて現れた歌碑には左右に二首の歌が刻まれる。右の句は「石上古杉暗きおぼろかな」と詠める。この歌碑は阿波野青畝が詠んだものであり、左手の歌は奥さまの句とのこと。「よろこびを(?)互いにに語り天高し」のように読めるのだが、はっきりしない。阿波野青畝は大正・昭和にかけて活躍した俳人とのことである。

僧正遍照歌碑
歌碑が続く。「僧正遍照」の歌碑である。「さとはあれて ひとはふりにしやどなれや 庭もまがきも秋ののらなる 僧正遍照」と刻まれる。「里は荒れて人はふりにし宿なれや庭も籬も秋の野良なる」。「里は荒れ果て、住んでいる人も年老いてしまった家であるから、庭も垣根も秋の野良のようです」と言った意味のようだ。
「古今和歌集」巻第四、秋歌上の最後に載る和歌である。「仁和のみかど、みこにおはしましける時、布留の滝御覧ぜむとておはしましける道に、遍照が母の家にやどりたまへりける時に、庭を秋の野につくりて、おほむものがたりのついでによみてたてまつりける」との題詞がある。僧正遍照は桓武天皇の孫にあたる高貴の出であり、野良のような荒れた家に住むわけもなく、ちょっとしたジョークを言っているのだろうか。
題詞にある「布留の滝」とは布留川の上流にある滝で、「桃尾の滝」とも称され、石上神宮の本宮があったとも伝わる。密教の修験の行場でもあったようである。

白山神社
左手に池を見遣りながら進むと、石上神宮の社叢から出る。前方に龍王山からの支尾根であろう丘陵に挟まれた杣之内町の集落が見える。ちょっとした谷戸状の里の民家を抜け、丘陵部の緩やかな坂を上り切ったところに白山神社が鎮座する。
神仏混淆の頃は白山権現と称され、境内にはお寺様があり、十一面観音が祀られていたとのこと。祭神は菊理媛神(きくりひめのみこと;くくりひめのみこと、とも)。菊理媛神も謎の神である。『日本書紀』に一瞬だけ登場する。 黄泉の国で、伊奘諾尊(いざなぎ)は変わり果てた伊弉冉尊(いざなみのみこと)を見て逃げ出す。が、追いつかれた伊奘諾尊と相争うとき、伊弉冉尊の言葉を取継ぎ、「何か」を言った菊理媛神の言葉がきかけとなり、ふたりは仲直りし、伊奘諾尊は黄泉の国から帰って行った、とのこと。だが、何を行ったのかは書かれていない。
そして、これもその経緯は不明だが、菊理媛は加賀の白山や全国の白山神社に祀られる白山比咩神(しらやまひめのかみ)と同一神とされる。白山神社に祀られる所以である。
●峯塚古墳
それはともあれ、この丘陵は古墳地帯とも言われる。『大和・飛鳥考古学散歩:伊達宗泰(学生社)』にあった地図をみると、この辺り一帯には、物部氏が5世紀から6世紀にかけて築造した「西山古墳」や「塚穴山古墳」など、杣之内古墳群が点在するが、この丘陵の南西の裾辺りに、そのうちのひとつ「峯塚古墳」がある。
チェックすると。全長11mの横穴式石室を残す円墳とのこと。築造時期は7世紀というから、物部氏の一族である石上氏による最後の古墳とも言われるようだ。当日は、こんな古墳の存在を知る由もなく、神社にお参りし、先に進んだ。常のごとくの「後の祭り」である。

大日十天不動明王の石標
白山神社を越え、左に開けた彼方の山々を眺めながら、ゆるやかに下ると国道26号の下を潜る。道はその先から、ゆるやかな上りとなり、ほどなく道が分かれる。その分岐点に「左 大日十天不動明王」と刻まれた道標がある。
名前に惹かれ、寄り道を、とは思うのだが、ひたすら距離を稼ぐK元監査役の御威光(ご意向)に遠慮する、と言うか、実際は、お不動さままでの距離が示されていなかったため、道なりに右へと山の辺の道を進むことにした。
●大日十天不動明王
十天神とは仏教において六道の一つである天部に住み仏教を護る神の内、八方(東西南北と東北・東南・西北・西南)を護る八方天に天地を護る二天を加えたもので、密教では四天王とともに重視される、と(Wikipedia)。 方位といった自然を神格化したこれらの神様は、自然と調和して災難を払うことになる。東(帝釈天)、西(水天)、南(焔魔天)、北(毘沙門天)、東北(伊舎那天)、西北(風天)、西南(羅刹天)、天(梵天)、地(地天)が十天であり、全方位からの災難に耐えうる守護神と言うところだろうか(残りの二天は日(日天)と月(月天))。
因みに大日十天不動明王は、この分岐から最明川を結構上ったところにあるようで、密教修験の行場がある、との記事があった。

芭蕉歌碑
道を進むと山の辺の道は溜池に沿って左に折れるが、その溜池の堤に芭蕉の句碑が建つ。
その手前に案内があり、「芭蕉句碑 うち山やとざましらずの花ざかり  宗房 この句は、松尾芭蕉(一六四四~一六九四)が江戸へ下る以前、まだ出生地の伊賀上野に住んで、「宗房」と号していた頃の作品である。いつの頃にこの地を訪れて作られたか、それは明らかではないが、寛文十年(一六七〇)六月頃刊行の『大和順礼』(岡村正辰編)に収められているところから、この年以前、すなわち二十三、四歳の頃までに詠んだものであろう。
[句意]
今、内山永久寺に参拝してみると、見事なまでに満開の桜で埋め尽くされている。土地の人々はこの桜の花盛りをよく知っているのであろうが、外様(よその土地の人々)は知るよしもないのである」とあった。

内山永久寺跡
溜池を回り込んだ辺りに芭蕉の句にあった「内山永久寺」跡の案内があった。「永久寺跡 永久年間(1113~7)に建立された寺で鳥羽天皇の受戒の師であった亮恵上人の開基と伝えられています。
本尊は阿弥陀如来で石上神宮の神宮寺として盛時には大伽藍を誇っていたと伝えられています。その後寺勢がおとろえ、明治の廃仏毀釈で廃寺となって、いまではわずかに池を残すだけで歴史のきびしい流れを感じさせられます」とあり、また、その傍にも「廃物稀釈の嵐にのみ込まれた幻の大寺 鳥羽天皇の勅願で創建され、東大寺、興福寺、法隆寺に継ぐ(注;ママ)寺領を有し、その規模と伽藍の壮麗さから西の日光と称された。
しかし、明治の神仏分離令・廃仏毀釈により壮麗を極めた堂宇や什宝はことごとく破壊と略奪の対象となり、仏像・仏画・経典などは国内外に散逸した。いま各地に残る難を逃れた宝物とこの地に残る本堂池のみが、かつての大寺に栄華を伝える」とある。

案内にあった盛時の永久寺を描く画を見るに、まさに七堂伽藍が林立する大寺である。開基は興福寺の二大塔頭のひとつ大乗院(摂関家や将軍家の子弟が門主となる門跡寺。もうひとつの一乗院は天皇家の子弟を門主とする門跡寺)の僧であった関係上、大乗院の末寺として整備され、神仏混淆の流行と共に石上神宮の別当としての役割も担い、室町時代には大伽藍を有する寺院となったと言う。
案内には「西の日光」とある。当然江戸の頃の形容だろうが、江戸時代直前の頃には56の坊・院が並び、江戸の頃には、浄土式回遊庭園の周囲に、本堂、観音堂、八角多宝塔、大日堂、方丈、鎮守社などのほか、多くの院家、子院が建ち並んでいた(Wikipedia)とのことである。
また、案内には「法隆寺に継ぐ寺領」とあったが、法隆寺は1000石、永久寺は秀吉が971石の朱印地を与え、江戸時代にもこの寺領が維持された(Wikipedia)とあった。
●菅御所跡
しかし辺りは一面の野原で、なにもない。なにか遺構でもないものがと、あたりを歩くと道端の林の中に石碑があり「菅御所跡」と刻まれる。チェックすると、延元元年・建武3年(1336年)には後醍醐天皇が京から吉野に落ち延びる時、一時ここに身を隠したと伝えられる御所跡とのことである。
◆馬魚(ワタカ)伝説
「菅御所」と後醍醐天皇をチェックしていると、目の前にある池に棲む魚と後醍醐天皇の伝説が現れた。いろいろバリエーションはあるが、後醍醐天皇の逃避行の折り、共にした馬が馬魚(ワタカ)なる、といったもの。危難をさけるべく切り落とした馬の首を池に落とすと馬の如く草を食む魚となったとか、力尽き息絶えた馬が池の魚に乗り移り、馬の顔をし、草を食むようになったとかあれこれ。
それはそれとして、この馬魚(ワタカ)は大正3年(1914)に石上神宮の鏡池に移されたと言う。そういえば、石上神宮で山の辺に道へと右に折れる時、池がありそれが鏡池であった。馬魚(ワタカ)の案内もちらっと見たのだが、通り過ぎた。常の如くの後の祭りではある。
因みに馬魚(ワタカ)は、琵琶湖と淀川に棲む日本特産の魚であり、いつの頃か誰かが淀川付近のワタカをこの本堂池へ放ったのが繁殖したとされる。馬魚が草を食べることから、草を食べる>馬>後醍醐天皇と馬+永久寺の本堂池=馬魚(ワタカ)伝説が生まれたのだろう。

●廃物稀釈
それにしても徹底的な破壊である。散歩をしながら明治の廃物稀釈によるお寺さまの跡に出合うことはあるが、このような大寺がこれほどまで徹底的に破壊されるって、なんらかの「因」があるのでは?
チェックすると、このお寺さまは修験道の一派である当山派の一寺として重要な役割を担っていたようである。中世、当山派修験は興福寺金堂衆を中心とする興福寺末寺で構成する寺院の山伏で組織され、中世後期には内山修験(上乗院)は当山派修験の中で重きをなしていた、と言う。
明治政府は修験道に対し、徹底的な弾圧を行っており、そのことが大きな要因のようにも思える。

その他、寺組織が上乗院をトップとした上意下達の組織であったことが、「廃仏毀釈」の指令が徹底した、また、地域住民との接点を全く持たない「貴族」の寺院であったこともその要因と言われる。地域に密着しておれば、せめて神社だけでも残るはずであろうから。

それと、この徹底的破壊で思い起こすのは、いつだったか歩いた阿讃山脈の箸蔵寺。このお寺さまが神仏分離令にもかかわらず、神仏混淆を今に残す風情にフックがかかり、チェックすると、この寺は真言宗御室派であり、本山は門跡寺の仁和寺。明治維新時の門跡である小松宮彰仁(こまつのみやあきひと)親王は戊辰戦争で旧幕府軍を討伐する官軍の総大将となった。新政府軍の総大将が真言宗御室派のトップであったことが、箸蔵寺が神仏分離を免れた理由のようであった。これも歴史の「IF」にはなるが、江戸の頃永久寺が興福寺の支配下から離れず、真言宗寺院とならなかったら、石上神宮で見た摂社出雲建雄神社拝殿のような幾多の国宝が今に残ったかとも。思っても詮無いことではあるが。

十市 遠忠歌碑
内山永久寺から先、緩やかな坂を上る。雰囲気のある風情の道を進むと道端に歌碑。「布留法樂卅首中月前鴈 月待て 嶺こへけりと 聞ままに あはれよふかき はつかりの聲 十市遠忠」とある。
Wikipediaに拠れば、室町から戦国時代にかけての武将。龍王山に城を構え大和国西北部だけでなく、伊賀にまでその領地を拡げた。武勇に優れ、歌道(三条西実隆に師事)や書道にも通じ、文武両道の武将として十市氏の最盛期を築いた、とあった。

白山神社
石畳の山の辺の道を進むと道沿いに社がある。白山神社である。祭神は白山比咩命、素戔鳴命。素戔鳴命は末社に祀られていたものとのこと。この社、元は「園原社」と称されたようである。本殿裏に「奥の院跡」の石碑があるとのことだが、そこが園原社の祀られていた場所だろうか。
白山権現と称されるようになったのがいつの頃か定かではないが、天明7年(1787)と刻まれた石灯籠があるようで、18世紀には白山権現となっていたのだろう。尚、「神社」という名称は、この社に限らず、すべて明治になってからのことである。

天理観光農園
白山神社から道を進むと、風情ある峠道から一転、民家の間を進む舗装された道となる。と、道の左手の平場に「園原中央標」と刻まれた石柱が建つ。チェックするも、不詳。
しっかりとした造りの農家を見遣りながら、緩やかな道を下るとほどなく天理観光農園が左手に建つ。地図にある「峠の茶屋」とはカフェもあるこの建物のことだろうか。ここではミカン狩りとかバーベキュウなどがたのしめるようである。

夜都伎神社へ
道を下り、「道路開道(通)碑」が建つT字路を、「夜都伎神社 竹ノ内環濠集落」の標識に従い左に折れる。奈良盆地が一望のもと。広い道路を下り、左手に建つ「夜都伎神社」の標識を目安に道を左手に折れる。
道の下方向に小高い独立丘陵が見える。散歩当日は知らなかったのだが、この独立丘陵は先ほどメモした「杣之内古墳群」の南端となる東乗鞍古墳とのことであった。
●東乗鞍古墳 
西に前方部を向けた全長72mの前方後円墳。横穴式石室の石棺が遺存している。また、その下方には南に前方部を向けた全長102mの西乗鞍古墳が盆地を見下ろす。

夜都伎神社
小径を進み夜都伎神社に。小振りながら鳥居から社叢へのアプローチは、左手に耕地を見遣りながらの素朴な感じがいい。檜皮葺の本殿にお参り。檜皮は新しく、最近葺き替えたもののように思える。
鳥居脇にあった案内には「天理市乙木町の北方集落やや離れた宮山(たいこ山ともいう)に鎮座し、俗に春日神社といい、春日の四神を祀る。社は古墳跡に建つと言う。
乙木には、もと夜都伎神社と春日神社との二社があったが、夜都伎神社の社地を竹之内の三間塚池と交換して、春日神社一社にし、社名のみを変えたのが現在の夜都伎神社である。当社は昔から奈良春日神社に縁故深く、明治維新までは、蓮の御供えと称する神饌を献供し春日から若宮社殿と鳥居を下げられるのが例となっていると伝える。
現在の本殿は明治39年(1906)改築したもので、春日造檜皮葺、高欄、浜床、向拝彩色七種の華麗な同形の四社殿が末神の琴平神社と並列して美観を呈する。拝殿は藁葺で、この地方では珍しい神社建築である。
鳥居は嘉永元年(1848)四月、奈良の春日若宮から下げられたものという」とあった。
●乙木
「夜都伎」は「やつき」とも「やとぎ」とも読まれる。この社のある「乙木(おとぎ)」からの音の転化とも言われる。その「乙木」も、緩やかな峠といった「小峠(おとうげ>ことげ)」からの音の転化とのこと。地名の由来はバリエーション豊かで面白い。
Wikipedia1には「乙木村は、古くは興福寺大乗院及び春日大社領の乙木荘で、そのため春日大神を当地に勧請したものとみられる。約200m北に東乗鞍古墳、約300m北西に西乗鞍古墳があり、当地も宮山(たいこ山)と呼ばれ、古墳を削平して神社を造営したと言われている」とあった。

竹之内環濠集落
道は古き風情を残す乙木村の集落を抜ける。しっかりとした造りの家並みの間の小径を抜け、耕地の中を進むと左手に竹之内の集落が見えてくる。
集落の入り口、西の端に濠が見える。「環濠」とすれば、かつては集落を囲んでいたのかとは思うが、現在は埋め戻されたのか、集落の西端部分だけに濠が残っているようである。
集落入り口にあった案内には「竹之内環濠集落 奈良盆地には、集落の周囲に濠をめぐらしたものが非常に多い。
大和は、室町時代になると戦国期の動乱による影響を強く受け、自衛手段として防御する方法から、集落の周囲に濠を区画していたものと思われる。
そうした環濠も現在では、戦乱の防御から灌漑用に転用されたものが姿を留めている。
天理市では、竹之内町のほかに備前町、南六条町、庵治町の溝幡で環濠の痕跡をよく留めている。一般的に環濠集落は低地部で発達した集落の形態であるが、竹之内町のように標高百メートルの山麓に立地するものは、県下でも数少ない。 現在、竹之内町では、集落の入り口付近まで残っていた環濠が埋め戻され公園になっており、集落の西側で南北に区画する濠の一部が今でも残っている」とあった。
また、休憩所の傍にも同様の案内が写真付きであった。案内には「竹之内町は建武3(1336)年の記録(春日神社文書)にも現れる歴史の古い集落です。中世に築かれたと考えられる濠が集落の西側に現在も残っており、「竹之内環濠集落」として知られています。
奈良盆地には集落の周囲に濠をめぐらす「環濠集落」が多くみられます。一般に環濠集落は室町時代以降に出現したもので、戦国の動乱の中、外敵から集落を守るための防御施設として築かれたものと考えられています。現在も環濠の姿を留めている集落では、濠が用・排水に利用されている例が多いことから、もともとこうした濠は防御施設としての機能のほかに水利施設としての性格も兼ね備えていたとする見方もあります。
天理市には竹之内町のほかに、備前町、南六条町、庵治町溝幡が比較的よく姿を留める環濠集落として知られているほか、かつて環濠を有していた可能性がある集落も多数存在しています。多くの環濠集落は盆地内の低地に営まれていますが、竹之内町は標高100m前後の見晴らしのよい斜面上にあり、環濠集落としては奈良盆地内でも最も高いところにあります。
竹之内町では集落西側の入口付近に最近まで残っていた環濠が埋め戻されて公園となっていますが、その北側には今も環濠が残り、往時の佇まいを偲ぶことができます。 平成24年10月 天理市教育委員会」とあった。
ほぼ同じ内容ではあるが、ひとつフックが掛かった箇所がある。「もともとこうした濠は防御施設としての機能のほかに水利施設としての性格も兼ね備えていたとする見方もあります」という箇所である。防御もさることながら水利施設としての役割が重視されている。

●溜池灌漑と小河川灌漑
この箇所にフックが掛かったのは、先回のメモでも述べた私のお気に入りの書籍、『日本人はどのように国土をつくったか;上田篤他(学芸出版社)』の「秋津洲の山と神々(奈良盆地はいかにつくられたか)」の中の「溜池灌漑と小河川灌漑」の解説との関連性。
そこでは、「弥生時代から古墳時代(ほぼ西紀3世紀末から7世紀前半頃)にかけて、各地で小地域ごとの部族国家が統合し始める。やがて前方後円墳に代表されるような階級支配が進むのである。その大きな経済的基盤となったのは溜池築造を中心とした乾田開発の拡大だと考えられる」とし、続けて、「谷間や小川に小さな堰堤を築いて溜池とし、そこから水のかからない土地に、緩傾斜を利用して水を導き、水稲耕作が可能な乾田を開発する。この溜池灌漑の適地は、年間降水量が比較的少なく、夏期高温地帯で緩傾斜地形の山の辺であったという」と述べる。地図で確認しても、山の辺の道の通る大和高原に幾多の溜池が見える。
先回の水分神社のメモで、奈良盆地の大和川に流れ込む支流は、その分水界の狭き故、流量の乏しい小河川であると述べた。同書では、この流量の乏しい小河川であったことが奈良盆地において小河川灌漑を発展させた要因とする。 即ち、溜池灌漑で富を蓄積した部族の支配者たちは、四方の山から流下してくる小河川から直接取水し、「用水の乗りやすい緩斜面の小規模な谷底低地や扇状地などに水田開発」を拡げて行った。そして、河川から用水を直接取水するには高度な技術が必要であるが、奈良盆地は水量の乏しい小河川であったが故に、それが容易であった、と説く。
実際、古墳時代の豪族の支配地は、小河川に沿った、段丘から扇状地そして平地に至る山の辺にある。同書にある豪族の支配地と山の辺の川を併せてみると、奈良盆地の東では、和邇氏(奈良)の支配地は佐保川と布留川に挟まれた山の辺、物部氏(天理・桜井)は布留川と初瀬川に挟まれた山の辺。奈良盆地の南の青垣は、初瀬川と寺川の間に山の辺に阿部氏、寺川と米川の間に大伴氏、蘇我川と飛鳥川の間に蘇我氏、蘇我川と葛城川の間に巨勢氏。西の葛城山系の水を支配した葛城氏、生駒山系の竜田川を支配した平群氏となる。
そして、それぞれの山の辺の地には水分神社でメモしたように、山口神社が鎮座し、山の口から、勢いよく水を下し落とされる神、田畑を潤す灌漑用水をもたらす神として祀られている。
環濠集落の「濠は水利施設としての性格」という記述から妄想が拡がった。実際、山の辺の道を歩きながら、何故にこのような山の辺に道が通るのか?古墳が現れるのか?散歩の当日は、遙なる昔、奈良盆地は湖であったようで、二上山の噴火で山塊に切れ目ができ、水が奈良盆地から「大和川」として流れだし、湖は消えたと言う。が、現在はその面影はないが、地勢図を見ると奈良盆地は、強湿地、半湿地、半乾半湿がほとんどである。それ故、湿地を避けて山の辺に道を通したのか、とも思ったのだが、前述の書籍を読み、この山の辺であるからこそ王権の基盤となる地であり、それゆえに道を通したようにも思えてきた。

◆水分神社(みくまり)
『日本人はどのように国土をつくったか;上田篤他(学芸出版社)』の水分神社の解説;先回の散歩でもメモしたが、大雑把にまとめると、奈良盆地に流れる幾多の小河川はすべて大和川に合わさり、ひとつの流れとなって奈良盆地を出て河内平野に流れ出る。その大和川に注ぐ支流は流量が乏しく、年間を通じての供給量も不安定であった。その要因は、瀬戸内式気候もさることながら、「青山四周(よもめぐ)れり」と形容される、奈良盆地を囲む山稜は奈良盆地側の分水界が狭く、保水能力が乏しいことにある。
そのためか、大和の川(大和川、木津川、紀の川)の上流には、水を豊かに分かち与えてくれる水分神社が祀られている。これらの神社は『延喜式』の祝詞に奏上されるほど重視された社であった、と言う。 その水分神社と称する社の中で、大和川水系の水分神社は葛城川上流の葛城水分神社のみであるが、奈良盆地を囲む山麓地帯にある山口神社と呼ばれる社が14社ほどあり、その山口神社も水分神社とされる。山口に座す神は、勢いよく水を下し落とされる神であり、田畑を潤す灌漑用水をもたらす神故の命名であるとする。

「古事記・日本書記・万葉集」の案内
道を進み、竹之内集落と萱生集落の境辺りに山の辺の道のルートや写真とともに「古事記・日本書記・万葉集」の案内があった。
案内には「大和王権の創始者たちは奈良盆地の東南部に宮殿を構え国家建設を進めた。丸邇坂(わにさか)①では王権軍が反乱軍を制圧するため北進する途中、戦勝の祈願をした(崇神/すじん記・紀)。王たちは死後、いまも残る巨大な墓に葬られた⑪⑫(崇神/すじん記・紀、成務/せいむ紀)。
国を守る神々も登場する。宮殿に祀られていた日本大国魂大神(やまとおおくにみたまのおおかみ)と天照大神(あまてらすおおかみ)が強力すぎる威力のために、別の地に写し祀(まつ)られた⑧⑬(崇神紀)。最古の神社のひとつで神剣を主神とする石上神宮(いそのかみじんぐう)⑤には皇子が千本の剣を奉納している(垂仁/すいにん記・紀)。当社は有力者たちが武器や宝を奉納する特異な神社だったと考えられる。
  貴族の悲哀の物語も記されている。豪族・物部(もののべ)氏の娘の影媛は恋人・平群鮪(へぐりのしび)の死を知り、この道を布留(ふる)⑥を通り平城山(ならやま)まで駆けたという(武烈/ぶれつ即位前記)。
●古事記
712年に編纂された日本最古の歴史書。稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗誦していた神代から推古天皇までの歴史や神話、歌謡をもとに太安万侶(おおのやすまろ)が編集した。崇神(すじん)天皇の陵墓「山邊道勾岡上陵(やまのへのまがりのおかのへのみささぎ)」として山の辺の道は記される。
●日本書記
720年に国家事業として編纂された日本最初の正史(せいし)。神代から持統天皇までの歴史で、朝廷や寺院または朝鮮や中国に伝わる様々な資料がもとになっている。崇神天皇の「山邊道上陵(やまのへのみちのへのみささぎ)」として山の辺の道は記される。
●万葉集
歌聖といわれる宮廷歌人・柿本人麻呂は、布留では秘めた恋心の歌をよんだ。「未通女等が 袖布留山の 瑞垣の 久しき時ゆ 思ひき吾は」。また龍王山に葬った妻への思いを歌った。「衾道を 引手の山に 妹を置きて 山路を行けば 生けりともなし」。和邇下神社付近には彼の遺髪を葬った歌塚がある。いにしえの人々は、神が宿るという森や恋人が住まう里を愛し、布留や弓月ケ岳、穴師、巻向、桧原、三輪山などの地を歌に織り込んだ。「石上 布留の高橋 高々に 妹がまつらむ 夜そ更けにける」には、高く背伸びをして恋人を待つ女性の姿が描かれた(歌碑は天理駅前)。彼らのことだまは、山の辺の道に苔むしてただずむ歌碑に刻まれ、いまも息づかいを伝えている。
◆万葉集
8世紀奈良時代に編纂された日本最初の歌集。約4500首は貴族や兵士、民衆など多彩な人々の歌で構成されている。登場する奈良県内の地名はのべ約900におよび、山の辺の道沿いには多くの万葉歌碑が建つ。後世に歌聖といわれ神格化された飛鳥時代を代表する宮廷歌人・柿本人麻呂は、天理市北部の櫟本(いちのもと)付近の出身といわれている」とあった。

散歩の途中で登場した既に登場したもの、これから登場するであろうもの、そして古事記・日本書記・万葉集について頭を整理するにはいい案内であった。なお本文中の①といった番号は地図の番号を示すものであるが、ママ掲載した。

「大和古墳群」の案内
更に先に進むと、道脇に「大和古墳群」の案内があった。今回のメモはここまで。次回は、山の辺の道を辿るまで、思いもよらなかったヤマト王権の古墳群をメモすることにする。

前職での監査役K氏から奈良・山の辺の道を歩きませんか、とのお誘い。奈良といえば、「山の辺の道」とか「竹内街道」は以前から名前だけは知っており、そのうち歩いてみたいと思っていた街道であり、即答で諾、と。
段取りはすべてK氏にお任せ。宿の手配から歩くルートまですべてK元監査役にお世話になった。それではと、道すがらの名所・旧跡などについて事前に調べれば少しはお役に立つかとも思うのだが、如何せん、実際に歩くまでは、よほどの険路・難所以外は事前に調べる気にならない「性分」である。それゆえ後の祭りもおおいのだが、今回も常のスタイル。実際に歩いて、何らかの「フック」がかかれば、それから調べよう、といったものであり、ルートも前泊の奈良のホテルでK元監査役から地図をもらい、はじめてわかった、といった為体(ていたらく)であった。
「山の辺の道」って「青山四周(よもめぐ)る」奈良を囲む、東の「畳なづく青垣」である大和高原の裾を、奈良から桜井まで進む道であることも奈良のホテルでの打ち合わせではじめてわかったこと。その山の辺の道を、今回の散歩では、天理市の石上神宮(いそのかみ)から桜井市の三輪山の山裾にある大神(おおみわ)神社まで歩くという。距離はおおよそ12キロから14キロ程度だろうか。
その時は山の辺の道の始まりの社、そして終点の社、また、途中に、これでもかというほど登場する、ヤマト王権のはじまりの頃の大王の古墳といった「古代史の謎」のど真ん中を歩くことなど夢にも思わず、山麓の小径をのんびり、ゆったり歩くといった想いではあった。
で、山の辺の道を歩いた後、さて散歩のメモを、と思うのだが、古代史にそれほどフックがかからない我が身には、少々荷が重い。始まりの石上神宮(いそのかみ)は「謎の物部氏」ゆかりの社であり、終わりの三輪山・大神神社(おおみわ)は、これまた謎多き「大物主・大国主」を祀る社、その途中に、思いもよらずの巨大古墳群が現れる。
高松塚古墳とか箸墓古墳くらいは知っていたのだが、奈良の大和高原の裾にこれほど多くの古墳があることを初めて知り、奈良の古代史といえば、飛鳥(明日香)宮>藤原京>平城京といった程度のお気楽な古代史の知識を一から整理しなければならなくなった。山の辺の道って、大和朝廷に繋がる古代ヤマト王権の地を辿る道であったわけである。
ことほど左様に、神話や歴史のレイヤーが幾重にも積み重なる古代史の迷路を解きほぐして、自分なりに納得できる散歩のメモが書けるとも思えない。気持ちは、今回の散歩メモはパスしたいのだが、「歩く・見る・書く」を基本としているわけで、それはならじと、気持ちを入れ替えて、お題が「謎からはじまり謎の地を辿り謎で終る」散歩であるので、あまり知らないヤマトの古代史をちょっとだけ覗いて。頭の整理をするにはいい機会かと、メモをはじめることにした。

本日のルート;石上神宮>高蘭子歌碑>阿波野青畝歌碑>僧正遍照歌碑>白山神社>大日十天不動明王の石標>芭蕉歌碑>内山永久寺跡>十市 遠忠歌碑>白山神社>天理観光農園>(東乗鞍古墳>夜都伎神社>竹之内環濠集落>「古事記・日本書記・万葉集」の案内>「大和古墳群」の案内>波多子塚古墳>柿本人麻呂の歌碑>西山塚古墳>萱生環濠集落>大神宮常夜灯>五社神社>手白香皇女衾田陵>燈籠山古墳>念仏寺>中山大塚古墳>大和神社の御旅所>歯定(はじょう)神社>柿本人麻呂歌碑>長岳寺>歴史的風土特別保存地区(祟神・景行天皇陵)>祟神天皇陵>櫛山古墳>作者不詳の歌碑>武田無涯子歌碑>景行天皇陵>天理市から桜井市穴師に入る>額田女王歌碑>柿本人麻呂歌碑>柿本人麻呂歌碑>桧原神社>前川佐美雄歌碑>高市皇子歌碑>玄賓庵>神武天皇歌碑>伊須気余理比売の歌碑>狭井川>三島由紀夫・「清明」の碑>狭井神社>磐座神社>大神(おおみわ)神社

近鉄奈良駅
前泊のホテルのある近鉄奈良駅近くのホテルでK元監査役と待ち合わせ。K元監査役は東海道、中山道、奥州街道などを歩き倒した猛者であるが、私は東海道の鈴鹿峠越え、中山道の碓井峠越え和田峠越えなどをご一緒した。 トラックの排ガスを吸いこみながら国道を歩いたK元監査役には、常に「いいとこ取り」と言われるが、それでも峠を一人で歩くのは心細げで、それなりにお役に立ってはいるようである。
それはともあれ、ホテルで地図を広げ翌日のルートの説明を受ける。K元監査役も、その日のうちに東京に戻る必要があり、私も散歩を終えて、そのまま田舎の愛媛に戻る関係上、奈良からはじまり桜井まで続く山の辺道のうち、途中の天理市の石上神宮から桜井市の三輪山裾・大神(おおみわ)神社までとすることになった。
また、出発時間は余裕をもたすため、少し早めのJR奈良駅発7時31分、天理駅着7時47分。そして終了時間は3時をデッドラインとし、途中であってもその時間で切り上げることを基本とした。その時点では翌日待ち構える「謎」の数々など思いもよらず、お気楽に就寝した。

JR天理駅
予定通り7時47分にJR桜井線・天理駅に到着。K元監査役の希望もあり、駅から出発点の石上神宮まではタクシーを利用する。
タクシーの窓からは天理教の巨大な施設が続く。市の名前が私的団体に由来するのは、トヨタの豊田市と、この天理市のふたつだけ、とのことである。 で、何故にこの地に天理教が?天理教の教祖が江戸末期、この地、大和国山辺郡庄屋敷村(現在の奈良県天理市三島町)の庄屋の妻であったとのことであった。
タクシーは石上神宮前バス停の少し先、県道51号・布留交差点で下りる。緩やかな上り坂道の先に、緑の大和高原の支尾根が突き出ている。石上神宮の森ではあろう。

石上神宮
その緩やかな坂道を布留川を渡り、5分ほど進むと「石上神宮」と書かれた石柱と石灯籠がある。ここが参道入口。参道を進むと鳥居があり、その傍に歌碑があり、「柿本朝臣人麻呂 未通女等之 袖振山乃 水垣之 久時従 憶寸吾者」と刻まれる。



●柿本人麻呂の歌碑
「未通女等(おとめら)が 袖布留山(そでふるやま)の 瑞垣(みずかき)の 久しき時ゆ 思ひきわれは」と詠むようだ。昭和43年(1968)に建立された万葉歌碑であり、石材は後ほど訪れる内山永久寺跡の敷石が活用されたようである。 意味は「おとめ達が愛しき思いで袖を振る、布留山の社の瑞垣が神代の昔から続くように、長い年月私はあなたを恋い続けている」と言ったところだろうか。 「未通女等(おとめら)が 袖」までは地名「布留」を起こすための「序詞」であり、「振る>布留」と掛けて、石上神宮の鎮座する「布留山」を起こし、布留山の瑞垣に繋げている。また、「未通女等が 袖布留山の 瑞垣の」までのフレーズもまた、「久し」を引き出す序詞となっており、要は、「袖振る」で恋愛感情を想起させながら、「(神代の昔から続く)布留山の瑞垣」のように誠に長い年月、あなたを想い続けている。ということだろう。

◆布留山
で、ここで幾つかフックがかかる。まずは石上神社の鎮座する山が「布留山」と呼ばれたということ。大和高原の龍王山の西の麓、標高266mの山であり、山中には岩石からなる磐座(いわくら)がある、とのこと。神代の昔、山自体を神体とする神奈備山であったのだろう。
◆瑞垣
また、神代の昔からあったとされる「瑞垣」とは?チェックすると、石神神宮の拝殿の後方に、石上神宮の中で最も神聖な霊域とされている「禁足地」があり、その禁足地の周りを囲んでいる石垣根が「瑞垣」とのこと。神体山の祭祀をおこなった霊域とのことである。

●神杉
大鳥居を越えた参道脇に注連縄の張られた巨大な杉がある。幹囲り4m強、樹齢は400年前後、高さは40m弱にもなる、と言う。社の御神木である。人麻呂も社に茂る神杉を、「石上 布留の神杉 神さびし 恋をも我は 更にするかも」と詠む。「石上神宮の神杉のような神々しい恋をさせてほしい」といった意味かとも。
また、万葉集には作者不詳ではあるが、「石上 布留の神杉 神びにし 我れやさらさら 恋にあひにける」といった歌もある。「久しく恋とは無縁の生活(神びにし)を送っていた年を取った自分が、また恋に出会ってしまった」との解釈もあるようだ。歌の意味はともあれ、石上神宮の神杉が神奈備山ならではの「神々しい・恐れ多い」といったイメージをもつものだったのだろう。


●鶏
歌碑のチェックや神杉のチェックで、石上神宮のことが少しわかってきた。もとより、当日はそんなこと知るよしもなく、歌碑や杉の老木の写真を撮っただけではある。
参道を進む。と、参道を闊歩する長い鶏が目につく。石上神社の眷属だろうか。 眷属と言えば、お稲荷さんは狐、天神さんは牛、春日大社は鹿、日吉神社は猿、熊野大社は烏、三峰神社は狼、といった程度は知っていたのだが、チェックすると伊勢神宮も天の岩戸の長鳴鳥に由来する鶏が眷属とのこと。が、石上神社に鶏が闊歩しはじめたのはそんなに古いことでもないようで、「眷属」とまではなっていないような記事が多かった。

楼門
参道脇の手水舎で身を浄め、参道左手に建つ楼門より石上神宮の社に入る。鎌倉末期、後醍醐天皇の御世である文保2年(1318)の建立。重要文化財に指定されている。入母屋造・檜皮葺の美しい建物である、当初は鐘楼門であったようだが、明治の神仏分離令により鐘は取り外された
●入母屋
Wikipediaに拠れば、入母屋造とは、屋根が「上部においては切妻造(長辺側から見て前後2方向に勾配をもつ)、下部においては寄棟造(前後左右四方向へ勾配をもつ)となる構造をもつ」建物のこと。また、続いて、「日本においては古来より切妻屋根は寄棟屋根より尊ばれ、その組み合わせである入母屋造はもっとも格式が高い形式として重んじられた」とあった。

拝殿
楼門を入ると正面に拝殿が建つ。入母屋造 檜皮葺の美しい建物である。母屋(建物)の周囲には庇(ひさし)を巡らし、正面中央には向拝(江戸時代に増築)がついている。
建造は平安末期、白河天皇が五所の建物を移したとの言い伝えがあるも、建築様式からして鎌倉時代初期とされる。拝殿建築としては最も古い時期のものとされ、国宝に指定されている。

●拝殿が神奈備山・布留山に向かっていない?
拝殿にお参りしながら、ちょっと疑問。拝殿が神奈備山である布留山に向かっていない。これってなんだろう?この疑問は参道を進み、参道の正面ではなく、楼門を潜るため左に折れたときから感じていたことでもある。
何か拝殿の由緒に関する案内でもないものかと、あちこち見るも、それらしきものは見つからなかった。当日は、疑問のままにしておいたのだが、メモをする段階であれこれチェックすると、いくつか「妄想」のヒントになる事柄が見えてきた。
◆禁足地
既に人麻呂の歌碑のところで、「拝殿の後方に、石上神宮の中で最も神聖な霊域とされている「禁足地」があり、その禁足地の周りを囲んでいる石垣根が「瑞垣」と」とメモした。「布留社」とも称する。
現在は拝殿の後ろに本殿が建つが、それは明治7年(1874)に行われた禁足地の発掘調査により出土した、「布都御魂剣(ふつみたまのつるぎ)」などの神宝を祀るために、大正2年(1913年)に建てられたものとのことである。
◆布都御魂剣
で、その「布都御魂剣」であるが、石上神宮はその「布都御魂剣」に宿る「布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)」をその祭神とする。そして、その「布都御魂剣」は『日本書記』に、物部氏の租とされる神話上の神・饒速日命(ニギハヤヒ)と神武天皇の戦いの中に登場し、途中は省くが、結果的には饒速日命(ニギハヤヒ)の子である宇摩志麻治命(ウマシマジノミコト)が神剣・「布都御魂剣」を授かり、ヤマト王権(このメモをするまで「大和朝廷」と思っていたのだが、初期の頃は「ヤマト王権」、「ヤマト大王家」と称するようだ)の宮中にて奉祀することになる。
その後、祟神朝の頃(3世紀から4世紀にかけての時期)、伊香色雄命(イカガシコオノミコト)が、山辺郡の石上邑に建布都大神(たけふつのおおかみ;『日本書記』には経津主神(ふつぬし)、『古事記』では建御雷之男神とされる)を遷し、石上大神を創建。神剣・「布都御魂剣」は物部氏の氏神としたこの社に祀られることになった(『大和の豪族と渡来人;吉川弘文館(加藤謙吉)』)、と言う。

◆神奈備山信仰から戦の神への信仰に?
それでは、何故に神体山に向かうことなく、拝殿が建つのか、ということだが、これからは単なる妄想;元は神体山の祭祀の場として布留山に向き、物部氏(の先祖達)、そして物部氏の天孫(侵攻)以前にこの地を開いた人々も、神奈備山を祀っていたのではなかろうか。参道も現在の大きな参道ルートとは異なり、布留川を渡り社へと続いていたようだ(『大和・飛鳥考古学散歩;伊達宗泰(学生社)』)。
が、上でメモしたように、祟神朝の頃、「布都御魂剣」が石上大神と号した物部氏の氏神に「布都御魂大神」として祀られて以降、神奈備の布留山を祀るより、ヤマト王権の戦の死命を制する神宝である「布都御魂剣」の神を祀る方に重点が移り、鎌倉期に拝殿が造られた時には、神奈備山に頓着することなく、現在のような配置となったのではなかろうか、と。

◆物部氏の氏神・石上神宮は武器庫でもあった
実際、ヤマト王権にて武具の製造や管理を担うことになった物部氏に祭祀されたこの社は、ヤマト王権の武器庫ともされていたようだ。平安初期に武器を京都に移すに際し、武器の数が膨大で、運搬の人員に15万7千余人を要したと『日本書紀』にある(実際は中止となったようだ)。
また、物部氏は単に武器の管理を担うだけでなく、初期のヤマト王権・祟神天皇の先兵としてその軍事をもって王権確立に貢献し、後世、雄略天皇の時期に大王直属の軍事力を組織し、軍事力で奈良盆地に割拠する豪族を支配し、更には奈良の外へと王権の拡大に寄与したようである。

妄想をまとめるとすれば、ヤマト王権・王朝の拡大につれ、豊な山とそこから流れ出す水といった、神奈備の山への自然信仰より、動乱に勝利する武器・戦いの神へと、祭祀の主体が映った結果が神奈備山の布留山に拝殿が対していない要因かも。単なる妄想。根拠なし。

●物部氏と饒速日命(ニギハヤヒ)
「布都御魂剣」をチェックしながら、物部氏とその物部の祖にあたる饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が結構気になった。『日本書紀』に「及至饒速日命乗天磐船。而翔行太虚也。睨是郷而降之。故因目之曰虚空見日本国矣」とある。 「饒速日命が天磐船(あめのいはふね)に乗(の)り、太虚(おほぞら)を翔行し、是(こ)の郷(くに)を睨(おほ)りて降(あまくだ)りたまふに及至(いた)りて、故(かれ)、因りて目(なづ)けて、「 虚空見(そらみ)つ日本(やまと)の国(くに) 」と曰(い)ふ」といった意味である。

◆饒速日命は神武天皇より先にヤマトに降臨(侵攻)
このフレーズの前提は、「東に美しき地(くに)あり 青山四周(よもめぐ)れり」と奈良盆地がミヤコにふさわしいとは思うのだが、このフレーズにあるように、その地には既に饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が降臨し、日本(ヤマト)と名付けている、と「神武天皇」が教えられている、ということ。 この場合のヤマトとは広義の奈良盆地を指すのではなく、北は布留川から南は初瀬川に挟まれた大和高原の南東部裾野を指すようではあるが、それはともあれ、ポイントは神武天皇のヤマト降臨(侵攻)より先に饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が降臨(侵攻)しているということである。

◆軍事力に勝る饒速日命は何故に、神武天皇に恭順したのだろう? 
そして、それ以上に、なんとも解せないのは、先住の饒速日命勢は軍事的には神武勢を圧倒しているように思えるのだが、神武天皇に禅譲というか恭順していることである。その理由は?わからない。さっぱりわからない。

わからないが、唯一自分なりに納得できる解釈は、饒速日命は神武天皇にとって,軍事力では倒すことの出来ない存在、連盟・同盟関係を結ぶことによって神武天皇がヤマトに「入れる」存在であったことを、この神話が暗示しているのではないだろうか。要するに、天孫族って、降臨(侵攻)当初は、武力でもって先住豪族を支配できる力を持っていなかった、ということだろう。

◆大王家の祭祀を物部氏が担う?何故?
神話では続けて、饒速日命(ニギハヤヒ)の子である宇摩志麻治命(ウマシマジノミコト)が神剣・「布都御魂剣」を授かり、宮中にて奉祀することになる、とする。神剣=軍事力を暗示しながらも、ヤマト王権の祭祀を担うといった重要な位置を担うことになる。
この神話を「歴史?」に置き換えると、神武天皇=祟神天皇と比定されることが多い。ということは、饒速日命>宇摩志麻治命=物部氏が祟神天皇に協力し、初期のヤマト王権においては、その軍事力を背景に王家の祭祀権までも委ねられている、ということだろう。
実際、天皇の即位儀礼に物部氏の儀式がその中核となっている、と言う。宮中で旧暦11月におこなわれてきた鎮魂祭(たましずめのまつり)で「一二三四五六七八九十」(ひふみよいむなやこと)と唱えて、そのあとに「布瑠部由良由良止布瑠部」(ふるべゆらゆらとふるべ)と呪詞を加える儀式があると言うが、これは「物部の呪術」と同じフレーズとのことである。

◆国史に天皇家の正当性を減じる物部氏の租のエピソードを何故入れる? 
それはそれとして、『古事記』、『日本書紀』は8世紀前半、律令体制を核にして中央集権国家をつくりあげようとする持統天皇・藤原不比等による国史である。そこに神話時代では、天孫族の降臨という天皇家の正当性を減ずるような、饒速日命のもうひとつの天孫降臨のエピソードを入れる理由、武力平定とは縁遠い神武勢の非力さ、また歴史時代(?)では神宝である神剣の祭祀を委ね、天皇の即位儀式さえ差配する物部氏のエピソードをこれほどまで盛り込む理由は何なのだろう?

◆天皇家も無視できなかった物部氏の軍事力?
初期のヤマト王権から大和朝廷に至るまで、王権・朝廷を支えた物部氏の軍事力は国史編纂の8世紀になっても無視することができなかったのだろうか? 初期のヤマト王権がヤマトに降臨(侵攻)した頃、奈良盆地には天理から桜井にかけてのヤマトの本貫地を支配する物部氏の他、北の奈良には和邇(わに)氏、南西の柏原には大伴・蘇我氏・羽田・巨勢氏、葛城山麓には葛城氏、北西の平群谷には平群氏といった豪族が割拠していたようだ。
その豪族達は、あるいはヤマト王権に平定され、また、あるいはヤマト王権の内紛に敗者側の大王につくことによりその勢を失う。初期のヤマト王権において大王と両頭政権と称あされる葛城氏も含め、奈良盆地の豪族は雄略天皇の時期(5世紀中頃?)にほとんどが滅亡する。
その大乱の中、雄略天皇を軍事面で支えたのが物部氏と大伴氏。しかし大伴氏も継体天皇の頃(6世紀前半?)には力を失い、結局豪族の中で国史編纂の頃まで有力な勢を持ち「生き残った」のが物部氏だけ、のようである。

◆国史編纂の頃まで「生き残った」物部氏
ヤマト王権の軍事面を担い、各地に兵を動かし平定するなど、強力な軍事力を保持した物部氏が8世紀になっても未だその威を示したとする以下のエピソードがある;「ますらをの鞆(とも)の音(ね)すなり もののふの大臣(おほまへつきみ)楯立つらしも」という歌があるが、これは元明天皇が藤原京から平城京に遷都する和銅3年(710)、旧都に置き去りにされた物部氏(石上朝臣麻呂)の鳴らす弓の弦、楯を立てる音(軍事的デモンストレーション)に元明天皇が怯えているとの意味とも言う。この時期になっても物部氏の軍事力を王権が無視できなかった、と言う。

以上、饒速日命と神武、物部氏と祟神天皇のアナロジーで妄想を進めてきた。妄想をまとめると、初期のヤマト王権の時代から、国史編纂の頃まで生き残った唯一の氏族であり、国史編纂の頃でも無視し得ない「力」を持っていた物部氏故の、神話における物部氏先祖である饒速日命の天孫族の一支流といった扱いのように思える。唯、余りの特別待遇に、少々のイクスキューズが必要と感じたのか、祟神天王の妃は饒速日命の後裔といった系譜を創り上げているのが、如何にも作為的で面白い。

◆「饒速日命・物部氏」のエピソードは奈良の先住豪族を一括りにしたもの? 
と、ここまで饒速日命と神武、物部氏と祟神天皇についてあれこれ妄想をしてきたのだが、物部氏が有力な軍事勢力としてヤマト王権に貢献したのは雄略天皇の頃、と言う。とすれば、以上の饒速日命・物部氏のエピソードって、ひょっとしたら、天孫族が大和に降臨(侵攻)し、ヤマト王権から大和朝廷へと発展する過程において同盟・連合し、そして消えて行った奈良の先住豪族を「物部氏」に一括にまとめ、神話として創り上げているようにも思えてきた。
ヤマト王権は、当初先住豪族との連盟・協調によりはじまり、武力でもって豪族を支配できるようになったのは雄略天皇の頃から、と言うから、神武の饒速日命とのエピソードも、そう考えれば、なんとなくわかるような気にたってきた。素人の妄想。根拠なし。

◆歴史のIF
そして最後に。国史が編纂された8世紀頃から、物部氏もその勢を失い始める。6世紀後半に、蘇我氏との抗争に敗れ物部守屋が戦死し、物部氏は没落するも、その後を継いだのが、この石上神宮の辺りを本拠とした物部の一族が石上氏として桓武天皇の頃まで朝廷に影響力を残すも9世紀前半には政権中央から姿を消すことになる。ということは、国史編纂がもう少し遅ければ、神話に物部氏にまつわるエソードが書かれることはなかったのだろうか?

◆物部という名の疑問
あれこれと古代史に不案内の素人の妄想をメモした。ところで、いままで「物部」と簡単に書いて来たのだが、『大和の豪族と渡来人;加藤謙吉(吉川弘文館)』に拠れば、物部とは部制の名称。「物部」と称する部制が記録上に現れるのは継体天皇の頃というから、5世紀の中頃以降のことである。3世紀から4世紀ともと想定される祟神朝の頃には未だ「物部」という部制はなかったかとも思うのだが、「物部氏」はその頃どのように呼ばれていたのだろう? 大伴氏も伴造(とものみやつこ)の長を意味する大伴と称される前は来目氏と称したとも聞く。物部氏も場所から考えて「大三輪」、「倭」とでも称していたのだろうか。古代史の門外漢の素朴な疑問とする。

摂社
散歩当日は、石上神宮に関する由緒なども見つからず、10分も経たず拝殿を離れたのだが、常の如く、メモの段になってあれこれと気になることが登場し、頭の整理に結構時間がかかった。
とっとと先に向かおうと拝殿を出ると参道を隔てて石段があり、そこを登ると摂社である天神社、七座社、出雲建雄神社、猿田彦神社が祀られる。ここでまたもや、「足止め」となってしまった。
●天神社と七座社
石段を上ったところに天神社と七座社。案内には「摂社 天神社【てんじんしゃ】(西面)御祭神; 高皇産霊神【たかみむすびのかみ】 神皇産霊神【かみむすびのかみ】
七座社【ななざしゃ】(北面) 
御祭神;生産霊神【いくむすびのかみ】 足産霊神【たるむすびのかみ】 魂留産霊神【たまつめむすびのかみ】 大宮能売神【おおみやのめのかみ】 御膳都神【みけつかみ】 辞代主神【ことしろぬしのかみ】 大直日神【おおなおびのかみ】
由緒 右二社ハ生命守護ノ大神等ニ坐ス古来当宮鎮魂祭関係深キヲ以テ上古ヨリ鎮座シ給フ所ナリ」とあった。
二社で鎮魂祭を司る、と。チェックすると、天皇家には天皇の健康を護る鎮魂八神が祀られ、その神々がこの二社に祀られた大直日神【おおなおびのかみ】以外の神とのこと。更に、この八神に、七座社に祀られた、禍(わざわい)や穢(けがれ)を改め直す大直日神を加えた9神により、宮中にて新嘗祭前日に鎮魂の祭祀が行われるようである。

●天照がいない?
ところで、天皇家と言えば=天照、と思い浮かべる天照大神がこのラインアップに登場しない。チェックすると、「古代に天照大神が宮中に祀られたことはなく、『日本書紀』の記す伝承では天照大神は崇神天皇(第10代)の時に宮廷外に出されたとしている(現在の伊勢神宮)。通説では、実際に天照大神が朝廷の最高神に位置づけられるのは7世紀後半以降であり、それ以前の最高神は高皇産霊尊(高御産日神)であったとされる。このことから、7世紀末頃に高皇産霊尊は宮中に、天照大神は伊勢に住み分けたとする説もある」とWikipediaにあった。
へえ、そうなんだ、との想い。天神さまとは、後世の菅原道真でないことは言うまでもない。

出雲建雄神社
七座社の横に出雲建雄神社。案内には「摂社 出雲建雄神社【いずもたけお】 式内社 御祭神 出雲建雄神【いずもたけおのかみ】
由緒;出雲建雄神ハ草薙ノ剣ノ御霊ニ坐ス今ヲ去ルコト千三百余年前天武天皇朱鳥元年布留川上日ノ谷ニ瑞雲立チ上ル中神剣光ヲ放チテ現レ「今此地ニ天降リ諸ノ氏人ヲ守ラムト」宣リ給ヒ即チニ鎮座シ給フ」とある。

ささやかな社であるが、延喜式にも記載のある式内社と言うから、誠に古い歴史をもつ社である。また、祭神は神剣・草薙ノ剣に宿す出雲建雄神とのこと。草薙ノ剣って、素戔嗚が十拳剣を振るって八岐大蛇を退治した時、八岐大蛇の尾から取り出した剣と伝わる。
その剣は天照に献上され、その後、第12代景行天皇の子である日本武尊が東征に際し、この草薙ノ剣を渡されるも、尾張で娶った妻に預けたまま伊吹山でむなしくなる。そして妻が祀ったところが愛知の熱田神宮のはじまりとされる。
この案内に拠れば、天武天皇の御世、-朱鳥元年(686年))の時代、この地に神剣が下ったとされる。Wikipediaに拠ると、皇室の三種の神器とされるこの草薙ノ剣は、「熱田神宮に祀られていたが、天智天皇の時代(668年)、新羅人による盗難にあい、一時的に宮中で保管された。天武天皇の時代、天武天皇が病に倒れると、占いにより神剣の祟りだという事で再び熱田神宮へ戻された」とあった。
Wikipediaでは天武天皇の時代に神剣の祟りと熱田神宮に戻したとあり、この社の案内では天武天皇の御世、この地に神剣が下ったとある。ちょっと矛盾しているように思えるのだが?
それでは、出雲建雄神を祀る社に関する、何かの手がかりが無いものかと、ここ以外の出雲建雄神を祀る社をチェックすると、三輪山の南を流れる初瀬川を遡った奈良市藺生町にある葛神社と、さらに奥に入った奈良市都祁(つげ)白石の雄神神社の祭神が出雲建雄神となっており、全国にはこの二社と石上神社の摂社以外に出雲建雄神を祀る社はないようだ。

出雲建雄神は水神様?
葛神社は、元は出雲建雄神社と称されていたようで、初瀬川の水源地に近いこの地の水の神として祀られているようである。一方、都祁(つげ)白石の雄神神社は「三輪さんの奥の院」と称される山を神体とした自然信仰の形態を残す社。雄神神社が鎮座する辺りは水湧庄とも呼び、近くに都祁水分神社(みくまり。注;都祁水分神社は奈良盆地に流れ込む大和川水系ではなく、木津川水系ではあるが)もある。どうも二社ともその性格は、水分の神(「神名の通り、水の分配を司る神である。「くまり」は「配り(くばり)」の意で、水源地や水路の分水点などに祀られる(Wikipedia)」)。
で、この石上神社の出雲建雄神社であるが、エピソードに布留川の上流の日ノ谷に現れている。これも単なる妄想ではあるが、布留川の水の神、神体山から流れ出る命の源、田畑を潤す灌漑用水として水を祀る「水分の神」といったもののように思える。
神話には日本武尊にだまし討ちにあった出雲建という人物が登場するので、その人物ゆかりの社かとも思ったのだが、あまり関係はないようだ。なお、江戸時代には素戔嗚命が八岐大蛇を退治した「布都御魂剣」を祀るのが石上神宮で、その八岐大蛇の尾から取り出したのが草薙ノ剣。その草薙ノ剣に宿る神が出雲建雄神ということで、この社が石上神宮の「若宮」とされていた、ようである。



●水分神社(みくまり)
私のお気に入りの本の一冊に『日本人はどのように国土をつくったか;上田篤他(学芸出版社)』という本がある。その中に「秋津洲の山と神々(奈良盆地はいかにつくられたか)」という章があり、そこに水分神社の解説がある。
大雑把にまとめると、奈良盆地に流れる幾多の小河川はすべて大和川に合わさり、ひとつの流れとなって奈良盆地を出て河内平野に流れ出る。その大和川に注ぐ支流は流量が乏しく、年間を通じての供給量も不安定であった。その要因は、瀬戸内式気候もさることながら、「青山四周(よもめぐ)れり」と形容される、奈良盆地を囲む山稜は奈良盆地側の分水界が狭く、保水能力が乏しいことにある。
そのためか、大和の川(大和川、木津川、紀の川)の上流には、水を豊かに分かち与えてくれる水分神社が祀られている。これらの神社は『延喜式』の祝詞に奏上されるほど重視された社であった、と言う。
その水分神社と称する社の中で、大和川水系の水分神社は葛城川上流の葛城水分神社のみであるが、奈良盆地を囲む山麓地帯にある山口神社と呼ばれる社が14社ほどあり、その山口神社も水分神社とされる。山口に座す神は、勢いよく水を下し落とされる神であり、田畑を潤す灌漑用水をもたらす神故の命名であるとする。

大和盆地に割拠した古代豪族も水分神社のある場所を拠点としている。当然のことだろう。古代自然信仰として神奈備山を祀ったとされるが、山とは水を生み出す源であり、神奈備山を祀るということは、山の神であり、同時に水の神である神体山を祀るということではないだろうか。流量が少なく、それも季節によって流量が不安定な土地柄故に、水分神が奈良盆地では重要視されたように思える。

出雲建雄神社拝殿
出雲建雄神社の西、神奈備の布留山に向かって拝殿遥拝するように、誠にエレガントな拝殿が建つ。拝殿は建物が二つに分かれており、その中を通り抜けられるようになっている。割拝殿という建築様式とのこと。他ではあまり見られない珍しい様式国宝に指定されている建築で、とのことだが、元来は内山永久寺(うちやまえいきゅうじ)の鎮守の住吉社の拝殿であったとのこと。内山永久寺は後ほど訪れることになるが、鳥羽(とば)天皇の永久年間(1113~18)に創建された大寺院であったが、神仏分離令により明治9年に廃絶。鎮守社の住吉社はだけは残っていたが、その住吉社の本殿も明治23年に放火によって焼失し、荒廃したまま残されていた拝殿を大正3年に現在地に移築したとのことである。

当日はさらっと通り過ぎた石上神宮であるが、メモの段階であれこれ疑問が現れ、結構メモが長くなった。で、ある程度は自分なりに納得した、とは言うものの、そのソースは上に引用した3冊の書籍と、松岡正剛さんのWEB「松岡正剛の千夜千冊」の「1209夜 物部氏の正体(関祐二)のスキミング・スキャニングから得ただけのものである。 喧々諤々の議論がある古代史、古代史に興味のある方にとっては笑止千万のメモかとも思うが、所詮は山の辺の道を散歩したついでの戯言。単なる好奇心からのメモと御承知ください。

山の辺の散歩のメモではあるが、スタート地点の石上神宮のメモで力尽きた。次回は石上神宮のから離れ、山の辺の道を辿るメモとする。

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