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東海道、中山道、奥州街道など街道歩きに燃えている元の会社の監査役から水戸街道を歩いているとの話。基本、御老公こと元監査役の熊除けの露払いとして峠越えをご一緒しており、東海道の鈴鹿峠、中山道の碓氷峠、和田峠越えなどを共にしているのだが、元監査役に言わせば「好いとこ取り」とのこと。 少々の異論はあるのだが、それはともあれ、話を聞くと丁度、取手辺りまで歩を進めているとのこと。私も、これも「好いとこ取り」ではあるのだが、水戸街道のうち取手から若柴宿までを切り取って歩いており、そのうちに牛久宿まで歩かねば、などと想っていたこともあり、若柴宿から牛久までご一緒することにした。
峠もないのに露払いもないだろう、とのことではあるのだが、今回は単なる老婆心。「距離を稼ぐ」を主眼に、宿から宿へと一目散の元監査役に、若柴宿で絶対にパスするであろう見所をご案内致したく若柴宿の最寄りの駅である「佐貫駅」で待ち合わせ、若柴宿を案内し牛久宿へと向かった。



本日のルート;常磐線・佐貫駅>水戸街道合流点道標>江川>若柴宿>八坂神社>加治屋坂>金龍寺>星宮神社>御手洗の池>牛めの坂>鬮神社>星宮神社>県道243号・八代庄兵衛新田線>成井一里塚>国道6号>牛久宿>下町>上町>常磐線牛久駅>得月院>愛宕神社>城中観音堂>牛久沼>根古屋不動尊>牛久城址>大杉神社>江川>常磐線・佐貫駅

常磐線・佐貫駅
御老公との待ち合わせの地である常磐線・佐貫駅に。市域は茨城県龍ヶ崎市である。御老公こと元監査役は今朝は我孫子辺りから水戸街道を歩いてくるとのこと。ほぼ定刻に駅前で合流。大変な健脚である。数年まで、いくら散歩をお誘いしても、一顧だにしなかった御仁とは思えない。駅前のコンビニで早めの昼食を取り散歩に出発。
■関東鉄道・龍ヶ崎線
この佐貫駅は関東龍ヶ崎線の駅でもある。関東龍ヶ崎線は、現存する茨城の私鉄では最も歴史が古く、明治33年(1900)に今のJR佐貫駅開業と同時に開業した。当時は762mmの軌道で、大正4年(1915)に標準の狭軌1067mmになったとのこと。当初は竜崎鉄道という名前であったが、鹿島参宮鉄道から関東鉄道になり、今の龍ヶ崎線となった。距離はわずか3,5kmで中間に駅がひとつ(入地)あるだけと言うもの。因みに「佐貫」は細長い土地の特徴を表す「狭貫」が転訛したという。い、結構楽しい一日であった。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)


県道5号・馴柴小交差点
駅から水戸街道の道筋まで戻るため県道5号・訓柴小交差点に。取手宿から藤代宿を経て進む、水戸街道の道筋は、この交差点から西へと向かう。交差点脇に誠にささやかな屋根付き西碑。「右 りゅうがさき なりた 左 わかしば」と刻まれているとのことだが、摩耗し全く読めない。
■平国香の慰霊塔
この馴芝小入口交差点から少し下った、城西中学校の辺りに平国香の慰霊碑がある。御老公の好みではないだろうと今回はパスしたが、先回の散歩で立ち寄ったとき、城西中学校近くの雑草に覆われた一角に、それらしき宝塔の上部のみが置かれていた。案内も何もないので、はっきりしないが、近くにあった安楽寺にお参りすると、飛び地に平国香の宝塔が建つ、と案内あったので、間違いはないだろう。
平国香は平将門の叔父。将門が禁裏での衛士の任を終え、下総相馬御厨の下司として故郷に戻った頃、一族内紛のため、父の良将の旧領でのある下総相馬の地の大半が叔父の国香や良兼により侵食され、あれこれの経緯はあるものの、結果将門により国香は誅される。その後将門と国香の嫡子である貞盛との抗争は将門の乱が終わるまで続くことになる。

馴柴小の道標
道標の前の道を進み、関東鉄道の踏切を越える。右側に訓柴小学校を見ながら進み突き当たりの三叉路隅に石の道標。数年前この地を訪れたときは、学校の敷地内中に道標があり、柵らしきもので囲われていたのだが、現在は囲いは取り払われ見やすくなっていた。 案内板によると、「文政9年に建立され、三面に水戸16里 江戸13里 布川3里と彫られている」。
ここが取手宿を通ることなく、我孫子宿から利根川(当時は利根川の遷事業が完成していないので、正確には常陸川)右岸を下流に向かい、布佐で渡河して龍ヶ崎を経由し、若柴宿へと進んだ初期の水戸街道と、その後、取手宿を経由し藤代宿から若柴宿へ通ることになった水戸街道が合流した地点、ということであろう。
「江戸時代に江戸と水戸を結ぶ交通路は水戸街道と称され、五街道に次ぐ重要な脇街道であった。初期の水戸街道は、我孫子から利根川に沿って布佐まで下り、利根川を渡って布川、須藤堀(須藤堀町)、紅葉内(河原代町)の一里塚をたどって若柴宿に至る街道(布川道)と、取手宿、藤代宿を経て小貝川を渡り現在の小通幸谷町を経て若柴宿に入る道があった。この二つの合流点、現在の市立馴柴小の北東隅の三叉路にこの道標(里程標)が建てられ、三面に水戸十六里、江戸十三里、布川三里と通ずる方角とそれぞれへと里程が刻まれている。 裏面には「この若柴駅街道の碑は、文政九年(1826)十二月に建立した。三叉路で旅人が迷い易いので若柴駅の老人が相謀り、普門品一巻を読誦する毎に一文ずつ供えて積み立てた」とあり、十五名の村民の姓名が記されている。
明治5年(1872)に水戸街道は陸前浜街道と改称され、明治15年(1882)11月には牛久沼沿いの道路が開通した。そのため台地を通る街道はさびれ、若柴駅(宿)も宿駅としての機能を失った。この道標は若柴駅(宿)街道の碑として往昔の陸上交通の盛んであった面影を偲ばせるものである」、と案内にあった。

筑波稲敷台地前面の低地
常磐線・佐貫駅前から通る県道271号を越えると一面の田圃。その先に台地の斜面林が見える。若柴宿は小貝川や牛久沼からの河川流域の低湿地を開拓した田圃のその向こうの筑波稲敷台地上にある。
現在は豊かな田圃が広がる一帯であるが、この地が新田として開拓されたのは江戸の頃。今を遡ること1000年の昔、平安時代の頃は印旛沼は手賀沼や霞ヶ浦と一帯となった大きな水域であり、香取の海あるいは安是の海と呼ばれる広くて大きな海水の入り込む内海であった。その内海が、上流からの流される土砂や海退現象によって、次第に陸地化し、それぞれが独立した水域となったわけだが、この辺り一帯に土砂を流し陸地化を進めたのが小貝川であり小貝川に合流した鬼怒川の流れであり、一帯は上流よりの土砂が堆積された氾濫原であった。

現在は別の流れとなっているこのふたつの川であるが、かつて鬼怒川は大木丘陵の手前、寺畑(つくばみらい市)の辺りで小貝川に乱流・合流し、両川が合わさり暴れ川となり、下流一帯を氾濫原と化していたわけである。

鬼怒川・小貝川の分流事業
この暴れ川による洪水被害を防ぎ、合わせて合流点より下流一帯の氾濫原に新田開発すべく計画されたのが鬼怒川と小貝川の分流事業。鬼怒川の南流を阻んでいた大木丘陵を人工的に開削し、鬼怒の流れを南に落とし利根川と繋いだわけである。
鬼怒川の開削水路は利根川合流点まで7キロ以上。丘陵部だけでも5キロほどもある。大工事である。このような大工事をした目的はこの地域の洪水対策、新田開発だけでなく、利根川東遷事業の一環として、利根川から江戸への船運の開発、そして、古来より「香取の海」と呼ばれ、霞ヶ浦・印旛沼・手賀沼などが一帯となった広大な内海を陸化して新田開発を行うといった壮大な構想のもとに行われた、とも言われる。

鬼怒川との分流工事が行われた小貝川ではあるが、こちらも流路を変え元々は取手台地から先に東に続く台地を避けて、台地の東で利根川と合流していたが、洪水対策・新田開発に役するため、台地を切り通して利根川に繋いでいる。また、利根川(常陸川)の流路も我孫子台地の東端手前を切り通し、流路を南へと移している。
ちなみに、小貝川の旧流路は現在の竜ケ崎市である旧川原代村と旧北文間村(長沖、長沖新田、羽黒、豊田、須藤堀、北方)および旧高須村(高須、大留)の東で利根川に合わさっていたのだろう。その理由は、竜ケ崎のその他の地が元来常陸国河内郡であるのだが、この村々は北相馬郡というから下総国。川が地域や国堺を決めることの多かった当時、小貝川の流路が西に移ることにより、これらの地域が下総から常陸へと移ったのではあろう。

若柴宿
筑波稲敷台地の南端にある若柴宿へと田圃の中を一直線に続く道を進む。江川など牛久沼より流れる割と大きな用水路をふたつほど越えると坂道。台地に上るこの坂道は大阪と呼ばれる。台地上にある若柴宿へは、この大阪の他、南から延命寺坂、会所坂、足袋屋坂、鍛冶屋坂といった坂が並ぶ。
若柴宿は水戸街道千住宿からかぞえて8番目の宿。常陸への入口にあたる宿場町。本陣はない。明治19年(1886)の大火により宿場は焼失し記録が残らないため詳しい宿場の規模は不明だが、10件程度の旅籠や茶店が並んだのではなかったかと推測されている、
江戸以前牛久沼は今以上に大きく、周囲は湿地帯で通行が困難なため、この若柴宿をへて牛久宿へと向かう人が多かったようだが、明治5年(1872)に水戸街道が陸前浜街道と改称され、現在の国道6号(水戸街道)が牛久沼東岸を通ることになり、明治17年(1884)その新道が明治天皇の牛久行幸に際して整備されたため、この若柴宿は取り残されることとなり、逆に静かな佇まいを今に残している。

八坂神社
坂を上がりきると街道は又定石どおり直角に曲がっているが,そのコーナーに八坂神社がある。鳥居をくぐり、石段を数段駆け上ると社殿がある。社殿は新しいもので、右手に慶応年間の年号のある庚申塔群、裏手は竹林となっている。この社は旧若柴村(下町、仲町、上町、横町、向原)の鎮守であり、若柴宿はここからはじまる。境内には三峯社も祀られている。
先回の散歩でもメモしたのだが、取手から若柴の間では八坂神社によく出合う。まず取手宿での八坂神社、次いで藤代宿の相馬神社。この神社は八坂神社を合祀したものであった。また、宮和田宿の渡しの辺りにも八坂神社、そして若柴宿のこの八坂神社。八坂神社は全国に3000ほどもある、とのことであるから、それだけのことかとも思うが、それでもこの地方と八坂神社がなんらかの関係があるのでは、と妄想を逞しくする。

八坂神社と言えば祇園祭。「祇園御霊会」とも称され疫病を防ぎ、怨霊退散をそのはじまりとする。八坂神社の祭神は素戔嗚尊(スサノオノミコト)。素戔嗚尊は朝廷への反逆児のイメージが強い。それ故に朝廷への反逆児である将門を同一視し、その怨霊を鎮め無病息災を祈ったのであろう、か。
また、八坂神社は明治の神仏分離例により名付けられたもの。それ以前は「牛頭天王社」と称されていた。独立国をつくり「新皇」と称した将門と「天王」を同一視したものであろう、か。
それとも、野田のいくつかの八坂神社の縁起にあるように、将門が尊崇した神社というだけのことであろう、か。とは言うものの、八坂神社の中には将門に仇なす藤原秀郷ゆかりの社もある、と言う。結局のところ、あれこれの理屈は関係なく、単に疫病を防いでくれる有り難い神として祀られただけであろうか。

八坂神社


八坂神社はもとは「天王さま」とも「祇園さん」とも称された。それが八坂神社となったのは明治の神仏分離令以降。本家本元・京都の「天王さま」・「祇園さん」が八坂神社と改名したため、全国3,000とも言われる末社が右へ倣え、ということになったのだろう。八坂という名前にしたのは、京都の「天王さま」・「祇園さん」のある地が、八坂の郷、といわれていたから。明治に八坂と名前を変えた最大の理由は、「(牛頭)天王」という音・読みが「天皇」と同一視され、少々の 不敬にあたる、といった自主規制の結果、とも言われている。 で、なにゆえ「天王さま」・「祇園さん」と呼ばれていたか、ということだが、この八坂の郷に移り住んだ新羅からの渡来人・八坂の造(みやつこ)が信仰していたのが仏教の守護神でもある「牛頭天王」であったから。また、この「牛頭天王さま」 は祇園精舎のガードマンでもあったので、「祇園さん」とも呼ばれるようになった。
祭神は素戔嗚尊とイナダヒメノミコトとする。これは神仏習合の結果、牛頭天王=素戔嗚尊、と同一視していた、ため。牛頭天王の父母は、道教の神であるトウオウフ(東王父) と セイオウボ(西王母)とも見なされたため、牛頭天王はのちには道教において冥界を司る最高神・タイザンフクン(泰山府君)とも同体視される。また、さらにタイザンオウ(泰山王)(えんま) とも同体視されるに至った。泰山府君の本地仏は地蔵菩薩ではあるが、泰山王・閻魔様の本地仏は薬師如来であり、素戔嗚尊の本地仏も薬師如来。ということで、牛頭天王=素戔嗚尊、という神仏習合関係が出来上がったのだろう。閻魔様=冥界=黄泉の国といえは素戔嗚尊、といったアナロジーもあったのだろう、か。
また、素戔嗚尊は、新羅の曽尸茂利(ソシモリ)という地に居たとする所伝も『日本書紀』に記されている。「ソシモリ」は「ソシマリ」「ソモリ」ともいう韓国語。牛頭または牛首を意味する。素戔嗚尊と新羅との繋がりを意味するのか、素戔嗚尊と牛頭天王とのつながりを強めるためのものなのかよくわからない。が、 素戔嗚尊と牛頭天王はどうあろうと同一視しておこうと、ということなのであろう(『江戸の町は骨だらけ;鈴木理生(ちくま学術文庫)』)。

若柴宿仲町・上町
若柴宿を仲町、上町と進む。落ち着いた、豊かな構えの集落を進む。いわゆる、宿場といった風情ではないが、長屋門を構えた旧家などが並び、豊かな農家といった雰囲気の、誠に得難い、気持ちのいい集落である。宿場町の雰囲気を感じないのは明治19年(1886)の大火の影響もあるのだろうか。

鍛冶屋坂
上町を進み、道が再びクランクに曲がる手前で台地を一度下りてみましょうと御老公に提案。台地を下りるいくつかの坂の中で最北端と言うか最西端にある鍛冶屋坂を下りる。竹林に囲まれた道筋は、それなりの雰囲気。台地と湿地の間の水源は種池と呼ばれ、農具の泥よけなどに使われた、とか。
水戸街道を進んで若柴宿に入った時はありふれた田圃が広がる、といった景観であったが、台地下を湿地に沿って通る「根柄道」脇は葦が生い茂る湿地が残るり、新田開発される前のこの辺り一帯の低湿地の原風景を見れる湧水フリークには心躍る場所ではあるのだが、御老公はどれほどのこともないようである。

金龍寺
坂を戻り上町が終わり、横町へと直角に曲がる突き当たりに金龍寺がある。数段の石段を上ると観音寺跡とか不動明王の社。右手に畑地の残る境内を進み本堂にお参り。本堂の裏手には新田義貞の墓がある。元は上州太田に会ったものを、新田義貞の後裔、と言うか、新田家を乗っ取ったとも言える由良国繁が太田から移した、とか。由良氏と新田氏、それに太田から若柴の地に移った所以など、さっぱりわからない。チェックする。
元々金龍寺は応永24年(1417)、太田(群馬県太田市)の地において金山城主・岩松氏の重臣横瀬氏(後の由良氏)によって創建された、とされる。あれこれの経緯は省くとして、岩松氏は新田宗家を継承した武将である。その後、横瀬氏(由良氏)は岩松氏を退け金山城主となるが、己が正当性を示すべく義貞戦没の地に近い越前称念寺に祀られていた義貞の遺骨を持ち帰り、義貞の法名の一部を(金龍院)用いた金龍寺を創建し、一族の菩提寺として新田義貞の墓を奉った、と。
その後天正13年(1585)、由良氏と称した横瀬一族の国繁は小田原北条に与し、小田原落城とともに窮地に陥る。それを救ったのが、その母。新田義貞の末裔である由良一族の滅亡を救い給えと前田利家に訴え、秀吉より存続が認められる。
安堵された由良氏は常陸国、岡見氏没落後の牛久城主となる。由良氏の牛久移封に伴い、金龍寺も太田から牛久に移された。当初は現在の牛久新地町にある東林寺。東林寺は牛久城主岡見氏の菩提寺であったが、廃寺となっており由良氏の菩提寺として再興された。が、由良氏の牛久城主の座は一代限りで終わり、領地は没収。主を失った金龍寺は寛文6年(1666)、幕府の庇護を受け、この若柴にあった古寺を改修し、この地に移された、とのことである。これが、由良氏と新田、太田と若柴を巡る一連の流れではあった。
本堂の裏に「新田家代々の墓」がある。左側の五輪塔が新田義貞、中が横瀬貞氏、右が由良國繁の墓とのことである。とはいうものの、由良氏が新田氏の係累というのはなんとなく収まりが良くないし、新田義貞と若柴って何らの関係も無い地であり、なんとなくしっくりこない新田義貞ゆかりのお寺さまであった。

御手洗乃池
星宮神社までは街道筋であり、御老公も成り行きで尋ねるではあろうが、その手前で少し寄り道することが今回御老公こと元監査役の露払いを申し出たコース。距離をひたすら稼ぐ御老公に、少々街道を離れたコースを案内する。 金龍寺から横町を進み、途中立派な門構えの民家などを見ながら進み、星宮神社の手前を右に折れ「牛めの坂」に向かう。先回この若柴宿を訪れたのは『関東周辺 街道・古道を歩く;亀井千歩子(山と渓谷社)』の「牛めの坂」についていたキャプション「森に迷い込んだような錯覚に」に惹かれたからである。

民家と畑の間の小径を抜け、その先に見える鬱蒼とした森というか林を目指す。 森に入ると緩やかな坂となり、坂を降りきった三叉路脇に御手洗乃池の案内。現在は大きな欅の根っこあたりが少し湿っぽくなっている、といった程度。かつて御手洗乃池があった、とか。そこには淵があったようで、次の言伝えが残る;御手洗乃池の淵には大きな欅が聳えていていが、この欅を伐ってはいけない、また枝を落とすのも、落ちている枝を拾うのもいけない。触ると運が悪くなる、と。また、この池には多くの鰻がいたが、鰻を食べると目がつぶれると云われていた。それは、星宮神社のご祭神には首に鰻が巻きついていたから、とか。
星宮神社と鰻(うなぎ)の関わりはよくわからないが、鰻は虚空蔵菩薩の眷属。また、虚空のように広大無辺の福徳をもつ虚空蔵菩薩信仰は「金星」への信仰と深い関係がある。星宮神社の妙見信仰は北極星とか北斗七星への信仰。星つながり故の「鰻伝説」であろう、か。

牛めの坂
三叉路を左に折れると森が一瞬切れ、左手に畑地などが見える。先を進み、再び森に入る手前に左に上る緩やかな坂があり、『関東周辺 街道・古道を歩く』には「牛めの坂」とあったがここには「牛女坂」と表示されていた。坂の左手は十分に開けており、「牛めの坂」についていたキャプション「森に迷い込んだような錯覚に」にはほど遠い。先に進めばキャプションのような坂があるのかと、ゆるやかな坂をのぼり先に進む。
高い杉に覆われた道を進み、宅地として開かれた辺りまで進むも、鬱蒼とした杉の建ち並ぶ小径ではあるけれど、書籍で見た坂の姿はなく、坂の上り口まで戻る。思うに、キャプションにあった写真は、御手洗乃池へと下る坂道ではなかろう、か。『関東周辺 街道・古道を歩く』には場所もそのように記している。場所は違ったにしても、民家のすぐ隣りに「森に迷い込んだような錯覚に」といった森があったわけで、森の散歩は十分楽しめる。
ところで、「牛女坂」の由来であるが、この牛め!」と鞭を打ったと伝えられている。星座で言えば「牛女」とは、牽牛星(けんぎゅうせい)と織女星(しょくじょせい)、とのことだが、この地に住んだ住井すゑ著『野づらは星あかり』に、「牛めにしてみりや、人間なんてどいつもこいつもみなちくしょうに見えるにきまってる。牛めは何も人間のために生れて来たわけじゃねえのに、むりやり鼻輪を通されて、それ、車を引っ張れの、田畑を耕えのとこき使われ、揚句の果に、この肉は硬いとか、あんまりうまかねえとか、つまらぬ文句といっしょに食われてしまうだかんなア。だからたまたま夜中に厩栓棒を外して、そのまま車もつけずに連れて行ってくれるのが居たら、″こりやア、ありがてえ。〟とのどを鳴らしてついて行っても不思議はあんめで。」「それはもっともだ。牛めにすれば、。。。」と、如何にも「牛」そのものを「牛め」と呼んでいるようにも思える。このあたりがなんとなく納得感が高い。

鬮(くじ)神社
牛女坂の三叉路を真っ直ぐ進み、高々と伸びた杉の木に覆われた森の中を進むと2本の巨木の間の奥にささやかな祠が見える。道から奥に上る石段を進むと祠には千羽鶴と杓文字が奉納されている。若柴宿では多くの屋敷神が祀られていたとのことだが、この祠も屋敷神のひとつで鬮(クジ)神社と称し、クジ(運)の神であった、とのことである。また、この社には絵馬ならぬ杓文字(しゃもじ)が願掛けとして奉られる。
杓文字は、その昔、この祠には江戸の義民として知られる佐倉惣五郎が隠れた、とか。そこに杓文字があり、その杓文字で飯をよそると風邪が治った、とか。風邪を「めしとる」ということらしい。これでは義民が召し捕られる、ということで、なにを伝えたいのかよくわからないが、ともあれ、今は願を召し捕る、ということなのか、願掛けとなっている。
御老公を含めた、元監査役軍団はたまに宝くじを買い楽しんでいるようであるので、鬮神社に寄り道したわけではあるが、その霊験のほどの結果は未だ聞いていない。

星宮神社
鬮神社から水戸街道に戻り星宮神社に。鳥居の注連縄が酒樽の形に編まれているのが面白い。酒屋衆の奉納の名残であろうか。奥に進み社殿にお参り、現在の社殿は江戸時代の再建で、平成元年(1989)に修理されている、とか。 社殿の左手には平貞盛ゆかりの「駒止の石」がある。天慶の乱の折、平貞盛の乗った馬がこの石のまえで動きを止めた。不思議に思った貞盛が辺りを見廻すと星大明神の祠があり、懇ろに参詣すると馬は動きだした、との話が残る。それもあってか、縁起によると、星宮神社は延長2年(924)、肥後国の八代神社から分霊勧請して祀ったと云われ、天慶2年(939)には平貞盛が社殿を建立寄進したと伝えられている。肥後の八代神社は能勢の妙見さん、相馬の妙見さんとともに日本三大妙見宮とも称される妙見信仰の社。北極星とか北斗七星を崇める妙見信仰は常陸・下総・上総を領した平氏、またその下総平氏の後裔である千葉宗家の守り神。かつて星大明神と称されたこの星宮神社も妙見信仰の社ではあろう。

星宮神社の分布を見るに、星宮神社と称する社は、福島、千葉、茨城、岐阜(郡上)に各1社、栃木には33ほどの社がある。郡上八幡は別にしてそれ以外は、下総・常陸平氏、千葉宗家の領する一帯ではある。
因みに、八代神社は平貞盛の流れをくむ伊勢平氏の郎党であり肥後守となった平貞能が上宮・中宮・下宮からなる社の中宮を建立しているわけで、貞盛と因縁浅からぬものがある。故に、この社の貞盛ゆかりの話はあまりに出来すぎであり、肥後からの勧請も含めて後付けの物語のようにも思えるが、根拠があるわけでもなく、縁起は縁起として思い込むべし、か。

県道243号・八代庄兵衛新田線
星宮神社から再び水戸街道を先に進む。誠に緩やかな上り道を進むと、道脇に民家も切れ、畑地の中をしばらく進むと県道243号・八代庄兵衛新田線に交差。牛久沼に面する竜ケ崎市庄兵衛新田町から竜ケ崎市八代町を繋ぐ。八代町にある竜ケ崎ニュータウンへのアクセスルートとして国道6号と繋がれた。
路線認定は昭和52年(1977)。竜ケ崎ニュータウンの開発も昭和52年(1977)。当初30万人規模の巨大ニュータウンを目論んだものの、あれこれの障害もあり、開発は一朝一夕には進まなかったようではある。

成井一里塚
を越え、若柴配水場手前で分岐する道を左手に入る。原新田地区を進み成井地区に入ると道脇に小高い塚。成井一里塚である。
案内によると、「一里塚は、主要な街道に一里(4㎞)毎に築かれた塚である。慶長9年(1604)、徳川幕府により日本橋を起点に全国的な街道には一里塚が築かれた。これは里程や人馬賃銭の目安を目的とし、徳川家康が徳川秀忠に命じ、大久保長安統括下で整備したとされる。由良国繁を城主と記す「牛久城絵図」にも、成井の一里塚が描かれている。
江戸時代の水戸街道は、我孫子から布佐へ廻り、布川に渡って、現竜ケ崎市の須藤堀、紅葉内(こうようじ)、若柴を経て成井に達しており、成井の一里塚は江戸日本橋からは十五番目、水戸街道の起点である千住からは十三番目にあたる(牛久市教育委員会)」、とあった。
通常一里塚は街道の両側のあり、その塚の上には榎などの木が植えられているとのことだが、この一里塚は片側はほぼ原形をとどめておらず、塚の上にも木も残っておらず、とはいうものの、千住から先の水戸街道で一里塚を見たのははじめて、かも。

国道6号
成井一里塚を離れ遠山地区に進むと台地は一旦谷戸へと下る。印旛沼方向に開ける谷戸の耕地を進み、再び台地に上り台地縁を道成りに進み台地を下ると常磐線、そしてそのすぐ先で国道6号とクロスする。
国道をクロスし国道6号に沿って道を進むと根古屋川。周囲の低地は根古屋川によって開析された谷戸の景観が楽しめる。根古屋という地名は散歩の折々に出合う。山麓に城郭をもつ城の家臣団が住む山裾一帯を「根古屋」または「根小屋」と称するわけだが、道の左手に見える台地一帯が牛久城址のようである。

牛久宿
根古屋川に架かる坂下橋を渡り、如何にも湿地といった趣の台地下の景観を眺めながら進むと道は台地に上りはじめる。道筋は国道6号に対して「くの字」となっているが、この台地上り口からはじめ、国道6号とクロスする「くの字」部分が牛久宿ということである。
牛久宿は南北1キロ、江戸側が下町、水戸側が上町。脇本陣は無く、本陣と15の旅籠からなる宿場であった。家数124軒。戦国時代の牛久城主岡見氏の頃には町の原型が造られていたようである。
寛文9年(1669)には牛久藩主山口氏によって牛久陣屋が築かれ、その支配下に置かれた牛久宿であるが、牛久藩領には牛久宿と荒川沖の二つの宿場があり、 荒川沖宿はその規模が小さいこともあり、両宿が合同で継立をおこなっていた。が、荒川沖宿は上りの牛久宿への継立のみをおこない、牛久宿からの下りは荒川沖宿を飛ばし、その次の中村宿へと継立をおこなっていたため牛久宿の負担が大きく、通行量の増大にともない、宿場だけの人馬継立は負担が大きく、近隣の村々に助郷役が賦課されるようになる。
しかし、天明の飢饉や重い年貢による疲弊に加えての助郷の負担は近隣の村々には大きく文化元年(1804)には村人の百姓一揆がおきる。牛久宿の東にある女化(おなげ)稲荷に結集したことから女化騒動と称される牛久助郷一揆は近隣53ヶ村の村人が集結し牛久問屋場を打ち壊すも、佐倉藩、土浦藩からの出兵により鎮圧される。牛久助郷一揆とは言うものの、終結した土浦藩からの村人の参加は無かった、とか。
ちなみに、ここに仙台藩とあるのは、慶長11年(1606)、伊達政宗は徳川家康より竜ケ崎市域の中心部、昔の竜ケ崎村を中心とした1万石を拝領したため。仙台藩江戸屋敷の維持管理の費用とするためであった、とか。以来、幕末まで竜ケ崎は仙台藩領として続いた。ついでのことながら、若柴村は天領であった。

下町
北浦坂をのぼり牛久宿を進む。宿場の面影はほとんど残ってはいない。先に進むと道脇に「芋銭河童碑道」。芋銭って何?チェックすると、小川芋銭という俳人であり画家に拠る。本名小川茂吉、牛久藩大目付の子として江戸藩邸で生まれた茂吉であるが、廃藩置県後、牛久に移り住み「芋を買えるくらいの銭を貰える画家になれれば」との命名である、とか。画家としては「河童の絵」で知られ。「河童の芋銭か 芋銭の河童か」とも称されたのが、この碑の所以である。この石碑を左折すると、牛久城大手門跡や小川芋銭記念館「雲上亭」へと向かうことになる。

上町
下町は石碑のある交差点のすぐ先にある郵便局辺りまで。その先は上町となる。先に進むと黒塀の旧家脇に「明治天皇牛久行在所跡」の案内。明治17年(1884)、女化原で行われた近衛砲兵大隊の演習視察の際の宿所となったことを記念したもの。
○正源寺
その先、「くの字」が国道6号に向けて曲がったところに印象的な山門が見える。曹洞宗瑞雲山正源寺である。山門前でガードする仁王様も印象的ではあるのだが、山門が気になる。楼上には格子戸がはまり風情を醸し出すこの楼上は戦前まで鐘楼であったよう。山門と鐘楼がひとつになった堂宇であった、とか。
お寺の案内によれば、開創は天正20年(1592)、小田原の役の後、この地に群馬より天封された由良国繁が牛久城に居を構えたのがきっかけ。戦乱で亡くなった将士の礼を弔うべく各地に七観音八菩薩を祀った際、この地に寺の前身となる牛久観音久宝山正源寺を建立。現在、山門脇にある建物がそれ。
江戸時代に、牛久藩が山口氏に替り牛久藩の陣屋を牛久城跡に定め、牛久宿として人馬往来が賑やかになるとこの寺には厄除けの馬頭観音が祀られ、往来の安全を見守り、寺名も現在の瑞雲山正源寺と改称。また、火事の多い宿場の防火のため火伏りに霊験あらたかな秋葉三尺坊大権現を御堂(秋葉堂)に祀り、本尊の馬頭観音を本堂に移した、と。とはいえ、このお寺様もいく度もの火災被害を蒙っているようではある。

常磐線牛久駅
道を進み国道6号に合流。道なりに進み常磐線牛久駅に。ここで本日の散歩を終えるはずではあったのだが、まだ日暮まで少々時間がある。これであれば牛久城址を廻れるかもと、朝から歩き続けている御老公を駅でお見送りし、一人牛久城跡まで引き返すことにした。
駅前交差点から、どうせのことなら牛久沼に注ぐ稲荷川筋から下ってみようかなどと進み始めたのだが、如何せん時間がかかりそう。結局、来た道を引き返し、「牛久城大手門跡」への案内のあった「芋銭河童碑道」のあった交差点まで戻る。

八坂神社

交差点から先に進むと、道の右手に八坂神社。上にもメモしたが誠にこの一帯には八坂神社が多い。昔、竜ヶ崎市域の大半をその領土とした仙台藩(伊達藩)は愛宕神社を深く信仰したと言うが、この地ゆかりの平将門や「、その討伐軍である平貞盛、藤原秀郷も八坂神社の前身である牛頭天王(=素戔嗚尊)を深く信仰したとも伝わる。平一門の後裔がその領地とした此の地一帯ゆえのことだろうか。単なる妄想。根拠なし。

牛久城大手門跡
住宅街から次第に耕地も散見するあたりとなり、交差点から700mほどで三叉路といった場所に到る。そこに「牛久城大手門跡」の案内。「牛久城は16世紀の初めの頃在地領主岡見氏によって築かれたと言われる。天正18年(1590)岡見氏滅亡後、上野金山城主であった由良国繁が入城した。元和7年(1621)、由良氏が除封となり廃城となった。城は周囲三方を沼に囲まれ、一方の北側は台地を掘り切った要害堅固な旧城中集落全域を含む大規模な城郭である。大手門は、堀切のほぼ中央に「喰違い虎口」と「枡形馬出し」を備えた、厳重なものであった(牛久市教育委員会)」、とある。
ぱっと見た目にはわからない、ごく普通の町の一隅ではあるが、カシミール3Dで造った地形図で確認するとこの大手門の辺りが、台地が低湿地に突き出す舌状台地の境目となっている。この大手門の辺りを掘り切ってしまえば、いかにも三方を沼に囲まれた要害の地となっている。

得月院
大手門跡一帯は城跡の面影はなく、普通の民家が連なる。先に進むと道の左手にお寺さま。曹洞宗の古刹である稲荷山得月院。山門をくぐり本堂にお参り。境内には閻魔堂。左に阿弥陀に如来立像、右に奪衣婆坐を配し中央に閻魔様が拝観できる。案内によれば、「得月院閻魔堂 牛久市指定文化財 木造 閻魔大王と奪衣婆坐像;地獄界の王閻魔は、死者を裁く十王の中の第五の王で、死後五七日(35日目)忌の裁判に当たる。死者の衣を奪う奪衣婆(だつえば)は閻魔の妹で、閻魔と対をなしてよく造像されている。この閻魔の首柄には宝永4(1707)年の墨書銘があり、奪衣婆も同時期の作と思われる。当地方にはこの類例はなく、閻魔の大喝し悪を懲らしめる造形も良好で、貴重な文化財と言えよう(牛久市教育委員会)」とあった。
また、このお寺さまには小川芋銭と牛久城主由良国繁の母が眠る。榧(カヤ)の大木も名高く、「小川芋銭の墓と榧(かや)と五輪塔」と記された案内によると、「牛久が生んだ近代日本画壇の巨匠であり、「河童」で知られる小川芋銭の墓は、当得月院本堂裏にある。境内本堂脇の榧(カヤ)は、市指定文化財で推定樹齢450年から500年の大木で、芋銭作品『樹下石人談』のモチーフになった。市指定文化財の五輪塔は本堂裏墓地の中心部に建っており、文禄3年(1594)に得月院を開基した牛久城主由良国繁の母、「妙院尼」の墓碑で、「文禄3年」4と刻まれている」、とあった。

由良国繁の母・妙院尼
由良国繁が牛久城主になるに際し、「その母の功により」といった枕詞が付く説明が目につく。如何なる「功」であるのかチェックすると、誠に母の功績ゆえのエピソードが現れた。
天正18年(1590)秀吉の小田原征伐の折り、国繁は心ならずも小田原勢として小田原城に籠城させられていた。天正15年(1587年)、国繁兄弟は佐竹義重に通じ北条氏直に叛旗を翻したが、天正16年(1588年)には降伏、桐生城と足利城は破却され、兄弟は小田原に移されていたのである。
そのとき、母妙印尼は嫡男貞繁を率いて松井田城の前田利家に従い各地を転戦したと言う。また、その昔の天正11 年(1583)、国繁兄弟が厩橋城の北条氏直のもとに出仕した際、北条の佐竹攻めのため居城である金山城の借用を迫られ、兄弟は承諾するも家臣は北条に与するのを潔しとせず国繁らの母である妙院尼を擁立し籠城。ために国繁兄弟は小田原城に幽閉されている。因みにこの居城である金山城も天正14年(1586)北条氏照に明け渡され国繁は上記桐生城へと弟の長尾顕長は足利城に居城を移すことになる。
ことほど左様に、国繁は佐竹に与し北条と対抗しようにも、肝心なところでは常に幽閉されているわけで、それにかわって「反北条」の姿勢を貫き通した「母」の言動が秀吉の愛でるところとなり、国重が城主として牛久に赴いた。より正確に言えば妙印尼が秀吉から常陸牛久において5400石余の所領(堪忍分)を安堵され、国繁が跡を継いだ、ということではある。

愛宕神社
得月院を離れ道なりに進むと道の左手に鳥居。鳥居から参道を進み奥まったところに愛宕神社。小高い塚となっているが、ここは古墳跡と言う。城の土塁として利用されたため変形が著しいが円墳であったよう。
沼地を望む台地上の古墳と言えば、いつだったか印旛沼を見下ろす東北岸の台地上の「房総風土記の丘」があり、5世紀末から7世紀前半にかけての113基もの古墳が残っていたし、手賀沼北岸の台地にも100近い古墳があるという。手賀沼南岸の沼南町もしかり、そして佐倉市の印旛沼を見下ろす台地の山崎ひょうたん塚古墳群など数限り無い。往古、印旛沼も手賀沼も内海であり、水の心配もなく、かつ安全な内海を臨む台地の上には長い年月に渡って古墳がつくられていったのであろう。

小祠の木造薬師如来坐像
愛宕神社の鳥居のすぐ隣に小祠が見える。城中区民会館の敷地脇の小祠にお参りすると「木造薬師如来坐像」の案内。仏様も拝観できる。案内には「奈良時代の僧「行基」の作と伝えられており、ほぼ半等身の薬師如来坐像。檜材により寄木造りで、伏し目がちな優しい表情や穏やかな肉取り、また、衣文や東部の刻みなどすべてに、定朝様式が見られる。目は彫眼で、鎌倉時代からの玉眼になっていないことや、寄木造りの制作手法などから、実際は平安時代末期(12世紀)の作と思われる。像内背部に墨書銘があり、南北朝時代の文和4年(1355)に、大幅な修理が行われたことが知られる(牛久市教育委員会)」とあった。

牛久沼
牛久城址へと台地を進む。台地から低地というか往昔の沼地へと下るあたりに牛久城址へと向かう道もあるようだが、未だしっかりと牛久沼も見ていないので台地を下り牛久沼へと向かい沼地方向から城址に向かうことに。
台地からの坂道の左手に如何にも牛久城址といった舌状台地先端部を眺めながら牛久沼の畔に下り、しばし沼を眺める。食べてはすぐ寝る怠け者の小坊主が牛となり、入水自殺を図ったことより、牛を食う沼>牛久沼となったとも伝わる面積4平方キロ弱、最大水深3m、平均水深1mというこの沼。牛久市ではなく竜ケ崎市に属する。地図を見ながら何故なんだろうな?と疑問に思いチェックすると、牛久沼干拓計画とその失敗、そしてそれに伴う債務の引き受けといった経緯を踏まえた牛久沼の竜ケ崎市域化といった歴史が見えてきた。

牛久沼干拓計画と失敗
ことの発端は牛久沼の干拓計画。幕府財政難を改善するため新田開発を奨励した将軍吉宗の動きに呼応し、牛久沼も近世中期の享保10年(1725)に牛久藩領に住む桜井庄兵衛(下総国相馬郡平野村(藤代町)出生)が新田550ヘクタール、山屋敷72ヘクタールの造成を目指して干拓の願いを幕府に提出し認められた。
その条件としては、鍬下年季を3カ年とし、地代金3750両を支払うこと、山屋敷開発に際しては、年貢として一カ年平均永38頁九900文ずつを上納すること、このほかに冥加として年々米200石ずつを上納することとなっていた。この資金を援助したのは江戸鎌倉河岸の江戸屋七右衛門であったという。また、工事の実際の指揮にあたったのは、幕府御勘定の井沢弥惣兵衛為永である。
見沼の開発などに実績を挙げた井沢弥惣兵衛為永の起用にもかかわらず、37年に亘る工事は失敗に終わる。干拓により沼を灌漑用水としていた牛久沼南の九ヶ村(下郷)に配慮し、小貝川から用水路を開削し下郷に「代用水」を供給するといった工事も、沼と小貝川の距離が短く且つ水面の高さに著しい差がなく、小貝川からの逆流などにより、牛久沼周辺の水害被害も多発し、結局は宝暦10年(1760)の「溜沼復帰運動」となって牛久沼干拓計画は頓挫する。干拓事業失敗の原因は干拓地域累年の水害や、経済的事情、用排水の分離工事の困難、干拓に対する庄兵衛の態度が挙げられている。計画早々に見切りをつけ、工事に積極的ではなかった、とか。

で、その計画失敗の債務を代償し、年冥加米を納入することで、この沼を溜め池として利用する権利を保持することになったのが牛久沼の南、現竜ケ崎市に属する九ヶ村(下郷)である。下郷にとって牛久沼の水は九ヶ村(下郷)の溜池として利用されており農業に不可欠であり、多額の地代金や計画の際の拝借残金、牛久沼利用の諸種の運上金・冥加金を上納し「溜池」として利用する権利を保持することになったのだが、このことが牛久沼の竜ケ崎市域の因となる。

明治9年(1876)、用水溜池として復帰させたこと、そのために多額の債務を代償した事実を背景に地租改正条例に基づき、牛久沼は下郷の共有地として民有化されることになった。明治42年(1909 )以降は、下郷で牛久沼普通水利組合が設立されるにおよび、その所有へと帰した。庄兵衛の残務の処理実績が、約150年後の沼の所有権獲得につながったわけである。
これが、竜ケ崎市域から唐突に飛び出し、地里的には少々違和感のある牛久沼が竜ケ崎市に属する理由であった。ちなみに、牛久沼の干拓の失敗は、手賀沼などとならぶ井沢為永の治水・開発事業の失敗例の一つとなっている。また、干拓計画を願い出た庄兵衛であるが、県道243号・八代庄兵衛新田線の地名として牛久沼東岸にその名を残す。

根古屋不動尊
牛久沼を右手に見ながら牛久城址のある舌状台地の裾をぐるりと回り根古屋不動尊に向かう。台地が切れ、右側が根古屋川によって開析された平地に出る。平地というか、正確には根古屋川によって台地が開析され北へと、先ほど辿った牛久宿下町の筑波稲敷台地の北浦坂の常磐線の東までに食い込んだ谷筋であるが、如何にも往昔の沼地の雰囲気を今に残す。
台地を回り込むとささやかな社。根古屋不動尊とある。由来等は特に残っていないようだ。地域の地名が根古谷である。上にもメモしたが、根古谷(根小屋)は山城などの山裾にある家臣団の屋敷の地名。湿地に家臣の屋敷も無いだろうとは思うので、根古谷川所以の地名であろう、か。

牛久城址
根古谷不動尊を後に、台地裾を道なりに進み台地に上る坂道を進むと牛久城への案内。道なりに進むと道脇に「牛久城址」の案内。「牛久城は城主岡見氏によって天文後半(1550頃)に築造された。この城は戦国期に築かれた東国の城の特徴をもち、本丸がある城山には石垣や天守閣をもたない典型的な遺構を残している。ここは小田原北条氏と佐竹氏との境目にあり、三方を沼に囲まれた平山に北条流の築城技術を取り入れて造られた極めて頑強な城となっている。 下妻の多賀谷氏によって岡見氏の有力支城である矢田部城と足高城は落城したが、牛久城は同盟する布川城の豊島氏、小金城の高木氏などの援軍を得て守り切った。牛久城は天正18年(1590)に豊臣秀吉軍の東国攻めにより開城した。その後、秀吉は由良国繁を牛久城主としたが、関ヶ原合戦後の元和元年(1623)には牛久城は廃城となった」とある。

岡見氏の牛久城開城までの説明の行間を埋めると、岡見氏は南北朝時代に常陸南部を支配した筑波小田城の小田氏の一族で、その末裔が常陸国河内郡岡見郷に土着し、岡見氏として分流したと考えられている。
岡見氏は代々小田氏に従っており、常陸国にて南侵を計る佐竹勢と対立が激化。永禄12年(1569年)手這坂の合戦では小田氏が大敗。小田氏は、天正元年(1573年)頃には佐竹氏に臣従したが、岡見氏はその後独立領主として勢力を維持する。 小田氏の勢力が衰退し、佐竹勢の下妻城主多賀谷重経が勢力を拡大。岡見氏はこれに対抗することとなるが、元亀元年(1570年)には谷田部城が落城、天正8年(1580年)には一時谷田部城を取り戻すが、再び攻め取られ、天正15年(1587年)には牛久城主岡見治家の兄の居城である足高城も落城した。こうした情勢のなか、岡見氏は小田原北条氏に支援を要請し、次第にその支配下に属していくようになる。
小田原北条氏は対佐竹対策として佐竹領に隣接する牛久城を重要視し、天正15年(1587年)頃から下総国小金城主高城氏、下総国布川城(現在利根町役場)主豊島氏、上総国坂田城(千葉県山武郡横芝光町)主井田氏など近隣の国人たちに交代で牛久城を守るよう命じており、牛久番と呼ばれていた。しかしながら、天正18年(1590年)秀吉による小田原征伐により岡見氏は北条氏とともに滅亡した、ということである。
その後の牛久城であるが、上でメモしたように小田原の役の後、その母妙院尼の功もあり、新たに牛久領の領主には源氏の名門新田義貞の子孫由良国繁が金山城(群馬県太田市)から入る。由良氏は関ヶ原の合戦で徳川方に付くなど5千石から7千石へと領土を広げるも、元和7年(1621)直系が途絶え養子を迎えた事で2千石の旗本となり牛久を去る。
その後、慶長5年(1600)には、山口氏が1万5千石(後1万石)で牛久城の一画に牛久陣屋を築き牛久藩を立藩、慶長18年(1613)、私婚禁止違反で牛久藩は一時廃藩となるが、後に許されて明治維新まで山口氏一族が藩主を世襲することになる。
城址を彷徨い、土塁や堀切跡などを眺め、帰路に着くのだが、常磐線牛久駅に戻るか常磐線・佐貫駅に戻るか少し悩む。距離は同じ位ではあるので、同じ道を戻るよりは少しでも新しい道をと本日の出発点である佐貫駅に戻ることに。 城址から道を成り行きで進むと台地西側を下る坂に出た。坂を下り切ったところは城址のある舌状台地の西端というところであった。

大杉神社
道を進み車の多い国道6号を避け、脇道を探す。と、国道6号を越え常磐線の手前に大杉神社がある。鳥居をくぐり小祠にお参り。大杉神社も散歩をはじめるまで全く知らなかった社ではあるが、散歩の折々で出合う社ではある。最初に出合ったのは川越から江戸へと下る新河岸川の堤であった。

大杉神社
大杉神社の本社は茨城県稲敷市。その昔は霞ヶ浦、利根川下流域、印旛沼、手賀沼などを内包した常総内海に西から東に突き出た台地上の突端に位置する場所にあり、『常陸風土記』には安婆嶋として記される。くびれた地形故に島状の景観を示していたのであろう。
海から内海へと向かう突端の地に鎮座する社ははるか昔より常総内湾の交易の要衝であり、その社に屹立する巨大な杉は「あんばさま」と呼ばれ、常総内湾の人々の信仰の対象であり、且つ、海上交通の目印の役割を果たしてきたとのこと。大杉神社の社名の所以である。
古来より海上交通の守り神として船頭・船問屋に信仰された社であるが、利根川の東遷事業により銚子へと流路を変えた利根川により、水郷地方と江戸が直接繋がれ船運が急速に発展を遂げるに伴い、地域ローカルな社であった大杉神社もその祭祀圏を大きく拡大する。利根川流域の河岸や鬼怒川、小貝川、そして、それらの河川に注ぐ中小の河川、河岸、そして街道筋まで拡大していった、とか。新河岸川の大杉神社、葛西の大杉神社流山など処々で出合う大杉神社の理由が少しわかったように思う。

江川用水
大杉神社を離れ、常磐線の東側を線路につかず離れず道なりに進む。進行方向左手は筑波稲敷台地の谷戸、常磐線の右手は庄兵衛新田。牛久沼干拓を計画した桜井庄兵衛由来の新田ではあろう。台地裾を通り抜け左手に若柴宿の台地を見ながら低地を進むと江川に当たる。

印旛沼から水を引く江川は当初印旛沼の水抜堀として江川が開削された、と言う。その後江川は用水路の性格が強くなってゆくが、本来は水抜堀であった。既にメモしたように、古代 といっても、奈良・平安両時代のころ、牛久沼は、香取の海と呼ばれる内海(海跡湖)の一部であった。安土桃山時代には海水が後退し、ひと続きになっていた牛久沼から手賀沼当たりまでは、 雨期以外、 水深が浅くなり萱が自生する中州が点々とし、所々に浅瀬があり、その中を常陸川や小貝川が蛇行を繰り返していたとのこと。当時は鬼怒川が上流で合流していた小貝川により堆積された土砂によって次第に陸地化していたのではあろう。

その状況が大きく変わったのは関東郡代である伊奈忠次・忠政・忠治三代総指揮の下で、徳川第2代将軍秀忠治世の元和7年(1621) に開始された利根川の東遷事業の影響である。東遷事業の一環として鬼怒川と小貝川が分離され、小貝川の流路が変更となると、小貝川の堤と牛久沼がひと続きになり、ひとたび豪雨ともなれば牛久沼の水が氾濫し、洪水時には小貝川の水が牛久沼内に逆流することもあった。
忠治は、牛久沼の氾濫と小貝川逆流を防止するために、7年の歳月を費やし、沼内に 「かこい堤(土 手)」 を築いた。かこい堤の延長は2000間(3640m)に及んでいて、後世に通称二千間土手(牛久、 龍ケ崎、 取手市域をカバー)と呼ばれる。
そして、かこい堤築堤と同時に東側のかこい堤より、牛久沼の排水と川下村々1万石 (現龍ケ崎市域) の用水と両方の役割を持つべく開削されたのが江川である。しかし、水抜抜堀としての江川は牛久沼の水を排水するには不十分であり、伊奈忠治は、寛永四年(1627)弥左衛門新田(藤代町)から小貝川にかけての新水抜堀を開削。当初新川と呼ばれていたが、堀幅の長さが八間だったので八間堀と呼ばれるようになる(その後新しい八間堀が出来たため、古八間堀と呼ばれるようになる)。八間堀のお陰もあり牛久沼の排水能力は高まり、菅場谷原の新田開発が急速に進められたとのことである(「広報うしく;牛久市文化財審議委員 栗原功氏」より)。
江川の歴史をチェックすると、悪水と用水の鬩ぎ合いの歴史でもある。用水として豊富な水は必要だが、同時にそれは推進の浅い牛久沼では洪水や逆流による地域の水の被害の要因ともなる。江川に起因する悪水・用水を巡る利害の対立する村々の争いを解決すべく開削されたのが古八間堀であり、二千間堤の普請であろう。

常磐線・佐貫駅
日暮の江川を越え、本日の散歩の始点である常磐線・佐貫駅に到着し、一路家路へと。当初は御老公の若柴宿のご案内程度と思った散歩ではあったが、牛久沼や牛久城址など知らないことに出合い、結構楽しい一日であった。
10数年に及ぶ京の都での御所の警備、禁裏滝口の衛士を終え、将門は京でのよき理解者である太政大臣・関白である藤原忠平から付託された相馬の御厨の下司として下総に戻る。相馬の御厨は取手の北西、関東常磐線・稲戸井駅近く米ノ井・高井戸辺りにあり、将門は館を取手の東、守谷に構えた、と。(ここで言う相馬の御厨とは千葉氏が元治元年(1124)その任を受けた正式な「相馬御厨」とは異なるが、便宜上「相馬の御厨」で以下メモする)。
そもそも、この地は将門一門・遠祖のゆかりの地。平将門の祖である桓武天皇の第四子葛原親王は9世紀の中頃、常陸の大守に。遥任であり任地に赴くことはなかったが、その孫の高望王は上総介となり東下。朝敵を平らげる、ことより「平」姓を賜る。高望王は任地である上総の四周を固めるべく、長子の国香は下総国境の菊間(鎮守府将軍)、二男の良兼は上総の東北隅の横芝、三男の良将は下総の佐倉に、四男良繇(よししげ)は上総東南隅の天羽に館を構える。 将門は三男の良将の子である。良将は下総国相馬郡の犬養春枝の娘と結ばれたが、犬養家は「防人部領士(さきもりことりつかい)」、簡単に言えば防人のトレーニングセンターの長といったものである。トレーニングセンターは関東常総線・新取手駅の南にある寺田の辺り。その館は先回の散歩で訪れた戸頭神社辺り、といった説のほか、本日歩く取手市本郷の東漸寺の辺りにあった、との説もある。
本郷地区に西には、「駒場」の地名も残る。戦士に必要な馬術を訓練した地の名残ではあろう。犬養氏の領地は将門が下司となった相馬の御厨の東隣り。利根川以北の相馬郡の東は犬養家の所領、西は御厨といったところである。将門が京より戻った頃、父・良将の旧領は、大半が叔父の国香や良兼らによって蚕食されていた、と言う。父の旧領を回復することもさることながら、伯父達の攻勢の中、私君・藤原忠平から付託された相馬の御厨の下司職を忠実に勤め、荒地・湿地を開墾し勢力を拡大するにも、傍に犬養氏が拠点を構えるのは、さぞかし心強かったことではあろう。

本日の散歩は、若き日々の将門が力を養った相馬の御厨や母の実家である犬養家の所領地であった一帯を辿ることになる。将門と言えば、その本拠は豊田郡鎌輪(下妻市)であり、猿島郡岩井(板東市)との印象が強いが、それは伯父達との争いに端を発する天慶の乱の展開により、本拠を移したことによる(天慶の乱のあれこれのメモはこちら)。成り行き任せで始めた下総相馬の将門ゆかりの地を巡る散歩も、守谷での散歩を含め5回にもおよぶと、散歩の前におおよそのテーマが見えるようになってきた。



本日のルート:関東常総線・稲戸井駅>神明遺跡>神明神社>慈光院>香取八坂神社>高源寺>東光寺>高井城址>妙見八幡宮>妙音寺>小貝川の堤防>水神宮>延命寺>岡神社・大日山古墳>仏島山古墳>白姫山>桔梗田>大山城址>とげぬき地蔵>東漸寺>春日神社>西取手駅

関東常総線・稲戸井戸駅
ささやかなる稻戸井駅で下車。米ノ井が、米が井戸から湧き出た、との伝説のように、稻戸井も稲が湧き出た伝説でもあるのかと思ったのだが、この地名は村の合併伝説でよくあるパターンでできたもの。明治22年(1889),戸頭村が米ノ井村、野々井村、稻村と合併した時に,それぞれの村の一字を採ってつくった地名であった。

神明遺跡
駅を下り、神明神社に向かうと神社手前の畑の脇に木標が立つ。案内を読むと神明遺跡、と。縄文後期の土器が発掘されたようだが、現在遺構は残らない。この辺りは小貝川から入り込んだ大きな谷津の奥にある、標高23mの台地。小貝川の水を避けながら、その水を利用できるロケーションに縄文の人々が生活をしていたのだろう、か。









神明神社
畑地の畔道とおぼしき小路を辿り鎮守の森に佇む神明神社に。この神社は長治元年(1104)、将門の後裔である相馬文国が伊勢神宮より勧請した、と。米ノ井神明神社と同じく、この地に神明神社があるということは、この辺り一帯が御厨の地であった、ということのエビデンスのひとつではあろうが、それよりなにより気になったのは、相馬分国って誰?
下総平氏の後裔である千葉氏の流れを汲む相馬氏にはそれらしき名前が見当たらない。チェックすると、相馬文国って、将門の子である平将国の子とのこと。将門敗死の時、幼少の将国は常陸国信太郡に落ち延びた、とか。信太の地は常陸国、現在の茨城県稲敷郡阿見町、美浦町の全域と土浦、稲敷。牛久市の一部である。将国は陰陽師の安部清明である、との説もある。
相馬文国はその将国の子供。江戸時代初期につくられた下総相馬氏の「相馬当家系図」には、「将門の子将国が信太郡に逃れて信太氏を名のり、その後、将国の子文国(信太小太郎)が流浪するものの、その子孫は相馬郡にもどり、相馬氏を名のった」とされる。
文国の流浪譚は中世の「幸若舞」のひとつである『信夫』のストーリーをとったもの、とも言われる。『信太』は、将門の孫である文国と姉千手姫の貴種流離譚。文国が姉千手姫の嫁いだ小山行重(将門を討った藤原秀郷の子孫とされる)から所領を奪われ、その後は人買い商人に売られ、塩汲みに従事させられるなど諸国を流浪しながらも、その貴種である素性が認められ小山行重を攻め滅ぼし、相馬郡で家系栄える、といったもの。どうみても、山椒大夫と将門伝説が合体して造られたものではあろう。
相馬分国については、将門敗死の後、その子孫は流刑に処せられたが、文国のときに赦されて常陸国に住み、さらに下総国相馬郡に帰った、との説もある。この神明神社を勧請したとされる相馬文国は、かくのごとき「歴史」を踏まえてこの地に名を残しているのであろう。

慈光院
神明神社を離れるとほどなく慈光院。境内、と言っても、これといった「境」があるわけでもなく、地域の集会所が本堂脇にある、といった素朴な風情のお寺さま。その「境内」には石碑、石塔が結構多く並ぶ。参道の右手には文政2年(1829)の「廻国塔」と昭和や平成に建てられた聖観音像、坂東33観音巡拝記念碑、秩父34観音霊場巡拝記念碑、西国33観音霊場巡拝記念碑が建つ。 さらにその先には、参道の右側には石塔が並んでいる。六地蔵とその中央に馬頭観音像(造立年不明)、右端には寛政8年(1796)の光明真言百万遍供養塔が並ぶ。
境内左手の木の根元にはささやかな祠。中には貞享4年(1687)作の大日如来浮彫の十六夜塔が祀られる。本堂には阿弥陀如来が祀られる、とか。

香取八坂神社
慈光院を離れ、道を進むとT字路。右に折れ道脇に大きな敷地の(株)東京鉄骨橋梁取手工場を見やりながら進み、県道261号と合流し、県道が南に折れる辺りで県道を離れ道を北に進むと、取手市下高井の台地端に香取八坂神社がある。
鳥居手前にいくつかの石塔が並ぶ。庚申塔とか石尊大権現といった、よく見る石塔の中に、「尾鑿山大権現」と読める石塔があった。チェックすると、栃木県鹿沼市のある賀蘇山神社の鎮座する山の名前。尾鑿山(おざくさん)と読む。千年の歴史を秘めた賀蘇山神社は古くから尾鑿山」と呼び親しまれてきた、とか。


木々に覆われた参道を進む。天満宮や三峰神社、琴平神社などの小祠が佇む。ささやかな拝殿にお参り。現在は香取八坂神社と呼ばれるが、明治の迅速測図には「香取祠」と記されている、と。因みに、迅速測図とは明治初期から中期にかけて作成された地図。明治政府は各地の反乱の鎮圧に際し、地図が無いことが作戦計画の障害となるため、短期間でつくられた簡易地図である。
ところで、神社は、香取八坂神社のある台地の傍、低地を隔てた東隣にある高井城の城主・相馬小次郎の氏神だといわれている。相馬小次郎は将門からはじまり、多数いるのだが、この場合の相馬小次郎とは、長治年間(1194-1106)、常陸国信太郡から移り住み相馬姓を名乗った信太小次郎重国のことではあろう。重国は上でメモした相馬文国から数えて2代後、文国の孫、ということであろう。




(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)


高源寺
香取八坂神社からすぐ東に「高源寺」がある。この寺は、承平元年(931)将門が釈迦如来の霊験によって建立したと伝えられる。開基は応安元年(1368)、相馬七左衛門胤継とその後裔がこの地を治め、鎌倉の建長寺より住職を招いたとの名刹ではある。慶安2年(1694年)には徳川三代将軍家光より三石二斗の朱印地を賜っている。
相馬胤継とは、相馬師常を祖とする下総相馬家の3代頃の人物。下総相馬家とは、上でメモしたように、将門の流れをくみ、常陸国信太郡から移り住み相馬姓を名乗った信太小次郎重国の2代後の師国に子がなかったため、平良文の流れをくむ下総千葉氏より師常が養子となってできたもの。平将門とその伯父であり、将門のよき理解者であった平良文の流れが合わさったブランドである。
境内には「地蔵けやき」がある。樹齢1600年と言われる巨大な欅の根元から数メートルほど幹の中が失われ、空洞となっており、そこにお地蔵さまが佇む。開口部の脇にも穴が開いており、昔はお地蔵様に安産のお参りをし、穴を通り抜ければ安産間違いなし、ということではあったが、現在は樹木保護のため、木の周囲は立ち入りが禁止され気の通り抜けはできなくなっている。

○広瀬誠一郎
高源寺には、この下高井の地に生まれ、利根運河実現に生涯をかけた広瀬誠一郎が眠る。いつだったか利根運河を辿ったことがある。流山辺りで利根川と江戸川を直接結ぶために開削した人工の運河であるが、周辺に谷戸の景観が残る、誠に美しい運河であった。
利根運河は明治21年(1888)に起工式をおこない、2年の歳月をかけて完成した総延長8キロの運河ではある。利根川の東遷事業により、利根川と江戸川が関宿辺りで結ばれ、内川廻りと称されれる船運路が完成したわけだが、江戸末期には関宿当たりに砂州ができ、船運が困難となる。
結局、先回の散歩でメモした利根川の「七里の渡し」の辺りにある「布施河岸」荷を下し、陸路を江戸川筋まで運ぶことになるのだが、それを改善すべく企画されたのが「利根運河」。明治14年(1881)、当時茨城県議会議員(翌年北相馬郡長)であった広瀬誠一郎は茨城県令であった人見寧に利根運河の開削を提言。明治16年(1883)には内務省もオランダ人技師ムルデルに調査・計画書の立案を依頼するなど動きもあったが、財政上の理由もあり明治20年(1887)には政府事業を断念。明治19年(1886)に相馬郡長の職を辞し、利根運河に全精力を注ぐ予定であった広瀬氏は明治21年(1888)には株式を公募し民間の事業として工事を開始することになる。運河完成とともに、最盛時は年間3700余隻、1日平均100余隻の船が往来した運河も大正時代になると鉄道輸送などにその役割を譲りゆくことになった。

下高井薬師堂
高源寺から集落を少し南に進むと、火の見櫓の脇に下高井の薬師堂があった。境内と言った構えはないが、本堂脇にはささやかな太子堂、光音堂といった祠が建つ。光音堂は新四国相馬霊場を開いた光音禅師を祀る。薬師堂は新四国相馬霊場50番。愛媛県の繁多寺の移し寺、とのこと。
堂宇に祀られる薬師如来は文明11年(1479)の作、と言う。境内の庚申塔、廻国塔、日本廻国塔などを見やりながら次の目的地である高井城址へと向かう。




高井城址
道を成り行きで進むと、道標があり、道を左に折れる。道なりに進むと台地を下り、左右を台地で囲まれた谷戸の低地に。一帯は高井城址公園として整備されている。
かつての湿地の面影を残す公園の左手の台地が高井城址。成り行きで比高差10mほどの台地へと上る。台地上への途中には広場らしきものがある。昔の枡形なのか、腰曲輪といった名残であろう、か。






台地上の主郭部分はわりと広い広場となっており、周囲には土塁も残されていた。虎口あたりにある案内によると、小貝川の氾濫原に面した台地に立つこの城は、取手市内で最も大きいもの。築城の時期は不詳ではあるが、戦国時代後期の築城とされる。既にメモしたように、長治元年(1104)に将門の後裔・信太小次郎重国が、常陸信太郡からきてこの城を築き相馬家を称した、と。なお、重国の子の胤国、その子の師国に子が無きが故に、下総千葉氏より養子として相馬家を継いだ師常が下総相馬家の祖となった。流浪を重ねた将門の後裔が下総平家直系の千葉氏と結びつき、「下総相馬家」というブランド家系をなした、ことは上でメモしたとおり。


ところで、「高井城」という名称であるが、下総相馬家が当初、館をどこに設けたかは定かではない。定かではないが、鎌倉初期にはその主城を守谷城に移したようではある。で、高井城は下総相馬家の一族が守谷城の支城として詰めていたようではあるが、天正年間(1573から1592)の頃には高井の姓を名乗るようになっていた、と言う。永禄9年(1567)の「北条氏政書状写」には、高井氏が相馬氏の支配下に置かれてた、と記載されている、とか。
秀吉の小田原後北条征伐に際しては、高井氏は下総相馬家の一員として小田原後北条方に与し、相馬氏は滅亡し、高井城も廃城となった。その後の高井一族は、最後の高井城主の子は小田原藩大久保家に仕え相馬氏を称したり、家康の旗本として取り立てられたりしているようである。

妙見八幡宮
小貝川の氾濫原のあった台地下に下り、高井城の風情などを低地から眺め、再び台地に戻り高井城址脇の道を通り妙見八幡に。航空地図を見るに、主郭の広場のすぐ東といった場所ではある。
構えは素朴。相馬家の氏神、といったことではあったので、もっと大きなものかとは思っていたのだが、鳥居とささやかな社殿が建つのみではあった。境内には石祠や石塔、石仏群が多く建つ。秋葉大権現、水神宮、道祖神、雷神社、如意輪観音、三峰大権現、二十三夜塔、といったものである。地域内にあったものを合祀したものか、道路工事などの際にこの地に寄せ集められたものであろう、か。

○妙見信仰
妙見信仰といえば、秩父神社が思い出されるが、秩父神社は平良文の子が秩父牧の別当となり「秩父」氏と称し妙見菩薩を祀ったことがはじまり。平忠常を祖とする千葉氏はその秩父平氏の流れをくみ、妙見菩薩は千葉家代々の守護神であった。 千葉一族の家紋である「月星」「日月」「九曜」は妙見さまに由来する。 妙見信仰は経典に「北辰菩薩、名づけて妙見という。・・・吾を祀らば護国鎮守・除災招福・長寿延命・風雨順調・五穀豊穣・人民安楽にして、王は徳を讃えられん」とあるように、現世利益の功徳を唱える。実際、稲霊、養蚕、祈雨、海上交通の守護神、安産、牛馬の守り神など、妙見信仰がカバーする領域は多種多様。お札の原型とされる護符も民間への普及には役立った、とか。 かくして、妙見信仰は千葉氏の勢力園である房総の地に広まっていった。上でメモしたように、下総相馬氏は鎌倉時代、平良文の流れ(下総平氏)を継ぐ千葉宗家第五代常胤の二男・帥常が守谷に館を構え「相馬氏」を称したものであり、氏神として祀ったものであろう。

妙音寺
妙見八幡宮で休憩しながら地図を見るに、すぐ近くに新四国相馬霊場第52番妙音寺がある。ちょっと立ち寄りと、妙見八幡宮横の道を入るにお寺らしき建物は見当たらず、わずかに小高いところにふたつの小祠があった。太子堂と光音堂とある。光音堂とは新四国相馬霊場を開いた観覚光音禅師を祀るお堂。

○新四国相馬霊場
新四国相馬霊場とは宝暦年間(1751~1764)に江戸の伊勢屋に奉公し、取手に店をもった伊勢屋源六(光音禅師)が長禅寺にて出家し、四国八十八カ所霊場の砂を持ち帰り、近くの寺院・堂塔に奉安し札所としたのが始まり。利根川の流れに沿って、茨城県取手市に58ヶ所、千葉県柏市に4ヶ所、千葉県我孫子市に26ヶ所あり、合わせて88ヶ所の札所、このほかに番外として我孫子市に89番札所が存在する。江戸時代近在の農民や江戸町民が巡拝し賑わったという。光音禅師は取手市の長禅寺観音堂修築と取手宿の発展に尽力し、市内にある琴平神社境内に庵を結び余生を送った有徳の人である。

小貝川の堤防
大師堂、光音堂にお参りし、次の目的である小貝川の堤防へと鬱蒼とした木々の間の小道を進み台地を下る。台地を下ったところを流れる小貝川排水路を越え、堤防への道を探すに、眼前には畑地が広がるが、それらしき道筋は見当たらない。仕方なく、畑地の畦道を探し畑地を横切り小貝川の堤防に取りつく。 小貝川は栃木県那須烏山市の子貝ケ池にその源を発し、市貝、益子、真岡、常総、つくば、つくばみらい、守谷、取手、竜ケ崎、利根のといった市町村を経て利根川に注ぐ。








堤防から遠くに見える印象的な山容は筑波山であろう、か。また、右手を見ると、南東へと下ってきた小貝川が北東へと流路を変えるその先に、小貝川の流れを堰止める岡堰も見える。小貝川が大きく流路を変え、水勢を抑えた「溜まり」のその先を選んで堰をつくったように思える。








岡堰
岡堰は江戸の頃、寛永7年(1630)に関東郡代である伊奈半十郎忠治によって新田開発を目的としてつくられた。堰をつくるに先立ち、伊奈半十郎忠治は現在のつくばみらい市寺畑のあたりで小貝川に乱流・合流していた鬼怒川を分離すべく大木丘陵を開削。鬼怒の流れを利根川(当時は常陸川)に落とし、水量の安定した小貝川の治水工事と並行し堰を設け、堰から引かれた用水によって小貝川の東、旧伊奈町を含む現在のつくばみらい市一帯の氾濫原を「谷原三万石」「相馬領二万石」とも称される新田となした。小貝川には岡堰の他、福岡堰、豊田堰があり、関東の三大堰とも称された。







現在の岡堰は明治19年(1886)に新式の水門をもつ堰となるも、洪水で流され明治31年から32年(1898-1899)にかけて大修理が行われ,また昭和になって水門や洗堰がつくられるなどの経緯をへて平成8年(1996)に完成したものである。因みに、平成の堰造成工事で結構伐採されたようではあるが、明治15年(1882)には高源寺で出合った当時の相馬郡長であった広瀬誠一郎によって桜の苗木が堤防沿いに植樹し桜の名所となっていたようである。





水神岬
堤防を進むと、小貝川の流路がU字型に変わる辺りに水神岬という100mほどの突堤があった。案内によれば、「溜まり部分」の中洲などと相まって、水流を分散させ堤防を護る役割を果たしている、と。岬の先端には水神宮が祀られていた。
「岡堰用水組合では水神宮のお祭りとともに、上州榛名神社に代参を立てたことが江戸時代の記録に残る。山岳信仰の通有性はあるにしても、特に榛名山を選んだのは山を水源と仰ぐ心であろう。水は二万石の命である」と案内にあった。それにしても何故榛名山?榛名山系の第二の高さをもつ山の名が相馬山と呼ばれるが、この山と相馬、将門に関するなにかの因縁でもあるのだろう、か。不詳である。

延命寺
小貝川の堤防を離れ、再び台地に戻る。小貝排水路を跨ぐ橋を渡り、成り行きで道を進むと公園脇に延命寺があった。山門はなく、広い境内入口にはお寺さまが住む家なのだろうか、今風の2階屋があり、なんとなく遠慮しながら境内に入る。
境内を住むと正面に本堂があり、地蔵菩薩が祀られる、と。境内右手には大師堂や水子子育地蔵菩薩像が安置される。寺宝も多く釈迦涅槃絵、三仏画、十三仏画、二十八仏画が昭和53年に取手市指定有形文化財に指定されているとのことである。古き趣は残らないが、落ち着いたお寺さまではある。
このお寺さまにも将門ゆかりの縁起が残る。12世紀の初めころ、紀州根来の高僧の夢枕に将門が信仰していた地蔵尊が現れ、東国に下り、我(地蔵尊)を祀り、将門ゆかりの者や衆生を済度すべし、と。その日から10年後がたったある日、再び地蔵尊が現れ同じお告げを。僧は決心し東国に下り、地蔵尊の場所を探しに将門ゆかりのこの地を訪れる。
その夜のこと、台地の麓に光が見えたため、その地を辿ると、草木が生い茂った島に塚がある。土人の言うに、「この地に将門の霊廟があった」、とのこと。それではと、その地を探すと目指す地蔵菩薩があった。根来の上人はその場所を「仏島山(ぶっとうさん)」と名付け、一寺を建立し「親王山延命寺」と名付けた。延命寺はその後台地下より現在の地に移った、と。

将門ゆかりの話といえば、延命寺の境内には、将門の愛馬を弔った「駒形さま」がある、と。少々遠慮しながら正面入ってすぐ左の老木の根元にささやかな石祠があった。それが駒形さまではあろう。また、本堂右手の小高い場所に三峰権現などの石祠と並んで元禄年間作の「将門大権現」の石祠もある、と言う。また、「七人武者塚」といわれている七基の石塔があるとのことだが、民家風の境内故、あれこれ彷徨うことを遠慮したため、将門大権現は見逃した。

○青麻神社
少し脱線。将門大権現の石祠のあるところに「青麻神社」の石塔もある、と言う。『将門地誌;赤城宗徳(毎日新聞社)』に以下のような記載があった:「東大寺にある養老5年(722)の戸籍に、「下総国倉麻郡億布(おふ)の郷」とある。倉は蒼の転化したものであり,「億布(おふ)」は「乙子」の地名でメモしたように、多くの麻布が産出された所の意味、と言う。つまりは、「下総国倉麻郡億布(おふ)の郷」とは、「青い麻が一望千里に植えられ、麻がたくさん取れる郷」のことである、と。
それはそれとして、「青麻」>「蒼麻」の読みは「そうま」ではあろう。当時はカナ文字が主体で漢字が思いつきであてられていたようである。元は「青い麻」の意味をもつ「そうま」という音に、下総の草原を駆ける馬を想起し、「相馬」の文字があてられたのではないだろう、か。なお、相馬の文字が最初に記されるのは『万葉集』、と言う。

岡不知
延命寺を離れ、県道251を渡り、台地を成り行きで岡神社へと向かう。畑地の脇の農道、竹林、林など本当に岡神社へ辿れるものかと、少々不安になりながらも進む。その昔、この辺りは「岡不知(しらず)」と呼ばれていた、と言う。いつだったか市川を散歩したとき、「八幡不知(やわたしらず)の森」に出合った。現在はささやかな竹林に過ぎないが、往昔「藪不知(やぶしらず)」ともよばれ、藪が深く祟りがあり、一度は入れば二度と出られない、といった森であった、とか。この「岡不知」の森も昔は深い森ではあったのだろう。
また、これは偶然の一致ではあろうが、市川の「八幡不知森」には、天慶の乱の時、将門の仇敵平貞盛にまつわる伝説が残り、この地に入るものには必ず祟りがあるとの言い伝えがあった、とか。この「岡不知」の森も将門ゆかりの「何か」を護るため、人の出入りを禁じる「岡不知」の言い伝えが残ったのであろう、か。とはいうものの、市川の八幡不知森は、その地が「入会地」であったため。祟りの伝説をつくって人の出入りを禁じた、というのが実際の話であった、とも。因みに、取手の地名である藤代は岡不知の「不知」からの説もある。


(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)


岡神社・大日古墳
岡不知の森を進むと台地の端辺りの小高い塚の上に岡神社があった。 石段を上り神社にお参り。熊野権現、八幡、鹿島、天神、稲荷の各社を合祀する。神社の建つ塚の周囲には多数の石塔、石碑、祠、灯篭などが並ぶ。
神社脇にある案内によると、この神社の建つ塚は古墳との説がある、と。「この古墳は岡台地の先端に造営された古墳で、高さ約二・八メートル、底径十八メートルの美しい古墳である。この古墳は未発掘の古墳で副葬品等は不明である。かつてこの付近から各種玉類・鉄鏃等が発見されたが、築造年代は古墳時代後期でないかといわれている。中・近世になって大日信仰が盛んになると、この墳丘に種々の石碑や石造仏の類が建てられたので、大日山の名はそれによってつけられたものであろう。現在この墳丘上に岡神社が創建されている」と案内にあった。地元ではこの古墳は将門の墓とも伝えられている。
塚の脇は広場となっているが、そこには将門の愛妾桔梗の前が住む「朝日御殿」があり、毎朝、日の出を拝み、将門の武運を祈った、と。朝日遥拝の話はともあれ、この岡神社のある辺りは台地の東端。縄文時代は台地の下は一面の香取の海。将門の時代も、守谷から台地上を進んだ「郷州街道」も、この地から先は舟便となる。香取の海は、龍ヶ崎や江戸崎、印旛や成田などの対岸にある台地で囲まれた灘であり、対岸からの敵襲に備える軍事上の要衝ではあったのだろう。桔梗の前の朝日御殿はともかく、将門の軍事拠点となる館か取手はあったのではないだろう、か。

仏島山古墳
岡神社を離れ、延命寺の縁起にも登場した島仏山古墳に向かう。岡神社から急な石段を下り、台地の縁に沿って台地の北側に戻り、岡集落の中を進むと民家の脇に、塚と言うのも少々憚られるような一角があり、そこが島仏山古墳とのこと。古墳自体は明治28年(1895)、岡堰の築堤と道路工事に際に古墳が発掘された、とか。
案内をまとめると、「美しい円墳で墳丘も高かったと言われるが、過去二回に亘って古墳の土砂を採取し、その形状は不詳。が、周囲の状況等から判断すると、径約三十メートルの円墳と推定される。また、遺物の出土状況から判断してこの墳丘は埴輪円筒をめぐらし、その上を美しい埴輪で飾った古墳であった、よう。
古墳の築造年代は、六世紀のもの。なお、明治二十八年学校敷地造成のため、土砂を採取した際に、石かく・骨片・刀剣・曲玉・鉄鏃・埴輪・埴輪円筒等出土したが、この多くは現在の国立博物館に納入された。また、昭和八年岡堰改良工事のため土砂を採取した時に出土した埴輪(四)、円筒埴輪(七)等も国立博物館に納入。本古墳に仏島山の名称がつけられたのは、古墳の周囲には堀をめぐらし一大島状をなしていたが、その後、中世になって墳丘上に仏像や石塔等が建立されたため」と言う。古墳は以前はもっと大きく、高さもあったようだが、学校用地の造成、岡堰の築堤などに際して土砂が採取され、現在の姿見となった。古墳の頂きの祠は将門神社、とも。

白姫山
仏島山古墳から表郷用水に沿って少し北西に進むと白姫山がある、と言う。表郷用水は岡堰から引かれた用水ではある。名前に惹かれて白姫山の辺りまで進むと荒れ果てた薬師堂と「岡台地と平将門」の説明板があった。「この岡台地は一望千里と言われる平坦な水田地帯の広がる町にあって、唯一の台地で古い歴史を秘めたところで もある。特に承平の乱(935~940)を起した平将門にまつわる史蹟が散在し伝説が語継がれてきた。 『将門にまつわる史蹟』として大日山古墳、朝日御殿跡、延命寺、仏烏山古墳が存在する」、と。白姫山の由来である「白姫祠」も見当たらなかった。ここに桔梗の前が住み、墓もあったと伝えられている、とのこと。

桔梗田
白姫山を離れ岡の台地に沿って岡神社の下を抜け、台地南側に出る。低地を隔てて大山の台地が見える。低地は岡台地と大山台地に挟まれた谷戸の趣き。低地の中ほどに相野谷川が流れる。門敗死の報を受け、愛妾桔梗前(正妻の「君の御前(常陸国真壁郡大国玉の豪族・平真樹の娘)が誅された後、正妻になったとも言われる桔梗前が身を投げた桔梗沼は相野谷川の傍にある、という。
川に沿って上流へと進む。川の周囲は北岸には一部湿地の名残を残すも、南岸はほぼ耕地となっている。左右に注意をしながら進むも、相野谷川が「たかいの里汚水中継ポンプ場」辺りで地中に入ってしまう。再び下流に戻り進むと、川の北側、湿地の名残の葦の生い茂る一画に「桔梗田」の案内があった。
案内によると、「伝 桔梗姫入水の地 岡台地の現大日山古墳のあるところは、山高く樹木うっそうと茂り、前方の眺望よく要がいの地でした。平将門はこの地に城館を構え、最近まで堀や土塁の一部が残っていたといわれています。城館の隣に愛妾桔梗姫の御殿があったといわれ、周辺の人は旭御殿と呼んでいます。
当時、将門の最後を知った桔梗姫は、今やこれまでと、この城下の沼に入水して果てたと言われています。今は埋められて水田となっていますが、村人はこれを桔梗田と呼び、祟りがあると伝えられたため、村の共同管理地として受け継がれてきました(取手市教育「委員会)」、と。将門は、天慶三年(939)二月十四日、將門は茨城県猿島町幸嶋において敗死。桔梗が身を投げたこの沼はのちに田となり「桔梗田」と呼ばれたが、ここを耕作する農家の娘は嫁に行けないことが続き、現在は集落の共有地になった、とのことである。

大山城址
相野谷川を渡り、大山城址のある大山台地に向かう。台地に取りつき、上り口を探す。二度ほど直登を試み台地に取りつくも、藪や竹林に遮られ、結局は道なりに台地縁をなぞり、小道を上る。
道を上り切ると、大きな車道が開かれている。この大山の台地の南の、かつては谷戸であったと思われる一帯には宅地開発がなされており、その住宅地へと通す車道を建設したのではあろう。
で、大山城址であるが、台地上をしばし彷徨うも、それらしき場所はみあたりそうもなく、城址探しはやめとする。因みに、大山城址は中近世き築かれた城跡であり、二重の土塁と空堀によって後背の台地と隔離され、空堀の深さは2メートルほどあった、とか。現在その大半が個人の敷地であり、また宅地造成によって掘削されてしまっているようであった。
この城は、高井城の支城と考えられ、将門の臣・大炊豊後守の拠ったところ。豊後守は勇者として知られ、将門敗死と共に弟・丹後守と逃れて柴崎(現我孫子市)に土着した、と言われている。

とげぬき地蔵
宅地開発された新取手地区の大きな住宅街を次の目的地である駒場地区に向かって進む。この新しい新取手地区も昭和40年頃までは「「寺田字後山(うろやま)」や「寺田字大山」と字名が付いていた地域。のどかな一帯ではあったのだろう。
住宅街を抜け、関東常総線・新取手駅を越え、県道294号線を東へと進む。ほどなく、県道が関東常総線から離れ、南東へと下るあたりで左に分岐する小道萱がある。次の目的地である取手市本郷の東漸寺に向かうには、関東常総線を北に越えなければならないので、とりあえず県道から分かれ小道に入る。
ゆるやかな道を少し進むと千羽鶴に覆われた祠があり、とげぬき地蔵とあった。江戸の頃,正徳年間(1704~1715) に建てられたもの、と言う。もともとは茅葺の祠であったようだが、参詣者の失火により焼失し、戦後に現在の堂宇を再建した、とのこと。現在は大きな住宅街の広がる新取手一帯であるが、昔は近郊に農家70数戸しかなく、そのうちでも12軒で地蔵堂を護ってきた、と。
とげぬき地蔵には、その昔、棘抜き名人のお婆さんがこの地にいたのだが、亡くなるに際し、今後はお地蔵様が棘を抜いてくれる、と。で地蔵堂を建てると棘だけで苦労も抜いてくれると評判になり近郷から参詣に訪れるようになった、といった縁起が残る。また、江戸の頃、出雲からこの地に住むようになった医師が有徳の人であり、その人を供養すべく地蔵堂を立てたのが、とげぬき地蔵尊のはじまり、との話も残るようである。

駒場地区
とげぬき地蔵から成り行きで関東常総線を北に抜け、成り行きで進み県道130号に出る。地名は駒場と呼ばれる。往昔、この辺り一帯は、将門の母である犬養春枝の所領地。犬養家は「防人部領士」、簡単に言えば防人のトレーニングセンターの長といったものであり、武人に必要な馬に由来する地名ではあろう。その馬術トレーニングの名残が下総相馬家から分かれた福島相馬家に伝わる「相馬野馬追い」とも言われる。

県道327号
県道130号を少し南に下り、関東常総線・寺原駅手前を県道327号に沿って左に折れる。東漸寺までのルートを探すべく地図を見るに、県道327号は寺原あたりで切れている。チェックすると、この県道327号は「茨城県道327号寺原停車場線」と呼ばれ、起点が寺原駅。終点が駒場1丁目の県道130号常総取手線との交差点。距離わずか176号の県道である。因みに「寺原駅」の寺原とは 明治22年(1889)に北相馬郡寺田村と桑原村が合併するに際し、両村の1字を取ってつくった合成地名。市町村合併の際によくあるパターンである。

東漸寺
県道327号が切れるあたりの二差路を左に取り、ゆるやかなさかを下りおえたあたりの左手にある神明宮を見やり、車道を一筋北にはいった坂を少し上ると東漸寺があった。
茅葺の誠に美しい仁王門をくぐり境内に。先に進むと、これも誠に趣のある観音堂があった。案内によると、「市指定文化財 観音堂・仁王門;この堂宇は、寛文七年(一六六七)に創建されたもので、屋根は寄棟造りで向拝をつけ、木鼻(「木の端」)の型式は室町時代末期から江戸時代初期の雰囲気を止めている. 仁王門は、元禄三年(一六九〇)吉田村の清左衛門と称する篤信家の寄進によるものと伝えられ、単層八脚門となっており、市内唯一の建造物である。
観音堂には、聖僧行基の作と伝えられる観世音菩薩像が安置されており、家運隆昌、除災招福、特に馬の息災には霊験著しい尊像として古くから敬信を集めている。陰暦七月十日の縁日は俗に万燈といわれ、近郷近在の信者が境内をうずめ稀にみる賑わいを呈したものである。
昔乗馬のままお堂の前を通ると、落馬すると言われた為お堂と道路の中間に銀杏を植樹して見えないようにしたという。今に残る「目隠し銀杏」がそれである(取手市教育委員会)」、と。
このお寺さまは、江戸初期に関東十八檀林の1つとされた名刹。僧侶の学校である檀林となった東漸寺は、広大な境内に多くの堂宇が建ち並んだ、とか。大改修が成就した享保7年(1722)には本堂、方丈、経蔵(観音堂)、鐘楼、開山堂、正定院、東照宮、鎮守社、山門、大門その他8つの学寮など、20数カ所もの堂宇を擁し、末寺35カ寺を数え、名実ともに大寺院へと発展。明治初頭には、明治天皇によって勅願所となっている。
現在は仁王門と観音堂の他にはこれといって堂宇が見当たらないが、このふたつの建物だけでも疲れた体を癒すに十分な構えではあった。将門とのこのお寺さまの傍に犬養春枝の館があったとも伝えられ、将門がそこで生まれた、とも。また、観音堂の観音様は犬養氏か後世の下総相馬氏によって寄進されたものでは、とも伝わる。

春日神社
その犬養氏の館であるが、東漸寺の少し東、JA寺島支所の手前にある春日神社の辺りであったとの説がある。訪ねるに、誠にささやかな祠ではあった。因みに、犬養氏の館は先回の散歩で訪れた戸頭神社のあたりである、との説もあり、よくわからない。どちらであっても私個人としては一向に構わないわけで、とりあえず守谷から取手に点在する、将門ゆかりの地を訪ねたことに十分に満足し、散歩を終える。
因みに、地形図を見ると、東漸寺や春日神社のある辺りは香取の海を臨む台地端にある。改めて守谷から取手まで辿った将門の旧跡を地形図でみると、訪ね歩いた地域は、北は香取の海、南は常陸川、というか湖沼地帯に挟まれた台地上に続いていた。思わず知らず、東南端を取手宿とする下総の台地を辿ったようであった。 
 数年前のこと、旧水戸街道を取手宿からはじめ、藤代宿をかすめ藤代宿へと辿った。そのときは、若柴宿の静かな佇まい、そしてその集落の先にある「牛めの坂」の「森に迷い込んだような錯覚に」といった写真のキャプションに惹かれての散歩ではあったのだが、その散歩で思いがけなく将門ゆかりの旧跡に出合った。「将門」というキーワードにフックがかかり、あれこれチェックすると、守谷市から取手市にかけて、昔の下総相馬の地に将門ゆかりの旧跡が数多く残っている。それでは、ということではじめた将門ゆかりの旧跡を辿る散歩も守谷市域を終え、取手市域へと向かうことに。

 守谷市域では将門の旧跡だけでなく、小貝川と鬼怒川の分離、大木台地を掘り割っての鬼怒川の新水路を辿るといった水路フリークには避けて通れない散歩なども加わり、結局4回に渡っての散歩となった。守谷市の中央図書館でチェックした取手市域に残る将門の旧跡を見るに、旧水戸街道散歩で歩いた市域東部を除き、守谷市と境を接する西部と中央部の2回程度でおおよそカバーできそうである。
ということで、取手散歩の第一回は守谷市域からはじめ取手の西部地域に残る将門の旧跡を、北の小貝川から南の利根川まで、台地と低地の入り組む地形の変化も楽しみながら歩くことにする。



本日のルート;成田エクスプレス・守谷駅>和田の出口>守谷市みずき野>取手市市之台>姫宮神社>香取神社>郷州小学校>取手市戸頭地区>永蔵寺>戸頭神社>利根川堤防>七里の渡し>米ノ井の神明宮>龍禅寺>桔梗塚>関東常総線・稲戸井駅 

成田エクスプレス・守谷駅
散歩のスタート地点は守谷からはじめる。はじめて守谷城跡を辿った頃から数カ月がたっており、守谷本城のあった平台山といった台地、その台地を囲む低地の景観の記憶が薄れてきており、ついでのことなら、守谷本城辺りの景観を見やりながら取手市域に進もうと思ったわけである。
駅を下り通いなれた道を進み台地に上り、左手に守谷本城のある台地や、その先の小貝川沿いに続く台地の景観を楽しみながら歩く。川沿いの台地は低地に分断されている。小貝川の水流により削られたものか、水流により堆積された台地なのか定かではないが、赤法花、同地、そしてこれから向かう市之台といった台地が断続して続く。

守谷市みずき野

守谷本城を右手に眺めながら台地端を進む。右手は、その昔、舟寄場があったと言われる「和田の出口」。その台地の下は低地が台地に切り込み、いまだに湿地の趣を残している。湿地に生える木々などを眺めながら、奥山新田の台地に上り、再び出合った奥山新田の薬師堂にお参りし、南へと台地を下り「みずき野十字路」に。その昔、「郷州原」とよばれ、樹木生い茂る一帯であった「みずき野」の低地帯も、現在は宅地開発された住宅街となっている。
みずき野十字路を左に折れ、最初の目的地である市之代の姫宮神社に向かう。みずき野の住宅街は台地を下った低地部に広がる。調整池(地)などもあるようだが、標高で見る限り、台地と低地の境あたりまで開発され尽くしているようである。因みに、調整「地」は国土交通省の使用名であり、調整「池」は農林水産省の使用名とのこと。

取手市市之台
みずき野の宅地が切れるあたりに奥山新田の台地端が舌状に突出している。この台地上に香取の社があるのだが、姫宮神社からの戻る時に寄ることにして、とりあえず姫宮神社に向かうことにする。
奥山新田地区の台地を下り、低地を進み小貝排水路を越え、先に見える市之代の台地へと進む。市之台の台地は取手市であり、南北を低地で囲まれた台地には集落がある。この集落だけではないのだが、守谷辺りを散歩して困るのは犬の放し飼い。放し飼いの犬に吠えられることなど都内ではないので、少々怖い思いをしながら、成り行きで集落を進み姫宮神社に。

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)



姫宮神社
姫宮神社は将門の娘が祀られる、といったイメージと異なり、ピカピカのお宮さま。平成22年(2010)頃再建されたようである。境内には地域の集会所や消防の火の見櫓などがあり、古式豊かな、といった風情はどこにも残っていなかった。
それでも鳥居の左手前には、文化年間(19世紀初頭)に造られた弁財天、西国秩父坂東百観音、聖徳太子像、社殿裏手には文化年間建造の愛宕大権現、享保年間(18世紀前半)の大杦(大杉)大明神の石祠など、古き歴史をもつ社の名残を残す。

○将門の娘
ところで、この社、祭神は櫛稲田姫命。ヤマタノオロチの生贄になるところをスサノオに助けられ、その妻となった女神である。それはそれとして、上でメモしたようにこの社には将門の娘が祀られる、と言う。将門の娘と言えば、数年前に将門の旧跡を辿って坂東市の岩井にある国王神社を訪れたとき、その社秘蔵の将門の木造は、将門の三女(二女とも)である「如蔵尼」が刻んだものであり、その地に庵を結び父の冥福を祈った、とあった。その如蔵尼のことであろう、か。
とは言うものの、将門と伯父の良兼の争いにより将門の正妻とその子は悉く誅されたとも伝わるし,その時に共に捕縛された愛妾はその後解放され子をなした、とのことであり、ここで言う、将門の娘が誰を指すのかも定かではなく、また、如蔵尼が実在の人物かどうかも定かではないが、関東から東北にかけて如蔵尼の伝説が伝わっているようである。

その伝説にある如蔵尼の話は、一族滅亡の際に、一時は冥途の閻魔庁まで行くも、地蔵菩薩に罪なき身故と助けられ蘇生。その後出家し如蔵尼と称しひたすらに地蔵菩薩を信仰したといったもの。
ところで、将門の娘と言えば、滝夜叉姫の話も伝わる。滝夜叉姫の話とは、将門の娘「五月姫」は、父の無念を晴らすため貴船の神より授かった妖術をもって下総国の猿島を拠点に朝廷に背く。名も「滝夜叉姫」と名を変える。朝廷は勅命により陰陽博士大宅中将光圀を下総の国に派遣し、陰陽の秘術を以って滝夜叉姫を成敗。改心した滝夜叉姫は、仏門に入って将門の菩提を弔う、といったもの。この滝夜叉姫の話は江戸時代以降に芝居などで創作されたもの、と言う。ともあれ、人気者の将門故、その娘も伝説となって今に残るのであろう。

○市之台古墳群
境内を出たところに大師堂とおぼしき古きお堂があり、その脇には墓地がある。ここは元の西蔵寺のあったところ。姫宮神社は小貝川を見下ろすところにあったが、西蔵寺が廃寺になったときにこの地に移った、と。姫宮神社の元の地には今も「古姫さま」と呼ばれる小祠がある、と言う。
ところで、この市之台の小貝川に面する縁辺部、小貝川にかかる稲豊橋の南北にかけて1号から15号までの市之台古墳群が並ぶ。もう少し事前準備をしておれば、古姫様を訪ね、結果として市之台古墳群の辺りを彷徨えたのだが、例に拠っての「後の祭り」である。
また、稲豊橋の手前の交差点辺りには「将門土偶の墓」もあったようだ。取手市教育委員会・取手市郷土文化財調査研究委員会:昭和47年3月31日発行)の資料によれば、「明治7年11月道路改修の際破甕発掘。中に身に甲冑を纏たる如き粘土の偶像あり容貌奇異なり笑ふが如く怨むが如き一騎の兵士なり古考の口碑に徴するに西暦939年天慶2年平将門叛し島広山の支城て戦い平貞盛藤原秀卿(筆者注:「郷」の誤か)等に殺さる。爾後残卒の死屍を島広墟に葬ると雖も同装たる土偶を見るものなし。其一隅を島広山の北なる(市ノ代村)字古沼の所に埋没し霊魂の冥福を祈ると云う」、と。
この辺りで土偶や甲冑などが発掘されると、平将門由来の、といったことになるようであり、なんとなく市之台古墳群からの発掘物のようにも思えるのだが、門外漢故、真偽のほど定かならず。

香取神社
市之台の台地を離れ、県道328号を再び戻り、低地から奥山新田の台地に入った辺りで右に分岐する道に入る。市域は再び守谷市に入る。立派な門構えのある農家の手前あたりから左の細路を進むと、木々に囲まれた一角に香取の社があった。誠に香取の社が多い。
神社にお参りし、神社から直接県道328号に出るルートはないものかと、神社周囲を歩きルートを探す。神社裏手の竹林に入り込み藪漕ぎをするも、眼下に見える「みずき野」の宅地開発された住宅地区との間の崖を下る道はない。神社に戻り、畑の畦道といったルートから県道を目指すも、深いブッシュで遮られる。
国木田独歩は、『武蔵野』の一節で。「武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向くほうへ行けば必ず其処に見るべく、感ずべき獲物がある。武蔵野の美はただその縦横に通ずる数千条の路を当てもなく歩くことに由って始めて獲られる。春、夏、秋、冬、朝、昼,夕、夜、月にも、雪にも、風にも、霧にも、霜にも、雨にも、時雨にも、ただこの路をぶらぶら歩いて思いつき次第に右し左すれば随所に吾等を満足さするものがある(中略)同じ路を引きかえして帰るは愚である。迷った処が今の武 蔵野に過ぎない。まさかに行暮れて困ることもあるまい。帰りもやはり凡そその方角をきめて、別な路を当てもなく歩くが妙。そうすると思わず落日の美観をうる事がある。日は富士の背に落ちんとして未だ全く落ちず、富士の中腹に群がる雲は黄金色に染まって、見るがうちに様々の形に変ずる。連山の頂は白銀の鎖のような雪が次第に遠く北に走て、終は暗澹たる雲のうちに没し てしまう」、と言う。我もかくありたいのだが、結局は日和(ひより)、来た道を県道に折り返す。

郷州小学校
みずき野の住宅街に戻り、郷州小学校の裏手の台地部、現在の小山公民館のある辺りに将門の老臣・増田監物が砦を構え「古山」と称した、と。この辺り一帯だけが宅地開発から逃れ耕地を残す。なお。郷州小学校の「郷州」は上にメモしたように現在のみずき野地区の昔の地名。宅地開発される以前の「郷州原」と呼ばれる樹林地帯の名残を名前に残す。その昔、愛宕地区から取手市上高井地区をへて岡で台地を下り、取手の低地にある山王に向かう、郷州海道と呼ばれる古道もあった、とか。

取手市戸頭地区
みずき野の宅地街を抜け、関東常総線、国道294号・乙子交差点を越え、県道47号を南に下り乙子南交差点に。「乙子」は「億布(おふ)」が由来、とか。多くの麻布が産出された所の意味、と言う(「将門地誌:赤城宗徳(毎日新聞社)」)。 交差点脇にある駒形神社は守谷散歩の最初に訪ねた。その交差点の三叉路で県道を離れ、左手に進むと再び取手市の戸頭地区に入る。
宅地の中を成り行きで南東方向へ向かうと、思わず戸頭9丁目の台地端に出てしまい、眼下に広がる低地、そしてその向こうの利根川の眺めを楽しむ。戸頭公園を抜け、台地を少し下り戸頭8丁目から7丁目の宅地を進み、再び台地に上り永蔵寺へと向かう。戸頭の由来は「津頭」から。台地を下ったところに「七里の渡し」があり、その渡場=川湊=津に由来するのだろう。

永蔵寺
訪れた永蔵寺は赤いトタン屋根といったお寺さま。天慶4年(941)開山。創立時は守谷の高野にあり,往昔48ヶ寺もの門末と20石の朱印地を有した大寺院であったようだが、明治初めの廃仏毀釈令により衰退した。どうも、本堂と思った赤いトタン屋根の堂宇が薬師堂のようである。
この薬師堂は 新四国相馬霊場の札所三十四番。高知県本尾山種間寺の移し寺、と。将門の守り本尊と伝わる薬師如来(戸頭瑠璃光薬師)が祀られる。また境内には新四国相馬霊場四十五番札所もある。愛媛県の久万高原にある岩屋寺の移し寺である小祠には阿弥陀如来が祀られる。

○新四国相馬霊場
新四国相馬霊場とは利根川の流れに沿って、茨城県取手市に58ヶ所、千葉県柏市に4ヶ所、千葉県我孫子市に26ヶ所あり、合わせて88ヶ所の札所、このほかに番外として我孫子市に89番札所が存在する。
昔、宝暦年間(1751~1764)に江戸の伊勢屋に奉公し、取手に店をもった伊勢屋源六(光音禅師)が長禅寺にて出家し、四国八十八カ所霊場の砂を持ち帰り、近くの寺院・堂塔に奉安し札所としたのが始まり。江戸時代近在の農民や江戸町民が巡拝し賑わったという。光音禅師は取手市の長禅寺観音堂修築と取手宿の発展に尽力し、市内にある琴平神社境内に庵を結び余生を送った有徳の人である。

戸頭神社
古い家並みの旧集落を抜けると台地端に戸頭神社があった。創建は不祥だが元は香取の社と称されていた。「北相馬郡志」に「地理志料云、戸頭者津頭也、疑古駅址、観応二年(1351年)、足利尊氏、奉戸頭郷於香取神宮云々」とある。足利尊氏が所領地であった戸頭領を、武運長久を祈り下総一宮である佐原の香取神宮に寄進し創建された、とのこと。この社はその際に分祠されたのであろう、か。単なる妄想。根拠無し。で、戸頭神社となったのは明治45年のこと。同村の鹿島(村社)、八坂、面足、阿夫利各神社を合祀し改称された。
境内には天満宮や幾多の石祠がある。中には渡河仙人権現宮と称される石祠もある、と。どの石祠が「渡河仙人さま」の祠かよくわからないが、万治2年(1659)作のこの石祠は、神社のある台地端を下ったところにある「戸頭(七里)の渡」の安全祈願のためのもの、と言う。
ところでこの戸頭神社にの辺りに将門の外祖父である犬養春枝の館があったとの説もある。犬養家は「防人部領士」、簡単に言えば防人のトレーニングセンターの長といったもの。トレーニングセンターは関東常総線・新取手駅南の寺田の一帯。小字の「駒場」に名残を残す。この地に館を構えた犬養家は、乙子の由来でメモしたように、豊かな麻の産物を京に送り金に換え内証豊な家系として防人のトレーニングの任にあたったとのことである(「将門地誌:赤城宗徳(毎日新聞)」)。

利根川の堤防
台地を下り利根川の堤防に向う。この辺りの低地は、かつては藺沼と呼ばれた低湿地帯であり、道の周りに茂るのは藺=イグサなのだろうか、葦なのだろうか、よくわからないが、ともあれ堤防に上る。
七里もあるわけはないが、広大な利根の流れが眼前に広がる。堤防も現在立っている外堤防と内堤防があり、その間は調整池(地)となっている。堤防右手に新大利根橋が見えるが、七里の渡し跡の碑はその橋の辺りにあるようだ。




七里の渡し
「七里の渡し」は対岸の布施弁天で知られる布施や根所を結ぶ。「将門記」にある「大井の津」とも比される。幕末には流山から撤退した土方歳三も利根川をこの七里の渡しで渡り、戸頭-下妻-下館-白石-会津と下っていった。その七里の渡しは、享保15年(1730)に、土浦高津ー小張ー守谷ー戸頭ー布施と続く水戸街道の脇往還の完成とともに人馬の往来が多くなったようである。
また、陸路だけでなく、七里の渡しには「布施河岸」があり、江戸の中頃には船運も全盛期を迎える。利根川の東遷事業が完成し、銚子から利根川を関宿まで遡り、そこから江戸川に乗換えて江戸へと下る「内川廻り」とよばれる船運路が開かれたが、関宿辺りに砂州が堆積し船運に支障をきたすようになる。そこで、この地の布施河岸で荷を降ろし、江戸川の流山・加山河岸へと荷を運ぶことになった、とか。因みにこの陸路の物流ルートも流山での利根運河の開鑿により利根川と江戸川が直接結ばれることになり、主役の座を明け渡すこととなる。

米ノ井の神明神社
利根川の堤防を離れ、戸頭の台地に戻り次の目的地である米ノ井地区の神明神社にむかう。祭神は天照大御神。創建、由緒ともに不詳ではあるが、この辺りは伊勢神宮御料である相馬の御厨があったところ。将門は10数年に及ぶ京の都での御所の警備、禁裏滝口の衛士を終え、相馬の御厨の下司として下総に戻ってきたわけであり、その頃には伊勢神宮から天照大御神を分霊し神明の社を祀ったものか、とも。単なる妄想。根拠無し。
神明神社は米ノ井地区の北の上高井戸にも鎮座する。利根川の北の下総相馬の西のこの辺り一帯は相馬の御厨、そしてその西は犬養家の所領地。若き日の将門の拠点ではあったのだろう。戸頭地区には、御街道、館ノ越、宮の前、御所車、白旗、新屋敷、西御門、中坪、花輪、西坪、供平(ぐべ)など京の都を偲ばせる珍しい地名が残る。若き日々を京で過ごした将門が当時を思い起こして名付けた地名、とも。

○相馬御厨
ところで、この相馬御厨であるが、正式に成立したのは大治5年(1126),千葉常重が相馬郡司に任命され相馬郡布施郷を伊勢神宮に寄進してからと言う。千葉氏は将門の一門である下総平家の後裔であり、という事は、将門の時代には正式な相馬御厨は存在しないことになる。
どういうことかとチェックすると、『将門地誌:赤城宗徳(毎日新聞)』に、将門の父の良将の所領を伯父達に掠め取られた将門に対し、将門が京で仕えた大政治家である藤原忠平が、下総の伊勢の御厨に所領地を寄進することにより、その下司として安心して領地の開発に専念できるようにとの配慮であった、といった記事があった。将門が相馬御厨の下司云々の下りは、相馬の地にあった御厨の下司、といったことを簡略化して表現したものであろう、か。ともあれ、正式な相馬御厨は将門の取手市の米ノ井、高井戸一帯をといった御厨とは比較にならない、守谷、取手だけでなく、我孫子、柏一帯も包み込む広大ものであった、とか。

龍禅寺
道を進み米ノ井の舌状台地の端に龍禅寺。山門をくぐり本堂にお参り。寺の創建は延長2年(924)。承平7年(937)には将門が堂宇を寄進、と。慶長2年(1649)には三代将軍家光により十九石三斗の朱印状を受けている。境内には犬槇(イヌマキ)の大木が立つ。

○龍禅寺三仏堂
境内には取手市内に残る最古の建造物と言われる三仏堂がある。茅葺の重厚な美しさが誠に魅力的である。寺伝によれば、将門がここで生まれたとか、左甚五郎が一夜で作ったとの言い伝えがある。開創は不詳ではあるが、承平7年(937)に将門が修復したと「由緒書」に伝わる。三仏堂内の三仏とは本尊釈迦・弥陀・弥勒の三尊像。運慶の作とも伝わり、それぞれ過去・現在・未来の世を表す、と。
将門は父母の冥福を祈り、自らの守り本尊として三仏を崇敬したが、将門敗死の後は一時荒廃するも、源頼朝が建久3年(1251)国守千葉介常胤に命じて修理させた、と。現在の三仏堂は永禄12年(1569)に建てられたもので、茅葺の美しさとともに、正面に張り出された外陣、他の3方にも付けられたこし、といった独特な堂宇の姿が印象的。昭和51年に国指定重要文化財に指定されている。
寺に伝わる伝説によれば、将門が武運長久祈願のため、竜禅寺三仏堂に詣でたとき、堂前の井戸水が噴き上げて中から米があふれ出たと。境内に井戸は見あたらなかったが、この伝説が「米ノ井」の地名の由来、とか。もっとも、井とは堰のことで、これはかつて利根川沿いに堰を築き、水田を開拓した将門の功績を伝説として組み上げたものではあろう。

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

桔梗塚
次の目的地は本日の最後の目的地である「桔梗塚」。関東常総線の稲戸井駅近くの国道294号沿い、マツダ自動車販売の脇にあるとのこと。それらしき場所に着いてもマツダの看板などどこにも、ない。トヨタのディーラーはその付近にあったので、その生垣の中を覗き込んだりして塚を探す。結局トヨタの対面にその塚はあった。マツダのディーラーは店を移ったのか、その地には無かった。
国道脇のささやかなマサキの垣根の中に、将門の愛妾・桔梗の前の墓と伝えられる碑があった。案内によると「桔梗の前は秀郷の妹であり将門の愛妾となったが、戦が始まってから、将門側についたという兄の言葉に騙されて兄に情報を提供。秀郷はこれにより勝利を得たが、このことが暴露されると後世まで非難されると考え、この場所で桔梗の前を殺害した、と。里人おおいに哀れみ、塚を築いて遺骨を納めました。ここに植えられた桔梗に花が咲かなかったので、この辺りでは「桔梗は植えない、娘がいつまでも嫁に行けなくなるから。」と伝えられている(不咲桔梗伝説)。また、桔梗の前については、将門と共に岡(旧藤代町)の朝日御殿に住み、将門の死を聞いて、桔梗田といわれた沼に入水して果てた、とも。
桔梗の前のことはよくわかっていない。「将門地誌:赤城宗特(毎日新聞)」には香取郡佐原領内牧野郷の長者、牧野庄司の娘の小宰相、と記される。小宰相とは、素晴らしい女性との意味である。「将門記」にはその人物像を「妾はつねに貞婦の心を存し」と描く。竜禅寺に伝わる話では、桔梗の前は大須賀庄司武彦の娘で、将門との間に三人の子を設け、薙刀の名人であったと伝わる。
一方,その真逆の桔梗の前の人物像を伝える話しも多い。曰く「将門追討の将・秀郷に内通し、将門の秘密を教え、その滅亡の端緒をつくった」「桔梗は京の白拍子で、上洛中の将門に見染められとんを機縁に、秀郷の頼みで将門の妾となったが、将門の情にほだされて秀郷の命に背いたため、米ノ井の三仏堂に御詣りに行った途中、秀郷のによって殺された」といったものである。「将門地誌:赤城宗特(毎日新聞)」では、これらの伝説は、江戸時代に芝居で興味本位につくられたもの、とする。
上で承平7年(937)、将門と伯父の良兼戦いのにより芦津江の地で妻子ともに殺された、とメモした。この「妻」とは将門の正妻である真壁郡大国玉の豪族、平真樹(またて)の娘、君の御前である。桔梗の前も一緒に捕縛されたが、桔梗の前だけが解き放されている。義兼が桔梗の前に懸想した故との説もある。義兼が桔梗の前の父親である香取郡佐原領内牧野郷の長者、牧野庄司の勢力と敵対しないための政治的配慮との説もある(「将門地誌:赤城宗特(毎日新聞)」)。 桔梗の前については出自など、あれこれの伝説があり、門外漢には不詳であるが、記録に何も残らない正妻に比べての露出量を鑑みるに,さぞかしインンパクトをもった人物であったのだろう。

常総線・稲戸井駅
これで長かった本日の散歩も終了。関東常総線の稲戸井駅に向かい、一路家路へと。
先回の散歩で鬼怒川が小貝川に合流・乱流する地帯から、大木丘陵の鬼怒川人工開削流路の始点辺りまで辿った。今回はその人工開削地点辺りからはじめ、大木丘陵の鬼怒川開削流路を辿り、利根川への合流点へと歩く。

先回の散歩では鬼怒川の川筋近くに辿りつくのが如何にも大変であった。暴れ川故、と言うか、水量豊富な川故なのか、川筋と堤の間には調整池を兼ねたような畑地や森林があり、川筋に沿っての遊歩道といった類(たぐい)の道はない。今回は前回の轍を踏まないように、Googleの航空写真でチェックするに、川筋まで緑地、畑地、その先に葦原らしきブッシュが茂り、川筋に遊歩道といった道はない。それでも、よく見れば、ところどころに緑地が開けたようなところがあり、そのあたりから川筋に足を運べるかも、といった程度の散歩の準備を行い、守谷へと向かう。

本日のルート;関東常総線・小絹駅>鬼怒川の川筋>川の一里塚>大山新田>大日山遺跡>鬼怒川の砂州>板戸井>清瀧寺>滝下橋>清瀧香取神社>大木地区>六十六所神社>大円寺>がまんの渡し>鬼怒川と利根川の合流点>県道46号>香取神社>正安寺>成田エクスプレス守谷駅

関東常総線・小絹駅
家を離れ、成田エクスプレスで守谷駅へ。そこで関東常総線に乗り換え小絹駅で下りる。先回の散歩でメモしたように、小絹の南北は「つくばみらい市」。市域の大半が小貝川の東岸にある「つくばみらい市」はこの小絹地区、昔の北相馬郡小絹村の辺りだけが小貝川を越え、鬼怒川東岸にまで突き出ている。 駅を離れ、整備された住宅が広がる絹の台地区を鬼怒川へと向かう。絹の台もかっては小絹、筒戸の一部であり、森や林、そして畑地の広がる一帯ではあったようだが、昭和末期の常総ニュータウン開発構想の一環として区画整理事業が行われ、平成元年(1989)のニュータウンのオープンに合わせて「絹の台」として独立した地域となった。

鬼怒川の川筋
おおよそ標高15mの台地からなる絹の台地区を進み鬼怒川に近づく。川筋に進もうと思うのだが、「絹ふたば文化幼稚園」や自然雑木林の保護された敷地があり、川筋には入れない。保護林に沿って成り行きで進むと道が川に向かって下ってゆく。
道を下りきった辺りで、鬼怒川が開け、川に沿って上流に向かってちょっとした距離ではあるが道が造成中であった。造成中の泥道を越え鬼怒川の流れの傍に立ち、両岸に迫る台地を眺める。上流が15m台地、下流が20m台地と少し崖面が高くなっている。
この台地を開削した往昔の工事をしばし想い、鬼怒の流れを離れ造成中の道を逆に進むと台地に公園といった一画が見える。先ほど見た造成中の道も、この公園整備の一環であろうか。ともあれなんらかの案内でもあろうかと歩を進める。

川の一里塚
坂を上り切ったあたりに公園が整備されており、公園の一角に大きな岩が置かれ、その前に「川の一里塚」とあった。案内には「鬼怒川の源は栃木県塩谷郡栗山村鬼怒沼である。川は山峡をぬい、日光中禅寺湖に発する大谷川と合流して関東平野を南下する。流路延長176kmに及び、守谷町野木崎地先で利根川に合流する。鬼怒川は古代、毛野川、毛奴川、衣川、絹川と呼ばれたが、中世以降鬼怒川となった。
以前、鬼怒川は谷和原村寺畑において小貝川に合流していたが、小貝川がたえず氾濫し水難に悩まされたため、元和年間(1621年頃)、細代から守谷町大木に至る約6.5kmを、幕府の命をうけた関東郡代伊奈忠治が苦心の末、約10年間かけて、開削した。そのため常陸谷原領三万石は美田と化し、同時に板戸井川岸の景は、中国の赤壁も比せられる名勝の地となったのである。平成5年4月 守谷町長 會田真一」とあった。
案内には守谷町、とある。つくばみらい市の小絹で下り、成り行きで進んでいるうちに、知らず守谷市域に入っていたのだろう。「川の一里塚」の少し北が市境となっている。
案内に「細代から大木に至る6.5キロを開削」とある。先回の散歩で地形図を見て、15m台地が鬼怒川の両岸に迫る細代が開削始点かと想像したのだが、それほど間違いでもなかったようである。それはそれとして、鬼怒川の開削水路は「つくばみらい市」と守谷市の市境辺りで、細代から南に下っていた流路が大きく西に迂回する。
地形図を見るに、鬼怒川東岸の標高10m地帯のつくばみらい市小絹の南には、久保ケ丘、松前台といった標高20mから25mの台地が広がる。一方、鬼怒川西岸の常総市内守谷と守谷市西板戸の市境辺りには標高5mの谷が台地に切り込んでいる。丘陵開削に際し、より開削の容易なルートを求め西に大きく迂回したのではあろう。物事にはそれなりの「理由」がある、ということ、か。

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」

大山新田
「川の一里塚」の南は20-25m台地に標高15mの低地が切り込まれている。地名も「大山新田」などと、少々古風な地名を留め、その周囲を囲む台地の松前台、久保ケ丘の整地された住宅地と一線を画した畑地や森・林、そして谷戸が残る。
なんとなく気になり大山新田をチェック;太田新田は元は相馬郡大木村の飛び地であったよう。文献に大木村之枝郷大山村、ともあるので「大山村」と呼ばれていたのだろう。大山の由来は、一面杉の巨木が生い茂り、如何にも「大山」の景を呈していたため、とか。その大山村が大山新田と名を変えたのは、この地の領主であった徳川三卿のひとつ、田安家が江戸の明暦の大火に際し、江戸復興のため、この地の木をすべて伐採・拠出し、その跡地を新田として開墾したから、とか。なお、松前台、久保ケ丘も大山新田の一部であったが、常総ニュータウン計画に際し、大山新田から分離されて地名も松前台、久保ケ丘となった。

大日山遺跡
「川の一里塚」から鬼怒川に沿って進む。ブッシュの切れ目から川床まで足を踏み入れたりしながら、しばし川筋の景観を楽しみながら進むと、道は再び川岸から離れ、台地部分へと向かう。途中「山百合の里」といった緑地帯を見やりながら進む。道は畑地と森や林の残る大山新田地区と宅地開発された松前台の境界線を進む。右手に森や林、左手に宅地開発された風景を眺めながら先に進むと、道脇に石碑があり大日山遺跡とある。
説明もなにもなく、詳しいことはわからないが、この辺りに大日山と呼ばれる霊山があり、江戸の頃は近隣よりの善男善女で賑わった、とか。大日山がどの辺りを指すのが定かではないが、川岸の深い緑の一帯を見るに、手つかずの雑木林や落葉樹の巨木が茂っているようである。石碑は天和2年(1682)に建立された石塔の跡に建っているとのことである。

鬼怒川の砂州
大日山遺跡を越えると右手に鬼怒川が開ける。枯れて折り重なった葦のブッシュを踏み越えて川筋に出ると、岸から川の真ん中まで砂州ができている。こんなチャンスはなかろうと、岸辺に繋がれていた釣り用のボードを足がかりに砂州に進む。鬼怒川のど真ん中から前後左右、360度の鬼怒の景観を眺める。下流は標高25m台地の崖面が両岸から迫り、上流左手は川岸の5m低地の先に25m台地、右手には大日山遺跡辺りの標高25m台地など、開削された台地の地形を眺め、往昔の開削工事を想う。

板戸井
砂州で少しのんびりした後、岸に戻り松前台の宅地開発地の縁を進むと畑地帯に入る。宅地が切れるあたりから地区は板戸井となる。鬼怒川の両岸に迫る台地は標高25m地帯。大木丘陵の人工開削の最南部、最後の難工事の箇所ではあったのだろう。
鬼怒川の西岸に「西板戸井」地区が見える。鬼怒川の人工開削により台地が割られ、西側に残った昔の板戸井村の一部である。江戸の頃の板戸井村は現在の板戸井地区に松前台の5丁目から7丁目、薬師台の2丁目から7丁目までも含む一帯であったよう。上でメモした大山新田の地域分離と同じく、松前台、薬師台は常総ニュータウン計画時に板戸井地区から分離された。
なお、板戸井の地名の由来は平将門が相馬地方に七つの井戸を掘って飲み水とした、との伝説に拠る、と言う。「井」はそれで理解できるが、「板戸」ってどういう由来だろう。チェックするも、不明のままである。






清瀧寺
畑地を越え、豊かな構えの農家を見やりながら進むと県道50号、その南の緑の一画に清瀧寺。文正元年(1466)の開基ともいわれるが、しばしば兵火にかかり、記録が失われ詳しいことはわからない。境内では天台座主より「大僧正」の称号を受けた有徳のお住職の顕彰碑(平成15年建立)が目についた。また、札所番号だろうか、番号のついた小振りの石仏が点在する。



滝下橋
お寺を離れ国道を進み鬼怒川に架かる橋を渡る。滝下橋とあるが、橋名は先ほどお参りした清瀧寺に由来するものだろう。赤く塗られた鉄橋にような橋は、昭和30年(1955)に架橋されたもの。それまでは大木の渡しが鬼怒川の東西を繋いでいた、とのことである。





清瀧香取神社
滝下橋を渡り清瀧香取神社に。境内には清瀧寺でみた札所番号らしき番号のついた石仏が数多く佇む。鬼怒川の水路開削によって、清瀧寺とこの清瀧香取が水路によって隔てられる以前は、神仏混淆により寺と神社が同じ境内にあったのではあろう。寺と神社が別ものとして分けられたのは明治の神仏分離令以降のことであることは言うまでも、ない。
25m台地最南端にある神社の南には一面に平地が広がる。境内には「月読神社」、「御嶽神社」の石碑も建つ。「月読神社」、「御嶽神社」は散歩の折々に出合うことも多いのだが、「青麻(あおそ)岩戸三光宮」と刻まれたちいさな石祠は初めてのもの。

○青麻(あおそ)岩戸三光宮
青麻神社。WIKIPEDIAによれば、主祭神は天照大御神・月読神・天之御中主神。常陸坊海尊を併祀する。宮城県仙台市宮城野区に総本社があり、青麻岩戸三光宮、青麻権現社、嵯峨神社、三光神社などと呼ばれる、と。社伝によると、仁寿2年(852)、山城国から社家の祖である保積氏が宮城に下り、一族の信仰していた日月星の三光を祀ったのが社の始まり。天照大御神が日、月読神が月、天之御中主神が星(宇宙)と言ったところだろう。
月読神って、その粗暴な所業故に天照大神の怒りをかい、ために月は太陽のでない夜しか、顔をだせなくかった、という昼夜起源の話となっている神様。その二人が共に祀られるのがなんとなく楽しい。境内の「月読宮」の石碑はそのことと関係があるのだろう、か。また、「青麻」は穂積氏が麻の栽培を伝えたことに由来する、とのことである。
その穂積氏は水運に携わっていたこともあり、「青麻(あおそ)岩戸三光宮」は水運の守り神であった、とか。滝下橋ができるまでは、この地に大木の渡しがあったとメモしたが、神社の境内を離れ、鬼怒川の川筋の近くに鳥居があり、そこに「船持中」と刻まれていた。船運に従事する人達によって奉納されたものであろう。なお、青麻岩戸三光宮の主祭神には月読神も含まれている。

大木地区
清瀧香取神社を離れ、滝下橋に戻り、清瀧寺脇を抜けて鬼怒川を下流に、利根川の合流点へと向かう。台地を下り川筋に沿って進むとささやかな水神宮の祠があった。このあたりは大木地区となっている。
地図を見るに、鬼怒川の東には「大木」、西には「西大木」とか「大木流作」と言った地名が残る。東側の大木には北は谷戸が入り組み、南は標高5mの低地が広がる。一方西側の西大木とか大木流作は一面の標高5m地帯。鬼怒川開削の後に利根川と鬼怒川に挟まれた三角地に新田開拓が行われ「大木新田」と称されたが、洪水の被害が夥しく、それ故に「流作場」と称されるようになる。現在残る「大木流作」はその名残り。年貢も洪水被害を前提とし、三年に一度の収穫で十分な年貢ではあったようである。
大木地区は明治10年(1877)に大木新田が大木村に合わさり、明治22年(1889)には北相馬郡の板戸井村、大山新田、立沢村を合わせ「大井沢村」の大字、昭和30年(1955)には北相馬郡守谷町、大野村、高野村と合併し、守谷町の大字、平成14年(2002)には市制施行により守谷市の大字として現在もその地名を残している。

六十六所神社
地図を見ると、鬼怒川の東、低地の境目辺りに、六十六所神社とか大円寺がある。六所神社は散歩の折々に出合うこともあるが、六十六所神社という社ははじめて。ちょっと立ち寄ることに。
舌状台地と谷戸の入り組む台地の端、民家のすぐに傍に朱の鳥居。石段を上ると、ささやかな社があった。社にお参りし、社殿の周囲を歩くと、社殿横に、由緒の案内があり、「後小松天皇の御世、応永4年(1397)、出雲大社の大国主命の分霊を当地に勧請した、と。当時の拝殿、本殿造りの社殿は筑波以南には数少ない荘厳なる構えであったようであるが、明治18年の大木村の大火で焼失し、現在の社殿は昭和46年に再建されたもの」と。社殿裏手には東照宮の祠もあった、社の名前の由来は、大木村660番にあったから、とか、諸国巡礼の六十六部から、とかあれこれあるとのことだが、どれもいまひとつ、しっくりこない。

大円寺
六十六所神社の隣に大円寺。寺には平安末期から鎌倉初期にかけての作とされる釈迦牟尼仏が伝わるが、印象的なのは鐘楼の横の斜面にある巨木、案内によると、「天然記念物椋の木」。椋(むく)の木は栃木、茨城の中央部が北限。川沿いの水分の多いところに生育し大きく成長する」と。大木村の地名の由来となった巨木ではある。なお、大円寺や六十六所神社のある丘陵は「御霊山」とも呼ばれ、将門の七人の影武者を葬ったところとの言い伝えがあるようだ。



がまんの渡
大円寺から再び鬼怒川の堤防に戻る、この辺りも堤防と水路は大きく離れており、堤防から流路は葦のブッシュの先に微かに見える。先に進むと「利根川との合流点から2キロ」の案内。利根川の川筋は未だ見えない。
左手に広がる低地、調整池(池)を兼ねた耕作地ではあろうが、その先低地と台地をくっきりと区切る台地斜面の斜面林に見とれながら進む。堤防の傍にあるごみ処理施設や常総運動公園を見ながら先に進むと、左手の堤防下に低地にぽつんと木が残り、その脇に石碑とか案内らしきものがある。堤防を下りて案内を見ると、「がまんの渡し場の由来」とあった。
案内によると、「元和元年(1615)、家康公が鷹狩のため当地を訪れ、野木崎地区の椎名半之助家に滞在したとき、大雨のため利根川を渡るのが困難な状態となっていた。そこで、家康公は舟夫に「我慢して渡してくれ」と頼み川を渡ったので、「がまんの渡し」と呼ばれるようになった。当時鬼怒川はこの地を流れていないので、対岸は千葉県野田市水堀地区である。
鬼怒川が開削されてからは渡し場は1キロほど下流に映り、野木崎河岸と呼ばれ、明治から大正にかけて茨城県南の波止場として隆盛を極めた。
今から380年前、天下人となった家康公が武将を引連れこの地を訪れ数日滞在。そのお礼に田畑9反9畝を椎名家に与えられ、また家康公が使われた井戸跡も残っている」とあった。
案内にある「元和元年の鷹狩」と、説明の後半にある「今から380年前天下人となった」のくだりが、同じ時期のことなのだろうとは思うのだが、この時の家康の鷹狩の話しは、領内の民情視察を兼ねたものとも言われる。行程は鷹場のある越谷に行くも雨で鷹狩が叶わず、野木崎に移動、椎名家に滞在し、大雨の利根川を葛西方面へと向かったとのことである。ちなみに、「家康・水飲みの井戸」は常総運動公園の南端を東に進み地蔵堂のある辺りの少し北(守谷市野木崎1587)にあるようだが、今回は見逃した。そういえば、六十六所神社の東照宮も、野木崎と家康ゆかりのコンテキストで判断すれば、わかりやすくなった。

鬼怒川と利根川の合流点
河川敷に飛ぶモーターハンググライダ^-を先に進むと「利根川合流点です」の案内。とは言うものの、ブッシュの向こうに鬼怒川の川筋が見えるか見えないか、といった状態で利根川など全く見ることができない。これはもう、ブッシュを踏み越えて鬼怒川の川筋に出るしかない、と堤防を下り、葦のブッシュに入り込む。
枯れた葦が重なり合ったブッシュの中を、足元に注意しながら川筋へのルートを探す。トライアンドエラー繰り返しなんとか鬼怒川の川筋にでると、大木流作の三角州の突端で利根川と鬼怒川が合流していた。鬼怒川の砂州に足を踏み入れ周囲の景観をしばし眺める。例によって、「はるばる来たぜ」と小声で呟く。 砂州から川岸にk、しばらくブッシュの中を鬼怒川に沿って藪漕ぎをし、利根川の対岸に、先日歩いた「利根運河」の取水口を確認。
利根運河って、利根水運の初期ルートである利根川を関宿方面へと遡上し、そこから分岐する江戸川を経由して江戸へと進んだようだが、日数も3日ほどかかるためその日数を減らすためと、もうひとつ、関宿当たりに次第に砂がたまるようになったため開削されたように記憶している。その時はあまり気にも留めなかったのだが、利根運河の取水口のすぐ上で鬼怒川が合流している、ということは、水量の安定確保の意味でも、利根運河がこの地で開削されたのだろうか、などと少々の妄想を楽しむ。

県道46号
念願の鬼怒川と利根川の合流点も確認し、気分宜しく川筋を離れ堤防に。さて、どんなルートで駅まで進むか地図を見る。近くに電車の駅はない。どうせ歩くなら途中に神社や仏閣でもとチェックする。と、堤防から北に延びる県道46号に沿って香取神社と正安寺がある。正安寺も守谷散歩の最初に訪れた守谷中央図書館で、なんらか将門ゆかりの寺とあった、よう。ということで、駅までの帰路は県道46号に沿って戻ることに。
堤防脇の大野第二排水機場傍の水神様にお参りし、明治乳業の工場脇を北に進む県道46号に入る。道は低地の中を台地斜面林に向かって一直線に進む。道が台地に入ったあたりに香取神社があった。

香取神社
道脇から鳥居をくぐり境内に。古き趣の社殿にお参り。境内には狛犬と言うよりも、猿に似た石像が佇む。香取神社の眷属は鹿であろうし、何だろう?因みに御眷属、というか、神様のボディガードと言うか、神様の使いもバリエーション豊富。伊勢神宮はニワトリ。天岩戸の長鳴鳥より。お稲荷様は狐。「稲成=いなり」より、稲の成長を蝕む害虫を食べてくれるのがキツネ、だから。八幡様はハト。船の舳先にとまった金鳩より。春日大社はシカ。鹿島神宮から神鹿にのって遷座したから。北野天満宮はウシ。菅原道真の牛車?熊野はカラス。神武東征の際三本足の大烏が先導した、から。日枝神社はサル。比叡に生息するサルから。松尾大社はカメ。近くにある亀尾山から。といった按配。それぞれに御眷属としての「登用」に意味はあるわけだが、その決定要因はさまざま。いかにも面白い。
それにしても茨城に入ったら香取神社が如何にも多い。先の散歩でもメモしたが、鈴木理生さんの『幻の江戸百年』によれば、香取の社は上総の国、川筋で言えば古利根川(元荒川)の東に400社ほど分布しており、一方西側には氷川の社が230社ほど鎮座する。そして、香取と氷川の「祭祀圏」に挟まれた越谷の元荒川一帯には久伊豆神社が祀られている、と。「祭祀圏」がきっちりと分かれている。結構長い間散歩しているが、このルールをはずしていたのは赤羽に香取の社が一社あっただけである。往昔、川筋に沿って森を開き、谷の湿地を水田としていったそれぞれの部族が心のよりどころとして祀ったものではあろう。

正安寺
香取神社を離れ、県道46号を少し北に進み、成り行きで小道に入り正安寺に。構えはそれほど大きくないが落ち着いたお寺さまである。案内によれば、「創立は今から700年前の西暦1300年頃。安政3年(1856)に火災で焼失するも、安政5年に再建。本尊の阿弥陀如来は行基作との伝えあり、と。合祀されている寅薬師如来は静岡の峯の薬師の分身。元は野木崎辺田前(へたまえ)にあった医王寺に祀られていたが、明治に廃寺となり、ここに移された。
寅薬師の眷属である十二新将の真達羅(しんだつら)大将(寅童子)の化身が徳川家康であると言い伝えられており、徳川家の安全祈願を行ったことから「寅薬師」の名が起こったといわれている。 慶安2年(1648)には三代将軍家光から40石2斗あまりの御朱印地を賜っている」とある。
寅薬師如来の霊験は、特に眼病に効くとされるほか、薬師如来故か、あらゆる病気に霊験あらたか、ということで第2次世界大戦以前は埼玉県・群馬県、千葉県銚子地方の沿岸から水運を利用して多くの参拝に訪れた、とか。特に眼病には「瑠璃水」という目薬を施薬することを許可されていたとほどである(当然のこと、現在は、薬事法により許可されてはいない)。

成田エクスプレス守谷駅
正安寺を離れ、成田エクスプレス守谷駅に向かう。正安寺から県道46号に戻り、を東に進めば常磐道を越え、大柏交差点あたりで、つくばエクスプレスに交差し、線路高架に沿って進めば守谷の駅につけそうである。道を成り行きですすんでいると、県道46号の南に太子堂があったので、ちょっと寄り道。特に何の案内もない、お堂ではあった。
再び県道46号に戻り、常磐道を越え大柏交差点に向かう。と、道脇に「大柏橋」バス停の案内。橋という以上川があったのだろうか。地形図でチェックすると、台地に細い谷筋が切れ込んでいる。谷を流れる水路でもあったのだろう、と妄想する間もなく、丁度到着したコミュニティバスに飛び乗り守谷の駅に。後は一路家路へと。
将門ゆかりの地と小貝川・鬼怒川分流工事跡を訪ねようとはじめた守谷散歩もこれで3度目。過去2回の散歩で将門ゆかりの地を巡り、今回は小貝川・鬼怒川分流工事の跡を訪ねることにする。
現在小貝川と鬼怒川は常磐自動車道・谷和原インターの北、つくばみらい市寺畑の辺りで、直線距離1キロを隔てるほどに急接近するも、鬼怒川は大木丘陵を南に下り守谷市野木崎で利根川に合わさり、小貝川は大木丘陵手前で南東に進み、茨城県取手市、北相馬郡利根町と千葉県我孫子市の境で利根川へ合流している。
現在は別の流れとなっているこのふたつの川であるが、かつて鬼怒川は大木丘陵の手前、寺畑の辺りで小貝川に乱流・合流し、両川が合わさり暴れ川となり、下流一帯を氾濫原と化していた。この暴れ川による洪水被害を防ぎ、合わせて合流点より下流一帯の氾濫原に新田開発すべく鬼怒川と小貝川の分流、そして鬼怒川の新水路の開削が行われることになる。鬼怒川の新水路はそれまで南流を阻んでいた大木丘陵を人工的に開削し、鬼怒の流れを南に落とし利根川と繋いだわけである。

鬼怒川の開削水路は利根川合流点まで7キロ以上。丘陵部だけでも5キロほどもある。大工事である。このような大工事をした目的は上にメモしたこの地域の洪水対策、新田開発だけでなく、利根川東遷事業の一環として、利根川から江戸への船運の開発、そして、古来より「香取の海」と呼ばれ、霞ヶ浦・印旛沼・手賀沼などが一帯となった広大な内海を陸化して新田開発を行うといった壮大な構想のもとに行われた、とも言われる。



(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」

利根川の東遷事業
現在銚子へと注ぐ利根川の流路は江戸時代に行われた利根川の東遷事業によって造られたものである。それ以前の利根川筋は栗橋より下流は現在の大落古利根川、中川の流路を南に下り、途中で昔の荒川筋(現在の綾瀬川。荒川は西遷事業により西の入間川筋に移された)と合流し江戸湾へと注いでいた。
利根川の東遷事業とは、江戸湾に注いでいた利根川の流路を東へと変え、銚子へと流す河川改修事業のこと。大雑把に言えば、南へと下る流路を締め切り、その替わりに、東へと下り銚子方面へと注ぐ川筋に繋ぐという工事である。そして東流する流れとして元の利根川と繋がれたのが常陸川の川筋である。

上で大木丘陵を開削し鬼怒川を利根川に繋いだ、とメモした。が、正確には常陸川と言うべきではあろう。鬼怒川と小貝川の分流工事、大木丘陵の開削は、利根川を常陸川に繋ぐ水路開削の以前、つまりは利根川の東遷事業以前に工事が実施されており、大木丘陵の開削工事が行われた当時は常陸川と呼ばれていた。常陸川が利根川と呼ばれるようになったのは利根川と常陸川が結ばれた後のことである。
その常陸川であるが、その呼称も近世になってからの名称である。将門の時代には上流部は広川(河)とも呼ばれ、現在の利根川・江戸川分流付近を北端に、途中長大な藺沼(いぬま)を経て毛野川(鬼怒川)を合わせ、霞ヶ浦・印旛沼・手賀沼を合わせた広大な内海である香取の海に注いでいた。
広川は川とは言うものの、狭長な谷地田の流末に発達する大山沼・釈迦沼・長井戸沼などの沼沢の水を集めて流れる小河川であり,その流れは現在の菅生沼・田中・稲戸井遊水池付近にあった藺沼という浅い沼沢地に注ぐわけであり、川と言うより沼沢地の連なり、と言った方が正確かもしれない。

○船運路の開発
その常陸川・広川に大木丘陵を開削して鬼怒川の流れを通した。丘陵を切り開くという難工事をおこなったのは、その結果として常陸川・広川への合流点を 開削工事の前に比べて30キロも上流に押し上げ、常陸川に豊かな水量を注ぎ、それまでは細流であり、小舟がやっと通れるといった常陸川の上流部の水量を増やした。小貝川と鬼怒川の分流工事・鬼怒川の新水路開削が完成した後、南流を締め切った利根川の流れと、水量の豊かになった常陸川を繋ぐ水路を新たに開削し、利根川の流れを江戸ではなく銚子方面にむけた。その結果、銚子と江戸が利根川を介し結ばれ、「内川廻し」と称される船運網が出来上がった。

○新田開発
また、また、新田開発も、古来より「香取の海」と呼ばれ、霞ヶ浦・印旛沼・手賀沼などが一帯となった広大な内海が利根川の東遷事業によって、上流から運ばれた土砂の堆積が進み、多くは低湿地の沖積平野と化し、その地に本格的な新田開発がはじまることになる。潮来市(茨城県)や旧佐原市(現香取市、千葉県)が陸地化されたのは江戸時代になってからと言われるが、それは東遷事業により銚子へと下った利根川の流れを堤防で固定化し、周辺の低湿地の水を抜き干拓・陸化していった苦難の新田開発の賜とのことである。

ことほど左様に、利根川の東遷事業の一環としても重要な位置づけをもつ、小貝川と鬼怒川の分流事業の跡を辿ろうと、小貝川と鬼怒川の合流・乱流地帯と鬼怒川の新水路開削地点を求めて守谷へと向かった。



本日のルート;関東常総線・水海道駅>関東常総線・小絹駅>谷原大橋>伊奈橋>寺畑>鬼怒川の堤>玉台橋>香取神社>関東常総・小絹駅 

関東常総線・水海道駅
家を離れ、成田エクスプレスで先に進みながらiphoneで小貝川と鬼怒川の合流点についての情報を探す。ちゃんと家で調べておればいいものを、いつもの通り基本は事前準備をきちんとしない成り行き任せ故のことである。社内でチェックするに、旧谷和原村(現つくばみらい市)寺畑、とか杉下辺りで合流とあるが、正確な合流点の記述が見つからない。関東常総線・小絹駅で下りて、成り行きで進もうとも思うのだが、なんとなくすっきりしないので、水海道まで上り、図書館でチェックすることに。

水海道駅(みつかいどう)で下り、県道357号を少し守谷方面に戻ると常総市立図書館に。水海道市は平成18年(2006)、近隣の町を編入・合併し現在は常総市となっていた。それはともあれ、水海道の図書館まで進んだのは守谷の中央図書館には既に訪れていた、ということもあるが、「水海道」という、如何にも川の流れを連想させる地名故に、小貝・鬼怒川に関する情報が多いのだろうと勝手に思った次第。実際の水海道の地名の由来は、平安時代の坂上田村麻呂がこの地で馬に水を飲ませた(水飼戸;ミツカヘト)故事に拠るとのことで、河川とは関係なかった。
それ故、ということもないだろうが、常総市立図書館は郷土資料に関する整備されたコーナーのある素敵な図書館ではあったが、残念ながら小貝川と鬼怒川の合流点に関する資料は見つからなかった。河岸工事を行い河川の流路が定まっている現在の河川とは異なり、洪水のたびに流路が変わっていた往昔の流路の合流点を特定するのは困難ではあろう、とひとり納得し、当初下車予定の関東常総線小絹駅に戻ることに。

関東常総線・小絹駅
ささやかなる小絹駅で下車。妙なる響きをもつこの小絹という地名も、元は新宿(にいじゅく)と呼ばれていたとのことだが、明治22年(1889),北相馬郡の村が合併し北相馬郡小絹村となった。小絹の由来は、小貝川と鬼怒川の間にあるので、両川の名前を一字ずつ取って小絹、とした。妙なる地名と思っていたのだが、実際は、足して二で割るといった新たに地名を造る際によくあるパターンではあった。
ところで、この小絹は「つくばみらい市」となっている。つくばみらい市は基本的に小貝川の東側であるのだが、この小絹地区の南北の部分だけ小貝川を越え、鬼怒川東岸までその市域が突き出ている。地名をよく見ると、杉下、筒戸、平沼、寺畑、細代と明治22年(1889)に北相馬郡小絹村となった地域である。つくばみらい市は旧伊奈町、旧谷和原村など旧筑波郡からなっており、この小絹川を越えて鬼怒川東岸までのびた地域だけが北相馬郡。住民はつくばみらい市ではなく旧北相馬郡地域である守谷市への合併を望んだ、といった話も故なきことではない、かと。

谷原大橋
小絹駅を下りる。駅前は商店街といったものもなく、のんびりした佇まい。それでも駅の西側は家屋があるが、線路を東に渡ると葦(?)が茂る一帯とか畑地が広がる。とりあえず成り行きで小貝川方面へと向かい小貝川の川筋に。川面を眺めながら少し北に進むと谷原大橋に出る。現在の橋は二代目。昭和38年(1963)に架けられた先代の橋が歩道もなく、老朽化したこともあり平成16年(2003)新たに建設された。
谷原? 谷和原?どっちだ?チェックする。谷原大橋の東に鬼長、川崎地区があるが、これらば元は鬼長村、川崎村であったが、明治22年(1889)に北相馬郡長崎村(これも両村の一字ずつを取ったもの)となるも、昭和13年(1938)に鹿島村(現在の加藤、上小目、下小目、成瀬、宮戸、西丸山、東楢戸、西楢戸、古川)と合併し「谷原村」となる。橋名はその「谷原」からきたものだろうか。ちなみに「谷和原村」となるのは昭和30年(1955)。筑波郡谷原村、十和村、福岡村が北相馬郡小絹村と合併してからである。谷原村に加わった十和村の「和」を足した、ということではあろう、か。地名をあれこれ考えるのは誠にややこしいが、しかし、実に面白い。

伊奈橋
小貝川の堤防を北に進む。谷原大橋辺りでは平地であった地形が、先に進むにつれて堤の左手に平地の向こうに小高い丘陵地が見えてくる。地名も西ノ台とその地形を現している。地形図でチェックすると川沿いの標高10m地域と、台地の15mから20m地帯に分かれている。
台地部分が切れ、平地に変わる境目を求め先に進む。おおよそ伊奈橋の辺り寺畑地区まで進むと、なんとなく台地から平地にたどり着いたといった感がある。伊奈橋の少し南西に池があり、四ケ字入排水機場を介して小貝川と繋がるっているが、そのあたりが小貝川と鬼怒川の合流地点跡とも言われる。もとより、水路定まらぬかつての流路が一か所で合流していたとも思えない。
地形図によると元の水海道市域は標高15mから20mとなっており、この水街道と寺畑を北端とする台地に挟まれた平地一帯に、洪水の度に流路を変える鬼怒川の幾筋もの流路が小貝川に乱流・合流していたのであろう。単なる想像。根拠なし。

○伊奈忠治
ところで、伊奈橋。由来は伊奈町から。伊奈町ができたのは昭和29年(1954)のことで、そんなに古い歴史があるわけではないのだが、伊奈といえば小貝川と鬼怒川の分流工事を指揮し、小貝川の東、旧伊奈町を含む現在のつくばみらい市一帯の氾濫原を谷原三万石とも称される新田開発に貢献した関東郡代伊奈忠治に由来するのは言うまでもないだろう。
伊奈忠治の指揮のものと、鬼怒川と小貝川の完全分離と新河道掘削による鬼怒川の常陸川(後の利根川)への付け替え工事により、従来、鬼怒・小貝両川の氾濫源であった谷原領、大生領(常総市辺り)一帯は両川合流の水勢から解き放たれ、水量の安定した一帯の新田開発が可能となった。因みに「谷原」とは葦などが茂る湿地の意味である。
その小貝川には、伊奈氏によって、福岡堰、岡堰、豊田堰が設けられる。関東流とも溜井方式とも称される伊奈氏の治水・利水工法によって造られたこれらの堰はその規模もあり、関東の三大堰とも称されるが、その堰の力もあってか新田の開発が進み、「谷原領三万石」「相馬領二万石」などと呼ばれる新田地が誕生した、とのことである。
それにしても、散歩の折々、関東郡代伊奈氏の事蹟によく出合う。玉川上水、利根川の東遷事業、新綾瀬川開削、荒川西遷事業、八丁堤・見沼溜井、宝永の富士に大噴火にともなう足柄一帯の復興工事、酒匂川の改修など枚挙に暇がない。武蔵国赤山(現在の埼玉県川口市赤山)に拝領した伊奈氏の赤山陣屋を辿った散歩が懐かしい。

○溜井方式・関東流
伊奈氏の治水法である溜井方式・関東流とは自然河川や湖沼を活用した灌漑様式であり、自然に逆らわないといった手法である。伊奈流の新田開発の典型例としては、葛西用水がある。流路から切り離された古利根川筋を用排水路として復活させる。上流の排水を下流の用水に使う「溜井」という循環システムは関東流(備前流)のモデルである。また、洪水処理も霞堤とか乗越堤、遊水地といった、河川を溢れさすことで洪水の勢いを制御するといった思想でおこなっている。こういった「自然に優しい工法」が関東流の特徴と言える。しかし、それゆえに問題も。なかでも洪水の被害、そして乱流地帯が多くなり、新田開発には限界があった、と。

こういった関東流の手法に対し登場したのが、井沢弥惣兵衛為永を祖とする紀州流。見沼代用水に代表される伊沢為永の紀州流は自然をコントロールしようとする手法。堤防を築き、用水を組み上げる。八代将軍吉宗は地元の紀州から井沢弥惣兵衛為を呼び出し、新田開発を下命。関東平野の開発は紀州流に取って代わる。
為永は乗越提や霞提を取り払う。それまで蛇行河川を堤防などで固定し、直線化する。ために、遊水池や河川の乱流地帯はなくなり、広大な新田が生まれることに。また、見沼代用水のケースのように、溜井を干拓し、用水を通すことにより新たな水田を増やしていく。用水と排水の分離方式を採用し、見沼代用水と葛西用水をつなぎ、巨大な水のネットワークを形成している。こうした水路はまた、舟運としても利用された。
とはいえ、伊奈氏の業績・評価が揺るぐことはないだろう。大水のたびに乱流する利根川と荒川を、三代六十年におよぶ大工事で現在の流路に瀬替。氾濫地帯だった広大な土地が開拓可能になった。1598年(慶長三年)に約六十六万石だった武蔵国の総石高は、百年ほどたった元禄年間には約百十六万石に増えた、と言う。民衆の信頼も厚く、ききんや一揆の解決に尽力。その姿は上でメモした『怒る富士』に詳しい。最後には、ねたみもあったのか、幕閣の反発も生み、1792年(寛政四年)、お家騒動を理由に取りつぶされた、と。とはいえ、伊奈忠次からはじまる歴代伊奈氏は誠に素敵な一族であります。

寺畑
確たるものではないが、小貝川と鬼怒川の乱流・合流点らしき一帯に足を踏み入れ、所定の目的は達成。堤を離れ、かつては小貝川と鬼怒川が合流していたであろう寺畑地区の平地を彷徨うことに。
堤を下りるとささやかな祠。薬師堂とあった。寺畑って、寺院の所有する畑のことだろうが、まさか、この小さな祠の所有地とも思えない。寺畑をチェックすると、この地は下総佐倉藩大給松平氏と下総関宿藩板倉氏の相給地であった、とか。どちらかの地の寺院ゆかりの地であったのだろう、か。単なる妄想。根拠なし。



寺畑地区をあてどもなくさまよい、鬼怒川の堤方向へと向かう。成り行きで進んでいるうちに、知らず標高10m地帯の平地から標高15mの台地へと入っていった。
ところで、「寺」。我々はこの漢字を音読みの「じ」とともに、訓読みで「てら」とも読む。現在「寺」は仏教のお寺様と同一視するが、この「寺(てら)」という漢字は仏教伝来以前より日本に伝わっており、その語義は「廷也」。邸とは役所のこと。仏教がインドから中国に伝わったころ、僧侶は役所を拠点として活動を始めたようで、そのうちに僧が定住するところとなり、邸也が仏寺の意味を持つようになった、とか。「じ」とも「てら」とも読むのは核の如き歴史を踏まえたものであろう、か。

鬼怒川の堤
台地を進み、関東常総線を越え、県道294号を渡り、鬼怒川の堤に向かう。先回の小貝川散歩のときも、堤と川筋が離れ、その間に畑地や林があった。洪水時に水を貯めるバッファー地帯なではあったのかとも思うのだが、鬼怒川のそれはもっと幅が大きい。堤から川筋などなにも見えない。
堤に沿って北にも緑の森が見える。地形図を見るに、標高10mの台地の先端部が北に細代辺りまで突き出している。台地と平地の境まで行ってみようと堤を北に向かって進む。と、途中に堤から川筋が見えそうな箇所がある。ここなら川筋まで進めるかと、堤を離れ川筋へと向かう。が、残念ながら葦のブッシュに阻まれ、川筋に進むことはできなかった。

川筋に足を踏み入れるのを諦め、耕地なのか遊休地なのか定かではない堤下の地を抜けて堤に戻る。と、堤下の耕地・遊休地の真ん中を一直線に通る細路があり、いかにもウォーキングをしているといった人たちがそこを歩いている。ひょっとすれば川筋への道があるのかと、再び堤を下り道を進む。
少々の期待を持って先に進むも、結局この道も川筋にでることはなく、標高15mから20mの台地部分に出てしまった。道の終点部にはベスト電器やファッション量販店、企業の物流センターなどが集まっていた。この辺りからも川筋に入れる道はなく、結局道なりに玉台橋に出る。

玉台橋
玉台橋からやっと鬼怒川の流れを目にする。玉台橋の由来について、「内守谷町玉台と鬼怒川の間に架かるのが玉台橋。この一帯を玉台と呼ぶのは、菅生城主・菅生越前守の妻であるお玉の方、から。戦に破れてこの地までたどり着き、力尽きたという伝説からきた、とのことである。菅生城はこの玉台橋から西の菅生沼辺りにある。
玉台橋からの眺めは川の両岸に台地が迫り、なかなか美しい。橋にあった案内によると、「玉台橋から鬼怒川を望むと、江戸の人の手でつくられた壮観な谷小絹が広がります。利根川とは独立した河川であった鬼怒川を天慶年間に西に移し、小貝川を東に付け替えて二つに分けました。
さらにその後、鬼怒川の支流であった小貝川を切り離し、利根川につなぎました。そのとき開削されたのが小絹です」、とあった。

橋から、先ほどブッシュで苦戦した川岸を見るに、崖に緑の木々が茂り、とてもではないが人が歩けそうなところではなかった。はやく藪漕ぎを諦めたのは正解ではあった、よう。
川の岸を見るに、川の東側は15mの台地が北にずっと続く。一方西側は橋の辺りは15mの台地ではあるが、その先には標高10mの低地が広がり、そしてその先には15mの台地が見える。地形図を見るに、東岸の細代と西岸の樋ノ口あたりで台地が両岸から鬼怒川に迫る。この両岸に台地が迫る辺りが人工開削の始点ではあろう、と妄想する。

香取神社
橋から眺めると川の西側には川傍に堤がありそう。できれば平地から台地部分、玉台橋の辺りを眺めてみようと橋を渡り、鬼怒川の西岸に進む。玉台橋西交差点から未知なりに川筋への道を進む。川岸の小さな森を抜けると玉台排水機場があるが、そのあたりから一瞬、鬼怒川の西岸は低地となるも、その先には緑の台地部分があり、台地と平地の境はまだ先のようである。





堤から離れ川筋まで下りてみるも、今一つ平地から見た台地、といった景観が描けない。先に進み森の香取の社にお参り。茨城に来るとさすがに香取の社が目につく。鈴木理生さんの『幻の江戸百年』によれば、香取の社は上総の国、川筋で言えば古利根川(元荒川)の東に400社ほど分布しており、一方西側には氷川の社が230社ほど鎮座する。そして、香取と氷川の「祭祀圏」に挟まれた越谷の元荒川一帯には久伊豆神社が祀られている、と。「祭祀圏」がきっちりと分かれている。結構長い間散歩しているが、このルールをはずしていたのは赤羽に香取の社が一社あっただけである。往昔、川筋に沿って森を開き、谷の湿地を水田としていったそれぞれの部族が心のよりどころとして祀ったものではあろう。
香取の社を越えると平地が前面に広がるも、その先にも耳鳥の台地がある。東岸の細代と西岸の樋ノ口あたりの台地開削地点辺りではあろう。

関東常総・小絹駅
先に進もうと思えども、そろそろ日暮、時間切れ。道を折り返し玉台橋まで戻り、最寄の駅である関東常総・小絹駅にむかい、一路家路へと。
昨年秋、将門ゆかりの地を訪ねて守谷を彷徨った。基本、事前準備なし、なりゆき任せが散歩のスタイルではあるが、それでも駅を下りれば、なんらかの名所旧跡案内といったマップがあり、それなりに、なんとかなっていた。 が、守谷は思惑と少々異なり、駅を下りても全く何もなし。結局お散歩情報を求めて、5キロほど歩き中央書館で将門ゆかりの地を調べ、それなりにその跡を辿り、最後は守谷城址で散歩を締めくくった。
後日、その散歩のメモをまとめていると、その守谷城址は、守谷城全体のほんの触りの部分に過ぎないようであった。守谷城は、守山城址の案内のあった舌状台地部分(現在の城内地区)と、その先にある平台山と称する島状の台地を合したもの。平台山は鎌倉期に館が築かれた地であり、そこは守谷本城とも呼ばれる。城内地区は手狭になった守谷本城を近世なってに拡張された城域であった。
ということで、今回の守谷散歩の第二回は、守谷城址を再訪し近世の守谷城域を彷徨い、その後で守谷本城と称された平台山へと向かうことに。守谷本城のある島状の平台地の周囲には水が迫り、天然の要害であった、とか。守谷本城を彷徨った後は、城を囲む水の主因でもあった小貝川の流れまで進み、川筋から城跡の景観を楽しむことに。その後は成り行きで日暮まで散歩を楽しむべし、という段取りで守谷に向かった。



本日のルート;守谷駅>雲天寺>八坂神社>薬師寺>石神神社>天王観世音>守谷城址>川獺弁天>熊野神社>小貝川>天満宮>赤法花>常総橋>同地瑠璃光山>小貝排水路>薬師堂>守谷駅>永泉寺>松並木>守谷駅

雲天寺
成田エクスプレスで守谷駅に。慣れた道筋を近世の守谷城址のある台地に向かう。台地に上る坂の辺りに雲天寺。先日の守谷散歩では家路を急ぐあまり、パスしたお寺さま。境内に入り、本堂にお参り。創建は天正3年(1575)。この浄土宗のお寺さまの本尊の阿弥陀如来は、目黒区中目黒の祐天寺にその名を残す祐天上人が入仏供養したと伝わる。祐天上人は陸奥国(後の磐城国)磐城郡新妻村の百姓の子に生まれ、浄土宗の最高位にまで上りつめた稀代の呪術師と伝わる。
幼少の頃は暗愚と呼ばれながらも、後に成田山新勝寺の不動明王から授けられた法力をもって、怨霊を鎮め、それ故か5代将軍徳川綱吉、その生母桂昌院、そして徳川家宣の帰依を受け、幕命により下総国大巌寺・同国弘経寺・江戸伝通院の住持を歴任。正徳元年には(1711年)増上寺36世となり、大僧正に任じられた。祐天寺は隠居し晩年を過ごした草庵(現在の祐天寺)である。
享保3年(1718年)82歳で祐天寺の草庵で入寂するまで、多くの霊験を残したが、その中で最も名高い奇端は、下総国飯沼の弘経寺に居た時、羽生村(現在の茨城県常総市水海道羽生町)の累という女の怨霊を成仏させた累ヶ淵の説話。曲亭馬琴の読本『新累解脱物語』や、三遊亭円朝の怪談『真景累ヶ淵』などは、その説話がもとになっている。
寺には俳人である斎藤若雨が眠る。斎藤若雨こと斉藤徳左衛門氏は江戸初期から名主役を務めていた家柄。流山の醸造家秋元双樹の庇護を受け、しばしば下総を訪れていた小林一茶との交誼も深く、一茶も斉藤家で句会を開いていた、とのことである。
先回の守谷散歩で西林寺に一茶の句碑を見たが、その「行くとしや空の名残りを守谷まで」と刻まれた句碑は、文化7年(1810年)、一茶が西林寺を訪れたときに詠んだもので、碑は終戦後、斉藤徳左衛門(若雨)の子孫である斉藤隆三氏をはじめとする有志によって建立された、とあった。

八坂神社
台地を上り、先回場所がわからなかった八坂神社を目指す。守谷の総鎮守と称される以上、とりあえずお参りせん、との心根である。古きの趣を僅かに残す町並みを進むと、神社は先回訪れた守谷城址の案内のある守谷小学校のひとつ手前の道脇にあった。
樹齢数百年と称される銀杏の木の下の鳥居をくぐり境内に。樹齢400年とも伝わる欅を見やり社殿にお参り。祭神は素戔嗚尊(牛頭天王)。世の多くの八坂神社が元は牛頭天王宮であり、八坂神社となったのは明治の神仏分離令以降との例にもれず、この八坂神社も元は牛頭天王宮と称し、大同元年(806)、守谷の本宿(現在の高野地区。高野地区は先回の散歩で訪れた)天の窪に祀られた。 現在の地に移ったのは慶長3年(1598)。守谷城主土岐山城守によって現在の地に社殿を遷座したと伝わる。その後、寛文2年(1662)に火災により焼失、同年堀田備中守により再建されるも、寛文5年(1666)に再び火災により焼失。寛文11年(1671 )城主酒井河内守によって再建、元禄5年には関宿城牧野備後守により大修営され、その後改修をはかり現在に至る。

○八坂神社と牛頭天王
上で、その牛頭天王が八坂神社となったのは明治の神仏分離令以降とメモした。その所以は、本家本元・京都の「天王さま」・「祇園さん」が八坂神社に改名したため、全国3,000とも言われる末社が右へ倣え、ということになったのだろう。
八坂という名前にしたのは、京都の「天王さま」・「祇園さん」のある地が、八坂の郷、といわれていたから。ちなみに、明治に八坂と名前を変えた最大の理由は、「(牛頭)天王」という音・読みが「天皇」と同一視され、少々の 不敬にあたる、といった自主規制の結果、とも言われている。
で、なにゆえ「天王さま」・「祇園さん」と呼ばれていたか、ということだが、この八坂の郷に移り住んだ新羅からの渡来人・八坂の造(みやつこ)が信仰していたのが仏教の守護神でもある「牛頭天王」であったから。また、この「牛頭天王さま」 は祇園精舎のガードマンでもあったので、「祇園さん」とも呼ばれるようになった。

○守谷藩
八坂神社の修繕に幾人もの大名が登場する。この大名と守谷がどう関係するのかチェックすると、当然と言えば当然ではあるが、皆、この守谷の地の領主ではあった。とは言うものの、守谷に本格的な城があり城下町があったようにも思えないのでチェックする。
この守谷の地には鎌倉時代、千葉宗家第五代常胤の二男・帥常が館を構え「相馬氏」を称した。千葉宗家は中世下総国相馬郡を領した平良文の流れ(下総平氏)を継ぐ名門である。その名門下総相馬氏も秀吉の小田原の陣では小田原後北条の傘下として参陣。守谷城は秀吉勢の浅野弾正少弼長政、木村常陸介重滋の軍勢により落城。下総相馬家もここに絶え、下総相馬家第5代胤村の時、胤村の五男である帥胤が陸奥行方郡の領地に土着した奥州相馬氏が下総平氏の流れを後世に伝えることになる。因みに、浅野弾正少弼長政、木村常陸介重滋には先回の散歩の長龍寺で、寺が軍兵らによって荒らされることを防ぐ「禁制文書」で出合った。
後北条滅亡の後、徳川家康が関東に入府し、下総相馬氏の絶えた守谷の城には菅沼定政氏(後に土岐氏を名乗る)が1万石で入城。土岐氏はこの地で数代続くも定義の代に高槻城に転封。守谷城主を継いだ定義の子も上山に転封となり、守谷城は事実上の廃城となった。
その後、寛永19年(1642)には、守谷の一部が佐倉藩堀田氏の所領となり、堀田正俊が1万 3000 石の領主となる。寛文元年(1668)には酒井忠孝が2万石の領主となるも、天和元年(1681)には酒井忠挙の代に厩橋(前橋)へ転封となる。
城主のいなくなった守谷は元禄元年(1688)には、 関宿藩領へ編入され守谷藩は廃藩となり、以後、幕末まで関宿藩領、天領、田安領(徳川御三卿の一つ)、その他旗本領に分割されて続いた。土岐定政よりはじまる守谷藩は3万石以下の小大名で、城はなく陣屋を設け代官を置いていただけ、とのことである。

薬師堂
台地上の上町から下町へと向かう。先日の散歩で見落とした薬師堂に訪れるためである。下町を進み、道が台地を下り始めるあたりの左手に石段がありその上に誠にささやかなお堂がある。どうもそのお堂が薬師寺のようであった。案内もなく、お参りをする、のみ。

石神神社
次の目的地も先回取りこぼした石神神社。先回の散歩で訪れた乙子地区の「石上神社」は本堂の周囲に男根の石像を配した、結構立派な社であったが、こちらの石神様は鳥居にも「石神神社 稲荷神社」と併記されるといった、誠にささやかな祠ではあった。
散歩の折々で石をご神体とした社によく出合う。原初的な信仰は巨石・奇岩より起こったとも言われる。古代の遺跡からは石棒が発掘されるとも聞く。石には神が宿り、それが豊饒=子孫繁栄の願いと相まって石神信仰がひろまっていったのであろう、か。



この石神様は舌状台地の端にあり、眼下,と言っても数メートルではあるが、眼下に台地下の葦原が広がる。葦原の左右、そして前面には緑の台地が控え、なかなか美しい景観である。葦原は往昔、水に覆われていた一帯であろう。







天王観世音
台地下の崖に沿って坂を上ると、途中に13体の石碑が佇む。もっとも大きい石碑には「天王観世音」と刻まれる。結構散歩をしているのが、「天王観世音」に出合ったのはここがはじめ。
天王観世音って、何だろう?あれこれチェックしても、これといった情報が見つからない。で、妄想をするに、天王といえば牛頭天王。とすれば、この天王観世音は牛頭(天王)観世音のことではないだろう、か。もともとの牛頭天王の意味から離れ、「馬頭」観世音に対する「牛頭」として、牛を祀ったものではないだろう、か。実際、川越の高松寺には牛頭観世音と称される石碑が残る、とか。


(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

守谷城址
坂を上り、なりゆきで先回訪れた「守谷城址」の案内、土塁の残る守谷小学校脇に向かう。「守谷城址」の案内を再掲:守谷城の概観:守谷城は守谷市(城内地区)と、平台山と称する島状の台地とを 併せて呼ばれている。鎌倉時代の初期に平台山に始めて城館が構築 されたが、戦国時代になると戦闘様式等の進展に伴って城は現在の守谷小学校(本郭のあった所)周辺に増築、移転した。 平台山に最初に構造された城の事を守谷本城とも呼ばれている。この守谷本城は鎌倉時代になって、平将門の叔父に当る平良文の子孫、 相馬師常によって築城されたもので、素朴な鎌倉様式を残した名城である。師常は源頼朝の旗上げに最先かけて参陣し頼朝の重臣として幕政に 参画し、その功によって相馬郡の他に結城・猿島・豊田(一部)の諸郡を 拝領し、更には奥州相馬の地をも賜ったのであるが、守谷本城は それらの領地を統轄する本城としての役割を演じたものである。
本城の面積約21,254㎡で、それを三郭に分割し、各郭は大規模な土塁、堀等によって 区画され、その堀には満々たる水が入り込み舟着場も残されている。 なおその三郭には妙見社も建てられ、相馬野馬追いの行事はその社前で 実施されたといわれている。 なお、本城は戦国期になって本拠を現在の城内の地に遷したが、 その後は守谷城の出城として使用されていたようである。
本城は戦国時代を迎えると城内の地にその拠点を移動したが、そのことは城内第六郭の発掘調査によって判明した。この調査によってこの城は15世紀より16世紀全般に亘って その機能を発揮した城で、ここから戦国期の建造物(宿舎・事務所・倉庫・馬舎) 26棟が発掘され、それに付属して井戸・堀・食糧貯蔵庫・墓拡・製鉄加工所等 が検出され、多くの貴重な遺物が出土した。なお、図面(下の地図)によってみると、小貝川より入る一大水系は満々たる水を湛えて城域を囲み、更にはその城域の極めて広大な事、築城技術の入念な事、 それは天下の名城としての様相が偲ばれるのである。
永禄9年(1566)城主相馬治胤がこの城を古河公方に提供し関東の拠点となすべく計画を進めたのもこの城であった。この城は北条氏の 勢力下にあったので、小田原落城後豊臣秀吉軍の進攻により廃城となった」、とある。
案内によると、小学校脇の守谷城址のある「城内地区」は、戦国時代に増築、移転された城跡であり、鎌倉時代に構築されたもともとの守谷城は、平台山と称される島状の台地にある、ということ。掲載されている地図によると、小学校の右に本郭、5郭、左に6郭、その前面に左から2郭、3郭、4郭と並ぶ。小学校の辺りには大手門があったようだ。とは言うものの、現在は宅地となっており、往昔の風情は小学校脇の土塁のほか特に何も残ってはいないようである。

平将門城跡
守谷城趾の碑の真後ろ、守谷小学校の敷地内に、「平将門城跡」の石碑がある。昔から、この守谷城が東国の新皇となった将門の皇城との説があるようだ。「将門記」には上野国府を攻撃占領した後、新皇を称して、皇城を築いたとあり、その場所は「下総の国亭南」とのこと。皇城そのものの真偽及び位置は不明とされるが、「相馬日記」など、古くからこの守谷城址が将門の皇城との説もあるが、「案内板」の記述にあるように、中世以来相馬氏の居城と比定されており、将門皇城説は現在ではほぼ否定されている。

和田の出口
守谷本城に向かう前に、城内地区に近世に守谷城のなんらかの痕跡がないものかとしばし彷徨うことに。誠に大雑把な案内ではあるが、守谷小学校の北辺りに「和田の出口」とあるので、先ずはそこを目指す。地図で見るに、和田の出口は舌状台地の窪んだ辺りにある。とはいうものの、宅地開発された一帯に舌状台地の痕跡を探すのも困難であり、小学校の敷地に沿って進むと、小学校の北側の台地と崖地の交わるあたりに「和田の出口」があった。



民家の隣の小さな林の中にある案内によると、往昔守谷城二の丸(近世城郭では4郭とある??)の出口にあたり、出口は旧守谷城と結ばれていた。その下には船着場があり、軍事経済上の拠点であった。かつては「和田の出口榎の木」と称される榎の大木があったが、現在は枯れて新木が植え直されている、と。船着き場へと下りる道があればと、近辺を彷徨うも、「和田の出口」の辺りは個人の敷地のようでもあり、また崖を下りる道も見つからなかった。


舌状台地先端部
和田の出口を離れ舌状台地の先端部に向かう。往昔水で覆われていた湿地帯でも見てみようか、できれば下り口を見つけ、かつての湿地帯を横切って平台山の本守谷城に向かおう、と。台地先端部に向かうに、台地先端部近くまで宅地開発が進み、その上先端部を横切って結構広い道路が建設中であった。
守谷小学校の駐車場脇から建設中の道路に下り、工事中の道を進むに、小規模な舌状台地の窪み部分など埋め立てられているようにも思える。また、台地から湿地帯に下りるルートを探すに、一面の葦のブッシュでとても湿地部に下りることもできそうにない。眼前に平台山の緑を見ながらも、結局湿地からのアプローチはあきらめる。台地先端部を辿った唯一の成果は、建設中の道路から「和田の出口」の辺りの台地と、その下一面に広がる湿地帯を見ることができたこと。船着き場があってなんら不思議でない景観が現在でも残っていた。 建設中の道を折り返し、道路の北端部、旧来の道と建設中の道路の接点部に。そこを右に曲がると偶然にも守谷本城へと続く道筋であった。

守谷本城
鎌倉時代の初期に下総相馬氏が館を構えた守谷本城に進む。道脇の城の案内によると、台地を下った城への入口のあたりに「堀切」が造られ、城を外部から切り離している。城の入口には「枡形虎口」があり、その脇には「矢倉台」があり、次いで「御馬家台」と続く。更にその先にある「平台」とは「空堀」で区切られ、「平台」の先には空堀を跨ぐ橋があり、「土橋」と記された台地部と結ぶ。「土橋」台の先に空堀と、名称無き台地部、そして先端部に「妙見曲輪」といった構えとなっている。


「御馬家台」が小学校脇の案内で見た「二郭」、「平台」が「本郭」ではあろう。「二郭」と「本郭」の間の空堀は結構なもので、6mから7mの深さがあるように見える。「本郭」両側には高さ2mほどの土塁も残る。本郭と土橋台は木橋で繋がり、その先にある名のない台地(三郭だろうか)との間の空堀も5mほどもある。

○妙見曲輪
守谷本城をあてどもなく彷徨う。妙見曲輪は千葉氏の守り神である妙見信仰故の命名であろう、か。妙見信仰といえば、秩父神社が思い出されるが、秩父神社は平良文の子が秩父牧の別当となり「秩父」氏と称し妙見菩薩を祀ったことがはじまり。平忠常を祖とする千葉氏はその秩父平氏の流れをくみ、妙見菩薩は千葉家代々の守護神であった。 千葉一族の家紋である「月星」「日月」「九曜」は妙見さまに由来する。 妙見信仰は経典に「北辰菩薩、名づけて妙見という。・・・吾を祀らば護国鎮守・除災招福・長寿延命・風雨順調・五穀豊穣・人民安楽にして、王は徳を讃えられん」とあるように、現世利益の功徳を唱える。実際、稲霊、養蚕、祈雨、海上交通の守護神、安産、牛馬の守り神など、妙見信仰がカバーする領域は多種多様。お札の原型とされる護符も民間への普及には役立った、とか。
かくして、妙見信仰は千葉氏の勢力園である房総の地に広まっていった。上でメモしたように、下総相馬氏は鎌倉時代、平良文の流れ(下総平氏)を継ぐ千葉宗家第五代常胤の二男・帥常が守谷に館を構え「相馬氏」を称したものである。

川獺(かわうそ)弁天
成り行きで守谷本城を歩いていると、知らずに台地を出てしまった。守谷本城台地を囲む、かつては守谷池(沼)と称された湿地部に出たわけだが、台地から往昔の湿地帯の中に土手が造られていた。草の茂る土手を進むと、右手に人工のものらしき池があり、更に進むと微高地に出た。微高地の傍に整地された公園(守谷城址公園)があり、そこにある案内を見ると、その微高地は「川獺(かわうそ)弁天」、とあった。
微高地に上るに、川獺弁天の名にあるような弁天様の社も祠も見当たらないが、その昔はこの地に守谷城の鬼門除けの弁天様が祀られていた、と。かつて、満々と水を湛えた守谷池(沼)には多くの川獺が生息していたのではあろう。なお、その守谷池(沼)はさきほど見た如何にも人工の池が沼の痕跡。昭和43年(1968)の整備事業によって整備・縮小されたのではあろう。人工の池ではあるが、その守谷池(沼)と守谷本城址のある台地を重ね合わし、往昔の湿地に屹立していた守谷本城を想う。

同地地区
川獺弁天から小貝川方面を見やると、かつての湿地は耕地となっており、その先の小貝川との間には同地(どうち)地区、とか法花(あかぼっけ)地区といった台地があり、川筋を見ることができない。案内に、「小貝川より入る一大水系は満々たる水を湛えて城域を囲み。。。」とあった小貝川を見ないわけにはと、川筋へと向かう。


小貝川排水路を越え、同地地区の台地の緩やかな坂を上る。台地を上り切れば小貝川の堤が見えるかとも思ったのだが、道と川筋の間に畑や林があり小貝の流れを見ることができない。なんとか川筋を見ようと、成り行きで畑の畦道に入り込み先に進むが、川に沿って茂る葦のブッシュなどで遮られ流れは全く見えない。
それでも、なんとかなるかとブッシュを掻き分け一瞬だけ川筋に出るも、それより先には進めない。再びブッシュを掻き分け、畑地の端を進み、竹林を抜け、としばらく先に進むも、どうも川筋に出る可能性はない、と藪漕ぎをあきらめ、畑の畦道を抜けてまともなる道に戻る。






赤法花地区
同地地区を進み赤法花地区に出る。赤法花(元は赤法華)の由来は、本守谷城内からの眺めが「中国の赤壁」に似た景観であったため、と言う。昔は台地が削られ赤土も出ていたのだろうか。守谷本城から眺めた現在の台地は深い緑に覆われているだけではある。因みに、中国の赤壁とは、『三国志』の赤壁の戦い(せきへきのたたかい、中国語:赤壁之戰)で知られる。中国後漢末期の208年、曹操軍と孫権・劉備連合軍の間の戦いである。




天満宮
道脇に天満宮。将門と菅原一門は浅からぬ因縁で結ばれており、それ故の天満宮であろう、か。歴史に名高い両者の因縁とは、共に怨霊として天変地異を起こし、よって怨霊を鎮めるべく社に篤く祀られた、ということではない。道真流罪の後に起こった天変地異に怖れを抱いた朝廷は道真一族を遇することに。この下総の地には菅原道真の三男である景行が延喜9年(909)に下総守として下向。これを契機に当時実質上の下総介であったである良門(将門の父)を筆頭にした下総平氏一門との交誼がはじまる。そこには、下総平氏の都での良き理解者であった関白・藤原忠平が同じく菅原道真の良き理解者であったことも縁無きことではないだろう。
下総平氏一門との友好な関係のもと、延長4年(926)、常陸介となった景行は常陸大掾の源護、将門の叔父である平良兼とともに常陸国羽鳥庄に道真を祀る社を建てている。景行はこの下総平氏一門との友好関係を基盤に、飯沼の南岸の農地開拓や飯沼を活用した水運、また飯沼北岸の大草原を活用した牧場経営につとめるなど、下総・常陸に在任した24年の間に、此の地に多くの業績を残している。因みに平将門が生まれたのは菅原道真が太宰府に流された3年前であり、また道真の三男・景行が下総・常陸を離れたのが将門が都での宮廷警護の任を終え下総に戻った延長8年のことであり、将門とが菅公一門との直接コンタクトはなかったようである。

常総橋
天満宮を離れ、豊かな農家の家並みを眺めながら県道46号に出る。挑戦すれども結局見ることができなかった小貝川を眺めるべく、県道を東に進み常総橋に。この辺りの小貝川は常陸と下総の境でもあり、両国の一字を取った橋名であろう。橋からしばし小貝川の眺めを楽しむ。橋からチェックするに、とても川に沿って進めるといった雰囲気ではなく、川筋一面がブッシュや木々で覆われていた。途中で藪漕ぎをやめて正解であった。
橋の向こうの緑の森に祀られる水神宮に少々遠くからではあるが一礼し、道を西に折り返す。赤法花の西に古城沼交差点があるが、この辺りから守谷本城のある守谷池(沼)あたりまで「古城沼」と呼ばれていたようである。湿地は埋められ現在はすべて水田となっている。
埼玉の見沼など、散歩の折々で湿地の中に排水路を通し、そこに悪水を集め湿地を新田開発を進めたケースを目にする。この地も水田の中ほどに小貝排水路があるが、沼地の水をこの排水路に集め、新田開発を進めたのではあろう。

再び川筋のブッシュに戻る
で、予定ではこの地から県道46号を西に進み、北園地区から永泉寺へと向かうつもりではあった。が、リュックのサイドポケットを見ると、田舎のお袋にもらった折り畳み傘が見当たらない。どういうことにない、ありきたりの傘ではあるのだが、何となく気になり、先に進むか、探しに戻るか少々悩むも、結局辿った道を戻り、落としものを探すことに。
県道46号から赤法花の台地の森、天神様を越え、道々折りたたみ傘がないものか目を凝らしながら進む。道には見つからず、結局畑地に戻り、竹林を抜け、ブッシュを掻き分け、来た道を戻ると、川筋脇のブッシュの中に落ちていた。場所はほとんど同地地区まで戻ってきていたので、赤法花に戻ることなく、同地の台地から元来た道を守谷本城へと進むことに。

同地の薬師堂 
成り行きで進むと同地公民館。地域の人たちが宴会を開いていた。公民館のすぐ隣には小振りながらも出来たて、といったお堂があり瑠璃光山とあった。同地に薬師堂があるというが、場所からいえば、このお堂のことであろう、か。昔は鬱蒼とした木々に覆われていたとのことだが、現在はその面影は、ない。薬師堂の中には30センチ弱の薬師様が祀られる。室町の作と伝わる。

 

奥山の薬師堂
お堂を見やり、台地を下り、再び水田地帯をかつての湿地を想いやりながら進む。小貝排水路を越え、再び台地に上る。先に進むと三叉路がある。同地への道、みずき野団地への道、奥山新田への道の分岐点である。
分岐点に古き趣のお堂が佇む。奥山の薬師堂と称されるこのお堂の中には、江戸時代初期に造られた32センチほどの薬師如来、日光菩薩が祀られる、とか。

エコミュージアムをつくる会の案内板
お堂で一休みしながら場所をチェックすると、守谷本城からは大きく外れ、ほとんど関東鉄道常総線の南守谷に向かっている。方向を修正し、守谷駅方面へと向かう。



台地を下り、再びかっての湿地帯に入り、葦の生い茂る一帯に続く小道を進む。本町の台地に上る手前に守谷にエコミュージアムをつくる会の案内板:「約1万年前最終氷河期が終わり、海面が上昇、このあたりは内海に面していた。大谷津田に繋がる湿地はその名残りで、緑濃い林地と生き物たちの棲息地が手つかずで残されていた。近隣の人々や小中学校の協力で熊笹に覆われた旧道を歩行可能な状態に整備しました。水鳥や水棲生物の生態が見られる自然環境を博物館に見立てたエコミュージアムであり、また、利根川、鬼怒川、小貝川を巡るサイクルロードの一部になると考える」とあった。この野道も、地域の人たちのボランティアの賜物と感謝。

永泉寺

勝手知ったる本町の台地を進みつくばエクスプレス守谷駅に。落し物を取りに戻り、その後も遠回りの道を進み、守谷駅についたのは日暮前。予定にしていた永泉寺を訪ねるか否か、ちょっと迷うも、結局は永泉を目指す。
守谷駅から北東へ伸びる大きな道を進み県道46号と交差するあたりに永泉寺への参道があった。結構長い参道である。杉並木の続く参道を進み境内に。右手に鐘楼がある。正面本堂へと進むと、足元の石畳に「九曜紋」とか「左り三つ巴紋」。九曜紋は千葉氏>下総相馬氏の紋。三つ巴紋は藤原摂関家、西園寺家や多くの大名の家紋に見られる。神社では八坂神社とか妙見社で見かけることがあるが、それらの神社に限らず「左三つ巴紋」は神社でもっとも多く使われている紋のようではある。




本堂にお参り。創建は延暦元年と言うから西暦782年。相馬政安により建てられた、と。寺には「聖徳太子」の木造立像が残るが、「相馬(式部太夫)政安」の「聖徳太子の霊夢」との縁起が残る。「笏のみを持つ形の像」は極めて異色で、鎌倉時代の末期~南北朝時代(1300年代後半)ごろの製作と推定され、元は「常州稲田(現、笠間市)の禅房において、祖師「親鸞聖人」が彫刻され、性信房に下されたものを、仏縁によって譲られた」とも伝わる。
天慶の乱より以降に再建された、とも伝わるこの古刹にも将門伝説が残る。曰く「将門の滅亡後、遺族や残党が将門や影武者の土偶を、この地に祀った事に始まる寺」、と。縁起によると、将門は「天慶の乱」(939~940年)に敗れ、自分に似せて作った6人の土武者を安置し、堂宇を建てた。将門伝説によく登場する七騎の武者(影武者)の伝承を思い起こさせる話ではある。
時代は下り、天正元年(1573年)、常陸・下妻の多賀谷修理太夫が当寺を責める。相馬氏が小田原後北条方に与した故の、戦いであろう、か。寺の境内や墓地を囲むように、防御のために築いた土塁が残る、とか。

将門並木
境内を離れると、お寺の少し南に松並木の街道がある。古来、「内裏道」とか「将門並木」とも称された。相馬に将門の王都があった、といった伝説と被る。守谷に将門の城もなかったようだし、王都もなかったようではあるが、将門人気故の伝説ではあろう。松並木は永泉寺の辺りから北に結構続いているようではあるが、もとより、その街道を辿る体力・気力も残っておらず、最後の力を振り絞って成田エクスプレス守谷駅までたどり着き、本日の散歩を終える。

先日、旧水戸街道を取手宿から若柴宿へと辿ったとき、思いもかけず平将門ゆかりの事跡に出合い、そういえば、この辺り、板東市から守谷、取手市といった一帯が将門ゆかりの地であることを改めて想い起こした。また、散歩の途中、利根川や小貝川を眺めながら江戸の利根川東遷事業、なかんずく、利根川東遷事業の前段階として行われた小貝川と鬼怒川の分離工事が気になった。分離点は守谷市の北、と言う。
ということで、今回の散歩は将門と鬼怒川・小貝川分離の事跡を辿るべく守谷へと向かうことにした。成り行き任せの散歩が基本ではある、とは言いながら、それでも常は最低限WEBでのポイントチェックなど最低限の準備をするのだが、今回は、事前準備全くなしの出たこと勝負。守谷の駅に下りれば、将門ゆかりの事跡案内でもあろうかと、常にもましてお気楽に散歩に出かけることにした。



本日のルート;つくばエクスプレス守谷駅>長龍寺>中央図書館>天神交差点>鈴塚交差点>五反田川>鈴塚日枝神社>天満宮>成田山不動明王石碑>海禅寺>今城橋>石神神社>関東鉄道常総線>愛宕神社>西林寺>守谷城址>つくばエクスプレス守谷駅

つくばエクスプレス守谷駅

つくばエクスプレス守谷駅に。「守谷」の地名の由来は、日本武尊が東征のとき、鬱蒼とした森林が果てしなく広がるこの地を見て、「森なる哉(かな)」、と。そこから「森哉(もりや)」となったという説がある。また、平将門がこの地に城を築いたとき、丘高く谷深い地形故に「守るに易き谷」が転じて「守谷」となったという説の説などもある。とは言うものの、開発された駅周辺にその面影はまるで、ない。
近代的な駅の中に、何か散歩のきっかけ、将門ゆかりの事跡案内などないものかとあちこち探す。が、それらしきものは、何も無し。少々途方に暮れながら、駅構内の地図で駅周辺に郷土歴史館といった施設などないものかとチェックするも、特に何もない。iphoneで観光センターなど、あれこれ検索ワードを入れるも、それらしき情報が引っ掛かからない。
仕方なく、なんらかの将門の手掛かりを求めるべく図書館を訪ねることにした。iphoneで検索するに中央図書館があるにはあるが、駅から結構遠い。常磐自動車道の近くの大柏地区というから、おおよそ2キロ弱ほどあるようだ。が、仕方なし。

長龍寺

中央図書館は駅から西に向かう、途中寺社など無いものかとチェックする。と、駅前に長龍寺。iphoneでチェックすると、将門が守谷に城、というか砦を築いた時に造営したお寺さま、と。また、将門の位牌を伝えている、とある。ということで、まずは長龍寺を訪ねることに。
駅前の国道294号線に沿って森が見える。そこが長龍寺の境内ではあろう。国道に沿って石塀と東門があった。杉の並ぶ参道を進み四天王が睨む山門をくぐり本堂へ。結構な構えである。本堂の前の黒い置物には、九曜星の紋。九曜星の紋と言えば、将門、と言うか下総平氏(平良文)の後裔である千葉宗家が信仰したことで知られる妙見信仰のシンボル。
本堂にお詣りし、境内になんらか将門ゆかりの案内でもないものかと彷徨うが、これといって案内はない。唯一の案内は、「禁制文書」;「天正(てんしょう)18年(1590年)3月、豊臣秀吉の大軍が小田原城の北条氏政、氏直父子を征伐するため大軍を関東に進めた。そのとき一方の大将となった浅野弾正少弼長政、木村常陸介重滋が長龍寺に滞在し、この辺りの治安につとめた。それにあたって、浅野・木村の両将は寺が軍兵らによって荒らされることを防ぐために出したのがこの文書である。この文書は現在では「きまり・規則」といわれるもので、内容は、軍兵が乱暴狼藉をしたり、みだりに放火をしたり、また、寺に対して無理難題を申し付けたり、畑の作物を理由なく刈り取ってはならない。もし、この禁制にそむく者があれば、厳重に処罰する)とあった。
秀吉の小田原征伐の折り、守谷に城を構える相馬氏は小田原北条氏の傘下で参陣。小田原北条氏の敗北とともに下総相馬氏は滅亡した。水戸街道散歩の時にメモしたように、下総相馬氏は中世下総国相馬郡を領した平良文の流れ(下総平氏)を継ぐ名家である。将門の勢力範囲であった下総と、上総の全域を領し、本拠を千葉に置いたが故に後世千葉氏を称した千葉宗家の第五代常胤、その常胤の二男・帥常が守谷に館を構え「相馬氏」を称した。その下総相馬家もここに絶え、下総相馬家第5代胤村の時、胤村の五男である帥胤が陸奥行方郡に領した地に土着した奥州相馬氏が下総平氏の流れを後世に伝えることになる。
また寺には「徳川家康寄進状」が残る、とか。徳川家康寄進状とは、天正19年(1591年)11月、関東8か国を領有する徳川家康が高10石の土地を長龍寺に領知として寄進すした朱印状。天正18年(1590)、豊臣秀吉の命により関東へ入国し、江戸城を本拠とた家康は、以後、関東の寺社に対して寺社領を寄進。その初見が天正19年11月日の寄進であり、同日付の寄進状が数多く発給されているようだが、本朱印状もその中のひとつ、とか。
境内に建ち並ぶ古い石造物を見やりながら鐘楼に。鐘楼は「守谷八景」の第一の名所、「長龍寺の晩鐘」として知られる。「守谷八景」は昭和30年の町村合併以前の旧守谷町が指定した景勝地。それほど古いものではないようではある。守谷八景とは① 長龍寺の晩鐘(本町地内)、② 守谷城城山台回顧(本町地内)、③ 守谷城大手門二本松(本町地内)、④ 守谷沼の朝霞(本町地内)、⑤ 河獺弁天の夕照(本町地内)、⑥ 西林寺の遺跡(本町地内)、⑦ 八坂神社の蝉時雨(本町地内)、⑧ 石神の松翠色(本町地内)からなる、とのこと。これも散歩の目安となりそうである

中央図書館

中央図書館へと成り行きで進む。中央公民館のある公園を抜け、県道46号に出る。そこからは県道に沿ってひたすら西へと進む。車の往来の多い、まったく風情のない景色。守谷の地名の由来ともなった、「森なる哉(かな)」の森もなければ、「守るに易き谷=守谷」たる所以の「丘高く谷深い地形」の片鱗も感じられない。本当に丘高く谷深い地形などあるのだろうかと、少々不安になりながら先に進み、市役所隣の中央図書館に。
館内に入り郷土資料を探す。2階に郷土史コーナーがあるも、将門ゆかりの地をまとめたような簡便な資料は見あたらなかった。ために、あれこれ資料を流し読みし、各地区毎に将門ゆかりの地を書き出し、大雑把なルーティングをおこなう。

■守谷の地区別の将門ゆかりの地と鬼怒川と小貝川の分離地点:
○鈴塚地区;鈴塚
○高野地区;、成田山不動明王石碑、海禅寺
○乙子地区;今城、石神神社

○本町地区;守谷城址、愛宕神社、西林寺、八坂神社
○松並地区;永泉寺、将門並木

○ひがし野地区;守谷池、川瀬弁天、妙見郭跡、本守谷城址
○赤法花地区;古城沼、赤法花

○寺畑;鬼怒川と小貝川の分離地点

○板井戸地区;板井戸
○大木地区;御霊山、須賀家
○野木崎地区;家康・水飲みの井戸、正安寺

以上が、央図書館から時計の逆回りに守谷を一周するようなルーティング。また取手にも桔梗塚など将門ゆかりの地があるようなので、守谷を一周した後、取手へと戻ることにする。これをすべてカバーするには、どう考えても4回ほど守谷に来ることになりそうである。ともあれ、ルーティングに従い、中央図書館から鈴塚地区へと向かう。

天神交差点
守谷市役所前の道を南東へと進み、水道事務所前交差点を右に折れ、南に下りつくばエクスプレスを交差。天神北とか天神という交差点が続くので天満宮でもあるのだろうが、よくわからない。また、道路に沿って延々と「天満宮 逆方向」との案内があるのだが、いまひとつ指示がはっきりせず、Google Mapで探すも、そこに表示されることもなく、結局天満宮には出合えなかった。将門と天満宮に祀られる菅原道真の一族とは浅からぬ因縁があるだけに、ちょっと残念である。

鈴塚交差点
大型ショッピングセンターとか宅地開発された道沿いを進む。未だ、守谷の地名の由来ともなった、「守りに適した高い丘と深い谷」の風情はなにも、ない。ほどなく「鈴塚交差点」に。この鈴塚の地は将門の東国での挙兵に呼応し、西国・四国伊予で挙兵した藤原純友がその挙兵に先立ち東国下り、将門と戦勝祈願を行ったと伝わる場所である。鈴塚は戦勝祈願を願った大鈴を埋めるために築いた塚に由来する、と。







室町期に記された「将門純友東西軍記」に、将門と純友が、承平6年(936年)、比叡山へ登り平安城を見下ろしながら、「将門は王孫なれば帝王となるべし、純友は藤原氏なれば関白にならん」と約束し、双方が国に帰って反乱を起こした、とある。が、実際はその事実もないようではあるし、鈴塚由来のように純友が此の地に下ったこともないようではある。
この比叡山の両雄語らいの部分は、14世紀前半に北畠親房が表した「神皇正統記」の「藤原の純友といふ者、彼の将門に同意し、西国にて反乱せしをば」、「むかしの将門は、比叡山に登りて、大内を遠望し謀反を思ひ企てける」、といった記述に、また、「将門は帝王」「純友は関白」のくだりは、「大鏡(おおかがみ)」の第四巻にある、将門は「帝をうちとり奉(たてまつ)らん」と言い、純友は「関白にならん」といった記述を足して二で割った、もののよう。

とは言うものの、東西で乱が起きた当時、天慶2年(939年)の京の貴族たちの記録に、「純友・将門 謀(はかりごと)を合わせ、心を通わせ、此の事を行うに似たり」の記載があり、当時の貴族らが、平将門と藤原純友の二人は連絡を取り合って東西で同時反乱を起こしたのではないか?と考えていた、ようではある。また、将門も純友も関白・藤原忠平の家人として仕えていた経歴があり、お互いが既知の仲であったという可能性はないわけではない。こういったことも、共同謀議の物語の素地にはあったのだろう。
因みに、松ケ丘(旧鈴塚)の松ケ丘公園付近に五十塚古墳群と呼ばれる古代遺跡があり、それが鈴塚の由来とも言われる。五十塚の五十とは、多くある数の形容詞で、塚が多くあるということを意味しており、その塚があたかも鈴なりのように連なっていることから名付けられた、とか。将門・純友の逸話より、こちらの話のほうがリアリティが高い。

五反田川
鈴塚交差点から次の目的地である高野地区の海禅寺へと向かう。交差点を右に折れると道の周辺は、今までのショッピングセンターとか開発宅地といった風情から一転し、農地の拡がる低湿地に小高い台地が点在する趣き深い一帯と変わる。iphoneのgoogle mapでチェックすると、道の前方に水路がありその両側に日枝神社と天満宮が見える。先ほど天満宮に出合えなかったこともあり、水路に下り二つの社を訪ねることにする。
成り行きで道を進み、如何にも坂道へと導くような道へと左に折れ、結構急な坂道を下る。ささやかな水路は五反田川、そこに架かる橋は天神橋とあった。
散歩の折々に五反田といった地名に出合う。東京の五反田は平地が目黒川流域だけであり、耕作地に恵まれず、その耕地が五反(5000平米)しかなかったのがその由来。一反から一人辺り年間消費量である150キロのコメが収穫できるというから5反とは、大人5人分程度の収穫高、と言うことであろう。昔は狭隘な五反の田しかない一帯ではあったのだろうが、現在は田圃が一面に広がる。その両側、そして前方には丘陵が控え、やっと「守谷」の地名の由来である、「守りに適した丘高く深い谷」の地形が現れてきた。

鈴塚の日枝神社
天神橋を渡れば天満宮の佇む丘へと向かうが、まずは五反田川を少し下った右岸の丘にある日枝神社へと向かう。広々とした田圃を見やりながら、先に進み急な階段を上り日枝神社に。ささやかな社ではあるが、社殿の裏手が将門と純友が大鈴を埋めた鈴塚との説もある。古地図にはこの社は「妙見宮」と記されているので、将門、と言うか、下総平氏一門とは無縁ではないかとも思う。しばし、丘から周囲に広がる田圃を眺め、少し引き返すことにはなるが、五反田川を戻り、天神橋を渡り天満宮へと向かう

天満宮
五反田川から眺める天満宮の台地は誠に大きく、菅公一門故の広大な社殿を想像したのだが、辿った先にあった天満宮は、誠にささやかな社であった。それはさておき、上に将門など下総平氏一門と天満宮に祀られる菅原道真の一門とは浅からぬ因縁がある、とメモした。菅原道真と平将門一門の因縁をまとめる。

■菅原道真と平将門一門
歴史に名高い両者の因縁とは、共に怨霊として天変地異を起こし、よって怨霊を鎮めるべく社に篤く祀られた、ということではない。道真流罪の後に起こった天変地異に怖れを抱いた朝廷は道真一族を遇することに。この下総の地には菅原道真の三男である景行が延喜9年(909)に下総守として下向。これを契機に当時実質上の下総介であったである良門(将門の父)を筆頭にした下総平氏一門との交誼がはじまる。そこには、下総平氏の都での良き理解者であった関白・藤原忠平が同じく菅原道真の良き理解者であったことも縁無きことではないだろう。
下総平氏一門との友好な関係のもと、延長4年(926)、常陸介となった景行は常陸大掾の源護、将門の叔父である平良兼とともに常陸国羽鳥庄に道真を祀る社を建てている。景行はこの下総平氏一門との友好関係を基盤に、飯沼の南岸の農地開拓や飯沼を活用した水運、また飯沼北岸の大草原を活用した牧場経営につとめるなど、下総・常陸に在任した24年の間に、此の地に多くの業績を残している。因みに平将門が生まれたのは菅原道真が太宰府に流された3年前であり、また道真の三男・景行が下総・常陸を離れたのが将門が都での宮廷警護の任を終え下総に戻った延長8年のことであり、将門とが菅公一門との直接コンタクトはなかったようである。

成田山不動明王石碑
天満宮のある丘から石段を下り、丘陵の南裾に沿って進み、南に進む農道を右に折れ田圃の先にある丘陵へと向かう。丘陵に上ると多くの民家が見えてくる。この辺りを高野地区と呼ぶ。
高野は、「北相馬郡誌」によれば、「天慶元年(1194)、平将門は興世王の分城を築き今城村と称したが、慶長年間(16世紀末から17世紀初頭)高野村と改めた」、と。高野の地名は、平将門が紀州高野山金剛峰寺にまねてここに海禅寺を創建したのがその所以、とか。
道を成り行きで進むと、道脇に「成田山不動明王石碑」の案内。将門調伏のために建立されたとも言われる成田山新勝寺が、将門ゆかりの地にあるのは一体?などと好奇心に惹かれ立ち寄ることに。
民家の脇を入ると、風雪に耐えた風情の社とその手前に石碑。社は「日光大権現の御堂」とあった。その手前の「成田山不動明王石碑」には、特に由来などの案内はなかったが、明治の頃、成田不動への信者の互助団体といった「成田講」の人々によって建てられた、とのことである。
上に、成田山新勝寺は将門調伏の為に造られたとメモした。関八州を制圧し新皇を称した将門を討つため、藤原秀郷を将門討伐に命ずるわけだが、将門の武威を怖れる朝廷は「神頼み」をすべく、高尾山の不動明王と宝剣を成田の地へと捧持し護摩を焚き、将門調伏の修法を行った。その「神意」もあってか、将門は討伐軍に討たれる。成田山新勝寺は、調伏の修法をおこなった護摩壇の上に建立された、とか。
このような経緯もあってのことか、将門ファンの民衆には「成田憎し」といった多くのエピソードが語り継がれている。曰く、将門を祀る神田明神を信仰する人は成田山新勝寺詣でを避ける、とか、手賀沼付近、北西の地にある将門神社は成田詣での道筋にあり、地元の民と成田詣での人々との間で諍いが絶えなかった、とか、例を挙げればきりがない。
といった、コンテキストの中での、この石碑ではある。エピソードは事実と離れ、大袈裟に伝わるのではあろうし、明治ともなれば「将門も遠く昔の事になりにけり」と言ったことでもあろうし、また、成田詣は当時の民衆の娯楽のひとつとして、日々の生活の中に組み込まれていた、ということであろう、か。

海禅寺
「成田山不動明王石碑」から300mほど民家と畑地の中を歩く。深い緑の社叢の中に海禅寺があった。どっしりとした境内と鐘楼の他はこれといった堂宇は見えないが、落ち着いた良い感じのお寺さまである。
境内に入る道脇にあった案内によると、延長8年(930)、相馬の御厨の下司に任ぜられ京より戻った将門が、承平元年(931)、父である良将の菩提をとむらうべく、高野山金剛峯寺を模して当寺を建立。中世は下総平氏の一党であり、将門のよき理解者でもあった叔父良文の流れを継ぐ下総相馬氏の菩提寺として隆盛するも、戦国末期、小田原北条に与した下総相馬氏の衰退とともに当寺も寺運衰え、江戸に入り守谷城主となった掘田氏により再興された、とか。
本堂には将門や下総相馬家歴代、また下総相馬家が消滅した後、徳川治世下で旗本として存続した下総相馬家の後裔の位牌が安置される、とか。境内には七騎塚・将門供養塔が残る、と言う。本堂左手に8基の石の供養塔。案内も何もないので、googleでチェックすると、将門と7名の影武者合わせて8名の供養塔、とのこと。7名の影武者とは承平7年(937年)、将門が京への召還から帰国の途中、良兼・貞盛軍の待ち伏せに遭い、身代わりとなった武者、と寺伝にある(寺伝は守谷藩主である後の大老・掘田正俊が寛文4年(1664)に作成・寄贈した『海禅寺縁起』に拠る)。
京からの帰国とは、野本合戦後に京に召還された将門の帰国を指す。京より戻り相馬御厨の下司となり、また、北総の地の開拓をおこない国土経営につとめる将門に対し、荘園拡張を計画する常陸大掾・源護の息子との利害が対立。将門を待ち伏せて行われた野本合戦で、逆に返り討ちに遭い、三人の息子と助力した常陸大掾・平国香を失った源護が、将門に反乱の意図ありと朝廷に訴える。為に、将門が京に召還されるも、結果その事実無し、と京より戻る将門を小飼の渡しで将門を良兼・貞盛軍が待ち伏せ。高望王や将門の父である良将の御影を掲げるといった奇策を弄し、戦意放棄した将門を破ったときのことを指すのだろう。

将門には7人の影武者があるという伝説は、室町期に成立した『俵藤太物語』にあるほど有名ではあるが、その人数については、将門が信仰していた妙見信仰、北極星と北斗七星の関係を、将門と7人の影武者というアナロジーとの説もあるようだ。因みに、「俵藤太」とは将門討伐軍の主将である藤原秀郷の別名。我々世代は「俵藤太」と言えば、「ムカデ退治」と刷り込まれているのだが、周辺の若者に振っても、「俵藤太のムカデ退治」を知るものは皆無であった。

まさかど橋
寺を離れ次の目的地である乙子地区へと向かう。寺の前を歩きながら右手の利根川方面を眺めるに、この海禅寺の建つ台地は利根川を望む舌状台地となっているようである。先に進み、台地を下ったところに水路がある。「羽中川」とある。目的地の今城は、この水路に架かる今城橋辺りのようであり、道を離れて水路に沿って進むことにする。



今城橋
田圃の真ん中を通る水路の堤を進むと、大きな通りに架かる今城橋の手前に「まさかど橋」と刻まれた小橋があった。如何にも将門ゆかりの地域である。「まさかど橋」を渡り、といっても飛び越えれそうな小橋ではあるが、ともあれ、橋を渡り台地へと上る坂を進み「今城橋」の袂に出る。「いまんじょう」橋と読む。
言い伝えによると、天慶元年(938)、将門が此の地に興世王の為に分城を築いたため、一帯を今城村と称した、と。今城とは「今造られた新しい城」との意で、城跡がどこにあるのかはっきりしない、とのことである。もっとも、この今城は興世王ではなく、南北朝の頃、南朝に与した相馬忠重が北畠顕国を迎えるために築いた城との説もある。その場所は、今城橋の北詰めを少し左に折れた、けやき台3丁目の「うららか公園」の辺り、とか。現在は一面の田圃ではあるが、往昔は利根川の低湿地に突き出た台地上に位置する。公園は「うららか」といった形容詞には似つかわしくない起伏のある地形で、3つほどの郭が残る、とか。高野城とも、高野要害とも称された、とある。

ところで、将門が此の地に分城を築いたとの説もある興世王(おきよ王)であるが、この人物が将門の東国大乱、朝廷反逆、新皇僭称のフィクサーかとも思える。常陸の豪族藤原玄明と常陸介藤原維幾の対立に、豪族藤原玄明を助け、常陸国府を占領した将門は印璽を奪い、維幾を京へ追い返す。このとき、興世王(おきよ王)は「案内ヲ検スルニ、一國ヲ討テリト雖モ公ノ責メ輕カラジ。同ジク坂東ヲ虜掠シテ、暫ク氣色ヲ聞カム」と、「一国を奪った以上、その責を咎めれられるのだから、どうせのことなら、東国すべてを奪うべし」と将門に東国制覇を勧め、将門はこの言に乗り下野国・上野国の国府を占領。世に言う平将門の乱を起こすことになる。

■興世王
承平8年(938年)、武蔵権守として赴任。武蔵介源経基と共に赴任早々に検注を実施。足立郡郡司武蔵武芝は武蔵においては、正官の国司赴任以前には検注が行われない慣例になっていたことから、検注を拒否。興世王と経基は兵を繰り出して武芝の郡家を襲い、略奪を行う。
平将門は武芝の求めに応じ、興世王と武芝を会見させて和解させるも、経基の営所が武芝の兵に囲まれるという事態が発生。生命の危険を感じた経基は京へ逃げ帰る。経基は興世王と武芝と将門が共謀して謀反を謀っていると訴え。将門の主人の太政大臣藤原忠平が事の実否を調べるべく、使者を東国へ送る。興世王、将門、武芝は承平9年(939年)5月2日付けで常陸・下総・下野・武蔵・上野5カ国の国府の「謀反は事実無根」と主張。朝廷は疑いを解き、逆に経基は誣告罪で左衛門府に拘禁される。
承平9年(939年)5月に正任国司百済王貞連が赴任。興世王は貞連と不仲。国庁の会議に列席を許されない興世王は任地を離れて下総の将門のもとに身を寄せる。そしてその翌年に起きたのが、常陸の豪族藤原玄明と常陸介藤原維幾が対立であり、平将門の乱へと発展する。上野国府で新皇を僭称した将門の下、時の主宰者となった興世王は藤原玄茂と共に独自に除目を発令し、自らは上総介に任命される。
この将門らの謀反により翌天慶3年(940年)に以前の訴えが事実になって経基は放免、将門追討が開始される。同年2月14日に平貞盛・藤原秀郷らとの合戦で将門が討ち死にすると、将門の勢力は一気に瓦解して首謀者は次々と討たれ、興世王も2月19日上総で藤原公雅に討たれた(wikipedia,より抜粋)

石神神社
今城橋を離れ、次の目的地である石上神社へと向かう。南東へ進む道を辿ると県道56号・石上神社西交差点。この辺りを「乙子」地区と呼ぶが、その由来は「落口」が転訛したもの。承平年間、平将門が守谷に城を築いたとき、万一の場合の脱出用に掘った抜け穴の出口・落口がここにあったから、と。城は此の地から北東に直線距離で2キロ以上もあるわけで、はてさて。

石上神社西交差点を左に折れ、少し進むと石神神社。境内に入ると小高い塚があり、ご神体である石棒が埋められている、とか。塚の前には拝殿があり、また、塚の上には本殿がある。本殿の周りには「金精さま」が奉納されているとのことだが、見逃した。石神さまは耳の病、安産、良縁、子育てなどに霊験があり、明治の頃は花柳界の信仰を集めた、とか。「金精さま」故のことであろう、か。
散歩の折々で石をご神体とした社によく出合う。石上神社と称される社もある。人々の原初的な信仰は巨石・奇岩より起こったとも言われる。古代の遺跡からは石棒が発掘されるとも聞く。石には神が宿り、それが豊饒=子孫繁栄の願いと相まってハンディな「金精さま」へと形を変えて伝わってきたのだろう、か。

駒形神社
石神神社を離れ乙子地区を進み、途中道から少し入ったところにある常楽院にお参りし、乙子南交差点に。この交差点は県道47号と合わさり三叉路となっている。その昔、追分とも呼ばれた、とか。その三叉路脇にある駒形神社にお詣りし、次は本日の最終目的地である本町地区の守谷城址へと向かう。県道47号を北に向かい、かつての旧銚子街道の道筋である国道294号、そしてその先の関東常総線を越える。



関東常総線
関東常総線は正式には関東鉄道常総線。茨城県の取手市から同じ茨城県の筑西市の下館駅を結ぶ51キロ強の路線。沿線が旧常陸国と旧下総国に跨り、鬼怒川にほぼ平行に進む。
関東常総線を越えた辺りを「小山」地区と呼ぶ。元は古山村。天慶年間に行われた将門の乱の折り、老臣増田藍物が当地に城を構えて古山と称したことが地名の由来。台地上の「小山公民館」の辺りに「城」があった、とも。 その後、小山村へと改称された。

守谷駅に松並地区がある。守谷から旧谷和原村へと北上する松並木の街道がその地名の由来と言うが、小山地区を通る銚子街道の松並木はあれこれ「難儀」な目に遭ったようである。江戸の頃は、松並木により日陰となり作物の生育によろしくないと、伐採を幕府に願い出ている。また、昭和38年(1963)には老朽化した守谷町の小学校の修繕材料として使われ松並木は現存しない。

○本町地区
関東常総線を越えると、成り行きで左に折れ、関東常総線・南守谷駅前の窪みに一旦折り、道なりに本町地区の愛宕神社を目指す。本町の通りは、少し旧市街の名残を残す。かつての城下町の醸し出す街の雰囲気であろう、か。






愛宕神社
通りを右に折れ、愛宕中学校前に愛宕神社。天慶年間(938-946)に将門が創建した、とのこと。鳥居からの長い参道。拝殿や本殿も立派な構えである。将門が東国に「新王国」を樹立するに際し、京の都に負けないようにと都の愛宕の社に模して創建した、とか。その後荒廃していた神社は江戸時代となった17世紀のはじめ、守谷城主であった土岐内膳介頼行により再建された。
土岐氏は天正18年(1590)の小田原の役で北条氏に与し没落した下総相馬氏に替わり、家康の命によりこの地に一万石で入城した土岐(菅沼)山城介定政の後裔。元和3年(1617)、その子の定義が摂津高槻に移封となるも、元和5年(1619)定義の子である頼行の代に再び下総相馬一万石を与えられ、この地に戻った。この神社に残る青銅製の鰐口は、元和7年(1621)11月、守谷の領主土岐内膳介頼行が社殿を再建したとき、その家臣井上九左衛門、加藤久太夫が寄贈した、とあった。

西林寺
愛宕神社から北に向かうと西林寺。この寺は将門が創建したと伝わる。かつては境内には、守谷城にあった将門の守り本尊を祀る妙見八幡社があった、とも。さらに、この寺には「七騎塚」があり、将門の影武者七騎の墓といわれている。このお寺さまは相馬家と深い繋がりがあった大寺であり、天保元年(1830)の書状によると寺域3万坪、朱印地20石で門末48ヶ寺を有したと言われている。また、上野寛永寺の末でもあった故か、徳川家康の画像が残る、とか。






境内には、また小林一茶の句碑があり「行く歳や空の名残りを守谷まで」と刻む。流山散歩の折りメモしたように、流山の醸造家・秋元本家五代目当主である三佐衛門は俳号「双樹」をもつ俳人であり、一茶のよき理解者であった。ために一茶は双樹の元に足繁く通った、と。その数五十四度に及ぶ、と言う。その際には流山だけでなく下総の地を数多く辿っている。このお寺さまでは住職鶴老の時代、文人墨客を交えた句会が盛んに催された、とのことである。上の一茶の句は文化7年(1810)、一茶がはじめてこの寺を訪れたときに詠んだもの。一茶48歳のときである。一茶は以来9回に渡りこのお寺さまを訪ねた、と。







守谷城址
西林寺を離れ、本町の通りの風情を楽しみながら先に進み、本日の最終目的地である守谷城址へと向かう。途中、此の地の鎮守とも称される八坂神社も訪ねたかったのだが、google mapで見つけることができず今回はパスし、一路守谷小学校の南にある、と言う守谷城址へと。
小学校手前の守谷城址には、土塁跡といった一隅が残っていた。案内によると;「守谷城の概観:守谷城は守谷市(城内地区)と、平台山と称する島状の台地とを 併せて呼ばれている。鎌倉時代の初期に平台山に始めて城館が構築 されたが、戦国時代になると戦闘様式等の進展に伴って城は現在の守谷小学校(本郭のあった所)周辺に増築、移転した。
平台山に最初に構造された城の事を守谷本城とも呼ばれている。この守谷本城は鎌倉時代になって、平将門の叔父に当る平良文の子孫、 相馬師常によって築城されたもので、素朴な鎌倉様式を残した名城である。師常は源頼朝の旗上げに最先かけて参陣し頼朝の重臣として幕政に 参画し、その功によって相馬郡の他に結城・猿島・豊田(一部)の諸郡を 拝領し、更には奥州相馬の地をも賜ったのであるが、守谷本城は それらの領地を統轄する本城としての役割を演じたものである。
本城の面積約21,254㎡で、それを三郭に分割し、各郭は大規模な土塁、堀等によって 区画され、その堀には満々たる水が入り込み舟着場も残されている。 なおその三郭には妙見社も建てられ、相馬野馬追いの行事はその社前で 実施されたといわれている。 なお、本城は戦国期になって本拠を現在の城内の地に遷したが、 その後は守谷城の出城として使用されていたようである。

本城は戦国時代を迎えると城内の地にその拠点を移動したが、そのことは城内第六郭の発掘調査によって判明した。この調査によってこの城は15世紀より16世紀全般に亘って その機能を発揮した城で、ここから戦国期の建造物(宿舎・事務所・倉庫・馬舎) 26棟が発掘され、それに付属して井戸・堀・食糧貯蔵庫・墓拡・製鉄加工所等 が検出され、多くの貴重な遺物が出土した。なお、図面(下の地図)によってみると、小貝川より入る一大水系は満々たる水を 湛えて城域を囲み、更にはその城域の極めて広大な事、築城技術の入念な事、 それは天下の名城としての様相が偲ばれるのである。永禄9年(1566)城主相馬治胤がこの城を古河公方に提供し関東の拠点と なすべく計画を進めたのもこの城であった。この城は北条氏の 勢力下にあったので、小田原落城後豊臣秀吉軍の進攻により廃城となった」、とある。

守谷城趾の碑の真後ろ、守谷小学校の敷地内に、「平将門城跡」の石碑がある。昔から、この守谷城が東国の新皇となった将門の皇城との説があるようだ。「将門記」には上野国府を攻撃占領した後、新皇を称して、皇城を築いたとあり、その場所は「下総の国亭南」とのこと。皇城そのものの真偽及び位置は不明とされるが、「相馬日記」など、古くからこの守谷城址が将門の皇城との説もあるが、「案内板」の記述にあるように、中世以来相馬氏の居城と比定されており、将門皇城説は現在ではほぼ否定されている。
相馬氏が衰退した後は、後土岐氏、堀田氏、酒井氏などが館を構えたとされるが、守谷城址の土塁の残る辺りは、住宅街で古城跡の雰囲気は無く、台地を下って小貝川の低湿地を含んだ守谷城跡の全容は伺いしれない。ぐるりとひと廻りするとか、せめては台地端から小貝川でも臨めば、古き城跡の風情も、とは想いながら、本日は日没、時間切れ。次回の守谷散歩は守谷城址の全容把握からはじめることつぃて、本日の散歩はこれでお終い。本町の台地を下り、つくばエクスプレス守谷駅に向かい、一路家路へと。

とある週末。さて、どこを歩こうか、と思えども、特に何処と言って彷徨いたいところが想い浮かばない。そんなときに開くのが『関東周辺 街道・古道を歩く;亀井千歩子(山と渓谷社)』。この本を見て、越後から上州への三国峠を越えたり、




厚木の白山巡礼峠道を辿ったりと重宝している。
で、今回もページをめくっていると、旧水戸街道若柴宿の如何にも静かな佇まい、そして集落の先にある「牛めの坂」の写真についた「森に迷い込んだような錯覚に」と言うキャプションに惹かれた。で、少々遠くはあるのだが、この週末は利根川を越え若柴宿へと向かうことに。
ルートは『関東周辺 街道・古道を歩く』のコースを参考に、旧水戸街道の取手宿からはじめ、藤代宿をへて、若柴宿へと進む。結構距離があるようで、同書では、途中藤代宿へと歩くコースは省略され、中抜きをして若柴宿が案内されていたのだが、どうせのことなら一気通貫で取手宿から若柴宿まで旧水戸街道を辿ることにした。

水戸街道(以下、「旧」を省く)は徳川御三家のひとつ・水戸徳川家のある水戸と江戸を結ぶもの。江戸時代に東海道や日光街道など五街道が整備されたが、水戸街道はその五街道に次ぐ重要な街道として、三代将軍家光の頃から整備が始められた。江戸から水戸は、29里31丁約120km。その間に宿駅は19宿置かれ、参勤交代で水戸街道を利用する大名は23家にもなった、とか。もっとも、水戸徳川家は参勤交代の義務はなく、藩主は常府制のもと江戸に住んでおり、中には水戸に戻ったこともない藩主もいたとのことである。

水戸街道を辿るのは今回が初めてである。が、その道筋には散歩の折々に出合った。日本橋を出た水戸街道は一番目の宿である千住宿までは日光街道と同じ道筋を辿る。その「千住宿」を辿ったときは、荒川堤の手前に水戸街道への分岐点の道標があった。水戸街道はそこから東に進み、荒川放水路を越え綾瀬川に架かる水戸橋を渡る。此の辺りも旧中川散歩の折りに彷徨った。もとより荒川放水路は後世、人工的に開削された水路であり、江戸の頃にはその影もない。水戸橋を越えると道は北東へと向かい、現在の常磐線の綾瀬駅と亀有駅の中間点辺りまで進む。常磐線のラインに達した水戸街道は道を東へと向け現在の中川に架かる中川橋方面へと進み、中川を渡しで越えると道は水戸街道2番目の宿である「新宿宿」に入る。クランク形に直角に折れ曲がり、現在の国道6号・中川大橋東交差点の近くでは「水戸街道石橋供養道標」を見かけた。
「新宿宿」からは国道6号に沿って金町へと北東へと進み、常磐線を越える辺りで江戸川に沿って北上し、対岸に松戸を臨む東金町ポンプ所辺りの金町関所跡に向かう。金町関所跡には半田稲荷や小合溜井散歩の折りに出合った。
渡しの先の3番目の宿である「松戸宿」も、宿とも知らず彷徨った。松戸から先は新坂川に沿って馬橋まで進み、北松戸あたりで国道6号に合流。国道を北小金まで進むと、道は現在の北小金駅へと進路を大きく変える。このあたりは水戸街道4番目の宿である「小金宿」があったところである。宿近くの東漸寺には小金牧の野馬除け散歩や小金城趾散歩のときに訪れた。
北小金駅前で再び大きく東へと進路を変えた水戸街道は国道6号と根木内交差点でクロスするが、その交差するあたりは根木内城跡を訪ねた折に彷徨った。根木内から先は国道6号の南を国道に沿って南柏、柏と北東へと進み、手賀沼に注ぐ大堀川を越えた北柏で方向を大きく変え、南東へと水戸街道5番目の宿である「我孫子宿」に向かう。我孫子の町を通る水戸街道は手賀沼散歩の折り、思わず知らず辿ったことになる。
我孫子の町を離れると、水戸街道は再び北東へと方向を変え、利根川手前の国道6号・柴崎交差点で国道に合流し、利根川を渡しを越えて水戸街道6番目の宿である「取手宿」へと続く。思わず知らずではあるが、取手宿まで、結構水戸街道をかすっていたようである。さて、本日はこの取手宿から散歩を始めることにする。



本日のルート;取手駅>長禅寺>田中酒造>旧取手本陣>八坂神社>念仏院>阿夫利神社>本願寺>金門酒造>相谷野川>利根川>来應寺>相野谷川・道標>藤代宿>宮和田宿>八坂神社・熊野神社>小貝川>十一面観音堂>水戸街道合流点道標>江川>若柴宿>金龍寺>星宮神社>御手洗の池>牛めの坂>鬮神社>根柄道>佐貫駅

取手駅
常磐線取手駅に向かう。取手は利根川の東、茨城県になる。散歩で関東各地を結構彷徨ったが、利根川辺りまで足を運んだのはそれほど多くない。古河公方や平将門の旧跡を尋ねて古河市や岩井市・猿島郡猿島町(現在の板東市)など利根川の東を巡ったり、利根川と江戸川の分岐する関宿を訪ねたり、利根川と江戸川を結ぶ利根運河散歩で運河の利根川口まで足を運んだり、手賀沼を辿った折り手賀川を辿って利根川の木下河岸を訪ねた、といったくらいである。利根川を越えれば何かがドラスティックに変わるわけでもないのだろうが、それでも「はるばる来たぜ」と小声で叫び利根を渡って取手駅に到着。取手の由来は、安政4年(1857)、赤松宗旦の著した『利根川図志』によれば、「地名は山の上に大鹿氏の砦有りしに因れるなるべし」とある。

■取手宿

長禅寺
駅を降り、利根川方面へと少し戻り県道11号を左に曲がると、ほどなく丘の上に長禅寺。長禅寺は、大鹿山長禅寺と号し、臨済宗妙心寺派のお寺。縁起によると、承平元年(931年)に、平将門が勅願所として創建した、と。元は旧大鹿村(現在の取手競輪場近く)に建てられたが、江戸時代の初めに取手宿が出来ると共に現在地に移建された。慶安2年(1649)には徳川家光より朱印地を賜ったという古刹である。
境内には結構な本堂、そして山門正面に「三世堂」と呼ばれる観音堂。「過去現在未来之三千仏を安置して三世堂と号し候」、と。三世堂は、文暦元年(1234年)に平将門の弟御厨三郎平将頼を祖とする織部時平が、平将門の守り本尊である十一面観音菩薩像を安置するために建立したという。三世堂は「さざえ堂」形式でつくられている。外からは2層に見えるが、内部は3層で、入口から順路に沿って進むと途中交差することなく3層まで行って一巡できるという。三世堂は百観音堂ともいい、坂東三十三ヵ所、西国三十三ヵ所、秩父三十四個所の百観音を安置している。「さざえ堂」形式の建物は会津散歩の時、飯盛山で出合った。
三世堂の脇に一茶の句碑。「下総の四国廻りや閑古鳥」。長禅寺は、江戸時代に開かれた取手市・我孫子市・柏市にまたがる新四国相馬霊場八十八ヶ所の発願・結願寺である。大師巡礼する人が少なく「閑古鳥」が啼いているのだろうか、とも思ったのだが、「閑古鳥」って、「カッコウ」のことであるので、「カッコウ」が啼いている風情を描いたものであろう、か。ちなみに、流山散歩の折り、一茶はその地の醸造家・秋元双樹の知遇を得て、この地一帯に頻繁に訪れた、とメモした。この吟行もその折りのことではあろう。

平将門
この長禅寺は平将門が祈願所として創建した、とメモした。この地と平将門の因縁をトレースすると、10数年に及ぶ京の都での御所の警備、禁裏滝口の衛士を終え、相馬の御厨の下司として下総に戻ってきたときに遡る。相馬の御厨は取手の北西、関東常磐線・稲戸井近く米ノ井・高井戸辺りにあり、将門は館を取手の東、守谷に構えた、と。
そもそも、この地は将門一門・遠祖のゆかりの地。平将門の祖である桓武天皇の第四子葛原親王は9世紀の中頃、常陸の大守に。遥任であり任地に赴くことはなかったが、その孫の高望王は上総介となり東下。朝敵を平らげる、ことより「平」姓を賜る。高望王は任地上総の四周を固めるべく長子の国香は下総国境の菊間(鎮守府将軍)、二男の良兼は上総の東北隅の横芝、三男の良将は下総の佐倉に、四男良繇(よししげ)は上総東南隅の天羽に館を構える。
将門は三男の良将の子である。良将は下総国相馬郡の犬養春枝の娘と結ばれたが、犬養家は「防人部領士」、簡単に言えば防人のトレーニングセンターの長といったものである。トレーニングセンターは関東常総線・新取手近くの寺田、その館は関東常総線・戸頭近くの戸頭にあった、とか。この地は将門が下司となった相馬御厨の東隣り。利根川以北の相馬郡の東は犬養家の所領、西は御厨といったところである。ことほどさように、この取手と将門は因縁浅からぬ地であった。将門と言えば、その本拠は豊田郡鎌輪(下妻市)であり、猿島郡岩井(板東市)との印象が強いが、それは伯父達との争いに端を発する天慶の乱の展開により、本拠を移したことによる(天慶の乱のあれこれのメモはこちら)。

奈良漬けの「新六」・田中酒店
長禅寺参道の入口に「奈良漬の新六」、その横に田中酒店。奈良漬けは取手の名産と言う。奈良漬けと言うくらいであり、元は奈良時代に奈良の都に遡る。「奈良漬の新六」のHPによれば、長屋王の邸宅跡から発見された木片には粕漬の記載が残るとあるが、白瓜などを酒粕でつけた粕漬は当時は貴族階級が好む高級食品であった、とか。その後庶民にも広まり、また江戸の将軍家も奈良漬けを大層好み、奈良から奈良漬けの御用商人を呼び寄せた、とある。
取手の奈良漬が名産地である由縁は、関東平野を流れる利根川水系と夏野菜を育む豊かな土壌。特に茨城県南部は奈良漬の原料である瓜や胡瓜などを栽培するのに適した地域であり、また銘醸地としても知られている石岡や水戸など関東地方屈指の酒どころがあり、これらの県産酒から産出される酒粕が芳醇な奈良漬を生み出す元となっている、とのことである。「奈良漬の新六」の奈良漬けは先々代田中新六が明治元年(1868)に発売を開始。屋号はその名前による。

そのお隣に明暦元年(1655)操業という「田中酒店」。軒先の杉玉が酒屋の証し。利根川の砂礫層を通ってきた豊富な伏流水と後背地の相馬、谷和原の穀倉地帯が「君萬代」という世に知られる銘柄を生む、と。「君萬代」の名前の由来は明治17年(1884)、明治天皇の牛久での陸軍近衛砲兵連隊の演習の時に遡る。行幸途上に飲んだこの造り酒屋の井戸水がことのほかお気に召され、演習滞在中ずっと愛飲することとなり、この名が下賜されたとのことである。

旧取手宿本陣跡
田中酒店から5,6分ほど街道を進むと旧取手宿本陣の染野家がある。街道から少し奥まってとことにあり、細い路地を入ると寄棟総茅葺きの建物がある。寛政7年(1795)建築とのことである。
取手宿は宿駅に指定されたこの本陣を備え(脇本陣はなかったよう)、公用の人馬として人馬25人、25匹を常備しその役を果たすと共に、利根川舟運の河港として栄え、水戸藩と諸藩の御穀宿(ごこくやど)、回船問屋が立ち並び、利根川に並行するように形成された街並みには江戸の後期二百近くの商店が軒を連ねていた、とのことである。

江戸・水戸を結ぶ水戸街道は距離にして、29里19町(116キロ)、宿場は19駅。飛脚は2日、二十数家と言われる参勤交代の大名行列は2泊3日で水戸街道を抜けた、と言う。水戸藩は江戸常府であり参勤交代の必要はなかったが、家臣の往来は激しく、江戸勤番は土浦宿と小金宿が指定の宿泊所。そのほか取手・藤代・牛久・府中(石岡市)宿にも指定宿泊所があった、とのことである。水戸街道は三代将軍家光の頃から整備が始まったが、当初の水戸街道はこの取手を通っていない。17世紀前半の取手は一面の湿地帯であったため、水戸街道は我孫子宿から利根川(当時は利根川の遷事業が完成していないので、正確には鬼怒川)右岸を下流に向かい、布佐で渡河して龍ヶ崎を経由し、若柴宿へと進んだと言う。
取手宿が宿駅に指定されたのは天和年間から貞享年間にかけての時期(1681年~1688年)のことである。承応3年(1654)には利根川東遷事業も終え、小貝川が合わさり暴れ川であった鬼怒川も利根川に注ぐようにその流路を変えており、取手辺りも氾濫原から解放されたのであろう、か。とは言うものの、取手宿と次の藤代宿の間は依然として利根川や小貝川が氾濫し、街道の道筋は4本あった、とのことである。因みに、水戸藩主として最初に取手を通行したのは徳川光圀。天和2年(1682)のこと、と言う。

八坂神社
旧本陣から3~4分歩いた先に八坂神社。旧取手市の上町、中町、片町の鎮守であったこの社の創建は寛永3年(1626)。拝殿は天保3年(1832)の建築。本殿は明治39年(1906)の建築。本殿も拝殿も名工として知られる笠間の後藤縫殿之助・保之助親子の手になるものである。
因みに、片町と言う旧地名であるが、この地名は洪水や山崩れなどの危険が大きいため、街道の片側にしか町並みが作れなかったところが多い。取手宿の片町も右手に利根川の土手が迫り、その洪水被害の故に片側だけに街並みが造られたのであろう、か。土手には利根川を渡る小堀(おおほり)の渡しがあった、とか。






念仏院
急な石段脇の庚申塔を見やりながら境内に。本堂と大師堂にお詣り。参道に句碑が一基。「駒形茂兵衛 とほりし路次の 朧かな 遊子」。長谷川伸の『一本刀土俵入り』はこの取手が舞台となっている。主人公・茂兵衛は取手宿の酌婦お蔦に声を掛けられ、施しを受けて力士になるべく江戸へ。が、結局力士になりきれず、それでもお蔦への御礼言上のため、渡世人崩れの若い衆として再び取手宿へ。と、地回り(やくざ)と諍いを起こす、いかさま賭博師登場。その賭博師がお蔦さんの亭主と知り、地回りからお蔦を助ける。
はじめは茂兵衛を思い出すことのなかったお蔦ではあるが、地回りに応戦の「構え」をとった茂兵衛の姿に。「あの時の」と思い出す。去り際の決め台詞がこれ。「10年前、櫛・簪、巾着ぐるみ意見を貰った姐さんに、せめて見て貰う駒形の、しがねえ姿の土俵入りでござんす」、と。




茂兵衛が利根を渡ったのは、八坂神社裏の小堀の渡し、とか。また、取手を舞台としたのは、長谷川伸の父が土木業であり小貝川の工事に従事しており、長谷川伸も子供の頃、この辺りによく遊びに来ていたため、戯曲の舞台とした、と言う。




阿夫利神社
念仏院を離れ、県道11号を進む。駅前から南東へと下ってきた県道が、北東へと方向を変える一筋手前の道が旧水戸街道。道標があるようだが見落とした。道を左に折れて先に進むと高台にささやかな社。それが「阿夫利神社」。神奈川県伊勢原市の大山・阿夫利神社の分神で昭和13年(1938)の建立だとか。

水戸街道・本通り
阿夫利神社の先の水戸街道は再び方向を南東に変え、利根川の堤防近くの吉田八幡神社へと向かい、そこで方向を北東へと変えて一直線で藤代宿へと向かう。昔の長兵衛新田→吉田村→小泉村→酒詰村→米田村→谷中村→藤代宿へと向かうこの道筋は取手宿から藤代宿へと向かう4つの道筋のうち「本通り」と呼ばれていた。

本願寺
旧水戸街道と県道11号が交差する辺りの北、青柳の地に本願寺がある。境内には簡潔明瞭な日本一短い手紙として知られる「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の碑がある。何故にこの地に、との好奇心から、水戸街道を離れ寄り道することに。
山門をくぐり、鐘楼を見やり、開山堂、本堂にお詣り。境内に楕円形の手紙を刻んだ石碑があった。手紙の主は鬼作左として怖れられた家康股肱の臣である本多作左こと重次。手紙は天正3年(1575年)の長篠の戦いの陣中から妻にあてて書いた手紙である。この「お仙」は当時幼子であった嫡子仙千代(成重・後の丸岡藩主)のことである。意味は詠んでの通り。
で、その家康股肱の臣の手紙が何故この地に、ということであるが、家康が関東の地に移封された後、秀吉の命により鬼作左は、最初は上総国古井戸(小糸とも。現在の千葉県君津市)に、その後、この地下総国相馬郡井野(現在の茨城県取手市井野)に蟄居を余儀なくされた。その理由は度重なる秀吉への反抗。家康上洛の人質として預かった秀吉の母を一旦事あれば火をかけるべしと、薪で囲んだ部屋に泊めたり、北条征伐の帰途、岡崎城に立ち寄った秀吉の再三におよぶ呼び出しにも応じず接待を断ったりと、家康の家臣として秀吉への「矜持」を示した。
本多重次が蟄居先でむなしくなったのは文禄5年(1596年)。家康が江戸に幕府を開き征夷大将軍となったのは慶長6年(1603)のこと。もう少し長生き、といっても68歳でなくなっているので、70歳を過ぎるが、それであれば蟄居先での、といった状況はなくなっていただろう。この本願寺は本多重次の菩提寺で、重次着用の甲冑、徳川家康から拝領した黄金の扇子、団扇など遺品が展示されている。

金門酒造
本願寺脇の道を成り行きで進む。道が県道229号に合流する手前に金門酒造。古き建物が残る。天保五年(1834)、取手宿の東、名水で知られる小文間村、現在東京芸大があり小貝川が利根川に合流する辺りにて創業。一時中断した時期もあるが、昭和7年(1932)、この地青柳に移り酒造りを続けている。金門の銘は、当主が代々襲名してきた「金左衛門」の、「金」と「門」の字に由来する。







相野谷川
金門酒造から旧水戸街道に戻る。県道229号を横切り、田圃の農道を南東へと一直線で進む。用水路を越え昔の長兵衛新田→吉田村→小泉村と進む旧水戸街道本通りに。ここを一直線に北東へと上れば藤代宿ではあるのだが、何を思ったか利根川を東側から眺めたくなった。
で、旧日光街道本通りを通り越し、更に南東へと一直線で進むと相野谷川に。取手市寺田に源を発し、取手市小文間の排水機場で利根川に合流する全長5キロ強の小河川である。流路には川戸沼とか成沖とか、新田沼といった如何にも湿地であった往昔のこの地の名残を留める地名が残る。相野谷川は元は源流は湧水であったようではあるが、現在は都市型排水路の流末といったものになっている。





利根川の堤
相野谷川に沿って利根川へと向かう。利根川浄水場、相野谷川排水機場を越え利根川の堤に。利根川は新潟と群馬の県境に広がる三国山脈の大水上山にその源を発し、水上、高崎へと南下。高崎辺りでその流路を東に変え、群馬と埼玉の県境を流れ、関宿で江戸川を分流。その後は、おおむね茨城と千葉の県境を下り、茨城県神栖市と千葉県銚子市の境で太平洋に注ぐ、全長約322キロ。信濃川に次ぐ日本第二の大河川である。

■利根川東遷事業
現在の利根川の流路は以上の通りであるが、この流路は江戸時代に行われた利根川の東遷事業によって造られたもの。それ以前の利根川筋は栗橋より下流は現在の大落古利根川、中川の流路を南に下り、途中で昔の荒川筋(現在の綾瀬川。荒川は西遷事業により西の入間川筋に移された)と合流し江戸湾へと注いでいた。
利根川の東遷事業とは、江戸湾に注いでいた利根川の流路を東へと変え、銚子へと流す河川改修事業のことである。大雑把に言えば、南へと下る流路を締め切り、その替わりに、東へと下り銚子方面へと注ぐ川筋に繋ぐという工事である。締め切り工事のあれこれは利根川東遷事業の散歩メモに任せるとして、東流する流れとして利用された常陸川の川筋についてメモする。
常陸川は近世になってからの名称であり、将門の時代には上流部は広川(河)とも呼ばれ、現在の利根川・江戸川分派付近を北端に、途中長大な藺沼(いぬま)を経て毛野川(鬼怒川)を合わせ、霞ヶ浦・印旛沼・手賀沼を合わせた広大な内海である香取の海に注いでいた。
広川は川とは言うものの、狭長な谷地田の流末に発達する大山沼・釈迦沼・長井戸沼などの沼沢の水を集めて流れる小河川であり,その流れは現在の菅生沼・田中・稲戸井遊水池付近にあった藺沼という浅い沼沢地に注ぐわけであり、川と言うより沼沢地の連なり、と言った方が正確かもしれない。ともあれ、南流を締め切った利根川の流れと、この常陸川(広川)を繋ぐ水路を新たに開削し、利根川の流れを江戸ではなく銚子方面へと向けたわけである。
利根川東遷事業の目的は諸説ある。従来、江戸を水害から守るため、といった説が唱えられているが、それと同じく銚子から江戸への船運の開発、そして香取の海を干拓し新田開発を行うため、といった説もある。実際、利根川と常陸川を結ぶ水路開削の前に、鬼怒川と小貝川の分流工事を行っているが、その目的は治水・利水事業でもあり、船運開発のためでもある、とする。
下妻から水海道へと下ってきた小貝川を合わせた鬼怒川は大木丘陵にぶつかってからは南東に流れ、竜ヶ崎の南方で常陸川に合流していた。その鬼怒川を寺畑(現在谷和原村)で小貝川と分け、大木丘陵の開削を開削することによって鬼怒川は南流し常陸川に合流。この工事によって鬼怒川の常陸川への合流点は約30Km上流に付け替えられた。この目的は細流であり小舟がやっと通れる程度で船運に適しない常陸川の上流の水量を増やす試み、とか。
また、新田開発説であるが、古来より「香取の海」と呼ばれ、霞ヶ浦・印旛沼・手賀沼などが一帯となった広大な内海が利根川の東遷事業によって、上流から運ばれた土砂の堆積が進み、多くは低湿地の沖積平野と化し、その地に江戸の頃から本格的な新田開発がはじまる。潮来市(茨城県)や旧佐原市(現香取市、千葉県)が陸地化されたのは江戸時代になってからと言われるが、それは利根川の流れを堤防で固定化し、周辺の低湿地の水を抜き干拓・陸化していった苦難の新田開発の賜とのことである。
江戸防衛説、舟運説、そして新田開発説と、あれこれ説はあるも、元より門外漢のお散歩人が説の是非を論ずる力はない。が、利根運河散歩で感じた銚子と江戸を結ぶ船運の繁栄、広大な香取の海が陸化する過程を示す地図(絵図)や流域に残る多くの「新田」を見るにつけ、洪水から江戸を護る、といった説よりなんとなく上記2説のほうが、納得感がより高い。

来應寺
利根の堤を離れて日光街道へと戻る。相野谷川に沿って進むと来應寺。浄土真宗大谷派のこのお寺さまの創建は寛永元年(1624)。江戸時代中期に建てられた本堂は入母屋、銅板葺。江戸時代の寺院建築として取手市指定有形文化財に指定されている。また、阿弥陀如来画像、光明本尊像、高僧坐像、聖徳太子画像、阿弥陀如来木像、方便法身尊号(3点)などといった寺宝を多数所有することで知られているようだ。

道標
先に進み水戸街道の道筋にあたる。相野谷川に架かる"どばし(土橋)"の袂には道標があり、「来應寺七丁(約760m)江戸十一里(約43Km)水戸十八里(約71Km)」と記されている。
また、橋には「旧陸前浜街道」のプレートが架かる。「陸前国」とは現在の宮城県と岩手県の一部。「浜街道」は海岸沿いの道のこと。明治5年(1872)に水戸街道とその先の岩城相馬街道を合せて「陸前浜街道」とする通達により、この街道名ができたが、明治18年(1885)に「国道6号」と名称変更が行われたため、「旧」陸前浜街道となっている。

橋を渡り、一面田圃の中を一直線に旧陸前浜街道こと、水戸街道「本通り」は進む。上で取手宿と藤代宿の間は小貝川や利根川の氾濫も多く、ルートが4本あったとメモしたが、ひとつはこの本通り、第二は「中通り」と呼ばれ、取手宿→井野村→酒詰村→谷中村→藤代宿と進んだ。このルートは現在のJR常磐線に沿った道筋である。第三のルートは「水戸往還椚木廻り道」と呼ばれ、取手宿→桑原村→毛有村→椚木村→藤代宿と進む。中通りより500m程北側、国道6号線にやや近いルートである。そして第四のルートは「大廻り道」。取手宿→寺田村→和田村→小貝川堤防沿→藤代宿と進む。取手から小貝川に沿って藤代宿へと向かうルートである。

清水の五叉路
先に進むと道脇に用水堀や水門が見える。此の地に限らず、取手宿からの水戸街道本通りには幾つもの用水路が交差している。少し気になりチェックすると、利根川堤から相谷野川の間には「利根水支線」、相谷野川から小貝川の間には「西郷用水幹線(戸井田排水機場で小貝川に合流)、「西浦川」、「五箇村用水(北浦川から分流し西浦川を越えて小貝川に合流)」、「北浦川」、「裏郷用水幹線」といった用水路が北から南に通っており、その北端はどれも小貝川の「岡堰」辺りとなっている。

岡堰とは小貝川に設けられた治水・利水用の堰。江戸幕府の利根川東遷事業の一環として行われた鬼怒川と小貝川の完全分離と新河道掘削による鬼怒川の常陸川(後の利根川)への付け替え工事により、従来、鬼怒・小貝両川の氾濫源であった谷原領、大生領(常総市辺り)一帯は両川合流の水勢から解き放たれ、水量の安定した一帯の新田開発が可能となった。その小貝川には、関東郡代伊奈氏によって、福岡堰、岡堰、豊田堰が設けられた。関東流とも溜井方式とも称される伊奈氏の治水・利水工法によって造られたこれらの堰はその規模もあり、関東の三大堰とも称されるが、その堰の力もあってか新田の開発が進み、「谷原領三万石」「相馬領二万石」などと呼ばれる新田地が誕生した、と言う。現在豊かな田圃が広がるこの一帯も、元の相馬領の一部。二万石の一端ではあろう。
とはいうものの、小貝川は勾配が緩やかで、河川氾濫の継続時間が長く、かつまた利根川からの逆流現象も多かった、とか。昭和になっても昭和56年や61年には利根川からの逆流や小川川自体の破堤により洪水被害に見舞われている。街道筋家の塀と敷地が道筋より、心持ち高いのは洪水対策ではあろう、か。



■藤代宿

相馬神社
北浦川とおぼしき用水路を越え、先に進むと常磐線と交差。踏切にある「旧陸前浜街道」の案内を見やり、谷中本田交差点を先に進むと藤代宿に入る。宿とは言うものの、昔日の宿の面影を伝える民家はあまり、ない。先に進み、やっと出合った旧家(坂本呉服店)のところで街道は直角に曲がる。この呉服店は『橋のない川』で知られる小説家・住井すゑお気に入りのお店であったようで、住まいのある牛久から通っていた、とのことである。その角の手前で、取手宿から藤代宿を結ぶ4つの旧水戸街道のうちの大廻り道と椚木廻り道が本通りに合流する。

直角に曲がる水戸街道の西脇に相馬神社が佇む。元相馬領の相馬神社と言うことで、それなりの構えを想像していたのだが、こじんまりとした社であった。案内によれば「建立は元亨元年(1321)」と極めて古い。「安政2(1855)年に火災で焼失し、應応3(1867)年に再建された。社殿の材質は総けやき造り、屋根は銅板葺流れ造り、向拝(こうはい)柱に見事な龍の彫刻があり、大床下や三方の壁面脇障子全体が豊麗な彫刻で飾られている。明治40年、八坂神社・富士神社を合祀して相馬神社と称した。元八坂神社は、藤代・宮和田両宿の総鎮守であった」、と。見事な彫刻を見るべく拝殿裏の本殿に廻る。周囲を囲われた隙間から彫刻を眺める、のみ。

■相馬
相馬神社には関係ないのだが、相馬って、福島県相馬市の相馬の野馬追いのイメージが強く、この地と相馬が今ひとつ結びつかない。チェックする。相馬の元となった相馬郡(そうまぐん)とは律令制による行政区分で、下総国に存在した郡である。その本家本元の相馬郡は明治8年(1875)に茨城県と千葉県に分割され、明治11年(1878)には茨城県北相馬郡と千葉県南相馬郡となる。茨城県北相馬郡は現在の北相馬郡利根町、守谷市の全域、取手市のほぼ全域、常総市の一部、つくばみらい市の一部、龍ケ崎市の一部からなる一帯であったが、現在相馬の名前を残すのは北相馬郡利根町のみ、である。また、千葉県南相馬郡は我孫子市と柏市の一部からなっていたが、現在は相馬の名は消滅した。
一方の福島県の相馬市であるが、これは中世下総国相馬郡を領した平良文の流れ(下総平氏)を継ぎ、将門の勢力範囲であった下総と、上総の全域を領し、本拠を千葉に置いたが故に後世千葉氏を称した千葉宗家まで遡る。この千葉宗家の第五代常胤、常胤は頼朝の挙兵に協力したことで知られるが、その常胤の二男帥常をもって守谷に館を構え「相馬家」を継がせた。この帥常は頼朝の奥州征伐に従い、その軍功により陸奥国行方郡(現在の福島県相馬市)を賜るも、以降数代は守谷に館を構えたままであったが、相馬家第五代胤村の時にその領地を子に分け与え、胤村の五男である帥胤が陸奥国を領することになり、奥州に下り土着した。これが奥州相馬家の始まりである。
奥州相馬氏の支配はこの鎌倉期から明治維新まで連綿と続く。このように長期間に渡り同じ領地を統治したのは鹿児島の島津、熊本の相良氏を除き極めて稀なケースと言われる。相馬の野馬追いも、平将門を遠祖とする奥州相馬氏が、下総相馬郡での将門が行った軍事訓練をそのはじまりとする、とか。ともあれ、元地の相馬を離れた奥州相馬氏が、下総平氏=千葉氏宗家=相馬氏=奥州相馬氏と連綿と続く「相馬」のアイデンティティを福島の地に強く伝え続けているのだろう。
一方の下総の相馬郡であるが、その地を領した千葉氏は秀吉の小田原攻めでその居城である相馬城が陥落。その後、家康が江戸に入府すると、甲斐の菅沼氏が守谷に守谷藩を立藩。その後、幕府の直轄領となったり、土岐氏(菅沼氏が改称)が戻ってきたり、また、天領に戻ったり、佐倉城に入った掘田氏、酒井氏の領地となったり、関宿藩久世氏の領地となったりと、めまぐるしく支配者が変わっている。一流が支配を続けた福島の相馬とは大変な違いである。こんなこともあって、相馬=福島といったイメージが強いのか、とも思う。

小貝川
相馬神社を離れ、休憩を兼ねて神社の裏手、小貝川の堤防下にある藤代図書館に。取手や藤代、茨城に関する郷土資料が揃った近代的な建物で、あれこれと資料を読み、メモをとる。図書館内には喫茶もあり、食事をとり終え、小川の堤防に上りしばし風景を楽しむ。

小貝川は、栃木県那須烏山市曲畑の小貝ヶ池に源を発し南へ流れる。五行川、大谷川等の支流を合わせ、茨城県水海道地先で流向を南東に変えて茨城県取手市、北相馬郡利根町と千葉県我孫子市の境で利根川へ合流する全長112kmの川。

既にメモしたようの、かつては鬼怒川に合流し、暴れ川として下流に氾濫原をつくっていたが、利根川東遷事業の一環で、鬼怒川と小貝川を常磐自動車道・谷和原インターの北にある寺畑辺りで分離し、鬼怒川は大木丘陵を開削した水路によって利根川に注ぐようになり、水量・流路の安定した小川川流域に新田開発が盛んにおこなわれることになった。因みに「小貝川」の由来は、流域に貝塚が多く見られるため、とか。

藤代宿本陣跡
小貝川の堤防から相馬神社に戻り、取手宿から来た道筋が直角に曲がる旧水戸街道を少し東に進むと中央公民館がある。その昔、此の地に藤代宿の本陣があり名主の飯田家が代々その努めを果たしていたが、1950年の昭和の町村合併で誕生した旧北相馬郡藤代町の庁舎建設のため取り壊され、現在は当時の「本陣松」の他に名残は何もなく中庭に案内があるだけであった。
藤代宿が水戸街道の宿場町に指定されたのは、天和年間から貞享年間(1681年~1688年)の頃。既にメモしたように、それ以前の水戸街道は我孫子宿から利根川(当時鬼怒川)右岸を下流に向かい、布佐で渡河して龍ヶ崎を経由し、若柴宿付近で合流していた。そのため、藤代宿が正規の宿場町に指定されたのは、水戸街道の他の宿場町より、多少遅れた、ということである。
また、藤代宿は、江戸側の藤代宿と水戸側の宮和田宿のふたつの宿からなり、本陣などの宿場町としての役務も持ち回りとなっていた。なお宮和田宿の本陣についての記録が残されておらず詳細は不明、とのことである。

宮和田宿
道を進み国道6号・片町交差点に。片町って、取手宿のところでメモしたように、洪水や山崩れなどの危険が大きいため、街道の片側にしか町並みが作れなかったところに名付けられることの多い地名。往昔暴れ川であった小貝川が北に、それも「大曲」しており、洪水の時には最も危険な地形である。それはともあれ、片町交差点を越えてまっすぐに進むと道は東へと曲がる。曲がり角には愛宕神社。寛永年間に京都愛宕神社より鎮座し、享保2年に社殿を建てた、と。現在の社殿・拝殿は昭和59年に改修。覆屋でおおわれた社殿にお詣りし、宮和田宿を進む。
数軒ばかりの宿場の名残を残す宮和田宿を進み、小貝川の手前の八坂神社で左に折れ、熊野神社脇を通り文巻橋西詰に。八坂神社と熊野神社はほとんど同じ敷地にあり、宮和田の渡し跡に近く、往還する多くの旅人がお詣りしていったのではあろう。熊野神社本殿は嘉永4年(1851年)の再建であるが、創建は室町期、この地を領した千葉常胤とも、その子孫である戦国期の千葉俊胤とも伝わる。本殿は囲われ、中は伺い知れない。

文巻橋
当時小貝川は下総国と常陸国の国境で、その国境越えのための宮和田の渡し場は、文巻橋の100m程下流、先ほどの八坂・熊野神社と小貝川対岸の若柴宿側の慈眼院観音堂辺りを結んでいた、とか。

小通十一面観音堂
小貝川を挟んで宮和田宿の八坂・熊野神社の反対側に小通十一面観音堂。恵心阿闍梨の作とされる十一面観音像(小通観世音)を本尊とする。市の案内をまとめると;「寺伝によると、天慶年間(938~947)に平貞盛が父・国香の菩提を弔い、寺領の民心を安定させるために、龍ヶ崎市の川原代に安楽寺を、この地小通の川岸に観音堂を建立したのが、小通幸谷の十一面観音の始まり、と。
天正の初め(1753~)、若柴の金龍寺の開祖である新田義貞の後裔、と言うか、新田家を乗っ取ったとも言える由良国繁は、牛久城主である岡見家一族の供養のために七観音八薬師を建立。その後、観音堂は清水山慈眼院とあらためられた。
十一面観音は眼病に霊験があると信じられ、多くの参詣者で賑わうも、明治初年の神仏分離令に際し、廃寺になり、その後、明治8年(1875)村中の総意により七観音八薬師の由緒をもって若柴の金龍寺の末寺として曹洞宗のお寺さまとして再興された。現在の堂宇は貞享2年(1685)に再興されたもので、修復を重ねて今日に至っている、と。
この観音堂、慈眼院と、お寺さまとはいうものの、境内入口には鳥居があり、本殿も如何にも神社風。明治の神仏分離令までは神仏習合のお寺というか神社であったわけで、その名残ではあろう。

■平国香と貞盛
ここに登場する平国香と貞盛について。国香は既に述べたように、高望王の長男。将門の叔父にあたる。貞盛は国香の嫡子である。国香と貞盛は将門にとっては敵役。特に貞盛は徹頭徹尾、将門と争い藤原秀郷とともに将門を討ち取ることになる敵役である。
ことの発端は野本合戦。京より戻った将門は相馬御厨の下司として、また、北総の地の開拓をおこない国土経営につとめるが、荘園拡張を計画する常陸大掾・源護の息子が将門を待ち伏せ。殺すつもりはなく、単に脅しのためだけであった、とも言われるが、結果的に将門の反撃により源護の息子3人戦死。源護を助けた国香も傷がもとでなくなる。場所は明野町赤浜、と。国香の館は明野町東石田。赤浜の直ぐ近くにあり、源護は息子貞盛の義理の親でもあり、国香自身も源護の後を継ぎ常陸大掾(大掾とは国司の位階といったもの)となっていたり、といった関係もあり、援軍に出向いたのであろう。
平良正(扶らの姉・妹婿)が将門への復讐戦をはじめる。が、力不足のため良兼に助け求める。戦は将門有利。下野国分寺(栃木県下野市;小金井駅の近く)まで良兼を追い詰めるも、最後は見逃す。ここからが一族が相い争う「天慶の乱」のはじまりとなる。
国香の嫡子である貞盛は叔父の良兼や良正と共に将門と対立。将門と抗争を繰り返し、途中経過のあれこれは省くが、結局は天慶3年(940)、藤原秀郷とともに将門を討つ。人物評は将門贔屓の書籍では狷介な人物として描かれるが、本当のことはよくわからない。それはともあれ、平清盛に繋がる伊勢平氏はこの貞盛の四男である維衡からはじまる。歴史にIFは無意味とも思うが、もし貞盛が。。。、とすれば、今年の大河ドラマの主人公である平清盛は。。。、といった妄想を禁じ得ない。

八間掘
道なりに進むと常磐線の踏み切り。龍ヶ崎街道とある。上でメモしたように、取手宿から藤代宿を経由する道筋ができる以前は、我孫子から利根川を下り布佐から竜ヶ崎を経て若柴に続く道がメーンルートであったとのこと。その故の「竜ヶ崎街道」であろう、か。
右手に牛久沼排水機場を見て道なりに左折して行き、小貝川と牛久沼を結ぶ水路(八間掘)に架かる往還橋を渡る。橋の東詰には治水碑。利根・小貝の逆流による洪水被害に苦しむ、この地区の人々が八間掘に逆水を遮る堰を造った暦祖が刻まれる。牛久排水機場はその現在の姿、ということであろう。

平国香の慰霊塔
車道(県道5号竜ヶ崎潮来線)と合流する。角にささやかな地蔵が立つ。結構新しいようであり、交通安全を祈るものだろう。県道を少し南に下り、訓柴小交差点脇に、誠に小造りの屋根付きの石碑。中にはお地蔵様とその後ろに道標が立っている、とか。「右 りゅうがさき なりた 左 わかしば」と刻む、とのことだが、摩耗され全く読めなかった。






この馴芝小入口交差点から少し下った、城西中学校の辺りに平国香の慰霊碑があるとのことで、街道を離れてちょっと寄り道。道を辿ると、城西中学校近くの雑草に覆われた一角に、それらしき宝塔の上部のみが置かれている。案内も何もないので、はっきりしないが、近くにあった安楽寺にお詣りすると、飛び地に平国香の宝塔が建つ、と案内あったので、間違いはないだろう。それにしても、平国香って、将門に比して人気がない。





訓柴小の道標
馴芝小入口交差点まで戻り、道標の前の道を進み、関東鉄道の踏切を越える。右側に訓柴小学校を見ながら進み突き当たりの三叉路角、学校の中に道標。案内板によると、「文政9年に建立され、三面に水戸16里 江戸13里 布川3里と彫られている」。
ここが取手宿を通ることなく、我孫子宿から利根川(当時は利根川の遷事業が完成していないので、正確には鬼怒川)右岸を下流に向かい、布佐で渡河して龍ヶ崎を経由し、若柴宿へと進んだ初期の水戸街道と、その後、取手宿を経由し藤代宿から若柴宿へ通ることになった水戸街道が合流した地点、ということであろう。
「江戸時代に江戸と水戸を結ぶ交通路は水戸街道と称され、五街道に次ぐ重要な脇街道であった。初期の水戸街道は、我孫子から利根川に沿って布佐まで下り、利根川を渡って布川、須藤堀、紅葉内の一里塚をたどって若柴宿に至る街道(布川道)と、取手宿、藤代宿を経て小貝川を渡り小通幸谷若柴宿に入る道があった。この二つの合流点、現在の市立馴柴小の北東隅の三叉路にこの道標(里程標)がたてられ、三面に水戸十六里、江戸十三里、布川三里と通ずる方角とそれぞれへと里程が刻まれている。
裏面には「この若柴駅街道の碑は、文政九年(1826)十二月に建立した。三叉路で旅人が迷い易いので若柴駅の老人が相謀り、普門品一巻を読誦する毎に一文ずつ供えて積み立てた」とあり、十五名の村民の姓名が記されている。
明治5年(1872)に水戸街道は陸前浜街道と改称され、明治15年(1882)11月には牛久沼淵の道路が開通した。そのため台地を通る街道はさびれ、若柴駅(宿)も宿駅としての機能を失った。この道標は若柴駅(宿)街道の碑として往昔の陸上交通の盛んであった面影を偲ばせるものである」、と案内にあった。

■若柴宿
常磐線・佐貫駅前から通る県道271号を越えると一面の田圃。その先に高台が見える。若柴宿は小貝川や牛久沼流域の低湿地を開いた田圃の先にみえるその台地上にある。
江川など牛久沼より流れる割と大きな用水路をふたつほど越えると坂道。台地に上るこの坂道は大阪と呼ばれる。台地上にある若柴宿へは、この大阪の他、南から延命寺坂、会所坂、足袋屋坂、鍛冶屋坂といった坂が並ぶ。





八坂神社
上がりきると街道は又定石どおり直角に曲がっているが,角に八坂神社がある。鳥居をくぐり、石段を数段駆け上ると社殿がある。社殿は新しいもので、右手に慶応年間の年号のある庚申塔群、裏手は竹林となっている。この社は旧若柴村(下町、仲町、上町、横町、向原)の鎮守八坂神社であり、若柴宿はここからはじまる。境内には三峯社も祀られていた。

まずそれにしても、今回の散歩では八坂神社によく出合う。まず取手宿での八坂神社、次いで藤代宿の相馬神社。この神社は八坂神社を合祀したものであった。また、宮和田宿の渡しの辺りにも八坂神社、そして若柴宿のこの八坂神社。八坂神社は全国に3000ほどもある、とのことであるから、それだけのことかとも思うが、それでもこの地方と八坂神社がなんらかの関係があるのでは、と妄想を逞しくする。

八坂神社と言えば祇園祭。「祇園御霊会」とも称され疫病を防ぎ、怨霊退散をそのはじまりとする。八坂神社の祭神は素戔嗚尊(スサノオノミコト)。素戔嗚尊は朝廷への反逆児のイメージが強い。それ故に朝廷への反逆児である将門を同一視し、その怨霊を鎮め無病息災を祈ったのであろう、か。また、八坂神社は明治の神仏分離例により名付けられたもの。それ以前は「牛頭天王社」と称されていた。独立国をつくり「新皇」と称した将門と「天王」を同一視したものであろう、か。それとも、野田のいくつかの八坂神社の縁起にあるように、将門が尊崇した神社というだけのことであろう、か。とは言うものの、八坂神社の中には将門に仇なす藤原秀郷ゆかりの社もある、と言う。あれこれの理屈は関係なく、単に疫病を防いでくれる有り難い神として祀られただけであろうか。根拠の無い妄想は拡がるばかりであるが、よくわからない。この辺りで、妄想を終えることにする。

ついでのことで、八坂神社について;八坂神社はもとは「天王さま」とも「祇園さん」とも称された。それが八坂神社となったのは明治の神仏分離令以降。本家本元・京都の「天王さま」・「祇園さん」が八坂神社と改名したため、全国3,000とも言われる末社が右へ倣え、ということになったのだろう。八坂という名前にしたのは、京都の「天王さま」・「祇園さん」のある地が、八坂の郷、といわれていたから。明治に八坂と名前を変えた最大の理由は、「(牛頭)天王」という音・読みが「天皇」と同一視され、少々の 不敬にあたる、といった自主規制の結果、とも言われている。
で、なにゆえ「天王さま」・「祇園さん」と呼ばれていたか、ということだが、この八坂の郷に移り住んだ新羅からの渡来人・八坂の造(みやつこ)が信仰していたのが仏教の守護神でもある「牛頭天王」であったから。また、この「牛頭天王さま」 は祇園精舎のガードマンでもあったので、「祇園さん」とも呼ばれるようになった。
祭神は素戔嗚尊とイナダヒメノミコトとする。これは神仏習合の結果、牛頭天王=素戔嗚尊、と同一視していた、ため。牛頭天王の父母は、道教の神であるトウオウフ(東王父) と セイオウボ(西王母)とも見なされたため、牛頭天王はのちには道教において冥界を司る最高神・タイザンフクン(泰山府君)とも同体視される。また、さらにタイザンオウ(泰山王)(えんま) とも同体視されるに至った。泰山府君の本地仏は地蔵菩薩ではあるが、泰山王・閻魔様の本地仏は薬師如来であり、素戔嗚尊の本地仏も薬師如来。ということで、牛頭天王=素戔嗚尊、という神仏習合関係が出来上がったのだろう。閻魔様=冥界=黄泉の国といえは素戔嗚尊、といったアナロジーもあったのだろう、か。
また、素戔嗚尊は、新羅の曽尸茂利(ソシモリ)という地に居たとする所伝も『日本書紀』に記されている。「ソシモリ」は「ソシマリ」「ソモリ」ともいう韓国語。牛頭または牛首を意味する。素戔嗚尊と新羅との繋がりを意味するのか、素戔嗚尊と牛頭天王とのつながりを強めるためのものなのかよくわからない。が、 素戔嗚尊と牛頭天王はどうあろうと同一視しておこうと、ということなのであろう(『江戸の町は骨だらけ;鈴木理生(ちくま学術文庫)』)。

若柴宿仲町・上町
若柴宿を仲町、上町と進む。『関東周辺 街道・古道を歩く;亀井千歩子(山と渓谷社)』の写真で見た、落ち着いた、豊かな構えの集落を進む。いわゆる、宿場といった風情ではないが、長屋門を構えた旧家などが並び、豊かな農家といった雰囲気の、誠に得難い、気持ちのいい集落である。

金龍寺
上町が終わり、横町へと直角に曲がる突き当たりに金龍寺がある。数段の石段を上ると観音寺跡とか不動明王の社。右手に畑地の残る境内を進み本堂にお詣り。本堂の裏手には新田義貞の墓がある、と。元は上州太田に会ったものを、先の小通十一面観音堂のところで、新田義貞の後裔、と言うか、新田家を乗っ取ったとも言える由良国繁が太田から移した、と。由良氏と新田氏、それに太田から若柴の地に移った所以など、さっぱりわからない。チェックする。

元々金龍寺は応永24年(1417)、太田の地において金山城主・岩松氏の重臣横瀬氏(後の由良氏)によって創建された、とされる。あれこれの経緯は省くとして、岩松氏は新田宗家を継承した武将である。その後、横瀬氏(由良氏)は岩松氏を退け金山城主となるが、己が正当性を示すべく義貞戦没の地に近い越前称念寺に祀られていた義貞の遺骨を持ち帰り、義貞の法名の一部を(金龍院)用いた金龍寺を創建し、一族の菩提寺として新田義貞の墓を奉った、と。その後天正13年(1585)、由良氏と称した横瀬一族の国繁は小田原北条に与し、小田原落城とともに窮地に陥る。それを救ったのが、その母。新田義貞の末裔である由良一族の滅亡を救い給えと前田利家に訴え、秀吉より存続が認められる。
安堵された由良氏は常陸国、岡見氏没落後の牛久城主となる。由良氏の牛久移封に伴い、金龍寺も太田から牛久に移された。当初は現在の牛久新地町にある東林寺。東林寺は牛久城主岡見氏の菩提寺であったが、廃寺となっており由良氏の菩提寺として再興された。が、由良氏の牛久城主の座は一代限りで終わり、領地は没収。主を失った金龍寺は寛文6年(1666)、幕府の庇護を受け、この若柴にあった古寺を改修し、この地に移された、とのことである。これが、由良氏と新田、太田と若柴を巡る一連の流れではあった。

本堂の裏に「新田家代々の墓」がある。左側の五輪塔が新田義貞、中が横瀬貞氏、右が由良國繁の墓とのことである。とはいうものの、由良氏が新田氏の係累というのはなんとなく収まりが良くないし、新田義貞と若柴って何らの関係も無い地であり、なんとなくしっくりこない、新田義貞ゆかりのお寺さまであった。

星宮神社
金龍寺から横町を進み、途中立派な門構えの民家などを見ながら進むと星宮神社。鳥居の注連縄が酒樽の形に編まれているのが面白い。酒屋衆の奉納の名残であろうか。奥に進み社殿にお詣り、現在の社殿は江戸時代の再建で、平成元年に修理されている、とか。
社殿の左手には平貞盛ゆかりの「駒止の石」がある。天慶の乱の折、平貞盛の乗った馬がこの石のまえで動きを止めた。不思議に思った貞盛が辺りを見廻すと星大明神の祠があり、懇ろに参詣すると馬は動きだした、との話が残る。それもあってか、縁起によると、星宮神社は延長2年(924)、肥後国の八代神社から分霊勧請して祀ったと云われ、天慶2年(939)には平貞盛が社殿を建立寄進したと伝えられている。肥後の八代神社は能勢の妙見さん、相馬の妙見さんとともに日本三大妙見宮とも称される妙見信仰の社。北極星とか北斗七星を崇める妙見信仰は常陸・下総・上総を領した平氏、またその下総平氏の後裔である千葉宗家の守り神。かつて星大明神と称されたこの星宮神社も妙見信仰の社ではあろう。
星宮神社の分布を見るに、星宮神社と称する社は、福島、千葉、茨城、岐阜(郡上)に各1社、栃木には33ほどの社がある。郡上八幡は別にしてそれ以外は、下総・常陸平氏、千葉宗家の領する一帯ではある。
因みに、八代神社は平貞盛の流れをくむ伊勢平氏の郎党であり肥後守となった平貞能が上宮・中宮・下宮からなる社の中宮を建立しているわけで、貞盛と因縁浅からぬものがある。故に、この社の貞盛ゆかりの話はあまりに出来すぎであり、肥後からの勧請も含めて後付けの物語のようにも思えるが、根拠があるわけでもなく、縁起は縁起として思い込むべし、か。

御手洗乃池
星宮神社を離れ「牛めの坂」に向かう。今回の散歩であれこれ彷徨ったが、きっかけとなったのは『関東周辺 街道・古道を歩く;亀井千歩子(山と渓谷社)』の「牛めの坂」についていたキャプション「森に迷い込んだような錯覚に」に惹かれたからである。はてさて如何なるものかと、民家と畑の間の小径を抜け、その先に見える鬱蒼とした森というか林を目指す。
森に入ると緩やかな坂となり、坂を降りきった三叉路脇に御手洗乃池の案内。現在は大きな欅の根っこあたりが少し湿っぽくなっている、といった程度。かつて御手洗乃池があった、とか。そこには淵があったようで、次の言伝えが残る;御手洗乃池の淵には大きな欅が聳えていていが、この欅を伐ってはいけない、また枝を落とすのも、落ちている枝を拾うのもいけない。触ると運が悪くなる、と。また、この池には多くの鰻がいたが、鰻を食べると目がつぶれると云われていた。それは、星宮神社のご祭神には首に鰻が巻きついていたから、とか。
星宮神社と鰻(うなぎ)の関わりはよくわからないが、鰻は虚空蔵菩薩の眷属。また、虚空のように広大無辺の福徳をもつ虚空蔵菩薩信仰は「金星」への信仰と深い関係がある。星宮神社の妙見信仰は北極星とか北斗七星への信仰。星つながり故の「鰻伝説」であろう、か。

牛めの坂
三叉路を左に折れると森が一瞬切れ、左手に畑地などが見える。先を進み、再び森に入る手前に左に上る緩やかな坂があり、『関東周辺 街道・古道を歩く』には「牛めの坂」とあったがここには「牛女坂」と表示されていた。坂の左手は十分に開けており、「牛めの坂」についていたキャプション「森に迷い込んだような錯覚に」にはほど遠い。先に進めばキャプションのような坂があるのかと、ゆるやかな坂をのぼり先に進む。高い杉に覆われた道を進み、宅地として開かれた辺りまで進むも、鬱蒼とした杉の建ち並ぶ小径ではあるけれど、書籍で見た坂の姿はなく、坂の上り口まで戻る。思うに、キャプションにあった写真は、御手洗乃池へと下る坂道ではなかろう、か。『関東周辺 街道・古道を歩く』には場所もそのように記している。場所は違ったにしても、民家のすぐ隣りに「森に迷い込んだような錯覚に」といった森があったわけで、森の散歩は十分楽しめた。
ところで、「牛女坂」の由来であるが、この牛め!」と鞭を打ったと伝えられている。星座で言えば「牛女」とは、牽牛星(けんぎゅうせい)と織女星(しょくじょせい)、とのことだが、この地に住んだ住井すゑ著『野づらは星あかり』に、「牛めにしてみりや、人間なんてどいつもこいつもみなちくしょうに見えるにきまってる。牛めは何も人間のために生れて来たわけじゃねえのに、むりやり鼻輪を通されて、それ、車を引っ張れの、田畑を耕えのとこき使われ、揚句の果に、この肉は硬いとか、あんまりうまかねえとか、つまらぬ文句といっしょに食われてしまうだかんなア。だからたまたま夜中に厩栓棒を外して、そのまま車もつけずに連れて行ってくれるのが居たら、″こりやア、ありがてえ。〟とのどを鳴らしてついて行っても不思議はあんめで。」「それはもっともだ。牛めにすれば、。。。」と、如何にも「牛」そのものを「牛め」と呼んでいるようにも思える。このあたりがなんとなく納得感が高い。

鬮(くじ)神社
牛女坂の三叉路を真っ直ぐ進み、高々と伸びた杉の木に覆われた森の中を進むと2本の巨木の間の奥にささやかな祠が見える。道から奥に上る石段を進むと祠には千羽鶴と杓文字が奉納されている。若柴宿では多くの屋敷神が祀られていたとのことだが、この祠も屋敷神のひとつで鬮(クジ)神社と称し、クジ(運)の神であった、とのことである。また、この社には絵馬ならぬ杓文字(しゃもじ)が願掛けとして奉られる。
杓文字は、その昔、この祠には江戸の義民として知られる佐倉惣五郎が隠れた、とか。そこに杓文字があり、その杓文字で飯をよそると風邪が治った、とか。風邪を「めしとる」ということらしい。これでは義民が召し捕られる、ということで、なにを伝えたいのかよくわからないが、ともあれ、今は願を召し捕る、ということなのか、願掛けとなっている。

根柄道
鬮(くじ)神社を離れ、森の道を進むとほどなく宅地の道に。道を左に折れると若柴宿の大阪を上ったところの八坂神社脇にでた。
坂を下り常磐線佐貫へと戻るが、同じ水戸街道を戻るのも味気ないので、大阪を下ったとことろで、若柴宿の台地と台地下の低湿地帯の境、根柄の道を台地に沿って北に進む。途中、ブッシュで通行できない会所坂は除き、台地に上る延命寺坂や足袋屋坂を行ったり来たり。また、台地と湿地の間だの水源は種池と呼ばれ、農具の泥よけなどに使われた。水戸街道を進んで若柴宿に入った時はありふれた田圃が広がる、といった景観であったが、この根柄道脇は葦が生い茂る湿地が残る。新田開発される前のこの辺り一帯の低湿地の原風景を見れた気がし、これだけで本日の散歩のリターンは十分である。

佐貫駅
足袋屋坂まで進み、その先の鍛冶屋坂はパスし、足袋屋坂脇の水源・種池を眺めながら根柄道を左に折れ、常磐線佐貫駅へと向かう。この佐貫駅は関東龍ヶ崎線の駅でもある。関東龍ヶ崎線は、現存する茨城の私鉄では最も歴史が古く、1900年に今のJR佐貫駅開業と同時に開業した。当時は762mmの軌道で、1915年に標準の狭軌1067mmになったとのこと。当初は竜崎鉄道という名前であったが、鹿島参宮鉄道から関東鉄道になり、今の龍ヶ崎線となった。距離はわずか3,5kmで中間に駅がひとつ(入地)あるだけと言うもの。因みに「佐貫」は細長い土地の特徴を表す「狭貫」が転訛したという。

今回の散歩は、若柴宿の「牛めの坂」の森に迷い込むののいいか、などど常の如く、誠にお気楽に歩き始めたのだが、終わってみると、将門が登場するし利根川東遷事業の新田開発に果たした役割が実感として感じるといった、誠に楽しい散歩となった。後の祭りとなった、見逃しもいくつか合ったが、やはり成り行き任せのお気楽散歩は、いい。因みに、「後の祭り」とは今回の散歩で登場した八坂神社の祭りに由来する言葉。豪華な山鉾巡幸を「前の祭り」、その後の行事を「あとの祭り」と称した。後の祭りには山鉾もなく、見物に行っても甲斐がない=手遅れ、となった、との説もあるようだ。

古河を歩く
平将門のゆかりの地を訪ねることになった。会社の同僚のお誘い。坂東市の岩井に「国王神社」がある、という。いかにも「新皇」を称した将門に相応しい名前の神社。実際のところ、平将門にそれほど興味・関心があるわけではないのだが、持ち前の好奇心のなせる業、男3名での道行き、となる。
ところで、坂東市って一体何処だ?聞きなれない地名。チェックする。平成の市町村合併で誕生した。岩井市と猿島町が平成17年に一緒になった、と。場所は茨城。利根川を挟んで千葉県・野田市と境を接する。予想に反して、結構近くにあった。
今回は車を使ったカー&ウォーク。せっかく機動力があるのだから、坂東市の近辺でどこか見どころは、と地図をチェック。東北道・久喜インターから東へ利根川へと目をやる。坂東市を探す。久喜市、幸手市をへて、江戸川と利根川の分岐点。そこから利根川沿いに南に下ると坂東市があった。あれ?途中の江戸川・利根川分岐点にあるのは「関宿」。そしてその少し上に「古河」がある。
関宿は、利根川の東遷事業、つまりは、古来江戸湾に流れ込んでいた利根川を、銚子へと瀬替えする際の分岐点として登場する地。前々から行ってみたかったところ。古河はいうまでもなく、古河公方の館があった地。なぜこの地に古河公方が館を構えたのか、この地でなければならなかったのか、気になっていた。
思いがけなく、前々から気になっていた場所が、突然「登場」した。であれば、ということで, コースは古河市・古河公方館跡からはじめ、坂東市岩井の将門ゆかりの地を巡り、締めは千葉県野田市関宿の江戸川・利根川分岐点へ、という段取りとした。
将門をきっかけにはじまった今回の散歩というかツアーではあるが、平安中期の将門だけでなく、室町期の古河公方、そして江戸期の利根川瀬替えの地・関宿と、時空を巡り楽しむ1日となった。メモは結構手ごわそう。(水曜日, 5月 09, 2007のブログを修正)


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本日のルート;古河市>古河歴史博物館>高見泉石記念館>利根川>古河総合公園>古河公方別邸>・・・>境歴史民俗資料館>逆井城址公園>岩井・国王神社>岩井営所跡>関宿城

久喜インター
久喜インターを降り、利根川に架かる利根川橋に進む。今回はカーNAVIの誘導であるため、経路はよくわからず。渋滞を避けてガイドしてくれる。正確には帯電話のカーEZ助手席ナビ。話は後先逆になるが、黒目川・落合川散歩のとき携帯のNAVIウォークの有料サービスを使い始めたとメモしたが、それはこのときの携帯カーNAVI・助手席ナビのあまりのパフォーマンスのよさに感激したため。音声ガイドで車でもちゃんとガイドしてくれる。であれば、歩きなど問題もなかろう、と使い始めたわけである。

国道4号線
国道4号線を進む。この国道、東京の日本橋から青森まで続く。陸上距離が最も長い、とか。743.2キロもある。大雑把に言って、昔の日光街道・奥州街道(江戸から白河)、仙台道(白川から仙台)、松前道(仙台から函館)を進む、という。


古河歴史博物館
国道4号線を古河駅前近くで西に折れ、最初の目的地・古河歴史博物館に。あれこれ資料を手に入れる。この博物館の敷地は古河城の一郭。12世紀頃は下河辺氏の居城。江戸期は小笠原・松平・小笠原・奥平・永井そして、土井・堀田・松平と続く。中世・15世紀の頃は、古河公方の居城。本来の目的である古河公方のメモをはじめる前に、下河辺氏と土井氏のことをちょっとまとめておく。

下河辺氏
12世紀のころの文書には下河辺の名前がしばしば登場する。下河辺荘という地名も登場する。この下河辺荘って、八乗院御領の寄進系荘園。北は古河・渡良瀬遊水地あたりから、南は葛西、東は下総台地・江戸川から西は元荒川あたりまで含む広大なもの。下河辺氏ってこの荘園の荘司から興った氏族であろう。治承4年(1180年)、以仁王の平家追討の令旨を受け源頼政が挙兵。下河辺は頼政に従軍。が、平家軍に敗れる。で、自害した頼政の首をこの地まで持ち帰り、菩提をとむらった、と。記念館の北西に頼政神社がある。何故かと思っていたのだが、こういう所以かと納得。

土井氏
最初の大老・利勝から前後150年あまり、この地を領する。利勝は家康の子であった、とも。開幕時の重鎮。その他に有名な人物は15代・利位(としつら)。雪の殿様と呼ばれる。雪の結晶を観察し日本で最初の雪の科学書『雪華図説』を著す。大阪城代のとき、大塩平八郎の乱を鎮定。その功を認められ京都所司代、老中、老中首座に。

古河城
古河城のあれこれについて、ちょっとまとめておく。館内に古河城の模型。また歴史館で手に入れた資料によれば、古河公方がこの地に入城したころは、城というより「御陣」といった程度のものだった、よう。その後改修が続けられ、御座所から「古河城」へとなってゆく。小笠原氏、松平氏、奥平氏、永井氏と城郭の改修と城下の整備にあたった、と。古河城の天守に相当する御三階櫓が完成したのは、土井利勝が城主となった翌年、寛永11年(1634)のこと。博物館のあたりは、諏訪曲輪と呼ばれる出城。渡良瀬川堤防のあたりにあった本丸を中心とする城との間には「した掘り」と呼ばれる大きな堀が描かれている。諏訪曲輪と本丸・丸の内は「御成道」と呼ばれる土手で繋がる。将軍が日光東照宮におまいりするときに通る道、であるとか。本丸も二の丸も丸の内も周囲すべてが掘で囲まれた「水城」である。

古河公方
はてさて、露払いは終わり、本命である古河公方のメモに進む。古河に来た最大の理由は、何ゆえ、古河公方がこの地に館を構えたのか、を知りたかったから。先日、伊豆・韮山で偶然掘越公方の館跡に出会い、あれこれ調べ、韮山・掘越の地に館を構えたのか、なんとなくわかった。同様に、古河を歩くことをきっかけに、「古河」でなければならなかった所以を把握しようと思う。
上杉禅秀の乱
「古河」の地であるべき所以の前に、そもそもの古河公方について、ちょっとまとめておく。はじまりは鎌倉公方・足利持氏。管領である上杉家と対立。クーデター(上杉禅秀の乱)により駿河に追放されるも、最後は幕府の助力でクーデター勢力を鎮圧。その後、5代将軍義量の死。持氏は将軍になれるとおもっていた。が、管領畠山満隆らの策謀によりその願い叶わず。結局、義教が還俗し6代将軍に。

永享の乱
鎌倉府・持氏と幕府との対立が激化。関東管領・上杉憲実が融和に努めるも、挫折。憲実は故郷・上野国に退く。持氏は追討軍派遣。それに対抗し、将軍・義教は持氏追討軍派遣決定。1438年、幕府軍が鎌倉攻撃。上杉憲実が幕府側につき、持氏敗れる。持氏は出家し助命を願うが、義教それを許さず。持氏自害。これを「永享の乱」、という。

結城合戦
持氏の3人の遺児は鎌倉を逃れる。次男・三男のふたりは日光、四男の永寿王丸(後の成氏)は信濃に。流浪の身となった持氏の遺児に対し、結城城の結城氏朝が救いの手。室町幕府に対し結城城にて挙兵。これが「結城合戦」。南原幹夫さんの『天下の旗に叛いて:新潮文庫』に詳しい。主君の遺児を擁し、「義」によって挙兵した氏朝に対し、利根川以東の豪族が集結。この結城合戦って、簡単に言えば、管領上杉家と東関東の豪族の対決と読み解けばいい、かも。
この動きに対し将軍義教は追討軍派遣。十万の大軍が結城に結集。結城軍1万。1年の攻防の末結城城は落城。持氏の遺児次男・三男のふたりは京への護送の途中、美濃・垂井で義教の命で殺される。四男の永寿王丸(後の成氏)は沙汰を待つ。その間に義教が赤松満祐に暗殺される(嘉吉の変)。永寿王丸は混乱に乗じ助かる。
この永寿王丸が後の古河公方・成氏。文安4年(1447年)、越後守護上杉房定の斡旋で永寿王丸を奉じて鎌倉幕府復興。鎌倉公方・足利成氏、となる。しかし関東管領・上杉憲忠と対立。親同士の宿敵の因縁が子の代まで、といった図式。成氏が憲忠邸を襲撃し殺害。「享徳の大乱」が勃発。成氏勢は府中・高安寺に陣。

古河公方
いつだったか高安寺にでかけたことがある。藤原秀郷の開基で館であった、とか。秀郷って平将門を討ち取った人物。俵藤太って、我々の世代では「むかで退治」で有名なわけだけど、そんなこと知っている人も少なくなっているよう。ともあれ、高安寺に陣を張った成氏であるが、分倍河原の合戦で勝利するなど緒戦は有利に展開。が、駿河守護今川範忠の鎌倉制圧を受け、康正元年(1455年)、古河に本拠を移す。これが古河公方。最初に住んだのが古河城の南にある「鴻巣の御所」。2年後、下河辺氏の居館であった、古河城を改修し、ここを本拠とする。

掘越公方
長禄2年(1458年)、幕府は足利政知を鎌倉公方に。とはいうものの、鎌倉に入ることも叶わず伊豆の韮山・掘越に館。掘越公方、と呼ばれる。このあたりの経緯は伊豆韮山散歩のときにメモしたとおり。文明14年(1483年)、幕府と成氏の和議成立。「都鄙合体」と「呼ばれる。掘越公方が北条早雲に滅せられるまでふたりの公方が存在することになる。
古河公方のその後。成氏の子孫が古河公方を世襲。16世紀前半、家督争い。足利義明が子弓公方として分裂。天文15年(1546年)、足利晴氏が川越の戦い(日本三大夜戦)で北条氏康に破れ、実質的に古河公方が滅ぶ。

古河公方がなんたるか、についてのメモ終了。ついで、本題の何ゆえに「古河」かについて。偶然のことではあるが、高円寺の古本屋で『日本人はどのように国土をつくったか;学芸出版社』という本を手に入れていた。その中に「古河公方の天と地、あるいは乱の地文学」という箇所がある。以前読んではいたのだが、如何せん土地勘とか問題意識が希薄であり、まったく頭に入っていなかった。が、今回実際に歩き、その気になって読むと、なんとなくポイントがつかめた。以下そのメモである。
古河の地に館を構えた理由:第一にこのあたり、下河辺荘を中心とした現在の利根川以東の地が成氏の御料地であった、ということ。また、その御料地とも関係あるかもしれないが、利根川以西が管領・上杉の領地であったのに対し、御料地のある利根川・渡良瀬川、太日川以東の関東北部、あるいは東部の上総・下総・下野の豪族は鎌倉公方・持氏の遺児にシンパシーを寄せていた。宇都宮氏・小山氏・結城氏・野田氏・簗田(やなだ)氏・千葉氏などである。勿論、力を増した管領上杉に対し、快く思わず、足利家嫡流という盟主を擁し失地回復を図ろうといたことも否めない。ともあれ、古河を含む一帯は、成氏にとって友軍の中の「安全地帯」であった、ということ。
では、その安全地帯の中で、何故「古河」であったか、ということだが、それは、この古河の地が舟運・陸運の交通の要衝であった、ということ。常陸川(ひたち)水系(現在の利根川水系)、渡良瀬川から古利根川水系(大雑把に言って、現在の江戸川)といった水系が入り乱れ、つながり、迷路状に絡み合う、一種の「運河地帯」であったのだろう。現在からはなかなか想像できないが、往古の舟運というのは商品流通の手段としては重要であったようで、各川筋には数多くの河岸がある。利根川水系では高崎に近い倉賀野など江戸時代、物流の一大集散地であった、とか。実際、関宿合戦に勝利し、梁田氏から関宿(現在の江戸川と利根川の分岐点)の支配権を奪い取った北条氏照など「一国にも値する」と大喜びしたほどである。津料、ひらたくいえば通行料も結構なものであったのだろう。関宿合戦については、後ほどメモする。
船運の要の地であった古河は、陸路の要衝・クロスロードでもあった。舟運は便利ではある。が、大軍の移動といった大規模物流・機動性には少々難がある。それを補うのは陸路。その点からしても、古河は幸手、元栗橋をへて古河に通じる奥州本道とも呼ばれる鎌倉街道、東山道武蔵路の途中から北東へ分岐し、鷲宮をへて渡良瀬川を越え古河に至る奥州便路といった鎌倉を結ぶ当時の幹線道路が交差していた。

鷹見泉石記念館
さてさて、やっと散歩に出かける。歴史博物館を離れ、道を隔てて南隣に鷹見泉石記念館。鷹見泉石って、渡辺崋山の描く国宝「鷹見泉石像」が有名(東京国立博物館所蔵)。土井利位の家老として活躍。幕府中枢の要人を補佐する立場であった泉石の残した膨大な日記は、当時の重要事件を記録してあり、その高い資料性ゆえに、国の重要文化財に指定されている。
「ダン・ヘンドリック・ダップル」という西洋の名前をしばしば用い、洋学界にも貢献した。韮山代官、江川太郎左衛門とも親交あったようである。韮山散歩のイチゴ狩りが思い出される。この記念館は水戸天狗党の乱に巻き込まれ、幕府にくだった水戸藩士100名を収容したところでもある。

長谷寺
泉石記念館を離れ、渡良瀬川の堤に向かう。西に向かう道は昔の御成道、か。往古、左右は水をたたえるお濠であったのであろう。道の南には長谷寺。日本三大長谷のひとつ、とされる。鎌倉から勧請されたもの。これまた鎌倉の長谷寺から名越の切通しへの散歩が懐かしい。
ともあれ、歴史館で手に入れた資料では、濠の端に見える。これは江戸になってからのことであろう。中世のころは、お城も整備されていなく、入り江の対岸に鬼門除けとして鎮座されていた、とか。

渡良瀬川の堤防
成行きで進み、渡良瀬川の堤防に。すぐ北には渡良瀬川遊水地が広がる。現在の土木・治水技術をもってしても、こういった調整池・遊水地が必要な「あばれ川」であったとすれば、昔はこのあたり一帯は幾多の細流が入り乱れる、大湿地帯が広がっていたのであろう。
遊水池の南には利根川が流れる。が、これは江戸の利根川の東遷事業で掘削された水路。「新川通り」などと呼ばれていたよう。昔は栗橋あたりを源流とする常陸(ひたち)川が銚子に向かって流れていたのであるが、利根川の東遷以前には江戸湾へと流れこんでいた渡良瀬川も、時として常陸川へ流れ込んでいた、と。この遊水池の規模を見るにつけ、大いに納得。

古河城址

渡良瀬川の堤防を歩く。ひょっこり、「古河城址」の案内。昔の本丸のあったあたり、とか。渡良瀬川の河川改修で取り壊されたのであろう。それにしても、結構大きな構え。南北1800m、東西550mにも及んだ、と。資料を見ると、本丸あたりに頼政神社が。現在は歴史博物館の北西にある。この神社も河川改修工事のときに移されたものであろう。

古河総合公園・古河公方館跡
新三国橋まで下り、東に折れ古河総合公園に。郷土物産展といったイベントで人が集まっていた。なにがうれしかった、といって、秩父で買った「田舎饅頭」がここでも手にはいったこと。祖母の味を堪能する。
公園を南に進む。池、というか、沼にかかる橋を渡り、池に挟まれた下状台地の雑木林の中に。ここに古河公方館跡がある。足利成氏が古河に移り、最初に館を構えたところ。鴻巣御所と呼ばれた。ちょっとした堀切や虎口付近には土塁らしきものも残る。義氏と氏女の墓所があった。義氏って、秀吉の頃の古河公方。氏女って、義氏の息女。秀吉により、子弓公方・足利義明の孫に嫁ぎ、下野・喜連川に。あれこれの有為転変の末、この地でなくなった、と。

古河の地形
カシミール3Dでつくった地形図で古河城、古河公方館跡を取り巻く地形をチェック。さきほどの『日本人はどのように国土をつくったか;学芸出版社』を参考にする。歩いているときにはそれほど地形のうねりを感じることはできなかったのだが、あらためて地形図をみると、古河城・館の地は下総台地の西端・猿島台地と呼ばれる低い台地上にある。
この台地は東西、そして南を川・湿地で囲まれている。西は渡良瀬川。東は昔、大山沼と呼ばれる沼地があった。明治に干拓され現在は向掘川と呼ばれる細流が残すだけである。が、昔はこの川は渡良瀬川上流にあたる思川の派川であり、水量豊かな流れであった、とか。ちなみに、鴻巣御所を取り巻く、御所沼であるが、これは向掘川の豊かな地下水流というか伏流水が台地下をくぐり、この御所沼の谷戸の奥に湧き出たものではないか、と言われている。
この向掘川、昔は大山沼入り、その先、栗橋のちょっと東あたりで利根川に流れ込んでいた。利根川といっても、江戸期に東遷事業で開削された「赤堀川」と呼ばれた流れではある。
で、開削以前はどうか、というと、このあたりは、南に進み江戸湾に流れる渡良瀬川水系と、栗橋あたりを源流点とし、東へと進む常陸川(ひたちがわ)を隔てる、曖昧なる「分水嶺」といったところ、と『日本人はどのように国土をつくったか』では指摘する。つまりは、大山沼の水も渡良瀬川水系に流れることもあれば、逆に渡良瀬川の水が常陸川に流れこむこともあったのでは、と。猿島台地の両端は、流れの向きの不安定で滞りやすい湿地を成していたため、古河は西・東・南の三方を水に囲まれた要害の地であった、という。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

『日本人はどのように国土をつくったか』の記述を続ける。「渡良瀬川を望む、この猿島台地の西縁に、流れと平行して深く北方へ切れ込む谷戸がある。それと行き違うように低い台地が南に向かって細長く突き出していた。立崎と呼ばれるその岬の先端に古河公方は城を構えた。いわゆる水城である。そこから少し南に、やや太い谷戸が東に向かって、台地へ切れ込んでいる。八つ手の葉のように分かれたその先端は、台地の分水嶺の近くまで貫入して、反対側の向掘川から延びた伏流水が音を立てて湧き出していた。八つ手になったその谷戸状の沼に三方を囲まれた舌状台地が突出している。
疎林に覆われたその眺めの良い場所に、公方の居館・鴻巣御所があった。沼はいまでも御所沼と呼ばれている。古河公方の居城と館はこうした湿地の迷路の奥にあった」、と。つまりは、古河の地は、猿島台地という水に囲まれた要害の地であった、ということだ。
なぜ、古河なのか、という疑問も、地政学的、および地形学的に自分なりに納得。散歩の距離の割りにメモに時間をとられた。が、長年の疑問も解消し、次の目的地に、心も軽く向かうことにする。
岩井を歩く
平将門のゆかりの地を訪ねる散歩メモの第二回。古河を離れ次の目的地、平将門ゆかりの地、坂東市・岩井に向かう。途中どこか見どころがないかと地図をチェック。東仁連川、飯沼川、西仁連川といった川筋が集まる逆井の地に、逆井城跡公園。どういった由来のお城かわからない。それよりも、この城跡の北を流れる
飯沼川が気になった。これって、昔の飯沼の跡地ではなかろうか、と。
将門ツアーをいい機会と、いくつか将門に関する本を読んだ。どこかの古本屋で求めた『将門地誌:赤城宗徳(毎日新聞社)』と『全一冊 小説平将門;童門冬二(集英社文庫)』などである。ちなみに、赤城宗徳さんは農林大臣などを歴任した政治家。最近、こういった、「格好のいい」政治家がいなくなった、なあ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

ともあれ、本の中に飯沼が登場していた。将門の妻子がこの沼地東岸に隠れていたのだが、敵である伯父の良兼の軍が去ったと勘違いし出て行ったところを見つけられ、惨殺された場所である、とか。古河から17キロ程度であり、岩井への道筋からそれほどはなれてもいない。携帯カーナビ・EZ助手ナビをセットし、逆井に向かう。カーナビのガイドゆえに、経路わからず。(土曜日, 5月 12, 2007のブログを修正)


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本日のルート;古河市>古河歴史博物館>高見泉石記念館>利根川>古河総合公園>古河公方別邸>・・・>境歴史民俗資料館>逆井城址公園>岩井・国王神社>岩井営所跡>関宿城

逆井城跡公園
逆井城跡公園に。周囲を低地で囲まれた台地上にある。戦国期の城郭が再現されている、と。どうせのこと、おもちゃのような、味もそっけもない城郭もどきのコンクリート建築であろう、と思っていた。が、予想に反し、時代考証をきちんとした城郭がつくられている。近づくにつれ、台地上に城を囲む土塀と井楼(井桁状に骨組みを組み合わせた高層の櫓)と望楼が見える。当時、井楼があったのかどうか、はっきりしないようだが、ともあれ戦国の雰囲気を感じることができる。
大手門でもある西二ノ曲輪にかかる木の橋を渡り城内に。大手門下には入江。飯沼からの荷を運ぶ舟入跡であろう。大手門横に二層の望楼が。城郭内部から見た土塀もなかなかリアル。城内には関宿城から移した門や戦国期の本丸殿社をもとにした御殿、観音堂などもある。一ノ曲輪のあたりには櫓門と木の橋。櫓門の周囲には土塁も残っている。木橋下の空掘りも結構深い。
この城は、逆井氏の築城と言われる。逆井氏は、豪族・小山氏の係累。逆井の地を領したため逆井氏、と。その後、小田原北条氏によって落城。ちなみに、城内にある「鐘掘り池」は落城時、城主の息女か妻女か、どちらか定かはないようだが、ともあれ先祖代々伝わる鐘をかぶって身を投げた池、と言われている。
この城を落とした小田原・北条氏はこの城を、佐竹氏、多賀谷氏といった常陸勢力、また越後の上杉謙信に対する拠点として整備。現在残っている城の構えになったのも北条氏による大規模な縄張りの結果誕生したものであろう。

飯沼
城の端から飯沼方面を眺める。いかにも沼であったかのような、低地が広がる。台地下に西仁連川が流れる。不自然なほど直線の川筋。こういった川筋はほぼ、人工的に開削されたもの、と考えてもいいだろう。実際、この川は江戸期に飯沼の水を抜き、新田とするための水路であった。地形大好き人間としては、この飯沼の変遷が気になった。ちょっと調べる。
現在この地には東仁連川、飯沼川、西仁連川がそろって流れている。そしてこれらの河川は下流でひとつになって、利根川に注ぐ。西仁連川は栃木県南部が源流。三和町で東仁連川と別れる。飯沼川はその少し下で東仁連川から分かれている。西仁連川と飯沼川は坂東市幸田新田で合流。東仁連川は水街道市を経て、飯沼下流部で飯沼川と合流。そしてこの飯沼川は野田市で利根川に合流することになる。
はてさて、これらの河川は飯沼の水を抜き、新田を開発するために工事がなされた。最初の工事は飯沼の水を利根川に逃がすため、飯沼下流部から利根川まで川筋を開削。これが飯沼川のはじまり。
次におこなわれた工事は、更に飯沼の水を落とすため、沼の中央に水路を通し、下流部の飯沼川と繋ぐ。その次の工事は、飯沼に流れ込んでいた川筋を東西に分岐。ふたつの川筋とした。西が西仁連川、東が東仁連川。これは、新田に灌漑用水を供給するための川である。このとき、西仁連川は飯沼の南端まで掘り進め、飯沼川と合流させた。東仁連川は現在とは異なり、鬼怒川に流れるようにしていたようである。このように、飯沼の水を利根川や鬼怒川に流すことにより、新たな新田を開発していった、ということである。

飯沼は将門の妻子が殺されたところ
この飯沼であるが、将門の関連としては、上にメモしたように、将門の妻子が殺されたところである。このときの将門は勇猛なる武将とは程遠い行動をとっている。京において、庇護者とも頼む太政大臣・藤原忠平より、「もう少々おとなしくしなさい」などと諭されていたことも一因かもしれない。その遠因となったのが、「野本合戦」。前常陸大掾源護の息子が将門を討つべく待ち伏せ。が、逆に返り討ちとなる。将門はこの「野本合戦」で息子をうしなった源護の訴えにより京都に召還される。結局無罪ではあったのだが、その際に忠平に自重を求められていた、ということだ。ちなみに、野本合戦のおこなわれたのは下妻市の東、明野町赤浜である。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」) 

この赤浜からすこし西に小貝川にかかる子飼渡(小貝大橋のあたりか)がある。この渡での「奇計」も将門の戦う気力を削いだといわれる。その奇計とは、良兼(伯父)と貞盛(伯父である国香の息子)が、子飼渡の渡河に際し軍の先頭に「高望王と将門の父・良将の像」を押し立てて進んできた、ということ。将門は尊敬するふたりに弓矢を向けることができなかった、などとも言われる。当時将門は子飼渡から南西に降りた鬼怒川沿いの千代川村鎌庭に館を構えていたようだが、戦う意欲のない将門を見て、良兼軍は更に第二波の攻撃をおこない、鎌庭の対岸・仁江戸のあたりまで攻め込んだ。で、件(くだん)の飯沼の芦原へ逃れ、結局妻子を失うことに、なるわけである。
飯沼と将門の関係をもうひとつ。正確には将門というより父の良将と菅原道真の三男景行の関係。景行が常陸介として羽鳥の地、現在の真壁町というか、筑波山の西の麓ってところに館を構えた。が、飯沼の開拓に励むため大生郷に移る。現在の坂東市の東、鬼怒川沿いの場所にある。当時の大生郷は飯沼に臨んだ高台であった、よう。飯沼は周囲十数理におよぶ大湖水。大小17の入江があり、まわりは鬱蒼たる森林に囲まれていた。南北22キロ。東西1.5キロ。景行と良将のコンビで下総の開拓につとめた、という。

逆井は将門終焉への闘いの舞台
飯沼というかこの逆井と将門の関連を更にひとつ。先ほどの子飼渡のエピソードの時期からは少し下るが、この地は、将門終焉への闘いの舞台でもある。関八州の国府を制圧した将門は宿敵貞盛・為憲を求め常陸北部の掃討作戦を進める。が、貞盛、為憲の所在つかめず。一時軍を解散。そのとき、秀郷4000の兵を集め将門討伐に立ち上がる。将門にとっては予想外のことであった、よう。仲間とも、よき理解者とも思っていたようだ。老獪なる秀郷ならではの行動、か。とまれ、その報に接した将門は1000人の兵を率いて秀郷の本拠・田沼(佐野市)に進軍。敵軍見つからず。後続部隊が岩舟町(佐野市の東側)の北西の小野寺盆地に敵軍発見。全軍一致の軍令に背き、個別攻撃。戦上手の秀郷軍に包囲され敗れる。
岩船で敗れた将門軍、東に逃れ結城から本拠地岩井へと逃れる。将門軍は水口村(八千代町・猿島町の北)に陣を張る。ここは結城から岩井に通じる要衝の地。戦闘。緒戦は将門軍有利も、次第に貞盛・秀郷軍優勢に。将門軍、猿島の広江(飯沼)に退却。沼地に常陸軍をおびきよせ、討ち破る計画。が、貞盛はその手にのらず、猿島郡と結城軍の境、いまの逆井に到着。将門をおびき出すため村落を焼く。そうして、最後の決戦地、将門が討ち取られた地、国王神社あたりに続くことになる。

さしま郷土館ミューズ
逆井、飯沼でちょっと寄り道が過ぎた。岩井の国王神社に向かうことにしよう。県道135号線を南東に下る。途中坂東市市山にある「さしま郷土館ミューズ」に立ち寄り、猿島資料館で猿島の歴史などをちょいと眺め、沓掛あたりで県道20号・結城岩井線を南に折れる。江川を越えると国王神社。江川は猿島町から菅生沼までの14キロ程度の川。飯沼川とか仁連川といった江戸時代に新田開発のためつくられた川ではなく、昔からの水路を改修してできたもの。で、やっと当初の目的地・国王神社に到着。

国王神社
茅葺の国王神社拝殿。道路脇にあり、神さびた、という社ではなかった。読みは「くにおう」と。説明文のメモ;「祭神は平将門である。 将門は平安時代の中期、この地を本拠として関東一円と平定し、剛勇の武将として知られた平家の一族である。天慶三年(九四〇)二月、平貞盛、藤原秀郷の連合軍と北山で激戦中、流れ矢にあたり、三十八才の若さで戦死したと伝えられる。その後長い間叛臣の汚名をきせされたが、民衆の心に残る英雄として、地方民の崇敬の気持は変わらなかった。本社が長く地方民に信仰されてきたのも、その現われの一つであろう。本社に秘蔵される将門の木像は将門の三女如蔵尼が刻んだという伝説があるが、神像として珍しく、本殿とともに茨城県文化財に指定されている」と。
ここは将門が陣没したところと伝えられる。将門の二女が出家し如蔵尼と称し、この地に庵を結び父の冥福を祈る。この庵が後にこの国王神社となった、とも。上で将門終焉の地へのエピローグともいう合戦を逆井まで下った。将門は飯沼の地に隠れ、戦いの時期を待っていた。援軍を待っていた、とも。援軍は伯父の良文の軍である。良文は他の伯父とは異なり、常に将門の理解者であった、よう。が、良文の援軍が来ることはなかった。
願い叶わず。飯沼の隠れ家を出て、菅生沼を渡り、岩井の北山に陣を張る。貞盛・秀郷軍と矢合わせ。緒戦将門軍勝利するも、将門軍400対貞盛・秀郷軍3000の勢力差はいかんともしがたく、国王神社の地で矢にあたりあえなく討ち死に、となる。

平将門のあれこれ
平将門って、名前はよく聞くのだが、実のところあまり詳しく知らない。関東に独立国をつくろうとした、とか、所詮は伯父と甥の身内の勢力争いである、といった程度のことしか知らない。いい機会なので概要を整理した。参考にしたのは、赤城宗徳さんが書いた『将門地誌』である;

平将門について; 桓武天皇の第四子に葛原親王という人がいた。東国に荘園をもち、9世紀には常陸の太守にもなっている。といっても任地に赴任することはなく、いわゆる遙任として京に留まっていた。この葛原親王の子が高見王であり、その子が高望王。この高望王が「平」姓を賜り上総介として東国に下ることになる。朝敵を"平らげたる"ゆえに、「平」ということだ。
当時の上総の地は、騒然としていた。大和朝廷に征服され、帰順した「えぞ」・俘囚が反乱を起こしていたわけだ。ということで、高望王の仕事は国内の治安維持ということであった、よう。ということもあり、高望王は息子を国内要衝に配置。長男・国香は下総国境の市原・菊間。鎮守府将軍の任にあたる。二男の良兼は上総東北隅の横芝。三男の良将は下総の佐倉。この人が将門の父。四男は上総の東南隅の天羽。この四男はあまり登場しないので、名前は省略。上総の四周の要衝を息子で占める。五男の良文は京都に留まっていた。
高望は地元の有力者との婚姻政策も進める。 良兼と国香の子である貞盛には常陸大掾源護源護の女、良将には下総相馬の犬養氏の女、といった具合である。良兼は源護から婿引出として常陸国真壁郡羽鳥(筑波山西麓)の荘園をもらっている。良将は事実上の下総介、鎮守府将軍として一族の中で重きをなしていた。こういった中、高望の死。朝廷は藤原利仁を上総介・鎮守府将軍に。平一族の勢威を快く思っていなかった朝廷の平氏牽制の政策、か。国香の不満大いに高まった、とか。
といったところでの良将の死。一族のバランスが一挙に崩れる。良兼が良将の遺領の切り崩しをはじめたわけだ。そのころ、将門は京にあり太政大臣藤原忠平のもとに仕える。滝口の武士、といった武勇にすぐれた衛士として認められていたよう。忠平の覚えもめでたかった、とも。
将門帰国。相馬御厨の下司として戻る。場所は取手市上高井のあたり。将門の居館は「守谷」にあった。後に、本拠を豊田郡鎌輪に移した、と。その当時の父良将の旧領の状況は、成田以東の利根川沿いは良兼に、千葉から東は国香、千葉以西、利根川以南は印旛沼周辺を覗いて良文の領地となっていた。
ここで登場した良文は高望王の五男。38歳まで京に留まる。下総に下ったのは高望が死んで12年。良将が死んで5年。将門が京に出て3,4年のこと。相模の村岡郷(現在の大船付近)や、秩父にも領地をもつ。ために、村岡五郎と呼ばれた、と。良将がなくなり、将門が上京したあと、国香や良兼が、良将の旧領を侵蝕。波瀾含みの遺領を安泰ならしめる対策として、良文に内命が下り、東国に差し遣わされた、と。で、下総は安泰。帰国した将門は利根川以北の下総経営に専念できることになる。この良文は国香とも争っている。国香を上総から常陸に移したのはこのため、とも言われる。この良文は他の伯父とはことなり将門の味方であった。

野本合戦
京より戻った将門は相馬御厨の下司として、また、北総の地の開拓をおこない国土経営につとめるが、争いが突然やってくる。荘園拡張を計画する源護の息子が将門を待ち伏せ。殺すつもりななく、単に脅しのためだけであった、とも言われるが、結果的に将門の反撃により源護の息子3人戦死。源護を助けた国香も傷がもとでなくなる。これが先にメモした「野本合戦」である。場所は明野町赤浜である。国香の館は明野町東石田。赤浜の直ぐ近くにあり、源護は息子貞盛の義理の親でもあり、国香自身も源護の後をつぎ常陸大掾となっていたり、といった関係もあり、援軍に出向いたのであろう。
平良正(扶らの姉・妹婿)が将門への復讐戦をはじめる。が、力不足のため良兼に助け求める。戦は将門有利。下野国分寺(栃木県下野市;小金井駅の近く)まで良兼を追い詰める。最後は見逃す。ここからが一族が相い争う「天慶の乱」のはじまりとなる。

天慶の乱
源護が将門に非ありと、京に訴える。が、非は己にあり、ということで将門は無罪。帰国となる。途中、近江・甲賀での貞盛の待ち伏せの噂。争いをさけるため、海路をとる。京都より大阪に下り、海路紀州灘より伊勢湾にはいり、名古屋に上陸。そのあとは、中山道が危険ということで、東海道に沿って、道なき道を進むことに。当時宿などもなく、まして食べ物なども自給自足しかない、艱難辛苦であった、よう。

青梅の将門伝説
東海道を東に進み、富士山麓をとおり、大月に。その後、佐野峠をへて青梅渓谷にはいる。青梅では二俣尾の海禅寺にはいった、との伝説がある。それから、秩父にでるか青梅にでるかということだが、当時青梅には国府の大目(だいさかん)にあたるものが派遣されており、土着し、大目(おおめ)という名で里正(さとおさ)をつとめていた。この大目氏は将門を快く受け入れた。ために、青梅に入る。高峯寺を宿所とした、と。
高峯寺に留まり、下総か武蔵の状況を偵察。武蔵の郡司・武蔵武芝が将門に敵対しないこと、そしてその人となりを知り、武蔵を無事通れることを確信。後年、この武蔵武芝が窮地に陥ったとき、頼まれもしないのに調停に赴いたのは、このときの恩義、か。また、有名な青梅伝説ができたのも、このとき。大目氏の邸宅に梅の老木。将門、この梅の枝を杖とし、金剛寺に。寺の境内に枝をさし曰く「梅 樹となり、東風を得て花を咲かせよ、わが運命もかくのごとく開けん」。開花結実するも、霜雪の候にいたって、なお実青く枝に残る。 以降、大目氏は青梅と名を改めた、と。

子飼渡
ともあれ、京都から4カ月をかけて故郷にもどる。故郷に戻った将門は忠平の訓戒を守り、自重。それに乗じた良兼が仕掛けたのが、上でメモした「子飼渡」からはじまる闘い。武力放棄していた、といった将門であるが、妻子を殺戮され、しかも財宝すべて奪い取られ、怒りの報復戦をおこなうことになる。良兼が羽鳥に来ているのを知り、攻撃。略奪の限りをつくす。が、良兼をとらえることなく引き揚げる。将門が朝廷に告訴状。良兼追討の官符。次いで、良兼から将門への告訴状。将門追討の官符。朝廷の無定見このうえなし。
羽鳥を破壊尽くされた良兼の報復戦がはじまる。当時の将門の本拠地は鎌輪の地。鎌輪は羽鳥にあまりに近く、危険ということで、猿島の石井(岩井)に移る。岩井への良兼の夜襲計画。未然にこれを防ぎ、良兼負け戦。この戦を機に良兼は闘争心を失い、翌年にはこの世を去る。
貞盛、将門謀反を唱える。朝廷にその旨訴えるべく、京に向かう。その貞盛を追って千曲川まで駒を進めたのもこのころ。将門謀反を唱えるものがもうひとり現れる。武蔵介・源経基である。このきっかけは武蔵国・郡司との紛争。武蔵権守興世王、介である源経基と武蔵郡司・武蔵武芝との紛争。頼まれもしないのに将門が調停を買って出る。将門・興世王・武芝の交渉。調停不調と勘違いした武芝の軍勢が源経基を包囲。経基、京都に逃げ帰り、「興世王、将門謀反」と虚言を呈す。おめおめ逃げ帰った己の保身のため、といわれている。

常陸国府石岡の攻撃
こういった、将門謀反の噂の中で起きたのが、常陸国府石岡の攻撃。将門の生涯での一大転機となる。それまでは一族間の、いわば内輪揉めであったものから、国府という国の機関、その関係者との戦いになった、ということ。
常陸国府石岡の攻撃にいたる経緯はこういうこと。常陸介・藤原維幾は国香の妹婿。その息子・為憲が将門の領土を得んものとして、伯父の平貞盛と共謀。国司である父の力を利用し、国の兵器・軍備を使って将門戦の準備をしたわけである。
この報に接した将門は先手を打って国府を攻撃した。自衛手段として、といっても国府の攻撃。叛乱とみなされても仕方なし。で、将門の結論は、「一国をとるも誅せられ八国をとるも誅せられる。誅は一なり。如かず八国をとらんには」、ということで下野(栃木)、上野(群馬)、武蔵(埼玉・東京)、相模(神奈川)の国府を攻撃。国司を追放。「新皇」を称する。
京都にショック。天位を覆す企てと。全国に檄をとばし、大規模な征討軍の派遣決。が、征討軍が到着する前に、貞盛と藤原秀郷の連合軍のため、石井(岩井)で戦死。この間の経緯は上にメモしたとおり。

岩井営所
なんとなく平将門、およびその騒乱についてわかってきた。散歩を続ける。国王神社を離れ、岩井営所に。国王神社のすぐ近く。ショートカットで畑の畦道を進む。直ぐに島広山の岩井営所跡に。「昭和のはじめまでは老杉亭々として空にそびえ、けやきの大木と友に水天宮の祠をおおい、清水を湧出して、一ひろの清水をたたえていた」、と『将門地誌』に書いてあったが、現在は民家の庭先といったところ。実際、見過ごして歩いてしまった、ほどである。ここが将門の政治・経済・軍事の中心地であった、といわれても、現在は、のんびりとした田園風景が広がるのみ、であった。

延命寺
島広山の台地を下り、道なりに進み延命寺に。ここは、国王神社の別当寺。将門の守り本尊であった薬師如来をまつり、別名、「島の薬師」とも呼ばれる。寺の由来書によれば、石井営所の鬼門除けとして設立。貞盛・秀郷により石井営所一帯が焼かれたとき、薬師如来は移し隠され、世が落ち着いてから現在の低湿地に移された、と。カシミール3Dでつくった地形図をみると、なるほど、江川によって開析された谷戸が深く切り込まれている。昔は、東に菅生沼、西に鵠戸沼、南は小さな沼が点在した低湿地であったのであろう。。
散歩の距離の割りに予想通り、メモに結構手間取った。これで将門巡りは終了。次の目的地、関宿へと向かう。

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