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第四回「会津街道探索ウォーク:一泊二日」の二日目は西会津町縄沢からはじめ、束松峠までの散歩をメモした。今回は二日目の後半、束松峠を下り、会津坂下町天屋・本名の集落を経て、只見川手前の会津坂下町片門集落までをメモする。



本日のルート:出発地点・国道49号(縄沢)>兜神社>甲石の採石場とネズミ岩>ガラメキ橋と一里塚跡>大畑茶屋跡>旧会津街道に>軽沢新道>軽沢>旧越後街道道標>舗装道とクロス>戊辰戦争塹壕跡>束松峠

束松峠>子束松>切通し>束松洞門>天屋一里塚>地辷(地滑り)点>旧街道石畳跡>旧越後路木標>「旧道入口」木標>天屋の束松>峠の六地蔵>松原屋>津川屋>阿弥陀堂>束松事件跡>そば畑>諏訪神社>片門集落>片門の渡し跡>肝煎・渡辺家>片門の薬師堂・薬師如来>長龍寺


束松峠から会津板下町片門まで

子束松:12時53分
束松峠で休憩の後、12時50分前に峠から下る。道脇に「子束松跡」の案内があり、「県指定天然記念物の通称「子束松」は、養成のかい無く、枯死したため、平成10年6月伐採した」とあり、周囲に松の木らしき倒木があった。
束松
子束松?天然記念物?そういえば、束松峠にこれといって、「束松」の案内がなかった。あれこれチェックすると、束松峠の会津坂下町側の山麓に、根元で束ねられたような形状のアカマツが十数本あったのが、名前の由来。その内4本が天然記念物に指定され、この「子束松」もそのひとつであった、と。

切通し:13時
子束松から10分弱、緩やかな尾根筋を進むと、道の左手に尾根筋を切通した箇所がある。ここが江戸の会津・越後街道と明治に開削された道の分岐点。もともとの会津街道は、切り通しで分断された尾根筋を下っていたようである。
切り通しを越えたところに、旧街道への分岐点がある。右に折れると旧街道、明治に開削された道は直進し、束松洞門に向かう。

分岐点の傍に「束松洞門」の案内がある。概要をメモする;
束松洞門
「束松洞門は、ここ天屋側入り口から軽沢入り口まで、全長約240mのトンネルで、明治20年(1887)、地元民の努力により貫通。
明治となり、人・物の移動がそれまでの人や馬に代わり、馬車や荷車等により大量に運ばれることになる。
会津五街道のひとつ、越後海道は新発田藩・村上藩でもあり、幕府の佐渡路でもあったが、束松峠は険しく馬車の通行を阻むものであった。
このため明治10年には鐘撞堂峠から西羽賀・野澤芝草に通ずる裏街道が計画され、明治15年には時の県令三島通庸による会津三方道路越後街道が藤峠経由となる。
かつて宿駅として栄えていた舟渡・片門・天屋本名・軽沢などの住民は、生活に困ることになり、「夢よもう一度」と洞門を掘ることを思いつき、明治13年の頃から測量を開始し、紆余曲折を重ね、明治27年新道も完成、落成式が行われる。
洞門入り口には茶屋も設けられ、馬車も人力車も通る道として賑わいを戻したのも束の間、鉄道の開通、自動車の普及はこの洞門道を不要としてしまった。 昭和20年頃までは修繕を重ね、通行できたが、今では崩落激しく通行不可となった(高寺地区地域つくり協議会)」。

束松洞門;13時13分
馬車の通れるような広い道、路肩の崩れた箇所などを進むと大きな広場となり、その先の岩壁に洞門が見える。入り口部分の坑口は半分以上土砂で塞がれている。土砂を上り内部を見る。結構広い。
広場にあった「束松洞門概略図と内部状況」によれば、全長236mの洞門はこの天屋・本名側入口と軽沢側入口が土砂で埋まっており、天屋・本名側はそれでも坑口の半分ほどの空きスペースがあるが、軽沢側はほとんど閉塞状態(人ひとりギリギリで通れる空きスペースとか)。洞門内部も2箇所崩落土砂でスペースが狭くなっているようである。

束松洞門の開削の趣旨は、上記「束松洞門」の案内の通りであるが、若干補足すると、産業振興のため、道路整備を進める明治政府のもと、明治10年、当地を管轄する区会所が、鐘撞堂峠以西は束松峠を通らない上記路線計画を示たわけだが、路線の変更に対し、天屋・本名・杉山・軽沢(現西会津町)の4集落からなる束松村(明治8年に成立)では、同年7月に福島県に対して本街道の北側に新しい道路の開削を建言している。
が、結果は区会所案とも異なるもの。新たに県令(県知事)になった三島通庸は、明治15年(1882)に越後街道の鐘撞堂峠以西を、藤峠経由で野沢に至る、いわゆる会津三方道路の開削計画に変更した。

「束松洞門」にある、「夢よもう一度」と洞門を掘ることを思いつき、明治13年の頃から測量を開始し・・・」の件(くだり)は上記現実を踏まえてのことである。
村人は自らの力で建設した新道(「明治新道」)の格上げ運動を引き続きおこない、昭和も終わるころ「県道」に指定されたようだ。
この洞門を抜け軽沢に抜ける道は県道431号・別舟渡線となった。しかし、工事整備されることなく、今に至る。
尚、束松峠手前で出合った舗装道を県道431号と上にメモし、その未通区間について「思考停止」としたが、その舗装道は本来、束松洞門を抜ける県道431号・別舟渡線のバイパスとして企画されたようである。県道431号・別舟渡線は本線も、バイパスも途中で道が途切れ、未通県道となっている。

束松洞門軽沢側入り口とその先のルート
ところで、束松洞門軽沢側入り口はどの辺りにあるのだろう。あれこれチェックすると、軽沢側入り口は軽沢側の等高線400mが東に切り込んだ最奥部。そこから350m等高線まで等高線400mの北側カーブに沿って緩やかに下り、そこでヘアピンカーブで折り返し。折り返して再び350m等高線まで戻り、そこから350m等高線に沿って進み、軽沢からの県道341号が磐越自動車道を越え、左へと稜線に延びる破線(天屋林道)に繋がる。

天屋一里塚;13時31分
束松洞門から道を戻り、切通し手前で左に折れて尾根筋を進むと標高401ピークの傍に天屋一里塚。街道の両側に塚が残る。一里塚からの眺めは会津坂下町とその向こうの勝負沢峠の山稜であろうか。
この一里塚について「主催者資料」に、「寛文7年(1667)頃つくられた。会津では一里壇とも呼ばれる。一対の塚が残るのは会津領の越後街道では唯一」と。
また、「一里壇に木(私注;いい木?)を植えよ」を「榎を植えよ」と聞き違いため会津では榎が塚に植えられた、とあるが、全国の塚の過半数が榎であり、松が四分の一強、次いで杉が一割、というから、特段榎は会津特有のものではない。
家康が「ええ木を植えよ」を「榎」と聞き違えたといった話もある。実際の所は、成長が早く大木になり、枝が多くでるので木陰で旅人が休息が来れる、といった利点からとも言われる。



地辷(地滑り)点;13時39分
一里塚から少し下ったところに「地辷り」の案内;
「大正14年2月14日夜此処一里壇の直ぐ傍ら即ち旧越後街道を削って谷のように陥没し、上部の幅は凡そ4,50間、下方の幅は凡そ100間余の地辷り。その長さ170間本名村新田郷(私注;不鮮明)を埋没して終わった。
そのことごとくが山林で樹木が姿を消し所有者数人の境界さえ不明となる。是を本名八百刈りの地辷りと言う。 平成三年 」とあった。
尾根道がちょっと坂のように陥没している感があるが、それが痕跡だろうか。直ぐ下を磐越自動車道が走っている。

旧街道石畳跡;13時44分
地辷(地滑り)点から5分程度下ったところに「旧街道石畳跡」の木標。とはいいながら、よく見ればそうかな、といったもの。「主催者資料」にも、「束松峠の通行が盛んだった明治初年まえは、石畳が何kmも続いたが、炭焼き窯に使われたり、馬車の通行に邪魔になったりで、今ではほとんどなくなってしまった」とある。
石畳道といえば東海道箱根越え・西坂に残る「本格的」石畳道を想い起こす。箱根の石畳を歩いたのは雨の日。つるつる滑り、誠に危なかった。沢上りの時には、底にフェルトのついた渓流シューズの代わりに草鞋といった選択肢もあるわけだから、旅人は泥濘より楽ではあろうし、馬も蹄鉄ではなく草鞋履きが主流の日本ではあったわけで、それなら石畳でも不都合なかったのだろうか。

旧越後路木標;13時50分
「峠路の雨はつめたし朴の花 昭和10年 桂林(私注;満田桂林;詳細不詳)」と書かれた木碑を見遣りながら下ると「旧越後街道入口」の木標。今下って来た道が旧越後街道。木標脇に「左 新道」と有る。束松洞門を経て軽沢に向かって開削された「明治新道」の道筋かと思う。明治新道って残っているのだろうか。
そういえば、束松洞門に向かう切通しの尾根道手前に道があったように思える。切通しには車が写真に写っているし、主催者の四駆も束松峠まで上ってきているわけであり、車が通れる道が残っているとも想像できる。地図には全くその道筋は記載されていないが。。。

「旧道入口」木標;13時55分
旧越後街道から5分程度下ると、あたりが開ける。尾根筋を進んで来た旧越後街道が山裾に下りたということだろう。旧越後街道へのアプローチを示す「旧道入口」の標識が建つ。これだけ「旧道」を明示するということは、新道・明治新道が未だ「現役」って思いを強くする。


天屋の束松;13時57分
「旧道入口」の傍、道の、右手のすこし高くなったところに「天屋の束松」の案内;
「旧越後街道に沿う標高300メートル前後の丘陵地帯に、束松と呼ばれる特殊な樹形のアカマツが10数本ありました。これらの松は樹幹の下部から中部にかけて多数の枝を出し、傘状の樹冠を形成しています。枝の形状が、あたかも根元で束ねたような姿を示すので、束松の名がついたと言われます。このような樹形は、おそらく遺伝的なもので、成長するにしたがって独特の樹形を示すようになったと思われます。
束松群の中で特に目立つ4本が、県の天然記念物に指定されましたが(子束松・孫束松・曾孫束松・三本松)、松枯れ等により子束松、孫束松、三本松は枯死してしまいました。ちなみに三本松という名は、胸高幹周囲が2メートルをこえ、地上1.5メートルのところで3本の大枝に分岐するので、この名があります。また、束松峠という名も、峠頂上に大きな束松(江戸時代に枯死したといわれます)があったので、その名がついたといわれています」とある。
「主催者資料」には、「平安時代末期、八幡太郎義家公が、前九年の役の際、ここを通り、戦勝を祈願して数本の松を束ねて植えたもの根付いて、今のようになった、という伝説もある」とあった。八幡太郎義家とその父頼義は、此の地から束松を越え兜神社のある縄沢へと下って行った、ということだろうか。

三本松

「天屋の束松」の脇に大きな切り株が残る。これが束松のひとつ、三本松の巨木跡だろう。なお、傍にあった「束松峠案内」を見ると、枯れ死した「孫束松」は束松同門の切通から越後街道を少し下った道の左手、唯一残っている「曾孫束松」は、この三本松跡から右手に進んだ辺りに描かれている。

明治新道
「束松峠案内」には、越後街道と共に、「新道」が描かれていた。「明治新道」ではあろう。ルートは、三本松の少し埼で越後街道の左手に移り、上述した「越後街道入口」木標のところで、越後街道の左手に移り、切通し箇所で越後街道とクロスし束松洞門へと向かっていた。
街道を歩きながら、何故に「越後街道入口」とか「旧道入口」といった標識が並び建つのか、不可解であり、そこまえ標識がある以上、新道・明治新道は未だ「現役」であろうと想像したが、この明治新道のルート図を見て、けっこう筋のいい想像であったと自画自賛。
塩の道
「束松峠案内」の近くに「塩の道一里壇束松を詠ふ」といった句碑が建つ。「会津づくし吟行」という愛好家の詠う句が石碑に刻まれている。句は別にして、「塩の道」というフレーズに惹かれた。
塩の道は全国各地に見られる。「塩の道」として知られる信州千国から大網峠を越えて越後の糸魚川に出たことがある。越後街道も内陸と日本海を結ぶ往還として「塩の道」としても重要な役割をはたしていたのだろう。
牛と馬
それはともあれ、いままで歩いた会津街道の説明で、荷運びの主役は馬のようであり、「牛」があまり登場しなかった。大網峠越えの「塩の道」の荷運びの主役は牛であった。その塩の道も、松本から南の街道では輸送の主役は馬である。 千国街道が馬ではなく牛が使われた理由は、その地形から。難路、険路の続くこの千国街道では「柔」で「繊細」な馬では役に立たなかったのだろう。しかも、馬に比べて牛はメンテナンスがずっと簡単、と言う。馬のように飼葉が必要というわけでもなく、路端の「道草」で十分であった、とか。
会津街道大量運搬の主役で「牛」が登場することはないのだろうか?千国峠越えの牛の供給先は佐渡であったようにも記憶するのだが。。。

峠の六地蔵;14時3分

数分先に進むと道の左手にお地蔵さま、右手に鳥居が建つ。お地蔵さまの傍には大きな石に水が溜まる。お地蔵さまは峠の六地蔵、鳥居は山王の社であった。 「峠の六地蔵」の案内には、「明治の初めのころまで、ここに茶屋があり「地蔵の茶屋」といいました。大きな地蔵の後ろには六地蔵が控え、聖徳太子の石碑・庚申塔などがあります。前には大きな石の船があって、かつては馬の水飲み場でした。
街道は人馬だけでなく神々も往来しました。悪い神が村に入らないように村境を守ってくださるのが、地蔵様でした。
聖徳太子は職人の神様、庚申塔の申(猿)は馬の守り神ということから、祀られたものと考えられます。

道向かいの鳥居は山王神社の鳥居です。社殿はありませんが石の祠があります。山王神社のお使いは猿です。ここにも馬の守り神としての猿があります。当時の人々が馬を大切にした心情が切々と伝わってきます。 高寺地区地域づくり協議会」
地蔵様と遮神
いつだったか、信州から越後に抜ける塩の道をあるいたことがある。そのとき大網峠を越えて糸魚川に出たのだが、途中「塞の大神」と称される大杉があった。
「塞の神」って村の境界にあり、外敵から村を護る神様。石や木を神としておまつりすることが多いよう。この神さま、古事記や日本書紀に登場する。イサザギが黄泉の国から逃れるとき、追いかけてくる「ゾンビ」から難を避けるため、石を置いたり、杖を置き、道を塞ごうとした。石や木を災いから護ってくれる「神」とみたてたのは、こういうところから。 「塞の神」は道祖神と呼ばれる。道祖神って、日本固有の神様であった「塞の神」を中国の道教の視点から解釈したもの、かとも。道祖神=お地蔵様、ってことにもなっているが、これって、「塞の神」というか「道祖神(道教)」を仏教的視点から解釈したもの。「塞の神」というか「道祖神」の役割って、仏教の地蔵菩薩と同じでしょ、ってこと。神仏習合のなせる業。
お地蔵様といえば、「賽の河原」で苦しむこどもを護ってくれるのがお地蔵さま。昔、なくなったこどもは村はずれ、「塞の神」が佇むあたりにまつられた。大人と一緒にまつられては、生まれ変わりが遅くなる、という言い伝えのため(『道の文化』)。「塞の神」として佇むお地蔵様の姿を見て、村はずれにまつられたわが子を護ってほしいとの願いから、こういった民間信仰ができたの、かも。
ついでのことながら、道祖神として庚申塔がまつられることもある。これは、「塞の神」>幸の神(さいのかみ)>音読みで「こうしん」>「庚申」という流れ。音に物識り・文字知りが漢字をあてた結果、「塞の神」=「庚申さま」、と同一視されていったのだろう。
馬の守り神・猿
馬の守り神が猿?はじめて聞いた話でもありチェック:
日光東照宮の有名な「見猿・言わ猿・聞か猿」も社の神厩を守るため猿の像が彫られた、と。昔から猿は馬の病を治し、世話をする守り神とされる、印度から中国をへて日本に伝わった。由来には諸説あり、省略するが、正月に猿回しが厩の前で舞う(厩の前で猿が舞ったのが猿廻しのはじまり、とも)、厩に猿を飼う、猿廻しが来ないところでは、猿の頭蓋骨や骨を吊るし牛馬の無事を願う民間信仰があった、と言う。猿が馬を曳く図が刻まれた庚申塔もある、とのことである。

松原屋;14時16分
六地蔵から10分強で、里が開ける。天屋・本名集落に入り坂道を下ると、道の左手の天屋側(道の北が天屋、南が本名)に松原屋が建つ。「主催者資料」には「戦後まで旅籠を営んでいた。客室の蔵座敷は明治初年に建築されたもので、二棟並ぶ。家の前には水車があり、石畳も敷かれていたが、舗装路となりその面影はない」とあった。

津川屋:14時18分
集落を進み、三叉路の天屋側に津川屋がある。旅籠屋であるが、束松洞門を開削し明治新道が開かれた後は、人力車のサービスも始めた(「主催者資料)。
本名の斎藤家
三叉路から少し南に本名の肝煎・斎藤家がある。「主催者資料」には、「戊辰戦争では本陣として使われ、西軍の刀傷が残っている。明治初年には民生局が置かれる。家の東の高台にはふたつ米蔵跡があり、「一屋は社倉、一屋は本組(野澤組)の米を納める(『新編会津風土記』)」とある。組とは既述の通り(そのⅡ)、数ヶ村から大きくは数十ヶ村をまとめた会津藩の行政組織。

「旧越後街道間の宿天屋・本名」案内
三叉路隅に「旧越後街道間の宿天屋・本名」案内があった。
「旧越後街道間の宿天屋・本名
天屋本名の集落は、街道を挟んで北が天屋、南が本名となりそれぞれ別の行政区となっている。『新編会津風土記』によれば、「天屋村は昔、満田といったが永正のころ(一五〇六~二〇)天屋と改めた。もとは村北五町にあったがいつ頃かここに移した。北条時頼がこの村を通った時(陸奥の満田の山の束松千代の齢を家つとせん)と詠んだと村人たちは伝えている」と記されている。
村中の街道は明治初年までの越後街道で、白河街道の一部、さらには幕府の佐渡道であり、新発田藩・村上藩の参勤交代路でもあった。
江戸時代、会津藩は宿駅制度を定めると、束松峠の峻険を控えた天屋本名は、片門・野沢両駅所の「間の宿」として荷物の輸送や旅宿で賑わった所でもある。名物は生蕎麦で、片門の宿に止まった人たちも、わざわざ天屋蕎麦を食いに登ってきたという。
明治十五年、会津三方道路は、束松峠の険を避け、藤峠経由となってしまった。さしも殷賑(いんしん)を極めた越後街道も人影まばらに、天屋本名は生活の道を失うに至った。
地元民は再び昔の賑やかさを取り戻そうとして、独力で束松峠に長さ四十間余(約二五〇メートル)の洞門を掘り車馬の通行を可能にした。しかし、ときは車・鉄道の時代となり、夢は潰れたが、村人の努力と団結心は今に受け継がれ豊かな集落となっている。束松峠を護る会 会津坂下町教育委員会」とあった。

阿弥陀堂;14時34分
天屋集落の北、只見川に向かって一段低いところに阿弥陀堂。創建時期、延長元年(923)とも言われるが不詳。現在の御堂は昭和18年(1913b)の火災称焼失後建てられたもの。
御堂には像高54㎝の木造坐像。11世紀前半の作と比定され、町の文化財に指定されている。火災により膝前の損傷が激しいこの仏さまは、薬師如来とも考えられている(「主催者資料」)。

束松事件跡;15時12分
本名集落の南に鎮座する諏訪神社を見遣り道を進み、只見川に注ぐ小さな川を渡った先に「束松事件」の現場がある。
案内を大雑把にまとめると、「束松事件は越前藩士久保村文四郎が会津藩士に殺害された事件で、ここ片門新田場が現場である。ここは越後街道に交差して柳津藤(私注;この地の南)から西羽賀(私注;この地の北)に通じる十字路で逃走には絶好の場所であった。
敗戦の若松に置かれた民生局の役人久保村文四郎は、会津藩士を侮辱したり、罪のない会津人を偽札の罪人と言って投獄したり、平生から藩士の恨みを買っていた。
明治2年任終わって故郷の福井に帰郷することとなり、駕篭で新田場滝沢橋近くにさしかかったとき、藪から二人の刺客が現れ殺害される。刺客は西羽賀方面に逃げた。
刺客は剣の達人で高潔の士、伴百悦と高津忠三郎。伴は翌年追われて大安寺村で割腹して果て、高津は明治政府転覆の思案橋事件に加わり断罪された。高寺地区地域づくり協議会」
伴百悦
戊辰戦争後、町野主水(『その名は町野主水;中村彰彦』に詳しい)のもと、「埋葬方」として討死した会津藩士の埋葬に尽力。阿弥陀寺、長命寺など16の寺に1700人弱の藩士の遺体を埋葬した。埋葬後も続いた久保村の嫌がらせへの遺恨が事件の引き金、かと。
思案橋事件
明治9年(1876年)に東京思案橋(現東京都中央区日本橋小網町)で起こった明治政府に対する士族反乱未遂事件。同年山口県士族の前原一誠らが起こした萩の乱に呼応する形で、旧会津藩士永岡久茂らにより起こった。
千葉県庁を襲撃し県令を殺害したのち、佐倉の東京鎮台歩兵第2連隊を説得して日光から会津若松を襲い、前原に呼応して挙兵する予定で、東京・思案橋から千葉に向けて出航しようとするも、新政府の知るところとなり駆け付けた警官隊と切りあいとなり、計画は未遂に終わった。

そば畑
道を進む。道の南北、道路から一段下ににソバ畑が広がる。結構美しい。で、「主催者資料」に「この付近で南を見ると、磐越道が見えます。今から四十年ほど以前は、この道路とほぼ並行に繋がっていたが、以下は道路だけが高くなっている」とあり、「此の河成段丘堆積物は、沼沢湖浮石質左岸、会津シラス層などと言う火山の噴出物の堆積です。大沼郡金山町に巨大なカルデラ湖の田沢湖があるが、その噴出物の堆積です」とある。
パラグラフのつながりがよくわからなかったのだが、地図を見ると、道の南、磐越道との間のソバ畑の区画が如何にも人工的に「カクカク」と削られている。堆積物を掘り返し、その後をソバ畑としたのだろうか。

諏訪神社;15時33分
ソバ畑を見遣りながら道を進み、道が只見川に近づき右に坂を下りる手前に諏訪神社がある。
案内には、「『新編会津風土記』に村西一町十間余にあり勧請の年代知らず」とある、伝説によれば、永仁元年(1293)、黒川城主芦名盛宗が新宮助成を河沼郡の笈川に破ったとき、諏訪大明神の神徳に感謝して、これを信濃から勧請したという。
このとき神輿のお休みになられ所、お泊りになられたところにこの神社をまつったといわれる。
上野尻、野澤、天屋、坂下など越後街道に沿って諏訪神社がみられる。 高寺ふるさとを興す会」とある。
境内に入り拝殿にお参り。境内には神仏混淆の痕跡だろうか、大日如来、三体の仏の顔が刻まれた馬頭観音(?)らしきものが祀られた小祠があった。
高寺
先ほどから案内に、「高寺」という名称が登場する。明治22年(1889)町村制の施行により成立した片門村、束松村、高寺村が昭和29年(1954)合併し、改めて高寺村となる。昭和30年(1955)周辺の村と合併し河沼郡高郷村(現喜多方市)となるも、昭和35年(1960)高郷村のうち旧村域の高寺・片門および束松村)が会津坂下町に編入され、現在に至る(Wikipedia)。案内に年代の記載がないので、はっきりしないが、この辺りを総称して、現在も「高寺地区」と言うのだろうか。

片門集落;15時45分
諏訪神社から段丘崖を下る「諏訪の坂」を進み、只見川の堤防に近づく。対岸下流は川の侵食により大きく崩れた崖が見える。『新編会津風土記』などに、「慶安2年(1649)3月煙霧掻き曇り大地鳴りわたって岡阜陥り」、地欠けとなったとある(「主催者資料)。
只見川に架かる片門橋南詰を東に越えると片門の集落に入る。
片門
「主催者資料」をもとに、片門の概要をメモ;
片門は只見川を挟んで、舟渡の集落と向かい合う。藩政時代、片門は野澤組、舟渡は坂下組と行政区域が異なるが、相まって越後街道の相駅であった。月の半分は舟渡、後半分は片門と交互に駅所の務めを果たした。
天屋本名が間の宿であり、舟渡片門は本宿であるにもかかわらず、商いの荷の多くは天屋本名にかかり、舟渡片門は利の薄い公用の荷であったため、その改善を代官所に訴えている。
片門は、只見川の1キロほど上流の元村にあったが、いつのころからか、此の地に移った。元村にあった鎮守の住吉神社は、諏訪神社境内に遷宮している。 片門の地名の由来は、只見川に面した道半分には家がなかったため。暴れ川である只見川の治水工事が完成した昭和30年頃まで、洪水被害が多かったとのことである。
片門は舟渡とともに本宿として荷物や人の往来で賑わったが、先述の天屋本名同様、明治に開かれた三方道路が藤峠経由となったため、往来が途絶え、生活に窮する。
これを救ったのが渡辺新八郎。養蚕を奨励し、上野原にスモモを栽植し自力更生を図った。片門桃は有名だった。
戦後は、只見川からの揚水により、十文字原は美田となり、豊かな村に一変した」とある。
また、明治11年(1878)、此の地を通ったイギリス人女性紀行家イザベラ・バードは「私は片門の集落で米俵に腰を下ろしてしていた。阿賀野川(私注;只見川の誤認)を臨んだ高処にあるこの集落には急勾配の屋根をもつ家がごちゃごちゃと集まっていた。ここには二〇〇頭以上の駄馬が群れをなし、かみ合ったり激しく鳴いたり跳ねたりしていた。
私が馬から降りる前に一頭の質の悪い馬が激しくぶつかってきたが、木製の大きな鐙(あぶみ)に当たっただけですんだ。しかし馬に蹴られたりかまれたりしないですむ場所を見つけるのは難しかった。
私の荷物を乗せた馬も荷物を下ろすと、歯をむき出して攻撃して人々を右往左往させたり、前脚で激しく突っかかったり後脚で蹴ったりと、大暴れし、果ては〈馬子〉が壁を背に身動きできないよう追い詰める始末だった(『日本奥地紀行』)」とその賑わいを書き残す。

片門の渡し跡;15時46分
片門橋を東に進み「片門の渡し跡」に。川の侵食により大きく崩れた崖の対面辺りである。この渡しは船橋も架けられたようで、舟を繋いで作った橋は天保(1830‐86)の頃から幾度か架橋されるも、洪水の度に流されている(「主催者資料」)。
明治元年(1868)には舟橋が新調され、明治11年(1878)にはイギリス人女性紀行家イザベラ・バードもこの船橋を渡り、著書である『日本奥地紀行』に「私たちは阿賀野川(私注;只見川の誤認)という大きな川にかけてある橋をわたったが、こんなひどい道路にこんなりっぱな橋があるとは驚くべきことである。これは十二隻の大きな平底船から成る橋で、どの船も編んだ藤憂の丈夫な綱に結んである。だからそれが支えている平底船と板の橋は、水量が一ニフィートの増減の差ができても、自由に上下できるようになっている」と記してある。
この船橋も昭和2,3年頃をもって終了し、昭和9年には永久橋が架橋され渡し舟は任務を終えた。
渡し守安堵状(塩田家)
『新編会津風土記』によれば、「此の渡し場は往古よりありしと見え、北条時頼この所を過ぎしとき渡し守に与えし文書ありという。今も毎歳元日に白衣を着て渡しはじむという。その後、芦名修理太夫盛高より与えし文書なりとて今に渡し守次郎兵衛が家に蔵む」とある。
時頼は、渡守のこぐ船が速かったため、「早川」の姓を与えたといい、今でも早川姓の家がある。次郎兵衛の子孫塩田家には、永正3年(1506)芦名盛高の安堵状、烏帽子直垂が伝えられる、とある(「主催者資料」)。
北条時頼
鎌倉幕府五代執権である北条時頼は、康元元年(1256)その職を辞し出家し、最明寺入道となったあと、水戸黄門ではないけれど、諸国を巡ったとされる廻国伝説が残る。上野国佐野荘を舞台にした謡曲『鉢の木』などが知られるが、廻国真偽のほどは不明。

実のところ、諏訪神社の辺りでGPSの電池が切れ、替えもなく、集落内のトラックログがとれず、薄れゆく記憶を呼び覚ましの体ではあるが、塩田家は渡し跡から南に二筋入った道にあったと思う(?)。100均で4,5本セットの単三電池では初日も二日目も終盤に電池が切れた。100均故の嘆きである、

戊辰戦争時の片門・舟渡
只見川という天然の要害があるとすれば、この片門・舟渡の辺りで会津藩兵と西軍の攻防があったので、とチェック:
戊辰戦争の際、会津軍にとって只見川が西軍越後方面軍に対するの最終防衛ラインと想定され、対岸の船渡宿に布陣。対する山形有朋率いる西軍は片門宿に布陣し砲撃戦が繰り広げられる。両軍は只見川を挟み10日間戦うも、若松城下に進軍した西軍の一派が会津軍の背後を突き会津藩兵は撤退、西軍は一気に鶴ヶ城まで進軍することになるようである。
片門・舟渡の攻防戦の詳細
上記まとめの元となった資料は臨場感もあり、以下掲載しておく;
八月二十六日、津川より退却したるが我が軍は只見川を渡り舟渡を扼し、胸壁を築き船橋を扼し、胸壁を築き舟橋を切断し沿岸の舟筏を収む、遊撃隊、白虎一番寄合組隊は舟橋を守り、純義隊は東羽賀(舟渡の西北北半里強)を守る〔続国史略後篇、遊撃隊日記、白虎隊十高木八郎談〕。
この時に当り、陣将上田学太輔は大原(舟渡の東北北半里許)の本営に在り、純義隊総督大竹主計、同隊長小池周吾は東羽賀に在り、軍事奉行飯田兵左衛門は窪村(舟渡の北にて近し)軍事局に在り、純義隊付属兼務望月辰太郎、白虎一番寄合組隊中隊頭原早太等窪村の胸壁を守る〔望月辰太郎筆記〕。
八月二十八日、東西両軍川を隔てゝ相持す、東兵は大砲を装填し四もに撒兵してこれに備へ、西兵は前岸片門(舟渡の対岸に在り)の山上に大砲を袈置し舟渡を俯して連弾す、すなわち塞を海岸に連ね地を鑿ち穴居して弾を避く、舟渡は若松を距る五里にして砲声雷のごとく聞ゆ〔続国史略後篇、遊撃隊日記〕。
朱雀四番士中隊、並付属隊、砲兵隊、結義隊は高久より軍を返し舟渡に来る、時に令ありて山三郷(南は日橋川、西は越後国東蒲原郡、北は羽前と岩代の界なる山脈、東は喜多方平野に限られたる山間の地域を俗に山山郷と称しき、この地域は藩政の比木曽、大谷、吉田の三組ありしを以て三郷と称せしなるべし)方面に赴く〔累及日録、横山留総日記〕。
同二十九日西兵早朝より砲銃を発して戦を挑む、東兵胸壁に據りて戦う、弾丸雨注す〔遊撃隊日録〕。
九月五日連日胸壁に據りて砲戦するのみにして戦勢発展せず、これにおいて軍事局は議を決し純義隊と山三郷方面に赴きたる諸軍と保成峠より退却せる大鳥圭介の兵とを以て進撃せしめんとし、樋口源介を館原の陣営(山三郷方面に赴きたる諸軍の陣営地にて日橋川と只見川と合流する所となり)に遣わし交渉して方略を定めしめたるが、樋口未だ帰らざるにたまたま西軍南より若松城下に入りし者兵を分つて坂下を略し進んで舟渡の背を衝く、諸隊、軍事局ことごとく出でゝしきりに発砲して防戦す、前岸の西兵は喊声を発し大砲を連発して来撃し勢甚だ猛烈なり、東軍支えず諸隊、軍事局と共に陣将上田学太輔に従い大原より山を越え宇内村(大原の東一里弱)に退く、片桐喜八は兵を督し止まりて防戦したるも、ついに衆寡敵せずして退く、上田陣将以下全軍山崎(宇内の東北半里)の渡頭を渡り戍の刻頃鹽川に退却し陣将萱野権兵衛の兵に合す〔続国史略後篇、望月辰太郎筆記〕。

肝煎・渡辺家;15時54分
集落を進む。渡し守安堵状のある塩田家の東北側に立派な屋敷が建つ。片門村の肝煎・問屋であった渡辺家とのことである。塩田家にしても、渡辺家にしても、またそれ以外にも片門の集落には結構立派な建屋が並ぶ。

片門の薬師堂・薬師如来:16時
実際にルートは上述の如くGPS が電池切れのためはっきりしないが、写真の時刻から次は片門の薬師堂に向かったようだ。集落の東端、杉林の中にお堂があった。
お堂の前に「県指定文化財 木造薬師三尊及び十二神将立像」の案内;
「薬師如来坐像
像高135センチメートル、ケヤキ材の一木造。目は彫眼。頭の螺髪は大きく、顔はやや面長で、瞳・眉・口ひげを墨で描き、唇に朱を入れています。両肩から腹部、両袖、膝に流れる衣文は太くて素朴であり、ある種 たくましさを感じさせますが、写実性に欠けるところがあり、鎌倉時代末期の地方作であることを示してる。
日光・月光菩薩立像
像高146センチメートル及び147センチメートル。ケヤキ材の一木造。彫眼。顔が面長で、人間くささがにじみでている。**(私注;ピンボケ)を二段にまとめ、大づくりであるが、やや**(私注;ピンボケ)を曲げて、上半身と下半身のバランスが崩れていることなど、鎌倉時代末期から室町時代初期の特徴が現れています。月光像の背面に延元元年(1339年)の墨書がある 十二神将立像
像高いずれも65センチメートル前後。小型ながら写実的であり、躍動的。三尊とはやや趣を異にするので、別人の作で、少なくとも南北朝時代を下ることはないと思われる」とある。

堂内に入り、薬師三尊(薬師如来・日光菩薩・月光菩薩)、十二神将立像を拝観。個人の散歩では堂宇内の仏さまを拝顔することなどほとんどないので、ありがたい経験であった。「主催者資料」には「高寺に八薬師あって、大同年中(806-809)そのひとつの月光薬師を移したものと伝わる。
マムシ除けの薬師として有名で、その守り札を出している。三尊とも*彫りで、地方仏らしい素朴さがあり、月光菩薩の記念銘によって、延元元年(1336)の作と伝わるが、十二神将は躍動的なモデリングから、本尊より若干古いと考えられる。
堂舎は堂内の由緒書によって、大工、結縁の人々などが判明し、建築費用などが記されている。これによると、寛政8年(1796)の落慶であることがわかる」とあった。
高寺
「主催者資料」に「高寺に八薬師ありて」とある。何のこと?チェックする; 高寺は片門から只見川を隔てた舟渡の北東、標高401mの高寺山一帯に、往時 三千余の堂宇を従えた総本山のお寺さま。舟渡から進む会津・越後街道の鐘撞堂峠も、高寺由来のものである。
欽明天皇元年(540)、中国。梁の国から渡来した僧青巌が阿賀野川を遡上し、会津坂下町にある山を聖地とし、草庵を結んで仏教布教の拠点とした、山のふもとの村人は、高い所に寺が建ったため高寺と言い、いつしか山の名前が高寺山となった。
高寺山には立派な七堂伽藍が建ちならび並び、繁栄するも8世紀後半に内紛で堂宇すべて焼失。9世紀初頭には再興され、子院「高寺三十六坊」が建立され、「高寺三千坊」と呼ばれるほどの全盛期を取り戻す。
その後、徳一(会津街道散歩の第一回でメモ)の開いた恵日寺と勢力争いが始まり、ついに戦火を交えることとなり、結果高寺山は敗れ建物は全部焼かれ、建久元(1190)年、滅亡、高寺は"伝説"となる。今は随所に残る寺所以の地名以外、何一つ寺の跡は残っていない。

長龍寺;16時19分
薬師堂を離れ、マムシが生息したという湿地跡を辿り、長龍寺に向かい、ここで西会津町・上野尻からはじめ、一泊二日で野澤宿、束松峠をへて会津坂下町片門までの「会津街道探索ウォーク」を終える。

特に会津街道に対する思い入れもなく、お気楽に参加したのだが、ガイドの先生方の予想以上に「ディープ」な解説に、問題意識・背景知識皆無のわが身には、散歩当日は何が何やらさっぱりわからず、歩けるだけで十分と当日を楽しんだ。
で、メモする段になり、常の如く、あれこれ問題意識が生じメモも長くなってしまった。いつもは自力で資料探しからはじめるわけだが、今回は主催者である「にしあいづ観光交流協会」のこの企画のために用意して頂いた30ページにも及ぶ詳細な資料の助けもあり、助けとなった。
資料つくり、旧道の藪刈りなど主催者スタッフの皆さまに感謝。
第四回「会津街道探索ウォーク:一泊二日」の初日は、西会津町上野尻の西寺からはじめ、往昔の野澤宿を巡り、西会津縄沢まで歩いた。おおよそ13キロ、休憩も含め6時間半ほど歩いただろうか。
Google earthをもとに作成
散歩のメモは常の如く、実際にその地を訪ねて、あれこれ気になることが現れ、メモも多くなってしまい、結局2回に分けることになった。
二日目は初日のゴールである西会津町縄沢からはじめ、束松峠を越え、会津坂下町天屋・本名の集落を経て、只見川手前の会津坂下町片門集落まで歩くことになる。
メモをはじめるこの時点では、実際に歩いたという事実と、ガイドの先生方から受けた詳しい説明の「断片的」理解だけ。常の散歩では、実際歩いたトラックログと位置情報の着いた写真だけから、都度気になったことをメモしていくのだが、この度の散歩には、既述の如く、探索ツアー主催の「にしあいづ観光交流協会」作成の詳しい資料(「以下「主催者資料」」が手元にある。その資料を参考・引用させていただきながら、メモをはじめることにする。

本日のルート:出発地点・国道49号(縄沢)>兜神社>甲石の採石場とネズミ岩>ガラメキ橋と一里塚跡>大畑茶屋跡>旧会津街道に>軽沢新道>軽沢>旧越後街道道標>舗装道とクロス>戊辰戦争塹壕跡>束松峠

束松峠>子束松>切通し>束松洞門>天屋一里塚>地辷(地滑り)点>旧街道石畳跡>旧越後路木標>「旧道入口」木標>天屋の束松>峠の六地蔵>松原屋>津川屋>阿弥陀堂>束松事件跡>そば畑>諏訪神社>片門集落>片門の渡し跡>肝煎・渡辺家>片門の薬師堂・薬師如来>長龍寺

縄沢から束松峠

出発地点・国道49号(縄沢):8時25分
2日目のスタート地点は、初日のゴール地点である、西会津町縄沢集落からの道が国道49号に合流した地点。宿泊ホテルからマイクロバスで初日ゴール地点まで向かう。
それにしても、企画ツアー参加の移動は楽である。先月、先々月と5回に渡り「予土国境 坂本龍馬脱藩の道」を歩いたが、単独行。予土国境の幾つもの峠を越えるため、車を谷筋にデポし、峠を越えて次の谷筋に着くと、ピストンでデポ地に戻り、車を山を越えた谷筋に移す。このプロセスを5日に渡り繰り返す。その苦労を考えれば「天国」である。

国道49号を進む
不動川に沿って国道49号を進む。国道49号は、福島県いわき市から新潟県新潟市へ至る一般国道。太平洋と日本海を結ぶ。この内、会津地方と越後を結ぶ道は、経路変更はあるものの、概ね会津三方道路のひとつを核に整備された。 明治15年(1882)福島県令に就任した三島通庸は、明治17年(1884)会津三方道路を竣工。福島県会津若松市の大町札の辻から 西(新潟側)、 北(米沢側)、 南(日光側)の三方に向かう新道整備・道路改良工事が実施される。
新潟側は、経路の変更はあるものの、会津・越後街道をベースにしたものである。とはいえ、その道路は砂利道以下、といった状況。現在の国道なるのは昭和39年(1964)の一級国道昇格を機に、改良工事が進められた後のことである。
盲淵
道すがら、ガイドの先生より「盲淵」のお話:縄沢村の民が不動川の「盲淵」の辺りで馬に水を呑ます。そのとき、何故かわ知らねど、河童も掬い上げ、胡乱な姿に打ち殺そうとする。が、命乞いを聞き届け、河童を淵に返すと、それ以降水難に遭うことはなくなった、と。
伝説は伝説でいいのだが、気になったのは、淵で馬に水を呑ませた、という件(くだり)。現在国道は不動川から少し離れたところを進んでいるが、かつての道・街道は、現在よりずっと川寄りの地を通っていた、ということだろう。地図を見ても、両岸に岩壁、間隔の狭い等高線が谷筋に迫る。土木技術が進めば道もできようが、それ以前は、ほとんど沢筋を進む、または大きく尾根を進むしか術(すべ)はない。実際、国道と不動川の間には会津三方道路の痕跡も残るという。

兜神社;9時
北から沢筋が不動川に合流する箇所の少し上流に架かる兜橋を渡り兜神社に。Google Steet Viewでチェックすると兜橋のゲートが閉じられている。山菜などを取る不埒者の侵入を防いでいるのだろうか。当日は、地元の方が社の清掃を行っていた。ために、ゲートが開いていたのか主催者が事前にアレンジしてくれていたのか不明ではあるが、ともあれ、橋を渡り参道を上り、岩壁を掘り抜いた神社に御参り。



◆甲岩
神社に上る狭い参道脇に大岩がある。それが甲岩。天喜5年(1057)、源義家が前九年の役で奥州に赴く途中、ここで甲を脱いで休憩。甲を忘れ出立し、引き返すと岩となっていた、と。
現在の岩を見て、甲(兜)の姿は想起できないのだが、これは慶長年間(1611年)の地震で「しころ」部分が欠け落ちた、ため。崖の下にはその欠けた部分が落ちている、と言う(「主催者資料」)。
源義家の伝説
散歩の折々で、源頼義・義家親子の奥州遠征にまつわる伝説の地に出合う。鎌倉の源氏山からはじまり、大田区の六郷神社、多摩丘陵の百草八幡、杉並区の大宮神社周辺、板橋区の熊野神社、足立区の竹ノ塚神社、炎天寺など枚挙に暇ない。
最初は、所詮は伝説、またか、などと思っていたのだが、足立区の奥州古道歩きをきっかけに、その道筋を調べたのだが、伝説の地を結ぶと「奥州古道」と重なることが多かった。物事にはそれなりの理由がある、ということだろう。

兜石観音岩
兜橋から兜神社が祀られる岩壁を眺める。ガイドの先生の説明によれば、兜石観音岩と呼ばれる、と。兜神社周辺の岩は切り出され石材として利用された時期もあったようだが、この観音岩だけは村民の人々の信仰により守られてきた、という(「主催者資料」)。
この辺りは「甲岩」と地名にあるが、集落があるように思えない。「村人」とは縄沢の村民と言うことだろう。



切石川(不動川)に沿って国道49号を進む;9時40分
兜神社で「スズメバチ」騒動もあり、兜神社出発は9時40分。兜神社に架かる橋に「切石川」とあった。これから上流は切石川と呼ばれるのだろう。岩盤石材を切り出した故の川名ではあろう。
道の右手に兜神社でみた岩壁が見えてくる。これだけの規模であれば石材切り出しも頷ける。一面岩壁ではあろうが、草木で覆われ岩壁の全容を見ることはできない。

甲石の採石場とネズミ岩;9時52分
道を進むと、国道から左手の小径に入る。往昔の会津街道の道筋ではあろうか。小径を進むと正面に岩壁とネズミ岩と呼ばれる大岩が見える。
グリーンタフ
対岸の岩壁は緑色凝灰岩でできている。2500万年から1500万年前頃、大規模な海底火山の噴火が起こり、そのとき海底に堆積したものである。グリーンタフと呼ばれるようだ。
グリーンタフは柔らかで切り出しやすく、墓石や階段石などに利用できるため、大正4-5年頃、新潟の事業家が大量に切り出すことになった。採石場をつくり、野澤停車場まで馬車で運び、そこからは大正3年(1914)に全面開通した岩越線(1917に磐越西線と改称)を使い、新潟へと運ばれた。
会津産の石は「若草石」として、兵・蔵・墓石・石畳などとして重宝されたが、 現在は他用材の登場により、採掘されることはない(「主催者資料」)。
ネズミ石
「ネズミ石」は、言われてみれば「ネズミ」のようでもある。「主催者資料」には、「グリーンタフで壊れやすく、採石時多くの犠牲者が出たようで、ねずみ岩の下に観音様が祀られている」とある。

ガラメキ橋と一里塚跡;10時7分
ネズミ岩から10分弱、切石橋に架かるガラメキ橋を渡り、国道は川の右岸に移る。橋の東詰め近くに一里塚があったようだが、今はその痕跡もない。三方道路改良工事の折に潰されてしまったのだろう。また、東詰めから切石川右岸を下ると、採石場に続く道があるようだ。
ガラメキ
「ガ1ラメキ」は表記は異なるが、全国に散見する。歌で名高い江戸川の「矢切の渡し」は「ガラメキの瀬」とも言う。浅瀬で石が「ガラガラ」と音をたてるから、とか。「がらめく」とは「ガラガラ鳴り響く」の意、とのことである。

大畑茶屋跡;10時27分
ガラメキ橋から20分ほど進むと、右手、青坂村・青坂峠からの沢筋が切石川に合流する少し先に「大畑茶屋跡」がある。道の左手の平地がその跡とのことだが、痕跡は何もない。
「主催者資料」に拠ると、「縄沢村の東約2-3㎞の所の街道傍に家が一軒あり、大畑という。縄沢端村・甲石から片門村端村・軽沢間の約2.8㎞区間に人家なく、冬の吹雪に苦労する旅人のため、安永8年(1779)に、青坂村の農民がこの茶屋を開いた(『新編会津風土記』)とある。
その願いに対し、大畑村を領分とする縄沢村は異議を唱え、茶屋開設の条件として縄沢村に「駅所」開設を求める。この反論・駅所開設願いが延享3年(1746)であるから、願い出て開設まで30年以上かかったことになる」ととことである。
青坂村・青坂峠
会津街道・越後街道の道筋をチェックしていると、その道筋は「束松峠を越え、青坂峠を経て野澤宿に」といった記事も多い。普通に考えれば、束松峠を下り、この大畑から沢筋を南に上り、青坂峠から尾根道を走沢川が不動川に合わさる手前の縄沢村に下りていったのだろう。
昔の街道は、土砂崩れなどの危険を避け、安定した尾根筋を通るのが普通である。川筋を街道が通るようになったのは、土木技術が進んだ江戸の頃から。東海道の箱根越えの道も、中世は芦ノ湖畔から尾根筋を箱根湯元まで下るが、江戸の頃には早川に沿って箱根湯本まで街道が通っている。
会津街道のこの青坂峠越えの道も、狭隘な渓谷を進むよりはるかに安全であろうから、ある時期このルートを通っても、違和感は、ない。

甲石の山賊
この話はガイドの先生が、兜神社の辺りで説明してくれた伝説であるが、登場人物の山賊が甲石から東に0.7kmの横沢という小さな沢の側、入小屋という字のあたりの住んでいたというから、この大畑茶屋跡あたりだろうと、ここでメモする;
話はこの辺りに住む山賊・伊藤掃部が旅の僧に出合い、その法力に接し改心し百姓として入小屋を開墾して暮らした、というものであり、話そのものはよくあるプロットである。
が、気になったのは、その旅の僧が会津若松徒町・浄光寺開基の教尊であり、この伝説を踏まえて甲石は浄光寺の檀家という説明。
教尊は越後・会津で浄土真宗の大寺院を建てた僧であり、その高僧の法力・功徳の話として、趣旨はわかるのだが、気になるのは「甲石は浄光寺の檀家という件(くだり)。甲石に集落といっても国道沿いに数軒目にしただけなのだが、昔は街道沿いに、もっと多くの人が住んでいたのだろうか?
浄光寺
浄光寺は、もと後鳥羽院の第二子が信濃に下ったとき、親鸞に帰依し開基したお寺さま。その縁もあり、12世教尊は信長の石山本願寺攻めの際、信濃・越後・美濃・尾張・近江の信徒に本願寺への兵糧米供出を策し、自らも石山本願寺に籠る。
が、寺は焼け落ち。教尊は越後に落ち、浄光寺を建て、末寺42を建てるに至る。会津には文禄元年(1592)、城主蒲生氏郷に乞われ坂下に。そこに浄光寺を建て、これも40以上の末寺をもつ大寺院となった、と言う。

旧会津街道に;10時36分
大畑茶屋跡から国道を10分ほど歩くと、左手の崖へと道を折れる。昔の会津街道の道筋のようである。茅の野を過ぎ、桐畑脇を20分弱歩き、束松峠手前の軽沢集落への車道(県道341)に戻る。
別茶屋(わかれちゃや
地図で見ると、旧道を歩いた辺りは「別茶屋」と記されている。旧道に入らず国道49号を進むと、藤峠へと向かう国道49号と束松峠へと向かう道に分かれる。旧来の会津街道・越後街道と、会津三方道路として明治17年(1884)県令三島通庸の指示で竣工した分岐点である。会津三方道路は従来の束松峠を抜けるルートを避け、藤峠を越える「藤村新道」を開削した。
当初別茶屋は会津街道と会津三方道路の「別れ」を意味していたのかと思っていたのだが、藤峠ルートは明治17年(1884)の会津三方道路開削以前、人も通わぬ間道であり、この「別れ」は、藤峠ではなく、藤峠手前で更に南に下り只見川筋・柳津に抜ける「柳津道(現在県道342号)」のことであった。近年まで重要な往還であったようだ。

軽沢新道
束松地区で旧道から舗装された道(県道341号)に戻り、軽沢集落に向かう。ガイドの先生から軽沢新道開削の話があった。概要をまとめると;
この切石川両岸は浸食谷で河岸段丘もなく、道は川底を通るしかなく、雪崩や大水に襲われると逃げ場がなかった。元文4年(1739)、軽沢から切石川右岸約1080mの岩壁を掘り抜く工事が行われた。
砂岩・凝灰岩の岩壁を穿つこの工事費用の三分の一は野澤原村の篤志家が負担。藩普請ではなく民間篤志家がお金や労力を負担する『寸志人足』と呼ばれる会津藩の制度である。

『寸志人足』と会津藩の財政状況
ここでちょっと疑問。勘ぐり過ぎかもしれないが、会津藩って、普請を民間に託すほど財政が厳しかったのだろうか?Wikipediaに拠れば、「第4代藩主の容貞の時代である寛延2年(1749年)に、不作と厳しい年貢増徴を原因として会津藩最大の百姓一揆が勃発する(中略)宝暦年間(私注;1751‐1764)における会津藩の財政事情は借金が36万4600両であり、毎年4万2200両の返済を迫られていたが財政的に返済は困難であり。。。」とある。
「主催者資料」に藩内巡見の4代藩主・松平容貞の御下問に、この軽沢新道の話が出る。Wikipediaの記事と併せ、藩の財政が危機に陥る頃かとも思う。上位「勘繰り」は強ち「妄想」だけではない、かも。

軽沢;11時13分
軽沢の集落に。民家は10軒弱?空き家らしき民家もある。「主催者資料」には、「この集落は、現在は西会津町であるが、以前は片門(現在会津坂下町)の端村。山林・原野に乏しい片門は、集落の北の鳥谷山(私注;580m)が草刈場・薪採集場」とあった。



旧越後街道道標;11時34分
道を20分程度上ると「旧越後街道道標」が建つ。指示に従い道を右に折れ旧道を進む。因みに、Google Street Viewで見ると、「道標」は見当たらない。「にしあいづ観光交流協会」の方が整備してくれたのだろうか。






舗装道とクロス;11時43分
10分ほど進むと舗装された道とクロス。地図を見ると、先ほどの道標を真っ直ぐ進み、磐越自動車道を越えた先から分岐し、この地を通り、その先で切れている。
この舗装道ってなんだろう?チェックすると、どうも先ほど歩いてきた県道341号別舟渡(わたりふなと)線のようである。県道341号は束松峠の東、会津板下町にも表記があり、その間が不通区間となっている。その事情など知りたいところだが、深堀利するとメモが先に進まない。取り合え巣思考停止としておく。

戊辰戦争塹壕跡;11時58分
県道341号から再び土径に入り、主催者の方が藪を刈り込んで整備してくれた様子の残る道を15分ほど上ると戊辰戦争塹壕跡。小振りな造りである。
いつだったか、尾瀬を歩いたとき、尾瀬沼・大江湿原に戊辰戦争の会津軍陣地があったことを思いだした。会津口の福島・檜枝岐に陣を張る幕府・会津軍が群馬・片品村に陣をはる新政府軍を急襲し、群馬県片品村の戸倉が戦いの舞台となったが、尾瀬の地が戦いの場となることはなかったようだ。


束松峠;12時2分
戊辰戦争塹壕跡からほどなく束松峠に。見晴らしが素晴らしい。「主催者資料」には、「イザベラ・バードがその著『日本奥地紀行』に、「こんどは山岳地帯にぶつかった。その連山は果てしなく続き、山を越えるたびに視界は壮大なものになってきた。今や会津山塊の高峰に近づいており、ふたつの峰をもつ磐梯山、険しくそそり立つ糸谷山、西南にそびえる明神岳の壮大な山塊が、広大な雪原と雪の積もっている渓谷をもつ姿を、一望のうちに見せている。
これらの峰は、岩石を露出させているもののあり、白雪を輝かせているものもあり、緑色に覆われている低い山々の上に立って、美しい青色の大空の中にそびえている。これこそ、私の考えるところでは、ふつうの日本の自然風景の中に欠けている個性味を力強く出しているものであった」と抒情的に描く地をこの束松峠では、とある。

明神岳から延びる山稜の向こうにかすかに見えるのが会津盆地ではあろう。糸谷はどこか特定できなかった。

峠には「峠の茶屋跡」の案内、秋月悌次郎の詠じた『北越潜行の詩』を刻む石碑とその案内が建つ。

峠の茶屋跡
「標高465メートルのこの束松峠頂上には昭和三十年代まで二軒の茶屋があった。「寛政4年(1792)片門・本名の両村よりこの頂に茶屋二軒(『新編会津風土記』)」を構え、お助け小屋を設けて、険阻なこの峠を越える人の便宜を図った。
十返舎一九の『奥州道中金草鞋』に記されているように、焼き鳥・あんこ餅が名物であった。茶屋からは高寺山塊を隔てて、会津盆地が一望され、彼方に秀峰磐梯山を望むことのできるこの峠は、会津に向かう人にとっては、はじめてみる若松城下であり、去る者は別離を流す峠であった。
「戊辰戦争敗軍の将」秋月悌次郎が越後に奥平謙輔を尋ね、会津の行く末を託しての帰途、雪の束松峠から遥かに若松城下を望み「行くに輿無く返るに家なし」と会津の行く末を想い「いづれの地に君を置き、また親を置かん」と慟哭の詩「北越潜行の詩」を詠じたのもこの峠であった(会津坂下町教育委員会)」とある。

二軒の茶屋があったこの峠は、街道の「間の宿」で、旅人の休憩・一泊の宿泊は許されていた(「主催者資料」)。焼き鳥・あんこ餅ではないが、「甘口で 行かぬ世渡りなればとて ここの汁粉の塩の辛さよ」と呼んだ十返舎一九もこの茶屋で休憩でもとったのだろうか。

「北越潜行の詩」碑
「北越潜行の詩」を刻んだ石碑の脇に「漢詩」の書き下し文と秋月悌次郎の人となりを解説した案内がある。併記する。
「故ありて北越に潜行し帰途得る所
 〈詩碑〉       〈案内板〉
行無輿兮帰無家 行くに輿(こし)なく帰るに家なし
國破孤城乱雀鴉 国破れて孤城雀鴉(じゃくあ)乱る
治不奏功戦無略 治は功を奏せず戦いは略無し
微臣有罪復何嗟 微臣罪あり復(ま)た何をか嗟(なげ)かん
聞説天皇元聖明 聞くならく天皇元より聖明

我公貫日発至誠 我が公貫日(かんしつ)至誠に発す
恩賜赦書応非遠 恩賜の赦書(しゃしょ)応(まさ)に遠きに非ざるべし
幾度額手望京城 幾度(いくたび)か手を額にして京城を望む
思之思之夕達晨 之(これ)を思い之を思うて夕(ゆうべ)より晨(あした)に達す
憂満胸臆涙沾巾 愁い胸臆(きょうおく)に満ちて涙巾(きん)を沾(うるお)す
風淅瀝兮雲惨澹 風は淅瀝(せきれき)として雲惨憺(さんたん)
何地置君又置親 何れの地に君を置き又親を置かん
秋月韋軒胤永

◆簡単に意訳をしようとも思ったのだが、詩心も無く、どうも「詩格」が失われそうである。以下注をメモする。おおよその意味はこれでわかるかと。

輿;乗り物
雀鴉;スズメと烏
貫日(かんしつ):日々を貫く行い
赦書; お赦しの書状
京城;天皇のいる京都

秋月悌次郎のひととなり
漢詩の書き下し文の後に、秋月悌次郎のひととなりについての解説が続く; 「秋月悌次郎は通称で諱(いみな・本名)は胤永(かずひさ)、字(あざな)は子錫(ししゃく)、韋軒(いけん)と号した。
戊辰戦争時には藩の公用人として各藩との外交交渉を通して、始めから終わりまでつぶさに関わってきた。敗戦開城式をとり行ったのち、かねて旧知の西軍参謀である長州藩士奥平謙輔を越後に追って、幽閉先の猪苗代を密かにぬけだし、会津藩の善処を願うとともにその未来を託す若者の教育をたのんだ。その帰途雪の束松峠で詠んだのが、この「北越潜行の詩」である。
また、これによって束松峠を越えて学問をうけた若者の一人が、後の東京・京都帝大などの各大学の総長を歴任した白虎隊総長山川健次郎である。
後年、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は秋月を「神のような人」と敬愛した。 よって、この地、束松峠茶屋跡に誌碑を建てる。一八二四生、一九〇〇没。」
石碑は平成二十五年十月吉日とある。大河ドラマ「八重の桜」でその存在を知られたこともあり、秋月の功績を伝えようと、顕彰会や愛好家が建立したと、「主催者資料」にあった。戊辰戦争の頃の会津の士、特に山川健次郎の兄、山川大蔵を主人公に描く『獅子の棲む国:秋山香乃』を思い出した。

ここでお昼。山道を四駆でお弁当を運んで頂きた主催者である「にしあいづ観光交流協会」の方に感謝。

また、二日目のメモも途中ではあるが、ここで終える。束松峠から会津坂下町の片門までのメモは次回にまわす。

Google Earthで作成
会津街道歩き、初日は、福島県耶麻郡西会津町上野尻からはじめ、野澤宿を訪ねた後、束松峠を越えて福島県河沼郡会津板下町片門まで歩いたのだが、メモは途中の野澤宿で力尽きた。

常のことではあるのだが、事前にあれこれ調べても、頭に何も入らないことを言い訳に、とりあえず歩いてから、なにかフックが掛かったことをチェックするってスタイルであり、今回は阿賀川の舟運、大山祇神社、野澤盆地の湖の時代、野澤潟の時代、陸地化の時代など、実際歩いてみて気になることがいくつかあり、結構メモが長くなってしまった。

今回は、前回の続き、野澤宿の「ふるさと自慢館」を出て、縄沢までをメモする。



本日のルート;上野尻の西光寺>イザベラ・バード感動の地>雪崩常習地帯>芹沼一里塚>芹沼の大山祇神社道標>安座川を徒河>小屋田遺跡の敷石住居跡>堀貫橋跡に>本海壇(火防塚)>化け桜>野澤原町宿田沢橋口西門>ふるさと自慢館
脇本陣跡>常泉寺>野澤停車場通り>劇場通り・花街通り>野澤原町宿東門>初期野澤内郷組郷頭橋谷田又右衛門家跡>研幾堂跡>肥後殿御殿への裏道>天満天神宮>旧野澤小学校跡>代官清水>熊野神社>常楽寺>野澤宿本陣跡>井戸水噴出の民家>鈎型>栄川酒造>遍照寺>諏方神社>一里塚>地蔵原・六地蔵原・古四王原(胡四王原)>徳蔵橋>馬頭観音>広谷寺>日本一小さい無名美術館>御?神社>復縁の松

脇本陣跡
「ふるさと自慢館」で少し休憩の後、通り対面の少し西の野澤公民館に。そこはかつて脇本陣のあったところ。案内には「野澤宿の脇本陣は現在のここ公民館あたりにありました。脇本陣は、本陣だけでは泊まりきれない場合や、藩同士が鉢合わせになった場合に、格式の低い藩の宿として利用された、本陣の予備的施設でした。
規模は本陣よりも小さいものの、一般の旅籠屋と違い、門、玄関、上段の間を設けることができ、諸式はすべて本陣に準じ、本陣と同じく宿場の有力者が務めました。
原則として特定の身分の人だけが宿泊できた本陣と違い、脇本陣には一般旅行者も宿泊することができました。
また、脇本陣を務めていた「塩屋」には十返舎一九も泊まっていて、著書「越後路之記 金草鞋」に「ほどなく野澤の駅に着いた。塩屋という宿から留女が出て引きとめるのでここにとまった」と書かれており、その時に詠んだ狂歌が一句あります。「三味線の 野澤の宿は 旅人の袖を 無性に引いて とどめる」 にしあいづ観光交流協会」とあった。
文化11年(1814)の晩秋の頃かと思う。脇本陣に並び、旅籠、造り酒屋が軒を連ねた。停車場通りに建つ「十一塩屋」はこの地から移転したものである。

常泉寺
脇本陣から、野澤原町通りを「野澤原町宿田沢橋口西門方面」に戻り、野澤駅方面に道を折れる。と、左手に常泉寺。先回のメモの通り、田沢川を渡り野澤村と芹沼村を繋ぐルート変遷の中で、堀貫橋を通るルートの入口に位置する。
新たに建て替えられた本堂にお参り。境内に「南無阿弥陀仏名号」、「子育て黒地蔵」がある。
南無阿弥陀仏名号
「この南無阿弥陀仏の名号は先端が剣の穂先のように表されており利剣名号といわれています。すなわち、よく切れる剣の様に、人間の災厄を切りすて、私たちを幸せに導いて下さいます。
また、この名号は後醍醐天皇の御世、百萬遍念佛の功徳により疫病を退散したおり、宮中より大本山百萬遍知恩寺に御下賜になったものであり、常泉寺との強いつながりを証明するものです」。
「大本山百萬遍知恩寺と常泉寺との強いつながり」とは、「主催者資料」にあった常泉寺は「青津村(現、会津坂下町;前述「勝負沢峠」の西、阿賀川に面する)の地頭・生江氏の庶子・笈州上人(京都・知恩寺・百萬遍第30世;母親は野澤豊川の生まれ)縁の寺を指すのだろう。
子育て黒地蔵
子育て黒地蔵の由来の案内もあった。ざっくりとまとめると、今から183年も昔にまとめた記録に、それ以前に既に黒地蔵はこの寺に祀られていた。人々に「枕がえしの黒地蔵」子育て地蔵と呼ばれていたこのお地蔵さまには、こんな言い伝えがある;
昔、寺の前の通りが越後街道といわれ、人馬がさかんに往来していた頃、馬方がお地蔵さまに足を向けて寝入ったところ、目が覚めると、いつのまにか向きが変わり、頭がお地蔵様に向かっていた、と。
枕がえし
この話、何を伝えたいのかよくわからない。Wikipediaの「枕がえし」の項に、寺院の霊験を物語るとして同様の話が記載されているが、向き変わることが、何故に仏の霊験なのだろう。
黒地蔵からなにか手がかりは?鎌倉円覚寺の黒地蔵は、地獄で炎に苦しむ人々を少しでも苦痛を和らげるべく、鬼にかわって火を焚いたため、その煤で黒く煤けたという。「心優しき」お地蔵様ってことはわかるが、「枕がえり」とひっかかりは、ない。
結局よくわからないが、「枕返し」」は何か霊的なこと、「秩序が逆転する異常な事態」として庶民の間で恐れられていた、と言う。我々にはよく理解できないが、「枕がえし」が霊的なこととして怖れられていたことが、このお寺のお地蔵様の霊験として残ったのだろうか。
東北地方には枕返しは座敷童の悪戯という話が伝わるようだが、それは、その信仰が廃れるにつれ、霊験から悪戯へと形を変えたものとのことであった。

野澤停車場通り
常泉寺から磐越西線・野澤駅方面に向かう。野澤駅前通りと呼ばれるこの通りは、かつて野澤停車場通りと呼ばれていたようだ。
野澤駅は大正2年(1913)岩越線の駅として開業。大正3年(1914)には野澤・津川が結ばれ、現在の磐越西線全線が開通した。
岩越線の前身は、明治29年(1896)、郡山・若松・新津を結ぶ目的で設立された岩越鉄道。漸次路線が延長されたが、明治39年(1906)には国有化され岩越線となり、大正6年(1917)に福島のいわき市と郡山を結ぶ路線が繋がり磐越東線と称される際に、岩越線も磐越西線と改称された。
かつては大山祇神社の大例祭などの時は、大量輸送、臨時列車の増便などで活況を呈したようである。
十一塩屋
駅前通りには野澤原町から移設された脇本陣「十一塩屋」がある。『東海道中膝栗毛』で知られる戯作者・十返舎一九も野澤原町にあった移設前の宿に泊った宿である。その他、車峠の茶屋・吾妻屋分店が軒を連ねるが、停車場開業にその因はあるのだろう。
なお、停車場通りが開かれた頃は、西側に軒を連ねたため「片町」と呼ばれたとある。現在でも、東は長谷川に面した湿地の面影が残る。
岩越鉄道・岩越線
「岩越」の由来が気になる。「越」は越後だろうが、「岩」は?チェックすると、東北戦争(戊辰戦争)の後、陸奥国が分割され、福島県中西部は「岩代国」と称された。岩越鉄道の岩はその「岩代」からだろう。
因みに、「岩代」は養老2年(718年)、陸奥国、「石背国」と「石城国」にわかれたが、「岩代国」はその「石背国」の領域とほぼ一緒。
その「石背」は奈良時代、山城国が「山背」と表記されたことから、「石背」も「いわしろ・いはしろ」と読まれたようだ。「石背」が「岩代」と表記を変えた所以は?とは思えども、きりがないので、ここで終える。

劇場通り・花街通り
駅前通りを南西に斜めに折れる道に入る。かつて芸妓屋が並んでいた花街通り。一九の句も、その粋な風情を詠っているように思える。大正3年(1914)岩鉄線が全線開通とともに、野澤宿の裏側ともいえるこの辺りに飲食・宿が立ち並び、その賑わいは昭和30年(1955)頃まで続いたとある(「主催者資料」)。

野澤原町宿東門
花街通りを進み、斜めに進んだ道筋の端にあったとされる野澤組御蔵番宅(会津藩の年貢米を管理していたのだろうか)を越え、野澤原町通りの野澤原町宿東門に出る。「ふるさと自慢館」や「脇本陣跡」の少し東であった。ここから東は野澤宿を構成した野澤本町村ではあろう。
この原町と本町、メモをするとき、ふたつ合わさって野澤宿となった、ってことを十分理解できておらず、何故に本陣跡(後ほど訪れる)が(原町宿)西門、東門といった「門」の「外」にあるのか理解できず、結構頭の整理に時間を潰してしまった。後から組み入れられたとはいえ、「本町」にも「門」があれば混乱しなかったのだが、それにしても本町の「門」は無かったのだろうか?




初期野澤内郷組郷頭橋谷田又右衛門家跡
脇本陣から野澤原町宿東門を隔てた東側に郷頭橋谷田又右衛門の屋敷があった。「ふるさと自慢館」の資料に拠れば、野澤が芦名氏の支配から伊達氏の支配下となった17世紀後半の頃だろう。
「主催者資料」には「菅信濃・荒川近江本営。村上藩常宿」とある。「ふるさと自慢館」の資料には「(伊達氏は)統治をはかるため野澤大槻城に菅信濃・荒川近江を置く」ともある。「本営」と「居城・野澤大槻城」の違いは聞き漏らした。
また、「村上藩常宿」って?定宿は通常本陣では?で、その本陣は通りを隔てた対面にある。単に近くにあるのでこの地を活用したのか、そもそも野澤の本陣が正式に成立したのは享保7年(1722)といった記事(にしあいづ観光交流協会)もあるので、本陣ができるまで常宿としていたのだろうか。

誠にもって、何の知識・問題意識も持たず、結構ディープな「探索の旅」に迷い込み,当日は何が何やら、貴重な説明も全く理解できず、一刻も早く野澤宿を抜けだしたいと願っていた我が身に、メモの段階できつい御灸をすえられた心持ではある。

研幾堂跡
上記疑問はともあれ、郷頭橋谷田又右衛門の敷地はその後分割され、その一角隅に「研幾堂」があった。現在、旅館朱泥庵のある辺りと言う。
前述の如く、研幾堂は幕末の慶応2年(1866)が渡部思斎が開いた私塾。会津藩校・日新館で医学を学んだ思斎は、近隣の子弟に法政、経済、医学、文学を教え、医師、文化人、自由民権家など幾多の人材を育てた。





肥後殿御殿への裏道
旅館朱泥庵の玄関前、民家の軒先の径を進む。「主催者資料」には「肥後殿御殿への裏道」とある。径はこの「肥後殿御殿への裏道」だったのだろうか。聞き漏らした。また、「肥後殿」といえば、寛永20年(1643年)、会津藩23万石藩主となった保科正之のことだろうが、これも聞き逃した。
◆保科正之
徳川家康の孫、三代将軍家光の異母弟である保科正之は中村彰彦著『名君の碑』に詳しい。

郷頭
径を進むと東西に走る少し大きな道にでる。「主催者資料」にはこの辺りに「郷頭」の役宅があったとあり、「伊藤伊勢に代わり野澤新郷組郷頭>野澤郷頭を幕末かで続けた」とある。ちょっと混乱してきた。「ふるさと自慢館」の資料には伊藤伊勢は「政所」とあるし、先ほど「野澤内郷組郷頭」橋谷田又右衛門ともあった。「政所」と「組」「郷頭」の関係は?
あれこれチェックすると、郷頭制とは近世会津の地方支配制度のことであり、郷頭とは、数ヶ村から大きくは数十ヶ村をまとめた組織された「組」におかれたもので、通称「大庄屋」と称す。
郷頭は「政所」>「大割元・大肝煎」>「組頭」>「郷頭」とその呼称も変わったようで、伊達氏支配の頃は郷頭のことを「政所」と称していた、ということだろう(「近世会津の村と社会;酒井耕三」)。野澤内郷組と野澤新郷組の詳細は不明。

天満天神宮
東西に進む道を西に折れ、すぐに旧野澤小学校への道を右に折れ、先に進むと天満天神宮がある。この地もかつては修験の地。当山派修験・三明院、当山派修験・野澤常法(宝)院があった(「主催者資料」)。明治の廃仏毀釈、修験禁止令により、天神社を選択したのだろう。
山伏
明治5年(1872)に修験禁止令が出された当時、17万から18万人ほどの山伏がいた、と言う。山岳修験者というより、祈祷やお山代参などを生業とする者が多く、「国家神道」を基本に、「近代化」を急ぐ明治政府には、山伏は、不要の存在と断じられたのであろう。

旧野澤小学校跡
道を先に進むと広い敷地にあたる。校舎らしき建物も残る。野澤小学校があった跡地と言う。長谷川の西に西会津小学校がある。そちらに移転か統合されたのだろう。 「主催者資料」には、この地について「荒井館>肥後殿御殿>郷蔵>野澤代官所・代官稲荷>第二次民生局>野沢小学校」との記載があった。多分当日は詳しい説明があったのだろうが、今となっては冒頭の荒井館からしてよくわからない。
「ふるさと自慢館」には、芦名氏の家臣で野澤代官であった大槻太郎左衛門政通が「大槻城・現、野澤山返照寺から。のちに荒井館、現野澤小学校に移住」したとあるが、そもそもの「荒井館」についての記述はない。また、「芦名氏は織田信長への使者として野澤村地頭・荒井満五郎・新兵衛親子を任じ、貢物を献上」とあるが、この荒井氏と荒井館の主の関係がよくわからない。
行間というか文字間を埋めるべく、あれこれ資料を探す。と、「広報にしあいづ」にこの地の歴史が説明されていた。その説明によると、「この場所は「横町館跡」という遺跡として県の埋蔵文化財包蔵地台帳に登録されており、鎌倉時代から各時代に様々な建物が建築され、野沢地区の重要な拠点だったといわれています」と言うイントロから始まり、この地の歴史が詳しく説明されていた。


横町館とその後の歴史

会津街道;上野尻・野澤宿・縄沢
鎌倉時代
正安年間(1299-1301)に野沢の領主荒井信濃守頼任が居館を築いたとされ、この居館が横町館(別称荒井館)と呼ばれていました。荒井氏は会津地方を治めていた芦名氏と関係が深く後に子孫が芦名の名代として織田信長のもとへ遣わされ、馬やろうそくを献上したとされています。

戦国時代
戦国時代になると元亀年間(1570-1573)に大槻(大庭)太郎左衛門政道が大槻館(現在の遍照寺)から移ってきます。大槻太郎左衛門政道は天正6年(1576)に西方(三島町)の山内右近らとともに上杉謙信に内応し、芦名盛氏に反旗を翻しますが、敗れ、討たれることとなります。
このころの横町館の様子を描いた絵図が残されています。それによると、大きさは東西約117m 南北約51mで、西と南には幅約6m、深さ約3mの堀があります。また、東と北には長谷川が流れており、舟着場を設けて物資などの運搬に利用していたと考えられています。
江戸時代
1665年(寛文5)越後村上藩主松平直矩が江戸からの参勤交代の途中に野沢で宿泊し、その際に宿を出て 、肥後殿茶屋を見学したという記録が残されています。肥後殿茶屋は会津藩主が巡見の際休憩や宿泊に利用していた建物でこれも現在の西会津小学校旧校舎敷地にあったとされています。
1721年(享保6)になると藩命により肥後殿茶屋は本陣と改称し、現在の原町駐車場に移転します。
やがて1808年(文化5)常楽寺裏にあった代官所がこの場所に移り 。代官所は明治維新まで続きます、会津藩が編さんした『新編会津風土記』によると、ここに米蔵4棟建てられたとの記録があり、うち1棟は災害や飢饉などに供えた社倉であったとされています。
明治時代
1868年(明治元)明治新政府は藩に代わる新たな統治機関として野沢に民政局を設置しました。民政局のあった場所については諸説ありますが、この場所にあったという説もあります。なお民政局は翌年廃止されています。
1877年(明治10) 野沢小学がこの地に移転しました。当時の校舎は江戸時代の米蔵を利用したものでした(後略)」と。
これで「主催者資料」の字間が埋まった。また、この流れから読み取ると、「ふるさと自慢館」の「芦名氏は織田信長への使者として野澤村地頭・荒井満五郎・新兵衛親子を任じ、貢物を献上」とある荒井氏は鎌倉期に、野沢の領主であった荒井信濃守頼任の子孫ではあろう。
因みに、葦名氏と信長の間を取り持ったのが、上記常泉寺の笈州上人とのこと。京都・知恩寺・百萬遍第30世26年続け、正親町天王より紫衣を賜った学識高い名僧をの力ではあろう。

代官清水
旧野澤小学校跡地の東側石垣に沿って窪地に下りると、「代官清水」がある。おいしい水で喉を潤す。案内には「ふくしまの水 30選 鎌倉時代末期(1300年ごろ)に野澤地頭の荒井信濃守頼任が、今の野沢小学校のところに館を築いて、その湧水を「館の清水」と呼び、のち文化5年(1808)に、原町の常楽寺東にあった会津藩野沢代官所がこの館跡に移転してから、「代官清水」とよばれ今に伝わり、鎌倉以来の歴史を秘めて人々に親しまれている」とあった。藩主松平容敬(私注;第八代藩主。戊辰戦争の松平容保は第九代藩主)検分の清水とも。
「主催者資料」に、この湧水を集めて長谷川に流れる水路に万淵(馬淵)川と記載されている。水路は塩屋・三留家による大工事がなされたとのこと。利水の為なのか、三留家の銘酒「勇駒」の原水確保も兼ねたものなのか、詳細は聞き漏らした。

熊野神社
現「ふるさと自慢館」、江戸時代末期まで熊野権現および愛宕権現(将軍地蔵)の別当荒井家の里修験場であった大正(大勝・大昌)院と宿坊柳屋が、明治の廃物稀釈でこの地に移る。神仏分離で神職を選んだということだろう。



「主催者資料」に、旧地・牧街道小谷田から移設とあったが詳細不詳。境内跡には廃物稀釈で移された幾多の屋敷神が祀られる。社拝殿左手が崖状となっているが、竪堀?と「主催者資料」。竪堀であれば、同じく「主催者資料」に、(当地は)屋敷跡か隠居跡か?との記載も頷ける。寺社に良くある奉納相撲場跡もあるようだ。




常楽寺
熊野の社から、かつての野澤原町村の東、野澤原町村と共に野澤宿を成した、野澤本町村、本町宿の通りに戻る。本町通りへの途中に常楽寺。文化2年(1808)、上述、野澤小学校跡地に移る以前、江戸時代初期の慶安2年(1649)頃は、この寺の東側に代官所が置かれていたようである。
寺に「会津戊辰戦争戦死者の墓」の案内がある。戦いで亡くなった長岡藩、薩摩藩、長州藩士が眠る。また、会津藩の臨時編成である農町兵隊士か従兵か定かでないが、新潟で戦死した野澤出身者のお墓もある、と。
案内を見ていると、薩摩藩士は西方村(現三島町)、長州藩士は会津坂下と喜多方で戦死した、とある。何故に遠き戦場で亡くなった戦士がこのお寺に?事務局資料にはこのお寺様は戊辰戦争時、官軍野澤養生所であった、とある。そのことと関係あるのだろうか。
また、この寺に眠る長岡藩士、会津藩兵であるが、共に官軍と戦った「賊軍」戦士である。会津兵の埋葬禁止令が官軍より発せられ、野山に屍が晒されたが、町村主水(『その名は町村主水;中村彰彦(角川文庫)』)などの尽力により、後に赦され埋葬された、というからその時期以降にこの寺に?とその間の状況をチェック。
と、埋葬禁止令が出たというのは誤りで、戦時における治安の悪化・農民一揆や略奪による作業遅延、冬期という降雪時期故の作業遅延が「埋葬禁止令」といった誤解を招いた、との記事もあった。
旧野澤原町代官所御代官様屋敷跡
常楽寺道を北上し、本町裏道を右折すると「旧野澤原町代官所御代官様屋敷跡」がある。本来は野澤政所伊勢(伊藤伊勢)の屋敷で御茶屋(本陣)にもなった。伊藤伊勢は、野澤新郷組郷頭や本町村肝煎を務める。御代官様屋敷には天王様(牛頭天王=祇園社)の祠が置かれていた(「主催者資料」より)。
天王(牛頭天王=祇園社)
散歩の折々で天王社に出合う。ちょっと寄り道して、天王(牛頭天王=祇園社) の関係をまとめておく;
八坂神社は祇園社とも天王社とも呼ばれる。正確に言えば、八坂神社という名になったのは明治の神仏分離令以降。それまで「天王さま」とか「祇園さん」と呼ばれていた。明治になって本家本元・京都の「天王さま」・「祇園さん」が八坂神社に改名したため、全国3000とも言われる末社が右へ倣え、ということになったのだろう。
八坂という名前にしたのは、京都の「天王さま」・「祇園さん」のある地が、八坂の郷、といわれていたため。ちなみに、明治に八坂と名前を変えた最大の理由は、「(牛頭)天王」という音・読みが「天皇」と同一視され、少々の不敬にあたる、といった自主規制の結果、とも言われている。
で、なにゆえ「天王さま」・「祇園さん」と呼ばれていたか、ということだが、この八坂の郷に移り住んだ新羅からの渡来人・八坂の造(みやつこ)が信仰していたのが仏教の守護神でもある「牛頭天王」であったから。
また、この「牛頭天王さま」は祇園精舎のガードマンでもあったので、「祇園さん」とも呼ばれるようになった。御祭神は素戔嗚尊が多い。どうも、牛頭天王=素戔嗚尊、と同一視していたようだ。神仏習合である。
ちょっとややこしいがその経緯は、牛頭天王の父母は、道教の神であるトウオウフ(東王父)とセイオウボ(西王母)とも考えられるようになった。ために、牛頭天王はのちには道教において冥界を司る最高神・タイザンフクン(泰山府君)とも同体視される。そこからさらにタイザンオウ(泰山王)(えんま)とも同体視されるに至った。
泰山府君の本地仏は地蔵菩薩ではあるが、泰山王・閻魔様の本地仏は薬師如来。素戔嗚尊の本地仏は薬師如来。ということで、牛頭天王=素戔嗚尊、という神仏習合関係が出来上がったのだろう。閻魔様=冥界=黄泉の国といえは素戔嗚尊、といったアナロジーもその因だろうか。
また、素戔嗚尊は、新羅の曽尸茂利(ソシモリ)という地に居たとする所伝も『日本書紀』に記されている。「ソシモリ」は「ソシマリ」「ソモリ」ともいう韓国語。牛頭または牛首を意味する。素戔嗚尊と新羅との繋がりを意味するのか、素戔嗚尊と牛頭天王とのつながりを強めるためのものなのかよくわからない。が、素戔嗚尊と牛頭天王はどうあろうと同一視しておこうと、ということなのであろう。

野澤宿本陣跡
熊野の社から通りに戻る。本町通りを少し東に戻った道路南側に町営駐車場があるが、そこが「野澤宿本陣跡」。前述の如く享保6年(1721)野澤小学校跡地にあり、会津藩主が巡見の際休憩や宿泊に利用していた建物・肥後殿茶屋を藩命により、本陣と改称しこの地に移った。
「主催者資料」に拠れば、戊辰戦争時、会津藩主松平容保が津川口の戦いをにらみ、白虎隊士中一番隊とともに止宿し、佐川官兵衛を家老に任じています」とあった。
津川口の戦い
北越戦に於いて奥羽列藩同盟と戦い、長岡城を再奪取した新政府軍は、軍を米沢方面軍・庄内方面軍・津川口方面軍の三方面に分ける。山形有朋率いるこの津川口方面軍と藩境死守する会津藩兵との連戦の場が津川口の戦いと呼ばれる。 ◆白虎隊士中一番隊
白虎隊の構成は士中一番隊(49名)、士中二番隊(42名)、寄合一番隊(106名)、寄合二番隊(67名)、足軽隊(79名)の計343名よりなる。この内精鋭部隊、といっても基本、16歳から17歳の子弟ではあるが、ともあれ、精鋭部隊は「士中隊」。一番隊は藩主容保の護衛、戸ノ口原の合戦で敗れ飯盛山で自刃したのは二番隊である。
佐川官兵衛
中村彰彦さんの『鬼官兵衛烈風録(角川文庫)』に詳しい。

井戸水噴出の民家
本陣跡の駐車場の西隣、同じ敷地と思しき民家に向かう。と、民家の敷地が濡れている。よくみると家の玄関周りを囲む管に幾多の穴があり、そこから水が「噴出」している。民家西側の空き地の井戸からポンプアップされた地下水とのことである。
「主催者資料」の地図には、御本陣の西に浜次右衛門屋敷(「笹乃井」)、その西に万願寺屋敷(「男山」>小吉の井)と記載され、「万願寺屋敷」は、「ふるさと自慢館」の説明にあったように、上杉景勝の家臣・万願寺仙右衛門の屋敷があったところである。
その敷地に銘酒「男山」の醸造元・万願寺屋があり、同家の井戸は代官清水とともに名水とされ、藩主松平容保も吟味した、とある。地図にある「小吉の井」とはその井戸のことだろう。名水「小吉の井」は東北電力野澤出張所建設時に埋め立てられたとのこと。
兵左右衛門屋敷の「笹乃井」も同じく清酒の名。「笹乃井」の大井戸は万願寺屋の旧井戸と水脈を同じくし、今でも涸れることなく水を蓄えています、とあるので、ポンプアップされた水はこの笹乃井の大井戸からの水ではなかろうか。 とはいえ、周囲には造り酒屋といった建屋もなく、東北電力の出張所らしきものも見えず、駐車場と一軒の民家、そして空き地が広がるのみ。説明を聞き漏らしたが、清酒の醸造元は無くなったのだろう。

鈎型
常楽寺参道入口を越え、道を東に向かうと、道は鈎型に曲がる。「その角の辺りに豪商・野澤笹屋の総本家があり、また常楽寺からの旧道と本町南から流れてきた用水の逃し口が敷設された」と「主催者資料」にあるも、辺りはスーパーとなっており、それらしき面影は分からなかった。
鈎型に曲がるあたりが野澤原町村と野澤本町村の境とのことである。



栄川酒造
本町通りを歩く。道の北側は役人街であったと。会津大地震の復興に尽力するも、非業の最期を遂げた岡半兵衛の勘定役宅、馬次の宿であった本町が野澤宿に編入されたとき脇本陣となった菊屋などが並んだとのこと(「主催者資料」)。 また、その先、道が二つ目の大きな鈎型となって曲がる手前に栄川酒造。本町村肝煎・石川市十郎家。石川屋石川家は石田三成の後衛とのこと。石田は会津藩主松平家に憚りがあると三代目市十郎のとき、石川に改名したようだ。
この石川家の10代当主の3男が研幾堂にあった石川暎作。慶応義塾で学び『国富論』の翻訳、婦人の洋髪化(婦人束髪)運動などで知られる。
それにしても、岡半兵衛の妻が石田三成の次女。野澤に三成の後裔が棲むとは、何たる因縁だろう。

遍照寺
大きく道が曲がる鈎型箇所に遍照寺がある。境内は明治の大火で公園となった、とあるが、駐車場といったほうが適切かとも思う。延徳のころ(1489~1491)、伊藤長門守盛定(野澤妙法寺の記録に登場する)が住んで大槻氏と称し、またこのメモで度々登場する、芦名盛氏(葦、芦)の家臣で野沢村の地頭・大槻太郎左衛門が永禄5年(1852)、この地に移った。
あっさりした境内にふたつの御堂が建つ。そのうちひとつは能化上人堂(御能化様)。即身仏にならんと、生きながらにして地中に籠る。もうひとつは明治の大火で墓地を移した折に建てた納骨堂だろうか。
六地蔵
また境内には六地蔵(俗称・化け地蔵)、鬼子母神、お地蔵様が祀られる。「六地蔵(俗称・化け地蔵)」の由緒に「この地蔵は、形石灯籠の如く、火袋にあたるところを六角にけずり、面毎に地蔵1?を彫ってある。もと町の辰の方(東南)十一町、越後街道古王原にあり、夜々怪しき形になり人を誑かしていたが、一丈夫(私注;強い男)に斬りつけられ傷を受け、その変化が無くなったといい、竿石の中ほど太刀傷如きものが見えたという(『新編会津風土記』)」とある。
明治初期、道路改修の折、元大槻太郎左衛門館跡の遍照寺の一隅、能化上人堂裏に移されていた。戦時中、納骨堂建設時、危うく土堤の補強に使われるのを免れ、現在の地に建立した」と。
「網澤邑の徳蔵坊・廣谷寺・西羽賀村徳蔵寺縁起」
六地蔵の由来に続き、天正15年(1587)に書かれた縁起(「青津家所蔵古文書」)が記載されていた。漢文風の記載であり、「読み間違い」も多いとは思うが、とりあえずまとめると;
「弘仁年中(私注;810-824)、徳一の弟子徳三が網澤川と長谷川の合流点の山の小さな平地に草庵を結び聖徳太子の木造を安置する。ふたつの川が合流する草庵の前には徳蔵橋を設ける。また、野澤地蔵ヶ原に徳一作の六地蔵を安置し代々徳三坊が別当として務めた。
しかし、葦名遠江守盛宗が信州より諏片大明神を黒川に勧請し永仁2年(私注;1294)、神輿を地蔵ヶ原に宿し、その跡に小祠を建てる。その後延慶3年(私注;1310)、宮を造営。
嘉元元年(私注;1303)、別当の徳蔵坊は理由なく地蔵堂を潰し、祠を建てる。これに対し野澤の地頭荒井信濃守頼任が怒り、葦名遠江守盛宗に訴え徳蔵坊を追放する。徳蔵坊は母に縁(弟が住む)がある西羽賀村に退き、身を改め徳治元年(1306)、浄土宗徳蔵寺を建立。千体仏を彫り、六地蔵のうち1?を本尊とする。
また、応長元年(私注;1311)、網澤村に真言宗・廣谷寺を建て、延徳元年(私注;1489)に臨済宗に改め、興圀寺とし、本尊は徳一作の六地蔵のひとつである」といったようなことを記している。

六地蔵は徳一作?
最初、この縁起が六地蔵と如何なる関係があるのか、と思ったのだが、どうも、遍照寺の六地蔵は徳一作の六地蔵ということだろう。また、縄澤村の興圀寺の本尊も徳一作の六地蔵のひとつとする。
それはそれでいいのだが、この縁起「その後延慶3年(私注;1310)、宮を造営。嘉元元年(私注;1303)、徳蔵坊は理由なく地蔵堂を潰し祠を建てる」の箇所であるが、年代が入れ替わっていないのだろうか。宮を建てた後、地蔵堂を潰すのが自然の流れのようにも思える。

一里塚
遍照寺を離れ、道を先に進み県道16号を交差し、道が国道49号に合流する手前、道の南側に一里塚がある。案内に拠れば「野澤諏訪神社前一里塚 一里塚は主要な街道の両側に一里ごと(4キロメートル)に設けられた塚のことである。 町内には五カ所に設けられたと言われるが、現在は諏訪神社前の塚と白坂・宝川間(私注;下野尻の先の車峠を新潟側に越えた会津街道の宿場)の塚が形を残すのみである。
この塚も明治三方道路の開削で片側が完全に消滅したが、江戸時代の交通史を物語るものとして重要なものである」とある。
塚は道の南、小川(裏川)の向この杉木立の中にある。塚と塚の間に小川?なんとなく変。三方道路開削時、瀬替えされた結果だろうか。妄想ではある。
三方道路
会津三方道路は、明治時代の福島県令、三島通庸によって主導された土木事業の通称。また、それによって生み出された道路のことを言う。
会津若松から 南の栃木県日光市田島・今市方面(白川街道)と、 西の新潟県東蒲原郡阿賀町津川・新潟方面(越後街道)、 および北の山形県米沢市方面(米沢街道)への 三方へ向かう道路の総称である(Wikipedia)。

諏方神社
一里塚の北の広い社叢は諏方神社。当日は時間が押しており、境内に行くことはなかったが、「主催者資料」には、「永仁2年(1294)葦名遠江守盛宗が信州より諏片大明神を勧請し、その神輿が宿営した縁で、嘉元元年(1303)野澤の地頭荒井信濃守頼任が同社を祀った」、とある。また、当社には野澤小学校から移された田中角栄氏の揮毫の碑があるようだ。
ここでは嘉元元年(1303)野澤の地頭荒井信濃守頼任が同社を祀ったとされている。上記縁起の年代齟齬の疑問は当たっているかも。
諏方
なお、「諏訪」ではなく、「諏方」とあるのが、本社諏訪大社に遠慮してのこと。 とはいえ、この「諏方」という表記はは、この地に限ったわけではなく、東京・荒川区にも「諏方神社」はあった。

鉄火の裁き
「主催者資料」に拠れば、松尾村(綱澤村の北)と縄澤村で山の利用権を巡り刃傷沙汰にまで発展したため、会津藩が仲裁に入るも決着つかず、結局「鉄火」による裁きとなる。
「鉄火の裁き」とは、鉄火を掴み、先に落とした方が負け。負ければ「御成敗」、勝っても重症の火傷を負うという、苛烈きわまりない裁き。松尾村の代表が斃れ決着がついたが、松尾村はその代表を厚く供養したとのことである。 なお、鉄火の裁きは、この地だけでなく江戸の初期の頃、各地でおこなわれていたようである。

地蔵原・六地蔵原・古四王原(胡四王原)
諏方神社前を進むと国道49号と合流。その先、国道を跨ぐ磐越自動車道の手前が腰王原甲、越えると古四王原甲となる。上記遍照寺の六地蔵の説明と縁起に「古四王原 地蔵ヶ原ちょうせんじ跡」とあったので、高速の東西辺りが、徳蔵坊が草庵を結び、徳一作の六地蔵を安置した野沢地蔵ヶ原であろう。
ちょうせんじ跡
「ちょうせんじ跡」に関し、「主催者資料」に「長泉寺須弥壇跡(石川家菩提寺? 安積伊藤氏菩提寺?)」といある。安積伊藤氏の墓は郡山士大槻町の長泉寺とあり、上記縁起に「延徳のころ(1489~1491)、伊藤長門守盛定(野澤妙法寺の記録に登場する)が住んで大槻氏と称し」とある伊藤長門守盛定は安積伊藤氏の同族との説もある。
また、石川家の菩提寺? についてはトレースできない。石田三成の後裔である野澤石田家のことなのか、福島県石川郡石川町にあり石川氏の庇護を受けた東北の名刹と称される長泉寺のことなのか、ガイドの先生の説明をちゃんと聞いていなかったため、不詳である。

徳蔵橋
磐越自動車道の高架下を潜り、国道から左に折れる道を進むと、長谷川と不動川が合流する箇所に、そのふたつの川を跨ぐ徳蔵橋が架かる。上述遍照寺の『縁起』に、「徳蔵が網澤川と長谷川の合流点の山の小さな平地に草庵を結び聖徳太子の木造を安置する。ふたつの川が合流する草庵の前には徳蔵橋を設ける」とある徳蔵橋の辺りだろう。
「主催者資料」には「昭和10年頃は砂子坂から真っすぐに道が伸びていたそうで、長谷川と不動川の合流点の突端部分に徳蔵寺があったといわれていますので、二つの川が合流する直前のところにそれぞれ橋がかかっていたのでしょうか」とある。遍照寺の縁起にはこの辺りに徳蔵寺の記載はないのだが?草庵か地蔵堂のことだろうか。
砂子坂
「国道49号は諏方神社を過ぎると緩やかに下りエネオスのスタンド前を通過する。この穏やかな坂は土盛をして緩やかにしたもので、本来は一気に地蔵原から長谷川の低地に坂(崖)を下っていた。地蔵原や野澤宿がある地形面は阿賀川の河岸段丘(野澤盆地の中核中核的段丘)で、それを長谷川が側方侵食して比高10m程度の段丘崖を形成。この段丘崖の坂が砂子坂。段丘の構成物が軽石や粉砕された砂を主体とした物であり、砂っぽいため名付けられたのではないか」と「主催者資料」にある。
二枚橋
実際当日訪れたわけではないのだが、ガイドの先生の説明にあった「二枚橋」を「主催者資料」を引用する;
「本町から県道と国道49号バイパスの交差点から150m位行ったところに、かつては深い谷があり、その谷にふたつの橋(越後街道にひとつ、明治17年完成の三方道路に一つ)が極めて近い隣同士に架かっていたので、人々は二枚橋と呼んでいたそうである。
その後昭和28年(1953)に新潟市と旧平市が二級国道新潟平線になった時に谷が埋められて橋も無くなったかと思われる」。
一里塚の解説に「この塚も明治三方道路の開削で片側が完全に消滅した」とあり、現在県道に沿って流れる水路(裏川)の右手に一里塚が残る、ということは、街道はふたつの塚の間を通るわけで、その片側の塚は三方道路で崩された、ということは、三方道路は会津街道の諏方神社寄りになるわけであろうから、「主催者資料」の地図に示される二枚橋の位置は今一つ間尺に合わないのだが、どこか間違っているだろうか。

馬頭観音
徳蔵橋の南、長谷川と不動川に囲まれた辺りにあったという「森の越古墳」を見遣りながら進むと道脇に馬頭観音。荷を運ぶ主役である馬を祀るもの。散歩の折々、街道脇でよく見かける。
金城館跡・向館跡
道の左手、一ノ沢山の山腹に金城館跡、馬頭観音から少し進んだ、道の右手に向館跡。ともに大槻太郎左衛門が芦名氏に背いたとき、それに抗して金白加賀守景良が築いた館とのこと(「主催者資料」)。



馬頭観音から先は、GPSの電池が切れ、また間が悪いことに、替えの電池を持たなかったため、以降トラックログを取れなかった。ために、大雑把にルートを記す。

縄沢の集落
道筋に戻り先に進み、道から一筋内に入る縄沢集落への道に折れる。「縄沢」と書いて「つなざわ」と読む。「主催者資料」によると「野澤盆地が湖だった頃、船を繋いだところだったので「船繋沢」と呼ばれ、天正年間(1573‐1593)に東青津村から生江氏が18名の従者と共にこの地に来て、西方の上町と東方の侍屋敷の2ヵ所を開墾し、村名を「綱沢」に改めた。その後正保年間(1624-1645)に「縄沢」と改める。将軍家綱に遠慮し「綱」を「縄」としたとの説もあるが、家綱在位が1651‐1680であり、ちょっと微妙」とあった。
地名などで、漢字を書き間違い、それが今に残るといったこともよくああることなので、それだけのことかもしれない。単なる妄想。
縄澤村
「此の地はかつて「船繋沢」と呼ばれたように、平地が少なく山地のため焼畑農法で、3年から3年で土地がやせると新たな場所で焼畑を行い、旧地に這える草を馬の冬期用干し草として萱本村や野澤本町の農家に売っていた、と。 また、湖水周辺と思われる箇所から縄文中期‐晩期の土器や矢じり、磨製石斧等の石器が多数出土している(「主催者資料」より)。

『新編会津風土記』には、「寛文10年の家数23軒,人数男150・女129(万覚書)化政期の家数31軒」「当村の北方の山中には,元和年間松尾村との境界争いの際,鉄火により誅せられた松尾村の清右衛門の死骸を三分した胴塚・首塚・足塚があり,それを両村の境界としたという」といった記載もあった。
明治4年の戸数26・人口142(若松県人員録)同8年青坂村ほか4か村と合併して六ツ合(睦合)村となった。現在は、耶麻郡西会津町睦合縄沢。

広谷寺
縄沢の集落の道を進む。道の北には広谷寺があるとのことだが、当日は時間がなくパスすることになった。が、一応上記縁起にもあったお寺さまでもあるので、ちょっと寄り道メモ。

遍照寺の縁起に「また、応長元年(私注;1311)、網澤村に真言宗・廣谷寺を建て、延徳元年(私注;1489)に臨済宗に改め、興圀寺とし、本尊は徳一作の六地蔵のひとつである」とあったお寺さま。主語が縁起ではわかりにくい。徳蔵坊か本願村主二瓶安房守綱守のどちらだろうか。
なお縁起は天正15年(1587)であるのでその後のことも踏まえ、「主催者資料」で補足すると、もとは南方向山地区(私注;場所不明)にあったが、寛永5年(1628)、この地に移り、名前も興国寺から「臨済宗霊運山広谷寺」に戻り、明治にはいると「柳津奥之院」という格式の高いお寺の兼務寺となり、現在に至る、と。
境内の鐘は戦時中供出されたが、戦後50年、出ヶ原村(私注;縄沢の南。長谷川に沿って国道400号を上ったところに「出ヶ原」がある。そこだろうか)で発見され、広谷寺に戻ってきたとのことである。

日本一小さい無名美術館
道なりに進み、大きな民家に。そこは縄沢の折笠さんが自費で集めた美術品、骨董品、古文書などを自宅の蔵で公開する、「日本一小さい無名美術館」に。同美術館には90種類もの手ぬぐいの展示も併設されていた。休憩をも兼ねてのんびり鑑賞。







御稯神社
集落の民家の間の道を進み、川筋を進む道から左に折れる道と合流する辺りに社がある。御?神社。村の鎮守さま。「主催者資料」に「鎮守様の嫌いなものは、井戸・蔵・牛・胡麻。村には、神様がここに来たとき、牛の糞を踏んで滑り、胡麻の棒で目をついて見えなくなり、井戸に落ちて死んだとの話が伝わる。その所以は、縄沢は岩盤が固く井戸掘れない、田畑がすくなく蔵がいらない、牛は馬ほど小回りがきかない、胡麻はこの地に遭わない、といった背景から、無駄なことはしなくてもいい、と言う鎮守様の教え」、とか;


復縁の松
社から不動川筋を通る道に戻り、少し野澤の方に戻る。旧街道が通ったという不動川左岸、青坂・上谷方面に渡る橋の手前、民家の八屋根上に二本に分かれた幹が一本の幹に合体する松の奇木がある。その形故に「復縁の松」と呼ばれる。

「復縁の松」から、旧道の面影を残す道を少し歩き、国道49号に。これで初日の「会津街道探索ウォーク」は終了。明日は、縄沢から束松峠を越えて、会津坂下町の片門まで歩く。





沢上り仲間のTさんに誘われ一泊二日で会津街道を歩くことになった。会津街道歩きといっても、そのほんの一部、西会津町の上野尻から会津街道の三大宿場のひとつと言われる野澤宿を抜け、束松峠を越えて会津坂下町の片門までだけである。

Google eaethで作成
この散歩は、Tさんの知人で西会津観光交流協会に勤務するHさんが企画した、新発田から会津若松までの会津街道(会津からの呼び名は「越後街道」)を5回に分けて歩く、「会津街道探索ウォーク」の4回目の企画。全行程116キロの探索ウォークのうち、ほんの20キロ程度である。

会津街道自体にそれほど思い入れもないのだが、参加を決めた理由は、とりあえず歩けるのなら何でもOKということ、この旅程の前後に前々から気になっていた会津若松の「戸ノ口堰用水」に寄ってみようと思ったこと、そして、少々とってつけた感はあるが、中村彰彦さんの小説、『落花は枝に還らずとも(中公文庫)』の主人公である「秋月悌次郎の慟哭の峠である束松峠へ」という同企画のキャッチフレーズに惹かれたことにある。

基本散歩は単独行であり、団体行動に不慣なため、少々の戸惑いはあったが、主催者の行き届いた配慮、専門家による詳しいガイドなど、単独行とはまた趣の違った、誠に楽しい散歩となった。 いつもの散歩であれば、事前に散歩の準備をすることもなく、散歩で偶々出合い、気になったことを調べてメモするのだが、今回の一泊二日の散歩は、普段と異なり、主催者が準備してくれた33ページにぎっしり詰まった解説文がある。今回の散歩はその資料(以下「主催者資料」)を参考にさせて頂きながらメモすることにする。



本日のルート;
■上野尻の西光寺>イザベラ・バード感動の地>雪崩常習地帯>芹沼一里塚>芹沼の大山祇神社道標>安座川を徒河>小屋田遺跡の敷石住居跡>堀貫橋跡に>本海壇(火防塚)>化け桜>野澤原町宿田沢橋口西門>ふるさと自慢館
■脇本陣跡>常泉寺>野澤停車場通り>劇場通り・花街通り>野澤原町宿東門>初期野澤内郷組郷頭橋谷田又右衛門家跡>研幾堂跡>肥後殿御殿への裏道>天満天神宮>旧野澤小学校跡>代官清水>熊野神社>常楽寺>野澤宿本陣跡>井戸水噴出の民家>鈎型>栄川酒造>遍照寺>諏方神社>一里塚>地蔵原・六地蔵原・古四王原(胡四王原)>徳蔵橋>馬頭観音>広谷寺>日本一小さい無名美術館>御?神社>復縁の松


磐越西線野沢駅
「会津街道探索ウォーク」の集合地は磐越西線・野沢駅近くの西会津町役場。時間は午前8時半。新潟や福島の参加者なら当日早出で間に合うだろうが、東京からでは前泊しなければ集合時間に間に合わない。会津街道散歩は一泊二日の企画ではあるが、我々は二泊三日の旅となる。
野沢駅近く、ツアー初日に泊まる宿を前泊1日余分に予約し、東北新幹線で東京から郡山、郡山から磐越西線で会津若松経由で野沢に向かう。途中、会津若松で4時間ほど時間をとり、「戸ノ口堰用水」の事前調査というか、さわりの部分を歩き、夕刻の列車で野沢駅に到着。翌日を迎える。

スタート地点・上野尻の西光寺
町役場で集合の後、先回のゴール地点である、福島県耶麻郡西会津町上野尻の西光寺にマイクロバスで移動。西光寺は蒲生氏ゆかりの寺のようだ。は、国指定重要文化財の「紙本著色蒲生氏郷像」があるとのこと。蒲生氏郷は秀吉の天下統一の後、会津に移封され91万石の大守となった戦国武将。当初黒川城と呼ばれていた会津若松の城、鶴ケ城と呼ばれるようになったのは、蒲生家の家紋・舞鶴に拠る。

上野尻・西光寺から野澤宿・縄沢までのルート図
それはそれとして、出発点の上野尻ってどんなところか、気まぐれにチェック。と、西会津観光交流協会のページに「野尻には上野尻と下野尻のふたつの村があって、どちらも越後街道の駅所でした。このなだらかな下りの一番低いあたりに上野尻と下野尻の境界があります。
下野尻のほうが歴史は古く、戦国時代から阿賀川の舟運で物資を会津へ運ぶ基地でした。その需要の多さにより、すぐおとなりに上野尻ができるほどの賑わいで、野尻が重要な駅所だったのがわかります。ピーク時には上野尻99軒、下野尻80軒の家があったとの記録が残っています。
現在のJR上野尻駅の裏手に「中嶋」と呼ばれる荷物の発着所がありました。 当時、会津藩の廻米の量は年間10~13万俵で、そのうちの6割は下野街道から江戸へ、残りの4割が阿賀川舟運で日本海航路を通って京都・大阪に運ばれていました。
中嶋舟着場では、廻米を含めたすべての荷物がいったん陸揚げされて、役人の検査を受けた後、(中略)車峠(私注;下野尻の西)を越えて馬による陸路で運ばれるルートと、阿賀川沿いの道を徳沢舟着場へ運び、そこから鵜飼船に積んで舟運で搬送するルートに区分されて津川の湊に運ばれました」といった記事があった。
へえ、そうなんだ。が、ちょっと疑問。どうして野尻が舟運の拠点に?あれこれチェックすると、江戸の頃、会津藩は、会津若松の北、磐越西線の塩川から阿賀野川(阿賀川は新潟に入ると阿賀野川となる)の津川までを通舟する工事が行われたが、途中難所が多く、工事が危険でありかなりの区間を陸路を使った、といった記事(「阿賀川と船運;川口芳昭」)があった。
コスト面や途中の目減りロス、そして大量に早く大阪に廻米するためには舟運のほうが効率的なことは明白であるわけで、上流であればあるほど段取りがいいのだろうが、そこに拠点がないとすれば、この野尻辺りが越後側から通舟工事ができる上流端であったのかと推論(妄想)する。

阿賀川・阿賀野川
阿賀川は南会津田島から流れる大川、猪苗代湖から流れる日橋川、そして南会津から流れる只見川をその源流とする。かつては、日橋川が大川と合流し「大川」に、その大川が只見川(『会津鑑』には、尾瀬沼から只見までを「揚川」、只見から片門までを「只見川」、片門より下流を「揚川」と記す)と合流し「揚川(あがかわ)」としたが、揚川が阿賀川となり、福島を越えて新潟の平坦な地を流れるに至り、その野の流れの穏やかさが別の川のようでもあり、川名も変え「阿賀野」川としたようである。
「揚川」は奥会津で大雨が降り、急に水嵩が上がる故とのこと。とはいえ、揚川が阿賀川に転化した経緯は全く不明。

イザベラ・バード感動の地
西光寺を離れ、国道49号を越えて阿賀川脇の道を進む。と、阿賀川の対岸に灰色の崖面が見える辺りで、ガイドの先生が、このあたりが「イザベラ・バード感動の地」と。『日本奥地紀行』に「下を流れる急流の向かい側には、すばらしい灰色の断崖がそそり立ち、金色の夕日の中に紫色に染まっている会津の巨峰の眺めは雄大であった」とある箇所であろうと。会津の巨峰とは飯豊山(いいでさん)につらなく連峰のことだろうか。
イザベラ・バード
英国の旅行家。明治初期日本を旅し、東京から北海道、そして関西の旅を紀行文にまとめる。『日本奥地紀行は』は明治11年(1878)、東京から北海の日本北日本紀行「undeaten tracks in Japan」を訳したもの。

雪崩常習地帯
道なりに国道49号に戻り、なんとなく右手の山側が国道に迫りくる辺りが雪崩常習地帯であったとの説明。地図の等高線を見ても、蝉峠山からの尾根筋が阿賀川に突き出した箇所である。越後長岡藩士の記録に雪崩のこと、雪崩による街道止め記録が残る。






芹沼一里塚
雪崩常習地帯から少し先、阿賀川が南東に突き出た対岸の地を大きく廻りこむあたり、国道49号から少し山に入ったところに芹沢一里塚。とはいいながら、塚の形を留めることもなく、少々周囲とは「ノイズ」を感じる程度の丸まった小振りの平坦地がそれである。
通常二つある一里塚の「南塚」との研究報告書もあるが、対になる「北塚」や塚の間を通る道形の痕跡もないようで、距離的には一里塚と一致するも、未だ「不明」とのことであった。

芹沼の鳴沢田と伝説成立のお話
芹沼集落にある、鳴沢田と呼ばれる良田にまつわる伝説の「拡大プロセス」についてガイドの先生からの説明;芹沼村の老夫婦が旅の僧に一夜のもてなし。そのお礼にと僧は観音像を手渡し旅立つ。観音像のおかげで田は鳥害もなく良田となる。その田を鳴沢田と呼ぶのは、観音像に鳴管を繋ぎ、田の畔に置くと、鳥が近づくと鳴管がなり鳥が逃げ出したことに拠る。また、この観音さまを鳥追観音と称するようになった。
この話は、『会津鑑』では、旅の僧は行基となる。そして老夫婦が亡くなった後、鳥追観音は、自ら阿賀川の淵に鎮座するも、空海が近くを通ると、自ら空海の掌に飛び移る。如法寺は空海がその観音像を安置するため建てたものである、と。鳥追観音・如法寺は磐越自動車道・西会津インターの少し南にある。 旅の僧からはじまったお話は、行基・空海が登場し、さらには鳥追観音・如法寺の縁起までに発展するが、話は更に発展する。
「西会津ふるさとの伝説」には、空海と徳一が共に旅をしたこととなり、空海の掌に飛び移った観音さまを徳一に託し、徳一が観音堂を建立。それが鳥追観音・如法寺とのこと。
伝説・縁起はこういったプロセスを経て、「ありがたさ」を拡大していくのだろう。
◆徳一僧都
鳥追観音・如法寺のHPに拠ると、開創は徳一大師(私注;大師号は受けていない)、本尊の鳥追観音は行基作とある。空海は良しとして、徳一僧都について同HPをもとに簡単にまとめると、「平安時代初期、奈良の都から会津へ下られた法相宗の僧。会津に仏の都を実現し衆生済度をと志し、大同2年(807)、会津東方の磐梯山麓に根本寺として慧日寺を創建。次いで越後への要所野沢に会津西方浄土として鳥追観音如法寺を開創。
更に会津盆地の中央に勝常寺を、奥会津只見への要所柳津に円蔵寺を、会津北方の要所熱塩に慈眼寺(現在は示現寺)を開創。民衆の布教教化に邁進し、故に民衆は、僧徳一を東国の化主、菩薩、大師と尊称致し、尊信敬仰致した。
また、徳一は、天台宗最澄、真言宗空海という平安新都の二人のリーダーに対して、奥州会津慧日寺に住しながら、真っ向から独り法戦を挑み一歩も引かず五分に亘りあい、よく旧南都仏教法相宗の正義を守った学僧としての面目も高い。
徳一菩薩、徳一大師と、一般民衆より尊信敬仰されたことは、仏教僧の本分である衆生済度に身命を賭して、都より遥か東国の野に下り、民衆の為に御仏の慈悲を施し、仏教の法燈を点し続けた徳一の真面目であり、故に、今日でも徳一大師と尊称致し、尊敬致して止まぬ。
その後、やがて磐梯山慧日寺は、会津四郡を支配し、最盛期には寺領十八万石、子院二千八百坊、僧侶三百人、僧兵数千人を数える程に隆盛を極め繁栄致しました。この慧日寺支配による荘園政治は、武家政治が確立する鎌倉時代以前まで続き、奥州一の会津仏教文化の黄金時代を創り出した」とあった。

芹沼の大山祇神社道標
国道49号を離れ安座川に向かって土径(どみち)に入る。磐越西線が安座川に架かる鉄橋手前、芹沼集落端の田圃に上部が欠けた道標がある。「大山祇神社道標」とのこと。
地図を見ると、大山祇神社への道は、この地より安座川に沿って堀越集落,牧集落へとの進み、牧で中野川筋に乗り換え南に進み中野集落を経て大山祇神社に至る。
で、この地に道標が立ったのは、弘化4年(1847)に、野沢と芹沼を結ぶ新道が、旧来の堀越村を経由するルートをショートカットする形で、芝草の端村新田からこの地に通じ、新道に入らないよう注意を喚起するため。我々はその新道を進むことになるようだ。
大山祇神社
第四十九代光仁天皇の御代宝亀九年(西暦七七八年)の勧請とされる。御祭神は大山祇命、岩長比売命、木花咲耶姫命の親娘三神。 大山治水(治産治米)は治山治水(治産治米)、 岩長姫命は健康長寿、 木花咲耶姫命は良縁・子宝安産の神。 「なじょな願いもききなさる野沢の山の神さま」として、 県内外、遠くは越後、出羽一円にまで 厚い信仰がよせられている古き社である。
で、何故にこの社が越後、出羽にまでその信仰が?実際、道標に刻まれた「北越水原」は現在の新潟県阿賀野川市にあった「講中」である。道々でのガイドの先生の軽口に拠れば、これから訪れる野沢宿の「悪所」が楽しみでもあった、とも。
信仰と「現世利益」がセットになったものは散歩の折々に出合う。お酉さまで賑わった足立区の大鷲神社も、祭礼の日に赦されていた賭博が禁止となると、人の流れがピタッと止まったともいう。今回のツアー参加者のひとりが、父親が熱心に大山詣でをしていたが、その実は「悪所」が楽しみでは、といった父親の姿を楽しげに語る姿が、なかなか良かった。

「軽口」はともあれ、大山祇神社参詣が盛んになったのは明治以降との記事も見かけた。明治に入り宮司さんが越後の販促をかけ、そのおかげで講中が増えた、とも。

三島神社
この大山祇神社と直接関係はないかもしれないが、大山祇と関係の深い三島神社が福島には多い。全国400社ほどの三島・三嶋神社の本社は、伊予の大山祇神社か、静岡・三島の三嶋大社であろうから、愛媛県に全体の3割近い111社が集中し。次いで静岡県の36社はわかるのだが、この2県に次いで福島県35社(その後は福岡県24社、高知県19社、神奈川県19社と続く)となっている(Wikipedia)。その所以など興味津々ではあるが、寄り道が過ぎてしまうので、このあたりで「思考停止」としておく。

安座川を徒河
磐越西線の鉄橋橋脚の傍を下り安座川に。ここからは川を徒河する。往昔の街道歩きの追体験。用意された長靴に履き替えず、素足で渡河。小石が足裏に当たる刺激が心地よい。

安座(あざ)川
「安座」は、「あぐらをかくこと。また、くつろいで座ること」、とか「何もしないで安らかな状態でいること」と言った意味がある。あれこれチェックすると、安座川の上流、安座集落に「弘法の岩屋」があるようだ。由来は、この弘法大師にあるのでは。因みに、弘法大師空海(大師号は没後に授けられたもの)がこの地を訪れたといった記録はないようだ。

小屋田遺跡の敷石住居跡
安座川を渡り、新田集落を経て国道49号を渡り、ふたつに分かれる道を右に向かうと、最初の角に「小屋田遺跡の敷石住居跡」がある。
「小屋田遺跡は阿賀川の河岸段丘上に縄文中期から後期にかけて形成された大集落。東西約300m、南北約320m、7万平米の大遺跡。大小さまざまな川原石が敷き詰められた縄文時代後期の住居(敷石住居)跡で、敷石の中央には円形の石囲炉が数個の礫で作られている。火焔土器など出土している県内の代表的縄文時代遺跡である(「主催者資料」より)」。

堀貫橋跡に
縄文住居跡から北に向かい、野沢の町並みを横切る通りに繋がる道を進み、田沢川に架かる橋(多分、新町橋)を渡る。田沢川とも四岐川とも呼ばれる橋を渡ると直ぐに川に沿って北に折れ、土径を先に進み崖端に。対岸に岩壁が見えるが、往昔、ここに堀貫橋が架かっていたようである。


田沢川を渡る街道の変遷
「主催者資料」に拠れば、田沢川を渡る道筋は、3度その渡河点を変えており、最も古くは、本海壇(私注;後ほど訪れる)の脇を通って国道49号傍の「道の駅にしあいづ」の直ぐ北にあった田沢川橋(下条橋)を渡り、芝草に入る(私注;原文を修正。順序が逆?)。天明6年(1786)以降は、常泉寺脇(私注;後ほど訪れる)からこの掘貫橋を渡り芝草に。
弘化4年(1847)以降は、「芹沼の大山祇神社道標」でメモしたように、最短距離のルート。先ほど渡った新町橋の直ぐ川下に欄干付きの新町橋ができ、芝草から新田を通って芹沼に通じた。

本海壇(火防塚)
堀貫橋跡から新町橋に戻り、道を野沢宿の方に少し進み道を右に折れる。しばし南に進み田沢川(四岐川)岸に向かう。川に落ちる崖前の平坦地は「本海壇(火防塚)」とのこと。
その由来は、いつの頃か、本海という行人が祈祷中、失火に寄り野沢宿が全焼。怒った宿場の人々は本海を生き埋めに。しかし、それ以降宿場に火事が頻発。本海の祟りを鎮めるため、本海を火防鎮火の聖として壇を築き祀った、と。広場状となっているのは、供養のための奉納相撲が昭和30年(1955)頃まで行われた、その名残であろうか。
上に田沢川を渡る最も古い街道は、本海壇(火防塚)の先で田沢川橋(下条橋)を渡るとあったが、現在、橋らしきものは見当たらなかった。

化け桜
本海壇(火防塚)から折り返し、野沢の宿に入る最も古い道筋を先に進むと、左手に老巨木が見える。案内には「下条の普賢象桜」とあり、「この樹には白狐が樹幹空洞部に棲息していたと言われ、住民から 「 化け桜 」または「千歳桜」などと称され、今でも広く親しまれています。
ここは、旧越後街道に沿い、行き交う旅人の休み場所であったらしい。この桜は推定樹齢約五百年といわれ、会津でも有数の老巨木です 西会津町教育委員会」との案内があった。
品種はエドヒガンとあるが、案内に「普賢象桜」とあるのは、花の中心に葉が垂れたその形状が、雌しべが花の中央から2本出て細い葉のように葉化している普賢象桜に似ているから、とか。
また、その形状故に、花の中心から「舌」を出しているようにも見られ、自死した宿場女郎が化けたとのエピソードも生まれた。「化け桜」と称される所以である。
桜の形状はともあれ、気になるのは「旧越後街道に沿い」との記述。上で田沢川を渡るルートの最古のものは、下条を通るルートとメモした。天明6年(1786)以前は、このルートを歩いて野沢宿に入ってきたのだろう。

野澤原町宿田沢橋口西門
「化け桜」から更に、旧街道だろう道筋を進む。少し東に進んだ後北に向かい、町並みを貫く大きな通りに出る。そこが「野澤原町宿田沢橋口西門」とのことであった。通りから西を見ると蝉峠山が堂々とその姿を現していた。

野澤宿の概要
ディテールに入り迷い込む前に、大雑把に野澤宿の概要をまとめておく; 大山祇(おおやまづみ)神社と鳥追観音の門前町でもある西会津町、その町中心部に位置する野澤宿は江戸時代以降、津川宿(新潟県阿賀町)、坂下宿(会津坂下町)とともに、会津・越後街道の三大宿場町として栄えた。
会津からも越後からも山越え・峠を越えた先の小盆地にある野澤宿は古くは湖底であったとされる。WEBにあった「野澤組地理之図(『新編会津風土記』)」にも「ひとり原町本町(私注;野澤宿は野澤原町村、野澤本町村から成る)の四方すこし開けて平地なり東西南に高山連なり、北は揚川流る、(中略)相伝ふ、此地往古揚川の水道塞り、其水数里の外に洋溢して遂に一大湖となり、平衍の村落民業を失ひ、漸々に山稜に登り、各自に家居をなせしが何の頃にか下野尻村の北銚子口(私注;下野尻の少し下流の狭隘の渓谷)と云山隘の口決し、其水大に潰て忽平地となりしとぞ」とある。
鎌倉期には地頭として荒井氏が館を設け、戦国期には芦名氏の支配下となり、16世紀の初め、野澤六人衆による町割りが行われ、江戸に入ると会津街道(越後街道)の宿場町として整備される。会津藩は野澤に代官所や郷蔵を設け、六斎市の開設など地域行政・経済の中心として発展し、前述の如く、津川宿(新潟県阿賀町)、坂下宿(会津坂下町)とともに、会津・越後街道の三大宿場町として栄えたようだ。
この地が地域行政・経済の中心となった因を「妄想」するに、会津・新潟間の往来を困難にする山塊を越えた山間の地、それも1日の行程の地にあるということ、かと。越後・会津の両地域からの物資の中継地として、丁度いいポジショニングであったのだろう。会津からは山の幸、越後からは海の幸の集散地として栄えた、とのことである。また、大山祇神社、鳥追観音・妙法寺の門前町といったこともその因の一端かもしれない。
寛文10年(私注;1670)の家数119軒,人数は男422・女369(万覚書)化政期(私注;文化・文政:1804‐1830)の家数127軒。
文政9年(私注;1826)の大火では寺社2,3を残して全焼。明治4年(私注;1871)の戸数140・人口766(若松県人員録)同8年(1873)野沢本町村・西平分と合併して野沢村となった(『角川地名大辞典』)。

ふるさと自慢館
蝉峠山と反対方向、野澤原町宿の大通りを進み、「ふるさと自慢館」に。ここで少し休憩。米穀店の蔵をリニューアルしたこの施設、江戸時代末期まで熊野権現および愛宕権現の別当荒井家の里修験場・大正(大勝・大昌)院と宿坊・柳屋であった、と。
大山祇神社参拝の先達を務めたとの記事もあったが、鳥追観音・妙法寺とのペアで山岳修験・神仙思想の霊地として大山祇神社が組み入れられたのだろうか。
それはともあれ、ふるさと自慢館の1階、2階に西会津の地形、歴史、会津大地震、戊辰戦争を背景とした大河ドラマ「八重の桜」に関わる八重や山本覚馬、また西の松下村塾に対して東の研幾堂と称され、幕末・明治に有意の人材を輩出した野澤宿の私塾のことなど、会津街道散歩に何の問題意識もなく参加した我が身には、頭を整理する上で誠に役立つ資料が展示されていた。


西会津の今昔(私注;地形)


◆1600万年前頃、日本列島のほとんどが海。会津では飯豊山など一部が海上に顔を出していた
◆800万年前頃、日本列島は隆起し、会津盆地の西に残った海は、現在の阿賀川筋に沿って新潟の海と繋がり、浅い海となっていた。
◆300万年前頃、会津盆地は沈降し周囲は隆起することにより海は湖水となり、会津盆地と西会津が分断された現在の地形に近いものとなる 。
◆5000年前頃、沼沢火山が噴火し大量の火砕流堆積物(軽石等)が只見川、阿賀川沿いに流下し、銚子の口(私注;西会津町の西端、新潟県境に位置する阿賀川の狭隘の渓谷。野尻の下流)で堰止められ、野澤盆地が湖水となる。水流で粉砕された軽石が厚く堆積し現在の地形面をつくる。平安末期から鎌倉初期にも銚子の口が地滑りで堰止められ沼泥化したようだ。


西会津の歴史(NHK大河ドラマ『天地人』の時代から明治まで)

芦名盛氏の頃(16世紀後半);大槻太郎左衛門の乱 
天正6年(1578)2月 会津守護の蘆名盛氏(葦、芦)の家臣で野沢村の地頭であった大槻太郎左衛門政通(大槻城・現、野澤山返照寺、のちに荒井館、現野澤小学校に移住)は、越後の上杉謙信に内応し、芦名氏に反旗を翻し、片門村に出陣。只見川沿いで戦うが討死。
只見川以西の地頭の多くは大槻に従うも、天屋村の溝田氏は芦名に与し、恩賞として下野尻村を賜る。茅本村(私注;野澤村の北、長谷川右岸)に上方より渡辺中務、更に足利尊氏の一族山口貞景が森野村(私注;茅本村と長谷川の間)の地頭として赴任。
芦名氏は織田信長への使者として野澤村地頭・荒井満五郎・新兵衛親子を任じ、貢物を献上。
上杉謙信の死去;御館の乱・天正6年(1578)3月
謙信没後、家督を巡る上杉家の内紛(御館の乱)に芦名氏も、「混乱に乗じて、五泉市辺りまで出兵。野澤からも芦名氏傘下で大槻、矢部、石川氏が出陣。
会津領主の交替;摺上原の戦い 天正17年(1589)
芦名氏を破り伊達氏が黒川(会津若松城)に入城。領内統治をはかるため野澤大槻城に菅信濃・荒川近江を置くが、野澤の自治は野澤政所・伊藤伊勢、野澤内郷組郷頭・橋谷田又兵衛らの活躍で守られる。
◆上杉景勝の会津統治;慶長3年(1598)
蒲生氏郷が90万国の大名として会津に移った後、上杉景勝が120万石で会津に転封。領内統治のため、西会津には満願寺勧右衛門を派遣し、野澤に万(満)願寺屋敷(元東北電力)と野沢町・直右衛門屋敷(現存、高梨直七)とを置く。 関ヶ原後、石田光成の一族は野澤本町村に移り、石川と改める。上杉の家臣斎藤下野守朝信や小島弥太郎の子孫も野澤本町村に住む。
慶長の大地震;慶長16年(1611)
慶長の大地震(M6.8)が会津を襲い、西会津でも鳥追観音堂が崩壊し、程窪・泥浮山・小杉山等に新沼が生まれる(私注;縄沢から南に下る走沢川筋。現在も地図に沼が残る)。芹沼村にも大沼(私注;現在も残る)が生まれた。
一方、会津地方の大動脈である阿賀川も塞き止められ、舟運や越後街道が変更される中、交通の要衝として西会津の政治的経済的位置づけが重要性を増してくる。
江戸末期・明治維新
江戸末期に西会津から多くの逸材が登場する。
渡部思斎:私塾「研幾堂」塾頭。野澤小学校、明晋学校校長(渡辺中務子孫)。 同長男鼎;野口英世の恩師(私注;野口英世の左手を手術し、その後彼を書生として指導)。渡辺中務子孫)。
山口千代作;自由民権家。福島県議会議長・衆議議員(山口貞景子孫)。
同妻[旧姓斎藤]志具、自由民権家。貢の母。私塾「三顧堂」運営(斎藤朝信子孫)。
小島 忠八;自由民権運動家。福島県議会議員・野沢町長(小島弥太郎子孫)。 石川暎作;『国富論』翻訳。婦人束髪運動(石田三成子孫)。
野澤?一 ;山本覚馬の日本再 建の建白書「管見」 を口述筆記した法律家(私注;写真不鮮明で説明文は原文ではない)。

□西会津の歴史に、人名が太字となっている箇所があったのだが、この江戸・明治維新に登場する人物の先祖であることをわかりやすく示したものだろう。 なお、同「ふるさと自慢館」には研幾堂から登場した逸材に関する誠に詳しい解説があったのだが、不勉強な我が身には、いまひとつリアリティが感じられず詳細なメモはパス。また、八重の桜の八重さん、山本覚馬の解説もあったのだが、写真ピンボケのためメモできず。


会津大地震
上にメモした「西会津の歴史」の中で「慶長の大地震」とあった「会津大地震」についても、詳しい説明があったので、以下メモする。写真ピンボケのため概要をWikipediaなどで補足しながらまとめる;
慶長の会津大地震とは
慶長16年(1611)、西会津町と隣の柳津町の境にある"飯谷山"を震源とするマグニチュード6.9規模の地震発生。被害は会津一円に及び倒壊家屋は2万戸余り。会津のお城や、西会津の鳥追観音・如法寺などの神社仏閣にも大きな被害が出た。死者は3,700人に上った。
また各地で地すべりや山崩れが発生し、特に喜多方市慶徳町山科付近では、大規模な土砂災害が発生して阿賀川(揚川・会津川)が堰き止められたため、東西約4-5km、南北約2-4km、面積10-16km2におよぶ山崎新湖が誕生し、最多で23もの集落が浸水した。
その後も山崎湖は水位が上がり続けたが、蒲生家家臣・岡半兵衛を中心に、河道バイパスを設置する復旧工事(現在は治水工事により三日月湖化している部分に排水)により3日目あたりから徐々に水が引き始めた。しかしその後の大水害もあり山崎湖が完全に消滅するには34年(一説では55年)の歳月を要し、そのため移転を余儀なくされた集落も数多い。
旧越後街道の一部が山崎新湖により水没し、さらに勝負沢峠付近(会津坂下町北部・雷電山付近)が土砂崩れにより不通となり、越後街道は現・会津坂下町内・鐘撞堂峠経由に変更され、現在の国道49号線の原型ができあがる。
西会津地域の被害
西会津における大地震の影響の最大のことは、野澤平(野澤盆地)が牛沼(湖沼)化したこと。湖沼の縁には四岐船場・綱沢(舟繋沢)舟場が設けられ、旧越後街道のルートが、山側や台地に変更され、野澤原町、野澤本町の原型が形成され始めた。
個々の村落については、山崩れ、崩壊、土砂崩れによる湖沼化など多くの集落で甚大な被害が生じる。被害のため村落の移転も起きている。また芹沼村には大沼・小沼が誕生した。
大地震の復旧・復興工事
復興事業の責任者は前述の蒲生家仕置奉行筆頭・岡半兵衛(重政)。野沢郷を含む津川狐戻城三万六千石領主であった半兵衛は倒壊した鳥追観音など神社・仏閣の復興、「水抜き工事を行う(注;この部分追加)」。野澤の大沼弥次右衛門に命じ商業復興・鉱山開発に取り組ませ、野澤六歳市を興す。
岡氏は藩政や地震復興方針を巡り、正室(家康の三女)や重臣と対立。蟄居の末、駿府にて切腹となる。岡氏の妻は石田三成の次女であった。

ちょっと疑問
「ふるさと自慢館」の展示により、「主催者資料」の行間は相当埋まったのだが、ひとつだけ疑問が残る。それは、野澤盆地が湖沼化されたことはわかるのだが、その時期が何時まで続き、いつの頃野澤原町村、野澤本町村の原型ができたのだろう?ということ。
上記展示資料で、5000年前頃に湖沼化し、芦名氏の頃、大槻太郎左衛門が野澤村の地頭とあるので,16世紀後半には「陸地化」されていたことはわかる。が、その間が飛び過ぎてよくわからない。
なにか手がかりは?と、事務局から頂いた資料に天台座主慈円の句として「東路の 野澤のかつみ 今日ばかり 菖蒲の名をも 借りててるかな」とあり、その下に牛沼(野澤潟)から苦水川の掘削・街の建設という記事があった。
その関連についての説明は聞き漏らしたのだろうが、慈円の家集『拾玉集』に収められたこの句は、いかにも湖沼の景観を感じる。『拾玉集』には「のざはがた雨ややはれて露おもみ軒によそなる花あやめかな」との句もある、という。
ということは、慈円は1155年誕生、1225年没であるから、12世紀後半、平安末期から鎌倉初期の頃までは、野澤盆地は未だ湖沼地帯であったと推察できる。

野澤潟が陸化した時期は?
では次に、いつの頃「陸化」したのか?ということだが、「主催者資料」には野澤六人衆の記載がある。上記野澤宿の概要で「16世紀の初め、野澤六人衆による町割りが行われ」としたが、もう少々のエビデンスが欲しい。で、あれこれチェック。
と、JapanKnowledgeというサイトの「歴史地名もうひとつの読み方」の「野沢」の項に、「野沢熊野神社の縁起書によれば野沢原町村の草分け六家によって文亀―大永年中(1501‐28)頃までに現街区の原形となる町割が行われ」といった記事が見つかった。
同解説には「野沢が水底にあった期間は最長で9世紀から16世紀まで」といった、湖沼であった時期に関し、「ふるさと自慢館」の解説との齟齬はあるものの、陸地化した時期は熊野神社縁起と齟齬は生じない。野澤の陸地化は16世紀の初め頃なされたのだろう。
その後慶長の大地震による液状化現象により野澤平(野澤盆地)が牛沼(湖沼)化するも、復興事業の結果、野澤原町宿が形成され、野澤本町村と相共に、野澤宿となって会津街道の三大宿のひとつとして繁栄することになる。

牛沼
ついでのことながら、ここに「牛」とあるのは、必ずしも動物の牛に限ることはないかと思う。牛沼という地名は全国に散見されるが、東京都下あきるの市をさまよった時、「郷土あれこれ(あきるの市)」には、「牛はウシ>ウス>薄い色>浅い色>浅い沼」といった説明があった。野澤の場合も、湖の口が決壊し、水が引いた後の浅い沼・湿地ということではないだろか。


メモを始めると、常の如く、あれこれ疑問が生じ、結構長くなってしまった。野澤宿の途中で、少々中途半端ではあるが、今回は「ふるさと自慢館」で終え、その先は次回に廻す。
先日、沢登り仲間の友人Tさんに誘われて会津街道・越後街道を野沢宿から束松峠をへて片門まで歩いたのだが、野沢に向かう道すがら、会津若松で4時間ほど時間をつくり、前々から気になっていた戸ノ口堰用水を歩くことにした。
戸ノ口堰用水を知ったのは数年前のこと。会津大学に仕事で訪れた際、時間をつくり会津若松を彷徨ったのだが、その折、白虎隊自刃の地として知られる飯盛山で戸ノ口堰弁天洞穴に出合った。

滔々と流れ出す洞穴からの水路は、白虎隊の退路との説明があったが、それよりなにより、その水路は猪苗代湖・戸ノ口から会津盆地へ水を引く用水堰であり、全長31キロに及ぶ、と。開削時期は江戸の頃。17世紀全般に始まり、19世紀に藩普請により全面改修が行われ、その際、この弁天洞窟も開削されたとのことであった。

用水フリークとしては大いにフックが掛ったのだが、当日は時間がなく用水散歩に向かえなかった。今回、列車の関係上4時間という制限はあるものの、時間の許す限り歩いてみようと思った。そのうちに、それも近い将来全ルートを歩く下調べといった心づもりではある。

が、これは全く予想外のことではあるが、戸ノ口堰用水に関する水路図が見つからない。概要の説明はあるのだが、いまひとつ猪苗代・戸ノ口から飯盛山までの水路がうまくつながらない。否、むしろ、繋がらないというより、その後開削された発電所用の水路などを含め、水路が交錯し、どれが本線なのかよくわからない、というのが正確かとも思う。
また、用水路を辿ったといった記事も見つからない。里の水路はいいとして、山間部の水路が如何なる風情か、どの程度荒れているのかもよくわからない。これはもう、とりあえず現地に行き、成り行きであれこれ判断するしかないだろうとの結論に。

散歩のルートを想うに、ルート図がみつからない以上、手掛かりは弁天洞穴。そこに繋がる水路が戸ノ口堰用水とのことであるので、地図にある弁天洞穴に繋がる水路を逆にトレースし、山間部の水路跡に入り込む適当な場所を探す。

地図を見るに、弁天洞窟から不動川を渡り、滝沢の集落を越えた先に戸ノ口堰第三発電所がある。根拠はないが、発電所の敷地を越えた辺りで道路から水路跡に入れるのではないか、と。そして、そこからは、山間部の水路跡を先に向かい、列車の出発時間を考慮し適当なところで折り返し、里に戻り滝沢集落から弁天洞穴の水路を辿り、飯盛山に戻ることにした。
それほど用水に萌えることもない友人のTさんには誠に申し訳ないのだが、お付き合い頂き、会津若松駅からタクシーで戸ノ口堰第三発電所に向かった。



本日のルート:戸ノ口堰第三発電所>八幡配水池>水路に入る>水路が切れる >旧水路跡に>藪漕ぎで進む>切通し>切通しが続く>車道に出る >水路跡が車道とクロスする>折り返し点>戸ノ口第三発電所導水管と交差し水路は下る>車道に沿って水路が進む>八幡地区から躑躅山地区に水路は下る>滝沢峠への道と交差>不動川の右岸を水路は進む>不動川を石橋で渡る>弁天洞窟に向かって水路は進む>滝沢本陣>飯盛山>戸ノ口堰洞穴


戸ノ口堰第三発電所
タクシーで戸ノ口堰第三発電所の山側、高山(標高437m)の山麓を進む車道で下車。水路へのアプローチ地点を探す。明治に造られたという発電所に訪れてはみたいのだが、本日は時間がなくパスする。
戸ノ口堰と発電所
戸ノ口堰用水筋に設けられている三つの発電所のひとつ。猪苗代湖と会津若松の標高差は300mほどあると言う。その比高差と両者の間にある金山川を活用し、明治の頃発電所の建設が行われる。
猪苗代湖から鍋沼を経て金山川に落ちる箇所に戸ノ口堰第一発電所、第一発電所に落ちた水を導水路で引き、再び下流の金山川に落とす戸ノ口堰第二発電所、その第二発電所に設けられた取水口から、羽山・石ヶ森・高山の山腹を穿ち導水路を通し水を落としたのか、この第三発電所である。農業用水として始まった戸ノ口堰は明治になり、水力発電の水源としても使われるようになったわけだ。
因みに、戸ノ口堰に関わる発電所はその供給先として首都圏を目した。現在もこれら発電所は東京電力がその事業者となっている。

八幡配水池
右手ゲートの中に貯水タンクのようなものが見える。「八幡配水池」とある。ゲートは立ち入り禁止となっており、入ることはできない。用水路橋らしき姿も見えるのだが残念である。
配水池は浄水場から水を送られ地域に配水する施設。八幡配水池は(池とはいいながら、前述の如くレストレストコンクリート造円筒型(直径22m 高さ8m)の貯水タンク。
戸ノ口堰第三発電所脇にある滝沢浄水場から揚水ポンプでこの地に揚げられ、松長地区(滝沢浄水場の北、・宅地開発された一帯)・八幡地区(滝沢浄水場の周囲)・躑躅山地区(前述不動川右岸・堂ヶ作山の南)へと水を送る。 滝沢浄水場の水源は金山川の「戸ノ口堰第三発電所取水口」であり、もとを辿れば猪苗代湖となる。戸ノ口堰の用水を上水に利用するようになったのは昭和4年(1929)になってからのことである。
農業用水として開削された戸ノ口堰は、明治には水力発電、昭和に入ると上水の水源として、時代に応じてその機能を追加し、会津盆地の人々に貢献した、ということであろう。

水路に入る
八幡配水池を過ぎ、車道を進むと、右手に入る舗装道があり、ゲートもあるが脇からは入れるようになっていた。この辺りであれば入らせてもらっても大丈夫だろうと、自分に言い聞かせ舗装されたアプローチを進むと、藪に覆われた先に水路があった。
水路は直線に切られ、如何にも「今日的」で往昔の水路とは思えない。水量も結構多い。水路を右に向かうとすぐにトンネルに入る。右へと先に進んでも八幡配水池の敷地にあたるだろうから、通り抜けることができるとも思えず、左手に向かう。

水路が切れる
左に進むとほどなく水路は切れる。水路は切れるがそこには激しい勢いで渦巻くさまの水流が見える。水路の切れた先はコンクリートで固められた崖となっており、地図をみると、水路の切れた北、突き出た尾根筋の間に同様の直線水路が見える。
地図には、直線水路の行き止まり箇所から左手に曲がりくねった水路が見える。これが旧水路跡だろう。ということは、コンクリートで固められた崖面下には、尾根に沿って曲がりくねって進む旧水路をショートカットすべく掘り抜かれた送水管が埋め込まれ、その水が水路に激しく落ちているのだろか。尾根を越えた先にある直線水路の水流がどの程度のものか確認するまで、結論は持ち越す。

旧水路跡に
さてと、旧水路に入るべく、行き止まりとなった水路の左手をチェックする。藪が激しく見通しがきかない。なにか水路跡の手掛かりはと探すと、藪の中に錆びた鉄製ゲート開閉機の回転ハンドルらしきものが見えた。その辺りが旧水路の合流点であろうと藪に入る。
足元がぐちゃぐちゃ。僅かながら水も残る。旧水路跡であろう。水は用水というより、雨水か湧水が溜まったものかと思う。

藪漕ぎで進む
足元は泥でグチャグチャ。行く手は、藪と倒木。先ほどのバイパス水路ができて廃路となったのであろう水路跡は荒れ果てている。こんな荒れた水路とは思わず、私は半袖、Tさん半ズボン。こんなはずではとの、Tさんのため息が感じられるも、撤退はなし。
お互い手と足に手負いの傷をつけながら、藪を進むと前方が開け、切通しが見えてきた。この辺りまで来ると藪も少なくなってくる。

切通し
切通しの規模は大きい。通常であれば、尾根筋の先端部を迂回し用水路を通すのだろうが、火砕流でできた地質故の脆さを危惧し、尾根筋を掘り抜いて切り通しとしたのだろう。また、逆に地質が脆い故に、かくも大規模な切り通しを人力で掘り割ることもできたのではあろう。


切通しが続く
水路の両側は高い崖面に囲まれており、切り通しに切れ目がない。尾根筋を部分的に掘り抜いた、というより、等高線310m辺りを延々と掘り割り、切り通しとしているように思えてきた。
水路跡の左手に車道が走り、車の走る音も聞こえるのだが、車道に出ようとも思わないほどの高い崖が続く。

車道に出る
切通しを進み、左手の車道が開けた辺り、切り通し部分を越えたところで一度車道に出る。水路から藪を掻き分け車道に出ると、そこは旧水路跡が車道の下を抜けている手前であった。
「ブラタモリ」用アプローチ
車道から水路跡へと藪が刈り込まれている箇所があったが、そこは、タモリさんの番組(「ブラタモリ」)撮影用に刈り込まれたアプローチと、後で聞いた。

水路跡が車道とクロスする
車道を水路跡がクロスする地点まで進む。道の右手には藪というか笹に蔽われた水路跡が見える。その水路跡が車道とクロスし、尾根筋の先端部を迂回し、再び車道に接近する姿を確認。車道左手に掘割状となった水路跡が車道に沿って進む。


折り返し

もう少し先に進めば、先ほど行き止まりとなったコンクリート崖面に続くと思われる、直線に走る水路があるのだが、そろそろ時間切れ、。引き返す時刻となってきた。残念であるが、次回のお楽しみとする。

戸ノ口第三発電所導水管と交差し水路は下る
車道を戻り、八幡配水池の敷地を越えた辺りで水路へのアプローチを探す。戸ノ口第三発電所の導水管が、車道下にある発電所に水を落とす辺りの山側が開けており、水路へのアプローチが可能となる。導水管脇を上ると戸ノ口堰用水が流れる。水量は豊富である。

地図を見ると、金山川にある第三発電所取水口から抜かれた隧道が、戸ノ口第三発電所への導水管の手前で開け、調整池らしきものが見えるのだが、そこから発電所導水管に落ちる流れとは別に、調整池らし水槽を経て、先ほど出合った「直線の水路」に向かって下る流路が見える。金山川にある第三発電所取水口からも戸ノ口堰へ養水が行われているように見える。
先ほど出合った、水源不明の直線水路の豊富な水と相まって、滔々と流れる水路は、導水管を越えた先で隧道に入り、車道脇に出る。

車道に沿って水路が進む
隧道を出た水路は一時暗渠となるも、すぐに開渠となり車道に沿って下る。下るにつれ、水路は車道と次第に離れ、少し高い箇所を進み隧道に入る。






八幡地区から躑躅山地区に水路は下る
車道に戻り、隧道の先に続く水路へのアプローチを探すが、車道と水路の間に民家の敷地・耕地があり水路に入れない。
車道を進み、三島神社の森を右下に見遣り、少し進んだ畑地の畦道といったものが水路へと向かっている。豊かな水量の水路を確認。
水路に沿って進もうとするも、水路脇を進むのが少々困難な箇所となり、車道に戻る。水路は八幡地区から、八幡配水場でメモした躑躅山地区に入る。

滝沢峠への道と交差
道を進み水路に出たり入ったりしながら先に進むと水路は滝沢峠へ上る道とクロスする。クロスする箇所の掛かる橋の右手には坂下増圧ポンプ場があった。八幡配水池から躑躅山地区に水を送る上水施設である。
因みに、坂下は「バンゲ」と読む。関東では「ハケ」、つまりは、「崖」のこと。 「バンゲ」に坂下という漢字をあてたのはどのような事情かは知らないが、誠に適切な「当て字」ではなかろうか。
(修正;地元の方より、坂下を「ばんげ」と読むのは河沼郡坂下町であり、会津若松では「さかした」と読むとご指摘いただきました。ご指摘箇所を明確にするため原文は修正せず、まま掲載しています)
白河街道
滝沢峠に続く古道は会津と白河を結ぶ白河街道。白虎隊もこの道を進み、滝沢峠を越え、戸ノ口原の合戦の地に出向いた、と言う。如何にも峠道といった趣のある道脇にあった「旧滝沢峠(白河街道)」の案内によれば、「白河街道は、もともとはこの道筋ではなく、もう少し南、会津の奥座敷などと呼ばれている東山温泉のあたりから背あぶり山を経て猪苗代湖方面に抜けていた。15世紀の中頃、当時の会津領主である蘆名盛氏がひらいたもの。豊臣秀吉の会津下向の時も、また秀吉により会津藩主に命じられた蒲生氏郷が会津に入る時通ったのも、こちらの道筋。
滝沢峠の道が開かれたのは17世紀の前半。寛永4年(1627)に会津入府した加藤嘉明は急峻な背あぶり山を嫌い、滝沢峠の道を開き、それを白河街道とした」、とのことである。

不動川の右岸を水路は進む
水路は不動川の右岸を進む。水路も水路脇の道も整備されている。今回、実際散歩するまでイメージしていた「戸ノ口堰用水」の姿がそこにあった。足元グジャグジャ、倒木、藪漕ぎなど、実際に歩くまで、想像もしていなかった。




不動川を石橋で渡る
不動川の右岸を進んだ水路は、川幅が狭まった辺りで石橋を渡り不動川の左岸に移る。石橋手前に堰があり、余水を不動川に流す。結構大量の水を落としていた。石橋は不動川水管橋とも坂下水路橋と称するようだ。




弁天洞窟に向かって水路は進む
不動川左岸に移った水路はゆったりとしたスペースの平坦地を進み、高い崖に掘られた弁天洞穴に流れ込む。弁天洞穴は戸ノ口原の合戦で敗れた白虎隊が逃走路として潜った水路洞穴として知られる。
ここから先、弁天洞穴の出口に向かうことになるのだが、高く聳える崖を這い上がろうとの提案は、即却下される。そういえば、琵琶湖疏水を辿ったとき、極力水路ルートを歩こうと、隧道上の藪山に這いあがったとき、そこが私有地であり、所有者にキノコ盗掘者と間違われ、大声で呼び止められたことを思いだした。
それはともあれ、それでは不動川に沿って廻り込もうとアプローチを探すも、急峻な崖のようで、それも諦め、結局、大人しく、来た道を戻り、旧滝沢本陣前から飯盛山に向かうことにする。

滝沢本陣
水路を戻り、不動川水管橋を渡り、白河街道を右手に見遣りながら道を下り、滝沢坂下交差点を左折し、大きな通りを進むと、道の右手に滝沢本陣が見える。 茅葺屋根は数年前に訪れた時と異なり、新しく葺き替えられたように思う。
お城から3キロほどところにあるこの本陣は、延宝年間(1673-1680)に滝沢組11カ村の郷頭を務めていた旧家・横山家に設けられ、藩主の参勤交代や領内巡視、会津松平家藩祖・保科正之公を祀る土津神社への参拝時などに旅支度をするための休憩所として利用された。
また、会津戦争の時は戸ノ口の合戦で奮闘する兵士を激励するために藩主・松平容保がここを本陣とする。で、護衛の任にあたったのが白虎隊。戸ノ口原の合戦への援軍要請に勇躍出撃したのはこの本陣からである。

土津(はにつ)神社
藩祖を祀る土津神社は磐梯山麓見祢山の地にあり、会津若松から結構遠い。何故に?チェックすると;
正之は、磐梯山(磐椅山とも称される)を祀る磐椅神社(いわはし)を気に入り、その遺言として、神体山である磐梯山を祀る磐椅神社の末社となって永遠に神に奉仕したいと望んでいた、とのこと。ふたつの社は猪苗代の街に並んで建つ。尚、「土津」は保科正之が吉川神道の奥義を極めたとして授けられた霊神号である。


飯盛山
本陣を離れ、飯盛山の弁天洞穴に向かう。飯盛山のあれこれは、いつだったか訪れた時のメモにお任せし、本日は用水に焦点を合わせ、お山に上ることにする。

参道石段を戸ノ口堰用水が潜る
地図を見ると、参道石段を突き切る水路跡が描かれる。留意しながら石段を上ると、踊り場となったところにH鋼で補強された用水が走っていた。地図を見ると、水路は山裾に沿って南に下り、会津松平氏庭園(御薬園)へと向かっている。

厳島神社
ちょっと飯盛山に上り、白虎隊自刃の地から、3キロ先にかすかに見える会津若松の城を見た後、弁天洞窟穴のある「さざえ堂」方面へと、石段から右におれる下山道を進む。宇賀神社、さざえ堂を見遣り、さざえ堂前の石段を下りると、豊かな用水が二手に分かれて流れる。
二手に分かれた用水の間には厳島神社が建つ。厳島=水の神様。厳島神社となったのは明治から。そもそも「神社」という呼称が使われ始めたのは神仏分離令ができた明治になってからのことであり、この厳島神社もそれ以前は宗像社と呼ばれていた。
祭神は宗像三女神のひとり、市杵島姫命。杵島姫命は神仏習合で弁財天に習合。先ほど通り過ぎた宇賀神社にも、17世紀の中頃の元禄期、会津藩3代目藩主松平正容公が宇賀神と共に弁財天像が奉納されている。宇賀神も神仏習合で宇賀弁財天と称されるわけで、これだけ水の神・弁天さまを祀るということは、いかに戸ノ口堰の水が会津若松にとって貴重であったかの証かとも思える。
因みに、飯盛山は、元々は弁天山とも呼ばれていたようである。先ほどの宇賀神=宇賀弁天様共々、弁天様のオンパレード。ここまで弁天さまが集まれば、飯盛山が弁天山と呼ばれていたことに全く違和感はない。

戸ノ口堰洞穴
厳島神社の先に池があり、その向こうの崖面の洞窟から水が流れ込む。ここが先ほど隧道に入り込んだ戸ノ口堰隧道の出口である。案内には、「戸ノ口堰洞穴は、猪苗代湖北西岸の戸ノ口から、会津盆地へ引く用水堰で、全長31kmに及ぶ。 元和9(1623)年、八田野村の肝煎八田内蔵之助が開墾のため私財を投じ工事行い、寛永18(1641)年八田野村まで通水した。
その後、天保3(1832)年会津藩は藩士佐藤豊助を普請奉行に任命し5万5千人の人夫を動員し、堰の改修を行い、この時に弁天洞穴(約150m)を堀り、同六年(1835)完成した。
慶応四年(1868)戊辰戦争時、戸ノ口原で敗れた白虎士中二番隊20名が潜った洞穴である」とあった。

戸ノ口堰用水は、もともとは飯盛山の山裾を通していたが、土砂崩れなどもあり、飯盛山の山腹を穿つことになった。で、この洞穴、白虎隊が戸ノ口原での合戦に破れ、お城に引き返すときに敵の追撃を逃れるために通り抜けてきた、と言う。

二本松城を落とし、母成峠の会津軍防御ラインを突破し、猪苗代城を攻略し、会津の城下に向けて殺到する新政府軍。猪苗代湖から流れ出す唯一の川である日橋川、その橋に架かる十六橋を落とし防御線を確保しようとする会津軍。 が、新政府軍のスピードに間に合わず、防御ラインを日橋川西岸の戸ノ口原に設ける。援軍要請するも、城下には老人と子どもだけ。ということで、白虎隊が戸ノ口原に派遣されたわけではあるが、武運つたなく、ということで、このお山に逃れてきた、ということである。

■戸ノ口堰用水の水路を想う■

限られた時間ではあったが、今回の散歩で戸ノ口堰の一端を「掴んだ」。山間部の、荒れてはいるがスケールの大きな切通しの水路跡、里近くを下る未だ現役の用水路など、「飯盛山で見た弁天洞穴が戸ノ口堰と繋がる」、といっただけの情報から水路を逆にトレースし、成り行きで彷徨った割には、結構バッチリの用水路散歩ではあった。

水路をトレースし戸ノ口堰の用水路を作成
で、今回歩いたルートが戸ノ口堰の用水ルートの末端であろうと、猪苗代湖畔・戸ノ口から会津若松までの用水ルートを想う。地図を見ると、今回歩いたルートの先、高山からの尾根筋が突き出した先に水路が続く。
トレースすると水路は牛畑から吹屋山の東裾を進み、金掘集落に。金堀から烏帽子山に切れ込む沢筋を進み、沢筋の最奥部近くで反転し烏帽子山の西裾から沓掛峠近くの山麓を廻りこみを進み、山裾を蛇行しながら戸ノ口堰第一発電所の取水口に辺りに。
そこから御殿山の山麓(会津磐梯カントリークラブがある)を進み、鍋沼の南を走った後、北東に向かい、東電第一発電所への用水路かと思える水路を横切り、その水路と日橋川の間を蛇行しながら下り、猪苗代湖の戸ノ口と繋がる。

戸ノ口堰の開削経緯をもとに検証
これで戸ノ口堰のルートは完成、と思ったのだが、飯盛山の戸ノ口堰洞穴にあった説明、「寛永18(1641)年八田野村まで通水した」との説明と地理的に間尺に合わない。八田野村は、現在の会津若松市河東町八田野あたりかと推察されるので、トレースした水路の牛畑のはるか北にある。トレースした水路はどうみても通りそうにない。
戸ノ口堰の用水路の地図を探すが、これが全く見つからない。それではと、戸ノ口堰開削の経緯をもとに推定しようと、WEBをあれこれチェックすると、戸ノ口堰土地改良区のページに開削の歴史が記載されていた。そのページを以下引用する;

「戸ノ口堰土地改良区」のWEBページにある開削の歴史 
「戸ノ口堰は今から372年前、1623年に八田野村(現在の河沼郡河東町八田野)の肝煎、内蔵之助という人が、村の周辺に広がる広大な原野に猪苗代湖から水を引いて開墾したいと考え、時の藩主・蒲生忠郷公に願いでて、藩公が奉行・志賀庄兵衛に命じて開削に取りかかったというのが起源です。
それから2年くらいは藩の方で工事が行われましたが、財政難のため中止せざるを得ませんでした。その後、内蔵之助は工事の中止を憂い、自分の資材を投げ打ち2万人くらいの人夫を使い、途中の蟻塚まで開削しました。しかし、内蔵之助も個人ですので、資金がどうしても続かないということで、途中で中止しました。それでも開拓の志はどうしても捨てきれず、再び当時の藩主・加藤明成公に願いでて、また藩の方から工事の再開を認められました。それにより約15年かけて八田分水まで水を引くことが出来ました。その後、その時の功労を認められて、この内蔵之助という人は八田堰の堰守に任じられ、その土地の用水堰は「八田野堰」と名付けられました。
それからまた開削が進められ、1638年には鍋沼まで到達し、それから3年ほどかけて河東町の八田野まで支川として戸ノ口の水路を造り、その時に7つの新しい村が出来ました。これが第1期、第2期の工事になります。
第3期工事は、河沼郡槻橋村(今の河東町槻木)の花積弥市という人が、鍋沼から一箕の方を回った水路を造り、長原一箕町、長原の新田を開拓したいということで、また藩の方に申し出て行いました。
次の第4期工事で会津若松までつながるのですが、1693年に北滝沢村(今の一箕町北滝沢)の肝煎の惣治右衛門という人が、自分の近くの滝沢付近までいつも水を持ってきたいということで願いでて、開拓しました。長原新田から滝沢峠を通り、不動川の上を渡し、飯盛山の脇の水路を通って今の慶山の方まで持ってきたということになっています。当時の水路は猪苗代湖から会津若松まで約31kmあり、1693年には八田野堰から戸ノ口堰に改名されました
今まで、雁堰からの水を会津若松のお城、生活用水、防火用水等に使っていましたが、雁堰は湯川の水を入れているので日照り等があると渇水になります。そこで、会津藩としては、どうしても会津若松まで水を持ってきて、安定した水が欲しいというのが願いでした。
それから約200年以上経った1835年(天保6年)、時の藩主・松平容敬公が普請奉公を佐藤豊助に任命して、会津藩から5万5,000人を集めて戸ノ口堰の大改修が行われました。戸ノ口堰は1623年以降212年経過しており、山間部を通ってくるので、土砂崩れなどにより常時通水が出来なくなったということで、堰幅、深さを改造した。
それまでは、飯盛山の北西にある水路を通っていましたが、その時初めて飯盛山の洞窟約170mを掘りました。この洞窟には、慶応4年の会津戊辰戦争の時に戸ノ口原の戦いに敗れた白虎隊が逃げ帰ってきて、飯盛山の洞窟を通って飯盛山に登り、自害したという有名な話があります」とある。

この説明では用水ルートはわからない。わかることは、八田分水は鍋沼まで達していない以上、その手前になるだろうということ。次に、ルートははっきりしないが、戸ノ口堰は、河東町の八田野まで支川として開かれ、その時に7つの新しい村が出来た。これが第1期、第2期の開削の状況。 「戸ノ口堰は、河東町の八田野まで支川として開かれた時期は、「1638年には鍋沼まで到達し、それから3年ほどかけて」との説明があることから、それが飯盛山の戸ノ口堰洞穴の案内にあった「寛永18(1641)年八田野村まで通水した」と言う記述のことであろう。

そして、説明には、第3期には鍋沼から一箕の方を回った水路を造り、長原一箕町、長原の新田を開拓した、とある。長沼新田は現在の一箕町松長、長原辺りだろうと思う。
ここで「鍋沼から一箕の方を回った水路」とあるので、第1期、第2期に河東町の八田野まで支川として開かれた水路は、一箕方面ではなく、鍋沼の手前の八田分水から直接八田野に水路を開削したのかとも推定できる。実際、地図をみるとそれらしき水路跡が膳棚山の南から八田野に走る水路が見える。
第4期には「長原新田から滝沢峠を通り、不動川の上を渡し。。。」とあるので、この時期に一箕町松長、長原方面からの水路が本日歩いた水路と繋がったようである。

水路跡をトレースして作図した戸ノ口堰と、開削の歴史の記述が合わない 

以上、開削の経緯をチェックするも、用水は金堀集落とはるかに離れた箕町松長、長原辺りを走った、という記録だけである。地図にある水路をトレースして推定した金堀経由のルートとは「掠りも」しない。さてどうしたものか。これはもう、水路図をなんとか見つけるしか術はない。


国立国会図書館で用水ルート図発見●

ということで、日本で発行されたすべての出版物を保管する国立国会と図書館であればひょっとして、と「戸ノ口堰」で蔵書を検索する。
と、「猪苗代湖利水史」に「戸ノ口用水堰」とともに、「戸ノ口堰一覧図」という目次がヒットした。
「戸ノ口一覧図」が用水路ルートであることを祈り、永田町の国立国会図書館に出向き、PCで本文確認。そこには探していた用水路が描かれていた。本書はデジタルアーカイブされており、PDFで当該ページを印刷し、本文とルート図を見比べる。

水路跡をトレースした用水作図は戸ノ口堰の分流であった
本文には「この堰は十六橋の左岸にはじまり、大体標高514メートルの同高線を辿り、河沼郡河東村大字八田の大野原を蛇行し、鍋沼を経て「ノメリ橋」に至る。ここで一部は「金堀り廻り」の分水路となり、大部分は「ノメリ滝」を爆下し、石ヶ森から四ツ留までは「金山川」という渓流を流れ、四ツ留から再び人工水路となり、羽山や堂が作山の西麓を蛇行し、不動川を水路橋で渡り、飯盛山の西麓をめぐって流末は湯川に注いているのである」とあった。
これですっきりした。トレースしたのは「金堀り廻り」の分水路であり、本流は分水路のはるか北、人工の用水路から自然の川である金山川を活用し、羽山を越えた辺りで、現在の一箕町松長、長原へと向かい、高山の西裾で本日辿った金堀に続く水路筋に繋がっていた。また、八田分水も推定の通り、鍋沼の手前から北に向かって延びていた。

戸ノ口堰用水路作図
◆同書の地図をもとに戸口堰を作図する。一箕町松長、長原付近は宅地開発の影響か往昔の水路は途切れているため、地図はその区間直線とした。

◆八田分水は同書では途中までしか描かれていないが、作図では「八田野」まで辿れる水路をトレースした。これが正しい水路か否か不明であるが、とりあえず八田分水が八田野に繋がりそう、ということを自分に納得させるためでの作図である。

残る疑問
同書の本流は分水路の「金堀り廻り」と繋がっていない。が、現在の水路は繋がって見える。その理由は何だろう。発電用、上水用として使われ、その余水を現在でも会津盆地に流し、観光用・防火用・生活用水など現役として使われている戸ノ口堰の水は、発電用導水管で送水され、要所で分水しているわけで、戸ノ口堰の用水路からの水はそれほど重要ではないようにも思える。
そこでひっかかるのが、散歩の最初で出合った直線の人工水路に流れ込む激しい水勢の源がどこか、ということである。そのためには、今回時間切れで行けなかった、尾根を越えた先にある直線の水路の水勢がどの程度のものか確認し、判断することにすることが必要かと思う。
「金堀り廻り」の分水路の水量が豊かなものか、はたまた、地図では切れてしまったように見える一箕町松長、長原方面からの水路が地下を潜り、未だに豊かな水を供給しているのか、妄想は膨らむのだが、実際に行って確認するまで結論を保留しておくしかないだろう。

ともあれ、戸ノ口堰の用水路はなんとか把握できた。後は、ひたすら歩くのみである。

会津若松を歩く

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飯盛山から鶴ケ城に
会津若松の大学に行く事に成った。アポイントは金曜日。どうせのことなら、ということで一泊し、会津若松を歩く。今までに何度か通り過ぎたことはあったのだが、市内見物ははじめて。飯盛山とか鶴ヶ城とか、戊辰戦争の旧跡を訪ねる事にする。
土曜の午前10時前、ホテルをチェックアウト。荷物を預け、駅の観光案内所に。地図を手に入れ、ルート検討。駅から東2キロ弱のところに飯盛山。そこから南に2キロほどのところに西軍砲陣跡のマーク。お城を見下ろす小山にあるのだろう。そして、その西、1キロ強のところに鶴ヶ城。で、それから街中の旧跡を巡り北へと駅に戻る。会津若松の市街をぐるっと一周するといったルート。15キロ弱といったところ。これなら午後3時4分発の列車に乗れそう。ウォーキンング仕様とはいうものの、足元はビジネスシューズ。ぬかるみの道などないようにと祈りながら、散歩に出かける。



本日のルート;JR磐梯西線・会津若松駅>飯盛山>白虎隊自刃の地>郡上藩凌霜隊之碑>宇賀神社>さざえ堂>厳島神社>戸ノ口堰洞窟>滝沢本陣跡>白河街道>戸ノ口堰>近藤勇の墓>会津武家屋敷>湯川・黒川>西軍砲陣跡>会津若松城>茶室麟閣>JR会津若松駅

JR磐梯西線・会津若松駅
駅から飯盛山に向かう。道は東にほぼ一直線。白虎通りと呼ばれている。歩きながら、なんともいえない、捉えどころのない「広がり感」が気になる。会津盆地という地形からくるのだろう、か。実際、グーグルマップの航空写真モードでチェックすると、猪苗代湖の西に周囲を緑に囲まれた盆地がぽっかりと広がる。北は喜多方方面まで含む大きな盆地である。
が、なんとなく感じる「広がり感」は、どうもそういったものでもない。広がり感と言うよりも、収斂感の無さ、といったほうが正確かもしれない。広い平地の中に、広い道路が真っすぐ走る。建物もそれほど高いものは無く、また、古い街並といった趣もそれほど、無い。会津戦争で市街地が壊滅したからなのだろう、か。また、敗戦後、青森の斗南藩に移封され、市街地の迅速な回復がなされなかったから、なのだろうか。勝手に想像するだけで、何の根拠があるわけではないのだが、今まであまり感じた事のなかった街のフラット感が至極気になった。

飯盛山

駅から1キロ強進み、会津大学短期大学部を過ぎる辺りになると前方に小高い山。背面もすべて山ではあるが、その山の中腹に建物らしきものも見える。こんもりとした小山。飯盛山の名前の由来は、お椀にご飯を盛ったような形から、と言う説もあるので、多分、飯盛山であろう。さらに近づくと、石段が続く。間違いなし。標高300m強の山である。
石段を上る。両側にお店。如何にも年期のはいった雰囲気。朝から何も食べていないので、何か口に入れたいのだが、ちょっとご遠慮差し上げたい店構え、ではある。
石段を上ったところは広場になっている。正面左手の奥には白虎隊の隊士のお墓。その手前には、会津藩殉難烈婦の碑。会津戦争で自刃、またはなくなった婦女子200余名をとむらうもの。山川健次郎さんなどが中心になり建てられた。山川氏は東大総長などを歴任。兄の山川大蔵(浩)ともども魅力的人物。山川大蔵(浩)は如何にも格好いい。『獅子の棲む国:秋山香乃(文芸社)』に詳しい。
お参りをすませ広場右手に。なんとなく不釣り合いなモニュメント。ローマ神殿の柱のよう。イタリア大使からの贈り物。その手前にはドイツ大使からの記念碑。どちらも戦前のもの。第二次大戦前の日独伊三国同盟の絡みではあろう。戦意高揚、というか、尚武の心の涵養には白虎隊精神が有難かったのであろう、か。ちなみに、ローマの円柱に刻まれた文字は、終戦後、占領軍によって削除されたが、現在は修復されている。


白虎隊自刃の地
広場からの見晴らしは、正面である西方向と北側は木々が邪魔し、それほどよくない。一方、南方向は開けており、会津の街並が見渡せる。開けている方向に進むと「白虎隊自刃の地」への案内。崖一面に墓石が広がる。石段を少しおりて進むと、すぐに「白虎隊自刃の地」。この地で炎上する鶴ヶ城を目にし、もはやこれまでと自刃した、と。お城の緑、そしてその中に天守閣が見える。とはいうものの、直線距離で2キロ弱。市街地の炎上・黒煙をお城の炎上と見間違えてもおかしくはない。
ところでこの自刃の地であるが、想像とは少し違っていた。世に伝わる「白虎隊自刃の図」では、松の繁る崖端が描かれており、墓など何もない。墓地の真ん中とは予想外である。墓石を見ても結構古そうではあるので、それ以前からお墓があったようにも思うのだが、明治以降に墓地となったのだろう、か。何となくしっくりしない。

郡上藩凌霜隊之碑

しばらく眼下の街並を眺め、元の広場へと戻る。途中に、飯沼貞夫氏のお墓。白虎隊ただ一人の生き残り。白虎隊のことはこの飯沼さんの証言により世に知られるようになった。更に進むと道端に「郡上藩凌霜隊之碑」。時勢に抗い新政府軍と戦った人物として上総請西藩主林忠崇、井庭八郎などが記憶に残っていたが、郡上藩と会津藩の関わりは忘れてしまっていたようだ。『遊撃隊始末;中村彰彦(文春文庫)』など読み直してみよう。
で、郡上藩凌霜隊についてチェックする。と、時代に翻弄された幕末小藩の姿が現れた。郡上藩青山家は徳川恩顧の大名。とはいうものの、官軍か佐幕か、どちらにつけばいいものやら趨勢定かならず。ために、表向きは新政府に忠誠を尽くすそぶりをしながら、江戸詰めの藩士を脱藩させ会津に派遣。それが、凌霜隊。万が一の保険のためである。が、結局は新政府の勝利。 凌霜隊は郡上藩から見捨てられた。投獄の後解き放たれた隊士は、その冷たい仕打ちに嫌気をさし、郡上に残る事はなかった、と。

宇賀神社
石段脇の「女坂」を下る。如何にも風雪に耐えてきた、といった土産物店。石段脇に並んでいた土産物屋もそうだが、この飯盛山って、それほど観光客が来ないのだろうか。なんとなく、儲かってそうに、ない。
土産物屋の前に宇賀神社。17世紀の中頃の元禄期、会津藩3代目藩主松平正容公が弁財天像と共に、五穀の神、宇賀神をも奉納。宇賀神は中世以来の民間信仰の神様。神名は日本神話に登場する宇迦之御魂神(うかのみたま)から。
で、宇迦之御魂神(うかのみたま)って、お稲荷さまのこと。五穀豊穣を祈るこの民間信仰が仏教の教義に組み込まれる。仏教を民間に普及する戦略でもあったのだろう。結果、仏教の神である弁財天に習合し宇賀弁財天と。飯盛山は元々は弁天山とも呼ばれていた。神仏習合の修験の地でもあったのだろう。宇賀神社がおまつりされている所以など大いに納得。

さざえ堂

土産物屋の横にさざえ堂。確かに栄螺(さざえ)のような形をしている。内部は螺旋の 階段がある,と言う。いつかテレビでも紹介されていたし、なによりもチケット売り場のおばさんの口上に急かされ少々のお金を払い木製の螺旋階段を上る。上りが、あら不思議、いつの間にか下りとなる、との宣伝文句。果たして、と先に進む。ほどなく最上部。そこには下りに導くリードがある。いつの間にか、という感じではないけれど、下りは上りとは別の螺旋階段となっていた。
このさざえ堂は、さきほどの宇賀神などとともに神仏習合のお堂であった、とか。観音様が祀られていたが、明治の廃仏毀釈で仏様を取り除いた、という。現在は、国の重要文化財とのことではあるが、建物を護るトタン板ならぬビニールの覆いが少々興ざめではある。

厳島神社

さざえ堂の下に厳島神社。厳島=水の神様、と言われるように周囲に豊かな用水が流れる。厳島神社となったのは明治から。そもそも「神社」という呼称が使われ始めたのは神仏分離令ができた明治になってから。この厳島神社もそれ以前は宗像社と呼ばれていた。祭神は宗像三女神のひとり、市杵島姫命。杵島姫命は神仏習合で弁財天に習合。先ほどの宇賀神共々、弁天様のオンパレード。ここまで弁天が集まれば、飯盛山が弁天山と呼ばれていたことに全く違和感はない。
社殿が建てられたのは14世紀後半、蘆名義盛公の頃。その後、会津藩主松平正容公が神像と土地を寄進。この地を飯森山と呼び始めたもの、その頃のようである。

戸ノ口堰洞窟

厳島神社脇を流れる水路を辿ると、岩山の崖下に掘られた洞窟から水が流れ出していた。これは戸ノ口堰(用水)。今から400年前、17世紀前半の元和年間に猪苗代湖の水を引くため用水を起工し17世紀後半の元禄期まで工事が続けられた。飯盛山の西、7キロのところにある戸ノ口から水を引き、会津若松までの通水を計画。ために戸ノ口堰と呼ばれる。猪苗代湖の水面の標高は500mほど。この会津若松の標高は180mほど。間には山地が連なる。水路は山間を縫い、沢を越え、うねりながら、延々と30キロ以上も続き飯盛山のこの洞窟に至る。
この用水は、もともとは飯盛山の山裾を通していた、が、土砂崩れなどもあり、飯盛山の山腹を150mほど穴をあけることになる。使用人夫5万5千人、3年の歳月を費やして完成。これが戸ノ口堰洞窟である。
で、この洞窟、白虎隊が戸ノ口原での合戦に破れ、お城に引き返すときに敵の追撃を逃れるために通り抜けてきた、と言う。二本松城を落とし、母成峠の会津軍防御ラインを突破し、猪苗代城を攻略し、会津の城下に向けて殺到する新政府軍。猪苗代湖から流れ出す唯一の川である日橋川、その橋に架かる十六橋を落とし防御線を確保しようとする会津軍。が、新政府軍のスピードに間に合わず、防御ラインを日橋川西岸の戸ノ口原に設ける。援軍要請するも、城下には老人と子どもだけ。ということで、白虎隊が戸ノ口原に派遣されたわけではあるが、武運つたなく、ということで、このお山に逃れてきた、ということである。

滝沢本陣跡

飯盛山を下り、飯盛山通りを少し北に滝沢交差点。あと1キロ強行けば大塚山古墳。4世紀後半の大和朝廷と関係の深い人物を祀るということで、ちょっと興味はあるのだが、なにせ時間がない。今回はパスして旧滝沢本陣に向かう。
滝沢交差点からほんの少し山側に歩くと滝沢本陣跡。茅葺き屋根の趣のある建物。家の前を西に滝沢峠に向かって続く道があるが、これが白河街道。会津と白河を結ぶ主街道。ために、参勤交代とか、領内巡視の折など、ちょっと休憩するためにこの本陣が設けられた。
会津戦争の時は戸ノ口の合戦で奮闘する兵士を激励するために藩主・松平容保がここを本陣とする。で、護衛の任にあたったのが白虎隊。戸ノ口原の合戦への援軍要請に勇躍出撃したのはこの本陣からである。

白河街道

山に向かって車道を進む。地図と見ると滝沢峠に続く古道がある。これって会津と白河を結ぶ白河街道。白虎隊もこの道を進み、滝沢峠を越え、戸ノ口原の合戦の地に出向いた、と言う。時間がないので峠まで行くことは出来ないが、古道の入口あたりまで行くことにする。
車道が大きく迂回するところを、そのまま山方向に向かって小径を進む。なんとなく成り行きで進み、小さな川に当たるところから如何にも峠道といった雰囲気の道筋がある。道脇に「旧滝沢峠(白河街道)」の案内があった。
白河街道は、もともとはこの道筋ではない。もう少し南、会津の奥座敷などと呼ばれている東山温泉のあたりから背あぶり山を経て猪苗代湖方面に抜けていた。15世紀の中頃、当時の会津領主である蘆名盛氏がひらいたもの。豊臣秀吉の会津下向の時も、また秀吉により会津藩主に命じられた蒲生氏郷が会津に入る時通ったのは、こちらの道筋。
滝沢峠の道が開かれたのは17世紀の前半。1627年に会津入府した加藤嘉明は急峻な背あぶり山を嫌い、滝沢峠の道を開き、それを白河街道とした、と言う。加藤嘉明は伊予の松山から移ってきた。愛媛出身の我が身としては、なんとなく身近に感じる。

戸ノ口堰
峠に進む上り道をしばらく眺め、歩いてみたいとは思うのだが、何せ戸ノ口原までは7キロほどあるようだし、ちょっと無理だろう、などと自問自答し、元に戻ることに。少々心残り。道の途中、先ほど交差した川、これってひょっとすると戸ノ口堰、というか戸ノ口用水の水路ではなかろう、か。この流れが飯盛山の山腹に進み、戸ノ口堰洞窟へとながれこむのであろう。入口まで歩いてみたいとは思うのだが、時間が心配でパス。これも少々心残り。次回会津に仕事で来たときに、この峠道のあたりを歩いてみよう。
ちなみに、このあたり、駅でもらった地図に「(滝沢)坂下」と書いてある。この地名をどう読むのか定かではないが、(会津)坂下という地名は「ばんげ」と読む。「バッケ」から来たらしい。「バッケ」って東京近郊での「ハケ」のこと。国分寺崖線にそって続く「ハケの道」で言うところの「崖下」である。確かにこのあたりも崖下に違い、ない。

近藤勇の墓

飯盛山通りに戻る。山裾の道を南に進む。市街より少し小高い道筋となっている。2キロ弱進むと大龍寺。門前の畑の柿の木に惹かれる。こういったのどかな風景に柿の木は、如何にも、いい。
大龍寺を越え、このあたりまで続く戸ノ口堰の流れと交差し、しばらくすると道ばたに「会津の歴史を訪ねる道」の案内。新撰組の近藤勇、会津藩家老である萱野権兵衛、そしてその息子である郡長正の墓がある。と言う。ちょっと山道を迂回することに。
アプローチは200段弱の愛宕神社の石段。少し気が思いのだが、それよりなにより、愛宕神社から続く山麓の道が心配である。ビジネスシューズが汚れない程度の山道であることを祈りながら、とりあえず進む。
愛宕神社でお参りをすませ、山道を進む。それほどのぬかるみは無く、ちょっと安心。ほどなく近藤勇の墓。宇都宮から会津に逃れ、会津藩主・松平容保に拝謁し、近藤の死を知った土方歳三がこのお墓をたてた、と。近藤勇のお墓って、散歩の時々に顔を表す。板橋の駅前にもあったし、三鷹の竜源寺にも祀られていた。
山麓の道から天寧寺裏手に下りる。途中、萱野権兵衛、そしてその息子である郡長正の墓の案内。萱野権兵衛は会津戦争の時に国老の主席として籠城戦を万端指揮した。降伏の際は、藩主・松平容保とともに、降伏文書に署名。戦後は、戦争責任をすべて引き受け、切腹を命じられた。まことに魅力的な人物。ちょっとお参りもしたいのだが、再び山麓に少し上っていく。 ぬかるみが気になり、今回は見送る。

会津武家屋敷
天寧寺の境内を抜け、飯盛山通りに戻る。少し進むと東山街道と交差。奴郎ケ前交差点を左に折れるとすぐに会津武家屋敷。なんとなく最近移築、建築したような。チェックすると家老西郷頼母の屋敷を中心に復元されたもの、と。
西郷頼母って藩主の京都守護職に反対し藩主の不興を買っている。また、戊辰戦争では白河口の戦線には参加するも、二本松口の母成峠が破られて以降は和議恭順のスタンスであり、徹底抗戦派に命を狙われていた、とか。ために会津を去り、榎本武揚、土方歳三と合流し函館で戦った。合気道をよくし、息子の四郎に技を伝授。「山嵐」という大技は、姿三四郎のモデルとなった、とか。
会津武家屋敷には今ひとつ気が乗らず立寄をパス。時間もなかったし、ないより入場料が850円というのは少々高い、かも。次の目的地、西軍砲陣跡に向かう。

湯川・黒川
東山街道を隔てて南西方向に小高い山が見える。多分その山の中腹に砲陣跡があるのだろう。地図でチェックすると、東山街道を少し南に進んだところから、その小山方向に進む小径がある。成り行きで行けばなんとかなるだろうと先に進む。
道脇にある鶴井筒という会津料理の店のところから東山街道を離れる。この鶴井筒、明治の創業という趣のある建築物であった。ともあれ、右に折れ、田舎道を進むと山の手前に川が流れる。この川は湯川。猪苗代湖の南西端の布引山が源流のこの川はもとは黒川と呼ばれていた。湯川は、近くの東山温泉に由来するのだろう。
会津若松は黒川(湯川)が会津盆地に流れ出し、阿賀川に合流するまでの扇状地に造られた。ために、往時この会津の地は黒川と呼ばれており、前述の蘆名氏が築いた城も黒川城と呼ばれていた。黒川が若松となったのは蒲生氏郷が移ってきてから。蒲生氏の生まれ故郷にあった「若松の杜」に由来する、と。ちなみに、会津の由来って、古事記によれば、神々が湿地帯(津)であったこの地で合流したから、とか、安曇族に由来するとか、例によって諸説あり。ちなみに、阿賀、吾妻、安積(あさか)、安達、といった地名は安曇族に由来する。
ついでのことながら、この地が会津若松市となったのは、昭和30年。それまでは若松市。明治32年に福島県で最初の市となった。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

西軍砲陣跡
黒川に架かる橋を渡り、山裾の小径を進む。ほどなく、山裾から少し離れ、開けた田舎道を柿の木を眺めながら進む。道なりに進むと、再び山裾に接近。小山田公園への入口の案内。200m程度の小山である。木立の中、ゆるやかな坂道をのぼってゆく。途中、蘆名家壽山廟跡や観音堂跡といった案内がある。この山には蘆名氏の城であった小山田城がある。黒川城(会津若松城)が主城に移るまで、この地に館を構えていたのであろう、か。
少し進むと見晴らしのいい場所が現れる。そこに西軍砲陣跡。確かにお城が眼下に見渡せる。距離は1.5キロ程度。ここから砲弾を撃ち込むには、着弾地の調整も容易だし、会津方としては万事休す、であろう。
西軍砲陣跡しばしお城を眺め、下山。西軍砲陣跡から少し戻ったところに、「柴五郎の墓」の案内。会津人として最初の陸軍大将になった人物。なんとなく気にかかる軍人でもあるので、お参りのために脇道に入る。山道を足元を気にしながら少し下るとお墓があった。おまいりを済ませ墓石の中、山道を下る。成り行きで下り、恵倫寺の境内に出る。次の目的地はお城である。

会津若松城

恵倫寺を離れ、小田橋通りに出る。ちょっと北に湯川に架かる橋名から来ている。蘆名氏が最初に構えた館の名前が、小高木館とか小田垣館と呼ばれたようであるので、昔、この辺りは小田と呼ばれていたのだろう、か。
小田橋通りを越え、湯川に向かって成り行きで進む。地名は天神町。天神様でもあるのだろうと思っていると、川の近くにつつましい天神様があった。お参りを済ませ、湯川に架かる天神橋を渡ると鶴ヶ城南口。湯川というか黒川はお城を囲む外堀でもあったのだろう。
南口からお城を進む。土塁を抜け先に進むと大きな濠と立派な石垣が見えてきた。大きな構えのお城である。濠からの眺めを楽しみながら、壕と本丸を結ぶ廊下橋を渡る。石垣の間の道が直角に曲がっている。敵の進撃を防ぐためのものであろう。中世の山城では虎口と呼ばれていた、もの。
大きな石垣に沿って進む。弓矢の時代には攻めるのは大変であったろう。が、砲弾を打ち込まれては、どうにもならない。先ほど西軍砲陣を見ただけに、その思いは一層強い。
本丸には天守閣。お城は戊辰戦争で破壊され、現在の天守閣は昭和40年頃に再建されたもの。立派な天守閣ではあるが、時間もないので表から眺める、のみ。このお城、元々は蘆名氏により黒川城として造られた。その後、蒲生氏郷により本格的に普請される。天守閣もこの頃造られたようだ。大大名にふさわしい城下町も整備され、お城の名前も黒川城から鶴ケ城に。蒲生氏郷の幼名に由来する、と。蒲生氏の後は越後から上杉景勝が移る。120万石の大大名である。が、関ヶ原の合戦で西軍に与し合戦に敗れた上杉氏は30万石に減封され、山県の米沢に移る。
上杉に替わり蒲生氏が一時この地に移る。が、すぐに伊予の松山に移封され、替わりに伊予松山の藩主加藤嘉明が入封。で、加藤氏が改易された後にこの地に入ったのが名君の誉れ高い保科正之。家光の庶弟。出羽山形から移ってきた。保科から会津松平と名前は変わったが、明治維新まで藩主としてこの地を治める。戊辰戦争の時の松平容保公も保科の流れである。保科正之については『名君の碑;中村彰彦(文春文庫)』に詳しい。

茶室麟閣
本丸跡の広場をぶらぶら歩いていると趣のある建物があった。蒲生氏郷が千利休の子・少庵のために建てた茶室。千利休が秀吉の悋気に触れ、切腹を命じられたとき、氏郷が少庵をこの地に匿った、とか。戊辰戦争の後、移築されていたが、平成2年、ここに戻された。

JR会津若松駅

そろそろ列車の時間が迫ってきた。とっとと駅に向かう。本丸から北出丸を抜け、城を出る。北出丸大通りのお城近くに西郷頼母の屋敷跡。屋敷は先ほどの会津武家屋敷の地に移されているが、ここで母や妻子21名が自刃。合掌。
北出丸通りを北に進み、栄町あたりで適当に道を折れ、市役所近くを北に進み蒲生氏郷のお墓のある興徳寺に。つつましやかなお墓にお参りし、野口英世青春通りに進む。如何にも城下町の道といった直角に曲がる道を折れて野口英世青春通りを進む。野口英世が青春を過ごし、初恋の人に出合ったという場所などをさらっと眺め、西軍の戦死者をまつる西軍墓地をお参りし、駅に戻り、本日の予定終了。軽くメモするつもりが、結構長くなってしまった。歴史のある街をメモするのだから、仕方がない、か。 


快適な山小屋での尾瀬の夜を過ごし、本日は尾瀬ヶ原から尾瀬沼へ向かい、沼尻から湖畔を辿り三平峠を越えて大清水へと抜ける。本日のコースは尾瀬を開き、そして尾瀬の自然を守ろうとした平野長蔵、長英、そして長靖氏ゆかりの地が多い。尾瀬の電源開発、車道建設などキーワードだけ少しは知っているのだが、今ひとつ理解が不十分である。
情感に乏しく、花鳥風月を愛でる性もない我が身とすれな、せめてのこと、尾瀬を巡る諸問題を理解するいい機会だと、尾瀬関連の書籍を求めて書店を巡る。が、社会・環境問題としての尾瀬を扱った書籍はなかなか見つからない。『尾瀬に死す:平野長靖(新潮社)』などは当時話題になった書籍であるので簡単に見つかるかと思ったのだが、残念ながら大手の書店にも並んでいなかった。古本屋を歩き見つけたのが『尾瀬と鬼怒沼:武田久吉(平凡社)』、のみ。
それではと図書館巡り。自宅のある杉並区の図書館を3カ所巡り、『尾瀬に死す:平野長靖(新潮社)』、『定本 尾瀬 その美しき自然;白籏史朗(新日本出版社)』、『尾瀬―山小屋三代の記;後藤允(岩波新書)』、『尾瀬ヶ原の自然史;阪口豊(中公新書)』を見つけ、読み終える。古本屋、そして図書館の有り難さを改めて感じ入り、お散歩のメモをまとめることにした。



本日のルート:

初日;片品村
二日目;
鳩待峠>横田代>中原山>アヤメ平>富士見小屋>長沢新道下り>土場>長沢新道下山>竜宮>沼尻川交差>燧小屋
三日目;燧小屋>イヨドマリ沢交差>ケンゴヤ沢>白砂田代>沼尻田代>小沼湿原>大清水平分岐>三平下>三平峠>車道停止点>冬路沢交差>長靖終焉の地>三平橋>一ノ瀬休憩所>大清水小屋

見晴;7時45分出発_1417m
燧小屋出発は7時45分。出発前、弥四郎の清水に湧水を補給に向かう。山小屋の間を成り行きで進み、弥四郎小屋の脇にある弥四郎の清水の吐き出し口に。この清水は丈堀とも呼ばれるが、それは丈右衛門さんという漁師が小屋がけしたことに由来する。現在山小屋の集まるこの地は見晴と呼ばれているが、昭和30年代までは丈堀と呼ばれていたようだ。湧水は丈堀川となり、赤田代に向かう木道に沿って流れ只見川に注ぐ

イヨドマリ沢;8時39分_1537m
燧小屋を離れ尾瀬沼へ向かう。ブナの林に敷かれた木道を進むと、10分程度で燧ヶ岳登山道のひとつ・見晴新道への分岐に。先に進むと次第に沢音が聞こえてくる。沼尻川が接近してきたようだ。燧ヶ岳の分岐からおよそ1キロ弱でイヨドマリ沢に交差。沢に架けられた木道は如何にも滑りそう。イヨドマリ「魚(イオ)止まり」に由来する。沢が沼尻川に合流するあたりに魚が遡上できない急流があるとのことである。

白砂峠:9時37分_1677m
イヨドマリ沢を越えると段小屋坂の上りとなる。その昔、坂に沿って段々に小屋がけがあったようである。白砂峠まで距離2キロ弱、比高差150m程度の坂を上ることになる。右手すぐ下に接近した沼尻川の沢音を聞きながらゆったり進む。
燧ヶ岳の南麓、尾瀬沼と尾瀬ヶ原をわけるこの辺り一帯は、燧ヶ岳の岩なだれの跡との説がある。山塊が崩壊し、その岩石が一気に南に滑り落ち形成された。燧の双耳峰としてよく知られる柴安グラ(2356m)とマナイタグラ(2346m)の二つのピークに挟まれた馬蹄形凹地はその名残、とか。辺り一帯は、沼尻岩なだれの流れ山とも呼ばれる。
道は木道と岩場の繰り返し。ブナの林は美しいが、木道にこびりついた落ち葉でスリップもしばしば。ダンゴヤ沢(9時2分_1575m)などのあたりになるとブナの林がコメツガなどの針葉樹に変わってくる。最後の急坂を上ると白砂峠・乗越(標高1680m)に。

白砂田代;9時45分_1654m
白砂峠・乗越から先には、距離は短いが急な岩場の坂がある。足場が悪く滑りに注意しながら下りきると森が開け、白砂田代に出る。川底が白い砂地であったのが名前の由来、と言うが、その白砂は尾瀬沼の水を片品川に流す取水堰の工事のコンクリート用に採取された、とか。
遠景に燧ヶ岳を配し、オオシラビソの森に囲まれた湿原の中、池塘を見やりながら進む。この白砂田代は、現在裸地化に伴う回復工事・植生復元がなされている。昭和30年代からの尾瀬ブームのピーク時には年間60万名ものハイカーが尾瀬を訪れた。そのオーバーユースのために踏み荒らされたのか、それとも取水工事によるものなのだろうか。ともあれ、現在尾瀬ではアヤメ平、至仏山、沼尻・白砂湿原周辺、赤田代周辺で植生回復作業が行われているようだ。

沼尻平;10時18分_1664m
1キロほど進み樹林が沼尻へと開ける手前に小屋がある。「沼尻そば」というそば屋さんがあったとのととだが、現在は営業休止となっている。改装に際し、お手洗いの浄化槽整備に伴うコスト負担がその因と、Yさん。一説には3000万円以上のコスト負担がある、と言う。2004年だったか、長蔵小屋でのゴミの不法投棄が事件となって報じられ、その後も尾瀬ヶ原西端の山ノ鼻地区、見晴地区、この沼尻地区でもゴミの不法投棄が見つかっている。理屈では、よろしくないこと、とはわかるのだけれど、山小屋がこのような環境保全に伴うコストを負担するのはさぞかし大変であろうと思う。
先に進み沼尻平に。沼から燧ヶ岳に向かって広がる湿原には池塘が点在する。燧ヶ岳の山容が如何にも、いい。燧=ひうち=火打ち、と火を噴く火山のイメージが名前の由来との説もあれば、雪渓が「火ばさみ」に見えるから、といったものなど、燧ケ岳の由来は例によっていくつか。
ちなみに私の田舎・愛媛県の瀬戸内に広がる海のことを燧灘と呼ぶ。この燧の由来も「日映ち=夕日に映えていかにも美しい海」だから、とか、星にまつわる伝説とかこれも、いくつかの説がある。星伝説というのは、愛媛県伊予三島市のとある神社で大山祇(おおやまづみ)の神を迎えるに際し、海が荒れた。荒ぶる海を鎮めるべくお祈り。山に赤い星のような火が現れて海を照らす。と、海の荒れがおさまった。以来その山は赤星山、海を日映灘(燧灘)と呼ぶようになったとか。この地方一帯に星さんと言う名前が多い。星にまつわる伝説など、この地に残るのだろうか。

沼尻休憩所
湿原をぐるりと一周し沼尻休憩所に。残念ながら本年度は既に店じまいであったが、この休憩所は長蔵小屋の経営であり、尾瀬の歴史がはじまった場所でもある。平野長蔵翁が最初にこの地を訪れたのは明治22年(1889)のこと。燧ヶ岳に神威を感じ開山し、翌明治23年(1890)には燧ヶ岳山麓のこの地に燧嶽神社愛国講社を祀る。明治35年(1902)には日々のたつき(方便)を得るため尾瀬沼で養魚事業をはじめたようだ。
その翌年の明治36年(1903年)、尾瀬沼・尾瀬ヶ原を巻き込んだ水力発電所開発計画が浮上する。利権目的の林業投資が失敗し、山を丸ごと水利事業のために転売し巨利を得んとした政治家の暗躍があったと、人は言う。翁はそのプロットに反対するも、水利事業に絡んだあらぬ誤解も受け、また、燧嶽神社に思ったほどの信者も得られず、結局は村を追われるごとく栃木県の今市に移る。明治37年(1904年)のことである。
明治43年(1910)、信仰復活を唱えこの地に長蔵小屋を建てる。尾瀬の最初の山小屋である。とはいうものの、山小屋を利用する登山家とて僅かなものである。山間僻地の村人の往来ではなく、「登山」としてこの地を最初に踏査したのは明治22年(1889)のこと。木暮理太郎氏(後の山岳会会長)親子が磐梯山登山の帰途、尾瀬を訪れたのがはじまりである。その後明治27年(1894)雑誌『太陽』で尾瀬が取り上げられ、また明治38年、武田久吉博士が尾瀬を訪れその魅力を紹介するなどして、尾瀬が次第に世間にも知られるようになるが、それでも僅かなもの。大正15年(1926)年で、年間571名の山小屋利用者であった、と言う。山小屋経営だけでは成り立たないだろう。大正4年(1915)になって、尾瀬沼の東岸・会津沼田街道沿いの地に小屋を移すが、それは養魚事業の搬出の便宜のためとも言われる。
大正11年(1922)には、尾瀬と今市の往復を繰り返す生活に終止符を打ち、尾瀬への永住を決める。その背景には大正3年(1914)に構想され、大正11年(1922)に発表された尾瀬の電源開発への反対の意志もあったのだろう。尾瀬沼の水を尾瀬ヶ原にためてダムとし、至仏山にトンネルをとおし群馬の水上に落とし発電するという計画である。大正13年には、尾瀬の自然保護に理解を示す武田久吉氏に会い協力を求めるなど再三上京し尾瀬の自然保護を訴える。自然が豊かであるが、しかし人々が大層貧しかった昭和の初期、自然の大切さ、その自然を保護することの重要性を説くことは困難なことではあっただろう。ちなみ武田久吉博士の父は幕末の外交官として名高いアーネスト・サトウ氏(Sir Ernest Mason Satow)である。
昭和4年、『改造』に武田久吉博士が「秋の尾瀬」と題して書いた紀行文にある「山人と語る」を引用:(略)炉辺に長蔵老人の気焔を聞く。孫の頭をなでつつ尾瀬の今昔を語る主人の龍顔は、幾十年かの苦闘を物語るに十分である。南会津の山奥檜枝岐に生まれ、十歳の時父を失ってそのため小学教育も完全に了えなかったが、独学で文字に親しみ、後或いは皇典講究所に学んで社掌となったり、または水産講習所の淡水魚養殖の講習に出席して鮭鱒の孵化技術を習得したり、時には政治を談じ、時勢を論じ、或いは植物愛護に努力したり、郷土殊に尾瀬地方一帯の保護と開拓とに渾身の精力を打ち込んで奔走すること四十年。今日尾瀬が自然のままに残されて、その国宝的価値を保有し得るは、一に翁の努力の賜にほかならない。
 総じて破壊は易く保護は難い。殊に自然から利益を搾取しようとする事業家の魔手から一地方の自然を完全に保護しようとするには、絶大な資金を擁するか、さなくば世間の広大な同情後援に頼らなければ、その遂行は容易でない。しかも尾瀬沼山人の生国檜枝岐の村民は、山人の目的が一に私利私欲にありと誤解し、嫉妬の余り事業の妨害を試みてやまないと言うに至っては実に言語道断である。その迫害に耐えて奮闘し来たった勇気は実に敬服に価する。尾瀬一帯の価値が年一年と世間に現われ、その保護の必要が識者の間に絶叫され、やがてそれが実現した暁には、長蔵翁の功績は尾瀬の名と共に不朽に伝わるに相違あるまい」、と(『尾瀬と鬼怒沼(平凡社)』)。昭和5年、翁永眠。

沼尻川取水口
沼尻を離れ尾瀬沼の南岸を三平下に向かう。ほどなく沼尻川の取水口に。尾瀬沼に源を発し、尾瀬ヶ原を貫流し只見川となる沼尻川の始点である。そしてそこは大正3年(1914)に構想された尾瀬の電源開発の堰堤建設予定地でもあった。この地に12メートルの堰堤を築き、尾瀬沼の水面を10m以上増加させ、これをすぐ南にある小沼に引き入れ、その南端から隧道によって第一発電所に落とす。さらにその水を沼尻川に集め只見川に流し、三条の滝の上方に堰を設ける。堰によって水を溜め、尾瀬ヶ原全部を水底に没し、その溜まった水を猫又川上流部の柳平の上手から日崎山の下を潜らせ利根川入りに流す。水は至仏山の西側を渠によって水上の湯の小屋付近に導き、ここに大発電所を設置する、といったもの。また、一方では堰に溜まった水を只見川に落とし巨大な落差を利用して更に大規模な発電を試みよう、とした。
武田久吉博士が前述「秋の尾瀬」にこの計画に対し、「いずれにせよ、貴重な植物を蔵し、本州最大の湿原であり、またその風致も他の追随を許さぬものを、水底に没し去ろうとする無謀の計画である。
 もっとも自然の美を解せず、科学的に見た尾瀬の価値を知らない企業家が、単に地図を展べて発電能力ある地を物色するとしたら、尾瀬に白羽の矢を既てるも無理からぬことであろうしかしそれを許可する官憲が、軽々に事を断じて、少数事業家のために、国宝的否それ以上の価値ある尾瀬を破壊して、国家的損失を将来するの愚ずあえてするに至っては、吾人が断じて放任することの出来ない問題である」、と書く(『尾瀬と鬼怒沼(平凡社)』)。

この計画は昭和9年(1934年)、尾瀬が日光とともに日光国立公園に指定されることにより、尾瀬沼のダム案は消え去った。尾瀬ヶ原のダム案が依然として残ってはいたが、この計画も実行されることなく終わる。紆余曲折があって尾瀬の電源開発計画を引き継いだ東電が水利権の更新を放棄し、事業を正式に断念したのは1996年(平成8年)のことである。

尾瀬沼南岸道;
沼尻川に架かる沼尻橋を越える。ここが福島県と群馬県の境。小沼湿原(10時30分_1662m)を進む。振り返ると燧ヶ岳がどっしりと構える。先に進み森の中に入り、やがて前方に大きくU字型に切れ込んだところに出る。アヤメヶ淵と呼ばれているようだ。6月の頃にはミズバショウの群落が鑑賞できる、とか。
その先、道は尾瀬沼に少し傾いた斜面を通る。アップダウンを繰り返しながら進むと皿伏新道分岐(11時14分_1668m)に。ここを右に曲がると20分程度で大清水平湿原。その先は皿伏山、白尾山を経て富士見峠へと抜ける、おおよそ7.5キロのルートがある。
三平下まで残り1.1キロ。アップダウンを繰り返しながら進んでいくと、間もなく燧ヶ浦。湖面近くに下りることができる。燧ヶ浦から先もアップダウンもきつく、木道や木の階段も尾瀬沼側少しに傾いたところもあり、少々注意が必要。先に進み道が右にカーブするとその先に小屋が見えてくる。東電取水小屋である。

東電取水小屋
この地も尾瀬を巡る電源開発の舞台のひとつ。取水口から尾瀬沼の水を取り入れ、三平峠の下を穿ったトンネルで水を片品川に落とし、渇水期に片品発電所など7つの発電所に水を供給している。国土地理院の『ウオッチズ』を見ると、尾瀬沼から三平峠の下を片品川の上流部・ナメ沢に破線が引かれている。また大清水休憩所近くから片品発電所に破線が続く。この破線が導水路であろう。
この尾瀬沼の取水発電計画が発表されたのは昭和19年(1944)。戦時体制下の電力需要に応えるためとの大義名分には抗すべくも無く、尾瀬沼水路の工事は開始された。朝鮮人の強制労働者も従事したとのことである。戦争激化のため一時休止した発電計画は、戦後、昭和22年(1947)になり再開が協議される。学者・電力会社・農林省・文部省・群馬・福島両県関係者など40名が、長蔵小屋で可否を協議の結果、再開との決議。反対は長蔵小屋二代目の平野長長英氏ただ独りであった、と言う。昭和24年(1949)、沼尻に尾瀬沼取水ダム堰提工事完成。この電源開発により当時の東京の1日分の電力が賄われたとのことである。
この工事が尾瀬沼の環境に与えた影響は大きいと言われる。この堰のため尾瀬沼の平水位上1m、下2m、合計3mの水位変化が起き、その水位の上下による植物の枯死が始まった。また、尾瀬沼だけでなく沼尻川から尾瀬ヶ原に流れる流量が減少しており、尾瀬ヶ原の環境に与える影響も懸念されているようだ。

三平下;11時53分_1665m>12時39分出発
東電取水小屋を過ぎればほどなく三平下。無料休憩所の周囲には多くの人が佇む。我々のように尾瀬沼の西岸を辿った者、東岸を来た人、大清水登山口から三平峠を越えて来た人など、さまざまだろう。ずっと昔尾瀬沼に家族で来たとき、福島の檜枝岐から沼山峠を越え、大江湿原を見やりながら尾瀬沼の東岸をこの三平下まで来たことがある。そのうちに尾瀬ヶ原に足を伸ばしたいなどと思っていたのだが、十年近くを経てやっとその想いが実現した。
休憩所でしばし休憩。休憩所に尾瀬近辺のジオラマが展示されていた。地形フリークの我が身には誠に嬉しい。二日にわたって辿ってきた道筋の凹凸を確認し、はるばる来たぜを、しみじみ想い、また、会津と上州間交易の中継地であったと言われる三平下の、その地形や位置に歴史を重ねる。

三平下は会津と上州を結ぶ会津街道・沼田街道の道筋にある。少々オーバーとは思うが「交易の要衝」と呼ぶ人もいる。会津街道・沼田街道は会津若松から奥会津の山間部の険路を抜け、伊北街道、伊南街道をへて檜枝岐に至る。「街道」とは言うものの、道は人ひとり通れるかどうかといった杣道である。只見川沿いの道など断崖絶壁の連続で、とても「街道」といった趣きではない。江戸時代、この地は幕府の直轄地であり、田島の代官所に再三にわたり難所改良の陳情をするも難工事故に手が着かず、道らしき姿に整備されたのは明治になってから。実際、「沼田街道」と呼ばれるようになったのは明治になり、道筋が整備されてからである。
それはともあれ、道は断崖絶壁の難所、ところによっては、舟で人を渡し、沼田街道沿いだけでも40近くある峠を越えて山間の集落を繋ぎ檜枝岐に出る。檜枝岐には上州口の戸倉の関と同じく口留番所があった。定留物として女・漆・巣鷹・鉛・駒・熊皮・蠟・紙の八種、留物として真綿・薄縁・木地・ござ・畳表・羚羊皮・杉板・桶など杉木材の類・砥石・木綿帽子・駄馬・こぬか・鷺・鴨など鳥類・みなと紙・酒と粕・唐紙・油荏水油と粕・紙合羽・紙帳・元結の一九品が定められていた。番所ではこれら禁製品を取り締まっていた(『会津の峠;笹川壽夫編(歴史春秋社)』)。檜枝岐からは七入に入り、道行沢に沿って高度を上げ、沼山峠を越え大江湿原脇を尾瀬沼へと下り、この三平下に。この地で会津からの物品と上州からの物品が中継され、上州へは三平峠を越えて大清水から片品川に沿って戸倉に下り、片品村を経て沼田に至る。

杣道ではあろうが、この道の歴史は古い。山間の集落には源氏や平家の落人伝説も残る。尾瀬三郎藤原房利の物語は、平清盛との恋のさや当てに敗れ、この尾瀬で憤死した公達の伝説。尾瀬大納言藤原頼国の物語は平氏追討の令旨を発した以人王に従い落ち延び、尾瀬ヶ原に棲んだとされる伝説。伝説ではあり真偽の程は定かではないが、ともあれ平安の頃には伝説を生み出すその素地がこの地にあった、ということだ。
伝説を残すこれら公達は尾瀬の名前の由来ともされる。とはいうものの、「おぜ」という名が歴史上登場したのは江戸時代からで、それも「小瀬沼」であり、それ以前は単に国境を表す「さかい沼」、ふるくは「長沼」「鷺沼」とも呼ばれていたわけで、いまひとつ納得できない。「おぜ」は「悪勢」との説もある。安倍貞任の子どもだったり、尾瀬の大納言の部下だったりと諸説・伝説あるが、つまりは悪いやから=悪勢がこの地に棲んだとのことからだ。これも出来すぎといった感があるので、しっくりこない。で、結局は地勢的特長から来る「生瀬」(おうせ)からきたという説。つまりは、浅い湖沼中(瀬)に草木が(生)えた状態=湿原を意味する「生瀬」が転じて「尾瀬」となったという説が自分としては納得感が高い。

三平峠;13時5分_1758m
三平下を離れ三平峠に向かう。樹林の中の急坂を上る。見晴らしはあまりよくない。所々で現れる見晴らしポイントで振り返り、燧ヶ岳や尾瀬沼を眺める。三平下から少し北に上った尾瀬沼東岸の長蔵小屋、その手前にある小振りな岬・「檜の突き出し」らしき姿も見える。大江湿原に立つ三本カラマツが見える、とYさん。十数年前辿った記憶を呼び起こす。
先に進み針葉樹の林の中に三平峠が。標高1762m、尾瀬峠とも呼ばれたようである。また、三平平とも呼ばれる。峠の西の皿伏山(1916m)と東のオモジロ山(1884m)の稜線を結ぶ緩やかな鞍部であるため、こう呼ばれる。地形図を見ると南北にも緩やかな「平」となっている。

三平見晴
オオシラビソの森の中、峠からの「平」な道を進む。ほどなく左手が開けてくる。どの辺りからか場所は特定できなかったが、見晴らしのいいところを三平見晴と呼ぶようだ。西の荷鞍山(2024m)や武尊山(2158m)、白尾山(2003m)、至仏山、南に赤城山、眼下には片品川の谷筋が見渡せる、とのこと。実物は、どれがどれだかわからないので、後日カシミール3D で「展望」を確認する。
武尊や至仏など西の山容を確認するも、「何をやってんだろう」と、ふと我に返り、後は取りやめ。ともあれ、リアルもバーチャルも見晴らしはよかった。

十二曲がり
急な坂を下る。ジグザグの山道は十二曲がりと呼ばれている。道の周囲も針葉樹から広葉樹へと代わり、紅葉が美しい。白い幹と紅葉した葉のコントラストを示すブナ、ハウチワカエデの鮮やかな紅葉などが目に入る。下り道ではあるので、膝への負担があるにしても、少々は花を愛でる余裕もあるが、上りは誠に厳しいだろう。三平平の標高は1762m。山道口の一ノ瀬の標高が1400m強であるので、2キロ弱の距離を350mほど上るわけで、なかなか厳しい山道である。尾瀬でも有数の厳しい尾瀬入りコースと言われるのも頷ける。
途中、見晴大岩とか三平大岩といったところがあったようだが、見落とした。また、十二曲がりのどの辺りであったのか特定できないが、左手の山腹に連なる道跡が見える、とYさん。旧沼田街道に沿って尾瀬沼を通り福島へと抜ける、といった計画で着工された道の工事跡である。1966年、工事は開始されたが、1971年、長蔵小屋の平野長靖氏が大石武一初代環境庁長官に工事中止を直訴し計画は中止となった。工事中止から40年がたち、削り取られた山肌も今ではほぼ緑で覆われていた。

岩清水;13時44分_1589m
十二曲がりを下りきると開けた広場に。ここは尾瀬を抜ける計画の国道工事が中断された個所。先ほど左下に見た道筋はオモジロ山の山腹を這って進み、冬路沢を越えてこの地に進んで来ていた。道跡もすっかり緑で覆われており、Yさんに教えてもらわなければ、なにもわからなかっただろう。Yさんに感謝。広場にあるベンチで小休止。
広場の近くに塩ビのパイプから流れ出す清水がある。昔は小さな岩場から流れ出し「石清水」と呼ばれていた。今は、なんの変哲もない水場ではあるが、ここは道路建設工事を止めるきっかけともなった場所である。1966年(昭和41年)開始された車道工事は1971年(昭和46年)には工事はスピードをあげてこの岩清水まで延びてきた。平野長靖さん(平野長蔵さんの孫・長英さんの子ども)は6月24日付け朝日新聞に「泉が涸れる」との投書をおこなった:「峠には細い道があった。広葉樹の緑のトンネルの中に、小さいが冷たい泉がわいていて、数百年もの間、通り過ぎる旅人を慰めてきた。(中略)この泉はいこいの地点だった。峠の名は尾瀬の三平峠。いま若葉がもえ、ムラサキヤシオツツジが咲き、鳥たちの歌うこの季節に、峠の道は死につつある。昨日、私たちは、泉から百メートル足らずに迫るブルドーザーを見た。すでに周囲のブナの木々は切り倒されて転がり、木陰はなかった。あと数日で、ブルは泉のすぐ上を踏みにじり、清水は確実に涸れて、赤い土砂で埋めつくされるだろう。排気ガスももうすぐだ。それは私たちには八年前から恐れながら、むなしく座視してきた事柄だった。毎年、小さな声で無念さを語り続けてはきたが、なぜ反対運動をしないのかと問い返されると、一言もなかった。いったい、この道路開通を心から喜ぶ人がいるのか。(中略)やがて鳥たちの声が消えるとき、なによりも人間そのものが荒廃してゆく。暮らしに追われたとはいえ、あまりに非力だった私たち自身を責めあざけるのみだ。倒された木々と、涸れてゆく泉の前に、それに日本の次の世代の前に、重要な共犯者は頭を垂れつづけるだろう。自然に心を寄せる各地のみなさん、お笑いください」、と。

経済成長から置き去りにされた山村の産業振興と観光を目的に計画された自動車道の建設は群馬県知事(「地元のためにはどうしても必要な道路だ(神田坤六群馬県知事)」)、片品村長(「過疎に悩む山村が発展していくには観光が大きな要素であり、それには道路を作らなければ(大竹竜蔵片品村長)」、といった行政の長、また片品村の有権者の九割を越える道路建設推進の署名が群馬県議会に提出されており、そのような状況の中での苦渋の決断であったのだろう。自然環境保護か生活か、といった議論は当事者ならぬ自分には判断の是非は軽々にコメントできないが、ともあれ長靖氏は、これ以降、行政への誓願、東京での街頭署名運動、デモ行進へと東奔西走することになる。

長靖終焉の地;14時24分_1451m(金山沢交差近く)
広場を離れ先に進み冬路沢に架かる木の橋を渡る。冬になると沢を埋める雪が峠への道筋となったこの沢を過ぎると本格的山道は終了する。道脇を流れる渓流を愛でながら進み、ナメ沢と金山沢が冬路沢に合流するあたりで「ここが長靖さんの終焉の地」、とYさん。谷側の道脇に座す、結構大きな岩が目印。東京での支援団体との会合に出席のため、東奔西走の疲れた身体で冬の三平峠を仲間と越えた氏は、疲労のためこの地で動けなくなった、と言う。一ノ瀬休憩所に救助を求めに向かった仲間の到着を待つことなく、折から居合わせた大学生のパーティに看取られ永遠の眠りに入った。合掌。

三平橋;14時30分_1426m
先に進むと赤くペンキで塗られた大きな鉄の橋に出る。センノ沢も合流する。元は渓流に架かる吊り橋であったようだが、車道工事に際し新しく架け替えられた。大清水登山口から伸びてきた車道は橋のところまで続いている。ここから先は工事中止に伴い道は廃道となり草で覆われている。砂利道の車道を歩き一ノ瀬休憩所(14時33分_1415m)に。

大清水休憩所;15時47分_1197m
大清水から三平峠に向かう道筋で、最初に瀬・川を渡るところ、ということで名付けられた一ノ瀬休憩所で一休みし、単調な砂利道を、途中柳沢、沖ブドウ沢、中ブドウ沢など片品川に注ぐ支流を見やり、奥鬼怒へと続く奥鬼怒林道の分岐を越え、トマブドウ沢の支流を越えて道を進む。ブドウは多くの山葡萄があった、ため。沖は奥、トマは「とっつき」の意味。
東京都内であれば第一級の樹間の散歩道。尾瀬ならばこそ、単調なる道だ、などと誠に贅沢な台詞に少々の反省をしながらも、1時間ほどで大清水休憩所に到着。3日にわたる尾瀬の散歩を終える。

参考図書;
『尾瀬と鬼怒沼:武田久吉(平凡社)』、『尾瀬に死す:平野長靖(新潮社)』、『定本 尾瀬 その美しき自然;白籏史朗(新日本出版社)』、『尾瀬―山小屋三代の記;後藤允(岩波新書)』l、『尾瀬ヶ原の自然史;阪口豊(中公新書)』

秋の尾瀬を歩くことにした。ルートは鳩待峠から鳩待通りを横田代、アヤメ平に進み富士見小屋あたりから長沢林道を下り尾瀬ヶ原に。尾瀬ヶ原の竜宮十字路に進み、そこからは湿原を横切り下田代の山小屋に泊まる。翌日は尾瀬沼に上り、沼尻から沼の南岸を三平下まで進み、三平峠を越え大清水に下る、といったもの。片品村での前泊をも含め2泊3日のゆったりとした山行である。
きっかけは義兄のお誘い。いつだったか、いまは大学生となった子供達が誠に幼かった頃だから、結構前のことではあるが、家族で尾瀬に行ったことがある。そのときは福島県の檜枝岐から沼山峠を越え、大江湿原を楽しみながら尾瀬沼を三平下まで歩いた。夏が来れば思い出してはいた尾瀬ではあるが、その尾瀬には尾瀬沼と尾瀬ヶ原があるということも、その時までまったく知らなかった。当時のお散歩メモには、次回は尾瀬ヶ原へ、などと書いている。今回のルートは尾瀬ヶ原から尾瀬沼へと抜けるコース。しかも片品在住の山歩きのベテランがガイドについてくれる、と言う。頃は秋、紅葉も楽しめそう、ということで、一も二もなく諾、とした。



本日のルート:

初日;片品村

二日目;鳩待峠>横田代>中原山>アヤメ平>富士見小屋>長沢新道下り>土場>長沢新道下山>竜宮>沼尻川交差>燧小屋

三日目;燧小屋>イヨドマリ沢交差>ケンゴヤ沢>白砂田代>沼尻田代>小沼湿原>大清水平分岐>三平下>三平峠>車道停止点>冬路沢交差>長靖終焉の地>三平橋>一ノ瀬休憩所>大清水小屋

初日

沼田
義兄の車で関越自動車道を進む。沼田インター手前の片品川に架かる巨大なトラス橋からの景観はいつ見ても圧倒される。『定本 尾瀬 その美しき自然;白籏史朗(新日本出版社)』によれば、この大断崖は片品断層崖と呼ばれ、大断層・フォッサマグナの東端であるとする。大断層東端か否かは議論の別れるところではあるが、それはともかく、これほどまでに発達した河岸段丘はあまり見かけたことがない。比高差100m、九つの段丘面を有する、とか。片品川を中心に、利根川や赤城山麓の根利川、その西の薄根川、発地川などが合わさり、気の遠くなるような時間をかけてつくりあげたものだろう。
タレントのタモリさんは崖線とか河岸段丘といった地形が大好き、と聞く。『タモリのTokyo坂道美学入門(講談社)』といった著書もある。そのタモリさんが、大学生として上京したとき、最初に旅したところがこの沼田の河岸段丘であった、とか。いつだったか津久井湖の南、串川流域の発達した河岸段丘に魅せられ、その地を数回彷徨ったことがあるのだが、この沼田の大断崖へもそのうち彷徨う、べし。

花咲峠
沼田インターで高速を下り、国道120号線に。すぐ左に折れる県道64号・平川沼田線に入り、道脇の川場温泉、武尊温泉の看板を見やりながら川場村を進む。武尊温泉の手前に赤倉川が流れる。昨年、義兄とこの赤倉川に沿って赤倉峠に進み、花咲へと下ったことを思い出す。木賊を過ぎ、次第に高度を上げる峠道を進む。木賊は「とくさ」と読む。武田勝頼最後の地である甲州の天目山にもこの地名があったが、シダの一種のようである。曲がりくねった峠道を進むと、上りきったところに背嶺トンネルが現れる。ここが川場村と片品村を結ぶ花咲峠(背嶺峠)であり、トンネルを抜けると片品村に入る。この背嶺峠に限らず、四方を山に囲まれた片品村に入るには、どこからのアプローチも峠を越えることになる。沼田市から片品村に入るには現在では国道120号線の椎坂峠を越えるが、昔は栗生峠を越えていた。椎坂峠へ上る高平集落のあたりで国道120号と別れ、白沢川に沿って上ると栗生トンネルがあるが、そこが昔の栗生峠。昔の道はそこから大原集落に向かって下り国道120号線の道筋に出たようだ。現在は通行止めのようである。栃木県からのアプローチは奥日光・金精峠を越えて菅沼・丸沼へ。群馬の水上町からは坤六峠を越えて片品村戸倉へ、そして福島県からは沼山峠を越えて尾瀬沼に出る。誠に、片品はすべて山の中、である。

片品村
背嶺トンネルを抜け、栗生を越えて綱沢川の谷筋を花咲地区に。日帰り温泉施設「花咲の湯」で一風呂浴び、尾瀬山行のガイドをしていただくYさん宅に。今夜はYさん宅泊まり。炉端に座り、片品村史などを読む。
片品村の歴史は古い。縄文時代の中期の土器が村内から出土する。律令時代には利根郡笠科郷とある。古文書に「加佐之奈」として名前が残る。村の原型ができたのはこの頃だろう。笠科は、「笠ヶ岳のシナの木」との説がある。この笠科が片品の地名の由来である。
時代は下って南北朝の頃には利根一帯を支配した沼田氏が興る。その統治は200年続き、次いで関東管領上杉、小田原北条と支配は変わり真田氏のときに江戸時代を迎える。真田氏の治世は藩の財政難もあり村民には過酷なものとなったようだ。その悪政ゆえに幕府から領値没収され、その後、片品村は奥平氏、本多氏、土岐氏と支配者が変わる。支配が変われども、農民は依然として重税に苦しめられ、また、天明の大飢饉をはじめとする凶作にみまわれるなど、誠に苦しい時代を経て明治維新に至り、明治22年に現在の片品村が誕生した。

二日目

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

 

戸倉
元はこどもの自然体験活動のため古民家を移築してつくったY氏邸でゆったりと夜を過ごし、翌朝尾瀬へのアプローチ地点・鳩待峠へ向かう。摺淵地区を進み、片品川を渡り国道120号線に合流。須賀川を越え、鎌田へと。このあたりが片品村の中心地。鎌田交差点で金精峠へと進む国道120号線と別れ、国道401号・奥利根ゆけむり街道を戸倉に。車は鳩待峠まで進めるのだが、今回のルートは尾瀬の西端である鳩待峠から入り、東端の三平峠から大清水へと抜ける。ために、段取り上、車はこの戸倉の駐車場に停め、戸倉から鳩待峠までは乗り合のマイクロバスを利用することに。
戸倉は片品村の最奥の地。倉=くら・くれ、とは「抉られたような崖地や渓谷」を表す。倉=岩ともされる。戸は戸口だろうから、戸倉とは、崖地・渓谷への入口、ということ。戸倉から先は尾瀬への峠越えとなり、その先は会津に抜ける。往古より戸倉は会津と上州を結ぶ交易路の上州口であった。会津口の檜枝岐に口留番所が置かれたように、戸倉にも関所が設けられ、人と物の流れを監視した。人は大工や屋根葺き職人、板割、越後からは出稼ぎも入ってきたようである。物は上州側からは油や塩、日用雑貨、会津側からは米、酒、蚕種、マユ、そして曲輪などが運ばれ、三平平下で中継された。交易の流れは会津側からのものが大半だったようで、そのためもあり戸倉には檜枝岐などに見られる曲り屋様式の民家が多かった、とか。「水の流れがさかさになれば 流れて行きたい檜枝岐 尾瀬の沼へは夏来てごらんヨー 鶴も涼みで舞いあそぶ」と、上州の民は歌う。上州の人にとって会津の檜枝岐は憧れの地であったのだろう。

交易路とはいうものの、主要街道でもなく、山間僻地間の交易地である静かな山村が、その歴史上はじめてであろうが、一転慌ただしくなったのは幕末の戊辰の役の時。会津口の檜枝岐に陣を張る幕府・会津軍と新政府軍との間での戦いの舞台となる。所謂、戸倉戦争と呼ばれる戦いである。
慶応4年(1868)、干支での戊辰の年の5月、檜枝岐に在陣の伝習隊など幕府軍400名が、戸倉在陣の新政府軍60名(片品村には全部で400名ほど)を急襲。新政府軍側に戦死1名・手負い10数名の被害を与える。幕府軍は無傷で檜枝岐に撤収。一時会津軍と交代し白河口に転戦するも、7月に再び檜枝岐に帰陣。その後9月に若松城に戻るまで戦闘は特になかったようである。藤沢周平さんの『雲奔る 小説 雲井竜雄」』で知られる雲井竜雄が、奥羽列藩同盟の意を受け新政府軍の前橋、小幡藩説得のため同士数名と片品村の片貝に潜入するも、事成らず逃亡したのはその間の8月の頃である。

鳩待峠;8時30分_1591m

乗り合いマイクロバスに乗り、鳩待峠へ向かう。戸倉川に沿って大清水へと向かう国道401号線と離れ、県道63号線を笠科川に沿って上る。県道63号線は水上片品線とも呼ばれる。群馬県のみなかみ町と片品村戸倉を結ぶ。上でメモしたように、笠科川は、笠ヶ岳のシナの木にその源を発する故をもって名付けられた。
よく整備された1.5車線の道を進む。スノーパーク尾瀬戸倉スキー場を越える辺りから、谷を狭める片科川に沿って、更に高度を上げ津奈木沢に架かる橋を越える。ここからは坤六峠を越えて水上に向かう県道63号線と別れ、県道260号・尾瀬ヶ原土出線を津奈木沢に沿って鳩待峠に。
鳩待の名前の由来は諸説ある。八幡太郎義家がこの峠を越えるとき鳩を放って吉兆を祈った、と。また、南に帰る鳥を捕らえるべく霞網を張って鳥のかかるのを待っていたから、との説もある。鳩待峠が1580mと他の峠に比べて標高が低く、ために鳩も通り道として鳩待峠を良し、とした。そのほか、炭焼きや木地採りに山に入った村人が、里に下りる目安としてキジバト、アオバトの鳴き声を心待ちにしていたから、といった説もある(『定本 尾瀬 その美しき自然;白籏史朗(新日本出版社)』より)。

鳩待通り

鳩待峠を出発。コースは横田代、アヤメ平を経て富士見峠手前の富士見小屋へと。20分程度の急な上りから始まる。ブナの林がオオシラビソの林へと変わる頃には平らな道が多くなる。尾瀬は標高1600mあたりまで落葉広葉樹のブナの林で覆われる。林床はチシマザサが生育し、このブナとチシマザサの組み合わせで森が造られる。針葉樹のオオシラビソは尾瀬では標高1600mから1800m位のところに林をつくる。

ところで、「落葉」って、どういうことなのだろう。ちょっと気になりチェックする;日照時間が短くなり気温が下がると、根の水分を吸い上げる力が弱くなる。広葉樹は文字の通り、葉が広く水分が蒸散しやすい。需要の割に供給が追いつかない。そのままにしておくと乾燥する冬には葉の裏から水分が奪われてしまうため木が枯れてしまう。そこで葉を落とすことで水分需給のバランスを計り生命を維持することになる。また、日照時間が短くなり気温が下がることにより葉の葉緑体での光合成の機能が一挙に低下する。これも葉を付けたままであれば栄養失調となり木が枯れる。落葉って、どうも、己の身を護るためのようだ。
常緑針葉樹は葉が尖り、蒸散する面積が少ないため毎年葉を落とさなくてもいい、とのこと。いい環境の地を広葉樹に取られ、厳しい環境の中で生きなければならなかった針葉樹は自己防衛機能がデフォルトで備わっているのだろう。ちなみに、常緑針葉樹といっても葉が散らない、というわけではなくそのサイクルが長い、ということらしい。

先に進むと木道が出てくる。木道に使われるのはカラマツが多いとのこと、尾瀬では尾瀬沼ほとりの三本カラマツが有名であるが、もとより国立公園内の樹木の伐採ができるとは思えない。他県や、ひょっとすれば片品あたりで植林したカラマツを使っているのではないだろう、か。戦後の復興期、戸倉の山林からは多くの木が切り出され、そこには寒冷地でも育つカラマツが植えられた、ようである。しかしながら、カラマツが生長した頃にはすでにそのニーズが消え失せた。当初炭鉱の杭とか電柱に使う予定であったようだが、そもそもその炭鉱がなくなったり、電柱には他の合板などが使われたりするようになったため、行き何処が無くなった、ということだろう。松ヤニがあるためパルプにも使えず、はてさて、ではあったが、木道用の材木としてここでは役立っている、とか。ちなみにカラマツは日本における針葉樹のうち唯一落葉する落葉針葉樹である。ために、落葉松とも書く。

横田代;10時27分_1856m
鳩待峠から2時間弱歩いただろうか、横田代の湿原に出た。なめらかな稜線に広がる湿原と点在する池塘(湿原の泥炭層にできる池沼)群、そして針葉樹林の組み合わせは如何にも、いい。振り返れば利根の水源の山々や至仏山を遠景も美しい。湿原とその中に敷かれた木道と尾瀬を取り巻く山々の姿もなかなか、いい。
横田代の「田代」は、湿原中に並ぶ池塘の姿が田圃の苗代のようでもあり名付けられた。また、雪代(雪汁の転。雪解けの水)による水位の上昇で泥田(これを田代とも呼ぶ)のようになるための命名とも言われる。湿原とは「土壌が低温、過湿などのために枯死体の分解が阻害され、泥炭が堆積された上に発達する草原(『岩波生物学辞典』)」。と定義される。そしてこの横田代のように、斜面に形成された湿原を傾斜湿原と言う。傾斜湿原に堆積する泥炭は傾斜に応じて厚みに変化はあるものの、総じて板状になる、と言う。なだらかな斜面が続くように見える傾斜湿原は、実際は段々畑のように階段状となっている、とか。それが「横」田代の由来だろうか。それとも、傾斜面に広がる「横」ベクトル故の由来だろうか。ちなみに、泥炭階段の縁にはチングルマが生育し、泥炭層の流失防止と貯水に一役かっている。横田代は山地湿原のため泥炭の堆積速度も遅く、すぐ下が岩盤。表土がかなり少なく、酸性度が尾瀬中で最も高いことから植物にとっては厳しい生育条件の場所である。

アヤメ平;11時21分_1956m
横田代を通り抜け、笹原と針葉樹林が混交するあたりを進む。ゆるやかな上りの木道を進み、中原山山頂(標高1968メートル)を経てアヤメ平に。360度の視界が広がる。湿原と点在する池塘群、その遠景に至仏山、平ヶ岳、景鶴山、そして燧ヶ岳、といった尾瀬の山々が美しい。片品村方面へはなだらかな山並みが一望のもとに見せる。

アヤメ平の湿原にはところどころで緑が薄く、表土が露出し、四角い木枠で囲まれた箇所がある。そこは荒れた湿原でありその回復作業の箇所である。昭和24年(1949)、NHKラジオで「♪夏が来れば思い出す はるかな尾瀬青い空♪」の『夏の思い出』が放送され、昭和30年代のハイキングブームも相まって、空前の尾瀬ブームが起きた。尾瀬の中でも人気ポイントであったアヤメ平は、当時木道も完備しておらず、また自然保護といった考え方も乏しかった時代風潮もあり湿原が踏み荒らされる。湿原を形成する泥炭層が剥き出しになり、1ヘクタールもの湿原が裸地となった、と言う。15センチも削られた泥炭層もある。1年に1mm弱しか泥炭化しないわけだから、およそ150年から200年分の泥炭層が踏み荒らされた、ということだ。ビニールシートの普及が湿地荒廃に拍車をかけたと、Yさん。
湿地回復作業は昭和41年頃から始められた。試行錯誤を重ねながらの回復作業は半世紀近くをかけ、現在ではおおよそ90%ほどが回復した、という。回復作業の手順は、まず、土留めの枠をつくる。その中にミタケスゲの種を蒔く。ミタケスゲはまず緑を取り戻し、キンコウカなどの植物が自然に移入し繁殖できるような環境をつくる役割をもつ。そして、蒔いたミタケスゲの種が風に飛ばされないように藁ゴモで覆い、藁ゴモは篠竹で固定する。これが一連の手順。未だ裸地に近いところは、あと一世紀近くかかるのだろう、か。ちなみにアヤメ平とは言いながら、アヤメは、ない。キンコウカをアヤメと見誤ったため、と人は言う

富士見小屋;11時52分_1863m>12時15分出発
富士見峠へ向かう。右手に皿伏山、白尾山、荷鞍山の遠景。その手前、お椀のように窪んだ眼下には田代原の紅葉。窪みから続く谷地は硫黄沢、冬路沢に沿って上る戸倉から富士見峠への道筋であろう。紅葉の中、透き通ったクリーム色の葉でアクセントをつけるのはコシアブラと、Yさん。名前の由来は、木から樹脂液をとり,漉して塗料に使ったことによる。天ぷらにしても評判がいい、と。
尾瀬ヶ原に下る長沢新道の分岐あたりの富士見田代の池塘を見やり、針葉樹林に囲まれた道を富士見小屋へと向かう。富士見小屋でお昼休憩。と、下から軽トラックが上がってきた。富士見下より田代原を上る林道が通っている。現在は許可車両しか上れないようだが、昭和30年代の頃はバスも入っていた。戸倉から鳩待峠の車道が開通したのが昭和38年、檜枝岐から沼山峠へのバス道の開通が昭和45年であり、昭和30年代の尾瀬ブームの時の車での入山といえば、この富士見峠へのルートしかなかった。アヤメ平が尾瀬で最も荒廃した理由はこのことだろう。

長沢新道;12時32分_1883m>下山;14時45分_1412m
富士見峠は富士見小屋の少し東。峠からは矢木沢を尾瀬ヶ原の見晴に下るルートや、白尾山、皿伏山、大清水平を経て尾瀬沼への道もある。今回のルートは長沢新道の沢道を尾瀬ヶ原に下るため、富士見峠とは逆方向、鳩待通りを少し戻り、尾瀬ヶ原へ下る長沢新道への分岐に向かう。
分岐近くの富士見田代を見やり林道を下る。道端に咲くツルリンドウやゴゼンタチバナをYさんに教えてもらいながら1キロほど下り、標高1800m弱の地点にある長沢新道土場で小休止。土場とは材木の置き場、とか。国立公園で樹木の伐採ができないとすれば、木道用木材を置いておくところだろうか。

沼尻川の拠水林;15時24分_1399m
土場を過ぎる頃から尾瀬ヶ原が眼下に見えてくる。紅葉したハウチカエデやミズナラの林の中を下り尾瀬ヶ原に。標高2000m弱から1400mあたりまで4キロほどを一気に下ったことになる。道の左手には尾瀬ヶ原の湿原が広がる。右手は樹木が茂り、地図を見ると樹林の中を沼尻川が走る。この林は沼尻川によってつくられた自然堤防上の拠水林(きょすいりん)。湿原の外より流れてくる川は多くの土砂を運び、川の両側に自然の堤防をつくり、そこに樹木が育つ。
尾瀬ヶ原はこの拠水林によっていくつかにわけられる。燧ヶ岳山麓の樹林を東限界とし、沼尻川と只見川に囲まれたところが「下田代」。尾瀬ヶ原の東の部分である。真ん中の部分、今いるあたり一帯は「中田中」と呼ばれる。沼尻川とその西にある上ノ大堀川とヨッピ川に囲まれた湿原部分。川上川・猫又川と上ノ大堀川に囲まれた尾瀬ヶ原の西部は「上田中」と呼ばれる。Google Mapの航空写真を見ると、なるほど湿原を区切る帯のような樹林帯が見える。

竜宮;15時2分_1405m
拠水林を離れ湿原の中に敷かれた木道を竜宮に向かう。尾瀬ヶ原のほとんど中心といったところ。木道の十字路には西に「山の鼻」、東に「見晴」、北に「東電小屋」、南は「富士見峠」を示す道標がある。周囲に池塘が点在する。
このあたりを竜宮と呼ぶ。湿原を流れる小川がいったん湿原に吸い込まれ50mくらいで再び湿原に現れる「伏流水」のことを指すようだ。湿原にはこのような伏流水の水脈がいくつも存在している。入り口と出口を結ぶ筒状のトンネルは人が通れるくらいの広さ、とか。入口と出口には淵があり、増水時には渦を巻いて水を吸い込む姿が竜の口に見えた。それが竜宮の名前の由来。
木道十字路に立ち尾瀬ヶ原を見渡す。東には東北以北最高峰の燧ヶ岳(2360m)、西には標高2228mの至仏山が泰然として座し、北には景鶴山が、南にはアヤメ平一帯の山稜が東西に連なる。周囲を山で囲まれた標高1400の地に、東西5キロ余り、南北2キロを超える湿原が広がる。尾瀬ヶ原にはいくつかの水流が蛇行し湿原を貫く。主なものは尾瀬沼から落ちる沼尻川。ヨッピ川と合流し只見川の源流となる。そのほか六兵衛堀、源五郎堀、上ノ大堀川、下ノ大堀など湿原を貫流する水路は、いずれも蛇行し相互に連絡し合いながら水を集め、すべて只見川に落ちる。河岸には拠水林や草原が発達し、この大湿原を区切り、景観に変化を与えている。
尾瀬ヶ原の湿原はミズゴケよりなる。『尾瀬ヶ原の自然史;阪口豊(中公新書)』によれば、それはそれなりの理由があるようだ。振り返ると、はるか、遙か数百万年彼方の大昔、このあたりは西に蛇紋岩の山体(至仏山)が隆起した平坦な高原の地であった。そこに火山活動がはじまる。最初に噴火したのは景鶴山。一帯に溶岩を流した。流れた溶岩は地殻変動によって割れ目ができ、その割れ目に沿って浸食が進み只見川ができる。次いで尾瀬の北や東、そして南のアヤメ平、皿伏山などが噴火し、現在の尾瀬の姿ができあがる。そして最後に燧ヶ岳の噴火。流れた溶岩によって只見川の流れが堰止められ尾瀬ヶ原には浅い湖ができた。また崩壊した燧ヶ岳の山塊は沼尻川の流れを止め、尾瀬沼をつくった。
半水没の尾瀬ヶ原は燧ヶ岳や周辺の山々から流れ出した泥流により扇状地地形をつくる。川は氾濫を繰り返し湖は次第に埋め立てられた。蛇行して流れる川は氾濫を繰り返し、一部が切り離されて三日月湖となる。また溢れた川水がもとの川床に戻れず取り残されて湿地(後背湿地)になる。こうして一帯に湿原の形成がはじまる。8000年前の頃、と言う。
湿地帯の水辺にヨシ、スゲ、ガマが茂る。寒さなどのため完全に水と酸素に分解されることなく、その遺体が水中に堆積し泥炭となる。泥炭が水面まで堆積すると、やや乾燥したところに生育するスギゴケ類、カヤツリ草の類、ときにはハンノキなどの樹木が勢を増す。これら植物の遺体が堆積し泥炭層が厚くなると、泥炭は次第に乾燥し養分が減少する。そして、その環境に耐えうる植物として松やカンバの樹木が育ち、森林が形成されることになる。
この森林も年月とともに泥炭層が厚くなると、下層からの養分吸収ができなくなる。水も下層から吸収できず雨水に頼ることになる。雨水は養分に乏しい。結果、養分の欠乏に耐えられ、雨水を体内に貯留する機能をもった植物だけが生育を許される。それがミズゴケである。ミズゴケの群落は森林中に広がり樹木を取り囲み枯らし、一面がミズゴケの湿原となる。これが現在の尾瀬ヶ原ミズゴケ湿原が形成されたプロセスである。物事にはすべてそれなりの理由がある、ということだ。
なお、尾瀬の湿原は高層湿原とも高位泥炭地とも呼ばれる。これは高原、高地にあるから、といったことではなく、泥炭地と地下水面の比較からくる。高層湿原・高位泥炭地はまわりの地下水面より泥炭地が高くなっている状態の湿原・泥炭地を言う。厚くなった泥炭層のため地下の養分を含んだ水の供給を閉ざされ、雨水だけで生育するミズゴケは高層湿原・高位泥炭の代名詞となっている。

見晴;16時34分_1417m
竜宮の十字路から本日の宿泊地である尾瀬ヶ原の東縁、見晴に向かう。沼尻川の自然堤防につくられた拠水林を抜け、木道を下田代を東へと進む。木道は昭和9年、朝鮮最後の王朝李王殿下の来山のときにはじめてつくられたようだ。当初は風倒木、枯損木を再活用していたようだが、国立公園ともなればそういうわけにもいかず、現在はカラマツをつかっているのは上でメモしたとおり。
左手には燧ヶ岳が見える。原の中程に六兵衛堀。沼尻川の本流であった、とも。河川争奪に結果本流を沼尻川に奪われた、と。燧ヶ岳山麓が尾瀬ヶ原に落ちたあたりの見晴には幾つかの山小屋がある。燧小屋に宿泊。いつだったか丹沢の山小屋に行ったとき、夜具もふくめすべてが「山小屋」であったので、準備万端、寝袋を用意していったのだが、寝具も清潔、お手洗いもウォッシュレット。環境保護のため石鹸は使えなかったがお風呂も入り、快適な尾瀬の宿となる。

参考図書;
『尾瀬と鬼怒沼:武田久吉(平凡社)』『尾瀬に死す:平野長靖(新潮社)』『定本 尾瀬 その美しき自然;白籏史朗(新日本出版社)』『尾瀬―山小屋三代の記;後藤允(岩波新書)』『尾瀬ヶ原の自然史;阪口豊(中公新書)』



今でこそ、の尾瀬の自然の有り難味であるが、それっていつの頃からその有り難味が評価されるようになったのか、ちょっと調べてみた。

尾瀬が環境的「歴史」に登場するのは、明治23年。平野長蔵さんが尾瀬沼のほとりに長蔵小屋をたててから。その頃尾瀬の水資源を利用するため尾瀬ヶ原を水没させる計画が出される。長蔵氏は反対を唱えたがなかなか賛同者が得られなかった。ということはこの時期は「世間」からその有り難味を認められていない。

昭和9年尾瀬は日光国立公園の一部に指定された。ということはこの時期に「国」から評価された。しかし、昭和19年尾瀬沼からの取水工事が開始された。平野長英氏は学者たちと反対運動を繰り広げたが,昭和24年工事が終了。沼尻に堰堤が三平下には取水門ができ,樹木や湿原の一部が枯れてしまった。ということは、この時期も「本当に」有り難味は評価されていない。

さらに,昭和30年代後半尾瀬に自動車道を通す工事が強行され,沼山峠・鳩待峠への自動車道が完成。大清水と三平峠を結ぶ自動車道は、平野長靖氏の建設反対への奔走、また、昭和46年環境庁の発足、なおまた、初代長官大石武一氏(かっこよかった政治家だったなあ)の存在もあり、その建設は阻止された。この時期に正式に「本当に」ありがたいものとして評価定着したということであろう。

こういう展開になるとは想像していなかったのだが、三平下で国道401号線が突然切れていた理由がこれでわかった。ここに道路が建設される計画だったのだ。 前述のごとく、戸倉から大清水を経て、沼山峠へ抜ける山道は、古くから上州と会津とを結ぶ交易の道であり、出稼ぎ人々が行き交う道でもあったわけだが、ほぼ、そのルートに沿って、経済成長から置き去りにされた山村の産業振興と観光を目的に、自動車道を建設しようと計画されていたのである。国立公園となろうがどうしようが、この時期までは自然の有り難味より、生活の重みを減らすことのほうが重要であったのだろう。親子3代にわたって尾瀬の有り難味を訴え続けた、その思いの強さもやっとわかった。国立公園に眠ることのその意味合いもやっとわかった。

尾瀬の名前の由来だが、これも例によっていくつもある。尾瀬大納言藤原頼国からきたという説。これは平清盛との恋の鞘当に破れ京を逃れた、とか平家追討の戦に破れたとか、宮廷内の抗争に敗れたとか、以仁王のお供で逃れてきたとか、また大納言の名前も尾瀬大納言尾瀬三郎房利、といったりで、あれこれあってわけがわからないが、ともあれ、この尾瀬の大納言がこの地に住んだことから来たとする説。とはいうものの、「おぜ」という名が歴史上登場したのは江戸時代からで、それも「小瀬沼」であり、それ以前は単に国境を表す「さかい沼」、ふるくは「長沼」「鷺沼」とも呼ばれていたわけで、いまひとつ納得できず。また、安倍貞任の子どもだったり、尾瀬の大納言の部下だったりとこれもあれこれあるが、つまりは悪いやから=悪勢がこの地を襲ったからといった「悪勢説」。これも出来すぎといった感があるので不採用。

尾瀬、って「浅い湖沼中(瀬)に草木が(生)えた状態=湿原」の意味
で、結局は地勢的特長から来る「生瀬」(おうせ)からきたという説。つまりは、浅い湖沼中(瀬)に草木が(生)えた状態=湿原を意味する「生瀬」が転じて「尾瀬」となったという説で自分としては納得。
今回の尾瀬歩きで土地勘ができた。次回は大清水・三平平ルートとは異なるもうひとつの群馬側からのルート。鳩待ち峠ルートで尾瀬ヶ原に行ってみよう。そして三条の滝方面へ降りてみよう。今年の秋までには。

2日目。本日の予定は尾瀬。大江湿原と尾瀬沼に。352号線を内川まで。ここで401号線と合流。352号線と401号線が共存する道を南下し檜枝岐に向かう。



檜枝岐
檜枝岐歌舞伎でよく聞くこの村、尾瀬への福島側から玄関口。江戸時代からの伝統を誇る歌舞伎、しかも、村人、といっても先回のメモのあるように、平家であり、藤原であり、橘である、といった貴種の末裔の誇り高い人たちだろうと思うが、その村人が自ら江戸からもちこんだ手作りの歌舞伎で有名である。であるからして、結構鄙びた村かと想像していた。が、村の造作は少々情緒に欠ける。ガイドの星さんの言によれば、この村、福島で個人所得の最も高いところである、と。観光・民宿で潤っておる。また、ダムの補償もあるとのこと。

沼山峠駐車場
ともあれ、檜枝岐を越え、御池に向かう。途中七入に大きな駐車場。水芭蕉の咲くハイシーズンには、マイカーはここで乗り入れ規制。シャトルバスで沼山峠に向かうことになる。今、8月のお盆はハイシーズンを越えており、御池まで乗り入れできる。ここの駐車場でシャトルバスに乗り換え20分くらいで沼山峠駐車場に。
バスを降り森を歩く。森の中のえも言われぬ「森の香り・フィトンチッド」、この香りは何ものにも変え難い。実は、森の香り感動した体験がある。何ヶ月か前、狭山丘陵の森を歩いていたとき、本当に心身とも癒される、少々叙情感に乏しい私でも本心感動した森の香りに出会ったことがある。ここの森の香りはそれほど「しびれる」香りではなかった。が、身体一杯に香りを吸い込む。木道として整備されたゆるやかな登り道を15分程度登り、沼山峠の展望台・休憩所に。標高1781メートル。燧ヶ岳(標高2,356メートル。東北地方の最高峰。ひうちがたけ)や日光連山、尾瀬沼が見えてきた。

大江湿原

展望台から下ること20分程度、大江湿原に下りる。湿原の道をゆるやかに歩く。ニッコウキスゲ、水芭蕉、ツリガネニンジン、コハギボウシなど私にとっては宝のもちぐされといった感無きにしも非ず。が、湿原の中をただ歩く、というだけで、それだけで十分である。本当に素敵であります。草花で唯一アテンションが懸かった、というか、これ か!といった按配でガイドの星さんの説明に聞き入ったのは、トリカブト。先日の石神井川散歩の折、推理小説家内田康夫さんの隠れファンであることをメモしたが、彼の小説にはトリカブトがよく出てくる。が、どんなものか実物をみたことがなかった。いや、まさに兜をかぶっている。しかも、西洋風の兜を。トリカブト殺人事件というくらいであるので、毒草ではある。ともあれ実物を見て結構満足。

尾瀬沼東端

湿原のなかをゆっくり歩き沼山峠の休憩所から3.3キロ、ほぼ1時間弱。尾瀬沼東端に着いた。休憩所・尾瀬沼ビジターセンターがある。長蔵小屋がある。この山小屋は、尾瀬の自然を林道開発の「乱暴」から守った平野さんの経営する小屋。ちなみに大江湿原から尾瀬沼に歩く途中に平野家3代のお墓のある小さな「丘」があった。国立公園の中に個人・私人のお墓がある。平野さんの功績は国レベルのことであったということだろう。ちなみに平野さんは檜枝岐の出身。

尾瀬沼
尾瀬沼 は標高1,665m。燧ヶ岳の噴火によりせき止められてできた沼。これまたお恥ずかしい話であるが、尾瀬に尾瀬沼と尾瀬ヶ原があるってことも知らなかった。尾瀬は所詮尾瀬であり、そこが端から端まで、尾瀬沼から尾瀬ヶ原まで何キロもあるような広大な地域であることなど想像もしていなかった。沼を半周、というか四分の一周し三平下の休憩所まで歩く。途中、燧ケ岳のすばらしい眺めが。燧=ひうち=火打ち、といかにも火山のイメージが強い名前の由来もあれば、雪渓が「火ばさみ」に見えるから、といった説など燧ケ岳の由来はこれも例によっていくつか。ちなみに私の田舎愛媛県の瀬戸内に広がる海のことを燧灘と呼ぶ。この燧の由来も「日映ち=夕日に映えていかにも美しい海」だから、とか、星にまつわる伝説とかこれも、いくつかの説がある。

星伝説というのは、愛媛県伊予三島市のとある神社で大山祇(おおやまづみ)の神を迎えるに際し、海が荒れた。荒ぶる海を鎮めるべくお祈り。山に赤い星のような火が現れて海を照らす。と、海の荒れがおさまった。以来その山は赤星山、海を日映灘(燧灘)と呼ぶようになったとか。燧ケ岳の名前の由来も、星さん、星の里、といった展開で新たな由来の解釈もあるかもしれない、か?

三平下
三平下で休憩。ここの休憩所に立体地形図、立体地形模型図といったほうが正確だが、東京電力がつくった立体モデルがあった。尾瀬沼と尾瀬ヶ原を取り巻く地形を、標高差を実感しながら「鳥瞰」できる。尾瀬沼から尾瀬ヶ原にゆったりと傾斜し、尾瀬沼・尾瀬ヶ原からの流れが只見川となって三条ガ滝へと落ち込んでゆく。いやはや、百聞は一見にしかず、であるよなあ。

尾瀬へのアプローチはいくつかある。そのひとつが、群馬からこの三平下に出るコース。群馬県の大清水から一之瀬(登り60分)、三平峠を越えて三平下(登り150分)に至る、これは結構のぼりがきついとのこと。

沼田街道

このルート、地図を見てはじめて分かったのだが、国道401号線の一部?国道が「尾瀬を横切っている」?会津から桧枝岐・御池まで続きていた401号線が突然「切れ」、群馬の大清水あたりから突然「現れる」?調べてみると、この国道、昔は沼田街道と呼ばれ、会津若松から群馬県の沼田市、昔風にいえば、会津と上州を結ぶ交易路。徳川時代に沼田城主真田氏の命で道が整備され、会津側からは米や酒、上州側からは油や塩・日用雑貨などが、尾瀬沼のほとりの三平下のあたりで盛んに交易されていた。
また幕末の戊辰戦争(1868年)の際に会津軍は、沼田街道を通って官軍が侵攻してくることに備え、大江湿原に防塁を築いたとのこと。会津軍は尾瀬を越え、戸倉で交戦したためこの地で戦いは行われなかったが、まかりまちがえば尾瀬に戊辰戦争戦跡地の碑が立ったかもしれない。ともあれ、尾瀬も今では観光地、癒しの地であろうが、ちょっと昔までは生活道路であったわけだ。尾瀬の評価が定まったのはいつの頃からなのだろう。 いつの頃から皆が「有難く」思うようになったのであろう。後日調べてみたい。

三平下で休憩後、今来た道を逆に戻り、大江湿原・沼山峠を越え、沼山峠駐車場に。あとはホテルに戻り、本日の予定は終了。片道一時間半強といった尾瀬の散歩ではあった。
昨日の駒止湿原のところでメモしたが、一般的に言えば、湖沼というものは、湖から沼で、沼から湿原へ、湿原から草原へと変わってゆく。今回歩いたこのルート大江湿原、尾瀬沼ではこの沼と湿原が同時にみることができた。10万年前、燧ケ岳の噴火でせき止められた川(大江川であり沼尻川)は湖となり沼となって窪地に満々と水をたたえる。湖は悠久の時間の中で周りから土砂が流入したり、植物が進入したり、川の解析作用が進み、徐々に浅くなってゆく。浅くなった湖に はヨシとかスゲとかミズゴケといった水生植物が堆積し泥炭化し湿原がつくられる。それは7000年前かはじまった。そして、悠久の時間の流れの中で、尾瀬沼は湿原となり、大江湿原は草原となっていくのであろう。

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