甲信越の最近のブログ記事

先日伊予の歩き遍路で久万高原北端の「三坂峠」から下り46番札所・浄瑠璃寺、47番札所・八坂寺を辿ったとき、フェイスブック(FB)に「三坂峠に月見草は咲いていますか」、とのコメントをN女子から頂いた。太宰治の有名なフレーズである、「富士には月見草がよく似合う」の洒落ではある。井伏鱒二に呼ばれ、御坂峠近くの天下茶屋に3ヶ月ほど滞在したときのことを書いた『富嶽百景』に載る。
で、「月見草のよく似合う」御坂峠に行きますか? とのFBコメント返しに、即答で「行きたい」と。散歩の時の四方山話でわかったことではあるが、N女子は大学院で太宰の研究をしていたとのこと。このことが今回の散歩のきっかけではある。
実のところ、前々からこの地を歩きたいとは思っていた。それは太宰でも天下茶屋でもなく、往昔、奈良・平安の頃、都と相模・武蔵を結んだ官道である御坂路に立ち塞がる旧御坂峠を越えたいと思っていたからである。
しかし、御坂峠は余りに遠く、二の足を踏んでいたのだが、FBのやりとりがあった少し前、奥多摩山行の帰りに「ホリデー快速富士山」に出合ったばかりであった。この列車を利用すれば新宿から河口湖まで乗り換え無しで行けそうである。ということで、「月見草のよく似合う」御坂峠行き計画は即実行に。 ルートを想うに、太宰の天下茶屋を見たいN女子と、単に旧御坂峠を越えたいだけの我が身の希望を叶えるルートとして、天下茶屋を始点に御坂峠に登り、尾根道を縦走し旧御坂峠から山梨県笛吹市の藤野木へと下りるコースを想う。歩きは3時間程度であり、それほど大変でもなさそうではある。
スケジュールについて、ちょっと心配なのは河口湖から天下茶屋までバスの連絡と、山梨側に下りた笛吹市のバスの連絡。チェックすると、午前8時14分新宿発の「ホリデー快速富士山(9月28日までの土曜・休日運転)」に乗れば、河口湖駅着10時26分、バスは河口湖駅を10時35分に出るという、これ以上ないような「繋ぎ」。また、山梨側も下山予定の3時台からは、1時間に1本ほど山梨駅に向かうバスがある。これであればバスの心配はなく、成り行きでなんとかなるだろうと天下茶屋・旧御坂峠への散歩に向かう。メンバーはN女子、その同僚のT氏、そして私と娘の4人である。



本日のルート;富士急・河口湖駅>天下茶屋;11時3分?標高1247m>登山スタート:11時45?標高1290m>御坂峠:12時8分?標高1450m>御坂山;12時44分?標高1594m>御坂城址東端部;13時15分>旧御坂峠;13時26分?標高1517m>峠道・文化の案内:13時59分?標高1481m>子持ち石;14時2分標高1463m>馬頭観世音:14時39分?標高1284m>行者平;14時43分?標高1264m>沢を渡る;15時01分?標高1181m>峠道・文化の森入口の標識;15時14分標高1081m>藤野木バス停;15時35分?標高933m

富士急・河口湖駅

新宿を定刻の午前8時14分に出発した「ホリデー快速富士山」は6両(?)編成。うち1両だけが指定席車輌。連休で込むかと指定券を買ったのだが、自由席が十分に空いていたので、自由席を対面にして河口湖に向かう。娘も太宰治に興味を持っているらしく、N女子も研究成果を存分に披露しながら2時間程度の列車の旅を終え定刻通り富士急・河口湖駅に。

天下茶屋;11時3分
10時35分河口湖駅を主発したバスは河口湖畔の国道137号を進み11時に「三つ峠入口」バス停に。我々以外の人たちはこのバス停で下りる。国道137号はここから御坂山地を穿つ「新御坂トンネル」を通り山梨県笛吹市に抜けるが、天下茶屋はこのバス停から県道708号に入り、くねくねした山道を上り11時3分に「天下茶屋」に到着する。
「天下茶屋」は営業していた。1階は食事処。2階は太宰治文学記念館」となっており、N女子と娘は速攻で2階に。情緒のかけらもない我が身は下で「木の実煎餅」などを見繕うが、どうも記念館は無料のようであり、それではと2階に上る。
2階には太宰が逗留した部屋が昔の姿に戻され公開されていた。

富士山と河口湖を一望できる6畳間には。当時使用した「机」や「火鉢」などが置かれ、床柱は、初代の天下茶屋のものをそのまま使用しているとのこと。「富獄百景」「斜陽」「人間失格」などの初版本、「太宰治」「斜陽館」などの写真パネルが展示されている。
天下茶屋ができたのは昭和9年(1934)の秋。木造二階建て、八畳が三間の小さな茶屋。昭和6年(1931)に御坂隧道(延長396m)を含む現在の県道708号の開通を受けてのことである。
正面に富士を臨むその景観から富士見茶屋、天下一茶屋などと呼ばれていたが、徳富蘇峰が新聞に「天下茶屋」と紹介したことがきっかけで、「天下茶屋」との名称が定着した。
天下茶屋には多くの文人が訪れたとのことだが、中でも井伏鱒二、太宰治の滞在は特に知られる。太宰治が天下茶屋に逗留するきっかけは前述の如く井伏鱒二(創業から太宰が逗留する前までの先代とのやりとりを作品「大空の鷲」に残している)。
太宰は昭和13年(1938)9月に、およそ三カ月の天下茶屋の滞在し、小説「富獄百景」を残す。その後、昭和23年(11948)に太宰治が入水自殺したのを受け、昭和28年(1953)に井伏鱒二が発起人となり太宰治文学碑を建立。 昭和42年(1967)、新御坂トンネル開通により、天下茶屋は約10年の間休業。昭和53年(1978)に営業再開した(「天下茶屋」のHPを参考にメモ)。

富士と月見草
茶屋を出て道路脇で「月見草」ってどれ?と教えを請う。道路脇の草むらに咲く黄色の花びらの草がそれである、と。散歩に先立ち、間髪置かず送られてくる太宰の資料に、少々戸惑いながら、もっとも、大学院での研究テーマが太宰であれば当然と言えば当然ではあったのだが、それはともあれ、送られてきた『富嶽百景』には、太宰はこの天下茶屋から眺める富士を、「風呂屋のペンキ画だ、芝居の書割りだ」、ということで、それほど有り難がっていない。 論文か散文しか読まず、情感のかけらもない我が身としては「富士には月見草がよく似合う」って、その表現の通り「秀麗なる富士に可憐な月見草がよく似合う」と言うことだろうと想っていたのだが、どうもちょっと違うよう。 「富士には月見草がよく似合う」って、どういうこと、とN女子に山を登りながら問う。「不変・不動なるもと(富士)」と「遷ろうもと(月見草)」の云々との説明。N女子の息があがっていたのか、こちらが「不変と遷ろう」というキーワードだけで分かったつもりになったのか、後半部の説明は聞き漏らした。

このメモをする段になり少し気になりあれこれチェックすると、『富嶽百景』に、郵便を受け取りに河口湖町に下った帰りのバスで隣り合わせになった老婆が、他の観光客の歓声もしらぬげに、富士には一瞥も与えない。その様子に太宰は共鳴するわけだが、その老婆は「おや、月見草」といって路傍の1箇所を指さす。「三七七八米の富士の山と、立派に相対峙し、みじんもゆるがず、なんと言うか、金剛力草とでも言いたいくらい、けなげにすくっと立っていたあの月見草は、よかった。「富士には月見草がよく似合う」」と描かれる。
「遷ろうもの(月見草)」ではあっても、「不変なるもの(富士)」に伍して厳然と咲くその姿をして「富士には月見草がよく似合う」と表現したのではあろう。か。太宰の心象風景とダブらせるのは考えすぎ?N女史のご高説拝聴すべし、か。

御坂隧道
天下茶屋の横に御坂山地を穿つ御坂隧道が見える。案内銘板には「富嶽百景で知られ、太宰治も歩いたであろうこの峠は、旧・国道8号線(現県道河口湖御殿場線)で、昭和5年10月着工、翌11年就労人員延べ36万人余りを動員し竣工しました。双方の入り口から出口は見えず、暗闇の中、土工達は、景気よく唄いながら、セメントを練ったそうです。全長396メートル、幅員6メートル、高さ4メートルに及ぶこの御坂隧道は、この度文化財の指定を受けました」とあった。

隧道建設の経緯
案内にあるように現在は県道河口湖御殿場線(県道708号)となっている道筋ではあるが、この道筋が県道に至る経緯は誠に面白い。昭和6年(1931)、この御坂隧道(延長396m)を穿ち、翌、昭和7年(1932)には旧・国道8号が開通した。これにより、富士吉田と甲府を結ぶバス路線も開通し、御坂山地と大菩薩嶺によって画された山梨県東部地域である「郡内地域」と西部のである「国中」地域の連絡が容易となった。
ここに至るまでの顛末はそんなに簡単ではなかったようだ。旧・国道8号は元々は大月、笹子、勝沼、甲府を結ぶ旧甲州街道筋であったが、昭和2年(1926)に県会は旧国道8号を、「大月から吉田へ通じ御坂峠を越え、黒駒、甲府に結ぶ」ルートに変更する予算案を知事が計上した。笹子峠に隧道を通す工事より、御坂峠に隧道を通すほうが工事が容易ではあったのだろう。
しかし、事はすんなり進むことはなかった。当時は政友会内閣であり、知事も政友会、県議会も政友会が多数を占めていたので予算案は楽勝で可決と思いきや、甲州街道沿いの議員の猛反発に合い頓挫。1年間着工を延期といった調整案で一旦は落ち着いた。政友会内閣への事前調整も十分に行われていなかったようである。
で、1年後予算執行の時になる。が、当時は不況が深刻化し、国も県も財政難で工事着工ができない。また、総選挙の結果、政友党から民政党に政権が移り緊縮財政のため旧・国道8号工事も延期となる。
しかし、旧・国道8号の意義を認めた当時の知事が昭和5年(1930)に「失業対策事業」として予算案を県会に提出。これに対して今度は、県会の多数を占める政友会議員は反対。その理由は知事が民政党である、というだけのこと。もともと8号線改修議案を提出したのは「政友会」知事であった、という「面子」だけが反対の理由であった、と言う。
すったもんだのプロセスはあったが、結局「失業者就労には県民を優先する」と「面子」を保つ条件付きで改修工事案は可決。工事に取り掛かり、昭和6年(1931)御坂隧道(延長396m)が貫通し、翌、昭和7年(1932)には旧・国道8号が開通した。
こうして誕生した旧・国道8号であるが、昭和27年(1952)、新道路法制定にされ、旧・国道8号が国道20号に変更されるに伴い、国道20号の道筋が笹子峠を越えるルートに変更された。昭和13年(1936)には笹子峠に笹子隧道も貫通していた。このとき、御坂峠越えの道は国道137号となった。
その後、昭和40年(1965)、県営の有料道路として着工し、2年後に完成、平成6年(1994)には無料となった「新御坂トンネル」を抜ける道筋が国道137号となり、結果、この御坂峠を抜ける道は県道708号となった。

太宰治文学碑
登山スタート。登山道のスタート地点に「富士には、月見草がよく似合ふ」と刻まれた文学碑がある。昭和28年(1953)、井伏鱒二氏などの尽力により造られた。大きな安山岩に刻まれた文字は、太宰のペン字を大きく拡大して刻まれているとのことである。
太宰は昭和10年(1935)に書いた『逆行』で第一回芥川賞候補になるも、その年に自殺未遂、昭和12年(1937)にも自殺を想う。また薬物中毒にかかり、荒廃した日々を送っていた。
天下茶菓に訪れたのは、このような破滅的生活から抜け出し新たな人生をはじめる思いを新たにする旅でもあったよう。天下茶屋に滞在中に甲府に住む女性と婚約し、翌年結婚。精神的に安定しすぐれた作品を世に出すも、昭和23年(1948)玉川上水での入水自殺で人生を終えた。この文学碑はその死を悼んで建てたものである。

登山スタート:11時45分?標高1290m
登山スタート。太宰治文学碑の脇に「旧御坂峠まで70分」との木標がある。 その先に木で整備された登山道。針葉樹と異なり広葉樹林は明るくて、いい。広葉樹と言えば、ブナとかミズナラくらいしか名前を知らないし、どれがどの木かもわからないまま、直線距離で800mほどを200m弱を上ることになる。ちょっと急な九十九折れの道を上り、木で整備された階段がなくなった斜面をトラバースすると尾根道に到着。20分程度で尾根道に到着した。

御坂峠:12時8分?標高1450m
便宜的に「御坂峠」と書いたが、ここが峠であったわけではないだろう。「御坂峠」と表記した木標もないし、甲斐へと下る道も見当たらない。思うに、今から辿る「旧御坂峠」が甲斐と駿河を繋いだ官道のあった峠であり、そこが本来の「御坂峠」であり、昭和初期、国道8号を開き御坂山塊を穿った御坂隧道ができたとき、その隧道の抜ける峠道故に、こちらを「御坂峠」とし、本来の「御坂峠」を「旧御坂峠」として区別したのだろう。「御坂峠」に立つ木標にある「旧御坂峠」の矢印に従い、尾根を西へと御坂山へと向かう。

御坂山;12時44分?標高1594m
御坂峠から直ぐ先は一旦鞍部におりるが、すぐに1472ピークに向かっての上りとなり、あとは御坂峠に向かって、ちょっとしたアップダウンを繰り返しながらも、御坂峠から直線距離800mを120mほど上ることになる。広葉樹林の気持ちのいい山道である。
御坂峠から30分程度で御坂山に到着。ここで小休止。情感乏しき我が身と異なり、T氏と娘は道端の草花の写真を撮りながらの、ゆったりとした山行である。





見晴らしポイント_13時5分_標高1530m
御坂山を後に鞍部に下り1591mピークを越え、ちょっとした岩場を過ぎると北が大きく開ける。残念ながら富士は雲海に隠れている。時刻は13時5分。見晴らしポイントのすぐ下の鞍部には送電線の鉄塔が立つ。鉄塔からは送電線が三つ峠から河口湖町方面へと続く稜線に向かって延びる。
鞍部を少し上ると木標があり、「天龍南線右92 左93」と書いてあった。鉄塔巡視路の木標である。木標からすれば、先ほど立っていた鉄塔はNO93鉄塔ということだろう。
メモの段階でチェックすると、天龍南線とは、山梨県釜無白根変電所(南アルプス市上今諏訪)から静岡県東富士変電所(静岡県小山町)までをおよそ170基の鉄塔で結ばれている。建設は昭和5年(1930)に大同電力によってなされた。大同電力は大正から昭和初期に存在した電力会社。昭和39年(1964)には国策会社日本発送電に事業を移管し解散。戦後電力再編に際し、大同発電の建設した発電所は関西・中部・北陸電力に引き継がれることになる。

新御坂隧道
送電線鉄塔を少し西に進んだ足の下、御坂山地の標高1000m地点辺りを新御坂隧道が通る。昭和40年(1965)4月着工の全長2,778mの隧道は「水との戦い」であった、とか。着工以来8月頃までは工事は順調に推移し、翌昭和41年(1966)10月には予定通り完成とも思われていた。しかし、隧道が800mほど掘り進められた頃より湧水が出始め、10月に入り1000mほど掘り進んだ地点で断層破砕帯に突き当たる。
Wikipediaによれば、断層破砕帯とは、「トンネル工事で大量出水事故の原因となる地質構造。断層は岩盤が割れてずれ動くものであるから、断層面周辺の岩盤は大きな力で破砕され、岩石の破片の間に隙間の多い状態となっている。これが断層破砕帯で、砕かれた岩石破片の隙間に大量の水を含み、また地下水の通り道となっている。掘削中のトンネルがこの場所に当たると大量の水が噴出して工事を著しく妨げる。破砕帯の幅は断層によって異なり、数十mに達する場合もある」とある。
この断層破砕帯に突き当たったことにより毎分5000リットルの出水、11月には6000リットルにも達し、工事の進捗が危ぶまれた。調査・検討の結果、断層破砕帯の辺りに幅100mに渡り、本道の下70m地帯に水抜き隧道を堀り工事を推進。水抜き隧道が完成した昭和41年(1966)5月にはおおよそ毎分1万リットル弱、1455mを掘り進んだ地点では毎分1万3千リットルもの湧水を水抜き隧道で処理しながら工事を進め昭和42年(1967)開通の運びとなった(「県営御坂有料道路建設事務所資料」より)。

御坂城址;13時15分?標高1546m
送電線鉄塔のある鞍より旧御坂峠に向かって道を上ると、なんとなく「人の手が加わった」ような地形に出合う。下部は空堀りのようにも見えるし、上部は土塁の掻き上げがおこなわれたようにも見える。
この辺り、旧御坂峠を中心に南北にそれぞれ長さ数百メートル、幅100m強に渡って御坂城が築かれていた、といったことをどこかの資料で読んでいたので、そう思い込んだだけかも分からないが、そこからピークに上り切ったところに開ける平坦地の東の斜面も、西の斜面も如何にも人工的な段差となっており、西側斜面は二重になっているようにも見えた。
御坂城の築城年代は不明だが、甲斐の武田氏によって築かれたとされる。城とは言っても、交通の要衝である御坂峠に構えた砦や狼煙台といったものではあろう。
天正10年(1582)3月、武田氏が織田勢により滅亡するも、その織田信長が天正10年(1582)6月本能寺において討ち死にすると、切り取り次第となった甲斐の地には徳川と小田原北条氏が攻め入る。そして、この御坂城は笹子峠から御坂山地の稜線より以東の「郡内」地帯を制圧した北条氏が、以西の「国中」地帯を制圧した徳川氏に備える出城となったようである。
しかし徳川と小田原北条氏は徳川が甲信両国、北条が上野国を治めることで兵火は収まり、北条氏直が家康の娘を迎えることで和議が成立し、北条勢は同年11月には帰陣することになる。和睦により甲斐を領した徳川は御坂城を廃城とする。徳川勢の備えで急ぎ普請工事された御坂城は5ヶ月ほどでその役割を終えることになる。

緩やかな上りとなる平坦部を越えると、道は旧御坂峠に向かっての下りとなる。道の両側には「人の手が加わった」ような堀が平行に下る。平坦部にあった横堀が竪堀となってそのまま峠まで下っているようにも見える。下ること5分強で旧御坂峠に到着する。峠手前の平坦部も西の斜面の堀切部が回りこみ堀切状になっていた。

旧御坂峠;13時26分?標高1517m
旧御坂峠は平坦地となっており、閉鎖された茶屋が残る。天下茶屋のスタート地点からおおよそ1時間45分程度で到着した。峠の南北は木々で遮られ見晴らしはよくない。
「みさか」を冠した峠は多い。今回の散歩のきっかけとなった愛媛の歩き遍路で辿った三坂峠、また、いつだったか信越国境・塩の道を辿ったときは、地蔵峠ルートには三坂峠があった。
御坂、三坂、神坂、見坂、美坂、深坂などと表記は様々であるが、もとは「神(かみ)の坂=みさか」とされ、古代において祭司が執り行われたところ、と言う。
「峠」は「たむけ=手向け」との説もあり、道中の安全を祈って手向け=神に供えて、いたのだろうが、これは日本で独自に造られた国字(漢字)であり、往昔、「み坂」を以て、峠を意味していたようである。

御坂路
御坂峠は、古代、奈良・平安の頃、都から甲斐国の国府を経て、相模から武蔵へと向かう菅道であり、鎌倉時代には鎌倉街道とも称された「御坂路」の「国中」と「郡内」を分ける峠である。
律令制時代、平安中期に編纂された『延喜式』には「甲斐国駅馬 水市、河口、加吉各5疋」とある。甲斐国にはこの峠を挟んで3駅が設けられた、ということである。各駅に馬5疋、ということは、当時、大路は20疋、中路は10疋、小路は5疋と規定されており、御坂路は小路という位置づけではあったのだろう。
甲斐国の国府は御坂町国衙と比定されるが、御坂路の経路や駅の所在は不詳である。古代の経路がはっきりしない理由には延暦19年(800)、貞観6年(864)、承平7年(937)に大噴火した富士山の影響も大きいのだろう。それはともあれ、駅については、水市は一宮一之蔵との説、黒駒の説がある。河口駅は河口湖畔の河口湖町河口のようだ。加吉駅は籠坂の北、山中湖岸の山中湖村山中にあったとされる。籠坂は、もとは加古坂と称し、延喜式の加吉は加古の誤り、との説もある。
河口湖からの経路は、三ッ峠の麓を西桂に出たと言う。現在の道路表示にある「御坂みち」とは大きく異なり、桂川の川幅が最も狭い箇所を求め遡ったようである。
桂川を渡ると明見地区を通り鳥居地峠に進み、そこからは内野へ下り、またまた山を越えて、山中湖畔南の加吉(古)に出たと言う。
御坂路は、中世に入って、鎌倉への道として政治・軍事上の要路となり鎌倉往還と呼ばれるも、江戸に入り甲州街道が江戸と甲州の幹線路となり、鎌倉往還としての重要性は薄れることになるが、相模・駿河・伊豆を結ぶ商品流通のを担う。加吉(古)駅から先は東海道の横走駅(御殿場)に到り、足柄峠を越えて、矢倉沢道を相模へと向かったようである。

旧御坂峠からの下り;13時51分
旧御坂峠でちょっと遅い昼食を摂り、休憩をとった後、御坂路を下ることにする。峠の南側にも御坂峠の遺構が残るようであるが、藤野木バス停まではおおよそ1時間半。15時58分藤野木バス停発のバス乗るにはちょっと時間に余裕はなさそうであり、遺構巡りはやめにした。
ここから先は行者平辺りまでは道がしっかりしているようだが、その先が沢の防砂工事の影響でなんとなくはっきりしない。ともあれ、13時51分、道標に従い御坂道を下りはじめる。道の右手が土塁の掻き上げのように感じるのは、御坂城があったとの先入観故であろうか。

峠道・文化の案内:13時59分?標高1481m
結構道幅も広くしっかり踏み固められた道を10分程度進む。この峠道は幕末に塩山の上萩原から樋口一葉の父と母が夜中に逃避行に上った道。御坂峠を越え籠坂峠から御殿場、そして横浜を経て江戸に落ち着いた、と聞く。
ほどなく道脇に「峠道・文化の案内」。峠道の森を中心に、史跡や名所が記載されていた。下りの道筋は、行者平の先で「小川沢川」を渡り、小川沢川が合わさる金川左岸を藤野木まで下っているようである。

子持ち石;14時2分標高1463m
「峠道・文化の案内」から数分。倒れた標識。「子持ち石」とある。辺りを見るに、それらしき「大岩」は見えない。どれが「子持ち石」かと周囲を見回すと、小石が積み上げられような塚がある。どうもそれが「子持ち石」のよう。塚の脇に消えかけた手書きの案内があり、安産を祈って小石を積み上げた、とあった。
「子持ち石」とは本来、「石の中に小粒の石の入っているもの。特に,?石(はつたいいし)のこと」を指す。大雑把に言って礫岩(れきがん)の俗称とも。御坂山地の地層の上部層に堆積する凝灰角礫岩などのサンプルには、なるほど石の中に小粒の石が入っていた。
よく踏み込まれたジグザグの道を更に20分程度下ると「(下方向 )藤野木 (上方向)御坂峠」の標識がある。この辺りの標高は1300m弱。木々も杉などの針葉樹が多くなってきたように思う。

馬頭観世音:14時39分?標高1284m
木標からさらに10分程度下ると大きな石碑が佇む。道側から裏に回ると「馬頭観世音」と刻まれていた。往来の運送を担っていた馬を護り、往還を旅する人々の安全を祈念したものではあろう。

行者平;14時43分?標高1264m
馬頭観世音の石碑から5分弱下ると、「行者平」の標識が立っている。辺りは杉林に囲まれた平坦地となっている。左手は開け沢筋とその向こうの尾根筋が目に入る。
沢側の岩の上に二体の石仏が佇む。岩の脇に消えかけた木標があり、「役行者が修行云々」との説明があった。



沢を渡る;15時01分?標高1181m
行者平の左に沢が見えるのだが、どこで沢を渡るのか不明である。とりあえず、成り行きで進み、沢を渡る箇所を探すことにする。ほどなく「御坂峠(50分)藤野木(50分)」の標識。藤野木バス停発が15時58分であるので、なんとか間に合いそうではある。

先に進むと左手が大きく開き、いくつもの堰堤が沢に造られている。土砂を堰止める堰堤ではあろう。沢に沿ってロープでガイドされた道を進む。途中倒木で道が塞がれているところは少々難儀したが沢脇に出る。
沢の右岸にも草で覆われた踏み分け道はみえるのだが、バスの時刻の関係で安全ルートを選び、沢を渡り林道に入る。

峠道・文化の森入口の標識;15時14分標高1081m
林道に沿って道を下る。沢を渡って15分ほどで「峠道・文化の森入口」の標識。入口がどこだかはっきりしていないが、峠道にあった同じ案内によれば、今歩いてきた林道がその入口ではあろう。
標識の傍に「小川沢土砂崩壊防止総合治山事業地」の案内。「この地区は、富士川の支流、金川の上流に位置し、標高1050~1790m地形は複雑にして急峻、地質は新第三紀御坂層群で脆弱であり山腹及び渓岸崩壊地が随所に発生し渓流内は、流下した不安定土砂礫で極度に荒廃しているので土砂礫発生源を直接抑えるため山腹の復旧、治山ダム群の設置と、土砂流等の流下を緩和させるための土砂等拡散防止林造成及び防災機能の強化を目ざす森林の造成等を、昭和62年より63年までの3年間に総合的、集中的に実行し、国道137号線及び国道沿の人家、下流一帯の果樹園等を直接保全するものである(山梨県甲府駿務事務所)」とあった。沢筋に幾つも築かれた堰堤もその一環の事業ではあろう。

「天然記念物 藤野木のオオバボダイジュ」の案内;;15時27分?標高987m
林道を先に進む。乱暴に切り開いた林道ではなく、結構落ち着いた気持ちのいい道である。15時半頃、「天然記念物 藤野木のオオバボダイジュ」の案内。「オオバボダイジュは北海道、東北地方、北関東地方、北陸地方、北信地方、飛騨地方の温帯に属し、温度のある肥大な土壌において最もよく生育し、生長はやや早い。
オオバボダイジュ(シナノキ科)は落葉高木で、通常10mから15m、胸高直径0.4mから0.5mであるが、大きいものは樹高25m、胸鷹1mに達する。葉は互生し葉柄は淡褐色を密生し葉身は左右小斉の円心系で、先はするどく尖り、縁には三角形の鋸葉がある葉の上面は深緑色、下面には淡褐色の星状毛が密生する。
花は夏に開花し長い柄をもった散房状の集散花序を腋生し、花序の柄のほとんど基部から包葉が出て、下半に沿着している。花は小さく淡黄色で香気がある。 オオバボダイジュは北海道、東北地方、中部日本の日本海側に分布されるものとされているため、本町で発見されたことによって、その分布が北関東から分かれて富士山方向に支脈があることが証明されたことになり、また御坂山地のオオバボダイジュは日本における分布の南限に当たるものとして、植物分布上きわめて貴重な存在である(笛吹市教育委員会)」とあった。

藤野木(とうのきう)バス停;15時35分?標高933m
オオバボダイジュから5分ほど歩くと民家が見え、道なりにすすむと国道137号に。藤野木バス停は峠から下ってきた道が国道に当たる脇にあった。バス程横には焼きトウモロコシの売店があり、到着の15時35分頃から58分等到着を待つ。定時より少し遅れてきた甲府行きバスのJR石和温泉駅で下車。ラッキーなことにホリデー快速山梨が3分の連絡で到着とある。大急ぎで切符を購入し一路家路へと向かう。




天目山が武田家終焉の地である、ということは知っていた。が、天目山がどこにあるのか、つい最近まで知らなかった。それがわかったのは数ヶ月前。笹子峠を越えたときのことである。雪の峠を越え、甲斐大和・駒飼の里まで下ってきたとき、山腹に「武田家終焉の地、甲斐大和」と書かれた特大看板が眼に入った。あれ?ひょっとして天目山って、このあたり?チェックする。天目山って、甲斐大和駅から日川渓谷を大菩薩方面に7キロほど上ったところにあった。こんな近いところに、天目山が!
天目山。山とはいうものの、「山」でもないようで、しいていえば峠の名前。甲州市大和町田野にある。場所はJR甲斐大和駅方面から甲州街道を東に進み、笹子峠を貫通する新笹子峠の手前を日川に沿って大菩薩方面へ北東に進んだところにある。もともとは木賊(とくさ)山と呼ばれていたが、峠近くにつくられた棲雲寺の山号が天目山と称されたので、峠も天目山と呼ばれるようになった、とか。
道も車道が走っておりアクセスは容易。日川渓谷に沿って遊歩道もある、ようだ。歴史も自然もまとめて楽しめそう。ならば、行かずばなるまい、と言うことで、笹子峠越えから日を置かず、甲斐大和、へと。




本日のルート;甲斐大和駅>日川渓谷>四郎作古戦場碑>鳥居畑古戦場跡>景徳院>竜門峡入口>土屋惣蔵片手切跡の碑>大蔵沢>天目山栖雲寺>竜門峡遊歩道>甲斐大和駅

甲斐大和駅
中央線で甲斐大和駅に。地名は甲州市大和町初鹿野。平成17年11月1日に塩山市・勝沼町・大和村が合併して甲州市となった。駅のホームは切通しの底。駅舎は切通しに架けた橋の上。駅を離れ国道20号線・甲州街道に出る。
国道を1キロほど進むと景徳院入り口。道はここから国道20号を離れ、県道218号線に。県道は日川(にっかわ)渓谷に沿って上日川峠へと続く。国道との分岐点の標高は660m程度。ゆるやかな坂道を上っていく。
道の左手を見やると、分岐点で離れた国道20号線が新笹子隧道(トンネル)に吸い込まれてゆく。新笹子トンネルが完成したのは昭和32年。33年には有料トンネルとして開通した。このトンネルができるまで、東京方面から山梨へは標高1096mの笹子峠を越えていた。県道があったわけだが、とてものこと幹線道路とは言えない峠道。ために、東京と山梨を結ぶ幹線道路は河口湖方面から御坂峠を越える国道8号線であった、よう。

日川渓谷
道は日川に近づく。日川は大菩薩から南に伸びるふたつの尾根筋に挟まれた渓谷。ひとつは、大菩薩嶺(2057m)―大菩薩峠―小金沢山(2014m)―牛奥ノ雁ガ腹摺山(1985m)―黒岳(1988m)―湯ノ沢峠―大蔵丸(1781m)―米背負峠―大谷ヶ丸(1643m)―大鹿峠―笹子雁ガ腹摺山(1357m)―笹子峠(1096m)とのびる尾根筋。もうひとつは、大菩薩嶺から上日川峠(1590m)―砥山(1607m)―下日川峠―源次郎岳(1477m)―宮宕山(1309m)とのびる尾根筋。つまりは、日川渓谷を上っていけば、大菩薩峠に進む、ということ。
この地を歩くまで、天目山と大菩薩峠はまったく結びつかなかった。それがむすびついたのは、どこだったか、日川沿いの道筋でバス停の案内を見たとき。行き先に「上日川峠」とある。上日川峠、って大菩薩峠に上るロッジ長兵衛があるところ。大菩薩を越えれば奥多摩である。勝頼が何ゆえ、天目山などという山峡の地に進むのかよくわからなかた。武田家ゆかりの地で自刃するため天目山を目指した、との説もあるが、いまひとつ納得できなかった。だが、峠を越え奥多摩・秩父へと脱出するため、天目山から大菩薩峠を目指した、と思えば結構納得。真偽のほどは知らないけれども、自分なりに一件落着、と思い込む。

四郎作(つくり)古戦場碑
国道分岐点から1キロ程度進む。日川に沿った道の脇に石碑がある。立ち寄ると、四郎作(つくり)古戦場碑。武田家の忠臣・小宮山友晴を顕彰するもの。主家存亡の危機に臨み、蟄居の命を破り勝頼のもとに馳せ参じた忠臣。跡部勝資・長坂光堅、秋山摂津守といった武田勝頼の側近、また、穴山梅雪・木曽義昌といった武田御親類衆と相容れず、讒言などもあり勝頼より疎んじられ蟄居させられていた、と。織田方に寝返った穴山梅雪や木曽義昌、一戦も交えず逃亡した武田信廉や武田信豊といった武田御親類衆の動向を見るにつけ、勝頼は己の不明を恥じた、と言う。幕末の儒学者・藤田東湖は、友晴のことを「天晴な男、武士の鑑、国史の精華」と称えている。
四郎作は織田方を迎え撃つための柵といったもの、か。織田方滝川一益の軍勢は数千。対する四郎作を守る小宮山友晴等の武田軍は数名であった。と言う。友晴は奮戦するも衆寡敵せず討死を遂げた。

鳥居畑古戦場
四郎作(つくり)古戦場碑のすぐ先、日川に架かる橋を渡ると道脇に鳥居畑古戦場の碑。天正15年(1582)3月11日、この地で武田家最後の戦いが始まった。とはいうものの、武田方は総勢50数名、そのうち16名は姫や御付の女性であり、戦闘勢力は40名強といったものであったらしい。
古戦場跡は現在、広い車道が通っている。が、昔は渓谷沿いの細路ではあったろうし、いくら軍勢が多くとも一時に大軍勢が攻め込めるわけもなく、少人数でもそれなりに防御はできるだろう。とは言うものの、ものには限度がある。戦いになるとも思えない。この地のすぐそばに勝頼自刃の地があるわけで、主家の最後をまっとうするための時間をつくる、戦いであっただけ、か、とも思える。
それにしても、武田方の人の減り方。これまた、ものには限度がある。天下の武田軍が 50名弱とは。ちょっと推移を振り返る。木曽義昌の謀反を鎮圧すべく諏訪に向かったときの軍勢は1万五千名とも言う。途中で引き返し、新府城に入城。軍議の末、大月の小山田氏の居城・岩殿城への撤退決定。3月3日、新府城を打ち棄て撤退するときには700名に。武田信虎の弟・勝沼友信の娘である理慶尼が庵を構える勝沼の大善寺に一泊し、岩殿城に向かうべく笹子峠に。このときには200名。小山田氏の裏切り。笹子越えは諦め、3月10日、天目山を目指し日川 渓谷に入る。
で、3月11日、日川渓谷田野の地にある鳥居畑の戦いのときには50名弱となっていた。なんだか、なあ。
武田家武将の勝頼離反の理由は良く知らない。長篠の合戦で譜代の重臣を多数失った。ために、重鎮・纏め役がいなくなったのだろう、か。徳川勢の高天神城攻撃に際し、援軍送らず。勝頼頼むに足らず、と威信大いに失墜。これを契機に一門や重臣の造反がはじまった、とも。防御拠点として縄張りを始めた韮崎の新府城築城の是非、また金銭負担に穴山梅雪など家臣の間に不協和音が高まっていた、ことも一因、だろう、か。また、近習・側近の重用も家臣間での諍いの火種でもあった、などなど遠因は想像できるのだが、それにしても、ものには限度がある。なんだか、なあ。

景徳院
鳥居畑古戦場を離れ先に進む。ほどなく景徳院。国道20号線から1.5キロ程度。ここは武田勝頼自刃の地。四郎柵でメモした小宮山友春の弟で僧侶となっていた拈橋が、勝頼と一門をとむらう。で、天正16年(1588年)、家康がこの地に田野寺、現在の景徳院を建立。拈橋をその住持とした。
山門は安永8年(1779年)建立。本堂前に旗堅松。武田家累代の重宝「御旗」を松の根元に立て、勝頼の嫡子「楯無の鎧」を着させて、「かんこうの礼(元服の儀式)」を執り行ったという伝説がある。甲将殿には勝頼、夫人、信勝の影像を祀る。甲将殿の裏に勝頼、夫人、信勝の墓。没200年を期し、安永4年(1775年)に建てられた。
甲将殿前に3名の生害石。自害したと言われる平らな大きい石が残る。勝頼37歳、嫡男信勝16歳、夫人19歳。勝頼の辞世の句;「朧なる月もほのかに雲かすみ晴れて行衛(ゆくゑ)の西の山の端」。信勝は鳥居畑で武運つたなく討ち死に。夫人は小田原北条の出。小田原に戻れとの勝頼の言にも関わらず、勝頼と運命を共にした。
境内には首洗い池が残る、と言う。勝頼の首を洗った池、と。なんとなく行く気になれず、パス。境内を出て、道路に面した駐車場に。駐車場の奥、日川の崖上に姫ケ淵の案内。勝頼の正室・北条夫人の侍女16人が身を投げた淵である、と。

竜門峡入口
寺を離れ天目山栖雲寺を目指す。おおよそ4キロ強といた行程。1キロほど進むと道脇に大和村福祉センター。温泉施設があり、一般の人も歓迎との案内。そこを越えると橋があり、竜門峡入口の案内。橋を渡ると日川渓谷に沿った遊歩道がある。竜門峡散歩は帰り道のお楽しみとして車道を先に進む。

土屋惣蔵片手切跡の碑
ほどなく道脇に土屋惣蔵片手切跡の碑。千人切りの碑、とも。碑の脇に大正時代の写真。いまでこそ、立派な車道ではあるが、大正の頃を狭い崖路。往時は人ひとり通れるかどうか、といった崖路である。この地で武田の家臣・土屋惣蔵は川上から攻めよせる織田軍に対し、片手で藤蔓につかまりながら奮戦。その流された血により川は三日三晩、朱に染まった。「鮮血流れて止まず河水赤きこと三日」との記述が残る。ために川を「三日血川(みっかち)」と呼ぶようになった。後 に、三日(みっか)川となり、現在は「日川(にっかわ・ひかわ)」となった、とか。

大蔵沢
土屋惣蔵片手切跡の碑から道脇のお蕎麦屋などを見やりながら500m弱も進むと大蔵沢。どうもこのあたりで織田方が勝頼主従の行く手を阻んだらしい。一説には、武田を裏切った小山田一党が、勝手知ったるこの地へと織田軍を先導した、とも。
武田を裏切った小山田信茂は、笹子峠や大鹿峠など大菩薩から大月方面へと通じる主な峠を抑え勝頼の進路を阻む。ために、勝頼主従は、田野から日川渓谷を遡り武田家ゆかりの天目山栖雲寺(せいうんじ)に入る。そこから大菩薩峠を越えて多摩秩父方面へ。その後は真田一門を頼って上州に抜けようとした、とも言われる。
いっぽうの織田軍は、小山田軍の先導のもと天目山方面へ進出。大月・小菅方面から湯ノ沢峠や米背負峠(湯ノ沢峠と大谷ケ丸)などの峠を越えて日川の支流・大蔵沢一帯へと進出。天目山へ向かう勝頼一行の逃避行を阻んだ、と。また、勝沼深沢口から栖雲寺を経て大蔵沢方面に進出していたとの説もある。
僅か数十人の落ち武者一向に対し、少々大仰な気もするのだが、ともあれ行く手を阻まれた勝頼一行は日川を戻る。が、川下から攻め上ってきた織田方の滝川一益の軍勢により挟み撃ち。で、鳥居畑で最後の合戦となる。

天目山栖雲寺
大蔵沢を越え、ほどなく橋を渡ると日川渓谷レジャーセンター。バーべキュー、釣堀、キャンピング、バンガローなどアウトオアを楽しむ家族の姿を見やる。先に進むとヘアピンカーブの急坂。上りきったところが天目山トンネル。トンネルを抜けると「やまとふれあいやすらぎセンター」という温泉施設がある。その先に沢。焼山沢。沢を上ると湯の沢峠に進む。沢にかかる橋を渡りしばらく歩くと木賊(とくさ)の集落に。景徳院からおよそ4キロ。天目山栖雲寺はこの集落にある。
天目山栖雲寺。武田氏の招聘により業海本浄が開く。寺号の天目山は、業海本浄が修行した中国の杭州天目山に地形が似ていたから。庫裏は文禄元年(1592年)建立。解体修理が終わり、新しくなっている。
境 内には武田信満の墓と伝えられる宝篋印塔がある。応永23年(1416)上杉氏憲(禅秀)の乱に甲斐守武田信満(禅秀の舅))は氏憲に与し都留郡で戦う。が、武運つたなく、応永24 年(1417年)2月6日天目山にて自害した。宝篋印塔は高さ1m。周囲に家臣の塔が囲んでいる。
このとき、武田は一度滅んだと言われる。ということは、この天目山、勝頼も含めると二度滅んだとも。それと、いろんなところで、勝頼が天目山を目指したのは、先祖の武田信満が自害した、ここ天目山を死地と定めて登ってきた、と書かれている。が、先にメモしたように、どうもそういう気はしない。根拠はないのだけど、この日川をずっと上って行けば大菩薩峠に出るわけで、大菩薩峠から小菅へと歩いたわが身とすれば、なんとなく、天目山への遡行は脱出行であったように思える。なんとなく、である。
庫裏の右手裏山は巨大な花崗岩の庭園。2ヘクタールある、とか。確かになかなか迫力のある巨石が山腹に見える。磨崖仏もある、とか。禅僧が修行したとのことである。
天目山はこの栖雲寺の寺号から、とメモした。それはそうなのだが、栖雲寺の近くに木賊山とか大天嶽とか、大天狗山と呼ばれたりする山がある。その山も天目山 と呼ばれるようだ。寺が先か、山が先か、普通に考えれば寺が先なのだろから、やはり天目山ってお寺、から、と思い込む。

竜門峡遊歩道
寺を離れ県道に戻る。道を上り、そのまま上日川峠まで進みたいとは思うのだが、距離をチェックすると13キロほどもある。即中止。予定通り、竜門峡へと下ることに。このあたり、天目地区から田野地区にかけての日川渓谷を竜門峡と呼ぶ。看板でチェックした、「竜門峡遊歩道天目地区入口」を探す。天目山栖雲寺を少し戻ったあたりの道脇に案内がある。
急な下りを一気に下りる。栖雲寺のあたりの標高が1030mほど。川沿いは960mであるので、比高差70m程度。渓谷沿いに遊歩道、と言うより、山道と言ったほうがいい、かも。あたりは花崗岩の巨石がゴロゴロ。栖雲寺の巨石も、このあたりの巨石群を見れば、あって当たり前、といった雰囲気。
渓谷に蜘蛛淵。花崗岩の谷に多い、巨石で埋められた淵といったもの。道を進むと「木賊の石割けやき」。転げ落ちてきた花崗閃緑岩が二つに割れ、その間からけやきが伸びている。その先にで「平戸の石門」をくぐる。これも転げ落ちてきた巨大礫であろう。
休憩舎のあたりで日川を対岸に渡り、ゆるやかな傾斜となった遊歩道を進む。秋の紅葉はさぞ美しいであろうな、などと思いながら進むと、今度は竹林が現れる。 天鼓林、炭焼窯跡、そして東電取水口などを経て竜門峡入口に戻る。2キロ強。標高810m程度であるので、比高差200mほど下ってきた。あとは上ってきた同じ道を甲斐大和駅まで戻り、本日の散歩終了。    
初日は多摩湖畔の国道を辿り、丹波山村の中心丹波地区で宿泊。 二日目は柳沢峠へと向うのだが、途中、青梅街道・国道411号の右岸に、明治の頃、柳沢峠から当時の陸の孤島であった丹波山村へと開削され、当時は「新青梅街道」と称された道筋が残る、と言う。現在は廃道となっており、手元に正確な地図もなく、また本日はゴールの裂石から東京に戻るため、バスに乗り遅れることのないよう、状況を見ながらの廃道へのアプローチ。首尾良くいけば廃道を辿ることができるだろうか、などとの想いを抱き散歩に出かける。

参考図書; 『奥多摩歴史物語;安藤精一(百水社)』『奥多摩風土記:大館勇吉(有峰書店新社) 』『多摩の山と水(下);高橋源一郎(八潮書房) 』『青梅街道:中西慶爾(木耳社) 』『多摩源流を行く;瓜生卓造(東京書籍)』『奥多摩;宮内敏雄(白水社)』



本日のルート;丹波山村丹波地区>奥秋>余慶橋>羽根戸トンネル>三条橋>「東京水道水源林」の碑>黒川谷>大常木トンネル>一之瀬高橋トンネル>藤尾橋>落合>御屋敷>湧水>林道泉水横手山線入口>大日影沢>高芝大橋>裂石

丹波山村丹波地区;午前7時20分_標高664m
山梨県北都留郡丹波山村。北都留郡は明治の頃は丹波山村、小菅村、現在の大月市、上野原市の一部を加えた地域であったが、現在は丹波山村と小菅村で構成される。現在の道路網からみればあり得ない地域の集まりではあるが、昔の道筋である峠道から見直すと、小菅村から松姫峠を超えての大月、鶴峠を超えての上野原と、往昔の文化圏が垣間見える。これらの地域が同じ地域共同体であっても違和感は何も無い。
で、丹波山村であるが、その面積は広く101?。人口600強。我が家のある杉並区は面積34?、人口55.3万であるから、杉並区の3倍の面積に1000分の一の人が住む。それも当然で、雲取山や大菩薩嶺といった険しい山々に囲まれ、全体の97%が山林であり、集落は川沿いの河岸段丘や山肌の傾斜地に限られる。 宿泊した丹波山村の中心地である丹波地区、昨日国道より見下ろした高尾、押垣外、保之瀬集落などは、深い谷を刻む丹波川に残った河岸段丘に開けた集落である。「丹波」の語源は諸説あるも、「山間の奥まったところにある平地」の説もある。深い渓谷に開けた平地の有難さをもってその地名としたのだろうか。 産業はかつて薪炭、養蚕、コンニャク景気もあったようだが今は昔。清流を利用した山葵の栽培は栽培法が難しく不安定。観光も交通の便が良くなり過ぎて日帰り客が多く昔ほど民宿に止まる人もいなくなったようだ。
林業も丹波山村の山林の70%が東京都の水源涵養林となっているため伐採は厳禁、残りの三分の一の私有林は戦中・戦後の薪炭と木材景気で伐り尽くされている、とのことである。因みに丹波山村の山林の三分の二が東京都の水源涵養林のためでもあろうか、丹波山村の下水道普及率は96%ほどで、山梨県で一番の普及率なっている、と。

○旧青梅街道
国道411号は多摩川に沿って西に向かうが、その原型ができたのは明治の頃。明治20年(1887)に丹波山村で開通式が行われている。それ以前はこの渓谷を遡上し甲斐に向かう街道は無かったようである。当時の青梅街道は中世の甲州街道と同じ道筋を進んだようであり、その道筋は、小菅村から「牛の寝通り」の尾根道を辿り大菩薩嶺に進むか、小菅川の源流部を遡上し尾根道上がりに大菩薩嶺を経て甲斐に出る、または、この丹波山村からマリコ沢を遡上し尾根道を大菩薩嶺を越えて甲斐に向かったとのこと。

奥秋
丹波地区の道を下組、中組、上組と西に進む。道祖神をみやりながら国道を進む。この国道も車が通れるようになったのは昭和35年(1960)というから、つい最近のことである。
国道を進むと奥秋(おくあき)地区。奥秋(おくあき)って、好い響きの地名。奥多摩には秋切といった地名がある。炭焼きも焼畑も秋になると仕事を切り上げることに由来する地名とのこと。奥秋も漢文の「返り点」でもあれば「秋に仕事を置く>切り上げる」のニュアンスは感じるのだが、実際はどのような由来があるのだろう。 国道の上に子の神社。大己貴命(大黒主命)を祀る。その鳥居は国道下の急坂の途中にある。国道の開削によって切り離されたのであろう。 また、奥秋地区の国道下には「おいらん堂」が残る、と言う。武田家滅亡のとき、黒川金山の秘密を守るため淵に沈めた遊女が流れ着いたのがこの奥秋の地。不憫に思った村民がお堂を建て遊女の霊を安んじた、と。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)


余慶橋;午前7時57分_標高693m 
奥秋を越え、「余慶橋」を渡る。手前には昭和36年(1961)架けられた旧橋も残る。新しく架けられた橋は曲線箱桁の橋に架けかえられている。丹波川に沿って右岸を進むと右手から火打石谷と小常木谷が合わさった水が合流する。この辺りから丹波渓谷がはじまる。断崖絶壁が国道に沿って続く。道脇に「ナメトロ」の案内。「川幅が狭く渓流が両岸の岩肌をなめるように流れるため」とあった。

羽根戸トンネル;午前8時_標高722m
丹波川右岸を進み丹波川に架かる「新羽根戸橋」を左岸に渡るとすぐに「羽根戸トンネル」に入る。左岸を進み、「ふなこし橋」で右岸に渡り、すぐ「大常木橋」で再び左岸にと、トンネルと橋がめまぐるしく続く。もとは「新羽根戸橋」の左手にある「羽根戸橋」から丹波川左岸を通っていた国道が難路であったのか、土砂崩れが多かったのかその理由は不詳だが改修工事が実施されたのだろう。トンネルの出口がすぐに橋につながるような難所を建設技術で乗り越えている。「羽根戸トンネル」の竣工は平成14年(2002年)、新羽根戸橋の竣工は平成13年(2001年)。現在使っている、カシミール3Dに同梱されていた国土地理院の2万5000分の一の地図の道筋にはないトンネルや橋が造られていた。

三条橋;午前8時35分_標高766m
丹波川の左岸を進み「丹波山トンネル(竣工平成12年(2000))」を抜けると、崖から湧水が湧いている。水を汲みに来ていた方は定期的にここまで水を汲みに来ている、と。
丹波川渓谷の景観を見やりながら街道を進むと泉水谷が丹波川に注ぐ地点に。泉水谷と小室川の水が合わさり、更に黒川谷の水が合わさる地点でもあるため「三重河原」とも称される。黒川谷に近づいた故か、信玄屋敷とか牛金淵といった黒川金山ゆかりの地名も残る、とか。
ここからは明治に柳沢峠を越えて丹波山へと繋いだ当時の「新青梅街道」,今は人も通わぬの廃道を辿るべく、三条橋を渡り丹波川の右岸に出る。

泉水谷林道
三条橋を渡ると「泉水谷林道」のゲート。三条新橋広場と呼ばれているようである。この林道は泉水谷に沿って上り、大黒茂谷の沢を越え牛首沢に。林道はそこからV字に折り返し、「泉水中段線」という林道名で黒川山(鶏冠山)方面の横手山峠近くの三本木峠を経て青梅街道・国道411号に出る。この林道の全ルートは「泉水横手山林道」と呼ばれているようである。
『多摩源流を行く;瓜生卓造(東京書籍)』によれば、この泉水谷林道は「日本深山」と言う民間企業によって開かれたとある。安井誠一郎戸都知事の頃である。本来この地域は東京都の水源涵養林であり伐採はできないはずではあるのだが、高度成長時代の時勢もあってか伐採が許可された、とか。当初は昨日の散歩でメモした「後山林道」を開き伐採を開始したがうまくいかず、この泉水谷に移り伐採をおこなった。日本深山の活動は昭和28年(1953)から昭和34、5(1959,1960)年まで続いたとのことである。

「東京水道水源林」の碑
三条新橋広場から明治の青梅街道の廃道を求めて黒川谷への道を探す。と、三条新橋広場の脇に「東京水道水源林」の碑があった。東京都水道水源林とは、多摩川水源域の安定した河川流量の確保と小河内貯水池(奥多摩湖)の保全を図るため東京都水道局が管理している多摩川上流の森林のこと。その範囲は東京都の奥多摩町、山梨県下の丹波山村、小菅村、甲州市までカバーしている。各市町村に占める水源林の占める割合を地図で見ると、大雑把ではあるが、奥多摩町は北半分、埼玉県との境となる長沢背稜までが水源林、小菅村は村域の西半分と小河内村との境を接する南域の一部、丹波山村は青梅街道の南北の村域を除いたおおよそ7割、甲州市は東は丹波山村との境、北は埼玉県境の尾根道、西は笠取山から柳沢峠へと続く尾根道に囲まれた一帯が東京都の水源林となっている。
東京都の面積の10%に相当するまでの水源林となるまでは長い歴史があるようだ。好奇心からちょっとチェック。江戸時代の奥多摩の山々には多くの幕府直轄の「お止め山」があった。その数、34箇所、2000町歩(2000ヘクタール)にもなった、とか。森林は厳しく管理され、村民には火災防止の義務などを課せされる代わりとして、入会権が認められ茅や薪といったに日常資材の採取、また「サス畑(焼畑)」も認められ(収穫の一部は上納)、定期的に人の手が入り山が荒れることはなかったようだ。
その状況は明治の御維新で一変。「お止め山」は維新後に皇室の御料林や県有林となる。それにともない、村の入会権は認められなくなり、薪も手に入らなくなった村は一部国から山林を買い取り村有林とする必要にも迫られた。幕府の厳しい管理下からはずれ、また、入会地として日常的に人の手が入っていた山林に人が入らなくなるにつれ、山林の荒廃が進む。明治維新から明治30年(1897)にかけての状況である。
東京府の水源地である多摩川最上流部の荒廃に危惧を覚えた東京府知事千家氏は明治34年(1901)、本多静六氏を水源林に派遣。川の汚濁、山津波、盗伐、濫伐、放火の状況を把握。笠取山も丹波山、小菅も日原も森林は荒廃し、禿げ山だらけとなっていた。その対策として、宮内省と交渉し丹波山、小菅両村御料林の譲渡を受け、同時に日原川流域の民有地を保安林に編入。これで日原、丹波山、小菅の核心部は東京府の水源林として確保した。
しかし状況は深刻で植林もできない状態。まずは治山からはじめる必要があったようである。『多摩源流を行く;瓜生卓造(東京書籍)』によれば、泉水谷を遡上した山中に学校尾根、学校向尾根といった尾根があるが、それは明治末に50組の炭焼きが岐阜から入植。泉水谷小屋はその子弟の学校跡。尾根の名前はその名残り。
炭焼きが入った理由は荒廃した森林を涵養しようにもその予算がなく、当初は粗悪天然林を伐採し売却益を人工植林の費用にと裂石から丸川峠の索道を曳くなどの手当てをするも買い手がなく断念。木炭にして売却するために炭焼きが入植。水害で大黒茂谷の平坦地に移るも結局は炭焼き事業も断念。地元の人でさえ炭焼きに泉水谷にも大黒茂谷にも入っていない、そんな過酷なところでの炭焼きであったようである。
それはともあれ、明治41年(1908)には東京市民の水源管理は東京市が管理すべきと当時の東京市長尾崎行雄は自ら現地調査し東京市による水源地経営案を作成し、明治43年(1910)市議会で決議を受け東京府より水源林の譲渡を受ける。明治45年(1912)には最後の懸案事項である山梨県との交渉も解決。多摩川源流である水干のある笠取山南面は山梨県林として下賜されており、その地域を買収すべく困難な交渉のすえ譲渡を受けることができた。
その後も水源林買収が進む。大正年間には奥多摩町の公私有林、昭和8年(1933)には日原川上流の私有林、戦後の昭和25年(1950)に奥多摩町古里の私有林、ダム完成後には湖岸の私有林などを買収し現在に至る。

黒川谷;午前9時15分_標高895m_
三条新橋広場から黒川谷方向には上下2段の道がある。下の道はあまりに川床に近いため、上段の割と広い道を選ぶ。先に進むと丹波川との比高差が大きくなるとともに、最初の頃の砂利道とは異なり落石などで道が荒れてくる。丹波川から黒川の谷筋に入ったとは思うのだけれど、谷ははるか下なのか川筋も何も見えない。本当にこの道でよかったのか、少々不安になりながらもガレ場を越えなどを越えて泉水谷の入口から600mほどのところで突然広場が現れる。そしてその先に二段の滝が見える。滝脇にはコンクリート製の橋桁が残る。明治の頃開かれた道に架けられた橋の名残であろう。

橋桁手前にある木橋を渡り黒川谷左岸に。ここから左に黒川谷を上れば黒川金山跡。一方、廃道となった新青梅街道・黒川道は右に進む。進むはずなのだが、右に進む道や踏み跡さえもない。谷に沿って下る崖面は崩れており、立ち入り禁止のサインがある。もっと上を高巻きしているのだろうか、などとあちこち目安を探すが結局見つからず、正確な地図も無いし、それほど廃道萌えでもなさそうな御老公には申し訳ないし、それよりなにより本日のゴールの裂石からのバスの便が気になり、ここで撤退することにした。
後日チェックすると、木橋を渡り切ったあたりから南の100mほど崖全体が崩落しているようであり、立ち入禁止とあった谷筋を50mほど下り、崩落したガレ場の斜面を這い上がれば道筋が見つかるとのことであった。ちょっと残念。

○黒川通り
結局は断念したが、「青梅街道・黒川通り」についてまとめておく:明治6年(1873)、藤村紫郎が山梨県令に。県内の殖産を計るためは道路整備が重要と考え「甲州街道」「駿州往還(甲府から静岡;国道52号)」「駿信往還(韮崎から鰍沢;)などを整備する。この黒川通りもその一環である。この黒川通りが新青梅街道とも呼ばれた理由は、従来の氷川から小菅村、または丹波山村から大菩薩嶺を通って山梨と結ばれていた青梅街道に変えて、新たに柳沢峠を越える道を開いたことによる。構想は塩山から柳沢峠を越し、一之瀬、高橋に至り、丹波山から小河内、氷川、青梅へと通じる大道を開き、山梨と首都圏を結ぼうというもの。
翌7年(1874)、道路開通告示。街道道筋提示、工事は8年(1875)から開始。財ある者は金、財なきものは労力を提供せよ、と。多数の囚人も動員された。全域に渡り秩父古生層で硬く急峻な山を削り、岩を穿つ。工具は玄能、石ノミ、鍬、万能。土砂や岩はモッコと天秤。岩道はすべて手掘り。爆薬も硝酸類だけといった貧弱な状態で工事は困難を極めるも、5年ののちに開通。明治13年(1880)、落合で竣工式が行われ、明治20年(1887)には丹波山村で開通式が行われた(『多摩源流を行く;瓜生卓造(東京書籍)』。
山梨から丹波山村までは道が開かれ馬車が走れるようになった。しかし神奈川県(明治の頃、奥多摩は小河内村を除き韮山県をへて神奈川県に属した)も東京都も、この大道建設には積極的ではなかった。丹波山から青梅までの10里近い険阻な道を開くのは大変なことであったのだろう。
その後、藤村の甲府と首都圏を結ぶ大道が浮上したのは、昭和10年(1934)代に入り小河内ダム計画が進んだことによる。ダム建設にともなう従来の道路の付け替え工事を上流の柳沢峠まで伸ばすことになり、工事費は東京府の予算で実行される。昭和20年(1945)までに氷川から船越橋までが完成。戦中は工事中断するも、戦後昭和23年(1948)、ダム工事再開とともに昭和30年(1955)には三重河原まで開通、34年(1959)には藤尾まで開通した。このときの道筋にはトンネルはひとつもなかった、と言う。思うだに結構怖い断崖絶壁を進む道ではあったのだろう。
新たに建設された青梅街道のルートのうち、明治に開かれた黒川道のうち、「ふなこし(船越橋)」から三条河原をへて藤尾に至る丹波川右岸の道は計画から外された。これが今回撤退した廃道区間である。丹波川や柳沢川の深い谷を高巻きする川右岸の高地斜面を避け、丹波山川・柳沢川 左岸の崖面に沿って道を通した。建設技術の進歩がそれを可能にしていたのだろう。因みに新青梅街道の廃道は今回アプローチした黒川谷より東の「ふなこし橋:船越橋」辺りから残っているとのことである。
ついでのことだが、柳沢峠からの道を開く建議は青梅の小沢安右衛門との説もある。貧困から身を起こし、一代で巨商、仙台から長崎までを商圏に活躍。しかし慶応2年(1866)瀬戸内で1万2千両の荷を失い。青梅に戻り豆腐業に。明治元年(1868)、「甲斐国黒川通り新道切開願」を江川太郎左衛門に提出するも、明治の混乱期で停滞。明治8年(1874)、になって山梨県令藤村四郎から新道切開の命。9年着工。11年(1878)の完工。丹波山村奥秋から柳沢峠まで3里半。柳沢峠から甲府まで4里半。23カ所に橋を架けその総工費13万円。小川は380円を寄付した、と言う。

○黒川金山跡
黒川通りの廃道を辿ることはあきらめて元の三条橋まで引き返す。ところで黒川谷を上へと遡れば、大菩薩嶺の北の鶏冠山(黒川山;標高1716m)にある黒川金山跡に続く道があるとのこと。おおよそ2時間弱の歩き、とか。
甲斐の武田家の軍資金を支えたとされる黒川金山であるが、現在残る廃坑跡辺りの一つの鉱区に集中していたわけではないようである。その範囲は広く、黒川山を取り囲んで、南は泉水谷、北と東は一之瀬川、柳沢川、西は横手山から六本木峠に囲まれた楕円の地域一帯に広がっていた、と。現在残る廃坑跡はこの黒川中で最も新しい採掘場のあったところ、とのこと。採掘場もあちこちに点在し、「黒川千軒」と称される黒川金山の集落も黒川山のあちこちに点在していた、と。
また、黒川金山ははじめからこの黒川山で採掘が開始されたわけでもないようだ。『多摩源流を行く;瓜生卓造(東京書籍)』によれば、最初に候補地は一之瀬地区。応永元年(1394)。武田の密命で数名の家臣が金の探索のため一之瀬川を上り詰め、将監峠、牛王院山に金の鉱脈発見。しかし採掘量が少なく。次に大常木谷を探るが空振り。大常木谷に残る「屋敷の窪」「御屋敷沢」などの地名は試掘の名残、とか。
次いで大常木谷を下り、一之瀬川と柳沢川との合流点に。柳沢川の上流と高橋川一体も試掘し藤尾橋の下あたりに砂金をあげた跡がある、と言う。一方、一之瀬川と柳沢川の合流点から下流に向かった一隊は黒川谷との合流点で川床が光るの見つけ、黒川谷を遡り黒川金山を発見したとのことである。
黒川金山は享禄年間(1528?1532)から信玄の全盛期を経て、天正10年(1582)の武田家の滅亡まで、60年に渡って武田の軍資金を支える。額は24万両とも80万両とも。また、黒川金山は黄金の山とも貧鉱とも諸説ある。結果的には明治には貧鉱のため水源林として買収された。

大常木トンネル_午前10時16分_標高857m
黒川谷から三条橋に国道411号に。左手の小丘に尾崎行雄の記念碑。「尾崎行雄水源踏査記念碑」を見やり先に進む。切り立った断崖、川どこまで100mほどもあろうかと思える丹波渓谷の景観を楽しみながら国道を進むと「大常木トンネル」が現れる。トンネル左手の渓谷沿いには旧道が見えるのだが、旧道への道はトンネル入口の構造物で完全にブロックされている。
大常木トンネルはその手前のアプローチも含め「大常木バイバス」を呼ばれているが、全長490mのバイパスのうちトンネル部分が355m、それ以外のバイパス道路は旧道を改修したもの。バイパスの開通は平成23年(2011)11月。つい最近のことである。バイパスを建設は平成18年(2006)7月に発生した大規模な土砂崩れによって国道が45日間も通行止めになったことを踏まえて計画された、とのことである。
大常木トンネル内を歩き、出口から旧道を確認するに、こちらはトンネルの東口以上に完全にブロックされていた。川沿いの旧道歩きはあきらめ先に進む。

一之瀬高橋トンネル_午前10時24分_標高861m
大常木トンネルを抜けるとすぐに丹波川に架かる橋とトンネルが見える。旧道は右手の川沿いに進んでいる。こちらの旧道はフェンスで遮られるも、入口は開けることができそうだが、立ち入り禁止のサインもあり、こちらも旧道歩きを断念した。
大常木バイパスと同じ平成23年(2011)11月に開通した一之瀬高橋バイパスを進む。一之瀬高橋バイパスは全長は460m。丹波川に架かる岩岳橋と一之瀬高橋トンネル、それとトンネルを抜けるとすぐに柳沢川に架けられた橋からなる。柳沢川に架けられた橋はダブルヘアピンカーブの旧道の一個目のヘアピン部分につながり、ヘアピンは旧道にくらべひとつ減っている。
トンネルを抜けヘアピンカーブの坂を上りながら旧道方面を見る。柳沢川右岸、トンネルがしたをくぐる崖面は全体が落石ネットで覆われている。平成18年(2006)7月に発生した大規模な土砂崩れの名残ではないかと思う。対岸から川を越えて街道を岩で埋め尽くしたのであろう、か。
また、一之瀬高橋トンネルの真上山塊を見る。今回辿れなかった「新青梅街道」がトンネル真上辺りを通っているはずである。次回を期す。
○一之瀬川
一之瀬高橋バイパスを通らないで旧道を進むと北から一之瀬川が合流し、一之瀬川に架かる一之瀬橋が丹波山村と甲州市の境ともなっている。この一之瀬川の源頭部は多摩川の源流点となっている。「水干」と称される。一之瀬川林道を進み、黒川金山のところでメモした大常木谷を越え、一之瀬川、その上流の水干沢を詰め切った笠取山を少し南に下ったところにある。大常木谷の上流には「竜バミ谷」といった沢遡上にはフックの掛かる沢も。多摩川源流部の水干ともども一度訪れてみたいところである。
因みに一之瀬、二之瀬、三之瀬といった一之瀬高橋の集落はその交易は秩父が主であった、とか。将監峠を越えて甲州からは甲斐絹、麻布、紙。秩父側からは銘仙、相生織物、油、日用雑貨が運ばれた。

○おいらん淵
上で「一之瀬川」が合流するとメモしたが、一之瀬川の源頭部が多摩川の源流、ということは、一之瀬川が本流であり、合流するというのは適切ではないかもしれない。それはともあれ、一之瀬川が丹波川とその名を変える一之瀬橋より上流は柳沢川と呼ばれる。その柳沢川が、本流である一之瀬川・丹波川に合流する辺りに「おいらん淵」がある、という。
旧道沿いであり、訪ねることはできなかったのだが、この「おいらん淵」は武田家滅亡の時、坑道を埋め廃坑とするに際し、遊女の処置に困り、この渓上の宴台を設け、滝見の宴半ばで藤蔓を切り落し滝壺に葬る。55名とも、五十五人淵とも呼ばれる。
異説もある。皆殺しになることを知った女郎は、秩父の大滝を目指して逃げる途中、今の藤尾橋の下でつかまって谷に放り込まれた、と。断崖絶壁、道なき渓谷で宴を催すとの伝説よりも、ちょっとリアリティを感じる話ではある。

藤尾橋;午前11時_標高1013m
国道を進むと吊り橋が見える。おいらん云々は伝説としておくとしても、この橋は当初の計画で辿ろうとした明治の新青梅街道が柳沢川を右岸に渡る地点。橋には立ち入り禁止の標識があったのだが、いにしえの青梅街道の一端に触れるべく、吊り橋を渡り少し道を辿る。適当なところまで歩き折り返したが。結構きちんとした道がこの辺りには残っていた。今では廃道となった船越橋から、黒川谷出合いを経て、この藤尾橋までいつの日か歩いてみたい。「立ち入り禁止」は気になりつつも。

落合;午後12時10分_標高1148m
先に進むと左から高橋川が合わさる。地図で川筋を見ると高橋の地名があり、そこから一之瀬地区とは犬切峠で結ばれている。この辺りを一之瀬高橋と称する所以であろう、か。明治5年(1872)学制が発布されたとき、明治15年(1882)に分校が標高1,300mの犬切峠にあったという。高橋と一之瀬の中間である、という理由だろうか。単なる妄想。根拠なし。その分校も明治13年(1880)に新青梅街道が開かれると、落合と一之瀬に分校ができた。
高橋川が丹波川に合流する少し西に集落。丹波山村から歩き始め、はじめての集落らしき集落である。街道脇に東京都水道局の水源管理事務所があった。この落合の集落は明治に新青梅街道が開かれたときにできたもの。その交通の便の故か一之瀬や高橋から人が下ってできた集落である。
この落合辺りから先、予想では険阻なる山峡の地と想像していたのだが、雰囲気としては「高原」の趣き。覚悟していた急勾配もなく、緩やかに峠へとアプローチしていく道筋である。落合から柳沢峠まで、おおよそ5キロを330上るだけである。

御屋敷;午後12時32分_標高1223m
国道を進むと「御屋敷」との地名。柳沢刑部守の屋敷があったのがその地名の由来とのことだが、刑部は伝説の人物で実在のほど定かならず。刑部平、馬場沢、的場、刑部岩などの地名も残るが、今回越える柳沢峠も、この柳沢刑部守に由来する、とも。

湧水;午後12時43分_標高1261m
次第に細くなっていた柳沢川に沿って甲州では「大菩薩ライン」と呼ばれる青梅街道を進むと、道脇に土産店とその奥に宿があるようだ。また、土産店の手前にある「奥多摩湖源流の湧水」と書かれた看板に惹かれ、店脇の井桁風の水槽にホースから流れ出す水を飲む。柳沢川の上流から引かれただろう、か。その柳沢川はこの店の辺りから青梅街道から離れてゆく。ささやかな渓流となって流れる柳沢川を見送り先を急ぐ。

林道泉水横手山線入口;午後13時_1342m
街道の左手に「泉谷横手山林道入口」が見える。上でメモしたように、ここは泉水谷林道と繋がっているようであり、泉水谷に沿って上り、大黒茂谷の沢を越え牛首沢に。林道はそこからV字に折り返し、「泉水中段線」という林道名で黒川山(鶏冠山)方面の横手山峠近くの三本木峠を経てこの地で国道411号に出る。その出口、というか入口がここである。多くのライダーがこの林道を走っているようなので、ダートではあるがそれなりの道が整備されているのだろう。



大日影沢;午後13時12分_標高1390m
林道泉水横手山線入口まで来れば柳沢峠まで残り2キロ程度。もうひと頑張り。先に進むと大日影沢に架かる「大日影橋」。その先に逆にカーブする橋は「花ノ木橋」。大日影沢って、柳沢川の上流部のよう。地図では柳沢川の水路は、林道泉水横手山線入口の手前辺りで消えているのだが、橋に「柳沢川」と書かれていた。細いながらも水が流れるのを橋の上から確認できた。大日影橋も花ノ木橋も手元の2万5000分の一の地図の青梅街道の道筋から外れている。最近改修工事がなされたのであろう、か。豪快な橋である。

柳沢峠;午後13時36分_標高1472m
道の先に空が開き峠に到着。標高1472m。今まで結構多くの峠を越えたが、寂しい鞍部がほとんどであり、こんな車の往来頻繁な峠ははじめて。峠の茶屋から南に開く景観を楽しむ。天気が悪く富士山は見えなかった。
峠に石碑が建つ。明治に青梅街道を開いた県令藤村紫郎と、昭和6年(1931)小河内ダム建設の建議以降、30年に渡り道路の改修に貢献した飛田東山氏と川手良親氏の顕彰碑であった。飛田東山氏は小河内ダム建設に参画し、その景観を守るため昭和25年(1950)に秩父多摩国立公園指定に成功し、その後も国都県を動かし甲府青梅線の改修に貢献した。川手良親氏は山梨県の土木部長として、昭和12年(1937)以来都県を結ぶ青梅街道の改修に貢献した、といったものであった。

高芝大橋;午後14時15分_標高1278m
さて、後はバスに乗り遅れないように裂石に向かって下るだけ。柳沢峠から裂石までまだ10キロほども残っている。九十九折れの道をどんどん下る。と、突然巨大な橋が現れる。重川に架かる高芝大橋である。誠に巨大な橋梁である。また、その巨大なひとつの橋がS字に大きく曲がり、その橋桁の高さを含め今までに見たことも無いようなダイナミックな橋であった。橋の下には橋ができる前の青梅街道らしき道筋も見えた。

裂石;午後16時_標高901m
バスの時間も迫るため、脇目もふらずひたすら街道を下る。高芝トンネル、上萩原第一トンネル、上萩原第二トンネル、雲峰寺第一、雲峰寺第二トネルを抜け、裂石に到着。この地に泊まり翌日も甲州街道との合流点まで歩く元監査役と分かれ、バス停に。裂石にある名刹雲峰寺は数年前大菩薩から小菅に抜けたときに訪れたので今回はパス。コミュニティバスに乗りJR塩山駅に向かい、一路家路へと。本日は30キロ強、8時間半の峠越えであった。

先回のメモでは、倶利伽羅合戦前夜までのメモで終わった。今回は両軍が戦端をひらくあたりからメモをはじめる。(水曜日, 11月 29, 2006のブログを修正)


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本日のルート;JR石動駅>埴生・護国神社>伽羅源平の郷 埴生口>医王院>若宮古墳>旧北陸道>たるみ茶屋>峠茶屋>源氏ケ峯>矢立堂>矢立山>万葉歌碑>猿ケ馬場>芭蕉句碑>火牛の碑>倶利伽羅不動>手向神社>JR倶利伽羅駅


平氏の本陣は猿ケ馬場
先回のメモで、峠の隘路を押さえるべく、源氏方先遣隊・仁科党が源氏の白旗を立て、主力軍が布陣済みとの偽装した、と書いた。平氏の主力は11日朝、倶利伽羅峠に到着。が、山麓に翻る白旗を見て偽装を信じ、進軍を止め、倶利伽羅、国見、猿ケ馬場付近に陣を敷く。前線は「源氏ケ峰」より「党の橋」を経て、北の「埴生大池付近」に渡って布陣。「猿ケ馬場」の本陣跡に軍略図があった。それによると、中央に三位中将・維盛。軍議席、維盛に向かって右側に薩摩守忠度・上総判官忠綱・高橋判官長綱、向かって左側に左馬守行盛・越中権頭範高、河内判官季国が陣取る。「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)  

薩摩守忠度

ちょっと脱線。薩摩守忠度って熊野散歩のときメモした。魅力的武将であった。が、倶利伽羅合戦で名がでることはないようだ。合戦の後日談として、平氏西走の途中、忠度は京都に引き返し、藤原俊成に歌を託し、「勅撰集がつくられる時には一首だけでも加えてほしい」とたのんだ逸話が残る。「さざなみや 志賀の都はあれにしを 昔ながらの山桜かな」。この歌が詠み人知らずとして、千載和歌集におさめられたのは周知のこと、か。

源氏の前線は矢立山
平氏の陣立ては上でメモした。一方、源氏の前線は「矢立山」。源平軍、数百メートルを隔てて相対陣。小競り合いはあるものの、戦端は開かない。源氏側は夜戦・夜襲の準備を整えていたわけだ。
陣立ては以下のとおり;「源氏ケ峰」方面には根井戸小弥太、巴御前の軍が対峙。「猿ケ馬場」方面には今井兼平軍。「塔の端・猿ケ馬場」の側面には義仲軍、「埴生大池」方面への迂回隊は余田次郎が。そして、樋口兼光率いる部隊は現在の北陸本線の北を大きく迂回し、竹橋に至り平家軍の背後に回りこんだ。

源氏方の夜襲により戦端が開かれる
長旅の行軍と数度の小競り合いに疲れた平氏が夜半になり少々の気の緩み。甲冑を脱ぎ、鎧袖を枕にまどろむ。午後10時を過ぎる頃、竹橋に迂回した樋口隊が太鼓、法螺貝を鳴らし「ときの声」とともに平氏の背面より夜襲。機をいつにして正面の今井軍、迂回隊の余田軍、左翼の巴・根井戸軍の一斉攻撃開始。三方、しかも背後からの攻撃を受けた平氏軍は大混乱。

義仲は数百の「火牛」により平氏を攻めたてた
このとき、義仲は数百の「火牛」により平氏を攻めたてた、という。が、真偽の程定かならず。中国の故事に同様の戦術があるので、それを「盗作」したのでは、とも。「火牛」がいなくても、三方から奇襲され、逃れる一方向は「深い谷」。折り重なって谷筋へと逃れたのであろう。で、あまりに平氏の犠牲が大きく、この谷を後世「地獄谷」と呼ぶようになった。こうして砺波山一帯は源氏が確保。平氏は「藤又越え」、というから倶利伽羅峠の南西方向の尾根を越え加賀に敗走した。以上が倶利伽羅合戦の概要である。

巴御前
ちょっと脱線。巴御前ってよく話しに聞く。木曽義仲の妻。女武者振りが有名である。巴は義仲を助けた中原兼遠の娘、とか。樋口兼光・今井兼平の妹でもある。倶利伽羅合戦では左翼に一部隊を率いて勝利に貢献。その後、義仲が源範家・義経の率いる追討軍に敗れた後は、頼朝に捕らえられ和田義盛と再婚。
頼朝亡き後、和田義盛は北条打倒の陰謀に加担したとの嫌疑。北条義時の仕掛けた謀略とも言われるが、挙兵するも敗れる。巴は出家し越中に赴いた、と伝えられている。
今回の散歩では行かなかったのだが、旧北陸道から少し南に入ったところに「巴塚」がある。ここでなくなったわけではないが、陣立てからしてこの方面から倶利伽羅峠に攻め入ったのであろう。碑文:「巴は義仲に従ひ源平砺波山の戦の部将となる。晩年尼となり越中に来り九十一歳にて死す」、と。

猿ケ馬場を歩く

源平散歩に戻る。平家本陣となった「猿ケ馬場」には多くの記念物が残る。大きな石板は平氏軍議に使われたもの。石板を囲む席次は先ほどメモしたとおり。源平盛衰記に記された有名な「火牛の計」をイメージした牛の像も。この「火牛の計」、ネタ元は中国の史記に描かれた「田単の奇策」とも。もっとも田単のケースは、角に刃、尻尾に火のついた葦をくっつけて牛を追い立てた、とか。
源平供養の塔。近くに源氏太鼓保存会寄贈の「蟹谷次郎由緒之地」の碑。合戦に勝利した源氏軍は酒宴を張り、乱舞しながら太鼓を打ちならした。この「勝鬨太鼓」が源氏太鼓として伝承された、と。蟹谷次郎は源氏軍左翼根井小弥太軍の道案内をつとめた越中の在地武士。
「為盛塚」。平氏の勇将・平為盛を供養するため鎌倉時代にまつられたもの。倶利伽羅合戦に破れ敗走する平氏軍にあり、源氏に一矢を報いんと五十騎の手勢を引き連れて逆襲。樋口兼光に捕らえられあえなく討ち取られたという。
芭蕉の碑。「義仲の寝覚めの山か月かなし」。俳聖松尾芭蕉がはるばる奥の細道を弟子の曽良と共にこの地を通ったのは、元禄二年七月十五日のこと。が、この歌自体は芭蕉が敦賀に入った時に詠んだもの、とか。
「聞くならく 昔 源氏と平氏」からはじまる、砺波山を歌った木下順庵の詩も。順庵は江戸時代の館学者。藤原惺窩の門下。加賀藩の侍講をつとめ、のちに将軍綱吉に召され幕府の儒官に。人材育成につとめ、新井白石・室鳩巣といった人材を輩出した。

倶利伽羅公園
先に進むと倶利伽羅公園。この倶利伽羅峠の頂上付近には、7000本近くのの桜がある。高岡市の高木さんご夫妻が長い年月をかけて植樹したもの。「昭和の花咲爺さん」とも呼ばれる。

倶利伽羅不動

倶利伽羅不動。日本三不動の一尊と言われる倶利迦羅不動尊の本尊は、718年(養老2年)、というから今から1300年前、元正天皇の勅願によりインドの高僧・善無畏三蔵法師がこの地で国家安穏を祈願した折、不動ヶ池より黒龍が昇天する姿をそのままに刻んだ仏様をつくったのがはじまり。
前回の散歩でメモしたように、倶利伽羅不動尊って、サンスクリット語で「剣に黒龍の巻き付いた不動尊」の意味。黒龍が昇天する姿が、倶利伽羅不動、そのものであったのだろう。

手向神社
お不動さんの隣に手向神社。ここはもと長楽寺跡。倶利伽羅不動明王や弘法大師がこの寺にとどまり七堂伽藍を建て布教をおこなった。が、倶利伽羅合戦の折、兵火にあい焼失。その後頼朝の寄進により再興。慶長年間(1596年から1615年)には加賀藩の祈祷所となり、堂宇の復興が続けられる。天保7年(1836年)山門・不動堂が再び焼失。再建されないまま明治維新を迎え、神仏分離により長楽寺を廃し手向神社となった。
『万葉集』に大伴池主が 大伴家持から贈られた別離の歌に答えて贈った長歌の中に、「刀奈美夜麻 多牟氣能可味个 奴佐麻都里」(となみやま たむけのかみに ぬさまつり)と手向の神が詠まれている。そのあたりも名前の由来、かも。倶利伽羅不動、手向神社を離れる。あとは、麓のJR倶利伽羅駅に向かってのんびりと下り、倶利伽羅峠散歩を終える。

倶利伽羅合戦後の源平両軍の動向
倶利伽羅合戦後の源平両軍のメモ;能登方面、源氏・源行家隊と対峙した平氏・志雄 山支隊は形勢有利であった。が、主力が倶利伽羅峠で大敗の報に接し、退却。大野・金石付近、というから現在の金沢市の北端・日本海に面する金沢港付近で敗退してきた平氏・本隊に合流し源氏軍に対峙する。
源氏軍は源行家の志雄山支隊と石川郡北広岡村、というから現在の石川軍野々市町か白山市あたりで合流し平氏軍に対する。小競り合いの末、平氏軍は破れ、安宅の関あたりまで退却。そして、加賀市篠原の地における「篠原の合戦」を迎えることになる。平家方は畠山庄司重能、小山田別当有重兄弟を正面に布陣。対するは今井兼平。辛くも今井方の勝利。次いで、平氏の将・高橋判官長綱と樋口兼光軍との戦い。戦意の乏しい高橋軍、戦うことなく撤退。平氏の将・武蔵三郎左衛門有国と仁科軍が応戦。有国おおいに武勇を発揮するも敗れる。

斉藤別当実盛

平家軍の敗色濃厚な6月1日、平家方よりただ一騎進む武者。源氏・手塚太郎光盛との一騎打ち。平家方の武者、あえなく討ち死に。この武者が斉藤別当実盛。義仲が幼少の頃、悪源太・源義平から命を救ってくれた大恩人。義仲は恩人のなきがらに、大いに泪す、と。
ちなみに、老武者と侮られることを嫌い、白髪を黒く染め合戦に臨んだ実盛の話はあまりに有名。倶利伽羅峠散歩の前日、車で訪れた「首洗池(加賀市手塚町)」は、実盛の首を洗い、黒髪が白髪に変わった池。ここには芭蕉の句碑。「むざんなや兜の下のきりぎりす」。
きりぎりす、とは直接関係ないのだが、実盛にまつわる伝承;実盛は稲の切り株に足を取られて不覚をとった。以来実盛の霊はイナゴなどの害虫となって農民を悩ました。で、西日本の虫送りの行事では実盛の霊も供養されてきた、と。もっとも、田植の後におこなわれる神事である「サナボリ」が訛った、といった説もあり真偽の程定かならず。

実盛塚(加賀市篠原)

前日には「実盛塚(加賀市篠原)」にも足を運んだ。実盛のなきがらをとむらったところ、と伝えられる。見事な老松が塚を覆う。「鏡の池(加賀市深田町)」は髪を染めるときに使った鏡を沈めた、と伝えられる。実盛が付けていた実際の兜は小松市の多太神社の宝物館に保管をされている、と。前日レンタカーで訪れたが、夕暮れ時間切れではあった。
斉藤実盛のメモ;武蔵国幡羅郡長井庄が本拠地。長井別当とも呼ばれる。義仲のメモできしたように、当時の武蔵は相模を本拠地とする源義朝と、上野国に進出してきたその弟・義賢という両勢力の間にあり、政情不安。実盛は最初は義朝に、のちに義賢に組する。義朝の子・悪源太義平が義賢を急襲し討ち取る。実盛は義朝・義平の幕下に。が、義賢への忠義の念より、義賢の遺児・駒王丸を畠山重能より預かり、信濃に逃す。この駒王丸が木曽義仲である。
その後、保元の乱、平治の乱では義朝とともに上洛。義朝が破れたあとは、武蔵に戻り、平家に仕えることになる。義朝の子・頼朝の挙兵。しかし実盛は平氏方にとどまり、富士川の合戦、北陸への北征に従軍。倶利伽羅合戦を経て、篠原の合戦で討ち死にする。
畠山重能・小山田別当有重兄弟のメモ

ついでに畠山重能・小山田別当有重兄弟のメモ:

秩父平氏の流である秩父一族。重能の代に男衾郡畠山(現在の埼玉県大里郡川本町)の地に移り、畠山と号する。 鎌倉武将の華・畠山重忠の父でもある。源義朝の長男・義平に駒王丸こと義仲の命を発つよう命ぜられるが、不憫に思い斉藤別当実盛に託し、その命を救ったたことは既に述べたとおり。
両兄弟のもつ軍事力は強力であった、とか。保元の乱(1156年)において、源義朝と平清盛の連合軍に敗れた源為義が、為義の長男である源義朝の情けにすがって降服を、と考えたとき、為義の八男・為朝が「坂東下り、畠山重能・小山田別当有重兄弟を味方に再起を図るべし」と 諌めたほど。
平治の乱(1159年)に源義朝が平氏に破れ、源氏の命脈が衰えたのちは平氏に仕え、篠原の合戦に至る。平氏敗走。都落ちの際、既に 頼朝の重臣となっていた畠山重忠の係累ということで、首を切られるところを平知盛の進言を受けた平宗盛に許され東国下行を許される。兄弟は平氏とともに西 国行きを望むが許されず、泪ながらに東国に下った、と。
この小山田氏って、多摩・横山散歩のときに歩いた小山田の里でメモしたように、源氏の御家人として活躍。が、重能のその後はよくわかっていない。

散歩の備忘録
倶利伽羅散歩の旅の前後に源平ゆかりの地も訪れた。実盛塚などいくつかの地は既にメモした。そのほか訪れたところでは、義経・弁慶の話で有名な安宅の関、安宅の関での詮議の厳しさ、その後の足手まといになることを憂い、断崖から身を投げた尼御前にまつわる尼御前岬など、メモしたいところも無いわけではない。 が義経の足跡までメモしはじめたらいつ終わるやら、との少々の恐れもあり、倶利伽羅合戦にまつわる尼御前岬の近くの「平陣野」のメモで終わりにしようと思う。

平陣野


「平陣野」は義仲軍を叩くべく北征する平維盛の大軍が陣をはったところ。加賀市黒崎町、黒崎海岸にある。海岸近くには、旧北陸道・木曽街道が通る。道幅は狭く、黒松・草木が茂る道であった。
「平陣野」近辺は松林はなく、展望が広がり、日本海が見渡せる。往古、見通しのよい砂原であった、とか。この景色を眺めながら平家軍は北に進んだのだろう。 「源平盛衰記」に、安宅の関から延々黒崎海岸に続く平氏の進軍の姿が描かれ れいる;「五月二日平家は越前国を打随へ、長畝城を立、斉明を先として加賀国へ乱入。源氏は篠原に城郭を構て有けれ共、大勢打向ければ堪ずして、佐見、白江、成合の池打過て、安宅の渡、住吉浜に引退て陣を取。平家勝に乗り、隙をあらすな者共とて攻懸たり。其勢山野に充満せり。先陣は安宅につけば、後陣は黒崎、橋立、追塩、塩越、熊坂山、蓮浦、牛山が原まで列たり。権亮三位中将維盛已下、宗徒の人々一万余騎、篠原の宿に引へたり」、と。倶利伽羅散歩というか、そこから拡がった倶利伽羅合戦の時空散歩はこれで終わりといたしましょう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」) 
晩秋の連休を利用し、倶利伽羅峠を歩くことになった。源氏だか平氏だか、どちらが主人公かは知らないが、源平争乱の時代を舞台にした恋愛シミュレーションゲームがあるそうな。そのゲームに嵌った同僚諸氏が、行きませんか、とのお誘い。源平争乱絵巻は別にして、歩くことができるなら、と二つ返事で承諾。倶利伽羅峠って、木曽義仲が平家を打ち破った合戦の地。それなりに興味はあるのだが、どこにあるのかもよくわからないまま、加賀路に飛んだ。

2泊3日 の行程では、倶利伽羅峠を歩くほか、安宅の関、斉藤実盛ゆかりの地などあれこれ源平合戦の跡、また、名刹・那谷寺などを巡る。が、そこはレンタカーでの旅でもあり、散歩というほどのこともない。メモしたい思いもあるのだが、散歩のメモという以上、少々歩かないことには洒落にならない。ということで、今回は10キロ程度の行程ではあった倶利伽羅峠越えをメモすることにする。(火曜日, 11月 28, 2006のブログを修正)



本日のルート;JR石動駅>埴生・護国神社>伽羅源平の郷 埴生口>医王院>若宮古墳>旧北陸道>たるみ茶屋>峠茶屋>源氏ケ峯>矢立堂>矢立山>万葉歌碑>猿ケ馬場>芭蕉句碑>火牛の碑>倶利伽羅不動>手向神社>JR倶利伽羅駅


倶利伽羅峠

倶利伽羅峠とは、正式には砺波山のこと。倶利伽羅はサンスクリット語。「剣に黒龍の巻き付いた不動尊」を意味する、とか。峠に倶利伽羅不動寺があり、日本三大不動でもある、ということで、砺波山ではなく「倶利伽羅」が通り名となったのだろう。
こ の倶利伽羅峠、富山県小矢部市埴生より石川県津幡町倶利伽羅・竹橋に至るおよそ10キロの行程。旧北陸街道が通る。標高は70mから270m程度。メモの前にカシミール3Dで地形図をつくりチェックしてみた。越中・砺波平野と加賀を隔てる山地の、最も「薄い」、というか「細い」部分となっている。どうせの山越え・峠越えであれば、距離が短く、標高差の少ないとことを選んだ結果の往還であったのだろう。
和銅6年(713年)、この地に関が設けられる。砺波の関と言う。越の三関のひとつである。古伝に曰く;「京都を発し佐渡にいたる古代の越(高志)の道は、敦賀の愛発(あらち;荒乳山)を越える。ここから越前。次いでこの砺波山を越える。ここから先が越中。最後に名立山を越える。この地が越後。で、この峠の関を越の三関」、と。
この砺波山・倶利伽羅峠が有名になったのは、寿永2年(1183年)、木曽義仲こと源義仲が平家・平維盛(たいらのこれもり)を破ってから。天正13年(1586年)、豊臣秀吉が前田利長とともに佐々成政を破ったのも、この峠である。

JR石動駅(いするぎ)
さてさて、散歩に出発。今回のルートは富山側から石川県へと歩く。JR石動駅(いするぎ)からはじめ峠を越え、JR倶利伽羅峠駅に下りる、といったルーティング。金沢を出発し石動駅に。このあたりは昔「今石動宿」と呼ばれた北陸街道の宿場町。大名の泊まる本陣から庶民が宿をとる旅籠、木賃宿が集まり、大いに繁盛した、と。駅を降り、倶利伽羅峠への上り口のランドマーク、護国八幡宮に向かう。

護国八幡宮
もとは埴生八幡宮。奈良時代・養老年間に九州の宇佐八幡を勧請してつくられた、と伝えられる。万葉歌人としても有名な大伴家持、実は越中の国守でもあったわけだが、この神社で国家安寧・五穀豊穣を祈願したとも伝えられる。上に述べた「砺波の関」を舞台に東大寺の僧・平栄を接待して家持が詠んだ、『焼太刀を礪波の関に明日よりは守部やりそへ君をとどめむ』という歌が万葉集に載っている。「(奈良への)お帰りは早すぎます。もっとゆっくりしてください」といった意味、のよう。ちなみに、万葉集には家持の歌が473首載っているが,そのうち223首は越中で過ごした5年間に詠んだもの、とか。

大伴家持
ちょっと脱線。大伴家持って、万葉集の選者として知られる。が、万葉集のほとんどは、家持が親ともたのむ橘諸兄がまとめ終えてあり、家持が諸兄から依頼されたのは、「怨みの歌」であった、といった説もある。王家のために怨みをのんでなくなった人々、政治的犠牲者の荒魂を慰める、ために集められた、とか。悲劇の人々の歌を連ね、最後に刑死した柿本人磨呂の歌で終わらせる、といった構成。政敵・藤原氏の「悪行」を「表に出す」といった思惑もあった、とも言われるが、仏の力で鎮護国家を目指す大仏建立と相まって、言霊によって荒魂の怨霊を鎮め、王道の実現を目指すべく「恨みの歌」が集められた、とか。

木曽義仲は埴生八幡様に陣を張る
埴生八幡様に戻る。この埴生八幡が護国八幡宮となったのは、江戸慶長年間。領主・前田利長が凶作に苦しむ領民のために豊作を祈願。その効著しく、ために「護国」という名称をつけた、とか。埴生八幡が有名になったのは、源平・倶利伽羅峠の合戦において、倶利伽羅峠に布陣する平家の大軍を迎え撃つ源氏の大将・木曽義仲がこの地に陣を張り、戦勝を祈願。華々しい戦果を挙げた、ため。武田信玄、佐々成政、前田利長といった諸将が篤い信仰を寄せることになったのも、その霊験ゆえのことであろう。

佐々成政
そうそう、そういえば佐々成政も、この倶利伽羅峠で豊臣秀吉、前田利長と戦い、そして敗れている。佐々成政のメモ;織田信長に14歳で使えて以来、織田信長の親衛隊である黒母衣組(ほろ)の筆頭として活躍。上杉への押さえとして越中の国主として富山に城を構える。で、本能寺の変。信長の忠臣としては、その後の秀吉の所業を良し、とせず、信長の遺児・信雄(のぶかつ)を立て、家康を味方に秀吉と対抗。が、信雄が秀吉と和睦・講和。ために、家康も秀吉と講和。それでも成政はあきらめることなく、家康に立ち上がるよう接触・説得を図る。が、周囲は完全に包囲され、残された唯一の手段は真冬の立山越え。これが有名な「さらさら越え」。
この「さらさら越え」を描いた小説を読んだ覚えがある。確か新田次郎さんの作?ともあれ、雪の立山を越え、家康のもとにたどり着く。が、家康は動くことはなかった。天正13年(1585年)、秀吉の越中攻め。このとき、倶利伽羅峠での戦いに破れ、成政は降伏。秀吉の九州征伐に従い肥後一国を与えられるが、国人一揆の責めを負わされ切腹させられることになる。もっとも、雪の立 山越えに異論を唱える人も多い。またまた寄り道に。散歩に戻る。

倶利伽羅峠源平の郷 埴生口

護国八幡の前に「倶利伽羅峠源平の郷 埴生口」。歴史国道整備事業の一環として設立された施設。歴史上重要な街道である倶利伽羅峠の歴史・文化をまとめてある。峠の全体を俯瞰し、またいくつか資料を買い求め峠道に向かう。

旧北陸街道・ たるみ茶屋跡

道筋に医王院といったお寺。その裏手には若宮古墳。6世紀頃につくられた前方後円墳。埴輪が出土されている。
医王院を先に進み旧北陸街道に入る。整備された道を進むと「たるみ茶屋跡」。碑文には藤沢にある時宗・遊行寺総本山清浄光寺の上人とこの地の関わりが説明されていた。石動のあたりにあった、とされる蓮沼城主・遊佐氏と因縁が深かった、ため、と。「旅の空 光のどけく越路なる砺波の関に春をむかえて」といった上人さまの歌も。
ちなみに、この時宗ってこの当時、北陸の地にもっとも広まっていた宗教であった。そういえば、この倶利伽羅峠の前日に訪れた斉藤別当実盛をまつる実盛塚も、時宗・遊行上人がその亡霊を弔った、と。当時、この地の有力な宗教勢力が時宗であったとすれば、大いに納得。ちなみに浄土真宗というか、真宗というか、一向宗、というか、どの名前がいいのかよくわからないが、この宗派が北陸にその勢を拡大したのは、もう少し後のこと。もっとも時宗も浄土教の一派ではあるのだが。時宗の開祖・一遍上人は愛媛の出身。ちょっと身近に感じる。
 
峠の茶屋
先に進む。「峠の茶屋」の碑。碑文のメモ;「東海道中膝栗毛」の作者・十返舎一九がこの地を訪れ、「石動の宿を離れ倶利伽羅峠にかかる。このところ峠の茶屋いずれも広くきれいで、東海道の茶屋のようだ。いい茶屋である。たくさんの往来の客で賑わっている」、と。倶利伽羅峠にはこういった茶屋が10軒もあった、とか。
道の途中、どのあたりか忘れたが藤原顕李(あきすえ)句碑があった:堀川院御時百首の一首 「いもがいえに くものふるまひしるからん 砺波の関を けうこえくれば」。藤原顕李、って何者?

源氏方の最前線・矢立山

峠の茶屋の少し先、旧北陸道と車道が合流するあたりが矢立山。標高205m。そこに「矢立堂」。ここは倶利伽羅合戦時の源氏方の最前線。300m先の「塔の橋」あたりに進出していた平氏の矢が雨あられと降り注ぎ、林のように矢が立った、ということから名づけられた。

源氏ケ峰

「塔の橋」で北の「埴生大池」方面からの道と車道が交差し十字路となる。車道を南に下ると「源氏ケ峰」方面、西に直進すると「砂坂」。この砂坂、かつては「七曲の砂坂」と呼ばれた倶利伽羅峠の難所であった。難所・砂坂に進む、といった少々の誘惑もあったが、結局は「源氏ケ峰」方向に。理由は、その道筋が「地獄谷」に沿っているようであった、から。

地獄谷は「火牛の計」の地

地獄谷って、あの有名な「火牛の計」というか、松明を角につけた牛の大群によって平家方が追い落とされた谷、のこと。はたしてどんな谷なのか、じっくり見てみよう、といった次第。「源氏ケ峰」には展望台がある。が、木々が茂り見晴らしはよくない。「源氏ケ峰」と言うので、源氏が陣を張ったところか、と思っていたのだが、合戦時は平家方が陣を張ったところ。義仲が平氏を打ち破った後に占領したためこの名がついた、と。勝てば官軍の見本のような命名。
近くに芭蕉の句碑。「あかあかと 日は難面も あきの風」。もっともこの句は越後から越中・金沢にいたる旅の途中でえた旅情を、金沢で詠ったもののよう。

猿ケ馬場に平家の本陣が

地獄谷を眺めながら進む。砂坂からの道と合流するあたりが「猿ケ馬場」。平家の大将・平維盛の本陣があったところ、である。
平家の本陣まで歩いたところで、倶利伽羅合戦に至るまでの経緯をまとめる。それよりなにより、木曽義仲って、一体どういう人物?よく知らない。で、ちょっとチェック。

木曽義仲
祖父は源為義。源義朝は伯父。両者敵対。祖父の命で武蔵に下ったのが父・源義賢。義仲は次男坊として武蔵国の大蔵館、現在の埼玉県比企郡嵐山町で生まれる。義朝との対立の過程で父・義賢は甥・源義平に討たれる。
幼い義仲は畠山重能、斉藤実盛らの助けを得て、信濃の国・木曽谷の豪族・中原兼造の元に逃れ、その地で育つ。木曽次郎義仲と呼ばれたのは、このためである。
で、治承4年(1180年)8月の源頼朝の挙兵。義仲は9月に挙兵。2年後の寿永元年(1182年)、信濃・千曲河畔の「横田川原の合戦」で平家の城資永(資茂との説も)氏の軍を破り、その余勢をかり、越後の国府(現在の上越市の海岸近く)に入城。諸国に兵を募る。

倶利伽羅峠での合戦
までの経緯
一方、当時の平家は重盛が早世、維盛が富士川の合戦で頼朝に破れ、清盛が病没、といった惨憺たる有様。平家の総大将・平維盛の戦略は、北陸で勢を張り京を覗う義仲を叩き、その後、鎌倉の頼朝を潰す、といったもの。で、寿永2年(1182年)全国に号令し北陸に大軍を進める。

平氏北征の報に接し義仲は平氏と雌雄を決し京に上ることに決す。先遣隊は今井兼平。寒原、黒部川を経て富山市から西に2キロの呉羽山に布陣。寒原って、親知らず・子知らずで知られる難所のあたり。「寒原の険」と呼ばれたほど。

一方の平氏。先遣隊長・平盛俊は5月、倶利伽羅峠を越えて越中に入る。小矢部川を横断し庄川右岸の般若野(富山県礪波市)に進。が、今井隊による夜襲・猛攻を受け、平氏は敗走。これが世に言う、「般若野の合戦」。結局、平家は倶利伽羅峠を越えて加賀に退却する。


本隊・義仲は越後国府を出立。海岸線を進み、5月9日六動寺国府(伏木古国府)に宿営。一方平氏の主力軍はその頃、加賀・安宅付近に到着。進軍し、安宅、美川、津幡、倶利伽羅峠に達する。また、平通盛の率いる別動隊は能登方面に進軍。高松、今浜、志雄、氷見、伏木付近に。

義仲は志雄方面に源行家を派遣。自らは主力を率い般若野に進軍。今井隊と合流。5月10日の夜、倶利伽羅に向かった平氏の主力は既に倶利伽羅峠の西の上り口・竹橋付近に到着の報を受ける。倶利伽羅峠を通せば自軍に倍する平家軍を砺波平野・平地で迎え撃つことになる。機先を制して倶利伽羅峠の隘路を押さえるべし、との軍令を出し、先遣隊・仁科党を急派。隘路口占領を図る。
仁科党は11日未明、石動の南・蓮沼の日埜宮林に到着。白旗をたなびかせ軍勢豊なりしさまを演出。同時に、源氏軍各部隊は埴生、道林寺、蓮沼、松永方面、つまりは倶利伽羅峠の東の上り口あたりまで進出。義仲の本陣は埴生に置いた。倶利伽羅峠を挟んで源平両軍が対峙する。思いのほかメモが長くなった。このあたりで一休み。次回にまわすことにする。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

先日中世の甲州街道を歩いた。山梨の塩山から大菩薩峠を越え、奥多摩の小菅村に抜ける峠道である。で、中央線に乗り塩山に向かう途中、JR大月駅前に聳える岩山に目が止まった。「ひょっとしてあの岩山って岩殿山?」同行の仲間に訪ねた。然り、と。いやはや、偶然に岩殿山に出合った。この岩山には岩殿城跡がある。

関東を歩いていると、折に触れて北条氏の事跡が登場する。岩殿城もそのひとつ。小山田氏の居城である。小山田氏のことをはじめて知ったのは昭島の滝山城散歩の時。碓井峠方面より侵攻した本隊に呼応し、小仏峠の山道を切り開き北条方を奇襲し勝利を収めた。北条方はまさか険路・小仏峠方面から武田の軍勢が侵攻するとは夢にも思っていなかった、と。世に言う廿里合戦である。大菩薩行から数週間を経た晩秋のとある休日、岩殿城を訪れた。



散歩のルート:JR大月駅>桂川>岩殿山城址入口>ふれあい館>揚城戸門>岩殿山頂>七社権現洞窟>葛野川>甲州街道>大月市郷土資料館>柱状節理>猿橋>JR鳥沢

大月駅
JR中央線の各駅停車でのんびり大月に。中央高速ではしばしば目にする地名ではあるが、JRでははじめて。つつましやかなる駅舎である。駅のホームから岩殿山が見える。いかにも魅力的な山容。
駅前もゆったり。観光案内を探すが、見当たらない。とはいうものの、目的の地は眼前に聳えているわけであり、地図もなくてもなんとか行けそう。ということで、のんびりした商店街を進む。
この大月の地には平安時代、武蔵七党横山氏の分流古郡氏が居を構えた、と。その古郡氏が和田義盛の乱により滅亡した後、武田領となり、小山田氏が治めることに。
江戸時代は甲州街道の第20番の宿場町。江戸から93.7キロのところにあった。地名の由来は大槻(ケヤキ)が群生していた、から。その後、美しい月も見える、という地勢故に、いつしか大槻が大月になった。とか。

桂川

駅前の路地を東に進む。このあたりの地名は御太刀(みたち)。やんごとなき方の太刀のあれこれに由来するのだろうか。が、詳細不明。駅のホームの東端の少し先で線路を越え、道なりに岩殿山方向へ進む。大月市民会館交差点を過ぎると高月橋。桂川に架かる。
桂川は相模川の上流部の名称。水源は富士山麓の山中湖。名前の由来は京都の桂川から、といった説もあるが不明。大月から少し下った猿橋のあたりに桂川に合流する川があるのだが、その名前が葛野川。葛=かずら>かつら、との説も。桂って「つる」のことでもあるので納得。
高月橋は、大槻が大月となるきっかけとなった、高く照らす大きなお月さんがよく見えた場所、から、と勝手に解釈。

岩殿山城址入口
橋を渡り山裾を上る県道139号線を進む。道が少しカーブするあたりに岩殿山城址入口の案内。整地された坂道を上ると鳥居があり、そこに岩殿山の由来を述べた案内。概要をメモする;岩殿山は9世紀末、天台宗岩殿山円通寺として開創。10世紀には堂宇並ぶ門前町を形成。13世紀には天台系聖護院末の修験道の中心として栄える。
16世紀には武田、小山田両氏の支配下。岩殿城が築かれ相模、武蔵に備える。1582年、武田・小山田氏の滅亡により、徳川の支配を経て17世紀に廃城となる。
円通寺も明治期に神仏分離政策により廃寺。現在は東麓に三重塔跡、常楽院、大坊跡、また山頂には空堀、本城、亀ケ池といった遺構が残る。

ふれあい館
鳥居を過ぎ、階段を上る。彼方に富士、眼下の河岸段丘には大月の街が広がる。先に進むと丸山公園。お城の形をした建物・ふれあい館がある。1階は映像ホール、2階は展示室。2階の展示室には小山田氏の説明や大月の紹介ビデオが容易されていた。
小山田氏:桓武平氏の流れをくむ秩父党の出。町田の小山田の地に居をかまえ、小山田氏を名乗る。鎌倉期、頼朝を助け秩父党の重鎮たるも、畠山重忠謀殺の変に巻き込まれ一族のほとんどが滅する。で、かろうじて難を逃れた一派が甲斐の国・都留の地に居を構える。戦国期には武田氏、穴山氏と並ぶ勢力として甲斐の国に分立。後に武田氏に帰属するも、一定の独立性を保っていた、とか。
小山田氏で有名な武将は小山田信茂。信玄のもと、幾多の合戦において猛将の誉れを受ける。上でメモした廿里合戦もこの岩殿城から出撃する。険阻なる小仏峠から高尾へ進出。高尾駅北の台地あたりで北条の軍勢を破った。北条方が戦略上の拠点を昭島の滝山城から八王子城に移したのも、この小山田信茂の進出がきかっけ。小仏峠方面からの武田勢に備えるためである。ちなみに小仏峠越えの先達をつとめたのは岩殿円通寺の修験者であった、とか。
猛将信茂が評判を落としたのが武田勝頼への裏切り。織田信忠を総大将とする織田の軍勢により戦いに破れ、この岩殿城に落ち延びようとする武田勝頼に反旗を翻す。逃げ場を失った勝頼は天目山で自害。武田家が滅亡する。
織田軍の甲斐平定後、信長への伺候のため信忠に拝謁。が、勝頼への不忠を咎められ処刑される。とはいえ、小山田氏は単なる武田の家臣ではなく、一定の独立性を保っていたため、武田の家臣ではないわけで、家臣故の不忠という非難はあたらない、という説もある。

大月案内のビデオを見ながら少々休憩。受付でもらった資料を眺める。見所やコースが紹介されている。JR猿橋駅近くに名勝猿橋がある。大月市の郷土資料館も。そして岩殿山からJR猿橋方面への下りもある。であれば、ということで山頂からは猿橋方面に下ることに方針決定。富士を眺めながら腰を上げる。

揚城戸門
階段を上る。眼下に広がる眺めに感激。歩いては下を眺め、富士を眺め、また歩く。山側を見やると切り立った岩壁が聳える。修験道の修行場としての岩殿山というフレーズに、大いに納得。とはいうものの、高度をあげるにつれ谷側の崖が気になってくる。普通の人にはどうということのない石段なのだろうが、高所恐怖症の気味がある我が身としては少々怖い。何となくへっぴり腰の上りとなる。なんとか早く山頂に着きたいものだ、との思いだけで目を細め、谷川から目をそらし先に進む。
しばらくすすむと巨大な自然石が道の両側に迫る。揚城戸門。自然石が城門として利用されている。先に番所跡。揚城戸を守る番兵の詰所跡である。
さらに進むと尾根筋の先端に案内板。岩殿山西端に大露頭部のあったところ、とか。現在は風化・浸食が進み崩落の危険があるため破砕撤去されたが、もとは西の物見台跡とも、修験場とも言われていた、と。ここまでくると北の山容が目に入る。大菩薩へ峰筋であろう。まことに素晴らしい眺めである。

岩殿山頂
大菩薩行を思い出しながら先に進む。山頂はすぐ。上り口から30分弱といったところ、か。岩殿山の標高は634m。上り口は標高340m程度であるので、比高差300mほど。上る前は650m弱の山っって結構大変かと思っていたのだが、それほどでもなかった。
山頂は平地となっている。東屋や乃木将軍碑も。相変わらず富士は美しい。北も南も一望のもと。逆行であり携帯デジカメでは思うような写真が撮れないのが残念である。眼下に中央高速が大月の河岸段丘をうねっている。桂川って結構深い渓谷である。
岩殿城の案内をメモ;岩殿城は難攻不落の城。南方の桂川下流には相模、武蔵。西側の桂川上流には谷村、吉田、駿河。北方の葛野川上流には秩父などの山並みを一望におさめ、烽火台網の拠点であった。城跡には本丸、二の丸、三の丸、倉屋敷、兵舎、番所、物見台、馬屋、揚城戸のほか、空堀、井水、帯曲輪、烽火台、ば馬場跡がある。また、断崖下の七所権現、新宮などの大洞窟が兵舎や物見台として用いられている、と。
平地の先に最高点。本丸はそこにある。猿橋方面への下り道を確認しながら、馬場跡、武器や日用品を納めていた倉屋敷跡を越え山頂に。本丸跡。とはいうものの、現在はNTTの電波施設に占有されており、これといった趣なし。

馬場跡付近に井戸があったようだが、残念ながら見逃してしまった。こんな山頂に水が湧くってちょっと不思議、である。この井戸にまつわる行基上人の縁起もあ
 る。修験者がこの山を修験道場としたのも、小山田氏が城をこの岩山に築いたのも、この湧水の賜物であることは言うまでもない。
見てもいないのにあれこれと考えるのはなんだかなあ、とは思いながらも、岩山に水が湧く、その理由が気になる。どこかの岩山で同様の井戸があるという記事を読んだ覚えがある。岩山から地下水路に向かって井戸を掘り抜いた、とのことである。が、この岩山は少々高すぎる。数百メートルも岩盤をくり抜けるとも思えない。思うに、勝手な想像ではあるが、この岩山の湧水って、最高点のある岩盤域と東屋のあった平らな頂上部の岩盤域の境目から湧き出たた水ではなかろう、か。降った雨が山頂に滲み込む。が、下は岩盤。行き場を失った水が岩盤域の境目にそって進み、この井戸あたりで湧き出ているのでは、と。これといった根拠なし。
電波塔の防護柵に沿って山頂を東端に。東端を少し下ったところに空堀跡が残る。落ち葉で滑りやすい坂を少し下り空堀跡に。猿橋方面への下りはあるのだが、なんとなく足下がおぼつかない。怖がりの我が身としては、一も二もなく引き返す。本丸跡を下り、先ほど確認した猿橋への下り口に。断崖などのない、おだやかな道であることを祈るのみ。

七社権現洞窟
道を下る。崖側に柵もあり、また木立が眼下を防いでくれるので、崖への怖さはない。そうとなれは足取りも軽く下る。しばらく進むと「七社権現洞窟2分」の案内。分岐道を洞窟に。倒木が道を防ぐ細路を上ると洞窟に七社権現。少し奥まったところに祠が見える。散歩の折々に登場する聖護院道興(しょうごいんどうこう)が「岩殿の明神と申して霊社ましましける。参詣し侍りて、歌よみて奉りけり」などとして、『あひ難きこ此のいわはどののかみや知る世々にく朽ちせぬ契り有りとは』と詠んだのはこの権現様。
で、七所権現って、伊豆権現・箱根権現・日光権現・白山権現・熊野権現・蔵王権現・山王権現の七社。ありがたや、七カ所の権現様を一堂に祀る。ここをお参りすれば七カ所の権現様からの功徳を受ける、ということ、か。熊野の三所権現がプロトタイプであろうが、この地の先達が伊豆・箱根の権現様の先達も兼ねるようになり五所権現、さらに各地の現様もカバーするようになり七所権現となったのであろう、か。で、現在七体の仏様は岩殿山の東府麓にある真蔵寺におさめられている。

葛野川
七社権現洞窟から元の下り道に戻る。少し下ると舗装道路が見えてきた。岩殿山散歩もこれで終わり。下りも30分弱、というとことか。道路に降りる。すぐ近くに古びた堂宇。傍に円通寺三重塔跡。これといって何があるわけでない。取り急ぎ、次の目的地である猿橋に向かうべく、甲州街道まで進む。
道なりに賑岡(にぎおか)地区を進む。
ゆったり、のんびり歩を進めると前方に中央高速の橋桁が見えてくる。道が橋桁とクロスするあたりに川筋が。葛野川である。この川の上流域をチェックすると葛野川ダム、それとその近くに松姫峠がある。
松姫峠って、先日の大菩薩から奥多摩の小菅村に抜けるときに歩いた牛ノ寝尾根の東端にある峠。
峠の名前の由来は武田信玄の娘・松姫から。武田家滅亡に際し、この峠道を武州・八王子へと落ち延びた、とも。ちなみに、松姫が庇い、共に落ち延びた香具姫って、岩殿城主小山田信茂の娘。八王子に無事に逃れ、松姫によって育てられた。奇しき因縁。奇しき因縁といえば、もうひとつ。武田家を滅ぼした織田方の総大将である織田信忠と松姫は婚約者であった。

甲州街道

中央高速との交差地点から南に下り、桂川を渡ると甲州街道。JR猿橋駅前の交差点を東に向かう。次の目的地は猿橋。日本三奇橋として名高い猿橋を訪ねることに。車の往来の激しい道路脇のささやかなる歩道を進む。いつものことながら、トラックの風圧が少々怖い。1キロ強歩くと、大月市郷土資料館の案内。ちょっと立ち寄ることに。甲州街道を北に折れ、町中にs入る。台地を側に向かて少しくだったところに郷土館があった。

大月市郷土資料館
郷土館の1階は企画展。2階は常設展示。2階に上り大月の歴史をざっと眺める。甲州街道の道筋の説明が目に入る。小仏峠から相模湖への道筋は知っていたのだが、それから先の道筋は知らなかった。展示地図を見ると、現在の甲州街道と離れた道筋は小仏峠から相模湖の道筋以外に、上野原から猿橋のひとつ東の駅・鳥沢まで、それと笹子峠を越える道筋である。大いに惹かれる。近々これらの道筋を歩こう、との思い強し。

柱状節理
郷土資料館を離れ、猿橋に向かう。資料館のすぐ隣に猿橋公園。猿橋への道案内に従い公園内を進む。公園南の崖は富士山が噴火したときの溶岩流が桂川に沿って流れた末端部。溶岩が急速に冷却されたできた柱状節理の形状がはっきりわかる。

猿橋
溶岩の崖に沿って進み、東端から階段を崖上にのぼると猿橋。渓谷に木の橋が架かる。渓谷の幅は30mほど。高さも30mほど。橋桁をかけることができないので、両岸からせり出した四層の支柱によって橋を支えている。
この橋、一見すると木橋のようではあるが、現在の橋はH鋼を木材で覆ったもの。1984年に18世紀中頃の橋の姿を復元した。橋の形も往古は吊り橋であった、との説もあるが、18世紀中頃には現在のような形の橋になっていた、と言う。
橋の歴史は古い。奈良時代、7世紀初頭の推古天皇の頃、百済の人、志羅呼(しらこ)、この所に至り猿王の藤蔓をよじ、断崖を渡るを見て橋を造る、という伝説があるほど、だ。また、室町期、15世紀の中頃には、岩殿山でも触れた聖護院門跡道興がこの地を訪れ、『廻国雑記』に「猿橋とて、川の底千尋に及び侍る上に、三十余丈の橋を渡して侍りけり。此の橋に種々の説あり。昔猿の渡しけるなど里人の申し侍りき。さる事ありけるにや。信用し難し。此の橋の朽損の時は、いづれに国中の猿飼ども集りて、勧進などして渡し侍るとなむ。然あらば其の由緒も侍ることあり。所から奇妙なる境地なり」と述べている。
戦国期は武田方の防御拠点であったろうし、江戸期には甲州街道の往来も多く、広重は「甲陽猿橋之図」を描き、十返舎一九、荻生徂徠なども猿橋を描いている。

橋からの眺めをしばし楽しみ、次いで、橋の下へと続く階段を下る。橋の下の岩場から猿橋を眺める。渓谷美はなかなかのもの。橋の下、川面との中空に架かる橋状のものは水路橋。上流の駒橋発電所で利用した水を下流の発電所で再活用するために通している。昔の写真を見ると、水路の上を機関車が走っている。もともとは、この地を中央線が走っていたのだが、1968年の複線化工事に際し、現在の南回りルートに変わり、鉄路は消えた。

JR鳥沢駅


橋の袂の店で、「山梨と言えば、ほうとう、でしょう」と名物を食す。しばし休憩の後、本日最後の目的地であるJR鳥沢へ向かう。2キロ強、といった道のりである。鳥沢までの道筋は、途中、道脇に先ほどの水路橋からの流路などの少々のアクセントはあるものの、ひたすら車の往来の多い甲州街道を進むだけ。鳥沢に近づくと、昔の宿場町の雰囲気を残す家並もちらほら、と。大月駅から10キロ弱を歩き、JR鳥沢駅に到着。本日の散歩を終える。
塩の道散歩の二日目は大網峠越え。姫川筋を離れ、小谷山地にとりつき、その昔、荷継ぎ場とし賑わった大網集落に。大網の集落からはひたすら大網峠へと上る。 峠からは、これまたその昔、関所のあった山口集落に向かって下っていくことになる。距離12キロ、比高差600m弱、おおよそ5時間の峠越えである。

日本海側から小谷に至る塩の道のルートはいくつかある。大きく分けて姫川の西側(西廻り道)を進む「山の坊道」と、東側(東廻り道)を進む「地蔵峠道」、そしてこの「大網道」。糸魚川の少し西、青海を発した西廻り道は、虫川(関所があった)、夏中を経て大峰峠、山の坊を越え平岩の南で姫川筋に下る。糸魚川を発した東廻りみちは、山口のあたり(大網峠手前のルートもある)で二手に分かれる。「大網道」は大網峠を越えて平岩の南で姫川を渡り、葛葉峠手前で「山の坊道」と合流し、姫川西岸を南に下る。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

一方、地蔵峠道は、山口(または大網峠手前)から戸土、横川へと進み、小谷山地の中を一路南下。1000mを越える 地蔵峠、三坂峠を越え南小谷駅の北(下里瀬)のあたりで姫川を渡る。ここで「山の坊・大網峠・地蔵峠」道はひとつになり、松本へと下ってゆく。

どの道がもっとも古く開けたのかは、はっきりしない。山の坊道の虫川の関は、所謂、謙信の「義塩」エピソードの頃に設けられたという説もある。地蔵峠道は、もっと古いかもしれない。横川集落からは大和朝廷時代の須恵器や土師器室町期の鍔口といった出土品が出ている。また、そもそもが、三坂峠(みさか)は御(み)坂峠との名前が示すように、古代祭祀跡ではないかとも言われる(『北アルプス 小谷ものがたり』)。実際、この地蔵峠道は他のふたつの道より、ずっと南で姫川筋に下る。古代の道は土砂崩れなどの危険が多い川筋を避け、尾根道を通ることが多い、とすれば、この地蔵道が最も古い道筋かとも思える。

で、今回歩く大網峠道であるが、この道は地蔵道が土砂崩れで不通になったときに開かれたとも言われる。姫川に橋がかかったことが転機になったとの説もある。 1647年に、「幅32mの橋がかけられ」とのことである。ともあれ、比較的新しい道かとも思う。歴史は新しいが、大網峠道は千国街道の「大通り」と呼ばれる。安政5年、1858年の記録によれば、塩の荷が、山口の関で6628駄、虫川では313駄。魚類は山口で13070駄、虫川では780駄。物流では山の坊道を圧倒している(『』塩の国 千国街道物語)。大網峠道が「大通り」と呼ばれた所以である。

大網峠道が塩の道・千国街道の代表的道筋であったことは間違いないだろう。とはいうものの、大網峠道に物流のすべてが集中した、ということでもないようだ。千国街道の物流を差配していた糸魚川の3軒の問屋毎にどの道筋を通るかを決めていたとも言う。また、現在でも土砂崩れで時に国道が普通になる、といった地崩れ地帯。一本の道筋で物流ルートが確保されたとは到底思えない。現代でも、平成7年の姫川温泉付近の土砂崩れのため国道が不通になった時には、山の坊道のルートに近いところに林道を作り、交通路を確保したとも言われる。時に応じ、状況に応じそれぞれの道がネットワークを組み、物流機能を確保していたのではあろう。少々イントロが長くなってきた。そろそろ散歩に出かけることにしよう。(2009年9月の記事移行)



本日のルート;姫川温泉>大網>芝原の六地蔵>横川の吊り橋>牛の水飲み場>菊の花地蔵>屋敷跡>大網峠>角間池>角間池下道標>白池>根道合流点>日向茶屋>大賽の一本杉>山口関所跡>糸魚川


姫川温泉
宿泊したのは姫川温泉・朝日荘。大糸線平岩駅を降り、姫川を渡ったところに宿があった。温泉は湯量も豊富。平岩と言う地名と関係あるのか、ないのか、温泉の大浴場は大岩を取り込んだ造りとなっていた。
この姫川温泉も平成7年の豪雨で地滑りの被害にあっている。どこだったか、土砂災害のため平岩駅付近で大糸線の線路が宙づりになった写真をみたことがある。復旧には2年ほどかかった、とも。
8時23分、宿を出発。近くにコンビニがあるわけでもないので、昼食用におにぎりを用意して頂いた。感謝。宿を出るとすぐ、崖から豊かな湯滝「源泉は姫川上流3キロ。温度は55℃」との案内。大網集落に向かって車道を歩き始めると、宿屋の女将の呼ぶ声が。何事かと引き返すと、「車で大網まで送りましょうか」、と。車での送迎が却って迷惑かと、遠慮してくれていた、よう。塩の道を歩く人にはストイックに「完全徒歩」を目指す方も多いのだろう。大網峠道は姫川温泉から姫川に沿って南に少し下ったあたりから山道に入り、大網集落へと続くわけで、車道を歩き始めた我々を見て、声をかけてくれたのだろう。
車で230mほどを一気に上る。山腹から大きな2本の導水管が姫川へと下っている。電気化学工業大網発電所への導水路。取水位標高357m、放水位標高234m、というから落差120mほど。姫川の上流5キロのところで取水している、とか。
七曲りの車道を車が進む。途中、道の右側に「塩の道」の道標が見えた。大網峠道なのだろう。5分程度で大網の集落に到着。[姫川温泉発;8時23分、標高257m]

大網

車は集落の中ほどまで進み、「塩の道」スタート地点まで送って頂く。宿のご主人に感謝し、車を降りる。あたりを見渡すに、大網は数十軒といった単位の山間の集落。江戸時代はこの地に千国街道の荷継ぎ問屋があり、大いに賑わったそうである。荷の積み替えを待つ牛が1日100頭近くもいた、とも言われるこの村落も、明治にはいり姫川筋に馬車道(現在の国道筋)ができて以来、静かな山村に戻った。
大網(おあみ)の集落が歴史に登場したのは、戦国末期と言われる。武田氏の流れの一族がこの地に住み、そして大網峠越えの道を開いた、と。実際、大網集落の北の山峡を通る地蔵峠道には、上杉軍と武田軍の戦いの跡や城跡(平倉城;上杉方)なども残る。現在でも大網には武田さんと竹田(ちくた)さん、って姓の住民が多いと言うことだし、武田の一族が、って話は、なかなかもってリアリティがある。
大網の地名の由来は例によって諸説あり。奴奈川姫が建御名方の出産に際し、産所に網を張ったことによる、との説がある。峠の遥拝、「拝む」からとの説もある。また、「麻績(おうみ)」「麻編(おあみ)」といった、「麻」に由来するとの説もある。大網は戦前まで麻の産地であった、と言うし、この説も捨てがたい。ともあれ、地名って、最初に音があり、それに物識り、というか文字知りが、なんらなかの蘊蓄を加え文字表記する ことが多いわけで、諸説定まることなし、ってことになるのだろう。[大網:8時28分、標高388m]

芝原の六地蔵

大網集落の塩の道始点は集落の中ほど。民家の裏といった細路を進むと上り坂。両サイドには草が生い茂る。墓地の間の道を上ると運動場のような広場に出る。案内もないので広場をうろうろ。近くの村人に道を尋ね、広場の小さな崖下に続く塩の道に出る。
道に沿ってグリーンのネット。マレットゴルフのコースとなっている。ゲートボールとゴルフを足して二で割ったようなこのスポーツは長野で生まれたもの。18ホールよりなる。そう言えば、先ほどの広場にも、それっぽいマットもあった。
道脇に石仏群。芝原の石仏群と呼ばれる。先に進むと、今度は赤い帽子をかぶった6体のお地蔵さん。これが「芝原の六地蔵」。六地蔵は散歩の折々に出会う。お地蔵さん、って釈迦の入滅後、弥勒菩薩が現れるまでの仏不在の時期、六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道)を迷う衆生を救済する菩薩。正確には地蔵菩薩。六地蔵って、六道それぞれに相対した地蔵菩薩であろう。

横川の吊り橋

芝原の六地蔵を過ぎると、本格的に山道となる。要所要所に道標があるので迷うことはない。木々の間の道をしばらく下ると沢にでる。開けた沢にかかる木の橋を渡り、再び山道を上る。細い山道を進むと水の音。木々に覆われた沢に吊り橋が懸かる。「横川の吊り橋」である。吊り橋は沢を跨ぐ。ガイドブックやインターネットでは、断崖絶壁といった記述があったが、高所恐怖症気味のわが身でも、それほどに足元が「ゾンゾン」するってこともなかった。
姫川は雨飾山の南麓に源流を発し、西に流れ姫川温泉の北で姫川に合流する全長15キロの川。山中の横川集落からは古代や、室町期の遺物が見つかっている。また大木の産地で明治14年には京都東本願寺の大柱用の欅の大木を送り出している。横川集落は塩の道・地蔵峠道の道筋。集落の近くの長者が原では、越後を目指す武田とそれを迎え撃つ上杉が相争ったと言うし、往時は交通の要衝であったのだろう。その横川の集落も現在は地崩れで全滅し廃村となっている、とか(『北アルプス 小谷ものがたり』)。[横川の吊り橋;9時11分、標高289m]

牛の水飲み場
吊り橋を渡ると道は急な上りとなる。道は小さな沢に沿って上ってゆく。何度か小石を踏んで沢を渡る。沢の水が流れ落ちる岩場の脇も何度か横切る。山道を進む。結構きつい。何度目だったろう、小さい滝の流れ落ちる岩場をぐるりと廻り、岩場の上にでる。と、そこに「牛の水飲み場」の案内。足元の岩盤がそれっぽい。岩に穴があいているのは、牛を繋ぐためのものだろうか。
とはいうものの、こんな急峻な坂、しかも岩場を牛が上れるとは思えない。昔は人や牛の往来も多く、現在より道幅も広く、踏み固められていたわけだから、現在の荒れた山道のイメージでは判断はできないだろう。けれども、それでも、牛がこの山道を上るイメージは浮かばない。実際、この牛の水飲み場の穴は、崖下に落ちるのを防ぐ柵を立てる穴であった、という説もある。
牛がこの坂を上ったか、どうかの詮索はさておき、急峻な山道の荷運びの主役は牛ではなく人であった。歩荷と書き「ボッカ」と呼ぶ。当初、「カチ二」と呼ばれていたようだが、いつの頃からか「ボッカ」と呼ばれるようになった。
急峻な山道もさることながら、ボッカが大活躍するのは冬の時期。牛が荷を運ぶ時期は八十八夜(5月2日)から小雪(12月23日)まで、といった取り決めがあったとのことなので、それ以降はボッカが荷を運ぶことになる。急峻・狭隘な山道では道を進む優先権も決まっていた、と。北から南に進むボッカには必ず道を譲ることになっていた。根拠は何もないのだが、この南行(北塩)が幅をきかすのは、なんとなく荷受けの糸魚川の問屋の「力」って気もするのだけれど、北から南に流れる、塩とか魚類といったもののほうが、南から北に流れる麻、竹、漬わらび、タバコといったものより、有難かった、ということだろう。[牛の水のみ場;9時36分、標高463m]

菊の花地蔵
牛の水飲み場から30分弱ほど歩いただろうか、大きな杉の木の根元に佇むお地蔵さま。遭難したボッカを供養するため、と。豪雪地帯のこの地では半年近く雪に埋もれていることだろう。道から少し脇に上り、お参りを済ませ先に進む。このあ たりから道が少し広くなりブナの原生林に入っていく。[菊の花地蔵;9時59分、標高571m]

屋敷跡
菊の花地蔵から20分程度歩いたところに、いかにも人工的に開かれた場所。屋敷跡と呼ばれる。茶屋があったとも、炭焼き小屋があったとも言われる。10時21分、標高661mあたりの屋敷跡を離れ、最後の上り。沢筋なのだろうが、人牛の往来により、斜面が徐々に削られ道がU字に掘り込まれている。「ウトウ」呼ばれるようだ。U字部分の底のところを上る。結構キツイ。どのガイドにも、屋敷跡から峠がそれほどキツイ、とは書かれていなかったのだが、とんでもなかった。30分弱で、比高差170mほどを上ることになる。落ち葉に埋まった道を、疲れた足を引きずるように、大汗をかきながら這い上がると大網峠に到着。大網を出て2時間半、比高差560m上り続け、やっと大網峠についた。

大網峠
大網峠越えは、道に迷わないかどうか、少々緊張しながら歩いた。 Garminの専用GPS端末を購入したのは、この大網峠越えが心配だった、から。結果的には道に迷うようなことはなかった。秩父の釜伏峠越えのとき、日本三大名水という「日本水(やまと)」の案内に誘われ道に迷い、結構パニック状態になったことがある。今回は何もなくて、誠によかった。また、峠あたりには、ウルルと呼ばれる虻(アブ)の一種が生息し、刺されて腫れて始末が悪いとのことであり、マジに防虫ネットでも買おうとしたほどだが、これも、なんのこともなかった。
峠越えは、この大網峠を含め30ほどは越えただろう、か。山上りはそれほど興味がないのだが、街道を歩き、結果的に峠を越えることになった。甲州街道の小仏峠や笹子峠、甲州古道の時坂峠や大菩薩峠、鎌倉街道・山ノ道の妻坂峠、秩父巡礼道の釜伏峠や粥仁田峠、などなど。川に沿って道があり、邪魔な山塊があればトンネルを掘る、沢があれば橋を架けて一跨ぎといった現在の道路事情とは異なり、昔の人は、国を越えるときは峠を越えるしか道は、ない。
峠は、「たわ」に由来するとの説がある。山稜の「たわんだところ=鞍部」を越える、たわごえ>とうげ、ということ、だ。「手向け」からとの説もある。「遥拝」するところ、でもあったのだろうか。峠はもともとの漢字にはない。日本での造語である。山の上、下、を合わせたもの。言いえて妙で ある。木々に覆われ、全く見通しのきかない大網峠。上り続けた体を休め、ここからは、ひたすら下ってゆくことになる。
[大網峠;10時59分、標高834m]

角間池
大網峠から20分弱、標高差60mほど下るとブナやユキツバキの森の中に池が現れる。エメラルドグリーンといった色合いの水面。この池って、大蛇が流した涙の跡だとか。この地に伝わる伝説によれば、角間池の北東にある戸土の近くの大久保集落に池があり、そこにつがいの大蛇が棲んでいた。ある日、子供が誤って池に落ち溺れ死ぬ。村人は大蛇が飲み込んだと思い込み、夫の大蛇を殺してしまう。妻の大蛇は難を避け、野尻湖に逃れたのだけれど、そのとき悲しみのために流した涙が、角間池、白池、蛙池となった、ということだ(『北アルプス 小谷ものがたり』)。
角間(かくま)は関東・東北によくある地名。かくれる>陰地、といった語義ではないか、とか。鹿熊と表記するものも、ある。
[11時12分、標高783m]

角間池下道標
池の畔にある戸倉山への登山口を横に見ながら、次の目的地白池へと下る。ほどなく道脇に石の道標。「右松本街道大網 左中谷道横川」と書いてある、とか。文政元年というから1818年の建立。ということは、ここが大網峠を越えて姫川に下る大網峠道と、粟(安房)峠、横川、大峠、地蔵峠、大峯峠と峠伝いに進む地蔵峠道の分岐点。中谷とは南小谷の北、姫川東岸にある集落。地蔵峠道が姫川へと下る南端あたりである。中谷道って、地蔵峠道の別名だろう、か。千国街道 も、新潟県側では、根知越、仁科街道、松本街道などと呼ばれ、長野側では小谷街道、千国街道、大町街道、糸魚川街道などと呼ばれていた。
[11時18分、標高770m]

白池
角間池から下ること30分弱。標高も200m以上下ったところに白池。角間池とは異なり、景色は開けている。池の畔、少し小高いところに諏訪神社の小さな祠。往時、この神社の神事が国境紛争解決の決め手のひとつになったと言う。
江戸時代、元禄の頃、この白池あたりの領有を巡り越後領の山口村と信州領の小谷村で争いが起こる。材木や芝の切り出しを巡る諍い、とも言う。山口の住民は横川が国境線であり、この白池一帯は越後領と主張。このあたりは上杉と武田が合い争ったところ。取ったり、取られたり、ということで、国境線などはっきりするわけもない。一種の国境紛争となる。
山口の住民は、紛争解決のため幕府に訴え出る。幕府は小谷村に対し、白池のあたりが信州領であることを示す明確な証拠を提出しろ、とのお触れ。小谷村は証拠を揃え江戸に出向く。中央区馬喰町の公事宿にでも泊まったのであろう。
それはともかく、幕府からは現地視察も踏まえ裁定を行い、結局は信州領と決まったのだが、その決め手のひとつが諏訪神社の神事。信濃一ノ宮の諏訪大社御柱祭りに合わせ、7年に一度、この白池そばの神木に「なぎ鎌」を打ち込む、という神事である。信濃の神さまのテリトリーということが信濃領である、との証しである、と・池の畔の小さな祠にも歴史あり、ってことだろう(『北アルプス 小谷ものがたり』)。

国境紛争の原因が、たかが材木と言うなかれ。昔は材木や芝は重要なエネルギー源であり、建築資源。建築云々は言わずもがな、ではあるが、エネルギー源としては、たとえば武蔵野の雑木林。これは江戸の人々のエネルギー源確保のため、一面の草原を薪用の雑木林に変えていった結果の姿。利根川の舟運路開発も、物流もさることながら、燃料用の芝木を運ぶことにあった、と言う。
塩の道に関しても、木材は重要な意味をもつ。一般に「塩木」と呼ばれることもあるが、これは塩をつくるための燃料用木材の呼び名。原初は、山の住民が木材を川に流し、海岸端で拾い上げ、それで塩水を煮て自分用の塩をつくる。ついで、多めに木材を流し、海岸端の人にその木材で塩を塩をつくってもらい、材木提供との交換に塩を手に入れる。大量に塩をつくる専業業者が登場するころになると、木材を塩の製造に関係なく日用燃料の薪として売り現金を得、そのお金で塩を買うようになった、と言う。材木や芝を巡っての諍いも、昔は生活に直接かかわる重大案件であったわけだ。

諏訪神社の祠から池脇に下る。池を望む休憩所で一休み。池脇の清水、湧水なのだろうがいかにも美味しかった。ここでお昼。ホテルで握ってもらったおにぎりを食べる。美味。
食後、あたりをぶらぶら。休憩所の裏手に平地。「白池のボッカ宿跡」との案内。文政7年、というから1824年。その年の12月17日朝、戸倉山から大雪崩が発生。2軒の家が押しつぶされ、宿泊者の信州ボッカ15人中12人が即死、家人11人のうち9人も即死と言う大惨事が起きた。その後この地にボッカ宿がつくられることはなかった。平成6年に発掘調査が行われ、約170年ぶりにボッカ宿の全体像が現れた、と言うことだった。
[11時39分、標高634m]

尾根道合流点
白池を離れ次の目標「尾根道合流点」に向かう。といっても、地図に尾根道合流点といった地名があるわけではない。勝手に付けただけ。地図を見ると、白池から大久保、戸土に向かって尾根道っぽい道が北東に向かて走っており、途中大きく西に折れ、しばらく進み北に折れ、それからは一路、山口集落へと向かっている。
塩の道は、地図にはないのだが、白池から尾根道を離れ北に向かい、尾根道をショートカットするようにまっすぐ進む。一度谷に下りて、再び尾根道に上るのか、とも思ったのだが、ぐるっと回る尾根道筋も標高を下げており、結局は下りだけで済んだ。地図には載っていないルートなので、道に迷わないように、GPSに合流点のポイントを登録したりと、結構慎重に準備したのだが、それは杞憂に終わった。白池から20分弱で到着した。
[12時16分、標高563m]

日向茶屋
尾根道との合流点あたりまで来ると、風景も少し里めいてくる。道も山道ではあるものの、雑草が生い茂り、野道めいてきた。標高も530mほど。大網峠からは300mも下ったことになる。尾根道への合流点から10分強歩くと日向茶屋跡。ここは、白池にあったボッカ宿が雪崩れて壊滅した後、それに替わるものとして建てられた、と言う。
ところで、日向って日当たりのいいところ。対するものが日影。この地名は東北から関東・中部地方に多い地名。GISを使い、関東・中部地方の日向230例と日影133例の立地を解析したデータによると、日向、日影とも山沿いの地帯に分布するのは当然として、日向は標高が低く、日影は標高が高い。太陽光を少しでも多く取りたいと、日影は標高が高いのだろう。日向の斜方位は南、南東、南西。日影は北、北西、北東が多く、一部に東と南東。日向の傾斜は比較的緩やかであるが、日影は傾斜が急。日向では耕地としていることも多いので傾斜は緩やかではあろうし、日影の傾斜が急なのは、そもそもが標高が高いのだから当然ではあろう(『GISを用いた「日向」「日影」地名の立地の解析;宮崎千尋』)。GIS,GPSを使ったデータ解析は地形フリークとしては大変ありがたい。
[12時半、53m]

大賽の一本杉

20分ほどかけて、150mほど下る。道端に大きな一本の杉。塞の大神と呼ばれる。「塞の神」って村の境界にあり、外敵から村を護る神様。石や木を神としておまつりすることが多い、よう。この神さま、古事記や日本書紀に登場する。イサザギが黄泉の国から逃れるとき、追いかけてくるゾンビから難を避けるため、石を置いたり、杖を置き、道を塞ごうとした。石や木を災いから護ってくれる「神」とみたてたのは、こういうところから。
「塞の神」は道祖神と呼ばれる。道祖神って、日本固有の神様であった「塞の神」を中国の道教の視点から解釈したもの、かとも。道祖神=お地蔵様、ってことにもなっているが、これって、「塞の神」というか「道祖神(道教)」を仏教的視点から解釈したもの。「塞の神」というか「道祖神」の役割って、仏教の地蔵菩薩と同じでしょ、ってこと。神仏習合のなせる業。
お地蔵様問えば、「賽の河原」で苦しむこどもを護ってくれるのがお地蔵さま。昔、なくなったこどもは村はずれ、「塞の神」が佇むあたりにまつられた。大人と一緒にまつられては、生まれ変わりが遅くなる、という言い伝えのため(『道の文化』)。「塞の神」として佇むお地蔵様の姿を見て、村はずれにまつられたわが子を護ってほしいとの願いから、こういった民間信仰ができたの、かも。
ついでのことながら、道祖神として庚申塔がまつられることもある。これは、「塞の神」>幸の神(さいのかみ)>音読みで「こうしん」>「庚申」という流れ。音に物識り・文字知りが漢字をあてた結果、「塞の神」=「庚申さま」、と同一視されていったのだろう。
[12時49分、標高389m]

山口関所跡

一本杉から30分、標高を130mほど下ると山口の集落。姫川を出たのが8時半前。おおよそ5時間で到着した。今夜の宿は糸魚川。が、糸魚川へと向かうバスは午後4時過ぎに一便あるだけ。車道脇の山口関跡を眺めたり、塩の道資料館に向かって歩いたり、雑貨屋でスナックを買ったりするにしても、時間が十分ありすぎる。どうせのことなら、JR大糸線の根知駅に向かって歩こう、とは思うものの距離は直線でも5キロ弱。また、なんとか、かろうじてもってきた天候も山口集落に入ったころから、雨がぽつぽつ。ということで、集落内、スキー場のところにある温泉で時間をつぶす。
山口は文字通り、「山への入り口」、から。地蔵峠道にしても、大網峠道にしても、この山口を通ることになる。戦国時代、上杉と武田の攻防においては戦略的要衝の地であったのだろう。ために、この地に口留番所が設けられ、街道の「出入り口」での物流を「留め」、物品に税を課す。塩一駄(塩俵2俵)に対しては、塩二升程度。そのほか穀物や魚の種類毎に細かく税金が定められていた。
藩の大きな財源を番所で徴収するって、縦横に「道」が通っている現在では想像するのは難しい。が、昔は、往来できる道など数限られており、数少ない往来のほかは人も通れぬ森や林や草地や湿地。交通の要衝の地に関や番所を置いておけば、効率的に運上金・銀を回収できたのであろう。
ちなみに、中世の頃、道路は基本的に有料道路であった。道なき道を悪戦苦闘して通るより、関所でお金を払い、道を進む。とはいうものの、淀川沿いの道だけでも380か所の関があった、と言う。それはあまりにやりすぎ、そんなことでは経済の流れが止まってしまうと通行税を廃止したのが織田・豊臣。その後徳川の時代に設けられた関所も、「入り鉄砲と出おんな」といった、政治・軍事上の監視所であった、よう。番所での運上徴収って、昔の道の姿を想像して、少しリアリティを感じることがでいる、かと・[13時18分、標高256m]

糸魚川
温泉でのんびり時を過ごし、4時過ぎのバスに乗り、今夜の宿泊地のあるJR大糸線・姫川に。夕飯はホテルで、などと考えていたのだが、事前に申し込まなければダメ、とのこと。仕方なく糸魚川市内に出向く。
適当に食事を済ませ、町をぶらぶら。偶然に塩の道の起点の案内。案内に誘われ海岸端に。打ち寄せる波を見ながら、北前船によってこの地に運ばれ、塩の道を牛や人の背で運ばれた品々に思いをはせる。千国番所の記録によれば、塩や四十物(あいもの;塩肴や乾物)、越中の木綿、越中高岡お金物、能登の輪島塗、加賀九谷の陶磁器類、九州の伊万里・唐津が塩の道を通過した、と。
「塩の道」と呼ばれるほど塩が大量に運ばれるようになったのは、瀬戸内海で作られた塩が大量に運ばれるようになってから。糸魚川近辺の塩田で作られる塩もさることながら、瀬戸内で塩の大量生産が可能になり、「売るほど」塩が生産されるようになってはじめて、商品としての塩が塩の道を大量に運ばれるようになったのだろう。
塩の道を歩く前は、塩の道って、越後の塩を信濃に運び込む道のこと、と思っていた。が、実際は、地元だけでなく瀬戸内海からの塩が運ばれるようになって本格的な「塩の道」となる。
また、塩の道を運ばれたのは塩だけではない。塩や魚類、日用品などを信州へと、また信州からは山の産物を越後へと運ばれた物流の大幹線であった。塩の道は、大名が参勤交代などに往来した街道ではなく、物流専門の幹線道路。牛の背で運ばれたであろう高原の千国越え、人の背で運ばれたであろう険路の大網峠越えを体験した2日の散歩でありました。
5月も末の週末、2泊3日で塩の道・千国街道を歩いた。千国街道って、日本海側の糸魚川から信州の松本まで続く全長120キロにも及ぶ道筋。明治にいたるまで、日本海側からは塩や魚、信州側からは麻や木綿、タバコや炭などが人や牛の背により運ばれた物流の道である。今回歩いたのは、栂池高原から南小谷へと続く「千国越え」、それとその先、大網の集落から大網峠を越え山口集落に続く「大網峠越え」。合わせて20キロ程度の行程となった。距離としては全体の六分の一、といったところだが、「千国越え」も「大網峠越え」も、どちらも塩の道・千国街道散歩の代表的コース。千国越えは姫川西岸の高原山麓をゆったり・のんびりと歩くコース。大網峠越えは、姫川東岸・艱難辛苦の「峠越え」。結構変化に富んだふたつのタイプの散歩が楽しめた。

そもそも、塩の道散歩のきっかけは、義兄からのお誘い。昨年の初冬、「塩の道を歩きませんか」、と。同じころ古本屋で、『塩の道・千国街道物語;亀井千歩子(国書刊行会)』を買い求め、読み始めていた。奇しくも、はたまたなんたる因縁、というわけでもないのだが、街道歩き大好きなわが身としては、一も二もなく話に乗った。
さてと、塩の道を歩く、といっても、どこを歩けばいいのやら皆目見当がつかない。前述の『塩の道・千国街道物語』は塩の道にまつわる歴史や民俗についての学術書といったもの。とてものこと、お散歩コースを確定するといった実用書ではない。ということで、インターネットで情報を探し、データを補強するため書籍を探した。『塩の道一人行脚;宮原一敏(文芸社)』、『古道紀行 塩の道;小山和(保育社)』などを買い求め、あれこれ検討した結果が上に述べた、「千国越え」であり、「大網峠越え」というわけである。

コースは決まった。で、「道行きの日」ということになるのだが、さすがに初雪の峠越えは少々怖い、ということで、年を越し気候もよくなる5月ということにした。出発まで半年の準備期間。いきあたりばったりのお散歩を身上としているわが身には少々「まだるっこしい」のだが、宮本常一さんの『塩の道(講談社学術文庫)』(講談社刊の『道の文化』でも同じ記事を読んだ)を読んだり、『北アルプス 小谷ものがたり;尾沢健造他(信濃路)』を読んだり、『塩の道を探る;富岡儀八(岩波新書)』を読んだり、道があまり整備されていないかも、との恐れゆえGarmin社のGPS専用端末を購入したり、熊がでるかも、との恐れゆえ3000円ほど投資し、スイスのアーミーナイフ・VICTORINOXを購入し、熊と戦うシミュレーションを繰り返し行うなど、それなりに熟成期間を楽しみ出発の日を迎えた。(2009年9月の記事を移行)



本日のルート;大糸線白馬大池駅>「千国越え」のスタート地点・松沢口>百体観音>前山>沓掛>親坂>親沢>千国番所跡>千国諏訪神社>源長寺>黒川沢>大別当小土山>三夜坂>南小谷

大糸線
5月23日(土曜日)、千国越えコースの始点のある、栂池高原スキー場へと向かう。最寄りの駅は大糸線白馬大池駅。新宿発午前7時のスーパーあずさで松本駅に。松本からは大糸線に乗り換え大町に。大町で再び大糸線に乗り換え白馬大池に向かう。
この大糸線、昭和のはじめ、大町から北に向かって建設がはじまった。で、糸魚川につながったのは昭和32年。戦時中には工事が止まるばかりではなく、敷設された線路や鉄橋までも戦地で使うために取り外されるなど、紆余曲折をへての完成であった、とか。
大糸線の完成が塩の道・千国街道の物流ルートとしての役割に与えた影響はあまり、ない。明治23年には姫川に沿って道が完成し、馬車による塩の運搬が可能となっているし、それよりなりより、明治22年には中央線が名古屋から松本まで開通し、名古屋経由で瀬戸内の塩か運搬されるようになっている。糸魚川からの塩(北塩)は既に、その歴史的割を終えていたわけ、だ。
ちなみに大糸線って、大町から糸魚川と思っていたのだが、実際は松本から糸魚川まで。これは、「松本から大町」を走っていた私鉄が戦時中の国策で国有化され「大町から糸魚川」を走っていた国鉄と一体化したため、と。

大糸線白馬大池駅
午前11時過ぎに白馬大池駅に。駅は無人駅。駅前を流れる姫川のほかにあたりに何も、ない。川の向こうに河岸段丘が迫る、のみ。有名な栂池高原スキー場へのアプローチ駅であり、土産物屋のひとつもあるだろうし、そこで食事でもなどと目論んでいたのだが、駅前の店もシャッターを閉じている。
食事は我慢するとしても、困ったのは足の便。乗り合いバスはない、ということはわかっていたのだが、駅から千国越えコースのスタート地点まではタクシーでも、などとのお気楽に考えていた。少々甘かった。ということで、スタート地点の栂池高原・松沢口へと歩くことに。距離は3キロ弱、比高差は300mといったところ、か。[大糸線白馬大池駅;11時21分、標高592m]


駅前を離れ、姫川を渡る。川に沿って国道148号線を越えて高原へと続く道へと進む。川床より河岸段丘に這い上がる、といった感じ。道は曲がりくねる。歩き始めるとすぐに、いかにもショートカットといった畦道。これはいい、と進んだ瞬間、道に蛇。蛇はご勘弁、ということで退却を、とは思うのだが、パートナーは少々強気。渋々後を追い、とっとと本道に戻る。30分ほど歩くと、道脇に「そば」の幟。古民家を改築したような趣のある建物。一時はお昼抜きを覚悟したパーティ二人、迷うことなくお店へと。
しばし休息の後、再び歩を進める。曲がりくねった車道を上る。30分も進むと峠を越える。眼前には北アルプス、そしてその山麓にスキー場が広がる。目指す栂池高原スキー場である。雄大な眺めをしばし楽しむ。
山裾に広がるスキー場のあたり、峠と北アルプスの山地の間は、お椀の形のような窪んだ地形になっている。『北アルプス 小谷ものがたり』によれば、往古、姫川はこのあたりを流れていた、と。急峻な北アルプスからの流れにより、気の遠くなるような時間をかけて形成された扇状地が、姫川の流れにより、これまた気の遠くなるような時間をかけ、やや幅広い谷がつくられる。そして、その後再び浸食をはじめ、さらに深い谷(現在の姫川)がつくられた。
現在、扇状地や広い谷の一部が川岸に沿って二、三段の河岸段丘となって分布していると言われるが、スキー場一帯の平原というか、高原は、その扇状地の名残か、はたまた、広い谷となって残る高位段丘面であろう、か。[峠;12時20分、標高807m]


「千国越え」のスタート地点・松沢口
峠より、少し窪んだ高原に向かって道を下る。ほどなく道脇に「千国街道」の標識。千国越えコースのスタート地点・松沢口である。千国街道は、この松沢口から南へと山裾を進み、姫川に沿って南に下るが、千国越えはこの地より北に向かうことになる。
千国越えの始点なっているこのあたりは親の原と呼ばれる。昔は共同の茅場であったようだが、現在はスキー場のゲレンデだろう。フラットな平地が広がる。親の原の名前の由来は、親王原から、との説がある。その昔、この地に後醍醐天皇の皇子である宗良親王が足跡を残したから、と。大町を中心にこのあたり一帯に覇を唱えた仁科氏は南朝方の武将。南朝方の総帥として伊那谷を拠点に各地を転戦した宗良親王が仁科氏を頼ってこの地に来ることは大いにあり得る。
とはいうものの、親の原には湿原を現す「ヤチ」に由来する、といった説もある。「オオヤチハラ>オオヤノハラ>オヤノハラ」ということだ。現在でも近くに湿原が残っておるとのことだし、その昔、ここを姫川が流れていたとすれは、この説も捨てがたい。はてさて。ともあれ、歩を進める。[松沢口;12時39分、標高800m]

百体観音
松沢口からゲレンデの中の一本道をしばし進む。右側に小高い山が迫るあたり、道脇に石像が並ぶ。百体観音と呼ばれている。江戸の頃、高遠の石工によってつくられた。もともとは、街道の各所に置かれていたようだが、明治期の道路改修のとき、この地に集められた、とか。現在でも80体近くの観音様の石像が残る。
百体観音というのは、百観音巡礼のための観音さま。百観音巡りの思想は平安時代には既があったようだが、百観音とは通常、西国33箇所、坂東33箇所、秩父34箇所の、合わせて百の観音霊場巡礼を指す。百観音霊場巡りの記録は1525年に登場するから、そのころまでには百観音霊場信仰はそれなりに普及していたのではあろう。
平安貴族の西国、鎌倉武家の坂東、江戸庶民の秩父と配列の妙もある。とはいうものの、庶民がおいそれと全国を巡礼するわけにもいかないわけで、その代わりにつくられたのが「うつし百観音巡礼」。庶民が「余裕」をもってきた江戸期のことだろう。この地の百体観音も東国各地に残るそのひとつ。道すがら、ちょっと手軽にその功徳を、といったところだろう、か。

その観音さまを彫った石工のこと。高遠の石工って、散歩の折々に登場する。先日、五日市・秋川筋を歩いていたとき、伊奈の町で出会った。伊奈は石工で名高い。江戸城築城のとき、石垣を組んだのは伊奈の石工と言われる。高遠の出であった、という。

で、何故に高遠が石工で名高いか気になった。調べてみると、高遠の地にはこれといった産業がなかった。ために、大量に産出される石材を使い石工、石屋が盛んになった、と。物事の発達には、それなりの理由がある、ということ、か。そう言えば、宮本常一さんの『塩の道』の中に木地つくりで名高い近江の永源寺町の記事があった。そこは、木地つくりに欠かせないいい鑿がつくれるところであり、その鏨をつくるためのいい鉄の産地であった、と言う。物事には、それを生み出すそれ相応の「理由」がある、ということ、だ。

前山
右手に続く小高い「山地」に沿って歩を進める。百体観音って、前山の百体観音と呼ばれる。ということは、この小山は前山であろう、か。地形図をみると標高873mある。山地は段丘面の端を南北に連なる。先端が盛り上がった地形は段丘面としては少々異な印象がある。ひょっとすると、これって、往古の「土砂崩れ」の名残り?山の中腹斜面が窪み、その下方に地すべりで盛り上がった地形というのが小谷の風情、とか(『北アルプス 小谷ものがたり』)。小谷は地すべり頻発の地で名高い(?)。その要因はこの地を南北に貫く大地溝帯、フォッサマグナの地質と地形に大いに関係があるよう、だ。
フォッサマグナとは日本を東西に分断する大地溝帯。実のところ、このメモを書くまで、フォッサマグナって、姫川の谷筋=線のこと、と思っていた。この谷筋が日本の地形が東西に分断するラインであると思っていた。が、実際のフォッサマグナは大地溝帯と呼ばれるように幅100キロの「面」。西端は北アルプスの山の連なり。「糸魚川・静岡構造線」と呼ばれる。東端は上信越・関東山地の連なり。こちらは西端のように鮮明ではなく、「直江津・柏」のラインなど諸説あるようだ。

フォッサマグナ東端の詮議はともあれ、西端はこの小谷のあたり。2億年のその昔、北アルプス・中央アルプスを境として、その東の大地が幅100キロにわたって陥没し海となる。北アルプスの山並みを考慮すれば、深さは数千メートルになるだろう。陥没し海底に沈んだ「溝」には北アルプスや中央アルプスの山並みから大量の土砂が流れ込み海底に厚い地層をつくった。その後、2000万年ほど前、海底が松本・諏訪方面から隆起をはじめた。この小谷のあたりも1000万年前ころ隆起をはじめ山地となった。これが姫川の東に連なる山々・小谷山地である。小谷山地に限らず、北アルプス・南アルプスと上信越・関東山地の間にある山々は、陥没した地形・フォッサマグナの上に盛り上がった山地ということ、だ。

で、この小谷山地であるが、その地質は砂岩とか泥岩からなる。海底に蓄積された土砂からできたものであり、年代も1000万年と比較的(?!)新しい。当然のことながら、地質はもろく、浸食されやすい。しかも小谷山地の地形が造山活動の圧力で曲がりくねり、急傾斜となった。小谷が地滑りの要因がフォッサマグナにその要因がる、というのはこう言うことである。物事には、それ相応の理由がある、ということ、か。実際、姫川筋では昭和36年から48年の間に20回もの大規模地滑りが記録されている。
フォッサマグナへと少々寄り道が長くなった。長くなったついでに、姫川西岸の土砂崩れについて。実際、土砂崩れは西側でも起きている。代表的なものは明治に大災害をもたらした稗田山の崩壊。大量の土砂によって姫川筋の川床が65mも盛り上がり、大きな湖ができた、と言う。北アルプスの山々は2億年の年月を経た硬い結晶片岩といった硬い土質が中心だが、白馬山の北あたりは少々地質の軟弱。しかも火山帯の断層面が走るため、土砂崩れを起こしやすい、とのことである。現在でも土砂崩れのたびに道路が寸断され交通が遮断される。昔はもっと頻繁に災害にみまわれたのであろう。千国街道も姫川筋を避け、比較的安定している尾根道、峠越えのルートがいくつもある。そのことが少々のリアリティをもって感じられてきた。塩の道散歩へと先を急ぐ。

沓掛
左手に北アルプスを眺めながら、前山(?)の山裾を1.キロ強進むと舗装された道路にあたる。沓掛の集落である。と、ほどなく道脇に牛方宿。塩や魚類を背に、街道を往来した牛とその手綱をひいた牛方のお宿。藁ぶき屋根のこの建物は19世紀初頭のもの、と言う。

牛は明治になって、姫川筋に馬車道が通るまで、千国街道における「大量輸送」の主役であった。6頭から7頭をひとつのユニットとして、背に塩俵2表をのせた牛が街道を往来した。塩の道も、松本から南の街道では輸送の主役は馬である。千国街道が馬ではなく牛が使われた理由は、その地形から。難路、険路の続くこの千国街道では「柔」で「繊細」な馬では役に立たなかったのだろう。しかも、馬に比べて牛はメンテナンスがずっと簡単、と言う。馬のように飼葉が必要というわけでもなく、路端の「道草」で十分であった、とか。
それでは、どのくらいの牛がこの街道を往来したのか。詳しい資料はわからないが、糸魚川の3つの問屋に、1日300頭の牛が集まったという記録がある(『塩の道 千国街道物語』)。トラック300台の物流スケールと考えれば、結構な規模感、かも。[沓掛;13時3分、標高772m]

親坂

牛方宿を離れ車道を少し進む。道が大きくカーブするあたりに千国街道の道標。脇に庚申塚。道はここから車道を離れ、坂を下る。親坂と言う。名前の由来は、千国越えのスタート地点であった親の原に続く坂、とのこと。そういえば牛方宿のあった沓掛って地名も、親の里と同様に、この親坂と大いに関係ありそう。沓とは牛や馬にはかせる「わらじ」といったもの。坂道にさしかかる手前で沓を履き替え、履き替えた沓を道中の安全を祈って木などに掛けた。難路・親坂の手前で、沓を掛けたところだから沓掛とよばれたわけだ。
坂を下る。石ころ道で少々足元に注意が必要。坂道の途中に「弘法の清水」、「錦石」、「牛つなぎ石」といった案内が。弘法大師が錫杖を地面に立てたところ、あら不思議、水が湧き出た、という弘法の清水って全国に数百ある。四国八十八箇所の札所だけでも8箇所ある、と言う。この清水、上段が人用で下段が牛用。佇む弘法大師像は安永3年というから、1774年の作。親坂のことを清水坂と呼ぶこともあるようだが、それって、この弘法の清水からきているのだろう。
錦岩は、天候によって石の色が変化するとか、しない、とか。牛つなぎ石は、牛の手綱を通す穴のあいた岩。散歩をしていると、牛ばかりではなく馬をつなぐ石にも折に触れて出会う。駒繋ぎ石と呼ばれている。[親坂;標高761m]

親沢
急な坂を下っていくと沢に出る。親沢と呼ばれる。沢にかかる橋の手前に石仏群。馬頭観音が佇む。牛馬へのご加護を祈ったのであろう。親沢は乗鞍岳東麓を源流とし千国で姫川に合流する。この沢には何箇所か滝がある、と言う。滝って、川や沢による谷筋の開析が、もうこれ以上進めない、というところ。滝の上流の地質が硬く削れないのだろうか。はたまた、下流の開析のスピードに上流部分がついていけず、一時的に段差ができているだけなのだろう、か。下流の姫川って、名にしおう暴れ川。1000分の13の勾配で流れる川である。とすれば、後者の可能性が強いように思うが、はてさて。
ともあれ、こういった段差って、地すべりのもと、である。事実、昭和14年にこの親沢で大規模な地すべりが起きた。とはいうものの、このときの地滑りは姫川対岸の風張山が崩れ、その土砂が親沢地区にまで押し寄せた、とのことである。[親沢;標高658m]

千国番所跡
沢を渡り県道千国北城街道に出る。舗装された道を下ると千国の集落。集落の中ほどに千国庄資料館。いくばくかのお代を払い中に。千国番所跡や塩倉があった。昔ながらの民家の風情を残す資料館の炉端に座り、千国街道のビデオを見ながら、しばし休憩。

この地の歴史は古い。はじめて開かれたのは平安の頃。平将門を征伐した藤原秀郷、と言うか、むかで退治で名高い田原(俵)藤太の子孫と称する田原千国がこの地を開拓した、と。鎌倉期には白川上皇の長女の御所である六条院の荘園・千国庄となる。地方豪族の税金逃れとして荘園を寄進したのだろう、か。実際、大町に覇を唱えた仁科氏は伊勢神宮に領地を寄進し、「仁科御厨」として税金対策を実施している。で、六条院が亡くなった後は、その菩提寺となった万寿院領に組み入れられる。その時の実際的支配者は仁科氏の支族、というから千国庄が地方豪族の税金対策って空想も案外当たっている、かも。で、千国は領地支配の役所である政所としてこの地方の中心地となった。

戦国時代には武田方により口止番所が設けられる。信濃領最北の要衝の地として、千国街道の往来に睨みをきかせることになる。江戸時代は松本藩の番所として、一日千荷駄と言うから、俵にして2000俵が行き交う。が、明治になり、姫川筋に馬車道が作られて以降は経済・流通の幹線から外れ、静かな山村として今に至る。

千国街道が、この重要拠点であった千国の地名に由来することは、言うまでも、ない。この「ちくにみち」が歴史上に登場したのは平安期。六条院領となり、領主の住まいする京の都との往来に使われたのだろう、か。実際、大町の豪族仁科氏、京に対する憧れも強く、大町を京風に仕上げたようなのだが、それはともあれ、京との往来は越の国、つまりは新潟とか北陸経由であった、と言う。千国街道を往来したことだろう。鎌倉期になると、信濃や越後は鎌倉幕府の領地となる。当然のこととして、越後と鎌倉との往来が盛んになる。政治・経済、そして軍事上の道として、千国街道はその「存在感」を強めたこと、だろう。

千国街道が「塩の道」として歴史に登場するのは永禄年間というから16世紀の中頃。全国に幾多の塩の道があるなか、この千国街道が「代表的」となったのは、上杉謙信の義塩のエピソード。今川氏との対立のため太平洋側からの塩(南塩)が止められた宿敵・武田信玄に対し、塩を送った、と。この美談、実際に「お助け塩」を送ったといった記録はないようだ。が、信濃への送塩を意図的に止めることもなかった、よう。とはいうものの、後世信州の松本藩が南塩の搬入を禁じ、北塩のみを受け入れた時期が長かったことを考えると、信濃の人が越後に恩義を感じる、何かがあったの、かも。ちなみに、「塩の道」という言葉が定着したのはそれほど昔のことではない。20~30年程度前のこと。地元の有志が千国街道の整備をはじめ、観光資源としてPRし始めた頃のこと、と言われている。[千国番所跡;13時34分、標高620m]

千国諏訪神社

千国番所跡を離れ、先に進む。千国の集落を少し進むと道はL字に曲がる。趣のある民家を眺めながら道なりに進むと小谷小学校。道の下に国道148号線が接近する。千国越えは、小学校を越えたあたり、街道案内の道標を目印に脇道に入る。少し進むと千国諏訪神社。
千国諏訪神社の祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)。信濃国を開いたという神である。父は出雲の大国主命(おおくにぬしのみこと)。出雲の神であった建御名方命が国譲りを潔しとせず、出雲を追われて科野(信濃)に逃れるが、その際の経路として、越(高志)の国・新潟から、姫川を上った、と。母は姫川の由来ともなった奴奈川姫(沼河比売)である、ということでもあるので、建御名方命の姫川遡上説は、神話ではあるが、ストーリーとしては違和感が、ない。実際、姫川筋には20もの諏訪神社がある、と言う。[千国諏訪神社;14時10分、標高588m]

源長寺
諏訪神社を離れ、細路を進む。ほどなく源長寺。おおきな道祖神、庚申塔わきの石段を上る。六地蔵、筆塚、子持ち地蔵、西国33観音像などが境内に。元亀元年というから室町末期、16世紀後半の開基。開基の洞光和尚は小蓮華(2766m)に大日如来をまつったことで知られる。小蓮華山は新潟県で最高峰の山。大日如来故に、大日岳とも呼ばれる。数ヶ月前、新田次郎さんの『槍ヶ岳開山;文春文庫』を読み終えた。3180mの鋭峰を開く幡隆上人の物語。上人たちは、天に聳える高峰に清浄静寂な極楽浄土を見るのであろう、か。ちなみに、幡隆上人は飛騨の霊峰笠ケ岳(2898m)も開いている、
それはともかく、この源長寺は赤蓑騒動で知られる。凶作に苦しむ姫川筋の農民が蜂起。一時は千国番所を打ち破り南に下る勢いであったが、この寺の和尚が宥め、暴徒化することを鎮静化させた、とか。今は、なんということのない静かなお寺さまではあるが、往時、この小谷の地の中心的なお寺さまであったのだろう。

黒川沢
源長寺の前の道を進む。山に向かっている。どうも、この道ではないよう。源長寺前に戻り、古道らしき道筋を探す。パートナーが崖下に道標を見つける。千国越えで唯一、道に迷ったところであった。崖下の細路を進む。小谷中学校の裏手といったところ。沢筋まで進む。道は沢筋を右手に眺めながら、少し上流に進み簡易な木橋で沢を渡る。この沢は黒川沢と言う。[黒川沢;14時34分、標高593m]

大別当
黒川沢を渡り、大別当へと向かう。沢を上ると田圃の畦道と言った道筋となる。眼前に姫川東岸の山々・小谷山地が開ける。心持ち丸みを帯びた山容である。柔らかい地質故に浸食されたものだろう。硬い地質でできている北アルプスの急峻なゴツゴツした山容と比較すると、2億万年の風雪に耐え枯れた風情の北アルプスと、たかだか(?)1000万年ほどの、軟な風情の小谷山地、と言ったこところ、か。
道を進むと大別当の集落に。大別当って、結構ありがたそうな名前。「別当」とは、お寺を仕切る事務長さんといったものだが、政所の長官と言った使い方もあるようだ。千国には六条院の政所があったわけで、それとなにか関係ある地名だろう、か。千国越え始点の親王原しかり、また、近くの中土地区には御所平という地名もある。今は静かな山里ではあるが、往時、やんごとなき方々がこの地を往来したのだろう
路傍に石仏、庚申塚、道祖神。大別当石仏群と呼ばれる。先に進むと杉林に入る。東斜面を、少しづつ下る。30分ほどで小土山(こづちやま)集落に出る。[大別当;14時42分、標高646m]

小土山
穏やかな山麓の集落といった風情の小土地のあたりも明治32年、そして昭和46年と大規模な地滑りに見舞われている。姫川西岸から崩れた土砂は姫川を堰き止めた。行き場を失った姫川の流れは、川に沿って通る国道に押し寄せ、道の両側に連なる家々に被害をもたらした、と(『北アルプス 小谷ものがたり』)。
集落の中ほどに石仏群。庚申塔などの石仏が佇む。千国越えの道すがら、結構、庚申塔を見かけた。庚申信仰の「記念」として60年に一度石塔をたてる、とか。庚申信仰って、あれこれ説があってややこしいが、60日に一度、庚申の日、体内にいる「「三尸説(さんしせつ)」という「なにもの」かが、寝ている間にその者の悪しきことを天帝にレポートする。そのレポートの結果寿命が縮むことになるので、寝ないで夜明け待つ、という。日待ち、月待ち信仰のひとつ、と言う。信仰もさることながら、娯楽のひとつであったのだろう。[小土山;14時52分、標高594m]

三夜坂
風景の開けた小土山を先に進むと杉林に。曲がりくねった坂を下る。この坂を三夜坂と言う。
道脇の少し小高い構えの中に二十三夜塔。二十三夜待ちは月待ち信仰のひとつ。三日月待ち,十三夜待ち,十六夜待ち,十七夜待ち,十九夜夜待ち,二十二夜待ち,二十三夜待ち,二十六夜待ちなどといった月待ち信仰の中で最もポピュラーなもの。満月の後の半月である二十三夜の月が「格好」よかったの、か。皆一緒に月を待つ。庚申待ちと同じく、ささやかな娯楽ではあったのだろう。二十三夜待ちは三夜待ちとも言う。三夜坂の名前の由来だろう。

南小谷
三夜坂を下り国道148号線に出る。南小谷に到着。特急停車の町と言うには、少々静か。山間の町である。小谷の名前の由来は諸説ある。「麻垂」はそのひとつ。麻を垂らす、の意。昭和のはじめ頃までは、小谷の地は麻の名産地であった、とか。
国道の沿って少し進み、おたり名産館や小谷郷土館をひやかし、姫川筋に。両岸の緑が美しい。対岸にある南小谷駅で糸魚川駅行きの電車を待ち、本日の宿泊地である姫川温泉に向かう。本日の散歩はおおよそ4時間、11キロ。

千国越えで気になったのは石仏の多いこと。道祖神とか庚申塚といったものは散歩の折々で目にするのだが、観音さまの石像が多いのが目に付いた。信州は観音信仰が盛んであったとよく言われる。六条院領など親王の領地であったことが京との往来を盛んにし、西国33観音信仰といった観音信仰をもたらしたのか。鎌倉期、信濃は鎌倉幕府の領地。観音信仰がひとかたならぬ将軍頼朝の影響、か。はたまた、その鎌倉幕府が庇護し全国区となった善光寺さんの影響か。よくはわからないが、はっきりしていることは「牛にひかれて善光寺詣り」の牛って観音様の化身。それであれば、幾多の観音様が道端に佇むのは大いに納得。さて、明日は大網峠越え、となる。[南小谷;15時23分、標高502m]
北杜市散歩2日目。天候は曇天の昨日とは打って変わり快晴。南には甲斐駒ケ岳を中心に南アルプスの山稜、その東には冠雪の富士、北東の方角には奥秩父の山々、北を見やると八ヶ岳が聳える。誠に素晴らしい景観である。小淵沢に移宅したM氏に限らず、八ヶ岳山麓に移り住む友人・知人が多いのだが、その理由の一端を垣間見た思いである。








さて、本日は快晴の中、四方に山々を見やりながらの散歩となる。ルートは小海線の甲斐小泉駅近くに車を停め、すぐそばの「三分一湧水」からはじめ、武田信玄が信濃攻略のため開いたと言う軍用道路・棒道を辿る。棒道の途中には女取湧水から流れ、八ヶ岳山麓の村々の田畑を潤した女取用水路にも出合えそうである。
信玄の棒道は八ヶ岳山麓を縫って進み、西麓の原村から大門峠へと進み、信濃へと向かうわけだが、今回は車を停めてある甲斐小泉まで戻る必要もあり、八ヶ岳高原ラインあたりで棒道から離れ南に折れ、成り行きで甲斐小泉まで戻ることにする。








本日のルート;甲斐小泉駅>高川>三分一湧水>小荒間古戦場跡>小荒間番所跡>棒道>女取湧水の用水路>火の見跡>手作りパンの店虹>八ヶ岳高原ライン・馬術競技場入口交差点>延命の湯>甲斐小泉駅

高川
M氏宅を離れ、甲斐小泉駅近くの「三分一湧水」に向かう。甲斐小泉駅のすぐ西を流れる高川(こうかわ)脇にパーキングスペースがあり駐車。高川は八ヶ岳南麓を流れる九つの川、東から大門川、川俣川西沢・東沢、西川、甲川(油川)、鳩川(泉川・宮川)、大深沢川(高川、古杣川、女取川)、小深沢川、甲六川のひとつ。標高1300mを境にその上部は深い谷、下流は裾野を直線に下る。八ヶ岳南麓には標高500mから1000m地帯に集落と農地が広がるが、これらの河川は、標高1500mから1000m付近で地表に現れる湧水とともに八ヶ岳南麓の集落や農地を潤す。

三分一湧水
高川の東に緑の一帯が広がる。森に入る前に、森の東にある「三分一湧水館」に向かう。そこには大きな駐車場もあった。湧水館にはお土産・お休み処のほか、三分一湧水に関する資料館がある。棒道に関する小冊子(『棒道の本;北杜市郷土資料館』。以下の記事作成の参考にさせて頂いた)を買い求める。湧水館の2階は南アルプスの眺望が楽しめるとのことであるが、道すがら十分にその姿を堪能しているのでパスし、森に向かう。
駐車場脇に「三分一湧水」の案内:『三分一湧水;名前の由来は、その昔、湧水の利用をめぐり長年続いた水争いを治めるため、三方の村々に、三分の一づつ平等に分配できるように工夫したことからきています。湧水は、 利水権を持つ地区住民で組織する管理組合や地元住民によって管理され、農業用水として重要な役割を果たしています。湧水量は、1日8,500トン、水温は年間を通して摂氏10度前後を保っています』、とある。

成り行きで森に入る。「三分一湧水公園」として整備されていた。森の中を水路が流れる。水路に沿って進むと少し平坦になったところに分水の地があった。縦4m弱、横5m弱の石組、と言うか、一部コンクリートつくりの枡形の池に奥から水が流れ込み、用水路が三方に分かれている。造りをよく見ると、奥から流れ込む水は枡形の石組みの中に設置された三角形の石にあたり、撹拌され三方に分水する役を果たしているようである。三方の用水路の分水口の幅は61cmとなっている。
世に、三分一湧水は、村々の水争いを調整すべく武田信玄が造った、と伝わる。湧出口の分水枡に三角石柱を立てて、水を3等分するようにした、とのことである。が、実際に現在ある石は昭和22年(1947)に設けられたもの。また、分水施設の原型がつくられたのは、江戸時代中期に起こった水争いがきっかけだったようだ。当初は木造の施設で、水を配分する石も普通の自然石だった、とか。施設が石積みのものになったのは大正12年(1923)。昭和19年(1944)に現在見られる施設が完成、昭和22年(1947)に石が現在の三角形のものに置き換えられたとのことである。

湧水点がどのようなものか、枡形から先へと進む。水路の先には窪地があり、窪地の中から水が湧き出ている。1日の湧水量は8500トンほど、とのこと。すぐ脇を高川が流れているので、その伏流水かとも思うのだが、大泉町の大泉大湧水(標高920m),八衛門出口(標高1,000m),鳥の小池(北杜市大泉町谷戸),鳩川湧水(標高1,240m)。長坂町の女取湧水(1,160m)。小淵沢町の大滝湧水(標高820m;日本名水百選)延命水,勘左衛門湧水(八ヶ岳アウトレット内),井詰湧水(標高950m)などとともに八ヶ岳山麓湧水群と称される。とすれば、この辺りの標高が1000mと言うから、八ヶ岳山麓に降った雨水が50年から60年の歳月をかけて、不透水層が地表に現れるこの地に湧き出たのではあろう。
森の中を彷徨と顕彰碑。『三分一湧水と水元坂本家;三分一湧水は古くから下流集落の生命の源泉であり、住民はこれにより田畑を耕やし、くらしを立ててきました。三方向に等量に分水する独特の手法は、争いを避けるための先達の知恵であり、学術的にも高く評価されています。そのような歴史の中で、二十六代を数える旧小荒間村の坂本家は、累代、「水元」と敬称され、湧水の維持はもとより、村落間の和平を維持するために心を砕かれてきました。今も毎年六月一日に、同家を主座に関係集落立ち合いのもと分水行事が行われるのはその故です。平成十四年七月甲府市にお住まいの坂本家当主静子様には町の懇望に応え、三分一湧水周辺一帯の所有地をお譲り下さることになりました。ここに本湧水と水元坂本家の由来の一端を記し深く感謝の意を表します。 平成十五年三月三十一日 長坂町』とあった。
八ヶ岳南麓の北杜市高根町、大泉町、長坂町、小淵沢町は標高600mから1000mの間に谷地田が広がり山梨県内でも屈指の稲作地帯となっているが、それにはこの顕彰碑に刻まれたように、八ヶ岳山麓からの湧水や河川を管理しそれを活用する村人の努力の賜物ではあろう。「三分一湧水公園」は坂本家より寄付された地を整備したものである。

小荒間古戦場跡
三分一湧水を離れ信玄の棒道に向かう。途中、甲斐小泉駅の東に小荒間古戦場跡がある。ちょっと寄り道。古戦場跡は何ということもない、少々荒れた林の中にある。中に足を踏み入れると信玄の御座石、遠見石、刀架石、鞍掛石などと称する石が点在する。ここは信濃の村上義清の軍勢と信玄の軍勢で行われた合戦の際、信玄が本陣を敷いたところ、と伝わる。

村上義清は信濃の武将。長野県上田市と千曲市の間にある長野県埴科郡坂城町の葛尾城に生まれ、信濃東部、北部を勢力下に版図を拡げる。信玄との敵対する端緒は信玄による父武田信虎の追放劇。信濃東部攻略の盟友として共に戦った信虎を庇護し信玄と相対峙することになる。
当初は武力で信玄を圧するが、真田氏による義清の家臣の調略などにより力を失い、最後は上杉謙信を頼って越後に落ちのびることになる。信玄と謙信が戦う川中島の合戦の「遠因」のひとつが義清と信玄の抗争、とも言える。 このプロセスの中で起きた小荒間合戦であるが、時期は天文9年(1540)。天文17年(1548)の上田原の合戦(長野県上田市)、天文19年(1550)の砥石城の合戦(長野県上田市)で義清が信玄に完勝している時期であるので、義清の覇が盛んな頃である。
小荒間合戦では3500余の軍勢を率いてこの地に侵入した義清勢に対し、信玄は旗本だけを率いて出陣し勝利を収めた、とのことである。

小荒間番所跡
古戦場跡の林の中を彷徨と、踏み分け道が小海線方面へと続く。棒道の名残かとも思い、先に進み簡易踏切で小海線を渡り成り行きで道を辿るも結局車道に出る。何ということもない踏み分け道であったようだ。車道を下り、小海線のガードをくぐり高川を越え、再び小海線を越えて北に進むと道の分岐点に小荒間番所跡があった。
石垣に囲まれ石灯籠や道祖神の小祠が佇む番所跡に「小荒間口留番所」の案内。「国境で旅人や物資の移動を監視するのが口留め番所です。江戸時代甲斐の国には25か所存在していました。小荒間口留番所は天文年間(1532-55)に信州大門峠へ通じる棒道(大門嶺口)に設置されたものといわれており、江戸時代には近隣の農民が村役で警備を担当する番役に当たりました。
門(高さは3.6m) 矢来(門をはさんで左右は10m) 茅葺屋根の番所小屋(5.4m×3.1m)などからなり、明治になると民間に払い下げられ、さらに1933年(昭和8年)の小海線の開通によって移築され、消失しました」とあった。元はガードの辺りにあったようだ。

棒道
道脇にあった「棒道(大門嶺口)」によると「棒道とは、戦国時代、甲斐の武将武田信玄が北信濃(長野県長野盆地)攻略にあたって開いた軍用道路。八ヶ岳西麓をまっすぐに通じていることから、棒道(ぼうみち)と呼ばれる。 棒道には上中下の3筋あり、小荒間地区を通るこの道は「上の棒道」に当たる。逸見路の穴山(現韮崎)から分かれ若神子新町(現北杜市須玉町)、渋沢(現北杜市長坂町)、小荒間を経て、立沢(現長野県富士見町)を通り大門峠に出て、長野盆地への道と接続する。「上の棒道」が実際に侵攻につかわれたかどうかは不明である。
江戸時代末期、この地域の棒道沿いに一丁(約109m)おきに30数基の観音像が安置されたことから、現在に棒道の一部が残された」とあった。
「上の棒道」をもう少し詳しくチェックするに、甲府から進む穂坂路(別名川上口ともいう。茅ヶ岳山麓を横断し、甲府と信州佐久の川上とを最短距離で結ぶ古道。)から分かれた逸見路(別名諏訪口とも言う。甲州街道開設以前は諏訪方面に至る重要な交通路であり、しばしば軍用道路としてされた)を進み、穴山(現韮崎)で逸見路から分かれ、北に向かい若神子新町(現北杜市須玉町)、渋沢(現北杜市長坂町)、大八田(現北杜市長坂町)、白井沢(現北杜市長坂町)、谷戸村(現北杜市大泉町谷戸)を経て小荒間に続く。
「中の棒道」は大八田で「上の棒道」と分かれ、大井ケ森(現長坂町)を通り。小淵沢を経て葛窪(長野県富士見町)から立沢に向かい、「上の棒道」と合流する。「下の棒道」は逸見路から渋沢、小淵沢を通り、蔦木・田端(長野県富士見町)に抜ける(異説もあり)。
棒道がいつごろ整備されたのかは不明である。不明ではあるが、天文21年(1552)に信玄が「甲府から諏訪郡への道を造ること。そのため架橋用に木材の伐採を許可している」との文書(「高見澤文書)がある。天文21年とは有名な川中島の合戦の前年である。



信玄が諏訪一帯を制圧し、その後30年におよぶ信濃攻略を開始したのは天文11年(1542)のこと。天文11年(1542 )、現在の長野県富士見町一帯で、武田信玄と信濃4将(諏訪頼重・小笠原長時・村上義清・木曾義昌)が戦った「瀬沢の戦い」で信玄が信濃勢に初めて勝利、また同年の「大門峠の戦い」で信玄が村上義清・小笠原長時を破ったときも、そのルートはともに「大井ケ森」を通る道筋を進軍したようであり、その道筋は所謂「中の棒道」と称されるものである。
これら諏訪勢との合戦に使われた「中の棒道」は、棒道とは言うものの、この道筋は古くから諏訪方面に通じる道筋であったようであり、軍用道として新たに切り開いたものではないようである。結局のところ、諏訪一帯を制圧し、本格的に北信濃攻略に臨むに際し、諏訪盆地攻略には有効であるが、善光寺平のある北信濃に出るには遠回りとなる大井ケ森を通る道ではなく、大井ケ森より標高の高いこの小荒間を通り八ヶ岳山麓を直進する道を新たに切り開いたのではないだろう、か。とすれば、高見澤文書にある天文21年頃が、軍用道として新たに切り開かれた「棒道」が出来た時期ではないだろうか(『棒道の本;北杜市郷土資料館』)、と。

観音さま
道脇の棒道の案内に「江戸時代末期、この地域の棒道沿いに一丁(約109m)おきに30数基の観音像が安置された」とあった。そういえば、小荒間番所の辺りに千手観音(中央にふたつ、左右に20の手)、如意輪観音(6つの手、右手で頬杖をついている)、聖観音(頭に冠。天衣をまとい、蓮華の花のつぼみをもつ)さまの立像が道脇に佇んでいた。チェックすると、谷戸村大芦(現北杜市大泉町谷戸)から「上の棒道」に沿って小荒間をへて女取川近くまでが「西国三十三観音」、その先を小淵沢あたりまで「坂東三十三観音」とのこと。小荒間村と谷戸村の人々が江戸時代に建立した。当初は100体の観音を建立する計画であったようだが、西国観音は三十三番まで(7体ほど紛失)、坂東観音は十六番(5体紛失)までが建立されている(『棒道の本;北杜市郷土資料館』より)。観音を構想した、と言うことは、秩父34m観音札所34をも建立しようとしていたのだろう、か。単なる妄想。根拠なし。

道を辿ると「富蔵山公園」。馬頭観音や蚕玉太神碑が建つ。29番馬頭観音(頭の上に馬)、30番の千手観音を見やり、古杣川を渡りほどなく33番十一面観音(頭上に11の顔)があり「西国33観音」が終わる。棒道の脇に佇むのは千手観音、如意輪観音、聖観音、馬頭観音、十一面観音の5体の観音様とのことである。

女取湧水
棒道も次第に林の中に入り、それらしき趣を呈してくる。ほどなく庚申塔があり、道が分岐している。この道を右に折れると水道施設をへて女取湧水の源流点に進めたようだが、案内がわかりにくく見逃した。庚申塔の裏にある電柱に「発砲注意」との張り紙があり、その脇に「湧水へ」との案内があるようだが、どうみてもそれらしき案内はなかったように思える。
分岐点の先の道脇に十一面観音さまが佇むが、これは「坂東観音一番」。坂東三十三観音(実際は十六番まで)がここからはじまる。先に進むと再び十一面観音。この坂東二番観音を過ぎると石造りの用水路らしき水路が道を横切る。先に進むと沢に下りる。女取川である。ということは先ほどの用水路は女取湧水からの水路であろう。ということで、棒道を外れ女取湧水の源流点へと辿ることに。
女取川の沢筋を上流に向かう。辿るにつれて沢筋の足元が悪くなる。また、沢のエスケープルートもブッシュに遮られてきたので、沢沿いの台地上を辿るべく沢を離れ、数メートルほどの崖を上る。と。崖を上り切ったところに、台地を開削した荒削りの水路があり、女取川に沿って上流に続く。この水路は先ほど棒道で跨いだ石橋に続く水路ではあろう。水路に沿って上流へと進めば女取湧水の源流点にたどり着くだろうと先に進む。 しばらく水路に沿って進むと、水路は女取川の谷筋に合流する。合流点から先にしばらく進む。が、湧水点が見えてこない。メンバーのうちふたりは湧水・用水フリークであり、途方に暮れながらも、あちこち彷徨ことは一向に苦にならないのだが、湧水・用水に特に思い入れもないだろう他2名のメンバーを引き廻すのは申し訳ない。ということで、ここで撤収とし、用水路に沿って成り行きで下り、女取川の沢遡上をはじめた地点に戻る。
後にチェックしてわかったのだが、もう少し我慢すれば湧水点があったよう、が、例によって後の祭り。事前準備を「極力しない」を基本とする成り行き任せの散歩であるので、致し方なし。で、その後の祭りの女取湧水ではあるが。八ヶ岳南麓の標高凡そ1,200m、深い山林の中の大きな岩の下から湧く、とのこと。湧水量10,000トン/日を誇り、この水は女取川となり、流域の地を潤し、又、長坂町の飲料水としても利用されている。また、女取川と途中で分かれ、台地上を開削し流れていた用水路は、より高い標高地域を潤すために造られたものではあろう。
女取川、という、何とも面妖な名前の由来は、文字通り、女性を引き込む川、との伝説から。その昔、谷戸村に住む若者が奉公先の一人娘と相思相愛委に。が、娘に会いにいく途中で、折からの雨で増水した川でおぼれ死ぬ。その若者の母親は、娘を恨み、「川の主となり、息子の仇を討つ」と川に身を投げる。その後、川の近くを通る若い女性は淵に引き込まれるようになった、とか。なんともよくわからないロジックではある。

防火帯
沢を越え、緩やかな坂を上り台地に上る。道端には十一面観音、千手観音、聖観音などが佇む。周囲は別荘地帯だろうか、林の中に家屋が見えてくる。ほどなく北からの道が合流するが、その先は道幅が急に大きくなっている。今まで辿った棒道野小径に比べて不自然に広い。チェックすると、防火帯として樹木を伐採し道を広くしているようである。防火帯の辺りにも、千手観音、聖観音などが佇んでいた。
防火帯の辺りを辿っていると後ろから白馬に跨った2組ライダーが追い抜いていく。棒道に騎馬隊、と戦国の世を想い描く。近くに牧場や乗馬クラブや馬術競技場があるので、その関係の人たちであろう、か。 先に進み南のサントリーの工場敷地が切れるあたりで防火帯は切れ、道幅も狭くなる。更に進み北の八ヶ岳牧場に折れる道を越えたあたりに坂東16番千手観音が佇み、棒道の観音さまの立像は終わりとなる。八ヶ岳牧場へと北に続く道の先に冠雪の八ヶ岳が美しい。

火の見跡
道の南に小淵沢ゴルフ場を見やりながらすすむと道が交差し、道の交差する手前の北に「火の見跡」。信玄ゆかりのものかと思うも、説明も何もない。チェックすると、戦後植林されたこの一帯の山火事の監視所跡とのこと。火の見櫓があったようだが、老朽化され取り壊された、とか。それにしても、なんのために設置されているのが案内に主旨が不明である。






手作りパンの店虹
交差点より先にも棒道は続くが、今回は棒道散歩はここまでで終了。火の見跡より八ヶ岳高原ラインを右手に見て、小淵沢カントリークラブに沿って南に下る道を進む。ほどなく「手作りパンの店虹」。パン好きの私のために昨日M氏がわざわざこのお店のパンを用意してくれていた。おいしく頂いたパンを再び買い求め先に進む。




延命の湯
先に進むと道は八ヶ岳高原ラインと合流。更に進み、八ヶ岳高原ライン・馬術競技場入口交差点を左に折れる。交差点脇に「スパティオ小淵沢」。レストラン、宿泊施設、そして日帰り温泉「延命の湯」がある。延命の湯は地下1500mから湧き出すミネラル豊富な温泉とのことである。平成1998年オープン。延命の湯に限らず昨日の尾白の湯も古来からの湯ではなく、つい最近できたものである。古来より八ヶ岳南麓には温泉脈は確認されていなかったが、技術の進歩により、地下1000m以上でもボーリングが可能となった。こういった技術の進歩を背景に、温泉湧出の可能性を信じ幾多の温泉掘削が計画されたのだろう。延命の湯は平成7年(1998)の7月に掘削開始、12月に温泉掘削に成功した。
延命の湯のあるスパティオ小淵沢で名物の延命蕎麦頂き、一路甲斐小泉駅へと。 別荘街の道を進み、小深沢川を渡り豊平神社に。そこからは小海線に沿って更に道を進み八ヶ岳山麓より流れを発する女取川、古杣川、高川を越えて小荒間番所跡へと戻る。駐車場で車に乗りM氏宅でしばし休息し、再会を約して家路へと。
9時23分スタートし、14時11分駐車場到着。おおよそ5時間、15キロの散歩となった。それにしても、小淵沢というか北杜市って、素晴らしい山稜に囲まれ、ダイナミックな河岸段丘、開析谷、八ヶ岳山麓からの河川、湧水、そして最近のものではあろうが、幾多の温泉と魅力的な場所である。繰り返しになるが、多くの友人が「八ヶ岳山麓を」というセリフに、やっとリアリティを感じることができた今回の散歩となった。
 先日、秩父・信州往還を信州最東端の川上村からはじめ、十文字峠を越えて秩父の栃本へと辿った。その道すがら、北杜市の小淵沢に移り住んだ元同僚宅を訪ねたのだが、あれこれの話の中から、雪が降る前に北杜市にある幾多の湧水と武田信玄が信濃侵攻のために整備したと伝わる「棒道」を歩きましょう、ということになった。

話のきっかけとなったのは平成24年(2012)10月24日付けの日経新聞に掲載された「戦国武将思い 歩く古道;山梨北杜市」の記事。「雑木林の間をぬう棒道には途中、石仏が点在する」といったキャプションのついた、観音像が佇む雑木林の写真の魅力もさることながら、フックがかかったのは棒道のスタート地点辺りにある「三分一湧水」の記事。信玄が下流の三つの村に均等に流れるように三方向に水路を分ける、とあった。
湧水フリークとしては、「三分一湧水からはじめ棒道を歩きましょう」、と話を切り出したのだが、M氏によれば、この辺りには三分一湧水だけでなく大滝湧水とか女取湧水など、湧水点が多数ある。と言う。また小淵沢近辺には幾多の温泉も点在するとのこと。小淵沢と言えば、清里や八ヶ岳への通過点としてしか認識していなかったので、少々の意外感とともに、湧水フリーク、古道フリークとしては湧水・古道が享受でき、かつまた温泉にも入れる、ということで早々に小淵沢再訪を決めたわけである。
今回のメンバーは十文字峠を共に越えた同僚のT氏と幾多の古道・用水を共に歩いたS氏。スケジュールを決めるに、行程は1泊2日。初日は東京を出発し、大滝湧水を訪ねた後、清里に移住した元同僚であり山のお師匠さんであるT氏宅にお邪魔。その後、甲斐駒ケ岳山麓の尾白沢傍にある尾白の湯でゆったりしM氏宅に滞在。2日目は小海線・甲斐小泉駅近くの三分一湧水からはじめ、棒道を歩き甲斐小泉駅に戻る、といったもの。旧友との再会、山のお師匠さんへのご無沙汰の挨拶、湧水、古道、そして温泉など、ゆったりとしたスケジュールで、嬉しきことのみ多かりき、の旅となった。



初日
本日のルート;中央線小淵沢>身曾岐(みそぎ)神社>大滝湧水>川俣 川>清里>釜無川>尾白の湯

小淵沢
新宿を出て、特急あずさに乗り、2時間ほどで小淵沢に。駅に迎えに来てくれた元同僚宅で少し休憩した後に大滝湧水に向かう。途中に身曾岐(みそぎ)神社があるとことで、ちょっと立ち寄り。境内に入るに、結構な構えではあるのだが、古き社の風情とは少し異なる、曰く言い難い「違和感」を感じる。というか資金の豊かな新興宗教の施設のように思える。
如何なる由来の社であろうかと境内を彷徨と「井上神社」の石碑があった。由来書を読むと、元は東上野にあった「井上神社」を昭和61年(1986)にこの地に移し、神社名も「身曾岐(みそぎ)神社」と。
井上神社とは?チェックすると、江戸末期の宗教家である井上正鐵が伝えた古神道の奥義「みそぎ」の行法並びに徳を伝えるべく、明治12年(1879)に弟子によって建てられたもの。これだけでは今一つ神社の姿がわからなかったのだが、境内を出るときに鳥居に「北川悠仁奉納」と刻まれていた。北川悠仁さんって、歌手、というか「ゆず」の北川さんだろう。どこかで北川悠仁のご家族が宗教活動をしている、といったことを聞きかじったことがある。であれば、なんとなくすべて納得。

大滝湧水
身曾岐神社を離れ南に下り、中央高速をくぐり、道を西に折れ県道608号を少し進み、中央線を越えて大滝神社の鳥居脇に駐車。参道の先には中央線があり、神社には線路下のトンネルをくぐって向かう。
大滝神社の社は鬱蒼とした杉林の崖面に鎮座する。社殿左手にある樋から大量の水が滝となって落ちる。大滝湧水であろう。石垣上の社殿は、ほぼ南東を向き、本殿は覆屋の中に鎮座する。案内板によると「武淳別命が当地巡視のおり、清水の湧出を御覧になり、農業の本、国民の生命、肇国の基礎と賞賛し自ら祭祀し大滝神社が起こったと伝えられる」とある。祭神の武淳別命(たけぬなわけのみこと)とは、『日本書紀』にある、崇神天皇によって、北陸、東海、西道、丹波の各方面に派遣された四道将軍のうち、東海に派遣された 武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)のことであろう、か。
社殿の西側には石祠が立ち並び、石祠の脇から崖面に急な石段があり、石段上には大きな磐座が鎮座している。仰ぎ見るに、磐座の辺りは如何にも荘厳な風情。石段の上り口には注連縄が低い位置に張られており、石段に足を踏み込むには少々恐れ多い雰囲気であり、一同顔を見合わせるも。結局、石段を上るのを止めにした。
で、せめて磐座に建てられた石碑の文字を読もうと思えども、どうしても読めない。それもそのはず、後からチェックするに「蠶影太神(こかげおおかみ)」と記されている、とか。「蠶」は「蚕」の旧字体。読めるわけもなかった。蠶影太神とは養蚕の神。つくば市の蠶影神社が世に知られる、と。
社殿にお参りし大滝湧水へ。その大滝湧水は崖面下の岩の間からわき出ていた。湧水点は何カ所もあり、その水を集め、太い丸太をくりぬいた樋を通し滝となって落ちる。圧倒的であり圧巻の水量である。「延命の水」とも称される大滝湧水の湧出量は、八ヶ岳南麓に幾多ある湧水の中でも最大の22,000トン/1日を誇る。木樋から滝となって落ちる下には山葵田があり、境内を少し離れた池ではニジマス、ヤマメの養殖がおこなわれているようである。釣り堀らしき施設も見受けられた。
湧水後背地の山林は滝山と称し江戸時代は御留林となっていた。水源涵養のため甲府代官が民有地を買い上げ、湧水の保全を図ったとのこと。此の地域の井戸水が濁ったとき大滝湧水を井戸水に注げば清澄な水になる、といった言い伝えの所以である。


(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平23業使、第631号)」)

八ヶ岳南麓高原湧水群
この大滝湧水に限らず、八ヶ岳の山麓には幾多の湧水がある。八ヶ岳の西側を除いた東側、というか南麓だけでも56箇所、名前のついている湧水だけでも28カ所もあるとのことである。これらの湧水を総称して、八ヶ岳南麓高原湧水群と称する。
何故に八ヶ岳山麓に湧水が多いのか?チェックすると、八ヶ岳の成り立ちが火山であったことにその要因があるとのこと。今は静かな山稜である八ヶ岳であるが、はるかな昔、この山は火山であった。フォッサマグナ(中央地溝帯)の東端(西端は新発田小出構造線または柏崎千葉構造線)である糸魚川・富士川構造線上にある八ヶ岳は、西端から東端までおよそ100キロにわたって8000mほど日本列島が一挙の落ち込み中央地溝帯ができたときに火山活動をはじめた火山群のひとつ。地溝帯が落ち込んだときにできた南北の断層を通り地下のマグマが上昇し火の山となったようである。八ヶ岳のひとつである阿弥陀岳など、今から20万年ほど前は富士山より高い山容であったが、大噴火で山容が一変した、とか。
火山と湧水の関係は?火山は「火の山」、と称されるのは当然であるが、同時に「水の山」とも称され、天然の貯水池ともなっている。その最大の要因は、火山は浸透力が非常に高い、ということにある。火山の山麓上部は溶岩帯であるが、この溶岩は水をよく透す。溶岩の浸透力が高いというのはちょっと意外ではあるが、溶岩の割れ目から水を透すようである。
また、火山の山麓は表土が浅く、火山礫や火山砕屑物が地表に現れている。そのため、水が地下に浸透しやすくなっている、とか。特に、八ヶ岳の山麓は氷河期と間氷期との間に巨大な湖が形成されたようであり、八ヶ岳山麓はその時に堆積した湖成層(湖ができたときにに堆積した砂層)からなっており、その浸透力は特に高い、とのことである。
こうして地表からどんどん浸透してきた水は地下水となり溶岩の中を通って火山の中に天然の貯水池をつくる。八ヶ岳の中には西側山麓に規模の大きい滞水層、東側山麓に少し規模の小さな帯水層がある、とか。山中に浸透し帯水層に溜まった水は溶岩中や泥質層の境目から地表に湧き出すことになるわけだが、八ヶ岳南麓湧水群は標高800から1,2000mと1,500mから1,600m地帯に点在する、とのこと。標高1,600m付近の湧水は浸透後2年から7年,標高1,200m付近の湧水は20年から30年、標高1,000m付近の湧水は50年60年かけて地表に湧き出る、とのことである。大滝湧水の標高は820mであるので、60年以上八ヶ岳の山中で濾過され湧き出たものではあろう。

川俣川渓谷
大滝湧水を離れ、清里に住むT氏宅に向かう。県道11号・八ヶ岳高原ライン を清里に進む途中に巨大な渓谷が現れる。渓谷は川俣川渓谷。渓谷には全長490m、谷の深さ110m、橋脚74mの八ヶ岳高原大橋が架かる。進行方向前面には八ヶ岳が聳える。
それにしても巨大な渓谷である。フォッサマグナの西端である糸魚川・富士川構造線は、このあたりを南北に続いているわけであり、フォッサマグナの断層かとも思ったのだが、それにしては渓谷の左右の段差が感じられないので断層ではないようである。チェックすると、この渓谷は今から20万年から25万年前に活発な火山活動を繰り返した八ヶ岳の噴火によってできた溶岩台地が八ヶ岳から湧き出る清流によって浸食されて形成されたもの。川俣川溶岩流と称される噴火で埋め尽くされた台地が、気の遠くなるような時間をかけて開析され、現在のような雄大化な渓谷をつくりあげたものだろう。
川俣川渓谷には渓谷に沿って遊歩道が整備されているようであり、「吐竜の滝」と称される湧水滝もあるようだ。湧水滝と言う意味合いは、湧水が透水層の下部にある岩屑流の地層との境目から滝として吐き出される、とのことである。因みに、岩屑流とは今から20万年から25万年前に火山活動の最盛期を迎えた八ヶ岳の最高峰阿弥陀岳が磐梯山のように山体崩壊を起こして発生したもの。厚さは最大200mにも達し、甲府盆地を覆い尽くして広がり,御坂山地の麓に広がる曽根丘陵にぶつかって止まるまで50㎞以上の距離を流れ下った、とのことである。


(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平23業使、第631号)」)

釜無川
清里のT氏宅でしばし時を過ごし、本日の最後の目的地である尾白の湯に向かう。尾白の湯は八ヶ岳および茅ヶ岳山麓に広がる火山性の台地部分と南アルプス山麓の沖積平野を区切る釜無川の南、旧甲州街道・台ケ原宿の近くにある。県道28号を南に下り、中央道長坂IC辺りまで戻り、その後の道順は運転手M氏任せ故に定かではないが、ともあれ、釜無川の谷筋に向かってどんどん下る。 釜無川の両岸は大きな河岸段丘が作られている。大滝神社の標高が860m、釜無川の川床の標高が630mであるので、中央線の走る台地あたりから直線で2キロ強を200mほど下ることになる。幾層もの段丘面と段丘崖によって形作られているのであろう。緩やかに下る段丘面と釜無川の谷筋、そしてその南に広がる沖積平野と更にその南に聳える南アルプスの山稜。誠に美しい。
釜無川は南アルプス北端、鋸岳に源流を発し、当初北東に向かって流れ、その後中央線信濃境駅の西で南東へと直角にその流路を変え、甲府盆地に入って笛吹川と合流する。笛吹川と合流するまでの流長61キロを釜無川と呼ぶが、河川台帳の上では富士川となっている。専門家でもないので詳しくはわからないが、源流部から北東に向かうのは釜無川断層に沿って流れ、南東に方向を変えて甲府盆地へと向かうのは糸魚川静岡構造線に沿って下っている、とか。

「釜無」の由来については「甲斐国志」をはじめ各種の説があり、下流に深潭(釜)がないので釜無川、河が温かいので釜でたく必要がない、河川のはんらんがないので釜無など。しかし巨摩地方を貫流する第一の川という意味で巨摩の兄(せ)川がなまったと見るべきであろう。明治時代から水害が続き、1959(昭和34)年の7号、伊勢湾台風では大きな被害を受けた。韮崎市南端の舟山には舟山河岸の碑があるが、明治中期まで舟運があった証拠である。 釜無川の由来は、下流に「深い淵(釜)」が無いから、とか、巨摩地方を流れる第一の河川>巨摩の兄(せ)>釜無、など諸説ある。

少々脱線するが、釜無川の川筋をチェックしていると、富士見の辺りで釜無川に合わさる支流の上流部が、宮川の支流の上流部と異常に接近している。釜無川は富士川水系、宮川は天竜川水系である。大平地区を流れる釜無川の支流の一筋北の支流と、同じく大平地区を流れる名もなき宮川支流の間は100mもないように見える。これが天下の富士川、天竜川の分水界であろうが、それにしてもささやかな分水界(平行流間分水界)である。
断線ついでに、釜無川から分水される用水路があるが、この水は宮川水系へと流れているようである。分水界を越えた水のやり取りとは、なかなか面白い。これを水中分水界と呼ぶようだが、水中分水界はここだけでなく(、釜無川の支流の立場川には山麓に「立場堰」が造られており、そこで分水された水は宮川水系へと流れている(『意外な水源・不思議な分水;堀淳一(東京書籍)』)。

旧中山道台ケ原宿
釜無川の谷筋に下り、国道20号を西に向かう。国道は釜無川とその支流である尾白川に挟まれた台地を進む。道は程なく旧中山道台ケ原宿に。国道を外れ旧道に入り、古き宿場の雰囲気を楽しむ。もう日も暮れ、時間もないので、M氏の案内で北原家と金精軒に。ふたつとも古き宿場の趣を伝える。北原家は寛延3年(1750)年創業。260年の伝統をもつ造り酒屋。「七賢」との銘柄の名前の由来は、天保6年(1835)に信州高遠城主内藤駿河守より「竹林の七賢人」の欄間一対を贈られたことによる、と。金精軒は明治36年(1903)創業。「信玄餅」は金精軒の商標登録、とか。因みに「台ケ原」の由来は「此の地高く平らにして台盤の如し」との地形より。

尾白の湯
台ケ原宿を離れ、尾白川に沿って南アルプスの山麓へと向かう。尾白の由来は「甲斐の黒駒」から。甲斐駒ケ岳東麓に産する黒駒は、馬体が黒く鬣(たてがみ)と尾が白く神馬として朝廷に献上されていた、と。
ほどなく尾白の湯。平成18年(2006)創業開始の新しい温泉。「温泉の成分は日本最高級を誇るナトリウム・塩化物強塩温泉」「イン含有量が1kg当たり31,600mgで、有馬温泉に匹敵する日本一の高濃度温泉」などとある。脱衣場には『大地ロマンの湯 本温泉は、プレート運動による大変動のドラマにより生まれた、大展望と超高濃度の温泉であり、大地の神様『ガイヤ』が授けてくれた『地球の体液』と呼んで良いような最高級の温泉相である(大月短期大学の名誉教授 田中収)』ともあった。ともあれ尾白川の地底1500mから湧き出るマグマの賜物であろう。古くから有名な有馬温泉と同じ『塩化物強塩温泉』の源泉(赤湯)は露天風呂だけあとは全て水で10倍に薄めた湯を使っているのとことであった。
有難味はよくわからないが、とりあえずゆったりと温泉に浸る。それにしても小淵沢近辺には温泉が多くある。パンフレットを見ると「フォッサマグナの湯」とか「延命の湯」とか10以上もある。なんとなく、そんなに古そうではないようではある。昨今の日帰り温泉ブームの影響だろう、か。 北杜市散歩の初日はこれでおしまい。散歩することはほとんどなかったが、湧水と八ヶ岳の関係とか、釜無川の段丘面とか、地形フリークには嬉しい一日ではあった。

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