で、「月見草のよく似合う」御坂峠に行きますか? とのFBコメント返しに、即答で「行きたい」と。散歩の時の四方山話でわかったことではあるが、N女子は大学院で太宰の研究をしていたとのこと。このことが今回の散歩のきっかけではある。
実のところ、前々からこの地を歩きたいとは思っていた。それは太宰でも天下茶屋でもなく、往昔、奈良・平安の頃、都と相模・武蔵を結んだ官道である御坂路に立ち塞がる旧御坂峠を越えたいと思っていたからである。
しかし、御坂峠は余りに遠く、二の足を踏んでいたのだが、FBのやりとりがあった少し前、奥多摩山行の帰りに「ホリデー快速富士山」に出合ったばかりであった。この列車を利用すれば新宿から河口湖まで乗り換え無しで行けそうである。ということで、「月見草のよく似合う」御坂峠行き計画は即実行に。 ルートを想うに、太宰の天下茶屋を見たいN女子と、単に旧御坂峠を越えたいだけの我が身の希望を叶えるルートとして、天下茶屋を始点に御坂峠に登り、尾根道を縦走し旧御坂峠から山梨県笛吹市の藤野木へと下りるコースを想う。歩きは3時間程度であり、それほど大変でもなさそうではある。
スケジュールについて、ちょっと心配なのは河口湖から天下茶屋までバスの連絡と、山梨側に下りた笛吹市のバスの連絡。チェックすると、午前8時14分新宿発の「ホリデー快速富士山(9月28日までの土曜・休日運転)」に乗れば、河口湖駅着10時26分、バスは河口湖駅を10時35分に出るという、これ以上ないような「繋ぎ」。また、山梨側も下山予定の3時台からは、1時間に1本ほど山梨駅に向かうバスがある。これであればバスの心配はなく、成り行きでなんとかなるだろうと天下茶屋・旧御坂峠への散歩に向かう。メンバーはN女子、その同僚のT氏、そして私と娘の4人である。
本日のルート;富士急・河口湖駅>天下茶屋;11時3分?標高1247m>登山スタート:11時45?標高1290m>御坂峠:12時8分?標高1450m>御坂山;12時44分?標高1594m>御坂城址東端部;13時15分>旧御坂峠;13時26分?標高1517m>峠道・文化の案内:13時59分?標高1481m>子持ち石;14時2分標高1463m>馬頭観世音:14時39分?標高1284m>行者平;14時43分?標高1264m>沢を渡る;15時01分?標高1181m>峠道・文化の森入口の標識;15時14分標高1081m>藤野木バス停;15時35分?標高933m
富士急・河口湖駅
新宿を定刻の午前8時14分に出発した「ホリデー快速富士山」は6両(?)編成。うち1両だけが指定席車輌。連休で込むかと指定券を買ったのだが、自由席が十分に空いていたので、自由席を対面にして河口湖に向かう。娘も太宰治に興味を持っているらしく、N女子も研究成果を存分に披露しながら2時間程度の列車の旅を終え定刻通り富士急・河口湖駅に。
天下茶屋;11時3分
「天下茶屋」は営業していた。1階は食事処。2階は太宰治文学記念館」となっており、N女子と娘は速攻で2階に。情緒のかけらもない我が身は下で「木の実煎餅」などを見繕うが、どうも記念館は無料のようであり、それではと2階に上る。
2階には太宰が逗留した部屋が昔の姿に戻され公開されていた。
天下茶屋ができたのは昭和9年(1934)の秋。木造二階建て、八畳が三間の小さな茶屋。昭和6年(1931)に御坂隧道(延長396m)を含む現在の県道708号の開通を受けてのことである。
正面に富士を臨むその景観から富士見茶屋、天下一茶屋などと呼ばれていたが、徳富蘇峰が新聞に「天下茶屋」と紹介したことがきっかけで、「天下茶屋」との名称が定着した。
天下茶屋には多くの文人が訪れたとのことだが、中でも井伏鱒二、太宰治の滞在は特に知られる。太宰治が天下茶屋に逗留するきっかけは前述の如く井伏鱒二(創業から太宰が逗留する前までの先代とのやりとりを作品「大空の鷲」に残している)。
太宰は昭和13年(1938)9月に、およそ三カ月の天下茶屋の滞在し、小説「富獄百景」を残す。その後、昭和23年(11948)に太宰治が入水自殺したのを受け、昭和28年(1953)に井伏鱒二が発起人となり太宰治文学碑を建立。 昭和42年(1967)、新御坂トンネル開通により、天下茶屋は約10年の間休業。昭和53年(1978)に営業再開した(「天下茶屋」のHPを参考にメモ)。
○富士と月見草
「遷ろうもの(月見草)」ではあっても、「不変なるもの(富士)」に伍して厳然と咲くその姿をして「富士には月見草がよく似合う」と表現したのではあろう。か。太宰の心象風景とダブらせるのは考えすぎ?N女史のご高説拝聴すべし、か。
○御坂隧道
■隧道建設の経緯
案内にあるように現在は県道河口湖御殿場線(県道708号)となっている道筋ではあるが、この道筋が県道に至る経緯は誠に面白い。昭和6年(1931)、この御坂隧道(延長396m)を穿ち、翌、昭和7年(1932)には旧・国道8号が開通した。これにより、富士吉田と甲府を結ぶバス路線も開通し、御坂山地と大菩薩嶺によって画された山梨県東部地域である「郡内地域」と西部のである「国中」地域の連絡が容易となった。

しかし、事はすんなり進むことはなかった。当時は政友会内閣であり、知事も政友会、県議会も政友会が多数を占めていたので予算案は楽勝で可決と思いきや、甲州街道沿いの議員の猛反発に合い頓挫。1年間着工を延期といった調整案で一旦は落ち着いた。政友会内閣への事前調整も十分に行われていなかったようである。
で、1年後予算執行の時になる。が、当時は不況が深刻化し、国も県も財政難で工事着工ができない。また、総選挙の結果、政友党から民政党に政権が移り緊縮財政のため旧・国道8号工事も延期となる。

すったもんだのプロセスはあったが、結局「失業者就労には県民を優先する」と「面子」を保つ条件付きで改修工事案は可決。工事に取り掛かり、昭和6年(1931)御坂隧道(延長396m)が貫通し、翌、昭和7年(1932)には旧・国道8号が開通した。
こうして誕生した旧・国道8号であるが、昭和27年(1952)、新道路法制定にされ、旧・国道8号が国道20号に変更されるに伴い、国道20号の道筋が笹子峠を越えるルートに変更された。昭和13年(1936)には笹子峠に笹子隧道も貫通していた。このとき、御坂峠越えの道は国道137号となった。
その後、昭和40年(1965)、県営の有料道路として着工し、2年後に完成、平成6年(1994)には無料となった「新御坂トンネル」を抜ける道筋が国道137号となり、結果、この御坂峠を抜ける道は県道708号となった。
太宰治文学碑
太宰は昭和10年(1935)に書いた『逆行』で第一回芥川賞候補になるも、その年に自殺未遂、昭和12年(1937)にも自殺を想う。また薬物中毒にかかり、荒廃した日々を送っていた。
天下茶菓に訪れたのは、このような破滅的生活から抜け出し新たな人生をはじめる思いを新たにする旅でもあったよう。天下茶屋に滞在中に甲府に住む女性と婚約し、翌年結婚。精神的に安定しすぐれた作品を世に出すも、昭和23年(1948)玉川上水での入水自殺で人生を終えた。この文学碑はその死を悼んで建てたものである。
登山スタート:11時45分?標高1290m
御坂峠:12時8分?標高1450m
御坂山;12時44分?標高1594m
御坂峠から30分程度で御坂山に到着。ここで小休止。情感乏しき我が身と異なり、T氏と娘は道端の草花の写真を撮りながらの、ゆったりとした山行である。
見晴らしポイント_13時5分_標高1530m
鞍部を少し上ると木標があり、「天龍南線右92 左93」と書いてあった。鉄塔巡視路の木標である。木標からすれば、先ほど立っていた鉄塔はNO93鉄塔ということだろう。
○新御坂隧道
送電線鉄塔を少し西に進んだ足の下、御坂山地の標高1000m地点辺りを新御坂隧道が通る。昭和40年(1965)4月着工の全長2,778mの隧道は「水との戦い」であった、とか。着工以来8月頃までは工事は順調に推移し、翌昭和41年(1966)10月には予定通り完成とも思われていた。しかし、隧道が800mほど掘り進められた頃より湧水が出始め、10月に入り1000mほど掘り進んだ地点で断層破砕帯に突き当たる。
Wikipediaによれば、断層破砕帯とは、「トンネル工事で大量出水事故の原因となる地質構造。断層は岩盤が割れてずれ動くものであるから、断層面周辺の岩盤は大きな力で破砕され、岩石の破片の間に隙間の多い状態となっている。これが断層破砕帯で、砕かれた岩石破片の隙間に大量の水を含み、また地下水の通り道となっている。掘削中のトンネルがこの場所に当たると大量の水が噴出して工事を著しく妨げる。破砕帯の幅は断層によって異なり、数十mに達する場合もある」とある。
この断層破砕帯に突き当たったことにより毎分5000リットルの出水、11月には6000リットルにも達し、工事の進捗が危ぶまれた。調査・検討の結果、断層破砕帯の辺りに幅100mに渡り、本道の下70m地帯に水抜き隧道を堀り工事を推進。水抜き隧道が完成した昭和41年(1966)5月にはおおよそ毎分1万リットル弱、1455mを掘り進んだ地点では毎分1万3千リットルもの湧水を水抜き隧道で処理しながら工事を進め昭和42年(1967)開通の運びとなった(「県営御坂有料道路建設事務所資料」より)。
御坂城址;13時15分?標高1546m
この辺り、旧御坂峠を中心に南北にそれぞれ長さ数百メートル、幅100m強に渡って御坂城が築かれていた、といったことをどこかの資料で読んでいたので、そう思い込んだだけかも分からないが、そこからピークに上り切ったところに開ける平坦地の東の斜面も、西の斜面も如何にも人工的な段差となっており、西側斜面は二重になっているようにも見えた。
御坂城の築城年代は不明だが、甲斐の武田氏によって築かれたとされる。城とは言っても、交通の要衝である御坂峠に構えた砦や狼煙台といったものではあろう。
天正10年(1582)3月、武田氏が織田勢により滅亡するも、その織田信長が天正10年(1582)6月本能寺において討ち死にすると、切り取り次第となった甲斐の地には徳川と小田原北条氏が攻め入る。そして、この御坂城は笹子峠から御坂山地の稜線より以東の「郡内」地帯を制圧した北条氏が、以西の「国中」地帯を制圧した徳川氏に備える出城となったようである。
緩やかな上りとなる平坦部を越えると、道は旧御坂峠に向かっての下りとなる。道の両側には「人の手が加わった」ような堀が平行に下る。平坦部にあった横堀が竪堀となってそのまま峠まで下っているようにも見える。下ること5分強で旧御坂峠に到着する。峠手前の平坦部も西の斜面の堀切部が回りこみ堀切状になっていた。
旧御坂峠;13時26分?標高1517m
「みさか」を冠した峠は多い。今回の散歩のきっかけとなった愛媛の歩き遍路で辿った三坂峠、また、いつだったか信越国境・塩の道を辿ったときは、地蔵峠ルートには三坂峠があった。
御坂、三坂、神坂、見坂、美坂、深坂などと表記は様々であるが、もとは「神(かみ)の坂=みさか」とされ、古代において祭司が執り行われたところ、と言う。
「峠」は「たむけ=手向け」との説もあり、道中の安全を祈って手向け=神に供えて、いたのだろうが、これは日本で独自に造られた国字(漢字)であり、往昔、「み坂」を以て、峠を意味していたようである。
○御坂路

律令制時代、平安中期に編纂された『延喜式』には「甲斐国駅馬 水市、河口、加吉各5疋」とある。甲斐国にはこの峠を挟んで3駅が設けられた、ということである。各駅に馬5疋、ということは、当時、大路は20疋、中路は10疋、小路は5疋と規定されており、御坂路は小路という位置づけではあったのだろう。
甲斐国の国府は御坂町国衙と比定されるが、御坂路の経路や駅の所在は不詳である。古代の経路がはっきりしない理由には延暦19年(800)、貞観6年(864)、承平7年(937)に大噴火した富士山の影響も大きいのだろう。それはともあれ、駅については、水市は一宮一之蔵との説、黒駒の説がある。河口駅は河口湖畔の河口湖町河口のようだ。加吉駅は籠坂の北、山中湖岸の山中湖村山中にあったとされる。籠坂は、もとは加古坂と称し、延喜式の加吉は加古の誤り、との説もある。
河口湖からの経路は、三ッ峠の麓を西桂に出たと言う。現在の道路表示にある「御坂みち」とは大きく異なり、桂川の川幅が最も狭い箇所を求め遡ったようである。
桂川を渡ると明見地区を通り鳥居地峠に進み、そこからは内野へ下り、またまた山を越えて、山中湖畔南の加吉(古)に出たと言う。
御坂路は、中世に入って、鎌倉への道として政治・軍事上の要路となり鎌倉往還と呼ばれるも、江戸に入り甲州街道が江戸と甲州の幹線路となり、鎌倉往還としての重要性は薄れることになるが、相模・駿河・伊豆を結ぶ商品流通のを担う。加吉(古)駅から先は東海道の横走駅(御殿場)に到り、足柄峠を越えて、矢倉沢道を相模へと向かったようである。
旧御坂峠からの下り;13時51分
ここから先は行者平辺りまでは道がしっかりしているようだが、その先が沢の防砂工事の影響でなんとなくはっきりしない。ともあれ、13時51分、道標に従い御坂道を下りはじめる。道の右手が土塁の掻き上げのように感じるのは、御坂城があったとの先入観故であろうか。
峠道・文化の案内:13時59分?標高1481m
ほどなく道脇に「峠道・文化の案内」。峠道の森を中心に、史跡や名所が記載されていた。下りの道筋は、行者平の先で「小川沢川」を渡り、小川沢川が合わさる金川左岸を藤野木まで下っているようである。
子持ち石;14時2分標高1463m
「子持ち石」とは本来、「石の中に小粒の石の入っているもの。特に,?石(はつたいいし)のこと」を指す。大雑把に言って礫岩(れきがん)の俗称とも。御坂山地の地層の上部層に堆積する凝灰角礫岩などのサンプルには、なるほど石の中に小粒の石が入っていた。
よく踏み込まれたジグザグの道を更に20分程度下ると「(下方向 )藤野木 (上方向)御坂峠」の標識がある。この辺りの標高は1300m弱。木々も杉などの針葉樹が多くなってきたように思う。
馬頭観世音:14時39分?標高1284m
行者平;14時43分?標高1264m
沢側の岩の上に二体の石仏が佇む。岩の脇に消えかけた木標があり、「役行者が修行云々」との説明があった。
沢を渡る;15時01分?標高1181m
先に進むと左手が大きく開き、いくつもの堰堤が沢に造られている。土砂を堰止める堰堤ではあろう。沢に沿ってロープでガイドされた道を進む。途中倒木で道が塞がれているところは少々難儀したが沢脇に出る。
沢の右岸にも草で覆われた踏み分け道はみえるのだが、バスの時刻の関係で安全ルートを選び、沢を渡り林道に入る。
峠道・文化の森入口の標識;15時14分標高1081m
標識の傍に「小川沢土砂崩壊防止総合治山事業地」の案内。「この地区は、富士川の支流、金川の上流に位置し、標高1050~1790m地形は複雑にして急峻、地質は新第三紀御坂層群で脆弱であり山腹及び渓岸崩壊地が随所に発生し渓流内は、流下した不安定土砂礫で極度に荒廃しているので土砂礫発生源を直接抑えるため山腹の復旧、治山ダム群の設置と、土砂流等の流下を緩和させるための土砂等拡散防止林造成及び防災機能の強化を目ざす森林の造成等を、昭和62年より63年までの3年間に総合的、集中的に実行し、国道137号線及び国道沿の人家、下流一帯の果樹園等を直接保全するものである(山梨県甲府駿務事務所)」とあった。沢筋に幾つも築かれた堰堤もその一環の事業ではあろう。
「天然記念物 藤野木のオオバボダイジュ」の案内;;15時27分?標高987m
オオバボダイジュ(シナノキ科)は落葉高木で、通常10mから15m、胸高直径0.4mから0.5mであるが、大きいものは樹高25m、胸鷹1mに達する。葉は互生し葉柄は淡褐色を密生し葉身は左右小斉の円心系で、先はするどく尖り、縁には三角形の鋸葉がある葉の上面は深緑色、下面には淡褐色の星状毛が密生する。
花は夏に開花し長い柄をもった散房状の集散花序を腋生し、花序の柄のほとんど基部から包葉が出て、下半に沿着している。花は小さく淡黄色で香気がある。 オオバボダイジュは北海道、東北地方、中部日本の日本海側に分布されるものとされているため、本町で発見されたことによって、その分布が北関東から分かれて富士山方向に支脈があることが証明されたことになり、また御坂山地のオオバボダイジュは日本における分布の南限に当たるものとして、植物分布上きわめて貴重な存在である(笛吹市教育委員会)」とあった。
藤野木(とうのきう)バス停;15時35分?標高933m