伊豆・箱根の最近のブログ記事

箱根峠から三島へと
箱根越えの二日目。今回は箱根峠から三島へと下る。歩くまでは峠から坂道を下り、その後平地を三島まで歩くと思っていた。東坂の湯本から小田原へは平地を進む、といったイメージを描いていた。が、実際は大違い。峠から一直線に三島に向かって下る、といったものであった。当初心配だった道も、道標がしっかりしており間違うことはない。箱根八里越えの後半戦を始める。



本日のルート;箱根峠>箱根西坂旧道入口>甲石坂>兜石跡>接待茶屋>永禄茶屋跡・徳川有徳公遺跡>甲石>施行平>石原坂>大枯木坂>小枯木坂>山中新田>駒形諏訪神社>カシの巨木>山中城跡>宗閑寺>山中新田>富士見平>上長坂>笹原地区>笹原の一里塚>笹原新田>長坂>こわめし坂>三つ谷新田>松雲寺>小時雨坂>臼転坂>初音ヶ原松並木>錦田一里塚>愛宕坂>東海道線>大場川>三島大社前>三島駅

元箱根
前日は強羅にある会社の保養所に宿泊。朝、登山電車で強羅から小涌谷へ。そこからは駅傍の国道にあるバス停より元箱根に向かう。途中、車窓より、湯坂道入口のバス停や曽我兄弟の墓を見やる。近くには六道地蔵もある、と言う。
湯坂道入口は鎌倉・室町期の箱根越えの古道。鷹巣山、浅間山から湯坂山を経て箱根湯本に下る。曽我兄弟のお墓は国道の直ぐ傍。そのうちに、箱根東坂の権現坂手前にあった六道地蔵への指導標から歩みをはじめ、曽我兄弟・六道地蔵をへて湯坂道を辿ってみたい、と思う。バスは元箱根に

杉並木
元箱バスを下り、元箱根交差点を西に進み元箱根港手前で国道1号線に合流。ほどなく杉並木がはじまる。東海道といえば松並木を思い浮かべるが、箱根といった高所では松は生育が悪かったのだろう。はじめから杉が植えられていたとするには杉の樹齢が少し若すぎる、とか。試行錯誤の末の杉、ということだろう、か。

吉原久保の一里塚跡
杉並木の始点近くに吉原久保の一里塚跡。江戸の日本橋から数えて24番目。塚はすでになく碑が残るのみ。名前の由来は、往時このあたりの入り江を葭原久保と呼ばれていたから。


恩賜箱根公園
杉並木が切れるところに恩賜箱根公園。芦ノ湖に突き出した半島となっている。聖武天皇の頃、この地に観音堂が建てられ、堂ヶ島と呼ばれていた。明治5年からは明治天皇の箱根離宮跡となっていたが現在は恩賜公園となっている。旧東海道は、このあたりで少し半島方面へと右に少し折れる。

箱根の関所
恩賜公園を道なりに進み箱根関所跡に。慶長19年(1614年)の『徳川実記』に「今日より東海・東山の両道に新関を置きて、無券の往還を許さず」とあるので、関所開設はこのあたりだろう、か。関所の仕事は「入り鉄砲、出女(でおんな)」の監視。武器の流入防止、人質として江戸に詰めている諸藩大名の妻女の国元への逃亡監視、である。営業時間は午前6時から午後6時までとなっている。
関所の取り調べ項目は、「関所を出入りする者は笠や頭巾をとる;乗り物で出入りする者は戸をあける;関より西に出る女性はつぶさに証文に引き合わせる;乗り物で西に出る女性は番所の女性を差し出して相改める;手負い・死人ならびに不審なるものは証文なくして通してはならない;朝廷や大名は前もって連絡あれば、そのまま通してもいい」などと示してある(『あるく 見る箱根八里』)。西に向かう女性に対しては結構厳しい項目となっている。
箱根関所跡は立派な施設がつくられており、観光客もすこぶる多い。なんとなく施設
に入る気にならず、国道へと戻り関所を迂回する。関所裏の国道は切り通しの道。昔はここに道があるわけでもなく、関所前を通るしか道はなかったのだろう。

箱根宿
箱根の関を越えると昔の箱根宿跡となる。箱根宿は箱根の関所が設けられる頃と相前後し造られた。人里離れた山中に好んで住みたい人もいるわけでもなく、小田原藩から50戸、天領三島から50戸をこの地に移住させることに。移住に際しては支度金を用意したり、年貢を免除するなど、移住へのインセンティブを用意している。
19世紀の中ごろには160戸に。住民のほどんどは、茶屋や宿屋、運送業や飛脚といった宿場関係の仕事に従事していた。当たり前といえば当たり前。本陣と脇本陣合わせて7軒。通常の宿は2,3軒が普通のようであるので、規模は大きい。とはいうものの、箱根宿に泊まる大名はあまりいなかったようである。
箱根の関を越え、溝といった流川のあたりが小田原からの移住者が住んだところ。その先の大明神川という小川のあたりが三島からの移住者の町があったところである。途中、箱根駅伝記念館などを眺めながら道なりに進み、国道と県道737号線の分岐点に。旧東海道は県道737号線へと折れる。

駒形神社
県道737号線は湖岸を深良水門、湖尻方面に進む。県道とはいうものの、この道は自動車道はすぐ終わり、あとは歩道となるようだ。深良水門と言えば、先日、深良水門から裾野市の岩波までの深良用水跡を歩いた。江戸時代、芦ノ湖の水を引くため、箱根外輪山を1キロ近く掘りぬき水を通したもの。すごいものである。
県道を少し進むと芦川に当たる。芦川の手前に駒形神社。箱根宿の鎮守さま、と言う。ということは、この芦川の集落は結構古い歴史をもつ、ということ。箱根の関とか箱
根宿ができる以前の鎌倉時代、湯坂道を通る鎌倉街道を往来する人たちの宿場であったのだろう。
境内に犬塚明神社。お犬さまを祀る。箱根宿の建設がはじまった頃、付近には狼が多く、宿場の人を悩ました。で唐犬二匹をもって狼を退治し宿場が完成。傷つきなくなった二匹の犬を「犬塚明神」としてここに祀った、と。ちなみに唐犬とは戦国時代、南蛮より日本にもたらされた大型犬の総称である。

向坂
神社を後に芦川を渡る。すぐ県道と別れ左に進む道が旧東海道。峠道へと進む。ほどなく道脇に六地蔵。道の反対側には庚申塔とか巡礼塔。そこが峠道の最初の坂、向坂の
入口である。名前の由来は箱根宿の向かい、といった意味合いだろ
う。軽くおまいりを済ませ坂を上る。
ここからはいままでの開けた景観から一変し杉並木、と言うか山道に入る。向坂の石畳は国指定の石畳となっている。向坂を進み、国道1号線の下を潜り、石畳石が大きく右にカーブするあたりが釜石坂。次いで左に大きくカーブするあたりが風越坂。大きく迂回し峠を上ってきた国道1号線に合流する手前に挟石坂。木の階段を上り終わると国道に出る。

箱根峠
国道に出ると、鬱蒼とした峠道からは一変。国道1号線、箱根新道の出入り口、箱根外輪山を北に向かう芦ノ湖スカイラインと道路が入り組み誠に目まぐるしい。歩道があるわけでもなく、怖々進み、恐る恐る道を横断し豆相国境の箱根峠に進む。標高846m。湖畔の標高は740mといったとこであるので、100mほど上ってきたことになる。

親不知子不知の石碑峠の茶店というか自販機の並ぶ脇に親不知子不知の石碑。お地蔵さまはないのだが、親知らず地蔵とも脚気地蔵とも呼ばれる。昔々、勘当した息子を探して箱根峠を上ってきた商人が脚気を患いこの地で動けなくなる。通りかかった雲助が介抱しようとするに、懐のお金に目がくらみ殺害。財布を開けると名札にわが父の名。実の父を殺めた雲助は自害した、と。

茨ヶ平
箱根峠を離れ箱根西坂旧道入口に向かう。国道沿って進み、広い駐車場を越えるあたりで国道を離れ右に折れ芦ノ湖カントリークラブの南端と言うか、東端を進む。このあたりは茨ヶ平と呼ばれる。今はハコネダケが茂る一帯ではあるが、往時は茨の原であったのだろう。

箱根西坂旧道入口
道を200mほど進むと道標。箱根西坂旧道入口である。石碑には「是より京都百里、是より江戸25里」とある。入口は見落とすことはないだろう。これから箱根越え・西坂を下ることになる。

甲石坂
道に入るとすぐに休憩所。甲石休憩所とある。足元を直し、西坂の最初の坂である甲石坂を下る。ハコネダケのトンネルの中を進む、といった雰囲気。石畳も笹の葉に覆われている。坂名の由来は兜石があった、から。
ほどなく道脇にお地蔵様。三面八臂の馬頭観音。八つ手観音とも呼ばれる。坂の途中に兜石跡の石碑。兜石そのものは、現在は道を少し下った接待茶屋のところに移されている。『東海道中膝栗毛』に弥次郎兵衛の詠んだ歌。「たがここに 脱捨おきし かぶといし かかる難所に 降参やして」。

接待茶屋
ほどなく旧街道は国道に出る。接待茶屋バス停のところを大きくカーブすると、道は再び国道から離れる。道脇に接待茶屋の説明板と道標。道標には「三島宿二里二十一町(10.3km)、箱根峠三十三町(3.6km)」と。
接待茶屋とは、峠を越える人馬のお助け所。お茶や飼い葉、薪などを無償で接待した。元々は江戸時代後期、箱根権現の別当がはじめたもの。箱根越え・東坂の畑宿手前にも接待茶屋があったが、それも箱根権現の別当、今で言う事務長さんがはじめたもの。
で、この接待茶屋も次第に財政が苦しくなり、江戸の豪商の助けを求めることにした。文政7年というから、1824年のことである。この接待(施行)も弘化2年というから、1845年頃まで続いたが、そこで再び財政難に陥り、江戸時代には再開されることなく終わった。
接待茶屋が再開されたのは明治12年。農民運動の指導者大原幽学率いる理性協会が施行を始める。理性協会が衰えた後も、鈴木さんといった個人がボランティアを続け昭和25年まで続く。まったくの無料奉仕。明治天皇が接待茶屋で休んだとき、お礼にお金を置いたがそれも受けとらなかった、とか。

山中一里塚
道を進むと山中一里塚の碑。江戸から26番目。塚はすでに無い。ちなみに、一里塚には榎木が植えられることが多い。謂れは、家康に塚の建設を命ぜられた大久保長安が、塚に植える木を何にしようかとお伺い。と、「そのほうの ええ(好きな)木に植えよ」、と言ったとか、松のかわりに「余(よ)の木にせよ」と言ったのを聞き違いえた、とか。榎の根の強さ故が、本当のところだろう。

兜石
道の逆側に兜石。もとは甲坂にあったもの。由来は、小田原征伐のとき、秀吉が兜を置いた石であったから、とか、頼朝がどうとか、と。ここに移したのは箱根宮下・富士屋ホテルの料理人、鈴木某氏。このあたりを観光開発するために移したと言う。

徳川有徳公遺跡
道の左手に大きな石碑。有徳公・徳川吉宗が将軍になるため箱根を越えるとき、この地で休憩。茶店に永楽銭を賜ったとか。鈴木某氏が観光開発の目玉とすべく、この碑を建てた。

石原坂

分岐を進むと石原坂。石荒坂とも。石畳が続く。坂の途中に明治天皇御小休・御野立所への案内。細路を進めば石碑があるようだが、道はハコネダケで覆われており、なんとなく行きそびれる。

念仏岩
坂の途中に大石と石碑。石碑は、行き倒れの旅人を山中集落の宗閑寺で供養したもの。ために、岩は念仏岩と呼ばれる。「南無阿弥陀仏 宗閑寺」とある、ようだ。

仇討ち場
七曲とも呼ばれるカーブの坂道を下る。カーブの終わるあたりが、上でメモした吉宗公ゆかりの永楽茶屋があったところ。明るく開けた茶屋跡に仇討ち話が残る。
仇討ち事件は三島で起きた。明石の殿様の行列に幼女が闖入。一時は幼女のこととて、放免といった次第に。が、その子供の親が元尾張藩士と聞いた明石の殿さんは、幼女を手打ちに。さぞや尾張嫌いであったのだろう。で、怒り心頭の父親による仇討ちの現場となったのが、この地である、と。
この話には尾ひれがつく。明石の殿さんが三島宿で見染めた遊女。しかし、その遊女にすっぽかされ、機嫌が悪かったのも手打ちの一因、と。また、その遊女は手討ちになった子供の実の姉であった、とも。話がどこまで広がるのやら。
ちなみに、その子供、助けを求めて、「言い成りになりますから、どうか助けてください」と命乞いをした。で、その幼女の冥福をいのって造られたのだ「言成地蔵尊」ということだ。三島市内に残る、とか。

大枯木坂

少し窪地となった新五郎久保を通り、大枯木坂を下ると道は民家の庭先に出る
。本来の街道は直進し、小枯木坂へと進んだようだが、道は左に折れ国道に戻る。バス停は山中農場となっているので、先ほどの民家はその農場の一部であったのだろう。

願合寺石畳
国道を渡り階段を下りる。道はここで国道の谷側に移る。再び石畳の道、このあ
たりの石畳は結構最近のもの。平成7年に三島市が整備したものである。願合寺石畳と呼ばれる。

雲助徳利碑
西坂に入って始めての杉林の中を歩く。道脇に雲助徳利碑。雲助が酒飲みの仲間のために建てたもの。案内によると、酒でしくじり国許を追放された剣道指南の元武家が、この地で雲助に。この碑は、その武芸・教養ゆえに仲間に親分として慕われるようになったそのお武家を偲んで造られた。
雲助の由来はさまざま。住所不定で雲のように漂うから、とか、街道でお客を求め蜘蛛の糸を張り巡らせたていたから、とか、あれこれ。あまり評判のよろしくない雲助にもランクがあり、最上級は長持ちかつぎ。継いで、駕籠かつぎ、そして、一人持ちの道具類かつぎ、といったランクになっていた。

山中新田
雲助徳利碑を過ぎると、ほどなく国道に合流する。このあたりは山中新田と呼ばれる。新田とはいうものの、西坂の新田は、通常の田畑開墾のため、というものではない。箱根越えの人馬への便宜を図るためつくられた「間(あい)の宿」、とか「(継)立場」といったもの。三島代官の斡旋により、三島あたりの農家の次男、三男に呼びかけ移住させた。年後の期限付き免除といったインセンティブも用意したようだ。西坂には山中新田、笹原新田、三ツ谷新田、市山新田、塚原新田と5つの新田が開かれた。

駒形諏訪神社
山中新田入り口に念仏石、無縁塚、三界万霊塔。三界万霊塔とは、欲・色・無色の三界、あらゆる生物が生死輪廻する世界のすべての霊があつまるところ。鎌倉のはじめより供養はじまった、とか。
国道を渡ると駒形諏訪神社の鳥居。山中城の北丸のあったところ。境内に庚申供養塔
そしてアカガシの巨木が残る。巨木といえば、この近く、山中城跡に「矢立ての杉」がある。戦の勝敗を占ったもの、とか、国境を見立てる、といった目的で矢を射る。いつだったか笹子峠を越えたときにも「矢立ての杉」があった。
矢ではないのだが、先日信州の塩の道を歩き、大網峠を越えたとき、「なぎ鎌」といって、鎌を神木に打ち付ける神事があった。この神社と同じく、諏訪神社の神事である。諏訪神社って、木にまつわる神事が多いのだろう、か。そういえば御柱祭も諏訪大社の神事。

山中城跡
諏訪神社から道なりに山中城跡に進む。山中城は北条氏康が小田原防衛のために築城したもの。永禄年間、と言うから、16世紀後半のことである。秀吉の小田原征伐のとき、この城は北条方の拠点として秀吉の軍勢と戦う。が、味方4,000に対し、敵方3万とも5万弱という圧倒的勢力差のため、半日で城が落ちた。この城で印象的であったのが、障子掘。棚田といった美しいつくりであった。

宗閑寺
城跡から国道に戻る。国道脇に宗閑寺。このあたりは山中城三の丸跡。北条、秀吉側両軍の戦死者をとむらうため江戸期につくられた。境内には山中城の守将であった松田康長や副将間宮康俊、秀吉側の一柳直末がまつられる。一柳直末はその討ち死にを聞き、秀吉が「関八州にもかえがたい人物。小田原攻撃はやめ」との取り乱したほどの逸材であった、とか。寺の開基は間宮康俊の妻。小田原落城後、家康に仕えた。

芝切地蔵
国道を少し下ると芝切地蔵。山中村で行き倒れになった旅人が、「なくなった後も、故郷の相模が見えるよう、芝で塚をつくり、その上に地蔵尊としてまつってほしい」と。村人は地蔵をまつり、供養した。で、接待につくったおまんじゅうが評判を呼び、多くの人が参拝に訪れ、村は大いに潤った、とか。

大高源吾の詫び証文

逸話と言えば、この地には大高源吾の詫び証文の話が残る。あらすじは箱根越え・東坂の甘酒茶屋での神崎与五郎と同じ。討ち入り前、大事の前の小事、ということで、ぐっと我慢。箱根峠を境に登場人物が変わって話が出来上がっている。三島宿にその侘び証文が残ると言うが、それによれば主人公は大高源吾である。

山中城岱崎(だいざき)出丸

国道を渡り山中城岱崎出丸に。尾根を活用した曲輪となっている。北条主力がここに籠もって秀吉軍を防ぐといった戦略でつくられた。こう見てくると、山中城って誠に大きな構え。もともとはここに北条の大軍が籠り秀吉勢に対峙する計画が、主力が小田原籠城と決まり、結果わずかな守備兵力しか残らず、ために広い城の構えが活かせず終わった,と言う。

山中新田石畳
出丸を離れ、ふたたび杉林の中を進む。道脇に箱根八里記念碑、司馬遼太郎さんの書いた北条早雲が主人公の『箱根の坂』の一文が刻まれている。

韮山辻
ほどなく国道に。このあたりは昔の韮山辻。伊豆の韮山に続く道があった。往古、このあたりも山中城の内。北条方の戦略拠点でもあった韮山城との往還を繋いでいた。その往還は、今は荒れ果て歩くことはできそうもない。道は国道を離れ、Uの字に大きく迂回する国道を一直線にショートかとする。

富士見平

道が再び国道に出るところに芭蕉の碑。風景は大きく開け、晴れた日には富士が見える。ということだが、当日はあいにくの曇り空。芭蕉がここを通った時も富士が見えなかったようで、「霧しぐれ 冨士を見ぬ日ぞ 面白き(野ざらし紀行)」などと詠んでいる、気持ちは大いにわかる。
この地は富士の名所。東海道名所図会にも 「三島より海道筋二里ばかりにあり。正面に冨士山・三保の松原、はるかに見ゆる」とある。
蜀山人こと大田南畝も『改元紀行』に、「やや行きて霧晴れわたり、四方の山々あざやかに見ゆ、富士見だいらといへる所のよしききつるに、ふじの山のみ曇りて見へぬぞ恨みなる。遠く川水も流れ行くは、黄名瀬川なるべし、南のかたに幾重ともなくつらなれる山あひより、虹のたちのぶるけしきいはんかたなし」と書いている。

上長坂
芭蕉の碑の先、道は再び国道を離れる。今度は、逆U字の基部をショートカットする。
階段をくだり石畳に。三島市が整備したとのことである。このあたりを上長坂と呼ぶ。途中明治天皇御小休所といった石碑もある。笹原地区石畳を国道に進む。

元笹原

国道に出る。しばらく国道に沿って進む。このあたりは元笹原。少し進み、道はモー
テル脇から再び国道を離れる。道はここから笹原新田まで一直線に下る。下長坂と呼ばれる。

笹原の一里塚
道を下り、民家が見える頃になると道の左手にシイの林。笹原の一里塚はその中にある。日本橋から27番目となる。塚は一基だけ残る。塚の上のシイの根元に箱根八里記念碑。「森の谺(こだま)を背に 此の径をゆく 次なる道に出会うために」は詩人の大岡信の碑文。

笹原新田
笹原の一里塚を越えると道は国道に出る。街道は国道を横切り一直線に下る。急坂の両側には笹原新田の民家が並ぶ。今まで見たことのない、印象に残る景観である。
坂の途中に一柳庵。山中城の攻防戦で亡くなった豊臣方の武将一柳直末の胴塚が祀られる。首は敵に奪われることを恐れ三島市に近い長泉に祀られた、と言う。山中新田の宗閑寺の一柳氏のお墓は、ここから移された、と。
集落を過ぎても坂は続く。坂の名前は下長坂と呼ばれる。この坂は、別名、こわめし坂とも呼ばれる。こわめしの由来は、あまりの急坂のため、背中の米が汗と熱で強飯に「ゆであがるほど」であるから、と。西坂第一の急坂であるのは間違い、ない
。ハコネダケの生い茂る急坂を下ると国道に出る。

三ツ谷新田
国道に沿って三ツ谷新田の集落が続く。国道は尾根を通り、集落はその両側に連なる。この地の名前の由来は、その昔、ここに茶店が三軒あったため。当初は、三ツ屋と呼ばれていた。その後、大久保長安が家康の命により西坂に新田をつ
くったとき、三ツ屋を三ツ谷と改名した、と。

松雲寺
国道を進む。国道とは言うものの、三ツ谷新田の手前から国道はバイパスが別れている。車はそちらを走るので、集落中の国道は、比較的静かである。先に進むと松雲寺。江戸期に開山の寺。多くの大名が休息をとったところ。寺本陣と呼ばれる
。境内には明治天皇が腰掛けた石が残っていた。お寺の近くには、茶屋本陣も。言うまでもなく、本陣として使われた元茶屋跡である。

題目坂
国道を進む。集落を外れるころになると坂は急になる。ほどなく道は国道から離れる。このあたりの坂を小時雨坂と呼ぶ。坂小学校の横を通り、坂幼稚園手前を右に進むと階段となる。この坂は大時雨坂、別名題目坂と呼ばれていた。題目坂は、その昔、坂小学校のあたりに、日蓮宗のお寺があり、そこに「南無妙法蓮華経」の七文字が彫られた石、題目石があった。から。東海道名所図会には「市の山・法華坂、ここに七面祠(ほこら)・法華題目堂あり 」と記載されているように、法華堂からは一日中、お題目を唱える声が聞こえたのだろう、か。

市山新田

馬頭観音を見やりながら題目坂を上ると車道にでる。この道は元山中に続く道。元山中は鎌倉・室町の頃の箱根越えの道筋。鎌倉との往還でもあり、鎌倉街道とも呼ばれる。今回歩いた旧東海道のひとつ北の尾根筋を三島に向かって下ってゆく。そのうちに歩いてみたい。
道を左手に折れ国道に出るとそこは市ノ山新田。名前の由来は、箱根に上りはじめた一番目の山であったため、一山と。それが市山に転化した、と言う説と、市が立った山から、との説がある。

法善寺

国道に沿って歩くと右手に山神社。境内に道祖神がたたずむ。西隣に法善寺。題目坂の手前、坂小学校のあたりにあったものが、題目石とか、七面大明神、帝釈天などとともにこの地に移された。
七面堂とは日蓮宗の護神七面大明神を安置する堂。七面堂と言えば『東海道中膝栗毛』に弥次郎兵衛の狂歌がある。「 あしかがの ぶしょうのたてし なにめでて しちめんどうと いふべかりける 」。足利の(武将の建てた七面堂)と、(無精の七面倒)をかけている。七面堂は足利尊氏が建てたと言われる。この七面堂は、この地に移される前の法善寺にあった七面堂であることは、言うまでもない。
先に進むと市ノ山地蔵堂。六地蔵、と言うか、性格には、六地蔵が2セットと一体の地蔵の計13地蔵が知られる。

臼転坂
地蔵堂を先に進むと、道はまた国道から離れる。石畳の道は臼転坂と呼ばれる。臼が転がったから、とか、牛が転がったことからの転化、とか、あれこれ。石畳の道はすぐに終わり、再び国道に。

塚原新田
国道を進むと普門庵。境内には観音坐像、馬頭観音などが佇む。このあたりから塚原新田がはじまる。名前の由来は、この近辺に円形古墳が多いから。塚原古墳群とも呼ばれるようだ。道脇に宗福寺。境内には三界万霊塔や六地蔵。弘法大師が富士を見に、この寺に立ち寄ったとの話が伝わる。宗福寺を過ぎると集落も終わり、ほどなく国道のバイパスと合流。

初音ヶ原松並木
現東海道に沿った石畳の遊歩道を進む。整備された松並木となっている。初音ヶ原松並木
と呼ばれる。『豆州志稿』に「官道の老松背後に列立し、遠く駿遠の峯を望む風景頗る佳なり」と。初音ヶ原の名前の由来は、頼朝が箱根権現に詣でるとき、鶯の初音を聞いたから、とか、箱根に入るはじめての峯、初峰が転化したとか、これも例によってあれこれ。本当に地名の由来って、定まるところなし。


錦田一里塚
初音ヶ原の中ほどに一里塚。日本橋から28番目。地名は、錦の郷と谷田郷を足して二で割ったという、これも地名をつくるときによくあるパターン。初音ヶ原一里塚とも。元の姿が保存された、堂々とした塚である。

箱根大根恩人碑

1キロほど続く松並木も終わり、街道が再び国道と別れで右に入る手前に箱根大根恩人碑。
箱根の西坂でとれる大根とかニンジン、牛蒡など、所謂「坂もの」と呼ばれる農産物を世に広めようとした平井源太郎氏を称えるもの。昭和5年頃、東海道線が開通し、箱根の往来が寂れた村々を救おうと、はじめたのが坂もの販売のためのキャンペーンソング作戦。で、目に付けたのがこの地に伝わる「ノーエ節」。「富士の白雪や ノーエ富士の白雪やノーエ 富士のサイサイ 白雪は朝日に溶ける・・・」の、あのノーエ節。
ノーエ節は、もとは秀吉が小田原の陣を張ったとき、その場で歌われた今様、「富士の白雪朝日でとけて とけて流れて三島へ注ぐ」がはじまりと言われる。その後、農民の田草取り歌や盆踊り歌として伝わり、幕末にはやった尻取歌をへてノーエ節が出来上がっていた。そのノーエ節を「農兵節」と歌詞をアレンジ。「箱根の山からノーエ 箱根の山からノーエ 箱根サイサイ 山から三島を見れば 鉄砲かついでノーエ 鉄砲かついでノーエ 鉄砲サイサイ かついで前へ進め・・・」と。陣羽織に菅笠姿、願人坊主さながらの姿で歌い踊りながらキャンペーンを展開した。

愛宕坂

現国道から離れ、右に別れ坂を下る。この坂は愛宕坂。名前の由来の愛宕神社から。神社は今はなく、そのあとに三島東海病院が建つ。

東海道線

愛宕坂を下ると東海道線に当たる。いやはや、はるばる来たぜ、と小声で叫ぶ。線路を越え。今井坂を下る。山田川に架かる愛宕橋を渡り道は国道に合流する。

川原ヶ谷陣屋跡
国道を進むと道脇に立派な塀構えの屋敷。川原ヶ谷陣屋跡。小田原藩の支藩荻野山中藩の役所跡である。このあたり一帯、東は塚原新田、西は三島宿にはさまれた地区(川原ヶ谷)は、元々は幕府天領として三島代官の管轄であった。が、18世紀の初め頃から幕末にかけて荻野山中藩となったり、韮山代官の支配になったり、またまた荻野山中藩と変わったりしているのだが、その際の荻野山中藩の役所跡である。陣屋の道を隔てた南には足利二代将軍足利義詮や堀越公方足利政知のお墓のある宝鏡院があるとの
ことだが、日も暮れてきた。今回はパスし先に進む。

新町橋
ほどなく国道は大場川を渡る。架かる橋は新町橋。橋を渡れば昔の新町。三島宿の東口である。箱根八里の終点。長かった箱根越えもこれでお終しまい。日も暮れた。お寺が並ぶ新町、現在の日の出町をどんどん進国道を進み、三島大社にお参りを済ませ三島駅にたどり着き、一路家路へと。 
箱根湯本から元箱根まで
箱根八里を越えようと思った。昨年から、秩父や奥武蔵、奥多摩、津久井などの古街道を歩き、いくつもの峠を越えた。で、今回はその続き。旧東海道・箱根路越え。趣のある石畳が残ると言うし、杉並木・松並木もよさげではあるが、何よりも「天下の嶮」がどれほどのものか歩いてみよう、ということに。
古来箱根越えにはいくつかのルートがあった。大きく分けて、足柄峠を越えるルートと、箱根峠を越えるルート。ふたつのルートのうち、足柄峠を越えるルートのほうが古い。奈良時代以前は小田原方面から関本を経て足柄峠を越え、その後は御坂峠から甲府方面に抜ける。東山道につながったのだろう。平安時代になると、足柄峠からは甲府に向かわず、御殿場から富士川に向かって下ってゆく。ついで、平安後期から鎌倉になると、御殿場から富士に向かわず、三島に下る。三島からは根方街道を富士川に向かった。これらのルートは箱根越え、というよりも、「天下の嶮」の箱根の山を迂回するルートである。
一方、箱根峠を越えるルートは文字通りの箱根の山を越えるもの。このルートも時代によってふたつに分かれる。ひとつは「湯坂路」。小田原を発し、湯本に。そこからは湯坂山、浅間山、鷹巣山への稜線を進み、元箱根から箱根峠に。峠からは尾根の稜線を三島へと下る。平安から鎌倉・室町の頃のルートである。話によれば、富士の大噴火によって足柄道が通れなくなったために開かれた、とも言う。
で、今回歩く箱根峠越えのルートが江戸になって開けた道である。小田原を発し、湯本に。そこからは湯坂路の山越えの道を避け、須雲川に沿って川沿いに進み、畑宿を経て元箱根に。元箱根からは箱根峠に至り、そこからは、湯坂路の一筋南の尾根道を三島へと下ってゆく。箱根八里と言うから32キロ。2日に分けて、「天下の嶮」を越えてゆく。



本日のルート;箱根湯本駅>早川>箱根町立郷土資料館>白山神社>早雲寺>湯本茶屋>猿渡石畳>観音坂>葛原坂>須雲川集落>駒形神社>鎖雲寺>須雲川自然探傷歩道>割石坂>大澤坂>畑宿>畑宿一里塚>西海子(さいかち)坂>七曲の坂>樫の木坂>猿滑り坂>笈の平>甘酒茶屋>於玉坂>白水坂>天ガ石坂>湯坂道との合流点>権現坂>芦ノ湖


箱根湯本駅

小田急に乗り一路箱根湯本へと。小田原を越え、風祭、入生田へと進む。車窓からは見えることはないのだが、線路に沿って続く山腹には荻窪用水が走っている、はず。そのうちに実物を目にしたいものである。
入生田を越えると山崎の地。幕末、佐幕派の伊庭八郎を隊長とする遊撃隊が上総上西藩主林昌之介などと共に小田原藩・官軍と戦った地(中村彰彦さんの『遊撃隊始末(文春文庫)』に詳しい)。山崎を過ぎると、ほどなく箱根湯本駅に到着。

早川
湯本駅を下り箱根町立郷土資料館に。早川を渡った対岸の段丘上、というか、早川と須雲川の合流点の南側に残る小高い台地上にある。駅の改札を出て、地下通路で国道1号線を渡り、バスターミナル辺りへ。そこからは成りゆきで進み早川に架かる橋を渡る。
早川は芦ノ湖を水源とし、湖尻水門で取水され仙石より国道138号線(別名箱根裏街道)に沿って湯本に下る。橋から下流を眺めるに、三枚橋が見える。往時、長さ40m、幅も18mあるという大きな橋であった、とか。名前の由来は板を三枚並べた幅があった、から。とはいうものの、念仏三昧の「三昧」から、との説もある。往時の早川は現在よりずっと広く、中州を繋ぐ地獄橋・極楽橋・三枚橋があった、とのこと。いつものことであるが、地名の由来はあれこれ、定まることなし。

箱根町立郷土資料館
坂を上り郷土資料館に。旧東海道・箱根越えに関するあれこれを、スキミング&スキャニング。『あるく・見る 箱根八里;田代道禰(かなしんブックス)』を買い求める。この書籍で今回の東海道・箱根越えが急に充実したものになってきた。今回のお散歩メモは、この書籍や、その後に古本屋で手に入れた『ふるさとの街道 箱根路三島道石畳を歩く;土屋寿山・稲木久男(長倉書店)』、『近世小田原ものがたり;中野敬次郎(名著出版)』、『はこね昔がたり;勝俣孝正他(かなしんブックス)』、『おだわらの歴史;小田原市立図書館』
などを参考にメモする。

白山神社
郷土資料館から下を眺めると、段丘の南の低地を挟み、その先に山塊が連なる。郷土館を離れ、箱根町役場本庁舎脇の細路を上る。後山と言う地名が示すように、ちょっとした小山。神明宮などが佇む。軽くおまいりを済ませ、旧東海道が通る県道732号線・湯本元箱根線へと成り行きで下ってゆく。
県道の南に白山神社。白山神社って、加賀白山市にある白山比咩神社が総本社。奥宮は標高2702mの白山に鎮座する。神仏習合で天台宗との結びつきを強め、天台宗の普及につれて白山神社も全国に。現在、全国に数千社がある、という。
白山神社の東には辻村伊助の屋敷があった。伊助は小田原の素封家の出。学生最後の1年を園芸の研究とアルプス登山のため渡欧。大正2年のことである。アルプスで雪崩の被害に巻き込まれる。看護を受けたスイス人女性と結婚し帰国。スイスの気候に近いこの地に家を構えるも、関東大震災のとき、山崩れで家族共々命を失った。スイスのアルプスに登り『スウヰス日記』を書く。登山小説の白眉と言う。

早雲寺
白山神社と県道を隔てたところに早雲寺。小田原北条二代目当主・氏綱が北条早雲の菩提寺として建てたもの。秀吉の小田原攻めの時に焼失。北条家当主の墓は一時散逸。現在境内にある北条五代の墓は江戸時代に再建されたもの。
境内には飯尾宗祇や山上宗二の供養塔が残る。飯尾宗祇は室町期の連歌師。旅の途中この地でなくなる。山上宗二は堺の豪商で千利休の高弟。失言より秀吉の不興を買い、追放されこの地へと流れ北条の庇護を受ける。小田原攻めの降り、秀吉に謁見を受けるも、再びの失言。秀吉の命により命を失う。口は災いのもと、の代表的人物。ちなみに、利休が秀吉を見限ったのが、山上宗二に対するこの秀吉の残虐な仕打ちにある、と言う。後に利休も秀吉により死を賜ることになるわけであるから、その遠因はこの宗二にある、とも。

正眼寺
道端の道祖神を見やりながら旧東海道を進む。ほどなく正眼寺。建武の頃、というから14世紀の中頃、足利尊氏が北条時行と戦った箱根山での合戦(中先代の乱)の記録に「湯本の地蔵堂」という名が見える。歴史の古いお寺さまである。
境内に大きな地蔵さま。湯本の地蔵堂と呼ばれていた頃の名残だろう。それにしても、このお地蔵様、なんとなく中国っぽい雰囲気。慶應4年(1864年)消失した当時の地蔵菩薩の替わりとして、入生田の名刹・紹大寺から移された。紹大寺が黄檗宗であるとすれば、大いに納得。おおらか、愛嬌のあるお地蔵様である。
このお寺には曾我堂というお堂もあった。曾我兄弟をまつるもの。兄弟二体の地蔵像が残る。地蔵堂も曾我堂も戊辰の戦乱に遊撃隊と官軍の戦いで焼け落ちるが、曾我兄弟の二体の地蔵は難を逃れ、今に残る。
曽我兄弟といえば、日本三大仇討ち話で有名。富士の裾野の巻狩で親の仇である工藤祐経を討ち果たし、といった話はだれでも知っている、と思っていた。が、なんかの折に、その話題を出したものの、廻りの人は、だーれも知らなかった。
正眼寺は北向きの斜面に建つ。境内からは北の早川の渓谷、湯本の温泉街、そしてその北に聳える北箱根の山稜が見える。

湯本茶屋
先に進むと、道端にまたまた道祖神。二体あり、一体は稲荷型、もうひとつは双立型と呼ばれる(『あるく・見る 箱根八里;田代道禰(かなしんブックス)』)。稲荷型はお稲荷様のお堂の姿、双立型は男女ふたりが仲良く手を組む姿。
このあたりは湯本茶屋と呼ばれる。その昔、二軒のお茶屋があった、とか。街道脇に石造りの貯水槽。この貯水槽は馬の水飲み場。往時、この地は「立場」があり、馬も人も休憩したのだろう。立場とは、江戸時代に設けられた五街道の宿場を補助するところ。宿場間が遠い所とか、峠などの難所が間にあるところなどに設けられる。一里塚の案内もある。江戸から22里。とはいうものの、一里塚特有の「塚」は既に、ない。

猿渡石畳
道脇に石畳道の案内。街道を脇にそれた崖下に石畳道が続く。旧東海道の石畳道である。石畳道ができたのは、江戸の五街道制度がはじまって、しばらくたった西暦1680年頃。はじめは、ぬかるみ道を整備するため、箱根の特産の「ハコネダケ」の束を敷いた、と言う。
が、タケは毎年敷きなおす必要があり、駆り出されるこの地の農民が根を上げる。ということで、石畳道にした、と言う。とはいうものの、石畳は滑りやすく少々危険。実際、この箱根越えの日は雨模様。何度も滑り、怖い思いをした。苔むした石畳道の、ヌルヌル、ツルツルは誠に、怖い。
石畳の道を下る。石畳を歩くだけで、なんとなく、江戸の時代を歩いている、といった気持ちになる。箱根の旧東海道には9キロ弱の石畳が残されている、と言う。ここがその第一歩。道を下ると沢に。猿沢と言う。その先は上り。石畳を進み、県道に戻る。

観音坂
県道を進む。沢を跨ぐ観音橋を越えると、湯本滝通りから上る道と合流。昔、あたりは宇古堂と呼ばれ、観音堂があったのが、その名前の由来。現在、観音坂の途中に箱根観音(大慈悲山福寿院)があるが、それとは別物の、よう。案内に「海道(東海道)の西片にあり、登り2町ほど(218m)ばかりなり」と。昔は、県道下をこのあたりまで東海道が続いていたのだろう。

葛原坂
勾配が増してきた県道を進む。北の景色が開けてきたのは、県道の標高が上がってきたのだろう。標高は200mから250mの間、といったところ。湯本のあたりは標高100mから150mの間であるので、50mから100m程度上ったことになる。
このあたりは葛原坂と呼ばれる。「クズ」がたくさんとれた、から。クズとは葛餅の「クズ」である。葛原坂を過ぎると、湯本茶屋の集落を離れ、須雲川の集落に進むことになる。

須雲川集落

二の戸沢にかかる二の戸橋を越え、道祖神に迎えられ須雲川の集落に入る。須雲川の向こうの稜線は湯坂山、浅間山、そして鷹巣山へと続く湯坂道。室町期の箱根越えの道である。
建設工事の技術が発達した現在の道は、川沿いがあたりまえではあるが、往時、街道は尾根道を通るのが基本であった。現在の川沿いの道は、岩を穿ち、邪魔な山塊にはトンネルを通し、沢は橋脚でひと跨ぎ、というわけだが、昔は谷間の川沿いの道など、一雨降れば土砂崩れ、といったことで、不安定この上もない。ために比較的安定している尾根道を通った、と言う。江戸時代に開かれたこの旧東海道は須雲川に沿った道。江戸になると、土木工事の技術も発達し、谷間を通せるようになったのだろう。かなた山道、こなた谷道と新旧街道が並走する。

駒形神社
集落に駒形神社。箱根の駒ケ岳山頂にある駒形権現の分社だろう。駒形神社って、往古関東に覇を唱えた毛野氏が、関東や東北にその勢を拡大したとき、地域の秀峰を駒ケ岳とか駒形山と名づけ山頂に駒形大神を祀ったことによる、と。とはいうものの、箱根の駒形権現は、大磯の高麗(こま)山に祀られていた高麗権現を勧請した、という縁起もある。
いつだったか、息子のサッカーの試合の応援で平塚に行った折、高麗山に足を伸ばした。海岸近くにこんもり聳える小山は印象的。はるばる海を越えやってきた帰化人が上陸の目印としたって説も大いに納得したことがある。毛野氏が崇敬した赤城山の赤城神社を「カラ社(コマ社)」とも呼ぶようであるし、駒ケ岳が渡来した高麗人によって開かれたって説は、結構納得感がある。

鎖雲寺
街道脇に水の音。岩を下る、かわいい滝。霊泉の滝と呼ばれる。滝横に鎖雲寺。境内に木食観正の名号碑。木食観正って、江戸期の木食遊行僧。米類を食べず木の実だけで精進する念仏行者。
境内には勝五郎・初花の墓がある、と言う。曽我兄弟と同じく、仇討ち話の主人公。仇を追って箱根に入り、夫婦力を合わせて、また箱根権現のご加護も受け見事 本懐を遂げた、ってお話。初七って、どこかで聞いた覚えがある、と思ったら、須雲川の北面の山腹にある滝の名前。初花の滝、って勝五郎の病気快癒を祈り、毎夜初花が滝行に通ったところ、とか。

須雲川探勝歩道

鎖雲寺を先に進むと、道は須雲川を渡る。現在の橋・須雲橋は川床より結構高いところにかけられているが、江戸のころはずっと下。明治初年の写真を見ると、川面より1mといった程度の小橋である。旧東海道はこの橋を渡り、斜面を直登した、と言う。その坂の名前は「女転ばしの坂」と呼ばれた。急峻な坂道に女性が難儀したことであろう。
須雲川の手前に左に折れる道がある。須雲川探勝歩道との案内。舗装の車道に少々飽きもきたので、探勝歩道に入る。入り口に「女転し坂の碑」。元のところから移されたものだろう。須雲川の南岸を進む。杉林の中をしばし進むと、道は川に下る。岩場に架けられた架設木橋を渡り、坂を上ると舗装道路に。県道から近くにある発電所に続く道だろう。道を進むと再び県道に。

割石坂
県道を少し進むと「割石坂」の案内。曽我兄弟が富士の裾野に仇討ちに向かうとき、刀の切れ味を試さんと路傍の石を切り割った、とか。旧東海道はここで県道と別れ、山に入る。ほどなく石畳の道が始まる。「江戸時代の石畳」といった案内があった。須雲川探勝歩道
の案内を見ながら進むと、再び「江戸時代の石畳」の案内。これだけ案内する以上、江戸期の石畳を保存しているものなのだろう。
畑宿まで0.9キロといった案内、古代から江戸に至るまでの箱根越えルートの変遷の案内などを見ながら先に進む。ほどなく県道に出る。合流点手前に「接待茶屋」の案内。「江戸時代後期、箱根権現の別当如実は箱根を往還する人馬のために、湯茶や飼葉を提供していたが、資金難に。で、江戸の商人の援助で東坂ではこの地、箱根峠から三島に下る西坂には施行平に接待茶屋を設けた」と。

大澤坂

県道を少し進むと道の左に再び古道へのアプローチ。ガードレールの切れ目から谷方向に降りてゆく。下りきったあたりで沢に架かる橋を渡り先に進む。再び石畳の道に。「大澤坂」の案内。別名「座頭転ばし」と呼ばれた、とか。
いつだったか、江戸期の甲州街道を歩いていたとき、談合坂パーキングエリアあたりの古道に「座頭転ばし」と呼ばれる箇所があった。そこは急坂というより、崖上の細路といったところ。国語辞典によれば、座頭転がし、って「かつて座頭が踏みはずして墜落死したという言い伝えのある、山中の険しい坂道」とのこと。石畳の大澤坂を上る。苔むした石畳はいかにも危ない。座頭でなくても結構、転びそう。

畑宿
ほどなくして県道に戻ると、そこは畑宿。畑宿は、「宿」とは言うものの、正式な「宿」ではない。このあたりでの正式な宿場は小田原、箱根、そして三島の宿。とはいうものの、ここは名立たる「天下の嶮」。途中、人馬の継ぎ立てをしなければ難路は乗り切れないということで設けられた「立場」である。「民戸連なり宿駅の如し(新編相模国風土記原稿)」と称されるほどの賑わいであった、とか。
道脇に畑宿茗荷屋本陣跡。名主である茗荷屋の茶店で、大名諸侯も休憩したのであろう。茗荷屋と言えば、この畑宿で有名な箱根細工と大いなる関係がある、とか。
箱根細工、は「挽物」と「指物」に分かれる。挽物は、ろくろを利用してつくられるお盆とかお椀と言ったもの。指物は箱類で、表面を寄木細工とか象嵌細工で装飾される。で、全国的にろくろ師が住む山中の平地を「畑」と呼ぶところが多い、とか。この地も「畑宿」だし、名主・茗荷屋の主人の名前も代々「畑」さん、である。また、ろくろ師のすむ近くには「ミョウガ」が栽培されていたところが多い。「茗荷屋」の屋号にも「歴史」がある(『あるく・見る箱根八里』より)。ちなみに、畑宿には寄木細工をこの地ではじめた、石川仁兵衛のお墓がある。

畑宿一里塚

駒形神社などをおまいりしながら集落を進み、県道が集落の出口で大きくカーブするあたりから古道は県道と分かれ直進する。寄木細工のお店やお蕎麦屋さんの脇をすすむと畑宿一里塚。湯本茶屋の一里塚は碑だけであったが、この地の一里塚は江戸期の姿を残す。道を挟んで一対のこんもりとした塚は結構目立つ。古道はこの一里塚を境に、山道に入り込む。ここからが「天下の嶮」のはじまりである。

西海子(さいかち)坂
石畳の道を進む。途中、箱根新道を跨いだ、よう。橋が石畳仕様で作られているので、知らずに通り過ぎていた。新道を越えて石畳は続く。石畳の構造や排水についての案内を眺めながら進むと(西海子さいかち)坂。結構急な坂。「此の坂山中第一の嶮にして、壁立する如く、岩角をよじて上る。一歩を誤れば千仞の谷底に落つ(新編相模国風土記稿)」と言うほど現在は険しくはないが、それでも相当のものである。坂道を上りきると県道に出る。

七曲りの坂
しばらくは県道脇の歩道を進む。ヘアピンカーブが続く。七曲りの坂とは言われるが、実際は11曲がりあると言う。箱根新道の下をくぐり先に進む。旧東海道、県道、箱根新道と新旧の道筋が重なり合って進む。樫の木坂バス停を越えると道は再び山道へと入る。

樫の木坂
この坂も昔はもっと厳しかったようである。『東海道中膝栗毛』に「樫の木の坂を越えれば苦しくて、どんぐりほどの涙こぼれる、との記述がある(『あるく見る箱根八里』)。とはいうものの、現在は石段となっている。

猿滑り坂
道は再び県道に出る。が、その先には再び石段があり、県道から分かれる。ほどなく石段道が分岐。直進すれば見晴台バス停。元箱根は左に折れる。再び石畳の道。元箱根まで3キロの案内。小さな沢をまたぐ山根橋を渡ると道は少し平坦になる。等高線に沿ってトラバースする、って感じ。甘酒橋という小さな橋を渡り先に進むと県道への合流点手前に猿滑り坂。道脇の案内に「殊に危険 猿、といえども たやすく登りえず。よりて名とす」、と。

笈の平
県道に出る。歩道は道の反対側、山肌を県道より少し高いところを進む。ほどなく道は県道脇に下りる。階段を下りると歩道は県道に沿って続く。山側に「追込坂」の案内。「ふっこみ」坂と呼んだ、とも。その脇に石碑。「親鸞上人と笈の平」の案内。東国教化の旅を終え、箱根を越えて都に戻る親鸞聖人と、東国に残るその弟子が、悲しい別れをしたところ。とか。
笈の平の名前の由来は、親鸞上人が背負っていた笈を下ろしたことから。はいうものの、親鸞の頃は湯坂道しかないはずで、あれあれ、とは思いながらも、伝説はそういったものか、と納得しようとも思うのだけれども、実際、このあたりは「大平」とも呼ばれていたようで、オオダイラ>オイノタイラと変化した、というのが、妥当なところだろう。。

甘酒茶屋
県道の山側に道が続く。ほどなく藁葺き屋根の民家。箱根旧街道資料館。江戸時代、街道を往来した旅人の衣装や道具が残る。
資料館の横に甘酒茶屋。ドライブを楽しむ多くの人が集まる。甘酒茶屋の案内によれば、「赤穂浪士の神崎与五郎の詫び状文の伝説が残る茶屋。畑宿と箱根宿の中間にあり、甘酒を求める旅人で賑わった」と。神崎与五郎の詫び状文って、三島には同じ赤穂浪士の大高源吾の詫び状文の話が残る。いずれも、仇討ち本懐を遂げるまで、無用のトラブルは起こさじ、と、馬喰の無理難題を耐える赤穂浪士。で、見事本懐を遂げ、その噂を耳にした馬喰が己が行為を恥じ、菩提を弔うべく泉岳寺の墓守となる、って話。忠臣蔵の人気のほどが偲ばれる。

於玉坂
旧街道は甘酒茶屋の裏手を進む。道脇に「於玉坂」の石碑。三島の奉公先から逃れ箱根に。通行手形をもたないため関所破りをしたお玉が処刑されたのがこのあたり、とか。少し先の県道脇にある「お玉ケ池」は、その首を洗った池、と言う。元禄15年(1702年)のころ、本当にあった話のようだ(『あるく見る箱根八里』)。道は県道に当たる。県道を渡ると、そこからまた山道に入る。再び石畳の道となる。

白水坂
道に入ると石畳。白水坂と書かれた石碑を眺めながら坂を上る。城不見(しろみず)坂とも。小田原征伐の秀吉の軍勢が二子山に陣を張る北条勢のため先に進めず、小田原の城を見ることなく引き返したのが、その名の由来、とか(『あるく見る箱根八里』)。

天ガ石坂
ほどなく道にせり出した大石。「天ガ石坂」の石碑。天蓋石とも呼ばれるように、坂の上、天を覆う蓋のような大石、ということ、か。で、この坂を上れば、箱根・東坂越えの最高標高地点。805m。箱根湯本が標高100mほどであるので、700ほどの比高差がある。箱根湯本から延々と続いた上りもやっと終わる。

湯坂道との合流点
山側に向かって「箱根の森 展望広場」との案内がある。お玉ヶ池にも通じているよう。石畳の道が続く。と、道脇にベンチや石碑、案内板。八町平と呼ばれる平坦地。箱根権現まで八町(880mほど)と言うこと、だろう。
石碑には「箱根八里は馬でも越すが」といった有名なフレーズが刻まれる。案内板には北にそびえる「二子山」の案内。とはいうものの、木々に囲まれ見通し効かず。ほどなく十字路。右に折ると「芦の湯」方面へのハイキングコース。道脇にあった「旧東海道」の案内によれば、この地は江戸期の東海道と鎌倉期の東海道、つまりは湯坂道が合流したところ。江戸の頃は湯坂道を通ることはあまりなかったようだが、湯坂道・芦の湯方面にある曽我兄弟の墓へと寄り道した旅人も多かった、とか。

権現坂
十字路を越えると後は芦ノ湖に向かっての最後の下り。道脇に「権現坂」。箱根権現への最後のダウンヒル、ということだろう、か。八町坂とも呼ばれる。坂をくだり切ると「史跡 箱根旧街道」の石柱。道の右脇下に県道が見える。
道路を跨ぐ木橋を渡り歩道橋を下りると「ケンペル バーニーの碑」。ケンペルはドイツ人博物学者。鎖国の頃、唯一入国できるオランダ人と偽り入国。長崎のオランダ商館の総領事とともに箱根を越えた。箱根の美しさを描いた『日本誌』で知られる。バーニーはオーストラリア人貿易商。大正の頃、この近くに別荘をもつ親日家、この地の人たちとの友情を記念し、この碑を建てた。

芦ノ湖
興福院脇を下り元箱根の商店街に。元箱根のバス停を少し西に進み、芦ノ湖の湖面をタッチし、なんとなくの達成感を得る。仕上げというわけではないのだが、芦ノ湖に沿って道を東に戻り箱根神社におまいりし、本日の箱根・東坂越えはこれでおしまい。次回は箱根・西坂を下る。    

足柄の里、山北地方を流れる用水路跡を訪ねることにした。江戸の後期、当時の足柄上郡川村(川村山北、川村向原、川村岸)の里正(庄屋・村長)であった湯山家が13代、150年近くにわたって築き上げた用水や堀割を辿る散歩である。宝永の富士山の大噴火により降灰で埋まった皆瀬川の水捌けのため、新川を堀割り酒匂川に流した(皆瀬川掘割)のが六代弥五右衛門。その瀬替えの影響で水不足に陥った山北、向原に皆瀬川の水を導く用水(川入堰)を造ったのが七代弥五右衛門。また、山北、向原地域の更なる新田開拓のため、酒匂川の瀬戸から取水し、岩山を切り割り、隧道を穿ち、堀割を流し、掛樋にて皆瀬川を越えて水を導く瀬戸堰を開削したのが十代弥太右衛門。その他の当主も御関所堰や川村岸堰などの造成、堰の改修などに努め明治を迎える。まさに酒匂川水系利水に努めた一族である。

山北の用水や湯山家のことを知ったのは、古本屋で手に入れた『近世小田原ものがたり;中野敬次郎(名著出版)』を読んでから。先日歩いた荻窪用水(早川の水を小田原に流す)のときもそうだが、それほど詳しい道案内が紹介されているわけでもない。発行時期も昭和53年と少々古い。果たして用水路跡を辿れるものか、また、そもそも、現在でも用水路が残っているのか、といった、微かな不安を抱きながら足柄へと向かう。



本日のルート;小田急線新松田駅>御殿場線・谷峨駅>県道727号線>県道76号線>東名高速>新鞠子橋交差>線守稲荷>永安橋>瀬戸堰>御関所堰>山北発電所導水路>安戸隧道・新安戸隧道>川村関跡>山北発電所>川村土功之碑>皆瀬川堀割>川入堰>山北発電所導水路分水の吐き出し口>洒水(しゃすい)の滝>河村城址>室生神社>御殿場線・山北駅

小田急線新松田駅
小田急線で新松田に。最初の目的地は御殿場線・谷峨駅。湯山家10代、弥太衛門の開いた瀬戸堰取水口の最寄り駅である。松田駅は新松田駅の通りを隔てた直ぐ北にある。松田駅前にモンペリエという喫茶店があった。若き日に滞在した南フランス・ラングドック地方の街の思い出が、ちょっと蘇る。
御殿場線は30分に一本といった案配。電車を待ちながら、駅のホームから箱根の外輪山を眺める。お椀を伏せたような独特の山容は矢倉岳であろうか。

御殿場線・谷峨駅
しばし電車を待ち谷峨駅に。ロッジ風の無人駅。もともとは御殿場線の信号所であり、乗客の乗降はなかったものが、昭和22年に駅となった。地元の人々が資材や労働力を提供したと言う。信号所は列車行き違えのために設けられたものであり、駅が複線となっているのは、その列車交差のためだろう。
谷峨駅は酒匂川によって開析された段丘崖にある。崖下には国道246号線、前面の段丘面には水田が見え、その先に酒匂川が流れる。酒匂川の向こうには東名高速道路の橋げたが見える。丁度、都夫良野トンネルを抜けたあたりである。御殿場線もそうだが、地形図を見ると、東名高速道路も酒匂川の切り開いた川筋に沿って御殿場へと抜ける。土木技術によって山地にトンネルを通すことはあるにしても、基本は丹沢山地と箱根の山々の間(はざま)を、自然の地形とうまく付き合いながら道を通している、ということだろう。

県道727号線
駅を離れ、国道を越え水田の畦道といった風情の道を、成り行きで酒匂川に向かう。水田は段丘面の僅かな耕地を利用したもの。御殿場線が谷間に入って以来、水田が姿を現したのはここがはじめてである。水田を抜けると誠にささやかな人道橋。
酒匂川を渡り県道727号線に出ると、左へと導く大野山へのハイキングコースの案内がある。ハイキングコースは丹沢湖に抜けたり、山北へ抜けたりと結構楽しそうなコースではあるが、今回はパスし県道を右に折れる。
県道727号線は全長1.8キロのミニ県道。酒匂川の左岸を走る県道76号線が、谷峨駅近くで右岸に移るところが始点。そこから酒匂川左岸を進み、丹沢湖に向かって北上する県道76号線と再び合流するところを終点とする。「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



県道76号線
県道727号線を酒匂川に沿って下る。車は246号線を通るのか、ほとんど往来はない。先に進むと東名高速の橋げた手前で県道76号線に合流。県道76号線は現在の国道246号線バイパスができるまでは国道246号線として使われていた。現在は御殿場線の東山北駅近くの向山からはじまり、谷峨の先で酒匂川筋から離れ、北に進み丹沢湖を経て津久井に進む。途中丹沢の山地部分では未開通の部分が残る。

東名高速
東名高速の橋げた下を進む。丹沢山地の新都夫良野トンネル(1720m)を通る東名高速道路が、酒匂川で一瞬開き、再び箱根山地の鳥手山トンネル(840m)に消える。都夫良野の語源は、南北朝の戦乱時、御醍醐天皇がこの地の豪族・河村氏の案内で吉野を脱出し、都良夫野の地に都を定めたという伝説から。酒匂川を臨む景観が南朝方の都であった吉野に似ており、御醍醐天皇が「おお! 都よ。それ吉野よ!」と言われた。それを「都(みやこ)夫(そ)れ吉野(よしの)」と表記したから、とのことだが、少々出来過ぎ、か。

新鞠子橋交差
県道76号線が国道246号線に接するところに新鞠子橋交差点。酒匂川という名前が文献に現れたのは鎌倉時代初期以降。それまでは、丸子川とか鞠子川、相沢川などとも呼ばれていた。鞠子橋はその名残であろうか。ちなみに、酒匂川の名前の由来は、往古、大和武尊の東征のみぎり、この川に神酒を注ぎ龍神に勝利を記念したところ、その匂いがしばらく消え去らなかった、という故事による。酒匂川は御殿場に源流を発し、丹沢の山地と箱根の山々を分断し、足柄平野を下り相模湾に注ぐ。

線守稲荷
県道76号線を進む。目的地である瀬戸堰は瀬戸地区にある。『近世小田原ものがたり』によれば、御殿場線がトンネルから出てきた辺り、バス停の四軒屋あたりが目印、と。道なりに進むと、道の下に赤い祠。その下には線路とトンネルも見える。瀬戸堰って、この辺りであろうかと、道を逸れ祠に下る。
赤い祠はお稲荷さん。正一位線守稲荷とある。境内にあった謂われをもとにメモ;明治二十二年二月一日、現在の御殿場線が東海道線として開通した当時、 足柄上郡山北町の鉄道トンネル工事でキツネの巣が壊されたため、土地の人たちはキツネの仕返しを心配していた。 やがて工事が完成し、列車が通ることになると、線路に大きな石が置いてあったり、蓑、カッパを着た人が赤いカンテラを振ったり、 女の人が髪を振り乱して手を振ったりするのが見える。機関士が急停車して確かめて見ると、全く異常はみられない。再び発車しようとすると、また灯がトンネルの出口で揺れだすというありさま。 こんなことが何日か続き、機関士の恐怖はつのるばかり。 ある晩のこと線路の上で牛を見つけた機関士はまた幻と思い「えい!」とばかり突っ走ったところ、何かにぶつかる。 急ブレーキをかけて停車してみると線路のわきにキツネの死体が横たわっていた。箱根第二トンネル工事を請け負った建設業者の親方は、工事中にキツネの巣をつぶしたことを思い返し当時の山北機区と相談し霊を慰めようと トンネル上に「祠」をつくって祭ることにした、と。

永安橋
お参りを済ませ線路へ下りる小径を進むと御殿場線のトンネル脇に出る。箱根第二トンネルとあり、線路脇には廃線跡のレンガつくりのトンネルが残る。東海道線であった当時の複線の名残であろう。トンネルをちょっと覗き、御殿場線に沿って少し戻り鉄橋に向かう。酒匂川に架かる橋は第一酒匂川橋梁とある。鉄橋を渡れるのかどうか、ちょっと迷う。通れるような、通れないような、脇に歩道スペースがあるような、ないような。結局は元の国道まで戻る。
瀬戸堰はこの辺りだろうと思いながら、少し先に進むと「四軒屋バス停」があった。ということは、瀬戸堰は間違いなくこの辺り。川へと下る道はお稲荷さんの手前にあったことを思い出し、県道を少し戻り川へと下る。ほどなく酒匂川に架かる永安橋に出た。
橋の上から川筋、そして崖面に堰の名残を探す。と、橋の上流、水面から2,3mほどのところの崖面に亀裂が見える。注視すると崖の岩盤を堀割った水路跡のよう。橋の下流の崖面もチェックする。こちらにも、しっかりと堀割跡が見える。橋を渡り川床まで下り、対岸の堀割を確認。また、橋を渡り線路に沿って先ほど引き返した第一酒匂橋梁脇に進み崖面をチェック。堀割跡がよく見える。瀬戸堰って、このように川沿いの崖面を堀割って山北まで水を通したのであろう。

瀬戸堰
瀬戸堰は湯山家十代の弥太右衛門が為したもの。宝永の富士山の噴火で降砂に埋もれ、大被害を受け亡地として幕府の天領となった山北の地も、湯山家代々の利水事業などにより、漸く回復。酒匂川9カ村も小田原藩領に復帰し、世情が安定したのもつかの間、明和7年、山北の地に大飢饉が起こる。それを見た湯山家十代の弥太右衛門は新堰をつくり、山北、向山を潤す新田開発を計画する。小田原藩・大久保家への度重なる建言むなしく、9年間据え置かれるも、新堰をもってすれば藩の増収を、との訴えが聞き入れられ、安永7年(1779年)に工事着工、天明2年(1787年)には完成の運びとなる。藩から工事代金半額負担を引き出した、とか。
瀬戸堰は、上瀬戸・四軒屋辺りの酒匂川本流左岸に堰の取水口を設け、川の北岸の岩山を切り割り、隧道を穿ち、堰路や掛樋にて沢や川(皆瀬川堀割)を越え山北の低地に落ちる。取水口から皆瀬川堀までは3.5キロ、幅2.4m、深1m弱。三軒屋隧道の暗渠は長さ110m程。皆瀬川を渡す木の樋は長さ72m、深さ80センチ、幅1.4m、高さ14mあった、と言う。
掛樋を渡り山北の低地に落ちた水路は三流に別れる。中央は中通り堰(旧堰に新堰が600mほど合わさる)、北は北山根堰(2キロ弱)、南は南山根堰(2キロほど)と呼ばれ、それぞれ北山から向原の地25町歩を潤し、小田原藩に3000俵の増収をもたらした。藩主大久保忠真は弥太右衛門に感状を与え、終身年録5俵を与えた(『近世小田原ものがたり;中野敬次郎(名著出版)』)、と。

御関所堰
瀬戸堰の取水口を確認し、気持ちも軽やかに再び県道を山北へと下る。次の目的地は御関所堰。九代三太夫が元禄16年の大地震で水道が破壊され、水の供給が乏しくなった板橋台に水を導くため計画したもの。元文4年(1739年)のことである。板橋台に川村関所があったため、この名前がついた。
御関所堰は共和鍛冶屋敷の奥地に源流を発し、板橋台の西を流れ酒匂川に注ぐ板橋沢の流れ口から500m上流地点に堰を設けた。取水口からは沢の左岸に岩石を堀鏨し、板橋台を巡り、皆瀬川堀割に落ちる。全長およそ1キロの用水は、関所があった板橋台の二町を潤す(『近世小田原ものがたり;中野敬次郎(名著出版)』)、と。
沢筋を意識しながら進む。道の途中それらしき流れは見あたらず、ほとんど山北の町に入るあたりまで進む。と、御殿場線がトンネルから一瞬顔を現し、すぐさまトンネルに消え入るところに沢筋が現れる。御殿場線のトンネル脇からは沢に下る道もなく、仕方なく県道を進み、結局、県道が国道246号線と合流する安戸交差点あたりまで引っ張られてしまった。
安戸交差点の先、国道を跨ぐ安戸隧道の手前から山に入る道がある。沢筋へと左に折れる。この道は山北から大野山へ向かうハイキングコース。結構きつい上りとなっており、道は沢筋からどんどん離れてゆく。このまま進んでも、沢筋に下ることはできそうもないので、結局あきらめ元に引き返すことに。

山北発電所導水路
道を戻る途中、何気なく沢筋を見降ろすと導水路が沢を渡っている。直ぐ脇に階段があり、沢に下っている。上りのときは見逃したのだろう。導水路管理用の階段のようであり、どうなることやら、と思いながら、とりあえず階段を下ると導水路脇に出た。
この用水路は山北発電所への導水路とのこと。谷峨駅の少し北にある嵐発電所近くの取水口で酒匂川の水を取り入れ、山地を穿つトンネルを進む。この地で沢にあたり、一瞬地表に顔を出し、沢を渡ると再びトンネルに消える。用水路の勾配は1キロから1.5キロで1m下るといった水平に近い状態。発電所での落差を確保するためであろう。
導水路脇から細路を沢まで下りる。沢筋から見上げる水路橋はレンガ造り。山北発電所が運用開始されたには大正3年であるから、この橋はすでに百年以上の風雪に晒されている。堂々とした風格のある水路橋である。沢に沿って下る道はない。結構な岩場が続く。こんな岩場を下るわけにもいかないので、御関所堰跡探索は諦め道路に戻る。

安戸隧道・新安戸隧道
道を下り安土交差点に向かう。途中、道の斜め上に導水路が見える。先程の導水路がトンネルから抜け、山北発電所へ向かっているのだろう。水路には近づけそうもない。導水路は道と並行に下り安戸隧道、そして新安戸隧道とふたつ並ぶ隧道の上を進んでゆく。
安戸隧道は大正の頃造られたもの。新安戸隧道ができたのは昭和41年。新安戸隧道は東名高速の開通工事との関連で造られた。東名高速の工事で最後に残ったのが大井松田と御殿場の間。それ以外の区間が完成しており、一度高速を下りた車を捌くには旧道のトンネルはあまりに狭く、大急ぎでこの新安戸隧道がつくられた。鄙には稀な車幅のトンネルとなっているのは、こういった事情、とか。また、切り通しとなっていないのは、隧道上を山北発電所への導水路が通っていたためである。

川村関跡
隧道の西側からは導水路脇に上る道は見当たらない。安戸隧道を抜け、脇を見やると川村関跡の案内があった。山北町教育委員会がつくった案内をメモ;徳川幕府は、江戸の守りを固めるため、「入鉄砲」「出女」の監視に、全国の重要な街道に関所を置いた。 なかでも東海道の箱根関所は「重キ関所」として脇往還にも根府川関所、仙石原関所、矢倉沢関所、 川村関所、谷ヶ関所の五つの関所が置かれていた。 天保12年(1841)幕府によって編纂された新編相模国風土記稿の川村山北に「御関所西方にあり、 川村恩関所と云、奥山家及び駿州への往来なり、小田原藩の預る所にして、 警衛の士藩頭一人、定番二人、足軽二人を置けり、建置の年代詳ならず」と記されている。 その場所がこの周辺である。
この関所への道は、 小田原からの甲州道を南足柄市向田で分かれ、北上して当町の岸から山北に入り、 関所を越えて共和・清水・三保地区を結ぶ奥山家への道と、途中で分かれて駿州への「ふじみち」として 信仰の人々の往来にも供された道である。しかし、小田原藩領民以外の女性は通行できなかった。 なお、通行にあたって村内で扱う山物(薪炭など)に十分一銭という通行料を徴収したことも知られている。 関所の規模は、正徳3年(1713)河村御関所掛村々諸色之帳に「柵惣間合貮百六拾壱間半」(約476米)と記され、 相当の敷地を有していたと思われる。 また、関所の普請、柵木、番衆居宅修理、人足の差出などを御関所守村・要害村として、 明治2年まで近隣の十四ヶ村に割当てられたなどの記録も残っている、と。

山北町は静岡県・山梨県と接する神奈川県最西端の山間の町。江戸時代は川村山北と呼ばれた国境の町であり、この川村の地と谷峨辺りにある谷ヶには、関所が置かれていた。この川村関所は箱根関所の抜け道を防ぐためのものであり、箱根の裏関所として通常2~5名程度の役人が詰める小規模なものであった、とか。

山北発電所
隧道を抜け、隧道上を進む導水路への上り口を探す。と、国道246号線の向かいに見える廃屋の横に石段があり、隧道上に上れそう。国道を渡り、石段を上る。と、思いがけなく石段上に国道246号線に沿って用水が走る。樋口橋方面へ向かい、何処かに吸い込まれてゆく。導水路の水をわざわざ分水し川に落とすこともないだろうから、吸い込まれたその先は、橋に沿って鉄管で川を渡り、川向こうの何処かへと進んでいるのだろう。
後ほど送水先をチェックに向かうことにして、隧道上を通る導水路へと戻る。土手を上り導水路そって発電所に向かって歩く。先ほど見た分水への分岐点では、大きな水音を立て水が流れ落ちている。先に進むとほどなく行き止まり。この先は発電所に向かって水が落ちていく。

川村土功之碑
国道に戻り、次の目的地である皆瀬川堀割へと向かう。国道246号線を進み樋口(とよぐち)交差点で県道76号線に入る。皆瀬川に架かる樋口橋の手前道脇に「川村土功之碑」があった。山北町教育委員会のつくった案内の概要をメモ;元禄16年(1703)の大地震、宝永4年(1707)の富士の噴火で 山北地方潰滅状態に陥る。その救済・訴願に鈴木、湯山両名主が尽力。 湯山氏は訴願を重ね、皆瀬川の瀬替が実現。しかし、その為水不足が生じ、 堅岩に斧さくして川入堰をつくり、また幕府の許可で川村関所遣水・付堰の御普請も成った。 瀬替より70年後の安永8年(1779)瀬戸堰工事開始、寛政年間に岸村分水も成り、 水田造成を進める。今堅岩に斧さくの跡を見、酒匂川左岸に遺る素堀・取水口も移り、 皆瀬川を渡る大架槽も堅固な鉄管に変わり、それ等の堰を流れる水は、山北の灌漑・生活用水として 利用されている。 湯山氏祖孫七世、140余年に亘り災害復旧に、灌漑用水の整備に心血を注いだこの工事が いかに困難を極めたかを知ると同時に、その恩澤を永久に記念する為、 川村土功之碑が建立された、と。

皆瀬川堀割
樋口橋を渡り、先に進みほどなく県道725号線へと入り皆瀬川に沿って進む。見るほどに、ありふれた川ではあるが、この辺りは人の手により堀割った人工の川筋。ここが水瀬川掘割の地である。
皆瀬川堀割とは湯山家六代 弥五右衛門の利水事業。降灰で埋まった皆瀬川本流に平行し新川を堀割り酒匂川に流した工事を言う。元禄16年(1703)の大地震、宝永1(1704),2年(1705)の大洪水、更には宝永4年(1707) 富士山大噴火により山北地方は大きな被害を被った。その被害はあまりに大きく、小田原藩領は足柄2郡を幕府に還付し幕府の天領となし、替地として、伊豆、三河、美濃、播磨を頂戴したほどである
幕府の天領となった足柄の地は関東代官伊奈半左衛門忠順のもと、降灰地の砂掻作業を行う。この間の出来事は新田次郎さんの『怒る富士(文春文庫)』に詳しい。それはともあれ、降灰地の砂掻作業では埒があかないと、湯山家六代・弥五右衛門は新川の堀割を構想する。その熱意はついには幕府に通じ、藤堂和泉守を普請奉行手伝いとした工事が開始される。
幕府のお触れもあり、宝永6年から工事開始にあたっては周辺住民が大動員され、千人以上が工事に参加し、8日後には新川は完成した。と言う。新川は皆瀬川本流の西に造られ、山の神戸に堰をつくり、水を通した。新川の長さは330m、幅は10mから30m。深さ9mから15m。樋口(とよぐち)で酒匂川に合流することになる。
新川掘割の結果、皆瀬川の旧河川は水田となった。この旧河川は山北駅近くの御殿場線の路線となっている辺りを流れていた、と。工事の官金は5195両と言うが、湯山家の負担も大きかった(『近世小田原ものがたり』)、と。なお、御関所堰から掘割に流れ込む水路跡などないものかとチェックするが、それらしき痕跡を見つけることはできなかった。

川入堰
皆瀬川に沿って進みながら、川入堰の取水口など無いものかとチェックする。川入堰とは湯山家七代弥五右衛門の利水事業。皆瀬川掘割により、もとの流路にあった山北、向原が今度は水不足に陥ったため、新川堀割の北から水を取り入れる用水堰を計画。新川堀割の北端である山の神戸の北500mの川入に堰を造り、皆瀬川の左岸に沿って山の神戸まで岩石を切り割って堰路をつくり、山北の萩原台に水を通す、というもの。
東名高速の橋桁下を進み、道脇の牛小屋などを見やりながら結構上流まで進む。皆瀬川からの取水口を見つける。山側に導かれてはいるが、ここが川入堰の昔の取水口とも思えないが。きりがないので、このあたりで矛を収め引き返すことにする。
再び牛小屋前を通り東名高速の橋桁下あたり、崖面下に用水路らしきものが目に付く。開渠とはなっていないが、水音が聞こえるので用水路ではあろう。道が下るにつれ、道と用水路の高低差が広がり、用水路は頭上の崖面を進む。用水に沿って進むと道は県道725号から離れ、山裾に沿って集落へと進む。と、その先に、石碑、石祠、石仏などが並んでいる。大きな樹木の下に佇んでおり、いかにも趣のある雰囲気。そこに川入堰石碑があった。
川入堰石碑の案内をメモする;相州川村山北掘割之由来者 宝永年中富士山忽然焼出し砂石降積民屋及大変就中 当村皆瀬川従山奥砂石流来 山北向原原河内迄既成亡所也時 名主弥五右エ門父子不忍見之拠一命即 伊奈半左エ門様御支配之時 酒匂川エ堀落之奉御願依之仲山出雲守様 河野勘右エ門様御見分之上被仰付 御手伝藤堂和泉守様御普請被成下   数多之百姓助申事不量其数 其後享保年中御代官蓑笠之助様用水堰被仰付水 惣百姓相続仕故此事記之謹可謝清恩長為堅固祈奉地蔵菩薩建立依拝上者也 元文二丁巳歳四月吉祥日 水下施主 湯山三太夫 九左エ門、勘左エ門、市郎左エ門、七左エ門 水下村中百八人 山北向原村中(山北町教育委員会)、と。

碑文は九代三太夫が、元文2年(1737年)に父祖の功業である皆瀬川掘割と川入堰開削を称えて建てたもの。当時は山の神戸に建てられていたが、その後、現在の萩原の川入堰引き入れの場所に近いとこるに移された。碑文の御代官蓑笠之助とは、川入堰開削当時の代官である。

川入堰碑を離れ山北の集落へと用水の水音を聞きながら道なりに進む。町のいたるところに用水が流れる。水量も豊かで、水音が気になるほどである。水音に惹かれ、あちらへ向かい、こちらに戻りを繰り返し、しばしの用水散歩を楽しみ、得心したところで次の目的地に向かう。山北発電所からの分水の吐き出し口を求めて、浅間山トンネル方向へと進む。

山北発電所導水路分水の吐き出し口
県道76号を越え、所々に現れる用水の流れを眺めながら御殿場線脇に。線路に沿った道にも豊かな水量の用水が流れる。山北駅の西に架かる跨線橋で御殿場線を渡る。この御殿場線は元々の皆瀬川の川筋とのことだが、周囲より一段切り刻まれたその地形の連なりは、如何にも川筋、といった風情である。
跨線橋を渡り、線路に沿って進むと道は山地へと進む。小径を進むとミカン畑に出た。結構広いミカン畑を成り行きで進むと、浅間山トンネルの西側入口の上あたりに出る。どこに吐き出し口があるのかと、ミカン畑の中をうろうろ。とはいうものの、こんな高台に吐き出し口は不自然と思いはじめる、畑地を荒らさないように注意しながら畑を横切り、成り行きでトンネル出口方面へと進む。
先に道があり、近づいていくと水音が聞こえる。道の下から聞こえている。トンネルを抜けてきているのだろう。水音のする方へと道を下り、ぐるりと回り込む。トンネルから水量豊かな用水が吐き出されていた。
吐き出し口を出た水路は二流に分かれ、一流は町中に、他方は国道246号方面へ進み、国道脇で暗渠に入る。町中への流れは中通り堰の流路であろう。また、国道方面への流れは南山根堰であろう。昔の南山根堰の流路を見るに、先でおおきく二つに分かれ、ひとつは室生神社の南を進み、向原の地を潤し尺里川に落ちる。もうひとつは寛政年間に岸村の灌漑のために造られた川村岸堰へと続く。川村岸堰は浅間山の東麓に150mの隧道を穿ちその先で二流に分かれ岸村を潤した、と。

洒水(しゃすい)の滝
用水に沿って国道246号に向かい、暗渠地点を確認し、次の目的地である洒水の滝に向かう。国道を引き返し、浅間山トンネルを抜けて樋口橋交差点に戻る。交差点を南に折れ、県道726号線を進む。右手に山北発電所を眺めながら進み、滝沢川の手前で折れ、道なりに進むと最勝寺。洒水の滝で修行をしたと言われる文覚上人が不動尊を祀ったお寺様。
文覚上人って、鎌倉期の名僧とか。元は武士の出であるが、他人の妻に懸想し、誤ってその女性を殺めてしまい、それがもとで己の愚かさを知り出家する。熊野をはじめ白山、信濃、出羽、そして伊豆での荒行の話が残る。その後、京都の神護寺の再興を巡って後白河法皇の勘気を被り伊豆に配流される。頼朝の知遇を得たのはその時。頼朝死後は政争に巻き込まれ、後鳥羽上皇に謀反の嫌疑を掛けられ、対馬に配流の途中客死した。名僧というか、怪僧といった赴きのお坊さんである。
最勝寺を離れ山道を進み洒水の滝に。「洒(しゃ)」であって「酒(さけ)」ではない。洒の意味は、密教用語。清浄を念じて注ぐ香水を指す。如何にも、密教の修験場と言った名称である・この滝は、酒匂川(さかわがわ)支流の滝沢川上流にあり、計120mの落差を三段にわかれ流れ落ちる。下流から一の滝(70m)、二の滝(16m)、三の滝(30m)。木立の間からは豪快に落下する一の滝が見える。日本の名水百選、日本の滝百選に選ばれている相模第一の名瀑、とか。近くの崖の祠には文覚上人が刻んだとの「穴不動」がある、と。「蛇水の滝」とも、「麗水(しゃすい)の滝」とも呼ばれる。

河村城址
洒水の滝を離れ、次の目的地である河村城址へと向かう。実のところ、河村城址については、この地に来るまで何も知らなかったのだが、あちこちの道案内に城址の表示があり、それならば、と訪れることにした(後でわかったのだが、洒水の滝から河村城址へと続く散歩道が整備されていた)。
来た道を山北駅近くまで戻り、道脇にある標識に従い、御殿場線を越え、国道246号線の高架をくぐり成翁寺の東を進む。河村城址の石碑の先の駐車場を越えると坂道となる。よく整備された道を10分も歩くと、小郭と茶臼郭の間にある畝堀・障子堀が現れる。箱根の山中城で典型邸な障子堀をみたが、この様式は小田原北条氏の築城術の特徴、とか。
畝堀の端にあるお姫井戸を見ながら先に進むと主郭に到着。本城郭には社が祭られていた。模擬木戸や河村城址碑などを見やりながら、主郭をのんびり歩く。主郭と蔵郭の間の堀切には橋が架かる。蔵郭の先には堀切があり、そのさきにもいくつか郭があるが、未だ発掘調査中といった状態であった。
河村城は標高225m、麓との比高差130mの独立丘陵にある。南には酒匂川、北は戦国期の頃には皆瀬川が流れており、天険の要害として甲斐や駿河に通じる街道を抑えていたのであろう。

河村氏
河村城は平安末期、この地を本拠としていた河村氏の居城と伝えられる。河村氏は平安末期に秦野市近辺に覇を唱えた波多野氏の一族。山北の地の統治を任され、以来河村姓を名乗ることになる。当時山北の地は関白・藤原忠実の庄園であり、河村氏はその庄園を管理する家司であった、と言う。
鎌倉期、頼朝の挙兵に際し、当時の当主・河村義秀氏は平家方として戦に臨む。ために、鎌倉幕府が成立時、河村領は没収されるが、その後復活し頼朝旗下、奥州征伐などで武功をたて、またその後の北条政権下でも和田合戦や承久の乱で活躍する。
元弘3年(1333)、新田義貞の鎌倉攻めに際しては、一転新田勢に加わり鎌倉幕府滅亡の一翼を担う。その後一時北朝・足利旗下に参じるも、観応3年(1352年)には南朝方の新田義興、脇屋義治とともに足利氏の守る鎌倉を攻略。一度は鎌倉を奪取するも足利氏の勢に抗せず河村城に籠もる。「西に金剛・千早城、東に河村城あり」と、南北朝期にその名を残す、河村城籠城戦のはじまりである。
観応3年3月、6千余騎で河村城に立て篭もった南朝連合軍に、畠山国清を主将とする北朝・足利尊氏軍が攻撃。1年に渡る籠城線では攻撃をよく凌ぐも、次第に兵糧も乏しくなり戦力も消耗。南朝方は義興・義治を城から落とし、河村城の東麓で決戦を挑むも惨敗。河村氏も討ち死、城も陥落した。上でメモした、都夫良野の由来にある後醍醐天皇伝説が生まれたのは、こういった背景があったからだろう。
戦国時代に入ると河村城は大森氏、小田原北条氏の支配下に入る。現在残る遺構はその当時のものであろう。小田原北条氏時代は、甲斐の武田氏の進出に備える重要拠点として重きをなすも、天正18年(1590)、小田原北条氏の滅亡によって河村城は廃城となる。

室生神社
河村城址を離れ山北駅に戻る。次の列車まで30分強時間がある。それではと、ピストンで駅の南にある室生神社に向かうことに。流鏑馬の神事で有名と言う。駅横の山北地域センター脇にある跨線橋で御殿場線を跨ぎ、線路に沿って道なりに進む。道脇には豊かな水量の用水路が続く。中通り堰であろうか。成り行きで国道246号線をくぐり、東へ進む。道脇に流れる用水、南山根堰ではあろう。用水の水音を聞きながら進むと室生神社に。
境内は結構広い。境内には2本の銘木がそびえる。ひとつは樹高25m、根周り9.8m、樹齢300年というイチョウ。もうひとつは拝殿の右斜め前方にある樹高25m、根周り4m、樹齢300年というボダイジュである。
この神社には県民俗文化財の流鏑馬が伝承されている。流鏑馬の起源は河村氏にある、と言う。上で、河村氏は頼朝挙兵のとき平氏に味方し、そのために鎌倉幕府成立時、領地を没収されたとメモした。このとき、河村義秀は大庭景義のもとに謹慎を命ぜられ、さらに頼朝は、義秀の斬罪を景義に命じた。が、景義はこの命に従わず、密かに義秀をかくまい続ける。
建久元年(1190年)、鶴岡八幡宮にて流鏑馬の奉納時、トラブルで射手が揃わないのを好機に、大庭景義は射手に河村義秀を推薦。義秀の生存に驚きながらも、危急の折でもあり、頼朝は三流の弓矢で射ることを命じる。失敗したならば改めて斬罪とのプレッシャーの中、義秀は見事的を射ぬき頼朝の許しを得る。その後、弓馬の技量を認められ、旧領を回復し、御家人の列に連なり、上洛にも随行するなど頼朝の信任を得た、と言う。

御殿場線・山北駅
駅に戻る。山間の駅の割にはヤードが広い。その昔、線路の敷地であった所が空き地として広がる。その昔、明治22年、東海道線が開通した当時の箱根の山越えは、現在の御殿場線のルートであった。その箱根の山越えルートは1000mで25m上るという急勾配であり、後押しの機関車を連結しなければ山越えはできなかった。そして、その補助機関車の連結基地が設けられたのがこの山北の駅である。
山北の駅には補助の機関車11両、600名を越える職員が配置された。水や石炭を補給する駅でもあった為に、急行列車など全ての列車がこの山北駅に止まることになる。ために山北は交通の要衝となり村は活況を呈し、従来川村と呼ばれた地名も駅名の山北に改称された、とか。
その賑わいも丹那トンネルが開通し、箱根越えが熱海から三島へと移るまで。それ以降、この山北の駅は幹線からローカル路線に戻り、現在の静かな町となった。本日の散歩はこれでおしまい。しばし列車を待ち、家路へと向かう。

先日、芦ノ湖の水を箱根の外輪山を穿って駿河国駿東郡深良、現在の静岡県裾野市に流す箱根・深良用水を歩いた。箱根周辺用水散歩の第二回は荻窪用水。芦ノ湖を源流点とする早川の水を、小田原の荻窪へと導く。箱根湯本で早川の水を取水し、山地を17もの隧道で穿ち、掘割溝をもって入生田、風祭、板橋の山地を潜りぬけ、水の尾地区の地下を通りぬける。荻窪地区に入ると用水は荻窪川に落ち、そこからは掘割の水路となって進む。途中には「そらし水門」と呼ばれる分水門があり、山崎、入生田、風祭、水の尾、板橋の田畑に落ちる。
この用水の完成により、水が乏しきゆえに貧村を余儀なくされていた荻窪に20町歩(地域全体では60町歩に及ぶ、と言う)の新田が生まれることになった、と。一町歩とは3000坪であるから、20町歩は6万坪。江戸時代は一町歩で平均40俵の米の収穫があった、と言うから、20町歩では800俵。現在一人が1年間に食べるコメは一俵強というから、おおよそ800名分の収穫をもたらした、と言うことだろう。
全行程7キロ以上にも及ぶ荻窪用水であるが、その工事の記録はほとんど残っていない。荻窪用水は川口広蔵という一介の農民が主導的役割を担ったようであり、これも先日歩いた深良用水と同様に、お武家さまとしては忸怩たる思いがあったのだろう、か。
荻窪用水のことを知ったのは、たまたま古本屋で見つけた『近世小田原ものがたり;中野敬次郎(名著出版)』を読んでから。昭和53年発行のものであり、現在では地理など少々状況は変わっているとは思えども、ポケットならぬリュックに本を差し込み、用水フリークの会社の同僚とふたり、散歩に出かけることにする。
ちなみに、荻窪用水は元々、湯本堰とか手段堰などと呼ばれていた。荻窪用水(堰)となったのは、大正12年の関東大震災時以降。修理を機に、当時の足柄村の村長が、荻窪への用水であるとすれば荻窪との名称が妥当とした、と(『近世小田原ものがたり』より)。



本日のルート:箱根登山鉄道・箱根湯本駅>荻窪用水早川取入口>そらし水門よりの分水①>そらし水門②水神様>発電所分水点>箱根登山鉄道・入生田駅>招大寺>稲葉一族の墓>鉄牛和尚の寿塔>長興山のしだれ桜>荻窪用水散策路分岐>開渠>細い急な坂>(芳之田隧道)>(烏帽子岩隧道)>丸山隧道>開渠>急な上り坂>沢筋>沢筋に沿って細路を下る>滑沢隧道>開渠>萬松院>風祭の一里塚>萬松院>丸塚隧道=荻窪用水の案内図>開渠>丸塚隧道入口へ向かうが不明>戻る>開渠>山県水道水源地>開渠>桜田隧道>分岐多数>板橋用水>荻窪用水幹線>荻窪川>煙硝蔵堰取水口>厚木小田原道路>煙硝蔵堰>荻窪用水溜池跡>掘田堰>日透上人の墓>水車>市方神社=川口広蔵の碑>めだかの学校>小田急線・小田原駅

箱根登山鉄道・箱根湯本
下北沢駅から折よく到着した小田原行き急行に乗り、のんびりと小田原駅に。そこで箱根登山鉄道に乗り換え、といっても、同じホームの端っこにホームがあるのだが、ともあれ、ホームでしばしの待ち時間の後、箱根湯本に向かう。途中、入生田で多くの人が電車を下りる。頃は桜の季節でもあり、入生田駅の北にある長興山のしだれ桜を見に行く人たちではなかろうか。我々も後ほど訪れる予定。
山地と早川の間の崖線に沿って電車は走り、箱根登山鉄道・箱根湯本駅で下車。駅前の箱根町観光案内書に荻窪用水の資料か地図の有無を尋ねるが、残念ながら用水路は小田原市域、ということで入手できず。基本、成り行きで進むことに。

荻窪用水・早川取水口
箱根湯本駅から国道一号線を塔の沢方面に進む。土産物屋の立ち並ぶ箱根湯本の商店街を抜け、湯本橋を渡り、函嶺洞門への道の中程、国道に沿って取水口がある。取水口にはラバー・ゲート式堰があり、東京電力の表示があった。『近世小田原ものがたり』によれば、荻窪用水は、元々は灌漑用水路であったが、現在、といっても、本が発行された昭和53年のことではあるが、水量の60%は発電用、残りが灌漑用として使われている、と。発電所は箱根登山鉄道の山崎駅近くにあり、そこでつくられた電力は、畑宿発電所と三枚橋発電所とともに、主として箱根登山鉄道に使われている。

山崎
この地で取水された用水は向山の山地を穿った隧道に入っていくのだが、その導水路の一部は見えるにしても、残念ながら隧道入口は見ることができなかった。山地になんらかの用水路への手掛かりがないものかと、気を配りながら再び箱根湯本駅方面へと戻る。駅を越え三枚橋(先ほどの三枚橋発電所は須雲川・畑宿近くにあり、ここではない)の手前に山地から下るささやかな放水路があった。『近世小田原ものがたり』によれば、湯本近辺には旭町、開沢、天王沢といったそらし水門があったとのことである。そのどれかの名残なのか、単なる沢水なのか不明ではあるが、とりあえずチェックをすべく、道脇から山地へと上る小径を進む。
遮断機もない小田急線の踏切を越え、沢に沿って登ると山腹を縫う小径に出る。沢は更に先まで続いている。そらし水門でもあろうかと、ブッシュを掻き分け山に入るが、それらしき名残もなく、元の小径まで引き返す。
道下に小田急線、早川を眺めながら山腹の小径を進む。板を三枚合わせたが故とか、念仏三昧から、といった由来のある三枚橋を見やりながら東へと道なりに進む。山崎の辺りに道脇に水神さまの祠。脇に沢もあり、またも、そらし水門の名残を求め沢を上る。急な山道を結構上るが結局、分水点も見あたらず、またまた小径へと戻る。

山崎発電所分水堰
小径を再び東へ向かう。崖下は山崎のあたり。山崎って、幕末の戊辰戦争の時、幕府の遊撃隊と官軍との間で戦が行われたところ。遊撃隊の伊庭八郎、上総国請西藩主・林忠祟の活躍など、『遊撃隊始末;中村彰彦(文春文庫)』に詳しい。それにしても、幾多の徳川恩顧の大名がありながら、徳川幕府のために直接武器を取って戦ったのが、この若殿くらい、というも、なんだかなあ、という気もする。
道なりに進む。所々に民家があったり廃屋があったり。と、前方に水門ゲートが見えてきた。近づくとゲートの北には水源池。ゲートから下に水圧鉄管が一直線に下る。崖下、国道脇に山崎発電所があるので、水はそこに送られているのだろう。
鉄柵に沿って上ると隧道から勢いよく水が出てきている。山地の隧道を走ってきた荻窪用水とやっと出会えた。現在、早川で取水された用水は隧道を流れ来る、とのことだが、荻窪用水がつくられた頃は、隧道や堀割溝、そして、断崖面には箱堰を連ね、足を付けて橋のようにして沢を渡した、と(『近世小田原ものがたり』より)。発電用に使われるようになってから、保安のためにも、隧道を掘り抜くことにしたのだろう。関東大震災のため破損した用水の修理を引き受ける代わりに、発電用の水利権を得た、と言う。

山神神社
道はここで行き止まり。周囲を見渡すも、下りの道は如何にしても見つからない。もと来た道を引き返す。しばらく歩くと、道下に祠らしきものが目に入る。成り行きで細路を下り祠にお参り。祠に名前は無かったのだが、後でチェックすると山神神社とあった。祠の脇に石仏と庚申供養塔があったが、石仏は大日如来。どちらも18世紀初旬のもの、とのこと。

石段を下る。鳥居の脇にお稲荷さんの祠。祠に後ろにろ六十六部供養塔がある。六十六部とは、鎌倉時代末期に始まり、法華経を全国66の霊場に一部ずつ納めるべく諸国を遍歴した巡礼僧。供養塔はその六十六部(略して六部)が目的達成の記念と功徳を他者に施すため、16世紀半ばにつくられた。


牛頭天王
道を下り小田急線の遮断機のない踏切を越えて国道に戻る。国道をしばし歩く。ほどなく、道脇に牛頭天王神社への道がある。場所からすれば、先ほどの発電所への分水堰の少し手前。石段を上りお参り。
明治13年、このあたりに流行った疫病退散を祈って造られた、と。とはいうものの、神仏習合の見本といった牛頭天王の社は、明治初年の神仏分離令により、八坂神社とかスサノオ神社といった名前に変わっているのが大半であり、明治13年に「牛頭天王」神社ができるのは、いかにも不自然。ではあるのだが、詳しいことはよくわからない。

明治初年の神仏分離令により、全国の多くの牛頭天王は八坂神社と改名した。それは本家本元、京都の「天王さま」・「祇園さん」が八坂神社に改名したため、全国3,000とも言われる末社が右へ倣え、ということになったのだろう。八坂という名前にしたのは、京都の「天王さま」・「祇園さん」のある地が、八坂の郷、といわれていたから。
ちなみに、明治に八坂と名前を変えた最大の理由は、「(牛頭)天王」という音・読みが「天皇」と同一視され、少々の 不敬にあたる、といった自主規制の結果、とも言われている。
で、なにゆえ「天王さま」・「祇園さん」と呼ばれていたか、ということだが、この八坂の郷に移り住んだ新羅からの渡来人・八坂の造(みやつこ)が信仰していたのが仏教の守護神でもある「牛頭天王」であったから。また、この「牛頭天王さま」 は祇園精舎のガードマンでもあったので、「祇園さん」とも呼ばれるようになった。
もっとも、牛頭天王さまには京の八坂さんと別系統のものがある。尾張の津島神社系がそれ。小田原にある別の牛頭天王さまは津島神社系とも言われるので、この地の天王さまは、はてさて、どちらの系統であろうか。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

 入生田(いりゆうだ)
牛頭天王から国道に戻り先に進むと、ほどなく山麓から一直線に下る送水管。さきほど訪れた荻窪用水の分水堰より、山崎発電所に水を送る。発電所の建屋は黒部川発電所も設計したという、モダニズム建築の設計者・山口文象氏の手になる、と言う。
トラックの風圧に耐えながら国道を入生田駅へと進む。入生田って、山懐に入り組んだところにある停湿地、といった意味。「ウダ・ヌダ」は停湿地の意味。奈良の宇陀(ウダ)、足柄の怒田(ヌダ)、猪が泥水浴する「ヌタバ」に、その意が残る(『あるく・見る 箱根八里;田代 道彌(かなしんブックス)』)。

紹大寺
入生田の駅近く、紹大寺としだれ桜の道案内に従い進む。ほどなく広い参道に出る。桜見物の人が多い。紹大寺は、小田原城主・稲葉正則が城下に父母の菩提をとむらうべく建てた臨済宗の寺がそのはじまり。その後、17世紀の中頃、宇治の黄檗宗万福寺から隠元禅師の弟子の鉄牛和尚を招き、この地に開山。往時、東西1.6km、南北1.1kmにおよぶ寺域には幾多の堂塔伽藍が建ち並んだ、とのことだが、現在はその構えを偲ぶ縁(よすが)は残っていない。

参道の総門跡の先に清雲院。火災により焼失した堂宇のうち、唯一の残ったもの。子院ではあったが、現在招大寺の山号を受け継いでいる。品のいい構えである。
鬱蒼とした杉木立の中、石段を上る。途中に石地蔵跡の案内。石地蔵は稲葉正則の父正勝の家臣である塚田杢助(もくすけ)正家が、主君の一周忌にあたり殉死したことを供養して建てられたという。

長興山のしだれ桜
石段を上り終えると、透天橋と呼ばれる石橋が残る。その先が紹大寺の伽藍跡地。現在はミカン畑となっている跡地を先に進むと、その奥に石段があり、そこが稲葉家の御霊屋敷跡。さらに、その奥、杉林の中に稲葉一族の御墓。春日局の墓もある。三代将軍家光の乳母として権勢を誇った春日局は稲葉正則の父正勝の実母。その墓は、正則が祖母の追福のために造った供養塔、と。

墓所を離れてしだれ桜へと向かう。道脇には文字が刻まれた石が残る。刻銘石と呼ぶようだ。道なりに進むと、紹大寺の開山・鉄牛和尚の寿塔。17世紀末に鉄牛の長寿を祝い建てられた。左手の石段を登りお参りをすませ、道を少し下り加減にすすむと開けた場所にでる。茶店の前に堂々としたしだれ桜。高さおよそ13m。樹齢300年以上、とも。桜見物の人が多い。長興山は紹大寺の山号。

荻窪用水散策路分岐
しだれ桜を少し下ると小さな沢筋にあたる。そこに掛かる小さな橋の手前に荻窪用水散策路のコース案内。招大寺への参道は沢に沿って下るが、散策路は橋を渡り東に向かう。 ほどなくささやかではあるが荻窪用水の開渠が現れる。

細い急な下り坂を下りると一瞬の開渠。すぐに芳之田隧道に入る。開渠が一瞬姿を現すも、すぐ烏帽子岩隧道に吸い込まれる。道案内がしっかりしており、迷うことはない。道なりに進むと丸山隧道に。隧道入口は分からなかったのだが、この丸山隧道と烏帽子岩隧道あたりが堅い安山岩に阻まれ最も難工事の区間であった、と言う。丸山隧道を越え、急な上り坂を進み、上がりきると沢にあたる。沢に沿ってくだる途中に開渠が見える。滑沢隧道だろう。足下の不安定な沢を道なりに下ると萬松院に出る。




萬松院
藁葺き屋根の本堂におまいり。北条氏滅亡後、小田原城主になった大久保忠世が、徳川家康の長男信康の霊を祀るために建てた、と言われる。織田信長の命により、信康に死を賜る使いとして赴いた大久保忠世は終生これを悔い悩んだ、と言う。信長が信康を誅した理由は諸説あり。
大久保氏は箱根以西の豊臣恩顧の諸大名への抑えとしてこの地を領した。家康の、覚えめでたき大久保忠世ではあったが、子の忠隣は政争に敗れ失脚し小田原の地は天領となる。その後、阿部氏が上総大多喜から移るも、岩槻に転封し再び天領に。稲葉氏がこの地を領したのはその後のこと。その後稲葉氏が政争に敗れて越後高田に移った後、大久保氏が復帰し幕末を迎えることになる。

風祭の一里塚
萬松院から少し下がったところに旧東海道が通る。町並みも少しその風情が残る。その交差点に風祭の一里塚の碑。塚は残って居らず、ただ碑が残るのみ。一里塚は江戸時代の五街道に旅人の旅程の目安の造られたものであり、直径3m強、高さ3m弱の塚を築き、その上に榎を植えるのが基本であった。通常道の両側に築かれたとのことだが、現在はその名残は何もない。風祭の一里塚の次は畑宿にある。先日旧東海道を箱根湯本から歩いたとき、早川支流・須雲川を上った畑宿に、昔の姿を残す一里塚があった。一里塚の碑の脇に、二体の道祖神。一帯は丸彫りの仏様のような形をしており、「伊豆形道祖神」と呼ばれる。もう一体は祠形の「稲荷形道祖神」。
風祭の名前の由来だが、これは日本古来の狩猟信仰に関係がある、と。諏訪神社にも、神官が山に籠もり狩りをおこない、その生け贄を神に捧げるのだが、その一連の神事を「風祭」と称した、と(『近世小田原ものがたり』より)



丸塚隧道
一里塚から萬松院の裏手を進み丸塚隧道に。裏から見た本堂の藁葺き屋根は風雨に晒され少々無残。道を上ると丸塚隧道。隧道から出た用水は、少し長い堀割溝となっている。山麓を掘り割る水路の風情は、用水フリークには、なかなか見応えがある。用水脇にあるコース案内を確認し、階段状の道を上り進むと堀割溝。ほどなく山県水道水源池に。このあたりの堀割溝はいかも疎水といった雰囲気がある。荻窪用水は日本疎水百選に選ばれているとのことだが、このあたりのアプローチは如何にも納得。疎水と用水の違いはよくわからないが、疎水とは「灌漑や舟運のために、新たに土地を切り開いて水路を設け、通水させること」と定義されているので、同じようなものだろう。





山縣水道水源地
山縣水道水源地とは、板橋にあった明治の元老・山縣有朋の別荘、「古稀庵」のために設けられた水道の水源地。円形の大きな池となっている。
池脇にある案内をメモ;「山縣水道水源地:(所在地)小田原市風祭:(海 抜)約93メートル; これは、わが国近代史に大きな影響を与えた明治の元老山縣有朋が、晩年を送った別荘古稀庵のための水道の水源地として作ったもの。
明治42年(1909年)にできあがり、老公自身が設計をした庭園等に活用され、後には近くの益田邸、閑院宮邸などの飲料水にも用いられた。個人用水道としては、大規模で、しかも早い時期の水道施設として上下水道史上でも注目されている施設。荻窪用水を分水して、直径26メートル、深さ4メートルの池で、1,300トンの水を沈殿させ、鋳鉄の管で1,860メートル先の古稀庵(海抜33メートル)まで送水していた。山縣公は、この水を愛しながら政治や茶会を楽しみ、大正11年(1922年)古稀庵で亡くなった。:飛び去ると見れば又来てやり水の 岩根はなれぬ庭たたきかな(山縣公の歌)小田原市教育委員会」。 山縣有朋の別荘は明治の実業家・益田孝がもっていた掃雲台の別邸を譲り受けたもの、という。三井財閥の基礎を気づいた益田翁は茶人としても知られる。

桜田隧道
山縣水道水源池を離れ、用水堀割に沿って進む。しばらく進み、用水は桜田隧道先で分岐される。桜田隧道は別名、「下水の尾隧道」とも呼ばれ、全長700mほどあった、とか。その昔、「下水の尾隧道」を出ると、用水には高さ7尺、幅6尺の水門があった。そらし水門の最大のもの、であったとか。ここで用水は二流に別れ、一流は板橋水門を潜り、堤新田を経て板橋に落ちる。途中で狩股隧道などの小さな1,2の隧道を過ぎて、大半は堀割溝で板橋の香林寺の西側に落ちて、部落を流れる上水道に注入する、と言う。地名ゆえに、板橋堰と呼ばれる。
そしてもうひとつの流れが用水路の本流。「下水の尾」を出ると、用水は荻窪川に落ち、沢筋を進み、荻窪地区の窪地を流れることになる。
分岐点あたりからは小田原市街が見渡せる。結構な眺めである。周囲を見渡すに、本流や板橋堰のほかにも分流がある。『近世小田原ものがたり』によれば、桜田隧道の分岐点のあたりには、煙硝蔵堰、石原堰、掘田堰、野村屋敷堰といった堰がある、という。荻窪地区には、低地だけでなく丘陵上にも耕地があるため、堰をもうけて分流したものである。
本流に沿って野道を下り、荻窪川の沢筋かとも思える煙硝蔵堰取水口を見やり、煙硝蔵堰に。更に先に進み小田原厚木道路の風祭トンネル上を越える。荻窪とか風祭トンネルは箱根ドライブの途中、小田原厚木道路で幾度出会ったことだろう。まさか、トンネル上をトラバースするなんて、その時は知る由も、なし。

荻窪用水溜池跡
小田原厚木道路を東に移り、道路に沿って少し北に戻る。荻窪インターチェンジ交差点で車道を東に折れ、少し進むと道の右脇に「荻窪用水溜池跡」。溜池の名残は何もなく、工事跡の更地といったところ。案内をメモ;むかし荻窪村は水不足で水田も少なく、日照りの害をうけることがたびたびあった。 そこで、組頭久兵衛たちが、坊所川上流の湧水を水源ちしてトンネルで水を引き、 溜池に集めて利用する計画をたてる。 そして、宝暦7年(1757)にこれを完成し、記念に石燈籠を山神社(辻村植物公園の奥にある)にあげる。 溜池は寛政11年(1779)に荻窪用水ができてからも利用されていたが、 後に水田となり、今では土堤跡が残るだけ。
この荻窪用水溜池は、荻窪用水が開かれるより25年ほど前に造られていた。水源は水の尾地区の北の伊張山よりの水を引いて貯水池をつくった、と。組頭久兵衛とは、荻窪地区代々の組頭、府川久兵衛とのことである。

掘田堰
道を須進むと、道の右上の丘に標識が見える。チェックに向かと「掘田堰」の案内。丘陵状に分水された用水路のひとつ。水路に沿って丘を進む。小田原の街並みの遠景が美しい。ほどなく水路は途切れ地中に潜る。道路に戻る道筋に日透上人の墓があった。屋根つき小屋風の構えが珍しい。日透上人のあれこれはメモし忘れた。

荻窪駒形の水車
道路に戻り、少々車に怖い思いをしながら進むと道脇に水車跡。荻窪駒形の水車とある。案内によれは、明治13年頃は、荻窪用水を利用した水車小屋は19もあった、とか。用水の水量は豊富。先に進み、道が二股に分かれるあたりから水路が開ける。道を左に折れ、市方神社に向かう。

市方神社
鳥居をくぐり石段を上ると社殿がある。境内に「川口廣蔵翁頌徳碑」。昭和32年に荻窪用水の功労者である川口廣蔵を称えたもの。廣蔵は名主でもなく、ましてや武士でもなく、一介の農民。土木技術の腕を買われて工事に参加した。
出身が足柄の山北でもあり、当地の用水開発に携わった名主である湯山氏の推挙によるものとされる。川口廣蔵の記録はおろか、工事の記録はほとんど残っていない。工期は20年にも及ぶとも言われるが、それさえもはっきりとはしていない。境内に同じく「荻窪灌漑溝復興碑」があるが、そこには小田原藩主大久保候が湯本より水路を開いた、と記してはあるが、廣蔵の名前はどこにも残っていない。当時小田原藩は財政難のため、この工事に資金提供をしたわけでもなく、人員動員の記録もない。実態は許可を与え、監督をし、多少の援助はするも、実際の工事は、村々の熱意と労力よったものであり、その工事の過程で頭角を現したのが廣蔵ではあろうが、それではお武家さまとしては心穏やかならず、ということで記録を残さなかったのであろう、か。

めだかの学校
市方神社から用水路に戻る。直角に曲がるところに水車小屋風の建屋。そこが「めだかの学校。童謡「めだかの学校」が生まれた舞台。童話作家茶木滋(ちゃきしげる)の作詞。昭和25年(1950)にNHKから作詞の依頼を受けた茶木は、息子と芋の買い出しの途中、このあたりでで交わした子供との会話を基に
して作った、と。
道を進み小田原税務所西交差点を南に折れ、県道74号線を進み台地を上り、そして小田原城の天守閣を臨みながら坂をくだり、小田原駅に戻り、本日の散歩を終了する。。

箱根の外輪山を穿ち、芦ノ湖の水を裾野市、昔の駿河国駿東郡深良村へと流す用水がある。という。箱根用水がそれ。地名故に深良用水とも称される。江戸の昔、乏水台地である富士の裾野の地を潤すために造られた。芦ノ湖を囲む外輪山を1キロ以上に渡って、トンネルを堀り抜き、芦ノ湖の豊かな水を通すという、希有壮大な事業である。
工期4年、80万人もの人が携わったと言われるこの稀代の事業、その割には工事に関わる資料がほとんど残っていない。深良村の名主である大庭源之丞と江戸の商人・友野輿(与)衛門が中心となって工事を推進した、と伝わるが、その友野輿衛門などにしても、工事終了後の消息は不明である。たまたま古本屋で見つけた『箱根用水;タカクラテル』によればゆえ無き罪により獄死したと言うし、人によっては横領故に罪に問われた、とも言う。
そう言えばこの箱根用水に限らず、箱根湯本から荻窪川に早川の水を通す荻窪用水についても詳しい資料が残っていない。工事の主導者が町人(町人請負)であり、その実績・成果はお武家さまとっては心穏やかならず、ということで、稀代の事跡を故意に記録に残さなかったのだろう、か。
幕閣、小田原藩、天領沼津の代官などの民業に対する思惑はさておき、箱根周辺の用水を辿ることにする。最初は箱根用水・深良用水。その後、機会をみつけて、箱根湯本の用水、その後は足柄地方・山北の用水を歩こうと思う。



本日のコース;桃源台>湖尻水門>芦ノ湖西岸>深良水門>湖尻峠>県道337号線>箱根用水・深良口>東京発電・深良川第一発電所>東京発電・深良川第三発電所>御殿場線・岩波駅

桃源台
箱根湯本から桃源台行きバスで45分、桃源台バス停に着く。大涌谷へと上るロープウェイ乗り場を離れ成り行きで進む。ほどなく芦ノ湖キャンプ村。コテージなどを見やりながら木立の中を進み芦ノ湖畔に。芦ノ湖は太古の昔、富士山をも凌駕する巨大な火山が爆発し、その火砕流により山が崩壊・堰止められて造られたカルデラ湖。いくつかの沢からの水が湖に流れ込むとはいうものの、水源の大部分は湖底からの湧水とされる。

湖尻水門
芦ノ湖を水源とする早川の流れがはじまるところに湖尻水門。芦ノ湖の水は水門で遮られ緊急時以外には、早川へ流れ込むことはほとんどない。これは大いに水利権と関係がある、と言う。現在芦ノ湖の水利権は静岡県にある。その昔、芦ノ湖を所有していた箱根権現を巻き込み、多年の年月と労力をかけてつくった箱根用水・深良用水の「実績」故のことだろう。箱根用水が流れるのは静岡側であり、箱根用水ができた時、この早川口には甲羅伏せといった土嚢の積み上げで堰を造り、早川側・神奈川側に水が流れないようにしていた、と言う。こういった歴史の重みが静岡県への水利権となっているのだろう、か。
水利権は静岡県にある、とはいうものの、この水利権を巡る問題は一筋縄ではいかないようだ。当然のことながら、「必要な水は使えない,(洪水時などの)不要な水は入ってくる」といった神奈川県に不満が大きかった、よう。
明治の頃、神奈川の住民が湖尻水門(逆川水門)の甲羅伏せを破壊する、といった事件も起きている。「逆川事件」と呼ばれるこの事件の裁判で、逆に「水利権は静岡にあり」と定まってしまった、とも。江戸の頃は、箱根も静岡の深良も共に小田原藩の領地であったわけで、こんな問題が起きるなどと、誰も想像しなかったのではなかろうか。ちなみに、早川はこの水門から仙石原あたりまでは逆川と呼ばれていた。仙石原でほとんど「逆さ」方向へと流路を変えることが、その名の由来と言われる。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

芦ノ湖西岸
湖尻水門を渡ると広場がある。芦ノ湖が一望のもと。ゆったりと景色を楽しむ。開けた道を進むとほどなく木々に覆われた道となる。所々に切り出した木材が置かれていたので、木材搬出用の林道だろう。『箱根用水;タカクラテル』によれば、箱根用水・深良用水をつくるとき、工事用に道を開いたと、あった。
ハコネダケなどの茂る道を進む。竹の回廊が終わり、国有林の看板があるあたりを過ぎると道は湖水に近づく。対岸は観光開発で道も整備されているが、芦ノ湖の西岸は自然が残されている。雑木林が途切れるところからの湖水を眺めながら、のんびりゆったり先に進むと湖尻峠や三国山への分岐点。後ほどここから湖尻峠へと上ることにはなるが、とりあえず先に進み、ほどなく林道を離れ深良水門に。湖尻水門から1.3キロ、20分程度で着いた。

深良水門
フェンスに沿って水門へ進む。フェンスの向こうには水門から勢いよく流れる水路がトンネルへと続く。残念ながらトンネル入り口はよく見えなかった。水門には石造りの水門跡も残されている。本来は木造であったのだろうが、明治43年、石造り鉄扉としたものだ。
水門脇に石碑があり箱根用水の概略が案内されていた。概要をメモする;「徳川四代将軍家綱の時代,小田原藩深良村(現在の静岡県裾野市深良)の名主大庭源之丞は,芦ノ湖の水を引き旱害に苦しむ村民を救いたいと、土木事業に実績のある江戸浅草の商人友野与右衛門に工事を懇願。与右衛門は源之丞のふるさとを思う心に感動し、工事の元締めを引き受けた。計画は湖尻峠にトンネルを掘り抜き、深良村以南の30ヶ村に湖水を引く、というもの。箱根権現の絶大な支援と庇護に支えられつつ,苦労を重ね寛文6年(1666)、ようやく幕府の許可を得,その年8月トンネル工事に着手した。この難工事は驚くべき正確さで成し遂げられ、寛文10年春,3年半の歳月と7300余両の費用をかけ、当時としては未曾有の長さ1280メートル余りのトンネルが貫通した。爾来300有余年灌漑,飲水,防火用水に,また明治末期からは発電にも使用されるなどその恩恵は知れず,深良用水は地域一帯の発展の基となった。」、と。
補足;芦ノ湖の所有権は当時、箱根権現にあったため、与衛門は箱根権現別当の快長に「二百石之所」(伊豆国沢地村=年貢米90石)を永代寄進することを約束。社殿改修の資金と衆生済度を計る快長の協力を得た、ようだ。その所有権は明治20年、箱根権現から宮内省(御料局)に移った。そして所有権をもつ御料局は、その水利権を巡る静岡県と神奈川県の争いの真っただ中に立たされることになる。上に静岡有利の根拠として深良用水の「歴史の重み」とメモしたが、それにしても、国は圧倒的に静岡贔屓、となっている。これって、深良水門の水が発電に使用されたことと大いに関係があるのではなかろう、か。明治になり、深良用水の水を使い日本で初めての水利発電所がつくられている。富国強兵の基盤としての源力資源の確保が、国家としての重要施策であるとすれば、この我が「妄想」も結構いい線をいっているか、とも。
この辺りの地名は「四つ留」と呼ばれた、と。先日石見銀山をあるいたのだが、その間歩(坑道)の入口にある丸太の四本柱は四つ留」と呼ばれていた。この地の「四つ留」も深良用水の工事の時につくられた構造物故の地名だろう、か。工事といえば、この難工事に参加した人数は延べ83万人にも及んだと上でメモしたが、その根拠は工事費用を日当で割ったものである。

湖尻(うみじり)峠
水門脇でしばし休息の後、湖尻峠へと向かう。少し林道を引き返し、湖尻峠への分岐から山道へと入る。所々に石畳が敷いてある。理由がよくわからない。山道を20分ほど歩き湖尻峠に。
湖尻峠はその昔、駿河への峠道であり、駿河津峠と呼ばれた。旅人の通行は禁止されていたようだ。現在は箱根スカイライン・芦ノ湖スカイラインがクロスする。箱根スカイラインは長尾峠を経て乙女峠へと北に向かう。芦ノ湖スカイラインは湖尻・桃源台から湖尻峠をへて三国山、山伏峠、そして箱根峠へと南に下る。

県道337号線
峠から深良隧道の出口へと下る県道337号線を探す。箱根・芦ノ湖スカイラインが合流するあたりから西へと下る道がある。それが県道337号線。入り口付近に幅員制限2mの標識、そして少し先に急勾配12%の標識がある。道は急勾配、急カーブが続く。高度があるため見晴らしはいいのだが、道は広くなったり狭くなったり、そして急カーブが続く。
左から道が合流するあたり、ヘアピンカーブを越えると沢を渡るように大きく曲がる。細いカーブが続く中、左手が開けるところに石碑がある。深良の石碑である。隧道の出口に到着。

箱根用水隧道・深良口
道脇に川筋がある。箱根の外輪山を穿った深良用水の隧道は深良川の沢筋に落としたと言う。水門からの水は隧道から発電所への送水路に送られており、深良川にはあまり流れておらず、川筋へ下りていける。川筋と言っても水門付近はコンクリートの堰のようになっており、足元はしっかりしている。川におり、水門の堰を上る。斜面になった堰に上ると満々と水をたたえた水路が足元に。少々怖い。隧道の出口を見やり、元に戻る。
隧道の開削は箱根側、深良川の両方から掘り進んだようだ。堅い岩盤を除けながらの開削であり、隧道は直線ではなく蛇行しているところもある、とか。双方から掘り進んだ合流点は1mほどの段差になっている、と。どのようにルートを確認したのか知るよしもないが、すごいものだ。

東京発電・深良川第一発電所
隧道出口を離れ、後は一路岩波駅へと進む。進むにつれ、ところどころにセンターラインなども現れる。道幅も広がるか、とも思ったのだが、急な坂とヘアピンカーブが続き、道幅も相変わらず広くなったり狭くなったり。山側に針葉樹が並び、土の法面(のりめん;切土や盛土によってつくられる人工斜面)の前に鉄棚の続く道を進むと15%の勾配の標識も現れる。まだまだ山の中。信号のない十字路を過ぎ深良川を渡ると見通しがよい2車線の道路になる。コンクリートブロックの法面を進むと遙か彼方に裾野の町が見えてくる。しばらく歩くと道の右手に発電所の建屋。東京発電(株)深良川第一発電所。先ほどの隧道
出口で取水された芦ノ湖の水が水圧鉄管によって山腹に上げられ、ふたたび深良川に向かって落とされ、その落差で発電する。
先に進み道の左岸の深良川第二発電所を見やりながら歩き、深良川を渡り直すと左手に研究所が見える。キャノン富士裾野リサーチパーク。少し進むと宮沢賢治の「雨にも負けず」の碑がある総在寺。ご住職が賢治の研究家である、とか。

東京発電・深良川第三発電所
総在寺から道を隔てた蘆之湖水神社方面などを眺めながら先

に進み、深良川右岸に渡り直した辺りに東京発電(株)深良川第三発電所。東京電力グループの水力発電の専門会社である東京発電の発電所は深良川に沿って3箇所あるが、どれも水は深良用水から導水されている。第三発電所の取水堰は第二発電所の近くにあり、深良川の水を取水もするが、水量が乏しく、結局は第二発電所で放水された深良用水の水を使うことになる。取水された水は取水堰の下を潜り、緩い勾配の水圧鉄管によって第三発電所に導かれる。第三発電所の近くから水は深良川に放水され、灌漑用に用いられることになる。

御殿場線・岩波駅
水田に分流される灌漑用水路などを眺めながら深良川に沿った道を進む。遊歩道のような雰囲気の道になっている。振り返ると箱根の外輪山が堂々と聳える。川の脇に建つ「箱根用水の碑」を眺めたり、川を少し離れて駒形八幡にお参りしたりしながら、川に沿って先に進む。御殿場線を越え、県道394号線を渡ると深良川は黄瀬川に合流。合流点に段差があるのがなんとなく面白い。合流点から富士の裾野の遠景を楽しみながら、御殿場線の岩波に向かい、本日の散歩を終える。


芦ノ湖のスタート地点;標高720m_11時17分>深良水門_標高;738m12時(桃源台から2.3キロ)>湖尻峠;標高850m_12時18分(桃源台から3キロ)>深良隧道出口;718m_12時45分(桃源台から4.2キロ)>第一発電所;標高448m_13時49分(桃源台から7キロ)>第二発電所;標高344m_14時5分(桃源台から8キロ)>第三発電所;標高251m_14時25分(桃源台から9.3キロ)>合流点;標高234m_14時55分(桃源台から10.6キロ)>岩波駅;標高;244m_15時11分(桃源台から11キロ)
全行程;11キロ


2月のはじめ、伊豆を歩くことになった。きっかけは倶利伽羅峠と同じく、源氏だったか平家だったか、ともあれやんごとなき公達を主人公にした恋愛シミュレーションに嵌った同僚のお誘い、から。
韮山にある頼朝配流の地・蛭が小島、北条家の館跡、修善寺に移り実朝、範頼終焉の地を巡るとのこと。韮山といえば、蛭が小島もさることながら、江川太郎左衛門ゆかりの地でもあり、一度は行ってみたい、と思っていた。また、1泊2日の行程の中には「伊豆の踊り子」の歩いた下田街道を登り、天城峠を越え、河津七滝を歩く、という、少々のコンプリメントというか、散歩フリークへのご配慮もある。行かずばなるまい、ということである。(火曜日, 2月 27, 2007のブログ修正)



本日のルート;伊豆箱根鉄道・韮山駅>韮山・イチゴ狩りセンター>代官屋敷>蓮華寺>山木判官屋敷跡>蛭ケ小島>伊豆箱根鉄道と交差>成福寺>伝堀越公方跡>政子産湯の井戸>狩野川>守山自然公園遊歩道>守山山頂展望台>古川>真珠院>願成就院>伊豆箱根鉄道・韮山駅>修善寺駅>修禅寺>指月院>実朝の墓>範頼の墓>湯ヶ島温泉

伊豆箱根鉄道・韮山駅
品川駅から「踊子号」に乗り、三島に。伊豆箱根鉄道に乗り換え韮山駅で下車。このあたり伊豆の国市韮山と言う。2005年、伊豆長岡町・韮山町・大仁町が合併してできたもの。駅から東に進み最初の目的地は「韮山・イチゴ狩りセンター」。ビニールハウスの中を、後ろから迫るグループに追い立てられる如く、とはいいながら、もとを取らずば帰れまい、といった落ち着かない心持で畦道を進むわけで、情緒のないことこの上なし。とっとと切り上げ、イチゴ狩りセンターから南に少し歩き、次の目的地「江川邸」に。

江川邸
江川邸。代官屋敷を今に伝える重要文化財指定の建物。高い天井裏の構造、立ち木をそのまま利用した生き柱などの説明をボランティアガイドの方より説明を受ける。このお屋敷の主人はご存知「江川太郎左衛門」。ご存知、とは思ったのだが、同行の、それほど若くもない同僚諸氏にはあまり馴染みがないようでもあった。
江川太郎左衛門、といえば幕末・洋学・韮山代官・反射炉・お台場・海防・西洋砲術、といったキーワードが思い浮かぶ。が、江川太郎左衛門って、代々世襲の名前であった。祖始は清和源氏・源経基からはじまる名家。もとは宇野を名乗った。宇野治長が頼朝の挙兵を助けた功により、江川荘を安堵。鎌倉幕府・後北条と仕え、室町になって「江川」姓に改める。秀吉の小田原攻めの際、北条から離反し家康に与力。その功により代官に。明治維新まで駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵の天領(5万4千石。後に26万石)の民政官として活躍した、と。

江川太郎左衛門
キーワードで代表される江川太郎左衛門、って36代の英龍のこと。号は担庵(たんなん)。若くして江戸に遊学。斉藤弥九郎に剣を学ぶ。二宮尊徳を招き農地改良をおこなったり、領民への種痘 接収など仁政を行い、「江川大明神」などと慕われる。そうそう、日本で最初のパンをつくった人でもある。
が、江川太郎左衛門といえば、なんといっても、反射炉であり、西洋砲術であり、お台場である。実のところ、この代官屋敷でボランティアガイドさんから説明を聞くまで、何ゆえ「韮山代官」が海防に尽力しなければならないのか、不思議に思っていた。伊豆の一地方・韮山の代官がどうして、相模湾・江戸の海防に腐心する必要があるのかわからなかった。説明によれば、韮山代官ってその行政範囲は駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵の天領といった広大なもの。外国船が出没しはじめた相模灘・相模湾、江戸湾の入口は行政管轄内であり、幕府の施策として「外国船打ち払い令」が制定されている以上、代官としては、その職務を全うするために海防施策にこれ勤める必要があったわけだ。「韮山代官」って如何にも「局所」っぽい名称に少々惑わされていた。
江川太郎左衛門と海防:職務上の必要から海防への強い問題意識。川路聖謨・羽倉簡堂の紹介で渡辺崋山・高野長英ら尚歯会の人物と交流。尚歯会は古色蒼然たる砲術の近代化のため、洋学知識の積極的な導入を図る。崋山は、長崎で洋式砲術を学んだ高島秋帆の登用を図る。蘭学を嫌う鳥居耀蔵ら保守勢力による妨害。天保10年(1839年)の蛮社の獄。鳥居の仕組んだ冤罪(えんざい)により崋山・長英ら逮捕され、尚歯会が壊滅。江川は老中・水野に評価されており、罪に問われることはなかった。
坦庵は崋山らの遺志を継ぎ高島秋帆に弟子入り。近代砲術を学ぶ。幕府に高島流砲術を取り入れ、江戸で演習を行う。高島流砲術をさらに改良した西洋砲術の普及に努め、全国の藩士にこれを教育。佐久間象山・大鳥圭介・橋本左内・桂小五郎(のちの木戸孝允)などが彼の門下生。水野忠邦失脚後の老中・阿部正弘にも評価され、彼の命によりお台場を築く。反射炉も作り、銃砲製作も行う。韮山に残る反射炉跡がこれ。また、造船技術の向上にも力を注いだり、近代的装備による農兵軍の組織を企図。その途上病に倒れる。

日本ではじめてつくった「パン」

江川邸を離れる。代官屋敷前のお店で坦庵が日本ではじめてつくった「パン」を買い求める。乾パン、といったテースト。

山木判官屋敷跡
道路脇の観光案内標示に「山木判官屋敷跡」の案内。山木判官って、治承4年(1180年)、源頼朝の軍勢による夜襲によって討ち取られた伊豆国の目代。源氏再興のはじまりとなった奇襲攻撃、である。この山木判官、正式名・平兼隆。京で検非違使をしていたが、その乱暴狼藉ゆえに勘当され伊豆国山木郷に配流。1179年のこと。翌年、以仁王の乱で伊豆知行国主・源頼政が死亡。平時忠が伊豆知行国主となる。で、兼隆は、国司・平時兼の目代として伊豆国を支配することに。目代とは現地に赴くことのない国司(遙任国司)が派遣した代理人のこと。
山木判官、って北条時政が、娘の北条政子を嫁がせようとした男であると言われる。で、婚礼前夜、政子は館から抜け出して源頼朝の待つ伊豆山権現へ遁れた、と。話としては面白いのだが、頼朝と北条政子の祝言は1177年。兼隆が伊豆に来たのが1179年であり、もう頼朝・政子は夫婦になっているわけで、兼隆・政子の祝言ってことはありえない話、といった節もある。山木判官屋敷跡を探して歩く。結局見つからず。どうも民家の庭先にあるようだ。

香山寺
道成りに進んで香山寺に。山木判官・平兼隆の墓がある、という。韮山駅から2.3キロといったところ。

蛭が小島
香山寺を離れ、次の目的地・蛭が小島に向かう。頼朝配流の地。蛭って、あまりにも、ぞっとしない名前。が、語源はノビル(野蒜)のことではないか、とも。蒜(ひる)とは、ネギやラッキョウなどを総称する古名。 川の堤防などに生える。つまり、蛭が小島って、ノビル(野蒜)が生い茂る川の中州、ってこと。往時、このあたりに狩野川の川筋があったのだろう。ちなみに、韮山の「韮」もノビル(野蒜)。韮山って、ノビル(野蒜)が生い茂る山といった意味、との説もあり。

頼朝がこの地に流されるまでの経緯
1156年、後白河天皇と崇徳上皇の争い。後白河側には源義朝・平清盛。崇徳サイドには源為義。これが保元の乱。後白河天皇側の勝利。戦後、平家を厚遇・源氏冷遇。1159年、清盛の熊野詣。この機を逃すべからずと、義朝挙兵。後白河が藤原信頼と図った謀略にうまく乗せられた結果、とか。これが平治の乱。
熊野より引き返した清盛に義朝は敗れ、東国に逃れる。が、尾張で殺される。一行に加わっていた頼朝も捕らえられ、殺されるところを、清盛の継母・池禅尼の嘆願により助命され、蛭が小島に流される。
何故、蛭が小島か、ということだが、この地が平時忠の知行地であった、ため。上でメモした、山木判官の目代屋敷のある地であり、監視下に置くのに都合が良かった、ということだろう。ちなみに、平時忠って、あの有名な「平家にあらずんば、人にあらず」というフレーズを言い放った人物。壇ノ浦で捕虜となる。娘を義経の側室にするなど、保身を図るが結局は能登に流され、一門は時国家として続くことになる。
14歳でこの地に流された頼朝は1160年ころから20年この地で暮らすことになる。流人とはいいながら、謀反の企てさえしなければ結構自由な暮らしではあったよう。熱海にある伊豆山権現や箱根権現の学僧に学問を学んだり、地方豪族の若者と狩りに興じたりもしている。で、恋愛も自由。蛭が小島のすくそばに館のあった北条家の政子にかぎらず、結構な恋愛模様が繰りひろげられた、よう。

条政子産湯の井戸跡

蛭が小島を離れ、次の目的地は北条政子産湯の井戸跡。西に進み伊豆箱根鉄道を越え国道136号線に。国道に沿って少し南に。道案内の標識を目安に西に折れ、小高い台地・「守山」方面に向かう。伝堀越御所跡の案内。「伝堀越」って何だ?と、疑問を残しながらも、標識に従い少し南。個人の住宅の玄関先といったところに「北条政子産湯の井戸跡」が。このあたりに北条一族の館があった、と か。もっとも、西手に聳える守山の西に館があった、との説もあり、よくわからない。付近には時政が頼朝のために宿館、つまりは別荘として建て、頼朝の死後に寺とした光照寺、8代執権北条時宗の子が父の遺志をついで創建したとされる成福寺など、北条氏ゆかりの寺が集う。
北条氏は桓武平氏の流れといわれる。伊豆の国北条庄にて代々在庁官人をつとめていた。とはいうものの、伊豆のほんの小豪族であり、頼朝の監視役であり、にもかかわらず娘が頼朝と割れな い仲に。立場上、当初反対するも、最後にはその仲を許し、上でメモした山木判官館襲撃をきっかけとして頼朝挙兵に与力。熱海・石橋山合戦での大敗北、その後安房への逃亡から再起、源平争乱をともに戦い、「大」北条となったことは、言うまでもない。

堀越御所跡

「伝堀越」御所跡に戻る。案内板を読む。あれ?これって、伝「堀越公方」、つまりは、「堀越御所跡」と、伝えられる、って、こと。堀越御所がこの地にあるとは思っても見なかったので、当初、伝堀越、と呼ばれる御所があったところ、と読み違えていた。ともあれ、思いがけない堀越御所の登場。本日の最大のサプライズ、となった。
堀越御所は堀越公方・足利政知が開いた御所。韮山の西方、狩野川に近い北条、というか守山の麓にある。一万坪にちかい敷地に、寝殿つくりの建物が並び平安文化を感じさせる館があった、とか。堀越公方、とは言うものの、もともとは、兄でもある将軍・足利義政の命を受け、東国に威を示すために下向したもの。しかしながら、東国平定、具体的には古河公方・足利成氏を平定するどころか、鎌倉に入ることもできず、この地に留まらざるを得なくなる始末。とはいうものの、鎌倉は今川の鎌倉攻撃により焼け野原。入ったところで心休まる場所もなかったではあろう。
古河公方とか、堀越公方とか、関東管領・上杉とか、この時代は、あれこれややこしい。ちょっと整理しておく。ちなみに堀越は「ほりごえ」と読む。
京都の将軍家は東国支配のため鎌倉公方を設ける。これって幕府が東西にふたつできる、ってこと。しかし、あくまでも鎌倉は京都の下にあるべきものと、されていた。が、時がたつにつれ、下風に立つことを潔よしとしない鎌倉幕府・公方と京都が対立。京都と鎌倉の全面戦争が勃発。それが、永享の乱。京都方が勝利し、鎌倉公方足利持氏の自殺で幕を閉じる。
この騒乱をとおして力をつけたのが上杉一族。京都の足利将軍家に与力し、鎌倉公方を攻撃。その功により、関東管領として関東を支配することになる。が、上杉一族、とはいうものの、なかなか一枚岩になることはなく、山内上杉とか扇谷上杉とかいった一族・身内での内紛もあり、関東の豪族の京都=上杉に対する反発も強く、鎌倉方は持氏の遺児を擁して京都=上杉と再び争いが勃発。それが結城合戦。
1449年、京都=上杉サイドは妥協の産物として持氏の遺児足利成氏を鎌倉公方に擁立。が、これにて上杉と鎌倉公方サイドの遺恨が消えることもなく、父を殺され恨み骨髄の成氏は関東管領・上杉憲実(持氏討伐の首謀者)の息子憲忠を暗殺。これを機に勃発したのが享徳の乱。上杉管領家と成氏の騒乱がおきる。当初は成氏 有利な局面あるも、駿河守護・今川範忠の鎌倉攻撃により、成氏は鎌倉を落ち、下総古河に後退。京都に反発する武将が集結。これが古河公方。
局面打開のため、京都派の武将は堀越「公方」成氏に対抗できる「権威」の下向を要請。京都の足利義政は天龍寺に出家していた足利政知を還俗させ、関東に派遣を決定。1457年、政知は成氏討伐のため下向。が、副将・斯波義敏が義政の命令に従わず出陣しないなど、陣容整わず、政知は成氏軍に大敗。成氏の勢威強く、鎌倉入府さえ叶わず、鎌倉手前の伊豆領に留まる。当初、山内上杉領であった伊豆の守護府のある韮山・国清寺に居を構える。後に旧北条の館跡といわれるこの地に御所を。それが堀越御所であり、堀越公方と呼ばれるにいたった所以である。
関東統一を目指し下向したものの、自前の武力もなく、賞罰の決定権もない。軍事権も政治権も京都の傀儡、家臣団も官僚も京都からの派遣。関東の豪族の支持を得られることもなく、京都=上杉派の名目的棟梁。とはいうものの、京都と成氏に和議が成立するなど、パワーポリティックには全くの蚊帳の外。無力な落下傘公方として鬱々たる日々をこの地で送ることになった、とか。
とにもかくにも、思いがけなく堀越公方ゆかりの地に出会った。韮山って、ここに来るまでは、韮山代官とか、反射炉、程度しか知らなかったのだが、伊豆の守護府があったり、西関東全域を行政区域とする韮山代官所があったりと、この地は戦略的に重要な位置を占めていたのであろう。箱根峠にも近く、伊豆の府中である三島にも近く、東海道の喉元にあたり、西方は駿河、遠江を、東方は相模、武蔵を押さえる要地であった、ということであろう。

狩野川の堤
堀越御所跡を離れ、守山の脇を抜け、狩野川の堤に向かう。守山と狩野川の間の微高地に北条館があった、との説もあり、その近くに願成就院がある、と思った。大雑把な地図であり、願成就院は守山の東麓、というから、川堤に沿って迂回する必要はなかったのだが、それは後の祭り。ともあれ狩野川方面に向かう。
狩野川は伊豆半島最高峰の天城山の源流を発し、修善寺川などの支流を集め、下田街道に沿って北流。田方平野を潤し、沼津で西に向きを変え大場川、黄瀬川と合流し駿河湾に注ぐ。全長46キロほどの一級河川。水源地・天城連山は年間雨量の多い地帯でもあり、標高差も高く水害が多発した。なかでも1958年の台風22号による狩野川流域の被害は甚大。世に言われる「狩野川台風」である。

守山自然遊歩道

狩野川の堤を歩く。守山の自然・緑に惹かれる。と、守山自然遊歩道の案内。よく調べることもせず、成行きで進めば目的の願成就院、そして守山八幡に進めるのでは、などと御気楽に考え山に入る。 これが大きな誤算。はじめこそ、遊歩道っぽいゆったりとした登り道。が、途中から厳しい登り。
木の階段が延々と続く。麓を巡る遊歩道、といった思惑はもろくも崩れ、これって登山道の赴き。グングン高みに進む。で、頂上の展望台に。いやはや苦労しただけあって、眺めは素晴らしい。
眼下に韮山が一望のもと。狩野川の流れ、ここまで歩いてきた道筋が手に取るように見える。往時の見張り台としては理想的なロケーションであろう。事実、ここには「守山砦」があった、とか。平城というか、平安風館の堀越御所は防戦には使えず、御所の背後のこの地に砦を築き敵を迎え討った、と。事実、この守山砦を巡る合戦が後の北条早雲・伊勢新九郎と堀越公方・茶々丸の間で戦われた。
先日読んだ小説、南原幹夫『謀将 北条早雲』に、この守山砦の合戦の記述があった。どこまでが事実で、どこからがフィクションか不明ではある。が、ちょっとまとめておく
堀越公方・足利政知のことは先にメモした。この政知には先妻の子である嫡子・茶々丸、がいた。が、政知は次男・京都天竜寺香厳院に出家の清晃を将軍後継者に、と企てる。それに怒り心頭の茶々丸は乱暴狼藉。座敷牢に押し込まれる。が、改心のふり。解き放たれた茶々丸は政知、一族を殺戮。山内上杉顕定(関東管領兼伊豆守護)が茶々丸に与力し威を示す。
この茶々丸討伐の企てをおこなったのが、伊勢新九郎。当時、今川家守護代として沼津・興国寺城主であった。関東制圧の野望をもつ新九郎は、暴政・圧政を敷く茶々丸誅殺を決心。茶々丸に与力する山内上杉顕定(関東管領兼伊豆守護)に敵対する扇谷上杉定正(相模守護)と結び、茶々丸勢力の分散を図る。で、扇谷上杉定正が山内上杉顕定をひきつけ、援軍不可の状況を作り出し堀越御所を奇襲攻撃。支えきれない茶々丸は、この守山砦に退き防戦に努めた、とか。
茶々丸はこの地で討ち死にしたとか、茶々丸に与力する狩野道一の城・狩野城にこもり、長く伊勢新九郎こと北条早雲を悩ました、とか説はあれこれ。ともあれ、この新九郎による茶々丸攻撃は、室町幕府の御所に対する今川家守護代の襲撃であり、考えようによっては日本最初の下克上、とも言われている。
守山で北条早雲まで現れるとは思ってもみなかった。そういえば、今回訪れなかった韮山城も堀越御所攻撃の後、新九郎が籠もった城である。いやはや、韮山って、あなどりがたし。

真珠院

展望台を離れ自然遊歩道を山麓東に下る。降り切ったところを南に進み古川の手前に真珠院。曹洞宗のこの寺には、頼朝との悲恋のヒロイン・八重姫の供養等がある。
頼朝は流人とはいいながら、結構自由に行動し、恋愛もした、と上にメモした。八重姫もその一人。東伊豆の豪族・伊東裕親(すけちか)の娘。頼朝は裕親の館に1167年から1175年まで招かれていたのだが、その間に恋に落ち、一子・千鶴丸をも設ける。頼朝監視役の裕親は怒り心頭。千鶴丸をなきものとし、頼朝を殺さんと、する。頼朝は北条館に逃げ込み難を避ける。
その後、頼朝をこの地に訪ねた八重姫は、頼朝に会うこともできず、というのは、すでに政子と祝言をあげていた、といった説もあるが、ともあれその身を嘆き、古川に身を投げた、と。八重姫を哀れんだ里人は古川の傍らにお墓を建てる。後にこのお墓がこの真珠院に移され、今に至る、と。
この八重姫には別のストーリーも伝えられる。江間小四郎に嫁いだ、という説だ。この江間小四郎って、北条政子の弟。後の北条義時。実際、義時の妻のことは謎に包まれているとも言われているし、まんざらありえないことでもないよう。
ちなみに千鶴丸も甲斐源氏の辺見氏に預けられ、後の島津になった、とも。ということは、この千鶴丸って三代執権・泰時ってことになるわけで、こうなってくると、わけがわからない。ここでは古川に身を投げた悲劇のヒロインということで止めておく。
伊東祐親(すけちか)のメモ;東国における平家方武将として平清盛から信頼を得る。頼朝の監視役でもあったことは先に述べた。頼朝挙兵後の動きであるが、熱海・石橋山の合戦では大庭景親とともに、頼朝軍を撃破。が、安房に逃れ、その後勢力を盛り返した頼朝軍と富士川の合戦で戦うが、それに破れ捕らえられる。一命は赦されたが、そのことを深く恥じ自刃した、と。

願成就院

真珠院を離れ韮山最後の目的地・願成就院に。鎌倉時代に頼朝の奥州征伐の成功を祈って北条時政が「願いが成就するように」という意味で創建。その後北条氏の氏寺として伊豆屈指の大寺院となる。が、先にメモした伊勢新九郎の茶々丸襲撃の時であろうか、願成就院は全焼。僅かに再建された堂宇も、秀吉の小田原征伐の時に再び全焼。現在の堂宇は江戸期に建てられたもの、である。

はてさて、これで韮山散歩もほぼ終了。時間の関係で伊勢新九郎が伊豆への橋頭堡として住まいした、韮山城、そして江川太郎左衛門の建設した反射炉跡はパスした。少々残念。反射炉も、実のところ、どうせ模型程度であろう、と思っていたのだが実物が残っている、ということだ。そうであれば、少々無理をしてでも歩いてみたかった、とは思うが後の祭り。国道136号線を伊豆長岡駅までに向かい、次の目的地・修善寺に。

修善寺

修善寺駅を降り、はてさて、どうするか。日も暮れてきた。どうしたところで時間がない。当初、最寄のところまでタクシーで行き、それから駅に歩いて戻りながら源氏ゆかりの 地を巡る、って段取りであった。が、乗ったタクシーの運転手さんの、「名所まとめてご案内、その後は本日宿泊予定の湯ヶ島までまとめて6000円で」との魅力的なる提案に負け、修禅寺、指月殿、源頼家の墓、源範頼の墓を一巡。散歩のメモという以上、歩きもしないところをメモするのも、なんだかなあ、ということで、修善寺のメモはパスすること、に。湯ヶ島の結構立派な宿に泊まり、明日の天城越えへの英気を養う。

伊豆 天城峠越え

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伊豆の国散歩の二日目。天城峠を越え、河津七滝まで歩く。とはいうものの、どこから歩き始めるか、あれこれチェック。結局のところ、旧天城トンネルの2,3キロ程度手前、旧道が国道414号線から分岐する「水生地下」あたりからスタートすることにした。大雑把に10キロ強といったところだろう。予約してある電車・踊り子号の出発時間もさることながら、車の通行量の多い国道を峠に向かって歩くのって、今ひとつ興が乗らない。それが、水生地下からスタートと、決めた最大の理由。(木曜日, 3月 08, 2007のブログを修正)



本日のルート;湯ヶ島温泉>バスで「浄蓮の滝」>浄蓮の滝>バスで水生地下>下田街道>旧天城トンネル>河津七滝(釜滝・エビ滝・蛇滝・初景滝・カニ滝・出会滝・大滝)>大滝温泉>バスで河津駅>河津川沿い・河津桜>姫宮神社>伊豆急行線・河津駅>帰路


天城湯ヶ島

宿で朝食をとり出発。宿をとった天城湯ヶ島って、作家井上靖の育った町。自伝的小説『しろばんば』を読んでみたくなった。とはいうものの、文庫本でも結構のボリュームがあったような記憶が。また、『猟銃』もこの地が舞台、とか。そのほか湯ヶ島、といえば若山牧水の『山桜の歌』が有名。
「三月末より四月初めにかけ天城山の北麓なる湯ヶ島温泉に遊ぶ、附近の溪より山に山櫻甚だ多し、日毎に詠みいでたるを此處にまとめつ」といった詞書ではじまる23首の歌。牧水の代表作でもある。大正11年のこと。23首の歌をメモしておく;

うすべにに葉はいちはやく萠えいでて咲かむとすなり山櫻花
うらうらと照れる光にけぶりあひて咲きしづもれる山ざくら花
花も葉も光りしめらひわれの上に笑みかたむける山ざくら花
かき坐る道ばたの芝は枯れたれや坐りて仰ぐ山ざくら花
おほみ空光りけぶらひ降る雨のかそけき雨ぞ山ざくらの花に
瀬々走るやまめうぐひのうろくづの美しき頃の山ざくら花
山ざくら散りしくところ真白くぞ小石かたまれる岩のくぼみに
つめたきは山ざくらの性(さが)にあるやらむながめつめたき山ざくら花
岩かげに立ちてわが釣る淵のうへに櫻ひまなく散りてをるなり
朝づく日うるほひ照れる木(こ)がくれに水漬(みづ)けるごとき山ざくら花
峰かけてきほひ茂れる杉山のふもとの原の山ざくら花
吊橋のゆるるちさきを渡りつつおぼつかなくも見し山ざくら
椎の木の木(こ)むらに風の吹きこもりひと本咲ける山ざくら花
椎の木のしげみが下のそば道に散りこぼれたる山ざくら花
とほ山の峰越(をごし)の雲のかがやくや峰のこなたの山ざくら花
ひともとや春の日かげをふくみもちて野づらに咲ける山ざくら花
刈りならす枯萱山の山はらに咲きかがよへる山ざくら花
萱山にとびとびに咲ける山ざくら若木にしあれやその葉かがやく
日は雲にかげを浮かせつ山なみの曇れる峰の山ざくら花
つばくらめひるがへりとぶ溪あひの山ざくらの花は褪(あ)せにけるかも
今朝の晴青あらしめきて溪間より吹きあぐる風に櫻散るなり
散りのこる山ざくらの花葉がくれにかそけき雪と見えてさびしき
山ざくら散りのこりゐてうす色にくれなゐふふむ葉のいろぞよき

牧水の紀行文『追憶と眼前の風景』もこのときの作品、とか。『みなかみ紀行(中公文庫)』におさめられている、ようだ。どこかで手にはいるものであれば、詠んでみたい。

浄蓮の滝
バスに乗る。「水生地下」に行く前にちょっと寄り道。天城、といえば、「浄蓮の滝」でしょう、と、言うことである、らしい。同行者の中で、私だけ知らなかったのだが、この滝、石川さゆりの歌う「天城越え」で有名、とか。レコード大賞を受賞した大ヒット曲、と;

浄蓮の滝に下りる。高さ25m、幅7m、滝壷の深さ15m。天城山中に源を発する本谷川にかかる滝。狩野川の上流部にあたる。名前の由来は、近くに浄蓮寺があった、から。今は,無い。滝の近辺にはワサビ田が作られている。狩野川、といえば、というくらいワサビが有名。
ワサビ栽培発祥の地は静岡・安倍川沿いの山間の集落・有東木(ウトウギ)、とか。江戸期・慶長年間、有東木源流の山地に自生していたものを持ち帰った有東木の村人が、集落の遊水地で栽培したのがはじまり、と。慶長12年(1607年)駿府城の家康が食し、その味を愛で名が高まる。その故もあって、集落より持 ち出し不可、ということであった。が、この地に椎茸栽培の技術指導に赴いた天城の住人が故郷に持ち帰った、と。椎茸栽培の指導のお礼に、持ち出し不可のワサビの苗を、荷物の中にそっと忍ばせてくれた、ということらしい。

水生地下(すいちょうちした)
滝壷から戻り、バスを待つ。あまりバスの回数もないのでしばらく待つことに。乗ってわかったことなのだが、このあたりのバスは一部区間を除いて乗り降り自由。そんなことがわかっておれば、適当に歩いておけば、とも思ったがあとの祭り。ともあれ、バスに乗り、「水生地下(すいちょうちした)」で下車。「すいせい・ちか」ってなんだろう、と思っていたのだが、「水生地」の下、ってこと、であった。
バスを降り、旧道を旧天城トンネルに向かう。舗装はされていない。が、きれいに整地されている。整地されているのはいいのだが、そのためもあり車も入ってくる。土埃が少々興ざめ。少し歩くと川端康成の文学碑。川端康成のレリーフと直筆の『伊豆の踊子』の書き出しが彫られている;「道はつづら折になって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追ってきた」、と。
10分程度歩くと水生地。地名の由来は、水が生まれる地、ということだろう。この近辺にもワサビ田跡、といったものが残っているし、なにより、この沢、本谷川だろう、と思うのだが、この沢の上流には「水源の森」がある。天城山のほぼ中央、天然のブナ林が残る自然豊か な森がある。北斜面は狩野川源流に、南斜面は河津川の源流となっている。特に良質の水が得られる、ようだ。水生地(水生地)という地名は、豊かな森ではぐくまれた良質の水がこんこんと湧くところ、ということであろう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



松本清張の『天城越え』の舞台・氷室園地
水生地から旧道を少し外れたところに氷室園地。大正から昭和にかけ、厳しい寒さを活用し天然の氷をつくった人工の池とその保存庫。この氷室って、松本清張の『天城越え』の舞台でもある。丁度いい機会でもあるので、読み直した。新潮文庫『黒い画集』に収められた短編。文庫サイズで42ページ程度。犯人である少年が一夜を明かし、それゆえに犯行におよぶことになるのが、ここにある氷室。
あらすじはさて置いて、読後、なんとなく、しっくり、こない。違和感が残る。多分、一人称の視点で、しかも、それが犯人の少年の回想、といったもの、であり、最後になって、というか、途中から想像はできるのだが、結局「僕が犯人でした」、って展開が、なんとなく??、と感じるのだろう。
一人称が探偵であり、犯人探し、であれば違和感はないのだろうが、一人称で語る書き手が犯人であるなら、最初から自分が犯人とわかってるわけで、いかにも事件に無関係といった風情で話が進み、最後に老刑事によって、「あんたが犯人だってことはわかってるよ」と暗示される、ってことが、それってないよな、と感じた次第。小説の作法はよくわからないのだけれども、こういった手法って有り?といったのが読後の正直な感想でありまし、た。

旧天城トンネル
旧道に戻りトンネルに進む。旧天城トンネル。1904年(明治37年)完成、全長450m・幅4.1m・高さ3.15m程度。日本でもっとも長い石造りのトンネル。2001年(平成13)4月20日、国の重要文化財に指定されている。1970年(昭和45年)に国道414号線の新天城トンネルが開通するまでは、天城越えの主要交通路、であった。
この国道414号って昔の下田街道。東海道、三島宿の三島大社を基点に、韮山・大仁・湯ヶ島を経て天城峠に。峠を越えると河津町梨本まで下り、そこから小鍋峠を越えて下田に至る。
天城越えの道はトンネルができるまでは、当然のこと急峻な峠越え。峠道も時代とともに変遷し, 新山峠, 古峠, 中間業, 二本杉峠,天城峠と変わった、よう。 このうち, 二本杉峠は幕末アメリカ領事館の初代総領事ハリスが通商条約締結のため,下田より江戸に上ったときに通った峠である。
ハリス一行の日記には, 「路は狭く,鋭角で馬の蹄を置く場所もなく. ようやく峠を越えて湯ヶ島に着く, 今日の路は道路ではなく通路とも言うべきものだ.」と記されている。結構な難所であった、よう。このトンネルの開通により、陸の孤島・南伊豆と北伊豆が結ばれることになった、とか。
旧天城トンネルを進む。トンネル内部はカンテラっぽい照明だけで、結構暗い。車も対向はできそうもない。旧天城トンネルは、川端康成著『伊豆の踊子』で有名。作品中で雨宿りをした茶屋はこの近くにあった。
「そのうち大粒の雨が私を打ちはじめた。ようやく峠の北口の茶屋にたどり着いてほっとすると同時に、私はその入り口で立ちすくんでしまった。あまりに期待が見事に的中したからである。そこに旅人の一行が休んでいたのだ。・・・私はそれまでにこの踊り子たちを二度見ているのだった。最初は私が湯ヶ島へ来ると途中だった。そのときは若い女が三人だったが、踊り子は太鼓を下げていた。私は振り返り振り返り眺めて、旅情が自分の身に付いたと思った。・・・暗いトンネルに入ると冷たいしずくがぽたぽた落ちていた。南伊豆の出口が前方に小さく明るんでいた。トンネルの出口から白塗りの柵に片側を縫われた峠道がいなずまのように流れていた。この模型のような展望のすそのほうに芸人たちの姿が見えた。六町と行かないうちに私は彼らの一行に追いついた・・・(『伊豆の踊子;川端康成』)」。
この散歩に出る前の日のことである。娘に、「明日、伊豆の天城峠、伊豆の踊子の道を歩く」、と話した。と、丁度、学校の宿題で、川端康成の『伊豆の踊子』のレポートを書く、とか。レポート提出の前日、あれこれ質問がくるであろうからと、丁度いい機会でもあるので、本棚にあった『川端康成―その美と愛と死;長谷川泉』を読み返した。

伊豆の踊り子

抜粋する;『伊豆の踊子』は、川端康成が伊藤初代との恋愛に敗れた傷心のうち、湯ヶ島に滞在して書かれた『湯ヶ島での思いで』がもとになる。この未定稿から『伊豆の踊り子』と『少年』が生まれた。大雑把に言って、『湯ヶ島での思いで』の前半が『伊豆の踊子』、後半が『少年』となる。『伊豆の踊子』は伊藤初代との恋愛に敗れた「傷心」を踊り子・薫によって純一無垢に洗い流し、『少年』はモデル小笠原義人との同姓愛の思い出を、清野少年という存在をとおして康成の心を浄化し純一にする、と。
『伊豆の踊子』の素材は伊豆の旅情のゆきずりの感傷で、ひとときの邂逅である、という。天城峠越えから、湯ケ野温泉をへて下田にいたる一高生の一人旅は、踊り子薫とその兄栄吉、栄吉の妻千代子、千代子のおふく、雇の百合子という旅芸人一行の誘いによって、旅情がなまめき潤うことになる。主人公にとっての救いは、孤児根性のひがみと、かたくなな歪みが、素朴で人間味溢れた一行によって浄化されたことにある。一行の中でも、不思議な色気を持ちながら、まだ十四歳の少女である踊り子の薫の対応が、とくに主人公の心を洗った。踊り子が一高生に言った「いい人」は「明かり」となって高校生を浄化した、とある。
川端康成にとって「いい子」は決め言葉、であった、よう。そのことは、孤児根性、と切っても切れない関係をもっている、とか。孤児根性は、両親をはじめ、肉親の死屍累々の中に投げ出された康成の感慨が根底にある。『伊豆の踊子』の中に;二十歳の私は自分の性質が孤児根性で歪んでいると厳しい反省を重ね、その息苦しい憂鬱に耐え切れないで伊豆の旅に出てきているのだ」と記されている。踊り子の薫たちは、一高生の川端康成、孤児根性にいじけた康成を「いい人」とすなおに描くことによって、かたくなに歪んだ心を純一無垢に洗い流す、と書かれてあった。(『川端康成―その美と愛と死;長谷川泉』より)
後日談。伊豆の旅から戻り、天城越えの実体験も交えて、娘に、さて、『伊豆の踊子』についてのレポートはどうなっている?などと聞いたところ、「お父さん、レポートは『雪国』だよ」、だって。がっくり。

八丁池への分岐

旧天城トンネルを過ぎると緩やかな下り。30分程度で寒天橋に。八丁池への道が分岐する。八丁池は標高1200m、天城原生林の中に佇む火口湖。「伊豆の瞳」とも。1時間ちょっとで行けたよう。後の祭りではあるが、歩いてみたいかった。

二階滝(にかいだる)
寒天橋あたりからは舗装。道なりに下ると寒天橋のそばに二階滝(にかいだる)。落差20m。河津川一番目の滝。八丁池からの水が二段にわけで落ちている。二階、という名前の由来でもある。滝を「たる」と呼ぶのは、「垂水」から、と。二階滝園地を過ぎさらに下る。新道への分岐案内。踊子歩道から離れ、杉などの茂る細道に。

平滑の滝
国道を横切る。小さな橋を二つ渡り、わさび田にぶつかる。コースは鉄橋を渡る。「平滑の滝」はコースからちょっとそれる。滝は幅20m・高さ4mの一枚岩。

宗太郎園地

橋を渡り、さらに下ると宗太郎園地。この先から宗太郎杉並木の林道がしばらくつづく。宗太郎園地には、太い幹の杉が立ち並ぶ。江戸時代に幕府の直轄地となっていたこの地の杉を伐採する際に、伐採の御礼にと植えた杉の苗が育ってできた森。「園地」とはいうものの、遊園地があるわけではない。美しい杉林と休憩用の東屋と水汲み場があるだけである。

河津七滝

しばし歩き河津七滝の入口に。河津七滝とは、河津川にかかる7つの滝(釜滝、エビ滝、蛇滝、初景滝、カニ滝、出合滝、大滝)の総称。河津川は、天城山を源とする河津川と天城峠の南斜面から流れる荻ノ入川が出合滝で合流し、河津平野を通り相模灘に注ぐ長さ 9.5キロの二級河川。
七滝散歩に向かう。滝方面への分岐を右に。石段は260段。まさか、また、戻るわけじゃないよね、などと少々の怖れ。小さな橋を渡ると河津七滝の第一「釜滝(かまだる)」。高さ約22m、幅約2mで、河津七滝中、大滝に次いで、2番目に高い滝。滝の周りは岩・玄武岩が柱状に規則正しく割れている。「柱状節理」。直ぐ下に「エビ滝」「蛇滝」と続く。川に沿って道があり、来た道を戻ることがない、とわかって少々安堵。蛇滝の先、階段を下りると「初景滝」。このあたりから舗装された道に。「カニ滝」。「出会滝」。ふたつの渓流が出会うこと、から。最後に「大滝」。七滝中最大の大滝。幅 7m、高さ30m。周囲には釜滝と同じく柱状節理が見える。

七滝のメモはしごく簡単になった。生来の情感の乏しさゆえか、はたまた、田舎の出身であり、美しい自然があたりまえ、故郷の自然が一番と思っている我が身には、どうしても、自然描写に気合が入らない。そのかわり、というわけもないのだが、河津の七滝にまつわる伝説をメモしておく。
その昔、この地、万三郎岳・八丁池のあたりに天狗が棲んでいた。八丁池で洗濯する天狗の美しい妻に、七つの頭をもつ大蛇が懸想。天狗は、大蛇を退治すべく策をめぐらす。八丁池のあたりに強い酒をなみなみと満たした七つの樽を置く。女性を求めてき た大蛇、酒の魅力に負け泥酔。頃もよし、と蛇を切り刻む。で、このとき使った七つのタルは河津川に捨てられ、流れ流れてそれぞれ谷に引っかかり、七滝の滝壷になった、とか。

河津駅
河津七滝散歩を終え、河津七滝バス停から河津駅までバスに乗る。30分弱。少し時間があったので、早咲き桜で名高い、河津桜が並ぶ河津川沿いを歩く。桜祭りが近々はじまるらしく、屋台の準備が大規模に行われていた。川堤を少しのぼり、姫宮神社で大きな楠を堪能。踊子号にて一路家路を急ぐ。

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