相模原の最近のブログ記事

先回までの三回の散歩で、相模原台地の中位段丘面である田名原段丘面を流れる姥川と道保川が鳩川に合わさり相模川に注ぐ下溝の鳩川分水路、また下位段丘面である陽原段丘面を流れる八瀬川が相模川に注ぐ鳩川分水路の少し北辺りまで歩いた。
大雑把に言って三段からなる相模原台地を実際に歩き、高位・中位・下位の各段丘面の「ギャップ」などを実感したわけだが、この鳩川分水路のある下溝辺りで、中位段丘面である田名原段丘面と下位段丘面である陽原段丘面の「ギャップ」がはっきりしなくなり、というか、陽原段丘面が田名原段丘面に「吸収・埋没」されているように感じる。その田名原段丘面は下溝から南に細長く続き座間辺りで沖積面に埋没するようである。
それはともあれ、地図を見ていると鳩川分水路から南に鳩川が南下する。下溝で相模川に注ぐ鳩川は「分水路」であるわけで、理屈から言えば当たり前ではるのだが、分水路で終わりと思っていた鳩川が更に南下し海老名辺りで相模川に注いでいる。これはもう、最後まで鳩川とお付き合いすべし、と。
大雑把なルートを想うに、先回までの散歩で取り残した、当麻から先の八瀬川を相模川に注ぐ地点まで辿り、そこから鳩川に乗り換え海老名まで。下溝から南の田名原段丘面の崖線上は、当たり前に考えれば高位段丘面の相模原段丘面ではあろうが、座間丘陵が相模原面との間に割り込んで居る、というか、相模原面より古い時代の相模川の堆積によってつくられた丘陵地であるので、「先住民」として田名原面の東端を画す。相模川の堆積によってつくられた扇状地の平坦面が、開析され丘陵地形となった座間丘陵を見遣りながら鳩川を海老名まで辿ることにする。



本日のルート;相模線・原当麻駅>浅間神社>浅間坂>神奈川県営水道・桧橋水管橋>湧水>崖線坂に沿って八瀬川を南下>八景の柵>三段の瀧>八瀬川が相模川に注ぐ合流点>鳩川隧道分水路>鳩川>道保川緑地>左右に分かれる不思議な分水点>有鹿神社>勝坂遺跡>>長屋門>中村家住宅>石楯尾神社入口>勝坂式土器発見の地>石楯尾神社>勝源寺>庚申塔>日枝神社>四国橋>左岸用水路>伏越し>鷹匠橋>見取橋>はたがわ橋>大和厚木バイパス>宗珪寺>県立相模三川公園>横須賀水道上郷水管橋>有鹿神社>小田急・海老名駅

相模線・原当麻駅
相模線・原当麻駅を降り、南の県道52号に進み麻溝小学校交差点で左折し県道46号に。地図を見ると田名原段丘面(中位)と陽原段丘面(下位)とを画す段丘崖の途中に浅間神社がある。八瀬川に下るまえにちょっとお参り。
○陽原段丘面
因みに、上に「田名原段丘面(中位)と陽原段丘面(下位)とを画す段丘崖」とメモしたのだが、カシミール3Dで地形図で見る限りは県道52号から南は陽原段丘面(下位)はほとんど広がりはなく、崖線から八瀬川の間がかろうじて陽原段丘面として残り、八瀬川から西の水田は相模川の氾濫原と言ったもののように見える。地形図の中には田名原段丘面が直接相模川が相模川の氾濫原に接しているようなものもある。崖線から八瀬川の間しか段丘面が無いとすれば地形図には表示されないかもしれない。素人の妄想。根拠なし。

浅間神社
坂の途中に浅間神社。祭神は木花之佐久夜毘売命。正徳3年(1715)再建の棟札あり、という(『相模風土記』)。社はそれとして、この地の南側は城山と呼ばれ往昔「当麻城」があった、とのこと。西と南は相模川、東は沢(鳩川)の侵食谷に囲まれており、要害の地と見える。
○当麻城
当麻城は鎌倉時代初期、源範頼の家臣・当麻太郎がこの地に城を築いたと言われるが確たる証拠はない。戦国時代には北条氏の狼煙台が築かれ、津久井城とともに武田や上杉の攻略に備えたとのとこ。秀吉の小田原攻めの時は、当麻豊後守がこの城に立て籠もったとも伝わるが、北条氏の家臣に当麻氏がいたとの記録はないようである。現在はとりたてて明確な城の遺構が残っているようには見えないが、この浅間神社の辺りには郭があった、とも言われている。
○当麻太郎
鎌倉時代初期、源範頼の家臣。兄頼朝から謀反の嫌疑を受けた主人範頼の無実を晴らすべく頼朝の寝所に忍んだ(頼朝暗殺を企てたとも)。が、発覚し主人範頼は伊豆に流され殺される。当麻太郎は頼朝の娘・大姫の病祈願故に、罪一等を減ぜられ日向国島津荘に赴任する島津忠久(母は源頼朝の乳母である比企能員の妹・丹後局)に同行、鬼界ヶ島に流刑。頼朝死後、島津氏に仕え、新納院に住み、新納を称し武功をたてた、と。

浅間坂
浅間神社脇の浅間坂を下りる。鬱蒼とした斜面林である。道を下ると手書きの看板で「飄禄玉」の案内。坂を下りきった所にいくつもの貯水槽があり、地図には「中島養魚場」とある。飄禄玉(ひょうろくだま)は鯉、ます、鮎料理の店のようであった。

神奈川県営水道の桧橋水管橋
食べものに今ひとつフックがかからない我が身はお店をスルーし八瀬川に。そこにブルーでペイントされたアーチ型の水管橋。神奈川県営水道の桧橋水管橋であった。
この水管橋は、谷ケ原浄水場から来た北相送水管・中津支管(内径800mm)。北相送水管・中津支管は田んぼの中の道を相模川に架かる昭和橋の方へ向かい、昭和橋を水管橋で渡り愛川町の中津配水池へ向かう。
○北相送水管
この水管は神奈川県企業庁(神奈川県が経営する地方公営企業。住民の福利厚生を目的に税金ではなく、独立採算で運営される)がおこなう水道事業網の水管。県営企業団の水道事業は相模川水系の寒川や谷ヶ原で企業庁が取水した自己水源、そして酒匂川・相模川の水を水源とする神奈川県内広域水道企業団(神奈川県、横浜市、川崎市、横須賀市が昭和44年に共同で設立した「特別地方公共団体」)からの受水をもとに、湘南、県央、県北及び箱根地区など12市6町を給水区域とし、神奈川県民の約31パーセントにあたる約278万人に給水しているが、この水管はその水のネットワークの一環である。
□経路
経路は、相模ダムでの発電放流水を下流の沼本ダムで取水し、津久井隧道を経て津久井分水池(津久井湖から西に下る相模川が大きく南に流路を変える辺り)に導き、分水池で県営水道、横浜水道、川崎水道などに分水。県営水道に分水された水は、津久井分水地のお隣にある県営谷ヶ原浄水場で浄水され水道水となり、相模原、厚木、愛川町の45万人を潤す。
北相送水管の大雑把な経路は谷ヶ原浄水場から、相模川に沿って大島地区に下り、渓松園辺りから県道48号を大島北交差点まで進み、交差点から左に折れ北東に向かい六地蔵に。そこから南東に「作の口交差点」方向へと下り、この地で姥川を渡る。
姥川を渡った水路は南東へと南下を続け、虹吹、七曲をへて、途中相模原に分水しながら、下原交差点で県道52号に当たる。北相送水管は県道で右に折れて県道にそって進み、相模川を昭和橋で渡り中津工業団地当たりの中津配水池に到る。何気なく撮った一枚の水管写真から、神奈川の送水ネットワークの一部が見えてきた。ちょっとしたことにでも好奇心を、って成り行きまかせの散歩の基本を改めて想い起こす。

段丘崖下を八瀬川に沿って進む
崖線の斜面林を眺めながら八瀬川をくだる。崖線からの湧水がパイプ水管を通して流れ出す箇所もあり、ちょっと様子をと崖の坂を上下したりする、段丘面相互の比高差は30m弱もあるだろうか。 崖線に沿って下る八瀬川は、下溝の鳩川分水路辺りの整備された公園手前にある「新八瀬橋」あたりで崖線を離れ緑低木の中を相模川へと注ぐ。「新八瀬橋」辺りまでは水路に沿って歩く道がありそうだが、水路を離れ段丘崖上にあると言う「八景の棚」へと向かう。

八景の柵
段丘崖上に上り、県道48号を北に戻る。しばらく歩くと県道脇に細長く、誠にささやかな公園がある。そこが八景の柵であった。相模川、そのはるか彼方に聳える丹沢山塊が一望できる。八景とは「はけ=崖線」のこととも言う。 この地が景勝の地として知られるようになったのは、昭和10年(1935)、横浜貿易新報社による、「県下名勝45選」に当選したことによる。公園には当選記念の石碑も建つ。
記念の石碑といえば、公園の南端にいくつかの石碑。ひとつは「出征記念碑、慰霊塔」。昭和12年(1937)のシナ事変からの当地戦没者名を刻んだ慰霊碑である。もうひとつは「浄水の碑」。碑に刻まれた案内をメモする。
○浄水の碑
相模原市が首都圏整備法による市街地開発区域の指定をうけ 各種工場の進出と急激な人口の増加をきたしたが上段地域における市街化の急進展にひきかえ 麻溝地域は都市計画による地域指定もなく すべてにおいてなんらの恩恵にも浴せず かつての清流鳩川姥川は都市化のひずみをうけ 昔日の面影を失い 汚染甚しく日常の利用にさえ事欠く状態となった。
昭和三十六年この窮状を打解すべく 地域住民の願望を結集して地元市議会議員を中心に県営水道敷設の件を関係当局に陳情した。 水源に恵まれた当麻地区には簡易水道が設けられたが下溝原当麻芹沢地区は不幸にも取り残され 住民の困惑はその極に達した。
 越えて昭和三十八年十月にいたり県営水道敷設の議が整い関係地区住民の七二%に当る五百五十名が加入して「麻溝上水道組合」が結成された。
県営水道の敷設は将来の地域開発を考慮し配水本管は二万四千余米経費五千余万円の膨大なものとなった 巨額な資金は相模原市農業協同組合より役員の個人保証により借り入れ工事の促進が図られた 組合員もまたこの事業の趣旨を良く理解し月賦制度による円滑な返済をなし役員の労苦に応えた。 
待望久しかった本事業の完成により環境衛生の改善 消火栓の増設 学校給食 小中学校プールへの給水等その成果は地域開発の基礎をつちかい組合員の功績は高く評価されることと信じ ここに経過の大要を誌し永く後世に伝えるものである 麻溝上水道組合 組合長 小山右京撰書」とあった。

溝原当麻芹沢地区の利水事業の歴史が刻まれている。「芦沢地区」とは相模線・原当麻駅と無量光寺の間の台地上一帯の地。今回の散歩の最初に「神奈川県営水道・北相送水管の桧橋水管橋」に出合ったが、原当麻辺りのこの流路をトレースすると、国道129号「作の口交差点」から南東へと南下を続け、虹吹、七曲をへて、県道52号下原交差点に下った流路は県道で右に折れ、県道に沿って進み、八瀬川を跨ぐ桧橋水管橋を経て水田を進み、相模川を昭和橋で渡り中津工業団地当たりの中津配水池に到るわけで、芹沢地区を進んでいるように思える。この奈川県営水道・北相送水管事業のことを指しているようにも思えるのだが、根拠はない。
○さいかちの碑
「八景の棚」を少し北に進むと「さいかちの碑」。この碑は戦勝を祝って武田信玄が植えたとされる「さいかち」の木を記念したもの。「さいかち」は「さきがち(先勝ち)」を想起するから、とか。永禄12年(1569年)、北条攻めのため2万の大軍を率いた信玄は、まずは高尾駅北の廿里(とどり)合戦、滝山城攻めで北条氏照を破り、御殿峠、相原、橋本を経て、北条勢を迎え撃つべくこの地に陣を張ったようだが、この地に「さいかち」を植え、滝山攻めの戦勝を祝い、再びの戦勝を願い験を担いだと伝わる。
武田勢はこの後、小田原城に進軍するも北条勢は籠城。見切りをつけた武田勢が甲斐へと帰路、三増峠・志田峠で戦われたのが、日本三大山岳合戦と称される「三増合戦」である。戦いの地を三増峠、志田峠、韮尾根の台地へと辿った散歩を想い起こす。
因みに「さいかち」の寿命は80年程度とのことであるので、現在のものは何代目であろうか。


 三段の滝下広場
八景の棚を離れ、県道46号を南に戻り鳩川分水路に架かる新磯橋交差点に。鳩川分水路の周辺は「三段の滝展望広場」や「三段の滝下多目的広場」として整備され、各広場を繋ぐ散策路がつくられ、三段の滝下には滝見物用の人道橋も用意されている。
人道橋からの相模川の眺めも美しい。正面には、この辺りで大きく蛇行する相模川、川中の中州、対岸はるかかなたの丹沢の山塊、右に目を移すと八瀬川が下ってきた段丘崖線の斜面林、八瀬川と相模川の間を埋める田圃の広がりなど、結構な眺めである。神奈川八景とのブランドも頷ける。

三段の滝
三段の滝とは鳩川の水を相模川に逃がす分水路にあり、段丘上からの放水の水勢を弱めるため段差が造られているのだが、その段差が三段であることから「三段の滝」と呼ばれる。大雑把に言って三段の堰堤といったものである。この鳩川分水路は昭和63年(1988)に造られた。
ちなみに、分水路は新旧ふたつある。この鳩川分水路は「新」分水路であり、昭和8年(1933)につくられた「旧」はその南にある。

八瀬川が相模川に注ぐ地点に
ここで何となく八瀬川が相模川に注ぐ姿を見てみようと整備された公園の北端といった辺りにある「新八瀬橋」まで戻る。で、橋から八瀬川が相模川へと向かう水路を見下ろすも、とても快適に歩けるといったものではない。蛇も怖いし、橋から見る八瀬川の流れを見て、善しとする。
田名郵便局辺りの源流域とは言い難い風情、そのすぐ南のやつぼからの豊かな養水、大杉池系からの豊かな湧水、下水道が整備される以前の生活排水で汚れた水と清冽な湧水の流路を分ける八瀬川の中を平行に流れるふたつの水路など、源流域の姿を想い起こす。
○八瀬川
八瀬川(やせがわ)は、神奈川県相模原市を流れる延長約5kmの準用河川。相模原市上田名付近に源を発し、相模原市磯部上流のJR相模線下溝駅付近の新八瀬川橋よりすぐ先で一級河川相模川に合流する(Wikipediaより)。

鳩川隧道分水路
新八瀬橋から三段の滝下広場の人道橋を渡り旧鳩川分水路へと向かう。正式には「鳩川隧道分水路」。鳩川隧道分水路を上ると鳩川分水路と同様に、というか本家の三段の滝がある。分水路は昭和8年(1933)につくられた石組のものだけあって、コンクリート造りの新分水路より趣きがある滝、というか堰堤になっている。
旧分水路の緩衝滝の両脇には遊歩道が整備されており、その小径を進み新磯橋交差点から県道46号を分かれ、相模線の西を下る道路の下をくぐると隧道が見えてくる。これが鳩川隧道である。
古き隧道を見遣りながら県道46号を潜り鳩川分水路脇に出る。鳩川隧道分水路は県道46号、相模線下を潜り地中を進んでおり旧分水路の水路は見えない。

鳩川
段丘崖上に至り、左手に道保川を合わせた鳩川分水路の水路を見ながら進む。右手は窪地となっており、鳩川隧道の入口が見える。この窪地への水路は?鳩川分水路の少し南から水路が南に下る。これが、分水路を越え更に南に下る鳩川である。水路にそれほど水が流れてはいない。ブッシュで見にくいが鳩川から窪地に導水する水路もあるようではある。それにしても水が少ない。



道保川緑地
鳩川に沿って南にくだろうと辺りを見ると、道保川緑地との表示がある。道が先に続いているかどうか不安だが、とりあえず先に進む。と、道保川緑地の中を水路が続く。水路に注意しながら進むと水路は右に分岐し鳩川方向へ向かう。

左右に分かれる不思議な分水点
水路を進むと鳩川に合流。で、奇妙なことに水は合流点で左右に分かれ流れている。意図的にしているのだろうか?左手は鳩川の流れであるのでいいとして、右はどこに向かうのか気になって先に進む。と、水は窪地方向、鳩川隧道入口へと向かっていた。どうも鳩川隧道分水路の水源は、道保川緑地の水路のようである。
ここでちょっと疑問。道保川緑地の小川の水源はどこなのだろう?元に戻り逆に水路を戻ると道保川に突き当たる。が、水路と道保川は水位が大きく異なり、道保川から直接水を導水しているようには思えない。その時は鳩川か道保川からサイフォンで「伏越し」しているのだろうか、とも思ったのだが、メモするに際しチェックすると、道保川の少し上流に取水口といったものがあり、そこから取水しているようである。南下する鳩川の水源は道保川の水のようである。

鳩川を下る
道保川緑地の水路が鳩川に注ぐ地点まで戻る。これから鳩川を下る、といっても、その水源は道保川からの取水であるわけで、道保川と言ってもいいのでは、とは思うが、鳩川分水路が出来る前は分水路地点辺りで道保川の水を集めた鳩川が南に下っていた、ということであろう。
それにしても、ここに分水路を通す、ということは鳩川って、姥川や道保川の水を集めた結構な「暴れ川」であったのだろう。鳩川ハザードマップなどを見ると、洪水時の想定被害地はこの地から下流の相武台下、入谷駅辺りが0.5mから1m程の浸水が想定されており、三川が合流したこの下溝以南への水量を調節し相模川に吐きだしているのだろう。

県道46号
道保川緑地の深い緑の森を抜ける鳩川に沿って進み、大下坂交差点から下る車道に当たる。道保川の水路から養水された鳩川は水量も増え、鳩川分水点の始点とは趣を変え、水草が茂る水路となって下る。

「発見のこみち 勝坂(かっさか)案内マップ」
相模線の東を通る県道46号を進み、磯部八幡の東、磯部山谷地区、上磯部バス停の次の交差点から県道を離れ、鳩川の左岸に移り勝坂遺跡を目指す。
鳩川に架かる橋の北詰めに「発見のこみち 勝坂(かっさか)案内マップ」。案内を見ると、勝坂遺跡は「勝坂遺跡公園 勝坂遺跡D区」、「勝坂遺跡A区」に分かれている。「勝坂遺跡A区」には「縄文土器発見の地」が表示されている。また、案内マップには「ホトケドジョウ」「有鹿神社」とか「石楯尾神社」といった今までの散歩で出合っていない社などもある。勝坂遺跡もさることながら、縄文遺跡の近くに祀られる「有鹿神社」とか「石楯尾神社」って、如何なる社か、好奇心に俄然フックが掛かる。

ホトケドジョウ
案内から緑の中に敷かれた木道を進むと「相模原市塘登録天然記念物 ホトケドジョウ」の案内。「ホトメドジョウは日本固有種で、本州、四国東部に分布し、流れのゆるやかな細流に生息する魚です。かつては市内の各地の細流でよく見られましたが、生息環境の悪化により、今では限られた場所でのみ生息しています。国、県ともに、絶滅が危惧される生物とされています」とあった。この辺りの湿地に生息しているのだろうか。

有鹿神社
成り行きで進むと、深い照葉樹林の中に小さな鳥居と、誠に小さな祠。鳥居の手前には丘陵奥からの湧水の水路が通る。案内もなにもないのだが、これが有鹿神社奥宮であった。因みに先ほどの「ホトケノドジョウ」はこの湧水の細流に生息しているとのことである。
Wikipediaによれば、「有鹿神社(あるかじんじゃ)は、神奈川県県央に流れる鳩川(有鹿河)沿いに形成された地域(有鹿郷)に鎮座する神社であり、本宮、奥宮、中宮の三社からなる相模国最古級の神社。「お有鹿様」とも呼ばれる。 相模国の延喜式内社十三社の内の一社(小社)で、相模国の五ノ宮ともされるが諸説ある。また、中世までは広大な境内と神領を誇っていた神社で、当時としては、まだ貴重な『正一位』を朝廷より賜っている。(中略)。現在、海老名の総氏神となっている。
○本宮
本宮は、神奈川県海老名市上郷に鎮座し、有鹿比古命を祀る。神奈川県のヘソ(中央)に位置しており、子育て厄除けの神様として有名で、神奈川県の全域から広く信仰を集める。境内は「有鹿の森」とされるが、松が1本もないため「松なしの森」ともいわれる。
○奥宮
奥宮は、本宮から北に6キロメートル程離れた神奈川県相模原市南区磯部の「有鹿谷」に鎮座し、有鹿比女命を祀る。鎮座地の傍は水源となっていて小祠と鳥居がある。また、東側の丘陵(有鹿台)には勝坂遺跡がある。
○中宮
中宮は「有鹿の池(影向の池)」とも呼ばれ、本宮から約600メートル(徒歩5分程)の位置に鎮座しており、有鹿比古命・有鹿比女命の2柱を祀る。鎮座地には小さい池(現在は水が張られていない)と小祠、鳥居がある。この池で有鹿比女命が姿見をしていたという伝承がある。
三社の位置関係は、本宮は鳩川の相模川への流入口域にあり、奥宮は鳩川の水源の一つにある。中宮は鳩川の中間地点の座間市入谷の諏訪明神の辺りにあったが、中世期に衰退し、海老名の現在地に遷座した。なお、鈴鹿明神社の縁起では、有鹿神と鈴鹿神が争った際、諏訪明神と弁財天の加勢により鈴鹿神が勝利し、有鹿神は上郷に追いやられたとされる。これが有鹿神社の移転の伝説となっている。
有鹿比古命
アリカヒコノミコト。『古事記・日本書紀』にはその名がみえない神で、太陽の男神といわれている。海老名耕地の農耕の恵みをもたらす豊穣の神として、海老名の土地の人々に篤く崇められてきた。農業・産業振興の神とされる。本宮と中宮で祀られている。
有鹿比女命
アリカヒメノミコト。『古事記・日本書紀』にはその名がみえない神で、水の女神といわれている。主な神徳は安産、育児など。奥宮と中宮で祀られている。

この小さな祠は相模で最古の社の奥宮であった。鳥居前を流れる湧水路を上流に辿ると「有鹿の泉」があるとのことだが、わかったのはこのメモをする段階。事前準備なしの成り行き任せの散歩の常、後の祭りとなってしまった。そのうちに訪れてみたい。
それはともあれ、この鳩川の水源のひとつでもある有鹿の泉からの湧水は、縄文時代には「貴重」なものであり、有鹿の谷の傍にある縄文時代の勝坂遺跡に住む人々により「聖」なるものとして祀られ、弥生時代にはじまった農耕文化とともに、鳩川流域にその祭祀圏が広がりその流域に中宮、相模川との合流する地点に本宮が祀られるようになったのだろう。なお、鳩川は有鹿河とも称されるが、これは、有鹿神社が祀られる鳩川流域一帯は、往昔有鹿郷と呼ばれた故であろう。また、その有鹿は、勝坂遺跡のある有鹿台より、「ヘラジカ」の骨が出土している故との説もある。
散歩の時は、この小祠が相模最古の古社などと思いもよらず鳩川から離れた中宮にお参りすることは叶わなかったが、鳩川散歩の最終地である相模川との合流点で有鹿神社本宮にもお参りでき、成り行き任せの割りには結構な結果オーライといった結果ではあった。

鈴神社と有鹿神社の争い
上のWikipediaに、「鈴鹿明神社の縁起では、有鹿神と鈴鹿神が争った際、諏訪明神と弁財天の加勢により鈴鹿神が勝利し、有鹿神は上郷に追いやられたとされる。これが有鹿神社の移転の伝説となっている」とある。なんのこと? チェックする。欽明天皇の御代(539~571)、座間市入谷の鈴鹿明神社は欽明天皇の御代、伊勢鈴鹿郷の神輿が相模国入海の東峯に漂着したので、里人が鈴鹿大明神として祀ったのが始まりという。実際は、伊勢鈴鹿郷の部族がこの地に進出。ために座間の先住部族は梨の木坂の神(現在の諏訪神社)に集結し、鈴鹿勢と対抗するも最後は和睦したと読む説もある。
ともあれ、座間の地に橋頭堡を築いた鈴鹿勢に対し、北から「有鹿の神」を祀る部族が攻め来る。が、それに対し鈴鹿・座間連合軍がこれを打ち破り、有鹿神は勝坂へ帰ることができず、やむなく上郷に住み着くことになったと言う(有鹿の谷に逃げ戻ったとの説も)。
ちなみに、現在伊勢には鈴鹿大明神という名称の社は見あたらない。いつだったか、鈴鹿峠を越えたとき、鈴鹿大明神を祀る片山神社に出合った。この社がこの地に来たりた鈴鹿の神であろうか。欽明天皇(聖徳太子の祖父)の御代といえば、蘇我氏、物部氏、大伴氏が覇権争をしている時期であり、伊勢の鈴鹿の神を奉じる部族がなんらかの事情で、相模川がつくり上げたこの豊饒の地に逃れてきたのではあろう。もっとも、数年前歩いた座間の湧水巡りの際、鈴鹿神社を訪れており、そのときのメモには、この地が鈴鹿王の領地となったとあった。鈴鹿王(すずかのおおきみ)の父は天武天皇の子である高市皇子。兄は長屋王という名族である。この辺りが落としどころかとも思い始めた。


史跡 勝坂遺跡公園・勝坂遺跡D区
有鹿神社の奥宮を離れ、勝坂遺跡公園に向かう。案内に従い進むと、広場があり、そこが「史跡 勝坂遺跡公園・勝坂遺跡D区」である。「史跡 勝坂遺跡公園案内図」には、「勝坂遺跡は、縄文時代中期(約4500~5000年前)の代表的な集落跡です。大正15年(1926年)に発見された土顔面把手(注;顔を表現した取っ手)付き土器などの造形美豊かな土器は、この時代を代表するもので、「勝坂式土器」として広く知られています。
この周辺には、起伏に富んだ自然地形、緑豊かな斜面林の樹林、こんこんと湧き出る泉など、縄文人が長く暮らし続けた豊かな自然環境が、今なお残されている。」とある。
広場の南端に竪穴式住居がふたつ見える。住居は予想以上に大きい。説明には柱は6本、竪穴の掘作で出た土の量は10トンダンプ4台分にもなるとのこと。復元された住居はふたつだけだが、50もの縄文住居が発見されている。
竪穴式住居の北の広場には、耐用年数10年程度の縄文住居の廃絶された住居の窪地(ゴミ捨て場に活用されたよう)、北と南の間の谷戸が埋まった埋没谷、縄文中期の終わり頃に登場した柄鏡の形に石を敷いた住居跡のレプリカなどがあるようだが、古墳にはそれほフックが掛からない我が身は遠く眺める、のみ。 それはともあれ、この勝坂遺跡D区は、昭和48年(1973年)の発掘調査で発見された集落の一部、勝坂遺跡D区(16,591平方メートル)が、昭和49年(1974)に国の史跡として保存され、昭和55年(1980)・59年(1984)に指定地が追加され、D区の面積は現在の19,921平方メートルといった広場となっている。
これは昭和47年(1972)、勝坂遺跡周辺に大規模な宅地造成が計画されたため、市民有志による「勝坂遺跡を守る会」が結成され、相模原市も県や国(文化庁)と共に試掘を行い、多数の竪穴式住居跡、土器や打製石斧を発掘することになった。その結果、造成工事は中止され、上記の如く国指定の遺跡にまでなったようである。

長屋門
勝坂遺跡D区を離れ、民家の間の道を南に下り、T字路に当たる。T字路脇にも案内マップがあり道を確認。東に少し坂を上り再びT字路を左折し、少し進むと長屋門がありその横に旧中村家住宅のの建物は並んでいる。共に中村家のお屋敷。まずは、道に面した長大な長屋門に。長さは20mほど。慶應年間(1865-1868)に建てられたもの。1階の一部は公開されているようではあったが、外から眺めるだけで十分であった。





旧中村家住宅
長屋門と同じ頃の建築物。1階が和風、2階が洋風といった和洋折衷の建物である。この中村家は勝坂遺跡と深い関係がある。土器が発見されたのは中村家の畑であり、それがきっかけで勝坂遺跡の調査が始まったわけである。旧中村家住宅の裏手が勝坂遺跡A区であり、その端に勝坂式土器が発見された場所がある。





石楯尾神社入口の石碑
道を北に進むと「石楯尾神社」と刻まれた神社入口の石碑。すぐそばに、阿闍羅(あじゃら)尊という文字が刻まれた庚申塔。その横には風雪に耐えた風情の石仏もある。金剛力士とも言う。阿闍羅尊は不動明王のことのようである。

勝坂土器発見の地
石楯尾神社に向かうと鳥居があり、その傍に道標があり, 石楯尾神社は直進、左方向は「勝坂土器発見の地」とある。石楯尾神社にお参りの前に「勝坂土器発見の地」に寄ることにする。
畑の脇道といった小径を進むと民家脇にひっそりと「勝坂土器発見の地」の案内があった。
案内によると、「勝坂遺跡は縄文中期の典型的な集落跡であり、わが国における考古学上の代表的な遺跡でもあります。また、本遺跡から出土した「勝坂式土器」は、縄文時代中期を代表する土器として、今日では全国的にその名前が知られています。
この土器は大正15年(1926)10月3日、考古学者大山柏氏が中村忠亮氏所有の畑地を発掘調査した際に、はじめて発見してもの。大山氏が土器を発掘した場所は現在正確にわかっていないが、地図に示した場所の近辺と推定されます。大山氏の発掘調査はわずか一日だけであったが、昭和2年(1927)年に刊行された調査報告書は今日的にみても精緻極まる大変豊かな内容をもつものであります。
その後、昭和3年(1928)には考古学者山内清男氏により時期区分の基準となる土器として「勝坂式」という土器型式名称が与えられ、勝坂遺跡は勝坂式土器の標式遺跡となりました。
「勝坂式土器」は、今から5000年前、縄文時代中期につくられたものですが、イラストの顔面把手のように彫刻的な把手や立体的な模様に大きな特徴が見られ、器形の雄大さや装飾の豪華さなど、その造形はいずれの土器形式に例を見ないものです」とあった。

土器発掘調査のきっかけは、この地出身の学生がこの地より多くの土器が見つかるため、サンプルとして2片を大山氏に手渡したこと。それを受け大山氏がわずか一日で多くの完形または復元可能な土器と大量の石斧、それと当時では類例の僅かな顔面把手を発掘した。土器の評価もさることながら、大量に出土した打製石斧から、原始農耕論が提唱されたことも考古学上、大きな話題となったようである。

なお、大山柏氏は、陸軍元帥大山巌の次男。明治43年に陸軍士官学校を卒業後、大正13年(1924)にドイツに留学するも、人類学や考古学を学び、退役後慶應大学で人類学講師となり、この発掘につながっていった。

勝坂遺跡A区
また、大山柏氏の調査地点周辺も勝坂遺跡A区として指定されている。平成17(2005)年の発掘調査で発見された集落の一部、磯部字中峰地区が平成18年に新たに追加指定され保存されてはいるが、一面の平坦地で特に地表に何があるわけもないように見える。

石楯尾神社へ
土器発見の地から元に分岐点に戻り。石楯尾神社に向かう。鳥居脇には鐘楼のお堂があるが朽ち果てている。山道といった参道を進むと狛犬や左手には小祠も見える。100段以上もあると思える石段を上りきると社があった。由緒でもなかろうかと彷徨うも、それらしきものは無し。勝坂遺跡や有鹿神社奥宮へと続く森に佇む社としかわからない。チェックする。
○石楯尾神社
Wikipediaによれば、石楯尾神社(いわたておのじんじゃ、或いは いわたておじんじゃ)とは相模国の延喜式内社十三社の内の一社である。この社に関しては論社が多く」とある。吾こそは「本家なり」と唱える社が7社もある、それも旧高座郡内に5社、旧愛川郡(後の津久井郡)に2社もあり、それも北は現在の相模原市緑区(旧藤野町)から南は藤沢市鵠沼神明まで散在している。どこが延喜式の石楯尾神社かとの決定打はないようだが、現在のところ最有力と目されているのは相模原市緑区名倉(旧津久井郡藤野町)の石楯尾神社とされる。 名倉の石楯尾神社の社伝では「第12代景行天皇の庚戊40年、日本武尊東征の砌、持ち来った天磐楯 (あまのいわたて)を東国鎮護の為此処に鎮め神武天皇を祀ったのが始まりとされる、また、この社には「烏帽子岩」という巨石信仰も伝わっている。
名倉の地は高座郡ではなく旧愛甲郡である。高座の縁起式内社が愛甲郡にあるのはちょっと変?チェックすると、往昔高座郡は相模川沿いに上流まで延びていたとの説があった。

翻ってこの地の石楯尾神社を見るに、祭神は大名己貴命(おおなむちみこと)、とか。創建年代は不詳。社殿は寛政12年(1800)と天保5年(1834)に再建、明治5年(1984)に改築されており、手水鉢は文久元年(1861)、弘化4年(1847)には灯籠が奉納されている。社の屋根は入母屋作りで仏式の建築様式。木鼻には彫刻がほどこされている、
また、社のある山を羽黒山と呼んだことから、明治のはじめまでは「羽黒権現社」と呼ばれていた、とも言われるようであり、延喜式の石楯尾とは異なるような気がする。いつの頃か村人が分祠したものであろうか。

勝源寺
石楯尾神社からの戻り道、右手に金属板葺き・入母屋造りの屋根をもつお寺様。畑地をショートカットし境内に。特に由緒などの説明はない。宝形屋根の鐘楼、薬医門などが建つ。
遺跡や古社のある地域のお寺さまであり、なんらかの「発見」がとも思いチェックする。曹洞宗のお寺さま。本尊は千手観世音菩薩(千手千眼観世音菩薩)とのことだが、それより堂内に祀られる青面金剛尊が養蚕の神として、相模で知られたお寺さまとのこと。
青面金剛尊と養蚕は普通に考えれば、どうも結びつかない。もう少々深掘りすると、明治の廃仏毀釈のご時世故のお寺さまの知恵が見えてきた。当時、養蚕で栄えたこの辺りの農家に、民間に拡がる庚申信仰をベースに「青面金剛尊が養蚕に御利益ある」とPR。青面金剛尊を六本庚申(手が六本あるから)とか千体庚申と呼び、陶製の「ミニチュア青面金剛」を1000体ほど用意。農民はその六本庚申を自宅に持ち帰り、養蚕期が終わるとお寺様に返した、と。現在でも幾つかの陶製六本庚申が残っている、とか。
で、この六本庚申は磯部や新戸・当麻・下溝・淵野辺・上鶴間地区とともに、現在の町田市や座間市・海老名市・愛川町・厚木市・伊勢原市にも拡がったようである。境内の庚申塔は御礼に奉納されたものではあろう(相模原市立博物館の資料より)。

庚申塔
勝源寺を離れ、長屋門の前の道を南に戻り、県道46号の新磯小学校入口交差点へと向かう。鳩川を渡り新磯小学校入口交差点脇に、正面に「青面金剛」と記され、台座には「三番叟」(さんばそう)を踊る三匹の猿が刻まれている石塔があった。相模原市立博物館の資料によれば、「相模原地区には庚申塔が200のあるとのことだが、そのうち80が、この磯部地区に集中する。それもその多くが明治5年(1872)に建立されているとのこと。
六本庚申と庚申塔の因果関係は確定されてはいないが、磯部の庚申塔は勝坂集落周辺の非常に狭い範囲に建てられていることや、集落の入口に当たる場所(二か所)に大きくて目立つ庚申塔があることは、これらの庚申塔が六本庚申を祀る勝源寺の位置を示す言わば道標の役割を果たしているかのようです。多くの庚申塔には「春祭」とも記されていて、おそらく明治5年の春に勝源寺において、青面金剛像を養蚕の神仏として祀る大きな祭りがあったことを表していると考えられます」とあったが、この石塔は勝坂地区への入り口であり、上記説明の庚申塔のうちのひとつではあろう。

○座間丘陵
ところで、勝坂地区の上の座間丘陵には広い軍用敷地が広がる。米軍のキャンプ座間と、敷地に同居する陸上自衛隊座間駐屯地である。この地には昭和12年(1937)に帝国陸軍士官学校が開設されるも、昭和20年(1945)、敗戦により米軍に接収される。その後横浜市にあった米軍施設を此の地に集約するため整備が計られ飛行場も有する巨大な敷地となっているが、現在は戦闘部隊は存在しない司令部のみの兵站基地となっている。
また、敷地内には陸上自衛隊の「中央即応集団司令部」が同居し,緊急時に即応すべく米軍と連携し、陸上自衛隊の部隊を一元的に運用する体制を整えている。 ○座間丘陵
座間丘陵は相模原面、中津原面、田名原面よりなる相模原台地の西端部、相模原市南部から海老名市にかけて分布し、相模原台地より海抜高度が高く、かつ相模台地より古い堆積面の開析が進み丘陵状になっている。相模原台地は5万円以上前に相模川によって形成されたものであるが、座間丘陵はそれより古く、約14~10万年前以前の下末吉期形成されたものとされる。
座間丘陵は座間市海老名市にかけて東西0.5~1km、南北9km南北に細長く分布する。旧両面はおおよそは90~50mの地表面高度をもち、5‰の傾斜で北から南へ傾斜する。

日枝神社
県道46号・新磯小学校交差点付近の20ほどの庚申塔群。上でメモした勝源寺関連の石塔ではあろう。そこから先は、県道を挟んで東、そして西と流れる鳩川に沿って歩く。県道46号新磯高校前交差点で県道の西に流路を変えた鳩川に沿って下ると、上新戸地区に日枝神社。コンクリートの明神鳥居。
境内にあった神社由来によれば、「磯部東町内の産土神日枝大神は 大山咋神を祭神として祀り 約百二十年前延文元年以前より山王宮として親しまれ また国土安泰家内安全 の守護神として氏子の崇敬をあつめ護持をされて参りましたが 正和二年再建の社殿が老朽化のため新らしく建立に決し 昭和五十四年九月着工  氏子共有地を処分しこれに充て 特志者奉納による鳥居その他境内諸設備と併せ十二月完成致しました 新社殿には総本宮である大津市坂本  日吉大社より大御霊を頂き奉遷されております」とあった。

左岸用水路が接近する
ゆるやかに蛇行する鳩川に沿って進み、左岸にある調整池を見遣り下新戸の「四国橋」。由来が気になるが不詳。更に先に進み、相模線・相武台下駅の東に到ると西から水路が合流する。この水路は左岸用水路である。

○左岸用水路
WEBにある『疏水名鑑』の「相模川左岸疏水(左岸用水路)」の案内をメモする。
■疏水の所在 神奈川県の中央部を南北に流れる相模川の左岸地域、相模原市・座間市・海老名市・寒川町・茅ヶ崎市の4市1町。703ha。
疏水の概要・特徴
昭和3年県営による用排水路整備の議が起こり、昭和5年、新磯町、座間町、海老名町、有馬村、寒川町、御所見村、小出村、茅ヶ崎町(現・相模原市、座間市、海老名市、寒川町、藤沢市、茅ヶ崎市)に及ぶ1,954ha余の水田にかんがいする用水路及び、排水施設の整備を目的とする県営相模川左岸用排水改良事業が施行されることとなり、初代管理者、当時の海老名村村長、望月珪治氏のもと、相模川左岸普通水利組合として発足し、地方農村技師、舟戸慶次氏が農業水利改良事務所長として設計にあたり、昭和7年2月新磯部村(現相模原市磯部)にて起工式を行い、資材、労力が不足する中9年の歳月と壱百萬円の巨費を要し昭和15年3月、20.2km余に及ぶ用水路と鳩川貫抜川永池川等の排水施設を完成させた。

相模川の左岸、相模原市より茅ヶ崎市に至る南北21キロメートル、東西0.5~4.0キロメートルの地域に県下でも屈指の水田地帯が広がっているが、これは左岸用水の完成に負うところが大きいと言う。江戸時代後期、上流部には、に、磯部村、新戸村など五つの村の水田に用水を引くために五ヶ村用水が造られたが、洪水・氾濫のたびに堰が壊され、また中・下流部は、排水設備が十分でなく、水田が冠水し甚大な被害を繰り返していた、とのことである。そのような状況を背景に、望月翁は近郷7か町村を集め相模川左岸普通水利組合を設立、管理者として、十数年にわたるかんがい用排水改良事業の完成に尽力したとのことである。

左岸用水の大雑把な経路
鳩川分水路の下流にある磯部頭首工より取水した水は、右岸用水と左岸用水に分けられるが、左岸用水は取水口から南東に一直線に相模線・相武台下駅まで下り、この地で鳩川に接近する。わずかの間鳩川と平行して流れる左岸用水は伏越し(サイフォン)で鳩川を潜り、その後は相模線に沿って南下。海老名辺りでは暗渠・緑道となり南下し、横須賀水道みちと大谷八幡宮の北でクロスし、更に南下。東明高速、東海道線を越し、目久尻川をコンクリート掛樋で越え寒川町の小動神社辺りに下り、中原街道を越え茅ヶ崎市に入る。その先にあるゴルフ場下を潜り、新湘南バイパスを越えて室田2丁目と高田3丁目の境にある高田バス停あたりまで下り、その先にある千ノ川に注ぎ終点となる。

伏越
相模線・相武台下駅の東で一部は鳩川に合流するも、左岸用水はしばらく鳩川と平行に、コンクリートで鳩川と区切られた水路を少し高い(数mほど)水位を保ち南に進む。
ほどなく相模原市域から座間市域に。その先に水路施設が見えてくる。水門巻上機もあり、鳩川への放水口もあるが、左岸用水は格子の間から吸い込まれてゆく。吸い込まれた用水は鳩川潜り伏越し(サイフォン)で鳩川左岸に吹き上げられ上述の如く南下する。

実のところ、散歩の時には、吸い込まれた用水が鳩川左岸に出るといったことは知らず、北西に向かって相模線の踏切方面へと続く水路を追っかけたりもしたのだが、水流が逆であるため、どこに出るのか戸惑っていたところである。地図をよく見れば鳩川左岸にも水路が見えるのだが、そのときは気がつかなかった。ちょっと残念。

鷹匠橋
鳩川に沿って進み、座間西中脇を下り鷹匠橋へ。鷹匠橋のひとつ北、西中学校の校庭が切れる辺りを東に進めば有鹿神社のあれこれに登場した、入谷の鈴鹿神社や諏訪神社がある。上にも簡単にメモしたが、いつだったか、っ座間の湧水を巡た時に鈴鹿神社も諏訪神社にも足を踏み入れていた。その時のメモ。 ○鈴鹿神社
「鈴鹿神社。伝説によれば伊勢の鈴鹿神社の神輿が海に流され、この地にたどりつく。里人は一社を創建しこの座間一帯の鎮守とした、とか。欽明天皇の御代というから、5世紀中ごろのことである。伝説とは別に、正倉院文書には天平の御代、この地は鈴鹿王の領地であったわけで、由来としては、こちらのほうが納得感がある、ような。鈴鹿王(すずかのおおきみ)、って父は天武天皇の子である高市皇子。兄は長屋王。ちなみに、「明神社」って、「明らかに神になりすませた仏」、のこと。権現=神という仮の姿で現れた仏、と同じく神仏習合と称される仏教普及の手法でもある」とメモしていた。上の有鹿神社と鈴鹿神社の争いのところであれこれ妄想したが、この地は鈴鹿王の領地であったということであれば、気分的には一見落着である。


排水路が合流
鷹匠橋を越え、鳩川に沿って進み水路から鳩川に注ぐ水は何処から?などとちょっと悩みながら相模線に接近する鳩川に架かる見取橋を過ぎると東から水路が鳩川に合流する。相模川の東を南下する左岸用水からの水かとも思ったのだが、座間警察署あたりから始まる排水路のようである。左岸用水とは相模線のあたりで立体交差し、この地で鳩川に合流する。




大和厚木バイパス
排水路との合流点で流路を西に変えた幡川は、県道51号に掛かる「はたがわ橋」を越えるとその流路を南西に変え国道246・大和厚木バイパスにクロスする。バイパスには近くに交差点や歩道橋が見あたらない。仕方なく鳩川にお掛かるバイパスの下を潜り抜ける。背を屈め、コンクリートつくりの傾斜面を恐々抜ける。






宗珪寺
バイパスを潜りぬけると鳩川右岸にピカピカのお寺さま。宗珪寺。伽藍とでも形容できそうな三門、鐘楼を兼ねた中門そして本堂が直線に並んでいる。地面はコンクリートや真新しい砂利が敷かれている。境内には特に案内はない。 チェックすると、このお寺様はこの地の南、中津川と小鮎川が相模川に合流する地点の左岸の河原口地区(河原口38)にあったものが、さがみ縦貫道(首都圏中央連絡自動車道)の建設用地に掛かり移転してきた、とか。鬱蒼とした森の中にあった古き堂宇は解体され、まったく新たにつくりなおされていた。それにしてもこの散歩だけでさがみ縦貫道絡みで改築・新築された寺社に3か所も出合った。

県立相模三川公園
鳩川に沿って進むと流路は県立相模山川公園の中に入ってゆく。相模三川公園はその名の通り、相模川、中津川、小鮎川の3つの川の合流点の上流につくられた公園。県立都市公園では初めての河川公園とのことである。広々とした芝生の公園の先にある相模川を隔てて丹沢山塊、大山が美しい。園内には鳩川に沿って遊歩道が整備されている。

横須賀水道上郷水管橋
公園から成り行きで鳩川が相模川に合流する地点へと向かう。鬱蒼と茂る森の脇の道を進むと右手に水管橋が近くに見えてきた。横須賀水道上郷水管橋である。
上郷水管橋は大正7年(1918)に完成した10連のプラットトラス橋。プラットハウスとは橋桁の構造の一種。柱と梁で出来た四角形の中に筋交いを入れ、三角形の組み合わせにすることで安定した構造となるが、これをトラス構造と言い、プラットハウスとは斜材を橋中央部から端部に向けて「逆ハ」の字形状に配置したものである。理屈はともあれ誠に美しい橋である。なお、この横須賀水道半原水系は、横須賀の軍備拡張にともなって明治45年(1912年)から大正10年(1921)にかけて建設されたものであるが、老朽化を以て平成19年(2007)に取水を停止している。
横須賀水道
「横須賀水道」でとは、横須賀の海軍工廠をはじめとする海軍施設や艦船の補給水とすべく建設されたものである。
Wikipediaによれば、「日露戦争後の軍備増強の結果、走水系統では供給が間に合わなくなった。海軍当局は、愛甲郡愛川町半原石小屋地区の中津川に取水口を設け、約53km離れた横須賀まで20インチの鋳鉄管を使用し、落差約70mの自然流下による半原系統の建設工事を1912年(明治45年 / 大正元年)に着手、1918年(大正7年)10月に通水開始した。(中略)
今日この水道管が埋設されている土地は横須賀水道道、横須賀水道路、横須賀水道みち、あるいは単に水道みちと呼ばれ、国土地理院の地形図にも「横須賀水道」として表示されている。ただし水道専用橋の上郷水管橋を始め、至る所で通行不能な場所が存在している。
半原系統の経路は、愛川町の宮ヶ瀬ダム近くにある半原浄水場から中津川沿いを通り、内陸工業団地のそばを経由して厚木市に入り、国道129号・国道246号をほぼ一直線に横切り、向きを変えて相模川を上郷水管橋で渡る。
海老名市に入るとアツギの敷地を切り取り海老名SAの北側(吉久保橋)を通り、綾瀬市まで起伏の上下に関わらずほぼ一直線に通り、藤沢市に入るといすゞ自動車の敷地内を通り抜けて、国道1号を越えるまで藤沢市内を再びほぼ一直線に通る。鎌倉市に入り由比ヶ浜駅の前を通り水道路交差点を過ぎたあたりから横須賀線と並走して逗子市を通り、横須賀市の逸見浄水場に至る。なお、この半原系統の取水は2007年(平成19年)より停止されている」とある。
説明を補足すると、走水とは京急・馬掘海岸駅近くの走水海岸の辺りにある湧水池。また、半原系統の取水は年平成19年(2007)より停止されている、とあるが、半原取水口、半原沈殿地や逸見浄水場は現存しており、大正10年完成の逸見浄水場内には、平成17年(2005)7月12日、国指定の有形文化財に登録された施設が残っている。

有鹿神社本宮
水管橋の南の森に有鹿神社本宮。道から直接社の境内に。古き社ではあるが、印象は結構あっさりした社。扁額に「有鹿大明神」とある拝殿にお参り。既に有鹿神社奥宮でメモしているので、だぶることもあるだろうが、神社にあった案内をメモする。
「主祭神 ;有鹿比古命・有鹿比女命。創建;詳細は不明。 有鹿神社は、相模国の最古の神社であり、しかも、海老名の誕生と発展を物語る総産土神である。はるか遠い昔、相模湾の海底が次第に隆起し、大地の出現をみた。縄文の頃より、有鹿谷にある豊かな泉は、人々の信仰の対象となった。この泉の流れ落ちる鳩川=有鹿河に沿って農耕生活が発展し、有鹿=海老名の郷という楽園が形成された。海老名耕地における農耕の豊饒と安全を祈り、水引祭が起こり、有鹿神社はご創建されるに至った。
奈良から平安初期まで、海老名耕地という大懇田を背景として、海老名の河原口に相模国の国府があった。東には、官寺の国分寺、西には、官社の有鹿神社が配置された。天智天皇3年(664)に国家的な祭礼を行い、また、延長5年(927)、延喜式の制定により、相模国の式内13座に列せられた。美麗な社殿と広大な境内を有し、また、天平勝宝8年 (756)、郷司の藤原廣政の寄進により、5百町歩の懇田も神領となった。神社の境内には、鬱蒼とした「有鹿の森」が茂る。松が1本もないので「松なしの森」ともいう。これは、大蛇となった有鹿様が大角豆の鞘で目に傷を負ったため、大角豆を作らず使わず、という伝承に由来する。
相模原市磯部の勝坂には、「有鹿谷」と呼ばれる聖地がある。樹木の繁る谷の奥には、有鹿窟という洞窟があり、そこから、こんこんと清水が湧き出ている。この水は、鳩川に流れ落ち、海老名耕地の用水となっている。そのかたわら、石の鳥居の奥に「奥宮」が祀られている。
谷の東側の丘陵(有鹿台)には、縄文中期の大集落の遺跡があり、国指定史跡「勝坂遺跡」となっている。また、谷には、4世紀頃の祭祀遺跡もある。水引祭は毎年4月8日と6月14日、海老名の本宮から有鹿谷の奥宮まで神輿が渡御し、有鹿大明神は2ヶ月余りの間、奥宮にとどまる。この祭りを『水引祭』『水もらいの神事』という。この祭りは、人々の穢を祓い清め、新しい生命をいただくものであり、現在では、農業を始め、すべての産業の祭りとなっている」とある。

少し補足すると、この社は相模国五の宮との説もある。鎌倉時代に神社の最高位である『正一位』を朝廷より賜っている。この時期の社殿は豪奢であり、有鹿神社の神宮寺である総持院と合わせると、十二の堂宇が立ち並び、境内も現在の社家駅近辺まで参道が延びるほど広大であった、とか。平安中期よりこの地に覇を唱えた海老名氏という鎌倉幕府の中心人物の強い庇護があったため、と言う。

実のところ、事前準備など無の散歩であり、この由緒書きで、勝坂の有鹿神社が奥宮であったといったことがわかったわけで、成り行きとはいいながら有鹿神社の奥宮と本宮はカバーできた。後は中宮をそのうち訪ねてみたいと思う。

海老名氏館跡
海老名氏の館は有鹿神社のすぐ南にあったようである。地名も「御屋敷」などと如何にもといった地名である。
海老名氏は横山党の流れ。治承四年(1180)の石橋山の戦いで平家方として戦うも、その後頼朝に与して功を挙げ、鎌倉幕府の御家人として取り立てられた。
建暦三年(1214)の和田合戦で、横山党は和田義盛方に戦いに敗れ、一時衰退。戦後しばらくして海老名氏は勢いを取り戻したとされるが、元弘三年(1333)の鎌倉滅亡に際して、海老名氏は新田義貞軍と戦い、再び勢力を失ったとされる。
永享十年(1438)の永享の乱では、鎌倉公方足利持氏に従い幕府管領の追討軍と戦う。持氏軍は早川尻での戦いに敗れ、海老名氏館の西にある海老名道場(宝樹寺)に退いた。その後持氏は鎌倉で自害したが、このとき海老名一党も捕えられ、自刃した。
この乱の終結により、海老名氏は壊滅したとみられるが、一族の生き残りが安房里見氏の武将の助けで海老名郷を回復し、厚木駅の東、中新田に屋敷を構えたとする伝承が残る。現在、屋敷跡の名残を残す遺構は何も残っていないようである。

鳩川が相模川に注ぐ
成り行きで由緒ある有鹿神社まで来たのだが、最終目的地である鳩川が相模川に注ぐ姿を見ていない。社を引き返し堤を歩くが、堤からは合流点を見ることができそうもない。iphoneで地図をチェックすると、堤から川床に入らないと三川公園から続く鳩川の流路が見えないようである。
で、堤から川床に下る道、そこには立ち入り禁止のサインもあったのだが、自己責任と失礼し、地図の流路を頼りにブッシュを彷徨い、鳩川が相模川に注ぐ地点を確認。本日はこれでおしまい。小田急線・海老名駅に向かい一路家路へと。
思わぬ「やつぼ」での怪我で途中退場となった先回の「田名原段丘面と陽原段丘面を画する段丘崖を辿る散歩」のリターンマッチ。歩き残した田名塩田の塩田さくら橋から、更に南に下る段丘崖線に沿って八瀬川を辿ること、そして相模川の氾濫原跡であろう水郷田名を歩くのが今回の主眼である。 ルートを想うに、先回の散歩では大島地区から田名地区へと「田名原段丘面と陽原段丘面を画する段丘崖」に沿って走る(ように思える)県道48号を辿ったわけだが、今回は大島地区から相模川の崖線に沿って下り、水郷田名を経て、先回の最終地である「塩田さくら橋」に向かい、そこから段丘崖線下に沿って八瀬川を下ることにする。



本日のルート;橋本駅>大島地区>田名地区>山王坂>滝の渡し跡>小沢頭首工>水郷田名>烏山用水>田名八幡宮>(久所地区)>高田橋>相模原幹線水路(大堀)>坂の窟>ひの坂>望地隧道>弁天どぶ>万平穴>望地弁財天>清水下頭首工完成記念碑>南光寺>道祖神>陽原バス停>望地>徳本念仏碑>塩田さくら橋>天満宮>八瀬川>上溝バイパス>土地改良記念碑>無量光寺>相模線・原当麻駅

橋本駅
京王線で橋本駅に向かい、南口バス停で「上大島行き」のバスに乗る。上大島のバス停から大島地区の最南端、田名地区との境の「古清水」までは結構距離があるのだが、先回の散歩で撮った写真がピンぼけが多く、「やつぼ」の写真を撮りながら「古清水上組のやつぼ」まで進む。
先回は、この「古清水上組のやつぼ」から相模川の崖線を離れ、陽原段丘面を通る県道48号を下ったのだが、今回は相模川の崖線から離れず先へと進む。

山王坂
相模原市中央区大島の最南端「古清水」地区から中央区田名に入り、田名の最北端「清水」地区の相模川の崖線上を1.5キロほど下り、中央区水郷田名の 「滝」地区に入った辺りの道脇に「三王坂」の案内。「昔、この付近に山王社があったので、この名がある」と。宋祐寺の裏手辺りの小高い丘にあったようだ。
坂の頂上辺りには高差65cmほどの「徳本碑」があったようだが、何故か見逃した。相模原市の登録有形文化財に指定されている、と。で、この山王坂の徳本碑の辺り、昔は昼なお暗き、といった場所であったようで狐が多く棲んでおり、「山王坂の狐」といった昔話も残る。
○山王坂の狐
お話は、滝地区に住む農民が徳本碑の辺りで一休みし、思わず居眠り。目が覚めると相模川の中。川を越えようと歩くのだが、実は畑を右往左往しているだけ。狐に化かされてと知った農民は仕返しを。一休みするふりをして、天秤棒で狐を打擲。以降、悪戯する狐はいなくなった、と。なんとも、解釈困難なお話ではある。

滝の渡し跡
山王坂から坂をグンと下ると「滝の渡し跡」の碑。「ここには対岸の葉山島の下河原を結ぶ渡し場がありました。そのため「下河原の渡し」とも呼ばれていました」とある。
山王坂が標高83mであり、「滝の渡し跡」の標高は56m。30m弱の比高差である。崖線が弧を描くように南東に続いている。「タキ」には「断崖」を意味することもあり、この30mもの断崖・崖線に囲まれた「滝」地区の地名は言い得て妙である。弧を描く断崖・崖線に囲まれた平坦地はその昔は相模川の氾濫原ではあったのだろう。

小沢頭首工
相模川の堤を下っていると、相模川対岸に水路施設が目に止まった。その時は、とりあえず写真を撮っておこう、といった案配ではあったが、メモする段でチェックすると、相模川右岸の愛川町小沢・六倉、厚木市山際、中依知、関口へ送られる農業用水の施設であった。
写真を拡大すると、取水堰、取水用水門、崖にはブルーの階段があり、中腹には操作室らしき建物もある。こういった農業用水を用水路に引き入れる施設を総称し「頭首工」と呼ぶが、この施設は「小沢頭首工」と呼ばれている。
小沢頭首工を起点とする用水路は小沢頭首工幹線水路と呼ばれ、取水用水門で取水された水は、水門の背後にある水路隧道(小沢隧道)を抜け、相模川右岸沿いに厚木市中依知まで下る、延長約10kmの用排水路である。
で、何故に「頭首工」と称するか、ということであるが、用水路の「頭首」に設置されるから、とのこと。「工」は施設のこと。昨年愛媛の銅山川疏水を辿ったとき、「分水口」と「分水工」の違いを疏水担当者からお教えていただいた。ともあれ、とりあえず気になったものは写真に撮っておくものである。

水郷田名
堤を離れ水郷田名の街並みへと向かう。かつては相模川の氾濫原、そして後に一面の水田が拡がっていたであろう「水郷田名」も現在は住宅で埋め尽くされている。
氾濫原>水田>水郷田名、と連想は美しいのだが、「水郷田名」という名が正式な地区名となったのは、そんなに昔のことではない。古くは「鮎川」と呼ばれたとも伝わる相模川はアユ漁が盛んであり、風光明媚な景観と相まって、大正期以降、この地は東京や横浜から簡便に遊びに行ける行楽地として、「水郷田名」の名で知られるようになった。昭和10年(1935)には『鮎の水郷田名』として、横浜貿易新報社(現神奈川新聞)による、県下45佳選に選ばれてもいる。そんな通称「水郷田名」が正式な名称となったのは平成17年(2005)のこと。相模原市中央区水郷田名となった。
○久所
それ以前のこの地の地名は「久所(ぐぞ)」である。平成17年(2005)の住所表示の変更以前は相模原市田名の「字」として、「滝」「久所」、「久所河原」があった。その「久所」は「公文所」からとの説がある。公文所は後に「政所」となり大江広元が権勢を振るった鎌倉幕府の行政機関として知られるが、平安中期には既に朝廷、有力寺社の家政治機関として国衙の租税・権勢家所領の年貢を取り扱う機関として公文所は各地の国衙や荘園に置かれていたというから、その歴史は古そうである。
で、いつの頃か、この公文所から、「文」を省略して「公所」と呼ばれるようになった、とか。その「公所」が「久所」となったのは、この地が大山街道の宿場として栄え、渡し場もあったわけだが、洪水・大雨の度に旅人は足止めをくらい、「久しく宿に留まる」ことも多かったため、公>久に転化した、とのこと。ちょっと出来すぎの話のようではあるが、ここではそういうことにしておこう。

烏山用水
堤を離れ田名水郷の宅地の中に向かう。地図に田名八幡が見えたので、そこにお参りでもと歩を進めると水路に出合った。石碑に「烏山用水」と刻まれていた。「烏山」の名前の由来は下野国那須郡烏山に城を構えた烏山藩から。その烏山藩は大久保氏が藩主となった江戸期の享保13年(1728)年間以降、相模国の鎌倉郡・高座郡・大住郡・愛甲郡の一部も支配し、愛甲郡厚木町(現神奈川県厚木市)に厚木役所(厚木陣屋)を置き、相模国内支配の拠点とした。江戸時代、高座郡田名村と呼ばれたこの地は隣接の大島村とともに烏山藩の飛び地領であったわけである。

烏山用水は、その烏山藩が幕末の安政5年(1858)、久所河原の水田を拡げるべく相模川から取水した用水路。先ほど歩いた山王坂の下辺りで取水し、相模川の段丘崖を540mに渡って穿ち集落内に出口を設け、ここから南へは掘割を開鑿して導水した。また、高田橋の少し上流の地点からは旧来の堤防につなげて新しい堤防を築いていったという。
烏山藩が用水路を造り水田開発を計った目的は悪化した藩財政立て直しのため、とのこと。凶作による飢饉が発生した天保期に本領の下野領が荒廃し、天保7年(1836)には借財が3万4千両余になるほど藩財政は悪化していた、と言う。この地、田名村の相模川低地一帯の開発は年貢増収による財政再建を企図したものであろう。
しかしながら、この烏山藩の計画は目論見通りにはいかなかったようである。用水路が完成した翌年の万延元年(1860)、洪水によって堤防が決壊し新田は濁流に流失し、用水は破損してしまった。「然ルニ万延元年洪水ノ害ヲ蒙リ平田埋没シ水路杜絶セリ」と文書に残る。決壊したのは新旧堤防のつなぎ目あたりであったという。「全く年貢増徴のみを考えて、新田の開発が広過ぎ、それを守るための堤防が水勢水圧を考慮せず(『相模原市史』)」、ということが堤防決壊の因と断じる。
この「水路杜絶」した烏山用水を蘇らせたのが、地元の篤志家「江成久兵衛」である。久兵衛は28年の年月と私財を投げ打ち築堤事業を進めた。彼の築いた堤防は「久兵衛堤防」と呼ばれたようだが、現存してはいない。 江成久兵衛の努力や、明治、大正と引き続き行われた改修により、烏山用水は「新堀」と呼ばれるようになり、長年に渡り久所や望地の水田を潤してきた。しかし、この用水路も、世の移り代わりにより水田も消え、用水としての使命も薄れ、都市化とともに生活排水により水路も汚れるに任せるようになったが、昭和63年度(1988)から水路と下水の分離工事が行われ、散策路として木道を設置し遊歩道として整備され、現在では往時の清流が蘇えり、「美しい日本のむら景観100選」にも指定されるに到った。
で、水路が何処に流れるのか地図でチェックすると、南に下った水路は県道54号手前に直角に曲がり、相模川の段丘崖に向かって進む。進んだ先で暗渠となり、大堀(後からメモする)手前で下水道に流されているようである。先回の八瀬川散歩の時も、田名郵便局方面の源流域からの水がL字の固定堰から先は下水として処理されていたことを想い起こす。

田名八幡宮
烏山用水を離れ少し東に向かい田名八幡宮に。延暦17年(798)に天地大明神を勧請して祭ったのが始まりという。この天地大明神とは先回の散歩で訪れた「塩田天地神社」ではあろう。田名八幡宮の神事である「的祭」は塩田天地社での儀式の後、田名八幡で奉納される、とか。別当寺は共に明覚寺でもあり、大杉池辺りであったようだが現在は廃寺となっている。
建久2年(1191)に「田名八幡宮」と号したこの社は、仁和元年(885)に暴風により社殿を破損、天暦2年(948)には相模川の洪水で流出、嘉禄2年(1626)には火災、貞享4年(1687)には隣村の火災で類焼するなどの被害に遭い、現在の本殿は元禄2年(1689)に再建されたものである。
○的祭
現在では家内安全などで地元の信仰を集める田名八幡宮であるが、そもそもは弓矢の神、すなわち武門の神で、それを物語るのが上にメモした「的祭(まとまち)」の神事である。境内にあった案内によると、「毎年1月6日に行われる。先ず社殿背後の天地大明神に参拝跡、境内で総丈5尺5分5寸の大的を桃の木の弓(現在は榎)で射、その年の豊凶を占う歩射の神事。
射手4名は氏子の家で両親が健在の満2才から5才までの長子で、前年不幸の無かった家に限られている。
その起源は源頼朝の時代、宝塔建立の際ともいわれて、はっきりしないが、古くからそのまま伝承されている古式ゆかしい貴重な民俗行事である(昭和36年指定 相模原市)」、とあった。
○記念石碑
相模原の保存樹木として指定されている、イチョウ、ケヤキ、エノキの残る境内には いくつかの記念石碑が建つ。そのひとつが明治・大正期の用水改修工事竣工を記念して建てられた「疏水工事記念碑」。裏面には、「高座郡田名村疎水工事ノ沿革ヲ按ズルニ安政五年領主烏山ノ城主大久保佐渡守殿相模川字山王崖ヨリ隧道三百間ヲ鑿チ水ヲ引キ以テ新田ヲ開キ耕サシメタリ」といった碑文が続く。
また、「田名八幡社殿落慶祈念碑」には「田名村は昭和16年の近隣9町村の合併により相模原町田名として新生し、これを期に古くからの田名村の村有地であった三栗山を共有財産として残すため村社田名八幡に無償贈与を決議した、 田名八幡宮の旧社殿は明治期の築造で、風格ある建物であったが老朽化が激しく、近年、新神殿造営の機運が募った。折しも、国土交通省計画の「さがみ縦貫道路」建設に三栗山の一部が国道用地として買収され、その補償金の支払いがおこなわれるに及び、新神殿造営計画が一挙に具体化した。補償金の2億5千万と篤志家の寄進により、2年1カ月という短期間で御神殿、社務所、宮司社宅の建設および境内の整備が行われた「平成の大造営」。平成21年」とあった。社殿が新しい理由がこれで納得。
なお、境内の隅には雨乞いに使われたという「ばんばあ石」とか「じんじい石」があったようだが見逃した。「ばんばあ石」を相模川の淵に沈めると不思議に雨が降るのはいいのだが、洪水となって被害がでる。残された「じんじい石」の怒りの故だろうと、「ばんばあ石」を川に沈めた後に代理の石を置くと、あら不思議、洪水はなくなった、とか。雨が降ると「ばんばあ石」はまた川から出されて境内に安置されたという、この雨乞いの行事は江戸中期から大正末期頃まで行われていた、とのことである。

高田橋

田名八幡を離れ県道63号を相模川まで進み高田橋に。対岸の中津台地に先般歩いた中津段丘面を想いやる。高田橋ができるまでは、この地には「久所の渡し」があった。相模川沿いの自然堤防上にある久所地区は、戦国時代には小田原北条氏が北関東と小田原を結ぶ街道として、また江戸時代には同じ道を利用した大山道(八王子通り)が相模川を渡る地点に成立した渡河集落とし賑わったようである。


水郷田名
高田橋を折り返し県道63号を相模川が陽原段丘面を削った段丘崖に向かう。県道を上る車道に沿って歩行者専用道があり、そこからの田名水郷を眺める。崖線と相模川に囲まれた、いかにも相模川の氾濫原の水田跡に出来た町並みであることが実感できる。

相模原幹線水路(大堀)
崖線下に水路が流れる。北から県道下をくぐり、崖線下に沿って続くこの水路は相模原幹線用水、通称「大堀」と称される。先ほどメモした山王坂辺りの旧烏山用水取水口の上流800m、田名清水にある「清水下頭首工」で相模川から取水し、隧道を通り旧烏山取水口まで下り、そこで二つの流れに分岐し、一方は隧道を抜け烏山用水(新堀)として、もう一方は滝隧道を抜け「相模川ふれあい科学館」の北で開渠となってこの地に下る。旧烏山用水の取水口は現在、排水兼流量調整用水門の機能を備えた分水施設となっているようである。

ひの坂の窟
大堀に沿って県道63号から少し下ると、段丘崖を上る坂があり、坂の上り口の石窟があり、その中に石仏が祀られている。メモをする段になって写真を拡大すると脇にお狸さまらしき像もある。なんとなく気になりチェックすると、「おたぬきさま・狸菩薩」とのこと。
この坂は「ひの坂=火の坂」と呼ばれる。その昔、といっても明治の頃のようなのだが、坂上に住む婆さまがいたが、狸が人に化けて火にあたりに来たそうな。そのうち、狸は相手は婆さまだと侮り、化けることもなく火にあたるようになった。そんな狸の態度に怒ったの婆さまは、大きなフグリをひろげたまま火にあてている狸に火を浴びせかけた。現在はつづら折れの坂道であるが、当時は一直線。狸は火だるまになって坂を転げ落ちて死んだ、という。火の坂の名前の由来である。
が、これが祟ったのか、大正になって、坂下の人が病に伏せる。行者に見てもらうとこの狸が乗り移って話はじめ、火だるまで死んだ恨みで祟っているのだ、と。そこで、この狸の霊を祀ることにしたのだとのことである。 これまた、何気なく撮った写真も、ちょっと深堀すれば、あれこれ出てくるものである。因みに、坂を上下したのだが、崖から湧水が流れだし、「火の坂」ならぬ、「水の坂」の様相ではあった。

望地隧道

大堀に沿って崖下の道を南に進む。しばらく進むと車止めがあり、その先は草むした簡易舗装の道となる。この車止めまでに2カ所ほど下水のマンホールがあった。そのどちらかが烏山用水(新堀)が「雨水下水」として終末処理場に流れるポイントではあろうが、開渠水路は見あたらず、どちらが新堀(烏山用水)の末流か判別できなかった。
車止め柵のある地点から少しすすむと水路施設がある。銘に「望地隧道」とある。隧道横には水門があるが、これは農閑期などに余水を相模川に流すものだろう。
望地隧道は長さ333.4m。もともとは素堀りの隧道であったようだが、維持管理が大変だったようで、昭和54年(1979)より隧道内面をコンクリートで補強したようである。

弁天どぶ
崖下の道を大堀の「余水吐け」の水路に沿って進むと、相模川から入り込んだ一帯 が「淵」のようになっている。小径脇に「弁天どぶ」の案内。「昔は流れの澱みや淵のようなところを「どぶ」と呼んだ」とあった。

万平穴
小径が突き出した崖を廻り込んだあたりに「万平穴」の案内。案内によれば、安政年間(1854~1859年)に中島万平が掘った隧道とのこと。折りからの飢饉に際し、相模川の水を取水し、この辺りを水田として開いたが、現在はその役割を終えている。
とはいうものの、「万平穴」がどれかよくわからない。崖面前に記念碑は建ち、その横に岩の割れ目といった「穴」があるのだが、それが「万平穴」であろう、か。それはともあれ、この辺りより南に拡がる水田は、昭和29年(1954)に現在の形に整備され相模原有数の水田地帯として残るが、この「望地水田」のはじまりは、万平穴であり、中島万平とされる。

望地弁財天
小径を進み、望地キャンプ場の事務所手前で崖を抜けた大堀に、水路施設が設けられ、幹線と支線に分ける水門があった。その先に、崖面に抱かれるような社が建つ。望地弁才天である。
案内によれば、この弁天さまは、もともとは江島神社に安置してあったものであるが、それを田名の南光寺の住職であった森恵力が養蚕鎮守として希地河原の一画に「望島殿(ぼうとうでん)」を設けて迎えたもの、と。明治の神仏分離の際、江島神社の弁財天は近隣の寺に移されて廃仏毀釈の難を免れたらしいのだが、その時の一体であるのだろう。

この相模川の中州にあった「望島殿(ぼうとうでん)」は、明治40年(1907)の洪水によって社殿は流失するも、坐像だけが難を免れ、南光寺に保管された。その後昭和29年(1954)に望地水田を整備した際に社殿を再建、遷座した、とのこと。この弁財天坐像は高さ45センチほどの寄木造り。詳細は不明であるものの江戸時代に造られたものと伝わり、昭和62年(1987)に相模原市の重要文化財に指定されている。

清水下頭首工完成記念碑
望地弁天の前に幾つかの石の記念碑が建つ。「望地河原開田記念碑」「清水滝・望地・向原上当麻隧道 農業用施設防災対策事業 完成記念碑」といった記念碑とともに「清水下頭首工完成記念碑」が。この記念碑は、相模原用水組合連合会が昭和44年(1969)に建立したもの。
烏山用水と大堀の取水口である「清水下頭首工」の記念碑が何故取水口から遠く離れたこの地に?碑文には「清水下頭首工は、もと明治44年烏山用水路延長工事の際、取水口として設置された。旧烏山用水は藩侯の命により農民粒粒辛苦の結果、久所耕地を潤すにいたった歴史的なものであった。星移り昭和22年「相模川沿岸当麻望地農地開発事業」の実施に伴い両耕地を加えて受益面積83ha余に達した。当初、望地は宗祐寺下、当麻は弁天下と別れ取水していたが、相模川の河床低下、耕地保水力の減少、相つぐ水害に農民の心労その極に達し相寄り相集い、昭和35年3月「相模原用水組合連合会」を結成し、地域内用排水路の整備、取水堰の統合を図り、現地点に水門を設けた。昭和40年9月、台風24号の被害は激甚をきわめ永年の労苦は徒労に帰するかに思われたが関係機関の配慮により、5600万円あまりの巨費をもって昭和42年3月完成したものである。
ここに沿革を記し幾多先人の功を称え関係者一同永くその喜びを共にせんとするものである」とある。清水下頭首工で取水された水が、この望地水田、当麻水田を潤す源であった故のことであろう。

○大堀の流路
望地弁天から先の大堀の流路は、相模川の段丘崖斜面林の下に沿って望地水田を下り、田名地区から田名塩田地区に入り、上当麻隧道を抜けて当麻地区で開渠として姿を現す。そして、県道52号線、508号線が交差する下当麻交差点信号付近を経て八瀬川に注ぐ。遠く田名清水の頭首工で取水した用水は、地域を潤し、八瀬川を経て再び相模川へ戻るということである。

南光寺
望地弁天から相模川の段丘崖の坂を上る。成りゆきで進むと南光寺の前に出た。結構大きなお寺さまではあるが、塀がない広場といった寺域に堂宇が建つ。塀もないので、成り行きで本堂裏手から境内に。
本堂は最近再建されたものであろうか新しい。境内に「三栗山造林成功碑」といった石碑が無造作に置かれていた。田名八幡の記念碑文にもあったように、田名八幡の新築は三栗山を相模縦貫道用地として売却したお金を充てた、とか。このお寺さまも同じストーリーであろうか。単なる妄想。根拠なし。


このお寺様は南北朝時代に創建されたとする古刹。江戸時代には、将軍家光から8石1斗の領地を安堵されている。本堂にお参りし、趣のある長屋門風の山門を潜り参道を逆に入口に向かう。建築作業員風の人も多く見かける。お寺様全体の造築をおこなっているのだろうか。参道には秋葉灯籠や徳本念仏塔、出羽三山供養塔、大山道の道標、地蔵様、二十三夜塔、念仏供養塔などの石仏が並ぶ、というか工事の邪魔にならないように足早に参道を抜けたため、すべて見逃した。

道祖神
南光寺を離れ県道48に出る。と、道脇に庚申塔や自然石が祭られている。自然石は「立石」さまのようである。で、その立石さまの傍に溶岩の丸石が横たわる。溶岩でできた道祖神とのこと。「陰石」状を示しており往昔は「陽石」と一対であったのか、とも。先回の散歩で大杉池脇の弁天社に祀られていた「陰・陽」一対の道祖神を想い起こす。

陽原バス停
県道を少し北に戻り、「陽原バス停」に。特に理由はないのだが、今回は「陽原段丘面」散歩であるわけで、それならば「陽原」という地名が残る場所に足を向けるべし、といった想い。
陽原バス停まで戻り、なんということのない県道や周囲の家並みを確認し、折り返し県道を南に望地地区へと下る。

徳本念仏碑
南光寺前、望地キャンプ場入口といったバス停を見遣り、弁天入口バス停に。 そのすぐ先、国道から分岐する道の入口に石碑がある。石碑に刻まれた書体は、幾つか出合った「徳本念仏塔」と同じ。「南無阿弥陀仏」の六字の名号の下に「徳本」と「○に十字」のマークが刻まれる。
とはいうものの、この四角い石柱は何となく新しそう。石碑の裏を見ると「文政五年 陽原望地講中建立 交通安全発願 南光?? 昭和四十七年再建」とあった。南光の後は読めなかったが、南光寺に関わるものだとは思える。文政5年(1822)に建てられた徳本念仏塔を昭和47年(1972)になって造り直したものだろう。相模にある13箇所の徳本念仏塔のリストには挙げられていないので、レプリカとしての価値といった石碑ではあろう。



○陽原と望地
既にメモしたが、「陽原」の「みなばら」とは、平坦な台地の意味であり、昔は皆原とか南原と記された。それが「陽原」となったのは南光寺の山号である「陽原山」に由来する。また、「望地」も昔は「毛地」と記され、農作物が畑に立ち実っている姿を意味する「立毛」を上から眺めるといった意味からの命名、とも(「田名の歴史)より)。相模川の氾濫原に実る作物を崖線上から望め得る地、ということだろうか。

塩田さくら橋
徳本念仏塔の石碑から県道48号を離れ、陽原段丘面を八瀬川へと向かう。県道を離れてしばらく歩くと宅地もほどほどになり、左手に田名原段丘面と陽原段丘面を画する段丘崖の斜面林が見えてくる。
斜面林を目安に先に進むと「田名地区」から「田名塩田地区」に入る。「田名」はどこかでメモしたように「棚」から。相模川の対岸の中津川から眺めると相模川の氾濫原から、その崖線上の陽原段丘面に跨る田名の集落は数段の「棚」のように見えたのだろうか。また、塩田は塩の集散地から、との説もある。 田名塩田地区を進むとほどなく「塩田さくら橋」。ここでやっと先回の散歩の終点地に辿りついた。

天満宮
左手に斜面林を眺めながら塩田の地を八瀬川に沿って進む。しばらく歩み国道129号・上溝バイパス下を潜ると「田名塩田」から「当麻」に入る。「当麻」の東端は「市場地区」。地名の由来は、後述する無量光寺の門前町であり、「市」が立ったからとのこと。
道なりに進むとほどなく「天満宮」。当麻の鎮守である。境内の案内には「祭神 菅原道真公 新編相模風土記によれば、延久五年(1073)に妙音が建てたもの。妙音は近江国三井寺の座主であったが世を逃れて当地に来たり天神を勧請し山王権現社一宇を建立した。御神体は菅原道真公の木坐像、本地十一面観音の立像、湛慶作、古は大日堂にあったものと言われている。
別当は天満山明達院、梅松寺と言い、他の一院は明王院明行寺で明達院13世のとき分かれて二院となった。両院とも不動明王を本尊としている。
元文の頃(1736-1741)、牛頭天王を相殿に祀った。道真公は太政大臣を追贈され学問の神として尊崇されている」とある。
延久五年は西暦1073年。同じ天台宗でありながら、三井寺(寺門)と叡山(山門)は抗争関係にあったようだ。武蔵坊弁慶が三井寺に暴れ込み三井寺の鐘を引きずって 山に戻ったといった話も残る頃である。そんな抗争に嫌気をさしてこの地に逃れたのであろうか。それはそれとして分からないこともないのだが、天台との関係で山王権現はわかるにしても、何故天神を勧請したのかよくわからない。
天満宮の創建縁起には別の節もあるようだ。それには、元三井寺の学僧であった愛甲郡田代の僧が念仏行者となり信州の善光寺に。そこで、如来が夢に現れ「河内国の土師(はじ)寺は菅原道真公の氏寺であり、そこに一株のもくげん樹の木がある。その実を採って来て数珠を作り、念仏を百万遍称えれば必ず往生できると」と。土師寺へ行き、もくげん樹の実を拾うと、天神さまのお告げ。「このもくげん樹の木は地中に埋め置いた写経から生じたものだ。故郷の念仏道場に種子を蒔けば私と縁をむすぶことができる」とのこと。僧は早速故郷に戻り、念仏堂のある当麻山に。この当麻山で一遍上人の意をくみ堂宇を建てた真教にこの種子を献上。真教は境内の西北隅にこの種子を蒔き、一社を建立した。それが市場の天神様であるという」といったもの。
どちらが正しいのか門外漢にはわかるはずもないのだが、どちらもそれなりに面白い話となっている。

八瀬川
天満宮から緑の中を進むと県道509号に合流。少し南に下ると再び八瀬川に出合う。結構日も暮れてきた。本日はこの辺りを終点へと、駅を探すと最寄駅は相模線・原当麻駅。途中に無量光寺があるので、そのお寺さまにお参りし本日の仕上げとすべく左に折れ、県道52号へと向かう。田名原段丘面と陽原段丘面を画する段丘崖線の斜面林は更に南へと続いている。これは、もう一度訪れ、この段丘崖が「埋没」する地点まで辿るしかないだろう。

土地改良記念碑
県道509号を折れ県道52号に向かう途中、八瀬川に亀形橋がかかる。八瀬川が県道52号を潜った先に石碑石塔が見える。石碑は昭和39年(1964)に当麻土地改良区が建立した当麻地区農地区画整理完成記念碑であった。それはいいのだが、メモする段になって、この石碑の前を望弁天で見た相模幹線水路こと、大堀が暗渠で通っていた。今回は何気なく撮った写真がフックであれこれの発見があった。
○相模幹線水路の流路
望地弁天を下った大堀は、望地水田を下り当麻隧道を圏央道手前で抜け、相模原愛川ICの北を開渠で通り、神奈川県内広域水道企業団相模原水路橋の下を抜け、その先の国道129号を潜り、県道508号と県道52号がクロスする下当麻交差点の北を通り亀形(きぎょう)橋に。ここで余水を八瀬川に流し、本流は県道52号を潜り、この石碑のある辺りへと流れてくる。
ここから先は地図でチェックすると、水路は八瀬川を離れ、当麻の水田方面へと南に向かい、途中で流路を南東へと変え、水田を潤しながら流れ相模線・下、溝駅の北方で再び八瀬川に注いでいるようである。清水下頭首工で取水された相模川の水は、おおよそ7キロの旅を終え、八瀬川を経て再び相模川に戻る。

無量光寺
県道52号を東に進む。県道から南に続く段丘崖の斜面林を辿りたい、とは思えども本日は時間切れ。名残り惜しみながら道を進むと無量光寺入口交差点。誠に大きな黒門にかつての寺威を感じる。門辺りにあった案内によると、「この寺は山号を「当麻山(たいまさん)」という。鎌倉時代、時宗の開祖である一遍上人は、「亀形峰(きぎょうほう)」と呼ばれるこの丘の上に「金光院(こんこういん)」ちいう庵を結び、修行に励んだといわれる。
その後、嘉元元年(1303)に弟子の真教により、無量光寺が開かれた。しかし、明治26年(1893)の大火により、二脚門を除く大半の建物を焼失し、現在は仮本堂となっている。なお、当寺にある一遍上人立像と古文書は市の重要文化財に、更に寺の境内は市の史跡に指定されている」とある。
○さかさナギの木・金光院
参道を進むと山門が見えてくる。その山門の右下に常緑樹の背の高い木がそびえている。この大木は「さかさナギの木」と呼ばれ、一遍上人が西国より杖にしてきた一本の椰(なぎ)の木をこの地に刺したところ、根が生え芽を出して育ったと伝わる。この「なぎの大木」のうしろが、一遍上人が庵を結んだ金光院の跡とのこと。
○山門
山門は「当麻山」の扁額を掲げた二脚門。腕木門の親柱の背面に袖をつけ、屋根をかけた高麗門と呼ばれる形式の門とのこと。間口は12尺(約3m60cm)、親柱も1.5尺ほどもある堂々たる山門は市指定有形文化財となっている。 山門をくぐって参道を進むと、右手に芭蕉句碑がある。碑面には「世にさかる 花にも念仏まうしけれ」と刻まれる。
○本堂跡
お石畳を進むと正面に一遍上人の銅像が建つ。明治26年末の大火によって焼失する前、この辺りに本堂が建っていたようである。
○仮本堂
一遍上人銅像の右手後方、旧佛殿跡地に仮本堂が建つ。内部正面には一遍上人が頭部を自作されたと伝えられる立像が安置され、御影の像として信仰を集めている。仮本堂の右後方にある御影の池に、一遍上人が自らの姿を映して木像を刻まれたという。
○鐘楼・熊野権現
境内右手に鐘楼。鐘銘には開祖一遍上人の名と共に、「南無阿弥陀仏」の名号が刻まれる。鐘楼の横に2社がまつられり。1社は一遍上人ゆかりの熊野権現。本地は阿彌陀如来。村人たちから「オクマンサマ」と呼ばれていた、と。
○東権現
その右隣の祠は東権現。明治以前は寺の東方当麻坂の中腹、東澤寺にて各夜姫を養蚕の守り神として祀られていたが、東澤寺が廃寺とななったため、ここに合祀された。
○二基の五輪塔・徳本念仏塔
本堂左後方に進むと、二基の五輪塔。南北朝の頃、徳川家康の先祖である世良田左京亮有親、松平太郎左衛門尉親氏父子が、応安元年(1368)南朝方として挙兵した新田義宗に与力し戦うも利あらず、父子共々戦乱を逃れてこの寺に入る。そして、そのまま親子共々出家し、その髪をこの塚に埋めた。ために村人は「お髪塚(おはつづか)」と呼ぶようになった、と。その後、親子は有親は長阿彌、親氏は修行に勤め,父はこの寺で亡くななる。五輪の塔はそれを建立し供養したもの。息子はは西下し三河の地において松平家を起こし徳川家へと繋がったとのことである。また、徳本念仏塔も境内にあった。


無量光寺のHPの案内などをもとに、一遍上人やこのお寺さまの成り立ちについてメモする。

○一遍上人
この当麻山を開山し、時宗の開祖である一遍上人は、法然上人、親鸞聖人と並び日本の浄土教を確立されたとされる僧。延応元年(1239)、伊予の名門河野家通廣公の次男として生まれ、7歳にして仏門修行にはげみ、15歳で出家し台教(天台宗の教え)を学ぶ。18歳のとき、比叡山(延暦寺)に登り学ぶも、22歳で叡山を出、修行の旅に出る。26歳のとき、浄土門に帰し、法然上人の弟子の高僧のもと7年間修行し名を智真と改める。
建治元年(1275)、37歳のとき宇佐八幡宮にて霊夢を感じ、回国結願の大願を起こし、南無阿弥陀佛の名号の算(ふだ)を作り人々に配り諸国を遊行するになる。
建治2年(1276)、当時、もっとも阿弥陀の浄土に近い場所とされていた紀伊国熊野本宮の證誠殿において百日参籠につとめ、その満願の日、熊野権現にまみえ、この時より一遍と名乗り、《賦算(名号のお札をくばる)を続ける旅に出る。この相模の地に最初に訪れたのはこの時期であろう。
踊り念佛を始めたのは、弘安2年(1279)のこと。41歳の時、信州佐久郡ではじめた、と。空也上人に倣ったものと言われる。その後、正応2年(1289)、摂津国(兵庫)の観音堂で51年の生涯を終える。
南は九州から北は奥羽にいたるまでくまなく遊行したこの一遍上人がこの地に訪れたのは弘長元年(1261)秋。一遍上人(当時23歳)は諸国遊行の旅の途中、依知の里の薬師堂(現在の瑠璃光寺〈神奈川県厚木市上依知 当寺から相模川をはさんで西南方面にある〉)に留まり、念佛三昧。と真夜中に妙見菩薩が姿を現され、「対岸の亀形山は宿縁の山。この山で修行すれば念佛の功徳は四海に及ぶであろう」とのお告げ。
上人は相模川を渡り、亀形の丘に登ると、そこに妙見菩薩の小さな祠を見つける。上人はここに草庵(粗末な住まい)を結び金光院と名付け、修行に励まれまれるも、弘長3年(1263)、故郷の伊予(現在の愛媛県)に向け旅立たれる。その後、文永7年(1270)上人が32歳の時、また弘安4年(1281)43歳の時に、奥州遊行の帰路、当山にとどまり修行し、弘安5年(1282)の3月、上人は鎌倉方面に向け遊行の旅に発つ。
鎌倉入りは拒絶され、京の都、浪速、安芸と遊行の旅を続けることになるが、この別れのとき、名残を惜しむ弟子や信徒に乞われ、自らの姿を水鏡に映し、筆をとって絵姿を描き、自ら頭部を刻み、弟子たちも力を合わせて等身大の木像をつくるが、これが御影の像として、現在も本尊として安置されている。
○真教上人
一遍上人が庵を結んだこの地に無量光寺を建立したのは弟子の真教上人。真教上人は一遍上人が九州地方を遊行されていた時、上人に帰依し、それより終始一遍上人と遊行をともにした。
宗祖・一遍上人が臨終の際にはそれに殉じようとするも、衆徒に乞われて宗祖の教義を継ぐ。一遍亡き後、消滅の危機に瀕した一遍上人の教えを再結成したのはこの真教と言える。嘉元元年(1303)には遊行を智得上人にゆだねて、宗祖ゆかりの地当麻に帰り、その翌年、ここに一宇(建物)を建立。無量光佛(阿弥陀如来の別名)の由来からその名を「無量光寺」と名付け時宗教団の本拠地とした。真教上人は文保3年(1319)示寂される(亡くなる)までの16年間当山にあって、衆徒の教化に努める。

当麻山は後北条氏の外護を受け、天正19年(1591)には徳川家康より30石の寺領を寄付され寺門は大いに繁栄した。その間、天文年間には北条、上杉の戦の折に伽藍が焼失し、天正年間(1573~1593)、元和年間(1615~1623)の火災、なかでも安永2年(1773)の火災においては絵詞伝8巻を始め、貴重な寺宝が多数焼失。その後再建された堂宇も明治26年には全焼し、現在、旧本堂跡は空き地となっている。

○無量光寺と遊行寺
実のところ一遍上人=時宗=藤沢の遊行寺が頭に刷り込まれており、この地に一遍上人ゆかりの時宗、正確には時宗と称したのは江戸期からのことであり、古くは浄土門当麻派と称された根本道場があるなど何も知らなかった。
歴史をチェックすると、遊行三代智得は、真教の一番弟子の一人として、弘安四年(1281)以来当麻道場にあって教学と組織固めに努めていた。が、遊行四代目を巡り確執が起こる。真教の命で京都の七条道場を拠点に賦算をしていた呑海と、三代智得の遺言として側近であった真光との争いである。結局、呑海は実兄の鎌倉武将の俣野景平を開基の檀那として、藤沢山清浄光院(現在の清浄光寺)を建立することになり、ふたつに分裂。やがて藤沢道場が優勢となった。
遊行上人を引退すると、藤沢道場に入って藤沢上人と称した。藤沢山清浄光院が遊行寺と称されるようになったのは、近世になって法主(ほっす)・藤沢上人と遊行上人が同一上人であるため遊行寺(ゆぎょうじ)という通称の方が知られるようになっている。
とはいうものの、藤沢の遊行寺は一遍上人とは直接関係ないお寺さまであり、上人が足を踏み入れた修行の地、という意味では当地の無量光寺のほうが、一遍上人との繋がりが強いようである。
○時宗と時衆
上でメモしたように、時宗と称されたのは他の宗派と同じく江戸になってから。当時は時衆と称されていた、と。時衆とは「一日を6分割して不断念仏する集団(ないし成員)を指す」とのことである。

当麻地区
無量光寺を離れ相模線・原当麻駅に向かう。当麻地区の昔の字に、市場の東に上宿、西に下宿といった地名が残る。当麻は厚木と八王子を結ぶ大山街道の渡場であり相模川の舟運を利用した水運で栄えた町であり、その上に無量光寺ができると、修行僧や参拝者が増え、無量光寺の門前町として栄え市が立つようになった。
市場、上宿、下宿、また市場にある鍛冶屋坂も寺専属の鍛冶屋からの地名である。小田原北条の時代には、早雲の命により、原当麻駅付近に宿場町が建設され新宿と呼ばれm戦国時代の宿場町となったようである。
因みに、この当麻の付近には伊予ゆかりの地が目立つ。相模川を隔てた「依知」は越智氏からとも言われる。宿場を仕切ったのも伊予からの人物と伝わるし、そもそも、無量光寺の西の「芹沢」にある三嶋神社は伊予三島の三島神社からの勧請とも伝わる。伊予の有力武将の係累である一遍上人に付き従った伊予の人々が住み着いたものであろうか。
因みに「当麻」の地名の由来であるが、一遍上人お気に入りの奈良の当麻寺からとの説がある。それはそれでいいとして、では「当麻」の意味は、と言うと、 古代のタギマ(当岐麻)がタイマに訛ったとのこと。古語の「たぎたぎし」とは、凹凸がある悪路。難路を意味する、とのことである。

相模線・原当麻駅
無量光寺を離れ、段丘崖を上る広い車道を進み、相模線・原当麻駅に。段丘崖上に字として原当麻という地名が2万5千分一の地図には残る。由来をチェックすると、小田原北条の時代、当麻村の実力者三人衆、どうも伊予の出身者であるようだが、それはともあれ、その三人衆が市場の問屋権をめぐって争い。その争いに負けたひとりが当麻の市場を離れ、段丘上、現在の原当麻のあたりに集落を開いた、とか。旧地の「当麻」に段丘崖上の段丘面である「原」を合わせた地名としたのだろうか。単なる妄想、根拠なし。
ともあれ、相模線・原当麻駅に向かい、本日の散歩を終える。後は、この当麻地区から段丘崖線の斜面林に沿って南に下り、田名原段丘面と陽原段丘面を画するこの段丘崖が田名原段丘面に埋没する地点である下溝辺りまで下り、その後は最初の散歩で残した鳩川分水路の更に南に下る鳩川を辿り、その流れが相模川に注ぐ地点まで歩いてみようと思う。
先回の相模原段丘面(高位)と田名原段丘面(中位)を画する崖線下を流れる姥川、道保川、そのふたつの河川を合わせて相模川に分水する鳩川散歩に続き、今回は田名原段丘面(中位)と陽原(みなはら)段丘面(低位)を画する崖線下を流れる八瀬川を辿る。大きく分けて3段階の階段状に形成される相模原台地の最下位段丘面散歩でもある。
田名の由来は諸説あるが、相模川対岸の中津川台地から眺めた地形が段々状の「棚」のようであり「棚村」と名付けられたとする説もある。また、陽原(みなばら)は、平坦な地、「皆原」に由来する、とか。どちらにしても、段丘面の地形を表す地名ではあろう。因みに「陽原」となったのは陽原山南光寺の山号からである。
今回の大雑把なルートは橋本駅からスタートし、相模原段丘面を進み、相模原段丘面と田名原段丘面を画する段丘崖下を流れる鳩川源流点に向かい、そこから田名原段丘面が相模川に接する相模川崖線の湧水(地元では「やつぼ」と呼ぶ)を探し、南下して田名原段丘面と陽原段丘面の段丘崖下を流れる八瀬川の源流点に。その後は崖線斜面林に沿って南下し、時間次第ではあるが、陽原段丘面や相模川の沖積地であろう「水郷田名」を彷徨い、再び段丘崖に戻り、地形図から予測するに陽原崖線が田名原崖線に合わさり埋没すると思われる鳩川分水路辺りまで下ろうとの思惑。
実際は途中でちょっとしたトラブルがあり、結局一度でカバーできなかったのだが、それは後々メモすることとして、まずは京王相模原線で橋本へと向かう。



本日のルート;京王線・橋本駅>橋本五叉路>川崎第二水道>鳩川源流域>相模原総合高校>上大島>県道48号>渓松園>中ノ郷のやつぼ>常磐のやつぼ>日々神社>水場のやつぼ>神澤不動尊>古清水上組のやつぼ>横浜水道みち>三角山公園>八瀬川源流>やつぼ>田名葭田(よし)公園>大杉池からの水路合流>L字の固定堰>こぶし橋>塩田さくら橋>塩田天地社>横浜水道みち>相模線・番田駅

橋本五差路
橋本駅から最初の目的地である鳩川源流点と言われる相模原市緑区大島の大島団地へと向かう。駅から成り行きで進むと立体交差のある大きな交差点。「橋本五差路」と呼ばれる。五つの道とは、今歩いて来た橋本駅方面からの道、この交差点を経て横浜から八王子方面に抜ける国道16号。この交差点から平塚へと向かう国道129号、そして城山方面へと抜ける道の5本である。
国道16号が立体交差となる前は渋滞の名所であったが、現在は改善されている、とのこと。地下道となっている歩行者用通路を抜け、津久井湖・城山方面への道に入る。

○相模原の軍都構想
道の周囲は大小の工場地帯が続く。江戸の頃、新田開発によって開かれた畑と雑木林の広がる「相模原」の状況が変わるのは昭和に入ってから。昭和11年(1936)、旧陸軍第一師団より相模原各地の村役に呼び出しがあり、陸軍士官学校、練兵場の用地買収の申し出、と言うか通達。あれこれ悶着はあるも、軍に抗すべくもなく買収に応じる。
計画は日中戦争下、1930年後半に更に進み、陸軍施設の相次いでの移転・開設が計られた。陸軍造幣工廠(在日米軍相模原補給廠)、陸軍兵器学校(麻布大学)、陸軍航空技術飛行機速度検定所(淵野辺、矢部辺り)、陸軍通信学校(相模女子大)など枚挙に暇がない。
こうして貧しい養蚕の集落地が一転して軍事都市となってゆくわけだが、県も軍事施設の進出を受け「10万人の軍都構想」のもと区画整理を行うも、幹線道路整備の段階で敗戦。戦後も区画整理事業が進み昭和25年(1950)に区画整理事業は完成した。
いつだったか、多摩丘陵を歩いているとき、相模原を眺める尾根道に「戦車道」とあった。相模原陸軍工廠で製造された戦車の走行実験が行われた道とのことであった。

川崎第二水道
道を進み「峡の原」といった、「峡(はけ)」=崖線が近づいたことを予感させる地名を越え、クヌギ、コナラなどが植林された「二本松ふれあい公園」辺りで北西に向かっていた道が西に方向を変え県道508号・二本松小学校入口交差点に。
県道508号は「谷ヶ原浄水場」方面」へと西に向かうが、国土地理院の2万5000分の一の地図を見ていると、橋本五差路から県道508号・二本松小学校を経て相模川傍の「谷ヶ原浄水場」へと向かう道は「川崎第二水道」と表記されている。この道の下には水管が埋設されているのだろう。

川崎第二水道は津久井分水地から導水管で川崎に送られる水のネットワークのひとつ。径路は、沼本取水口>津久井隧道>津久井分水池>導水路>淵野辺接合井(ここで酒匂川水系の水を合わす)>潮見台配水池(企業:西長沢浄水場;川崎市宮前区潮見台)>鷺沼配水池(川崎市宮前区土橋)>末吉配水池(横浜市鶴見区上末吉)と進む。今歩いて来た道は、津久井分水池から横浜線・淵野辺 駅に向かって南東に直線に進む導水管敷設道路の一端であった。

○川崎第一水道
因みに、川崎第一水道の経路は津久井分水池>相模隧道(横浜水道と同じ)>下九沢分水池(横浜市導水隧道)>第一導水隧道>千代ケ岡配水池塔(川崎市麻生区千代ヶ丘)>長沢浄水場(川崎市多摩区三田)。津久井分水地から相模川に沿って下り、上大島で西に方向を変え下九沢分水池を経て相模線・南橋本駅の東に進む。そこで方向を北東に変え、町田方面へと向かうが、南橋本駅の東の国道16号の辺りで川崎第二水道とクロスしている。下九沢分水池は円筒分水施設と言う。そのうち訪れてみたい。

相模原段丘面と田名原段丘面の境
鳩川源流点に向かうべく、県道508号・二本松小学校入口交差点を南に折れる。道なりに進むと下り坂となる。相模原段丘面と田名原段丘面の境の段丘崖なのだろうが、地形図の彩色では結構はっきりと色分けされているが、周囲は宅地で埋められ、崖線がよくわからなかった。崖線斜面林など望むべくもない。

鳩川源流域
坂を下り終えた打出交差点のすぐ東に鳩川の水路があった。鳩川に架かる、といっても南側にささやかな水路があるだけで、北側は暗渠となり橋の名残もない。湧水を水源とする、といった趣は全くなく、単なる少々汚れた小規模都市河川と言ったものであった。
源流点はもう少し暗渠を詰めた辺りであろうが、そこに向かう気持ちも萎え、民家の間を下る鳩川から少し離れた道を下り、道なりに進み鳩川に架かる名も波小さな橋を渡り返し、鳩川から離れ、田名原段丘面が相模川に接する辺りへと向かう。

○鳩川
Wikipediaによれば、「鳩川(はとがわ)は、神奈川県相模原市から海老名市にかけて流れる相模川水系の河川。神奈川県相模原市の大島団地付近に源を発し南東に流れる。JR東日本相模線と平行し、海老名市河原口付近で相模川に合流する。全体的に川幅は狭い。相模原市磯部には平行する相模川への分水路があり、そのため磯部以南では流量が減り、座間市入谷付近では農業用水路のように川幅が細い。下流の海老名市上郷では相模三川公園の敷地内を通過しており、遊歩道が整備されている」とある。また、江戸時代は籏川と呼ばれていたようで、鳩川となったのは明治時代に入ってからのこと。九沢辺りの孟宗竹は江戸時代、江戸城の煤払い用に献上されていた、とか。

県道48号
川を渡るとすぐ八坂神社。社にお参りし、南西へと進み相模原総合高校脇を進む。この辺りは宅地も無く、一面の平坦な耕地の西に中津川台地や丹沢の山塊が見えてきた。
高校を過ぎた先で県道48号・上大島交差点へと西に向かう結構大きな車道を進み、上大島交差点の少し南辺りの県道48号に出る。

渓松園
道を進むと「渓松園」の案内。現在相模原市の老人福祉センターとなっている建物は「横浜水道みち」の施設を転用したもの。入口に「横浜水道みち 三井用水取入所からここまで7.5km;旧大島送水井」とある。大島送水井は昭和9年(1934)に完成し、相模川崖下の大島臨時揚水ポンプ場からくみ上げた水を横浜の川井浄水場に送っていたとのことだが、その後の横浜水道拡張事業(下九沢分水池、相模原沈澱池など)などにより、昭和29年(1954)に相模湖系の取水網が完成しその使命を終えた。
老人福祉センターは当時の円筒形の送水井の建物をそのまま生かし、円形の建物の畳は丸くなっている、とか。

○横浜水道みち
詳細は先回の散歩を参考にしてもらうことにして、大雑把な径路は津久井分水池から相模川に沿って大島・清水地区まで下り、そこから田名原段丘面と陽原段丘面を画する段丘崖辺りを一直線でこの地まで進み、相模原公園の南を通り横浜市保土ヶ谷区の川井浄水場に向かい、そこから鶴ヶ峰を経て少々方向を変えながらも、基本一直線で野毛山浄水場に向かう。

■やつぼ
次の目的地は、田名原段丘面や陽原段丘面が相模川と接する段丘崖急斜面の中腹から流れ出す湧水探し。地質の観点から言えば、相模川が運んだ礫層と、小仏層・中津層や依知礫層と呼ばれている基盤岩との接合部分から湧き出ているとのこと。
この湧水を溜めた池をこの辺りでは「やつぼ」と呼ぶ。大島地区に11箇所、田名地区に7か所あったという。段丘害斜面から流れ出す湧水を飲料水や生活用水に活用するため、崖面に石組みの水場を造っている、とのことである。名前の由来は「谷津、谷地=湿地」+「壺」との説が有力であるが定説はない。 現在は水道網が整備され、やつぼの多くはその使命を終え、あるいは潰され、あるいはコンクリートで埋められているが、いくつか原型をとどめるものがある、と言う。基本個人の自宅に属するものであり、残っている「やつぼ」も、どの程度訪ね得るものかはっきりしないが、とりあえず代表的なものを北から幾つか探してみようと思う。まずは「中ノ郷のやつぼ」である。

中ノ郷のやつぼ
「中之郷のやつぼ」に向かうが、場所が特定できてはいない。とりあえず、大島地区にある県道48号・中の郷バス停辺りから成り行きで相模川の崖線に向かう。
崖線沿いに建つ民家の前の道を進んでいると、竹藪の繁る手前に「大島中ノ郷やつぼ 相模原市登録史跡」、崖の小径を進むとほどなく「中ノ郷のやつぼ」の案内があり、案内に従って左に少し下ると「やつぼ」と刻まれた石碑があり、その横に2mx5m程度の湧水池と、その上に「八大龍王」と刻まれた石塔が祀られていた。湧水池は大石や丸石で組まれ、流れ出る湧水を溜めていた。



八大竜王は水中の主である八王であり、その中でも娑羯羅(沙伽羅とも;しゃから)が雨乞いの神として全国に祀られている。弘法大師に関係深く、京の都・神泉苑で八大竜王に祈って雨を降らせたといった伝説や、弘法大師が名付けた清瀧権現もこの娑羯羅にまつわるものである。

田名原段丘面と陽原段丘面の境

「中ノ郷のやつぼ」を離れ成り行きで南に進む、ほどなく緩やかな坂が現れる。おおよそ県道48号・大島北交差点の東の相模川の段丘崖線近くである。周辺は住宅が建ち、崖線も斜面林も見えないが、田名原段丘面と陽原段丘面の境に差し掛かったのではなかろうか。
田名原面に入る(入ったと思うのだが?)。周囲は住宅が立ち並び、はっきとした崖線は見えないのだが、所々に残る緑が斜面林の名残のように思える。崖線をはっきりと確認するため、田名原崖面から湧き出た「常盤のやつぼ」を探しに向かう。

常盤のやつぼ
県道48号・大島交差点の南東の常盤地区に入る。住宅の間を彷徨っていると結構な坂道が崖を上っている。この崖線が田名原面と陽原面を画する段丘崖ではなかろうかとの予測で、崖線のどこかに「常盤のやつぼ」があるのだろうと、行きつ戻りつしていると、民家の方が親切にも場所を教えてくれた。同じように「やつぼ」を探す人もあるようで、見るに見かねて家から出てきてくれたようである。感謝。
「常盤のやつぼ」は崖下にある民家の駐車場となってコンクリートで埋め立てられていた。その駐車場の直ぐ下にある民家の生垣の中には湧水池が残っている。側溝から音を立てて水が流れているので、現在でも地中からの湧水は保たれているのだろうか。

日々神社
地図を見ていると、「常盤のやつぼ」の崖線上に「日々神社」という社が目についた。「日々」と言った名前にも惹かれ、また、崖線上の景色も見てみようと日々神社に向かう。
崖上には県道48号が通る。周囲に住宅が立ち並ぶ県道を少し進み左に折れて社へと。結構広い境内ではある。鳥居をくぐり社殿にお参り。境内の石碑に「日々神社 日之宮跡」とある。「日々神社 創立年不詳。保元2年、寛文5年、元禄元年再建。祭神、勧請年不詳。伊弉諾命、天照皇太御神を奉祀し「日之宮」と称した。明治2年、日々神社と改称し現在地に再建」と刻まれる。 歴史は古いが縁起など詳細不詳。元は「日之宮」と称し、別の場所にあったようだが、明治2年(1869)に「日々神社」と改称し、この地に移した、とのことである。

○徳本念仏塔
境内には「徳本念仏塔」が祀られる。神社にあった案内によると、「徳本は、宝暦8(1758)年に紀州に生まれ、江戸時代後期に伊豆や関東の各地に念仏を広めた僧です。徳本が近隣を訪れた際に、各村々の念仏講中(ねんぶつこうじゅう)がその特徴ある書体で書かれた名号(みょうごう;六字名号=南無阿弥陀仏)を求め、それをもとに念仏塔を建てたとされます。
側面に「文政二己卯年」(1819年)の銘があります。主体部の高さ143センチメートル、幅69センチメートル、奥行き41センチメートルです。以前は香福寺の参道沿いにありました。地域の念仏講や村の生活史を知る上で貴重な資料です」とのこと。
□徳本上人
徳本(とくほん;徳本上人)は、27歳のとき出家し、木食行を行った。各地を巡り昼夜不断の念仏や苦行を行い、念仏聖として知られていた。大戒を受戒しようと善導に願い梵網戒経を得、修道の徳により独学で念仏の奥義を悟ったといわれている。文化11年(1814年)、江戸増上寺典海の要請により江戸小石川伝通院の一行院に住した。一行院では庶民に十念を授けるなど教化につとめたが、特に大奥女中で帰依する者が多かったという。江戸近郊の農村を中心に念仏講を組織し、その範囲は関東・北陸・近畿まで及んだ。「流行神」と称されるほどに熱狂的に支持され、諸大名からも崇敬を受けた。徳本の念仏は、木魚と鉦を激しくたたくという独特な念仏で徳本念仏と呼ばれた。墓所は一行院(Wikipedia)。
境内に掲示板があり、神事や昔話、このあたりの地名である「常盤」の由来など興味深い内容が記載されている。ちょっと長くなるが気になったものをメモする。
○日々神社・雨乞いの話
八壺のひとつ・鏡の滝より「御新水」を汲み神殿に奉納し、その新水を撒きながら神殿を3回廻り、神官が「詞」をあげて終了。この神事の数日後には雨が降った、とか。
○鏡の滝
水量は多くないが、神沢不動堂近くの北方に「鏡の滝」がある。名前の由来は、日々神社の祭礼の際、神輿がこの滝を渡御する(滝降の神事)のだが、ある年の神事の際、滝から一枚の鏡が出た。円形で直径三尺五分の裏面には「鳥蝶」の模様があり、人々はこれを天照皇太神と尊敬し、日の宮に合祀し、滝を鏡の滝、土地を神沢と称するようになった。
○鏡の滝の昔話

茅ケ崎の商人、吾助は相模川を往来し、海産物を津久井で売り、そこで薪や炭を仕入れ下流で売るといった商いをしていた。ある日、商売がうまくいき、田名の宿場で博打で無一文。つい、日々神社のご神体である鏡を盗み売り払おうと企てる。首尾よく盗み出し神沢の滝壺まで来たとき体が動かなくなり、盗んだ鏡も滝壺に沈む。すると滝壺から煙が立ち上がり、神のようなものが現れた。 怖ろしくなった吾助は、悔い改め、鏡をもとの場所に戻してもらい、元の体に戻った吾助はその後、商いに努めた、と。
○淤能碁呂(おのころ)の松
源頼朝が平家に追われ伊豆に流された保元2年(1157)、10歳の時に植えたと伝わるが、昭和41年(1955)の台風で倒木したが、その跡が残されている。
○地名「常盤」の由来
淤能碁呂(おのころ)の松の別名を「常盤木」と言い、明治の頃、常盤木のように常に若々しく発展するようにと、地名を「常盤」と命名し、それが「字」として残った。


日々神社から崖線の坂を下る
地図を見ると相模川沿いに神沢不動がある。その北辺りに鏡の滝があるようだ。後から訪ねてみようと思う。
神沢不動へと向かうべく、iphoneであれこれチェックしていると、神沢不動の手前に「水場のやつぼ」があり、そこには日々神社の御神水として利用されているとのこと。
日々神社から崖線の坂を下る。比高差は数メートルといったところ。段丘崖下の道を南に下ると唐突に暗渠から沢筋が現れる。この沢もどこかの「やつぼ」、場所からすれば「常盤のやつぼ」のようにも思えるのだが、ともあれどこかの「やつぼ」を水源とするようだが、コンクリートで蓋をされ暗渠となって道の下を流れている。沢に沿って進むと「相模原市登録史跡 大島水場のやつぼ」の道標。道標に従って沢筋に下りると「やつぼ」が現れる。


水場のやつぼ

壺状の石組み湧水池には「御神水」と刻まれた石の辺りから滾々と水が湧き出てくる。その水音も気持ちいい。湧水の流れ出す石組みの崖線は、陽原段丘面と相模川川床の間の段丘崖である。
湧水池の脇には「倶利伽羅不動尊」が祀られる。風雪に耐え、摩耗も激しいように見えるが、龍が4本の手足を剣に絡ませ、なおも口に含んで睨んでいる。倶利伽羅不動尊(竜王)は竜神や水神信仰と結びつきや滝口や湧水池などに祀られる。
「水場のやつぼ」からは沢を越えて崖を上る道が整備されている。この沢は前述のとおり、やつぼを水源とする流れが浸食谷を形造っており、谷を下れば日々神社でメモした「鏡の瀧」に出合うとのことであるが、それはメモする段階でわかったこと。よくある「後の祭り」ではあった。とはいうものの、谷は結構V字切れ込みが激しく、それほど簡単に下れそうにもなかった。

神澤不動尊
沢を越え、相模川の段丘崖を上り、段丘崖上の道を進み、日々神社の案内にあった、「北方に鏡の瀧」があると言う「神澤不動尊」に向かう。道を進むとほどなく相模川の崖線を下る道があり、ヘアピンの神澤坂を下りた崖下に神澤不動尊。
「神澤不動尊 長徳禅寺」と刻まれた石碑の横に弁天池がある。水量は多くなく、池からの湧水と言うより、崖からの水路が弁天池に続いている。本堂にお参りし、境内にある「稲荷大明神」のある崖面への石段を上りお参り。「北方にある、と言う「鏡の瀧」を探して崖面を彷徨う。結構な藪漕ぎをしながら滝を探したのだが結局見つけらなかった。
既にメモしたように、鏡の瀧は「水場のやつぼ」のあった沢筋にあるようであり、見つかるはずもなし。結局諦めて境内に戻る。境内から相模川方面を眺め、ゆったりする。広い河川敷が前面に広がる。








古清水上組のやつぼ
神澤不動尊でしばし休憩。神沢坂を再び上る。下りるときには気が付かなかったのだが、ヘアピンのところに「古清水上組のやつぼ」の案内。ヘアピン部分から坂道を離れ、南に向かう道を進み、道が民家に当たり左に折れるところに「やつぼ」の案内。
陽原段丘面が相模川に接する段丘崖急斜面を少し下りると4~5m程度の壺状の丸石で組まれた湧水池があった。
ここでちょっとしたトラブル。「やつぼ」の写真を撮ろうと足元に注意せず、後ろ向きのままバックして写真を撮ろうとしたとき、足元の踏み石グラリで、見事な一回転で「やつぼ」下の水路に落下。ちょっと伸びていた爪が石垣の端に引っ掛かり、剥がれた状態で二つ折れ。先日も足元の石に躓いて、これまた見事な「五体投地」で水路にダイブし今回と同じ指を脱臼したばかりである。気をつけねば。

横浜水道みち
痛む指を気にしながら崖を戻り「清岸寺」方面へと少し戻り、清岸寺の東の道を進み県道48号に合流する。メモする段階で25000分の一の地図を見ると、県道48号に当たり、そこから南東へと一直線に続く道筋に「横浜水道みち」とある。その道を先に延ばすと、先回の散歩で出合った「横浜水道みち」の緑道に当たる。思わず知らず、津久井分水池から相模川に沿って大島・清水地区まで下る「横浜水道みち」の導水管上を歩いていたようである。

○「横浜水道みち」の歴史
横浜市水道局のHPの記事をもとにメモをまとめる。戸数わずか87ほどであった横浜は、安政6年(1859)の開港をきっかけに急激に人口が増加。しかし横浜は、海を埋立て拡張してきた地であり、井戸水は塩分を含み、良質の水が確保できない状況にあった。
このため当時の神奈川県知事は、横浜の外国人居留地からの水確保への強い要望や、明治10年(1877)、12年(1879)、15年(1882)、19年(1886)と相次いで起きた伝染病コレラの流行もあり、香港政庁の英国陸軍工兵少佐H.S.パーマー氏を顧問として、相模川の上流に水源を求め、明治18年(1885)近代水道の建設に着手し、明治20年(1887)9月に完成した。その後、明治23年(1890)の水道条例制定に伴い、水道事業は市町村が経営することとなり、同年4月から横浜市に移管され市営として運営されるようになり、現在横浜市水道局の管轄にある。
相模川が山間を深く切り開く上流部、案内にもあった、川井接合井から野毛山浄水場までの起伏の多い丘陵などを、基本、一直線に貫く水路の建設は難航したと言う。また、近代水道の要ともなる水路管(グラスゴーから輸入)を現場に運ぶには、相模川を船で上流に運び上げたり、この案内にもあるように、トロッコ路を敷設し水管を運び上げたとのことである。

経路を見るに、津久井分水池から相模川に沿って大島・清水地区まで下り、そこから田名原段丘面と陽原段丘面を画する段丘崖辺りから、田名原段丘面を一直線で進み、相模原公園の南を通り横浜市保土ヶ谷区の川井浄水場に向かい、そこから鶴ヶ峰を経て少々方向を変えながらも、基本一直線で野毛山浄水場に向かう。
経路や施設なども創設時と現在では状況も大分異なっているとは思う。実際、上記の相模原段丘面にある相模原沈殿地は、昭和29年(1954)の第四回拡張工事の際に竣工された横浜水道みちの施設と聞く。そのうち、一度実際に歩いて実感してみたいと思う。

県道48号
八瀬川の源流域である県道48号・上田名交差点に向かう。道を進むとほどなく「大島地区」から「田名地区」に入る。田名地区の最初の集落は「清水地区」。地形図を見ると、陽原段丘面が相模川に接する崖線上に見える。崖線下は相模川の氾濫原のようにも思える。崖線上と氾濫原の比高差は20m以上あるだろうか。
清水地区を進むと次は「堀之内地区」。もともとは相模川崖線上の「はけ(=崖線)ばた」集落と、大杉公園周辺の「ほりのうち」集落から成っていた、とのこと。
○堀之内と田名氏
堀之内とは、武蔵七党のひとつ横山党の庶流、横山広季がこの地に進出し田名を称し、館を築いたことに由来する、と。横山広季は横山党として建暦3年(1213)の和田合戦に参戦。侍所別当の和田義盛に与みするも北条氏に敗れ討死。「吾妻鏡」の中に討ち死にした武将として「たなの兵衛。たなの太郎」の名があるが、それは広季と、その子の時季とのこと、と言う。

県道はおおよそ陽原段丘面が相模川と接する崖線上を通っていると思うのだが、田名原段丘面と陽原段丘面の境の崖線ははっきり見えない。道の東側との比高差は2mもないだろう。建物も多く段丘崖を感じるような趣はない。建物の間に所々畑地も残り、右手には中津台地も見られる頃に県道48号・上田名交差点に。ここを左に折れて八瀬川の源流域に向かう。

三角山公園
上田名交差点から成り行きで進んで行くと、石碑の並ぶ公園に出た。田名中学校の対面にあり、「三角山公園」と呼ばれている、と。かつて、この公園の南西方向には深い谷があり、そこから見上げたこの公園の姿を以てして「三角山」と称した、とか。その谷って、往昔の八瀬川源流域の谷戸であろうか。公園には日清戦争・日露戦争から第二次世界大戦での戦没者の慰霊碑が建っていた。

八瀬川源流域
田名中学校と田名郵便局に挟まれた辺りから突如として水路が南に延びる。下水路のようなつくりであり、湧水からの水路の趣きは全くない。野水路(地面にしみ込まず溢れ出た雨水が流れる堀)と説明する記事もある。下水道が整備される以前に生活排水を流していたようだが、下水道が整備された現在、水はほとんど流れてはいない。

○八瀬(やせ)川
Wikipediaによれば、「八瀬川(やせがわ)は、神奈川県相模原市を流れる延長約5kmの準用河川。相模原市上田名付近に源を発し、相模原市磯部上流のJR相模線下溝駅付近の新八瀬川橋よりすぐ先で一級河川相模川に合流する。沿川の概況は、中流域にある閑静な住宅地と上・下流域にある水田や段丘斜面の樹林帯、そして段丘崖からの湧水が水路により導かれ流量も比較的豊富な自然環境が良好な中小河川であり、相模原市の都市部における住民や生物にとって貴重な水辺空間となっている。
この八瀬川は、事業実施済みの区間を含め、平成18年度策定による国の「多自然川づくり基本指針」を取り入れ、水源地域の河川として、川の持つ自浄能力や水循環機能を高め、地域に密着した河川環境の保全・再生を図る川づくりを目的として、昭和63年策定済みの整備計画の見直しによる八瀬川多自然川づくり基本計画の策定を行い、今後、多自然川づくり事業を推進する」とあった。 源流域ではこの説明にはなんの説得力もないのだが、おいおい、その川の状況も変わって来るのだろうと、川に沿って南下することにする。

半在家地区
八瀬川を進み「半在家」地区に。この辺りは平安後期には既に人が住んでいたとのことで、平時は農民、非常時には武士として戦ったことから「半分在家武士」が地名の由来とか、寺領と官領が折半された故とか例によって地名の由来は諸説あり。

やつぼ
「やむかい橋」辺りから下流は八瀬川の水も知らず増えている。この辺りまで来ると田名原段丘面と陽原段丘面を画する崖線もしっかりし、斜面林も見えてくる。水量が増えるのはどうも、崖線からの湧水がその因のようである。斜面林のガードレールに切れ目があり、成り行きで下ると大きな「やつぼ」があり、豊かな湧水が八瀬川に注がれていた。特に名前は付けられていなかった。




田名葭田(よし)公園
南下する水路が東に向かい、川の両側緑の森で囲まれる辺り、右岸は田名葭田(よし)公園と呼ばれるようだが、その公園の北に沿って別の水路が八瀬川に平行に進む。二つの水路は水面の高さも異なり、コンクリートで別水路として管理されている。ふたつ並んで流れる水路は結構美しい。





○大杉池系統の八瀬川

□大杉池
合流、と言うか平行に流れるこの水路は田名小学校の南東にある「大杉池」を水源とする水路、とのこと。合流点までは「紅葉川」との呼ばれているようである。大杉池は近くに「でいの坂(屋号から)」があるように、段丘崖下の結構大きな池であり、雨の後でもあるからだろか水量も豊富であった。
池脇には弁天社。陰石と陽石の一対が並ぶ。道祖神ではあろう。池から溢れた水は開渠として流れはじめるが、途中暗渠となっており県道48号・田名団地入口交差点辺りまで地中に隠れる。




□半在家自治会館のやつぼ
県道48号・田名団地入口交差点から再び開渠となり、半在家自治会館辺りにある「やつぼ」からの「湧水」も集め田名葭田(よし)公園に下る。建物脇の石垣下から流れ出す湧水にしばし見とれる。

L字の固定堰
田名葭田(よし)公園から平行して下ってきたふたつの八瀬川源流域からの水路のうち、田名郵便局辺りから下ってきた水路は、相模原田名団地東の名も無い橋の手前でL字の固定堰で阻まれ、開口部からゴルフ場方面へと潜る。下流で再び入流しているようではあるが、下水としての扱いとして地中を進むようである。
水路を二つに分けたのは、大杉池方面からのきれいな水と、田名郵便局方面からの所謂「野水路」、下水が整備される前は生活排水で汚れた水を分けるためのものであったようである。現在は下水道も整備され、崖線や「やつぼ」からの清流が流れているわけで、別系統に分ける必要もないのかとも思う。

で、ふと悩む。田名郵便局からの八瀬川は、源流域では野水路ではあるものの、途中、崖線からの湧水や「やつぼ」からの清流を集め水量豊かに田名葭田(よし)公園まで下るが、このL字固定堰から地中に潜り、これより下流は大杉池からの水流が八瀬川となる。と言うことは、大杉池系統の水が八瀬川の源流と言うことだろう、か。

こぶし橋

L字の固定堰で地下に入った八瀬川に替り、大杉池系統の水路に乗り替へ、下流に進む。水路がゴルフ場の南西端辺りで流路を東へと変える辺りから民家の風情から農村の景観となる。左手遠くには、段丘崖の斜面林が見えてくる。 農村の灌漑用水路といった姿を見せる八瀬川には農業用の水門も幾つか設けられている。段丘崖からの湧水も多く流入されているとのことである。
進むにつれて八瀬川が崖線に近づいていく。「こぶし橋」辺りから崖線下を流れる川と南北に連なる段丘崖の斜面林を眺め、そしてその左手に広がる平坦な耕地。田名原段丘面と陽原段丘面を画する崖線。比高差は10m以上もあるだろう。そしてその東に広がる陽原段丘面。本日の散歩の目的はこの姿を見ることでもあった。

塩田さくら橋
こぶし橋から下流は「田名塩田」地区に入る。「塩田」の由来は塩の交換所があった、との説もある。塩田地区に入り耕地に代わって宅地化が進んだ一帯を崖線斜面林の下を流れる八瀬川を見ながら先に進むと「塩田さくら橋」。当初はこの辺りから、未だ南に連なる斜面林下を流れる八瀬川を辿るか、水郷田名を彷徨う予定ではあったのだが、「やつぼ」で大転倒したときに傷が少々痛む。医者に診てもらわねばと、予定を変更し、ここから最寄の駅である相模線・番田駅に向かう。

塩田天地社
大きな車道の通る崖線坂道の途中に天地社。案内によれば、「天地社は古くは天地大明神、または天地宮と称し全国に同名の神社は兵庫県、愛知県と当社の三社のみである。
塩田に天地大明神の称名がみられるのは享保十一年(1727)の記録と安永二年(1773)の奉納塔で天地宮の名は社額に残されている。
天地大明神は延暦十七年(798)の勧請といわれ、その奉納神事が一月六日に行われる、田名八幡宮の的祭である。この的祭は塩田の天地大明神を起源とし一月五日の夜半から六日の早暁にかけ、塩田で行った儀式のあと奉納されたもので当地が発祥の地である。と古くから言い伝えられている。現在の天地社には明治末期の整理統合により山王社、御嶽社が合祀されている」とのこと。
祭神は国常立命、大山咋命、日本武尊。他の天地社も祭神を国常立命としているようである。国常立命は、天地開闢の際に出現した神であり、日本神話の根源神とされる。享保十一年(1727)の頃は堀之内の明覚寺支配とされている。境内には江戸期の庚申塔、御神燈が残る、と言う。
明覚寺は鎌倉期に開かれたお寺様であり、田名の諏訪社、水郷田名の八幡社の別当寺でもあり、明治期は隣に役場が置かれるなど田名の中心的存在でもあったようだ。場所は先述の大杉池辺りであったようだが現在は廃寺となっている。

横浜水道みち
段丘崖の車道を上り切ると国道129号・上溝バイパス・上溝バイパス交差点。交差点の脇に斜めに一直線に進んで来た道がある。先ほど「古清水上組のやつぼ」の辺りから南東に一直線に下ってきている。道は緑道として整備されているように見える。ここから先は、先回の散歩で出合った相模原沈澱池付近へと一直線に向かう。

相模線・番田駅
上溝バイパスを越え成り行きで相模線・番田駅に。この駅、昔は上溝駅と呼ばれ、上溝駅は相模横山駅と呼ばれていたようである。番田の由来は不明だが、番所の役人のための田、とする地名が全国にある。
本日の散歩はこれで終了。思わぬ怪我で「途中退場」となってしまい、塩田さくら橋から南に続く段丘崖を終点まで歩くことも、水郷田名を彷徨うこともできなかった。次回のお楽しみとする。


先日、中津川台地を散歩したとき、この中津原台地って幾つかに分けられる相模原台地の段丘面のひとつであることを知った。Wikipediaに拠れば、「相模原(相模野)台地は、多摩丘陵と相模川に挟まれた地域に広がる台地。相模川中下流部の左岸に位置し、主に相模川の堆積作用によって形成された扇状地に由来する河岸段丘である。
大きく分けて3~5段、詳細には十数段の段丘面に区分される。台地の大部分は古い順に相模原面群、中津原面、田名原面群、陽原(みなはら)面群に分けられる。(中略)台地上は相模川によって運ばれた堆積物だけでなく、富士山や箱根山などからの噴出物を中心とする火山灰層(関東ローム層)によって覆われている」とある。
相模原台地のイメージとしては相模原にしても、橋本にしても、昔軍の軍需工廠があったところであり、現在は工廠に代わって工場群が建ち並ぶ平坦な台地にといったイメージしかなく、高位段丘面(相模原面群、中津原面)、中位段丘面(田名原面群)、低位段丘面(陽原(みなはら)面群)といった数段に分かれる段丘面から成るといったことは結構新鮮な驚きであった。
で、段丘面がある、ということはそれぞれの段丘面の境には崖線があるだろう、崖線があれば湧水もあるだろう、湧水があれば、それを水源とした清流もあるだろうと、俄然相模原台地散歩にフックがかかった。実際カシミール3Dで等高線に従い色分けした彩色図をつくると、明らかに段丘面が色分けされる。そして、その色分けされた段丘面を見るに、相模原面には境川、田名原面には道保川、姥川、鳩川が流れ、陽原面には八瀬川が流れていた。
ということで、相模原台地の崖線・湧水巡りに出かけることに。最初は上位面の相模原面と中位面の田名原面を区切る崖線・湧水散歩。二回目は中位面の田名原面と低位面の陽原面の崖線・湧水散歩とし、その後はどうせのこと、「後の祭り」があるだろうから、成り行きで、そのフォローの散歩でも、といった大雑把な段取りではある。



本日のルート;京王線・橋本駅>相模線・南橋本>国道129号>日枝神社>鳩川>姥川源流点>横山丘陵緑地・姥沢地区>照手姫遺跡の碑>横丘陵緑地・日金沢上地区>せどむら坂>榎神社>鏡の泉>日金沢橋>てるて橋>県営企業団・北相送水管>公共下水道雨水吐き室>道保川源流域>道保川公園>道保川>淡水魚増殖試験場>横浜水道みち緑道>姥川・枡田橋>姥川・鳩川合流点に >大正坂下交差点>道保川から鳩川との分水界を辿る>下溝八幡宮>姥川が鳩川に合流>鳩川・道保川合流>姥川分水路が相模川に>三段の滝>相模線・下溝駅

相模線・南橋本駅
京王線橋本から相模線に乗り換え南橋本駅に。相模線は神奈川県茅ケ崎駅と相模原市の橋本駅を結ぶJR東日本の路線。もとは、大正10年(1921)、相模川の砂利運送を目的に私鉄の相模鉄道として建設されたが、戦時中、首都東京が攻撃されたときに備え、首都圏の迂回ルート路線として国有化され、国鉄の民有化を経て現在に至る。
駅から成り行きで南に下り、国道129号・上溝バイパス「下の原」交差点に。この辺りから道は下りとなる。相模原段丘面と田名原段丘面の境に差し掛かった、ということだろう。

日枝神社
バイパス脇の坂を下る。道の北に日枝神社。作ノ口地区の鎮守さま。道脇に幾つかの石碑が建つ。中には「百番観音」と刻まれた石碑もあるようだ。その石碑は日枝神社の逆側、バイパスから分かれる脇道の「観音辻」にあったものが、道路拡張にともなってこの社に移された、と言う。日枝神社のあたりの坂を観音坂と称するようだが、その由来となる観音様であろうか。
鳥居を見ると、左は「日枝神社」、右は「蚕影山神社」、拝殿前の石碑は「御嶽神社」とある。幾多の神様が同居しているのは、明治期に集落の社を合祀したものだろう。拝殿にお参り。創建不詳。祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)。

○大山咋命
Wikipediaに拠れば、「名前の「くい(くひ)」は杭のことで、大山に杭を打つ神、すなわち大きな山の所有者の神を意味する、と。『古事記』では、近江国の日枝山(ひえのやま、後の比叡山)および葛野(かづの、葛野郡、現京都市)の松尾に鎮座し、鳴鏑(なりかぶら;注「音をたてて飛ぶ鏑矢」)を神体とすると記されている。
比叡山に天台宗の延暦寺ができてからは、天台宗および延暦寺の守護神ともされた。(中略)太田道灌が江戸城の守護神として川越日吉社から大山咋神を勧請して日枝神社を建て、江戸時代には徳川家の氏神とされ、明治以降は皇居の鎮守とされている。
比叡山の麓の日吉大社(滋賀県大津市)が大山咋神を祀る全国の日枝神社の総本社である。日吉大社には後に大物主神が勧請されており、大物主神を大比叡、大山咋神を小比叡と呼ぶ。山王は二神の総称である。大物主神は西本宮に、大山咋神は東本宮に祀られている」とある。

ところで、山王権現は日吉山王権現と称される。日吉山王権現という名称は、神+仏+神仏習合の合作といった命名法。日吉は、もともと比叡山(日枝山)にあった山岳信仰の神々のこと。日枝(日吉)の神々がいた。次いで、伝教大師・最澄が比叡山に天台宗を開き、法華護持の神祇として山王祠をつくる。山王祠は最澄が留学修行した中国天台山・山王祠を模したもの。ここで、日吉の神々と山王(仏)が合体。権現は仏が神という仮(権)の姿で現れている、という意味。つまりは、仏さまが日吉の神々という仮の姿で現れ、衆生済度するということ。本地垂迹というか神仏習合というか、仏教普及の日本的やり方、とも。

○蚕影神社・御嶽神社
蚕影神社(こかげじんじゃ)は、茨城県つくば市神郡に総本社のある社。正式表記(旧字体)は蠶影神社。蚕影神社は神衣を織るための養蚕、製糸、機織の技術伝来の地として養蚕の神を祀っている(Wikipedia)。
境内にある小さな祠が蚕影神社だろう、か。また、御嶽神社は明治期、一時合祀されたが、悪いことが続いたため再び元の場所に戻して祀るようになった、という。下九沢に御嶽神社があるが、それがこの御嶽神社だろう。
○観音辻
観音辻には「大山道」の石標が残る、という。八王子、橋本から作ノ口、上溝を経て下当麻に進み、当麻の渡しで上依知に渡り大山へ向かった道である。「埼玉往還」、「八王子道」などとも呼ばれた。
また観音辻付近、現在の「作の口踏切」辺りにその昔「相模線・作の口駅」があったが、相模線の国有化の際に廃止されたようである。

田名原段丘面
観音坂を下り切り、後ろを振り返るに崖線の斜面林が相模原段丘面と田名原段丘面を区切り、南西へと弧を描いて連綿と続く。段丘面の比高差は30mほど。フラットと思っていた相模原台地の段丘面のギャップをはじめて実感する。

■相模原台地
田名原段丘面も、はるか昔に相模川によって形作られたものと言う。相模原面の等高線を見ると、南西に向かって地形が下っている。もともと、といっても、はるか昔の、その又昔(50万年前)、相模川は多摩川方面へと流れ東京湾に注いでいた。それが、なんらかの地殻変動により地形に変化が起こり、30万年前頃、その流路を南に変え、橋本から藤沢にかけて大きな扇状地をつくった。これが相模原台地の土台となっている。その台地には40万年前から活動をはじめた箱根火山からの大漁の火山灰・軽石が降り注ぎ台地を覆っていった。これが5万年前頃まで続いた、とか。
その相模台地に変化が起こったのは5万年前から1万年前に起きた氷期。2万年前をピークとする氷期により海面が低下し現在より100mも低くなった、とのこと。その結果傾斜が急になった相模川の流れは急流となり、台地を開析し、新たな段丘面を形成した。これが田名原段丘面であり、おおよそ3万年ほど前のこととも言われている。
現在相模原段丘面にも田名原面に相模川は流れていない。氷期がピークを越えた後、6000万年前の頃と言うから縄文時代に温暖化が進み、氷が解け海面が上昇し、相模川の谷筋に海水が入り込んだ、とか。この縄文海進期に緩やかな傾斜となった相模川が「探し当てた」流路が現在の流路なのだろう。
相模原面の境川は往昔の相模川の名残とも言われる。また田名原面には現在、鳩川、姥川、道保川が流れる。往昔は崖線より湧き出した湧水が源流だろうが、さて現在はどうだろう。実際に歩いて確かめてみる。

鳩川
段丘面を分ける崖線の下を流れる姥川の源流点が最初の目的地ではあるのだが、「作ノ口交差点」のすぐ先に鳩川が流れる。この地の北、相模原の上九沢の大島団地付近にその源を発し田名原面を下り、海老名で相模川に合流する姥川は、この作ノ口交差点辺りでは、崖線から離れ段丘面の真ん中を流れるが、地形図をチェックすると源流部辺りでは相模原段丘崖傍を下っている。田名原段丘面形成に「貢献」したであろう鳩川に「敬意」を表し、ちょっと立ち寄る。市街地をゆったり流れる鳩川を眺め、姥川源流点に向かう。

姥川源流点
上溝バイパスを「作ノ口交差点」まで戻り、その右手にある姥川源流点に向かう。成り行きで道を進むと緑の植え込みといった一隅があり、そこから暗渠が続いている。この緑の植え込みの辺りが源流点でのようである。姥川源流付近は、工業用地からの排水や雨水対策のため河川改修工事が行われたようであり、その結果として現在の姿ではあろう。現在では崖線からの湧水といった風情とはほど遠い姥川の源流点である。

横山丘陵緑地・姥沢地区

源流点からの暗渠はすぐ終わり、排水兼流量調節用のような水門からコンクリート溝の開渠となって民家の間を流れる。この水門は昔の工業用地からの排水を行っていたときの名残なのだろうか。さすがに工場排水を垂れ流しはしていないだろうが、現在でも処理された工場排水や雨水が姥川の源流点へと流されているのだろうか。
源流からの流量の名残も見えない姥川が、この水門から先には清冽とは言い難い水が流れ出ていた。現在はわからないが、平成22年(2010)の記事には「姥川では上流部で水質管理されていない排水が流れ込んでいる」とあるので、現在もその状況が続いているのかもしれない。
突如水路が現れた姥川の流路を少し辿った後、流路から離れ相模原段丘面と田名原段丘面の崖線に整備された横山丘陵緑地に向かう。案内に従って歩を進めると、かつては崖線からの豊かな湧水に浸されてだろうと思われる緑地が現れた。

○「照手姫遺跡の碑」
緑地は谷戸と言った景観を呈し、緑地入り口から湧水によって刻まれた「谷」へと崖道を下る。緑地には木道が整備されたおり、先に進むと「照手姫遺跡の碑」があった。
碑文には「この地は姥川の水源地として常に清水こんこんと湧き出づる泉であった。里俗称するところによればかっては横山将監の娘照手姫の産湯の水に使い、長じては朝な夕なにその玉の肌をみがいたともいう。照手姫は小栗判官満重との説話の主である。
往時茫々 今や市勢進展とともに工業用地の排水路となり、清泉涸れはてて僅かにその伝承のみを残すにいたった。
巷間謡わるる ほんに横山照手の前の 眉に似たよな三日月がかかり 虫も音を引くほそぼそと の風情を偲びつつ 永くその跡を伝えんとするものである」と刻まれていた。

この石碑はもともとは、先ほど訪れた姥川の源流点辺りに昭和37年(1962)頃、河川改修を記念して建立されたようであるが、平成 14 年(2002)頃、姥沢地区の横山緑地が整備された時にこの地に移された。碑文にあった、「工業用地の排水路となり、清泉涸れはてて」といった下りは、当時の源流点での工事を記念して建立されたものであり、この地のことを指すのではないようだ。

○照手姫
照手姫って、説教節で名高い『小栗判官』の悲劇のヒロイン。この緑地の地名の由来とも言われる横山党一族の館がこの崖線上にあり、照手姫は横山氏の姫とか、あれこれ説はあるが、そもそも実在の人物かどうかもはっきりしていない。実際、甲州街道の小仏峠を越えた時、美女谷温泉に照手姫出生の地との伝説が伝わっていた。

 ○小栗判官
先日、相模のサバ神社を辿る散歩の折り、西俣野で「伝承小栗塚之跡」の石碑に出合った。諸説あるなかで、照手姫と小栗判官が最初に出合った地とされる西俣野に伝わる小栗判官と照手姫の話をメモする。
「小栗判官」は遊行上人が、仏の教えを上手な語りで人々に説き教える「説教節」のひとつ。中世(室町期)にはじまった口承芸能であるが、江戸期には歌舞伎や浄瑠璃の流行で廃れ今は残っていない。森鴎外の「山椒大夫」も説教節の「さんせう大夫」をもとにしたものである。

 で、その「小栗判官」であるが、常陸国の小栗城主がモデルとはされるも、「小栗判官」自体は創作上の人物ではある。物語も各地を遊行した時宗の僧(遊行僧)により全国に普及し、縁のある各地にそれぞれ異なった伝承が残り、また浄瑠璃、歌舞伎などで脚色され、いろいろなバージョンがあるようだが、西俣野に伝わる小栗判官の物語は、各地を遊行した時宗の僧侶の総本山である藤沢市遊行寺の長生院(元は閻魔堂とも称された)に伝わる物語をベースにしたものである。

その原型は室町時代、鎌倉公方と関東管領の争いである上杉禅秀の乱により滅亡した常陸国の小栗氏の御霊を鎮める巫女の語りとして発生。戦に破れ常陸を落ち延びた小栗判官。相模国に潜伏中、相模の横山家(横山大膳。戸塚区俣野に伝説が残る)に仕える娘・絶世の美女である照手姫を見初める。しかし盗賊である横山氏の知るところとなり、家来もろとも毒殺される。照手姫も不義故に相模川に沈められるが、金沢六浦の漁師に助けられる。が、漁師の女房の嫉妬に苦しめられ、結果人買いの手に移り各地を転々とする。
閻魔大王が登場。裁定により、小栗判官を生き返らせる。そのとき閻魔大王は遊行寺の大空上人の夢枕に立ち「熊野本宮の・湯の峰の湯に入れて回復させるべし」、と。上人に箱車をつくってもらい「この車を一引きすれば千僧供養・・」とのメッセージのもと、西へと美濃へ。
その地、美濃国大垣の青墓で照手姫が下女として働いていた。餓鬼の姿を見ても小栗判官とはわからないながら、5日の閑をもらい大津まで車を曳いていく。その後は熊野詣の人に曳かれ湯の峰の湯に浸かった餓鬼は回復し元の美男子に。やがて罪も許され常陸国の領主となり、横山大膳を討ち美濃の青墓で照手姫とも再会しふたりは結ばれた、って話。

なお、下俣野には小栗判官ゆかりの地が残る。下俣野の和泉川の西には閻魔大王が安置され、名主である飯田五郎右衛門宅にあったものが移管された地獄変相十王絵図、閻魔法印、小栗判官縁起絵が残る花応院などがある。

横山丘陵緑地・姥沢地区を彷徨う
「照手姫遺跡の碑」から少し谷頭に近い崖線方向へと彷徨っていると、排水管なのか導水管なのか、ともあれ水管が残っていた。その時は、乏しくなった姥川源流域の湧水を補う相模原段丘面の雨水「養水」口だろうか。
崖線から「照手姫遺跡の碑」に戻り、緑に囲まれた木道を先に進む。嘗ては豊であっただろう湧水地も、現在ではちょっと湿った、といった程度でしかない。それでも足元の一面の緑は気持ちいい。崖線上下の比高差も20m以上はありそうだ。

○照手姫伝説伝承の地・イラストマップ
歩を進め、横山丘陵緑地が姥川に接する辺りに到ると、地面はまったく「湿気」はなくなる。姥川脇には「照手姫伝説伝承地」の案内と「てるて姫の里 ロマン探訪の小路イラストマップ」。
「照手姫伝説伝承地」には、市内に残る照手姫伝説伝承地として、この横山段丘崖を中心に、姥沢地区の他、姥沢源流域や姥沢地区に接する日金沢(ひがん)沢、横山台の榎神社、下溝の古山地区などにその伝承が残されている、とあった。古山地区はここからちょっと離れているため今回辿ることはできそうもないが、そこには伝承地は「十二塚」とか「ババヤマ」といった伝承地が残ると案内されていた。
また、「イラストマップ」には、照手姫遺跡の碑は、清水の湧き出る姥川最上流部からこの地に移されたこと、現在地から少し姥川を遡ったところに照手姫と乳母の日野金子の姿を描いた「姥沢幻想の碑」、姥川を少し下ったところには照手姫が姿を映し化粧をしたという「鏡の泉」、台地上には榎神社などが残ると紹介されていた。その案内を頼りに榎神社と鏡の泉を訪れることにする。

横山緑地・日金沢地区
先に進むと、横山丘陵緑地の姥沢地区と日金沢地区の境を示す道標。日金沢は「ひがんさわ」と読む。照手姫の乳母である日野金子由来の地名、と言う。

せどむら坂
ほどなく「せどむら橋」。橋から「せどむら坂」が崖線を上るが、橋の脇に道祖神や「せどむら坂改修記念」の石碑が並ぶ。坂の名の由来は坂下にあった村名、から。
ヘアピンカーブの坂を上る途中に横穴。入口が木の柵で守られえている。横穴古墳なのか、鎌倉に見られる「やぐら;墓穴」なのか、説明もなく不明である。

榎神社
坂を上り切り崖線を切り裂く相模線を越え、道を右に折れ線路に沿って進み、行き止まりを左に折れると榎神社があった。ささやかな境内に照手姫が祀られている。
案内には「この神社は「榎さま」として親しまれ、伝説の人物照手姫を祀っている。照手姫は武将横山将監の娘で、敵方の武将小栗判官と恋仲になる悲劇の主人公であり、相模原の昔話にも残されている。
榎神社の神木であるこの大榎は、明治18年(1885)に植えられた二代目であるが、初代の榎は照手姫がさした杖に根づいたもので、枝が下を向いた「さかさ榎」であったと伝えられている」とあった。
その初代の榎であるが、あまりにも大きくなり、付近の耕地の日当たりが悪くなり、ために明治16年(1884)頃切り倒したところ、村民に疫病が蔓延したため二代目の榎を植えたとのことである。




○姥沢の横山党

横山党とは児玉党、村山党など共に鎌倉幕府の中核となった武蔵七党のひとつ。多摩の横山庄を中心に武蔵の各地に勢力を拡げた。またその勢力は南下して愛甲氏を破り相模に橋頭堡を確保。一族が愛甲氏を名乗り、海老名氏や波多野市との姻戚関係を結ぶなど相模に勢力を拡げ各地に進出。その地名を性として相模に覇を唱える。相原、小山、矢部、田名など、現在も地名にその名残を残す。その横山党は建保元年(1213)の和田合戦で和田義盛に与し北条氏に敗れ勢力を失うことになる。
で、この照手姫伝説との関連での横山氏であるが、時代は室町で横山党は和田合戦で壊滅しているわけで、由緒ある「横山党」、というより、最初に『小栗判官』ありき、ということで、その話の中に登場する横山某がこの地に住んでいた故の後付けではないか、という説が妥当なところ、かと。

鏡の泉
榎神社を離れ、再び崖線の坂を下り姥川脇に戻る。緑の斜面林に覆われた崖線下を流れる姥川に沿って少し下ると流路脇に「鏡の泉」。崖線下の岩の間から湧水が流れ出している。姥川に湧水からの水が注ぐのは、ここがはじめて。上にメモしたように、照手姫が姿を映し化粧をしたいという話が残る。

日金沢橋
鏡の泉を少し下った川脇に「相模原市の多自然川つくり(姥川)」の案内。「姥川は、中央区上溝1丁目からはじまり田名原段丘を東に流れ南区下溝で鳩川に合流し相模川へ流れ込む延長6.5キロの河川です。
河川改修を実施する上で、自然環境等に配慮した「多自然川つくり基本方針」を踏まえ、横山丘陵地からの地下水・湧水が自然と流れ込むよう、石材等を詰めた鉄線カゴ(カかごマット)を使用し、常時水が流れる部分は捨石等により蛇行させ、瀬や淵など多様な流れを創出する整備を行っています。これらにより安定的な水循環を確保し、併せて川自身が持つ浄化作用の再生を図る事業を行っております」とあった。
川に沿って歩くと、なるほど説明にあった護岸整備が見て取れる。日金沢橋を越えた辺りでは、鉄線カゴ(カかごマット)の護岸がよくわかる。目には見えないけれど崖線からの湧水が上流部で排水に少々汚れた姥川の水を浄化しているのであろう。

てるて橋
日金沢橋を越えた辺りから姥川は崖線を離れ始める。それにつれて、川の周囲には住宅が建ち並び、自然の景観は乏しくなってくる。先に進むと大きな通りに橋が架かる。この通りは相模線・上溝駅前からの通りでもあり、人通りも多い。少し読みにくいのだが、「てるて橋」と刻まれているようだ。

姥川の源流点辺りから崖線を切り割って走ってきた相模線も上溝駅から大きく弧を描いて田名原段丘面に下りてくる。相模鉄道も南武線や東急玉川線、京王相模原線、西武多摩川線など多くの鉄道事業者と同様、その発足時の主要事業が「砂利採取」であったわけであるから、相模川に近づくのは当然ではあろう。

県営企業団・北相送水管
「てるて橋」を越え、「堰の橋」から「田中橋」へと下る間に姥川にブルーにペイントされた大きな送水管が見える。何となく気になってチェックすると、この水管は神奈川県企業庁(神奈川県が経営する地方公営企業。住民の福利厚生を目的に税金ではなく、独立採算で運営される)がおこなう水道事業網の水管。県営企業団の水道事業は相模川水系の寒川や谷ヶ原で企業庁が取水した自己水源、そして酒匂川・相模川の水を水源とする神奈川県内広域水道企業団(神奈川県、横浜市、川崎市、横須賀市が昭和44年に共同で設立した「特別地方公共団体」)からの受水をもとに、湘南、県央、県北及び箱根地区など12市6町を給水区域とし、神奈川県民の約31パーセントにあたる約278万人に給水している。
で、この水管はその中でも、相模ダムでの発電放流水を下流の沼本ダムで取水し、津久井隧道を経て津久井分水池(津久井湖から西に下る相模川が大きく南に流路を変える辺り)に導き、分水池で県営水道、横浜水道、川崎水道などに分水。県営水道に分水された水は、津久井分水地のお隣にある県営谷ヶ原浄水場で浄水され水道水となり、相模原、厚木、愛川町の45万人を潤している水道網の一環のよう。

○北相送水管の経路
北相送水管の大雑把な経路は谷ヶ原浄水場から、相模川に沿って大島地区に下り、渓松園辺りから県道48号を大島北交差点まで進み、交差点から左に折れ北東に向かい六地蔵に。そこから南東に「作の口交差点」方向へと下り、この地で姥川を渡る。
姥川を渡った水路は南東へと南下を続け、虹吹、七曲をへて、途中相模原に分水しながら、下原交差点で県道52号に当たる。北相送水管は県道で右に折れて県道にそって進み、相模川を昭和橋で渡り中津工業団地当たりの中津配水池に到る。
何気なく撮った一枚の水管写真から、神奈川の送水ネットワークの一部が見えてきた。ちょっとしたことにでも好奇心を、って成り行きまかせの散歩の基本を改めて想い起こす。

公共下水道雨水吐き室
田中橋から川筋を離れ、築堤上を走る相模線をくぐり、久保ヶ谷戸地区に入る。左手に再び崖線の緑の斜面林を見遣りながら宅地化された一帯を成り行きで進むと水道施設らしき構造物と敷地がある。名称をチェックすると「公共下水道雨水吐き室」とあった。
雨水調整池は散歩の折々によく出合うのだが、「雨水吐き室」って言葉ははじめてなのでチェックする。下水道には下水と雨水を別々の管渠で管理する「分流式」と同一の管渠で管理する「合流式」のふたつがあり、「雨水吐き室」は「合流式」の管理方式のひとつ。
この方式では、通常下水は処理場に送られるが、大雨時などに大幅に(晴天時の下水量の3倍から5倍程度)流入したとき、大雨で希釈された下水を室内にある堰を越流させ河川に排出方式のよう。その吐き出し口だろうか、雨水吐き室の少し下流の姥川右岸に、おおきく口を開けた箇所が見える。

道保川源流点
蛇行し、一時崖線に近づいた姥川と離れ崖線方向へと進む。次の目標は少し崖線から離れた姥川に代わり、相模原面と田名原面を画する崖線下を流れる道保川への「乗り換え」のためである。
道脇の小祠にお参りし、崖線を切りさいた車道の「丸崎交差点」に出る。交差点から崖線下を通る道を進んでいると、道脇に崖線に入るアプローチが目に入った。このアプローチが道保公園に続くかどうか不明ではあるが、とりあえず小径に入り込む。小径は道保川公園へと続いていた。
道保川の源流点であろう一帯は湿地と水草に覆われて誠に美しい。湿地には木道が整備されているが、道保川の源流点を求め一帯を彷徨う。グズグズの泥湿地ではあるが、崖下から流れ出すささやかな湧水を見てはちょっと幸せな時を過ごす。
○道保川
道保川は相模原市の上溝地区の道保川公園にその源を発し、模原段丘面と田名原段丘面を画する崖線下を流れ、下溝で鳩川に合流する延長4キロ弱の河川。水源は段丘崖線からの湧水を主源とし、ポンプアップされた環境用水(地下水)。源流点から続く崖線の斜面林と合わせその豊かな環境保全への取り組みが成されている。

道保川公園
源流点一帯から崖線に沿って整備されている道保川公園を進む。進むにつれて如何にも公園といった風情となり、水草の茂る湿地の中の木道を進む。湿地は崖線に沿って南北に延びているが、湿地からは崖線の斜面林に向かって大小いくつかの沢が伸びている。
最初に現れるのが「さえずりの沢」。この沢は野鳥観察をテーマとしている。ついで「こもれびの沢」は山野草観察、「ふたご沢」は森林生態観察がそのテーマとなっており、公園南端の「水鳥の池」の周囲は「せせらぎの沢」と名付けられている。そのせせらぎと野鳥のさえずり故か、平成8年(1996)には環境庁より「残したい"日本の音風景100選"」のひとつに選定されている。
公園内を気ままに彷徨う。沢のテーマに関係なく、沢の谷頭辺りで滲み出す湧水、それが溜まった小池、いかにも「山葵田」跡といった石組みが残る。まさしく「谷戸」といった景観が残る。実際、この地が公園として整備される前は谷戸田であり、山葵が栽培されていたようである。

この豊かな湧水に恵まれる道保川源流域も、昭和55年(1980)代より湧水量の低下が顕著となり、沢が涸れるといった状況になったとのこと。原因は崖線上の湧水涵養地である相模原段丘面の宅地化。
相模原を象徴する地形のひとつである、「河岸段丘と斜面林、豊富な湧水、せせらぎを包括的に保全するための施策」が実施され、現在は湧水だけでなく補助水源として地下水を6基のポンプで揚水、また10mから20mの井戸掘削も計6本整備されている。現在、湧水とポンプ揚水量の構成比は豊水期は湧水が10倍程度、渇水期(1月下旬から)でも2,3倍はあるというから、湧水量が低下したというものの、豊かな崖下からの湧水に恵まれている。
豊かな水を湛えた水鳥の池の脇を抜け、久しぶりに湧水を源流とする川の源流域を堪能し公園を離れる。

南へと続く崖線の斜面林
公園を出ると、相模段丘面よりの七曲り坂の下り口辺りで道保川の水は一瞬地表から姿を消すが、道の対面で再び顔をだす。水路は公園での風情とは異なり、深く刻まれた谷となる。南へと連綿と続く崖線の斜面林や道保川の谷筋は野趣豊かであり、谷筋を歩くことはできそうもない。
道保川の谷筋を見下ろしながら道を進む。道保川も道から離れたり、近づいたはするものの、谷筋は整備されておらず道から見下ろすのみ。崖線から流れる沢水を合わせた先に、相模段丘面から下る車道の上中丸交差点に。

淡水魚増殖試験場
道を進み、成り行きで道保川近くを通る小径を進むと道保川と道の間に、いくつかの水槽をもつ施設がある。地図には「淡水魚増殖試験場」とあった。が、あまり活動をしている雰囲気はない。昭和40年(1965)から全国に先駆けて鮎人工種苗生産技術の開発などをおこなったようだが、平成7年(1995)に水産総合研究所内水面試験場として相模原市大島に移転した、とのことである。

横浜水道みち緑道
小径から「下原やえざくら通り」にそって少しすすむと、道の左手の住宅街の中から異様に一直線の道がクロスしてきた。ちょっと気になり周囲を注意すると、道脇に案内があり、「横浜水道みち緑道」とあった。
案内によると、「横浜水道みち トロッコの歴史;三井用水取入れ所から17.5km。この水道みちは、津久井郡三井村(現:相模原市津久井町)から横浜村の野毛山浄水場(横浜市西区)まで約44kmを、1887年(明治20年)我が国最初の近代水道として創設されました。運搬手段のなかった当時、鉄管や資機材の運搬用としてレールを敷き、トロッコを使用し水道管を敷設しました。横浜市民への給水の一歩と近代消防の一歩を共に歩んだ道です(横浜市水道局)」とのこと。
緑道を道保川に向かう。水路橋か水路管など見えないものかと先に進むと橋がある。水路橋はない。それでは水路管など橋下を通っていないものかと橋の両岸をチェックするが柵や木々に遮られ橋下を見ることができない。で、辺りを彷徨っているとフェンスに案内があり「深度;計画川床下6.338m下 外径Φ1500mmコンクリート管 内径Φ1500mmダクタイル鋳鉄管」といった表記がある。昔は水管橋があったようだが、現在は水路管はコンクリート管と二重構造となって川床下を通っているようである。
「横浜水道みち緑道」は崖線から相模原段丘面へと上る。横浜水道みちは自然流下方式であり、下から上って、とは思うのだが、開渠でなく鉄管であれば、取水口と最終配水池の標高差があれば、途中での凸凹は問題ない、とのことである。実際取水口辺りの標高は142m、最終地の野毛山は40m程度である。もっとも、これは創設期の明治の頃であり、その後の改修工事などでポンプによる揚水なども可能になっているのかとも思うのだが、確証はとってはいない。

○横浜水道みち
戸数わずか87ほどであった横浜は、安政6年(1859)の開港をきっかけに急激に人口が増加。しかし横浜は、海を埋立て拡張してきた地であり、井戸水は塩分を含み、良質の水が確保できない状況にあった。
このため当時の神奈川県知事は、横浜の外国人居留地からの水確保への強い要望や、明治10年(1877)、12年(1879)、15年(1882)、19年(1886)と相次いで起きた伝染病コレラの流行もあり、香港政庁の英国陸軍工兵少佐H.S.パーマー氏を顧問として、相模川の上流に水源を求め、明治18年(1885)近代水道の建設に着手し、明治20年(1887)9月に完成した。その後、明治23年(1890)の水道条例制定に伴い、水道事業は市町村が経営することとなり、同年4月から横浜市に移管され市営として運営されるようになり、現在横浜市水道局の管轄にある。
相模川が山間を深く切り開く上流部、案内にもあった、川井接合井から野毛山浄水場までの起伏の多い丘陵などを、基本、一直線に貫く水路の建設は難航したと言う。また、近代水道の要ともなる水路管(グラスゴーから輸入)を現場に運ぶには、相模川を船で上流に運び上げたり、この案内にもあるように、トロッコ路を敷設し水管を運び上げたとのことである。

経路を見るに、津久井分水池から相模川に沿って大島・清水地区まで下り、そこから田名原段丘面と陽原段丘面を画する段丘崖辺りを、一直線でこの地まで進み、相模原公園の南を通り横浜市保土ヶ谷区の川井浄水場に向かい、そこから鶴ヶ峰を経て少々方向を変えながらも、基本一直線で野毛山浄水場に向かう。 経路や施設なども創設時と現在では状況も大分異なっているとは思う。実際、この地から緑道を辿った崖線の相模原段丘面にある相模原沈殿地は、昭和29年(1954)の第四回拡張工事の際に竣工された横浜水道みちの施設と聞く。そのうち、一度実際に歩いて実感してみたいと思う。

姥川・枡田橋
横浜水道みち緑道を離れ、先に進むと県道52号に当たる。この辺りが道保川と姥川が再接近しているところ。ふたつの川を分ける地形は一見する限りは平坦な市街地といったもの。道保川筋から姥川へと乗り換えるべく県道52号を西に向かうと、ほどなく姥川にかかる枡田(しょうだ)橋に出合った。坂を上った実感もなく、地形図で標高を確認すると、道保川脇が標高70m、姥川への分水界の標高は73mといったものであった。




姥川・鳩川合流点に

地図を見ると枡田川から少し下った辺りで、姥川は鳩川に合流する。合流点の雰囲気を確認すべく、姥川に沿って下る。川脇に道はないため、道なりに南に進み姥川が鳩川に合流する地点に。散歩の初めに、田名原段丘面に下りたとき、崖線から既に離れ、崖線下の流れを姥川に「任せた」鳩川が、この地でやっと合流した、といった様である。

鳩川から道保川に乗り換え大正坂下交差点に
都市河川といった趣きの鳩川を成り行きで下り、これまた成り行きで道保川へと分水界を越える。分水界といっても姥川の標高が68m、分水界が70m、そこから65mの道保川筋へと下る、といったものであり、エッジの効いた分水界越えとはほど遠い。下りきったところは大正坂下交差点。再び南に連綿と続く崖線の斜面林が見えてきた。
葛篭(つずら)折れ大正坂は地質フリークには有名な坂のようである。切り通しには関東ローム層が剥き出した露頭を観察できる階段まで整備されているようだ。地質・地層にフックがそれほどかからない小生はそのままスルー。

道保川から鳩川との分水界を辿る
美しい緑を保つ道保川を下り、道保川が鳩川に再接近するあたりで鳩川に乗り換えるべく分水界に向かう。道保川の標高は62mほどだが、比高差3mほどの分水界というか「尾根道」に上り、鳩川を眺め、再び分水界に戻る。

下溝八幡
道なりに進むと、広い境内の社が見える。鳥居をくぐって参道をすすむと、少々小振りな本殿。境内右手にはトタン葺きの神楽伝や不動堂があった。祭神は応神天皇。本殿は新築されている。平成24年(2012)不審火で焼失したようである。
境内にある案内によると、「この神社は、天文(1532~55)年間に溝郷が上溝と下溝の両村に分かれた際に、下溝村の鎮守として上溝村の亀ヶ池八幡宮から勧請されて創建された神社と伝わる。また、中世の屋敷跡と思われる「堀の内」と呼ばれる地点からみて、その裏鬼門(西南)にあたるので、ここに建立されたとの説もある。
参道の脇にある小祠には、市の重要文化財に指定されている不動明王坐像が安置されている。これは享保9年(1724)に後藤左近藤原義貴(よしたか)が製作したもので、もともとは別当大光院の本尊であった」とある。

○堀之内
堀の内の由来は、北条氏照の娘・貞心尼が家臣山中大炊助に嫁いだ館および家臣団の居住域とか。また化粧田として上溝、下溝の地が与えられたという。 中世には鳩川・姥川沿いに「溝」という地名があり、その後上と下に分かれるが、その地はおおよそ田名原段丘面であり、八王子往還(大山道)が通り、定期市が開かれ、明治には警察所や学校が置かれるなど行政・経済の中心地であったようだ。その頃、水の乏しい段丘上の相模原は文字通り一面の原野が拡がっていたようであり、相模原段丘面が開けていったのは昭和5年(1930)頃からの相模原面での軍都構想の進展による、とのこと。

道保川と鳩川の合流点
下溝八幡を離れ、道なりに進み道保川筋に戻る。下溝八幡の標高は65m、坂を下りきったところの道保川に架かる泉橋の標高は59mであるから、6m程度の比高差があった。泉橋の上流には川床に緑も多く、自然のままなのか、環境整備の故なのか定かにはわからないが、ともあれ未だ美しい川の姿を保っている。
泉橋から西に向かい鳩川に架かる大盛橋に。こちらは都市河川といった趣きである。大盛橋を下流に進むと鳩川に道保川が合流する。道保川も鳩川との合流点はコンクリートの壁がつくられている。ここでやっと田名原段丘面を流れる鳩川・姥川・道保川が一本になった。

鳩川分水路
道保川の水を集めた鳩川は流れを東に向け相模川に注ぐ。水路を相模川方面に進むと大下(おおじも)橋が架かるが、そこには「鳩川分水路」とあった。鳩川の水を相模川に「吐く」ために昭和63年(1988)に建設されたもの、と言う。大下橋の先は相模線が走り、その先の県道46の先には相模川、その向こうには丹沢の山塊が拡がる。

南下する鳩川
鳩川放水路が相模川に合流する姿を見る前に、道保川と鳩川の合流点あたりを彷徨っていると、道保川が鳩川に合流する手前から南に水路が延びる。地図で確認すると「鳩川」とあった。鳩川はこの分水路の先も南下し、海老名辺りで相模川に注ぐ、と言う。水量もこの地から南は大幅に少なくなっている。
地図で鳩川流路をチェックしていた時は、鳩川と道保川が合流し相模川に注ぐこの地が鳩川の終点であろうし、そうすれば崖線もこの辺りで切れる、ということは田名原段丘面も此の辺りで相模川の沖積地へ埋没するものと思っていたのだが、崖線の斜面林は南に連綿と続いている。田名原段丘面はこの先も南に続くようである。地形を見るに、なるほど鳩川分水路は崖線を切り通し、相模川に力技で水を抜いているようである。
鳩川分水路建設の主因は何だろう。この鳩川分水路だけであれば、都市化・宅地開発による大雨時の洪水対策などと妄想もできるのだが、この鳩川放水路のすぐ南に昭和8年(1933)に建設された鳩川の分水路、正式には「鳩川隧道分水路」があるわけで、その頃に都市化がそれほど進んでいるとも思えない。鳩川自体が暴れ川であったのだろうか。はてさて。

三段の滝
相模線の鉄路に遮られる鳩川分水路を離れ、成り行きで鉄路を迂回し。県道46号・新磯橋を渡り相模川の崖線上にある新磯橋入口交差点に。この崖線は中位の田名原段丘面と低位の陽原段丘面を画するものであろうが、大雑把に言って、この地で陽原段丘面の崖線が田名原段丘面の崖線に合わさり埋没することになるのだろう。
崖線上からは相模川の広大な河川敷、対岸の中津原段丘面、その向こうに丹沢の山塊が一望のもと。誠に雄大な景観である。
交差点脇から河川敷の整地された公園に下りる階段がある。最後の仕上げに、相模川から鳩川の分水路を眺めるため階段を下りる。公園には分水路正面に橋が架かり、そこからは「三段の滝」がよく見える。滝といっても、自然のものではなく、段丘上からの放流水勢を緩やかにするため設けられた段差によって生じる「滝」ではあるが、水量も多く、なかなか迫力があった。

相模線・下溝駅
上にメモしたように、鳩川分水路の南には昔の分水路である「鳩川隧道分水路」もあり、そこにも三段の滝がある、とのことだが、想定と異なり田名原崖線は更に南に続きここで田名原崖線散歩は、この地で終わりとはならず、更に先に進む必要もある、ということで、「鳩川隧道分水路」は次回以降のお楽しみとする。 公園から崖線上に戻り、県道46号を少し北に戻り相模線・下溝駅に向かい、一路家路へと。
津久井から相模湖に

ふとしたことから目にした三増合戦の記事に惹かれ、その戦いの地を二度に分けて歩いた。今回はその仕上げ。武田なのか北条なのか、どちらが勝ったのか、負けたのか今ひとつはっきりしないのだが、ともあれ、武田軍の甲斐への帰路を相模湖まで歩こうと思う。

武田軍の引き上げルートは、斐尾根から長竹三差路、三ヶ木をへて寸沢嵐(すあらし)に進み、そこで道志川を渡り相模湖へ、と伝えられている。ということで、今回の散歩のスタート地点は長竹三差路。先回辿った斐尾根から少し北にすすんだところにある。交通の便は少々よくない。先日と同じく、本厚木からバスに乗り、半原に、それから志田峠を越えて斐尾根へと進むのも芸がない。で、今回は橋本から三ヶ木行きバスに乗り、途中の太井で降り、そこから城山の南を進み、長竹三差路へ。長竹三差からは三ケ木、寸沢嵐、相模湖へと歩くことにする。(2009年9月の記事を移行)



本日のルート:太井>諏訪神社>パークセンター>巧雲寺>根小屋>串川>三増峠への道>串川橋>長竹三差路>青山神社>三ケ木>道志橋>寸沢嵐石器時代遺跡>正覚寺>鼠坂>相模湖

太井
京王線で橋本駅に。そこから三ケ木行きのバスに乗る。川尻、久保沢、城山高校前を過ぎると津久井湖。城山大橋というかダムの堰堤を通り、津久井城跡のある城山の北麓にそって湖畔を進むと太井に。太井は津久井城跡のある城山の麓、相模湖にかかる三井大
橋の近くにある。昔は太井の渡しがあり、津久井往還が相模川を越えるところであった、とか。ちなみに、ここから北に三井大橋を渡れば、峰の薬師への道がある。峰の薬師から城山湖への道もなかなかよかった。

諏訪神社
本日は太井のバス停から南に向かう。左手に津久井城のある城山を見やりながら、台地へと坂道を上る。この台地は相模川の河岸段丘。山梨から下る桂川と丹沢から流れ落ちてきた道志川の流れが合わさった大きな流れによってかたちづくられたのだろう。上りきったあたりに諏訪神社。道端にあるお地蔵さん。なかなか風情があった。境内にある樹齢800年の杉で知られる。

パークセンター
諏訪神社から南は下りとなる。尻久保川への谷筋に下る坂道の途中、道を少し東にはいったところにパークセンター。津久井城や城山についての歴史やハイキングコースなどの資料が整っている。
いつだったか津久井城跡を訪ねた折、このパークセンターに訪れたことがある。そこで見たジオラマに惹かれた。城山の南の地形、河岸段丘がいかにもおもしろい。城山の南を流れる串川の両側は、複雑で発達した河岸段丘が広がっていた。地形大好き人間としては、この先が楽しみではある。

巧雲寺
パークセンターを離れ、尻久保川へと下る。尻久保川にかかる根小屋橋の手前を東へと折れ、ゆるやかな坂を少し上ると巧雲寺。戦国時代の津久井城主内藤景定の開基。景定の子景豊の墓もある。景豊は三増合戦のときの津久井城主。三増合戦の折、城からの援軍を出すことも無く、「座視」。『八王子南郊 史話と伝説;小泉輝三郎(有峰書店新社)』によれば、合戦後、北條氏照が上杉に送った書状に「山家人衆、自由を遣うに依り罷り成らず(勝利が)、今般信玄を打留めざる事無念千万候」、とある。「津久井衆(山家人衆)が命令に従わず勝手に行動したため、信玄を撃ちもらし、悔しくてたまらん」、といった意味。「役御免、今後永久この分たるべし」と、禄高も10分の一に減額している。よほど腹に据えかねたのだろう。景豊の言い分はなにも残されていないので、真相は不明。

根小屋

巧雲寺を離れ、尻久保川にかかる根小屋橋を渡り、再び台地へと上る。ここから当分は台地の上を歩くことになる。なんとなく高原の地、といった雰囲気。先日歩いた斐尾根あたりと雰囲気が近い。発達した河岸段丘によってつくられた地形がもたらすものであろう。
根 小屋地区をのんびり歩く。根小屋って、城山の麓につくられた、家臣団の屋敷があるところ。散歩するまで知らなかった「単語」だが、歩いてみると結構多い。秩父であれ千葉であれ、「時空散歩」には、折にふれて登場する。「城山の根の処(こ)にある屋」という、こと。「根古屋」とも書く。

串川
台地を進み、道が大きく湾曲するあたりから台地のはるか下に串川の流れが見えてくる。結構な比高差。深い谷、といった雰囲気。現在の串川の規模には少々似つかわしくないほどの発達した河岸段丘である。気になり調べてみる。
かつての串川は早戸川(現在は中津川水系の支流。宮ヶ瀬ダムに注ぐ)とつながっていた。水量も豊富。発達した河岸段丘はその時のもの、である。その後、早戸川は中津川水系に流れを変えた。河川争奪である。5万年以上の昔、地殻変動によって引き起こされた、と。ために、早戸川は串川から切り離され、現在のような小さな川になってしまったよう、だ。
大きく弧を描き串川へと下る坂道の途中に飯綱神社。津久井ではこの飯綱神社をよく見かける。津久井城跡のあ る城山にもあった。津久井湖の東、津久井高校あたりから城山湖に上る道の途中にも飯綱大権現があった。高尾山もそうである。飯綱信仰は信州の飯綱より発し た山岳信仰。戦の神としても上杉謙信を筆頭に、戦国の武将に深く信仰された。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


三増峠への道
坂を折りきると車道に交差。城山の東、相模川にかかる小倉橋から南西に、串川に沿って城山の南を走る道である。交差点を少し西に進むと、南から上ってくる道に合流。この道は、先日歩いた三増峠方面からの道。三増峠下のトンネルをとおり、一度串川に向かってくだり、再びこの道筋へとのぼってきている。
合流点から南の山稜を見る。正面方向が三増峠であろう、か。先日、峠を東に進まず、西に折れれば、この道におりることができたわけだ。道の雰囲気を感じるため、串川に向かって下る。串川にかかる中野橋まで進み、峠下のトンネルへと向かう上りの道を眺め、少々休憩し、もとの合流点へと戻る。
地図の上では三増峠と津久井城って結構離れている、と思えたのだが、実際に歩いてみると、そうでも、ない。武田軍が津久井城の動静に気を配ったわけが、なんとなく分かった、気がした。ちなみに、三増峠からの道は県道65号線。これって津久井の中野で国道413号線に合流している。つまりは、太井から歩いた道は、ほぼこの県道を進んできた、ということであった。

串川橋
合流点から串川に沿って進む道筋を長竹へと進む。西というか、南西に道を進む。道の北に春日神社。ちょっと立ち寄る。このあたりまで来ると、串川は山稜から離れてくる。離れるにしたがって串川も渓谷といった雰囲気もなくなり里をゆったりと流れる小川といった姿となる。串川の名前の由来は例によってあれこれ。櫛を川に落とした姫君の由来譚もそれなりに面白いのだが、実際は、地形から名づけられたものであろう。『相模川歴史ウォーク;前川静治(東京新聞出版局)』によれば、「くし」は海岸線や河川などの屈曲部のところを指す、という。
御堂橋で串川を渡る。このあたりでは串川は少し大きな「小川」といった雰囲気。更に進み、串川橋で再び串川を渡る。道はここで国道412号線と合流。412号線、って半原から斐尾根の台地を抜け進んできた道。先日、半原へと歩いた道である。
このあたりは、三増合戦のとき、武田軍が津久井城の北條方への抑えとしていたところ。『八王子南郊 史話と伝説;小泉輝三郎(有峰書店新社)』によれば、その場所は、山王の瀬の下、と。確かに串川橋の南に山王社がある。


長竹三差路

串川橋を離れ、道を西に。串川中学、串川小学校を過ぎると長竹三差路に当たる。三増合戦に登場する地名。津久井湖畔の中野から下る道、相模湖へと向かう道、串川沿い、または半原へと南に下る道が交差する。『八王子南郊 史話と伝説;小泉輝三郎(有峰書店新社)』によれば、津久井城から出撃するときは、三増峠に進もうが、半原・志田峠を目指そうが、必ずこの長竹三差路を通らなければならなかった、と。と言うことは、三増峠を貫く県道65号線の道筋などなかったのであろう。ともあれ、今も昔もクロスロードであった、ということ。

青山神社
先に進む。相模湖方面と、串川に沿って宮ケ瀬方面へと分岐する手前に青山神社。諏訪社、諏訪宮、諏訪大明神と呼ばれていたが、明治6年(1873年)八坂神社(天王宮)と御岳神社(御岳宮)を合わせ、青山神社と改称された。
境内に「咢堂桜」。尾崎行雄(咢堂)が東京市長のとき、日米友好を記念し、ワシントン市に贈った桜が里帰りしたもの。尾崎行雄がこの津久井出身と言うことで、この津久井に戻ってきた桜の苗木が32本のうちの一本。尾崎行雄は憲政の父。

三ケ木

青山神社を越えると412号線は三ケ木に向かって、北西に進む。道の両側に開けた青山集落を過ぎ、道の両サイドに山容が迫るあたりから青山川が顔を出す。しばらくは青山川に沿って進む。青山交差点で道志方面へと進む国道413号線との分岐手前に八坂神社。結構な石段をのぼる。
八坂神社を越えると青山川は北西に、道は北にと泣き別れ。青山川はそのまま進んで道志川に合流する。道をしばらく進むと周囲が開け、三ケ木の集落、に到着、だ。
三ケ木は「みかげ」と読む。由来は良く分からない。中世、「日影之村」の「三加木村」として現れる。集落と書いたが、このあたりではもっとも「にぎやかな」ところだろう。橋本からのバスも結構動いている。逆の相模湖方面にもまあまあ動いているよう、だ。

道志橋
三ツ木の交差点から1キロ弱北西に進むと道志橋。道志川が津久井湖に注ぐところにある。橋の対岸は相模湖町寸沢嵐(すあらし)。信玄軍が道志川を渡ったところ言われる。一隊は三ヶ木から、落合坂を下り沼本の渡し(落合の渡し)を経て、また、他の一隊は三ヶ木新宿からみずく坂(七曲坂)を下り道志川を渡った、とある。
現在橋は川面よりはるか高いところ、高所恐怖症のひとであれば少々足がすくむ、といったところに架かっている。が、もとより、合戦当時の道は、ずっと低いところに下りていだのろう。実際、落合坂を下り切ったところは道志川と相模川の合流点であったという。湖も無いわけで、川幅も現在よりずっと狭かったのだろう、か。

寸沢嵐石器時代遺跡
道志橋を離れ、沼本地区を越え、津久井警察署の先から国道を離れ少し南に入ったところに寸沢嵐石器時代遺跡。地元の養蚕学校教諭、長谷川一郎氏が発掘し発表した。寸沢嵐は「すわらし」と読む。「スワ」は低湿地・沼沢・斜面。「アラシ」は川の斜面から材木を投げ下ろす場所、と(『相模川歴史ウォーク;前川静治(東京新聞出版局)』より)。近くに「首洗池」もある。武田軍が討ち取った首を洗ったと言われる池。その数3269、とも。またこの地ではじめて勝鬨をあげた、とも。戦場を大急ぎで離脱し、ここ、道志川を越えた台地上に着くまでひたすらに駆け抜けた、と。それって勝者の姿でもあるまいといった評価もあり、それが三増合戦の勝者を分かりにくくしている、という識者も多い、とか。

正覚寺
寸沢嵐石器時代遺跡を離れ、国道に戻る。少し西に進み阿津川にかかる阿津川橋を渡る。ここから道は阿津川に沿って進む。蛇行する川を、山口橋、正覚寺橋と渡る。道の北は相模湖林間公園。道のそば、深い緑の中に品のいいお寺様が見える。正覚寺。丁度境内
には五色椿が咲いていた。
縁起はともあれ、このお寺は柳田国男を中心とするチームによっておこなわれた日本で最初の民俗学の調査の本拠地。大正7年(1918年)のことである。チーム(郷土会)がこの地(内郷村)を選んだのは、その地形が「一方は高い嶺の石老山を境界とし
、他の三方は相模川と道志川に囲まれ、近年まで橋のない弧存状態にあり、農山村としての調査条件がそろっていた(『相模川歴史ウォーク;前川静治(東京新聞出版局)』より)」ということはもちろんである。が、同時に、長谷川一郎(寸沢嵐石器時代遺跡の発掘・発表者)さんの存在も大きい、かと。当時長谷川さんは地元の小学校の校長さん。こういった理解者があったことも実施を実現した大きなファクターであろう。長谷川さんはその後村長さんまでになった。柳田国男の句碑。「山寺やねぎとかぼちゃの十日間」

鼠坂
正覚寺を 離れ先に進む。道の北はさがみ湖ピクニックランド。しばらく歩く
と国道から分岐する道。分岐点に八幡神社。近くの民家、というか喫茶店のそばに「鼠坂関址」。メモする;「この関所は、寛永八年(1638)9月に設置された。ここは、小田原方面から甲州に通じる要塞の地で、地元民の他、往来を厳禁し、やむを得ず通過しようとする者は、必ず所定の通行手形が無ければ通れなかった。慶安四年(1651)には、由井正雪、丸橋忠弥の陰謀が発覚し、一味の逃亡を防 ぐため、郡内の村人が総動員し、鉄砲組みっと共にこの関を警固したという。この道は甲州街道の裏街道。この関も甲州街道の小仏関に対する裏関所といったものであったのだろう。ともあれ、一般庶民が往来するといったところではなかった、よう。

相模湖
鼠坂を離れ西に進む。峠を越えた辺りに関所跡。このあたりから道は下る。道の左手に湖が見えてくる。鼠坂より1.5キロほどで相模湖大橋。橋を渡り台地に上る。甲州街道を越える中央線相模湖駅に到着。三増合戦ゆかりの地を巡る津久井散歩もこれでお仕舞い、とする。

ちなみに、津久井って、もともとは三浦半島に覇をとなえた鎌倉期の武将三浦一族にはじまる。三浦一族の一武将が津久井の地(現在の横須賀市)に移り住み津久井氏を名乗った。その後、この地に移り築城。津久井城と名づけ、津久井衆と名乗った、ということだ。
武田の遊軍が進んだ志田峠、そして、北条方が陣を構えた半原の台地をぐるっと巡る

三増合戦の地を巡るお散歩の二回目。今回は志田峠を越えようと思う。相模と津久井をふさぐ志田山という小山脈の峠のひとつ。先回歩いた三増峠の西にある。『八王子南郊;史話と伝説(小泉輝三朗;有峰書店新社)』によれば、「道はよいが遠いのが本通りの志田峠、いちばん東にあり、いちばん低く、いちばん便利なのが三増峠」、とある。はてさて、どのような峠道であろう、か。
で、本日の大雑把なルーティングは、志田峠から菲尾根(にろうね)の台地に進み、そこから折り返して半原に戻る。武田の遊軍が進んだ志田峠、津久井城の押さえの軍が伏せた菲尾根の長竹ってどんなところか、また北条軍が陣を構えたとされる半原の台地、ってどのような地形であるのか、実際に歩いてみようと、の想い。(2009年9月の記事を移行)



本日のルート;三増合戦みち>三増合戦の碑>信玄の旗立松>志田峠>清正光・朝日寺>韮尾根>半原日向>半原・日向橋>郷土資料館>辻の神仏>中津川

三増合戦みち
小田急線に乗り、本厚木で下車。半原行きのバスに乗れば、志田峠への道筋の近くまで行けるのだが、来たバスは先回乗った「上三増」行。終点の手前で下りて少し歩くことになるが、それもいいかと乗り込み、「三増」で下車。
三増の交差点から「三増合戦みち」という名前のついた道が半原方面に向かって東西に走っている。交差点から300m程度歩くと道は下る。沢がある。栗沢。結構深い。三増峠の少し西あたりから下っている。

三増合戦の碑
栗沢を越え台地に戻る。北は志田の山脈が連なり、南に開かれた台地となっている。ゆったりとした里を、のんびり歩く。再び沢。深堀沢。三増峠と志田峠の中間にある駒形山、これって、信玄が大将旗をたてた山とのことだが、その駒形山の直下に源を発する沢。誠に深い沢であった、とか。現在は駒形山あたりはゴルフ場となっており、地図でみても沢筋は途中で切れていた。
深堀沢を越えて300m程度歩くと「三増合戦の碑」。このあたりが三増合戦の主戦場であったようだ。
「三増合戦のあらまし(愛川町教育委員会)」を再掲する。:永禄十二年(1569年)十月、武田信玄は、二万の将兵をしたがえ、小田原城の北条氏康らを攻め、その帰路に三増峠越えを選ぶ。これを察した氏康は、息子の氏照、氏邦らを初めとする二万の将兵で三増峠で迎え討つことに。が、武田軍の近づくのをみた北条軍は、峠の尾根道を下り、峠の南西にある半原の台地上に移り体勢をととのえようとした。
信玄はその間に三増峠の麓の高地に進み、その左右に有力な将兵を配置、また、峠の北にある北条方の拠点・津久井城の押さえに、小幡信定を津久井の長竹へ進める。また、山県昌景の一隊を志田峠の北の台地・韮尾根(にろうね)に置き、遊軍としていつでも参戦できるようにした。
北条方からの攻撃によりたちまち激戦。勝敗を決めたのは山県昌景の一隊。志田峠を戻り、北条の後ろから挟み討ちをかけ、北条軍は総崩れとなる。北条氏康、氏政の援軍は厚木の荻野まで進んでいたが、味方の敗北を知り、小田原に引き上げた。
信玄は合戦の後、兵をまとめ、寸沢嵐・反畑(そりはた・相模湖町)まで引き揚げ、勝鬨をあげ、甲府へ引きあげたという。
とはいうものの、新田次郎氏の小説「武田信玄」によれば、北条方は三増峠の尾根道に布陣し、武田方の甲斐への帰路を防ぎ、小田原からの援軍を待ち、挟み撃ちにしようと、した。一方の武田軍がそれに向かって攻撃した、となっている。先回、三増峠を歩いた限りでは、尾根道に2万もの軍勢を布陣するのはちょっと厳しそう、とも思うのだが、とりあえず歩いたうえで考えてみよう、ということに。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


信玄の旗立松
「三増合戦の碑」のすぐ西隣に、北に進む道がある。志田峠に続く道である。「志田峠」とか「信玄旗立松」といった標識に従い道なりに進むと「東名厚木カントリー倶楽部」の入口脇に出る。「信玄旗立松」は現在、ゴルフ場の中にある。
案内標識に従い、ゴルフ場の中の道を進む。結構厳しい勾配である。駐車場を越えると、前方に小高い丘、というか山がある。更に急な山道を上ると尾根筋に。ここが信玄が本陣を構えた中峠とも、駒形山とも呼ばれたところ、である。
「信玄旗立松」の碑と松の木。元々あった松は枯れてしまったようだ。旗立松はともあれ、ここからの眺めはすばらしい。180度の大展望、といったところ。南西の山々は経ヶ岳、仏果山、高取山なのだろう、か。半原越え、といった、如何にも雰囲気のある峠道が宮ヶ瀬湖へと続いている。とのことである。
尾根道がどこまで続くのか東へと進む。が、道はすぐに切れる。この山はゴルフ場の中に、ぽつりと、取り残されている感じ。しばし休息の後、山道を降り、ゴルフ場の入口に戻る。

志田峠
ゴルフ場に沿って道を北に進む。田舎道といった雰囲気も次第に薄れ、峠道といった風情となる。道の西側には沢が続く。志田沢。足元はよくない。小石も多い。雨の後ということもあり、山肌から流れ出す水も多い。勾配はそれほどきつくはない。しばし山道を進むと志田峠に。ゴルフ場入口から2キロ弱、といったところだろう。
志田峠。標高310m 。展望はまったく、なし。峠に愛川町教育委員会の案内板;志田山塊の峰上を三分した西端にかかる峠で、愛川町田代から志田沢に沿ってのぼり、
津久井町韮尾根に抜ける道である。かつては切り通し越え、志田峠越の名があった。
武田方の山県三郎兵衛の率いる遊軍がこの道を韮尾根から下志田へひそかに駆け下り、
北条方の背後に出て武田方勝利の因をつくった由緒の地。
江戸中期以降は厚木・津久井を結ぶ道として三増峠をしのぐ大街道となった。」 と。

清正光・朝日寺
峠を越えると道はよくなる。1キロほどゆったり下ると道の脇にお寺様。志田山朝日寺。200段以上もある急な石段を上る。境内に入ろうとしたのだが、犬に吠えられ、断念。トットと石段を戻る。案内によれば、13世紀末に鎌倉で開山されたものだが、昭和9年、この地に移る。本尊は清正光大菩薩。現在は「清正光」という宗教法人となっている、と。
「清く、正しく、公正に」というのが、教えなのだろう、か。

韮尾根(にらおね>にろうね)
道なりにくだると、東京農工大学農学部付属津久井農場脇に。このあたりまで来ると、ちょっとした高原といった風情の地形、となる。北東に向かって開かれている。のどかな畑地の中をしばし進む。と国道412号線・韮尾橋の手前に出る。韮尾根沢に架かる橋。住所は津久井市長竹である。
長竹と言えば、武田方の遊軍・山県勢5千に先立ち、津久井城の押さえのため進軍した小幡尾張守信貞の部隊が伏せたところ。1200名の軍勢が、中峠から韮尾根に下り、串川を渡り、山王の瀬あたりの窪地に隠れ、津久井城の北条方に備えた、と。現在の串川橋のあたりに長竹三差路と呼ぶところがある。そこは三増峠に進むにも、韮尾根・志田峠に進むにも、必ず通らなければならない交通の要衝。小幡軍が布陣したのは、その長竹三差路のあたりでは、なかろう、か。
韮尾橋から長竹三差路までは2キロ程度。串川橋や長竹三差路まで行きたしと思えども、本日の予定地である半原とは逆方向。串川、長竹三差路は次回、武田軍の相模湖方面への進軍路歩きのときのお楽しみとし、本日は412号線を南へと進むことにする。

半原日向
韮尾橋から国道412号線を1キロ弱歩くと、峠の最高点に。もっとも、現在は大きな国道が山塊を切り通しており、峠道の風情は、ない。が、この国道412号線が開通したのは1982年頃。それ以前のことはよくわからないが、少なくとも、三増合戦の頃は切り立った山容が、韮尾根と半原を隔てていたのだろう。峠を越えると、真名倉坂と呼ばれる急勾配の坂道が北へと下る。どこかの資料で見かけた覚えもあるのだが、江戸以前は志田越えより、この真名倉越えのほうがポピュラーであった、とか。これが本当のことなら、三増合戦のいくつかの疑問が消えていく。
何故、北条方が半原の台地に陣を構えたか。その理由がいまひとつ理解できなかったのだが、武田軍がこの真名倉越えをすると予測した、とすれは納得できる。半原の南の田代まで進んだ武田軍は半原の台地に構える北条軍を発見し、真名倉越えをあきらめる
。そうして、駒形山方面の台地に進路を変える。志田峠、三増峠、中峠と進む武田軍を見た北
条軍は、半原の台地を下り、武田軍を追撃。そのことは織り込み済みの武田軍は踵を返し、両軍衝突。で、志田峠を引き返した山県軍が北条軍の背後から攻撃し、武田軍が勝利をおさめる。真名倉越えが峠道として当時も機能していたのであれば、自分としては三増合戦のストーリーが美しく描けるのだが。はてさて、真実は?

半原・日向橋
半原日向から中津川の谷筋を見下ろす。半原の町は川筋と台地に広がる。国道12号線は台地の上を南に進む。北条方が半原の台地に陣を構えた、というフレーズが実感できる。台地下を流れる中津川に沿って南から進む武田軍をこの台地上から見下ろしていたのだろう、か。
半原日向交差点から中津川筋に降りる。結構な勾配の坂である。中津川に架か
る橋に進む。日向橋。南詰めのところにあるバス停で時間をチェック。結構本数もあるようなので、町の中をしばし楽しむことに。鬼子母神とあった顕妙寺、半原神社へと進む。宮沢川を越え、県道54号線から離れ、台地に上る。愛川郷土資料館が半原小学校の校庭横にある、という。結構きつい勾配の坂道を上る。途中に、「磨墨(するすみ)沢の伝説」の碑。平家物語の宇治川の先陣に登場する名馬・磨墨(するすみ)は、この沢の近くに住んでいた小島某が育てた、との伝説。とはいうものの、源頼朝に献上されこの名馬にまつわる伝説は東京都大田区を含め日本各地に残るわけで、真偽のほど定かならず。

郷土資料館
坂を上り台地上の町中にある半原小学校に。野球を楽しむ地元の方の脇を郷土資料館に。残念ながら、閉まっていた。郷土館は小学校の校舎を残した建物。半原は日本を代表する撚糸の町であるわけで、撚糸機などが展示されているとのことではある。八丁式撚糸機が知られるが、これは文化文政の頃につくられた、もの。電気もない当時のこと、動力源は中津川の水流を利用した水車。盛時、300以上の水車があった、とか。

辻の神仏
郷土館を離れる。道端に辻の神仏。案内をメモ;辻=境界は、民間信仰において、季節ごとに訪れる神々を迎え・送る場所でもあり、村に入ろうとする邪気を追い払う場所でもあった。そのため、いつしか辻は祭りの場所として、さまざまな神様を祀るようになった、と。

中津川

台地端から急な崖道を下る。野尻沢のあたりだろう、か。川筋まで下り、中津川に。この川の水、道志川の水とともに、「赤道を越えても腐らない」水であった、とか。水質がよかったのだろう。ために日本海軍などが重宝し、この地の貯水池から横須賀の海軍基地に送られ、軍艦の飲料水として使われていた、と言う。水源は中津川上流の宮ケ瀬湖に設けられた取水口。現在も、そこから横須賀水道路下の水道管を通って横須賀市逸見(へみ)にある浄水場まで送られている。距離53キロ。高低差70m。自然の高低差を利用して送水している、と。中津川を日向橋に戻り、バスに乗り一路家路へと。

一回目の三増峠、今回の志田峠、韮尾根の高原、半原台地と三増合戦の跡地は大体歩いた。次回は、ついでのことなので、合戦後の武田軍の甲斐への帰還路を相模湖あたりまで歩いてみよう、と思う。
 武田・北条が相争った三増合戦の地・三増峠を越える

何時だったか、何処だったか、古本屋で『八王子南郊;史話と伝説(小泉輝三朗;有峰書店新社)』を買ったのだが、その中で「三増合戦」という記事が目にとまった。津久井湖の南の三増峠の辺りで、武田軍と小田原北条軍が相争った合戦である、と。両軍合わせて5千名以上が討ち死にした、との記録もある。日本屈指の山岳戦であった、とか。
「三増合戦」って初めて知った。そもそも、散歩を始めるまで、江戸開幕以前の関東、つまりは小田原北条氏が覇を唱えた時代のことは、何にも知らなかった。お散歩をはじめ、あれこれ各地を歩くにつれ、関東各地に残る小田原北条氏の旧跡が次々にと、登場してきた。寄居の鉢形城、八王子の滝山城、八王子城、川越夜戦、国府台合戦、などなど。三増合戦もそのひとつである。
三増合戦についてあれこれ調べる。と、この地で激戦が繰り広げられたのは間違いないようだが、合戦の詳細については定説はないよう、だ。新田次郎氏の『武田信玄;文春文庫』の「三増合戦」の箇所によれば、峠で尾根道で待ち構えていたのが北条方とするが、上記書籍では、北条方が山麓の武田軍を追撃した、と。峠を背に攻守逆転している。峠信玄の本陣も、三増峠の西にある中峠という説もあれば、三増峠の東の山との言もある。よくわからない。これはう、実際に歩いて自分なりに「感触」を掴むべし、ということに。どう考えても一度では終わりそうにない。成り行きで、ということに。
(2005年9月の記事を移行)


本日のルート:小田急線・本厚木>金田>上三増>三増峠ハイキングコース>三増峠>小倉山林道>相模川>小倉橋と新小倉橋>久保沢・川尻>原宿​・二本松>橋本

小田急線・本厚木
三増への道順を調べる。小田急・本厚木駅からバスが出ている。北に進むこと40分程度。結構遠い。だいたいの散歩のルーティングは、三増峠を越え、津久井湖まで進み、そこからバスに乗り橋本に戻る、ということに。
小田急に乗り、本厚木駅に。北口に降り、線路に沿って少し東に戻り、バスセンターに向かう。バスの待ち時間にバスセンター横にあるシティセンター1階にあるパン屋に立ち寄る。奥はレストランになっている。店の名前は「マカロニ広場」。サツマイモを餡にしたくるみパンが誠に美味しかった。
厚木の名前の由来は、この地が木材の集散地であったため「あつめ木」から、といった説もある。が、例によって諸説あり。ともあれ、厚木が歴史書にはじめて登場したのは南北朝の頃。江戸の中期は、宿場、交易の場として繁盛した、と。

金田
バスに乗り、北に向かう。市街を出ると川を越える。小鮎川。すぐ再び川。中津川である。川に架かる第一鮎津橋を渡ると、妻田あたりで道は北に向かう。ちょうど、中津川と相模川の間を進むことに成る。
金田交差点で国道246号線を越えると、道は国道129号線となり、更に北に進む。下依知から中依知に。この辺りは昔の牛窪坂といったところ。三増合戦にも登場する地名である。
小田原勢の籠城策のため、攻略戦を一日で諦めた武田軍は小田原を引き上げる。どちらに進むのかが、小田原方の最大の関心事。武田方が陽動作戦として流布した鎌倉へと進むか、相模川を渡り八王子方面に進み甲斐路を目指すか、はたまた三増峠を経て甲斐に引き上げるのか、はてさて、と思案したことだろう。
で、結局のところ、平塚から岡田(現在の東名厚木インターあたり)、本厚木、妻田、そしてこの金田へと相模川の西を進んできた信玄の軍勢は、相模川を渡ること無く、牛窪坂の辺りで相模川の支流である中津川に沿って進むことになる。それを見届けた北条方の物見は、三増峠に進路をとると報告。中津川を上流に進めば、三増峠の麓へと続くことに、なるわけだ。

上三増
国道129号線を進み、山際交差点で県道65号線に折れる。この県道は、三増峠下をトンネルで貫き、津久井に至る。道は中津川に沿って進んでいる。三増に近づくにつれ、山容が迫る。『八王子南郊;史話と伝説(小泉輝三朗;有峰書店新社)』によれば、「三増は、丹沢・愛甲の山々が相模川まで押し出して、南相模と都留・津久井がつながる狭い咽首(のどくび)になっているところだから、昔も今も交通の生命線である。(中略)。その咽首の狭いところを志田山という小山脈がふさいでいて、越すにはどうしても小さいが峠を通らなければならない。東に三増峠、真ん中に中峠、西に志田峠の三カ所があった」、とある。北に見える尾根が三増峠のあたりなのだろう、か。
終点の上三増でバスを降りる。バス停は峠に上る坂道のはじまるあたり。近くには三増公園陸上競技場などもあった。バス停の近くにあった史跡マップなどをチェックし、三増峠へと進むことにする。

三増峠ハイキングコース
県道65号線を峠方面に進む。車も結構走っている。道の先に尾根が見える。標高は300m強といったところだろう。しばらく進み、三増トンネルのすぐ手間に旧峠への入り口がある。「三増峠ハイキングコース」とあった。スタート時点は簡易舗装。しばらく進むと木が埋め込まれた「階段」。上るにつれ古い峠道の趣となる。深い緑の中を進み、峠に到着。それほどきつくもない上りではあった。
三増合戦のとき、この三増峠を進んだ武田方は、馬場信房、真田昌幸、武田勝頼の率いる軍勢。新田次郎の『武田信玄』によれば、峠の尾根道で待ち構える北条方では「勝頼の首をとるべし」と待ち構えていた、とか。もっとも、先にメモしたように、陣立てには諸説あり、真偽のほど定かならず。愛川町教育委員会の「三増合戦のあらまし」を以下にまとめておく。

三増合戦のあらまし :
永禄十二年(1569年)十月、武田信玄は、二万の将兵をしたがえ、小田原城の北条氏康らを攻め、その帰路に三増峠越えを選ぶ。これを察した氏康は、息子の氏照、氏邦らを初めとする二万の将兵で三増峠で迎え討つことに。が、武田軍の近づくのをみた北条軍は、峠の尾根道を下り、峠の南西にある半原の台地上に移り体勢をととのえようとした。
信玄はその間に三増峠の麓の高地に進み、その左右に有力な将兵を配置、また、峠の北にある北条方の拠点・津久井城の押さえに、小幡信定を津久井の長竹へ進める。また、山県昌景の一隊を志田峠の北の台地・韮尾根(にろうね)に置き、遊軍としていつでも参戦できるようにした。
北条方からの攻撃によりたちまち激戦。勝敗を決めたのは山県昌景の一隊。志田峠を戻り、北条の後ろから挟み討ちをかけ、北条軍は総崩れとなる。北条氏康、氏政(うじまさ)の援軍は厚木の荻野まで進んでいたが、味方の敗北を知り、小田原に引き上げた。
信玄は合戦の後、兵をまとめ、寸沢嵐・反畑(そりはた・相模湖町)まで引き揚げ、勝鬨をあげ、甲府へ引きあげたという。「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


三増峠

峠に到着。2万とも言われる北条の軍勢がこの尾根道で待ち構えるとは、とても思えない。愛川町教育委員会の説明のように、尾根道を下り、半原の台地で待ち構えていたのでは、などと思える。足もとから車の走る音。峠を貫く三増トンネルの中から響くのだろう。
さて、峠を西に向かうか、東に向かうか。標識が倒れておりどちらに進めばいいのかわからない。
少々悩み、結局東に向かう。これが大失敗。当初の予定である津久井の根小屋への道は、西方向。そうすれば、峠を下り、トンネルの出口あたりに進めたのだが、後の祭り。あらぬ方向へ進むことになった。

小倉山林道
東へと進む。快適な尾根道。後でわかったのだが、この道は小倉山林道。歩いておれば、麓が見えるか、とも思うのだが、山が深く、どちらが里かさっぱりわからない。なんとか里に下りたいと思うのだが、道が下る気配もない。山腹を巻き道が続く。人が歩く気配もない。心細いこと限りない。分岐で成り行きで進み、行き止まりになりそうで引き返したりしながら、小走りで林道を進む。頃は春。山桜が美しい。
結局、4キロ程度歩いたただろうか。東へと東へと引っ張られ、気がついたら、小倉山の南の山腹を進んでいた。車の音も聞こえる。ここはどこだ。川らしきものも眼下にちょっと見える。どうも相模川のようだ。やっと、下りの道。結構な勾配。どんどん下る。車の往来が激しい道筋に。道路への出口は鉄の柵。車、というかバイク、などが入れないようにしているのだろう、か。

相模川

道のむこうに相模川。このあたりは城山町小倉。三増峠から、津久井の長竹・根小屋、津久井城の南麓を串川に沿って相模川に進み橋本へ、といったルートは大幅に狂ってしまったが、小倉から串川・相模川の合流点まで2キロ強。どうせのことなら、串川・相模川の合流点まで進み、橋本まで歩くことにする。橋本まで、7キロ強、といったところ、か。
橋を渡り、大きく曲がる上りの坂を進み、新小倉橋の東詰めに。谷は如何にも深い。

小倉橋と新小倉橋

相模川を眺めながら北に進む。串川を越えると小倉橋。趣のある橋ではあるが、幅は狭い。相互通行しかできなかったようで、結果大渋滞。ために、バイパスがつくられた。小倉橋の北に聳える巨大な橋がそれ。新小倉橋、という。2004年に開通した、と。   

久保沢・川尻
台地の道を久保沢、そして川尻へと進む。途中に川尻石器時代遺跡などもある。久保沢とか川尻と行った地名は少々懐かしい。はじめて津久井城跡を歩いたとき、橋本からバスにのり、城山への登山口のある津久井湖畔に行く途中で目にしたところ。江戸時代の津久井往還の道筋でもある。
津久井往還は江戸と津久井を結ぶ道。津久井の鮎を江戸に運んだため、「鮎道」とも。もちろんのこと、鮎だけというわけではなく、木材(青梅材)、炭(川崎市麻生区黒川)、柿(川崎市麻生区王禅寺)などを運んだ。道筋は、三軒茶屋>世田谷>大蔵>狛江>登戸>生田>百合ケ丘>柿生>鶴川>小野路>小山田>橋本>久保沢>城山>津久井>三ヶ木、と続く。

原宿​・二本松
川尻から城山町原宿南へと成り行きで進む。原宿近隣公園脇を進む。この原宿の地は江戸・明治の頃には市場が開かれていた、とか。原宿から川尻を通り、小倉で相模川を渡り厚木をへて大山へと続く大山道の道筋でもあり、津久井往還、大山道のクロスする交通の要衝の地であったのだろう。
二本松地区に入るとささやかな社。二本松八幡社。なんとなく気になりお参りに。由来を見ると、もとは津久井町太井の鎮守さま。その地が城山湖の湖底に沈んだためこの地に移る。二本松の由来は、津久井往還の道筋に二本の松があったから、とか。

橋本

車の往来の激しい道を進み、日本板硝子の工場前をへて橋本の駅に。橋本の名前の由来は境川に架かる両国橋から。現在の橋本駅の少し北、元橋本のあたりが、本来の「橋本」である。橋本が開けたのは黄金の運搬がきっかけとなった、と前述、『八王子南郊;史話と伝説(小泉輝三朗;有峰書店新社)』は言う。

久能山東照宮にあった黄金を、家康をまつる日光東照宮に移すことになった。久能山から夷参(座間市)までは東海道を。そこから八王子へと進むわけだが、座間宿から八王子宿までは八里ある。馬は三里荷を積み進み、三里戻るのが基本。途中には御殿峠などもあるわけで、座間と八王子の間にひとつ宿を設ける必要があった。で、どうせなら峠の手前で、ということで元橋本のあたりに宿が設けられた、と。社会的は必要性からつくられた、というより、黄金運搬という政治的目的にのためにつくられた「人工的」宿場町がそのはじまりであった、とか。
少々長かった本日の散歩、ルートも当初の予定から大幅に変更になった。次回は、三増合戦の舞台となった峠のひとつ志田峠、信玄が本陣の旗をたてたとも言われる駒形山などを歩いてみようと思う。
いつだったか、多摩の「よこやま」、つまりは、多摩丘陵の尾根道を歩いた。もう一年も前のことだろう、か。その尾根道は津久井湖・城山湖のほうまで続いている、と。そのうちに行ってみよう、とメモした覚えがある。
最近、八王子から多摩への散歩が続いている。その余勢をかって、というわけではないのだが、津久井湖・城山湖まで出かけよう、と思った。カシミール3Dでチェックする。確かに、多摩から続く丘陵は、国道16号線・御殿峠のあたりで南北のからの尾根道が集まり、そこから更に西に延び、津久井湖方面に向かって延びている。津久井湖・城山湖畔の散歩も惹かれるものがあるのだが、どうせのことなら、湖畔散歩だけでなく、そこから多摩に向かって尾根道を歩いてみよう、と思った。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



本日のルート;京王相模原線・橋本>(バス;三カ木行き;城山高校下車)>城山ダム管理事務所>城山大橋>津久井湖城山公園花の苑>津久井城址登山口>飯綱権現>山頂>津久井湖城山公園花の苑・刊行センター>山道>飯綱大権現>コミュニティ広場>城山発電所>川上橋>大戸>町田街道・大戸>八木重吉記念館>法政大学入口>法政トンネル>尾根道>相武カントリー倶楽部>武蔵岡中>町田街道・東京家政学院入口>東京家政学院前>峠>七国峠入口なし・引き返す>鎌倉古道>町田街道・相原十字路近くに下りる>長福寺>JR横浜線・相原駅

京王相模原線・橋本駅

京王相模原線のターミナル・橋本駅に向かう。多摩丘陵をトンネルでくぐりぬけ、多摩境を越えると車窓から多摩の丘陵が一望できる。尾根道緑道なのだろうか、町田の方角に南に向かって広がっている。先日の散歩で尾根道の乗り換えを間違い、延々と歩いた、あの尾根道である。少々の感慨に浸るまもなく電車は橋本駅に到着。駅前再開発が進んだのか、大型ショッピングセンターが目立つ。これほどの街とは想像していなかったので、少々の驚き。なんとなく、千葉・松戸の駅前の雰囲気を思い出す。

「三カ木行」バスで、「城山高校」で下車

構内でバスの案内を探す。見当たらない。西口に行けばなんとかなるか、と思い進む。バスターミナルはあったものの、津久井湖方面のバスはない。引き返し東口に。津久井湖へは「三カ木行」に乗り、「城山高校」で降りればいい、と。少し待ちバスに乗る。しばしバスの車窓からの眺めを楽しみ「城山高校」で下車。降りたら案内などあるだろう、と思っていたのだが、なにもない。前方に聳えるのが津久井城址のある山であろう、とは思うのだが、確たる自信もない。ダムの堤防のようなものが見える。とりあえず先に進む。




津久井城址登山口
国道413号線を堤防に向かって下ると城山大橋。大橋とは言うものの、実際はダムの堤防。城山ダムと呼ばれる。相模湖を堰き止めたもの。堤防を渡ると「津久井湖城山公園花の苑」。道の先に観光案内所が見える。道脇に「津久井城址登山口」の案内。誘われるように登山口に。階段を少し上る。なだらかなスロープの坂道を進むと、すぐに登山道にあたる。

「宝ケ池」湧水池。
つづら折れの登山道を進む。のぼり道は幾通りかあるよう。どちらに進めばいいのか、きちんとした案内がない。仕方なく、成行きでグングンのぼる。30分以上も歩いただろうか。山道脇に「宝ケ池」。湧水池。この城山にはこういった湧き水が数箇所あった、とか。水が確保できなければ、籠城策もできないわけであり、城郭の生命線。いつだったか小田原を歩いたとき、秀吉の一夜城跡にのぼった。そこの湧水地は規模が大きかったなあ、などと散歩の記憶に少々浸る。

飯綱権現

水場から少しすすむと尾根道に。飯綱権現がまつられてある。飯綱曲輪があった、とか。
飯綱権現、って高尾山の守り神。また、先日、信州の川中島を歩いたとき、信玄・謙信が策を競った妻女山から眺めた信州の山並みの中に飯綱山があった。これもまた、ひとしきり旅の思い出に浸る。
ちなみに飯綱権現って、飯綱山で修行する修験者が信仰したもの。白狐にまたがった天狗がシンボル。飯綱権現は軍神としても知られ、幾多の戦国武将の信仰を得た。

尾根道に「引橋」

飯綱権現を離れ、尾根道を頂上・本城跡に向かう。尾根道にはいくつか掘切跡が残る。堀切には普段、「引橋」が渡されており、一旦事が起こると、その橋を外し、敵の侵入を困難難ものにした、とか。

津久井城
烽火台跡、鐘撞堂跡などから眼下の眺め。南の方角を見下ろす。快適な尾根道を進み山頂から本城跡に。津久井城の案内。ここにくるまで、津久井城について、なにも知らなかった。津久井城のもと歴史的・地理的意味合いをちょっとお勉強;
「津久井城は地理的には、北方に武蔵国、西方に甲斐国に接する相模国の西北部に位置する。そして、八王子から厚木・伊勢原、古代東海道を結ぶ八王子道と、江戸方面から多摩丘陵を通り、津久井地域を東西に横断し甲州街道に達する津久井往還に近く、古来重要な水運のルートであった相模川が眼前に流れていることから、交通の要衝の地でもあった。
また、津久井地域は、その豊かな山林資源がら、経済的に重要な地域としても認識されていた。このように、津久井地域は中世の早い時期から、政治・経済・軍事上の要衝であり、利害の対立する勢力のせめぎあいの地でもあった」と。

何故、こんな不便な場所にお城が、などと思っていたのだが、それって、現在の大都市・東京の視点から考えているだけであって、往古、いまだ東京・江戸が一面の葦原であったころ、この辺りは陸運・水運の要衝の地であったわけだ。

「築城は鎌倉時代、三浦半島一帯に勢力を誇っていた三浦一族・津久井氏による、という。戦国時代、小田原北条氏は16世紀中ごろには相模・武蔵を領国とする戦国大名に発展。その広大な領土を支配し、外敵に対するため本城の下に支城を設け、支城領を単位とする支配体制をつくった。この津久井城は甲斐国に近く、領国経営上重視されており、津久井城(城主内藤氏)は有力支城として重要な役割を果たしていた。現在の遺構は16世紀の北条氏の時代のものである」、と。小田原北条時代の城跡であった、ということか。
「標高375m。西峰の本城曲輪、太鼓曲輪、飯綱神社のある飯綱曲輪を中心に、各尾根に小曲輪が階段状に配置されている。これらの曲輪には土塁や、一部石積みの痕跡も残っている。また、山頂尾根には敵の動きを防ぐため、3箇所の大堀切が、山腹には沢部分を掘削・拡張した長大な、堅堀が掘られている」
「津久井城は独立した山に築かれた「山城」。通常山城は平地が狭いため、城主の館や家臣の屋敷などを山麓に置いた。これが根小屋であり、山麓に根小屋を備えた山城のことを根小屋式山城という。津久井城は戦国時代の根小屋式山城の様子を伝える貴重な遺構が残る。
根小屋は根本・城坂・小網・荒久・馬込地区一帯に広がっていた、とされ。各地域で大小の曲輪が確認できる。とくに、城坂地区には、お屋敷跡、馬場、左近馬屋といった地名が残されており、根小屋の中心であったと考えられる。
お屋敷跡には建物跡や硝煙蔵跡、深さ3mにもおよぶ空堀、土塁跡などが残されており、城主館跡と考えられている」、と。根小屋とか根古屋、って散歩の折々に出合った。秩父にも根古屋があった、かと。いまになってはじめて、その由来がわかった。

登山口に戻る
山頂から下る。道案内がいまひとつしっかりしていない。成行きで下る。小網口へと下る道。が、どこに進むのかはっきりしない。なんとなく西に向かっている雰囲気。いやいや、どんどん西に向かう。予定では、登山口のあたりに戻り、観光案内所で地図でも手に入れようと思っていた。ということは西ではなく、むしろ東に進みたいわけで、少々焦る。途中で分岐。東に向かう道に乗り換え、幸運にも登山口に下りた。「津久井湖城山公園花の苑」内にある観光案内所に進む。が、そこはお土産屋。これといった資料はない。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


壁にかかった地図を眺め、大体のルートをチェック。ここから先のルートは、城山湖>町田街道>法政大学>七国峠>JR相原駅といった段取りが、尾根道筋であろうかと、仮決め。

津久井湖記念館

国道413号線を戻る。城山大橋を渡り、城山ダム管理事務所の横を進む。道脇に「津久井湖記念館」。ちょっと寄り道。津久井湖建設の歴史、というかダム建設で水没した村々の歴史をパネル展示。相模湖で堰き止められた相模川は、途中道志川の水を合わせ津久井湖に注ぐ。そして津久井湖の下流では串川や中津川が合流し厚木、平塚、茅ヶ崎と下り相模湾に流れ込む。源流は富士山麓・山中湖。全長100キロ強の一級河川である。

都井沢交差点

記念 館を離れ、中沢中学脇を進み、都井沢交差点手前を北に折れる。都井沢交差点からは結構大きな道が山頂に続いているのだが、ここはおとなしくEZナビのガイドに従う。先に進む。小道を抜け、あろうことか竹薮の中にリードされる。だいじょうぶか?味気ない道路みちではなく、野趣豊かなルートを選んでくれたのであろうと、とりあえず進む。次第に道など無きに等しい状況に。薮を掻き分け進む。枝に足をとられ、転びつつ、まろびつつ、進む。心の中で、「勘弁してくれ」、と。大転倒数回を経て、右手に車道らしきガードレールが見える。一安心。ガードレールを乗り越え車道に。

ほっと安心。車道を進む。しばらく進み、何気なく胸に手をやる。「あれ、サングラスがない」。10年も昔になるだろうか、家族でグアムにいったときに買ったお気に入りのもの。唖然。先ほどの踏み分け道で転んだときに落としたに違いない。見つける自信はないのだが、とりあえずブッシュ道に戻る。雑草に覆われた道に目を凝らし進む。「見つからない、見つからない、あ、アッタ」。嬉しかった。思わず神さま仏様に感謝。大西滝治郎中将ではないが、神風特攻生みの親・大西中将のフレーズを使えば「深謝」。心の底から感謝、ってこんな状態を指すのであろう。喜色満面、車道に戻る。

飯綱大権現
車道東に都井沢配水地。その先で、城山町若葉台方面からの車道と合流。すぐ先に飯綱大権現。権現様は仏が神という仮の姿で現れた、って神仏習合の賜物。密教というか修験道の影響から生まれたもの。ともあれ、境内から見下ろす津久井湖はなかなかのもの。津久井城址のある小高い山も一望のもと。

城山発電所

権現様で一休みし、さらに進む。1キロ弱歩いただろうか、コミュニティ広場に。野球を楽しんでいる。広場の横は城山発電所。発電所の敷地内を通り、坂をのぼると湖畔に。湖畔といっても、擂鉢上の縁の上。水辺には下りる道はないよう、だ。

城山湖

城山湖。境川の支流・本沢渓谷を堰き止めたダム湖。本沢ダム、とも。とはいうものの、川筋が繋がっているようには見えない。なんとなく、現在では大雨などで溢れた水を放水するために境川水系を使っているようにも思える。

であれば、このダムの水はどこから?チェックした。水は津久井湖から夜間汲み上げている、と。で、電力需要の多い日中に、この城山湖から津久井湖へと落差153mで水を落とし、25万キロワット、12万世帯へ電力を供給している。湖畔に立ち入りを禁止しているのはこのため。揚水と落水の繰り返しで、水位が1日に28mも上下する、と。危なくって、近寄れないわけだ。城山湖のダムが本沢ダム。津久井湖のダムが城山ダム。少々ややこしいが、城山ダムの水を水源にしているのだから城山湖、って論法であれば、それなりに納得。

次の目的地・七国峠に向かう。ランドマークは法政大学・多摩キャンパス。地図をチェックする。城山湖の外周道からは降り口はない。この湖の周りは5キロ程度の素敵なハイキングコースとなっているようだが、時間的にちょっと無理。コミュニティ広場のところから、東に下り、町田街道に続く道筋がある。案内もなく、確信があるわけではないのだが、なんとか進めそうな気もするので、とりあえず歩を進める。 

町民の森の東を下る 
道をくだる。しばらく進み、ダムの堰堤を左手に眺める。進入禁止となっており堰堤に進むことはできない。町民の森の東を下る。大戸、本沢ダム入口、青少年センター入口といった案内を眺めながら、どんどん下る。

上大戸交差点
境川と本沢川が合流する。しばし境川に沿って進み、上大戸交差点に。近くに大戸観音。昔は立派であったのだろうが、現在はさっぱりしたもの。境内に案内:このあたりは横山之荘の相州口。大木戸番所があった。ために大木戸>大戸、と。このあたりは、鶴間から分岐して秩父、高崎方面に向かう「鎌倉街道山之道」でもあった、とか。

法政大学入口
先に進むと町田街道の大戸交差点。町田街道を下る。法政大学入口に。地図をチェックすると相武カントリークラブの中を横切る道がある。そんなはずはない、とは思いながら、多摩の唐木田にある東京国際カントリークラブでは、敷地内を小山田緑地へと進む道があったよな、などと、かすかな望みだけをたよりに進むことに。

相武カントリークラブ

法政大学入口交差点を越えてすぐ、町田街道をはずれて北に小道を進む。しばらくすすむと法政大学トンネルの出口、というか入口。キャンパスの脇を丘陵地にのぼる。竹薮の中をおっかなびっくりで尾根道に。キャンパス近くということで整地されているのかとおもったのだが、ブッシュ。野趣豊かな尾根道を東に進む。相武カントリークラブのフェンスが見える

予想通りというか、残念ながらというか、相武カントリークラブはフェンスに囲まれている。なんとか入口はないかと、フェンスに沿った外周道を北に。しばらく進むと進入禁止のサイン。こんなところに来る人もいないのか、とは思うのだが、もう少し早く案内してほしいもの。引き返す。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


大戸小学校と武蔵岡中学の間に下りる

南に下る。フェンスに沿ってどんどん下る。これで行き止まり、って洒落にならんよな、などと思いながら丘陵地を下る。突然、行き止まり、というか進入禁止。「それはないよな」、と。よっぽどゲートを乗り越えてやろうかともおもったのだが、それも大人気ない、と気持ちを鎮める。あたりを見廻す。なんとなく林の中に踏み分け道っぽい通路。とりあえず進む。前方にフェ ンス。フェンスに沿ってくだる。なんとか平地に。大戸小学校と武蔵岡中学の間に下りることができた。一安心。

東京家政学院入口交差点

南に下り、再び町田街道に。町田街道は八王子の東淺川で甲州街道から南にくだり、町田を下り、東名高速横浜町田インター近くの鶴間まで続く。
町田街道を少し進むと東京家政学院入口交差点。七国峠はこの交差点を北にすすんだ峠道のちょっと東にある。七国峠に続く道はまずもってないだろう、とは思いながらも、とりあえず先に進む。

峠道
東京家政学院前交差点を越え、峠道をのぼる。ゆったりとした上り道。峠を越えるあたりから、七国峠に抜ける道がないかとチェック。それらしき雰囲気のところはあるのだが、整地されているわけでもなく、ブッシュが生い茂る。ちょっと薮に入ってみたが、とてものこと進めるといったものではない。諦めてもとの車道に戻る。

七国峠にこだわるのは、いつかどこかで、鎌倉古道が通る道筋という記事を見た覚えがある、ため。掘割、切り通し、といった風情を楽しむことができないかと、少々残念に思いながらも、藪蛇のうち、とくに蛇が怖くて諦めた次第。

車道を家政学院前交差点に。そこで左折。相原十字路交差点へと向かう。目的地はJR横浜線・相原駅。久しぶりにEZナビをセット。なじかわ知らねど、相原十字路まで進まず、途中から山道に入れ、とのガイド。もう峠道は結構、とはおもいながらも、とりあえず案内の通り先に進む。峠道といっても車の走る大きな道ではある。

峠をこえたあたりから、「下界」が開ける。方向からすれば相原とか多摩境といった街並みではあろう。やはりこのあたりは尾根道である、といったことをあらためて実感。城山湖から結構下ったはずではあるが、大戸そして法政大学、七国峠といったあたりが尾根筋なのではあろう、か。

鎌倉古道の案内

峠を越える。この道筋であれば、ひょっとすれば七国峠へと続く鎌倉古道にあたるかも、といった淡い期待。大正解。道脇に鎌倉古道の案内があった。南の雑木林に入ることになる。北にも道筋。ひょっとすれば北に進み七国峠に続く道案内があるかと、ちょっと北に。案内はない。北に進む整地された道のほか、雑木林に入る道もある。どちらかよくわからない。日も暮れてきた。本日はやめとこうと、峠道・車道に戻る。

JR横浜線・相原駅


車道脇の鎌倉古道案内のところから、山道に入る。心持ち掘割といった雰囲気が残る。雑木林の中を進むと二股に。切り通しといった雰囲気の道を下る。ほんの、あっという間に雑木林を抜ける。畑の脇を下り、里にでる。林の縁を進むと鎌倉古道入口の案内。どうも、さきほどの分岐で違った道を歩いたようだ。とはいってもなんの案内もないわけで、致し方なし。後は一路東へと進みJR横浜線・相原駅に。一路家路に。

原駅から乗った電車の車窓から丘陵の姿をチェック。電車後方、というから八王子方面だが、小高い台地が聳えている。その台地は東からの台地と繋がっている。相模と八王子、そして多摩はこの台地で隔てたられている。地図を見ただけでは平坦な活字情報が目に入るだけであった。が、これからはこのあたりの地図を眺めたとき、地形のうねりも共に感じることができるではあろう。それがどうした、ということではあるが、自分としては、理由なき達成感にひとりほくそ笑む。


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