厚木・伊勢原・秦野の最近のブログ記事

ご老公こと、元の会社の監査役であったK氏より、矢倉沢往還の善波峠越えのお声が掛かった。小田急線・弦巻温泉駅からスタートし少し北に進み矢倉沢往還に合流。そこから西に進み善波峠を越えて大雄山駅まで歩こうとことの計画と言う。
ご老公は東海道、中山道、奥州街道、日光街道などなどを歩き通しているのだが、「峠越え」萌えである小生には、峠に近づくとお声が掛かり、東海道の鈴鹿峠越え、中山道の碓氷峠越え中山峠越えなどをご一緒した。今回も、ご老公は矢倉沢往還のスタート地点である東京から延々と街道を歩き、善波峠に近づいたためのご案内。ご老公に言わせれば、「いいとこ取り」とのことではあるが、峠をひとりで越えるのは少々難儀なようで、それなりに重宝してもらってはいるようである。
で、今回の矢倉沢往還の善波峠越えであるが、峠越えと言うほどのことなない。いつだったか、秦野から法弘山を越え吾妻山に向かう途中に、この峠を掠ったことがある、山奥でもなく、標高も160mほどの、どうということのない峠はあったのだが、これもいつだったか、大雄山から矢倉沢往還を辿り足柄峠を越えて御殿場まで歩いていたので、今回の峠越えの「ご下命」」は鶴巻温泉から大雄山までの矢倉沢往還を繋げるにはいい機会と思った次第である。

○矢倉沢往還(Wikipediaより)
矢倉沢往還(やぐらざわおうかん)は、江戸時代に整備された街道で、江戸赤坂門から相模国、足柄峠を経て駿河国沼津宿を結び、大山への参詣道の一つであることから「大山街道」、「大山道」などとも呼ばれ、また、東海道の脇往還としても機能していた。現在は、ほぼこの旧往還に沿って国道246号が通っている。
律令時代には東海道の本道にあたり、「足柄道」(あしがらどう)または「足柄路」(あしがらじ)と呼ばれていた。万葉集に収録された防人の歌にも登場することから、8世紀頃には東国と畿内を結ぶ主要道として歩かれていた様子がうかがえる。富士山の延暦噴火(800-802年)で一時通行が困難になったが回復、その後は鎌倉時代に湯坂道(鎌倉古道のひとつ。江戸時代以降は東海道の本道になる。箱根路とも)が開かれるまで官道として機能していた。
江戸時代中期以降になると大山講が盛んになり、またの名を雨降山(あふりやま)とも呼ばれた大山への参詣者が急増したと言われる。そのとき、宿駅などが整備されていた矢倉沢往還が江戸からの参詣道として盛んに利用されたことから、「大山街道」(おおやまかいどう)、「大山道(青山通り大山道)」(おおやまみち)とも呼ばれるようになり、現在も神奈川県内の旧道などにはその名が定着している。
「矢倉沢」(やぐらざわ)の地名は現在の神奈川県南足柄市の足柄峠付近に残っており、この辺りではかつての街道筋を「足柄古道」(あしがらこどう)として整備されているが、他の神奈川県内の区間は大正時代なると県道1号線に指定され、後に国道246号となり、幹線道路として拡幅やバイパス設置等の整備が進んだことから、一部の地域を除き往時の面影を辿るのは困難になっている。

人馬継ぎ立場(江戸時代) ;
三軒茶屋(世田谷区)>用賀(世田谷区)[1])>二子・溝口(川崎市高津区、1669年(寛文9年)宿駅設置)>荏田(横浜市青葉区)>長津田(横浜市緑区)>大ヶ谷(町田市)[1][2])>下鶴間(大和市)>国分(海老名市)>厚木(厚木市)>伊勢原(伊勢原市)>曽屋(秦野市)>千村(秦野市)>松田惣領(松田町)>関本(南足柄市>矢倉沢(南足柄市)>竹ノ下(小山町)



本日のルート;小田急・弦巻温泉駅>神明社>東明高速>太郎のちから石>神代杉>夜泣石>国道246号>古善場隧道>善場峠>曽屋>国道246号・名古木交差点を秦野へ>入船橋>庚申塔>馬車鉄道跡>秋葉神社・千手観音>水無川・秦野橋>双体道祖神>国道246・堀川入口交差点を越え北に>国道246・平沢西交差点を南に下りる>国栄稲荷>二つ塚>湯殿石碑>茶店跡>浅間大神塔>不動尊>小田急線を越える>八瀬川を渡る>国道246号>国道246号・蛇塚交差点で国道を離れる>神山滝分岐>東明高速を潜る>神山交差点>川音川を渡る>篭場交差点>石碑>松田駅>酒匂川・十文字橋>道祖神>足柄大橋西詰>石仏群>宮台の地蔵尊・摩耗した石仏>洞川を渡る>関本>大雄山駅

小田急線・鶴巻温泉
小田急線・鶴巻温泉駅で待ち合わせ時間である午前8時半に御老公と合流。鶴巻温泉は、いつだったか秦野からスタートし弘法山に登り、善波峠から吾妻山を経て下りてきたところ。
鶴巻温泉は大正3年(1914)、飲料水を求めて井戸を掘ったところ、温度25度ほどのカルシウム含有の地下水が湧きだしたのがきっかけ。温泉は当地の小字である鶴巻より「鶴巻温泉」と名付けた。
当初は鄙びた温泉であったのだろうが、昭和2年(1927)小田急線の開通にともない鶴巻駅が開業、昭和4年(1929)には関東大震災以来休業していた老舗温泉旅館も再開し、駅名も昭和5年(1930)に「鶴巻温泉」と改称し温泉地として発展したようだ。
此の地は江戸の頃は落幡村と称された、とのこと。明治21年(1888)には近隣五ヶ村が合併し大根村落幡となる。この「落幡」はいつだったか八菅修験の霊地・八菅神社を訪ねたとき、「幡の坂」という地名があり、その由来は中将姫の織った幡が落ちたところ、とあった。この地の落幡の由来も中将姫の織った幡が落ちた、といった伝承があるようだ。


神明神社
弦巻温泉駅を離れ、駅から北に矢倉沢往還の道筋へと向かう。しばらく進み緩やかな坂を上りきったところに小丘があり、そこに神明神社が祀られる。石段を上りお参り。祭神は天照皇大神。境内には境内社の地神齋、双体道祖神や道祖神が建つ。

箕輪駅跡
神明神社の一筋道を隔てた北の隅に鳥居と祠があり、そこに「箕輪駅跡」の案内があった。案内に拠ると、「箕輪駅跡; 市指定遺跡(昭和44年2月27日);箕輪駅は奈良時代の古東海道の駅跡と伝えられています。駅とは馬を置き、国司の送迎や官用に供された施設です。
古東海道とは、奈良時代からの官道で、相模国では足柄峠から坂本(南足柄市関本)をとおり、小総(おうさ。小田原市国府津)を経てここ箕輪に達し、さらに相模川以東に至ったものと考えられています。
後の矢倉沢往還(鎌倉時代以降の道)もこの地を通っており、この箕輪は古くから交通の要所になっていました」とある。
律令制度のもと、中央集権国家を目指す中央朝廷は、中国の交通制度をもとに、「駅制(駅路)」と「伝制(伝路)」を導入し、中央と地方のコミュニケーション機能の強化を目指した。「駅制」とは国家により計画された大道で、その幅10m程度。道筋は既存集落と無関係に一直線に計画され。おおよそ16キロから20キロ間隔で駅を置き、国府や郡家(ぐうけ)を繋いだ。 一方、「伝制」は国造など地方豪族が施設した交通制度。伝路は既存の道を改良し、幅はおおよそ6m程度とし、郡家に置かれた伝馬で郡家間を繋いだ。大雑把に言えば、駅制(路)はハイウエー、伝制(路)は在来地方道といったところではあろう。

○相模の駅路と駅
10世紀の平安時代に律令制の施行細目をまとめた「延喜式」には相模国内に 坂本駅、小総駅、箕輪駅、浜田駅が記される。坂本駅、小総駅は前述の案内の通りであり、浜田駅は「上浜田」「下浜田」の字名が残る海老名市大谷が比定されるが、箕輪駅に関してはこの地ではなく、当時の国府があった「平塚」とする説もある。
門外漢にはどちらが正しいのか不明であるが、ともあれ、浜田駅の先は相模国を離れ武蔵国店屋(まちや)駅に向かう。店屋(まちや)駅は「町谷原」の地名の残る町田市小川と比定される。

○古東海道・足柄峠以東の道筋
案内に「古東海道とは、奈良時代からの官道で、相模国では足柄峠から坂本」とあった。足柄峠から、その先は?ちょっと気になりチェック。
奈良時代以前は小田原方面から関本を経て足柄峠を越え、その後は御坂峠から甲府方面に抜けたようだ。東山道につながったのだろう。平安時代になると、足柄峠からは甲府に向かわず、御殿場から富士川に向かって下ってゆく。ついで、平安後期から鎌倉になると、御殿場から富士に向かわず、三島に下る。三島からは根方街道を富士川に向かった、と。
これらのルートは「天下の嶮」の箱根の山を迂回するルートであるが、箱根の山を越えるルートも登場する。ひとつは「湯坂路」。小田原を発し、湯本に。そこからは湯坂山、浅間山、鷹巣山への稜線を進み、元箱根から箱根峠に。峠からは尾根の稜線を三島へと下る。平安から鎌倉・室町の頃のルートである。話によれば、富士の大噴火によって足柄道が通れなくなったために開かれた、とも言う。

江戸になると、小田原を発し、湯本に。そこからは湯坂路の山越えの道を避け、須雲川に沿って川沿いに進み、畑宿を経て元箱根に。元箱根からは箱根峠に至り、そこからは、湯坂路の一筋南の尾根道を三島へと下ってゆく。

丹沢山地と丘陵部の間に向かう
矢倉沢往還の散歩開始。道は神明神社と箕輪駅跡の間の道を北に向かい、東名高速に掛かる板東橋跨線橋を越え大住台地区に入り、善波川手前で左折し「さくら通り」を西に進む。
カシミール3Dで彩色した地形図を見ると、箕輪駅跡まで丹沢山地の南の平地を進んできた矢倉沢往還は、ここから丹沢山地と、その丹沢山地から平地部に八の字状に飛び出した丘陵部の間に入って行く。八の字となった丘陵部の西端が弘法山、東端が吾妻山、丹沢山地と平地に突き出す「八の字」の丘陵部「喉元」が善波峠となっている。で、なにゆえに平地を通らず嶮しくはないとは言え峠へと向かうのか気になりチェックする。
ここからは想像・妄想ではあるが、山間部へのルートとした理由は弦巻の地形にあるように思える。弦巻は往昔「どぶっ田」と称されていた。「どぶっ田」とは「底なし沼」とのことである。小田急線の南は窪地となっており、そのうえ弦巻には善波川、大根川、鈴川などが集まり、しかもその合流点は周辺より海抜が高く、水が滞留しやすく、大水の時には逆流していたとも言う。「笠窪」などと如何にも湿地帯であったであろう弦巻を避け、山間部の道を選んだのではないだろうか。

お地蔵様と愛鶏供養塔
道なりに進み、一度善波川を南に渡り直し少しすすむと道はふたつに分岐する。その分岐点にささやかな祠。祠にはお地蔵様2体と愛鶏供養塔が祀られている。供養塔は昭和17年の建立とのこと。

太郎のちから石
分岐を右に進むと、ほどなく道が再びふたつに分かれる。分岐点には右方向に「太郎の郷 太郎のちから石」の木標がある。矢倉沢往還は左に進むが、ちょっと寄り道。道を進み善波川を渡ると道脇に「太郎のちから石」の案内。「この石の上部にある二本の筋状の部分は善波太郎が下駄で力踏みした時の跡と言い伝えられています」とあった。
○善波氏
善波氏は出自不詳ではあるが、この地の在地領主とされる。「たろうの力石」の少し西、国道246号の北に三嶋神社が鎮座するが、その地に善波氏の館があったとされる。
善波太郎重氏は鎌倉幕府初期の武将で、その豪勇故に武勇譚が伝わる。この「ちから石」もそのひとつ。また、中将姫の織った幡に向かって射た弓の鈴が落ち、そこが鈴川となった、と言った奇譚が伝わる。
善波氏はその後も鎌倉公方足利氏のもとで活躍するも、室町時代となり、鎌倉公方足利持氏と関東管領の上杉憲実が争った永享の乱(1438)以降の消息は不明とのことである。

神代杉
右手が開けた小道を進む。簡易舗装も切れ、山道に入ると「神代杉(うもれ木)」の案内。「洪積世の後半頃に善波峠一帯に広がる火山灰土の地域に茂っていた大森林が大洪水のため倒伏埋没し、赤土(関東ローム層)の中で腐朽をまぬがれ長い年月の間に炭化が進んだもので、その後渓流によって赤土層が洗われ、露出したものである。考古学でいう旧石器時代に相当するといわれている(伊勢原市教育「委員会)」とあった。
植物にはそれほど「萌えない」ため、善波川へと下ることをスルーしたのだが、メモする段となり、崖下に農民手掘りの利水隧道があるとのこと。千葉愛媛の手掘り隧道を探し廻った我が身としては少々残念な始末となった。とりあえず、足を運ぶべしと、散歩の「原則」を再確認。

 「吾妻山」登山口の木標
先に進むと、「吾妻山0.35km」との標識。その分岐点には「矢倉沢往還」の案内がある。 「この道は奈良時代に開かれ、箱根越えの東海道が出来るまで官道の役割をしていました。江戸時代には裏街道として賑わい伊豆、沼津から足柄、秦野、伊勢原、厚木、荏田を経て、日常生活に必要な炭、わさび、干し魚、茶、それに秦野のたばこなどが馬の背で江戸へ運ばれ、人々に矢倉沢往還(矢倉沢街道)と親しまれていました。
また、大山、阿夫利神社に詣る道ということから大山街道の名でも親しまれていました(環境庁・神奈川県)」とあった。

○吾妻山
いつだったか、吾妻山を訪れたことがある。標高155mの山頂の眺めは良かった。 山頂には日本武尊の由来書があり、「日本武尊は、東国征伐に三浦半島の走水から舟で房総に向う途中、静かだった海が急に荒れ出し難渋していました。そこで妻の弟橘比売は、「私が行って海神の御心をお慰めいたしましょう」と言われ、海に身を投じられました。ふしぎに海は静まり、無事房総に渡ることが出来ました。征伐後、帰る途中、相模湾・三浦半島が望めるところに立ち、今はなき弟橘比売を偲ばれ「あずま・はや(ああ、いとしい妻)」」と詠まれた場所がこの吾妻山だと伝えられています」との説明があった。


夜泣石
木立の中の山道を進む。分岐点からほどなく道脇に丸い石と案内板。「夜泣石」とあり、「その昔、旅人がこの石の辺りに誰助けることなく倒れていたそうだ。 以来、夜中になると助けを求める声が聞こえたという」との説明があった。

「弘法山ハイキングコース」標識
夜泣石から先に進む。右手が開け、善波地区辺りが畑地の向こうに見える。善波太郎の館があったと伝わる辺りではあろう。道の周囲が木々に包まれる道を進むと「弘法山ハイキングコース」の標識。「熊出没注意」が御愛嬌。夜泣き石からおおよそ20分弱だろうか。
弘法山は弘法大師が修行したとの伝説のある山。山頂には大師の木造を安置した大師堂、井戸、鐘楼などが残る。標高235m。


国道246号
「弘法山ハイキングコース」標識を越えるとほどなく道はふたつに分かれる。直進する道には「この農道はこの先通り抜けできません ハイキングコースは右折」とあり、右方向に「関東ふれあいの道 国道246号」とあった。直進はいい感じの道ではあるが、地図を見ると道が消えている。藪漕ぎをしてみたい、とは思いながらも、御老公の御伴としては国道に迂回する道を選ぶ。
国道246号を少し西に進むと「新善波トンネル」が見えてくる。昭和38年(1963)竣工。全長260mのトンネルである。幅員は13.5m、高さは4.5mとのことである。

旧善波隧道に
善波峠は旧246にある旧善波隧道の真上に位置する。旧国道246号は「新善波トンネル」の手前を左に折れる。旧国道に沿って立ち並ぶ日本独特(?)のホテル街を抜けて進むと旧善波隧道が見えてきた。道を進みながら、峠に取り着く場所を探すのだが、コンクリートで壁面が固められ、なかなま適当な箇所が見つからない。
入口方面からの峠への取り付きを諦め隧道の真上にあるであろう善波峠を想いながら隧道に。昭和3年(1928年)竣工、全長158m、幅5.5m、高3.7mと、新善波トンネルと比べ幅と長さは半分といったところである。
トンネルを抜け、峠への取り付き部を探すと、適当なところが見つかった。実のところ、旧国道をもう少し西に進めば峠に上る道があるのだが、峠を見ながら、それを見過ごすのは如何なものか、などと訳のわからぬ理屈で崖に取りつく。

善波峠への藪漕ぎ
崖に取り付き先を進むが、結構な藪。遮る木を折り敷き進むと山肌は2段に分かれており、下段を越えると藪も消える。と、ここでご老公が携帯を落としたとの「叫び」。折り敷いた竹藪を元に戻り携帯を発見。藪漕ぎを言いだした我が身としては一安心。
藪の開けた上段部に戻り、隧道出口の真上に向かって成り行きで進むと、隧道出口の上に向かって進む踏み分け道があった。隧道出口を眼下に見下ろし先に進むと隧道出口上辺りで結構整備された道に合流した。旧国道を先に進んだ辺りから峠に向かう道ではある。取り付き部から小径との合流点までおおよそ10分程度であった。

善波峠
道を上ると大きく開かれた切通しにでる。善波峠である。標高160mほどのこの峠は伊勢原市と秦野市の境でもある。切通しには5体の石仏が佇む。何故か首が切り落とされているのが痛々しい。峠には「弦巻温泉 弘法山」、また「大山9.5KM」といった木標が立つ。西の弘法山からこの峠を経て吾妻山から弦巻温泉に歩いたことを想い出す。北に進めば大山へと登れるのであろう。

峠にあった矢倉沢往還の案内には「矢倉沢往還; 近世の交通路は五街道を中心に、本街道の脇にある往還が陸上交通の要として整備されていました。矢倉沢往還は東海道の脇往還として発達し、江戸赤坂御門から厚木・伊勢原・善波峠・曾屋(十日市場)・千村・松田惣領・関本などを抜け、足柄峠を超え駿河沼津宿まで延びていました。大山への参詣路として利用されていたため、大山街道と呼ぶ所もあります。現在の246号線は、概ねこの矢倉往還に沿って通じています。また、当時秦野の経済活動の中心をなしていた十日市場で開かれる市において、矢倉沢往還は物資運搬に大きな役割を果たしていました(秦野市)」とあった。

矢倉沢往還は古くから人や物が行き交う道であり、日本武尊の東征の道筋が、足柄峠を通って矢倉沢から厚木まで矢倉沢往還とほぼ同じであったと伝わる。吾妻山で妻の弟橘比売を偲び「あずま・はや(ああ、いとしい妻)」と詠んだことはメモしたとおり。
そしてこの「矢倉沢往還は公用の道、信仰の道、物 資流通の道と様々な機能を持つ。公用の道;徳川家康の江戸入府の折り、箱根の関所の脇関所の一つとして矢倉沢に関所を設ける。関所の名前が街道名の由来。また、後年、人夫・馬を取り替える継立村が置かれ、東海道の脇往還・裏東海道の一つとなった。 信仰の道;江戸時代中期以降、大山信仰が盛んになる。各地から大山詣での道がひらけ、その道を大山道というようになったが、矢倉沢往還は江戸から直接につながっており、大山道の代表格。
物資流通の道:相模、駿河、伊豆、甲斐から物資を大消費地である江戸に運んだ道で、駿河の茶、綿、伊豆のわさび、椎茸、干し魚、炭、秦野のたばこなどが特に有名。

○御夜燈
切通しを弘法山のほうに少し廻り込んだところに「御夜燈」があったことを想い出しご老公をご案内。摩耗激しく原型を留めないが、「この御夜燈は、文政十年(1827年)に旅人の峠越えの安全のために、道標として建てられました。点灯のための灯油は、近隣の農家が栽培した菜種から抽出した拠出油でした。この下に峠の茶屋が有り、その主人、八五郎さんの手により、明治末期まで点灯し続けられていました。その後、放置されたままになっていましたが、平成六年(1994年)地元の「太郎の里づくり協議会」の手により復元されました(伊勢原市)」と案内にあった。
峠の切り通しで峠の東で途切れた矢倉沢往還の道筋を探す。弘法山から弦巻温泉へと向かうハイキングコースの道筋を確認し、残った道筋が往昔の矢倉沢往還であろうと、その道筋を東へと歩いてみる。道はホテル群の辺りで行き止まりであった。いつだったか弘法山から弦巻温泉に歩いたとき、この善波峠を掠ったのだが、道筋がいくつもあり、矢倉沢往還がどちらからどちらへ進む道なのかわからず、ずっと気になっていたのだが、これで一件落着となった。

名古木
峠をから道を下り矢倉沢往還を西に向かう。前面に箱根の連山、富士山、そして街道の名前の由来ともなった「矢倉岳」が広がる。誠に素晴らしい景観である。
坂道を下りながら地名を見ると、「名古木」とある。「なごき」ってどう言う意味?チェックすると読みは「ながぬき」と読むとある。何故に「ながぬき」と更にチェックすると「まほら秦野 みちしるべの会」のHPにその解説が説明されていた。
まとめると、天保12年(1841)に編纂された『新編相模國風土記稿』には、「名古木村」を「奈古乃幾牟良=なこのき」と呼ばれたとある。また同書に「古は并椚村とも書す」とある。。「并」は「並ぶ」の意。椚は「くぬぎ」であり、「くぬぎ」は古くあ「くのき」と読まれたようで、「なくのき」と読まれたとのこと。慶安2(1649)年とのことである。さらに、、寛政4年(1792年)の『大山不動霊験記』には「長軒」とあり、「ながのき」と読んだ。まとめると、「名古木」は「并椚・ナクノキ」→「長軒・ナガノキ」→「奈古乃幾・ナコノキ」と変化し「名古木・ナガヌキ」に至った、とのことである。
因みに、「并椚」について「まほら秦野 みちしるべの会」のHPに興味深い説明もあった。原文を掲載させて頂く。「古の人たちもまた、われわれと同じように家と外を区別するために門を作った。そして門のことを「区の木」と呼んだ。門に使われたのは里山に自生している木だった。その「区の木」として使われた木がクヌギと呼ばれるようになった。「椚」は「区の木」当て字・国字である。
『并』は『竝=並』に近い意味を持つ。(『并』は縦並びを意味する文字)。地名『并椚』は、「区の木」が並んでいる、奥の方に家が並んで建っている様を表している。
「名古木」を「奈古乃幾・ナコノキ」と呼ぶとき、「ナコ」は「和やか・穏やか」。「キ」は場所を表す語。あわせると「ナコノキ」はなだらかな地形の場所と説明できる」とのこと。なるほど、坂道は緩やかに下る。

(曽屋宿)

名古木地区を下り、国道246号に一瞬合流し、「名古木交差点」で国道を離れ県道704号に入り、落合交差点の先で金目川に架かる「入船橋」を渡る。橋の西詰めには馬頭観音などの石仏群が柵の中に佇む。道路工事などで取り除かれた石仏が集められたものだろう。
○曽屋宿
曽屋宿は矢倉沢往還の伊勢原宿の西に向かう次の宿。矢倉沢往還、太山みち羽根尾通り(小田原から大山に向かう道)、平塚みち、西には富士道がとおるこの曽屋村は交通・交易の中心地であったようで、かつて「十日市」で賑わい、曽屋村というより、十日市場が通り名でもあったようである。
村には「上宿」・「中宿」などの地名が記録に残るほか、小字として「十日市場」・「乳牛」といったものがある。「十日市場」は文字通りとして、「乳牛」とは結構面白い名前。
気になりチェックすると、「乳牛」は「ちうし」と読み牛乳を絞る乳牛のこと、と言う。『延喜式』に相模国から十六壺の蘇(そ;牛乳を発酵させてつくチーズのような乳製品、とのこと)を貢納したとある。この地に棲み着いた渡来人の手になるとのことである。因みに、「曽屋村」も「蘇」をつくる所に拠る地名言われる。

庚申塔
矢倉沢往還は緩い坂を上り曽屋宿(昔の曽屋村)に入っていくが、その入口を画するように下宿バス堤手前の電柱脇に嘉永4年(1851)建立の「庚申塔」がひっそり残されている。庚申塔は道標も兼ねており、右側面に「左いせ原道」、左側面に「右大山道」と刻まれていることのことである。

馬車鉄道・軽便鉄道跡
庚申塔から少しすすむと、右側にイーオンがあるが、その角に「馬車鉄道・軽便鉄道・湘南軌道の沿革」の案内があった。案内には「通称「けいべん」は、明治39年(1906年)に湘南馬車鉄道株式会社が秦野町(現在秦野市本町三丁目)~吾妻村(現在二宮町二宮)~秦野町(現在秦野市本町3丁目)間の道路9.6㎞に幅二尺五寸(762mm)の軌道を敷設した馬車鉄道の運行が始まりとなっています。
馬車鉄道は一頭の馬が小さな客車、または貨車を引くものでしたが、大正2年(1913年)には動力を馬から無煙炭燃料汽動車(蒸気機関車)に代わり、社名も湘南軽便鉄道株式会社となりました。大正7(1918)年には、湘南軌道鉄道へ軌道特許権が譲渡されています。
当時の沿線は、わら葺屋根の民家がほとんどで火の粉の飛散を防ぐため、独自に開発したラッキョウ型の煙突を付けた機関車が、客車や貨車を牽引していました。旅客は秦野地方専売局の職員や大山への参拝者で、貨物は葉たばこ、たばこ製品、木材、綿糸などで秦野地方の産業発展に大きな役割を果たしました。 この地付近には、大正10(1921)年からの軌道延長工事により、台町にあった秦野駅が移されています。大正12(1923)年には専売局の構内に煙草類専用積降ホームが設けられ、引き込み線の接続がされています。秦野には。この他台町駅、大竹駅がありました。 大正10年(1921年)には秦野自動車株式会社が秦野~二宮間の営業を開始し、大正12年(1923年)の関東大震災による軌道の損害、、昭和2年(1927年)の小田急開通などにより鉄道の経営が厳しくなり、昭和8年(1933年)に旅客運輸を、昭和10年(1935年)には軌道全線の営業を休止し、昭和12年(1937年)に軌道運輸事業を廃止しています。
明治、大正、昭和の時代を走り抜けた「けいべん」の思い出は人々の心の中に生き続けています。(秦野市制施行50周年記念事業「軽便鉄道歴史継承事業」秦野市)」とあった。

仲宿
街並みは古き宿の面影は少ないが、仲宿バス堤あたりには昔の趣を留める民家が幾つか残っていた。先に進むと「本町四ッ角交差点」にあたるが、このあたりが十日市の立つた場所であったとのことである。『風土記稿』には曽屋村の十日市場のことを「古き市場にして、今も毎月一六の日市立ちて雑穀、農具、薪等をひさぎ近郷の者集えり」と描く。

上宿観音堂
本町四ッ角交差点から少し西に進むと、道の北側に「上宿観音堂」がある。お堂にお参り。由来書をまとめると、「白雲山上宿観音堂。本尊は「千手千眼観世音菩薩」。行基の作と伝わる。「開運・厄除け」や「子授け・安産」を祈願し地元住民により建立。本堂の創建の時期は不詳であるが、天保時代の十日市場を描いた古絵図や寛政の年号が刻まれる半鐘の銘文等から寛政年間には原型がこの地にあった、とされる。その後龍門寺持ちとなり、現在に言いたる。
境内には火災鎮護の秋葉神社もあった。寛政年間に静岡県の秋葉神社から分霊し建立。その霊験はあらたかで、関東大震災の折には火災の類焼を免れた、とか。

「乳牛通り」と「醍醐みち」
先に進み横浜銀行を越えた先に北から合流する道があり、その道は「乳牛(ちうし)通り」と呼ばれる。上にメモした古代に乳製品をつ くる乳牛の牧場でもあったのだろうか。で、あれこれチェックしていると、その乳牛通りの西、市役所近くに「醍醐みち」がある、と言う。
醍醐(だいご)も、10 世紀頃、牛乳を煮詰めてつくるチーズのようなもの、とのこと。仏教で乳を加工する5段階のプロセスを「五味」と呼び、牛より「乳」をだし、「乳」より「酪」をだし、「酪」より「生穌」を出し、「生穌」より「塾穌」を出し、最後に最高の味である「醍醐」となす、とある。因みに「醍醐味」とは仏教用語で、経典の「位階」を定め、最高・最上の経典を醍醐のような最高の「味>教え=仏法」とし、それを醍醐味と呼んだ、とのことである。

水無川・秦野橋
道なりに南西に向かい「水無川」に架かる秦野橋を渡る。水無川は丹沢山系の塔ノ峰にその源流を発し南に下り、秦野盆地の中央部で南東に向きを変える。、秦野市河原町と秦野市室町の境界で室川に合流し、左右を丘陵に挟まれた盆地出口辺りで金目川と合わさり、金目川となって平塚へと下る。
水無川の所以は、川が秦野盆地に発達した扇状地の扇端部で地下に伏流するためである。実際秦野には多くの湧水で知られる。扇状地の扇端部で伏流した水が湧きだすことによる。
現在水無川には名前に反して水が流れるが、その水は市の北部に誘致された工場地帯からの処理水とも聞く。

○曽屋村と秦野

秦野橋を渡る。橋の南東、すぐの処に小田急線・秦野駅がある。「秦野」と言えば、ここまでメモしながら、今まで歩いてきた現在秦野市街、かつての「曽屋宿(村)」に、「秦野」の名前がどこにも登場してこなかった。これって、どういうこと?
チェックすると「秦野」という行政上の地名ができたのはそんなに古いことではない。明治22年(1889)の町村制施行時に、曽屋村(十日市場を含む)、上大槻村、下大槻村飛地、名古木村飛地が分合し大住郡秦野町となった。これが「秦野」の正式地名のはじまりであろうか。
ここで更にちょっと気になることが。この地は平安時代の後期、平将門討伐で名高い藤原秀郷の後裔と称する都の高級官僚が相模国波多野郷に下り波多野氏を称し、この地一帯に覇を唱えた。鎌倉時代には平氏に与し、所謂「負け組」とはなったが、「波多野」の名は厳然としてこの地に「君臨」したではあろうし、であれば、町村制施行時に「波多野町」となってもいいと思うのだが「秦野」となっている。
なぜ「秦野」?あれこれ妄想するに、はっきりとしたエビデンスは無いようだが、この地には帰化人である秦氏が古来移住したとされる。上でメモした「蘇」や「醍醐」といった乳製品をつくったのは秦氏一族とも言われるし、また、秦氏の一族である漆工芸の棟梁である綾部氏が東大寺建立に貢献し外従五位下を賜ったとの記録が『東大寺要録』に残るが、この綾部氏は後に相模国造となったとのこと。
それと関係あるの無いのか不明だが秦野市には綾部姓が100軒以上もある、と言う。つまるところ、町村制施行時に町名を決めるとき、地域を支配した「波多野」氏ではなく、この地に住みついた人々の祖先である「秦」を選んだのだろうか。単なる妄想。根拠なし。

矢倉沢往還碑
秦野橋を渡り、水無川と小田急線の間の道を西に進む。道路の南北には清水とか今泉と言った、如何にも湧水豊富な地を連想させる地名が残る。湧水巡りの想いが募る。
その清水町を越えた先にある南中学校南の道路脇に「矢倉沢往還」の案内。 「矢倉沢往還 古道解説 矢倉沢往還は、東海道の裏街道として江戸赤坂から駿河国吉原を結ぶ主要な道路であり、商人や参詣の人々で賑わったという。秦野市内では千村・平沢・曽屋などの村を経て善波峠に至っており、千村は松田惣領と曽屋村間を、曽屋村では千村と伊勢原間の人馬の継ぎ立てを行っていた。この道は別に大山道・小田原道とも称し、現在県道平塚秦野線となっている」とあった。
平沢はこの地の南、小田急線の南に地名が見える。上で明治22年(1889)の町村制施行時に、曽屋村(十日市場を含む)、上大槻村、下大槻村飛地、名古木村飛地が分合し大住郡秦野町となった、とメモしたが、この平沢村一帯も、平沢村・今泉村・尾尻村・大竹村が合併し、これも大住郡南「秦野」村となっている。「波多野」を選ばなかった理由を益々知りたくなってきた。

双体道祖神
道はその先で三叉路となる。矢倉沢往還は右の道を進むのだが、分岐点を越えた直ぐ先の道脇に「双体道祖神」が佇む。酒を酌み交わす夫婦が刻まれるが、なんとなく新しいような気がする。
往還道は道なりに北西に進み、堀川交差点で国道246号を越え、更に北西に僅かに進んだところ、南中原バス停あたりで道を南西に折れ、西沢西交差点で再び国道246号を越える。その先に走る小田急線の踏切を渡るとすぐに道は西に進路を変え、小田急線に沿って稲荷神社前交差点へと向かう。

国栄稲荷神社
稲荷神社交差点のすぐ北に国栄(くにさかえ)稲荷神社。社にお参り。祭神は宇迦魂神(うかのみたまのかみ)・金刀比羅大神(こんぴらのおおかみ)・菅原大神(すがわらのおおかみ)で、境内社に水神社も祀られる。創立年代は不詳である。往古より養蚕家の信仰が篤く、競馬の神事が行われていたようであるが、小田急線開通にともない馬場は宅地となり競馬は絶えた、と。境内には秦野市指定の天然記念物「稲荷神社の大公孫樹(イチョウ)」。樹高は25m、樹齢は400年とのことである。
また、境内道脇には「矢倉沢往還」の案内の石碑があり、「矢倉沢往還 古道解説 ここは東西に通る矢倉沢往還(江戸赤坂と駿河国吉原を結ぶ)と渋沢峠を経て小田原に至る小田原街道が交差しており、大山や富士参詣をする人々で賑わった。曲松から北に進むと運動公園付近で水無川を渡り田原を経て大山に至る道を「どうしゃみち」と称し、季節になると参詣や巡礼の人々が行き交った。また、大山参詣者や大山講の人々によって数多くの道標が建てられ、近くに江戸屋喜平次の建てた道標もあり、旅宿も何軒かあったという」とあった。

道標
案内にあるように、境内道脇に大きな道標があり、道の正面には「左 小田原 い々すミ 道」、右側には「右 ふじ山 さい志やうじ道 左10日市場 かなひかんおん道」。裏手には「左大山道 願主富村 江戸屋喜平次」、左側には「寛政八年丙辰歳*月 石工*」と刻まれる。
「い々すミ」とは小田原飯泉観音、「さい志やうじ」とは「大山最勝寺」、「かなひかんおん」とは「平塚金目観音」のことである。追分の道標として旅人への便宜を図ったのであろう。




○小田原道
道標にあった小田原道は平安・鎌倉時代の矢倉沢往還道でもある。道筋は稲荷神社前交差点から南に秦野丘陵を越え道標にあった「渋沢峠」を越え、その名も「峠」と名付けられた集落を経て丘陵を下り、東名高速と川音川が交差する辺りの神山神社へと下りてゆく。標高160m当たりから最高点240mの丘陵を越え110m当たりへと下るこの道は、江戸の頃も、四十八瀬川に沿って下る矢倉沢往還が洪水で使用できないときなどは、この小田原道を迂回したとのことである。

(千村宿)

二つ塚
江戸の頃の矢倉沢往還は、稲荷神社交差点から西へと向かう。往還の北にある小田急・渋沢駅は標高163mと小田急線で最も標高の高いところにある。歩くこと10分程度、丘陵北端部近くを30mほど登ると道脇に「二つ塚」がある。「ふたんづか」と読む。
木標には庚申塔と地神塔も記される。小丘には庚申塔とともに、「報蒼天 三十三度」や「富士浅間大山」と言った富士講を記念する石碑とともに、正面に「堅牢大地神」と刻まれた石標があり、「右 大山 十日市場 左ふし さい志やうしみち」と刻まれている。文化14年(1817年)に建立され道標も兼ねている。
脇にある案内には「矢倉沢往還と千村地区 ;矢倉沢往還は、江戸時代に東海道の脇往還として制定された公道で、東京赤坂御門を起点として、静岡県沼津吉原まで続く道であり、富士山への参詣路でもありました。 今から約千三百年前の八世紀頃には、地域の主要な道として利用されていた様子もうかがえます。
千村地区は、矢倉沢往還の一部が良好な状態で保存され、不動明王像を戴く沓掛の大山道道標や 「茶屋」といった地名なども残っており、江戸時代後期に作成された地誌である「新編相模国風土記稿」に 「矢倉澤往来係る 幅二間半 陣馬継立をなす西、足柄上群松田惣領、北、本郡曽屋村へ継送る共に 一里八町の里程なり、但近隣十三村より人馬を出し是を助く」と記されており、 矢倉沢往還が通過する主要な村のひとつであったことがわかります(平成二十三年三月 矢倉沢往還道を甦らせる会)」とあり、おすすめのハイキングコースとして「渋沢駅~二ッ塚~茶屋~蛇塚踏切~河内橋~神山滝~頭高山~渋沢駅」が記されていた。

湯殿山石碑
宿の面影は何もなく、丘の上の住宅街の中を進むと民家脇に「湯殿山」」と刻まれた石碑が建つ。出羽三山信仰の記念碑であろう。千村は矢倉沢往還の主要な継立場の一つ。江戸時代には大山参りや冨士講、そして遠くは出羽三山詣りの道でもあったということだろう。矢倉沢方面から峠を登り、一息入れたのがこの千村宿ということ、かと。

茶屋跡
さらに西に住宅街を進むと民家の生垣に「矢倉沢往還」の案内。「矢倉沢往還道(750頃) この前側は茶屋跡 芝居小屋や饅頭屋がありこの周辺は街道一の賑わいがあった。また、荷物の中継所もあったようです」とある。
この辺りが千村宿の中心であったようではあるが、「750頃」って何のことだろう?と考えながら進むと、その先に道標があり、そこには「矢倉澤往還道(西暦750年頃) 沓掛・不動尊・双体道祖神、神山滝方面へ(矢倉澤往還道を甦らせる会)」とあった。先ほどの750頃って、西暦のことであったようである。
ということは、江戸・明治の頃の矢倉沢往還として歩いているこの道筋も平安の頃より開かれていた、ってことではあろうか。実際、西暦 770(宝亀元)年に京から東に向かう古東海道として開かれた路の一部である、といった説もあるようだ。

浅間大神塔
道標のあった民家辺りを過ぎると、宅地も次第に消え左手が畑地となり開けてくる。畑地の先は四十八瀬川の谷筋。谷を隔てたその向こう側に丹沢の山々が見える。
農地の中の道を四十八瀬川の谷筋にむかってうねうねと進むと道脇に「浅間大神塔」の木標。説明には「此の地より多くの賽銭(古銭)が出土している」とある。特に塔といった類のものは見当たらない。富士参詣の人々がここにあったであろう浅間大神塔にお賽銭をささげたものだろうか。


矢倉沢古道
「浅間大神塔」の先に「車止め」。その先は簡易舗装も消え、中央部分を掘り割った道が下る。道脇に「歴史の道 矢倉沢往古道」とあるように木々に覆われた雰囲気のある美しい古道が続く。藪に覆われた道を地元の人の手によって整備されたとのこと。感謝。

馬頭観音
道を進むと「矢倉沢往還道 沓掛 不動尊 あと400m」の木標。ほどなく小田急線の音も聞こえてくる。小田急線に沿って階段状の道を下ると道端に馬頭観音。大正9年(1920)の建立と言う。その頃まで矢倉沢往還は機能していた、ということだろう。因みに小田急線の開通は昭和2年(1927)である。



沓掛不動尊
馬頭観音の先、平地に降りきった辺りに不動尊。案内には「西の玄関口、沓掛とも呼び、わらじを履き替えたりほしたり、木に掛けました。茶屋、まちや(屋号)と呼んでいた。古井戸もある。不動尊は旅の安全をお守りした」、とある。また、不動尊の傍にも「この不動明王は安永3年(1774)11月28日、千村の半谷佐五衛門とその妻が「天下泰平」「国土安全」「誓願成就」を祈願するとともに大山参詣者の安を祈って祀ったものである」との案内があった。
台の正面には「川上 そぶつみち 大山道 天下泰平国土安全 川下 ふじみち さい志やうじみち」と刻まれる、と言う。「そぶつみち」って何だろう?

お不動様の近くに少々荒れた小屋があり,[西の玄関沓掛]の標題とともに,(山に向かった矢印 に[茶屋まで約1.5キロ 渋澤駅まで約3キロ],逆方向にには[蛇塚踏切約600m 河内橋 神山滝約1.2キロ 頭高山へ 約2.5キロ 渋澤駅へ 約5.5キロ]と書かれた木標がある。それとともに「お帰りなさい お不動さん ふるさとへ30年ぶり」といった新聞記事が貼られていた。

記事を要約すると、「昭和31年(1956)、木標の案内にもあった神山滝を観光地にしようとするも、滝に欠かせないお不動様がない。ということで、この沓掛のお不動様の台石だけを残し、台座と不動尊を神山滝に運ぶことに。が、台座はあまりに重たいと、途中で投げ出し、不動尊だけを滝に祀った。
しかしながら、思ったほどに観光客も増えず、お不動様は滝脇で荒れるにまかされていたが、30年経った昭和62年(1982)、滝開きで貸したきりになていた不動尊が地元民の願いが通じ、元のこの場所に戻ってきた」というものであった。

四十八瀬川を渡る
不動尊から先、右に見える小田急線を越える道はあるものかと進む。遮断機・警報機もついた踏切があり小田急を越えることができた。
小田急は越えたがその先に四十八瀬川。地図には橋もなく、どうしたものかとは想いながら踏み分け道を進むと前方に竹藪。四十八瀬川はその先に見える。 竹藪を踏み敷き川筋に出るが橋はない。水はそれほと深くもなく、飛び石伝いに川を渡る。
渡った河原に鉄板で造られた仮橋が転がっている。普段はその仮橋が掛かっているのだろうが、水流で流されていた。で、ご老公のために仮橋を担ぎ岸に仮橋を渡し、無事「お渡り」願う。これだけで本日の大役は果たせたようなものである。

国道246号
川原から道に上るところを探すと階段があり、階段を上り草むらを進むと国道246号に出た。今回歩いた矢倉沢往還のルートは大雨などで四十八瀬川が氾濫したとき、渋沢駅近くから南へ峠越えする「平安・鎌倉時代」の往還ルートを使ったというが、その雰囲気をちょっと実感した川渡りではあった。

国道246号・蛇塚交差点
しばらく国道を進み、蛇塚交差点で国道を離れ県道710号に入る。しばらく進み四十八瀬川を渡り直す辺りで右手から中津川が合流。四十八瀬川はここから下流は川音(かわね)川と名前を変える。
川音川左岸を進むと「神山滝 頭高山」への木標。滝までの距離が記されてなく、今回は見送ったのだが、メモの段階でチェックするとわたりほど離れてはいなかったようだ。


東名高速を潜る
砂利や生コンの工場が並ぶ道を進むと、先に東名高速の高架が見えてくる。東名高速の手前あたり、神山神社前を通る県道77号が県道710号にあたるところで、渋沢峠を越えてきた「平安・鎌倉時代」の往還道と合流する。

(松田惣領宿)

川音川・籠場橋
東名高速の高架を潜り、すぐ右に折れ川音川・籠場橋を渡ると「松田惣領宿」に入る。川音川と酒匂川に挟まれたこの宿は、、新編相模国風土記によると、戸数は185戸,「人馬の継立てをなせり」とある。酒匂川の渡船場でもあった。 籠場橋の西詰めの左手土手辺りに幾多の石仏・石塔が並べられていた。
「惣領」宿って、面白い。誰かの嫡子が領した地ではあろとは思いながらもチェックすると、現在松田には「松田町惣領」と「松田町庶子」という地名がある。その由来は松田郷を領する松田某が妻の子には本家を継がせ、妾腹の子には庶子として分家させた、とのこと。「松田町惣領」と「松田町庶子」はその二人の継いだ土地の名残ではあろう。平地部は惣領町、北の山地側に庶子町が多いように見える。パワーバランスがわかりやすい。

堅牢地神
県道72号を東名高速に沿って進み、国道255号の高架下を潜り、足柄上病院入口交差点の先、道の左手に石碑があり、「堅牢地神」と刻まれる。建立は文政9年(1826)。
「堅牢地神」は仏教十二天のひとつ。大地を堅固ならしめる女神として豊作を祈念して祀られたものではろう。千村の「二つ塚」にも祀られていた。松田惣領周辺にはこの神が結構祀られているようである。



JR御殿場線・松田駅
県道72号・新松田駅交差点を南に折れ県道711に入る。JR御殿場線・松田駅の東を通り、西に折れて小田急線・新松田駅との間の道を通る。
どうでもいいことなのだが、いつだたか、山北町の用水を辿ったとき、小田急線からJR線に乗り換えたとき、JR松田駅改札脇に「モンペリエ」という喫茶店があった。若き頃、20歳から3年ほど世界を旅したことがあるのだが、南仏のモンペリエの修道院跡に下宿し冬を越したことがある。懐かしく楽しい思い出だけの詰まる「モンペリエ」に魅かれえて一休みした。今回も、と思ったのだが残念ながら定休日となっていた。


酒匂川・十文字橋
道を進み、松田小学校手前の交差点を左に折れ先に進むと酒匂川に架かる「十文字橋」となる。橋を渡った西詰めの「けやき」の下に十文字橋の案内があった。
「十文字橋は明治22年(1889)東海道が開通し、それに伴い松田駅から大雄山最乗山道了尊に通じる幹線道路として出来ました。この木の橋は、地元有力者が建設し金銭を取り渡らせていました。度重なる豪雨でその都度流され、仮橋や仮舟で対応していました。
大正2年(1913)現在の十文字橋の原型となるトラス橋を県が完成させました。しかし、中心部の橋脚だけが石で積み上げ、その他は木製でした。その後。木製から鉄製になりました。大正12年(1923)の関東大震災で鉄製の橋脚は落ちてしまいましたが、石の橋脚部分だけが残りました。
昭和8年(1933)には、鉄製部分がすべてコンクリート製になりました。その後、歩道をつけたり、トラスをとる大改修をし、昭和51年(1976)からは松田町・開成町で管理することになりました。
昭和19年(2007)9月7日未明の台風で大正2年(1913)につくられた石の橋脚の一部が被害を受けてしまいましたが、平成20年(2008)現在の橋に復旧されました。
このモニュメントに使われている石は、大正2年(1913)の橋脚の石です(町田町役場)」とあった。
江戸末期の記録には伊能忠敬がをつくるようにと命じた土橋が架かったとの記録もある。場所は現在の位置よりかなり下流であった、とか。

○十文字の渡し
また、けやきの下に「十文字渡しのけやき」の案内がある。「遠い遠い昔、この付近を官道が都から東国に通じていました。江戸時代に入ると東海道の裏街道として整備され、駿河・相模・武蔵の三国を結ぶ重要な道になりました。その途中、酒匂川に設けられた渡し場を十文字の渡しといいました。最初は下流の足柄大橋付近にありましたが、時代とともに移動し、江戸時代の後期には、松田町町屋とこの付近を結ぶ、河原を斜めに通行するようになりました。夏は船、冬の渇水期は土橋がかけられましたが、対岸があまりにも遠いので、目印に植えられたのがこのけやきです。二百年以上にわたって、酒匂川を見つづける生き証人です」とあった。
松田市町屋って何処かはっきりしないが、あれこれチェックすると。酒匂川は昔から暴れ川として知られており、十文字の渡しは時代によって場所が変わっているようだ。江戸時代中期までは松田町町屋の物資の継立場と開成町の下島を結んで、現在の「あしがら大橋」付近にあったようだが、その後、酒匂川の流路の変化によって、より安全な上流へ移り、天保5年(1834年)の「新編相模国風土記稿」には、松田町町屋継立場より北に川音川を橋で渡り、小田急線の鉄橋の下あたりから酒匂川を「河原町の欅」の下に渡る道が描かれている、とのこと。
渡河は原則として歩行渡しだが、夏場は「船渡し」になり、十文字の名前の由来との説もある「十文」を渡し賃として取っていた、ともされる。

吉田島の道祖神
十文字橋を渡おり、最初の交差点を南に折れ、道は酒匂川の傍に広がる「花の広場」に沿って下り、行き止まりを右に折れ、先に進むと道脇に道祖神が祀られていた。

大長寺の石仏・石塔群
道を進みT字路を右に折れ、すぐ先の道を左に折れ、最初の角を左に進み大長寺へと向かう。お寺さまの塀にそって幾多の石仏・石塔が並んでいた。

石仏・石塔群
矢倉沢往還道は小田急線に沿って南に下り、足柄大橋から続く県道78号を越える。上でメモしたように、初期の「十文字の渡し」は、この足柄大橋の辺りであったようだ。
県道78号を越え南に下った往還道はT字路で右に折れ県道720号にあたる。交差点の少し手前の道脇に幾多の石仏・石塔が集められ祀らていた。


○足柄平野の治水・利水事業
県道720号の交差点から西にへと進む。進みながら道に交差する用水、小川の 多さが気になった。誠に多い。地図でチェックすると、吉田島、千津島、牛島、下島といった如何にも河川の自然堤防を表すような地名が周囲に残る。
チェックすると、江戸時代以前、酒匂川は足柄山地から酒匂川水系が足柄平野に出る県道74号の新大口橋辺りから大きく五つの流れが南に下っていた。自然堤防・微高地を表す地名はこの時代の名残ではあろう。
江戸時代に入ると小田原藩主である大久保忠世・忠隣親子により治水・利水工事が行われ複数の流れが東に移され一本化され、現在の流路とほぼ同じ河道となるとともに、灌漑用水路を平野に巡らせた。
酒匂川が足柄平野に出る大口付近に春日森土手、岩流瀬(がらせ)土手。大口土手を忠世が築き、水勢を制御し河道を一本化し、河道が確定した後、忠隣は酒匂川から水を引きこむ堰をつくり、足柄平野の新田を開発すべく多くの用水路を開削したと言う。
ただ、小田原藩主による治水事業により酒匂川が安定したわけではなく、その後も足柄平野は水害に悩まされ続け、更に富士山の宝永噴火後の大口土手決壊 (1711 年)による流路変動(河道が東に移動)、富士山噴火に伴う降灰による河床上昇に伴う大規模な洪水が多発し、田中丘隅やその女婿である蓑笠之助らによる治水工事が行われることになるが、それはともあれ、往還道に幾多の「水路がクロス理由は以上の歴史的事業の故であろうと思う。

牛島自治会館
水路筋などを見やりながら進むと「牛島自治会館」。その前に矢倉沢往還の案内があり、「矢倉沢往還 古代都より東国に通じた官道のなごりともいわれています。江戸時代、駿河・相模・武蔵の三国を結んだ東海道の脇往還として内陸部の物資交流の道であり、富士山、道了尊、大山を結ぶ信仰の道として栄えました(開成町教育委員会)」とあった。

宮台の地蔵尊
要定川を越え道なりに進むとちょっと開けた場所があり、ガラス張りの祠にお地蔵様が祀られていた。案内によれば、「両開きの扉に、それぞれ「登り藤」の家紋がついた黒漆塗りの立派な円筒形の厨子に納められたいます。
立ち姿の木像で唐金色の着色。台座・光背を含めた全高114センチメートル。左手に宝珠、右手に錫杖を持ち、すべてをそなえた上品ないお姿です。この像は江戸時代には近くの本光寺地蔵堂にあり、やがて旧宮台公会堂へ。平成20年、地元の皆さんにより、現在地の立派な祠に移されました。
地蔵菩薩は、インドの仏教が起源ですが、その信仰がひろまったのは中国に入ってからであろうと言われています。日本では中国の影響を受けて、平安後期ころから、まず貴族の間にひろまり、鎌倉時代ころにはひろく一般にも浸透しました(平成24年 宮台地蔵保存会)」とあった。

切通し
遠くに箱根連山を見ながら往還道をひたすら西に向かう。単調な道を進むと前方が丘陵で遮られる。往還道は丘陵が平野部に突き出した末端部であり高度はあまりない。この丘陵部の切通しを越えれば関本に入る。
切通しを越えると関本の街、そしてその向こうに箱根連山の尾根に矢倉岳の独特な姿が見える。切通しの道を下り県道75号に合流し道なりに貝沢川を渡り龍福寺交差点に。

龍福寺
お寺さまにお参り。創建年代は永仁6(1298)年とされ、開山は元応元(1319)年、藤沢の遊行寺を本山とする時宗のニ祖の真教によるもの。本尊の阿弥陀如来坐像は鎌倉時代作。像高88センチ、膝の幅が70センチある堂々としたもの、とのことである。
矢倉沢往還の宿である関本宿は、龍福寺から西に入った道であり、古代の坂本駅に比定されるとのことではあり、歩きたいのは山々ではあるが日も暮れてきた。今回の散歩はこれでおしまい。





龍福寺交差点から南に進み伊豆箱根鉄道・大雄山駅に向かい、一路家路へと。



先回までの三回の散歩で、相模原台地の中位段丘面である田名原段丘面を流れる姥川と道保川が鳩川に合わさり相模川に注ぐ下溝の鳩川分水路、また下位段丘面である陽原段丘面を流れる八瀬川が相模川に注ぐ鳩川分水路の少し北辺りまで歩いた。
大雑把に言って三段からなる相模原台地を実際に歩き、高位・中位・下位の各段丘面の「ギャップ」などを実感したわけだが、この鳩川分水路のある下溝辺りで、中位段丘面である田名原段丘面と下位段丘面である陽原段丘面の「ギャップ」がはっきりしなくなり、というか、陽原段丘面が田名原段丘面に「吸収・埋没」されているように感じる。その田名原段丘面は下溝から南に細長く続き座間辺りで沖積面に埋没するようである。
それはともあれ、地図を見ていると鳩川分水路から南に鳩川が南下する。下溝で相模川に注ぐ鳩川は「分水路」であるわけで、理屈から言えば当たり前ではるのだが、分水路で終わりと思っていた鳩川が更に南下し海老名辺りで相模川に注いでいる。これはもう、最後まで鳩川とお付き合いすべし、と。
大雑把なルートを想うに、先回までの散歩で取り残した、当麻から先の八瀬川を相模川に注ぐ地点まで辿り、そこから鳩川に乗り換え海老名まで。下溝から南の田名原段丘面の崖線上は、当たり前に考えれば高位段丘面の相模原段丘面ではあろうが、座間丘陵が相模原面との間に割り込んで居る、というか、相模原面より古い時代の相模川の堆積によってつくられた丘陵地であるので、「先住民」として田名原面の東端を画す。相模川の堆積によってつくられた扇状地の平坦面が、開析され丘陵地形となった座間丘陵を見遣りながら鳩川を海老名まで辿ることにする。



本日のルート;相模線・原当麻駅>浅間神社>浅間坂>神奈川県営水道・桧橋水管橋>湧水>崖線坂に沿って八瀬川を南下>八景の柵>三段の瀧>八瀬川が相模川に注ぐ合流点>鳩川隧道分水路>鳩川>道保川緑地>左右に分かれる不思議な分水点>有鹿神社>勝坂遺跡>>長屋門>中村家住宅>石楯尾神社入口>勝坂式土器発見の地>石楯尾神社>勝源寺>庚申塔>日枝神社>四国橋>左岸用水路>伏越し>鷹匠橋>見取橋>はたがわ橋>大和厚木バイパス>宗珪寺>県立相模三川公園>横須賀水道上郷水管橋>有鹿神社>小田急・海老名駅

相模線・原当麻駅
相模線・原当麻駅を降り、南の県道52号に進み麻溝小学校交差点で左折し県道46号に。地図を見ると田名原段丘面(中位)と陽原段丘面(下位)とを画す段丘崖の途中に浅間神社がある。八瀬川に下るまえにちょっとお参り。
○陽原段丘面
因みに、上に「田名原段丘面(中位)と陽原段丘面(下位)とを画す段丘崖」とメモしたのだが、カシミール3Dで地形図で見る限りは県道52号から南は陽原段丘面(下位)はほとんど広がりはなく、崖線から八瀬川の間がかろうじて陽原段丘面として残り、八瀬川から西の水田は相模川の氾濫原と言ったもののように見える。地形図の中には田名原段丘面が直接相模川が相模川の氾濫原に接しているようなものもある。崖線から八瀬川の間しか段丘面が無いとすれば地形図には表示されないかもしれない。素人の妄想。根拠なし。

浅間神社
坂の途中に浅間神社。祭神は木花之佐久夜毘売命。正徳3年(1715)再建の棟札あり、という(『相模風土記』)。社はそれとして、この地の南側は城山と呼ばれ往昔「当麻城」があった、とのこと。西と南は相模川、東は沢(鳩川)の侵食谷に囲まれており、要害の地と見える。
○当麻城
当麻城は鎌倉時代初期、源範頼の家臣・当麻太郎がこの地に城を築いたと言われるが確たる証拠はない。戦国時代には北条氏の狼煙台が築かれ、津久井城とともに武田や上杉の攻略に備えたとのとこ。秀吉の小田原攻めの時は、当麻豊後守がこの城に立て籠もったとも伝わるが、北条氏の家臣に当麻氏がいたとの記録はないようである。現在はとりたてて明確な城の遺構が残っているようには見えないが、この浅間神社の辺りには郭があった、とも言われている。
○当麻太郎
鎌倉時代初期、源範頼の家臣。兄頼朝から謀反の嫌疑を受けた主人範頼の無実を晴らすべく頼朝の寝所に忍んだ(頼朝暗殺を企てたとも)。が、発覚し主人範頼は伊豆に流され殺される。当麻太郎は頼朝の娘・大姫の病祈願故に、罪一等を減ぜられ日向国島津荘に赴任する島津忠久(母は源頼朝の乳母である比企能員の妹・丹後局)に同行、鬼界ヶ島に流刑。頼朝死後、島津氏に仕え、新納院に住み、新納を称し武功をたてた、と。

浅間坂
浅間神社脇の浅間坂を下りる。鬱蒼とした斜面林である。道を下ると手書きの看板で「飄禄玉」の案内。坂を下りきった所にいくつもの貯水槽があり、地図には「中島養魚場」とある。飄禄玉(ひょうろくだま)は鯉、ます、鮎料理の店のようであった。

神奈川県営水道の桧橋水管橋
食べものに今ひとつフックがかからない我が身はお店をスルーし八瀬川に。そこにブルーでペイントされたアーチ型の水管橋。神奈川県営水道の桧橋水管橋であった。
この水管橋は、谷ケ原浄水場から来た北相送水管・中津支管(内径800mm)。北相送水管・中津支管は田んぼの中の道を相模川に架かる昭和橋の方へ向かい、昭和橋を水管橋で渡り愛川町の中津配水池へ向かう。
○北相送水管
この水管は神奈川県企業庁(神奈川県が経営する地方公営企業。住民の福利厚生を目的に税金ではなく、独立採算で運営される)がおこなう水道事業網の水管。県営企業団の水道事業は相模川水系の寒川や谷ヶ原で企業庁が取水した自己水源、そして酒匂川・相模川の水を水源とする神奈川県内広域水道企業団(神奈川県、横浜市、川崎市、横須賀市が昭和44年に共同で設立した「特別地方公共団体」)からの受水をもとに、湘南、県央、県北及び箱根地区など12市6町を給水区域とし、神奈川県民の約31パーセントにあたる約278万人に給水しているが、この水管はその水のネットワークの一環である。
□経路
経路は、相模ダムでの発電放流水を下流の沼本ダムで取水し、津久井隧道を経て津久井分水池(津久井湖から西に下る相模川が大きく南に流路を変える辺り)に導き、分水池で県営水道、横浜水道、川崎水道などに分水。県営水道に分水された水は、津久井分水地のお隣にある県営谷ヶ原浄水場で浄水され水道水となり、相模原、厚木、愛川町の45万人を潤す。
北相送水管の大雑把な経路は谷ヶ原浄水場から、相模川に沿って大島地区に下り、渓松園辺りから県道48号を大島北交差点まで進み、交差点から左に折れ北東に向かい六地蔵に。そこから南東に「作の口交差点」方向へと下り、この地で姥川を渡る。
姥川を渡った水路は南東へと南下を続け、虹吹、七曲をへて、途中相模原に分水しながら、下原交差点で県道52号に当たる。北相送水管は県道で右に折れて県道にそって進み、相模川を昭和橋で渡り中津工業団地当たりの中津配水池に到る。何気なく撮った一枚の水管写真から、神奈川の送水ネットワークの一部が見えてきた。ちょっとしたことにでも好奇心を、って成り行きまかせの散歩の基本を改めて想い起こす。

段丘崖下を八瀬川に沿って進む
崖線の斜面林を眺めながら八瀬川をくだる。崖線からの湧水がパイプ水管を通して流れ出す箇所もあり、ちょっと様子をと崖の坂を上下したりする、段丘面相互の比高差は30m弱もあるだろうか。 崖線に沿って下る八瀬川は、下溝の鳩川分水路辺りの整備された公園手前にある「新八瀬橋」あたりで崖線を離れ緑低木の中を相模川へと注ぐ。「新八瀬橋」辺りまでは水路に沿って歩く道がありそうだが、水路を離れ段丘崖上にあると言う「八景の棚」へと向かう。

八景の柵
段丘崖上に上り、県道48号を北に戻る。しばらく歩くと県道脇に細長く、誠にささやかな公園がある。そこが八景の柵であった。相模川、そのはるか彼方に聳える丹沢山塊が一望できる。八景とは「はけ=崖線」のこととも言う。 この地が景勝の地として知られるようになったのは、昭和10年(1935)、横浜貿易新報社による、「県下名勝45選」に当選したことによる。公園には当選記念の石碑も建つ。
記念の石碑といえば、公園の南端にいくつかの石碑。ひとつは「出征記念碑、慰霊塔」。昭和12年(1937)のシナ事変からの当地戦没者名を刻んだ慰霊碑である。もうひとつは「浄水の碑」。碑に刻まれた案内をメモする。
○浄水の碑
相模原市が首都圏整備法による市街地開発区域の指定をうけ 各種工場の進出と急激な人口の増加をきたしたが上段地域における市街化の急進展にひきかえ 麻溝地域は都市計画による地域指定もなく すべてにおいてなんらの恩恵にも浴せず かつての清流鳩川姥川は都市化のひずみをうけ 昔日の面影を失い 汚染甚しく日常の利用にさえ事欠く状態となった。
昭和三十六年この窮状を打解すべく 地域住民の願望を結集して地元市議会議員を中心に県営水道敷設の件を関係当局に陳情した。 水源に恵まれた当麻地区には簡易水道が設けられたが下溝原当麻芹沢地区は不幸にも取り残され 住民の困惑はその極に達した。
 越えて昭和三十八年十月にいたり県営水道敷設の議が整い関係地区住民の七二%に当る五百五十名が加入して「麻溝上水道組合」が結成された。
県営水道の敷設は将来の地域開発を考慮し配水本管は二万四千余米経費五千余万円の膨大なものとなった 巨額な資金は相模原市農業協同組合より役員の個人保証により借り入れ工事の促進が図られた 組合員もまたこの事業の趣旨を良く理解し月賦制度による円滑な返済をなし役員の労苦に応えた。 
待望久しかった本事業の完成により環境衛生の改善 消火栓の増設 学校給食 小中学校プールへの給水等その成果は地域開発の基礎をつちかい組合員の功績は高く評価されることと信じ ここに経過の大要を誌し永く後世に伝えるものである 麻溝上水道組合 組合長 小山右京撰書」とあった。

溝原当麻芹沢地区の利水事業の歴史が刻まれている。「芦沢地区」とは相模線・原当麻駅と無量光寺の間の台地上一帯の地。今回の散歩の最初に「神奈川県営水道・北相送水管の桧橋水管橋」に出合ったが、原当麻辺りのこの流路をトレースすると、国道129号「作の口交差点」から南東へと南下を続け、虹吹、七曲をへて、県道52号下原交差点に下った流路は県道で右に折れ、県道に沿って進み、八瀬川を跨ぐ桧橋水管橋を経て水田を進み、相模川を昭和橋で渡り中津工業団地当たりの中津配水池に到るわけで、芹沢地区を進んでいるように思える。この奈川県営水道・北相送水管事業のことを指しているようにも思えるのだが、根拠はない。
○さいかちの碑
「八景の棚」を少し北に進むと「さいかちの碑」。この碑は戦勝を祝って武田信玄が植えたとされる「さいかち」の木を記念したもの。「さいかち」は「さきがち(先勝ち)」を想起するから、とか。永禄12年(1569年)、北条攻めのため2万の大軍を率いた信玄は、まずは高尾駅北の廿里(とどり)合戦、滝山城攻めで北条氏照を破り、御殿峠、相原、橋本を経て、北条勢を迎え撃つべくこの地に陣を張ったようだが、この地に「さいかち」を植え、滝山攻めの戦勝を祝い、再びの戦勝を願い験を担いだと伝わる。
武田勢はこの後、小田原城に進軍するも北条勢は籠城。見切りをつけた武田勢が甲斐へと帰路、三増峠・志田峠で戦われたのが、日本三大山岳合戦と称される「三増合戦」である。戦いの地を三増峠、志田峠、韮尾根の台地へと辿った散歩を想い起こす。
因みに「さいかち」の寿命は80年程度とのことであるので、現在のものは何代目であろうか。


 三段の滝下広場
八景の棚を離れ、県道46号を南に戻り鳩川分水路に架かる新磯橋交差点に。鳩川分水路の周辺は「三段の滝展望広場」や「三段の滝下多目的広場」として整備され、各広場を繋ぐ散策路がつくられ、三段の滝下には滝見物用の人道橋も用意されている。
人道橋からの相模川の眺めも美しい。正面には、この辺りで大きく蛇行する相模川、川中の中州、対岸はるかかなたの丹沢の山塊、右に目を移すと八瀬川が下ってきた段丘崖線の斜面林、八瀬川と相模川の間を埋める田圃の広がりなど、結構な眺めである。神奈川八景とのブランドも頷ける。

三段の滝
三段の滝とは鳩川の水を相模川に逃がす分水路にあり、段丘上からの放水の水勢を弱めるため段差が造られているのだが、その段差が三段であることから「三段の滝」と呼ばれる。大雑把に言って三段の堰堤といったものである。この鳩川分水路は昭和63年(1988)に造られた。
ちなみに、分水路は新旧ふたつある。この鳩川分水路は「新」分水路であり、昭和8年(1933)につくられた「旧」はその南にある。

八瀬川が相模川に注ぐ地点に
ここで何となく八瀬川が相模川に注ぐ姿を見てみようと整備された公園の北端といった辺りにある「新八瀬橋」まで戻る。で、橋から八瀬川が相模川へと向かう水路を見下ろすも、とても快適に歩けるといったものではない。蛇も怖いし、橋から見る八瀬川の流れを見て、善しとする。
田名郵便局辺りの源流域とは言い難い風情、そのすぐ南のやつぼからの豊かな養水、大杉池系からの豊かな湧水、下水道が整備される以前の生活排水で汚れた水と清冽な湧水の流路を分ける八瀬川の中を平行に流れるふたつの水路など、源流域の姿を想い起こす。
○八瀬川
八瀬川(やせがわ)は、神奈川県相模原市を流れる延長約5kmの準用河川。相模原市上田名付近に源を発し、相模原市磯部上流のJR相模線下溝駅付近の新八瀬川橋よりすぐ先で一級河川相模川に合流する(Wikipediaより)。

鳩川隧道分水路
新八瀬橋から三段の滝下広場の人道橋を渡り旧鳩川分水路へと向かう。正式には「鳩川隧道分水路」。鳩川隧道分水路を上ると鳩川分水路と同様に、というか本家の三段の滝がある。分水路は昭和8年(1933)につくられた石組のものだけあって、コンクリート造りの新分水路より趣きがある滝、というか堰堤になっている。
旧分水路の緩衝滝の両脇には遊歩道が整備されており、その小径を進み新磯橋交差点から県道46号を分かれ、相模線の西を下る道路の下をくぐると隧道が見えてくる。これが鳩川隧道である。
古き隧道を見遣りながら県道46号を潜り鳩川分水路脇に出る。鳩川隧道分水路は県道46号、相模線下を潜り地中を進んでおり旧分水路の水路は見えない。

鳩川
段丘崖上に至り、左手に道保川を合わせた鳩川分水路の水路を見ながら進む。右手は窪地となっており、鳩川隧道の入口が見える。この窪地への水路は?鳩川分水路の少し南から水路が南に下る。これが、分水路を越え更に南に下る鳩川である。水路にそれほど水が流れてはいない。ブッシュで見にくいが鳩川から窪地に導水する水路もあるようではある。それにしても水が少ない。



道保川緑地
鳩川に沿って南にくだろうと辺りを見ると、道保川緑地との表示がある。道が先に続いているかどうか不安だが、とりあえず先に進む。と、道保川緑地の中を水路が続く。水路に注意しながら進むと水路は右に分岐し鳩川方向へ向かう。

左右に分かれる不思議な分水点
水路を進むと鳩川に合流。で、奇妙なことに水は合流点で左右に分かれ流れている。意図的にしているのだろうか?左手は鳩川の流れであるのでいいとして、右はどこに向かうのか気になって先に進む。と、水は窪地方向、鳩川隧道入口へと向かっていた。どうも鳩川隧道分水路の水源は、道保川緑地の水路のようである。
ここでちょっと疑問。道保川緑地の小川の水源はどこなのだろう?元に戻り逆に水路を戻ると道保川に突き当たる。が、水路と道保川は水位が大きく異なり、道保川から直接水を導水しているようには思えない。その時は鳩川か道保川からサイフォンで「伏越し」しているのだろうか、とも思ったのだが、メモするに際しチェックすると、道保川の少し上流に取水口といったものがあり、そこから取水しているようである。南下する鳩川の水源は道保川の水のようである。

鳩川を下る
道保川緑地の水路が鳩川に注ぐ地点まで戻る。これから鳩川を下る、といっても、その水源は道保川からの取水であるわけで、道保川と言ってもいいのでは、とは思うが、鳩川分水路が出来る前は分水路地点辺りで道保川の水を集めた鳩川が南に下っていた、ということであろう。
それにしても、ここに分水路を通す、ということは鳩川って、姥川や道保川の水を集めた結構な「暴れ川」であったのだろう。鳩川ハザードマップなどを見ると、洪水時の想定被害地はこの地から下流の相武台下、入谷駅辺りが0.5mから1m程の浸水が想定されており、三川が合流したこの下溝以南への水量を調節し相模川に吐きだしているのだろう。

県道46号
道保川緑地の深い緑の森を抜ける鳩川に沿って進み、大下坂交差点から下る車道に当たる。道保川の水路から養水された鳩川は水量も増え、鳩川分水点の始点とは趣を変え、水草が茂る水路となって下る。

「発見のこみち 勝坂(かっさか)案内マップ」
相模線の東を通る県道46号を進み、磯部八幡の東、磯部山谷地区、上磯部バス停の次の交差点から県道を離れ、鳩川の左岸に移り勝坂遺跡を目指す。
鳩川に架かる橋の北詰めに「発見のこみち 勝坂(かっさか)案内マップ」。案内を見ると、勝坂遺跡は「勝坂遺跡公園 勝坂遺跡D区」、「勝坂遺跡A区」に分かれている。「勝坂遺跡A区」には「縄文土器発見の地」が表示されている。また、案内マップには「ホトケドジョウ」「有鹿神社」とか「石楯尾神社」といった今までの散歩で出合っていない社などもある。勝坂遺跡もさることながら、縄文遺跡の近くに祀られる「有鹿神社」とか「石楯尾神社」って、如何なる社か、好奇心に俄然フックが掛かる。

ホトケドジョウ
案内から緑の中に敷かれた木道を進むと「相模原市塘登録天然記念物 ホトケドジョウ」の案内。「ホトメドジョウは日本固有種で、本州、四国東部に分布し、流れのゆるやかな細流に生息する魚です。かつては市内の各地の細流でよく見られましたが、生息環境の悪化により、今では限られた場所でのみ生息しています。国、県ともに、絶滅が危惧される生物とされています」とあった。この辺りの湿地に生息しているのだろうか。

有鹿神社
成り行きで進むと、深い照葉樹林の中に小さな鳥居と、誠に小さな祠。鳥居の手前には丘陵奥からの湧水の水路が通る。案内もなにもないのだが、これが有鹿神社奥宮であった。因みに先ほどの「ホトケノドジョウ」はこの湧水の細流に生息しているとのことである。
Wikipediaによれば、「有鹿神社(あるかじんじゃ)は、神奈川県県央に流れる鳩川(有鹿河)沿いに形成された地域(有鹿郷)に鎮座する神社であり、本宮、奥宮、中宮の三社からなる相模国最古級の神社。「お有鹿様」とも呼ばれる。 相模国の延喜式内社十三社の内の一社(小社)で、相模国の五ノ宮ともされるが諸説ある。また、中世までは広大な境内と神領を誇っていた神社で、当時としては、まだ貴重な『正一位』を朝廷より賜っている。(中略)。現在、海老名の総氏神となっている。
○本宮
本宮は、神奈川県海老名市上郷に鎮座し、有鹿比古命を祀る。神奈川県のヘソ(中央)に位置しており、子育て厄除けの神様として有名で、神奈川県の全域から広く信仰を集める。境内は「有鹿の森」とされるが、松が1本もないため「松なしの森」ともいわれる。
○奥宮
奥宮は、本宮から北に6キロメートル程離れた神奈川県相模原市南区磯部の「有鹿谷」に鎮座し、有鹿比女命を祀る。鎮座地の傍は水源となっていて小祠と鳥居がある。また、東側の丘陵(有鹿台)には勝坂遺跡がある。
○中宮
中宮は「有鹿の池(影向の池)」とも呼ばれ、本宮から約600メートル(徒歩5分程)の位置に鎮座しており、有鹿比古命・有鹿比女命の2柱を祀る。鎮座地には小さい池(現在は水が張られていない)と小祠、鳥居がある。この池で有鹿比女命が姿見をしていたという伝承がある。
三社の位置関係は、本宮は鳩川の相模川への流入口域にあり、奥宮は鳩川の水源の一つにある。中宮は鳩川の中間地点の座間市入谷の諏訪明神の辺りにあったが、中世期に衰退し、海老名の現在地に遷座した。なお、鈴鹿明神社の縁起では、有鹿神と鈴鹿神が争った際、諏訪明神と弁財天の加勢により鈴鹿神が勝利し、有鹿神は上郷に追いやられたとされる。これが有鹿神社の移転の伝説となっている。
有鹿比古命
アリカヒコノミコト。『古事記・日本書紀』にはその名がみえない神で、太陽の男神といわれている。海老名耕地の農耕の恵みをもたらす豊穣の神として、海老名の土地の人々に篤く崇められてきた。農業・産業振興の神とされる。本宮と中宮で祀られている。
有鹿比女命
アリカヒメノミコト。『古事記・日本書紀』にはその名がみえない神で、水の女神といわれている。主な神徳は安産、育児など。奥宮と中宮で祀られている。

この小さな祠は相模で最古の社の奥宮であった。鳥居前を流れる湧水路を上流に辿ると「有鹿の泉」があるとのことだが、わかったのはこのメモをする段階。事前準備なしの成り行き任せの散歩の常、後の祭りとなってしまった。そのうちに訪れてみたい。
それはともあれ、この鳩川の水源のひとつでもある有鹿の泉からの湧水は、縄文時代には「貴重」なものであり、有鹿の谷の傍にある縄文時代の勝坂遺跡に住む人々により「聖」なるものとして祀られ、弥生時代にはじまった農耕文化とともに、鳩川流域にその祭祀圏が広がりその流域に中宮、相模川との合流する地点に本宮が祀られるようになったのだろう。なお、鳩川は有鹿河とも称されるが、これは、有鹿神社が祀られる鳩川流域一帯は、往昔有鹿郷と呼ばれた故であろう。また、その有鹿は、勝坂遺跡のある有鹿台より、「ヘラジカ」の骨が出土している故との説もある。
散歩の時は、この小祠が相模最古の古社などと思いもよらず鳩川から離れた中宮にお参りすることは叶わなかったが、鳩川散歩の最終地である相模川との合流点で有鹿神社本宮にもお参りでき、成り行き任せの割りには結構な結果オーライといった結果ではあった。

鈴神社と有鹿神社の争い
上のWikipediaに、「鈴鹿明神社の縁起では、有鹿神と鈴鹿神が争った際、諏訪明神と弁財天の加勢により鈴鹿神が勝利し、有鹿神は上郷に追いやられたとされる。これが有鹿神社の移転の伝説となっている」とある。なんのこと? チェックする。欽明天皇の御代(539~571)、座間市入谷の鈴鹿明神社は欽明天皇の御代、伊勢鈴鹿郷の神輿が相模国入海の東峯に漂着したので、里人が鈴鹿大明神として祀ったのが始まりという。実際は、伊勢鈴鹿郷の部族がこの地に進出。ために座間の先住部族は梨の木坂の神(現在の諏訪神社)に集結し、鈴鹿勢と対抗するも最後は和睦したと読む説もある。
ともあれ、座間の地に橋頭堡を築いた鈴鹿勢に対し、北から「有鹿の神」を祀る部族が攻め来る。が、それに対し鈴鹿・座間連合軍がこれを打ち破り、有鹿神は勝坂へ帰ることができず、やむなく上郷に住み着くことになったと言う(有鹿の谷に逃げ戻ったとの説も)。
ちなみに、現在伊勢には鈴鹿大明神という名称の社は見あたらない。いつだったか、鈴鹿峠を越えたとき、鈴鹿大明神を祀る片山神社に出合った。この社がこの地に来たりた鈴鹿の神であろうか。欽明天皇(聖徳太子の祖父)の御代といえば、蘇我氏、物部氏、大伴氏が覇権争をしている時期であり、伊勢の鈴鹿の神を奉じる部族がなんらかの事情で、相模川がつくり上げたこの豊饒の地に逃れてきたのではあろう。もっとも、数年前歩いた座間の湧水巡りの際、鈴鹿神社を訪れており、そのときのメモには、この地が鈴鹿王の領地となったとあった。鈴鹿王(すずかのおおきみ)の父は天武天皇の子である高市皇子。兄は長屋王という名族である。この辺りが落としどころかとも思い始めた。


史跡 勝坂遺跡公園・勝坂遺跡D区
有鹿神社の奥宮を離れ、勝坂遺跡公園に向かう。案内に従い進むと、広場があり、そこが「史跡 勝坂遺跡公園・勝坂遺跡D区」である。「史跡 勝坂遺跡公園案内図」には、「勝坂遺跡は、縄文時代中期(約4500~5000年前)の代表的な集落跡です。大正15年(1926年)に発見された土顔面把手(注;顔を表現した取っ手)付き土器などの造形美豊かな土器は、この時代を代表するもので、「勝坂式土器」として広く知られています。
この周辺には、起伏に富んだ自然地形、緑豊かな斜面林の樹林、こんこんと湧き出る泉など、縄文人が長く暮らし続けた豊かな自然環境が、今なお残されている。」とある。
広場の南端に竪穴式住居がふたつ見える。住居は予想以上に大きい。説明には柱は6本、竪穴の掘作で出た土の量は10トンダンプ4台分にもなるとのこと。復元された住居はふたつだけだが、50もの縄文住居が発見されている。
竪穴式住居の北の広場には、耐用年数10年程度の縄文住居の廃絶された住居の窪地(ゴミ捨て場に活用されたよう)、北と南の間の谷戸が埋まった埋没谷、縄文中期の終わり頃に登場した柄鏡の形に石を敷いた住居跡のレプリカなどがあるようだが、古墳にはそれほフックが掛からない我が身は遠く眺める、のみ。 それはともあれ、この勝坂遺跡D区は、昭和48年(1973年)の発掘調査で発見された集落の一部、勝坂遺跡D区(16,591平方メートル)が、昭和49年(1974)に国の史跡として保存され、昭和55年(1980)・59年(1984)に指定地が追加され、D区の面積は現在の19,921平方メートルといった広場となっている。
これは昭和47年(1972)、勝坂遺跡周辺に大規模な宅地造成が計画されたため、市民有志による「勝坂遺跡を守る会」が結成され、相模原市も県や国(文化庁)と共に試掘を行い、多数の竪穴式住居跡、土器や打製石斧を発掘することになった。その結果、造成工事は中止され、上記の如く国指定の遺跡にまでなったようである。

長屋門
勝坂遺跡D区を離れ、民家の間の道を南に下り、T字路に当たる。T字路脇にも案内マップがあり道を確認。東に少し坂を上り再びT字路を左折し、少し進むと長屋門がありその横に旧中村家住宅のの建物は並んでいる。共に中村家のお屋敷。まずは、道に面した長大な長屋門に。長さは20mほど。慶應年間(1865-1868)に建てられたもの。1階の一部は公開されているようではあったが、外から眺めるだけで十分であった。





旧中村家住宅
長屋門と同じ頃の建築物。1階が和風、2階が洋風といった和洋折衷の建物である。この中村家は勝坂遺跡と深い関係がある。土器が発見されたのは中村家の畑であり、それがきっかけで勝坂遺跡の調査が始まったわけである。旧中村家住宅の裏手が勝坂遺跡A区であり、その端に勝坂式土器が発見された場所がある。





石楯尾神社入口の石碑
道を北に進むと「石楯尾神社」と刻まれた神社入口の石碑。すぐそばに、阿闍羅(あじゃら)尊という文字が刻まれた庚申塔。その横には風雪に耐えた風情の石仏もある。金剛力士とも言う。阿闍羅尊は不動明王のことのようである。

勝坂土器発見の地
石楯尾神社に向かうと鳥居があり、その傍に道標があり, 石楯尾神社は直進、左方向は「勝坂土器発見の地」とある。石楯尾神社にお参りの前に「勝坂土器発見の地」に寄ることにする。
畑の脇道といった小径を進むと民家脇にひっそりと「勝坂土器発見の地」の案内があった。
案内によると、「勝坂遺跡は縄文中期の典型的な集落跡であり、わが国における考古学上の代表的な遺跡でもあります。また、本遺跡から出土した「勝坂式土器」は、縄文時代中期を代表する土器として、今日では全国的にその名前が知られています。
この土器は大正15年(1926)10月3日、考古学者大山柏氏が中村忠亮氏所有の畑地を発掘調査した際に、はじめて発見してもの。大山氏が土器を発掘した場所は現在正確にわかっていないが、地図に示した場所の近辺と推定されます。大山氏の発掘調査はわずか一日だけであったが、昭和2年(1927)年に刊行された調査報告書は今日的にみても精緻極まる大変豊かな内容をもつものであります。
その後、昭和3年(1928)には考古学者山内清男氏により時期区分の基準となる土器として「勝坂式」という土器型式名称が与えられ、勝坂遺跡は勝坂式土器の標式遺跡となりました。
「勝坂式土器」は、今から5000年前、縄文時代中期につくられたものですが、イラストの顔面把手のように彫刻的な把手や立体的な模様に大きな特徴が見られ、器形の雄大さや装飾の豪華さなど、その造形はいずれの土器形式に例を見ないものです」とあった。

土器発掘調査のきっかけは、この地出身の学生がこの地より多くの土器が見つかるため、サンプルとして2片を大山氏に手渡したこと。それを受け大山氏がわずか一日で多くの完形または復元可能な土器と大量の石斧、それと当時では類例の僅かな顔面把手を発掘した。土器の評価もさることながら、大量に出土した打製石斧から、原始農耕論が提唱されたことも考古学上、大きな話題となったようである。

なお、大山柏氏は、陸軍元帥大山巌の次男。明治43年に陸軍士官学校を卒業後、大正13年(1924)にドイツに留学するも、人類学や考古学を学び、退役後慶應大学で人類学講師となり、この発掘につながっていった。

勝坂遺跡A区
また、大山柏氏の調査地点周辺も勝坂遺跡A区として指定されている。平成17(2005)年の発掘調査で発見された集落の一部、磯部字中峰地区が平成18年に新たに追加指定され保存されてはいるが、一面の平坦地で特に地表に何があるわけもないように見える。

石楯尾神社へ
土器発見の地から元に分岐点に戻り。石楯尾神社に向かう。鳥居脇には鐘楼のお堂があるが朽ち果てている。山道といった参道を進むと狛犬や左手には小祠も見える。100段以上もあると思える石段を上りきると社があった。由緒でもなかろうかと彷徨うも、それらしきものは無し。勝坂遺跡や有鹿神社奥宮へと続く森に佇む社としかわからない。チェックする。
○石楯尾神社
Wikipediaによれば、石楯尾神社(いわたておのじんじゃ、或いは いわたておじんじゃ)とは相模国の延喜式内社十三社の内の一社である。この社に関しては論社が多く」とある。吾こそは「本家なり」と唱える社が7社もある、それも旧高座郡内に5社、旧愛川郡(後の津久井郡)に2社もあり、それも北は現在の相模原市緑区(旧藤野町)から南は藤沢市鵠沼神明まで散在している。どこが延喜式の石楯尾神社かとの決定打はないようだが、現在のところ最有力と目されているのは相模原市緑区名倉(旧津久井郡藤野町)の石楯尾神社とされる。 名倉の石楯尾神社の社伝では「第12代景行天皇の庚戊40年、日本武尊東征の砌、持ち来った天磐楯 (あまのいわたて)を東国鎮護の為此処に鎮め神武天皇を祀ったのが始まりとされる、また、この社には「烏帽子岩」という巨石信仰も伝わっている。
名倉の地は高座郡ではなく旧愛甲郡である。高座の縁起式内社が愛甲郡にあるのはちょっと変?チェックすると、往昔高座郡は相模川沿いに上流まで延びていたとの説があった。

翻ってこの地の石楯尾神社を見るに、祭神は大名己貴命(おおなむちみこと)、とか。創建年代は不詳。社殿は寛政12年(1800)と天保5年(1834)に再建、明治5年(1984)に改築されており、手水鉢は文久元年(1861)、弘化4年(1847)には灯籠が奉納されている。社の屋根は入母屋作りで仏式の建築様式。木鼻には彫刻がほどこされている、
また、社のある山を羽黒山と呼んだことから、明治のはじめまでは「羽黒権現社」と呼ばれていた、とも言われるようであり、延喜式の石楯尾とは異なるような気がする。いつの頃か村人が分祠したものであろうか。

勝源寺
石楯尾神社からの戻り道、右手に金属板葺き・入母屋造りの屋根をもつお寺様。畑地をショートカットし境内に。特に由緒などの説明はない。宝形屋根の鐘楼、薬医門などが建つ。
遺跡や古社のある地域のお寺さまであり、なんらかの「発見」がとも思いチェックする。曹洞宗のお寺さま。本尊は千手観世音菩薩(千手千眼観世音菩薩)とのことだが、それより堂内に祀られる青面金剛尊が養蚕の神として、相模で知られたお寺さまとのこと。
青面金剛尊と養蚕は普通に考えれば、どうも結びつかない。もう少々深掘りすると、明治の廃仏毀釈のご時世故のお寺さまの知恵が見えてきた。当時、養蚕で栄えたこの辺りの農家に、民間に拡がる庚申信仰をベースに「青面金剛尊が養蚕に御利益ある」とPR。青面金剛尊を六本庚申(手が六本あるから)とか千体庚申と呼び、陶製の「ミニチュア青面金剛」を1000体ほど用意。農民はその六本庚申を自宅に持ち帰り、養蚕期が終わるとお寺様に返した、と。現在でも幾つかの陶製六本庚申が残っている、とか。
で、この六本庚申は磯部や新戸・当麻・下溝・淵野辺・上鶴間地区とともに、現在の町田市や座間市・海老名市・愛川町・厚木市・伊勢原市にも拡がったようである。境内の庚申塔は御礼に奉納されたものではあろう(相模原市立博物館の資料より)。

庚申塔
勝源寺を離れ、長屋門の前の道を南に戻り、県道46号の新磯小学校入口交差点へと向かう。鳩川を渡り新磯小学校入口交差点脇に、正面に「青面金剛」と記され、台座には「三番叟」(さんばそう)を踊る三匹の猿が刻まれている石塔があった。相模原市立博物館の資料によれば、「相模原地区には庚申塔が200のあるとのことだが、そのうち80が、この磯部地区に集中する。それもその多くが明治5年(1872)に建立されているとのこと。
六本庚申と庚申塔の因果関係は確定されてはいないが、磯部の庚申塔は勝坂集落周辺の非常に狭い範囲に建てられていることや、集落の入口に当たる場所(二か所)に大きくて目立つ庚申塔があることは、これらの庚申塔が六本庚申を祀る勝源寺の位置を示す言わば道標の役割を果たしているかのようです。多くの庚申塔には「春祭」とも記されていて、おそらく明治5年の春に勝源寺において、青面金剛像を養蚕の神仏として祀る大きな祭りがあったことを表していると考えられます」とあったが、この石塔は勝坂地区への入り口であり、上記説明の庚申塔のうちのひとつではあろう。

○座間丘陵
ところで、勝坂地区の上の座間丘陵には広い軍用敷地が広がる。米軍のキャンプ座間と、敷地に同居する陸上自衛隊座間駐屯地である。この地には昭和12年(1937)に帝国陸軍士官学校が開設されるも、昭和20年(1945)、敗戦により米軍に接収される。その後横浜市にあった米軍施設を此の地に集約するため整備が計られ飛行場も有する巨大な敷地となっているが、現在は戦闘部隊は存在しない司令部のみの兵站基地となっている。
また、敷地内には陸上自衛隊の「中央即応集団司令部」が同居し,緊急時に即応すべく米軍と連携し、陸上自衛隊の部隊を一元的に運用する体制を整えている。 ○座間丘陵
座間丘陵は相模原面、中津原面、田名原面よりなる相模原台地の西端部、相模原市南部から海老名市にかけて分布し、相模原台地より海抜高度が高く、かつ相模台地より古い堆積面の開析が進み丘陵状になっている。相模原台地は5万円以上前に相模川によって形成されたものであるが、座間丘陵はそれより古く、約14~10万年前以前の下末吉期形成されたものとされる。
座間丘陵は座間市海老名市にかけて東西0.5~1km、南北9km南北に細長く分布する。旧両面はおおよそは90~50mの地表面高度をもち、5‰の傾斜で北から南へ傾斜する。

日枝神社
県道46号・新磯小学校交差点付近の20ほどの庚申塔群。上でメモした勝源寺関連の石塔ではあろう。そこから先は、県道を挟んで東、そして西と流れる鳩川に沿って歩く。県道46号新磯高校前交差点で県道の西に流路を変えた鳩川に沿って下ると、上新戸地区に日枝神社。コンクリートの明神鳥居。
境内にあった神社由来によれば、「磯部東町内の産土神日枝大神は 大山咋神を祭神として祀り 約百二十年前延文元年以前より山王宮として親しまれ また国土安泰家内安全 の守護神として氏子の崇敬をあつめ護持をされて参りましたが 正和二年再建の社殿が老朽化のため新らしく建立に決し 昭和五十四年九月着工  氏子共有地を処分しこれに充て 特志者奉納による鳥居その他境内諸設備と併せ十二月完成致しました 新社殿には総本宮である大津市坂本  日吉大社より大御霊を頂き奉遷されております」とあった。

左岸用水路が接近する
ゆるやかに蛇行する鳩川に沿って進み、左岸にある調整池を見遣り下新戸の「四国橋」。由来が気になるが不詳。更に先に進み、相模線・相武台下駅の東に到ると西から水路が合流する。この水路は左岸用水路である。

○左岸用水路
WEBにある『疏水名鑑』の「相模川左岸疏水(左岸用水路)」の案内をメモする。
■疏水の所在 神奈川県の中央部を南北に流れる相模川の左岸地域、相模原市・座間市・海老名市・寒川町・茅ヶ崎市の4市1町。703ha。
疏水の概要・特徴
昭和3年県営による用排水路整備の議が起こり、昭和5年、新磯町、座間町、海老名町、有馬村、寒川町、御所見村、小出村、茅ヶ崎町(現・相模原市、座間市、海老名市、寒川町、藤沢市、茅ヶ崎市)に及ぶ1,954ha余の水田にかんがいする用水路及び、排水施設の整備を目的とする県営相模川左岸用排水改良事業が施行されることとなり、初代管理者、当時の海老名村村長、望月珪治氏のもと、相模川左岸普通水利組合として発足し、地方農村技師、舟戸慶次氏が農業水利改良事務所長として設計にあたり、昭和7年2月新磯部村(現相模原市磯部)にて起工式を行い、資材、労力が不足する中9年の歳月と壱百萬円の巨費を要し昭和15年3月、20.2km余に及ぶ用水路と鳩川貫抜川永池川等の排水施設を完成させた。

相模川の左岸、相模原市より茅ヶ崎市に至る南北21キロメートル、東西0.5~4.0キロメートルの地域に県下でも屈指の水田地帯が広がっているが、これは左岸用水の完成に負うところが大きいと言う。江戸時代後期、上流部には、に、磯部村、新戸村など五つの村の水田に用水を引くために五ヶ村用水が造られたが、洪水・氾濫のたびに堰が壊され、また中・下流部は、排水設備が十分でなく、水田が冠水し甚大な被害を繰り返していた、とのことである。そのような状況を背景に、望月翁は近郷7か町村を集め相模川左岸普通水利組合を設立、管理者として、十数年にわたるかんがい用排水改良事業の完成に尽力したとのことである。

左岸用水の大雑把な経路
鳩川分水路の下流にある磯部頭首工より取水した水は、右岸用水と左岸用水に分けられるが、左岸用水は取水口から南東に一直線に相模線・相武台下駅まで下り、この地で鳩川に接近する。わずかの間鳩川と平行して流れる左岸用水は伏越し(サイフォン)で鳩川を潜り、その後は相模線に沿って南下。海老名辺りでは暗渠・緑道となり南下し、横須賀水道みちと大谷八幡宮の北でクロスし、更に南下。東明高速、東海道線を越し、目久尻川をコンクリート掛樋で越え寒川町の小動神社辺りに下り、中原街道を越え茅ヶ崎市に入る。その先にあるゴルフ場下を潜り、新湘南バイパスを越えて室田2丁目と高田3丁目の境にある高田バス停あたりまで下り、その先にある千ノ川に注ぎ終点となる。

伏越
相模線・相武台下駅の東で一部は鳩川に合流するも、左岸用水はしばらく鳩川と平行に、コンクリートで鳩川と区切られた水路を少し高い(数mほど)水位を保ち南に進む。
ほどなく相模原市域から座間市域に。その先に水路施設が見えてくる。水門巻上機もあり、鳩川への放水口もあるが、左岸用水は格子の間から吸い込まれてゆく。吸い込まれた用水は鳩川潜り伏越し(サイフォン)で鳩川左岸に吹き上げられ上述の如く南下する。

実のところ、散歩の時には、吸い込まれた用水が鳩川左岸に出るといったことは知らず、北西に向かって相模線の踏切方面へと続く水路を追っかけたりもしたのだが、水流が逆であるため、どこに出るのか戸惑っていたところである。地図をよく見れば鳩川左岸にも水路が見えるのだが、そのときは気がつかなかった。ちょっと残念。

鷹匠橋
鳩川に沿って進み、座間西中脇を下り鷹匠橋へ。鷹匠橋のひとつ北、西中学校の校庭が切れる辺りを東に進めば有鹿神社のあれこれに登場した、入谷の鈴鹿神社や諏訪神社がある。上にも簡単にメモしたが、いつだったか、っ座間の湧水を巡た時に鈴鹿神社も諏訪神社にも足を踏み入れていた。その時のメモ。 ○鈴鹿神社
「鈴鹿神社。伝説によれば伊勢の鈴鹿神社の神輿が海に流され、この地にたどりつく。里人は一社を創建しこの座間一帯の鎮守とした、とか。欽明天皇の御代というから、5世紀中ごろのことである。伝説とは別に、正倉院文書には天平の御代、この地は鈴鹿王の領地であったわけで、由来としては、こちらのほうが納得感がある、ような。鈴鹿王(すずかのおおきみ)、って父は天武天皇の子である高市皇子。兄は長屋王。ちなみに、「明神社」って、「明らかに神になりすませた仏」、のこと。権現=神という仮の姿で現れた仏、と同じく神仏習合と称される仏教普及の手法でもある」とメモしていた。上の有鹿神社と鈴鹿神社の争いのところであれこれ妄想したが、この地は鈴鹿王の領地であったということであれば、気分的には一見落着である。


排水路が合流
鷹匠橋を越え、鳩川に沿って進み水路から鳩川に注ぐ水は何処から?などとちょっと悩みながら相模線に接近する鳩川に架かる見取橋を過ぎると東から水路が鳩川に合流する。相模川の東を南下する左岸用水からの水かとも思ったのだが、座間警察署あたりから始まる排水路のようである。左岸用水とは相模線のあたりで立体交差し、この地で鳩川に合流する。




大和厚木バイパス
排水路との合流点で流路を西に変えた幡川は、県道51号に掛かる「はたがわ橋」を越えるとその流路を南西に変え国道246・大和厚木バイパスにクロスする。バイパスには近くに交差点や歩道橋が見あたらない。仕方なく鳩川にお掛かるバイパスの下を潜り抜ける。背を屈め、コンクリートつくりの傾斜面を恐々抜ける。






宗珪寺
バイパスを潜りぬけると鳩川右岸にピカピカのお寺さま。宗珪寺。伽藍とでも形容できそうな三門、鐘楼を兼ねた中門そして本堂が直線に並んでいる。地面はコンクリートや真新しい砂利が敷かれている。境内には特に案内はない。 チェックすると、このお寺様はこの地の南、中津川と小鮎川が相模川に合流する地点の左岸の河原口地区(河原口38)にあったものが、さがみ縦貫道(首都圏中央連絡自動車道)の建設用地に掛かり移転してきた、とか。鬱蒼とした森の中にあった古き堂宇は解体され、まったく新たにつくりなおされていた。それにしてもこの散歩だけでさがみ縦貫道絡みで改築・新築された寺社に3か所も出合った。

県立相模三川公園
鳩川に沿って進むと流路は県立相模山川公園の中に入ってゆく。相模三川公園はその名の通り、相模川、中津川、小鮎川の3つの川の合流点の上流につくられた公園。県立都市公園では初めての河川公園とのことである。広々とした芝生の公園の先にある相模川を隔てて丹沢山塊、大山が美しい。園内には鳩川に沿って遊歩道が整備されている。

横須賀水道上郷水管橋
公園から成り行きで鳩川が相模川に合流する地点へと向かう。鬱蒼と茂る森の脇の道を進むと右手に水管橋が近くに見えてきた。横須賀水道上郷水管橋である。
上郷水管橋は大正7年(1918)に完成した10連のプラットトラス橋。プラットハウスとは橋桁の構造の一種。柱と梁で出来た四角形の中に筋交いを入れ、三角形の組み合わせにすることで安定した構造となるが、これをトラス構造と言い、プラットハウスとは斜材を橋中央部から端部に向けて「逆ハ」の字形状に配置したものである。理屈はともあれ誠に美しい橋である。なお、この横須賀水道半原水系は、横須賀の軍備拡張にともなって明治45年(1912年)から大正10年(1921)にかけて建設されたものであるが、老朽化を以て平成19年(2007)に取水を停止している。
横須賀水道
「横須賀水道」でとは、横須賀の海軍工廠をはじめとする海軍施設や艦船の補給水とすべく建設されたものである。
Wikipediaによれば、「日露戦争後の軍備増強の結果、走水系統では供給が間に合わなくなった。海軍当局は、愛甲郡愛川町半原石小屋地区の中津川に取水口を設け、約53km離れた横須賀まで20インチの鋳鉄管を使用し、落差約70mの自然流下による半原系統の建設工事を1912年(明治45年 / 大正元年)に着手、1918年(大正7年)10月に通水開始した。(中略)
今日この水道管が埋設されている土地は横須賀水道道、横須賀水道路、横須賀水道みち、あるいは単に水道みちと呼ばれ、国土地理院の地形図にも「横須賀水道」として表示されている。ただし水道専用橋の上郷水管橋を始め、至る所で通行不能な場所が存在している。
半原系統の経路は、愛川町の宮ヶ瀬ダム近くにある半原浄水場から中津川沿いを通り、内陸工業団地のそばを経由して厚木市に入り、国道129号・国道246号をほぼ一直線に横切り、向きを変えて相模川を上郷水管橋で渡る。
海老名市に入るとアツギの敷地を切り取り海老名SAの北側(吉久保橋)を通り、綾瀬市まで起伏の上下に関わらずほぼ一直線に通り、藤沢市に入るといすゞ自動車の敷地内を通り抜けて、国道1号を越えるまで藤沢市内を再びほぼ一直線に通る。鎌倉市に入り由比ヶ浜駅の前を通り水道路交差点を過ぎたあたりから横須賀線と並走して逗子市を通り、横須賀市の逸見浄水場に至る。なお、この半原系統の取水は2007年(平成19年)より停止されている」とある。
説明を補足すると、走水とは京急・馬掘海岸駅近くの走水海岸の辺りにある湧水池。また、半原系統の取水は年平成19年(2007)より停止されている、とあるが、半原取水口、半原沈殿地や逸見浄水場は現存しており、大正10年完成の逸見浄水場内には、平成17年(2005)7月12日、国指定の有形文化財に登録された施設が残っている。

有鹿神社本宮
水管橋の南の森に有鹿神社本宮。道から直接社の境内に。古き社ではあるが、印象は結構あっさりした社。扁額に「有鹿大明神」とある拝殿にお参り。既に有鹿神社奥宮でメモしているので、だぶることもあるだろうが、神社にあった案内をメモする。
「主祭神 ;有鹿比古命・有鹿比女命。創建;詳細は不明。 有鹿神社は、相模国の最古の神社であり、しかも、海老名の誕生と発展を物語る総産土神である。はるか遠い昔、相模湾の海底が次第に隆起し、大地の出現をみた。縄文の頃より、有鹿谷にある豊かな泉は、人々の信仰の対象となった。この泉の流れ落ちる鳩川=有鹿河に沿って農耕生活が発展し、有鹿=海老名の郷という楽園が形成された。海老名耕地における農耕の豊饒と安全を祈り、水引祭が起こり、有鹿神社はご創建されるに至った。
奈良から平安初期まで、海老名耕地という大懇田を背景として、海老名の河原口に相模国の国府があった。東には、官寺の国分寺、西には、官社の有鹿神社が配置された。天智天皇3年(664)に国家的な祭礼を行い、また、延長5年(927)、延喜式の制定により、相模国の式内13座に列せられた。美麗な社殿と広大な境内を有し、また、天平勝宝8年 (756)、郷司の藤原廣政の寄進により、5百町歩の懇田も神領となった。神社の境内には、鬱蒼とした「有鹿の森」が茂る。松が1本もないので「松なしの森」ともいう。これは、大蛇となった有鹿様が大角豆の鞘で目に傷を負ったため、大角豆を作らず使わず、という伝承に由来する。
相模原市磯部の勝坂には、「有鹿谷」と呼ばれる聖地がある。樹木の繁る谷の奥には、有鹿窟という洞窟があり、そこから、こんこんと清水が湧き出ている。この水は、鳩川に流れ落ち、海老名耕地の用水となっている。そのかたわら、石の鳥居の奥に「奥宮」が祀られている。
谷の東側の丘陵(有鹿台)には、縄文中期の大集落の遺跡があり、国指定史跡「勝坂遺跡」となっている。また、谷には、4世紀頃の祭祀遺跡もある。水引祭は毎年4月8日と6月14日、海老名の本宮から有鹿谷の奥宮まで神輿が渡御し、有鹿大明神は2ヶ月余りの間、奥宮にとどまる。この祭りを『水引祭』『水もらいの神事』という。この祭りは、人々の穢を祓い清め、新しい生命をいただくものであり、現在では、農業を始め、すべての産業の祭りとなっている」とある。

少し補足すると、この社は相模国五の宮との説もある。鎌倉時代に神社の最高位である『正一位』を朝廷より賜っている。この時期の社殿は豪奢であり、有鹿神社の神宮寺である総持院と合わせると、十二の堂宇が立ち並び、境内も現在の社家駅近辺まで参道が延びるほど広大であった、とか。平安中期よりこの地に覇を唱えた海老名氏という鎌倉幕府の中心人物の強い庇護があったため、と言う。

実のところ、事前準備など無の散歩であり、この由緒書きで、勝坂の有鹿神社が奥宮であったといったことがわかったわけで、成り行きとはいいながら有鹿神社の奥宮と本宮はカバーできた。後は中宮をそのうち訪ねてみたいと思う。

海老名氏館跡
海老名氏の館は有鹿神社のすぐ南にあったようである。地名も「御屋敷」などと如何にもといった地名である。
海老名氏は横山党の流れ。治承四年(1180)の石橋山の戦いで平家方として戦うも、その後頼朝に与して功を挙げ、鎌倉幕府の御家人として取り立てられた。
建暦三年(1214)の和田合戦で、横山党は和田義盛方に戦いに敗れ、一時衰退。戦後しばらくして海老名氏は勢いを取り戻したとされるが、元弘三年(1333)の鎌倉滅亡に際して、海老名氏は新田義貞軍と戦い、再び勢力を失ったとされる。
永享十年(1438)の永享の乱では、鎌倉公方足利持氏に従い幕府管領の追討軍と戦う。持氏軍は早川尻での戦いに敗れ、海老名氏館の西にある海老名道場(宝樹寺)に退いた。その後持氏は鎌倉で自害したが、このとき海老名一党も捕えられ、自刃した。
この乱の終結により、海老名氏は壊滅したとみられるが、一族の生き残りが安房里見氏の武将の助けで海老名郷を回復し、厚木駅の東、中新田に屋敷を構えたとする伝承が残る。現在、屋敷跡の名残を残す遺構は何も残っていないようである。

鳩川が相模川に注ぐ
成り行きで由緒ある有鹿神社まで来たのだが、最終目的地である鳩川が相模川に注ぐ姿を見ていない。社を引き返し堤を歩くが、堤からは合流点を見ることができそうもない。iphoneで地図をチェックすると、堤から川床に入らないと三川公園から続く鳩川の流路が見えないようである。
で、堤から川床に下る道、そこには立ち入り禁止のサインもあったのだが、自己責任と失礼し、地図の流路を頼りにブッシュを彷徨い、鳩川が相模川に注ぐ地点を確認。本日はこれでおしまい。小田急線・海老名駅に向かい一路家路へと。
先日、八菅修験の行場を八菅山から4番行場である塩川の谷へと辿った途中、半僧坊で知られる勝楽寺の対岸、中津川が大きく湾曲する田代地区に環流丘陵が残ることを知った。好奇心に駆られながらも、そのときは塩川の谷に有るという金剛瀧や胎蔵瀧探しのことで頭は一杯。とてもではないが環流丘陵を辿る気持ちの余裕はなかった。
で、今回気分も新たに田代地区の環流丘陵を見に出かける。環流丘陵とは流路の変化によって取り残された丘陵のこと。地形図でチェックすると、成るほど、田代地区の沖積地の真ん中に独立した丘陵がぽつりと残る。山地の谷間を蛇行する流れを「穿入蛇行」と呼ぶが、この地において何らかの原因による流路の変更によって旧流路と新たな流路の谷の間に丘陵が取り残されたのではあろう。 アプローチは環流丘陵を俯瞰できればと、中津川の崖面上の中津原台地から田代地区へ下るべし、といった大雑把なルートを想い散歩にでかける。



本日のルート;小田急線・本厚木駅>愛川バスセンター>県道65号>県道54号>桜坂>姫の松>地神社>横須賀水道道路・半原系統>角田八幡神社>市杵島神社>中津川台地の高位段丘面>中央養鶏場>辻の神仏>三増合戦記念碑>志田南遺跡出土遺物>首塚>胴塚>田代の環流丘陵>船繋場跡>「水道みち」の石碑>平山橋>中津神社>馬渡橋>木戸口坂>清雲寺

小田急線・本厚木駅
小田急線に乗り本厚木駅下車。バスは半原行きか、愛川バスセンター行のどちらか成り行きで乗ろうと本厚木バスセンターに向かうおうとすると、丁度本厚木駅前のバス停に「愛川バスセンター」行きが来た。
愛川バスセンターといえば、先日、金剛瀧や胎蔵瀧のあると言う塩川の谷の大椚沢や小松沢に冠する資料(「あいかわの地名 半原地区)を求め訪れた愛川図書館の近く。とりあえず終点までバスに乗り、そこから中津川方面へと向かうことにする。

○木売場
本厚木駅を出たバスは中津川水系の小鮎川と荻野川が合流した流れに架かる橋を渡る。その先、国道129号とクロスする手前には「木売場」といったバス停もある。厚木の地名の由来は木材を集める「アツメギ」との説もある。かつて水量豊かであった中津川水系の半原や宮ヶ瀬から筏を組んで流した木材をこの地で集めていたようである。

○才戸橋
国道129号に合流したバスはすぐに左に折れ、北西に向かって中津川と荻野川に挟まれた沖積地を進む。先に進むと沖積地から鳶尾山の山裾へと進み、宿原で右に折れたバスは山王坂を下り、睦合北公民館前から再び中津川に沿った沖積地を北上し、「才戸橋」を渡り中津川と相模川に挟まれた中津原台地へと入る。

現在の才戸橋の辺りに、往昔「才戸の渡し」があった、とのこと。「才戸の渡し」は北は武蔵国八王子から南は大住郡矢名村(現秦野市)をつなぐ矢名街道の渡しのひとつであり、矢名街道にはこの他、相模川を渡る「上依知の渡し」があり, 江戸時代には大山参詣道として大変な賑わいをみせたとのことである。 「才戸」の由来は、はっきりとはしないのだが、「サイト」は「斎灯」と書き、「サイトバライ」に拠る、との説もある。「「サイトバライ」こと、左義長(とんど、とんど焼き、どんど、どんど焼き、とんど(歳徳)焼き、どんと焼き、さいと焼)は、小正月に行われる火祭りの行事のことを意味する、とか。どんと焼き、さいと焼が行われていた場所であったのだろう、か。

愛川バスセンター
中津川台地へと移ったバスは、美しく弧を描いた崖線下の中津川氾濫原を進むが、坂本のあたりから台地へと上る。その地点は大きく分けて3段からなる中津原段丘面の中位面である。ハスは先日八菅神社を訪れた折りに下車した「一本松」バス停を越え、終点の相川バスセンターに到着する。

■中津原台地
相模原台地の西端、相模川と中津川に挟まれた中津原台地は高位面、中位面、低位面の3段階の段丘面よりなる。高位面は愛川町三増(海抜約150m)、中位面は中津から上依知あたりまで。内陸工業団地が立地する一帯である。下位面は下依知から国道129号と246号がクロスする金田(海抜約30m)。台地の東西端、台地が相模川・中津川に臨むところは急崖であるが,段丘面はおおむね平坦で、おおよそ南北10キロを細長くなだらかに下る。この3段の段丘面は3回に渡る土地の隆起によるものと言われる。





○相模原台地
相模原(相模野)台地は、多摩丘陵と相模川に挟まれた地域に広がる台地。相模川中下流部の左岸に位置し、主に相模川の堆積作用によって形成された扇状地に由来する河成段丘である。大きく分けて3~5段、詳細には十数段の段丘面に区分される。台地の大部分は古い順に相模原面群(高位面)、中津原面(高位面)、田名原面群(中位面)、陽原(みなはら)面群(低位面)に分けられる。(中略)台地上は相模川によって運ばれた堆積物だけでなく、富士山や箱根山などからの噴出物を中心とする火山灰層(関東ローム層)によって覆われている(Wikipediaより)。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)


桜坂
終点の愛川バスセンターから中津原段丘面と中津川とのギャップを感じるべく県道65号を北に少し進み、箕輪交差点を左に折れ県道54号を台地端の崖線に向かう。成り行きで西に向かうと崖線上から中津川へと下る坂道に出る。崖下の下之街道に下る坂は結構急勾配の坂道である。比高差も20m以上もありそうだ。
その坂道の取っ付き部に案内板。この坂道の名は「桜坂」とのこと。説明板によると古くは「刺坂」と呼ばれていたそうで、刺はあて字で本来は焼畑耕作を意味する「サス」とのことです。その昔、字蔵屋敷あたりは焼畑地であり、そこへ通じる坂道ということで「サス坂」となった。
また、小沢城の姫が落城に際し、身をはかなみ坂下の大沼に投身した。そのおり、悲嘆にくれた供の者がここで胸を刺して自害した。それで刺坂の名が起こったのだと言う伝説もあるそうです。傾斜の急なこの坂は古来より人や馬が災禍をこうむることが多かったので、不吉な刺坂の名を忌み、明治36年桜坂に改称されました。愛川町教育委員会」とあった。
(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

姫の松
坂を下ると道脇に合掌タイプの双体道祖神が祀られている。程よく風化しいい感じのお地蔵様となっている。手を合わせて道を進むと高峰村役場跡の石標があり、その斜め前に「姫の松」の碑が立っていた。

説明板によると、「かつてここは底なしと呼ばれた大沼で岸辺には姫の松という老松があったそうです。遠い昔、相模川べりの小沢城には美しい姫がいて、戦国乱世で落城した際、悲運にみまわれた姫は侍女ともども城を出て、ここまで逃れてきたが身の行く末をはかなんで自ら大沼に身を投げて果てたとのこと。姫の松はそのとき岸辺につきさしてあった姫の杖が根付いたとも、姫の死を憐れんだ土地の人が植えたものとも伝わる。現在の松はその遺名を継ぐ樹である (愛川町教育委員会)」とあった。

○高峯村
高峰村(たかみねむら)は、かつて愛甲郡にかつてあった村である。明治22年(1889)4月1日 - 町村制が施行され、角田村と三増村が合併し高峰村となったが、昭和30年(1955)1月15日に愛川町(旧)と合併し、愛川町となった。

○小沢古城
相模川中流域、県道54号に架かる高田橋が相模原市田名と愛川町を結ぶ愛川側の丘陵上に小沢城と小沢古城がある。この地は八王子と小田原をむすぶ街道の相模川渡河地点であり、街道監視の要衝として重要な地点であった。
小沢古城は平安末期に横山党の小沢氏が館を築いたことに始まる。松姫は小沢古城の主、小沢太郎の息女とのこと。その小沢氏は和田合戦において横山党とともに滅び、その後を大江氏が領したとのこと。室町になると小沢城は長尾景春の家臣金子掃部助がこの城に入り、扇谷上杉氏の太田道灌と戦い落城。その後北条氏が街道監視の出城として機能した、と。
時代はずっと下って戦後。農地解放で沼が小作人に田圃になる。が、その持ち主のひとりが怪我をすると、占いによりその因が松姫の供養が足らない故とのこと。既に沼がどこにあったかも不明であるため、碑をたて松を植え松姫を供養することになった、とか。

地神社
松姫の碑から少し進んだところに地元の案内の地図があった。そこに「地神社」といった社が目に入った。「地」などと素朴な名称の社が如何なるものかと訪ねることに。崖下の畦道を進もうとしたのだが、なんとなくアプローチが不安になり、結局桜坂を上り直し台地面から下ることに。
坂を戻り、ヘアピンの急坂をくだり「地神社」に。予想以上のしっかりした構えの社であった。案内によれば、「神社改築の誌:昭和47年(1972)、集中豪雨により裏山が土砂崩れ。中宮大破。人畜に被害なきは地神さまのご加護、犠牲によると箕輪地区の住民感謝。裏山の砂防工事を3年に渡り完成。その後も再建の声高く浄財をもとに、昭和50年5月本格的に再建着手。9月に完成」とあった。
縁起など不明のためチェックすると、「地神社」という社は全国にあるようだ。社の祭神は埴山姫命(はにやまひめのみこと)。伊邪那美命の大便から生まれたとされる。「埴」は粘土、それも祭具を造る土であるが、大便から赤土を連想した命名であろう、か。とはいうものの、埴山姫命は『日本書紀』での表記であり、『古事記』には「波邇夜須毘売神」と表記される。ともあれ、土の女神、ひいては、田畑の神、陶磁器の神とされる。
神社の脇の坂に「宮坂」と刻まれた石碑。地神社から箕輪辻付近に至る坂であり、名前は神社に由来する。

横須賀水道道路・半原系統
地神社を離れ往昔、中津川の氾濫原ではあったであろう耕地を中津川方面に出る。そこには一直線の道。「横須賀水道道路」である。横須賀の海軍工廠をはじめとする海軍施設や艦船の補給水として用いられた。
Wikipediaによれば、「日露戦争後の軍備増強の結果、走水系統では供給が間に合わなくなった。海軍当局は、愛甲郡愛川町半原石小屋地区の中津川に取水口を設け、約53km離れた横須賀まで20インチの鋳鉄管を使用し、落差約70mの自然流下による半原系統の建設工事を1912年(明治45年 / 大正元年)に着手、1918年(大正7年)10月に通水開始した。(中略)
今日この水道管が埋設されている土地は横須賀水道道、横須賀水道路、横須賀水道みち、あるいは単に水道みちと呼ばれ、国土地理院の地形図にも「横須賀水道」として表示されている。ただし水道専用橋の上郷水管橋を始め、至る所で通行不能な場所が存在している。
この半原系統の経路は詳細な市街図で以下のように容易に辿ることができる。 愛川町の宮ヶ瀬ダム近くにある半原浄水場から中津川沿いを通り、内陸工業団地のそばを経由して厚木市に入り、国道129号・国道246号をほぼ一直線に横切り、向きを変えて相模川を上郷水管橋で渡る。
海老名市に入るとアツギの敷地を切り取り海老名SAの北側(吉久保橋)を通り、綾瀬市まで起伏の上下に関わらずほぼ一直線に通り、藤沢市に入るといすゞ自動車の敷地内を通り抜けて、国道1号を越えるまで藤沢市内を再びほぼ一直線に通る。鎌倉市に入り由比ヶ浜駅の前を通り水道路交差点を過ぎたあたりから横須賀線と並走して逗子市を通り、横須賀市の逸見浄水場に至る。なお、この半原系統の取水は2007年(平成19年)より停止されている」とある。
説明を補足すると、走水とは京急・馬掘海岸駅近くの走水海岸の辺りにある湧水池。また、半原系統の取水は年平成19年(2007)より停止されている、とあるが、半原取水口、半原沈殿地や逸見浄水場は現存しており、大正10年完成の逸見浄水場内には、平成17年(2005)7月12日、国指定の有形文化財に登録された施設が残っている。

○水道坂・弁天坂
横須賀水道道に立ち、一直線の上流と下流を眺める。下流の上熊坂方面には上りの坂が見える。水道坂と称する。また、上流の「中の平」方面にも弁天坂が上る。上の説明で横須賀水道道は自然流下での通水とあったが、このようなアップダウンがあるところはどのようにしているのだろうとチェックすると、開水路では順勾配(ずっと下り)である必要があるが、管路(管水路)の場合は入口より出口の方が低ければ良い、ということで、通水途中での多少のアップダウンは問題ないようである。
巷間伝わるに、中津川の水は道志川の水とともに、「赤道を越えても腐らない」水であった、とか。ために日本海軍が重宝し、この軍港水道ができたとのことであるが、同様の話が横須賀と同じく海軍拠点となる鎮守府の呉にも伝わるようである。

角田八幡神社
水道道を進み、崖線下を湿地を避けて通していたのであろう下之街道が右手から合流する辺りを越え、弁天坂を上ると「中の平」の集落に角田八幡神社がある。鳥居をくぐり、ケヤキ、カゴの木、銀杏の巨木、また、愛川町天然記念物指定のタブノキ(途中で折れている)などの巨木の繁る境内に。神仏集合の名残か鐘楼も残る。
社殿にお参り。社の祭神は誉田別命 ( ほむたわけのみこと )。15代応神天皇のことである。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると角田村の鎮守で、神体は銅像および円石で、天正19年(1591年)に社領二石の御朱印を賜ったとのこと。東照宮が境内摂社にあったが、御朱印と関係あるのだろう、か。

それはそれとして、この社の裏手には江ノ島の岩屋に繋がる穴があると伝わる。穴がどこにあるのか案内もなく不明であるが、八菅修験の行者道でメモしたように、大山修験の行所である塩川の谷には、江ノ島の洞窟と繋がるとの伝説がある。中津川の川底には洞窟があり江ノ島の洞窟と繋がっており、江ノ島の弁天さまが地下洞窟を歩き、疲れて地表に出て塩川の滝の上流の江ノ島の淵まで歩いていった、との話であるが、この穴も弁天様が疲れて地表に出た縁起の一環ではあろう、か。軍港水道道に突然「弁天坂」が登場したものこの縁起に関係したものだろう、か。
ついでのことではあるが、軍港水道道は八幡さまの先で道から離れ、一度台地の方に向かい、少し進んで角田大橋の少し先で再び水道道路に戻る。昔は道路もなく、地盤も弱かったため水管は迂回して通したとのことである。

○福泉寺
境内北端にはお堂があり福泉寺とあった。曹洞宗のお寺さま。愛甲郡制誌には開創は文禄2年(1593)とある。入口に石標があり、ここには角田学校(養成館第一支校)跡とのこと。明治6年(1873)に寺の建物を借りて開校、明治27年(1894)高峰小学校に統合しまた。境内片隅には地蔵菩薩と光明真言供養塔が並んでいる。

市杵島神社
角田大橋を越え弁天坂を下った辺りに市杵島神社。ささやかなる祠が祀られる。 祠の脇の案内には、「伝説 弁天社と弁天淵 ここの裏手の中津川の淵底は、江の島の弁天さまの岩屋まで穴で通じているうえ、なお、その穴は西にのび、半原、塩川滝上の江の島淵の底まで至っているという。
むかし、江の島の弁天さまが、岩屋から穴伝いに江の島淵に向われたとき、あまりにも疲れたので、ひとまずここの淵に浮かびあがりからだを休めた。そのおり、弁天さまのお姿を見つけた村人たちは「もったいないことだ」と伏し拝み、淵の上の森に社をたててお祀りしたという。これが、今の弁天社で、裏手の淵を弁天淵と呼ぶようになった。
また、この淵が江の島に通じていることから、満潮のときには海の潮がここまでさしてくるといわれている。(愛川町教育委員会)」とあった。

上で角田八幡の縁起でも江ノ島の弁天様の逸話をメモしたが、どうやらこの社が弁天様縁起の本家本元のようである。市杵島神社(いちきしまじんじゃ)、または市杵島姫神社(いちきしまひめじんじゃ)は、宗像三女神の市杵島姫神を主祭神とする神社であり、市杵島姫神は仏教の弁才天と習合したことから、通称で弁才天(弁財天、弁天)と呼ばれている神社が多いと(Wikipedia)言うことであるから、筋は通っている。弁天坂の由来も、角田八幡ではなく、こちらの社のものかとも思い直す。江ノ島から歩いてきた弁天様は一度この地の「弁天淵」で姿を現し、再び中津川の川底に続く洞窟を塩川の谷の「江ノ島淵」まで辿っていったのだろう。

○江ノ島の弁天さま
弁天様は七福神のひとりとして結構身近な神として、技芸や福の神、水の神など多彩な性格をもつ神様となっているが、元々はヒンズー教のサラスヴァティに由来する水の神、それも水無川(地下水脈)の神である。弁天様が元は地下水脈の神であったとすれば、江ノ島の弁天様が中津川の川底を歩いてきたという話はそれなりに筋の通った縁起ではある。
この縁起の意味するところは何だろう?チェックすると、弁天さまって、我々が身近に感じる七福神とは違った側面が見えてきた。弁天様って二つのタイプがあるようで、そのひとつは全国の国分寺の七重の塔に収められた「金光明最勝王経」に説く護国鎮護の戦神(八臂弁才天)であり、もう一つは、空海が唐よりもたらした真言密教の根本経典である大日経に記され、胎蔵界曼荼羅において、琵琶を奏でる「妙音天」「美音天」=二臂弁才天。いずれにしても結構「偉い」神様のようである。
江ノ島に祀られた弁天さまは二臂弁才天。聖武天皇の命により行基が開いた、とも。聖武天皇は国分寺を全国に建立した天皇であり、その国分寺の僧の元締めが東大寺。東大寺初代別当良弁は大山寺開き初代住職となる。大山寺三代目住職とされる空海も東大寺別当を務めたことがある。ということで、すべて「東大寺」と関係がある。
で、東大寺で想い起すのが「二月堂」のお水取り。二月堂下の閼伽井(若狭井)は若狭(福井県小浜市)と地下で結ばれ神事の後、10日をかけて地下水脈を流れ二月堂に流れ来る、と。大山寺の初代別当である良弁(相模の出身)は八菅山光勝寺を国分寺の僧侶の大山山岳修行の拠点としたと言われる。東大寺の二月堂の地下水脈の縁起を、江ノ島から中津川を遡った塩川の谷に弁天様が辿るって縁起を整え、その地に修験の地としての有難味を加え、中津川・塩川の谷に大山山岳修験の東口として重みを持たせたのであろう、か。単なる妄想。根拠なし。

中津川台地の高位段丘面
中津原台地の段丘面と中津川によって削られた段丘崖の「ギャップ」を見るため下った中津川沿いの集落で、江ノ島の弁天様の縁起ゆかりの地に出合い、思いがけない幸運に成り行き任せの散歩の妙を感じながら、再び台地上の段丘面に戻る。台地から田代の環流丘陵を見下ろすためである。
地図で確認すると角田八幡神社方向に少し戻らなければ、台地上の段丘面へと上る道はないようである。少し道を戻り、成り行きで道を進み段丘面に。ルートは出来る限り崖線に沿って進むことにする。ついでのことでもあるので、中津川を越えた対岸の「屋形山」の崩れ具合を見ることができるかな、といった想いではある。


八菅修験の第三行所であった「屋形山」は採石場となり消滅している、とのこと。先日の八菅修験の行者道散歩で山裾から、その崩れ具合を見てはいたのだが、対岸の台地上から再度確認してみよう、との思いである。予想通り、採石されている一帯は、周囲と山肌の色は異なり、山容は残っていなかった。

中央養鶏場
ずっと台地の崖線上を進もうと思ったのだが、台地を削る沢(深掘沢)があり北に進まなければ沢を渡る橋もない。成り行きで北に進むと巨大な養鶏場群の中に紛れこんだ。辺り一帯すべてが養鶏場である。地図には中央養鶏場と記されていた。昭和32年(1957)設立と言うから、50年以上の実績を誇る農業協同組合によって運営されているようである。

辻の神仏
養鶏場の「工場地帯」を抜け、北の山容を眺めると、一度見た景色のように思える。実のところ、思わず知らず、三増合戦の地に足を踏み入れていた。数年前のことになるが、武田信玄と小田原の後北条が戦った三増合戦の地を訪ね、この三増の地から三増峠を越えたり、志田峠を越えたりしたのだが、この地は将にその時に彷徨った一帯であった。
田代の集落から台地を上り台地を横切り、県道65号・三増交差点に向かって東に続く車道に出る。その車道を左に折れ、台地を削る「深掘沢」を越えて少し進むと道の北側に幾つものお地蔵様を祀られていた。案内によると、「辻の神仏 辻(岐路)はそれぞれの地域への別れ道であるため(最寄)の境界となっていることが多い。そのうえ、この境目は民間信仰において季節ごとに訪れる神々を迎える場所でもあり村落へ入ってくる悪魔や邪鬼を追い払う所でもあった。そのため、いつしか祭りの場所としての特殊な考え方が生じ、いろいろな神仏をここへ祀るようになった。この辻にあるのは「馬頭観音」「如意輪観音」「観音地蔵供養塔」「聖徳太子供養塔」「庚申供養塔」「弁財天浮彫坐像」「舟形浮彫地蔵像」などである。平成9年(三増中原町内会。愛川町教育委員会)」とあった。


三増合戦場の石碑
お地蔵様にお参りし、道を西へと向かうと三増合戦場の石碑と案内が現れた。案内によれば、「三増合戦のあらまし 永禄12(1569)年10月、甲斐(今の山梨県)の武田信玄は、2万の将兵をしたがえて、小田原城の北条氏康らを攻め、その帰り道に三増峠を選んだ。
これを察した氏康は、息子の氏照、氏邦、娘の夫綱成らを始めとする2万の将兵で三増峠で迎え撃つことにした。ところが武田軍の近づくのを見た北条軍は、半原の台地上に移り体制を整えようとした。
信玄は、その間に三増峠の麓桶尻の高地に自分から進み出て、その左右に有力な将兵を手配りし、家来の小幡信定を津久井の長竹へ行かせて、津久井城にいる北条方の動きを押さえ、また山県昌景の一隊を韮尾根に置いて、いつでも参戦できるようにした。北条方は、それに方々から攻めかけたのでたちまち激戦となった。そのとき、山県の一隊は志田峠を越え、北条軍の後ろから挟み討ちをかけたので、北条軍は総崩れとなって負けてしまった。この合戦中、武田方の大将浅利信種は、北条軍の鉄砲に撃たれて戦死した。
北条氏康、氏政の親子は、助けの兵を連れて荻野まで駆けつけてきたが、すでに味方が負けてしまったことを知り、空しく帰っていった。
信玄は、勝ち戦となるや、すぐに兵をまとめ、反畑(今の相模湖町)まで引き揚げ、勝利を祝うとともに、敵味方の戦死者の霊をなぐさめる式を行い、甲府へ引きあげたという(愛川町教育委員会:看板資料より)」とあった。

三増合戦のあれこれは、数年前辿ったときの、三増峠越え、志田峠越え、信玄の甲州への帰路の散歩メモを参考にしていただくことにしてここでは省略するが、この三増合戦の碑を目安に志田峠へと向かったことは数年前のことではあるが、はっきりと憶えている。三増峠越えで道を間違い山道を東へと相模川に向かった直後のことであり、果たして志田峠を無事越えることができるものかと不安一杯であったのだろう(実際の志田峠越えは嶮しくもなく、すんなりと越えることができた)。


志田南遺跡出土遺物
三増合戦の碑の脇に「志田南遺跡出土遺物について」の案内があった。「平成10年正月5日、ここから東へ130メートル程の桑畑の中、「塚場」と呼ばれる地点で、人骨及び六道銭が発見されました。この周辺は北条・武田の二大戦国大名が戦った三増峠合戦主戦場ということもあり、戦死者の骨である可能性があります。鑑定の結果、骨の主は筋肉が良く発達した壮年後半の男性であることが分かりました。また、一緒に出土した銭は全て中世の渡来銭でした。地元では「相模国風土記稿」に見える北条氏の家臣間宮善十郎の墓であるとの説もあり、三増合戦場碑の傍らに埋葬することにいたしました」とある。

案内のタイトルを見たときこの地に古墳でもあったのだろうかと思ったのだが、実際は合戦で亡くなった将士を弔う碑であった。昔から畑の中に塚のような土堆が三カ所あり、耕地所有者の願を受けた有志が一カ所に集め懇ろに弔っていたものが、行政レベルまでに到り、「三増合戦まつり実行委員会」の設立にともないこの碑ができたようである。

首塚
台地を下るべく更に西へと道を進む。再び台地を刻む「志田沢」を越える。「志田沢」に沿って進んだ志田峠越えが懐かしい。志田沢を越え先に進むと、道の一段高いところに小祠と案内がある。足を止めて案内を見ると「首塚」とあった。「不動明王を祀る小高い所を首塚という。宝永3(1706)年建立の供養塔がある。このあたりは、三増合戦(1569)のおり、志田沢沿いに下ってきた武田方の山県遊軍が北条軍の虚をつき背後から討って出て、それまで敗色の濃かった武田方を一挙に勝利に導くきっかけをつくったところという。
この戦いのあと、戦死者の首を葬ったといわれるのが首塚であり、県道を隔てた森の中には胴を葬ったという胴塚がある。なお、三増合戦での戦死者は北条方3269人、武田方900人と伝えられる」とあった。

三増合戦の時、志田沢は戦死者の血で染まり「血だ沢」などと称されたとも言われる。ために合戦後、戦死者の首を葬ったこの首塚であるが、江戸の頃幽霊騒ぎが起こり、供養塔を建てたところ騒ぎは収まった、とか。その供養塔は今も首塚のところにあると言う。

数年前、三増合戦の地を辿ったとき、この首塚には出合うことなかった。あれこれ考えるに、三増合戦散歩の際のアプローチは、三増峠越えには本厚木からバスで県道65号を直接「上三増」バス停へと向かいそこから直接北に向かって峠を越え、また志田峠の時も「上三増」バス停から「三増合戦の碑」までは歩いて来たのだが、そこから北へと志田峠へと向かっており、この田代から台地を上がるルートは通っていなかったようである。

胴塚
首塚の説明にあった胴塚を訪ねる。場所は首塚から車道を少し田代方向へと下った志田沢脇にあった。案内には「永禄12(1569)年10月、当町三増の原で行われた「三増合戦」は、甲州の武田、小田原の北条両軍が力を尽くしての戦いだったようで、ともに多くの戦死者が出た。そのおり、討ち取られた首級は、ここから150メートルほど上手の土手のうえに葬られ「首塚」としてまつられているが、首級を除いた遺骸は、すぐ下の志田沢の右岸わきに埋葬され、塚を築いてそのしるしとした。この地では、それを「胴塚」と呼び、三増合戦にゆかりのひとつとして今に伝えている」とあった。

田代の環流丘陵
胴塚から舌状に突き出た上原の台地の坂を南に下り、折り返して崖線に沿って田代へと坂を下る。道の左手には本日の目的地である環流丘陵が田代の集落の中にぽつんと聳える。
坂を下りきり、環流丘陵の周囲を、ぐるっと一周することに。如何にも水路跡らしき道筋をぐるりと一周し、あれこれ思う。環流丘陵とは流路の変更により、旧流路と新流路の間に取り残された、独立丘陵のことを言う。いつの頃か、遙か昔のことではあろうと思うが、丘陵の東、上原の台地との間を流れれていた中津川が、なんらかの原因によりその流れを現在のように丘陵の西を大きく迂回するようにその流れを変え、そのため取り残されることになったわけであろう。


一応本日の目的地はゲットしたのだが、いまひとつ中津川の流れと沖積地としての田代の集落、そしてその中の環流丘陵といった全体の姿が見えてこない。全体を俯瞰することも兼ね、対岸の清雲寺まで足を伸ばし、対岸の丘陵から還流丘陵を俯瞰すことにする。

船繋場跡
清雲寺に向かう前に、先回、田城半僧坊まで足を伸ばしながら準備不足で見逃しが「平山橋」を訪ねることに。
成り行きで道を進むと「船繋場跡」の石碑。「昔はこの近くを中津川が流れており、ここに舟を繋いで出水に備えた。また、非常の時のために、番小屋もあったとゆう」とあった。
この中津川の流れが旧流路のことか、新流路のことか、どちらかわからない。が、流路変更が近世になってからのこととも思えないので、新流露として考えてみるに、現在の流れは「船繋場跡」から少々離れている。
とは言うものの、流れが蛇行するようになれば、流れの外側の流水の速度は速くなり、それゆえに更に侵食が進む。一方、流れの内側は、外側に比べて流水速度が遅くなり、上流からの砂礫が堆積が進むことになる。そのため、河川はさらに大きく蛇行するようになるわけで、結果的に「船繋場跡」と中津川の流れが開いたのかもしれない。単に護岸工事故の理由かもしれず、単なる妄想であり、根拠なし。

「水道みち」の石碑
「船繋場跡」の先の交差点近くに「水道みち」の案内石碑。先ほど角田で出合った、横須賀軍港への水を供給していた水管が埋められている道筋がここに続き、この田代の交差点から上流の馬渡橋へと向かう。

平山橋
田代の交差点から中津川に架かる「平山橋」に。橋脇の案内に「平山橋は、大正2年に全長の3分の1にあたる左岸側のみが鉄製、それ以外は木製の姿で開通しました。全てが鉄製になったのは大正15年のことです。
先の大戦末期には、米軍機の銃撃を受け、構造材の各所に弾痕を残すなど、町域に残る数少ない戦災跡の1つとなっています。下って平成15年1月、「平山大橋」の開通に伴い、幹線道路設置としての任を終え、その後は人道橋として利用されています。
平成8年の文化財保護法改正により、近代建造物保護の制度が新たに設けられました。これにより平成16年11月8日、平山橋は国の登録有形文化財となり、町に残る近代化遺産として保存されることになりました」とあった。

この橋はリベット構造トラスト橋(リベットを使用して、トラスと呼ぶ、三角形をいくつも組み合わせた枠組みの構造でできた鉄橋)。明治の頃によく使用された工法と言う。説明にもあるように、左岸1連の鋼製トラスと右岸2連の木造トラスで開橋し、大正15年(1926)には木造トラスを鋼製トラスに架け替えた、とのことである。
米軍の機銃掃射を受けたという弾痕などを眺めながら、なにゆえこんな山間の地へと米軍機が来襲したのかとのことだが、現在内陸工業団地となっている中津原台地一帯(中津原台地中位段丘面)は昭和16年(1941)に陸軍の相模陸軍飛行場ができたとのことであるので、その飛行場への来襲の余波とでもいったものではなかろうか。

中津神社
平山橋を離れ、清雲寺に向かうべく県道54号を馬渡橋方面へと向かう。と、中津神社があった。県道から続くちょっと長い参道を進み社にちょっと立ち寄り。境内に入り拝殿にお参り。拝殿脇には稲荷社などの境内摂社がある。
鳥居脇に社の案内がある。「勧請年不明なるも、文治の頃より存在すること記録に残る。文治年間は後鳥羽時代で約811年前。その後、この地毛利の庄たり。永亨年中、北条長氏伊豆に興り、その後本州に威なり。弘治3巳卯年本村及び近傍の其臣内藤下野守秀勝の所領となる。依って内藤氏は字上田代富士山麓なる天然の要地を囲み城を築きて居住す。而して本神社を氏神として信仰せられたり。内藤氏居を本地に定めらるるや、次第に住民も増加し、神社の尊厳を高め、祭祀の方法も定まれり。
往時は中津川清流の中心にして、孤嶽をなしており、孤嶽明神と唱え、御祭神は大日?命を祀り、旧田代村の鎮守たり。
境内に東照宮、八坂社、稲荷社、金毘羅社の4社を祀る。東照宮は天正年中(423年前)入国の節、又左衛門外二名なるもの三河国より供仕の由緒により勧請。明治6年示達に基づき部内に存在する八幡神社、日枝神社、浅間神社、蔵王神社の合祀し、祭祀の方法を確立し永遠維持の基礎を定めて中津神社と改称され、殊に合祀社の内、八幡神社、浅間神社は内藤氏の守護神として武運長久を祈願せられ、殊に八幡神社には二石の御朱印を下し賜った。
また当社は中津川流域の中心にし、孤嶽を残し中洲をなして曾て洪水の被害を受けたことなし。中津の称、これより来る。
爾来、諸般の設備ととのい、基本財産確立せるにより、大正4年、神奈川県告示をもって村社に昇格する。戦後昭和21年届け出により宗教法人となる」とあった」とある。
少々長く、かつ明治の頃の説明が相前後してちょっとわかりにくい。毛利の庄は後にメモすることにして、簡単にメモすると、北条長氏こと北条早雲により小田原に後北条が覇を唱える。その家臣である内藤下野守秀勝がこの地を領した。秀勝は上田代、馬渡橋の東岸の要害の地に田代城を築き、この社を氏神とする。その後の「又左衛門外二名なるもの三河より云々」は不詳。
更に、明治の頃の説明に「内藤氏の守護神として武運長久を祈願せられ、殊に八幡神社には二石の御朱印を下し賜った」とは、少々わかりにくい。この説明は明治の合祀の説明の流れではなく、明治に合祀された八幡神社が内藤氏の守護神であり、徳川の御世に御朱印を下賜された、ということだろう。因みに内藤氏は津久井城主の内藤氏の一族であり、三増合戦の折、城は落城したとのことである。また、内藤氏は小田原北条氏の滅亡に順じたと言い、その後の消息は不明である。

○毛利の庄
厚木やその東の海老名の辺りは古代、相模国愛甲郡と呼ばれる。国府は海老名にあった、よう。国分寺は海老名にあった。古代の東海道も足柄峠から坂本駅(関本)、箕輪駅(伊勢原)をへて浜田駅(海老名)に走る。この地は古代相模の中心地であったのだろう。
平安末期には中央政府の威も薄れ、各地に荘園が成立する。この地も森の庄と呼ばれる荘園ができた。で、八幡太郎義家の子がこの地を領し毛利の庄と呼ばれるようになる。12世紀の初頭になると、武蔵系武士・横山党が相模のこの地に勢力を伸ばす。和戦両面での攻防の結果、毛利の庄の南にある愛甲の庄の愛甲氏、海老名北部の海老名氏、南部の秩父平氏系・渋谷氏をその勢力下に置いた。
鎌倉期に入ると相模・横山党の武将は頼朝傘下の御家人として活躍し、各地を領する。頼朝なき後、状況が大きく動く。北条と和田義盛の抗争が勃発。相模・横山党はこぞって和田方に与力。一敗地にまみれ、この地から横山党が一掃される。毛利の庄を領した毛利氏も和田方に与し勢力を失う。
主のいなくなった毛利の庄を受け継いだのが大江氏。頼朝股肱の臣でもあった大江広元より毛利の庄を受け継いだその子・大江季光は姓も毛利と改名。安芸の毛利の祖となったその季光も、後に北条と三浦泰村の抗争(宝治合戦)において、三浦方に与し敗れる。ちなみに、安芸国の毛利は、この抗争時越後にいて難を逃れた季光の四男経光の子孫である。

馬渡橋
道なりに北西に進むと中津川に架かる馬渡橋。橋には中津川を渡る水道管が見える。横須賀水道の導水管である。馬渡橋の由来は、橋を隔てて中津川の両岸の台地に築かれた田代城と細野城の将士が馬で行き来した故とのこと。今でこそ上流に宮ヶ瀬ダムがあり、流れも緩やかではあるが、往昔水量豊かで船運の往来もあったと言うので,人馬の渡河などできたのだろうか。



木戸口坂
馬渡橋を渡ったところにある「馬渡橋バス停」でバスの時刻を確認し、最後の目的地である清雲寺へと向かう。それほど時間に余裕があるわけでもなく、結構の急ぎ足となる。
橋を渡り少し進んだところで県道54号を左に折れる道に入る。折れるとすぐに道は分岐するが、右に上る道脇に「木戸口坂」の石碑。「ここから忠霊塔の脇を経て昔あったという細野城木戸口あたりへ至る坂をいいます」とあった。細野城も田代城と同じく内藤氏の一族の城であったとのことである。

馬渡坂
清雲寺へは左の坂を上る。「馬渡坂」と刻んだ石碑がある。「愛川町町役場半原出張所脇から国道412号に至る坂」とある。国道412号もこのあたりはバイパスとなり半原の町を迂回して台地を上るわけで、それほど昔の道ではない。ということは、この「馬渡坂」も最近命名されたものだろうか。石碑の説明だけからの推測ではあるので全くもって根拠なし。

清雲寺
坂を上り国道412号を越え、急ぎ足で台地上の清雲寺に向かう。入口に六地蔵。境内には豊川稲荷堂や不動堂が祀られる。臨済宗建長寺派の本堂にお参り。開山は鉄叟慧禅師、開基は内藤三郎兵衛秀行とのこと。
内藤三郎兵衛秀行は田代半僧坊の開基の武将でもあり、武田信玄との三増合戦の時には田代城に詰めたと言われる。城が落城した後、秀行は剃髪したとの伝承もあるようだが、そもそも田代城攻略戦が行われたか否か自体が不明である。

○一背負門

境内を台地端へと向かう途中に山門があり。そこに案内板。「神奈川のむかし話五十選 ひとしょい門;むかしむかし、このあたりに善正坊という大力の坊さんがおった。あるとき中津川べりの材木集積場にゆき、山門の材料にする、ケヤキがほしい旨を申しいれたところ「一人で背負えるだけの量なら、ただでやろう」と木流しの役人は心よくその願いを許した。
すると善正坊は山門建立に必要な材木を山のように積みあげ驚き呆れる役人をしり目に、ひと背負いで此の処まで運んできてしまったという。この山門はその材木でつくられたので、いつの間にか「ひとしょい門」と呼ばれるようになった」とあった。

一背負門をくぐり、台地端に向かい田代の還流丘陵を眺める。大きく湾曲する中津川、中津川の流れにる砂礫などにより形成されたであろう田代の沖積地、そしてその中央に緑の丘陵地が一望のもと。これで今回の散歩は終了。急ぎ足で馬渡橋のバス停に向かい、一路家路へと。



八菅修験の行者道散歩はスタート地点の八菅神社、往昔の誇り高き修験の一山組織であった八菅山光勝寺の、文字通り「一山」を彷徨い、そのメモが多くなったため、先回のメモでは行者道まで辿りつけなかった。
今回は八菅山を離れ。第二の行所から第五の行所である塩川の谷までをメモする。八菅神社から塩川の谷までは中津川に沿って、のんびり、ゆったりの散歩ではあったが、塩川の谷に入り込み、瀧行の行われた瀧を探すには少々難儀した。塩川の谷では塩川の滝の他にもあると言う、胎蔵界の瀧、金剛界の瀧といった曼荼羅の世界を想起させる瀧を求めて雪の残る沢を彷徨うことになった。



本日のルート;八菅神社>幡の坂>第二行所・幣山>第三行所・屋形山>金比羅神社>馬坂>愛宕神社>日月神社>琴平神社>第四行所・平山・多和宿>勝楽寺>第五行所・滝本・平本宿(塩川の谷)

八菅修験の行者道
八菅の行者道をメモするに際し、先回のメモで山林での修行者か山岳修行と結びつき、密教・道教などがないまぜとなった修験道が成立するまでのことはちょっとわかったのだが、よくよく考えてみると、丹沢の行者道を辿った「峰入り」がいつの頃からはじまり、いつの頃その終焉を迎えたのか、よくわかってはいなかった。先回のメモとの重複にもなるが、八菅修験の経緯をまとめながら丹沢山塊への「峰入り」の開始、そして終焉の次期についてチェックする。

八菅修験のまとめ
『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』によれば、八菅(はすげ)修験とは、 中津川を見下ろす八菅山に鎮座する現在の八菅神社(愛甲郡愛川町八菅山141-3)を拠点に山岳修行を行った修験集団のこと。八菅神社とのは明治の神仏分離令・修験道廃止令以降の名称。それ以前は山伏集団で構成された一山組織「八菅山光勝寺」として七所権現(熊野・箱根・蔵王・八幡・山王・白山・伊豆の七所の権現;室町時代後期)を鎮守としていた。
山内には七社権現と別当・光勝寺の伽藍、それを維持する五十余の院・坊があったと伝わる。 山林に籠り修行する山林修行者を「山伏」,「修験者」と呼び始めたのは平安時代。鎌倉から室町にかけて、修験者の行法は次第に体系化され、教団組織が成立。そのうちで最も有力な熊野修験を中央で統括する熊野三山検校職を受け継いだのが園城寺(三井寺)の流れをくむ聖護院であった。その聖護院を棟梁として成立したのが本山派である。
八菅山と聖護院が結びついたのは戦国時代。江戸時代には、聖護院宮門跡の大峰・葛城入峰に際しては、八菅の山伏が峰中(ぶちゅう)の大事な役を果たすなど、八菅修験は本山派聖護院門跡直末の格式高い修験集団として全国に知られた。
自前の修行エリアと入峰儀礼を持たない他の山伏と異なり、この地では綿々と峰入修行が行われていた、と言う。とはいうものの、「江戸時代の一般の山伏の生活は、中世以前の山林修行者とは異なり村落や町内にある鎮守の別当や堂守として生活しながら、地鎮祭やお祓い、各種祈祷など地域ニーズに応えていた」と述べている(『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』)。

江戸時代の修験道
この記述から江戸時代とそれ以前では、為政者と修験者の関係が大きく変わっていることが忖度できる。八菅修験ではないが、大山寺修験は徳川幕府の政治的圧力を受け、一山組織が事実上壊滅したとのことである。『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』によると、天正18年(1590)、家康が江戸に入府し、相模の有力寺社に寄進するもそこには大山の名前ななく、大山に寄進されたのは慶長13年(1608)になってのことである。
その理由は家康とその意向を受けた別当(一山の領主的僧侶)と大衆(だいしゅう;一山の大半を占める宗教者達)との対立であった。大衆の多くが修験者・山伏であり、山岳修験を禁じ、「お山」」を下りることを求める為政者と対立したわけではあろうが、所詮幕府の力に抗すべくもなく、お山を下りることになる。
天保年間に記された『新編相模国風土記稿』には「師職166軒、多く坂本村に住す。蓑毛村にも住居せり。皆山中に住せし修験なりしが、慶長10年、命に依りて下山し、師職となれり」と伝える。師職とは御師・先達のこと。こうして山を下りた山伏は山麓の「御師」に転身して門前町を形成、江戸時代の「大山参り」の流行を支えたと言われている(『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』)

丹沢の峰入りの開始時期
江戸になり大山修験では山伏がおこなっていた峰入りの行法は途絶え、修行の道であった行者道も途絶えたと言われる峰入りであるが、はたしていつの頃から「峰入り」はじまったのだろう。
あれこれチェックすると、山林修行者が個人で行っていた抖?(とそう)が集団で行う「峰入」儀礼に発展したのは院政期、大峰・熊野で成立したと考えられる。おおよそ11世紀頃とのことである。
で、この地、大山・八菅山での「峰入」がいつの頃はじまったのか、その時期ははっきりしない。はっきりとはしないが、抖?(とそう)ルートが「上人登峰。斗藪三十五日也」とあり、その行所も記載されている『大山縁起』の成立期が中世前期とのことであり、それから考えるに丹沢での峰入りが開始されたのは中世前期を下ることはない、ということではある。

春の峰入り
この八菅修験の道は春と秋の峰入りがあったようだが、秋のルートの記録は残っていないようである。以下、『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』をもとに。春の峰入りについてメモする。
春の峰入は旧暦2月にはじまることになる。修験は神社脇の経塚付近にあった禅定宿から始まる。身を清め、諸堂舎の本尊を巡る行道など前行(ぜんぎょう)が何日も続き、峰入は2月21日に始まる。最初の3週間は八菅山内堂舎に籠り、勤行、作法の伝授、真言・経典の暗唱、断食などの修行が堂内で繰り返された。 3月18日、山岳抖?(とそう)に入る。そして第30行所大山寺不動堂(現在の阿夫利神社下社)に勢ぞろいしたのは3月25日であった。ということは、修験35日のうち八菅山で27日を過ごし、峰入りは行者道を1週間程度をかけて辿ることになる。

修験の最大の眼目は"不動"になる、有体に言えば「自然になること」と言う。白山修験は白山権現で始まり、その終わりも大山の白山不動で終わり、そして生まれ変わるということのようである。

春の峰入りの行者道
で、八菅修験の行者道であるが、行所は30ヵ所。この八菅山を出立し中津川沿いに丘陵を進み、中津川が大きく湾曲(たわむ)平山・多和宿を経て、丹沢修験の東口とも称される修験の聖地「塩川の谷」での滝行を行い身を浄め、八菅山光勝寺の奥の院とも称され、空海が華厳経を納めたとの伝説も残る経ヶ岳を経て尾根道を進み「仏生寺(煤ヶ谷舟沢)」で小鮎川に下り、白山権現の山(12の行所・腰宿)に進む。
八菅修験で重視される白山権現の山(12の行所・腰宿)での行を終え、小鮎川を「煤ヶ谷村」の里を北に戻り、上でメモした不動沢での滝行の後、寺家谷戸より尾根を上り、辺室山から物見峠、三峰山、唐沢峠を繋ぐ尾根道への峰入りを行う。
唐沢峠からは峰から離れ、弁天御髪尾根を不動尻へと下り、七沢の集落(大沢)まで尾根を下り、里を大沢川に沿って遡上し、24番目の行所である「大釜弁財天」を越えて更に沢筋を遡上し、再び弁天御髪尾根へと上り、すりばち状の平地のある27番行所である空鉢嶽・尾高宿に。そこからは尾根道を進み、梅ノ木尾根分岐を越え、再び三峰山、唐沢峠を繋ぐ尾根道に這い上がり、尾根道に沿って大山、そして大山不動に到り全行程53キロの行を終える。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

八菅修験の峰入の行所
1.八菅山>2.幣山>3.屋形山(現在は採石場となり消滅)>4.平山・多和宿>5.滝本・平本宿(塩川の谷)>6.宝珠嶽>7.山ノ神>8.経石嶽(経ヶ岳)>9.華厳嶽>10.寺宿(高取山)>11.仏生谷>12.腰宿>13.不動岩屋・児留園宿>14.五大尊嶽>15.児ヶ墓(辺室山)>16.金剛童子嶽>17.釈迦嶽>18。阿弥陀嶽(三峯北峰)>19.妙法嶽(三峯)>20.大日嶽(三峯南峰)>21.不動嶽>22.聖天嶽>23.涅槃嶽>24.金色嶽(大釜弁財天)>25.十一面嶽>26.千手嶽>27.空鉢嶽・尾高宿>28.明星嶽>29.大山>30.大山不動

と、峰入りのことをまとめてきたが、上でメモしたように江戸時代に為政者による政治的圧力によりその下山を余儀なくされたわけであり、「蟻の熊野詣で」といったように、修験者が盛んに峰入りをおこなったわけではない。文政年間以降の記録では入峰者数は多い年で24人しかいない。
上で「江戸時代,八菅山は本山派聖護院門跡直末の格式高い修験集団として全国に知られた」と引用した。しかしそれも、入峰者の数、多いとき24人といった程度では、山から下山させた「山伏・修験者」を教団傘下に組み入れ管理するといった宗教政策の一環として本山派聖護院門跡の統制下に置いたといったことではないか、とも妄想する。
明治に入ると、明治の神仏分離令と修験道廃止令の結果、明治4年(1871)の11人を最後に峰入りは途絶えることになる。多くの山伏が還俗(僧尼が俗人になる)を余儀なくされるが、神官に転じた人も多かった、とのことである。




幡の坂
八菅神社を離れて、第二の行所である「幣山」へと向かう。ルートを想うに、八菅山を彷徨ったときに出合った、「幡の坂」経由で進む事にした。実のところ、幡の坂の少し八菅神社側にある「石碑」に刻まれた文字がどうしても読めず気になっており、もう一度じっくり見ればわかるかも、といった想いで、このルートを選択した。
道を進み、石碑に到着。ためつすがめつ眺めては見たものの、一部欠けている石碑の文字を読み解くことはできなかった。 ちょっと残念ではあるが、石碑を離れ「幡の坂」の道標を見遣り、沢筋に下り、鹿なのか猿なのか、ともあれ獣が里の作物を荒らすのを防ぐ防御柵に沿って里に下りる。

かわせみ大橋
道は崖に張り付くように通っていいる。先回の散歩で八菅橋へと下る大橋がそうだったように、大掛かりな桟道といった道であり、特段川を渡っているわけではないようだ。この道・幣山下平線ができたのは2011年4月。それまでは中津川の右岸の道は整備されていなかったように聞く。今はゆったりのんびりの道ではあるが、往昔の行者は道なき道を辿っていたのだろうか。単なる妄想。根拠なし。



第二行所・幣山(愛川町角田)
里に下り、丘陵裾に沿って野道を進む。成り行きで山裾の道から車道に出てしばらく歩く。八菅神社から2キロほどのところ、幣山(へいやま)地区の田園風景を抜けた東端の道脇に鳥居が見えてきた。
鳥居脇に案内。「?天岩屋(タテンイワヤ)は八菅修験の峰入修業における第2番目の行所。この岩屋はかつて山伏以外の者の立ち入りを禁じていた聖地で、中津川に臨む断崖の頂にはたいへい岩と称する巨岩があり、毎年3月7日に此処で山伏が秘水をもって灌頂したという。岩屋に鎮座する石神社は大宝3年(703)役小角によるものと伝えている。また、幣山の名は峰入りのときに五色の幣(ヌサ)を納めた故事に由来している』とある。

『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』には、「この聖地は荼枳尼天と倶利伽羅明王を祀る「幣山ダキニ天岩屋」と記載されている。?天岩屋(タテンイワヤ)=「ダキニ天岩屋」ということだろうか。
石段を上り、石神社にお参り。石神社の社殿の左手に岩場が見える。そこが幣山ではあろう。神社の脇には「是より登山禁止」と刻まれた文久年間に造られた石碑が建つ。これより先の岩場は、平安末から鎌倉時代の経塚が発見されたように、古代から祭祀を行う聖地であった、と言う。
説明を追加
聖地がどのようなところか岩場に向かう。左手は中津川の崖。高所恐怖症の我が身には結構辛い。岩場に続く踏み分け道はあるのだが、右手の崖を想えば、とてもそころ歩く度胸はない。左手の木の根元にしがみ付き、極力断崖絶壁を見ないようにして、へっぴり腰で岩場に這い上がる。 岩場に這い上がると、ちょっとした平場になっている。説明では「そそり立つ巨岩」とあったが、そんな岩はどこにもなかった。落石したのではあろう幣山は「山」とはいうものの、山ではなく、ちょっと大きな岩塊といったものであった。
祠も何もない岩場でしばし過ごし、さて引き返す、ということだが、往きはの上りだが、帰りは下り。これが結構怖い。木の根元から手を話さないように、恐々と元に戻る。距離、というほどの長さでもないのだが、緊張の時を過ごした。

丸山耕地整理竣工記念碑
幣山を離れ車道を進む。中津川に突出した山塊の手前の川側道脇に丸山治水碑。中津川から水を引き込み幣山地区の中津川堤防の内側に耕地が続いていたが、それは丸山治水碑のところに見えた取水口から取り入れられた水の恵みであろう、か。





海底地区
かわせみ大橋の「架かる」幣山下平線は中津川に架かる角田大橋からの道との合流点が終点。道は中津川に突出した辺りで山塊を回り込み海底地区に入る。海底は「おそこ」と読む。「おそこ」の意味はよくわからない。「かわうその棲むところ」といった記事をみたことはあるが確証はない。海底地区はかつて、楮を原料とする伝統的手漉きで障子神用の和紙製造で栄えたとのことである。




金毘羅神社
海底橋を渡り、車道を離れ、成り行きで愛宕神社へと向かう。耕地を鹿や猿から守る防護柵に沿って山裾を進むと「金毘羅神社」と記された鳥居があり、石段を上ると小祠があった。

馬坂
鳥居の近くに「馬坂」の道標。どんな坂か少し上り、なんとなく雰囲気を感じて元に戻る。馬頭観音なども祀られており、馬を使って和紙などを運んだのではあろう。
馬坂を先に進むと「打越峠」を経て荻野川筋の谷に到る。厚木市上荻野の丸山地区である。往昔。厚木市上荻野の打越から、海底を経て、中津川を渡り、関場坂から田代、上原に至り、そこから志田峠を越え、津久井の鼠坂の関所を過ぎて吉野宿へと通じる道があったという。はっきりとはわからないが、馬坂は小田原から甲州への通路であるこの道は「甲州みち」と称された道の一部ではないだろうか。
因みに、「打越」って「直取引」の意味もあるようだ。海底と萩野の間でそれっぽい取引が行われていたのだろか。また、連歌・連句で前々句のことを意味することより、次の宿に泊らず、その先の宿まで行く、といった意味もあり、よくわからない。

愛宕神社
金毘羅社から山裾を左手に進むと赤い小さな橋の向こうに愛宕神社。「新編相模国風土記稿」によれば、八菅修験巡峰の第三番の行所になっており、もとは屋形山東側の山頂に鎮座していたが山砂利採集のためこの地に移された、とのこと。社の裏手は砂利採取の現場となり、山の姿は消えていた。
愛宕神社って、火伏せ・防火にある社として知られるが、山城」・丹後の国境の愛宕山に鎮座する本社は、修験道の祖とされる役小角と、白山の開祖として知られる泰澄によって創建されたとの縁起が伝わるように、神仏習合の頃は、修験の道場として愛宕権現を祀る信仰を霊山であったようだ(Wikipedia)。八菅修験第三の行所であったとの説明も頷ける。

日月神社
里に下って行くと日月神社がある。月読神社に最初であった時も、こんな神社があるんだ、と驚いたが、結構多く出合った。それと同じく日月神社も初めて出合った社であるが、これも結構各地にあるようだ。
それはともあれ、祭神は大日霎尊(オオヒルメノミコト)と月読尊(ツキヨミノミコト)。「新編相模国風土記稿」には「小名海底ノ鎮守ナリ 石ニ顆ヲ神体トス 永禄ニ年(1559)ノ棟札アリ」とある。境内入口には安永6年(1777)の庚申塔、安政3年(1856)の廿三夜塔、寛政12年(1800)の百番供養塔、馬頭観音などが並んでいます。
祭神は大日霎尊(オオヒルメノミコト)とは天照大神ともその幼名とも。と月読尊(ツキヨミノミコト)は天照大神の弟神との説もあるが諸説ある。ツクヨミは太陽を象徴するアマテラスと対になり、月を神格化した、夜を統べる神であると考えられているが、異説もあり。門外漢はこの辺りでメモを止めるのが妥当か。とも。

第三行所「屋形山」
海底(おぞこ)地区と平山地区の間の丘陵中にあったが、愛宕神社でメモした通り、採石場となり「屋形山」自体が消滅してしまった。愛宕神社の裏、道路脇、それに後日中津川対岸の台地上から眺めたことがあるが、山容は残っていなかった。



第四行所「平山・多和宿」(愛川町田代)
広大な採石場を左手に見やりながら、車道を道なりにすすみ道脇にささやかな祠に祀られる「琴平神社」を越えると中津川の左岸を進み平山大橋を渡ってきた県道54号に当たる。そこは平山地区である。
『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』によれば、正確な場所は不明だが、全国の修験霊山に共通する「多和宿」という宿名から、平山地区が「タワ」、つまり、中津川沿の丘陵と経ケたけを含む山塊の間にある、鞍部の宿として認識されていた」とある。この多和宿という名称をチェックすると、実際、吉野大峯奥駈道、日光。白山など修験の霊地にその名が残る。

「タワ」は「撓む=他から力を加えられて弓なりに曲がる」という意味。山では鞍部ということで、先日の大山三峰の行者道を掠ったとき、山の鞍部というか、平場に行所・宿があったが、この地は『丹沢の行者道を歩く』での説明もさることながら、ここの地形そのものが「撓んで」いる。平山地区の北で大きく蛇行した中津川の流路そのものが「撓み」そのもののように思える。平山地区の対岸の田代地区は蛇行する中津川によって流されてきた土砂が堆積した中洲のようにも思える。実際、田代地区の真ん中にぽつんと残る独立丘陵は撓む中津川の流路の変更により取り残された丘陵(還流丘陵「)と言われる。

琴平神社

琴平神社から真っ直ぐ進むと国道412号が走る。平塚より相川・半原を経て相模原にむかう国道412号をくぐると趣のある重厚な山門が見えてくる。


田代の半像坊
国道手前の案内には、「ここ勝楽寺は、遠州奥山方廣寺(静岡県引佐郡)より勧請した半僧坊大権現が祭られているところから、『田代半僧坊』と呼ばれています。毎年4月17日に行われる春の例大祭は、この付近では見られない賑やかな祭りです。かつてこの日は、中津川で勇壮な奉納旗競馬、大道芸、相撲大会などの催しがありました。また、近郷近在の若い花嫁が、挙式当日の晴れ姿で参拝する習わしがあり、『美女まつり』ともいわれました。環境庁・神奈川」とあった。
山門の阿吽の仁王さまを見やりながら、本堂や十六羅漢像が祀られる堂宇、鐘楼、そして半僧坊大権現。境内に再び案内。「名刹勝楽寺 山号 満珠山 曹洞宗 本尊 釈迦牟尼仏
  草創は古く、弘法大師が法華経を書き写した霊場と伝えられています。もとは真言宗に属し、「法華林」の名があり、背後の山を「法華峯」と呼んだ。初めは永宝寺と称した。後に常楽寺から勝楽寺に変わった。天文年間(1532-1554)に能庵宗為大和尚が開山し曹洞宗となる。開基は内藤三郎兵衛秀行でお墓もある。 歴代の住職には名僧が多く、越後良寛の師、国仙禅師などあった。寛政5年(1793)に焼失し、後再建され現在の姿になった。
建物のうち山門は名匠右仲、左仲、左文治の三兄弟の工によるもので、楼上に十六羅漢の像がある。寺内には遠州奥山方広寺からの勧請した半僧坊大権現があって、4月17日の春まつりには、近郷近在の新花嫁が、参拝して「花嫁まつり」ともいわれ、植木祭りとともに賑わう」とあった。

ここ勝楽寺は、堂々とした禅寺にもかかわらず、「遠州奥山方廣寺(静岡県引佐郡)より勧請した半僧坊大権現が祭られているところから、『田代半僧坊』と呼ばれている」とある。半僧坊って一体全体、どれほど有難い「存在」なのであろう。
最初に半僧坊と出合ったのは鎌倉の建長寺。そのときのメモ:建長寺の境内を北に向かい250段ほどの階段を上ると半僧坊大権現。からす天狗をお供に従えた、この半僧半俗姿の半僧坊(はんそうぼう)大権現、大権現とは仏が神という「仮=権」の姿で現れることだが、この神様は明治になって勧請された建長寺の鎮守様。当時の住持が夢に現れた、いかにも半増坊さまっぽい老人が「我を関東の地に・・・」ということで、静岡県の方広寺から勧請された。建長寺以外にも、金閣寺(京都)、平林寺(埼玉県)等に半僧坊大権現が勧請されている。
方広寺の開山の祖は後醍醐天皇の皇子無文元選禅師。後醍醐天皇崩御の後、出家。中国天台山方広寺で修行。帰国後、参禅に来た、遠江・奥山の豪族・奥山氏の寄進を受け、方広寺を開山した、と。半僧坊の由来は、無文元選禅師が中国からの帰国時に遡る。帰国の船が嵐で難破寸前。異形の者が現れ、船を導き難を避ける。帰国後、方広寺開山時、再び現れ弟子入り志願。その姿が「半(なか)ば僧にあって僧にあらず」といった風体であったため「半僧坊」と称された」と。
奥山の半僧坊が有難いお寺さまであることはわかった。が、それでもなんとなく、しっくりこない。あれこれチェックすると、半僧坊への信仰が広まった時期は明治10年以降とのこと。建長寺も勧請は明治23年(1890)、埼玉の名刹平林寺も勧請は明治27年。方広寺の鎮守に過ぎなかった半僧坊は、明治10年代に入ってから、急速にその信仰が拡大し、静岡や愛知の寺院にいくつか勧請された他、名古屋・長野・鎌倉・横浜などに別院が置かれた、と。
で、明治10年代とは明治政府の政策によって、修験道系の宗教が抑圧された時代。その時期に半僧坊が急速に発展したのは修験道と関係があるように思える。カラス天狗といった姿は役行者というか修験道を想起させるし、実際奥山方広寺を訪れた時、境内に役行者の像もあった。政府の修験道禁止にやんわりと抵抗したお寺さまの知恵であろうか。単なる妄想。根拠なし。


国道412号
半僧坊を離れ国道412号を北に進む。上にもメモしたが、平塚より相川・半原を経て津久井湖南岸を相模原に向かう国道である。もっとも平塚から厚木までは他の国道と併用であるので、実際は厚木の市立病院前交差点から国道412の名が地図に載る。
この国道412号は半原の北の台地へと登り切ると、志田峠の北に広がる台地・韮尾根を通る。いつだったか、武田氏と後北条氏が戦った三増合戦の跡を志田峠を越え、また武田軍の甲州への退却路を辿ったとき、志田峠の北に広がる台地・韮尾根を通る国道412号を歩きながら、その発達した河岸段丘に比べ、誠にささやかな流れである串川とのアンバランスが誠に気になったことがある。
 チェックすると、現在は中津川水系となっている早戸川は往昔串川と繋がり、その豊かな水量故に発達した河岸段丘ができたわけだが、その後、といっても、気の遠くなるような昔ではあろうが、河川争奪の結果中津川筋にその流路を変えたため、串川は現在のささやかな流れとなり、発達した河岸段丘が残ったということである。 また、韮尾根の台地から半原へとバイパス道として整備された国道412号を下ったこともある。このバイパスが完成する前は、さぞかし難路・険路であったのだろう。そんなバイパスとして台地に張り付くように整備された国道412号を塩川の谷へと進む。


第五行所「塩川の谷」
国道412号を田代半僧坊から15分程度進むと、国道の右側にフィッシングフィールド中津川。中津川の中洲を利用した釣り場であろう。釣り場の北に塩川の谷からの流れが中津川に合わさっている。
国道から釣り場に下るアプローチの坂を下り、コンクリートで護岸工事が施された塩川を渡り、料理旅館手前を塩川左岸に沿って谷筋へと向かう。国道412号下をくぐり、民家を越えると橋がある。橋の右手、廃屋の裏手から沢が流れ込む。

塩川の滝
塩川の滝は橋を渡り塩川の右岸の遊歩道を進むことになる。先に進むと塩川の滝の案内があった。「塩川滝のいわれ 塩川滝は、八菅修験の第五番の行所であり、同修験は、熊野修験の系列に属していたことがあったので、滝修行は熊野の行事に準じていたことが察せられる。これによると滝そのものに神性を認め、滝本体が神体であり、本尊であり本地物であった。
この社の祭神は大日?貴神(おおひるめのみこと)、となっているが、系列を同じゅうする熊野那智の滝における滝神社は、祭神を大己貴尊(大国主命)とし、本地物に千手観音を祀っており、神仏習合の姿を整えていた。そして「滝籠り」による厳重な修行が行われていた 愛川町商工観光課」とあった。
大日?貴神(おおひるめのみこと)とは天照大神であるのはわかるのだが、熊野那智の滝における、大己貴尊>千手観音にあたるものが説明されておらず、なんとなく言葉足らずの説明。
チェックすると、奈良時代、良弁上人が清瀧大権現を祀ったとの伝えがあった。半原地区に、開山が良弁上人、本尊作者を願行とする「今大山不動院清瀧寺」という古義真言宗お寺が明治2年(1869)まであったようであり、大山と同じ開基縁起をもつ由緒あるお寺のようであるので、塩川の滝は我流解釈ではあるが、大日?貴神>清瀧大権現のラインアップとしておこう。実際滝そばの石碑には「塩川大神 青龍権現 飛龍権現」とあった。
案内から左手の谷に入り、便利ではあろうが少々趣に欠ける赤い歩道橋を進あむと塩川の滝が現れた。幅4m.落差30mの滝は水量も多く如何にも瀧行の行所という大きな瀧であった。

『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』によれば、この塩川の谷には江ノ島の洞窟と繋がるとの伝説がある。また、塩川の滝以外に瀧が存在するようである。地元の伝承にも金剛瀧と胎蔵瀧が伝わる。『今大山縁起』と『大山縁起』にもそれを示す表現が残るようであるので、ふたつの縁起を見比べながら、チェックする。

『今大山縁起』と『大山縁起』
『今大山縁起』
「東者有塩竈之滝(東には塩竈之滝がある)、七丈有余而(七丈有余)、是名金剛滝(この名は金剛滝)、常対胎蔵界之滝(これに対して胎蔵界之滝がある)、西者有明王嶽(西には明王嶽(仏果山)、望法華方等之異石、花巌般若之岑直顕(法華方(経ヶ岳)などの異石(経石)をみて花巌般若之岑(経ヶ岳から華厳山)が直ぐに現れる。
彼滝下安飛滝権現之鎮座(滝下には飛滝権現が鎮座)又有高岩、岩下有仙窟(高岩があり岩の下に仙窟がある)別真之所、鈴音響干朝夕(別真之所で朝夕鈴音が響く)其外霊石燦然而、表五仏之尊容(それ以外には霊石が燦然とし、五仏之尊容を表す)」。

『大山縁起』
次有瀧。名両部瀧。阻山北有瀧。瀧高七丈餘。是爲金剛界瀧。時々放圓光。對胎蔵瀧有高岩。下有仙窟。列眞之所都也。有振鈴之聲。今聞。有岩窟。亦有霊石。表五佛形。或華厳般若峰。或法華方等異岩。(次に瀧がある。両部瀧との名。山を阻んで北に瀧がある。瀧の高さは七丈餘。時々圓光を放つ。これに対し胎蔵瀧と高岩がある。下には仙窟がある。列眞之所都である。振鈴之聲がある。今も聞こえる。岩窟がある。また霊石もある。五佛の形を表す。あるいは華厳般若峰(経ヶ岳から華厳山)、法華方(経ヶ岳)などの異岩(経石)がある。)

『今大山縁起』には塩川の滝(塩竈之滝)が金剛滝と呼ばれ、そのほかに胎蔵界之滝があり、金剛滝の滝下には飛滝権現が鎮座し、高岩があり岩の下に仙窟がある、とする。
一方『大山縁起』では「両部瀧(金剛滝と胎蔵滝)があり、山を阻んで北に高さは七丈餘の滝(これが金剛滝?)がある。これに対し胎蔵瀧と高岩がある。胎蔵瀧下には仙窟がある、とする。
塩川の滝と金剛界之滝、胎蔵界之滝が入り繰りとなっており、微妙に滝の名や場所が異なってはいるが、塩川の滝以外にも滝の存在を示していることは間違いない。また、洞窟・仙窟の存在も示している。

仙窟
大山修験の行所である塩川の谷には、江ノ島の洞窟と繋がるとの伝説がある。中津川の川底には洞窟があり江ノ島の洞窟と繋がっており、江ノ島の弁天さまが地下洞窟を歩き、疲れて地表に出て塩川の滝の上流の江ノ島の淵まで歩いていった、とのことである。
弁天様って七福神のひとりとして結構身近な神として、技芸や福の神、水の神など多彩な性格をもつ神様となっているが元々はヒンズー教のサラスヴァティに由来する水の神、それも水無川(地下水脈)の神である。弁天様が元は地下水脈の神であったとすれば、それなりに筋の通った縁起ではある。
この縁起の意味するところは何だろう?チェックすると、弁天さまって、我々が身近に感じる七福神とは違った側面が見えてきた。弁天様って二つのタイプがあるようで、そのひとつは全国の国分寺の七重の塔に収められた「金光明最勝王経」に説く護国鎮護の戦神(八臂弁才天)であり、もう一つは、空海唐よりもたらした真言密教の根本経典である大日経に記され、胎蔵界曼荼羅において、琵琶を奏でる「妙音天」「美音天」=二臂弁才天。いずれにしても結構「偉い」神様のようである。
江ノ島に祀られた弁天さまは二臂弁才天。聖武天皇の命により行基が開いた、とも。聖武天皇は国分寺を全国に建立した天皇であり、その国分寺の僧元締めが東大寺。東大寺初代別当良弁は大山寺開き初代住職。大山寺三代目住職とされる空海も東大寺別当を務めたことがある。ということで、すべて「東大寺」と関係がある。
で、東大寺で想い起すのが「二月堂」のお水取り。二月堂下の閼伽井(若狭井)は若狭(福井県小浜市)と地下で結ばれ神事の後、10日をかけて地下水脈を流れ二月堂に流れ来る、と。上で大山寺の良弁は八菅山光勝寺を国分寺の僧侶の大山山岳修行の拠点としたとメモした。東大寺の二月堂の地下水脈の縁起を、この江ノ島から中津川を遡った塩川の谷に重ね合わせ、その地に修験の地としての有難味を加え、塩川の谷に大山山岳修験の東口として重みを持たせたのであろう、か。単なる妄想。根拠なし。

江の島とつながる仙窟があるとも思われないので、それはそれとして、塩川の滝以外の滝を探すことにする。

金剛瀧と胎蔵瀧
実のところ、この両部瀧探しは2回になってしまった。第一回目は塩川の滝へと左に折れる辺りを直進すると小高いところに塩川神社があり、その先に大きな堰堤が聳える。その沢に入り込めばなんとか成るかと思ったのだが、猪だか鹿だか、ともあれ猟師と猟犬が塩川の瀧の上流部に接近しており、ビビりの小生としてはとても散弾に当たるのも、猟犬に噛まれるのもかなわんと、上流の沢に入り滝を探すことを諦めた。
日も空けずリターンマッチ。『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』には「金剛滝」(蜀江滝、高さ約30m)は大椚沢上流 愛川町半原塩川添948番地と950番地の間、「胎蔵界滝」(飛龍滝・地蔵滝、高さ約30m)は小松沢の上流 愛川町半原塩川添947番地と948番地の間はあるのだが、大椚沢がどこだか小松沢がどこだかわかるわけもない。
可能性としては塩川の谷に入り、民家の切れる辺りに右側から塩川に流れ込む沢と、堰堤のある沢。このふたつの沢を彷徨えば、なんとかなるか、とは思ったのだが、チェックしていると愛川図書館に「あいかわの地名 半原地区」という小冊子があり、そこにふたつの滝の場所が詳しく書かれているといった記事を目にし、2回目の瀧探しの途中で図書館に立ち寄り小冊子を閉架棚から取り出してもらい、その場所を確認する。
その小冊子には詳しい沢の場所に関する記載もあり、それによると、小松沢は民家が切れるあたりで右から流れ込む沢。上流で二手にわかれ、右手が両玄沢、左手が小松沢であった。また、大椚沢は堰堤のある沢であった。 また滝の場所は、「地蔵滝(飛龍滝、胎蔵界滝);小松川の上流、扨首子との小字境に近いあたり、小字塩川添947番地と948番地の間にある。高さは35メートルほどで、落ちたとこから飛龍沢となり大椚沢に合している」、「蜀江滝(金剛瀧);大椚沢の上流、扨首子との小字境に近いあたり、小字塩川添948番地と950番地との間にある。滝より下を蜀江滝とも呼び、塩川に合する」とあった。
この記述によれば、小松沢上流の胎蔵界滝は大椚沢に合しているようだ。沢の地図では二つの沢は合流していないのだが、上流の支流が大椚沢へと流れ込んでいるのであろうか。

金剛滝

ということで、アプローチは堰堤を越え大椚沢から滝探しを始めることに。堰堤前にある塩川神社にお参りし、巨大な堰堤に接近。高巻きが必要かとおもったのだが、堰堤保守の便宜のためか堰堤左手にステップがついており、苦労せず堰堤上に。
堰堤から上流を眺めると沢は一面の雪。堰堤の左隅から沢に下り、ずぶずぶの雪に足を取られながら進むと正面に大岩壁が見えてきた。冬場で水量は乏しいが『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』に掲載されている写真から判断すると、金剛滝のようである。水量は乏しいとは言うものの、一枚岩の岩壁から流れ落ちる30m滝はそれはそれで、いい。
滝の左手に岩場があり、上って先に進めるかチェックするが、その先の絶壁はザイルやハーネスといった装備がなければ、とてもではないが恐ろしくて勧めそうもない。
岩場から下り、しばし滝を眺めた後、もうひとつの胎蔵瀧を探す。岩壁の右手のほうに濡れた岩場があり、その先の岩壁からかすかに水が落ちている。瀧の説明では共に小字境に近い辺りであり、住所も小字塩川添947番地と948番地の間、小字塩川添948番地と950番地との間ということだからお隣といった場所のように思えるのだが、『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』に掲載された滝の姿とは何となく異なるように思える。装備準備でもしておけば先に進むのだが、今回はパス。
その代案として、塩川の谷の入口近くにあった小松沢を遡上することした。が、結構上るも滝を見付けることもできず、日没も近くなってきたので引き返す。雪も溶けた気候のいい頃、再び胎蔵瀧を探すことをお楽しみとして残しておくことにする。

『大山縁起』にある両部瀧のうち、金剛界瀧はみつけた、胎蔵瀧は、確証はないものの、それらしき滝を目にした。『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』によれば、この意味することは、大山修験も塩川の谷を行所としていた、ということである。実際、江戸初期には大山から清瀧寺に移った僧もあるとの記録ある。「丹沢山地で峰入を行っていた山伏たちにとって、多くの滝をもつ塩川の谷は、大山が修行エリアの東南の出入り口とすれば、塩川の谷は北東の出入り口として、また金剛界マンダラと胎蔵界マンダラを繋ぐ特別な場所であった(『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』)」と説く。 下に大山修験の行所をメモし、今回の発菅修験の行者道、第一の行所から第五の行所までのメモを終える。大山三峯の行者道を辿ったその影響か、メモが長くなってしまった。

大山修験の行者道
大山寺不動堂(阿不利神社下社)、二重の瀧での修行の跡>大山山頂より峰入り>大山北尾根を進み>金色仙窟(北尾根から唐沢川上流の何処か)での行を行い>大山北尾根に一度戻った後、藤熊川の谷(札掛)に下る>そこから再び大山表尾根に上り>行者ヶ岳(1209)>木の又大日(1396m)>塔の岳>日高(1461m)>鬼ヶ岳(十羅刹塚)>蛭ヶ岳(烏瑟嶽)と進む>蛭ヶ岳からは①北の尾根筋を姫次に進むか、または②北東に下り早戸川の雷平に下り、どちらにしても雷平で合流し>早戸川を下り>①鳥屋または②宮が瀬に向かう>そこから仏果山に登り>塩川の谷で滝修行を行い(ここからは華厳山までは八菅修験の行者道と小名氏>経石(経ヶ岳)>華厳山>煤ヶ谷に下り①辺室山(644)大峰三山から大山に向かう山道か②里の道を辿り>大山に戻る(『丹沢の修験道を歩く;城川隆生(白山書房)』より)。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

先日、大山三峰の尾根道に上り、ほんの一部ではあるが大山修験、日向修験、そして八菅修験の行者道を辿った。大山修験は大山寺、日向修験は日向薬師、八菅修験は八菅山光勝寺を拠点として山岳修行を行った修験集団のこと。このうち、大山寺と日向薬師には散歩に出かけたことがあるのだが、八菅修験の拠点、往昔の八菅山光勝寺、明治の神仏分離令以降は八菅神社となった八菅修験の拠点には行きそびれていた。
八菅山はその昔、役行者(役の小角)が山岳修行を行い、薬師・地蔵・不動の像を彫り、その像を投げたところ、薬師は日向薬師に、地蔵は蓑毛の大日堂、不動が大山寺に落ちたといった縁起が残る。修験道といえば役の小角、といった「修験縁起の定石」が定着したのは、鎌倉から室町の頃と言うから、この縁起は縁起として思うべしと、八菅山のことは気になりながらも、それほどの「お山」とも思っていなかった。
が、先回の散歩のメモをする段になって、八菅山ってはじまりは相模国分寺の僧侶の山岳修験の拠点でもあったようで、勢威盛んな頃は、50余の院・坊を擁する結構な規模の「お山」であることがわかった。
ということで、大山三峰の行者道散歩から日もおかず八菅山を訪れることに。ルートは八菅山にある八菅神社からはじめ、八菅修験の道を中津川に沿って辿り5番目の行所である塩川の谷までとした。塩川の谷はこの行所での瀧行で身を浄め、八菅山光勝寺の奥の院とも称され、空海が華厳経を納めたとの伝説も残る経ヶ岳へと峰入りを行った行所と言う。
塩川の谷には塩川の瀧の他、胎蔵界の瀧、金剛界の瀧といった曼荼羅の世界を想起させる瀧があるとのことである。瀧の詳しい場所ははっきりしないが、とりあえず谷に入り彷徨ってみればなんとかなるかと、いつも通りの事前準備無しの行き当たりばったりの散歩に出かけることにした。




本日のルート;小田急線・本厚木駅>一本松バス停>中津大橋>八菅橋>八菅神社の鳥居>梵鐘>おみ坂>左眼橋>護摩堂>右眼池>八菅神社覆殿>八菅山経塚群>白山堂跡>梵天塚>教城坊塚>展望台>登尾入口の道標>幡の坂>旧光勝寺の総門跡>海老名季貞墓

小田急線・本厚木駅
八菅神社への最寄りのバス停に向かうべく、小田急線・本厚木駅に。バスセンターより「愛川町役場行き」か「上三増行き」に乗り一本松バス停に向かう。

毛利の庄
古代、この厚木の辺りは相模国愛甲郡と呼ばれた。国府は海老名にあった、よう。国分寺は海老名にあった。古代の東海道も足柄峠から坂本駅(関本)、箕輪駅(伊勢原)をへて浜田駅(海老名)に走る。この地は古代相模の中心地であったのだろう。
平安末期には中央政府の威も薄れ、各地に荘園が成立する。この地も「森の庄」と呼ばれる荘園ができた。で、八幡太郎義家の子がこの地を領し、毛利の冠者を称したことにより「毛利の庄」と呼ばれるようになる。12世紀の初頭になると、武蔵系武士・横山党が相模のこの地に勢力を伸ばす。和戦両面での攻防の結果、毛利の庄の南にある愛甲の庄の愛甲氏、海老名北部の海老名氏、南部の秩父平氏系・渋谷氏をその勢力下に置いた。
鎌倉期に入ると相模・横山党の武将は頼朝傘下の御家人として活躍し、各地を領する。頼朝なき後、状況が大きく動く。北条と和田義盛の抗争が勃発。相模・横山党はこぞって和田方に参陣。一敗地にまみれ、この地から横山党が一掃される。毛利の庄を領した毛利氏も和田方に与し勢力を失う。
主のいなくなった毛利の庄を受け継いだのが大江氏。頼朝股肱の臣でもあった大江広元より毛利の庄を受け継いだその子・大江季光は姓も毛利と改名。安芸の毛利の祖となったその季光も、後に北条と三浦泰村の抗争(宝治合戦)において、三浦方に与し敗れる。かくの如く、この厚木あたりは古代から鎌倉にかけ交通の要衝、鎌倉御家人の栄枯盛衰の地であったわけである。ちなみに、安芸国の毛利は、この抗争時越後にいて難を逃れた季光の四男経光の子

中津大橋
「八菅神社」の大きな看板を目安に西に向かう車道を中津川へと向かう。先に進むにつれ、中津川の対岸に聳える丘陵が見えてくる。
中津小学校を越えた辺りから真っ直ぐ進んで来た道は、川に向かって大きくカーブしながら下ってゆく。急な段丘崖を下るこの道は「中津大橋」と呼ばれる。橋とは言いながら、川を渡るわけではなく、急勾配の崖に架けられた「桟道」の大規模版、といったもの。崖面を土木技術の力技で下る道と言うか橋である。 下り口の誠に急なカーブの先は、崖面に沿って下っていくわけだが、それでも2車線の道の制限速度20キロ、橋の勾配が17%ということであるから,段丘崖が如何に急峻であるのかが自ずと知られる。

八菅橋
崖面に沿って下るにつれ、中津川の流れと川向うの山並みが見えてくる。下り切ったところに中津川に架かる八菅橋がある。八菅橋を渡れば目指す八菅山は目の前なのだが、橋を渡りながら、その昔、八菅山に向かう人たちはどこを渡河したのだろうと、ちょっと気になった。今は上流に宮ヶ瀬湖(宮ケ瀬ダムは2000年完成)ができ水量はそれほど多くはないが、その昔中津川は丹沢山塊の豊かな木材を流すなどを含め船運が盛んであった、ということであるから、それなりに豊かな流れではあったのだろう。

丹沢の御林
木材の供給地と言えば、丹沢山塊は江戸の頃は幕府の直轄地として林奉行がおかれ、藤熊川流域の札掛あたりを中心に御林(幕府の御用林)があったと言うし、それより昔、元亨三年(1323年)には北条得宗家の大規模な仏事に伴って行う堂舎建築事業に使用する木材の供給地としていた記録が残る。中世の早い段階から、丹沢山地が木材の供給源であったということであろう。

才戸の渡し
渡河地点をチェックすると、中津川の渡しは、この地の南3キロ弱のところ、現在の才戸橋の辺りに、「才戸の渡し」があった、とのこと。「才戸の渡し」は北は武蔵国八王子から南は大住郡矢名村(現秦野市)を つなぐ矢名街道で, この道には, 相模川を渡る「上依知の渡し」とここの二ヶ所に 渡しがあり, 江戸時代には,大山参詣道 として大変なにぎわいをみせたとのことである。 「才戸」の由来が気になる。はっきりとはしないのだが、「サイト」は「サイトバライ」に拠る、との説もある。サイトは、「斎灯」と書く。「サイトバライ」こと、左義長(とんど、とんど焼き、どんど、どんど焼き、とんど(歳徳)焼き、どんと焼き、さいと焼)は、小正月に行われる火祭りの行事のことを意味する、とか。どんと焼き、さいと焼が行われていた場所であったのだろう、か。

中津川
渡河地点とともに、台地を深く開析した中津川が気になる。中津川は丹沢山地のヤビツ峠(標高761m)付近を源流とし、藤熊川として4キロほど北上、そこから3キロほど北に向けて下り本谷川と合流する辺りまでは布川と呼ばれ、南からの唐沢川と合流する辺りから中津川と呼ばれ、北からの早戸川を合わせ宮ヶ瀬湖を経て山中を蛇行しながら方向を南に変えてこの地に下る。

中津川の河川争奪
話は少しそれるが、中津川といえば河川争奪のことを思いだす。いつだったか、津久井湖辺りを散歩していたとき、津久井湖の南を流れる串川の発達した河岸段丘が、串川のささやかな流れに比べて、あまりにアンバランスであるので気になりチェックすると、かつての串川は早戸川(現在は中津川水系の支流。宮ヶ瀬ダムに注ぐ)とつながり、水量も豊富であった、とのこと。発達した河岸段丘はその時のものであった。
その後、早戸川は中津川水系に流れを変えた。河川争奪である。5万年以上の昔、地殻変動によって引き起こされた、と。ために、早戸川は串川から切り離され、現在のような小さな川になってしまった、とのことであった。


八菅神社
八菅橋を渡り緩やかな山道を少し上ると八菅神社の鳥居が現れる。大鳥居をくぐり八菅神社の境内に。境内入口に八菅神社の案内。「八菅山 標高225m 八菅山は古名を蛇形山といった。むかし、日本武尊が坂本(現在の中津坂本地区)からこの山を眺められ、山容が竜に似ていることから名づけられた。そしてこの山中には蛇形の各部分にあたる池の名が今も残る。
大宝3年、修験道の開祖、役の小角(役の行者)が日本武尊の神跡をたづね国常立尊(くにのとこたちのかみ)ほか六神を祀り修法を行った。そのとき八丈八手の玉幡が山中に降臨し、神座の菅の菰から八本の根が生えだしたという。そこで山の名を八菅山と呼ぶようになった。これが八菅神社の始まりであると伝えられている。
この八菅山を前にした丹沢山塊一帯は山岳信仰の霊地として修験者(山伏)たちの修行道場として盛んであった。この連なる山々には幣山、法華峯、経ヶ岳、華厳山、法論堂、など今も残る名は巡峯の要所であったことを教えてくれる」とある。

「八菅山修験場跡要図」
鳥居脇に「八菅山修験場跡要図」がある。口池跡、鼻池、左眼池といった、八菅神社の案内にあった蛇形の各部分にあたる池の名が描かれている。「八菅山修験場跡要図」は現在の堂宇や塚を描いているようで、院坊五十余をもふくめた修験の一大霊場の案内ではないが、それでも山上に白山堂跡とか梵天塚、教城坊塚といった堂や塚の案内があり、往昔の規模の大きさの一端が垣間見える。

八菅神社の梵鐘
鳥居のところにあった説明だけでは、八菅修験の拠点として全国にその名を知られた八菅修験の概要はわからないのだが、境内を少し進むと梵鐘があり、そこにある説明で八菅神社と八菅修験の関係が説明されていた。

「八菅神社は、もと八菅山七社権現といい、別当寺光勝寺のほか院坊五十余をもふくめた修験の一大霊場として古くから続いていました。明治の初め、神仏分離の際、光勝寺は廃され、院坊の修験は帰農し、権現は八菅神社となりました。
この梵鐘は元和4年(1618)徳川二代将軍秀忠の武運長久を祈願して光勝寺に献じられたもののようです。銘文によると、古い地名である「上毛利庄」のほか、鋳工者に下荻野の「木村太郎左衛門重次」上川入の「小嶋元重」の名もみえます。地元における梵鐘のうち最古の故もあって、太平洋戦争のときにとも共出をまぬかれ、現在北相に残った数少ない貴重な梵鐘となっています」と。

八菅修験
今までの案内を補足し、『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』をもとに、八菅神社と八菅修験のことをまとめておく。八菅(はすげ)修験とは、 中津川を見下ろす八菅山に鎮座する現在の八菅神社(愛甲郡愛川町八菅山141-3)を拠点に山岳修行を行った修験集団のこと。八菅神社とのは明治の神仏分離令・修験道廃止令以降の名称。それ以前は山伏集団で構成された一山組織「八菅山光勝寺」として七所権現(熊野・箱根・蔵王・八幡・山王・白山・伊豆の七所の権現;室町時代後期)を鎮守としていた。明治維新までは神仏混淆の信仰に支えられてきた聖地であり、山内には七社権現と別当・光勝寺の伽藍、それを維持する五十余の院・坊があったと伝わる。

上でメモしたように、修験道の縁起に役行者が登場する「修験道の定石」が登場するのは、鎌倉から室町にかけて、修験者の行法が次第に体系化され、教団組織が成立して以降のことであるので、縁起は縁起として想うべし、ということではあろうが、『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』では、この八菅山光勝寺は相模国分寺の僧侶が山岳修行の拠点とした大山寺への丹沢山塊東端の前線基地として設けられたと延べる。
同書で説くように、大山寺の寺伝によれば、初代住職は華厳宗の創始者であり東大寺の初代別当である良弁、三代目の住職である真言宗の開祖空海は東大寺の別当を務めている。東大寺は、聖武天皇の命により全国に設けられた国分寺の元締め、といったものであり、この説の納得感は高い。
何故に丹沢東端に山岳修行のメッカが誕生したのか疑問であったのだが、この説であれ筋は通っているように思える。和銅2年(709)には東大寺勧進僧の僧行基が入山、ご神体及び本地仏を彫刻し伽藍を建立して勅願所としたとの話も伝わる。

おみ坂
梵鐘に神仏習合の名残を見やりながら先に進むと「おみ坂」。急な階段が一直線に上っている。向かって左手に緩やかな「女坂」があるので、「男坂」といった位置づけではろうが、「おみ」って「御神」と表記することころがある。この地の「おみ坂」は如何なる所以か不詳であるが、御神坂とは、「神」の坂であり、古代において祭祀が執り行われたところを示すとの説もあるようだ。 おみ坂の途中の左手に小祠がありちょっと窪みになっている。「鼻池」ではあるが、水はない。

八菅神社の社叢林
石段を上りながら周囲を見やる。境内の緑は深い。境内入口にあった「八菅神社の社叢林」の案内によると、「神奈川県指定天然記念物(平成3年指定)八菅神社の社叢林;中津川に面した八菅山の集落に続く丘陵の海抜100~170mの南側斜面から東側斜面にかけて八菅神社の森と称されるスダジイ林が発達している。一部にスギやヒノキが植栽されているが、200段を超す階段の参道周囲は、樹高15m以上のスダジイ林が自然植生として生育する。
高木層は、台地上でアカシデ、ヤマモミジ、ハリギリを混え、スダジイが優占する森を形成している。亜高木層以下は、ヒサカキ、サカキ、アラカシ、ツルグミ、クロガネモチ、アオキ、ビナンカズラ、ベニシダ、イタチシ  ダ、などヤブツバキクラスの常緑の自然植生の構成種が多く生育する。
八菅山の森は、相模平野に沿って海岸から比較的内陸まで生育するスダジイ林(ヤブコウジースダジイ群集)が25000平方メートル以上もまとまって存在生育しており極めて貴重な樹林である。神奈川県教育委員会 愛川町教育委員会」とあった。

左眼池
おみ坂を上っていくと、山道が石段とクロスする。この道は現在八菅山全体を公園として整備された展望台へと続く道であるが、案内に「左眼池」とある。本殿にお参りする前に、ちょっと立ち寄り。道を右手に進むとささやかな池と祠があった。

護摩堂
元の石段に戻る。すぐ先は広場のようになっている。「八菅山修験場跡要図」によると、「拝殿跡・灌頂堂跡・祖師堂跡・御水屋」と案内されているあたりではあるが、現在は左手に護摩堂だけが目に入る。
護摩堂への道標には「不動へ」と言った案内がされていた。現在でも、八菅神社例大祭の日、この広場で山伏による火渡り護摩修法が行われるようであり、火渡り護摩修法の際、心を静めて集中し、身体から智慧の火を生じその火によって煩悩を焼き尽くすといった状態、「火生三昧(かしょうざんまい)」とは密教では不動明王とひとつになった状態のことであり、それをもって護摩堂への案内に「不動」とあるのだろう、か。

右眼池
石段を下り、展望台への道を左眼池と逆方向に少し下る。と、注連縄が飾られた窪みがあり、右眼池とあった。「八菅山修験場跡要図」には描かれていなかったが、これで両目が揃った。この左眼池あたりから女坂の表示。道なりに下ると、おみ坂の石段のところに出る。そういえば、おみ坂の左脇に「車道・女坂」の案内があった。

八菅神社覆殿
石段を上ると八菅神社覆殿。本殿は覆殿一棟の中に鎮座するようである。お参りをすませ案内を読む。案内によると;「八菅神社(八菅山七社権現)  祭神;国常立尊(くにとこたちのみこと)  金山毘古命(かなやまひこのみこと)  大己貴命(おおなむちのみこと)  日本武尊(やまとたけるのみこと) 伊邪那岐命(いざなぎのみこと) 誉田別命(ほんだわけのみこと) 伊邪那美命(いざなみのみこと)。
八菅神社の祭神は、日本武尊と役の小角(役の行者)によって七神が祀られた。 これを総称して八菅七社権現といった。そして信仰の対象は日本固有の神と仏菩薩とは一体であるという思想にもとづいてまつられた社でこの八菅の霊地を護持する人たちを修験(法院)といい山内の院や坊に拠っていた。
源頼朝の大日堂寄進、足利尊氏による社頭の再建、足利持氏の再興で一山の伽藍が整ったが、永正2年本社、諸堂が兵火で失った。その後天文10年再建、天正19年には徳川家康より社額を給せられた。
やがて明治維新の神仏分離令により仏教関係すべてが禁じられ神のみを祀った八菅神社として発足、修験の人たちはみなこの地に帰農した」とある。

案内では祭神は明治の神仏分離令以降の影響か「神」がラインナップされているが、神仏混淆の頃七社権現が祀られていたわけで、それは上でもメモしたように、熊野・箱根・蔵王・八幡・山王・白山・伊豆の七所の権現(室町時代後期)。覆殿の中央の証誠殿(熊野権現)を中心に、左右に各三社、左方は玉函殿(箱根権現)、金峯殿(蔵王権現)、誉田殿(八幡大菩薩)、右方は妙高殿(山王権現)、妙理殿(白山権現)、走湯殿(伊豆権現)が配置されていたようだ。
で、案内にある祭神と権現さまを比定すると、国常立尊=証誠殿(熊野権現)=本地仏;阿弥陀如来、金山毘古命=金峰殿(蔵王権現) =弥勒菩薩、 大己貴命=妙高殿(山王権現)=薬師如来、日本武尊(天忍穂耳尊の説も)=走湯殿(伊豆権現=十一面観音、伊邪那岐命=玉函殿(箱根権現)=阿弥陀如来、 誉田別命=誉田殿(八幡大菩薩)=阿弥陀如来、伊邪那美命=妙理殿(白山権現)=十一面観音、となる。

長床衆
しかし、この覆殿だが横に異様に長い。一棟の中に七つの社殿が鎮座するわけだからそれはそれで説明できるのだが、一見したときはこれは熊野本宮にあった横長の礼殿を拠点にした熊野の中核的山伏集団である「長床衆」の影響かと思ってもみた。
気になってあれこれチェックすると、「長床」とは本来、山岳修行の人たちが滞在する拝殿や礼殿のことを指し、本殿前に立つ横長の棟のことであったようだ。熊野の中核的山伏集団を「長床衆」と称するようになったのは、礼殿に長期に滞在し修行を積むことにより、結果的に熊野修験の中核的存在となっていった、ということであろう。

八菅と熊野
覆殿の横長が「長床衆」と直接関係はなさそうではあるが、それでも八菅修験は、覆殿中央に熊野権現が鎮座することからもわかるように、熊野修験との関係が深い。
『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』によれば、「江戸時代,八菅山は本山派聖護院門跡直末の格式高い修験集団として全国に知られた。山林に籠り修行する山林修行者を「山伏」,「修験者」と呼び始めたのは平安時代。彼らは霊山に参詣する信者を導く「先達」にもなった。
鎌倉から室町にかけて、修験者の行法は次第に体系化され、教団組織が成立。そのうちで最も有力な熊野修験を中央で統括する熊野三山検校職を受け継いだのが園城寺(三井寺)の流れをくむ聖護院であった。聖護院を棟梁として成立したのが本山派である。
八菅山と聖護院が結びついたのは戦国時代。江戸時代には、聖護院宮門跡の大峰・葛城入峰に際し、八菅の山伏が峰中(ぶちゅう)の大事な役を果たしていた」とのことである。

八菅山経塚群
覆殿の周囲を見るに、右手に八菅山経塚群の案内がある。「経塚とは経典を埋納したところで、10世紀末ごろ、末法思想を背景に作善業のひとつとして発生したといわれる。のち、経典の書写とも結びつき、やがて、死者の冥福を祈るという追善的な性格をもつようになった。
八菅山の経塚群は、平安時代の末期から鎌倉時代にかけてのものと伝わる。昭和47年(1972)、神奈川県教育委員会による調査の際、京塚17基を確認したが、多くは盗掘されていた。なお、そのおり納経容器の壺15を出土、うち、和鏡を伴うもの6、そのひとつから木造合子型念持仏(愛染明王-鎌倉初期)が発見された(愛川町教育委員会)」とある。作善とは「善根をおこなうこと」である。

白山堂跡
経塚を見終え、「八菅山修験場跡要図」にあった白山堂跡を目指し、お山に登ることに。八菅修験は白山権現ではじまり大山の白山不動で終える、などと書いてあった記事を思い出し、八菅修験で重視される白山堂が如何なるものかとの好奇心からでの行動ではある。
覆殿左手に展望台へと向かう道があり、フィールドアスレチックの遊具が並ぶ広場を越えてしばらく進むと道脇に「白山堂跡」の案内があった。
案内は「ここから20メートルほど奥にあった祠の跡をいう。 白山権現は、八菅神社の祭神七柱のひとつであるが、 なにかのわけがあって、とくに、ここにも祀られていたのであろう(愛川町)」と。
修験の始めは白山権現で始まり、日向薬師の近く、12の行場・腰宿でも白山権現にて行を行い、大山の白山不動で終わるといった白山権現の位置づけってその程度ものも、といった素っ気ない説明である。

八菅と白山
よくわからないが、八菅と白山、と言うか、八菅=熊野と白山の関係をチェックしてみる。その前提として山岳信仰とか、山岳宗教とか、修験道とか、用語の使い方がややこしくなってきた。その整理をしながら八菅=熊野と白山の関係を妄想することにする。
古代神奈備山って用語が使われる。神が宿る美しい山ということである。往古、人々は美しい山そのものを信仰の対象とした。北陸地方の霊峰「白山」も、その雄大な姿故、古代より人々の信仰を集めた。「山岳信仰」の時期である。その時期は平安時代に至るまで続く。南都の仏教では、山で仏教修行をする習慣はなかった。山に籠もり修行をした役小角などは「異端者」であったわけだ。伊豆に流されたということは、こういった時代背景もあったのだろう。
「山岳信仰」ではなく、所謂、「山岳仏教」が始まったのは平安時代。天台宗と真言宗が山に籠もって仏教修行をすることを奨励しはじめてから。深山幽谷、山岳でこそ禅定の境地に入ることができる、密教故の呪術的秘法体得ができる、とした。「修験道」はこの天台宗や真言宗といった山岳仏教を核に、原初よりの山岳信仰、道教、そして陰陽道などを融合し独特の宗教体系として育っていく。

山岳信仰で始まった白山信仰も九世紀(平安中期)ごろになると、素朴な自然崇拝から修験者の山岳修行や神仏習合思想に彩られた霊場へと変質をとげるようになる。加賀・越前・美濃の三方から、山頂に至る登山道(禅定道)が開かれ、それぞれの道筋に宗教施設(社堂)が次第に整えられていった。それらは天長9年(832)になって加賀馬場(現在白山比咩神社)、越前馬場(現在平泉寺白山神社)、美濃馬場(現在長滝寺白山神社)が開かれ、山麓における登山道筋の拠点と里宮=遥拝施設が整い始める。
久安3年(1147)、加賀の白山本宮(白山比咩神社)=白山寺は「山門別院」(延暦寺末寺)となる。以後加賀馬場は天台系寺社としての再編を図り、やや遅れて越前(平泉寺)、美濃(長滝寺)も延暦寺の末寺化をとげることになり、ここに、三方馬場の寺社勢力天台宗教団の一翼に組み込まれ「白山天台」が成立することになった。白山神社の発展には山岳宗教・修験道といったファクターが不可欠とアライアンスを組んだということだろう。
で、何故、八菅と白山、と言うか、八菅=熊野と白山、八菅山の白山権現からはじまり大山寺の白山不動で終わると言われるほど白山が重視されたか、ということだが、ここから以降は全くの妄想であり何の根拠もないのだが、南北朝時代の南朝の敗北と関係があるのではないだろう、か。北朝方の高師直が吉野山を攻め、南朝の勢威の衰えが決定的になったとき、吉野熊野への入峰が途絶え、その間に熊野修験に次ぐ勢力をもっていた白山修験が熊野修験に取って代わって日本全国にその影響力を拡げて行った、とのことである。こういった経緯が白山信仰が八菅において重視されたことであろうとひとり妄想。

梵天塚
白山堂跡から道を進む。て「みずとみどりの青空博物館」とか、 「やすらぎの広場」といった案内もあるが 今回は特に理由はないのだが「展望台の広場」を目指して進むと道脇に「八菅山修験場跡要図」に記載のあった「梵天塚」があった。
案内によると、「八菅山修験組織のひとつである覚養院に属する塚であった。 修験道で祈祷に用いる梵天(幣束)をたてたことにちなむ名であろう。 築造のころは不明である(愛川町)」と。



教城坊塚
展望台に向かって更に進むと展望台手前に「教城坊塚」。案内によると、「八菅山修験組織のひとつである教城坊(後に教城院となる)に属する塚であった。 築造のころは不明であるが、修験道特有の祭祀遺跡である(愛川町)」と。 「八菅山修験場跡要図」にあった白山堂跡、梵天塚、教城坊塚は成り行きで進ん幸運にも辿れたが、どれも説明が素っ気なく、ありきたりの案内ではあった。ちょっと残念。

展望台
教城坊塚の近くにある展望台に上り、相模原や厚木方面の眺望を楽しみ、ちょっと休憩。展望台で地元に方に、この辺りから里に下りる道があるかどうか尋ねると、道を少し進めば道標があるので、そこを目印に右に折れると里へと下る、とのこと。どこに下りるかはっきりしないが、「一筆書き」を散歩の信条(?)とする我が身としては、同じ道を引き返すのもウザったいので、教えて頂いた山道を下ることにする。


登尾入口の道標

道なりに進むと左手に中津川ゴルフ場、その向こうに丹沢の山塊が聳える。雪の大山も垣間見える。しばらく歩くと道の右側に「登尾入口 八菅山・尾山 里山を守る会」の道標。
尾根道を成り行きで下る。途中左右に分かれる分岐があり、根拠はないのだが、最初は右手に、2度目は左へと道を取ると、沢の北側に下りた。「八菅山修験場跡要図」にあった「北谷」の辺りであろうか。
下り口一帯は鹿なのか猿なのかを防ぐため電流が流れると、メモのある柵が続く。沢に下り切ったところには柵の出口があり、出口の留め具を開け外にでる。そこには「登尾の尾根」の道標があった。

幡の坂
「登尾の尾根」の道標のすぐ下には里の耕地も見えるのだが、道を逆に取り、八菅神社方向へと沢道を柵に沿って上る。上り切った竹林のあたりに「幡の坂」の道標があった。説明もなにもないが、これも「八菅山修験場跡要図」に「幡」と描かれているところかとチェックする。
八菅神社の案内のところで、八菅山の名前の縁起として、大宝3年(703)、役の小角(役の行者)が八菅山で修法を行ったとき、八丈八手の玉幡(高御座や御帳台の棟の下にかける装飾)が山中に降臨し、神座の菅の菰から八本の根が生えだしたとメモした。『新編相模風土記稿』八菅山の項には、「山中に堂庭幡、幡之坂、以上二所、往昔幡降臨の地と云」とある幡之坂がこの地ではあろう。 因みに玉幡降臨についてはいくつかのバリエーション縁起がある。『新編相模風土記稿』には、「その昔、中將姫が織り上げたという大きくて立派な幡が、津久井の方から飛んできて、八菅の北の坂(幡の坂)へ落ち、更に舞い上がってこの家(雲台院...字宮村の中央部。地名は、幡)の庭に落ちてきた。行者た ちが総出で祈りあげると、幡はまた天空へ舞い上がり、鶴巻の落幡に落ちた。土地の人々はあまりにも立派な幡なので、相談の結果、日向薬師へ寄進に及んだ」といった話が伝わる。
日向薬師、薬師堂の什宝(じゅうほう)の項の中に、「幡一流 縁起曰、神亀二年幡天よりして降る云々、」とあり、同じく曼荼羅の項には、「糸を以て、名號(めいごう)及梵寺(ぼんじ)を多く縫たり、中將姫自から縫ふ所と云」と書かれている、とのことである。

旧光勝寺の総門跡
道なりに進むと緩やかな下り坂となり、八菅橋脇まで続く。道脇に「旧光勝寺の総門跡」の案内。「ここは八菅山七所権現(現八菅神社)の別当寺・八菅山光勝寺の総門のあったところ。当時光勝寺は本山派修験に属し、京都聖護院の直末寺としてあった。寺の諸事は山内50余の院坊が司って七社権現を護持した。総門は八菅山絵図に拠ると、冠門木型式をとっていたようで、いま石造りの基礎及び柱の部分を残している(愛川町教育委員会)」とあった。



海老名季貞墓
総門まで戻り、「八菅山修験場跡要図」に記載されていた「見所」で見落としがないかチェック。八菅山光勝寺跡、海老名季貞墓などが目に入る。八菅山光勝寺跡を探すも、民家があるだけで特にそれらしき遺構は見つからなかった。次いで、「海老名季貞墓」を探す。ちょっとわかりにくいが、鳥居へと進む道の途中から細路が分岐しており、そこを少しくだると海老名季貞墓があった。 案内によると「海老名季貞の墓 新編相模国風土記稿の八菅村の中に「海老名源三季貞墓」とあるのがこの仏塔である。海老名源三季貞(または源八季定)は鎌倉初期の武将で、現、海老名市河原口に在した豪族海老名党の頭領であった。源氏旗揚げの(1180年)とき、季貞は平家の被官人として大庭影親の軍に加わり、石橋山の合戦で頼朝を攻めた。のち、頼朝再起のときは、源氏の家人となり忠誠をつくした。
一族の八管山に対する信仰は厚く、季貞は頼朝の命により、代官として社殿、末社の再建と大日堂の建立を行い、法灯を保護した 相川町教育委員会」とあった。

海老名氏
海老名一族は平安時代末から室町時代まで、海老名や厚木で活躍した一族。海老名季貞は海老名氏・荻野氏・本間氏・国府氏の祖となる人物であり、12世紀の相模川中流域~中津川流域における有力武将であった。開発した土地は一族の内紛で都での威勢を失い、関東に下向し源家に寄進され、源家との主従関係が結ばれていた。それが頼朝の旗揚げに際し平氏方に参陣したのは、平治の乱(1160)において関東での源氏の棟梁である源義朝の敗死したため、関東での勢を失った源氏にかわり平氏に仕えていたためであろう。
この海老名季貞は応永26年(1491)の『八菅山光勝寺再興勧進帳』の中で、大日尊像を安置した人物として登場する。八本の菅の縁起も神社の案内にあった役行者ではなく行基となっているが、それはそれとして、興味深いのはこの勧進帳そのこと自体。隆盛を誇った一山組織八菅山光勝寺が15世紀には崩壊の危機に瀕し、その再興のために勧進、平たく言えば、資金集めをしている。

聖護院門跡・道興と八菅
先回の大山三峰修験の道のメモでも触れたことだが、散歩の折々で出合い、東国廻国紀行文『廻国雑記』で知られる聖護院門跡・道興が東国の熊野系修験(熊野先達)の拠点を訪れたとき、江戸時、本山派聖護院門跡直末の格式高い修験集団として全国に知られた八菅山光勝寺をパスしていることが気になっていた。
文明18年(1486)には丹沢山麓を訪れ、大山寺、日向霊山寺、熊野堂(厚木市旭町)は廻っているのだが八菅山はパスしているのである。その理由がよくわからなかったのだが、勧進帳を出さなければならない状況であったとすればパスしても、それほど違和感なく思える。それとも、本山派聖護院門跡直末の格式高い修験集団として全国に知られたのは江戸時代になってからであり、室町の頃はそれほど聖護院と密な関係ではなかったのだろうか。

海老名氏と経塚
ついでのことであるので海老名氏と八菅神社覆殿の右手にあった経塚との関係について、『丹沢の行者道を歩く(白山書房)』の著者である城川隆夫さんが説明している記事がWEBに掲載されていた。
簡単にメモすると、12世紀の頃、相模川中流域~中津川流域における有力武将であった海老名氏は、開発した土地を関東に下向した源家に寄進され、源家との主従関係が結ばれていたわけだが、「神奈川県内最大の八菅山経塚群が造立されていたのも、ちょうど同じ頃の12世紀頃です。海老名氏をはじめとするこのエリアの開発領主と源家の人々が中心になって八菅山に経塚造立を行っていたと考えられないでしょうか。その宗教行為を請け負っていた宗教者が八菅修験の原初的な姿ではないかということです。それは熊野の宗教者たちと熊野・大峰の経塚群の関係と似ています。八菅は毛利庄にとっての熊野本宮であったのでしょう。八菅山の七社権現社は「証誠殿」(熊野権現)を中心に構成されているのです(城川隆夫)」とする。

八菅神社から塩川の谷の行所までの散歩のメモのつもりが、八菅山であれこれと想いを巡らせ、イントロが長くなってしまった。行所散歩のメモは次回に渡すことにする。
先回の散歩で境川水系や引地川沿って鎮座する12社のサバ神社のうち8社を辿った。常の如く出発が遅く、最後の今田鯖神社は真っ暗。結局4社を訪ねることができなかった。
今回は先回取りこぼした4社を巡る。散歩をはじめるときは何も計画していたわけではないのだが、結果的にはサバ神社所以の源氏の源義朝や満仲ゆかりの社とともに、大庭氏や俣野氏といった平家方の武将のゆかりの地も辿ることになった。成り行き任せの散歩の妙ではあろうか。



本日の本日のルート;小田急江ノ島線・長後駅>七ッ木神社(藤沢市高倉)>東勝寺>左馬神社(下飯田)>琴平神社>東泉寺>境川遊水池公園>和泉川>鯖神社(鍋谷)>密蔵院>密蔵院弁財天>天王森泉公園>俣野神社>俣野観音堂>左馬大明神(西俣野)>伝承小栗塚跡>自性院>引地川>佐波大明神(石川)>大庭城址公園>引地川親水公園>成就院>小田急江ノ島線・善行駅

小田急江ノ島線・長後駅
最初の目的地は藤沢市高倉にある「七ッ木神社」。最寄りの駅である小田急江ノ島線・長後駅に向かう。「長後」ってなんとなく気になる地名。あれこれチェックすると、高座郡渋谷庄長郷と呼ばれていたのが小田原北条の時代に書き間違い「長後」とした説、この地から東に広がる相模一帯(綾瀬市、大和市、藤沢氏)を領した高座郡渋谷庄の庄司(領主)である渋谷重国が出家し長後坊を名乗ったとの説などいろいろ。説の是非は門外漢である私にはわからないが、ともあれ「長郷」と称されるとすれば、渋谷庄の「長=中心」の郷であったのだろうか。
長後は江戸時代には藪鼻宿と呼ばれ、八王子から藤沢を南北に結ぶ「滝山街道」と、柏尾(戸塚区)から門沢橋(海老名市戸田の渡し)を東西に結ぶ大山街道の交差する交通の要衝の地。明治には生糸を横浜に運ぶ「絹の道」として賑わった、とのことである。
なお、渋谷庄の中心とはいうものの、庄司(領主)の館は長後駅から東南の綾瀬市早川にある城山公園(早川城址)の辺りにあったようである。

渋谷重国
渋谷重国は、桓武天皇の曽孫である高望王の後裔である秩父別当武基を祖とし、後三年の役での大功により武蔵河崎荘を賜り河原冠者と称された基家の流れ。重国が渋谷を称したのは、禁裏の賊を退治したことにより堀川天皇より渋谷の姓を賜ったため。一説にはその賊の領地が相模国高座郡渋谷荘辺りであり、それ故に渋谷姓とその領地を賜ったとか。因みに東京都の渋谷区も重国の領地が武蔵国豊嶋郡谷盛(東京都渋谷区・港区)であったことによる。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

七ッ木神社(藤沢市高倉; 藤沢市高倉1128)
駅から東へと境川筋へと成り行きで進み崖線を下る。崖裾に七ッ木神社。この辺りの境川両岸は宅地には成らず田圃が広がる。
鳥居を潜り石段をのぼると狛犬が迎えてくれる。拝殿前にも狛犬が佇む。拝殿にお参り。境内には道祖神や石仏、石碑が多い。「八海山神皇」、「三笠山天皇」そして 「御嶽山座皇大神」と刻まれた石碑が並ぶ。 「八海山神皇」、「三笠山天皇」とは耳慣れない名称。チェックすると、木曾の御嶽山内のある山名であり、八海山には大頭羅神王が、三笠山には刀利天、不動明王、摩利支天が祀られている、と。
境内を巡り案内を探すが、サバ神社巡りの案内以外に何も無い。神奈川県神社庁の資料によると、「文禄年中(1592~96)渋谷義重崇敬厚かりしと伝う。1826(文政9)年再建。新編相模風土記稿に七ツ木郷鯖神社と記せるは当社なり。往古より鯖神社と称せるを明治初年七ツ木神社と改称す。1873(明治6)年村社列格」とあった。渋谷義重氏って誰?あれこれチェックするが見あたらない。

○『源義朝を祀る サバ神社その謎に迫る』によって整理すると、天保12年(1841)の『新編相模国風土記稿』には「鯖明神」の記述が残る。明治になって「七ッ木」と明治の頃の村の名である「七ッ木村」とした。
江戸の領主である遠藤氏は、藤原氏の後裔であり義朝系でもなく、元の名も「七ッ木」であり、一時「鯖」を称したが、明治に「鯖」の有り難さも無くなった頃、再び元の「七ッ木」に戻したのだろう。

東勝寺
次のサバ目的地である横浜市泉区にある鍋谷の鯖神社に向かってなりゆきで南に下る。と、先回の散歩で立ち寄るも、日暮でゆっくりお参りもできなかった東勝寺が現れた。道から参道が続き石段の上に山門が建つ。境内から眺める境川両岸の田圃の景観が美しい。
境川の川筋を見下ろす台地に建つこのお寺さまは、秋雄和尚によって南北朝時代に創建され、阿弥陀仏を本尊とする臨済宗円覚寺派の禅寺。北条一族が鎌倉の東勝寺で滅亡したのを悼み、密かにこの地に建立された、とのこと。山号は点燈山と称されるのも意味深い。江戸後期寺は焼失するも、「点燈山」の額を持つ山門は残った。再建された本堂には北条氏の三つ鱗の紋がある、と言う。


鎌倉の東勝寺
鎌倉を彷徨ったとき北条一族が滅んだ東勝寺跡を訪れたことがある。そのときのメモ;「北条高時の「腹きりやぐら」 下り切ったところに北条高時の「腹きりやぐら」。新田義貞の鎌倉攻めのとき、十四代北条高時一族郎党この地で自刃。「今ヤ一面ニ焔煙ノ漲ル所トナレルヲ望見シツツ一族門葉八百七十余人ト共ニ自刃ス」、と。北条家滅亡の地である。近くに東勝寺跡地。北条一門の菩提寺。三代執権泰時が建立した臨済宗の禅寺。北条一族滅亡の折、焼失。室町に再興され関東十刹の第三位。その後戦国時代に廃絶。いまは石碑のみ」



左馬神社(下飯田;横浜市泉区下飯田町1389)
東勝寺を離れ、境川を渡り横浜市泉区に入る。次の目的地である鍋屋の鯖神社に向かって境川の東側を下ると、昨日訪れた左馬神社が現れた。先回のメモを再掲する。
下飯田の左馬神社の辺りはそれほど宅地化も進んでおらず、昔ながらの耕地が残る一帯の、豊かな緑の中に左馬神社。素朴な社といった趣きである。
境内には案内はない。泉区の資料などによると、伝承では飯田郷の地頭、飯田五郎家義が勧請したといい、小田原北條の時代に下飯田を治めた川上藤兵衛も武運長久の祈願をしたという。また1590(天正18)年に下飯田の領主になった筧助兵衛(かけいすけひょうえ)為春は、地域の鎮守として信仰し、社殿の修復をしたという。社殿右手前の銀杏は横浜市の名木古木に指定されている。 またこの近くの神社の近くには鎌倉古道のひとつである「上の道」または「西の道」が通っている。

○『源義朝を祀る サバ神社その謎に迫る』により整理すると、天保12年(1841)の『新編相模国風土記稿』には「鯖」の記録が残る。また、江戸初期の領主は上でメモした通り筧助兵衛為春であり、藤原氏の支流とする。今までの論から推測すれば、里神を厄除け、疫病退散のためサバ社としたのだろうが、「左馬」の表記に拘る理由はないことになる。実際、同書では「鯖」社とし、現在も「鯖社」と説明している。が、実際は現在の表記は「左馬神社」となっており、記述とは異なっていた。はてさて。

琴平神社
下飯田の左馬神社を離れ南に下る。相鉄いずみの線と横浜市の地下鉄ブルーラインが平行して走る高架を潜った先には、道の左手に宅地化が進んだ一帯が目に入る。
道を進み豊かな緑の一隅の結構な構えの社。琴平神社とある。参道の石段を上ると、鳥居前に狛犬。狛犬の台座に短歌が刻まれる。「唐獅子やみたまとともに とこしえに まもりづづけよ このみやしろを」と読める。更に石段を上り拝殿にお参り拝殿に象の木鼻。金比羅さんの「本家」である香川県の金比羅宮は「象頭山 金比羅大権現」と歌われるように象頭山の中腹に鎮座し、神仏混淆の頃より山号を「象頭山」と称する。本家の梁にも象の木鼻が刻まれており、琴平神社のすべてではないようだが、象の木鼻が社殿の梁に刻まれている。境内には八坂、白山神社、稲荷神社などの摂社が合祀されていた。
この琴平神社は天正18年(1590)、下飯田の領主となった旗本の筧助兵衛為春が境川沿いにあった菩提寺の東泉寺を境川の洪水・水害から護るためこの地に移築した際、水難守護治水の神である金比羅神を村の鎮守として勧請したのが社のはじまり。
「海上交通の神」として名高い金比羅様は、下飯田の村民だけでなく、西湘方面の漁師の信仰も篤かったとのことである。祭神は大物主神と崇徳上皇。香川の金比羅宮と同じである。
江戸期にはお隣の東泉寺が別当寺であり、金比羅様として神仏混淆にてお祀りされていたが、明治2年(1869)の神仏分離令により、琴平神社として分離された。

東泉寺
琴平神社のすぐ隣りに東泉寺。巨木山と号する曹洞宗のお寺さま。山号の由来は境内の市の名木古木に指定されている「大銀杏」故だろう。山門脇に「天明門縁起」の案内。天明3年(1783)建立のこの山門はこの年、浅間山が噴火し、この地も地震が8日間、雨天が1ヶ月にも及び、飢饉による被害が出たため、世の平安を祈って建立した、と。平成5年(1993)の解体工事の際に判明したとのこと。また、「吾唯知足而 位富楽安穏(われ ただ たるをしりて ふらく あんのんに いす)」と柱にあることにより「知足門」とも称される。
山門脇の石に刻まれた「人もかく老いて秋たつ眉毛哉」の句は芭蕉門下である美濃口春鴻の作。49歳の自筆とのことである。
山門を潜り本堂にお参り。このお寺さまのはじまりは、上の琴平神社でメモしたように、境川沿いにあったものが、度重なる水害を避けるべく天正18年(1590)、当地の領主である旗本の筧助兵衛為春が開基・創建。境内には薬師堂は相模国準四国88ヶ所の札所59番。弘法大師像が安置される。『新編相模国風土記稿』に下飯田の東泉寺の記述の中に「金比羅社」の記述があるが、神仏混淆の頃、このお寺さまが琴平神社の別当寺ことのエビデンスである。

境川遊水地公園
鍋屋の鯖神社へのルートを地図でチェック。東に進めば最短距離ではあるのだが、少し南に下ったところに「境川遊水地公園」がある。遠回りにはなるのだが、ちょっと立ち寄り。
公園に近づくと、深く掘られた遊水地にはテニスコートや野球場、多目的広場、ビオトープ、水辺が整備されている。遊水地とは河川の堤防を低くし、洪水であふれた水を一時的に溜める施設。施設の大半が横浜市泉区ではあるが、戸塚区、藤沢市の市境にあり、それぞれの市(区)域にまたがる遊水地と公園を神奈川県が整備を進めている、とのことである。

和泉川
境川遊水地公園をぐるりと廻り込むと和泉川が境川に合流する地点に出た。先回にメモしたように、和泉川は瀬谷区東端にある瀬谷市民の森に源流を発し、間に挟まれた台地によって境川の谷筋と分け、瀬谷区、泉区を南に下り、戸塚区俣野町で境川に合流する全長10キロ弱の二級河川(1級河川は国、二級は都道府県管理)である。とすれば、合流点は横浜市戸塚区ということであった。

鯖神社(鍋屋;横浜市泉区和泉町705
鍋屋の鯖神社に向かうべく、和泉川を遡る。鯖神社は鍋屋交差点の南、豊かな緑の中にある。鳥居を潜り石段をのぼると、誠にささやかな拝殿だけが残る。境内に案内はない。
「神奈川県神社誌」によると、「慶長年間(1596~1615)に当地の郷士、清水、鈴木の両氏が勧請したと伝承されている。1689(元禄2)年に氏子住民の浄財で社殿の修復が行われたと記された棟札が保存されているが、1836(天保7)年に神祇管領卜部朝臣良長(じんぎかんれいうらべあそんよしなが)が京都から参向奉弊し「鯖大明神」の額を奉納した旨を記した棟札も保存されている」とある。

○『源義朝を祀る サバ神社その謎に迫る』により整理すると、天保7年(1836)の奉額には「鯖大明神」とある祭神は「源義朝」ではなく「源満仲」とされるが、これは先回のメモで延べたように江戸期の和泉村の領主が松平勝左衛門昌吉であったことに関係する。
この松平勝左衛門昌吉は満仲>頼信>頼義>義家と続く清和源氏の系統ではあるが、義朝は義家から義親>為朝>義朝と続く系統、一方松平勝左衛門昌吉を含めた徳川一門は義家から義国>義重(新田系)の系統であり、徳川家の十八松平氏のひとつである松平勝左衛門昌吉は、彼らにとっては傍系である義朝を祀るのを本流としてのプライドが許さず、義朝の祖であり徳川松平の祖でもある清和源氏隆盛のきっかけをつくった満仲を義朝の替わりに祀ったとする。

密蔵院
鍋屋交差点の東の崖上に密蔵院。鍋屋鯖神社と続いていた丘陵を県道18号(環状4号)を通すため切り通しとなったように思う。切り通し工事の結果か、参道は石段となっている。その石段横に文政4年(1821)建立の木食観正碑。「南無大師遍照金剛木食観正」と刻まれる。
石段を上り本堂にお参り。茅葺きの鐘楼が誠に美しい高野山真言宗のお寺さま。本尊は願行作とされる不動明王。石段下には環状4号線の工事のため寺域が大きく変わってしまったようだ。

木食観正上人
木食観正上人は近世の遊行僧。江戸時代後期(19世紀初頭)、淡路に生まれ小田原を中心に関東各地を廻り加持祈祷を行い、弘法大師の再現とも称された。
木食とは木の実や果実だけを食べ、米や野菜を食しない修行のことであり、このような修行を守る遊行僧は、一般的に僧侶の資格ももたなかった、とか。水不足や疫病などに苦しむ民衆に加持祈祷をおこなう木食上人の評判は江戸にも伝わり信者が殺到しとも伝わるが、上人は文政12年(1829)、江戸大火の際の加持祈祷の科により囚われ、獄死したとのことである。

密蔵院弁財天
次の目的地は西俣野の左馬大明神社。地図で確認すると南に下ることになるが、その途中に密蔵院弁財天とか天王森泉公園とか如何にも湧水を想起させる地名とか俣野神社や俣野観音堂といった地名が目に付く。ついでのことではあるので、それぞれを辿り西俣野の左馬大明神社へ向かうことに。
密蔵院から鯖神社方向へと戻り、丘陵裾を進むと密蔵院弁財天。弁天様の裏の崖線から湧水が流れ出す。弁天様はヒンズー教の水無川(地下水脈)の神である「サラスヴァティ」がその起源。大切な湧水をお祀りしたのであろう。

天王森泉公園
和泉川の両側に広がる田圃、その縁を画す丘陵の斜面林を楽しみながら進むと天王森泉公園。園に入ると古き趣の屋敷。この建物は台地崖線から流れ出す湧水を使い、和泉川流域にあった製糸工場の本館を移築したもの、と。
天王森和泉館と名付けられたこの建物は明治44年(1911)、清水氏により興された清水製糸工場の本館。清水製糸工場は釜数128、神奈川県下45社の中でも5番目の規模。和泉川沿いには豊富な湧水を活かし20以上の製糸工場が営まれ、中和田村(泉区)には市内最古で最大規模の持田製糸工場を初め8社あったが、大正時代をピークに次第に廃れていった。
製糸工場の脇を抜け斜面林へと進むと遊水池。その源流はと先に進むと崖下かから湧水が浸みだしていた。湧水の源流点でしばしその「浸みだし具合」を眺めながら湧水フリーク故の豊かな時を過ごす。
公園内にあった湧水の説明に和泉川や下流の俣野で合流する宇田川、深谷町を流れる谷戸川沿いの湧水マップが掲載されていた。和泉川流域で17箇所、宇田川沿いに6箇所、谷戸川沿いに4箇所ほどの湧水点がある。いつだったか厚木の湧水点を辿ったように、そのうちにこれらの湧水点を探す散歩をしてみたいと思う。


横浜ドリームランド跡
台地斜面林の裾を進むと、台地上に巨大な建造物。高層ビルの屋上は日本風の屋根に覆われており、新興宗教の本部かとも思いながら歩いたのだが、メモの段階でチェックするとその建物は平成14年(2002)閉園の横浜ドリームランドにあったホテルであった。そのホテルエンパイアは現在は横浜薬科大学の図書館棟となっている。それにしてもユニークというか、なんとも形容し難い建物である。市域も横浜市泉区から戸塚区に移る。

俣野神社
県道403号からは狭い急坂を上り、鳥居から長い参道を進み鎮守の森に入る。社は俣野町と深谷町を隔てる丘陵中腹に鎮座する。本殿にはお伊勢さんの幟が立つ。大庭御厨の影響が残っているのだろうか。境内には鐘楼がある。神仏習合の名残だろうが梵鐘は無い。
神社庁によれば、正式名は「上俣野神社」。古くは欽明天皇社と称されていたが、明治初年「上俣野神社」と改称。創建時は不詳だが、安政3年(1856)社殿再建された、とある。先ほど訪れた天王泉森公園の「天王」は欽明天王社からとの説がある。
欽明天皇が祀られる所以は不明であるが、江ノ島の江島神社は、欽明13年(552)に欽明天皇の勅命で島の洞窟(岩屋)に神を祀ったのが始まりとされる。また、武相総鎮護座間神社の創建も欽明年間と伝えられる。なんらか欽明天皇とこの地を結ぶキーワードがありそうなのだが、あれこれの詮索は後のお楽しみとしておこう。

鎌倉街道・上ッ道
かつて、この辺りには鎌倉街道・上ッ道が通っていた。道筋は先回訪れた宗川寺から境川に沿って南に下り、飯田神社辺りを経て境川と和泉川が合流するこの地俣野を通り鎌倉に続く。
鎌倉街道とは世に言う、「いざ鎌倉」のときに馳せ参じる道である。もちろん軍事面だけでなく、政治・経済の幹線として鎌倉と結ばれていた。鎌倉街道には散歩の折々に出合う。武蔵の西部では「鎌倉街道上ノ道」、中央部では「鎌倉街道中ノ道」に出合った。東部には千葉から東京湾を越え、金沢八景から鎌倉へと続く「鎌倉街道下ノ道」がある、と言う。
鎌倉街道山ノ道、別名秩父道は鎌倉と秩父、そしてその先の上州を結ぶもの。いつだったか、高尾から北へ、幾つかの峠、幾つかの川筋を越えて秩父に向かったことが懐かしい。その山ノ道は高尾から南は、七国峠から相原十字路、相原駅へと進み、南町田で鎌倉街道上ツ道に合流し、鎌倉に向かう。

鎌倉街道といっても、そのために特段新しく造られた道というわけではないようだ。それ以前からあった道を鎌倉に向けて「整備」し直したといったもの。当然のこととして、上ノ道、中ノ道といった主要道のほかにも、多くの枝道、間道があったものと思える。
で、今回出合った鎌倉街道上ノ道の鎌倉からの大雑把なルートは以下の通り;
八幡宮>俣野>飯田>上瀬谷>町谷>町田>本町田>小野路>府中>恋ヶ窪>小平>東村山>所沢>入間>女影>町屋>苦林>笛吹峠>奈良:>塚田>花園>広木>児玉>鮎川>山名>高崎

また、今回の散歩の地の周辺に限定したルートは、いくつかバリエーションはあるものの、以下のルートもそのひとつ、とか。町田から順に南へのポイントをメモする。
町田>町谷交差点((東京都町田市鶴間))>田園都市線>鶴間公園(東京都町田市鶴間)>東京女学館(東京都町田市鶴間)>246号>東名高速>八幡神社(瀬谷区上瀬谷町)>妙光寺(瀬谷区上瀬谷町)>相沢交差点から「かまくらみち」>相鉄線>宗川寺>さくら小学校>羽田郷土資料館>新幹線>本興寺>飯田神社>左馬神社(下飯田)>相鉄いずみの線・地下鉄ブルーライン>富士塚公園>琴平神社>東泉寺>境川遊水池公園>俣野神社>明治学院グランド>龍長院(戸塚区東俣野)>八坂神社(戸塚区東俣野)>国道1号>柄沢神社(藤沢市柄沢)>慈眼寺(藤沢市柄沢)>長福寺(藤沢市村岡東3町目)>日枝神社(藤沢市渡内)>村岡城址公園(藤沢市村岡)>東海道線>町屋橋で柏尾川を渡る>上町屋天満宮(鎌倉市上町屋)>大慶寺(鎌倉市寺分)>駒形神社(鎌倉市寺分)>御霊神社(鎌倉市梶原)>葛原岡神社(鎌倉市山の内)

俣野観音堂
坂を下り県道403号脇にある俣野観音堂に。観音堂はフェンスで囲われており入れないのかと思ったが、フェンスの端にスライド式の入り口があり境内に。案内によれば、この堂宇は俣野景久の守護仏と伝わる「十一面観音」が祀られる。
俣野景久は後ほどメモする大庭御厨の主である大庭景親の弟。現在の横浜市戸塚区と藤沢市にまたがる俣野郷を領土とした。先回の散歩での飯田五郎のメモのとき、源氏に馳せ参じたい飯田五郎は、前を大庭景親、後ろを俣野景久に挟まれ、心ならずも平家方に加わった(結果として頼朝を助けることになったのだが)ことからもわかるように平家方の武将。頼朝挙兵の石橋山の戦いでは勝利をおさめるも、その後富士川の戦いで敗れ、兄の大庭景親は降服し処刑されたが、景久は敗走し平維盛に合流し、加賀の国の「倶利伽羅峠の合戦」で木曽義仲に破れで討ち死にした。この観音堂の十一面観音は死を覚悟した景久が俣野の母に送ったものと伝わる。
「俣野」の地名の由来であるが、地形図を見ると和泉川と宇田川、そして深谷町からの谷戸川が合流し「股」のような地形になっている。この地形所以のものではないだろうか。単なる妄想。根拠なし。

左馬大明神社(西俣野;藤沢市西俣野837)
次は西俣野の左馬明神社。境川を渡り、台地に上った民家脇にある小祠とのこと。両岸に田圃の広がる境川を渡ると横浜市戸塚区から再び藤沢市域に。台地を上りおおよその見当をつけて左に折れると、小さいながらも「左馬大明神」への道案内があった。案内を頼りに進むと民家の隣り。ほとんど「屋敷神」といった雰囲気の祠があり、そこが左馬大明神社であった。この社は神奈川県の神社庁には登録されていないとのことである。今までのサバ神社を巡る散歩で最もささやかな社、というか小祠が大明神と称されるのも興味深い。

○『源義朝を祀る サバ神社その謎に迫る』で整理すると、天保12年の『新編相模国風土記稿』には「鯖明神」の記述がある。元の名称は「左馬」であった、と言う。江戸の頃、この地の領主である小笠原氏は清和源氏系であり、一時期流行に抗せず「鯖」と称するも、元に戻ったということだろう。

伝承小栗塚之跡

次は今回の散歩のテーマであるサバ神社の最後、藤沢市石川の佐波大明神。小田急線を越え、台地を下った引地川の谷筋にある。結構距離があるが本日でサバ神社巡りを終えようと、もう少し歩く。
西俣野の左馬大明神社を離れ、県道403号に出る。坂を上る途中の道脇に「伝承小栗塚之跡」の石碑。小栗塚は小栗判官由来の地。判官が葬られた冥界入り口、と言う。現在は県道が一直線に通るが、その昔は九十九折れの道であった「小栗塚」の逆側には、判官が地獄から蘇り、地獄の砂を払い落ちしたとされる「土(砂)震(すなふるいづか)」があったようだが、その時は知るよしも無く、見落とした。
「小栗判官」は遊行上人が、仏の教えを上手な語りで人々に説き教える「説教節」のひとつ。中世(室町期)にはじまった口承芸能であるが、江戸期には歌舞伎や浄瑠璃の流行で廃れ今は残っていない。森鴎外の「山椒大夫」も説教節の「さんせう大夫」をもとにしたものである。
で、その「小栗判官」であるが、常陸国の小栗城主がモデルとはされるも、「小栗判官」自体は創作上の人物ではある。物語も各地を遊行した時宗の僧(遊行僧)により全国に普及し、縁のある各地にそれぞれ異なった伝承が残り、また浄瑠璃、歌舞伎などで脚色され、いろいろなバージョンがあるようだが、この地の伝わる小栗判官の物語は、各地を遊行した時宗の僧侶の総本山である藤沢市遊行寺の長生院(元は閻魔堂とも称された)に伝わる物語をベースに以下メモする。

小栗判官
その原型は室町時代、鎌倉公方と関東管領の争いである上杉禅秀の乱により滅亡した常陸国の小栗氏の御霊を鎮める巫女の語りとして発生。戦に破れ常陸を落ち延びた小栗判官。相模国に潜伏中、相模の横山家(横山大膳。戸塚区俣野に伝説が残る)に仕える娘・絶世の美女である照手姫を見初める。しかし盗賊である横山氏の知るところとなり、家来もろとも毒殺される。照手姫も不義故に相模川に沈められかけるが、金沢六浦の漁師に助けられるも、漁師の女房の嫉妬に苦しめられ、結果人買いの手に移り各地を転々とする。
閻魔大王が登場。裁定により、小栗判官を生き返らせる。そのとき閻魔大王は遊行寺の大空上人の夢枕に立ち「熊野本宮の・湯の峰の湯に入れて回復させるべし」、と。上人に箱車をつくってもらい「この車を一引きすれば千僧供養・・」とのメッセージのもと、西へと美濃へ。そこで面倒見てくれる人もいなく困っているとき、美濃の大垣の青墓で照手姫が下女として働いていた。餓鬼の姿を見ても小栗判官とはわからないながら、5日の閑をもらい大津まで車を曳いていく。その後は熊野詣の人に引かれ湯の峰の湯に浸かった餓鬼は回復し元の美男子に。やがて罪も許され常陸国の領主となり、横山大膳を討ち美濃の青墓で照手姫とも再会しふたりは結ばれた、って話。
照手姫と小栗判官が最初に出会った場所が俣野と伝えられ、下俣野には小栗判官ゆかりの地が残る。下俣野の和泉川の西には閻魔大王が安置され、名主である飯田五郎右衛門宅にあったものが移管された地獄変相十王絵図、閻魔法印、小栗判官縁起絵が残る花応院などがある。
小田急江ノ島線・六会日大前
県道403号を西に進み国道467号・藤沢街道を越え、小田急江ノ島線の「六会日大前駅の南を成り行きで進む。「 六会」は「むつあい」と詠む。明治21年(1888)の町村制の試行により六つの村(亀井野、今田、下土棚、円行、石川、西俣野)がひとつになったための地名。日大は文字通り、日本大学。昭和4年(1929)、小田急線六会駅が出来た頃は数件の農家しなない寂しい農村であったようだが、昭和16年(1941)日本大学が開校し、その後駅名も平成10年(1998)には六会日大前駅となった。また、高座郡六会村は境川流域の集落としてはやくから開け、平安末期には大庭御厨が置かれた。その六会村も昭和17年(1942)には藤沢市と合併した。

自性院
小田急線を越えると日本大学の敷地が広がる、付属高校や日本生物資源科学部のキャンパスを横切る。生物資源科学部とは農獣医学部のこと。そういえば動物をケアする学生さんが目についた。キャンパスを離れ道なりに進み天神公園で遊ぶ親子の姿を眺める。奥には社らしきものが目に入る。天神社ではあろう。
道を進み台地から引地川へと下る。坂を下り切ると引地川脇に立派な伽藍が見える。ちょっと立ち寄り。自性院と呼ばれる浄土宗のお寺さま。開基は慶長16年(1611)、地頭の中根臨太郎。境内は砂と植栽で庭園風に造られている。引地川の両岸は、自性院から南、特に川の東側に田圃がひろがる。航空写真を見るに、自性院から南の一帯が宅地化から免れ、美しい緑の景観を残している。

引地川
引地川を渡る。Wikipediaによれば、引地川は洪積台地の相模原(野)台地中央部の大和市上草柳の泉の森を源流点とし、洪積台地を侵食し谷底平野を形成しながら南に流れ、藤沢市稲荷付近から湘南砂丘地帯に流れ出て、鵠沼海岸で相模湾に注ぐ。全長22キロ弱の2級河川。
昭和58年(1983)「引地川川べり遊歩道」が整備され、昭和62年(1987)の旧建設省の「ふるさとの川モデル事業」の指定を受け、遊水地建設とともに親水護岸などが整備されている(Wikipedia)
名前の由来は諸説あるが、台地からの出口に当たる藤沢市稲荷付近で、砂丘を断ち切って川筋を付け替えたとの説が有力。そのためか、この川はかつては、場所により、長後川、大庭川、清水川、堀川などと呼ばれていた。

佐波大明神(石川;藤沢市石川141)
引地川に架かる秋本橋を渡り、竹林を眺めながら坂を上ると佐波大明神。鬱蒼とした鎮守の森に鎮座する。鳥居脇に「佐波大明神」と刻まれた石碑がある。その神紋は「笹竜胆紋」。笹竜胆は源頼朝の紋であり、河内源氏石川家の家紋でもある。ちなみに、藤沢氏の市の紋章も笹竜胆、と言う。
脇にある鳥居を潜り参道を進む。長い参道には18世紀初頭の青面金剛が佇む。鎮守の森にはスダジイ、ヤブツバキ、シロダモ、アラカシ、ヒイラギ、山桜などの巨木が残ると言う。
拝殿にお参り。拝殿脇には鐘楼が建つ。神仏混淆の名残がこの社にも残る。案内によると、「祭神は源義朝公で、1611(慶長16)年頃創立。一説によると戦国時代末期石川に勢力のあった石川六人衆(注;入内嶋、西山、田代、伊沢、佐川、市川氏)によって勧請されたと伝えられる。社名については初め左馬頭神社、次に鯖神社と称したが、水害にあったとき再度、佐波神社と改めた。

○『源義朝を祀る サバ神社その謎に迫る』により整理すると、文化3年(1806)の鐘銘に「鯖大明神」の記述。天保12年の『新編相模国風土記稿』には「鯖明神」の記述。天保12年の『新編相模国風土記稿』には「鯖明神」の記述が残る。
江戸の領主は中根氏であり、平良文系統とのことであるので、清和源氏と直接関係がない。「佐馬」に拘る理由もなく、かといって清和源氏の後裔と称する徳川家康に配慮し、左馬頭である義朝を祀るも、社名は「左馬」にするには抵抗があり、音は同じだが地形を表す「佐波=谷川・湿地の意」を関した社名をつけたの、かと。元の名も佐波とも沢とも称される。一時期、鯖信仰に抗せず「鯖社」を称するも、水害なとの被害を避けるべく元の佐波社に戻した。

大庭城址公園
日も暮れてきた。そろそろ駅に向おうと思うのだが、地図を見ると引地川に沿って南に2キロほど下ったところに大庭城址公園が目に入った。大庭御厨の経営を基盤にこの地に覇を唱えた大庭氏の城跡ではあろうと、日没にはかかりそうとは思いながらも大庭城址公園経由で小田急江ノ島線・善行駅へのルートを選択。
急ぎ足で引地川に沿って歩を進めると、前方に独立丘陵が見えてきた。大庭城址公園である。公園の北に沿って上る坂道を進み、坂を上り切ったあたりで左に折れると公園入口があった。公園のある丘陵の東は低地となっている。地図で確認すると小糸川が開析した谷筋である。丘陵は引地川と小糸川に挟まれ、二つの川が合流する箇所に位置する独立丘陵であった。往昔は乱流し、流路定まることのない湿地を前面にした要害の地ではあったかと思う。
城址の自然を活用した公園に入る。道なりに公園の中を彷徨う。城址の縄張りといった説明はない。なんとなく空堀とか土塁の雰囲気のある箇所があったが、基本的には文字通り「公園」であった。
で、その大庭城址であるが、この地は桓武天皇の流れをくむ鎌倉権五郎景政(正)を祖とする大庭景親の拠点であったとされる。城の築城は大庭景親の父とのこと。景親は、平安時代末に鎌倉権五郎景政が開発した大庭御厨の経営を行っていたこの地の有力豪族。治承4年(1180)、源頼朝が挙兵すると平氏方につき、石橋山の戦いで頼朝を撃破するも、頼朝が安房に逃れ、東国武士団を率い鎌倉入りを果たし、富士川の戦いで平維盛が頼朝に敗れると景親は降服し処刑された。
15世紀になると、この城は関東管領に仕えた扇谷上杉の重臣、江戸城築城でも名高い太田道灌が鎌倉と糟屋にある館の中間点としてこの城を改築したとのこと。しかしその後小田原北条の手により城は落城。東相模を制圧した小田原北条氏は大庭城を大改修したが、玉縄城(鎌倉市玉縄地区)を築城したため利用価値は減り、小田原北条の滅亡とともに廃城となった。
後からチェックすると大庭城址は北から「四の郭」「三の郭」「二の郭」「主郭」南端に「小郭」、主郭西下に腰郭といった結構な構えの城址であったようであり、それぞれの郭を画する空堀などが残るとのことだが、それは小田原北条氏の頃の縄張りではないだろうか。今回は日没との時間の勝負といった状態であり、ゆっくり城址を廻ることもできず、結局四の郭の辺りを歩いただけかとも思う。

大庭御厨
大庭御厨とは相模国高座郡の南部(茅ヶ崎・藤沢氏)にあった、寄進型荘園のひとつ。御厨とは伊勢神宮領との意味である。上でメモしたように、平安末期、鎌倉権五郎景政(正)によって開拓され、伊勢神宮に寄進されたもので、のちに子孫は大庭氏と改姓し、代々この地を治めた。大庭とは「大きな土地」との意味がある。言い得て妙である。
なお、「寄進」といっても作物をすべて伊勢神宮に寄進するわけではなく、なにがしかの産物やコメを差し出すかわりに、伊勢神宮の保護下に入り、朝廷に税を納めるのを免れる、一種の税金対策といったものではある。
大庭御厨の領域は東は俣野川(境川)、西は神郷(寒川)、南は海、北は大牧崎。大牧崎が現在のどの辺かははっきりしないが、「崎」というのは洪積台地、河岸段丘の侵蝕谷合流点によく見られる地名とのことで、とすれば、引地川と蓼川合流点あたり、渋谷氏の荘園と境を接する辺りとの説もあるようだ。面積は95町。鎌倉末期には150町にまで拡大した、とのこと。海に向かって開けた平地は北部の山間地から流れ下る大小の河川によって肥沃な地となっており、周辺の豪族の垂涎の的でもあったようである。

大庭御厨と源義朝
今回の散歩のテーマであるサバ神社に祀られる源義朝であるが、大庭御厨を侵し、乱暴狼藉を行っている。都での河内源氏の凋落故か、若き義朝は東国に下る。上総氏など源義家(八幡太郎義家:義朝は義家の曾孫)を東国の棟梁として頼りにしていた源氏恩顧の武将の庇護を受け勢力を伸ばす。三浦半島に覇を唱える三浦氏とともに肥沃なる大庭御厨を狙い、二度にわたり大庭御厨を侵し、当時の大庭景宗をその傘下に収め東国を清和源氏流河内源氏の基盤とし、高祖父である源頼義(源義家の父;八幡太郎義家)ゆかりの地である鎌倉の亀ヶ谷に館を構え、特に相模国一帯に強い基盤を築いた。
保元乱では大庭景義(兄)、景親(弟)は義朝の傘下で戦に加わり。兄は矢傷を受けたため弟の景親に実権が移る。平治の乱のときの動向は不明だが、源義朝が平清盛に敗れ、東国に逃亡途中に長田氏誅殺される。相模国においては義朝と近かった三浦氏や中村氏はその勢を失うが、義朝との関係が疎遠であった景親はその後平氏と接近し、その威光を背景に大庭景親は相模に勢力拡大し、前述の頼朝挙兵時の平家方の総大将として登場するわけである。

引地川親水公園
城址公園を離れ駅へと向かう。陽は落ち、かすかに残る夕日に城址公園の丘がその影を映す。引地川沿いに向かうと一帯は引地川親水公園となっている。平成9年(1997)開設された9.7ヘクタールの公園には多目的広場、球技広場、大庭遊水地、湿性植物園、親水護岸などが広がる。

成就院
川を渡り台地の坂を上る。ついでのことではあるので地図にあった成就院への道筋を辿って駅に向かうことに。坂の途中にお寺さまがあるも、辺りは真っ暗。さすがに境内に入るのは憚られる。
お寺さまの境内に入ったわけではないのだが、一応メモ。この寺院は大庭神社の別当院。本尊は愛染明王。開山は山名時氏。創建葉文和年間、14世紀の中頃。
山名時氏とは鎌倉から南北朝の武将。新田の一族ではあるが、上杉重房の娘が母のため、新田ではなく足利尊氏に従う。観応の擾乱(かんのうのじょうらん)では尊氏の弟である直義に従い室町幕府敵対。その後も尊氏の長子の直冬(庶子であり、直義の養子となり尊氏と敵対)を奉じ京を占拠するなど幕府に敵対するが、後に帰順し領国を安堵された。

小田急江ノ島線・善行駅

成就院の坂を上り、ひたすらに真っ暗な道を、かつて在った善行院の寺名をその名の由来とする善行駅に進み、一路家路へと。


鯖信仰と七鯖参り
メモを書き終えた後、メモを読み返していると、いくつか書きそびれたことが出てきた。ひとつは鯖信仰を踏まえた鯖社の命名と七鯖参りは別物であるということ。もうひとつはその七鯖参りもいつくかのパターンがある、ということである。

鯖社の命名と七鯖参りの関係については、『源義朝を祀る サバ神社その謎に迫る』によると、下和田の鯖社の棟札にある「鯖明神」の記述は寛文10年(1670)、上和田の左馬神社の棟札にある「鯖大明神」は宝暦14年(1760)、石川の佐波明神の梵鐘にある「鯖大明神」は文化3年(1806)、鍋谷の鯖社の奉額にある「鯖大明神」の記述は天保7年(1836)、そして天保12年(1841)『新選相模国風土記稿』には上飯田の飯田神社、中之宮の左馬神社、七ッ木の七ッ木神社、下飯田の鯖社、今田の鯖神社、西俣野の左馬社は鯖社と記されている。
しかしながら、『新選相模国風土記稿』には七鯖参りの記述はなにもない。ために、七鯖参りは、この『新選相模国風土記稿』が編纂された天保年間以降、江戸末期から明治にかけて流行し、大正中期頃まで続いた民間信仰である、とする。
鯖の薬効は江戸の中期には知られていたが、漁獲量が増えたのは昭和になってからであり、江戸の当時は貴重な魚であった。腐りやすいもの故に、逆に有難味を加える要素となったのかもしれない。現在でも鯖の効能効果として高血圧予防、ボケ予防、動脈硬化予防、眼精疲労緩和、肝機能強化が挙げられている。サバは大変脂の多い魚で、豊富な脂質は栄養面でタンパク質を補い、体力をつける働きがある、とのこと。この当時としては貴重で薬効のある「鯖」の病気退散・疫病退散の薬効を願い「鯖社」と命名したのだろう。実際西日本には徳島の鯖大師とか、鯖を抱いた僧形の石仏が「境の神(塞の神)」として村への疫病侵入を塞いでいるところもあるようだ。祭神が源義朝という御霊であり、名称が疫病退散に薬効のある「鯖」とすれば村への疫病侵入を防ぐツールとしては最高の機能をもつ社である、と考えたのだろうか。
それが七鯖参りといった民間信仰として流行していたきっかけは、七福神参りといった江戸期の民間信仰の流行にある、と言う。お伊勢参りや秩父札所参り、江戸市内の六地蔵参りなど民衆の生活が豊かになり病気・疫病退散を兼ねたリクリエーションであった、かも。単なる妄想。根拠なし。

また、七鯖参りのパターンであるがいくつかのバリエーションがある。
○左馬社案内では、
左馬(瀬谷),左馬(上和田),飯田神社(上飯田),佐婆(神田),左馬(中之宮).鯖社(下飯田),鯖社(鍋屋), ○藤沢市案内、大和市案内では 左馬(瀬谷),左馬(上和田),飯田神社(上飯田),左馬神社(下和田) 七ツ木神社(高倉),鯖社(下飯田),鯖社(今田)

○大和市叢書では
左馬(瀬谷),左馬(上和田),左馬神社(下和田)、左馬(中之宮) 七ツ木神社(高倉),鯖社(下飯田),鯖社(今田)

それぞれちょっとメンバーが変わっている。前掲『源義朝を祀る サバ神社その謎に迫る』によると、地域の人が廻るに段取りのいい社をラインナップにしていったのだろうと説く。地域密着型の民間信仰であれば自然の成り行きか、とも。
初冬のとある週末、散歩に出かけようと思うのだが、何処といって散歩の地が思い浮かばない、で、本棚にあった『県北をいく;横浜銀行産業文化財団(西北社)』を取り出し、どこか適当なところはないかとスキミング&スキャニングをしていると、「大和市周辺の民俗(鈴木通大)」の記事の中に、相模国と武蔵国の境にある境川の流域に鎮座する「サバ神社」の記事が目に入った。
流域に12社鎮座する「サバ神社」の「サバ」の字には鯖、左馬、佐馬、8佐婆、佐波が当てられ、バラバラ。由来も左馬頭であった源義朝との結びつきの説があったり、「サバ」とは分割を現す意味であり境の神では、との説があったり、「さわ」といった地形からくるとの説があったりと、はっきりしない。佐波、鯖を冠する社は他の地にも見えるが、左馬を冠する社はこの地域にしかないようだ。また、江戸の頃は「七鯖参り」の信仰があり、流域の人々の信仰を集めていたようである。
誠にはっきりしないことが多い神社群である。実際に歩いてみて、地形などを踏まえながら、なんらか自分なりに納得できる解釈ができればと、急ぎ家を飛び出した。いつもながら、成り行き任せの散歩であり、出発が遅く冬の早い日暮のため1回で終えることができず、2回に渡る散歩となった



本日のルート;小田急江ノ島線・大和駅>大和天満宮>深見神社>境川>西福寺>左馬社(橋戸)>蔵のある民家>宗川寺>左馬神社(上和田)>長屋門の民家>薬王院>左馬神社(下和田)>長屋門の民家>飯田神社(上飯田)>佐婆神社(神田)>和泉川>中之宮左馬神社>左馬神社(下飯田)>東勝寺>今田鯖神社>小田急江ノ島線・湘南台駅

■『源義朝を祀る サバ神社その謎に迫る;江本好一(武田出版)』
2回の散歩を終えて、さて散歩のメモを、と思うのだがサバ神社のことがさっぱりわからない。唯一実感したのは、相模国と武蔵国の境を流れる境川やその支流の和泉川、境川の西を下る引地川によって浸食された洪積台地の裾に鎮座する、ということ。それ以外の鯖、左馬、佐婆、佐馬、佐波の名称の違いや、そもそものサバ神社の由来も左馬頭であった源義朝と関係あるらしい、といったこと以外は全くわからない。また、それ以上に、それぞれの社の名称が左馬神社から鯖社となり、その鯖社がまた左馬社に戻るなど、社の名称が時代によって結構変わっており、ますます混乱してしまった。
このままではメモなどなあ、などとWEBであれこれ調べても、なんとなくしっくりこない。そんな時WEBで『源義朝を祀る サバ神社その謎に迫る;江本好一(武田出版)』という書籍があるのがわかった。何らかの手がかりが、と思い地元の杉並図書館で検索するも該当なし。結局広尾の都立中央図書館に蔵書があることがわかり、そこを訪れ数時間本を読み、なんとなく自分なりに「しっくり」する筋立てがちょっとわかってきたように思う。以下、大雑把ではあるが、その書籍から得た「サバ神社」に関するあれこれをまとめ、それを軸に散歩のメモをはじめようと思う。

同書によれば、サバ神社のはじまりは、境川や和泉川、そして引地川により浸食された洪積台地の川沿いに祀られた祠、里神様といった素朴な祭祀信仰ではないかと説く。そしてその祭祀圏は上流より一気に下った河川が緩勾配の地区に出るところであり、水が溢れやすく洪水地帯であることより、その祠は水害から耕地や家族の命を守ることを主眼とする祠・里神さまではなかった、とのこと。「川」、というか、乱流し流路定まることのない「沢」それ自体を祀ったとの説もあるようだ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

その里神さまである小祠が「サバ神社(神社は明治以降の名称であり、サバの社とかサバ明神などと呼ばれたのだろうが、ここでは便宜的に神社と呼ぶ)」となった時期は江戸初期の頃と説く。サバ神社12社の内、鎌倉・室町期の創建との伝承がある社は3社あるが、その内2社は単なる伝承であり、文書が残るのは飯田神社(この社もサバ神社のひとつ)だけ。とは言っても、それは飯田氏の氏神としてはじまったのが鎌倉期ということであり、サバ神社は江戸初期に合祀されたとする。

では、江戸の初期、サバ神社を最初に創建したのは誰。同書では、瀬谷を領地とした長田氏と説く。長田氏とは源義朝を誅殺した長田忠到の一族の後裔。社を祀り怨霊を鎮め疫病退散のためなのか、源氏の後継を称した徳川家へのエクスキューズなのか、左馬頭であった源義朝の官名をとり「左馬社」を祀った。

瀬谷の領主である長田氏が「左馬社」を祀ると、堺川や和泉川、そして引地川流域に領地をもつ他の清和源氏を祖とする旗本領主を中心に、どうせ鎮守をもつなら疫病退散に効力があり、かつまた徳川=源氏ゆかりの源義朝を祀るようにと、里の小祠をサバ神社としてバージョンアップしていった。が、祭神は源義朝であるにしても、その名称は源氏系の領主は別にして、社の名称は地形から来る「佐波」「佐婆」などと「左馬」には必ずしもこだわりがなかったようである。

こうしてはじまった「サバ神社」であるが、ある時期そのサバ神社のうち10の社が鯖神社と名を変える。それは病気退散に功徳がある民間信仰の鯖信仰の流行に便乗したものか、とも。しかし一時期「鯖」とした「サバ神社」、もその後、鯖を残したり、佐波や佐婆としたり、左馬と戻したと現在の社の名前に戻った。その場合、左馬に戻したのは義朝の出自である清和源氏の系統を誇る領主の地の社であり、それ以外の清和源氏と関わりのない領主の地は左馬にこだわることなく、佐波とか佐婆、また鯖をそのまま残したりしたとのことである。

それともうひとつ、和泉川沿いの3つの社の祭神は源義朝ではなく、源満仲となっている。その理由は、その地の領主は源氏の系統ではるが、義朝の系統ではなく、義朝より以前に分かれた源氏の一党であり、故に義朝を祀るのを潔しとせず、清和源氏繁栄の祖ともいえる満仲を祭神とした、と説く。

以上、サバ神社の「謎」は同書を元に自分なりに納得できたと思う。少々後付けの「理論武装」ではあるが、同書の説明を手掛かりに、サバ神社散歩のメモをはじめる。

小田急江ノ島線・大和駅
家を出て、小田急線を乗り継ぎ、サバ神社群の北端に鎮座する橋戸の「左馬社」最寄り駅である江ノ島線・大和駅に。大和駅がある大和市は東西3キロ強、南北10キロ弱の南北に細長い市域となっている。大和市域は律令体制下では現在の相模原、藤沢、綾瀬、海老名、座間、寒川を含む相模国高座郡の一部であり、10世紀の頃は13郷よりなる高座郡のうち、深見郷と高座郷(たかくら;市域南部)が現在の大和市域と関連するとのことである。
現在は高座郡を構成した自治体や横浜市に周囲を囲まれ、曲線や直線の境界域が入り組み、なんともわかりにくい市域であるが、唯一市の東は境川の流れによって区切られており、市域を分けるメルクマールとしてわかりやすい。
因みに「大和市」の地名の由来は、散歩の折々で出会う、「大和」の由来と同じく「大いに和するべし=なかよくやっていきましょう」から。明治22年(1889)の町村制の施行時に市域は鶴見村(下鶴間村、深見村、上草柳村、下草柳村、上和田村の一部が合併してできた村名)と渋谷村となったが、その後鶴見村で分村問題が発生し、その紛争を収拾するため明治24年(1891)に「大和村」が登場した、ということである。その後昭和34年(1959)、大和町が渋谷村(一時期渋谷町となるが南部の高倉、長後が藤沢市に編入され一時期渋谷村に戻った)が編入・合併し大和市となった。

大和天満宮
駅を下り、境川方面へと道なりに東へと向かう。と、道脇に大和天満宮。ちょっとお参り。この社のもとは昭和19年(1844)に海軍厚木航空隊の飛行場に造営された「厚木空神社」とのこと。厚木航空隊の社には殉職者・戦没者を祀る社殿と天照大神の二つの社殿があったが、終戦後、前者は次に訪れる深見神社に靖国社として鎮座。後者は昭和20年(1945)にこの地に安置され、太宰府から天満宮を勧請し大和天満宮となった。
祭神がこの地に移された理由は、大体予測はつくものの、一応チェックすると、厚木航空隊士が武運長久を祈った社が、終戦により米軍によって取り壊されるのを怖れた部隊関係者の発案に拠る。地域住民に御霊を移す協力を求め、祠を馬車やリヤカーで密かに運び出した、とか。天照大神が天神様となった経緯は不明であるが、皇国史観の核になる天照大神では進駐軍に対して具合悪いといったところだろう、か。単なる妄想。根拠なし。

深見神社
道を進むと、境川に下る台地端に深見神社。広い境内を進むと拝殿左に「なんじゃもんじゃの木」。樹齢400年のハルニレである。結構な拝殿にお参り。説明によれば、延長5年(927)の『延喜式神名帳』に相模国の延喜式内社13社のひとつ、と。小田原北条氏、武田信玄、渋谷庄司重国、源頼朝等の信仰も篤き古き社である。
祭神は、闇神(クラオカミ;雨神)、武甕槌神(タケミカズチ;武運長久の神)、建御名方神。この祭神のラインアップには歴史的経緯が反映される。『総風土記』には「雄略天皇22年(478)に祀る所、闇?神なり」とある。創建時期は不詳ではあるが、創建当初の祭神は闇?神であった。そこに武甕槌神が加わったのは、当地の領主であった坂本氏が鹿島神宮の祭神である武甕槌神を勧請したことによる。ために、一時期、鹿島社と称されたこともある(『新編相模国風土記稿』)。その当時、闇神は御倉稲荷神社に合祀されていたとのことである。
当社の縁起に武甕槌神が東国鎮撫のため、常陸鹿島より伊弉諾神(イザナギ)の御子、倉稲魂神と闇?神の二神を遣わし深海を治め、美田を拓き、郷を開いた、それが深海の由来であるとするが、元の神を旨く配し、筋の通ったストーリーに仕上がっている。

それはともあれ、以来、本殿の祭神は武甕槌神となっていたが、明治の頃、地域の末社である諏訪神社より建御名方神が合祀され、平成24年(2012)には創建当初の闇神が御倉稲荷神社より合祀され、現在の祭神ラインアップとなった。
境内社には前述の御倉(おくら)稲荷神社、その隣りに靖國社。大和天満宮でメモした厚木海軍航空隊の戦没者を祀った厚木空神社である。また、道に面して富澤稲荷神社。深見で製糸会社を開いた富澤家の屋敷神であった、とか。
ところで、「深見」の由来であるが、古代にはこの辺りまで海が深く入り込んでいた入り江であり「深海」または「深水」と記載されてもいる。相模原の東辺の境川流域一帯の総称であった、とか。また、「奥まったところ」の意味との説もあり、相模湾の奥まったところの意、との説もある。ともあれ、地形由来の名称である。

境川
坂を下り境川の川筋に。かつては深見=深海と呼ばれ、古く海進期には海が入り込んでいただろうし、護岸工事が成される前は流路定まることなく、湿地の美しい谷戸ではあった境川の谷筋は、一面住宅で覆われている。
境川は、その名の通り、武蔵國と相模國の境(正確には境川上流部では稜線、町田より下流部は東京湾と相模湾の分水界が境界;Wikipediaより)を画する川。町田市相原の草戸山にその源を発し、多摩丘陵と相模原台地の間を穿ち、東京都と神奈川県の境界に沿って南東に流れ、大和市から南に流路を変え藤沢市の江ノ島付近で相模湾に注ぐ。
相模原台地は、古相模湾の浅海に、相模川によって堆積された沖積地。厚さ30mの砂利と粘土の地層であり、その上にローム層と呼ばれる赤褐色の粘土が堆積されて形成された洪積台地となっている。境川は断層線とか旧相模川の流路説とか諸説あるも、ともあれその相模原台地を穿つわけで、川の両側の浸食側壁は20mから30mの急崖のところもあり、上流部は急な傾斜で水が一気に下るが、相模原台地の南部を占める大和市辺りでは緩傾斜となるため、かつては水が溢れやすく洪水地帯となっていた、と。
普段は水量は少ないが、一旦大雨が降ると氾濫し水田を水没させ、また排水も悪く、一時的湖沼が10日から15日も帯水することも多かった、とのことである。『源義朝を祀る サバ神社その謎に迫る』に説くように、沢に水難を避ける小祠を祀る所以である因みに境川はかつて相模國高座郡由来の「高座川(たかくら)」と呼ばれていた。文禄3年(1594)の検地に際し、「高座川を相武の国界とし、境川と称す」とあり、以降、堺川と呼ばれるようになった(Wikipedia)。

西福寺
堺川に架かる堺橋を越えると大和市域を離れ横浜市瀬谷区橋戸に入る。県道40号を少し東に進み、成り行きで南に折れ橋戸の佐馬社に向かう。その道筋に西福寺。天文3年(1534)創建と伝わる真義真言宗のお寺さま。本堂の他、境内に瀬谷八福神のひとつ布袋尊の祠がある。いつだったか、瀬谷の八福神を辿ったことを思い出した。八福神は通常の七福神にダルマ太子が加わったもので、昭和59年(1984)に散歩コース整備の一環として設けられたとのことである。八福神参りでは、毘沙門天を祀る徳善寺(瀬谷区本郷)の堂々とした山門が印象に残る。




左馬社(橋戸;横浜市瀬谷区橋戸三丁目20-1)
西福寺の南隣りに左馬社。「左馬社」の扁額のある鳥居正面にトタン屋根の少々「渋い」社屋。本殿ではなく神楽殿であり、拝殿は鳥居から向かって左手にあった。拝殿は結構新しく造り直されているようであった。そして境内で目についたのは鐘楼。神社に鐘楼が残るのは神仏習合の名残ではあろう。
案内によれば、「その昔、境川流域の村々では、疫病が流行すると境川の東西に点在する神社をまわり、厄除けをする民俗信仰である「七サバ参り」が盛んであった。 当左馬社も「七サバ神社」と呼ばれるうちのひとつであり、祭神は左馬頭源義朝である。
隣接の真言宗西福寺が、この左馬社の別当職であったので、当時の神仏混淆の姿が今日に残り、神社の境内にある吊鐘は区内唯一のもので、厄除け、虫除けに鐘をついて祈願した」、とあった。

この説明では全体像とかサバ神社に占める位置づけとかわからない。前掲『源義朝を祀る サバ神社その謎に迫る』を参考にメモすると、この社がサバ神社のはじまりの社とのことである。創建年代は不詳であるが、同書によると、創建は江戸初期の頃、と。当時の瀬谷村は数名の旗本の相給地(おなじ領地に複数の領主が同時期に存在)であったが、その中に長田忠勝、白政の2名が記録にあり、そのうちの長田忠勝が沢に祀ってあった里神をもとに源義朝を祀る左馬社を祀った、とする。
その動機は既にメモしたように、長田氏の先祖の長田忠到は源義朝を誅殺した人物であり、怨霊・疫病退散の御霊信仰からか、はたまた清和源氏の後裔を称する徳川家康に対し、その旗本が家康の先祖を殺した人物では具合が悪いと義朝の霊を祀る社をつくり、一種のエクスキューズをおこなったのか、その理由は定かではないが、ともあれ、里の人が代々祀ってきた小祠を発展させ左馬頭であった義朝の官職名を冠した社をつくった、とのことである。
神奈川県の神社史によると、「当社近くの境内の岸に古宮と呼ぶ森があり、往昔その社を源家縁りの人等が当地に移し、源義朝公を斎ったものと伝えられる」とあるが、この古宮が沢に祀った里神様であり、現在の地図では左馬神社の少し南にあるタウンハウスの辺りとのことである。瀬谷区の歴史によれば、享和4年(1804)に「左馬明神宮」と称されたとの記録が残る。天保12年(1841)の『新編相模国風土記稿』には他のサバ社の大半が「鯖社」としたにも拘らず、この社は「左馬明神社」とある
その「左馬明神社」であるが、上にメモしたとおり「当左馬社も「七サバ神社」と呼ばれるうちのひとつであり」とされる。左馬頭の怨霊退治、はたまた、清和源氏の後裔を称する徳川家への「配慮」よりも、厄除けをする民俗信仰である「七サバ参り」の影響に服し、鯖社としたのであろう。文久元年(1861)の鐘銘にその記録がのこる。なお、この件につき誠に興味深い記録がある。この社の梵鐘に刻まれた文字が「鮪」となっている。「サバ」ではなく、「マグロ」である。単なるケアレスミスではあろうが、誠に面白い。この梵鐘は戦時に供出され今は既に、無い。そのサバ神社もその後本来の名称である「左馬社」に戻り、現在に至る。

宗川寺
かつての瀬谷、現在の橋戸の左馬神社を離れ、次のサバ社である上和田の左馬神社に向かう。蔵のある民家などを眺めながら南に道なりに進むと日蓮宗宗川寺。開基は石川宗川。ここもいつだった瀬谷の八福神巡りで訪れたことがある。山門のある境内には福禄寿が祀られていた。
境内には「中原街道瀬谷問屋場跡」の案内。「中原街道瀬谷問屋場は天正6年(1578)、小田原北条氏の関東経営の駅路として、中原街道瀬谷に問屋場が設けられ、のち徳川氏の江戸開府により駿河の住人石川彌次右衛門重久が問屋場の運営を委託され、江戸―平塚間5駅の仲宿、瀬谷駅の問屋場として、江戸時代270年に渡って、中原往還の道筋の人馬諸貨物の運送、継立てにその役割を果たした。これより東方80m、桧林がその跡である」とあった。

中原街道
いつだったか大田区の六郷用水を散歩したときに出合った中原街道の案内をメモする。「中原街道は、江戸から相州の平塚中原に通じる道で、中原往還、相州街道とも呼ばれた。また中原産の食酢を江戸に運ぶ運送路として利用されたため、御酢街道とも呼ばれた。すでに近世以来存在し、徳川家康が江戸に入国した際に利用され、その後、部分改修されて造成された街道である。江戸初期には参勤交代の道としても利用されたが、公用交通のための東海道が整備されると、脇往還として江戸への物資の流通や将軍の鷹狩などにもしばしば利用された。 また、平塚からは東海道よりも近道だったため、急ぎの旅人には近道として好まれたという(大田区教育委員会)」。


左馬神社(上和田;大和市上和田1168)

中原街道を東に渡り、再び大和市に。境川が開析した相模台地の坂道を上り左に折れると左馬神社。鳥居正面に拝殿が建つ。文献によれば、「桃園天皇の1764(宝暦14年)、徳川九代将軍家重の代に当村の名主渡辺兵左衛門・小川清右門がこの地に宮を建立したと伝えられる。左馬頭義朝の霊を勧遷し村民の精神修養道場となるや漸次庶民の崇敬の的となる。1816(文化13)年、上和田信法寺十四世住職の憧挙上人が氏子の賛同を得て、五穀豊穣の祈願をなしたところ其の御神徳の偉大さに武家・一般庶民に深い感銘を与え、以来五穀豊穣はもとより家内安穏の守護神として広く庶民の崇敬をえて来た。境内三社殿の祭神は天照大皇大神、神武天皇、須佐之男命」、と。また、「古くより相模の七鯖神社のひとつに数えられ、境川流域を挟んで位置しており、神社名も鯖大明神(1764(宝暦14年)・佐馬大明神(1816(文化13)年)・和田左馬大明神(1866(慶応2年)と変遷し、1909(明治42年)に現在の左馬神社となり村社に列せられる」といった説明もある。


○『源義朝を祀る サバ神社その謎に迫る』をもとに整理すると、鯖大明神(宝暦14年;1764)、佐馬大明神 (文化13年;1816)・佐馬大明神(文政11年;1828)、佐馬明神社(天保12年;1841)と変遷し、現在は左馬神社となっている。上記文献と少し異なるが、興味深いのは、この社は「左馬」ではなく「佐馬」となっていること。)「鯖」が「鮪」と梵鐘に刻まれたことを考えれば、誤差の範囲か。
また、江戸時代のこの地の領主は石川勘八郎とあり、清和源氏系と称する。あれこれの変遷はあったものの、最終的には清和源氏の義朝を祀る「左馬」に戻ったということではあろう。

信法寺

左馬神社から台地上の道を道なり南に進むと道脇に信法寺。境川の川筋を見下ろすところに位置する。浄土宗のこのお寺さまの開山は上和田村を領した旗本の石川興次右衛門永正。この地域は幕末まで石川氏の所領となっている。宗川寺から左馬神社、そしてこの信法寺まで「石川氏」の影響が印象に残る。

薬王院

信法寺の横に薬王院。南北朝から室町初期にかけてつくられたと伝わる薬師如来像が祀られる。鎌倉時代、和田義盛が眼病治癒を如来に祈ったところ全快したため、一堂を建て薬師如来を祀ったと伝わる。この地の領主である石川氏もこの薬師如来の霊験により眼病が治癒した、と。
また、この薬王院で祭礼で行われる双盤念仏は鎌倉の光明寺から伝わったものとされ、二個一組にした鉦(かね)三組と太鼓を使い「南無阿弥陀」の念仏を唱える行事は市の重要無形文化財に指定されている(大和市の資料より)。現在は信法寺の管理となっているが、もとは200mほど北東の境川に架かる下分橋の北側にあり、堂屋敷と呼ばれ、薬師如来像は行基の作とも伝えられる(『源義朝を祀る サバ神社その謎に迫る』より)。

この薬王院に関し興味深い話が『源義朝を祀る サバ神社その謎に迫る』にあった。同書によると、上にメモした瀬谷・橋戸の左馬社の伝承に、「左馬の宮さんと和田の薬師さんとは仲が悪い」と。和田の宮さんとはこの薬王院のことであるが、その所以は義朝誅殺の地である愛知の長田氏の屋形まで遡るとの示唆がある。
都を落ち延びた義朝が、頼りにした長田忠致に騙され殺害された湯殿は法山寺という寺の境内にあり、その本尊は行基作の薬師如来であった、と言う。義朝が薬師の湯殿で殺された=義朝と薬師さんは相性が悪い、というストーリーが義朝殺害の地から遙か離れたこの地に、そのパターンがそのままコピーされている。また、殺害された長田の地の湯殿脇の湧水が眼病に効能ありと「四方丹」という名で販売されたようだが、そのストーリーも和田義盛や領主・石川氏の眼病治癒という話となってストーリーが展開している。同書ではこのような瀬谷・橋戸の左馬社の伝承も同社と義朝との関連の強さのエビデンスとしている。サバ社発祥の社が瀬谷・橋戸の左馬社とする所以である。

左馬神社(下和田;大和市下和田1110)
上和田の左馬神社を離れ台地の道を道なりに進み台地裾の左馬神社(下和田)に。谷戸の景観の名残の田圃も見かけるが、境川の両岸は宅地化が進んでいる。
鳥居を潜り石段の先の拝殿にお参り。境内の端から境川の谷筋を眺めながら案内などを探すが境内には、由緒などは見あたらない。大和市の案内によると「鯖明神社、村内鎮守とす。1670(寛文10)年の棟札あり。眞福寺持、鐘楼・鐘は1670(寛文10)年造」とある。1789(寛政元)年銘の常夜燈には「鯖大明神」と記されている。
『新編相模国風土記稿』に記述がある眞福寺は鯖宮山と号する真言宗の寺で、かつては左馬神社と深いつながりがあったようだが、大正末期に廃寺となり、詳しいことはわかっていない。左馬頭義朝を祭神とし七サバ参りの一社にあたる」とあった。


○『源義朝を祀る サバ神社その謎に迫る』をもとに整理すると、 寛文10年(1670)の棟札には「鯖明神社」、宝暦4年(1750)の鐘銘には「鯖宮山」、寛政元年(1789)銘の常夜燈には「鯖大明神;同書には鯖明神社となるが実際は鯖大明神と刻まれている写真がある」、天保12年(1841)の『新編相模国風土記稿』には「鯖明神」、そして現在は「左馬神社」となっている。
そして、この地の領主は辻忠兵衛。清和源氏の流れではあるが本流ではなく支流とのこと。同書ではこの社が鯖信仰の影響を受け、最初に「鯖明神」と「鯖」を表記した社とする。その根拠は「鯖」と表記した初出文書がある、ということと、領主が清和源氏の支流であり、鯖信仰の高まりをうけ、名称を変更することにそれほど抵抗がなかったのでは、とのことである。

長屋門の民家
道を進むと結構な構えの長屋門が見えてきた。案内を簡単にメモすると、「大津家長屋門 ;長屋門は封建時代にあっては家格の象徴であり、通常村役人層の屋敷に設けられた。大津家当主は幕末の頃、組頭や名主をつとめていた。建築時期は幕末と推定。現在は瓦葺ではあるが当時は茅葺であった。また、正面の板張りも当時は土壁であった」といった説明があった。

飯田神社(上飯田;横浜市泉区上飯田町2517)
道を進み再び境川を東に渡る。そこは横浜市泉区となっている。宅地化された一帯に、微かに残る耕地を身ながら飯田神社に向かう。鳥居を潜ぐり拝殿にお参り。境内には新しい造りの社殿や庚申塔群、またこの神社にも神仏習合の名残か鐘楼が残る。

境内の案内によれば、「境川や和泉川沿いに見られるサバ神社の一社で祭神は源義朝を主神に、宇迦之御魂神(うかのみたまの かみ)、大山咋神。伝承によると、飯田五郎家義がお祀りしたと。縄文時代、境川沿いは入海で、神社の境内土手から縄文後期の人々がつくった注口土器が出土。境内の神楽殿は、明治20年(1887)頃、飯田学校校舎として使われていた、鳥居前には、地蔵像・七観音像・庚申塔・道祖神が立っている」、とある。
また、新編相模風土記稿には「飯田明神社、鯖明神とも唱ふ、村の鎮守なり、稲荷、山王を合祀す、村持。」と記され、鯖明神とあるように昔から境川沿いに多く祀られているサバ神社の一社で、「相模七鯖」のひとつに数えられている」と記載されている。

○『源義朝を祀る サバ神社その謎に迫る』をもとに整理すると、寛政12年(1800)の神号額には「飯田大明神」、天保12年(1841)の『新編相模国風土記稿』には「飯田明神社、鯖明神(同書には飯田神社とあるが、神社の名称は明治以降であり、飯田明神社が適切かと)」、そして現在は飯田神社と称される。この社も一時期「鯖信仰」に鯖神社と呼ばれたようだが、現在は開基者である当地の地頭・飯田五郎家義ゆかりの名前に戻っている。
創建者は延応元年(1239)、飯田郷の地頭に就任した飯田三郎能信(飯田五郎家義の子で飯田郷を継いだ)との説もあるが、どちらにしても他のサバ神社が江戸の初期に祀られたのとは異なり、鎌倉時代に飯田氏が祀ったものである。場所は元は上飯田村の一番北にある柳明辺りにあったとも伝わり、小田原北条氏の時代には上飯田を治めた平山源太郎も信仰していた小祠であったようある。この社は他の里の小祠がサバ神社となった経緯とは異なり、鎌倉期に飯田氏が祀った祠が江戸の頃、サバ信仰故に、一時気「鯖明神」とは称されたが、他のサバ神社の成立とは性格が異なるように思う。また、江戸の頃のこの地は旗本の相給の地であり、その領主も清和源氏非本流や支流、宇多源氏系そして藤原秀郷系などさまざまで、特に左馬頭の名称に拘ることもなく「飯田神社」にもどしたのだろう、か。単なる妄想。根拠なし。

飯田五郎家義
平安末から鎌倉初期の武将。渋谷重国の5男として相模国高座郡長後(藤沢市)に生まれ、鎌倉郡飯田郷(横浜市泉区)を治める、一時大場御厨の管理を行っていた大場景親と争うも、その後景親の娘を娶り和睦。
頼朝の石橋山の戦い(1180)に際しては、頼朝に加勢の計画であったが、景親とその弟の俣野景行に挟まれ思うに任せず、意志に反して平家側として参戦。しかし戦いに敗れた頼朝を助け、その後も富士川の戦いで頼朝方に馳せ参じ、その論功行賞において飯田郷を安堵されその地頭に任じられた。飯田郷は鎌倉の北に位置する重要な地域。鎌倉往還の街道沿いの要衝の地に地頭として任じられた家義は頼朝の信任篤き武将であったのだろう。

渋谷重国
桓武天皇の曽孫である高望王の後裔である秩父別当武基を祖とし、後三年の役での大功により武蔵河崎荘を賜り河原冠者と称された基家の流れ。重国が渋谷を称したのは、禁裏の賊を退治したことにより堀川天皇より渋谷の姓を賜った。一説にはその賊の領地が相模国高座郡渋谷荘辺りであり、それ故に渋谷姓とその領地を賜ったとか。渋谷庄司とも称した。因みに東京都の渋谷区も重国の領地が武蔵国豊嶋郡谷盛(東京都渋谷区・港区)であったことによる。

佐婆神社(横浜市泉区和泉町4811)
飯田神社を離れ、かつては谷戸の景観がみれたであろう一帯、今では宅地化が進み微かに残る耕地を眺めながら進み、相鉄いずみ野線の高架下を潜るとその先にささやかな社が目に入った。高架線脇の少々風情のない境内に拝殿が建つ。境内は崖線の端にあり、崖の石段下に鳥居が見える。
境内に社の案内はなにもない。 神奈川県神社誌によれば、「勧請年代は不詳であるが、伝承では、寛文年中(1661~72)に伊予河野氏の後裔、石川治右衛門が当地に往来した時、一統の守護神として奉斎したのが創祀という。また1878(明治11)年に当地に伝わる伝承類をまとめた「和泉往来」の文書には「慶長年中(1596~1615)の勧請という」とある。
おそらく当社も境川の両岸に祀られている「境の神」としての性格を持つ古い社と思われる。当地字名の「神田(かみだ)」は当社の「神饌田(しんせんでん)」があったからという。1835(天保6)年に社殿修復をした時の棟札が残されている。境内の「たぶのき」は推定樹齢380年で、横浜市の名木古木に指定されている。 通称「へっついさま」といわれ、むかし社殿がへっつい(竈)のように土塁に囲われていたからだといわれている。
199(平成11)年に湘南台まで延伸した相鉄いずみ野線の線路が、社殿の背後を高架で通っているため、神社の環境は著しく変わった」とある。祭神は左馬頭源満仲と木花咲那姫命。

○『源義朝を祀る サバ神社その謎に迫る』をもとに整理すると、天保6年(1835)の棟札には「佐婆」の文字が見える。「佐婆、佐波、沢、佐和」は、谷川や湿地を意味すると同書にあるが将にその言葉の通り崖線下には和泉川が開析した谷筋が広がる。天保の頃、「鯖」と表したとの記述もあるが、現在は元の地形に由来する「佐婆神社」となっている。
祭神が源満仲に関しては、江戸期の和泉村の領主は松平勝左衛門昌吉とある。この松平勝左衛門昌吉は満仲>頼信>頼義>義家と続く清和源氏の系統ではあるが、義朝は義家から義親>為朝>義朝と続く系統、一方松平勝左衛門昌吉を含めた徳川一門は義家から義国>義重(新田系)の系統であり、徳川家の十八松平氏のひとつである松平勝左衛門昌吉は、彼らにとっては傍系である義朝を祀るのを本流としてのプライドが許さず、義朝の祖であり徳川松平の祖でもある清和源氏隆盛のきっかけをつくった満仲を義朝の替わりに祀ったとする。和泉川沿いの三社は松平勝左衛門昌吉の領地であり、おなじく満仲を祀ることになる。

和泉川
佐婆神社の崖に造られた石段を下り、和泉川の川筋に出る。宅地化も進むが境川筋に比べて比較的緑も多いように感じる。和泉川に沿って進みむと相鉄いずみ野線・いずみ中央駅。親水公園のような川筋を和泉川に沿って下る。
和泉川は瀬谷区東端にある瀬谷市民の森に源流を発し、間に挟まれた台地によって境川の谷筋と分け、瀬谷区、泉区を南に下り、戸塚区俣野町で境川に合流する全長10キロ弱の二級河川(1級河川は国、二級は都道府県管理)である。

中之宮左馬神社(横浜市泉区和泉町3253)
いずみ中央駅から500mほど下ると右手に豊かな緑。鳥居をくぐり石段を上ると団子鼻の狛犬が迎える。石段を上りきると結構広い境内、この中之宮左馬神社は中和泉地区の鎮守さま。慶長年間(16世紀末から17世紀初冬)に郷士清水・鈴木両家の氏神として勧請したとの説がある。昔から「相模七サバ」の一社と崇められた社で、新編相模風土記稿にも「鯖明神社」と記している。1625(寛永2)年に三河松平氏の分家・能見松平(のみまつだいらけ)の勝左衛門昌吉が和泉村の領主になった時に村の鎮守として再興、また能見松平家累代の祈願所とした。また代々の領主は氏子と共に社の護持や社殿の修復に尽力しており、1816(文化13)年、1835(天保6)年の棟札が残されている。
○『源義朝を祀る サバ神社その謎に迫る』をもとに整理すると、文化13年(1816)の棟札には「佐馬」、天保6年(1835)の棟札にも「左馬」、前述『新編相模国風土記稿』には「鯖」の文字が記録されている。祭神は領主能見松平昌であり源満仲であることは言うまでもない。

左馬神社(下飯田;横浜市泉区下飯田町1389)
中之宮左馬神社から和泉川と境川を隔てる台地を横切り下飯田の左馬神社に向かう。相鉄いずみ野線を再び潜り、市域は再び大和市に戻る。一帯は宅地化は進んでおらず、昔ながらの耕地が残る。
道なりに進むと豊かな緑の中に左馬神社。日もとっぷりと暮れ暗闇の中に素朴な社が佇む。境内には案内はない。泉区の資料などによると、伝承では飯田郷の地頭、飯田五郎家義が勧請したといい、小田原北條の時代に下飯田を治めた川上藤兵衛も武運長久の祈願をしたという。また1590(天正18)年に下飯田の領主になった筧助兵衛(かけいすけひょうえ)為春は、地域の鎮守として信仰し、社殿の修復をしたという。社殿右手前の銀杏は横浜市の名木古木に指定されている。
またこの近くの神社の近くには鎌倉古道のひとつである「上ノ道」または「西の道」が通っている。

○『源義朝を祀る サバ神社その謎に迫る』により整理すると、天保12年(1841)の『新編相模国風土記稿』には「鯖」の記録が残る。また、江戸初期の領主は上でメモした通り筧助兵衛為春であり、藤原氏の支流とする。今までの論から推測すれば、里神を厄除け、疫病退散のためサバ社としたのだろうが、「左馬」の表記に拘る理由はないことになる。実際、同書では「鯖」社とし、現在も「鯖社」と説明している。が、実際は現在の表記は「左馬神社」となっており、記述とは異なっていた。はてさて。

鎌倉街道・上道
上に、下飯田の左馬神社の近くを鎌倉古道のひとつである「上ノ道」または「西の道」が通っているとメモした。この古道は既に訪れた宗川寺から境川に沿って南に下り、飯田神社辺りを経て境川と和泉川が合流する俣野を通り鎌倉に続く。
鎌倉街道とは世に言う、「いざ鎌倉」のときに馳せ参じる道である。もちろん軍事面だけでなく、政治・経済の幹線として鎌倉と結ばれていた。鎌倉街道には散歩の折々に出合う。武蔵の西部では「鎌倉街道上ノ道」、中央部では「鎌倉街道中ノ道」に出合った。東部には千葉から東京湾を越え、金沢八景から鎌倉へと続く「鎌倉街道下ノ道」がある、と言う。
鎌倉街道山ノ道、別名秩父道は鎌倉と秩父、そしてその先の上州を結ぶもの。いつだったか、高尾から北へ、幾つかの峠、幾つかの川筋を越えて秩父に向かったことが懐かしい。その山ノ道は高尾から南は、七国峠から相原十字路、相原駅へと進み、南町田で鎌倉街道上ツ道に合流し、鎌倉に向かう。

鎌倉街道といっても、そのために特段新しく造られた道というわけではないようだ。それ以前からあった道を鎌倉に向けて「整備」し直したといったもの。当然のこととして、上ノ道、中ノ道といった主要道のほかにも、多くの枝道、間道があったものと思える。
で、今回出合った鎌倉街道上ノ道の鎌倉からの大雑把なルートは以下の通り;
八幡宮>俣野>飯田>上瀬谷>町谷>町田>本町田>小野路>府中>恋ヶ窪>小平>東村山>所沢>入間>女影>町屋>苦林>笛吹峠>奈良:>塚田>花園>広木>児玉>鮎川>山名>高崎

また、今回の散歩の地の周辺に限定したルートは、いくつかバリエーションはあるものの、以下のルートもそのひとつ、とか。散歩の順に北からポイントをメモする。

町田>町谷交差点((東京都町田市鶴間))>田園都市線>鶴間公園(東京都町田市鶴間)>東京女学館(東京都町田市鶴間)>246号>東名高速>八幡神社(瀬谷区上瀬谷町)>妙光寺(瀬谷区上瀬谷町)>相沢交差点から「かまくらみち」>相鉄線>宗川寺>さくら小学校>羽田郷土資料館>新幹線>本興寺>飯田神社>ブルーライン>富士塚公園>琴平神社>東泉寺>境川遊水池公園>俣野神社>明治学院グランド>龍長院(戸塚区東俣野)>八坂神社(戸塚区東俣野)>国道1号>柄沢神社(藤沢市柄沢)>慈眼寺(藤沢市柄沢)>長福寺(藤沢市村岡東3町目)>日枝神社(藤沢市渡内)>村岡城址公園(藤沢市村岡)>東海道線>町屋橋で柏尾川を渡る>上町屋天満宮(鎌倉市上町屋)>大慶寺(鎌倉市寺分)>駒形神社(鎌倉市寺分)>御霊神社(鎌倉市梶原)>葛原岡神社(鎌倉市山の内)

東勝寺
下飯田の左馬神社を離れ境川を渡る。市域は此の辺りは藤沢市となっている。上で大和市の成り立ちをメモしたとき、渋谷町の南部の高倉、長後が藤沢市に編入されたと延べた藤沢市の高倉地域に入る。地図に東勝寺が目に入り、既に日も暮れ境内には入ることなく、道より見やる。
境川の川筋を見下ろす台地に建つこのお寺さまは、秋雄和尚によって南北朝時代に創建され、阿弥陀仏を本尊とする臨済宗円覚寺派の禅寺。北条一族が鎌倉の東勝寺で滅亡したのを悼み、密かにこの地に建立された、とのこと。山号は点燈山と称されるのも意味深い。江戸後期寺は焼失するも、「点燈山」の額を持つ山門は残った。再建された本堂には北条氏の三つ鱗の紋がある、と言う。

鎌倉の東勝寺
鎌倉を彷徨ったとき北条一族が滅んだ東勝寺跡を訪れたことがある。そのときのメモ;「北条高時の「腹きりやぐら」 下り切ったところに北条高時の「腹きりやぐら」。新田義貞の鎌倉攻めのとき、十四代北条高時一族郎党この地で自刃。「今ヤ一面ニ焔煙ノ漲ル所トナレルヲ望見シツツ一族門葉八百七十余人ト共ニ自刃ス」、と。北条家滅亡の地である。近くに東勝寺跡地。北条一門の菩提寺。三代執権泰時が建立した臨済宗の禅寺。北条一族滅亡の折、焼失。室町に再興され関東十刹の第三位。その後戦国時代に廃絶。いまは石碑のみ」


今田鯖神社(藤沢市湘南台七丁目201)

東勝寺を離れ、境川に沿って南に下る。日は完全に落ち、辺りは真っ暗。こんなに時間がかかるとも思っていなかったためライトの用意もなく、街灯もなく闇の中をGPSの地図だけを頼りに進む。
地下鉄ブルーラインを越え先に進む。ライトもなく、目的の今田の鯖神社など簡単に見つからないだろな、などと思いながら進むと、道の右側にライトアップされた社が見えた。それが今田鯖神社であった。一安心。
真っ暗闇に煌々とライトで照らされた社が見える。結構新しい。平成18年(2006)に再建された、とのこと。平成7年(1995)に放火で焼失。昭和8年(1933)改築された社殿が再び焼失。再建されるも、平成13年(2001)に不審火で再び焼失したものを再建した。これほど明るいライトアップは、参拝者のため、というより、不審者への予防の意味合いが強いの、かと。
案内によれば、「祭神源義朝公。創立元禄15年(1702)当地井上瀬兵衛により造立。祭神源義朝公が佐馬守であったことから鯖神社と称する。文政9年(1826)に再建し、昭和8年に本殿、拝殿が改築」とある。
○『源義朝を祀る サバ神社その謎に迫る』をもとに整理すると、天保12年(1841)の『新編相模国風土記稿』には「鯖明神」との記録が残る。江戸時代のこの地は細井氏と川勝氏の相給の地。細井氏は藤原氏、川勝氏は秦氏の後裔であり、清和源氏と直接関係なく、「左馬」に拘ることなく、流行の鯖信仰所以の鯖明神としたのであろう。
これで本日の散歩は終わり、暗闇の中を小田急江ノ島線・湘南台駅に向かい、一路家路へと。
冬のとある日、旧友のS氏より丹沢・大山三峰の修験の道を歩きませんか、とのお誘い。S氏は奥多摩から秩父に抜ける仙元峠越えや、信州から秩父に抜ける十文字峠越えを共にした山仲間。で、今回の山行の発案者はそのS氏の山行・沢遡上の御師匠さんでもあり、私も奥多摩のコツ谷遡上本仁田山からゴンザス尾根への山行などをご一緒させて頂いたS師匠とのこと。峠歩きの成り行きで山を登るといった我が身には少々荷が重いのだが、「修験の道」というフレーズに惹かれご一緒することに。
丹沢の修験の道に興味を持ったのは、大山日向薬師を散歩したときのこと。この丹沢の峰々を辿る大山修験、日向修験、八菅修験の行者道があることを知り、行者道のすべては無理にしても、その一部だけでも辿ってみたいと思っていた。今回のルートには八菅修験や大山修験が大山三峰の尾根を辿る行者道、日向修験や八菅修験が尾根を登る弁天御髪(べんてんおぐし)尾根が含まれている。行者道全体からみれば、ほんの触りだけではあるが、それでも先達の足跡を辿れる想いを楽しみに当日を迎えた。



本日のコース;小田急線・本厚木駅>煤ヶ谷バス停>寺家谷戸>不動沢分岐>宝尾根取り付き>512m標高点>777m標高点>大山三峰南峰>不動尻分岐>唐沢峠>弁天御髪尾根分岐>778標高点>梅ノ木尾根分岐>見晴台>すりばち広場>見晴台A>見晴台B>弁天見晴>上弁天>中弁天>下弁天>見晴広場>林道に出る>林道から離れ大釜弁天に下る>大釜大弁才天尊>大沢>広沢寺温泉入口バス停

小田急線・本厚木駅
本日の散歩スタート地点は清川村の「煤ヶ谷バス停」。バスは小田急線・本厚木駅から出る。小田急には厚木駅と本厚木駅がある。あれこれ経緯があるのだが、それはそれとして厚木駅は厚木市ではなくお隣の海老名市にある。本厚木は本家の厚木といった矜持の駅名であろう、か。

煤ヶ谷バス停;午前7時30分_標高136m
バスは午前6時55分発の神奈川中央交通・「宮ヶ瀬行」。市街を離れ、いつだったか、白山巡礼道を日向薬師まで辿った飯山・白山の山塊に遮られ大きく迂回する小鮎川を越え、清川村の煤ヶ谷バス停で下車。時刻は午前7時30分。 「煤ヶ谷(すすがや)」って、惹かれる地名。炭焼きの煤かとも思ったのだが、「ススタケ・スズダケ」と呼ばれる竹に由来する、と。スズダケといえば、旧東海道箱根西坂でのスズタケのトンネルを思い出すのだが、それはそれとして、治承年間(12世紀後半)、この地に館を構える毛利太郎景行の館の周囲をこの竹で囲み垣根としていた、と。『我がすゞがき小屋よ』と呼んでいたとの記録もあるこの館(御所垣戸の館)は、小鮎川が白山を大きく迂回する北西の「御門」の辺り。御門の由来は文字通り「御門」から。『清川村地名抄』によれば、毛利太郎景行が御所垣戸の館から鎌倉への往還のとき、この六ツ名坂を利用しそこに門(御門)を設けたから、と言う。

 ■毛利の庄

古代、この厚木の辺りは相模国愛甲郡と呼ばれる。国府は海老名にあった、よう。国分寺は海老名にあった。古代の東海道も足柄峠から坂本駅(関本)、箕輪駅(伊勢原)をへて浜田駅(海老名)に走る。この地は古代相模の中心地であったのだろう。
平安末期には中央政府の威も薄れ、各地に荘園が成立する。この地も森の庄と呼ばれる荘園ができた。で、八幡太郎義家の子がこの地を領し毛利の庄と呼ばれるようになる。12世紀の初頭になると、武蔵系武士・横山党が相模のこの地に勢力を伸ばす。和戦両面での攻防の結果、毛利の庄の南にある愛甲の庄の愛甲氏、海老名北部の海老名氏、南部の秩父平氏系・渋谷氏をその勢力下に置いた。
鎌倉期に入ると相模・横山党の武将は頼朝傘下の御家人として活躍し、各地を領する。頼朝なき後、状況が大きく動く。北条と和田義盛の抗争が勃発。相模・横山党はこぞって和田方に与力。一敗地にまみれ、この地から横山党が一掃される。毛利の庄を領した毛利氏も和田方に与し勢力を失う。 主のいなくなった毛利の庄を受け継いだのが大江氏。頼朝股肱の臣でもあった大江広元より毛利の庄を受け継いだその子・大江季光は姓も毛利と改名。安芸の毛利の祖となったその季光も、後に北条と三浦泰村の抗争(宝治合戦)において、三浦方に与し敗れる。かくの如く、この厚木あたりは古代から鎌倉にかけ交通の要衝、鎌倉御家人の栄枯盛衰の地であったわけである。ちなみに、安芸国の毛利は、この抗争時越後にいて難を逃れた季光の四男経光の子孫。

寺家谷戸;午前7時33分_標高150m
煤ヶ谷バス停から谷太郎川に沿って歩を進める。集落の名は「寺家谷戸」とある。寺家とは入峰修行を監督する役職名に因むと伝わる(『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』)。実際、この少し先の不動沢での滝行(八菅修験第13行場)で身を浄めた八菅修験の行者は寺家谷戸より辺室山から物見峠、三峰山、唐沢峠を繋ぐ尾根道への峰入りを行う。

不動沢分岐;午前7時38分_標高163m
寺家谷戸からほどなく、不動沢分岐。右に沢を上ると八菅修験第13行場である、「不動岩屋 児留園地宿」がある、と言う。一の滝(不動の滝)と二の滝があり、滝行を行い、上でメモしたように翌日には寺家谷戸から尾根道の峰入りとなる。不動の滝は10mほどの滝のよう。夏には沢遡上でも、とも想う。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)
note;赤い線が今回のルート。黄色が八菅修験の道。紫が日向修験の道。三峰から大山までの黄色のルートは大山修験の帰路のひとつ。

八菅修験の行者道
八菅(はすげ)修験とは、 中津川を見下ろす八菅山に鎮座する現在の八菅神社(愛甲郡愛川町八菅山141-3)を拠点に山岳修行を行った修験集団のこと。八菅神社とのは明治の神仏分離令・修験道廃止令以降の名称。それ以前は山伏集団で構成された一山組織「八菅山光勝寺」として七所権現(熊野・箱根・蔵王・八幡・山王・白山・伊豆の七所の権現;室町時代後期)を鎮守としていた。明治維新までは神仏混淆の信仰に支えられてきた聖地であり、山内には七社権現と別当・光勝寺の伽藍、それを維持する五十余の院・坊があったと伝わる。
八菅山縁起によると日本武尊が東征のおり、八菅山の姿が蛇の横わたるに似ているところから「蛇形山」と名付けたという。また、八菅の地名の由来は、大宝3年(703)修験道の開祖役の小角(えんのおずぬ)が入峰し修法を行ったとき、「池中に八本の菅が生えたこと」に拠る。和銅2年(709)には僧行基が入山、ご神体及び本地仏を彫刻し伽藍を建立して勅願所としたとも。因みに、役の小角は行基と同時期の実在の人物のようではあるが、修験道といえば役の小角、といった「修験縁起の定石」として定着したのは、鎌倉から室町の頃と言う。
で、八菅修験の行者道であるが、行場は30ヵ所。この八菅山を出立し中津川沿いに丘陵を進み、中津川が大きく湾曲(たわむ)平山・多和宿を経て、丹沢修験の東口とも称される修験の聖地「塩川の谷」での滝行を行い身を浄め、八菅山光勝寺の奥の院とも称され、空海が華厳経を納めたとの伝説も残る経ヶ岳を経て尾根道を進み「仏生寺(煤ヶ谷舟沢)」で小鮎川に下り、白山権現の山(12の行場・腰宿)に進む。
八菅修験で重視される白山権現の山(12の行場・腰宿)での行を終え、小鮎川を「煤ヶ谷村」の里を北に戻り、上でメモした不動沢での滝行の後、寺家谷戸より尾根を上り、辺室山から物見峠、三峰山、唐沢峠を繋ぐ尾根道への峰入りを行う。
唐沢峠からは峰から離れ、弁天御髪尾根を不動尻へと下り、七沢の集落(大沢)まで尾根を下り、里を大沢川に沿って遡上し、24番目の行場である「大釜弁財天」を越えて更に沢筋を遡上し、再び弁天御髪尾根へと上り、すりばち状の平地のある27番行場である空鉢嶽・尾高宿に。そこからは尾根道を進み、梅ノ木尾根分岐を越え、再び三峰山、唐沢峠を繋ぐ尾根道に這い上がり、尾根道に沿って大山、そして大山不動に到り全行程53キロの行を終える。
なお、この八菅修験の道は春と秋の峰入りがあったようだが、秋のルートは残っていないよう。上のルートは春の峰入り、2月21日の八菅三内での修行からはじまり、峰入りを3月18日に開始し大山不動には3月25日に到着したとのこと。最後の峰入りは明治4年(1871)。修験道廃止令故のことである(『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』より、以下、丹沢修験の行者道に関する記事は同書を参考にさせて頂きました)。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

○八菅修験・春の行者道
1.八菅山>2.幣山>3.屋形山(現在は採石場となり消滅)>4.平山・多和宿>5.滝本・平本宿(塩川の谷)>6.宝珠嶽>7.山ノ神>8.経石嶽(経ヶ岳)>9.華厳嶽>10.寺宿(高取山)>11.仏生谷>12.腰宿>13.不動岩屋・児留園宿>14.五大尊嶽>15.児ヶ墓(辺室山)>16.金剛童子嶽>17.釈迦嶽>18。阿弥陀嶽(三峯北峰)>19.妙法嶽(三峯)>20.大日嶽(三峯南峰)>21.不動嶽>22.聖天嶽>23.涅槃嶽>24.金色嶽(大釜弁財天)>25.十一面嶽>26.千手嶽>27.空鉢嶽・尾高宿>28.明星嶽>29.大山>30.大山不動

宝尾根取り付き;午前8時5分_標高196m
不動沢分岐から30分程度進むと、道の右の木々の間に「清川宝の山」と刻まれた石標がある。ここが宝尾根への取り付き部分。特に道標があるわけではないので、ちょっとわかりにくい。
S師匠のリードで尾根に向かう。次のポイントである標高点512m地点まで直線1キロを300mほど登ることになる。時に標高線が密になるところもあるが、好い頃合いで標高線の間隔が広がる尾根筋であり、それほどキツクはない。


512m標高点;9時15分

進行方向右手には、手前の尾根の向こうに八菅修験の行者道の尾根とその向こうに辺室山、左手には清川村と厚木市の境界を成す境界尾根、そして境界尾根が谷太郎川の谷筋に落ちたその先に鐘ヶ嶽。鐘ヶ嶽は丹沢で最も古い行者道と言う。宝尾根への取り付きからおおよそ1時間で512m標高点に。




○鐘ヶ嶽 
鐘ヶ嶽(561m)には明治の頃に整備された丁石が残る。1丁から28丁の丁石を辿ると山頂近くに浅間神社が祀られる、とか。江戸の頃庶民の間で流行った浅間信仰の社である。また17丁辺りにはその昔、権威の象徴とも言える瓦で屋根を葺いた平安期の古代山岳寺院である「鐘ヶ嶽廃寺」跡がある、とも。謎の寺院ではあるが、海老名にあった相模国分寺の僧侶の山岳修験の場である大山を中心とした丹沢の山地修行の拠点として創建された、とも(『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』)。そのうち辿ってみたい山であり社である。

777m標高点;10時15分
植林地帯も切れてきた512標高点の平場を越え、次の目標777標高点に向かう。おおよそ1キロ強を250mほど登ることになる。上るにつれて展望がよくなる。進行方向左手の鐘ヶ嶽を上から見下ろし、その向こうには相模の平地や江ノ島、そして666mの辺りからは新宿副都心のビルの向こうに東京スカイタワーも目に入る。777m地点に近づくと残雪も残る。512mからおおよそ1時間で777m標高点に。




大山三峰南峰:午前11時5分_標高900m
標高777m地点から尾根道を進み大山三峰への尾根道とクロスところにある大山三峰南峰まで直線距離1キロ弱を130mほど登る。尾根道は今までの道筋と一変し、痩せ尾根、露岩が露わな尾根道となる。高所恐怖症の我が身には少々キツイ。極力切り立った尾根の左右から目を逸らし、露岩に生える木の根っこに縋りつきながら恐々なんとか南峰に。45分程度の痩せ尾根歩きであった。南峰は大日嶽とも称される八菅修験20番の行場でもある。




不動尻分岐:午前11時15分_標高845m
当初の予定では大山の北峰(八菅修験18番行場・阿弥陀嶽)、主峰(八菅修験19番行場・妙法嶽)までピストンも検討していたようだが、時間的に無理ということで、大山南峰からは大山へと続く唐沢峠への尾根筋を進む。
大山南峰から唐沢峠へと続く尾根道は先ほどメモした寺家谷戸から峰入りした八菅修験の行者道。寺家谷戸から辺室山、物見峠を経て大山三峰を越え唐沢峠に向かい、唐沢峠からは不動の坂を下り不動尻から七沢集落の大沢に下る。 10分ほどで不動尻分岐。八菅修験の22番行場である聖天嶽(不動尻)へのショートカットルートのよう。ここのベンチで小休止。



唐沢峠;午後12時15分_標高807m
尾根道を唐沢峠へと向かう。この尾根道は大山三峰南峰への痩せ尾根、露岩の尾根とは異なりそれほど怖そうな箇所は少ない。1時間ほど尾根を歩き唐沢峠に。八菅修験の行者道は不動嶽と呼ばれる21番の行場である唐沢峠(不動嶽)で、峰を離れて不動の坂を経て、不動尻から七沢集落の大沢に下り、そこから再び峰入りを行い、弁天御髪尾根の分岐点へと上ってくることになる。峠から大山三峰の三峰がくっきり見える。



弁天御髪尾根分岐;午後12時55分_標高882m
唐沢峠を越え次のポイントである弁天御髪尾根分岐まで尾根道を進む。後ろを見れば大山三峰、前方左手には雪に微かに覆われた大山(1252m)の山容が目に入る。
ところで、唐沢峠で八菅修験の道と分かれたこの尾根道は大山修験の行者道でもある。大山修験のあれこれは、いつだったか訪れた散歩のメモに預けるとして、この尾根道は、大山修験の行者が峰入りを行い、35日(大山初代住職・良弁上人のケース)の行を行い、煤ヶ谷から大山に戻る里道と山道ルートのうちの山道ルートと比定される。煤ヶ谷からを経て辺室山、物見峠、大山三峰、唐沢峠を経て大山に戻ったようである。

大山修験の行者道
相模の里を見下ろし、丹沢山塊東端の独立峰とし、その雄大な山容を示す大山(標高1251m)。別名「あふり(雨降)山」とも称される大山は、命の源である水をもたらす「神の山」として崇められ、古代より山林修行者の霊山であった。 古代の山林修行者はこの山から南に流れる三つの川、東の日向川、中央の大山川、南の春岳沢(金目川)を遡り、この霊山で修行を行った、と言う。その山林修行者の拠点が山岳寺院と発展していったのが日向川を遡った日向薬師(にかつて霊山寺の一宇)、大山川の大山寺、春岳沢(金目川)の蓑毛に残る大日堂であろう(『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』)。
これら山岳寺院の中で最大のものが大山寺。寺伝によれば、初代住職は華厳宗の創始者であり東大寺の初代別当である良弁、三代目の住職は真言宗の開祖空海、9世紀末地震で崩壊した大山寺を再興したのが、天台宗の安然(円仁の弟子で最澄の同族)といった宗教界指導者の豪華ラインナップ。
が、真言宗の東密、天台宗の台密の密教修験はわかるとして、華厳の良弁はどういった関係?チェックすると、東大寺は聖武天皇の命により全国に設けられた国分寺の元締め、といったもの。空海も東大寺の別当もしており、大山は海老名にあったと言われる国分寺の僧侶の山岳修行の拠点としての位置づけであるとの説があるようだ。
ちょっと話が離れるが、この国分寺の僧侶の山岳修行の拠点との説の中に、八菅山光勝は大山と国分寺を結ぶ山岳修験の東端の拠点として設けられたとの説明もあった。実のところ、何故に丹沢東端の地に山岳修験の拠点があるのか疑問であったのだが、この説明で少し納得。
それはともあれ、大山寺の修験者の行者道は以下の通り(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

○大山修験の道
大山寺不動堂(阿不利神社下社)、二重の瀧での修行の跡>大山山頂より峰入り>大山北尾根を進み>金色仙窟(北尾根から唐沢川上流の何処か)での行を行い>大山北尾根に一度戻った後、藤熊川の谷(札掛)に下る>そこから再び大山表尾根に上り>行者ヶ岳(1209)>木の又大日(1396m)>塔の岳>日高(1461m)>鬼ヶ岳(十羅刹塚)>蛭ヶ岳(烏瑟嶽)と進む>蛭ヶ岳からは①北の尾根筋を姫次に進むか、または②北東に下り早戸川の雷平に下り、どちらにしても雷平で合流し>早戸川を下り>①鳥屋または②宮が瀬に向かう>そこから仏果山に登り>塩川の谷で滝修行を行い(ここからは華厳山までは八菅修験の行者道と小名氏>経石(経ヶ岳)>華厳山>煤ヶ谷に下り①辺室山(644)大峰三山から大山に向かう山道か②里の道を辿り>大山に戻る(『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』より)。

丹沢山岳修験の中心であった大山であるが、江戸時代には徳川幕府の命により。山岳修験者は下山し里に下りることになる。慶長10年(1605)のことである。 修験者は小田原北条氏とむすびつき、僧兵といった性格ももっていたので、そのことに家康が危惧の念を抱いた、との説もある。この命により修験者は蓑毛の地などに住まいすることに。で、これらの修験者・僧・神職が御師となり、庶民の間に大山信仰を広め大山参拝にグループを組織した。それを「講」という。江戸時代には幕府の庇護もあり、大山講が関東一円につくられる。最盛期の宝暦年間(1751年から64年)には、年間20万人にも達した、とか。

尾根道を40分ほど歩き弁天御髪尾根の分岐に。弁天御髪尾根方面は通行を妨げるような綱が張られている。分岐点には道標があり、大山まで1.8キロとある。大山修験の行者道はこの尾根を大山に進むが、我々はこの分岐から弁天御髪尾根へと下るが、この弁天御髪尾根分岐は八菅修験の28番目の行場・明星嶽である。
先ほど通り過ぎた八菅修験の21番の行場である不動嶽こと唐沢峠から七沢の集落に下った八菅修験の行者道は大沢川を遡上し再び峰入りし、この弁天御髪尾根の行場を辿りこの弁天御髪尾根分岐(八菅修験の28番目の行場・明星嶽)に上り、そこから大山へと向かうことは既にメモした通り。

778標高点;午後1時20分
弁天御髪尾根を下る。次のポイントは標高778地点。直線距離で500mほどを100mほど下る。急な岩場をもあるためだろうか、778標高点まで1時間ほどかかった。
幾度もメモしたようにこの尾根道は、尾根を下った弁天見晴までは八菅修験の道であるが、同時に日向修験の行者道でもある。






日向修験の行者道

日向薬師は上でメモしたように、大山を水源とする三つの川の東端、日向川を遡上したところにある。古代の山林行者の拠点ではあったのだろうが、密教修行の山岳寺院として10世紀頃に開かれたようだ。寺伝には行基の開基とのことであるが、そのエビデンスは不詳(そのコンテキストで考えれば、大山の良弁開基も伝承ではある。良弁が相模の出身であり、東大寺住職>国分寺>大山での国分寺の僧の修行との連想で創作されたものかもしれない。単なる妄想。根拠なし)。
現在は日向薬師で知られるが、江戸の頃までは、日向川を遡った坊中より奥は山林修行者、山伏、禅僧、木喰僧などが混在する山岳修験の聖地であり、薬師堂(日向薬師)、社(白髭神社)を核に多くの堂社から構成された一山組織・霊山寺と称された(『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』より)。 ここでも八菅山光勝寺と同じく七社権現が祀られたが、そのラインアップは、熊野・箱根・蔵王・石尊(大山)・山王・白山・伊豆権現。八菅の八幡が石尊(大山)と入れ替わっている。入れ替わっているというか、全体の流れから言えば八菅の「八幡」が少々違和感を抱くが、それは15世紀頃衰退した八菅山光勝寺の庇護者としての源家ゆかりの武家への配慮であろうか。
このことは単なる妄想で根拠はないのだが、ひとつだけシックリしたことがある。それは、15世紀に山伏の本家・聖護院門跡である道興(この人物には散歩の折々に出合う)が大山寺や日向霊山寺を訪ねているのに、本山派聖護院門跡直末の八菅山光勝寺を素通りしているのが結構気になっていた。が、当時八菅山光勝寺が「八菅山光勝寺再興勧進帳」を出すまでに零落していたのであれば納得できた、ということである。日向薬師のあれこれは散歩のメモをご覧いだだくことにして、行者道を下にメモする。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)


 ○日向修験の行者道
日向薬師>二の宿・湯尾権現(場所不明)>大沢川の谷筋に下り>(ここから大山までは八菅修験の行者道と同じ)>弁天見晴(標高597m)へと峰入り>弁天尾根の地蔵観音の峰(「見晴広場A(674m)から「すりばち広場」の尾根筋)>山の神(場所不詳;八菅修験も札を納めたとある)>弁天尾根分岐に>大山>(奥駆の行場)>藤熊川の谷筋へ下る>丹沢問答口(門戸口)>(丹沢表尾根)>鳥ヶ尾(三の塔;1205m)>向こうの峰(鳥尾山;1136m)>塔の岳遙拝所>塔の岳(尊仏山;1491m)>行者ヶ岳(1209m)>>龍ヶ馬場(1504m)>丹沢山(弥陀ヶ原:1567m)>神前の平地(不動の峰;16143m)>峰から離れ早戸大滝での滝行>峰に戻り蛭ヶ岳(釈迦ヶ嶽;1673m)>姫次>尾根を下り青根村の里に>青野原村>宮が瀬・鳥屋村>煤ヶ谷村>七沢村>日向村(『丹沢の修験道を歩く;城川隆生(白山書房)』より)。

梅ノ木尾根分岐;午後1時33分_標高711m
778m標高点から10分程度で梅ノ木尾根分岐に。ささやかな道標がふたつ。北に「大山<大沢分岐>鐘岳」、南には「梅の木尾根」と。大沢分岐とは、八菅修験の22番行場聖天嶽こと、不動尻へと下り大沢に向かうのだろう、か。梅ノ木尾根は薬師尾根とも、日向尾根とも称される。尾根を進めば日向山(標高404m)に到り、途中弁天の森分岐から弁天岩分岐までは日向修験の行者道。弁天の森分岐からは尾根を下り「弁天の森キャンプ場」、往昔の日向修験25番の行場十一面嶽に、弁天岩分岐を南に下ると日向薬師に出る。


見晴台;午後1時47分_標高651m
梅ノ木尾根分岐から強烈な崖をトラロープに縋り10分強で見晴台に。休憩所があり、その屋根から管が休憩所のテーブルの中に続いている。S師匠の説明によれば、雨水を溜め防火水槽となっているとのこと。ここでちょっと休憩。眺望豊かな見晴台といった風ではないが、大沢川の谷筋と、これから下る弁天御髪尾根が目に入る。

すりばち広場;2時15分_午後 標高622m
見晴台で休憩し、少し下ると「すりばち広場」。八菅修験の27番の行場であり、宿でもあった空鉢嶽・尾高宿である。日向修験の行場でもある。文字通り「すり鉢」の鞍部となったこの地は、大山寺や日向霊山寺、八菅光勝寺といった山岳寺院が開かれ僧都が山岳での密教始業を行う以前からの山林修行者の行場・宿でもあった、とか。地蔵尊が祀られていたため地蔵平とも称されるようである(『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』より)。
右の谷側には鹿除けの柵。柵越しに先ほどの見張台よりしっかりと大沢川の谷筋や弁天御髪尾根と思しき尾根筋が見える。その先には相模の里も見えてきた。道標にキャンプ場とあるが、この谷筋を下り大沢川の沢にある「弁天の森キャンプ場」に続いているのだろう。南西に目を移すと大山山頂の電波塔もはっきり見て取れる。

見晴台A;午後12時43分_標高658m
すりばち広場から30分ほど尾根を進むと見晴台A。木の根元の辺りに、ほとんど消えかけた文字で書かれた木製の標識があった。左右の稜線が開けてくる。






見晴台B・鐘ヶ嶽分岐:午後2時52分_標高645m


見晴台Aから10分ほど、痩せ尾根を進むと見晴台B。やっと前面が見晴らせるロケーションとなるが、木々が邪魔し展望はそれほどよくなかった。ここから鐘ヶ嶽への分岐がある。谷太郎川の谷筋に下り、鐘ヶ岳に向かうのだろう。ここの標識は茶色の土管(鉢植えの鉢程度の大きさ)に挟まれた木にペンキで書かれている。よくはわからないが、こういった見晴らし台とかキャンプ場は神奈川県の自然公園として整備されたのだろうが、それにしては手作り感が強い。だれかアウトドア活動に燃えた担当者が推進した事業が、担当者の配置換えとともにその熱が消え去ったのだろうか。単なる妄想、根拠なし。

弁天見晴 :午後3時2分_標高597m
見晴台Bから急坂をロープ頼りに10分ほど下ると、やっと前面一杯に展望が広がる見晴らし台となる、相模の里が一望のもとである。道標に「ひょうたん広場(弁天の森キャンプ場・広沢寺)とあるが、この道が八菅や日向修験の行者道だろう。右へと沢に向かって八菅修験26番行場・千手嶽をへて谷に降り切った弁天尾森キャンプ場の辺りが八菅修験25番行場・十一面嶽。この八菅行者道は既にメモした通り、同時に日向修験の行者道でもある。
S師匠の元々の計画では、この弁天見晴から行者道の逆側、左手の尾根筋を辿って大沢集落へ下ることにあったようだが、なんとなく呟いた、上弁天、中弁天、下弁天、そして大釜弁財天って面白い地名、というフレーズに応えてくれたようで、計画を変更しここから尾根筋を上弁天、中弁天、下弁天と真っ直ぐ下り、一直線に大釜弁財天(八菅24行場・金色嶽)へと向かうことに。

中弁天:午後3時28分_標高536m
またまた強烈な下りを進み、鹿除け柵を越える脚立を乗り越え先に進む。後からわかったのだが、この脚立のところが上弁天であったよう。弁天見晴らしから30分弱で中弁天に。
上弁天とか中弁天などとのフレーズから何らか祠でもあるのかと期待したのがだが、それらしきものはない。最近になってハイキングコースの目印に付けられた地名なのだろうか、それとも、直線下にある大釜弁財天が雨乞いの祠であったとのことであるので、なんらか雨乞いの神事が行われたところなのだろか、などとあれこれ妄想だけは広がる。





下弁天:午後3時44分_標高515m
中弁天からは坂は少し緩くなる。10分強進み下弁天に。ここからの眺めは素晴らしい。奥多摩の山もいいのだが、如何せん里を見下ろす「広がり感」がない。それに比べ今回歩いた丹沢の尾根道は、相模の里を見下ろすことができ気持ちいい。標識はここも茶色の土管。土管にはP515と書いてある。





見晴広場;午後3時49分_452m
下弁天から急坂を下り終えると見晴広場。今までとは異なり立派な道標がある。標識に「キャンプ場」とあるのは弁天の森キャンプ場であろう。何度かメモしたように、弁天尾森キャンプ場の辺りが八菅修験25番行場・十一面嶽。

林道に出る:午後4時6分_午後標高346 m
鹿柵に沿って尾根を進むと、傾いてはいるが、鹿柵に門扉がある。そこから弁天の森キャンプ場へと下れるのだろう。先に進むとヒノキの植林体に。薄暗い植林体を抜けると茅の繁る一帯に。踏み跡もはっきりしないため、力任せに一直線に下り林道に。







林道から離れ大釜弁天に下る:午後4時10分_標高343 m
林道を少し進み、道がカーブするあたりで林道を離れ、柵に沿って藪漕ぎをしながら大釜大弁才天尊にこれまた一直線に下ることに。下りきったところには大沢川が流れるが、踏み石で反対側に渡れるとS師匠。結構きつい坂を大沢川まで下り、鹿柵を越える脚立を利用し大沢川筋に。適当な踏み石を見つけ、水に濡れることもなく対岸に。

大釜大弁才天尊:午後4時33分_標高250m
八菅修験の行者道でもあった大沢川沿いの道を下ると大釜大弁才天尊。八菅修験24番の行場・金色嶽(大釜弁財天)である。滝の横の大岩の中に弁財天が祀られていた。この弁天さま古くから雨乞いの滝として里人の進行を集めていたとのことである(『丹沢の行者道を歩く;城川隆生(白山書房)』より)。 ところで、弁天様って七福神のひとりとして結構身近な神として、技芸や福の神、水の神など多彩な性格をもつ神様となっているが元々はヒンズー教のサラスヴァティに由来する水の神、それも水無川(地下水脈)の神である。
八菅修験、大山修験の行場である塩川の谷には、江ノ島の洞窟と繋がるとの伝説がある。中津川の川底には洞窟があり江ノ島の洞窟と繋がっており、江ノ島の弁天さまが地下洞窟を歩き、疲れて地表に出て塩川の滝の上流の江ノ島の淵まで歩いていった、とのことである。弁天様が元は地下水脈の神であったとすれば、それなりに筋の通った縁起ではある。
この縁起の意味するところは何だろう?チェックすると、弁天さまって、我々が身近に感じる七福神とは違った側面が見えてきた。弁天様って二つのタイプがあるようで、そのひとつは全国の国分寺の七重の塔に収められた「金光明最勝王経」に説く護国鎮護の戦神(八臂弁才天)であり、もう一つは、空海唐よりもたらした真言密教の根本経典である大日経に記され、胎蔵界曼荼羅において、琵琶を奏でる「妙音天」「美音天」=二臂弁才天。いずれにしても結構「偉い」神様のようである。
江ノ島に祀られた弁天さまは二臂弁才天。聖武天皇の命により行基が開いた、とも。聖武天皇は国分寺を全国に建立した天皇であり、その国分寺の僧元締めが東大寺。東大寺初代別当良弁は大山寺開き初代住職。大山寺三代目住職とされる空海も東大寺別当を務めたことがある。ということで、すべて「東大寺」と関係がある。
で、東大寺で想い起すのが「二月堂」のお水取り。二月堂下の閼伽井(若狭井)は若狭(福井県小浜市)と地下で結ばれ神事の後、10日をかけて地下水脈を流れ二月堂に流れ来る、と。上で大山寺の良弁は八菅山光勝寺を国分寺の僧侶の大山山岳修行の拠点としたとメモした。東大寺の二月堂の地下水脈の縁起を、この江ノ島から中津川を遡った塩川の谷に重ね合わせ、その地に修験の地としての有難味を加え、塩川の谷に大山山岳修験の東口として重みを持たせたのであろう、か。単なる妄想。根拠なし。

大沢:午後4時50分_標高250m
大釜弁天を離れ大沢集落へと向かう。日も暮れてきた。愛宕神社の辺りでは日も落ち、日向薬師散歩の時に訪れた「七沢城址(七沢リハビリテーション病院)」の案内をライトで照らして眺め広沢寺バス停に。

広沢寺温泉入口バス停;午後5時15分_標高96m
五語5時15分バス停に到着。午後5時21分発のバスに乗り、午後5時50分に本厚木駅到着し一路家路へと。出発午前7時半。バス停着午後5時15分。結構歩いた。

いつだったか相模の大山を訪れた。大山寺の不動明王にお参りし阿夫利神社のある山頂に。そのときは山頂から西、というか南の尾根道を下った。ヤビツ峠を経て蓑毛に下り大日堂を訪れたのだが、山頂からの下山道には東、というか北の尾根道を進むルートもある。この道を下ると同じく古い歴史をもつ日向薬師がある。
大山には三つの登山口がある。そして、そこにはそれぞれ古刹が佇む。伊勢原口の大山寺、蓑毛口の大日堂、日向口の日向薬師、がそれ。役の行者にまつわる共通の縁起をもつこれら三つの修験の大寺のうち、大山寺と大日堂には足を運んだ。残りは日向薬師。そのうちに日向薬師を歩きたいと思っていた。
先日のこと、古本屋で『関東周辺 街道・古道を歩く(山と渓谷社)』を見つけた。亀井千歩子さんが執筆者に名を連ねている。亀井さんは昨年信州・塩の道を歩いたときに参考にした『塩の道 千国街道(国書刊行会)』の著者でもある。誠にいい本であった。ならば、このガイドもいいものに違いない、と購入。パラパラ眺めていると、「白山巡礼峠道」のコースの案内があった。厚木の七沢温泉から白山への尾根道を辿り飯山観音までのコースである。このコースだけでも結構面白そうなのだが、スタート地点・七沢温泉の4キロ程度西に日向薬師がある。であれば、ということで、少々コースをアレンジし日向薬師もカバーすることに。飯山観音をスタートし、巡礼峠への尾根道を七沢へと進み、そのまま日向薬師まで一気に進む。おおよそ11キロといった尾根道・峠歩きを楽しむことにする。




本日のルート;小田急本厚木駅>千頭橋際>飯山観音バス停・庫裏橋>金剛寺>龍蔵神社>飯山観音>白山神社>白山山頂展望台>御門橋分岐>むじな坂峠>物見峠>巡礼峠>七沢>薬師林道>日向薬師


小田急線・厚木駅
飯山観音へのバスが出る小田急線本厚木駅に。小田急には厚木駅と本厚木駅がある。あれこれ経緯があるのだが、それはそれとして厚木駅は厚木市ではなくお隣の海老名市にある。本厚木は本家の厚木といった矜持の駅名であろう、か。
厚木やその東の海老名って、あまり馴染みがない。ちょっとチェック。古代、このあたりは相模国愛甲郡と呼ばれる。国府は海老名にあった、よう。国分寺は海老名にあった。古代の東海道も足柄峠から坂本駅(関本)、箕輪駅(伊勢原)をへて浜田駅(海老名)に走る。この地は古代相模の中心地であったのだろう。
平安末期には中央政府の威も薄れ、各地に荘園が成立する。この地も森の庄と呼ばれる荘園ができた。で、八幡太郎義家の子がこの地を領し毛利の庄と呼ばれるようになる。12世紀の初頭になると、武蔵系武士・横山党が相模のこの地に勢力を伸ばす。和戦両面での攻防の結果、毛利の庄の南にある愛甲の庄の愛甲氏、海老名北部の海老名氏、南部の秩父平氏系・渋谷氏をその勢力下に置いた。
鎌倉期に入ると相模・横山党の武将は頼朝傘下の御家人として活躍し、各地を領する。頼朝なき後、状況が大きく動く。北条と和田義盛の抗争が勃発。相模・横山党はこぞって和田方に与力。一敗地にまみれ、この地から横山党が一掃される。毛利の庄を領した毛利氏も和田方に与し勢力を失う。
主のいなくなった毛利の庄を受け継いだのが大江氏。頼朝股肱の臣でもあった大江広元より毛利の庄を受け継いだその子・大江季光は姓も毛利と改名。安芸の毛利の祖となったその季光も、後に北条と三浦泰村の抗争(宝治合戦)において、三浦方に与し敗れる。かくの如く、この厚木あたりは古代から鎌倉にかけ交通の要衝、鎌倉御家人の栄枯盛衰の地であったわけである。ちなみに、安芸国の毛利は、この抗争時越後にいて難を逃れた季光の四男経光の子孫。
時代は下って江戸の頃の厚木;昨日、たまたま古本屋でにつけた『大山道今昔;渡辺崋山の「游相日記」から;金子勤(かなしんブックス)』に厚木宿の昔を描いた記事があった;「全戸数当時330戸。矢倉沢往還・大山道・荻野野甲州道などが合流し、風光明媚、人馬往来の激しい、繁盛している町であった。(中略)。厚木の港町は繁盛し盛況であった。津久井、丹沢諸山からまき、炭を厚木の豪商が買い取り、帆船で平塚へ出して、そこからは海船で相模湾を通り江戸新川掘へ運び商いをした。また塩や干しいわしなどを房総諸州からこの地に運んで販売したり、山梨、長野の山中にまで販売する。厚木は水路の終点、港町であるとともに陸路の交わるところでもあった」、と。陸路の要衝というだけでなく、相模川、中津川、小鮎川が合流するこの地は水運・海運の要衝でもあった、ということ、か。
厚木と言えば、津久井とか清川村にある幕府の直轄林(御留山)から相模川水系に流した「木々を集めた」ところであり、ために「あつぎ」と呼ばれた。これが厚木の地名の由来。今回の散歩のメモをはじめるまで、厚木については、この程度のことしか知らなかった。ちょっと深堀すると当然のことながらあれこれ出てくる。宮本常一さんの「歩く・見る・聞く」ではないけれど、「歩く・見る・書く」とのお散歩メモのルーティン化を改めて確認。ともあれ、散歩に出かける。

千頭橋際
飯山観音行きのバス停を探す。三増合戦の地、三増峠や志田峠へと向かう愛川町の三増や半原行きのバス乗り場は、駅から少し離れたバスセンターであった。今回の飯山観音行きのバス乗り場は、駅北口にあった。バスに乗り、林、千頭橋際を経て飯山観音前に向かう。林は文字通り、林が多かったから。『風土記稿』に「古松林多かりし土地なれば村名とする」とある。千頭(せんず)って、面白い名前。由来は定かではないが、ともあれ、「数多い」って意味だろう。近くに小鮎川も流れており、その川筋が千路に乱れていた故なのか、近くに数多くの湧水がある故なのか、はてさて。
バス路線は千頭橋際交差点で県道63号線と交差する。交差点南の県道63号線の道筋は秦野の矢名へと続いていた昔の小田原街道・矢名街道の道筋だろう、か。一方、交差点から北に進む道筋は、交差点の少し先で伊勢原の糟谷から愛甲、恩名と上ってきた糟谷道と合わさり、国道412号線荻野新宿交差点に進む。この糟谷道は大山参詣道のひとつ。荻野新宿交差点から先は、三田小学校脇を通り中津川を渡り依知の長坂へと進んでいた、ようだ。坂東札所の巡礼道もこの交差点の北を東西に進んでおいる。往古、このあたりは交通の要衝ではあったのだろう。

飯山観音前バス停・庫裏橋
バスは小鮎川に沿って進む。小鮎って、鮎がたくさん採れたから、とも。相模川も鮎で有名であり鮎川とも呼ばれたわけだから、それなりの納得感もあるが、小鮎>小合、との説もある。小さな川が合わさった、との意。これまた捨てがたい。地名は昔の姿を伝えるのでメモに少々こだわるのだが、それにしても地名由来の定説ってほとんど、ない。音が先にあり、それに「文字知り」が文字表記。その文字に「物識り」が蘊蓄を加えるわけであろうから、諸説乱れて定まることなし、となるのだろう、か。
飯山観音前バス停で下車。小鮎川に赤く塗られた庫裏橋が架かる。幕末の報道写真家、フェリックス・ベアトが宮ケ瀬への途中、庫裏橋を撮った写真がある。藁だか萱だかで葺いた屋根の民家。橋の袂に所在なさげに座る人。その横で箒をもつ人。掃き清められ清潔な風景が切り取られている。素敵な写真である。

金剛寺
橋を渡り飯山観音に進む。道の左に金剛寺。なんとなく気になり、ちょっと立ち寄り。古き山門、その左に同じく古き大師堂。野趣豊か、というか、少々手入れ少なしの、なりゆきの、まま。最近再建されたような本堂と、いまひとつアンバランス。それはともあれ、このお寺は往古、七堂伽藍が甍を並べたであろう古刹。開山は大同2年と言うから、807年。行基による、と。
文書にはじめて登場するのは養和2年(1182年)。『吾妻鏡』にこの寺のことが記されている。金剛寺の僧から将軍に対する訴状。地域役人の横暴を非難している。そこに「謂われある山寺」、と。鎌倉・室町期の仏教教学研究の中心寺院であった、とも。
この寺には国指定重要文化財の木造阿弥陀如来坐像が伝わる。平安期の作風を残す11世紀頃の作と。また、この寺には木造地蔵菩薩坐像が伝わる。県指定文化財。身代わり地蔵とも、黒地蔵とも呼ばれる。もともとは庫裏橋のあたりの堂宇に、白地蔵と黒地蔵の二体があったとのことだが、白地蔵は不明。胎内に残る朱文によれば1299年の作と。身代わり地蔵の由来は、賊に襲われた堂守りの刀傷を文字通り肩代わりした、ため。頭部に刀傷が残る、とか。境内には頼朝挙兵の時の頼朝側近安達藤九郎盛長の墓も。

龍蔵神社
道に戻る。ゆるやかな坂道に沿って温泉宿がいくつか続く。飯山温泉と呼ばれる。1979年に最初の掘削が行われた、比較的新しい温泉である。先に進むと龍蔵神社。もとは井山神社龍蔵大権現と呼ばれる。神亀2年(725)、行基菩薩により勧請された、と。治承4年(1180年)、頼朝の願により相模六十一社となり、江戸期は家康により社領二国の朱印が与えられる。
井山神社の「井山」はこのあたりの地名・飯山の表記バリエーション、から。平安時代の承平元年(931)に源順が編纂した『倭名類聚抄』には、印山郷(いんやま)と。後に「いやま」と呼ばれ、嘉禄3年(1227)には「相模国飯山」と記されている。鎌倉期には「鋳山」と表記される。このあたりは鋳物師で有名であったため。「井山」と表されたのは元正17年(1589)の頃、と言われる。龍蔵は大乗経典のこと。竜宮にあったとの故事による。

それはそうと「井山神社」って表記だが、「++神社」という表記は明治以降のもの。座間にある龍蔵神社が往古、龍蔵大権現と呼ばれていたようなので、この地も「井山龍蔵大権現」といったものではなかったのだろう、か。勝手な解釈。根拠なし。ちなみに、「権現」って。仏が神という仮の姿で現れた(権現)とする神仏習合の呼び名。『新編相模風土記』によれば、ご神体は石一願、本地仏は阿弥陀如来・薬師如来・十一面観音が祀られていた、とのことである。

飯山観音
坂道から離れ脇にある石段を上る。仁王門には阿吽の金剛力士像。お像を遮る金網がないのは、いい。さらに石段を上る。厚木市の天然記念物のイヌマキの木。石段を上り切ったところに本堂がある。開山は神亀2年(725年)。行基による、と。
本尊は行基作と伝えられる十一面観音菩薩。大同2年(807年)には弘法密教の道場となる。 銅鐘は室町中期、飯山の鋳物師・清原(物部)国光の作。物部姓鋳物師は河内国にいた鋳物師集団。建長4年(1252年)、鎌倉大仏鋳造のため鎌倉に下る。その後毛利庄に定住し多くの梵鐘をつくる。金剛寺もそうだったし、鎌倉の建長寺や円覚寺も飯山の鋳物師集団の作、という。飯山の地名の由来が、鋳山から、と言われる所以である。
飯山観音こと飯上山長谷寺は坂東三十三観音巡礼の札所六番。坂東三十三観音巡礼は鎌倉の杉本寺を一番札所とし、東京・埼玉・群馬・栃木・茨城をへて千葉県館山の那古寺まで、その全行程は1300キロに及ぶ。坂東三十三観音巡礼は鎌倉幕府の成立とともに始まった。発願は頼朝、三代将軍実朝の時に地域武将の推挙する寺をもとに三十三の寺が定められた、とも。

そもそも、観音巡礼は大和長谷寺の徳道上人が発願。花山法皇が性空上人を先達として観音巡礼を発展させる。で、近畿に広がる三十三ケ所の観音霊場をネットワークしたものが西国三十三ケ所観音札所。近江三井寺の覚忠上人が制定した、と言う。
坂東にも観音札所巡礼を、と考えたのは関東の武将達。都に往来し、西国札所の盛り上がりを目にした、おらが鎌倉にも札所を、といったノリでその機運が盛り上がってきたのだろう。発願は頼朝とメモした。鎌倉幕府が開かれた建久3年(1192年)、頼朝は後白河法皇の追悼法要を開催する。求めに応じて集まった坂東各地の僧侶100の内、21の寺院がその後坂東三十三観音札所となっている。こういった事実も相まって観音信仰篤き頼朝に花を持たせた、というのが頼朝発願、ということ、かも。

千頭橋のところでもメモしたが、観音巡礼と言えば、六番札所であるここ飯山観音から八番札所である座間の星谷寺へと続く巡礼道があった、と言う。飯山観音を下り、小鮎川に沿ってゴルフ場の南側を東へと進み、荻野新宿点前で糟谷大山道と交差。及川地区を進み清水小学校脇の妻田薬師裏を通り、中津川を渡り依知の台地をへて座間に至る。
それにしても札所七番は?札所をチェックすると札所五番は小田原・飯泉観音。六番はここ飯山観音。七番は平塚の金目観音。八番は座間の星谷寺。札所の順番通りでは小田原>厚木>平塚>座間、となり、小田原から厚木に上り、一度平塚に下り、また厚木から座間へとなる。いかにも段取りが悪い。江戸時代の、十返舍一九の『金草鞋』にも「西国巡礼は第一より順に巡はれども、坂東はいろいろ入組み、順に巡はることなり難し」とある。ということで、西国巡礼とは異なり、坂東札所巡礼は順に頓着しない巡礼であった、よう。六番から八番といった巡礼道も、これで納得。

白山神社
飯山観音を離れ白山巡礼峠道に向かう。小高い尾根道や峠を越えて七沢に続く3キロほどのコース。最高点の白山で283m、200m前後の尾根道を3キロ程度歩くことになる。峠道への登山口は観音堂脇から続く。コースは男道と女道のふたつある。尾根筋を直登する男道を上ること15分で稜線に上る。上り切ったところに休憩用のテーブルがあったのだが、先客がいる。邪魔をしないようにと、尾根道を左に進むと、ほどなく白山神社に。
現在では小さな祠といった社ではあるが、歴史は古い。享和年間、というから19世紀初頭、龍蔵院別隆光は山頂で修行中にこの地に秋葉権現と蔵王権現を勧請すべし、との夢を見る。で、近郷の人々の協力を得て勧請したのがこの社のはじまり、と。江戸時代にこのあたりで平安時代の鏡や古瓶も発掘されている。これを龍蔵神社の宝物として現在も神社に保管している、と。
社の前に直径1mほどの池。いかなる干ばつにも水が枯れたことがない、と言う。縁起によれば、往古行基がこの池を見て、霊水の湧き出る霊地と定め、加賀国の白山妙理大権現を勧請した、とする。干ばつの時には付近の農民が集まり、この池の水を干した、と言う。この池は付近の山に住む白龍の水飲み場であり、この池の水が無くなると仕方なく白龍が雨を降らすため、との伝説からである。なかなかに面白いストーリー。

白山山頂展望台

白山神社を離れて巡礼峠へと向かう。道案内がない。神社の廻りに道を探す。神社の先北端に尾根を下る道がある。案内がないので、少々不安ではあるが、とりあえず急な尾根道を下る。その後いくつかアップダウンを繰り返し先に進むが結局行き止まり。小鮎川に北に突き出した尾根筋であり、巡礼峠とは真逆の方向。白山神社まで引き返す。
白山神社まで戻り、休憩テーブルのところに巡礼峠への道案内。ハイカーに遠慮したため見落とした、よう。少し先に進むと白山山頂展望台があった。眼下に相模の国、大山・丹沢の山塊を眺め少々休憩。

御門橋分岐
展望台からは南西方向へ尾根道を下る。ほどなく北側の御門集落から上る道と合流。御門橋まで800m、白山まで400mの標識がある。御門の由来は文字通り「御門」から。『清川村地名抄』によれば、治承の頃、毛利の庄を治めた毛利太郎景行が御所垣戸の館から鎌倉への往還のとき、この六ツ名坂を利用しそこに門(御門)を設けたから、と言う。

狢坂(むじなさか)峠
分岐点から先が「関東ふれあいの道」となる。少し上り返すと「むじな坂峠」。狢坂峠とも書かれているが、由来はどうも獣の狢でないようだ。六っの地名(白山橋・長坂・花立峠・月待場・京塚・細入江)>「むつな」が「ムジナ」に転化した、とか。現在では峠道は残っていないようだが、その昔は厚木と北の清川村を結ぶ重要な往還であったのだろう。

物見峠
尾根道を進むと物見峠。峠とはいうものの、通常の峠で見るような鞍部という雰囲気はない。先日奥多摩から秩父に歩いた時の仙元峠のような、峰頭(山の突起)系>ドッケ系峠なのだろう。東側の眺望はなかなか、いい。物見にはいい場所ではある。とはいうものの、この物見峠って地名は昔の記録には登場しないようで、結構最近命名されたもの、かも。白山から1キロ。巡礼峠まで1.7キロ地点である。

巡礼峠
物見峠を越えると急な坂を下となる。昔は鎖場であったようだが、現在ははちゃんとした階段に整備されている。急坂を下りきった後は、クヌギやコナラの林の中、小刻みなアップダウンを繰り返す尾根道となる。ところどころに見晴らしのいい場所もあり、ベンチなども整備されている。竹塀やヒノキの植林帯を抜け、里山の雰囲気のある雑木林といった尾根道をくだり巡礼峠に。
巡礼峠にはお地蔵さまが佇む。昔此の峠で惨殺された巡礼の老人とその娘の霊をなぐさめるため地元の人が建てた、とか。巡礼峠って、「巡礼」といった言葉の響きから、もう少々昼なお暗き、ってイメージではあったのだが、以外と明るい。周囲が公園として整備されているからだろう、か。もっとも、巡礼峠の由来には、小田原北条の間者が巡礼姿に身を隠し、峠の東にある七沢城を偵察した、って話があるわけで、そうとなれば、結構さばさばした物語であり、それらしき峠の風情である。
巡礼峠の名前の由来は、坂東三十三観音巡礼の五番札所である飯泉観音(小田原の勝福寺)から六番札所の飯山観音へ向かう道筋であった、ため。西側の七沢からこの峠を越え東の上古沢へと抜ける道があった。恩曽川の最上流部である上古沢の野竹沢集落に抜ける、と言う。
とはいうものの、何故小田原からわざわざこの山裾の地・七沢まで来るのだろうかと少々気になった。チェックすると札所五番から六番へのコースはいくつかバリエーションがある、よう。五番札所から大山>日向薬師>六番飯山観音。このコースであれば七沢を通るのは道理。が、五番から下曽我>六本松>井ノ口>遠藤原>南矢名>神戸>西富岡>七沢ってコースもある。このコースがよくわからない。中世には七沢にお城があったと、言う。それなりに開けた宿があったのだろう、か。近くに小野の小町の生誕地との伝説のある小野がある。古き社の小野神社の御参りをかねて七沢まで上ったのだろう、か。はたまた、七沢の地にある七沢温泉って、江戸末期には湯治場として賑わっていたとのことでもあるので、それが七沢まで北上した理由だろう、か。はてさて。

巡礼峠から七沢へと下る。峠から幾筋も道があり、どれがどれだかはっきりしない。とりあえず成り行きで道を下る。途中、ほとんど道を下り終えたあたりに柵があり、通行止め。道をそれで柵を越えようとしたが先に進めない。再び柵まで戻りじっくり見ると、内側からチェーンを外せるようになっていた。鹿除けの柵であった。

七沢
七沢の集落に出る。里をのんびり成り行きで進み、日向林道のある七沢温泉方面に進む。玉川を渡り、県道64号線を越え、里を進む。道の左手の丘にある病院は昔の七沢城の跡。病院の敷地を見てもなあ、ということで遠くから眺めやり、で済ますことに。この城は伊勢原の糟谷館に居を構えた扇谷上杉家の戦闘拠点。糟谷館って、山内上杉家の讒言に惑わされ扇谷上杉の家宰であった太田道灌を惨殺した館。道灌なき後、扇谷上杉と山内上杉は骨肉の争いを繰り返す。七沢城はその戦場にもなっている。で、互いの消耗戦の間隙をぬって台頭した小田原北条。扇谷上杉も駆逐され、七沢城は小田原北条の支城となった、と。七沢の地名の由来は村内に七つの沢があった、とのことから。

薬師林道
七沢温泉の道筋を先に進む。林道とはいうものの、車道であり道に迷うことはなさそう。ときどき車も走る。途中展望台の案内もあるのだが、展望は得られず。木々が覆い緑のトンネルのようになっているところもある。野生のサルにも出会う。日向山への案内もある。日向山は標高404m。山を越えて広沢寺温泉へのハイキングコースもあるようだ。広沢寺には、七沢城主であった上杉定正がねむる、と言う。隠れ湯っぽい名前ではあるが、温泉自体は昭和初期になって開湯した、と。先に進み案内に従い駐車場のところから林道を離れ日向薬師に。

日向薬師
日向山霊山寺。寺歴は古い。霊亀2年(716年)、行基による開基との縁起がある。行基が熊野を旅していた時、薬師如来のお告げを受け、この地に霊山寺を建てた、と。「行基+熊野+薬師如来+(白髭明神)」の組み合わせの縁起は数多くあるようで、縁起は縁起とするとして、実際の開基は10世紀頃ではないかと。古いお寺さまである。本尊は薬師三尊。鉈彫りと呼ばれる、像の表面にノミ目を残す技法で彫られている。この本尊も含め仏像、単層茅葺きの本堂、鐘堂など数多くの国指定の重要文化財をもつ。
このお薬師さん、柴折薬師(高知県大豊市)、米山薬師(新潟県上越市)とともに日本三大薬師のひとつ。また、津久井の峰の薬師、高尾の薬王院、中野の新井薬師とともに武相四代薬師とも呼ばれる。薬師如来信仰って現世利益がキーワード。相模の国司大江公資の妻で歌人でもある相模の歌がある。「さして来し日向の山を頼む身は目も明らかに見えざらめやは」。眼病を患い薬師堂に籠り祈願した折に詠ったもの。11世紀初頭のこと。このころには日向薬師既に霊場として評価されていたようだ。『吾妻鏡』には建久3年(1192年)、北条政子の安産祈願の寺院として日向薬師の名前が挙げられている。建久4年(1193年)には娘・大姫の病平癒祈願のために頼朝が参詣した記録がある。日向薬師は中世以来、薬師如来の霊場として信仰を集めた。日向薬師の由来は、立地上東に日光を遮るものがなく「日向」であった、から。
多くの堂宇を誇った日向薬師ではあるが、廃仏毀釈の嵐に抗せず、多くの堂宇が失われ現在では本堂、鐘堂、仁王門などが残る、のみ。本堂でお参りをすませ頼朝参詣の折り旅装束を白小装束に着替えた「衣装場(いしょうば)」を通り日向薬師バス停に。20分ほど伊勢原駅で到着し、一路家路へと。

前から、なんとなく気になっていた日向薬師もやっとカバーした。山麓・山中にある薬師や不動と言うだけで、それだけでなんとなく有難く、気になるものである。津久井湖を臨む山麓にある峰の薬師に上ったのも、その流れではある。それはそれとして、日向薬師を訪ね終え、三つの大山参詣口にある三つの古刹をカバーした。伊勢原口の大山寺の不動明王、秦野・蓑毛口の大日堂の地蔵さま、そしてこの日向薬師のお薬師さま。この三つの古刹には共通の縁起がある、とイントロでメモした。役の行者にまつわる伝説である。
大山の東、愛川の八菅山にある八菅神社は古くから修験の地として知られていた。八菅山と大山を結ぶ回峰行の始点ともなっていた。その昔、役の行者が八菅山にて山岳修行。その折り、薬師・地蔵・不動の像を彫る。で、その像を投げたところ、薬師は日向に、地蔵が蓑毛に、不動が大山に落ちた、と言う。それがどうした、とは思うのだが、その縁起の地を実際に訪れ、あたりの風景を想い描けるだけで、なんとなく心嬉しい。

ついでのことながら、日向薬師の縁起で「行基+薬師如来+熊野」とともに白髭明神が登場した。白髭明神って高麗王・若光のこと。行基がこの地で薬師三尊を彫るに際し、よき良材を求めた。それに応えたのが高麗王・若光。香木を与え、日向薬師の開山に協力した、と。行基も渡来系帰化人。帰化人同士のコラボレーション縁起だろう、か。
関東各地には若光をまつった白髭神社がある。どこということではなく、どこを歩いても折に触れて白髭神社に出会う。伝説によれば、渡来人である高麗王・若光は東国開発の命を受け、大磯に上陸した、と言う。平塚と大磯の間、海に臨む地に高麗山がある。こんもりとしたその山容を渡海・上陸の目印としたのだろう。山裾には高来神社(こうらい)があった。
若光は大磯・平塚から相模川を遡り、この日向の地を経て、埼玉・高麗の地に移った、とか。日向薬師の参道に白髭神社がある。薬師の守護神として若光・白髭明神をまつるとともに、熊野権現を勧請し社を建てたもの。日向薬師で白髭明神・若光が出てくるとは思わなかった。熊野と薬師と行基の三大話の縁起は全国にある。どれも民衆受けするキーワードである。白髭明神とのコラボレーションは民衆受けする縁起の定石に、この地ならではの「有難さ」を組み合わせたもの、なのだろう、か。なんとなく、楽しいお話である。
秋、紅葉を見たいと思い立つ。小田急に乗り秦野を目指す。秦野弘法山の丘陵に一度行ってみたいと思っていた。途中、小田急で行き先を間違い江ノ島方面に。大和を過ぎ港南台のあたりで気がつき相模大野まで引き返す。小田急小田原線に乗り換え伊勢原を過ぎ秦野で下車。
秦野の歴史;秦野の名前の由来は「秦」氏からという説も。渡来人が住み着いていたのだろうか。藤原秀郷。俵の藤太、むかで退治、平将門を倒した武将、その子孫藤原経範がこの地を開墾し波多野氏を名乗る。これが波多野氏のスタート。前九年の役、保元の乱と活躍。勢力をのばす。これが平安時代まで。鎌倉時代、波多野氏は当初平氏に組する。負け戦。当主、自害・所領没収となるが、のちに許され、幕府の要職に。越前の地頭職になったとき、曹洞宗の開祖道元を招聘し永平寺を開くほどに。(水曜日, 11月 30, 2005)


本日のルート;小田急・秦野駅>弘法山公園入口>浅間山>権現山>弘法山>吾妻山>鶴巻温泉弘法の湯>小田急・鶴巻温泉駅

小田急線秦野駅

ともあれ散歩にでかけよう。途中車窓から目的の山というか丘陵地・浅間山は確認済み。駅からそれほど遠くない。駅前を北に。水無川にかかるまほろば大橋を渡り、右折。河岸を進む。車の往来激しい。平成橋、常盤橋を越え、新常盤橋を左折。川筋から離れる。

弘法山公園入口
川原町交差点を越え直ぐ、県道71号線脇に弘法山公園入口が。川筋に沿って道なりに歩くと浅間山への登り道となる。ここまで、駅から30分弱といったところ。上り道は結構厳しい。鎌倉の天園ハイキングコースを思い出す。20分ほどで広場に。ここが浅間山。秦野の町並み、箱根や丹沢の山のつらなりの眺めが楽しめる。
(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

浅間山から権現山
浅間山の広場から権現山に。少し上り、すぐ下り、車道、というか山越えの道を横切り再び山道に入る。この上りも結構厳しい。が、ほどなく頂上。広場になっている。展望台からは富士山が見える、とか。相模湾の眺めはなかなかよかった。権現山からはよく整備された坂道、というか階段道を下りる。目的の紅葉、盛りにはほど遠い。ちらほら。桜並木の馬場道が続く。途中、秦野がタバコの里であったことを示す記念碑。
秦野とたばこの歴史(掲示案内文);「秦野は、江戸時代初期から、「秦野たばこ」の産地としてその名声を全国に及ほし、味の軽いことから吉原のおいらんに好まれるなど、高く評価されていました。
薩摩たばこは天候で作り、秦野たばこは技術で作る。
水府たばこは肥料で作り、野州たばこは丹精で作る。
と歌にも謳われたように、秦野たばこの特色は優れた耕作技術にありました。特に苗床は、秦野式改良苗床として、全国の産地に普及したほど優秀なものでした。 この苗床には弘法山をはじめ各地区の里山から落ち葉がかき集められ、堆肥として使用されました。秦野盆地を囲む山林はたばこの栽培に欠かすことのできない場所でした。明治時代には、秦野煙草試験場や葉煙草専売所が設置され、たばこの町秦野が発展しました。秦野たばこは水車きざみ機の開発により、大いに生産が拡大しました。また品質の高さから、御料用葉煙草も栽培されました。昭和に入って両切りたばこの需要が増えると、次第に秦野葉の栽培は減少していきました。秦野市が誕生してからは都市化が進み、昭和59年にはたばこ耕作そのものが終わりを告げました。秦野のたばこ栽培は300年以上の長い歴史を持ち、多くの篤農家や技術者を生み出し、その高い農業技術には今日に今なお継承され、秦野地方を埋め尽くしたたばこ畑はなくなっても、優秀な葉たばこを作った先人たちの心意気はこの土地にしっかりと息づいています」と。

弘法山

しばらく歩くと分岐。下ると、めんようの里。いまひとつわかりにくいが、弘法「山」に行くわけだから分岐点を上り方向に進む。わずかに上ると弘法山。弘法大師が修行したとの伝説のある山。山頂には大師の木造を安置した大師堂、井戸、鐘楼などが残る。

峠の切り通しは切通しは矢倉沢往還
次の目的地吾妻山。釈迦堂脇から山道に入る。みかん畑の脇を上りゆったりとした道筋を進み善波峠に。弘法山、吾妻山、大山の分岐点。峠のちょっと手前の階段っぽい崖道にくずれかけた常夜灯がある。これは「文政10年(1827)に旅人の峠越えの安全のために道標として立てられたもの」で「御夜燈」と尊称されている、と。
峠の切り通しには地蔵と馬頭観音。この切通しは矢倉沢往還の道筋。矢倉沢往還の道筋は江戸城の「赤坂御門」が起点。多摩川を二子で渡り、荏田・長津田、国分(相模国分寺跡)を経て相模川を厚木で渡り、大山阿夫利神社の登り口の伊勢原に。さらに西に善波峠を経て秦野、松田、大雄山最乗寺の登り口の関本、矢倉沢の関所に。その後足柄峠を越え、御殿場で南に行き、沼津で東海道と合流する。これが矢倉沢往還の全ルート。矢倉沢往還は古くから人や物が行き交う道。日本武尊の東征の道筋が、足柄峠を通って矢倉沢から厚木まで矢倉沢往還とほぼ同じであったよう。矢倉沢往還は公用の道、信仰の道、物 資流通の道と様々な機能を持つ。
公用の道;徳川家康の江戸入府の折り、箱根の関所の脇関所の一つとして矢倉沢に関所を設ける。関所の名前が街道名の由来。また、後年、人夫・馬を取り替える継立村が置かれ、東海道の脇往還・裏東海道の一つとなった。
信仰の道;江戸時代中期以降、大山信仰が盛んになる。各地から大山詣での道がひらけ、その道を大山道というようになったが、矢倉沢往還は江戸から直接につながっており、大山道の代表格。
物資流通の道:相模、駿河、伊豆、甲斐から物資を大消費地である江戸に運んだ道で、駿河の茶、綿、伊豆のわさび、椎茸、干し魚、炭、秦野のたばこなどが特に有名。

吾妻山へ
分岐を右に。というか、3箇所分岐となっており少々分かりにくい。すこし下る感じの道筋が吾妻山へのオンコース。長い道筋の割には道路標識がなく不安になりながら、ともあれ歩く。1時間近くもあるいたろうか、吾妻山の山頂に。ここからの眺めは結構いい。お勧め。日本武尊の由来書;「日本武尊は、東国征伐に三浦半島の走水から舟で房総に向う途中、静かだった海が急に荒れ出し難渋していました。そこで妻の弟橘比売は、「私が行って海神の御心をお慰めいたしましょう」と言われ、海に身を投じられました。ふしぎに海は静まり、無事房総に渡ることが出来ました。征伐後、帰る途中、相模湾・三浦半島が望めるところに立ち、今はなき弟橘比売を偲ばれ「あずま・はや(ああ、いとしい妻)」」と詠まれた場所がこの吾妻山だと伝えられています」と。

弦巻温泉駅

あとは緩やかな道をひたすら下る。30分もすれば東名高速に。下をくぐり、温泉旅館の看板などを眺めながらのんびりあるくと弦巻温泉弘法の湯。市営の日帰り温泉。一風呂浴びて、弦巻温泉駅から一路自宅に。紅葉見物とはいいながら、紅葉には少々早い秦野散歩ではあった。

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