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先回の散歩で川崎堀がふたつに分かれるそのひとつ、大師堀を川崎大師まで辿った。途中、知らず川崎宿の端を一瞬掠ったこともあり、川崎宿を歩こうか、との思いもあったのだが、結局は、大師堀の対となる町田堀を歩くことにした。 大師堀は、川崎堀からの分流付近に、一瞬だけ「親水公園」といった「水気」もあったのだが、ほとんどが暗渠・埋め立て跡を辿ることになった。
今回の町田堀も、分流点でも水が流れ込んでおらず、知らず鹿島田駅から歩いた町田堀も、その蛇行故に水路跡といった趣はあるも、「水気」なし。上流点がこの有様であれば、下流に水が流れているとも思えないが、二ヶ領用水散歩の「幹線」だけは、とりあえず辿ってみよう、との想いである。



本日のルート;大師堀・町田堀分流点>南武線を潜った川崎堀の出口>川崎堀踏切>大師堀と接近>JR鹿島田駅>「サウザンドシティ」>町田堀ふれあい公園>南武線を潜る>不自然に大きい道路>「町田堀・南河原用水分水点跡」の石柱>江ヶ崎堰跡>矢向二ヶ領公園>二ヶ領踏切>二ヶ領水路地跡の碑>曲がり>良忠寺>最願寺>日枝神社>南武線・尻手駅>南武線を潜る>ごみ処理場脇を進む>旧東海道・市場上町交差点>京浜急行・八丁畷駅



大師堀・町田堀分流点
メモは川崎堀が大師堀と町田堀の分流点からはじめる。また、メモは最寄りの駅である鹿島田駅辺りまでは、先回歩いた「大師堀」のメモをコピー&ペーストする。
南武線を潜った川崎堀は、10mほどコンクリートで護岸工事された水路の先で 鳥居型の遺構を残した川崎堀の終点となり、そこで右に町田堀、左に大師堀と分かれる。分かれるとは言いながら、町田堀へは水が流れている気配がない。また、大師堀に流れた水も暗渠へと吸い込まれる。
既にメモしたように、分流点の東にある平間配水所が、平間浄水場として機能していた頃は、ここに流れきた水は浄水場の水源として利用されたが、配水所となった現在、生田浄水場から送水される水を配水するだけであり、川崎堀をここまで流れてきた水は暗渠を通って多摩川に排水される、とのことである。 因みに、分流点にあった「鳥居」であるが、これは昔の水門(樋管)でよく使われた鳥居型門柱であり、神社の鳥居を模した、というより、昔の水門の遺構を飾りとして残しているのではないだろうか。

南武線を潜った川崎堀の出口
フェンスに囲まれた大師堀・町田堀分流点から少し上流に戻り、南武線下を潜ってきた川崎堀の出口に進む。コンクリートで護岸工事された用水出口を確認し、分流点に戻る。と、フェンスに鉄板の案内があり、道を隔てた東にある平間配水所についての説明があった。かつての平間浄水場、現在の平間配水所については何度かメモしているのだが、頭の整理のために再度説明文を掲載しておく。
●平間浄水場(現 川崎市上下水道局平間配水所)
我が国初の公営工業用水道水源 稲毛・川崎二ヶ領用水余剰水取水口跡 平間浄水場(現 川崎市上下水道局平間配水所)
平間浄水場は、我が国初の公営工業用水道事業として設立された。そのきっかけは、昭和初期の工業勃興期、臨海部での過剰な地下水くみ上げによる地盤沈下が問題となり、その対策としての代替水源確保にあった。
近くの鹿島田地内(幸区)を流れる稲毛・川崎二ヶ領用水の余剰水等1日2万7000立法メートルを取水し、鹿島田、木月、及び北加瀬(中原区)のさく井15ヶ所からの地下水1日5万4000立法メートルの水源をもって建設された。竣工は昭和14(1939)年7月で、当初は平間水源管理所と称していた。
平間浄水場はJR 鹿島田駅と平間駅のほぼ中間地点の川崎市中原区上平間1668番地に位置しており、設立から今日まで工業用水道専用の施設として、臨海部の京浜工業地帯に産業の血液ともいわれる工業用水を安定的に供給し続け、我が国工業の発展に寄与してきた。
その後、昭和48(1973)年のオイルショックを契機に、産業構造の変化に伴う水使用の合理化や工場移転等により、工業用水の需要が急速に減少した。さらに、二ヶ領用水の水質悪化や施設の老朽化で取水を停止していたが、平成15(2003)年に至り、木月・井田さく井の廃止もあり、浄水場としての機能を失うことになった。
その結果、名称も「浄水場」から「配水所」へと変更された。名称が変わっても、上水道から1日4万立法メートルの給水受入れ場所として、また長沢・生田の両浄水場から送水される工業用水の配水中継基地として、昼夜を問わず配水圧力及び水量の調整を行っており、川崎市の工業用水道にとって重要な役割を担っている。
なお、多摩区の稲田取水所では、現在でも二ヶ領用水から日量20万立法メートル(最大能力)を取水し、生田浄水場で工業用水に加工している。
また、平間配水所から配水される工業用水は、主に臨海部の企業、工場で、冷却水、ボイラー用水、洗浄水等に使用され、工業生産推進に貢献している。 二ヶ領用水竣工400年記念の日に
平成23(2011)3月1日
説明の中に「上水道から1日4万立法メートルの給水受入れ場所として」とあるが、これって初めての情報だが、平間配水所内に浄水入水井があり、原水は長沢浄水場及び生田浄水場から送水管で送られているように思える。

川崎堀踏切
分流点から南武線に沿って、水路跡を保護しているようなフェンスに囲まれた道を進むと府中街道に出る。そのすぐ西に南武線「川崎堀踏切」があり、石橋の欄干が踏切手前に残る。





町田堀の石碑
川崎堀踏切が南武線を渡る府中街道を南に越え、南武線に沿って鹿島田駅に続く道と府中街道のコーナーに「町田堀」の石碑がある。石碑には「町田堀は鶴見川北岸一帯(塚越、小田、渡田、江ヶ埼、矢向、市場、菅沢、潮田)の水田を灌漑する農業用水です。二ヶ領用水川崎堀は鹿島田堰の下流で大師河原方面に流れる大師堀(大師河原用水)とこの町田堀に分かれていました。
二ヶ領用水は、江戸時代の初め、徳川家康から新田開発の命を受けた小泉次太夫によって十四年の歳月をかけて慶長十六年(1611)に完成した、県内最古の農業用水です。
多摩区の中野島と宿河原から多摩川の水を取水し、JR南武線久地駅付近で合流した流れは分量樋(現在は昭和十六年築造の円筒分水「国登録有形文化財」)によって分水され、下流の村々の水田を潤しました。
二ヶ領用水の名は、江戸時代の川崎領と稲毛領の二領を流れていたことに由来しています。また、明治時代の初めには、二ヶ領用水から引いた水を開港場横浜の外国人居留地へ供給する、横浜水道にも利用されました。
町田堀は、近年の下流域の市街化に伴い、農業用水路としての本来の役割を終えることになりました。そこで町田堀跡を水の流れがイメージできる散策路として整備し(中略)後世に伝えることになりました」との説明があった。
●横浜水道
ここで気になる記述があった。「外国人居留地へ供給する横浜水道にも利用された」という箇所である。チェックすると、安政6年(1859)開かれた 横浜の外国人居留地へは当初、船で水を運んでいたようであるが、それも限界があり神奈川県は水道施設を計画。水源を多摩川・二ヶ領用水に求めることにした。 最初の案では久地の分量樋の下流辺りから延々32キロ引くことを考えた。
が、この案は距離の問題もさることながら、用水沿いの村からの了承を得ることが困難で、結局ずっと下流の鹿島田堰の下あたりから水を引くことになった。その見返りとして二ヶ領用水の管理費は県(横浜水道)が負担するということになる。
この水道事業に横浜の大商人達が興味を示し、出来たのが横浜水道である。明治4年(1871)に木樋建設に着手、明治6年(1873)民間事業としてスタートするも横浜水道は破たんする。
その最大の要因は漏水問題。当時は鉄管でなく木樋で水を通したため途中で半分位に水が減り経済的に成り立たず、また料金未払いも多く、結局翌7年(1874)、事業を神奈川県に引き継ぎ解散する。
神奈川県は水道事業を英国人パーマー氏に委託。明治16年(1883)より計画がスタートし明治20年(1887)完成。水源は道志川水系に求めることになった。これが鉄管を使った近代水道の始まりである。思いもかけず横浜水道みちに出合った相模台地散歩、水路橋を辿った「横浜水道みち散歩」が思い起こされる。

大師堀と接近
町田堀石碑の先は、緑道風に整備され、如何にも水路跡をイメージするような塗装が道に施されている。蛇行する道を進むと、二股に分かれ、水路跡の道筋は左手を進むことになる。
少し進むと、民家を一軒隔てて大師堀と町田堀が並走する場所がある。町田堀はその先も少し緑道っぽいペイントが施されているが、それもほどなく終り、普通の道となって鹿島田駅前からの道路に当たる。



JR鹿島田駅
駅の南は線路の両側とも再開発の高層住宅群が立ち並ぶ。一方今歩いてきた北側は昔ながらの家並みではある。
駅の名前は地名から。その地名は駅の西にある村の鎮守・鹿島田大神社から。鎌倉の頃、この地を開いた村人が鹿島神宮を勧請し、水田を社に寄進したことに拠る。鹿島の社の田、というところだろう。もとは、更に西、かつての「新鶴見操車場」の辺りにあったとのことだが、新鶴見操車場の建設に伴い、昭和2年(1927)に現在の地に移された。
●新鶴見操車場
新鶴見操車場が始動したのは昭和4年(1929)。発展著しい京浜工業地帯への原材料や製品などの貨物輸送ルートが焦眉の急となり、品川と鶴見駅を結ぶ貨物路線が建設され(品鶴線)、その貨物操車場としてスタートした。南武線が武蔵小杉で大きくカーブしているのは、元々の計画路線であった二ヶ領用水・府中街道沿いの敷設ルートが新鶴見操車場にあたるため、それを避けるべく大きく迂回した、とのことである。
京浜工業地帯の貨物輸送の幹線として、最盛時は1日5000両もの貨物を捌いたこの操車場も、鉄道輸送の需要減少に伴い昭和59年(1984)、信号所としての機能を残し、操車場の機能は廃止となった。
■JR新川崎駅
新鶴見操車場跡に新川崎駅がある。JR川崎駅とは結構離れており、名称も含めちょっと気になりチェック。昭和55年(1980)開業のこの駅は、当初「新鹿島田操車場」との案もあったようだが、この路線の開かれる契機が、混雑する東海道線から横須賀線を分けることにあった。貨物線として開かれた品鶴線をバイパス路線として活用し横須賀線を通す、といったこともあり、それなら品川と鶴見の間にある「川崎駅」の代替駅でしょうと、言うとこで「新川崎駅」となったようだ。
新川崎駅には開業時は横須賀線(横須賀・総武快速電車)が走ったが、平成13年(2001)からは湘南新宿ラインの列車も走るようになった。また、貨物列車も大半は新東海道貨物線や武蔵野線に移されたが、現在でも品鶴線から山手貨物線を経由して東海道と東北方面を結ぶ貨物列車も走っているとのことである。

因みに、貨物線として開かれた品鶴線であるが、この路線跡は新幹線の路線としても活用されている。新幹線建設時、用地確保が困難なため、品川から武蔵小杉辺りまでは品鶴線を活用し、武蔵小杉の先で東へと分かれる。前々から、品川を出た新幹線が何故に急なカーブで進むのか不思議ではあったのだが、これで長年の疑問が解消された。ものごとには、須(すべから)らく、その理由があるものである。

「サウザンドシティ」
町田堀は、鹿島田駅から東に延びる道路とクロスした後、道の南に建つはショッピングモール、クリニックを併設した大型マンション「サウザンドシティ」の敷地へと消える。
鹿島田駅周辺には高層マンションやビルが並ぶ。鹿島田駅と新川崎駅の間には「パークシティ新川崎」、そして2棟のツインビル「新川崎三井ビルディング」。1700余の戸数をもつ「パークシティ新川崎」の完成は昭和63年(1988)、「新川崎三井ビルディング」は平成元年(1989)、「サウザンドシティ」は平成16年(2004)。これらの駅前再開発は昭和55年(1980)、旅客線として開業し、東京<>横浜へのアクセスが容易となった新川崎駅が契機になったことは言うまでもないだろう。「今昔マップ 首都圏1965‐68」にはその敷地に工場のマークが見えるので、工場跡地を再開発したのだろう。
なお、新鶴見操車場跡は研究開発施設、公園、住居などからなる複合的な機能を持った、新しい街が生まれる計画とのことである。

町田堀ふれあい公園
親水公園らしき水辺が再現されるも、基本「サウザンドシティ」を潜ってきた町田堀は、町田堀ふれあい公園の南で暗渠となって姿を現す。南武線に沿った道の左右が色分けされているのが、如何にも「怪しい」。線路側の道の下を暗渠が通っているのだろう。






南武線を潜る
道を進むと、一直線に伸びた道路が一瞬斜め右に折れ、再び線路に沿って下る。町田堀はこの斜め右に折れた方向のまま、線路を潜っているようだ。線路を潜る手前に石の遺構のようなものが残る。何か水路に関係あるものだろうか。






不自然に大きい道路
踏切が近くにないため、大きく南に下り、踏切を越え、南武線の西側に渡り、五差路となった交差点を北に折れ町田堀が南武線を潜った先に進む。それにしても、不自然に大きな道である。下に水路があるサインのように思える。

「町田堀・南河原用水分水点跡」の石柱
一応、町田堀の南武線を潜った出口を確認し、来た道を戻り、五差路の交差点を如何にも水路跡らしきカーブをもつ南西に下る道を辿る。道なりに進むと道がふたつに分かれる。町田堀は右、左は南河原用水とのことである。分水点地点には「町田堀・南河原用水分水点跡」と刻まれた石柱がある。結構新しい。どうも幸区が建てたもののようである。
●南河原用水
「川崎市・二ヶ領用水マップ」に拠れば、この地で分かれた南河原用水は、しばらく南に下った後、流路を南東に変え、南武線・矢向駅辺りを経て第二京浜・都町交差点辺りで再び流路を変え、第二京浜に沿って下り、南武線尻手駅辺りへと下っているように見える。

江ヶ崎堰跡
分岐点を右に道を取り、先に進むと横須賀戦に近づく。最接近した辺りで道は南東に方向を変えるが、その角辺りに江ヶ崎堰があったようだ。現在は工場敷地となっており、その名残はない。
江ヶ崎堰跡辺りで、川崎市幸区塚越町から横浜市鶴見区矢向町に入る。江ヶ崎町は横須賀線の西側となっている。
●江ヶ崎堀
「川崎市・二ヶ領用水マップ」に拠れば、この地で分かれた江ヶ崎堀は、横須賀線を西に越え、江ヶ崎地域を南に下り、鶴見川の方向に下っているように見える。

矢向二ヶ領公園
江ヶ崎堰跡から南東へと、南武線矢向駅に続く道の最初の分岐で町田堀は南に折れる。その分岐点には南河原用水堰があったようだが、今はその痕跡はない。 分岐点を南に折れた直ぐのところに「矢向二ヶ領公園」があった。この公園の少し南辺りから南河原用水が南武線矢向駅方面へと向かっていたようである。





二ヶ領踏切
道なりに先に進むと踏切があり「二ヶ領踏切」とある。「尻手短絡線」と言う貨物線の線路であった。
●尻手短絡線
品鶴線(横須賀線)新鶴見信号場と南武線尻手駅を結ぶ貨物線。尻手駅は南武線の本線のほか、浜川崎駅方面の支線(浜川崎支線、旅客案内では「南武支線」)が繋がっており、浜川崎支線・尻手短絡線を経由して、新鶴見信号場 と浜川崎・川崎貨物・東京貨物ターミナル駅方面を結ぶ貨物列車が走り、また機関車の回送が行われているようだ。

二ヶ領水路地跡の碑
道を進み、矢向小学校の北側からの道とクロスする地点に石柱が建つ。「NPO 多摩川エコミュージアム 散策こみち案内」に拠れば、「この辺りの旧町田堀跡地が、1972(昭和47)年に払い下げとなり、道路と緑地帯に整備された。その一角に、用水堀に架かっていた橋の石材を利用して、水路跡地の記念碑として建てられた。碑石の片隅に「紀元二千五百五十年明治二十六年十一月、町田村矢向ほか下郷村々と刻まれている」とある。因みに紀元二千五百五十年とは、西暦とは異なり、神話上の初代天皇とされる神武天皇即位から数えて2550年、ということである。
二ヶ領水路地跡の碑の脇に「稲毛・川崎二ヶ領用水路」の説明とラフな水路図があるが、特に目新しいこともないので説明文は省略する。



曲がり
道は矢向幼稚園の先、直進路は細路となり、T字路といった趣の道となる。かつて町田堀は、このT字路で右の良忠寺方面へと曲がっており、この「曲がり」と称されるコーナーには良忠寺の石橋があったようだ。






良忠寺
「准秩父三十四観世音菩音霊場 午歳開帳」と書かれた、幾多の赤い幟の間を境内に。本堂にお参りし、12年に一度の御開帳となっている如意輪観音を拝観に観音堂に。延享4年(1747)創建の観音堂の石段を上り観音さまにお参りする。 赤い幟にあった「准秩父三十四観世音菩音霊場」とは、横浜・川崎にある観音巡礼する札所霊場。良忠寺は十六番霊場であった。




●じざう橋跡
境内に二ヶ領用水に架かっていた地蔵橋の親柱が残るとのこと。境内を彷徨うと、矢止め地蔵堂の少し前に、少し土に埋もれた橋柱が残り、「じざうはし」と刻まれていた。
●矢止め地蔵堂
「NPO 多摩川エコミュージアム 散策こみち案内」に拠れば、矢止め地蔵堂には新田義貞にまつわる伝説が伝わる、と。元弘3年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めのとき、鎌倉の北条勢と鶴見で合戦となる。この合戦で義貞の嫡子義興が矢口の渡しで「地蔵菩薩」の名号を記した強弓を引く。その矢は塚越の塚を越え、この矢向まで飛び、老松の幹に突き当たった、と。で、如何なるロジックか不明だが、地元人はその松の下に地蔵を祀り、矢止め地蔵と名付けたとのことである。また、それまで「夜光村」と呼んでいた地名を、矢が向かったことから、「矢向村」とし、矢が塚を越した辺りを「塚越」としたとのことである。
■塚越
塚越は良忠寺のある矢向地区の北。どうでもいいことだけど、矢が越した「塚」って本当にあるの?チェックすると多摩川沿いの地であるのに珍しく古墳が塚越2-18辺りに、また塚越1-6 御嶽神社のところにも塚があるとのことであった。地名の由来も、矢が塚を越したとの説のほか、往還道が二つの塚を越して行くからとか、そもそもが塚越の越は「腰」と表記されることもあり、それゆえに塚の腰=塚の下辺部からとも説もあるようだ。地名の由来に定説なしが誠に多い。

●身代わり地蔵
このお寺さまには、奇端譚としてよく聞くパターンではある、身代わり地蔵の話も伝わる。継母が先妻の子供を邪魔で殺し亡骸を隠す。が、子供は無事に継母の前に現れ、亡骸を隠したところにはお地蔵様が横たわっていた。継母は行いを悔い改め、夫はそのお地蔵様を良忠寺に奉納した。
で、この話には後日談があり、先妻の子・寅吉は江戸日本橋の漬物問屋に奉公に出される。寅吉は良く働き店の主人の婿となる。その寅吉から数えて9代目・大木寅吉は「福神漬け」を考案。7種の漬物のカスを集めたものであり、七福神にあやかった命名と言う。時は日清日露戦役の頃。日持ちもよく、幸運を呼ぶ名前故に軍より大量の買い付けをうけ、大商いになった、とか。先ほどメモした観音堂の改築に貢献したとのことである。

ありがたいお話の残るこのお寺様の由緒について、境内の石碑にその案内があり、「記主山 然阿院 良忠寺 由緒沿革 鎌倉時代仁治元年(1240)浄土宗第三代然阿良忠が霊夢により古川(現鶴見川)の岸より薬師如来の尊像を得て、これを安置するために起立したのが良忠寺の草創である。
良忠上人は鎌倉大本山光明寺を開き、多数の書物を著し、為に正応6年(1293)良忠上人七回忌にあたり伏見天皇より記主禅師の号を賜り、以来寺の山号を記主山と称す。
正徳2年(1712)5月、祐天上人により京都総本山知恩院の直末寺院に配せられ、良忠寺41世讃誉徹玄上人に、祐天上人の助縁により本堂等を改築、明和6年4月(1769)には梵鐘、山門等が再建された。
第二次世界大戦において、明和6年鋳造の梵鐘は他の仏具共々供出されるが、昭和25年11月に時の内閣総理大臣吉田茂氏揮毫による梵鐘如雷震八音暢妙響の八文字を梵鐘に鋳込み再建された(後略)」と刻まれる。

●良忠上人
案内を読むに、良忠寺は浄土宗第三代の高僧が起立し、謚号の記主、諱の然阿(ねんな)、そしてその名前をそのまま残す由緒あるお寺さまであった。記主とは聞きなれない言葉だが、仏教用語で「その宗派の重要な経綸について、規範的な注釈をした人」とある。平たく言えば、その宗派の教義を説く第一人者、というところだろうか。
鎌倉中期、島根の生まれ。比叡山で受戒し天台・倶舎・法相・禅・律などを学んだ後故郷に戻るも、九州で布教中の浄土宗第二代弁長の弟子となり、その力を認めら事実上の後継者となる。
一度故郷に戻り安芸地方の布教に努めた後、京から信濃、そして下総での布教に努め、その後鎌倉に入りその不動の名声を得るところとなる。鎌倉での基盤を強固とした後、京における浄土教学の弱体化を憂う弟子の要望で上洛し、在京11年、布教・教義著述に努め、鎌倉に戻り89歳で入寂した。記主禅師の謚号は滅後7年の永仁元年(1293年)に伏見天皇より贈られたものである。
■祐天上人
Wikipediaに拠れば、「祐天は陸奥国(後の磐城国)磐城郡新妻村に生まれ、12歳で増上寺の檀通上人に弟子入りしたが、暗愚のため経文が覚えられず破門され、それを恥じて成田山新勝寺に参篭。不動尊から剣を喉に刺し込まれる夢を見て智慧を授かり、以後力量を発揮。5代将軍徳川綱吉、その生母桂昌院、徳川家宣の帰依を受け、幕命により下総国大巌寺・同国弘経寺・江戸伝通院の住持を歴任し、正徳元年(1711年)増上寺36世法主となり、大僧正に任じられた。晩年は江戸目黒の地に草庵(現在の祐天寺)を結んで隠居し、その地で没した。享保3年(1718年)82歳で入寂するまで、多くの霊験を残した。
◆累ヶ淵の説話
祐天の奇端で名高いのは、下総国飯沼の弘経寺に居た時、羽生村(現在の茨城県常総市水海道羽生町)の累という女の怨霊を成仏させた累ヶ淵の説話である。この説話をもとに多くの作品が創作されており、曲亭馬琴の読本『新累解脱物語』や、三遊亭円朝の怪談『真景累ヶ淵』などが有名である」とある。
多くの寺の建立・再建に尽力したようであり、このお寺さまもそのひとつだろうか。
■吉田茂
吉田茂が何故に?大磯の別邸への行き帰り、昭和27年(1952)、「国道1号」と命名された尻手駅の脇を通る国道を利用していたわけで、なんらかの縁があっても不思議ではない。

最願寺
良忠寺を離れ、すぐ横の最願寺に。良忠寺隅を曲がった町田堀は、良忠寺山門前で再び流路を左に切り、最願前の通りを下る。
山門を潜り、本堂にお参り。境内に「最願寺の板碑」の案内があり、「最願寺は、延慶山実相院といい、浄土真宗に属し、創立は延慶元年(1308)と伝えられ、開基は宇多源氏源三秀義の末流宗重といわれています。
はじめは真言宗でしたが、慶長年間(1596-1614)に祐源が、東本願寺の如上人に帰依し真宗に改め、元禄10年(1697)第6世良賢が西本願寺派第14代寂如上人に帰参し現在にいたっています。
本堂前の碑は、緑泥片岩の本格派板碑で、碑高165センチ彌陀三尊の種字及び観無量寿経の一説、「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」と、延慶2年(1309)2月9日の銘があります。
この板碑は、当山開山の墓碑とも伝えられ、鎌倉時代後期の造立として貴重なものです。『新編武蔵風土記稿』には「古碑一基。境内墓所の入口にあり。青石の板碑にて長四尺余、幅一尺許なり。延慶二年二月九日と記せり。寺傳に往古真言宗なりし時の開山の墳なりといへり(鶴見区役所)」とあった。
●種字(しゅじ)
種字って?チェックすると、密教において、仏尊を象徴する一音節の呪文(真言)を種子といい、それを梵語で表記したものを種子字または種字と称するようだ。板碑の上部方形の輪郭内に阿弥陀三尊の種字、中央下に年号、両側に光明真言偈を四行に彫出する、とのことだが、門外漢にはよくわからなかった。
●白衣観音
「NPO 多摩川エコミュージアム 散策こみち案内」には、白衣観音の話が説明されていた。説明に拠ると、「白衣観音といい、もと日枝神社の本地仏で御神体。神仏混淆時代の名残だ。かつて多摩川が矢向の内を流れていたころ、日枝神社の裏手付近に漂着した。夜だったので、川面に光を放っているのを見て、村人が不思議に思い、拾い上げると、座像の美しい白衣観音だった。最願寺に届けられ、山王社の御神体になったという。いまは、最願寺の本堂に安置されている」とあった。
■日枝山王権現
最願寺に届けられたのは、神仏混淆の時代、最願寺が日枝神社(山王権現)の別当であったためであろう。因みに、山王権現=日枝(日吉)山王権現って、、神+仏+神仏習合の合作といった命名法。日吉(日枝)は、もともと比叡山(日枝山)にあった山岳信仰の神々のこと。日枝(日吉)の神々がいた。次いで、伝教大師・最澄が比叡山に天台宗を開き、法華護持の神祇として山王祠をつくる。山王祠は最澄が留学修行した中国天台山・山王祠を模したもの。ここで、日吉の神々と山王(仏)が合体。権現は仏が神という仮(権)の姿で現れている、という意味。つまりは、仏さまが日吉の神々という仮の姿で現れ、衆生済度するということである。
■夜光村から矢向村へ
夜に光輝く白衣観音を山王権現(現、日枝神社)に祀(まつ)ったことから、この地を「夜光村」と成したが、その後、良忠寺の矢止め地蔵の話にあった、矢が向かったことから「矢向村」へとした、と言う。ちょっと出来過ぎ?「矢向」とは「川の合流するところ」というのが、矢向の字義とする説がある。

日枝神社
最願寺の北にある日枝神社にちょっと立ち寄り。一の鳥居、二の鳥居を潜り社殿にお参り。
「NPO 多摩川エコミュージアム 散策こみち案内」には、「寛永15年(1638)の創建で、古くは矢向・市場・塚越・古川・下平間・上平間など7ヶ村の鎮守だった。天保年間の末ころに、各村は分離して、矢向村だけの鎮守となった。明治6年(1873)に山王社を日枝神社と改称、明治42年(1909)には付近の十二天神社、神明社、稲荷社を合祀した」とあった。

南武線・尻手駅
最願寺を離れ、道なりに進む。水路の名残を残すような蛇行道を進むと南武線・尻手駅前を東西に通る県道140号とクロスする。場所は駅の少し西の交差点である。
●尻手駅
南武線・尻手駅は上でメモしたように品鶴線(横須賀線)新鶴見信号場と南武線尻手駅を結ぶ貨物線である尻手短絡線の始点。
品鶴線(横須賀線)新鶴見信号場と南武線尻手駅を結ぶ貨物線。尻手駅で浜川崎駅方面の支線(浜川崎支線、旅客案内では「南武支線」)と繋がり、浜川崎支線・尻手短絡線を経由して、新鶴見信号場 と浜川崎・川崎貨物・東京貨物ターミナル駅方面を結ぶ貨物列車が走り、また機関車の回送が行われている。
■尻手の「泣き別れ」
それはともあれ「尻手」って地名にフックがかかる。チェックすると、地名の由来はそれほど色気があるものではなく、尻=最後、手=方向、ということで、「ある地域の端」と言うことになる。ある地域は比定できず、多摩川とも矢向村とも言う。
で、尻手の地名の由来をチェックしていると、尻手駅は川崎市幸区南幸町にあり、尻手町は尻手駅の南の横浜市鶴見区となっている。要は尻手駅は尻手町に無い、ということである。
同じようなケースに東京の品川駅が品川区ではなく港区に、目黒駅が目黒区ではなく品川区にあることを想い起す。品川駅は、品川区が出来る前から、"品川"という名称を名乗っていたためであり、 目黒駅は路線に近い目黒川との関連性が強い、といったように、その成り立ちは様々であるが、この尻手はどういった経緯かチェックする。
と、尻手駅が開業したのは昭和2年(1927)。当時、この地は橘樹郡鶴見町市場字尻手と呼ばれており、駅名は字名から取られた駅名であろうか。駅の所在地はその後、横浜市に編入され鶴見区市場町となるも、昭和19年(1944)以降は、川崎市に編入され所在地は南幸町となっている。この時点で尻手町と言う町名は川崎からも横浜からも消え去っている。
で、尻手町が「再浮上」したのは昭和43年(1968)のこと。横浜市鶴見区の市場町と矢向町の一部が分かれ尻手町が生まれた。これが、尻手駅の駅名と地名の泣き別れの理由である。パターンとしては品川駅に近いよう。

南武線を潜る
道なりに進む。如何にも水路跡といった「曲がり」の道を進み、国道1号・第二京浜を越えると南武線手前で道はふたつに分かれるが、町田堀は左の南武線を潜る道のようである。







ごみ処理場脇を進む
南武線を越え広い道を進み、川崎市環境局堤根処理センター(ごみ処理場)の塀に沿ってT字に右に曲がり、南武線の高架を潜り、ヨネッティ(ごみ処理の「余熱」の洒落とコミュニティ・アメニティの「ティ」を組み合わせた命名)堤根という温水プールの先で直角に曲がり大きな道に出る。道のさきには東海道線の踏切があった。

旧東海道・市場上町交差点
東海道線の踏切辺りでは水路の名残はまったくないのだが、踏切を越えた左手にある自動車教習所の南から、なんとなく水路っぽい道が八丁畷駅から西に鶴見へと続く道の「市場上町」交差点にあたる。「川崎市・二ヶ領用水マップ」に拠れば、「町田堀」はこの辺りで終り、その先は「菅沢潮田用水」として二つに分かれているように見える・
●菅沢潮田用水
「川崎市二ヶ領用水マップ」に拠れば、旧東海道・市場上町交差点で二つに分かれた菅沢潮田用水のうち、左に分かれた用水は、南に下り菅沢地区、潮田地区を経て海に向かう。一方右に分かれた菅沢潮田用水は国道15号・第一京浜の辺りで3つの流れに分かれる。
左手の用水は「菅沢潮田用水(仮に「菅沢潮田用水2」とする)」として、旧東海道・市場上町交差点で分かれた菅沢潮田用水に並行して、菅沢地区、潮田地区へと南に下る。真ん中の用水は「小田堀」として南東の小田地区へと向かう。小田水門跡といった交差点もあるので、その辺りへと流れていったのだろう。
そして右手に分かれた用水は「池田堀」として南武線・川崎新町方面へと向かい、渡田地区を潤した後、再び流路を南西に変え、南武線を西に越え田辺新田辺りへと続いているようである。

京浜急行・八丁畷駅
本日の散歩お終い。南武線・八丁畷駅へと向かう。駅脇に石塔が建ち、「八丁畷の由来と人骨」 の案内があり、、「江戸日本橋を出発点とする東海道は、川崎宿を過ぎてから隣の市場村(現在の横浜市鶴見区尻手・元宮・市場の辺り)へいたります。この区間は八丁(約八七〇メートル)あり、畷といって、道が田畑の中をまっすぐにのびていましたので、この地を八丁畷と呼ぶようになりました。
八丁畷の付近では、江戸時代から多くの人骨が発見され、戦後になっても、道路工事などでたびたび掘り出され、その数は十数体にも及びました。これらの人骨は、東京大学の人類学の専門家によって科学的に鑑定され、江戸時代ごろの特徴を備えた人骨であることが判明しました。 江戸時代の記録によりますと、川崎宿では震災や大火・洪水・飢饉・疫病などの災害にたびたび襲われ、多くの人々が落命しています。おそらく、そうした災害で亡くなった身元不明の人々を、川崎宿のはずれの松や欅の並木の下にまとめて埋葬したのではないでしょうか。
不幸に して落命した人々の霊を供養するため、地元では昭和九年、川崎市と図ってここに慰霊塔を建 てました」とあった。
往昔は田畑の中を真っ直ぐ延びた八丁の畷は今は住宅が立ち並び、その面影は何もない。京浜急行・八丁畷駅に到着。と、東西に走る京浜急行以外に、南北に走る路線、東海道線に向かって弧を描く路線がある。チェックすると、南北に走る路線は南武線、弧を描く路線は東海道貨物線であった。
●東海道貨物線
Wikipediaに拠れば、「東海道貨物線(とうかいどうかもつせん)は、東京都港区の浜松町駅と神奈川県小田原市の小田原駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)東海道本線の貨物支線および複々線区間、南武線の貨物支線の通称である」とある。が、実際は浜松町駅から東京貨物ターミナルまでは現在休止中であり、東京貨物ターミナルを出るとすぐトンネルに入り、川崎貨物ターミナル手前で地上に出る。川崎貨物ターミナルから浜川崎駅に進み、浜川崎駅からは八丁畷駅までは南武線浜川崎支線(南武支線)の区間となり、川崎新町駅までは旅客電車と線路を共用し川崎新町駅構内で東海道貨物線の線路から南武線の線路が分岐することになる。
この先、八丁畷駅までは複線の東海道貨物線と単線の南武線との3線で進み、八丁畷駅から南武線と分かれ、東海道線・京浜東北線に向かって弧を描き、東海道線・京浜東北線並行する。そして右側から品鶴貨物線が各線を跨ぎ、鶴見川を渡った先で東海道貨物線と合流。鶴見駅に至る。鶴見駅は京浜東北線と鶴見線のみに旅客ホームがあるが、東海道貨物線と品鶴貨物線・高島線が分岐するジャンクションとなっている。

二ヶ領用水も稲田堤から二ヶ領本線を下り、久地の円筒分水から川崎堀を鹿島田まで南下し、そこでふたつに分かれる大師堀と町田堀を、川崎の臨海部まで辿った。途中いくつか気になる二ヶ領支川があるのだが、次回は大師堀散歩の時に一瞬掠り、また町田堀で知らず出合った東海道「川崎宿」を六郷橋から八丁畷まで歩いてみようと思う。また、時間次第ではあるが、町田堀散歩で登場した「小田水門跡」が如何なる風情の地か歩いてみようとも思う。

二ヶ領用水散歩も上河原堰からはじめ、二ヶ領本川を下り、宿河原堰からの用水合流点を経て、久地の円筒分水に。そこから本流である川崎堀が大師堀と町田堀に分かれる鹿島田の分岐点まで下った。
今回は鹿島田の分岐から大師堀を川崎大師方面へと辿ることにする。「NPO 多摩川エコミュージアム 散策こみち案内」に拠れば、大師堀は大師河原用水とも呼ばれ、その先は古川・戸手・幸町(幸区)などを抜けて、東海道を渡り、旧川崎町や旧大師河原村(以上川崎区)一帯の水田を潤していた。
また、下流地帯には、出来野川、観音川、新川、竜飛川などの小河川があり、いずれも二ヶ領用水の悪水堀の役割を果たしていた」とあった。

古川は鹿島田分岐点から南東に進んだ府中街道の手前一帯、戸手は府中街道と国道1号・第二京浜が交差する辺り、幸町は国道1号を少し南に下った一帯である。また、出来野川は比定できないが、明治の地図には川崎大師の南に東西に走る水路らしき筋がありそこに「出来野」とある。観音川は現在の川崎貨物駅の南、JFEスティール工場東辺りを流れていたよう。新川はJR川崎駅の南、第一京浜の新川橋交差点から南に延びる新川通には、かつて「新川堀」が流れていたとのこと。竜飛川は不明(天飛川という悪水堀は渡田村(鶴見線浜川崎付近)にあったようだ)。
大師堀は川崎大師辺りで終ることなく、支流・細流がいくつも別れ、悪水堀となって海に流れ込んでいるようだ。元より、昔の海岸線は臨海工場地帯となっており、どこまで辿れるかよくわからないが、とりあえず地形の「ノイズ」を頼りに流路跡を歩いてみようと思う。


本日のルート;JR鹿島田駅>川崎堀踏切>大師堀・町田堀分流点>南武線を潜った川崎堀の出口>平間緑道公園>日本最初の工業用水の案内>府中街道と交差>大師堀の案内>「サウザンドシティ」の東を水路が下る>古川の石井家>下平間古川小向悪水>戸手浄水場跡>戸手前河原悪水>東海道本線六郷川橋梁>五ヶ村悪水>京浜急行電鉄・六郷川鉄橋>京急大師線>中島堀>旧東海道・川崎宿>六郷橋>「長十郎梨のふるさと」の案内>「明治天皇六郷渡御碑」>「川崎大師の石灯籠」>「史跡 東海道川崎宿 六郷の渡し」>京浜急行大師線・港町駅>医王寺>鈴木町駅前>若宮八幡>川崎大師平間寺




JR鹿島田駅
川崎堀が大師堀と町田堀に分かれる分岐点最寄りの駅であるJR南武線・鹿島田駅に。駅の南は線路の両側とも再開発の高層住宅群が立ち並ぶ。一方北は昔ながらの家並みではある。
駅の名前は地名から。その地名は駅の西にある村の鎮守・鹿島田大神社から。鎌倉の頃、この地を開いた村人が鹿島神宮を勧請し、水田を社に寄進したことに拠る。鹿島の社の田、というところだろう。もとは、更に西、かつての「新鶴見操車場」の辺りにあったとのことだが、新鶴見操車場の建設に伴い、昭和2年(1927)に現在の地に移された。
●新鶴見操車場
新鶴見操車場が始動したのは昭和4年(1929)。発展著しい京浜工業地帯への原材料や製品などの貨物輸送ルートが焦眉の急となり、品川と鶴見駅を結ぶ貨物路線が建設され(品鶴線)、その貨物操車場としてスタートした。南武線が武蔵小杉で大きくカーブしているのは、元々の計画路線であった二ヶ領用水・府中街道沿いの敷設ルートが新鶴見操車場にあたるため、それを避けるべく大きく迂回した、とのことである。
京浜工業地帯の貨物輸送の幹線として、最盛時は1日5000両もの貨物を捌いたこの操車場も、鉄道輸送の需要減少に伴い昭和59年(1984)、信号所としての機能を残し、操車場の機能は廃止となった。
■JR新川崎駅
新鶴見操車場跡に新川崎駅がある。JR川崎駅とは結構離れており、名称も含めちょっと気になりチェック。昭和55年(1980)開業のこの駅は、当初「新鹿島田操車場」との案もあったようだが、この路線の開かれる契機が、混雑する東海道線から横須賀線を分けることにあった。貨物線として開かれた品鶴線をバイパス路線として活用し横須賀線を通す、といったこともあり、それなら品川と鶴見の間にある「川崎駅」の代替駅でしょうと、言うとこで「新川崎駅」となったようだ。
新川崎駅には開業時は横須賀線(横須賀・総武快速電車)が走ったが、平成13年(2001)からは湘南新宿ラインの列車も走るようになった。また、貨物列車も大半は新東海道貨物線や武蔵野線に移されたが、現在でも品鶴線から山手貨物線を経由して東海道と東北方面を結ぶ貨物列車も走っているとのことである。

因みに、貨物線として開かれた品鶴線であるが、この路線跡は新幹線の路線としても活用されている。新幹線建設時、用地確保が困難なため、品川から武蔵小杉辺りまでは品鶴線を活用し、武蔵小杉の先で東へと分かれる。前々から、品川を出た新幹線が何故に急なカーブで進むのか不思議ではあったのだが、これで長年の疑問が解消された。ものごとには、須(すべから)らく、その理由があるものである。

府中街道・川崎堀踏切
鹿島田駅から先回の散歩で終了した地点である、川崎堀が大師堀と町田堀に分流する地点へと向かう。東口に下り、商店街を進むと、如何にも水路跡らしき道筋に出合う。水の流れをイメージした塗装が施され、駅からの道の一筋東を南に進む道筋を見遣りながら水路跡らしき道を進むと、先回の散歩で辿った「川崎堀」踏切に当たる。古き石橋の欄干が踏切手前に残る。
その水路跡らしき道が府中街道とクロスする角に石碑があり「町田堀(町田用水)」とあった。如何にも水路跡らしき道筋は町田堀跡であった。 思わず知らず町田堀跡に出合ったが、今回は大師堀散歩の予定。町田堀歩きは次回以降とし、大師堀と町田堀の分流点へと進む。
町田堀
石碑にあった町田堀の案内をメモする;町田堀は鶴見川北岸一帯(塚越、小田、渡田、江ヶ埼、矢向、市場、菅沢、潮田)の水田を灌漑する農業用水です。二ヶ領用水川崎堀は鹿島田堰の下流で大師河原方面に流れる大師堀(大師河原用水)とこの町田堀に分かれていました。
二ヶ領用水は、江戸時代の初め、徳川家康から新田開発の命を受けた小泉次太夫によって十四年の歳月をかけて慶長十六年(1611)に完成した、県内最古の農業用水です。
多摩区の中野島と宿河原から多摩川の水を取水し、JR南武線久地駅付近で合流した流れは分量樋(現在は昭和十六年築造の円筒分水「国登録有形文化財」)によって分水され、下流の村々の水田を潤しました。
二ヶ領用水の名は、江戸時代の川崎領と稲毛領の二領を流れていたことに由来しています。また、明治時代の初めには、二ヶ領用水から引いた水を開港場横浜の外国人居留地へ供給する、横浜水道にも利用されました。
町田堀は、近年の下流域の市街化に伴い、農業用水路としての本来の役割を終えることになりました。そこで町田堀跡を水の流れがイメージできる散策路として整備し(中略)後世に伝えることになりました。
●横浜水道
ここで気になる記述があった。「外国人居留地へ供給する横浜水道にも利用された」という箇所である。チェックすると、安政6年(1859)開かれた 横浜の外国人居留地へは当初、船で水を運んでいたようであるが、それも限界があり神奈川県は水道施設を計画。水源を多摩川・二ヶ領用水に求めることにした。
最初の案では久地の分量樋の下流辺りから延々32キロ引くことを考えた。 が、この案は距離の問題もさることながら、用水沿いの村からの了承を得ることが困難で、結局ずっと下流の鹿島田堰の下あたりから水を引くことになった。その見返りとして二ヶ領用水の管理費は県(横浜水道)が負担するということになる。
この水道事業に横浜の大商人達が興味を示し、出来たのが横浜水道である。明治4年(1871)に木樋建設に着手、明治6年(1873)民間事業としてスタートするも横浜水道は破たんする。
その最大の要因は漏水問題。当時は鉄管でなく木樋で水を通したため途中で半分位に水が減り経済的に成り立たず、また料金未払いも多く、結局翌7年(1874)、事業を神奈川県に引き継ぎ解散する。
神奈川県は水道事業を英国人パーマー氏に委託。明治16年(1883)より計画がスタートし明治20年(1887)完成。水源は道志川水系に求めることになった。これが鉄管を使った近代水道の始まりである。思いもかけず横浜水道みちに出合った相模台地散歩、水路橋を辿った「横浜水道みち散歩」が思い起こされる。



大師堀・町田堀分流点
線路脇に続くフェンスで囲まれた水路跡の中を先に進むと鳥居型の遺構を残した川崎堀の終点、大師堀・町田堀の分流点に到着する。分流点では右に町田堀、左に大師堀と分かれる。分かれるとは言いながら、町田堀へは水が流れている気配がない。また、大師堀に流れた水も暗渠へと吸い込まれる。
既にメモしたように、分流点の東にある平間配水所が、平間浄水場として機能していた頃は、ここに流れきた水は浄水場の水源として利用されたが、配水所となった現在、生田浄水場から送水される水を配水するだけであり、川崎堀をここまで流れてきた水は暗渠を通って多摩川に排水される、とのことである。 因みに、分流点にあった「鳥居」であるが、これは昔の水門(樋管)でよく使われた鳥居型門柱であり、神社の鳥居を模した、というより、昔の水門の遺構を飾りとして残しているのではないだろうか。

南武線を潜った川崎堀の出口
フェンスに囲まれた大師堀・町田堀分流点から少し上流に戻り、南武線下を潜ってきた川崎堀の出口に進む。コンクリートで護岸工事された用水出口を確認し、分流点に戻る。と、フェンスに鉄板の案内があり、道を隔てた東にある平間配水所についての説明があった。かつての平間浄水場、現在の平間配水所については何度かメモしているのだが、頭の整理のために再度説明文を掲載しておく。
●平間浄水場(現 川崎市上下水道局平間配水所)
我が国初の公営工業用水道水源 稲毛・川崎二ヶ領用水余剰水取水口跡 平間浄水場(現 川崎市上下水道局平間配水所)
平間浄水場は、我が国初の公営工業用水道事業として設立された。そのきっかけは、昭和初期の工業勃興期、臨海部での過剰な地下水くみ上げによる地盤沈下が問題となり、その対策としての代替水源確保にあった。
近くの鹿島田地内(幸区)を流れる稲毛・川崎二ヶ領用水の余剰水等1日2万7000立法メートルを取水し、鹿島田、木月、及び北加瀬(中原区)のさく井15ヶ所からの地下水1日5万4000立法メートルの水源をもって建設された。竣工は昭和14(1939)年7月で、当初は平間水源管理所と称していた。
平間浄水場はJR 鹿島田駅と平間駅のほぼ中間地点の川崎市中原区上平間1668番地に位置しており、設立から今日まで工業用水道専用の施設として、臨海部の京浜工業地帯に産業の血液ともいわれる工業用水を安定的に供給し続け、我が国工業の発展に寄与してきた。
その後、昭和48(1973)年のオイルショックを契機に、産業構造の変化に伴う水使用の合理化や工場移転等により、工業用水の需要が急速に減少した。さらに、二ヶ領用水の水質悪化や施設の老朽化で取水を停止していたが、平成15(2003)年に至り、木月・井田さく井の廃止もあり、浄水場としての機能を失うことになった。
その結果、名称も「浄水場」から「配水所」へと変更された。名称が変わっても、上水道から1日4万立法メートルの給水受入れ場所として、また長沢・生田の両浄水場から送水される工業用水の配水中継基地として、昼夜を問わず配水圧力及び水量の調整を行っており、川崎市の工業用水道にとって重要な役割を担っている。
なお、多摩区の稲田取水所では、現在でも二ヶ領用水から日量20万立法メートル(最大能力)を取水し、生田浄水場で工業用水に加工している。
また、平間配水所から配水される工業用水は、主に臨海部の企業、工場で、冷却水、ボイラー用水、洗浄水等に使用され、工業生産推進に貢献している。 二ヶ領用水竣工400年記念の日に
平成23(2011)3月1日

説明の中に「上水道から1日4万立法メートルの給水受入れ場所として」とあるが、これって初めての情報だが、平間配水所内に浄水入水井があり、原水は長沢浄水場及び生田浄水場から送水管で送られているように思える。

平間緑道公園
大師堀・町田堀の分流点から大師堀散歩をはじめる。先に進むとほどなく親水公園といった趣の道となる。小川も流れるこの親水公園は「平間緑道公園」と呼ばれる。小川を流れる水は川崎堀を流れてきた水をポンプアップして流しているようである。






日本最初の工業用水の案内
緑道を進むと「川崎歴史ガイド日本最初の工業用水の案内」のパネルがあり、 「鳥居のところで用水は大師堀と町田堀に分水。昭和十四年わが国最初の公営の工業用水として1日2万7千トンの取水が行われ、平間浄水場から臨海部の工場地帯に供給された」とあった。





府中街道と交差
その先で府中街道と交差。道の東には「川崎堀」踏切が見える。府中街道を越えると緑道は消え、民家の軒先を進むことになる。その直ぐ東は町田堀跡の道筋が下る。







大師堀の案内
民家の軒先を進んだ大師堀の細流は浄水場交差点から南に下る道路脇にでる。その細流がJR南武線・鹿島田駅から西に延びる道と交差する少し手前に大師堀の案内があった。
案内には「二ヶ領用水の建設は、徳川家康の命を受けた代官小泉次太夫によって始められ、慶長十六(1611)年の完成までに実に十四年の歳月を要する大事業であった。中野島、宿河原両取り入れ口から取水した用水は久地の分量樋(円筒分水)を経て、この鹿島田付近で、大師河原、渡田方面の水田を灌漑する大師堀、鶴見川北岸一帯を潤す町田堀に分かれた。また大師堀は昭和十四年~四十九年まで工業用水としても利用された。
近年土地利用の変化と水質の悪化によって往年の姿は見られなくなり、埋め立てられるところも出てきた。しかし大師堀は、昭和六十三年、環境整備事業の一環として親水化され(後略)」とあった。内容は何度も目にした説明であり、フックがかかるフレーズは特にないが、一応メモしておく。

「サウザンドシティ」の東を水路が下る
鹿島田駅からの道の南には、南武線に沿ってショッピングモール、クリニックを併設した大型マンション「サウザンドシティ」が建つ。「サウザンドシティ」の東、マンション敷地端を道路に沿って人工の「大師堀」跡の水路が続く。
それにしても、鹿島田駅周辺には高層マンションやビルが並ぶ。鹿島田駅と新川崎駅の間には「パークシティ新川崎」、そして2棟のツインビル「新川崎三井ビルディング」。1700余の戸数をもつ「パークシティ新川崎」の完成は昭和63年(1988)、「新川崎三井ビルディング」は平成元年(1989)、「サウザンドシティ」は平成16年(2004)。これらの駅前再開発は昭和55年(1980)、旅客線として開業し、東京<>横浜へのアクセスが容易となった新川崎駅が契機になったことは言うまでもないだろう。「今昔マップ 首都圏1965‐68」にはその敷地に工場のマークが見えるので、工場跡地を再開発したのだろう。
なお、新鶴見操車場跡は研究開発施設、公園、住居などからなる複合的な機能を持った、新しい街が生まれる計画とのことである。

古川の石井家長屋門

「サウザンドシティ」のある新腰塚、その先の越塚1丁目を越え、「明治橋」と言った、如何にも水路跡の名残を残すバス停を見遣りながら、府中街道の一筋南の古川地区を道を進むと、道脇に長屋門が見え、「川崎歴史ガイド 夢見ヶ崎と鹿島田ルート 古川の石井家と長屋門」のパネルがあり、「古川の石井家は北条氏政を祖先とし、現在も氏政とかかわりのある遺品が残る。正面の両袖型長屋門は文政三年(1820)に再建されたもので、市内有数の長屋門である」とあ。

●夢見ヶ崎
長屋門の説明もさることながら、「夢見ヶ崎」という地名に惹かれ、チェック。地図で見ると、夢見ヶ崎はJR新川崎駅の東、北加瀬と南加瀬地区の境辺りにあり、幾多の寺社が集まっている。これは何となく有り難そうな地域かと、更に深堀りすると、この寺社が集まる夢見ヶ崎の一帯は「加瀬山」と呼ばれる独立丘陵となっており、古墳群が残る。中には南関東で最も古い4世紀築造の白山古墳もある,と言う。
「夢見ヶ崎」の地名の由来は太田道灌にある、とのこと。太田道灌がこの丘陵に城を築くべく訪れた夜、夢に自分の兜を鷲に持ち去らわれる夢を見、不吉なりと築城を断念した、とか。
また、丘陵の南部分は東芝の前身である東京電気の堀川工場や新鶴見操車場建設の土砂採取のため切り崩された、とのことである。
大師堀散歩とは関係ないが、あれこれ気になったことをチェックすると、面白い発見があり、誠に楽しい。

下平間古川小向悪水
川崎市が作成した二ヶ領用水マップ(以下「川崎市・ニケ領用水マップ」)に拠れば、古川町交差点辺りで「下平間古川小向悪水」が大師堀から分岐しているように見える。「下平間古川小向悪水」はしばらく大師堀と並行して進み、府中街道と交差する「幸区役所交差点」で大師堀と分かれ、北東に進み第二京浜の東、小向仲野町方面へと向かう。現在は暗渠なのか埋め立てなのか、ともあれ水路は残らない。

戸手浄水場跡
「下平間古川小向悪水」が大師堀と分かれる、「幸区役所交差点」の近くに区役所があり、その隣に幸文化センターがある。そこはかつての戸手浄水場跡、と言う。先回の散歩でメモしたが、ここが川崎市内最初の近代水道施設である。大正10年に完成し、宮内水源取水地より取り入れた多摩川の水を、7キロの導水管で戸手浄水場へと送った。計画給水人口は4万人であった、と言う。
その後、急激な人口増大に伴い、昭和13年(1938)には菅さく井群より多摩川の伏流水を水源とする生田浄水場への通水、また昭和29年(1954)には、相模湖下流の沼本取水口から取水した相模川水系の水を32キロの導水管で長沢浄水場に送るなど、上水道の水源整備に伴い、戸手浄水場は昭和43年(1968)、その役割を終えた。
●戸手
戸手の由来は定かではない。ト=外、テ=方面>外の方面、ということから「堤外地」ではないか、とのこと。「外手」、とか「外出」と記された記録もあるようだ。

戸手前河原悪水
国道409・府中街道を進み国道1号・第二京浜を越えると、府中街道は多摩川の堤に接近する。戸手もそうだが、河原町とは、如何にも堤外地であった名残の地名である。「川崎市・二ヶ領用水マップ」に拠れば、その地名の交差点の先で、「戸手前河原悪水」がクロスしている。立体交差していたようである。

東海道本線六郷川橋梁
昔の御幸村故の地名であろう幸町、そして、既にメモしたように夢見ヶ崎の丘陵を削って整地した東芝堀川工場のある堀川を過ぎると、その先に多摩川を渡る鉄橋がある。東海道本線・六郷川橋梁である。
日本の大動脈であった東海道本線に架かる橋が如何なる歴史を経たものか、ちょっとチェック。Wikipediaに拠れば、東海道線六郷橋とも呼ばれるこの橋梁ができたのは明治4年(1871)のこと。トラス構造(三角形を基本単位とした、その集合体よりなる構造)の木造橋ではあったにせよ、日本初の鉄道の橋梁である。その橋も明治10年(1877)には木材の腐食が進み、複線化工事と併せて鉄製トラス橋となる。
その後、明治45年(1912)に三代目の付け替え工事を経て、昭和46年(1971)橋梁の前後の高架工事に併せて四代目となるトラス橋に架け替えが行われ、現在に至る。

五ヶ村悪水
「川崎市・二ヶ領用水マップ」に拠れば、東海道本線六郷川橋梁と、その先に見える京浜急行電鉄・六郷川鉄橋の間には「五ヶ村悪水」が描かれる。五ヶ村悪水は尻手辺りから南に大きく半円を描き、京急本線に沿ってこの地に下ってきているようである。

京浜急行電鉄・六郷川鉄橋
東海道本線を潜るとすぐに京浜急行・六郷橋鉄橋。京浜急行電鉄のはじまりは、明治32年(1899)に旧東海道川崎宿に近い六郷橋駅から川崎大師駅までの2キロを走った大師電気鉄道である。同年、京浜電気鉄道会社と改名し、安田財閥の支援ものと東京方面への路線拡大を図り、明治34年(1901)には大森と六郷橋間を開業した。
この開業に際して、六郷川を渡る鉄道橋が必要となり、川崎大師も含め地元人が組織した六郷架橋協同組合が人道橋として架設した六郷橋を明治33年(1900)に購入するも、強度不足で使用できず、橋に併設し木製の鉄道仮橋をつくることになったようだ。
鉄道橋として使えなかった橋は明治36年(1903)には、元々有料であった通行料をタダにし、あまつさえ、明治39年(1906)には国に譲渡している。踏んだり蹴ったり、というところであろう。
で、鉄道橋梁としては、明治39年(1906)には、雑色~川崎間複線専用軌道完成に伴い新たに仮の複線木橋が架けられた。これらの鉄道橋は、現在の六郷橋の辺りにあったようである。
現在の地に鉄道橋を建設着手したのは明治42年(1909)から。2年の歳月をかけて明治44年(1911)に六郷川鉄橋と呼ばれる本格的な鉄道橋梁が完成した。 現在の鉄橋は昭和47年(1972)に架け替えられたものである。

京急大師線
京浜急行を越え、六郷ポンプ場(下水処理施設のようだ)を見遣りながら府中街道を進むと京急大師線にあたる。京浜急行の前身である大師電気鉄道の路線である。
大師電気鉄道は川崎大師参拝のために開業された。開業当初は六郷橋から川崎大師に至る大師新道(多摩川の堤防でもあった)を6mほど広げ線路を敷設し、橋脇の六郷橋駅から川崎大師駅の間1.8キロほどを10分で走ったという。電車とは言うものの、路面電車であり最高時速13キロ程度。堤防の桜並木をのどかに走っていたのであろう。
で、川崎大師への参詣路線であるにも関わらず、既に開通していた東海道本線の川崎駅から1キロほど離れた場所に始発の駅・六郷橋駅が設けられたのは、地元人力車業界といった利害関係団体からの反対のため。
参詣者は川崎駅で下車し、人力車で六郷橋駅まで移動し、電車を利用した。「人力車+電車」といった「通し切符」もあった、と言う。そのおかげもあってか、開業より6ヶ月間で16万人もの乗客数があった、とのことである。
川崎駅へと繋がったのは明治35年(1902)のことである。大森と六郷橋間の開業は明治34年(1901)であるから、京浜電気鉄道会社を利用して多摩川東側から西の川崎に向かうには、明治35年(1902)を待つしかなかった、ということか。
●六郷橋駅遺構 
因みに、上記メモで「六郷橋駅」と書いたが、開業当初は「川崎駅」と呼ばれており、明治35年(1902)に川崎駅と繋がったときに出来た駅名を「川崎駅」とし、開業当初の駅を「六郷駅橋」と改名したようである。なお、「川崎駅」を「京急川崎駅」と改名したのは大正14年(1925)。同年、大師駅も「川崎大師駅」と改名された。
六郷橋駅は大正15年(1926)の道路整備に伴い、川崎側へ移転(六郷橋の少し手前の京急大師線に遺構が残る)するも、昭和24年(1949)に廃止された。

中島堀
「川崎市・二ヶ領用水マップ」に拠ると、京急・六郷川鉄橋と京急大師線の多摩川堤辺りから、南東に中島堀が流れていたように見える。水路は競馬場の西から競輪場の西を下り、川崎市立向小学校方面へと続いているようである。

旧東海道・川崎宿
府中街道を進み本町交差点を左に折れ、商店街を多摩川方面に向かって進む。と、国道15号・第一京浜が多摩川を渡る「六郷橋」の歩道へのアプローチ口に川崎市文化財団 が作成した「六郷の渡しと旅籠街」「川崎宿の家並み」の案内がある。
「六郷の渡しと旅籠街」には「家康が架けた六郷大橋は洪水で流され、以後、実に二百年の間、渡し舟の時代が続きました。舟を降りて川崎宿に入ると、街道筋は賑やかな旅籠町。幕末のはやり唄に「川崎宿 で名高い家は、万年、新田屋、会津屋、藤屋、小土呂じゃ小宮・・・・・・」。なかでも万年屋とその奈良茶飯は有名でした」とあり、「川崎宿の家並み」には、「旅籠六二軒をはじめ、八百屋、下駄屋、駕籠屋、提灯屋、酒屋、畳屋、湯屋、鍛冶屋、髪結床、油屋、道具屋、鋳掛屋、米屋など合計三六八軒 文久三年の宿図から 」とあり、 説明の上には『江戸名所図会』の「河崎万年屋奈良茶飯」の図が印刷されていた。
●万年屋 
どうも、府中街道から左に折れて辿った商店街は昔の川崎宿であったようだ。で、案内にあった「万年屋」は、多摩川を渡って川崎宿に入ったすぐの江戸口(下手土居)にあった、とのことであるので、案内のある辺りだったのだろうか。
ところで、万年屋と言えば、『お江戸日本橋』の歌にある「六郷渡れば川崎の万年屋、鶴と亀との米饅頭」との下りを覚えており、「万年屋の米饅頭」って、どんなものか食べてみたいと思っていた。
どういうきっかけだったか覚えていないのだが、鶴見駅前の某和菓子店で米饅頭が復活したとのことを偶然知り、二度程鶴見まで杉並の永福から自転車で買いにでかけた。
しかしながら、日曜日は定休日であったようで、結局今に至るまで食していない。ちゃんと調べて行けばいいものを、行き当たりばったり、しかも二度も失敗するって、反省し学習しない習慣はなかなか治らない。

それはともあれ、この案内をチェックすると、歌の解釈で大きな誤解をしていたことがわかった。「川崎の万年屋(の)鶴と亀との米饅頭」、ではなく。「川崎の万年屋。鶴と亀との米饅頭」のようで、川崎(宿で名高い)万年屋、であり、鶴屋と亀屋の米饅頭ではあった。また、場所も鶴屋と亀屋は川崎宿ではなく、鶴見川の袂にあったようで、米饅頭も鶴屋と亀屋だけが売っていたわけでもなく、40軒ほどの店で売っており、その中でも名代の店が鶴屋であり亀屋であった。
因みに米饅頭は17世紀の後半、浅草の待乳山(字面はインパクトあるが、元は真土山=本当の土。川の流れで堆積された沖積土ではなく洪積土(本当の土)のこと)下の鶴屋の娘・よねさんが売りはじめ、江戸の銘菓となったようで、鶴見の米饅頭が東海道の旅人に知られるようになったのは18世紀に入ってから、とのことである。
個人的興味から米饅頭のメモがながくなったが、川崎市作成の資料に拠れば、万年屋は案内にあったように「奈良茶飯」(小豆や粟、栗などをお茶の煎じ汁で炊き込んだご飯)が評判になり、一膳飯屋から宿場一の旅籠になったようで、本来は本陣(公認の旅館)に泊まる大名も宿泊したほか、弥次さん喜多さんで知られる『東海道中膝栗毛』にも描かれ、のちには皇女和宮や米国駐日総領事ハリスも立ち寄ったと伝えられている、とあった。

六郷橋
道なりに六郷橋の下を潜り南側に。『お江戸日本橋』の歌には。「六郷渡れば川崎の。。。」とあるように、六郷川は渡しであり、橋はなかったのか、と思ったのだが、チェックすると事実はちょっとだけ違っていた。
■六郷橋から六郷の渡しへ
Wikipediaに拠れば、「六郷は東海道が多摩川を横切る要地で、慶長5年(1600年)に徳川家康が六郷大橋を架けさせた。慶長18年(1613年)、寛永20年(1643年)、寛文2年(1662年)、天和元年(1681年)、貞享元年(1684年)に架け直され、貞享元年のものが江戸時代最後の橋になった。1688年(貞享5年)の洪水以後、橋は再建されず、かわりに六郷の渡しが設けられた。 六郷大橋は千住大橋、両国橋とともに江戸の三大橋とされた。寛文2年の橋は、長さ107間 (194.5m)、幅4間1尺7寸 (約8m)、高欄の高さが4尺3寸 (1.3m)。貞享元年の橋は長さ111間 (202m)、幅4間2尺 (約8m) であった。
■佐内橋
1874年(明治7年)1月に鈴木左内が私費で六郷の渡しに左内橋を架けた。長さ60間(109m)、幅3間(5.5m)の木橋で、通行料を徴収した。この橋は1878年(明治11年)9月に洪水で流された。
■京浜電気鉄道が橋を買収
左内橋が流された後しばらく橋がない状態が続いたが、地元の人々が六郷架橋組合を作って1883年(明治16年)に有料の橋を架け、六郷橋と名づけた。1885年(明治18年)に破損したものの引き続き使用され、1900年(明治33年)に京浜電気鉄道(後の京浜急行電鉄)が買収した。
■橋の流失が続く
1903年(明治36年)には通行料の徴収をやめ、1906年(明治39年)に国に譲渡されたが、1910年(明治43年)に流された。
流された橋のかわりに長さ52間 (95m)、幅3間 (5m) の仮橋が架けられた。1913年(大正2年)にこの橋も流され、再建された。この橋の親柱は六郷神社に保存されている。
■六郷橋
1925年(大正14年)8月には長さ446.3m、幅16.4m の六郷橋が架けられた。川の水路部分を1本の橋脚と連結した2つのアーチ(タイドアーチ)で越え、河川敷の部分は連続桁橋であった。片側1車線の車道に加え、両側に歩道があった。
■現在の橋
六郷橋の拡幅のために架け替えられたのが、現在ある橋である。1979年(昭和54年)に工事を始め、段階的に工事を進めた。1984年(昭和59年)3月に旧橋の上流側に接して新橋の一部が完成し、交通を切り替えた。次に旧橋を撤去して1987年(昭和62年)に新橋が完成した。その後第3期の工事が完了したのは1997年(平成9年)であった。橋の幅は倍以上となり、車道も片側3車線に増加した。
◆先代の橋台跡
現在の橋の北側に如何にも橋台跡といった構造物が川床に見える。これって、先代の大正14年(1925)だろうか。
●鈴木佐内
この記録を見ると、江戸の初期には架橋されてはいるが、その後、鈴木佐内が架橋するまで186年間は「渡し」しかなかったわけであり、実質、「渡し」しかなかった、とも言える。
そこに橋を架けた人物として鈴木佐内が登場する。如何なる人物かチェックすると、あれこれ面白い話が現れてきた。
佐内は多摩川東岸、八幡塚村の名主。元は「六郷の渡し」の渡し賃は八幡塚扱いであった。「六郷」は多摩川東岸、八幡塚村側の地名であることが、その事実の一端を物語る。
が、後に二ヶ領用水の普請、川崎宿の立て直しで名高い田中丘隅の力故か、川崎宿の独占となった。佐内は渡船権を取り戻すべく交渉するも、その願いは叶う事がなかった。
明治になり、八幡塚村は「村」として橋の架橋を願い出る。きっかけは明治4年(1871)に架橋された東海道線の木造橋梁。その姿を見て、渡船権が許されないなら、有料の橋を造ればいい、と思ったのだろうか。
村として架橋許可願いを出した八幡塚村であるが、明治初期の行政制度の改革などにより鈴木佐内が名主を解かれるなどし、村は動揺。村としての架橋願いを取り下げる。その結果、佐内はひとりで私財を擲ち架橋を実施。明治7年(1874)橋は完成した。
「佐内橋」は当初事業は順調に進むも、洪水や筏の衝突などの修理費が嵩み、「金喰橋」、「厄介橋」と呼ばれた末、明治11年の大洪水で流出してしまう。わずか4年のことであった。
その後、明治16年(1883年)、川崎大師をはじめとする川崎宿と八幡宿の人々が集まり六郷架橋組合を組織し有料の橋・六郷橋を架けるも、私財をすべて失った鈴木佐内の名はそこにはない。

六郷橋脇の案内・記念碑・石灯籠
六郷橋の南、橋の歩道へのアプローチ付近に幾つかの案内・記念碑が建つ。北から順に、「長十郎梨のふるさと」、「明治天皇六郷御渡御碑」、「川崎大師の石灯籠」そして「史跡 東海道川崎宿 六郷の渡し」である。

「長十郎梨のふるさと」の案内
「川崎歴史ガイド 東海道と大師道 長十郎のふるさと」と書かれたパネルには「多摩川沿いにどこまでも続いていた梨畑。 明治中頃、病害に強く甘い新種が大師河原村で生まれた。 発見者当麻辰二郎の屋号をとり、「長十郎」と命名されたこの梨は川崎からやがて全国へ」とあった。

かつて多摩川下流域の両岸の堤外地・河川敷は梨の一大生産地であった。大師地域での梨の生産は江戸時代にはじまり、明治26年(1893)、大師河原村出来野(現在の日の出町)に誕生、大正初期には全国の80%を占めたと言う。今昔マップ 首都」の明治の地図を見ると、堤外地に広がる果樹園の記号が示されているが、工業化が進んだ現在、川崎区には梨園は残っていない。

「明治天皇六郷渡御碑」
明治天皇が京都御所を離れ東京へと行幸した際、当時橋の無かった多摩川を渡った記念碑。明治元年9月20日に京都を出発、10月12日に川崎宿に到着。2800余の行列であった、とか。記念碑には「武州六郷船渡図」とあり、川崎宿本陣での昼食の後、23艘(36艘との記録もある)の船を縦に繋ぎ、その上に板を這わせ、仮の橋を作って明治天皇が鳳輦に乗り渡御した時の模様が描かれている。







「川崎大師の石灯籠」
「明治天皇六郷渡御碑」の傍に「川崎大師の石灯籠」。厄除川崎大師とある。何となく新しい雰囲気。裏に「昭和八年建立 川崎大師 平成三年移築 川崎市」とあった。平成8年(1996)の灯籠であった。昭和8年(1933)建立の灯籠はさらに大きいものであったようで、その台座が道の反対側、大師線線路手前の堤上にあった。結構大きい。

「史跡 東海道川崎宿 六郷の渡し」
河崎大師の石灯籠の少し南、「たま川」の標識がある手前に「史跡 東海道川崎宿 六郷の渡し」があり、「関東でも屈指の大河である多摩川の下流域は六郷川とよばれ、東海道の交通を遮る障害でもありました。 そこで慶長5年(1600)、徳川家康は、六郷川に六郷大橋を架けました。 以来、修復や架け直しが行われましたが、元禄元年(1688)7月の大洪水で流されたあとは架橋をやめ、 明治に入るまで船渡しとなりました。 渡船は、当時江戸の町人らが請け負いましたが、宝永6年(1709)3月、川崎宿が請け負うことになり、 これによる渡船収入が宿の財政を大きく支えました 川崎市」とあった。

京浜急行大師線・港町駅
堤道から大師線を越える跨線橋を渡り、道なりに進むと京浜急行大師線・港町駅。「長い旅路の 航海終えて 船が港に 泊まる夜 海の苦労を グラスの酒に みんな忘れる マドロス酒場 ああ港町 十三番地」。美空ひばりの歌う、『港町十三番地』の歌詞である。歌の港町はこの駅名から。
マドロス酒場(マドロスはオランダ語の船員)といったフレーズがあるので、てっきり横浜あたりの港町かと思っていたのだが、横浜の山下公園や馬車道などをイメージしながらも、この駅名が歌のタイトル名となっている。 その最大の要因は、かつて駅の東に、レコード会社である日本コロンビア(平成19年;2007年閉鎖)があったから。美空ひばりのレコードもこの地でつくられたわけだ。会社は港町9番地であったが、13番地のほうが語呂がいいということでタイトルや歌詞は13番となっている。

医王寺
駅前の道を進むと、府中街道から大師道へと通称を変えた国道409号の港町駅入口交差点に。そのすぐ先の久根崎交差点脇にお寺様の甍が見える。医王寺である。医王寺は既にメモした溝口水騒動が起こる2日まえの文政4年(1921)7月4日、この寺の鐘を撞き川崎領の農民に召集をかけた、と言う。また長十郎梨をつくった当麻辰次郎もこの寺で眠るとのことでもあり、ちょっと立ち寄り。

山門を潜り、溝口水騒動の早鐘を撞いたであろう鐘楼を見遣り、本堂にお参り。 『新編武蔵風土記稿』に拠れば、「(川崎宿堤外往還)医王寺 久根崎町の内東南の耕地にあり。薬王山無量院と号す。天台宗荏原郡品川宿常行寺の末寺なり。開山を春光坊法印祐長とて延暦二十四年二月廿二日寂せし人なりと云。然れば宗祖傳教大師にまのあたり従ひし人なるにや。此後法燈たへず間宮豊前守信盛当所に住せし頃祈願所と定めしと云、今本堂七間に六間、本尊薬師木の坐像にて長一尺八寸許、脇士は立像にて長一尺八寸許、其余十二将神等の像あり。
鐘楼。門を入て右にあり、二間四方鐘径二尺八寸許高さ五尺程享保十年十月と彫る」とある。
歴史は古い。延暦24年と言えば西暦805年のことである。間宮豊前守信盛とは戦国時代、この地の領主であった武将であり、探検家・間宮林蔵にも繋がる人物であった。
●間宮豊前信盛
間宮氏は近江佐々木源氏の係累と称する。南北時代、伊豆の間宮村(現在の静岡県田方郡函南町。静岡県東部、神奈川県と接する)に居を構え、間宮氏と称した。間宮氏は伊豆で頭角を現した北条早雲に早くから臣従し、早雲が伊豆から相模に侵攻する頃活躍したのがこの間宮豊前守信盛、またはその父とも推測されている。信盛は相模・武蔵の国境に領地をもち、館は川崎駅前の宗三寺であったと伝わる。
間宮氏は守盛の孫の代、秀吉の小田原征伐に際し、小田原北条勢の最前線である箱根の山中城で討死するも、その娘が家康の側室となったため旗本として江戸の頃も存続するも、後に一族の中に帰農し現在の茨城県つくばみらい市に移ったものの末裔が樺太探検で知られる間宮林蔵とのことである。また、『解体新書』で知られる杉田玄白も間宮氏の系(間宮家の一族の真野から分かれた別流の子孫)とも言われる。
●塩解地蔵尊
境内を歩くと「塩解地蔵尊」がある。境内にあった捲り(めくり)鉄板に気されたお話に拠ると、こどものおできを治すため、お浄めの塩を地蔵様にこすり付けると、あら不思議、おできは消え去った。これが広く伝わり、お地蔵様は塩で溶けたように痩せ細ったお姿になった、と。
蟹塚
鐘楼近くに蟹塚があり、おなじ鉄板本にあったお寺に伝わるお話しに拠れば、朝夕撞かれる鐘の音に驚き白鷺も近づかず、境内の池の魚や蟹は安心して日を送っていた。
あるとき、近隣から火の手が上がり、医王寺も延焼したが、火が鐘楼に近づくと、池から幾多の蟹が泡を出しながら鐘楼に登り、火を止めた。おかげで鐘楼は延焼から難を逃れたが、周囲は焼け死んだ幾多の蟹が見つかった。それを感謝し塚を建立したのだが、それ以降、医王寺の蟹に背中は火で焙られたように赤くなっていた、と。

●溝口水騒動
騒動の経緯をまとめておく;文政4年(1821)、旱魃による水不足に苦しむ二ヶ領用水下流・川崎領の19の村は、役人に訴え、その結果、7月4日の夕刻から7日の夕刻にかけて、久地分量樋で川崎堀以外の用水口を一時止め、川崎領への通水が約束されることとなる。が、当日になっても水は流れてこない。その因は、溝口村名主である鈴木七右衛門と久地村の農民が自分たちの村への水を確保すべく、分量樋の水役人を追い払い、川崎堀を堰止めたためであった。
川崎領の村民は役人に訴えるも解決されないため、7月5日会合が行われ、丸屋・鈴木家の打ち壊しが決議された。翌6日、府中街道を北上。その数、一万四千余人となった、という。そして溝口村の村民と衝突。鈴木家と隣家2軒を打ち壊す事態となる。
この騒動の結果、川崎領の名主・村民にお叱りや罰金が科され、溝口村名主の鈴木七右衛門は所払いの厳罰、農民には罰金、そして騒動を取り締まることのできなかた役人も処分を受けた。
●久根崎
川崎市の資料に拠れば、久根崎(くねざき)の地名の由来については、例によって定説はない、と。多摩川の流れに沿う地域故に その土手の前(さき)という意味とも、クネには境という意味もあるり、荏原郡と 橘樹郡の郡境の多摩川の前とする意味との説もあるようだ。

国道409号
医王寺を離れ、大師道を先に進む。大師道こと国道409号がどこまで続くのか地図を見ると、はるか千葉にまで続いている。チェックすると、溝口辺りは府中街道と呼ばれ、この辺りでは国道409号と呼ばれるこの国道は、昭和57年(1982)、川崎市の溝口を起点に千葉県の成田市をむすぶ国道として施行された。施行当初は海上区間が分断されていたが、平成9年(1997)、東京アクアラインの開通で千葉と繋がり、国道409号で房総半島を横断し、茂原で国道128号、東金で126号の重複区間を経て、東金から再び国道409号として八街を経て成に続いている。
国道409号施行時に東京湾を横断する路線が既に決まっていたのだろうか?チェックすると東京湾横断道路は昭和41年(1966)に調査が開始され、昭和50年(1975)に建設可能との報告があり、昭和56年(1981)には川崎-木更津-成田間を国道409号とすると決定してある。アクアラインが織り込み済みの国道ではあった。

鈴木町駅前
国道409号を進むと鈴木町駅前交差点がある。駅の向こうには味の素の工場群がある。味の素は元は鈴木商店では?チェックすると、駅の名前は味の素の前身である鈴木商店の創設者である鈴木三郎助に由来するとあった。

●藤崎堀
「川崎市・二ヶ領用水マップ」に拠ると、鈴木町駅入口交差点手前辺りから南東に下り、藤崎小学校方面へと向かう用水があったようだ。現在は暗渠か埋め立てが不明だが、水路跡はわからない。
●川崎堀
藤崎堀の先、国道409号・花見橋バス停交差点手前辺りから川中島堀がふたつ別れ、ひとつは南東の方向に進み、国道132号・川中堀交差点方面へ向かう。また、あとひとつの川中堀は東へと向かい、川崎大師方面へと向かっているように見える。
●殿町堀
国道409号・花見橋バス停辺りから北東に向かうのは殿町堀のように見える(川崎市・二ヶ領用水マップ)。川崎堀も殿町堀も水路が残っているようには思えない。

若宮八幡
花見橋バス前交差点を先に進み、大師線・川崎大師駅の手前に若宮神社がある。二ヶ領用水に架かった橋の遺構が残るとのことでちょっと立ち寄り。
●九橋の遺構
鳥居を潜り拝殿にお参りし、境内を彷徨うと、ふたつの石橋の欄干が残っていた。「 NPO 法人 多摩川エコミュージアム 散策こみち案内」に拠れば、「九品思想により九品の極楽浄土(川崎大師平間寺)に至るというさまを表現した橋。天保年間、現旭町から平間照寺鶴の池に至る、大師道沿いの用水路に架かっていた九橋のひとつ。九橋の内、最後の橋の欄干と橋板である。その「九橋の碑」が平間寺境内・鶴の池畔に立つ」とあった。

石橋はふたつあるように思うのだが、このふたつで一対ということだろか。それと大師道沿いの用水とは二ヶ領用水とある。その用水は大師堀から分かれた川中島堀のことであろうか。はっきりしない。

●九品の極楽浄土
浄土教においては、生前の行いにより、極楽浄土で生まれ変わるとき、扱いが変わる、と言う。上品・忠品・下品の3段階をそれぞれ上生、中生、下生の3段階の計9段階の扱いになり、最上位の上品上生では仏様の大集団がお迎えに来てくれるが、下品下生は特にお迎えは無く、また、仏様となるにも上品上生は1日でいいのだが、下品下生は気の遠くなるほどの年月がかかるようである。
●由来
若宮八幡宮は、多摩川の対岸、八幡塚村の六郷神社の氏子たちが、大師河原干拓のために移り住んだ際に、御祭神を分祀したのがはじまりといわれる。祭神は仁徳天皇。仁徳天皇は淀川の治水工事を完成させ、干拓事業の守護神として崇められていることから祀られたものとされる。創建年代は不詳であるが、『小田原衆所領役帳(永禄二年1559年)』に朱印地三石との記録が記初見とされるので、その頃と推測されているようである。
八幡塚村の六郷神社は、源氏一族が戦いに際し武運長久を祈り、勝利の御礼に石清水八幡を分祀したのがはじまりで、頼朝も奥州征伐勝利の御礼に社殿を造営した社であり、祭神は応神天皇。仁徳帝はその御子故に若宮八幡と称する、とか。
●境内社・金山神社
境内社として藤森稲荷や大鷲神社、そして金山神社が祀られる。その中でも金山神社の特異な建物が目を引く。御祭神は、鉱山や鍛冶の神である金山比古神(かなやまひこのかみ)と金山比売神(かなやまひめのかみ)の両神。御神体はカナマラサマ(金摩羅様)という巨大な男性器を形どった神である。
金山(かなやま)」と「金魔羅(かなまら)」(魔羅とは男根のこと)の読みが似ていることや、イザナミノミコトが火の神を生んだ際、下腹部に大火傷をしたのを、治療看護した神であること、また鍛冶の動作が性を連想させることなどにより、御神体がカナマラサマ(金摩羅様)となったと言う。
お産、下半身の病にご利益があると言われており、江戸時代川崎宿の飯盛女達の願掛けに端を発した「かなまら祭り」と呼ばれる祭礼には、男根を形どった神輿が担ぎ出されるようだ。祭りは4月第1日曜日に開催される。
●「大師河原酒合戦 三百五十年記念碑」
また、この社には、「大師河原酒合戦三百五十年記念碑」が建つ。案内には、「 『水鳥記』によると慶安二年(1649)、大蛇丸底深(大師河原開拓に成功し名主となった池上太郎左衛門幸広)のもとに地黄坊樽次(前橋藩主酒井忠清の寵臣、医者で儒学者の茨木春朔)が酒豪を連れてきて、大師河原に乗り込み三日三晩、酒飲みの強さを競ったという史実にのっとった豪快で勇壮な酒合戦の物語です。 『水鳥』とは、「水」は「さんずい」の意味で、「鳥」は「酉」の意味、二つの文字を併せて『酒』という字となる
水鳥の祭り(十月第三日曜日)
現代に再現した祭りで大本山川崎大師平間寺に大蛇丸底深方15名、地黄坊樽次17名が終結して、お互いに名乗りを上げ酒合戦を繰り広げながら練り歩き、若宮八幡で和睦する」とあった。

川崎大師平間寺
若宮八幡から成り行きで川崎大師に向かう。水路とか水路跡といった手掛かりもないため、とりあえず二ヶ領用水が流れ込んだと言う「つるの池」に向かう。 長い塀に沿って南に進み、至真門から境内に入る。正面にインド寺院のような堂宇がある。薬師殿とのこと。「つるの池」はその先にあった。
●つるの池
訪問した時は、池の工事中で近づくことはできなかったが、案内には「この池は元はふくべの形だった。昭和の初め、右手の大きな建物大本坊建立のため「ふくべ」の元になったところを残したものである。往時は多摩川から分水した二ヶ領用水が池に入り、そして大師河原の灌漑に使われた」とある。

「ふくべ」って、「ひょうたん」のこと、かと。薬師殿の北に「大本坊」があるが、お寺の事務所といったこの建物が建てられた時に、「ふくべ」の元(ひょうたんのくびれた部分の下半分?池の形からの想像)だけを残した、ということだろうか。工事現場の遮蔽物から見るに、池の底がアスファルトで塗り固められているようではあった。
「川崎市・二ヶ領用水マップ」を見ると、川崎大師を抜ける川中島堀は、大師公園の北東端辺りで流路を南東に変え、国道132号と首都高速神奈川一号横羽線がクロスする塩浜交差点方面へと下っている。
流路跡などないとは思いながらも、ちょっと下ってみたい気持ちもあるのだが、そろそろ日も暮れてきた。今日はこのあたりで引き上げることにする。
●川崎大師境内
川崎大師の境内を彷徨い、巨大な堂宇を見るに、古き趣はない。昭和17年(1942)の米軍による最初の本土空襲であるドーリットル空襲、昭和20年(1945)の4月4日、そして4月15日の大空襲により、ほとんどの伽藍は焼失したとのこと。巨大な本殿と不動堂は昭和39年(1964)、大山門は昭和52年(1977)、インド風の薬師堂は昭和45年(1970)、八角五重塔は昭和59年(1984)、経堂は平成16年(2004)、落慶といった按配である。戦火を免れたのは福徳稲荷堂だけのようである。
●由緒
平安末期、平間兼乗という武士が無実の罪により生国尾張を追われ、諸国流浪の末、この地に棲み漁猟を生業とした。弘法大師に深く帰依していた兼乗は厄年の42歳の時、夢枕での僧のお告げに従い、海中より木造を網で引き上げる。木造は弘法大師の御像であったため、草庵をむすび供養する。
その頃、高野山の尊賢上人がこの地に立ち寄り、大師の御像に纏わる話を聞き、兼乗と力をあわせ、大治3年(1128)平間寺を建立した。兼乗の姓・平間をもって平間寺(へいけんじ)と号し、木像を御本尊とし厄除弘法大師と称した。これが大本山川崎大師平間寺のはじまりとのこと。もっとも、大師木造は、下平間村の稱名寺が真言宗から一向宗(浄土真宗)に宗旨を改めた際、多摩川に流されたものとも伝えられる。浅草の浅草寺の縁起もそうだが、川や海から仏像を引き上げるって物語は定番なのであろうか。
それはともあれ、開基の尊賢上人は、保延2年(1136)、弘法大師を篤く信仰する鳥羽上皇のお后・美福門院に平間寺開山の縁起を伝え、厄除けと皇子降誕の祈祷おこなうと、その霊験故か、まもなく皇子誕生となる。のちの第76代近衛天皇である。永治元年(1141)には近衛天皇により平間寺に対し、勅願寺の宣旨が下される。
爾来、皇室の信仰も深く、江戸期には、徳川将軍家の帰依も篤く、文化10(1813)年には、前厄にあたる第11代将軍徳川家斉が厄除を祈願に公式参拝した、とある。
このことにより厄除の効験があるとして、庶民はもとより武士階級にまで信仰が広まったと言う。もっとも、豊かになった江戸の庶民が、日帰りでお参りできる関東の代表的な霊場としてのロケーション故に、行楽も兼ね川崎大師参詣に訪れた、というほうが納得感が強いのだが。ついでのことながら、若宮八幡でメモしたの『水鳥記』にある慶安2年(1648)の大師河原の酒合戦が大師河原の名を一躍高めたとも言う。

今回の散歩は川崎堀が大師堀と町田堀に分流する地点から大師堀を川崎大師まで辿った。いままでの3回の散歩は開渠で、水を眺めながらの散歩ではあったが、大師堀は一転、暗渠なのか埋め立てられたのか、ともあれ「水気」のない用水散歩となった。メモも、用水路とは直接関係のない、用水路跡辺りの「気になるポイント」のチェックが多くなったが、それなりに好奇心にフックの掛かるあれこれが登場し、結構楽しい散歩となった。
次の散歩は鹿島田で大師堀と分かれる町田堀を歩こうか、それとも、大師堀散歩で思いもかけず出合った「川崎宿」を先に歩こうかとちょっと考える。

先回の二ヶ領用水散歩2回目は、宿河原取水堰から宿河原線を二ヶ領本川との合流点まで下り、二ヶ領本川を平瀬川まで下った。途中、多摩川の旧堤防、霞堤、横土手など、多摩川右岸を護る堤防が登場するのだが、一部その痕跡は残るにせよ、その全体像に関する資料も見つけられず、多摩川の霞堤の絵姿、横土手の位置づけなど、いまひとつわからないままではあったが、それは「宿題」とし、ともあれ平瀬川までメモした。
今回は、平瀬川を渡り、二ヶ領用水と言えば、と言うほど有名な久地の円筒分水を訪ね、円筒分水から分かれる幾筋かの用水路のうち、本流でもある川崎堀を下り、大師堀と町田堀に分かれる鹿島田まで辿ることにする。


本日のルート:平瀬川>平瀬川トンネル>久地の円筒分水>久地神社>雨乞い弁天>久地不動尊>濱田橋>溝口神社>大石橋>新雁追(がんおい)橋>中原堰>南田堰>平成橋>二子坂戸緑道>石橋供養塔>第三京浜>関神社>井田堰>八つ目土と水道水源地>木月堰>薬師橋から白田橋>中原街道・神地橋>今井堰>渋川分岐点>中丸子堰>上平間堰>苅宿堰>鹿島田堰>御幸橋跨線橋>鹿島田橋>川崎堀踏切>大師堀・町田堀分岐点




平瀬川
往昔、多摩川の水を二カ所の堰で取入れ久地で合流した二ヶ領用水の水を、川崎堀(取水路)、根方堀、久地・溝の口・二子堀、六ヶ村堀の四つの堀に分けた久地分量樋跡を越えると、二ヶ領本川は平瀬川に遮られ地表から消える。用水は平瀬川の下を潜り、サイフォンで対岸に吹き上がる。
先回の散歩でメモしたが、二ヶ領本川、そして宿河原堰で取水した用水は、その80%をこの平瀬川に放流するとのことである。どの程度か不明ではあるが、僅かな梨畑や水田を潤すにしても、基本は稲田取水所で工業用水として多摩川表流水を1日20万立方メートル(東京ドーム約50個分)取水し、内径1.5mの導水管(第5導水管)で生田浄水場まで原水を送るのが、現在の二ヶ領本川の主たる機能となっているのだろう。
旧平瀬川
この平瀬川は昭和15年(1940)に開削された人工の河川である。それ以前の河道は此の地より上流の南武線の南、上之橋から溝の口駅の東へと、総合高津中央病院の裏を通り、二ヶ領用水・川崎堀にかかる平成橋の通り、すこし南に残る橋(欄干が残るだけ)手前で二ヶ領用水・川崎堀の旧流路に合流していたようである。

平瀬川トンネル
平瀬川の上流部にトンネルが2つ見える。ひとつは昭和15年(1940)できたもの。平瀬川は、昭和15年(1940)以前は、上流で大雨が降ると、毎年にように中流域は氾濫した。
平瀬川トンネルは、この豪雨による氾濫を防ぐため昭和15年(1940)から20年(1945)にかけて津田山を堀抜き、平瀬川の水をショートカットで多摩川に流すトンネルとして掘削された。円筒分水が生まれる契機ともなったのが、この平瀬川トンネル掘削・平瀬川改修工事である。
昭和20年(1940)にトンネルが完成。毎秒30立法メートルの流下能力があったトンネルであるが、昭和30年(1955)代から、平瀬川上流域の宅地化が進み、アスファルトで覆われ、保水力の低下した上流域では毎年のように氾濫が繰り返されるようになった。
その対策としてトンネルがもう一本掘られることになり、昭和42年から45年(1967‐1970)に工事が行われ毎秒80立法メートル、1時間に50㎜までの雨量に耐えられる構造の第二トンネルが完成した。
左手の少し小さいトンネルが昭和20年(1945)に完成したトンネルである。現在ふたつのトンネル合わせて時間雨量50mm、流下能力110立法メートルであるが、上流域での洪水予防のため、時間雨量90mm、流下能力230立法メートルに対応すべく、昭和20年(1945)のトンネル拡大改修計画がなされているとのことである。
津田山
因みに、トンネルが穿つ津田山であるが、かつては七面山と呼ばれていた。それが津田山となったのは、この丘陵地を宅地再開発した玉川電気鉄道社長の津田興二氏の名前に拠る。



久地の円筒分水
平瀬川を渡り、平瀬川脇にある久地の円筒分水に。文字通り、「円筒」形をしている。円は二重になっており、中央に直径8mの円形壁、その外周に直径16mの越流壁、越流壁の外側は堀となっている。
施設にあった「円筒分水」の案内に拠れば、「中野島と宿河原の多摩川から取り入れられたニヶ領用水は久地で合流し、「久地分量樋」へ導かれていた。 「久地分量樋」は、川崎堀、根方堀、六ヶ村堀、久地・二子堀に水を分ける施設。それぞれの耕地面積に応じて用水の幅を分割する樋(水門)が使われていたが、水量をめぐる争いが絶えず、より正確な分水が望まれていた。
この円筒分水がつくられたのは昭和16年。サイフォンの原理を応用して新平瀬川の下をくぐり、円筒の切り口の角度で分水量を調節するしくみになっている。農業用水の施設としては、当時の科学技術の粋を集めた大変すぐれたものだった。」とあり。
また「国登録有形文化財 二ヶ領用水久地円筒分水」には、「この円筒分水工と呼ばれる分水装置は、送水されてくる流量が変わっても分水比が変わらない定比分水装置の一種で昭和16(1941)年に造られました。
内側の円形の構造物は整水壁とも呼ばれ、一方向から送水されて吹き上げる水を放射状に均等にあふれさせ、送水されてくる流量が変わっても、円弧の長さに比例して一定の比率で分水される、当時の最先端をいく装置でした。平成10(1998)年6月9日に、国登録有形文化財となっています」とあった。

中央にある直径8mの円筒は、サイフォンの原理で中央の円筒から噴き上がり、波立つ水面の乱れを抑える整水壁の役割。その外側の直径16mの円筒壁は、ここで分水する四つの堀、それぞれの灌漑面積に合わせた比率の長さ(川崎堀38.471m、根方堀7.415m、六ヶ村堀2.702m、久地堀1.675m、)で仕切られ、越流壁の外側の各堀に、流量が変化しても、各堀に一定の比率で分水されるようになっている、とのことである。
平賀栄治の顕彰碑
円筒分水傍に平賀栄治の顕彰碑が建ち、そこには「二ヶ領用水400年・久地円筒分水70年記念 平賀栄治 顕彰碑 この世界に冠たる独創的な久地円筒分水は、平賀栄治(ひらがえいじ)が設計し手がけたもので、1941(昭和16)年に完成した。多摩川から取水されたニケ領用水を平瀬川の下をトンネル水路で導き、中央の円筒形の噴出口からサイフォンの原理で流水を吹き上げさせて、正確で公平な分水比で四方向へ泉の用に用水を吹きこぼす装置により、灌漑用水の分水量を巡って渇水期に多発していた水争いが一挙に解決した。
平賀栄治は1892(明治25)年甲府市生まれ。東京農業大学農業土木学科を卒業し、宮内省低湿林野管理局、農商務省等の勤務を経て、1940(昭和15)年に神奈川県の多摩川右岸農業水利改良事務所長に就任。多摩川の上河原堰や宿河原堰の改修、平瀬川と三沢川の排水改修、そして久地円筒分水の建設などに携わった。川崎のまちを支える水の確保に全力を捧げた「水恩の人」は1982(昭和57)年、89歳の生涯を閉じた」とあった。

円筒分水傍には「二ヶ領用水久地分量樋」の説明もあり、既にメモしたことと重複するので文章をママ掲載するのは省略するが、二ヶ領用水の概要と田中丘隅の改修、そして久地分量樋の明治43年(1910)撮影の写真が掲載されており、昭和16年(1941)、平賀栄治の設計建設により、水害防止の貯めの新しい平瀬川の開削と二ヶ領用水の伏せ越し、久地円筒分水を完成。これによって二ヶ領用水久地分量樋は久地大圦樋とともに、その役割を終えた、といったと説明があった。
また、「二ヶ領用水知絵図」の案内もあり、平成四年作成作成されたこの地図には、過去・現在・未来の視点から用水の姿が描かれ、用水が最も広く張りめぐらされた江戸時代後期―明治初期の姿と都市化が進んだ現在の姿を対比して図示していた。
川崎堀
国道409号・府中街道の南を武蔵小杉へと流れ、東海道新幹線を越えた南で国道409号・府中街道と南武線を北に越え、南武線・鹿島田駅の北で大師堀と町田堀に分かれる分岐点まで続く。
根方堀
川崎堀の南を下り、四つの支線に分かれ大雑把に言って、高津区の西南部を潤す
六ヶ村堀
国道409号・府中街道と川崎堀筋の間を第三京浜の手前まで下る
久地・(溝口)二子堀
幾つかの支線に分かれ、円筒分水から東に向かい久地を潤し、また、国道409号に沿って南東に下り溝口を潤す。

久地神社
久地円筒分水からは、用水本流であろう川崎堀を下ろうと思うのだが、地図をチェックすると、円筒分水の近くに久地神社、そして久地不動尊がある。ちょっと立ち寄り。
円筒分水から平瀬川を渡り直し、丘陵裾の道を進むと久地神社がある。鳥居を潜り拝殿にお参り。境内の案内には「神社の創立年代は定かではないが、風土記には「赤城社、村の南の丘にあり、此所の鎮守なり、社二間に一間半、東南向、前に石段あり木の鳥居たてり、村内浄元寺持」と記載されています。
江戸時代、神仏習合の時代には、赤城社と称され、現在本社とする溝口神社と兄弟神と伝えられていたことから、武を司る毘沙門天・財を司る弁財天をお祀りしていたと云われております。
明治初年、神仏分離により神体は、近隣寺院に合祀され、祭神を天照大神と改め、社名を久地神社と改称致しました。現社殿は、昭和四十一年十月に再建されたものである」とあった。

元、赤城社とあるが、溝口神社も元は赤城大明神を祀る赤城社であったということで、溝口神社が当社の本社であった、ということは納得。境内に「牛頭天王」と刻まれた石碑がある。明治20年(1887)に幕府の命で梅の栽培をはじめた梅屋敷の川辺森右衛門、同良右衛門親子が建立奉納したものとのことだが、赤城信仰と牛頭天王・祇園=素戔嗚信仰の関係は不明。ひょっとすれば、明治に合祀され久地神社となった社のひとつに天王社でもあったのだろうか。単なる妄想。根拠なし。

雨乞い弁天
社から平瀬川へ戻り、丘陵に続く坂道を登り久地不動尊に向かう。道の右手に池と小祠が見える。この池は日照りが続いても水が絶えることがなく、「雨乞い弁天」と称されていた、とのこと。
この弁天さまは、元禄年間(1688~1703)にかつて上杉氏に仕えていた女性が尼となり久地に永住したと伝えられ、弁天堂は弁財天とその比丘尼を祀った御堂とも言われる。
弁天堂、弁財天がなに故この地に?チェックすると、現在の久地神社、そしてその本社である溝口神社の祭神は天照大神ではあるが、それは明治の神仏分離の際、お伊勢を勧請した故のことであり、赤城社と呼ばれていた当時、毘沙門天と弁財天を祀っていた、といった記事を目にした。で、明治の神仏分離政策で赤城社のご神体が浄元寺に預けられたが、比丘尼を祀った弁天社は篤い信仰に支えられ今に姿を留めている、とのことである。尚、この比丘尼の音が転化したものが「久地」の地名の由来との説もある。
最初はこの弁天様は久地不動尊の一部かとも思ったのだが、どうも久地神社ゆかりの祠であったようである。

久地不動尊
坂道を上りきったところに久地不動尊。本堂脇に倶利伽羅剣と不動明王。倶利伽羅剣は不動明王が右手に持つ剣で、不動明王の象徴とされ、貪瞋痴(貪欲、怒りの心、真理に対する無知の心)の三毒を破る智恵の利剣である。倶利伽羅剣と不動明王は一体のものとみなされ、つまり、二体の不動明王が佇む、ということになる。
元は浅草の吉原にあったが、不動明王様は吉原遊郭の喧騒に耐え切れず、もっと静かな場所に移せ、とのお告げ。それもあって、この地に移すことにしたのだが、その直前に関東大震災が起こり、堂宇全焼。お不動さまは古井戸に飛び込み難を逃れた、と。

濱田橋
開渠となった川崎堀を下る。用水に沿った道を進み、国道246号・厚木街道の陸橋を渡ると、ほどなく濱田橋。溝口で生まれた、第一回の人間国宝認定者である陶芸家の濱田庄司氏を記念したもの。元は無名の丸太一本橋であったようだ。
濱田橋の命名は平成4(1992)年のことかと思う。これといった資料はないのだが、橋脇にあった濱田橋と濱田庄司氏の案内碑にある説明の最後に、濱田先生を称え濱田橋と命名した、とあり、その後に平成四年六月吉日とあったため。
濱田庄司
案内にあった説明を簡単にまとめる;明治27年(1894)溝口で生まれ、本名象二。高津小学校に学び、東京工業大学(注;東京高等工業学校窯業科)卒業。英国人陶芸家バーナード・リーチと共に陶芸にめざめ、栃木県益子で作陶に入り、益子焼を芸術にまで高める。
柳(注;宗悦)・河合(注;寛次郎)らと民藝運動を興し、沖縄文化等に注目する。
日本民芸館二代目館長(注;初代柳宗悦)。昭和30年(1955)第一回人間国宝、昭和43年(1968)文化勲章受章。七面山麓宗隆寺に眠る。
バーナードリーチや柳宗悦氏といった民藝運動については、いつだったか手賀沼散歩で出合ったことを思いだす。

濱田橋に陶板で「春去春来」という言葉が残されているが、春は益子で作陶に精進し、冬になると沖縄へ行っていたことに由来する、とか。「(NPO多摩川エコミュージアム 散策こみち」には、濱田氏が幼少の頃、この橋の辺りで泳ぎ、溺れそうになったというエピソードをもって、橋改修の時、濱田橋と命名したとする。


宗隆寺
宗隆寺にちょっと寄り道。山門前に石橋供養塔。現在は暗渠となるが、宗隆寺 の脇から山門前にかけて二ヶ領用水の「根方堀」が流れ、大山街道の栄橋交差点方面へと流れていたようである。
本殿にお参り。元は天台宗本立寺と号したが、住職と地頭が見た霊夢により日蓮宗に改宗し、池上本門寺の末となる、との話が残る(異説もある)。境内には「世を旅に 代かく小田の ゆきもどり」と刻まれる芭蕉の句碑が建つ。文政12年(1829)玉川老人亭宝水(溝口の灰吹薬局2代目二兵衛により建立された、とのこと。



七面山
濱田庄司氏の記念碑の案内にあったように、境内の東に七面山と称する丘陵南端部が見える。先ほど訪れた久地神社、久地不動尊のあった丘陵の舌状突端部ではあるが、途中国道246号により、切り裂かれ切通しとなっている。七面山と称する所以は、日蓮宗において重要な七面大明神(七面天女)からではあろう。
お寺の裏手の丘陵は宗隆寺古墳群が残るという。境内から成り行きで丘陵・七面山に登る。高さが1mから2mといった古墳が、どれなのかいまひとつ判然としないが、「日露戦争記念碑」と刻まれた石碑、その横にも石碑が建つ。乃木大将記号の「日露戦争記念碑」が残ると言うが、石碑がそれであろうか。裏山には「日清戦争記念碑」、また日露戦争で戦死した軍人の招魂碑が残るとのことであるので、そのどちらかであろうか。

溝口神社
宗隆寺のすぐ東に溝口神社。先ほど訪れた久地神社の本社ということもあり、足をのばし、社殿にお参り。境内にあった案内に拠れば、「神社の創立年代は定かではありませんが、神社保存の棟札よれば、宝永5年(1709年)武州橘樹郡稲毛領溝口村鎮守、赤城大明神の御造営を僧・修禅院日清が修行したと記されております。江戸時代は神仏習合に よりまして、溝口村の鎮守・赤城大明神と称されておりました。
明治維新後、神仏分離の法により、溝口村(片町・上宿・中宿・下宿・六軒町・六番組)の総鎮守として祀るべく新たに伊勢神宮より御分霊を奉迎し、御祭神を改め溝口神社と改称、更に明治6年(1873年)幣帛共進村社に指定されました。(以下略)」とあった。
溝口神社と簡易水道
境内に「川崎の歴史ガイド 溝口神社と簡易水道」があり、「赤城社と呼ばれた溝口の総鎮守。この辺りは飲み水に不自由した。親井戸から水を引いた時代、ようやく完成させた簡易水道の時代、参道脇の水神社や水道組合碑が当時の苦労を物語る」とある。
「川崎の歴史ガイド」のパネル脇には水神様の小祠と、その裏に石の水道組合碑が建つ。昭和10年(1935)に建てられた石碑には、昭和4年(1929)から6年(1931)にかけての水道組合の軌跡を刻む。大石橋(濱田橋の少し下流)からJR溝口駅のすぐ東にある片町交差点(角に庚申塔がある)辺りは水に恵まれず、地元民の力によって親井戸を掘り竹や木の管を通し、樋を埋めた子井戸まで水を通したようである。

大石橋
濱田橋に戻り、用水を下り西浦橋を越えると大石橋。この大石橋が架かる道筋は、大山街道・矢倉沢往還である。橋の両脇にはコンクリートの模擬常夜灯が街道の趣を伝える。
現在はコンクリートの橋ではあるが、江戸の頃は、文字通り大きな石橋で、長さ6間(約11m)幅8尺(約2.4m)とある。が、ちょっと疑問。そんなに大きな一枚岩があるのだろうか?チェックすると、「大山街道 ふるさと館」の資料に、「この大石橋の由来は、川の真ん中に橋脚を立てて「枕石」 をのせ、その上に長さ七尺、幅一尺五寸くらいの「渡り石」を並べて架けてあったことから、大石橋と呼ばれるようになった」とあった。納得。
溝口水騒動
大石橋の由来はともあれ、この橋の北東に、溝口水騒動のきっかけをつくり、打ち壊しにあった溝口村の名主である問屋・丸屋の鈴木七右衛門の屋敷があった。二ヶ領用水を巡る幾多の水争いの中で最大の事件として知られる。
騒動の経緯をまとめる;文政4年(1821)、旱魃による水不足に苦しむ二ヶ領用水下流・川崎領の19の村は、役人に訴え、その結果、7月4日の夕刻から7日の夕刻にかけて、久地分量樋で川崎堀以外の用水口を一時止め、川崎領への通水が約束されることとなる。が、当日になっても水は流れてこない。その因は、溝口村名主である鈴木七右衛門と久地村の農民が自分たちの村への水を確保すべく、分量樋の水役人を追い払い、川崎堀を堰止めたためであった。
川崎領の村民は役人に訴えるも解決されないため、7月5日会合が行われ、丸屋・鈴木家の打ち壊しが決議された。翌6日、府中街道を北上。その数、一万四千余人となった、という。そして溝口村の村民と衝突。鈴木家と隣家2軒を打ち壊す事態となる。
この騒動の結果、川崎領の名主・村民にお叱りや罰金が科され、溝口村名主の鈴木七右衛門は所払いの厳罰、農民には罰金、そして騒動を取り締まることのできなかた役人も処分を受けた。

先ほど溝口神社で、溝口村の水不足の歴史を知ったばかりでもあり、堰を止めた溝口・久地にもよっぽどの窮状に見舞われていたのだろうかと、妄想する。

雁追(がんおい)橋
曙橋を下り、田園都市線を越えると、新雁追橋がある。橋脇に「川崎の歴史ガイド 雁追橋」のパネルがあり、「溝口付近は、江戸時代、将軍家の御鷹場として、野鳥が保護されていた。農産物を荒らす鳥を追い払う農民の苦労が橋の名となって残る。雁追橋は、もとは平瀬川にかかっていた」とある。

中原堰
平瀬川トンネルのメモのところで「旧平瀬川の流路は平瀬川トンネルの南、南武線の更に南にある、上之橋から溝の口駅の東へと、総合高津中央病院の裏(南側)を通り、二ヶ領用水・川崎堀にかかる平成橋の通り、すこし南に残る橋(弁慶橋だろう。といっても欄干が残るだけ)手前で二ヶ領用水・川崎堀の旧流路に合流していたようである」とメモした。総合高津中央病院はこの新雁追橋のすぐ南にある。ちょっと立ち寄り。
総合高津中央病裏の流路跡は現在自転車置き場となっているが、そこに「中原堰」の案内がある。案内には「ここに中原堰を保存。この関はかつてこの地を流れていた平瀬川に設けられた農業用施設。せき止められた水は用水路で導かれ、中原の田畑を潤していた。江戸時代から使われていたものだが、1915(大正4年)年に中原村の人々の手によりコンクリート製に改修されて堅固なものになった。堰の壁には建設に尽力した四ヶ村(上小田中、新城、下小田中、神地)の責任者・中原村村長・石工の名が記された銘板が埋め込まれている。(中略)。高津にある堰だが、中原の人によって造られ、中原の土地に水を引くものであり「中原堰」と名付けられた」とあった。

四ヶ村(上小田中、新城、下小田中、神地)は南武線・武蔵新城駅、武蔵中原駅の南北に跨る一帯(神地は武蔵中原駅の北)。二ヶ領用水の根方堀がこの辺りを流れているのだが、それだけでは不足で旧平瀬川からも水を求めたのだろか。

南田堰
中原堰に立ち寄ったついでに、その少し東にある南田堰に向かう。溝口駅前商店街の通りのど真ん中に「南田堰跡」があった。「川崎の歴史ガイド 南田堰」のパネルには、「円筒分水からわかれた支流の中で最も山側の「根方十三ヶ村堀」がここを流れていた。この近くにあった南田堰をめぐり、明治末期に溝口と久本側の大きな水騒動が起こった」とある。
根方十三ヶ村堀
円筒分水で分かれた「根方十三ヶ村堀」はこの南田堰で東部、中央部、西部と幾筋もの支流に分かれ各地区を潤す。南田の堰を巡る水騒動は、この堰で分岐する際の分水量を巡り、各地域が相争ったのであろう。

平成橋
用水を下り平成橋に。既にメモしたように、この橋の少し南で旧平瀬川と旧川崎堀が合流する。現在は河川改修し直線化している川崎堀であるが、改修前の流路は円筒分水から下流、蛇行を繰り返し下る。ついでのことであるので、合流点の確認に、平成橋から南に向かう。





平成橋から少し東に道を入るとほどなく道の両側に橋の欄干が残り、その下流に如何にも流路跡といった暗渠が続く。この流路は旧川崎堀と思われる。旧平瀬川はこの橋跡の少し上流で旧川崎堀に合わさったようである。
橋跡の西には梨畑が広がるが、Google Mapの衛星写真を見ると、総合高津中央病院の南から、如何にも流路跡といった道筋、そして緑の帯がこの梨畑の南に続いている。この梨畑の南西端辺りがふたつの旧流路の合流点かと思う。残念ながら梨畑から石の高欄の橋跡だけが残るところへと歩くことはできなかった。

二子坂戸緑道
平成橋に戻り、二子新生橋を越え二子塚橋に。二子塚橋の南に「二子坂戸緑道」がある。この緑道は昭和16年(1941)河川改修が行われ、流路が直線化する以前の旧川崎堀の流路である。二子と坂戸、河をその境とする二つの地域の境を流れた旧川崎堀を暗渠化した後を、公園などを含んだ緑道としている。用水北側の二子は「ふたつの塚(古墳)」、用水南側の坂戸は、元は「坂土」で、二子の渡しへと「下った地」に由来するとの説がある。
因みに、二ヶ領用水改良工事は昭和11年(1936‐1844)から19年にかけて行われた。

石橋供養塔
蛇行する二子坂戸緑道を抜けると用水に架かる境橋の脇に出る。緑道が道に当たるところに石塔があり「川崎の歴史ガイド 石橋供養塔」のパネルが建つ。説明には「この緑道がかつて二ヶ領用水の本流だった。寛政五年ここに架けられた石橋は二子方面と結ぶ大切な橋で、当時の供養塔が残っている。昭和16年、用水は今の流路につけ変えられた」とあった。
この橋は坂戸橋(供養塔脇に「橋戸橋」と刻まれた石碑が建つ)と呼ばれ、坂戸村から二子方面に渡る唯一の橋。寛政5年(1793)に木橋から石橋に架け替えられた時に石橋供養塔が建てられた。供養塔には「南無妙法蓮華経」と「南無阿弥陀仏」の題目が刻まれているが、それは村民の信仰する日蓮宗と真言宗に「配慮」したもの、とか。


第三京浜
境橋で、旧川崎堀の流路である二子坂戸緑道から、河川改修された現在の川崎堀に戻る。地域も二子を離れ北見方に入る。旧路はそのまま北見方と坂戸の境界線を下っているようである。
北見方の由来は、鎌倉幕府の有力御家人である江戸氏の後裔であり、世田谷区喜多見に居を構えた喜多見氏に拠るとも、文字通りどこかの親村の「北の方角」に開発した新田集落とか諸説あるようだ。
単調な用水沿いの道を進むと第三京浜の高架が見えてくる。第三京浜を潜ると。宮内地区に入る。川崎堀の南に小田中地区があるが、宮内と小田中の境を旧川崎堀が流れていたように思える。
旧川崎堀
旧川崎堀の流路痕跡が残るものかと第三京浜の高架下を彷徨う。確たるものはないのだが、旧川崎堀の流路辺りの高架下に水路渠があり、下流に延び、第三京浜を越えた先に暗渠が続く。
第三京浜を越えると小田中に関神社がある。「堰」に関係あるのかと思い、ちょっと立ち寄り。途中大弁財天の小祠があったりして、如何にも水路跡らしき道筋が関神社の方に下っていた。




関神社
関神社にお参り。新編武蔵風土記稿に拠れば、「(上小田中村)関明神社 村の北の方にて小名大ヶ谷戸にあり。其所の鎮守なり。近江国逢坂にたてる関明神のうつしなり。社南向2間に1間の覆屋あり。小社前に鳥居あり。例祭は9月17日宝蔵寺の持なり」とある。
「近江逢坂にたてる関神社のうつしなり」とは、この地を開墾した原氏(武田家の家臣原美濃守の後裔)の信仰した関蝉丸神社を此の地に分霊したこと。「大ヶ谷戸」とは元は「大茅野」と呼ばれた原野を開いた原氏が「大ヶ谷戸」と呼んだことにはじまる。現在も大谷戸小学校などの名にその歴史を残す。

井田堰
「旧川崎堀」と社の南に流れる「根方十三ヶ村堀」に囲まれた関神社を離れ、現在の川崎堀に戻る。「竹橋」の傍に取水口らしきものが見える。井井田堀がここで川崎堀から分かれる取水口のように思う。
井田堀
此の地で川崎堀から分かれた井田堀は南下し中原街道をクロスし、下小田中から井田に向かって下る。堰はかつて蛇籠で造られ、用水幅も7mほどもあった、とか。

八つ目土と水道水源地
井田堰取水口のある竹橋からひとつ先の「大ヶ谷戸橋」の手前に「歴史ガイド八つ目土と水道水源地」のパネルがあり、「八回目の土手という意味もあるという。ここは多摩川の旧堤防で、それほど度々決壊した所でもある。今の河川敷には、大正八年開設された市内最初の水道水源地、宮内貯水場があった」との説明があった。
明治時代の「東京今昔マップ 首都」を見ると、多摩川の堤は北見方、下野毛の南端部,川崎堀の少し北に沿って下り、井田堀そしてこの案内パネルのある辺りから宮内地区の境を多摩川に向かって大きく弧を描いて東に突出し、宮内と等々力の境に沿って今度は弧を描いて西に凹み、小杉陣屋地区との境を再び大きく弧を描いて東に突き出している。八つ目土にしても、井田堰にしても堤のすぐ傍のように見える。度々決壊した箇所との説明も古い地図と合わせてみれば納得できる。
また、宮内貯水場も堤外地に見える。説明には宮内貯水場は大正8年(1919)に開設とあるが、この多摩川の表流水を取水した宮内貯水池から導水した戸手浄水場(幸区役所傍)が完成したのは大正10年(1921)とのこと。これが川崎の近代水道のはじまりと言う。
戸手浄水場
その戸手浄水場も、昭和13年(1938)には菅さく井群から取り入れた多摩川の伏流水を水源とする生田浄水場、そして昭和29年(1954)には相模湖下流の沼本取水口で取り入れた相模川水系の水を水源とする長沢浄水場の整備などにともない、昭和43年(1954)、その役割を終える。

木月堰
「八つ目土と水道水源地」の案内パネルのあった「大ヶ谷戸橋」を南に下り、最初に架かる橋(宮戸橋のようだ)の脇に「木月堰」がある。ここから木月堀が分岐する。
木月堀
当地で川崎堀から分かれた木月堀は、川崎堀と井田堀に囲まれ南東に流れ、中原街道を越えて下小田中から木月へと下る。
木月堀分岐点から富士通の工場の東、川崎堀にかかる「上家内橋」の辺りまでは井田堀、木月堀、川崎堀が接近し並走して南東へと下る。

薬師橋から白田橋
宮内と上小田中地区の境を画する用水を下る。薬師橋の北には春日神社と常楽寺。いつだったか小杉を辿り、用水普請の差配をした小泉次太夫の陣屋を辿ったとき、春日神社の辺りから等々力緑地辺りを彷徨った。常楽寺は奈良時代、聖武天皇の祈願所として行基が開基との縁起が伝わる。薬師橋は薬師堂の遺構故の命名だろうか。
用水を更に下ると白田橋。橋の北に高元寺、南に泉沢寺の甍を見遣る。高元寺は川崎最古の寺子屋が開かれた寺、泉沢寺は世田谷領主・吉良氏の菩提寺。元は烏山(世田谷)にあったものが、火災で焼け落ちこの地に移った。

中原街道・神地
白田橋の辺りで、用水の北は小杉御殿町、南は今井上町に変わる。小杉御殿は家康の駿府往来の際の宿舎、鷹狩の休憩などのため二代将軍が建てたもの。とはいうものの、その心は開幕時、新領国の安定・整備のために設けられたものであり、藩幕体制が磐石なものとなってくると、その存在意義が薄くなり、同時に主街道が東海道に移ったこともあり、17世紀の中旬頃にはその役割を終え廃止された、とか。
用水が中原街道と交差するところに神地橋。橋脇に「歴史ガイド 二ヶ領用水と神地橋」のパネルがあり、「稲毛領・川崎領を潤した二ヶ領用水の本流は、ここ神地(こうじ)橋で中原街道と交わる。用水の恵みを受け、この辺りでとれた質の良い米は特に「稲毛米」と呼ばれ、江戸の人々に喜ばれた」とあった。 神地は地名に残る「耕地」に由来するとの説もある。実際、「今昔マップ 首都 1965-68」には宮内から南は、西下耕地、南耕地、下耕地、新田耕地、中耕地、中原街道を挟んで北は家附耕地、南は道下耕地などの地名が記載されている。往昔は泉沢寺の門前市が栄えた神地宿といった名もあった神地ではあるが、現在は地名として残ってはいない。
旧中原街道
旧中原街道は、江戸から相州の平塚中原に通じる道で、中原往還、相州街道とも呼ばれた。また中原産の食酢を江戸に運ぶ運送路として利用されたため、御酢街道とも呼ばれた。はじまりはよくわかっていないが、すでに近世以来存在し、家康の江戸入府のときは、東海道が未だ整備されていたかった、ということもあり、徳川家康が江戸に入国した際に利用され、その後、部分改修されて造成された街道である。
江戸初期には参勤交代の道としても利用されたが、公用交通のための東海道が整備されると、脇往還として江戸への物資の流通や将軍の鷹狩などにもしばしば利用された。 また、平塚からは東海道よりも近道だったため、急ぎの旅人には近道として好まれたという。中原街道;中世以来の主要道。平塚の中原と江戸を結ぶ。東海道の脇往還でもあった。はじまりはよくわかっていない。が、本格的に整備されたのは小田原北条の頃から。家康の江戸入府のときは、東海道が未だ整備されていたかった、ということもあり、この街道を利用した、と。
中原には将軍家の御殿(別荘)があったようである。上に「中世以来」とあるが、Wikipediaによれば、小田原北条氏の時代に本格的な整備が行われたようで、狼煙をあげ、それを目印に道を切り開いたとされる。 中原街道の経路は、江戸城桜田門(後に虎の門)から国道1号桜田通り、東京都道・神奈川県道2号、神奈川県道45号を通り平塚に向かう。また「中原街道」という名称も、江戸期に徳川幕府が行った慶長9年(1604)の整備以降であり、それ以前は相州街道あるいは小杉道とも呼ばれていたようである。

今井堰
神地橋のすぐ下流で今井堀の堰がある、という。行きつ戻りつ、取水口を探したのだが見つからなかった。後からチェックすると、取水口は取り払われているようである。







今井堀
この地で川崎堀と分かれた今井堀は今井神社の前を通り、南に下る。川崎堀に沿って今井上町緑道があり、いかにも水路跡らしき風情の道があったが今井堀跡だろうか。また、今井神社の鳥居の前には水路に架かる石橋が残る。さらに南に下って、南武線の高架手前の交差点の名は「今井堀踏切」とあった。南武線が高架になる前、今井堀が南武線とクロスしていたのだろう。さらに、南武線の高架橋にも「今井堀架道橋」とあった。水路は南に下り、渋川近くまで延びる。悪水落としの渋川に合わさっていたのだろうか。不明である。

今井神社

鎌倉初期、坂東八平氏の一、秩父次郎重忠の一族である小宮筑後守入道道康の霊を祀るため創建されたと伝わる。小宮筑後守入道道康についての資料は見つからなかったが、館は今井西町付近にあったようで、江戸時代にはその子孫は村の庄屋を務めた、と。元は山王社と呼ばれていたが、明治に日枝神社となり、さらに明治43年、旧今井村にあった弁天社、稲荷社を合祀し、村名をとり今井神社となった。



渋川分岐点
南武線の高架を潜ると水門が見える。渋川との分岐点である。水門脇に「川崎歴史ガイド 渋川と水車」のパネルがあり、「明治中頃まで、このあたりでは用水を利用したいくつかの水車が回り、精米が行われていた。他に麦を使った製粉も行われ、木月村や井田村、今井村の冬の副業である素麺業に使われた」とあった。
渋川
この水門で分かれた渋川は、今井、木月と下り、東急東横線の元住吉駅の東傍を越え、西加瀬で東海道新幹線の高架を潜り矢上川に合流する2.4キロほどの水路。現在は川底に内径10.4mもの雨水貯留管が埋められ、都市型雨水対策の水路の趣が強いが、元は水田を灌漑した水を排水する「悪水堀・落とし堀」ではあった。
渋川分岐傍にある大乗院には久地円筒分水の建設をはじめとした二ヶ領用水の改築、平瀬川改修に尽力した平賀栄治が眠る。

中丸子堰
渋川分岐から少し下流、現在の総合自治会館手前辺りに堰があったとのことだが、現在、取水口はみあたらない。ところで、この辺りは小杉であるのに、何故に中丸子?どうも、この地の東にある中丸子村の飛び地がここにあり、ここから中丸子へと水を引いていたようである。
中丸子堀
この地で川崎堀と分かれた中丸子堀は、自治会館から府中街道を南東に下り、東横線ガードを潜り、綱島街道市ノ坪交差点あたりから中丸子村にはいっていたようである。川崎市作成の用水マップには、中丸子堀から分かれた中丸子市の坪悪水、また、中丸子堰辺りから、中丸子村と逆の西の田中へと下る田中堀などが描かれている。

上平間堰
東急東横線の高架を潜った先に「仲よし橋」がある。かつてこの辺りには上平間堰の取水口があったようだ。現在は痕跡もないが、川床に杭を打ち込み、草で間を詰めた、所謂、「草堰」または「乱杭堰」と呼ばれるものであったようだ。
上平間堀
この地で分岐した水路は、府中街道に沿って、少し南を南東に下り、府中街道が東海道新幹線を潜り、横須賀線跨いで西側に移るとともに線路の西側に移り、一時、府中街道の北を流れた後、府中街道に沿って平間配水所辺りへとくだっていたようだ。かつては幅が11mもの水路で市ノ坪川とも称された、ともあるが、明治以降の地図をみてもそれらしき水路は見つけることができなかった。

苅宿堰
中原平和公園の中を流下する用水路に沿って進む。戦前、この地には戦闘機の計器などを製造する軍需工場・東京航空計器があった。ために、昭和20年(1945)4月14日の川崎大空襲に際しては、最初に火の手が上がった地とも言われる。 戦後跡地は駐留軍に接収され、米軍印刷局があり、ベトナム戦争時の謀略ビラや偽札の印刷が行われたと言う。昭和50年(1975)、返還され、跡地を平和公園と住吉高校としたようである。
公園内には旧流路の道筋も残ると言うが、現在の川崎堀は公園整地に際し、直線化されている。その用水路に沿って下り、公園を離れ住吉中学の東、東名高速高架手前に架かる昭和橋脇に取水口がある。現在の苅宿堰かとも思えるが、往昔の苅宿堰は、もっと上流、平和公園のある辺りにあったようである。
苅宿堀
川崎市作成の用水マップに拠れば、平和公園辺りで川崎堀から別れた苅宿堀は、川崎堀の少し東を南下し、住吉中学西脇を下り、東海道新幹線を越え苅宿小学校辺りまで下る。また、住吉中学の南で分岐する流れもあり、南東に向かい新幹線を越え、御幸橋跨線橋手前に流路を変え県道111号の東を県道に沿って下り、南加瀬で矢上川に合流する。

鹿島田堰
新幹線の高架を潜り、苅宿一号橋を越えた先にある無名の橋の辺りに鹿島田橋があったようである。痕跡はなにもないのだが、その分岐点らしき辺りに、苅宿一号橋とこの橋を繋ぐ、唐突に、妙に広い道がある。なんだろう?
鹿島田堀
今ひとつはっきりとはしないのだが、川崎市が作成した用水マップに拠ると、南東に向かい、横須賀線の東に移り、川崎堀の東を川崎堀に沿って下り、府中街道が川崎用水と合わさるあたりで流路を変えて南に向かう。そこから南武線に沿ってしばらく進んだ後、再度流路を変えて南西に向かい鶴見川手前の小倉へと進む。

御幸橋跨線橋
鹿島堀は横須賀線によって行く手を遮られる。横須賀線を跨ぐ御幸橋跨線橋を渡り線路の東側に移動。この跨線橋、横須賀線を跨ぐにしては線路の数が多すぎる。チェックすると、この橋の少し南にはかつて東洋一の規模の新鶴見操車場があり、京浜地区を発着するすべての貨車を「捌いていた」。操車場は昭和59年(1984)に信号所の機能は残し、貨物操車場としての機能は停止した。 横須賀線はこの貨物線を活用したものであり、多くの線路はこの横須賀線・湘南新宿線、そして貨物線の線路ではあろう。

鹿島田橋
跨線橋を渡り、川崎堀脇に下りる。平間駅入口交差点から東に向かう道に架かる大鹿橋、擬宝珠のデザインが施された朱印橋、府中街道とクロスするところには古い石橋の高欄が橋に平行に残る鹿島田橋に。鹿島田橋から先に進む川崎堀は南武線に遮られる。
朱印橋って、ちょっと気になる。チェックすると、少し東にある浄蓮寺に水戸光圀公の御朱印が届いたときに、この橋を通ったことに由来する、とか。


川崎堀踏切
府中街道に戻り、先に進むと南武線を渡る踏切があり、その名も川崎堀踏切と言う。ここにも古い水路に架かったであろう石橋の高欄が踏切を渡った東詰めに残されている。







大師堀・町田堀分岐点
川崎堀踏切から川崎堀が南武線を潜り東側に出る箇所に向かう。成り行きで線路沿って北に戻り用水出口に。金網のフェンスに囲まれたコンクリート造りの水路から出てくる用水を確認し、用水を少し戻り鳥居形造形物が特徴的な水路施設に。川崎堀はここで終了。ここからは右に町田堀、左に大師堀と二つに分かれ下流へと下ることになる。
「榎戸から溝の口の方へ流れて行っている用水の岸は、ちょっと風情に富んでいる。第一、水量の多いのが気持ちが好い。榎戸の橋のところにある大堰からして既に見事である。四、五年前、暑い日に通った時には、この用水の岸は深樹と竹藪とに蔽われて、その中を用水が凄まじい音をたてて流れて行くというさまで、おりおり水に臨んで、夢見るような合歓(ねむ)の花が咲いているなど、そぞろに私達の心を惹いた。しかし、それから二、三年して行った時には、その岸の樹も伐られたりすかされたりして、風景が大分浅露になっていた。しかし、まだ捨てることの出来ないある特色を持っていた。それに、相模丘陵のすぐ近く迫っているのも好かった」。

田山花袋の『東京近郊 一日の行楽』の一節である。先回の散歩メモは上河原取水堰からはじめ、田山花袋の描く榎戸堰を経て宿河原取水堰からの用水(宿河原線)の合流点までカバーした。花袋の描く用水風景は大正初期の頃であり、コンクリートで護岸工事され、周囲に宅地が立ち並ぶ現在の二ヶ領用水本川に、当時の面影を偲ぶ縁(よすが)は望むべくもないのだが、ともあれ二ヶ領用水にあるふたつの取水口の上流の取水口からはじめ、下流に設けられた宿河原堰取水口からの用水合流点である落合までをメモした。
今回はその宿河原堰からはじめ、落合まで下り、合流点から二ヶ領本川を辿り、久地の円筒分水手前の平瀬川までをメモすることにする。



本日のルート:小田急線・登戸駅>宿河原堰堤>二ヶ領せせらぎ館>船島(ふねしま)稲荷社>JR南武線>北村橋>八幡下圦樋>多摩川旧堤防(「宿河原の霞堤」)>八幡堰>宿河原八幡宮>川崎市緑化センター>五ヶ村堀と八幡下の堰>宿之島橋>宿之島稲荷>中宿地蔵菩薩>徒然草の碑>前川堀が宿河原線に注ぐ>久地の合流点>鷹匠橋>堰前橋>久地の横土手>供養塔>久地分量樋跡>平瀬川>多摩川の旧堤防(「久地の霞堤」)

小田急線・登戸駅
宿河原堰堤の最寄駅である小田急線・登戸駅で下車。いつだったか、この登戸駅で下車し、多摩丘陵へと進んだことがある。登戸の「戸」は場所といった意味。多摩川の低湿地から多摩丘陵に登る場所であったのだろう。田山花袋は前述の『東京近郊 1日の行楽』で、「登戸河岸から見た多摩の上流の翠微、これがまた捨て難い。瀬の多い脈のように流れた川、その先に複雑した丘陵、またその先に奥深く多摩の山群が美しくかがやいていた」と描く。
登戸は、江戸から津久井に通じる津久井往還、また幾多ある大山道のひとつが通る道筋であり、津久井の絹や黒川の炭、禅寺丸柿を運ぶ商人、大山詣で賑わったことだろう。

登戸の渡し
此の地には多摩川を渡る渡し場のひとつである登戸の渡しがあった。江戸の頃は小田急線の鉄橋の辺り、明治にはやや上流に移り、明治の終わりの頃は、世田谷通りが通る水道橋辺りに渡し場があったようである。
登戸の渡は多摩川を狛江に渡り、現在の砧浄水場辺りまで東に進み、そこから北に上り慶元寺辺りに。そこからは大雑把に言って、「品川道」を南に下る道、三軒茶屋から往昔、武蔵国の郡衙のあった現在の皇居西の丸あたりに向かうふたつに分かれていたようである。狛江道、品川道を辿った狛江散歩が懐かしい。

宿河原堰堤
登戸駅から成り行きで多摩川堤に進み、宿河原堰堤に向かう。多摩川堤を進むも、宿河原取水口で行き止まり。少し下流を回り込み車道脇の船島人道橋を渡り、「二ヶ領せせらぎ館」を見遣りながら、とりあえず堰堤に向かう。
3つの魚道を持ち、固定部が洪水時の水をうまく流せるようにした、起伏式5門、引上式1門の可動式の堰からなる現在の宿河原堰堤が完成したのは平成11年(1999)のこと。
江戸の頃、竹で編んだ籠に砂利を詰めた蛇籠を並べて取水した堰が、上河原堰と同様に大正期の社会状況の変化に伴い、取水堰の改築が必要となった。多摩川の水位低下、そして灌漑用水だけでなく工業用水といった水需要の増大が発生し、安定的な取水量の確保が必要となったためである。
上河原堰は昭和16年(1941)に工事着工し、昭和20年(1945)に完成したが、宿河原堰の改築・コンクリート化工事は戦後になってから。完成は昭和24年(1949)のこと。工事責任者は上河原堰と同じく平賀栄治である。
ここにおいて一時的な蛇籠堰から恒久的なコンクリート堰となり、安定的な取水が可能となるが、このコンクリート堰は固定堰であったため、後に大災害を引き起こすこととなる。
昭和49年(1974)のこと、台風で狛江市猪方の多摩川堤防が決壊、家屋19軒が流失した。その要因は宿河原堰の固定堰に流れが遮られ、水位を増した多摩川の激流によって堤防が決壊したわけである。山田太一さんの原作・脚本になるテレビドラマ『岸辺のアルバム』での、崩壊した堤とともに民家が濁流に飲み込まれるシーンが、ジャニスイアンの主題歌とともに思い起こされる。
それはともあれ、その状況を踏まえ平成5年(1993)、宿河原堰の改築方法の検討を開始し、その結果完成したのが、現在の宿河原堰堤である。


二ヶ領用水・宿河原堰の完成時期
ところで、江戸の頃、宿河原堰が完成したのは、上河原堰の完成した慶長16年(1611)に遅れること18年、寛永6年(1629)、関東郡代である伊奈忠治の手代である筧助兵衛の手になるものとされてきた。が、近年になり、慶長16年(1611)に小泉次太夫により最初に完成した二ヶ領用水の堰は、宿河原堰であるとか、完成は寛永6年(1629)であるが、普請者は田中丘隅であるとか、あれこれの説がでているようである。
どうしたところで、二ヶ領用水の資料は抹殺されたと言うか、残ってないわけであり、確とした説はないようだが、何となく気になるのは、上河原堰からの二ヶ領本川を「新川」とも称する、ということ。新川という以上、古川があったのだろうし、その古川のほうが古く開削されたとは想像できる。新川と呼ばれた時期がいつの頃か不明のため、何とも言えないが、二ヶ領用水開削期に呼ばれていたのであれば、宿河原が先、との説も少しは説得力を持つとは思える。

二ヶ領せせらぎ館
宿河原堰を離れ「二ヶ領せせらぎ館」に。多摩川や二ヶ領用水の歴史、堰の説明、多摩川の自然に関する資料を展示するこの施設ができたのは平成11年(1999)のこと。可動堰として改築された現在の宿河原堰の管理棟の一部を使って誕生した。
管理運営は「NPO法人 多摩川エコミュージアム」が行っており、今年(平成27年;2015)訪れた時、同NPOが制作した二ヶ領用水に関する資料である、「散策こみち案内 みんなで歩こうシリーズ」を数点買い求め、手懸りの無かった二ヶ領用水散歩に「取りつく島」が出来、散歩が結構豊かなものとなった。


島(ふねしま)稲荷社
「二ヶ領せせらぎ館」の少し南、多摩川堤の河道側、河川敷といった場所に船島稲荷社がある。細長く延びる参道の左手は多摩川である。明神形式の鳥居を潜り、二の鳥居の先に御嶽神社の小祠が祀られる。その先にある社殿はコンクリート造りであり、社殿の扉には草鞋がくくりつけられていた。
社殿脇にある「船島稲荷社のゆかり」と刻まれた石碑には「多摩川の川辺に古くは中の島、現在は舟島と言うふるさとがある此の地を開拓した我らの先祖は信仰の氏神として稲荷社を祀った。治水興農の守護神として爾来幾百年しばしば暴風雨水害に見舞はれ度々境内を移したりした。昭和十二年境内は決壊し樹齢数百年に及ぶ神木は流れ、社殿は水浸しとなるも常に霊験加護を信じ神徳に浴さんとする氏子の信仰心を結集し複興して今日にいたったのである」とあり、続いて、本殿を近代風に改築した旨が昭和54年の日付とともに刻まれていた。コンクリートの本殿は昭和54年(1979)に建て替えられたようである。
本殿の扉に草鞋が括り付けられているのは、馬の脚の無事なるを祈り、藁沓を奉納したのがはじまり、とも言われる。馬が日常生活からいなくなった今日では、足の怪我などに御利益があるとする。草鞋を持ちかえれば早く治り、そのお礼に新しい草鞋を奉納するようである。

それにしても、何故に暴れ川のすぐ傍に社を祭ったのだろう?ちょっと考える。と、多摩川の河道が現在のものとなったのは天正18年(1590)の洪水以降、という先回散歩のメモを思い出した。すでにメモしたように往昔の多摩川は、その流路定まること知らず、といったものであったにせよ、現在より多摩丘陵に近いところを南に下っていた、とのこと。所謂(いわゆる)、「多摩川の南流時代」の主たる川筋は上河原堰から下る現在のニケ領本川のルートとも言われる。 この社の創建は不詳ではあるが、中の島とも舟島(明治の地図には船嶋とある)とも称された氾濫原に浮かぶ自然堤防、微高地にあったにせよ、敢えて暴れ川の河原・河川敷に祀ることもないだろうから、創建時期は天正18年(1590)以前、ということではあろうか。
社には天保13年(1842)再建との古文書が残るとのこと。多摩川の川筋から少し離れた微高地にあった社も、多摩川の河道の変化により、予期せず川傍となってしまい、石碑にあったように、氏子が再建を繰り返してきた、ということではあろう。

JR南武線
船島橋手前にある取水ゲート(樋門)を見遣り、橋を越えて用水に沿って進む。用水の両岸は護岸工事がなされ、水辺を歩ける親水公園といった趣となっている。また、用水の両岸は、昭和34年(1959)頃から地元民により大々的に植樹され、現在450本以上の桜並木となっている。
新船島橋を越え先に進むと、南武線と交差。低いガードを、少し背を屈め、線路下を抜ける。




北村橋・前川堀並走
用水に沿って進むと、交通量の多い橋と交差する。その「北村橋」の手前、右岸から用水が接近し、コンクリートで仕切られた水路として二ヶ領用水・宿河原線と並走する。
この並走する用水は「前川堀」とのこと。二ヶ領用水・宿河原線と開渠で並走した前川堀は、ほどなく木やコンクリートで蓋をされ、遊歩道として南に下り、東名高速高架下辺りで宿河原線の用水に水を吐き出すことになる。
前川堀分岐

川崎市の制作した用水マップに拠れば、二ヶ領本川に五反田川が合流する地点辺りから東に前川堀(中田堀とも)が分岐する。水路は小田急線・向ヶ岡遊園前の南、登戸地区と宿河原2丁目地区の境を東に向かい、宿河原小学校の二筋手前の道を、S字を描いて進み紺屋堀に合流。合流した水は宿河原堰で取水した宿河原線と並走し、東名高速高架下付近で宿河原線の用水に注ぐ。

八幡下圦樋
南武線・宿河原駅前から続く商店街の道筋が用水を渡る宿河原橋、次いで仲之橋を越えてくだると八幡下橋。橋の傍、というか橋上の一隅に、コンクリートのモニュメントがある。モニュメントは交差する樋の形をしており、「八幡下圦樋 明治四十三年四月竣工」とあり、脇にその案内がある。
案内には「八幡下圦樋」とは、この二ヶ領用水の水を堰止め調整したものである。当時の工事請負人関山五郎右衛門という人により明治四十三年四月に完成した。
その昔(年号不詳)、現在の宿河原二丁目二十四番地(宿河原幼稚園付近)を起点に東は高津区宇奈根まで多摩川の旧堤防が築かれていたが、洪水により下流の水害を防ぐために、ここに圦樋を造り、その上流三十米の八幡堀より多摩川に放流して水を調整したものである。
最近この圦樋が逆に堰となり、洪水に度に近隣の住宅に水害を起こすことにより取り壊されたのである。昭和六十三年十一月 吉日」とあった。
NPO法人 多摩川エコミュージアム制作の「散策こみち案内 みんなで歩こうシリーズ」には「古文書によれば、元禄15年(1702)にはじめて八幡下圦樋ができた。その後幾度も改修、移動があり明治43年(1910)大改修があり、コンクリートとなり、同時にこの年、下流の久地大圦樋、久地分量樋の改修もなされた」とあった。

多摩川旧堤防(「宿河原の霞堤」)
石碑の案内には「現在の宿河原二丁目二十四番地(宿河原幼稚園付近)を起点に東は高津区宇奈根まで多摩川の旧堤防が築かれていた」とあり、衛星写真には「多摩川の旧流路」が描かれていた。大雑把に言って、旧流路は八幡下堰辺りまでは二ヶ領本川とほぼ同じであるが、八幡下堰辺りからは二ヶ領本川を離れ、南武線を下辺として北に大きく半円を描き、その先は多摩川に向かって北東に向かっている。
NPO法人 多摩川エコミュージアム制作の「散策こみち案内 みんなで歩こうシリーズ」にある旧多摩川堤防の説明によれば、「現在のこのあたりの堤防は昭和7年頃から造られ始めたもので、それまでは近世以来の旧堤防(明治14年の地図にあり)が使われていた。その堤防は霞提で、ずっとつながったものではなく、稲田地区では3ヶ所あり、この宿河原あたりでは、常照寺近くからはじまり、堰(注;地区名)をとおり、宇奈根の多摩沿線道路まで続いていたよう。
現在、とくに新明国上教本部の裏手、南武線を渡りさらに北に行ったところには旧堤が高く盛られた形で残り、道になって東名高速下まで続き、旧堤の面影を残している。この宿河原の旧堤防の北側はかつて堤外地で、畑や桃、梨畑であった」と説明されていた。
石碑の案内にあった宿河原幼稚園は北村橋を南に下った宿河原交差点の東側、常照寺の少し東にある。Google Mapの衛星写真を見ると、南武線の北に如何にも堤跡といった緑に囲まれた道筋が見える。 二ヶ領本川の仲之橋辺りから堤防跡を辿ると、南武線・宿河原第一踏切の先から南武線・不動第二踏切の間で北に大きく弧を描き、そこからは明確に堤防と分かる「高みが宅地を分断し、北東へと向かい川崎市多摩区と高津区の境あたりまで続いていた。メモの都合上、この堤防を一応「宿河原の霞堤」と呼ぶことにする。
霞提
霞堤は伊奈流・関東流の特徴とされる治水工法。乗越堤、遊水地といった、河川を溢れさすことで洪水の勢いを制御するといった、自然と折り合いをつけた「自然に優しい工法」。しかし、それゆえに問題もあった。なかでも洪水の被害、そして乱流地帯が多くなり、新田開発には限界があった、と。
こういった関東流の手法に対し登場したのが、井沢弥惣兵衛為永を祖とする紀州流。八代将軍吉宗は地元の紀州から井沢弥惣兵衛為を呼び出し、新田開発を下命。関東平野の開発は紀州流に取って代わる。為永は乗越提や霞提を取り払い、蛇行河川を堤防などで固定し、直線化した。ために、遊水池や河川の乱流地帯はなくなり、広大な新田が生まれることになったようである。井沢弥惣兵衛為永の普請工事としては、見沼代用水が知られる。

八幡堰
八幡下圦樋の案内に「圦樋(注;水門)を造り、その上流三十米の八幡堀より多摩川に放流して水を調整した」とある。この水路は八幡堀と呼ばれる。圦樋の上流三十米にある、とのこと。少し用水を戻ると、用水左岸に宿河原仲町町会の防災プレハブ倉庫がある。八幡堀はかつて、この辺りから分岐し、八幡下圦樋で調整された水を多摩川に戻していたようである。
八幡堀
此の地で宿河原線から分岐した八幡堀は、南武線の下を潜り、北東に流れ、向の岡興業高校の先で多摩川に注ぐ。上で多摩川の旧堤防のメモをしたが、明治の地図を見ると、その南を堤防に沿って下っていたように見える。
堰の長池
明治の地図を見ていると、現在の新明国上教本部の北から向の岡興業高校近くまで、池、と言うか沼地といったものが描かれている。現在の東名高速辺りを中心に東西に細長くのびたこの池は、昔の多摩川の流路跡であったようで、「堰の長池」と呼ばれたとのこと。八幡堀はこの池に注ぎ多摩川へと下ったようである。
この池も現在の多摩川の堤防が築かれる昭和7年(1932)頃から、池の西半分は新明国上教(大正期にできた宗教団体)によって埋め立てられ宿坊や水田となり、池の東、堰地区も戦後埋め立てられ梨畑、そして現在では大半が宅地となっている(「NPO法人 多摩川エコミュージアム制作の「散策こみち案内 みんなで歩こうシリーズ」)。

宿河原八幡宮
八幡堀と言うからには、八幡さまが近くあるのだろうとチェック。宿河原橋の少し南に宿河原八幡宮がある。用水を仲之橋、宿河原橋へと戻り、宿河原八幡宮へ。
社にお参り。こじんまりとした宿河原村の鎮守さまである。元は多摩川北岸にあったとのことであるが、安政9年(1826)に多摩川の川瀬が北に移り、社は悉く流出。常照寺観音堂のあったこの地に移った、とのことである。
宿河原
宿とは集落の意味。河原にあった集落が村名の由来。武蔵風土記稿には「此処昔開墾の頃の村落なるにや、もとより多摩川の河原なれば宿河原を以(注;もって)村名とするならん」とあり、続けて「駒井(注;現在の東京都狛江市駒井)は地の続きし所なれば」と記されている。戦国期の小田原衆所領役帳には、「駒井宿河原」との記録があり、現在は多摩川の対岸となっている駒井地区と宿河原は、往昔一体であったことがうかがえる。安政9年(1826)の多摩川の流路の変更により、駒井と宿河原は泣き別れとなってしまったのであろう。
常照寺
真言宗豊山派のお寺さま。創建年度は不詳だが、15世紀末か16世紀初頭との説がある。結構古い歴史のあるお寺さまである。地図を見ると、お寺さまの南に開渠が見える。五ヶ村堀の用水路かと思う。五ヶ村堀はここから暗渠となり八幡様辺りを下り、下にメモする八幡下圦樋記念碑の残る八幡下橋の少し下流で、コンクリート架け樋となって二ヶ領用水を渡る。

川崎市緑化センター
八幡さまから用水に戻る。八幡下橋を越えて先に進むと、用水左岸に川崎市の緑化センターがある。HPの資料に拠ると、「神奈川県農業試験場東部園芸指導地が昭和11年(1936年)に開設されました。その後、この施設は昭和24年(1949年)に川崎市に移管され、川崎市園芸技術普及農場として、ナシやモモなどの果樹栽培技術の普及、家畜伝染病の予防、農業用機械の技術講習場として活用されたほか、土壌診断や野菜及び花卉に関する試験栽培の実施など、多種の業務により市内の農業技術の向上を担ってまいりました。
フルーツパーク(現川崎市農業技術支援センター)に果樹栽培試験に関する業務を移管後、昭和54年(1979年)に都市緑化の推進のために設定された川崎市緑化センター条例に基づき、「緑の相談所」の機能を持つ川崎市緑化センターとなりました」とあった。
四季折々には夥しい数の花が咲く園内では展示会、育成講習会なども開催されているとのことである。

五ヶ村堀と八幡下の堰
緑化センターを見遣りながら先に進むと。「川崎の歴史ガイド」のパネルがあり、「五ヶ村堀と八幡下の堰」とあった。
案内には、「五ヶ村堀はこの地点で本用水と立体交差をし、堰方面の田畑を潤す。近くにある八幡下の堰は、白秋の多摩川音頭で有名な「堰の長池」から多摩川に通じ、排水路の役割を果たした」とある。
案内に「近くにある八幡下の堰」以下の記述は、八幡下圦樋で堰止められた用水を堰の長池から多摩川に通じた排水路、とあるから上でメモした八幡堀のことだろう。
また、用水を掛渡しの樋でクロスするのは五ヶ村堀である。
五ヶ村堀のルート
小田急線・向ヶ岡遊園駅の少し東、小田急線の高架が二ヶ領本川を跨ぐ下にある取水口で取水された用水は、しばらく二ヶ領本川に沿って暗渠で流れた後、開渠の状態で宿河原に丁目を東から西に直線で進み、宿河原6丁目で宿河原堰から取水された宿河原線を樋で越え、南武線手前で流路を変え、線路に沿って南東に下り、東名高速を越えた先で北東に流れを変え、南武線を渡り多摩川に注ぐ。

白秋の多摩川音頭
白秋の多摩川音頭って何?チェックすると、先回の散歩でメモした庚申塔を建立した丸山教のHPに多摩川音頭と白秋のことが記されていた。その記事に拠ると、多摩川音頭は、丸山教の教主が稲田村の青年団のために、白秋に依頼したもの。白秋は登戸の丸山教に度々訪れるも、酒宴に興じ、なかなか完成しなかったようだ。 で、しびれを切らした青年団は白秋を車に乗せ、菅の土手から中の島、登戸、枡形山、宿河原、堰など多摩川沿いの各地を回り、風景だけでなく言い伝え、行事を見て回り昭和3年(1928)、31節からなる郷土の民謡として生まれた、とのことである。
どういったものかチェックする。Youyubeに多摩川音頭がアップされていた。一部聞き取れないところもあったが、歌詞をメモする。

  囃せ 囃せや 多摩川音頭
  (ちりへうと ちりへうと ちりへうと へう へう)
  笠は鮎鷹 笠は鮎鷹 手はさらり 
  月の砧は昔のことよ いまは鮎鷹 ちりへうと へう へう(「月の砧は」の囃子は以下の節の後
  に合いの手で入る)
  菅の薬師は 雌獅子に牡獅子 わしもおまへも わしもおまへも 胸太鼓
  恋は(?) 百草は絡む  わしとおまえの わしとおまえの中の島
  多摩の登戸 六兵衛様よ 藤は六尺 藤は六尺 いま盛り 
   花は咲いたよ河原の桃が (?)
  堰の長池 でて見りゃ長い おまへ待つ夜は おまへ待つ夜は まだ長い
  稲田よいとこ 稲穂は垂れる 梨は明るむ 梨は明らむ 日は晴れる
  今朝も晴れたよ 秩父が晴れた 多摩の河原の 多摩の河原の風上に(?)

菅の薬師とは文治3年(1187)にこの地方の領主であった稲毛三郎重成が建立した薬師堂(多摩区菅北浦4-16-2)であり、境内で行われる獅子舞は菅の獅子舞として知られる。登戸の六兵衛さまとは、丸山教の教祖。境内には美しい藤棚があるようだ。堰の長池は既にメモした。
踊りは鮎鷹(コアジサシ)が小魚を捕る姿をイメージしたものであり、囃子の「ちりへうと ちりへうと」は 鮎鷹)の鳴き声をまねたものとのこと

なお、Youtubeの動画には31節からなる音頭はすべて含まれてないようで、
  わたしゃ鮎鷹 多摩川そだち 水の瀬の瀬を 水の瀬の瀬を 見てはやる
  酒は枡のみ 枡形山よ 山の横あな 山の横あな ほらばかり
  さらす調布(てづくり) さらさら流れ なぜかあのこが なぜかあの子が かう可愛い
といったフレーズもあるようだ。
また、先回のメモで稲田堤のところで記した
  咲いた咲いたよ 稲田のさくら 時は世ざかり 時は世ざかり 花ざかり
なども含まれているようだ。

枡形山は稲毛三郎の城がある丘陵。長者穴。山の横あなは、黄金を埋めたという伝説ののこるほら穴であり、ほら=法螺話をかけるいるようだ。
何度も聞いているうちに、多摩川音頭か頭の中をグルグル永久循環しはじめた。

宿之島橋
八幡下橋に戻り、用水を下り宿之島(しゅくのしま)橋に。橋の袂に地蔵の祠が佇む。三体の地蔵様は阿弥陀三尊であり、本尊と左右の脇侍仏よりなり、宿河原で最も大きな祠とのことで、上宿地蔵と称されるようだ。
御嶽神社代参大札
地蔵の祠には「武蔵国 御嶽神社代参祈祷神璽 講中安全」と書かれた、御嶽神社の御札が立てられている。
そう言えば、船島神社にも御嶽社の小祠があった。大田区には木曾の御嶽に関わりのある御嶽神社もあるようだが、こちらは「武蔵国」ともあり、青梅の御嶽神社の講中であろう。

狛江の御嶽講
この地の記録ではないが、往昔、宿河原と一体であったと上に記した狛江の駒井には現在でも御嶽講が残るとも聞く。
御嶽講は農業の神である作神様、盗難除けの神として信仰され、かつては狛江のどの村にも御嶽の講があったようだ。現在の代参は車で行き、お参りし、そのお札は各戸に配られるほか、「御嶽神社祈祷神璽 講中安全」と書かれた辻札と呼ばれる代参大札の2枚のうち一枚が杉の葉と一緒に細竹に挟み北向き地蔵のところに建てられる、とある。パターンとしては、この地のものと同じである。現在もこの地に御嶽講が残ってはいるのだろうか。

宿之島稲荷
高橋、中村橋、稲荷橋と進む。稲荷橋の右岸に宿之島稲荷、宿之島と下綱(現在は長尾)の守り神。明治8年(1875)の建立とのこと。
歳神御神体
境内左手に小祠があり石の御神体が祀られる。「当地、歳神御神体の由来」とある。
説明は長く、私の頭では少々論旨不明のところもあるため、正確か否かは別にして、自分なりにまとめると;家々では、お正月に稲・田の神である歳神さまをお迎えする。小正月になると再び山(天上)に戻る歳神様をお送りするため、竹・藁で小屋をつくり、中に火の神御神体の石を祭り込み、若い衆が一晩か二晩飲食を楽しんだ後、竹・藁の小屋を焼く、お焚き上げ行事を行う。
歳神さまはお焚き上げの煙とともに天上に戻り、お焚き上げで焼いた餅などを食べると無病息災などの御利益がある、と言う。
このお焚き上げ行事を「どんど焼き」と称する地方も多いが、サイト(バライ)とも呼ばれる。サイトは斎灯と書くようだが、これは村の道祖神のお祭りと結びついたため、とも言われる。道祖神は「塞(さい・さえ)の神」とも呼ばれており、サイトとは、塞神=道祖神を祀った場所がその由来のようである。 因みに、どんど焼きをサイト、サイトバライと称するのは長野、山梨、静岡、新潟などに多いようであるが、相模でもサイトバライと呼ぶこともあるようだ。先日、八菅修験の散歩で才戸橋に出合った。根拠はないが、この橋の由来も「サイト(バライ)」からだろうか。

中宿地蔵菩薩
稲荷橋から用水左岸を下ると東名高速の高架に近づく。道脇に二体の地蔵を祀る小祠がある。仲宿地蔵菩薩。造立は宝暦9年(1759)。宿河原最古の地蔵尊とのことである。

徒然草の碑
東名高速の高架手前に石碑があり、「徒然草 第百十五段 吉田兼好」と刻まれる。:本文には、「河原といふ所にて、ぼろぼろ多く集まりて、九品の念仏を申しけるに、外より入り来たるぼろぼろの、「もし、この御中に、いろをし房と申すぼろやおはします」と尋ねければ、その中より、「いろをし、こゝに候ふ。かくのたまふは、誰そ」と答ふれば、「しら梵字と申す者なり。己れが師、なにがしと申しし人、東国にて、いろをしと申すぼろに殺されけりと承りしかば、その人に逢ひ奉りて、恨み申さばやと思ひて、尋ね申すなり」と言ふ。いろをし、「ゆゝしくも尋ねおはしたり。さる事侍りき。こゝにて対面し奉らば、道場を汚し侍るべし。前の河原へ参りあはん。あなかしこ、わきざしたち、いづ方をもみつぎ給ふな。あまたのわづらひにならば、仏事の妨げに侍るべし」と言ひ定めて、二人、河原へ出であひて、心行くばかりに貫き合ひて、共に死ににけり」とある。
意味は訳すまでもないが、石碑には刻まれていないが徒然草の第百十五段には、続けて「ぼろぼろといふもの、昔はなかりけるにや。近き世に、ぼろんじ・梵字・漢字など云ひける者、その始めなりけるとかや。世を捨てたるに似て我執深く、仏道を願ふに似て闘諍を事とす。放逸・無慙の有様なれども、死を軽くして、少しもなづまざるかたのいさぎよく覚えて、人の語りしまゝに書き付け侍るなり」と続く。
この宿河原、この以外に大阪の茨木の宿河原にも徒然草の碑があるようだ。門外漢であり、どちらかはわからないが、「東国で殺されたと聞いたので訪ねてきた」と言うことから、この地との説も故なきわけではなさそうではある。

前川堀が宿河原線に注ぐ
前川橋の辺りからコンクリート壁で水路は隔てられ、二ヶ領用水・宿河原線と並走してきた前川堀の水は、東名高速の高架下でひっそりと宿河原線(用水)に注ぐ。







二ヶ領本川と宿河原からの用水合流点・落合
東名高速の高架下、そして南武線を跨ぐ道路下を潜り、先に進むと先回歩いた二ヶ領本川に宿河原堰からの用水が合流する箇所・落合に出る。ここからは二ヶ領本川を下ることになる。





久地の合流点
二ヶ領本川を少し下ると、南武線に当たる。手前に人道橋があり、脇に「川崎の歴史ガイド 久地の合流点」の案内パネルがあり、「ここで合流した用水は久地の円筒分水を経て稲毛・川崎領の田畑を潤した。現在の許容取水量は、1日あたり中野島から約46万トン、宿河原から約35万トン、合計80万トンである」とあった。
既にメモしたように、この許容取水量も現在では久地円筒分水手前の平瀬川でその80%を多摩川に戻すようである。久地の円筒分水は次回の散歩でメモする。



鷹匠橋
南武線の人道橋を渡り府中街道に出る。道の左手にある南武線・久地駅を見遣りながら進むと、久地駅前交差点に鷹匠橋が架かる、橋の中央に「川崎の歴史ガイド 鷹匠橋」とあり、「江戸時代、川崎にも将軍家の御鷹場があり、この近くに鷹匠を泊める名主の家があったが。そこには常に御鷹部屋という特別の部屋が設けられ、鷹や鷹匠は大変手厚くもてなされた」と案内があった。
久地駅
久地駅は昭和2年(1927)に「久地梅林停留場」として開業。付近には江戸時代から梅の栽培が盛んで、数百株の梅の名所として知られており、梅林を観光名所と目した命名である。昭和8年(1933)には北原白秋も久地梅林を訪れ「君がため未明(まだき)に起きて梅の花見に来たりけりまさやけき花」など十首を詠んでいる。
とは言うものの、田山花袋は『東京近郊 1日の行楽』で、「久地の梅は、依然たる田舎の梅林だ。ヤヤ世離れたという意味では面白いが、それほど大騒ぎするようなところでもない。梅もそんない多くない」と描く。

この梅林も戦前の平瀬川の開削(次回散歩でメモする)、戦時中の食糧増産のため(梅が伐採され畑地になった、ということだろう)ほとんどが伐採され、また、戦後の工場進出や宅地化の進展のため往時の面影は少なくなり、梅園幼稚園とか久地梅林公園(平成14年;2002年開園)といった地名に往昔の名残を留める(久地梅林公園に上記白秋の歌碑が建つ)。
久地の由来
久地の地名の由来は例によって諸説ある。NPO法人 多摩川エコミュージアム制作の「散策こみち案内 みんなで歩こうシリーズ」には、溝の口に入り口であるところから、「くち」が「くじ」に転化、多摩川の幾度もの流路変更により、河岸が抉られた=くじられた(注;急な崖のことを「クジ」と言う)、久地地区の南の丘陵は現在津田山と呼ばれているが、元々、比丘尼山と呼ばれており、久地は比丘尼に因む(注;比丘尼を祀った弁天堂が小名の久地にあった、ということか)、または音が転化した、といった記述があった。比丘尼云々の話は今一つよくわからない。

堰前橋
鷹匠橋から用水に沿って先に進み、人道橋を越えると堰前橋。「散策こみち案内 みんなで歩こうシリーズ(NPO法人 多摩川エコミュージアム)」に拠ると、この辺りに久地の悪水吐けがあった、とのこと。カシミール3Dのプラグイン「タイルマップ一覧」の「今昔マップ 首都1896‐1909」でチェックすると、堰前橋の少し手前辺りから蛇行しながら北東へと流れ多摩川の河原に続く水路が見える。これが田畑を灌漑した余水を流す悪水路かと思う。

久地の横土手
堰前橋のひとつ下流の久地橋の左岸手前に「川崎の歴史ガイド 久地の横土手」がある。「多摩川に対して直角につくられた横土手。江戸時代、洪水時の水勢を弱める目的でつくられた。この土手を挟んで利害対立が激しく、工事は約三百メートル進んだところで中断した」と説明がある。
なるほど、用水に直角に広い道がある。土手と言うほどの堤はない。以前は両側に比べて一段高い土手があったようだが、現在は宅地開発で平坦に整地されている。
「散策こみち案内 みんなで歩こうシリーズ(NPO法人 多摩川エコミュージアム)」に拠れば、「元禄の頃(1700頃)、久地の大圦樋や分量樋(注;後述する)を護り、二千町歩の水田を多摩川の氾濫による水没から防ぐため、関東郡代伊奈半十郎は、久地の横土手の強化を決意。伊奈氏の甲州流治水のひとつ、霞土手とは河流に対して横方向に堤防を築いて氾濫した洪水を上流の低地に滞水させて水勢を弱め、川下の堤防の決壊を防ぐ手法。
横土手が作られたのは幕府直轄地であったが、その中に宇奈根村の飛地だけが井伊家の私領であったことが工事中にわかり、後の工事中断の一要因にもなった(井伊家の承諾なしに伊奈半十郎が工事を行った)。この横土手は当時としてはかなり大規模工事(下部の幅約30m、上部の幅約7m、長さ約240m)で、完成することなく半分ほどで中断されたが、作られた分の跡が今日まで伝えられているのは、この工事の陰には幾つかの悲話が残されているからであろうか」とある。

供養塔
「川崎の歴史ガイド 久地の横土手」の傍に小祠がある。水神様とも言われるが、横土手築造にかかわる伝説である「浄庵安正」の供養塔なのかも知れない。「散策こみち案内 みんなで歩こうシリーズ(NPO法人 多摩川エコミュージアム)」を読んでもはっきりしない。
「散策こみち案内 みんなで歩こうシリーズ(NPO法人 多摩川エコミュージアム)」に拠れば、浄庵安正の伝説とは、横土手の完成により水没する宇奈根、堰、宿河原の村民のために、工事役人を斬り殺した浄安安正の恩義に報うため、供養の塚を造ったとの言い伝え。村民の度重なる工事中止の懇請にもかかわらず、工事は強行され、横土手によって守られることになる村民との間で、諍いが起きるも役人は工事を強行。
堰村の名主屋敷に寄宿していた浄庵安正は、今こそ恩返しの時と、工事役人を斬り殺し、多摩川対岸にある支配違いの伊井領の役所に出頭。横土手の工事が進む宇奈根は井伊領の飛び地であり、その井伊家に無断で工事を進めていた工事役人は事が公になることを怖れ、事件をなかったことに始末し、工事も取りやめることなった、とのこと。
浄庵安正の恩義に報うため築いた「塚」は、この小祠の道を隔てた南、現在ガーデンマンションが建つ辺りであったが、その建設に伴い、平成17年(2005)に、この地に小公園がつくられ供養塔が移されたようである」といった説明があるのだが、この小祠が供養のために築かれた「供養塚」から移された「供養塔」なのかどうか、はっきりしない、ということである。

久地分量樋跡
用水に沿って下ると、用水右岸に丘陵の緑が繁る辺りの道脇に石碑があり「久地分量樋跡」とあり、「久地分量樋は、多摩川から二カ所で取入れられ、久地で合流した二ヶ領用水の水を、四つの幅に分け、堀ごとの水量比率を保つための施設で、江戸時代中期に田中丘隅(休愚)によって作られました。そして昭和16年(1941)年、久地円筒分水の完成により、役割を終えました」との説明があった。
「四つの幅に分けられた、各堀」とは川崎堀(取水路)、根方堀、久地・溝の口・二子堀、六ヶ村堀(各堀は次回メモ)。分量樋では各灌漑面積に比例した幅の樋(水門)によって水量比を保とうとしたが、この方法では用水中央部では流水量が多く、端は流水量が少ないといった事情もあり、正確に分水することが難しく、水の配分を巡り水騒動が起こることになったようである。
田山花袋の『東京近郊 1日の行楽』には「この用水は久地の梅のある少し手前で、大堰をつくって、溝の口の方へ流れて行っているが、その堰のあたりも、丘陵が迫って来ていて感じが好い。夏行った時には、其処で村の子供達が銅のような肌をして、河童のように潜ったり飛び込んだりしていた」と描く。
田中丘隅(休愚)
平沢村(現在のあきるの市で名主の子として生まれ、川崎宿の本陣を務める田中兵庫の養子となった丘隅(休愚)は、名主、問屋も兼ね、関東郡代伊奈忠逵(ただみち)と交渉し六郷川の渡しの権利により得、その利益で宿の繁栄に貢献。 50歳で江戸に出て荻生徂徠などに学び、その後農政・民生の意見をまとめた『民間省要』が大岡忠相の眼にとまり、八代将軍吉宗の御前にて農政・水利の意見を述べ、結果、川除普請奉行に命ぜられ荒川、多摩川、酒匂川の改修にあわせて、享保9年(1724)二ヶ領用水改修の命を受けた。丘隅は宿河原取水口の改修、開削以来百年を越えた総延長32キロに及ぶ用水の大浚い、そしてこの分量樋を造り、古くなった二ヶ領用水を蘇らせた。

久地大圦樋
また、分量樋の手前には、分量樋を洪水などの被害から護るための久地大圦樋(幹線水路の水量調節用の水門や、比較的大きい水門を圦碑)、そして、圦樋の手前には吐口があり、余剰水を多摩川に水路で流した。木製の大圦樋は明治43年(1910)1月に壊れたため、同年12月、コンクリート製に改築された。

平瀬川
先に進むと用水先に水門が見え、その先は平瀬川。久地の円筒分水は、川を越えた先にある。円筒分水からのメモは次回にまわし、今回の散歩は、久地大圦樋の辺りから現在の平瀬川の東に残る多摩川の旧堤防を締めとする。



多摩川の旧堤防(「久地の霞堤」)
「散策こみち案内 みんなで歩こうシリーズ(NPO法人 多摩川エコミュージアム)」に拠れば、久地大圦樋の辺りから多摩川に向かって北東に霞堤が残る、と言う。Google1 Mapの衛星写真にも明らかに堤防跡らしき緑の帯が続く。 平瀬川を渡るとほどなく、これも明確に堤とわかる「高み」が宅地のど真ん中を多摩川へと続いていた。この堤がいつ頃築造されたか不明であるが、途中には堤外排水施設(堤の北はかつての堤外、河川敷)や河口からの里程を示す標識らしきものが残り、つい最近まで多摩川の堤防であったような風情を呈していた。メモの都合上、この堤を「久地の霞堤」とする。
久地の横土手と霞堤
この「久地の霞堤」と「宿河原の霞堤」を歩いてみて、これらの多摩川の旧堤防と横土手の関係がよくわからなくなってきた。霞堤と言う以上、川筋に沿って、不連続ではあるが、上流側の堤防が下流側の堤防より河川側に入り込みながら平行して堤があったのだろうが、「宿河原の霞堤」とそれに不連続で続くであろう多摩川の霞堤に関する記述は、「久地の宿河原」しか見当たらない。 もし、この間に堤がなかったとすれば霞堤間は1キロ弱もある。河道に沿って微高地・自然堤防があったのか、蛇籠によって枡形が造られ多摩川の激流を防いだのか、はたまた、自然に任せた遊水地であったのか不明であるが、これほどの「開口部」である以上、どうしたところで洪水時には一帯は氾濫原となったかと思う。
その氾濫原に下流部を防ぐ横土手を造るからと言って、確かに堤の上流部の水位はあがるだろうが、所詮は横土手がなくても氾濫原であることには変わりない。また、すぐ下流に分水樋から延びる霞提があれば、あえて横土手を造る理由もわからない。

自分なりに納得できる「理屈」は、用水開削時には「久地の霞堤」は横土手築造時にはなく、横土手築造を断念した故の築造であろう、ということ。伊井家領との諍いを避け、横土手を断念した後、幕府直轄領に霞堤を築くことにしたのかとも妄想する。
「久地の霞堤」が無ければ、一帯が氾濫原であろうが、横土手築堤により、共に氾濫原という「痛み分け」のバランスが崩れ、堤の上流部だけが被害を受け、下流部だけが被害を免れるといったことが納得できず、堤の上流部と下流部の村民の諍となったのだろうか。
ひとつ気になることがある。横土手を巡る諍いは伊井家の領地が絡んでいるわけだが、先日読んだ『江戸村方騒動顛末記;高橋敏(ちくま新書)』には、井伊家領の宇奈根村の百姓が幕閣を相手に名主・村役人の不正と井伊家(彦根藩)の不備を訴える越訴をおこなっている事実が書かれていた。訴状を書き上げる力のある百姓がいた、ということである。
横土手も井伊家領宇奈根が絡む諍いである。同書に言う「ものいう百姓」が多数育っていたことが騒動の一因であろうか。久地の分量樋から多摩川に続く「久地の霞堤」は、「ものいう百姓」のいる井伊家領宇奈根村を避け、天領に築堤したのであろう。が、どうしたところで、氾濫原に堤防ができれば、その上流域の村民は洪水被害が増大するわけ、それにもかかわらず、これといった諍いの言い伝えは残っていない。はてさて。

今回のメモはここまで。次回は、平瀬川のあれこれ、円筒分水、また、かつては久地分量樋から分かれた川崎堀(取水路)、根方堀、久地・溝の口・二子堀、六ヶ村堀などのことなどからメモを再開しようと思う。

ニケ領用水は折に触れて歩いてはいる。が、散歩のメモは一度もしていない。何となくその気にならなかったり、その気にはなったのだが、他にフックが掛る散歩が急浮上したりして、タイミングを逃し今に至っている。

二ヶ領用水を最初に歩いたのは平成20年(2008)。もう7年も前になるだろうか。平成18年(2006)に六郷用水を辿ったとき、その用水奉行である小泉次太夫が、六郷用水と同時期に手掛けた治水事業として二ヶ領用水があることを知り、川崎市多摩区にある稲田堤駅の少し南の上河原取水堰から溝の口辺りまで歩いた。円筒分水には少し心を動かされたが、それでも何となくメモをする気にはなれなかった。
今年(平成27年;2015年)に入り、春の桜の頃、再び二ヶ領用水を訪ねた。今度は、ニケ領用水の二つの取水口のひとつである宿河原取水口から南に下った。そのとき、たまたま宿河原堰の近くにあった「ニケ領せせらぎ館」を訪れ、ニケ領用水に関する資料を手に入れた。
その資料をもとに、二ヶ領用水の概要をチェックし、平成20年(2008)に歩いたコースは、上河原堰から取水口から久地の円筒分水までは「二ヶ領本川」であり、久地の円筒分水から溝の口までは「川崎堀」と呼ばれる二ヶ領用水の堀であることを知った。
当日は川崎堀が大師堀と町田堀に分かれる鹿島田まで下ったのだが、後日鹿島田から二つに分かれる大師堀と町田堀、そして悪水落としである渋川、そのほか成り行きでいつくかの支線を辿った。

さて、メモをはじめようと資料を見る。と、ニケ領用水の上部に大丸用水がある。ニケ領用水に注ぐ支流かと、ちょっと寄り道程度に大丸用水に取り付いたのだが、これが結構な規模の用水であり、結局数回に渡り歩くことになってしまった。
その大丸用水散歩のメモはなんとか書き終えたのだが、時期は春を越え夏となり、夏は沢三昧でしょうと、水根沢逆川といった沢登りのメモにフックがかかり、二ヶ領用水のメモは、またまた据え置きとなってしまった。

夏も終え、この秋こそはニケ領用水散歩のメモを終えるべし、と資料を再びチェック。あれこれ調べていると、ニケ領用水の本流や支流をまとめた川崎市作成の地図があることがわかり、溝の口にある「地名資料館」を訪ねた(川崎市の市立図書館にもあるとのこと)。
地図をコピーし、その水路図をカシミール3Dに書き写す。元の地図は小さく、はっきりしたルートは特定できないのだが、カシミール3Dのプラグインである「タイルマップ」の関東平野迅速測図や「明治の今昔マッ」プを参考に水路トラックを引いた。そしてそのトラックデータをフリーソフトの「轍」でKMLファイルに変換し、Google Mapにインポートした(カシミール3Dでも直接KML ファイルを書き出すことができることはその後知った)。
もとよりそのルートの大半は暗渠であり、中には完全に埋められているものもあり、現在の地図では確認できないし、明治の地図にも記載されていないルートもあるので、推定図の域を出てはいない。

それはともあれ、この作業をしながら、なんとなくニケ領用水のメモを今まで躊躇っていた要因がわかったような気がする。自分の性格からして、まずは全体像を大雑把にでも把握できないことには、メモができない、というか、その気になれなかった、ということではあろう。
二ヶ領用水の水路全体の概要はわかった。今まで辿ったルートが全体のどういった位置づけの水路か、ということもなんとなくわかってきた。Google Mapにプロットしたニケ領用水の全体を頭に入れながら、今まで歩いたルートを、実際に歩いたログに拘らず整理しメモをはじめ、未だ歩いていないが何となく気になるルートを今後辿ろうと思う。その過程で、現在は大雑把ではあるGoogle Mapのニケ領用水概要図をより正確なものにしていければとも思っている。


本日のルート:京王稲田堤駅>大丸用水・菅堀>二ヶ領上河原堰堤>二ヶ領用水・上河原取水口>稲田取水所>二ヶ領用水と新三沢川の立体交差>ふだっこ橋>布田堰>中野島堰>沖川原橋>古い道標>一本圦堰>紺屋(こうや)前の堰>台和橋>「登戸付近の紙すき」の案内>新川橋>小泉橋>榎戸堰>榎戸の庚申塔>小田急線と交差>現在の五ケ村堀取水口>五反田川が合流>前川堀分岐>五ケ村堀緑地>新開橋>向ヶ岡遊園跡>長尾橋>長尾の天然氷>宿河原堰からの宿河原線と合流



ニケ領用水
散歩に先立ち、二ヶ領用水の概要をまとめておく。ニケ領用水の流路図は上にメモした通り、川崎市の作成した水路マップを参考にGoogle Mapにプロットした。既にメモした通り、元図は小さく、かつコピーでもあり、正確な場所の特定は少々困難でもあり、明治の地図などを手掛かりに線引きした推定図にすぎない。大雑把な全体の位置関係、その規模感などを把握するためのものである。

で、二ヶ領用水の概略であるが、名前の由来は徳川幕府直轄の天領である稲毛領と川崎領を流れたことによる。全長32キロ(支線まで含まれているかどうか不明)、現在の神奈川県川崎市多摩区から川崎市幸区をカバーする。 用水工事に着手したのは慶長2年(1597)。正確には多摩川の両岸の測量がこの年に開始された、と言う。この両岸という意味合いは、六郷用水と二ヶ領用水のこと。用水開削は慶長4年(1599)。1月には六郷用水、用水は6月から開削が開始されたようだ。
用水工事の用水奉行は小泉次太夫。次太夫が家康より六郷領、稲毛領、川崎領の治水事業普請を下命されたのは天正18年(1590)。用水工事の測量が開始される7年も前のことである。
この年は秀吉の小田原攻めの真っ最中。その陣中にて秀吉より三河・遠州・駿河・甲斐・信濃の150万石から、関東6国・240万石へ移封が家康に伝えられた時である。家康は新封地の状況を把握し、多摩川両岸の開発が焦眉の急として、今川・武田そして徳川へと仕え治水に実績のある家系の次太夫にこの任務をアサインしたのであろう。
交通の要衝である小杉に陣屋を構えた次太夫は多摩川の両岸を調査。当時の多摩川は天正17年(1589)、18年(1590)と大洪水が続いた直後であり、それまで現在の流路より多摩丘陵に近い箇所を流れていた多摩川は、現在の流れにその流れを変えた。大洪水前の多摩川を「多摩川南流時代」、以降を「多摩川北流時代」とも称される。
天正17年(1589)の大洪水では、溝の口あたりから下流域が北東側にその流れを変えた。翌18年(1590)の大氾濫は上流の矢野口・菅あたりから溝の口あたりまでが大きく北に変えた。ほぼ現在の流路である。



その氾濫原を天正18年(1590)時点で52歳であり、戦傷のため不自由な足を引き摺り次太夫は7年にわたって多摩川の両岸を調査。工事の基本方針を決める。その概要は、稲毛領は上流部の菅村(現在の稲田堤辺り)の標高28m?30m、下平間付近が標高4m?5mほどで傾斜は問題なく、天正18年(1590)の洪水跡を用水幹線として活用し、流路中程の久地辺りで分水し下流を潤す。取水地は堰村(現在東名高速が走る辺り。堰の地名が残る)より上流ならどこでもよさそう、と。
川崎領は沖積デルタ地帯の平坦地が広がり、鹿島田辺りで幹線を二つに分け(大師堀と町田堀)、さらにその二つの堀から分水し、川崎の下流域を潤すといったものである(六郷用水は省略)。

次太夫の調査を踏まえ、慶長元年(1596)、家康臨席のもと幕閣より用水工事が正式に承認され、前述の如く慶長2年(1597)より測量が開始され、慶長4年(1599)より工事が開始されることになる。工事が完成したのは慶長16年(1611)、測量開始から14年後のことである。因みに工事は当時稲毛領・川崎領、そして六郷領ともに一村7軒程度であった状況を考慮し、役務負担を減らすため、六郷領水と二ヶ領用水の工事を3ケ月交代で行った、とのことである。

この用水開削により、「此の地(注:川崎領)数里の間水脈通ぜず、溝血梗塞し、毎歳旱、田に勺水無く、野に青草無し、居民産を失ひ、戸口従って減ず」と称された稲毛・川崎領、世田谷六郷領に灌漑用水、生活用水が供給されるようになり、江戸中期には用水の受益面積は約2000町歩、その石高は26,000石まで達したという。一町はほぼ1ヘクタール。よく比較に出る東京ドームと比較すれば、4.7ヘクタール(役4.7町歩)の東京ドーム400個強というところだろうか。

時代は移り、明治42年(1909)には灌漑・生活受益面積がおよそ2800町歩まで達したニケ領用水であるが、その後都市化、工業化の進展によりその受益面積は減少を続け、昭和16年(1941)には約1600町歩、昭和33年(1959)には546町歩、そして平成4年(1992)には26町歩となり、灌漑・生活の基盤としての役割を終え、現在は幹線部を河川として残す他はおおよそ暗渠または埋め潰されている。

現状の姿を大雑把にまとめると、上河原取水堰で多摩川から取水されたニケ領本川は取水口ちかくの稲田取水所から生田浄水場に送られ、工業用水として使用されている。余水はニケ領本川を下るも、久地の円筒分水手前の平瀬川に80%の水を落とす。
サイフォンで円筒分水に導水された余水20%の用水は開渠となって川崎堀を下り鹿島田の平間配水所に至る。この配水所は、昭和14年(1940)に造られた日本初の工業用水のための公営浄水場であった。が、臨海工場地帯の工業用水の需要減少に伴い、現在はその機能は停止し長沢浄水場と生田浄水場から送水管で送られる工業用水の配水をしているだけであり、ここまで流れていた用水も現在では活用されることなく暗渠をとおり多摩川に流される、とのことである。つまるところ、現在の二ヶ領用水は、一部が工業用水、また僅かに灌漑用水に活用はされているが、大半は多摩川に戻されている、と言うところだろう。

いつものことながら、全体のまとめが少し長くなってしまった。以上のまとめを頭に入れながら散歩のメモを始めることにする。


京王稲田堤駅
二ヶ領用水の取水口である二ヶ領上河原堰堤の最寄り駅京王稲田堤に向かう。駅名の由来は、明治31年(1898)、多摩川堤の完成と日露戦争の勝利を記念し稲田村大字菅の堤にソメイヨシノを植え、桜の名所となったことが契機。北原白秋作詞の『多摩川音頭』には「咲いた咲いたよ 稲田のさくら 時は世ざかり 時は世ざかり 花ざかり」と詠まれる。
 斯くして「稲田堤」の名が広まり、昭和2年(1927)に南武線稲田堤停留場(現在の南武線稲田堤駅)が開業することにより、通り名として定着した。昔の大字を冠した「菅稲田堤」という地名は残るが、稲田堤という名は正式な地名として見当たらない。
稲田堤駅のある稲田村は江戸の頃、稲毛米という良質の米で名高く、将軍家や皇室に献上されていた、と言う。「稲田村で質のいい稲田米」。これって出来すぎの地名と産物の関係。そもそもが、流路定まることのない多摩川の氾濫原であり、稲毛領にはニケ領用水ができるまで一村に7軒程度の農家しかなかった、と上にメモした。
チェックすると稲田村ができたのは明治22年(1889)。江戸の頃の登戸村、菅村、宿河原村、堰村の4ケ村が合併してできたとのこと。そして、この稲田堤駅の辺りは菅村のようだ。慶長9年(1604)に大丸用水、慶長16年(1611)に開削されるまでは、菅村の地名の文字が示すように、多摩川の洪水の氾濫原に「菅(すげ)」が生い茂る寒村ではあったのだろう。

大丸用水・菅堀
京王線稲田堤で下り、多摩川堤にある二ヶ領用水上川原堰に向かう。道なりに進み南武線稲田堤駅先の踏切を左に折れ多摩川の堤に進む。途中の道脇に水路が見える。これは先回歩いた大丸用水の菅堀(新堀とも称される)の開水路である。菅堀は少し南東に下り三沢川に合流する。
現在の流路はここで切れるのだが、この三沢川は昭和18年(1493)に暴れ川である旧三沢川を改修し、素掘りで通した水路(旧三沢川は丘陵に沿って下り、南武線・中野島駅の南西にある川崎市立中野島中学辺りで「二ヶ領用水」に合流する)であり、江戸の頃はこの川はない。国土地理院の「今昔マップ首都 1896-1909」をチェックすると水路は先に進み、「二ヶ領用水」を越え、昔の「稲田村」辺りまで続いている。

二ヶ領上河原堰堤
菅稲田堤地区を歩き多摩川の堤に出る。サイクリングロードも整備されている堤の少し下流に堰堤が見える。二ヶ領上河原堰堤である。3門の洪水吐ゲートが目に入る。このコンクリート堰堤の原型が完成したのは昭和20年(1945)。昭和41年(1966)の台風によりダムの一部が破損したため、昭和46年(1971)に現在の堰堤が完成した。
堰堤は、川崎側に魚道と3門の巻き上げ式洪水吐ゲート、調布側には魚道のついた固定堤、そして洪水吐ケートと固定堰の間には流量調整ゲートが設けられている。

この二ヶ領上河原堰堤は二ヶ領用水開削時の取水口である「中野島取水口」と比定される。完成は慶長16年(1611)とされる(異説もある)。この地が取水口となった理由も不明であるが、上にメモした多摩川南流時代の多摩川の河道跡を活用したものとされる。中野島の名が示すように、流路定まらぬ氾濫原に残った島、と言うか微高地(中野島)を用水堤防とするのは理に掛っている。

蛇籠からコンクリート堰堤に
それはともあれ、取水口には竹で編んだ蛇籠に石を入れ、流れを堰止めて取水していたとのことである。そしてこの蛇籠堰は稲毛・川崎領を潤す取水堰として補修されながら明治まで続くが、大正期に至り、社会状況の変化にともなう河川環境の変化のため取水堰の変化が必要となる。その要因は水位の低下と、水需要の増大である。また、二ヶ領用水の目的も水田灌漑用水から工業用水へのシフトもその要因ではあろう。
大正12年(1923)の関東大震災後の東京の復興のための建設資材としての砂利採取、そして人口の増大・東京都市化の進展に対応するため玉川上水・羽村堰からの取水増大のために多摩川の河床の低下、川崎の京浜工業地帯への工業用水の需要増大、さらには小河内ダム建設に伴う多摩川の流量減少、これらの二ヶ領用水を取り巻く環境の変化に対応し、安定した水量を確保するため従来の蛇籠を改めコンクリート堰を基本とする建設計画が策定される。
その計画には多摩川の伏流水を活用する六郷用水、狛江浄水場、砧下・砧上浄水場、玉川浄水場への地下流路を止めないよう、「浮き堰堤(堰堤基礎部分を不透性地盤ではなくその上の砂礫層に打ち込む)」構造を用い、昭和16年(1941)に工事着工し、昭和20年(1945)に完成した。責任者は久地の円筒分水を建設した平賀栄治である。
平賀栄治
明治25年(1892)、現在の山梨県甲府生れ。東京農業大土木工学科を卒業し、宮内省帝室林野管理局、農商務省等の勤務を経て昭和15年(1940)に神奈川県多摩川右岸農業水利改良事務所長に就任。多摩川の上河原堰や宿河原堰の改修、平瀬川と三沢川の排水改修、久地円筒分水の建設などに携わった。

二ヶ領用水・上河原取水口
二ヶ領上河原堰堤手前に二ヶ領上河原取水口があり取水口脇に案内がある。案内には、「中野島取入れ口 二ヶ領用水の建設は、徳川家康の命を受けた代官小泉次太夫によって始められ、慶長16年(1611)の完成まで実に14年の歳月を要する難工事であった。全長32キロメートル。県内最古の用水でもある。 この取り入口は二ヶ領用水ができた時の最初のもので、当時ここからの取水だけで稲毛領と川崎領の水田を潤した。用水流域の水田開発に伴って、水量を補うため、この下流部に宿河原取入れ口が開設されたのは約二十年後の寛永6(1629)年である」とあった。
上にメモしたが、同時に開削された六郷用水の工事記録は残るが、二ヶ領用水に関する工事記録は残されていない。案内には宿河原取入れ口が上河原(中野島)取入れ口の20年後とあるが、宿河原取入れ口の工事が先との説もあるようで、詳細は不明である。
散歩の折々、用水歩きをすることも多いのだが、箱根用水荻窪用水山北用水など普請の責任者が商人・庄屋などお武家でない場合は記録が残らないものも多い。中には箱根用水のように、故なく罪を咎められ入獄といったケースもある。有名な玉川上水を普請した玉川兄弟も後に、罪を咎められている。が、二ヶ領用水は幕府直轄事業である。その記録が残らないのは、如何なる事情があったのだろう。結構気になる。

二ヶ領用水上河原取水樋門
取水口から堤下の車道に架かる布田橋を越え、先に進むと小橋に水門が現れる。二ヶ領用水上河原取水樋門と呼ばれるこの水門は二ヶ領用水の水量調整を行う。実際的な用水取水口と言えるだろう。多摩川の取水口から久地の円筒分水地点までの二ヶ領用水は「二ヶ領本川」と称されるようである。





稲田取水所
その二ヶ領本川を先に進むと水門がある。用水脇にある稲田取水所の制水扉門である。この取水所は、川崎市の工業用水のおよそ半分を占める水源である多摩川表流水を1日20万立方メートル取水し、内径1.5mの導水管(第5導水管)で生田浄水場まで原水を送る施設である。
生田浄水場は、稲田取水所から導水した多摩川表流水と「菅さく井群」から導水した地下水を浄水処理する施設ではあるが、平成28年(2016)には水道事業の浄水機能を停止し、工業用水専用の浄水場となったようだ。
因みに20万立方メートルを先ほど同様東京ドームとの比較でチェックすると、1万立方メートルでおおよそ東京ドーム2.5個分であるから、20万立方メートル=東京ドーム約50個分の水を導水することになろうか。

菅さく井群
ところで、「生田浄水場へは菅さく井から導水した地下水を浄水処理する」とある。その量1日5万立法メートル、と言う。その「さく井群」がどこにあるのかチェックするが特定できない。ひとつ気になるのは、多摩川の堤を上河原堰堤に向かう途中、「稲田水源地」と記された施設脇に「接合井及び取水埋管」と書かれたコンクリート施設があった。取水埋管とは伏流水を汲み上げる水管。接合井は水管の接合部にあり、水圧の調節機能などをもつ、と言う。多摩川の伏流水=地下水ではあろう。とすれば、この「接合井及び取水埋管」も菅さく井群のひとつであったか、とも妄想する。最も、この水源地は昭和13年(1938)から昭和51年(1976)までは運転していたが、現在は使われていないとのことである。
それはともあれ、既にメモしたように、この稲田取水所で工業用水用に取り入れられた二ヶ領用水の余水は下流の平瀬川でその80%を落とす。また、平瀬川をサイフォンで潜り久地の円筒分水から下流へと流れる用水も、かつては工業用水の浄水場であった平間浄水場で活用されていたが、現在はその機能を停止し、長沢浄水場と生田浄水場から送られる工業用水の配水所・平間配水所となっており、用水を活用することなく暗渠で多摩川に戻す。つまるところ、稲毛・川崎領の水田を潤した二ヶ領用水であるが、現在ではわずかの水田・果樹園の灌漑用水との機能を残すも、主としてこの稲田取水所でその水を工業用水として活用する役割へとその姿を変えているように思える。

二ヶ領用水と新三沢川の立体交差
二ヶ領本川を先に進むと三沢川と交差する地点で地中に潜る。用水は三沢川を越えたところで再び顔を出す。用水は三沢川の下を導管か地下水路で通り、サイフォンの原理で再び現すわけだ。
もっとも、この三沢川、正確には、新たに開削されたこの新三沢川が開削された当初は、三沢川の方が二ヶ領用水の下を通っていたとのこと。が、その仕組みでは大雨時の三沢川への放水量に制限があったためだろうか、現在の姿に改修されたと言う。河道と用水の立体交差の上下が逆になるケースは散歩の折々に出合う。立川の玉川上水と残堀川もそうであった。

三沢川
この三沢川は、昭和18年(1493)に暴れ川である旧三沢川(旧三沢川は新たに開削された川筋を越え、丘陵に沿って下り、南武線・中野島駅の南西にある川崎市立中野島中学辺りで「二ヶ領用水」に合流する)の改修に際し、新たに開削された川筋であり、二ヶ領用水が開削された当時にこの河道はない。





ふだっこ橋
再び地表に顔を出した用水を先に進むと小橋があり、「ふだっこ橋」とある。この道筋はかつての筏道とのこと。筏道とは狛江散歩でも出合ったが、近世、特に幕末から明治にかけ、多摩川の上流の奥多摩や青梅といった杣の地で伐り出したら丸太を河口の六郷辺りまで運んだ筏師が、木場の材木商に引き渡し、大金を懐に家路へと向かった道筋。その筏師は当時の花形職業であったようだ。



布田堰
「ふだっこ橋」の少し先、用水の左岸に水門が見える。堰の前には川床に杭が打たれ、粗くではあるが水を留めている。このように杭を打ち石・木・草などで粗く築いた堰のことを草堰と呼ぶ(「(NPO多摩川エコミュージアム 散策こみち」)。
川崎市の作成した用水マップによると、この堰から取水された水は「中野島新田堀」とのこと。取水口から開渠が二ヶ領用水に沿って進みJR南部線を潜る。



中野島堰
南武線で行く手を阻まれ、用水右岸に戻りJR南部線を越えると、ほどなく布田堰と同じ風情の草堰が左岸に見える。川崎市の用水マップによれば「中野島堰」とある。そしてこの取水口から続く支線は「登戸川原堀」と呼ばれる。






中野島新田堀と登戸川原堀が交差
水路の様子をチェックすべく、少し下流の「中の島橋」を渡り用水左岸に移る。道を南武線まで戻ると、南武線を潜った「中野島新田堀」の開渠は暗渠となりニケ領本川に沿って下り、「中野島堰」から取水された「登戸川原堀」と交差し、少し下流で二手に分かれる。


左手に分かれた本線、と言っても細流ではあるが、民家の間に入っていく。そのまま南に下る流れは「中の島橋」へと下ってきた大丸用水の菅堀(新堀)に合わさり中野島地域へと向かう。中の島橋から南東に、いかにも流路跡らしき道筋が見えるが、それが菅堀(新堀)の跡ではないだろうか。暗渠もなく完全に埋め潰されているようもみえるので想像の域を脱しない。大正の中頃までは大丸用水の菅堀は懸樋で二ヶ領用水を越えていたようである(「(NPO多摩川エコミュージアム 散策こみち」)。
一方、「中野島新田堀」の下を潜った「登戸川原堀」は結構大きな暗渠として北東に進みJR 南武線の下を潜る。

中野島新田堀と登戸川原堀
JR南武線を潜った登戸川原堀は布田地区を南武線に沿って進みJR南武線・中野島駅の北を大きく弧を描いて進み、南武線の北を中野島地区から登戸新町地区に入り、南武線・小田急線登戸駅北で多摩川に注ぐ。
一方の中野新田堀は分岐点から民家に間を抜けJR南武線を潜りおおよそ布田地区と中野島地区の境あたりのJR線路脇で登戸川原堀に合流する。川崎市作成の用水マップを参考にGoogle Mapに「二ヶ領用水概要図」を作成した。大よその流路図ではあるが、参考にして頂ければと思う。

沖川原橋
田村橋、北星橋と進み一風変わった風情の沖川原橋で右岸から水路が合流する。この水路は旧三沢川である。ところで何故に「沖川原橋」と呼ぶのだろう。橋傍の標石には「みさわかわばし(昭和10年竣工)」刻まれているとも言う。周辺の地名にも「沖川原」といった地名はない。
語源から言えば、「沖」って「水の中」と言った意味もあり、氾濫原であった往昔の姿を伝えるにはいいネーミングとも思うのだが、どのよう経緯で「沖川原」が登場したのか不明である。

橋本橋・古い道標
旧三沢川と二ヶ領用水の合流点の左岸には中野島中学校がある。この辺りまで菅馬場地区と中野島地区の境を流れた用水は、これよりしばらくは中野島地区と生田地区の境を下ることになる。
新川橋を越え橋本橋に。車両が行き交う橋の北詰に古い道標が建つ。「正面 當字ヲ経テ調布村方面」、矢印とともに「土淵ヲ経テ高石柿生村方面」「登戸ヲ経テ榎戸高津方面」と記され。そして「御大典記念 昭和3年・・:・」と刻まれている。
御大典
昭和3年(1928)の御大典とは昭和天皇の即位の儀式のこと。明治42年(1909)の「旧皇室典範」の定めにより、即位の儀式はに前天皇の喪が明けて執り行われることになったため、この年になっている。因みに大正天皇の即位の儀は大正4年(1915)とのことである。
土淵
地名にある土淵とは往昔のこの辺りの地名。明治の地図には記載されている。また、生田浄水場近くの府中街道には「土渕」交差点の名前が残る。

一本圦堰
橋本橋から先は河川敷にも遊歩道が整備され親水公園といった趣があるが、その道を辿ると、一本圦橋の手前の用水中にふたつのマンホールの蓋のようなものが見える。何だか気になりチェックすると、ここはかつて「一本圦堰」と呼ばれる草堰があった箇所であった。
一本圦堰の名前の由来は、昭和25年(1950)頃、草堰からコンクリート堰となり、その取水口の扉が大きな一枚の板であったことによる((「(NPO多摩川エコミュージアム 散策こみち」))。
現在では取水堰は見当たらないが、用水中のマンホールの蓋のような管よりポンプアップで取水されているとのこと。用水脇にある薄茶色小施設がポンプ場であろうか。ここで取水された水は一本圦堰となる。
一本圦堀
川崎市作成の用水マップによれば、この地で取水された一本圦堀は、中野島地区と登戸地区の境を北東に登り、大丸用水の菅堀を併せ、南武線手前で流れを南東に変え、南武線の沿って下り、世田谷通りの先で再び南武線を越えて「登戸新田堀」に合流する。

暗渠や埋め潰された用水が多い中、この一本圦堰は現在で多くの部分が開渠として残る。宅地開発された隙間に梨畑とか耕地が残るが、現在でも灌漑用水として機能しているのであろうか。そう言えば、元々は六郷橋下流の大師河原が発祥の地である梨の長十郎は、その生産地を登戸・中野島一帯に移したとのことでもあるので、一本圦堰は梨の生産に一役買っているのかだろうか。

紺屋(こうや)前の堰
一本圦堰跡から緑の木々の遊歩道を少し進むと、台和橋の手前の用水左岸に「川崎歴史ガイド 紺屋前の堰」の案内がある。かつてこの近くに藍染屋があったのがその名の由来。水は新田堀、高田堀、鮒堀、水車堀などに分かれ、登戸一帯を支えた。今は上流の一本圦の堰が使われている、との説明があった。






用水脇の案内の下を通る道脇に石碑があり、その脇に小さく古い石柱があり、「紺屋前堰水門柱」と刻まれる。石碑には「紺屋前堰記念碑」とあり、「此の碑は紺屋前の堰と言う徳川の初期の頃、登戸一帯の農作物其の他人間生活を支えて来た取水口である。
昭和38年土地改良により水利統合の為休止し又今回二ヶ領用水改良工事につき堰を取拂う事になり我ら遠き先祖とともに歩んできた堰に感謝の意を表し、茲に登戸の紺屋前堰跡として之を建立する 昭和四十九年五月 吉日 発起人一同」と刻まれていた。
紺屋前堀
「川崎歴史ガイド 紺屋前の堰」の案内には、「水は新田堀、高田堀、鮒堀、水車堀などに分かれ、登戸一帯を支えた」とある。が、川崎市作成の用水マップには紺屋堀としてひとつの流れが描かれているだけである。往昔、この支流から幾多の細流にわかれていたのではあろう。実際、カシミール3Dのプラグインの「タイルマップ一覧」にある明治の頃の「今昔マップ」を見るに、支流から細流らしきものが見て取れるが、どれが上記の分流か、特定する手懸りはない。
川崎市作成の紺屋前堀のルートは、台和橋手前から南東に下り、世田谷通り登戸交差点手前辺りで流路を変え、南西に向かって大きく弧を描き小田急向ヶ丘遊園駅を越え、南武線手前で再び流路を変え、南東に真っ直ぐ下り「前川堀(注;後からメモする)」に合流。合流した流れは、これもこの先メモすることになる二ヶ領用水・宿河原取水口からの流れ(宿河原線)に合わさるようだ。

台和橋
紺屋前堀跡の直ぐ先に台和橋。小泉次太夫のレリーフが橋にデザインされている。この地で山下川が合流する。
山下川は、多摩区菅馬場地先に源を発し、多摩丘陵の北縁にあたる丘陵地に沿って東に向かって流下し、途中で北東に流路を変え、この地で二ヶ領用水に合流する2キロ弱の河川である。川の周辺は日本住宅公団(現在は都市再生機構)により谷を削り大規模な宅地開発がなされている。源流点の先にある菅北浦調整池は、洪水対策の施設ではあろう。

「登戸付近の紙すき」の案内
台和橋を越え、宅地の中を流れる用水に沿って進むと、次の橋、と言っても特に名前は記されてはいないのだが、その橋脇に「川崎歴史ガイド 登戸付近の紙漉き」の案内。「豊富な地下水を利用した登戸付近の紙すき業は大正時代に最も盛んだった。日暮里あたりから屑紙を仕入れ、これを原料として作られた桜紙は浅草方面の需要に向けられたという」と案内にある。
この説明、何となく隔靴掻痒の感。チェックすると、桜紙は明治末から大正の頃、東京の護国寺近く、音羽にあった紙問屋・竹内商店に納められた再生紙のうち、薄く柔らかな上等のちり紙。高級品として花柳界、もっと言えば遊里でのちり紙として重宝されたのだろう。浅草方面と、ぼかしているのは遊里で重宝した理由が少々口に出すのは憚られる、ということだろうか。

新川橋
「川崎歴史ガイド 登戸付近の紙すき」案内のある橋の先は世田谷通りに架かる新川橋となる。車の往来激しい橋脇に導管が通る。直径1.8mのこの導水管は長沢浄水場からの水管。
いつだったか長沢浄水場を訪れたことがある。その時のメモに補足して掲載する;長沢浄水場には東京都と川崎市のふたつの浄水場が併設されている。ここの水源は相模川水系の相模湖や津久井湖。そこから導水トンネルで導かれる。その距離は32キロに及ぶ、という。東京都は世田谷、目黒、太田区の一部の住民約50万名給水。その量1日につき20万立法メートル。
一方、川崎市上下水道局の長沢浄水場からは鷺沼配水池に送られ、高津・宮前区の一部、そして中原・幸区の水道水となる。その量は一日当たり14万立方メートル。市内総給水量の約25%にあたる。
また、工業用水は送水管を通して平間配水所や浜町に送られ、そこから、配水本管で市内に配水さえる。その量は1日235,000立法メートル(生田浄水場の多摩川の表流水と地下水を併せた25万立法メートルより少し少ない)。この送水ルートから勘案すると、新川橋の送水管は東京都水道局のものだろう。

小泉橋
新川橋の直ぐ先に小泉橋。橋の西詰めに「川崎歴史ガイド 二ヶ領用水と小泉橋」の案内がある。「稲毛領・川崎領を潤した二ヶ領用水は、ここ小泉橋で津久井道と交わる。架橋は江戸後期の豪商小泉利左衛門、改修は四代後の弥左衛門。橋の裏に二つの時代を示す天保、明治の文字が残る」とある。
「NPO多摩川エコミュージアム 散策こみち」によれば、登戸道に架かるこの橋は、元々は榎戸橋と呼ばれ、登戸村や上菅生村など、往還として重要なこの橋を利用する村々によって、およそ5年毎に改架されていたようである。
その橋名が小泉橋となったのは、天保15年(1844)、土地の豪商小泉利左衛門が石橋を普請したことによる(利左衛門は登戸に33の石橋を普請したと言われる)。橋はその後弘化4年(1847)、明治24年(1891)に修理され、明治34年(1901)に弥左衛門により近代的な橋に改修されたが、これらはすべて小泉家の手になるもので、天保の石橋が再利用されていた。しかし、平成3年(1991)の河川改修で撤収された、とのこと。現在の橋の裏に案内にあるような天保、明治の文字が残るわけではないようだ。
改修と言えば、最初に二ヶ領用水を歩いた7年ほど前に撮った小泉橋の写真と見比べると、明らかに現在の橋は変わっている。あれこれチェックすると、道幅を12mに拡大工事が平成23年(2011)に着工し、平成25年(2013)に完成したようである。
旧津久井道(登戸道)
旧津久井道とは、三軒茶屋を基点に登戸に向かい、そこから西に生田、万福寺、柿生、鶴川と進み、さらに鶴見川の上流に沿って、相模原市の橋本から津久井地方へと通じる道。三軒茶屋から東は大山街道と繋がり赤坂御門まで続いていた。
この道は官制の街道ではなく、津久井・愛甲地方で生産された絹などの近隣の産物を運ぶ道であり、また商人や登戸に多く住んでいた左官・大工・下駄職人などの職人が行き来する道でもあった。小泉橋の辺りは、丘陵地への出入り口でもあり、交通の要衝として栄え、橋の付近には明治の頃、ふたつの銀行、乗合馬車の出発点もあったとのことである。

榎戸堰
かつて小泉橋の直ぐ下流に榎戸堰があった。「NPO多摩川エコミュージアム 散策こみち」に拠れば、「この堰から五ヶ村堀、中田堀(注;川崎市作成の用水マップでは「前川堀」とある)が分かれ、生田方面には上菅生用水に水を送った。 榎戸堰は大正末に水門がコンクリート化されたが、取水口は3門あり、ために「三本圦り」とも称された(三つの流れは二ヶ領本川、五ヶ村堀、中田(前川)堀)。この堰も平成3年(1991)に造り替えられた時、榎戸堰はなくなった(五ヶ村堀は位置を変え現存)。
そう言えば、今回の散歩で7年前の小泉橋が様変わりしていたと上にメモしたが、7年前の散歩の時、小泉橋の直ぐ下流にあった榎戸堰の案内も見当たらなかった。当時の案内を掲載しておく;「ここには五ヶ村堀、中田堀、逆さ堀の三つの取り入れ口がある。五ヶ村堀は登戸、宿河原、長尾、堰、久地付近を灌漑。逆さ堀は、本流の水位が低くなると逆に流れ込んでくるのでついた名前」とあった。逆さ堀についての資料は見当たらない。




榎戸の庚申塔
小泉橋から右岸を少し下ると道脇に大きな庚申塔。脇に庚申塔の由来の説明があり、庚申信仰の説明と、この庚申塔は丸山教が建立したものとの説明があった。
丸山教
Wikipediaに拠れば、丸山教の前身は明治6年(1873)稲田村の農民伊藤六郎兵衛が興した丸山講。食行身禄以来の富士講の影響を引き継ぎ、世直しや反近代化の思想が強かったが、明治政府による大弾圧後は報徳社運動に沿った勤勉・倹約を中心とした。昭和21年(1946)、宗教法人丸山教として現在に至る。
で、その庚申塔だが、説明に拠ると「三峰形の富士が描かれ左右に日月、その下に「庚申塔」と彫られ、上座の台石には三猿が刻まれ、その下の台座に丸山講の講紋である「丸に山」と富士登山の登山口を表す「北口」という文字が書かれています。なお、富士講の一講社である丸山講が庚申塔を建立したのは、富士山の御縁年に因んでいると思われます。孝安天皇九十二年庚申の年、「雲霧が晴れ、一夜にして富士山が現れた」という言い伝えから、庚申の年を御縁年と呼び、この年に一度富士山に登れば六十回登ったのと同じ御利益があると信じられるようになりました。富士信仰もこのように庚申と深く結びついていることから、登戸の地にも庚申塔が建立され、また、三猿も彫られているのでしょう」とあった。
上の説明で「登戸の地にも庚申塔が建立され」とあるが、「NPO多摩川エコミュージアム 散策こみち」によれば、これは「登戸のこの地に明治3年(注;丸山講が出来たのは明治6年とあるので、明治3年は??)、庚申塔が建てられたのは、この地が富士登拝する時の習合場所であったため。この庚申塔に参拝し出発した」とあった。
また三猿云々に関しては、説明に「庚申の本尊の青面金剛の従者は猿、であり、また庚申の「申」が「さる」であり猿に例えられることによる」とあった。
富士講
富士信仰のはじまりは江戸の初期、長谷川角行による。その60年後、享保年間(17世紀全般)になって富士講は、角行の後継者ふたりによって発展する。ひとりは直系・村上光清。組織を強化し浅間神社新築などをおこなう。もうひとりは直系・旺心(がんしん)の弟子である食行身禄。食行身禄は村上光清と異なり孤高の修行を続け、富士に入定(即身成仏)。この入定が契機となり富士講が飛躍的に発展することになる。

食行身禄の入定の3年後、弟子の高田藤四郎は江戸に「身禄同行」という講社をつくる。これが富士講のはじめ。安永8年(1779)には富士塚を発願し高田富士(新宿区西早稲田の水稲荷神社境内)を完成。これが身禄富士塚のはじまり、と伝わる。その後も講は拡大し、文化・文政の頃には「江戸は広くて八百八町 江戸は多くて八百八講」「江戸にゃ 旗本八万騎 江戸にゃ 講中八万人」と称されるほどの繁栄を迎える。食行身禄の話は『富士に死す:新田次郎著』に詳しい。
富士塚は富士に似せた塚をつくり、富士に見なしてお参りをする。散歩の折々で富士塚に出会う。散歩をはじめて最初に出合ったのが、狭山散歩での「荒幡富士」と称される富士塚であった。また、葛飾(南水元)の富士神社にある「飯塚の富士塚」や、埼玉・川口にある木曾呂の富士塚など、結構規模が大きかった。
庚申信仰
庚申信仰って、あれこれ説があってややこしいが、60日に一度、庚申の日、体内にいる「「三尸説(さんしせつ)」という「なにもの」かが、寝ている間にその者の悪しきことを天帝にレポートする。そのレポートの結果寿命が縮むことになるので、寝ないで夜明け待つ、という。日待ち、月待ち信仰のひとつ、と言う。信仰もさることながら、娯楽のひとつであったのだろう。
上の説明で庚申の年に一度富士登拝をすれば60回登拝したと同じ御利益がある、といった「六十」はこの60日に一度との関連だろうか。単なる妄想。根拠なし。

小田急線と交差
用水右岸を進むが、小田急線を跨ぐ府中街道が用水上に被さり、用水路も高いコンクリートの壁で見えにくになった先に小田急線を跨ぐ歩道橋。歩道橋を下りると南橋がある。







現在の五ケ村堀取水口
「南橋」から用水上流を見ると、護岸工事されたコンクリート壁面に長方形の取水口があり、その前は防塵の浮輪で囲まれている。取水口の上には機械施設があるが、ポンプアップの施設のようである。この取水口は現在の五ヶ村堰の取水口。ポンプアップされた水は短い暗渠を抜けた後、開渠となって二ヶ領本川に沿って下る。




五ヶ村堀のルート
しばらく二ヶ領本川に沿って流れた五ヶ村堀は開渠の状態で宿河原に丁目を東から西に直線で進み、宿河原6丁目で宿河原堰から取水された宿河原堀を樋で越え、南武線手前で流路を変え、線路に沿って南東に下り、東名高速を越えた先で北東に流れを変え、南武線を渡り多摩川に注ぐ。五ヶ村って、どの村だろう?あれこれチェックするも、不詳。

五反田川が合流
現在の五ケ村堀取水口からほどなく、五反田川が合わさる。川崎市の資料によれば、五反田川は、麻生区細山地内を源とし、細山調整池を経て小田急線に沿って蛇行しながら流下し、東生田地内で二ヶ領本川に合流する流路延長4.8km、流域面積8.0km2の都市河川。
この川は、洪水時には、下流まで約20分で流下する高低差の著しい河川であり、五反田川の下流部及び二ヶ領本川との合流部では、急激な水位上昇により、度重なる水害を繰り返してきた。そのため河道の改修が必要とされるが、五反田川下流の二ヶ領本川は、高度に都市化された地域を貫流しており、河道拡幅や掘削による河道改修が困難な状況となっている。
五反田川放水路
その対策として計画されているのが五反田川放水路。五反田川の洪水を直接多摩川に放流する地下トンネルの建設である。 五反田川放水路は、洪水時には五反田川の洪水全量(150m3/s)を延長2,025mの地下トンネルに流入させ、直接多摩川へ放流させる。五反田川と多摩川の水位差を利用して洪水を流下させる自然流下圧力管方式のこの地下河川事業完成時期は平成32年(2020)の予定とのことである。

前川堀分岐
川崎市の制作した用水マップに拠れば、二ヶ領本川に五反田川が合流する地点辺りから東に前川堀(中田堀?)が分岐している。水路は小田急線・向ヶ岡遊園前の南、登戸地区と宿河原2丁目地区の境を東に向かい、宿河原小学校の二筋手前の道を、S字を描いて進み紺屋堀に合流。合流した水は宿河原堰で取水した堀に注いでいたようである。
明治の地図を見ると、水路に沿って中田、富士塚、橋本といった地名が見える。中田堀の呼称でいいかと思うのだけれども、前川堀は何を由来に呼称されているのだろう。その根拠は不明である。

五ケ村堀緑地
用水本川に沿って進むと五ヶ村堀緑地の木標がある。五ケ村堀は緑地下を暗渠で流れているようではあるが、公園にも水路が設けられている。どこからかポンプアップし、親水公園といった雰囲気としているのだろうか。なお、この緑地は、今は閉園している向ヶ岡遊園へのモノレール跡地、とのことである。





新開橋
五ヶ村緑地を進み本村橋で府中街道に出る。少し南に進み、龍安寺交差点から南に下る道が二ヶ領本川にクロスする地点に新開橋がある。橋を渡った府中街道の東側あたりに「川崎の歴史ガイド 川崎の地酒」がある、と言う。あちこち彷徨ったのだが結局見つけることはできなかった。後日チェックすると、川崎市多摩区長尾2-5-10辺りにあった川崎酒造が酒つくりを止めるにともない、歴史ガイドパネルも撤去されていたようである。
それはともあれ、「川崎歴史ガイド 二ヶ領用水」に拠れば、川崎で地酒がつくりはじめられたのは天保年間(1830-1844)。当時は濁酒(どぶろく)であったが、大正10年(1921)頃から清酒の需要が増大した、と言う。長野で収穫された酒専用米と地下30mを流れる多摩川の伏流水で造られていた醸造所も、今はないようである。

向ヶ岡遊園跡
府中街道に沿って流れる本川を進む。左手丘陵上には、昭和2年(1927)に開園し、平成14年(2002)まで営業を続けた向ヶ岡遊園があった。今は社会人となった子供を連れて遊んだ頃が懐かしい。現在は丘陵下の道路脇に藤子・F・不二雄ミュージアムが開いている。平成23年(2011)に開館したとのことである。

長尾橋
藤子・F・不二雄ミュージアを越え、長尾橋の手前に五連口の水門が見える。用水の余剰水を、地下導管を通し多摩川に直接流している、と。五反田川や生田緑地から二ヶ領本川に流れ込み、増水した用水の水量を調整し、宿河原堰堤の多摩川下流に流しているようだ。





長尾の天然氷
府中街道に沿って流れる本川を進む。長尾バス停前に架かる名も無き橋の左岸に、「川崎歴史ガイド」のパネルがあり、「陽のあたらない山裾に溜め池をつくり、二ヶ領用水を利用した天然氷がつくられていた。氷倉に夏まで貯蔵し、東京方面に出荷したもので、大正初期まで続いた」とあった。
「川崎歴史ガイド 二ヶ領用水」によれば、明治20年(1887)頃から、山かげには水田のような水溜がいくつも並んでいた、と言う。夏になると馬車で神田・龍閑町や八丁堀、芝・明舟町などの販売所へ、後には玉川電車を使って渋谷の天然氷販売所などに卸された。長尾の天然氷は、信州・諏訪湖、北海道五稜郭の氷にひけをとらない質のよい氷として重宝され、機会氷が出回るようになる大正10年(1921)頃まで続いた、とある。
天然氷
「主のこころと夏くる氷 解けるととけぬで苦労する」。明治13年(1880)ごろの「開化都都逸(どどいつ)」の一節だが、この天然氷は五稜郭の「函館氷」とのこと。Wikipediaに拠れば、世界で初めて天然氷の採氷、蔵氷、販売事業を起こしたのは、米国人フレデリック・テューダー(英語版)で、文化2年(1805年)とある。この天然氷がアメリカ合衆国ボストンから世界中に輸出され、日本では横浜港に陸揚げされた。輸入品であり高価で、しかも融解率が高いために、国内でも天然氷の製造が始まり、中川嘉兵衛の製氷会社が、函館・五稜郭で採取した氷が横浜まで輸送・販売され、明治5年(1872年)以降は輸入氷を凌駕していった、とのことである。

宿河原堰からの宿河原線と合流
単調な府中街道を本川に沿って下り、東名高速を潜るとほどなく二ヶ領用水のふたつの取水堰のひとつ、宿河原堰の取水口から取り入れられた用水(宿河原線)と合流。今回のメモは切りのいいここでお終い。次回は宿河原取水堰からはじめ、本川合流点下流をメモすることにする。


大丸(おおまる)用水を歩くことにした。きっかけは、一冊の小冊子。もう数年前にもなるのだが、京王線・稲田堤辺りで取水し多摩川西岸域を潤す「二ヶ領用水」を歩いたのだが、なんとなくメモをする気にならず、そのままにしておいた。その「二ヶ領用水」を歩き直し、気分も新たにメモを、と用水散歩の途中で出合った「二ヶ領せせらぎ館(二ヶ領宿河原堰脇にある)」で買い求めた小冊子(製作;NPO法人多摩川エコミュージアム)。その一部に「大丸用水」の案内があった。
小冊子には「散策こみち案内 みんなで歩こう二ヶ領用水」とあり、当初は、「大丸用水」って「二ヶ領用水」の支流かと思い、ついでのことながら、といった程度で取水堰のある南武線・南多摩駅まで進み、小冊子にある「大丸用水堰から菅掘を下る」のコースを歩き始めた。
が、歩き初めてみるとこの大丸用水って分流、合流が夥しく、用水の規模も結構大きい。あれこれ調べると、本流・支流を合わせた総延長は70キロにも及ぶとのこと。幹線水路は9本、支流の数も200ほどになると言う。どうも「二ヶ領用水」とは別系統の用水路網のようである。
かくの如く、誠にお気楽に歩き始めた大丸用水・菅掘散歩ではあるのだが、メモをしようにも巨大用水網でもあり、分流・合流夥しく全体を整理しなければ、なにがなにやらさっぱりわからない。ということで、「菅堀」散歩メモに先立ち、大丸用水についてあれこれチェックし、用水路の概要・流路をまとめることにした。
で、概要をまとめ、さすがに200にも及ぶという支流の全部をカバーしようとは思わないが、幹線だけでも歩いてみようと用水路をチェックし、結局4回に渡った散歩となった。

さて、メモをはじめようと思うのだが、大丸用水の概要図でもなければメモが煩雑になりそうであり、大丸用水散歩の第一回は大丸用水の概要・概略図のまとめとする。

大丸用水開削の経緯
大丸用水の開削の時期は、新田開発による年貢増収を目的とした幕府の治水政策の一環として「二ヶ領用水」の工事が行われた江戸時代初期とされるが、詳しい資料は残っていないようだ。 慶長16年(1611)に完成した、元禄3年(1690)に築造された、慶長9年(1604)に取水が始まった、など諸説ある。大丸用水と接するその下流域を潤す「二ヶ領用水」は、「六郷用水」の開削もおこなった用水奉行である小泉次大夫(こいずみじだゆう)の普請との記録が残ることと比して好対照である。
散歩の折々に用水を辿ることが多いのだが、足柄の山北用水には比較的資料が残ってはいたが、箱根・芦ノ湖の箱根用水や湯河原の荻窪用水など、町民主導の用水に関する詳しい資料は残っていないことが多い。中には故無き罪で罪を問われたり、獄死といったケースもあった。この大丸用水も町人主導の普請であったのだろうか。
それはともあれ、大丸用水の流域概要は、現在の南武線・南多摩駅の少し上流に堰(昔は現在地より下流であった、とか)をつくりで多摩川から取水し、東京都稲城市[昔の武蔵国多摩郡(大丸村、長沼村、矢野口村、中野島村)]と神奈川県川崎市の上部[昔の武蔵国橘樹郡(菅村、上菅生村、五反田村、登戸村)]を潤す。
用水は流域各村により組織された「大丸用水九ヶ村組合」により管理され、享保12年(1727)には田中丘隅(たなかきゅうぐ)により全面改修されており、八代将軍吉宗の時代には新田検地が実施されている。現在の流域一帯は宅地化が進み、暗渠となった箇所も多いが、今でも諸処に残る梨園や田圃に水を届けているとのことである。


大丸用水の水路

一次幹線水路
多摩川の取水口からの水路が別れる「一次幹線」は南武線・南多摩駅近くの「分量樋」で「菅掘」と「大堀」のふたつに別れる。

① 「菅掘」
「分量樋」で別れた「菅掘」は南武線の北を蛇行を繰り返しながら南武線・稲城長沼駅の北を進み、都道9号バイパスを渡り南武線・矢野口の手前で南武線の南に移り、京王線・稲田堤駅手前で再び南武線を北に移り、京王線・稲田堤駅の北を進み、菅稲田堤地区辺りで流路を南に向け、南武線に沿って三沢川に合流する。 現在の流路はここで切れるのだが、この三沢川は昭和18年(1493)に暴れ川である旧三沢川を改修し、素掘りで通した水路(旧三沢川は丘陵に沿って下り、南武線・中野島駅の南西にある川崎市立中野島中学辺りで「二ヶ領用水」に合流する)であり、江戸の頃はこの川はない。国土地理院の「今昔マップ首都 1896-1909」をチェックすると水路は先に進み、「二ヶ領用水」を越え、昔の「稲田村」辺りまで続いている。おおよそ8キロ弱といったところか。

② 大堀
「分量樋」で別れた「大堀」は南武線の南、都道9号の南を進み、南武線・矢野口駅南を下り、京王・稲田堤駅の西、穴沢天神社の東辺りで三沢川に合流する。清水川とも称される。おおよそ5キロ強だろう。





①「菅掘」からの分流

①‐Ⅰ 押立用水掘:「菅掘」から分流する準一次幹線水路
分量樋の少し東で「菅掘」から分流し、多摩川堤に向かって進み、都道9号バイパスを渡り、流路を南東に変え、南武線・矢野口駅の北辺りで多摩川に注ぐ。

△「押立用水掘」からの分流;二次幹線水路

◎新田掘派流;「押立用水掘」が「いちょう並木」を越えた先で分流し、しばし「押立用水掘」と併走した後、多摩川堤で流路を南東に変え、稲城市第四図書館南で「菅掘」に合流する。

◎向田掘;多摩川堤手前を進む「押立用水掘」が、多摩川堤の稲城北緑地公園を越えた辺りで分流し、南東に下り、都道9号バイパスを越えた先で「中野島用水掘」に合流する 

◎川間掘;「向田掘」が分流するすこし先で分流し、「向田掘」にほぼ平行に南東に下り、都道9号バイパスを越え、「向田掘」の少し東で「中野島用水掘」に合流する。

◎本田掘;「川間掘」の分流点を東に進んだ「押立用水掘」が都道9号バイパス手前で梨花幼稚園方向へ直角に流を変える辺りで分流し、そのまま東に進み都道9号バイパスを越え、南東へ下り稲城第四小学校手前で「中野島用水掘」に合流する。


① -Ⅱ 新堀;「菅掘」から分流する準一次幹線水路
稲城市大丸地区自治会館辺りで「菅掘」から分流し、南東に進み南武線を越え、南武線・稲城長沼駅の南を進み、駅の少し東で流路を北東に向け、南武線を越え都道9号バイパスを越えた辺りで東流し、「菅掘」に合流する。なお、Wikipediaでは、菅掘との合流点で、菅掘は終え、そこから先を「新堀」としている。






△「新掘」からの分流;二次幹線水路

◎久保掘;南武線・稲城長沼駅南の踏切辺りで「新掘」から分流し、南下し「大堀(清水川)」に合流する。

◎柳田掘;「久保掘」分流点の北、南武線の踏切を渡った先で「新堀」から分流し、南東に向かい南武線を越え、川崎街道・東長沼陸橋交差点を経て稲城第一小学校北を下り「大堀(清水川)」に合流する。

◎下新田掘;「新掘」が稲城大橋から南下する都道9号バイパスとクロスした先で分流し、南東に下り、「柳田掘」と「大堀」との合流点の少し東で「大掘」に合流する。 ◎大和掘;「新掘」が「菅掘」に合流する少し手前で「新堀」から分流し、南東に下り、「下新田掘」と「大堀」との合流点の少し東で「大掘」に合流する。

◎落掘;「新堀」が「菅掘」に合流する地点から、「菅掘」に沿って東流し、「菅掘」が南武線とクロスする辺りで「菅掘に」合わさる。

① -Ⅲ 中野島用水掘;「菅掘」から分流する準一次幹線水路
都道9号バイパス手前の「喧嘩口」で「菅掘」から分流し、東流。南武線・矢野口駅手前で南武線を南に越え、駅の少し東で流れを北東に変え、南武線を再び北に越え多摩川堤方向に進む。多摩川堤の菅少年野球場辺りで南東に流れを変えるも、京王相模原線手前で再び北東に向かい、京王相模原線を越えた柳田公園辺りで南東へと流れを変え南武線まで下り、そこから南武線に沿って少しすすみ三沢川に合流する。
なお、、「菅掘」に「新堀」が合流した下流の水路は「菅掘」とも、「新掘」とも呼ばれる。その水路が「中野島用水掘」に合流した先、往昔の「二ヶ領用水」を越えた末までの菅掘(新掘)下流部を「中野島用水」とも称するようではある。

△「中野島用水」からの分流;二次幹線水路

◎中野島用水の支流;南武線・矢野口駅の少し西、「中掘」が「中野島用水掘」に合流する地点で「中野島用水掘」から分流し、南武線・矢野口駅の北を進み、駅の東北にある白山神社付近で「中野島用水掘」の本流に合流する。








○一次幹線水路「菅掘」からの直接分流;二次幹線水路(準一次幹線水路を経ないで直接分流)

◎吉田新田掘;「菅掘」というより、実際は大丸堰で取水され分量樋で「菅掘」と「大堀」に分流されるまでの水路を称する「うち掘」か、南多摩駅の西を多摩川に下る「谷戸川(駅付近は暗渠)からの分流とも言われる。それはともあれ、「吉田新田掘」は「菅掘」の北を東流し、ほどなく「菅掘」をちいさな水路橋で渡り、「菅掘」の南を平行に流れ、大丸自治会館辺りで「菅掘」に合流する。

◎末新田掘:南武線・南多摩駅辺りから「いちょう並木」の南を東流した「菅掘」が流路を南東に変える辺りで分流し、しばし「いちょう並木」に沿って東流した後、大丸自治会館に向かって南東に流路を変え、大丸自治会館脇で東に向かい「菅掘」に合流する。

◎中掘;稲城大橋からの都道9号バイパス手前の喧嘩口で「菅掘」から分流し、しばし東に進み稲城第四小学校の少し東で「中野島用水掘」に合流する。合流点の先からは「中野島用水掘」の支流が東に進む。

◎豊掘;南武線・矢野口駅の西、都道9号から南下し、すぐ南を流れる「大堀」に合流する短い水路。

■②「大堀」からの分流

○一次幹線水路「大掘」からの直接分流;二次幹線水路(準一次幹線水路を経ないで直接分流)

◎宿掘;「菅掘」と別れた「大堀」が都道9号の南に越えてほどなく「大堀」から分流し、東流し南武線を越え、「菅掘」から分流した「新堀」と南武線の北で合流する。

◎玉川前小掘:「宿掘」が「新掘」と合流する地点で、「宿掘」の水をパイプで「新堀」を渡し、東に流れ、南武線・稲城長沼駅の北東で「菅掘」に合流する。

◎五反田掘;「宿掘」分流点を先に進み、開渠部分が直角に曲がる地点で分流し、そのまま東流し、都道9号まで接近したところで流路を南東に変え、「久保掘」が「大堀」に合流する少し手前で「大堀」に合流する。

◎久保掘;南武線・稲城長沼駅の南を進んできた「新掘」が、南武線・稲城長沼駅の東で高架を潜る手前で「新堀」から分かれ南に下って、この地で「大掘」に合わさる。既にメモしたが、「新掘」からの分流点は駅前再開発なのか、宅地化工事のため分流点は確認できなかった。

◎切方掘;「久保掘」が「大堀」に合流する地点で分流し、三沢川に向かって南流し、三沢川の少し北を川に沿って進み、穴沢天神の少し東で三沢川に合流する。 ◎中掘;稲城第一小学校の東で「大堀」から分流し、「切方掘」の北を併走し、稲城第七小学校の南で「切方掘」に合流する。

○大丸用水地域の地名
ところで、水路をメモしながら、大丸用水に登場する地名が気になった。中野島や押立、長沼といった如何にも多摩川の流路跡に由来する地名、そして、それと上新田とか下新田、末新田といった新田開発に由来する地名がそれである。
□多摩川の流路跡に由来する地名
「中野島」は、護岸工事もない昔、「あばれ川」との異名をもつ多摩川が洪水の度に幾流にも分かれ、流路定まらぬ川筋に取り残された「島(自然微高地)」ではあろうし、「押立」も多摩川の急流に「押し立てられる」ようにつくられた「自然微高地」のように思う。また、「長沼」は流路の変遷によって取り残された湿地を表す地名だろう。
国土地理院の「2万5千分の1」の地図や「今昔マップ1896-1906」をチェックすると、南多摩駅付近の大丸地区には「河原方」、東長沼地区には「柳嶋」、押立地区には「稲荷島」、矢野口地区には「中島」、稲田駅付近には「下嶋」といった地名が記載されている。 小字名までチェックすると、大丸地区には上河原、川敷、砂場、河原方、閑古島、下川原、東長沼地域には玉川前、柳島、池ノ東(西、南、北)、河原方、池淵、押立地区には稲荷島、矢野口地区には上中島、下河原、下中島といった多摩川の流露の名残を残す地名が数多く残る。

□新田開発に由来する地名
こうした多摩川の流路変遷に由来する地名の中に点在するのが「新田」の名を冠する地名である。国土地理院の「2万5千分の1」の地図や「今昔マップ1896-1906」をチェックすると東長沼地区に上新田、中新田、矢野口地区には下新田が残る。小字を見ると大丸地区に当新田、田島新田、東長沼地区には上新田、中新田といった地名が残る。 新田開発は洪水跡の氾濫原を開発したのではあろうし、その開発の時期は江戸時代中期(1692-1779)とされる。当然のこととして、新田開発の前提として、暴れ川である治水事業が必要ではあろう、ということで、多摩川中流域の治水事業をチェックすると、代官の川崎平右衛門や田中丘隅が登場してきた。
玉川上水や武蔵野新田開発に貢献した川崎平右衛門は享保年間(1716~1735)の頃、新田世話役となり、玉川中下流の村の水防を強化し新田を開発。後には普請奉行として押立の堤防改修工事、中流部左岸の両岸20余里に及ぶ公領、私領の堤防や樋門の改修工事をおこなっている(「多摩学研究」より)。
田中丘隅は小泉次大夫が新用水奉行として普請の「二ヶ領用水」の改修、下流右岸の小杉の瀬替え、下流の連続堤の築堤などで知られるが、享保12年(1727)、川除御普請御用として大丸用水の全面改修をおこなった、とのこと。この時期は川崎平右衛門が新田世話役となり、玉川中下流の村の水防を強化し新田を開発おこなっていた頃と重なる。新田開発と並行して治水事業もおこなわれ、それに伴い新田へと水を注ぐ用水網の改修が実施されたのだろう。

□用水の痕跡示す地名
以上、多摩川の流路の痕跡由来の地名、新田開発由来の地名をメモしたが、この地域には「用水」の痕跡を示す地名も残る。東長沼地区には水門下、新川端(開削された菅堀用水端)、押立地区には、上関、中関、下関といった小字があったようである。正保~慶安年間(1644~1651)に用水の引水堰を3か所設置したと記録が残ることから、この上関、中関、下関は上堰、中堰、下堰のことのようである。
この堰設置の時期は、前述の川崎平右衛門や田中丘隅による治水事業・新田開発・用水路改修の時期より結構早い時期である。用水開削の前提としての新田開発、それを洪水から守る大規模な治水普請は享保年間(1716~1735)であるにしても、氾濫原を利用した水田開発、そこに水を通す用水路はそれ以前から行われていたということではあろう。

長々と地名についてメモした理由は、上に大丸用水開削の経緯として、「大丸用水の開削の時期は、は新田開発による年貢増収を目的とした幕府の治水政策の一環として「二ヶ領用水」の工事が行われた江戸時代初期とされるが、詳しい資料は残っていないようだ。 慶長16年(1611)に完成した、元禄3年(1690)に築造された、慶長9年(1604)に取水が始まった、など諸説ある。(中略)用水は流域各村により組織された「大丸用水九ヶ村組合」により管理され、享保12年(1727)には田中丘隅(たなかきゅうぐ)により全面改修されており」とメモしたが、大丸用水網もすべてが開幕初期に開削されたわけではなく、氾濫原の状態、新田開発や堤防普請といった治水事業の進展とともに整備されていったように思える。
大丸用水の中でも丘陵に近い「大堀」の流路には小字に松木田があった。「松木田」は「真土田=本当の土。川によって流されてきた土砂からなる沖積地ではなく、洪積地」に由来するものであろうから、洪水被害が少ないと思える「大堀」などは開幕初期に開削されたようにも思うが、それ以外の用水路は、上堰、中堰、下堰などの設置が正保~慶安年間(1644~1651)にあるように、多摩川の氾濫原を活用した新田開発と並行し徐々にはじまり、本格的には川崎平右衛門が新田開発・治水事業を行い、田中丘隅が大丸用水網を全面的に改修した享保年間(1716~1735)以降に巨大な用水路網ができあがっていったのではないだろうか。単なる妄想。根拠なし。


3月1日の多摩丘陵散歩:稲田堤から新百合ヶ丘に続く2回目は川崎・宮前区に。きっかけは会社の常勤監査役殿との話であった。地震になったときに、自宅までどの程度かかるのかわからない、と。であれば、私が歩いてあげましょう、ということになった。宮前区・鷺沼が監査役殿のご自宅。川崎に足を踏み入れるのははじめて。で、どのルートから歩こうか、と迷った。なんとなく名前が気になっていた登戸が頭に浮かんだ。
 
本日のルート;登戸>西宿河原>府中街道・ニケ領用水>長尾橋>神木本町・等覚院>神木で東名高速と交差>平瀬川>神木橋>東名高速に沿って神木本町4丁目>平6丁目>尻手黒川道・土橋交差点>鷺沼>矢上川>宮前平>宮崎台>宮崎団地前>246号・梶ヶ谷交差点>市民プラザ通り・梶ヶ谷駅入口>梶ヶ谷駅>高津区役所交差点>南武線交差溝口>栄橋>溝口神社・溝口駅入口>ニケ領用水>府中街道・高津交差>大山道>光明寺>二子新地駅

小田急線登戸

登戸で下車。登戸の「戸」は場所といった意味。多摩川の低湿地から多摩丘陵に登る場所であったのだろう。
昔は江戸から津久井に通じる、津久井往還の要衝の地。津久井の絹や黒川の炭、禅寺丸柿を運ぶ商人で賑わったはず。当然多摩川の渡しもあったのだろう。果たして今は、という興味もあり登戸から散歩をはじめることにした。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



ニケ領用水・新川
南の方、丘陵を目安に成り行きで進む。登戸、宿河原地区をなんとなく南に進む。車の往来の激しい道筋に。府中街道だ。
道筋に沿って水路が。ニケ領用水・新川。この流れは菅稲田堤にある布田橋、新布田橋近くの稲田取水場から取り入れられた流れ。六郷用水散歩のときメモした、川崎のニケ領、武蔵国橘樹(たちばな)郡と幕府直轄地の稲毛郡の二カ国に通した灌漑用水・ニケ領用水がこれ。ちなみに登戸近く、宿河原から取り入れられたニケ領用水の別水路も近くを流れている。龍安寺近く、本村橋で府中街道とニケ領用水は別れる。

向ケ丘遊園
川筋に沿って歩く。向ケ丘遊園が丘の上に。とはいうものの、どうも開園している雰囲気がしない。向ケ丘ボーリング場も閉まっている。昭和2年、小田急の開通とともに営業を開始したこの遊園も、2003年の2月に75年の歴史を閉じたとのこと。こどもが小さいときに連れ歩いた。仮面ライダーショーでこどもが逃げ廻った記憶が懐かしい。

低地から丘陵に
向ケ丘遊園を少し進み長尾交差点で右折。丘陵への登りとなる。結構な傾斜。多摩川の低地との境をなす多摩丘陵の東端といった雰囲気。が、如何せん、車の通りの多い峠道。排気ガスを浴びながら進む。峠を越え住宅街に。五所塚地区。起伏に富んだ多摩丘陵の台地斜面が削られ住宅地となっている。

長尾神社
左折し長尾神社に。長尾神社と通りをへだてた公園には、五つの円形塚が残されている。『新編武蔵風土記稿』では、「墳墓五ヶ塚」と言われている。が、川崎市教育委員会は「村境や尾根筋に築かれた信仰塚のようなもので、一種の民俗信仰上の記念物」と。五所塚地区はその塚にちなんだ名前。
また「長尾」の地名は、多摩丘陵の長く連なる尾根に沿った地形から生まれたといわれる。尾根の南の方を「神木長尾」、北の方が「河内長尾」「谷長尾」。長尾神社は、河内長尾の鎮守だった五所塚権現社が、明治時代の神木長尾の鎮守だった赤城社を合祀し今にいたる。

等覚院
長尾神社を離れ進む。南東方向に品のいい丘陵が見える。緑の丘を目安に進む。神木本町。いかにもありがたそうな地名。そしてこれまた品のいいお寺さん。等覚院、である。神木(しぼく)の由来は、往時日本武尊が東征のみぎり、渇きを覚えた、としよう。鶴の舞い降りるのを見、水辺あれかし、と。水で渇きを癒し、英気回復。神水というか霊水とあがめ、その地に木を植える。で、代々その木を神木と。後に智証大師円珍、その神木をもって不動明王をつくる。この不動明王は等覚院本堂脇の岩穴に置かれている。これが神木の地名の由来。

神木山等覚院(神木不動)は天台宗のお寺。不動明王が本尊。広い境内はつつじの名所。別名、つつじのお不動さんとも。また、すぐ横を走る東名高速などの都市化の進行から自然環境を保全するため、お寺の裏山は緑保全の森となっている。

平地区
等覚院を離れ車の往来の多い通りに沿って進む。平地区。「平」の地名の由来は、領主・葛原(かつらはら)親皇の後裔である「葛山平」(かつらやまたいら)の名によるとか、この地にある室町時代開山のお寺・泰平山東平寺の山号でもある、「天下泰平」を願って名づけられた、とか、平瀬川が流れる地形からきたとか、これも例によっていろいろ。

東名高速と交差

東名高速と交差。東名を越えたところで平瀬川と交差。地図でチェックすると王禅寺、東百合丘あたりが源流点のよう。神木本町交差点を右折。東名高速との交差手前で高速に沿って、高速道路の南を西に向う道に入る。

手黒川道路・土橋交差点

向丘中学脇、平小学校脇をとおり土橋地区を進む。尻手黒川道・土橋交差点に。土橋(つちはし)の地名の由来は、源頼朝がこの地を通ったとき、谷合から流れ出る谷戸川に橋を架けることを命じた。樹木を切り、土を盛り土橋をつくる。これが地名の由来。で、この谷戸川とは矢上川のこと。この川沿いの湿地・湿田が現在の市道尻手黒川道路。

矢上川

矢上川の源流は宮前区水沢1丁目あたり。菅生緑地の湧水を集め清水谷、犬蔵をへて土橋に。矢上の意味は、谷の上=やがみ、小高い丘=弥上=やがみ、とかいろいろ。
土橋は明治・大正はタケノコの名産地。「竹の里」と。昭和に入るとこの地は陸軍の軍用地として接収。軍用道路、北の台地上には高射砲陣地と探照灯基地が設けられる。戦後は宅地開発と高速道路による都市化の波。農地と山林原野の地が大きく変わる。

鷺沼
土橋交差点は東名高速の川崎インターから出たすぐのところ。会社の同僚を車で送って何回かきたことがある。交差点から道なりに坂道をのぼり、鷺沼プール入口交差点をこえ、本日のターゲットポイント鷺沼に到着。

鷺沼駅の西は地下トンネル。トンネルの上に住宅街が乗っかっている。結構奇妙な光景であった。鷺沼は、東急が開発した街。それ以前は、農地と山林からなる丘陵地。丘陵に挟まれて低湿地帯が長く伸びており、鷺沼谷と呼ばれていた。246号線から鷺沼小学校を経て、日本精工のグランドあたりまで延びる谷筋がそれにあたる。

鷺沼配水池
鷺沼を離れ東京地下鉄鷺沼電車区と水道配水所の間の坂道を下る。川崎市水道局の鷺沼配水池は高津・宮前区の一部と中原・幸区の水道水を確保するためにつくられたもの。給水人口は38万人。市内最大の規模の配水池。川崎市の水源は、多摩川・相模川・酒匂川の3つの水系からなるが、鷺沼配水池は、相模川水系。取水口から長い導水トンネルを通り、多摩区三田にある長沢浄水場に運ばれ、そこで処理された水を集めている。

宮前平
東急田園都市線に沿って宮前平の駅に進む。「宮前平」の駅名は、明治時代に五つの村(野川・梶ヶ谷・馬絹・土橋・有馬)が合併して生まれた「宮前村(みやざき)」の地名から。女躰権現社(現在の馬絹神社)のあたりから梶ヶ谷にかけて宮前という小字名があったとか。宮前駅付近は、江戸時代は湿田が広がっていた、とか。矢上川沿いに広がった湿田は、いまの尻手黒川道路沿いに細長い谷間に広がり、「谷戸田」とも呼ばれていた。

宮崎台
矢上川を越え宮前平駅前を越え、宮崎台に。宮崎は、もとは宮前(みやざき)。が、昭和10年に川崎市と合併するとき、ほかに宮前小学校とかいった名前もあり、ややこしい、ということで宮前>宮崎、となった、とか。

この地は昭和15年には陸軍の軍用地として接収され、大塚三ツ叉を中心に馬絹・上作延・下作延から向ヶ丘・菅生地域にまたがった広大な演習場・溝口演習場となる。連隊本部は宮崎の丘の上。現在の宮崎中学校に。兵舎や弾薬庫などがに配置されていた。

部隊編成は、歩兵五個中隊と機関銃二個中隊、八センチ連隊砲と速射砲一個中隊、そして土橋には高射砲隊。これら東部六二部隊の任務は、召集兵のトレーニング。三ヵ月程度の訓練もあと、実線配備に送り出す。この軍用地も昭和26年には返還され、このときに「宮崎」という大字名がつけられた。

梶ヶ谷
宮崎台団地前交差点を越え、ゆったりとした坂道を登り、梶ヶ谷交差点で246号と交差。市民プラザ通りを進み、最初の交差点を左折し梶ヶ谷駅方面に入る。

梶ヶ谷は鍛冶ケ谷と読み替えるべし。北に矢上川が流れるこの地は南に「金山」と呼ばれる台地がある。馬絹との境にある梶ヶ谷金山公園(R武蔵野南線の貨物ターミナルの少し南)の脇には、「稲荷坂」の地名、そして坂の途中の稲荷社がある。
稲荷社は、鉄鍛冶や鋳物師の神様。また、南野川に下れば別所と呼ばれ区域もある。別所は虜囚となった蝦夷人びとを移住させたところ。上作延・平・長尾にも「別所」の地名が残っている。蝦夷虜囚は、産鉄の技術者集団。「梶ヶ谷」=「鍛冶ヶ谷」の所以である。
梶ヶ谷地域一帯は、産鉄と深い関係がある地名が多い。金山、稲荷、別所のほか、有馬には赤い鉱泉の「有馬療養温泉」がある、とか。鷺沼には、「金糞谷」の地名が残っている、とか。金糞は「鉄滓(てっさい)」のこと。

JR武蔵野南線の貨物ターミナル
「梶ヶ谷」にJR武蔵野南線の貨物ターミナルがある。これって謎の鉄路?稲城近くからトンネルに入り、10キロ以上も地中を走る。いつこんなものが掘られていたのだろう。なんとなく好奇心が湧き上がる。チェックすると、最初に計画されたのは戦前の1927年のこと。その後、戦時中の中断をへて、1964年から工事が始められた、とか。貨物線とはいいながら、ホリデー快速鎌倉号といった列車が、土休日に大宮から鎌倉まで走っているとか、いない、とか。一度、10キロのトンネルを体験したいものである。

溝口
梶ヶ谷駅から溝の口に向う。溝の口の街並みが丘の下に広がる。結構な標高差。坂道をくだり246号線にそって歩を進め、高津区役所交差点に。右折し田園都市線手前の交差点に。溝口のど真ん中。数年前まで、正月に年始・新年会のためで会社の元の先輩の家にお邪魔していた。そのころは、この溝口の駅前は毎年大きく変わっており、毎年道に迷っていた。最近は都市開発も一段落したようで、迷うことはない。

いまはビルが林立するこの溝口。溝のような幅の狭い小さな川が流れ、その溝の入り口にあたるところから「溝口」の地名は生まれた、と。
大山街道の宿場町だった溝口は、多摩川の流れの中から生まれた。『新編武蔵風土記稿』によれば、「白波、岡の下を洗い渺々(びょうびょう)たる流れ」だった多摩川は、その後、川幅も狭まって砂地が生まれる。そこに人家が増え宿場が開ける。僅か百軒程度しかなかった溝口の宿も、いまは川崎市の副都心。JR南武線と東急田園都市線の溝の口駅を利用する一日の乗降客は30万人近い、とか。
ちなみにJR南部線のはじまりは大正初期。多摩川砂利鉄道から出発。路線は南武鉄道と改称。昭和十九年(1944)の春に国有鉄道に買い取られ、国鉄の民営化でJR南武線となっている。

宗隆寺
田園都市線手前の交差点を左折。南武線と交差し栄橋交差点を越える。左手に「興林山宗隆寺」。日蓮宗のお寺である。山門を入ると、本堂の手前左に俳人・松尾芭蕉の句碑がある。 「世を旅に代(とも)かく小田の行き戻り」。

境内の墓地には、この地ゆかりの陶芸家・浜田庄司の墓石もある。溝口駅入口交差点手前左手に溝口神社。どんなものかちょっと覗いてみる。おまいりをすませ歩を進める。

ニケ領用水・新川

少し歩くときれいに整備された水路が。遊歩道になっている。ニケ領用水・新川。水路をチェックすると南に下り、幸区の下平間、横須賀線の新川崎にあたりまで水路が見て取れた。その先は多摩川まで遊歩道っぽい道筋になっている。いつか歩いてみようと思う(後日、稲田堤の取水口から武蔵小杉までニケ領用水を歩き終えた)。

府中街道・高津交差点

高津交差点で府中街道を越える。交差点を越えると町並みが急に落ち着いたものになる。ここは大山道。「溝口村は橘樹郡の北二子村の西に隣れり、江戸日本橋より五里の行程なり、相模国矢倉沢道中の宿場にて、此道村係る所十二町程、其間に上中下の三宿に分ちて道の左右に軒を並べたり、総ての戸数は九十四軒に及べり....村内総て平にしてただ、西の方のみ丘林あり水田多くして陸田少し、土性は真土に砂交じれり」と。
「矢倉沢道中」とは、大山詣りで知られる矢倉沢往還、すなわち「大山街道」のこと。「二子の渡し」、「蔵造りの店」、「溝口・二子宿の問屋跡」「庚申塔と大山道標」など昔の大山街道の名残を残している。

二子新地駅
道脇にある光明寺におまいりし、歩をすすめ二子新地駅で田園都市線に乗り本日の散歩はおしまい。本日のルートは多摩丘陵に連なる下末吉台地にある宮前区の南半分。地形は、小さな谷が入り込み、起伏に富む、地形散歩にとっては魅力的な1日であった。

川崎市麻生区から横浜市青葉区に

日曜日、例によって散歩にでかけようとした。が、少々の野暮用がありあまり時間がない。近場でどこか、と地図をチェック。川崎と横浜の境、横浜市青葉区に「寺家ふるさと村」がある。里山が美しいといった記事をどこかで読んだ。小田急の新百合ヶ丘から歩けば5キロ程度。で、ふるさと村から田園都市線・青葉台まで歩けば、合計で10キロ程度になるだろうか。距離も丁度いい、ということで、本日は川崎市麻生区から横浜市青葉区への散歩にでかける。(木曜日,8月 09, 2007のブログを修正)



本日のルート;小田急・新百合ヶ丘駅>南口>上麻生1丁目>弘法松公園>南百合丘小学校>吹込>真福寺小西>真福寺>真福寺川>不動橋>宿地橋>鶴見川合流>水車橋>寺家町>(寺家ふるさと村)>ふるさと村郷土文化舘>熊野神社>むじな池>河内橋・鶴見川交差>横浜上麻生道路>桐蔭各園入口>中里学園入口>佐藤春夫・「田園の憂鬱」由来の碑>黒須田川交差>稲荷前古墳群>市ヶ尾横穴古墳群>地蔵堂下>国道246号線・市ヶ尾駅前>田園都市線・市ヶ尾駅

小田急線・新百合ヶ丘駅
小田急線・新百合ヶ丘駅。以前、駅の北東、2キロ強のところにある読売ランド方面からスタートし、千代ヶ丘の香林寺の五重塔を眺め、この新百合ヶ丘駅まで歩いたことがある。五重塔から眺めた丘陵下の風景はまことに美しかった。それはそれとして、そのときは新百合ヶ丘駅の北口しか見ていなかったのだが、今回降りた南口は全く様変わり。津久井道の走る北口とは異なり、南口駅前は一大ショッピングセンターである。事実、首都圏でも特に目覚しい発展をした街である、とか。新百合山手といった巨大住宅開発が実施され、丘陵を切り崩し巨大な住宅地が丘の上に開けている。ちなみに、百合丘の地名の由来であるが、百人の地権者がこの地の開発に力を合わせたとか、県の花であるヤマユリが自生していたから、とか、百の丘があったからとか、例によって諸説あり。「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


吹込交差点

南口に降り、大型商業施設の中を成行きで南に向かう。成り行きで進み少し大きい車道に出る。坂道を南西に向かって下る。南百合丘小学校脇を下り最初の大きな交差点に。吹込交差点。王禅寺西2丁目と3丁目の境にあるこの交差点からは大きな車道の一筋南に進む道に入る。しばらく進むと南に下る大きな車道に出る。この道が、目的地・寺家ふるさと村に向かってのオンコース。ちなみに王禅寺の地名の由来は、古刹・王禅寺、より。

真福寺川
しばらく進むと、道脇に真福寺小学校。小学校の裏 手には豊かな緑が見える。後から地図をチェックすると、「むじなが池」や白
山神社などがある。いつか歩いてみたい。道に沿って川筋がある。真福寺川。麻生区百合丘カントリークラブあたりを水源とし下麻生で鶴見川に合流する2.5キロの川。真福寺小学校を超えたあたりで、西に折れまたすぐ南に。
先ほどの車道の一筋西を真福寺川に沿って下る。左手には白山南緑地の緑。それほど美しくもない川筋を進む。王禅寺地区から下麻生地区に。不動橋の西に見える小高い緑の中には月読神社がある、という。「月読」って名前も神秘的。また、月読神って、その粗暴な所業故に天照大神の怒りをかい、ために月は太陽のでない夜しか、顔をだせなくかった、という昼夜起源の話となっている神様。結構面白そうな神様ではある。




寺家ふるさと村
宿地橋を過ぎると真福寺川は鶴見川に合流。水車橋を渡り、鶴見川の西岸に移る。橋を渡ってすぐの民家の脇に「寺家ふるさと村」の石碑。道の西には小高い里山が迫る。山裾を南に進む。桜ゴルフコースの案内を眺めながら南に。里山の南端に。田圃を隔てて南にもうひとつの里山。その間に田圃が西に続く。典型的な谷戸の景観。山の端を西に進むと「ふるさと村郷土文化舘」に。文化舘とはいうものの、おみやげ物の展示が中心。併設される喫茶で一休み。
「ふるさと村郷土文化舘」を出る。南に進み、田圃で隔てられた、もう一方の里山に移る。入口にある熊野神社を眺めながら、山裾を進む。「むじな池 右折」の案内。里山に入る。雑木林の道を上る。すぐさま尾根筋に。尾根、というのはおこがましいほど、つつましやかな「尾根」を越え、少し下ると「むじな池」。どうということのない、こじんまりした池。池の前には田圃が広がる。「ふるさと村郷土文化舘」前の道筋を真っ直ぐ進むと、ここにあたる。
それにしても、典型的な谷戸の姿である。これほど長く切れ込んだ谷戸って、あまりお目にかかったことがない。「むじな池」に限らず、「大池」とか「新池」とか「熊野池」とか、水源があり、そこから流れる水が谷地を潤す。心休まる景観。ちなみに、寺家は「じけ」と読む。「寺領」の意味。どこかのお寺の「寺域」であった土地。寺家町の中心には古くから東円寺というお寺があった、とか。

鶴見川
田圃の畦道に腰を下ろし、次の予定を考える。このまま青葉台の駅に進み、おとなしく家路に向かうのも、いまひとつ盛り上がりに欠ける。はてさて、どこか見どころは、と地図をチェック。田園都市線・市ヶ尾駅近くに、稲荷前古墳群と市ヶ尾横穴古墳群。とりあえず市ケ尾方面に進むことに。
「ふるさと村」前の道を東に進む。しばらく進むと鶴見川。河内橋を渡り、横浜上麻生道路に。環状4号入口交差点手前で、台地下を走る道路に入る。台地下とはいうものの、ちゃんとした車道。台地の上は横浜桐蔭学園。

佐藤春夫・田園の憂鬱の碑

桐蔭学園入口交差点を越え、中里学園交差点に。佐藤春夫の「田園の憂鬱」由来の地の記念碑があった。いつだったか古本屋で『郊外の風景;樋口忠彦(教育出版)』という本を買った。その中で、「佐藤春夫の近郊の風景」という箇所があった。なんとなく「田園の憂鬱」のことを書いていたのでは、と思い本棚から取り出した。まさしくその通りであった。「田園の憂鬱」は大正5年の晩春から晩秋までの半年ほど居住した神奈川県都築郡の寒村の生活を回想したもの。このあたりの風景を描いたところをメモする。
主人公が移り住むのは、「広い武蔵野が既にその南端になって尽きるところ、それが漸くに山国の地勢に入ろうとするところにある、山の辺の草深い農村である」「それは、TとYとHとの大きな都市をすぐ六七里の隣にして、たとえば三つの劇(はげ)しい旋風(つむじかぜ)の境目にできた真空のように、世紀から置きっ放しにされ、世界からは忘れられ、文明からは押し流されて、しょんぼりと置かれているのである」「この丘つづき、空と、雑木林と、田と、畑と、雲雀と村は、実に小さな散文詩であった」「とにかく、この丘が彼の目をひいた。そうして彼はこの丘を非常に好きになっていた」「フェアリー・ランドの丘は、今日は紺碧の空に、女の脇腹のような線を一しおくっきりと。浮き出させて、美しい雲が、丘の高い部分に聳えて末広に茂った梢のところから、いとも軽々と浮いて出る。黄ばんだ赤茶けた色が泣きたいほど美しい。その丘が、今日又一倍彼の目を牽きつける」

『田園の憂鬱』ではないが、同じ頃書いた短編『西班牙(スペイン)犬の家』には、このあたりの雑木林を描いた箇所がある。メモする。「何でも一面の雑木林である。その雑木林はかなり深いようだ。正午に間もない優しい春の日ざしが、楡や樫や栗や白樺などの芽生したばかりの爽やかな葉の透間から、煙のように、また匂いのように流れ込んで、その幹や地面やの日かげと日向との加減が、ちょっと口では言えない種類の美しさである」、と。
当時佐藤春夫が住んでいたという家の周りを映した写真があるが、まっこと純正の「田園」である。佐藤春夫というか主人公は多摩の丘陵や美しい雑木林で癒されていた、ようだ。急激な市街地化が起きる前の、ほんとうに静かな田園の景観が目に浮かぶ。ちなみに上でメモしたTは東京、Yは横浜、Hは八王子である。

稲荷前古墳群


中里学園交差点を越え、南に進む。川筋と交差。黒須田川。王禅寺の日吉あたりに源を発し、市ヶ尾高校のところで鶴見川に合流している。川を越えるとすぐ道の左手の住宅の建つ台地上に緑の一角。稲荷前古墳群であろう。道を離れ、住宅地の中を台地にむかって上る。入口から石段をのぼると雑草に覆われた丘となっている。
ここが前方後円墳をふくめた三つの古墳跡、という。そう言われれば、そうかなあ、と思う程度の知識しかない。発見当時は前方後円墳2基、前方後方墳1基、円墳4基、方墳3基、横穴墓9基が発見され、「古墳の博物館」と呼ばれたようだが、現在では市街地開発で失われ、三基が残る、のみ。このあたりの古墳は4世紀から6世紀の頃のもの。近畿地方に遅れること1世紀、ということである。鶴見川(谷本川)を見下ろす丘の上に力をつけた首長が登場していた、ということ、か。

市ヶ尾横穴古墳群
丘の上に座り、しばしのんびり。得がたいひと時。丘からの眺めを楽しみ、次の目的地・市ヶ尾横穴古墳群へと向かう。住宅街を下り、薬王寺脇を通り大場川を渡り、大雑把に言えば南東に進む。一度丘を下り、低地で川を渡りふたたび丘に上る、って感じ。横浜市青葉区市ヶ尾町の北端、市ヶ尾小学校の北側に「市ヶ尾横穴古墳群」がある。六世紀後半から七世紀後半にかけての、いわゆる「古墳時代」の末期に造られたもの、と。市ヶ尾遺跡公園となっており、園内に入ると散策路が延び、その奧に広場がある。このあたりは鶴見川を見下ろす丘陵地であるのだが、公園前に建つ住宅のために、眺望はあまりよくない。家々の間から、かろうじての丘陵下の景色が見える。ただ、それだけでも結構爽快ではある。
公園内の各所に、市ヶ尾横穴古墳群の案内板があった。メモ;市ヶ尾の周辺には丘陵の谷間の崖面に造られた横穴墓群が多く、この「市ヶ尾横穴古墳群」はその代表的なもの、と。この地方の有力農民の墓ではないかという。公園内には「A群」12基、「B群」7基の横穴式古墳が残されている。横穴の周囲はコンクリートで固められてあり、少々情緒に欠ける。公園の中に案内が。
抜粋メモする。「市ヶ尾横穴古墳群は禅当寺谷の奥まった崖面にある。谷本川(鶴見川)の平地と富士山や丹沢が眺められる。
周辺にはいくつかの横穴群。東北には小黒谷横穴群、尾根を越えた北側に大場横穴群が背中合わせにならび、稲荷前には前方後円墳を含む稲荷前古墳群がある。南には朝光寺古墳群。
付近の台地の上には鹿ケ谷遺跡をはじめとする古代遺跡が発見されている。そしてこれらの東方に掘立柱建の残る長者ケ原遺跡が発見されている。これは律令時代の郡役所跡」と。「古墳時代の後期になると、豪族のもとで貧富の差が広がり、家父長を中心とする農民の家族が成長してゆく。古墳が盛んに作られた時代を古墳時代(4世紀―7世紀)という。古墳は九州から東北まで広がる。古墳は、支配する地域を見渡すような場所に、自然の地形を利用したり、人工的に土を盛り上げたりしてつくられた。彼らは水田耕作に適した中・下流域ばかりでなく、上流域の丘陵地帯にも耕地を開き、集落を営み横穴墓や円墳などの群集墳をつくった」、と。

東急田園都市線・市が尾駅
公園を離れ、道なりに東急田園都市線・市が尾駅に進み、本日の予定は終了とする。それにしても、何も考えず、特に何があるとも思わず歩きはじめたわけだが、川あり、里山あり、古墳ありといった盛りだくさんの一日となった。が、それよりなりより印象に残ったのは急激な市街地化。丘陵を切り崩し、住宅地を開発していたわけだ。

丁度読んでいた『都市と水;高橋裕(岩波新書)』にこの鶴見川流域の記事があった。抜粋:「鶴見川は1975年より実施された全国14河川の総合治水対策の先駆的事例。高度成長期を経て顕著な都市化が進行、かつ低平地を流れているため、江戸時代以 来、氾濫対策に苦慮していた、と。鶴見川は町田市内の多摩丘陵に源。長さ43キロ弱。流域の7割が丘陵、台地、残りが下流の沖積低地。標高は80mから70mといった低い丘陵が分水界。
全流域がきわめて平坦。流域は宅地化の最も激しかった地域。この流域の土地利用は1950年以来急変。宅地化が山林、低平地の水田などで進行。
65年以降、毎年流域の2ないし5パーセントが新しい市街地に変わる。特に恩田川流域が激しかった。鶴見川流域全体では、55年までは流域の10%。66年には20%。75年には60%。85年には75%まで市街化されていた」と。最近では宅地化が85%にまでなっていると、どこかで読んだことがある。50年で一面の山林・水田が宅地に変わった、ということ、である。新百合ヶ丘駅前で受けた、一体全体この賑わいは何?と思った素朴な驚きは、結構「当たり」であったわけである。散歩って、あれこれとした発見がある。
先回の新百合ヶ丘からスタートした散歩では、真福寺川によって開かれた谷筋を歩いた。道の左右には標高70mから80m程度の丘陵が連なる。起伏に富んだあの丘陵の向こうには一体なにがあるのだろう、との想いが残る。という事で、再び新百合ヶ丘近辺を歩くことにした。
今回は散歩のコースを事前に、少々真面目にチェックする。WEBには「分水界を歩く」とか「王禅寺の丘陵を歩く」とか、思いのほか多くのコースが案内されている。「分水界」とは、河川流域の境となる尾根筋のこと。ここで言えば、鶴見川と多摩川の流域の境となる尾根筋である。また、「王禅寺の丘陵」コースも魅力的。その名前だけで大いに魅かれる。で、今回は、分水界&尾根道&丘陵歩き、ということにする。小田急線・柿生駅からスタートし、麻生川筋をのぼり、新百合ヶ丘へと進む。そこからは、尾根道に乗り、王禅寺に向かい、あとは丘陵をアップダウンしながら小田急線・柿生駅まで戻る、といった段取りとする。(月曜日, 8月 13, 2007のブルグを修正)



本日のルート;小田急線・柿生駅>麻生川>麻生川を北に>小田急線交差>隠れ谷公園>小田急線交差>檜山公園>弘法松公園>生田南郵便局前>王禅寺東一丁目>日吉の辻>王禅寺>王禅寺ふるさと公園>琴平神社>籠口の池公園>真福寺川交差>月読神社>おっ越山ふれあいの森>秋葉神社>小田急線・柿生駅

小田急線柿生駅
小田急線・柿生駅で下車。北口に出るとすぐ前に「津久井道」。江戸時代、神奈川県西部の津久井、愛甲地方の産物、とくに絹を江戸に運ぶルートとして栄えた道。東京の三軒茶屋で国道246号線(大山道)から分れ、多摩川を多摩水道橋で渡り、狛江市、川崎市多摩区、麻生区、町田市を経て津久井に進む。甲州街道の脇往還として使われた。現在、三軒茶屋から多摩川までは世田谷通り、その先、鶴川までを「津久井道」と呼ばれている。

麻生川
津久井道をすこし北に進み、麻生川脇に。川筋の両側に遊歩道が整備されている。「麻生」は「あそう」ではなく「あさお」。地名の由来は「麻」が生える地、ってこと。8世紀、朝廷への調・貢ぎ物であった麻布の原材料である麻の産地であった。南北朝時代には麻生郷という地名が記録に残っている。地名の由来といえば、駅名の「柿生」。これも「柿」故のもの。鎌倉時代に王禅寺の等海上人が見つけた「禅寺丸柿」がその名の由来である。
麻生川を柿生新橋、麻生川橋と北に進む。桜の並木が続く。桜の名所であるらしい。川筋の両サイドには丘陵地が見え隠れする。川の東の丘陵地が鶴見川と多摩川の分水界かとも思った。が、東の丘陵のその東には真福寺川が流れている。ということは、東の丘陵は未だ鶴見川流域である、ということだ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


小田急多摩線
小田急多摩線下をくぐり、津久井道との交差の少し手前で川筋を離れ右に迫る台地にのぼる。「隠れ谷公園」と。「かくれだに」ではなく「かくれやと」公園。谷戸というほどの、切り込んだ谷地は実感できなかった。地形図でチェックすると、どうもこのあたりが「分水界」の尾根道の始まりのよう。

こやのさ緑道
公園を抜け、麻生小学校前の道路に出る。再び小田急線を跨ぐ橋を越え、線路の南に。山口白山公園脇の道を南に下り、麻生スポーツセンター入口交差点に。五差路。右から左から、南や東から上ってくる車、北や西から下ってくる車とで混雑している。東に進み、成行きで進むと緑道に。小田急線に平行に緑道を北東に進む。
1キロほど続くこの道は、「こやのさ緑道」と呼ばれる。宅地開発の前はこの周辺は細長い沢道。周辺の山には茅を刈るための共有地があり、その管理「小屋」があったため、「小屋のある沢」>「こやのさ」、と。新百合ヶ丘の駅前に近づくと人通りも多くなる。さらに進むと住宅街に。駅からそれほど離れてはいないのだが、閑静な住宅街となっている。少し進むと「檜山公園」に着く。

万福寺檜山公園

「檜山公園」は崖線上にある。比高差は結構ある。この崖の東は多摩川流域だろう。分水界の上に立っている、という、誰とも共有できない、であろう、故なき感慨に浸る。現在は雑木林や松が生い茂るこの公園は、かつて、この尾根筋に檜を植えた山があった、とか。開発で消えた美しい檜山を惜しんで名付けられた、ということだ。

弘法松公園

公園を離れ、尾根道を「弘法松公園」に向かう。住宅街を南東に進む道筋の南に小高い緑の丘。そこが弘法松公園であろう、とおもうのだが、道の先に展望台のような場所が見える。標高もこのあたりでは最も高いよう。ちょっと寄り道、のつもりで進む。が、結局、そこが「弘法松公園」であった。
展望台の休憩所で一休み。さすがに眺めは素晴らしい。西が鶴見川流域。東は多摩川流域。分水界に立つ、ってイメージをあらためて実感。それにしても、いい景観である。「弘法松公園」と思い込んでいた緑の丘も眼下に一望のもと。単なる思い込みではあったのだが、その堂々とした山容ゆえに惹かれ、それゆえに「弘法松」を意識するようになり、再びの歩みとなり、素晴らしき景観を堪能できたわけである。「思い込みも」それなりに意味あった、よう。
公園につつましやかな松。それが弘法の松。昭和37年に植えられたもの。伝説の弘法松は昭和31年に火難に遭い、その後、枯れてしまった、と。

弘法松の由来:弘法大師ゆかりの伝説が残る。大師がこの地に訪れる。百の谷があればお寺を建てよう、と。が、九十九の谷しかない。で、お寺のかわりに松を植えた、と。なにを言いたい伝説なのか、よくわからない。もっとも、「江海之所以能為百谷王者、以其善下之。故能為百谷王。(容納百川)」;(大河や海が百川の水を集め得るのは、つつましやかに低地にいるから。だからこそ、百川に帝王としていられるのだ)、といったフレーズもあるわけで、仏教では「百の谷」って、なんらか意味があるのかも。とはいうものの、弘法大師が関東に来たってことはないようだ。伝説は所詮伝説として楽しむべし、ということか。
弘法松はかつての都築郡と橘樹郡(たちばな)の境界にあたる峠であり、旅人にこの巨松はよき道標であった、と。都築郡は横浜市の北西部、橘樹郡は川崎市全域と横浜市の北東部。ちなみに橘樹郡って、先般、行田市の「さきたま古墳群」を歩いたときメモした、笠原直使主が朝廷に献上した4箇所の「屯倉(みやけ)」のひとつ。武蔵国造・笠原直使主が同族の小杵(おぎ)と争ったとき、助けてくれた、と言っても暗殺者を派遣し小杵を殺めた、ということなのだが、ともあれ朝廷への感謝のために献上した地域である。また、そのときに献上した久良岐の地は、現在の横浜市の東南部である。

生田南郵便局交差点
公園内を成行きで歩く。南側は崖となっている。石段を下りると弘法松交差点。交差点の西は丘陵を下る道。東の尾根道を進む。王禅寺西2丁目と百合丘3丁目の間の尾根道・車道を進む。眺めが素晴らしい。生田南郵便局交差点はすぐ近く。どうでもいいことなのだが、この郵便局が、なぜ生田南局というのか、わからない。近くに生田区とか、多摩区西生田といった地名はあるものの、ここはまだ麻生区百合丘である。
生田南郵便局交差点から北東方向に車道が続く。交通量も結構多い。標高も高くなっており、尾根道は生田のほうに続いている。どういった地形かチェックするため、交差点から少し尾根道を先に進む。道を少しはずれると崖上に。確かに生田方面に尾根道が続く。このまま進んでみたい、という思いはあるものの、本日のメーンエベント「王禅寺」は真逆の方向。生田方面への尾根道散歩は次の機会のお楽しみとして、交差点に戻る。

日吉交差点

交差点を南に下る。しばらく進むと尻手黒川道路と交差。王禅寺東1丁目交差点。交差点を越え、更に南に進むと日吉交差点。道の両側に丘陵が迫る。いままでこれでもか、って住宅街を歩いてきたので、急激なコントラスト。谷戸の雰囲気が残る。道の東に川筋。黒須田川。この辺りを源流とし、市ヶ尾高校近くで鶴見川に合流する。

王禅寺

しばらく歩くとT字路。日吉の辻。南東に折れ、少々の坂をのぼる。車の交通量も多い。そのわりに歩道がないので、ちょっと怖い。坂を上りきったところに南からの道が合流する。その上り道をちょっと進み、すぐに緑の中に続く道に移る。案内もなく、よくわからないままに進むと王禅寺の入口になっていた。あたりは一面の鬱蒼とした森である。王禅寺の寺域であったのだろう。
星宿山華厳院王禅寺。名前のどれを取っても、有り難そう。真言豊山派の古刹。はじまりは古い。考謙天皇(718-770)の勅命により、都築郡二本松で見つかった銅つくりの聖観音像をまつったのがはじまり。中世には禅・律・真言三宗兼学の道場として西の高野山とも呼ばれた、とか。王禅寺といえば、「禅寺丸柿」というほど、柿の話で名高いが、古い寺歴があったわけだ。

「禅寺丸柿」の話をまとめておく;禅寺丸柿とは王禅寺中興の祖・等海上人が見つけた甘柿。新田義貞の鎌倉攻めのとき焼失した堂宇再建のため山中で木材を探していたとき見つけた、とか。建保2年(1214年)のことである。村人に栽培を奨励し、この地で柿の栽培が盛んになった。地名に「柿生」が生まれる所以である。境内には禅寺丸柿の原木が残されている。その傍らには、王禅寺の自然を愛して度々訪れた北原白秋の句碑がある。
白秋も散歩のいたるところで出会う。最初は世田谷の砧、次に杉並の阿佐ヶ谷。江戸川の小岩でも、そして市川でも出会った。東京で23回も引越しを繰り返したわけで、当たり前といえば当たり前である、ということか。「薔薇ノ木ニ薔薇ノ花サク。 ナニゴトノ不思議ナケレド」は、白秋のフレーズであった、かと。

王禅寺ふるさと公園

王禅寺を離れて、王禅寺ふるさと公園に向かう。寺域と接しており、成行きで進めばなんとかなるだろう、と、雑木林をのんびりと歩く。石段を下り、如何にも谷戸といった雰囲気の里を進む。しばらくすると寺の入口に。それにしても、これが表門だろうか。よくわからない。ともあれ、入口を出て、寺域というか緑に沿って西に進む。すこしの上り。のぼり切ったあたりで、これも成行きで公園に入る。整地されていない雑木林。いい感じ。どんどん進む。が、結局行き止り。これまた成行きで引き返していると、大きな道にでた。道を進むとトンネル。トンネルを抜けると、そこは如何にも「公園」といった風景が広がっていた。
公園の案内をチェック。「見晴らし広場」の名前に惹かれて、北に向かう。小高い場所ではあるが、見晴らす対象は公園の景色であった。引き返すのもなんだかなあ、ということで、これも成行きで北に。なんとなく裏門通りの方面に出る。次の目的地は琴平神社。公園の南西端にある。公園に沿って南に下る。道の西に「化粧面谷公園」。これって、「化粧料(面>免)除」ってこと。江戸時代この王禅寺あたりが二代将軍秀忠夫人・お江与の方の「御化粧領地」であり、幕府から諸役負担の一部が免除されていた、から。

琴平神社
しばらく歩くと琴平神社。地元の名主・志村文之丞が、文政9年(1826)に讃岐の金刀比羅宮を勧請したもの。入口に立ち入り禁止のサイン。どうも放火で焼失したようであった。金刀比羅>金毘羅とはサンスクリット語の「クンビー ラ」の音を模したもの。ガンジス川に住むワニを神とみなし、仏教の守護神としたもの。

稲荷森稲荷社

琴平神社を離れ、神社の儀式殿の前を通る道を南西に下る。少し進み、消防団の倉庫のところを右に入る。緑地の裾を西に進む。神明神社の祠を見ながら進み、稲荷森稲荷社に。ちょっとした台地上に鎮座する。石段を上りおまいり。周囲は竹。立ち入り禁止のため、石段を下り先に進む。

籠口の池公園

道なりに進み、ジグザグ道を上る。のぼりきったところで西に進むと「籠口の池公園」に着く。こんな丘の上に何故池が、などと思ったのだが、池は公園を下ったところにあった。池も昔はこのあたり下麻生の田畑の灌漑用に使われたのであろうが、現在は雨水の調整池。

月読神社

池からの水路である暗渠に沿って下り東柿生小学校交差点に。少し北に進み、すぐ西に折れる。下麻生花鳥公園脇を進み、真福寺川に架かる不動橋を渡り「月読神社」を目指す。
神社は台地の上にある。雑木林の中の石段を登る。素朴なる祠程度かと思っていたのだが、結構立派な構え。1534年、麻生郷領主小島佐渡守によって伊勢神宮の別宮
から勧請されたもの。
今まで散歩し、結構神社で休んではいるのだが、「月読神社」に出会ったのはこれが初めて。古事記によれば、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)が天照大神の次に産んだのが月読尊(つくよみのみこと)と。あとひとりの兄弟である素盞嗚尊(すさのおのみこと)と合わせ、三兄弟というか三貴子と呼ばれている。有力なる神様であったわけだ。元々は壱岐の島の海上の神様であったようだが、渡来氏族、特に秦氏の力もあって、山城の地にもたらされた、と。古代京都の神仰や、渡来文化を考える上で重要な意味を持つ神様であるよう。姉の天照が太陽・お昼、この月読がお月さん・夜をつかさどる。夜のうちに作物が育ち、暦が変わるといったアナロジーで「成長・再生」のイメージをもっているのだろう。で、この神様の普及には、出羽三山の修験道が大きな役割を果たしたよう。修験者とともに全国各地に月山神社と月読神社が広まっていた、とか。

源内谷公園神社を離れ、西に進み麻生台団地の端を北に折れる。少し進むと、雑木林に入る。源内谷公園脇を進む。右手は崖。左手は鬱蒼とした谷戸、といった地形。結構な比高差がある。尾根道を進むと左手下にお寺か神社といった屋根が見える。尾根道をはずれ南に下る坂道を少し進むと秋葉神社。
秋葉神社
紅葉の中に秋葉神社。日除けの神様。江戸時代、領主三井家が遠州秋葉神社の火伏の神を勧請したもの。『神社の由来がわかる小事典:三橋健(PHP新書)』によれば、静岡県周智郡・秋葉山に鎮座する秋葉神社が「本家」。江戸時代に秋葉山の神輿が京と江戸に向かって渡御したことがきっかけとなって秋葉神は全国に勧請され有名になった、とか。江戸の中期には東海道や信州から秋葉詣でが盛んに行われた、という。

浄慶寺

秋葉神社のすぐ隣、というか同じ敷地内に浄慶寺。j神仏習合の名残であろうmか。小ぶりではあるが落ち着いた雰囲気のお寺様。千本を越えるアジサイが植えられ、「柿生のあじさい寺」と呼ばれている、とか。



おっ越し山ふれあいの森

先ほど下った坂道を再び尾根道に戻る。ほどなく「おっ越し山ふれあいの森」。「おっ越し」って、興味を引かれる名前ではあるが、もともとは「丸山」と呼ばれていた、よう。由来のほどはよくわからない。先に進むと、すぐに下り階段。柿生中学脇に下りる。交通量の結構多い車道。ゆるやかな坂をくだり小田急線・柿生駅に進み、本日の散歩は終了。一路、家路へと急ぐ。
先回の散歩で多摩川・鶴見川の分水界を歩いた。新百合丘から弘法松公園を経て、尾根道を生田南郵便局交差点まで進み、そこからは尾根道をはずれ南の王禅寺に向かった。その時に見た、生田南郵便局交差点から東に向かって続く尾根道が如何にも魅力的であった。もっとも尾根道とは言うものの、宅地開発された住宅街が続いているだけではある。が、ともあれ尾根筋に惹かれた。
今回は、生田南郵便局交差点から続く尾根筋を東に進んでみよう、と思う。その先には生田緑地もある。そこには枡形城跡もある、と言う。ということで、今回もまた新百合ヶ丘方面から散歩を始める事にする。(水曜日, 8月 15, 2007のブログを修正)



本日のルート;小田急線・百合丘駅>第二児童公園北側>百合丘第二公園>百合丘第五公園>生田南郵便局前>高石水道局配水塔>南生田中学>長沢浄水場>専修大学入口>生田緑地>桝形山>東生田4-22>飛森(とんもり)谷戸(初山1-17の東)?初山交差点>平瀬川>平瀬川分岐・南の川筋>源流点(尻手黒川道路の北)>菅生3丁目>稗原団地入口交差点>菅生こども文化センター>平瀬川交差>東長沢交差点>五反田川交差>小田急線生田駅

百合丘駅
小田急線に乗る。たまたま到着したのが普通電車。たまにはのんびりと読書をしながら、ということでそのまま飛び乗る。新百合ヶ丘駅手前の百合丘駅に停車。急行か何かの待ち合わせであった、のだろう。時間待ちをするくらいなら、と百合丘駅で下りることにする。新百合ヶ丘の駅前とは少々様変わり。昔風の商店街、といった趣き。駅前にはゆるやかにカーブし弘法松公園へと向かうのぼり道。

生田南郵便局交差点
第二児童公園北側交差点まで上る。道はここから一旦沈み、ふたたび弘法の松交差点へと上る、よう。第二児童公園北側交差点で車道を離れ脇道を進む。百合丘第二公園に。坂道に沿った窪地にある。公園南の道を南東に進む。百合丘第五公園へと少し坂道を上る。百合丘第二団地の中を南に進むと、先回の散歩で弘法の松交差点から生田南郵便局へと進んだ尾根道に出る。
先回の散歩では気がつかなかったのだが、生田南郵便局交差点手前の坂道からの眺めが美しい。しばし丘陵下の景観を楽しむ。生田南郵便局交差点に。この尾根筋では最も標高が高い、よう。110m強ある、だろうか。先回の散歩ではこの交差点から南に下ったのだが、今回は北東へと続く尾根筋に向かう。

高石配水塔
車の数も多い。しばらく進む。高石6丁目で分岐。車は東へと折れる尾根筋に流れる。が、尾根筋は北東へも続いている。どちらに進もうと少々悩む。が、結局は北東方向に。車道ではなく宅地の中の道筋。台地下の景観などを見やりながら進むと水道局配水塔脇に。 高石配水塔。さきほど生田南郵便局あたりの標高が高いといったが、川崎市多摩区の最高標高地点は配水塔近くの生田病院の裏側。そして二番目はこの高石配水塔である、と。
高石配水塔は台地の突端。塔の周囲をぐるっと廻り込む。1年ほど前にこの地を歩いたときは、配水塔の南の崖線上は林が残っていたのだが、今では宅地開発されすっかり様変わりとなっていた。

南生田7丁目・三田4丁目
崖線に沿って東に進む。道の南の南生田2丁目は、台地下に見える。ほどなく結構大きな通りに出る。ゆったりとした下り。道路の東に南生田中学校。ここからは再びゆるやかな上り道。中学校を超え「春秋苑」の脇を抜け再び坂を下る。賑やかな道筋に。この道を北に進めば小田急線・生田駅に続く。南を見ると、道路を跨ぐ橋のようなものが見える。生田中谷第一公園へと上りチェク。なんとなく配水管のように思える。すぐ近くに長沢浄水場がある。そこへの導水管であろう。

長沢浄水場
公 園を下り、道路道に。成り行きで道の東の台地に上る。長沢浄水場。東京都と川崎市のふたつの浄水場が併設されている、と。ここの水源は相模川水系の相模湖や津久井湖。そこから導水トンネルで導かれる。その距離は32キロに及ぶ、という。東京都は
世田谷、目黒、太田区の一部に給水。川崎はここから鷺沼配水池に送られ、高津・宮前区の一部、そして中原・幸区の水道水となる。鷺沼配水池といえば、いつだったか鷺沼散歩のとき、結構立派なプール施設があったのを思い出した。


生田緑地公園
浄水場の北端を進む。しばらく進むと道の両側に大学。北は明治大学。南は専修大学。道を第六公園から専修大学記念館前あたりまで進み、そこからは専修大学入口方面辺と右に折れる。専修大学入口の前は深い緑。川崎国際生田緑地ゴルフ場。ここを東に進めば生田緑地公園。

稲毛枡形城
緑が深い。丘陵地の宅地開発が進む前に川崎市が緑地として計画・保存した、と。公園内の尾根道を進む。岡本太郎記念館とか日本民家園などもあるのだが、なんとなくパス。稲毛枡形城跡のある枡形山に進む。気持ちのいい散歩道を進むと、枡形、つまりは方形に整地された山頂に着く。中央に展望台のある公園となっている。展望台に上る。多摩丘陵の東端といった位置であり、東は多摩川により開かれた低地である。四方の見晴らし至極、いい。この枡形山に稲毛枡形城があった。
稲毛枡形城;鎌倉時代の御家人・稲毛重成の居城跡。といっても重成は麓の広福寺あたりに館を構えていたようではある。で、枡形山に城、という か砦が築かれたのは戦国時代の北条氏の時代になってから。また、規模もそれほど大きくはなかったようで、永禄12年(1569年)この地に侵攻した信玄は、この砦を無視している。その程度の陣城(砦)であった、よう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

稲毛氏。平安末期に登場した秩父氏の一派。秩父重弘の子・有重がこの多摩の地に下り小山田氏となる。稲毛氏はその子の重成がこの地を領して稲毛を名乗った。ちなみに、畠山氏も秩父氏の一党。秩父重弘の子重能が畠山の地を領しその姓を名乗った。江戸氏も秩父氏の一派。秩父重弘の弟筋が墨田近辺に下り、地名を冠した名を興した。
枡形城について、もう少しメモ。稲毛重成が居を構える前、この地には松方重時が居を構えていた。松方氏は河越重頼の四男というから、これも関東八平氏の一党、つまりは、秩父氏の流れである。で、河越氏といえば、源義経の正妻となった百合野の出た家柄。義経との繋がり故に、頼朝によって滅ぼされることになる。で、桝形の館の松方重時も河越の出自ゆえに、身の危険を感じる。そこで重時がとった危機管理策は、頼朝の三男・島津忠久の薩摩下向に随行する、ということ。薩摩に落ちのびることにより、危機を脱した。重時がいなくなり、無人となったこの枡形城の地に移ってきたのが、稲毛三郎、ということである。
ついでのことであるが、この松形方氏って明治の元老・松方正義の祖。松方一族って、松方コレクションで有名。また、ライシャワー元駐日大使のハル夫人も松方氏の出である。それから、西下した島津氏、って、鎌倉散歩のとき、頼朝のお墓の近くに島津氏のお墓があった。どうしてなのか今ひとつわからなかったのだが、これで納得。ちなみに、その横にねむる毛利氏は頼朝の補佐役でもあった大江広元の流れ。広元の四男・季光が厚木近くの「森庄」を領したため、森>毛利と名乗るようになった、と。ともあれ、江戸「幕府」を倒した島津、毛利両氏が鎌倉「幕府」を開いた頼朝と深い関係があった、というのは何とも言えない巡り合わせ、である。寄り道が過ぎた。散歩に戻る。

とんもり谷戸
公園のベンチで先のコースを想う。これといって、次の目標が定まらない。とりあえず公園のある台地を南に下り、ぐるっと一回りして生田駅の方面に向かうことにする。公園を離れて台地を下る。公園駐車場に。南に上る坂道・車道を進む。尾根筋まで進み、車道を離れ脇道に。ゴルフ場の境に沿って台地を下る。谷戸に下りる。湿地の上に木の橋が続く。里山の雰囲気を楽しみながら遊歩道を進むと初山地区に飛森(とんもり)谷戸
。遊歩道を離れ、林に寄り道。いい雰囲気。台地下の窪地から湧き水が沁み出てくる。今までの散歩で湧水も結構見てきたが、このように、土の間から沁み出す、といったところははじめて。新鮮な印象。何度でも訪れたいところ、である。結構なる満足感。雑木林の中をしばらく歩き、遊歩道に戻る。

平瀬川
遊歩道を南に下る。道に沿って、水路が続く。ゴルフ場内の滝沢の池(初山の池)から流れ出る用水路(とんもり川)ということ、だ。台地が切れたところに比較的交通量の多い道筋が東西に走る。初山交差点を西に進む。飛森谷戸を形づくる樹枝台地の裾といった雰囲気。しばらく進むと川筋。平瀬川。おもわず川筋へと車道を離れ北に進む。源流点まで遡ることに。遊歩道を進むとすぐに分岐。どちらの川筋に進もうかと、ちょっと悩む。が、結局、西に進む川筋に。

尻手黒川道路
川筋を少し進むと比較的交通量の多い道路。地図でチェックすると、専修大学入口から下る道。浄水場通り。住宅街をどんどん進む。途中には湧水公園、といった公園もある。先にすすむと水路は台地下の溝に入り込む。これ以上は進めない。台地を上ると尻手黒川道路に出た。菅生3丁目と水沢2丁目の境目あたり、である。

平瀬川
そろそろ日が暮れる。最寄りの駅をチェック。どことも離れているが、どちらかといえば小田急の生田駅が近そう。北に3キロ程度。尻手黒川道路を離れ北に向かい、先ほどの平瀬川が「消える」ところに戻る。川筋から再び台地に上る。台地の東端には聖マリアンナ医科大学がある。また、西には潮見台浄水場がある。台地を再び下りると川筋。これって、先ほど分岐した平瀬川のもう一方の川筋。こちらが支川である、と。水源は麻生区東百合丘。生田南郵便局のある台地下、田園調布大学裏手あたりまで水路が続いている。多摩丘陵東部台地の森が養った水が、丘陵地の谷合を通り多摩川に注ぐ。今越えてきた台地は平瀬川の川筋を南北に分けている、ということだろう。

小田急線生田駅


平瀬川の支流を越え、またまた台地に取りつく。南生田6丁目と長沢2丁目の境あたりを上る。交通量の多い車道に出る。生田駅前に続く通り。長沢浄水場にのぼるとき交差した道筋だ。緩やかな坂道を下り、五反田川を渡る。五反田川は麻生区細山地区に源を発し、細山調整池をへて、小田急線に沿って東に下る。そうそう、いつかメモしたように、細山の水源近くには香林寺がある。五重塔前からの眺めは一見の価値あり。
世田谷通り、というか津久井道を右折すれば小田急線・生田駅に到着。一路家路へと。ついでのことながら、生田の由来。川の名前にもあったように、「五反田」と「上菅生」を合わしたもの、という説がある。生+田ということだ。地名のなりたちは、いつもながら、それなりも面白い。  

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