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ご老公こと、元の会社の監査役であったK氏より、矢倉沢往還の善波峠越えのお声が掛かった。小田急線・弦巻温泉駅からスタートし少し北に進み矢倉沢往還に合流。そこから西に進み善波峠を越えて大雄山駅まで歩こうとことの計画と言う。
ご老公は東海道、中山道、奥州街道、日光街道などなどを歩き通しているのだが、「峠越え」萌えである小生には、峠に近づくとお声が掛かり、東海道の鈴鹿峠越え、中山道の碓氷峠越え中山峠越えなどをご一緒した。今回も、ご老公は矢倉沢往還のスタート地点である東京から延々と街道を歩き、善波峠に近づいたためのご案内。ご老公に言わせれば、「いいとこ取り」とのことではあるが、峠をひとりで越えるのは少々難儀なようで、それなりに重宝してもらってはいるようである。
で、今回の矢倉沢往還の善波峠越えであるが、峠越えと言うほどのことなない。いつだったか、秦野から法弘山を越え吾妻山に向かう途中に、この峠を掠ったことがある、山奥でもなく、標高も160mほどの、どうということのない峠はあったのだが、これもいつだったか、大雄山から矢倉沢往還を辿り足柄峠を越えて御殿場まで歩いていたので、今回の峠越えの「ご下命」」は鶴巻温泉から大雄山までの矢倉沢往還を繋げるにはいい機会と思った次第である。

○矢倉沢往還(Wikipediaより)
矢倉沢往還(やぐらざわおうかん)は、江戸時代に整備された街道で、江戸赤坂門から相模国、足柄峠を経て駿河国沼津宿を結び、大山への参詣道の一つであることから「大山街道」、「大山道」などとも呼ばれ、また、東海道の脇往還としても機能していた。現在は、ほぼこの旧往還に沿って国道246号が通っている。
律令時代には東海道の本道にあたり、「足柄道」(あしがらどう)または「足柄路」(あしがらじ)と呼ばれていた。万葉集に収録された防人の歌にも登場することから、8世紀頃には東国と畿内を結ぶ主要道として歩かれていた様子がうかがえる。富士山の延暦噴火(800-802年)で一時通行が困難になったが回復、その後は鎌倉時代に湯坂道(鎌倉古道のひとつ。江戸時代以降は東海道の本道になる。箱根路とも)が開かれるまで官道として機能していた。
江戸時代中期以降になると大山講が盛んになり、またの名を雨降山(あふりやま)とも呼ばれた大山への参詣者が急増したと言われる。そのとき、宿駅などが整備されていた矢倉沢往還が江戸からの参詣道として盛んに利用されたことから、「大山街道」(おおやまかいどう)、「大山道(青山通り大山道)」(おおやまみち)とも呼ばれるようになり、現在も神奈川県内の旧道などにはその名が定着している。
「矢倉沢」(やぐらざわ)の地名は現在の神奈川県南足柄市の足柄峠付近に残っており、この辺りではかつての街道筋を「足柄古道」(あしがらこどう)として整備されているが、他の神奈川県内の区間は大正時代なると県道1号線に指定され、後に国道246号となり、幹線道路として拡幅やバイパス設置等の整備が進んだことから、一部の地域を除き往時の面影を辿るのは困難になっている。

人馬継ぎ立場(江戸時代) ;
三軒茶屋(世田谷区)>用賀(世田谷区)[1])>二子・溝口(川崎市高津区、1669年(寛文9年)宿駅設置)>荏田(横浜市青葉区)>長津田(横浜市緑区)>大ヶ谷(町田市)[1][2])>下鶴間(大和市)>国分(海老名市)>厚木(厚木市)>伊勢原(伊勢原市)>曽屋(秦野市)>千村(秦野市)>松田惣領(松田町)>関本(南足柄市>矢倉沢(南足柄市)>竹ノ下(小山町)



本日のルート;小田急・弦巻温泉駅>神明社>東明高速>太郎のちから石>神代杉>夜泣石>国道246号>古善場隧道>善場峠>曽屋>国道246号・名古木交差点を秦野へ>入船橋>庚申塔>馬車鉄道跡>秋葉神社・千手観音>水無川・秦野橋>双体道祖神>国道246・堀川入口交差点を越え北に>国道246・平沢西交差点を南に下りる>国栄稲荷>二つ塚>湯殿石碑>茶店跡>浅間大神塔>不動尊>小田急線を越える>八瀬川を渡る>国道246号>国道246号・蛇塚交差点で国道を離れる>神山滝分岐>東明高速を潜る>神山交差点>川音川を渡る>篭場交差点>石碑>松田駅>酒匂川・十文字橋>道祖神>足柄大橋西詰>石仏群>宮台の地蔵尊・摩耗した石仏>洞川を渡る>関本>大雄山駅

小田急線・鶴巻温泉
小田急線・鶴巻温泉駅で待ち合わせ時間である午前8時半に御老公と合流。鶴巻温泉は、いつだったか秦野からスタートし弘法山に登り、善波峠から吾妻山を経て下りてきたところ。
鶴巻温泉は大正3年(1914)、飲料水を求めて井戸を掘ったところ、温度25度ほどのカルシウム含有の地下水が湧きだしたのがきっかけ。温泉は当地の小字である鶴巻より「鶴巻温泉」と名付けた。
当初は鄙びた温泉であったのだろうが、昭和2年(1927)小田急線の開通にともない鶴巻駅が開業、昭和4年(1929)には関東大震災以来休業していた老舗温泉旅館も再開し、駅名も昭和5年(1930)に「鶴巻温泉」と改称し温泉地として発展したようだ。
此の地は江戸の頃は落幡村と称された、とのこと。明治21年(1888)には近隣五ヶ村が合併し大根村落幡となる。この「落幡」はいつだったか八菅修験の霊地・八菅神社を訪ねたとき、「幡の坂」という地名があり、その由来は中将姫の織った幡が落ちたところ、とあった。この地の落幡の由来も中将姫の織った幡が落ちた、といった伝承があるようだ。


神明神社
弦巻温泉駅を離れ、駅から北に矢倉沢往還の道筋へと向かう。しばらく進み緩やかな坂を上りきったところに小丘があり、そこに神明神社が祀られる。石段を上りお参り。祭神は天照皇大神。境内には境内社の地神齋、双体道祖神や道祖神が建つ。

箕輪駅跡
神明神社の一筋道を隔てた北の隅に鳥居と祠があり、そこに「箕輪駅跡」の案内があった。案内に拠ると、「箕輪駅跡; 市指定遺跡(昭和44年2月27日);箕輪駅は奈良時代の古東海道の駅跡と伝えられています。駅とは馬を置き、国司の送迎や官用に供された施設です。
古東海道とは、奈良時代からの官道で、相模国では足柄峠から坂本(南足柄市関本)をとおり、小総(おうさ。小田原市国府津)を経てここ箕輪に達し、さらに相模川以東に至ったものと考えられています。
後の矢倉沢往還(鎌倉時代以降の道)もこの地を通っており、この箕輪は古くから交通の要所になっていました」とある。
律令制度のもと、中央集権国家を目指す中央朝廷は、中国の交通制度をもとに、「駅制(駅路)」と「伝制(伝路)」を導入し、中央と地方のコミュニケーション機能の強化を目指した。「駅制」とは国家により計画された大道で、その幅10m程度。道筋は既存集落と無関係に一直線に計画され。おおよそ16キロから20キロ間隔で駅を置き、国府や郡家(ぐうけ)を繋いだ。 一方、「伝制」は国造など地方豪族が施設した交通制度。伝路は既存の道を改良し、幅はおおよそ6m程度とし、郡家に置かれた伝馬で郡家間を繋いだ。大雑把に言えば、駅制(路)はハイウエー、伝制(路)は在来地方道といったところではあろう。

○相模の駅路と駅
10世紀の平安時代に律令制の施行細目をまとめた「延喜式」には相模国内に 坂本駅、小総駅、箕輪駅、浜田駅が記される。坂本駅、小総駅は前述の案内の通りであり、浜田駅は「上浜田」「下浜田」の字名が残る海老名市大谷が比定されるが、箕輪駅に関してはこの地ではなく、当時の国府があった「平塚」とする説もある。
門外漢にはどちらが正しいのか不明であるが、ともあれ、浜田駅の先は相模国を離れ武蔵国店屋(まちや)駅に向かう。店屋(まちや)駅は「町谷原」の地名の残る町田市小川と比定される。

○古東海道・足柄峠以東の道筋
案内に「古東海道とは、奈良時代からの官道で、相模国では足柄峠から坂本」とあった。足柄峠から、その先は?ちょっと気になりチェック。
奈良時代以前は小田原方面から関本を経て足柄峠を越え、その後は御坂峠から甲府方面に抜けたようだ。東山道につながったのだろう。平安時代になると、足柄峠からは甲府に向かわず、御殿場から富士川に向かって下ってゆく。ついで、平安後期から鎌倉になると、御殿場から富士に向かわず、三島に下る。三島からは根方街道を富士川に向かった、と。
これらのルートは「天下の嶮」の箱根の山を迂回するルートであるが、箱根の山を越えるルートも登場する。ひとつは「湯坂路」。小田原を発し、湯本に。そこからは湯坂山、浅間山、鷹巣山への稜線を進み、元箱根から箱根峠に。峠からは尾根の稜線を三島へと下る。平安から鎌倉・室町の頃のルートである。話によれば、富士の大噴火によって足柄道が通れなくなったために開かれた、とも言う。

江戸になると、小田原を発し、湯本に。そこからは湯坂路の山越えの道を避け、須雲川に沿って川沿いに進み、畑宿を経て元箱根に。元箱根からは箱根峠に至り、そこからは、湯坂路の一筋南の尾根道を三島へと下ってゆく。

丹沢山地と丘陵部の間に向かう
矢倉沢往還の散歩開始。道は神明神社と箕輪駅跡の間の道を北に向かい、東名高速に掛かる板東橋跨線橋を越え大住台地区に入り、善波川手前で左折し「さくら通り」を西に進む。
カシミール3Dで彩色した地形図を見ると、箕輪駅跡まで丹沢山地の南の平地を進んできた矢倉沢往還は、ここから丹沢山地と、その丹沢山地から平地部に八の字状に飛び出した丘陵部の間に入って行く。八の字となった丘陵部の西端が弘法山、東端が吾妻山、丹沢山地と平地に突き出す「八の字」の丘陵部「喉元」が善波峠となっている。で、なにゆえに平地を通らず嶮しくはないとは言え峠へと向かうのか気になりチェックする。
ここからは想像・妄想ではあるが、山間部へのルートとした理由は弦巻の地形にあるように思える。弦巻は往昔「どぶっ田」と称されていた。「どぶっ田」とは「底なし沼」とのことである。小田急線の南は窪地となっており、そのうえ弦巻には善波川、大根川、鈴川などが集まり、しかもその合流点は周辺より海抜が高く、水が滞留しやすく、大水の時には逆流していたとも言う。「笠窪」などと如何にも湿地帯であったであろう弦巻を避け、山間部の道を選んだのではないだろうか。

お地蔵様と愛鶏供養塔
道なりに進み、一度善波川を南に渡り直し少しすすむと道はふたつに分岐する。その分岐点にささやかな祠。祠にはお地蔵様2体と愛鶏供養塔が祀られている。供養塔は昭和17年の建立とのこと。

太郎のちから石
分岐を右に進むと、ほどなく道が再びふたつに分かれる。分岐点には右方向に「太郎の郷 太郎のちから石」の木標がある。矢倉沢往還は左に進むが、ちょっと寄り道。道を進み善波川を渡ると道脇に「太郎のちから石」の案内。「この石の上部にある二本の筋状の部分は善波太郎が下駄で力踏みした時の跡と言い伝えられています」とあった。
○善波氏
善波氏は出自不詳ではあるが、この地の在地領主とされる。「たろうの力石」の少し西、国道246号の北に三嶋神社が鎮座するが、その地に善波氏の館があったとされる。
善波太郎重氏は鎌倉幕府初期の武将で、その豪勇故に武勇譚が伝わる。この「ちから石」もそのひとつ。また、中将姫の織った幡に向かって射た弓の鈴が落ち、そこが鈴川となった、と言った奇譚が伝わる。
善波氏はその後も鎌倉公方足利氏のもとで活躍するも、室町時代となり、鎌倉公方足利持氏と関東管領の上杉憲実が争った永享の乱(1438)以降の消息は不明とのことである。

神代杉
右手が開けた小道を進む。簡易舗装も切れ、山道に入ると「神代杉(うもれ木)」の案内。「洪積世の後半頃に善波峠一帯に広がる火山灰土の地域に茂っていた大森林が大洪水のため倒伏埋没し、赤土(関東ローム層)の中で腐朽をまぬがれ長い年月の間に炭化が進んだもので、その後渓流によって赤土層が洗われ、露出したものである。考古学でいう旧石器時代に相当するといわれている(伊勢原市教育「委員会)」とあった。
植物にはそれほど「萌えない」ため、善波川へと下ることをスルーしたのだが、メモする段となり、崖下に農民手掘りの利水隧道があるとのこと。千葉愛媛の手掘り隧道を探し廻った我が身としては少々残念な始末となった。とりあえず、足を運ぶべしと、散歩の「原則」を再確認。

 「吾妻山」登山口の木標
先に進むと、「吾妻山0.35km」との標識。その分岐点には「矢倉沢往還」の案内がある。 「この道は奈良時代に開かれ、箱根越えの東海道が出来るまで官道の役割をしていました。江戸時代には裏街道として賑わい伊豆、沼津から足柄、秦野、伊勢原、厚木、荏田を経て、日常生活に必要な炭、わさび、干し魚、茶、それに秦野のたばこなどが馬の背で江戸へ運ばれ、人々に矢倉沢往還(矢倉沢街道)と親しまれていました。
また、大山、阿夫利神社に詣る道ということから大山街道の名でも親しまれていました(環境庁・神奈川県)」とあった。

○吾妻山
いつだったか、吾妻山を訪れたことがある。標高155mの山頂の眺めは良かった。 山頂には日本武尊の由来書があり、「日本武尊は、東国征伐に三浦半島の走水から舟で房総に向う途中、静かだった海が急に荒れ出し難渋していました。そこで妻の弟橘比売は、「私が行って海神の御心をお慰めいたしましょう」と言われ、海に身を投じられました。ふしぎに海は静まり、無事房総に渡ることが出来ました。征伐後、帰る途中、相模湾・三浦半島が望めるところに立ち、今はなき弟橘比売を偲ばれ「あずま・はや(ああ、いとしい妻)」」と詠まれた場所がこの吾妻山だと伝えられています」との説明があった。


夜泣石
木立の中の山道を進む。分岐点からほどなく道脇に丸い石と案内板。「夜泣石」とあり、「その昔、旅人がこの石の辺りに誰助けることなく倒れていたそうだ。 以来、夜中になると助けを求める声が聞こえたという」との説明があった。

「弘法山ハイキングコース」標識
夜泣石から先に進む。右手が開け、善波地区辺りが畑地の向こうに見える。善波太郎の館があったと伝わる辺りではあろう。道の周囲が木々に包まれる道を進むと「弘法山ハイキングコース」の標識。「熊出没注意」が御愛嬌。夜泣き石からおおよそ20分弱だろうか。
弘法山は弘法大師が修行したとの伝説のある山。山頂には大師の木造を安置した大師堂、井戸、鐘楼などが残る。標高235m。


国道246号
「弘法山ハイキングコース」標識を越えるとほどなく道はふたつに分かれる。直進する道には「この農道はこの先通り抜けできません ハイキングコースは右折」とあり、右方向に「関東ふれあいの道 国道246号」とあった。直進はいい感じの道ではあるが、地図を見ると道が消えている。藪漕ぎをしてみたい、とは思いながらも、御老公の御伴としては国道に迂回する道を選ぶ。
国道246号を少し西に進むと「新善波トンネル」が見えてくる。昭和38年(1963)竣工。全長260mのトンネルである。幅員は13.5m、高さは4.5mとのことである。

旧善波隧道に
善波峠は旧246にある旧善波隧道の真上に位置する。旧国道246号は「新善波トンネル」の手前を左に折れる。旧国道に沿って立ち並ぶ日本独特(?)のホテル街を抜けて進むと旧善波隧道が見えてきた。道を進みながら、峠に取り着く場所を探すのだが、コンクリートで壁面が固められ、なかなま適当な箇所が見つからない。
入口方面からの峠への取り付きを諦め隧道の真上にあるであろう善波峠を想いながら隧道に。昭和3年(1928年)竣工、全長158m、幅5.5m、高3.7mと、新善波トンネルと比べ幅と長さは半分といったところである。
トンネルを抜け、峠への取り付き部を探すと、適当なところが見つかった。実のところ、旧国道をもう少し西に進めば峠に上る道があるのだが、峠を見ながら、それを見過ごすのは如何なものか、などと訳のわからぬ理屈で崖に取りつく。

善波峠への藪漕ぎ
崖に取り付き先を進むが、結構な藪。遮る木を折り敷き進むと山肌は2段に分かれており、下段を越えると藪も消える。と、ここでご老公が携帯を落としたとの「叫び」。折り敷いた竹藪を元に戻り携帯を発見。藪漕ぎを言いだした我が身としては一安心。
藪の開けた上段部に戻り、隧道出口の真上に向かって成り行きで進むと、隧道出口の上に向かって進む踏み分け道があった。隧道出口を眼下に見下ろし先に進むと隧道出口上辺りで結構整備された道に合流した。旧国道を先に進んだ辺りから峠に向かう道ではある。取り付き部から小径との合流点までおおよそ10分程度であった。

善波峠
道を上ると大きく開かれた切通しにでる。善波峠である。標高160mほどのこの峠は伊勢原市と秦野市の境でもある。切通しには5体の石仏が佇む。何故か首が切り落とされているのが痛々しい。峠には「弦巻温泉 弘法山」、また「大山9.5KM」といった木標が立つ。西の弘法山からこの峠を経て吾妻山から弦巻温泉に歩いたことを想い出す。北に進めば大山へと登れるのであろう。

峠にあった矢倉沢往還の案内には「矢倉沢往還; 近世の交通路は五街道を中心に、本街道の脇にある往還が陸上交通の要として整備されていました。矢倉沢往還は東海道の脇往還として発達し、江戸赤坂御門から厚木・伊勢原・善波峠・曾屋(十日市場)・千村・松田惣領・関本などを抜け、足柄峠を超え駿河沼津宿まで延びていました。大山への参詣路として利用されていたため、大山街道と呼ぶ所もあります。現在の246号線は、概ねこの矢倉往還に沿って通じています。また、当時秦野の経済活動の中心をなしていた十日市場で開かれる市において、矢倉沢往還は物資運搬に大きな役割を果たしていました(秦野市)」とあった。

矢倉沢往還は古くから人や物が行き交う道であり、日本武尊の東征の道筋が、足柄峠を通って矢倉沢から厚木まで矢倉沢往還とほぼ同じであったと伝わる。吾妻山で妻の弟橘比売を偲び「あずま・はや(ああ、いとしい妻)」と詠んだことはメモしたとおり。
そしてこの「矢倉沢往還は公用の道、信仰の道、物 資流通の道と様々な機能を持つ。公用の道;徳川家康の江戸入府の折り、箱根の関所の脇関所の一つとして矢倉沢に関所を設ける。関所の名前が街道名の由来。また、後年、人夫・馬を取り替える継立村が置かれ、東海道の脇往還・裏東海道の一つとなった。 信仰の道;江戸時代中期以降、大山信仰が盛んになる。各地から大山詣での道がひらけ、その道を大山道というようになったが、矢倉沢往還は江戸から直接につながっており、大山道の代表格。
物資流通の道:相模、駿河、伊豆、甲斐から物資を大消費地である江戸に運んだ道で、駿河の茶、綿、伊豆のわさび、椎茸、干し魚、炭、秦野のたばこなどが特に有名。

○御夜燈
切通しを弘法山のほうに少し廻り込んだところに「御夜燈」があったことを想い出しご老公をご案内。摩耗激しく原型を留めないが、「この御夜燈は、文政十年(1827年)に旅人の峠越えの安全のために、道標として建てられました。点灯のための灯油は、近隣の農家が栽培した菜種から抽出した拠出油でした。この下に峠の茶屋が有り、その主人、八五郎さんの手により、明治末期まで点灯し続けられていました。その後、放置されたままになっていましたが、平成六年(1994年)地元の「太郎の里づくり協議会」の手により復元されました(伊勢原市)」と案内にあった。
峠の切り通しで峠の東で途切れた矢倉沢往還の道筋を探す。弘法山から弦巻温泉へと向かうハイキングコースの道筋を確認し、残った道筋が往昔の矢倉沢往還であろうと、その道筋を東へと歩いてみる。道はホテル群の辺りで行き止まりであった。いつだったか弘法山から弦巻温泉に歩いたとき、この善波峠を掠ったのだが、道筋がいくつもあり、矢倉沢往還がどちらからどちらへ進む道なのかわからず、ずっと気になっていたのだが、これで一件落着となった。

名古木
峠をから道を下り矢倉沢往還を西に向かう。前面に箱根の連山、富士山、そして街道の名前の由来ともなった「矢倉岳」が広がる。誠に素晴らしい景観である。
坂道を下りながら地名を見ると、「名古木」とある。「なごき」ってどう言う意味?チェックすると読みは「ながぬき」と読むとある。何故に「ながぬき」と更にチェックすると「まほら秦野 みちしるべの会」のHPにその解説が説明されていた。
まとめると、天保12年(1841)に編纂された『新編相模國風土記稿』には、「名古木村」を「奈古乃幾牟良=なこのき」と呼ばれたとある。また同書に「古は并椚村とも書す」とある。。「并」は「並ぶ」の意。椚は「くぬぎ」であり、「くぬぎ」は古くあ「くのき」と読まれたようで、「なくのき」と読まれたとのこと。慶安2(1649)年とのことである。さらに、、寛政4年(1792年)の『大山不動霊験記』には「長軒」とあり、「ながのき」と読んだ。まとめると、「名古木」は「并椚・ナクノキ」→「長軒・ナガノキ」→「奈古乃幾・ナコノキ」と変化し「名古木・ナガヌキ」に至った、とのことである。
因みに、「并椚」について「まほら秦野 みちしるべの会」のHPに興味深い説明もあった。原文を掲載させて頂く。「古の人たちもまた、われわれと同じように家と外を区別するために門を作った。そして門のことを「区の木」と呼んだ。門に使われたのは里山に自生している木だった。その「区の木」として使われた木がクヌギと呼ばれるようになった。「椚」は「区の木」当て字・国字である。
『并』は『竝=並』に近い意味を持つ。(『并』は縦並びを意味する文字)。地名『并椚』は、「区の木」が並んでいる、奥の方に家が並んで建っている様を表している。
「名古木」を「奈古乃幾・ナコノキ」と呼ぶとき、「ナコ」は「和やか・穏やか」。「キ」は場所を表す語。あわせると「ナコノキ」はなだらかな地形の場所と説明できる」とのこと。なるほど、坂道は緩やかに下る。

(曽屋宿)

名古木地区を下り、国道246号に一瞬合流し、「名古木交差点」で国道を離れ県道704号に入り、落合交差点の先で金目川に架かる「入船橋」を渡る。橋の西詰めには馬頭観音などの石仏群が柵の中に佇む。道路工事などで取り除かれた石仏が集められたものだろう。
○曽屋宿
曽屋宿は矢倉沢往還の伊勢原宿の西に向かう次の宿。矢倉沢往還、太山みち羽根尾通り(小田原から大山に向かう道)、平塚みち、西には富士道がとおるこの曽屋村は交通・交易の中心地であったようで、かつて「十日市」で賑わい、曽屋村というより、十日市場が通り名でもあったようである。
村には「上宿」・「中宿」などの地名が記録に残るほか、小字として「十日市場」・「乳牛」といったものがある。「十日市場」は文字通りとして、「乳牛」とは結構面白い名前。
気になりチェックすると、「乳牛」は「ちうし」と読み牛乳を絞る乳牛のこと、と言う。『延喜式』に相模国から十六壺の蘇(そ;牛乳を発酵させてつくチーズのような乳製品、とのこと)を貢納したとある。この地に棲み着いた渡来人の手になるとのことである。因みに、「曽屋村」も「蘇」をつくる所に拠る地名言われる。

庚申塔
矢倉沢往還は緩い坂を上り曽屋宿(昔の曽屋村)に入っていくが、その入口を画するように下宿バス堤手前の電柱脇に嘉永4年(1851)建立の「庚申塔」がひっそり残されている。庚申塔は道標も兼ねており、右側面に「左いせ原道」、左側面に「右大山道」と刻まれていることのことである。

馬車鉄道・軽便鉄道跡
庚申塔から少しすすむと、右側にイーオンがあるが、その角に「馬車鉄道・軽便鉄道・湘南軌道の沿革」の案内があった。案内には「通称「けいべん」は、明治39年(1906年)に湘南馬車鉄道株式会社が秦野町(現在秦野市本町三丁目)~吾妻村(現在二宮町二宮)~秦野町(現在秦野市本町3丁目)間の道路9.6㎞に幅二尺五寸(762mm)の軌道を敷設した馬車鉄道の運行が始まりとなっています。
馬車鉄道は一頭の馬が小さな客車、または貨車を引くものでしたが、大正2年(1913年)には動力を馬から無煙炭燃料汽動車(蒸気機関車)に代わり、社名も湘南軽便鉄道株式会社となりました。大正7(1918)年には、湘南軌道鉄道へ軌道特許権が譲渡されています。
当時の沿線は、わら葺屋根の民家がほとんどで火の粉の飛散を防ぐため、独自に開発したラッキョウ型の煙突を付けた機関車が、客車や貨車を牽引していました。旅客は秦野地方専売局の職員や大山への参拝者で、貨物は葉たばこ、たばこ製品、木材、綿糸などで秦野地方の産業発展に大きな役割を果たしました。 この地付近には、大正10(1921)年からの軌道延長工事により、台町にあった秦野駅が移されています。大正12(1923)年には専売局の構内に煙草類専用積降ホームが設けられ、引き込み線の接続がされています。秦野には。この他台町駅、大竹駅がありました。 大正10年(1921年)には秦野自動車株式会社が秦野~二宮間の営業を開始し、大正12年(1923年)の関東大震災による軌道の損害、、昭和2年(1927年)の小田急開通などにより鉄道の経営が厳しくなり、昭和8年(1933年)に旅客運輸を、昭和10年(1935年)には軌道全線の営業を休止し、昭和12年(1937年)に軌道運輸事業を廃止しています。
明治、大正、昭和の時代を走り抜けた「けいべん」の思い出は人々の心の中に生き続けています。(秦野市制施行50周年記念事業「軽便鉄道歴史継承事業」秦野市)」とあった。

仲宿
街並みは古き宿の面影は少ないが、仲宿バス堤あたりには昔の趣を留める民家が幾つか残っていた。先に進むと「本町四ッ角交差点」にあたるが、このあたりが十日市の立つた場所であったとのことである。『風土記稿』には曽屋村の十日市場のことを「古き市場にして、今も毎月一六の日市立ちて雑穀、農具、薪等をひさぎ近郷の者集えり」と描く。

上宿観音堂
本町四ッ角交差点から少し西に進むと、道の北側に「上宿観音堂」がある。お堂にお参り。由来書をまとめると、「白雲山上宿観音堂。本尊は「千手千眼観世音菩薩」。行基の作と伝わる。「開運・厄除け」や「子授け・安産」を祈願し地元住民により建立。本堂の創建の時期は不詳であるが、天保時代の十日市場を描いた古絵図や寛政の年号が刻まれる半鐘の銘文等から寛政年間には原型がこの地にあった、とされる。その後龍門寺持ちとなり、現在に言いたる。
境内には火災鎮護の秋葉神社もあった。寛政年間に静岡県の秋葉神社から分霊し建立。その霊験はあらたかで、関東大震災の折には火災の類焼を免れた、とか。

「乳牛通り」と「醍醐みち」
先に進み横浜銀行を越えた先に北から合流する道があり、その道は「乳牛(ちうし)通り」と呼ばれる。上にメモした古代に乳製品をつ くる乳牛の牧場でもあったのだろうか。で、あれこれチェックしていると、その乳牛通りの西、市役所近くに「醍醐みち」がある、と言う。
醍醐(だいご)も、10 世紀頃、牛乳を煮詰めてつくるチーズのようなもの、とのこと。仏教で乳を加工する5段階のプロセスを「五味」と呼び、牛より「乳」をだし、「乳」より「酪」をだし、「酪」より「生穌」を出し、「生穌」より「塾穌」を出し、最後に最高の味である「醍醐」となす、とある。因みに「醍醐味」とは仏教用語で、経典の「位階」を定め、最高・最上の経典を醍醐のような最高の「味>教え=仏法」とし、それを醍醐味と呼んだ、とのことである。

水無川・秦野橋
道なりに南西に向かい「水無川」に架かる秦野橋を渡る。水無川は丹沢山系の塔ノ峰にその源流を発し南に下り、秦野盆地の中央部で南東に向きを変える。、秦野市河原町と秦野市室町の境界で室川に合流し、左右を丘陵に挟まれた盆地出口辺りで金目川と合わさり、金目川となって平塚へと下る。
水無川の所以は、川が秦野盆地に発達した扇状地の扇端部で地下に伏流するためである。実際秦野には多くの湧水で知られる。扇状地の扇端部で伏流した水が湧きだすことによる。
現在水無川には名前に反して水が流れるが、その水は市の北部に誘致された工場地帯からの処理水とも聞く。

○曽屋村と秦野

秦野橋を渡る。橋の南東、すぐの処に小田急線・秦野駅がある。「秦野」と言えば、ここまでメモしながら、今まで歩いてきた現在秦野市街、かつての「曽屋宿(村)」に、「秦野」の名前がどこにも登場してこなかった。これって、どういうこと?
チェックすると「秦野」という行政上の地名ができたのはそんなに古いことではない。明治22年(1889)の町村制施行時に、曽屋村(十日市場を含む)、上大槻村、下大槻村飛地、名古木村飛地が分合し大住郡秦野町となった。これが「秦野」の正式地名のはじまりであろうか。
ここで更にちょっと気になることが。この地は平安時代の後期、平将門討伐で名高い藤原秀郷の後裔と称する都の高級官僚が相模国波多野郷に下り波多野氏を称し、この地一帯に覇を唱えた。鎌倉時代には平氏に与し、所謂「負け組」とはなったが、「波多野」の名は厳然としてこの地に「君臨」したではあろうし、であれば、町村制施行時に「波多野町」となってもいいと思うのだが「秦野」となっている。
なぜ「秦野」?あれこれ妄想するに、はっきりとしたエビデンスは無いようだが、この地には帰化人である秦氏が古来移住したとされる。上でメモした「蘇」や「醍醐」といった乳製品をつくったのは秦氏一族とも言われるし、また、秦氏の一族である漆工芸の棟梁である綾部氏が東大寺建立に貢献し外従五位下を賜ったとの記録が『東大寺要録』に残るが、この綾部氏は後に相模国造となったとのこと。
それと関係あるの無いのか不明だが秦野市には綾部姓が100軒以上もある、と言う。つまるところ、町村制施行時に町名を決めるとき、地域を支配した「波多野」氏ではなく、この地に住みついた人々の祖先である「秦」を選んだのだろうか。単なる妄想。根拠なし。

矢倉沢往還碑
秦野橋を渡り、水無川と小田急線の間の道を西に進む。道路の南北には清水とか今泉と言った、如何にも湧水豊富な地を連想させる地名が残る。湧水巡りの想いが募る。
その清水町を越えた先にある南中学校南の道路脇に「矢倉沢往還」の案内。 「矢倉沢往還 古道解説 矢倉沢往還は、東海道の裏街道として江戸赤坂から駿河国吉原を結ぶ主要な道路であり、商人や参詣の人々で賑わったという。秦野市内では千村・平沢・曽屋などの村を経て善波峠に至っており、千村は松田惣領と曽屋村間を、曽屋村では千村と伊勢原間の人馬の継ぎ立てを行っていた。この道は別に大山道・小田原道とも称し、現在県道平塚秦野線となっている」とあった。
平沢はこの地の南、小田急線の南に地名が見える。上で明治22年(1889)の町村制施行時に、曽屋村(十日市場を含む)、上大槻村、下大槻村飛地、名古木村飛地が分合し大住郡秦野町となった、とメモしたが、この平沢村一帯も、平沢村・今泉村・尾尻村・大竹村が合併し、これも大住郡南「秦野」村となっている。「波多野」を選ばなかった理由を益々知りたくなってきた。

双体道祖神
道はその先で三叉路となる。矢倉沢往還は右の道を進むのだが、分岐点を越えた直ぐ先の道脇に「双体道祖神」が佇む。酒を酌み交わす夫婦が刻まれるが、なんとなく新しいような気がする。
往還道は道なりに北西に進み、堀川交差点で国道246号を越え、更に北西に僅かに進んだところ、南中原バス停あたりで道を南西に折れ、西沢西交差点で再び国道246号を越える。その先に走る小田急線の踏切を渡るとすぐに道は西に進路を変え、小田急線に沿って稲荷神社前交差点へと向かう。

国栄稲荷神社
稲荷神社交差点のすぐ北に国栄(くにさかえ)稲荷神社。社にお参り。祭神は宇迦魂神(うかのみたまのかみ)・金刀比羅大神(こんぴらのおおかみ)・菅原大神(すがわらのおおかみ)で、境内社に水神社も祀られる。創立年代は不詳である。往古より養蚕家の信仰が篤く、競馬の神事が行われていたようであるが、小田急線開通にともない馬場は宅地となり競馬は絶えた、と。境内には秦野市指定の天然記念物「稲荷神社の大公孫樹(イチョウ)」。樹高は25m、樹齢は400年とのことである。
また、境内道脇には「矢倉沢往還」の案内の石碑があり、「矢倉沢往還 古道解説 ここは東西に通る矢倉沢往還(江戸赤坂と駿河国吉原を結ぶ)と渋沢峠を経て小田原に至る小田原街道が交差しており、大山や富士参詣をする人々で賑わった。曲松から北に進むと運動公園付近で水無川を渡り田原を経て大山に至る道を「どうしゃみち」と称し、季節になると参詣や巡礼の人々が行き交った。また、大山参詣者や大山講の人々によって数多くの道標が建てられ、近くに江戸屋喜平次の建てた道標もあり、旅宿も何軒かあったという」とあった。

道標
案内にあるように、境内道脇に大きな道標があり、道の正面には「左 小田原 い々すミ 道」、右側には「右 ふじ山 さい志やうじ道 左10日市場 かなひかんおん道」。裏手には「左大山道 願主富村 江戸屋喜平次」、左側には「寛政八年丙辰歳*月 石工*」と刻まれる。
「い々すミ」とは小田原飯泉観音、「さい志やうじ」とは「大山最勝寺」、「かなひかんおん」とは「平塚金目観音」のことである。追分の道標として旅人への便宜を図ったのであろう。




○小田原道
道標にあった小田原道は平安・鎌倉時代の矢倉沢往還道でもある。道筋は稲荷神社前交差点から南に秦野丘陵を越え道標にあった「渋沢峠」を越え、その名も「峠」と名付けられた集落を経て丘陵を下り、東名高速と川音川が交差する辺りの神山神社へと下りてゆく。標高160m当たりから最高点240mの丘陵を越え110m当たりへと下るこの道は、江戸の頃も、四十八瀬川に沿って下る矢倉沢往還が洪水で使用できないときなどは、この小田原道を迂回したとのことである。

(千村宿)

二つ塚
江戸の頃の矢倉沢往還は、稲荷神社交差点から西へと向かう。往還の北にある小田急・渋沢駅は標高163mと小田急線で最も標高の高いところにある。歩くこと10分程度、丘陵北端部近くを30mほど登ると道脇に「二つ塚」がある。「ふたんづか」と読む。
木標には庚申塔と地神塔も記される。小丘には庚申塔とともに、「報蒼天 三十三度」や「富士浅間大山」と言った富士講を記念する石碑とともに、正面に「堅牢大地神」と刻まれた石標があり、「右 大山 十日市場 左ふし さい志やうしみち」と刻まれている。文化14年(1817年)に建立され道標も兼ねている。
脇にある案内には「矢倉沢往還と千村地区 ;矢倉沢往還は、江戸時代に東海道の脇往還として制定された公道で、東京赤坂御門を起点として、静岡県沼津吉原まで続く道であり、富士山への参詣路でもありました。 今から約千三百年前の八世紀頃には、地域の主要な道として利用されていた様子もうかがえます。
千村地区は、矢倉沢往還の一部が良好な状態で保存され、不動明王像を戴く沓掛の大山道道標や 「茶屋」といった地名なども残っており、江戸時代後期に作成された地誌である「新編相模国風土記稿」に 「矢倉澤往来係る 幅二間半 陣馬継立をなす西、足柄上群松田惣領、北、本郡曽屋村へ継送る共に 一里八町の里程なり、但近隣十三村より人馬を出し是を助く」と記されており、 矢倉沢往還が通過する主要な村のひとつであったことがわかります(平成二十三年三月 矢倉沢往還道を甦らせる会)」とあり、おすすめのハイキングコースとして「渋沢駅~二ッ塚~茶屋~蛇塚踏切~河内橋~神山滝~頭高山~渋沢駅」が記されていた。

湯殿山石碑
宿の面影は何もなく、丘の上の住宅街の中を進むと民家脇に「湯殿山」」と刻まれた石碑が建つ。出羽三山信仰の記念碑であろう。千村は矢倉沢往還の主要な継立場の一つ。江戸時代には大山参りや冨士講、そして遠くは出羽三山詣りの道でもあったということだろう。矢倉沢方面から峠を登り、一息入れたのがこの千村宿ということ、かと。

茶屋跡
さらに西に住宅街を進むと民家の生垣に「矢倉沢往還」の案内。「矢倉沢往還道(750頃) この前側は茶屋跡 芝居小屋や饅頭屋がありこの周辺は街道一の賑わいがあった。また、荷物の中継所もあったようです」とある。
この辺りが千村宿の中心であったようではあるが、「750頃」って何のことだろう?と考えながら進むと、その先に道標があり、そこには「矢倉澤往還道(西暦750年頃) 沓掛・不動尊・双体道祖神、神山滝方面へ(矢倉澤往還道を甦らせる会)」とあった。先ほどの750頃って、西暦のことであったようである。
ということは、江戸・明治の頃の矢倉沢往還として歩いているこの道筋も平安の頃より開かれていた、ってことではあろうか。実際、西暦 770(宝亀元)年に京から東に向かう古東海道として開かれた路の一部である、といった説もあるようだ。

浅間大神塔
道標のあった民家辺りを過ぎると、宅地も次第に消え左手が畑地となり開けてくる。畑地の先は四十八瀬川の谷筋。谷を隔てたその向こう側に丹沢の山々が見える。
農地の中の道を四十八瀬川の谷筋にむかってうねうねと進むと道脇に「浅間大神塔」の木標。説明には「此の地より多くの賽銭(古銭)が出土している」とある。特に塔といった類のものは見当たらない。富士参詣の人々がここにあったであろう浅間大神塔にお賽銭をささげたものだろうか。


矢倉沢古道
「浅間大神塔」の先に「車止め」。その先は簡易舗装も消え、中央部分を掘り割った道が下る。道脇に「歴史の道 矢倉沢往古道」とあるように木々に覆われた雰囲気のある美しい古道が続く。藪に覆われた道を地元の人の手によって整備されたとのこと。感謝。

馬頭観音
道を進むと「矢倉沢往還道 沓掛 不動尊 あと400m」の木標。ほどなく小田急線の音も聞こえてくる。小田急線に沿って階段状の道を下ると道端に馬頭観音。大正9年(1920)の建立と言う。その頃まで矢倉沢往還は機能していた、ということだろう。因みに小田急線の開通は昭和2年(1927)である。



沓掛不動尊
馬頭観音の先、平地に降りきった辺りに不動尊。案内には「西の玄関口、沓掛とも呼び、わらじを履き替えたりほしたり、木に掛けました。茶屋、まちや(屋号)と呼んでいた。古井戸もある。不動尊は旅の安全をお守りした」、とある。また、不動尊の傍にも「この不動明王は安永3年(1774)11月28日、千村の半谷佐五衛門とその妻が「天下泰平」「国土安全」「誓願成就」を祈願するとともに大山参詣者の安を祈って祀ったものである」との案内があった。
台の正面には「川上 そぶつみち 大山道 天下泰平国土安全 川下 ふじみち さい志やうじみち」と刻まれる、と言う。「そぶつみち」って何だろう?

お不動様の近くに少々荒れた小屋があり,[西の玄関沓掛]の標題とともに,(山に向かった矢印 に[茶屋まで約1.5キロ 渋澤駅まで約3キロ],逆方向にには[蛇塚踏切約600m 河内橋 神山滝約1.2キロ 頭高山へ 約2.5キロ 渋澤駅へ 約5.5キロ]と書かれた木標がある。それとともに「お帰りなさい お不動さん ふるさとへ30年ぶり」といった新聞記事が貼られていた。

記事を要約すると、「昭和31年(1956)、木標の案内にもあった神山滝を観光地にしようとするも、滝に欠かせないお不動様がない。ということで、この沓掛のお不動様の台石だけを残し、台座と不動尊を神山滝に運ぶことに。が、台座はあまりに重たいと、途中で投げ出し、不動尊だけを滝に祀った。
しかしながら、思ったほどに観光客も増えず、お不動様は滝脇で荒れるにまかされていたが、30年経った昭和62年(1982)、滝開きで貸したきりになていた不動尊が地元民の願いが通じ、元のこの場所に戻ってきた」というものであった。

四十八瀬川を渡る
不動尊から先、右に見える小田急線を越える道はあるものかと進む。遮断機・警報機もついた踏切があり小田急を越えることができた。
小田急は越えたがその先に四十八瀬川。地図には橋もなく、どうしたものかとは想いながら踏み分け道を進むと前方に竹藪。四十八瀬川はその先に見える。 竹藪を踏み敷き川筋に出るが橋はない。水はそれほと深くもなく、飛び石伝いに川を渡る。
渡った河原に鉄板で造られた仮橋が転がっている。普段はその仮橋が掛かっているのだろうが、水流で流されていた。で、ご老公のために仮橋を担ぎ岸に仮橋を渡し、無事「お渡り」願う。これだけで本日の大役は果たせたようなものである。

国道246号
川原から道に上るところを探すと階段があり、階段を上り草むらを進むと国道246号に出た。今回歩いた矢倉沢往還のルートは大雨などで四十八瀬川が氾濫したとき、渋沢駅近くから南へ峠越えする「平安・鎌倉時代」の往還ルートを使ったというが、その雰囲気をちょっと実感した川渡りではあった。

国道246号・蛇塚交差点
しばらく国道を進み、蛇塚交差点で国道を離れ県道710号に入る。しばらく進み四十八瀬川を渡り直す辺りで右手から中津川が合流。四十八瀬川はここから下流は川音(かわね)川と名前を変える。
川音川左岸を進むと「神山滝 頭高山」への木標。滝までの距離が記されてなく、今回は見送ったのだが、メモの段階でチェックするとわたりほど離れてはいなかったようだ。


東名高速を潜る
砂利や生コンの工場が並ぶ道を進むと、先に東名高速の高架が見えてくる。東名高速の手前あたり、神山神社前を通る県道77号が県道710号にあたるところで、渋沢峠を越えてきた「平安・鎌倉時代」の往還道と合流する。

(松田惣領宿)

川音川・籠場橋
東名高速の高架を潜り、すぐ右に折れ川音川・籠場橋を渡ると「松田惣領宿」に入る。川音川と酒匂川に挟まれたこの宿は、、新編相模国風土記によると、戸数は185戸,「人馬の継立てをなせり」とある。酒匂川の渡船場でもあった。 籠場橋の西詰めの左手土手辺りに幾多の石仏・石塔が並べられていた。
「惣領」宿って、面白い。誰かの嫡子が領した地ではあろとは思いながらもチェックすると、現在松田には「松田町惣領」と「松田町庶子」という地名がある。その由来は松田郷を領する松田某が妻の子には本家を継がせ、妾腹の子には庶子として分家させた、とのこと。「松田町惣領」と「松田町庶子」はその二人の継いだ土地の名残ではあろう。平地部は惣領町、北の山地側に庶子町が多いように見える。パワーバランスがわかりやすい。

堅牢地神
県道72号を東名高速に沿って進み、国道255号の高架下を潜り、足柄上病院入口交差点の先、道の左手に石碑があり、「堅牢地神」と刻まれる。建立は文政9年(1826)。
「堅牢地神」は仏教十二天のひとつ。大地を堅固ならしめる女神として豊作を祈念して祀られたものではろう。千村の「二つ塚」にも祀られていた。松田惣領周辺にはこの神が結構祀られているようである。



JR御殿場線・松田駅
県道72号・新松田駅交差点を南に折れ県道711に入る。JR御殿場線・松田駅の東を通り、西に折れて小田急線・新松田駅との間の道を通る。
どうでもいいことなのだが、いつだたか、山北町の用水を辿ったとき、小田急線からJR線に乗り換えたとき、JR松田駅改札脇に「モンペリエ」という喫茶店があった。若き頃、20歳から3年ほど世界を旅したことがあるのだが、南仏のモンペリエの修道院跡に下宿し冬を越したことがある。懐かしく楽しい思い出だけの詰まる「モンペリエ」に魅かれえて一休みした。今回も、と思ったのだが残念ながら定休日となっていた。


酒匂川・十文字橋
道を進み、松田小学校手前の交差点を左に折れ先に進むと酒匂川に架かる「十文字橋」となる。橋を渡った西詰めの「けやき」の下に十文字橋の案内があった。
「十文字橋は明治22年(1889)東海道が開通し、それに伴い松田駅から大雄山最乗山道了尊に通じる幹線道路として出来ました。この木の橋は、地元有力者が建設し金銭を取り渡らせていました。度重なる豪雨でその都度流され、仮橋や仮舟で対応していました。
大正2年(1913)現在の十文字橋の原型となるトラス橋を県が完成させました。しかし、中心部の橋脚だけが石で積み上げ、その他は木製でした。その後。木製から鉄製になりました。大正12年(1923)の関東大震災で鉄製の橋脚は落ちてしまいましたが、石の橋脚部分だけが残りました。
昭和8年(1933)には、鉄製部分がすべてコンクリート製になりました。その後、歩道をつけたり、トラスをとる大改修をし、昭和51年(1976)からは松田町・開成町で管理することになりました。
昭和19年(2007)9月7日未明の台風で大正2年(1913)につくられた石の橋脚の一部が被害を受けてしまいましたが、平成20年(2008)現在の橋に復旧されました。
このモニュメントに使われている石は、大正2年(1913)の橋脚の石です(町田町役場)」とあった。
江戸末期の記録には伊能忠敬がをつくるようにと命じた土橋が架かったとの記録もある。場所は現在の位置よりかなり下流であった、とか。

○十文字の渡し
また、けやきの下に「十文字渡しのけやき」の案内がある。「遠い遠い昔、この付近を官道が都から東国に通じていました。江戸時代に入ると東海道の裏街道として整備され、駿河・相模・武蔵の三国を結ぶ重要な道になりました。その途中、酒匂川に設けられた渡し場を十文字の渡しといいました。最初は下流の足柄大橋付近にありましたが、時代とともに移動し、江戸時代の後期には、松田町町屋とこの付近を結ぶ、河原を斜めに通行するようになりました。夏は船、冬の渇水期は土橋がかけられましたが、対岸があまりにも遠いので、目印に植えられたのがこのけやきです。二百年以上にわたって、酒匂川を見つづける生き証人です」とあった。
松田市町屋って何処かはっきりしないが、あれこれチェックすると。酒匂川は昔から暴れ川として知られており、十文字の渡しは時代によって場所が変わっているようだ。江戸時代中期までは松田町町屋の物資の継立場と開成町の下島を結んで、現在の「あしがら大橋」付近にあったようだが、その後、酒匂川の流路の変化によって、より安全な上流へ移り、天保5年(1834年)の「新編相模国風土記稿」には、松田町町屋継立場より北に川音川を橋で渡り、小田急線の鉄橋の下あたりから酒匂川を「河原町の欅」の下に渡る道が描かれている、とのこと。
渡河は原則として歩行渡しだが、夏場は「船渡し」になり、十文字の名前の由来との説もある「十文」を渡し賃として取っていた、ともされる。

吉田島の道祖神
十文字橋を渡おり、最初の交差点を南に折れ、道は酒匂川の傍に広がる「花の広場」に沿って下り、行き止まりを右に折れ、先に進むと道脇に道祖神が祀られていた。

大長寺の石仏・石塔群
道を進みT字路を右に折れ、すぐ先の道を左に折れ、最初の角を左に進み大長寺へと向かう。お寺さまの塀にそって幾多の石仏・石塔が並んでいた。

石仏・石塔群
矢倉沢往還道は小田急線に沿って南に下り、足柄大橋から続く県道78号を越える。上でメモしたように、初期の「十文字の渡し」は、この足柄大橋の辺りであったようだ。
県道78号を越え南に下った往還道はT字路で右に折れ県道720号にあたる。交差点の少し手前の道脇に幾多の石仏・石塔が集められ祀らていた。


○足柄平野の治水・利水事業
県道720号の交差点から西にへと進む。進みながら道に交差する用水、小川の 多さが気になった。誠に多い。地図でチェックすると、吉田島、千津島、牛島、下島といった如何にも河川の自然堤防を表すような地名が周囲に残る。
チェックすると、江戸時代以前、酒匂川は足柄山地から酒匂川水系が足柄平野に出る県道74号の新大口橋辺りから大きく五つの流れが南に下っていた。自然堤防・微高地を表す地名はこの時代の名残ではあろう。
江戸時代に入ると小田原藩主である大久保忠世・忠隣親子により治水・利水工事が行われ複数の流れが東に移され一本化され、現在の流路とほぼ同じ河道となるとともに、灌漑用水路を平野に巡らせた。
酒匂川が足柄平野に出る大口付近に春日森土手、岩流瀬(がらせ)土手。大口土手を忠世が築き、水勢を制御し河道を一本化し、河道が確定した後、忠隣は酒匂川から水を引きこむ堰をつくり、足柄平野の新田を開発すべく多くの用水路を開削したと言う。
ただ、小田原藩主による治水事業により酒匂川が安定したわけではなく、その後も足柄平野は水害に悩まされ続け、更に富士山の宝永噴火後の大口土手決壊 (1711 年)による流路変動(河道が東に移動)、富士山噴火に伴う降灰による河床上昇に伴う大規模な洪水が多発し、田中丘隅やその女婿である蓑笠之助らによる治水工事が行われることになるが、それはともあれ、往還道に幾多の「水路がクロス理由は以上の歴史的事業の故であろうと思う。

牛島自治会館
水路筋などを見やりながら進むと「牛島自治会館」。その前に矢倉沢往還の案内があり、「矢倉沢往還 古代都より東国に通じた官道のなごりともいわれています。江戸時代、駿河・相模・武蔵の三国を結んだ東海道の脇往還として内陸部の物資交流の道であり、富士山、道了尊、大山を結ぶ信仰の道として栄えました(開成町教育委員会)」とあった。

宮台の地蔵尊
要定川を越え道なりに進むとちょっと開けた場所があり、ガラス張りの祠にお地蔵様が祀られていた。案内によれば、「両開きの扉に、それぞれ「登り藤」の家紋がついた黒漆塗りの立派な円筒形の厨子に納められたいます。
立ち姿の木像で唐金色の着色。台座・光背を含めた全高114センチメートル。左手に宝珠、右手に錫杖を持ち、すべてをそなえた上品ないお姿です。この像は江戸時代には近くの本光寺地蔵堂にあり、やがて旧宮台公会堂へ。平成20年、地元の皆さんにより、現在地の立派な祠に移されました。
地蔵菩薩は、インドの仏教が起源ですが、その信仰がひろまったのは中国に入ってからであろうと言われています。日本では中国の影響を受けて、平安後期ころから、まず貴族の間にひろまり、鎌倉時代ころにはひろく一般にも浸透しました(平成24年 宮台地蔵保存会)」とあった。

切通し
遠くに箱根連山を見ながら往還道をひたすら西に向かう。単調な道を進むと前方が丘陵で遮られる。往還道は丘陵が平野部に突き出した末端部であり高度はあまりない。この丘陵部の切通しを越えれば関本に入る。
切通しを越えると関本の街、そしてその向こうに箱根連山の尾根に矢倉岳の独特な姿が見える。切通しの道を下り県道75号に合流し道なりに貝沢川を渡り龍福寺交差点に。

龍福寺
お寺さまにお参り。創建年代は永仁6(1298)年とされ、開山は元応元(1319)年、藤沢の遊行寺を本山とする時宗のニ祖の真教によるもの。本尊の阿弥陀如来坐像は鎌倉時代作。像高88センチ、膝の幅が70センチある堂々としたもの、とのことである。
矢倉沢往還の宿である関本宿は、龍福寺から西に入った道であり、古代の坂本駅に比定されるとのことではあり、歩きたいのは山々ではあるが日も暮れてきた。今回の散歩はこれでおしまい。





龍福寺交差点から南に進み伊豆箱根鉄道・大雄山駅に向かい、一路家路へと。



先回、横浜の旭区にある大貫谷戸水路橋を訪ねた。そのメモをしていると、大貫谷戸水路橋を通る水の道は、川井浄水場から相模湖系の水を鶴ヶ峰浄水場(現在は配水池)に導くものであり、大貫谷戸水路橋の他にもふたつの水路橋があるのを知った。
この導水路は多摩丘陵の尾根道を進むのだが、途中樹枝状に入り組んだ谷底低地を跨ぎ丘陵を繋ぐための水路橋とのことである。
最初からわかっていれば、先回の散歩でカバーできたのだが、いつも通りの事前準備なしの、基本成り行き任せの散歩。後の祭りで済ませたいのだが、水路とか水路橋というキーワードに無条件にフックが掛かる我が身としては、「即再訪」を決め、水路3兄弟を訪ねる散歩に出かけることにした。

本日のルートの「おさらい」;先回の散歩でもメモしたのだが、明治の頃、道志川にその原水を求めた「横浜水道」であるが、戦後の給水需要には水道創設期の道志川系の水だけでは間に合わず、他の水系にも水源を求めることになり、昭和22年(1947)には相模ダムを建設。この神奈川県で最初の大規模人造湖である相模湖に貯水した水を横浜市に供給することになる。
経路は相模湖から津久井隧道>津久井分水地>相模隧道>下九沢分水池>横浜隧道>虹吹分水池>相模原沈澱池を経て川井浄水場の「川井接合井」と繋がる。で、川井浄水場から「相模湖系」の水を西谷浄水場に送ることになるわけだが、当初口径の大きい(1350mm)管の敷設を計画するも、鉄管のコストが高く、鉄管による導水を諦め、「開渠方式」により川井浄水場から西谷浄水場に送水する計画に変更することになる。
そのルートは従来の横浜水道みちのルートとは異なり、川井浄水場の「接合井」から3つの多摩丘陵の尾根道を繋ぎ鶴ヶ峰に進むもの。丘陵の間には大貫谷戸水路橋、梅田谷戸(三保市民の森南端)、鶴ヶ峰(鶴ヶ峰中学脇)に水路橋を設け鶴ヶ峰の接合井(後に工業用水用の鶴ヶ峰浄水場となる)に進み、丘陵を下り西谷浄水場の着水井へと繋げたようである。この間おおよそ7キロ。100mで6cm下る傾斜を自然流下で繋げた。流速は人の歩く速度ほどとのことである。
相模原沈殿池は昭和29年(1954)、鶴ヶ峰浄水場の完成は昭和36年(1961)とのことであるので、この水路が機能したのはその頃のことではあろう。この新水路の完成により、昭和36年(1961)に給水対照人口が120万人となる横浜市の水需要に対応した、との、ことである(少ない情報からの推測も含めての上記メモであるので、正確な情報はそのうち水道記念館でも訪れ、あれこれ確認しようとは思う)



本日のルート;相鉄・鶴ヶ峰駅>帷子川親水緑道公園>帷子川>鶴ヶ峰橋ターミナル交差点から「ふるさと尾根道」に>遺跡 駕籠塚>鶴ヶ峰配水池>第三鋼路橋>ふるさと尾根道緑道>工業用水施設>切通しを跨ぐ水路構造物>コンクリート導水路が姿を現す>中原街道と交差>ズーラシアの敷地に導水路は入る>ズーラシアを迂回し都岡町から川井宿町へ>横浜市繁殖センターの北に導水路が現れる>ズーラシア駐車場近くまで導水路を進む>梅田谷戸水路橋>三保市民の森>尾根の導水路を梅田谷戸水路橋西詰に>尾根道を大貫谷戸水路橋に>大貫谷戸水路橋>道を跨ぐコンクリート導水路>国道16号・川井浄水場交差点>川井浄水場>東名高速の西、町田市に>「水道みち トロッコの歴史15番」>獅子頭共用栓>国道246号を渡る>「水道みち トロッコの歴史」14番>近代水道創設時の鉄管>「水道みち トロッコの歴史」13番>田園都市線・南町田駅

相鉄・鶴ヶ峰駅
鶴ヶ峰は鎌倉時代の歴史書である『吾妻鏡』に「鶴峯」と記される地。「重忠去る十九日小衾郡菅谷の館を出て、今この駅 に着くなり。折節舎弟長野の三郎重清信濃の国に在り。同弟六郎重宗奥州に在り。然る間相従うの輩、二男小次郎重秀・郎従本田の次郎近常・榛澤の六郎成清已下百三十 四騎、鶴峯の麓に陣す」とある。軍勢の大半が他の地に出陣の中、重忠公は僅かな手勢を率い菅谷の館(埼玉県嵐山町)を出立し、この地に陣を張った、ということである。

駅を少し西に進み、帷子川と二俣川が合わさるあたりが「二俣川合戦の地」であり、上の吾妻鏡にある鎌倉武士の鑑、畠山重忠公が僅かの軍兵で、北條勢の大軍と戦って敗れた地として知られる。
畠山重忠と二俣川の合戦
畠山重忠は頼朝のもっとも信頼したという武将。が父・重能が平氏に仕えていたため、当初、平家方として頼朝と戦っている。その後、頼朝に仕え富士川の合戦、宇治川の合戦などで武勇を誇る。頼朝の信頼も厚く、嫡男頼家の後見を任せたほどである。 頼朝の死後、執権北条時政の謀略により謀反の疑いをかけられ一族もろとも滅ぼされる。二俣川の合戦がそれである。
きっかけは、重忠の子・重保と平賀朝雅の争い。平賀朝雅は北条時政の後妻・牧の方の娘婿。恨みに思った牧の方が、時政に重忠を討つように、と。時政は息子義時の諌めにも関わらず、牧の方に押し切られ謀略決行。まずは、鎌倉で重忠の子・重保を誅する。ついで、「鎌倉にて異変あり」との虚偽の報を重忠に伝え、鎌倉に向かう途上の重忠を二俣川(横浜市旭区)で討つ。 討ったのは義時。父・時政の命に逆らえず重忠を討つ。が、謀反の疑いなどなにもなかった、と時政に伝える。時政、悄然として声も無し、であったとか。 その後のことであるが、この華も実もある忠義の武将を謀殺したことで、時政と牧の方は鎌倉御家人の憎しみをうけることになる。
「牧氏事件」が起こり、時政と牧の方は伊豆に追放される。この牧の方って、時政時代の謀略の殆どを仕組んだとも言われる。畠山重忠だけでなく、梶原景時、比企能員一族なども謀殺している。で、最後に実朝を廃し、自分の息子・平賀朝雅を将軍にしようとはかる。が、それはあまりに無体な、ということで北条政子と義時がはかり、時政・牧の方を出家・伊豆に幽閉した、ということである。

帷子川親水緑道公園
鶴ヶ峰駅の改札を出て案内板で鶴ヶ峰配水池の場所をチェック。帷子川を北に渡り、国道16号・鶴ヶ峰バスターミナル交差点辺りから丘陵を上って行くようである。
道の途中、帷子川に沿って「帷子川親水緑道公園」がある。緑豊かな公園は「暴れ川」との別名をもち、僅かな降雨でも増水・浸水被害をもたらした帷子川の河川改修工事に伴い整備されたもの。昭和50年(1975)に河川改修工事開始され、昭和56年(1981)改修工事完成とともに公園整備に着手し、昭和63年(1988)に公園整備が完成した。1万6000平米の公園は平成20年には「都市景観大賞」を受賞している。

帷子川
公園を北に抜けると帷子川。Wikipediaによれば、「帷子川(かたびらがわ)は、神奈川県横浜市を流れる二級河川。工業用水三級。現在の神奈川県横浜市保土ケ谷区天王町一帯は片方が山で、片方が田畑であったため、昔『かたひら』と呼ばれていた。その地を流れていたので『かたびらかわ』と呼んだのが名の由来だとされているが、これも地名由来の常の如く諸説ある。
神奈川県横浜市旭区若葉台近辺の湧水に源を発し、横浜市保土ケ谷区を南東に流れ、横浜市西区のみなとみらい21地区と横浜市神奈川区のポートサイド地区にまたがる場所で横浜港に注ぐ。
もともとは蛇行の激しい暴れ川で水害の多い川であったが、多くの地点で連綿と河川改良が進められた。近年、川の直線化や護岸工事など大規模な改修が進められ、西谷から横浜駅付近に流す地下分水路や、親水公園、川辺公園などが造られた。
横浜市保土ケ谷区上星川付近には、かつて捺染(なっせん)業が多く存在した。この染色・捺染の染料を流すこと(生地を水に晒す工程)や、周辺の生活排水や工場廃水などが増え始め、一時期は汚染が進んだ。また、上流域の横浜市旭区にゴミ処理場があり、その影響も心配された。
しかし、近年の環境問題に社会の関心が向いたことにより下水道の普及など状況は改善されつつあることや魚の放流などもなされた結果、自然が戻りつつあり、アユや神奈川県でも珍しいギバチも確認されている」とある。

川の北は多摩丘陵、南は下末吉台地。帷子川はこの丘陵、台地を開析し、複雑に入り組んだ樹枝状の谷底低地・氾濫原を形成している。
多摩丘陵
関東平野南部,多摩川と境川の間に広がる丘陵。広くは東京西郊の八王子市から南南東にのびて三浦半島へと続く丘陵地を指すが,狭義には八王子市を流れる多摩川上流の浅川と,横浜市西部を流れる帷子(かたびら)川との間の地域を指す。
西は境川をはさんで相模原台地へと続き,北は多摩川をはさんで武蔵野台地へと続く。また,東はほぼ川崎市多摩区登戸~横浜市保土谷区を結ぶ線を境に下末吉台地へと連続している。多摩丘陵は地形・地質的には,これらの台地と関東山地の間の性格をもち,丘陵背面をなす多摩面と呼ばれる地形面は台地よりは古く,関東山地よりは新しい中期更新世に形成された(Wikipediaより)。
下末吉台地
下末吉台地(しもすえよしだいち)とは、神奈川県北東部の川崎市高津区、横浜市都筑区・鶴見区・港北区・神奈川区・西区・保土ケ谷区・中区などに広がる海抜40-60メートルほどの台地である。
鶴見川、帷子川、大岡川などによって開析が進み、多数の台地に分断されている。北側は多摩川沿いの沖積平野に接し、西側は多摩丘陵に連なる。横浜市中心部では海に迫っており、野毛山、山手や本牧など坂や傾斜地の多い地形を作っている(Wikipediaより)。

鶴ヶ峰橋ターミナル交差点から「ふるさと尾根道」に
帷子川を渡り国道16号・鶴ヶ峰橋ターミナル交差点に。交差点脇にコンビニがあり、その傍に「ふるさと尾根道ルート案内図」があった。地図をチェックすると、尾根道ルートを進めば「鶴ヶ峰配水池」から「川井浄水場」へと続く相模湖系送水路を中原街道を越えた辺りまで辿れそうである。
地図をチェックし終え、コンビニの東側にある崖道へと向かう小径を進み、急な石段を上り「ふるさと尾根道」に。



遺跡 駕籠塚
丘陵部に上り、鶴ヶ峰配水池の敷地にそって西回りに道なりに進むと道脇に「畠山重忠古戦場跡」の木の標識と石碑。「史跡 駕籠塚」とある。奥の石に刻まれた碑文には、「武州鶴ヶ峰駕籠塚碑文 元久二年六月二十二日畠山重忠公ハ岳父北條時政ノ策謀ニ因リ冤罪ヲ被ムル 北條義時大軍ヲモツテ之ヲ迎撃セントス 重忠公一族百三十四士悉ク死ヲ決スルノ悲報秩父・菅谷ノ館ニ達ス 内室急遽北條ニ至ラントスルモ公既ニ戦死ス 悲嘆慟哭シ乗駕中殉ズ 駕籠塚ハ永ク其ノ霊ヲ弔ウテ今日ニ至ル」とあった。重忠公討死の悲報を聞き駕籠にて自害して果てた奥方を弔ったもの、とある。

鶴ヶ峰配水池
工事中といった浄水池の遮蔽物に沿って先に進むと門らしき一隅。その門へのアプローチ部分に地中に埋もれた石橋の欄干。鉄柵に囲まれたコンクリートの水路が浄水場の敷地に沿って東に向かっている。これは川井浄水場からの導水路ではあろうと、思いがけず直ぐに見つかった導水路の手掛かりに一安心。
門に近づき敷地内を見る。工事の真っ最中である。先回の散歩で川井浄水場が 工事中であり、その因をチェックすると、現在は道志川系と相模湖系の二系統の水を処理している川井浄水場と西谷浄水場であるが、水処理を容易にするため、ひとつの浄水場でひとつの系統の水源の水を処理する計画となり、川井上水所は道志川系、西谷浄水場は相模湖系と決定。
その計画の中で、鶴ヶ峰浄水場は配水池を残し相模湖系の原水を処理していた浄水機能は廃止することになった。平成22年(2010)に浄水機能は休止され、平成26年(2014)には廃止されることになる、とのことである。
第5回拡張工事により、昭和36年(1961年)に建設された鶴ヶ峰浄水場は、横浜ではじめてのオートメーション機能を備えた浄水場であったが、老朽化が進み対震性の問題もあり、また処理コストも割高となったため配水池を残し浄水機能は廃止することになったわけだ。
現在鶴ヶ峰浄水場では三つの配水池の築造工事が行われているようである。(仮称)鶴ヶ峰上部配水池 1池(配水池容量4,000?) (仮称)鶴ヶ峰下部配水池 2池(配水池容量6,000?×2池) がそれであるが、供用開始予定は平成26年度(一部施設、平成24年度)というから、工事の真っ最中であろう。

で、この鶴ヶ峰配水池には川井浄水場で処理した水を送水することになる。その送水ルートはてっきり、今から辿る多摩丘陵の尾根道を進むルートだろうと思ったのだが、川井浄水場から鶴ヶ峰配水池への工事仕様書やルート図を見ると、尾根道ではなく、帷子川に沿った「横浜水道みち」を鶴ヶ峰まで続いている。また導水管更新工法は川井浄水場からの内挿管工法により、新たな管を挿入するものとある。川井浄水場の着水井から西谷浄水場の着水井には1100㎜の導水管が通っており、その導水管の中に入れるのだろうか。門外漢であるので詳しいことはわからないが、少なくともいまから辿る「尾根道水路」ではなさそうだ。では、この水路はどうなるのだろう?いつかきちんと調べねばと思いつつ先を急ぐことにする。

第三鋼路橋
門のところにあった橋跡から続くコンクリートで覆われた水路は浄水場の柵内をしばらく進むと柵外に出る。北は白根町、南は鶴ヶ峰本町の境の尾根道を導水路は進む。左右は宅地化されている。ほどなく切り通し。切り通しの対面には鶴ヶ峰中学が見える。そこに緑にペイントされた小振りの水路橋が現れた。水路橋三兄弟のひとつ第三鋼路橋である。
昭和27年(1952)完成。長さ72m、高さ17.4m。緑にペイントされているのは錆止めのため。お洒落やデザインではないようである。鉄板で覆われた水路橋は、その中に送水管があるわけではなく、その鉄板の中を直に水が流れている、と。
建設計画の時期は水路橋にするか、地下を潜り再び顔を出すサイフォンにするか検討されたが、自然流下が可能でエネルギー効率のよい水路橋となったとのことである。現在横浜市で1日に給水されるおよそ120万立方メートルの水うち、この水路を通る水はおおよそ24万立方メートルと言われる。1立方メートルで水の比重が1であるので、120万トン、24万トンということになるだろうか。

ふるさと尾根道緑道
切り通しを渡り東側に。コンクリートに覆われた水路は桜並木の続く遊歩道となる。ここが「ふるさと尾根道緑道」のはじまりのようである。スタート地点に記念碑があり、「ふるさと尾根道 平成12年度都市景観大賞受賞記念 ふるさと尾根道は導水路敷きに整備された鶴ヶ峰方面とズーラシアを結ぶ葯1.6キロの緑道(散策路)で、旭区のグリーンロードのルートとして多くの市民に親しまれている。平成12年度には国が主催する「都市景観大賞」を受賞しました」とあった。

工業用水施設
遊歩道南の鶴ヶ峰中学校を越えた辺りのゲートに「工業用水課」と案内のある施設がある。「工業用水課」とは「横浜市水道局施設部工業用水課」のことのようである。水路道との関係をチェック。横浜市水道局の資料などを参考にメモする。「横浜市の工業用水道は、京浜工業地帯工場の地下水汲み上げによる地盤沈下対策として、昭和35年(1960)に創設。その水源を相模湖系に求め1日12万トン弱を鶴見・神奈川・保土ヶ谷・西区に供給開始。その後2回の拡張工事を経て津久井湖を水源とする馬入川系の水(企業団相模川系)も導水し、1日当たり36万トン強まで増強し、高度成長期の横浜の工場を支えた」とのこと。
相模湖系の工業用水経路は相模湖>沼本ダムの取水堰を経て鶴ヶ峰沈殿池までは上水道の導水施設を利用し、鶴ヶ峰沈殿池で沈殿処理した後、旭区の一部や、鶴見区の東寺尾配水池を経由して鶴見・神奈川地区に給水し、また、西谷浄水場唐は保土ヶ谷・西区に給水している、とのこと。この尾根道水路は上水用とともに工業用水ともなる水を送っている、ということであろう。
因みに。東寺尾配水池は上記「水道施設フローシート」に見えず、施設名も「工業用水道東寺尾配水池計器室」とか「横浜市水道局工業用水道東寺尾配水池」などとあるので、工業用水専用の配水池かもしれない。
また、横浜市水道局の「水道施設フローシート」を見るに、企業団相模川系の送路は川井浄水場にも西谷浄水場にも繋がってはいない。川井・西谷とは別系統の導水路で横浜市に工業用水を供給しているのであろう。

切通しを跨ぐ水路構造物
工業用水道施設を越えると緑道の北は白根町だが、南は今宿東町となる。ほどなく緑道の南手に今宿東公園が見えてくる。ちょっと寄り道を、とは思えども、この先の確たるルート図もなく、至極お気楽に来ているわけで、公園の緑を見るだけとして先を急ぐ。
ほどなく切り通しの車道。上白根一丁目バス堤とある。導水路は尾根の切り通しをコンクリートではなく、橋桁もない鋼路橋として跨ぐ。



コンクリート導水路が姿を現す
鋼路橋を越えると導水路の南は今宿東町のままだが、北は上白根町に変わる。今宿東町はアパート群が導水路脇まで迫るが、北の上白根町は台地下に宅地が拡がる。結構な眺めである。
導水路を進むと、地中に埋もれていた導水路がコンクリート構造物として地表に姿を現し、更に進むとその構造物を支える桁までが見えてくる。導水路から脇にそれた緑道を、導水路構造物を見遣りながら進むと南北に尾根を貫く道を長大なコンクリート導水路構造物が跨ぎ東西に通る。緑道脇にあった案内によれば、「構造 コンクリート製水路 幅2.2m 深さ2.5m 完成 昭和27年」とあった。

中原街道と交差
先に進み導水路に沿って坂を上り、導水路の南が今宿東町から今宿西町に変わる境辺りでコンクリート製の導水路は次第に地中に埋もれてゆく。宅地帯から離れ緑の中をしばし進むと緑道がアスファルトの道路に閉じ込められ、その先は中原街道となる。街道を越えると頭だけ姿を現す導水路敷が散策路ととなり再び先に続く。
中原街道
先回の散歩でもコピーしたが、六郷用水を歩いたとき福山正治の『桜坂』で知られる大田区の桜坂にあった旧中原街道の案内をメモする。「中原街道は、江戸から相州の平塚中原に通じる道で、中原往還、相州街道とも呼ばれた。また中原産の食酢を江戸に運ぶ運送路として利用されたため、御酢街道とも呼ばれた。すでに近世以来存在し、徳川家康が江戸に入国した際に利用され、その後、部分改修されて造成された街道である。江戸初期には参勤交代の道としても利用されたが、公用交通のための東海道が整備されると、脇往還として江戸への物資の流通や将軍の鷹狩などにもしばしば利用された。 また、平塚からは東海道よりも近道だったため、急ぎの旅人には近道として好まれたという。中略(大田区教育委員会)」。
中原には将軍家の御殿(別荘)があったようである。上に「中世以来」とあるが、Wikipediaによれば、小田原北条氏の時代に本格的な整備が行われたようで、狼煙をあげ、それを目印に道を切り開いたとされるが、その狼煙台の場所として今宿南町、清来寺の裏山、上川井の大貫谷などが記録に残る、とか。 中原街道の経路は、江戸城桜田門(後に虎の門)から国道1号桜田通り、東京都道・神奈川県道2号、神奈川県道45号を通り平塚に向かう。また「中原街道」という名称も、江戸期に徳川幕府が行った1604年の整備以降であり、それ以前は相州街道あるいは小杉道とも呼ばれていたようである。

ズーラシアの敷地に導水路は入る
中原街道を越え、右手に県立旭陵高校の校舎を木立の間から眺めながら散策路を北に進む。北は上白根町、南は都岡町の境を画する導水路敷を進むとズーラシアの敷地に当たり、導水路は敷地内にコンクリートの頭だけを出して先に進む。
2万5000分の一に導水路のルートらしき線が見える。線を追っかけると、ズーラシア(動物園)の敷地の中を北に進み、中央当たりで少し北西に向かった後、ほどなく北に向かい、ズーラシアの駐車場手前に。そこからズーラシアの敷地に沿って西に向かい梅田谷戸水路橋へと続く。

どこまで辿れるか不明ではあるが、とりあえず導水路がズーラシアの敷地から出てくると地図にあるズーラシア駐車場当たりへと向かうことにする。

ズーラシアを迂回し都岡町から川井宿町へ
ズーラシアの北の駐車場に向かうべく、敷地に沿って、ぐるっと迂回する。ズーラシアの南端に沿って都岡町を進み敷地が切れるあたりに横溝稲荷。横溝稲荷の由来は不明。地名から辿ろうにも、「都岡」自体が比較的新しく、元々は川井村の一部であったようだが、それとも関係が感じられず思考停止とする。
ちなみに、「都岡」の地名は、明治22年(1889)上川井村、下川井村、上白根村、下白根村、今宿村が合併する際、当初、都築郡より「都築村」とする予定が、他の村にその名を遣われ、「都」は残し、岡である地名を合わせ「都岡村」とした、とか。
ともあれ、横溝稲荷から成り行きで北に向かう。町も川井宿町に入る。川井小学校、都岡中学校の西側を廻りズーラシアとの境を進む。道脇はズーラシアからの湧水を水源とするささやかな流れが緑の中に見える。
ところで、川井宿町に都岡中学? 敷地の一部は都岡町ではあるが、それは川井小学校も同じ。チェックすると、共に創立は昭和48年(1973)。昭和14年(1939)都岡村は保土ケ谷区川井町・下川井町・今宿町の一部となるが、昭和40年(1939)の上記各町の一部より都岡町を新設。昭和44年(1969)には行政区再編により旭区となっている。川井小学校は都岡小学校の生徒急増を受けて創設されたよう。都岡小学校は既にあるので「川井小学校」としたのだろう。都岡中学校ははてさて。行政区域が跨る施設名は、その主要部分がどちらにあるかで決めることも多いようだが。。。


横浜市繁殖センターの北に導水路が現れる
川井宿町を成り行きで進み、ズーラシアの森からの湧水の流れと思われる小川に沿って北に向かう。水草の茂るビオトープの中を彷徨いたいとは思えども、余りに雑草も多く藪漕ぎしなければ進めそうもない状態に諦める。
先に進むと「横浜市繁殖センター」。道はここで切れる。地図で道がないのは分かっていたのだが、すぐ北に道があるので、いざとなれば藪漕ぎでもして先に進もうと思っていたが、「横浜市繁殖センター」の東から林に向かう木道が小丘に続いていた。先に進めるかどうか不明ではあるが、とりあえず進むと道に出る。
左手には梅田谷戸水路橋が見える。そこから東に向かって、導水路が続く。道を隔て、数メートル上った尾根道に上り導水路上に。東に向かうと轍柵で進路が阻まれる。南に見える横浜市繁殖センターの敷地内に道が水路に沿って進んでいるので、導水路脇の横浜市繁殖センターのゲートに向かうも施錠され中に入れない。
導水路に戻り、何か先に進むアプローチはないかと辺りを見回すと、導水路北に踏み分け道が見つかった。この道がどこまで続くか不明だが、取り敢えず導水路に沿って踏み分け道を進む。

ズーラシア駐車場近くまで導水路を進む

踏み分け道を進むと地中に埋もれていたコンクリートの導水路が次第に姿を現し、ほどなく導水路を支える桁も見える。先に進むと踏み分け道は上りとなり、導水路上を歩けるようになる。右手にズーラシアの動物の鳴き声、ライオンバスなどを見遣りながら進むと轍柵で先を遮られる。
轍柵の先は100mほど地表を進んでいるようであるが、この先は不法侵入となりそうで、ここで止める。轍柵から北に続く道はズーラシアの駐車場に続く。導水路の走る尾根道の北は横浜市緑区になる。

梅田谷戸水路橋
導水路を鉄柵の所まで戻り、梅田谷戸水路橋東詰めに。旭区と緑区の境となる道を谷筋まで下り、道を跨ぐ梅田谷戸水路橋を眺める。完成は他の水路橋と同じく昭和27年(1952)。延長293m(鉄鋼水路229m)、高さ 31mのトレッスル水路橋である。高さはこの「横浜水道鶴ヶ峰導水路」上にある3つの水路橋で高さが最も高い。
ズーラシアの尾根道から続く梅田谷戸水路橋の東詰めから、その西側の丘陵である三保市民の森を繋ぐ水路橋は緑区に属する。水路橋の下を通る道は恩田川支流の梅田川に沿って下り、JR横浜線の十日市駅や中山駅方面を繋ぐ。

トレッスル橋
この梅田谷戸水路橋もそうだが、その他ふたつの橋もトレッスル構造で造られた橋である。トレッスル橋(Trestle bridge)とは、末広がりに組まれた橋脚垂直要素(縦材)を多数短スパンで使用して橋桁を支持する形式の橋梁で、一般には鉄道橋としての用例が多い。
トレッスルとは「架台」、あるいは「うま」のことで、これに橋桁を乗せた構造を持つ桁橋である。長大なスパンがとれないため、多数の橋脚を必要とするので河川や海上に建設するのには不向きだが、陸上橋とすればトータルとしての使用部材量が少なくて済むことが特徴とされる。
山岳地帯や、渡河橋へのアプローチとして川沿いの氾濫原を横断するため等の目的で、19世紀には木製のトレッスル(ティンバートレッスル)が広範囲に造られた。樹皮をむいた丸太をクレオソート油に漬けて防食性を増したものを垂直要素の主構造材(縦材)とし、これに材木を釘うちやボルト係合してブレース(横材)とするのが一般的であった。
20世紀に入り、比較的大きな線路勾配が許容されるようになり、また、トンネル技術が発達したことにより、トレッスル橋の必要性は減少した。 日本では、(中略)JR西日本山陰本線余部橋梁(余部鉄橋、餘部橋梁)が日本最長のトレッスル橋であったが、2010年(平成22年)7月16日で供用を終了して一部が解体された(Wikipediaより)。
西部劇などで良く見る蒸気機関車が川を渡る木製の橋、木枠をクロスに幾層にも積み上げた巨大橋をイメージすればわかりやすいかも。

三保市民の森
梅田谷戸水路橋の谷戸を跨いだ西詰めへのアプローチを探す。水路橋の南の旭区側からのアプローチルートは森に阻まれ難しそう。水路橋の橋脚脇からの直登を、と考えるも轍柵に阻まれ先に進めない。地図を見ると北の「三保市民の森」からのアプローチしかルートが見つからない。少し北に進み、三保市民の森バス停から小径を東に。
森の入り口には案内図があった。尾根道ルートは[O]の連番、プロムナードは[P]の連番が付いている。案内には「三保市民の森は、新治市民の森、横浜動物の森公園と近接しており、横浜市内に残る重要な緑の拠点となっている。スギやヒノキ、シラカシの山林に谷戸が入り組み、変化に富んだ環境が特徴。特に林床のシダ類の豊富さは、市内でも有数の場所となっている」とあった。

森に入り上り始めるとすぐ、尾根道への道標。連番がなかったので先先に進むが、「三保平」といったプロムナードルートに入ったようであるので。「尾根道」への道標のあったところまで引き返し、成り行きで尾根に向かう。因みに、案内にあったPやOの連番は公園内に特に案内がなかった。

尾根の導水路を梅田谷戸水路橋西詰に
尾根への道をしばらく歩くと空が開け尾根に到着。そこにはコンクリートの導水路が地中から頭だけを出して東西に走っていた。導水路を少し東に戻ると轍柵が水路橋への出入りを妨げる。

尾根道を大貫谷戸水路橋に
梅田谷戸水路橋西詰から尾根道を大貫谷戸水路橋へと向かう。尾根道は三保市民の森の南端。北は緑区三保町、南は旭区上川井町。三保市民の森は三保町の所管で尾根道の北に拡がるが、南は公園の名称はないものの豊かな翠が拡がる。

第一の隧道
導水路を進むと水路は隧道に入る。脇にあった案内に「導水路ずい道」の案内。「隧道構造 高さ3m 幅2.2m 延長406.5m(第一号~第四号)」とあった。この導水路上に4つの隧道があるようだ。この導水路が一号が四号か分からないが、普通考えれば四号隧道ではあろう。





第二の隧道
隧道北側の遊歩道のある一番目の隧道を越えると導水路が現れ、その先には二番目のずい道が見える。隧道脇の崖道を上り先に進む。

第三の隧道
遊歩道を進むとほどなく導水路。導水路に下りて先に進むと三番目の隧道。隧道の上には轍柵があり前進を阻む、第三の隧道の辺りは若葉台町となり、台地上まで宅地が並ぶ。成り行きで導水路に入る。送電線を潜ると四番目の隧道が現れる。




第四の隧道
第四の隧道の出口、というか西口は大貫谷戸水路橋へ続く導水路となる。道なりに進み宅地脇に隧道西口を見付け、先に進み大貫谷戸水路橋を確認。先回の散歩でこの大貫谷戸水路橋を訪ね、それがきっかけで今回の散歩となった水路橋ではある。



大貫谷戸水路橋
丘陵の上から谷戸を跨ぐ景観を楽しんだ後、丘陵を成り行きで下り谷筋から左右の丘陵を繋ぐ水路橋の姿を眺める。かつては自然豊かな谷戸ではあったのだろうが、現在は民家や畑地となっている一帯を跨ぐ水路橋は、高さは23m、延長414m(鉄鋼水路302m)、深さ2.7m、幅2.2m。この水路橋を緑にペイントされたトレッスル構造の橋脚で支えている。この水路橋は送水管ではなく、鋼桁がそのまま水路となっているのは他のふたつの水路橋と同じ。
しばし水路橋の姿を眺めた後、成り行きで西側の丘陵に上り、水路橋の西詰に。轍柵で侵入を阻む箇所まで進み、水路橋を眺め、川井浄水場へと続く導水路を西に向かう。

道を跨ぐコンクリート導水路
大貫谷戸水路橋から川井浄水場へと導水路を辿る。送電線の鉄塔を潜り、緑に覆われた一帯を、導水路敷は頭だけを地表に姿を現し進む。導水路は道路に馴染み、一部普通の道と見まがうような風情でもある。
しばらく進むと小径と導水路敷はふたつに分かれる。道路と導水路の比高差に差がでてきたところがT字路。右に折れ導水路に沿って先に進むとコンクリートの導水路が全容を著し、道を跨ぐところも見える。

国道16号・川井浄水場交差点
道脇の導水路に乗り先に進む。道路との比高差が無くなる辺りで導水路が消える。周囲を探すと、導水路は道路を横切り国道16号脇に姿を現す。道路から導水路へと崖を下り、頭だけ姿を現した導水路を進む。右手はホテル、左手は国道16号。しばし進むと導水路は橋跡の残る国道16号に当たる。
導水路は橋下を進むが、狭くて潜れそうもない。仕方なく橋の欄干に手を掛け国道16号に上り、先に進み国道16号・川井浄水場交差点に向かう。



川井浄水場
川井浄水場交差点に掛かる陸橋を越え、国道16号を潜った導水路まで戻る。そこから導水路は川井浄水場へと向かって進んでいた。
道を戻り川井浄水場のゲートに。ここから先は先日のメモのコピー;川井浄水場は現在工事中。従来、川井浄水場から道志川系の原水を西谷浄水場に導水管により送水していたが、将来構想として、道志川系の原水は川井浄水場に、相模湖系の原水は西谷浄水場で処理されることになるようだ。その計画に関連した工事であろうか。
道志川系
横浜市水道局の「水道施設フローシート図」をチェックすると、道志川系は鮑子取水口>青山隧道>青山沈澱池>城山管路隧道>第一接合井>城山水路隧道>第二接合井>城山ダム水管橋>第三接合井>久保沢隧道>上大島接合井と進み1350mm,1500mmの送水管によって川井浄水場の「着水井」と繋がる。川井浄水場の「着水井」から西谷浄水場の「着水井」に1100mmの送水管が繋がっているが、この送水管が使用停止となるのだろうか。
相模湖系
また、相模湖系の原水は西谷浄水場で処理されることになるとのこと。相模湖系の経路をチェックすると、津久井隧道>津久井分水地>相模隧道>下九沢分水池>横浜隧道>虹吹分水池>相模原沈澱池を経て川井浄水場の「川井接合井」と繋がる。その先は川井浄水場の「接合井」から「着水井」に向かい、そこから、1100mmの送水管で西谷浄水場の着水井と結ばれている。

このように道志川系・相模湖系が同居している川井、西谷浄水場を川井は道志川系、西谷は相模湖系にまとめるとのことだが、企業団酒匂川系の導水管も川井、西谷浄水場とも繋がっている(企業団相模川系は両浄水場とは繋がっていないように見える)わけだから、結構ややこしく、おおがかりな工事になるのだろう。
因みに、「水道施設フローシート図」を見ると。川井浄水場からは浄水場内の「配水池」を経て恩田幹線で「恩田配水池(青葉区榎が丘)」、三保幹線により「三保配水池(緑区三保)」、さらには牛久保配水池(都筑区牛久保)へと水が送られているように見える。

鶴ヶ峰ルートの相模湖系
また、上メモしたように、この構想にともない、従来相模湖系の原水を処理していた鶴ヶ峰浄水場は鶴ヶ峰配水池(仮称)を残して廃止することになり、今後川井浄水場で処理した水を鶴ヶ峰配水池へ送水するための送水管更新工事が行われるようである。その送水管更新工事のルートは今回歩いた鶴ヶ峰ルートではなく、帷子川に沿って進む、所謂、横浜水道道のルートである。この鶴ヶ峰ルートの将来がどうなるのか、これも上で、メモしたように門外漢故に不明である。

横浜市内の系統別配水地域
以下も先回のメモのコピーだが、横浜市内の系統別配水地域をまとめておく;横浜市の水は、創設時は道志川水系にその水源を求めた。その後昭和22年(1947)に完成した相模湖を水源とする相模湖系、昭和46年(1971)完成の相模川下流の取水堰よりの水を水源とする馬入川系、昭和53年(1978)年完成の丹沢湖の水を水源とする企業団酒匂川系、平成12年(2000)完成の宮ヶ瀬湖を水源とする企業団・相模川系など水源の拡大をも図り、県内8浄水場を経由し、市内23か所の配水池から各戸に送水され、400万人近い市民を潤している、とのことである。
大雑把ではあるが横浜市内の系統別配水地域は以下の通り

□西区の全域、中区の大半、南区の大半、保土ヶ谷区の東部、神奈川区の南部、鶴見区の東部・南部、港北区の南部の一部・・・・・・道志川系と相模川系

□南区西部、戸塚区の北西部、旭区の南東部、神奈川区の北部、鶴見区中央部、港北区の南部と北部、都築区の北部・・・・・・・・・企業団酒匂川系

□神奈川区の北半分、緑区の南部、旭区の東部・・・・相模湖系

□泉区のほぼ全域、戸塚区ほぼ全域、港南区全域、磯子区全域、栄区・金沢区のほぼ全域、瀬谷区東南部、旭区中央部・・・・・・・馬入川系と企業団相模川系

□青葉区・緑区全域、旭区北部、瀬谷区の大半・・・・道志川系と企業団酒匂川系

□港北区中央部、都築区南部、青葉区の一部・・・・・馬入川系と企業団酒匂川系

□栄区と金沢区の南部の一部・・・・・・・・・・・・企業団相模川系

まことに大雑把ではあるが、複雑に入り組んだ横浜の水のネットワークが少し実感できる。

東名高速の西、町田市に
所定の散歩ルートはカバーし、先回の通り最寄りの駅である田園都市線・南町田駅に向かう。先回は何も考えず国道16号に沿ってひたすら駅へと向かったのだが、先回の散歩のメモをするに際し、川井浄水場から南町田駅の間にも、横浜水道創設期のルートであり、鉄管を運んだトロッコ道の案内があるのを知った。ついでのことではあるので、南町田駅まで横浜水道創設期のルート・トロッコ道の案内をカバーすることにした。
25000分の一の地図を見ると川井浄水場から横浜水道が示されている。正面ゲートを越え浄水場の施設を見ながら道を下り、地図上で導水路が示されている辺りまで進む。が、そこから下に道はない。国道16号に迂回し、東名高速のインターチェンジに進路を翻弄されながら、東名高速の西に出る。この辺りは横浜市を離れ東京都町田市となる。

「水道みち トロッコの歴史15番」
東名高速の西から宅地の間にぽっかりと直線の道が西に続く。如何にも導水路跡らしき道筋を進むと「瀬谷三角公園」に「水道みち トロッコの歴史」の案内。
常の案内と同じく、「この水道みちは、津久井郡三井村(現・相模原市津久井町)から横浜村の野毛山浄水場(横浜市西区)まで約44kmを、 明治20年(1887)わが国最初の近代水道として創設されました。 運搬手段のなかった当時、鉄管や資機材の運搬用としてレールを敷き、トロッコを使用し水道管を敷設しました。 横浜市民への給水の一歩と近代消防の一歩を共に歩んだ道です(横浜市水道局)」とある。
この案内には「三井用水取水口からここまで27キロ」とも記されており、三井用水取水口からはじまり26か所に建てられているトロッコ道案内の15番番目の標識である。

「横浜水道みち」
何度かメモしたが、横浜市水道局のHPなどの記事をもとに「横浜水道みち」を整理する。
幕末の頃、戸数わずか87ほどであった横浜は、安政6年(1859)の開港をきっかけに急激に人口が増加。しかし横浜は、海を埋立て拡張してきた地であり、井戸水は塩分を含み、良質の水が確保できない状況にあった。 このため当時の神奈川県知事は、横浜の外国人居留地からの水確保への強い要望や、明治10年(1877)、12年(1879)、15年(1882)、19年(1886)と相次いで起きた伝染病コレラの流行もあり、香港政庁の英国陸軍工兵少佐H.S.パーマー氏を顧問として、相模川の上流に水源を求め、明治18年(1885)近代水道の建設に着手し、明治20年(1887)9月に完成した。
創設期の経路
相模川と道志川の合流地点(津久井郡三井村)に造られた三井(みい)用水取水所で、蒸気機関で動く揚水ポンプで汲みあげられ、相模原台地を横切り、横浜市旭区上川井につくられた川井接合井(導水路の分岐点や合流点で一時的に水をためる施設)を経て、横浜市西区老松町の野毛山浄水場に至る44キロの水の道。
相模川が山間を深く切り開く上流部には左岸岩壁に隧道を穿ち、相模原の台地を一直線に進み川井接合井に。川井接合井から野毛山浄水場までは相模原の平坦な台地から一変、起伏の多い丘陵などを貫くため、水路の建設は困難を極めたと言う。
近代水道の要ともなる水路管(グラスゴーから輸入)の運搬には、相模川を船で運び上げたり、陸路にはトロッコ線路を敷設し水管を運び上げたとのことである。現在三井の取水所跡から旧野毛山配水池(大正12年(1923)の関東大震災で被災し、配水池となる)まで26個の「トロッコ道」の案内板が整備されている。これが創設期の「横浜水道みち」ではある。
横浜水道網の拡大
創設当初、計画対象人口を7万名と想定した横浜水道は、横浜市の発展とともに施設の拡充が図られる。明治34年(1901)には既に給水人口を30万と想定し川井浄水場、大正4年(1915)には給水人工80万を想定し西谷浄水場を整備するなど、明治から昭和55年(1980)までに8回に渡る拡張工事が行われている。
その拡張計画は、単に浄水場や配水場の新設・改築にとどまらず、創設時は道志川水系にその水源を求めた「横浜水道」は、その後昭和22年(1947)に完成した相模湖を水源とする相模湖系、昭和46年(1971)完成の相模川下流の寒川取水堰よりの水を水源とする馬入川系、昭和53年(1978)年完成の丹沢湖の水を水源とする企業団酒匂川系、平成12年(2000)完成の宮ヶ瀬湖を水源とする企業団・相模川系など水源の拡大をも図り、県内8浄水場を経由し、市内23か所の配水池から各戸に送水され、400万人近い市民を潤している、とのことである。

獅子頭共用栓
道を進み国道246号の少し手前に獅子の形のモニュメント。近づくと「獅子頭共用栓」とあった。案内には「この獅子頭は、1886年(明治19年)頃、英国から600基が輸入され、戦前まで横浜水道のシンボルであった「ライオン水道」を復元したもので、横浜市から譲り受けたものです。
横浜水道創設時の1888年(明治20年)から約10年の間、市民への給水は複数の人が共用で使用する共用栓が主体で、獅子頭共用栓は道路に設置されていました。この緑道は水源から横浜市に水を運ぶ水道管(口径150cm 3条)の上に設けられています(後略)。」と。
横浜水道創設期の共用栓は143基、その他消火栓を629基設置し、最盛期には市内に600基の獅子頭共用栓が設けられた、と言う。

国道246号を渡る
国道246号を渡ると緑道にふたつの「横浜水道みち」の案内。
「水道みち トロッコの歴史」14番
三井用水取入口から26キロ、14番目の案内板である。

その案内の脇に大きな鉄管と案内、近代水道創設時の鉄管とのこと。

近代水道創設時の鉄管
「この鉄管は1887年(明治20年)日本で最初の近代水道が横浜に創設された時、英国から輸入されて当時(津久井郡三井村から横浜村までの44km)に敷設された18吋(460mm)鉄管です。その後、横浜港や京浜地区の急激な発展と共に水需要を確保するため幾多の拡張工事によって水道みちも広げられ、現在では1500mm管が3条埋設されています」とあった。





「水道みち トロッコの歴史」13番
国道24t6号を越えて少し進むと緑道が狭くなり先に続く。しばらく歩くと緑道は消え、その先に河川改修工事が施されたような大きな川筋となる。その川筋には「この用地は水道用地です。埋設管等の維持管理上、一般の方の使用は出来ません。横浜市水道局川井浄水場」と書いた掲示板があった。
この川筋は横浜水道みちには間違いないのだが、何故このような広い用地を造っているのだろう。よくわからない。それはともあれ、その川筋は大きな橋を潜りそのまま鶴間公園の歩道となって川筋は消える。
公園内の導水路が通っているではあろう歩道を歩くと道脇に「水道みち トロッコの歴史」の案内。三井用水取水所から25.5キロ、13番目の案内板である。

田園都市線・南町田駅
これで本日の散歩はお終い。鶴間公園を抜け、公園の西にある田園都市線・南町田に向かい、一路家路へと。
先般の相模原台地散歩のおり、幾度となく「横浜水道みち」と出合った。散歩をメモするため、その経路をチェックしていると、横浜市旭区に谷戸を跨ぐ水路橋が目に入った。大貫谷戸水路橋と呼ばれるこの「橋梁」は、住宅のはるか上を水路が通る。そんな風景、今は撤去された山陰本線・余部鉄橋の如き景観が、横浜市域に残るとは思ってもみなかった。「水路」とか「用水」というキーワードに対しては無条件にフックが掛かる我が身としては、行くに如かず、ということで、日も置かず水路橋を訪ねることに。
ルートを想うに、水路橋の前後に、「横浜水道みち」の経路ポイントでもある、川井浄水場、西谷浄水場がある。どうせのことなら、このふたつの浄水場をカバーしながら、「横浜水度みち」を辿るべしと、スタート地点の西谷浄水場最寄りの相鉄線・上星川駅に向かう。



本日のルート;相模鉄道本線浜駅>相鉄・上星川駅>蔵王高根神社>西谷浄水場旧計量器室跡>西谷浄水場>横浜環状2号・主要地方道17号>みずのさかみち>新幹線と交差>相鉄・鶴ヶ峰駅>鎧橋と帷子川>「水道みちトロッコの歴史」の標識・19番目>送水管埋設標>二俣川合戦の地・吾妻鏡 畠山重忠公終焉の地>矢畑・越し巻き>清来寺>「水道みちトロッコの歴史」の標識・18番目>八王子街道と中原街道が交差>川井宿町交差点>トロッコ軌道跡>上川井交差点>大貫谷戸水路橋>川井浄水場>田園都市線・南町田駅

相模鉄道本線浜駅
横浜駅で相鉄こと、相模鉄道本線に乗り換える。相鉄に乗るのはいつだったか鎌倉街道を辿り、JR横浜線・中山駅辺りから鶴ヶ峰駅辺りを彷徨って以来のことである。
相模鉄道本線は横浜と海老名を結ぶ。本線と言う以上、なんらかの支線があるのかとチェックすると、二俣川から本線と分かれ藤沢市の湘南台駅を結ぶ「相鉄いずみ野線」があった。湘南台駅で小田急線と接続する。どこかで聞いた駅名と思ったのは、「サバ神社」を辿った散歩の折に、小田急・湘南台を利用したからだろう。
横浜駅を出た相鉄は平沼橋駅、西横浜駅へと進む。西横浜駅は昭和4年(1929)に相鉄の前身である神中鉄道の東のターミナルとして誕生。当時の横浜駅は高島町にあり、神中鉄道と繋がっていなかった。その後昭和6年(1931)横浜駅が現在地に移転する計画にともない、神中鉄道は平沼橋駅まで路線を延長し、昭和8年(1933)には、現在地に移った横浜駅と神中鉄道は繋がることになった。

○相模鉄道
相模鉄道は、元々は現在のJR相模線である茅ヶ崎駅 - 橋本駅間を結ぶべく開業した鉄道会社である。現在の相鉄本線にあたる横浜駅 - 海老名駅間を開業させたのは神中鉄道(じんちゅうてつどう)という鉄道会社であるが、昭和18年(1943)に神中鉄道は相模鉄道に吸収合併された。しかし、翌年には元の相模鉄道の路線であった茅ヶ崎駅 - 橋本駅間が国有化されたため、神中鉄道であった区間が相模鉄道として残った、ということであろう。

帷子川
電車は西横浜駅を超えると西区から保土ヶ谷区に入る。天王町を越え、帷子川に沿って進む。Wikipediaによれば、平安の頃まで天王町辺りまで入り海が迫り、袖ヶ浦と称される景勝の地として知られていた、と。そしてその入り江に注ぐ帷子川の河口には帷子湊が開けていた、とか。
江戸の頃、富士山の宝永の大噴火による火山灰により河口が浅間町辺りまで移動し、その地に新河岸が成立する。その後、江戸から明治にかけて袖ヶ浦の埋め立てが進み、現在の平沼町一帯が誕生した。因みに天王町は明治の頃、絹の輸出の増大に伴い、「絹の道」の通る町として賑わったようである。

○帷子(かたびら)川
帷子川(かたびらがわ)は、神奈川県横浜市を流れる二級河川。工業用水三級。現在の神奈川県横浜市保土ケ谷区天王町一帯は片方が山で、片方が田畑であったため、昔『かたひら』と呼ばれていた。その地を流れていたので『かたびらかわ』と呼んだのが名の由来だとされているが、これも地名由来の常の如く諸説ある。
神奈川県横浜市旭区若葉台近辺の湧水に源を発し、横浜市保土ケ谷区を南東に流れ、横浜市西区のみなとみらい21地区と横浜市神奈川区のポートサイド地区にまたがる場所で横浜港に注ぐ。
もともとは蛇行の激しい暴れ川で水害の多い川であったが、多くの地点で連綿と河川改良が進められた。近年、川の直線化や護岸工事など大規模な改修が進められ、西谷から横浜駅付近に流す地下分水路や、親水公園、川辺公園などが造られた。
横浜市保土ケ谷区上星川付近には、かつて捺染(なっせん)業が多く存在した。この染色・捺染の染料を流すこと(生地を水に晒す工程)や、周辺の生活排水や工場廃水などが増え始め、一時期は汚染が進んだ。また、上流域の横浜市旭区にゴミ処理場があり、その影響も心配された。 しかし、近年の環境問題に社会の関心が向いたことにより下水道の普及など状況は改善されつつあることや魚の放流などもなされた結果、自然が戻りつつあり、アユや神奈川県でも珍しいギバチも確認されている(Wikipediaより)

多摩丘陵と下末吉台地に挟まれた谷底低地を相鉄は進む
天王町駅を超える辺りから、線路の左右は下末吉台地に囲まれ、帷子川によって開析された樹枝状の谷底低地・氾濫原となってくる。その谷底低地を星川、和田駅へと進むと北は多摩丘陵、南は下末吉台地となる。西横浜駅から西の保土ヶ谷区は区の西部に多摩丘陵、中央部に下末吉台地が広く分布する。

○下末吉台地
下末吉台地(しもすえよしだいち)とは、神奈川県北東部の川崎市高津区、横浜市都筑区・鶴見区・港北区・神奈川区・西区・保土ケ谷区・中区などに広がる海抜40-60メートルほどの台地である。
鶴見川、帷子川、大岡川などによって開析が進み、多数の台地に分断されている。北側は多摩川沿いの沖積平野に接し、西側は多摩丘陵に連なる。横浜市中心部では海に迫っており、野毛山、山手や本牧など坂や傾斜地の多い地形を作っている(Wikipediaより)。

○多摩丘陵
関東平野南部,多摩川と境川の間に広がる丘陵。広くは東京西郊の八王子市から南南東にのびて三浦半島へと続く丘陵地を指すが,狭義には八王子市を流れる多摩川上流の浅川と,横浜市西部を流れる帷子(かたびら)川との間の地域を指す。
西は境川をはさんで相模原台地へと続き,北は多摩川をはさんで武蔵野台地へと続く。また,東はほぼ川崎市多摩区登戸~横浜市保土谷区を結ぶ線を境に下末吉台地へと連続している。多摩丘陵は地形・地質的には,これらの台地と関東山地の間の性格をもち,丘陵背面をなす多摩面と呼ばれる地形面は台地よりは古く,関東山地よりは新しい中期更新世に形成された(Wikipediaより)。

相鉄・上星川駅
相鉄に乗り目的地である西谷浄水場の最寄駅である「上星川駅」で下車。駅は大正15年(1926)、神中鉄道の「星川駅」として開業。昭和2年(1927)、横浜駅方面への区間延長計画に伴い、北保土ヶ谷駅が開業。昭和8年(1933)、北保土ヶ谷駅を「星川駅」と改称するに伴い、当駅を「上星川駅」とした。
○星川
因みに、この「星川」って田舎の愛媛県に姓として多い名前である。星川とか星加君といった同級生がいた。星さんとか星野さんって群馬とか福島に多いように聞く。何となく気になりチェック。
星川という苗字が最も多いのは山形(600弱)、愛媛は第二位(300ほど)とのことである。古代、雄略天皇の第四皇子に星川皇子がいる。西暦479年、雄略大王の死後、吉備氏の支援を受け、皇太子白髪皇子にクーデターを起こすも、大伴金村や東漢によって鎮圧され誅殺された人物である。
この皇子と山形や愛媛と関係あるのかないのか定かではないが、大和の星川氏は大和国山辺郡星川郷(奈良県奈良市)をルーツとし、武内_宿禰の子孫とされる。また、この地にも星川氏が武蔵国久良岐郡星川(神奈川県横浜市)に居を構えたとか。星川の地名は10世紀の『和名類聚抄』にすでに記録されている由緒ある地名であり、苗字も100弱と全国六位(山形>愛媛>北海道>東京>愛知>神奈川)なっている。

東海道貨物線が帷子川を跨ぐ
駅を下りる。駅前には帷子川が流れ、駅の北は多摩丘陵、南は下末吉台地が迫り、帷子川により開析された台地が複雑に入り組んでいる。駅の右手を見ると、帷子川の上を鉄道が跨ぐ。東海道貨物線が南北の丘陵をトンネルで抜け、帷子川の谷筋に橋梁となって姿を現している。
○東海道貨物線
東海道貨物線は、東京都港区の浜松町駅と神奈川県小田原市の小田原駅を結ぶJR東日本東海道本線の貨物支線および複々線区間、南武線の貨物支線の通称。上星川駅の北の丘陵を抜けた箇所に横浜羽沢駅があり、そこから東には地下を抜け東海道線・生麦駅に、西は丘陵の中を抜け東海道線・東戸塚駅と結ばれている。

蔵王高根神社
帷子川に架かる「光栄橋」を渡ると、蔵王神社前交差点。坂を少し上ると「蔵王高根神社」がある。この神社は旧坂本村の神社であった。坂本村には古くから蔵王社と高根社があり、村人の篤き信仰を集めていた,と言う。明治22年(1889)には町村制の施行により、坂本村と仏向(ぶっこう)村が合併して矢崎村が成立。その際、一村一社の政策に従い、蔵王社と高根社は杉山社に合祀された。
この杉山神社って横浜や川崎に地域限定で祀られる社。坂本村に該当する地域である仏向にも星川にも和田にもある。どの杉山神社か不明ではある。ただ、星川にある杉山神社は『江戸名所図会』には延喜式内神社との説もあるので、有難味から考えれば、この社かもしれない。とは言うものの、全く根拠なし。 それはそれとして、杉山神社に合祀された後も、当地の村民は信仰篤き故か社殿を残し、戦後になって再びこの地に分祀し社を成した、と言う。

○仏向・矢崎
因みに仏向村は仏に供える食物を意味する「佛餉」から(Wikipedia)。また、両村合併の際に何故「矢崎村」と名付けたのか気になりチェック。仏向村に頼朝ゆかりの矢崎と呼ばれる地名が見つかった。頼朝が放った矢が突き刺さり、その矢から矢竹が繁り、ために「矢シ塚(矢崎)」と呼ばれるようになった、とか。合併の際に、頼朝ゆかりの地名を持ち出し両村の合意を図ったのであろうか。

西谷浄水場旧計量器室跡
西谷浄水場に向かって上り坂の途中、煉瓦造りの建物がある。水道関連の歴史的建造物であろうと近づくと、案内に「西谷浄水場旧計量器室跡」とあった。「このレンガ造りの建物は西谷浄水場から横浜駅周辺・桜木町・元町・山手・本牧方面に給水する内径600㎜、910㎜、395㎜の三条の配水管の量を計る量水装置(水銀式ベンチュリメーター)を設置するため大正3年3月に建設されたものです。日本ではじめての近代水道として明治20年に創設(現在の野毛山公園に浄水場を建設、明治20年10月17日に通水)された横浜水道が昭和62年に100周年を迎えるにあたり、横浜水道記念館への玄関口として保存し公開するものです 横浜市水道局」とのこと。

○「横浜水道みち」
先般、数回に渡って歩いた相模原台地で折りに触れて「横浜水道」の送水管が通る、所謂「横浜水道みち」に出合った。そのとき横浜市水道局のHPなどの記事をもとにまとめたメモをもとに「横浜水道みち」を整理する。
幕末の頃、戸数わずか87ほどであった横浜は、安政6年(1859)の開港をきっかけに急激に人口が増加。しかし横浜は、海を埋立て拡張してきた地であり、井戸水は塩分を含み、良質の水が確保できない状況にあった。
このため当時の神奈川県知事は、横浜の外国人居留地からの水確保への強い要望や、明治10年(1877)、12年(1879)、15年(1882)、19年(1886)と相次いで起きた伝染病コレラの流行もあり、香港政庁の英国陸軍工兵少佐H.S.パーマー氏を顧問として、相模川の上流に水源を求め、明治18年(1885)近代水道の建設に着手し、明治20年(1887)9月に完成した。
□創設期の経路
相模川と道志川の合流地点(津久井郡三井村)に造られた三井(みい)用水取水所で、蒸気機関で動く揚水ポンプで汲みあげられ、相模原台地を横切り、横浜市旭区上川井につくられた川井接合井(導水路の分岐点や合流点で一時的に水をためる施設)を経て、横浜市西区老松町の野毛山浄水場に至る44キロの水の道。
相模川が山間を深く切り開く上流部には左岸岩壁に隧道を穿ち、相模原の台地を一直線に進み川井接合井に。川井接合井から野毛山浄水場までは相模原の平坦な台地から一変、起伏の多い丘陵などを貫くため、水路の建設は困難を極めたと言う。
近代水道の要ともなる水路管(グラスゴーから輸入)の運搬には、相模川を船で運び上げたり、陸路にはトロッコ線路を敷設し水管を運び上げたとのことである。現在三井の取水所跡から旧野毛山配水池(大正12年(1923)の関東大震災で被災し、配水池となる)まで26個の「トロッコ道」の案内板が整備されている。これが創設期の「横浜水道みち」ではある。
□横浜水道網の拡大
創設当初、計画対象人口を7万名と想定した横浜水道は、横浜市の発展とともに施設の拡充が図られる。明治34年(1901)には既に給水人口を30万と想定し川井浄水場、大正4年(1915)には給水人工80万を想定し西谷浄水場を整備するなど、明治から昭和55年(1980)までに8回に渡る拡張工事が行われている。
その拡張計画は、単に浄水場や配水場の新設・改築にとどまらず、創設時は道志川水系にその水源を求めた「横浜水道」は、その後昭和22年(1947)に完成した相模湖を水源とする相模湖系、昭和46年(1971)完成の相模川下流の寒川取水堰よりの水を水源とする馬入川系、昭和53年(1978)年完成の丹沢湖の水を水源とする企業団酒匂川系、平成12年(2000)完成の宮ヶ瀬湖を水源とする企業団・相模川系など水源の拡大をも図り、県内8浄水場を経由し、市内23か所の配水池から各戸に送水され、400万人近い市民を潤している、とのことである。

西谷浄水場
西谷浄水場旧計量器室跡を後に西谷浄水場に向かう。浄水場の南の道を行けば簡単に正面玄関に行けたのだが、どちらが正面ゲートか調べることもく、なんとなく北側を敷地に沿って大回り。丘陵から谷筋を埋める民家を眺めながら敷地の西に。ゲートがあるが、そこは横浜FCのトレーニングセンター入口とあった。浄水場の上を覆う天然・人工芝の練習場各1面とトレーニングセンターがあるとのことである。
更に南に回ると正面ゲートがあり、案内には水道横浜記念館や水道技術資料館などがあるとのことだが、日曜日はゲートが閉まっており敷地内に入ることは叶わなかった。ここであれこれと資料を手に入れようとの思惑であったが、予定が狂ってしまった。ちょっと残念。

○西谷(にしや)浄水場
西谷浄水場が完成したのは大正4年(1915)のことである。横浜市水道局の資料によれば、この時期は明治34年(1901)から大正4年(1915)に渡る横浜水道の「第1回~第2回拡張工事完成」時期にあたる。上にもメモしたように、当初7万人を想定した給水人口が30万から80万に急増する状況に対応し、明治34年(1901)に野毛山浄水場増強、青山沈殿池の完成、大正4年(1915)にはこの西谷浄水場、鮑子取水所が完成している。
ちょっと補足すると、明治20年(1887)に設置された創設時の三井取水所は明治30年(1897)に4キロ上流の道志川の青山に取水口を移した。これにより、2つの突堤で小湾口を設け、ポンプで沈澄池に揚水していた横浜水道は「自然流下式」で下ることが可能となった、とか。上述の青山沈殿池の完成はこの取水口の移行に伴うものであろう。
その後、大正4年(1915)には取水口は青山の更に上流1キロの鮑子取水口に移され、同時に完成した城山隧道により、それまでの相模川左岸の断崖絶壁路線を避け、相模川右岸を直線で現在の城山ダム(昭和40年完成であるので当時は影も形も無い)辺りで相模川を渡り、創設期横浜水道に繋いだ、とのことである。
西谷浄水場の完成した大正4年(1915)には横浜水道は、この道志川水系だけであり、鮑子取水所から取水された横浜水道は明治34年(1901)に完成した川井浄水場を経由してこの西谷浄水場に至り、増強された野毛山浄水場に下っていったのであろう。

○現在の西谷浄水場のネットワーク
横浜市の水道施設の紹介ページにある「水道施設フローシート図」によれば、現在西谷浄水場には道志川系の水が、川井浄水場の「接合井」>「着水井」を経て西谷浄水場の「着水井」に繋がる他、昭和22年(1947)完成の相模湖系の水が川井浄水場の「着水井」を経由し「着水井」に、また、昭和53年(1978)年完成の丹沢湖の水を水源とする企業団酒匂川系が相模原浄水場を経由しこの浄水場の「配水池」に繋がり、西谷浄水場からは野毛山新配水池、南の峰配水池などへと下っているようである。

横浜環状2号・主要地方道17号
西谷浄水場から導水路を追っかけることにする。25000分の一地の地図を見ると西谷浄水場から破線が丘陵下の「陣ヶ下渓谷公園」の南端に続いている。浄水場からのラインは、横浜FCの練習場入り口の北側の坂道から出ている。坂道を下ると環状2号・主要地方道17号に当たる。横浜市の中心部を取り巻き、高速道路や幹線道路を繋ぐ。起点は磯子区森三丁目、終点は鶴見区上末吉5丁目である。

みずのさかみち

高架となっている横浜環状2号を潜り、水路破線の続く「陣ヶ下渓谷公園」の南端に向かう。と、巨大な導水管が現れる。前述の「水道施設フローシート図」には川井浄水場の着水井から西谷浄水場の着水井には口径1100mmの導水管が続いている。その導水管であろうか、ともおもうのだが、それにしてはもう少し大きいように思う。
「水道施設フローシート図」を再度チェックすると、企業団酒匂川系統の送水管は口径2000mmとあった。その系統の送水管かもしれない。実際、横浜市水道局の「各水源の主な給水区域」を見ると、西谷浄水場から南の保土ヶ谷区、北の神奈川区北部、鶴見区は「企業団酒匂川系統の水」となっている。
それでは、創設期の「浜水道みち」の系統である道志川系の送水管はどこを通っているのだろう。普通に考えれば、創設期の「浜水道みち」は相鉄・鶴ヶ峰駅から相鉄線に沿って相鉄・西谷駅、上星川駅へと続いている。このルートに埋設されているのだろうか。

新幹線と交差
「みずのさかみち」を上り、住宅街を進み西原団地入口交差点、くぬぎ台団地交差点に。この交差点の西は旭区となる。道なりに進むと下り坂になり、新幹線の路線が見える手前で、再び巨大な導水管が一瞬姿を現し、新幹線を越えた坂を上ると再び水路は地中に潜る。ルートから考えれば酒匂川系統の送水管かと思う。

新幹線を越えたところには如何にも水路施設といったコンクリート構造物が2つ並んでいた。




相鉄・鶴ヶ峰駅
道なりにすすむと相鉄・鶴ヶ峰駅。いつだったか鎌倉街道中ノ道を辿り、横浜線・中山駅から戸塚まで歩いた時に訪れて以来の駅である。駅前に建つ高層ビルを見やりながら道なりにすすむと、「鎧橋と帷子川」の案内と、その横に「水道みち トロッコの歴史」の案内があった。

鎧橋と帷子川
「鶴ヶ峰公園のこのあたりは、古くは帷子川として流水をたたえたところですが、 河川改修により埋め立てられ誕生しました。鎧橋は、明治時代に横浜水道敷設のために造られた水道みちと帷子川が交差していたこの場所に架けられました。 当初、木で造られていた橋は、時代とともに架け替えられながら永く親しまれてきましたが、 平成15年の道路改修工事によりはずされました。 鎧橋という名の由来は定かではありませんが、一説には、 やや上流の旭区役所付近に「鎧の渡し」と呼ばれた渡し場があったことから名づけられたといわれています(旭区役所)」、と。





「水道みちトロッコの歴史」の標識・19番目
「この水道みちは、津久井郡三井村(現・相模原市津久井町)から横浜村の野毛山浄水場(横浜市西区)まで約44kmを、 明治20年(1887)わが国最初の近代水道として創設されました。 運搬手段のなかった当時、鉄管や資機材の運搬用としてレールを敷き、トロッコを使用し水道管を敷設しました。 横浜市民への給水の一歩と近代消防の一歩を共に歩んだ道です(横浜市水道局)」。
この案内には「三井用水取水口からここまで35キロ」とも記されている。26か所に建てられているトロッコ道案内の19番番目の標識である。


送水管埋設標
これら二つの案内の横に茂みがあり、そこに「送水管埋設標」と書かれた色褪せた案内があった。その時は何気なく写真に撮っておいたのだが、このメモをする段階でよくよく見ると「管種 2000mmダグタイル鉄鋳管 土被(どかぶ)り 15.52m 神奈川県内広域水道企業団」とあった。先ほど「みずのさか」の送水管のところで、「水道施設フローシート図」をもとに、その送水管は酒匂川系の送水管では、と推測したのだが、この案内によってほぼその推測は間違いないだろうと思う。とりあえず写真は撮っておくものである。



二俣川合戦の地・吾妻鏡 畠山重忠公終焉の地
先を進み鶴ヶ峰駅入口交差点に。この地で二俣川が帷子川に合わさる。その「ふたつの川が合わさる帷子川左岸に「二俣川合戦の地・吾妻鏡 畠山重忠公終焉の地」の案内。竹の植わる一隅に「さから矢竹の由来」。
案内には「鎌倉武士の鑑、畠山重忠公は、この地で僅かの軍兵で、北條勢の大軍と戦って敗れた。公は戦死の直前に「我が心正しかればこの矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」と、矢箆(やの)二筋を地に突きさした。やがてこの矢が自然に根付き年々二本ずつ生えて茂り続けて「さかさ矢竹」と呼ばれるようになったと伝えられる。
このさかさ矢竹も昭和四十年代の中頃までは、現在の旭区役所北東側の土手一面に繁っていたが、その後すべて消滅してしまった。この度畠山重忠公没後八百年にあたり、ここにさかさ矢竹を植えて再びその繁茂を期待いたします。(平成十七年六月ニ十二日 横浜旭ロータリークラブ)」、とあった。

○畠山重忠と二俣川の合戦
畠山重忠は頼朝のもっとも信頼したという武将。が父・重能が平氏に仕えていたため、当初、平家方として頼朝と戦っている。その後、頼朝に仕え富士川の合戦、宇治川の合戦などで武勇を誇る。頼朝の信頼も厚く、嫡男頼家の後見を任せたほどである。 頼朝の死後、執権北条時政の謀略により謀反の疑いをかけられ一族もろとも滅ぼされる。二俣川の合戦がそれである。
きっかけは、重忠の子・重保と平賀朝雅の争い。平賀朝雅は北条時政の後妻・牧の方の娘婿。恨みに思った牧の方が、時政に重忠を討つように、と。時政は息子義時の諌めにも関わらず、牧の方に押し切られ謀略決行。まずは、鎌倉で重忠の子・重保を誅する。ついで、「鎌倉にて異変あり」との虚偽の報を重忠に伝え、鎌倉に向かう途上の重忠を二俣川(横浜市旭区)で討つ。
討ったのは義時。父・時政の命に逆らえず重忠を討つ。が、謀反の疑いなどなにもなかった、と時政に伝える。時政、悄然として声も無し、であったとか。 その後のことであるが、この華も実もある忠義の武将を謀殺したことで、時政と牧の方は鎌倉御家人の憎しみをうけることになる。
「牧氏事件」が起こり、時政と牧の方は伊豆に追放される。この牧の方って、時政時代の謀略の殆どを仕組んだとも言われる。畠山重忠だけでなく、梶原景時、比企能員一族なども謀殺している。で、最後に実朝を廃し、自分の息子・平賀朝雅を将軍にしようとはかる。が、それはあまりに無体な、ということで北条政子と義時がはかり、時政・牧の方を出家・伊豆に幽閉した、ということである。

矢畑・越し巻き
先に少し進むと道の左側のちょっと入り込んだところに「矢畑・越し巻き」の木標。二俣川合戦で、北条勢の矢が、このあたり一面に無数に突き刺さり、まるで矢の畑のようになったことから「矢畑」、と。「越し巻き」の由来は、重忠が取り囲まれた故との説、とか、、その矢が腰巻きのようにぐるりと取り巻いたという説など、あれこれ。

今宿地区
帷子川に沿って「横浜水道みち」を進む。16号・八王子街道の一筋南の道筋である。鶴ヶ峰本町を抜け「今宿」地区に入る。水道みちの北側から川筋が合流する。これは帷子川の旧流路。洪水対策で直線化工事がなされたのであろう。先に進み、蛇行する旧流路にかかる「清来橋」の先の帷子川に擬宝珠が載る橋がある。地図を見ると橋を渡った左手に清来寺。ちょっと立ち寄るも、工事中で山門を潜っただけで元に戻る。
○清来寺
浄土真宗。開山は建治元年(1275)。もとは厚木にあったとのことだが、寛永年間(1624~43)にこの地に移った、と。この寺さまにはが所蔵する「夏野の露」という巻物があり、江戸時代末期のこのお寺様の住職が畠山重忠公の武勇をたたえるために編集したものとのことである。





「水道みちトロッコの歴史」の標識・18番目
水道みちに戻り、今宿団地前交差点を越え水道みちが旧帷子川を越える辺りの緑の中に「水道みち トロッコの歴史」の標識。三井用水取水所より3キロ」とあった。
また、その傍に「送水管埋設標」も。口径は2000mm。前述の埋設標と同じだが、土被りは32.53mとあった。地表から32mもの地中に埋設されているのだろうか。この送水管は神奈川県内広域水道企業団とあり、前述送水管と同じく酒匂川系の水のネットワークであり、水道みちとは基本道志川系のものであり、ということは、この下にはふたつの水系のふたつの送水管が埋設されているのだろうか。

八王子街道と中原街道が交差
先に進み筑池交差点で国道16号・八王子街道を越え、国道の北に二筋ある道の北側の道を進み中原街道とクロス。中原街道を越えると、今宿地区を離れ川井地区となる。
これはメモの段階でわかったのだが、八王子街道の北を進む二筋のうち南側の道筋が「横浜水道みち」であり、中原街道を越えてすぐの「都岡町内会館の辺りに17番目の下川井の「水道みちトロッコの歴史」の標識があったようだが見逃した。



川井宿町交差点
道を進むとズーラシア(動物園)辺りを水源域とすると思われる小さな水路を越えて進むと八王子街道・川井宿交差点に合流する。
先ほどの今宿もそうだが、この川井宿も、その「宿」という文字が気になる。チェックすると、今宿も川井宿も八王子街道や中原街道のクロスする地につくられた簡易な「宿」であったとか。簡易な「宿」と言う意味合いは、東海道など五街道に設けられた本格的な宿ではなく、近隣の農家が「宿」を提供した程度のようである。
○八王子街道
八王子街道は昔の浜街道とも神奈川往還とも、また絹の道とも呼ばれる。絹の道と呼ばれた所以は、安政6年(1859)の横浜開港とともに生糸の輸出が増加し、生糸の集積地である八王子から横浜へと運ばれた。
いつだったか、鑓水の絹の道を歩いたこと思い出す。その時の絹の道のメモ:。絹の道とは、幕末から明治30年(1897)頃までのおよそ50年、この地を通って生糸が横浜に運ばれた道。八王子近郊はもちろんのこと、埼玉、群馬、山梨、長野の養蚕農家から八王寺宿に集められた生糸の仲買で財をなしたのが、この地の生糸商人。この地の地名にちなみ、「鑓水商人」と呼ばれた。 鑓水商人で代表的な人は、八木下要右衛門、平本平兵衛、大塚徳左衛門、大塚五郎吉など。が、結局、このあたりの生糸商人も、横浜の大商人に主導権を握られていた、とか。その後、生糸が養蚕農家のレベルから官営工場への転換といった機械化により、養蚕農家の家内制生糸業を中心とした商いをしていたこの地の、鑓水商人は没落していった、と。また、鉄道便の発達による交通路の変化も没落を加速させたものであろう。ちなみに、当時この街道は「浜街道」と呼ばれた。絹の道とかシルクロードって名前は、昭和20年代後半になって名付けられたものである。
経路は八王子から町田市相原まで進み、そこからは二つのルートがあった、とか。ひとつはおおよそ現在の町田街道を町田市鶴間まで、もうひとつは境川を渡り橋本、淵野辺、上鶴間から鶴間へと進む、おおよそ現在の国道16号に沿った道である。で、鶴間で合わさったふたつのルートは今宿を経由して横浜へと向かった。

○中原街道
これもいつだったか、六郷用水を歩いたとき、福山正治の『桜坂』で知られる大田区の桜坂にあった旧中原街道の案内をメモする。「中原街道は、江戸から相州の平塚中原に通じる道で、中原往還、相州街道とも呼ばれた。また中原産の食酢を江戸に運ぶ運送路として利用されたため、御酢街道とも呼ばれた。すでに近世以来存在し、徳川家康が江戸に入国した際に利用され、その後、部分改修されて造成された街道である。江戸初期には参勤交代の道としても利用されたが、公用交通のための東海道が整備されると、脇往還として江戸への物資の流通や将軍の鷹狩などにもしばしば利用された。 また、平塚からは東海道よりも近道だったため、急ぎの旅人には近道として好まれたという。中略(大田区教育委員会)」。
中原には将軍家の御殿(別荘)があったようである。上に「中世以来」とあるが、Wikipediaによれば、小田原北条氏の時代に本格的な整備が行われたようで、狼煙をあげ、それを目印に道を切り開いたとされるが、その狼煙台の場所として今宿南町、清来寺の裏山、上川井の大貫谷などが記録に残る、とか。 中原街道の経路は、江戸城桜田門(後に虎の門)から国道1号桜田通り、東京都道・神奈川県道2号、神奈川県道45号を通り平塚に向かう。また「中原街道」という名称も、江戸期に徳川幕府が行った1604年の整備以降であり、それ以前は相州街道あるいは小杉道とも呼ばれていたようである。

トロッコ軌道跡
川井宿町交差点の次の交差点、川井本町交差点の傍に歩道橋がある。その脇に八王子街道に沿って帷子川に架かる小さな人道橋があるが、その橋に横浜水道創設期の工事に遣われたトロッコの軌道が埋め込まれていた。英国のグラスゴ-から輸入された水道の鋳鉄管を現場に運搬するために遣われたものである。よく見なければ見逃しそうに人道橋に馴染んで埋もれていた。

上川井交差点
やっと本日のメーンイベントである大貫谷戸水路橋に近づいた。八王子街道を先に進み、福和泉寺前交差点を越え蛇行する帷子川を再び渡り神明神社のある宮の下交差点を越え、またまた帷子川を渡り直し、上川井交差点に。福泉寺前交差点付近に16番目の「水道みちトロッコの歴史」の標識とトロッコ軌道跡があったようだが見逃した。
上川井交差点から横浜身代わり不動尊方面へと北に向かい、細流となった帷子川筋へ少し下り若葉台団地入り口交差点に。交差点を北に進むと巨大な水路橋が見えてきた。大貫谷戸水路橋である。

大貫谷戸水路橋
左右の丘陵を繋ぎ、かつては自然豊かな谷戸ではあったのだろうが、現在は民家や畑地となっている一帯を跨ぐ水路橋はさすがに見応えがある。高さは23m、延長414m(鉄鋼水路302m)、深さ2.7m、幅2.2mの構造を緑にペイントされたトレッスル橋脚で支えている。この水路橋は送水管ではなく、鋼桁がそのまま水路となっているとのことである。成り行きで西側の丘陵に上り、水路橋脇から谷戸を跨ぐ水路橋をしばし眺める
。 水路橋の逆側には導水路が西へと続き、国道16号・八王子街道と国道16号・保土ヶ谷バイパスがクロスする手前で保土ヶ谷バイパスに沿って北西に向かい、ほどなく川井浄水場と繋がる。

この水路橋が出来たのは昭和27年(1952)のことと言う。明治20年(1887)、横浜市へと近代水道を創設するも、給水人口の増加にともない、明治34年(1901)に川井浄水場を造り、大正4年(1915)には先ほど訪れた西谷浄水場を造り、昭和16年(1941)には西谷浄水場の拡張工事を実施した。
しかし、戦後の給水需要には間に合わず、横浜水道創設期の道志川系統以外に水源を求めることになり、昭和22年(1947)には相模ダムを建設。この神奈川県で最初の大規模人造湖である相模湖に貯水した水を川井浄水場の接合井に流すことになる。
で、川井浄水場から「相模湖系」の水を西谷浄水場に送ることになるわけだが、当初口径の大きい(1350mm)管の敷設を計画するも、鉄管のコストが高く、鉄管による導水を諦め、「開渠方式」により川井浄水場から西谷浄水場に送水する計画に変更。
そのルートは従来の横浜水道みちのルートとは異なった、川井浄水場の「接合井」から3つの多摩丘陵の尾根道を繋ぎ鶴ヶ峰に進むもの。丘陵の間にはこの大貫谷戸水路橋の他、梅田谷戸(三保市民の森南端)、鶴ヶ峰(鶴ヶ峰中学脇)にも水路橋を設け鶴ヶ峰の接合井(後に工業用水用の鶴ヶ峰浄水場となる)に進み、丘陵を下り西谷浄水場の着水井へと繋げた。この間おおよそ7キロ。100mで6cm下る傾斜を自然流下で繋げた。流速は人の歩く速度ほどとのことである。この新水路の完成により、昭和36年(1961)に給水対照人口が120万人となる横浜市の水需要に対応した。
○トレッスル橋
トレッスル橋(Trestle bridge)とは、末広がりに組まれた橋脚垂直要素(縦材)を多数短スパンで使用して橋桁を支持する形式の橋梁で、一般には鉄道橋としての用例が多い。
トレッスルとは「架台」、あるいは「うま」のことで、これに橋桁を乗せた構造を持つ桁橋である。長大なスパンがとれないため、多数の橋脚を必要とするので河川や海上に建設するのには不向きだが、陸上橋とすればトータルとしての使用部材量が少なくて済むことが特徴とされる。 山岳地帯や、渡河橋へのアプローチとして川沿いの氾濫原を横断するため等の目的で、19世紀には木製のトレッスル(ティンバートレッスル)が広範囲に造られた。樹皮をむいた丸太をクレオソート油に漬けて防食性を増したものを垂直要素の主構造材(縦材)とし、これに材木を釘うちやボルト係合してブレース(横材)とするのが一般的であった。
20世紀に入り、比較的大きな線路勾配が許容されるようになり、また、トンネル技術が発達したことにより、トレッスル橋の必要性は減少した。 日本では、(中略)JR西日本山陰本線余部橋梁(余部鉄橋、餘部橋梁)が日本最長のトレッスル橋であったが、2010年(平成22年)7月16日で供用を終了して一部が解体された(Wikipediaより)。

川井浄水場
大貫谷戸水路橋を堪能し、最後の目的地である川井浄水場に向かう。国道16号・八王子街道の一筋北の道を進み、保土ヶ谷バイパスと交差する国道16号・亀甲山交差点から保土ヶ谷バイパスに沿って進み川井浄水場入口交差点に。交差点手前には大貫谷戸水路橋から川井浄水場へと繋がるコンクリートで囲まれた導水路が見える。交差点を渡ってその先を確認すると、導水路は川井浄水場に繋がっていた。

川井浄水場は現在工事中。従来、川井浄水場から道志川系の原水を西谷浄水場に導水管により送水していたが、将来構想として、道志川系の原水は川井浄水場に、相模湖系の原水は西谷浄水場で処理されることになるようだ。その計画に関連した工事であろうか。
○道志川系
前述「水道施設フローシート図」をチェックすると、道志川系は鮑子取水口>青山隧道>青山沈澱池>城山管路隧道>第一接合井>城山水路隧道>第二接合井>城山ダム水管橋>第三接合井>久保沢隧道>上大島接合井と進み1350mm,1500mmの送水管によって川井浄水場の「着水井」と繋がる。川井浄水場の「着水井」から西谷浄水場の「着水井」に1100mmの送水管が繋がっているが、この送水管が使用停止となるのだろうか。
○相模湖系
また、相模湖系の原水は西谷浄水場で処理されることになるとのこと。相模湖系の経路をチェックすると、津久井隧道>津久井分水地>相模隧道>下九沢分水池>横浜隧道>虹吹分水池>相模原沈澱池を経て川井浄水場の「川井接合井」と繋がる。その先は川井浄水場の「接合井」から「着水井」に向かい、そこから、1100mmの送水管で西谷浄水場の着水井と結ばれている。

このように道志川系・相模湖系が同居している川井、西谷浄水場を川井は道志川系、西谷は相模湖系にまとめるとのことだが、企業団酒匂川系の導水管も川井、西谷浄水場とも繋がっている(企業団相模川系は両浄水場とは繋がっていないように見える)わけだから、結構ややこしく、おおがかりな工事になるのだろう。
因みに、「水道施設フローシート図」を見ると。川井浄水場からは浄水場内の「配水池」を経て恩田幹線で「恩田配水池(青葉区榎が丘)」、三保幹線により「三保配水池(緑区三保)」、さらには牛久保配水池(都筑区牛久保)へと水が送られているように見える。
○鶴ヶ峰ルートの相模湖系
また、この構想にともない、従来相模湖系の原水を処理していた鶴ヶ峰浄水場は鶴ヶ峰配水池(仮称)を残して廃止することになり、今後川井浄水場で処理した水を鶴ヶ峰配水池へ送水するための送水管更新工事が行われるようである。現在川井浄水場の接合井からの相模湖系の水は、先ほど見た大貫谷戸水路橋のある水路を「鶴ヶ峰配水場(浄水場は廃止予定)」に向かい、鶴ヶ峰配水場の接合井から西谷浄水場の着水井と繋がっているが、今回の導水管更新工事の地図は、おおよそ横浜水道道の経路であり、鶴ヶ峰への尾根道ルートではないようだ。

川井浄水場の接合井に注いだ相模湖系のルートを更にチェックすると、接合井から着水井に進み、そこから1100mmの送水管で西谷浄水場の着水井と結ばれている。川合浄水場から西谷浄水場への相模湖系のネットワークは鶴ヶ峰の尾根道水路ルートだけではないようだ。
今回の導水管更新工の資料を見ると、現在川井浄水場を経て西谷浄水場へ原水を導水している既設の導水管の一部を整備し、川井浄水場から鶴ヶ峰配水池(仮称)への送水管として使用するための工事がおこなわれるようであるが、その工法は総延長約 6km の導水管に内挿管工法により新たな管を挿入するものとあり。その口径は1000mmとある。現在川井浄水場の着水井から西谷浄水場の着水井に繋がる送水管は1100mmとあるので、口径1100mmの送水管の中に1000mm 送水管を内挿管工法によって工事がおこなわれるのだろうか。

ここでわかったことと、わからなくなったことがそれぞれひとつ。わかったことは、川井浄水場からの1100mm送水管は横浜水道みちに沿って埋められているだろう、と思えたこと。西谷浄水場のところで、企業団酒匂川系統の送水管が「横浜水道みち」から離れて「陣ヶ下渓谷公園」から一直線に西谷浄水場に向かっており、道志川・相模湖系の送水管がどの道筋に埋められていたかわからなくなっていたが、送水管更新工事のルート図は「横浜水道みち」の道筋であったからである。
で、わからなくなったことは、それでは従来相模湖系の水を西谷浄水場に送っていた「鶴ヶ峰の尾根道水路ルート」はどうなるのか、ということ。従来通り、川井浄水場の接合井から水路を流れ西谷浄水場の着水井への流れ残るのだろうか。よくわからない。

○横浜市内の系統別配水地域
西谷浄水場、川井浄水場を訪れることにより、横浜市の水のネットワークも一端を垣間見た。上にメモしたように、横浜市の水は、創設時は道志川水系にその水源を求めた。その後昭和22年(1947)に完成した相模湖を水源とする相模湖系、昭和46年(1971)完成の相模川下流の取水堰よりの水を水源とする馬入川系、昭和53年(1978)年完成の丹沢湖の水を水源とする企業団酒匂川系、平成12年(2000)完成の宮ヶ瀬湖を水源とする企業団・相模川系など水源の拡大をも図り、県内8浄水場を経由し、市内23か所の配水池から各戸に送水され、400万人近い市民を潤している、とのことである。
大雑把ではあるが横浜市内の系統別配水地域をまとめておく。

□西区の全域、中区の大半、南区の大半、保土ヶ谷区の東部、神奈川区の南部、鶴見区の東部・南部、港北区の南部の一部・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・道志川系と相模川系

□南区西部、戸塚区の北西部、旭区の南東部、神奈川区の北部、鶴見区中央部、港北区の南部と北部、都築区の北部・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・企業団酒匂川系

□神奈川区の北半分、緑区の南部、旭区の東部・・・・相模湖系

□泉区のほぼ全域、戸塚区ほぼ全域、港南区全域、磯子区全域、栄区・金沢区のほぼ全域、瀬谷区東南部、旭区中央部・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・馬入川系と企業団相模川系

□青葉区・緑区全域、旭区北部、瀬谷区の大半・・・・道志川系と企業団酒匂川系

□港北区中央部、都築区南部、青葉区の一部・・・・・馬入川系と企業団酒匂川系

□栄区と金沢区の南部の一部・・・・・・・・・・・・・・・・・・企業団相模川系
まことに大雑把ではあるが、複雑に入り組んだ横浜の水のネットワークが少し実感できる。

田園都市線・南町田駅
本日のメーンイベントである大貫谷戸水路橋も堪能し、西谷浄水場、川井浄水場を訪れることにより、横浜市の水のネットワークも一端を垣間見た。また、大貫谷戸水路橋その経路チェックをした折に、大貫谷戸水路橋以外にも同一導水路上にふたつの水路橋があるとのことである。
次回は、この水路橋を見るべしと、川井浄水場から保土ヶ谷バイパスに沿って進み、東名高速をクロスし、最寄の鉄道駅である田園都市線・南町田駅に向かい、本日の散歩を終える。
いつの頃だったか、津久井城を訪ね城山を南へと下ったとき串川に出合った。深く刻まれた谷が印象に残り、流路を上流に向かうと発達した河成段丘が広がっていた。ささやかな流れに比べてあまりにもアンバランスな深い谷・発達した段丘面が気になりチェックすると、はるか昔、串川は現在とは異なり「大河」であった、よう。上流の宮ヶ瀬辺りで丹沢の水を集めた早戸川が串川に注ぎ、水量豊かな「大河」として深い谷を刻み、発達した河岸段丘を創り上げた。 その串川であるが、いつの頃か、はるか昔のことではあろうが、早戸川の流れは中津川に奪われ、上流からの「水源」を絶たれた串川は現在見るささやかな流れとなったという。
河川の流路を別水系の流れがその流路を奪うことを「河川争奪」と言う。早戸川が中津川にその流路を奪われたのは地形の隆起とか、断層のズレのためとも言われるが門外漢にはいまひとつよくわからない。
河川争奪の要因はわからないが、早戸川がその流路を中津川に奪われ合流した地点は宮ヶ瀬である。が、現在その合流点は宮ヶ瀬湖の湖底に沈む。一方、早戸川の流れを奪われた串川はその宮ヶ瀬湖底の合流点のすぐ北を東へと流れる。地形図で見るに、かつて早戸川と串川が合流していた地点であろう辺りより、少し下ったところは、現在の串川に比べてアンバランスに大きい平坦地が広がっている。
早戸川と中津川が合流した地点は湖底で見ることはできないだろうが、それぞれの川が丹沢山塊から下り合流する谷筋の景観、そしてかつての串川と早戸川の合流点辺りの地形を見てみようと宮ヶ瀬湖に向かう。合流点から後のルートは時間の許す限り串川の流れに沿って、流路の周囲に拡がるかつての「大河」の痕跡でも見てみようと、晩春の週末、「河川争奪」の地に散歩に出かけることにする。



本日のルート;愛川町半原>半原水源地>石小屋ダム>石小屋跡>津久井導水路取水口>大沢の滝>宮ヶ瀬ダム>やまびこ大橋>熊野神社>宮ヶ瀬湖畔園地>虹の大橋>鳥居原園地>串川の風隙>道場>御屋敷>東陽寺>諏訪神社>地震峠>光明寺>国道412号・関交差点>青山神社>長竹三差路>串川橋>根古谷中野バス停




愛川町半原
通い慣れたる小田急線・本厚木駅より半原行きのバスに乗り終点の半原に向かう。半原を最初に訪れたのは数年前。武田信玄と小田原北条氏が戦った三増合戦の地を訪ねて志田峠を越え、折り返し国道412半原バイパスを半原の地に戻って以来のことである
。 半原は明治から大正、そして昭和にかけ「撚糸の町」として知られていた。戦前は陸軍飛行場、現在は工業団地となっている中津原段丘面は一面の桑畑であったようで、半原は相模三大養蚕地帯のひとつでもあり、中津川により四季を通して一定の湿度が保たれる、八王子という生糸の集散地・絹織物の生産地に近い、といった地の利、また養蚕地帯故に家庭で糸を扱うことに馴れた村人も多いといった人の利も相まって撚糸業が興った、と言う。
半原の撚糸業は文化4年(1807)、群馬の桐生でつくられた「八丁式撚糸機」を導入したのがそのはじまりと言われる。電気のない当時、動力源に水車を利用し糸を撚るこの撚糸機を動かすため、半原では水量の安定した中津川の水を活用することとし、明治20年(1887)には川の両岸に水路を設け、半原にある半原水源地(横須賀軍港貯水池)の取入れ口より下流の田代まで、およそ300機もの木製水車があったと伝えられる。その後動力は鉄製タービン水車なども加わり、昭和24年(1949)には全国の絹縫糸の生産量の80%を占めたとのことであり、その後、ナイロンを素材とした合成繊維の生産、ポリエステル縫糸、織物・ニット用撚糸の生産などを経て、現在は綿や麻との合繊撚糸の生産が行われているとのことである。

 因みに、撚糸(ねんし)とは「糸に撚(より)をかけること」。早い話が「捻(ねじ)り合わせる」ことである。その目的は、繭からほぐした糸は細く、何本か束にしなければならないが、そのままでバラバラして扱いにくいため生糸の束を軽く捻り合わせ、丈夫な一本の糸とする。そうすることによって生地に光沢といったものも出てくるとのこと。ついでのことながら、「腕に撚りをかける」とか、「撚りを戻す」ってフレーズは、この糸を撚ることから来ているようである。

半原水源地
現在も合繊撚糸の生産が行われている、とはいうもののそんな気配はあまり感じられず、工場は海外に移転したのかと思うほど静かな町を横須賀軍港へと水を送った水源地である半原水源地へ向かう。
バスで台地から半原の町に下る時、バスの窓から目視しており、バス停から日向橋の南詰に向かい中津川右岸を少し上流に進み、途中、若宮八幡にお参りし半原水源地に。
柵で囲まれた水源地の中には幾つかの沈殿池があり、この水源地の上流500mほどのところにある取水口から取り入れ沈殿池の砂利などで濾過した後、およそ53キロ離れた横須賀の逸見浄水場に自然流下で送られていたようだが、平成19年(2007年)4月より送水は休止中とのことである。

石小屋ダム
半原水源地から宮ヶ瀬ダムへは石小屋ダム経由で進む。地図を見るに中津川右岸から進む道はないようであるので、国道412号に架かる橋を渡り中津川左岸をしばし進む。半原水源地への取水口など見えないものかと注意しながら進むと、木々に遮られ定かには確認できなかったが、中津川右岸にそれらしき柵が見えた。幅1,2m,高さ1,9mの取水口 このことである。
先に進むにつれ深い谷を塞いだ堤高156mの宮ヶ瀬ダムが姿を表す。ほどなく石小屋の石碑があり、その先に石小屋ダム。正式には宮ヶ瀬副ダムと称する。水位が低下したときには、宮ヶ瀬ダム建設時、中津川の水を上流で堰止め、2キロに渡り中津川右岸に通した工事用排水管の排水口が見えるようだが、今回は水量豊かなために見ることは叶わなかった。
案内によると石小屋ダム建設の目的は大きく3つ。第一は宮ヶ瀬ダムの放流水の勢いを弱め、下流での洪水被害を防ぐ、第二は津久井導水路導水路の水位確保、そして第三は発電(愛川第二発電所)の水位確保、とのこと。
第一の目的は芦ノ湖に匹敵する水量を貯めた宮ヶ瀬湖の水を堤高156mもある宮ヶ瀬ダムからの放水による急激な水量による弊害を避けるため。 第二の津久井導水路導水路とは宮ヶ瀬ダムの水を城山ダム(津久井湖)に導水するおよそ5キロの隧道。城山ダムの上流の道志川に水を送り、相模川本川が水不足で中下流の磯部頭首工、相模大堰、寒川取水堰などで取水が困難になりそうになった時、津久井湖に水を供給するためのものである。ふたつのダムが連携し水資源の有効活用を図るというわけである。第三の愛川第二発電所は石小屋ダムの左手下に見える。
このような目的で、「副」とは言いながら堤高35m弱という本格的な石小屋ダムは宮ヶ瀬ダムと共に建設が開始され、2000年(平成12年)に宮ヶ瀬ダムと共に完成した。

○相模導水

導水路といえば、宮ヶ瀬ダムには相模導水があり、この場合は津久井導水路とは逆に道志川の水を宮ヶ瀬湖に送る。集水面積は小さいが貯水容量の大きい中津川水系の宮ヶ瀬ダムと、逆に集水面積は大きいが貯水容量の少ない相模川水系の城山ダムや相模ダムが連携しての水資源の活用を行っている。

石小屋跡
石小屋ダムのすぐ先に大岩が重なる。そこが石小屋跡。石小屋とは三つの巨石が重なり、ふたつの石が支柱となりちょっとした空間ができ丁度「小屋」のようになっている。伐採した木材を流す「木流し」職人なども夜を過ごしたのだろうか、いつしか「石小屋」と呼ばれるようになった、とのこと。

○中津渓谷
ところで、宮ヶ瀬ダムができる前はこの石小屋から宮ヶ瀬・落合地区までの3キロは渓谷美で知られ中津渓谷と称された。当時は数件の旅館もあったようである。中津渓谷に架かる石小屋橋は少し上流、現在の宮ヶ瀬ダムの少し手前辺りにあったようである。

津久井導水路取水口
石小屋ダムの右の台地上には愛川町役場郷土資料館や神奈川県立あいかわ公園などがあり、その台地の道を辿るとダムの天端にのぼれるようだが、圧倒的なダムを見上げながら天端(てんば;ダムや堤防の一番高い部分)に上るべく先に進むと石小屋ダム脇に白い箱型の施設。そこが津久井導水路取水口であった。

大沢の滝
アーチ型の新石小屋橋でダムの右岸に渡り先に進むと岩肌から下る滝が目に入る。大沢の滝である。案内には「目の前の岩山をつたい流れる「大沢」は、これより奥、高取山からの一尾根を挟んで出ている「屏風沢」と「夕日の沢」を源としている。この沢が中津川に入る少し手前で岩を噛む数段の滝となる。地元ではこれを「大沢の滝」と呼び親しんでいる(愛川町商工観光課)」とあった。

宮ヶ瀬ダム
愛川第一発電所脇を進みダムの直下に。堤高156mはさすがに圧倒的。ダムを見上げると上部と低部に「吐口」が見える。案内によると、上部の吐口(高位常用洪水吐)は洪水時と観光放水時に使用するゲート。低位(低位常用洪水吐)の吐口は急速に水位を低下する場合に使用される,とあった。
また、目には見えないがダムの堤の内側には「選択取水設備」があり、「水温、濁りに配慮した放水をおこなうため、さまざまな水深からの取水を可能としている」との説明があり、イラストでその選択取水設備から愛川第一発電所と「利水放水設備」へと水管が続いていた。「利水放水設備」とは「灌漑、水道用水、工業用水等の利水利用のための放流設備」。相模川水系、酒匂川水系とともに神奈川を潤す。特に上にメモしたように、相模川水系とは水の「貸し借り」をしながら連携して効率的な水資源利用を図る。

○インクライン
ダムの天端に上るべくルートを探す。ダムの中津川左岸側には天端(てんば;ダムや堤防の一番高い部分)までステップが続いているが立ち入り禁止のよう。天端に上るにはエレベーター(無料)か工事の時使用したインクラインを活用したケーブルカー(有料)しかないようだ。折角のことでもあるのでダムのスケールを実感すべくインクラインのケーブルカーに。
最大斜度35度というインクラインは建設工法を重力式とする宮ヶ瀬ダム建設時、大量に必要となるセメントを積載トラックごと運び上げたという。建設当時の写真を見るに、中央に直線が二本、左右に斜めにそれぞれ一本のツリー型のインクラインが見える。電力を多く使うインクラインの電力負荷を軽減するためカウンターウエイトのラインを設けていた、とのことである。上りと下りを同時に動かし、上りの負荷を軽減したのだろう、か。

○重力式ダム
重力式ダムとは、コンクリートを大量に使い、その質量をもとに自重で水圧に耐えるダムの建設工法。他にアーチ式ダム、フィル式ダムなどがある。アーチ式ダムはダムをアーチ型にし、左右の堅い岩盤に水圧を分散させる工法。重力式ほどコンクリートを必要としない。また、フィル式は岩石や土砂を積み上げてつくる工法。岩石を積み上げるダムはロックフィルダムと呼ぶ。

宮ヶ瀬ダムの天端
ダムの天端に立ち中津川下流を眺める。かつて渓谷美を誇った中津川渓谷の深く刻まれた景観が一望のもと。逆にダム湖側を見るに、その貯水量が芦ノ湖と匹敵するほどと称される湖面が拡がる。灌漑用水、水道用水、工業用水、発電にと多目的に遣われる宮ヶ瀬湖の水ではあるが、特に上水道は横浜市・川崎市・横須賀市等神奈川県全体の2/3の地域、県人口の90%に供給している、とのことである。

○宮ヶ瀬湖建設までの経緯
宮ヶ瀬湖建設までの経緯を簡単にメモすると、昭和22年(1947)には相模川水系の相模ダム(相模湖)が完成、また昭和45年(1970)にはその下流に城山ダム(津久井弧)完成。そして昭和47年(1972)には相寒川取水施設(寒川取水堰(せき))も完成し、相模川水系の水資源の活用が図られた。
酒匂川水系においても、昭和54年(1079)に三保ダム(丹沢湖)が完成。飯泉取水施設(飯泉取水堰(ぜき))も造られ酒匂川の水利用も推進された。
しかしながら、水需要の増大は当初の計画以上と想定される状況に至り、その対応として中津川水系の水資源総開発が計画。当初は相模川、酒匂川水系と同じく県営事業として中津川ダム建設が計画されたが、最終的にはその規模を各段に大きくした宮ヶ瀬ダムが建設大臣直轄事業として実施されることになる。
平成10年(1998)に宮ヶ瀬ダム本体と津久井導水路が完成し、平成11年(1999)4月より、上でメモした宮ヶ瀬ダムの一部運用に伴う既設ダム群との総合運用を開始し、平成13年(2001)4月からは宮ヶ瀬ダムの全面運用に伴う本格的な総合運用を開始。相模取水施設(相模大堰(ぜき))のほか既存の寒川取水施設(寒川取水堰(せき))等も暫定的に使用して宮ヶ瀬ダムの水を有効活用している。

やまびこ大橋
次の目的地は中津川が宮ヶ瀬湖に流入する山峡を遠望できるであろう「やまびこ大橋」へと向かう。ダムまでは愛川町、ダムから西は清川村宮ヶ瀬地区に入る。宮ヶ瀬湖南岸に通る県道514号を進む。交通量が多い県道を幾つかのトンネルを通り抜け、結構長い宮ヶ瀬トンネルを通り抜けた後、湖に突き出た舌状丘陵の奥に入り込んだ湖水に架かる橋を渡り、舌状丘陵の切り通しを過ぎると「やまびこ大橋」に到着。橋から南を眺めると、中央に湖に突き出す山容の左が川弟川の谷筋。右が中津川の谷筋である。

○中津川
丹沢山地のヤビツ峠付近にその源を発し、4キロほど北流しタライゴヤ沢合流点辺りまでは藤熊川、その合流点から更に北に3キロほど北流し本谷川との合流点辺りまでは布川戸呼ばれる。その合流点から下流は中津川となり、大山を水源とする唐沢川などを集め宮ヶ瀬湖へと注ぐ。

○宮ヶ瀬ダムと宮ヶ瀬村
昔の川筋は湖底に沈み見ることはできないが、おおよその流路は「やまびこ大橋」の下を通り、北西へと進み、やまびこ大橋の北の宮ヶ瀬湖の中央部分で南下してきた早戸川と合流し、合流点でその進路を東へと大きく変え、宮ヶ瀬ダム方向へと向かってゆく。
ダムの底に沈んだ中津川や、中津川に合流した早戸川、そして宮ヶ瀬村の姿を「ふるさと宮ヶ瀬;ふるさと宮ヶ瀬を語り継ぐ会(夢工房)」をもとに以下メモする。現在芦ノ湖ほどの広さをもつ宮が瀬湖であるが、昭和41年(1966)、県営事業として中津川水系の利水開発、所謂「三点ダム構想」が発表されたときは、中津川(宮ヶ瀬字一之瀬;唐沢川との合流点の下流)、早戸川(宮ヶ瀬字落合上流)をロックフィルダムで堰止めて調整、自然流水を石小屋から津久井湖に導水し、既存の県営利水設備に機能させ水需要に対応しようというものであった。しかし3年かけて準備してきたこの計画は昭和44年(1069)、建設省によって発表された巨大ダム構想に取って代わられる。その結果、県営事業では想定していなかった宮ヶ瀬村が湖底に沈むことになった。
当時の宮ヶ瀬村は240戸ほど。交渉の結果、昭和44年(1069)宮ヶ瀬ダム計画を受け入れた住民は補償金とともに代替地に移転することになる。いくつかの候補地の中から厚木市中荻野(現、宮の里)に200戸、宮ヶ瀬(現在の水の郷、宮の平)におよそ30戸、その他の町村に残りの村民が移住した。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)
■北集落
川弟川が中津川に合流した下流左岸。現在のやまびこ大橋の西詰めの南、宮ヶ瀬村の氏神が鎮座する熊野神社の東の湖底に沈む。この熊野神社も水没を避け移築したものである。北集落の少し北、現在の「やまびこ大橋」の辺りには、中津川を渡る「宮ヶ瀬橋」が架かっていた。 ■馬場集落
川弟川が中津川に合流した下流左岸。地名の由来は、昔、津久井郡青根村から入植した人がはじめて馬を飼ったところ、から。宮ヶ瀬村の中心であり大正4年(1915)には宮ヶ瀬小学校、昭和22年(1947)には中学校が出来た。 ○異人館と唐人河原
この地には異人館があり、幕末から明治初年にかけて横浜居留地の外国人がこの地を訪れた。安政5年(1858)諸外国と締結された「修好通商条約」によって外国人は十里四方以遠への旅行を制限されており、この宮ヶ瀬が横浜から旅行できる山紫水明の地として重宝されたのであろう。写真家のベアトやヘボン式ローマ字のヘボン氏などがこの地を訪ねている。集落から川を隔てた対岸は「唐人河原」と呼ばれていたようである。
いつだったか飯山観音を訪れた時、幕末の報道写真家、フェリックス・ベアトが宮ケ瀬への途中、庫裏橋を撮った写真があった。藁だか萱だかで葺いた屋根の民家。橋の袂に所在なさげに座る人。その横で箒をもつ人。掃き清められ清潔な風景が切り取られている。素敵な写真である。その時はなぜ宮ヶ瀬に?と思っていたのだが、これでその時の疑問が解決した。
■久保の坂集落
馬場集落の南。中津川左岸の川辺であり、急坂の両側に集落があった。この集落には湧水があり伊勢原、厚木への往還、大山参りの人の渇きを潤していた。
■南集落
久保の坂集落の南。中津川上流の札掛に向かう道筋であり、丹沢への登山口への道筋でもあった。札掛は中津川の上流、藤熊川沿いにある地名。樅(モミ)の原生林や欅(ケヤキ)の大木などが繁る森は、江戸幕府の御料林であり、杉・ひのき・モミ・ツゲ・ケヤキ・カヤは「丹沢六木」称され建材としてとして厳重に保護されていた。札掛の由来は役人が欅の大木を見回り、掛けた札による。 御用林は明治に皇室の御料林となり、昭和6年(1931)には県有林となった。
■和田集落(川弟川方面)
煤ヶ谷方面、土山峠付近より北上する川弟川が中津川に合流した右岸。中津川の堆積土上に集落があった。対岸の久保の坂集落とは「宮ヶ瀬大橋」で結ばれていた。
■上村集落(川弟川方面)
和田集落の皆南、中津川がつくた河成段丘上に集落があった。和田村を上村に対し下村と呼んだり、前和田・奥和田と称したり、ふたつの集落を合わせて「川前」とも称したようである。また、対岸の集落を「向かい」と呼んだ。
■向落合・前落合集落(早戸川方面)
馬場から津久井方面に2キロほど北に上り、早戸川が中津川に合流する少し上流、早戸川の左岸に向落合、右岸に前落合の集落があった。両集落で70戸ほど。この集落から少し南に下った日陰横根で早戸川は中津川に合流し、記念橋(関東大震災を記念した橋)が架かり、津久井には橋を渡り、愛川へは日陰横根から右に折れて中津川に沿って下っていった。

熊野神社
やまびこ橋を渡り、中津川左岸に渡る。県道沿いに熊野神社。水没した北集落にあったものを移したもの。祭神は伊弉諾命( いざなぎのみこと ) 、伊弉冊命 ( いざなみのみこと )。摂末社の八坂神社は須佐男命 ( すさのおのみこと ) を祀る。その他大六天社も。
境内にあった案内をまとめると、「古くは諏訪神社として勧請。当初の守護神であった。しかし、延文3年と言うから14世紀の半ば、武蔵の国・矢口の合戦に敗れた新田義興の郎党矢内入道信吉がこの地に落ち延び、村を隔てる一里余の平地の中津川畔に館を構え、更に遡る布川・塩水川合流点直下に奥野権現を祀り氏神として深く信仰していた。しかし、賊徒の凶刃に斃れ一族滅亡。祭主を失い、荒廃した社を村人が村内に移し、社号を熊野神社と改め明暦元年古社(私注;これが諏訪神社のことを指すのだろう)と合祀した。
時がたち、宮ヶ瀬ダム建設のため氏子の住居とともに水没することとなり、長年鎮座の地より八坂神社とともに当地に移し再建。さらに当地より移転した厚木市宮の里地区に分社を造営。在落落合郷第六天社稲荷神社を春の木丸地区に、更に旧村内各部落祭祀の小社を覆殿に移し、祭っている」とあった。

上で水没する村民は厚木市中荻野(現、宮の里)に200戸、宮ヶ瀬(現在の水の郷、宮の平)におよそ30戸が移転したとメモした。確かに厚木市宮の里には熊野神社が鎮座する。また、宮ヶ瀬地区の移転先である宮ヶ瀬湖畔園地・水の郷(上の案内にある春の木丸:正確には「B代替地;商業地」)の売店脇には水の郷第六天社が鎮座している。因みに宮ヶ瀬・宮の平とは正確には「北原地区(A代替地;住宅地)であり、熊野神社の南にある宮ヶ瀬北原交差点近くにある住宅地のことであろう。

宮ヶ瀬湖畔園地
熊野神社から県道64号を離れ、水の郷大つり橋を渡り、宮ヶ瀬湖畔園地をぬけて鳥屋方面へと向かう。整地された湖畔園地内には宮ヶ瀬水の交流館、水の郷観光案内所、丹沢登山やハイキングのサポートセンター県立宮ヶ瀬ビジターセンターがあった。また上でメモしたようにこの公園の南の住宅地、西側の県道脇の売店は友に水没した村民の移転先でもある。
公園内を進み、県道脇の売店群の北にある水の郷第六天社にお参りし園地を離れ、再び県道に戻る。

虹の大橋
湖に細長く北に突き出た台地上の県道の切り通しを抜けて進むと「虹の大橋」に出る。台地を通る県道64号の東は宮ヶ瀬、西は相模原市緑区鳥屋(とや)、そして「虹の大橋」の中央を境に、鳥屋と宮ヶ瀬に分かれる。
橋から西に見える山峡が早戸川の谷筋である。

○早戸川
早戸川は丹沢山の北麓にその源を発し、しばし北流した後、その流路を東に変え宮ヶ瀬湖に注ぐ。早戸川は「虹の大橋」の中央真下を通り東に進むが、虹の大橋を渡った県道64号が湖畔を離れ北に大きく方向を変える辺りの南でその流路を急激に南方向へと向け、中津川に合流していた。
おおよその場所は、北に大きく方向を変える県道64号の南で湖に向かって突き出る台地の先といったところである。また中津川との合流点はそこから少し南、現在の地形で言えば、虹の大橋に向かって湖に突き出した台地の付け根あたりと、やまびこ大橋を越えた先にあった湖に突きだした台地から線を伸ばしクロスした辺りではあろう。

鳥居原園地

今回の目的は早戸川・中津川・串川の河川争奪の名残を感じる散歩。ポイントは早戸川が急激に流路を南に帰る辺り。その場所はおおよそ予測できたので、そこから串川の流れまで、現在どのような地形になっているか辿ることにする。

虹の大橋を渡り、北東へと緩やかに曲がる県道64号が北へと下るところで県道と離れ、そのまま直進すると「鳥居原園地」がある。「鳥居原ふれあいの館(いえ)」などが整備された総合観光施設である。この園地からの宮ヶ瀬湖、やまびこ大橋、宮ヶ瀬湖畔園地、虹の大橋、そして宮ヶ瀬湖の奥に聳える丹沢の山容が一望のもと。左端の土山峠、その横に辺室山、最奥部に聳える大山、右端に蛭ヶ岳と有名どころの山々も案内写真の助けで遠景を楽しめる。

○湖底の早戸川と中津川合流点

宮ヶ瀬湖に突き出ている鳥居原園地のある台地の少し南の湖底には、早戸川がその流路をグイっと南に変え、中津川に合流していた記念橋も残っているのだろうか。記念橋からは早戸川に沿って北上し、前落合集落から早戸川の右岸を進めば早戸川の源流方面進む。一方、宮ヶ瀬から津久井へと進む道は、前落合集落で落合橋を渡り早戸川左岸の向落合の集落の九十九折れの道を北に進み、鳥居原園地のある台地の東、湖が入り込んでいる台地に沿ってぐるりと回り、鳥居原園地いの台地に至り現在の県道64号沿いに北に向かったようである。その前落合集落も向落合集落も、この鳥居原園地の先に沈む。

串川の風隙
鳥居原園地から道路を隔てた北に小さな丘が見える。標高337mのこの島のような丘は、はるか昔の川の流れによって堆積した段丘の名残と言う。この河成段丘面の北は扇型に平坦な地が北の串川の谷筋に向かって下る。この平坦な地は河川争奪によりその流路を中津川に奪われた串川の流路跡とも言われる。水の絶えた谷合の水路跡を「風隙」と称する。
串川の谷底低地に向かって緩やかに下る山間に広がる平坦な地を下る。平坦な地の西端に、途中から唐突に谷筋が現れるが水は無い。左右、南北の景観を眺めながら串川の流れる谷底低地に下り道場の集落に。




道場・串川の谷底堆積地
道場の集落を流れる串川は、ささやかな流れである。そしてそのささやかな流れに比して、串川周囲の谷底堆積地のスケールが大きく、誠にアンバランス。地形図で彩色するに、山間に平坦地が大きく広がっている。これははるか昔、早戸川が串川に合流していた頃の「大河」の名残とのことである。
串川の周囲の平坦地は、鳥居原園地の風隙から下ってきた道場の集落の上流にある御屋敷集落の周囲にも大きく広がっている。早戸川を巡る串川と中津川の河川争奪は構造線の横ずれと上下運動によって形成された、と言う。このような地殻変動が数度に渡って行われ、流路も変遷を重ねたのだろう、か。単なる妄想。根拠なし。

御屋敷
串川のさらに上流がどのようなものか、御屋敷集落辺りまで、ちょっと行ってみようと先に進む。御屋敷って興味深い地名。詳しい由来はわからないが、この地名に関わる伝説が残る。昔々、道場(堂場とも)に住む若者が得意な笛を吹きながら串川を川上へと進み美しい女性に出会う。この女性は御屋敷御殿の姫君。二人は恋に落ち、若者は母の形見の櫛を贈る。都へと出向き若者と会えなくなった姫君は、川面に彼の姿を認め手を伸ばしたとき、大切な串を川に落とす。必死になって串を探す姫の姿を痛ましく思った地元の民は、この悲恋(串を落とした日に若者は亡くなっていた)の櫛に因み、この川を「櫛川」>「串川」と称するようになった、と。
櫛を川に落とした姫君の由来譚もそれなりに面白いのだが、実際は、地形から名づけられたものであろう。『相模川歴史ウォーク;前川静治(東京新聞出版局)』によれば、「くし」は海岸線や河川などの屈曲部のところを指す、という。

東陽寺
先に進み東陽寺で串川は南北から合流する。東陽寺は室町時代の開創。臨済宗建長寺派のお寺さま。関の光明寺と深い法縁をもつ、と言う。
本流は北からの流れであったのだが、あまり調べず成り行きで進み南の宝樹沢に進んでしまった。しばらく進み、水も絶えた辺りまで行ったところで本流ではないことに気が付き元に戻る。




諏訪神社
串川に沿って下る。流路の周囲は結構広々としている。西門集落を越え、宮ノ浦に鳥屋諏訪神社。御神木の大杉が残る。社殿(覆殿?)が特徴的。これが本殿かと思ったのだが、本殿はこの中に鎮座している。案内によれば、「本殿の桁行、梁行とも1.3mで、一間社宝形造、屋根は柿(こけら)葺き、四方に千鳥破風を置き,正面には軒唐破風を付ける珍しいもの。また、向拝社は全体に昇竜の彫刻を施すなど彫刻による装飾が非常に豊かなのもこの本殿の特徴。本殿内の棟札に安永4(1775)年の再建年代及び大工の名が記されている。本殿は毎年8月の祭礼の時に開帳される。相模原市の指定文化財である」とあった。
歴史は古く、仁治2年(1241)に菱山肥後守入道隆頼公が菱山氏菩提のため、清真寺を此の地(鳥屋中学の西)に建立したと同時に山内鎮守として勧請、享禄3年(1530)に現在地に遷座された(菱山肥後守の詳細はわからない)。
境内前に石仏群。中央に六字名号塔、左右に馬頭観音や廿三夜塔が配置されている。道路拡張等により、ここに集められたものだろう。六字名号塔とは「南無阿弥陀仏」が刻まれた石塔のこと。

地震峠
やまびこ大橋から共に進んだ県道64号は諏訪神社脇で串川を離れ、道志みち・国道412号へと北上する。かわって串川に沿って県道513号に乗り換え、道脇に地区を示す道標を見やりながら先に進む。
「ここは中上 標高274m」 、「ここは中下 標高271m」、「ここは渡戸 標高267m」と続いた後、切り通しといった道の南側擁壁の上に「鳥屋 地震峠」の案内があった。案内には関東大震災の全体の説明に続き、「・・・当津久井郡内では、死者三十三名、負傷者十六名、全壊棟数百二十戸、半壊棟数四百二戸となっているが、この内ここ馬石では、死者十六名、埋没棟数九戸で、死体が確認されたのは八人のみ、ある家では六人家族全員が埋没死したのである。当時の串川は現在の県道よりもずっと南側を流れていたが、山津波のために串川がせき止められ、上流五百メートル位まで湖のようになってしまったという。・・・昭和六十一年三月 津久井町教育委員会」とある。
南の山地側の斜面が地震の時崩壊し土砂が押し寄せ、人家を埋め串川を堰止めたのだろう。現在切通しとなっている県道は崩壊土砂を切通して通しているが、串川は崩壊土砂を避け利用に左側に大きく迂回している。
地震による山地斜面の崩壊、河川の閉塞、流路の変更、切り通しとなった道など、自然による地形の変化のサンプルがこの峠に現れている。

光明寺
馬石橋を渡り、「ここは馬石 標高257m」の標識を見やり桜野を越え、串川の流れに沿って進む。県道が国道412号・道志みちに合流する関交差点の手前、串川が鳥屋の山地を抜けた辺りに光明寺。臨済宗建長寺派の古刹。もとは「桐ケ谷宝積寺」と号し、台蜜禅兼学にて七堂伽藍と坊舎を有するお寺さまであったが、永禄十二年(1569)年武田軍と北条軍による三増合戦のとき、兵火によって堂塔と坊舎を焼失。武田軍は炎上する寺院の明かりで、甲州に向かった、とも。本尊は運慶作と伝わる延命地蔵菩薩(本尊)。像高66cm座高25㎝台座巾76cmなど多くの寺宝を有する、と。

国道412号・関交差点
光明寺を越え関の交差点に。この関の交差点から東への国道412号も、交差点から北西へと相模湖方面へと向かう国道412も既に一度歩いている。三増合戦散歩の一環として、信玄退却路を辿り志田峠から串川橋に下り、この国道を相模湖まで辿った道である。
関の交差点から東の国道412号は、津久井城から成り行きで串川の谷筋に下り、深く刻まれた串川の谷に沿って串川橋をへて辿った道である。深い谷と進むにつれて現れたささやかな串川の流れ、そして深い谷に代わって現れた発達した川成段丘。そのアンバランスが気になってチェックした結果が今回の河川争奪の散歩に繋がったわけである。

青山神社
関交差点のすぐ東に青山神社が鎮座する。諏訪社、諏訪宮、諏訪大明神と呼ばれていたが、明治6年(1873年)、八坂神社(天王宮)と御岳神社(御岳宮)を合わせ、青山神社と改称された。青山とは地区の名称である。
境内に「咢堂桜」。尾崎行雄(咢堂)が東京市長のとき、日米友好を記念し、ワシントン市に贈った桜が里帰りしたもの。尾崎行雄がこの津久井出身と言うことで、この津久井に戻ってきた桜の苗木が32本のうちの一本。尾崎行雄は憲政の父。

長竹三差路
東に向かうと国道412号に相乗りしていた県道513号は、長竹三差路交差点で北東へと分岐し相模湖方面の中野へと向かう。長竹三差路は三増合戦に登場する地名。津久井湖畔の中野から下る道、相模湖へと向かう道、串川沿い、または半原へと南に下る道が交差する。『八王子南郊 史話と伝説;小泉輝三郎(有峰書店新社)』によれば、津久井城から出撃するときは、三増峠に進もうが、半原・志田峠を目指そうが、必ずこの長竹三差路を通らなければならなかった、と。
三増合戦の時、長竹と言えば、武田方の遊軍・山県勢5千に先立ち、津久井城の押さえのため進軍した小幡尾張守信貞の部隊が「長竹」に伏せたと伝わる。1200名の軍勢が、中峠から韮尾根に下り、串川を渡り、山王の瀬あたりの窪地に隠れ、津久井城の北条方に備えた、と。戦略的立地からして、この「長竹」って、その長竹三差路のあたりでは、なかろうか。

串川橋
長竹三差路辺から右手が次第に開け、台地下を流れる串川が見えてくる。水路の規模と比して、発達した河成段丘がつくられている。道は緩やかに下り串川に架かる串川橋で串川右岸に移る。
このあたりは、三増合戦のとき、武田軍が津久井城の北條方への抑えとしていたところ。『八王子南郊 史話と伝説;小泉輝三郎(有峰書店新社)』によれば、その場所は、山王の瀬の下、と。確かに串川橋の南に山王社がある。 この串川橋には2度ほど訪れている。一度は三増合戦の跡を辿り、志田峠を越え、突如眼前に広がる、高原といった景観を呈する緩やかな傾斜の扇状地に下り、国道412号・韮尾橋を経て串川橋まで下った。2度目は上でメモしたように、津久井城山から串川の谷に下り、深く刻まれた谷筋が次第に発達した河成る段丘へと姿を変える景観を見やりながら上ってきた。 2度目の散歩が、串川をめぐる河川争奪を知るきっかけとはなったのだが、1回目の韮尾根の扇状地にも河川争奪の痕跡が残る、と言う。

 ■韮尾根の河川争奪と風隙 
現在、志田峠から南流する流れは山裾をぐるりと回り、国道412号の「真名沢」を経て半原の日向橋の少し下流中津川に注いでいる。往昔、志田峠からの流れは「韮尾根」の扇状地を下り串川に注いでいた、と言う。なんらかの理由により、串川に注いでいた流れは、中津川へと下る流れの浸食によりその流路を奪われてしまった。現在の韮尾根の谷は水のない風隙と呼ばれる地形となってしまった、とのことである。




根古谷中野バス停
御堂橋で串川を渡り直し、道脇にある春日神社にお参りし先に進むと三増峠へと続く県道65号が南に分かれる。バスの時間を気にしながら小走りで串川に架かる中野橋から渓谷の眺めをチェック。根小屋バス停で橋本駅行のバス乗り、深い串川の渓谷を眺め、相模川近くで圏央道の工事を見ながら、相模川に架かる小倉橋を渡り橋本駅に向かい、本日の散歩を終える。

後北条氏の防御ライン:鶴川の沢山城址から中山の榎下城址に

先日来、数回に渡って多摩丘陵の南端、というか東南端を歩いた。きっかけは川崎市麻生区にある新百合丘という小田急線の駅。なんとなく、この名前に惹かれ、「戯れに」はじめた多摩丘陵南部の散歩であった。が、これが思いのほか魅力的な散歩となった。丘陵や開析谷といった地形の面白さ、古墳から中世城址といった歴史的史跡、里山そして尾根道といった心地よい散歩道などにフックがかかり、結局、幾度か足を運ぶことになった。
この散歩でカバーしたところは、川崎市の宮前区・多摩区・中原区、そして横浜市の青葉区・都築区といった地域である。勢いに任せて多摩丘陵の南端を越え、下末吉台地・鶴見にまで足を運ぶことになった。で、気がつけば、あと「ひと山」、というか「ひと丘」を越えれば多摩丘陵の西端、である。ついでのこと、というわけでもないのだが、どうせのことなら、多摩丘陵の西部一帯を歩き、多摩丘陵を西に越えようと思う。丘の向こうは相模原台地。境川という、文字通り武蔵の国境を流れる川を越えれば相模の国、である。
多摩丘陵西部の地形図をつくりチェックする。奈良川とか恩田川によって開かれた谷地が見て取れる。そこには、かならずや美しい里山・谷戸が残っているのであろう。はてさて、どこからはじめるか。取り付く島として、『多摩丘陵の古城址;田中祥彦(有峰書店新社)』を眺める。と、小田急線・鶴川駅近くに沢山城跡がある。駅近くには鶴見川が流れる。南に下って、横浜線・中山駅近くに榎下城がある。その間は奈良川、そして恩田川で繋がる。更に恩田川下れば鶴見川に合流。少し下った新横浜駅近くには有名な小机城跡もある。いすれも小田原北条氏の出城である。ということでコース決定。鶴見川水系に並ぶ北条氏の城跡を訪ねることにした。


本日のルート;小田急線・鶴川駅>鶴見川交差>(岡上地区)>(三輪町)>高蔵寺>**古墳群>沢谷戸自然公園>熊野神社>沢山城址>三輪中央公園前交差点>鶴川緑山交差点>三輪さくら通り交差点>子どもの国西口交差点>(奈良町)>住吉神社前交差点>な奈良川交差>徳恩寺>子ノ辺神社>鍛冶谷公園(遊水地)>(あかね台)>東急車輛工場>恩田駅>中恩田橋交差点>田奈小交差点>恩田川・浅山橋交差点>(長津田2丁目)>長津田駅>国道246号線・下長津田交差点>いぶき野中央交差点>東名高速交差>環状4号・十日市場交差点>三保団地入口>榎下城址・奮城寺>JR横浜線交差>円光寺>恩田川>杉山神社>横浜商科大学キャンパス入口>東名高速交差>梅が丘交差点>藤が丘小下交差点>田園都市線・藤が丘駅

小田急線鶴川駅

鶴川駅で下車。駅前は予想に反して、のんびりとした雰囲気。とはいうものの、一日の乗降客は7万人程度いるようで、小田急線の駅の中でも、十位台。結構大きな駅である。で、いつものことながら、鶴川の由来が気になった。チェックする。明治の頃に付近の8つの村(大蔵、広袴、真光寺、能ケ谷、三輪、金井、野津田、小野路)が集まり旧鶴川村ができた、とある。が、もとの村には鶴川という村は、ない。はてさて、地図を見る。鶴川駅近くを鶴見川が流れている。ということで、鶴川は鶴見川の短縮形、とか。ちなみに
、鶴(つる)って、「水流(つる)」=水路、から。鶴見は、つる+み(廻)=水路のあるところ、ということ。ついでのことながら、鶴川駅のある町田市能ケ谷であるが、これは紀州の「尚ケ谷」から神蔵・夏目・鈴木・森氏がこの地に移りすんだ、から。「尚ケ谷」が、後に「直ケ谷」、そして「能ケ谷」となった、ということ、らしい。

鶴見川
駅の南口に出る。駅前は未だ再開発されておらず、素朴なる趣き。鶴川は鶴見川により開かれた谷地である。四方は丘陵によって囲まれている。駅を南に少し下ると鶴見川。町田市北部、多摩市に境を接する緑豊かな小山田地区に源をもち、真光寺川、麻生川、真福寺川、黒須田川、大場川、恩田川、鳥山川、早渕川、矢上川の水を集め、鶴見で東京湾に注ぐ。それぞれの川 については、じっくり歩いたり、ちょっとかすったりと、その濃淡はあれど、川沿いの風景が少々記憶に残る。水源の湧水の池もなかなかよかった。ともあれ、睦橋を渡り、南に進む。南前方に丘陵が見える。目指す沢山城跡は、その丘の上。

岡上神社
丘に上り、岡上地区に。地形通りの地名。岡の上を鶴川街道が走る。岡上駐在所前交差点を少し南に歩き、岡上神社に立ち寄る。剣神社、諏訪神社、日枝山王神社、宝殿稲荷社、開戸(開土)稲荷社の五社を集め、岡上神社とした。明治42年のことである。 まことに岡の上にある。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


 
高蔵寺
岡上駐在所前交差点に戻り 東に進む。沢山城跡、といっても地図に載っているわけでもない。目印は高蔵寺。鶴川街道より一筋東の台地に進む。わりと大きい道路道に出る。道が丘を下る手前あたりに高蔵寺があった。

三輪の里
沢山城跡を求め、お寺の脇を高みに向かって東に進む。案内もなにもない。沢山城は荻野さんという個人の所有物、という。個人の好意で保存して頂いているわけで、案内などないのは、当たり前といえば当たり前。道を進むと荻野さんの表札。道の南にみえ
る緑の高地が城跡なのだろう。ちなみに、このあたりの地名・三輪の由来であるが、元応年間(14世紀初頭)大和国城上郡三輪の里より、斎藤・矢部・荻野氏がこの地に移り住んだことによる。沢山城跡を護ってくれている荻野さんは、その子孫なのだろう。
白坂横穴古墳群
道を進む。が、北に入る道は見当たらない。成行きで進む。道は下りとなる。崖面 に古墳跡。多摩丘陵でよく見た横穴古墳。白坂横穴古墳群、と。案内;「この土地は、むかし沢山城(後北条時代における重要な出城の一つ)のあったところで、白坂は「城坂」の意であるともいわれます。この白坂には古くから横穴古墳が十基ちかく開口しており、未開口のものを含めると十数基になります。昭和三十四年にそのうちの二基を発掘しましたが、内部には五センチから十センチぐらいの川原石が敷きつめられており、数体の遺骨、須恵器などが発見され、これらの横穴は七世紀ごろにつくられたものと推定されました。この地域は多摩丘陵のなかでも横穴群の集中しているところですが、白坂横穴群は最も充実しているものの一つであると考えられます」、と。

沢谷戸自然公園

道を進む。どんどん下ってゆく。谷は深い。峠道を下る、といった趣き。とりあえず先に進む。どこが城跡への道筋がさっぱりわからない。結局谷地まで下りてしまった。谷地は「沢谷戸自然公園」として整備されている。昔は鶴見川河畔に繋がる谷戸ではあったのだろうが、現在は古の面影は何も無い。調整池として使われているような運動場、というか多目的広場が目に入る。小さい池にかかる木造の散策路を進む。北の台地上が城跡なのだろうが、上りの道はなし。西端まで進む。昔は谷戸の最奥部だったのだろう。現在では台地に上る階段が整備されている。とりあえず台地に上る。

沢山城址
台地上は結構大きな車道。先ほど歩いた高蔵寺前を通る道筋である。道を北に戻ると熊野神社。少し先に東に入る細路がある。とりあえず入って見る。先に進むと畑地に当たる。畦道といった風情の踏み分け道を進むと杉林の中に。更に進むと神社の祠
。七面社。このあたりが城跡、櫓があったところと言われる。『新編武蔵風土記稿』;三輪村、「七面堂」の項:「今その地を見るにそこばくの平地あり、東より南へ廻りては険阻にして、
西北の方は塀平地続きたり、そこには掘りあととおぼしき所見ゆ、且此辺城山などと云う名あれば、かたがた古塁のあとなるべし」、と。七面社のあたりをぶらぶら歩く。空堀に囲まれた郭っぽい雰囲気が残る。
この沢山城は戦国盛期(16世紀中頃)、後北条氏により築城ないしは改修されたもののようだが、詳しいことは分かっていない。北条氏照印判状には、「馬を悉く三輪城(沢山城)に集めて、筑前(大石筑前守)の部下の指示に従い、御城米を小田原古城に輸送するよう」とある。氏照は八王子城の城主なのだから、この城が八王子城の支配下にあり、小机城・榎下城などとフォーメーションを組んだ後北条氏の防御ラインであったのではあろう。実際、東南小机城からの道は沢山城北端の白坂(城坂)に続いていた、とのことである。
城跡への道筋がわからず、結局台地を一巡したわけだが、なるほど結構攻め難い立地のように思える。台地の北側下は鶴見川が西から東へと流れており、往古は低湿地であったの、だろう。鶴見川は外堀の役割を果たしていたものでもあろう。城の両側には細長い支谷が食い込んでいる。特に東側の谷は城の南、現在の沢谷戸自然公園のところまで入り込んでおり、台地上との比高差40mもある。台地全体が城域であったのだろう
し、要害の地にある、城であったのだろう。ちなみに城址への道は、道路側からのアプローチだけでなく、高蔵寺側の道からのものもあった。荻野さん宅の西側から進むが、案内はないので、見過ごした。

椙山神社
お を離れ台地東端に。鶴見川の低地を見ながら坂をくだる。途中に結構大きな社。椙山神社。神社のある山、というか岡が、奈良の三輪山に似ているため勧請された、との説もある。創建877年のことである。椙山神社って、19世紀のはじめ頃、武相に70余社ほどあった、とか。鶴見川、帷子川、大岡川水系で、多摩川の西の地域だけ、とはいうものの、現在の旭区にはなにもない、といった誠にローカルな神様。杉山神社が歴史に
登場するのは平安の頃、9世紀中頃。『続日本後記』に「武蔵国都筑郡の枌(杉)山神社が霊
験あるをもって官弊に預かった」、とか、「これまで位の無かった武蔵国の枌(杉)山名神が従五位下を授かった」とある。また10世紀の始めの『延喜式』に、都筑郡唯一の式内社とある、当時最も有力な神社であったのだろう。が、本社はどこ?御祭神は誰、といったことはなにもわかっていない。ちなみにほとんどが杉山で、椙山と表記するのはこの社、だけ。

西谷戸
椙山神社を離れ、台地下の低地を歩く。谷戸の風景が美しい。谷地を隔てて南に立つ丘陵地をまっすぐ進めば「寺家ふるさと村」に出る。のどかな里山の風情が思い出される。そのまま真っすぐ進みたい、といった気持ちを押さえ、鶴川街道方面に。途中に広慶寺。車道から続く参道の両側に羅漢さまが並ぶ。その先、台地に上る坂の手前に西谷戸横穴墓群。古墳時代後期の古墳。坂を上り切ると一転し、新興住宅街。瀟洒な住宅地が開発されている。

こどもの国

鶴見川グリーンセンターに沿って進むと、道は「こどもの国」の北端に当たる。突き当りを西に折れ、三輪さくら通り公園をぐるっと迂回し南に折れる。「こどもの国」の敷地に沿って進む。あまり人も通ることが少ないのか、少々ごみっぽい。「こどもの国」の外周道路としては、少々興ざめである。道を下ると鶴川街道・こどもの国西側交差点に合流する。
こどもの国、って昔は子供を連れて幾度か来た。少々懐かしい。東京都町田市と横浜市青葉区が境を接するこの丘陵地は戦前・戦中には弾薬庫があった。田奈弾薬庫。正式には「東京陸軍兵器補給廠田奈部隊」という。薬莢に火薬を装填した弾丸を製造・保管していた、と。散歩の都度、陸軍の施設跡に出会うことが多い。大体は公共機関・施設となっている。逆に言えば、病院・大学などが密集しているところは大体陸軍施設・ 
用地跡と考えてもいいかもしれない。典型的な場所は、世田谷の三軒茶屋の南一帯、北区の赤羽台、松戸の駅前台地上、といったところが思い浮かぶ。ともあれ、軍事施設が現在では公共施設・こどもの国となった、ということだ。

奈良町
鶴川街道を南に下る。このあたりの住所は横浜市青葉区奈良町。由来はよくわからないが、鶴川の三輪町が、大和の国・三輪の里から移り住んだ人たちが、この地の景観が三輪山に似ている、ということに由来する。とすれば、この奈良町も、大和の奈良に由来するのか。はたまたは、『吾妻鏡』にこのあたりの御家人として登場する奈良氏に由来するのか、はてさて、どちらでありましょう。道に沿って流れる川は奈良川。TBS緑山スタジオ裏手、玉川学園裏手あたりを源とする鶴見川の支流。水源のひとつでもある、本山池(奈良池)といった源流域には「土橋谷戸」「西谷戸」といった緑地が残る、という。いつだたか奈良川の源流域を歩いたことがある。それなりの風景ではありました。

住吉神社

道を進む。「こどもの国線・こどもの国駅」を越えると住吉神社前交差点。住吉神社は交差点東、多摩丘陵南端の上にある。標高はおよそ60m。豊かな緑に惹かれて台地をのぼる。神社は、徳川三代将軍家光の時代に、領主・石丸石見守が大阪の住吉神社から勧請したもの。石丸石見守は大阪の東町奉行を歴任。名奉行であった、げな。
住吉神社は全国に2000余りある、という。住吉三神は「底筒之男神、中筒之男神、上筒之男神。で、「筒」とは星のこと。航海の守り神。ちなみに、読みは、古くは「墨江・住吉」と書いて「すみのえ」と読んだ、と(『神社の由来がわかる小事典;三橋健(PHP新書)』)

中恩田橋交差点

交差点を越え南に進む。恩田地区に「子の辺神社」。名前に惹かれてちょっと寄ることに。奈良川を徳恩寺あたりで西に折れ、台地の際を少し進むと、台地の中ほどに小さい祠。由来などは書いていない。神社でUターン。台地南に鍛冶谷公園。調整池といった雰囲気。このあたりは昔、谷戸であったのだろう。東に進み、こどもの国線・恩田駅に。駅の南には東急の車両工場。付近に橋はない。もと来たところに戻り、奈良川を渡る。南に下ると成瀬街道・中恩田橋交差点。成瀬街道って町田市の本町田から川崎市川崎区南町まで走る県道・140号線。この地の西の台地が成瀬台。その地名に由来するのだろう。ちなみに、成瀬の名前は、町田あたりを治めた横山党の武将・鳴瀬某に由来するとか、恩田川の流れの音=鳴る瀬>成瀬となったとか、例によってあれこれ。

恩田川

この交差点で鶴川街道を離れ、奈良川に沿って南に下る。樋の口橋を過ぎ、日影橋のところで恩田川に合流する。恩田川の源流を地図でチェック。町田市本町田の今井谷戸交差点付近のようだ。いつだったか、鎌倉古道を辿り、町田の七国山とか薬師池公園などを歩いたとき、今井谷戸交差点付近に足を運んだことがある。そのときは東に進み、台地に上り、鶴川街道から玉川学園へと進んだわけだが、南に鎌倉街道を進むと恩田川の源流点あたりに出会えた、ということだろう。恩田とは日陰の田圃という意味であるようだ。

長津田駅
鶴見川と恩田川の合流点から南の台地に上る。恩田川段丘崖。どうも長津田駅って、台地上にあるようだ。長津田3丁目、4丁目と進み長津田駅に。田園都市線・JR横浜線、こどもの国線が集まる。昔より、矢倉沢往還=大山街道、と横浜道が交差する交通の要衝。大山街道の宿場町でもあり、道脇に大山街道の常夜灯が残る。長津田はまた、横浜開港後は、八王子で集められた上州・信州・甲州の絹を輸送する中継地として発展。JR横浜線も、もともとは生糸を横浜に運ぶため明治41年につくられた、とか。ちなみに、長津田の地名の由来は、長い谷津田が続く地形から来た、とされる。谷津田とは谷津にある田=湿原。長津田を通る大山街道に沿って延々と湿原=田が続いていたのであろう。


十日市場

長津田駅を北口から南口に抜ける。JR横浜線に沿って成行きで進む。下長津田交差点で国道246号線・厚木街道を渡る。横浜線に沿って大きな道ができている。いぶき野中央交差点を越え、東名高速下をくぐり、十日市場交差点で環状4号線と交差。十日市場って名前は古そうだが、道の周辺は宅地開発され、宝袋交差点あたりで、横浜線と最接近。台地下の眺めが美しい。恩田川が開いた谷と、そこにひろがる水田、そしてその向こうに見える台地の高まり。なかなかの眺めである。

榎下城跡

新治小入口交差点を越え、恩田川の支流を跨ぎ、三保団地入口交差点に。交差点を西に折れ、道の南にある台地に向かう。榎下城跡は、この台地の上・舊城寺の敷地内。田圃だったか、畑だったか、いづれにしても農地の中の道を進み台地を上ると境内に着く。山門のあたりが虎口。本堂裏手の少し小高くなっているあたりに主郭があった、とか。
この城は室町初期、上杉憲清によってつくられた。その子憲直は鎌倉公方・足利持氏に仕える。で、永享の乱の勃発。室町幕府と鎌倉公方の軋轢。鎌倉公方・持氏と管領・上杉憲実の対立、である。持氏敗れる。榎下城主・上杉憲直は持氏と運命を共にする。その後この城は山内上杉家の所領となった、とか。その後、廃城となるも、戦国時代となり、小田原北条氏が小机城、沢山城とともに江戸城の太田道潅への押さえとして修築。現在の遺
構はその当時のものである。城は、それほど高い台地でもない。南から北へとゆるやかに下る台地の端である。要害性には欠けるが、荏田城をへて府中に至る鎌倉道中の渡河地点を押える役割を果たしたのではないか、といわれている。

田園都市線・藤が丘駅
城跡を離れる。予定ではここから恩田川を5キロ弱下り、小机城へ、と考えていた。が、日が暮れてきた。小机城自体は一度歩いたこともある、ということで予定変更。最寄りの駅に戻ることに。恩田川の向こうに見える台地の上に田園都市線・藤が丘駅がある。先ほど眺めた美しい風景の方向である。即ルート決定。

台地を下り、鶴川街道・恩田川支流との交差点まで戻る。横浜線のガード下をくぐるとすぐに円光寺。畑の中の道を進む。恩田川に交差。橋を渡り、再び畑の中を進み台地下の車道に。道を北にとり極楽寺、杉山神社前を少し進むと横浜商大みどりキャンパスへの入口。台地の上り道を進み、大学脇の道を進むと東名高速にあたる。丁度港北パーキングエリアのところ。台地を一度下り、東名高速のガード下をくぐり、再び台地に向かって上る。梅ヶ丘交差点、藤が丘小交差点を越え、しばらく進むと田園都市線・藤が丘駅に到着。本日の予定はこれで終了。
散歩の後から気がついたのだが、今日歩いた道筋って、昔の鎌倉街道。鎌倉街道中ツ道と上ツ道をつなぐ。中ツ道の通る中山と上ツ道の道筋である鶴川方面を結んでいるわけだ。鶴川に城があった理由も、ちょっとわかった。「いざ鎌倉」の早馬がこの道筋を駆け巡ったのであろう。
笹子峠越え
1月の三連休の初日、思い立って笹子峠を越える事にした。折から北日本を中心に寒波襲来。雪が心配。誰に頼まれた訳でもないのだがら、酔狂に雪の中を歩くこともないのだが、何処と行って散歩するコースも思い浮かばなかったこともあり、家を出る。甲州道中の最大の難所という笹子峠、はたしていかなるものか。



本日のルート;JR笹子駅>追分>甲州道中への分岐>笹子峠自然遊歩道>矢立の杉>笹子隧道>笹子峠>甲州街道峠道分岐>清水橋>天狗橋>駒飼宿>中央高速と交差>JR甲斐大和駅

JR笹子駅
京王線で高尾駅。そこでJR中央線に乗り換えて笹子駅に。杉並の家を出てからおよそ2時間。家を出たのが午前10時過ぎであり、雪の残る駅舎を出たのは12時半前になっていた。本日のコースはほぼ15キロ強。標準時間は5時間半程度と言われる。日暮れが怖いので、ちょっと急がなければならない。
駅前 に甲州街道・国道20号線が走る。側道には雪が残り、滑ったり、足が埋まったり、と結構大変。道なりに進み、黒野田橋で笹子川を渡る。笹子川は笹子峠あたりに源流点をもち、大月あたりで桂川に合流する相模川水系の川。橋を渡ると普明禅院。門前に「黒野田の一里塚」の碑。塚はない。境内には芭蕉の句碑;「行くたびに いどころ変わる かたつむり」。

追分
道はゆるやかではあるが次第にコンスタントな上りとなる。再び笹子川を渡り、「笹子鉱泉」といった看板を眺めながら先に進むと追分の集落。昔はこの追分から小田原・沼津道に出る往還があった、とか。ウィキペディアによれば、追分のもともとの意味は、「牛を追い、分ける」から。そこから派生し街道の分岐点として使われるようになった、と。
道は次第次第に上りとなる。地形も山が両サイドから狭まり、谷戸の奥といった景観となってくる。笹子川の上流である黒野川の流れに導かれるその先が峠へのアプローチ地点となるにだろう。

甲州道中への分岐
狩屋野川が黒野川に合流するあたりで甲州街道は右に大きくカーブする。甲州道中はここで甲州街道・国道20号線と分かれ県道212号日影笹子線となる。ここまで笹子駅から2キロ強。時間は午後1時近くになっていた。
分岐点には「矢立の杉」の幟。ここから4キロ程度といった案内がある。笹子峠への案内もあるのだが、道がふた筋あり、ちょっとわかりにくい。後から分かったのだが、どちらで進んでも、少し上の新田集落で合流する。
車道をどんどん進む。道に雪が残り、スピードがあがらない。計画では標準コースの倍くらいのスピードで、2時間かかるコースを1時間で上る予定。今回は見逃したのだが、甲州道中は集落のあるあたりから分岐し進むようだ。

笹子峠自然遊歩道

新田沢を渡り、道は大きく曲がる。ほどなく笹子峠自然遊歩道の案内。甲州道中はここで車道から離れ、山道に入る。遊歩道には雪が積もっており、はてさて、どうしたものかと少々悩む。が、結局雪道を進むことに。思ったほどは積雪が増えない。一安心。足元
を気にしながら沢にかかる木の橋渡り、山道を進むと、 ちょっと開けた場所に出る。三軒茶屋跡。明治天皇が山梨行幸の折り、休憩をとったところでもある。明治13年のことである。

矢立の杉
雪の中を進む。道は勾配がつくにつれ、雪はそれほど気にならなくなる。しばし歩くと「矢立の杉」。結構大きい。樹高約28m、根回り14.8m、目通幹囲9m、とか。その昔、武田の武士がこの杉に矢を射立てて富士浅間神社を祀ったのが名前の由来。北斎や二代広重も描いているようで、街道で名高い杉であった、よう。
矢立の杉を離れ、道を上ると車道に合流。合流点あたりに、周囲の景観とそぐわない原色の派手な看板。俳優・杉良太郎プロデユースのお芝居の看板。「矢立の杉」という曲もつくっている、とか。街道の至る所に「矢立の杉」の幟がたっており、その趣旨がいまひとつ理解できなかったのだが、ひょっとすればその種明かしは杉良太郎さんにあるの、かも。

笹子隧道
車道を進むとほどなく前方にトンネルが見えてくる。古い趣のある構えである。このトンネルは笹子隧道。脇にあった案内をメモ:四方を山々に囲まれた山梨にとって昔から重要な交通ルートであった甲州街道。その甲州街道にあって一番の難所といわれたのが笹子峠。この難所に開削された笹子隧道は、昭和11年から工事をはじめ昭和13年3月に完成。抗門の左右にある洋風建築的な二本並びの柱形装飾が大変特徴的。昭和33年、新笹子トンネルが開通するまでこの隧道は、山梨から東京への幹線道路として甲州街道の交通を支えていた。南大菩薩嶺を越える大月市笹子町追分(旧笹子村)より大和村日影(旧日影村)までの笹子峠越えは、距離10数キロメートル、幅員が狭くつづら折りカーブも大変多い難所であった。この隧道は,平成11年、登録有形文化財に指定さた。

笹子峠

笹子峠はこの笹子隧道の上であろう。どうせのことなら、峠を越えようと上りの道を探す。隧道右脇に峠への案内。雪が積もっており少々不安。が、とりあえず進む。それほど深くはない。ジグザグの急な登りを数分歩くと峠に到着。時間は2時20分頃。甲州街道の分岐点からおよそ1時間ちょっとで上ってきた。標準時間の半分程度。日暮れは未だ遠い。ちょっと安心。
峠は両側が切り立ち、切通しのようになっている。標高1、096m。比高差600m弱を上ってきたようだ、峠は山梨県大月市と甲府市の境となっており、甲斐大和駅までは駅2時間30分、右へ上ると1時間10分で雁ヶ腹摺山。左へ上ると1時間30分でカヤノキビラノ頭に至る。
峠では猟銃をもった人に会う。この人は、峠道への車道を歩いていたとき、車で追い越して行った方。話をすると、車で追い越しながら、この時間から雁ヶ腹摺山へでも上るのかと心配してくれていた、そう。甲斐大和へ進むと話すと、安心してくれた。こんな雪の日に、山に上るでもなく、ひたすら峠道を歩くなど、いやはや物好きでありますなあ、といった風であった。




さてと峠を下ることに。少し急げば甲斐大和駅までは1時間程度で歩けそう。日暮れの心配もなく大いに安心。とはいうものの、甲斐大和側は雪が深い。道はまったくわからない。右手は崖になっており、滑り落ちないように慎重に下る。足元は雪に埋もれ、こわごわ下る。先に車道が見えるので、なんとなく当たりをつけて下ってゆく。大月側と比べて積雪が多いのは、こちら側が日陰なのか、風の通り道から外れてい るのか、はてさて。ほどなく車道に。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



甲州街道峠道分岐
甲斐大和駅に向けて道を下りはじめる。ほどなくガードレールの切れたところに、甲州街道峠道の案内。甲州道中はここで県道から離れる。どういった積雪状態か、ちょっと足を踏み入れる。とてものこと、進めそうにない。諦めて県道を進むことにして、元に戻る。後からチェックしたのだが、この峠道は途中で沢を渡ったりするようで、先に進まなかったのは賢明であった、かも。

清水橋

車道を進む。沢との距離がどんどん離れてくる。ガードレールから見る崖下は結構深い。曲がりくねった道を進む。しばらく下り案内板のあるところで先ほどの峠道が合流。この合流点は清水橋と呼ばれる。この合流点まで、相当距離があった。峠道を辿ったりしたら、果たしてどうなったものやら。。。
道脇にあった案内板をメモ;徳川幕府は慶長から元和年間にかけて甲州街道(江戸日本橋から信州諏訪まで約五十五里)を開通させる。笹子峠はほぼその中間で江戸から約27里(約百粁)の笹子宿と駒飼宿を結ぶ標高壱1、056米、上下三里の難所であった。峠には諏訪神社分社と天神社が祀られていて広場には常時、馬が二十頭程繋がれていた。峠を下ると清水橋までに馬頭観世音、甘酒茶屋、雑事場、自害沢、天明水等があった、と。

天狗橋
清水橋から国道まではまだ4キロほどもある。先を急ぐ。大きなカーブを二回曲がり、道の右側にある桃の木茶屋跡という標柱などを見やりながら道を進む。しばらく進み大持沢橋を渡った辺り、道の左に工場が現れる。
道の右側が大きく開けてくると、遠くに山稜が見えてくる。位置からいえば大菩薩からの峯筋でななかろう、か。山の麓には中央高速も現れる。山腹には「武田家最後の地 大和」といった看板も見える。手前には集落も。駒飼宿であろう。
大きなカーブを曲がり、坂をどんどん下ると集落の入口あたりに天狗橋。橋の手前に津島大明神の小さな祠。橋を渡ると右側から小径が合流するが、これが甲州道中。どうも桃の木茶屋のあたりから笹子沢川を渡り、その右岸を下ってくるようである。橋を渡ると駒飼宿となる。

駒飼宿
駒飼宿に入る。ここは、織田軍に敗れた武田勝頼が、韮崎の新府城を脱出し、助けを求めて岩殿山の小山田信茂を待ったところ。結局は信茂の裏切りにより、笹子峠を越えることなく、天目山に落ち延び、その地で自刃した。
ところで天目山って何処だ?どうも山ではないようだ。しいていえば峠の名前。甲州市大和町田野にある。場所はJR甲斐大和駅方面から甲州街道を東に進み、笹子峠を貫通する新笹子峠の手前を日川に沿って大菩薩方面へ北東に進んだところにある。もともとは木賊(とくさ)山と呼ばれていたが、峠近くにつくられた棲雲寺の山号が天目山と称されたので、峠も天目山と呼ばれるようになった、とか。
先ほど山腹の看板でみた、武田最後の地というのはこのことである。
駒飼宿入り口右側には、真新しく小さな芭蕉句碑;「秣負ふ 人を枝折の 夏野かな」。馬の秣(まぐさ)採りに山に入った人が、夏草で道に迷のを避けるため枝折(しおり)をつけている、といったこと。



中央高速と交差
集落を進むと脇本陣跡の標識や本陣跡、本陣跡の敷地内に明治天皇小休所などが現れる。道なりにどんどん下ってい
くと中央高速と交差。巨大な橋桁の下を進み笹子沢川に架かる橋を渡る。昔の甲州道中は集落の中にある養真寺あたりから県道と別れ、笹子沢川を越え、川の西を下り、この橋のところに下る。笹子沢川の川幅が大きくなる前に、上部で沢を渡るようにしていたのだろう。土木建築技術をもとに、自然をねじ伏せ、力任せに川を渡る現在の道筋とは違って、自然とうまくつきあった昔の道筋ではある。

JR甲斐大和駅


道を進み「大和橋西詰」で甲州街道に合流。西詰を東に折れる。ほどなく笹子沢川と日川の合流点。この川はやがて笛吹川に合流し、更に富士川となって駿河湾に注ぐ。甲州街道を東に戻り、甲斐大和駅に。駅の近くにある諏訪神社で電車の時間待ちなどをしながら本日の予定終了。午後4時過ぎとなっていた。
先回、大月の岩殿城跡散歩の折、猿橋から鳥沢まで旧甲州街道歩いた。その道筋は現在の国道20号線に沿ったもの。トラックの風圧に脅えながらの道行き。とてものこと、風情を楽しむ、といった趣はない。
国道から離れた旧街道の道筋でもあれば、相模から甲斐の国境をのんびり歩くのもいいか、とチェックする。裏高尾の小仏峠から相模湖に抜ける道、大月の先から笹子峠を越えて勝沼に抜ける道、そし上野原から鳥沢への道筋。このあたりが現在の国道から大きく離れ、山間を進む道筋となっている。であれば、この3箇所を歩こう、と。先回の散歩の続き、というわけでもないのだが、第一回は上野原から鳥沢に向かって歩くことにした。
現在の甲州街道・国道20号線は桂川(相模川)の川筋を進む。一方、旧甲州街道(甲州道中)は山間の道を進む。大雑把に言えば、中央高速に沿って山地を上り、談合坂サービスエリアの北を迂回した後、鳥沢に向かって一気に下っていくことになる。道路建設工事の技術が発達した現在では川筋に道が続くのは当たり前だが、昔はそうはいかない。雨がふれば土砂崩れなどで道がつぶれる。街道ともなれば、そんな不安定な川筋を通す訳にはいかない。ということで川筋を避け、山間を進む道となったのだろう、か。ともあれ、JR上野原に向かう。



本日のルート;JR上野原駅>上野原宿>鶴川橋>鶴川宿>中央高速・鳶ヶ崎橋>大椚一里塚>吾妻神社>長峰の史跡>野田尻宿>荻野一里塚>矢坪>座頭転がし>犬目宿>気味恋温泉>恋塚の一里塚>中野>下鳥沢

JR上野原駅
上野原一帯は桂川によって形づくられた河岸段丘がひろがる。河岸段丘って川に沿って広がる階段状の地形のこと。上野原の駅も河岸段丘の中段面にある。ホームを隔て南口は一段下。北口は一段上といった案配。駅前もわずかなバス停のスペースだけを残し、崖に面している。街中は段丘面の上。石段を上り進むことになる。上野原の由来は段丘上の原っぱにあったから、って説も大いに納得。
それにしてもこの桂川、というか相模川水系の発達した河岸段丘には散歩の道々で驚かされる。先日、津久井湖のあたりを歩いたときも、一帯の段丘の広がりに感激した。城山を隔てて津久井湖の南に流れる串川一帯の発達した河岸段丘にも魅せられた。
河岸段丘の形成は、川が流れる平地(川原)が土地の隆起などにより浸食作用が活発になり、川筋が低くなる。で、低地に新たに川原ができ、以前の川原は階段状の平地として残る事に成る、ということ。このあたり富士山による造山活動が活発で、土地の隆起も激しく、いまに残る見事な河岸段丘が形成されたのであろう、か。

上野原宿
駅から上野原の街中に進む。階段を上り、道なりに北に。途中、中央高速を跨ぐ陸橋をわたり国道20号線・甲州街道に。上野原の駅は標高200m弱。国道20号線は標高250m強といったところ。
旧甲州街道(甲州道中)は鶴川への合流点の手前までは国道20号線とほぼ同じ。国道に沿って、雰囲気のある民家もちらほら。上野原宿跡であろう。三井屋などといった、いかにも歴史を感じるような看板も目につく。上野原宿は相模から甲斐にはいった最初の宿。絹の市でにぎわった、と。東京から74キロのところである。

鶴川橋
国道を西に進む。棡原(ゆずりはら)を経て小菅や檜原に向かう県道33号線を越えるあたりから国道は鶴川の川筋に向かって下ってゆく。坂の途中、国道20号線が南に大きくカーブするあたりに鶴川歩道橋。旧甲州街道はこの歩道橋で国道と分かれ、北に進むことになる。
国道から離れるとすぐに旧甲州街道の案内図。大ざっぱな道筋を頭に入れ、先に進む。道は鶴川に向かって下る。眼下の鶴川、南に続く中央高速など、誠に美しい眺めである。大きく湾曲する車道の途中からショートカットの歩道を下り鶴川橋に。四方八方、どちらを眺めても、誠にのどかな景色の中、鶴川が流れる。
鶴川は奥多摩の小菅村あたりに源を発し、上野原市の山間を下り、桂川(相模川)に合流する。鶴川橋の少し北で仲間川が、少し南で仲山川が鶴川に合流する。地図を見ると、旧甲州街道はこの二つの川の間の尾根道を野田尻まで進んでいる。甲州街道ができるまでは、上野原から大月方面・鳥沢に抜ける道は、仲間川と仲山川(八ツ沢)の沢道、そして桂川に沿った道といった三つのルートがあった、と言う。上にもメモしたが、川沿いの道は崖崩れなどといった不安定要素も多く、また、そもそもが峻険の崖道でもあったであろうから、公道には比較的安定した尾根筋を選んだのではなかろうか。我流の解釈。真偽のほど定かならず。 ちなみに、桂川の南側に慶長古道が残る、という。慶長古道、って幕府によって整備された五街道の影に埋もれてしまったそれ以前の道筋、である。

鶴川宿

橋を渡ると鶴川宿の案内。甲州街道唯一の徒歩渡しがあった、とか。とはいうものの、冬には板橋が架けられた、という。尾根に向かって台地に上る。街並は落ち着いた雰囲気。町中に鶴川神社。長い石段を上り、牛頭天王にお参り。天王さま、ということで信仰されていたのだろうが、明治期に天王=天皇、それって畏れ多し、ということで、鶴川神社といった名前に改名したのだろう、か。これまた我流解釈。真偽のほど定かならず。
先に進むと三叉路。「鶴川野田尻線」という案内に従い左に折れ、上り坂を進む。台地の北には仲間川の低地。尾根道を歩いている事を実感する。四方の眺め、よし。本当にいい景色である。この数年いろんなところを歩いたが、大勢の仲間とハイキングするにはベストなコースのひとつ。広がり感が如何にも、いい。

中央高速・鳶ヶ崎橋
しばらく進むと中央高速に架かる鳶ヶ崎橋に。旧甲州街道はここから当分中央高速に沿って進む。というか、中央高速が旧甲州街道の道筋に沿ってつくられた、というべきだろう。道を通すにはいい条件の地形であった、ということ、か。

大椚(おおくぬぎ)一里塚
中央高速を越えちょっとした坂道を台地上に。広々とした台地上に大椚一里塚。塚はなく、江戸から19番目という案内板が残る、のみ。先に進むと大椚の集落。 歩きながら、南の地形が気になる。少し窪んだあたりが仲山川筋だろう、か。その向こうの高まりは御前山であろう、か。御前山の向こうには桂川がながれているはず、などと、あれこれ見えぬ地形を想像する。如何にも楽しい。 

吾妻神社 
ゆったりした集落を歩いてゆくと吾妻神社。境内脇に大椚観音堂がある。神も仏も皆同じ、神は仏の仮の姿、といった神仏習合の名残をとどめているのだろう。境内には大杉が屹立する。吾妻は「あずまはや(我が妻よ、もはやいないのか)」、から。日本武尊(やまとたける)が妻の弟橘姫を想い嘆いた言葉。先日足柄峠を歩いたときも日本武尊のあれこれが残されていた。足柄峠を越えて東国を平定に来た、ということらしい。

長峰の史跡

吾妻神社を越えると道は北に曲がり、中央高速に接する。しばらく中央高速に沿って進むと長峰の史跡。戦国時、このあたりに砦があった、よう。周囲を見渡せる尾根道。狼煙台としてはいいポジションである。道脇にあった説明文の概要をメモする;
長峰の史跡;長峰とは、もともとは鳶ケ崎(鶴川部落の上)から矢坪(談合坂上り線SA)に至る峰のことであった、が、戦国時代、上野原の加藤丹後守が出城といった砦をこの地に築いたため、いつしか、このあたりを長峰と呼ぶようになった。丹後守は武田信玄の家臣。甲斐の国の東口で北条に備えた。
当時、この地は交通の要衝。要害の地。また、水にも恵まれる。砦の北側は仲間川に面した崖である。南面には木の柵を立て守りを固めていた。柵の東側に「濁り池」。その西北部に「殿の井」と呼ばれる泉があった。濁り池は、100平方メートルの小池。いつも濁っていたのが名前の由来。殿の井は、枯れることのない湧水。殿が喉を潤したので、この名がついたのだろう、と。現在この史跡の真ん中を中央高速が走っている。

長峰砦の案内もあった。概要をメモ;長峰砦;やや小規模な中世の山城。この付近は戦国時代、甲斐と武蔵・相模が国境を接するところ。この砦は、当時、こういった国境地帯によく見られる「国境の城」と呼ばれるもの。周辺の城と連携をとり、国境警護の役割を担っていた。砦は、何時頃、誰によって築かれたか、といったことは不明。が、中央高速の拡張工事に際し調査した結果、郭、尾根を切断した堀切、斜面を横に走る横堀跡などが見つかった。
また、長峰と呼ばれていた尾根状地形のやや下がったあたりに、尾根筋を縫うように幅1m余りの道路の跡が断続敵に確認された。これは江戸期の「甲州街道(甲州道中)」に相当するものと見られる。
長峰砦跡は、歴史的全体像を把握するにはすでに多くの手がかりが失われている。が、この地には縄文時代以来の活動の跡も断片的ではあるが確認できる。ここが 古くからの交通の要衝であったということである。当然戦国時代にはこの周辺で甲斐の勢力と関東の諸将たちとの勢力争いが行われうことになる。ために、交通を掌握し戦略の拠点の一つとするための山城、すなわち長峰砦が築かれた、と。その後、江戸時代になると、砦の跡の傍らを通る山道が五街道の一つの甲州道中として整備された、と。

長峰砦もそうだが、このあたりには南北に砦や狼煙台が連なる。北から、大倉砦、長峰砦、四方津御前山の狼煙台、牧野砦、鶴島御前山砦、栃穴御前山砦である。大倉砦は鶴川、仲間川筋からの敵に備える。この長峰砦は尾根道筋に備え、四方津御前山の狼煙台と牧野砦は仲山川(八ツ沢)筋の敵に備え、桂川南岸の島御前山砦、栃穴御前山砦は桂川筋に備える。そしてこれら砦・狼煙台群の前面にあって上野原城が北条に備えていた、と言うことだろう。丁度遠藤周作さんの『日本紀行;「埋もれた古城」(光文社)』を読んでいたのだが、そこに群馬の箕輪城の記事があった。この城も支城群があるそうな。主城だけでなく、支城・砦・狼煙台といった防御ネットワークを頭に入れた城巡りも面白そう。

野田尻宿

中央高速脇の側道を進み、高速に架かる新栗原橋を渡り、高速の北側を少し下り加減に進む。ほどなく野田尻の集落となる。江戸から20番目の宿場。ゆったりとした、いい雰囲気の街並である。本陣跡には明治天皇御小休所址が。明治13年の山梨巡行の折のこと。それに備えて街道の拡張・整備が行われた、ってどこかで読んだことがある。
町中に大嶋神社。由来などよくわからないが、大嶋神社って、宗像三女神の次女でる湍津姫神が鎮座する宗像の大嶋からきているのだろうか。奥津島神社って書かれる神社も多い。集落の北には仲間川、南は中央高速が迫る。

荻野一里塚

集落のはずれに西光寺。9世紀はじめに開かれた歴史のあるお寺さま。あれこれとメッセージの書かれたボードが、あちこちに掛かっている。お寺の手前に「お玉ヶ井」の石碑。旅籠で働く美しい娘が恋の成就のお礼に野田尻の一角に湧水をプレゼント。この娘、実は長峰の池の竜神であった、とか。
西光寺の手前に南に進む道。すぐ先に高速の橋桁が見える。旧甲州街道はこの道ではなく、西光寺の北の三叉路から南に廻りこむように進む。直進すれば仲間川筋に出て、源流への道筋が続いているようだ。
西光寺の裏の坂道をのぼってゆく。中央高速を越えると杉林の道。これはいいや、とは思うまもなく舗装道路に。ゆるやかな上り。しばし進むと道の擁壁の上に荻野一里塚の説明。案内だけで一里塚は残っていない。

矢坪
中央道の遮音壁に沿って進み、矢坪橋で再び中央道を越えて北側に。中央高速はこのあたりで南西に大きく曲がる。直進すれば山塊に当たるわけで、山裾を縫うように下ってゆく。一方旧甲州街道は山へと直進する。なぜだろうと地形図をチェック。山の裾には多くの沢が見える。沢越えを避けるため、沢筋の影響のない山の道を進むのではなかろうか。
矢坪橋を渡るとすぐに右に上る小道が分かれる。この道は戦国期の古道とか。旧甲州街道は県道の道筋のようだが、どうせのことなら舗装道路より山辺の小道がよかろうと右に折れる。入り口に旧古戦場の案内;「長峰の古道を西に進み大目地区矢坪に出て、さらに坂を上ると新田に出る。この矢坪と新田の間の坂を矢坪坂と言い、昔古戦場となったところ。享禄3年(1530)、北条氏縄(綱の間違い、かなあ?)の軍勢が矢坪坂に進軍、待ちかまえるは坂の上の小山田越中守軍。激しい戦いが行われたが多勢に無勢、小山田軍は敗退して富士吉田方面に逃げた」という。武田と北条のせめぎ合いが、こんなところまでに及んでいたか、と感慨新た。

座頭転がし
急な小道を上る。武甕槌(たけみかづち)神社入口の案内。少々石段が長そうなのでお参りはパス。なにせ家をでたのが少々遅く、日暮れが心配。先を急ぐと民家が。まことに大きな白犬に吠えられる。恐る恐る民家の庭先といった道を抜け、森を進む。ほどなく道が開ける。下に県道が見える。20mほどもありそう。柵があるからいいものの、なければ高所恐怖症のわが身には少々怖い、ほと。
柵が切れてフェンスになったところに「座頭転がし」。県道の工事で山肌を削りもとの地形より険しくはなっているのだろうが、それでも座頭が転んでもおかしくは、ない。先に進むとほどなく県道に合流。安達野のバス停。新田の集落に出る。



犬目宿

県道をどんどん進むと犬目宿。落ち着いたいい雰囲気の町並み。標高は510m強。桂川筋が標高280m程度であるので、330mほども高い位置。安定した街道を通すには、険峻な谷筋、入り組んだ沢筋を避け、ここまで上らなければならなかったのであろう。
義民「犬目の兵助」の生家の案内。概要をメモ;天保四年(1833)の飢饉に引き続き、天保七年(1836)にも大飢饉。餓死者続出の悲惨な状況。代官所救済を願い出ても門前払い。万策窮し、犬目村の兵助などを頭取とした一団が、米穀商へ打ち壊し。世に言う、『甲州一揆』。
このとき兵助は四十歳。家族に類が及ぶのを防ぐための『書き置きの事』や、妻への『離縁状』などが、この生家である『水田屋』に残されている。一揆後、兵助は逃亡の旅に出る。秩父に向かい、巡礼姿になって 長野を経由して、新潟から日本海側を西に向かい、瀬戸内に出て、広島から山口県の岩国までも足を伸ばし、四国に渡り、更に伊勢へと一年余りの逃避行。晩年は、こっそり犬目村に帰り、役人の目を逃れて隠れ住み、慶応三年に七十一歳で没した、と。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)  

君恋温泉

集落の外れは枡形の道。城下町などに敵の侵入を防ぐ鍵形の道がここで必要なのかどかわからないが、ともあれ、道脇の寶勝寺、白馬不動尊などを見やりながら先 
に進む。道は心もち上りとなっている。いくつかのカーブを曲がり歩を進めると君恋温泉。いい名前。名前の由来は「君越(きみごう)」から。日本武尊(やまとたける)が妃の弟橘姫(おとたちばなひめ)を想いつつ、この地を進んだ、とか。日本武尊が「君越(きみごう)」から振り仰いだ山が裏にそびえる扇山(仰ぎ山)、ということだ。とはいうものの、仰ぎ見たと伝えられるところはあちこちにある。日本武尊、大人気である。このあたりが今回の標高最高点550m強あるようだ。近くには恋塚って地名もある。その恋塚に進む。


恋塚の一里塚

君恋温泉からはやっと下りとなる。少し進むと道脇にこんもりとした塚。恋塚の一里塚。日本橋から21里。一里塚って箱根八里越えのとき、はじめて見たのだが、道の両側に土を盛った塚をつくる。わかりやすいとは思うのだが、大きさ9m、高さ3mほどの塚。そこまでする必要があるのだろうか、少々疑問。とはいうものの、遠くから距離の目安がわかるのは有難い、か。

中野
道をどんどん下る。途中、馬宿地区には40mほどではあるが、石畳の道が残っていたそうだが、分岐の細路を見逃した。馬宿から山谷へと進むと開けたところから富士山が見えてくる。美しい。山谷の集落の大月CCへの入口を見やり、どんどん下る。日暮れとの勝負といった按配。10分強歩くと中野の集落。ここまで来れば一安心。

ゆったりとした風景の中をさらに下ると中央高速の巨大な橋桁。深い沢を一跨ぎ。こんな芸当のできない旧甲州街道は、自然の地形に抗うことなく、沢を避け尾根を登り、再び沢を避け尾根を下っている。今と昔の道の違いがちょっとだけ実感できた。

下鳥沢

中央高速の橋桁をくぐり、先に進むとほどなく現在の甲州街道・国道20号線に合流。久しぶりに車の騒音を聞きながら鳥沢駅に進み、本日の予定終了。上野原から17キロ程度の散歩。時間がなかったので3時間強で歩き終えた。
箱根の外輪山を穿ち、芦ノ湖の水を裾野市、昔の駿河国駿東郡深良村へと流す用水がある。という。箱根用水がそれ。地名故に深良用水とも称される。江戸の昔、乏水台地である富士の裾野の地を潤すために造られた。芦ノ湖を囲む外輪山を1キロ以上に渡って、トンネルを堀り抜き、芦ノ湖の豊かな水を通すという、希有壮大な事業である。
工期4年、80万人もの人が携わったと言われるこの稀代の事業、その割には工事に関わる資料がほとんど残っていない。深良村の名主である大庭源之丞と江戸の商人・友野輿(与)衛門が中心となって工事を推進した、と伝わるが、その友野輿衛門などにしても、工事終了後の消息は不明である。たまたま古本屋で見つけた『箱根用水;タカクラテル』によればゆえ無き罪により獄死したと言うし、人によっては横領故に罪に問われた、とも言う。
そう言えばこの箱根用水に限らず、箱根湯本から荻窪川に早川の水を通す荻窪用水についても詳しい資料が残っていない。工事の主導者が町人(町人請負)であり、その実績・成果はお武家さまとっては心穏やかならず、ということで、稀代の事跡を故意に記録に残さなかったのだろう、か。
幕閣、小田原藩、天領沼津の代官などの民業に対する思惑はさておき、箱根周辺の用水を辿ることにする。最初は箱根用水・深良用水。その後、機会をみつけて、箱根湯本の用水、その後は足柄地方・山北の用水を歩こうと思う。



本日のコース;桃源台>湖尻水門>芦ノ湖西岸>深良水門>湖尻峠>県道337号線>箱根用水・深良口>東京発電・深良川第一発電所>東京発電・深良川第三発電所>御殿場線・岩波駅

桃源台
箱根湯本から桃源台行きバスで45分、桃源台バス停に着く。大涌谷へと上るロープウェイ乗り場を離れ成り行きで進む。ほどなく芦ノ湖キャンプ村。コテージなどを見やりながら木立の中を進み芦ノ湖畔に。芦ノ湖は太古の昔、富士山をも凌駕する巨大な火山が爆発し、その火砕流により山が崩壊・堰止められて造られたカルデラ湖。いくつかの沢からの水が湖に流れ込むとはいうものの、水源の大部分は湖底からの湧水とされる。

湖尻水門
芦ノ湖を水源とする早川の流れがはじまるところに湖尻水門。芦ノ湖の水は水門で遮られ緊急時以外には、早川へ流れ込むことはほとんどない。これは大いに水利権と関係がある、と言う。現在芦ノ湖の水利権は静岡県にある。その昔、芦ノ湖を所有していた箱根権現を巻き込み、多年の年月と労力をかけてつくった箱根用水・深良用水の「実績」故のことだろう。箱根用水が流れるのは静岡側であり、箱根用水ができた時、この早川口には甲羅伏せといった土嚢の積み上げで堰を造り、早川側・神奈川側に水が流れないようにしていた、と言う。こういった歴史の重みが静岡県への水利権となっているのだろう、か。
水利権は静岡県にある、とはいうものの、この水利権を巡る問題は一筋縄ではいかないようだ。当然のことながら、「必要な水は使えない,(洪水時などの)不要な水は入ってくる」といった神奈川県に不満が大きかった、よう。
明治の頃、神奈川の住民が湖尻水門(逆川水門)の甲羅伏せを破壊する、といった事件も起きている。「逆川事件」と呼ばれるこの事件の裁判で、逆に「水利権は静岡にあり」と定まってしまった、とも。江戸の頃は、箱根も静岡の深良も共に小田原藩の領地であったわけで、こんな問題が起きるなどと、誰も想像しなかったのではなかろうか。ちなみに、早川はこの水門から仙石原あたりまでは逆川と呼ばれていた。仙石原でほとんど「逆さ」方向へと流路を変えることが、その名の由来と言われる。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

芦ノ湖西岸
湖尻水門を渡ると広場がある。芦ノ湖が一望のもと。ゆったりと景色を楽しむ。開けた道を進むとほどなく木々に覆われた道となる。所々に切り出した木材が置かれていたので、木材搬出用の林道だろう。『箱根用水;タカクラテル』によれば、箱根用水・深良用水をつくるとき、工事用に道を開いたと、あった。
ハコネダケなどの茂る道を進む。竹の回廊が終わり、国有林の看板があるあたりを過ぎると道は湖水に近づく。対岸は観光開発で道も整備されているが、芦ノ湖の西岸は自然が残されている。雑木林が途切れるところからの湖水を眺めながら、のんびりゆったり先に進むと湖尻峠や三国山への分岐点。後ほどここから湖尻峠へと上ることにはなるが、とりあえず先に進み、ほどなく林道を離れ深良水門に。湖尻水門から1.3キロ、20分程度で着いた。

深良水門
フェンスに沿って水門へ進む。フェンスの向こうには水門から勢いよく流れる水路がトンネルへと続く。残念ながらトンネル入り口はよく見えなかった。水門には石造りの水門跡も残されている。本来は木造であったのだろうが、明治43年、石造り鉄扉としたものだ。
水門脇に石碑があり箱根用水の概略が案内されていた。概要をメモする;「徳川四代将軍家綱の時代,小田原藩深良村(現在の静岡県裾野市深良)の名主大庭源之丞は,芦ノ湖の水を引き旱害に苦しむ村民を救いたいと、土木事業に実績のある江戸浅草の商人友野与右衛門に工事を懇願。与右衛門は源之丞のふるさとを思う心に感動し、工事の元締めを引き受けた。計画は湖尻峠にトンネルを掘り抜き、深良村以南の30ヶ村に湖水を引く、というもの。箱根権現の絶大な支援と庇護に支えられつつ,苦労を重ね寛文6年(1666)、ようやく幕府の許可を得,その年8月トンネル工事に着手した。この難工事は驚くべき正確さで成し遂げられ、寛文10年春,3年半の歳月と7300余両の費用をかけ、当時としては未曾有の長さ1280メートル余りのトンネルが貫通した。爾来300有余年灌漑,飲水,防火用水に,また明治末期からは発電にも使用されるなどその恩恵は知れず,深良用水は地域一帯の発展の基となった。」、と。
補足;芦ノ湖の所有権は当時、箱根権現にあったため、与衛門は箱根権現別当の快長に「二百石之所」(伊豆国沢地村=年貢米90石)を永代寄進することを約束。社殿改修の資金と衆生済度を計る快長の協力を得た、ようだ。その所有権は明治20年、箱根権現から宮内省(御料局)に移った。そして所有権をもつ御料局は、その水利権を巡る静岡県と神奈川県の争いの真っただ中に立たされることになる。上に静岡有利の根拠として深良用水の「歴史の重み」とメモしたが、それにしても、国は圧倒的に静岡贔屓、となっている。これって、深良水門の水が発電に使用されたことと大いに関係があるのではなかろう、か。明治になり、深良用水の水を使い日本で初めての水利発電所がつくられている。富国強兵の基盤としての源力資源の確保が、国家としての重要施策であるとすれば、この我が「妄想」も結構いい線をいっているか、とも。
この辺りの地名は「四つ留」と呼ばれた、と。先日石見銀山をあるいたのだが、その間歩(坑道)の入口にある丸太の四本柱は四つ留」と呼ばれていた。この地の「四つ留」も深良用水の工事の時につくられた構造物故の地名だろう、か。工事といえば、この難工事に参加した人数は延べ83万人にも及んだと上でメモしたが、その根拠は工事費用を日当で割ったものである。

湖尻(うみじり)峠
水門脇でしばし休息の後、湖尻峠へと向かう。少し林道を引き返し、湖尻峠への分岐から山道へと入る。所々に石畳が敷いてある。理由がよくわからない。山道を20分ほど歩き湖尻峠に。
湖尻峠はその昔、駿河への峠道であり、駿河津峠と呼ばれた。旅人の通行は禁止されていたようだ。現在は箱根スカイライン・芦ノ湖スカイラインがクロスする。箱根スカイラインは長尾峠を経て乙女峠へと北に向かう。芦ノ湖スカイラインは湖尻・桃源台から湖尻峠をへて三国山、山伏峠、そして箱根峠へと南に下る。

県道337号線
峠から深良隧道の出口へと下る県道337号線を探す。箱根・芦ノ湖スカイラインが合流するあたりから西へと下る道がある。それが県道337号線。入り口付近に幅員制限2mの標識、そして少し先に急勾配12%の標識がある。道は急勾配、急カーブが続く。高度があるため見晴らしはいいのだが、道は広くなったり狭くなったり、そして急カーブが続く。
左から道が合流するあたり、ヘアピンカーブを越えると沢を渡るように大きく曲がる。細いカーブが続く中、左手が開けるところに石碑がある。深良の石碑である。隧道の出口に到着。

箱根用水隧道・深良口
道脇に川筋がある。箱根の外輪山を穿った深良用水の隧道は深良川の沢筋に落としたと言う。水門からの水は隧道から発電所への送水路に送られており、深良川にはあまり流れておらず、川筋へ下りていける。川筋と言っても水門付近はコンクリートの堰のようになっており、足元はしっかりしている。川におり、水門の堰を上る。斜面になった堰に上ると満々と水をたたえた水路が足元に。少々怖い。隧道の出口を見やり、元に戻る。
隧道の開削は箱根側、深良川の両方から掘り進んだようだ。堅い岩盤を除けながらの開削であり、隧道は直線ではなく蛇行しているところもある、とか。双方から掘り進んだ合流点は1mほどの段差になっている、と。どのようにルートを確認したのか知るよしもないが、すごいものだ。

東京発電・深良川第一発電所
隧道出口を離れ、後は一路岩波駅へと進む。進むにつれ、ところどころにセンターラインなども現れる。道幅も広がるか、とも思ったのだが、急な坂とヘアピンカーブが続き、道幅も相変わらず広くなったり狭くなったり。山側に針葉樹が並び、土の法面(のりめん;切土や盛土によってつくられる人工斜面)の前に鉄棚の続く道を進むと15%の勾配の標識も現れる。まだまだ山の中。信号のない十字路を過ぎ深良川を渡ると見通しがよい2車線の道路になる。コンクリートブロックの法面を進むと遙か彼方に裾野の町が見えてくる。しばらく歩くと道の右手に発電所の建屋。東京発電(株)深良川第一発電所。先ほどの隧道
出口で取水された芦ノ湖の水が水圧鉄管によって山腹に上げられ、ふたたび深良川に向かって落とされ、その落差で発電する。
先に進み道の左岸の深良川第二発電所を見やりながら歩き、深良川を渡り直すと左手に研究所が見える。キャノン富士裾野リサーチパーク。少し進むと宮沢賢治の「雨にも負けず」の碑がある総在寺。ご住職が賢治の研究家である、とか。

東京発電・深良川第三発電所
総在寺から道を隔てた蘆之湖水神社方面などを眺めながら先

に進み、深良川右岸に渡り直した辺りに東京発電(株)深良川第三発電所。東京電力グループの水力発電の専門会社である東京発電の発電所は深良川に沿って3箇所あるが、どれも水は深良用水から導水されている。第三発電所の取水堰は第二発電所の近くにあり、深良川の水を取水もするが、水量が乏しく、結局は第二発電所で放水された深良用水の水を使うことになる。取水された水は取水堰の下を潜り、緩い勾配の水圧鉄管によって第三発電所に導かれる。第三発電所の近くから水は深良川に放水され、灌漑用に用いられることになる。

御殿場線・岩波駅
水田に分流される灌漑用水路などを眺めながら深良川に沿った道を進む。遊歩道のような雰囲気の道になっている。振り返ると箱根の外輪山が堂々と聳える。川の脇に建つ「箱根用水の碑」を眺めたり、川を少し離れて駒形八幡にお参りしたりしながら、川に沿って先に進む。御殿場線を越え、県道394号線を渡ると深良川は黄瀬川に合流。合流点に段差があるのがなんとなく面白い。合流点から富士の裾野の遠景を楽しみながら、御殿場線の岩波に向かい、本日の散歩を終える。


芦ノ湖のスタート地点;標高720m_11時17分>深良水門_標高;738m12時(桃源台から2.3キロ)>湖尻峠;標高850m_12時18分(桃源台から3キロ)>深良隧道出口;718m_12時45分(桃源台から4.2キロ)>第一発電所;標高448m_13時49分(桃源台から7キロ)>第二発電所;標高344m_14時5分(桃源台から8キロ)>第三発電所;標高251m_14時25分(桃源台から9.3キロ)>合流点;標高234m_14時55分(桃源台から10.6キロ)>岩波駅;標高;244m_15時11分(桃源台から11キロ)
全行程;11キロ


小机城から篠原城に
前回の散歩では鶴川からはじめ、中山にある榎下城跡まで下った。今回は、中山からスタートし、恩田川・鶴見川筋を下り小机城を経て、新横浜駅近くにある篠原城へと進む。おおよそ8キロ程度の散歩である。縄文海進期の地形をで言えば、多摩丘陵が海と接する海岸線を小机まで進み、そこからは「海・小机湾」の中にある新横浜へ「泳いでいく」、といったもの。戦国期に想いをはせると、中山の東に広がる恩田川・鶴見川流域は一面の低湿地帯。中山の榎下城も、小机の小机城も低湿地に突き出した舌状台地の先端に位置する。小田原北条の前線基地として、東からの敵に備えていたのではあろう。さてと、往古の地形を思い浮かべながら散歩に出かける。



本日のルート:横浜線・中山駅>大蔵寺・長泉寺>落合川・鶴見川合流点>鴨居>小机城>多目的遊水池>亀甲橋>新横浜駅>篠原城跡

横浜線・中山駅
渋谷から田園都市線で長津田。そこで横浜線に乗り換え中山駅に。先日の散歩で、この中山にある榎下城を訪ねた。この城は、鶴川の沢山城、小机の小机城とともに小田原北条の前線基地。東の地、江戸城から攻め寄せる太田道灌に備えた。とはいうものの、中山はどうみたところで、それほどの要害の地といった風情は、ない。なにゆえ中山の地、かと少々気になりチェックした。で、結論としては、この地が交通の要衝であった、ということ。

鎌倉街道中ノ道。鎌倉街道上ノ道、山ノ道などとともに「いざ鎌倉」への道。鎌倉から二子玉川、板橋、川口、栗橋、古河、小山を経て宇都宮から白河の関へと進むのが「中ノ道」。この中ノ道が中山を通る。北鎌倉の勢揃橋(水堰橋)を出た道筋は、柏尾川と並走し、東戸塚を越え相鉄線・鶴ケ峯駅あたりで二俣川を渡り、この中山に。中山からは恩田川を渡り川和、江田、宮前平、溝口をへて二子玉川を渡り、板橋へと上っていく。鎌倉武士の鏡・畠山重忠が討ち死にしたのは中山から鎌倉街道中ツ道を4キロ弱南に下った二俣川。源頼朝の奥州征伐の道筋も、この中山を通り川和、江田を経て二子ノ渡しに進んだとされる。幾多の武将がこの中山の地を駆け抜けたことであろう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


」)


大蔵寺・長泉寺
中山駅の近くには由緒ある寺も点在する。駅を挟んで東には大蔵寺。鎌倉武士・相原一族の菩提寺。頼朝の菩提をとむらう。相模原には「相原」の地名が残る。西には長泉寺。木食僧・観正が開く。木食僧とは米穀を断って木の実を食べて修業する僧のこと。江戸期の文化・文政のころ流行した。観正の他、木食僧としては徳本などのが知られる。ちなみに、木喰像で知られる木喰五行上人とは別人。
長泉寺の隣、というか同じ敷地には杉山神社。神仏習合の名残であろう。それにしても、この近辺には杉山神社が多い。杉山神社もそうだが、散歩をしていると「地域限定」の神様に時に出合う。元荒川流域の久伊豆神社、古利根川流域の鷲宮神社など。もう少し広い地域でみると、荒川の西を祭祀圏とする氷川神社、東の香取神社なども、ある。
杉山神社は武蔵国総社に勧請された六所宮のひとつ。社格の高い神社ではあったのだろうが、実態はよくわかっていない。本社の場所も特定されていない。ともあれ、7、8世紀の頃、この神様を「氏神」とする集団が鶴見川などを伝ってこの地域に進出。しかし、なんらかの理由でその先に進む歩みを止め、この地域にとどまった、ということではあろう。ちなみに、このあたり、少し小高い丘となっているのだが、そのことが地名「中山」の由来、とか。

落合川・鶴見川合流点

長泉寺を離れ、中原街道・宮の下交差点を北に折れる。横浜線を越えると鶴見川にかかる落合橋に。橋の少し上流が恩田川と鶴見川の「落ち合う」ところ。鶴見川は多摩丘陵、小山田の里の湧水を水源とし、鶴見で東京湾に注ぐ43キロ弱の川。恩田川は町田市本町田の今井谷戸の北あたりを水源とする13キロ程度の川、である。
いつだったか、それぞれの水源を訪ねたことがある。鶴見川の水源は小田急線・唐木田駅の南、尾根道幹線の通る尾根道を南に下った美しい里山の中。豊かな湧水池があった。一方恩田川の水源である今井谷戸は、なるほど「谷戸」といった地形の名残は留めるものの、交通量の多い交差点となっていた。特段の水源は見あたらなかった。
『都市と水;高橋裕(岩波書店)』によれば、落合川を含めた鶴見川水系って、戦後の宅地化が最も激しかったところ、と言う。実際、麻生川にそった新百合ケ丘あたりを歩いたとき、その宅地開発の激しさには少々驚いた。耕して天に至る、ではないけれど、全山すべて住宅といった有様。事情は恩田川上流域もまったく同じであった。鶴見川全流域では55年までに流域の10%しか宅地化していなかったが、75年には60%、85年には75%が市街地化された、と(『都市と水;高橋裕(岩波書店)』より)。
鶴見川って言えば、一昔前まで、「洪水氾濫」の代名詞と行った印象がある。鶴見川は昔は海であった沖積低地を蛇行して流れているわけで、ただでさえ洪水に見舞われやすい。そのうえ、上流の激しい宅地開発。本来ならば土地に吸い込まれていた水が、舗装され、行き場をなくし、すべて川に合わされ下流に流れ込む。で、自然環境、社会環境が相まって、鶴見川は治水の難しい川の一つになっていた、と(『都市と水;高橋裕(岩波書店)』より)。鶴見川は、75年から実施された全国14河川の総合治水対策の先駆的役割を果たしたとのことである。下流に進むにつれ、治水事業の有様など散見できるであろう。

鴨居
落合橋より、鶴見川に沿って堤を歩く。川の東側には近代的な工場群が続く。横浜線が川筋に近づく。2キロ強進むと鴨居駅。この駅の鶴見川東岸も近代的工場群が見える。鴨居の地名の由来は、カムイ=神が居る、とか、文字通り近くに鴨場があった、とか例によって諸説あり。そういえば、障子などの上部の横木を「鴨居」と言う。対する物として、足下の横木を「敷居」と言う。「鳥居」などの表現もある。鴨居も敷居も、鳥居の横木からのアナロジー、とも言われる。で、鳥が居たので「鳥居」、ということで、鴨がいたので鴨居、鴫(シギ)がいたのでシギイ>敷居、ということにした、との説も。
新川向橋手前で、JR横浜線が川筋に急接近する。台地の崖と川の間を走り抜ける。このあたりは洪水で水位が警戒水位に達するたびに、運転見合わせとなっていた、とか。新横浜近くにある日産スタジアム周辺での多目的遊水が整備される、状況は大幅に改善された。
小机城
川 向橋より先は川沿いの道が切れる。前方に第三京浜の高架。その道筋により南北に分断された山が小机城の城山。川沿いの道を離れ、高架下を進み小机の町に。東にはUFOっぽい形をしたサッカー競技場・日産スタジアムが聳える。台地の緑を眺めながら山裾を道なりに歩く。なかなか城山への上り道が見つからない。局台地をぐるっと廻り、台地の南側、JR横浜線が城山トンネルから出てくる辺りまで歩く。民家の脇に「市民の森」への案内。民家の間の細路を上ると、城 山への入口。
竹林の道を上る。ほどなく本丸広場。野球場となっている。深さ10mほどの空堀が本丸の廻りに残る。二の丸曲輪に進む。井楼櫓には土塁が残る。有名な城の割には、それほど大きくない。第三京浜によって分断されてしまったためだろう、か。つい最近旧東海道を歩き箱根越えをしたとき、箱根峠から三島に下る途中の山中に山中城を訪ねた。その規模の壮大さを思うにつけ、小机は少々つつましい。
この城、有名な城ではあるが、はじまりはよくわかっていない。15世紀中頃の永享の乱の頃、関東管領上杉氏によって造られた、ともされる。永享の乱って、鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉家が相争った戦乱のことである。小机城が歴史に登場してくるのは15世紀も後半の頃。関東管領山内上杉氏の家宰職の相続を巡り、長尾景春が寄居・鉢形城で挙兵。武蔵五十子城の上杉の居城を攻める。関東を戦乱・混乱の巷に陥れた長尾景春の乱のはじまりだ。石神井城主・豊島泰経が長尾景春に呼応。扇谷上杉氏の家宰・太田道灌と江古田・沼袋で戦う。道灌の勝利。豊島泰経は武蔵平塚城(JR山手線上中里近く)を経て、小机城に敗走。道灌追撃。で、この地で豊島一族を助ける小机弾正、矢野兵庫らとともに、2ヶ月におよぶ合戦。道灌の勝利。その後、小田原北条氏の城となる。猛将で有名な北条氏綱の重臣である笠原信為などの城として、秀吉の小田原征伐による北条氏の滅亡まで続く。江戸期は廃城。

多目的遊水池

小机城を離れ、鶴見川へと向かう。横浜線の小机駅の南にはお寺が点在。雲松寺は俳優内野聖陽さんの実家、とか。今回はパス。畑越しに小机の城山をみやりながら交通量の多い車道へと。新矢之根の交差点あたりで鶴見川の傍に。川幅が異様に広く、川床には野球場や運動広場が見える。いかにも遊水池、といった雰囲気。鶴見川に面した堤防の一部が低いのは越流堤。洪水時にここから鶴見川の水を遊水池に流入させる。で、洪水がされば排水門から鶴見川に水を戻す。実際2004年の台風22号のとききは、この湧水池が一面の湖となった、とか。
多目的遊水池は鶴見川方面だけではない。車道の南に広がる新横浜公園、日産スタジアム、病院などの敷地全体が遊水池。洪水時のため、スタジアムや病院の床は高床式となっており、また、平時には駐車場となっている1階も、増水時には遊水池に変身す
る、という。

亀甲橋

道を進み、新横浜公園交差点に。鶴見川にかかる橋は亀ノ甲橋。橋の向こうに
見える小高い山、というか台地が亀ノ甲山であろう。亀ノ甲山は豊島泰経を追撃し、この地に攻め寄せた太田道灌が陣を張ったところ、という。道灌が部下を勇気づけるために詠った「小机はまづ手習ひのはじめにて いろはにほへと ちりぢりになる」は有名。小さな机で習字をはじめるこどもは、いろはにほへと、あたりまではちゃんと書けるが、その後はむちゃくちゃになる。子供相手の戦くらい簡単に勝てる、といった意味、か。

新横浜駅
少し道を進み、労災病院交差点に。ここで道を南に折れ新横浜駅方面に向かう。すぐ鳥山大橋。鳥山川にかかる。地図で源流を辿ると保土ヶ谷の横浜国立大学、羽沢農地あたりまで続いている。橋を道に沿って真っすぐ進めば新横浜駅につく。いまでこそビルが建ち並ぶ一帯となっているが、縄文時代まで遡れば、このあたりは海の中。もう少し上流にある川和町あたりが鶴見川の河口とする入り江。先ほど歩いた小机や新横浜駅の南の篠原地区の台地がかろうじて陸地。入り江を挟んで北の日吉、東の末吉が小高い台地として存在していた、とか。
時代が下って、江戸の頃でも、湿地と田畑が点在する一帯。勾配の緩やかな低地であるため、川の流れが蛇行し頻繁に流路を帰る。洪水時の水はけが悪い。そのうえ、満潮時には新羽橋あたりまで潮が上ってきた、言う。この状況が改善されたのはそれほど昔のことではないようだ。昭和の頃も一面の田畑。その地を買い占めたのが西武グループの堤次郎。で、新幹線の路線地として国鉄に転売し巨大な利益を得る。ちなみに、新大阪駅前一帯も西武グループが買い占めていた、と。やれやれ、といったことを想いながらビル街を抜け、駅をと降り抜け次の目的地・篠原城跡に進む。山道といった風情の坂道を台地上に。

篠原城跡
新横浜駅の南に出る。駅のすぐ近くまで台地が迫る。それにしても、北側の再開発と比較して、民家が軒を連ねる南側のコントラストは激しい。道路も狭く、対向できないところも見受けられた。いかなる事情によるものなのだろう。チェックすると、市と住民や地権者との対立があるようだ。とはいものの、北の再開発にまつわる、土地買収の歴史などを思うと、事情はわからないが、対立があったとしても、それほど違和感は感じない。


篠原城跡を探す。正覚院の裏山あたり。寺の南側の坂を上る。台地上まで進も、裏山には辿り着けない。
元の道に坂を下り、今度は寺の北にある細路を台地に上る。城跡への入口を探しながら台地上の道を進む。民家が軒を連ねる。案内も何もないのだが、なんとなく台地最上部の緑に向かう細路に折れる。民家の間の細路を上る。民家と畑の間に上部に進む道が続く。民家の敷地のような雰囲気で、なんとなく気後れするのだが、ともあれ先に。右手のブッシュは市有地の案内があり、フェンスで囲われている。空堀跡っぽい気がする。先に進む。最上部で行き止まり。城跡といえば城跡なのだろうが、素人には郭がどれかなどわかるはずも、ない。
篠原城。別名、金子城。小机城の支城としてつくられた、とか。戦国期は小田原北条氏の家臣である金子出雲守の居城。金子氏って、武蔵七党・村山党の流れ。埼玉の入間に本拠地があった。金子十郎の旧跡を訪ねて金子丘陵を歩いた事が思い出される。北条滅亡後、金子一族は菊名一帯に土着した、とか。
鶴川からはじめた鶴見川水系・小田原北条の出城巡りもこれにておしまい。新横浜から一路家路に。

座間の湧水を巡る

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座間の湧水を巡る

座間といえば、米軍基地であり、戦前は帝国陸軍士官学校など軍都、といった印象でしかない。また、ニッサンの座間工場などといった工場の街といったイメージが強い。そんな座間には湧水点が多い。市内を南北に座間丘陵が走る。

その西には中津原段丘面、そしてその下に田名原段丘面、更にその西には相模川のつくる沖積低地が広がる。湧水というのは、通常、崖下タイプか谷頭(こくとう)タイプに大別される。座間の湧水も中津原段丘崖線下より湧き出るもの、台地面の谷奥=谷頭より湧き出るもの、に大別される。市内に点在する湧水を、地形を実感しながら辿ることにする。








本日のルート:

小田急線・座間駅 > 谷戸山公園の湧水 > 入の谷戸上湧水 > 星谷寺 > 心岩寺湧水 > 龍源院湧水 > 鈴鹿明神社 > 鈴鹿の泉湧水 > 番神水湧水 > 座架依橋 > 相模川湧水 > 神井戸湧水 > 国道246号線 > いっぺい窪湧水 > 目久尻川 > 第三水源脇の湧水 > 第三水源湧水 > 小田急線・相武台駅 小田急線・座間駅

座間。往古この地は街道の宿場町。古の古東海道、また、平塚から八王子へと通じる八王子街道の宿場町であった、とか。地名の由来も、古代この地にあった街道の駅名から、との説もある。「伊参(いさま)駅」が伊佐間となり、ついで「座間」となった、ということだ。また、高座郡にある間(小平地)であるので、座間といった説もあり、例によって、あれこれ。 


谷戸山公園内の湧水
湧水散歩スタート。第一の目標は、「谷戸山公園内の湧水」。県立座間谷戸山公園内にある。東口に下り、南東へと上る台地へと進む。台地の上に進み、道が再び下る手前で北に折れ、座間谷戸山公園に向かう。公園南口から園内に。シラカシ観察林の中をゆっくり歩く。ここは雑木林を手を入れないで自然のまま推移させる極相林。そしてシラカシの林になった、とか。道を下ると里山体験館。いかにも昔の農家といった建物が再現されている。体験館の前は水田。確かに里山の景観ではある。
田圃の脇を進み、湿生生態園を越えると水鳥の池。湧水池。夏には1日1600トン、冬でも100トン、という。結構なボリュームである。湧水点を求めて奥に進む。いかにもそれらしき、「わき水の谷」に。案内によれは公園内には9か所の湧水があり、そのうちふたつがこの谷にある、と。湧水点っぽい雰囲気の場所はあるのだが、いかにも人工的。自然の湧水点ではあるのだろうが、周囲を整地しているようだ。石の井戸といった構えの中から水が湧き出ている。座間市内の湧水についての案内があった。座間の湧水状況がよくわかる。メモする;「本公園は、座間丘陵のほぼ中央部に位置しており、本公園を含む座間市内には多くの湧水地が分布している。それらは座間基地西端から小田急線座間駅西方に続く相模野台地西縁の崖下と、栗原方面の相模野台地を刻む目久尻川とその支流芹沢川の谷とに分布している。これらは共に相模の台地の下に広がっている砂礫層の中より湧き出ている」、と。 


入の谷戸上湧水

わき水の谷」を後に、「入(いり)の谷戸上(やとうえ)湧水に。目印は公園・東口近くの「ひまわり公園テニスコート」。湧水点はテニスコート脇にある、という。木の階段を上り台地上に進む。雑木林の中を進むとテニスコート脇に。湧水点のありそうなところを求めてあちこち、ぶらぶら。テニスコート脇を下り、公園の手前にごく僅かな「水気」を見つける。湧水というには、あまりに「僅か」。昔は、ここから小さい谷筋が通り、目久尻川に向かって湧水が流れていた、という。その谷筋は現在の市役所の東の道筋である、とか。「入の谷戸上湧水」は、付近の住民の生活用水ともなっていた、とのことであるので、ある程度の水量もあったのだろう。が、現在は見る影もない。それでも、夏は6トン(日)、冬は0.9トン(日)あるらしい。 


星谷寺

坂東観音霊場のひとつ。真言宗大覚寺派の古刹。建立は奈良時代、とか。坂東8番札所。縁起によれは行基菩薩がこの地を訪れ、だれも足をふみいれたことのない「見不知森(見知らず)」に入る。法華経が聞こえ、星が降り注ぐ。そして、古木の下から観音像が。これが現在に残る聖観音、と。もっとも、聖観音は行基菩薩が彫ったという言い伝えもある。

また、星谷の由来も『風土記稿』によれば、「其地は山叡幽邃にして清泉せん湲たり、星影水中に映じ、暗夜も白昼の如なれば土人星谷と呼べり」とある。観音霊場といえば定番の花山上皇が訪れた、という縁起もあるが、花山上皇が武蔵に下向した事実はない、ということは秩父でメモしたとおり。縁起は縁起として受け入れる、べし、ということだろう。とはいうものの、名刹であることに変わりはなく鎌倉以降も、頼朝、家康などの武将の庇護を受けている。梵鐘は国の重要文化財。源氏の武将・佐々木信綱の寄進とされる。


心岩寺湧水
星谷寺を離れ、次の目的地・心岩寺湧水に向かう。入谷地区。深い谷があった地形に由来。崖線が楽しみ。西に進み、相武台入谷バイパス・星の谷観音坂下に。交差点を少し南に下り、道路を離れ心岩寺(しんがんじ)に。座間丘陵の段丘下にある。

本堂はコンクリートつくり。境内に入ると池。崖下から水が湧き出ている。湧水を見るだけで、これほどに心躍る、ってどういうことであろう、か。夏には日量437トン、冬には14トンほど湧き出している、と。この心岩寺からは境内から土器が見つかったり、台地上には縄文期の遺跡が見つかったりしている。湧水脇に人々が集まって生活していたのであろう。 


鈴鹿明神社
心岩寺湧水の次は龍源院湧水。心岩寺のすぐ北にある。龍源院の手前に鈴鹿神社。伝説によれば伊勢の鈴鹿神社の神輿が海に流され、この地にたどりつく。里人は一社を創建しこの座間一帯の鎮守とした、とか。欽明天皇の御代というから、5世紀中ごろのことである。伝説とは別に、正倉院文書には天平の御代、この地は鈴鹿王の領地であったわけで、由来としては、こちらのほうが納得感がある、ような。鈴鹿王(すずかのおおきみ)、って父は天武天皇の子である高市皇子。兄は長屋王。ちなみに、「明神社」って、「明らかに神になりすませた仏」、のこと。権現=神という仮の姿で現れた仏、と同じく神仏習合と称される仏教普及の手法でもある。 


龍源院湧水
龍源院は鈴鹿神社の東側の段丘下にある。本堂裏手から湧き出す湧水は、夏には942トン(日)、冬には225トン(日)、と。近くの鈴鹿神社から縄文後期の遺跡が発掘されているので、この湧水は縄文人の生活に欠かせないものであったのだろう。境内には「ほたるの公園」といった湧水池もあった。清流故のほたる、であろう。 





鈴鹿の泉湧水
龍源院の北側の段丘下から湧き出す湧水。お寺の隣にありそう、ということで境内をぶらぶら歩いていると、北の隅にみつけることができた。水量は豊富。夏には622トン(日)、冬には32トン(冬)ほど湧き出ている、と。途中柵があり、湧水点までは入れない。しかし、清冽な流れはいかにも心地よい。 





番神水湧水
鈴鹿の泉湧水を離れ、北に進む。道に沿って清流が流れる。美しい。これって今から訪れる番神水湧水からの流であろう、か。しばらく歩き、円教寺の東側の段丘下にある祠(ほこら)「番神堂」の裏手から湧き出る湧水。湧水点は柵があり中には入れない。なんとなく崖下から湧き出る雰囲気は感じられる。夏には659トン(日)、冬には27トン(日)の湧水がある、と。日蓮上人が地を杖で突いたところ、清水が湧き出したとの言い伝え、あり。湧水は昭和初期、座間台地上に陸軍士官学校が移ってきたころから、半減した、と。水源が切られた、ということであろう。 


座架依橋
座間丘陵西端を一度離れ、相模川に向かう。川床から水が湧き出ている、と。場所は相模川の座架依(ざかえ)橋の下にある水辺広場の南側の護岸付近。台地下から2キロ弱といったところ。ひたすら西に向かって歩く。西に広がる山地は丹沢山系だろう。また、最高峰の峯は、大山ではなかろうか、と思う。なかなか見事な眺めである。相模川左岸用水や鳩川の水路、相模線の鉄路を越え、30分ほど歩いただろう、か。座架依橋に到着。厚木と座間を結ぶ。この橋ができたのは平成4年、とそれほど昔のことではない。それ以前は木造の橋であった、よう。また、木造の橋ができたのも昭和34年。それまでは渡し船があった、とのことである。座架依の由来は、座間と川向うの依知の間に架けられた橋、ということから。ありがたそうな名前であり、なんらかの由来ありや、とも思ったのだが、拍子ぬけ。 


相模川湧水
湧水点を探す。なにか案内があるか、とも思ったのだが、なにもなし。あてどもなく、勘だけを頼りに歩く。取りつく島もなし。橋の南の川床に水の溜まり。本流からちょっと分かれたものか、湧水なのか定かならず。とりあえず進む。本流につながっているような、いないような。進につれて護岸下あたりに生える芦原あたりにも水がたまっている。家族づれが釣りをしているそばを進み、溜まりの「はじまり」部分を探す。うろうろしていると、川床の、ほんとうになんでもないところから、水が浸み出ていた。そこが湧水点なのだろう。ここの湧水は、上流域などで浸透した雨水が、古の相模川の砂利層を下り、ここから湧き出している、と。ちなみに相模川って、源流は山中湖。富士吉田、都留、大月をへて相模湖・津久井湖に来たり、その先厚木・平塚・茅ヶ崎の境近くで相模湾にそそぐ。全長100キロ強の一級河川。 


神井戸湧水

座間高校の北東側あたりにある。相模川から再び台地に向かうことになる。2キロ強、といったところ。道脇に湧水があった。腰を下し一休み。現在はちょっとした井戸、程度の大きさの湧水地、ではあるが、昔はこの10倍くらいあった、とか。湧水は豊富。現在でも夏には632トン(日)、冬には102トン(日)ほどの水量がある、と。泉の名称については、神様からの賜り物、ってことだろう。湧水マップにはこの神井戸湧水の南150mほとのところに根下南(ねしたみなみ)湧水がある、ということだが、見つけることができなかった。


目久尻川

座間丘陵台地西縁崖下の湧水散歩、相模川湧水の後は、栗原方面に移り、相模野台地を刻む目久尻川に沿って点在する湧水を巡ることに。台地に上り、北に緑地を見ながら中原小学校脇を進むと国道246号線にあたる。少々味気ない国道に沿って栗原地区を北東に進み、西原交差点に。交差点を南東に折れ、先に進むと「栗原巡礼大橋」に。

目久尻川によって開析された深い谷を跨ぐ大橋である。目久尻川に。相模原市にある小田急線・相武台駅近を水源とし寒川町で相模川に注ぐ。昔、栗原村にあった小池から流れ出ていたので、「小池川」とも、また、湧水からの冷たい=寒い水が流れるため寒川とも呼ばれていた。目久尻川と呼ばれたのは、相模一之宮・寒川神社の領地・御厨から流れているためその下流で「みくりや尻川」と呼ばれていたのが、いつしか「めくじり川」となった、とか。また、この川に棲む河童のいたずらを懲らしめるため、目をえぐり取った=目穿(くじる)から、とか、例によってあれこれ。


いっぺい窪湧水
「いっぺい窪湧水」は目久尻川脇。橋の手前を川に向かって下りる。目久尻川を少し南にくだる。目印は巡礼橋。坂東観音霊場を巡る巡礼者がこのあたりを通った、と。橋の脇から台地に上る坂道を巡礼坂、という。橋を南に下る。遊歩道脇に「いっぺい窪湧水」。民家の敷地内、ということで、柵があり、水源点のチェックはできない。「わさび」を栽培しているように思う。水量はいかにも豊か。夏には1,300トン(日)、冬には800トン(日)になる、と。いっぺい窪の名前の由来は、例によって諸説あり、定かではない。が、巡礼者がこの湧水の「一杯」の水で、乾きを癒したことであろう。この湧水から南にすこし下ったところに「大下(おおしも)湧水」があるとのこと。近くには縄文時代の遺跡もある、という。今回はパス。 


第三水源湧水
座間の上水は現在でも豊富な地下水を活用しているようで、水道水の85%は湧水である、という。「いっぺい窪」より第三水源に向かって目久尻川を北に進む。栗原巡礼大橋下をくぐり、座間南中のある台地下に沿って進む。しばらく進むと芹沢川が合流。第一・第二水源のある芹沢公園の湧水から流れ出る川、であろう。ちなみに、芹沢公園の近くに、第一、第二水源がある。
国道246号線を越え、蛇行する川筋に沿って歩く。246号線から1キロ強、といったところにいかにも水源といった場所。ここが市営水道・第三水源であろう。衛門沢湧水、とも呼ばれていた、と。湧水点はわからない。水源地から滾々と湧き出ているのであろう。水道用として一日、3,500トンほど汲み上げる、とか。また、水源とは別に現在も夏季には日量3,700トン(日)、冬には2,800トン(日)ほど湧き出ている、ということである。湧水点というより水源地、といった規模の湧水である。


第三水源脇の湧水
第三水源近くのスポーツ広場にも湧水がある、という。グランド土手の斜面から僅かに湧き出る、ということだ。水源の東と北にグランド。どちらにあるのか、少々迷う。東のグランドにはそれらしき水路は見当たらない。北のグランドに進む。地形としては、台地に近いこちらのほうが本命ではあろう。土手の斜面に目をこらす。あった。とはいうものの、まことにささやかなもの。ちょっとしたお湿り程度、といったものであった。湧水点はこの少し北、下小池橋のあたりの護岸にもあるようだ。そこが、目久尻川の湧水点では最上部、と言われる。昔は相武台東小学校の北にも豊富な湧水があったようだが、現在では埋め立てられ児童公園となっている

小田急線・相模台前駅
駅名はもとは「座間駅」。陸軍士官学校本科が当時の座間村に移ったのを契機に、「士官学校前」に。後に「相武台」、と。相武台とは士官学校の別名。朝霞の陸軍予科士官学校は「振武台」、豊岡(現入間市)の陸軍航空士官学校は修武台。市谷から淺川(八王子)に移った陸軍幼年学校は建武台とよばれたよう。ちなみに、命名は昭和天皇による、と。陸軍士官学校跡地は現在在日米軍キャンプ座間となっている。ついでのことながら、相武って、相武国造(さがむの くにのみやつこ)から、だろうか。相模国のもとの名前であろう、か。

座間の湧水を巡った。湧水というのは、通常、崖下タイプか谷頭(こくとう)タイプに大別されると上にメモした。座間の湧水も中津原段丘崖線下より湧き出る入谷地区の湧水群、後者は台地面の谷奥=谷頭より湧き出る栗原地区の「いっぺい窪」とか「第三水源湧水」といった湧水群ではあろう。座間市のホームページの資料によれば、市内の湧水は次のようにカテゴライズされていた。
1.座間丘陵西側の段丘崖の湧水群・・・・・番神水、鈴鹿の泉、龍源院、心岩寺、神井戸、根下南
2.座間丘陵の谷底低地・・・・・・・・・・・・・・谷戸山公園、入りの谷戸上
3.目久尻川沿いの谷底低地・・・・・・・・・・大下、いっぺい窪、芹沢川護岸、第三水源、第三水源脇、目久尻川護岸
4.その他の湧水・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・相模川に湧き出す湧水

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