西東京・東久留米・清瀬の最近のブログ記事

先日、清瀬を歩いたとき志木街道脇、清戸の長命寺に誠に立派な石灯籠があった。芝増上寺にあった徳川将軍家ゆかりのもの、と言う。その経緯を調べるに、芝増上寺が東京大空襲で灰燼に帰し、跡地を西武が買収。その地にホテルを建てるに際し、散在していた石灯籠や宝塔の一部を狭山湖畔・狭山不動尊に集めるも大半は空き地に野ざらし。その空き地も西武球場と化するに及び、希望者に分けた、という。長命寺の石灯籠も、かくのごとき経緯を経て境内に並んでいたのだろう。
興味深い清瀬の歴史と同じく、その地形も印象に残った。柳瀬川の発達した河岸段丘が、それ。その柳瀬川の源頭部は狭山湖の西部、金沢堀にあるも、狭山湖建設に際し、途中が断ち切られ、現在は狭山湖の堰堤が源頭部となっている。
狭山湖近辺は数回に渡り歩いている。が、狭山不動尊は見落としていた。また、狭山散歩の折々、柳瀬川をかすってはいるのだが、狭山湖堰堤部の柳瀬川源頭部を意識して眺めたこともない。ということで、今回の散歩のコースは、最初に狭山湖畔の狭山不動尊を訪ね、徳川将軍家ゆかりの石灯籠や宝塔を見る、次いで柳瀬川の堰堤・源頭部を確認し、そこからは柳瀬川を清瀬まで下ろう、と。清瀬あたりの発達した河岸段丘とは異なり、上流部の狭山丘陵を切り開いた景観がどういったものか、左右を見渡しながら川筋を下ろう、と思う。



本日のルート;西武山口線・西武球場前>狭山不動尊>勝楽寺>狭山湖堰堤>柳瀬川源頭部>中氷川神社>山口城址>下山口駅入口交差点>関地蔵尊>永源寺>じゅうにん坂>長久寺>勢揃橋>二瀬橋>梅岩寺>JR武蔵野線・秋津駅

西武山口線・西武球場前
西武線を乗り継ぎ東村山駅から西武園線で西武園に。そこから歩いて多摩湖線の西武遊園地駅に向かう。はじめから多摩湖線に乗ればよかったのだが、行き当たりばったり故の、後の祭りではある。ともあれ、西武遊園地から山口線に乗り換え西武球場前に。

狭山不動尊
目的の狭山不動尊は駅の通りを隔てた向こう側。エントランスには勅額門。芝増上寺にあった台徳院こと、二代将軍秀忠の霊廟にあった門である。東京大空襲で残った数少ない徳川家ゆかりの建物のひとつ。勅額門とは天皇直筆の将軍諡号(法名)の額を掲げた門のことである。門の脇には御神木。この銀杏の大木は太田道灌が築いた江戸城址にあったもの、と言う。 石段を上ると御成門が迎える。これも台徳院霊廟にあったもの。飛天の彫刻があることから飛天門とも呼ばれる。都営三田線御成門駅の駅名の由来にもなっている門である。勅額門も御成門も共に重要文化財に指定されている。
参道を上ると総門。長州藩主毛利家の江戸屋敷にあったものを移した。この門は華美でなく、素朴でしかも力強い。いかにも武家屋敷といった、印象に残る門である。誠に、誠に、いい。この門に限らず、この不動院には徳川将軍家ゆかりの遺稿だけでなく、全国各地の由緒ある建物も文化財保存の目的でこの寺に移されている。

参道を進み本堂に。もとは東本願寺から移築した堂宇があったとのことであるが、不審火にて焼け落ち、現在は鉄筋の建物となっている。その本堂を取り囲むように幾多の石灯籠が並ぶ。銘を見るに、増上寺とある。全国の諸侯より徳川将軍家、そしてその正室や側室に献上され、霊廟や参道に立ち並んだものである。
本堂右脇をすすむと第一多宝塔。大阪府高槻市畠山神社から移築したもの。その脇には桂昌院を供養する銅製の宝塔。桂昌院とは七代将軍家継の生母である。 本堂の裏手にも無造作に石灯籠や常滑焼甕棺が並ぶ。将軍の正室や側室のもと、と言う。また、本堂裏の低地には丁子門。二代将軍秀忠の正室崇源院お江与の方の霊牌所にあったもの。本堂左手脇には滋賀県彦根市の清涼寺より移した弁天堂がある。
本堂脇、左手の参道を上ると第二多宝塔。兵庫県東條町天神の椅鹿寺から移築。室町時代中期建立のものである。その右手には大黒堂。柿本人麿呂のゆかりの地、奈良県極楽寺に建立された人麿呂の歌塚堂を移築したもの。
その裏手の囲いの中にはおびただしい数の青銅製唐金灯籠群。増上寺の各将軍霊廟に諸侯がこぞって奉納したものであろう。その数に少々圧倒される。灯籠群に四方を囲まれ、港区麻布より移築された井上馨邸の羅漢堂が佇む。 灯籠群脇、道の両側に並ぶ石灯籠の中を先に進めば桜井門。奈良県十津川の桜井寺の山門を移築したものである。桜井門を抜け狭山湖堰堤へと向かう。

勝楽寺
車の往来を気にしながら先に進む。狭山湖の堰堤手前に勝楽寺という地名が残る。この地名は狭山湖建設で湖底に沈んだ村の名前。狭山湖建設前、このあたり一帯は山口村大字勝楽寺村と大字上山口よりなっていた。狭山丘陵の谷奥のこれらの村は所沢から青梅、八王子へと通じる道筋。
農業や所沢絣・飛白(かすり)の生産に従事していた戸数282、1720名の住民は、」狭山湖建設にともない、この地を去った。

狭山湖堰堤
狭山湖堰堤に。これで何度目だろう、か。西の狭山湖を眺め、東の丘陵を切り開いた谷筋を見下ろす。谷筋の景観は何度か眺めたのだが、柳瀬川により開析した谷筋、といったアテンションで眺めやると、それなりに今までとは違った景観として見えるような、見えないような。 それはともあれ、この狭山湖。正式には山口貯水池と呼ばれる。狭山丘陵の柳瀬川の浸食谷を利用し昭和9年に竣工。既に工事のはじまっていた多摩湖(村山貯水池)だけでは、関東大震災後の東京の復興と人口増加による水需要をまかなえなかった、ため。
多摩湖もそうだが、狭山湖への水は多摩川から導かれる。小作で取水され、山口線という地下導管で狭山湖まで送られる。一方、多摩湖への導水は羽村で取水され、羽村・村山線という地下導管によって多摩湖に送られる。
狭山湖(山口貯水池)に貯められた水は、ふたつの取水塔をとおして浄水場と多摩湖に送られることになる。第一取水塔からは村山・境線という送水管で東村山浄水場と境浄水場(武蔵境)に送られ、第二取水塔で取られた原水は多摩湖に供給される。また、多摩湖(村山貯水池)からは第一村山線と第二村山線をとおして東村山浄水場と境浄水場に送られ、バックアップ用として東村山浄水場経由で朝霞浄水場と三園浄水場(板橋区)にも送水されることもある、と言う。

狭山丘陵は多摩川の扇状地にぽつんと残る丘陵地である。狭山って、「小池が、流れる上流の水をため、丘陵が取りまくところ」の意。古代には狭い谷あいの水を溜め、農業用水や上水へと活用したこの狭山丘陵ではあるが、現代ではその狭い谷あいに多摩川の水を導き水源とし、都下に上水を供給している。

柳瀬川源頭部
堰堤の東スロープを柳瀬川の水路溝とおぼしき場所を目安に下る。流路が堰堤から繋がっている。流路に沿って下ると、水路が合わさる。水路の上流にはトンネル。どうも、こちらの方が本流のようである。堰堤の余水吐より通じるトンネルの出口となっている。大雨のときの放水路ともなっている、と。
合流部のすぐ下流に昔ながらの橋が架かる。そこから先、次のマーキング地点、県道55号の高橋交差点まで川筋に道はない。県道55号は埼玉県所沢から狭山湖と多摩湖を分かつ台地を進み、ら東京都武蔵村山を経て立川に至る。
成り行きで先に進み堰堤から高橋交差点に延びる道に出る。道の北側に清照寺、堀口天満天神社、狭山丘陵いきものふれあいの里、虫たちの森、トトロの森3号地が続く。いつだったかこのあたりを彷徨ったことが懐かしい。

中氷川神社
道を進み県道55号・高橋交差点に。交差点から少し南に下り、柳瀬川の「姿」をチェック。地図を見るに、ここから先も流路に沿って道はない。県道55号に戻り、中氷川神社に立ち寄ることにする。
道脇の火の見櫓などを見ながら中氷川神社に。この神社、武蔵三氷川のひとつ。あとふたつは、大宮の武蔵一の宮・氷川神社と奥多摩の奥氷川神社。この三社はほぼ一直線上に並んでいる、と。


先日奥多摩を歩いた時、奥氷川神社を訪れた。なんとなくさっぱりとしたお宮さま。武蔵の国造である出雲臣伊佐知直(いさちのあたい)が、故郷出雲で祖神をまつる地と似ている、と言うことで、武蔵で最初の氷川神社を建てたというのが、その奥氷川神社であった、とか。
その後、中氷川、大宮の氷川神社を建てていった、との説もあるが、諸説入り交 じり、定説なし。氷川はもとは、出雲の簸川から。ほとんどが武蔵の国にある、関東ローカルなお宮さま。その数、関東一円で220社。それ以外は北海道にひとつある、くらい。武蔵の国を開いたのが出雲族との説も納得できる。

山口城址
中氷川神社を離れ、山口城址交差点に。交差点脇、スーパーの西隣に山口城址の案内。この城、と言うか砦、と言うか館は平安末期、武蔵村山党の山口氏によって築かれたもの。南北朝の14世紀中頃には、新田義宗挙兵に呼応した武蔵平一揆の河越氏に与力。鎌倉公方足利氏満と戦うが、関東管領・上杉憲顕に破れ落城。その20年後の14世紀末、南朝方として再び足利氏満と再び戦うも敗北。その後、山口氏は上杉陣営、武蔵守護代・大石氏の傘下となり、城も狭山湖北麓・勝楽寺村に根小屋城を築き、この地を離れる。上杉氏が衰えた後は小田原北条氏の旗下に参じるも、小田原合戦で破れ、城も廃城となる。

下山口駅入口交差点
山口城址交差点から南へ少し下り、柳瀬川脇の山口民俗資料館へ。残念ながら休日は閉館のよう。柳瀬川に沿って道はない。県道55号に戻り下山口駅入口交差点まで進む。途中、道の北側には勝光禅寺。北条時宗開基と伝わる。江戸の頃には徳川将軍家の庇護も得る。禅宗様式の楼門が美しい。その東に来迎寺というお寺様がある。昔訪れた時は山門が綴じられていたので、現在の状況はわからないのだが、このお寺様には「車返しの弥陀」が伝わる、とのことである。その昔、奥州の藤原秀衡の守護仏である阿弥陀三尊を鎌倉に運ぶに際し、府中の車返し(府中に車返団地って、あったよう)で、荷車かなんだったか忘れたが、ともあれ車が動かず、先に進めない。結局引き返すも、この値で再びストップし身動きとれず。ということで、この地に草堂を建てたのがこの寺の始まり、とか。

関地蔵尊
下山口駅入口交差点から県道を離れ、柳瀬川筋へと向かう。西武狭山線・下山口駅を越え、先に進む。二股を左に折れ成り行きで柳瀬川筋に。あとからわかったのだが、この二股を右に折れると柳瀬川にかかる橋の袂に桜淵延命地蔵尊の祠があったよう。
成り行きで先に進み、道の途中で一瞬かする柳瀬川を確認しながら先に進み、成り行きで現れた橋を渡ると祠が見える。近づくと関地蔵尊とあった。祠の中には大きなお地蔵様とそれを取り囲む幾多の小さなお地蔵様。案内によるとこのお地蔵様は子育てのお地蔵様として地元の人々の信仰を得た。祠の中の多くの石物は子供の健やかな成長を祈る願かけと、願いが叶ったお礼の奉納仏、とのことである。

永源寺
関地蔵尊を離れ、またまた成り行きで先に進む。県道55号岩崎交差点の南あたりから川筋に沿って道が現れる。川筋から付かず離れず先に進む。県道の北には山口城主の菩提寺である瑞巌寺や、朝鮮半島からの渡来人である王辰爾(おうじんに)一族によって建立された仏蔵院がある。平安末期の頃は、『国分寺・一宮にもまさり、仏神の加護も尊く』といわれるほど、武蔵では一番の寺格を誇ったお寺様であるが、先回、といっても何年も前になるのだが、一度訪れたことがあるので、今回はパス。
道なりに進み、割と車の往来の多い道に出る。左手を見るとなんとなく構えのいいお寺さまが見える。とりあえずお寺様を訪ねると永源寺とあった。曹洞宗のこのお寺さまには武蔵国守護代大石信重の墓塔がある。また、境内にある石灯籠を見るに、増上寺の銘があった。この石灯籠も狭山不動尊のところでメモしたように、狭山球場予定地に野ざらしになっていた石灯籠を移したもの。徳川家江戸入府依頼、14代にわたり徳川家より寺領30石の寄進あったお寺さまであれば、ストーリーとしては結構自然。

じゅうにん坂
永源寺の山門を左に折れ、通りをすすむと「じゅうにん坂交差点」。名前の由来は、その昔、住人の武士だが落武者だかが切腹したとか、あれこれ。坂下からゆるやかなスロープを眺めただけで交差点を離れたが、坂の途中には10体の石仏が佇む、とか。もっとも、昔からこの地に祀られていたわけではなく、道路拡張にともない、この地に移された、とのことである。

長久寺
川に沿って付かず離れず先に進むと、勢揃橋交差点の手前に長久寺。時宗のお寺さま。お寺の前に旧鎌倉街道の標識。時宗のお寺は鎌倉街道沿いに結構多い。鎌倉街道は、お寺の脇を北に上る坂を進み、途中西武線でさえぎられてはいるものの、所沢市内の新光寺まで一直線で進んでいた、とのことである。
長久寺の北西、すぐのところに南陵中学があるが、その地には東山道武蔵路につながる古代の道の遺構「東の上遺跡」がある。JR西国分寺の駅の近くに東山道武蔵路の遺稿が残るが、その地より八国山を目指し一直線に進んできた12メートルの古代・武蔵道は八国山麓を迂回し、この地に繋がっていたのだろう。その先のルートは未だ特定されてはいないようだが、西武新宿線・入曽駅の東にある堀兼の井へと向かう堀兼道がその道筋、との説もある。

勢揃橋
勢揃橋交差点を南に下り、勢揃橋に。その昔、新田義貞が鎌倉攻めの折、この地で軍勢を勢揃いさせた、との伝承がある。橋のあたりから南に八国山の丘が見える。この丘の東端にある将軍塚は新田義貞の本陣跡、と伝わる。そう言えば、小手指には誓詞橋があった。この橋も新田義貞が軍勢に忠誠を誓わした橋、とのこと。勢揃橋の周囲は住宅が建ち並び、軍勢が集まる場所もないようだが、昭和50年代の写真を見ると、あたり一帯はのどかな田園風景が広がっていた。
柳瀬川も、このあたりまで来ると前面は所沢台地、南は八国山で囲まれ、少し南に迂回し、所沢台地と武蔵野台地の狭間を求めて先に進む。

二瀬橋
成り行きで先に進み二瀬橋に。この地で柳瀬川の支流である北川が合流する。源流点は柳瀬川と同じく狭山湖西側の金沢堀あたり、とのことだが、柳瀬川が狭山湖建設で途中が断ち切られたように、この北川も途中は多摩湖建設で断ち切れら、現在では源頭部は、多摩湖堰堤となっている。柳瀬川の源頭部は堰堤の下部よりトンネルで流れ出していたが、こちらは堰堤部の堤防より、階段状の流路で余水を流している。

梅岩寺
二瀬橋よりゆるやかな坂を上り梅岩寺に向かう。以前、一度訪れたことはあるのだが、境内のカヤとケヤキの巨樹が印象に残っており、再度訪れることに。このカヤとケヤキは文化・文政の頃(19世紀全般)に編纂された『新編武蔵風土記 稿』にも紹介されており、カヤは推定樹齢600年、ケヤキは700年、と伝わる。
久米川合戦の際、八国山の将軍塚に本陣をおいた義貞に対して、幕府軍が本陣を置いたとされる境内には四国88カ所巡りの地蔵群が佇む。江戸の文政7年(1824)、久米川村の榎本某が建立奉納したもの。

JR武蔵野線の秋津駅
成り行きで進み、県道4号・東京所沢線が柳瀬川に交差する橋に。県道4号は田無の北原交差点から所沢に向かう、通称所沢街道と呼ばれる道。橋を渡り、北秋津から上安松へと柳瀬川に沿って、つかず離れず進む。上安松あたりまで来ると、発達した河岸段丘が広がってくる。地形図をチェックすると、二瀬橋のあたりで北の所沢台地、西の狭山丘陵、南の東村山の台地(武蔵野台地)によって三方よりグッと狭まったのど元が、北秋津あたりから次第に広がり、上安松で大きく開けている。
日も暮れてきた。歩みを早め、西武池袋線の手前で淵の森の保存林を抜け、JR武蔵野線の秋津駅に進み、一路家路へと。
清瀬散歩の二回目。何の手掛かりもなく清瀬の駅に折り、郷土館で得た手掛かりで清瀬を彷徨った最初の散歩。今回はそのとき歩き残した清瀬の西半分を中心に歩こうと思う。ルートを想いやるに、清瀬の最西端、東村山との境に秋津の駅がある。何となく名前に惹かれる。その北東の所沢に安松神社が見て取れる。安松神社って、ひょっとして野火止用水を開いた安松金右衛門となんらかの関係があるのだろうか、などと想像を巡らす。実際のところは金右衛門とはあまり関係なかったのだが、それは散歩の後でわかったこと。散歩のルートは秋津から安松へと進み、清瀬の西部である野塩を柳瀬川に沿って辿り、その先はその昔、芝山と呼ばれ萱や雑木、松や芝草に蔽われた林野であった梅園や竹丘へと辿ることに。この芝山は、清瀬と言えば、というところの結核やハンセン病の病院のあったところ。病気療養の地として選ばれた清々しい大気の「芝山」の地がどのようなところか、実際に歩いてみよう、とも。そして、時間があれば野火止用水あたりをかすめ清瀬駅まで進めれば、などとルーティングし散歩に出かける。


本日のルート;西武池袋線・秋津駅>秋津神社>淵の森>長源寺>安松神社>柳瀬川交差点>清瀬橋>柳瀬川・空堀川合流点>清瀬せせらぎ公園>氷川神社>東光院>上組稲荷神社>円福寺>志木街道・野塩橋>永代神社>全生園>はんせん病資料館>社会事業大学>東京病院・>竹丘・野火止用水>松山三丁目交差点>西武池袋線・清瀬駅


西武池袋線・秋津駅
秋津駅に下りる。秋津って、なんとなく惹かれる地名。どういう訳だが、「風たちぬ 秋津」と、秋津の枕詞として「風たちぬ」が想い浮かぶ。堀辰雄の『風たちぬ』の舞台が信州の結核サナトリウムで、それが秋津のサナトリウムと重なる、といったわけではないのだが、はてさて。それはそれとして、秋津の由来は、その昔、府中に国司として赴いた秋津朝臣がこの地に住んだから、とか、低湿地を意味する「アクツ」から、とかあれこれ。まさか、「秋に多くいずる」が略され、「秋津=トンボ」とされた、「トンボ」に由来するとも思えないが、結局、秋津の地名の由来ははっきりしない。ちなみに、「風たちぬ」はポールバレリーの詩・「海辺の墓」の、「風たちぬ いざ生めやも」より。


秋津神社
西武池袋線・秋津駅を離れ、成り行きで進みJR武蔵野線を跨ぎ秋津神社に。江戸の頃は、秋津の不動さまとして信仰を集めた。元禄12年(1699)造立の石造りの不動明王が祀られる、と言う。明治になり、神仏分離・廃仏毀釈の余波を受け、秋津神社としたのだろう。境内に庚申塔。宝永7年(1710)造立と言う。もとは所沢地区にあったものが、西武池袋線の建設に際しこの地に移った。

淵の森
神社の端から柳瀬川方向を見やる。豊かな林が目に入る。林に向かって小径を下る。湧水とおぼしき池、そして雑木林が美しい。林の中を彷徨う。淵の森とある。柳瀬川の両岸に拡がるこの森は、市民が自然環境を守るため活動を行っている、とのことである。会長はジブリの宮崎駿さん。秋津三郎とのペンネームをもつ宮崎さんは、このあたりに住んでいる(いた)のだろう、か。そういえば柳瀬川を狭山丘陵にむかったあたりにトトロの森と名付けられた森がいくつもあった。このあたりを散策し、トトロの構想を練った、とか。


西武線とJRの連絡線
ところで、秋津神社から淵の森に下るとき、右手に線路と、その先にトンネルが見えた。トンネルは秋津神社の真下を貫く。線路は西武池袋線から延びているよう。これは一体何だろう?地図を見るとJR武蔵野線・新秋津のほうに向かっているようだ。ちょっと気になりチェックする。
この線路は西武池袋線とJR武蔵野線の連絡路とのこと。西武線が貨物を運んでいた頃は、貨車中継をこの連絡路をつかい新秋津の駅で行われていた。西武が貨物の扱いを止めてからは、西武の車両の新車入れ替えなどをJR経由で行われている。また、西武線のネットワークから切り離されている武蔵境の西武多摩川線は、車両検査のため飯能にある西武の検収場所に行くには、この連絡路を通じて行われる。武蔵境から八王子、そして新秋津までJRの線路を進み、新秋津でこの連絡線を経由して西武線に乗り飯能へと向かうわけである。なんとなく疑問に思ったことを調べると、あれこれ面白いことが現れる。

上安松地蔵尊
淵の森より秋津神社へと戻り、西武池袋線を越えて柳瀬川の川筋へと下ってゆく。柳瀬川に架かる橋は松戸橋。橋の北詰にある案内によれば、古くより安松郷と呼ばれ下宿とか本宿の宿場名が残る「安松地区に入る戸口」故の命名である。「新編武蔵風土記稿」に上安松村の本宿、下宿についての記述がある。「此二の小名は城村に北条氏照の城ありし頃 城下の宿驛のありし故に、此名起こりしと云、 柳瀬川 南北秋津村の南の方郡界を流れて下安松村に達す、川幅五六間、冬の間は小名松戸の邊に土橋を架して往来に便す」、とある。この土橋って松戸橋のことだろう、か。
先に進むと道脇に上安松地蔵尊の小さな祠がある。お地蔵様と馬頭観音が並ぶ。祠の脇には元禄14年(1701)に建てられた庚申塔。地蔵尊を右に折れる道は引又道、と言う。引又宿と呼ばれた志木への道筋である。この安松の地は幾つもの街道が集まり、入間と多摩の境にある往来の要衝であったのだろう。引又道を東に進めば小金井街道との交差を越えて本郷道を進み、滝の城にあたるわけでもあり、滝山城や八王子城とつなぐ戦略上の重要な道筋でもあったのだろう、か。

長源寺
道なりに安松神社へと向かう。安松神社手前、台地の裾に品のいいお寺様。曹洞宗・安松山長源寺。古くは天台宗であったと伝わるが、元亀・天正年間(1570~1592)の頃、八王子城主・北条氏照の養父である大石道俊(定久)によって中興開基され、以来、曹洞宗の寺として今日に至る。天正19年(1591)には朱印10石を賜り、往昔、境内敷地1万坪と大きな寺院であった、とのことである。屋根が破風切妻造りの山門・四脚門も、いい。



安松神社
お寺の前の道を台地に向かって上り安松神社に。鳥居を抜けて参道を登ると、中腹にまた鳥居があり、さらにその先にもまた鳥居が建つ。3つの鳥居を抜けると境内に出る。境内からは柳瀬川の低地が見下ろせる。
安松神社を訪れた動機は、ひょっとしてこの神社は野火止用水を開削した安松金右衛門ゆかりの神社だろう、などと勝手に思い込んだ、ため。実際は、その思い込みとは全く関係なく、この神社は大正3年に、長源寺の山林を買い受け、この周辺にあった稲荷神社、神明神社、八雲神社、氷川神社、日枝神社を統合しできたもの。また安松という地名も小田原北条の頃に安松郷柳瀬荘などとあるように、江戸の頃の安松金右衛門より古くからあるようだ。結構、いけてる推論などと思っていたのだが、ちょっと残念。(先日、杉本苑子さんの『玉川兄弟』を読んでいると、安松家はもとは神吉との姓であり、この安松の地に移り、姓を安松とした、とあった。当初の推論とは、真逆の、安松の地故の、安松金右衛門であった。2011年8月23日)

柳瀬川交差点
少々の落胆を感じながら、下安松の地を柳瀬川へと向かう。武蔵野線を潜り道なりに進む。道脇に東海漬物の所沢工場などがある。「きゅうりのキュウちゃん」ならぬ、茨城産の白菜を使った「白菜キムチ」の工場のようである。更に東に進み小金井街道の柳瀬川交差点に。江戸道(小金井街道)は所沢から清瀬に向かって柳瀬川を渡る。川の手前のこの柳瀬川交差点で引又道は柳瀬川を渡り、一時江戸道と合わさり、清瀬市側(南側)の段丘上を進み、志木街道(引又道)として志木(引又宿)に向かう。一方、柳瀬川交差点から先、柳瀬川左岸を川沿いに進む道は、本郷道となり滝の城へと進む。

柳瀬川と空堀川の合流点
柳瀬川交差点を進み柳瀬川に架かる柳瀬橋に。橋の少し西で柳瀬川に空堀川が合わさる。本日は空堀川に沿って中里、野塩をへて梅園、竹丘といった清瀬の西部へと辿ることにする。柳瀬川の源流は狭山湖の西岸。金沢堀や大沢のあたりである。往昔は狭山丘陵を深く浸食し谷をつくっていた柳瀬川ではあるが、狭山湖建設で上流部は断ち切られ、現在では源頭部は狭山湖堰堤より始まる水路となる。丘陵に挟まれた傾斜の緩やかな谷地を下り、発達した河岸段丘の地形の拡がる清瀬で空堀川を合わせ、その先の所沢台地の東端で東川が合流し新河岸川へと下る。
一方、空堀川は源流点を狭山湖の野山北公園(武蔵村山市)辺りとし、途中東大和市で奈良橋川を合わせ、清瀬のこの地で柳瀬川に注ぐ。川の名前は「悪水堀」、「溝流」、「砂川」、「村山川」などと地域によってあれこれ。また、空堀の由来は、渇水多き故、ということだろう。そう言えば、狭山湖の北を流れる不老(としとらず)川も、冬に渇水で水が無く、故に川として年を越すことができないので、年をとることがない=不老、ということである。空堀と同類の命名であろう、か。

中里・氷川神社
清瀬橋から空堀川へと向かう。柳瀬川との合流点付近に空堀川に沿って細流がある。清瀬せせらぎ公園とある。湧水点でもあるのかと先を辿ると、結局は空堀川の少し上流、石田橋のあたりから水を取り入れているようであった。少し戻り加減で中里の氷川神社に向かう。畑の中に如何にも鎮守の森といった緑が見える。江戸の頃、元和2年(1616),この地・中里を知行地とした旗本・武蔵義太郎の創建と伝わる。武蔵氏の館跡との説もあるようだ。氷川神社の少し東にある東光院も武蔵氏によって建てられた、とのことである。

上組稲荷神社
東光院より少し南に下ると畑の真ん中にささやかな祠の緑が見える。周囲を畑で囲まれた、ちょっと印象に残るお稲荷さま。中里村上組の人たちによって祀られた。創建年などすべて不詳ではあるが、江戸初期の頃のもと、と伝わる。

円福寺
畑の中の道を成り行きで西に向かい、雑木林を踏み分け清瀬四中脇を抜け円福寺に。山門横の「○福寺」の石碑が洒落ている。東久留米の古刹・浄牧院の住職の開山と伝わる、清瀬の名刹である。開山の頃は一七世紀の全般とされる。
境内の小高い台地に鐘楼と三重塔が見える。宮大工ではなく、ごく普通の大工さんが建てた、と言う。塔の脇に薬師堂。野塩の領主であった旗本・匂坂(さきさか)氏の篤い信仰の賜、とか。
薬師堂脇の竹林に「琵琶懸けの松 由来の地」の石碑。昔、ある琵琶法師が自分の目がみえるようにと、薬師堂にこもって一心に願った。満願の日に願いが叶った法師は、嬉しさのあまり琵琶を薬師堂のそばの松に懸けたまま立ち去った、との話が伝わる。今ひとつ有り難さがよくわからないが、ともあれこういった伝説が残る。松は枯れて今は、ない。

志木街道・野塩橋
円福寺を離れ空堀川の堤に出る。少し下流に見える橋は梅坂橋。急な梅坂を下ったところに架かるこの橋は、その昔、気の進まない婚礼故に流れに身を投げたお梅さんに由来する。以来、婚礼に際してはこの橋を渡るべからず、と。
上流を見るに西武池袋線が川を渡る。西武線を越えて先に進むと、河床に水がなくなってきた。親子が河床を散歩している。空堀川の所以であろう、か。ほどなく県道40号・志木街道に架かる野塩橋に。円福寺あたりから柳瀬川の両岸を野塩と呼ぶ。その昔、塩が掘り出されたのが、その名の由来。志木街道は西に進み、武蔵野線を越えた秋津三丁目で所沢街道と交差。志木街道も交差点から先は府中街道と名前を代えて、南へと下る。

芝山
この先は何処に進もう、と地図を見る。西に進み東村山に入ったところに永代神社。その南にはハンセン病資料館。敷地も全生園とある。清瀬の芝山(現在の梅里・竹山・松山に辺り)一帯にあった療養所の一環であろうかと、訪れることに。
空堀川を東に進み、全生園に。広い敷地に平屋の病棟が並ぶ。全生園は明治42年(1909)、ハンセン病の療養所としてこの地に創立。昭和16年(1941)、国立療養所多摩全生園となる。敷地を成り行きで進み永代(ながよ)神社に。入園者の希望により建立された。敷地内にはカトリック、プロテスタントの各教会や、真言宗、日蓮宗の会館など各宗派の建物も点在する、と言う。神社にお参りを済ませ、園内を道なりに進みハンセン病資料館を訪れる。脳天気に暮らしてきた我が身には、語る言葉、なし。
ハンセン病資料館の後は、すぐ東にある元の国立療養所清瀬病院の敷地内にある外気舎を訪ねる。外気舎とは、結核治療薬がなかった時代に、外気療法を行った病舎。きれいな大気の中で、簡単な作業療法を行いながら、自然回復をはかるという治療を行なったとのことである。国立療養所清瀬病院の前身は府立東京病院。昭和6年(1931年)、周囲は雑木林と畑以外には何もない、地名の通り「芝山」であったこの地が療養所の敷地として選ばれた。東京都心に近く、鉄道の駅があり、清い大気のこの地故の選択であった、とか。
かつての国立療養所清瀬病院の敷地は、現在では国立病院機構東京病院となっている。東京病院の手前に日本社会事業大学のキャンパスがある。キャンパスを通り抜けて病院の敷地へと抜けられるかと成り行きで東へ進むが、大学と病院の間はフェンスで遮られていた。結局は元に戻り、キャンパスの南端をぐるっと迂回し、東京病院玄関前に進む。玄関前からは病院の建物を抜け、裏手の雑木林に成り行きで進むと外気舎の小屋が残っていた。外気舎の案内に傷痍軍人東京療養所、とあるのは、昭和6年(1931年)、結核の治療を目的にこの地に設置した府立東京病院が、昭和14年(1934)年に傷痍軍人東京療養所となった、ため。結核を患った軍人のサナトリウムとして開設された、と言う。現在は一棟のみ残るが、当時は72の外気舎があった、とのことである。
東京病院を離れて南に向かう。竹山の一帯には誠に多くの病院や療養所があった。国立や民間や、宗教系の病院など数多い。15ほどの病院や療養所があった、とのことである。

野火止用水
東京病院から南に下る。東京病院にあるあたりは竹丘。その北が梅園、東が松山である。元の芝山が松竹梅に変わった、ということか。竹丘団地のあたりを成り行きで下り野火止通りに。道脇に野火止用水が流れる。いつだったか野火止用水を玉川上水・小平監視所から平林寺、さらにその先の新座まで辿ったことがある。その時に野火止用水の開削の責任者であった安松金右衛門のことを知り、それ故に安松神社とか安松が安松金右衛門ゆかりの地ではないか、と今回の散歩のきっかけともなったわけである。結局は地名も神社も金右衛門とは関係なさそう、ということにはなったのだが、これ以降地図の安松を眺めては、金右衛門の地を歩かなくては、などと思い悩むこともなくなったわけで、それはそれとして、良しとすべし、ということに。

以前歩いたときの野火止用水のメモをコピー&ペースト;武蔵野のうちでも野火止台地は高燥な土地で水利には恵まれていなかった。川越藩主・老中松平伊豆守信綱は川越に入府以来、領内の水田を灌漑する一方、原野のままであった台地開発に着手。承応2年(1653年)、野火止台地に農家55戸を入植させて開拓にあたらせた。しかし、関東ローム層の乾燥した台地は飲料水さえ得られなく開拓農民は困窮の極みとなっていた。
承応3年(1654年)、松平伊豆守信綱は玉川上水の完成に尽力。その功労としての加禄行賞を辞退し、かわりに、玉川上水の水を一升桝口の水量で、つまりは、玉川上水の3割の分水許可を得ることにした。これが野火止用水となる。
松平信綱は家臣・安松金右衛門に命じ、金3000両を与え、承応4年・明暦元年(1655年)2月10日に開削を開始。約40日後の3月20日頃には完成したと、いう。とはいうものの、野火止用水は玉川上水のように西から東に勾配を取って一直線に切り落としたものではなく、武蔵野を斜めに走ることになる。ために起伏が多く、深度も一定せず、浅いところは「水喰土」の名に残るように、流水が皆吸い取られ、野火止に水が達するまで3年間も要した、とも言われている。
野火止用水は当初、小平市小川町で分水され、東大和・東村山・東久留米・清瀬、埼玉県の新座市を経て志木市の新河岸川までの25キロを開削。のちに「いろは48の樋」をかけて新河岸川を渡し、志木市宗岡の水田をも潤した、と。寛文3年(1663年)、岩槻の平林寺を野火止に移すと、ここにも平林寺掘と呼ばれる用水掘を通した。
野火止用水の幹線水路は本流を含めて4流。末端は樹枝状に分かれている。支流は通称、「菅沢・北野堀」、「平林寺堀」「陣屋堀」と呼ばれている。用水敷はおおむね四間(7.2m)、水路敷2間を中にしてその両側に1間の土あげ敷をもっていた。
水路は高いところを選んで堀りつながれ、屋敷内に引水したり、畑地への灌漑および沿線の乾燥化防止に大きな役割を果たした。実際、この用水が開通した明暦の頃はこの野火止用水沿いには55戸の農民が居住していたが、明治初期には1500戸がこの用水を飲料水にしていた、と。野火止用水は、野火止新田開発に貢献した伊豆守の功を称え、伊豆殿堀とも呼ばれる。
野火止用水は昭和37・8年頃までは付近の人たちの生活水として利用されていたが、急激な都市化の影響により、水は次第に汚濁。昭和49年から東京都と埼玉県新座市で復元・清流復活事業に着手し本流と平林寺堀の一部を復元した。

西武池袋線・清瀬駅
用水に沿って松山三丁目交差点まで進み、交差点で野火止用水を離れ斜めに切り上がり清瀬駅に向かい、本日の散歩を終える。二回にわけて清瀬を歩いた。 
清瀬を歩くことにした。練馬を歩いたとき、折に触れて清戸道に出合った。文京区の江戸川橋から始め、目白通りを付かず離れず清瀬の清戸村へと結ぶ道である。清戸村にある尾張藩の鷹場を結ぶ道、と言う。もっとも、尾張藩の鷹場は広大なもので、三鷹あたりから青梅までをカバーしたようであり、正確には中清戸村にあった尾張藩の鷹場御殿(休息所)への御成道であった、と言うところだろう、か。それはともあれ、清瀬を訪れ往昔の鷹場の名残など感じたいと思ったわけである。
それにしても、清瀬にかかるフックはなにも、ない。どこから散歩を始めればいいものか、少々戸惑う。地図を眺める。と、駅近くに清瀬市郷土博物館がある。まずは清瀬市郷土博物館に出向き、あれこれ資料を眺め散歩のルートを決める。資料が手に入らなければ、清瀬の北端、所沢との境を成す柳瀬川を下るか、上るか、その場の成り行きで決めようと、例によっての、行き当たりばったりの散歩をはじめることにした。



本日のルート;西武池袋線・清瀬駅>志木街道・上清戸一丁目交差点>清瀬市郷土博物館>志木街道・日枝神社水天宮>全龍寺>長命寺>下清戸・長源寺>下宿・上宮稲荷神社>関越自動車道>松宮稲荷神社>武蔵野線>柳瀬川>円通寺>八幡神社>瀧の城址公園>城山神社>清瀬金山緑地公園>中里富士塚>小金井街道>西武池袋線・清瀬駅

西武池袋線・清瀬駅
清瀬駅で下車。誠に、誠に初めての清瀬ではある。駅前は再開発され、大きなショッピングセンターが建つ。現在の人口は32,726戸・72,984名(平成23年)。明治33年(1901)年の記録では家屋420戸・3,125名とある。大正13年(1924)の武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)清瀬駅の開業と、戦後のベッドタウン化故の発展ではあろう。清瀬の名称が公式に使われたのは明治22年(1889)。近隣の六つの村が合併してできた。六つの村は上清戸村・中清戸村・下清戸村の三清戸と、柳瀬川沿いの清戸下宿村・中里村・野塩村。名前の由来は、三清戸の「清」と柳瀬川の「瀬」を合わせた、との説がある。

清瀬市郷土博物館
駅から一直線に北に進む通りを進む。ほどなく上清戸一丁目交差点で志木街道とクロスする。志木街道をやり過ごし少し進み、左へと折れ清瀬市郷土博物館に。周辺の畑やけやき並木の道筋は、なかなか趣がある。館内を巡り、清瀬のあれこれをスキミング&スキャニング。「清瀬市ガイドマップ」と「清瀬の史跡散歩」を買い求め、散歩のコースのルーティングを行うに、見どころの基本はどうも、志木街道と柳瀬川のようだ。街道に沿って開かれた村と水に恵まれた川沿いの村に神社仏閣が点在する。道すがらの、田舎めいた稲荷の祠もちょっと気になる。ということで、本日の散歩のコースは、志木街道を東へと進み、成り行きで柳瀬川へと向かい、後は時間の許す限り川沿いを西へと進み、清瀬駅か秋津の駅に、と想い描く。

志木街道
清瀬市郷土博物館を離れ、志木街道に向かう。上清戸一丁目交差点あたりを成り行きで志木街道に。けやきの並木や屋敷林が目にとまる。屋敷林は立川・砂川新田あたりの五日市街道を歩いた時にはじめて意識するようになったのだが、なかなか、いい。
けやきの並木の美しい志木街道を進む。志木街道は秋津から志木を結ぶもの。秋津三丁目交差点の少し西、府中街道と所沢街道が合わさる秋津四ッ辻よりはじまり、江戸の頃、引又宿と呼ばれた志木に続く。引又宿は柳瀬川から新河岸川を経て江戸を結ぶ河岸があり、当時の船運の要衝であった。当初青梅街道を運んだ青梅・成木の石灰も、大量運搬の可能な水運故に、引又河岸経由で江戸に運ばれるようになった、と言う。
ちなみに、秋津四ッ辻で合わさる府中街道は川崎からこの地まで上り、合流点から先は志木街道と名前を変える。府中街道の道筋は古代の東山道であり、鎌倉期の鎌倉街道上ッ道に付かず離れず、といった案配で進む。一方の所沢街道は、田無散歩で出合った北原交差点から北西に進みこの地に至る。秋津三丁目交差点でクランク状になっているのは新道付け替え故。本来の所沢街道は交差点の少し西を弓状に進む小径とのことである。

日枝神社・水天宮
上清戸を東に進み水天宮交差点の北に日枝神社。日枝神社の境内には水天宮、御嶽神社、八雲神社、琴平神社が祀られる。社伝によれば、日枝神社の草創は古く、天正7年(1579)の頃。元は山王大権現と称されたが、明治の神仏分離令により日枝神社となった。上・中・下清戸および元町、松山、梅園、竹丘の総鎮守である。
境内には三猿の石灯籠一対が残る。案内によれば;「二基の石燈籠は参道の両側に向い合って建てられ、竿は六角柱でそれぞれに「見ざる」「聞かざる」「物言わざる」の三猿が彫刻されている。日枝神社は山王様と呼ばれて人々に親しまれ、猿は山王様のお使いと信じられていた。燈籠の竿部に「山王開闢天正七天(1579年)中嶋筑後守信尚開之」と彫られ、さらに寛文四年造立の燈籠には山崎傳七良以下、下清戸村11名が、又宝永七年造立のものには中清戸村小寺宇佐衛門尉重政の名が刻まれており、中世末から近世にかけて、清戸の開発を知る貴重な手がかりとなっている」、とある。現在は並んで建って射るが、元々は境内参道に向かい合って建っていたのだろう。中嶋筑後守信尚はどのような武将か不明ではあるが、年代からみて小田原北条の武将だろう、か。江戸が開幕前に、このあたりは既に街道に沿って鍬が入れられていたのだろう。
境内にある水天宮は明治の頃に建てられたもの。元は九州・久留米にあったものが、久留米藩有馬公の屋敷神(慶応大学三田キャンパスの近く)として江戸で有名になり、明治になり藩がなくなった時に、現在の日本橋蛎殻町に移った。子育て・安産の神様として信仰を集める。
日枝神社は、明治に日吉山王権現が日枝神社となったものが多い。「**神社」って呼び方はすべて明治になってから。それ以前は「日吉山王権現の社(やしろ)」のように呼ばれていた(『東京の街は骨だらけ』鈴木理生:筑摩文庫)。この日枝神社も同様である。日吉山王権現という名称は、神+仏+神仏習合の合作といった命名法。日吉は、もともと比叡山(日枝山)にあった山岳信仰の神々のこと。日枝(日吉)の神々がいた、ということ。次いで、伝教大師・最澄が比叡山に天台宗を開いき、法華護持の神祇として山王祠をつくる。山王祠は最澄が留学修行した中国天台山・山王祠を模したもの。ここで、日吉の神々と山王(仏)が合体。権現は仏が神という仮(権)の姿で現れている、という意味。つまりは、仏さまが日吉の神々という仮の姿で現れ、衆生済度するということ。本地垂迹というか神仏習合というか、仏教普及の日本的やり方、とも。

全龍寺
日枝神社を離れ、志木街道を少し東に進むと道脇に地蔵の祠。安産子育守護地蔵尊とある。お参りを済ませ祠の脇の道を下ると全龍寺。真新しい檀徒会館前を過ごし本堂に。開基は慶長元年(1596)の頃。江戸時代には15石の朱印寺であった、と言うから格を誇っていたのであろう。実際戦前には中清戸の三分の一はこの全龍寺の所有地。戦後農地解放により20町あまりの土地を失うも、現在でも3000坪の境内地をもつ。
この寺は武蔵野三十三観音の札所六番であり、一葉観音が祀られる。通常一葉観音さまって、木(蓮)の葉の舟に乗る。中国に渡航した道元上人を海上の嵐より救ったという伝説故のフォルムだろう、か。道元はこの観音さまを念持仏とした、とのことでもあり、どうも、曹洞宗のオリジナルの観音さまのようだ。曹洞宗の本山永平寺の池にも浮かんでいる、と言う。道中の安全を祈る人々の信仰を集めた。
ちなみに武蔵野三十三観音。昭和15年開創の観音霊場であり比較的新しい。一部西武新宿線沿線などもあるものの、ほとんどが西武池袋線沿線であり、西武鉄道の商業戦略などかと思ったのだが、実際は大きく異なっていた。戦中の殺伐とした世相のなか、観音様の大慈悲により人々の救済を願った郷土史家の柴田常恵氏の発願、呼びかけにより実現された、とのことである。

長命寺
道を更に東に進み、下清戸に長命寺。北条家の家紋である「三鱗(うろこ)」をもつこのお寺さまは、小田原北条家の武将・川越城主大道寺駿河守政繁の係累であるお坊様の手により天正18年(1550)に建てられる。いい構えの山門を入ると本堂、薬師堂、鐘楼がある。薬師堂におさめられる薬師如来は室町次代の作。もとは、志木街道の向かいにあり清瀬薬師と呼ばれていたものを、境内に移したもの。
大道寺駿河守政繁は、北条家の「御由緒家」と呼ばれる北条家累代の宿老の家柄として川越の城を預かる。秀吉の北条攻めの折りには、前田・上杉勢と碓氷峠で激しく戦うも、戦いに敗れるや降伏し、一転、前田・上杉勢の先鋒を勤め北条方の行田の忍城や八王子城を攻める。小田原降伏後には、秀吉から、その不忠故に死を賜った、とか。
本堂の前には誠に立派な一対の宝塔が並ぶ。徳川将軍家の正室の墓碑である。また、境内には15基の石灯籠もある。徳川将軍家の法名や正室、側室の法名が記されている、とのことである。はてさて、何故に清瀬のこの地に徳川将軍家ゆかりの宝塔(墓碑)や石灯籠があるのだろう。清戸に尾張徳川家の鷹狩御殿があった、からなのだろうか。はたまた、北条家ゆかりの寺故に、なんらかの縁があるのだろうか、などと、あれこれ妄想を巡らす。で、気になったのでチェックすると、なかなか面白い歴史が現れてきた。
ことのはじめは昭和20年の東京大空襲。徳川将軍家の霊廟(墓所)がある増上寺の大半が灰燼に帰した。廃墟となった霊廟跡は昭和33年(1958)に西武鉄道に売却され、東京プリンスホテルや東京プリンスホテルパークタワーとなる。そして廃墟に散在していた将軍家ゆかりの宝塔や石灯籠は、西武鉄道の手により狭山の不動寺に集められる。一部は狭山不動寺に再建されるも大半は野ざらし。その敷地も西武球場とするにあたり、宝塔や石灯籠の引き受け手を求めたようである。清瀬の長命寺はその時に狭山不動寺から移したものではないだろう、か。何気なく抱いた疑問をちょっと深掘りすると、あれこれと歴史が現れてくる。まことに散歩は面白い。 寺の前の清瀬薬師跡に。いくつかの石材が散在するが、これって徳川家ゆかりの宝塔や石灯籠の一部だろうか。ばらばらの古石材となった宝塔や石灯籠を狭山不動寺より引き取り、組み立て直し復元した、と聞く。
志木街道を更に東へ進み下清戸交差点に。清戸って、日本武尊が東征のみぎり、この地を訪れ、「清き土なり」と言ったのが、地名の由来とか。また、東隣・新座の菅沢村への入り口故の地名、とも。「清」は「すが>菅」との訓読み故に、菅(すが)への戸口、とのことである。地名の由来は諸説、定まること成し。
日枝神社の石灯籠の銘にあったように、清戸の村は小田原北条の支配の頃には、既に畑に鍬が入れられていたようである。文政9年(1826)の『武蔵風土記稿』には上清戸村38戸、中清戸村56戸、下清戸村62戸となっていた(『多摩の歴史2;武蔵野郷土史研究会(有峰書店)』)。

上宮稲荷神社
慶長年代に創建の長源寺を越えたところで北に折れ、清戸を離れ下宿地区に向かう。下宿は柳瀬川に近く水に恵まれており、清戸の畑作と異なり水田が開けていた、という。地名の由来は清戸の台地の下など諸説ある。畑と宅地が混在する道筋を進む。道脇には稲荷の小祠が佇む。清瀬にある21の社のうち11の社がお稲荷さま。個人の屋敷神である一家稲荷や、一族が講をつくり稲荷をまつるものとがある、と言う。この小祠はさて、どちらのものであろう。
先に進み、道の右手に雑木林が見える。林の中の建物は大林組の技術研究所とあった。下清戸を離れ、旭が丘地区に入り旭が丘交番交差点に。道はこのあたりから柳瀬川に向かって下り気味、となる。交差点右手の緑の中に上宮稲荷神社。下宿地区では上組と下組にわかれ稲荷講が組織されたとのこと。この社は上組の稲荷講によって寛永元年(1624)に創建された。 お参りを済ませ、次は下組の稲荷講がつくった松宮稲荷神社へ向かう。このあたりの地区・旭が丘は、往古、下宿とともに清戸下宿と呼ばれていたが、松が丘団地建設を契機として下宿から分かれ旭が丘となった。大規模団地で人口が一挙に増えたことが「分離」の一因だろう、か。

松宮稲荷神社
上宮稲荷前の道を東に進み、関越自動車道を潜り、武蔵野線の手前にある下宿三交差点で南に折れ松宮稲荷神社に向かう。緑豊かな小高い丘に鎮座する。下宿の下組の稲荷講がつくった稲荷の社である。なかなか、いい趣の社。松宮の由来ははっきりしない。が、往昔、この社には十間四方(約18m)に根を張った「円座の松」と呼ばれる松の大木があったようで、それが松宮の名前の由来だろう。新編武蔵風土記にも記されるこの松の大木は、立ち枯れのため大正時代に伐採された。

柳瀬川
松宮稲荷神社を離れ、柳瀬川へと向かう。武蔵野線の高架下を抜け、先に進むと清瀬水再生センター。東村山市・東大和市・清瀬市・東久留米市・西東京市の大部分、武蔵野市・小金井市・小平市・武蔵村山市の一部区域の雨水と汚水を別々の下水道管で集め、雨水は川へ放流し、汚水を処理する。関越道の近くは運動場となっており、運動場に沿ってぐるっと迂回し、柳瀬川の河岸に出る。
柳瀬川の対岸は比高差10m程度の崖線となっている。発達した河岸段丘である。柳瀬川により開削された、というより、太古の多摩川の流れが開いた河岸段丘とのことである。柳瀬川の崖線の向こうの台地は所沢台地。カシミール3Dで地形をチェックすると、このあたりの武蔵野台地は黒目川、柳瀬川、その北の東川(あずまかわ)によって開析された櫛形の開析谷が、平地に合わさる台地端ともなっている。段丘崖の雑木林、河畔林はなかなか、いい。 柳瀬川を西に向かう。柳瀬川の源流は狭山湖の西岸。金沢堀や大沢のあたりである。往昔は狭山丘陵を深く浸食し谷をつくっていたのではろうが、現在は狭山湖建設で上流部は断ち切られ、源頭部は現在ででは、狭山湖堰堤より始まる。丘陵に挟まれた傾斜の緩やかな谷地形を抜けると、清瀬あたりで発達した河岸段丘の地形となる。柳瀬川は清瀬で空堀川を合わせ、その先で所沢台地を刻む東川が合わさるが、東川が合流するまでは北に所沢台地の下末吉面、南に一段低い武蔵野面があり、これらを削り込んだ面のさらに一段低い侵食面を河川が流れている。繰り返しになるが、発達した河岸段丘はなかなか、いい。柳瀬川は志木で新河岸川に合流する。
関越道を潜り先に進む。対岸には滝の城址があるのだが、如何せん橋がない。武蔵野線を越え更に西に進み城前橋に。地図を見ると橋のそばに古い歴史をもつ円通寺や八幡様がある。滝の城を訪れる前にちょっと立ち寄り。

円通寺
このお寺様は暦応3年(1340)、というから南北朝の頃の草創と伝わる古刹。寺伝によれば、新田義貞の弟である義助が鎌倉幕府滅亡後、鎌倉より観世音菩薩立像をこの地に奉持した、と。念持仏としたのだろう、か。お堂を前に下馬させざる者、必ず落馬したため、「馬(駒)止めの観音」と称された、とのことである。山門、庫裡、鐘楼といった構えもいいのだが、中でも長屋門が印象に残る。寄棟瓦葺き(元はかや葺き)、白の大壁、板腰羽目の姿はなかなか、いい。ここは専門道場であった、とか。寺脇の天満天神宮、そのそばにある中世草創の下宿・八幡神社にお参りし、柳瀬川を渡り滝の城に向かう。

滝の城

城前橋を渡る。こちらは所沢市域。橋の北詰めから右に分岐する土の側道に入り、武蔵野線の高架下をくぐり坂道を進む。小さな城山神社の鳥居をくぐり急な階段を上り神社の本殿に。本殿前の平坦地が滝の城本丸跡。本丸の南側は崖面となっており、柳瀬川を挟んで清瀬が見渡せる。比高差20mといったところだろう。
滝の城は室町から戦国時代にかけて、木曾義仲の後裔と称した大石氏の築城と伝わる。加住丘陵の滝山城を本城とした大石定重がこの地に築いた支城である、とも。大石氏は、関東管領上杉家の重臣として小田原北条に備えるも、定重の次の定久の頃、上杉管領勢は川越夜戦に完敗。主家上杉家も上野に逃れるにおよび、大石定久は小田原北条と和を結ぶ。北条氏康の次男氏照を女婿に迎え、滝山城を譲り自らは五日市の戸倉城に隠棲した。上杉管領家滅亡後も岩槻城を拠点に北条と抗う太田資正に対しては、最前線の境の城として重要な拠点となったようだが、その太田氏も北条に下るにおよび、滝の城は川越(河越)城、岩槻城、江戸城との継ぎの城として機能した。滝の城は北条家の関東北進策を進める拠点、清戸の番所として整備された。城に残る遺構はこの時代につくられたようである。
城を歩いて気になったことがある。南面は崖線であり、天然の要害ではあろうが、北面は所沢台地が続くわけで、北からの備えは今ひとつ、といった感がある。もとより、同時の台地上は原野が続いたのではあろうが、それにしても所沢から引又(志木)へ続く道はあったろうし、人が通れないわけでもなさそうである。東川の谷筋から所沢台地に上り、北よりこの城を攻めれば攻略間違いなし、などと思い、あれこれ資料を見ていると、秀吉の小田原征伐の折には浅野長政率いる軍勢は北から攻め入り城を落とした、と。
新編武蔵国風土記稿には、「不慮に北の方、大手の前より襲い来たりしかば、按に相違して暫時に落城せり」とあった。それはそうだろう、と思う。
本丸の社殿を抜け、裏手にまわり二の丸や三の丸の曲輪や土塁、堀、見晴台とおぼしき高みなどを眺めながら堀割、といっても車の通る坂道ではあるのだが、その坂道を下り柳瀬川に戻る。

中里の富士塚
柳瀬川の土手道を西に向かう。発達した河岸段丘の景観はいつまでも見飽きることは、ない。進行方向右手の崖の林、河畔林、進むに連れ左手にも柳瀬川崖線緑地といった崖線も現れる。右手に清瀬金山緑地公園をみながら、金山橋あたりで川筋から離れ中里の富士塚に向かう。金山公園入口から舌状に突き出た低地上の崖道を直進するに、崖下の発達した段丘面の景観は誠に、いい。台地下、柳瀬川沿いの低地に立ち並ぶ宅地を見やりながら先に進み、道を成り行きで南に折れる。先に進むと住宅に囲まれた富士塚があった。文化2年(1805)、中里に冨士講が結成され、文政8年(1825)にこの富士塚が造られた。
富士講は霊峰富士への信仰のための団体。御師のガイドで富士への参拝の旅にでかける。富士塚は富士に似せた塚をつくり、富士に見なしてお参りをする。富士信仰のはじまりは江戸の初期、長谷川角行による。その60年後、享保年間(17世紀全般)になって富士講は、角行の後継者ふたりによって発展する。ひとりは直系・村上光清。組織を強化し浅間神社新築などをおこなう。もうひとりは直系・旺心(がんしん)の弟子である食行身禄。食行身禄は村上光清と異なり孤高の修行を続け、富士に入定(即身成仏)。この入定が契機となり富士講が飛躍的に発展することになる。
食行身禄の入定の3年後、弟子の高田藤四郎は江戸に「身禄同行」という講社をつくる。これが富士講のはじめ。安永8年(1779)には富士塚を発願し高田富士(新宿区西早稲田の水稲荷神社境内)を完成。これが身禄富士塚のはじまり、と伝わる。その後も講は拡大し、文化・文政の頃には「江戸八百八講」と呼ばれるほどの繁栄を迎える。食行身禄の話は『富士に死す:新田次郎著』に詳しい。

清瀬駅
日も暮れた。本日の散歩はこれで終了。富士塚を離れて清瀬駅に向う。地図を見るに、駅に向かって小金井街道が南北に進む。小金井街道は小金井から田無・清瀬を抜け、柳瀬川を清瀬橋で渡り所沢に至る。江戸道とも呼ばれる。上でメモしたように、所沢街道も江戸道と呼ばれる。江戸に向かう道はすべからず江戸道、ということだろう、か。
家康の江戸入府にともない、徳川恩顧の家臣がこの地を知行地とした。清戸村は代官・松木市右衛門、下宿村は石川播磨守、中里村は武蔵八郎右衛門、野塩村は向坂与八郎といった旗本である。江戸初期の頃、未だ江戸の町が整備されていない頃、これら旗本は知行地から江戸へと通勤した、とも言う。通勤路として江戸道が整備されていったのだろう、か。また、青梅の石灰を江戸へ運ぶ道としても「江戸道」が整備されていったのだろう、か。と、あれこれ想い、妄想を巡らせながら清瀬駅に向かい一路家路へと。
先回の散歩で、田無から落合川の湧水点のある南沢に辿る予定が、田無の時空にフックがかかり、田無をあちこち彷徨い、あまつさえ保谷へと足を運ぶこととなった。結局その日は南沢までたどり着けず後日へと持ち越し。今回はあまり寄り道をすることなく、田無から南沢道を落合川の湧水地、東久留米の南沢へと向かおうと思う。



本日のルート:西武新宿線柳沢駅>富士街道>新青梅街道>北原交差点>所沢街道>六角地蔵尊>南沢道>五小東>笠松坂>竹林公園入口>落合川>南沢氷川神社>南沢湧水地>落合川>竹林公園>都道15号小金井街道>米津寺>落合川上流端>都道15号小金井街道>坂の地蔵さま

西武新宿線柳沢駅
田無からスタート、とは言うものの、下りた駅は西武柳沢駅。「やぎさわ」と読む。住所は西東京市保谷町とある。田無市と合併し西東京市となる前の保谷市である。先回の散歩で柳沢駅前の商店街を少し彷徨ったのだが、駅前を通る富士街道の雰囲気を、もう少々味わいたいと思い、田無駅のひとつ手前のこの駅で思わず下り立った。田無からの予定が最初から変更。正確には、保谷からのスタートとなった。
駅を下り、北口商店街にでる。昔ながらの商店街、といった雰囲気。その商店街中を通るささやかな道筋が富士街道である。商店街を彷徨い、少し東へ進み西武柳沢駅東交差点に。角に小さな祠があり、庚申塔と廻國塔が祀られている。廻國塔とは、「法華経六十六部を六十六の霊場に祀るべく諸国を廻る巡礼者を供養して建てられることが多い、とか。ともに18世紀初頭の造立、と言う。
富士街道は、江戸の頃、大いに流行った伊勢原の大山詣への参詣道筋のうち、練馬から大山に向かう道筋である。もとは「ふじ大山道」と呼ばれていたものが、明治になって富士街道と呼ばれるようになった。道筋は川越街道・練馬北町陸橋(練馬区北町1丁目)より都道311号(環八)を下り、練馬春日町で環八を離れ、都道411号を谷原に進む。谷原のあたりから南西に真っ直ぐにこの地に下っている。この地から先、多摩川を渡るまではあれこれ説があり、道筋は確定していないようだ。一説には、柳沢商店街を出たところにある、六角地蔵石幢手前を南に下る深大寺道がそれ、とも伝わる。また、田無宿の西端、田無用水が青梅街道を渡る橋場から田無用水の水路に沿って南西に下る尾根筋、別名立川道がそれ、との説もある。ともあれ、多摩川を渡ると稲城の長沼、町田の図師などをへて大山に向かう。

新青梅街道
柳沢宿を離れ田無宿方面へと向かう。天保5年(1834)に書かれた『御嶽菅笠』には柳沢宿にあった幾つかの旅籠が描かれている。もっとも、「宿」といっても、単に石灰の継ぎ立て(伝馬宿)であり、本陣があるわけでもなく、柳沢宿と田無宿も、所詮、俗称であることに変わりは、ない。先回訪れた六角地蔵石幢前をかすめ、成り行きで道を北にとり、新青梅街道に出る。 保谷新道交差点で都道233号・東大泉田無線と交差。交差点を少し西に進んだ辺りが昔の田無市と保谷市の境。市境は西武池袋線・ひばりが丘から一直線に南に下り、五日市街道の武蔵野大学あたりまで続く。大雑把に言って、北部の大泉に近いあたりが下保谷、先日歩いた保谷の四軒寺のあたりが上保谷、そして武蔵野大学あたりに南が下保谷新田と呼ばれていたようだ。下保谷が日蓮宗の壇信徒が多く、上保谷は真言・曹洞宗、と言う。そういえば、下保谷のお隣である大泉のあたりも、番神さま信仰といった日蓮宗がほとんどであった。
保谷は16世紀の頃は、保屋と呼ばれていた。また江戸の頃は穂屋とも穂谷とも呼ばれていた。それが保谷となったのは江戸・元禄の頃(17世紀の後半)。幕府に提出する書類に誤って「保谷」と書き、それ以降、保谷が定着した。地名の由来は、穂の実る小さな谷とも、保谷氏が中心となって開発した村、との説もあるが、定説は、ない。

北原交差点
新青梅街道を西に進む。道脇の遍立院は越前一乗谷・朝倉義景の末子ゆかりの寺、と。江戸桜田門外に創建したが、谷中、浅草を経てこの地に移る。先に進み北原交差点に。青梅街道、新青梅街道、所沢街道などが交差する。古地図を見るに、北原交差点を中心に青梅街道から時計廻りに、富士街道、オナリ街道、府中道、立川道、芋久保道、粂川道、所沢道(秩父道)などが通る。往古より交通の要衝であったのだろう。
北原交差点で右に折れ、所沢街道に。所沢街道(所沢道)は江戸道とも呼ばれる。所沢側からの呼び名ではあろう。所沢からはじまり、清瀬・田無を抜けて小金井へと進む道筋、と言う。また、所沢街道は所沢道・秩父道とも呼ばれる。この北原交差点あたりで青梅街道を離れ、所沢をへて秩父へと向かう道故のことであろう。
通常所沢道と言えば、中野の鍋屋横町で青梅街道と分かれ、旧早稲田通りを進み保谷、清瀬から所沢に続く道を言う。道筋を追うと、中野五叉路から中野駅の西を抜け、環七・大和陸橋に。環七を越えると早稲田通りを進み、阿佐ヶ谷の北、本天沼二丁目交差点で旧早稲田通りに分かれ、下井草駅の西を抜け新青梅街道、千川通りを越え環八に。その先も、旧早稲田通りをひたすら進み、石神井公園の北を進み富士街道にあたり、保谷駅、清瀬駅へと上り小金井街道に。後は小金井街道に沿って所沢に、といったもの。このコースを見るに、田無で青梅街道と分かれる所沢道にかぶるところは何も、ない。思うに、所沢に向かう道は、どれも、所沢道と呼ばれていた、ということだろう。

南沢道
都道4号・所沢街道を北西に進む。しばらく進むと、先回訪れた六角地蔵尊交差点。交差点脇に六角地蔵尊。正式には石幢(せきどう)六角地蔵尊と呼ばれ、江戸の頃、安永八年(1779年)に田無村地蔵信仰講中43人によって建立された。道が六又に分かれるこの場所に、仏教の六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道)救済の地蔵尊を建て、併せて六つの道筋(南沢道、前沢道、所沢道、小川道、保谷道、江戸道)の道標とした、とのことである。現在は五叉路でもあり、南沢道、所沢道、江戸道(小金井への道筋?)はなんとなくわかるけれども、保谷道、小川道はいまひとつはっきりしない。それはともあれ、所沢街道を離れ、一筋東の道に入る。この道を進めば南沢に向かう。ために、南沢道、であろうと、思い込む。 緑町二丁目交差点脇には庚申塚が佇む。ひばりが丘団地西交差点を過ぎると、右手にひばりが丘団地。ひばりが丘団地は昭和34年(1959年)、現在の西東京市、東久留米市にまたがる、元の中島飛行機の工場跡に造成された。当時としては、日本住宅公団最大の団地。マンモス団地のはしりとなった。年月を経て老朽化した団地は、現在宇「ひばりが丘パークヒルズ」として立て替えが進んでいる、とある。

笠松坂
先に進み、五小東交差点を越えると道の左右が開けてくる。左手には緑地の緑も見えてくる。ほどなく笠松坂交差点に。このあたりから道は川筋に向かって下ってゆく。昔は大きな松の木があったようだ。
坂を下ったあたりにささやかな水路。立野川の上流部。いつだったか立野川を源頭部から落合川との合流点まで辿ったことがある。源頭部は向山緑地公園の崖面下にあった。崖下のほとんど道なき道を進み、極々僅か水が湧き出る場所を確認。立野川は住宅街を崖線に沿って下り、自由学園の内をとおり、西武池袋線を越え、新落合橋のあたりで落合川に合流する。
立野川を越えて坂を少し上る途中に竹林公園入口交差点。公園は少々東に進んだところにあるので、後で辿ることにして坂を上り、そして下って落合川の川筋に。

南沢氷川神社
落合川にかかる毘沙門橋手前を左に折れ、南沢水辺公園に。先回落合川を辿ったときは工事中であった。自然の河畔林を残す公園をなりゆきで進み南沢氷川神社に。「南沢緑地保全地域」に鎮座し、境内の東西を落合川と湧水からの沢頭流に囲まれた高台にある。近くから土器なども出土するということだから、古くから人が住みついていた場所で、あろう。
創建の頃は不明。湧水の守護神として祀られたのがはじまりであり、それが集落の発展につれ、社となった、とも伝わる。承応3年(1654)に再建の棟札が残る。棟札には関宿藩主・久世大和守、旗本・神谷与七郎、地頭・峰屋半之丞の名が残る。老中職を16年務めた久世大和守広之は東久留米の前沢で生まれた、と伝わる。家康の家臣であった広之の父は家康の勘気を被り、前沢の地に蟄居させられた、とか。神谷与七郎は南沢を知行地としていた。峰屋半之丞は地頭としてこの地で勢をもっていたのだろう。かくの如き有力者のバックアップもあり、社が再建されたのだろう。

南沢
ところで、この南沢の地、湧水豊かな沢の南の地、といったところだろうが、この地は太田道灌の四代目の子孫、太田康資(やすすけ)の知行地と伝わる。永禄二年(1599年)、小田原北条家の『永禄年間小田原衆所領役帳』に「太田康資の知行所、江戸田無、南沢、二十七貫五百匁」とある。これには道灌と南沢の関係がバックグランドにある、と言われる。
東久留米の大門に名刹・浄牧院がある。この寺はこのあたり一帯に威を唱えた大石氏の開基と伝わる。元は関東管領上杉方として武蔵守護代もつとめた大石氏であるが、長尾景春の乱に際し景春に与し関東管領上杉に反旗を翻す。ために、上杉方の道灌と対峙。結局戦に敗れ和議を結ぶ。結果、このあたりの大石氏の領地が道灌の所領となる。
文明18年(1486年)、道灌が主家上杉氏の謀略により誅殺される。道灌の孫である太田資高は上杉氏と対峙する小田原北条と結び、高縄の原の合戦(東京都高輪)で上杉氏を破り、道灌の居城であった江戸城を回復。太田康資は資高の子として北条に仕える。道灌の田無、南沢はこういった経緯を経て康資の領地となったのだろう。ちなみに、小田原衆所領役帳に記された三年後、北条への反乱を企てた康資は、事が露見し岩槻城主太田三楽斎を頼り落ち延びた。



南沢緑地保全地域
神社鳥居の先に沢筋。これが南沢緑地保全地域からの湧水・沢頭流。崖線方向と南沢浄水場あたりからの二流がある。極めて美しい。水量も多く、いかにも美しい水。崖線方向に少し進んだ緑地の中に「東京名湧水」の案内。緑地の中に道があり湧水点まで続いている。ごく僅かな湧水が見られた。
神社鳥居の前に戻り、谷頭流のもうひとつ、南沢浄水場方面からの湧水を辿る。水量はいかにも豊富。水は南沢浄水場の中から勢いよく流れ出る。柵があり中に入ることはできなかったが、南沢浄水場あたりで湧き出る(地下300mの水源からポンプで汲み上げている、とか。)水は1日1万トン、と案内に書いてあった。いかにも湧水の里、といった場所である。
浄水場手前の沢頭部分にも湧水点がある。雑木林の崖下から湧き出る水は、いかにも、いい。いつまでも眺めていたい景観である。崖線を上ったり下ったり、しばしの湧水の趣を満喫し、南沢浄水場を俯瞰すべく、大廻りで浄水場の周囲を一周し、南沢の湧水地を離れる。

多聞寺
毘沙門橋まで戻り、落合川を渡り川向こうの多聞寺に向かう。先回の落合川散歩で一度訪れてはいるのだが、記憶も少々薄れてきたので再訪する。再訪の理由は「多聞」故。散歩の折々に多聞院とか多聞寺に出合うことがあるのだが、なんとなくいい感じのお寺様が多かった、といった記憶がある。墨田の多門寺(墨田区5丁目)、別名狸寺もいい雰囲気のお寺さまであった。そういえば、所沢の多聞院も狸に由来の話が伝わる。多聞とたぬき、ってなんらかの因果関係でもあるのだろう、か。
多門寺は南沢の中心にある古刹。真言宗智山派・石神井三宝寺の末。13世紀の初頭には天満宮が建てられ梅本坊と名付けられ、14世紀の中頃には薬師堂に毘沙門天を安置し多聞寺と名付けられた、と。毘沙門天は多聞天とも呼ばれるわけで、落合川にかかる橋が毘沙門橋であった所以も、納得。江戸時代につくられた重厚な四脚門・総欅の切妻造りの山門が美しい。




竹林公園
多門寺を離れ、竹林公園に向かう。先回の散歩で竹林公園内の湧水点が見つけられなかった、ため。落合川に沿って下る。水草の茂る川面は如何にも美しい。ところで、何ゆえ、この落合川あたりに湧水が多いのか、ということであるが、このあたりは古多摩川のつくった扇状地の真上にあり、しかも標高が50m。武蔵野台地の湧水点はほぼ標高50m地点でもある。地下水を貯める砂礫層(武蔵野砂礫層)の上端が落合川に沿うようにあり、かつまた、黒目川とか落合川の南に分布する粘土層が落合川流域には、ない。つまりは、地表から浸透した地下水は粘土層を避け、落合川流域の砂礫層に十分に溜まり、その水が湧き出ている、ということだ。そのためか、湧水は湧水点ばかりではなく、川床からも湧き出ている、と。その比率は半々、とのことである。 
老松橋で右折れ、緩やかな坂を上り竹林公園に向かう。竹林公園は武蔵野に古くから生えていた竹林を保存するため、1974年に開設された。敷地内には、約2000本もの孟宗竹が生い茂る。竹林の中の遊歩道を辿って低地部へ下りると水路が見え、その先を辿ると湧水池。水鳥が遊ぶ。流れる水は落合川に注ぐ。

米津寺
次の目的地は落合川の源頭部。川筋に沿って進み小金井街道を越えたあたりに源頭部がある。途中どこか寄り道すべきところは、と地図を見る。落合川と小金井街道との交差部を北に進んだところ前沢宿交差点あたりに米津寺がある。先回の落合川散歩の折り、時間切れで辿れなかったお寺さま。前沢宿、といった宿場をイメージするような地名にも惹かれ、源頭部の前に寄り道を。 川筋を上り、途中旧水路を辿りながら小金井街道に進み、右に折れ前沢宿交差点に。「宿(しゅく)」の由来ははっきりしないが、今は無きお寺様の門前町の名残、とも。また、現在の小金井街道は、江戸の頃の「大山道」とも呼ばれ、この前沢宿が起点であった、という。その故の「宿」でもあったのだろう、か。前沢の由来もはっきりしない。落合川の源頭部、沢頭部に面した地形故とか、この地を開いた前沢某に由来するとか、あれこれ。
前沢宿交差点を右に折れ米津寺に。「べいしん」寺と読む。臨済宗・京都妙心寺派の末。檀家のない大名寺、米津家の菩提寺として知られる。前沢の地は米津(よねきつ)氏の知行地。代々徳川家に仕えた三河武士である米津氏は、御書院番の頭、火の番頭、大阪城番などをつとめ、一万五千石の大名となる。元は東久留米・大門町にある浄牧院が米津家の菩提寺であった、とのことだが、下馬せず浄牧院境内に乗り入れ、それを咎めた住職に立腹し、さればとて、菩提寺を新たに建立した、とかしない、とか。境内には米津家代々が眠る、のみ。明治22年の火災で山門を残し総て焼失。その山門は現在武蔵国分寺に移されている。

落合川源頭部
寺を離れて落合川源頭部に向かう。前沢交差点に戻り、小金井街道を下り落合川に。川筋に沿って先に進むと水路は次第に細くなり、茅なのか葦なのか、背の高い水草の手前の人工の池で水路は一応途切れる。池を眺めていると地元の方が声を掛けてくれ、昔は、このあたりに柳が茂り、そこから水が湧き出ていた、と。茅なのか葦、その先はどうなっているのか、先に進む。落合川の左手を迂回し、芦原の先に細々とした水路が見える。



先に進み、誠に、誠に細くなった水路を辿ると落合川上流端とあった。その先は水もない溝があり、ほどなくその溝も消え失せる。美しい湧水の上流端は民家に囲まれた溝で終わっていた。







坂の地蔵様
上流端を離れ、家路へとバス停を探して小金井街道を下る。落合川を離れてほどなく、小金井街道から分かれる細路脇にお地蔵さまの祠。「坂の地蔵様」と呼ばれ、明和5年、というから、西暦1768年の建立。このお地蔵様は追分の道標も兼ねており、「右大山道 左江戸道」とある。
右の大山道とは現在の小金井街道。上でメモしたように江戸の頃は前沢宿を起点に府中、そして大山へと続いた。左の江戸道は、細路を辿ると現在の所沢街道と平行して走り、六角地蔵尊で所沢街道と合流していた。六角地蔵尊にあった江戸道(江戸側からみれば所沢街道)の道筋がこんなところで繋がった。なんとなく、嬉しい。心も軽く、一路家路へと、バスに乗る。

昨年の秋だったろうか、石神井川を源頭部である小金井公園から王子へと辿ったことがある。その途中、向台の台地に沿って田無駅の南を西に進んだ。その時は石神井川の生活排水が気になっていたのだが、昨年はそれほどでもなかった。しかしながら、川筋の道は相変わらず行き止まりの道が多く、迷い道くねくね、といった状況はそれほど変わってはいなかった。田無の中心は川筋を台地へと上った青梅街道筋にある。江戸の頃は宿場として栄えたとも聞く。どのような街並みであろうか、とは思えども、石神井川下りの先を急ぐあまり、石神井川の谷筋を東へ向かった。
そのうちに、田無へと想いながらも、今ひとつ田無散歩へのフックがかからず数ヶ月たったとある週末、田無に出かけることにした。きっかけは、東久留米の落合川の湧水をもう一度見たくなって、というか、先回落合川を辿ったとき撮った写真がほぼ、ピンぼけであったので、写真を取り直しに行こう、と思った、から。落合川へのアプローチは何処から、と地図を見る。田無から北西に進めば落合川の湧水点、南沢にあたる。何となく田無散歩へのフックがかかった。ということで、田無へと向かう。
当初の予定では、青梅街道筋の田無宿跡の雰囲気でも感じ、とっとと南沢へ、などと想っていたのだが、結局は、田無をあちこち彷徨うことになり、また成り行きで保谷まで辿ることになった。南沢には当日たどり着けなかったけれど、行き当たりばったりの散歩は、なかなな、いい。


本日のルート:西武新宿線田無駅>青梅街道・富士街道交差>六角地蔵尊>青梅街道>田無神社>総持寺>観音寺>やすらぎのこみち>青梅街道・橋場交差点>田無一号水源>新青梅街道>府中道>都道4号線>六角地蔵尊>東大大学院付属演習林>南沢道>緑街2丁目交差点>西東京いこいの森交差点>都道112号・谷戸1丁目交差点>尉殿(じょうどの)神社>東禅寺>如意輪寺>宝晃院>宝樹寺>都道233号保谷小前交差点

西武新宿線・田無駅
駅の北に下り、田無の見どころなどないものかと、駅前の地図をチェック。駅を少し東にいったところに田無神社がある。その先、西武柳沢駅近くに六角地蔵尊が見える。六角地蔵尊という言葉に惹かれ、まずはお地蔵様の元に進む。

富士街道
線路に沿って成り行きで東に進み、青梅街道にあたる。少し南に下ると、西武新宿線の手前で東から青梅街道に合流する道がある。追分に弘法大師供養塔が佇む。嘉永七年(1854)の銘があり、側面が道標になっている。「練馬江三里 府中江二里半 所沢江三里 青梅江七里」と書かれて、と。
追分を左に曲がると富士街道。江戸の頃、大いに流行った伊勢原の大山詣への参詣道筋のうち、練馬から大山に向かう道筋である。もとは「ふじ大山道」と呼ばれていたものが、明治になって富士街道と呼ばれるようになった。道筋は川越街道・練馬北町陸橋(練馬区北町1丁目)より都道311号(環八)を下り、練馬春日町で環八を離れ、都道411号を谷原に進む。谷原のあたりから南西に真っ直ぐに田無に下っている。田無から先、多摩川を渡るまではあれこれ説があり、道筋は確定していないようだ。多摩川を渡ると稲城の長沼、町田の図師などをへて大山に向かった、と。

六角地蔵石幢
富士街道を東に進み、西武柳沢駅前商店街手前に六角地蔵石幢。ほぼ正六角の石柱で、各面の上部に地蔵菩薩立像が彫られている。富士街道と深大寺道が交差するところに佇む、との説明。お地蔵様の東側に西武線を渡る小径があるが、これが深大寺道だろう、か。
深大寺道とは、関東管領上杉氏が整備した軍道、と言う。本拠地の川越城と、小田原北条勢への備えに築いた深大寺城と結んでいる。先日清瀬を歩いた時に出合った「滝の城」は、その中継の出城、とも。深大寺道は滝の城からほぼ南に下り、この六角地蔵石幢脇を抜けて大師通り、武蔵境通り、三鷹通りをへて深大寺に至る。また、この道は「ふじ大山道」との説もあるようだ。

田無神社
六角地蔵石幢から、西武柳沢商店街を抜ける富士街道を少し進み、商家一体となった「街道」の雰囲気を味わい、適当なところで折り返す。次の目的地は田無神社。富士街道を西に戻り、青梅街道に合わさるところを右に折れる。先に進むとほどなく田無神社。結構大きい構えである。もとは尉殿大権現と呼ばれていたが、明治になって近隣の熊野や八幡の社を合祀し田無神社と改めた。
先日立川を歩いたとき、阿豆佐味神社といった、あまり耳なれない名前の神社があったが、この尉殿大権現も初めて出合った名前。創立時期は不詳であるが、鎌倉期には鎌倉街道の枝道(横山道・府中道)に沿った谷戸の宮山(現在の田無二中のあたり)に、既に鎮座していたようである。その後、1622年、上保谷(現在の尉殿神社があるところ)へ分祠、1642年には本宮も現在の地に移った。
尉殿大権現を現在の地に移したのは、青梅街道を開いたことによる。江戸城の城壁等を固める漆喰をつくるため大量の石灰を必要とした幕府は、八王子の代官・大久保長安に命じ、石灰を産地である青梅(成木村)から江戸に早急に運ぶよう命じた。長安は往来の混み合う甲州街道を避け、田無を起点に一直線に内藤新宿を結んだ。これが青梅街道である。内藤新宿から所沢に通じる所沢街道をベースにした、と言う。
街道はできた。が、荷の運搬に必要な人力(助馬・伝馬)が、足りない。当時、柳沢宿に五、六軒の農家があっただけ、と言う。ということで、人手を増やすべく、青梅街道の北、古くから集落が開けた谷戸地区から馬持百姓を街道筋に移すことになる。田無は幕府の直轄地であるわけで、村人は幕府の命に従うしか、術は、ない。かくして村人の心の拠り所でもある尉殿大権現は街道筋に移される。村人が街道筋に移はじめて40年後の事である。
ところで、尉殿大権現とは男神の級長津彦命(しなつひこのみこと)と級長戸辺命 (しなとべのみこと) よりなる夫婦の神々。水と風を治める、と言う。水の乏しい武蔵野台地、また風の強いこの地故の、神々だろう、か。また、神仏習合の影響もあり、尉殿大権現とは倶利伽羅不動明王と同一視され、明治の神仏分離まで信仰された。ちなみに、「尉」ってどういったものか今ひとつはっきりしない。神楽の黒面とも、能の黒色尉面とも言われる。能の尉面はただの面ではなく、一緒の神と見なされた、と。尉殿大権現の神名は能の尉と関係がるとの説がある(『多摩の歴史1;武蔵野郷土史刊行会(有峰書店)』)。また、関東にある「尉」がつく神社は水にまつわるものが、多いとのことである。

境内を歩いていると、作家の五木寛之が田無神社に住んでいた、といった案内を見つけた。早稲田大学学生の頃、大学の近くの穴八幡の床下を塒(ねぐら)としていた、のは知られるが、さて、田無神社は、社務所にでも居候していたのであろうか、とチェックする。作家のエッセーに「僕は敗戦後、朝鮮から引き揚げてきた。出身校は福岡県の福島高校。諸君は自宅なり、縁者なり、下宿なりから通学しているだろうが、僕は前には穴八幡、そして今は田無神社の床下を寝ぐらとして通学している。金がないからしかたなくそうしているのだ。しかし、なんとかしてロシア文学をやりたいと思っている」、と。ここでも床下生活であった。
本殿にお参りし南側の出口へと向かう。途中に賀陽(かや)玄節の案内。江戸末期の備前岡山藩の藩医。諸国を修行の途中で、田無宿の名主下田半兵衛富永と会う。半兵衛の依頼を受け入れ当時無医村の田無村に居を構え、医を施す。賀陽玄節の子で医師の濟(わたる)は、田無で塾を開いて子弟の教育にあたった。ちなみに、神仏分離令により、総持寺から独立して田無神社ができたとき、濟は田無神社の初代宮司となった。その後、田無神社の宮司は代々賀陽氏が継いでいる、と言う。

総持寺
田無神社を出て、お隣にある総持寺へ。総持寺と言えば鶴見にある曹洞宗の大寺の印象が強く、その流れかとも思ったのだが、そうではないようで、近隣のお寺さまが総て、と言っても三寺ではあるが、集まって一寺となしたため、総持寺と称した。宗派も真言宗である。
総持寺の前身は田無発祥の地・谷戸地区にあった西光寺。青梅街道脇に移住させられた住民がこの地に移し、尉殿大権現の別当も兼ねる。明治に入り神仏分離令により寺社が分けられるとき、尉殿大権現の倶利伽羅不動尊をこの寺に移す。無住となった観音院、光蔵院を会わせ総持寺となったのは明治8年(1875)のことである。
総持寺といえば、幕末の争乱時、幕臣振武軍が駐屯したところである。上野での彰義隊との意見の相違から、同志90余名とともに渋沢成一郎は田無に移動。西光寺に本拠を置き、軍資金を集めるなど少々不可解な行動を取る。10日余、田無に滞在した後、振武軍は瑞穂の箱根ヶ崎に移る。隊員は300余名まで増えていた、と。その地で上野の合戦の報を受け、一躍進軍するも高円寺村で彰義隊壊滅の報を受け田無に転進。上保谷に陣を敷くも官軍の到来はなく、敗残兵を集め1500余名となった振武軍は飯能に移り、その地での飯能戦争の結果、部隊は壊滅した。

田無用水跡
総持寺を離れ、小径を西に向かう。武蔵境通りに出ると、その先に「やすらぎの小径」との案内。道路を越えて小径を進む。総持寺境外仏堂・観音寺の脇をかすめ西に向かう。この小径、如何にも水路跡といった雰囲気である。チェックするとここは田無用水の水路跡であった。
承応3年(1654)、玉川上水が開削されてまもなく、明暦3年(1657)に玉川用水から小川分水が引かれる。その小川分水から更に分水されたのが新堀用水。そして、元禄9年(1696)、玉川上水に沿って進んだ新堀用水から更に分水されたのが田無用水である。玉川上水の喜平橋のあたりから、北東に田無へと進んでいる。石神井川の谷筋に落ちないよう、尾根道を進む。
この田無用水ができるまでは、青梅街道沿いの集落に移った人々は水に苦労した、と。元の谷戸に湧き出る湧水を汲んでは運ぶ生活を続けざるを得なかったのだろう。心の拠り所となる尉殿大権現を移すのに移住後40年近くかかった、ということが、その苦労のほどを物語る。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)

橋場
用水路跡の小径を進むと赤い鳥居のお稲荷さま。小径は南へ下り青梅街道の橋場交差点に。橋場は田無用水が青梅街道を渡るところ。往古、ここには橋が架かっていたのだろう。三叉路になっており、西に進むのは青梅街道、北西に向かうのは成木往還(東京街道)、南西に下るのは立川道(鈴木街道)。この鈴木街道がほぼ田無用水の水路跡のようである。青梅街道と成木往還の分岐点にはささやかな祠があり、地蔵尊と庚申塔が並んで立っている。
田無宿はこの橋場が西端。田無村の伝馬分担は箱根ヶ崎までの20キロ。明暦2年(1656)、中間に小川村ができるまでは負担が大きかったようである。元禄13,14年の頃は石灰の運搬に、1年間に馬60頭が28回も田無宿を通った、と言う。

田無一号水源
次の目的地は東京大学付属農場(東大農園)。先日、白子川の水源となる井頭池を訪ねたとき、その水源に、更に上流から注ぐ新川に出合った。その新川の源頭部が東大原子核研究所跡(現在の西東京いこいの森公園)と東大農園あたりの二カ所にあった。地名も谷戸であり、如何にも湧水のイメージを感じる。もとより、現在谷戸の景観が残るとは思えないが、その昔の豊かな湧水地帯の名残でもないものかと、訪ねることにした。
橋場から成り行きで北に進む。新青梅街道の西東京消防署西原出張所に出る少し手前、民家の建ち並ぶ住宅街の直中に田無一号水源。地下水を組み上げて水源としているのだろう、か。水源施設が先にあり、民家が後からだろう、とは思うのだが。それにしてもちょっと意外な水源施設であった。

府中道
新青梅街道を越える。新青梅街道は青梅街道のバイパス、といったもの。西に立派な屋敷などを眺めながら成り行きで北に進む。都道4号・所沢街道に合流する手前に道標があり、「府中道」とある。地図をチェックすると、都道4号・所沢街道との出合いから、新青梅街道・西原町交差点を越え、向台町へと下る道筋がある。
その先は小金井公園で途切れているが、往古、この地より府中の大国魂神社や国分寺の武蔵国分寺へと通る道があったのだろう。この道が別名横山道とも呼ばれるのは、府中への途中、武蔵七党のひとつ・横山党の本拠地である八王子へ向かう道が分かれていた、ため。鎌倉街道上ッ道の枝道とも伝わる。

六角地蔵尊
合流点を北に進むと六角地蔵尊。正式には石幢(せきどう)六角地蔵尊と呼ばれ、江戸の頃、安永八年(1779年)に田無村地蔵信仰講中43人によって建立された。道が六又に分かれるこの場所に、仏教の六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道)救済の地蔵尊を建て、併せて六つの道筋(南沢道、前沢道、所沢道、小川道、保谷道、江戸道)の道標とした、とのことである。現在は変形四差路、細いがそれらしき道を入れても五叉路でもあり、南沢道、所沢道、江戸道(小金井街道、か?)はなんとなくわかるけれども、保谷道、小川道はいまひとつはっきりしない。はっきりはしないが、保谷道は東大演習林の中にかき消えてしまった、との記述(『東京地名考;朝日新聞社会部(朝日文庫)』)もあるので、これって鎌倉街道上ッ道(横山道・府中道)のことか、とも。
さてと、ここから先のルートを想いやる。当初の予定では、ここから北西に、たぶん南沢道だろう、と思うのだけれど、その道筋を進み落合川の南沢湧水群へと進むつもりではあったのだが、田無をあれこれ彷徨っているうちに、田無発祥の地である谷戸地区に行ってみたくなった。またそこは先日、白子川源流点を辿ったとき、その源流点に、更に上流から注ぐ水路があり、その水路(新川)の源流部が谷戸地区でもあった。思わず知らずのことではあったが、谷戸地区にアテンションがかかった。場所は六角地蔵尊のほぼ東。間に東大の演習林や東大農場があるが、見学かたがた、通り抜けようと。

東大演習林田無試験地
六角地蔵尊を少し戻り、東大演習林に。鬱蒼とした林相の入口にある事務棟で記帳し、試験地へ進む。「アカマツやコナラ、クヌギを主体として、イヌシデ、エゴノキ、ケヤキ、ミズキなどが混在しながら点在」とあるが、ブナの原生林である白神山地を訪ねたとき、二日目になって、「ところで、ブナ、ってどれだ?」といった「体たらく(為体)」の我が身には、どれがどれやら、いまひとつピン、とこない。
それよりもこの試験地が「武蔵野台地の武蔵野段丘(武蔵野面)上に位置し、海抜高約60m、地形は平坦です。地質は層厚6~8mの火山灰層(関東ローム層)の下に、砂礫層(武蔵野礫層)が続いています。土壌はローム層の上に火山灰層を母材とする黒色土が50~60cmの厚さで分布しています」といった記事にフックがかかる。武蔵野台地の湧水点って、標高50mのところが多い。この地の海抜約60mからローム層の8mほどを引くと、丁度標高50mあたり、となる。新川の水源、谷戸の谷頭から流れ出す湧水の源がこのあたりであったのだろう、と妄想しながら試験地を辿る。道なりに進み、先に農地やマンションなどが見えるのだが、如何せん塀に阻まれ通り抜けはできそうも、ない。ぐるっと一周し、入口戻る。

谷戸一丁目交差点
六角地蔵尊まで戻り、南沢道(と勝手に名付けた道筋)を先に進み、緑町一丁目交差点で右に折れ、東大演習林の北端をかすめ西に向かう。前方に大きな公園が現れる。西東京いこいの森公園と呼ばれるこの公園は東大原子核研究所の跡地に造られた、と。公園を横切り、ひばりが丘団地を見やりながら通りを東に進み、住友重工田無工場を過ごし谷戸一丁目交差点に。
ひばりが丘団地は昭和34年(1959年)、現在の西東京市、東久留米市にまたがる、元の中島飛行機の工場跡に造成された。当時としては、日本住宅公団最大の団地。マンモス団地のはしりとなった。年月を経て老朽化した団地は、現在宇「ひばりが丘パークヒルズ」として立て替えが進んでいる、とある。
中島飛行機工場跡地、と言えば、戦前には東久留米駅から中島飛行機工場へ貨物引き込み線があった、と何処かで聞いたことがある。Google Mapの航空地図でチェックすると、自由学園の西を、立野川を越え市立南中学校方向へと南西に一直線に下る道筋がはっきり見える。南中学校方向からは、更に西方向へシフトしひばりが丘団地へと向かっている。これが引き込み線の跡地であろう。団地建設時は資材運搬に使用されたようだが、現在はその大半が「たての緑道」として整備されている、と。自由学園の辺りを彷徨ったことはあるのだが、この引き込み線跡は見落とした。そのうち、再訪したいものである。

谷戸せせらぎ公園
谷戸一丁目交差点を少し北にすすんだところ、道路の東側に「谷戸せせらぎ公園」がある。新川の源頭部も、この交差点を少し下った谷戸小学校のあたり、と言うし、このせせらぎ公園にも、湧水の名残でもないものか、と訪ねることに。公園は整地された、ごくありふれた公園。池は人工的なもので、湧水の雰囲気は、ない。ただ、周囲の雰囲気は南側が少し小高くなっており、公園あたりの低地にその昔、湧水点があってもよさげな気もする、というか、そう思い込む。
カシミール3Dで地形図を作成してみると、標高60mから40mくらいの比高差をもつ、樹枝状の台地、そして谷筋が見て取れる。如何にも谷戸といった地形でもある。谷戸とは、「丘陵地が浸食されて形成された谷状の地形であり、その谷頭は往々にして湧水点となっている」ということだから、湧水があっても不思議では、ない。現在は地下水の大量組み上げの影響で水位が低下し、湧水の名残はなにも、ない。
公園に案内板:田無発祥の地「谷戸」、とある。この地には稲荷社、白山社、弁天社、総持寺の元となった西光寺、そして田無神社の元である尉殿大権現が現在の田無第二中学のあたりにあった、と。小田原後北条家の文書『永禄年間小田原衆所領役帳』にも「太田康資の知行所、江戸田無、南沢、二十七貫五百匁」、と田無の名が残り、室町の頃にはこのあたりは既に開けていた、ようだ。鎌倉街道上ッ道の枝道でもある横山道(府中道)に沿って集落が形成されていのだろう。道筋は谷戸地区から東大農園を貫き六地蔵尊をへて南に下る。田無発祥の地の人々が幕府の政策故に青梅街道筋に移されたのは、先にメモしたとおりである。
公園の案内に「田無」の地名の由来があった。ひとつには文字通り「田の無い」ところであった、との説。次には、湧水の流れが浅い階段状の「棚瀬」になっていたとの説。カシミール3Dでつくった地形図を見ると、思わずその気になる説である。その他いくつかの説を紹介していたが、どれ樋って定説はないようである。

『永禄年間小田原衆所領役帳』に「太田康資の知行所、江戸田無、南沢、二十七貫五百匁」、と田無の名が残る、とメモした。この地は太田道灌の四代目の子孫、太田康資(やすすけ)の知行地と伝わる。これには道灌とこの田無の関係が背景にあるようだ。
東久留米の大門に名刹・浄牧院がある。この寺はこのあたり一帯に威を唱えた大石氏の開基と伝わる。元は関東管領上杉方として武蔵守護代もつとめた大石氏であるが、長尾景春の乱に際し景春に与し関東管領上杉に反旗を翻し、上杉方家宰の道灌と対峙。結局戦に敗れ和議を結ぶ。結果、田無や東久留米の大石氏の領地の一部が道灌の所領となる。
文明18年(1486年)、道灌が主家上杉氏の謀略により誅殺される。道灌の孫である太田資高は上杉氏と敵対する小田原北条と結び、高縄の原の合戦(東京都高輪)で上杉氏を破り、道灌の居城であった江戸城を回復。太田康資は資高の子として北条に仕える。道灌の田無はこういった経緯を経て康資の領地となったのだろう。ちなみに、小田原衆所領役帳に記された三年後、北条への反乱を企てた康資は、事が露見し岩槻城主太田三楽斎を頼り落ち延びた、と。

尉殿神社
次の目的地は尉殿神社。北東に少し進んだところにある。そのあたりは、その昔上保谷字上宿と呼ばれ、保谷の四軒寺といった寺社もあり、村でも最も早く開けたところ。横山道(府中道)も、田無の谷戸の田無二中あたりから、この上宿を経て保谷高校、そして下保谷へと抜けている。昔は、池もあった、とか。古き谷戸の景観が残るとは思えないけれども、とりあえず歩を進める。谷戸せせらぎ公園の北端に沿って東に進む。宅地が密に立ち並び、おおよそ谷戸の雰囲気は何も、ない。谷戸町を離れ住吉町に入ると、そこは昔の保谷市である。道を成り行きですすみ尉殿神社に。
この尉殿神社は谷戸の宮山(現在の田無二中)にあった尉殿権現が、元和8年(1622年)に分祠されたもの。その後正保3年(1646年)、宮山の尉殿権現が青梅街道沿いの現在の田無神社の地に分祠されるとき、この地の尉殿神社より夫婦の神のうち、男神の級長津彦命を田無に遷座した。ちなみに寛文10年(1670)には宮山の本宮そのものを田無神社の地に遷座した。お参りを済ませ長い参道を南に下る。

保谷の四軒寺
神社を離れ、次は保谷の四軒寺と呼ばれたお寺さまを巡る。最初は東禅寺。尉殿神社のすぐ南にある。開基は一六世紀末。東久留米にある浄牧院の隠居寺として建てられた、とか。この地に共の者と土着した保谷出雲守入道直政の開基とも伝わるが、確たるエビデンスはないようだ。落ち着いたお寺さまであった。
次は如意輪寺。民家の間を成り行きで進む。古い間の名残か、道がわかりにくい。彷徨っているうちに境内南側の塀のあたりに接近。塀に沿って進むと、いかにも水路跡といった暗渠が塀に沿って進む。西東京いこいの森公園(元東大原子核研究所)、そしての新川の東大農場(北原二丁目交差点あたり)を源頭部とする新川はひとつに合わさり泉小学校あたりへと進んでいたようだ。ということは、この暗渠は新川の水路跡であろう。こんなところで新川の名残に出合うとは、思ってもいなかったので、少し嬉しい。
保谷・志木線の道路に出て如意輪寺に入る。赤い山門には仁王さま。境内には江戸の頃の路傍の石仏が佇む。旧上保谷村の富士街道脇などに立てられていたものをこの境内に集めた。石仏は18世紀のもの、と言う。
如意輪寺の西には宝晃院。江戸の頃は尉殿神社の別当寺であったお寺さま。その南の宝樹院。江戸の頃は、幕府の寺院本末制のもと、如意輪寺、宝晃院とともに新義真言宗本山三宝時の末寺であった、とか。
この四軒寺のあたりにはその昔、池があった、とか。それぞれの寺には観音堂、薬師堂の堂宇とともに弁天堂があった、と言う。弁天堂といえば、水の神様であろうから、池などがあっても不思議ではない。実際この一帯は、一度大雨が降ると、一面水たまりとなり難儀したとのことである。この上宿を通る横山道とクロスする小川、多分、新川ではあろうと思うが、その川には駒止橋とか縁切橋といった橋が架かっていたようであるが、その面影は、今は、ない。
田無から東久留米の南沢へと辿る予定が、田無そして保谷といった現在の西東京を辿る一日となった。田無の駅を下りたときは、何にもわからなかった田無、そして保谷の歴史の一端に触れることができた。次回は寄り道せずに田無から南沢へと心に想い、保谷・志木線を南に進み、都道233号との保谷交差点を左に折れ、保谷郵便局あたりからバスに乗り、一路家路へと。 

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