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予想とおりとは言いながら、「羽村・山口」軽便鉄道の廃線歩きは、あっけなく終了した。後は、少々物足りなさが残るであろう廃線歩きを「埋め合わせる」企画ツアーと言ったもの。
堰堤から山口貯水池や狭山丘陵に集まる芝増上寺の石灯籠の「謎」、トトロの森の自然、そして最後は都下唯一の国宝建造物であるお寺さまで最後を締めることにする。


本日のルート:立川駅>横田バス堤>野山北公園自転車道>1号隧道(横田トンネル)>2号隧道(赤堀トンネル)>3号隧道(御岳トンネル)>4号隧道(赤坂トンネル)>5号隧道>藪漕ぎ>谷津仙元神社>湧水箇所>多摩湖周遊道路>フェンスが周遊道路から離れる>周遊道路に戻る>県道55号線・所沢武蔵村山立川線>玉湖神社>6号隧道>西向釈迦堂>山口貯水池堰堤>狭山不動尊>西武遊園地駅>八国山緑地>将軍塚>正福寺>東村山駅

玉湖神社
「羽村・山口」軽便鉄道の最後の隧道(6号隧道)をフェンス越しに見遣り、あっけなく終わった廃線歩きから気分を切り替え、狭山湖周辺のハイキングのガイドとして先に進む。





西向釈迦堂
道脇の少し小高いところに西向釈迦堂。丘陵下にある金乗院・山口観音の一堂宇である。釈迦堂の境内には歌碑が建つとのことだが見逃した。ダム管理事務所の所長を務め、一帯を桜の名所とした方の詠んだ句碑とのこと。「浮寝して 湖(うみ)の心を 鴨はしる」と刻まれる、と。
山口観音は一度訪れたことがある。新田義貞が鎌倉攻めのときに戦勝祈願をしたとも伝えられる古いお寺さま。ダムができる前からこの地にあったのだろうが、現在はマニ車があったり、中国風東屋、ビルマ風パゴダなどが建ち、いまひとつしっくりしないので今回はパスしダム堰堤に向かう。

山口貯水池堰堤
桜の植樹をひとりではじめ、一帯を桜の名所とした所長が勤務したであろうダム管理事務所前を通り山口貯水池堰堤に。西は広大な貯水池、東は柳瀬川が開析した谷筋の眺めが美しい。
狭山丘陵ははるか昔、多摩川が造り上げた扇状地、それは青梅を扇の要に拡がる武蔵野台地も含んだ巨大な扇状地であるが、そこにぽつんと残る丘陵地である。
狭山とは、「小池が、流れる上流の水をため、丘陵が取りまくところ」の意とも言う。この語義の通り、かつては柳瀬川が浸食した狭い谷あいの水を溜め、農業用水や上水へと活用していたこの狭山丘陵の浸食谷を、昭和9年(1934)に堰止めつくりあげたのが狭山湖(山口貯水池)である。
羽村取水堰と小作取水堰より導水され狭山湖(山口貯水池)に貯められた水は、ふたつの取水塔をとおして浄水場と多摩湖に送られることになる。第一取水塔からは村山・境線という送水管で東村山浄水場と境浄水場(武蔵境)に送られ、第二取水塔で取られた原水は多摩湖に供給される。また、多摩湖(村山貯水池)からは第一村山線と第二村山線をとおして東村山浄水場と境浄水場に送られ、バックアップ用として東村山浄水場経由で朝霞浄水場と三園浄水場(板橋区)にも送水されることもある、と言う。

狭山不動尊
堰堤を離れ、次は狭山不動尊に向かう。このお不動さんに訪れたのはこれで三度目である。最初は全国から集めた著名な建造物や幾多の徳川家ゆかりの石灯籠・宝塔が並ぶ、といったそれなりの印象で通り過ぎたのだが、いつだったか辿った清瀬散歩で気になった出合いを深掘りすると、狭山不動にからむおもしろい歴史が登場し、そのエビデンスを確認しに再訪。そして今回は三回目。そのストーリーをパーティの皆さんに「共有」すべくご案内することにした。

経緯はこういうことである;清瀬を散歩しているとき、それほど大きなお寺さまでもないのだが、その境内に誠に立派な一対の宝塔が並び、それは徳川将軍家の正室の墓碑であった。また、境内には15基の立派な石灯籠もある。徳川将軍家の法名や正室、側室の法名が記されている、とのことである。
はてさて、何故に清瀬のこの地に徳川将軍家ゆかりの宝塔(墓碑)や石灯籠があるのだろうと気になったのでチェックすると、なかなか面白い歴史が現れてきた。
ことのはじめは昭和20年(1945)の東京大空襲。徳川将軍家の霊廟(墓所)がある増上寺の大半が灰燼に帰した。廃墟となった霊廟跡は昭和33年(1958)に西武鉄道に売却され、東京プリンスホテルや東京プリンスホテルパークタワーとなる。そして廃墟に散在していた将軍家ゆかりの宝塔や石灯籠は、西武鉄道の手により狭山の不動寺に集められる。
一部は狭山不動寺に再建されるも大半は野ざらし。その敷地も西武球場とするにあたり、宝塔や石灯籠の引き受け手を求めたようである。清瀬のお寺様で見た、宝塔や石灯籠はその時に狭山不動寺から移したものであった。
桜井門
堰堤から狭山不動に向かう。丘陵下の正面から入ることなく、堰堤に続く道から直接お不動さんの境内に入る。奈良県十津川の桜井寺の山門を移築した桜井門から境内に入る。灯籠群脇、道の両側に石灯籠が並ぶ。




青銅製唐金灯籠群
中を先に進むと灯籠群に四方を囲まれ、港区麻布より移築された井上馨邸の羅漢堂が佇む。その裏手の囲いの中にはおびただしい数の青銅製唐金灯籠群。増上寺の各将軍霊廟に諸侯がこぞって奉納したものであろう。その数に少々圧倒される。



石灯籠群
参道を下り本堂に。もとは東本願寺から移築した堂宇があったとのことであるが、不審火にて焼け落ち、現在は鉄筋の建物となっている。その本堂を取り囲むように幾多の石灯籠が並ぶ。銘を見るに、増上寺とある。全国の諸侯より徳川将軍家、そしてその正室や側室に献上され、霊廟や参道に立ち並んだものである。

第一多宝塔
本堂右脇をすすむと第一多宝塔。大阪府高槻市畠山神社から移築したもの。その脇には桂昌院を供養する銅製の宝塔。桂昌院とは七代将軍家継の生母である。





丁子門
 本堂の裏手にも無造作に石灯籠や常滑焼甕棺が並ぶ。将軍の正室や側室のもと、と言う。また、本堂裏の低地には丁子門。二代将軍秀忠の正室崇源院お江与の方の霊牌所にあったもの。本堂左手脇には滋賀県彦根市の清涼寺より移した弁天堂がある。
本堂脇、左手の参道を上ると第二多宝塔。兵庫県東條町天神の椅鹿寺から移築。室町時代中期建立のものである。その右手には大黒堂。柿本人麿呂のゆかりの地、奈良県極楽寺に建立された人麿呂の歌塚堂を移築したもの。


総門
本堂下に総門が建つ。長州藩主毛利家の江戸屋敷にあったものを移した。この門は華美でなく、素朴でしかも力強い。いかにも武家屋敷といった、印象に残る門である。誠に、誠に、いい。この門に限らず、この不動院には徳川将軍家ゆかりの遺稿だけでなく、全国各地の由緒ある建物も文化財保存の目的でこの寺に移されている。



御成門
正門に下る途中に御成門が迎える。これも台徳院霊廟にあったもの。飛天の彫刻があることから飛天門とも呼ばれる。都営三田線御成門駅の駅名の由来にもなっている門である。勅額門も御成門も共に重要文化財に指定されている。







勅額門
石段を下りるとエントランスには勅額門。芝増上寺にあった台徳院こと、二代将軍秀忠の霊廟にあった門である。東京大空襲で残った数少ない徳川家ゆかりの建物のひとつ。勅額門とは天皇直筆の将軍諡号(法名)の額を掲げた門のことである。門の脇には御神木。この銀杏の大木は太田道灌が築いた江戸城址にあったもの、と言う。




西武遊園地駅
次の目的地は「隣のトトロ」の舞台モデル地のひとつと言われる「八国山緑地」。ひとりであれば、多摩湖(村山貯水池)をふたつに分ける村山上貯水池辺りから村山下貯水池の北を村山下貯水池堰堤まで歩くのだが、パーティの皆さんはそれほど歩きたい訳でもなさそうであり、狭山不動の近くにある西武球場駅から西武レオライナーに乗り西武遊園地まで進むことにする。西武園線西武園駅で下車。多摩湖堰堤にちょっと立ち寄る。



八国山緑地
多摩湖堰堤にちょっと立ち寄った後、いかにも西武園への入口といったエントランスの脇に沿って道を進み、八国山緑地の入口に。芝生の丘のむこうに森が見える。案内版によれば八国山の散歩道は何通りかあるが、今回は尾根道ルートを選ぶ。
丘陵を登り尾根道を進む。いつだったか、以前この八国山を訪れたとき、雨上がりでむせかえるような木の香りに圧倒されたことを想い出した。森の香り・フィトンチッドではあった、

トトロの森
この森のことを「トトロの森3号地」と呼ぶ。トトロの森は5号地まであり、八国山の対面、柳瀬川に開析された谷、といっても、現在は宅地で埋め尽くされてはいるのだが、その対岸の丘陵、狭山丘陵の東の端の鳩峰公園に隣接して「トトロの森2号地」。村山下貯水池の堰堤防の手前、清照寺方面に右折した堀口天満神社あたりから入る森が「トトロの森1号地」。狭山湖の北側に「トトロの森4号地と5号地」。1号地から5号地までは幾度かの狭山散歩の下りに辿った。 と、メモしながら確認のためにトトロの森をチェックすると、現在では29号地まで増えていた。直近で狭山丘陵を訪れた以降も、ナショナルトラストにより集まった基金で自然保護地区を増やしていったのであろう。

ナショナルトラスト
はじめて「トトロの森」を歩いた時は、「隣のトトロ」の舞台となったモデル地故に「トトロの森」と称された、といった程度に考えていた。が、実際は狭山丘陵の自然を守る基金集めのキーワードとして、宮崎駿監督の承諾を得た上で「トトロの森」を冠したナショナルトラスト事業のことであった。

ナショナル・トラストとは、市民や企業から寄付を募り、自然や歴史的建造物などを買い取り保全され、後世に残そうとす運動のこと。明治28年(1895)に英国ではじまった。この狭山丘陵ではいくつもの市民団体により「トトロのふるさと基金」として誕生。平成3年(1991)に「トトロの森1号地」を取得、以後も活動を拡げ1998年に財団法人トトロのふるさと財団となって活動を続けている。その結果が29もの取得地となっているのだろう。
宮崎駿監督
これも、いつだったか、清瀬を散歩しているとき、西武池袋線・秋津駅の近くに秋津神社があった、その神社の端から柳瀬川方向を見下ろすと豊かな林が目に入る。林に向かって小径を下ると湧水とおぼしき池、そして美しい雑木林が拡がっていた。林の中を彷徨うと「淵の森」とある。柳瀬川の両岸に拡がるこの森は、市民が自然環境を守るため活動を行っている、とのことである。 会長はジブリの宮崎駿さん。秋津三郎とのペンネームをもつ宮崎さんは、このあたりに住んでいる(いた)のだろう。柳瀬川を遡り、狭山丘陵の現在では「トトロの森」と名付けられた森のあたりを散策し、トトロの構想を練った、とも聞く。

将軍塚
尾根道を進み将軍塚に。将軍塚のあたりが八国山の東の端。八国山の名前の由来によれば、「駿河・甲斐・伊豆・相模・常陸・上野・下野・信濃の八か国の山々が望められる」わけだが、木が生い茂り遠望とはほど遠い。
将軍塚とは新田義貞が鎌倉幕府軍に相対して布陣し、源氏の白旗を建てたことが名前の由来。この地域で新田の軍勢と鎌倉幕府軍が闘った。府中の分倍河原で新田軍が鎌倉幕府軍を破った分倍河原の合戦に至る前哨戦であったのだろう。戦いの軌跡をまとめておく。



新田義貞
元弘三年(1333)、新田義貞は鎌倉幕府を倒すべく上州で挙兵。5月10日、入間川北岸に到達。鎌倉幕府軍は新田軍を迎え撃つべく鎌倉街道を北進。5月 11日に両軍、小手指原(埼玉県所沢市)で会戦。勝敗はつかず、新田軍は入間川へ、鎌倉軍は久米川(埼玉県東村山市)へ後退。
翌5月12日新田軍は久米川の鎌倉幕府軍を攻める。鎌倉幕府軍、府中の分倍河原に後退。5月15日、新田軍、府中に攻め込むが、援軍で補強された幕府軍の反撃を受け堀兼(埼玉県狭山市)に後退。
新田軍は陣を立て直し翌日5月16日、再度分倍河原を攻撃。鎌倉軍総崩れ。新田軍、鎌倉まで攻め上り5月22日、北条高時を攻め滅ぼす。鎌倉時代が幕を閉じるまで、旗挙げから僅か14日間の出来事であった。
いつだったか東村山から小手指まで歩いたことがある。その折りに、久米川古戦場跡、小手指原の古戦場跡を辿ったのだが、小手指原の古戦場跡はそれなりの風情を伝えていたが、久米川古戦場跡は普通の公園といったものであった記憶が残る。

正福寺
将軍塚から次の目的地である正福寺に向かう。八国山の尾根道から成り行きで丘陵を南に下り、新山手病院、東京白十字病院脇を抜ける。「隣のトトロ」の七国山病院のモデルとなった病院とか。
地蔵堂
道なりに進み都下唯一の国宝建造物の残る正福寺に。境内には鎌倉の円覚寺舎利院とともの禅宗様式の代表美を伝える堂宇が建つ。それが都下唯一の国宝建造物である地蔵堂である。上層屋根は入母屋造の?葺き(こけらぶき)で、下層屋根は板葺とのこと。元は茅葺(かやぶき)屋根だった、と。
いつだったかこのお寺様を訪れたときは、地蔵堂を囲む垣根は造り直されて間もないようで、お堂の渋さとシンクロしてはいなかったのだが、今回は風雪に耐え、堂宇と少しは調和するようになっていた。地蔵堂の前に案内。

正福寺千体小地蔵尊像
「東村山市指定有形民俗文化財 正福寺千体小地蔵尊像
所在:東村山市野口町4-6-1 指定:昭和47年3月31日指定第11号
正福寺地蔵堂は千体地蔵堂と呼ばれるとおり、堂内には、多くの小地蔵尊が奉納されています。一木造り、丸彫りの立像で、高さが10-30cm位のものが大部分です。何か祈願する人は、この像を一体借りて家に持ち帰り、願いが成就すればもう一体添えて奉納したといわれます。
指定されている小地蔵尊は約900体です。背面に文字のあるものは、約270体で、年号のわかるものは24体です。正徳4年(1714)から享保14年(1729)のものが多く、奉納者は現在の東村山、所沢、国分寺、東大和、武蔵村山、立川、国立m小金井の各市にまで及んでいます。なお地蔵堂内には1970年代に奉納された未指定の小地蔵尊像約500体も安置されています。平成5年(1993)3月 東村山市教育委員会」
正福寺千体地蔵堂本尊
「東村山市指定有形文化財 正福寺千体地蔵堂本尊
所在:東村山市野口町4-6-1 指定:昭和48年3月31日 指定第12号 地蔵堂の本尊は、木像の地蔵菩薩立像で堂内内陣の須弥壇に安置されています。右手に錫杖、左手に宝珠をもつ延命地蔵菩薩で、像の高さ127cm、台座部分の高さ88cm、光背の高さ175cm、錫杖の長さ137cm。
寺に伝わる縁起には古代のものと伝えられ、また一説には、中世のものとも伝えられていますが、昭和48年の修理の際に発見された墨書銘によって、文化8年(1811)に江戸神田須田町万屋市兵衛の弟子善兵衛の作であることがわかりました。 平成5年(1993)3月 東村山市教育委員会」
地蔵尊建立時期
「寺に伝わる縁起には古代のものと伝えられ、また一説には、中世のものとも伝えられていますが」とあるのは、本尊の延命地蔵菩薩は古代、長谷寺の観音像を像流した仏師であるとか、中世、北条時宗がこの地での鷹狩りの折り、疫病にかかり、夢枕に出た地蔵菩薩に救われたことを感謝して飛騨の匠をして七堂伽藍を造営したといった縁起があるが、その時に地蔵尊を造立した、と伝えられてきたのだろう。なおまた、地蔵堂の建立時期も昭和33年からの解体工事の際に見つかった資料により、室町時代の1407年の建立と推定されるようになった。
千体地蔵信仰
千体地蔵信仰は、平安の中頃からひろまった末世思想の影響のもと、京都を中心に本尊に合わせて千体の小さな地蔵菩薩立像が並べられる幾多のお堂が現れる。功徳を「数」で現そうとして信仰形態。2000年に焼失した大原の寂光院、栂尾高山寺や蓮華王院三十三間堂にその形を残す。
しかしながら、この正福寺の千体地蔵は、上記信仰と少しニュアンスが異なる。案内にあるように、菩薩の功徳を数の多さで現した信仰とはことなり、願いを叶えた衆生の感謝の気持ちが集まった結果の千体、ということであろう。

貞和の板碑
貞和の板碑(じょうわのいたび)東村山市指定有形民俗文化財(昭和44年3月1日指定) この板碑は、都内最大の板碑と言われ、高さ285cm(地上部分247cm)、幅は中央部分で55cmもあります。
貞和5(1349)年のものです。碑面は、釈迦種子に月輪、蓮座を配し、光明真言を刻し、銘は「貞和五年己丑卯月八日、帰源逆修」とあり、西暦1349年のものです。
この板碑はかつて、前川の橋として使われ、経文橋、または念仏橋と呼ばれていました。江戸時代からこの橋を動かすと疫病が起きると伝えられ、昭和2年5月、橋の改修のため板碑を撤去したところ、赤痢が発生したのでこれを板碑のたたりとし、同年8月に橋畔で法要を営み、板碑をここ正福寺境内に移建したとのことです。昭和38年には、板碑の保存堂を設けたそうです。

東村山駅
所定の散歩ルートを終え、最寄りの駅である西武線・東村山駅に。この駅は西武国分寺線と西武新宿線が合わさる。駅の東口に大小ふたつの石碑が建つ。共に東村山停車場関連の石碑である。
東村山停車場の碑
脇の案内に拠ると「東村山停車場の碑  東村山は北多摩地域でも早い時期に鉄道が開通した所です。明治二十二年(1889)に甲武鉄道(現中央線)の新宿と立川間が開通すると、やがてその国分寺と埼玉県の川越を結ぶ川越鉄道が計画されました。そして明治二十七年(1894)に国分寺と東村山間の工事が完成しましたが柳瀬川の鉄橋工事が難行したので、やむなく現在の東村山駅北方に仮設の駅(久米川仮停車場)を置き、国分寺‐久米川仮停車場間で営業を開始しました。翌明治二十八年(1895)鉄橋も完成し国分寺‐川越間が開通するのに伴い、仮設の駅は廃止されることとなりました。しかし、東村山の人々は鉄道の駅の有無は地域の発展に大きく影響すると考え。約二百五十人もの寄付と土地の提供により、同年八月六日にようやく東村山停車場の設置にこぎつけました。
時の人々の考えたとおり鉄道は地域の発展に欠かせないものとなり、その後の東村山の発展の基礎となりました。東村山停車場の碑は、こうした当時の人々の努力を後世に残すため、明治三十年(1897)に建てられたものです。 東村山市教育委員会」とある。
鉄道開通100周年記念碑
小さな石碑は「鉄道開通100周年記念碑」。石には「明治27年(1894年)国分寺 久米川間に川越鉄道が開通して今年(平成6年)で100周年を迎えました。 往時の東村山駅は現在より所沢寄りにあり、久米川停車場と呼ばれておりました。
私共は満100年の節目にあたり 歴史を振り返り、まちのさらなる発展と、これからのまちづくりを考える機会とするため、駅周辺の有志が集まり 写真展 お祭り広場 そして臨時列車「銀河鉄道」の運行など多くの記念事業を実施いたしました。
この事業を記念し未来の市民に継承するため碑をここに建立します。
平成6年9月吉日  鉄道開通100周年記念事業実行委員会」と刻まれていた。
川越鉄道と東村山駅
川越鉄道は、明治22年(1889)に新宿と八王子間に開通した甲武鉄道の支線として国分寺から、当時の物流の拠点であった川越へと結ばれた。川越は江戸の頃から新河岸川の舟運を利用し、川越近郊だけでなく、遠く信州・甲州からの荷を大江戸に送る物流幹線の拠点であった。
この舟運業で潤っていたためでもあろうか、「川越」を冠する川越鉄道ではあるが、その発起人には川越の商人の名は独りとしていない。舟運との競業を危惧したため、とも言われる。
同じく、立派な石碑の建つ東村山にも発起人はいないようだ。それでも駅ができたのは、上でメモした柳瀬川架橋の反対運動がきっかけ。柳瀬川架橋の長さが十分でなく、増水時に洪水を引き起こす原因になると激しい反対運動が起こり、橋梁の設計変更となったため工事が大幅に遅れることになった。そのため柳瀬川手前に暫定駅・久米川仮停車場を設け川越鉄を暫定開業した。
その後、橋梁が完成し、久米川仮停車場は廃止されることになるが、住民は停車場の設置を川越鉄道に陳情し、工事資金と用地を提供することにより、東村山停車場が開業することになった、とのことである。

 ●東村山軽便鉄道
鉄道と言えば、東村山停車場の碑の右手に高層ビルがある。この地は村山貯水池建設のところでメモした東村山軽便鉄道の始点。大正9(1920)年に敷設された。
村山貯水池建設の砂利・資材は、中央線国分寺駅を経由し、川越鉄道で東村山駅まで運ばれ、駅前にあった材料置き場に集められた。軌道の違い故に、材料置き場で東山軽便鉄道に積み替えられた建設資材は南に少し下り、鷹の道(清戸街道)を右に折れ、村山貯水池の北を進み、現在の多摩自転車で右に折れ、武蔵大和駅へと北西に進む。ルートはそこでふたつに別れ、ひとつは村山下貯水池堰堤下に清美橋を渡って進む。もうひとつは宮鍋隧道を抜け貯水池内に入っていたようである。

本日の散歩はこれで終了。羽村・山口軽便鉄道の廃線歩きは、予想通り、あっけなく終了となったが、散歩の最後で、思いもかけず村山貯水池建設資材を運搬した東村山軽便鉄道始点辺りにも出合い、それなりに収まりのいいエンディングともなった。少し涼しくなったとき、今回パスした羽村から横田トンネルまでの羽村・山口軽便鉄道(羽村・村山軽便鉄道でもあり、羽村・村山送水路渠跡でもある)を歩いて見ようと思う。

いつだったか、奥多摩の水根貨物線跡を退任前の会社の仲間と辿ったとき、「廃線」歩きにフックが掛かったのか、どこか近場の廃線を歩きたい、との話になった。
結構な難題である。最初に行った廃線歩きが、廃線歩きの「切り札」といった水根貨物線跡を歩いたわけで、それ以上の「廃線」が都内近郊にあるわけもない。あれこれ考えた結果、軽便鉄道「羽村・山口」線跡に残る隧道を「廃線」歩きのコアとし、それだけでは到底物足らないであろうから、狭山湖、そして「隣のトトロ」のモデルともなった、トトロの森を歩き、最後は都下唯一の国宝建造物である東村山の正福寺で締める、といった「廃線+自然+文化」の合わせ技で難題を切り抜けることにした。
狭山湖多摩湖トトロの森正福寺といった狭山丘陵やその周辺は幾度となく辿っているのだが、狭山丘陵を掘り抜き、通称「狭山湖」、正式には「山口貯水池」建設の土砂や資材を運んだ軽便鉄道「羽村・山口」線跡の隧道には行ったことがなく、一度は行って見たいと思っていたのも、このルートを選んだ主因でもある。
軽便鉄道「羽村・山口」線跡の狭山丘陵を穿つ隧道は6箇所、そのうち4箇所は「自転車道」として整備され通り抜けできるが、残りの二つは閉鎖されており、通り抜けできないようである。今回の散歩の私の興味関心は、この軽便鉄道「羽村・山口」線跡の隧道歩きだけであり、後のルートは同行者へのカスタマー・サティスファクション(顧客満足度)のためのもの。閉鎖隧道が、ひょっとして通り抜けれ得る?との想いも抱きつつ、待ち合わせ場所のJR立川駅に向かった。


本日のルート:立川駅>横田バス堤>野山北公園自転車道>1号隧道(横田トンネル)>2号隧道(赤堀トンネル)>3号隧道(御岳トンネル)>4号隧道(赤坂トンネル)>5号隧道>藪漕ぎ>谷津仙元神社>湧水箇所>多摩湖周遊道路>フェンスが周遊道路から離れる>周遊道路に戻る>県道55号線・所沢武蔵村山立川線>玉湖神社>6号隧道>西向釈迦堂>山口貯水池堰堤>狭山不動尊>西武遊園地駅>八国山緑地>将軍塚>正福寺>東村山駅

立川駅
立川駅で下車し、北口より立川バスで最寄りのバス停である「横田」に向かう。軽便鉄道「羽村・山口」線は多摩川の羽村から現在の米軍横田基地敷地を横切り「横田」バス堤付近へと繋がっていた。
自分ひとりであれば、羽村から歩いたではあろうが、現在ではこれといった遺構もない住宅地を同行者に9キロ弱歩いてもらう訳にもいかず、軽便鉄道が狭山丘陵に接近し、隧道が始まる地である「横田」バス停をスタート地点とした訳である。

横田バス堤
30分弱で横田バス堤に到着。バス停は青梅街道に沿ってある。バス停少し西に戻ると、青梅街道を斜めに横切る道がある。現在は「野山北公園自転車道」となっているが、そこが軽便鉄道「羽村・山口線」の跡地を利用したサイクリングロードである。

野山北公園自転車道
野山北公園自転車道は、現在、羽村で取水され、地下導管によって多摩湖(村山貯水池)に送られる羽村・村山線の送水ルート上を走る。自転車道は米軍横田基地の東から青梅街道を越え、都立野山北・六道山公園の東端辺り、狭山丘陵に開削された6つの隧道のうち、4つ目まで続く。
野山北・六道山公園は、いつだったか3度に分けて狭山湖周辺を散歩したときに出合った。六地蔵を越え、宮戸入谷戸の里山の景観を楽しみながら、箱根ヶ崎を経て狭山湖を一周したことが想い出される。

1号隧道(横田トンネル)
野山北公園自転車道を進み、都道55号とクロスする先にトンネルが見える。それが最初の隧道である1号隧道(横田トンネル)。夕刻にはシャッターが閉じられるようだ。
少し水漏れもする隧道の長さはおおよそ150mほど。照明設備も整ったトンネルを抜けると住宅地が目に入る。地形図で見ると、隧道は130m等高線が南に舌状に突き出た西から入り東へ出ている。出たところは谷戸状になっており、そこに宅地が建っているようだ。

2号隧道(赤堀トンネル)
宅地の間の道を先に進むと、ほどなく二番目の2号隧道(赤堀トンネル)が見える。少々水漏れがする90m強の隧道を抜けると宅地になっている。
2号隧道も1号隧道と同じく、130m等高線が南に舌状に突き出た西から入り東へ出ており、ここも同じく谷戸状となっており、そこに宅地が建っている。

3号隧道(御岳トンネル)
2号隧道を抜けるとほどなく3号隧道に。入口付近は狭山丘陵の森が茂る。このまま丘陵地帯に入るのかと思い、120mほどの隧道を抜けると、なるほどフェンスに仕切られた舗装道の左右は木々が茂る。
そのまま森林に、と葉思えども、緩やかにカーブする道を進むと、車道にあたり、周辺に宅地が見える。隧道には車道にあたる箇所で直角に曲がり進むことになる。

4号隧道(赤坂トンネル)
100mほどの隧道を抜けるとその先に車止めがあり、自転車道はここで終わる。車止めの先で道は左右、そして直進と3方向に分かれる。5号隧道は、道を直進することになる。ここから先は丘陵地の緑に包まれる。




5号隧道
舗装も切れ、左右を草木に覆われた道を進むと5号隧道が現れる。隧道は完全に閉鎖されている。この先は東京都水道局の管理下となっている。ひょっとして、立ち入り可能?などと思ってはいたのだが、ここで行き止まり。内部は泥濘となっており、入れたとしても靴はグズグズとなるだろう。軽便鉄道「羽村・山口」線の廃線歩きは、あっけなく終了した。

軽便鉄道「羽村・山口線」敷設までの経緯
ところで、いままでの廃線を軽便鉄道「羽村・山口線」とメモした。確かに横田トンネルから先は軽便鉄道「羽村・山口線」ではあるのだが、この軽便鉄道「羽村・山口線」の敷設ルートはふたつのレイヤーが関係している。ひとつは村山貯水池建設(多摩湖)にともなう水路渠建設の土砂・資材を運んだ軽便鉄道「羽村・村山線」であり、もうひとつは、その軽便鉄道「羽村・村山線」の路線を活用し、山口貯水池(狭山湖)建設に必要な箇所まで路線を延長し土砂や資材を運んだ軽便鉄道「羽村・山口線」である。ダム建設とそれにともなう二つの軽便鉄道を簡単にまとめておく。

村山貯水池建設と軽便鉄道「羽村・村山線」
明治の御一新により都となった東京は水問題に直面する。ひとつは人口増大に伴う水不足、そしてもうひとつは水質汚染である。折しも明治19年(1886)コレラが大流行。玉川上水を水源とし、市内(明治22年(1889)には現在の23区が東京市となった)に張り巡らされた木樋の腐朽や下水流入による水質汚染を防ぐべく、明治23年(1899)には現在の新宿西都心に淀橋浄水場の建設が計画され、明治31年(1898)、鉄管による近代的水道建設が竣工する。
この計画により水質汚染問題は改善されるも、急増する人口の水需要に対応できず、明治45年(1912)には玉川上水の他に水源を求め、検討の結果、村山貯水池の建設が決定され、大正2年から8年(1913~1919)の継続事業として施行され、大正13年(1924)に村山上貯水池が完成。昭和2年(1927)には村山下貯水地地が完成。昭和4年(1929)には、村山貯水池の水を水道水として東京市民に送る境浄水場施設補強、和田堀浄水場、境浄水場間の送水管整備などが完成した。
因みに、何故に村山貯水池を上と下のふたつに分けて建設したのか気になった。粘土を核に盛り土する当時の建設技術では、二つ合わせた巨大な貯水池の水圧に耐えうる堰堤建設が困難だったからかな?などと思いながらあれこれチェックすると、その要因は丘陵地の高低差を調整する必要があったため、とのようである。

羽村・村山線(導水渠)」の建設
村山貯水池に送る原水は羽村で取水し村山貯水池に導水する。「羽村・村山線(導水渠)」と呼ばれるこの導水路は全長8.6キロ。3つの隧道と二つの暗渠で工事現場と結ばれる。路線は羽村取水堰から第三水門まで開渠(300m)>4.4キロの隧道(青梅線・八高線・横田基地・グリーンタウン)>第一暗渠(2.4キロ)が横田の空堀川まで(現在の野山北公園自転車道路、横田トンネル手前まで)>第二隧道(647m)>第二暗渠(73m)>第三隧道(564m)と進み村山上浄水池引入導水路に接続する。
軽便鉄道「葉村・村山線」
この導水渠工事に必要な資材運搬のため建設されたのが軽便鉄道「葉村・村山線」である。大正8年(1919)起工、9年(1920)完成のこの軽便鉄道は大雑把に言えば、羽村から横田トンネル手前までがその路線であるが、正確には小作で砂利を採取>多摩川を横断橋で渡る>1キロの専用線>青梅線で福生駅まで>東京市専用軌道で「東京市材料置場」へ運ばれた、ということではあるので、軽便鉄道「葉村・村山線」の起点は福生の「東京市材料置場」とされる。
そのルートは「東京市材料置場」>第一隧道の羽ヶ下斜坑(現在の羽村市水木公園・駐車場)>その先は葉村・村山線(導水渠)に沿って第一暗渠の終わる横田トンネル手前まで続いていた。
丘陵手前で終点となる軽便鉄道「羽村・村山線」は、その先の村山上浄水池引入導水路まで続く第二隧道(647m)>第二暗渠(73m)>第三隧道(564m)> 村山上浄水池引入導水路の建設に必要な砂利・資材は、馬などを利用し運んでいた、と言う。
軽便鉄道「葉村・村山線」は、軽便鉄道とは言うものの、写真で見る限りではトラックが線路軌道に乗った木製のトロッコ数台を曳いている。そのどう見てもトラックのような形の駆動車を機関車と呼んでいたようである。
なお、この軽便鉄道「葉村・村山線」は導水路渠の敷設資材運搬のために建設されたもので、村山貯水池本体の砂利・資材の運搬は(砂利)>青梅鉄道>中央線>川越鉄道(現、西武鉄道)>(砂利・資材)>東村山で東村山軽便鉄道(東京市軽便鉄道)のルートで貯水池堰堤へと運ばれたとのことである。

山口貯水池建設と軽便鉄道「羽村・山口線」
昭和4年(1929)に完成した村山貯水池であるが、その建設中には既に人口増大に伴う水不足が予見され、大正14年(1936)には対策が検討され、結果、村山貯水池の北側に隣接する、三方を丘陵に囲まれた袋地の口元の上山口に堰堤を築く山口貯水池建設が計画される。
建設は昭和2年(1927)から昭和8年(1933)の継続事業とされ、昭和3年(1928)着工、昭和4年(1929)堰堤敷掘削、盛土工事は昭和5年(1930)に着工し堰堤工事は昭和7年(1932)に竣工し通水、昭和9年(1934)貯水池工事が完了する。
山口貯水池の原水は村山貯水池の導水渠「羽村・山口」線の終端の開渠部分(引入導水路)に引入口を設け、山口貯水池の堰堤付近まで延長し導水した。全長10.4キロ。村山貯水池の導水渠「羽村・山口」線と共用したためだろうか、多摩川の水量豊富な時期に導水・貯水することにした、とのことである。昭和5年(1930)7月着工、昭和7年(1932)に竣工。なお、現在は昭和55年(1980)に完成した小作取水堰(羽村取水堰の2キロ上流)より多摩川の道を取り入れ、地下導水管で山口貯水池まで水を送っている。
軽便鉄道「羽村・山口」線
で、やっと今回歩く軽便鉄道「羽村・山口」線のまとめ。この軽便鉄道「羽村・山口」線と前述の軽便鉄道「羽村・村山」線の最大の相違点は、「羽村・村山」線が村山貯水池への導水渠の工事に関係した砂利・資材の運搬であったのと事なり、「羽村・山口」線は山口湖建設に必要なすべての砂利・資材の運搬に使用されたということである。
ルートは羽村取水堰から横田までの8.7キロは羽村・村山線導水渠上に軌道を敷設、その先、横田より山口貯水池堰堤南端までの3.9キロは羽村・村山線(導水渠)沿いに進み、村山上貯水池を抜け、山口貯水池堰堤まで続いた。工事は昭和3年(1928))起工、昭和4年(1929)中頃完成した。
村山貯水池の本体工事の砂利・資材は前述の通り、幾つもの路線、いくつもの民間業者を経て村山から東村山軽便鉄道で工事現場に運ばれたが、効率が悪かったようで、敷設工事は東京市の直轄事業としたとのことである。

軽便鉄道「羽村・山口線」のルート
砂利採取場>砂利運搬路>砂利運搬桟橋>インクライン>川崎詰替所>石畑交換所(横田基地内)>岸交換所>残堀砕石場>(山王森公園あたりで引き込み線から本線に)桃ノ木交換所>横田交換所(村山市第一中学校北)>横田車庫(横田児童公園)>(材料運搬軌道)>交換所>車庫

その後の東京の水道事業
この村山貯水池、山口貯水池の建設を「第一次水道拡張事業」と称するが、この事業が完成する前より、水不足が予見され、「第二次水道拡張事業」が計画される。目玉は奥多摩の小河内ダムと東村山浄水場の建設。昭和11年(1936)着工するも、戦時で中断。昭和23年(1948)再開し昭和32年(1957)の竣工式。昭和35年(1960)には東村山浄水場への通水が開始された。
続いて、「第三次水道拡張計画」。昭和15年(1940)、利根川を水源とする第三次水道拡張計画答申されるも、戦争のため延期され、昭和39年(1964)起工。同年、荒川の水が東村山浄水場に導水、昭和40年(1965)、利根川と荒川を結ぶ武蔵水路も完成した。
この武蔵水路の完成により、利根川・荒川の水と多摩川の水を相互に利用できるようになった。現在、東村山浄水場と朝霞浄水場の間には、原水連絡管が設置され、利根川・荒川の水と多摩川の水を「やり取り」できるようにもなっている。東京の水のネットワークは時代と共に拡大しているわけである。

藪漕ぎ
5号隧道前で行き止まり。左右は木々に覆われている。道を戻るのも「うざったい」。地図を見ると、隧道上には多摩湖周遊道路が通っており、その手前、右手の丘陵を登った辺りに谷津仙元神社が見える。特段の道はないけれど、藪漕ぎし谷津仙元神社を目安に丘陵を登れば多摩湖周遊道路に行けそうに思う。
ということで、適当な所から成り行きで藪漕ぎ開始。パーティの皆さんは、木々を踏みしだき、道なき道を力任せで進む藪漕ぎは初体験。ちょっと戸惑ったようだが、谷津仙元神社までそれほど距離もなく、木を掴みながら何とか上ってきた。

谷津仙元神社
谷津仙元神社は誠にささやかな社であった。社殿は文化3年(1806)の再建、と言う。社の石段下に案内。案内には、「谷津仙元神社富士講 武蔵村山市指定無形民族文化財 指定十八号 平成13年12月10日指定
谷津仙元神社は、富士講を信仰行事とする都内でも数少ない団体です。武蔵村山の谷津地区に富士講を伝えたのは星行で、谷津の農民の山行星命(俗名藤七)が直接教えを受けました。谷津富士講が興ったのは、寛政から文化期であったようです。社の裏の小高い富士塚は、登山できない人達がここに登り富士山を遥拝しました。谷津富士講の主な行事は、1月1日の「初読み」、5月5日の「本祭り」、冬至の日の「星祭り」があります」とあった。
社裏の小高い塚は富士塚であった。富士塚の上には「浅間神社」の小祠があるようで、浅間>仙元と変わったのだろう。同じようなケースが、いつだったか、東日原から秩父に抜けた峠にあった。峠の名は仙元峠。そこには「浅間神社」の小祠が祀られ、富士に行けない村人がそこから富士を遙拝した、という。また、その峠の「仙元」の意味は「水の源」とあった。「谷津」も丘陵に挟まれた地で、その最奥部には崖下から湧水が涌くことが普通である。「谷津」との関連で浅間が仙元へと転化したのだろうか。単なる妄想。根拠なし。

富士講
散歩の折々で富士塚に出会う。散歩をはじめて最初に出合ったのが、狭山散歩での「荒幡富士」と称される富士塚であった。また、葛飾(南水元)の富士神社にある「飯塚の富士塚」や、埼玉・川口にある木曾呂の富士塚など、結構規模が大きかった。
富士講は江戸時代に急に拡大した。「江戸は広くて八百八町 江戸は多くて八百八講」とか、「江戸にゃ 旗本八万騎 江戸にゃ 講中八万人」といった言葉もあるようだ。
富士塚は富士に似せた塚をつくり、富士に見なしてお参りをする。富士信仰のはじまりは江戸の初期、長谷川角行による。その60年後、享保年間(17世紀全般)になって富士講は、角行の後継者ふたりによって発展する。ひとりは直系・村上光清。組織を強化し浅間神社新築などをおこなう。もうひとりは直系・旺心(がんしん)の弟子である食行身禄。食行身禄は村上光清と異なり孤高の修行を続け、富士に入定(即身成仏)。この入定が契機となり富士講が飛躍的に発展することになる。
食行身禄の入定の3年後、弟子の高田藤四郎は江戸に「身禄同行」という講社をつくる。これが富士講のはじめ。安永8年(1779)には富士塚を発願し高田富士(新宿区西早稲田の水稲荷神社境内)を完成。これが身禄富士塚のはじまり、と伝わる。その後も講は拡大し、文化・文政の頃には「江戸八百八講」と呼ばれるほどの繁栄を迎える。食行身禄の話は『富士に死す:新田次郎著』に詳しい。

湧水箇所
谷津仙元神社を離れて多摩湖周回道路へと向かう。その出合い箇所にふたつの石柱が建ち、その前に涸れてはいるが湧水箇所が目に入る。石柱には「金命水」、「銀命水」と刻まれる。







多摩湖周遊道路
多摩湖周遊道路に出る。両側は高いフェンスで囲まれており、5号隧道の出口方面へと入り込める箇所は見あたらない。残念ながら5号隧道出口確認は諦め、 道に沿って整備されたサイクリングロードを見遣りながら先に進む。






フェンスが周遊道路から離れる
しばらく進むと多摩湖を囲む、というか東京都水道局の管理地域を囲むフェンスが周遊道路から離れ、右に向かう。フェンスに沿って道があるかどうか不明だが、大きく弧を描く周遊道路と合わさっており、うまくいけばショートカットになる。後から地図で見ると、このフェンス沿いの道が東京都と埼玉県の境となっていた。





周遊道路に戻る
フェンスに沿って進むと周遊道路に出合った。出合ったのはいいのだが、結構高い石垣に阻まれる。フェンス横の石垣に木が立て掛けられている。誰かが、この石垣を登るため置いたものだろう。取り敢えず木に取り付いてみるが、微妙に石垣上端へと取り付きが足りず、さて、と思っていると、その隙に木登りなど勘弁と思ったパーティ諸氏が石垣下を進み、周遊道路に簡単に登れる箇所を見付け、さっさと周遊道路に登っていった。私も後を追う。



県道55号線・所沢武蔵村山立川線
周遊道路を進む。この道も東京都と埼玉県の境を画する。しばらく進むと周遊道路は県道55号線・所沢武蔵村山立川線と併走する。これから山口貯水池(狭山湖)堰堤まで、山口貯水池と村山貯水池を隔てる丘陵地の尾根道を進むことになる。

途中、水道局管理地に入るゲートと、導水管が村山上貯水池に注ぐ辺りに続く巡視路といった道が見える。中に入りたい、歩きたいとは思えども致し方なし。
勝楽寺
道を境に、東京都側の地名は「多摩湖」、一方、埼玉県側は「勝楽寺」とある。山口貯水池の引入水路、引出水路の用地は埼玉県の山口、宮寺、元狭山、吾妻、東京都西多摩郡の石畑、北多摩郡の村山、東村山の7ヶ村がその対象となったとのことだが、貯水池中心部は山口村。勝楽寺は上山口とともに山口村の大字の地名であった。
湖底に沈む前は狭山丘陵の谷奥の山口村は所沢から青梅、八王子へと抜ける道筋で、村民は農業や所沢絣・飛白(かすり)の生産に従事していた、とのことである。

玉湖神社
東京都水道局の管理ゲートを過ぎ、村山上貯水池と山口貯水池を隔てる丘陵が最も狭まった辺りに玉湖神社。「たまのうみ」と詠むようだ。コンクリート造りの社は昭和9年(1934)竣工したもの。東京都水道局の職員が、貯水池には水神様が必要でしょう、ということで昭和10年(1935)に府中の大国魂神社の宮司により遷宮式が執り行われた、と言う。




6号隧道
玉湖神社を少し村山貯水池に向かって下る。5号隧道を抜けた軽便鉄道「羽村・山口線」の路線が、玉湖神社の少し南を進み6号隧道に続く、と言う。 成り行きに下ると、如何にも路線敷地跡といった風情を残す道筋がある。5号隧道方面は直ぐ閉鎖され行き止まり、と言う。山口貯水池へと向かう6号隧道方面に進むが、こちらも直ぐにフェンスで行く手を遮られる。県道55号を潜る線路跡の先に6号隧道が見えるが、ここで行き止まり。
5号隧道から先は線路跡に沿っては進めないだろうとは思っていたので、予定通りといえばそれまでだが、少し残念ではある。

予想通りとはいいながら、廃線歩きはあっけなく終えた。今回のメモはここまで。残りのフォローアップ、というか「顧客満足度向上」のルートメモは次回に廻す。
先回の散歩で調布から狛江道を狛江駅まで辿り、荏原郡衙の道と品川湊への品川道への分岐点である世田谷区喜多見の慶元寺まで歩き終えた。泉龍寺で思いもかけず美しい鐘楼門や緑豊かな弁財天池緑地を堪能し、狛江道散歩を終えたわけだが、散歩の途中で出合った泉龍寺の湧水池からの流れの行方、六郷用水の名残を残す橋名、そして、幾度となく出合った如何にも水路跡といった緑道のことが気になっていた。
水路跡をチェックすると、それは六郷用水からの分水であり、また用水開削に拠って切り離された「旧野川」の流路跡であった。かつて野川は現在の流れより西を流れており、現在の野川の流れは、かつての「入間川」の川筋であったようである。
多摩川の取水口から開削された六郷用水は「旧野川」の水を集め、さらに東に向かい入間川をも繋ぎ、用水路として南に下った。 六郷用水によって流れを切られた「旧野川」の川筋は岩戸川(岩戸用水)と名前を変え、狛江から喜多見一帯を潤した。泉龍寺からの湧水も六郷用水の分水を集め「清水川」として南東に流れ、「岩戸川・岩戸用水」に繋がれた、とも。
 現在入間川は野川に合流し、かつての入間川の流路は野川と称される。六郷用水が使われなった後、旧野川の瀬替えを行い入間川に繋いだわけだが、合流点の下流を「野川」とした。少しオーバーではあるが、人工的な「河川争奪」がおこなわれた。入間川の流路が野川に奪われたわけである。

そして古墳。当日は調布でふたつほど古墳に出合い、また狛江でも亀塚古墳など幾つかの古墳を訪ねたので、その時は気にもならなかったのだが、よくよく考えてみれば、往昔「狛江百塚」と称されたほど狛江である。
先日の散歩で出合った古墳だけではないだろうとチェックすると、狛江駅周辺だけでもいくつかの古墳が残ることがわかった。実際、先回歩いた道筋である、伊豆美神社脇とか、駅前、そして泉龍寺のすぐ北にも古墳があったのだが、知らず。その前や横を通りすぎていたようだ。
ということで、先回の散歩から日も置かず、狛江を訪ね水路跡と古墳を辿ることにした。


本日のルート;
古墳
■狛江地区;駄倉一号墳>東塚古墳>松原東稲荷塚古墳>飯田塚古墳>白井塚古墳>兜塚古墳>田中塚古墳・田中稲荷塚古墳>経塚古墳>亀塚古墳
■猪方地区;前原塚古墳
■喜多見築地区;天神塚古墳>第六天神塚古墳>稲荷塚古墳

水路
■清水川;田中橋交差点>六郷用水取水口>水神社>猪方用水の分流点>相の田用水分岐・鎌倉橋>清水川公園>揚辻稲荷>清水川が南に折れる
■岩戸川・岩戸用水;岩戸川緑地公園>岩戸川の清水川の合流点>岩戸川緑道:岩戸川せせらぎ>岩戸川南公園>喜多見緑道>喜多見公園>荒玉水道>喜多見したこうち緑道>開渠地点>暗渠そして開渠>新井橋・野川合流地点
■六郷用水路;次太夫掘公園>滝下橋緑道>小田急小田原線・喜多見駅

小田急小田原線・狛江駅
狛江駅で下車。ルートを想うに、まずは狛江駅周辺の古墳を辿り、その後、多摩川用水の分流、泉龍寺からの湧水の水路、そして、六郷用水開削によって下流部を切り離された、野川の旧流路を辿ろうと思う。

狛江駅周辺の古墳

駄倉一号墳
最初は駅傍、先回の散歩で歩いた、かつての「品川道」が都道11号に合わさった箇所。角の石垣の上に木が茂る塚ではあるが、古墳跡と言われなければ、とてもわからない。 この古墳、古墳かどうか、といった議論もあったようだが、周溝から円筒埴輪が出土したことにより、確認された、とか。
築造は5世紀後半、直径40m前後の円墳であると推定される。現在は、南は宅地で削られ、北と西は道路で削られて石垣が組み上げられ往昔の面影はない。現地に案内もなく、石垣上の土盛に祠らしきものが見えるのみ。

東塚古墳
都道11号を少し北に向かう。道脇に竹藪の生い茂る、それらしき場所があるが、個人の敷地内のため、その竹林の中に東塚古墳があるのだろう、と想うのみ。






松原東稲荷塚古墳
都道11号から成り行きで「品川道」の道筋に戻る。松原通りに向かう途中、塀の北に猛烈な竹藪がある。そこが松原東稲荷塚古墳のようだ。
本来は径約33m、高さ約4mの円墳と推定されている。河原石による葺石や、また円筒埴輪片が出土している、と言う。
西側にアパート建ち、墳丘は削られているとのこと。アパート脇から墳丘に入れそうにも思えたが、ここも個人敷地とのことで断念した。

飯田塚古墳
東松原古墳から東に「品川道」を東に向かい、松原通りを南に少し下ると豪壮なお屋敷がある。表札には「飯田」とある。その南にアプローチできる小径があり(個人の所有地のよう)、ちょっと進むと赤い木の鳥居がある。
その先の緑の中に飯田塚古墳があるようにも思えるのだが、個人の敷地のようであり、竹藪に入ることは断念する。



白井塚古墳
先回の散歩で訪れた伊豆美神社を出た先、これも先回の散歩で出合った「道標」手前の道を北に進む。道の右手に鬱蒼とした緑の塚らしきものが見えるのだが、これも白井さんという個人のお宅の敷地内にあり、道から眺めるのみ。
資料によれば、直径36m、高さ4m弱の円墳であり、周囲を約10mの周溝で囲んでいたとのこと。古墳は西側が半分弱、南側も四分の一ほど削られているようではある。




兜塚古墳
伊豆美神社の南東のすぐ近く、柵で囲われ保護されている。狛江の古墳散歩をスタートし、はじめて、古墳らしき「古墳」に出合った。墳丘の形はよく分かる。直径約30メートル、高さ約4メートルの円墳であった、よう。
墳丘からは円筒埴輪、朝顔形埴輪などが出土しており、墳丘の周囲には周濠がある、とのこと。また墳丘には河原石による葺石が敷かれていた、と言う。

田中塚古墳・田中稲荷塚古墳
都道114号・田中橋交差点の東南隅にささやかな高千穂稲荷が佇む。そこが田中塚古墳・田中稲荷塚古墳跡。径10mほどの円墳ではあったようだが、現在は数十センチ程度高くなった敷地に小祠があるだけで、古墳があった、といわれても、といったものであった。
古墳はともあれ、ここ田中橋交差点は六郷用水の水路跡であり、今回の水路歩きにフックが掛かった地でもある。そこに田中橋が架かっていた。稲荷小祠脇には「田中橋」と刻まれた石柱が残っていた。

経塚古墳
かつての六郷用水路であった都道11号(多摩川堤の水神社から田中橋交差点までは都道114号)を少し東に戻ると、泉龍寺の北に経塚古墳がある。古墳は柵で塞がれているが、マンションの管理人、または泉龍寺に許可を取れば中に入れる、とある。
それほど「古墳萌え」でもない我が身としては、古墳の南、さらに裏にぐるっと廻って北からも眺めるだけで十分。大きなマンション(狛江ガーデンハウス)に挟まれて、少々窮屈そうであった。実際、墳丘の北側は削られており、西や南も裾部がケ削られ往昔の半分程度の規模になっているようで
ある。
柵内にあった案内には「経塚古墳は5世紀後半ごろの築造と推定される円墳で、当時直径40m以上の墳丘に、幅10m以上の周溝がめぐっていました。以前は、墳丘上に、中世13世紀から16世紀にかけての板碑が、約30基ほど林立していました。そのうち、10数基はいまも泉龍寺などに保管されています。また墳丘から常滑の蔵骨器も出土しています。中世墳墓として再利用されたのでしょう。
さらに、経典を埋めたという伝承があり、泉龍寺を開創した奈良時代の良弁僧正の墓とする伝承もある複合的な遺跡です(攻略)」とあり、その説明の横には『江戸名所図会(1834刊)』の経塚古墳の絵があり、「墳丘上の松の木の下に、よくみると板碑が立っているのがわかる」とのコメントがあった。
この経塚古墳は狛江の古墳群において前述の「兜塚古墳」、次にメモする「亀塚古墳」に次ぐ規模を有していた可能性が高いとのことである。

亀塚古墳
経塚古墳から、先日の散歩でも訪れた元和泉1丁目にある亀塚古墳に向かう。田中橋交差点まで引き返し、南東へ弧を描く、いかにも水路跡(六郷用水の分水である「相の田用水堀」)といった道を「鎌倉橋」跡を見遣りんがら進み、最初の角を南に下り、道なりに進み道、建て込んだ民家の塀に「亀塚古墳」の案内を目印に民家に間の狭い通路を進む。
塚に上る数段の石段を上ると塚の上に「狛江亀塚」の碑が建っていた。周囲は民家で囲まれている。この塚は破壊された古墳(前方後円墳の後円部)の残土を盛って復元されたもの、という。

以下は先回のメモをコピー&ペースト;塚の上にあった案内には「狛江市南部を中心に分布する狛江古墳群は、南武蔵でも屈指の古墳群として知られています。これらは「狛江百塚」ともよばれ、総数70基あまりの古墳があったとされています。そのそのなかでも、亀塚古墳は全長40mと狛江古墳群中屈指の規模を誇り、唯一の帆立貝型前方後円で、5世紀末~6世紀初頭に造られたと考えられています。昭和26・28年に発掘調査が行われ、古墳の周囲には、周溝があり、墳丘には円筒埴輪列が廻らされ、前方部には人物や馬をかたどった形象埴輪が置かれていることがわかりました。
人物を埋葬した施設は後円部から2基(木炭槨)、前方部から1基(石棺)が発見され、木炭槨からは鏡、金銅製毛彫飾板、馬具、鉄製武器(直刀、鉄鏃など)、鈴釧や玉類などの多数の副葬品が出土しました。特に銅鏡は中国の後漢時代(25~220年)につくられた「神人歌舞画像鏡」で、これと同じ鋳型でつくられたものが大阪府の古墳から2面見つかっていることから、この古墳に埋葬された人物が畿内王と深く結びついていた豪族であったと考えられています。また、金銅製毛彫飾板には竜、人物、キリンが描かれていて、高句麗の古墳壁画との関係が注目されました。
現在は前方部の一部が残るのみですが、多彩な副葬品や古墳の規模・墳形などからみて、多摩川流域の古墳時代中期を代表する狛江地域の首長墳として位置づけられます(平成14年3月 狛江市教育委員会)」とあった。
説明版と一緒にあった昭和26年の亀塚古墳は、破壊される前の巨大な古墳威容を示していた。なお、亀塚古墳からは高句麗系の影響の見らえる遺物が出土しえているともいう。 

前原塚古墳
次の古墳は前原塚古墳。場所は小田急線の和泉多摩川と一駅先ではあるが、写真では古墳の姿を留めているので、古墳らしき古墳を目にしようと、ちょっと足を延ばす。
成り行きで和泉多摩川駅まで南に下り、東に向かうと、畑の中に緑の繁る古墳らしき塚が現れた。場所は畑の中にあり、近づくことは遠慮する。記録に拠れば、径約18m、高さ2.1 ~2.6 mの円墳で、墳丘上には葺石と考えられる挙大の円礫が散在しているようである。周溝は、内径約23.5m、外径約31.5m。墳頂部には竪穴式の主体部が2基存在するとされる。

狛江市猪方1丁目には清水塚古墳があり、比較的形状を保つと言うが、それらしき場所に行っても、はっきりとした塚が残っているようにも思えないので、古墳巡りを切り上げ、原点である狛江駅まで戻る。

往昔、「狛江百塚」と称されるほど、多くの古墳があったとされる狛江ではあるが、現在遺っているのは13基ほど。昭和26年(1951)の亀塚古墳の写真を見るにつけ、それ以降、猛烈な宅地開発が進み、塚が削りとられたのだろう。現在、原型を留めるのは数基に過ぎないようである。
それにしても、古墳が個人の宅地内にあるものが多かったのは、予想もしていなかったので、興味深かった。検索すると古墳が個人宅内にあるのは、ここ狛江に限ったことではないようではあった。


六郷用水と狛江の水路跡

田中橋交差点
古墳散歩を終え、水路跡歩きをはじめる。最初は「六郷用水」跡を知るきっかけとなった、田中橋交差点へと、狛江駅から都道11号を西に向かう。

六郷用水
「六郷用水」とは、稲毛・川崎領(神奈川県川崎市)の代官・小泉次太夫の指揮により開発された農業用水路。慶長二年(1597)から15年をかけて完成した。多摩川の和泉地区で水を取り入れ、世田谷領(狛江市の一部、世田谷区・大田区の一部)と六郷領(大田区)の間、約23kmを流れていた。世田谷領内を流れる六郷用水は、小泉次太夫の名を冠し「次太夫堀」と呼ばれていた。
現在の六郷用水(次太夫堀)は、次太夫堀公園、そして丸子川として、大田区の一部に親水公園といった主旨で残っているだけであり、その他は埋め立てられるか、雨水対策の下水道となっているようである。

六郷用水は、いつだったか、丸子川からはじめ大田区の用水路跡は数回に分けて歩いた。また、これもいつだったか、狛江から喜多見を歩いたとき、狛江の水神社辺りが六郷用水の取水口であるということで、そこを訪ねたこともある。その時は、「田中橋」といった地名にも気付くことなく、水神社辺りの取水口から、これも、いつだったか訪ねたことがある「次太夫堀公園」に保存(再現?)されている水路と繋がっているのだろう、などと思って、それ以上深掘りすることはなかった。
が、今回「田中橋」がきっかけとなり、多摩川堤の水神社から「丸子川」の開渠までのルートをチェックする。


水神社から丸子川までの六郷用水のルート
水神社から丸子川までのおおよその六郷用水のルート;水神社傍で多摩川から水を取り込んだ六郷用水は都道114号の水神前交差点から都道を西に進み、西河原自然公園を経て田中橋交差点に至る。古墳のところでメモしたように、交差点脇の高千穂稲荷脇にあった田中橋の石標は、六郷用水に架かっていた橋石である。
用水はこの田中橋交差点から道なりに西に進む都道11号を少し進み、泉龍寺バス停あたりで都道11号から離れ、右に分岐し、小田急小田原線・狛江駅の北をを進み、南西に弧を描いて世田谷通り・一の橋交差点に。
世田谷通り・一の橋交差点から世田谷通りを西に進み「二の橋」交差点を辺りで都道から離れ、狛江市と世田谷区の境の先で右に分岐する現在の「滝下橋緑道」を進む。そこからは現在の野川を東に越え、世田谷通りの手前を緩やかに弧を描いて再び現在の野川を西に戻り、次太夫堀公園に残る水路跡に出る。 次太夫堀公園を出た水路は、多摩堤通り・次太夫堀公園前交差点を東に進み、現在の野川に沿って下り、東名高速の南にある永安寺前の如何にも水路跡といった道筋を進み、仙川傍の丸子川親水公園に繋がっていたようである。

六郷用水にともなう河川争奪
これで、今まで「空白」であった、六郷用水の取水口と丸子川が繋がったのだが、上でメモしたように、このルートチェックの過程で六郷用水開削に伴う、人工的ではあるが一種の「河川争奪」が見えてきた。
誠に興味深く、かつまた、先回の散歩で狛江駅から慶元寺まで歩く道筋の折々に登場する、如何にも水路跡といった緑道が一体「何者なのか?」、といった疑問も解消したこともあり、すこしまとめておく。







野川・入間川の旧流路
河川争奪の登場するのは野川と入間川、そして六郷用水。野川が入間川の川筋を「奪い取った」わけだが、そのきっかけは六郷用水開削。かつて野川は現在の川筋よりずっと西、狛江駅の少し東辺りを流れていた。一方、現在の入間川の川筋は調布市入間町で「野川に合流」し、その下流は「野川」となっているが、往昔はその合流点から下流は入間川であった。










六郷用水開削にともない野川・入間川は六郷用水に組み込まれる
その状況が変わったのは六郷用水開削。上でメモしたルートで開削した六郷用水は、そのルート途中で南北に流れる野川の水を取り入れ、その下流を切り離した。また、六郷用水は入間川の水も取り込み、下流を切り離すことにした。野川も入間川も六郷用水によって下流部が切り離された分けである。

六郷用水廃止に際し、野川は瀬替えを行い旧入間川に繋ぐ 

この状況が300年ほど続いたわけだが、再び状況に変化が起きる。1950年代となり、この辺り一帯が都心近郊の宅地としての開発が進むにつれ、農業用水である六郷用水が活用されなくなってきた。水神様から狛江駅辺りまでは1960年代の中頃には暗渠となり、それ以外の水路も昭和46年(1971)頃にはすべて暗渠となってしまったようである。
ここからが、ちょっとオーバーではあるが「河川争奪」の過程であるが、戦後野川の旧流路で洪水が多発したといったこともあり、野川を入間川の川筋に付けかえる「瀬替え」工事が1960年代の始め頃から始まる。この工事は昭和42年(1967)に完成するが、入間川に瀬替えされた川筋は、入間川ではなく「野川」と称するようになった。これが「河川争奪」と言うか、野川の瀬替えの経緯である。

六郷用水によって切り離された野川下流部
ところで、六郷用水によって切り離された旧野川の下流部であるが、大雑把に言って、現在の岩戸川緑道(狛江市)と、その緑道が世田谷区に入ると「喜多見まえこうち緑道」と呼ばれる緑道がその流れ跡と言われる。
往昔は六郷用水の用水堀の一翼を担い活用されたのではあろうが(実際岩戸川とも岩戸用水とも称される)、この用水も昭和52年(1977)頃までには暗渠・緑道となっている。
先回の散歩で狛江駅から慶元寺まで歩く道筋の折々に登場した如何にも水路跡(岩戸緑道)といった緑道が一体「何者なのか?」、といった疑問は、六郷用水によって切り離された旧野川の下流部であるということで一件落着。


水路散歩スター
旧野川、六郷用水の水路、六郷用水によって切り取られた下流部の流路、また、六郷用水から分水したであろう用水掘。少々ややこしいので(上に)地図にまとめた。そして、少し頭を整理した上で、田中橋跡からはじめ、狛江、そして世田谷に続く水路を散歩する。
水路巡りの要点は、先回の散歩で気になった、昭和30年末頃まで和泉・岩戸・猪方・駒井・喜多見・宇奈根の水田を潤したと言う泉龍寺の弁財天池からの水路と、六郷用水によって切り取られた旧野川の下流部とされる緑道(岩戸川)を辿ることにある。


清水川を辿る
まずは、泉龍寺の弁財天池からの水路巡りをはじめようと、あれこれチェックすると、この水路は「清水川」と呼ばれたようである。そしてこの川は弁財天脇の「ひょうたん池」からの湧水だけでなく、六郷用水の分水である「相の田用水掘」からの養水も合わせている、とのこと。
「相の田用水掘」は多摩川から取水した六郷用水から分水した「猪方用水」の支線とのこと。その「猪方用水」は多摩川取水口の少し東にある「西河原自然公園」の小高い丘を切り崩し、六郷用水から分水している、とある。 ついでのことでもあるので、緒方用水も辿ってみようと、六郷用水のスタート地点である多摩川堤の取水口へ向かう。

六郷用水取水口
田中橋から西に都道114号を進み、多摩川堤に。ここに来たのは何年前だろう、などと想いながら、取水口に向かう。堤下に取水口らしきものがあったのだが、これはどうも先日歩いた根川の多摩川への合流点だろう。
因みに、上の六郷用水開削時の分水用水に「三給用水」を描いているが、この用水は六郷用水の分水ではなく、根川からの用水である。この用水は六郷用水を樋で越えてこの地を潤した。

堤手前に「六郷用水の取り入れ口の碑」があり、昭和初期の取水口の写真があった。これを見ると、多摩川の堤を掘り割って水路をなしている。ということは、取水口は完全に埋め立てられた、ということだろう。

水神社
取水口の碑の傍に小さな祠。水神社とある。由来書には「水神社由緒「此の地は寛平元年(889年)九月二十日に六所宮(明治元年伊豆美神社と改称)が鎮座されたところです。その後天文十九年(1550年)多摩川の洪水により社地流出し、伊豆美神社は現在の地に遷座しました。この宮跡に慶長二年(1597年)水神社を創建しその後小泉次大夫により六郷用水がつくられその偉業を讃え用水守護の神として合祀されたと伝えられる。 明治二十二年(1889年)水神社を改造し毎年例祭を行って来ました。昭和三年(1928年)には次大夫敬慕三百四拾二年祭を斉行 もとより伊豆美神社の末社として尊崇維持されて来ました。伊豆美神社禰宜 小町守撰」、とあった。

猪方用水の分流点
水神社から東に戻り西河原自然公園に。分流点は「大塚山を切り崩し」とあったので、公園の中に小高い辺りを探し、その先に流路らしきものがないかチェックする。と、公園と民家の間に微かに水路の名残が感じられる小径がある。 公園を越えた先にも、草に覆われた道というか「隙間」が民家の間を進む。あまりに民家に接近しているので、少々躊躇いはあったのだが、宅地内ではないようであり、草を掻き分け先に進む。

相の田用水分岐・鎌倉橋
道は小田急線の複々線工事に伴い移築した、江戸時代後期の古民家が数件立つ「むいから民家園」の南を抜けると南北に通る道がある。この通りで猪方用水は南に下り、支線の「相の田用水」がそのまま東へと進む。道なりに進むと道脇に「鎌倉橋」と刻まれた石橋があった。古墳散歩で亀塚古墳に向かう途中で出合った橋跡である。

日本水道狛江浄水場跡
「相の田用水」は泉龍寺の南を進む。この一帯を「相の田」と呼んでいたようだ。水路跡は、この先で泉龍寺の「ひょうたん池」から流れ出す清水川に合わさる。その水路跡はほんの僅かな痕跡を残し、現在の小田急線の東に下っていたようである。

駅の東側に移るに、泉龍寺から真南に下ったところにある狛江第三中学当たりに日本水道狛江浄水場跡があったようである。水路辿りの「流れ」でちょっと寄り道する。そこは古墳散歩で亀塚古墳から猪方地区にある前原塚古墳に向かう途中に通り過ぎた道筋でもあった。
学校の周辺を彷徨うに、そのような構造物は見つからない。どうも場所は狛江第三級学校の構内、というか、浄水場跡に狛江第三中学が建ったのだろう。

日本水道狛江浄水場
この狛江浄水場は、関東大震災後、東京都心から離れ郊外に移り住んだ住民の水需要に応えるため、日本水道株式会社によって昭和6年(1931)に工事に着手し、翌昭和7年(1932)から通水が開始された。
原水は多摩川の伏流水と六郷用水からの分水。伏流水は現在水道局の資材置き場・水道局住宅のある当たり(はっきりしないが狛江第三中学の北西の元和泉2-10-1辺り?亀塚のちょっと西)に取水井と取水池があった、との記事があった。また、六郷用水からは、むいから民家園の西にある田中橋児童遊園の辺りから分水された、と言う。
水は世田谷区の一部に送水したようであるが、多摩川の水位低下、六郷用水の廃止などの影響もあったのか、昭和44年(1969)に廃止。その跡地に昭和48年(1973)、狛江第三中学校が建った。

清水川公園
清水川は狛江駅南口ロータリーから南東に下る道を進み、世田谷通りの手前で左に折れていたようだ。現在は暗渠となり、その痕跡を見付けるのは難しい。 さて、どうしたものかと、世田谷通りを彷徨っていると、偶々「清水川公園」といった案内が目に入った。ひょうたん池からの清水川は小田急線を越え、ここに繋がっていたのだろう。

■清水川の水源のひとつ・揚辻稲荷に向かう
なんとか「ひょうたん池」からの清水川の流れ跡が、狛江駅の東の地で繋がった。ここから東に進もうとは思うのだが、清水川には「揚辻稲荷」からの湧水も合流していた、と言う。地図を見ると、清水川公園の世田谷通りを隔てた北西に揚辻稲荷がある。そして、清水川公園の世田谷通りの逆側に、いかにも水路跡らしき「ノイズ」を示す細路がある。
とりあえず、民家の間の道を北東に進む。ほどなく道は切れるが、その先にも草に覆われた、如何にも水路跡といった筋が民家の塀に囲まれて続く。

揚辻稲荷
民家の間でブッシュを踏みしだきながら先に進むと石に囲まれた池跡があった。湧水痕跡はなにもない。池をぐるりと回り揚辻稲荷にお参りし、再び清水川公園に戻る。






■清水川が南に折れる
清水川公園を進むと、南側がちょっと小高丘があり、緑が残る。その先に進むと車止めがあり、そこからは如何にも緑道といった道が先に進む。清水川はこの地で南に折れる、と言う。





岩戸川・岩戸用水

岩戸川の合流点
では、先に進む水路跡は?揚辻稲荷からの湧水は清水川と合流することなく、清水川と平行して流れるとの記述もある。その水路跡だろうか、それとも清水川の一部だろうか。専門家でもないのではっきりしないが、一般的な説明では「清水川は岩戸川(岩戸用水)と合流する」とあるので、清水川水系(ちょっとオーバー?)の水が、六郷用水の開削によって切り離された旧野川の流れである岩戸川とこの辺りで合流するのだろう。



岩戸川緑地公園
で、その岩戸川の流路であるが、先回の散歩で、狛江通りと世田谷通りとの交差点・狛江三差路の辺りで、「岩戸川緑地公園」との案内がある如何にも水路跡らしき細路が南東に進み、その水路跡らしき道はすぐに終わるが、別の水路跡らしき道がその先にも続き、成り行きで進むと「岩戸川緑道;岩戸川せせらぎ」と案内のある親水公園風の場所があり、明静院の南を通る品川道の手前まで進み、そこから右に折れて水路は先に続いていた。
その交差点・狛江三差路の辺りからの「岩戸川緑地公園」の道筋が岩戸川(旧野川)の水路跡かと思う。今回、清水川公園から進んできた水路跡とおぼしき小径は、清水川が南に折れるとされる辺りから先にも続き、成り行きで進むと「岩戸川緑道;岩戸川せせらぎ」に出た。ということは、その途中で岩戸川が清水川を辿ってきた水路と合流したことになる。
合流点を確認すべく、少し戻ると、先日歩いた北から南東へと下ってきた「岩戸川緑地公園」の「出口」がすこし北に見え、南に少し下ると清水川から辿ってきた水路跡の道に繋がる。先回の散歩では、知らず「岩戸川緑地公園=岩戸川跡」から成り行きで「清水川筋」に乗り換えて「岩戸川緑道;岩戸川せせらぎ」に向かっていたわけである。

岩戸川緑道:岩戸川せせらぎ
道を戻り「岩戸川緑道;岩戸川せせらぎ」の案内があったところに復帰する。開水路はおおよそ120mに渡る親水公園といった風情ではある。
この先、岩戸川緑道は明静院と八幡神社前を通む狛江道の南を、南東へと向かって弧を描いて進み、喜多見中学の西で流路を東、そして北東に替えて岩戸川南公園を境に狛江市域を離れ、世田谷区に入る。

喜多見緑道
小径を進むと「喜多見緑道」の案内。狛江市から世田谷区に入ると緑道は名称を変え、「喜多見見緑道」となる。







喜多見緑道付近の古墳
喜多見緑道の北に慶元寺がある。今回の散歩では、2回目の散歩で既に歩いた慶元寺をパスし、そのまま喜多見緑道を更に下流部へと辿ったのだが、狛江道の終着点であり、荏原郡衙への道と品川湊への道の分岐点でもある慶元寺近辺にも古墳があったので、先回の散歩のメモではあるが、慶元寺やその周辺の古跡をコピー&ペーストしておく。

須賀神社・天神塚古墳
慶元寺の東北傍に須賀神社がある。社は小高い丘の上にあり、吹き抜けの、まるで神楽殿でもあるような社であった。 で、社が建つ丘は天神塚古墳とのこと。径16~17m、高さ1mの横穴式石室のある円墳であったようである。

第六天神塚古墳
須賀神社の南に竹林に覆われた小高い丘がある。そこは「第六天神塚古墳」である。塚脇にある案内には「世田谷区指定史跡 古墳時代中期(五世紀末~六世紀初頭)の円墳。昭和五十五年(1980)と昭和五十六年(1981)の世田谷区教育委員会による、墳丘及び周溝の調査によって、古墳の規模と埋葬施設の規模が確認された。
これによって本古墳は、直径28.6メートル高さ2.7メートルの墳丘を有し、周囲に上端幅6.8~7.4メートル下端幅5.2~6.7メートル深さ50~80センチの周溝が廻り、その内側にテラスを有し、これらを含めた古墳の直径は32~33メートルとなることが判明した。またこの調査の際に、多数の円筒埴輪片が発見された。
埋葬施設は墳頂下60~70センチの位置に、長さ4メートル幅1.1~1.4メートルの範囲で礫の存在が確認されていることから、礫槨ないし礫床であると思われる。
なお同古墳については、「新編武蔵風土記稿」によると、江戸時代後期には第六天が祭られ、松の大木が生えていたとの記載が見られる。
この松の木は大正時代に伐採されたが、その際に中世陶器の壺と鉄刀が発見されており、同墳が中世の塚として再利用されていたことも考えられる。(昭和59年 世田谷区教育委員会)」とあった。

稲荷塚古墳
第六天神塚から慶元寺の境内に沿って北に道を進むと、左手に稲荷塚古墳緑地がある。公園の奥にこじんまりとした塚がある。
塚に近づくと、案内があり、「この古墳は直径約13m、高さ2.5mの円墳で、周囲に幅約2.5mの周濠がめぐっている。
長さ6mの横穴式石室は、凝灰岩切石で羽子板形に築造されている。調査は昭和34年と昭和55年に行われ、石室内から圭頭太刀、直刀、刀子、鉄鏃、耳環、玉類、土師器、須恵器が出土している。出土品は、昭和60年2月19日に区文化財に指定され、世田谷区郷土資料館に展示されている。古墳時代後期7世紀の砧地域の有力な族長墓と考えられる(昭和61年世田谷区教育委員会)」とあった。
狛江だけでなく、この喜多見にも喜多見古墳群と呼ばれる13基ほどの古墳が残るようである。



旧野川の水路に戻る
狛江道の荏原郡衙への道、品川湊への道のクロスロードである慶元寺近辺の古墳のメモはこれまでとし、慶元寺南の喜多見緑道をから下流へと辿ったメモを再開する

喜多見公園
喜多見中学の敷地に沿って弧を描いて進む喜多見緑道は都道11号で切れる。都道の先には喜多見公園がある。水路は公園の中を南東へと向かったのだろうと、公園を彷徨い東側に進むと、なんとなく周辺より低くなった空堀風の道が南に下る。確証はないが、水路跡といった「ノイズ」を感じ、先に進む。






公園先に水路跡
公園を南端まで進み公園を出る。公園横の道は荒玉水道道路であった。水路跡はどこに?と、公園先の草の繁る空き地の中に水路跡らしき金網の柵が南に下る。水路進む方向に荒玉水道を下ると砧浄水場前に出る。そして道が交差する東の角に「喜多見まちがど公園」があり、その南に「喜多見したこうち緑道」の案内があった。水路はここに続いているのだろう。
荒玉水道
荒玉水道とは大正から昭和の中頃にかけて、多摩川の水を砧(世田谷区)で取水し、野方(中野区)と大谷口(板橋区)に送水するのに使われた地下水道管のこと。荒=荒川、玉=多摩川、ということで、多摩川・砧からだけでなく、荒川からも水を引く計画があったようだ。が、結局荒川まで水道管は延びることはなく板橋の大谷口で計画中止となっている。

喜多見したこうち緑道
緑道を進み道路が交差する地点まではゆったりとした緑道であったが、交差地点から先は細い道筋となって民家と畑の間を進み、その先の道路と交差する地点で道は途切れる。
なお、六郷用水開削以前の旧野川の流れは、この喜多見したこうち緑道あたりから、そのまま東に進み、現在の東名高速を越え南東に下り、多摩川に合流していたようである。



開渠地点
その先はどこ?地図をチェックすると北東に開渠が見える。岩戸川は野川が高速道路とクロスする新井橋辺りに続くとのたであるので、方向的にはそれほどまちがっていないと、とりあえず開渠地点を目指す。開渠はH鋼で補強された水路として現れた。






暗渠そして開渠
この開渠もすぐに地下に潜る。その先は?地図をチェックすると、喜多見小学校の東、多摩堤通りの南に新井橋方向に向かう開渠が見える。道を成り行きで進み開渠地点に。





新井橋脇の野川への合流地点
開渠部に到着。しかし開渠部に沿って道はない。仕方なく多摩堤通りに迂回し、新井橋西詰めに。そこから野川に注ぐ開渠部を確認。野川の流入口はなかなか見つからなかったのだが、新井橋からチェックすると、川床に施設された金属枠で造られた流入口らしき構造物があった。


岩戸川緑道・喜多見緑道・喜多見したこうち緑道と辿った、六郷用水によって切り取られた旧野川の水路跡(実際の旧野川は喜多見したこうち緑道あたりで南に進み多摩川に合流)、その水路は現在、この新井橋で野川に注ぐが、野川の瀬替え工事実施前の水路は、東名高速の直ぐ南に見える野川第二緑地公園へと繋がっていたのだろうか。野川の入間川への瀬替え工事のとき、旧入間川であった現野川の科筋は直線化されており、野川第二緑地公園が旧水路と考えても、あながち間違いではないようにも思う。

次太夫掘公園
日も暮れてきた。そろそろ散歩を切り上げる時間である。地図で最寄りの駅をチェックし、小田急線・喜多見駅に向かうことにする。この新井橋から駅に向かうルートに「次太夫掘公園」とか「滝下橋緑道」があり、帰路の道すがら、どうせのことなら、これら六郷用水の流路跡を辿ろうと思ったわけである。

次太夫掘公園から東に続く水路をみれば、六郷用水は、現在の野川の東を流れていたようにも思うのだが、特段その痕跡もないので、野川の西に沿って上り「次太夫掘公園」から野川に繋がる水路地点に。そこから水路に沿って次太夫掘公園に入る。
既にメモしたとおり、「次太夫」とは、次太夫掘・六郷用水開削の差配をおこなった稲毛・川崎領(神奈川県川崎市)の代官・小泉次太夫のことである。公園内には六郷用水の名残をかすかに留めるささやかな水路とともに、名主屋敷や民家が移築され、江戸時代後期から明治にかけての農村風景を再現しているとのことである。

滝下橋緑道
水路、そして緑道が続く次太夫公園を抜けると、その先は水路跡の痕跡は全く見あたらない。野川に沿って北に向かい滝下橋緑道が野川に合わさるところまで進み、そこから緑道を西に進み世田谷通り・二の橋交差点に出る。500m程の六郷用水跡が滝下橋緑道として姿を現した。


小田急小田原線・喜多見駅
世田谷通り・二の橋交差点からは、成り行きで喜多見駅に向かい本日の散歩を終える。

何気なく取り出した『武蔵古道 ロマンの旅』からはじまった荏原郡衙への道・狛江道散歩。本文では二ページの地図を入れても五ページの記事からはじめた狛江道散歩ではあるが、いつものことではあるが、散歩しながらあれこれお気になることが登場し、三回のメモとなってしまった。 それも、三回目は、本来の荏原郡衙への道そのものと言うより、道の周辺に現れた古墳や、特に水路跡を辿る散歩のメモとなった。狛江道そのものの、最終目的地である慶元寺辺りまで辿り、なにも知らなかった大国魂神社と国府・国衙のあれこれ、府中崖線の上下を行き来する幾多の坂道、古品川道と称される狛江道の道筋と室町期に開かれたという「品川道」などを楽しめた上、古墳や思いがけず出合った六郷用水と、その開削故に起きた野川の瀬替え・上流部を切り取られた旧野川の水路跡など、気になることが次々と現れる実に楽しい散歩ではあった。いつもの事ながら、成り行き任せの散歩の「妙」ではある。
狛江道散歩の第二回。先回は調布の布田天神跡で日没時間切れ。今回は布田天神から狛江の慶元寺までを辿る。慶元寺は世田谷・渋谷・青山を経由して江戸城北の丸公園辺りにあったと推定される(『武蔵古道 ロマンの旅』より)荏原群衙への道と、品川湊へと下る品川道の分岐点でもあるようだ。 たまたま本棚で見つけた『武蔵古道 ロマンの旅』をきかっけに、お気楽に出かけた狛江道散歩ではあるが、今回の散歩も、歩きはじめて、あれこれ気になることが次から次へと登場してきた。古代、武蔵国の開拓に寄与した狛江=高麗居>当時の知識階層である帰化人の里である。幾重にも重なった歴史の「層」があるのは当然と言えば、当然ではあろう。


本日のルート;京王線・調布駅>「旧品川道の案内」>椿地蔵尊>下布田遺跡>染地遺跡跡>羽毛下通り>羽毛下橋交差点>染地せせらぎ遊歩道>狛江道(古品川道)と品川道が合流>万葉通り分岐>道標>伊豆美神社>道標>庚申塔道標>田中橋交差点>鎌倉橋跡>亀塚>泉龍寺>岩戸川緑地公園>岩戸川緑道(岩戸川せせらぎ)>明静院と八幡神社>喜多見緑道>慶元寺>須賀神社>第六天神塚古墳>稲荷塚古墳>氷川神社>小田急小田原線・喜多見駅

京王線・調布駅
自宅を出て京王線で調布駅に。電車の中で本日の散歩のルートをチェックしていたのだが、調布には織物に関わる地名が多い。そもそもの調布という地名からして、古代の税である租庸調の内、その地の特産品である「調」として「布」を納めたことに由来する。
市内の地名を見るに、布田・染屋・染地、世田谷の砧、府中の白糸台など織物に関する地名が多い。その因は、古代、狛江に移住してきた帰化人によって織物の技術が伝わり、この地域に布つくりが盛んにおこなわれた、とのことである(『武蔵古道 ロマンの旅』)。
帰化人の武蔵への移住

先回のメモで、「飛鳥時代の西暦685年、武蔵国が成立する以前は、秩父地方に秩父国造、北武蔵(行田から大宮地方)に无邪志国造、南武蔵に胸刺国造がいた。无邪志は朝廷の力を借りて胸刺を滅ぼし、ふたつを合わせて武蔵国造となった、という。安閑天皇元年(534)の頃、と言う。
この抗争の結果、无邪志国造笠原直使主は援助の御礼として南多摩を屯倉(皇室の直轄地)として献上し、朝廷は南多摩に橋頭堡を築くことになる(『武蔵古道ロマンの旅』)」とメモした。

南多摩、正確には神奈川県橘樹郡も含め4カ所の屯倉(天皇の直轄地)を得た朝廷は、その地を橋頭堡に朝廷の威を示すべく、当時の先端技術者集団=帰化人を屯倉に移住させる。神奈川県橘樹郡には新羅系帰化人・壬生吉志一族を、南多摩には狛江を中心に高句麗系帰化人を管理者として移住させた(『武蔵古道ロマンの旅』)。思うに、帰化人の移住は、大いに政治的施策のようにも思える。 因みに、帰化人に関してよく知られる事柄として、西暦758年、帰化した新羅僧32人,尼2人、男19人、女21人の74人を武蔵国に移し新羅郡を設置したという記録があるが、それは奈良時代のこと。朝廷が中央集権国家として国郡制度を整備してからの話である。

「旧品川道の案内」
調布の駅を下り、世田谷通り・布田4丁目交差点を越えた先、道が変形5差路となっている道脇に「旧品川道(いかだ道)」の案内があった。案内には「この掲示板の脇に東西につながる道は、かつての品川道である。この道は府中にかつての武蔵国府がおかれた頃、相模国から国府に行き来する旅人たちの交通路であるとともに、東海道方面に通じる脇街道であったという。また、府中の大国魂神社(六社宮)の大祭に際してはきよめに用いる海水を品川の海から運ぶ重要な道であった。この品川道は、府中から調布を通り、狛江・世田谷を経て品川の立合川付近で東海道に結ばれていたという。

近世になると、筏乗たちが多摩川の上流から河口まで材木を運び、その帰り道に利用したので「いかだ道」とも呼ばれていた。このような由緒ある品川道も市内のところどころに残るのみである(調布市教区委員会)」とある。

品川通り合流
「東西につながる」と記された「旧品川道」を西に向かう。商店街の裏側の小路を進むが、調布駅南駅入口交差点辺りで現在の「品川通り(注:先回の散歩でメモした)」に合流、また、戻って東に進むも、少し先の布田三丁目交差点で、これも「品川通り」に合流。旧品川道の名残を楽しむ散歩はあっけなく終わってしまった。旧品川道の道筋はここから品川通りを「多摩川住宅入口」まで進み、その交差点で「品川通り」を離れ南東へと下る。
注;この狛江道散歩のメモでは狛江道を「古品川道」、ここに記された「旧品川道」を「品川道」に統一して記している。

相模からの道・いかだ道
相模国の国府のあった海老名からの官道は、小田急小田原線・和泉多摩川辺りで「登戸の渡し」を渡り、品川道に向かう。品川道は、この「品川通り」を東に進み、多摩川住宅入口交差点辺りで「品川通り」から離れ南東に下り、狛江市の中和泉五丁目辺りで「古品川道」と合わさり、狛江駅辺りを経て慶元寺に進む。登戸からの道は多摩川を渡り、多摩川に沿って現在の砧浄水場辺りまで東に進み、そこから北に上り慶元寺辺りで「品川道」と合わさったのだろう。 また、いかだ道とは筏師の歩いた道。奥多摩や青梅で切り出した木材を筏に組み上げ、多摩川を下り大田区の六郷辺りまで運んだ。いかだ道は、その筏師が家路へと辿った道筋のことである。その道筋は、六郷から多摩川に沿った台地下の道を進み、東名高速の南にある永安寺辺りで「品川道」と繋がっていたとのことである。

椿地蔵尊
現在の「品川通り」に合わさった「品川道」の地図を眺めていると、「椿地蔵前交差点」が目に入った。名前に惹かれ、狛江道(古品川道)に下る前にちょっと立ち寄り。
少し東に歩くと、椿地蔵交差点の南にツバキに囲まれた小祠があり、その中に地蔵尊が佇む。享保20年(1735)造立の地蔵尊。「椿地蔵尊」と称される。 「椿地蔵尊」の脇にあったツバキの案内に拠れば、「市指定天然記念物(植物),昭和41年4月1日指定 シロハナヤブツバキ ツバキ科 ツバキ属;昭和30年、品川道拡張の際に、現位置より約5メートル北の場所から現在地に移植された。
根本から5本に分かれていたが、現在は2本を残すのみになっている。昭和40年頃、(中略)品種はシロハナヤブツバキ、樹齢は約7~800年と鑑定された。 ヤブブバキの白花種をシロハナヤブツバキと呼び、自然状態ではまれに見られるもので観賞用として庭園などで3栽培される(調布市教育委員会)」とのこと。
ツバキは高さは約5メートル、東西7メートル、南北8メートルもの大きなものであったようだが、現在は、まことにささやかな茂みとして残っていた。

下布田遺跡
成り行きで南に下り、狛江道(古品川道)に戻る。何かルート近くに見どころは?地図でチェックすると、道筋近くに「下布田遺跡」がある。結構大きい敷地である。周りは柵で囲まれている。成り行きで入口を探すと、入口部分は公園とはなっているが、その先は柵で遮られていた。柵の中には調布市遺跡調査会郷土博物館分室の建物があり、広い広場や林の中には遺蹟が保護されているのだろう。
案内に拠ると、「下布田遺跡は、多摩川の沖積地をのぞむ崖線にいとなまれた縄文文化時代終末頃の遺跡である。従来、現地では子供用の甕棺墓や土壙墓の他に600余個の河原石を約64平方メートルに並べた方形の配石遺構が発見され、その中央に出土した長方形の土壙には、長さ38センチメートルの石刀が副葬されていた。おそらくこれらの遺構は墳墓の集合したものであろう。
また、現地では日常生活に使用された多量の土器や石器のほかに、呪術的な意味を有する石棒や土偶・土版・石冠なども出土している。特に赤く縫った薔薇を思わせる土製耳飾は美術品としても優れ、昭和54年国の重要文化財に指定された。
この遺跡は、縄文文化時代晩期の社会生活や信仰・習俗を知るうえで、わが国でも数少ない重要遺跡のひとつに数えられ、文部省告示第50号により、国の史跡として指定された(昭和63年調布市教育委員会)」とある。
甕棺墓(かめかんぼ)は、甕(かめ)や壺(つぼ)を棺(ひつぎ)として埋葬する墓。土壙墓(どこうぼ)とは、大地に穴を掘るのみで,ほかになんらの設備も施さない墓を指すようである(Wikipediaより)。遺跡南の崖線にはかつて湧水が湧き出ていたのだろうが、今はその面影はない。

染地遺跡跡
下布田遺跡をGoogleで検索した時、同じく調布の遺跡として「染地遺跡跡」がヒットした。地図を見ると、狛江道から結構に下った多摩川堤近く、日活撮影所の裏手の染地2丁目にある、と言う。
成り行きで日活撮影所辺りに進み裏手を彷徨うが、遺跡らしき風情の地はない。住所を調べiphoneでナビを願うと、到着したのは普通の公園であった。あれあれ、と思いながらも公園の名前を見ると「杉森遺跡広場」とあった。現在は親子が普通に遊ぶ公園だが、そこが「染地遺跡跡」であった。
特に染地遺跡の案内もなかったようだが、チェックすると、染地遺跡は調布市染地2丁目~3丁目一帯の地域に存在した集落跡。縄文期から平安時代にかけて2000年近くに渡る竪穴式住居、掘立柱建物跡、鍛冶工房跡、玉作工房跡等が発掘されている、とのことである。

それにしても、この地は多摩川の直ぐ近くの沖積地。あまりに多摩川に近すぎる。洪水も織り込んでの氾濫原での水の便故の立地だろうか、それとも古墳時代の多摩川の流れは現在とは大きく異なっていたのだろうか。なんとなく気になる。なお、調布市内には60余りの遺跡跡が存在するようである。

羽毛下通り
染地遺跡跡の東は巨大な多摩川住宅の棟が広がる。団地中を直進するのを避け、下布田遺跡から狛江道に戻る。成り行きで北に進むと羽毛下通りに。先回訪れた下布田遺跡の南の崖下を進む道の続きのように思う。羽毛(=ハケ=崖)の下を進む通りであろう。狛江道は、このハケの上を通ったかとも思うのだが、そのまま東に進むと、ほどなく羽毛下橋交差点に当たる。


羽毛下橋交差点
羽毛下橋?暗渠ではあるが川が流れているのだろう。チェックすると「根川」が流れていた。根川は先回訪れた「古天神公園」東辺りの崖線からの湧水、またそこから東の崖線からの湧水を集めて崖下を東流する。

根川
根川の南、狛江市西和泉と調布市染地(そめち)を合わせた地域、今の多摩川住宅の一帯は、かつて「センチョウ耕地(ごうち・千町耕地とも戦場耕地とも)」と呼ばれた田園地帯であったようである。その田圃にハケの豊かな湧水で潤したのが根川。清流故か、清き流れにしか育たない山葵田もあったようだ。
根川からはいくつもの用水堀が引かれていたとのこと。現在も地図上に切れ切れの水路跡が見えるが、それは用水路の痕跡であろうか。
実際、現在根川が多摩川に注ぐ辺りに六郷用水の取水口があるが、根川は往昔、その六郷用水を樋で越え、三給用水として、現在の元和泉の地に開かれていた伝左衛門新田を潤していたとのことである。

染地せせらぎの散歩道
羽毛下橋交差点から先は、依然暗渠ではあるが、「染地せせらぎの散歩道」として整備されている。道は染地と国領の境を進む。崖上の道はおおよそ狛江道の道筋のようである。染地小学校から東は開渠となる。
国領
地名の由来に、国衙の領地との説がある。わかったようでわからない。そもそもが、南多摩全体が朝廷の屯倉であろうから、ここだけ国衙の領地と言われてもなあ?『武蔵古道 ロマンの旅』には、狛江からこのあたりまで蘇我氏の私領で、蘇我氏も屯倉として寄進したのでその名が残る、とあった。いまひとつ「しっくり」しない。

狛江道(古品川道)と品川道が合流
開渠となった根川を進むと市域が調布から狛江に変わる。緑道も「根川さくら通り」に変わる。緩やかな弧を描く根川に向かって、品川道が北から狛江道(古品川道)接近し、多摩川住宅東交差点北の根川に架かる小橋の辺りでふたつの道は合流する。ここから先は狛江道(古品川道)と品川道は同じ道筋を進むことになる。





万葉通り分岐
根川に架かる小橋を渡り商店街の道を南に下ると、すぐに道は二つに分かれる。南に下る道には「万葉通り」「万葉歌碑 450m」とある。万葉歌碑とは松平定信(楽翁・白河藩主)揮毫の歌碑(「万葉集巻14多摩川に さらす手づくり さらさらに何ぞこの児の ここだ 愛しき」 )である。ここには以前訪れたこともあるのでパスし、左に折れ狛江道(品川道)を進む。
道標
万葉通り分岐を左に折れるとすぐ、三叉路があり、その分岐点に道標があった。 安政5年(1858)に立てられ庚申塔道標とのこと。右側面に「右 地蔵尊道」とはっきり読める。左側面はかろうじて「左 江戸青山道」と見える。
地蔵尊とは狛江駅前にある泉龍寺の子安地蔵のこと、と言う。狛江道、というか品川道は左手の「左 江戸青山道」が道筋ではあろうが、地蔵道も品川道との説もある。どちらがどうでもいいのだが、地図を見ると地蔵道沿いには「伊豆美神社」といった、なんとなく気になる社もあるので、地蔵尊道を進むことに。




伊豆美神社
道なりに進むと伊豆美神社の社叢が見える。鳥居を潜り境内に入ると、参道に小さな鳥居が建つ。二の鳥居と称される。
二の鳥居
鳥居脇にあった案内には、「この鳥居は高さ2.65メートル。柱の刻銘により、江戸時代の慶安4年(1651)に石谷貞清が建立したことが知られ、市内に遺る最古の石造鳥居です。
石谷貞清(1594-1672)は、和泉の一部を領していた石谷清正の弟で、島原の乱や由比正雪の乱に手柄があり、江戸町奉行などを勤めた旗本です(狛江市教育委員会)」とあった。

貞清は寛永15年(1638年)、九州島原の乱鎮圧の副使を務め、その効が認められ慶安4年(1651年)に江戸北町奉行に就任。由井正雪の慶安事件に加担した丸橋忠弥らを江戸で逮捕した。鳥居は慶安の変の3ヶ月前に寄進され、奉行就任直後に変が起きている。
ケヤキ、イチョウ、アラカシ、クスノキ、シラカシ等の大木が覆う参道を進み本殿にお参り。祭神は大国魂大神。案内には「宇多天皇寛平元年(889)、北谷村字大塚山に六所宮として鎮祭。天文19年、(1550年)、多摩川の洪水のため社地欠陥し、現在の境内に遷座する。明治元年伊豆美神社と改称。
徳川時代は井伊、石ヶ谷、松下の諸家より金穀を寄進されるも、明治維新で廃止。明治16年、郷社に列せられ。明治42年供進神社に指定される(北多摩神道青年会)」とあった。

大塚山は元和泉2丁目辺りの微高地。いつだったか六郷用水の狛江取水口を訪ねたとき出合った、水神社(伊豆美神社の末社)の東の辺りだろう。六所宮として鎮祭。とは府中の六所宮(大国魂神社)の分霊を祀り「六所宮」としたのだろう。伊豆美神社と改称の由来は、地名の「和泉(いずみ)」に因む。松下氏は和泉を領した旗本。供進神社とは郷社、村社を対象に明治から終戦に至るまで勅令に基づき県令をもって県知事から、祈年祭、新嘗祭、例祭に神饌幣帛料を供進された神社。「帛」は布を意味し、古代では貴重だった布帛を神に供えたものだろうが、明治の頃はお金、ということではあろう。

道標
狛江道に戻る。少し東に進むと道は分岐し、道標がある。文政10年(1827)の馬頭観音とのことだが、風雪に摩耗している。その道標脇に丸石があり、そこに「西 府中道 右 地蔵尊 渡し場道 左 江戸青山 六郷道」とあった。道標には、そういった文字が刻まれているのだろう。







庚申塔道標
次の目的地は狛江駅前の泉龍寺ではあるのだが、『古代武蔵 ロマンの旅』には、泉龍寺から少し南西に下ったところに「亀塚」の記述がある。狛江の古墳ではあろうと、狛江道を離れちょっと寄り道する。
松原通りに出て道を南に少し下ると庚申塔。道標も兼ねており、「左 国領 右高井戸道 南 のぼり戸道」と刻まれる。安政5年(1856)に建てられた、とのことである。








田中橋交差点
松原通りを更に南に下ると田中橋交差点。位置からすれば、六郷用水の水路に架かっていた橋名だろうとは思う。交差点脇にある高千穂稲荷の脇には「田中橋」と刻まれた石碑が建っていた。

六郷用水は取水口と、次太夫掘、そして世田谷の丸子用水から下流の用水は歩いたのだが、取水口から次太夫掘までの流路はチェックしていない。偶々ではあるが用水路跡らしき地名に出合った。 いい機会でもあるので後日、流路をしらべてみようと思う。

鎌倉橋跡
田中橋交差点から亀塚古墳に向かって成り行きで道を左に折れ、如何にも水路跡らしき道筋を進むと、道脇に鎌倉橋と刻まれた橋跡が残されていた。これって、六郷用水から分かれた用水路だろう、とは思うのだが、これも後ほど調べることにして、亀塚古墳へと急ぐ。





亀塚古墳
鎌倉橋跡から最初の角を南に下り、道なりに道案内などないものかと注意しながら歩くと、立ち込んだ民家の塀に「亀塚古墳」の案内があった。
民家との間の狭い通路を進むと塚に上る石段があり、塚の上に「狛江亀塚」の碑が建っていた。周囲は民家で囲まれている。この塚は破壊された古墳(前方後円墳の後円部)の残土を盛って復元されたもの、という。

塚の上にあった案内には「狛江市南部を中心に分布する狛江古墳群は、南武蔵でも屈指の古墳群として知られています。これらは「狛江百塚」ともよばれ、総数70基あまりの古墳があったとされています。そのなかでも、亀塚古墳は全長40mと狛江古墳群中屈指の規模を誇り、唯一の帆立貝型前方後円で、5世紀末~6世紀初頭に造られたと考えられています。昭和26・28年に発掘調査が行われ、古墳の周囲には、周溝があり、墳丘には円筒埴輪列が廻らされ、前方部には人物や馬をかたどった形象埴輪が置かれていることがわかりました。
人物を埋葬した施設は後円部から2基(木炭槨)、前方部から1基(石棺)が発見され、木炭槨からは鏡、金銅製毛彫飾板、馬具、鉄製武器(直刀、鉄鏃など)、鈴釧や玉類などの多数の副葬品が出土しました。特に銅鏡は中国の後漢時代(25~220年)につくられた「神人歌舞画像鏡」で、これと同じ鋳型でつくられたものが大阪府の古墳から2面見つかっていることから、この古墳に埋葬された人物が畿内王と深く結びついていた豪族であったと考えられています。また、金銅製毛彫飾板には竜、人物、キリンが描かれていて、高句麗の古墳壁画との関係が注目されました。
現在は前方部の一部が残るのみですが、多彩な副葬品や古墳の規模・墳形などからみて、多摩川流域の古墳時代中期を代表する狛江地域の首長墳として位置づけられます(平成14年3月 狛江市教育委員会)」とあった。

説明と一緒にあった昭和26年(1951)の亀塚古墳の写真は、破壊される前の巨大な古墳威容を示していた。なお、亀塚古墳からは高句麗系の影響の見られる遺物が出土しえているともいう。


泉龍寺
亀塚から北に小田急小田原線・狛江駅に戻り、泉龍寺に向かう。駅北口を数分歩くと美しい緑の林が続く。駅傍にこのような美しい環境が残ることにちょっと驚き。この林は弁財天池保全地区となっている。林を囲む柵に沿って進むと、門があり中に入れた。ボランティアの方々が緑の保護活動をなさっていた。保全地区を彷徨う。細い水路がある。水路に沿って西に向かうと趣きのある池がある。そこが弁天池であった。
弁財天保全地区
奈良時代の昔、大干魃に際し、良弁僧正がこの池において雨乞いを行ったところ、竜神が現れ大雨を降らせたとも、この地で雨乞いをおこなうと湧水が湧き出したとも伝わる霊泉として、涸れることのない湧水が昭和30年末頃まで和泉・岩戸・猪方・駒井・喜多見・宇奈根の水田を潤した、と言う。ということは、この池から水路か水路跡があるのだろう。後で水路跡をチェックしてみようと思う。
それはともあれ、多摩川中流域の砂利層を進み、この地に湧き出た豊かな湧水も、市内の宅地化、地下水の組み上げなどの影響で、昭和42年(1967)頃から涸渇を繰り返し、昭和47年(1972)には完全に涸渇する。昭和48年(1973)には弁財天池が狛江市史跡第一号に指定され、復元工事が行われ、微量の水が保たれ、景観の保全を図った、と。
現在の水源は平成18年(2006)に完成した深井戸掘削工事に拠る。70メートルの深井戸が彫られ、地下水圧により池の底すれすれの高さまで上がってきた地下水をポンプで汲み上げ池を潤しているとのことである。
良弁上人
華厳宗の創始者であり東大寺の初代別当。聖武天皇の命により全国に国分寺が設けられた時、故郷もある相模の国分寺の初代住職となった。良弁上人には八菅修験散歩の折に出合った。

鐘楼門
成り行きで進むと前方に誠に美しい二層式の鐘楼門が見える。誠に美しい姿である。天保15年(1844)再建とのこと。山門から通じる参道に建つのもあまり見かけない。

本堂
鐘楼を進み本堂にお参り。お寺さまのHPによると、『泉龍寺の本尊は釈迦如来です。漕洞宗に属し、永平寺および総持寺が大本山です。伝説によれば、奈良東大寺の開山として名高く、伊勢原の雨降大山寺をも開いた良弁(ろうべん)僧正が天平神護元年(756)、この地にやってきて雨乞いをし、法相宗・華厳宗兼帯の寺を創建したのが泉龍寺のはじめとされています。天歴3年(949)、廻国の増賀聖がこれを天台宗に改め、法道仙人彫刻の聖観世音菩薩を安置したということです。
戦国時代に寺は衰退し、小さな観音堂だけになっていましたが、旅の途中に立ち寄った泉祝和尚が泉の畔で霊感を受け、ついに漕洞宗の参禅修行道場として当寺を復興しました。その後、天正18年(1590)、徳川家康が関東に入国すると時代は一変し、石谷清定(いしたにきよさだ)が入間村(調布市)の内百五十石と和泉村(狛江市)の内百石とを与えられ、地頭として霊泉に接する小田急狛江駅南側に陣屋を構えて下屋敷としました。清定は泉龍寺の中興開山鉄兜端午和尚に帰依し、霊泉に中島を造り弁財天像をまつるなど、率先して寺域の整備に努めたので、中興開基とされています』とあった。

開山堂

本堂の左側に関山堂。弘化4年(1847)に再建、昭和36年(1961)に大修理が実施された、と。

延命子安地蔵
境内に立つ宝篋印塔を見遣り、鐘楼門に戻り、参道を山門に向かう。その途中、進行方向左手に延命子安地蔵。これが、道標に刻まれていた「地蔵道」のお地蔵様である。
お寺さまのHPに拠れば、「江戸中期、18世紀頃に子授け・安産・子育ての祈願に応える子安地蔵尊が本堂内陣に安置されました。四谷・青山・本所・神田・日本橋など江戸市中や上祖師谷・練馬・十条・立川・砂川・山口・所沢・宮寺など近郊広範に講中が出来、尊像は家々を一夜ずつ巡業しました。毎月25日に寺を出発し、翌月23日の送り込みで寺に戻ると、その晩は信徒が参籠し、翌日の縁日にかけて山内は余興や露店でにぎわい、第二次世界大戦前まで盛んでした」とあった。これだけ人気があったのなら、地蔵道との案内があった理由が納得できる。


山門
安政6年(1859年)に再建されm平成18年(2006年)解体修理を始め、現在、銅板葺となっている。
慶元寺へ
山門を出て泉龍寺境内を離れる。ここから狛江道散歩の最後の目的地である慶元寺へ向かうのだが、『武蔵古代 ロマンの旅』には狛江駅から先のルートは「狛江道は慶元寺南に続く」と記されるだけ。地図も狛江駅から寺社のマーク(明静院と八幡神社)の前を通り、慶元寺までほぼ直線に線が描かれているだけである。とりあえず、成り行きで明静院と八幡神社に向かう。

岩戸川緑地公園
狛江駅北の狛江通りを進み世田谷通りとの交差点・狛江三差路に。その先を成り行きで進むと、如何にも水路跡らしき細路が南東に進む。入口に「岩戸川緑地公園」とあった。先ほど出合った六郷用水や、また、泉龍寺の弁天池からの水路のこともあり、少し気になりその道を進む。






岩戸川緑道(岩戸川せせらぎ)
水路跡らしき道はすぐに終わるが、別の水路跡らしき道が、その先にも続いている。成り行きで進むと水が流れる親水公園風の箇所があり、そこには「岩戸川緑道(岩戸川せせらぎ)」とあった。
「岩戸川緑道(岩戸川せせらぎ)」は明静院手前まで進み、右手に折れる。水路はその先に続いているようだが、狛江道が通る明静院はその先の道を右に折れたところにある。水路跡の道から離れ狛江道の道筋に戻る。
「岩戸川緑地公園」って、六郷用水からの分水だろうか、それとも、泉龍寺の弁天池からの流れの一部なのだろうか。気にはなるのだが、寄り道したい思いを抑え、とりあえずは明静院に向かう(注;名なき水路跡らしき小径や緑道の謎解きは次回のメモで)。

明静院と八幡神社
岩戸川緑地公園の案内のあった地の直ぐ北の道を東に折れると明静院。そしてその横に八幡神社があった。落ち着いた雰囲気の天台宗のお寺さまである明静院。八幡神社は、この岩戸の領主である吉良氏の家臣・秋元仁左衛門が鎌倉・鶴岡八幡宮のご神体をかけた相撲に勝ち、当地に鶴岡八幡のご神体を勧請したのがこの八幡と伝わる。岩戸八幡とも称される。




喜多見緑道
明静院と八幡神社にお参りし、東の慶元寺へと向かうと、慶元寺の境内南に、今度は「喜多見緑道」。如何にも水路跡といった緑道が再び登場し、誠に気にはなるのだが、日暮れも近いし、なにより今回の散歩は狛江道散歩と自分に言い聞かせ、喜多見緑道から北に折れる境内に沿って慶元寺へ向かう。





慶元寺

喜多見緑道の案内のあった地点から少し東に進み、最初の角を北に折れると慶元寺の参道に出る。杉林に覆われた長い参道を進み山門を通り本堂にお参り。境内には鐘楼、薬師堂とともに三重塔が建つ。美しい三重塔ではあるが、これといった由緒の記録が見つからない。比較的新しい建造物なのだろうか。
それはともあれ、お寺さまの案内には、「永劫山華林院慶元寺 浄土宗、京都知恩院の末寺で、本尊は阿弥陀如来坐像である。 当寺は、文治二年(一一八六)三月、江戸太郎重長が今の皇居紅葉山辺に開基した江戸氏の氏寺で、当時は岩戸山大沢院東福寺と号し、天台宗であった。室町時代の中ごろ、江戸氏の木田見(今の喜多見)移居に伴い氏寺もこの地に移り、その後、天文九年(一五四〇)真蓮社空誉上人が中興開山となり浄土宗に改め、永劫山華林院慶元寺と改称した。
更に文禄二年(一五九三)江戸氏改め喜多見氏初代の若狭守勝忠が再建し、元和二年(一六一六)には永続資糧として五石を寄進し、また、寛永十三年(一六三六)には徳川三代将軍家光より寺領十石の御朱印地を賜り、以後歴代将軍より朱印状を賜った。
現本堂は享保元年(一七一六)に再建されたもので、現存する区内寺院の本堂では最古の建造物であるといわれている。墓地には江戸氏喜多見氏の墓があり、本堂には一族の霊牌や開基江戸太郎重長と寺記に記されている木像が安置されている。
山門は宝暦五年(一七五五)に建立されたものであり、また、鐘楼堂は宝暦九年に建立されたものを戦後改修したものである。
境内には喜多見古墳群中の慶元寺三号墳から六号墳まで四基の古墳が現存している(世田谷区教育委員会掲示より)」とあった。

江戸氏
江戸氏は秩父平氏の系。江戸氏の祖は、平安の末期、江戸郷を領した秩父重綱の四男重継。重継は「江戸四郎」と称し、重継とその嫡子である江戸太郎重長の頃、現在の皇居の辺りに館を構えた。
頼朝挙兵時、重長は当初平氏の味方をするも、上総広常や千葉常胤など下総・上総勢の説得もあり。最後は頼朝に与する。浅草の湿地に舟を繋ぎ、武蔵に無事に軍を進めることができたのは、江戸氏が頼朝傘下になったことが大きいとも伝わる。
重長は鎌倉時代、頼朝の旗下で活躍。その功により、武蔵の国諸雑事、在庁官人ならびに諸郡司を仰せ付けられ、また、鎌倉幕府樹立の際に右兵衛尉に任じられ武蔵七郷を賜った。舟運の要衝の地である浅草湊を抑えた江戸氏は栄え、重長は「坂東八ヵ国の大福長者」とも称された。

江戸氏が木田見の地に
その後、江戸氏七代の重長(上記と同じ名だが別人;畠山重忠の系列から養子となる)の頃、依然として威を張る江戸氏は次男の氏重を木田見に、三男の家重を丸子氏に、四男の冬重を六郷氏に、五男の重宗を柴崎に、六男の秀重は飯倉に、七男の元重は渋谷の地に配し拠点を固め、それぞれが独立し、その地名を冠し独立した。木田見氏(後の喜多見)がここに誕生する。江戸太郎重長の賜った武蔵七郷の拠点に一族を配したのだろう。
室町時代になると状況が変わる。お寺さまの案内では「室町時代の中ごろ、江戸氏の木田見(今の喜多見)移居に伴い氏寺もこの地に移り」とさらりと案内しているが、これは鎌倉公方足利氏とそれを補佐する関東管領上杉氏が相争い、武蔵の武将が常陸の古河に逃れた古河公方と関東管領上杉氏に分かれて戦闘を繰り返したことに起因する。古河公方に与した江戸氏が関東管領上杉氏を補佐する太田道灌に追われ、江戸の地を離れざるを得なくなったということである。

小田原北条の治世では世田谷城主の吉良氏に仕えることになった木田見氏は、家康の江戸入府の後、喜多見氏を名乗ることになる。この慶元寺は喜多見氏の館の一部とも言われ、寺の西南には空堀跡らしき低地がある(『武蔵古道ロマンの旅』)とのことである。

今回の散歩のテーマである狛江道散歩は、これで一応終えたことになるのだが、『武蔵古代 ロマンの旅』には、慶元寺から北東に点線が描かれている。同書にある、慶元寺から荏原郡衙があったと推定される皇居付近に向かう荏原郡衙の道ではあろう。
同書には慶元寺の付近に須賀神社とか稲荷塚、氷川神社も記されている。ついでのことでもあるので、これらの地を訪れ、最寄りの駅・喜多見に向かうことにする。

須賀神社
慶元寺の東北傍に須賀神社がある。社は小高い丘の上にあり、吹き抜けの、まるで神楽殿でもあるような社であった。
社殿下、神木であるムクノ木脇の案内には「世田谷区指定無形民俗文化財「須賀神社の湯花神事」:須賀神社は、承応年間(1652~1654)に喜多見久太夫重勝が喜多見館内の庭園に勧請したのが始まりといわれ、近郊では「天王様」とよばれ親しまれている。
  湯花神事(湯立)は、例大祭の8月2日に執り行われる。社殿前に大釜を据えて湯を沸かし、笹の葉で湯を周りに振りかける行事である。この湯がかかると一年間病気をしないといわれ、今日も広く信仰を集めている。
  湯花神事は浄め祓いの行事になっているが、湯立によって占いや託宣を行うのが本来の形であり、神意を問うことであった。素朴で普遍的な神事であったが、世田谷区では唯一となり、都内でも数少ない行事となった(平成13年7月:世田谷区教育委員会)」とあった。なお、この湯花神事は横浜市内の幾つかの社のほか、関東地方に10社ほど今に伝わる、と言う。
天神塚古墳
で、社が建つ丘は天神塚古墳とのこと。径16~17m、高さ1mの横穴式石室のある円墳であったようである。

第六天神塚古墳
須賀神社の南に竹林に覆われた小高い丘がある。そこは「第六天神塚古墳」であった。塚脇にある案内には「世田谷区指定史跡 古墳時代中期(五世紀末~六世紀初頭)の円墳。昭和五十五年(1980)と昭和五十六年(1981)の世田谷区教育委員会による、墳丘及び周溝の調査によって、古墳の規模と埋葬施設の規模が確認された。
  これによって本古墳は、直径28.6メートル高さ2.7メートルの墳丘を有し、周囲に上端幅6.8~7.4メートル下端幅5.2~6.7メートル深さ50~80センチの周溝が廻り、その内側にテラスを有し、これらを含めた古墳の直径は32~33メートルとなることが判明した。またこの調査の際に、多数の円筒埴輪片が発見された。
埋葬施設は墳頂下60~70センチの位置に、長さ4メートル幅1.1~1.4メートルの範囲で礫の存在が確認されていることから、礫槨ないし礫床であると思われる。
なお同古墳については、「新編武蔵風土記稿」によると、江戸時代後期には第六天が祭られ、松の大木が生えていたとの記載が見られる。
この松の木は大正時代に伐採されたが、その際に中世陶器の壺と鉄刀が発見されており、同墳が中世の塚として再利用されていたことも考えられる。(昭和59年 世田谷区教育委員会)」とあった。

稲荷塚古墳
第六天神塚から慶元寺境内脇の道に戻り、北に道を進むと、左手に稲荷塚古墳緑地がある。公園の奥に小じんまりとした塚がある。
塚に近づくと、案内があり、「この古墳は直径約13m、高さ2.5mの円墳で、周囲に幅約2.5mの周濠がめぐっている。
長さ6mの横穴式石室は、凝灰岩切石で羽子板形に築造されている。調査は昭和34年と昭和55年に行われ、石室内から圭頭太刀、直刀、刀子、鉄鏃、耳環、玉類、土師器、須恵器が出土している。出土品は、昭和60年2月19日に区文化財に指定され、世田谷区郷土資料館に展示されている。古墳時代後期7世紀の砧地域の有力な族長墓と考えられる(昭和61年世田谷区教育委員会)」とあった。
狛江だけでなく、この喜多見にも喜多見古墳群と呼ばれる13基ほどの古墳が残るようである。

氷川神社
道を進み、慶元寺の境内の北を回り氷川神社に。鳥居を潜って参道を進むと、小づくりな鳥居が参道に建つ。
二の鳥居
鳥居脇の案内によれば、「世田谷区指定有形文化財(建造物) 年代承応3年(1653) 法量;総高は中央部で292.5センチ。柱間は基盤で292.5センチ 材質;白雲母花崗岩。基盤は安山岩。型式は明神鳥居伝来;承応3年(1653)、喜多見村の地頭であった喜多見重恒・重勝兄弟が氏神である当社に奉献したものである。鳥居の特徴は、台石上部の根巻きが太く、円柱の三分の一位あることと、寄進の年記や寄進者が明確に刻まれていることである。なお、銘文は杉庵石井兼時の書であると伝えられて3いる。
この石鳥居は区内最古のもので、型式・石質とも特異なものであり、この地方の文化史上貴重なものである(昭和61年 世田谷区教育委員会)」、とあった。 「寄進の年記や寄進者が明確に刻まれている」とは「左側側面;承応三(甲午)年九月九日喜多見五郎左衛門平重恒 右側側面;承応三(甲午)年九月九日喜多見久太夫平重勝」のことであろう。また、左柱正面には、武蔵国多摩郡喜多見村の氷河大明神に兄弟が相談し石華表(鳥居のこと)を寄進したことが漢文で刻まれていた。なお寄進者として刻まれていた喜多見重勝とは、先ほど須賀神社にあった、承応年間(1652~1654)に須賀神社を勧請した喜多見久太夫重勝のことだろう。
参道を進み本殿にお参り。案内には「当神社の創建は古く、天平十二年(七四〇)に素盞嗚尊を奉祀したことにはじまると伝えられています。永禄十三年(一五七〇)には、この地の領主江戸刑部頼忠により再興されました。その子喜多見勝忠が神領五石二斗を寄進したほか、社前の二の鳥居は、承応三年(一六五四)に喜多見重恒・重勝兄弟によって建立・寄進されるなど、江戸・喜多見氏とゆかりの深い神社です。
また、慶安二年(1649)、徳川家光より十石二斗余りの朱印状を与えられ、以降、将軍家より、八通の朱印状を受け取っています(平成26年 世田谷区教育委員会)」とあった。

案内には、天平十二年(七四〇)の創建とあるが、延文年間(一三五六~六0)に社殿大破し、ついで多摩川洪水のため古縁起・古文書などが流失して詳細は不明である。ただ、元の社はこの地ではなく多摩川の近くににあったのだろう。

江戸刑部頼忠とは姓を木田見から喜多見と改めた人物。また、この社でも須賀神社同様に祭礼で湯立神楽が奉納されたとのことだが、先ほどの須賀神社はこの社の末であり、その神事は氷川神社から神主が出向くというので、ひょっとすれば同じものだろうか。

木田見から喜多見に
木田見が記録に登場するのは13世紀の後半頃と言われる。鎌倉から室町の中頃までは「木田見」の文字が用いられている。「喜多見」となったのは江戸時代になってから。永禄13年(1570)に氷川神社を再興したこの地の領主江戸刑部頼忠か、その嫡子勝忠の頃との説がある。江戸時代になり、後北条の家臣であった江戸氏はこの木田見の地に蟄居していたが、徳川氏に仕えるに際し、木田見村の村名ともども、喜多見と改めたとのことである。

滝下橋緑道
これで本日の散歩を終了。氷川神社から、最寄の駅である小田急小田原線・喜多見駅に向かって、これも成り行きで北に進むと、世田谷通りの手前に、またまた、水路跡らしき緑道。滝下橋緑道とある。こうも多くの水路跡に出合った以上、少し整理して再び狛江に訪れるべし、と。


小田急小田原線・喜多見駅

滝下橋緑道から喜多見駅に向かうに、せっかくここまで来た以上、野川を眺めてから駅に向かおうと、少し寄り道し、屋敷林や蔵のある旧家を眺めながら野川に向かい、そこから折り返し小田急小田原線・喜多見駅に到着。本日の散歩を終える。

何気なく取り出した『武蔵古道 ロマンの旅』からはじまった狛江道散歩であるが、結局二回に分けて、府中の国府跡からはじめ、狛江道(古品川道)を、荏原郡衙の道と品川湊への品川道への分岐点である世田谷区喜多見の慶元寺まで歩き終えた。しかしながら、散歩の途中で出合った六郷用水跡の橋名、また幾度となく登場した水路跡らしき緑道、そして昭和30年(1955~1964)末頃まで和泉・岩戸・猪方・駒井・喜多見・宇奈根の水田を潤したと言う泉龍寺からの湧水の水路は何処に?といった気になることがいくつも残り、次回はお気楽散歩ではなく、少しチェックしたうえで狛江の水路を辿ろうと思う。謎解きは次回のお楽しみ、として一路家路へと。
とある終末、散歩に出ようと思うのだが、何処と言って歩いてみたいところが想い浮かばない。で、本棚を眺めると、いつだったか神田の古本市で買い求めた『武蔵古道 ロマンの旅;芳賀善次郎(さきたま出版会)』(以下『武蔵古道 ロマンの旅』)が目に止まった。
時刻もお昼近い。本を取り出し、近くに手頃なとこはないかと、スキミング&スキャニング。「荏原郡衙の道」の章にある「調布の里を辿る狛江道」が目に止まった。スタート地点も府中で、自宅近くの明大前から特急で2駅と言うロケーションの良さもさることながら、「郡衙の道」という言葉の響きに惹かれた。
電車の中で本を読み、大雑把なテーマとルートを把握。テーマは武蔵國の国府のあった府中から、武蔵國に21あった郡の内、荏原郡の郡衙のあったとされる現在の皇居北の丸の辺(著者の推定;諸説あるようだ)を結ぶ行政道を府中からはじめ調布、そして狛江までを辿ること。
国・郡とは大化の改新後、大和朝廷が地方行政組織の確立のため設けた行政組織である。国府は今で言う県庁(都庁)、郡衙は市役所(区役所)と言ったものだろうか。「郡衙の道」とは国府と郡衙を結び、郡衙の役人が職務執行のため国府に出向くため、また、郡の租税物品を国府に運ぶ道(『武蔵古道 ロマンの旅』)といったものである。
ルートは府中から府中崖線上を狛江に向かうことになる。通常、郡衙の道は国府間を結んだ「官道(朝廷が計画した国府間を結ぶ行政路)」を活用することが多いようだが、この狛江道は官道ではなく、自然発生的、というか、地域住民が生活のために踏み分けた道を整備したとのことである(『武蔵古道 ロマンの旅』)。
思うに、狛江=高麗居、当時の最先端技術者集団である帰化人の里と国府の往還が、国郡制度成立以前、国造と呼ばれる地方豪族が割拠する昔から、強く結ばれていたのだろう.。実際、府中には、国府成立以前に覇を唱えた豪族のものよされる熊野神社古墳をはじめとし、いくつもの古墳が残ると言う。
少々付け焼き刃ではあるが、電車の中で狛江道に関連するあれこれについて、少しお勉強をし京王線・府中駅で下車。『武蔵古道 ロマンの旅』にある狛江道のスタート地点である大國魂神社中門に向かう。


本日のルート;京王線・府中駅>ケヤキ並木>大国魂神社>武蔵国府跡>地獄坂>京所道(きょうづみち)>天神坂>普門寺>妙顕神社>普門寺坂 >天地の坂>馬坂>国府八幡宮>八幡道>弁財天>滝神社>白山神社>かなしい坂>東郷寺坂>庚申坂>溝合神社>道祖神>発祥地 塞神>本願寺>おっぽり坂>浅野長政隠棲の地跡>諏訪神社>はけた坂>府中崖線白糸台緑地>品川通り・車返団地東交差点>若宮八幡>鶴川街道>調布市郷土館>調布・映画発祥の碑>布田天神跡>白山宮神社>京王線・調布駅


京王線・府中駅
府中駅で下車。南口を東に出ると並木道が南北に続く。道脇に小さな祠。青面金剛の庚申塔と、馬頭観音(?)が祀られる。道を進むと案内板。「大国魂神社と馬場大門の欅並木」とある。この並木道はケヤキの並木道であった。

○大国魂神社と馬場大門の欅並木
案内には「馬場大門ケヤキ並木は大国魂神社の参道であり、江戸時代には並木北端(都立農業高校付近、ケヤキ並木南端から550m余北)に大国魂神社の木製の一之鳥居が建立されていました。現在では昭和26年に寄進された大鳥居(二之鳥居)が境内に建立されています。
ケヤキ並木の起源は源頼義・義家親子が奥州・阿部氏反乱(「前九年の役」と呼ばれ、永承6年「1051年」から康平5年「1062」までの乱)の平定の途中、大国魂神社に戦勝を祈願し、平定後も参拝してケヤキ千本を奉植したのが始まりと伝えられています。
現在のケヤキ並木は天正18年(1590)に徳川家康が江戸に入り、慶長年中(1596-1615)に二筋の馬場を寄進し、両側に土手を築いてその上にケヤキの苗を植えたのが始まりです。その後、寛文7年(1667年)に老中久世大和守が府中宿の大火(正保3年「1646」)で焼失した六所宮(大国魂神社)の再興とともにケヤキ並木の補植を行っています。
なお、徳川家康によるケヤキ並木馬場の寄進は、府中で伝統ある馬市が開かれていたことにもよります。とくに、府中の馬市は戦国時代から江戸初期にかけて、関東でも有数の軍馬の供給地であり、馬市は5月3日の「駒くらべ」の日からはじまり、9月晦日まで5ヶ月にわたって開催されました)。
ケヤキ並木は大正13年、国の2番目の天然記念物に地域指定されています。毎年5月の例大祭(くらやみ祭)では、3日にケヤキ並木で夕方から囃子の競演、競馬式(駒くらべ)が執り行われています」とあった。

■奥州街道
案内によれば、ケヤキ並木の起源に源頼義・義家の奥州平定の縁起がある。『武蔵古道 ロマンの旅』によれば、このケヤキ並木を北に向かう道は奥州平定の道ということで、「奥州街道」と称される。そしてこの道は、古代の武蔵国の21の郡のひとつ、新座郡の郡衙(新座市柏町と推定される)の道を整備したものと説く。ルートは府中>小金井>清瀬>志木へと続く。
そこから先はどのようなルートで奥州に向かうのか、はっきりわからないが、武蔵国の成立当初、いまだ府中が国府の地として整備されていない間、出雲族が移り住み、既に武蔵の中心地となっていた大宮を経由し、府中を結んだ官道である「大宮街道(上野国の国府のある前橋から府中まで)」を吹上まで北上し、吹上からは、これも古代の官道である「下州道(府中>所沢>吹上>足利>下野の国府のある栃木に向かう)を通り、奥州に向かったのではあろう、か。

府中に通じる古代の官道
大宮街道とか下州道とか、少々わかりにくいので、『武蔵古道 ロマンの旅』を参考に、Google マイマップで,、武蔵国の国府のある府中に通じる古代官道を作成した。武蔵国に21あった郡衙もその場所はほとんど確定しておらず、国府や郡衙の正確な場所をピンアップしたものではない。全体の場所関係を把握するだけのもの。念のため。




虚子の句碑 ケヤキ
並木を少し進むと緑の植え込みの中に石碑が建つ。チェックしてみると、「秋風や欅のかげに五六人 虚子」と刻まれた句碑。裏に「この碑は昭和5年8月27日武蔵野探勝会の於いて虚子が発表した句箋」との説明があった。虚子一門は昭和5年の8月から月に一度、武蔵野の自然の中での吟行を行い、それを武蔵野探勝会と称したようである。その第1回の吟行の地が「府中の欅並木」であった、とのことである。虚子が「果てしない野原に尾花のなびいてゐる景色、欅や楢の林の落葉する景色。。。(ホトトギス)」と描いた「府中の欅並木」辺りの景観を、今の府中に想うのは少々難しい。




○ケヤキ並木馬場寄進の碑
参道に石碑が建つ。「ケヤキ並木馬場寄進の碑」であった。上の説明に一部重複するが、案内には「府中市指定文化財 有形文化財 ケヤキ並木馬場寄進の碑 馬場大門のケヤキ並木両側の歩道部分はかって馬場であり、「馬場大門」の名称もこれに由来しています。
馬場は、慶長年間(1596-1615)に徳川家康が六所宮(現大國魂神社)に寄進されたものと伝えられています。この碑は由緒ある馬場を長く後世に伝えるために建てられたもので、花崗岩の石に「従是一之鳥居迄五町余 左右慶長年間御寄附之馬場」と刻まれています。
石碑がいつ誰によって建てられたかは不明ですが、江戸時代後期の地誌「武蔵名所図会」に図入りで紹介されて下り、その頃には有名であったことが知られています(平成20年 府中市教育委員会)」とあった。


大国魂神社

ケヤキ並木を進み、県道229号・大国魂神社前交差点を越え大国魂神社に。鳥居を潜り緑豊かな境内を進むと左手に社。最近建て替えられたのだろうか新しい社である。鳥居も昭和56年(1981)と刻まれている。社殿前に「永代常夜灯(寛延2年;1750年)」、「常夜灯(文政6年:1823年)」の2基の常夜灯の建つ社は、摂社「宮乃咩(みやのめ)神社」とある。あまり耳にしたことのない社名である。

宮乃咩(みやのめ)神社
北条政子も安産祈願したと伝わる社であるが、安産の御礼には底の抜けた柄杓を納めると言う。どういうこと?チェックすると、諏訪大社にも同様の風習があり、その意味合いは「水がつかえず軽く出るように、お産も楽にできた」ことのようである。
それはともあれ、この小社のチェックの過程で、あれこれ妄想できる素材が現れてきた。

どんな社かgoogleで検索。が、この大国魂神社の他に、宮乃咩神社がヒットしない。それではと、「みやのめ」で検索すると「宮咩(宮売);平安時代以降、不吉を避け、幸福を祈願して、正月と12月の初午(はつうま)の日に、高皇産霊神(たかみむすひのかみ)以下6柱の神を祭ったこと」とあった。
創建は誠に古い。景行天皇の時代で実に西暦111年と言う。大国魂神社の創建と同じである。そんな昔のことは、それはそれと「据え置く」として、面白いのは7月12日に行われるこの社の例祭である。

「青袖・杉舞祭」と称されるこの例祭は、文治2年(1186)、源頼朝が泰平を願うべく、武蔵國中の神職に命じたもの、と言う。終夜、神楽を奏し泰平を記念した、とのこと。また、大國魂神社の例大祭である「くらやみ祭り」では、一連の行事の中に宮乃咩神社奉幣が組み込まれている。なんとなく「存在感」のある社である。

「府中市立 府中ふるさと歴史館」
先に進み、右手にある「府中市立 府中ふるさと歴史館」がある。立派な建物であり、何らか郡衙の道・狛江道に関する資料でもないものかと館内に。1階は国府資料展示室であった。


武蔵国府
展示によれば、この大国魂神社はかつての国府のあった場所。資料によれば、国府の北端は旧甲州街道のすぐ南側、南端は大国魂神社本殿裏手、西端はこのふるさと歴史館の館内、東端は未だ確定はしていないが、西端からおおよそ200m辺りと推定されている。また、国司の館は、奈良前期の国司の館は、JR武蔵野線・府中本町の東側の崖線上、平安前期の国司の館はJR武蔵野線・府中本町の西側の崖線下、行政事務を行っていた国衙地区は、大國魂神社の東側に記されていた。
国府は国司が政治や儀式を行う「国庁」と行政事務をおこなう「国衙」を含めた役所や役人の館、兵士の宿舎、市、学校、庶民の民家など、東京で言えば、東京都庁とその周辺の新宿副都心一帯を指す、とのことであった。

府中に国府が置かれた要因
『武蔵古道 ロマンの旅』に拠れば、飛鳥時代の西暦685年、武蔵国が成立する以前は、秩父地方に秩父国造、北武蔵(行田から大宮地方)に无邪志国造、南武蔵に胸刺国造がいた。无邪志は朝廷の力を借りて胸刺を滅ぼし、ふたつを合わせて武蔵国造となった。安閑天皇元年(534)の頃、と言う。
この抗争の結果、无邪志国造笠原直使主は、援軍の御礼として南多摩を屯倉(皇室の直轄地)として献上し、朝廷は南多摩に橋頭堡を築くことになる。
その後、朝廷の力が更に強大になり、大化の改新後、新たに国郡制度が整備され、武蔵国が生まれ、国造は大部分が郡司となる。
で、何故に国府が府中?ということであるが、『武蔵古道 ロマンの旅』に拠れば、国府は旧武蔵国造の勢力が強い北武蔵を避け、朝廷勢力の強い南武蔵でも、旧无邪志国造の中心地と比定される多摩川下流域も離れ、しかも南武蔵のほぼ中央で、地理的条件も良い新天地として府中を国府に選んだとのことである。


随神門
元の参道に戻り随神門に。随神門も新しく建て直されている。随神門から先は周囲が塀で囲まれており、そこに拝殿や本殿、数多くの摂社が建つ。このことを見ても、先ほどの「宮乃咩(みやのめ)神社」が他の摂社とは別格の「存在感」を示している。
それはともあれ、この随神門。建て直される前の随神門は享保年間(1716~1735)、武蔵野新田開発に際し、農民を保護し農営指導に尽力した名代官・川崎平右衛門が寄進したもの、と言う。そして、その財源は象の糞尿でつくった丸薬の売り上げで得た浄財とのこと。
話はこういうことである;いつだったか、中野長者・鈴木九郎ゆかりの寺、中野・成願寺を訪れたとき、そのすぐ脇の朝日が丘公園(中野区本町2-32)に「象小屋跡の案内」があった。亨保の頃、タイより象が長崎に到着。街道を歩き、京都で天皇の天覧を拝した後、江戸に下り将軍・幕閣にお目見え。その後13年ほどは幕府が飼育するも、維持費が大変、ということで払い下げ。希望者の中から選ばれたのが川崎平右衛門。縁故者の百姓源助が象を見せ物とし、大いに賑わった、とか。
また川崎平右衛門は象の糞尿にて丸薬をつくり、疱瘡の妙薬として売り出した。幕府の宣伝もあり、大いに商売は繁盛し、観覧料や丸薬の売り上げで上がった利益で府中・大国魂神社の随神門の造営妃費として寄進された、と(『代官川崎平右衛門の事績;渡辺紀彦(自費出版)』より)。
川崎平右衛門
川崎平右衛門は享保年間、武蔵野新田開発に際し、農民を保護し、農営指導に尽力した代官。もとは府中押立村の名主。農民を保護し、農営指導するその力量を評価され、享保年間、大岡越前とともに武蔵野の新田開発、というか立て直しに尽力した。
武蔵野の新田開発は享保年間以前、明暦の頃(1655~1657)より始まった。武蔵野に82の開拓村ができた、と言う。とはいうものの、入植した1320余戸のうち生活できたのはわずかに35戸しかなかった、と。こういった村の状況を更に悪くしたのが元文3年(1738年)の大飢饉。村は壊滅的状況になった。
その窮状を立て直すべく大岡越前守に抜擢されたのが川崎平右衛門。時の代官上坂安左衛門(この人物も何となく魅力的)の助力のもと、農民救済に成果を示し、名字帯刀を許され、寛保3年(1743)、大岡越前守の支配下関東三万石の支配勘定格の代官になった。また、不手際・職務怠慢ということで水元役を解かれた玉川上水開削の玉川兄弟に代わり、玉川上水の維持管理にも深く携わる。桜の名所とし有名な小金井堤の桜を植えたのも川崎平右衛門である。後には美濃や石見にも代官として派遣され仁政を行った(『代官川崎平右衛門の事績;渡辺紀彦(自費出版)』、より)。誠に魅力的な人物である。

中雀門・拝殿・本殿
随神門を入り、もうひとつ内部にある中雀門を潜り拝殿。本殿にお参り。中雀門からの塀が拝殿・本殿を囲む。中雀門から続く塀の内外には東照宮や住吉神社、大鷲神社などの摂社が並ぶ。現在の本殿は寛文7年(西暦1667年)徳川家綱がたてたもの。また 本殿の隣に東照宮が。いかにも徳川家の庇護篤かりしことが偲ばれる。
徳川家との繋がりといえば、先ほどの「ケヤキ並木馬場」寄進もさることながら、府中の国府、それも奈良前期の国司の館があったとされる府中本町駅前の崖線上に家康が命じて「府中御殿」を築いたと言う。『武蔵名所図会』には「府中は古へより府庁の地と兼ねて聞召されければ、その旧地へ営むべき旨。。。」と御殿造営の経緯が書かれている。武蔵國の新たな領主となった家康が、領国支配の正当性を示すには、古代武蔵国府のあった地に御殿を築くのが有効であったということだろう(「武蔵国府跡」のパンフレットより)。また、西からの脅威に対する抑えの意味もあったのだろう。

六所宮
「ケヤキ並木馬場寄進の碑」のところで、馬場は徳川家康が六所宮(現大國魂神社)に寄進したとあったが、この社が大国魂神社と称されるようになったのは明治から。それ以前は六所宮と称されていた。六所宮と称されたのは国府との関連での命名ではあろう。
武蔵国の国府がこの府中に設置されたわけだが、国司は赴任に際して、国内の主たる「神様」である一之宮から六之宮までを巡拝するのが恒例とになっていた。が、これって結構大変。武蔵国を例にとると、一之宮は東京都多摩市の小野神社(小野大神)、二之宮は東京都あきる野市の二宮神社(小河大神)、三之宮は埼玉県さいたま市の氷川神社(氷川大神)、四之宮は埼玉県秩父市の秩父神社(秩父大神)、五之宮は埼玉県児玉郡の金鑚神社(金佐奈大神)、六之宮は神奈川県横浜市の杉山神社(杉山大神)といった案配である。
こんなことやってられない、と思ったのかどうか、日本各地で国府の近くに一之宮から六之宮までを集めた総社をつくることになる。この武蔵国も同じ。それが大国魂神社の前身の「六所宮」である。大国魂神社となった現在でも、本殿のうち中殿には大国魂大神・御霊大神・国内諸神、東殿には小野大神・小河大神・氷川大神、西殿には秩父大神・杉山大神・金佐奈大神がまつられる。
往昔の大国魂神社・六所宮がどの程度の規模であったかわからない。宮乃咩(みやのめ)神社を六所宮と比定する説もある。最初は現在のような大きな社ではなかったようだが、国郡制度を行政組織の基本とする律令制度の崩壊とともに衰退・消滅していった国府の地を合わせ、現在のような大きな社となった、と言う。
武蔵一之宮論争
武蔵の一之宮は、東京都多摩市の小野神社である、否、一之宮は埼玉県さいたま市の氷川神社である、といった論争がある。専門家でもないので、どちらがどうとも言えないが、上で国府を結ぶ初期の東山道武蔵道(仮称)は、国府が整備されるまでの間、既に出雲族によって開かれていた大宮が仮の国府とされ、大宮を通り府中を繋いだとメモした(『武蔵古道 ロマンの旅』より)。
ここからは妄想であるが、その大宮にあったのが氷川神社である。当然、当初は氷川神社が武蔵一之宮であったのだろう。が、府中が国府として整備されると朝廷は出雲族の勢力の強い大宮と「距離」を置き、小野神社を一之宮としたのだろうか。はてさて。

国史跡 武蔵国府跡(国衙地区)
随神門を出て右に折れ、境内にある結婚式場前の道を進み鳥居を潜り、現在の東門から境内を離れる。境内を囲む石の塀にそって少し北に戻ると「国史跡 武蔵国府跡(国衙地区)」がある。
敷地には赤い柱が並ぶ。遺跡調査の結果、大型建物の一部と考えられる柱穴跡を再現したもの、と言う。30年余の発掘調査の結果、国衙の中枢の建物と考えられている。南北に並ぶ、奈良・平安の2棟の建物跡のようである。敷地が隣接する道路より高くなっているのは、発掘調査後埋め戻された建物跡を痛めないように盛土しているためである。
で、同所で入手した資料に拠れば、先ほどメモした宮乃咩(みやのめ)神社辺りに国衙の西門があった、とのこと。『武蔵古道 ロマンの旅』に拠れば、狛江道は古代は西門からはじまり、南へ進んで神社中門からの道に交差して東進したのではないか、と。中門は随神門と拝殿の間にあったとされるので、ここで言う中門がどこを指すのか不明ではあるが、ともあれ、やっと「狛江道」散歩のスタートラインに立った。

細馬(ほそま)
国史跡 武蔵国府跡(国衙地区)と大國魂神社の間の道を東門へと戻る。道脇に石碑があり、そこには「ほそま」と刻まれる。案内には「細馬(ほそま)の名は、この道が朝廷へ貢進する良馬(細馬)を試走する馬場だったことに由来します。『延喜式』によれば、武蔵国は五十頭の馬を貢進することが定められていたようです」とある。Wikipediaには細馬(さいば:こづくりで良い馬)とはあるが、「ほそま」は見あたらなかった。

武蔵の勅使牧
ところで、朝廷へ貢進する武蔵の勅使牧は石川牧(八王子市)、小川牧(あきるの市)、由比牧(八王子市)、立野牧(府中・立川市)の4ヶ所。立野牧で20疋、あとの30疋を石川、小川、由比牧でカバーしたようである。貢進はその後、阿久原牧(埼玉県児玉郡)、小野牧(八王子市)の2牧が追加されて以降、60疋が追加され110疋となり、そのうち小野牧が40疋送っている。小野牧って結構大きな牧ではあったのだろう。尚、武蔵の牧は小川牧(あきるの市)、由比牧(八王子市)以外は諸説有り、場所は特定されていないようである。


京所道(きょうづみち)
大国魂神社の東門に戻る。そこから東に道が通る。道脇に石の道標があり、「きょうづみち」と刻まれ、「京所道(きょうづみち)は、この道が京所の中心を通ることに由来します。この道は、甲州街道が開設(慶安頃;1648―1652)されるまで、初期の甲州への道として重要な役割を果たした道です」との説明があった。
初期の甲州への道
古甲州道は、府中の国府から甲州・甲斐国の国府(笛吹市御坂町国衙付近と比定される)を結ぶ道。六社宮(大国魂神社)随身門前を通り、多摩川沿いの低地を分倍河原、本宿、四谷三屋(府中市)から多摩川を渡り、石田から日野に進む。
日野からは谷地川に沿って南北加住丘陵の間の滝山街道を石川、宮下と北上し、戸吹で秋川丘陵の尾根道に入る。尾根道を辿った後は網代で秋川筋に下り、五日市の戸倉から檜原街道を西進。檜原からは浅間尾根を辿り青梅筋の小河内に下り、小菅を経て大菩薩を越え塩山に抜け甲斐の国府に至る。
なお、現在の甲州街道は国道20号線。高尾から大垂水峠を越え、山梨に進むが、江戸時代の甲州街道は高尾から小仏峠を越え相模湖付近の小原に下り、上野原から談合坂方面の山裾を通り鳥沢に下り、大月の西で笹子峠を越えて甲斐に至る。

地獄坂
今から進む狛江道は府中崖線(ハケ)の上を通り崖面下の低地は多摩川沖積面である。道筋には崖線の上下を繋ぐ幾多の坂があるが、京所道を東に進む前に、ここで、まず最初の坂を下ることにする。大国魂神社の境内東側に沿って進むと「地獄坂」があり、そこを下った沖積低地(東京競馬場構内)には川辺で祭祀を行ったとみられる遺跡が発見されているとのこと。
坂に向かう途中に案内があり、「地獄坂 この坂の由来は明らかではありませんが、昔、この坂道を繁茂した竹や草木がおおいかぶさり、また周囲の木立がうっそうとして薄暗く、それはあたかも通行する人の心に地獄への道のようなイメージを与えていたことによるのかもしれません。別名を「暗闇坂」(くらやみざか)ともいいますが、この名前は坂の薄暗い状態から由来していること思われます。
坂の西側の叢林(そうりん)は、5月5日の暗闇祭りで有名な武蔵総社大國魂神社の杜です。(昭和60年3月 府中市)」とあった。
案内を先に進むと坂があり、その下には妙光院、安養寺というお寺様があった。坂は100mほど、比高差は4,5mといったところだろうか。

国分寺崖線と立川(府中崖線)
ともに多摩川の流れによって形成されたもの。国分寺崖線は武蔵野段丘面と立川段丘面を分け、立川崖線は立川段丘面と多摩川沖積面を分ける。往昔の多摩川の流れによって形成された立川段丘面が、新たな流路によってさらに削られ立川崖線ができたわけだから、立川崖線のほうが、時代が新しいことになる。といっても、はるかはるかの昔のことである。
それはともあれ、立川崖線は立川から狛江の和泉の辺りまで16キロに渡って続く。ギャップは数メートルといったところである。因みに、国分寺崖線は武蔵村山から世田谷区の等々力渓谷辺りまで延々と続く。

京所
道を進むと「京所」の由来を刻んだ石碑があった。「京所(きょうづ)は現在の宮町二丁目の一部、三丁目(京所道沿い)に集落の中心があった村落です。この集落は、六所宮(現大国魂神社)の社領で八幡宿に属しており、『新編武蔵風土記稿(幕末の地誌)』には六所社領の小名としてその名が見えます。
地名の起こりは、経所が転化したものといわれており、ここに国府の写経所のような施設があった名残だと伝えられています。
延宝6年(1678)の六所明神領の検地帳には「きょう女」の字があてられています。京所のように「京」のつく地名は、国府の所在地には多くあります。この地域からは数多くの掘立柱建物跡が検出されており、武蔵国の国府(国衙)跡として有力なところです」とあった。
八幡宿
八幡宿?府中宿以外に八幡宿などあったのだろか。気になりチェックすると、宿場町の名前ではなく、単に村落の間前であった。八幡宿は「新編武蔵風土記稿」にも六所宮社領の小名として記載されている。
もともとは後に訪れる国府八幡宮の周囲に発達した村落であったが、甲州街道の開設(慶安頃1648~52年)に伴い、現在の八幡町1-2丁目の一部(甲州街道沿い)にあった集落とのこと。

天神坂
道を進むと崖下へと下る坂道がある。坂は「天神坂」。宅地の間を少しすすむと、左手に社を見ながらゆるやかなカーブで下に下りる。は160mほど、比高差は6m弱といった坂である。
案内に拠れば、「この坂の名は、大國魂神社の末社「天神社」がまつられている天神山に由来します。この山は「国造山」とも呼ばれています。天神社は普通「てんじんじゃ」と呼ばれ、菅原道真を祭神とする天満宮と混同されていますが、本来は「あまつかみのやしろ」と呼ぶのが正しいようです。そのため、この神社の祭神は菅原道真ではなく、少彦名命(すくなひこなのみこと)です。 天神社は、古くから人々の信仰をあつめ、道の名や地名として今に伝えられています。(昭和60年3月 府中市)」とあった。
坂の左手の社は日吉神社。天神坂の由来は、天神山、国造山は大国魂神社の境外末社であるこの日吉神社のある高台に、大国魂神社の末社である天神社が祀られることに拠る。なお、日吉神社は元はここから南東の地にあったが、東京競馬場の移転により、この地に遷座したとのことである。天神社を探し日吉神社を彷徨うと日吉神社の北側に鎮座していた。

普門寺
道の南側に普門寺がある。山門があるわけでもなく、駐車場の奥の緑の中にささやかな堂宇が建つ。お参りを済ませ、境内に見えた石碑に向かう。3基の石碑は「普門品供養等」と「奉誦普門品供養塔」、それと、かすかに「光明真言(供養塔)」と読める。
普門品
「普門品」とは、観音経(正確にはは「妙法蓮華経 観世音菩薩 普門品 第二十五」のこと。村人が村の安全・息災をのため「普門品」念じ、これを記念して建てたものだろう。と言すれば、浮き彫りの仏様は観音さま、であろうか。
光明真言
「光明真言」とは密教の「真言(=真実の言葉)」。真言の神秘性を担保すべく、サンスクリット語をそのままの音で称える。札所で目にする「オン アボキャ ベイロシャノウ マカボダラ マニ ハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン」がそれである。
Wikipedia二拠れば「オン」は「ああ!」、「アボキャ」は不空成就如来 「ベイロシャノウ」は大日如来 「マカボダラ」は阿?如来、 「マニ」は宝生如来 、「ハンドマ」は阿弥陀如来 「ジンバラ ハラバリタヤ ウン」は「光明を放ちたまえ フーン(聖音)」、ということで、金剛界五仏(五智如来)に対して光明を放つように祈願している真言であり、最高・最強の功徳を得る真言とのことである。

妙顕神社
道を進むと正面に府中競馬場の正面にあたる。その手前に坂があり、地図を見ると途中に「妙顕神社」がある。通常「妙見」と表記するのだが、どのような経緯で「妙顕」となったのだろか。如何なる風情の社かと歩を進めるが、誠にささやかな社ではあった。元は競馬場の敷地にあったものが、この地に移されたとのことである。



普門寺坂
この妙顕神社前の坂にも名前がつく。距離は100mほど、比高差は4mといったもの。坂を下り切ったところに案内があり「普門寺坂」とある。案内に拠れば、「この坂名は、坂の西側にある真言宗普門寺の寺名に由来します。別名を「薬師の坂」「古墳の坂」といいます。これは普門寺にまつられている薬師如来からついた名のようです。この薬師様は「目の薬師様」として有名で、毎年9月12日の供養の縁日には大勢の人が「お目玉」をうけにやってきます。「古墳」(ふるはか)の名は、寺の北側にあった古い墓にちなんだものといわれます。ここには昔、西蓮寺という寺があったそうです。坂の西側地域は国府庁跡の有力地です。(昭和60年3月 府中市)」とあった。

天地の坂
京王競馬場線・府中競馬正門前駅の東端辺りから成り行きで南東の道を下る。道が北から南に下る坂道に当たる手前に、「天地の坂」の案内。「この坂名は、昔、坂の下に「天地」の屋号の家の水車があったことに由来しているといわれます。このあたりは、ひところは湧水が多く、古地図などにもその名が記されています。そのため、ハケ下にはワサビ田が広がり、その風景は一幅の絵画を見るようだったといわれています。ハケ下には滝も流れ落ちていたといわれ、「たきの下」「たきの前」の地名が歴史的に確認されています。昭和の初期ごろまでは、これらの湧水を利用した水車があったそうです。(昭和60年3月 府中市)」とあった。
府中競馬正門前駅端から下るおよそ200m、比高差5mほどの坂である。湧水、清流のみに育つ山葵田、滝の名残は何も、ない。

馬坂
天地の坂に東北から交差する坂に「馬坂」の案内。「この坂の由来は明らかではありませんが、すでに明治のころには使われていたといわれています。
江戸時代、新宿に「おん馬屋」(現八幡町)と呼ばれていた旧家の下氏(しも)がおり、あるいは、この坂の名は下家(しも)の俗称「おん馬屋」から由来しているのかもしれません。
府中は古くから馬との係わりが深い町で、近世には馬市が盛んに行われています。府中の馬市からは、将軍家ご用馬や関ヶ原・大坂の役に使用された軍馬が供給されています(昭和60年3月 府中市)」とある。距離は106m ほど、比高差:3mといった坂である。
府中の馬市
江戸初期、府中は軍馬の供給地であった。関が原の合戦、それに続く大阪冬の陣・夏の陣に府中で調達した軍馬が使われた、と伝わる。その戦勝の故か、幕府は毎年、将軍乗馬の馬を府中の馬市で調達することが儀式ともなっていたようである。
この府中馬市には幕府の役人だけでなく、南部藩、仙台藩といった馬の供給地、需要地である江戸の馬喰(ばくろう;馬の売り買い業者)が集まり、ケヤキ並木の馬場での馬競べで馬の品評し、売買をおこなった。 この府中の馬市も、泰平の世となり、軍馬の需要が減るにつれ衰退し、将軍用の馬の買い上げ儀式も江戸城に移され、幕府との繋がりを失った府中の馬市はっ衰退していった、とのことである。

国府八幡宮
馬坂の道を東に向かうと社叢の中に入る。国府八幡宮の境内である。鳥居が北にあり、南へと続く参道を直角に曲がるとささやかな本殿が建つ。拝殿はないようだ。
国府八幡は聖武天皇の時代、国府の守神として一国一社の八幡宮が建てられたと言う(八幡信仰が普及した平安期との説もある)。参道を直角に曲げてでも西を向くのは国府に相対しているのだろうか。
本殿にお参りし、参道を北に進むと、参道途中に京王競馬場線が走っている。その先は旧甲州街道(江戸時代の)に当たる。参道が甲州街道からの参詣者の便を考えこのアプローチにしたのだろうか。
元々の参道はどこ?は、ともかく、現在では広い境内に比べて、誠にささやかな本殿である国府八幡宮ではあるが、国府が衰退・消滅する歴史の流れに呑み込まれることなく、鎌倉幕府を開いた源氏の棟梁以下、武門が戦いの神として篤く信仰され、中世の比も格式ある社として存在した、と言う。実際、当時では貴重であった瓦葺きの社であったとの説もある。
○武蔵国多摩郡の郡衙
この国府八幡宮あたりは、多摩郡の郡衙跡と比定する説もあるようだ。その場合の郡司は、この地の有力豪族ではあろうし、とすると、府中熊野神社古墳に祀られる人物との説もあるようだ。

八幡道
国府八幡宮社叢の南端の細路を進み、社叢を出た十字路脇に石碑があり、「八幡道」と刻まれる。「八幡道(やはたみち)の名は、この道が国府八幡宮のそばを通る事に由来します。江戸時代の古図にも、この名が記されており、道筋は北東に向かい、品川道と通じていたようです」とある。

品川道と古品川道

品川道は中世の頃開かれた道と言う。国府津とも称され、中世の船運の拠点として、伊勢・熊野を結ぶ品川湊への往還のために整備されたのだろうか。 石碑にあった地図には、この地から北東へと直線で進み、大国魂神社から旧甲州街道を東に進み、京王線・東府中駅の東で南東へ下る「品川道」と合流しているが、現在は宅地の間を曲がりながら進むことになる。
今回辿る狛江道(仮称)を「古品川道」とも称する。『武蔵古道 ロマンの旅』では「道は神社南から清水が丘3丁目の白山神社前に行く」とあるが、同時に同書には、この地から崖(ハケ)線に沿って進む道も描かれている。ハケに沿った道は「消滅したルート」とされている。「消滅したルート」の意味するところが、今ひとつ分からないが、この道は狛江道=古品川道が開かれる以前、古代の集落を結ぶ自然発生的な道(「いきき(行き来)」の道とも称される)ではあったのだろう。
このハケの道が、国衙が設置されたことで道として整備され、古品川道として使われていたのかどうか不詳ではあるが、大国魂神社の「くらやみ祭り」の最初の神事が品川沖の汐汲みであり、「くらやみ祭り」の起源は国府祭りにある、とのことであるので、府中に国府ができるはるか昔より「府中<>品川」を結ぶ道ができていたのだろう。
狛江道・古品川道は、ハケの道を進んだのか、白山神社の道を進んだのか不明ではあるが、いずれにしても白山神社を経由する狛江道・古品川道も、少し東で崖線上のハケの道を進むことになる。そして府中崖線が切れる狛江で古品川道と中世に整備されたという品川道は合流し、「品川道」の道筋を品川湊に向かったようである。
(注;地図の赤線が品川道、黒線が古品川道、緑線が狛江から荏原郡衙に向かう道)

品川道への繋ぎ道を進む
八幡道から先は『武蔵古道 ロマンの旅』にあった、「道は神社南から清水が丘3丁目の白山神社前に行く」の道筋を進む。その道筋は、上の八幡道の案内にあった「品川道」への繋ぎの道と途中まで同じであり、品川道合流点の手前から東に向かうことになる。

弁財天

宅地の間を「品川道」への繋ぎの道筋を進むと京王線・東府中駅の南の坂の途中にある清水が丘一丁目交差点に出た。交差点脇にはささやかな弁天さまの祠が建つ。弁天様である以上、「水」があってほしいのだが、その名残りは何もない。






滝神社
弁天さまから、その先のコースを想う。白山神社には東へと進むのだが、ここでハケの道(行き来)の道の崖下にある滝神社に寄り道することにした。崖線から湧き出ている、であろう湧水の風情を見たいと思ったわけである。
道を南に下り、崖線に至ると崖下にささやかな社があった。社にお参り。『新編武蔵風土記稿』には、「瀧神社。本社より八丁程東にあり、小社、稲倉魂太神を祀れりといふ、例祭年々四月初巳日、社前に爆水あり、六所五月の祭儀神職以下この瀧に於て御祓をなすといふ」とあるが、滝からの湧水は「爆水」というほどのこともなく、誠にささやかなものであった。
『新編武蔵風土記稿』にあるように、この社は大国魂神社の境外末社であり、おおよそ600年前に創建された、と言う。大国魂神社の例大祭の折には、神人、神馬がこの滝で身体を清めるとのこと。
なお、府中市には、現在、崖線から湧き出る湧水点が2ヵ所ある。というか、2ヵ所しかないようである。このお滝の湧水の他の湧水は、西府町湧水(府中市西府町1-43)かと思われる。

白山神社
崖線に沿ってハケの道・行き来の道が続く。このまま歩いて行きたいとも思うのだが、『武蔵古道 ロマンの旅』にあったルートを優先し、北に折り返し元の道筋に戻る。
しばらく進むと、これも「さっぱり」とした白山神社の社があった。白山神社はともあれ、社の南に東郷寺がある。
東郷神社
今回の散歩ではパスしたのだが、メモの段階で、日露戦争での日本海海戦でロシアのパルチック艦隊を撃滅した東郷平八郎元帥の別荘跡に建てられたものとのこと。その山門は黒澤明監督の名作「羅生門」やそれに続く「美女と盗賊」のモデルになったとのことであった。

かなしい坂
白山神社からの先のルートを想うに、『武蔵古道 ロマンの旅』には、「狛江道は小柳町の庚申堂から・・・」といった記述がある。小柳町1丁目に溝合神社に庚申塔が祀られるとのことであるので、同書の庚申堂とは溝合神社と比定し、道なりに南東へと下る。
道を進むと「かなしい坂」がある。案内には、「この坂の由来は、玉川上水の工事と係わりがあるといわれています。玉川上水は、はじめ府中の八幡下から掘り起こし滝神社の上から東方に向かい多磨霊園駅の所を経て神代(じんだい)あたりまで掘削して導水しましたが、この坂あたりで地中に浸透してしまったといわれます。責任を問われて処刑された役人が「かなしい」嘆いたことからこの名があるといわれます。この時の堀は、今も「むだ堀」「新堀」「空堀」の名で残っているます。(昭和60年3月 府中市)」とある。
玉川上水
羽村で取水し、武蔵野台地の尾根筋を43キロほど開削し、四谷大木戸まで水を送り、江戸の町を潤した上水。羽村から堀り進んだ玉川上水は、拝島の水喰土に阻まれ流路を変えたが、流路変更はこれがはじめてではない。そもそもが、取水口も地形・地質に阻まれて二度変更している。
最初の取水口は、現在の日野橋下に取水堰を設け、青柳崖線に沿って谷保田圃を抜け、府中まで掘り進めたが、大断層に阻まれ、水を地中に吸い込まれ断念した。これがこの「かなしい坂」の地ではあろう。
二度目の取水口は熊川から。これも途中大岩盤に阻まれ断念した、とか。羽村口を取水口としたのはその後のことである。羽村口からの取水については川越藩士である、安松金右衛門の助言を受けた、ともある。幕閣における玉川上水計画の中心となった川越藩主・松平伊豆守信綱としては、川越藩の領地でもある野火止の地に水を送るには、取水口は羽村くらいの標高から水を通す必要があった。羽村口から取水できれば、途中から分水で野火止に水を供給できるため、安松金右衛門に命じ、羽村からの詳細な水路図も作成していた、とも言われる。

東郷寺坂
溝合神社に向かい南東へと下る。道なりに進むと少し広い道にでる。この坂道は東郷寺坂と称される。案内によれば、「東郷平八郎の別荘の跡に、昭和15年5月に建立された東郷寺にちなむ名称」とのことである.




庚申坂
東郷寺坂を越え、南東へと下ると小さな鳥居と祠が見えてきた。その社の脇に石碑があり、庚申坂と刻まれていた。
案内によると、「この坂の名は、溝合(みぞあい)神社にまつられている「庚申石橋供養塔」「青面(しょうめん)金剛像」の二つの庚申塔に由来します。 庚申信仰は、江戸時代に広く流布した民間信仰です。これは人の身中にいて人を短命にする三匹の虫(三尸(さんし))を除いて長生きを願うという信仰です。この信仰のために人々は講をつくり、六十日に一度の庚申の日に寄り合い夜を明かします。また、講中では盛んに供養の庚申塔を造っています。庚申塔は、現在六十四基あります(昭和60年3月 府中市)」とあった。

溝合神社
坂は溝合神社上から更に下まで続く。社は坂の中腹といったあたりである。鳥居を潜り、お参り。境内には 面金剛を刻む石塔が祀られる。庚申坂でメモしたように、庚申塔には道祖神・塞の神として「邪悪」より地域を守る「猿田彦命」、「庚申塔」とともに、「青面金剛」の像が刻まれることが多いようである。溝合神社は地域の字名よりの命名であり、庚申社とも称される。

道祖神
溝合神社前で狛江道はハケの道と合流する。狛江道を東に進み、西武多摩川線の踏切を渡り先に進む。緑豊かな、心地よいハケ(崖)上の道を進むと、道脇に道祖神。電柱の横というのが少々風情に欠ける。
その先でハケの道は右手が開け、いかにも崖線上を歩いているのが実感できる。崖下の耕地に先に見えるのは車返東団地の棟ではあろう。



発祥地 塞神
ハケの道を進むと崖下に石碑と石像が見える。近くに崖を下りる道があったので、何か?と坂を下ると、石碑には「発祥地 塞神」とあり、その横に夫婦の姿が刻まれた道祖神らしき石仏があった。比較的新しい風情である。
夫婦が刻まれる道祖神は散歩の折々で出合うのだが、「発祥地」という言葉が気になる。特に説明もない。ここが塞神の発祥の地とも思えないし、一体なんのことだろう。
○塞神

それはともあれ、塞神といえば、信州から越後に抜ける塩の道・大網峠越えで出合った「大賽の一本杉」を想い出す。道端に立つ大きな一本の杉が塞の大神と呼ばれていた。以下はその時のメモ;「塞の神」とは村の境界にあり、外敵から村を護る神様。石や木を神としてお祀りすることが多いよう。この神さま、古事記や日本書紀に登場する。イサザギが黄泉の国から逃れるとき、追いかけてくるゾンビ(妻のイザナミ)から難を避けるため、石を置いたり、杖を置き、道を塞ごうとした。石や木を災いから護ってくれる「神」とみたてたのは、こういうところからではあろう。
「塞の神」は道祖神と呼ばれる。道祖神とは、日本固有の神様であった「塞の神」を中国の道教の視点から解釈したもの、かとも。道祖神=お地蔵様、ということにもなっているが、これは、「塞の神」というか「道祖神(道教)」を仏教的視点から解釈したものだろう。「塞の神」というか「道祖神」の役割は、仏教の地蔵菩薩と同じでしょ、ってことかもしれない。神仏習合のなせる業ではあろう。
お地蔵様と言えば、「賽の河原」で苦しむこどもを護ってくれるのがお地蔵さま。昔、なくなったこどもは村はずれ、「塞の神」が佇むあたりにまつられた。大人と一緒にまつられては、生まれ変わりが遅くなる、という言い伝えのため(『道の文化』)のようである。「塞の神」として佇むお地蔵様の姿を見て、村はずれにまつられたわが子を護ってほしいとの願いから、こういった民間信仰ができたの、かも。
ついでのことながら、道祖神として庚申塔がまつられることもある。これは、「塞の神」>幸の神(さいのかみ)>音読みで「こうしん」>「庚申」という流れ。音に物識り・文字知りが漢字をあてた結果、「塞の神」=「庚申さま」、と同一視されていったのだろう。

本願寺
崖線に沿って進むと、道脇に巨大なケヤキ(府中の名木百選に選ばれている)、その周りに幾多の石仏、庚申塔が並ぶお寺さまが現れる。八幡山広徳院本願寺。境内に入り本堂にお参り。境内には薬師堂も建つ。縁起によると、「当山の起源は源頼朝が奥州征伐の折その地よりもたらされた藤原秀衛の守本尊と伝わる薬師如来をまつった事に始まる。
その後、総州の人大久保彦四良兵火に焼かれた堂を再建し永正13年(1515)鎌倉光明寺の教誉良懐を迎えて中興開山となし一寺の形態を定む(彦四良塚今なお東部出張所南に現存す)。
  徳川家臣宮崎泰重当地の領主となり当山4世の真誉円良上人に帰依し天正2年(1574年)境内及び堂字を寄進し寺を現在地に移転させこの時はじめて本願寺と呼称する。
また、将軍家より1石4斗の朱印状下附され、併せて葵紋の使用を許され、以降周囲の発展と歩調を共にし現在に至る、現本堂は昭和47年5月落慶し、中に本尊阿弥陀如来をまつる。
境内の薬師堂には旧地より写された車返開運薬師如来が安置され、御名のごとく、旧車返の地名と深い因縁に結ばれている」とあった。
車返

また、境内にある「車返」と刻まれた石碑には「車返(くるまがえし)は、現在の白糸台2,4、5丁目の一部(旧甲州街道・いききの道沿い)に集落の中心があった村落です。幕末の地誌『新編武蔵風土記稿』には、家数全て87軒、西を上とし、中央を中といひ、東方を下というとあります。
地名の起こりは、本願寺の縁起によると、源頼朝が奥州藤原氏との戦いの折り、秀衡の持仏であった薬師如来を畠山重忠に命じ鎌倉に移送中、当地で野営したところ、夢告によって当地に草庵を結んで仏像を安置し、車はもとに返したことに由来するといわれます。旧境内跡地(市立第四小学校西側)には、彦四郎塚、古塚と呼ばれる古塚が現存し、往古をしのばせています」とあった。彦四郎とは、縁起にあった、兵火に焼かれた堂を再建した総州の人大久保彦四良のことではあろう。


おっぽり坂
国道20号線・車返北交差点から南に下る道を跨ぐ陸橋を越えると、弧を描く坂にあたる。案内には「おっぽり坂」とあり、「この坂名は,大雨の折に野水の流れによって自然に掘られた大堀に由来するといわれます。この坂の道筋は昔から,あふれた野水の流路になっていたそうです。
この坂は最初「おおぼり坂」と呼ばれていましたが,いつからか「おっぽり坂」とつまった呼び名になったようです。
この道を下ったあたりは,一昔まえまで美しい田園が広がっており旅の杖を休めた文化人も少なくありません。はけ道を西へしばらく行くと浄土宗本願寺があります(昭和六十年三月府中市)」との説明があった。距離は60mほど。比高差2m強といった坂道であった。

浅野長政隠棲の地跡
『武蔵古道 ロマンの旅』には「白糸台丁目北側の諏訪神社近くの平田家は,江戸初期の浅野長政隠棲の地跡」との記述がある。注意しながら崖線上の道を進むと誠に立派なお屋敷があった。そこが平田家であろう。 豊臣秀吉の側近であった浅野長政が何故この地に?この平田家の先祖は浅野長政の家臣であったようだ。浅野長政は北政所の係累とし秀吉側近となり武田氏滅亡後は甲斐国を領し、五奉行筆頭でもあった武将。が、秀吉の死後、家康暗殺の嫌疑により、自ら家督を嫡子に譲り、この府中に住む旧家臣である平田家に隠居。
その後、関ヶ原の合戦では家康に与し、罪を許され紀伊和歌山の嫡子の領地とは別に常陸の真壁に5千石の隠居料を与えられた。この地に隠居したのは1年程度であった、とか。

諏訪神社・はけた坂
ついでのことでもあるので、少し北に寄り道し諏訪神社にお参り。本殿へと弧を描く参道入口の鳥居の脇に「はけた道」の案内。「この坂は、はけた道ともいいます。地元ではこのあたりを昔から「はけた」と呼んでおり、坂名もその呼び名をとっています。これは府中崖線を俗にハケと呼ぶことに由来するといわれています。
府中崖線上には古い街道がありますが、これは通称いったりきたりする意味で「いさきの道」と呼び親しまれています。
この坂を南に下ると、江戸時代に武蔵野新田開発に貢献し、代官を務めた川崎平右衛門定孝の出身地押立へ出ます(昭和60年3月 府中市)」とあった。 神社から崖線上の道まで下る、距離100m強い。比高差3m弱の坂であった。川崎平右衛門定孝は上にメモした。

府中崖線白糸台緑地
諏訪神社から元の崖線上の道に戻る、崖線下に南白糸台小学校があるハケの道は「府中崖線白糸台緑地」として自然が守られている。心地よい散歩道である。






品川通り・車返団地東交差点
緑の中を進むと「品川通り」の車返団地東交差点に出る。この「品川通り」は前述の「品川道」とは異なり最近の道路。この車返団地東交差点で西から走る押立公園通りを繋ぎ、調布市内を京王線の南を東西に走り、東つつじヶ丘2丁目交差点を東端とする。路線延長も計画されているようではある。





若宮八幡
品川通りを東に越えると、市域は府中から調布に変わる。すっかり宅地化された道を進み中央高速を潜り、先に進む。上石原二号水源の施設を見遣りながら進むと若宮八幡に。境内も本殿も落ち着いた、いい雰囲気の社である。 本殿は総けやき造り、とのこと。社の縁起によれば、祭神の仁徳天皇は通常八幡神社の祭神とされる応神天皇の皇子故に「若宮」と称する、という。江戸の頃、上石原村の鎮守であった。
境内に「当神社と近藤勇のとの由来」の案内があり、新撰組局長・近藤勇の生家である宮川家は武州多摩郡上石原村であり、当社の氏子であった。ために、慶応4年(1868)、甲陽鎮撫隊を率いて上石原村に到着した近藤勇は、この神社の方向に拝礼し、戦勝を祈願したとのことである。

鶴川街道
宅地に阻まれるハケ道を成り行きで進む。宅地で南の見晴らしは良くない。たまに宅地の間に下る坂を見つけチェックすると、未だ崖線は2,3mほどの比高差はあるようだ、
緩やかにではあるが崖を下り鶴川街道に当たる。交差点の南に水路がある。府中用水の末流・旧根堀川である。
府中用水
府中用水は江戸初期に、多摩川の旧流路を活用して開削された農業用水。明治になって国立の青柳に取水口が設置され、現在は日野橋下流から取水され、府中の是政で再び多摩川に戻るのが本流ではあろうが、水路は複雑に入り組み、この地調布まで下り、染地で多摩川に注ぐと言う。
上流域の国立のママ下湧水の辺りから国立、府中の上流部は歩いたことがあるが、そのうち、入り組んだ用水路を辿ってみたいと思う。

調布市郷土館

鶴川街道を越えて、稲荷橋交差点あたりまで進むと、崖線は曖昧になる。府中崖線の東端なのだろうか。それはともあれ、先に進み調布市郷土館に。
再び崖線が現れる。崖線を成り行きで進み郷土館に。が、開館時間を越しており、館内に入ることはできなかった。敷地内に石橋の敷石が置かれていた。





○石橋
案内には「石橋 元文4年(1739):この石橋は、深大寺東町6丁目24番地付近の大川に(入間川)に架けられていました。その頃は、川沿いの低地は一面水田でしたが、昭和30年代後半から急速に開発が進み、瞬く間に住宅地に変貌し、大川すら現在の野ヶ谷通りになりました。
橋を造る4本の角柱状の石材は、ほぼ同じ大きさで、石質は真鶴半島産の安山岩です。向かって左側の側面に「元文4年巳未吉日」と年号が刻まれています。 この年号が、石橋の架けられた年代を記すものかどうかの確証はありませんが、元文4年は深大寺東町5・6丁目付近が開発された時期に近く、村内の通行のために橋を取り付けた可能性が考えられます」とあった。

調布・映画発祥の碑
京王相模原線・京王多摩川駅を越え、道なりに進むと「多摩川5丁目児童公園」があり、「調布・映画発祥の碑」が建つ。案内には「水と緑と澄んだ空気, これは映画産業には欠かすことのできない条件です。昭和8年1月, 調布市多摩川のこの地が最適地に選ばれ, 日本映画株式会社が設立され, 多摩川スタジオが完成しました。
以来, 昭和30年前後には三つの撮影所, 二つの現像所と美術装飾会社を擁し, 調布は 映画の街「東洋のハリウッド」と謳われました。
しかし, 時代の変遷にともない, 映画産業はいささかの後退を余儀なくされましたが, その独創性や娯楽性には依然として大きな期待をかけられております。 平成元年 映像の持つ意義を考え, 調布らしさを確認し, 向後の映像産業の振興を図る目 的で, 調布市映像まつり実行委員会が組織され, 今年で5周年の節目の年を迎えました。 又, 今年は多摩東京移管100周年の記念すべき年でもあり, 多摩らいふ21協会の協賛を得 て, 建立したものであります。 平成5年9月25日 調布市映像まつり実行委員会」との説明があった。

映画撮影にふさわしい自然環境、そしてフィルム現像に不可欠な清冽な地下水がこの地にあり、昭和8年(1933)、この地に日本映画株式会社の多摩川撮影所が開かれた。その後紆余曲折を経て昭和30年代の映画産業黄金期には大映、日活、そそして独立系プロダクションの3社がこの地で映画製作をおこない、「東洋のハイウッド」と称せられたようだ。
調布・映画発祥の地の先には往年の名優の名が刻まれた「映画俳優の碑」も建っていた。また、「調布・映画発祥の碑」は多摩地区が東京に移管されて100年を祈念するものでもあった。
公園の先のT字路には角川大映スタジオがあり、大魔神の造形物が建っていた。なお、現在調布には角川大映スタジオをはじめ、日活調布撮影所など多くの映画関連企業が集まっている。

布田天神跡
『武蔵古道 ロマンの旅』にある次の狛江道のポイントは布田天神跡。古天神公園にある、と言う。Googleで検索し、特定した場所にナビ願う。成り行きで進み、瀟洒な宅地の中に公園があった。案内には「古天神遺跡 調布市布田5丁目53番地 ここは昔から古天神(ふるてんじん)とよばれ、今から千余年前の『延喜式』という本にみえる、布田天神のお社があった所といわれています。 昭和55年3月からこの一帯に住宅ができるため、遺跡の発掘調査が行われました。
その時、今から一万年ぐらい前の旧石器や、4~5千年前の縄文時代における人びとの生活の跡などが発見されました。
それらの近くには人を埋葬したまわりに、幅4~5m、深さ約40~70cmの溝を直径31mにわたって掘りめぐらした、円形周溝墓とよばれる五世紀ごろのお墓や、七世紀ごろの竪穴住居の跡が三軒発見されました。その他にも鎌倉-室町時代ごろとみられる地下式横穴とよばれる、穴ぐらのような墓が十基分と、たくさんの河原石を積んでこしらえた室町-江戸時代の墓が十数ヶ所発見されています。
なお古天神のまわりには、これらにつづく各時代の、遺跡や遺物が広い範囲に発見され、市内でもとくに埋蔵文化財の多い重要地帯の一つにかぞえられます。昭和58年4月1日 調布市」とあった。
『武蔵古道 ロマンの旅』には「文明9年(1477)の多摩川洪水で被害を受け、集落ごと調布駅北甲州街道北側の現在地に移転した」と記述されていた。

白山宮神社
日も暮れていきた。狛江道の最後までは行けそうもない。そろそろ切り上げ。いちばん近い電車の駅は真っ直ぐ北に進んだ京王線・調布駅。急ぎ足で調布駅に向かう途中、道脇に白山宮神社があった。
なんとなく。あっさりした社。元は布田天神の氏子であったようだが、現在はこの地域自治会地域の鎮守様のようである。昭和47年(1972)に社殿造築。平成9年(1996)、前を通る白山通りの拡張工事に伴い、社地の整備が行われた、とか。
それにしても、この辺りには白山神社が多いように感じる、白山神社は高句麗だか新羅だが、ともあれ帰化人との関連がある、といった記事を目にしたもとがあるのだが、それと関係あるのだろうか。単なる妄想根拠なし。

京王線・調布駅
白山宮にお参りし、品川通りを越え京王線・調布駅に到着。本日の散歩を終える。それにしても、お昼前に、どこか適当な処は、と今回もお気楽に歩いた狛江道ではあるが、メモの段階で結構気になることが多くメモが多くなった。 散歩も狛江道の途中で日没時間切れ。残りは次回の散歩のお楽しみとする。

玉川上水散歩のメモの第一回は、青梅線・羽村の駅から玉川の上水取水口までの事跡についてのあれこれで終わってしまった。玉川上水散歩の第二回は、玉川上水をはじめて歩いた、羽村の取水口から立川の西武拝島線・立川駅までをメモする。



本日のルート;青梅線・羽村駅>五ノ神社・まいまいずの井戸>新奥多摩街道>「馬の水飲み場跡」>禅林寺>都水道局羽村取水所・羽村堰>玉川水神社>陣屋跡>羽村堰第一水門>羽村堰第ニ水門>羽村橋>羽山市郷土博物館>羽村堰第三水門>羽村導水ポンプ所>羽村大橋>堂橋>新堀橋>加美上水橋>宮本橋>福生分水口>宿橋>新橋>清厳院橋>熊野橋>かやと橋>牛浜橋>熊川分水口>青梅橋>福生橋>山王橋>五丁橋>みずくらいど公園>武蔵野橋>日光橋>平和橋>拝島分水口>殿ヶ谷分水口跡>こはけ橋>ふたみ橋>拝島上水橋>西武拝島線・立川駅

羽村堰第一水門
水神社や陣屋跡を訪れた後、奥多摩道路を少し戻り、羽村堰第一水門の少し下手に架かる人道橋を渡り羽村堰下に。堰下周辺は羽村公園となっており、投渡堰の手前に昭和33年(1953)建立の玉川兄弟の銅像が建つ。多摩川対岸に拡がる草花丘陵や、河川敷、固定堰、投渡堰など、取水部の風景をしばし眺め、羽村堰第一水門部へと。
1911年(明治44)にコンクリーの水門となった第一水門は、多摩川の水を玉川上水に取り入れるための水門。大水の時などはこの第一水門を閉めて土砂などの流入を防ぐ。この水門で取水された上水は、現在、羽村堰から小平監視所までの間のおおよそ12kmが上水路として利用されている。小平監視所から下流には玉川上水を流すことなく、その水は導水管で東村山浄水場に送られているが、その直接の要因は昭和40年、新宿・淀橋浄水場の廃止により、下流に水を流す必要がなくなった、ため。小平監視所より下流は長らく空堀の状態であったが、昭和59年、都の清流復活事業により、昭島にある多摩川上流処理場で高度処理された下水を、小平より下流へ流し、現在清流れを保っている。

羽村堰第ニ水門
第一水門から少し下流に第ニ水門。第一水門で取り入れた水を一定の水量にし、玉川上水に流すための水門。余水は、脇の小吐水門から多摩川に戻す。あたりは堰下公園となっている。

羽村橋
羽村堰第二水門下手に羽村橋。奥多摩道路・羽村堰交差点脇に大樹がある。東京都指定天然記念物「羽村橋のケヤキ」と呼ばれる。案内によると;「目通り幹囲約5.5メートル、高さ約23.5メートル。島田家敷地南側の奥多摩街道に面する崖際に立っており、崖の高さ約2メートル。根元の北側は崖上に、南側は崖下に扇状にはびこり、幹は直立して崖下から約4メートルのところで南西に一枝を出し、その上約1メートルのあたりから大枝に分かれ、下部の小枝は垂れて樹姿全体は鞠状をなして壮観である。なお崖下に湧水があり、樹勢はおう盛であり、都内におけるケヤキとして有数のものである」、とある。
崖下のささやかな湧水の写真を撮り、坂を少し上り島田家の屋敷を見やる。先ほど訪れた、禅林寺の開基は島田九郎右衛門と伝わる。また、所沢の三富新田を歩いたときに、島田家の旧家が残っていた。府中の森の郷土館にも島田家の旧家が保存されている。島田家って、武蔵野の台地を開いた旧家であろう、か。

羽山市郷土博物館
羽村橋の辺りには堰下公園。公園から多摩川を渡る橋がある。羽村堰下橋と呼ばれるこの橋は、人と自転車だけが通れる人道橋。橋を渡って対岸の羽山市郷土博物館に向かう。昭和60年(1985)開館のこの施設には、常設展示の他、多摩川や玉川上水、中里介山に冠する資料が展示されている。多摩川によって形成された河岸段丘など、地形フリークには興味深い展示内容でもある。屋外には旧田中家の長屋門、旧下田家の民家が移築されている。旧下田家は19世紀中頃の農家の面影を今に伝える。

羽村堰第三水門
再び羽村堰下を渡り、玉川上水へと戻る。少し下ると羽村堰第三水門が見えてくる。この水門は玉川上水、と言うか、多摩川の水を村山貯水池(通称、多摩湖)・山口貯水池(通称、狭山湖)に送水・分水するための水門である。地図を見ると羽村堰第三水門から多摩湖(村山貯水池)を結ぶ一本の直線が描かれている。この地下には羽村線導水路が貯水池へと続く。地上は羽村堰第三水門から横田基地までは「神明緑道」。横田基地で一度道は分断され、その東から再び、「野山北公園自転車道路」となって多摩湖へと続く。この道は、村山貯水池(通称、多摩湖)・山口貯水池(通称、狭山湖)を建設する際に敷設した、羽村山口軽便鉄道の路線跡でもある。どこかで見た軽便鉄道の写真では、トラックでレール上の貨車を引いていた。

村山貯水池・山口貯水池への羽村線導水路
大正5年(1916)、拡大する東京の水需要に応えるべく、狭山丘陵の浸食谷を堰止め、村山上貯水池の工事が着工。大正13年(1923)に完成した。また、その下手にも、昭和2年(1927)、村山下貯水池が完成。さらに、昭和2年(1927)には狭山丘陵の柳瀬川の浸食谷を利用し、山口貯水池(狭山湖)の工事が始まる。関東大震災後の東京の復興と人口増加による水需要の増大に、村山貯水池だけでは十分にまかなえなかったため、である。工事は7年の歳月をかけ昭和9年(1934)に完成した。
羽村堰第三水門からの導水路は、狭山丘陵から流れ出す自然河川だけでは十分ではないため、多摩川の水を導き水量を確保するのがその目的である。当初、山口貯水池の水を村山上貯水池に通し、村山上貯水池の水とともに、村山下貯水池に導き、下貯水池から境浄水場村山境線(隧道、暗渠で境浄水場に至る導水線・現在は多摩湖自転車道となっている)で境浄水場に流した。境浄水場からは自然流下により和田堀浄水場に送水。そこから淀橋浄水場に水を送った、と。
狭山丘陵は多摩川の扇状地にぽつんと残る丘陵地である。狭山って、「小池が、流れる上流の水をため、丘陵が取りまくところ」の意。古代には狭い谷あいの水を溜め、農業用水や上水へと活用したこの狭山丘陵ではあるが、その狭い谷あいに多摩川の水を導き水源とし、都下に上水を供給している、ということである。

昭和40年には現在の西新宿副都心にあった淀橋浄水場が無くなり、その機能が昭和35年(1960)通水の東村山浄水場に吸収された。それにともない、導水路網も少し変わる。狭山湖(山口貯水池)に貯められた水は、ふたつの取水塔をとおして浄水場と多摩湖に送られる。第一取水塔からは村山・境線という送水管で東村山浄水場と境浄水場(武蔵境)に送られ、第二取水塔で取られた原水は多摩湖に供給される。また、多摩湖(村山貯水池)からは第一村山線と第二村山線をとおして東村山浄水場と境浄水場に送られ、バックアップ用として東村山浄水場経由で朝霞浄水場と三園浄水場(板橋区)にも送水されることもある、と言う。また、東村山浄水場は朝霞浄水場と原水連絡官が結ばれ、多摩川だけでなく、利根川の水も使用するといった、ダイナミックな上水路導水網となっている。

羽村導水ポンプ所
水門より少し下流に羽村導水ポンプ所。ここから多摩川の水は小作浄水場(昭和51年)に送られる。また、小作には小作取水堰(昭和47年着工。55年通水)があり、小作浄水場に水を供給するとともに、地下の導水管により山口貯水池に送水されている。

羽村大橋
羽村導水ポンプ所を過ぎると羽村大橋。奥多摩道路羽村大橋詰め交差点から、玉川上水と多摩川を跨ぎ秋川を結ぶ。

堂橋

羽村大橋をくぐり、緑道を7分ほど進むと堂橋。『上水記』では川崎橋と呼ばれた。由来はこの辺りの地名から。堂橋となったのは、橋に下る坂があり、その坂の途中に「川崎の一本堂」とも呼ばれる薬師堂があった、ため。「一本堂」の由来はケヤキの大木から。多摩川が氾濫したとき、一本のケヤキの大木にしがみつき、命拾いした十六名の人たちが、その感謝のために、この一本のケヤキを使ってお堂を建立した、とか。このお堂も、近くあった宗禅寺も、玉川上水の工事のため移転。現在新奥多摩街道沿いにある宗禅寺内に薬師堂が残る。
往昔、堂坂を下ったところには多摩川を渡る渡し場があった、とか。大正末期までは船頭が活躍した。また、この坂は関東大震災の頃、多摩川の砂利、砂を羽村の停車場まで運ぶ馬車が往来した、とのことである。

新堀橋

堂橋のあたりまで来ると、上水路と奥多摩街道の比高差が開いてくる。崖面を眺めながら河岸段丘を進む玉川上水も、このあたりから桜並木は次第に雑木林へと変わる。水神様を祀った小さな祠もある。ほどなく、道はふたつに分岐。左の道を進むと、ほどなく新堀橋に。新堀橋あたりでは奥多摩街道と上水の比高差は、ほどんどなくなる。橋の袂に金比羅様が佇む。新堀橋の名前の由来は、新しく上水堀を開削したことによる。旧水路は現在の水路より多摩川堤に近いところをながれていたのだが、開削後、多摩川の氾濫によって上水の土手が決壊することが多く、元文四年(1740)、代官上坂安佐衛門、新田世話役川崎平右衛門によって付け替え工事がおこなわれた。旧水路と現水路の間には小高い山があり、その北を通すことにより上水土手の決壊を防ごうとしたのだろう。
旧水路は先ほどふたつに分岐した道を左にそのまま進み、613mほどまっすぐ進み、加美上水橋の先で現水路と合流する、といった流路であった。周辺は福生加美上水公園となっており、旧路跡の一部は史跡指定地となっている。加美上水橋近くには、「福生市指定史跡 玉川上水旧堀跡」の碑が建っており、旧堀らしき遺稿も残る。

ちなみに、代官上坂安佐衛門、新田世話役川崎平右衛門は、散歩をはじめて知り得た、誠に魅力的な人達。特に川崎平右衛門は、玉川上水開削だけでなく、武蔵野新田の開発の地で、しばしば出合う。その威徳を称え、供養塔も各所に建っていた。

加美上水橋
福生加美上水公園を越え加美上水橋に。この橋は、もとは鉄橋。多摩御陵、村山・山口貯水池へ玉川の砂利運搬のために福生駅から多摩川の羽村境までの1.8キロ、砂利運搬専用線が敷かれていた。鉄路は昭和36年に廃止され、当面は無名橋であったが、後に地名より加美上水橋と、名付けられた。



宮本橋
加美上水橋を越え、妙源寺あたりからは、雑木林も切れ、上水南側には民家が建ち並ぶ。先に進むと宮本橋に。元は中世に創建の宝蔵院の門前に架けられていたので宝蔵院橋と呼ばれていたが、明治になって住職が神官となり、宮本と名乗ったため橋名も「宮本橋」となった、とか。廃仏毀釈の時代の流れに抗し得なかったのだろう、か。
宮本橋の南に、板塀に囲まれた白壁の屋敷が見える。なんとなく気になって板塀に沿って進むと煉瓦の煙突があったり、蔵があったりと、如何にも、いい。下戸の小生にはとんと縁はないのだが、清酒『嘉泉』とか『玉川上水』などで知られる田村酒造とあった。

福生分水口

宮本橋の少し下流、小橋が架かり、石垣の中程の鉤型に切れ込んだあたりに田村分水口がある。水は田村酒造のオーナー、田村家へ流れ込む。田村家は江戸の初期の頃から福生村の開拓に貢献した代々の名主。元禄年間と言うから、17世紀の末の頃、分水が認められた、とか。玉川上水の分水は三十五ほどあった、と言うが、個人分水は、明治になって砂川村の砂川源五右衛門さん以外に、あまり聞いたことがない。特例中の特例では、あろう。
邸内に引き込まれた分水は、もともとは灌漑用水とか生活用水として使われた。田村家が酒造りをはじめるのは、そのずっと後のこと。水車を廻し精米製粉をおこなったり、酒造場の洗い場の水として使われたりしたようだ。邸内を離れた分水は明治以降、その下流の福生村北田園、南田園の田畑を潤した。現在は福生永田のあたりで暗渠となるが、多摩川中央公園で再び開渠となり、整備された園内をゆっくりと流れ、JR五日市線の鉄橋の手前で多摩川に合流する。
ちなみに、このあたりには多摩川から取水した田用水があったが、昭和22年の台風による決壊にともない、水源を玉川上水に変更したため、田村上水(宅地化により昭和44年取水停止)と合流することになった。田村分水と田用水を合わせ、福生分水とも呼ばれる。

江戸の頃、もとは上水としてはじまった玉川上水であるが、その後、流路の灌漑用水としても機能するようになる。将軍吉宗の亨保の改革の頃、盛んに行われた新田開発のサポートの為もあり、分水口は三十五カ所ほどあった、と上にメモした。その分水口も、昭和となり、市街地化が進むとともに、昭和37年には十六カ所。昭和40年に、淀橋浄水場が廃止されるときには更に減少し、現在残る分水口は、この福生分水を含め、熊川分水、拝島分水、立川分水、砂川分水、小平分水の六カ所となっている(『玉川上水・橋と碑と;蓑田たかし(クリオ)』)。

宿橋

宮本橋を越えると、緑道といった風情は無くなり、奥多摩街道を進むことになる。田村分水の少し下流に宿橋がある。「宿」とは名主屋敷を中心とした村の中心地のことを意味する。名主・田村家の近く、福生の渡しを越えて、「八王子道」、「青梅道」へと続く道筋に架かる橋ではあったのだろう。

新橋
奥多摩街道をさらに進み、新橋に。その昔、福生から五日市へ向かう都道59号は曲がり道、くねくね、といった難路であった、とか。そのため、福生駅前から一直線に道を通し、五日市に向かう工事が行われ、多摩川には永田橋、玉川上水には、この新橋が架けられた。昭和36年の頃、と言う。都道95号線は現在都道165号となっている。



清厳院橋
新橋から先は、奥多摩街道は玉川上水から少し離れる。右手に上水の流れを意識しながら進み、清厳院橋に。奥多摩街道は清厳院橋で玉川上水の南に移る。清厳院橋は橋の南にある清岩院が、その名の由来。応永年中(1394から1427年)の開創と伝えられる古刹。五日市広徳寺の末、とか。五日市の広徳寺を訪ねたことがある。誠に趣きのある、素敵なお寺さまであった。
それはともあれ、この清岩院、小田原北条氏よりの寄進を受け、また、徳川幕府からも「寺領十石の御朱印(年十石を課税された土地の寄付)」といった庇護を受けている。境内には湧水が涌き、湧水フリークとしては、しばしの休憩を楽しむ。
この清厳院橋は牛浜橋、日光橋とともに、昔より往来の多い橋であった。橋の維持管理のコストは「村持」であるため、橋の架け替えの度に、利用者に資金強力をお願いする記録が残る。橋の維持管理は結構大変たったようである。設置の権限は普請方役所にあるも、維持管理は各持ち場の負担。熊川村には橋普請のため、無年貢地である「橋木山」を用意していたほどである。

熊野橋

清厳院橋からは玉川上水に沿って小径が続く。先に進むと熊野橋に。この橋から多摩川を渡り、あきるのに続く県道7号は平井川を越えて青梅線・東秋留駅近くの二宮神社へと向かう。いつだったか、二宮神社を訪ねたことがある。崖下の湧水が思い起こされる。
熊野橋は承応2(西暦1653)年、玉川上水の開削に際し、村の農道として架けられた。往昔、付近に熊野権現があったのだろう。現在は歩道橋が跨ぎ、往昔の面影はないが、歩道橋から眺める多摩川対岸の山稜の景観はなかなか、いい。

かやと橋
熊野橋を越え、都道29号を進む。右手の小高い堤のため玉川上水は眼に入らない。県道と上水の間には駐車場があったり、ガソリンスタンドがあったりと、緑道といった風情でもない。ほどなく、「かやと橋」に。橋の名前の由来は福生市志茂の字である、萱戸、から。橋は新しく、昭和49年に上水の南に市立七小が開校され、上水北の学区となった志茂・牛浜地区の児童の通学用として設けられた。 


牛浜橋

道の両側に民家が連なる奥多摩街道を進むと牛浜交差点。名前の由来は地名の字牛浜、から。この地は江戸から砂川方面を経て、牛浜の渡しを渡り、対岸の二宮から五日市、檜原へと続く往還であった。この道筋は五日市街道の一部を成すが、元和年間、というから17世紀の前半、甲州裏街道の警備のため檜原に檜原御番所が設けられたため、檜原御番所通り、とも呼ばれた。ために人馬の往来も多く、もとの木橋では維持・修理が大変、ということで、明治10年には石造アーチ橋に掛け替えた。愛称、眼鏡橋と呼ばれたこの橋も昭和52年には現在の橋に架け替えられた。

熊川分水口
牛浜橋から先も、上水に沿って道はない。実際に眼にしたわけではないのだが、牛浜橋から200m下ったあたりに、熊川分水の取水堰がある、と言う。地図でチェックすると、スギ薬局福生店の裏手あたりに、ささやかな堰が見て取れる。この堰のあたりに分水口があるのだろう。その対岸には熊牛稲荷公園があるようだ。
この地で取水された水は、熊川神社の脇を抜け、石川酒造へと向かい、その先は福生南公園の崖から多摩川へと流れ落ちる。熊川村は多摩川の崖線上10mのところに開けた集落。多摩川からの取水は困難であり、熊川村の名主である石川家が中心となり、集落の上水と灌漑用水確保のため、そして、石川家の家業でもある酒造りの水車動力源として、玉川上水からの分水を望んだ。明治5年の運動開始から、完成まで17年の歳月をかけて完成し、昭和30年代に上水道が普及し始めるまでの間、熊川分水は熊川村民の生活を支えた。ちなみに石川家は先ほどメモした田村家の親戚筋とのことである。

青梅橋

奥多摩街道を更に進み、福生第三中学校手前を左に折れ、玉川上水に架かる青梅橋に。所謂、江戸から青梅に向かう青梅街道(成木街道)、と言うよりも、立川や拝島、羽村から青梅方面へと向かう街道、といった通称ではあろう。もとは、農作業に使う作場橋といったささやかなものであったが、昭和36年、現在の橋となった。 福生橋から山王橋に青梅橋からは、少し北に進み新奥多摩街道に入る。先に進むと、ほどなく福生橋。幅15mほどではあるが、それでも玉川上水に架かる橋としては最大のもの、と言う。福生橋の北詰で新奥多摩街道を離れ、民家の間を成り行きですすむと上水脇にでる。先に進み山王橋に。往昔、付近の山王権現の石塔があった、とか。




五丁山

山王橋から北東に向かい青梅線の踏切を渡り、右に折れ、青梅線に沿って成り行きで進み、五丁橋に。五町歩の耕地があったから、とか、五丁山と呼ばれる山林があったから、など、橋名の由来は諸説ある。








みずくらいど公園
五丁橋を渡り、青梅線の手前を左に折れ、先に進むと「みずくらいど公園」。現在の玉川上水は公園北を通るが、小山を隔てた公園南には玉川上水の旧跡が残る。開削当時の上水の姿が残っており、堀跡に入ると、その規模感に少々圧倒される。「みずくらいど」は、水喰土。水が地中に吸い込まれる、といった言い伝えが残る地であった。この地まで掘り進んだ上水ではあるが、言い伝えそのままに、水を通すことができなかったため、現在の流路に変更した。旧路は、この公園南側の立川崖線に沿って南に延び、武蔵野公園付近で北に方向を変え、西武拝島駅前の玉川上水・平和橋の付近までおおよそ1キロほど残っていたようだが、現在、上水旧跡はこの公園内に残る、のみ。
羽村から堀り進んだ玉川上水は、この地の水喰土に阻まれ流路を変えた。実のところ、流路変更はこれがはじめてではない。そもそもが、取水口も地形・地質に阻まれて二度変更している。最初の取水口は、現在の日野橋下に取水堰を設け、青柳崖線に沿って谷保田圃を抜け、府中まで掘り進めたが、大断層に阻まれ、水を地中に吸い込まれ断念した。二度目の取水口は熊川から。これも途中大岩盤に阻まれ断念した、とか。羽村口を取水口としたのはその後のことである。羽村口からの取水については川越藩士である、安松金右衛門の助言を受けた、ともある。幕閣における玉川上水計画の中心となった川越藩主・松平伊豆守信綱としては、川越藩の領地でもある野火止の地に水を送るには、取水口は羽村くらいの標高から水を通す必要があった。羽村口から取水できれば、途中から分水で野火止に水を供給できるため、安松金右衛門に命じ、羽村からの詳細な水路図も作成していた、とも言われる。ともあれ、羽村から掘り進んだ水路も、この水喰土で流路を北に変更し、先に水を流すことができた。

武蔵野橋
その流路に沿って先に進む。左手に上水、右手に小山。時に小山に上り、南の旧路を眺めたりしながら八高線をくぐり、玉川上水緑地日光橋公園の雑木林を楽しみながら進むと国道16号・東京環状と交差。玉川上水、八高・青梅・五日市線を跨ぐ跨線橋となっている。昭和40年のこの跨線橋の開設により、信号待ちの渋滞は大いに改善された、とのこと。

日光橋
東京環状を越え、先に進むと日光橋。その昔、日光橋との間に昭和38年(1963)まで、熊川水衛所があった、とのことである。分水口の開閉、塵芥の排除などの業務をおこなった水衛所も、昭和40年、新宿の淀橋浄水場が閉鎖され、その機能を東村山浄水場に統合・移転するに先立ち、砂川水衛所、小川水衛所とともに小平監視所に統合された。日光橋は、日光街道に架けられたのが名前の由来。当初、江戸防衛の西の拠点に揃った、八王子の千人同心も、天下泰平の世となり、その役割も様変わりし、家康の眠る日光東照宮警備をその職務としたため、八王子と日光を往復した、とのことである。明治24年には煉瓦積みアーチ橋となったが、昭和25年に現在の橋に架け替えられた。




平和橋

日光橋を越えるとほどなく平和橋。橋の手前の線路は横田基地への貨物引き込み線。平和橋は、地元篤志家による命名、とか。平和橋の南は拝島駅がある。拝島って、ずっと拝島市、と思っていた。拝島大師といった知られたお寺さまの名前が「刷り込まれて」いたのだろう、か。それはともあれ、拝島村と昭和町が合併し、昭島市となった。拝島の名前の由来も、拝島大師に関係がある、とか。多摩川の中州「島」に大日如来観音が流れ着き、これをお堂に安置して、「拝む」ようになった、とのことである。

拝島分水口
この橋の南詰め東側に分水口がある。分水の開通は元文5年(1740)年、あるいは更に早いという説もある。分水はここから南方へ流れ、拝島宿に引かれ、生活・農業用水として利用されていた。当時の拝島村は日光街道(現奥多摩街道)の宿場として、八王子や甲州と江戸や日光を往来する人々で賑わっていた。拝島宿の中央を奥多摩街道に沿って東に流れた拝島分水は、田中村で多摩川より取水した九ケ村用水(17世紀後半頃には既に完成;通称「立川堀」)合流し、宮沢・中神・築地・福島・郷地・柴崎の村々を灌漑し、柴崎村で再び多摩川に注いでいたようである。
高橋源一郎の著書「武蔵野歴史地理」には、「ここ拝島は、市場としては誠に典型的の場で、南、八王子の方より来れば、下宿の入口にて道路は画然一屈曲し、これより西北中宿を経て上宿となり、上宿の出口で又一屈曲している。用水路が道路の中央を流れていた」と分水の様子が描かれている。
拝島分水口からの水路は一部付け替えられているが現在も流れているようだ。水路は、JR拝島駅の南側から松原・小荷田地区を通り、そのまま奥多摩街道に沿って拝島大師表門前を通過し、多摩川から引かれた昭和用水に合流している。ちなみに、昭和用水は、取水量の減ってきた九ヶ村用水取水口の替わりに昭和8年(1933)年に設けた堰。九ケ村用水取水樋門跡や昭和用水取水口から水路跡を辿った記憶が、メモをしながらよみがえってきた。そういえば、これら用水散歩のメモは未だ書いていない。再度歩き直し、メモをまとめてみようかと思う。

殿ヶ谷分水口跡
拝島分水口から、ほんの少し下流の対岸に殿ヶ谷分水口跡がある。玉川上水に小さな堰がある。このあたりが、分水口のあったところだろう。殿ヶ谷分水は「享保の改革(将軍吉宗)」による新田開発の奨励により、享保5年(1720年)に開削され、現在の立川市西砂地区・昭島市の美堀地区(宮沢・中里・殿ヶ谷新田)の生活・農業用水に利用された。現在は、宅地化が進み、用水路は埋め立てられ、その一部は「殿ヶ谷緑道」として残る、のみ。

こはけ橋
西武拝島線の手前に「こはけ橋」。地名の字小欠(こはけ)、から。こはけ橋の少し手前に拝島原水補給口がある、と言う。玉川上水は水質保護のため、上水の両側が金網で保護されており、補給口はみることができなかった。この原水補給口には、多摩川昭和用水堰で取水した水を、拝島第四小学校前の原水補給ポンプ場からおよそ2キロ、ここまで送られてくる。昭和16年頃、東京への上水供給が不足するおそれがあったためつくられ、現在も機能しているとの、こと。

ふたみ橋
西武拝島線を越えるとき、玉川上水緑道の左岸が通れなくなる。右岸の西武拝島線の踏切を越えると人道橋である「ふたみ橋」に出る。これからが武蔵野台地の稜線部を辿る散歩のはじまりのように思える。西武拝島線って、小川駅から玉川上水駅までは元は、日立航空機立川工場への専用鉄道であり、小川駅から荻山駅間も同様に陸軍施設への引き込み線など、いろんな歴史をもった路線を集めて1968年、玉川上水駅と拝島駅が結ばれ、西武拝島線ができあがった、とか。

拝島上水橋
こはけ橋から拝島上水駅までの間、400mほどは玉川上水北側には、鬱蒼とした樹木が生い茂り、誠にもって、美しい景観が続く。拝島上水橋を越えると、上水南側には昭和の森ゴルフコースが拡がる。ゴルフコースを見やりながら、美堀橋を越えると、上水は一旦、暗渠となる。この暗渠は昔、このあたりに陸軍の飛行場があった時に、整備された、とか。「玉川上水は美堀橋を越えたすぐ先で300m程の暗渠に入ります。これは戦時中、上水の南側にあった飛行場の滑走路を延長するため、上水に蓋をした名残と言われています。ここは西武立川駅からすぐの所で、当時の飛行場だった場所は現在はゴルフ場になっています。」との案内があった。日も暮れてきた。地図を見ると、すぐ北に西武拝島線・立川駅があった。玉川上水散歩、第一回はここで終了。一路、家路へと。

いつの頃だったか、今となっては、はっきりしないのだが、玉川上水を羽村の取水口から四谷大木戸まで、歩いたことがある。散歩を初めて、それほどたっていなかったと思うので、2005年の頃だとも思う。羽村から四谷大木戸まではおおよそ43キロ。標高差92mということなので、平均千分の二、という緩やかな勾配の台地稜線部・馬の背を4回だったか、5回だったか、それもはっきりしないのだが、のんびり、ゆったり辿ったことがある。
きっかけは自宅の杉並区和泉から京王線明大前駅への通勤・通学路途中にある公園に、橋を模した欄干があり、ふと眼を止めたことに、ある。九右衛門橋とあった。川など、どこにもその痕跡は見あたらないのだが、そこは玉川上水の水路を埋めて整備した公園であった。
地図を見ると、環八辺りから新宿までは、代田橋・笹塚駅近辺の一部を除き、川筋は埋められ暗渠となっている。一方、その上流は多摩川の取水口まで開渠となっており、往昔、江戸の人々に潤いをもたらし、武蔵野の新田開発の水源ともなった流路が未だ残っていることを知り、その流路をとりあえず、取水口から辿ってみようと思ったわけである。
このときの「玉川上水一気通貫」の散歩に後も、折り触れ、玉川上水は歩いた。代田橋から新宿まで、玉川上水跡を整備した公園を歩いたのは、十回はくだらないだろう。逆方向、下高井戸から環八の西、開渠が暗渠にもぐる浅間橋跡まで、そして、浅間橋から井の頭までも、また、井の頭から三鷹まで、時には、玉川上水駅から三鷹まで下ったこともある。
野火止用水や千川用水跡を歩くため、玉川上水からの分水口を探しに出かけたこともある。狭山の箱根ヶ崎から下る残堀川を辿り、玉川上水とクロスしたこともある。ことほどさように、玉川上水は、あまりに「身近な」ものとなってしまい、頭の中では既にメモを書き終えたような気になっていた。
先日、近くの図書館に行き、『玉川上水・橋と碑と;蓑田たかし(クリオ)』と『玉川上水;アサヒタウンズ編(けやき出版)』を読み、長らく「熟成」させていた、メモをまとめてみようと思いはじめた。いつだったか古本屋で買った、『玉川上水物語;平井英次(教育報道社)』、『約束の奔流・小説玉川上水秘話;松浦節(新人物往来社)』、『玉川兄弟;杉本苑子(朝日新聞社)』、なども読み直した。幾度となく歩いた玉川上水ではあるが、時間軸は数年前のことであったり、つい最近のことであったりと、首尾一貫のメモからはほど遠い。失われつつある時を求めての玉川上水散歩のメモ、あるいはくっきり、あるいはぼんやり、とした風景を思い浮かべながらメモをはじめる。

本日のルート;青梅線・羽村駅>五ノ神社・まいまいずの井戸>新奥多摩街道>「馬の水飲み場跡」>禅林寺>都水道局羽村取水所・羽村堰>玉川水神社>陣屋跡>羽村堰第一水門>羽村堰第ニ水門>羽村橋>羽山市郷土博物館>羽村堰第三水門>羽村導水ポンプ所>羽村大橋>堂橋>新堀橋>加美上水橋>宮本橋>福生分水口>宿橋>新橋>清厳院橋>熊野橋>かやと橋>牛浜橋>熊川分水口>青梅橋>福生橋>山王橋>五丁橋>みずくらいど公園>武蔵野橋>日光橋>平和橋>拝島分水口>殿ヶ谷分水口跡>こはけ橋>ふたみ橋>拝島上水橋>西武拝島線・立川駅

青梅線・羽村駅
玉川上水の取水口の最寄り駅、青梅線・羽村駅に下りる。駅近くの観光案内で、辺りの見所を探す。取水口は駅の西ではあるのだが、駅のすぐ東に「五ノ神社」があり、そこに「まいまいずの井戸」がある、と言う。五ノ神社という名前にも惹かれるし、「まいまいずの井戸」も見てみよう、ということで、五ノ神社に。

五ノ神社・まいまいずの井戸
五ノ神社は創建、推古九年、と言うから西暦601年という古き社。『新編武蔵風土記稿』によると、熊野社と呼ばれていた、とか。この辺りの集落内に「熊野社」「第六天社」「神明社」「稲荷社」「子ノ神社」の神社が祀られており、ためにこの辺りの地名を五ノ神と呼ぶ。地域の鎮守さま、ということで五ノ神社、となったのであろう、か。熊野五社権現を祀っていたのが社名の由来、との説もある。
神社の名前の由来はともあれ、境内にある「まいまいずの井戸」に。すり鉢状の窪地となっており、螺旋状に通路が下る。すり鉢の底に井戸らしきものが見える。すり鉢の直径は16m、深さ4mもある、とか。何故に、井戸を掘るのに、これほどまでの大規模な造作が、とチェックする。井戸が掘られたのは鎌倉の頃。その頃は、井戸掘りの技術も発達しておらず、富士の火山灰からなるローム層、その下に砂礫層といった脆い地層からなる武蔵野台地では、筒状に井戸を掘り下げることが危険であったので、このような工法になった、とか。狭山にある「堀兼の井」を訪ねたことがある。歌枕にも登場する堀兼の「まいまいずの井」よりも、こちらのほうが、しっかり昔の形を残しているようだ。

新奥多摩街道
羽村駅に戻り、西口から渡り道なりに進む。新奥多摩街道を渡ると、道脇に「旧鎌倉街道」の案内:「北方3キロ、青梅市新町の六道の辻から羽村駅の西を通り、羽村東小学校の校庭を斜めに横切り、遠江坂を下り、多摩川を越え、あきる野市折立をへて滝山方面に向かう。入間市金子付近では竹付街道とも呼ばれ、玉川上水羽村堰へ蛇籠用の竹材を運搬した道であることを物語る」、とある。
旧鎌倉街道の多摩川の渡河点は現羽村大橋と永田橋中間付近。多摩川を渡ると、慈勝寺東側の多摩川崖下を東進、草花台から森の下、平井川を渡って、平沢、野辺、東郷、へと下る。
鎌倉街道と言えば、高尾から秋川、青梅を越えて秩父に進む鎌倉街道山ノ道を辿ったことがある。また、西国分寺から東村山、狭山、毛呂山、武蔵嵐山へと進む鎌倉街道上ッ道も、断片的ではあるが歩いたことがある。八王子の平井川を下ったときは、その道筋は鎌倉街道の支道といったものであった。この案内の旧鎌倉街道も山ノ道とか上ノ道といった鎌倉街道の「幹線」からは外れており、支道といったものであろう、か。とはいうものの、「鎌倉街道」といったものが実際にあった訳ではなく、昔よりあった道を整備し、鎌倉への往来を容易にした、といったもの、その総称が「鎌倉街道」と呼ぶようでは、ある。

ハケ村
新奥多摩街道を離れ、多摩川の段丘崖を開いた切り通し坂道を下る。段丘崖のことを「ハケ」と呼ぶ。羽村の地名に由来は「ハケ」村が「ハ」村に転化したとの説がある。武蔵野台地の西端であり、「ハシ」村からの転化との説もある。地名の由来は、例によって、諸説、定まることがない。

「馬の水飲み場跡」
「ハケ」の坂を下ると坂の右手の石垣に「馬の水飲み場跡」の案内。急坂を往来する馬の水飲み場跡であった。農産物の運搬だけでなく、明治27年青梅線が開通して以降は、多摩川の砂利を羽村の駅まで運んだ、と言う。

禅林寺
多摩川に向かって坂を下る。道の右手にお稲荷さま、左手にお寺さま。坂も寺坂と呼ばれるようだ。お稲荷様にお参りし、お寺様の境内に。禅林寺と呼ばれるこの寺には中里介山が眠る。中里介山と言えば、未完の大作『大菩薩峠』で知られる。その『大菩薩峠』で長い間、疑問だったことがあった。何故に、一介の素浪人が、こともあろうに、また、酔狂にも大菩薩峠といった高山に上り、旅人を殺めなければならないのか、理解できなかったのだが、中世の古甲州街道を辿って、その疑問は氷解した。大菩薩峠って、中世には武蔵と甲斐を結ぶ甲州道中であり、江戸にはいっても、高尾から大垂水峠を越え、上野原から小仏峠越えで甲州に進む甲州街道の裏街道として、当時の幹線道路であった、ということである。今で言えば国道1号線での事件といったものであった。

境内には天明の義挙を顕彰する「豊饒碑」が残る。天明2年(1782)の大飢饉、翌年の浅間山の大噴火などにより、農民が疲弊・困窮、全国で農民一揆が起きた。この多摩においても、農民の窮状を憂えた、羽村の指田、森、島田、嶋田ら名主・組頭といった九名が、穀類の買い占めを計る富商・農家の打ち壊しを計画。天明4年、箱根ヶ崎村の池尻(狭山池)に2万とも3万とも、と伝わる農民が集結。その規模において、武州世直し一揆といった、幕政を揺るがすほどのものとなった動きに対し、幕閣は強圧策で臨み、首謀者9名と十数か村の63名は捉えられ獄死した。先日、農民が集結した、と言う箱根ヶ崎の狭山池を歩いた。その時のメモで、幕末に官軍に反発する幕府の振武隊も箱根ヶ崎に留まった。今は静かな箱根ヶ崎ではあるが、往昔、青梅筋、狭山筋から青梅街道をへて江戸と結ぶ、交通の要衝であった、ということを、改めて実感した。

都水道局羽村取水所・羽村堰
禅林寺を離れ、県道183号を道なりに進み、多摩川沿いを走る奥多摩街道に出る。多摩川の対岸には草花丘陵が連なる。道を少し上手に進むと玉川上水の取水口が見えた。羽村堰第一水門だろう。豊かな水が蓄えられている。
その左手に鉄製の水門といった形の堰、その先にはコンクリートの堰、さらにその先には河川敷が拡がる。鉄製の水門は「投渡堰」と呼ばれている。多摩川に4本の橋脚を据え付け、その前に杉丸太を組み、砂利によって水を堰止めている。そして、その杉の丸太上部を3本の「鉄の梁」で固定している。その「鉄の梁」を「投げ渡し」とよぶようだ。増水時には「鉄の梁」をウィンチで巻き上げ、水圧で杉丸太を倒し、砂利ごと水を下流に流すことによって水位を落とし、水門を守る。現在は「鉄の梁」ではあるが、昔は、その投げ渡しも木材であったことは、言うまでも、ない。
その先のコンクリートの堰を「固定堰」と呼ぶ。昔は、蛇籠とか牛枠・三角枠等と言った竹や木材と石を組み合わせて造った枠、というか、現在で言うところのテトラポットで堰を築いていた、と言う。牛枠は、胴体は蛇篭に詰められた砂利であり、頭が三本の木材を組み、斜めに付きだしている、といったその形状から名付けられたものであろう。

河川敷にも、蛇籠とか牛枠らしきものが点在する。多摩川はこの堰に少し上流、丸山付近で、ほぼ直角に曲がっているが、その水勢や水路を制御し、平時には効率よく見水を一直線に取水口に導き、増水時には護岸を守るために置かれているのだろう。
投渡堰と固定堰の境はスロープ状になっている。そこは、江戸の頃、奥多摩や青梅で切り出した木材を筏に組んで多摩川を下った、筏師たちのたの「筏通し場」の跡である、とか。
「きのう山さげ きょう青梅さげ あすは羽村のせき落とし」、と歌われた、多摩川の筏流し。奥多摩・青梅の山の材木を多摩川に流し(山さげ)、鳩ノ巣渓谷の岩場を超した沢井のあたりで材木を三枚に繋ぎ(青梅さげ)、羽村まで下る。羽村の堰ができるときは、筏師と工事関係者では一悶着あったことだろう。が、所詮、堰はお上の普請。筏師が敵うべくも無く、筏師は堰通過に細心の注意を払う、のみ。当初、堰の修理費は筏乗りの負担であった、とも。筏流しは羽村から六郷までおおよそ四日。日当も農作業の倍以上で、割りのいい仕事であった、よう。筏師の仕事は大正の頃まで続いたようである(『玉川上水・橋と碑と;蓑田たかし(クリオ)』)。

玉川水神社

奥多摩街道から羽村の水門と堰を眺め、さらにその少し上流にある玉川水神社と陣屋跡に進む。玉川水神社と陣屋跡は隣り合わせて並んでいた。玉川水神社は、承応3年(1654)、玉川上水の完成をもって、玉川庄右衛門・清右衛門兄弟が「水神社」を吉野の「丹生川上神社」より勧請した、と。「丹生川上神社」は白鳳時代、というから7世紀とか8世紀の創建と伝わる古社。「ミズハノメノカミ」「ミクマリノオオカミ」を祭神とする。もとは、「水神宮、などと呼ばれていたのだろうが、明治になって玉川水神社となった。水神社の境内には「筏乗子寄進灯籠」が残る。
玉川庄右衛門・清右衛門兄弟とは、玉川上水工事を請け負った兄弟。羽村在の加藤家の一族で、江戸で枡屋の屋号で割元、というから、土木工事への「人材派遣」を生業にしていた、とも、江戸柴口の商人とも諸説ある。上水完成の誉れ、として苗字帯刀を許され、「永代御役」をつとめ、年額二百石分の金子の給付をうけることになった。玉川の名を賜ったのは、その時以来である。玉川用水開削の計画は承応元年(1652)、川越藩主・松平伊豆守信綱等の幕閣により決定、町奉行神尾備守に多摩川を水源とする上水の開削の事業計画の立案を命じた。いくつかの業者の入札をおこない、工事請負代金六千両で玉川兄弟が落札。入札金額は九千両から四千五百両まで幅があり、その金額の妥当性については、水利事業のスペシャリストであり、上水計画の実施にあたっては上水奉行(道奉行)に就いた関東郡代・伊奈半左衛門の知見を重視した、とのことである。工事着工は承応2年(1653)4月、8ヶ月後の承応2年(1654)11月には、四谷大木戸まで、およそ43キロの上水路開削が完成した。江戸の町に水が流れたのは翌年、承応3年(1655)6月のことである。

家康が入府した頃の江戸は、低地は一面の汐入の地。日比谷の辺りまで入り江拡がっていた。その低湿地を埋め立て、武家屋敷や町屋の敷地をつくるも、問題は飲料水の確保。埋め立ててつくった江戸の町から掘り出す井戸水は塩気が多く、飲料水とはなり得ない。上水を確保すべく、赤坂に溜池を堀り、湧水を上水用としたり、小石川の水を上水としたり、井の頭の水を水源とする神田上水を整備するなどして江戸の町を潤すも、町の急速な発展には従来の上水網では追いつかず、多摩川からの水を江戸に導くことになった。これが玉川上水である。

陣屋跡
明和六年(1770)、玉川上水の管理を、それまでの民間の上水請負人を廃止し、幕府の直轄支配となってからの現地管理事務所、といったもの。「出役」と呼ばれる幕府の役人3名が三ヶ月交替で勤務。その下の、水番人や見廻り役を差配し、上水流量の増減による分水口開閉の立会、水路の巡視、塵芥の除去、四ッ谷大木戸水番人・御普請方役所への連絡、橋の監理などをおこなった。

羽村に2名、砂川村に1名(見廻り役)、代田村に1名、四ッ谷大木戸に1名、赤坂溜池に1名、計5カ所に六人の水番人を置き、砂川村以外には水番所が設けられていた、と(『玉川上水・橋と碑と;蓑田たかし(クリオ)』)。

幕府による上水管理・支配は幾度となくその支配替えをおこなっている。開削当初は玉川上水奉行・関東郡代である伊那半十朗忠治の支配下に玉川兄弟(玉川庄右衛門、清右衛門)が「上水役」としてその任にあった。江戸に5人の手代、羽村に二人、代田に一人、四ッ谷に一人の手代を置き、羽村大堰の管理、上水路の補修・維持管理を行い、水銀の徴収をおこなった。(『玉川上水・橋と碑と;蓑田たかし(クリオ)』)。
杉本苑子さんの『玉川兄弟』によれば、水の取水口の見込み違いなどで工事代金が増え、二千両を自己負担することになった庄右衛門・清右衛門兄弟に対し、関東郡代・伊那半十朗忠治が水銀の徴収の権利を与えるよう幕閣に訴えた、とある。また、別説では、当初、水銀の徴収といっても、単に集金業務だけであり、収入は幕府に入り、年額二百石の給付金では上水の維持管理・水銀の徴収のコストはまかないきれず、万治2年(1659)、二百石の給付金を返上する代わりとして、水銀の徴収による収入を認めてもらうよう玉川兄弟が幕府に訴え、それが認められた、ともある。どちらが正確か、門外漢にはわからないが、ともあれ、以降は水銀の徴収による収入で上水運営に関わるすべてのコストをカバーするようになる。
玉川上水奉行支配ではじまった玉川上水の運営体制であるが、寛文十年(1670)には、町年寄(奈良屋市右衛門、樽屋藤左衛門、喜多村彦兵衛)の支配下となる。町年寄って、江戸の町屋の自治支配体制の頂点であり、その町年寄は町奉行の支配下、と言うことであるから、結局は上水の支配役は町奉行の傘下となったと、言うことだろう。その頃までには四谷大木戸から江戸の町へと石樋や木樋で結んだ上水路整備も一段落し、上水の運営・支配は、上水工事担当役員から江戸の町の行政担当役員に担当替えした、ということ、かも。この町奉行支配も元禄六年(1693)には、道奉行支配となる。
元文四年(1739)には、玉川両家の上水管理業務は、その懈怠故に、職を免ぜられた、とある。その理由は定かでは、ない。定かではないが、単なる業務上の問題以上に、政治的な思惑が働いているように思える。そもそもが、水銀の徴収とは、使用・不使用にかかわらず、上水網がカバーする地域からは、有無を言わさず徴収するものであり、一種の税金のようなものである。その税金を一介の請負人に任せるのは幕府の官僚としては心穏やかならず、といったものであったろう。官僚は、機会を見てこの既得権益を取り戻そうと考えていたことと、思う。
その既得権益を取り返すきっかけには、武蔵野の新田開発への分水問題が大きく関係しているようにも思える。亨保7年(1722)、将軍吉宗の新田開発推進策を実行するため、武蔵野に多くの新田が開発され、そこに玉川上水からの分水を流した。従来、玉川家は、上水は水銀、灌漑用水は水料米として徴収していたが、武蔵野新田は水料を免除されていた、と言う。玉川家と武蔵野新田開発担当の幕府役人との間には、いろいろと軋轢が起きていた、と想像できる。こういった状況の中で、玉川家が起こした、なんらかの瑕疵を捉え、この時とばかり、罷免へと持ち込んだのであろう。支配役の担当替えが多かったのも、その一因とも思う。支配役が同じであれば、開削当時の状況も忖度し、開発の貢献者の子孫の水元役をすべて剥奪するといったこととは、違った状況になっていたか、とも思う。

それはそれとして、それにしても、散歩でいくつかの用水を訪ねたのだが、民間主導で行われた用水工事は最終的には、その功績を「無」とする傾向が武家側に多いように見受けられる。工期4年、延べ80万の人夫を動員し箱根の外輪山を穿ち、深良へと芦ノ湖の水を通した、希有壮大なる「深良用水」の工事請負人である江戸の商人・友野某の工事後の消息は不明である。獄死した、との説もある。箱根と言えば、箱根湯本から小田原の荻窪へと岩山を穿ち、「荻窪用水」を完成させた川口廣蔵については、個人の記録はおろか、工事の記録そのものもほとんど残っていない。稀代の事跡を商人如きに、との武家・小田原藩の作為の所作であろう、か。

玉川兄弟の罷免の後、町奉行の支配下に神田上水の請負人でもあった鑓屋町名主長谷川伊左衛門、大据町名主小林茂兵衛が、神田・玉川上水の監理をおこなう。明和五年(1769)には町奉行所管から普請奉行支配下に代わるも、翌年、上水請負人が廃止され、幕府の直轄支配となる。玉川兄弟が上水役から罷免され、わずか30年ほどで、幕府官僚の思惑通りの上水支配となった。陣屋跡からだけでも、あれこれ空想・妄想が拡がってしまった。玉川上水散歩の第一回は、実際は拝島を越え、西武拝島線・立川駅当たりまで下ったのだが、イントロのメモが少々長くなった。上水を辿る散歩のメモは次回から、とする。

昨年の秋だったろうか、石神井川を源頭部である小金井公園から王子へと辿ったことがある。その途中、向台の台地に沿って田無駅の南を西に進んだ。その時は石神井川の生活排水が気になっていたのだが、昨年はそれほどでもなかった。しかしながら、川筋の道は相変わらず行き止まりの道が多く、迷い道くねくね、といった状況はそれほど変わってはいなかった。田無の中心は川筋を台地へと上った青梅街道筋にある。江戸の頃は宿場として栄えたとも聞く。どのような街並みであろうか、とは思えども、石神井川下りの先を急ぐあまり、石神井川の谷筋を東へ向かった。
そのうちに、田無へと想いながらも、今ひとつ田無散歩へのフックがかからず数ヶ月たったとある週末、田無に出かけることにした。きっかけは、東久留米の落合川の湧水をもう一度見たくなって、というか、先回落合川を辿ったとき撮った写真がほぼ、ピンぼけであったので、写真を取り直しに行こう、と思った、から。落合川へのアプローチは何処から、と地図を見る。田無から北西に進めば落合川の湧水点、南沢にあたる。何となく田無散歩へのフックがかかった。ということで、田無へと向かう。
当初の予定では、青梅街道筋の田無宿跡の雰囲気でも感じ、とっとと南沢へ、などと想っていたのだが、結局は、田無をあちこち彷徨うことになり、また成り行きで保谷まで辿ることになった。南沢には当日たどり着けなかったけれど、行き当たりばったりの散歩は、なかなな、いい。


本日のルート:西武新宿線田無駅>青梅街道・富士街道交差>六角地蔵尊>青梅街道>田無神社>総持寺>観音寺>やすらぎのこみち>青梅街道・橋場交差点>田無一号水源>新青梅街道>府中道>都道4号線>六角地蔵尊>東大大学院付属演習林>南沢道>緑街2丁目交差点>西東京いこいの森交差点>都道112号・谷戸1丁目交差点>尉殿(じょうどの)神社>東禅寺>如意輪寺>宝晃院>宝樹寺>都道233号保谷小前交差点

西武新宿線・田無駅
駅の北に下り、田無の見どころなどないものかと、駅前の地図をチェック。駅を少し東にいったところに田無神社がある。その先、西武柳沢駅近くに六角地蔵尊が見える。六角地蔵尊という言葉に惹かれ、まずはお地蔵様の元に進む。

富士街道
線路に沿って成り行きで東に進み、青梅街道にあたる。少し南に下ると、西武新宿線の手前で東から青梅街道に合流する道がある。追分に弘法大師供養塔が佇む。嘉永七年(1854)の銘があり、側面が道標になっている。「練馬江三里 府中江二里半 所沢江三里 青梅江七里」と書かれて、と。
追分を左に曲がると富士街道。江戸の頃、大いに流行った伊勢原の大山詣への参詣道筋のうち、練馬から大山に向かう道筋である。もとは「ふじ大山道」と呼ばれていたものが、明治になって富士街道と呼ばれるようになった。道筋は川越街道・練馬北町陸橋(練馬区北町1丁目)より都道311号(環八)を下り、練馬春日町で環八を離れ、都道411号を谷原に進む。谷原のあたりから南西に真っ直ぐに田無に下っている。田無から先、多摩川を渡るまではあれこれ説があり、道筋は確定していないようだ。多摩川を渡ると稲城の長沼、町田の図師などをへて大山に向かった、と。

六角地蔵石幢
富士街道を東に進み、西武柳沢駅前商店街手前に六角地蔵石幢。ほぼ正六角の石柱で、各面の上部に地蔵菩薩立像が彫られている。富士街道と深大寺道が交差するところに佇む、との説明。お地蔵様の東側に西武線を渡る小径があるが、これが深大寺道だろう、か。
深大寺道とは、関東管領上杉氏が整備した軍道、と言う。本拠地の川越城と、小田原北条勢への備えに築いた深大寺城と結んでいる。先日清瀬を歩いた時に出合った「滝の城」は、その中継の出城、とも。深大寺道は滝の城からほぼ南に下り、この六角地蔵石幢脇を抜けて大師通り、武蔵境通り、三鷹通りをへて深大寺に至る。また、この道は「ふじ大山道」との説もあるようだ。

田無神社
六角地蔵石幢から、西武柳沢商店街を抜ける富士街道を少し進み、商家一体となった「街道」の雰囲気を味わい、適当なところで折り返す。次の目的地は田無神社。富士街道を西に戻り、青梅街道に合わさるところを右に折れる。先に進むとほどなく田無神社。結構大きい構えである。もとは尉殿大権現と呼ばれていたが、明治になって近隣の熊野や八幡の社を合祀し田無神社と改めた。
先日立川を歩いたとき、阿豆佐味神社といった、あまり耳なれない名前の神社があったが、この尉殿大権現も初めて出合った名前。創立時期は不詳であるが、鎌倉期には鎌倉街道の枝道(横山道・府中道)に沿った谷戸の宮山(現在の田無二中のあたり)に、既に鎮座していたようである。その後、1622年、上保谷(現在の尉殿神社があるところ)へ分祠、1642年には本宮も現在の地に移った。
尉殿大権現を現在の地に移したのは、青梅街道を開いたことによる。江戸城の城壁等を固める漆喰をつくるため大量の石灰を必要とした幕府は、八王子の代官・大久保長安に命じ、石灰を産地である青梅(成木村)から江戸に早急に運ぶよう命じた。長安は往来の混み合う甲州街道を避け、田無を起点に一直線に内藤新宿を結んだ。これが青梅街道である。内藤新宿から所沢に通じる所沢街道をベースにした、と言う。
街道はできた。が、荷の運搬に必要な人力(助馬・伝馬)が、足りない。当時、柳沢宿に五、六軒の農家があっただけ、と言う。ということで、人手を増やすべく、青梅街道の北、古くから集落が開けた谷戸地区から馬持百姓を街道筋に移すことになる。田無は幕府の直轄地であるわけで、村人は幕府の命に従うしか、術は、ない。かくして村人の心の拠り所でもある尉殿大権現は街道筋に移される。村人が街道筋に移はじめて40年後の事である。
ところで、尉殿大権現とは男神の級長津彦命(しなつひこのみこと)と級長戸辺命 (しなとべのみこと) よりなる夫婦の神々。水と風を治める、と言う。水の乏しい武蔵野台地、また風の強いこの地故の、神々だろう、か。また、神仏習合の影響もあり、尉殿大権現とは倶利伽羅不動明王と同一視され、明治の神仏分離まで信仰された。ちなみに、「尉」ってどういったものか今ひとつはっきりしない。神楽の黒面とも、能の黒色尉面とも言われる。能の尉面はただの面ではなく、一緒の神と見なされた、と。尉殿大権現の神名は能の尉と関係がるとの説がある(『多摩の歴史1;武蔵野郷土史刊行会(有峰書店)』)。また、関東にある「尉」がつく神社は水にまつわるものが、多いとのことである。

境内を歩いていると、作家の五木寛之が田無神社に住んでいた、といった案内を見つけた。早稲田大学学生の頃、大学の近くの穴八幡の床下を塒(ねぐら)としていた、のは知られるが、さて、田無神社は、社務所にでも居候していたのであろうか、とチェックする。作家のエッセーに「僕は敗戦後、朝鮮から引き揚げてきた。出身校は福岡県の福島高校。諸君は自宅なり、縁者なり、下宿なりから通学しているだろうが、僕は前には穴八幡、そして今は田無神社の床下を寝ぐらとして通学している。金がないからしかたなくそうしているのだ。しかし、なんとかしてロシア文学をやりたいと思っている」、と。ここでも床下生活であった。
本殿にお参りし南側の出口へと向かう。途中に賀陽(かや)玄節の案内。江戸末期の備前岡山藩の藩医。諸国を修行の途中で、田無宿の名主下田半兵衛富永と会う。半兵衛の依頼を受け入れ当時無医村の田無村に居を構え、医を施す。賀陽玄節の子で医師の濟(わたる)は、田無で塾を開いて子弟の教育にあたった。ちなみに、神仏分離令により、総持寺から独立して田無神社ができたとき、濟は田無神社の初代宮司となった。その後、田無神社の宮司は代々賀陽氏が継いでいる、と言う。

総持寺
田無神社を出て、お隣にある総持寺へ。総持寺と言えば鶴見にある曹洞宗の大寺の印象が強く、その流れかとも思ったのだが、そうではないようで、近隣のお寺さまが総て、と言っても三寺ではあるが、集まって一寺となしたため、総持寺と称した。宗派も真言宗である。
総持寺の前身は田無発祥の地・谷戸地区にあった西光寺。青梅街道脇に移住させられた住民がこの地に移し、尉殿大権現の別当も兼ねる。明治に入り神仏分離令により寺社が分けられるとき、尉殿大権現の倶利伽羅不動尊をこの寺に移す。無住となった観音院、光蔵院を会わせ総持寺となったのは明治8年(1875)のことである。
総持寺といえば、幕末の争乱時、幕臣振武軍が駐屯したところである。上野での彰義隊との意見の相違から、同志90余名とともに渋沢成一郎は田無に移動。西光寺に本拠を置き、軍資金を集めるなど少々不可解な行動を取る。10日余、田無に滞在した後、振武軍は瑞穂の箱根ヶ崎に移る。隊員は300余名まで増えていた、と。その地で上野の合戦の報を受け、一躍進軍するも高円寺村で彰義隊壊滅の報を受け田無に転進。上保谷に陣を敷くも官軍の到来はなく、敗残兵を集め1500余名となった振武軍は飯能に移り、その地での飯能戦争の結果、部隊は壊滅した。

田無用水跡
総持寺を離れ、小径を西に向かう。武蔵境通りに出ると、その先に「やすらぎの小径」との案内。道路を越えて小径を進む。総持寺境外仏堂・観音寺の脇をかすめ西に向かう。この小径、如何にも水路跡といった雰囲気である。チェックするとここは田無用水の水路跡であった。
承応3年(1654)、玉川上水が開削されてまもなく、明暦3年(1657)に玉川用水から小川分水が引かれる。その小川分水から更に分水されたのが新堀用水。そして、元禄9年(1696)、玉川上水に沿って進んだ新堀用水から更に分水されたのが田無用水である。玉川上水の喜平橋のあたりから、北東に田無へと進んでいる。石神井川の谷筋に落ちないよう、尾根道を進む。
この田無用水ができるまでは、青梅街道沿いの集落に移った人々は水に苦労した、と。元の谷戸に湧き出る湧水を汲んでは運ぶ生活を続けざるを得なかったのだろう。心の拠り所となる尉殿大権現を移すのに移住後40年近くかかった、ということが、その苦労のほどを物語る。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)

橋場
用水路跡の小径を進むと赤い鳥居のお稲荷さま。小径は南へ下り青梅街道の橋場交差点に。橋場は田無用水が青梅街道を渡るところ。往古、ここには橋が架かっていたのだろう。三叉路になっており、西に進むのは青梅街道、北西に向かうのは成木往還(東京街道)、南西に下るのは立川道(鈴木街道)。この鈴木街道がほぼ田無用水の水路跡のようである。青梅街道と成木往還の分岐点にはささやかな祠があり、地蔵尊と庚申塔が並んで立っている。
田無宿はこの橋場が西端。田無村の伝馬分担は箱根ヶ崎までの20キロ。明暦2年(1656)、中間に小川村ができるまでは負担が大きかったようである。元禄13,14年の頃は石灰の運搬に、1年間に馬60頭が28回も田無宿を通った、と言う。

田無一号水源
次の目的地は東京大学付属農場(東大農園)。先日、白子川の水源となる井頭池を訪ねたとき、その水源に、更に上流から注ぐ新川に出合った。その新川の源頭部が東大原子核研究所跡(現在の西東京いこいの森公園)と東大農園あたりの二カ所にあった。地名も谷戸であり、如何にも湧水のイメージを感じる。もとより、現在谷戸の景観が残るとは思えないが、その昔の豊かな湧水地帯の名残でもないものかと、訪ねることにした。
橋場から成り行きで北に進む。新青梅街道の西東京消防署西原出張所に出る少し手前、民家の建ち並ぶ住宅街の直中に田無一号水源。地下水を組み上げて水源としているのだろう、か。水源施設が先にあり、民家が後からだろう、とは思うのだが。それにしてもちょっと意外な水源施設であった。

府中道
新青梅街道を越える。新青梅街道は青梅街道のバイパス、といったもの。西に立派な屋敷などを眺めながら成り行きで北に進む。都道4号・所沢街道に合流する手前に道標があり、「府中道」とある。地図をチェックすると、都道4号・所沢街道との出合いから、新青梅街道・西原町交差点を越え、向台町へと下る道筋がある。
その先は小金井公園で途切れているが、往古、この地より府中の大国魂神社や国分寺の武蔵国分寺へと通る道があったのだろう。この道が別名横山道とも呼ばれるのは、府中への途中、武蔵七党のひとつ・横山党の本拠地である八王子へ向かう道が分かれていた、ため。鎌倉街道上ッ道の枝道とも伝わる。

六角地蔵尊
合流点を北に進むと六角地蔵尊。正式には石幢(せきどう)六角地蔵尊と呼ばれ、江戸の頃、安永八年(1779年)に田無村地蔵信仰講中43人によって建立された。道が六又に分かれるこの場所に、仏教の六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道)救済の地蔵尊を建て、併せて六つの道筋(南沢道、前沢道、所沢道、小川道、保谷道、江戸道)の道標とした、とのことである。現在は変形四差路、細いがそれらしき道を入れても五叉路でもあり、南沢道、所沢道、江戸道(小金井街道、か?)はなんとなくわかるけれども、保谷道、小川道はいまひとつはっきりしない。はっきりはしないが、保谷道は東大演習林の中にかき消えてしまった、との記述(『東京地名考;朝日新聞社会部(朝日文庫)』)もあるので、これって鎌倉街道上ッ道(横山道・府中道)のことか、とも。
さてと、ここから先のルートを想いやる。当初の予定では、ここから北西に、たぶん南沢道だろう、と思うのだけれど、その道筋を進み落合川の南沢湧水群へと進むつもりではあったのだが、田無をあれこれ彷徨っているうちに、田無発祥の地である谷戸地区に行ってみたくなった。またそこは先日、白子川源流点を辿ったとき、その源流点に、更に上流から注ぐ水路があり、その水路(新川)の源流部が谷戸地区でもあった。思わず知らずのことではあったが、谷戸地区にアテンションがかかった。場所は六角地蔵尊のほぼ東。間に東大の演習林や東大農場があるが、見学かたがた、通り抜けようと。

東大演習林田無試験地
六角地蔵尊を少し戻り、東大演習林に。鬱蒼とした林相の入口にある事務棟で記帳し、試験地へ進む。「アカマツやコナラ、クヌギを主体として、イヌシデ、エゴノキ、ケヤキ、ミズキなどが混在しながら点在」とあるが、ブナの原生林である白神山地を訪ねたとき、二日目になって、「ところで、ブナ、ってどれだ?」といった「体たらく(為体)」の我が身には、どれがどれやら、いまひとつピン、とこない。
それよりもこの試験地が「武蔵野台地の武蔵野段丘(武蔵野面)上に位置し、海抜高約60m、地形は平坦です。地質は層厚6~8mの火山灰層(関東ローム層)の下に、砂礫層(武蔵野礫層)が続いています。土壌はローム層の上に火山灰層を母材とする黒色土が50~60cmの厚さで分布しています」といった記事にフックがかかる。武蔵野台地の湧水点って、標高50mのところが多い。この地の海抜約60mからローム層の8mほどを引くと、丁度標高50mあたり、となる。新川の水源、谷戸の谷頭から流れ出す湧水の源がこのあたりであったのだろう、と妄想しながら試験地を辿る。道なりに進み、先に農地やマンションなどが見えるのだが、如何せん塀に阻まれ通り抜けはできそうも、ない。ぐるっと一周し、入口戻る。

谷戸一丁目交差点
六角地蔵尊まで戻り、南沢道(と勝手に名付けた道筋)を先に進み、緑町一丁目交差点で右に折れ、東大演習林の北端をかすめ西に向かう。前方に大きな公園が現れる。西東京いこいの森公園と呼ばれるこの公園は東大原子核研究所の跡地に造られた、と。公園を横切り、ひばりが丘団地を見やりながら通りを東に進み、住友重工田無工場を過ごし谷戸一丁目交差点に。
ひばりが丘団地は昭和34年(1959年)、現在の西東京市、東久留米市にまたがる、元の中島飛行機の工場跡に造成された。当時としては、日本住宅公団最大の団地。マンモス団地のはしりとなった。年月を経て老朽化した団地は、現在宇「ひばりが丘パークヒルズ」として立て替えが進んでいる、とある。
中島飛行機工場跡地、と言えば、戦前には東久留米駅から中島飛行機工場へ貨物引き込み線があった、と何処かで聞いたことがある。Google Mapの航空地図でチェックすると、自由学園の西を、立野川を越え市立南中学校方向へと南西に一直線に下る道筋がはっきり見える。南中学校方向からは、更に西方向へシフトしひばりが丘団地へと向かっている。これが引き込み線の跡地であろう。団地建設時は資材運搬に使用されたようだが、現在はその大半が「たての緑道」として整備されている、と。自由学園の辺りを彷徨ったことはあるのだが、この引き込み線跡は見落とした。そのうち、再訪したいものである。

谷戸せせらぎ公園
谷戸一丁目交差点を少し北にすすんだところ、道路の東側に「谷戸せせらぎ公園」がある。新川の源頭部も、この交差点を少し下った谷戸小学校のあたり、と言うし、このせせらぎ公園にも、湧水の名残でもないものか、と訪ねることに。公園は整地された、ごくありふれた公園。池は人工的なもので、湧水の雰囲気は、ない。ただ、周囲の雰囲気は南側が少し小高くなっており、公園あたりの低地にその昔、湧水点があってもよさげな気もする、というか、そう思い込む。
カシミール3Dで地形図を作成してみると、標高60mから40mくらいの比高差をもつ、樹枝状の台地、そして谷筋が見て取れる。如何にも谷戸といった地形でもある。谷戸とは、「丘陵地が浸食されて形成された谷状の地形であり、その谷頭は往々にして湧水点となっている」ということだから、湧水があっても不思議では、ない。現在は地下水の大量組み上げの影響で水位が低下し、湧水の名残はなにも、ない。
公園に案内板:田無発祥の地「谷戸」、とある。この地には稲荷社、白山社、弁天社、総持寺の元となった西光寺、そして田無神社の元である尉殿大権現が現在の田無第二中学のあたりにあった、と。小田原後北条家の文書『永禄年間小田原衆所領役帳』にも「太田康資の知行所、江戸田無、南沢、二十七貫五百匁」、と田無の名が残り、室町の頃にはこのあたりは既に開けていた、ようだ。鎌倉街道上ッ道の枝道でもある横山道(府中道)に沿って集落が形成されていのだろう。道筋は谷戸地区から東大農園を貫き六地蔵尊をへて南に下る。田無発祥の地の人々が幕府の政策故に青梅街道筋に移されたのは、先にメモしたとおりである。
公園の案内に「田無」の地名の由来があった。ひとつには文字通り「田の無い」ところであった、との説。次には、湧水の流れが浅い階段状の「棚瀬」になっていたとの説。カシミール3Dでつくった地形図を見ると、思わずその気になる説である。その他いくつかの説を紹介していたが、どれ樋って定説はないようである。

『永禄年間小田原衆所領役帳』に「太田康資の知行所、江戸田無、南沢、二十七貫五百匁」、と田無の名が残る、とメモした。この地は太田道灌の四代目の子孫、太田康資(やすすけ)の知行地と伝わる。これには道灌とこの田無の関係が背景にあるようだ。
東久留米の大門に名刹・浄牧院がある。この寺はこのあたり一帯に威を唱えた大石氏の開基と伝わる。元は関東管領上杉方として武蔵守護代もつとめた大石氏であるが、長尾景春の乱に際し景春に与し関東管領上杉に反旗を翻し、上杉方家宰の道灌と対峙。結局戦に敗れ和議を結ぶ。結果、田無や東久留米の大石氏の領地の一部が道灌の所領となる。
文明18年(1486年)、道灌が主家上杉氏の謀略により誅殺される。道灌の孫である太田資高は上杉氏と敵対する小田原北条と結び、高縄の原の合戦(東京都高輪)で上杉氏を破り、道灌の居城であった江戸城を回復。太田康資は資高の子として北条に仕える。道灌の田無はこういった経緯を経て康資の領地となったのだろう。ちなみに、小田原衆所領役帳に記された三年後、北条への反乱を企てた康資は、事が露見し岩槻城主太田三楽斎を頼り落ち延びた、と。

尉殿神社
次の目的地は尉殿神社。北東に少し進んだところにある。そのあたりは、その昔上保谷字上宿と呼ばれ、保谷の四軒寺といった寺社もあり、村でも最も早く開けたところ。横山道(府中道)も、田無の谷戸の田無二中あたりから、この上宿を経て保谷高校、そして下保谷へと抜けている。昔は、池もあった、とか。古き谷戸の景観が残るとは思えないけれども、とりあえず歩を進める。谷戸せせらぎ公園の北端に沿って東に進む。宅地が密に立ち並び、おおよそ谷戸の雰囲気は何も、ない。谷戸町を離れ住吉町に入ると、そこは昔の保谷市である。道を成り行きですすみ尉殿神社に。
この尉殿神社は谷戸の宮山(現在の田無二中)にあった尉殿権現が、元和8年(1622年)に分祠されたもの。その後正保3年(1646年)、宮山の尉殿権現が青梅街道沿いの現在の田無神社の地に分祠されるとき、この地の尉殿神社より夫婦の神のうち、男神の級長津彦命を田無に遷座した。ちなみに寛文10年(1670)には宮山の本宮そのものを田無神社の地に遷座した。お参りを済ませ長い参道を南に下る。

保谷の四軒寺
神社を離れ、次は保谷の四軒寺と呼ばれたお寺さまを巡る。最初は東禅寺。尉殿神社のすぐ南にある。開基は一六世紀末。東久留米にある浄牧院の隠居寺として建てられた、とか。この地に共の者と土着した保谷出雲守入道直政の開基とも伝わるが、確たるエビデンスはないようだ。落ち着いたお寺さまであった。
次は如意輪寺。民家の間を成り行きで進む。古い間の名残か、道がわかりにくい。彷徨っているうちに境内南側の塀のあたりに接近。塀に沿って進むと、いかにも水路跡といった暗渠が塀に沿って進む。西東京いこいの森公園(元東大原子核研究所)、そしての新川の東大農場(北原二丁目交差点あたり)を源頭部とする新川はひとつに合わさり泉小学校あたりへと進んでいたようだ。ということは、この暗渠は新川の水路跡であろう。こんなところで新川の名残に出合うとは、思ってもいなかったので、少し嬉しい。
保谷・志木線の道路に出て如意輪寺に入る。赤い山門には仁王さま。境内には江戸の頃の路傍の石仏が佇む。旧上保谷村の富士街道脇などに立てられていたものをこの境内に集めた。石仏は18世紀のもの、と言う。
如意輪寺の西には宝晃院。江戸の頃は尉殿神社の別当寺であったお寺さま。その南の宝樹院。江戸の頃は、幕府の寺院本末制のもと、如意輪寺、宝晃院とともに新義真言宗本山三宝時の末寺であった、とか。
この四軒寺のあたりにはその昔、池があった、とか。それぞれの寺には観音堂、薬師堂の堂宇とともに弁天堂があった、と言う。弁天堂といえば、水の神様であろうから、池などがあっても不思議ではない。実際この一帯は、一度大雨が降ると、一面水たまりとなり難儀したとのことである。この上宿を通る横山道とクロスする小川、多分、新川ではあろうと思うが、その川には駒止橋とか縁切橋といった橋が架かっていたようであるが、その面影は、今は、ない。
田無から東久留米の南沢へと辿る予定が、田無そして保谷といった現在の西東京を辿る一日となった。田無の駅を下りたときは、何にもわからなかった田無、そして保谷の歴史の一端に触れることができた。次回は寄り道せずに田無から南沢へと心に想い、保谷・志木線を南に進み、都道233号との保谷交差点を左に折れ、保谷郵便局あたりからバスに乗り、一路家路へと。 

残堀川散歩;先日、何も考えず国立駅から始めた散歩で、思わず知らず、国分寺の台地に開かれた新田や分水を辿り、これまた思わず知らず立川の砂川新田まで進んだ。結果的は日没時間切れのため、五日市街道に沿って開かれた砂川新田散歩が中途で終わってしまった。砂川新田の守り神である阿豆佐味神社は、境内に入ることもできなかった。
今回は砂川新田を辿ろう、と思う。砂川新田の開拓は狭山丘陵の麓にある村山郷岸村(現在の武蔵村山市岸)の人々によってなされた。阿豆佐味神社も本家本元は岸の隣(現在の瑞穂町殿ヶ谷)にある、という。また、砂川新田開発の水は玉川上水・砂川分水ができる前は瑞穂町箱根ヶ崎を源流点とする残堀川に拠っていた、とのことである。これはもう、箱根ヶ崎からはじめ、殿ヶ谷、岸をかすめながら残堀川を下り砂川新田へと進むべし、と。江戸の頃、砂川新田が開発されていったプロセスを想いながらの時空散歩を楽しむ。

本日のルート:八高線・箱根ヶ崎>青梅街道>円福寺>狭山池>吉野岳地蔵堂>福正寺>須賀神社>阿豆佐味神社>堀川橋>伊奈平橋>日産自動車村山工場跡地>西武拝島線>玉川上水と交差>西武拝島線武蔵砂川駅>見影橋>天王橋>砂川新田>流泉寺>阿豆佐味神社

八高線・箱根ヶ崎
JR青梅線の拝島駅で八高線に乗り換え箱根ヶ崎駅に。東口に下り、残堀川の水源である狭山池に向かう。駅前には国道16号東京環状が走る。箱根ヶ崎は東京環状の他、国道16号線、青梅街道、新青梅街道、岩蔵街道(成木街道)、羽村街道と多くの道筋が交差する交通の要衝である。昔も、鎌倉街道、旧日光街道、青梅街道などが通り、9軒の宿からなる箱根ケ崎宿があった、と言う。狭山神社、須賀神社といった神社も多く、また円福寺といった堂々としたお寺様も残る。旧日光街道は、八王子から日光勤番に出かける八王子千人同心が往還した道筋。青梅街道は江戸城の漆喰塀に必要な青梅・成木村の石灰を江戸に運んだ道である。
箱根ケ崎という地名は、源義家が奥州征伐のとき、この地で箱根権現の夢を見、この地に箱根(筥根)大神を勧請したことに由来する。箱根(筥根)大神は現在の狭山神社である、と伝わる。また、瑞穂市教育委員会編「瑞穂の地名」によれば、この地の地形が箱根に似ており、また箱根より先(都より遠くはなれた)であるので、「はこねがさき」となったとの説もある。地名の由来は例によって諸説、定まること、なし。カシミールでつくった地形図を見るにつけ、地形はいかにも「箱」の姿を呈している。

青梅街道
東京環状を北に向かう。箱根ヶ崎辺りでは国道16号・東京環状は瑞穂バイパスとなり、駅の西側を迂回する。駅前を通る東京環状は都道166号・瑞穂あきるの八王子線となっている。先に進み青梅街道との箱根ヶ崎交差点の手前にささやかなる社。杉山稲荷神社とある。川崎市近辺にはその地区ローカルな杉山神社がある。まさか、その流れではないだろけれど、とチェック。杉山某さん由来の神社ではあった。

円福寺
箱根ヶ崎交差点を少し下った街道脇に円福寺がある。いつだったか狭山湖周遊の折、六道山から箱根ヶ崎に下った時、一度訪れたことがある。いい構えのお寺さまであり、今回もなんらかの発見があるものかと、再び訪れる。仁王門をくぐり大きな本堂にお参り。臨済宗建長寺派のお寺様であった。
この円福寺は幕末の動乱時、振武隊の一時駐屯地となった。振武隊は彰義隊からわかれた幕府軍の一派。上野を離れた後、隊長の渋沢成一郎に率いられ、田無をへてこの地に来たる。軍資金集めなど少々不可解な行動をとりながら、三日ほど円福寺に滞在。上野の戦い勃発の報に接し、この地をはなれて上野に赴いた。進軍途中、上野での彰義隊敗走の報を受け転進。田無を経て、飯能へ下り、その地での飯能戦争で壊滅する。

狭山池
成り行きで東京環状に戻り、残堀川を跨ぐ橋脇から川筋に下りる。護岸工事が施された川筋を少し進み狭山池に。池の畔に一九世紀中頃の馬頭観音や常夜塔。常夜灯はもとは、残堀川と日光街道が交わるあたりに建てられたものをこの地に移した。
狭山池は残堀川の水源となる池である。鎌倉時代に「冬深み 筥の池辺を朝行けば 氷の鏡 見ぬ人ぞなき」と歌われているように、昔は「筥の池」と呼ばれていた。箱根ヶ崎の地名の由来にもあるように、この地が古くから伊豆の箱根(筥 根)となんらかの関係があったのか、それとも、狭山池一帯の「箱形」の地形故のネーミングであろうか。
狭山ヶ池の案内板に「この辺一帯は、古多摩川が流れていた頃、深くえぐられ窪地となった所である。大雨が降ると、周辺の水が集まり、丸池を中心とした約18ヘクタールは水びたしになり、粘土質のため、水はけが悪く耕作できず、芝池になっていた」、とある。カシミール3Dで地形図を書いてみると、誠にそのとおり。狭山台地が青梅丘陵にその鉃(やじり)の尖端を差し込んだような形状となり、周囲が囲まれている。丘陵から流れ込む水のはけ口としては往古、狭山丘陵の北を流れる不老川(としとらず)に流れていた、とも言われる。江戸の頃になると、狭山丘陵からの流れを集める残堀川に堀割で通し、狭山池に溜まる水の捌け口としたようである。またそれは玉川上水の養水として機能したとのことでもある。
残堀川の名前はこの狭山ヶ池の伝説に由来する。その昔、この池に棲んでいた大蛇を蛇喰次右衛門が退治。その際に大量の血が流れ「じゃぼり」>「ざんぼり」に。また大雨の度に流路定まることなく、蛇の如くうねった、が故に「じゃぼり」となった、とも。
(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)

残堀川
残堀川を下る。現在の流路は狭山池からはじめ、武蔵村山市西部、立川市北西部、昭島市東部、立川市南西部を経て、日野橋上流で多摩川へと合流する、流域面積34.77km2、流路延長12.7km の一級河川。瑞穂町内で狭山谷川・夕日台川・峰田川・滝田川の4河川、武蔵村山市内で横丁川、立川市内で3用水(昭和用水・昭和用水支流・立川堀分水支流)が合流する。
もともと残堀川は、狭山谷川、夕日台川といった狭山丘陵の水を集めて東南に下り砂川三番の御影橋付近に至り、曙町を経て矢川につながり、国立の青柳から谷保を抜けて府中用水に流れ込んでいたといわれる。江戸時代の承応3 (1654)年、玉川上水が開通した際、愛宕松付近(現在の伊奈平橋付近)で川筋を南に曲げ、現在の天王橋(五日市街道との交差部)付近で玉川上水につなぎ代えた。同時に掘割を通して狭山池の水を残堀川に繋ぎ玉川上水の助水として利用した。明治に入ると残堀川の水が汚れてきたため、明治26(1893)年から明治41(1908)年にかけて、玉川上水の下に交差させ、立川の富士見町へ至る工事が施された。富士見町から立川段丘の崖を落ちた水は段丘沿いに流れる根川に合流していた、とのことである。昭和に入ると、生活排水の流入を避けるため、昭和38(1963)年、水量が安定している玉川上水を下に通すことになった。
残堀川の流路は、青梅付近を頂点として東に緩く傾斜する武蔵野段丘の南側、武蔵野段丘より一段低い立川段丘面を立川断層に沿って流れる、と言う。立川段丘の上層は立川ローム層(関東ローム層)で覆われ、その下には透水性の大きい立川礫層が存在しているため、台地上は一般に地下水位が低く乏水性台地となっている。残堀川の源泉である狭山池の湧水も立川断層と小手指断層の交叉部分であることに因る、と言う(「多摩川水流実態解明キャラバン 残堀川(多摩川流域協議会)」より)。

吉野岳地蔵堂
残堀川に沿って下る。次の目的地は阿豆佐味神社。砂川新田を開発した村山郷岸村の鎮守様。しばし川筋を進み、途中で青梅街道にそれて社に辿ろう、と。東京環状を越え、先ほど訪れた円福寺の裏手を進む。進行方向左手の狭山丘陵の緑を見やり、狭山丘陵を周遊し、六道山辺りを彷徨ったことを思い出す。山麓の須賀神が記憶に残る。
道を進み青梅街道との交差点に吉野岳地蔵堂。江戸時代、この地・石畑村の名主であった吉岡某が子供の病気平癒を願って建立した。小堂ながら正確な唐様模様を残し、殿ヶ谷・福正寺観音堂と同様の仏寺建築、とのことである。地図を見ると青梅街道を少し進んだ丘陵に福正寺がある。また、その脇には須賀神社もある。先回訪れた須賀の社ではないようでもある。ついでのことではあるので、阿豆佐味神社に直行しないで、ちょっと寄り道。

福正寺
青梅街道・石畑地区を進む。細流を越えた後、成り行きで丘陵方面に向かい福正寺に。結構な構えのお寺さま。総門を入り新築の山門をくぐり本堂前に。本堂の左手の石段を上ると観音堂。品のいいお堂であった。その少し上には興福寺の五重塔を模したと言う、ミニスケールの五重塔があった。
境内から瑞穂の町を眺める。昭和15年(1940年)、箱根ヶ崎村、石畑村、殿ヶ谷村、長岡村が合わさり瑞穂町となる。瑞穂の由来は、瑞々しい稲穂の実る地、との説、また、低地で水が溜まりやすく「水保」と呼ばれていたのだ、その由来との説も。相変わらず地名の由来は諸説定まること、なし
このお寺様、武蔵七党のひとつ村山党の本拠地と言われている。桓武平氏の後裔・平頼任が村山郷(入間川流域)に住み村山氏を名乗ったが村山党のはじまり。主な一族に、金子丘陵を拠点とする金子氏、現在の川越あたりに勢を張った仙波市、狭山の山口氏などがいるが、この地の村山党は金子氏の流れと伝わる。戦国期、寺の境内あたりに村山土佐守が城を構えた、とある。本堂のあたりが腰曲輪、その上に本郭があった、と伝わる。村山土佐守は後北条、滝山城主の北条氏照に仕えていた。また、先ほど訪れた円福寺あたりに村山氏の館があった、との説もあるようだ。円福寺と言えば、幕末の振武隊の円福寺駐屯の折、部隊との交渉を引き受けた名主の村山氏は、村山党の後裔とのことである。

須賀神社
福正禅寺前の坂を下り、道なりに須賀神社へ向かう。ほどなく崖下に小さな公園。玉林寺公園とある。奥に玉林寺遺址とあった。室町の頃、このあたりの殿ヶ谷に創建された臨済宗建長寺派のお寺さま。殿ヶ谷の人々が砂川の地に移り、殿ヶ谷新田を開発したとき、お寺も移したようだ。そういえば、先日夕闇の中、砂川四番あたりの阿豆佐味神社に向かう途中、玉林寺があった。公園前には須賀神社の道案内が出てはいるのだが、いまひとつわかりにくい。公園の辺りを少し行き来し、公園脇の小径を丘陵へと上る。気持ちのいい樹林の中を早喜に進むと道脇に鳥居。鳥居を潜り参道を進み須賀神社に。
誠にあっさりとした社が佇む。先日この近くの六道山を彷徨ったときにも須賀神社があった。この社を下った阿豆佐味神社の先にも須賀神社がある。須賀神社はスサノオを祭神として祀る。神仏習合において、スサノオ=祇園精舎の守護神である牛頭天王、とみなされ、スサノオを祀る神社はその昔、(牛頭)天王さまと呼ばれたことが多い。この地域には天王祭りがあるとのことであり、ここの須賀神社も明治の神仏分離令以前は、天王の社とでも呼ばれていたのだろう。
天王様って、その多くは人の集まるところ、市場神として祭られる、ってことをどこかで聞いたことがある。人が集まるところでの疱瘡除けの御利益の神として祭られたようではある。この地、交通の要衝として多くの人の往来があるところ故の神様であったのだろうか。単なる妄想。根拠なし。ちなみに、「**神社」という名称は明治以降の呼び名である。

阿豆佐味天神社
丘陵を下り道なりに阿豆佐味神社に。立川の砂川新田でたまたま出合い、その本家本元への想いより、今回の散歩のフックとなった社。なにも知らず訪れたのだが、誠に古い歴史を持つ社であった。社伝によると、寛平4年(892年)、桓武天皇の曽孫である常陸大嫁上総介高望王(平の姓を賜る。武家平氏の始祖)の創建とされる。平安時代の中頃,延長5年(西暦927年)に完成した『延喜式』において多摩地区八座のひとつとされる政府公認の社である。
アヅサミという名称の起源は不明。古代には梓の木で作った弓〔梓弓〕を鳴らし神意を占ったことを起源とする説、楸繁茂していたことを起源とする説などがある。また、「阿豆」は「甘い」の意であり、「佐」は味の接頭語、「味」は弥で水の意味、とし、狭山丘陵から流れる湧水を祀ったことを起源とする説もある。水に恵まれていないこの地のことを知るにつけ、結構納得感がある。神社の名前も元は阿豆佐弥と呼ばれていた、とも。実際、この社では水を崇めている、とのことである。神社の祭神は少彦名命、スサノオ命、大己貴命となっているが、それは時代とともに、出雲族の武蔵進出に伴い部族神である少彦名命・スサノオ命・大己貴命などを祭ったり、大和朝廷の勢力拡大に伴い天ッ神=天神様をまつったりと、あれこれポリテックスを織り込み変化を遂げていったのだろう。
鎌倉期には武州村山郷の鎮守として武蔵七党・村山党の篤い信仰を受ける。その後この地の支配者は関東管領・扇谷上杉氏、滝山城主・大石氏、大石氏に替わった北条氏照、そして江戸時代の代官・江川太郎左右衛門と替わるも、この社は変わることなく篤く敬われる。そして、この地の民が砂川新田を開くときも、地元民の心の支えとしてこの地より勧請し砂川に社を建てた、ということである。

堀川橋
長い参道を進み青梅街道・阿豆佐味天神社前交差点に出る。ここからは残堀川筋に戻って一路砂川新田へ下ることにする。先に進み新青梅街道を越え、橋を三つほどやり過ごすし堀川橋に。この橋に通じる道は東西に一直線に走る。この道は野山北公園自転車道。道の下には東京都水道局の羽村線という玉川と多摩湖・狭山湖を結ぶ水道管が埋められている。地形図には東京水道とある。元々は多摩湖・狭山湖を建設するときにつくられた軽便鉄道の跡地である。

伊奈平橋
先に進み新残堀橋に。橋の上が広場風に造られている。いささか趣きの乏しい都市型河川に沿って進んできた川筋も、左手前方にイオンモールの姿を認め伊奈平橋近づくにつれ、桜などが植えられ緑道っぽい感じになってくる。
伊奈平橋の名前の由来は、橋の西にある伊奈平地区から、だろう。また、その地区名は秋川筋の伊奈宿へと続く「伊奈海道」が通っていたことに由来する。現在は伊奈平と秋川筋の伊奈の間は横田基地によって分断されているが、往古、この道は五日市街道の原型ともなった道。
秋川の伊奈、といえば石工で名高い。江戸城普請の際には、伊奈の石工が江戸との間を頻繁に往来したことだろう。また、秋川筋・伊奈の石工の本家本元は信州伊那谷高遠付近。石切職人(石工)として名高い伊那の衆が秋川・伊奈の伊那石に目を付け、移住し故郷の地名を村の名とした、との説がある。

日産自動車村山工場跡地
伊奈平橋を越えると川筋はまっすぐ南下する。源頭部から伊奈平橋まで自然なカーブで南東へと下っていた流れからすれば、いかにも不自然。また、川筋は南東へと走る立川断層に沿って下るとも言うし、その点からも不自然。上でメモしたように、もともとの川筋はこの伊奈良平橋から南東に下っていた、とのことである。
その流路を変えた理由は残堀川の水を玉川上水に落とすため。旧路では玉川上水の河床より残堀川の河床が低くなる。ために、流路を標高の高いところに付け替えた、ということである。塀に沿って一路南下する。塀の向こうには日産自動車の工場があった、とか。20年近くスカイラインGT-R(32タイプ)に乗っていたのだが、昨年タクシーにぶつけられ廃車処分となってしまった。グーグルアースに今でも自宅前に残るR32GT-Rを見るにつけ、少々の感慨がよぎる。それはともあれ、このあたりになると残堀川の水はほとんど見えなくなってきた。河床に潜っているのだろう、時々浸み出すように、川床に水気が僅かに顔をのぞかせている。

西武拝島線
日産村山工場の塀に沿って進んだ川筋が、東に向かって弧を描き再び南下するあたり、川筋から少し離れたところに橋跡らしきものが残る。これって何だろう?道を少し東に進むと水路がある。先ほど見た橋の流路とは異なるが、日産村山工場敷地跡から、弧を描いて残堀川に進んでいるようだ。
川筋に戻って先に進むと、残堀川が西武拝島線に交差する手前、公園脇から水路が残堀川に合流する。先ほど見た工場跡からの流路であろう。この水路って、単なる工場からの水を逃がすためのものだろうか、それとも、残堀川の流路変遷の一過程のものだろう、か。玉川上水に水を流すため流路を変えた残堀川は、玉川上水・天王橋のあたりに流れた、と言う。現在の残堀川の流路は天王橋の数百メートル東で玉川上水と交差する。これは明治の頃、水が汚れてきたため残堀川を玉川上水の下に通すために再び付け替えられた川筋であろうから、江戸の頃の流路は現在より少し西に向かう必要がある。工場からの水路の方向は、如何にも天王橋方面へと向かっている。江戸の頃の流路の名残なのだろう、か。単なる妄想。根拠なし。

玉川上水と交差
西武線を越えるとほどなく残堀川は玉川上水と交差する。明治の頃は残堀川が玉川上水の下を通ったが、現在は逆に玉川上水が下を通る。もう何年前になるだろう、玉川上水を羽村の取水口から四谷大木戸まで辿ったことがある。その途中、この地で玉川が残堀川の下を潜るのを見て少々感激した。感激した、とはいっても、単に川が別の川の下を潜る、ってことに単純に驚いただけのことではあるが、その背景には、明治や昭和の頃の残堀川を取り巻く環境が大きく影響していた。明治には、残堀川の汚れのため玉川上水から切り離し、上水の下を潜る。昭和になると、残堀川の溢れ水による上水の汚れを防ぐため、逆に上を通す、といった歴史があった。物事にはすべて、それなりの理由がある、ということだろう。

西武拝島線武蔵砂川駅
今回の砂川新田散歩、どうせのことならと、箱根ヶ崎から下った散歩も、やっと砂川新田あたりに辿り付いた。さて、いまから砂川新田を、とは思えども、その前に玉川上水の見影橋あたりに下っていた、という残堀川の旧路をちょっと見ておこう、と。
玉川上水に沿って東に進む。南に立派な屋敷林が見える。砂川新田を開いた有力農家の屋敷林ではあろう。そこには後で辿る、ということで先に進む。成り行き北に折れて西武拝島線武蔵砂川駅に。駅のガードを潜り、駅北に抜け、西武線に沿って道なりに少し東に進む。西武線を潜る車道に続く道が如何にも水路跡といった雰囲気。後になってわかったのだが、その道を少し北に進んだ畑のあたりに残堀川旧路を示す案内があったようだ。

見影橋
如何にも水路跡といった道を、西武線を抜けて玉川上水に向かう。橋は見影橋。橋の脇に案内;見影橋は江戸の頃からあった。上流から四番目であったので、四の橋、とも。四番目というのは、砂川村内を流れる上水の上流から数えて、ということだろう。また、名主の屋敷が近くにあったので「旦那橋」とも。玉川上水の水見回り役も兼ねていた砂川家のために架けられた橋、とも言われる。また、その昔には、明治の頃の名主の名前にちなんだ「源五右衛門分水」もあった、とか。砂川家専用の分水である。
玉川上水が開削される前は、ここを流れていた残堀川の旧路の水をもとに、砂川新田が五日市街道に沿って開かれていった。道を南に進むと砂川三番あたりである。玉川上水からの砂川分水ができる前の砂川新田は、名主村野家(後の砂川家)を中心にしてその砂川三番、四番あたりから開発されていった、とか。ちなみに、見影橋の少し東で玉川上水が崖地を迂回する。このあたりは立川断層であり、上水は幅300メートル、比高差5メートルほどの断層を迂回して進んでいるようである。

天王橋
旧水路跡を確認し、玉川上水を西に折り返し、砂川分水の分岐点である天王橋へと向かう。現在、砂川分水はもうひとつ西の松中橋のあたりにある、という。そこから玉川上水に沿って進み、この天王橋のあたりで玉川上水を離れ五日市街道に沿って下った、と。どうせのことなら、分水口まで足を延ばしたい、とは思えども、玉川上水散歩で一度訪れたこともあるし、なにより日暮れも近い。ということで、天王橋から五日市街道に沿って下ることにする。




砂川新田
砂川新田は五日市街道に沿って開かれた。開発の時期は三期に別れる、と。最初は慶長14年(1609)~寛永3年(1626)。村山郷「岸(きし)」(現在の武蔵村山市)に住む三右衛門(村野、後に砂川)が新田の開発を幕府に願い出る。ただ、この時期は計画段階といったものであった、よう。
その次が寛永4年(1627)~明暦2年(1656)の頃。この頃にはぼちぼち開発が始まった、とはいうものの、未だ玉川上水も通っておらず、つまりは砂川分水もなく、水の確保が十分でない。開発がはじまった、といった段階だろう。新田開発に必要な水は、残堀川の水量を頼りにするしかないわけで、開発は現在の砂川三番とか四番あたり、からはじまった。そのあたりに村野家(砂川家)があるのも、その根拠のひとつではある。
そして第三段階、承応元年(1652年)玉川上水が通り、明暦3年(1657)には、玉川上水から砂川分水が許可され、砂川新田の開発が本格的に動き始める。明暦3年(1657)~元禄2年(1689)の事と言われる。
かくして開発が進んだ砂川新田は元文元年(1736年)には砂川村となる。きっかけは亨保7年(1722)、日本橋に立った新田開発の高札。八代将軍吉宗による新田開発奨励策を受け、砂川新田の一番から八番まで開発を終えていた砂川の人々が、その東、砂川九番、十番あたりに開発の手を延ばす。これら新しい新田を「砂川新田」、その東を「砂川前新田」などと呼ぶようになったため、それと区別できるように従来の新田を「砂川村」としたようである。砂川三番、四番を中心に村の母体ができて百年後のことであった。先回の散歩で出遭った川崎平右衛門が活躍したものこの頃だろう。

流泉寺
五日市街道に沿って進む。残堀川を越え先に進むと、天王橋から別れ、暗渠となっている砂川分水が砂川九小交差点の先で開渠となる。立派な屋敷林をもつ農家の中を進んでいる。ほどなく、これはまことに豪壮な農家というかお屋敷が現れる。砂川新田の開発に尽くした村野家、後の砂川家のお屋敷である。
お屋敷の道路を隔てた南に流泉寺。開発農民の心の支えとして、砂川新田開拓民の菩提寺となる。「砂川開発の節、名主、惣百姓相談仕り候おもむきは、所々方々の者共当村へまかり出で居り申しそうらえば、其の村々寺々へ付け届き難儀にござ候ゆえ、菩提寺一ヵ寺にしたきよし」、とは流泉寺から奉行へ提出された菩提寺開基を願う書面である。

阿豆佐味神社
砂川三番交差点を越え、砂川四番交番前交差点手前、先日、日没閉門のためお参りできなかった阿豆佐味神社にお参り。瑞穂の阿豆佐味神社を勧請したのは前述の通りである、頃は新年。年明けの参賀の人々で賑わっていた。お参りをすませ、先回と同じく砂川四番のバス停から立川に戻り、一路家路へ急ぐ。 

黒目川を歩いていたとき東久留米市が朝霞市に接するあたりで川が合流。これが落合川。この川も水量も豊かな美しい川であった。あれこれ調べてみると、湧水でまかなわれている川である、とか。いくつかの湧水点をもち、自然豊かな流れが楽しめそう、ということで落合川の源流を巡って歩くことに。
今回からは強力な散歩ツールが登場。携帯電話にあるNAVIウォークって機能。行きたいところに音声でガイドしてくれる。いままで1年以上、NAVIウォークの無料メニューで ある「GPS・現在地確認」だけを使っていたのだが、今回、月額315円の有料メニューを申し込む。テストもかねて、大体のルートを決め、目的地を事前に登録。その地に向かって音声ガイドに従って歩くことに。登録地は「北原公園」「白山公園」「多門寺」「向山緑地」「竹林公園入口」。前回歩けなかった黒目川の支流や湧水点を確認し、落合川の源流に向かう、という段取り、とした。



本日のルート;西武多摩湖線・萩山駅>西武拝島線・池袋線平走箇所>小平霊園東口>霊園内・さいかち窪>小平霊園北口>柳窪緑地地域・天神社>天神橋>北原公園>東久留米十小学校>新山通り>にいやま親水公園>新所沢街道・西団地前>新所沢街道>白山公園>新所沢街道>氷川神社>都大橋>西妻川・黒目川合流点>所沢街道>新小金井街道>前沢交差点>小金井街道>八幡町・落合川との交差点>落合川筋>氷川神社>南沢緑地保全公園>向山緑地公園・立野川源流点>氷川神社>落合川筋>毘沙門橋>多門寺>立野川・笠松橋>自由学園>西武新宿線交差>立野川筋>落合橋>黒目川との合流>西武池袋線・東久留米駅

西武多摩湖線萩山駅

自宅を離れ、京王井の頭線で吉祥寺。JRに乗り換え中央線で国分寺。西武多摩湖線に乗り換え萩山駅に。萩山駅から小平霊園。携帯には事前に登録はしていなかったので、携帯での地図上で目的地を霊園入口あたりに決め音声ガイドスタート。西武新宿線と西武拝島線が分岐するあたりを越え、霊園入口に。特に問題もなく目的地に案内してくれた。

小平霊園「さいかち窪」

小 平霊園に来たのは、通り道ということもあるが、霊園内にある黒目川の源流点「さいかち窪」をもう一度見ておこう、と思った次第。霊園内を歩き、北口近くの雑木林の中に分け入る。前回歩いた、いかにも川床といった窪みを歩く。先回見落とした、排水溝をチェック。相変わらず水はなかった。


霊園・北口を離れ、新青梅街道に。黒目川の川筋を確認。相変わらずごく僅かな水が流れている、だけ。排水といった程度のもの。北に進み再度、天神社に。湧水点を再度チェックするも、これまた、これといって水が滾々と湧き出ている、といった印象なし。森の中の道を天神橋のところまで下る。ここでNAVIスタート。「北原公園」にNAVIしてもらう。

北原公園

北原公園は黒目川に水を注ぐ湧水点と言われる。柳窪5-6辺り。公園というものの、調整池といったつくり。が、水はまったくなし。水路はほとんど暗渠となっているよう。どこで黒目川に合流しているのか確認すること叶わず。もっとも、天神橋から久留米西団地あたりまでは川筋を歩くことができないので、どうしたところで合流点は確認できない、かと。

白山公園
北原 公園から次の目的地・白山公園に向かう。NAVIのガイドに従って道を進む。下里3丁目あたりを進み、公園に。結構大きな公園。公園というか、これも調整池といった雰囲気。このあたり調整池が目に付く。湧水点を探す。公園は南北ふたつの公園に別れている。湧水点は北側の公園の端の湿地からごく僅か湧き出していた。これが黒目川の支流・西妻川の源流点。

公園を離れ新所沢街道から流れをチェック。僅かな流れが見える。川筋を歩くことはできそうにない。新小金井街道を北に。西妻川が交差する。先に進み所沢街道との交差点。所沢街道を東に折れ進む。ふたたび西妻川が交差。川は北に流れ、都大橋の下流で黒目川と合流する。

西妻川筋から離れ、落合川に向かう。所沢街道を東に進み前沢交差点で小金井街道と交差。交差点を北に折れる。しばらくすすむと川筋と交差。これが落合川。それほど水量か多くない。湧水点は、小金井街道の西、八幡町2丁目。最初、地図でチェックした時には、白山公園の直ぐ近くでもあり、白山公園が落合川の源流かとも思っていたのだが、どうもそうではないよう。住宅地の草むらに僅かに水が湧きでている、とか。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


氷川神社の森
落合川の川筋に沿って東に折れる。しばらくは川筋を歩けたり、あるけなかったり。河川工事が行われている。旧川筋と新川筋が分かれたところもある。「湧水公園」といった場所もあった。


氷川神社
更に下ると氷川神社の森が見えてくる。そのあたりは、自然の流れを活かした河川整備がおこなわれている、よう。コンクリートの護岸がないだけで、結構心和む。氷川神社におまいり。「南沢緑地保全地域」に鎮座し、境内の東西を落合川の本流と支流に囲まれた高台にある。近くから土器なども出土するということだから、古くから人が住みついていた場所で、あろう。




緑地の中に湧水点
神社鳥居の先に川筋。これが落合川の支流。南沢浄水場あたりから流れ出る湧水である。極めて美しい。水量も多く、いかにも美しい水。川に沿った緑地の中に「東京名湧水」の案内。緑地の中に道があり湧水点まで続いている。ごく僅かな湧水が見られた。中に入ることはできなかったが、南沢浄水場あたりで湧き出る水は1日1万トン、と案内に書いてあった。いかにも湧水の里、といった場所である。



何ゆえ、この落合川あたりに湧水が多いのか、ということであるが、地下水を貯める砂礫層(武蔵野砂礫層)の上端が落合川に沿うようにあり、かつまた、黒目川とか落合川の南に分布する粘土層が落合川流域には、ない。つまりは、地表から浸透した地下水は粘土層を避け、落合川流域の砂礫層に十分に溜まり、その水が湧き出ている、ということ、らしい。
xそのためか、湧水は湧水点ばかりではなく、川床からも湧き出ている、と。その比率は半々、ということ、らしい。ちなみに南沢浄水場では地下300mの水源からポンプで汲み上げている、とか。

向山緑地公園

次の目的地は向山緑地公園。氷川神社の南。台地になっており、ぐるっと迂回して台地の南から回りこむ。野趣豊かな公園。自然のまま、といった雰囲気。
川筋を探すと、崖下に流れが見える。台地を下り、川筋に。ほとんど道なき道。極々僅か水が湧き出る場所を確認。
下るにつれ、小川っぽくなってゆく。これが落合川の支流・立野川。住宅街を崖線に沿って下り、自由学園の内をとおり、西武池袋線を越え、新落合橋のあたりで落合川に合流する。

多門寺
向山緑地公園を離れ、氷川神社のところに戻る。落合川にかかる毘沙門橋の袂に多門寺。鎌倉時代に開山。江戸時代につくられた山門が美しい。それにしても、多門寺という名前のお寺って、結構雰囲気のいいお寺が多い。中でも墨田区5丁目の多門寺が最も、いい。




竹林公園
落合川筋を「竹林公園」に向かって歩く。川筋の崖上に続く竹林を越えたあたりを南に下る。この崖線沿いの竹林は目的の公園ではなかった。道を進み、「竹林公園入口」を東に入る。ここも落合川の湧水地のひとつ。この竹林は新東京百景に選ばれている。公園内で湧水点は確認できず。台地を下る。北からの小さい水路を確認。水路に沿って歩く。西武池袋線の手前で黒目川と合流。

立野川を落合川との合流点まで歩く

さて、本日の予定終了としようか、とは思いながらも、どうせのことなら、先ほど向山緑地公園から流れる立野川を落合川との合流点まで歩いてみよう、ということに。NAVIで向山緑地公園の東、川筋が地図に確認できるところをチェックし、音声ガイドに従って歩く。

自由学園
川筋がはじまるところは住宅街の真ん中。先ほど確認した湧水点から台地下を流れてきているのだろう。川筋に沿って下る、とはいうものの、川筋に道はない。川筋をつかず離れず進む。まっこと、崖下に沿って流れている。たわむれに、台地上に廻ってみたが、直ぐに下りることもできず、といった按配でもあった。なんとか坂道を見つけ下る。
川筋は自由学園の敷地内に入る。学園脇を進むと西武池袋線。袋小路。NAVIで線路を越えて現れる川筋をチェックし、道を探してもらう。これは結構便利。

西武池袋線・東久留米
西武池袋線を越え、再び川筋近くまで。相変わらず川筋は歩けない。しばらく歩くと浅間神社。ちょっとおまいり。川筋はここで西に向かい、新落合橋の直ぐ下で落合川に合流する。あとは、落合川と黒目川の合流点まで進み、本日の予定終了。西武池袋線・東久留米に向かい、家路を急ぐ。

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