五日市・秋川の最近のブログ記事

昨年に沢登りデビューした娘の旦那に、崖を降りるテクニックである8環を使った懸垂下降や、基本的なロープの結び方のトレーニングでもをしようかと適当な沢を探す。10mクラスの滝があり、きりのいい所に滝があり、そこまでの遡行時間が短い沢はないものかと、あれこれチェック。
で、選んだのが秋川水系・熊倉沢左俣東沢。通常であれば、源頭部まで登り、熊倉山へと這い上がり、笹尾根・浅間峠をたどり上川乗バス停まで下るか、笹尾根の途中から熊倉沢左俣西沢に降りて沢を下降して東沢合流点付近に戻るようだが、今回は懸垂下降・崖下りのトレーニング。尾根に這い上がる奥の二股手前で沢を引き返すことにした。
トレーニングにお付き合い願うのもなんだかなあ、とは思いながら沢仲間に連絡するとベテランのTさんと、8環を使った懸垂下降をこの夏にマスターしたいとのS嬢も参加してくれるとのこと。数年前、その名に惹かれ娘と沢上りを楽しんだ月夜見川以来の秋川筋の沢に4人のパーティで出かけることにした。



本日のルート;五日市線・武蔵五日市駅>南郷バス停>矢沢林道>落合橋>熊倉沢林道>>熊倉沢右俣・左俣分岐点>作業道>入渓点(作業道3番目の木橋)
往路
東沢・西沢出合い>4m滝>2段2m滝>2段?m滝>5m滝
復路
5m滝>2段?m滝>東沢・西沢出合い>西沢・作業道4番目の木橋>作業道>熊倉沢林道>落合橋>矢沢林道>南郷バス停


武蔵五日市駅発;9時

集合場所はJR五日市線の終点・武蔵五日市駅。熊倉沢左俣東沢の最寄りのバス停・南郷は数馬行のバスに乗る。時刻標をチェックすると8時代はなく、午前9時、その次は10時35分。9時発のバスに乗る予定とし、8時50分バス停集合とする。 ホリデー快速が8時48分に着く(2018年9月休日時刻表)

南郷バス停;9時32分着
武蔵五日市駅から30分強走り、南秋川筋の南郷バス停に到着。乗客は数馬行が大半のよう。この駅で降りたのは我々のパーティだけであった。

矢沢林道
バス停から南に下る坂道があり、そこを下り切ると、南郷バス停手前で都道33号から分かれ南秋川に沿って進む矢沢林道に当たる。林道は直ぐに南秋川に架かる橋を渡り、南秋川に注ぐ矢沢に沿って南に進む。

落合橋で熊倉沢林道に入る;9時40分
矢沢林道を10分強歩くと落合橋がある。その名の通り、この地が矢沢と熊倉沢の落ち合うところ。矢沢林道は落合橋を渡り道なりに進むが、熊倉沢林道は橋の手前で右に折れる。
矢沢林道方面も「工事用作業出入口」「作業中」の立て看板と車止めのA型バリケード、また熊倉沢林道も「民有地林道」であるとの案内とともに、A型バリケードで車止めとなっている。A型バリケードの脇を熊倉沢林道に入る。




熊倉沢林道の熊倉沢右俣・左俣分岐点;10時10分
熊倉沢に沿って大よそ30分ほど歩くと熊倉沢右俣と左俣の分岐点に。道の左手に作業道に入る踏み跡がある。立ち木にも赤いリボンが括られている。またその先、熊倉沢の右岸に渡る木橋も見える。この踏み跡から作業道に入る。

作業道3番目の木橋:10時20分
作業道を沢に下りるとすぐに最初の木橋がある。熊倉沢右俣からの流れを跨ぎ熊倉沢左俣の右岸に渡る。橋を渡るとほどなく熊倉沢左俣に架かる木橋があり右岸渡る。熊倉沢林道から見えて木橋がこれだろう。木橋は雨の翌日でもあり滑りやすく、慎重に歩を進める。

右岸に渡った仕事道を10分弱歩くと3番目の木橋が現れ、熊倉沢左俣の左岸に渡ることになる。木橋を渡った先は山に向かって少し上り坂となっている。沢から離れる?ガイドブックには四番目の橋が入渓の目安として記されているのだが、この3番目の橋は中程にある岩を境に二つに分かれている。そこが4番目の橋?少々混乱。結局この3番目の橋から入渓することにした。
補足;復路、熊倉沢左俣西沢に少し入ってみたが、そこに4番目の橋があった。3番目の橋を渡り坂道を少し登ったところである。 入渓は3番目でも4番目でも構わない。3番目から入れば熊倉沢左俣東沢に直接入り、4番目から入れば熊倉沢左俣西沢に入り西沢・東沢出合いに少し下り熊倉沢左俣東沢に入ることになる。

入渓;10時40分
3番目の橋から沢に入り、スペースを見付けて入渓準備。スペースがあまりなく、入渓準備は、熊倉沢林道の熊倉沢右俣・左俣分岐点から作業道に入る辺りでするのがいいかと思う。特に雨の後など、木橋が滑り結構危ない。復路は作業道から熊倉沢林道に戻り終えて着替えをしたのだが、沢靴は木橋で滑ることもなく安全に渡れた。 のんびりと準備し10時40分頃入渓する。

東沢・西沢出合い;10時43分
滑っぽい沢を少し進むと右手から熊倉沢左俣西沢が合流する。東沢・西沢出合いを少し西沢に入ったところに2mの小滝も垣間見える。
今回は熊倉沢左俣東沢を登ったが、直前まで熊倉沢左俣西沢にしようか、熊倉沢左俣東沢にしようか少々迷っていた。東沢には2段?mや5m滝があり、懸垂下降の練習にはいいと思うのだが、支柱になる適当な木があるかな?そもそも、初回から10m級崖の下降トレーニングって如何なものか?などとあれこれ思い、小滝の多い熊倉沢左俣西沢からはじめ、適当なところで折り返し熊倉沢左俣東沢に入るのはどうかな?などと思った次第。 結局は、その場の成り行きで困難度の高そうな熊倉沢左俣東沢に決め、出合いを熊倉沢左俣東沢へとルートをとる。

4m滝;10時46分
出合いのすぐ先に4m滝がある。傾斜もそれほど急でもなく、また岩場に適当なホールドがあり、水線直登もできそうだが、当日は少し気温が低かったこともあり左岸側の滝端を這い上がった。


2段2m滝;10時55分
10分ほど歩くと滑状の小滝に出合う。長さは4mほどはあるだろう。ガイドブックにある2段2mの滝かもしれない。この辺りの渓相は美しい。ガイドブックでチェックする段階では渓相は倒木の多い、ちょっと荒れたイメージであったのだが、予想に反して美しい沢であった。

2段15滝;11時5分
2段2m滝から10分、今回の核心部である2段?m滝が現れる。娘の旦那が水線中央突破を試みるが、途中で適当なホールドがなくフリーズ。下ることは危険のためそのまま待機指示。





Tさんが滝の右側端に取り付き1段目の滝をクリア。セルフビレイで自身の安全を確保した後、ロープを下し娘の旦那のハーネス・カラビナと結び、娘の旦那は滝を上り切った。 私は雨の翌日で、ズブズブの右岸を高巻きし滝上に。S嬢にはロープを下し安全確保しズブズブの右岸を上ってもらった。
ここで結構時間をとり全員が滝上に揃ったのは10時35分を過ぎていた。

5m滝;11時45分
ついで本日の最終ポイントとした5mの滝。滝の左手の岩場は急ではあるが、適当なホールドがあり、岩場を這い上がることができた。S嬢には安全確保のロープを結び、岩場を上ってもらった。
上りはここまで。少し休憩し、懸垂下降の練習をしながら、今来たルートを下降することにする。



下降

5m滝を懸垂下降;12時10分‐12時30分
5m滝を懸垂下降で下りる。全員がハーネス、8環、カラビナを装備済み。ロープはTさんの8㎜ x 30mを使うことに。理由は娘の旦那のガタイがよく、私の6㎜ x 10m 二本繋ぎでは少々こころもとないことと、崖の長さ。





滝自体は5mなのだが、滝上に支柱になる立木がなく、滝の左手上にある立木にロープを回すと、滝の右岸に屹立する崖下まで?mのロープで丁度くらいの長さになった。 立木に結んだスリングとハーネスをカラビナで結び、セルフビレイで自身の安全確保をし、8環にロープを通し、崖下に落としたロープを右手で軽く握り、セルフビレイのスリングを外すように指示。
右手のロープは絶対離さないこと、ロープを引っ張っておればテンション・フリクションがかかり止まり、緩めると下降する、という基本を教え即本番に。
最初に私が下り、懸垂下降はじめてのふたりが続き、最後にTさんが下りた。はじめてのふたりは、最初体を崖から離すときは少し不安そうな腰つきが下から見て取れたが、特に怖がることもなく、軽々と下りてきた。






2段15m滝の懸垂下降;12時45分‐12時55分
こちらの滝も同じく滝上に適当な立木がない。唯一滝の落ち口に大きめの岩があり、その岩の底部にロープを回せば滝の水線を下りることはできそうだが、それもなんとなく心もとない。


結局滝の左岸を高巻した、雨水を含みズブズブの急斜面の上に適当な立木があり、そこを支柱に懸垂下降で下りることにした。ロープの長さが心配だったが、?mでギリギリ崖下まで届き、2段階に分けることなく一回で下り切ることができた。 5m滝の懸垂下降が10m以上の垂直な崖を下りることになったため、急斜面ではあるが所詮斜面ということで、懸垂下降はじめてのふたりも軽く舞い降りた。



東沢・西沢出合い;13時40分
2段?m滝を下り、1時頃遅めの昼食。武蔵五日市行のバスは南郷バス停を15時11分に出る。時間はゆったりある。
のんびり休憩し、足元に気をつけながら小滝を下りて東沢・西沢出合いに。西沢に2m滝が見える。結構美しい。滑状に流れる小滝を上る。



作業道の4番目の木橋;13時45分
西沢の小滝を登った先に木橋が見える。これがガイドブックにあった前述4番目の木橋であろう。先には3段の小滝もあるようで、少々惹かれるが、先回の川乗水系逆川の沢登りで私が足を引っ張りバスに乗り遅れるという為体(ていたらく)であったこともあり、木橋から作業道を熊倉沢林道に戻ることにした。

熊倉沢林道;14時
作業道を戻り熊倉沢林道の熊倉沢右俣・左俣分岐点に戻る。右俣に沿って続く林道を少し上り、適当な場所をみつけ着替えを済ませ熊倉沢林道を戻る。

落合橋;14時34分
矢沢との合流点である落合橋に。往路は気づかなかったのだが、沢は落合橋の下流でも結構美しい渓相をしていた。

南郷バス停;14時45分
15時前に南郷バス停に到着。15時11分発のバスを、余裕をもって迎え武蔵五日市駅に戻り本日の散歩を終える。

熊倉沢左俣東沢の所感

●標準的なルートは、源流まで登り、熊倉山へと這い上がり、笹尾根・浅間峠をたどり上川乗バス停まで下る。
●バリエーションルートとして、笹尾根の途中から熊倉沢左俣西沢に降りて沢を下降して東沢合流点付近に戻る。
●今回は懸垂下降の練習ということで、尾根に這い上がることなく奥の二俣手前の5m滝をピストンで上り・下りした。
●入渓から5m滝までの遡行時間が1時間ほど。適当な距離・時間である。 ●5m滝は適当な立木がなく滝の水線を下りることはできず、10m級の崖を懸垂下降することになる。懸垂下降の練習には丁度いいかもしれない。
●また2段?m滝も滝上に適当な立木がなく、これは崖ではないが急な斜面を懸垂下降で下りることになる。上記5m滝の垂直な崖の懸垂下降が負担に感じる人には、こちらの斜面で懸垂下降の練習ができる。
●只、斜面の長さが10m ほどあり、今回は仲間が30mのロープを持っていたので一気に下りることができたが、その長さのロープを持たない場合は、中間点の「踊り場」に下り、次いで川床へといった2段階で下りることになるだろう。
●懸垂下降や滝上りのトレーニングの沢としては時間もちょうどいい。
●2段?mも5m滝も滝を上れなければ巻くことができる。
●渓相は予想ではあまり期待していなかったのだが、結構美しい沢であった(奥の二俣より先は少し荒れているようではある)。
●今回は懸垂下降の練習が目的であったので途中で引き返したが、いつか源流まで登り、熊倉山へと這い上がり、笹尾根の途中から熊倉沢左俣西沢に降りて沢を下降して東沢合流点付近に戻る、という標準&バリエーション組み合わせルートを辿ってみたいと思う。

秋留台地の湧水散歩も、秋川筋、多摩川筋と辿り、先回の散歩でやっと平井川筋へと辿りついた。あきる野市が作成した『報告書』にある湧水リストで残すは4箇所。平井川筋と秋留台地の段丘面から少し離れるが、草花丘陵の湧水点となっている。
ルートを思うに、五日市線・東秋留駅から平井川筋を遡り、最後の目標を草花丘陵の崖線が多摩川に落ちる折立(おったて)坂の湧水とし、湧出点を確認した後、多摩川を跨ぐ羽村大橋を渡り青梅線・羽村駅に向かうことにする。


本日のルート;五日市線・東秋留駅>五日市街道>松海道の一本榎>平沢八幡>平澤617番地湧水>高瀬橋>平高橋>平井川右岸を進む>平沢滝の下湧水>南小宮橋>草花公園湧水>羽村大橋西詰>折立坂湧水>羽村大橋を渡る>玉川上水>牛坂通り>旧鎌倉街道>青梅線・羽村駅


五日市線・東秋留駅
あきる野市の報告書より
最初の目的地、あきる野市の『報告書』にある「平沢617番地」湧水の最寄駅である五日市線・東秋留駅で下車。「東」と対になる「西秋留駅」は秋川市成立時に「秋川駅」となり、その後あきる野市となった後も「秋川駅」として続く。東秋留駅は大正14年(1925)の五日市鉄道(拝島・武蔵五日市間)開業時の駅名のまま今に続く。

五日市鉄道
五日市鉄道は、明治22年(889年)甲武鉄道が立川駅-八王子駅間で開業、明治27年(1894)に青梅鉄道が開業した時勢、五日市の実業家が中心となり構想され、大正10年(1921)に認可される。
ルートは青梅鉄道拝島駅を起点に、五日市、そして増戸村坂下から分岐して大久野村地内勝峰石灰山に至るもの。勝峰山までの路線を申請しているということは、当初より石灰の運搬をその事業主体にしていたと推察される。
大正10年(1921)に認可は受けたものの、事業予算が当初の目論見と大きく違い、事業は難航。大正12年(1923)に工事が開始されるも、同年に起きた関東大震災の影響もあり、地元事業家だけでは事業存続が不可能となる。
そこに登場するのが財閥系の浅野セメント。川崎工場のセメント原料は青梅鉄道沿線の石灰を使っていたが、採掘権を買収した青梅線沿いの雷電山や日向和田も思ったほどの埋蔵量がなく、埋蔵量の豊富な五日市の勝峰山に目をつける。 大正11年(1922)には既に五日市鉄道の大株主となっていた浅野セメントであるが、石灰採掘権の権利を持つまでは資金不足の五日市鉄道を援助することなく、地元実業家より勝峰山の石灰採掘権を入手するに及び全面的に五日市鉄道の経営に乗り出し、大正14年(1925)5月にに拝島・武蔵五日市、同年9月に武蔵五日市駅 - 武蔵岩井駅間が開業した。
五日市鉄道最大の眼目である勝峰山の石灰採掘事業は、大正15年(1926)から開始され、昭和2年(1927)には浅野セメント川崎工場への輸送が開始される。そのルートは五日市鉄道→青梅鉄道→中央本線→山手線→東海道線と経由して浜川崎駅で専用線を使い工場へ運ばれていた。
立川から南に進む南武鉄道の大株主でもある浅野セメントは、この輸送ルートをショートカットすべく、拝島と立川の南武鉄道を繋ぐルートの延長を計画。昭和4年(1929)に工事に着手し、昭和5年(1930)には、拝島駅-立川駅間、青梅電気鉄道の路線と多摩川の間に路線を開き、南武鉄道と結んだ。
当初貨物主体で始まった五日市鉄道も、次第に旅客輸送も増えてはきたが、日華事変の勃発にともない、五日市鉄道は南武鉄道と合併、さらには戦時体制の強化のため南武鉄道は青梅電気鉄道共々国有化され、昭和19年(1944)には国有鉄道五日市線となる。
その際、青梅電気鉄道の立川・拝島区間は軍事施設を結ぶため複線化が続行されるも、五日市鉄道の立川・拝島区間は「不要」として休止されることになった。

五日市街道
増渕和夫さんの論文より
五日市線・東秋留駅で下車し、道なりに北に向かうとほどなく都道7号・五日市街道にあたる。現在五日市街道と呼ばれるその道筋は、近世以前にはその表示がなく、「伊奈みち」とある。伊奈は秋川筋、武蔵五日市の手前,現在のあきるの市にあり、古くより石工の里として知られる。その近くで採れる良質の砂岩を求め信州伊那谷高遠付近の石切(石工)が平安末期頃より住み着き、石臼、井戸桁、墓石、石仏をつくった、とのことである。
「伊奈みち」が何時の頃から呼ばれはじめたのか、詳しくは知らない。が、その名がメジャーになったきっかけは、徳川家康の江戸開幕ではあろう。城の普請、城下町の建設に伊奈の石工も動員され、江戸と伊奈の往来が頻繁となり、その道筋がいつしか「伊奈みち」と呼ばれるようになった。
「伊奈みち」が江戸と深いかかわりがあるのと同じく、「伊奈みち」が「五日市道」と現在の五日市街道に繋がる名となったのは、これも江戸の町と関連がある。
江戸の城下町普請も一段落し、百万都市ともなった江戸の町が必要とするのは、城下町をつくる「石」から、そこに住む人々の生活の基礎となる燃料に取って替わる。国木田独歩の『武蔵野』に描かれる美しい雑木林も、江戸のエネルギー源・燃料供給のため、一面の草原であった江戸近郊に木が植えられ人工的に造られたものである。利根川の船運を利用し関東平野の薪が江戸に送られた。そして、この秋川谷からは木炭が江戸に送られることになる。
その秋川谷の木炭集積所は、元々は伊奈であったが、檜原や養沢谷からの立地上の利点から、五日市村が次第に力を延ばし、かつての「伊奈みち」を使い、江戸に木炭を運ぶようになった。そしてその往来の名称も「伊奈」から「五日市道」と変わったようである。

松海道の一本榎
道なりに目的地である「平沢617番地」湧水の目安となる平沢八幡へと歩いていると、道脇に大きな榎が立つ。「松海道」の一本榎と称される。あきる野市の保存樹木に指定されるこの巨木は、古墳の上の立つ、と言う。
古墳は、東と西は舗装道路で削られ、北は畑で削られ、コンクリートで囲まれた姿で残る。
松海道
「段丘図」には、松海道の辺りが窪地と表示される。この窪地は既述の如く、横吹面・野辺面形成期(1万年から1万2千年前)に平井川系の水流が秋留原面にオーバーフローした氾濫流路跡とされ(角田、増淵)る。氾濫流の本流は東本宿から蛙沢に向かって南東の窪地であり、この北東に残る窪地は古秋秋川筋と記されていた。
鎌倉街道
地質についての門外漢であり、上記記述の深堀はできないが、この松海道の一本榎の道筋は、かつての鎌倉街道と言う。もとより、鎌倉街道は新たに開削された道というわけでもなく、既存の道筋を鎌倉へと繋げていった道の「総称」であり、幹線のほかその幹線をつなぐ支線が数多くある。この「鎌倉街道」もそのひとつ。
鎌倉街道の三大幹線である、「上ッ道」「中ツ道」「下ツ道」、それと秩父道とも称される「山ツ道」。四回に分けて歩いた「山ツ道」は五日市線・増戸駅を南北に貫く。
で、この一本榎を通る「鎌倉道」は、羽村の川崎から羽村大橋下流付近にあった「川崎の渡し」で多摩川を渡り、草花の折立(折立八雲神社)から草花丘陵の裾野(慈勝寺)を多摩川に沿って進み、現在の平高橋あたりで平井川を渡り、この平沢の一本榎に出る。その先は、二宮、野辺を経て、雨間の西光寺脇を通り、雨間の渡しで秋川を渡り高月から日野、八王子方面へと向かったようである。
ついでのことながら、秋留台地を通る鎌倉街道の道筋はもうひとつ、青梅から草花丘陵を越えて進む道もあったようである。道筋は青梅から草花丘陵の満地峠を越え菅生に下り、平井川を越えて瀬戸岡から雨間に下り、西光寺脇で上記ルートと合わさり、南に下ったとのことである。

平沢八幡
一本榎から北に進むと平沢八幡がある。鎌倉街道沿いにあるこの社は旧平沢村の鎮守。大梅院(現在は無い。跡地は平沢会館;平沢八幡の南)持ちから先日訪れた広済寺持ちとなったが、明治の神仏分離で寺から離れた。 戦国の頃、滝山城主となった北条氏照は城の戌亥の方角に二宮神社・小宮神社と共篤く敬ったとのことである。




平澤617番地湧水
平澤八幡の辺りから坂が意識できるようになる。湧水に関する情報は『報告書;あきる野市』にある「平沢617 秋留原面下・傾斜地」だけが頼りである。とりあえず坂を下ると、平井川手前にある比高差数メートルと言った崖地が川筋に沿って続く。崖手前には民家があるが、その裏手、崖下に水路があり、その水路を辿ると崖上の民家の池に続いていた。
民家敷地内に見える池はポンプアップしているように思える。「段丘図」と照合すると、この崖面は小川面と屋代面を画する崖のようにも思える。『報告書』にある「秋留原面下 傾斜地」ということは、小川面にあるのだろうから、この池のことなのだろうか。
他に何か痕跡は無いものかと彷徨うと、池のある民家の道路を挟んだ西側に小さな祠が立ち、下に水路が見え、その先に小さいながら湧水池といった雰囲気の水場があった。また、池のある民家の少し南、平澤八幡の真東の辺りに、湧水湿地といった趣の空き地もあった。が、結局、どれが平澤617番地湧水か確認はできなかった。

平高橋に
次の目的地、「平沢滝の下湧水」に向かう。「平沢滝の下」で検索しても、何もヒットしない。『報告書』にマークされる箇所を見るに、平澤八幡の西、平井川が南に突き出た氾濫原突端を迂回する辺りにあるようだ。
平澤八幡から成り行きで西に向かい、建設中の高瀬橋の南詰に出る。成り行きで進み、平井川に下りれる箇所を探すのだが、結構な崖で下りる道がない。更に西の新開橋まで進んで折り返すか、平澤八幡を下った先に架かる平高橋まで戻るか、ちょっと考え、結局平高橋まで戻りながら、川筋への下り口を探すことにした。下り道がなくても、地図には平高橋南詰から平井川に沿って道が記載されており、なければ平高橋から折り返せがいいか、といった心持である。 戻りの道で、川筋に下る道はないものかと、結構注意しながら歩いたのだ、平高橋まで、川筋に下りる道はなかった。

これは、メモの段階でわかったことではあるのだが、「平沢滝の下」湧水辺りは「オオタカ」の棲息地保護など、環境保護運動が進められているようであり、結構大規模な「高瀬橋」の建設も、環境保護との兼ね合わが検討されているような記事もあった。そんなところは手つかずのままがいいのだろうし、崖上から平井川筋への道が造られていないのは、そういった因に拠るのだろうと妄想する。

平井川右岸を進む
平高橋の南詰から平井川筋に入り西に向かう。いつだったか平井川筋を歩いたことがある。その時のメモを再掲:平井川は日の出山山頂(標高902.3m)直下の不動入りを源流部とし、いくつもの沢からの支流を集めて南東に流下。日の出町落合で葉山草花丘陵の裾に出た後、支流を合わせながら草花丘陵南岸裾に沿って東流し多摩川に合流する。
いつだったか、御岳山から日の出山を経てつるつる温泉へと歩いたことがある。急坂を下りて里に出たところにあったのが、今になって思えば平井川の上流部であった。ぶらぶらと平井川の上流部を五日市に向かって歩いた道筋に肝要の里があった。「かんよう」の里、って面妖(めんよう)な、と思いチェック。「かんにゅう」と読むようだ。御岳権現の入り口があったので「神入」からきた、とか、四方を山で囲まれたところに「貫入」した集落であるという地形から、とかあれこれ(『奥多摩風土記;大館勇吉(有峰書店新社)』)。
将門伝説の残る勝峯山のあたりに岩井という地名もあった。将門の政庁があった茨城の岩井と同じ。故に将門伝説に少々の信憑性が、とはいうものの読みは「がんせい」、とか。有難さも中位、か。

平沢滝の下湧水
平高橋辺りでは開けていた平井川右岸も、高瀬橋に近づくにつれて崖が迫ってくる。また、高瀬橋の下辺りからは崖側道脇に自然の水路が現れ、水路先と崖地の間も湿地となってくる。高瀬橋の下を潜った先に「秋留台地」の地下水の案内。
「秋留台地には二宮神社や八雲神社の池を始めとし、至るところに湧水があり、それを元に古くから水田や集落が発達してきました。ここは国分寺や日野、東村山などと並ぶ、地下水の宝庫なのです。でも、台地なのになぜこんなに地下水が豊かなのか不思議です。この謎を解く鍵がこの崖にあります。
この崖の地層は湧水のあるところを境に、上のゴロゴロした礫の層と、下の硬い礫交じりの粘土層に分かれます。上の礫層は2万年ほど前の氷河時代に堆積したもので、よく水を通します。しかし下の粘土層は100万年ほど前に浅い海に堆積したもので、がっちりと固まっているために、水は通しません。
秋留台地の中央部を占める一番高い段丘面は、礫層が8mほどもあるために、もっぱら畑に使われてきました。しかし、二宮神社の池があるところのように、一段下がった段丘面では、礫層が薄いために地下1mほどのところに、もう地下水が現れます。これが豊かな水の原因になっているのです。
この崖ではかつて地層をよく見ることができました。しかし崖が防災工事によって固められることになったため。私たちは東京都と話し合って、地層の一部が観察できるよう、保存してもらうことにしました。それがこの案内板の横にある地層です。湧水を見て秋留台地の歴史に思いをはせてください。 東京学芸大学教授 小泉武栄」の解説と共に、秋留台地の段丘・段丘崖、地層、湧水などがイラストで説明されていた。

「平沢滝の下」とは言うものの、滝があるわけでもなく、地名が「滝の下」といったエビデンスも見つからず、この地が「平沢滝の下」湧水なのかどうかわからないが、ともあれ、『報告書』にあった地図の位置の辺りではあるし、「秋留原面下 崖地、(水量)大」にも齟齬がないので、ここを「平沢滝の下」の湧水と思い込む。

南小宮橋
次の目的地は、原小宮地区にある草花公園の湧水。平井川の右岸を進み、新開橋、北から平井川に注ぐ氷沢川を見遣り南小宮橋に。橋の手前に石段があり、そこを上って公園に入るのかと思ったのだが、行き止まり。元に戻り橋下を潜るとそのまま草花公園に入って行けた。


草花公園湧水
公園についたものの、手掛かりは?地図を見ると、池があり、そこに水路が続いているので、とりあえずそこからはじめて見る。
池に沿って歩き、池に繋がる水路に。結構な水量である。緩やかに蛇行する水路を進むと、公園内の舗装道路に水路は遮られるが、水路は道路下に続いているようで、コンクリート造り水路壁下部から水が流れ出している。 道路の反対側に向かうと、石造りの水路が顔を出し、公園周辺道路で水路は終わる。水路終端部の石の間から水が流れ出している。ここが草花公園湧水ではあろう。
水路終点の南、公園周辺道路を隔てた先に崖地が見える。草花公園湧水とその崖面とをつなぐ水路などないものかと崖地手前を彷徨うが、それらしき痕跡は見つけられなかった。
草花
既述「郷土あれこれ」に拠ると、「草は草花が咲く地>開墾地。草が生えそして枯れ。それを肥料として土地を肥やしは耕作地としていく。花は鼻>出っ張り=突端部。草花は「開墾地の端」との意味という。地名はすべからず「音」を基本とすべし。文字に惑わされるべからず。


羽村大橋西詰
これで『報告書』に記載された秋留台地の湧水調査地点は一応終了。後は同『報告書』にあった草花丘陵の折立坂の湧水を残すのみ。草花公園を離れ都道165号を東に向かい、氷沢橋交差点で都道250号に乗り換え、軽い峠越え。



道を少し上ると、道脇に案内。「智進小学校跡地と橋場遺跡」とある。簡単にまとめると、「氷沢川を見下すこの地に、現在の多西小学校の前身である智進小学校が明治30年(1897)に建てられた。また、この近辺からは都道の新設や大型店舗の建設に伴う発掘調査により、縄文時代や古墳時代、奈良・平安時代の竪穴式住居跡などが多数発見されており、土地の小字をとって橋場遺跡と呼ばれる」、とあった。
峠にあった大澄山登山口の標識を見遣り、多摩川を見下しながら江里坂を下り、羽村大橋西詰めに。羽村大橋西詰めに薬師堂が立つ。

折立坂湧水
羽村大橋西詰に着いたのはいいのだが、どこが折立坂が見当がつかない。上で都道250号を羽村大橋西詰に下る坂を江里坂とメモしたが、それは後日わかったこと。既述『報告書』に記された箇所を参考に、都道250号と多摩川の間を走る都道29号を画する江里坂下の崖線下を探したりもしたが、湧水らしき箇所は見当たらない。とすれば、湧水箇所は都道29号と多摩川の氾濫原を画する崖線下ではないかと、都道29号から河川敷に下ることにした。
都道を少し南に下ると崖線を斜めに氾濫原に下りていく坂道がある。メモの段階でこの坂が折立坂であるのがわかったのだが、当日は知らず坂を下りる。氾濫原に下りる、とは言うものの、坂と氾濫原の間には縦長に家が立ち並ぶ。崖線に注意しながら坂を下るも、それといった湧出点は見当たらなかった。

坂を下り切り、崖線に沿って羽村大橋西詰めへと向かう。民家も切れた氾濫原の畑地を崖線に沿って進むと、足元がぬかるんできた。水の溜まった自然の水路も崖線の藪下に続く。湧出点は藪の先にあり、そこまで踏み込む気にもならず、これが折立坂の湧水の一部と自分に思い聞かせ、羽村大橋の下辺りから崖上に上る道を見つけ、羽村大橋西詰に戻る。
折立坂
「折立」は「降・落」+「断」>崖が連なるの意味。で、この折立坂は、既に一本榎でメモした通り、鎌倉道の道筋。羽村の川崎から羽村大橋下流付近にあった「川崎の渡し」で多摩川を渡り、この草花の折立(折立八雲神社)から草花丘陵の裾野(慈勝寺)を多摩川に沿って進み、現在の平高橋あたりで平井川を渡り、この平沢の一本榎に出たようである。今は道路が整備されているが、かつては折立の崖地を難儀しながら進んだのであろうか。



羽村大橋を渡る
これで『報告書』にあった秋留台地の調査箇所として記載された湧水はすべて廻り終えた。最寄の駅である青梅線・羽村駅へと羽村大橋を渡る。橋の少し上流には玉川上水の羽村取水堰がある。




玉川上水
橋を渡り都道29号・羽村大橋東詰交差点手前で玉川上水を渡る。相当昔の話になるが、玉川上水を羽村取水堰から四谷大木戸まで7回に分けて歩いたことが懐かしい(玉川上水散歩Ⅰ玉川上水散歩Ⅱ玉川上水散歩Ⅲ玉川上水散歩Ⅳ玉川上水散歩Ⅴ玉川上水散歩Ⅵ玉川上水散歩Ⅶ)





牛坂通り
羽村大橋東詰交差点で都道29号・奥多摩街道を越え、成り行きで青梅線・羽村駅に向かう途中、都道29号バイパス・新奥多摩街道手前の道脇に「牛坂通り」の案内があり、「五ノ神の都史跡「まいまいず井戸」が、江戸時代中期に改修された時、多摩川の石などを運んだ牛車が、この道を通ったといわれています」とあった。牛坂は、都道29号バイパス・新奥多摩街道を越えた先にある。
五ノ神社・まいまいずの井戸
五ノ神社は創建、推古九年、と言うから西暦601年という古き社。羽村駅東口傍にある。『新編武蔵風土記稿』によると、熊野社と呼ばれていた、とか。この辺りの集落内に「熊野社」「第六天社」「神明社」「稲荷社」「子ノ神社」の神社が祀られており、ためにこの辺りの地名を五ノ神と呼ぶ。地域の鎮守さま、ということで五ノ神社、となったのであろう、か。熊野五社権現を祀っていたのが社名の由来、との説もある。
いつだったか、玉川上水散歩の折、「まいまいずの井戸」を訪れたことがある。「まいまいずの井戸」は神社境内にある。すり鉢状の窪地となっており、螺旋状に通路が下る。すり鉢の底に井戸らしきものが見える。すり鉢の直径は16m、深さ4mもある、とか。何故に、井戸を掘るのに、これほどまでの大規模な造作が、とチェックする。井戸が掘られたのは鎌倉の頃。その頃は、井戸掘りの技術も発達しておらず、富士の火山灰からなるローム層、その下に砂礫層といった脆い地層からなる武蔵野台地では、筒状に井戸を掘り下げることが危険であったので、このような工法になった、とか。狭山にある「堀兼の井」を訪ねたことがある。歌枕にも登場する堀兼の「まいまいずの井」よりも、こちらのほうが、しっかり昔の形を残しているようだ。

旧鎌倉街道
牛坂通りを進み、都道29号バイパス・新奥多摩街道に出る。左に折れて、羽村駅からの道への都道29号バイパス・新奥多摩街道交差点に。玉川上水散歩の折り、交差点の多摩川サイドに「鎌倉街道」の案内があったのを思い出し、ちょっと立ち寄り。
「旧鎌倉街道」とあり、「この道は、八百年の昔を語る古道で旧鎌倉街道のひとつと言われています。現座地から北方へ約3キロ、青梅市新町の六道の辻から羽村駅の西を通り、羽村東小学校の校庭を斜めに横切って、遠江坂を下り、多摩川を越え、あきる野市折立をへて滝山方面に向かっています。入間市金子付近では竹付街道ともいわれ、玉川上水羽村堰へ蛇籠用の竹材を運搬した道であることを物語っています(後略)」とあった。
この鎌倉街道のいくつかのポイントを実際に辿った後で説明文を読むと、周辺の風景も浮かび上がり、結構リアリティを感じる。

青梅線・羽村駅
これで3回に渡った秋留台地の湧水散歩もお終い。藍染川と八雲神社からの細川、そして舞知川の繋がりなど、少しはっきりしないところもあるので、そのうちに訪ねてみようと思いながら、一路家路へと。
増渕和夫さんの論文より
秋留台地散歩の2回目。山田、引田、代継、牛沼と秋留台地の南側、秋川に面する段丘を歩いた。とはいうものの、比高差のある崖面のほか、それぞれの段丘面は知らず通り過ぎていた。それはともあれ、今回も前回に引き続き、秋川筋の段丘を辿り、その後で多摩川に面した段丘に廻り込み、段丘崖から湧出する湧水を探し、時間次第ではあるが平井川筋まで歩こうと思う。


ところで、秋留台地の湧水の仕組みであるが、基本は水を通しにくい秋留台地の基盤層・五日市砂礫層(上総層)の上の段丘礫層に溜まり、段丘の崖から湧出するわけだが、角田さんの論文を見ると、秋留台地の下には地下水谷が走り、低水時と豊水時ではその流れに違いがある、と言う。
で、この地下水谷は秋留原面形成より古く、古秋川筋とも言われる。その谷筋は、「伊奈丘陵内を流れる横沢が秋川に合流する付近から始まり,伊奈一武蔵増戸駅を経て西秋留駅(注;現在は秋川駅)の北方を通り,平沢に至っている。地下水谷の深さは武蔵増戸駅で4m 前後,武蔵引田駅付近で4?6m ,西秋留駅(注;現在は秋川駅)付近では3?6mとなっている」、とのこと。


角田清美さんの論文より
更に、「地下水谷の南側には,伊奈から東秋留へのびる地下水の尾根が形成されており、低水時には、地下水の尾根より南側では,地下水は南あるいは南東方向へ流下している。ここには小規模な段丘が数多く分布し,基盤(五日市砂礫層)の上位の段丘礫層の層厚が2 ?4m と比較的薄いため,地表の段丘地形に対応して各所に地下水瀑布線が形成されている。平井川に沿っては,地下水瀑布線は全く見られない。以上のことから,低水時における秋留台地の不圧地下水の涵養は,主として平沢より上流の平井川によって行われていると考えられる」、とする。
一方豊水時には、「低水時の地下水面等高線図とは大きく異なり,台地のほぼ中央を東西にのびる地下水谷は認められない。地下水量は著しく増加し,台地のほぼ中央を伊奈丘陵から東端の二宮まで地下水の尾根がのびており,地下水面は地下水の尾根から北東および南東方向へ傾斜している。台地の西端の伊奈においても,地下水谷の存在は認められず,地下水面は北西から南東方向へ傾斜している。
秋留台地の南側,秋川に面する側の横吹面より下位の段丘においては, 低水時の際と同様, 段丘地形と段丘礫層の厚さに対応して数本の地下水瀑布線が形成されている。地下水面が下位の段丘面より相対的に高いところでは,各所で地下水が湧出している。秋留台地の北側,平井川に面する側においては,段丘崖に沿ってほぼ全面にわたって地下水瀑布線が形成されている」とする。

門外漢であり、いまひとつ理解はできていないのだが、とりあえず、秋留台の地下水流は低水時と豊水時とはその流路が異なり、その因は秋留原面形成以前の古秋川筋とされる地下水谷とその尾根に拠る、ということのようだ。 上記論文には,「低水時における秋留台地の不圧地下水の涵養は,主として平沢より上流の平井川によって行われていると考えられる」、とあるが、これは秋留台の大半を占める地下水位谷の北の秋留原面のことをさすのだろうか。低水時には平井川水系の地下水は地下水谷の尾根を越えられないだろうから、低水時における地下水谷尾根の南を流れる地下水の涵養は、平井川ではなく、伊奈丘陵の横沢あたりからの地下水ということだろうか。

門外漢の妄想はこのくらいにして、今回のルートであるが、雨間から野辺、小川と進み、小川地区から秋川筋を離れ多摩川筋を二宮地区、更には平井川筋の平沢地区へと向かうことにする。



本日のルート;雨間湧水(雨間地区)>小川湧水(小川地区)>小川湧水群(小川地区)>八雲神社境内湧水(野辺地区)>梨の木坂(平沢地区)>広済寺境内(平沢地区)>二宮神社のお池(二宮地区)
あきる野市の報告書より


五日市線・秋川駅
今回は雨間地区にある雨間湧水から始める。最寄りの駅である五日市線・秋川で下車し、南の秋川筋に下る。途中、都道5号・五日市街道の手前に油平地区。既述、あきる野市教育お委員会の「郷土あれこれ」には、その地名の由来を、油をとるための作物(荏胡麻)などを栽培した平坦な畑地から、とする。このン場合の「油」は明かりとりのためのものである。
同ニューズレターには、油菜は江戸時代の中頃に関西で作られ、急速に全国に広まった。また、障子に使う和紙が安価に手に入るようになり、日本の生活が「明るくなった」、と。そうだよな。

雨間湧水:あきる野市雨間698番地
都道5号・五日市街道の油平交差点を東に折れ、目安となる「カメラのキタムラ」に向かう。雨間湧水はカメラのキタムラの手前、五日市街道の南の石垣下から流れだしていた。崖面をしっかりと石垣で補強した底部に管があり、そこから豊かな水が流れ出していた。
管の先はコンクリートで固められた水場となっており、その先も暗渠となって下る。暗渠に沿って少し下ると、東秋留橋に通じる車道の石垣に行く手を遮られる。石垣をよじ登り道の東を見ると茂った草に覆われた水路が続いていた。地図を見ると途切れてはいるが秋川に繋がる水路が見える。 あきる野市作成の『報告書』によれば、雨間湧水は野辺面下にあるとのこと。湧出する崖下は小川面であるが、野辺面になんらか水路跡でもないものかと彷徨うが、これといった水路の痕跡を見つけることはできなかった。
蛙沢
角田さんの論文には「蛙沢は西秋留駅の南東の長者久保にある池に源を発し,途中,段丘崖下の数ケ所からの湧水を集め,約1.3km 流れて秋川に合流する」とある。西秋留駅は現在は秋川駅、また長者久保は秋川駅の西を南北に下る都道411号、秋川駅近くの油平北バス停の東辺り、とのこと。池も五日市街道から北の水路跡も確認していないが、雨間湧出点以下の水路からして、この流れが蛙沢のように思える。
雨間
「郷土あれこれ(あきる野市教育委員会)」に拠れば、この「雨間」は全国唯一の地名とのこと。雨は高いところ(=天;あま、ということだろうか)。間は場所。雨間は「高いところ」の意。秋川近くの蛙沢沿いに雨武生(あめむす)神社がある。雨間は「高いところ」故に、田をつくるのに水に困るためこの社を祀った、と。

八雲神社の手前に水路
県道7号を東へ向かうと、ほどなく県道176号が分岐。睦橋通り(多摩川に架かる)と称されるようになる県道7号を進み、県道の北にある八雲神社の手前の道を北に、野辺地区に入ると道の東に突然水路が現れる。地図を見ると。その一筋東の道にも水路が見える。地図では切り離されていた水路は暗渠で結ばれていた。

藍染川
その時は地図に見える八雲神社の池からの流れかと思っていたのだが、帰宅後チェックすると、角田さんの論文に「藍染川は、東秋留の南西の東秋留小学校の裏にある比高約1.5m の横吹面の段丘崖下に源を発し,約1.8km 流れて多摩川に合流する」とあり、また、「郷土あれこれ(あきる野市教育委員会)」には小川の地名由来の項に「武蔵名所図会:普門寺境内より流れ出づる藍染川が、これを小川といった」といった記事もあった(普門寺は五日市線・東秋留駅の南にある。境内を囲むように四分の一円の弧を描く水路が地図に見えるが、流路の方向は不明)。
散歩で水路を見かけたときは、八雲神社からの流れと思い込み、流れの方向をあまり意識せず、流れの向かう方向を思い出せないのでなんとも言えないのだが、ひょっとすると、この水路は上記説明から、東秋留小学校の崖下、また普門寺からの水を集めた藍染川なのかも知れない。
とはいうものの、八雲神社の周辺には水の涸れた水路が数条通っており、どれが藍染川の流れなのか、はっきりしない。それはともあれ、藍染川は八雲神社の湧水を源流とする「細川」と前田小学校付近で合流し舞知川(もうちかわ)となって秋川に注ぐ。
野辺
「郷土あれこれ(あきる野市教育委員会)」に拠れば、由来は文字どおり、「野の辺り」。野は原(平で畑となるところ)と異なりやや起伏があり山が交るところ。山は平でも木が生えているところは山と呼ぶとのことである。

八雲神社境内の湧水;あきる野市野辺316番地
八雲神社境内に入ると大きな池があり、澄み切った水が豊かな湧出を想わせる。境内は平坦地となっており、『報告書』に「野辺面下・平地」とあるように、崖地から湧出しているわけでもない。野辺面下はこの辺りでは小川面である。が、段丘図を見ると、この辺りは野辺面からそう遠く離れた場所でもない。第一回の散歩のメモでの野辺面の説明にあったように、「東秋留駅の東から南にのびる段丘崖は比高1.5m?2mを示すが,段丘崖の各所から地下水が湧出している」とあるので、比高差があまりなくわかりにくいが、野辺面段丘崖からの湧出水のひとつとも妄想する。
崖線からの湧出であれば、池を囲む石組みの間から湧き出る箇所はないものかと湧出箇所を探すも、見つけることはできなかった。池の中央部分が一段深くなっており、そこから湧出するといった記事も見かけたが、それらしき湧出は確認できなかった。ただ、池から流れ出す水路の水は豊富であり、湧出量が大きいことは想像できる。
池から流れ出す水路は境内で左右に分かれていた。上で藍染川の事をメモしたが、それは帰宅後にわかったこと。散歩の折は、右に流れる水路が、八雲神社手前で見つけた水路であり、左に折れる水路が「細川」と称され前田小学校付近で合流し舞知川となるようである。

なお、社殿裏手には水が流れていない水路が通っている。境内には繋がっていないようだが、なんだろう?藍染川と八雲神社の湧水、八雲神社近くの水流の方向、同じく普門寺脇の水路の方向、こういったあれこれがさっぱり整理できない。近いうちにこれらの水路を全部追っかけてみる必要があるかと思う。
八雲神社
社の入口にあった案内によると
「長禄年中(一四五七-六〇)の創立であって、京都(祇園)牛頭天王を勧請し、野辺新開院が別当として、毎年六月十五日を祭日としていた。明治維新の大改革で神仏併合が禁じられ八雲神社と改称、明治六年十二月村社に列格、以後、例祭日を七月二十五日とする」
八雲神社の五輪塔(群)
湧水池から流れ出す水路脇に八雲神社の五輪塔(群)の案内; 「あきる野市指定有形文化財(建造物) 五輪塔一基のほか、五輪塔の一部である火輪一点、水輪二点が残されています。全て市内から産出される伊奈石で作られ、最下部ぼ地輪には正面中央に種子(仏や菩薩をあらわした梵字)、左に 「応永七年十月九日」(応永七年=1400年)、右に 「浄林禅門」(供養者名)の文字が刻まれています。
この配置は室町時代の伊奈石製の五輪塔に多い形式ですが、本資料はその古い例です。形態はこの時代の様式をよく示していて、室町時代最初頭における伊奈石製五輪塔の基準的な資料として貴重です あきる野市教育委員会」

細川
境内を出ると八雲神社湧水池から流れ出した「細川」が南に下る。ただ、境内を出た箇所から東に進む水路が見える。前述の前田小学校へと向かっている。これが藍染川の流れなのだろうか。前田小学校のあたりで舞知川となって秋川に下るようだ。但し、何回も述べたように、藍染川・細川・舞知川の繋がりは全くの未確認。





後日談
上記メモの如く、藍染川と八雲川、さらには普門寺川からの流れと藍染川の繋がりなど、気にな
ったことを整理に後日再訪。わかったことを整理すると;

藍染川が細川と合わさり南に下る
上記、八雲神社手前で現れた水路は、東秋留小学校の崖下辺りからはじまる藍染川のようだ。その水路は上記メモの如く、一筋東の通りで暗渠となるも直ぐに開渠となって八雲神社の南端を東に進み、八雲神社湧水から流れ出た「細川」と合わさり、五日市街道に向かって南に下る。


また、八雲神社手前で現れた水路・藍染川が暗渠となって南に弧を描く箇所から一直線に東に向かう水路は、八雲神社湧水からの水が左右に分かれる箇所に繋がっている。

細川・藍染川分流が東に分流する箇所
舞知川
ここで八雲神社湧水からの水路と合わさり「細川」となった水路は境内を出ると南に下り、前述の藍染川の水路と合わさり南に下るが、その少し手前で東に向かう分水点があり、その水路は前田小学校へと向かい、舞知川となって進む。

普門寺裏水路
細川・藍染川分流と合わさり舞知川に
で、普門寺からの水路と藍染川、細川、舞知川との関係だが、普門寺裏の水路(開渠)は五日市線・東秋留駅の東にある都道168号を越え、暗渠となって南に下り、前田小学校の辺りで八雲神社の境内を出た後、東へと進んだ水路と合わさり、舞知川となって進んでいた。

既述メモでの疑問点を整理すると
●「普門寺は五日市線・東秋留駅の南にある。境内を囲むように四分の一円の弧を描く水路が地図に見えるが、流路の方向は不明」

流路は西から東に。普門寺裏の水路は、水が枯れており流れは見えないが、東側が一段水路底が高くなっており、西から東へ向かうものと思い、都道168号の先の道を進むと上でメモの如く舞知川とつながった。 

●「散歩で水路を見かけたときは、八雲神社からの流れと思い込み、流れの方向をあまり意識せず、流れの向かう方向を思い出せないのでなんとも言えないのだが、ひょっとすると、この水路は
上記説明から、東秋留小学校の崖下、また普門寺からの水を集めた藍染川なのかも知れない」

方向は東から西。「東秋留小学校の崖下」からかどうかは、トレースしていないが「多分そうだろう」。
また「普門寺からの水を集めた藍染川なのかも知れない」は誤り。上上述の如く普門寺からの水路は東から南に進み前田小学校のあたりで藍染川から、というか「細川」+「藍染川の分流」の水路と合わさる。

●山田神社の「社殿裏手には水が流れていない水路が通っている。境内には繋がっていないようだが、なんだろう?」

社殿裏手の水路らしきものは、単なる叢。藍染川からの分水は境内南端を進み、湧水池からの水路とT字に合流し細川となって境内を出る。

◆普門寺からの水路脇に湧水池が
普門寺裏の水路が都道168号に阻まれるのだが、その東に如何にも水路跡らしきノイズを感じる道があり、そこを辿ったおかげで、普門寺からの水路と細川・藍染川・舞知川がつながったのだが、その暗渠となった道を進んでいると、暗渠下から強い水流の音がする。 普門寺裏ではほとんど水がなかったのに?道の東側に如何にも湧水池といった窪地が見える。
その先、塀の中を覗くと、これは巨大な湧水池が見える。また、その先にも湧水池が。 ということで、疑問整理の散歩で、思いがけず3箇所の湧水池がみつかった。小川湧水群ではないけれど、東秋留湧水群とでも勝手に名前をつけておこうか。  






屋敷林
道なりに進み都道7号・睦橋通りに。屋敷林と言うか、巨大な樹木を敷地内に持つ民家を見遣りながら小川地区に入り小川交差点に。交差点北西の角に熊野神社が建つ。


小川
小川の名は奈良時代の記録に残る。延長5年(927)制定の『延喜式』には勅使牧(天皇家直属の馬牧)としてこの地の小川牧が記録される。小川牧からの貢馬数は10疋。牧で飼育される馬の数は貢馬の二十倍とされる。ということは小川牧の馬の総数は200疋。牧の管理は牧長と記録係の牧帳、それと馬100疋につき二人の牧子であるから、200疋では四人の牧子の総勢6名の運営体制ということであろうか(Wikipediaを参照)。
で、小川の地名の由来は、藍染川のことろでメモしたが、「郷土あれこれ(あきる野市教育委員会)」の小川の地名由来の項に「武蔵名所図会:普門寺境内より流れ出づる藍染川が、これを小川といった」とあるので、「小川」の流れるところ、と言ったところだろう。

小川交差点湧水;あきる野市小川820番地
『報告書』に湧水点は交差点南西とある。都道166号を南に少し進むと宝清寺へと東に入る道があり、その角(宝清寺と刻まれた大きな石標の裏)にポッカリ穴のあいたような、水車跡の残る石組みの水路がある。錆びた水車の横の石垣から管が出ており、当日水は出ていなかったが、そこが湧出点であろうか。 『報告書』には小川面下とある。段丘図を見ると、この辺りの小川面下は氾濫原とあった。



宝清寺
参道を進み宝清寺にちょっと立ち寄り。本堂にお参り。境内に小祠があり、「たわしでこすって祈願成就」のコピーとともに「浄行菩薩縁起」の案内がある。簡単にまとめると、浄行菩薩とは妙法蓮華経に登場し衆生を救う菩薩のこと。お地蔵様の中でも最上位の菩薩で、お地蔵様を自分に見立て、患部をたわしでこすると御利益がある、とのこと。絵馬に願いを書きたわしでこするようだが、今回は「撫で仏」で御利益をお願いした。
御利益はともあれ、境内の南端から東秋川橋の向こうに見える加住丘陵の北端、 秋川に突き出た箇所にある高月城を辿った記憶が蘇る。

◆宝清寺の歴史
お寺さまのHPに拠れば、「宝清寺(ほうせいじ)は、西多摩では唯一の日蓮宗身延山久遠寺の末寺で、開山は法清院日億上人、開基は青木勘左衛門(武田勝頼の縁者)
甲州武田勝頼公滅亡後、その青木勘左衛門は、八王子城落城後、関東に入国した徳川家康に見出されてこのあきる野市小川の地を賜った。勘左衛門は、戦国時代に滅んだ武士達の霊を弔うために出家し、元和年間(1615~1624)故郷甲斐国雨利郷(甘里)にあった東照山教林寺をこの地に移し東照山法清寺と号し創立した。
最初は、東照山と号していたが、宝永年間(1704~1711)九世圓妙院日亮上人の代に、東照山とは徳川家に対して畏れ多い山号だとして、領主水谷信濃守より身延山に申し出て、寺禄等を寄進して祈願処としたことにより水谷山宝清寺と改められたといわれる」とあった。

小川湧水群;あきる野市小川837番地辺り
小川交差点に戻り、睦橋通りを東に進む。地図を見ると、あきる野市小川郵便局を過ぎた辺り、通りの北側に池が五カ所記載される。そこが湧水池ではと推測し道を進むと、民家の敷地に池があり、池から水が流れ出している。その横の家の敷地には結構大きな池がある。また、その隣の民家敷地にも、小振りながら如何にも湧水池といった趣の池が続く。ここが小川湧水群ではないだろうか。
『報告書』には、「小川面下・傾斜地」とある。角田さんの段丘図ではこの辺りの小川下は南郷面とされる。







法林寺
小川湧水群からの水はどちらに向かうのだろうと、睦橋通りの南を彷徨う。何ら痕跡は見当たらなかったが、法林寺というお寺さまがあったので、ちょっと立ち寄り。本堂脇に石造りの水場があり、少量だが竹筒から水が流れ落ちる。また、水場の対面に手押しのポンプがあり、ポンプを押すと結構な勢いで水が流れ出す。

寺伝によれば、開山の僧が二宮神社の龍に功徳を施し、そのお礼に絶えざる水が湧出するようになった、とのことだが、近くの小川湧水群を見るにつけ、小川の崖線からの湧水なのでは、とも妄想する。
境内の南端、河岸段丘の崖線上から、下の氾濫原、そして秋川、その川向うの高月城を北端とする加住丘陵の眺めを楽しみながら、少し休憩。このロケーションに身を置くにつけ、この臨済宗南禅寺派のお寺様は、かつては戦乱期の武将の館跡との説明も納得できる。秋川を自然の要害とし、対岸の高月城、その南に控える滝山城と一体となった大石氏、またその女婿である北条氏照との関連を示唆する記事もあった。確たる文書はないようだが、土塁跡は残るようである。

舞知(もうち)川
次の目的地は梨の木坂の湧水。秋川筋を離れ、北の平井川筋へと向かうことになる。法林寺から小川交差点まで戻り、小川熊野神社にお参りし都道166号を北に進む。
小川地区と二宮地区の境に舞知川が流れる。東秋留の南西の東秋留小学校の裏・横吹面の段丘崖下から、またまた、普門寺境内よりの湧水を集めた藍染川と八雲神社の湧水から流れ出す「細川」が前田小学校辺りで合流し舞知川となって秋川に下る、とのことである。

平沢
二宮地区を進み、二宮本宿交差点で都道166号から多摩川方面に向かう都道7号に乗り換える。多摩川の対岸に福生方面を見遣りながら弧を描く坂を下ると平沢交差点。平沢東と平沢地区の境となっている。「地名あれこれ(あきる野市教育委員会)」には平沢の由来を「平井川沿いの浅い平らな谷地のこと」とする。

梨の木坂湧水;あきる野市平沢859‐1辺り
●東京都水道局平沢増圧ポンプ場の裏手の崖面から湧出
平沢交差点で都道7号を離れ、一筋東の坂を上る。東京都水道局平沢増圧ポンプ場の裏手に崖がある。その崖からパイプが出ており、そこから水が落ち、ポリタンクに溜まった後、下の水路に落ちていた。『報告書』には「小川面下・崖地」とある。段丘図で見ると、小川面下は氾濫原となっている。

民家脇から湧水
東京都水道局平沢増圧ポンプ場裏の崖面に向かう坂道の途中に西に向かう道がある。次の目的地の広済寺への道筋であるが、その曲がり角の民家脇に、鯉が泳ぐ細長い水路が見える。水路の先には管があり豊かな水が流れ落ちている。 これって湧水?ためつすがめつ水路を眺めていると、その家の御主人が現れ、かつてこの辺りに湧水池があったのだが、それが埋め立てられるとき、管を引いて水を流すようにしたと話して頂いた。道の下に水路跡が続くが、昔は下は一面の田圃で、その灌漑に使われていたとのことであった。
ざくざく婆の湧水跡
梨の木坂湧水のメモをしている時、梨の木坂に「ざくざく婆」の湧水跡があることを知った。Google Street Viewで梨の木坂をチェックすると、増圧ポンプ場裏の崖線の道を隔てた石垣下に湧水らしきものが見える。そこが「ざくざく婆」の湧水跡だろう。
ざくざく婆の由来はお婆さんが小豆を洗う「ざくざく」という音が聞こえていたから、と。
因みに梨の木沢は「ところてん坂」とも呼ばれるようだ。由来は二宮での芝居見物に向かう人に、この湧水を使ったおいしい「ところてん」が評判になった、故と。

湧水湿地
坂道を広済寺に向かって上って行くと、道の北側に如何にも湧水湿地といった場所がある。湿地の中に入っていくと、一面から「浸みだす」湧水を見ることができた。今回の湧水散歩ではじめての、自然な湧水湿地であった。滾々と湧き出す湧水もいいのだが、こういった「じわり」系の湧水湿地も結構、いい。勝手ながら、このままの状態で保存されることを望む。

広済寺境内湧水;あきる野市平沢732番地
湧水湿地の先に広済寺。明るく品のいいお寺さまである。境内に石組みで窪みとなった水路がある。そこが広済寺境内湧水ではあろう。水路上の竹筒から水鉢に豊かな水が落ちていた。
『報告書』には「小川面下・傾斜地」とある。小川面と氾濫原の境の崖というほどではないが、傾斜地から湧出しているのだろう。

田中丘隅回向墓
次の目的地へとお寺様を出ようとすると、「田中丘隅回向墓」と書いた矢印がある。田中丘隅は大丸用水散歩や二ヶ領用水散歩で出合った民政家である。矢印に従い先に進むと石碑が建つ。脇にあった案内には「田中丘隅回向墓 東京都指定有形文化財(歴史資料)平成10年3月13日指定
田中丘隅(休愚)は江戸時代を代表する民政家の一人で、自らの経験をもとに近世を通じて最もすぐれた経世の書といわれる 「民間省要」 を著述している。 その著書は八代将軍吉宗に献上され、享保改革に少なからぬ影響を与えたといわれている。
丘隅は、自著が将軍吉宗の上覧に達したことを契機に、江戸幕府の地方役人に抜擢され、荒川・多摩川・酒匂川の治水エ事、さらに大丸用水、六郷用水・ニヶ領用水の普請工事などに手腕を振るい、そして、のちには代官(支配勘定格)に任ぜられ、武蔵国などの幕領支配にもあたっていた。
彼は旧多摩郡平沢村(現・あきる野市平沢)出身で、享保14年(1729)12月22日に死去しているが、回向墓は彼の死後間もない時期に、兄の祖道が願主となり一族縁者の助成によって建立されたものと考えられる。
建立時やその後の状況についてはまったく不明である。材質は伊奈石。台座は白河石。回向墓の高さは台座を含め約166・7センチメートル。 彼の生家の菩提寺である広済寺境内に建つ回向墓は、丘隅の事績を簡潔にまとめた銘文が刻まれており、民政家田中丘隅の活躍を偲ぶことができる貴重な歴史資料である」とあった。

広済寺
お寺様のHPに拠れば、
「臨済宗建長寺派 本尊釈迦牟尼如来 開山椿山仙禅師 開基平澤院来山正本大居士
開創安土桃山時代天正15年(1587)
廣済寺を建立された開基は、平沢村名主八郎左衛門の先祖とされています。 創建当時の境内には三間四方の阿弥陀堂がありました。
文政3年(1820)の大火で山門を残しすべて焼失したものの、天保7年(1836)すぐに再建されました。
昭和24年(1949)羅災により再び本堂、庫裏を焼失。その後、平成6年(1994)檀信徒が力を合わせ旧姿に復しました。以来、この地域の信心・信仰の道場として今日に至っております」とあった。

玉泉寺
広済寺を離れ、本日最後の目的地である二宮神社の湧水に向かう。都道168号と都道7号がT字に合わさる二宮神社交差点に向け成り行きで歩いていると、これまた品のいいお寺様があった。天台宗・玉泉寺とある。ちょっと立ち寄り。仁王様が佇む赤い仁王門を潜り境内に入り、落ち着いた雰囲気の本堂にお参り。境内には醤油樽の中に安置された恵比寿さま、観音さまなどがあった。地元の早川醤油の樽を使ったもののよう。
そういえば、仁王さんも常のごとくの剣の替りに、赤子を抱き鳩が頭上にといったもの。酒樽にしろ仁王様にしろ、家光から寺領20石の御朱印状を賜り、信州善光寺の別院として秋川流域の浄土信仰の中心であったという伝統だけに囚われない洒脱さが心地よい。
本堂には明治の頃、成田山より遷座された不動明王が安置され、ために当寺は秋川不動尊とも称されるようである。



二宮神社のお池; 東京都あきる野市二宮2252
二宮神社交差点から都道168号を南に下るとほどなく道の東側に大きな池がある。この地には一度訪れたことがある。その時は湧水が目的ではなく、武蔵六宮のひとつ、道の西側にある二宮神社が目的であったのだが、大きく清冽な湧水池に結構嬉しくなった。
湧水池は誠に大きい。水は枯れることがないと言う。池の底から湧出しているとのことだが、大きな池からなんとなく「不自然」に、細長く都道方向に延びる箇所がある。また、都道から池に水路が続き、都道脇の石組みの中に造られた管からも水が流れ出しているように見える。
『報告書』には「秋留原面下・崖地」とある。道の西側、二宮神社は崖上に鎮座する。秋留原面と小川面を画する二宮神社の崖地の「何処から」か湧出しているのではあろうが、湧出点ははっきりとは確認できなかった。
湧水池は日本武尊(やまとたけるのみこと)が国常立尊(くにたちのみこと)を祀ったところ水が湧き出た、と伝わる。国常立尊は水の神さまである。公園となっている湧水池からは水路となって水が東に流れている。特に水路に名はないようだ。

二宮神
神社の案内;創立年代不詳。小川大明神とか二宮大明神と呼ばれていた。小川大明神の由来は、古来この地が小川郷と呼ばれていたため。二宮大明神の由来は、武蔵総社六所宮の第二神座であった、ため。二宮神社となったのは明治になって、から。
この神社には、藤原秀郷にまつわる由来がある。秀郷は天慶の乱に際し、戦勝祈願のためこの神社におまいりした、と。故郷にある山王二十一社のうち二宮を尊崇していたため、である。天慶の乱とは平将門の乱のこと。
またこの神社は、源頼朝、北条氏政といった武将からも篤い信仰を寄せられていた。滝山城主となった北条氏照も、ここを祈願所としている。
武蔵一の宮である小野神社の周囲には小野牧があった。この二宮のある小川郷にも小川牧がある。因果関係は定かではないが、馬の飼育・管理と中央政府の結びつきってなんらかインパクトのある関係だったのではなかろうか。実際小野牧に栄転した小野氏も、それ以前は秩父での牧の経営で実績をあげての異動であったように思える。
藤原秀郷と二宮のかかわりは、母が近江の山王権現に祈願して授かった子、であったため。山王二十一社とは、 上七社・中七社・下七社の総称。そのなかでも特に重要な位置を占める上七社は大宮・二宮・聖真子・八王子・客人・十禅師・三宮である。秀郷は二宮にお願いして生まれたのであろう、か。
武蔵六社
武蔵六宮とは一宮・小野神社、二宮は小川・小河神社(現二宮神社、東京都あきる野市)、三宮は氷川神社(のち一宮。さいたま市)、四宮は秩父神社(埼玉県秩父市)、五宮は金鑽神社(埼玉県神川町)、六宮は杉山神社(横浜市)である。
大石氏
二宮神社の地は大石氏の館があったところ、と。『武蔵野 古寺と古城と泉;桜井正信(有峰書店)』によれば、貞和年間(1345年)鎌倉幕府の命により、木曽義仲の七代の孫・大石信重が築いた、とか。信濃国佐久郡、大石郷から移ってきた、とも。正平11年(1356年)には入間・多摩郡のうち、13郷を領している。
大石氏はこの二宮神社の南に館を構えた。正平11年(1356年)から至徳元年(1384年)の間の28年間である。その後、陣場山麓上恩方案下に山城を築く。甲斐の武田信玄に対して西の備えとしたわけだ。この恩方城に至徳元年(1384年)から長禄2年(1458年)までの74年間居を構え、鎌倉公方持氏の滅亡、足利成氏と長尾影春の戦いなど、戦乱の巷を乗り切った。
二宮考古館
二宮神社にお参りし、その傍にある「二宮考古館」に久しぶりに立ち寄る。二宮神社周辺の遺跡や、市内で発掘された土器、石器などが展示されている。先回訪れた時に考古館で購入した『五日市町の古道と地名』は、その後の秋川筋の散歩で誠に役にたった。先人の研究に深謝。

これで秋留台地段丘の湧水散歩も平井川筋を残すのみ。お楽しみは次回に廻し五日市線・東秋留駅に向かい、一路家路へと。
先日、石工の里・伊奈を辿り秋留台地を歩いたとき、秋留台地が8面9段からなる段丘によって形成されることを知った。段丘であれば各段丘面を画する段丘崖があるだろうし、その崖下には湧水があるのでは?
帰宅後チェックすると湧水点が記載された資料が見つかった。「Ⅲ あきるの市の地質・地形」とタイトルにあるそのpdf資料は、URLに「city.akiruno.tokyo」とある。あきる野市の調査報告書(以下『報告書』)の一部かと思う。 その『報告書』の「湧水と段丘」に記載されている「秋留台地の湧水」に拠ると;
「◇秋留台地の概要 
西端の伊奈丘陵南麓から東端の二宮神社まで、東西約 7.5km、南北約 2.5km である。 西端標高 186m、東端標高 138m、勾配 6.4/1,000 である

秋留台地の地質構成
表土 約30cmの火山性黒土や氾濫性土壌
立川ローム層 0.5~2m 約3万年前からの富士山起源の火山灰
段丘礫層  約8m 関東山地からの堆積層
上総層(大荷田層・加住層) 60~150cm 100~300万年前の河成~海成層

秋留台地の段丘構成 
 段丘は 8 段 9 面あり、上位から
1.秋留原面 2.新井面 3.横吹面 4.野辺面 5.小川面 6.寺坂面 7.牛沼面 8.南郷面 9.屋城面 と区分されている
湧水のしくみ
秋留台地には年間約 1,500mm の降水量があり、そのうち約半分は地下に浸透する。浸透した水は、水を通しやすい表土、関東ローム層、段丘礫層を通過し、五日市砂礫層(上総層)に達する。上総層は礫層の間に砂屑やシルト層を多く含んでいるため、水を通しにくい地層である。このために透過してきた水は上総層の上に溜まり、台地の6.4/1,000の傾斜に沿って流れ下り、段丘の崖から流れだしてくる。
秋留台地の湧水の源は、台地西側の山地であり、ここから流れでた水は地下水として東に流れ、平沢地区、二宮地区、野辺地区、小川地区などで湧出している。

「あきる野市の報告書」より
秋留台地の一層目の帯水層は秋川や平井川で運ばれた砂利層であり、その下にある上総層は、その間に詰まった粘土が不帯水層をつくり、その上に帯水する。何層にもなった帯水層の最上部の層の地下水が湧水となって地表に流れ出すと考えられている」との概説の後、以下18の湧水点がその所在地区・標高・段丘面・流量などともに記載されていた(調査日時省略)。



また、同報告書には記載のなかった各段丘に関する説明、その概要図は「秋留台地の地形と不圧地下水;角田清美」や「多摩川の洪水と環境変動:増淵和夫」といった論文がWebで見つかったので、素人ながらそれを参考に湧水散歩のメモをはじめることにする。


今回のルート;山田八幡神社裏(山田地区)>瑞雲寺(山田地区>秋川フィッシングセンター(山田地区)>引田橋>真照寺(引田地区)>真城寺(上代継地区)>白滝神社境内(上代継地区)>秋川神明社から50m東の崖下(牛沼地区)>石器時代住居跡群崖下(牛沼地区)


五日市線・武蔵増戸(ますこ)駅
湧水散歩は、上述『報告書』にあった番号の1番から順に18番まで辿ることにして、最初は山田地区の山田八幡神社に向かう。最寄駅は五日市線増戸駅。 増戸は地名にはない。チェックすると、いつだったかあきる野市の二宮考古館で買い求めた『五日市の古道と地名;並木米一』には、「この辺りの網代、山田、伊奈、横沢、館谷、三内という六つの地域は中世から近世、明治まで独立村として続いたのだが、明治22年(1889)の町村制施行時に館谷を除いた五ヶ村が合併し、将来の戸数増加を願い「増戸村」となる。昭和30年(1955)の改革で五日市町と合併し、「増戸」の地名は消滅した」とあった。駅名はその名残だろう。


都道185号を南に秋川方面へ
武蔵増戸駅を下り、直ぐ西を南北に通る都道186号を南に下る。この道筋はかつての「鎌倉街道山ノ道」。高尾から4回にわけて(鎌倉街道山ノ道そのⅠ:高尾から秋川筋に、鎌倉街道山ノ道そのⅡ:秋川筋から青梅筋に鎌倉街道山ノ道そのⅢ:青梅筋から名栗筋に、鎌倉街道山ノ道そのⅣ:妻坂峠を越えて秩父路に)秩父まで歩いたことを思いだす。

山田八幡神社;あきる野市山田477番地
南北を走る都道185号・通称「山田通り」は、東西を走る都道7号、かつて伊奈の石工たちが江戸の町普請に往来しした伊奈道と交差。その「山田交差点」から先も「山田通り」と称されるが、道は都道61号となって秋川を山田大橋で渡り、加住丘陵を網代トンネルで抜ける。
山田八幡神社は都道61号・山田通りを少し南に進み、山田大橋が秋川を跨ぐ左岸段丘崖下にある。山田大橋手前から左に入る脇道を下り、巨大な橋の桁下を潜ると正面に瑞雲寺、その左手に山田八幡神社の鳥居が見える。

山田八幡湧水
鳥居手前には如何にも湧水湿地といった趣の水草が繁る。水の流れはないのだが、その水路に沿って境内に入る。社の左手に水汲み場があり、そこにパイプがあるのだが水は流れていない。とりあえずそのパイプに崖地の湧水を集めてはいるのだろうと社裏手の崖地を探すが、これといって崖地からの湧出箇所は見当たらなかった。上述『報告書』には水量は「小」とあった、とはいうものの、最初のポイントで湧水点が見つからないのは、ちょっと残念。
山田八幡神社
鎮座地 東京都あきる野市山田477番地
御祭神 応神天皇
御由緒 文和年間(1352‐)足利尊氏公家人景山大炊介貞兼の建立で瑞雲寺が奉任していた。明治2年神仏分離令により神職の奉任となる。
明治6年社殿再建 昭和60年社殿再建





瑞雲寺;あきる野市山田496番地
山田八幡の湧出箇所を探し、崖面を彷徨っていると、神社左手の瑞雲寺の裏手崖下に池が見える。ひょっとして、この池は湧水からの池では?と崖地をお寺さま側に移る。
瑞雲寺湧水
と、池の脇に竹筒があり、それを辿ると崖地に大きな管が埋め込まれていた。山田神社と同じく水は流れていなかったのだが、この管が崖地からの湧出箇所ではないだろうか。





瑞雲寺 
所在地:あきる野市山田496番地
境内にあった案内
「足利尊氏坐像 あきる野市指定有形文化財(彫刻)
臨済宗建長寺派に属する瑞雲寺は、南北朝時代に開かれたと考えられています。開基(創立者)は尊氏の子である基氏の母(あるいは伯母)という寺伝がありますが、この像はこの伝承と符合しています。また、南朝、北朝にわかれての全国的な戦乱の時代に、当地方は北朝系地侍の地盤であったことを示しています。
制作年代は江戸時代と考えられ、尊氏像はあまり類例を見ないことから希少価値があります。なお、昭和40年代に修復が行なわれ、彩色が施されています」
瑞雲寺板碑 あきる野市指定有形文化財(歴史資料)
「板碑は、鎌倉時代から室町時代にかけて、追善や供養などの目的で作られた石製塔婆の一種です。この板碑は蓮華台の上に、草書体で「南無阿弥陀仏」と「阿弥陀仏」の称号(明号)が大きく彫られ、その下方中央に「門阿」(供養者名)、右に「建武二年乙亥(一三三五)、左に「七月廿一日」の文字が刻まれています。
秩父産の緑泥片岩が使用され、市内では大型に属し、保存状態も良好です。 (全長122センチ、幅32.6センチ、厚さ2.8センチ)」

多摩川流域の臨済宗建長寺派
鎌倉時代、宋から栄西によってもたらされた禅宗の一派。蘭渓道隆など中国から来朝した名僧によって鎌倉・室町期に公家・武家の庇護を受け隆盛。
建長5年(1253)、鎌倉幕府5代執権北条時頼が鎌倉に蘭渓道隆を招き建長寺を建立するに及び臨済宗は発展。中でも建長寺は鎌倉五山第一として幕府の庇護を受けると、その末寺は鎌倉末期から相模・武蔵を中心に関東に広がり、南北朝以降は関東臨済宗の中心となる。
特に多摩川流域に顕著。戸倉の光厳寺(建武元年1334)、芝崎村の普済寺(文和4年;1355)、小和田村の広徳寺(応安6年;1373)が創建され、その末が多摩に広がる。


その他、鎌倉五山第三の寿福寺を拠点とする寿福寺派(明治以降建長寺派に)の普門寺(あきるの市)も南北朝期に再興され末を広げる。
更に南禅寺派の広園寺(八王子)松の法林寺も康応元年頃(1389)発展

山田の地名の由来
「山」は所謂高く聳える「山」を指すだけではない。平坦地であってもそこき木々が生えているところを「山」と称することも多い。「山田」の由来は平坦地に木々が茂る辺りに開いた水田地帯、といった説もある。
また、『新編武蔵風土記稿』には、「山田村ハ其地名ノ起リヲ尋ルニ村内瑞雲寺ノ開基瑞雲尼ハシメ勢州山田慶光院ニ住シテソレヨリ當所ニ移住アリシユヘカノ勢州ノ地名ヲコヽニウツシテ山田ト號スト云」といった説もあるようだ。勢州とは伊勢のこと。

山田八幡と瑞雲寺の湧水と段丘
上述したあきる野市の『報告書』には山田八幡神社の湧水は「牛沼面下」の「崖地」にあると記される。瑞雲寺も状況からみて同じと考えてもいいかと思う。で、「牛沼面下の崖地」ということは、「秋留台地の地形と不圧地下水;角田清美」や「多摩川の洪水と環境変動:増淵和夫」の論文にあった秋留台地の段丘図を見るに、牛沼面の下は、秋川の「氾濫原」となっている。
ということは、山田神社や寺瑞雲寺は崖面直下ではあるものの、氾濫原に建てたということ?秋川の川床の標高は144mといったところだから、比高差は5,6m。護岸工事もない室町期、洪水の心配はなかったのだろうか?、何故に氾濫原に寺社を建てたのか結構気になる。

奇妙な分布を示す新井面と横吹面
増渕和夫さんの論文より
で、山田八幡や瑞雲寺の位置する段丘面を確認するため「秋留台地の地形と不圧地下水;角田清美」や「多摩川の洪水と環境変動:増淵和夫」の論文にあった秋留台地の段丘図を凝視していると、気になることが現れた。
五日市線・武蔵増戸駅から山田八幡・瑞雲寺に下るまでに、知らず秋留台を形成する最上位面の秋留原面、新井面、横吹面、小川面、寺坂面を歩いて来たようである。
それはそれでいいのだが、各段丘面を見ていると、新井面、横吹面、野辺面、特に新井面、横吹面が通常河岸段丘で見られるように連続した階段状にならず、新井面は武蔵増戸駅の南東側および西秋留駅の東側に狭い面積で分布し、また横吹面も武蔵増戸駅の南西側や東秋留駅の南西側などに分布しているだけである。そして、「切り離された」新井面や横吹面の間には秋留原面が「割り込んでいる」ように見える。
平井川水系の氾濫による秋留原面のオーバーフローがその要因?
これってどういうことだろう?と、好奇心にまかせあれこれチェックすると、上述「多摩川の洪水と環境変動:増淵和夫」の論文に、「横吹・野辺面形成期(約12000から10000年前)に平井川系の水流が秋留原面にオーバーフロー」し、「秋留原面上に分布する浅い谷や凹地はその氾濫流路跡」とあった。
「オーバーフロー」ってどういうことは詳しいことは分からないが、素人なりの妄想によれば、上位面の秋留原面の地層が氾濫流によって下位の段丘面を埋めてしまった、ということだろうか。段丘図にある東本宿から五日市線・武蔵引田、秋川駅を経て蛙沢へ南東に延びる氾濫流路跡の窪地と下位段丘面に「割り込む」秋留原面のラインが見事に一致している。また、野辺面の下位段丘である小川面が、通常の段丘に見られる階段状の段丘の姿を残しているのも、オーバーフローの時期が横吹・野辺面形成期であり、小川面の形成以前のことからして、素人なりに納得できる。

秋留台の段丘
以下、「秋留台地の地形と不圧地下水;角田清美」をもとに秋留台の段丘の概要をまとめておく;

秋留原面
秋留原面は秋留台地の主要部を占め,標高は西端の伊奈丘陵の南麓で約186m,東端の東秋留駅近くで138m。基盤は五日市砂礫層。その上に立川礫層=段丘礫層、そして最上段にローム層が堆積する。
段丘中央部は基盤まで地表から20mを越える箇所もあるが、段丘周辺部では基盤の位置は相的に高く、段丘東端部では地表から2mほどのところもある。

新井面
新井面は秋留原面より4?6m 低く, 武蔵増戸駅の南東側および西秋留駅の東側に,狭い面積で分布している。段丘礫層は2,3mほどと推定される。

横吹面
横吹面は武蔵増戸駅の南西側や東秋留駅の南西側などに分布し, 平面形は釛錘形をしている。新井面との比高は2-4m。東秋留駅の南西部においては,比高約1.5m の段丘崖下において大雨後には湧水が見られ,藍染川の水源地となっている。このことから段丘礫層の層厚は2?3m 程度で,その下位には秋留台地の基盤となっている上総層群(五目市砂礫層)があると考えられる。

野辺面
野辺面は伊奈から引田にかけて, 西秋留駅前付近および東秋留駅前付近に分布している。上位や下位の段丘面との比高は1?3mとなっている。
段丘礫層は東秋留駅の東端で約4m,東秋留駅の西にある東秋留小学校でも約4mとなっている。東秋留駅の東から南にのびる段丘崖は比高1.5 ?2mを示すが,段丘崖の各所から地下水が湧出している。引田では下位の小川面とは1?2.5m の緩傾斜の段丘崖で境されるが,大雨の際には段丘崖から地下水が湧出するところから, 段丘礫層は2 ?4mの層厚と推定される。

小川面
小川面は関東ローム層におおわれない段丘としては発達が最も良く,伊奈から代継にかけて,あるいは牛沼から小川・二宮にかけて広く分布している。
段丘礫層の層厚は6m前後のところもあるが、おおむね3?5mではあるが、層厚が1.5?4mの幅をもつ箇所もあり場所によって異なる。
段丘崖では段丘礫層との不整合面から不圧地下水が湧出している。
粘土層は段丘礫層とは層相が著しく異なるところから, 段丘礫層を堆積させた多摩川・秋川によって運搬されたのではなく,横吹面および野辺面の段丘崖下に水源をもつ舞知川,あるいは秋留原面の段丘崖下に水源をもつ千人清水によって運搬され, 堆積したものと考えられる。粘土層の基底部からは先土器時代終末あるいは縄文時代初頭のものと思われる尖頭器をはじめとする遺物が多数出土している。また粘土層内からは縄文時代以降の遺跡・遺物も出土している。

寺坂・牛沼・南郷面
寺坂面は武蔵増戸駅の南に狭い面積で分布し,秋川の現河床からの比高は23?25m ,上位の小川面との比高は約1.5rnである。
牛沼面は牛沼をはじめとして数ヶ所に狭い面積で分布している。秋川の現河床からの比高は伊奈付近で18?20m ,牛沼16?18m ,秋川と多摩川の合流点付近で10?14m となっている。南郷面は上位の段丘面の縁に点在して分布して秋川の現河床からの比高は10m前後。これらの段丘はいずれも五日市砂礫層とその上に堆積する層厚2?4mの段丘礫層からなる。

屋城面
屋城面は秋川・平井川および多摩川によって形成された河岸段丘のうち最下位の段上面で,氾濫面との比高は0.5?3mである。秋川の現河床からの比高は4?6m,平井川の現河床からの比高は3m前後を示すが,多摩川の現河床からの比高は7?10mとなっている。
多摩川の現河床からの比高が高いのは,多摩川の河川敷における砂利採取の影響によるもので,第2次大戦後その影響は特に大きく現れたようである。段丘面はに示されているように,いくぶん起伏があるが,これは河床面だった時代の礫堤あるいは礫州がそのまま残っているものと考えられる。段丘礫層の層厚は2?3mである。


秋川フィッシングセンター北の崖下に湧水路
次の目的地は、前述『報告書』の湧水番号2.にあった「元山田釣堀敷地内隣接崖」。地図で確認すると護岸工事された秋川と段丘図の牛沼面の間に広がる氾濫原に「秋川フィッシングセンター」がある。そこが「元山田釣堀」ではないだろうか。
瑞雲寺から道なりに進むと、護岸工事された秋川脇に出る。その道を進むと「秋川フィッシングセンター」があった。そこから北を見ると結構比高差のある崖地が見える。崖下の手前は民家の敷地や畑地があり、道はない。仕方なく畑地の畦道を進み崖下に。そこには水路があった。如何にも崖地からの湧水を集めたような自然な水路である。

水路は源流点近くまで崖下を東に進めるのだが、水路が切れる「源流点」らしき辺りは民家の敷地となっており、それ以上は進めない。崖地側から進もうとも思ったのだが、藪がひどく迂回は諦めた。とりあえず、崖下から湧出したであろう結構豊かな水の流れを確認し湧水点2番目をクリアしたとみなす。なお、この水路は西南に進み秋川に注いでいた。
崖面は牛沼面氾濫原を画する崖ではあろう。また、角田さんの論文には「伊奈丘陵内に源を発し,台地上を南東方向に流れる溝ッ堀という川があり、堀が丘陵から台地上に出たところには小規模な扇状地を形成している。普段は尻無川のようになっているが, 豪雨の際には氾濫することもある。約2.2krn流下して秋川に合流している」との記事があったが、上流・中流は水路跡がわからないが、下流部は崖下の湧水の流れと同じように思える。

牛沼面崖が秋川に突き出す箇所を進み引田橋に
秋川に沿って進む。前方はブッシュが激しく進めるかどうかよくわからない。が、とりあえず左手に崖面を見遣りながら護岸堤に沿って進むと通行止めの案内。ここまで来て戻るのも何だかなあ、行き止まりとなれば川床に下りればいいか、などと思いながら先に進む。
段丘図を見れば、牛沼面下の崖が秋川へとせり出している箇所である。氾濫原にあった道もなくなり、牛沼面の崖が直接秋川に接する箇所は、護岸堤のコンクリートの上を慎重に進み、ほどなく引田橋に出た。秋川右岸の秋川丘陵には 六枚屏風岩が見えた。

六枚屏風岩
「六枚屏風岩は、大規模の土柱が並列する特異な崖の地形として天然記念物に指定されたものである。奥多摩山地の麓に南北に広がる丘陵をつくる礫層(加住礫層)が、秋川の洪水時の激流によって急な崖をつくり、更に浸食されて、後退していく過程で、ほぼ等間隔に高さ10メートル以上の六つの土柱が形成され、それが六枚折り屏風に見立てられ六枚屏風の俗称が与えられた。この土柱は六枚屏風として、文政四年(1821)の『武蔵名勝図会』に描かれている。このうち、現在、第四柱が消失している。六枚屏風岩の崖では、数百年以上前から土柱が成長、崩壊を繰り返したと推定され、自然環境の移り変わりを知るうえで貴重な文化財である。東京都教育委員会」

真照寺湧水;あきる野市引田863番地
成り行きで進む。地域は引田に入る。あきる野市発行の「郷土あれこれ」に地名の由来があり、それによれば、「曳き;ヒキ>ヒクイ=低いの意味。秋川沿いの低地に集落が開け、そこに低田を開いて生活していたのだろう」と記されていた。
引田地区を進む。帰宅後段丘図をチェックすると。牛沼面と屋代面の境を進んで行ったようである。ほどなく趣のある木塀に囲まれた真照寺に。
境内に入り湧水点を探す。本堂の右手に薬師堂があり、その前に池がある。この池に繋がる湧水の手掛かりはないものかと辺りを彷徨うが、これといった痕跡はなかった。市の報告書には流量は極少とあった。
また、市の『報告書』には「小川面下・傾斜地」とある。段丘図でチェックすると、このお寺様の辺りは小川面と屋代面の境のようでもある。
真照寺
真言宗豊山派のお寺さま。寛平3(891)年、僧義寛上人によって創建されたと伝えられている。本尊は不動明王である。享禄4(1531)年に現在の地に遷された。都指定有形文化財の薬師堂と、市指定有形文化財の山門がある。朱印寺領7石。



真照寺山門
真照寺山門 あきる野市指定有形文化財(建造物)
薬師堂(東京都指定文化財)に伴う門として、元禄元年(1688)に建立されました。
構造は、本柱の前後に二本ずつ計4本の控え柱をもつことから四脚門と呼ばれ、和洋を基本としています。当初より彩色が施されていたようで、部材の保存もよく、江戸時代中期初めの特徴をよくとどめています。
また棟札により建立年代、寄進者、住職、大工名もわかり、歴史資料として貴重です」

薬師堂
「真照寺薬師堂 東京都指定有形文化財(建造物)
木造で屋根は宝形造、桁行3間、梁間3間の建物で、間口・奥行ともに約4.42m(19.5㎡)です。外回り切目縁付き、軒回り柱上部に舟肘木があり、建築年代は室町時代と考えられています。
寺には廷文元年(1356)、関東管領足利基氏建立の棟礼写しがあります。『新編武蔵風土記稿』には寛平3年(891)造立の柱を用いて、廷文元年に再建したと見え、すでに江戸中期頃には柱に虫穴などがあって古色を呈していたと記されています。
昭和44年解体修理を行い、屋根はもとの茅葺を銅板葺に改めました。真照寺は引田山金蓮院と号する真言宗豊山派の寺院で、寛平3年に義寛上人によって開山されたと伝えられています。なお、宮川吉国寄進の厨子も附として指定されています」

殿沢
左手に大宮神社の社を見遣りながら進むと氾濫原に拓かれたような畑地が広がる。と、足元を見ると水流のない水路が東へと続く。畑地を道なりに進むと、南に曲がり秋川に向かう水路と交差する。チェックすると、殿沢と呼ばれるようだ。上述角田さんの論文に「殿沢は秋川市引田の小川面の段丘崖下にある海老沢沼に源を発する。さらに,途中,段丘崖下の各所から湧出する地下水を合わせ, 約1.8km 流れて秋川に合流している」とあった。海老沢沼がどこか不明だが、真照寺の北西の牛沼面と接する小川面崖下辺りであろうと思う。

真城寺湧水;あきる野市上代継344番地
殿沢を越え上代継地区に入る。代継は余次、世継とも表記される。四ツ木榾(ほだ)から。家の囲炉裏の四隅から樫などの堅い榾木をくべて赤々と燃やすことに由来するとある(前述「郷土あれこれ」より)。
ほどなく真城寺。湧水点を探し境内を彷徨うと幾つかの池があり、池に樋から水が注がれている。樋に沿って裏の崖地に入ると、小石の間から浸みだす湧水箇所が見つかった。市の『報告書に』は「小川面下・崖地 」とある。段丘図から推測するに、小川面と屋代面を画する崖地ではあろう。今回の湧水散歩ではじめて目にした、ささやかではあるが湧出点である。

真城寺
臨済宗建長寺派。観応2(1351)年、足利基氏が開基となり、大光禅師復庵宗己を請じて開山としている。その後、天正7(1579)年に八王子城主北条氏照が再興したと伝えられている。本尊は延命地蔵菩薩。市指定天然記念物のシダレザクラがある。御朱印寺領7石2斗。


沢に入る
新城寺の境内西に結構水が流れる水路がある。地図を見ると、真城寺の北から下っている。沢の源流が如何なものかちょっと寄り道。水路は石をコンクリートで固めた両岸とコンクリートの底部から成る。水路底部に下り北に向かうとすぐに護岸工事部は切れ、藪に覆われた沢となる。
沢の中程に湧出点もあったのだが、更に上流からの伏流水かとも思い、藪漕ぎで更に上流に進む。水はほとんど見あたらない。と、沢は崖地で阻まれる。崖上には民家が見える。都道7号のすぐ南といった箇所である。この崖地は秋留原面と小川面を画するものと思う。

御滝堀
沢を戻り、水路に沿って進もうと思うのだが、水路は民家の中を通っており、仕方なく南を大きく迂回し次の目的地である白滝神社境内湧水に向かう。道を東に進み白滝神社に向かって北に折れると水路にあたる。この水路は先程の沢からの水と、白滝神社境内湧水からの水を合わせて下っている。
角田さんの論文には御滝堀とあり、「御滝堀は秋川市下代継の白滝恵泉に源を発する。白滝恵泉は小川面の段丘崖に位置し,層厚約3,5m の段丘礫層の基底付近から地下水が湧出している。常に湧水量は多く, 約1.7km 流れて秋川に合流する」と記載されていた。

白滝神社境内湧水;あきる野市上代継331番地
滝からの流れであろう水路を辿り白滝神社に。社に上る石段横に沢があり、石組みの堰堤から豊かな水が数条の滝となって落ちる。今回の湧水散歩ではじめて目にした、豊かな湧水である。
堰堤の先の沢に入り湧出箇所を確認したいのだが、水神様脇に竹で作られた進入禁止の柵。普通なら先に進むのだが、神様の「霊地」に入り込むのは何だかなあ、と今回は遠慮する。報告書によれば「秋留原面下・崖地」とあるので、秋留原面と小川面を画する崖地から滾々と水が湧き出ているのだろう。


白滝神社
鳥居を潜り正面石段を上ると社がある。その昔には「白滝の社」と称されたようだ(「**神社」と呼ぶようになったのは明治以降のこと)。社脇には八雲神社の小祠も祀られていた。社の上は五日市街道・都道7号が走る。
鎮座の年代は不詳。この地の郷士・代継縫之介が自宅の鬼門除けとして、不動堂を建立。この地は日本武尊のゆかりの地とされ、村民に篤く崇敬されていた地とされる。
『新編新日本風土記』には「村の中程にあり わずかなる堂にて 上屋二間(約三,六メートル)四方 南向きなり 不動は木の立像長一尺二寸最古色に見ゆ されど作詳らかならず前に石段三十四段あり境内に入りて左の方に滝あり 槻(欅の一種)の大木一本あり 囲八十九尺許り 其の外雑樹蓊鬱として繁茂し 年経たるさまの境内なり 村内東海寺の持」と記載される。

秋川神明社湧水;あきる野市牛沼88番地
秋川神明社は白滝神社の南東、圏央道秋川インター傍にある。地図には秋川神社となっているのだが、秋川神明社であろうと圏央道の高架を潜り、その東の国道41号を南に下り、圏央道あきる野インターへの出入り口手前にある秋川神社に。
『報告書』に神明社から50m東、牛沼面下の崖とある。それらしきところを彷徨うが、湧出点らしき箇所は見当たらない。段丘図で見ると、牛沼面と南郷面の境とは思うのだが、秋川神社の南は圏央道あきる野インターへの出入り口で車道に立ち入ることができない。
『報告書』の湧水調査日は2011年6月、あきる野インターのサービス開始が2005年であるので、調査日は、インターの工事以降と考えられる。インターのアプローチ下に隠れているのか、それとも社の東50mほどのところに2、3mほどの比高差の崖があるのだが、その辺りなのだろうか。崖下を彷徨うも、湧出点らしき箇所は確認はできなかった。

秋川神社
もと日吉山王大権現と称していたが、同村神明神社と合祀して秋川神明社と改めた。永禄年代末(1569)一面の唐銅円鏡を鋳造し(洪水時に秋川を流れてきたとも、真照寺の山王権現の神体が流れてきたとも)ご神体としたと言われる。 また、境内にある大杉は市の天然記念物である。
牛沼
青梅線の牛浜に限らず牛がつく地名は全国に散見されるが、「牛」は必ずしも動物の牛と限ることはないようである。前述「郷土あれこれ」には、「牛はウシ>ウス>薄い色>浅い色>浅い沼」といった説明があった。地名の由来は諸説あることが多く、何が正しいか不明だが、少なくとも漢字ではなく、「音」からの解釈が必要かと思う。はじめに「音」があり、それに物知りが「漢字」をあてるわけであり、まずは「音」からの解釈が必要とは思うので、上記説明にはそれなりに納得。

石器時代住居跡群崖下湧水;秋留の市牛沼265‐2番地
秋川神社の北東に石器時代住居跡群崖下湧水があるとのこと。成り行きで進むとフェンスに囲まれた一角があり、そこに「国指定 西秋留石器時代住居跡」の案内があった。住居跡の南は崖。崖下で草刈りをしているご婦人に遠慮しながら石垣下を回り込むと、史跡西端の石垣の奥から水が流れ出していた。そこが湧水であろう。『報告書』に、「牛沼面下・崖地」とある。段丘図を見るに、牛沼面と氾濫原の境を画する崖面であろうと思う。

「国指定 西秋留石器時代住居跡 指定日昭和8年4月13日
昭和七年、後藤守一氏を中心として、東京府(現東京都)によって調査が行われ縄文時代後期の敷石住居跡5軒や石棺墓2基、石組の炉一基などが発見された。 当時、敷石住居跡が単独で出土した例はあったが、このように狭い範囲にまとまったものはほとんど無く、昭和8年国の史跡に指定された。
また、これらの遺構の他、縄文時代後期の土器や石皿、凹石、石棒、打製石斧、石錘などの石器も多数出土している。
調査当時、発見された住居の床面と周囲とが同じ面と認められたため、竪穴式住居ではなかったと判断され、それ以降の敷石住宅が平地住宅であるとする説の有力な根拠とされるなど、学史的にも貴重な遺跡である あきる野市教育「委員会」

今回はここで時間切れ。最寄りの五日市線・秋川駅に戻り、一路自宅へ.。
ここ何回かに渡り、善福寺川筋の台地に切り込む窪地に残る水路跡や旧善福寺川の流路を辿った。そしてそこでは、折に触れて五日市街道とクロスし、またその道筋を辿ったりもした。
現在五日市街道と呼ばれるその道筋は、近世以前にはその表示がなく、「伊奈みち」とある。伊奈は秋川筋、武蔵五日市の手前,現在のあきるの市にあり、古くより石工の里として知られる。その近くで採れる良質の砂岩を求め信州伊那谷高遠付近の石切(石工)が平安末期頃より住み着き、石臼、井戸桁、墓石、石仏をつくった、とのことである。

「伊奈みち」が何時の頃から呼ばれはじめたのか、詳しくは知らない。が、その名がメジャーになったきっかけは、徳川家康の江戸開幕ではあろう。城の普請、城下町の建設に伊奈の石工も動員され、江戸と伊奈の往来が頻繁となり、その道筋がいつしか「伊奈みち」と呼ばれるようになった。
「伊奈みち」が江戸と深いかかわりがあるのと同じく、「伊奈みち」が「五日市道」と現在の五日市街道に繋がる名となったのは、これも江戸の町と関連がある。江戸の城下町普請も一段落し、百万都市ともなった江戸の町が必要とするのは、城下町をつくる「石」から、そこに住む人々の生活の基礎となる燃料に取って替わる。

国木田独歩の『武蔵野』に描かれる美しい雑木林も、江戸のエネルギー源・燃料供給のため、一面の草原であった江戸近郊に木が植えられ人工的に造られたものである。利根川の船運を利用し関東平野の薪が江戸に送られた。そして、この秋川谷からは木炭が江戸に送られることになる。
その秋川谷の木炭集積所は元々は伊奈であったが、檜原や養沢谷からの立地上の利点から、五日市村が次第に力を延ばし、かつての「伊奈みち」を使い、江戸に木炭を運ぶようになった。そしてその往来の名称も「伊奈」から「五日市道」と変わったようである。

それはともあれ、今回の散歩の目的は、信州伊那谷高遠の石工がこの伊奈に移った最大の要因である、良質の砂岩の石切場跡をこの目で見ること。いつだったか、鎌倉街道山ノ道を高尾から秩父まで歩いたとき、石工の里・伊奈を掠ったのだが、その時には気になりながらも、先を急ぎ石切場跡はパスしていた。 杉並の窪地散歩で五日市街道に出合い、それが「伊奈みち」であったことがきっかけで、頭のとこかに残っていた伊奈の石切場を想い起こし、今回の散歩となったわけである。

また、今回の散歩は無料のGPS アプリ・Geographicaのパフォーマンスチェックも兼ねる。街歩きでは設定を機内モードにするなどして、電波の通じない状態でも結構重宝しているのだが、実際に電波の通じない山間部でどの程度のパフォーマンスを出してくれるのか試してみることにする。位置情報だけでなく、キャッシュに残る地図の表示時間なども気になる。
今回訪れる石切場跡は、山間地といっても里山といったところであり、うまく機能しなく、道に迷っても、なんとかなるといったロケーションであり、はじめての使用感確認には丁度いいかと、専用のGPS端末を持たずにiphoneのGPSアプリだけで歩くことにする。


本日のルート;五日市線・引田駅>連木坂>もみじ塚>山田の天神社>能満寺>旧五日市街道の道標>鎌倉街道山ノ道と交差>鍵の手>伊奈宿新宿>伊奈宿本宿>市神様>成就院>岩走神社>秋川>五日市線を渡る>大悲願寺>横沢入りの道標>横沢入>富田ノ入分岐>富田ノ入の最奥部・尾根道の分岐点>富田ノ入最奥部>尾根道から石山の池へのルートと合流>石山の池>横沢小机林道への尾根筋(横沢西側尾根)に合流>天竺山(三内神社)>横沢・小机林道に>秋川街道に合流>五日市線・武蔵五日市駅

拝島で五日市線に
自宅を出て立川駅を経て拝島駅に。そこで五日市線に乗り換える。この五日市線(いつかいちせん)は東京都昭島市の拝島駅から東京都あきる野市の武蔵五日市駅までを結ぶJR東日本の鉄道路線(幹線)である。現在は旅客中心の路線ではあるが、はじまりは青梅線と同様、石灰の運搬がその中心であった。
歴史は明治の頃、五日市鉄道にさかのぼる。明治22年(889年)甲武鉄道が立川駅-八王子駅間で開業、明治27年(1894)に青梅鉄道が開業した時勢、五日市の実業家が中心となり構想され、大正10年(1921)に認可される。
ルートは青梅鉄道拝島駅を起点に、五日市、そして増戸村坂下から分岐して大久野村地内勝峰石灰山に至るもの。勝峰山までの路線を申請しているということは、当初より石灰の運搬をその事業主体にしていたと推察される。
大正10年(1921)に認可は受けたものの、事業予算が当初の目論見と大きく違い、事業は難航。大正12年(1923)に工事が開始されるも、同年に起きた関東大震災の影響もあり、地元事業家だけでは事業存続が不可能となる。

そこに登場するのが財閥系の浅野セメント。川崎工場のセメント原料は青梅鉄道沿線の石灰を使っていたが、採掘権を買収した青梅線沿いの雷電山や日向和田も思ったほどの埋蔵量がなく、埋蔵量の豊富な五日市の勝峰山に目をつける。 大正11年(1922)には既に五日市鉄道の大株主となっていた浅野セメントであるが、石灰採掘権の権利を持つまでは資金不足の五日市鉄道を援助することなく、地元実業家より勝峰山の石灰採掘権を入手するに及び全面的に五日市鉄道の経営に乗り出し、大正14年(1925)5月にに拝島・武蔵五日市、同年9月に武蔵五日市駅 - 武蔵岩井駅間が開業した。
五日市鉄道最大の眼目である勝峰山の石灰採掘事業は、大正15年(1926)から開始され、昭和2年(1927)には浅野セメント川崎工場への輸送が開始される。そのルートは五日市鉄道→青梅鉄道→中央本線→山手線→東海道線と経由して浜川崎駅で専用線を使い工場へ運ばれていた。
立川から南に進む南武鉄道の大株主でもある浅野セメントは、この輸送ルートをショートカットすべく、拝島と立川の南武鉄道を繋ぐルートの延長を計画。昭和4年(1929)に工事に着手し、昭和5年(1930)には、拝島駅-立川駅間、青梅電気鉄道の路線と多摩川の間に路線を開き、南武鉄道と結んだ。
当初貨物主体で始まった五日市鉄道も、次第に旅客輸送も増えてはきたが、日華事変の勃発にともない、五日市鉄道は南武鉄道と合併、さらには戦時体制の強化のため南武鉄道は青梅電気鉄道共々国有化され、昭和19年(1944)には国有鉄道五日市線となる。
その際、青梅電気鉄道の立川・拝島区間は軍事施設を結ぶため複線化が続行されるも、五日市鉄道の立川・拝島区間は「不要」として休止されることになった。
青梅線
青梅線は立川から奥多摩駅を結ぶ。はじまりは青梅鉄道。明治27年(1894)、立川・青梅間が開通する。翌明治28年(1895)には青梅・日向和田間が貨物区間として開通。明治31年(1898)になって青梅・日向和田の旅客サービスもはじまった。日向和田・二俣尾間が開通したのは大正9年(1920)のことである。
昭和4年(1929)、青梅鉄道は青梅電気鉄道と名前が変わる。この年に二俣尾・御嶽間が開通した。昭和19年(1944)、青梅電気鉄道は御嶽・氷川(現在の奥多摩駅)間の開通を計画していた奥多摩電気鉄道とともに国有化となる。国有化となったこの年御嶽・氷川間も開通。これで立川・氷川間(奥多摩駅となったのは昭和46年;1971年)のこと)が繋がった。
青梅鉄道が造られたのは石灰の運搬がその目的。石灰を運んだ貨車の一番後ろに1両か2両の客車がつながれていた。「青梅線、石より人が安く見え」といった川柳もある(『青梅歴史物語;青梅市教育委員会』。いつだったか青梅の山稜を辛垣城へと辿ったとき、辛垣城跡が崩れていたのだが、それは石灰をとったため、などとの説明があった。それを挙げるまでもなく青梅は往古より石灰の産地である。江戸城のお城の白壁の原料として青梅の石灰を運ぶ道、それが青梅街道の始まりでもある。
青梅鉄道が早い時期に日向和田にのばしたのは、そこが石灰の積み出し場所であったから。実際、宮の平駅と日向和田駅の間に石灰採掘場跡が残るという。全山掘り尽くし山が消えた、とか。Google Mapの航空写真でチェックすると、山稜が南に張り出し青梅線が大きく湾曲するあたりの山中に緑が消えている箇所がある。御嶽から氷川へと路線を延ばしたのは、この地の石灰を掘り尽くし、更に奥多摩の産地からの積み出しが必要となったからである。

五日市線・武蔵引田駅
五日市線に乗り換え、さて、どこで下りるか考える。伊奈の最寄り駅は武蔵増戸駅ではあるが、目的地である石切場跡までの距離が短か過ぎ、歩くには少々物足らない。どうせのことなら、「伊奈みち」を少し辿ろうと、武蔵増戸駅のひとつ手前の武蔵引田駅で下りることにした。
武蔵引田駅は昭和5年(1930)、五日市鉄道・病院前停留所として開業した。駅の北に阿伎留医療センターがある。この病院と関係があるのだろうかとチェック。大正14年(1925)に伝染病院として開院。当初は赤痢や結核の治療に重点が置かれていたようだが、現在は一般疾病の治療病院となっている。

引田
「引田」は灌漑水田と関係あるとの説もあるが、「田を引く」は意を成さぬとの説もある。『五日市の古道と地名;五日市町郷土館』には、秋川の南、「網代地区の「引谷」の地名の由来として、引谷、引田は蟇(ひきがえる)の生息地に因んだ地名とし、蟇田>引田となったとの説明があった。

引田駅を下り、一面に広がる秋留台地の畑の畦道といった小径を南に下る。南には秋川丘陵が見える。いつだったかこの丘陵を歩き、古甲州街道を辿ったことが思い出される。目を西に移すと山肌が白く大きく抉られた山塊が目につく。石灰採掘をおこなう勝峰山(かっぽやま)ではあろう。

秋留台地
Wikipediaに拠れば、秋留台地は「島のような河岸段丘なので、地形は特殊。北の端は平井川、東の端は多摩川、南の端は秋川で、それぞれ川へ向かって標高が低くなっている(中略)西は関東山地なので、そこから東へ堆積し、その後に上記の3河川が浸食してできたものと推測できる」とある。
地形は特殊と言う。なにが特殊か門外漢には不明であるが、河岸段丘と湧水がその特色との記事があった:よくわからないなりにも、「あきる野市の自然 あきる野市の地質・地形」をもとにメモだけしておく。
秋留台地は西端の伊奈丘陵南麓から東端の二宮神社まで、東西約 7.5km、南北約 2.5km である。西端標高 186m、東端標高 138m、勾配 6.4/1,000 である。 河岸段丘は 8 段 9 面あり、上位から 1.秋留原面 2.新井面 3.横吹面 4.野辺面 5.小川面 6.寺坂面 7.牛沼面 8.南郷面 9.屋城面の8段9面からなる。
秋留台地には年間約 1,500mm の降水量があり、そのうち約半分は地下に浸透する。浸透した水は、水を通しやすい表土(約30cmの火山性黒土や氾濫性土壌)、立川ローム層(0.5~2m 約3万年前からの富士山起源の火山灰)、段丘礫層(約8m 関東山地からの堆積層)を通し、五日市砂礫層・上総層(60~150cm 100~300万年前の河成~海成層)に達する。上総層は砂礫の間に砂屑やシルト層を多く挟んでいるため、水を通しにくい地層である。このため浸透してきた水は上総層の上に溜まり台地の6.4/1,000の傾斜に沿って下り、段丘の崖から湧水となって流れ出す。
それぞれの段丘面の崖地、傾斜地から代表的なものだけでも18箇所ほどの湧水点がある、と言う。段丘面の湧水点を歩いてみれば、「特殊な地形」を実感できるのであろうか。とりあえず近々歩いてみようと思う。

連木坂
道なりに進むと道はふたつに分かれる。そこは坂となっており、蓮木坂(ムナギ・ムラキ)と呼ばれる。由来は不明。「ねん坂」とも呼ばれるようである。







もみじ塚
道を南にとり、五日市街道に出る。街道・原店交差点北側にフェンスで囲われた塚があり、いくつかの石碑が建つ。大きな石には「寒念仏」と刻まれた文字が読める。横に建つ石塔は庚申塔のようである。
チェックすると、この塚は「もみじ塚」と呼ばれるようだ。かつては塚の中央にもみじの大木があったのが名前の由来。「寒念仏」と刻まれた石仏は、嘉永5年(1852)建立の「寒念仏塔」。寒念仏とは、寒中30日間、鉦を叩きながら各所を巡って念仏を唱える修業のこと。その右は庚申塔。庚申塔の右にある石仏は神送り場にあった「寒念仏供養塔」とのことである。
寒念仏供養塔
引田交差点の西、引田と山田の境の街道辻に「神送り場」があった、と言う。疫病退散を祈り、祭りを執り行った場所とのことである。その場所には延命地蔵が建っていたが、新しいものようで写真を撮らなかった。

山田の天神社
道脇に「キッコーゴ醤油」との商号のある古き趣の醤油醸造所を越え、五日市街道・下山田交差点の南に天神社がある。少々寂しき佇まい。社伝に拠れば、貞治・応安(1362~75年)のころ、足利基氏の母が開き、古くは天満宮と称し、少し西にある能満寺持ち常照寺が別当であった。明治の神仏分離令の際、寺と分かれ名も天神社と改めた。とのことである。

能満寺
社を出て街道を少し西に進むと能満寺。境内に、地獄道の教主・法性地蔵、餓鬼道の教主・陀羅尼地蔵、畜生道の教主・宝陵地蔵、阿修羅道の教主・寶印地蔵、人間道の教主・鶏兜地蔵、天上道の教主の地持地蔵の六地蔵が佇むこのお寺さまは臨済宗建長寺派のお寺さま。開基は先ほどの天神社と同じく足利基氏の母とのこと。
何故にこの地に鎌倉公方足利基氏の母が寺を建てる?チェックするとあきる野市には、この能満寺の南にある瑞雲寺も基氏の母瑞雲尼の開基である。また、市内には基氏開基と伝わるお寺さまが下代継に真城寺、金松寺とふたつほどあった。
基氏とあきる野
基氏、そして基氏の母とあきる野の地の関係は?ここからはあくまでも妄想ではあるが、基氏は入間川殿とも呼ばれ、入間の地に9年も陣・入間御殿を構えたことがある。そのことが要因なのだろうか。
入間御殿は、足利尊氏が弟の直義を倒し室町幕府を開いた際、直義に与した関東管領上杉氏を追放するも、関東北部に依然勢をもつ上杉氏や新田氏に備えるための拠点である。入間とあきる野はそれほど離れてはいない。この地を通る鎌倉街道山ツ道から連絡道を通じ入間と往来は容易ではあろうと思う。
また思うに、入間御殿との関連を考えなくても、この鎌倉街道山ツ道は往昔の幹線道路である。実際、あきる野市には頼朝が檀越となり平山氏開基の大悲願寺、北条時宗開基の普門寺など有力武将ゆかりの寺院も多い。今は都心を離れた地ではあるが、江戸開幕以前は湿地・葦原を避けて通れる、この山裾を進む道が、当時のメーンルートであったのだろうから、そう考えれば、鎌倉公方ゆかりの寺社があってもそれほど不思議ではないのかとも思えてきた。
ついでのことで、またまた思うに、秋留台地の端に二宮神社がある。武蔵総社六所宮の第二神座といった由緒ある社である。この社、往古小川大明神と呼ばれていた。古代にあった四つの勅使牧のひとつ、小川牧のあった一帯でもある。古代にもこのあたり一帯は開けていたようだ。
もっと歴史を遡ると、平井川沿いにはいくつもの縄文遺跡や古墳が残る。北に羽村草花丘陵を控え、南に平井川を隔てて秋留台を望むこの地は、古くから人の住みやすい環境であったのだろう。 古代から江戸が武蔵の中心地になるまで、この辺りは往還賑やかな一帯ではあったのだろう。

旧五日市街道の道標
街道を西に進むと、秋川に架かる山田大橋を越えて北に延びる山田通りの手前から右手に入る道がある。それが旧五日市街道とのこと。山田通り手前に道標が建つ。西に向かう矢印には「五日市 檜原」、東は「八王子 拝島 福生」、北は「大久野 青梅」、南に向かう矢印は「川口村 恩方」とある。川口村ができたのは明治22年(1889)の町村制施行時であるから、明治の頃の道標だろうか。
もっとも、川口村が八王子市に編入されたのは昭和30年(1955)であるから、少なくとも昭和30年(1955)までは「川口村」が存在したわけで、もっと新しい時期かもしれない。ともあれ、刻まれた文字が赤のペンキで塗られているのは読みやすくはあるのだが、少々風情に欠ける。文化財としての価値がそれほどないということであろうか。

鎌倉街道山ノ道と交差
道標を越えると山田通りにあたる。この道筋は鎌倉街道山ノ道の道筋。高尾から秋川丘陵の駒繋石峠(御前石峠)を越え、秋川南岸の網代から秋川を渡り、山田通りから五日線・武蔵増戸駅辺りを通り、青梅谷筋、名栗谷筋を経て秩父に向かった「鎌倉街道山ノ道」散歩が想い起こされる。
武蔵増戸(ますこ)駅
山田通りを北に進むと武蔵増戸駅がある。増戸は地名にはない。チェックすると、『五日市の古道と地名』には、「この辺りの網代、山田、伊奈、横沢、館谷、三内という六つの地域は中世から近世、明治まで独立村として続いたのだが、明治22年(1889)の町村制施行時に館谷を除いた五ヶ村が合併し、将来の戸数増加を願い「増戸村」となる。昭和30年(1955)の改革で五日市町と合併し、「増戸」の地名は消滅した」とあった。

鍵の手
山田通りを越えると山田地区から離れ伊奈地区に入る。旧街道を進むと道は二手に別れ、ひとつは南に大きくカーブする。城下町や宿場の出入口に見られる『鍵の手道』と言う。宿場が残るわけでもなく、そう言われなければ、普通の道といった程度の道ではあった。

伊奈宿新宿
鍵の手道を南に下ると五日市街道にあたる。ほどなく「伊奈新宿」のバス停。1キロほどの伊奈宿は西から東へと宿が発展した、という。西が本宿(上宿)、東は新宿と呼ばれた。

伊奈宿本宿
伊奈新宿バス停の少し西に「伊奈」バス停。この辺りが本宿(上宿)と新宿の境とも言われる。バス停の街道を挟んだ北、細い道脇の土手上に「塩地蔵尊 千日堂跡」がある。
塩地蔵は全国各地にあるが、お地蔵さんを自身に見立て、患部に塩を塗り、イボを取るとか、患部を治癒するといったもの。千日念仏供養塔は千日念仏の完結記念、百番供養塔は、西国33番、坂東33番、秩父34番の計百番札所巡りの完結を記念して建立するもの。この地の供養塔の由来は不詳。

千日堂は「武蔵風土記」に「小名新宿にあり本尊阿弥陀生体にて長さ一尺余り大悲願寺持ち(中略)伊奈村は36か村寄り場、名主時代この千日堂に牢屋あり罪人入獄したるきは伊奈村中各戸にて順番に牢番をしたること確実」とある。牢獄であったということだろう。千日堂は3回あった伊奈の大火の三度目、明治8年(1875)の大火で焼失した。
場所は現在の図書館のところ、とある。増戸分室のことだろうか。であれば、すぐ西隣といったところだろう。

市神様
街道に戻り先に進むと「伊奈坂上」バス停があり、その手前、街道南側にささやかな祠がある。祠傍に案内があり「伊奈の市神様」とあった。
案内には「伊奈村は、中世から近世初期にかけて、秋川谷を代表する集落でした。伊奈村に市が開かれたのは中世の末といわれています。農具や衣類、木炭などをはじめ、この地域で生産された石(伊奈石)で作られた臼なども取引されたと考えられ、伊奈の市は大いに賑わったといわれています。
江戸時代になって江戸城の本格的な建築が始まると、この石の採掘に携わった工員たちが動員されたと考えられ、村と江戸とを結ぶ道は「伊奈みち」と呼ばれるようになりました。
やがて江戸の町が整い、一大消費地として姿を現すと、木炭の需要が急に高まりました。すると木炭の生産地である養沢、戸倉などの山方の村々に近い五日市の村の市に、伊奈村の市は次第に押されるようになりました。更に、月三回の伊奈村の市の前日に五日市でも市が開かれるようになると、ますます大きな打撃を受け、伊奈村の人々は市の開催を巡ってしばしは訴えを起こしました。 この祠は伊奈村の市の守り神である「市神様」と伝えられています。地元の伊奈石で作られ、側面には寛文二年(1662))の年号が刻まれています。伊奈の移り変わりを見つめてきたこの「市神様」は地域の方々により今も大切に祀られています。平成十九年 あきる野市教育委員会」とあった。

この地で採れる良質の砂岩を求め、信州伊那高頭の谷から移り住んだ石工は、石臼、井戸桁、墓石、石仏、五輪塔、宝筐印板碑、石灯籠、供養塔、石像などを製造し伊奈は開ける。また、戸倉、乙津、養沢、檜原といった秋川筋の木炭の取引所は当初、伊奈宿にあり、伊奈の市は賑わったようだ。
その伊奈宿も、木炭の集積地としての立地上の優位性から五日市村が次第に伊奈宿の市を侵食することになる。それを巡る諍いは上記説明にある通りであるが、享保20年(1835)には「炭運上金」の徴収所「札場」が五日市下宿と設定されて以降、木炭取引の市は完全に五日市に移る。これにともない、伊奈宿までの「伊奈みち」を五日市まで伸ばし、名称も「伊奈みち」から「五日市道」と変わることになった(『五日市の古道と地名』)。

伊奈宿
ところで、宿の規模はどの程度であったのだろう?チェックすると、平安末期(室町の頃との説もある)、12人で開いた伊奈は18世紀後半世帯数200戸強、人口900人弱まで増えるが、昭和2年(1927)で世帯数200戸強、千人強であるので、江戸までは急成長するも、江戸から以降は、それほど大きくは増えてはいない。五日市に経済の中心が移ったこともその一因であろうか。

成就院
「伊奈坂上」バス停のすぐ西に「新秋川橋東」交差点があり、直進すると新秋川橋へと進むが、旧道は橋の東詰めを右手北側に折れ、坂を下ることになる。坂の入口に成就院がある。
後ほど訪れる古刹大悲願寺の末。お寺の塀の外側に自然石の大きな「寒念仏塔」が建っていた。伊奈宿はここで終わる。

岩走神社
坂道を下ると左に秋川へと下る道があり。その下り坂が旧道のようであるが、道なりの先に「岩走神社」が見えるのでちょっと立ち寄り。宮沢坂と呼ばれる坂を進むと大きな石の鳥居がある。
旧伊奈村の鎮守。平安末期(室町?)、12世紀の中頃、信州伊那谷高遠から十名余の石工がこの地に村を拓くに際し、故郷の戸隠大明神の分身を勧請したのがそのはじまり。当初は「岸三大明神」とも称したようだが、「岩山大明神」とも呼ばれた時期もあるようだ。
「岩山」は想像できるが。「岸三大明神」は不詳。祭神は戸隠大明神の手刀男の命(たちずからおのみこと)をまっていたが数年たってから推日女尊(わかひるめのみこと)、棚機姫尊(たなきひめのみこと)の三柱を祀ったとある。岸辺の三柱、故の岸三大明神の命名だろうか。単なる妄想。根拠なし。
社はその後、寛政6年(1794)に「正一位」を授けられ、以来「岩走」と改めた。「岩走」は秋川の激しい流れの滝から命名したとのこと。
本殿も、現在より奥まったところにあったようだが、昭和3年(1928)の道路改修に合わせて現在の姿になった、と。
正一位
正一位って、諸臣や神社における神階の最高位にあたる。何故にこの社が「正一位」?
チェックすると、この村を拓いた12人の一家、宮沢家が代々社の宮司となるが、その後裔である宮沢安通が天皇の書の師として京に招かれ正一位を授かったとある。
正一位を授けられた諸臣は数少ない。日本の歴史を代表するような百人強である。当然のことながら宮沢某の名は見当たらない。諸臣に授けられる位階と神に与えられるものは別物のようであった。全国各地にあるお稲荷さんが正一位であることからも、神階としての「正一位」と諸臣の「正一位」とは少々ニュアンスが異なることは容易に想像し得る。

秋川
岩走神社から少し宮沢坂を戻り、旧道に折れる。結構急な坂道である。『五日市の古道と地名』には、木炭集積所を巡る伊奈と五日市の争いの際、伊奈村から奉行所に提訴した文書に、「伊奈から五日市の道は険路であるため、五日市は市としては不適」といった例として、岩走神社前の坂を挙げている。確かに舗装もない時代、荷の運搬は難儀を極めたことだろう。
それはともあれ、旧坂を下り民家の前の道を進む。左手は秋川。集落の中程から川床に下りる道があったので秋川の川床でちょっと休憩。
秋川・秋留・阿伎留
休みながら、ふと考える。「秋川」の由来は?Googleでチェックすると、秋川は荒れ川で洪水の度、畔を切ることが多かったため「畔切川」と。これが音韻転化して「アキカワ」といった記事があった。秋留・阿伎留の由来でもある。
それなりに納得したのだが、メモの段階で『五日市の古道と地名』を読むと、参考程度ではあるとしながらも、別の解釈が説明されていた。話はこういうことである;『古事記』でのお話し。その昔、新羅の国であれこれの経緯の末、女性が光り輝く見事な玉・「赤瑠」産み落とす。そしてまた、あれこれの経緯の末、王子である天日矛(あめのひぼこ)が赤瑠を手に入れる。
と、あら不思議、赤瑠が美女に変身。王子寵愛するも、諍いの末、美女は唐津の沖の小島・姫島に逃げる。姫を追っかける王子。逃げる美女。逃げる先々の島は今も瀬戸に姫島として残る。で結局逃げついた先は難波の地。
そこに住まう新羅系帰化人はその姫・赤瑠姫を敬い、姫の住まいの近くを流れる川を「吾が君の川」>「吾君川」;アキカワ、と呼んだ、と言う。
秋留台地の小川牧の頭は新羅系、といったことに限らず、武蔵国を拓いたのは大陸からの帰化人である。この地、秋留も帰化人との関係を考えれば、事実か否かは別にして、上記解釈は誠に面白い。ちょっと気になる。
あきる野市
因みに、この地あきる野市は秋川町と五日市町が合併してできたもの。市名決定を巡っては秋留市を主張する秋川町と、阿伎留市を主張する五日町との協議の結果、「あきる野市」となった、とか。「野」がついたのは、「あきる市」だけではなんとなく収まりがよくなく、秋留台地をイメージする「野」をつけたのだろうか。

五日市線を渡る
秋川の川床から離れ、集落の中を進む「五日市道」に戻る。岩走神社から西は伊奈地区から横沢地区に入る。集落の途中から舗装された急坂を上り、岩走神社前を通る車道に出る。車道の北に石段が見える。結構長い石段を上り切ると前方に大悲願寺の山門が見える。その手前に通る五日市線の踏切を渡り大悲願寺に向かう。
横沢
横沢地区から山内地区を挟んだ五日市駅寄りの地区に館谷がある。元々は縦谷>立谷と呼ばれていたようである。で、「横」沢と「館谷=縦(立)」谷の関係だが、横と縦の関係に拠る。その横・縦の軸となるのは秋川。
秋川から見て、秋川に南北に注ぐ沢をもつ地区が横沢、東西に注ぐ三内川(大雑把には東西だが?)をもつ地区が館谷とされた、とのこと(『五日市の古道と地名』)。
縦横はあくまで相対的なもの。都内の墨田区・江東区を東西に流れる運河が堅川(たてかわ)江と呼ばれているのは、江戸城に対して縦(東西)に流れるからである。当然、南北に流れる運河は横十間川と呼ばれる。

大悲願寺
堂々たる仁王門から境内に入る。仁王門(楼門)天井には幕末の絵師による天井絵が描かれる。境内正面には観音堂。お堂は江戸に造られたが、堂内には国指定重要文化財の仏像三体が祀られている。
境内右手には書院造りの本堂、そして彫刻の施された中門(朱雀門)なども江戸期の建造である。本堂前に「伊達政宗 白萩文書」の案内があり、政宗の末弟がこの寺に修行のため在山の折り、川狩りにこの地に出向いた政宗が当寺の白萩が見事であり、それを所望したい」との書面が残るとあった。歌舞伎の「仙台萩」は当寺に由来する。
寺伝に拠ると、この古刹は建久2年(1191)、武蔵国平山を領する平山季重が頼朝の命を受け開山した。一時衰退するも、江戸になり幕府より朱印状を受け、観音堂を建立し、内陣を華麗に整えていたとのことである。




平山季重
いつだったか、多摩の平山城址散歩で出合った。源平一の谷の合戦で、熊谷直実と武勇を誇った源氏方の侍大将である。平安末期から鎌倉初期の武蔵七党のひとつ西党(日奉氏)の武将であり、平井川と秋川に挟まれた秋留台地には鎌倉の頃、武蔵七党のひとつ、西党に属する小川、二宮、小宮、平山氏といった御家人が居を構えた、と言う。そんな状況も季重開基に関係するのだろうか。
日奉氏
武蔵七党のひとつ、西党の祖。日奉氏は太陽祭祀を司る日奉部に起源を持つ氏族。6世紀の後半、大和朝廷はこの日奉部を全国に配置した。農作物のための順天を願ってのことであろう。日奉部の氏族は、この武蔵国では国衙のある府中西方日野(土淵)に土着し、祭祀集団として存在していたと伝わる。
西党の祖・日奉宗頼は、もとは都にあって藤原氏の一族であった、とか、それが中央の政争に敗れたとか、国司の任を得て下向したとか、あれこれと説があり定かではないが、ともあれこの武蔵国に赴き牧の別当となる。任を終えても都に戻らず、この日野の地に土着していた日奉部の氏族と縁を結び、父系・藤原氏+母系・日奉氏という一族が成立した、と。
日奉氏はこの地域を拠点とし、牧の管理で勢力を広げ、国衙(府中)の西、多摩の西南である「多西郡」を中心に勢力を伸ばした。ために多西ないし西を称するようになったというのが西党の由来である。もっとも、日奉(日祀)の音読みである「ニシ」から、とりの説もある。


横沢入りの道標
大悲願寺を離れ、門前の道を東に進み増戸保育園を越えた先の畑地の脇に古い道標がある。そこが石切場へと続く横沢入の谷戸への分岐点である。右手には五日市線が東西に走る。
分岐点に立つ古き道標には、東方面は「五日市」、西は「伊奈 平井」、北は「大久野」と刻まれていた。北方向、横沢入の谷戸を越え、大久野に向かう道が昔からあったのだろう。
なお、ここでiphoneのGPSアプリGeographicaを起動。念のため機内モードにして電波を完全にシャットアウトとして、このアプリのパフォーマンスチェックを始める。こいの地点では位置情報はほぼ問題なし。





横沢入
分岐点を左に折れ横沢入に向かう。小径を進むと眼前に美しい谷戸が開ける。谷戸へのアプローチ入口にビジターセンター、というかボランティアセンターといった建物があり、多くのボランティアの方が谷戸の保全に尽力されていた。 エントランス近くの案内には「横沢入里山保地域; 横沢入は、丘陵に囲まれた都内でも有数の谷戸です。七つの谷戸と中央湿地では、かつては稲作が行われ、里山の環境が保たれていました。しかし、近年は耕作されず、荒廃が進んでいます。
そのような状況の中、東京都は横沢入を「里山保全地域」に指定し、ボランティアの皆さんやあきる野市と共に、自然と人間が共生する身近な自然「里山」を復元し、貴重な動植物の生息生育環境を回復し、保全していくこととしました(後略)」との説明とともに、横沢入の地図があった。
その地図には中央の湿地を挟み、進行方向向かって左手手前から、草堂ノ入、富田ノ入、釜ノ沢、右手手前から下ノ川、宮田東沢、宮田西沢、最奥部に荒田ノ入が記載されており、目的の石切場跡は、富田ノ入の谷戸の北を東西に進む尾根筋に「石山の池・石切場跡」として記載されていた。
石山の池・石切場跡の近くの南北に延びる尾根筋の南端には天竺山(三内神社)が見える。また南北に延びる尾根道を北に向かうと「横沢・小机林道」に合流できそうである。
地図を見て大雑把なルート決定。富田ノ入の谷戸に入り、谷戸を最奥部まで進んで尾根に這い上がるか、途中から尾根に逃げるか、成り行きとし、天竺山の三内神社にお参りし、尾根道を北に進み、横沢入の分岐にあった道標の「大久野」の道筋ではあろう横沢・小机林道に向かうこととする。
横沢入
都下の谷戸で5つしかないAランクの谷戸として保全されることになったこの横沢入は、かつて旧五日市町が大規模宅地開発地として計画しJR東日本が土地を取得したが、住民の環境保全の努力の結果、東京都の里山保全の第一号として決定し、この美しい里山が残された。
今回は、これほどの谷戸が残っているとも思わず、時間的にも富田ノ入の先にある石切場跡を辿るのが精一杯であるが、いつか、この七つの谷戸を彷徨いたいと思う。宮田西沢にも石切場跡が残っているとも言われる。


富田ノ入分岐
中央湿地の中の小径を進むと分岐点に地図と「富田ノ入」の案内がある。 「富田ノ入」には「ここは富田ノ入と呼ばれる谷戸で、田圃が奥まで続いていました。昔は、山の上の石山の池から伊奈石を切り出して運ぶ道でした」とあり、その下に「マムシに注意」とイラスト付きの注意がある。
怖がりのわが身は、さっそく沢登り用の膝下部分をガードする「脚絆」を巻き、近くに落ちてあった適当な木を前方チェックの杖代わりとする。
いつだったか秋川筋の沢でマムシを寸でのところで踏みつけようとしたことがあり、それ以来、より一層マムシにナーバスになっている。GPSアプリ・Geographicaの位置情報もほぼ正確な位置を示している。

富田ノ入の最奥部・尾根道の分岐点
道を左手に折れ少し進むと道標があり、「富田ノ入をへて石山の池」と「尾根道をへて石山の池」との案内。中央湿地で見た地図には「富田ノ入から石山の池」への道は記載されておらず、成り行きで、谷戸最奥部から石山の池とはルーティングしたものの、結構不安であったのだが、道標にはっきりと案内があるのであれば、なんとかなるだろうと谷最奥部経由での道をとることにする。マムシだけがちょっと嫌である。



富田ノ入最奥部
分岐点から先は美しい谷戸の景観。自然観察らしき学生さんたちも見受けられるが、谷戸の最奥部に近づくにつれ、丸太が道に倒れるなど道が荒れてくる。少々不安になるあたりに「石山の池」への道案内があり、気を取り直し先に進む。
谷頭あたりからは荒れた山道を上る。所々にロープが張られており、進む道をリードしてくれる。

尾根道から石山の池へのルートと合流
ジグザグの山道をしばし進み、尾根に這い上がったあたりで前方に道標が見える。下りてきた道が「富田ノ入」、左右が「中央湿地 石山の池」となっている。この尾根道が富田ノ入の入口辺りにあった「尾根道をへて石山池へ」のルートではあろうと思う。一安心。






石山の池
尾根道ルートとの合流点から先に進むと、ほどなく道傍に案内板があり、「石山の池 ここは室町時代から江戸時代にかけて、石臼、墓石などにするため伊奈石を切り出していたところです。今も、割りとった跡(矢穴)がわかる石辺が見られます 東京都」とある。
案内板の先が大きな窪地となっており、そこが石切場跡のようである。露天堀で掘り割っていたのだろから、山塊を掘り込んだ結果、窪地状となったのだろう。最も深く掘り込まれた底には水が溜まっており、故に石山の池と名付けられたのではあろう。
道なりに進むと、ルートは一度窪地底部に下りる。その近くには山神社のささやかな祠が祀られていた。
採石地層
底部から見ても、一見した印象では、予想したほどのスケール感は無かった。思うに石切場はここだけではなかったのではなかろうか。実際、横沢入の宮田西沢にも石切場跡が残るとのことである。
帰宅後チェックすると、採石地層は横沢入の北、平井の日の出団地東から西に延び、横沢入の北尾根を通り最奥部で南に曲がり、天竺山東側で南に大きく曲がって西尾根付近を南に進み、三内で秋川を越え更に高尾山(秋川筋の高尾山で、「有名な」高尾山ではない)の西側を尾根伝いに網代方面まで伸びている、と。
横沢入の伊奈石を採掘してきた石工は、秋川を越え、高尾山そして、いつだったか古甲州道を辿り秋川丘陵を歩いたときに訪ねた網代城跡辺りまで採掘しているようであった。石山池は石切場跡としてはっきりその姿を残す場所ではあるが、石切場は想像の通り、横沢入の南北に大きく広がっていた。納得。

横沢小机林道への尾根筋(横沢西側尾根)に合流
石切場跡の窪地を離れ、天竺山に向かう。道成りに進むと道標があり、左「天竺山」、右「行き止まり」とある。横沢小机林道への尾根道(横沢小机林道)が封鎖されたのだろうか?また同じ道を戻るのもウザったいので、林道へは藪漕ぎ覚悟で「行き止まり」道を進もうか、などと思いながら「天竺山」方向に向かうと、ほどなく、左「横沢・小机林道」、右「天竺山(三内神社)」の標識がある。ここが横沢西側尾根であった。
帰宅後チェックすると、「行き止まり」箇所は、石切場跡から等高線に沿って北東に切り込んだ最奥部であり、道はそこからU字に曲がり横沢西側尾根に向かっていた。

天竺山(三内神社)
横沢西側尾根合流点から高圧線鉄塔・小峰線見遣り先に進むと、ほどなく北が開ける。谷戸に入り込んで以来の開けた景観を楽しむ。そのすぐ先が天竺山山頂。標高301m。
頂上平坦地には三内神社が祀られる。三内神社は山内地区の氏神様。天竺山へと辿った横沢西側尾根が横沢地区と三内地区の境をなしているようである。山裾にも三内神社が祀られる。この社は奥宮といったものだろう。
社伝には多くの神々が登場する。その中に住吉の神々も祀られる。表筒男命、中筒男命、底筒男命がそれである。どのような由来で住吉さんが、とも思うのだが、社伝の中に「享保改元の頃発願して(?)三年村内天竺山の頂上に宮を移す」とある。「三年村」?書き間違い?三内の由来は「山の内>三内」と伝わる。三年村ってなんだろう?

横沢・小机林道に
横沢西側尾根を辿り、ゆるやかな坂を下ると前方に結構広い道が見えてくる。横沢入の荒田ノ入、釜ノ沢の谷戸を越え、釜ノ久保を経て横沢西側尾根に上った箇所である。
沢の水音を聞きながら、林道を秋川街道に向かってゆるやかな坂となった林道を下る。


秋川街道に合流
林道はほどなく秋川街道に合流。合流点のすぐ上に「小机」バス停。「小机」は「小高い台地や平地」に由来する(『五日市の古道と地名』)。
秋川街道を武蔵五日市駅に向かって坂を下る。五日市線の高架を越えた先には「小机坂下」バス停もあった。横沢・小机林道と称する所以である。
この秋川街道はいつだったか武蔵五日市駅から北に辿ったことがある。本来の秋川街道は八王子の本郷横町で甲州街道を離れ、川口川に沿って西に進み小峰峠を越えて秋川筋の武蔵五日市に至る道、川口街道とも八王子道とも呼ばれていた。都道32号・八王子五日市線筋である。
しかし、今歩く秋川街道は都道31号・青梅あきるの線。東京都青梅市から、西多摩郡日の出町を経由してあきる野市五日市に至る道である。この道も秋川街道と呼ばれているようだ。

五日市線・武蔵五日市駅
小机坂を下り武蔵五日市駅に。この道筋は、五日市線・岩井支線が通っていたようだ。岩井支線は、今回の散歩のはじまりである五日市線の武蔵引田駅を下りたときに石灰採掘の勝峰山(かっぽやま)の山肌を眺めたが、その勝峰山の山裾まで主として石灰運搬用の支線が武蔵五日市駅から分岐していた。 貨物は武蔵五日市駅の手前にある三内信号所から分岐していたが、旅客用は武蔵五日市に一度入り、スイッチバックで支線に入っていたようである。
大正14年(1925)に武蔵五日市・岩井駅が開業。昭和46年(1971)に旅客運輸を廃止。昭和57年(1982)には貨物運輸も廃止した。そのうちに廃線跡を辿ってみたいと思う。

本日の散歩はこれでお終い。石工の里の石切場跡をみようと始めた散歩であるが、美しい谷戸に出合ったり、石灰採掘と言えば青梅線と思っていたのだが、五日市線も勝峰山の石灰運搬がそのはじまりであったりと、思いがけないこともいくつか登場した。基本成り行き任せの散歩の妙である。
秋川の谷合に残る古城を訪ねる。檜原城跡と戸倉城跡である。戸倉城は大石定久の隠居地、と。大石氏とは滝山城を北条氏照に譲ったあの大石定久、である。また、戸倉から少し秋川を上り、檜原にも城があるという。戸倉城と同じく同じく甲斐・武田への押さえためにつくられた城。あまり聞いたこともないお城。それぞれ少し離れており、また、途中はバス道であり、歩道があるわけでもないのでバスを利用。城跡の残る山道に取りつくのを本日のメーンイベントとする。 

 





本日のコース: 本宿役場バス停・口留番所 > 吉祥寺 > 檜原城跡 > 戸倉バス停 > 光厳寺 > 戸倉城跡 > JR五日市線・武蔵五日市

JR五日市線・武蔵五日市

JR中央線立川からJR青梅線、JR五日市線と進み武蔵五日市下車。予想外のモダンな駅舎。駅前で檜原城跡への最寄りの地・檜原村役場に行くバスを探す。駅前というかバス停近くに観光案内所。尋ねる。数馬行き、藤倉行き、小岩方面行きのどれかに乗り、本宿役場前バス停で下りればいいとのこと。数馬は秋川に沿って、檜原街道を進み武蔵・甲斐の国境・浅間峠手前を三頭山の裏手・都民の森方面へ向うルート。小岩は北秋川に沿って205号線を進む ルート。藤倉も同じルートで小岩のもっと先。


吉祥寺
小岩行きのバスに乗り、本宿役場前バス停で下車。北秋川と南秋川が合流し秋川の流れとなる交差地点に聳える山が檜原城跡。登山口を探す。あれこれ歩くがそれといった案内がない。交差点から檜原街道を少し南淺川によったところにお寺・吉祥寺。 臨済宗建長寺派の古刹で創建は応安6年(1373年)。なんとなくお寺から城山への道があるのでは、と見当をつけて境内に。本堂は工事中。土蔵に「三ツ鱗」。これって北条氏の家紋。北条ゆかり、ってことはひょっとしてこのお寺は檜原城主の菩提寺か。ということは、城につながる道があるに違いない、との推論。本堂横の山肌に「十三仏巡りの参道」。
とりあえず登る。不動明王、釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩、薬師如来、観世音菩薩、勢至菩薩、阿弥陀如来、阿閃(しゅく)如来、と参道というか山道に佇む仏様に手を合わせながらひたすら登る。結構きつい。時々仏様への参拝道は行き止まりとなる。これも修行(?)と分岐点まで引き返し、気を取り直しさらに登る。道の分岐は複雑。が、なんとなくすべてが山頂に向っているよう。息を切らしながら尾根に到着。

檜原城跡

尾根道を歩く。2箇所ほど比較的広い平坦なスペース。広さから見て、主要な曲輪への攻撃を防ぐ小さな曲輪・腰曲輪だろう。尾根の稜線にある2箇所の腰曲輪の間には空堀・堀切があり、腰曲輪の間の通路を遮断している。通路は細い土橋でつながる。頂上地点に13番目の仏さま虚空蔵菩薩が。このあたりが主郭 (曲輪)なのだろう。標高450m余り。30分程度で上り終えた。主郭の南には急斜面を下る尾根道。向いに見える最高峰への鞍部なのだろうが、いかにも危険そうでパス。しばし休憩。見晴らしはそれほど良くない。が、それなりの眺め。本宿の集落と戸倉方面が見渡せる。下りは幾筋もある道を適当に下る。急斜面を垂直に掘った空堀・竪堀(たてぼり)らしきものを見ながら、麓へと下りる。
檜原城は武州南一揆・平山氏が築いた城、というか砦。この場合の「一揆」は通常使われる一揆とは異なり、地域自衛共同体といったもの。通常は農耕に従事し、一旦事あれば「南一揆」の旗を掲げ、武器をもち戦いに赴く農耕武士集団。実力においても室町期に秋川の谷筋を守った強力な自衛集団でもあった。平山氏は戦国時代、北条氏に従属。武蔵と甲斐をつなぐ唯一の街道であった浅間峠からの道筋の戦略的抑えとして檜原の地に城を構え、甲斐・武田氏に備える。
永禄十二(1569)年の武田軍侵攻は、この街道ではなく本隊が碓氷峠越え、小山田信茂率いる別働隊は小仏峠越えで侵攻。結局のところ武田軍と檜原城の攻防戦はないままで終わる。天正十八(1590)年の小田原の役では、八王子城が1日で落城。檜原城主・平山氏重は八王子城代・横地監物ほか敗残兵を収容。前田利家、上杉景勝らの軍勢と干戈を交える。が、衆寡敵せず、七月十二日に落城、平山氏は城下で自害。家紋が北条と同じ「三ツ鱗」であることからわかるように、平山氏重は北条氏に重用されたのであろう。戦うことなく降伏した武将の多いなか、北条家に殉じた数少ない武将・土豪のひとりである。その後この城は徳川家康の関東入封と同時に廃城となる。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


口留番所
バス停に。前に 神社と見まごう趣き深い民家。表札には「吉野」さんと。このあたり、吉野街道とか吉野梅郷といった地名も多く、由緒ある家柄なのだろう。調べてみた。口留番所とのこと。甲州方面から檜原を通って武蔵国へ入る場合、秋川の橘橋を渡る。で、この橋の袂に設けられたのが口留番所。『武蔵名勝図会』によると「関の険固なることは類まれなる」とある。余程厳しかったのだろう。番所の役人は地元の名主。八王子の十八代官の一人から代々委任されていた。その名主宅が吉野家、ということだった。

光厳寺

バスに乗り、戸倉城跡に戻る。1時間に1本程度のサービス。戸倉までの道は、行きのバスで見た限りでは、快適な散歩道とは言い難い。歩道があるわけでなく、車道を3キロほど恐る恐る歩くことになる。バスに乗るのが正解だろう。
戸倉で下車。戸倉城跡のある城山を確認。秋川渓谷の入口に聳え立っている。登山口を捜す。バス停近くに「戸倉小学校・光厳寺」の標識。檜原城跡の吉祥寺ではないが、お寺からのアプローチを期待して寺に向う。光厳寺に。臨済宗建長寺派の古刹。「足利二ツ引両」の家紋。足利尊氏が創建したと伝えられている。ちな みに新田家は横線が一本の「一ツ引両」。門前の急斜面に樹齢 400年もの山桜。幹周り 533センチ、枝は東西に25メートル・南北に80メートルのび、高さは22メートル。東京都下三大巨樹桜のひとつ。

戸倉城跡
お寺左手に「城山」への案内。竹林の 中を進み山道に。最初はゆったりとし上り・下り。尾根に向かう。「掘切り」を越えると尾根道に。最初はゆったり。左手は断崖。少々怖い。次第に険しくなる。殆ど直登に近いのぼり道。左手は断崖。足がすくむ。頂上付近は切立った崖・岩肌。左手は断崖。高所が苦手なわが身にとしては。、腰を浮かすのも憚られる。岩肌にすがるように登る。主郭のある頂上に。小規模な削平地。櫓台跡(武器の倉庫)とも言われている。とはいうものの、スペースとしては狼煙あげる台があった程度、ではないかとも思う。
休憩。少々怖かった。が、頂上からの眺めは素晴らしい。絶景。五日市の市街まで一望のもと。檜原城からの烽火中継点としては理想的立地。休憩も終え下ることに。この西峰から東峰に尾根道が続いているようなのだが、如何せん、怖気心が先に立つ。登ってきた道を再び下りる。谷は極力見ないように、じっくりと腰を下ろし、というか岩にへばりつくようにゆっくり下りる。岩場を越え、右手の崖を見ないように尾根道を下る。 尾根道から斜面に降りる堀切りに到着。大安心。光厳寺まで戻り戸倉城跡登り終了。

戸倉城はもともと秋川渓谷周辺の武州南一揆の有力土豪・小宮氏の居城といわれる。で、後に滝山城を養子北条氏照に「渋々」譲った大石定久の隠居地に。とはいうものの、この大石氏、完全に北条氏に従ったわけではなく、青梅の谷に勢力を張る三田綱秀などと誼を通じ、北条に対する反抗の機会を伺っていたとも。定久のその後は定かではなく、八王子周辺の野猿峠で割腹したとか、 この地で天寿を全うしたとか諸説。天正十八年の小田原の役の頃は、大石氏は八王子衆として北条の家臣団に組み入れられ八王子城で戦ったといわれている。南一揆衆を一躍有名にしたのは、足利尊氏が武蔵野合戦で敗れたとき。南朝方の新田義宗軍に敗れ、羽村と拝島の中間点である牛浜の地から秋川を渡河。この秋川 の谷筋に逃げ込み、南一揆の諸将に匿われる。6日後には南一揆の諸将とともに府中に進撃。府中・国分寺・深大寺のあたりで両軍激突。南一揆が足利軍の戦陣で活躍し新田軍を追討した、と。世に言う金井原の合戦である。
戸倉バス停から五日市駅に戻り、本日の秋川古城跡散歩を終了。歩いた距離はそれほどない。が、450m程度の山登り、しかも結構厳しい直登、急峻な崖道と、散歩とは少々言い難いコースではあった。  


あきるの・八王子の丘陵と古城跡を歩く
青梅や秋川を歩いた時、折にふれて登場する武将がいる。大石氏がそれ。小田原北条氏が関東を制圧する以前、この地に覇をとなえた戦国の武将である。青梅の辛垣城とか、秋川の檜原城、戸倉城などが知られるが、八王子の北、多摩川に沿った地にもゆかりの地が点在する。東あきる駅近くの「二宮神社」、近くの高月には高月城。また、高月から尾根道を少し南に下った滝山城が、それである。
今回は、東あきる駅からスタートし、大石氏の足跡を辿る。歴史はそれはそれとしても、秋川・多摩川、草花丘陵・滝山丘陵といった、山あり川ありのハイキングが楽しめるコース、である。






本日のルート:
JR 五日市線・東秋留駅 > 二宮神社 > 高月城 > 高月城 > 滝山街道 > 滝山城跡 > 東京環状・16号 > 拝島橋 > 拝島大師

JR五日市線・東秋留駅

JR青梅線で拝島駅に。そこからJR五日市線に乗り換え東秋留(あきる)駅に。このあたりは現在「あきる野市」となっている。秋川市と五日市町が合併してできたもの。「あきる」の由来は、秋川の氾濫のため田圃の畦がしばしば崩されていたので「畦切」。このアゼキリ>アキル、となった。「切る」は開く。畦を開く>新しい土地を開く、って説もある。また、新羅の姫「アカルヒメ」に由来する、と、あれこれ。例によって諸説あって定説はなし。







二宮神社
駅を下り観光案内を探す。しごくさっぱりとした駅前。何もなし。とりあえず駅南に進むと普門寺。北条時宗によって建てられた、と。なかなか堂々とした構え。目指す「二宮神社」は駅の北のようだ。お寺前の道を北に向かう。JR五日市線の信号を渡るとすぐに鎮守の森。道脇に台地の上に「二宮神社」が鎮座する。
神社の案内;創立年代不詳。小川大明神とか二宮大明神と呼ばれていた。小川大明神の由来は、古来この地が小川郷と呼ばれていたため。二宮大明神の由来は、武蔵総社六所宮の第二神座であった、ため。二宮神社となったのは明治になって、から。この神社には、藤原秀郷にまつわる由来がある。秀郷は天慶の乱に際し、戦勝祈願のためこの神社におまいりした、と。故郷にある山王二十一社のうち二宮を尊崇していたため、である。天慶の乱とは平将門の乱のこと。またこの神社は、源頼朝、北条氏政といった武将からも篤い信仰を寄せられていた。滝山城主となった北条氏照も、ここを祈願所としている。
武蔵一の宮である小野神社の周囲には小野牧があった。この二宮のある小川郷にも小川牧がある。因果関係は定かではないが、馬の飼育・管理と中央政府の結びつきってなんらかインパクトのある関係だったのではなかろうか。実際小野牧に栄転した小野氏も、それ以前は秩父での牧の経営で実績をあげての異動であったように思える。藤原秀郷と二宮のかかわりは、母が近江の山王権現に祈願して授かった子、であったため。山王二十一社とは、 上七社・中七社・下七社の総称。そのなかでも特に重要な位置を占める上七社は大宮・二宮・聖真子・八王子・客人・十禅師・三宮である。秀郷は二宮にお願いして生まれたのであろう、か。ちなみに武蔵六宮とは一宮・小野神社、二宮は小川・小河神社(現二宮神社、東京都あきる野市)、三宮は氷川神社(のち一宮。さいたま市)、四宮は秩父神社(埼玉県秩父市)、五宮は金鑽神社(埼玉県神川町)、六宮は杉山神社(横浜市)である。
二宮神社の地は大石氏の館があったところ、と。『武蔵野 古寺と古城と泉;桜井正信(有峰書店)』によれば、貞和年間(1345年)鎌倉幕府の命により、木曽義仲の七代の孫・大石信重が築いた、とか。信濃国佐久郡、大石郷から移ってきた、とも。正平11年(1356年)には入間・多摩郡のうち、13郷を領している。大石氏はこの二宮神社の南に館を構えた。正平11年(1356年)から至徳元年(1384年)の間の28年間である。その後、陣場山麓上恩方案下に山城を築く。甲斐の武田信玄に対して西の備えとしたわけだ。この恩方城に至徳元年(1384年)から長禄2年(1458年)までの74年間居を構え、鎌倉公方持氏の滅亡、足利成氏と長尾影春の戦いなど、戦乱の巷を乗り切った。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

二宮考古館
石段を下り台地東の道に。道の東に公園。池がある。湧水池。日本武尊(やまとたけるのみこと)が国常立尊(くにたちのみこと)を祀ったところ水が湧き出た、とか。国常立尊は水の神さま。公園脇にハイキング案内図。羽村方面の「羽村草花丘陵」から南の滝山丘陵に続くハイキングコースが紹介されている。大まかなルートを頭にいれる。
その案内図を見ていると、二宮神社の裏に二宮考古館。道を少し北に進み、五日市街道に。二宮神社前交差点を西に。すこし進み石垣の間を南に折れる。神社境内脇に考古館。二宮神社周辺の遺跡や、市内で発掘された土器、石器などが展示されている。入口を入ったオープンスペース脇にスタッフの事務机。ご挨拶し、あれこれ説明を受ける。感謝。文化財地図やご紹介いただいた『五日市町の古道と地名』を購入し先に進む。

秋川
次の目的地は高月城。南に下り秋川を渡ったところにある。適当に南に下る。とりあえず秋川の土手に出て、そこを東秋川橋まで下ればいいか、といった成行きの歩み。野辺地区を下り、睦通りを交差し、小川地区を進むと秋川に。結構広い川幅。草が生い茂る。草の中に道筋が見える。堤防を折り、河川敷の中の道を進む。周りは一面の草地。「まむしに注意」といった案内に少々おびえる。川の中の道を進み東秋川橋に。橋の袂にはバーベキュー場。賑わいを眺めながら橋を渡る。川向こうに緑の丘陵が聳える。秋川を隔てた滝山丘陵の一角に高月城跡がある。





高月城跡
道路を南に下るとすぐに台地にのぼる道。舗装されている。すこしすすむと道の北側にホテル高月城。場所からすればこのホテルのあたりなのだが、如何せん足を踏み入れることを憚られる類のホテルではある。多摩川と秋川を見下ろす崖上にあり、あたりを睥睨したのではあろうが、あきらめる。
道の南に山に入る道がある。掘切の雰囲気もあるような、ないような。ともあれ、先に進む。台地にのぼる道は整地されていない。農具なども散見する。道をのぼり台地上に。そこは畑地。城の名残はなにもない。城の主郭と二郭はここにあった、とか。ちなみに先ほどのホテルのあったところは三郭跡である、と。
高月城に大石氏が移ってきたのは長禄2年(1458年)。古くからの豪族が滅び、管領山内上杉家が力を持ってきた時期。大石氏は山内上杉と誼を通じ上野国の守護代となり勢力をのばしていくことになる。城主は大石顕重。永正年間(1521年)までの60年この地を拠点とする。この城には戦国期の数奇人がしばしば訪れたよう。『廻国雑記』を書いた道興准后もこの地で城主と歌を詠んだ、とか。名城として知られたこの城も、戦術の変化などにともない加住丘陵の滝山城へと重点が移る。その後も高月城は滝山城の出城、というか砦の役割を果たす。尾根続きのふたつの城はコラボレーションを図り、秋川筋や立川・拝島・二宮方面からの敵に備えることにしたのだろう。

高月水田

高月城を離れ、次の目的地・滝山城に進む。加住丘陵に沿って南に進む。ところどころで丘陵方面に向かう道。尾根道に上りたいのだが、道案内はない。リスクは避けて山麓の道を南に。高月浄水場。この周囲は30haにわたる水田。高月水田とよばれる。東京都での最大級の水田。この浄水場で南北に分けられる。









滝山街道
高月浄水場前交差点から丘陵地帯に上る道が分岐する。車も走る道であり、これなら尾根まで進めるだろう、と山裾を進む道から離れる。峠までは、そこそこの距離。峠道を西に進む。丘陵の西側におりることになる。高月配水池の下を進み日野電工・高月病院あたりから南に。大乗寺、最教寺を道の両側に眺めながら進むと滝山街道に交差。滝山街道とは八王子から奥多摩町をへて甲府に通じる国道411号線のうち、八王子の国道16号線との交差点あたりから青梅市友田町2丁目あたりまでを指す。


谷地川

滝山街道・加住小西交差点を左折。滝山丘陵の西を下る。道に沿って谷地川が流れる。谷地川は八王子市戸吹町辺り、というから東京サマーランドの南あたりを源流とし、日野市栄町で多摩川に合流する13キロ弱の川。蛇行激しく、暴れ川であった、とか。丹木(たんぎ)町交差点。丘陵から下ってくる道は、先ほど高月浄水場で峠道に折れなければ歩いた道筋。滝山城跡への上り口は交差点のすぐ南。

滝山城址

滝山城へと上る。坂道、というか山道を掘切、土塁といった縄張りを眺めながら進む。結構規模の大きな構えである。三の丸跡、千畳敷跡脇を進む。道の左手は結構深い谷。複雑な地形。中の丸跡脇を進み、本丸跡に。ちょっとした公園となっている、金毘羅社脇に展望台。多摩川の眺めが美しい。
『武蔵野 古寺と古城と泉;桜井正信(有峰書店)』などを参考に滝山城のまとめ;「大永元(1521)年、武蔵国守護代・山内上杉氏の重臣、大石定重が高月城より移る。また、その子定久の築城とする説もある。天文十五(1546)年の河越夜戦で北条氏康は扇谷上杉氏を滅ぼし、山内上杉氏の勢力を上野に後退させる。武蔵の国人 領主たちの多くは北条の幕下に。大石定久もその一人で、氏康の三男、氏照を養子に迎えて隠居し秋川筋の戸倉に移る。氏照永禄2(1559)年ごろに滝山城に入城した、と。
戸倉城に隠居した定久ではあるが、かならずしも北条に全面的に服していたわけでもなく、上杉謙信や、北条氏照に勝沼城を追われ辛垣山城で抵抗していた三田綱秀らと誼を通じていた、との説も。また、定久は天文18(1549)年に八王子周辺の野猿峠で割腹した、あるいは謀叛が発覚して柚木城に移された、などの説もある。
永禄11年(1568)、信玄の駿河侵攻。甲相駿三国同盟の破棄。氏康・氏政父子は檜原城などの秋川筋の守備を固め、甲州勢に備る。永禄12年(1569)、信玄、勝頼、そして小山田信繁の軍勢が多摩川を挟んだ対岸の拝島付近、そして高尾山下の背後に布陣。三ノ丸まで陥落するも、師岡城主・師岡山城守らの奮戦で二ノ丸を抜くことができなかった。また、城主氏照は城を出て淺川廿里(ととり)、現在の多摩御陵に陣を敷き奮戦した、と。信玄は軍を退き小田原に向かう。一方の、氏照も鉄砲使用と集団戦にはこの城も適さずと、甲斐と接する要害の地に八王子城築城を決意。天正十二(1584)年ごろ、八王子に城を移し、滝山城は廃城となる。幾多の合戦にも一度も落城することのなかった名城であった、とか

尾根道を歩き国道16号線に
本丸跡を離れ、尾根道を南に進む。滝山自然公園を通り、ずっと南のJR八高線・小宮駅方面へのハイキングコースが続く。滝山城の遺構が残る。結構大規模な縄張りである。土塁や空堀が残る。尾根道を外れると急峻なる崖となっている。堀は非常に複雑で、かつ規模も大きい。二ノ丸の食い違い虎口周辺などはS字カーブというか、非常に屈曲のきつい土橋や馬出しとなっている。両側を深い谷津に挟まれている二ノ丸あたりの地形は「地形のうねり」大好きなるものとしては、うれしき限り。起伏の激しい丘、いくつもの深い天然の浸食谷、そして、それらの自然の地形を巧みに縄張りの中に取り込んだお城となっている。
尾根道をどんどん進む。少林寺の裏手を越えたあたりで道が分かれる。JR八高線・小宮駅方面へと尾根道散歩を続ける。しばらく進むと下り道。八王子車検場あたりに下りてきた。国道16号線・東京環状が丘陵を分断している。小宮駅方面には、国道を渡り再び丘陵にとりつき尾根道を進むよう。が、次の目的地は拝島大師。国道を北に向かう。

拝島橋

拝島橋をわたる。拝島の由来は、多摩川上流から流れてきた仏像が中州に漂着し、それを村人が拝んでいたことからきている、と。このあたりは昭島市。拝島大師というくらいなので、拝島市があるのかと思っていた。がそうではないようだ。昭和町と拝島村が合併し、両方の名前を足して二で割って出来たのが昭島である、と。地名にはよくあるパターン。橋を渡りしばらく歩き、国道16号線と奥多摩街道が交差するあたりに拝島大師がある。







拝島大師
拝島大師。天台宗の大寺。北条氏照の家臣・石川土佐守が娘おねいの眼病快癒を感謝し寄進した、と。大師堂、山門、鐘楼、多宝塔などの堂宇が並ぶ。大日堂にはさきほどメモした多摩川を流れてきた大日如来を祀る。天暦6年というから952年のことである。お正月に開かれる達磨市が有名。達磨の発祥の地は高崎市の少林寺。それに対し、このあたりの達磨は多摩達磨と呼ばれる。達磨が赤いのは達磨大師の着ていた僧衣が最高位の赤色であった、とか、赤は魔除けの効果あり、といったところから。ちなみに還暦の「赤いちゃんちゃんこ」も魔除けゆえ、とも。
お大師さんをはなれ、国道16号線と奥多摩街道が交差する堂方上交差点を北に。栗ノ沢交差点を北東に進みJR八高線を越え、消防署拝島出張所交差点を渡りJR青梅線・昭島駅に到着。

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