八王子・日野・国立・立川の最近のブログ記事

八王子城址散歩も三回目。今回のメンバーは私を含め大学時代の友人3名。東京赴任の友人が関西に戻るに際しての記念散歩。散歩の希望コースなどを訪ねていると裏高尾辺りなどどうだろう、という希望が出てきた。が、裏高尾といっても旧甲州街道を進み小仏峠を越えて相模湖に出る、といったコースであり、「歩く」ことが大好きな人ならまだしも、それほど「歩き」に燃えることがなければひたすら街道を歩き、厳しい小仏峠を越えるコースは、少々イベント性に欠ける、かと。
その替わりとして提案したのが、少々牽強付会の感はあるも、「歴史と自然」が楽しめる八王子城址散歩。個人的にもこの機会を利用して、二回の八王子城址散歩を終え、唯一歩き残していた、オーソドックスな絡め手口からのコースを辿りたいといった気持ちがあったことは否めない。
で、コース設定するに、それほどの山歩きの猛者といったメンバーでもないので、誠にオーソドックスに八王子城址正面口、城下谷から御主殿跡などの山裾の遺構を訪ね、その後、山麓、山頂の要害部に上り、「詰の城」まで尾根を辿る。そこで大堀切を見た後、再び山頂要害部へと折り返し、城山からの下りは、私の希望を入れ込み、八号目・柵門台から城山沢・滝沢川に沿って城山絡手口方面に向かい、心源院をゴールとした。
搦手ルートの「隠し道」といった棚沢道、詰の城から「青龍寺の滝」に続く尾根道、「高丸」へ上る尾根道など、少々マイナーではあるが辿ってみたいルートはあるものの、それは後のお楽しみとして、今回の散歩でオーソドックスな「八王子城城址攻略ルート」はほぼ終わり、かと。



本日のルート;JR高尾駅>中宿・根小屋地区>宗関寺>北条氏照墓所>八王子ガイダンス施設_午前9時28分>近藤曲輪>山裾遺構_午前9時52分(御主殿跡)>山麓遺構_午前10時42分(高丸)>山頂要害部_午前11時(山頂曲輪)>尾根道を詰の城に_午前11時50分(詰の城)>ピストン往復>八合目・柵門台_午後1時20分>城沢分岐_午後1時25分>清龍寺の滝分岐_午後1時35分>清龍寺の滝_午後1時50分>松嶽稲荷_午後2時15分>松竹バス停‗午後2時36分>心源院‗午後3時>河原宿大橋バス停>JR高尾駅

JR高尾駅
集合は常の通りJR高尾駅。タイミングよく、「八王子城城跡」行きのバスがあり、これも常の如く廿里(とどり)の古戦場跡の丘陵を越え、城山川の谷筋に下る。左手に先回の散歩で辿った左手に御霊谷の谷戸や太鼓尾根を眺めながら、梶原八幡の谷戸と御霊谷の谷戸を切り裂いた中央高速をくぐり抜け、八王子城跡入口交差点を左折。終点手前の「八王子霊園南口」で下車し、最初の目的地である宗関寺に向かう。

中宿・根小屋地区
バスを下り、中宿地区を進む。この辺りは、かつては「中宿門」を隔てて城下町と区切られた内城地域。小宮曲輪の案内に「城山川の谷戸部分にある根小屋地区(現、宗閑寺周辺)」とあったが、根小屋とは「城山の根の処(こ)にある屋(敷)」という意味であり、「城山の麓につくられた家臣団の屋敷のあるところである。とすれば、この辺りが根古屋地区だろう。根小屋は「根古屋」とも表記され、千葉であり埼玉であれ、古城散歩の折々に登場する地名である。

宗関寺
道の正面に鐘楼が見えてくる。朝遊山宗関寺である。この曹洞宗の禅寺は卜山和尚(ぼくざん)の開山とされる。もとは、北条氏照が再興した牛頭山(ごずさん)寺。その寺が天正18年(1590)の八王子合戦により類焼したため、文禄元年(1592)に卜山和尚により建立。寺号を氏照の法号をもって、「宗関寺」と改めた。宗関寺の元の地は、現在の寺の西北の谷合にあり、この地に移されたのは明治25年(1892)のこと、と言う。

◯卜山和尚
『多摩歴史散歩2;有峰書店』によると、卜山和尚はその弟子3万7千余名と称される大指導者。この地に生まれ、13歳で山田の広園寺で出家、その後全国の名だたる禅寺に遊学し、天文10年(1541)に再び故郷の地を踏む。弘治2年(1556)、北条氏照の知遇を得、牛頭山寺に迎えられた。これを契機に北条一門より私淑尊敬され、正親町天皇により紫衣を賜り、また「宗関神護禅寺」の扁額を贈られるという高僧であった、とか。

○中山信治
宗関寺境内には銅造の梵鐘があった。案内には「元禄2年、氏照100回忌供養のため中山信治によって鋳造。中山信治は中山勘解由の孫。水戸藩家老三代目当主である。第二次世界戦時中、元禄年間以降の梵鐘は押すべて押収されたが、この梵鐘だけが残った」、とあった。中山勘解由は八王子合戦では山頂要害部の松木曲輪を守り、多勢に無勢で破れはしたが、その勇猛さが家康の耳に入り、その遺児が取り立てられ水戸家の家老にまでなった、とか。
遺児が取り立てられ、如何なる経緯で御三家水戸家の家老になったのか少し気になりチェック。八王子城落城時、中山勘解由の遺児ふたりは武蔵七党の一族である中山氏の本拠地、現在の埼玉県飯能に落ち延びる。家康はそのふたりを見つけ出し、小姓に取り立てる。長男が照守。家康・秀忠に仕え御旗奉行まで昇進。二男が信吉。駿府城の火災のとき家康の第11子である頼房の命を救うなど、家康の小姓としてよく仕え、その人柄故に家康の信任篤く、頼房(当時5歳)が水戸家を興すとき付家老としてその任にあたる。信吉33歳の時である、
その後二代将軍秀忠のとき、水戸家は徳川御三家となり、その二代目藩主に光圀を推挙したのが信吉とのこと。信治はその信吉の第四子である。宗関寺の本堂正面の「宗関寺」の扁額の文字も梵鐘銘も水戸光圀公が重用した明の僧・心越禅師の筆となる、との所以も納得。


横地堤
宗関寺を取り巻く築堤は「横地堤」と称される。もと、この地には八王子城代・横地監物の屋敷があり、その城の防御施設として長大な土塁と堀が築かれていた。といっても、寺を囲む石垣は新しそうだし、どこかに土塁でも残っているのだろう、か。いまだ、「これが横地堤」といった堤には出合っていない。
宗関寺から先に進む。寺の角が心持ち「クランク状」になっているのは、枡形の名残とも。『多摩歴史散歩2;有峰書店』によると、宗関寺が移る前の明治24、5年頃には枡形が残っており、また、現在幅の広い車道となっている宗関寺以西の道も未だ無く、荷車も通れないほどの道があっただけ。その道が2間幅に広げられたのは大正になってから、と言う。
よくよく考えるに、横地屋敷にしても、またそれ以外の家臣の屋敷にしても、屋敷はこの車道を跨いで南北に広がる敷地ではあったろうし、先回の散歩でもメモしたように、家臣が日常使用する「下の道」は城山川の北岸に沿って通っていた、とのことであるから、屋敷の門も川沿いにあるのが自然ではあろう。川沿いの道は整備されることはあっても、現在の車道あたりに道は必要ない、かとも。
また、八王子城落城後、戦乱で焼失した「根小屋地区」の家臣団の屋敷跡はどのような状態であったか門外漢には定かではないが、城山は幕府の直轄林とされ、代官・江川太郎左衛門のもと植林が進み、「江川御山」とも呼ばれ厳重に管理されていた、と言う。伐採した木材を運び出すことはあっただろうが、明治になり日露戦争のために大量の木材を伐り出す必要が生じてはじめてこの辺りに「道」が開かれ、木材伐採が本格化した大正期に現在の車道のもとになる道が整備された、と言うことだろう。
八王子城を初めて訪れた頃、攻城軍の陣立てを見て、どうしてこんなに「快適な」城下谷の道筋を侵攻しなかったのだろう、などと思っていたのだが、当時は現在のように平地の真ん中に道、といった「風景」はなく、この辺り一帯は、城山川の南の「上ノ道」に築かれた防御台と一体となった家臣屋敷の土塁と堀に阻まれ、川沿いにしか道はなく、しかも合戦時は城山川を堰止めて沼湿地と化していたであろうから、それほど「快適な」侵攻路ではなかったか、とも。単なる妄想で根拠はないのだが、謂わんとするところは、現在の地形・地理・町の姿から、昔をあれこれ想うのは相当慎重にすべしと、改めて心に刻む。

北条氏照墓所
宗閑寺から八王寺城の方へ向かい、「北条氏照の墓」の道標を目安に道を右に折れ。小径を進むと小高い丘の上に北条氏照と家臣の墓がある。墓というより、供養塔といったものではあろうが、供養塔は氏照の百回忌追善の際に水戸藩家老の中山信治によって建てられた。上でメモしたように中山信治は中山勘解由の孫。氏照の両脇に建つ供養塔は中山勘解由と中山信治のもと、と伝わる(中山信治ではなくその父の信吉との説もある)。

○妙行和尚
供養塔のある台地からは先日歩いた心源院から城山へと続く尾根道に(368ピーク手前の344ピーク辺り)道は続くようだが、台地の右下にある竹林のあたりが旧宗関寺の敷地跡と言われる。供養塔から続く台地の上にも石仏、宝筐印塔(ほうきょういんとう)残り、なんとなく厳かな雰囲気を感じる。また、台地の左、けいが谷川が開く華厳谷戸(けいがやと)の谷奥は延喜13年(913)に妙行上人が庵を結んだ地と伝わる。台地上でお参りした宝筐印塔が妙行和尚(後の華厳菩薩妙行)のもの、とも伝わる。 この妙行和尚、八王子城の命名と、その城下町としての「八王子」という地名に深く関係する伝説をもつ高僧である。

◯妙行上人と八王子の地名起源
宗関寺に伝わる『華厳菩薩記』によれば、平安時代の延喜13年(913)、京都から妙行という学僧がこの地に訪れ、深沢山と呼ばれていたこの城山で修行。夢の中に牛頭天王(ごずてんのう)が現れ、八人の王子(将神:眷属(けんぞく)、従者。薬師如来の眷属が十二神将、釈迦如来の眷属が阿修羅を含めた八部衆、といったもの)をこの地に祭ることを託され、延喜16年(916)深沢山を天王峰に、周辺の8つの峰を八王峰とし、それぞれに祠を建て牛頭天王と八王子を祀った。これが八王子信仰の始まりである。 翌延喜17年(917)、妙行和尚の手により深沢山の麓 に寺が建立され伽藍も整備される。人々の間にも次第に八王子信仰がひろまり 、天慶(てんぎょう)2年(939)には妙行の功績が都の朱雀(すざく)天皇に認められ、「華厳菩薩(けごんぼさつ)」の称号が贈られる。それ以前は華厳院(蓮華院との説も)と称された寺名も八王子信仰ゆかりの「牛頭山神護寺(ごずさんじんごじ)」と改められた。
時代が下り、天正10年(1582)、北条氏照が居城を滝山城からこの深沢山(現在の城山)に山城を築くにあたり、その守護神、城の鎮守として、牛頭八王子権現を祭り、城を八王子城と名づけた。これが八王子という地名の由来になったとのである。

中山勘解由館跡
北条氏照の墓より車道に戻り先に進む。道脇の生垣に中にひっそりと中山勘解由館跡の石碑がった。八王子城は数回訪れているが、今回はじめて気がついた。道路南側の民家の敷地内のようであり、石碑を眺めるのみ。当然のことながら館は現在の道路を跨いだ敷地であったろうし、門は城山川の南岸に沿う「下の道」に面し、昭和30年(1955)代までは「勘解由」と呼ばれる土橋が城山川に架かっていたようである。登城のときは、橋を渡り太鼓尾根の中腹を御主殿へと向かっていたのではあろう。

八王子ガイダンス施設_午前9時28分
道を進むと近藤曲輪のあった手前当たりに「八王子城跡ガイダンス施設」がある。平成34年(2013)の4月にできたばかり、とのこと。施設内には八王子城とその時代を解説したビデオや、八王子城また城主北条氏照に関するパネル展示がされていた。また、八王子城に関する書籍の紹介や地図、そしてコンピュータグラフィックで八王子城を取り巻く山容や合戦の状況をジオラマ風に再現し、八王子城の全体像を把握するには誠に便利な施設となっている。

近藤曲輪_午前9時36分
八王子城跡ガイダンス施設を離れ駐車場の先の小高い場所が「近藤曲輪跡」。小高い場所の上は平坦地となっているが、この地にはかつて東京造形大学が建設された歴史があり、地ならしされてしまったのだろう。平坦地の中央には八王子城を取りまく山容のジオラマが展示されている。
近藤曲輪は八王子城の東端部。かつて家臣が日常の通路、物資運搬などに使用していた「下ノ道」は、中宿門から城山川の北岸を川に沿って進むが、この近藤曲輪の手前で川から離れ、近藤曲輪の下、馬防柵に沿って山裾に向かう。近藤曲輪を大きく迂回した「下ノ道」は「花かご沢」を「登城橋」で渡り登城門に向かっていた、と言う。登城橋があったのは現在の一の鳥居の先、新道と旧道が別れる辺り、とも。

◯近藤出羽守
近藤曲輪は近藤出羽守助実に由来する。近藤出羽守は北条氏照の重臣であり、氏照が大石家の女婿となったときに付き従った家臣のひとり。氏照の信任も厚く、氏照の下野攻略の後には下野国榎本城を預かる。八王子合戦に際しては榎本城を嫡子と家臣に任せ、八王子城に馳せ参じる。
合戦時には近藤曲輪、山下曲輪、アシダ曲輪を守り、前田勢や、降伏し最前線に投入された元北条方の松山衆(上田禅秀氏)や川越衆(大道寺政繁)との激戦の末に討ち死にした。
いつだったか八王子の湯殿川を散歩した降り浄泉寺に出合ったが、このお寺さまは近藤出羽守の開基とのこと。天正15年(1587)というから、北条市が秀吉勢を迎え撃つ臨戦体制をはじめた頃である。近藤出羽守の館はこの浄泉寺および御霊神社の当りにあったとのことである。


近藤曲輪から先は、八王子城の山裾の遺構、山麓遺構、山頂要害部の遺構、山頂要害部からは、尾根道を八王子城の西端の防御拠点である「詰の城」へのピストン山行となるが、以下概略のみをメモする。それぞれの詳しいメモは過去2回の、「八王子城趾散歩 そのⅠ」「八王子城趾散歩 そのⅡ」を必要に応じてご覧ください。


山裾遺構_午前9時52分(御主殿跡)
近藤曲輪を離れ、管理棟のある山下曲輪から林道に下り、城山川を渡り大手道に。左手に太鼓曲輪や堀切の残る太鼓尾根を眺めながら曳橋を渡り、御主殿跡に。御主殿跡から林道に下り、御主殿の滝でお参りし、林道を折り返し、管理棟へと戻る。






山麓遺構_午前10時42分(高丸)
管理棟から、山下曲輪と近藤曲輪を隔てた「花かご沢」の切れ込みを見やりながら、「一の鳥居」をくぐり登山道に。ほどなく登山道は新道と旧道に分かれるが、旧道は現在(2013年5月)倒木のため通行止めとなっていた。
ささやかな石垣の遺構、馬蹄段を見ながら金子曲輪に。金子曲輪から八号目の柵門台跡に。この地は搦手口からの道や山王台への道が合流する。九合目の「高丸」では、「下段の馬廻り道」が合流する。先に進むとほどなく東が一面に開け、見晴らしのいい場所にでる。山頂要害部まではもう少し。

山頂要害部_午前11時(山頂曲輪)
眼下に広がる景観を楽しみ少し進むと「中の曲輪跡」に設けられた休憩所。休憩所の裏手から「小宮曲輪」に向かう細路に入り、小宮曲輪から尾根道を「山頂曲輪」に。そこから中の曲輪の八王子神社、その傍の横地社にお参りし、「松木曲輪」に。

尾根道を詰の城に_午前11時50分(詰の城)
「高尾・陣馬山縦走路」の道標を目安に山頂要害部の南をぐるりと廻る。ほどなく「坎井(かんせい))と呼ばれる井戸があるが、そこに続く道は「上段の馬廻り道」。「井戸」からジグザグ道を下り、山頂要害を廻り切ったところに「駒冷やし」。山頂要害部を守るため、尾根道を切り取った大きな「堀切」となっている。
「駒冷やし」から緩やかなアップダウンを繰り返し600mほど尾根道を進むと「詰の城跡」。その西にある堀切を眺め、再び山頂要害部に戻る。そこから八号目・柵門台まで下り、そこから搦手口への道へと下りてゆく。


ここからは新規ルートのメモ

八合目・柵門台_午後1時20分
柵門台から「松竹バス停」への道標に従い登山道を離れて左に折れる。正確にはこの道は登山道の旧道なのだが、現在旧道は通行止めとなっている。その旧道を少し下ると更に左に分岐する道に入る。この道が搦手口からの道筋である。この辺りは数回過去数回トライしたのだけれど、ブッシュに阻止され進めなかったように思う。その後道の整備をしたのだろうか。不思議である。

城沢分岐_午後1時25分
道筋を数分進むと、先日心源院から城山へと尾根道を辿り搦手口からの道と合流した地点に着く。そこから「松竹橋バス停」の道標に従い、左手の道に入る。道は思いのほか整備されている。この道は城沢道と呼ばれる。搦手口から柵門台へと向かう搦手口からの正式な登城道である。道の左には名前の由来でもある「城沢」と呼ばれる沢がある。城沢は滝沢川に合流する沢のひとつである棚沢の支沢である。


清龍寺の滝分岐_午後1時35分
木々に覆われた道を下ると全面が開けてくる。木々が一面伐採されている。伐採されたところを下り終えた辺りに「清龍寺の滝」の道標。予定にはなかったのだが、時間も十分余裕があるので、ちょっと寄り道。
少々ブッシュっぽい踏み分け道を進むと沢に当たり、それも二つの沢に分岐している。進行方向右手が清龍寺へ向かう「滝の沢」、左手の城沢道に近いほうが「棚沢」である。この棚沢からの道が八王子合戦の時、平井無辺の内通により秘密裡に搦手口から攻め上り、背後から小宮曲輪を攻撃した上杉勢の侵攻路との説がある。

○棚沢口からの侵攻路
『戦国の終わりを告げた城;椚国男(六興出版)』によると、この棚沢道が上杉勢の侵攻路とある。城沢道は正規ルートで奇襲はできないし、清龍寺の滝のある滝の沢は城外であり、修験者が住む信仰の沢で、西側の尾根に上る道はあるが細路で、しかも小宮曲輪に遠すぎる。棚沢道は正規の城沢道に対して背後から馬廻り道に上る通用路または「隠し道」であったのだろう。この道を這い上がれば棚門台を通らず直接山頂要害部にでることができる、とある。
地形図をチェックすると、沢頭は山頂要害部のすぐそばまで続いている。棚沢を山頂に上るには、棚沢の左岸を進み横沢までは急な道であるが、その先はほぼ水平の道となる。岩を割ってつけた道を進み、棚沢の滝の上を跨ぎ水汲み谷と呼ばれる小さな沢に至ると、そこが11段ある馬蹄段の最下段。この最下段には棚沢の滝から左手の斜面をよじ上っても這い上がれるようである。 上杉勢はこのような棚沢口を這い上がり、小宮曲輪に背後から奇襲をかけ、八王子合戦の勝敗を決した、と。詰の城からの石垣跡のある尾根道を下ると、棚沢の滝の近くに下れるようである。そのうちに棚沢を山頂要害部へと這い上がるか、詰の城から下ってみたい。

清龍寺の滝_午後1時50分
棚沢との分岐から15分ほど、倒木や沢道など足場の悪い道を進むと「清龍寺の滝」。活水期で水は全く流れていない。滝下にある水量計が手持無沙汰な風である。滝は3段に分かれており、水があれば結構見栄えがする滝ではあろう。

松嶽稲荷_午後2時15分
沢道を戻り、清龍寺の滝への分岐から林道を松竹バス停へと下る。ちょっとした段状地やその昔家臣の屋敷があったとも言われる平坦地を想い、左手には先日心源院から辿った尾根道を見やりながら800mほど道を進むと杉の巨木に囲まれた朱色の社が佇む。かつては、この辺りに搦手口の城門があったとも言われる。
既にメモしたように、初期の八王子城は北側の案下谷側に大手口が構えられていたとされ、後年八王子城を大改修する時期に大手口城下谷(中宿)側に変更されたとの説があるが、城山(深沢山)の北側に広がる「案下谷」には、下恩方地区の浄福寺城とその山麓の浄福寺や、上恩方の興慶寺といった室町期創建の寺院が点在する。甲斐の武田に備えたこの案下の谷筋は、比較的古い時代から開けていたのであろう。夕焼け小焼けの里から案下道を辿った記憶が蘇る。


○城山北川防衛ライン
城山搦手口の防衛ラインは、松嶽稲荷辺りの搦手口城門一帯と心源院から城山に続く尾根道、川町の城下谷丘陵北端部、そして大沢川。『戦国の終わりを告げた城;椚国男(六興出版)』によると、「搦手口の松嶽稲荷から西方一帯は、山裾から北へ河岸段丘面・氾濫原・案下川と続き、川は水堀、段丘崖は防塁となっている。段丘崖は4,5mあり、段丘崖下に空堀。段丘面の端には柵が築かれ内側に家臣が詰める」とある。そう言われれば、松嶽稲荷南の段状崖も「土塁」のようにも思えてくる。
心源院からの尾根道の防御ラインは、心源院の土塁、尾根道上の向山砦、松嶽稲荷の東の尾根道下には「連廓式砦跡」が残る、とも。川町の城下谷丘陵北端部には小田野城(現在の都道61号小田野トンネル上)。小田野城は八王子城主・北条氏照の家臣小野田太左衛門屋敷があり、八王子城の出城のひとつと言われる、城は天正18年(1590)の八王子城攻防戦の際、城の搦手口(城の表口である大手門に対し、「裏口」にあたる搦手門のある場所)を攻めた上杉景勝の軍勢により落城した
大沢川沿いには段状地が築かれ、遠見櫓があったような尾根上の平坦地もあり、搦手口同様に重要な拠点であった、とのことである。

松竹バス停‗午後2時36分
松嶽稲荷から成り行きで東に進むと行く手を瀧の川に阻まれる。橋はないので、松竹橋まで引き返すことになったが、搦手口の場所は滝の沢川と案下川の合流点付近とか、松竹橋付近といった説もあるので、その雰囲気を味わったことでよしとする。 松竹橋まで戻り、本日の最後の目的地である心源院へと向かうが、先日の散歩でもメモした深沢橋まで橋は無い。陣馬街道を東に戻り、かつての鎌倉街道山の道の道筋で右に折れ、深沢橋へと進む。

○陣馬街道
陣場街道という名前は古いイメージがあるが、その名称は最近付けられた、とか。東京オリンピックの頃と言う。それまでは「案下道」とか、「佐野川往還」と呼ばれ、和田峠を越えて藤野・佐野川に通じていた。街道筋には、四谷宿(八王子市四谷)、諏訪宿(八王子市諏訪)、川原宿、高留宿(上恩方町;夕焼け小焼けの里のあたり)といった宿場があった。
この案下道は、厳しい小仏関のある甲州街道を嫌い、江戸と甲州を結ぶ裏街道として多くの人が利用したと言う。因みに「案下」とは仏教の案下所から。修行を終え入山する僧が準備を整え出発する親元(親どり;親代わり)の家のこと。なんともいい響きの名前だ。また、この辺りの地名である恩方も美しい響き。奥方が変化した、との説がある。山間の奥の方、と言うところだろうか。

○鎌倉街道山の道
鎌倉街道とは世に言う、「いざ鎌倉」のときに馳せ参じる道である。もちろん軍事面だけでなく、政治・経済の幹線として鎌倉と結ばれていた。鎌倉街道には散歩の折々に出合う。武蔵の西部では「鎌倉街道上ノ道」、中央部では「鎌倉街道中ノ道」に出合った。東部には千葉から東京湾を越え、金沢八景から鎌倉へと続く「鎌倉街道下ノ道」がある、と言う。
「鎌倉街道上ノ道」の大雑把なルートは;(上州)>児玉>大蔵>苫林>入間川>所沢>久米川>恋ケ窪>関戸>小野路>瀬谷>鎌倉。「鎌倉街道中ノ道」は(奥州)>古河>栗橋>鳩ヶ谷>川口>赤羽>王子>二子玉川> 荏田>中山>戸塚>大船>鎌倉、といったものである。
鎌倉街道といっても、そのために特段新しく造られた道というわけではないようだ。それ以前からあった道を鎌倉に向けて「整備」し直したといったもの。当然のこととして、上ノ道、中ノ道といった主要道のほかにも、多くの枝道、間道があったものと思える。 で、この鎌倉街道山ノ道、別名秩父道と呼ばれる。鎌倉と秩父、そしてその先の上州を結ぶもの。鎌倉からはじめ、南町田で鎌倉街道上ツ道と別れ。相原、相原十字路、七国峠を越えて高尾に至り、高尾から北は、秋川筋に、次いで青梅筋、名栗の谷、そして最後は妻坂峠と、幾つかの峠、幾つかの川筋を越えて秩父に入る。

心源院‗午後3時
深沢橋から少し南に戻り、大きな石の柱を目印に心源院に。山号は「深沢山」。八王子城の築かれている山の名前である。深沢はこの深沢山の山麓から流れ出す滝沢川が刻む棚沢とか横沢といった深い沢を現すように思える。深沢山の南側にそれほどに深く刻まれた沢は見られない。
それはともあれ、心源院に入る。広い境内の奥に本堂。広い境内の割に堂宇が少ないのは、昭和20年(1845)の八王子大空襲で七堂伽藍すべてが灰燼に帰したため。現在の本堂も昭和47年(1972)に再建されたもの。お寺の東側に10mほどの高さの台地があるが、それは八王子城の土塁跡とのこと。城山北側から尾根道を八王子城へと進軍する秀吉方への防御拠点として、小田野城(心源院の少し東)、浄福寺城(心源院の少し西)とともに、心源院も砦として組み込まれていたのであろう。そのためもあってか、小田原合戦の際、豊臣勢の上杉景勝の軍勢との攻防戦の際に焼失している。更には江戸時代の河原宿の大火でも延焼しているため、古文書などは残っていないようである。
この寺はもともとはこの地に勢力を誇った武蔵国の守護代である大石定久が開いた寺。滝山城を築き北条と覇を競った大石氏であるが、北条の力に敵わずと北条氏照を女婿に迎えに滝山城を譲り、自らは秋川筋の戸倉城に隠居した。
とはいうものの、木曾義仲を祖とする名門・大石氏は北条に屈するのを潔しとせず、面従服背であった、とも。大石氏ゆかりの地には散歩の折々に出会う。戸倉城山にも上り、結構怖い思いもした。多摩の野猿街道あたりにも大石氏にまつわる話もあった。東久留米の古刹浄牧院も滝山城主大石氏が開いた、と。この大石定久の最後については、よくわかっていないようだ。

○松姫
この心源院は武田信玄の娘である松姫ゆかりの寺である。武田家滅亡の折り、甲斐よりこの地に逃れた悲劇の姫として気になる存在である。7 歳で信長の嫡男・信忠と婚約。元亀3年(1572)武田と徳川が争った三方原の合戦に織田が徳川の味方をした。ために、婚約は破棄。松姫11歳の時である。元亀4年(1573)信玄、没するにおよび、兄の仁科盛信の居城・高遠城に庇護される。が、天正10年(1582)、信長の武田攻めのため、盛信や小山田信繁の姫を護って甲州を脱出。道無き道を辿り、和田峠を越え、陣馬山麓の金照庵に逃れ、北条氏照の助けを求めた、と。もっとも、松姫の脱出路は諸説ある。先日大菩薩峠を越えた時、牛尾根の東端に松姫峠があった。伝説では、松姫はこの峠を越えた、と言う。
天正10年(1582)、武田勝頼は天目山で自害し武田家滅亡。この武田攻めの総大将は元の婚約者織田信忠。何たる因縁。信忠は松姫を救わんと迎えの使者を派遣せんとするも、本能寺の変が勃発。信長共々信忠自刃。何たる因縁。
ともあれ、金照庵から移ってきたのが、この心源院。22歳のとき。当時の心源院六代目住職は宗関寺でも登場した卜山禅師。卜山禅師の庇護のもと松姫は出家し信松尼となる。しかし、この心源院も八王子合戦で焼失し、天正18年(1590)、八王子市内にある草庵に移り、近辺の子どもに読み書きを教えながら、幼い姫君を育て上げた、と。八王子は武田家遺臣が多く住む。八王子千人同心しかりである。大久保長安を筆頭とする武田家遺臣の心の支えでもあった、とか。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

松姫の悲劇で思い出す姫君が源頼朝の娘・大姫。木曾義仲の嫡子・義高との婚約。が、義仲と頼朝の争い。頼朝の命による義高の誅殺。頼朝・政子に心を閉ざし生きる大姫。唐木順三さんの『あずまみちのく(中公文庫)』の大姫の記事などを思い出す。

河原宿大橋バス停
心源院で先日歩いた秋葉神社やその尾根道から眺めた「寺の谷戸」や「寺の西谷戸」の地形をじっくりと下から確認し、北秋川に沿って河原宿大橋バス停に進み、本日の散歩は終了。バスでJR高尾駅に戻り、一路家路へと。
初回の散歩から日をおかず、二回目の八王子城址散歩に出かける。メンバーは元会社の同僚とのふたり旅。今回のルートは、八王子城の南を護る「外廓」でもあった太鼓尾根を辿り、先回の散歩で富士見台から下った尾根道を逆に上り返し、富士見台、詰の城を経て城山へと向かう。
太鼓尾根にはいくつかの堀切、そして太鼓曲輪がある、と言う。また太鼓尾根の中腹には城への登城路であった「上の道」が続く、とも。現在八王子城址へは霊園口バス停から宗閑寺をへて城山方面に広い道が開かれているが、大正の頃までは道と言えるような道もなかったようである。戦国の頃はこの太鼓尾根の東端にある「上ノ山」の麓に大手口があり、そこから太鼓尾根の北の山腹を辿る「上の道」がメーンルートであった、とか。
現在では「上の道」は藪で覆われているとのことだし、太鼓尾根のルートもはっきりしない。人によっては険路、とあったり、何ということのない「軽い」ルートなどコメントもさまざま。念のためロープとハーネスと、ちょっと大層な準備をして散歩に出かける。



本日の本日のルート;JR高尾駅>宮の前バス停>梶原八幡>御霊谷神社>太鼓尾根への取りつき口>中央高速にかかる不思議な橋>上の山>太鼓尾根の尾根道>第一堀切>片堀切>第二堀切>第三堀切>太鼓曲輪>第四堀切>第五堀切>見晴らし所>太鼓尾根分岐>荒井バス停分岐>城山林道からの道の合流点(現在通行禁止)>城山川北沢への分岐(標識なし)>小下沢道分岐(悪路)>富士見台>詰の橋・大堀切>堀切>馬廻り道(下段)>高丸>中の曲輪>八王子神社>山頂曲輪>小宮曲輪>松木曲輪>見晴らし所>八合目・棚門台跡>殿の道>山王曲輪>殿の道>御主殿跡>御主殿の滝>曳橋>大手道・大手門跡>上の道>大手道・大手門跡>山下曲輪>近藤曲輪>八王子城址ガイダンス施設>宗関寺>中山勘解由屋敷跡>霊園口バス停

JR中央線高尾駅
JR中央線高尾駅で下車。駅前のバス乗り場より、最初の目的地である御霊谷の太鼓曲輪取り付き口の最寄りのバス停である「宮の前」に向かう。バスは大久保行きのほか、陣馬高原行き、室生寺団地行き、恩方車庫行き、美山行きなど、でも川原宿大橋のバス停に行くようではある。
駅前を離れ、バスは北に向かう。この道は都道46号、別名、「高尾街道」と呼ばれる。高尾街道はJR高尾駅からはじまり、北東に上り「滝山街道」の戸吹交差点で終える。高尾街道は別名「オリンピック道路」とも呼ばれる。東京オリンピックのとき、自転車ロードレースのコースであった。

廿里(とどり)古戦場
南浅川にかかる敷島橋を渡ると、道は山裾を縫って上る。坂道の途中には「廿里(とどり)古戦場の碑」がある。小田原北条と武田の古戦場跡。永禄12年(1569年)、武田軍主力が上州の碓氷峠を越えて武蔵に侵攻。小田原攻略のためである。で、この八王子に南下し北条の戦略拠点である滝山城を攻める。この主力部隊に呼応し、小仏峠筋より奇襲攻撃をかけたのが大月城主・小山田信茂。難路・険阻な山塊が阻む小仏筋からの部隊侵攻を想定していなかった北条方は急遽、この廿里に出陣。合戦となるもあえなく武田軍に敗れた。北条氏がこの地の主城を滝山城から八王子城に移したのも、この負け戦が大きな要因、とか。小仏筋からの侵攻に備え、小仏・裏高尾筋を押さえる位置に城を築いたわけである。

宮の前バス停
森林総合研究所のある山裾の坂道を上る。多摩森林科学館前交差点で大きな道路に合流。甲州街道の町田街道入口からのびる高尾街道のバイパスである。合流点より先にも上り坂。左右は緑の山稜。道の東は多摩御陵、多摩東陵、武蔵野陵といった皇室のお墓。道の西は森の科学館が広がる。豊かな緑を目にしながら坂を下ると城山大橋の三叉路。高尾街道は北東に進むが、バスは高尾街道を離れ、都道61号に乗り換え三叉路を北西方向に進む。
新宮前橋で北淺川の支流・城山川を渡り、少し進むと宮の前バス停。太鼓尾根への取り付き口に進む前に、宮の前の名前の由来でもある梶原八幡様に向かう。

梶原八幡_午前9時24分
御霊谷と逆方向の東側に道を渡り参道を八幡様に。この八幡様は鎌倉幕府の御家人・梶原景時が建てたと言われる。鎌倉の鶴ケ岡八幡の古神体をこの地に奉祀したもの、とか。参道に梶原杉といった切り株も残る。で、そもそも何故この地に梶原か、ということだが、梶原景時の母がこのあたりに覇をとなえた横山氏の出。この地に景時の領地もあった、よう。
梶原景時って、義経いじめ、といったイメージが強い。また、鎌倉散歩のとき、朝比奈切り通しで「梶原大刀洗水」といった清水の流れを目にした。頼朝の命により、上総介広常を討ち、その太刀を洗ったところ、とか。いずれにしても、あまりいい印象はない。 どういった人物か、ちょっとメモ;もともとは平氏方。坂東八平氏である鎌倉氏の一族であり、頼朝挙兵時の石橋山の合戦では一族の大場氏とともに頼朝と戦う。で、旗揚げの合戦に破れた頼朝の命を助けたため、後に頼朝に取り立てられ、頼朝の側近として活躍。教養豊かで都人からも一目置かれるが、義経とは相容れず対立。頼朝と義経の関係悪化をもたらしら張本人と評される。頼朝の死後は、鎌倉を追放され、一族もろとも滅ぼされた。


御霊谷の谷戸
梶原八幡からバス停まで戻り、バス停脇の雑貨店の南の道を御霊谷の集落に。この御霊谷の谷筋は鎌倉期より開けており、信長の安土城に倣い八王子城を大改修するに際し、大手口を案下谷(恩方谷)から御霊谷に移し、御霊谷川の左岸に朱色の御霊谷門が食い違い虎口,内枡形などを伴い建っていた、と。 当時の家臣の登城道はこの御霊谷門を大手口とし、御霊谷地区の北の太鼓尾根の東端、現在は中央高速により分断されている「上の山」の鞍部を経て太鼓尾根の北側(城下川側)の丘陵中腹を城山の麓にあった御主殿へと続いていたようである。

御霊谷(ごりやつ)神社_午前9時40分
御霊谷地区に入り、太鼓尾根やその東端の「上の山」を見やり、御霊谷地区の谷戸を進む。道が中央高速をくぐる手前に御霊谷神社。まずはお参り。古き趣のこの社は、梶原景時の祖先神である坂東八平氏のひとり、鎌倉を拠点とした故に「鎌倉権五郎影政」と称された平安後期の武将を祀る。神社の裏手にはいくつかのささやかな社が祀られるが、稲荷の裏手には、「北条菱」が刻まれた石塔が建つ、とのことだが見逃した。
天正18年(1590)の八王子城の戦いの際は、この神社辺りに南本営が置かれ、鈴木彦八の指揮のもと、豊臣勢の攻撃に相対した、と。当時は谷戸の一帯は湿地であったようで、御霊谷川を堰止めて池沼とし防御ラインを構築したとのことである。

太鼓尾根への取り付き口へ_午前9時51分
御霊谷神社を折り返し、太鼓尾根の東端である「上の山」に。取り付き部の目安は「竹藪とその手前の梅ノ木」といった情報を目安に、道から分かれる取りつき口を探す。今ひとつ確信はないものの、バス停脇から入ってきた道筋と沿って流れる御霊谷川が大きく湾曲して道から離れるあたりに建つ民家の西脇から竹藪へと向かう踏み分け道を見つけ、とりあえず車道を離れ竹藪へと向かう。

中央高速に架かる橋・中宿橋‗午前10時
踏み分け道を竹藪に入る。道らしきものはなく、竹藪の中をとりあえず中央高速の車の音のするほうへと突き進む。力任せの藪漕ぎで中央高速が見えるところまで這い上がる。と、左手に中央高速に架かる人道橋が見える。この橋を渡って太鼓尾根に入る、とのことであるので、中央高速と離れないように竹藪を進み、人道橋のある、と思うあたりで再び這い上がり人道橋南詰に。
しかし、不思議な橋である。橋を渡った南には橋から続く道はなく、崖を下りて道なき竹藪の中を進むしかない。なんとなく気になりチェックすると、中央高速建設に際し、当時の建設省と八王子市そして地域住民が協議し、高速道路によって行き止まりになってしまう杣道や畦道なとの「赤道」を、この橋の建設で代替とした、とのこと。
それにしても、疑問が残るのは中宿橋と呼ばれる橋の名称。中宿は、御霊谷の東端である「上の山」と梶原八幡のある丘に挟まれたところであり、外郭部の城下町と内城部分を仕切る中宿門(中門とも)が在った地区の名前である。場所からすれば、御霊谷橋といったほうが自然と思えるのだが、昔には御霊谷川に御霊谷と称する橋があったのだろう、か(今は見当たらない)、それとも、御霊谷の谷戸から中宿に抜ける道があったのだろう、か。妄想は広がるが、このあたりで止めておく。

御霊谷門・上の山
中宿橋の辺りは中央高速によって削られた太鼓尾根の東端は「上ノ山」のあったところ。上に御霊谷門が御霊谷川の左岸にあったようだとメモした。その位置は上ノ山の丘の南麓にあったとのこと。その場所は不詳であるが、『戦国の終わりを告げた城』には「(中宿橋を)御霊谷側に下ると竹林の中に小刻みの段状地が4段あり、ここを大手口と推定した」、とある。とすれば、御霊谷門は先ほど上り下りの藪漕ぎをした竹藪辺りかもしれない。
御霊谷門からは上ノ山の鞍部を越えて太鼓尾根の北側中腹を御主殿に向かって登城道が通り、その北には中宿門から西にはか新屋敷が連なる。そして尾根の南北に重要な門を見下ろす上ノ山には見張り台があり、ふたつの門の防御する指揮所でもあったのだろう。とはいうものの、合戦では中宿門も御霊谷門も、あっと言う間に破られている。(『戦国の終わりを告げた城』)を参考に合戦の状況をまとめておく。


 ○八王子合戦
攻城軍は寄居の鉢形城を落とし東松山の松山城に駐屯していた前田利家と上杉景勝の軍勢。その数は、降伏した大道寺(松井田城主)、難波田・木呂子勢(松山城の籠城軍勢;東松山)を含め2,3万と伝わる。攻城軍は松山城を出立。関東山地山麓よりの道を南下し、旧暦6月22日の夜更け、多摩川を大神(昭島)から金扇平(八王子市平町)に渡り(注;現在八高線が多摩川を渡る辺り)、南加住丘陵、北加住丘陵を越え暁町の名綱神社辺り(注;現在の小宮公園の南)で二手に分かれる。
一隊は搦め手口攻撃隊。川口川の北岸を西に進み、甲原(注;現在工学院大学のある辺り)をへて南に向かい調井の丘(注;現在の八王子市立川口小学校んの東;昔川口氏館跡あたり)から北浅川の北岸を西に進み、川を渡って案下(恩方)の搦め手口に。
別の一隊は名綱神社から南に進み浅川を渡って大義寺(元横山町)の辻から西に進み、南浅川を渡り横川を経て月夜峰(現在協立女子学園がある辺り)の丘陵に向かう。
一方の八王子城の北条勢。籠城態勢に入ったのは天正16年(1588)の1月。天正17年(1589)の夏には、城主の北条氏照は精鋭数千を引連れ小田原城に。留守を老将である横地監物、狩野一庵、中山勘解由に託す。城内には将士の他、各郷から集められた雑兵、番匠、鍛冶、修験者、僧、そして人質としての妻子など数千。

攻撃当日の天正18年(1590 )6月23日。攻撃開始は午前2時。上杉景勝勢8000は月夜峰から出羽山砦(注;は現在の出羽山公園辺り;八王子市城山手1-4近藤出羽守が築いたとされる砦。近藤出羽守は合戦当日には山下曲輪を護る。)へと尾根伝いに進み、御霊谷門を打破って上ノ山に上がり、更に尾根伝いに太鼓曲輪へと進撃。別働隊は御霊谷の湿地を進撃し、御霊谷神社辺りにあった南本営を打ち破り、御霊谷の谷戸の更に奥の駒ケ谷戸や大谷戸方面から太鼓曲輪の奥に進み攻め入った、と。
一方、降伏した大道寺勢を前面に押し出した前田利家の軍勢15000は横山口の大城戸に攻め入り、中宿門を護る馬場対馬守を破り、午前4時頃には太鼓曲輪を破った上杉勢と合流し、八王子城の守備の要である山下曲輪に襲い掛かり守将の近藤出羽守を打ち取っている。
山下曲輪を破り城山にある金子曲輪に攻め入り、山頂の小宮曲輪で激戦となるも、内通者に率いられ、搦め手側から攻め上った上杉別働隊が背後から攻め寄せ落城となる。明け方には勝負がついていたようである(午後4時頃との説もある) 八王子合戦は秀吉の小田原征伐で唯一の「殲滅戦」とも言われる。埼玉・寄居の鉢形城の攻防戦など、その他の攻城線での穏便な、秀吉に言わせれば「緩慢な」攻城戦を秀吉に咎められ、面目を失った前田・上杉勢はこのときとばかり八王子で大殺戮戦を行った、とか。合戦の後の両軍の死者は諸説あるも、それぞれ1000名を越える、とも。いつだたか、八王子の湧水を辿っていたときに出合った相即寺には戦いで亡くなった将士を供養する地蔵堂があった。

埼玉・寄居の鉢形城攻防戦での「緩慢」なる攻城戦を秀吉に咎められ、面目を失った前田、上杉がこの時とばかり攻めかかった、とか。小田原攻めで唯一とも言われる大殺戮戦が行われた、とある。

太鼓尾根に入る
中宿橋を渡り、右にも左にも細道があるようなのだが標識がなく、なんとなく踏み分け道っぽい右側に回り込み緩やかな上りを太鼓尾根に入る。途中、御霊谷門から上ノ山の鞍部を越えて南に繋がるという「上ノ道」への道筋などないものかと注意しながら進んだのだが、それらしき踏み分け道も見つけることができなかった。安土城の6mを越える8m幅の登城路跡らしき道筋も残っているようである。そのうちに歩いてみたい。

286mピーク_10時23分
木々に覆われた緑の尾根道を進むと、竹林のトンネルが現れる。いつだったか歩いた旧東海道箱根越え・西坂を三島に下ったときの笹竹のトンネルを思い出した。270mピークの「じゅうりん寺山」を越え、ゆるやかなアップダウンを繰り返し尾根道を進む。じゅうりん寺山から北西に進んだ尾根道が南西へと向きを変える辺りの254m地点に「見張台」があったとのことだが、素人には遺構などはわからない。
尾根道南麓の木々の隙間から民家の屋根などを見やりながら10時23分に286mピークに。ここまで尾根道の踏み跡はしっかりとしており、道に迷うことはなかった。


第一堀切_10時35分;標高275m
尾根道を進み、286mピークから10分強歩くと、突然尾根道が寸断され崖っぷちに。ここが太鼓尾根の第一堀切。尾根道からの敵の侵攻を防ぐために人工的に岩盤を掘り切っている。掘り切った石は石垣などに利用されているようである。第一堀切の場所は、御主殿跡に向かう大手道東端の「進入禁止」の柵のあるところより少し東に入ったあたりである。
足元を注意しながら底に下り、左右の堀切崖面を見る。底から5m程度といったところだろうか。また、岩盤故か、倒木が多い。堀切の幅は結構広いが、これは倒木による掘り返しにより次第に幅は広く、丸くなってしまったのだろう。縄張り当時はもっと狭く、V字になっており、曳橋が架けられていた、と。

片堀切_午前10時41分;標高287m
第一堀切からほどなく「片堀切」の案内。両側を掘らず、片側だけを掘ったもの。比高差は4m程度である。この辺りから太鼓曲輪北麓下には御主殿続く大手道が見える。








第二掘切_午前10時52分:標高290m
片堀切から10分程度で第二堀切。底に下りて左右の崖を見る。東崖との比高差3m、西崖面との比高差12mほど。薬研堀と称されるようにV字に切れ込んだ雰囲気を残す。場所は御主殿に繋がる曳橋の少し手前といった辺りである。







第三堀切_午前11時7分;標高298m

第二堀切から10分強で第三堀切。太鼓尾根最大の堀切で「大堀切」とも呼ばれる。底から堀切東崖の比高差6m、西崖面の比高差15mとのことである。底が落石で埋まっているため、石を除けばもっと巨大な堀切であったのではあろう。尾根の北麓下には城主の館である御主殿がある。なお、第三堀切を過ぎたところに上杉勢が御主殿に侵攻する為に使った「連絡道」があるとのこと。連絡道は「御主殿の滝」に造られた堰の上を通り御主殿につながる、とのことである。

太鼓曲輪_午前11時13分;標高300m
第三堀切から少し進み、御霊谷の城山病院辺りから続く長尾根と交差するあたりのちょっとした平坦地に太鼓曲輪があった、とのこと。平坦地の幅は10m程度であり、それほど多くの兵士が詰めれるようにも思えないのだが、太鼓尾根全体の防御陣地を指揮する指令所でもあったのだろう、か。単なるも妄想。根拠なし。





第四堀切_午前11時18分;標高321m
太鼓曲輪から5分程度で第四堀切。位置は北沢と南沢が城山川として合わさる少し上流の南の尾根部分。底に下りて左右を見ると、今までの堀切の中では少し小振りで、東西ともに底から堀切の崖面の比高差は4m程度である。






第五堀切_午前11時25分;標高325m
更に尾根を進むとほどなく第五堀切。今までの堀切と異なり、御主殿に近い東端のほうが底からの高さが高く、その比高差は7mほど。一方西側は少し低く4m程度となっている。









これで本日のメーンイベントである太鼓尾根の太鼓曲輪と堀切を辿るコースは終了。後は先日富士見台から下ってきた「城山尾根」に上り、そこから城山へと上り返すルートを辿ることになる。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)















見晴らし所_午前11時43分;標高376m
第五堀切を越えると「城山尾根」の合流点に向かって上りが急になってくる。今までの尾根道の、のんびり、ゆったりとは異なり少々息が上がる。第五堀切から20分程度のところで、左手が一瞬開け、眼下の景観が楽しめる。見晴らし所という名称は便宜上名付けただけであり、正式名称ではない。





太鼓尾根分岐_午前11時47分;標高407m
見晴らしを楽しみ先に進むち、そこからほどなく太鼓尾根が城山尾根に合流する。標識には「城山入口 405m」と道標にあるが、太鼓尾根には城山へ下る標識はなかったように思う。太鼓尾根から城山(「御主殿跡」のことだろうか?少々曖昧な表現である)に下るには、尾根道を切り取った堀切部分から大手道の東端に下るのだろうが、それにしては大手道へと下る道標はなかったように思う。 太鼓尾根を下ると、今辿ってきたようにその東端は中央高速に架かる不思議な人道橋に至り、橋を渡った先には道がなく、竹藪を藪漕ぎして御霊谷の集落の道にでることになる、と思うのだが。道標の見落としであろう、か。
太鼓尾根分岐を東に下れば、先日辿った地蔵ピークをへて裏高尾の駒木野の小仏関所に出るが、今回は逆に城山尾根を西へと上り返す。太鼓尾根分岐点で少し休憩。

荒井バス停分岐_午後12時14分;標高417m

休憩の後、10分程度で裏高尾への分岐点。「荒井バス停 摺指バス停 駒木野バス停 高尾駅」の道標がある。数年前、この尾根道を裏高尾から上り、工事中の圏央道当たりから山に入り、中央高速に沿って進み尾根へと入っていったのだが、圏央道が完成した現在、ルートはどうなっているのだろう、か。

城山林道からの道の合流点(現在通行禁止)_午後12時17分;標高410m
荒井バス停分岐のすぐ傍に「城山林道」から尾根に上る道の合流点がある。現在岩場の梯子が壊れており「危険 通行禁止」となっていた。

城山川北沢への分岐(標識なし)_12時37分;標高479m
城山林道の合流点当たりからは525mピークに向かって急坂を上り、ピークを越えて下りきったあたりが城山川北沢からの山道の合流点。分岐点の標識はない。当初の予定では、この合流点が見つかれば、そこから御主殿跡へと下ろうと考えていたので、相当真剣に道を探したのだが結局見つからず、富士見台から城山へと向かうことになった。後日地元の方に聞いたところでは、見つけにくいが道はある、とのことであった。

小下沢道分岐(悪路)_12時44分;標高541m
城山川北沢からの合流点辺りからは再び富士見台に向かっての上りが続く。先回は逆の下りだったので、あまり厳しいとも思わなかったのだが、結構きつい上りであった。富士見台の少し手前に小下沢への分岐の道標。悪路とある。どの程度のものか、逆に訪ねてみたくもなる。






富士見台_12時57分;標高542m
小下沢から10分強で富士見台に。今まで数回富士見台に来たが、富士山が見えたのは今回がはじめて。休憩台では数グループが食事をしているのはいつもの通り。







詰の城・大堀切_13時8分;標高463m
富士見台で富士山の眺めを少し楽しみ、休憩することもなく富士見台の直ぐ傍の「陣馬山縦走路分岐点」を右に折れ、詰の城へと向かう。分岐点には「荒井バス停2.7キロ 堂所山(6キロ)・明王峠(7.2キロ)・陣馬山(9.1キロ)」の道標がある。
10分程度、結構急な下りを進むと「詰の城」の西崖となっている「大堀切」に到着。西からの敵の侵攻を防ぐため尾根を断ち切った「大堀切」は、その名の通り、堀切底辺部と詰の城の比高差は10mほどもある巨大なもの。堀切部の幅も広く下辺10m、その幅24mにもなる、と言う。実際この大堀切に下りたって左右の岩場そしてその堀切の幅を眺め、その大きさを実感する。この規模の掘割をおこなうには20名の石切人足が200日かけてはじめて完成する規模のものであると言う(『戦国の終わりを告げた城』)。
大堀切から崖面の道を上り「詰の城」に。「大天守跡」といった石碑の残るこの地は八王子城の西の守りの要衝。尾根道には石垣が組まれと言うし、詰の城から北に横沢へと下る尾根にも石垣が組まれていたようである。また、詰の城から横沢の分岐点までの間には二本の水平道が棚沢を横切って馬冷やしまで続いていた、とのこと。これは棚沢方面からの敵に備えた帯曲とも考えられているようだ。北に下る尾根道を少し下ってみたが、石垣は残っていなかった。

馬冷やし・堀切_13時35分;標高401m
詰の城からおおよそ400m、城山が目の前に聳える姿を見ながら進むと、「詰城 富士見台 北高尾山稜 堂所山」の道標のあるところに出る。大きな堀切となっているが、これは馬廻り道を一周させるため人工的に尾根道を断ち「切り通し」としていると同時に、切り通しの東上にある「無名曲輪」の堀切として、西の尾根道からの敵の防御拠点としている。
また、この地は、馬廻り道、城山裏手の棚沢からく2本の水平道、詰の城からの尾根道、太鼓曲輪や城山川北沢と城山川南沢を分ける丘陵部からいくつかの谷頭を縫ってくる道など多くの道が合流する要衝であった。

馬廻り道(下段)
駒冷やしの堀切からは、いつも歩く山頂要害部の南側を周り井戸のある「坎井(かんせい)」から上段の馬周り道を通り松木曲輪に出るコースと異なり、堀切から山頂要害部の北側をぐるりと回る「下段馬周り道」を辿る。道標もなく、はじめての道で、ちゃんと続いているかどうか定かではないが、とりあえず先に進む。途中切り立った崖面の細路があるなど、ハイキングコースとして案内しない理由も納得。どこに出るのかも分からず進むと、「9合目・高丸」のすぐ上に出た。そこにも道標はなかった。下段馬廻り道は上段馬廻り道のおおよそ20m下を巻いているとのことである。
ここからは下に下りたいところではあるが、同行の元同僚は八王子城址ははじめて。山頂要害部を見ないことにはと、山頂の曲輪跡へと向かう(以下は「八号目・柵門台」まで基本的に、前回メモのコピー&ペースト)

高丸_13時41分;標高431m
下段馬廻り道から城山登山道に出ると、「九号目」と刻まれた石標があり、その右手に「高丸 この先危険」の案内。この案内があるところが「高丸」なのか、案内が示す方角に「高丸」がある狭い台地まで続いかははっきりしないが、崖端から下を見ると尾根筋が高丸の標識に上ってきている。思うに、高丸は先回心源院からの尾根道と城沢道(搦手)道が合流する十字路に、「正面の道は「×急坂」」とあった、その急坂を登りつめた尾根上に築かれた帯曲輪のようである。
名前の由来は、城沢道から山頂要害部が翼を広げた鷹のように見えたから、とか、城沢道が急坂になり、その高まった岩場にあるため、とも(『戦国の終わりを告げた城』)。岩が露出した急斜面に100mに渡って石垣が組まれ、敵の侵入を防いだとのことである。ともあれ、これだけ、どこにも「危険」と書かれては、場所を特定すべく尾根を下ってみようという気持ちにはなれない。

見晴らし
九号目を越えて先に進むと左手の展望が開ける。足元には、八王子城の山裾地区、その先には、城の城下町であった元八王子の丘陵を縫って裏高尾の谷へと進む中央高速が見える。はるか遠く、白いドームが丘陵に頭を出しているが、狭山丘陵の西武球場だろう、か。その右手には新宿の高層ビル群、その右に見える尖塔は東京スカイツリーだろう、か。霞の中にかすかに見える。関東平野が一望のもと、誠に美しいながめである。

休憩所
先に進むと、休憩所のような小屋があり、その脇に「本丸周辺の曲輪」の案内と、その地図がある。案内には「本丸周辺の曲輪;標高460mの深沢山山頂に設けられた本丸を中心に、松木曲輪、小宮曲輪などの曲輪が配地された要害部は、籠城のための施設と考えられている。急峻な地形を利用した山城は、下からは攻めにくく、上から攻撃できる守りには有利な構造になっている。
天正18年(1590)旧暦6月23日、豊臣秀吉の命を受けた前田利家、上杉景勝、真田昌幸らの軍勢に加え、降参した北条勢を加えた数万の大軍が八王子城に押し寄せた。一方、小田原に籠城中の城主北条氏照を欠いた留守部隊は必死に防戦したが、激戦の末、守備した北条方はもちろんのこと、攻めた豊臣方にも多くの犠牲があった」とある。
先回同様に、この小屋の裏手あたりから「小宮曲輪」、そこから「本丸」へと続く道を進む。

小宮曲輪
小屋の裏手の細い道を少し上ると平坦な場所にでる。廃屋となった社跡、狛犬が佇むこの平坦地が小宮曲輪である。脇に立つ案内には「小宮曲輪;狩野一庵が守っていたといわれる曲輪。三の丸とも一庵曲輪とも呼ばれていた。天正18年(1590)6月23日上杉景勝の軍勢の奇襲にあい、落とされた、と。
コラム 八王子城の範囲;北条氏照は、深沢山(城山)を中心とした要害地区、その麓にある居館地区(現在、御主殿跡として整備したあたり)、城山川の谷戸部分にある根小屋地区(現、宗閑寺周辺)、居館地区の南で城山川をはさんだ対岸にある太鼓曲輪地区、太鼓曲輪からのびる丘陵の東端と南端の台地にある御霊谷地区、小田野城のある小田野地区(現、小田野トンネル周辺)というように、八王子城を壮大な城郭として構想していたと考えられる。しかし、八王子城は完成を見ることなく、天正18年(1590)に落城した」とある。
案内に「小宮曲輪は(中略)上杉景勝の軍勢の奇襲にあい、落とされた」とあるが、これは上杉隊の藤田信吉が内通者である平井無辺を道案内に、搦め手口(裏口)から滝の沢川に沿って進み、棚沢方面から崖を這い上がり、背面より小宮曲輪を攻めた、との説(『武蔵名所図会』)ではあろう。この背面からの突如の攻撃により、正面より攻め上る前田勢を防いでいた八王子勢が崩れたとのことである。
攻撃軍の陣立ては諸説あり、大手門(表門口)が上杉勢、搦手口が前田勢、といったものや、大手門口(表門口)は前田勢であるが、上の案内にある太鼓曲輪を上杉勢主力が攻め、その支隊が搦手口から攻め上ったなど、あれこれあり定説はないようだ。

○藤田信吉
上杉隊の藤田信吉とは、もともとは関東管領上杉家の家臣。関東管領方が小田原北条に川越夜戦で敗れたため後北条の家臣に。後北条勢として上杉謙信の跡目争いである御館の乱に出兵。沼田城の城代に。が、後北条に信を置けず真田昌幸の勧めに応じて武田方に。その武田氏が滅亡するに及び関東管領となった織田方の滝川一益に反抗し、上杉景勝のもとに走る。これが、この八王子城攻防戦までの藤田信吉。その後もなかなか面白い動きをする武将である。

本丸
小宮曲輪から本丸へと続く道を進む。小宮曲輪の崖下を見るに、東端は鋭く切り立っており、這い上がるのは大変そうだが、西端辺りからであれば這い上がることもできそうだなあ、などと先回同様の妄想しながら道を進み、左手下に八王子神社を見ながら本丸へと上る。
案内に、「本丸跡:城の中で最も重要な曲輪。平地があまり広くないので大きな建物はなかったと考えられる。ここは横地監物吉信が守っていたと考えられる」。と。本丸とは言うものの、山頂の平坦部は150平米程度で、櫓とか見張りの砦程度しか建たないように思えるので、本丸というより、山頂曲輪とか、天守曲輪といったものである。山頂平坦地には祠と「八王子城本丸址」と刻まれた石碑が建つ。
横地監物は北条氏照不在の八王子城代として戦の指揮をするも、形勢利あらず、と再起を決し城を落ち延びるも、奥多摩にて自決した、とのことである。

中の曲輪
本丸から八王子神社の佇む平坦地に降下りる。この平坦地は山頂曲輪のある主尾根から北に延びる支尾根にある小宮曲輪と南に延びる松木曲輪に挟まれた上下2段からなる曲輪で「中の曲輪」と呼ばれている。八王子神社のある上段はおよそ600平米。石段下の下段部はおよそ500平米と山頂ではもっとも広い曲輪となっている。
上段にある八王子神社とその横に横地社と呼ばれる小さな祠が祀られる。本丸(山頂曲輪)にあった案内によると、「八王子神社と横地社;延喜13年(913)、華厳菩薩妙行が、山中で修行している際に出現した牛頭天王と八人の王子に会ったことで、延喜16年(916)に八王子権現を祀ったといわれる。この伝説に基づき、北条氏照は八王子城の築城にあたり、八王子権現を城の守護神とした。これが「八王子」の地名の起源。
その八王子神社の横にある小さな社は、落城寸前に奥多摩に落ち延びた横地監物が祀られる。もともと、東京都奥多摩町にあったが、ダム建設で湖底に沈んでしまうためにここに移された」、と。
このダムとは東京の上水道水源として昭和32年に竣工した小河内ダムのこと。当時、奥多摩村熱海蛇沢に祀られていた横地社をこの地に遷したわけである。

松木曲輪
中の曲輪の南、小宮曲輪と相まって逆八の字に主尾根から突き出している支尾根上にある。岩山を削って平らにしたような平坦部は900平米。北側中の曲輪との比高差は2、3m。南側には比高差5mほどの下に腰曲輪がある。案内によれば、「松木曲輪:中山勘解由家範が守ってきたといわれる曲輪。中の丸とも二の丸とも呼ばれる。近くには坎井(かんせい)と呼ばれる井戸がある。天正18年(1590)6月23日には前田利家の軍勢と奮戦したが、多勢に無勢で防ぎきれなかった。このときの家範の勇猛さが徳川家康の耳に入り、その遺児が取立てられ、水戸徳川家の家老にまでなった」、とある。
松木曲輪から南に広がる高尾山を眺めながら小休止。本来ならここから富士見台への尾根道を経て裏高尾の旧甲州街道へと向かうのだが、今回同行の元同僚は、八王子城ははじめて。やはり山麓の御主殿跡とか、戦国時代の城では珍しい石垣を案内すべしと、一旦城山を下りることにする。地図を見るに、御主殿跡の先に富士見台から裏高尾へと延びる尾根道への山道らしき案内があるので、うまくいけばその道筋を尾根に向かって上ろう、などとの算段ではあった。

八合目・棚門台跡_午後14時13分;標高362m
城山山頂の要害部をひと回りし、城山を下り八合目・棚門台跡に。「八合目」と刻まれた石標がある。八合目の石標脇には、「松竹橋方面」と書かれた木の標識脇に、「柵門台」と書かれた木標がある。道脇に「柵門跡」の案内。「山頂の本丸方面に続く尾根上に築かれた平坦部。詳しいことはわかっていない」と。『戦国の終わりを告げた城;椚国男(六興出版)』によると、「柵門台は登城口と搦手口から来る道(敵)への関門として山腹の岩を切り取ってつくった50から60平米の舌状地。背後の高さ8mの崖の上にもほぼ平で80平米ほどの広さがあり、上から敵を迎え撃つ防御台である」と。また、「柵門台の入口と出口には柵門が設けられ、山上には出口の柵門から登り、柵門内からは金子曲輪を経て登城口へと下る道と、山王台(注;山裾にある城主の屋敷である御主殿から山頂に上る「殿の道」にある関門)に通じる道があり、五差路となっている」とあった。

山王台_午後14時20分;標高376m
通常、この八合目からは金子丸から馬蹄段を経て登山口である一の鳥居へと下るのだが、今回はこの八合目から辿れるという山王台へと向かうことにする。道案内はないのだが、柵門台の案内のあるあたりの少し北に左へ入る細路があり、これが山王台への道であれかし、と願いながら先へと進む。道は沢頭に沿って通るが、整備されていないようで、少々難儀ではあったが、10分もあるなかいうちに平坦地に出る。そこが山王台であった。
地形図を見ると、山王台は柵門台と沢を隔てた舌状台地上にあり、その広さは80平米ほど。岩を削り取ってつくったものである。「南無妙法蓮華経」と刻れた石碑は昭和8年(1933)に戦いで亡くなった将士の霊を慰めるべく建てられた。

殿の道・石垣群
山王台から御主殿との間は「殿の道」で結ばれていた、と言う。その下り口を探すと、舌状台地南に西に向かって折り返すような小道があった。それが殿の道であろうと。ジグザグの道を下る。
道の途中には何段にもなった石垣群がある。石垣群は全部で4群あり、それぞれの群には数段に分かれて石段が築かれている。崩れている箇所もあるが、結構しっかりと組まれたままの状態で残っている石垣もある。
何故に山腹にこれほどまでの石垣を築いたのか、ということだが、この沢が比較的浅く傾斜であったため、石垣を築き敵が這い上がるのを阻止するため、と言う。
思わぬ石垣群に魅せられながら下山口に。場所は御主殿跡の西北端あたりにある。道標はない。

御主殿跡
御主殿跡は東西約120m、南北45mから60m、およそ4000平米の広い敷地である。案内によると、「八王子城の中心部。城主北条氏照の居館のあったところ。「主殿」「会所」と想定される大型礎石跡や、庭園、敷石通路、水路等の遺構が検出された。主殿では政治向き「の行事が、会所では庭園を眺めながらの宴会などが催された。(中略)会所跡には50cmから80cmの床面を再現し、敷居。間取りも表してある。(中略)遺構の確認された範囲(2900平米)には小舗石を並べ、その範囲を示してある」、とあった。
「御主殿の滝」にあった案内のコラムには「戦国時代はいつも合戦とその準備をしていたイメージがあるが、八王子城から出土した遺構・遺物はそのイメージから程遠い。中国から輸入された五彩ではなやかなお皿で、領国内で取れたアワビやサザエを食べたり、ベネチアでつくられたレースガラス器や信楽焼の花器を飾り、そのもとでお茶をたしなみ、枯山水の庭を眺めてお酒を飲んだ日々が思い浮かばれます。これらの品々はさぞかし北条氏照の心を和ませていたのではないだろうか」と。

御主殿の滝
御主殿跡の西南端から林道に下りる道を下り「御主殿の滝」へ。滝に下りる入口には石仏とともに千羽鶴が祀られる。案内によれば、「落城の際に、御主殿にいた女性やこども、将兵たちが滝の上で自刃し、次々と身を投じたといわれる。その血で城山川の水は三日三晩、赤く染sまったと言われる」、と。合掌。
昔の水勢は知る由もないが、現在は滝壺とは言い難い、ささやかな滝下となっている。滝の上には如何にも水場といった石組みが残る。

櫓門(やぐらもん)
御主殿の滝から再び御主殿跡に戻り、入口の冠木門から石段に出る。25段の石段の途中には櫓門(やぐらもん)の案内。「踊り場から礎石が発見された。東西(桁行)約4.5m、南北(梁間)3.5m。通路の重要な位置にあることから物見や指揮をするための櫓門とも。礎石の傍には排水のための石組側溝も発見されている」、と。

虎口
石段を下りると道は右に折れる。ここは虎口虎口の案内には、「城や曲輪の入口は虎口と呼ばれ、防御と攻撃の拠点となるために工夫がなされている。御主殿の虎口は、木橋を渡った位置から御主殿内部まで、高低差約9mを「コ」の字形の階段通路としているのが特徴。(中略)階段は約5mの幅。途中の2か所の踊り場とともに、全面石が敷かれているのは、八王子城独特のものである」とあった。







曳橋
虎口を左に折れる城山川を跨ぎ御主殿跡と大手道を繋ぐ木製を模した橋がある。大手道の脇にあった案内によると、「コラム曳橋;古道から御主殿に渡るために城山川に架けられた橋。橋台部のみが残っているだけなので、どのような構造の橋が架けられていたかはわかっていない。現在の橋は、当時の道筋を再現するため、現在の技術で戦国時代の雰囲気を考えて木製で架けられた」とあった。
橋脇にも「橋台石垣と曳橋」の案内があり、「当時はこの石垣のうえに簡単な木橋を架け、この橋(曳橋)を壊すことにより敵の侵入を防いだ」と・。

大手道_午前10時28分;標高255m
曳橋を渡り、きれいに整地された大手道を下る。右手の太鼓尾根は先ほど堀切や太鼓曲輪を辿ったところであるなあ、などと想いを巡らしながら山腹中腹の道を下る。道を下り切り、城山川方面へと道が曲がる辺りに木の柵があり、大手道はここで終える。木の柵の脇にある案内には、;「大手道 発掘調査では、当時の道は明確にできなかったが、門跡や橋台石垣の検出、さらに平坦部が尾根の中腹に連続していることから、ここが御主殿にいたる大手道であったことが明らかになった。 現在の道は、この地形を利用して整備したもの。当時は、ここから城山川の対岸にアシダ曲輪や御主殿の石垣、さらに城山の稜線にそって連なる曲輪や建物が見わたせたと思われる」、とある。
現在大手道は、この場所から御主殿跡に向かって整備されているが、既にメモした通り、往昔は、太鼓尾根の南側の御霊谷側に大手口があり、そこから太鼓尾根の東端、現在は中央高速により分断されている「上の山」に上り、太鼓尾根の北側(城下川側)の丘陵中腹を城下川に沿って続き、この地まで続いていた。
御霊谷の谷筋は鎌倉期より開けており、信長の安土城に倣い八王子城を大改修するに際し、大手口を案下谷(恩方谷)から御霊谷。に移し、御霊谷川の左岸に朱色の御霊谷門が食い違い虎口,内枡形などを伴い建っていた、と。 この大手道は「上の道」と呼ばれ、家臣が公用路として通る道であり、基準幅8m、それより広い箇所が5か所、狭いところが3か所といった立派なものであった、とか。

○上の道
上の道の名残はないものかと木の柵を越え、小道に入る。木々の間の踏み分け道を進むも、次第に踏み分け道もなくなり、城山川の傍の藪に入り込み、今回はそこで撤退。冬になって藪が減った時にもう一度歩いてみようと思う。






山下曲輪
上の道跡といった小道を大手道の木の柵まで戻り、城山川を渡り山下曲輪に。山下曲輪は大きく二段に分かれる。南と東に土塁が築かれ、曲輪の東北隅に御主殿や山上への小道が通じ、東と南からの敵の侵攻を防ぐ山麓の最重要拠点であった。上段には観音堂が佇む。数年前八王子城訪れたときは自由にお参りできたのだが、現在は「私有地につき立ち入り禁止」となっていた。






近藤曲輪
山下曲輪から花かご沢の深いV字の谷を隔てた一帯が近藤曲輪。現在は公園となっている。空堀とか馬防柵があったとのことだが、特に案内もないようで、今回は公園にあるジオラマで本日辿った山稜を確認するに留める。もうあれこれ調べる気力も体力も少々乏しくなっているようである、


八王子城跡ガイダンス施設
近藤曲輪からすぐ傍の「八王子城跡ガイダンス施設」に。今年(2013年)の4月にできたばかりとのこと。八王子城合戦のビデオや資料を眺め、道脇の中山勘解由屋敷跡の案内を眺め、霊園口のバス停に本日の散歩を終える。
 八王子城址は幾度か訪ねている。オーソドックスに表口の宗閑寺方面からアプローチし城山や御主殿跡を歩いたり、裏高尾の荒井バス停方面から尾根に這い上がり富士見台を経て城山へと向かったり、城主北条氏照の居城を歩こうと八王子城から滝山城へと向かったこともある。
散歩のメモは八王子城から滝山城へのルートは書き残しておいたのだが、八王子城そのものについてのメモは今一つ気乗りしなかった。その最大の理由は、八王子の城山から北の恩方谷へと下る道が地図にあるのだが、どうしても見つけることができず、なんとなくピースの一片がかけているような感じがし、メモをするのはこの城の搦手口へのルートを辿った後にまとめようと思っていたわけである。
今回のルートを選ぶに、城山からの下り口が見つけられないのであれば、逆に恩方谷から城山に向かえばいいか、などと、ルートをチェック。結果、選んだルートは信玄の娘ゆかりの心源院から尾根道を城山に辿るルート。搦め手口から城山に上るには滝沢川に沿って城沢を上るのがオーソドックスではあろうが、心源院=松姫というキーワードに抗することができず、今回のコース設定となったわけである。
で、散歩を終えメモをとりはじめ、八王子城攻防戦での搦手口から攻め上った上杉勢のことなどを知るにつけ、はやり滝沢川、棚沢、横沢といった辺りを歩かなければ、などと思ったり、また、城の縄張りなどを知るにつけ、八王子城の南の外郭といった位置づけの太鼓尾根の堀切や曲輪、そしてその尾根の中腹を通ったという「登城道」なども辿りたい、と言うことで結局連続して3回の八王子城址散歩となってしまった。 今回は八王子城址散歩メモの一回目。太鼓尾根にある堀切といった、ちょっとディープな八王子城址散歩のきっかけともなった散歩もある。同行者は元会社の仲間。ルートは心源院から尾根道を上り城山山頂の八王子城遺構を訪ね、そこから山裾の館跡に下る。そこからは城山川を少し上流に進み、地図にある城山川北沢の北の山道を富士見台近くの尾根まで上り、そこから尾根道を裏高尾に向かって下ろう、といったもの。が、実際は、城山川北沢からの山道の入口が見つけられず、結局再び城山山頂まで戻り、詰の城への尾根道を辿り富士見台を経て裏高尾に下ることになった。おおよそ6時間、12キロ程度の散歩となった。心源院からの尾根道ははっきりしたルート図があるわけではないのだが、山のベテランである元同僚Tさんと一緒であるので、怖がりの小生には心強きパートナーである。



本日のルート;JR中央線高尾駅>河原宿大橋バス停>鎌倉街道山の道>心源院>秋葉神社>寺の谷戸・寺の西谷戸>285mピーク>見晴台>131nnし基準点>368mピーク>搦手道(城沢道)との合流点>八合目・棚門台>九合目・高丸>見晴らし>休憩所>小宮曲輪>本丸>八王子神社・中の曲輪>松木曲輪>中の曲輪>下山>金子曲輪>馬蹄段>二の鳥居>山下曲輪>林道>大手前広場大手道>曳き橋>御主殿跡>御主殿の滝>城山川上流端>(山頂に)>高尾・陣馬樹走路道標>坎井(かんせい>堀切>馬冷やし>詰の城>大堀切>陣馬山縦走路分岐点>富士見台>城山北沢方面分岐>荒井バス停・摺指バス停分岐>太鼓尾根分岐>地蔵ピーク>中央高速交差>駒木野・小仏関所跡>JR高尾駅

JR中央線高尾駅
JR中央線高尾駅で下車。駅前のバス乗り場より、最初の目的地である心源院の最寄りのバス停・川原宿大橋に向かう。バスは大久保行きのほか、陣馬高原行き、室生寺団地行き、恩方車庫行き、美山行きなど、でも川原宿大橋のバス停に行くようではある。
駅前を離れ、バスは北に向かう。この道は都道46号、別名、「高尾街道」と呼ばれる。高尾街道はJR高尾駅からはじまり、北東に上り「滝山街道」の戸吹交差点で終える。高尾街道は別名「オリンピック道路」とも呼ばれる。東京オリンピックのとき、自転車ロードレースのコースであった。

廿里(とどり)古戦場
南浅川にかかる敷島橋を渡ると、道は山裾を縫って上る。坂道の途中には「廿里(とどり)古戦場の碑」がある。小田原北条と武田の古戦場跡。永禄12年(1569年)、武田軍主力が上州の碓氷峠を越えて武蔵に侵攻。小田原攻略のためである。で、この八王子に南下し北条の戦略拠点である滝山城を攻める。この主力部隊に呼応し、小仏峠筋より奇襲攻撃をかけたのが大月城主・小山田信茂。難路・険阻な山塊が阻む小仏筋からの部隊侵攻を想定していなかった北条方は急遽、この廿里に出陣。合戦となるもあえなく武田軍に敗れた。北条氏がこの地の主城を滝山城から八王子城に移したのも、この負け戦が大きな要因、とか。小仏筋からの侵攻に備え、小仏・裏高尾筋を押さえる位置に城を築いたわけである。

都道61号
森林総合研究所のある山裾の坂道を上る。多摩森林科学館前交差点で大きな道路に合流。甲州街道の町田街道入口からのびる高尾街道のバイパスである。合流点より先にも上り坂。左右は緑の山稜。道の東は多摩御陵、多摩東陵、武蔵野陵といった皇室のお墓。道の西は森の科学館が広がる。豊かな緑を目にしながら坂を下ると城山大橋の三叉路。高尾街道は北東に進むが、バスは高尾街道を離れ、都道61号に乗り換え三叉路を北西方向に進む。
新宮前橋で北淺川の支流・城山川を渡り、少し進むと宮の前交差点。宮前とか宮の前といった地名があるのは、道の東にある八幡様に由来する。この八幡様は鎌倉幕府の御家人・梶原景時が建てたと言われる。鎌倉の鶴ケ岡八幡の古神体をこの地に奉祀したもの、とか。

河原宿大橋バス停


バスは中央高速の高架をぐぐり、八王子城跡入口交差点に。ここはオーソドックスなルートで八王子城址に行くバス停である。今回はこのルートを避けて、八王子城址のある深沢山の北からのアプローチであるため先に進み、左右に霊園の広がる丘を上る。坂を下り切るとまたまた前方に上り道。この上り道をそのまま進み小田野トンネルを抜け、河原宿大橋バス停で下車。小田野トンネル上の丘陵には小田野城址が残る。
○小田野城
小田野城は八王子城主・北条氏照の家臣小野田太左衛門屋敷があり、八王子城の出城のひとつと言われる、城は天正18年(1590)の八王子城攻防戦の際、城の搦手口(城の表口である大手門に対し、「裏口」にあたる搦手門のある場所)を攻めた上杉景勝の軍勢により落城した。

鎌倉街道山の道・深沢橋
北浅川に架かる河原宿大橋を折り返し、橋の南詰より川に沿って上流に続く小道にはいり、深沢橋のある通りに出る。深沢橋のある通りはその昔の「鎌倉街道山の道」である。「鎌倉街道山の道」は高尾駅辺りからはバス道とほぼ同じルートを進むが、都道61号の左右に霊園の広がる丘を上り、道が再び上って小田野トンネルに入る手前で左に折れ、この地に至る。
深沢橋を渡った鎌倉街道は、一旦陣馬街道に出るが、そこを右に折れ「川原宿」交差点に向かい、そこからまた都道61号を北に向かう。川原宿って、いかにも宿場といった名前。陣場街道の宿場であったのか、と、チェック。が予想に反し、陣場街道という名前は最近付けられた、とか。東京オリンピックの頃と言う。それまでは案下道とか、佐野川往還と呼ばれ、和田峠を越えて藤野・佐野川に通じていた。街道筋には、四谷宿(八王子市四谷)、諏訪宿(八王子市諏訪)、川原宿、高留宿(上恩方町;夕焼け小焼けの里のあたり)といった宿場があった。
この案下道は、厳しい小仏関のある甲州街道を嫌い、江戸と甲州を結ぶ裏街道として多くの人が利用したと言う。因みに「案下」とは仏教の案下所から。修行を終え入山する僧が準備を整え出発する親元(親どり;親代わり)の家のこと。なんともいい響きの名前だ。また、この辺りの地名である恩方も美しい響き。奥方が変化した、との説がある。山間の奥の方、と言うところだろうか。
○鎌倉街道山の道
鎌倉街道とは世に言う、「いざ鎌倉」のときに馳せ参じる道である。もちろん軍事面だけでなく、政治・経済の幹線として鎌倉と結ばれていた。鎌倉街道には散歩の折々に出合う。武蔵の西部では「鎌倉街道上ノ道」、中央部では「鎌倉街道中ノ道」に出合った。東部には千葉から東京湾を越え、金沢八景から鎌倉へと続く「鎌倉街道下ノ道」がある、と言う。
「鎌倉街道上ノ道」の大雑把なルートは;(上州)>児玉>大蔵>苫林>入間川>所沢>久米川>恋ケ窪>関戸>小野路>瀬谷>鎌倉。「鎌倉街道中ノ道」は(奥州)>古河>栗橋>鳩ヶ谷>川口>赤羽>王子>二子玉川> 荏田>中山>戸塚>大船>鎌倉、といったものである。
鎌倉街道といっても、そのために特段新しく造られた道というわけではないようだ。それ以前からあった道を鎌倉に向けて「整備」し直したといったもの。当然のこととして、上ノ道、中ノ道といった主要道のほかにも、多くの枝道、間道があったものと思える。 で、この鎌倉街道山ノ道、別名秩父道と呼ばれる。鎌倉と秩父、そしてその先の上州を結ぶもの。鎌倉からはじめ、南町田で鎌倉街道上ツ道と別れ。相原、相原十字路、七国峠を越えて高尾に至り、高尾から北は、秋川筋に、次いで青梅筋、名栗の谷、そして最後は妻坂峠と、幾つかの峠、幾つかの川筋を越えて秩父に入る。

心源院_午前7時45分;標高189m
深沢橋から少し南に戻り、大きな石の柱を目印に心源院に。山号は「深沢山」。八王子城の築かれている山の名前である。深沢はこの深沢山の山麓から流れ出す滝沢川が刻む棚沢とか横沢といった深い沢を現すように思える。深沢山の南側にそれほどに深く刻まれた沢は見られない。
城山を山の北側(裏側)から眺めた姿で形容するということは、ちょっと不自然。築城当時の八王子城大手口は後世のそれとは異なり,この滝沢川側にあったのではないだろう、か。城の北側の案下道は甲斐に通じる要衝路であるし、室町に遡る古刹も城山の北側に多い。心源院の山号からちょっと妄想を拡げてしまったが、識者の中には築城当初は山の北側にあった可能性を示唆する方もいるようだ。
とは言うものの、城山のある深沢山は慈根寺山、牛頭山とも称される。慈根寺(じごうじ)は先ほどバスで通過した、宮の前付近の元八王子の古い名である古神護寺村に由来する。延喜の頃華厳菩薩がこの地へ八王子権現を勧請しその別当寺を神護寺(神宮寺)と称したわけだが、それが村名となり、またそこのあった西明寺の山号に「音」をあてて、慈根寺山としたと言う。また、牛頭山も八王子城址へと表口から向かう途中にある宗閑寺の前身の牛頭山寺に由来する、とも。とすれば、城山の北側、深沢谷に大手口があった、というのはちょっと説明が苦しくなってくる。


根拠のない妄想はこのくらいにして心源院に入る。広い境内の奥に本堂。広い境内の割に堂宇が少ないのは、昭和20年(1845)の八王子大空襲で七堂伽藍すべてが灰燼に帰したため。現在の本堂も昭和47年(1972)に再建されたもの。お寺の東側に10mほどの高さの台地があるが、それは八王子城の土塁跡とのこと。城山北側から尾根道を八王子城へと進軍する秀吉方への防御拠点として、小田野城(心源院の少し東)、浄福寺城(心源院の少し西)とともに、心源院も砦として組み込まれていたのであろう。そのためもあってか、小田原合戦の際、豊臣勢の上杉景勝の軍勢との攻防戦の際に焼失している。更には江戸時代の河原宿の大火でも延焼しているため、古文書などは残っていないようである。

この寺はもともとはこの地に勢力を誇った武蔵国の守護代である大石定久が開いた寺。滝山城を築き北条と覇を競った大石氏であるが、北条の力に敵わずと北条氏照を女婿に迎えに滝山城を譲り、自らは秋川筋の戸倉城に隠居した。
とはいうものの、木曾義仲を祖とする名門・大石氏は北条に屈するのを潔しとせず、面従服背であった、とも。大石氏ゆかりの地には散歩の折々に出会う。戸倉城山にも上り、結構怖い思いもした。多摩の野猿街道あたりにも大石氏にまつわる話もあった。東久留米の古刹浄牧院も滝山城主大石氏が開いた、と。この大石定久の最後については、よくわかっていないようだ(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)



○松姫
この心源院は武田信玄の娘である松姫ゆかりの寺である。武田家滅亡の折り、甲斐よりこの地に逃れた悲劇の姫として気になる存在である。7 歳で信長の嫡男・信忠と婚約。元亀3年(1572)武田と徳川が争った三方原の合戦に織田が徳川の味方をした。ために、婚約は破棄。松姫11歳の時である。元亀4年(1573)信玄、没するにおよび、兄の仁科盛信の居城・高遠城に庇護される。が、天正10年(1582)、信長の武田攻めのため、盛信や小山田信繁の姫を護って甲州を脱出。道無き道を辿り、和田峠を越え、陣馬山麓の金照庵に逃れ、北条氏照の助けを求めた、と。もっとも、松姫の脱出路は諸説ある。先日大菩薩峠を越えた時、牛尾根の東端に松姫峠があった。伝説では、松姫はこの峠を越えた、と言う。
天正10年(1582)、武田勝頼は天目山で自害し武田家滅亡。この武田攻めの総大将は元の婚約者織田信忠。何たる因縁。信忠は松姫を救わんと迎えの使者を派遣せんとするも、本能寺の変が勃発。信長共々信忠自刃。何たる因縁。
ともあれ、金照庵から移ってきたのが、この心源院。22歳のとき。ここで出家し信松尼となる。しかし、この心源院も八王子合戦で焼失し、天正18年(1590)、八王子市内にある草庵に移り、近辺の子どもに読み書きを教えながら、幼い姫君を育て上げた、と。八王子は武田家遺臣が多く住む。八王子千人同心しかりである。大久保長安を筆頭とする武田家遺臣の心の支えでもあった、とか。
松姫の悲劇で思い出す姫君が源頼朝の娘・大姫。木曾義仲の嫡子・義高との婚約。が、義仲と頼朝の争い。頼朝の命による義高の誅殺。頼朝・政子に心を閉ざし生きる大姫。唐木順三さんの『あずまみちのく(中公文庫)』の大姫の記事などを思い出す。v

秋葉神社
さてと、心源院から八王子城へと延びる尾根に取りつくことにする。心源院の境内の南端に舌状に伸びる尾根・丘陵部の先端部が落ちる。丘陵裾に鳥居があるが、それは丘陵上に鎮座する秋葉神社の鳥居。
丘陵に取りつき、折れ曲がった小道を上り、竹林の中を進むと道は二手に分かれるが、その先で合流していた。S字状の参道らしき道を進むと秋葉神社の境内に到着。これといって由来書はない。お参りを済ませ、社殿の左手にある、少々錆びついた「八王子城址に至る」の道標に従い先に進むと、ささやかな祠がある。その祠の左側に細路があり尾根道に入って行く。笹竹なども茂が道はしっかりしている。

寺の谷戸・寺の西谷戸
尾根道に入り少し進み、「寺の谷戸」を隔てた短い舌状の支尾根(東尾根)との分岐点を超えると西側が開ける。寺の西谷戸を隔て、植林のためだろうか禿坊主となった長い尾根(北尾根)が北に見える。このふたつの尾根が合わさる285mピークの辺りに「向山北砦」とも、「北遠見番所」とも称される見張り台があったようである。とりあえず、この285ピークを目指して尾根道を進む。

285mピーク_午前8時9分
同行者がいるからいいようなものの、ひとりでは心細くて引き返しそうな踏み分け道を先に進む。道がふたつに分かれているところの木に青色のテープ。八王子城址は左手の踏み分け道に入るが、右に進むと285mピーク。往昔このピークの辺りにあった見張台・番所で心源院方面からの東尾根道を攻めてくる敵勢とともに、北尾根の東の谷であり、八王子城の搦手口である、滝沢川沿いの松竹口方面からの敵情を見張っていたのだろう。

見晴台_午前8時15分
285mピークから分岐点まで戻り(1分もかからない)、城址に向かって青いテープを左に入り、常緑樹の繁るゆるやかなアップダウンの続く尾根道を進む。道が心持ち傾斜するあたりで道が分岐する。ここにも木に青いテープがまかれているが、小さいテープであるので見逃してしまいそうである。
八王子城址はここを右手に進むが、左手に進むと見晴らしのいい場所がある、と。いくつかの資料に「大六天曲輪」が登場するが、この地が大六天曲輪かとも思い、ちょっと寄り道。木々が生い茂り見晴らしはそれほどよくないが、右手は奥多摩、正面は都心方面の180度景観が広がる。

131基準点_午前8時37分;標高328m
緩やかなアップダウンを繰り返し尾根道を進み、少しの上りを越えると東西に延びる尾根にあたる。木の白のテープに右方向のサインがあり、尾根を少し右に進むとちょっとした高みがあり、そこに「八王子市道路台帳1級基準No.131」と刻まれた石標が埋め込まれていた。
この基準点は緯度経度・標高などが正確に測量された三角点、水準点、電子基準点など、国が設置した基準点を補完するために地方公共団体が設置した基準点であろう。一等三角点の設置間隔は40キロ、二等三角点は25キロ、1級基準点の点間距離は1キロ、とのことである。

368mピーク_午前8時42分
131基準点を南に下り、東に流れるふたつの支尾根をやり過ごし、尾根道のピーク部分を南に進むと368mピーク。とりたてて標識はない。ここまでくればもう支尾根に迷い込む心配もなく、南に伸びる尾根道を滝沢川沿いの松竹方面からの搦手道との合流点に進むだけである。松竹口からの搦手道は、滝沢川の支流である棚沢に入り、清滝不動のあたりで棚沢の支沢である城沢に沿って八王子城へと上る道筋である。

搦手道(城沢道)との合流点_午前8時56分;標高362m
368mピークからはゆるやかな尾根道、そして下り、その下りも結構な勾配もあり慎重に進み鞍部に下りる。鞍部を越えると再びちょっとした上りとなり、そこを越え鞍部に下りると道は十字路になっている。搦手道(城沢道)との合流点である。
十字路にはいくつものささやかな道標がある。右手からの搦手道(城沢道)は 「松竹方面」,「松竹橋(バス停)」,「松竹ばしへ40分」、 左手に下る道は「八王子城跡20分」,「しろ山へ」、 正面の道は「×急坂」、今登ってきた道は「霊園方面」,「行き止まり」とあった。

八合目_午前9時;標高362m
十字路を左に下りる道を進むと小道に合流。この道は八王子大手口方面から八王子城址の山中遺構、山頂遺構、八王子神社などへと上るふたつの登山道である新道と旧道(2013年5月現在倒木のため。登山口辺りは閉鎖中)のうち、旧道の道筋である。旧道との合流点を少し進むと新道と合流。「八合目」と刻まれた石標がある。

○柵門台 
八合目の石標脇には、「松竹橋方面」と書かれた木の標識脇に、「柵門台」と書かれた木標がある。道脇に「柵門跡」の案内。「山頂の本丸方面に続く尾根上に築かれた平坦部。詳しいことはわかっていない」と。これではなんのことかわからないので、チェック。
『戦国の終わりを告げた城;椚国男(六興出版)』によると、「柵門台は登城口と搦手口から来る道(敵)への関門として山腹の岩を切り取ってつくった50から60平米の舌状地。背後の高さ8mの崖の上にもほぼ平で80平米ほどの広さがあり、上から敵を迎え撃つ防御台である」と。また、「柵門台の入口と出口には柵門が設けられ、山上には出口の柵門から登り、柵門内からは金子曲輪を経て登城口へと下る道と、山王台(注;山裾にある城主の屋敷である御主殿から山頂に上る「殿の道」にある関門)に通じる道があり、五差路となっている」とあった。
坂道を進み、登山道を脇に入り柵門台の崖の端へと向かう。端から柵門台下を眺め比高差を崖上から実感し、登山道へと戻る。なお、山王台への道標はない。柵門台の案内のあるあたりの少し北に左へ入る細路を進むと山王台に至る。

高丸
八合目から、山頂の遺構群へと向かう。道を進むと「九号目」と刻まれた石標があり、その右手に「高丸 この先危険」の案内。この案内があるところが「高丸」なのか、案内が示す方角に「高丸」がある狭い台地まで続いかははっきりしないが、崖端から下を見ると尾根筋が高丸の標識がている。思うに、高丸は先ほど心源院からの尾根道と城沢道(搦手)道が合流する十字路に、「正面の道は「×急坂」」とあった、その急坂を登りつめた尾根上に築かれた帯曲輪のようである。
名前の由来は、城沢道から山頂要害部が翼を広げた鷹のように見えたから、とか、城沢道が急坂になり、その高まった岩場にあるため、とも(『戦国の終わりを告げた城』)。岩が露出した急斜面に100mに渡って石垣が組まれ、敵の侵入を防いだとのことである。ともあれ、これだけ、どこにも「危険」と書かれては、場所を特定すべく尾根を下ってみようという気持ちにはなれなかった。

見晴らし
九号目を越えて先に進むと左手の展望が開ける。足元には、八王子城の山裾地区、その先には、城の城下町であった元八王子の丘陵を縫って裏高尾の谷へと進む中央高速が見える。はるか遠く、白いドームが丘陵に頭を出しているが、狭山丘陵の西武球場だろう、か。その右手には新宿の高層ビル群、その右に見える尖塔は東京スカイツリーだろう、か。霞の中にかすかに見える。関東平野が一望のもと、誠に美しいながめである。

休憩所
先に進むと、休憩所のような小屋があり、何気なく小屋に近づくと、その脇に「本丸周辺の曲輪」の案内と、その地図があった。案内には「本丸周辺の曲輪;標高460mの深沢山山頂に設けられた本丸を中心に、松木曲輪、小宮曲輪などの曲輪が配地された要害部は、籠城のための施設と考えられている。急峻な地形を利用した山城は、下からは攻めにくく、上から攻撃できる守りには有利な構造になっている。
天正18年(1590)旧暦6月23日、豊臣秀吉の命を受けた前田利家、上杉景勝、真田昌幸らの軍勢に加え、降参した北条勢を加えた数万の大軍が八王子城に押し寄せた。一方、小田原に籠城中の城主北条氏照を欠いた留守部隊は必死に防戦したが、激戦の末、守備した北条方はもちろんのこと、攻めた豊臣方にも多くの犠牲があった」とあった。
地図を見ると、この小屋の裏手あたりから「小宮曲輪」、そこから「本丸」へと続く道が描かれている。今まで数度八王子城跡の山頂には来てはいるのだが、例の如く事前準備なしの、お気楽散歩であるので、小宮曲輪にも本丸にも訪れたことがなかった。今回の偶然の出合いに感謝しまずは小宮曲輪に。

小宮曲輪
小屋の裏手の細い道を少し上ると平坦な場所にでる。廃屋となった社跡、狛犬が佇むこの平坦地が小宮曲輪である。脇に立つ案内には「小宮曲輪;狩野一庵が守っていたといわれる曲輪。三の丸とも一庵曲輪とも呼ばれていた。天正18年(1590)6月23日上杉景勝の軍勢の奇襲にあい、落とされた、と。
コラム 八王子城の範囲;北条氏照は、深沢山(城山)を中心とした要害地区、その麓にある居館地区(現在、御主殿跡として整備したあたり)、城山川の谷戸部分にある根小屋地区(現、宗閑寺周辺)、居館地区の南で城山川をはさんだ対岸にある太鼓曲輪地区、太鼓曲輪からのびる丘陵の東端と南端の台地にある御霊谷地区、小田野城のある小田野地区(現、小田野トンネル周辺)というように、八王子城を壮大な城郭として構想していたと考えられる。しかし、八王子城は完成を見ることなく、天正18年(1590)に落城した」とある。

案内に「小宮曲輪は(中略)上杉景勝の軍勢の奇襲にあい、落とされた」とあるが、これは上杉隊の藤田信吉が内通者である平井無辺を道案内に、搦め手口(裏口)から滝の沢川に沿って進み、棚沢方面から崖を這い上がり、背面より小宮曲輪を攻めた、との説(『武蔵名所図会』)ではあろう。この背面からの突如の攻撃により、正面より攻め上る前田勢を防いでいた八王子勢が崩れたとのことである。
攻撃軍の陣立ては諸説あり、大手門(表門口)が上杉勢、搦手口が前田勢、といったものや、大手門口(表門口)は前田勢であるが、上の案内にある太鼓曲輪を上杉勢主力が攻め、その支隊が搦手口から攻め上ったなど、あれこれあり定説はないようだ。
○藤田信吉
上杉隊の藤田信吉とは、もともとは関東管領上杉家の家臣。関東管領方が小田原北条に川越夜戦で敗れたため後北条の家臣に。後北条勢として上杉謙信の跡目争いである御館の乱に出兵。沼田城の城代に。が、後北条に信を置けず真田昌幸の勧めに応じて武田方に。その武田氏が滅亡するに及び関東管領となった織田方の滝川一益に反抗し、上杉景勝のもとに走る。これが、この八王子城攻防戦までの藤田信吉。その後もなかなか面白い動きをする武将である。

本丸_午前9時20分;標高449m
小宮曲輪から本丸へと続く道を進む。小宮曲輪の崖下を見るに、東端は鋭く切り立っており、這い上がるのは大変そうだが、西端辺りからであれば這い上がることもでいそうだなあ、などと妄想しながら道を進み、左手下に八王子神社を見ながら本丸へと上る。
案内に、「本丸跡:城の中で最も重要な曲輪。平地があまり広くないので大きな建物はなかったと考えられる。ここは横地監物吉信が守っていたと考えられる」。と。本丸とは言うものの、山頂の平坦部は150平米程度で、櫓とか見張りの砦程度しか建たないように思えるので、本丸というより、山頂曲輪とか、天守曲輪といったものである。山頂平坦地には祠と「八王子城本丸址」と刻まれた石碑が建つ。
横地監物は北条氏照不在の八王子城代として戦の指揮をするも、形勢利あらず、と再起を決し城を落ち延びるも、奥多摩にて自決した、とのことである。

中の曲輪
本丸から八王子神社の佇む平坦地に降下りる。この平坦地は山頂曲輪のある主尾根から北に延びる支尾根にある小宮曲輪と南に延びる松木曲輪に挟まれた上下2段からなる曲輪で「中の曲輪」と呼ばれている。八王子神社のある上段はおよそ600平米。石段下の下段部はおよそ500平米と山頂ではもっとも広い曲輪となっている。
上段にある八王子神社とその横に横地社と呼ばれる小さな祠が祀られる。本丸(山頂曲輪)にあった案内によると、「八王子神社と横地社;延喜13年(913)、華厳菩薩妙行が、山中で修行している際に出現した牛頭天王と八人の王子に会ったことで、延喜16年(916)に八王子権現を祀ったといわれる。この伝説に基づき、北条氏照は八王子城の築城にあたり、八王子権現を城の守護神とした。これが「八王子」の地名の起源。
その八王子神社の横にある小さな社は、落城寸前に奥多摩に落ち延びた横地監物が祀られる。もともと、東京都奥多摩町にあったが、ダム建設で湖底に沈んでしまうためにここに移された」、と。
このダムとは東京の上水道水源として昭和32年に竣工した小河内ダムのこと。当時、奥多摩村熱海蛇沢に祀られていた横地社をこの地に遷したわけである。

松木曲輪
中の曲輪の南、小宮曲輪と相まって逆八の字に主尾根から突き出している支尾根上にある。岩山を削って平らにしたような平坦部は900平米。北側中の曲輪との比高差は2、3m。南側には比高差5mほどの下に腰曲輪がある。案内によれば、「松木曲輪:中山勘解由家範が守ってきたといわれる曲輪。中の丸とも二の丸とも呼ばれる。近くには坎井(かんせい)と呼ばれる井戸がある。天正18年(1590)6月23日には前田利家の軍勢と奮戦したが、多勢に無勢で防ぎきれなかった。このときの家範の勇猛さが徳川家康の耳に入り、その遺児が取立てられ、水戸徳川家の家老にまでなった」、とある。
松木曲輪から南に広がる高尾山を眺めながら小休止。本来ならここから富士見台への尾根道を経て裏高尾の旧甲州街道へと向かうのだが、今回同行の元同僚は、八王子城ははじめて。やはり山麓の御主殿跡とか、戦国時代の城では珍しい石垣を案内すべしと、一旦城山を下りることにする。地図を見るに、御主殿跡の先に富士見台から裏高尾へと延びる尾根道への山道らしき案内があるので、うまくいけばその道筋を尾根に向かって上ろう、などとの算段ではあった。

金子丸
松木曲輪を離れ、中の曲輪に下り、先ほど上ってきた九号目、八合目までと下り、右側に梅林の見えるあたりの「金子丸」に。案内に「金子三郎右衛門家重がまもったといわれる曲輪。尾根をひな段状に造成し、敵の侵入を防ぐ工夫をしている(後は略)」。ひな段状とは上下二段の平坦部に分かれ、上段はおよそ60平米程度、下段はおよそ400平米。下段の下には七段の馬蹄段を設け敵の侵入を防ぐ。この曲輪はこの馬蹄段や梅林のあるあたりの緩斜面を這い上がる敵と、登城門から柵門台へと攻め上る両面の防御を受け持ち、八王子合戦の時には激戦となった曲輪ではあろう。

馬蹄段
金子丸から、7段あるという馬蹄段を眺めるながら下る。結構しっかり残っている。馬蹄段とは馬蹄形の曲輪を階段状に並べたものであり、階段状曲輪とも呼ばれるようである。登山道は馬蹄段の北端を下る。

二の鳥居
馬蹄段を過ぎ、道端に石垣らしき遺構を眺めながら下ると「二の鳥居」。鳥居の辺りで山頂へと向かう登山道の新道と旧道(2013年5月現在閉鎖中)が分かれるが、このあたりに登城門(城戸)があった、と。登城門とは、小宮曲輪の案内にあった「城山川の谷戸部分にある根小屋地区(現、宗閑寺周辺)」に住んでいた家臣が御主殿とか山上に上るために通る門のこと。
往昔の登城門への道は、現在の一の鳥居から直線に上る参道(登山道)の南側にあり、登城門から20mほど下ったところでL字形に曲がり、城山川の支沢である花かご沢川を越えて「近藤曲輪」方面に繋がっていたようである(『戦国の終わりを告げた城』)。 なお、家臣が通用路として登城門へと向かう道は「下の道」、家臣が公用路として登城する道は「上の道」と呼ばれ別々になっていた。大雑把に言って「下の道」は城下川の北、「上の道」は城下川の南、小宮曲輪の案内に「居館地区(注;御主殿地区)の南で城山川をはさんだ対岸にある太鼓曲輪」のある太鼓尾根を南から越えて丘陵の中腹を御主殿地区へと向かっていたようである。

山下曲輪
一の鳥居を越えると深く切れ込んだ「花かご沢川」の橋を渡る。この「花かご沢川」の北というか東側が「近藤曲輪」、沢の南と言うか西が「山下曲輪」である。花かご沢の深いV字の谷が山下曲輪の堀の役割を果たしているようである。近藤曲輪は現在公園として整備されており、広い平坦地となっているが、かつては東京造形大学の学舎が建っていたようである。今回は近藤曲輪は眺めるだけで、山下曲輪にある管理棟で地図など資料を手に入れる。
山下曲輪は大きく二段に分かれる。南と東に土塁が築かれ、曲輪の東北隅に御主殿や山上への小道が通じ、東と南からの敵の侵攻を防ぐ山麓の最重要拠点であった。上段には観音堂が佇む。数年前八王子城訪れたときは自由にお参りできたのだが、現在は「私有地につき立ち入り禁止」となっていた。

アシダ曲輪
山下曲輪を離れ御主殿跡へと向かう。管理棟のあるところから坂を下り、城山川沿いの林道に下りる。林道の右手、山下曲輪と御主殿との間にはアシダ曲輪がある。比高差は20mほどである。「アシダ蔵」との記録があり、「足駄の形をした蔵」があった、とも。また、曲輪の西側、御主殿に近い地区は、現在残る御主殿ができる前の御主殿があった場所とも言われる。アシダ曲輪と御主殿は細い沢で隔てられ、小橋で連絡していたようである。

林道
城山川に沿って林道を進む。この林道の原型ができたのは江戸の頃といわれる。江戸時代、八王子城のある深沢山は幕府の直轄林として代官・江川太郎左衛門のもと植林が進み、この山は「江川御山」とも呼ばれていた。『多摩歴史散歩2佐藤孝太郎(有峰書店)』によると、現在城跡の東にある宗閑寺方面から一直線で結ばれえている道は大正時代に造られたものであり、それ以前は道らしきものもなく、明治の日露戦争のときになってはじめて、江川御林を伐り出す必要が生じたために道がつくられた、とのことであるので、本格的に林道として整備されたのは明治以降ではあろう・

ちょっと脱線;八王寺城があった頃は宗閑寺あたりの根小屋地区(山麓の家臣団の住居地区)から登城門へと向かう「下の道」はあったにせよ、それは通用路であり、現在の立派な車道の南、城山川にそった小道程度のものだろう。初めて八王子城を訪れたときは、城正面に続く大きな道を見て、なんと正面が無防備な城なんだろう、などとおもったのだが、当時は道もなく、川をせき止めれば泥沼地と化すような地形であり、むしろ攻めるに困難な地形だったのかとも思えてきた。実際豊臣勢も太鼓尾根といった尾根筋から攻め入ったとの話もあり、現在の地形をもって、昔を安易に妄想するなかれ、との戒めを再確認。

大手門前広場
ともあれ、昔はなかったであろう林道を少し進むと木橋に似せた橋があり、そこで城山川の右岸に渡る。前面を塞ぐのは太鼓尾根である。
橋を渡ると広い平坦地となっている。『戦国の終わりを告げた城』にあった、「大手前広場への寺院移転計画にともなうブルドーザーでの整地」、また、「民間企業が倉庫を造るためにブルドーザーを入れ約2ヘクタールを雑木ごと根こそぎ削り取り、大手門前広場と接するところでは約5mの深さに削った」とあったのがこの地だろう、か。不自然に平坦な場所が出現している、といった風情である。このケースだけでなく、林道の拡張、料亭や大学の建設で遺構が破壊されている、とのことである。

大手道_午前10時28分;標高255m
それはともあれ、平坦地から山麓中腹にある道に上る。上りきったところに、「大手道」の案内;「大手道 発掘調査では、当時の道は明確にできなかったが、門跡や橋台石垣の検出、さらに平坦部が尾根の中腹に連続していることから、ここが御主殿にいたる大手道であったことが明らかになった。
現在の道は、この地形を利用して整備したもの。当時は、ここから城山川の対岸にアシダ曲輪や御主殿の石垣、さらに城山の稜線にそって連なる曲輪や建物が見わたせたと思われる」、とある。
現在大手道は、この場所から西の御主殿跡に向かって整備されているが、往昔は、太鼓尾根の南側の御霊谷側に大手口があり、そこから太鼓尾根の東端、現在は中央高速により分断されている「上の山」に上り、太鼓尾根の北側(城下川側)の丘陵中腹を城下川に沿って続き、この地まで続いていたようである。 御霊谷の谷筋は鎌倉期より開けており、信長の安土城に倣い八王子城を大改修するに際し、大手口を案下谷(恩方谷)から御霊谷。に移し、御霊谷川の左岸に朱色の御霊谷門が食い違い虎口,内枡形などを伴い建っていた、と。
この大手道は既にメモしたように「上の道」と呼ばれ、家臣が公用路として通る道であり、基準幅8m、それより広い箇所が5か所、狭いところが3か所といった立派なものであった、とか。上の道が中腹を通る太鼓尾根には掘切や曲輪が残る、と言う。藪漕ぎの予感はするが、城の南の外郭として整備されていた「上の道」や曲輪や堀切の残る太鼓尾根を求め、彷徨ってみたいと思う(後日、大手道の東端に通行止めの柵があり、それを越えて大手道を少し辿ったが案の定薮に遮られ途中で撤退した)。

曳橋
大手道を進むと、城山川を跨ぎ御主殿跡を繋ぐ木製を模した橋がある。大手道の脇にあった案内によると、「コラム曳橋;古道から御主殿に渡るために城山川に架けられた橋。橋台部のみが残っているだけなので、どのような構造の橋が架けられていたかはわかっていない。現在の橋は、当時の道筋を再現するため、現在の技術で戦国時代の雰囲気を考えて木製で架けられた」とあった。
橋脇にも「橋台石垣と曳橋」の案内があり、「当時はこの石垣のうえに簡単な木橋を架け、この橋(曳橋)を壊すことにより敵の侵入を防いだ」と。

虎口
曳橋を渡ると正面は石垣。右に折れると虎口があり、左折して石段を上ることになる。虎口の案内には、「城や曲輪の入口は虎口と呼ばれ、防御と攻撃の拠点となるために工夫がなされている。御主殿の虎口は、木橋を渡った位置から御主殿内部まで、高低差約9mを「コ」の字形の階段通路としているのが特徴。(中略)階段は約5mの幅。途中の2か所の踊り場とともに、全面石が敷かれているのは、八王子城独特のものである」とあった。

櫓門(やぐらもん)
25段の石段の途中には櫓門(やぐらもん)の案内。「踊り場から礎石が発見された。東西(桁行)約4.5m、南北(梁間)3.5m。通路の重要な位置にあることから物見や指揮をするための櫓門とも。礎石の傍には排水のための石組側溝も発見されている」、と。

御主殿跡_午前10時40分;標高259m
石段を上り切ると左手に冠木門が建つ。門柱の礎石が発見されたため再現されたとのことである。冠木門の西に広がる平坦地が御主殿跡。東西約120m、南北45mから60m、およそ4000平米の広い敷地である。案内によると、「八王子城の中心部。城主北条氏照の居館のあったところ。「主殿」「会所」と想定される大型礎石跡や、庭園、敷石通路、水路等の遺構が検出された。主殿では政治向き「の行事が、会所では庭園を眺めながらの宴会などが催された。(中略)会所跡には50cmから80cmの床面を再現し、敷居。間取りも表してある。(中略)遺構の確認された範囲(2900平米)には小舗石を並べ、その範囲を示してある」、とあった。
この後訪れる「御主殿の滝」にあった案内のコラムには「戦国時代はいつも合戦とその準備をしていたイメージがあるが、八王子城から出土した遺構・遺物はそのイメージから程遠い。中国から輸入された五彩ではなやかなお皿で、領国内で取れたアワビやサザエを食べたり、ベネチアでつくられたレースガラス器や信楽焼の花器を飾り、そのもとでお茶をたしなみ、枯山水の庭を眺めてお酒を飲んだ日々が思い浮かばれます。これらの品々はさぞかし北条氏照の心を和ませていたのではないだろうか」と。
散歩をはじめてわかったことだが、関東のどこに行っても小田原北条の事蹟に出合う。広大なその領国経営は概イメージしか記憶に残らない。秀吉相手に無謀な挑戦、とはその後の歴史の結果がわかっている者だから言えることであろう。

御主殿跡でのんびりしながら、山腹の「山王曲輪」に続く「殿の道」の上り口を探す。道標はなかったが、如何にも山腹へと向かいそうな細道入口を御主殿跡の西端の辺りに確認。今回はパスするが、次回に備える。
○山王曲輪
柵門台から沢を隔てた南側にあり、沢頭につけた約100mの小道で結ばれる。柵門台よりやや高い辺りに、岩を切り取って人工的に造られたおよそ80平米の舌状台地で、沢に面した側には石垣が組まれている(『戦国の終わりを告げた城』)。

御主殿の滝
御主殿跡の西南端から林道に下りる道を下り「御主殿の滝」へ。滝に下りる入口には石仏とともに千羽鶴が祀られる。案内によれば、「落城の際に、御主殿にいた女性やこども、将兵たちが滝の上で自刃し、次々と身を投じたといわれる。その血で城山川の水は三日三晩、赤く染sまったと言われる」、と。合掌。
昔の水勢は知る由もないが、現在は滝壺とは言い難い、ささやかな滝下となっている。滝の上には如何にも水場といった石組みが残っていた。

城山川上流端に_午前10時46分;標高269m
さて、これからのルートは、と地図を見る。城山川林道を突き進み、富士見台(八王子城山頂のある尾根から西に続く尾根にあるポイント。景信山や陣馬山への分岐点でもある)から裏高尾に下る尾根筋に合流するルートは途中危険のマークがあるが、御主殿の滝から少し進み、城山川がふたつに分かれるあたりから北側の沢に沿って上る登山道のマークがあった。この上り口が見つかれば、この沢道を進み富士見台近くの尾根に這い上がれるかと、それらしき入口を探すもブッシュに阻まれ撤退。諦めて八王子城山頂の「中の曲輪」まで戻り、尾根筋を富士見台へと向かうことにする。一度下りた登山道を上り返すのは少々鬱陶しいが仕方なし(後からわかたのだが、もう少し先に、尾根への上り口があるとの地元の人の話。次のお楽しみとしよう)。

高尾・陣馬樹走路道標_午前11時19分;標高429m
城山川上流部より大急ぎで林道を戻り、一の鳥居、二の鳥居をくぐり登山道に入る。下りでは気が付かなかった石垣跡などを見ながら、これも下から見る馬蹄段跡をじっくりと眺め、金子曲輪を越え、中の曲輪の先、松木曲輪の裏手にある「至る 高尾山・陣馬山」の道標まで戻る。おおよそ30分強といった時間で戻れた。道標識に従い、本丸と言うか、山頂曲輪のある城山(深沢山)の山頂部の山塊をぐるりと取り巻く道に出る。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

坎井(かんせい)_標高428m_午前11時21分
道を進むとほどなく井戸がある。坎井(かんせい)と呼ばれるこの井戸は築城時に掘ったもので、深さは4m弱とのこと。昔は釣瓶井戸ではあったのだろうが、現在はポンプ式になっており、ポンプを押すと水が出た。井戸の傍には如何にもゴム製の送水パイプ(?)が備わっており、現在も自然水かどうか不詳である。
坎井(かんせい)の井戸を通る道は、その昔の「馬廻りの道」。上下2段あり、この道は上馬廻り道。松木曲輪、山頂曲輪のある要害部、小宮曲輪をぐるりと囲む。攻防戦の時の兵員の移動を容易にしたものだろう、か。

馬冷やし_午前11時27分;標高409m
坎井(かんせい)からジグザグ道を少し下り、再び城山山頂の要害部を囲む道に出る。この道は下段の馬廻り道。上馬廻り道よりおおよそ20m低い部分の山頂部を取り囲んでいる。5,6分歩くと「詰城 富士見台 北高尾山稜 堂所山」の道標のあるところに出る。大きな堀切となっているが、これは馬廻り道を一周させるため人工的に尾根道を断ち切り切り通しとしていていると同時に、切り通しの東上にある「無名曲輪」の堀切として、西の尾根道からの敵の防御拠点としている。
また、この地は、馬廻り道、城山裏手のj棚沢からく2本の水平道、詰の城からの尾根道、太鼓曲輪や城山川北沢と城山川南沢を分ける丘陵部からいくつかの谷頭を縫ってくる道など多くの道が合流する要衝であった。機会があれば、これらの道を辿ってみたい。なお、ここで切取られた石は、八王子城の石垣として利用されたようである(後日、堀切から北に続く馬周り道を一周した。高丸のすぐ傍に続いていた)。

詰の城_午前11時40分;標高479m
馬冷の堀切部から元の尾根道に少し上り返し、少々のアップダウンはあるものの、おおよそ緩やかな上りを400mほど歩くと「詰の城」に着く。「大天守跡」といった石碑の残るこの地は八王子城の西の守りの要衝。尾根道には石垣が組まれと言うし、詰の城から北に横沢へと下る尾根にも石垣が組まれていたようである。また、詰の城から横沢の分岐点までの間には二本の水平道が棚沢を横切って馬冷やしまで続いていた、とのこと。これは棚沢方面からの敵に備えた帯曲とも考えられているようだ。北に下る尾根道を少し下ってみたが、石垣は残っていなかった。
それはともあれ詰の城の最大の防御の縄張りは、西の尾根を断ち切った「大堀切」。堀切底辺部と詰の城の比高差は10mほどもある。堀切部の幅も広く下辺10m、その幅24mにもなる、と言う。実際この大堀切に下りたって左右の岩場そしてその堀切の幅を眺め、その大きさを実感する。この規模の掘割をおこなうには20名の石切人足が200日かけてはじめて完成する規模のものであると言う(『戦国の終わりを告げた城』)。

陣馬山縦走路分岐点_午前11時55分;標高540m
詰の城から少々きつい上りを15分程度進み、詰の城から西に伸びる尾根道が堂所山を経て陣馬山に向かう尾根道との分岐に到着。分岐点には「荒井バス停2.7キロ 堂所山(6キロ)・明王峠(7.2キロ)・陣馬山(9.1キロ)」とある。荒井バス停は裏高尾の旧甲州街道にある。分岐を左に「荒井バス停」方面に

富士見台_午後12時_標高552m
分岐を折れるとほどなく富士見台。富士の山は見えなかった。ここには休憩台があり数グループが休憩を兼ねた食事中。我々も小休止。
城山北沢方面分岐_12時18分;標高479m
富士見台で少し休憩し、下り道を10分程度進むと、当初計画した城山北沢から富士見台の尾根道に向かう山道との分岐点にあたる。道標を探したのだが見当たらなかった。後ほど地元に聞いたところ、見つけ難いが下りる道はある、とのこと。今回は上り口がみつからず断念したが、次回を期す。

荒井バス停・摺指バス停分岐_12時35分;標高404m
城山北沢分岐から少し下り、そのあと一度525mピークに上り、その後は標高404mにむかって20分弱下ると荒井バス停との分岐点。「荒井バス停 摺指バス停 駒木野バス停 高尾駅」の道標がある。数年前、裏高尾の荒井バス停から富士見台を経て八王子城址へと辿ったことがある。バス停から中央高速下をくぐり、中央高速に沿って進み、工事中の圏央道を見ながら成り行きで尾根へとはいっていったのだが、それがこの道であろう(GPSでのトラックデータをとっていなかったので散歩のメモはつくってい)。
当初の計画ではここから荒井バス停に下る予定ではあったのだが、時間も十分にあるので、ここから裏高尾に出るのをやめ、駒木野に下る尾根道に乗り換えて先に進むことにした。
なお、この分岐少し手前に。城山林道を突き進み尾根道に合流する山道があるのだが、現在岩場の梯子が壊れており「危険 通行禁止」となっていた。

太鼓尾根分岐_12時43分;標高400m

荒井バス停との分岐から10分弱で太鼓尾根との分岐点に至る。標識では「城山入口 405m」といた案内であったが、後日、太鼓尾根を辿った記憶では、太鼓尾根から城山へ下る標識はなかったように思う。太鼓尾根から城山、これも正確には「御主殿跡」とかに下るには、尾根道を切り取った堀切部分から、力任せに下るほかないように思うのだが、道標を見落としたのだろうか。ともあれ、太鼓尾根を下った東端は中央高速に架かる不思議な人道橋に至る。橋を渡った先には道がなく、竹藪を藪漕ぎして御霊谷の集落の道にでることになる。



地蔵ピーク_午後1時3分;標高360m
「駒木野バス停 高尾駅」方面へと向かう。ゆるやかなアップダウンを繰り返し20分強進むと地蔵ピーク。2体の地蔵が佇んでいた。

中央高速交差_標高221m_13時22分
地蔵ピークから20分程度、ひたすら下ると中高高速をくぐる。中央高速を越えると民家が見えてきた。やっと裏高尾に到着である。

小仏関所跡_標高195m_13時30
旧甲州街道の駒木野にある小仏関跡に到着。小仏関はともとは小仏峠にあったものがこの地、駒木野宿に移された、とか。小仏関の石碑の前に、手形石とか手付石といったものがあった。旅人が手形を差し出したり、手をつき頭を下げて通行の許しを待つ石であった、と。 因みに、小仏関所跡のある駒木野の由来ははっきりしない。青梅筋の軍畑の近くにある駒木野は、馬を絹でまとって将軍様に献上した、からと言う。「こまきぬ」>『こまぎぬ」ということ、か。駒木野宿は戸数70戸ほどの小さな宿。関所に付属した簡易宿で、なんらか馬に関係はしたあれこれがあったのだろう。関所跡前にあるバス停でバスを待ち、おおよそ12キロ、6時間の散歩を終え一路家路へと。

ほぼ立川崖線に沿って進む。先日、国立を歩いた時、このあたりには立川崖線とか青柳崖線が続いている、と。青柳崖線は先回、「くにたち郷土文化館」から谷保天神までの散歩を楽しんだとき、その崖下に沿って歩き、なんとなく雰囲気を感じた。で、今回はもうひとつの崖線・立川崖線を肌で感じよう、と思ったわけだ。
立川崖線といっても、はてさて、どこから続いているのかよくわからない。昔、立川の南、奥多摩街道を走っているとき、その南の多摩川の低地とは結構比高差があるなあ、などと思っていた。たぶんそれが崖線の流れあろう。
で、どこからスタートするか、ふと考える。地図を見る。西立川に歴史民俗資料館。奥多摩街道とも近い。そこにいけば何らか手がかりもあるか、と。とりあえず資料館にむかうことにする。「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
(2009年8月の記事を移行)



本日のルート;JR青梅線・西立川>立川市歴史民俗資料館>首都大東京昭島キャンパス>郷地町交差点>奥多摩街道>歴史民俗資料館>奥多摩道路>東京都農事試験場>富士見町3丁目・富士見通りと交差>滝口橋・残掘川>残堀川筋>JR普中央線交差>普済寺>奥多摩街道>諏訪神社>多摩モノレール・柴崎体育館駅>立川公園・立川市民体育館>根川緑道>新奥多摩街道・根川橋>国道20号線・甲州街道>野球場・陸上競技場>至誠学園>甲州街道>矢川緑地公園>矢川>国立六小>甲州街道>滝野川学園>おんだし>ママ下湧水公園>石田街道>矢川(府中用水)・くにたち郷土文化舘下>ヤクルト中央研究所北>城山公園>谷保天満宮>立川崖線樹木林下>国道20号線・国立IC>上坂橋>日新町・NEC>市川緑道(中川用水・新田川)>鎌倉街道>中央道>新田川緑道・分梅橋>分倍河原合戦碑>中央道交差>京王線・分倍河原駅

青梅線・西立川駅
青梅線・西立川で下車。駅の北は昭和記念公園。むかしの米軍の基地跡。そのまた昔は陸軍の飛行場があった、とか。駅を南に進む。途中、首都大学東京昭島キャンパス。昔の都立短大ではなかろうか。仕事で来たことがあるような、ないような。

奥多摩道路

その脇を通り、しばらく進むと奥多摩道路。EZナビに従い細路を進む。お寺の塀。常楽院。その先は崖下。ガイドでは、「ここ」だとのたまうのだが、それらしき建物はなし。ナビを切り、奥多摩街道に戻ったり、またまたお寺方面に戻ったりと、あたりをうろうろ。
どうも崖下ではなかろうか、と降り口を探す。家庭菜園といった趣の畑地の脇に細い下り道。成算はないのだが、とりあえず下に。車道に出る。少し西に進むと、歴史民俗資料館があった。崖の下。この崖は立川崖線であるのだが、その崖に包み込まれるように建っていた。「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

歴史民俗資料館
展示室で立川の歴史・自然などのお勉強。ロビーにあったビデオも楽しんだ。記憶に残ったこととしては、このあたりは「立川氏」の勢力下にあった、こと。古社・諏訪神社が鎮座する。それと、立川って、陸軍の飛行隊、そしてその飛行場とともに発展してきた、といったこと。陸軍飛行第五連隊が駐屯し、大正11年から終戦まで、「空の都 立川」の代名詞でもあった。
で、例によっていくつか資料購入。
買い求めた「歴史と文化の散歩道」をもとに、本日のルートを考える。基本的には立川崖線に沿って分倍河原方面に向かう。これは基本。が、途中、立川氏舘跡に。そこからしばらく崖線を離れ、諏訪神社に。それから再び崖線に戻る。多摩川傍の「日野の渡し」に。しばらく崖線に沿って進み、日野に下る甲州街道を越えたところで、再び崖線を離れ清流・矢川の源流点である矢川緑地保存地域に。そこからしばらく矢川にそって下る。いくつかの湧水点を楽しみ、先回歩いた青柳崖線近くを進み保谷天神に。そこで、ふたたび立川崖線に戻り、後は府中に向かって崖下を歩く、といった段取りとする。

奥多摩街道

さてと、出発。資料館を離れ、崖下を少し進む。如何にも湧水、といった池を見やりながら、坂道をのぼり奥多摩街道に戻る。崖上の道を東に向かう。東京都農事試験場前を進み、富士見3丁目交差点で富士見通りと交差。奥多摩街道は車の通りが多い。トラックの風圧に結構怖い思いをしながら滝口橋で残堀川を渡る。

残堀川
残堀川って、いつだったか玉川上水を歩いていたとき出会った。西部拝島線の武蔵砂川駅の近く。記憶では交差する用水上を「立体交差」していたように思う。
残堀川は、瑞穂町箱根ヶ崎の狭山池から流れ出し、立川市柴崎町の立日橋付近で多摩川に注ぎこむ。狭山池助水とも呼ばれるように、残堀川はもともと玉川上水に水を注いでいたのだが、明治になって残堀川が汚れてきた。ために、玉川用水と切り離すべく、工事をおこない、玉川用水が残堀川の下を潜らせた、と。

残堀川脇を進む

奥多摩道路から残堀川筋に下る道を探す。しばらく進むと下りの道筋。残堀川脇に出る。西を見ると、さきほどの滝口橋から南に下った残堀川が、その下で直角に曲がっている。人工の川筋ならではの流路。
川に沿って東に進む。JR中央線と交差。地図ではJR中央線を越えるとすぐに立川氏の館跡である普済寺なのだけれど、石垣が続くだけで、上にのぼる道がない。結構東に持っていかれた。

普済寺
根川緑道がはじまるあたりから、川筋からのぼる道をみつけ、そこからお寺に向かって西に戻る。根川緑道は清流の続く美しい道筋。とはいうものの、湧水は高度処理された下水である。
普済寺。中世に武蔵七党と呼ばれた西党の一族、立川氏の館跡。平安初期に立川二郎宗恒が地頭としてこの地に来た。それ以前の立川は、20戸程度の寒村に過ぎなかった、と。その後小田原北条に仕えるも、秀吉の小田原攻めのとき、八王子城の落城とともに滅んだ。
境内には国宝六面石幢。場所を探していると、丁度通りかかった和尚さんに道を案内して頂く。感謝。厳重にガードされたお堂の中に格納されていた。崖上から多摩川を見下ろし次の目的地、諏訪神社に向かう。

諏訪神社

諏訪神社。弘仁2年(811)に信州の諏訪大社から勧進された立川最古の神社。「お諏訪さん」として親しまれている。本殿は新しい。平成6年に火災に遭い新しく再建された、と。

多摩モノレール・柴崎体育館駅
神社を離れ、次の目的地・多摩の渡しの跡に向かう。住宅街を進み、多摩モノレール・柴崎体育館駅に。このあたりで再び立川崖線に戻る。

旧甲州街道の道筋
立川公園と市民体育館の間を進む。体育館の東に旧甲州街道の道筋。ちょっと旧甲州街道の道筋をチェック。国立方面から西に真っ直ぐ進んできた道筋は、日野橋交差点あたりで北に向かって円を描くように湾曲し、ここ柴崎体育館あたりに続いているよう。

根川緑道旧甲州街道の道筋を南に下り、根川緑道を越え、新奥多摩街道をわたる。新奥多摩街道、って西に向かって進んできた甲州街道が日野橋に向かって南にくだる交差点を、そのまま西に進む道筋。

日野の渡し碑
新奥多摩街道を越え、下水処理場に沿って南に進むと「日野の渡し碑」。「日野の渡し」は、現在の「立日橋」のあたり、立川の柴崎と日野を結んでいた渡し。大正時代に日野橋ができるまで、高遠藩・高島藩・飯田藩といった三大名家、甲府勤番、そして庶民がこの渡しを利用していた、と。ちなみに渡し賃は、馬と人は別途徴収。僧侶、武家は無料であった、という。

甲州街道
下水処理場の南を、ぐるっと廻る。日野橋に下る甲州街道に。甲州街道を越えると野球場・陸上競技場。根川緑道は落ち着いたいい雰囲気。

根川貝殻坂橋

陸上競技場を過ぎると、「根川貝殻坂橋」に。吊橋を模したスタイル。案内によれば、「貝殻坂橋」の名前の由来は、「万願寺の渡し」にある、と。この万願寺の渡し、って先ほど見た、日野の渡しが出来る前に遣われていた多摩川の渡し。甲州街道を進んできた旅人は、国立市青柳で段丘を下り、国立市石田から多摩川を渡り日野市の万願寺に渡っていた。その段丘を下る坂道に多くの貝殻が
出てきた、と。ために、貝殻坂と呼ばれた。「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

矢川緑地公園
次の目的地は矢川緑地公園。橋を渡り、崖線を上る。このあたりは国立との市境。甲州街道まで進み、至誠学園のあたりで甲州街道を北にわたる。立川と国立の境を道なりに北にすすむと矢川緑地公園。緑地公園のある羽衣町は立川市となっている。緑地の西を台地にのぼる道筋から矢川緑地を眺める。湿地帯が美しい。台地下にもどり、緑地入口から木道のかけられた湿地に入る。水が湧き出る、というだけで、それだけで結構うれしい。この景色を楽しめただけで本日の散歩は大いに満足。

矢川に沿って甲州街道に
湿地を進み、湧水の水を集め清流として下る矢川に沿って歩く。ひたすら川筋に沿って進む。水草の生い茂る川面が美しい。国立六小前には、児童が育てる「ほたる」の飼育湿地もあった。
甲州街道手前には五智如来。先に進み甲州街道を再び越え、さらに川筋に沿って進む。

矢川は滝野川学園の敷地に
川は滝野川学園の敷地に入っていく。立ち入り禁止、かとおもったのだが、川脇にかすかな踏み分け道。先に進めそう。ほとんど敷地といった川筋を進む。森に囲まれたまことにいい雰囲気。

「おんだし」

学園敷地の森を抜ける。前方に中央高速が見える。水田のあぜ道といった道筋を進むと川はT字に合流。西から流れていた府中用水であろう。ということは、ここは「おんだし」。押し出し、と表記されるようであるので、「矢川の水が府中用水に勢いよく流れ込んださまを表したものであろう、か。
「おんだし」部分の川幅は結構広い。さすがにT字交差の用水を飛び越えることはできない。仕方なく、森のほうに引き返す。
矢川の流れの横にもうひとつ水路。森の手前から西のほうに伸びている。これって、「ママ下湧水」からの流であろう。ということで、矢川から「ママ下湧水」の水路にルート変更。



ママ下湧水
なんとか流れを飛び越え、流路にそって遡る。しばらくすすむと「ママ下湧水」。「ママ」って、「ハケ」とか「ハッケ」とも呼ばれる崖線のこと。崖下から、水が湧き出ている。結構な量。これほど勢いよく湧き出る水はあまりみたことがない。感激。感慨をもって崖線を眺め、また崖線を上ったり下りたり、しばし幸福な時を過ごす。

府中用水「ママ下湧水」を離れ、府中用水に沿って進む。先ほど歩いた矢川との合流T字路・「おんだし」に。水草の美しい流れ、矢川の名前の由来ともなった「矢のように速い流れ」そのものの水量。勢いのある澄んだ流れは心地よい。少し進むと先回「くにたち郷土文化館」に行く時通った道と交差。すこし北のほうに崖地が見える。青柳崖線。先日は、あの崖下の細流・せせらぎの小道、を辿ったなあ、などと思いにふける。
府中用水の流れにそって進む。ヤクルト中央研究所の手前で流れは南に。最後まで流れの行く末を見届けたいのだが、それよりなにより本日の散歩の目的は立川崖線を歩くこと。谷保天神のところで立川崖線が青柳崖線と合流する、ということであるので、北に歩をとる。

青柳崖線下を谷保天神に
ヤクルト中央研究所のフェンスに沿って青柳崖線下に向かう。細流・せせらぎの小道にかかる木橋を眺め先に進む。城山公園から谷保天神へと、勝手知ったる道筋を進む。谷保天神では先回見逃した「常盤の清水」に訪れ、しばし休憩。「ママ下湧水」ほどの勢いはない
ものの、「湧水」というだけで有難く思う。

上坂橋から日新町に

谷保天神を離れ、立川崖線に沿って進む。樹木林が生い茂る。崖下の道を進む。細流は府中用水、かと。国道20号線・国立ICとの道路。道路手前の崖線上には「下谷保遺跡」。螺旋階段を上り、国立ICへの道を越え、再び螺旋階段を下る。
崖線に沿って進む。崖線上には谷保東方横穴墓とか谷保東方遺跡。上坂橋を過ぎると日新町。NECの工場がある。このあたりから府中用水水は「市川緑道」と名前が変わっている。

市川緑道

市川緑道を進むと、今度はいつのまにか新田川の緑道となっていた。府中用水って市川とは新田川などと、場所によって呼び名が異なっているよう、だ。

鎌倉街道

しばらく進むと鎌倉街道。ここで、分倍河原の駅に向かおうか、などとも思ったのだが、なんとなく、昨
年だったか、多摩から分倍河原に向ってあるいた
ときに出会った、分倍河原合戦の碑を見ておきたくなった。新田川緑道脇にあったように思う。

分倍河原合戦の碑

街道を越え中央道の下をくぐり緑道を進むと分梅橋。分倍河原合戦の碑があった。分倍河原の合戦。新田義貞と北条軍の戦闘。緒戦新田軍不利。その際、武蔵の国分寺など焼失。が、翌日、陣容を立て直し、北条軍を破り鎌倉に攻め入り幕府を滅ぼすことになる。

京王線・分倍河原


道を北に進み、ロータリーっぽい交差点。御猟場道と分梅通の交差点。分倍=分梅の由来が書いてある。「新田義貞が梅を兜につけて進軍したという逸話に由来する『分梅町』から取られた」、と。
とはいうものの分梅町って名前は近世になってから、とのことではあるし、なんとなくしっくりこない。また、「多摩川の氾濫により収穫が少ないので、口分田を倍に給した所であったため『分倍(陪)』や『分配』と呼ばれていた」との説もある。が、これといった定説はないようである。脇道を進み京王線・分倍河原の駅に到着。本日の予定終了とする。   

京王線の駅で何げなくポスターを見ていた。府中郷土の森博物館で宮本常一さんの展示がある、と。民俗学者。とはいうものの、ひたすらに日本各地を歩き回った、といった断片的なことしか知らない。いい機会でもあるので宮本常一さんの業績・人生の一端にでも触れるべし、ということで、府中散歩にでかけることに。

地図を眺めていると、郷土の森博物館から6キロ程度西の国立に、城山公園とか「くにたち郷土文化舘」のマーク。距離も丁度いい。郷土館のあとは、府中から国立に歩くことにした。
(2009年9月の記事を移行)



本日のルート;京王線・分倍河原駅>南武線に沿って東に>かえで通り>税務署前>本町西・中央高速と交差>新田側緑道>郷土の森博物館>多摩川堤通り・府中多摩川かぜの道>県道18号線・関戸橋北(鎌倉街道)>京王線交差>府中四谷橋>石田大橋>100m程度で北に>泉地区>中央高速交差>南養寺南・くにたち郷土文化舘>青柳河岸段丘ハケの道>谷保地区・城山公園>浄水公園>厳島神社・谷保天満宮>国道20号線・甲州街道>南武線・谷保駅

京王線分倍河原駅

京王線に乗り分倍河原に。いつだったか、この駅の北にある高安寺に訪れたことがある。平安時代に俵藤太こと藤原秀郷が開いた見性寺がはじまり。俵藤太って、子供の頃「むかで退治」の物語を読んだことがある。また、先般の平将門散歩のときにメモしたように、将門を討伐した武将でもあった。
この見性寺、義経・弁慶主従も足を止めている。頼朝の怒りを解くべく、赦免祈願の大般若経を写した「弁慶硯の井」跡が残る。南北朝期には新田義貞が本陣を構える。戦乱の巷炎上し荒廃。室町期にはいり、足利尊氏が高安護国寺として開基。関東管領上杉憲実討伐のため鎌倉公方・足利持氏がここに陣を構えている。永享の乱のことである。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
また、足利成氏のこもるこの寺に攻め込んだ上杉軍を成氏が破っている。享徳の乱における「分倍河原の合戦」のことである。その後も鎌倉街道の要衝の地ゆえに、上杉・後北条軍の拠点として戦乱の舞台となる。で、度々の戦乱で荒廃し、江戸期に復興され現在に至る。

駅を下り、南武線に沿って東に100mほど進む。けやき通りを南に折れる。けやき、って府中市の市の木だったか、と。ちなみに市の花は梅。南に進む。税務署前交差点を越え、本町西で中央高速と交差。

新田川緑道

先に進むと新田川緑道に。分倍河原って、新田義貞と北条軍が争った分倍河原の合戦の地。新田川の名前の由来は新田義貞からきているものであろう、と思っていた。が、どうもそうではないらしい。読みも「しんでんがわ」。江戸時代の新田開墾に由来する、とか。

郷土の森博物館

新田川緑道に沿って、東南にくだる。緑の中に「郷土の森博物館」はある。入口で入場料200円を払って館内に。単に郷土館があるだけではなく、昔の民家などの復元建築物や水遊びの場所といった施設もある。

宮本常一さん

展示ホールに。「宮本常一生誕100年記念事業;宮本常一の足跡」という特別展示が行われていた。入口で宮本常一氏の足跡をたどった30分のビデオ放映。大雑把にまとめる;広島県の瀬戸内に浮かぶ周防大島の生まれ。教師になるべく、大阪の高等師範学校に。徴兵で大阪の8連隊に入営。
8連隊といえば、子供の頃父親に「大阪の8連隊はあまり強くなく、また負けたか8連隊」といったせりふが言われていたと、聞いたことがある。事実かどうか定かではない。ともあれ、この8連隊に入隊しているとき同期の人から民俗学のことを教わった、と。
除隊後、小学校の教員。このとき田舎の周防大島のことを書いた原稿が民俗学者・柳田國男の目にとまる。同好の士を紹介され研鑽に励む。渋沢敬三氏の突然の来訪。敬三氏は渋沢栄一の孫として、第一銀行の役員といった実業界での要職とともに、民俗学者としても活躍。宮本氏は渋沢敬三氏の援助もあり、大阪から東京に上京。敬三氏の邸内のアチック(屋根裏部屋)・ミュウジアム、後の「常民文化研究所」の研究員となる。

宮本常一は旅する民俗学者として有名。生涯に歩いた距離は16万キロにもおよぶという。全国各地を旅し、フィールドワークを行い、地元の古老から聞き書きをし、貴重な記録をまとめあげる。著作物も刊行し、実績もあげる。が、第二次世界大戦。渋沢邸も焼け、大阪の自宅も焼失。膨大な量のノートが消え去ったと。戦後は民俗学者というだけでなく、農林振興・離島振興に尽力。また、佐渡の鬼太鼓座とか周防の猿まわしといった芸能の復活にも尽力した。

後半生は武蔵野美術大学の教授、日本観光文化研究所(近畿日本ツーリスト)の所長として後身の育成に努める。ちなみに、研究所発行の月刊誌『あるくみるきく』のサンプルにおおいに惹かれる。どこかで実物を手に入れたい。
で、宮本氏と府中との関係は、昭和36年からなくなるまでの20年、自宅を府中に置いたこと。また、郷土の森博物館の建設計画にも参与した、と。著作物には『忘れられた日本人』など多数。未来社から『宮本常一著作集』が現在まで50巻刊行。すべてをカバーすると100巻にもなるという。

素敵なる人物でありました。歴史学者・網野善彦さんも『忘れられた日本人』についての評論を書いている。30分の紹介ビデオでも網野さんからの宮本常一さんに対するオマージュといったコメントもなされていた。
網野さんは『無縁・苦界・楽;平凡社』以来のファン。網野さんが大いに「良し」とする人物であれば本物に違いない。更に惹かれる。ちなみに網野さんは宗教学者の中澤新一さんの叔父さんにあたる。その交流は『ぼくのおじさん;集英社』に詳しい。

特別展示を眺め、関連図書を購入。買い求めた『忘れられた日本人を旅する;宮本常一の軌跡;木村哲也(河出書房新社)』を、帰りの電車で読んでいると、その本文に司馬遼太郎さんの宮本常一さんに対するコメントがあった;「宮本さんは、地面を空気のように動きながら、歩いて、歩き去りました。日本の人と山河をこの人ほどたしかな目で見た人はすくないと思います」、と。折に触れ著作物を読んでみたい。手始めに『忘れられた日本人』『塩の道』あたりを購入しよう。

多摩川堤「府中多摩川かぜの道」

2階の常設展示会場を眺め、博物館を離れ多摩川堤に。次の目的地である国立の城山(じょうやま)公園には、この堤防上の遊歩道・「府中多摩川かぜの道」を辿ることにする。距離はおよそ6キロ強、といったところ。
実のところ、先日の秩父の山歩きで膝を少々痛めていた。今週はアップダウンのある地域への散歩は控えるべし。ということで、この平坦な遊歩道は丁度いい。唯一の「怖さ」はサイクリング車。高性能の自転車なのだろうが、すごいスピードで走ってくる。それも半端な数ではない。「歩行者優先。自転車スピード注意」と路面に表示してはあるが、あまり効き目なし。こんな気持ちのいいサイクリングロード。飛ばす気持ちはよくわかる。

川の南に多摩の丘陵

川の南に聳える多摩の丘陵を意識しながら堤を進む。博物館の対岸の丘陵は多摩市・連光寺あたり。明治天皇行御幸の地とか小野小町の碑がある、と。乞田川が多摩川に合流している。後方、東方向に見える鉄道橋は武蔵野貨物線と南武線。先日南武線の南多摩駅で下り、城山公園をへて向陽台に向かったことを思い出した。城山は大丸城があった、というが、城主などはわかっていない。城山公園から西に続く広大な丘陵は米軍多摩レクリエーションセンターであろう。フェンスに沿って山道を城跡のある山頂までのぼっていったことが懐かしい。

関戸橋

1キロ程度西に進むと関戸橋。関戸橋の南は乞田川によって分けられた谷地。乞田川(こったかわ)は多摩市唐木田が源流。唐木田駅近くの鶴牧西公園あたりまでは水路を確認できるが、それより上流は暗渠となっている。
乞田川によって開析されたこの道筋は多摩センターに続く。鎌倉街道上道と言われている。関戸5丁目と6丁目の熊野神社のところに霞ヶ関という関所があった。新田義貞と北条軍が戦った古戦場跡でもある。世に言う関戸合戦である。

関戸の小野神社に想いを馳せる

多摩川堤を少し西に進むと京王線と交差。対岸は関戸地区。関戸の渡しのあったところ。鎌倉街道の関戸と中河原を結んでいた。昭和12年の関戸橋の開通まで村の経営で運営されていた、と。
その少し東は一ノ宮。小野神社が鎮座する。古来、武蔵一の宮と称される古社。とはいうものの、先日歩いた埼玉・大宮の氷川神社も武蔵一の宮。大宮のほうが格段に規模も大きい。この小野神社はそれなりに大きいとはいうものの、氷川神社に比すべくもない。
どちらが「本家」という「元祖」一の宮かと、いろいろ説明されている。武蔵国成立時、それまでの中心地であった大宮を牽制すべく府中に国府を置き、国府に近い小野神社を一の宮とした、といった説もある。氷川神社に代表される出雲系氏族を押える大和朝廷の宗教政策、とも考えられるが、これは私の勝手な解釈。こ れといった定説は聞いていない。
もっとも、一ノ宮って、公的な資格といたものではなく、いわば、言ったもの勝ち、といったもののようだ。なにがしか、周囲が納得できる、「なにか」があれば、それで「一ノ宮」たり得た、とか。
小野神社の祭神は秩父国造と大いに関係がある。これは小野氏が秩父牧の牧司であったため。武蔵守に任官してこの地に来るときに秩父神社の祭神をこの地にもたらしたのではないか、と。ともあれ秩父と府中を結ぶつよいきずながあった、よう。大国魂神社も含めそのうちにちゃんと調べてみたい。

府中・四谷橋
更に西に1キロ程度進むと「府中・四谷橋」。国立・府中インターで下り、多摩センターのベネッセさんに行くときに通る道。その東は百草園。
いつだったか高幡不動から分倍河原に向かって歩いたとき、程久保川に沿って進んだ道筋。淺川も合流しており、川筋も広くこころもち、野趣豊かな風情である。ほどなく「石田大橋」。府中・四谷橋から2キロ程度の距離だった。

程久保川は日野市程久保の湧水を源流とし、多摩動物公園とか高幡不動の前を通り多摩川に合流する4キロ程度の川。古い名前が「谷戸川」。名前の通り、河岸段丘を穿って里山に谷戸とか谷津とよばれる谷地を形成していた、と。淺川は陣場山あたりを源流とする全長30キロ強の河川である。流路の長さに比して川床が高かったよう。ために氾濫を頻発する暴れ川であった、とか。川床が高かったことが、「浅川」と関係あるのかも?

国道20号線・日野バイパス

国道20号線・日野バイパスの通る「石田大橋」を越え、100mほど進み北に折れる。先日、娘の陸上競技会の応援で甲府に。帰路中央高速が渋滞し、甲州街道をのんびりと戻ってきたのだが、八王子の先、日野バイパスに出た。昔は、甲州街道を豊田・日野、そして多摩川をわたり、といった大騒動であったが、このバイパスだと、一挙に国立インター近くに。便利になりました。

くにたち郷土文化舘

しばらく進み、中央高速下をくぐると行く手に森の緑。これは南養寺の森。くにたち郷土文化舘はこの森の南端にある。森の端にそって東に進む。入口脇には近辺のハイキングコースをまとめた資料など用意されていた。助かる。
常設展示は半地下。デザイナーマンションならぬ、デザイナー郷土館といった特徴ある建物。常設展示場でビデオ放映を眺め、国立のあれこれを頭に入れる。
印象に残ったのは、このあたりの地形。武蔵野段丘、立川段丘、青柳段丘といった河岸段丘が並ぶ。河岸段丘とは階段状の地形のこと。河川の中流域や下流域に沿って形成される。当たり前か。階段状という意味合いは、平坦地である段丘面と崖の部分である段丘崖が形成されている、ということ。段丘崖の下には湧水が多いのは、国分寺崖線散歩で見たとおり。

地形について
地形についてちょっとおさらい。武蔵野段丘面の崖の部分が国分寺崖線。崖に沿って野川が流れる。この野川が流れる平地が立川段丘面。その崖の部分が立川崖線。その崖下を流れるのが矢川。そこは青柳段丘面。「くにたち郷土文化舘」はこの青柳段丘面の端。青柳段丘崖の近くにある。下には湧水が流れる、川というほどではないようだ。で、そこから多摩川にかけて沖積面が広がっている。
ということで、文化舘を離れ、崖線下の湧水に沿って先に進むことにする。この細流は矢川の支流のような気がする。矢川の源流はすこし北、南武線・西国立駅近くの矢川緑地あたりの湧水を集め、国立市外を流れ府中用水に合流。およそ1.5キロ程度の川である。

崖線下の湧水路に沿って城山公園に

崖線下の湧水路に沿って進む。崖線のことは「ハケ」と呼ばれる。中野の落合のあたりでは「バッケ」と呼ばれていた。また、このあたりでは「ママ」とも呼ばれるようである。本来であれば多摩川への沖積低地がひろがるはず、ではあるが、南は中央高速に遮られ、いまひとつ見通しはよくない。

城山公園
崖面を意識しながら進む。湧水路の上には木道が整備されている。細流である。ハケ下の道をしばらく進む。ヤクルト中央研究所の裏手を通る。細い道筋を進むと城山公園。
鬱蒼とした森が残されている。ここは城山と呼ばれる中世の館跡。青柳段丘崖を利用してつくられた室町初期の城跡。城主は三田貞盛とも菅原道真の子孫である津戸三郎ともいわれるが、定説はない。しばし森を歩き、次の目的地谷保天満宮に向かう。

城山公園を離れると、すこし景色が広がる。田畑が目につく。南に浄水公園がある、とのことだが、どれがその公園なのかよくわからない。東前方に広がる緑が谷保天満宮の鎮守の森だろう。

谷保天満宮

あたりをつけて進むと天神様の境内に。厳島神社。本殿裏手にある。弁天さまをおまつりした祠の周りは池。西側の「常盤の清水」からの湧水が境内に流れ込んでいる。天神さまのあたりは立川段丘と青柳段丘が交るあたり、とか。崖下からの遊水がこの「常盤の清水」となって湧きだしているのであろう。この清水は境内の中だけでなく、外にも流れだしている。周囲の水田の灌漑用水源としても使われたのであろう、か。

谷保天満宮は菅原道真をまつる。1000年の歴史をもち、関東最古の天神さまである。亀戸天神、湯島天神とともに関東三大天神様とも。このあたりの地名は「やほ」というが、この天神さまは「やぼ天満宮」と読む。通称「やぼてん」さまとも。「野暮天」の語源でもある。
由来は、道真が太宰府に配流になったとき、その三男道武もまた、この谷保の地に流された。わずか8歳のとき。そののち道真が亡くなったのを知り、それを悲しみ父の像を彫った、とか。が、その像があまりにあかぬけない、洒落ていない。ということで、「やぼてん>野暮天」となった、と言う。10歳の子供が彫ったわけで、あかぬけない、とは少々腑に落ちない。

また、別の説もある。この天神様のご神体を江戸の目白不動尊で出開帳することがあった。が、そのときは10月・神無月。八百万の神々が出雲に行く季節。そんなときに、江戸に出向くといった無粋なことを、と、揶揄した歌がある。「神ならば出雲の国に行くべきに 目白で開帳谷保の天神」、と。この歌に由来する、という人もいるようだが、定説はないよう。

あれあれ、鳥居が本殿より上にある??

本殿におまいり。もともとは多摩川の中州にあった。菅原道武が自ら彫った「野暮な」像を天神島にまつっていたようだが、後世、道武の子孫・津戸為盛がこの地に写した。あれあれ、鳥居が本殿より上にある。石段をのぼり、表大門に向かう。出たところは甲州街道。なんとなくしっくりこない。
チェックした。ことは簡単。昔の甲州街道は本殿より南にあった、ということ。新道ができたとき参拝の便宜をはかり現在の甲州街道沿いに表大門を設けたのであろう。

谷保の由来
メ モし忘れたのだが、谷保の由来。これは、文字通り「谷を保つ=谷を大切に守る」といった意味。段丘上にできた小さな谷地、谷上をなした湿地帯にその豊かな環境ゆえに人々が住み着いた。その環境の「有難さゆえ」にその環境を守るって地名にしたのだろう、か。別の説もある。谷地には違いないのだが、谷が八つあった。その八つの谷を守る、という意味で「八ツ保」、それが転化して「八保>谷保」との説である。はてさて。

南武線・谷保駅
今日の予定はここまで。甲州街道を越え、南武線・谷保駅まで歩き、分倍河原まで戻り、一路家路へと急ぐ。

小仏峠を越えて相模湖に

甲州街道の昔道を辿る散歩の第二回。高尾から小仏峠を上り、相模湖まで歩くことにした。JR高尾駅から高尾山の北側、通称裏高尾を経て小仏峠に上り、そこからは相模湖に向かって山中を下ることになる。
小仏峠越えは難路であった、と言う。小仏峠には一度訪れたことがある。が、そのときは、高尾山から景信山を経て陣場山に登るため、高尾・景信の鞍部である小仏峠を通過しただけ。街道をのぼってきたわけではない。
小仏峠の手前まで歩いたこともある。景信山への直登ルートの登山口まで旧街道を歩いたわけだが、どうといったことのない舗装された道。とてものこと、険峻な峠道といった印象はなかった。はてさて、その先が難路であったのだろう、か。小仏峠への難路を少々期待しながら散歩に出かける。



本日のルート:JR高尾駅>小仏関跡>荒井バス停>小仏バス停>景信山登山口>小仏峠>JR、中央高速と接近>小仏峠への西からの登山口>旧甲州街道を底沢に下る>小原の里>中央線JR相模湖駅


JR高尾駅

JR高尾駅で下車。この駅には幾度来たことだろう。鎌倉街道山の道を、この高尾から五日市筋、それから青梅筋、次いで名栗の谷筋、そして妻坂峠を越えて秩父には進んだことが懐かしい。八王子城跡に歩くときも、この高尾の駅から歩を進めた。
高尾は高尾山薬王院に由来する。で、そもそもの「高尾」は京都の三尾(高尾、栂尾、槇尾)のひとつ、から。室町時代に入山した俊源大徳が京都の醍醐寺に入山していたためである。
駅前のロータリーで小仏峠行きのバスを待つ。終点の小仏バス停までは4キロ強。時間もないし、また、このあたりは数回歩いているので、今回はバスに乗ることにした。
バスは駅から国道20号線に出る。両界橋で南浅川を渡り、JR中央線のガードをくぐる。ほどなく西浅川交差点。バスはここで国道20号線を離れ、小仏峠への旧甲州街道(以下甲州古道)に入る。角のコンビニは裏高尾の最終コンビニ。

小仏関跡
交差点から800mほど入った駒木野バス停のところに、ちょっとした公園が見える。これって小仏関跡。もともとは小仏峠にあったものがこの地、駒木野宿に移されたもの。何時だったかここを訪れたことがある。小仏関の石碑の前に、手形石とか手付石といったものがあったように思う。旅人が手形を差し出したり、手をつき頭を下げて通行の許しを待つ石であった、かと。
駒木野の由来ははっきりしない。青梅筋の軍畑の近くにある駒木野は、馬を絹でまとって将軍様に献上した、からと言う。「こまきぬ」>『こまぎぬ」ということ、か。駒木野宿は戸数70戸ほどの小さな宿。関所に付属した簡易宿で、なんらか馬に関係はしたあれこれがあったのだろう。

荒井バス停
バスは進む。道も狭くなり、バスが道を塞ぐ、ほど。対向車待ちが必要といった道幅である。駒木野の次のバス停は荒井。荒井のバス停の近くから八王子城に上る道がある。道というか山道である。これもいつだったか、あまりきちんと調べないで、このルートを辿ったことがある。八王子城山の山裾を通る散歩道程度だろう、と思っていたのだが、これが大間違い。山稜に引っぱり上げられ、アップダウンの激しい尾根道を富士見台を経て城山まで1時間以上の山道歩きとなった。軽々に山道に入るべからず、ということ、か。

小仏バス停
荒井バス停を越え、圏央道と中央高速のジャンクションの南を進む。バスの窓から浅川国際マス釣場などを眺めながら小仏川に沿って進む。小仏川って南浅川の上流の名前。裏高尾ののどかな景色。ほどなく小仏バス停に到着。ここから歩きが始まる。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

景信山登山口
バス停を少し進むと宝珠寺。道を離れ小高い崖面上のお寺にお参り。境内のカゴノキは都の天然記念物。鹿子の木と書く。樹皮がはがれて鹿の子模様になるから、とか。クスノキ科の常緑高木。昔、行基がこの寺に仏を置いた。それが小仏峠の由来、との説がある。
小仏川に沿って舗装された道を進む。次第に傾斜がきつくなってくる。小仏川が見えなくなる辺りで道は大きくS字にカーブ。中央道が小仏トンネルに入るあたりの南をかすめ、道を進む。道路は舗装されており、厳しい峠道にはほど遠い。
ほどなく景信山登山口の案内。いつだったか、ここから景信山に取り付いたことがあったのだが、ペットボトルを道の途中で落とし、水分補給ができず厳しい思いをしたことを
思い出した。
景信山の由来は、八王子城代である横地景信が八王子城攻防戦に破れ落ちのびたとき、この地で討取られたから、とか。もっとも、横地景信という人物は存在せず、横地吉信であったという説もあり、しかもこの人物は、八王子城を脱出した後、檜原城に逃れた後、小河内で自刃したという説もあり、本当のところはよくわかってはいない。

急峻な山道
しばらく進むと駐車場。結構広い。10台ほど車が駐車している。舗装道路はここでお終い。道はここから急に山道となる。山道の始点からしばらくは、それほど厳しい道筋でもない。道幅もゆったりしている。こういった調子で峠まで続くのか、急峻ってイメージではないなあ、などとお気楽に進んでいると、突然道が厳しくなる。人ひとり通れるかどうか、といった幅しかないし、ジグ
ザグの急角度。急な山道に息が上がる。これはとてものこと車というか、馬車を走らせる道など通せそうもない。山道の途中から下を見ながら、現在の甲州街道・国道20号線が小仏峠筋を避けたもの当然だろう、と実感する。
現在の甲州街道が開かれたのは明治21年。この小仏峠筋ではなく、大垂水峠を越える道筋に車、というか、馬車が通れる道筋がつくられた。一方、鉄路の開設は明治34年頃。車道とは異なり鉄路はこの小仏峠筋にトンネルを通す。大垂水ルートの頻繁なる高低差は鉄路には好ましくない、ということなのだろう。2キロ程の山塊を開削している。中央高速も然り、である。
誠に急な山道。幕末、近藤勇率いる甲陽鎮武隊が甲府防衛のため、この山道を通った、と言う。大砲を曳いていったとのことだが、さぞかし難儀なことであったろうと思う。ここを歩くまでは、どうして現在の甲州街道が小仏峠筋を通らないのか、少々疑問に思っていたのだが、そんな疑問をすっきり解消してくれるほどの急坂であった。
あれこれ思いながら、歩を進める。山道を上り切ったところに、やっと小仏峠が現れた。地形図でチェックすると、山道にはいったところから峠まで200mで高度が80mほどあがっている。最大斜度が30度ほどのところもあった。結構な「崖道」であった。

小仏峠
高 尾山と景信山の按部である小仏峠は広場となっている。地形図でチェックすると、景信山から高尾山につづく山塊のもっとも幅の狭い部分となっている。この峠道が開かれたのは大月城主・小山田信繁による滝
山城急襲のとき。上州碓井峠方面からの武田軍主力に呼応し、この小仏筋から攻め込む。滝山城を守る北条軍は、この道筋から軍勢が攻め込むなど想像もしていなかった、と言う。それほど人を寄せ付けない急峻な山塊であったのだろう。先日の大月散歩のときの案内によれば、小山田信繁は岩殿城山の修験者の先導のもと、道なき道を切り開いた、と言う。岩殿山の修験者を庇護していたもの、むべなる、かな。
峠に関が設けられたのは室町末期。小山田軍の急襲により廿里の合戦(高尾駅の北)で北条方が破れる。ために、北条氏照は裏高尾筋への備えを固めるため主城を滝山城から八王子城へ移す。そして、小仏峠に八王子城の前線基地としての砦を築く。当時は富士関役所と呼ばれていた、とか。これが小仏の関のはじまり。北条氏の対武田防御最前線で
もあったのだろう。
北条が秀吉に破れ、秀吉の命により家康が関東を治めるようになると、家康により関が設けられる。家康は武田の遺臣を召し抱え八王子千人同心を組織。八王子、そしてこの関の防衛の任を命じる。その後、関
は駒木野の地に移されることになる。こんな山奥ではあれこれ不便であったのだろう。
峠の広場を歩く。北端にいくつかのお地蔵様。その横には登山ルートマップ。景信山にはその脇から上ってゆく。いつだったかこのルートで景信山に上ったことがある。峠に上る途中にあった景信山への「直登ルート」に比べて少し楽だった。南端は高尾山の小仏城山への登山道。手前に明治天皇が山梨巡行のとき、この峠を通ったことを記念する石碑。そして南西端に旧甲州街道の案内。ここから相模湖に向かって下ることになる。


JR、中央高速と接近
杉木立の中をどんどん下る。はじめのころは比較的傾斜も緩く歩きやすい。500mで100m下る程度。その後少し傾斜が急になる。500mで200m下る。下っているからいいものの、下から上ってくるには少々骨が折れるだろう。道は尾根筋を下っている。
尾根道の北に沢筋。その下をJR中央線のトンネルが走っている。中央高速の小仏トンネルはその北の山塊を穿って走る。
送電鉄塔などを見やり、峠から1キロ程度下ると、車の音が聞こえてくる。中央高速を走る車の音だろう。ほどなく、木々の間から中央高速が見えてくる。山道を抜け、小仏峠の登山口の案内のある里に出ると、前方にJR中央線、中央高速が現れる。トンネルから出た鉄道も高速も、ここからは西に迫る山塊を避け、沢筋を相模湖方面に向かって下る。

小仏峠への西からの登山口
登山口の案内のところから道は舗装道路となる。山道を下りたところで、舗装道路を南に行けばいいのか、北に行けばいいのかわからない。結局南へと歩いたのだが、甲州古道はこの道を北に進み、中央高速を越え、美女谷温泉方面へとのぼり、それから再び中央高速を越え、中央高速と並走するJR中央線との間を相模湖に向かって下るようであった。後の祭り。
美女谷温泉は陣場山からの下りで幾度か目にしていた。気になる名前ではある。名前の由来は美女伝説、から。この地は小栗判官に登場する絶世の美女・照手姫出生の地、であった、とか。
小栗判官の話は熊野散歩のときにr出合った。その照手姫が、この地に生まれたとのことであるが、例に寄って諸説あり、真偽のほど定かならず。それよりなりより、この話自体が伝説に過ぎない、とも。ともあれ、照手姫のお話のさわりをちょっとメモする。
相模・武蔵両国の守護代の館に姫が生まれる。照?手と名付けられた姫は美しく成長し、その美しさは、世間の評判。この噂を耳にしたのが常陸の国司、小栗判官。この地に赴き、強引に婿入りする。が、これに怒った照手姫の親により小栗判官は毒殺される。で、あれこれあって、照手姫は美濃の国の遊女宿で下働きに。また、小栗判官が閻魔大王の恩赦で地獄からよみがえる。物言わぬ餓鬼阿弥の醜い姿で遊女宿の前に現れる。熊野本宮の峰の湯に入れば元の体に戻ると言われ、?人の情けを受けながら熊野を目指す旅の途中であった。照手姫は夫とも知らず、小栗判官の乗った車を引いて近江まで進むが、宿との約束もあり、遊女宿に引き返す。小栗判官は熊野に着き,峰の湯温泉につかって元の小栗判?官に戻り、照手姫と再会。幸せに暮らしたとさ。

旧甲州街道を底沢に下る

中央高速の高架橋、そしてJR中央線に沿って南に下る。高速の高架橋が美しい。高速は山裾を縫って走る。ちょっとし沢など高い橋桁でひと跨ぎ。技術力のパワーを実感する。昔道は自然に抗わず、尾根を進み、沢に沿って下る。山塊の間の沢筋の道を数百メートル進むと、国道20号線と合流。この沢を流れる川筋は底沢川とも美女谷川、とも。

小原の里

国道を少し西に歩いたところに底沢バス停。バス停を見やり先に進む。少し進んだところに「小原の里」。この地、小原宿の案内所。気さくな職員の応接のもと、しばし休憩。一時のおしゃべりを楽しみ、近くにある小原宿の本陣を訪ねる。この本陣は神奈川に残る唯一のもの、とか。
本陣利用は信濃高遠藩、高島藩、飯田藩の3藩のみ。それぞれ小さな藩である。江戸幕府の防御ラインが主として甲州街道に重点を置いており、ためにこの街道は大いに軍事街道の性格が強いように思えるのだが、そういったことも参勤交代の数が少ない事と関係があるのだろう、か。甲府城しかり、八王子千人同心しかり、また江戸においても四谷といった甲州街道筋には大番組(戦闘集団)を配置している。ちなみに大番組が住んでいたところ
が番町、である。素人解釈のため、真偽のほど定かならず。また、甲府城は危急の際の将軍家の退避城であった、とか。

中央線JR相模湖駅
そうそう、それと甲州街道を利用した公的往来としては、宇治のお茶を将軍に献上する「お茶壺道中」もあった、なあ
。宇治のお茶とは関係ないのだろが、このあたりの地名には京都ゆかりの地名が多い、なあ。相模川はこのあたりでは桂川と呼ばれるし、小原は京都の「大原」。そして、少し西にある与瀬も京都の「八瀬」からとの説もある。はたして、その由来は、などとあれこれ想像をふくらましながら一路JR相模湖駅に向かい、本日の予定終了。京都との関係、その真偽のほどはそのうちに調べてみよう。

西武拝島線・立川駅を下り、先回散歩の最終点である美堀橋の先にある暗渠部に向かう。今回は、出かけるのが遅くなり、この暗渠部から玉川上水駅あたりまで上水を辿ることにする。ルートの南は、先日国分寺散歩で偶然出合った、江戸の頃の砂川分水・砂川新田(後の砂川村)。五日市街道に沿って開拓された砂川村を想い描きながら、上水を辿ることにする。

本日のルート;西武拝島線・立川駅>美掘橋>松中橋>柴崎分水口>砂川分水口>一番橋>天王橋>稲荷橋>上水橋・すずかけ橋・上宿橋>新家橋>見影橋>巴河岸跡>大曲>金比羅橋・金比羅山>宮の橋>千手橋>玉川上水駅

美堀橋
美堀橋は昭和59年に架けられた。名前の由来は、辺りの地名である美堀町、から。また、美堀町は、上水の向こう側、ということで、「堀向=ほりむこう」とも呼ばれていた、と。暗渠は戦前、昭和14年(1939)、上水の南に長さ1200m、幅170mの滑走路が完成し、将来、延長される可能性を見越して、上水に鉄筋コンクリートの蓋をした、とのこと。立川にあった陸軍飛行第五連隊は、1938年には飛行第五戦隊と改編され、1939年に柏飛行場に移った。立川には実戦部隊はなくなり、立川陸軍航空廠や技術研究所、あとは軍用機を製造するといった研究・開発・製造の拠点となり、結局、滑走路が延長されることはなかったようである。




松中橋
松中橋を越えると5~6m下流に小さな堰がある。松中橋とこの堰の間にある二つの分水口への水位を上げるためのもの。二つの分水口とは柴崎分水と砂川分水。上流から柴崎分水と砂川分水の順に分水口がある。砂川分水は、散歩の折々出合ったこともあるのだが、柴崎分水ははじめて。八代将軍吉宗の新田開墾奨励策の一環として、当時の柴崎村芋窪新田、現在の立川駅の南西側の人々の上水や灌漑用水として利用されたのが柴崎分水である。

柴崎分水
松中橋の分水口を離れた流れは、南東に下る。地図を見ると、県道162号に向かって水路らしき流れが残る。県道から先は暗渠となっているが、流路はそのまま直進し、昭和記念公園西側の空き地に進み、そこを残堀川に沿って南下。途中で直角に曲がり、今度は残堀川の東を下る。昭和公園辺りを離れた分水はJR青梅線・残堀橋脚付近をくだり、奥多摩街道に。
奥多摩街道を東に進んだ分水は中央線を「掛け樋」で渡り、中世、立川地域に勢力を張った立川氏ゆかりの普済寺近くを進み、立川段丘を下る。その後は、中央モノレール柴崎体育館の南を越え、柴崎体育館駅の北側を抜け、根川に合流し、日野橋付近で多摩川に注ぐ。距離はおおよそ8キロ。奥多摩街道から普済寺までの流路は、西へ東へ、南へ北へと、結構複雑な流れとなっている。現在でも素堀りの流れなど、流路の半分くらいが開渠で残っているようだ。そのうち流路を辿ってみようと思う。

砂川分水
柴崎分水口のすぐ下流に砂川分水口。玉川上水から分かれた用水の中では、明暦元年(165)に開削された野火止用水に次いで古い用水である。明暦3年(1657)開削当時の分水口は、松中橋の300mほど下流にある天王橋のあたりに設けられ、その地で交差する五日市街道に沿って東へと流れ、砂川新田、後の砂川村の開発に供された
。 砂川新田の開発は、玉川分水・砂川分水の開削(明暦3年;1657)以前、寛永4年(1627)~明暦2年(1656)の頃よりはじまっていた。現在残堀川は天王橋の下流、上水橋・すずかけ橋のところを流れるが、当時は更に下流、立川断層に沿って、現在の見影橋に辺りを流れており、玉川上水ができる前は、この残堀川の水を利用し、新田開発が行われていた。その流れは、五日市街道の砂川三番・四番あたりに下っているので、開発は砂川三番・四番あたりからはじまった。名主・村野屋敷が砂川四番辺りにある。
明暦3年に砂川分水が通水されると、天王橋から五日市街道に沿って,砂川一番から八番へと新田開発がはじまる。明暦3年(1657)~元禄2年(1689)の事と言われる。現在も交差点に砂川三番、とか砂川七番といった名称が残る。この番号は年貢の徴収単位であったようで、一番から四番を「上郷」、五番から八番を「下郷」と呼び、それぞれ、「小名主」がその任にあたった。
この砂川一番から八番を通常、「砂川村」と呼ぶようだが、それは、亨保7年(1722)、八代将軍吉宗による新田開発奨励策を受け、砂川新田の一番から八番まで開発を終えていた砂川の人々が、その東、砂川九番、十番あたりに開発の手を延ばし、これら新しい新田を「砂川新田」、その東を「砂川前新田」などと呼ぶようになった。ために、それらの新田と区別できるように従来の新田を「砂川村」としたようである。砂川三番、四番を中心に村の母体ができて百年後のことであった。
砂川分水の流れを少し先まで辿ると、立川と国分寺市の境、先日散歩で訪れた妙法寺、鳳林寺の少し西で五日市街道を挟んで南北に分かれ平行に進む。もともとは、小川新田地先の玉川上水樋口から分かれた野中新田分水の流れであった(場所から言って、小平にある野中新田の飛び地だろう)。砂川分水開削当時は、砂川八番あたりまでしか通水しておらず、ために、玉川上水から直接分水していたようである。その流れは西武国分寺線を越えたあたり、国分寺市並木町辺りで合わさり、一流となり、鈴木新田分水(ここも小平にある鈴木新田の飛び地)に接続されている、と聞く。これらの分水は明治3年の分水大改正時、つまりは、上水通船事業の開始にともない、上水南側の分水は、すべからく砂川分水に統合されることになり、砂川分水以外の分水口は閉じられることになったため、「砂川分水」に繋げた、と聞く。

一番橋
上水南側を砂川分水の開渠に沿って進む。開渠はほどなく暗渠となるが、整備された緑道を進むと一番橋。橋名の由来はこの辺りが砂川一番の地内であることから。緑道の南に一番組公会堂などという、往昔の名残を残す建物が地図に見える。

天王橋

先に進むと天王橋。橋の南詰めに八雲神社があり、牛頭天王を祀るのが名前の由来。五日市街道がこの橋を渡るため、五日市橋とも呼ばれたようだ。現在、天王橋は二つあり、上流に架かるのが昭和6年に架けられた天王橋。下流の五日市街道に架かるのが新天王橋。昭和45年に架け替えられた。天王橋の交差点は、変形六差路となっており、北は村山、南は昭島、立川、東は拝島、西は国分寺方面へとつながる。昔も交通の要衝の地であったのだろう。
五日市街道は江戸の頃、伊奈道とも呼ばれ、秋川筋の檜原や五日市の木材や炭、織物などを江戸に運んだ。伊奈道と呼ばれた所以は、秋川筋の伊奈村は石工、石材で知られ、江戸築城には欠かせないこの地の職人を江戸に呼び寄せた、ため。

稲荷橋
天王橋から先は、上水の南側が歩けないため、北側を江戸の頃の分水口の痕跡など無いものかと、注意して進むが、見あたらず。先に進むとほどなく稲荷橋。橋の南詰めにささやかなる稲荷の祠が佇む。もとは二の橋と呼ばれたようだが、砂川一番組のお稲荷様が祀られていたため、稲荷橋と呼ばれるようになった。

上水橋・すずかけ橋・上宿橋
上水に沿った緑道を進むと残堀川と交差。歩行者専用の橋は「すずかけ橋」と呼ばれる。その橋と平行するように、上水は残堀川の下を潜り、その先で元の高さに復帰する。もともと残堀川は、狭山谷川、夕日台川といった狭山丘陵の水を集めて東南に下り砂川三番の御影橋付近に至り、曙町を経て矢川につながり、国立の青柳から谷保を抜けて府中用水に流れ込んでいたといわれる。江戸時代の承応3 (1654)年、玉川上水が開通した際、愛宕松付近(現在の伊奈平橋付近)で川筋を南に曲げ、現在の天王橋(五日市街道との交差部)付近で玉川上水につなぎ代えた。同時に掘割を通して狭山池の水を残堀川に繋ぎ、玉川上水の助水として利用した、とのことである。

明治に入ると残堀川の水が汚れてきたため、明治26(1893)年から明治41(1908)年にかけて、玉川上水の下に交差させ、立川の富士見町へ至る工事が施された。富士見町から立川段丘の崖を落ちた水は段丘沿いに流れる根川に合流していた、と。昭和に入ると、増大した残堀川の生活排水の流入を避けるため、昭和38(1963)年、水量が安定している玉川上水を下に通すことになった。現在の姿がこれである。残堀川をもっと深く掘ればいいか、とも思うのだが、それではローム層下の立川礫層・透水層に当たり、水が河床から吸い込まれる、ということだろう、か。実際、昭和公園あたりの残堀川はほとんど水がないが、これは幾度にも渡る改修工事の結果、河床が透水層に達してしまい、水が吸い込まれるか、伏流水となっているためである、とも。橋の名前を上に上水橋・すずかけ橋・上宿橋とメモしたが、どれも正確には残堀川に架かっている橋。上水の北側に上水橋、その下に人道橋のすずかけ橋、そして、その15mほど下流に上宿橋が架かっていた、ように思うのだが、ちょっと自信なし。そのうちに確認にいってみよう、か。
それはともあれ、散歩をすると、時に川がクロスする場所に出合う。川崎の二ヶ領用水を辿っていたときも、三沢川と交差し、用水が下を潜っていた。ここでも、上を通したり、下に付け替えたりと、あれこれの経緯があったようだ。クロスではないが、水位の違う川の往来を可能にするため、ふたつの川を繋ぐ水路に閘門を設け、水位を上げ下げして往来する、隅田川と小名木川を介して旧中川と、また、埼玉の見沼代用水と芝川を繋ぐ見沼通船堀の閘門などが記憶に残る。見沼通船掘は、規模はさておき、その手法はパナマ運河より2世紀も早く造られた、とか。水を辿るのは、いかにも楽しい。

新家橋
残堀川との交差を越えると、上水の南が開ける。五日市街道のケヤキの並木、それに鬱蒼とした屋敷林を見やる。こういった並木って、防風林の役割をしているのだろう、と思っていたのだが、どこかで、風に舞い上がる関東ローム層の防砂対策の役割をもしていると、読んだ記憶がある。先に進みほどなく新家橋に。名前の由来は新家(にいや)と言う農家、から。砂川三番組の地区でもあり、三の橋とも呼ばれた。

見影橋
次の橋は見影橋。橋の脇に案内によれば、見影橋は江戸の頃からあり、上流から四番目であったので、四の橋、とも。また、名主村野家(明治になって砂川家、と)の屋敷が近くにあったので「旦那橋」と呼ばれた、とも。玉川上水の水見回り役も兼ねていた村野家のために架けられた橋、とも言われる。
明治の頃には名主の名前にちなんだ「源五右衛門分水」もあった、とか。村野(砂川)家専用の分水である。玉川上水には三十五ほどの分水があったようだが、個人専用の分水は、福生の名主・田村家と、この源五右衛門分水くらい。名主の力のほどが偲ばれる。
上でメモしたように、往昔の残堀川は、この見影橋筋を流れていた。玉川上水が開削される前の砂川新田開発は、この残堀川の旧路の水をもとに、南に下った砂川三番、四番あたりよりはじまる。名主村野家(後の砂川家)の屋敷が砂川三番交差点の少し西にあるが、開発当初は狭山丘陵南麓の岸村からの通い。名主・村野家も岸村から、この地に移ったのは元禄17年(1704)。明暦3年(1657)に砂川分水が開通して、およそ50年後のことである。

巴河岸跡
見影橋から少し下ったあたりに、明治の頃、巴河岸があった。これは明治3年から5年まで、わずか2年の間おこなわれた上水を利用した舟運の荷の揚げ下ろしの場所。上水を利用した船運の計画は江戸の頃から幕府に許可を求めていたが許されず、明治維新の政府の混乱もあったのか、はたまた、砂川村名主・村野家と新政府の要人・三条実美公や江藤新平卿との誼、故のことなのか、砂川村名主・村野源五右衛門、福生村名主・田村半十郎、羽村村名主・島田源兵衛の3有力者連名での「玉川上水船筏通行願」が許された。
船運開始に先立ち、船運の支障となる低い橋の架け替え、舟運に必要な荷物集積所(河岸)、そして下った船を、再び上流へと曳き揚げるために上水の両岸に「曳き道」も整備された。船運が開始されると、最盛期には百隻もの船が往来した、と言う。船持ち人は青梅の名主から、玉川上水に沿って吉祥寺までの村々の名主や新田の惣代百姓。羽村名主十四隻、福生名主十八隻、砂川名主二十二隻と、代表となった3名主の持ち船が圧倒的に多い。福生名主・田村家の運ぶ酒樽も上水を下り、江戸に向かったことだろう。
一時活況を呈した玉川上水通船であるが、上水を汚すという理由により、二年後の明治5年5月、廃止となる。田畑牛馬売却をもって船運開業の資金とした者など、この沙汰に大いに困り、再開を懇請したり、上水に沿って新堀を平行して掘り、それを通船の水路とする、といった案を提出するなど、あれこれ策を講じるも、結局、上水通船事業再開は許可されることはなかった。明治16年には玉川上水に沿って羽村―新宿間に馬車鉄道を敷くといった計画もあったが、時既に鉄道輸送の時代が到来し、多摩と東京の貨客の大量輸送は明治22年(1889)、新宿と立川間に開業した甲武鉄道にその任を委ねられることになる。

大曲
見影橋を過ぎると、上水は南に向かって大きく曲がる。大曲と呼ばれていたようだ。この場所を斜めに立川断層が通っており、それを迂回しているとのことである。立川断層は上水の上流側が低く、下流側が高い坂となっているカシミール3Dで地形図を見ると、比高差はおよそ4~5mほどである。
この坂を越えるため、北側が高く南側が低くなっているこの地の地形に合わせ、北側の高い所を掘り進め、断層地帯に当たると、断層に沿って下り、下流側の坂の高い所に合わせ、若干の勾配を保ち(カシミール3Dでチェックすると102mから99mとなっていた)、流れを保っている。

金比羅橋・金比羅山
上水の南側に沿って坂を上る。竹林などの茂る道脇の景色を眺めながら遊歩道を進むと、金比羅山の案内。山頂に金比羅神社、富士浅間神社、中腹には秋葉神社が祀られている、と。住宅地の間の鳥居を目安に参道の石段を上り、「山頂」に。この山は、安政年間、砂川村の名主が中心となり、上水開削土を盛り上げて造ったとも伝わる。標高15mの小山である。
こんな小さな山、と言うか塚に、三つの神様が祀られる。それぞれの関係は、今ひとつよくわかっていないが、もともと、この山は富士塚として造られた、とも言う。それであれは、富士浅間神社はあって当然。また、秋葉神社って、江戸の頃、浅間社との連携を強め、富士信仰との融合を図ったとも言われる。それであれば富士浅間神社と共存することに違和感は、ない。が、それでなくても、秋葉神社って、火除け・水除けの神であるので、富士信仰と関係なくこの地に祀られたの、かも。また、金比羅様は近くにあった砂川家の船河岸・巴河岸での船運の安全を祈願して祀られたのだろう。とすれば、金比羅山と呼ばれたのは、明治に入ってから、ということだろう、か。
金比羅山を越え、金比羅橋に。所沢(村山)街道と玉川上水交差するところから、村山橋とも呼ばれる。また、五の橋、とも。この橋の手前には砂川水衛所があった、と言う。現在では熊川、小川の各水衛所とともに統合されて小平監視所となっている。

宮の橋
金比羅橋を越え宮の橋に。この橋を南に下ると青梅街道手前に、阿豆佐味神社がある。橋の由来は、この神社から、だろう。明治には、宮崎九郎さんの裏にあったため、九郎さん橋、と、呼ばれたとも。
阿豆佐味神社といえば、この聞き慣れない名前に惹かれ、国分寺から辿り、思いもよらず、武蔵野新田や用水、そして砂川新田、また、新田開発の名代官川崎半左衛門などに出合ったきっかけの神社。阿豆佐味神社の「本社」を求めて、狭山丘陵南麓の、昔の岸村を訪ね、その地より残掘川を下ったこともある。いろんな、「きっかけ」を与えてくれた神社であった。


千手橋
元は「七の橋」。昭和になって橋が架け替えられたとき、千手橋となった、とか。名前の由来は不詳。日暮れも近い、立川砂川浄水場とか国立音楽大学を見やり、一路玉川上水駅に進み、本日の散歩を終える。

年明けの、とある週末、特段何処と言って歩きたいところが想い浮かばない。さてどうしよう、と地図を眺める。国立駅の北東に戸倉神社が目に止まる。尾瀬散歩の折の片品村の戸倉、奥多摩散歩の倉沢など、「倉」という言葉に最近フックが掛かる。「倉」って、「険しい崖地」といった意味がある。国立の北に、崖地への入口(戸)=戸倉、があるとは思えないのだが、なんとなく気になり、出かけることに。
スタート地点は戸倉神社と決めた。さてゴールは何処に、と地図を眺める。立川の北、砂川四番あたりに阿豆佐味神社が目にとまる。散歩で結構神社を辿ったが、阿豆佐味神社とは、はじめての名前。いかなる社かと、訪ねることに。
事ほど左様に、誠にお気軽に、成り行きで決めた散歩のルートではあったのだが、終わってみれば国分寺崖線あり、たまたま古本屋で手に入れ読み始めていた、川崎平右衛門(『代官川崎平右衛門の事績;渡辺紀彦(自費出版)』)ゆかりの地あり、玉川上水や砂川分水、武蔵野新田、そして砂川新田など、といった誠に思いがけない幸運と出会う一日となった。成り行き任せの散歩の妙、セレンディピティ(serendipity;別のものを探しているときに、偶然に素晴らしい幸運に巡り合ったり、素晴らしいものを発見したりすることのできる、その人の持つ才能。)を感じる一日ではあった。

本日ルート;JR国立駅>都道222号>光町1丁目交差点>稲荷神社>富士本2丁目交差点>戸倉通り>並木町・神明社>満福寺>戸倉神社>玉川上水>妙法寺>水源>用水>鳳林寺>高木神社>西町3丁目交差点>観音寺>けやき台小前交差点>五日市街道・けやき台団地北交差点>砂川九番>砂川七番・芋窪街道・多摩モノレール>砂川五番>砂川四番交番交差点>中央南北線北詰>阿豆佐味天神社

JR国立駅
国立駅南口に下りる。駅前から南には大通りと桜並木が続く。少し下ったところには一橋大学もある。如何にも学園都市の雰囲気であるが、その昔は一面の雑木林。雑木林が拡がる谷保村北部のこの地が開かれたのは大正時代末期。1926年(大正15年)、箱根土地開発(西武グループの前身といったところ)が学園都市を構想、国立駅も開く。1927年(昭和2年)には東京商科大学(一橋大学)が移転し、学園を中心にした宅地分譲が整備された。1951年(昭和26年)には国立町、1965年(昭和40年)、国立市となる。先日歩いた練馬の大泉学園もおなじく箱根土地開発が学園都市を構想したが、そこは大学の誘致が叶わず、学園(大学)のない駅名だけが残った。
駅を下り、とりあえず駅前の古本屋に立ち寄る。ビルの通路の壁に並ぶ郷土史関係の書籍が、割と自分の趣味に近く、折に触れ立ち寄っている。今回もシュライバー著『道の文化史』を手に入れる。

崖線
散歩に出発。最初の目的地である戸倉神社は駅の北東方向。線路に沿って少し国分寺方面に戻り、成り行きで中央線のガードを潜り線路の北(国立市北1丁目交差点)に出る。
歩きはじめると、右手が小高く盛り上がっている。道を北に進んだところに「はけ通り 樹林地」といった地名もある(「はけ」とは崖、と言った意味)。何だ、これは?戸倉新田と言うくらいであるとすれば、水の便の悪い台地上にあるのは少々不可思議?このあたりは台地となっているが、戸倉新田は台地を再び下ったところにあるのだろう、などと思いながら、とりあえずそれを確かめるべく成り行きで崖の階段を上る。
結構比高差のある崖線上にのぼり、あたりを見渡す。台地は東にも北にも下る気配は、なにも、ない。どうなっているのだろう、と少々混乱。先ほどの崖下まで戻り、崖の切れ目まで進み、崖下、と言うか台地下を東に進み戸倉新田へと進むコースを想い描く。成り行きで都道222号に進み、坂を下り元の崖下辺りまで引き返す。国立市北1丁目交差点から北に延びる道を進む。住所は国分寺市光町であり、国立市ではない。地図をチェックすると、国立市はほとんどが中央線より南。中央線の北は北町という地域がちょっと飛び出しているくらいであった。国立を歩くつもりが、国分寺散歩となってしまったようだ。

稲荷神社
崖線に沿って先に進む。比高差は次第に低くなってはくるが、それでも台地はなかなか切れない。光町2丁目交差点あたりまで進んでも台地が切れる雰囲気はない。その先の五叉路に稲荷神社。江戸の頃、平兵衛新田(ひょうべい)と呼ばれたこのあたりの守り神であった、と言う。鳥居の下には橋の欄干らしきもの。崖に沿って用水が流れていたのだろう。玉川上水からの分水(後には玉川上水からの分水である砂川分水)から別れた、中藤分水の末流に平兵衛分水がある、とのことであるので、その流路であろう、か。もっとも、こういった分水とか新田は散歩を終えてメモをするときになってわかった、こと。散歩の時は、この用水跡らしきものは何だ?といった問題意識があった、だけではあった。
稲荷神社のあたりは光町と呼ばれる。光町となった由来は、町内にある旧国鉄の鉄道総合技術研究所から。東海道新幹線の技術開発に大きな役割を果たしたこの研究所故に、新幹線「ひかり」を以て町名とした、とある。

戸倉通り
五叉路を崖線に沿ってもう少々進みたい、崖の切れ目を確認したい、とは思えども、さすがにそれでは目的地の戸倉からは離れすぎる。ということで、崖を上る坂道を北東に進む。市立第二小学校脇を過ぎると、少々奇妙な交差点。江戸の頃は四軒屋と呼ばれていた、とのこと。この辺りには農家が四軒しかなかった、ため。四軒しか、とはいうものの、府中の是政新田は草分け農家が二軒しかなかったわけで、それからすれば、四軒も、とも言える、かも。

交差点から東に進む道は「戸倉通り」とある。先に進むと「内藤橋街道」。西国分寺駅の内藤町からJR中央線を跨ぐ内藤橋を経て北西に上る。江戸の頃、中央線を挟んで南の内藤町、北の日吉町一帯は内藤新田が開かれた。
"> 交差点を先に進む。道を進めども、どちらを向いても台地面が拡がるだけで、台地を下る雰囲気はみじんも、ない。ひょっとして、台地が盛り上がっているのではなく、国立駅あたりが、そもそも一段低いのではないか、ひょっとして国立駅前から南が立川段丘面であり、現在歩いているところが武蔵野段丘面ではなかろうか、などと思い始める。武蔵野台地には、遙か昔、多摩川が南へと流れを変えていく過程で武蔵野台地を削り取ってできた河岸段丘があり、その低位面が立川段丘(面)、高位面が武蔵野段丘(面)、そして立川面と武蔵野面を区切る崖線が国分寺崖線である。ということはひょっとして、先ほどの崖線って国分寺崖線?少々頭が混乱しながらも、もう少々実際に歩いて結論を出してみよう、などと思い込む。

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)



満福寺
国分寺五中交差点を過ぎ満福寺の案内を目安に右に折れ、畑地の中を進む。満福寺の表の道路脇には寒念仏供養塔(「寒念仏」とは、もっとも寒さの厳しい小寒から節分までの一月に渡り、念仏を唱えながら巡回する修行のこと)、馬頭観音、地蔵菩薩を兼ねた道標が佇む。
満福寺は秋川筋、檜原村・吉祥寺の末。元は吉祥寺住職の隠居寺であったようだが、この地に戸倉新田を開いた檜原村の農民の願いに応え、檜原より引寺された。いつだったか檜原村の吉祥寺を訪れたことがある。寺の土蔵に「三ツ鱗」の紋。これって北条氏の家紋。創建は応安6年(1373年)、臨済宗建長寺派の古刹であった。寺の裏山に檜原城址、と言うか、狼煙台跡といった城址があった。

戸倉神社
満福寺の境内を抜け横にある戸倉神社に。今回の散歩のきっかけとなった神社ではある。この神社は将軍吉宗のもと、新田開発が盛んに行われた享保の頃、檜原村戸倉にある三島神社を勧請した。元は山王大権現とでも呼ばれていたのではあろうが、明治になって戸倉神社となった(「**神社」との名称は明治になってから)。戸倉神社の由来は崖の入口でも何でもなく、檜原村戸倉の農民が開いた戸倉新田から、であった。

檜原村の吉祥寺を訪れたとき、戸倉の三島神社辺りを彷徨ったことがある。戸倉にある光厳寺の裏山にある戸倉城に上ったのだが、頂上付近に岩場があり、結構怖い思いをしたことを思い出す。倉って、「切り立った岩」とは言い得て妙ではあった。戸倉とは、まさしく、切りたった岩場地帯への入口、であった。
散歩に出かけると神社仏閣を訪ねることが多い。とりたてて信仰心が深い訳でもないわけで、人に気兼ねすることなく休むことができ、かつまた、社寺の縁起や由来の案内があるわけで、事前のお勉強をすることなく、誠にお気軽に散歩を楽しむ我が身にとっては誠に重宝なるところではあるのだが、それはそれとして、神社仏閣がその地を開いた人々の心の拠り所、ってことが今ひとつ実感として感じることがなかった。古代、武蔵の国に移り住んだ出雲族が、故郷の簸川(ひかわ;現在の斐伊川)の氷川神社をその開拓の地に祀った、といっても、あまりに遠い昔のことであり、リアリティが感じられなかったのだが、この戸倉神社は江戸の頃、一度訪れたことのある檜原・戸倉の人々がこの地に新田を開き、故郷の寺や社、それも一度訪れたことのある社寺を引寺・勧請した、とあれば、ぐんと身近に、少々オーバーではあるが、「日常の風景」として感じられるようになった。

次は何処へと想いやる。最終目的地は砂川四番辺りの阿豆佐味神社ではあるのだけれど、ストレートに進むのも、何だかなあ、ということで、地図で辺りチェックする。北東方向に神明社。由来も何も知らないのだが、取り敢えず寄ってみよう、と。結果的にはこの成り行き任せのお気楽チョイスが五日市街道に出合い、用水に出合い、玉川上水に出合い、川崎平右衛門ゆかりの地に出合い、そして、そのときは、それぞれなんの繋がりもわからず、ひたすら歩いただけではあるのだが、後になってみると、玉川上水>用水=砂川分水>新田開発>川崎平右衛門、とすべてが予定調和の如くつながっていた。誠に以て、セレンディピティ(serendipity)と言うべけん、や。

五日市街道
戸倉通りを道なりに進み、戸倉四丁目で左に折れ先に進むと、車の往来の多い道に出る。五日市街道であった。五日市街道は、秋川筋の檜原や五日市の木材や炭を江戸の町に運ぶため整備されたもの。また秋川筋・伊奈の石工が江戸城の普請に往来した街道でもある。武蔵野台地の新田開発は五日市街道に沿って進んだ、と言われる。言われたとしても、先ほどの神社仏閣ではないけれど、今ひとつ実感がなかったのだが、玉川上水、そしてその分水を目にし、五日市街道に沿った新田の地を実際に歩くことにより、結構リアリティをもって感じられるようになった。もっとも、それは歩いているときではなく、メモしはじめて、なんとなくわかってきたことである。宮本常一さんの「歩く 見る 聞く」ではないけれど、「歩く・見る・書く」を以て瞑すべし。 神明社五日市街道脇に神明社。境内に水路が通る。散歩の時は、この用水って何?と思っていたのではあるが、調べてみると、このあたりは野中新田と呼ばれたようで、玉川上水の小川橋の辺りで分水された野中新田用水とのことで、あった。
少し休憩しながら地図を見る。この社の少し北に玉川上水が流れている。そのときは分水との関係とか、新田との関係とか、何にもわからず、ついでのことであるといった程度で、玉川上水まで進む事にした。

玉川上水
成り行きで北に進む。前方に東西に続く林が見える。玉川上水の堤を彩る雑木林ではあろう。先に進み玉川上水・新小川橋に。玉川上水は、もとは江戸の町に上水を供給するため造られたもの。羽村から武蔵野台地の尾根道を43キロほど、四谷の大木戸まで開削した人工の水路である。元は上水用として開削されたが、灌漑用水として分水することにより武蔵野台地の新田開発に大きな役割を果たした。玉川上水に沿って少し西に向かう。玉川上水は羽村から四谷まで三回に分けて歩いたり、立川・小平監視所から野火止用水へと進んだり、西東京・境橋から千川上水へと別れたり、とあれこれ歩いている。ということで、今回は、ちょっと雰囲気を感じるだけでほんの少し西に向かい、東京創価小学校を越えたあたりで左に折れ、五日市街道へ戻ることに。

妙法寺
成り行きで、誠に成り行きで道なりに南に進む。と、五日市街道手前にお寺さま。何げなく境内に。お参りを済ませ、そのときは足早に寺を出たのだが、このメモをするときに、国分寺北町?妙法寺?たまたま古本屋で、誠に何気なく買い求め読み始めていた川崎平右衛門(『代官川崎平右衛門の事績;渡辺紀彦(自費出版)』)ゆかりの寺であった。境内には「川崎・伊奈両代官感謝塔」がある、と言う。享保年間、武蔵野新田開発に際し、農民を保護し、農営指導に尽力した川崎平右衛門、伊奈半左衛門の両代官に感謝して造立された宝篋印塔である。

川崎平右衛門は、もとは府中押立村の名主。農民を保護し、農営指導するその力量を評価され、享保年間、大岡越前とともに武蔵野の新田開発、というか立て直しに尽力した。
武蔵野の新田開発は享保年間以前、明暦の頃より始まった。武蔵野に82の開拓村ができた、と言う。とはいうものの、入植した1320余戸のうち生活できたのはわずかに35戸しかなかった、と言う。こういった村の状況を更に悪くしたのが元文3年(1738年)の大飢饉。村は壊滅的状況になった。
その窮状を立て直すべく大岡越前守に抜擢されたのが川崎平右衛門。時の代官上坂安左衛門(この人物も何となく魅力的)の助力のもと、農民救済に成果を示し、名字帯刀を許され、1743年(寛保3年)、大岡越前守の支配下関東三万石の支配勘定格の代官になった。また、不手際・職務怠慢ということで水元役を解かれた玉川兄弟に代わり、玉川上水の維持管理にも深く携わる。桜の名所とし有名な小金井堤の桜を植えたのも川崎平右衛門である。後には美濃や石見にも代官として派遣され仁政を行った(『代官川崎平右衛門の事績;渡辺紀彦(自費出版)』、より)。誠に魅力的な人物である。散歩の時は何もわからず訪れ、なにもわからず立ち去ったが、ともあれ、思わず知らずゆかりの寺に足を運んだわけで、これまたセレンディピティ(serendipity)と言える、だろう。
名代官と称された川崎平右衛門であるが、中野散歩の時、新田開発とは全く関係のないコンテキストで現れたことがある。中野長者・鈴木九郎ゆかりの寺、中野・成願寺を訪れたとき、そのすぐ脇の朝日が丘公園(中野区本町2-32)に象小屋跡の案内があった。亨保の頃、タイより象が長崎に到着。街道を歩き、京都で天皇の天覧を拝した後、江戸に下り将軍・幕閣にお目見え。その後13年ほどは幕府が飼育するも、維持費が大変、ということで払い下げ。希望者の中から選ばれたのが川崎平右衛門。縁故者の百姓源助が象を見せ物とし、大いに賑わった、とか。
また川崎平右衛門は象の糞尿にて丸薬をつくり、疱瘡の妙薬として売り出した。幕府の宣伝もあり、大いに商売は繁盛し、観覧料や丸薬の売り上げで上がった利益で府中・大国魂神社の随神門の造営妃費として寄進された、と(『代官川崎平右衛門の事績;渡辺紀彦(自費出版)』より)。ちなみに、川崎平右衛門とともに祀られていた伊奈半左衛門。この人物も武蔵野を散歩するときに折に触れて現れる。関東郡代として、武蔵野の河川改修などに手腕を振るう。その魅力に惹かれ、馬喰町の関東郡代屋敷跡や川口・赤山の赤山陣屋跡を訪ねたことを思い出す。

野中分水
五日市街道を南に渡る。街道脇の鳳林寺の手前に用水路。そもそも、この用水を見て、これって何だろう?玉川上水からの分水だろうか、などと思い始めたのが、今回の散歩で用水と新田の関係をあれこれ調べだしたきっかけ。この用水は野中新田分水の一流。玉川上水から小川橋で分かれた野中新田分水は南東に下り、五日市街道と合わさる手前で二流に分かれ、五日市街道の南北を街道に平行に進む。先ほど神明社で見た用水は、街道の北を進む分水。そしてこの用水は街道の北を進む分水であった。


鳳林寺
用水を眺め、あれこれと妄想を逞しくした後、すぐそばの鳳林寺に。道脇の馬頭観音とか庚申塔。馬頭観音は道標も兼ねており「是より八王子・ふちう道」、と。割と構えの大きなお寺さま。庫裡、書院、鐘楼、そして毘沙門堂なども並ぶ。木造だろうと思うが、本堂は趣がある。このお寺様は野中新田開発のきっかけ、となったお寺様でもある。上谷保(現在の国立市谷保)の矢沢某が出家し(異説もあるようだが)、小平に円成院を建てる。大堅和尚である。で、その大堅和尚が仲間を募り新田開発を願い出る。順調に事が運べば、矢沢新田となったはずではあるが、新田開発の冥加金、というか権利金が払えず江戸の穀物商野中六左衛門に援助を受け新田を開発。名前が野中新田と相成った所以である。
では何故に、川崎平右衛門の謝恩塔がこのお寺ではなく通りの向こうの妙法寺にあるのだろう?チェックすると、野中新田は大きく三組に分かれていた。で、名主間で少々の諍いがあり寺を分け、道を隔てたところに妙法寺を建てた、とか。宗派も鳳林寺は黄檗宗。妙法寺は曹洞宗である。

高木八幡神社
鳳林院から南に下り、新町3丁目交差点右折、西へと進む。若葉町2丁目、高木交差点を越え、けやき台団地交差点に。高木神社はその脇にある。誠にあっさりした社。昔は鬱蒼とした森があったように思える佇まいではあるが、現在はきれいさっぱり切り取られている。このあたりは東大和市高木地区の農民がこの地に移り新田開発をおこなったところ。高木八幡神社は明治になってからの名称であろうが、昔の名前はよくわからない。開発新田は高木新田とも、野中新田の三組のひとつである鳳林寺の属する野中新田六左衛門組の一部ではあった、とも。境内入口脇に子育地蔵の祠。厳しい開拓生活の中、我が子の健やかな成長を祈ったものだろう。

八小入口南交差点
高木神社を離れ西に進む。予想では、ほどなく崖線にあたるだろう、と。ゆるやかに坂を下り八小入口南交差点に。このあたりが崖線下。交差点を崖線に沿って北に進むか、南に少し下り崖線をもう少々見ようか、なとど思い悩む。と、南に崖線に沿ったあたりに観音寺。何となく名前に惹かれ、崖線見物を楽しみながら進むことに。これまた、ちょっとしたセレンディピティ(serendipity)となるのだが、それは後の話。





観音寺
崖線に沿って南に下る。左手の崖面は豊かな農家の敷地が多い。ほどなく観音寺の森。境内手前に神明社。このあたりにあった中藤新田の鎮守さま。お参りをすませ横の観音寺に。現在は神社とお寺に別れてはいるが、明治の神仏分離令までは神仏習合、一体のものではあったのだろう。
観音寺の構えは立派。この寺は北条氏照の居城である滝山城の鬼門を護る寺として武蔵村山の中藤に創建されたものではあるが、新田開発に伴いこの地に移った。朱の山門は八王子城にあったものを移した、と伝わる。北条氏照は甲州筋からの武田の攻撃への備えのため、滝山城から八王子城にその主力移したわけであるから、理にはかなっている。
この寺も川崎平右衛門ゆかりの地であった。妙法寺と同じく川崎平右衛門の謝恩塔が残る。観音寺が中藤村からこの地・中藤新田移転に尽力した、と。
日暮れも近く、足早に寺を離れ、これも先ほどの妙法寺と同じく実物を目にすることはできなかった。実物を見ることはできなかったが、それにしても成り行きで歩き、結果、この地に進んだわけで、これまた、セレンディピティ(serendipity)と言うべけん、や。

国分寺崖線
観音寺を離れ、崖線下を八小入口南交差点まで戻る。さらに北に、五日市街道へと向かう。この道筋にはその昔、中藤分水が通っていた、と。古地図でチェックすると小川橋の少し上流で分水され南へと下る水路がある。また、この水路は後には砂川分水から別れるようになった、とも。それはともあれ、進むにつれて崖との比高差は低くなってくる。けやき台小学校脇を抜け、五日市街道の一筋手前に出るあたりまでは、かすかに比高差が感じられるが、道路道に出たあたりでは差はほとんどなくなった。

国分寺崖線は太古、多摩川が武蔵野台地を浸食してできた浸食崖。上流は武蔵村山市の残堀あたり、とか、緑が丘あたりで始まり、西武拝島線と多摩都市モノレールの玉川上水駅付近を通り、国分寺市内西町5丁目、光町1丁目 、西元町及び東元町1丁目と南町の境へと続き、さらに南に野川の東岸に沿って大田区丸子橋付近まで伸びている。全長30キロほど。立川など上部ではほとんど比高差がなくなっているが、国分寺市内西町5丁目では高さ約5m、光町1丁目では高さ約11m 、西元町では高さ約12m及び東元町1丁目と南町の境では高さ約16mと結構な比高差がある。
カシミール3Dて地形図をつくってみた、国分寺から上野毛あたりまでは弧を描いてくっきりと比高差が現れているが、国分寺から上は、ほとんど境がわからない。この崖線が国分寺崖線と喚ばれるのは、比高差が国分寺あたりではっきりするため、であろう、か。
崖線は「はけ;ハケ」とも呼ばれる。ハケに沿っていくつもの湧水がある。国分寺駅近辺のお鷹の井、小金井の貫井神社の湧水、野川公園に湧水、世田谷大蔵の湧水など、国分寺崖線に沿って歩いた2005年の事をちょっと思い出す。

阿豆佐味神社
北に進み五日市街道・砂川九番交差点に。日没が近い。日暮れまでに阿豆佐味神社に着けるかどうか、少々心許ない。西に沈む太陽と競争するように、砂川八番を越え、砂川七番で多摩モノレールを見やり、ひたすら先に進む。街道に沿って屋敷林が目立つ。ゆっくりみたいとは思えども、そんな余裕はまるで、なし。後々でわかったことではあるのだが、江戸の頃の新田開発は、この五日市街道に沿って進められた。玉川上水の水を松中橋で分水し、天王橋で五日市街道沿いに流し、その水を灌漑用水として開発していった、と言う。その名残の屋敷林ではあろう。夕日の中に薄ぼんやりと樹林が浮かぶ。
跳ぶがごとく砂川四番を越え、阿豆佐味神社に。あたりは真っ暗。神社も閉まっていた。お寺が閉まることはよくあることではあるが、神社はあまりないのでちょっと油断。残念ながら暗闇向かってシャッターを押す、のみ。
これまた、あとでわかったことではあるのだが、阿豆佐味神社って、元は狭山丘陵の麓の村山郷(瑞穂町殿ヶ谷)にあったもの、その地の農民が砂川の地を開くに際し勧請された。砂川村の開発はこの阿豆佐味神社のある砂川四番あたりからはじまった。開発の当初は玉川上水が通って居らず、箱根ヶ崎から流れる残堀川の水を拠り所としたため、その旧路と五日市街道が交差する砂川四番あたりから村が始まった、と言う。
阿豆佐味神社は時間切れ、また、急ぐ余り街道沿いの雰囲気をゆっくり楽しむ余裕もなかった。次回は、砂川の阿豆佐味神社の本家でもある瑞穂町・殿ヶ谷の阿豆佐味神社からはじめ、残堀川を下り、砂川村まで、武蔵野新田開発・砂川新田への道を辿る、べし。ということで、本日の散歩を終了。砂川四番バス停よりバスに乗り立川駅に戻り、家路を急ぐ。

日野は丘陵、台地、低地からなる地形をその特徴とする。市の北端を多摩川、中央部を浅川が流れ、この二つの河川に挟まれた一帯は、数段の河岸段丘からなる日野台地とその最下面の沖積低地が広がり、浅川の南には起伏に富んだ多摩丘陵・七生丘陵が連なる。
日野の低地は先回の散歩で彷徨った。多摩丘陵・七生丘陵も既に歩いた。残るは日野の台地部分を辿ること。「日野っ原」とも呼ばれる日野台地は数段の河岸段丘からなる。日野段丘面、多摩平段丘平面、豊田段丘面、石田段丘面などがそれ。悠久の昔、多摩川が運んだ礫による洲(日野段丘面)ができ、次いで浅川の流れにより多摩平段丘面がつくられ、さらには流路定まらぬ多摩川・浅川の流れにより豊田段丘面、石田段丘面などが出来上がっていたのだろう。
いつだったか甲州街道を車で走ったとき、JR日野駅あたりで低地から坂を上り台地に進み、しばらく台地を走り大和田あたりで再び台地を下り八王子に入ったことがある。道すがらの日野台とか、多摩平とか、豊田、そして石田といった地名がその段丘面の名残であろう、か。

日野台地散歩はJR豊田駅からはじめる。多摩平段丘面を下り、浅川北岸の河岸段丘崖を辿った後、一旦多摩平段丘面上る。その後、台地突端部をJR日野駅あたりへと下り、そこからは多摩川西岸の河岸段丘に沿ってJR八高線・小宮へと進もう、と。崖線に沿った湧水、台地上の西党・日奉氏の館址など時空(歴史+地形)散歩が楽しそうである。



本日のルート;JR豊田駅>清水谷公園>黒川>梵天山古道>日野台地・日野段丘面>JR日野駅>薬王寺>日野宮神社>日野用水>成就院>七ッ塚古墳>神明社>JR八高線・小宮駅

JR豊田駅
豊田駅で下車。駅の近く、崖線に沿って黒川湧水が流れる。先日、日野本陣跡にある観光協会を訪ねたとき、黒川湧水の案内を手に入れ、機会があれば歩いてみたいと思っていたところである。駅は崖面にあり南口は崖下、北口は崖上に出る。南口は豊田段丘面、北口は多摩平段丘面ではなかろう、か。豊田の名前の由来は、文字通り「豊かな地」、から。日野の低地は縦横に巡らされた用水路により実収3000石余あり、多摩の米蔵とも呼ばれる穀倉地帯であった。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

清水谷公園
駅を離れ、成り行きで崖線へと進み坂を下る。雑木林と池があり、標識に清水谷公園とある。坂道からは谷戸奥の池の上流端には進めない。いかにも湧水池といった雰囲気もあり、谷戸奥に進もうと坂道を戻り、ぐるっと迂回するも、道は池から離れるばかりで、結局谷戸奥に進むことはできなかった。
崖上の道を進み多摩平第六公園脇を道なりに坂道を下る。道の左に黒川防災公園、右には山王下公園。山王下公園にはその昔、日枝神社があったとのことだが、現在では若宮神社に合祀されている。この若宮神社って、JR中央線の東、東豊田陸橋の近くにある若宮神社のことだろう、か。

山王と日枝について;日枝神社は、日吉山王権現が明治の神仏分離令によって改名したもの。「**神社」って呼び方はすべて明治になってからであり、それ以前は「日吉山王権現の社(やしろ)」のように呼ばれていた(『東京の街は骨だらけ』鈴木理生:筑摩文庫)。その日吉山王権現という名称であるが、これって、神+仏+神仏習合の合作といった命名法。日吉は、もともと比叡山(日枝山)にあった山岳信仰の神々のこと。日枝(日吉)の神々がいた、ということ。次いで、伝教大師・最澄が比叡山に天台宗を開いき、法華護持の神祇として山王祠をつくる。山王祠は最澄が留学修行した中国天台山・山王祠を模したもの。ここで、日吉の神々と山王(仏)が合体。権現は仏が神という仮(権)の姿で現れている、という意味。つまりは、仏さまが日吉の神々という仮の姿で現れ、衆生済度するということ。

黒川
黒川防災公園の広場に沿って進む。この公園は下水処理場跡、とか。ぐるっと一周すると四阿(あづまや)が見える。その四阿は湧水池・あずまや池で囲まれる。豊富な水量である。日野台地で涵養された地下水が崖線下から湧き出ているのだろう。横には山葵(わさび)田があった。 黒川はこのあずまや池からはじまる。その昔は多摩平段丘面が湧水によって刻まれた自然の河川であったのだろうが、現在は人工的に整備された小川となり崖線下を進む。崖線一帯に雑木林が広がり、林の中から幾多の湧水が黒川に注がれる。雑木林の中を進む。このあたり一帯の雑木林は黒川清流公園と呼ばれる。1975年には多摩平第六公園、清水谷公園を合わせた六万㎡もある緑地帯は東豊田緑地保全地域に指定され、自然保護が進められている。
「おお池」を過ぎJR中央線が緑地を切り開く手前に「ひょうたん池」がある。清水谷公園からおおよそ1.7キロ程度だろう。黒川の流れはこのひょうたん池の先で中央線に遮られ、排水溝へと吸い込まれてゆくが、地図を見ると中央線の少し東まで暗渠が続き、その先の神明第10緑地脇、日野市役所から下って来るあたりで再び地上に現れている。
ところで「黒川」の由来であるが、はっきりしない。はっきりしないが、『新編武蔵風土記』の豊田村のところに「村内スベテ平地ニシテ。土性ハ黒野土ナリ。田少ク畑多シ。民戸ハ七十五軒。處々ニ散住ス」、といった記述がある。この地ではないが、黒川の由来として「川の水が澄んで川底が黒く見えた、ため」といった記事もある。真偽のほどは定かではないが、黒土の中を流れる澄んだ川、といったところが黒川の由来だろう、か。

梵天山古道
中央線を越えるため国道20号線バイパスに上る。日野跨線橋で中央線を越え神明2交差点で再びバイパスを離れ脇道へ。道脇に「梵天山古道」の案内があった。梵天山って、神明第10緑地の昔の名前、とか。案内によると、「梵天山古道;往時の鎌倉道。八王子のさらに西からこの地をへて鎌倉に進んだ。昭和の初め頃までは稲城往還と呼ばれ、七生から日野台地へ、また稲城や多摩から八王子へ往来する人や荷馬車で賑わっていた。このあたりだけが往時の面影を残している。「ぼんせん坂」とも呼ばれる」、と。『新編武蔵風土記』にも「東西凡八丁。南北モマタ同ジ。土性黒野土ニシテ。水陸ノ田相半セリ。村内ニ一條ノ往還アリ。橘郡稲毛領ノ方ヨリ。郡中八王子宿ヘノ道ナリ」とある。

日野台地・日野段丘面
神明第10緑地をのんびりと進み、神明1丁目交差点あたりで再びバイパスを越え、崖線に沿って台地に向かう。これからは少しの間、日野台地を歩くことになる。
日野台地は明治・大正にかけ、「日野っ原」と呼ばれる雑木が一面に茂る台地であった、とか。明治22年、甲武鉄道が立川と八王子を結んだ頃も集落はほとんどなかったようだ。最大の理由は水が確保できないから、だろう。大正10年には、この「日野っ原」で陸軍大演習が行われたわけで、ことほど左様に人の住まない一帯であったのだろう。
一面に桑畑の広がる日野台地の様子が変わってきたのは昭和11年頃から。豊富な地下水をもとに工場誘致を行い日野五社と呼ばれる、六桜社(コニカミノルタ)、吉田時計店(オリエント時計)、東京自動車工業(日野自動車)、神鋼電機(現在都立日野台高校と市立大坂上中学校となっている)などがこの地に進出した、と。

JR日野駅
日野台地を進み、実践女子短大前交差点を越え神明4丁目交差点を過ぎると「市立新撰組のふるさと歴史館」。残念ながら休館日。先に進み神明3交差点で北に折れ、中央高速をくぐり台地を下りる。さらに進み都道256号線・市役所入口交差点を左に折れJR日野駅に。ここからは再び、崖線につかず離れず多摩川低地を進むことになる。

薬王寺
日野駅前の日野駅北交差点を北に進む。ほどなく水路に。日野用水上堰だろう。水量豊富な流れである。その先、道路右側に薬王寺。昭和50年代の頃までは少々朽ちた感があったと思うのだが、境内は再建され洒落たお寺さまに様変わりしていた。
寺の開基年代は不詳だが、開山は慶長11年(1606年)との記録がある。高幡山金剛寺・高幡不動の末寺、と言うか、高幡不動の住職の隠居寺、とも。江戸時代には御朱印九石五斗の寺として幕府よりの保護を受け、寺の西北にある日野宮権現の別当寺として明治の神仏分離のときまで続いた。
朱印寺とは税の免除された土地を幕府より与えられたお寺さま。将軍の名に朱印を用いたことでこの名がついた。一石は人ひとりが1年間に食べるお米の量。米俵2.5表、150キロ程度。10斗で一石であるから、九石五斗とは9.5人の人が1年間に食べるお米の量で、およそ24俵といったもの。もっとも現代人が1年間に食べる量は65キロ程度というから、22人分となる。

この薬王寺のあたりは、江戸時代に甲州街道が開かれる前の日野の中心地であったところ、と言う。薬王寺の南に日野本郷と呼ばれる村があったとの記録が残るし、日野宮神社周辺の栄町遺跡、薬王寺付近の四ッ谷前遺跡などで遺跡が発掘されており、薬王寺周辺は奈良平安時代から中世にかけて、この辺り一帯の中心地であったのだろう。実際、このお寺さまが再建される前、寺の敷地には小田原北条家臣・竹間加賀入道の館跡の土塁が残っていたとのことである。

日野宮神社
薬王寺の西北に日野宮神社。武蔵七党のひとつ、西党の祖・日奉宗頼の子孫が祖先を祀って日野宮権現を建てたと伝わる。日奉氏は太陽祭祀を司る日奉部に起源を持つ氏族。6世紀の後半、大和朝廷はこの日奉部を全国に配置した。農作物のための順天を願ってのことであろう。日奉部の氏族は、この武蔵国では国衙のある府中西方日野(土淵)に土着し、祭祀集団として存在していたと伝わる。
西党の祖・日奉宗頼は、もとは都にあって藤原氏の一族であった、とか。それが中央の政争に敗れたとか、国司の任を得て下向したとか、あれこれと説があり定かではないが、ともあれこの武蔵国に赴き牧の別当となる。任を終えても都に戻らず、この日野の地に土着していた日奉部の氏族と縁を結び、父系・藤原氏+母系・日奉氏という一族が成立した、と。
日奉氏はこの地域を拠点とし、牧の管理で勢力を広げ、国衙(府中)の西、多摩の西南である「多西郡」を中心に勢力を伸ばした。ために多西ないし西を称するようになったというのが西党の由来である。もっとも、日奉(日祀)の音読みである「ニシ」から、との説もある。

日野用水
日野宮神社を離れ、道なりに多摩川の堤に向かう。途中に用水路。日野用水下堰であろう。日野市内には全長170キロにも及ぶ用水路網が広がる、とメモした。幹線用水だけでも多摩川と浅川の間の低地に8つ、浅川とその支流である程久保川の間に6つの用水路が流れ、多摩の米蔵とも呼ばれた穀倉地帯を支えていた。日野用水もそのひとつであり、最も古い歴史を持つ用水と言われる。
現在日野用水は八王子の北平町の平堰で取水され、日野市の北部を進む。途中で下堰堀と上堰堀に別れ、甲州街道に沿った日野市の中心部を挟むように舌状の沖積地を下り多摩川に注ぐ。取入口を含めて現在の姿になったのは戦後のことではあるが、日野用水の歴史は古く奈良時代まで遡る、とも。室町後期、永禄10年(1567)には、大規模改修工事を行った、との記録が残る。「永禄十年北条陸奥守様より隼人殿罪人をもらゐ、此村之用水を掘せ、茶屋・小屋をひつらゐ百姓之用水を取、東光寺之のみ水二成、大小之百姓末々迄難有可奉存候、当主計殿松を植候を拙者共聞申候(上佐藤家 「挨拶目録」より)」とある。美濃からやってきた上佐藤家の先祖・佐藤隼人が、滝山城主であり後に八王子城主となる北条氏照の力を借りて、罪人を使用しての工事であったようだ。ちなみに上佐藤家とは日野宿で大名が宿泊する本陣が置かれた名主の家柄。ついでに下佐藤家とは脇本陣が置かれた名主の家。もっとも幕末には下佐藤家が本陣となった、とか。

成就院
多摩川の堤に上り、多摩川の流れを眺めながらしばしの休憩の後、日野用水下堰に沿って先に進む。進むにつれて南の河岸段丘が近づいてくる。低地との比高差は20m弱といったところ。用水路を離れ、低地との比高差数メートルといった坂を上ると成就院に。
先ほど辿った日野用水は東光寺用水とも呼ばれる。近くには東光寺団地とか東光寺小学校といった名前が残る。このような地名にのみ名残を残す東光寺とは、この成就院の南にある台地に館を構えた、西党・日奉氏が建てた寺。館の鬼門に薬師堂と共に建てられた、とか。成就院は東光寺の一子院であったが、鎌倉期に日奉氏の凋落にともない東光寺ともども廃寺となる。その後、成就院は16世紀末に再建され、昭和46年には都市計画によって薬師堂を成就院の境内に移築し現在に至る。薬師堂は安産薬師として知られる。




七ッ塚古墳
成就院を離れ日奉氏の館があった伝わる台地へと向かう。道の途中に日野用水上堰にあたる。水路に沿った水車堀公園などを見やりながら台地へと取り付く。坂道をショートカットして段丘崖を直登といった案配。緑豊かな一帯は東光寺緑地と呼ばれ緑地保護地域となっている。
館跡の痕跡を求めて台地上を崖線に沿って彷徨う。これといった痕跡なし。成り行きで進み栄町5丁目交差点から上って来る坂道、たぶんこの坂道って「東光寺大坂」と呼ばれた坂道なのだろうが、その坂道が台地に上りきったあたりを西に進むと広場に出る。地図らしきものをチェックに向かうと「七ッ塚古墳群」の案内。シートで覆われ如何にも発掘作業中といった状況ではあったが、この古墳群は8世紀頃のもの。横穴式石室からは埴輪とか勾玉が発掘されている、と。古くから開けたこのあたりに日奉氏の館があったとの説もある。

神明社
七ッ塚古墳から谷地川方向へむかう。緩やかな坂の途中には埴輪公園などといった公園もあり、いかにも古代より開けた一帯といった感がある。先に進むと崖にあたり、下には谷地川が流れる。崖上から小宮の街並みを眺めながら崖線に沿って台地北端に向かう。北に多摩川を臨み武蔵野が一望のもと。西には谷地川を隔て加住丘陵の遥かかなたには秩父・奥多摩の山容が連なる。誠に見晴らしのいい台地である。日奉氏の館跡の特定はできなかったのだが、このあたりであったのだろう、ということで矛を収める。
崖線間際からの多摩川を眺めようと崖端に進むと社があった。崖面を少し下ると神明社とある。日奉氏の子孫が伊勢神宮を勧請したとの説もある。神明社の祭神って、天照=日神、であろうから太陽祭祀を司る日奉氏が勧請したとするのは、それなりに納得感が高い。




JR八高線・小宮駅
社にお参りし、崖線を南に戻り谷地川に下りる。谷地川は秋川南岸の秋川丘陵・川口丘陵からの水を集め、上戸吹から北の加住丘陵、南の犬目・矢野丘陵に挟まれた低地を、滝山街道に沿って下る。日野に入ると日野台地の北側をかすめる様に東流し、JR中央線の鉄橋付近で多摩川に注ぐ。谷地とは湿地の意味。内陸部の山間や丘陵地等の沼などの湿
地が多いところを谷地と呼ぶことが多い。現在は護岸工事がなされ湿地の名残はこれといって見ることもできないが、ともあれ谷地川を渡りJR八高線・小宮駅に向かい、本日の散歩を終える。
先日、百草園から高幡不動や平山城址など多摩丘陵を辿った。丘陵からは浅川・多摩川によって発達した沖積低地、その先に河岸段丘と台地などが見える。丘陵、台地、平地、これが日野の地形の特長、とか。丘陵散歩は終わった、次は沖積低地をさまよい、さらには日野台地を歩こう、と。今回は低地編。高幡不動からはじめ、浅川・多摩川沿いの沖積低地を歩こうと思う。 




本日のルート;京王線・高幡不動駅>若宮愛宕神社>向島用水親水路>石田寺>八幡大神社>安養寺>万願寺の一里塚>源平島>万願寺の渡し>都道256号線>日野本陣跡>問屋場・高札場跡>普門寺>大昌寺>八坂神社>宝泉寺

京王線・高幡不動駅
北口に下り浅川へと向かう。駅のすぐ北に水路がある。場所から言えば、高幡用水だろう。浅川と程久保川を繋いでいる。浅川の南には、この高幡用水のほか、西から平山
用水、南平用水、向島用水、落川用水、そして一宮用水と並ぶ。大雑把に言えば、それぞれの用水は浅川から取水し浅川に流す、浅川から取水し程久保川に流す、程久保川から取水し浅川に流すといった水路網となっている。ついでのことながら、浅川の北には多摩川から取水し多摩川へ流す用水、それと湧水を水源として浅川に流す水路網が残っているようだ。ことほど左様に、日野には全長180キロとも言われる用水網がある。

若宮愛宕神社
水路を越えるとすぐ若宮愛宕神社。いかにもあっさりとしたお宮さま。創建の年代は不詳だが、縁起が残る。若い旅の僧が高幡不動金剛寺を訪れ、不動明王に脇士がいないのは残念と二童子を彫りあげる。別れを告げる僧を見送りに集まる村人の前で、その旅僧は忽然と姿を消す。村人は旅僧を神仏の化身と崇め、その地に祠を祀り別旅(わかたび)明神と名付ける。その祠が若宮神社の前身であり、その後、高幡不動裏の丘陵地にあった愛宕神社を合祀し現在の若宮愛宕神社となった。

向島用水親水路
若宮愛宕神社を北に、潤徳小学校脇を過ぎると再び水路。向島用水と呼ばれ、浅川から取水し程久保川に流す。高度成長期には、コンクリート護岸の排水路・ゴミ捨て場と化していた水路であるが、現在では土で固めた護岸に戻され向島用水親水路として美しく整備されている。潤徳小学校には水路を引き入れつくったビオトープがある、とか。ビオトープはドイツ語。もとはギリシャ語のビオ(「命」)+トポス(「場所」)から。生物が棲みやすい環境に変えた場所、と言ったところか。









石田寺
浅川に出る。少し堤を進み「ふれあい橋」を渡り浅川北岸に。浅川に沿って東に進む。多摩都市モノレールが走る新井橋を越え、日野高校の手前を北に抜け石田寺に。このお寺様には新撰組の土方歳三のお墓がある。お墓があるといっても、ここに眠るというわけではなく、このお寺は土方一族の墓所であり、墓碑といったもの。明治100年を記念して土方家が建立した土方歳三顕彰碑が榧(カヤ)の大木の木陰にあった。
石田寺の東隣に浅川水再生センターがある。土方歳三の実家は、この下水処理場の北のはずれにあったと言うが、度重なる多摩川の氾濫のため屋敷は500m程西に移った。それはそれとして、多摩川と浅川の合流点の三角州にあった土方歳三の実家の家業は散薬つくり。浅川の土手に茂る「牛革草」という野草をもとに打ち身薬をつくった。新撰組も打ち身治療の常備薬として使った、とも伝わる。熱燗と一緒に服用といったなんともユニークな薬であったようだが、昭和23年に成立した新薬事法では認可されず製造は終わった、とか。

石田寺を離れ土方歳三の実家に向かう。なるほど、道すがらの家には「土方」姓が多い。成り行きで進み土方歳三の実家に。古本屋で買った書籍(昭和49年刊)には藁葺きの古民家といった写真が掲載されていたのだが、平成の今では美しく建て替えられていた。




八幡大神社
多摩都市モノレールの万願寺駅を経て国道20号線・日野バイパスに沿って西に進む。万願寺は寺跡も寺歴もなにもわかっていない。文政11年(1828年)に著された『新編武蔵風土記』にも「万願寺ノ名ハ古キモノニモイマタ所見ナシ」とあり、当時から既に万願寺の所在が不明であったようだ。
バイパスの一筋北に八幡大神社がある。一帯は万願寺中央公園の東端といった処。鬱蒼とした鎮守の杜と言うよりは、至極あっさりとした広がりをもつ境内。昭和24年、境内神木を伐採し拝殿を新築したとの記録が残るが、そのこととも関係あるのだろうか。
創建の年代は不詳ではあるが、14世紀の前半、武蔵七党の西党・田村駄二郎が男山八幡を勧請した、と。境内の南、道路に面して宝篋印塔と六基の庚申塔が並ぶ。宝篋印塔など多摩地方にはそれほど多く残るわけではないのだが、四本のパイプでガードされただけであり、少々寂しそう。宝篋印塔は墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種である。




安養寺
八幡大神社の横の道を進むと安養寺に。西党・田村氏の館跡と伝わる。西党は日奉(日祀)氏とも称する。日奉(日祀;ひまつり)は音読みすれば「にし」ともなる。西(日奉)宗頼をその祖とし、日野・八王子の周辺地域に形成された地方武士団。武蔵守として武蔵国府に下向した宗頼は、任期満ちても都に戻らず日野市東光寺あたりに土着。鎌倉期に多摩川・浅川・秋川流域の氏族を広げる。由井氏、平山氏、川口氏、立川氏、そしてこの田村氏である。延喜式に挙げられた勅使牧のひとつである石田牧はこのあたりとする説もある。
この地は田村氏の後裔・田村安栖の在所でもある。田村安栖は、小田原合戦で敗れた北条氏政・氏照の切腹の場として小田原の屋敷を当てる。京都三条戻り橋に晒されたふたりの首級を、秀吉に懇願し引き取り荼毘に付し、小田原と八王子に埋葬した。






万願寺の一里塚
安養寺を離れ、万願寺の一里塚に向かう。万願寺中央公園の北端に水路。上田用水だろう。道なりに北に進み多摩都市モノレールが中央高速に交差する少し手前に万願寺の一里塚。 案内文によると、「江戸時代初期の甲州街道は、現在の国立市青柳あたりから多摩川を渡り、市内源平島に通じ、万願寺を経て日野宿に入った。この一里塚は日本橋から9里目のもので、慶長年間甲州街道が開かれた折につくられたものと伝えられる。径7~8m、高さ3m、塚上には榎が植えられていた」、と。
一里塚は江戸五街道整備のとき、旅人の行路の目安として一里毎に小塚を造り榎の木を植えた。万願寺の一里塚は大久保長安の監督のもと築かれた、との記録がある。通常道の両側にあるのだけれど、この一里塚は南側の一基のみ残る。その塚は一昔前まで塚は雑木に覆われていたようだが、平成15年頃から雑木は取り払われ公園風に整備されている。北にあった塚は昭和43年に取り壊され住宅地となっている。



源平島
一里塚から少し南に戻り多摩都市モノレールの道筋から離れ、都道503号へと折れる。北に進むとほどなく水路。日野用水上堰だろう。先に進むと中央高速手前に公園がある。何気なく見ると「源平島西公園」とある。少し東には「源平島東公園」もある。ということは、このあたりが先程の一里塚にあった「源平島」であったのだろう、か。





万願寺の渡し
中央高速をくぐり高速道路に沿って道なりに進むと多摩川にあたる。土手に「万願寺の渡し」の案内。取り立てて何があるわけではない。多摩川を眺める、のみ。万願寺の渡しは、対岸の国立市青柳とこの地を結ぶ。当初の甲州道中の道筋は六社宮(現大国魂神社)がある府中宿で鎌倉道から分かれ、多摩川沿いの低地を分倍河原、本宿、四谷に進み、「石田の渡し」で多摩川を渡り、石田村から「万願寺の一里塚」を経て日野宿に進んだ。しかし、この道筋は多摩川の氾濫などで不安定でもあり、多摩川の低地を避け崖線を進み、国立市の青柳からこの「万願寺の渡し」で多摩川を渡る道筋に変更された。
この「万願寺の渡し」ルートも17世紀後半になると、少し上流にある「日野の渡し」に変更される。それ以降公道は「日野の渡し」となり、「万願寺の渡し」は地元の人たちのための生活道となった、とか。将棋に「王手は日野の万願寺」というセリフがある。江戸防衛の戦略拠点としての日野・多摩川の重要性を示す言葉でもある。

都道256号線
土手でしばしの憩いの後、日野宿に向かう。多摩都市モノレールの道筋まで戻り、成り行きながらも、江戸初期の甲州道中をイメージしながら進む。大雑把に言って甲州道中は万願寺の一里塚からほぼ一直線に都道256号線の日野警察前に進む。道筋にはお寺もあっただろうと、万福寺脇まで進むも、なんらかの名残も見あたらず。中央高速をくぐり再び日野用水上堰を越え、江戸道の道筋であろう通りを日野警察前交差点に進む。新奥多摩街道とのT字路を越え川崎街道入口T字路へ。T字路の西に日野本陣跡がある。

日野本陣跡
本陣跡に入る。奥まで進むと日野観光案内所があり地図や案内パンフレットなどが揃っている。七生丘陵を歩いた時、日野市郷土資料館を訪ねたことがあるのだが、そこではお散歩関連資料が手に入らなかっただけに、誠に有り難かった。
本陣跡は幕末当時の名主屋敷を今に残す造り、という。入り口には明治天皇ご休憩の記念碑があった。幕末の当主は佐藤彦五郎。天然理心流の剣技に優れ、同門の近藤勇とも親交があった。また、土方歳三の姉と縁を結ぶなど、後の新撰組との結びつきも強く、鳥羽伏見で敗れた後、ふたたび兵を挙げ甲陽鎮撫隊として甲州に向かう
新撰組を援助。自らも義勇軍・春日隊を率いて進軍するも、甲陽鎮撫隊は既に勝沼の戦いにおいて官軍に敗れ去った後。彦五郎は出兵を咎められ一時身を隠すも、有志の懇願により後に公職に復帰。初代の南多摩郡長となる。
明治天皇がこの地に訪れたのは明治14年2月。八王子御殿峠での兎狩りを楽しみ、あまりの愉快さ故に、予定を変更し、翌日も雪の蓮光寺の丘(聖蹟桜ヶ丘近く)での兎狩りを思し召す。その道すがら、休憩のために立ち寄ったのがこの屋敷であった。お酒の好きな明治天皇のため地酒でもてなした、と。
おもてなし、と言えば、太田直次郎こと蜀山人・太田南畝との交流が面白い。幕府のお役人太田直次郎は玉川通普請掛勘定方として、玉川(多摩川)巡検のためしばしば当
地を訪れ、佐藤家に止宿。当時の佐藤家当主であった彦右衛門が、取り寄せた信州のそばを手打ちでもてなした。太田直次郎はその味に感激し表したのが、世に伝わる「そばの文」である。 蕎麦の文:それ蕎麦はもと麦の類にはあらねど食料にあつる故に麦と名つくる事加古川ならぬ本草綱目にみえたり、されど手打のめでたきは天河屋が手なみをみせし事忠臣蔵に詳なり、もろこしにては一名を鳥麦といひ、そばきりを河濡麺といふ事は河濡津の名物なりと方便の説をつたふ、(中略)ことし日野の本郷に来りてはじめて蕎麦の妙をしれり、しなのなる粉を引抜の玉川の手づ
くり手打よく素麺の滝のいと長く、李白か髪の三千丈もこれにはすぎじと覚ゆ、これなん小山田の関取ならねど日野の日の下開山といふべし そばのこのから天竺はいざしらず  これ日のもとの日野の本郷 」 

問屋場・高札場跡
本陣跡から道を隔てて日野図書館がある。ここはもと日野宿の問屋場・高札場のあったところ。問屋場は宿の公用業務管理センターと言ったもの。公用の旅人のため人馬を取り継ぐ業務と、同じく公用の書類や品物を次の宿に届ける飛脚業務を行った。高札場は公用文を掲げておくところ。

普門寺
日野図書館脇を北に入る。ほどなく普門寺に。創建は室町初期。元は日野本宿(日野駅の東方)に牛頭天王社ともにあり、牛頭天王の本地仏である薬師如来を祀る神仏習合の寺であった。室町末期には普門寺、牛頭天王(現在の八坂神社)はともに現在の地に移るも、明治の神仏分離の時まで牛頭天王の別当寺として続いた。
普門寺に観音堂がある。元は下河原西明寺の閻魔堂であったものを明治にこの地に移した。旧本堂でもあったこの観音堂は小ぶりではあるが誠に流麗。散歩で多くにお堂を訪ねたが、その中でも印象に残るお堂である。現在は誠につつましやかな境内ではあるが、明治の初期は850坪もあった、と言う。その境内では、本陣の名主・佐藤彦五郎が代官・江川太郎左衛門の下知のもと組織した日野農兵隊が洋式軍事調練に励んだ。





大昌寺
都道256号線に戻り、西へと進み成り行きで南へ下ると日野用水下堰にあたる。用水を越えると大昌寺に。江戸開幕期、八王子の名刹・大善寺(関東十八壇林のひとつ;壇林とは僧侶の教育機関)の高僧の隠居所として開かれた。開設間もない日野宿に人々の懇請に応じてのことであろう。この寺は名主・佐藤家の菩提寺。ゆったりとした品のあるお寺さまである。

八坂神社
大昌寺を離れ、用水に沿って西に進むと八坂神社。通称「天王さま」。木々は切り払われ、社は結構現代的な建築様式でつくられている。歴史は古い。普門寺のところでメモしたように、創建は室町初期。牛頭天王と呼ばれた。縁起によれば、近くの土淵の地で洪水の後、淵に光り輝く牛頭天王の神像を見つけ、その像を祀ったのが社の起源、と。祭神は素戔嗚尊。
牛頭天王が八坂神社となったのは明治の神仏分離令以降。本家本元・京都の「天王さま」・「祇園さん」が八坂神社に改名したため、全国3,000とも言われる末社が右へ倣え、ということになったのだろう。八坂という名前にしたのは、京都の「天王さま」・「祇園さん」のある地が、八坂の郷、といわれていたから。ちなみに、明治に八坂と名前を変えた最大の理由は、「(牛頭)天王」という音・読みが「天皇」と同一視され、少々の 不敬にあたる、といった自主規制の結果、とも言われている。
で、なにゆえ「天王さま」・「祇園さん」と呼ばれていたか、ということだが、この八坂の郷に移り住んだ新羅からの渡来人・八坂の造(みやつこ)が信仰していたのが仏教の守護神でもある「牛頭天王」であったから。また、この「牛頭天王さま」 は祇園精舎のガードマンでもあったので、「祇園さん」とも呼ばれるようになった。
上に、御祭神は素戔嗚尊とイナダヒメノミコトと書いた。これは神仏習合の結果、牛頭天王=素戔嗚尊、と同一視していた、ため。牛頭天王の父母は、道教の神であるトウオウフ(東王父) と セイオウボ(西王母)とも見なされたため、牛頭天王はのちには道教において冥界を司る最高神・タイザンフクン(泰山府君)とも同体視される。また、さらにタイザンオウ(泰山王)(えんま) とも同体視されるに至った。泰山府君の本地仏は地蔵菩薩ではあるが、泰山王・閻魔様の本地仏は薬師如来であり、素戔嗚尊の本地仏も薬師如来。ということで、牛頭天王=素戔嗚尊、という神仏習合関係が出来上がったのだろう。閻魔様=冥界=黄泉の国といえは素戔嗚尊、といったアナロジーもあったのだろう、か。
また、素戔嗚尊は、新羅の曽尸茂利(ソシモリ)という地に居たとする所伝も『日本書紀』に記されている。「ソシモリ」は「ソシマリ」「ソモリ」ともいう韓国語。牛頭または牛首を意味する。素戔嗚尊と新羅との繋がりを意味するのか、素戔嗚尊と牛頭天王とのつながりを強めるためのものなのかよくわからない。が、 素戔嗚尊と牛頭天王はどうあろうと同一視しておこうと、ということなのであろう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

宝泉寺
六脚ひのき造りの山門をくぐり境内に。本堂は平成13年に新築落成。境内もきれいに整備されている。この寺には新撰組六番組隊長・副長助勤の井上源三郎が眠る。日野宿名主・佐藤彦五郎に天然理心流を紹介したのは源三郎の兄・松五郎と言われる。客殿の南には、裏山を借景にした庭園がある。
日野の低地散歩はこれでお終い。JR 日野駅に戻り、家路へと。次回は河岸段丘と台地を歩く。 日野は飛火野(烽火;のろし)から興ったとの説がある、奈良時代の和同3年、飛火野を嘉字に改めるべしとの勅宣によって「日野」となった、と。また、西党の祖である日奉宗頼が日野宮権現を勧請したのが由来との説もある。日野中納言次朝ゆかりの者がこの地に来住したことに関連づける説もある。またまた、日当たりのいい土地といった地形からの命名、との説も。誠にもって地名の由来は諸説ありて、定まることなし。 

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