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8月初旬の週末、酷暑の街を離れ沢仲間と水根沢に行く。最初に水根沢に入ったのは2015年。もう3年も前のことになる。

最初は単独行。途中で出合った方と核心部の7mトイ状の滝は、その方はトイ状の滝をステミング(蟹の横ばい)、私は10mの崖を懸垂下降で下り、所定のゴール地点まで進むも、戻りは林道が見つからず、沢筋を入渓点まで戻った。

それ以降、退任前の会社の沢仲間と毎年水根沢に入っているのだが、大雨の後水量が多くトイ状の滝のはるか手前で撤退し林道へと急登を這い上がったり、トイ状の滝まで進むも滝を落ちる水量が多く、また崖を下りようにも残置ロープがこころもとなく撤退と核心部をクリアできないでいた。
とはいうものの、沢筋を進むのは途中撤退ではあったが、初回で見つけることができなかった林道を所定のゴール地点まで進み、沢から林道への尾根筋のルートはその間に確認できた。初回に林道が見つからず引き返した少し先に林道があったわけだ。

そうこうして、核心部であるトイ状の滝の水線を突破したのは2017年。娘の旦那と二人で水根沢に入り、元陸上部の体力で沢デビューにもかかわらず、トイ状の滝をステミングで軽々とクリアし所定のゴール地点まで進むことができた。林道へのルートも既に確認済であり、特段のトラブルもなく夏の一日を楽しんだ。

そして2018年、沢仲間と水根沢に。2番目のゴルジュ帯にある2mの滝での2本の残置ロープを使ってのへつりで少々苦労するメンバーもいたが、なんとかクリア。深い釜をもつ4m滑滝部は泳ぐしかないと思っていたのだが、大きく高巻すればクリアできるルートがあった。
そして核心部のトイ状の滝部。ステミングで上るもの、10m崖を懸垂下降で下るもの、
トイ状の滝をステミングすることなく、途中で右岸の岩場を進むルートをみつけクリアするものと、ルート取りも各自各様に進み、所定のゴールまで進めた。沢ガールが核心部をクリアしたはじめての夏となった。

酷暑の折、Google Analyticsのアクセスランキングにも沢のメモが2本入っており、水根沢がユニークユーザー月間1万名ほどのこのブログのベストスリーに入っている。水根沢のメモは2015年にブログに掲載しているのだが、それ以降、2017年・2018年のメモも今回追加して以下、掲載することにした(2015年のブログも残しておく)。


2015年


6月末のとある日曜、朝起きると快晴。その1週間前の週末、沢ガールのガイドで秋川筋の大岳沢に入る予定であったが、雨で中止。その時の沢入りの準備ができていたので、どこかの沢に行こうと想う。どこに行こうか、ちょっと考え、水根沢に行くことにした。

水根沢には未だ一度も行ったことがない。奥多摩の沢登り、といえは「水根沢」と言うことで、いつも人で溢れているといったイメージがあり、初心者集団を引連れて「渋滞」を起こすのが申し訳ないと、いうのが最大の理由であった。 今回は急に思い立ったわけで単独行。ひとりであれば、沢を楽しみに来ている皆さんに迷惑をかけそうな滝や岩場は高巻きすればいい、沢は初級レベルと言われているが、キツそうであれば沢にそって続く水根沢林道に這い上がればいい、また、単独行の場合、基本、怖がりの我が身は、通常であれば常に携帯する山地図をインストールしたGPS端末も持たず、遡行図のコピーだけ。林道といえば、倉沢海沢など、沢に沿う広い道が刷り込まれており、すぐに見つかるだろうと思い込んでいたわけである。少々お気楽な水根沢行きであった。

沢には予想に反し、誰も居ない。これはラッキー! 迷惑をかけることもないので、のんびりと試行錯誤を繰り返し遡行していたのだが、途中で如何にも経験豊富な風情の方に後ろから声を掛けられた。岩に這い上がろうとする姿を見て、心配になったのか、一緒に行きましょうとの申し出である。
有り難い申し出ではあるが、誠に申し訳ないので一度ならずお断りしたのだが、結局ご一緒することに。よほど心配にみえたのだろう。CSトイ状の滝から先はその方のリードで半円の滝まで進み、そこで遡行終了し、ふたりで林道に向かうことにした。
これで、本日の沢上りは終わり、と思ったのだが、林道が見つからない、踏み跡はいくつかあるのだが、すぐ行き止まり。結構上下し林道を探したのだが、わからず、結局沢を入渓点まで戻りましょう、ということになった。水根沢の林道は、林道と言うより鷹ノ巣山への登山道と言ったものであったようだ。 二条12mの滑状の大滝の辺りでは岩場を下る懸垂下降のロープが10mでは足りず、結構苦労したが、岩場では腹這いになり、ズルズルと足懸りを探しながらクリアするなど、はじめての本格的「沢下り」も楽しめた。


本日のルート;水根沢キャンプ場>入渓点>(最初のゴルジュ)>2mの小滝>CS3m滝>橋>二条CS滝>(二番目のゴルジュ帯)>2m滝>CS3m滝>小滝>4m滑滝>4m滑滝>CSトイ状の滝>2段12m滝>滑滝>山葵田>三番目のゴルジュ帯>6mトイ状半円の滝>遡上終了>林道が見つからない>(沢を下る)>2段12m滝>CSトイ状滝>小滝>水根バス停

水根沢キャンプ場
突然決めた沢入でもあり、家を出る時間も遅く、奥多摩駅に着いたのは11時前。偶々、10時50分だか55分だったか忘れたが、丹波行きのバスがあり、奥多摩湖バス停のひとつ手前の「水根」停留所で下車。
沢に沿って入渓点である、水根沢キャンプ場へと向かう。
水根キャンプ場とはいうものの、道に沿ってそれらしき建物はあるものの如何にもキャンプ場といった場所もなく、沢に沿った広場といった場所があったが、それが水根キャンプ場なのだろう、か。
ただ、そこは民家の私有地といった風で、入り口に車止めといったものがあり、民家の前を通るのも申し訳なく、道を先に進む。と、道端でお喋りを楽しんでいた集落の方が、沢に入るのは、この道を先に行けばいい、と教えてくれた。



入渓点:11時52分
しばらく進むと舗装が切れ、山道に入る。これが水根沢登山道だろうか(後日登山道とは別の道であることが判明)。ほどなく、林道下に沢が見え、少々傾斜が急ではあるが、そこから沢に下りることにした。 林道で入渓準備。極力高巻きで水に浸からないようにしようと思うが、「水の水根沢」であるので、時に、胸くらいまで水に浸かることを覚悟し、山用の防水雨合羽を上から着込み、沢に入る。入渓点は穏やかな沢相である。

◎最初のゴルジュ
2mの小滝;11時56分
左岸に取り付き、岩場に手懸かり・足懸かりを見付けながら、水際を進み(沢の用語では「へつり」)滝横の岩に這い上がる。








CS3m滝;11時58分
その先には5mほどの淵あり、如何にもゴルジュといった風情。淵の先にはCS3mの滝。淵を進むが、深さはそれほどない。かつてはもっと深い淵であったようだが、砂で埋まってしまったようだ。
滝横の岩場まで進み、そのまま岩を這い上がる。水中から這い上がる岩場まで微妙な高さがあり少し難儀するが、それほど難しい箇所ではなかった。
因みに、CSとは「チョックストーン(chockstone)=岩の割れ目にがっちり挟まった岩」を意味する。



橋;12時2分
その先に橋が架かる。どこに向かうのだろう(この橋は登山道とは関係なく、入渓準備した道がこの橋に続くように思う)。









二条CS滝;12時7分
橋を越えると、川の中央に大岩が座り、水流が両側から勢いよく流れ落ちる。二条CS滝である。水に濡れるのを避け、左岸を高巻きしようと思ったのだが、結構難く、撤退。仕方なく滝を二つに分ける岩に取り付く。
腰の深さの淵を進み、下の岩は簡単に登れたのだが、上の岩場に這い上がるに、手掛かり、足掛かりがない。撤退しようにも、下りるに下りられず、岩の右手の水流に足懸りをと思えども、昨日の雨の影響か水の流れが強くホールドする自信がない。
なんとか上の岩に這い上がろうと悪戦苦闘。水濡れを防ぐために着た雨具がつるつる滑り、岩場に張り付くもずり落ちる。結構苦労したがなんとか這い上がれた。多くの人は岩の右手の水流を上るようである。

二番目のゴルジュ帯

最初の2m滝;12時31分
左岸を滝の少し手前から「へつる」。が、行くも、戻るもできなく、淵にドボン、と思った時、岩場左上に残奥スリングが見えた。スリングを掴み、岩場をクリア。












CS3m滝;12時35分
淵に入るのを避け、「へつり」をしながら左岸岩場を登り高巻しようとしたのだが、途中でこれも進むも退くもできなくなった。ずり落ちるのを避けるため、両手両足で滑る岩場をホールドし、なんとか下まで戻る。
そこからは水に胸辺りまで浸かり、滝の下まで進みるのを腰まで水に浸り右岸を上る。

声を掛けてもらう
滝上に上り下流を見るとひとりの男性が目に入った。そして、御一緒しませんか、との申し出。高巻でグズグズしている姿などを見るにみかね声をかけてくれたのだろう。沢はほどほど、ロッククライミングとかケービング(洞窟探検)を楽しんでいる方であった。
有難い申し出ではあるが、申し訳なく丁重にお断りするも、結局ご一緒することに。よほど心配してくれたのだろう。

小滝;12時51分
ご一緒に進み小滝右岸を上り、ゴルジュ帯を抜ける。














釜のある4m滑滝
ここが一番キツかったように思う。釜を泳ぎ岩場に取りつくも、水中に足懸りが見つかるまでは、少々難儀するも、なんとか足懸りを見つけ、なんとかクリアした。疲れ果て写真を撮るのも忘れてしまった。








CSトイ状の滝;13時14分
その先にトイ状の滝。雨水を集め下に流す樋(トイ)のように、狭い岩場を勢いよく水が流れ落ちる。ご一緒した方は、滝壺下まで進み、流れに抗いながらもステミング(両手両足で両側の岩場をホールドし滝を登る。蟹の横這い、といった格好である)でトイを突破するとのこと。
一方私は、少々疲れ気味。ステミングで体を支える気合が足りない。ステミングをしないとすれば、右岸の急な崖を這い上がり、10mの垂直な崖を下りることになる。迷うことなく右岸に崖に取り付く。
崖を這い上がり、先端部にくると10mの垂直の崖。崖の先端には残置スリングと、そこから下にロープが垂れる。が、ロープは水面まで届いていない。「画龍点晴を欠く」と言った残置ロープである。
それではと、ロープを取り出し6ミリの10mロープを結び、スリングに通し、フリクション(摩擦)を保ち、かつロープの回収を容易にすべく6ミリ二本のロープを8環に通し、懸垂下降で10mの垂直な崖を下りる。ロープも10mでギリギリではあったが、無事崖を下りた。崖下でステミングで上ってきた男性と合流し先に進む。

2段12m滝;13時17分
CSトイ状の滝の先には2段12m滝。右岸を這い上がる。水に浸かり、たっぷりと水を吸い込んだリュックやロープの重みが結構きつい。後でもメモするが、林道の踏み跡が見つからず、沢を下るとき、最も苦労した箇所である。










滑滝;13時26分
2段12m滝の先に小滝とカーブした滑状の滝が続く。難しい滝でもなく、滑状の滝の風情は結構美しい。













山葵田;13時33分
その先、右岸に小屋が見える。付近は山葵田とのことである。ここで休憩をとる方が多いようだが、そのまま先に進む。











三番目のゴルジュ帯

山葵田の先は、両岸にが岩に挟まれた、ちょっとしたゴルジュ帯(?)となる。小さな滝が二つあった。最初の滝はどうということはなかったのだが、2番目の滝は、見た目は簡単ではあったが、手懸かり・足懸かりがなく、体力も大分消耗した我が身は、なんとか這い上がる、といった為体(ていたらく)ではあった。






6mトイ状半円の滝;14時
このゴルジュ帯を抜けると、小滝がありその先に水根沢で最も名高い半円の滝が見えてくる。ステミング(蟹の横ばいといった案配)で登っていくのが本道ではあろうが、その体力はない。ご一緒した方はステミングで進むも、私は右岸を高巻き。高巻きは誠に簡単であった。









遡上終了;14時5分
ご一緒の方は、数回この沢に来ており、これから上はそれほど面白い箇所もないので、ここで切り上げましょうとの提案。誠に有り難いお話。成り行きで林道へと向かう。









林道が見つからない:14時23分
林道は直ぐに見つかるとのことであったが、なかなか見つからない。踏み跡はいくつかあったのだが、途中で消える。成り行きで彷徨っていると、左右に沢を分ける尾根道に入る。左手の沢は何だ?益々混乱。
ご一緒してくれた方も、記憶を頼りに林道を探すが、見つからない。で、結局、沢を下りましょう、ということになった。
家に帰り地形図を見ると、沢を分けた尾根と思ったのは、水根沢にグンと突き出した尾根であり、単に水根沢が突き出した尾根の岩壁をぐるりと回っているだけであった。場所は最終地点である半円トイ状の少し下流といった箇所であった。この尾根筋のため少々混乱したが、もう少し高いところまで登れば林道に出合っていのかとも思う。水根沢のレポに林道探しに苦労した、といったものは皆無である。皆さんは何の苦労もなく林道に登れているのだろうか。


沢を下る

2段12m滝;14時58分
水根沢に突きだした尾根筋に沿って踏み跡があるので、とりあえずその道を進む。が、ほどなく踏み跡が切れる。跡は成り行きで沢に沿って下ると、2段12m滝の上に出た。岩場を下るのは滑って危なそう。ロープを出して下降。安全な箇所まで下りるには15mほどの長さがあったほうがよさそうであった。









CSトイ状滝;15時
高巻きをエスケープし懸垂下降で降りた箇所は、下りはステミング(蟹の横ばいといった案配)で下りるしか術はない。トイ状の滝をステミングで下り、適当な所で淵にドボン。












小滝;15時24分
登りはどうということもなかったCSの小滝も下りは難しい。腹這いになり、手懸かりをホールドしながら、ゆっくりズリ落ちる要領で足懸かりを探しながらクリアする岩場が2箇所ほどあった。

入渓点に:15時45分
水に濡れるのを避けるため、極力高巻で、といった「計画」も下りのトイ状の滝での滝壺にドボンのため、結局全身ずぶ濡れになりながらも、なんとか入渓点まで戻る。そこはスタート時点では遠慮した民家前を通るアプローチ地点ではあった。

水根バス停;16時10分
沢から出ると、四駆で駅まで送ってくれる、と言う。さすがに、そこまでは甘えることはできず、御礼を申し上げデポ地点で別れる。林道脇で着替えを済ませ 水根バス堤に。16時23分のバスに乗り、16時57分のホリデー快速おくたまで一路家路へと。

今回の沢は反省点ばかり。単独行でありながら、地図もGPSも持たず遡行図だけて沢に入り、撤退や復路の林道は沢に沿って直ぐに見つかると高を括っていた。偶々この方が親切にご一緒して頂いたから良かったものの、独りだったら、倉沢とか海沢の林道と言った大きな「林道」を探して山中を彷徨っていたかとも思う。
結構沢をこなし、沢登りを結構こなし、ちょっと半端な余裕をもちはじめていたのだろう。初心に戻るべし、との思いをかみしめた水根沢遡行となった。



後日談(二回目)
7月の中旬、酷暑の都心を離れて元会社の仲間と水根沢に入った。当日はピーカン。これは水を存分に楽しめるだろうと入渓点に。
が、前回と同じ個所で着替えをしている時に沢から聞こえる水の音が半端ではない。轟轟たる水音である。快晴ではあるが、この水音を聞き、防水雨具を上から着込み入渓点に。 思った以上に強烈な水勢である。

第一のゴルジュ帯
2m小滝
最初のゴルジュ帯の2mの小滝は、「へつり」で進む。強烈な水勢を見遣りながら第一関門はクリア













CS3mの滝
がその先のCS3mの滝は、先回は滝下まで進み、楽々滝を登ったのだが、今回はとてもではないが直登などできそうもない。迷うことなく大きく高巻き。








第二のゴルジュ帯
2m滝
再び沢に入り第二のゴルジュ帯の2m滝に。水量も多く、先回と様変わり。水量が多いこともあり、左岸が丁度いい感じにへつりがしやすくなっている。手掛かりを探り、水中に足がかりを探りながら滝の手前まで、水線の中に足がかりを見つけ、クリアする。







CS3m
このCS3m滝は水量は多いものの、どういうわけか水勢が激しくなく、先回と同様に右岸を這い上がる









4m滑滝
その先、先回辿った小滝だったか4m滑滝だったか。それもわからないほど水が滝を覆う。異常なほど水勢が激しく、水線を進もうにも跳ね返される沢ガール。幾度かトライするも断念。で、高巻しようと崖に張り付き、足場の悪い崖を上り切るも、その先のルートが読めない。このまま進むのは危険、ということで撤退決定。






登山道に這い上がる
登山道に這い上がるにも、この地点から這い上がるのはキツイ。少し下り、CS3m滝辺りから崖を這い上がる。登山道まで比高差は90mほどあるだろうか。あまりに急登に、シダクラ沢以来の四足歩行でなんとか這い上がる沢ガール。悪戦苦闘し登山道に。






登山道
先回見つけることのできなかった登山道ではあるが、結構しっかりした踏み跡のある道ではあった。
それにしても、強烈な水勢であった。数日前まで何日か降り続いた雨の影響が、これほどまで残っているとは想像もできなかった。しかし、誠に面白い沢登りの一日であった。











水根沢再々訪(三回目)

8月末日、先回の途中撤退のリベンジにとの沢ガールのご下命により、水根沢に。パーティは退任前の会社の沢ガールと沢ボーイと私の3名。先回同様、民家前を通る入渓点を避け、道を進み「むかし道休憩所」を越え、舗装も切れる民家脇の小径の入渓地点上に。
入渓点上の登山道と思っていた道は、先回の途中撤退で這い上がった登山道の下り口とは異なっており、沢遡上の途中で出合った橋に続く道のようではあった。
それはともあれ、入渓点上の道で入渓準備をしながら耳を澄まして聞く沢の水音は轟々と響いていた先回とは異なり、静かな響き。一安心し入渓点に下りる。


入渓
先回の大水の後の沢入りは、入渓早々に左岸の「へつり」でしか進めなかった箇所も、今回は水線上をのんびり進む。

CS3m滝
先回はその水勢激しく高巻きしたCS3m滝は右岸を進み岩場に這い上がる。最初に水根沢にひとりで訪れたときはそれほど難しいと思わなかったのだが、岩場に這い上がるには水中からは微妙な段差。男ふたりは何とか這い上がるが、腕力のない沢ガールは悪戦苦闘。
長時間水に浸かり体力消耗を避けるため、結局ロープを出し、ハーネスのカラビナに固定し、引き上げることにした。岩場には残置スリングが吊り下がっていたが、位置が高く水中からの手掛かりとはなり得なかった。

CS2条の滝
先回は水量が多く、結果左岸をへつりで進むことができたCS2条の滝(多分CS2条の滝だと思うのだが、ゴルジュ帯の2m滝だったかもしれない。なにせ水勢激しく、滝が水に埋もれどちらだったか確認できない)は、今回は中央岩場に取り付き、岩の右手から流れ下ちる水線の岩に足を踏み出しホールドし上るのが常道のようだが、一歩踏み出す「勇気」を躊躇する沢ガールのため、ここもハーネスのカラビナにロープを固定し引き上げる。



2番目のゴルジュ帯
2m滝
最初に一人で訪れたときは左岸をへつり、残置スリングに助けられたとメモしたが、今回も左岸をへつると2箇所に残置スリングが残っていた。もっとも、 残置スリングを手掛かりに進むが、その先は滑りやすい岩場であり、釜がそれほど深くもなかったため、他の二人は左岸に沿って水中を進み岩を這い上がって進んだ。






CS3m滝
その先のCS3m滝は最初に訪れたときも、先回の大水の時も、不思議に水がそれほど多くなく、右岸に沿って進み岩場を這い上がって進むことができた。今回も同じく右岸を這い上がる。








釜のある4mナメ滝
最初に訪れた時も難儀し、2回目には強烈な水勢のため途中撤退を決めた、釜のある4mナメ滝(当日は圧倒的な水量のため撤退箇所は特定できず、帰宅しログを確認し釜のあるナメ滝と推察したわけではあるが)に到着。釜を泳ぎナメの岩場の水中に足がかりを探し、なんとか這い上がる。今回もやはりここが少し難儀する箇所となった。
沢ガールには、ハーネスのカラビナにロープを固定し、水中を引っ張り、最短時間でナメ岩下に取り付き、ナメの岩場を這い上がる。



CSトイ状の滝
深い釜を泳ぎ、ステミング(蟹の横這い状態)で上るトイ状10mほどの滝に到着。釜も深く、水に濡れ体が冷えた我々3人は釜を泳ぐ気は毛頭ない。最初と同様、10mほどの垂直の崖を懸垂下降で下りようと右岸の崖を這い上がる。 先回懸垂下降で下りた崖の先端の岩に掛けられたスリングは残るが、そこから吊るされていたロープは切れて崖端に放置されていた。
先回は岩に掛けられた残置スリングにロープを通し、懸垂下降で垂直の岩場を下りたのだが、よくよく見ると残置スリングが心もとない。またスリングを支える突き出た岩場も、なんとなく「ひ弱」な感じ。スリングもそれを支える岩も、見れば見るほど少々怖くなり、結局懸垂下降は危険と判断。釜を泳ぐ気持にはならないため、今回はここで左岸高巻きすることに決定し、水線に戻る.。



登山道に這い上がる
左岸を見遣り、這い上がる箇所を探し岩場に取り付き、高巻き開始。極力左手に進もうと思うのだが、傾斜がきつく、滑り始めると釜に向かって一直線に落ちて行きそうな急斜面のため、トラバースするのは少々危険と、結局一直線に崖を這い上がることに。
また、最初の水根沢遡上で登山道が見つからず、沢を入渓点まで戻るため、支尾根の左手を成り行きで下ると2段12mのナメ滝上に出たのだが、その時の印象ではトラバースできるような斜面ではなく、結局2段12mのナメ滝へと下りざるを得なかったわけで、トイ状の大滝を高巻きしても、とても沢に復帰できるような斜面でなかったことが頭に残っていたのも、登山道へと一直線に這い上がることにした理由でもある。

急登に難儀する沢ガールにはハーネスのカラビナにロープを結び、斜面の立木を支点に安全を確保しながら崖を這い上がる。結局は高巻き、というより登山道までエスケープした、といったほうがいいだろう。30分ほどかけて登山道に這い上がった。

登山道を支尾根に
当初のゴールである半円の滝へと登山道を進む。最初に水根沢を訪れたとき見つけられなかった、半円の滝から支尾根に上った先にある登山道を「繋ぐ」ことも目的のひとつではある。
登山道を進むと、左手に支尾根が見える。道脇の過ぎに白のペンキが塗られていた箇所から支尾根に下りる道がある。支尾根への斜面を下り、平坦な支尾根上の踏み跡を進み、沢に下りる箇所を探す。
支尾根を進むと尾根筋を切り開いた箇所があり、そこから支尾根の右手を沢に下りる。これで半円の滝で終了した後の、登山道への道が繋がった。最初の沢入りで、登山道が見つからず沢を入渓点まで戻ったときは、この尾根の左手を成り行きで下り、トイ状滝の上にああttる2段12mの上に出たわけである。

半円の滝
沢に下り、少し沢を下流に戻り半円の滝に。トイ状の大滝は高巻きと言うか、登山道にエスケープしたが、本日のゴールに到着。沢ガールも先回の途中撤退のリベンジ達成と、トイ状の滝脇の岩場を滑り台に釜に流れ落ちたり、半円の滝をステミング(蟹の横這い)で登ったりと、しばし水遊びを楽しみ、本日の水根沢の沢上りを終える。

むかし道休憩所
先回の大水の後の水根沢を訪れ、途中撤退し登山道を下ってきたとき、登山道を舗装された道に下りきったところから少し先に進み。左手の沢側に入ったところに「むかし道休憩所」があった。まことに立派な施設でお手洗いもあるし、着替えもできる。今回も、休憩所までは沢スタイルで下り、ここでゆったりと着替えすることができた。水根沢の着替えはこの休憩所を使わせてもらうのがいいかと思い、メモをする。


2017年
CSトイ状の滝をクリアし、所定のゴールに。帰路も間違うことなく林道を戻る


2017年には、娘の旦那と水根沢に。行く前は偉そうなことを言ってはいたのだが、実際は沢デビューの娘の旦那に助けられっぱなし。

CS3Mの滝
最初のCS3Mの滝は、2015年には腰の上まで水に浸かりながらも何とかテーブル状の岩場に這いあがれたのだが、川床が低くなったの現在はちょっとむずかしそう。滝の手前の右岸岩場に残置ロープがあり、それを頼りに体を右に振り、手懸り・足懸りを確保してテーブル状の岩場に移る。
もっとも、身軽な若者はテーブル状の岩場を囲む岩壁に手懸り・足懸りを見つけて軽々と上っていた。
娘の旦那は身長も高く、元陸上部の腕力で、これも軽々とテーブル状の岩場に這い上がっていった。



CSトイ状の滝
通常であればCSトイ状の滝の右岸を高巻きし、10mの崖を懸垂下降で下りるのだが、娘の旦那は沢デビューで懸垂下降の経験もないため、はじめて釜を泳ぎ、トイ状滝下に取りつき、なんとか足場を見つけ滝の水圧に耐えながら上る。
私は膝を痛めており、トイ状滝をステミング(蟹の横ばい)で進むことはできなかったのだが、娘の旦那は軽々とステミングでトイ状の滝を登っていった。








2段12mの滝
CSトイ状の滝を越えた直ぐ先にある2段10mの滝は左岸の岩場を這い上がるのだが、慎重に手懸り・足懸りを見つけロープを出ずにクリア。

6mトイ状半円の滝を越えた先の所定のゴールをクリア。トイ状の滝部を水線を上るルートでの初めてのゴール










2018年8月

沢ガールとのメンバーではじめてトイ状の滝をクリアし、所定のゴールへ

退任前の会社の沢・山仲間とその知人のスコットランドの若者、更に娘の旦那の7人のパーティ。沢仲間のメンバーではじめてトイ状の滝部をクリアし、所定のゴールに進めたはじめての夏となった。
因みに、沢登りを英語でどういうのか、適当な訳が辞書では見つけることはできなかったのだが、スコットランドの若者はGorge walkingと言っていた。なんとなくニュアンスが伝わる訳語だ。

CS3mの滝
トップの仲間右岸岩場の残置ロープを使い体を右に振り、手懸り・足懸りを確保してテーブル状の岩場に移る。若干のへつりが必要で、手懸り・足懸りが確保できない者はトップが用意したロープを右手で掴みテーブル上の岩場に上る。








二条CS滝
橋を越えると、川の中央に大岩が座り、水流が両側から勢いよく流れ落ちる二条CS滝がある。
腰の深さの淵を進み、下の岩は簡単に登れるのだが、上の岩場に這い上がるのが結構大変なところ。今回は左岸の岩場に手懸り・足懸りを見つけクリアした。
水線を進み中央の大岩に取りついたメンバーは、上のフラットな大岩に這い上がるのに苦労していた。左の岩場をへつるのがいいかと思う。


二番目のゴルジュ帯の2m滝
ここは左岸に2本の残置ロープがあるので、慎重にへつればクリアできる。水量が少ない時は右岸を上っていたと思うのだが、今回は水量が多く左岸の残置ロープ2本を使って進むしかなく、へつりに難儀するメンバーもいた。メンバーの中にはここが一番大変だったと話す者もいた。

深い釜をもつ4m滑滝
ここは泳いで滝下の岩場で泳ぎながら手懸り・足懸を見つけクリアしたが、メンバーの多くは大きく高巻きしていた。高巻もできるようだ。滝からの水圧に耐えながら水中に足場を探すわけで、高巻きすればいいかと思う(今回は私は泳いで岩場に取りついたので高巻ルートは経験していない)

CSトイ状の滝
滝下まで泳ぎ、ステミングでトイ状の滝を登るもの、10m崖を懸垂下降で下るもの、また滝下まで泳ぎ、滝の水線から右岸の岩場にルートを見つけCSトイ状の滝をクリアする者と様々。各自の技量・好みに応じて3種類の選択肢がある。

CSトイ状の滝をクリアすれば2段10mの滝はあるものの、あとはそれほど困難な箇所もない。6mトイ状半円の滝を越えた先の所定のゴールをクリア。沢ガールとのメンバーではじめて所定のゴールまで辿ることができた。


沢遡上;倉沢再訪

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この夏の最初の沢入りは、退任前の会社の仲間と倉沢本谷に。沢仲間のTさん、2012年以来、沢にハマった沢ガール2名、そして沢デビューのSさん。はじめて沢を経験する人がいる場合は、ほぼ倉沢と決めているし、既に何度も遡行しているのだが、なにせ早朝から出掛けることが「かなわん」と、いつものんびり出掛けるため、最終地点の魚留橋まで行ったことがなく、そろそろ最終地点をクリアしないと洒落にならんとの思いもあり、倉沢本谷に向かうことにした。
早く出掛け、早く戻るが基本のTさんの段取りで、8時30分発東日原行のバスに乗り倉沢橋で下車、9時過ぎには入渓谷。戻りは2時56分、倉沢橋発であるから、林道を戻る時間を考慮して2時前に遡行終了との計画。4時間強の遡行時間であればなんとか最終地点まで行けるだろうと倉沢に向かう。

以下、倉沢本谷遡行のメモをするが、今までバスの時間との関係上、常に引き返し地点となっていた「美しい釜をもった3m滝」までは2012年9月22日に行ったときのメモを一部手直ししながら再掲し、「美しい釜をもった3m滝」より先を最後に付記する。


2012年9月22日;最初の倉沢7本谷沢遡行


2012年9月22日、会社の仲間と倉沢の沢上りを計画した。いつだったか、倉沢谷に沿った林道を進み、魚留橋から棒杭尾根を這い上がり三ツドッケへと山行を楽しんだことがある。そのとき、倉沢谷脇の林道を歩きながら、そのうちにこの美しい沢を遡上してみたいと思っていた。
今年の夏、7月に会社の仲間と古里・寸庭橋辺りの多摩川なk合流点から越沢バットレスキャンプ場(現在は休業中)まで越沢の沢遡上を楽しんだ。その時、沢ガール、沢ボーイデビューをした会社の仲間が、思いのほか沢登りにフックがかかり、再びの沢登り企画と相成った。そしてその沢候補としたのが件(くだん)の倉沢である。今回のパーティは越沢で沢ガールデビューしたうら若き女性2人と沢上りの経験豊かな中年(?)男性、そして、なんちゃって沢ボーイである還暦をはるかに過ぎた私の4人パーティ。

当日はあいにくの曇り。前日の雨の影響もあり、それまで続いた猛暑と言うか、残暑とは打って変わった涼しい朝。男性陣ふたりは、水の冷たさに恐れを成し、はやくも及び腰。沢登りを止めて、高尾山から日の出山を経てつるつる温泉でのんびりと、とか、鳩ノ巣から海沢渓谷で滝を見ようか、などとそれらしき代替案を出すも、沢ガールの無言ではあるが、強烈なる「沢へ」との目力に負け、結局は倉沢谷に。もっとも、ロープやハーネス、そして沢シューズ、着替えといった沢登りグッズで一杯のリュックを背負っての山行も大変だ、というのは男性陣二人の共通した思い、でもあった。

本日のルート;奥多摩駅>倉沢停留所>入渓>八幡沢合流>鳴瀬沢合流>釜をもった美しい3mの滝で終了>倉沢停留所>

倉沢橋停留所
倉沢橋奥多摩駅から東日原行きのバスに乗り、倉沢で降車。そこは倉沢谷が日原川に合わさるところ。谷は深く切れ込み、谷に架かる倉沢橋は橋下の高さが61m。東京都内にある1200強の橋のうちで一番高い橋、と言う。





倉沢谷に下りる
倉沢谷に沿った林道に入る。少し進むと駐車スペースがあり2台車が止まっていた。先に進み、林道脇にある標識の少し先辺りで倉沢へと下るルートを探す。切り通しの先、ガードレールが切れている辺りに、沢へと下れそうなルートがある。林道から沢までの比高差は50mほどあるだろうか、かすかに下に倉沢の流れが見えている。

ガードレール直下は足元が危うそう。念のため、ガードレールにスリングを架けて、慎重に林道から急斜面に降りる。急斜面でもあり、杉にロープをかけて安全に、とも思ったのだが、なんとか倉沢谷まで下りることができた。




入渓
2012年はハイキング姿の沢ガールも
入渓準備。沢ガールには念のため、スリングをふたつ合わせカラビナで固定した簡易ハーネスをつくり装着。10時少し前に入渓する。








2段5mの滝は高巻き
2014年8月にはヘルメット。ハーネス。
渓流シューズに
入渓点は広々としていたが、その先に深そうな釜があり2m滝左岸を高巻き。その先は沢に入るも、すぐにすぐさま2段5mほどの滝となり、再び左岸を小滝もまとめて高巻き。足元が危ういこともあり、安全のため一応ロープを張ってクリア。降りたところは小さな沢が合流し沢が急角度で曲がっていた。



「ゴーロ」を進む
2012年9月22日
2015年7月17日
その先にある釜はスリングでサポートしながら右岸をへつり、やや大きめの岩がゴロゴロする「ゴーロ」を水に打たれながら進む。枝沢が注ぐ先にある2m滝は釜があり右から巻く。






大岩の間の滝を上る
2916年には「釣り上げ」る必要もなく
2012年はほとんどスリングで
「釣り上げて」いたのだが
先に進むと大岩の間に滝がある箇所があり、水を浴びながら岩を右から巻く。前日の雨故か、急流に耐えられず、足元を掬われ転びつ・まろびつの沢ガールではある。












S字状の岩場を抜けると釜と3m滝

左岸から注ぐふたつの枝沢を越えた先のS字状の岩場にはふたつの小滝と釜。ここは沢筋を直進する。S字状の岩場を抜けると先に釜と3m滝があり、少々厳しそう。時刻も知らずお昼となっており、休憩を兼ねて昼食をとる。いつもの散歩ではメモが結構長くなるのだが、沢のメモは、至極短い割りには時間は結構たっている。2時間近くかかっただろう、か。











鳴瀬橋
2014年8月31日
休憩を終え、3mの滝は左岸の岩場は安全のためロープを使い、岩を這い上がる。岩場をクリアすると八幡沢が右岸から入るが、その先には2mの滝。右から巻いて進むと前方に大きな橋がみえてきた。鳴瀬沢にかかる鳴瀬橋である。







崖を下りる
2012年は簡易ハーネス・プールジックで
2016年にはハーネス・8環で懸垂下降で

鳴瀬橋の先で倉沢は右に曲がる。曲がるとすぐに釜があり、右岸をへつり、岩によじ登る。岩の降り場の足場は悪く、残置スリングと簡易ハーネスをカラビナで結び、慎重に降りる。












巨岩
2014年8月31日
降りると今度は2m滝。左岸の岩場をロープでサポートしながら這い上がる。這い上がった先には巨大な岩が現れる。














釜をもった美しい3mの滝
大岩の先の滑滝を、水を浴びながら進む。その先は左岸の岩場を、ロープを使って這い上がる。と、その前には釜をもった美しい3mの滝が現れる。釜は結構深そうである。









ここで時刻は2時前。倉沢バス停発2時50分頃のバスの便を逃すと、4時過ぎまで便はない。本日の沢遡上はここでお終いとする。沢用の上下で完全武装の中年の沢ボーイは名残にと釜を泳ぎ、滝に取り付き、残置スリングを支えに滝上に這い上がり、滝を滑り落ちて本日の締めとした。私は、眺めるだけで十分。

林道に上る
急斜面を林道に這い上がり、人目を少々気にしながら着替えを済ませ、30分弱歩き倉沢バス停でバスに乗り、一路、家路へと。

















●倉沢本谷の所見

倉沢谷に沿って林道が通るので安心
倉沢遡上は、誠に楽しかった。倉沢谷は日原川に注ぐ一支流であり、合流点は深い谷を形成している。倉沢谷に沿って林道が通っており、いざという時にエスケープできるのは心強いし、通常の沢遡上では源流まで進むと、後は尾根を這い上がり、別の尾根を下ることになるが、倉沢谷は、帰路は林道を戻ればいいわけで、誠に気が楽である。

入渓地点は深い谷に下って進むが、上流に進むにつれて林道との比高差が減る

倉沢橋近くの入渓地点は深い谷に下って進む事になるが、上流に進むにつれて、倉沢谷と平行して通る林道との差がなくなってくる。今回は時間切れで辿れなかったが、魚留橋のあたりでは、倉沢谷と林道との比高差はほとんどなくなる。このことも初心者中心の我々沢登りパーティには心強い。

多くの小滝と釜で初心者でも十分楽しめた
沢自体も、それほど大きな滝はなく、多くの小滝と釜が現れ、また滝を直登しなくても左右の岩場を巻いて勧めるので、初心者でも楽しく沢上りが楽しめた。




次回は魚留橋を越え、その先の長尾谷とか塩地谷まで遡上したい
今回は当初目標としていた倉沢鍾乳洞の先にある魚留橋まで辿ることはできなかった。来夏は今回の到達点からはじめ、魚留橋を越え、その先の長尾谷とか塩地谷まで遡上してみようと思う。







●2016年7月17日

釜をもった美しい3mの滝から魚留橋へ



2016年に初めて倉沢に入って以来、毎年一度、多い時には二度ほど倉沢に入渓していたのだが、すべて上記「美しい釜をもった3m滝で時間切れとなっていた。今回、早く行動したこともあり、3m滝から魚留橋手前の倉沢鍾乳洞跡の橋跡まで進んだ。


釜をもった美しい3mの滝を左岸高巻き
釜前でお昼休憩し、行動開始。Tさんは一度遊び半分に釜を泳ぎ、3m滝を這いあがったのだが、今回は高巻きとする。右岸林道に上がるのは何だかなあ、ということで左岸で高巻きできる地点を探すと、釜付近は絶壁で登れそうにないが、少し下流に戻ったところから這い上がれそうなルートを見つけ、崖を高巻きし水線に戻る。




4m滑状の滝
水線に戻ると4mの滑状の滝。その先にも小滝が続く。









大岩
その先に大岩。大岩2m滝は左手の滑状の小滝を進む。その先は大岩の間に小滝が見える。リードするTさんは迷わず大岩を潜る。段差はそれほどないが結構なシャワークライム。水を浴びながらもメンバー一同楽しそう。








45m滝左岸を巻く
美しい渓相の滑状の小滝の先に5mほどの滝。ここは左岸を巻く。









4mほどの滑滝が続く
滝を巻いた先には5mほどの滑状の滝が2本続く。1本目は滝の左端を上り、2本目は結構な水勢の中、シャワークライムが楽しめる。









5m滝
その先には5m滝。ここは左岸を巻く。









石垣状堰堤
石垣状の堰堤は下部に開いた流水口を通り抜ける









倉沢鍾乳洞跡の橋跡
石垣状堰堤の先は、砂が堆積した為だろうか、一瞬平坦地となり、そろそろ終わりか、と期待するが、林道との比高差は結構ある。案の定、その先は岩場となるが、ほどなく橋の石組み土台跡。今は閉鎖されているが、倉沢鍾乳洞への橋跡であった。
時刻は2時前。着替えや林道をバス停に戻る時間を考えたらそろそろ終了の時間。その先に魚留め橋が、とは思えども、ここで終了。倉沢鍾乳洞の橋に続いていた石段を上り林道脇で着替えし倉沢橋バス停に戻る。

今回はじめて「美しい釜をもつ3m滝」の先に進んだのだが、これがバリエーション豊富で結構面白いルートだった。
当日は曇りで泳ぐ、という雰囲気ではなかったが、猛暑に泳ぎ中心で倉沢に入ろうと思う。
30年来の友人であり、先日ゴンザス尾根・根岩越えをご一緒したSさんから沢登りのお誘い。Sさんとは奥多摩のゴンザス尾根・根岩越えの他、日原から秩父に抜ける仙元峠越え、信州から秩父に抜ける十文字峠越えなどの峠越えは時に御一緒しているのだが、沢登りは2010年、奥多摩の小川谷最奥部にある酉谷・コツ谷を源流まで詰め、長沢背稜まで這い上がり、喜右エ門尾根を下って以来、5年ぶりである。
Sさんの沢入りのスタイルは、水をジャブジャブ、といったものではなく、極力高巻きで進み、源流部を詰めて尾根に這い上がり、そして尾根筋を外さず下るといったオーソドックスなもの。そのスタイルで奥多摩や丹沢の沢を結構数多く歩いている。
で、今回どこに行くかはSさんにお任せ。その中から選んだものが川乗谷・逆川であった。この沢はSさんが最初に入った沢とのことである。
ルーティングは奥多摩駅からバスで川乗橋に。そこから林道を30分程度歩き川乗谷に逆川が出合う辺りで入渓。そこから逆川をウスバ林道まで遡上し、林道・作業道をウスバ乗越経由で下り川乗橋まで戻る、といったもの。入渓点からウスバ林道の比高差は400mほど。まさに「谷を突き上げる」といったものである。 遡行時間も休憩を入れると4時間弱。沢に沿って林道・登山道のある沢に入り、いつでもエスケープする「なんちゃって沢登り」を楽しむ我が身には、シダクラ沢以来の苦行を覚悟していたのだが、尾根への這い上がりもなく、遡行時間の長さはそれなりに大変ではあったが、久しぶりにオーソドックスな沢登りを楽しんだ。




本日のルート;奥多摩駅>川乗橋バス停>林道を入渓下降点に>入渓>逆川出合に>2段10m大滝>大岩のゴーロ>2条4m滝>釜のある3m滝>ゴルジュ帯>釜のある2条滝>4mナメ状の滝>荒れた渓相のゴーロ>5mナメ滝>2条4m滝>右岸から枝沢が合流>釜のある2m滝>3m滝>ナメと小滝が続く>二股>数段のナメ状の滝>大ダワ出合>小滝が続く>2条2m小滝>釜のある3m滝>数段からなるナメ状の小滝>2m小滝>2条2段3mの小滝>2段3m小滝>4m小滝>3mナメ滝>山葵田跡>トイ状の3段10m滝>3m滝>10m滝>ウスバ林道>ウスバ林道から作業道に乗り換え>ウスバ乗越の尾根道先端へ>作業道を川乗林道・竜王橋まで下る>川乗林道を川乗橋バス停へ>川乗橋バス停

奥多摩駅;8時21分
奥多摩駅発8時35分のバスに乗りましょう、とのSさんからの連絡。始発から行動する山屋さんたちにはあたりまえの行動時間ではあろうが、こんなに早く動くのは久しぶり。6時台に起き、6時59分三鷹発のホリデー快速おくたま1号に乗り奥多摩駅に8時21分に到着


●PART 1;川乗橋バス停から入渓点まで; バス堤>林道から川乗本谷下降点>入渓 おおよそ1時間

川乗橋バス停;8時48分
8時35分発の東日原行に乗り、8時48分に川乗り橋バス停で下車。数組が下車。倉沢の沢登りに行くときなど、川乗橋で川乗(川苔)山に登る人が大挙下車するのだが、なんだか様子が違う。バス停横の案内に「百尋ノ滝(ひゃくひろのたき)」から川乗山への間が通行止め(2015年8月1日)となっていた。スズメバチの巣がその因である、と。そのためとは思えないが、真夏の山はそんなものなのだろうか。

林道を入渓下降点に;9時13分(標高565m)
施錠された柵の脇から林道に入る。舗装された林道を川乗本谷に沿って進む。歩くこと30分、逆川が川乗本谷に合流する辺りに到着。逆川出合い手前あたりの林道で入渓準備しているパーティがある。
少し先に進み、川乗本谷に下る適当な箇所を探すと、逆川出合い辺りのカーブミラーのある辺りから谷に下る踏み跡があった。


入渓;9時50分(標高552m)
踏み跡を谷に下るが、すぐに崖で行き止まり。左右を見廻しトラバース気味に出合いの少し上流点へと慎重に下る。ロープをだそうかと思ったくらいの、結構難儀な下降であった。
結局谷に下り切るまで15分程度かかったかと思う。で、入渓準備をして入渓したのは9時50分頃になっていた。







●PART 2 入渓から2段10m滝まで; 入渓>逆川出合>逆川遡上開始>2段10m滝 約30分(比高差23m)

逆川出合に;10時8分(標高543m)
入渓地点をガーミンのGPSに入れた地図で確認すると、逆川出合いの少し上流箇所になっている。出合いに向かって少し下るが、大岩が転がり、簡単には進ませてくれない。大岩から飛び降りるには水深が浅すぎる。結局、岩の突起部にロープをかけ8環をセットし、丸まった大岩を懸垂下降で下りることにした。出合い箇所まで15分弱かかってしまった。








出合いから2段10m滝まで
大岩の転がる逆川出合から遡上を開始。苔むした小滝、滑気味の小滝を15分程度登ると眼前に大きな滝が見えてきた。









2段10m大滝;10時20分(標高575m)
滝に近づくと、先行パーティが右岸、左岸を高巻きしている。両パーティもビレイで確保しながら結構慎重に高巻きしている。滝は7m+3mの2段の滝のようである。登れないこともないようだが、我々は、シャワークライムを楽しみ、結果水に濡れることなど勘弁と、迷うことなく高巻きとする。
右岸・左岸を見るに、左岸にほうが少し簡単そうに見える。左岸の先行パーティも大分先に進んだので、我々も高巻き開始。おおよそ10時30分過ぎから崖を這い上がり、滝に向かって一直線に落ち込む箇所を慎重にトラバース。ロープも出さずトラバースしたが、足場も悪く、ロープで安全確保すべき箇所ではあった。後から反省。


●PART 3 ゴーロ帯からゴルジュ帯; 大岩のゴーロ>2条4m滝>3m滝 約10分(比高差13m)

大岩のゴーロ;10時50分(標高610m)
高巻きのピーク地点の標高が604mほどであったので、2段10m滝の上にある3mの滝も巻いていた。結構高く巻いたようだ。高巻に10分ほどかかっただろか、2段10m滝の高巻きから沢に戻ると大岩のゴーロ地帯が現れる。






2条4m滝;10時52分
ゴーロを進むとCS2条4m滝が現れる。釜も深そう。ここも迷うことなく巻く。因みに、CSとは「チョックストーン(chockstone)=岩の割れ目にがっちり挟まった岩」を意味する。







釜のある3m滝;10時57分(標高619m)
その直ぐ先にも釜をもつ3mほどの滝、この釜も深そう。ここも高巻きで進む。










●PART 4 ゴルジュ帯からゴーロに; 小滝の続く岩場から荒れた渓相のゴーロに;約30分(比高差70m)

ゴルジュ帯;11時(標高622m)
釜を持つ3mの滝を越えるとゴルジュ、と言うか、狭隘な谷に挟まれ大岩から流れ落ちる水線を這い上がる。小滝というより岩を避けて流れ落ちる水流といった風情。幾つもの大岩の右や左から流れ落ちる水線中を這い上がる。いかにも沢を突き上げている感がある。


釜のある2条3m滝:11時16分(標高646m)
15分ほど沢を突き上げると、釜をもつ2条3mの滝。ここの釜は浅そうであり、右岸を這い上がる








4mナメ状の滝;11時31分(標高680m)
釜を持つ滝を越え、10分ほど進むと4mほどのナメ条の滝









荒れた渓相のゴーロ;11時32分(標高684m)

ナメ条の滝を越えると、比高差のある沢は一時「お休み」。平坦なゴーロに出る。










●PART 5 ゴーロから再びゴルジュ帯を抜ける; 5mナメ滝>2条4m滝>右岸から枝沢が合流>釜のある3m滝>浅い釜の3m滝 約15分(比高差約25m)

5mナメ滝;11時36分(標高695m)
ゴーロの先は再び比高差のある岩の左右を水が流れ落ちるゴルジュ地帯となる。2,3m程度の滝を這い上がると、5mほどのナメ滝。美しい渓相である。









2条4m滝;11時39分
その先に2条に分かれたナメ風の滝。4mほどあるだろうか。この辺りも最初のゴルジュ帯のように大岩の左右を下る水線を這い上がることになる。


右岸から枝沢が滝となって合流;11時40分
2条4m滝を這い上がった先に、右岸から枝沢が合わさる。枝沢は5mほどの滝状となって逆川に注ぐ。

大きい釜のある2m滝;11時41分
枝沢が合わさる直ぐ先には、深い釜をもつ滝。右岸を巻く。












ナメ滝とゴルジュ出口の3m滝;11時45分(標高708m)
少しナメ状の滝を這い上がるとその先に浅い釜をもつ滝。3m程だろうか。釜が浅いので右岸を這い上がる。ここでゴルジュ帯は終わる。







●PART 6 ゴルジュ帯出口から二股まで; 再びナメと小滝の連続のゴルジュ帯を抜ける 約30分(比高差約80m弱)

ナメ(12時2分;標高716m)と数段のナメ状の小滝(12時14分)


3m滝を這い上がると少し荒れた渓相(11時56分)。それも直ぐ終わり、緩やかなナメ、数段に分かれたナメ状の滝など、いくつもの滝、と言うか岩を覆って流れ落ちる水線を登る。



二股;12時22分(標高780m)


数段に分かれたナメ状の滝の後も風情の異なる2m程の滝が続いた後、左岸から涸沢が合流する。当初はここが大ダワ出合かと思ったのだが、地図で確認すると大ダワ出合いでは滝条となって逆川に合わさっているようであり、取り敢えず「二股」と記す。30分ほどで比高差80mほどを突上げた。ここで15分ほど小休止。






●PART 7 二股から大ダワ出合へ: 小滝とナメ滝を進み大ダワ出合 約10分強(比高差約20m強)

数段のナメ状の滝;12時45分
二股でお昼を取り、12時40分前に出発。二股を離れほどなく数段からなる滝を登る。下段はナメ状、その先は2mほどの小滝。ナメは水線上を、小滝は右岸を上る。


大ダワ出合前の滑滝;12時49分
先に進むと一枚岩のナメ状の滝。大岩の間を流れ落ちる小滝が多いこの沢で、印象に残る滝のひとつであった。






大ダワ出合;12時50分(標高803m)
大ダワ出合で、逆川本流を確認。5m滝となって逆川注ぐのが大ダワ沢であるので左手に進む。









●PART 8  大ダワ出合いから釜のある3m滝へ: 小滝が続く>釜のある滝>小滝が続く>釜のある3mナメ滝 約20分強(比高差約40m強)

小滝;13時4分
大ダワ出合で本流を確認し逆川を進む。10分ほどでナメ状の滝。


2m小滝;13時7分
ナメ滝の先に2mほどの小滝。簡単に這い上がる。






2条2m小滝;13時10分
その先の2条2m滝も中央部を這い上がる。難しいことはなにもない。




釜のある3m滝;13時13分(標高844m)
その先には深そうな釜をもつ滝。ここも迷うことなく高巻き。結構高く巻き水線に下りる。












●PART 9 釜のある滝から山葵田跡に; 小滝が続く>3mナメ滝>山葵田跡 約30分(比高差70m)

数段からなるナメ状の小滝:13時16分
数段からなるナメ状の滝の水線上を進み高度を上げる。この辺りも沢の突き上げ感が強い。



2m小滝;13時17分
2mほどの小滝は右岸を這い上がる。若干ステミング気味に上る。








2条2段3mの小滝;13時19分
小滝を越えると2条に水流が分かれた数段からなる小滝。水線上を進む。










2段3m小滝;13時22分
その先に2段3mほどの小滝。滝と言うか、急峻な岩場を水が岩と岩の間や、岩の上を流れ落ちている、といった感がある。













4m小滝;13時25分
トイ状というほどではないが、岩の窪みを一筋の流れとなって下る姿はなかなか、いい。












3mナメ滝;13時25分
岩場を数条と言うか、縦横無尽に流れ落ちるナメ状の滝の風情もなかなか、いい。










山葵田跡;13時44分(標高917m)
3mのナメ滝を越えて10分ほど進むと突き上げていた谷が開け、そこの左岸に山葵田跡の石組が残っていた。右岸高巻した釜のある滝あたりからここまで、比高差70mを30分程度で登ることになる。










●PART 10 山葵田跡からウスバ林道に: 2段10mトイ状の滝>3m滝>10m滝>ウスバ林道 15分(比高差約35m)

トイ状の3段10m滝・左岸高巻き;13時46分(標高928m)
山葵田を越えると3段の10m滝。ここも左岸を大きく巻く。崖を直登気味に這い上がり、前のパーティより高く巻きトイ状の滝をクリア。











3m滝;13時48分(標高930m)
トイ状の滝をクリアした先に4m滝。釜を避けて巻いて進む。





10m滝;13時51分(標高948m)
ウスバ林道手前に10mの大滝。なかなか迫力のある此の滝が、今回の最終地点。直登を試みるパーティもいたが、我々は右岸の崖を這い上がり、ウスバ林道に。










ウスバ林道;13時59分(標高955m)
林道に這い上がり、本日の逆川沢登りを終える。沢靴から登山靴に履き替え下山準備。服は濡れて水を含み重くなったものを背負うことを避け、また歩いているうちに乾くかもと、そのままの格好で下山することに。







●PART 11 ウスバ林道からウスバ乗越の尾根を巻く作業道に乗り換え、竜王橋まで下り林道を川乗橋バス停へ: ;10m滝上のウスバ林道>ウスバ林道から作業道に乗り換え>ウスバ乗越の尾根道先端へ>作業道を竜王橋まで下る>川乗林道を川乗橋バス停へ およそ1時間20分強

10m滝上のウスバ林道出発;14時15分(標高951m)
10m滝を直登する若者のパーティなどを眺めながら、下山準備と大休止。14時15分頃、ウスバ林道を下山開始。960mから970mの等高線にそって山腹をトラバース。南に突き出た尾根を廻り込んだあたりから等高線980、990mと少し上り、等高線1000m辺りで「ウスバ乗越・川乗山」の標識。
ウスバ乗越・川乗山には、ここを右に折れるとある。が、左手にきれいに整備された作業道が尾根を巻いて進んでいる。ウスバ乗越経由の尾根道をパスし、作業道をそのまま進むことに。

ウスバ林道から作業道に乗り換え;14時31分(標高1005m)
ウスバ乗越の尾根を巻く作業道を進む。等高線を1000、990、980、970mと下げ気味に尾根を巻き、等高線960m付近で「ウスバ乗越」の尾根筋にあたる。 このあたりから雷が聞こえる。まだ結構遠そうだ。雨は降ってはいないので、急ぎ下山。







ウスバ乗越の尾根道先端へ;14時45分(標高928m)
平坦となった尾根筋を下り、等高線930m付近で平坦な尾根筋は終了。そこから先は急坂となる。作業道は踏み跡が明瞭であり、迷うことはないだろう。






作業道を川乗林道・竜王橋まで下る;15時6分(標高611m)
ウスバ乗越の平坦地が切れた先は30分で標高300mほど下ることになる。急坂ではあるが、ジグザグ道となっており、急峻な坂を下りる、といった印象はない。
作業道は踏み跡に沿っを下りればいいのだが、一箇所間違いそうな分岐がある。そこはほぼ作業道を降り切った、竜王橋のすぐ手前。作業道を下りるとT字路となり、道が左右に通る。竜王橋は右手に折れる。左に進めば逆川に沿ってすすむことになる。T字路から右に折れるとほどなく川乗林道が見え、竜王橋の橋詰に下りる。

川乗林道を川乗橋バス停へ;15時37分(標高410m)

竜王橋から川乗林道を進み、逆川出合(5時13分)で林道から川乗谷への下降地点を見やりながら30分ほど歩くと川乗橋バス停に到着。雨もパラパラ。 15時5分のバスは出ており、次は16時26分。1時間近く着替えをしながら、のんびりと、バス停のささやかな「屋根」下の木椅子に座りバスを待つ。


逆川の所感

1.初級者も経験者も技量に応じて楽しめる沢
10m級の大滝が2つ、鎌を持つ滝も多数。その間は小滝が随所に現れ、バリエーション豊か。経験者は大滝を直登できるし、釜を「へつり」で進めばいいだろうし、初心者とか水に濡れるのを避けたい方は高巻きすればいい。
もっとも、大きく高巻きする2か所は、我々はロープも出さずトラバースしたが、少し危険ではあるので、ロープで安全確保をすべきではあった、と思う。

2.遡行終了地点のウスバ林道からの戻りのルート・バリエーションが豊富
 第一に、ウスバ林道を下り1時間20分ほどでバス停に到着できるのがいい。休憩も含めて4時間程の遡行時間の後、尾根に這い上がるのは結構厳しいが、この沢はおおよその方が終了点とする10m大滝の直ぐ上にウスバ林道があり、作業道と組み合わすと、ほとんど登りなしで川乗林道まで下ることができるのが嬉しい。
また、時間に合わせて川乗山経由で川乗林道に下りるもよし、川乗山から奥多摩方面へのいくつかの下山道を選択するもよし。時間に合わせ、戻りのルートが選択肢がいくつもある。

3.オーソドックスな沢登りを手軽に楽しみたい方にお勧め
最近の沢登りは、沢に沿って林道が通り、いつでもエスケープできる倉沢本谷とか水根沢などに行くことが多いのだが、3時間で比高差400mほどを突き上げるこの沢は、久しぶりにオーソドックスな沢登りを楽しんだ感がある。
途中エスケープルートはなく、少なくともウスバ林道までは沢を詰めなければならないが、源流点近くまで詰め上げた遡行終了点からは小川谷のコツ谷、シダクラ沢で体験したように、急登を尾根に這い上がることもなく、上でメモしたように林道・作業道を尾根を巻き、そして尾根筋を下ることができる。最近多かった沢と林道がペアとなった、所謂「スポーツ沢登り」とは違ったオーソドックスな沢登りが、それほどの難儀もなく楽しめる。
猛暑の週末、暑さを避け沢に入る。場所は大岳沢。都下の名峰・大岳山の南麓から下る沢である。この沢は前々から初心者用の沢ガイドの候補地として一度チェックしてみたいと思っていた。
入渓地点はバス停から林道を40分程度歩かなければならないのだが、入渓地点直ぐにある「大滝」は別格として、難しそうな滝もなく、沢に沿って馬頭刈尾根への登山道が続いておりエスケープも簡単そう。唯一のややこしそうなことは、入渓地点付近で幾つかの沢が合流しており、本流から迷いそう、といったことくらいである。
で、結果は予想通り。入渓早々に枝沢に迷い込み、途中で引き返す。滝は難しいものは何もなく、苔むした美しい渓谷で一日沢登り、というか水遊びを楽しんだ。
同行者は現在、非常勤勤務の常勤役員(?)をしている某社のOさん。昨年倉沢に案内して以来、二度目の沢登りである。



本日のルート;武蔵五日市駅>大岳鍾乳洞入口バス停>林道終点>入渓>大滝>登山道の記橋とクロス>苔むした美しい渓相>沢が二股に分かれる>道標>登山道を下山し林道へ





大岳鍾乳洞入口バス停:10時6分(358m)
あれこれチェックすると、遡行時間は2時間もあれば十分とのことであるので、出発時間も少し遅め。武蔵五日市駅9時35分発上養沢行のバスに乗る。停留所は大岳鍾乳洞入口バス停で下りる。







林道を終点まで歩く:11時(標高567m)
バス停の道を隔てた先にある養沢神社に手を合わせ、大岳沢に沿って林道を進む。途中にはキャンプ場、大岳鍾乳洞などがあり、多くの家族連れが車で来ている。林道を歩くことおおよそ40分、林道が切れる。そこから先は馬頭刈尾根へ登る登山道となっており、入渓地点も此の辺りからである。数台の駐車スペースもあった。
最初地図を見た時は、大岳鍾乳洞入口バス停から大岳沢が続いているので、沢相次第では途中から入渓しようとも思ったのだが、それといった沢相でもなく、キャンプ場で水遊びを楽しむ家族の前を大層な格好で「登場」し、少々恥ずかしい想いをした裏高尾の小下沢二の舞にならず、林道最後まで歩いてよかった、と。

入渓;11時21分(標569m)
林道終点から先は、広い道は消え登山道となる。終点部分から先に進むと直ぐに木橋がある。入渓準備を木橋手前で行う。同行のOさんはヘルメットに沢靴を用意してきた。昨年の沢初体験ではマリンシューズでの登場であったが、さすがにつるつる滑る思いは勘弁と、沢靴を用意した、と言う。







入渓早々枝沢に迷い込む
木橋を渡った所から入渓。穏やかな沢相の中を進むと、ほどなく二股に。事前に地図で確認すると、本流右手から結構大きな沢が合わさっていたので、左手に入る。
小さな滝もなく、渓流といった沢を進むが、地図で確認した左から合わさる沢がいつまでたっても登場しない。それでも、もう少し、と先に進むと沢沿いの道を家族連れが下りてきた。大滝を見物に行ったのだろうと「この先に大きな滝はありましたか?」と聞くが、「大きいといえば大きい、といった滝はあった」との返事。「大滝」といった印象ではないのだが、もう少し進むと、10m弱の滑気味の滝があった。家族が見た滝はこれだろう。どうも大滝に進んでるように思えないようだ。

撤退;11時41分(605m)

ということで、地図を確認。今回は線専用GPS 端末でがなく、iphoneの無料アプリであるYAMAP(アプリ内課金はあるようだ)のテスト使用。前もって目的の山を選択すればその周辺の山地図がダウンロードできる。今回は「大岳山」のピンをクリックし無量地図をダウンロード。こうしておけば電波の通じないところでも地図の閲覧と現在地が表示される。山地図には登山道のルートが表示され、登山・下山の標準時稀庵も記入されている。
で、YAMAPで現在地を確認。大滝のある大岳沢本流から逸れ、枝沢にはいっていた。撤退決定。幸い沢に沿って下る踏み跡があったので、沢を下ることなく二股の箇所に戻る。そこには「(左)大岳鍾乳洞 上養沢2.9km (右)大瀧0.1km 馬頭刈尾根1.7km」の標識があった。本流は左ではなく右に進まなければいけなかった。

大滝に向かう;11時47分(標高583m)
思うに、木橋を渡り入渓して直ぐ、右手から合流する沢を見逃したのだろう。とはいいながら、合流する沢が合ったようにも思えなかったのだが。ちょっと狐につままれたようではあった。
気を取り直し、大岳沢の沢登りスタート。標識に拠れば大滝までは100m。小滝の先に木橋を見ながら水線の中を進むと大滝が登場した。








大滝;11時55分(標高613m)
大滝は迫力ある。滝壺手前でも飛翔する霧状の水が心地よい。ぱっと見た目でも30m以上ありそうな一枚岩の大きな滝である。滝壺に足を踏み入れ、マイナスイオンを堪能するOさん。
で、この滝はとてもではないが上れそうにない。左岸を登山道が巻く、とのことであるので、滝壺辺りから少し這い上がって登山道を探すが、見つからない。即撤退し、滝手前にある木橋を渡り、登山道を進み滝を巻くことにする。 道は滝から離れて大きく巻いていた。滝壺から這い上がらず正解であった。ぐるりと高巻きする登山道を上り切ると木の桟道があり、そこが滝上。滝の落ち口を見に沢に入り、怖々滝上からの眺めを楽しむ。

登山道の木橋
滝上の開けた渓流から沢登りスタート。単独の小滝や数段に分かれた小滝など、水線を簡単に上れる滝が続く。少し倒木で沢が荒れた先に木橋が見える。木橋に向かって水線を進み、木橋を越える。エスケープに備えて、登山道が沢のどちら側に進むのか要注意。登山道はしっかりとした踏み跡はあるものの、細い道である。木橋は2度沢をクロスした。

苔むした美しい渓相
木橋の先も程よい小滝が続く。ちょっとトイ状っぽいの滝では、必要もないのにステミング(蟹の横ばい状態で上り下りする)の真似ごとを楽しむ。 その先には苔むした大岩の美しい渓相。大岩の両側から下る水線を登る。沢靴を揃えたOさんも、靴のグリップ力に満足気である。


大岩の先にも数段に分かれた岩を下る滝が美しい。水線中央を進んでも岩が滑ることもなく、誠に楽しむ沢を楽しめる。

二股に分かれる;13時10分7(標高745m)
数段に分かれた滝を越え先に進むと、沢がふたつに分かれる。どちらが本流かわからない。左手に入るとほどなく沢が細くなる。藪漕ぎし右手の沢に戻る。登山道もあり、こちらが本流のようではあるがはっきりしない。









木標;13時33分
登山道に木の道標があり、「(左)馬頭刈尾根1.0km 馬頭刈山4.9km (右)大瀧0.6km 大岳鍾乳洞1.8km」とあった。この登山道に沿って沢があるのかと登山道を上るが、沢から結構離れてゆく。 遡行資料など見ると、この上部にも一つ登山道の木標がある(「(右)大瀧0 大岳鍾乳洞 (左)大馬頭刈尾根馬頭刈山 大岳山)ようであり、そこを目安に遡行終了する方も多いようである。




下山
時間も知らず1時半に近い。2時56分のバスに乗り遅れると、4時36分までバスはない。林道からバス停まで40分、現在地から林道まで20分程度だろうか。着替えなどを考え、ここで撤収とする。 入渓点での枝沢に迷い込んだためか、遡行案内にある一応の最終地点である登山道が大岳沢に合わさる地点には到達しなかったが、美しい渓谷美を堪能でき結構満足し、登山道を林道まで戻り、本日の沢登りを終えル。

大岳沢の所感

1.初心者にお勧めの沢 
はじめて沢遊びにはお勧めの沢である。苔むした沢相も美しく、ないより難しい滝は何も無い。水線のど真ん中を登って、シャワークライムを危険無く楽しめる。ロープもスリングもなにも必要ない。

初心者向けの沢では裏高尾の小下沢や秋川筋の月夜見川、そして小坂志川下流域などが想い浮かぶが、小下沢は沢上りというより水遊び、月夜見沢も小下沢ほどではないが、それでも基本沢登り、というほどでなない。それに比べてこの沢は渓流美や巨大な岩から流れ落ちる滝、それも難しい滝はなにもないのが、いい。それなりに沢登りの雰囲気も楽しめる。

2.沢に沿って登山道があるのも安心
沢に沿って馬頭刈尾根への登山道があるので、適当なところで切り上げることができる。沢と登山道との比高差もあまりないのもエスケープには重要である。先日、大雨の後水根沢に入ったのだが、水勢に押され、滝を直登できず、とは言え、ゴルジュの岩壁を進むこともできず、結局撤退決定。が、沢から登山道までの比高差は90mほどもあり、エスケープとは言いながら、急な崖を這い上がるのに難儀したが、この沢はそんな心配はない。


3.入渓点は大滝を越えた先がいいかと思う
今回、はじめから結構気にしていたにもかかわらず、入渓点で右から合わさる沢を見落とし、結果、想定した合流沢がひとつ抜け落ち、次に合流する枝沢で本流を逆に進み枝沢に入り込んだ。
結論から言えば、入渓点は大滝を越えた先からでもいいかと思う。入渓点から100mもすれば大滝に阻まれ、それまで面白い滝が有るわけでもないので、登山道を進み大瀧を見物し、その先から入渓すればいい。注意していたのに、それでも枝沢に入ったわけであるので、お気楽に進んでいると枝沢に迷い込む可能性は大きい、かと思う。

といったことが、大岳沢の所感である。林道を40分ほど歩くのだけが「我慢」してもらえば、はじめて沢に入る人にはお勧めである。いままで、はじめての人は倉沢に決めていたのだが、選択肢がひとつ増えた。
6月末のとある日曜、朝起きると快晴。その1週間前の週末、沢ガールのガイドで秋川筋の大岳沢に入る予定であったが、雨で中止。その時の沢入りの準備ができていたので、どこかの沢に行こうと想う。どこに行こうか、ちょっと考え、水根沢に行くことにした。
水根沢には未だ一度も行ったことがない。奥多摩の沢登り、といえは「水根沢」と言うことで、いつも人で溢れているといったイメージがあり、初心者集団を引連れて「渋滞」を起こすのが申し訳ないと、いうのが最大の理由であった。 今回は急に思い立ったわけで単独行。ひとりであれば、沢を楽しみに来ている皆さんに迷惑をかけそうな滝や岩場は高巻きすればいい、沢は初級レベルと言われているが、キツそうであれば沢にそって続く水根沢林道に這い上がればいい、また、単独行の場合、基本、怖がりの我が身は、通常であれば常に携帯する山地図をインストールしたGPS端末も持たず、遡行図のコピーだけ。林道といえば、倉沢海沢など、沢に沿う広い道が刷り込まれており、すぐに見つかるだろうと思い込んでいたわけである。少々お気楽な水根沢行きであった。

沢には予想に反し、誰も居ない。これはラッキー! 迷惑をかけることもないので、のんびりと試行錯誤を繰り返し遡行していたのだが、途中で如何にも経験豊富な風情の方に後ろから声を掛けられた。岩に這い上がろうとする姿を見て、心配になったのか、一緒に行きましょうとの申し出である。
有り難い申し出ではあるが、誠に申し訳ないので一度ならずお断りしたのだが、結局ご一緒することに。よほど心配にみえたのだろう。CSトイ状の滝から先はその方のリードで半円の滝まで進み、そこで遡行終了し、ふたりで林道に向かうことにした。
これで、本日の沢上りは終わり、と思ったのだが、林道が見つからない、踏み跡はいくつかあるのだが、すぐ行き止まり。結構上下し林道を探したのだが、わからず、結局沢を入渓点まで戻りましょう、ということになった。水根沢の林道は、林道と言うより鷹ノ巣山への登山道と言ったものであったようだ。
 二段12mのナメ状の大滝辺りでは岩場を下る懸垂下降のロープが10mでは足りず、結構苦労したが、岩場では腹這いになり、ズルズルと足懸りを探しながらクリアするなど、はじめての本格的「沢下り」も楽しめた。


本日のルート;水根沢キャンプ場>入渓点>(最初のゴルジュ)>2mの小滝>CS3m滝>橋>二条CS滝>(二番目のゴルジュ帯)>2m滝>CS3m滝>小滝>4m滑滝>4m滑滝>CSトイ状の滝>2段12m滝>滑滝>山葵田>三番目のゴルジュ帯>6mトイ状半円の滝>遡上終了>林道が見つからない>(沢を下る)>2段12m滝>CSトイ状滝>小滝>水根バス停

水根沢キャンプ場
突然決めた沢入でもあり、家を出る時間も遅く、奥多摩駅に着いたのは11時前。偶々、10時50分だか55分だったか忘れたが、丹波行きのバスがあり、奥多摩湖バス停のひとつ手前の「水根」停留所で下車。
沢に沿って入渓点である、水根沢キャンプ場へと向かう。水根キャンプ場とはいうものの、道脇にそえらしき建物はあるものの、如何にもキャンプ場といった場所もなく、沢に沿った広場といった場所があったが、それが水根キャンプ場なのだろう。
ただ、そこは民家の私有地といった風で、入り口に車止めといったものがあり、民家の前を通るのも申し訳なく、道を先に進む。と、道端でお喋りを楽しんでいた集落の方が、沢に入るのは、この道を先に行けばいい、と教えてくれた。







入渓点:11時52分
しばらく進むと舗装が切れ、山道に入る。これが水根沢登山道だろうか(注;後日、登山道とは別の道と判明)。ほどなく、道下に沢が見え、少々傾斜が急ではあるが、そこから沢に下りることにした。

 道で入渓準備。極力高巻きで水に浸からないようにしようと思うが、「水の水根沢」であるので、時に、胸くらいまで水に浸かることを覚悟し、山用の防水雨合羽を上から着込み、沢に入る。入渓点は穏やかな沢相である。

◎最初のゴルジュ
2mの小滝;11時56分
左岸に取り付き、岩場に手懸かり・足懸かりを見付けながら、水際を進み(沢の用語では「へつり」)滝横の岩に這い上がる。








CS3m滝;11時58分
その先には5mほどの淵あり、如何にもゴルジュといった風情。淵の先にはCS3mの滝。淵を進むが、深さはそれほどない。かつてはもっと深い淵であったようだが、砂で埋まってしまったようだ。
滝横の岩場まで進み、そのまま岩を這い上がる。水中から平坦な撮り付き岩場まで微妙な段差があり、そえなりに難儀ではあったが、滝自体はそれほど難しい滝ではなかった。
因みに、CSとは「チョックストーン(chockstone)=岩の割れ目にがっちり挟まった岩」を意味する。



橋;12時2分
その先に橋が架かる。どこに向かうのだろう。









二条CS滝;12時7分
橋を越えると、川の中央に大岩が座り、水流が両側から勢いよく流れ落ちる。二条CS滝である。水に濡れるのを避け、左岸を高巻きしようと思ったのだが、結構難く、撤退。仕方なく滝を二つに分ける岩に取り付く。
腰の深さの淵を進み、下の岩は簡単に登れたのだが、上の岩場に這い上がるに、手掛かり、足掛かりがない。撤退しようにも、下りるに下りられず、岩の右手の水流に足懸りをと思えども、昨日の雨の影響か水の流れが強くホールドする自信がない。
なんとか上の岩に這い上がろうと悪戦苦闘。水濡れを防ぐために着た雨具がつるつる滑り、岩場に張り付くもずり落ちる。結構苦労したがなんとか這い上がれた。多くの人は岩の右手の水流を上るようである。

二番目のゴルジュ帯

最初の2m滝;12時31分
左岸を滝の少し手前から「へつる」。が、行くも、戻るもできなく、淵にドボン、と思った時、岩場左上に残置スリングが見えた。スリングを掴み、岩場をクリア(注;後日残置スリングは2箇所にあるのがわかった)。










CS3m滝;12時35分
淵に入るのを避け、「へつり」をしながら左岸岩場を登り高巻しようとしたのだが、途中でこれも進むも退くもできなくなった。ずり落ちるのを避けるため、両手両足で滑る岩場をホールドし、なんとか下まで戻る。
そこからは水に胸辺りまで浸かり、滝の下まで進みるのを腰まで水に浸り右岸を上る。

声を掛けてもらう
滝上に上り下流を見るとひとりの男性が目に入った。そして、御一緒しませんか、との申し出。高巻でグズグズしている姿などを見るにみかね声をかけてくれたのだろう。沢はほどほど、ロッククライミングとかケービング(洞窟探検)を楽しんでいる方であった。
有難い申し出ではあるが、申し訳なく丁重にお断りするも、結局ご一緒することに。よほど心配してくれたのだろう。

小滝;12時51分
ご一緒に進み小滝右岸を上り、ゴルジュ帯を抜ける。













深い釜をもつ4m滑滝
ここが一番キツかったように思う。岩場に手懸り・足懸りが見つからず、這いずり廻り、少々無様な恰好でなんとかクリアした。疲れ果て写真を撮るのも忘れてしまった。

CSトイ状の滝;13時14分
その先にトイ状の滝。雨水を集め下に流す樋(トイ)のように、狭い岩場を勢いよく水が流れ落ちる。ご一緒した方は、滝壺下まで進み、流れに抗いながらもステミング(両手両足で両側の岩場をホールドし滝を登る。蟹の横這い、といった格好である)でトイを突破するとのこと。
一方私は、少々疲れ気味。ステミングで体を支える気合が足りない。ステミングをしないとすれば、右岸の急な崖を這い上がり、10mの垂直な崖を下りることになる。迷うことなく右岸に崖に取り付く。
崖を這い上がり、先端部にくると10mの垂直の崖。崖の先端には残置スリングと、そこから下にロープが垂れる。が、ロープは水面まで届いていない。「画龍点晴を欠く」と言った残置ロープである。
それではと、ロープを取り出し6ミリの10mロープを結び、スリングに通し、フリクション(摩擦)を保ち、かつロープの回収を容易にすべく6ミリ二本のロープを8環に通し、懸垂下降で10mの垂直な崖を下りる。ロープも10mでギリギリではあったが、無事崖を下りた。崖下でステミングで上ってきた男性と合流し先に進む。

2段12m滝;13時17分
CSトイ状の滝の先には2段12m滝。右岸を這い上がる。水に浸かり、たっぷりと水を吸い込んだリュックやロープの重みが結構きつい。後でもメモするが、林道の踏み跡が見つからず、沢を下るとき、最も苦労した箇所である。









滑滝;13時26分
2段12m滝の先に小滝とカーブした滑状の滝が続く。難しい滝でもなく、滑状の滝の風情は結構美しい。











山葵田;13時33分
その先、右岸に小屋が見える。付近は山葵田とのことである。ここで休憩をとる方が多いようだが、そのまま先に進む。









三番目のゴルジュ帯

山葵田の先は、両岸にが岩に挟まれた、ちょっとしたゴルジュ帯(?)となる。小さな滝が二つあった。最初の滝はどうということはなかったのだが、2番目の滝は、見た目は簡単ではあったが、手懸かり・足懸かりがなく、体力も大分消耗した我が身は、なんとか這い上がる、といった為体(ていたらく)ではあった。






6mトイ状半円の滝;14時
このゴルジュ帯を抜けると、小滝がありその先に水根沢で最も名高い半円の滝が見えてくる。ステミング(蟹の横ばいといった案配)で登っていくのが本道ではあろうが、その体力はない。ご一緒した方はステミングで進むも、私は右岸を高巻き。高巻きは誠に簡単であった。








遡上終了;14時5分
ご一緒の方は、数回この沢に来ており、これから上はそれほど面白い箇所もないので、ここで切り上げましょうとの提案。誠に有り難いお話。成り行きで林道へと向かう。







林道が見つからない:14時23分
林道は直ぐに見つかるとのことであったが、なかなか見つからない。踏み跡はいくつかあったのだが、途中で消える。成り行きで彷徨っていると、左右に沢を分ける尾根道に入る。左手の沢は何だ?益々混乱。
ご一緒してくれた方も、記憶を頼りに林道を探すが、見つからない。で、結局、沢を下りましょう、ということになった。
家に帰り地形図を見ると、沢を分けた尾根と思ったのは、水根沢にグンと突き出した尾根であり、単に水根沢が突き出した尾根の岩壁をぐるりと回っているだけであった。場所は最終地点である半円トイ状の少し下流といった箇所であった。この尾根筋のため少々混乱したが、もう少し高いところまで登れば林道に出合っていのかとも思う。水根沢のレポに林道探しに苦労した、といったものは皆無である。皆さんは何の苦労もなく林道に登れているのだろうか。

沢を下る

2段12m滝;14時58分
水根沢に突きだした尾根筋に沿って踏み跡があるので、とりあえずその道を進む。が、ほどなく踏み跡が切れる。跡は成り行きで沢に沿って下ると、2段12m滝の上に出た。岩場を下るのは滑って危なそう。ロープを出して下降。安全な箇所まで下りるには15mほどの長さがあったほうがよさそうであった。








CSトイ状滝;15時
高巻きをエスケープし懸垂下降で降りた箇所は、下りはステミング(蟹の横ばいといった案配)で下りるしか術はない。トイ状の滝をステミングで下り、適当な所で淵にドボン。










小滝;15時24分
登りはどうということもなかったCSの小滝も下りは難しい。腹這いになり、手懸かりをホールドしながら、ゆっくりズリ落ちる要領で足懸かりを探しながらクリアする岩場が2箇所ほどあった。

入渓点に:15時45分
水に濡れるのを避けるため、極力高巻で、といった「計画」も下りのトイ状の滝での滝壺にドボンのため、結局全身ずぶ濡れになりながらも、なんとか入渓点まで戻る。そこはスタート時点では遠慮した民家前を通るアプローチ地点ではあった。

水根バス停;16時10分
沢から出ると、四駆で駅まで送ってくれる、と言う。さすがに、そこまでは甘えることはできず、御礼を申し上げデポ地点で別れる。林道脇で着替えを済ませ 水根バス堤に。16時23分のバスに乗り、16時57分のホリデー快速おくたまで一路家路へと。

今回の沢は反省点ばかり。単独行でありながら、地図もGPSも持たず遡行図だけて沢に入り、撤退や復路の林道は沢に沿って直ぐに見つかると高を括っていた。偶々この方が親切にご一緒して頂いたから良かったものの、独りだったら、倉沢とか海沢の林道と言った大きな「林道」を探して山中を彷徨っていたかとも思う。よくよく考えれば、入渓地点での林道を考えれば、そんな大きな林道ではない、ということはわかるはずではあったのだが。。。

結構沢をこなし、ちょっと半端な余裕をもちはじめていたのだろう。初心に戻るべし、との思いをかみしめた水根沢遡行となった。

後日談(2回目)
 
7月の中旬、酷暑の都心を離れて元会社の仲間と水根沢に入った。当日はピーカン。これは水を存分に楽しめるだろうと入渓点に。
が、前回と同じ個所で着替えをしている時に沢から聞こえる水の音が半端ではない。轟轟たる水音である。快晴ではあるが、この水音を聞き、防水雨具を上から着込み入渓点に。 思った以上に強烈な水勢である。

第一のゴルジュ帯
2m小滝
最初のゴルジュ帯の2mの小滝は、「へつり」で進む。強烈な水勢を見遣りながら第一関門はクリア











CS3mの滝
がその先のCS3mの滝は、先回は滝下まで進み、楽々滝を登ったのだが、今回はとてもではないが直登などできそうもない。迷うことなく大きく高巻き。






第二のゴルジュ帯
2m滝
再び沢に入り第二のゴルジュ帯の2m滝に。水量も多く、先回と様変わり。水量が多いこともあり、左岸が丁度いい感じにへつりがしやすくなっている。手掛かりを探り、水中に足がかりを探りながら滝の手前まで、水線の中に足がかりを見つけ、クリアする。






CS3m
このCS3m滝は水量は多いものの、どういうわけか水勢が激しくなく、先回と同様に右岸を這い上がる








4m滑滝
その先、先回辿った小滝だったか4m滑滝だったか。それもわからないほど水が滝を覆う。異常なほど水勢が激しく、水線を進もうにも跳ね返される沢ガール。幾度かトライするも断念。で、高巻しようと崖に張り付き、足場の悪い崖を上り切るも、その先のルートが読めない。このまま進むのは危険、ということで撤退決定。





登山道に這い上がる
登山道に這い上がるにも、この地点から這い上がるのはキツイ。少し下り、CS3m滝辺りから崖を這い上がる。登山道まで比高差は90mほどあるだろうか。あまりに急登に、シダクラ沢以来の四足歩行でなんとか這い上がる沢ガール。悪戦苦闘し登山道に。






登山道
先回見つけることのできなかった登山道ではあるが、結構しっかりした踏み跡のある道ではあった。
それにしても、強烈な水勢であった。数日前まで何日か降り続いた雨の影響が、これほどまで残っているとは想像もできなかった。しかし、誠に面白い沢登りの一日であった。











水根沢再々訪(3回目)

8月末日、先回の途中撤退のリベンジにとの沢ガールのご下命により、水根沢に。パーティは退任前の会社の沢ガールと沢ボーイと私の3名。先回同様、民家前を通る入渓点を避け、道を進み「むかし道休憩所」を越え、舗装も切れる民家脇の小径の入渓地点上に。
入渓点上の登山道と思っていた道は、先回の途中撤退で這い上がった登山道の下り口とは異なっており、沢遡上の途中で出合った橋に続く道のようではあった。
それはともあれ、入渓点上の道で入渓準備をしながら耳を澄まして聞く沢の水音は轟々と響いていた先回とは異なり、静かな響き。一安心し入渓点に下りる。


入渓
先回の大水の後の沢入りは、入渓早々に左岸の「へつり」でしか進めなかった箇所も、今回は水線上をのんびり進む。

CS3m滝
先回はその水勢激しく高巻きしたCS3m滝は右岸を進み岩場に這い上がる。最初に水根沢にひとりで訪れたときはそれほど難しいと思わなかったのだが、岩場に這い上がるには水中からは微妙な段差。男ふたりは何とか這い上がるが、腕力のない沢ガールは悪戦苦闘。
長時間水に浸かり体力消耗を避けるため、結局ロープを出し、ハーネスのカラビナに固定し、引き上げることにした。岩場には残置スリングが吊り下がっていたが、位置が高く水中からの手掛かりとはなり得なかった。

CS2条の滝
先回は水量が多く、結果左岸をへつりで進むことができたCS2条の滝(多分CS2条の滝だと思うのだが、ゴルジュ帯の2m滝だったかもしれない。なにせ水勢激しく、滝が水に埋もれどちらだったか確認できない)は、今回は中央岩場に取り付き、岩の右手から流れ下ちる水線の岩に足を踏み出しホールドし上るのが常道のようだが、一歩踏み出す「勇気」を躊躇する沢ガールのため、ここもハーネスのカラビナにロープを固定し引き上げる。

2番目のゴルジュ帯
2m滝
最初に一人で訪れたときは左岸をへつり、残置スリングに助けられたとメモしたが、今回も左岸をへつると2箇所に残置スリングが残っていた。もっとも、 残置スリングを手掛かりに進むが、その先は滑りやすい岩場であり、釜がそれほど深くもなかったため、他の二人は左岸に沿って水中を進み岩を這い上がって進んだ。





CS3m滝
その先のCS3m滝は最初に訪れたときも、先回の大水の時も、不思議に水がそれほど多くなく、右岸に沿って進み岩場を這い上がって進むことができた。今回も同じく右岸を這い上がる。







釜のある4mナメ滝
最初に訪れた時も難儀し、2回目には強烈な水勢のため途中撤退を決めた、釜のある4mナメ滝(当日は圧倒的な水量のため撤退箇所は特定できず、帰宅しログを確認し釜のあるナメ滝と推察したわけではあるが)に到着。釜を泳ぎナメの岩場の水中に足がかりを探し、なんとか這い上がる。今回もやはりここが少し難儀する箇所となった。
沢ガールには、ハーネスのカラビナにロープを固定し、水中を引っ張り、最短時間でナメ岩下に取り付き、ナメの岩場を這い上がる。


CSトイ状の滝
深い釜を泳ぎ、ステミング(蟹の横這い状態)で上るトイ状10mほどの滝に到着。釜も深く、水に濡れ体が冷えた我々3人は釜を泳ぐ気は毛頭ない。最初と同様、10mほどの垂直の崖を懸垂下降で下りようと右岸の崖を這い上がる。 先回懸垂下降で下りた崖の先端の岩に掛けられたスリングは残るが、そこから吊るされていたロープは切れて崖端に放置されていた。
先回は岩に掛けられた残置スリングにロープを通し、懸垂下降で垂直の岩場を下りたのだが、よくよく見ると残置スリングが心もとない。またスリングを支える突き出た岩場も、なんとなく「ひ弱」な感じ。スリングもそれを支える岩も、見れば見るほど少々怖くなり、結局懸垂下降は危険と判断。釜を泳ぐ気持にはならないため、今回はここで左岸高巻きすることに決定し、水線に戻る.。

登山道に這い上がる
左岸を見遣り、這い上がる箇所を探し岩場に取り付き、高巻き開始。極力左手に進もうと思うのだが、傾斜がきつく、滑り始めると釜に向かって一直線に落ちて行きそうな急斜面のため、トラバースするのは少々危険と、結局一直線に崖を這い上がることに。
また、最初の水根沢遡上で登山道が見つからず、沢を入渓点まで戻るため、支尾根の左手を成り行きで下ると2段12mのナメ滝上に出たのだが、その時の印象ではトラバースできるような斜面ではなく、結局2段12mのナメ滝へと下りざるを得なかったわけで、トイ状の大滝を高巻きしても、とても沢に復帰できるような斜面でなかったことが頭に残っていたのも、登山道へと一直線に這い上がることにした理由でもある。

急登に難儀する沢ガールにはハーネスのカラビナにロープを結び、斜面の立木を支点に安全を確保しながら崖を這い上がる。結局は高巻き、というより登山道までエスケープした、といったほうがいいだろう。30分ほどかけて登山道に這い上がった。

登山道を支尾根に
当初のゴールである半円の滝へと登山道を進む。最初に水根沢を訪れたとき見つけられなかった、半円の滝から支尾根に上った先にある登山道を「繋ぐ」ことも目的のひとつではある。
登山道を進むと、左手に支尾根が見える。道脇の過ぎに白のペンキが塗られていた箇所から支尾根に下りる道がある。支尾根への斜面を下り、平坦な支尾根上の踏み跡を進み、沢に下りる箇所を探す。
支尾根を進むと尾根筋を切り開いた箇所があり、そこから支尾根の右手を沢に下りる。これで半円の滝で終了した後の、登山道への道が繋がった。最初の沢入りで、登山道が見つからず沢を入渓点まで戻ったときは、この尾根の左手を成り行きで下り、トイ状滝の上にああttる2段12mの上に出たわけである。

半円の滝
沢に下り、少し沢を下流に戻り半円の滝に。トイ状の大滝は高巻きと言うか、登山道にエスケープしたが、本日のゴールに到着。沢ガールも先回の途中撤退のリベンジ達成と、トイ状の滝脇の岩場を滑り台に釜に流れ落ちたり、半円の滝をステミング(蟹の横這い)で登ったりと、しばし水遊びを楽しみ、本日の水根沢の沢上りを終える。

むかし道休憩所
先回の大水の後の水根沢を訪れ、途中撤退し登山道を下ってきたとき、登山道を舗装された道に下りきったところから少し先に進み。左手の沢側に入ったところに「むかし道休憩所」があった。まことに立派な施設でお手洗いもあるし、着替えもできる。今回も、休憩所までは沢スタイルで下り、ここでゆったりと着替えすることができた。水根沢の着替えはこの休憩所を使わせてもらうのがいいかと思い、メモをする。

Sさんから根岩(ねえや)越えに生きませんか、とのお誘い。30年来の友人であるSさんとは奥多摩・日原から秩父に抜ける仙元峠越え、信州から秩父に抜ける十文字峠越え、中世の甲州街道である小菅から牛ノ寝の尾根道を上る大菩薩峠越えなどをご一緒させてもらっているのだが、いつだったか、本仁田山からゴンザス尾根を下る山行をご一緒した際、ゴンザス尾根を歩きながら、尾根を横切る根岩越えの話をしたのを覚えていてくれ、声をかけてくれたわけだ。

「根岩(ねえや)越え」とは、かつての棚沢村鳩ノ巣からゴンザス尾根を越え奥多摩の氷川へと下る道。江戸の頃、多摩川にせり出す岩場を穿つ、「数馬の切り通し」が開削されるまでは、この根岩越えが青梅筋と奥多摩を結ぶ唯一の道であった。
「根岩(ねえや)越え」のこととを知ったのは鳩ノ巣渓谷散歩の折り「数馬の切り通し」を訪れたとき。往昔の人や物が往来した「峠越へ」、といったキーワードには滅法弱い我が身としては、早速トライ。が、成り行きで何とかなるだろう、などとお気楽に出かけ、青梅筋の白丸の集落からはゴンザス尾根に取り付くが踏み跡などみあたらない。仕方なく、成り行きでゴンザス尾根を這い上がり、氷川に下るアプローチ付近の尾根鞍部に辿りついた。 が、そこから先も送電線鉄塔の近くから下り道がある、といった程度の事前情報しかチェックしておらず、鞍部近くに建つ日原鉄塔4号、5号辺りから下りの道はないものかと結構探したのだが結局見つからず、根岩越えは諦めた。そんなことをSさんに話をしていたわけである。

で、今回のお誘い。Sさんの話によれば、尾根道を踏み間違い、思いもよらず「根岩越え」に出合ったとのこと、本仁田山から花折戸尾根分岐を経てゴンザス尾根を白丸に下る途中、標高750m辺りに建つTV電波塔付近で尾根道筋を読み違え、日原6号鉄塔を経て、結果、氷川に下りたとのこと。さすがに、途中でゴンザス尾根から離れてしまったことに気づき、これって話にあった「根岩越え」、というわけで早速お誘い頂いたわけである。

ということで、お誘いからから日も置かず二人で根岩越えの登り・下りを辿ることにした。ルートは白丸駅で下車し、白丸の集落を抜けゴンザス尾根鞍部のある標高705m地点へ這い上がり、日原6号鉄塔から氷川に下る。氷川に下る道は急峻とのこと。トラロープは整備されているようだが、念のためロープをリュックに入れて、念願の「根岩越え」に出かける。


本日のルート;青梅線・白丸駅>川合玉堂も愛した白丸散策コース>石畳の道>元栖神社>ゴンザス尾根へのアプローチ道>東京都水道局 白丸第三配水所>沢に沿って西に>ゴンザス尾根鞍部705m地点>日原6号鉄塔巡視路標識>TV電波受信鉄塔>鉄塔巡視路標識>巻き道合流>日原6号鉄塔>(根岩越え)>日原鉄塔巡視路標識7・6>鉄梯子>トラロープを頼りに急坂を下る>氷川の街が見えて来る>東京都氷川浄水場・大氷川配水所>青梅線・奥多摩駅

青梅線・白丸駅;10時51分
青梅線・白丸駅で下車。白丸の由来は、多摩川南岸、白丸の対面に聳える城山(じょうやま)が転じたもの、との説がある。「じょうやま」も、もとは「しろやま」であったものが代官のお達しで読みを変えた、とか。しろやま(城山)>しろまる(城丸)>しろまる(白丸)、ということだろう。また、しろ=田畑または区画を示す「しろ=代」。「その畑地が球形に区切られている」から「しろまる」との説もある(『奥多摩風土記(大館勇吉著;有峰書店新社刊』)。いつものことながら、地名の由来って、諸説あり定まることなし。
青梅線
青梅線は立川から奥多摩駅を結ぶ。はじまりは青梅鉄道。明治27年(1894)、立川・青梅間が開通する。翌明治28年(1895)には青梅・日向和田間が貨物区間として開通。明治31年(1898)になって青梅・日向和田の旅客サービスもはじまった。日向和田・二俣尾間が開通したのは大正9年(1920)のことである。 昭和4年(1929)、青梅鉄道は青梅電気鉄道と名前が変わる。この年に二俣尾・御嶽間が開通した。昭和19年(1944)、青梅電気鉄道は御嶽・氷川(現在の奥多摩駅)間の開通を計画していた奥多摩電気鉄道とともに国有化となる。国有化となったこの年御嶽・氷川間も開通。これで立川・氷川間(奥多摩駅となったのは昭和46年;1971年)のこと)が繋がった。
青梅鉄道が造られたのは石灰の運搬がその目的。石灰を運んだ貨車の一番後ろに1両か2両の客車がつながれていた。「青梅線、石より人が安く見え」といった川柳もある(『青梅歴史物語;青梅市教育委員会』。いつだったか青梅の山稜を辛垣城へと辿ったとき、辛垣城跡が崩れていたのだが、それは石灰をとったため、などとの説明があった。それを挙げるまでもなく青梅は往古より石灰の産地である。江戸城のお城の白壁の原料として青梅の石灰を運ぶ道、それが青梅街道の始まりでもある。
青梅鉄道が早い時期に日向和田にのばしたのは、そこが石灰の積み出し場所であったから。実際、宮の平駅と日向和田駅の間に石灰採掘場跡が残るという。全山掘り尽くし山が消えた、とか。Google Mapの航空写真でチェックすると、山稜が南に張り出し青梅線が大きく湾曲するあたりの山中に緑が消えている箇所がある。御嶽から氷川へと路線を延ばしたのは、この地の石灰を掘り尽くし、更に奥多摩の産地からの積み出しが必要となったからである。

川合玉堂も愛した白丸散策コース
無人駅を下り、山側の道を少し西に進むと道脇に「川合玉堂も愛した白丸散策コース」の案内。道を進むと更に「散策コース」の案内があり、
「昭和19年12月18日 白丸大澤哲治氏邸に寄宿
目ざす家に日のあたりをり霧を踏む 村長に泊めて貰うて柚子湯かな 川合玉堂」とあった。

川合玉堂
川合玉堂は明治から昭和にかけて活躍した日本画家。太平洋戦争末期の昭和19年(1944)7月、かねてより頻繁に写生に訪れていた御岳(東京都下西多摩郡三田村御岳)に疎開、更に12月には古里(古里村白丸に)転じた。
昭和20年(1945)5月には、牛込若宮町の自宅が戦禍にあい焼失。12月に三田村町御岳に移り、住居を「偶庵」、アトリエを「随軒」と称した。現在の玉堂美術館のある場所、と言う。
日本画家である玉堂は俳句や和歌の秀作も多く、「偶庵」はその雅号。偶々(たまたま)、多摩(たま)に庵を結んだといった洒落である。

石畳の道
道なりに進むと、Y字路にあたり、ゴンザス尾根方面である左に折れると石が敷かれた細路が続く。観光案内には「石畳の道」とあった。古道、峠道など散歩の折々に石畳の道に出合うため、それほどの感慨は、ない。






元栖神社;10時56分(標高385m)
車道に出る。右手に社があり「元栖神社」とある。散歩で結構多くの社を辿っているが、「元栖神社」という名前は初めて聞く。如何なる風情、由緒の社かと、ちょっと立ち寄り。
境内に上る石段脇に案内。「元栖神社のイチョウ 元栖神社は白丸の鎮守神でご祭神は猿田彦命、祭礼は八月第三日曜日です。この日には郷土芸能の獅子舞が奉納されて賑わいます。 境内のイチョウの巨樹は四季折々に変化し参詣者を迎えています」とあった。
鳥居を潜って境内に入ると正面に舞台。その脇にイチョウが立つ。石段を上り拝殿と本殿にお参り。「元栖」が気になる。「新編武蔵風土記稿」には、「元栖明神社」と記される。祭神は「猿田彦大神」。為に「猿田彦神社」と呼ばれたこともあるようだ。創建不明。嘉永6年(1853)焼失して資料もすべて失ったと言う。
ということで、「元栖」の由来は不明。昔の「字」名だろうか。近くの「鳩ノ巣」も通称で正式名所ではないが、鳩ノ巣(=栖)があれば、その元の巣(栖)もあってもいい、かと。
なお、境内には川合玉堂の歌碑もあったようだ(昭和20年建立)。「囃子いま 調べ高まり 獅子荒るる ときしもひびく 警戒警報」、と刻まれる。
昭和20年(1945)8月1日-2日、5日には八王子の大空襲。15日は青梅も空襲を受けている。獅子舞奉納の祭礼は8月第三日曜とあるので、この空襲の時とは別の日なのか、祭礼の日が当時と今は異なっているのか不明であるが、疎開時の雰囲気が感じられる。
鳩ノ巣の由来
鳩ノ巣渓谷の岩場に玉川水神社がある。大和国丹生川上神社の中社の祭神で水神の「みずはのめのかみ」を祀る。その岩盤に鳩ノ巣の由来の案内があり、「明暦の大火で焼け野原となった江戸の復興のため木材の切り出しがはじまる。奥多摩・青梅は秩父の名栗筋の西川材とともに、木材の一大供給地。水神社のあたりに切り出し・搬出のための木材番所ができたという。そこに祀った水神社につがいの鳩が止まり来る。そのまことに仲睦まじい姿ゆえに一同心なごみ、霊鳥として大切に扱った。地名も「鳩ノ巣のところ」ということから鳩ノ巣と呼ばれるようになった」とあった。「元栖」の由来は、霊鳥が飛び来る元の巣(栖)のあった地、と妄想した所以である。

天地山遠望
車道を道なりに進み、特別養護老人ホーム前を過ぎると南に突き出した道は大きくUの字に曲がる。車道からは地元の人が"奥多摩槍"とも呼ぶ、天地山(標高981m)の尖った山容が彼方に見える。別名"高岩山"。名前の如く、結構厳しい岩場がある、とのことである。川合玉堂も、「名に負える天地岳は人知らず 奥多摩槍と言わば知らまし」と詠む。

白丸ダム湖・調整湖遠望
Uの字のカーブをを曲がり少し進むと、西に折れ、更に西側の一筋高い山肌を進む道にショートカットする細道を進み車道に。道から白丸湖の湖水が見える。
 ●白丸湖
こ白丸ダムは東京都交通局の管轄という。通常ダムの管轄は水道局であり、東京電力といったものであろうが、どういった事情であろうかと、チェック。 昭和7年(1932)、当時の東京市水道局は水道需要に応えるため小河内ダム建設を計画。その計画を受け、東京市電気局は軌道事業(電車)だけでなく、市が必要とする電力の供給事業を計画。
戦前のあれこれの経緯は省くとして、戦後になり都は発電事業を開始。所管は電気局が組織を変更し、新たにできた交通局が担当することになった。電気局は、戦時の電力事業の国家統制もあり、発電事業を廃止し軌道部門だけとなったため、交通局と改名した。発電した電気は東京電力に卸している、とか。はじめ交通局の管轄、と聞いたときは、てっきり地下鉄の電気確保のためか、などとお気楽に考えていたのだが、掘れば歴史が現れるものである。
ダム湖の水は地下を通り5キロほど下流の多摩川第三発電所に送られる。通常ダムから下流は水量の乏しい河床が多い。しかし、ここは事情が異なる。鳩ノ巣渓谷の狭隘部を堰き止めるダム建設に際して鳩ノ巣渓谷の景観を守るために反対運動が起こったようだ。で、交渉の末、3月中旬から11月中旬までは渓谷の景観維持、つまりは豊かな水量確保のために放水がなされている、と。白丸ダム直下にある白丸発電所ではその放水を利用し発電を行っている。

ゴンザス尾根へのアプローチ道;11時10分(標高421m)
車道からゴンザス尾根へと向かう道は?車道を先に進むと西に折れた辺りで切れている。もうひとつ、ショートカットで上り切った車道から山へと西に上る道もある。どちらがルートかわからない。結局、より山裾に近い所まで続く、後者の道を上る。車道から右に分岐する、手すりのある石垣のスロープを右に折れ、途中、消防用の施設らしき小屋を見遣りながら道なりに進み、森に入る。

東京都水道局 白丸第三配水所;11時18分(標高482m)
森に入ると、少し先に「東京都水道局 白丸第三配水所」が見える。Sさんが準備したルート図にあった「古い水道施設」とも思えないのだが、とりあえず配水所に。踏み跡などないものかと辺りを探すが、それらしき痕跡は見あたらない。
配水所の北には幾段かになった石垣が残る。ゴンザス尾根への登りの道には石垣が残ると言うので、手掛かりでもないものかと、石垣を標高500m辺りから550mへと等高線を垂直に上る。踏み跡を探すが、なにも手掛かりがない。
このままでは目標とするゴンザス尾根鞍部705m地点から大きく外れてしまう。 GPSは持っていたのだが、軌跡のログをとるだけでいいかと、目標ポイントの登録はしていなかった。また、山地図もインポートしておらず、Sさんの用意してくれたルート図には緯度経度がなく、結局、白丸第三配水所まで戻り、一から出直すことにした。

沢に沿って西に;11時52分(標高484m)
白丸第三配水所に戻り、ルート図で見るに、岩場の北を、基本西に向かって進めば目標とするゴンザス尾根鞍部705mに辿りつけそうである。
標高500m辺りから等高線を斜めに600m辺りまで進む。踏み跡などは何も、左手に沢が見える。杣(そま)入沢だろうか。結構深く切れ込んではいるが、岩場といった雰囲気ではないのだが、その時は切れ込みの風情を「岩場」と思い込んでいた。 ゴンザス尾根の鞍部を確認したいのだが、GPS専用端末に地点登録もしておらず、ルート図には緯度経度が記されていない。電波が通じていることを祈りiphoneをオン。かすかに電波が通じる。Google Mapのゴンザス尾根の鞍部にピンを立てると、現在地の西にある。適当なところで沢を西に渡るべし、とポイントを探す。
ルート図標高600m辺り、切れ込んだ沢が少し緩やかになった地点を西に渡る。その跡は、iphoneのGoogle Mapのピンアップ地点に向かって成り行きで尾根へと這い上がる。

ゴンザス尾根鞍部705m地点;12時36分
標高600m辺りから等高線を垂直に等高線670m辺りまで這い上がり、空が開けた辺りに向けて成り行きで進むと、ドンピシャリで目的ポイントであるゴンザス尾根鞍部705mに出た。尾根に南北に伸びる平坦部には先回の「根岩越え」で彷徨った日原4号、5号鉄塔が建つ。
計画ルート
結果オーライではあるが、目的ポイントに出たのは全くの偶然である。Sさんの用意したルート図からは大きく外れていた。ルート図では尾根へと這い上がったルートより南、山地図に岩場マークの北に沿って進むルート、更に南にある沢を上るふたつのルートが記されている。
沢を這い上がった時は、その沢筋が岩場マークの地点かと想っていたのだが、まったく異なったルートを這い上がっていた。実際のルートは、里から山に入ると白丸第三配水所に向かうことなく、510m等高線に沿って西に向かい、岩場北の山塊が迫り出した辺りの平場に古い水道施設(当日は、白丸第三配水所がそのポイントと思い込んでいた)があり、そこからルートはふたつに分かれる。 一つは岩場に沿ってその北を辿り、ゴンザス尾根鞍部に出る。もうひとつのルートは岩場南の谷筋を隔てた尾根筋を上るルートである。
ルート途中には山ノ神や茶屋跡などが残ると言うのだが、その山ノ神を確認した、と言う根岩越えの記録はWEBには見あたらない。近いうちに、GPSに山地図をインストールし準備をした上で、このふたつの計画ルートを辿り、なんとか「山ノ神」を探し当てたいと思う。今も残るかどうかも不明ではあるのだが。。。
ゴンザス
この「ゴンザス尾根」って、どういう意味なのだろう。いつだったか、日原かヨコスズ尾根・長沢脊稜を経て仙元峠を越えて秩父の浦山へと抜けた時にも、ゴンジリ峠という峠があった。「権次入峠」と書くが、元より漢字表記は「音」に合わせたケースが多く、漢字の意味から推測するのは少々危険。
あれこれチェックしていると、ゴンザスの「サス=差、指」は「焼き畑」の意味があるとの記述があった。これって、良い線いってると思うのだが、「ゴン」の意味がわからない。「ゴン」には方角の「丑寅(北東)」、「鬼門」の意味もあるとのことだが、結局「ゴンザス」の意味は不詳である。


日原6号鉄塔巡視路標識;12時43分(標高720m)
標高705mゴンザス尾根鞍部から北に向かい、尾根道を等高線720mに上る。そこに日原6号鉄塔巡視路標識が建つ。そこから尾根を進むことなく、日原6号鉄塔に向かう巻き道がある。この道を進むと等高線を720mから700mに向かって緩やかに下ってゆくようだ。





TV電波受信鉄塔:12時48分(標高745m)
今回は巻道を進むことなく、Sさんが踏み間違えた地点から日原6号鉄塔に向かうことにする。標高760m地点まで上ると周囲が開け電波塔が建つ。パラボラアンテナはアナログ時代の東京MXテレビが使用していたようであるが、現在は全放送局対応のデジタル受信設備に更新されている、とか。
で、この電波受信鉄塔がある辺りは、木々が切り開かれているのだが、その開かれたところから尾根道を下るべく再び木々の中に入る辺りに踏み跡が二つある。左手は尾根道の本道であり、右手は日原6号鉄塔へと下る道である。Sさんは、ここで右に進み本来のゴンザス尾根ルートを外れ、日原6号鉄塔、そして根岩越えと進んだわけである。

鉄塔巡視路標識;12時53分(標高726m)
尾根筋を20mほど下ると鉄塔巡視路の標識「左 日原線5号 右 日原線6号」とある。先ほど出合った「日原6号鉄塔」からの巻道がここに続いているのだろうか。







巻き道合流
西に着きだした等高線700mの突端部辺りの左手に踏み跡の道が見える。Sさんの準備したルート図には尾根鞍部の北にあった日原6号鉄塔巡視路標識から、この地に巻き道が描かれている。それなら先ほどの巡視路標識は何だったのだろう?疑問。






日原6号鉄塔:12時57分(標高669m)
尾根筋を等高線に垂直に下ると等高線680mと670mの間の平坦部に日原6号鉄塔が建つ。日原線の送電線は海沢の東京電力(現在は東京発電)氷川発電所からゴンザス尾根を一気に上り、尾根道をクロスし、日原川の東岸山腹を川苔川との合流点辺りまで進み、そこから先は日原川の西岸を倉沢谷に進み、そこにある変電所まで18の鉄塔で電力を送電する。また、氷川の先、除ヶ野の辺りから一本線を分岐させ、氷川の変電所に下りる送電線を奥工氷川線とも呼ぶようだ。奥工とは、石灰の採石・販売をおこなう奥多摩工業の略であろう、か(『東京鉄塔;サルマルヒデキ(自由国民社)』。

氷川に下る
西に着きだした等高線650の先は断崖。その手前の等高線660mと670mの平坦部を先に進み、等高線650mの南西端、その東が岩場となる手前から南に急坂を下りることになる。トラロープが張られているので、そのロープを目安にすれば、いい。
「根岩」の由来
ところで「根岩」であるが、文字からすれば、根が生えたような大岩、ゴンザス尾根の急峻な岩盤地質を指すように思えるのだが、「納屋」の転化である、との諸説あるようだ。
「納屋」は、いつだったか中世の甲州街道である大菩薩峠から牛の根尾根を越えて奥多摩の小菅へと歩いたとき、大菩薩峠に「荷渡し場跡」があったが、そこの案内に「萩原村(塩山市)から丹波、小菅まで行ったのでは1日では帰れないので途中に荷を置いて戻った。萩原村からは米、酒、塩などを、丹波、小菅側からは木炭、こんにゃく、経木などが運ばれた」、と。納屋はこのような「無言貿易」の荷を収納する小屋であり、「ナヤ」→「ナーヤ」→「ネーヤ」→「ネエヤ」になった、とする。
また、根が生えたような大岩も捨てがたい。白丸からゴンザス尾根の鞍部に這い上がるまで、多摩川に落ち込むゴンザス尾根を越える道が無かった、ということは、その鞍部までゴンザス尾根を越える道を造れなかったということであろうし、その理由は強烈な岩盤に阻まれたためであろう、かとも思う。一度「数馬の切り通し」から尾根を這い上がって、その岩場を実感してみたいものである。

日原鉄塔巡視路標識;13時8分(標高637m)
トラロープを頼りに標高を20mほど下げると、日原鉄塔巡視路の標識。「左 6号  右 7号」とある。更に急峻な坂をトラロープを頼りにゆっくり下る。標高650mから610m辺りまでは南に下る。










鉄梯子:13時16分(標高581m)
標高650mから610m辺りまでは南に、等高線に対してはすこし斜めに進むが、等高線610m辺り右に折れ、東へと向かう。標高580m辺りまで等高線を斜めに進むと岩場に鉄梯子。鉄梯子は2段になっており、途中で方向を変え南に下る。








トラロープを頼りに急坂を下る
鉄梯子を下り、トラロープを握り急峻な坂を下る。道の左手には屏風岩がある。ロッククライミングを楽しむ人には垂涎の地であろうが、高所恐怖症の我が身は岩場見物のお誘いをお断りする。










氷川の街が見えて来る
標高550m辺りから400m辺りまでは基本等高線を垂直に下る。トラロープ整備して頂いた関係者に大感謝。標高430m辺りから木々の間に氷川の栃久保が見える。








東京都氷川浄水場・大氷川配水所;13時35分(標高384m)
ほどなく東京都氷川浄水場が見えて来る。奥多摩の山稜を借景として氷川浄水場を見遣り、浄水場のフェンスに沿って下ると、右手には大氷川配水所施設。ふたつの施設の間の細路を下り、成り行きで奥多摩駅に進み、本日の散歩を終える。 今回の散歩でゴンザス尾根から氷川へ下るルートは確定した。が、白丸の集落からゴンザス尾根に上るルートは準備不足もあって、大きく外してしまった上りのルート途中にある、と言う「山の神」や「茶屋跡」。それが今もあるかどうか不明ではあるが、もう一度トライしようと思う。また、数馬の切り通しから這い上がれるものか、トラバースできるものかどうが、そのルートもチェックに行こうと思う。数馬の切通りの上に祠があり、結構な岩場だったような気もするのだが。。。



最後に「数馬の切り通し」を簡単にまとめておく。
■数馬の切り通し 数馬の切り通しには、国道411号脇にある手作り味噌のお店の脇から数馬の切り通しへの小径へ入る。民家の脇を通り切り通しへの道を進むが、近年大幅な道路工事が行われ国道からも直接上る道が造られている。切り通しにはこの車道から直接上るのが早い。

車道を越えると昔ながらの小径に戻る。杉林の中を進み、沢を過ごすと切り通しに到着。前面の巨岩がきれいに穿ち抜かれている。18世紀初頭、江戸の元禄の頃、岩に火を焚き水で冷やし、脆くしたうえで石ミノやツルハシで切り抜いた。 江戸のはじめまで、白丸と氷川との往来は、上でメモした急峻な山越えの道・根岩越えの道しかなかった。この切り通しができることによって氷川との往来が少し容易になった。物流が盛んになった。どこで読んだか覚えてはいないが、切り通しのできる前後で氷川集落の家屋個数が200戸から300戸に増えた、とのうろ覚えの記憶がある。

切り通しの手前に「数馬の切り通し案内図」がある。切り通しを越える道は江戸の頃、三回にわたりルートが変更されている。今歩いてきたのが元禄期の道筋、その道の少し下、沢に沿って18世紀中頃の宝永の頃のルート、元禄の頃の道筋から途中で別れ沢を橋で越えて切り通しの先に続く19世紀中頃・嘉永の頃のルート 切り通しを越えて先に進むと、道は180度に近い角度で曲がる。しかも石段があり段差となっている。元禄の頃の切り通しの道跡とすれば誠に不自然。ひょっとすると先ほどの案内でみた嘉永の頃の橋を渡したルートとの繋ぎではなかろうか。であればぴったりと道筋が一致する。
先に進むと再び切り通し。その先は岩壁に沿って細路が続く。切り通しも大変だったと思うが、この岩壁を切り崩し、道を穿つのも大変だったと思う。ということは、数馬の切り通しって、イントロ部分の大岩塊の部分だけでなく、この断崖を穿った開鑿すべてを含んだ言葉なのであろう。現在は人ひとり通れる断崖の道ではあるが、これは大正時代に切り通しの下に隧道を通し、道を造ったときに崩したためではあろう。

崖下に、その大正時代の道が見える。足元を抜ける数馬隧道の完成によって、奥多摩・氷川と青梅との車での往来が可能となった、と言う。大正期の道路の遙か下には多摩川の流れが見える。「楓渓・数馬峡の碑」にあった「数馬の切り通しからの眺望は絶景である」、とはこのことであろう。

「楓渓・数馬峡の碑」にも名前のあった山田早苗の数馬の切り通しの描写を挙げておく; ゆく道の大厳の山をさながら切割りて、牛馬の通うばかりに道を造れる処、一町ばかりの程は石敷きたる廊(わたどの)の如くにて、入口に石の門の如く岩立ちたりし所あり(天保12年の山田早苗の『玉川訴源日記』より)。

 ところで「数馬」の由来であるが、これまたはっきりしない。秋川筋に数馬の集落がある。これは中村数馬が開いたところ、とか。まさか、秋川筋から中村さんが青梅筋まで遠征したとも思えない。奥氷川神社の神官に河辺数馬藤原永義がいた。この人物が数馬の切り通しを開いたとの説もある(『奥多摩歴史物語;安藤精一(百水社)』)。由来としてはわかりやすい。
そのほか、すまは「隅」、かは「かど、かき、かぎり」、の「か」であっり、かずまとは「障壁によって限られるところ」との説も紹介されている(『奥多摩風土記(大館勇吉著;有峰書店新社刊』)。例によって、定説は、ない。
数年前のことになるだろうか、奥多摩の「水根貨物線」跡を辿ったことがある。水根貨物線は小河内ダム建設のためのセメントや川砂、建設資材を運ぶ目的で建設された東京都水道局の専用線である。正式名称は「東京都水道局小河内線」と呼ばれ、路線距離6.7キロ。23の隧道と23の橋梁で氷川駅(現在の奥多摩駅)とダム建設サイトの水根駅を繋いだ。運行期間は昭和27年(1952)の鉄路開通から昭和32年(1957)の小河内ダム竣工までの5年間だけである。
当初の計画では建設資材の輸送は鉄道ではなく、道路および索道による運搬計画が立案されていたようだ。昭和13年(1938)に地鎮祭が執り行われ工事開始となるも、昭和18年(1943)、戦局の悪化により工事中止。戦後昭和24年(1949)に工事再開されるに際し、東京都水道局は計画の見直しを行い鉄道建設に決定したとのことである。鉄道建設の工事設計施工は国鉄に委託された。
ダム竣工後は昭和38年(1963)西武鉄道、昭和53年(1978)には奥多摩工業に譲渡され「水根貨物線」と呼ばれるようになり、一時観光用鉄道としての企画もあったようだが、現在は廃線となっている。

水根貨物線のことを知ったのは、これもいつだったか、奥多摩駅より小河内ダムまで続く昔の青梅街道を遊歩道として整備した「奥多摩むかし道」を歩いたときのこと。道の途中でいかにも線路跡といった道筋や幾つかの橋脚が目に入り、チェックするとそれが既に廃線となった水根貨物線跡であった。

で、その水根貨物線跡を数年ぶりに辿ることになったわけだが、そのきっかけは夏に沢登りをガイドしている沢ガールのひとりが、秋には廃線か廃道を歩きませんか、との「ご下命」。それではと、廃道は既にブログにメモした明治の青梅街道である「黒川通り」、廃線は「水根貨物線」を散歩の候補とした。
廃道歩き候補の「黒川通り」は事前踏査するに、既にブログにアップしたメモの通り崩壊箇所が多く、余りに危険ということで選択肢から外す。一方、廃線歩き候補の「水根貨物線」は3箇所ほど崩壊鉄橋があり、そこが危険であることが以前の「水根貨物線」歩きでわかってはいた。で、いざの場合にと迂回路を探しに事前踏査に出かけ、3箇所とも迂回路があることがわかり、それではと「水根貨物線跡」に出かけることにした。
パーティは沢ガール2名、「廃道・廃線」とのキーワードにフックが掛かり参加表明の女性、そして30代の男性と私の5名。頃は秋。紅葉見物も兼ねて奥多摩駅に向かった。

○奥多摩湖ダム建設の経緯
水根貨物線建設の背景にある奥多摩湖ダム建設について、その経緯をまとめておく;東京都の水瓶と呼ばれていたい奥多摩湖。今でこそ、東京都民の水源は利根川・荒川水系にその水量の80%を頼り、多摩川水系の比率は18%程度とはなっているが(その他相模川水系1.8%,地下水0.2%)、昭和6年(1931)、当時の東京市がその市民の水資源確保と計画したのがこの奥多摩湖ダム・小河内ダムである。昭和6年(1931)に計画が発表されてから昭和32年(1957)のダムの竣工まで、結構時間がかかっている。その間の紆余曲折をまとめておく。
当時の東京市は大正末期より東京市民の水源確保のための候補地を検討。昭和6年(1931)には昔の三田郷である原・河内・河野・留浦の4部落からなる当時の小河内村を候補に選定。ダムはこの4村に丹波村、小菅村を加える大規模なものであり、ダム建設により水没する小河内村の村民は反対を表明。が、当時の村長である小沢市平氏、は「天子さまの御用水」第一と村民を説得し、無条件で了承し、昭和7年(1932)、東京市議会はダム建設を可決した。
土地買収がはじまろうとした昭和8年(1933)、「二ヶ領用水」を巡り神奈川県と水利紛争が発生。元禄時代に起工され、神奈川県の稲毛で多摩川から取水する「二ヶ領用水」の用水組合が多摩川の水利権をもっており、その組合が反対しダム建設計画は頓挫。その上、当初ダム建設地とされていた「女ヶ湯」の地が地質上不可ということで、ダム建設地が2キロ下流の「水根沢」に変更された。 このダブルの不手際に村民は抗議。白紙還元の動きも出る。工事の頓挫で土地移転の補償費が入らない村民は困窮。小沢村長は村の荒廃を防ぐべく奔走するも状況は好転せず、昭和19年(1935)には、堪忍の限度を超えた村民が蜂起。「蓆旗竹槍は多摩の伝統 猪突猛進は世代廼衣鉢」と小沢村長を先頭に村民が東京に直談判へと向かう。官憲は氷川大橋を阻止線とし、村民は奥氷川神社に押し込められ、代表が東京へ強談判に向かう。


この強談判が功を奏したのか、のらりくらりの官僚の態度が変化し、問題が次々解決されてゆく。そして昭和11年(1936)2月26日には「二ヶ領用水組合」との和解成立。この日は期しくも二・二六事件の日。また、当時の東京都知事は「二ヶ領用水組合」問題が紛糾したときの神奈川県の横山知事であった(昭和10年(1935)、東京都知事に)。
昭和12年(1937)に買収地価公表。あまりの低い買収地価のため騒動が起こるも、当時の官主導社会故に村民は泣き寝入り。昭和13年(1938)には妥結。八ヶ岳山麓など他の地への移転者には少額ながら更生資金が用意された。
昭和13年(1938)11月に地鎮祭。しかし戦局の悪化により昭和18年(1943)工事中止。戦後の昭和24年(1949)工事再開され昭和32年(1957)ダム竣工。奥多摩湖(小河内貯水池)は東京都民と神奈川県の一部に一定の水を安定的に供給するのが大前提であるため、ダム湖はその余水を貯蔵することになる。そのため湖が水に満たされるには結構日数がかかり、奥多摩湖が全容を表したのは昭和40年(1965)のことである。
現在奥多摩湖に貯水された水は、多摩川第一発電所に落とされ、その水褥池にたまった水は大半(一部は上でメモした氷川発電所に)が多摩川に放水され、約34キロ下流にある小作取水堰と、約36キロ下流にある羽村取水堰で水道原水として取水される。取水された原水は、自然流下により村山・山口貯水池、玉川上水路などを経て、東村山・境の各浄水場へ、導水ポンプにより小作浄水場へ送られる。また、東村山浄水場から原水連絡管により朝霞・三園の各浄水場へも送ることが可能となっている。「二ヶ領用水」は灌漑用水の重要性は当時とは異なるだろうが、現在でも取水堰があり、そこから取水されている。


本日のルート;奥多摩駅>奥多摩工業>北氷川橋>女夫(めおと)橋>■第一氷川橋梁>第一氷川隧道>日原川橋梁>第二氷川隧道>第二氷川橋梁>氷川疎水隧道>第三氷川隧道>第一弁天橋梁>第二弁天橋梁>第三氷川橋梁>第四氷川隧道>第一小留浦橋梁>第一小留浦隧道>第二小留浦橋梁>第二小留浦隧道>第三小留浦橋梁>第三小留浦隧道>第四小留浦橋梁>第四小留浦隧道>第五小留浦橋梁>第五小留浦隧道>第一境橋梁>桧村隧道;短い隧道>第一境隧道>第二境橋梁>第二境隧道>第三境橋梁>第三境隧道>第四境橋梁>白髭隧道>橋詰橋梁>栃寄橋梁>白髭橋梁>梅久保隧道>梅久保橋梁>惣獄橋梁>惣獄隧道>第一板小屋隧道>第二板小屋隧道>清水疎水隧道>清水隧道>第一桃ヶ沢隧道>桃ヶ沢橋梁>第二桃ヶ沢隧道>中山隧道>第一水根橋梁>水根隧道>第二水根橋梁■>「奥多摩水と緑のふれあい館」

奥多摩駅
永福町を出て青梅線の奥多摩駅に問到着。この「駅名が奥多摩駅となったのは昭和46年(1971)のこと。昭和19年(1944)、後述する奥多摩電気鉄道が保有していた御嶽駅と奥多摩間の鉄道敷設免許が国有化され、運輸通信省青梅線として開業されたときは氷川駅と呼ばれていたようである。

奥多摩工業
奥多摩駅を下り、常のバス路線とは逆、プラットフォームに沿って北に向かう。 進むにつれて、正面の工場に近づく。小川谷や倉沢谷に向かう途中、バスの窓からよく見る要塞の如き工場がそれである。 工場は奥多摩工業の石灰砕石・選鉱処理工場。日原集落に入る手前に見える巨大な裸山・日原鉱床(実際は、鉱床の乏しくなった日原鉱床の更に奥の天祖山で石灰石を採掘し、地下隧道を通り、立石・燕石の採掘場から三又を経由し日原鉱床に運ばれている)から無人トロッコ・曳索鉄道氷川線(一本のエンドレスロープで繋がれた多くの貨車がロープに曳かれて走る)でこの氷川工場に運ばれている。軌道のほとんどか隧道内であるが、沢を渡るとき、橋梁が現れる。倉沢や日原へのバスからも頭上に無人トロッコ・曳索鉄道氷川線が見える箇所もある。
奥多摩工業株式会社は、現在は上記の如く石灰の採掘・販売をおこなっているが、前身は昭和12年(1937)設立の奥多摩電気鉄道会社。御嶽駅と氷川を結ぶ鉄道路線の施設免許をもち設立するも、路線開通前に戦時の国策により免許を国に譲渡し、工事半ばで路線は国有化された。
昭和19年(1944)、奥多摩工業に社名変更。昭和21年(1946)に石灰石の採掘・販売を開始した。鉄路建設と石灰の、一見その結びつきは?と考える。実のところ、奥多摩電気鉄道は、昭和2年(1927)、浅野セメントが買収していた日原の山林を継ぎ、10年以内に当時の鉄道路線の最終駅であった青梅鉄道の御嶽駅から氷川までの鉄道を建設し、日原の石灰石の採掘を行うために日本鋼管と鶴見造船の出資で設立されたものである。
御嶽駅は昭和4年(1929)に青梅電気鉄道により開通しており、同線と繋ぎ、さらに甲武鉄道(現在の中央本線の一部)とつなぐことによって、石灰を首都圏に運ぼうとしたのであろう。

○青梅電気鉄道
青梅電気鉄道の前身は、明治24年(1891)青梅・羽村・福生などの有力地主、深川セメント工場を政府から払い下げを受けた浅野総一郎などを発起人として設立した「青梅鉄道」。
日向和田村宮ノ平の石灰輸送を主眼とし、立川から日向和田間の軽便鉄道を申請。明治27年(1894)に立川・青梅間開通。明治29年(1896)には青梅・日向和田間が開通。大正3年(1914)には浅野セメントが二俣尾北の雷電山の石灰採掘場開業を受けて、日向和田・二俣尾間の面鏡を得、大正9年(1020)に同区間開業。
大正15年(1926)には電気運転に転換の故をもって青梅電気鉄道と改名。昭和2年(1927)には免許を受け、御嶽までの延長図り、昭和4年(1929)9月1日,二俣尾-御嶽間を開業させている。これは御嶽神社参詣客の便を図ったものであった.このころから,青梅電気鉄道は石灰石輸送とともに,観光輸送の比重の高い鉄道に変化していった、とのこと。

「女夫(めおと)橋」
道は奥多摩工業の敷地で遮られるため、奥多摩工業の手前で日原川に架かる北氷川橋を渡り、日原川の右岸に廻る。県道204号日原街道手前の道を右に折れ、先に進み「女夫橋(めおと)橋」を渡り再び左岸に。
橋から上流には日原川に架かる水根貨物線の「日原橋梁」が見える。橋詰の右には氷川国際マス釣場。前面には、いかにも線路を通すために築いたと思しき築堤が見える。

第一氷川橋梁
水根貨物線の築堤に上る道を探すため堤下にある氷川国際マス釣場の駐車場に進み、端から踏み分け道を築堤に向けて登ると「第一氷川隧道」の東口の先に出た。隧道逆方向にはフェンスで遮られたその向こうに「第一氷川橋梁」が目に入る。その昔は、氷川駅からずっと続いた線路が最初に渡った橋梁である。地形図で見ると、谷筋が深く刻まれている。谷奥には奥多摩工業の曳鉄線も沢筋に姿を現しているのではないだろう、か。



第一氷川隧道
水根貨物線の最初の隧道はフェンスで遮られおり、通り抜けはできない。上った踏み分け道を戻り氷川国際マス釣場の駐車場を抜け、右手上に見える築堤に沿って道を進む。日原川の少し手前で堤下にある石垣上のステップを進み、「日原橋梁」の手前で折り返し、「日原橋梁東詰」めの堤上に。
実のところ、道から水根貨物線の通る堤上に力任せで上れることもできるのだが、第一氷川隧道から日原橋梁までの線路跡には民家があり、民家軒先を歩くのは遠慮し、日原橋梁東詰めに這い上がったわけである。

日原川橋梁
鉄筋コンクリートの堂々としたアーチ橋である日原川橋梁を渡る。橋上には下草が茂りどこからら飛んできたのであろう種子が育った立木も生える。川床で楽しむ家族連れなどを見遣りながら橋を渡る。









第二氷川隧道東口
橋を渡り切ると崖面に「第二氷川隧道東口」がある。施工 熊谷組 昭和27年(1952)。通路は封鎖され、通ることはできない。隧道東口から先は弧を描き寿清院を越えた辺りまで地下を通る。
隧道東口から先のルートは、数年前の散歩では日原川橋梁を引き返し、「女夫橋(めおと)橋」から日原街道に戻り、日原街道入口交差点から国道411号を西に進み、奥多摩郵便局手前の信号脇にある「奥多摩むかし道」の案内板のある道を右に折れ、羽黒三田神社を右手に見ながら進み、線路跡のある水根貨物線跡に向かったわけだが、今回は事前踏査で見付けたルートを選んだ。



そのルートとは第二氷川隧道東口の右手に取り付けてある「鉄梯子」をよじ登ること。10m以上もあり、ちょっと怖いので、他にルートはないかと、隧道東口の左手にある沢を上ろうかと断崖上の踏み分け道を進んだのだが、結構危険そうであり、結局鉄梯子を利用させてもらった。
パーティの皆さんも特段鉄梯子を怖がることもなく、女性陣も平然と「上りましょう」とのことであり、慎重に梯子を握り上り切ると「日原街道」に出る。


追記;2018年12月
最近このページのアクセスが多いので状況の変化確認に訪れる。と、第二氷川隧道が通り抜けできるようになっていた。怖い鉄梯子を上らなくても先に進め、西口に出られる。


第二氷川橋梁
日原街道を国道411号・日原街道入口交差点方面に向かう。「根元神社」辺りから日原橋梁などを見遣りながら栃久保地区を進み、周慶院の門前を越え、中華料理店の「和尚」の手前から一直線に上る石段に折れる。石段を上りきったところで車道と出合い、その前に橋が見える。第二氷川橋梁である。「元巣の森の杉」の案内がある橋の東下の踏み分け道を2mほど上り橋梁上に。メモする段になって、この橋梁が水根貨物線唯一の現役遺構であることがわかった。
○「元巣の森の杉」の案内
元巣の森は、羽黒権現社(現羽黒三田神社)の旧地であることが、武蔵風土記にあります。南氷川は、むかしは「しゅく」と呼び、近所ではたんに「みなみ」と呼ばれていました。小河内谷、日原谷からの物資の集散地で賑わう宿場町でした。この杉に代表される、この森の樹々たちは、氷川の里の歴史を静かに見守っています(奥多摩町教育委員会」。

第二氷川隧道西口
橋梁、といっても車がギリギリ交差できるといった程度の車道に架かる橋から道を「第二氷川隧道西口」方面に戻る。軽トラックなども往来する道を進むと右手下には氷川の町並みが一望のもと。
先に進むとバラックの建物が見える。建物脇の隙間を縫って進むと第二氷川隧道西口に。だが、先には進めない。坑道ではキノコ栽培などがおこなわれている、とのことである。




氷川疏水隧道
第二氷川橋梁まで戻り、道なりに先に第三氷川隧道の東口が見えてくるが、その手前の沢の東側に「氷川疏水隧道」がある。線路跡からは見つめるのは難しい。
第二氷川橋梁まで戻り、線路築堤を意識しながら第三氷川隧道に向かて進むと疏水隧道が見つかる。隧道といってもトンネルになっているわけでもなく、疏水が流れているわけでもなく、幅2m弱の人道を跨いでいるだけである。



第三氷川隧道
元の道を戻り、第二氷川橋梁からの線路跡を進み「氷川疏水隧道」を見遣りながら進むと「第三氷川隧道」が見えてくる。線路も残っており、如何にも廃線歩き、といった風情となる。施工は熊谷組。昭和27年(1952)。 隧道はすこしカーブしているが出口も見えており、懐中電灯は不要である。始点からここまでの二つの隧道は通り抜けできなかったが、ここから先の隧道はすべて通り抜けできる。



奥多摩むかし道と交差
隧道を抜けると線路も消え、線路跡であろう道を道なりに進むと、右手に山肌に沿って遊歩道が続く広場に出る。その遊歩道は「奥多摩むかし道」。
水根貨物線は広場先の草叢に直線で進む。広場先から草叢の境には線路が残る。 線路も3本ある。通常3本ある線路は3線軌条と呼ばれ、軌間の異なる車輌のためのものではあるが、この路線でそんな軌間の異なる車輌が走ることもないだろうから、単に脱線防止用の線路ではないだろうか。
○奥多摩むかし道
JR奥多摩駅から奥多摩湖まで、旧青梅街道を歩く「むかし道」の散策コース。峠や橋の袂には江戸時代の信仰を伝える道祖神や馬頭観音などが往時のまま残り、昔の面影を偲ばせる。約9キロ(奥多摩町役場)。

第一弁天橋梁
草叢にはいると知らず「第一弁天橋梁」に進む。橋梁の北側には崖が続いており、沢を渡る橋梁というより桟道といったものである。橋梁は線路が残り、枕木もしっかりしており、枕木間にも板が敷かれており、それほど危険というわけではない。それでも橋梁を渡るには線路の上に足を置きバランスを取りながら慎重に渡る必要がある。最初の「崩壊橋梁」ではある。
事前踏査の段階で、怖がる人のため迂回路を探す。沢はないので、あれこれチェックすると、「奥多摩むかし道」を進めば、「第一弁天橋梁」を迂回し、後ほどメモする「第四氷川隧道東口」脇に水根貨物線跡に下りる踏み分け道があることが分かった。が、パーティの皆さんは崩壊鉄橋を怖れることもなる、喜々として渡っていった。

第二弁天橋梁
最初の「崩壊橋梁」を何事もなく渡り終えると、第二弁天橋梁。普通に歩いていれば、橋梁とは気付かないかもしれない。等高線も線路跡と平行に続いており、ここも崖地に渡した桟道といったものではあろう。渡り終えた後、橋梁西詰めから橋脚を確認して橋梁であることを確認した。





第三氷川橋梁
先に進むと左右が開ける。等高線も北に大きく切れ込んでおり、沢筋ではあろう。進行方向右手の山肌には、切れ込んだ沢を迂回する「奥多摩むかし道」が見える。前面には第四氷川隧道の東口、その隧道真上には沢を迂回してきた「奥多摩むかし道」も通っている。
「奥多摩むかし道」には休憩用の木製ベンチもあり、そこから眺める第三氷川橋梁の姿はなかなか、いい。


第四氷川隧道
下草の茂る第三氷川橋梁を渡り終え「第四氷川隧道東口」に。坑口左手には既にメモした、第一弁天橋梁を迂回し「奥多摩むかし道」から水根貨物線跡に下りることのできる踏み分け道がある。
この隧道は多摩川に突き出た舌状台地(国道411号バイパスが国道411号愛宕大橋交差点にあたり、笹平橋を渡る箇所)を直線に掘っており、200m強の距離がある。
懐中電灯の光を頼りに隧道を抜ける。漆黒の隧道を歩くだけで、なんとなく廃道歩きの雰囲気が盛り上がる。なお、隧道の間で行政区域が奥多摩町氷川から「境」に変わる。境地区は水根貨物線の終点までカバーする。施工 鐵道建設興業 昭和27年(1952)。

第一小留浦(ことずら)橋梁
隧道を抜けると線路跡は結構荒れている。谷側の風情から橋梁であろうと。渡り切ったところで橋脚を確認。第一小留浦橋梁である。
この辺り落石が多い。この水根貨物線は昭和38年(1963)、西武鉄道の所有となったと上にメモした、観光用に水根線を活用しよう企画したのかとも思うが、この落石の状態を見れば、メンテナンスや旅客の安全の観点から実現は困難ではあったのかと思う。実際水根貨物線が通っていた5年程度の間に150件弱の落石や土砂崩壊があったとのことである。

後日談;後日、水根貨物線跡にある橋梁の橋台の写真を撮りに出かけた。中山バス停で下り、第二桃ヶ沢隧から逆に奥多摩駅へと向かい、白髭隧道を抜けたところで成り行きで「奥多摩むかし道」に下り、道から見える橋梁に這い上がろうとしたのだが、後にメモする長大な第四境橋梁の写真を撮った後は、ほとんどの山肌が落石防止ネットで覆われており這い上がることができない。
道なりに「奥多摩むかし道」を進んでいると、これも後からメモする「第五小留浦橋梁」が道の上に見え、落石ネットもなき。ということで、五小留浦橋梁から沢への這い上がり・下りを第一小留浦橋梁まで繰り返した。
で、この第一小留浦橋梁は這い上がり。「奥多摩むかし道」から這い上がるとすぐに高い石垣がありちょっと苦労したが、なんとかクリアして橋台下に。アプローチ部分は沢ではあるのだが、橋台辺りは山肌と密着しており、ほとんど桟道。橋上に上るには、橋梁西詰めの崖の立木を頼りに、なんとかよじ登れた。

第一小留浦隧道
橋梁の先に隧道が見える。数30mといった短い隧道である。少し荒れてはいるが、線路は残っている。土被り部分もそれほど多くなく、隧道でなくても「切通し」でもよかったといった隧道ではある。施工 鐵道建設興業 昭和27年(1952)。






第二小留浦橋梁
隧道を抜けると橋梁が続く。この橋の箇所は等高線が少し北に切れ込んでおり、桟道ではなく少し橋梁の風情がある。橋梁の谷側には切れ込んだ沢に沿ってカーブする道が見える。「奥多摩むかし道」ではあろう。

後日談;橋台を取るため橋梁西詰めから沢に下る。急な崖ではあるが、ロープがなくても「奥多摩むかし道」に下りることができた。最後の、ささやかではあるが沢水が集まる岩の箇所は滑ららないように慎重に下りた。






第二小留浦隧道
第二小留浦隧道も40m程度といった短い隧道である。施工 鐵道建設興業 昭和27年(1952)。








第三小留浦橋梁
隧道を抜け、線路が残る快適な線路跡を進む。橋梁脇に切れ切れながら水路管が残る橋梁は第三小留浦橋梁。谷側すぐ下に「奥多摩むかし道」が蛇行しながら続く。いつだったか、「奥多摩むかし道」を歩いたことはあるのだが、その時は水根貨物線のことを知らず、道からみえたであろう橋台も気付くことはなかった。

後日談;奥多摩むかし道から這い上がる。石組みの防水・防砂の堰堤をクリアすれば、後は橋梁西詰めに楽に這い上がることができる。







第三小留浦隧道
また短い隧道が現れる。70mほどだろうか。岩壁を掘り割って進み、南に突きだした箇所は岩壁を穿ち隧道を通したのだろう。施工 鐵道建設興業 昭和27年(1952)。施工社の「鐵道建設興業」とは昭和19年(1944)設立の企業で、現在の鉄道建設株式会社である。





第四小留浦橋梁
線路が雑草に覆われた橋梁は第四小留浦橋梁。一本の水路管が橋脇に取り付けられている。

後日談;沢を下りる。結構荒れていた。石組の堰堤箇所はちょっと気をつけること以外、それほど難しい沢ではなかった。「奥多摩むかし道」からは、結構奥に見える。







第四小留浦隧道
次の隧道も70mといった短いもの。少しカーブしているが、出口は見える。施工 鐵道建設興業 昭和27年(1952)。








第五小留浦橋梁
切り通しを先に進むと線路が雑草で覆われ、しかも、どこからか飛んできた種子が育ったのだろう木立が橋梁上に立つのが第五小留浦橋梁。ここも橋脇に水路管が完全な状態で残っていた。

後日談;「奥多摩むかし道」を歩いていると、左手に迫力のある橋台が見えた。白髭隧道の東で線路跡から「奥多摩むかし道」に下りて以降、ずっと落石ネットで沢を這い上がることができなかったので、ここがはじめての橋梁へのアプローチ。沢は広くガレ場となっており、足元が崩れ不安定ではあったが、それほど難しい沢ではなかった。




第五小留浦隧道
第四氷川隧道から先の隧道は、おおよそ等高線に沿った岩壁を削ったような路線ではあったが、第五小留浦隧道は、第四氷川隧道と同じく多摩川に南に突き出た舌状台地(「小留浦地区、現在の国道411号の琴浦橋で多摩川南岸に渡り、檜村橋で多摩川北岸に渡り直す区間)を直線に貫く。他の小留浦隧道に比べて少し距離は長いが、出口の光が見える程度ではある。それでも150m以上あるように思う。鐵道建設興業 昭和27年(1952)。




第一境橋梁
隧道を抜けると第一境橋梁。橋梁脇に棕櫚(シュロ)の木が立つ。この橋梁にも水管が取り付けられていた。








桧村隧道
次に現れた隧道は桧村隧道。短い隧道で、次の第一境隧道の東口も見えている。おおよそ20m程度の長さだろう。桧村は、先ほど通り抜けた第五小留浦隧道が貫く舌状台地の辺りを檜村と称するのがその名の由来かとも。施工 鐵道工業 昭和27年(1952)。

鐵道工業は設立は明治40年(1907)。鹿島建設とともに丹那トンネルの工事を手掛けるなど、鐵道土木、特にトンネル工事に実績を示すも、戦後清算され今はない。
鐵道工業といえば創業者に名を連ねた菅原某の子息で二代目社長の菅原通済が知られる。人物について詳しいことを知っているわけではないのだが、この人物の名前はなんとなく覚えている。若い頃は世界を歩き、放蕩の限りを尽くし、戦後は実業家として鎌倉の宅地開発や昭和電工の疑獄、小津安二郎監督のスポンサー、美術品収集家などとして登場する。戦後に登場した所謂フィクサーのひとりではあろう。

第一境隧道
桧村隧道を出るとすぐに第一境隧道に入る。隧道はちょっと長く懐中電灯で前を確認しながら進む。ここも線路が3本ある。脱線防止のためではあろう。そういえば、第一崩壊橋梁の第一弁天は4本のレールが敷かれていた(4線軌条)。隧道はS字に少しカーブしながら進む。長さは150m弱ほどだろう。施工 鐵道工業 昭和27年(1952)。





第二境橋梁

第二崩壊橋梁が現れる。剥き出しの鉄骨に朽ち始めた枕木が残るだけ。沢との比高差も10mほどはあるだろう。バランスを崩し、橋梁から落ちれば大怪我などではすまない。
数年前、はじめてこの橋梁を渡ったときはなんとか橋梁を渡った。今回の廃線歩きの事前踏査の時は、この橋梁に東詰めに立ったとき、西詰めに呆然として立ちゆくす高校生のグループがいた。
「この橋渡れますか?」との問いに「渡れるよ」と応え、西詰めまで渡って行ったのだが、引率の先生を含めた高校生5名ほどのグループは、とても渡れない、と。


それではと、西詰めから沢への迂回路を探すことに。沢への急な崖はロープを張り、安全確保して沢に下りる。沢は枯れ沢で渡ることは問題ない。沢を渡り、こんどは逆に急な崖を登ることになる。これも立木にロープを張り東詰めに上ってもらった。この崩壊鉄橋も迂回路を探すつもりでの事前踏査ではあったので、高校生グループのガイドで迂回できることが確認できた。

で、今回のパーティ、てっきり崩壊鉄橋で怖がるかと思ったのだが、渡る気満々。少々予想とは反応が異なったが、万が一を考え、皆様に「自重」願い、沢へと迂回する。沢ガールの皆さんには前もってハーネスと8環を持ってくるように伝えており、崖で懸垂下降のトレーニング。初参加の女性も私のハーネスと8環を使い、結構平気で崖を下りていった。


第二境隧道
沢を迂回し線路跡に上ると第二境隧道。東口には大岩が転がっており荒れている。隧道前後の線路は3本ある。急カーブの脱線防止のためだろう、か。隧道の長さは短く、西口が見えている。25m程度だろう。施工 鐵道工業 昭和27年(1952)。






第三境橋梁
切り通しを抜け先に進むと三番目の崩壊鉄橋。4本のレール(4線軌条)が朽ちた枕木に置かれている。水根貨物線跡で最も危険と思う崩壊鉄橋であろうと思う。
事前踏査では悩むことなく沢への迂回ルートを探し、沢の水量は多いが、なんとか濡れないで渡れそうな箇所があり、それで良し、とする。崖の上りはルートの取り方で難易度の変わるバリエーションルートがある。





で、当日。ここでもパーティの皆様は崩壊鉄橋を渡る気満々。ここも自重願い、沢に迂回。崖は懸垂下降の練習も兼ねて、20mほどロープを張り、少々困難なルートを下りてもらう。パーティ各位、軽々と下っていった。
美しい沢で崩壊橋梁を見上げながらお昼を取り、上りは沢登りの練習も兼ね少し困難なルートを上り西詰めに。


ところで、この沢、なかなか雰囲気がいい。メモの段階でチェックすると、「小中沢」という沢であり、沢登りを楽しむ人もいるようだ。源流を詰めての尾根這い上がりでも、途中から作業道を下ることもできそう。来年の夏の沢上りの候補を見付けた気分である。

第三境隧道
沢を迂回し水根貨物線跡を進むと、荒れた入口の隧道が見えてくる。東口には壊れたバリケードが残る。木の枠に鉄条網が張り巡らされたバリケードではあるが、壊れており隧道には木枠の間から入れた。
この隧道は結構長い。多摩川に向けて東に突き出した山塊を穿ち隧道を通している。懐中電灯で前を照らして進む。5分以上歩いたわけであるから距離は400mほどはあるだろうか。施工 鐵道工業 昭和27年(1952)。

第四境橋梁
隧道を抜けると、全面が開け「第四境橋梁」が現れる。地形図を見ると等高線が西へと切り込んでおり、その先の東に突きだした箇所に向けて橋梁が架かっているようだ。
橋梁の左下は境の集落。西へと切り込んだ谷状地形に集落が形成されているのだろう。橋梁下に見える畑地は「山葵田」とのことではある。

橋梁からの眺めは素晴らしい。「トンネルを抜けると、そこは素晴らしい景観だった」などと呟くメンバーも。奥多摩の山々、先ほど抜けた多摩川へと南に突き出た第五小留浦隧道が通る舌状台地、国道411号・檜村橋で多摩川南岸に渡り、橋詰トンネルを抜け境橋で再び多摩川北岸に抜ける多摩川南岸箇所、そこは多摩川に向かい大きく北に突き出した箇所が一望のもとである。
で、橋梁を渡るのだが、ここも4本の線路(4線軌条)となっている。線路の敷かれた枕木は朽ちているようでもあり、ちょっとそこを歩く勇気はない。橋の右手に鉄の手すりのついた保線用の通路を歩く。足元にはスレートらしきものが敷かれているが、時に見える隙間からその幅を見た瞬間に思わず手すりを強く握りしめて先に進むことになった。橋の構造は桁橋、厚さのある板状の橋桁を支柱(橋脚)に乗せたプレートガーダー橋である。

白髭隧道
橋梁を渡りしばらくは等高線に沿って、のんびりと路線跡を辿る。倒木が線路跡を遮ることはあるも、美しい廃線跡である。先に進み、線路周辺には雑草が茂る箇所を抜け、伐採された木材が積まれた箇所を越えると白髭隧道が現れる。出口も見える50m弱の短い隧道である。施工 鐵道工業 昭和27年(1952)。





橋詰橋梁
白髭隧道西口を出たところに「橋詰橋梁」。桟道といった橋梁である。短い橋詰橋梁を渡る。足下は国道411号・白髭トンネルが抜けている場所あたりかと思う。







栃寄橋梁
栃寄橋梁は橋詰橋梁とは異なり、沢らしき箇所を跨いでいる。橋詰橋梁と同じく、足下は国道411号・白髭トンネルが抜けている場所あたりかと思う。







白髭橋梁

白髭橋梁。国道411号を奥多摩湖から奥多摩駅方面に向かうと、国道411号・白髭トンネルの西口に巨大な橋梁が山側にみえるのが、この白髭橋梁である。普通に歩いて居れば左手下に国道411号を見遣りながら、奥多摩の美しい景観を楽しめる散策路といったものである。


梅久保隧道
白髭橋梁を通り、次の梅久保隧道へ。尾根筋が多摩川に南に向かって少し突き出し、国道411号・梅久保トンネル(38m)が抜ける箇所の上を抜ける。少しカーブをしながらも、ほぼ直線に尾根筋の山塊を穿つ。距離は200m弱。施工 東鐵工業 昭和27年(1952)。

東鐵工業は昭和18年(1943)、鐵道省の要請により関東の建設業者が合同して設立された国策会社「東京鐵道株式会社」をその前身とする。現在の東鉄工業株式会社。


梅久保橋梁
隧道を越えると梅久保橋梁。結構大きな沢を渡る。









切り通し
梅久保橋梁を越えると切り通し。更にその先にも更に大きな切り通し。結構高さもあり、短い隧道との違いが今ひとつはっきりしない。予算の問題なのか、岩盤が固く崩落の危険がなかったのか、さてどちらだろう。





惣獄橋梁
その先には惣獄橋梁と続く。線路を覆う立木を折り敷き、下草の茂る線路跡を辿る。国道411号・惣獄トンネルを抜けたあたりの北に惣獄橋梁が遠くに顔を出す。





惣獄隧道
その先に惣獄隧道が現れる。国道411号・惣獄トンネル(149m)の上辺りではある。距離も出口が見える程度であるので150m強ほど、ではあろうか。数年前訪れた時は隧道西口側が砂防工事中とのことで、鉄のバリケードがあったのだが、今回は撤去されていた。施工 東鐵工業 昭和27年(1952)。





第一板小屋隧道
惣獄隧道を出ると大きな沢に出る。北に切れ込む急峻な沢の土砂崩れが激しいのか、数年間には工事中であったが、現在は沢筋に立派な砂防堰堤が完成していた。隧道の左右も法面吹き付け状態となっており土砂崩れ防止の工事が完成していた。
地形図を見るに、多摩川から等高線が北に鋭く切れ込んでおり、沢のすぐ下に国道411号が通っている。落石の危険のある急峻な沢にしっかりした砂防・土砂崩れ防止工事が必要だったのだろうか。等高線を見るだけで、あれこれと想像・妄想が膨らむ。この沢は国道411号・惣獄トンネルと板小屋トンネルの間の僅かな切れ目からみることができる。
線路を通した堤が消え、沢筋に盛り土した箇所を渡り第一板小屋隧道に。ここも80m程度の短い隧道である。施工 東鐵工業 昭和27年(1952)。

第二板小屋隧道
第一板小屋隧道を抜けると、すぐ先に第二板小屋隧道。40m強といった距離。東口脇に電柱が残っていた。水根線跡の南を進む国道411号は、南に大きく突き出た台地を穿った「板小屋トンネル」で抜けるが、その距離は115m。大雑把に言って、第一、第二板小屋隧道のふたつで国道の板小屋トンネル分をカバーしているように思える。施工 東鐵工業 昭和27年(1952)。




清水隧道
第二板小屋隧道を抜けると前面の築堤が完全に崩壊している。等高線が北に切れ込んだ沢(清水沢)となっており、水路部分は石組みで護岸工事されている。土石流対策の施策ではあろう。記録には「清水疏水隧道」といった水路を抜いた築堤があったとのことだが、その築堤が完全に流されてしまったのだろうか。 国道411号・板小屋トンネル手前の「体験の森」案内の掲示の西側に、護岸工事されたこの清水沢の水路が国道を潜る箇所があるが、結構急峻である。土砂崩れなのか、人工的に築堤が除かれたのか不明ではあるが、ともあれ、古い築堤が崩れ国道に影響を及ぼさない為の施策ではあろう、かと。
沢を渡り清水隧道に入る。結構長い隧道である。200m強あるだろうか。施工鹿島建設 昭和27年(1952)。



 第一桃ヶ沢隧道
落ち葉が一面に敷き詰められた線路跡を進むと第一桃ヶ沢隧道。多摩川に向かって南樹に突き出た尾根筋を一直線に貫く国道411号・桃ヶ沢トンネルの少し北を貫いている。国道の桃ヶ沢トンネルは275mある。この隧道も100m強ほどはありそうだ。施工鹿島建設 昭和27年(1952)。





桃ヶ沢橋梁
隧道を抜けると小さな橋梁がある。桃ヶ沢トンネルを出た国道411号は南に大きく半円を描き進むが、等高線を見るとトンネルを出た直後、等高線は北に切れ込んでいる。橋梁はその辺りに立っているのだろう。橋梁から国道411号は見えるのだが、国道からは落石ネットに遮られ見えずらい。





第二桃ヶ沢隧道
橋梁を渡ると第二桃ヶ沢隧道の東口がある。入口は木枠でバリケードが造られていた。この隧道は南に突き出た尾根筋の台地を一直線に面に貫いている。通常、国道はこういった場合尾根筋にトンネルを通しているのだが、ここだけは多摩川に突き出た岩壁部を迂回し先に進んでいる。その理由を知りたいとは思う。施工鹿島建設 昭和27年(1952)。




中山隧道
隧道を出ると左右が開ける。右手には民家も見える。左手下には民家もあり、中山バス停がある。第二桃ヶ沢隧道を抜け中山隧道に向かう築堤には「奥多摩むかし道」からの道案内があった。
本来の「奥多摩むかし道」はこの辺りでは、多摩川沿いに進み南端部で折り返し、北へと浅間神社に向かい中山トンネル上を越え「タキノリ沢」を渡り水根へと向かったのだが、平成17年(2005年)に土砂崩壊によりこのルートが通行不可となり、その迂回路として中山隧道を抜けて「タキノリ沢」に向かったようであるが、この案内はその当時の名残なのだろうか。

明るく開けた左右の景観を見遣りながらススキのなどの下草に覆われた線路跡を中山隧道に。水根貨物線の南を貫く国道411号・中山トンネルは391mある。この隧道も結構長い。470mといった記録もある。懐中電灯を灯し進む。時に天井から水が滴り落ちていた。

第一水根橋梁
中山隧道を出ると第一水根橋梁。左手下、直ぐ傍に国道411号が走り、その向こうに奥多摩湖の「余水吐(よすいはけ)」の堰堤が見える。なだらかなスロープは「越流堤」。ダム堰堤が溢れるときに水を流す放流設備である。
第一水根橋梁は国道411号の山側にその橋梁が姿を現すのだが、それが水根貨物線の橋梁であることは、この廃線を辿るまで全く知ることはなかった。

国道からの写真を入れる

水根隧道
先に進むとこの廃線最後の隧道、水根隧道となる。短い隧道である。40mもあるだろうか。施工 間組 昭和27年(1952)。








第二水根橋梁
隧道を出ると第二水根橋梁。国道411号を跨ぐ。線路も消え枕木は朽ちており、しっかりした箇所を選び進む。橋梁上には下草、立木と、橋梁が次第に「自然に」戻りはじめているようだ。







水根駅跡
橋梁を渡ると、しばらくは線路も残るが、それも消え、その先は雑草・立木が茂り先が見えない状態。取り敢えず、雑草・立木を折り敷き、藪漕ぎ状態で力任せで進む。ほどなく資材置き場といった広場に出る。そこが水根貨物線水根駅跡である。「水根積卸場」との記録もある。
歩き終えて一息つくと、種類は分からないが、夥しい数の小さい葉が衣類に張り付いている。落とすのに難儀した。藪漕ぎを避けるには、第一水根橋梁の辺りに国道に下りる踏み分け道があるようではある。

「奥多摩水と緑のふれあい館」
水根駅跡の資材置き場から国道に出ると直ぐ先に水根バス停があるのだが、最後の締め、ということで奥多摩湖の湖面を眺めるべく歩を進め、湖畔にある「奥多摩水と緑のふれあい館」で一休みし、バスで奥多摩駅に向かい、本日の散歩を終える。

「黒川通り」の前半部、船越橋から三重河原までの散歩は崩壊箇所が多く、かつまた廃道歩き「デビュタント」の心身の疲れもあり、当初の予定を変更し、後半部である三重河原から藤尾橋までのコースは後日を期してその日を終えた。 その日から2週間後、それほど天候も良くないようだが、廃道歩きの間だけは雨が降らないようにと思いつつリターンマッチに出かける。パートナーは前半部を歩いた仲間のうち都合のついた退任前の会社のSさんひとり。
頃は紅葉の頃。「黒川通り」後半部は、先回の青梅街道散歩の時に撤退した黒川谷の辺り以外は崩壊箇所もないようでもあり、美しい紅葉を楽しみながら、などと出かけたのだが、これまた予想に反し結構厳しい散歩となった。不要だろうとは思いながらも持参したロープが有り難く思えた一日とはなった。



本日のルート;三条新橋広場;9時20分(標高771m)>黒川谷へ>黒川橋跡:9時47分(標高887m)>第Ⅰ崩壊箇所;9時50分(標高881m)>石組の道に復帰;10時5分(標高897m)>黒川谷の尾根筋先端部を迂回;10時12分(標高930m)>倒木が道を遮る>第Ⅱ崩壊箇所;10時30分(987m)>石垣の道>東京都水源林の木標;10時59分(標高1023m)>尾根筋の回り込み部>崩壊橋台跡;11時7分(標高1046m)>第Ⅲ崩壊箇所;11時13分(標高1023m)>石垣の道>第Ⅳ崩壊箇所;11時21分(標高1011m)>石垣の道>沢;11時48分(標高1001m)>林班界境;11時53分(標高1008m)>柳沢川の支流;11時分56分(1000m)>大東橋台跡;12時1分(1023m)>藤尾橋:12時6分(標高1014m)

三条新橋広場;9時20分(標高771m)
自宅を出発し、先回と同じく中央高速から圏央道に入り青梅ICで下り、そこから国道411号・青梅街道を進み丹波山村、そして黒川通り前半部散歩で車をデポした船越橋を越え、三重河原で国道を離れ三条橋を渡り、泉水谷林道ゲート手前の三条新橋広場に車をデポする。




黒川谷へ
デポ地点から最初のポイント黒川谷に架かっていた黒川橋跡に向かう。そこまでは道は御老公との青梅街道散歩の折歩いているので、迷うことはない。実のところ、「黒川通り」後半部を三条新橋広場からスタートするとき、上下二段の道筋あり、どちらか迷いながらも、下段の道はあまりに川床に近いため林道ゲートに近い上段を進んだのだが、それが正解であったわけである。
割と幅広の上段道を進むと丹波川との比高差が大きくなるとともに、最初の頃の砂利道とは異なり落石など道が荒れてくる。ほどなく丹波川から黒川の谷筋に入ったとは思うのだけれど、谷ははるか下なのか川筋も何も見えない。

黒川橋跡:9時47分(標高887m)
落石・ガレ場などを越えて泉水谷の入口から600mほどのところで突然広場が現れる。そしてその先に二段の滝が見える。滝脇にはコンクリート製の橋台跡が残る。明治の頃開かれた道に架けられた黒川橋の名残であろう。滝と風雪を経た橋台跡の組み合わは誠に美しい。


第Ⅰ崩壊箇所;9時50分(標高881m)
橋台手前にある木橋を渡り黒川谷左岸に。ここから左に黒川谷を上れば黒川金山跡。一方、廃道となった新青梅街道・黒川道は右に進む。進むはずなのだが、右に進む道や踏み跡さえもなく、谷に沿って下る崖面は広い範囲に渡って完全に崩壊しており、谷筋には立ち入り禁止のサインがあった。ここが先回の青梅街道散歩の折、道筋がわからず撤退したところである。
「黒川通り」は、もっと上を高巻きしているのだろうか、などとあちこち目安を探すが結局見つからず、正確な地図も無いし、それほど廃道萌えでもなさそうな御老公には申し訳ないし、それよりなによりのゴールの裂石からのバスの便が気になり、先回はここで撤退したわけである。

石組の道に復帰;10時5分(標高897m)
今回はこの崩壊箇所の先にある道筋を探すことからはじめる。崩壊箇所はガレ場をトラバースするのは砕石が足元から崩れ落ち、難しそう。結局谷筋を少し下り、山肌を注意しながら崩壊先の道跡を探すことに。
沢に入りを10mほど下ると、左手上に石垣が見える。そこが崩壊先の道筋であろうと、崖を力任せによじ上る。上る先から岩が崩れ落ちるといった有様ではあるが、崩壊箇所のガレ場ほどの崩れ感はない。慎重に足場を造りながら急場を上るとしっかりした山肌に上りついた。
その上に石垣があることを確認し崖下を見ると、這い上がったところから少し下った辺りまで沢を下れば比較的傾斜の緩い崖となっている。パーティのSさんには沢を下ってもらいそこから登ってもらう。そこからは少し急ではあるが、足場がしっかりしている崖地をのぼり「黒川通り」に復帰した。

黒川谷の尾根筋先端部を迂回;10時12分(標高930m)
崩壊箇所から復帰した道は石組みの広い道を、黒川谷にそって丹波川に突き出した尾根筋の先端部まで進み、そこで大きく先端部を回り込み丹波川に沿って進むことになる。
石組みの道筋と紅葉のコンビネーションがなかなか、いい。道は900mの等高線を緩やかに上りながら進む。迂回先端部は標高930mほど。川床から150mほどの比高差はあるのだが、谷への傾斜が緩いため川筋から大分離れている。



倒木が道を遮る
黒川谷の尾根先端部を回り込むと倒木が行く手を遮るが、道は広く快適な道筋である。迂回した辺りからは等高線950m辺りをゆっくり上ってゆく。こんな道がずっと続けばいいのだが、そんなわけにはいかなかった。




第Ⅱ崩壊箇所;10時30分(987m)
尾根先端部の迂回点から10分強で二つ目の崩壊箇所が現れた。足元は結構しっかりしているので、山側に重心をかけて慎重にガレ場を渡る。それにしても、谷筋からの比高差は200mほどあり、等高線も密であるので崖の傾斜は急であり、結構怖い。






石垣の道
崩壊箇所を越えるとしっかりと石組された石垣が美しい道が続く。「大常木トンネル」の東口辺りへと突き出た尾根筋、トンネルができる前の岸壁に沿った国道が南に突き出した辺りへと下る沢筋、「大常木トンネル」西口辺りへと突き出た尾根筋など、尾根筋と沢筋を等高線1000m辺りを進む。
トンネル西口の尾根筋を回り込むと少し緩やかな上りとなり1030m辺りまで上り、丹波川に一之瀬川が北から合流する辺りに突き出た尾根筋にゆるやかにくだってゆく。



東京都水源林の木標;10時59分(標高1023m)
丹波川と一ノ瀬川が合流したあたりに突き出た尾根筋の突端に「東京都水源林の木標」が立つ。山梨県であるのに何故に東京都の水源林、とのメモは先回の散歩でメモした通り。
「東京都水源林の木標」とともに、「林班界境7|9」が立つ尾根筋突端は、「一之瀬高橋トンネル」の真上辺りであろう。「一之瀬高橋トンネル」は、丹波川と一ノ瀬川が合流していた地点を通っていた国道のバイパスとして丹波川と一ノ瀬川の合流地点に突き出ていた尾根筋を穿ち、一ノ瀬川との合流地点を通ることなく、北に大きく湾曲する丹波川を西から東へと一直線に通す。
尾根筋突端部と川床との比高差は130mほどだろうか。尾根筋を廻った辺りは特に等高線が密になっており、絶壁となっている。下を見るのは少々怖いほどである。

■一之瀬川
一之瀬高橋バイパスを通ることなく旧道を進むと北から一之瀬川が合流する地点に一之瀬橋が架かるが、そこが丹波山村と甲州市の境ともなっている。この一之瀬川の源頭部は多摩川の源流点となっており、「水干」と称される。一之瀬川林道を進み、大常木谷を越え、一之瀬川、その上流の水干沢を詰め切った笠取山を少し南に下ったところにある、とのことである。大常木谷の上流には「竜バミ谷」といった沢遡上にはフックの掛かる沢も。多摩川源流部の「水干」ともども一度訪れてみたいところである。
因みに一之瀬、二之瀬、三之瀬といった一之瀬高橋の集落はその交易は秩父が主であった、とか。一之瀬高橋の北東にある将監峠を越えて甲州からは甲斐絹、麻布、紙。秩父側からは銘仙、相生織物、油、日用雑貨が運ばれた。

■おいらん淵
上で「一之瀬川」が丹波川に合流するとメモしたが、一之瀬川の源頭部が多摩川の源流、ということは、一之瀬川が本流であり、合流するというのは適切ではないかもしれない。
それはともあれ、一之瀬川が丹波川とその名を変える一之瀬橋より上流は「柳沢川」と呼ばれる。その柳沢川が、本流である一之瀬川・丹波川に合流する辺りに「おいらん淵」がある、という。
旧道沿いであり、現在は鉄条網で完全に封鎖され訪ねることはできないのだが、この「おいらん淵」は武田家滅亡の時、黒川金山の坑道を埋め廃坑とするに際し、遊女の処置に困り、この渓上の宴台を設け、滝見の宴半ばで藤蔓を切り落し滝壺に葬ったと言う。その数55名故に、五十五人淵とも呼ばれる。
異説もある。皆殺しになることを知った女郎は、秩父の大滝を目指して逃げる途中、今回の目的地である「藤尾橋」の下でつかまって谷に放り込まれた、と。断崖絶壁、道なき渓谷で宴を催すとの伝説よりも、ちょっとリアリティを感じる話ではある。

尾根筋の回り込み部
尾根筋を廻り込んだところから道に木立が茂る。どこからか種が飛んできて道上に育ったのだろうか。道も少々荒れてはいるが、崩れた道筋に残る石垣と合わさり、なかなかいい感じの景観を呈している。道は1000mの等高線から1030m辺りまで上る。右手下は、一之瀬高橋トンネルに入るヘアピンカーブの箇所である。





崩壊橋台跡;11時7分(標高1046m)
尾根筋突端部から7分程度歩くと、前面に岩壁が見える。後で分かったのだが橋台となっていたようである。岩壁手前まで進むと、岩壁手前に沢がある。この沢を橋で越えていたのだろう。
ちょっと見には結構厳しそう。果たして岩壁を上れるものか、沢に下り、岩壁に取り付く。調度いい感じで取り付く岩の出っ張りがあり、それほど苦労することもなく岩壁をよじ上った。
岩壁上の崖面には大きなロープが岩場に固定されていた。後からチェックすると、ここには鉄の梯子があったようで、その鉄の梯子を固定していたロープであったように思う。
鉄梯子が自然の力で流されたのか、人為的に外されたものか不明ではあるが、いくつかの崩壊箇所も昔は桟道が整備されていたと言うが、そんな桟道はどこにも残っていなかった。思うに、危険な廃道を歩くことができないようにしたのかとも思う。実際歩いてみて、危なさを実感し、その措置に納得した次第である。

第Ⅲ崩壊箇所;11時13分(標高1023m)
崩壊橋跡の岩壁をクリアするとほどなく、3番目の崩壊箇所が現れる。距離は5mから10mほどではあるのだが、崖下の傾斜が急であり、結構危険な箇所であった。崩壊中央部分にある立木まで慎重に足場を固めながら進み、木にロープを廻し、ロープに握りしめ崩壊箇所をクリアした。昔はここには桟道が架かった写真を見たような記憶がある。取り外されたのだろう。幅は短いが今回の崩壊箇所で最も怖かったように思う。



石垣の道
短いながらも危険な崩壊箇所をクリアし、倒木が道を覆う箇所を越え後は、しばらく石組みの美しい道を進むことになる。等高線100mから1010mといったところ。崩れた土砂が道に積み重なった箇所を越え歩を進めると、誠に見事な石組みの道が先に見える。石垣も相当高い。この廃道でのハイライト部分かと思う。
前回の散歩で、この「黒川道」開削に際しては、「財ある者は金、財なきものは労力を提供せよ。多数の囚人も動員された。全域に渡り秩父古生層で硬く急峻な山を削り、岩を穿つ。工具は玄能、石ノミ、鍬、万能。土砂や岩はモッコと天秤。岩道はすべて手掘り。爆薬も硝酸類だけといった貧弱な状態で工事は困難を極めた」とメモしたが、このような難路に石垣を築いたのは専門家でもなく、「財なきものは労力を提供せよ」と動員された地元の人々であった、とも言う。丹波山村で「黒川通り」の開通式が行われたのは明治20年(1887)であるから、100年以上、自然の脅威に耐えてビクともしない石組みの「技」が眼前に示されている。
木立の間から眼下に国道411号が見る。道は南に突き出した尾根筋を迂回し大きく湾曲している。柳沢川(丹波川の上流域の川筋)に突き出たこの突起部を越えれば最終地点の藤尾橋も近い。
国道を眼下に眺めたすぐ先に、石組みの道の上を崩れた土砂が覆っている。如何にも崩壊する前段階といった風情ではある。

第Ⅳ崩壊箇所;11時21分(標高1011m)
と、その先に巨大な崩壊箇所が現れた。ガレ場となっており、結構危険。アプローチを探すに、崩壊箇所の真ん中に立木がある。そこにロープを廻し、パーティを渡すことに。
足場を固めながらゆっくり、慎重に立木まで進み、そこで10mロープを2本繋ぎ、そのロープを握りしめて立木まで渡ってもらい、それから後半部を同様にロープを握りしめ慎重にわたり終える。おおよそ20mほどの幅がある崩壊箇所であった。

石垣の道
崩壊箇所を越えると、ふたたび石垣で支えられた平坦な道にでる。道には崩れた土砂が積まれた箇所もある。そのうちに崩壊箇所となるのだろうか。








沢;11時48分(標高1001m)
先に進むと沢に出る。柳沢川(丹波川の上流域の川筋)に突き出たこの突起部の西側辺りに下っているようである。清冽な水で崩壊箇所を渡るときに汚れた手、そして顔を洗い、気分爽快に。
橋跡といった遺構は見あたらなかった。どのようにしてこの沢を越したのだろう。








林班界境;11時53分(標高1008m)
沢を越えると道一面に落ち葉の絨毯といった美しい道が現れる。空も開き、右下の国道との比高差も50m強といったものになる。
道を進むと林班界境。「林班界境 荻原山分区 7|9」とあった。萩原山って、大菩薩嶺の南に甲州市上萩原萩原山という地名があるが、その辺りからこの地までもカバーしているのだろうか。よくわからない。





柳沢川の支流;11時分56分(1000m)
林班界境を越えると、またまた落ち葉の敷き詰められた平坦な道が続く。道の右下には柳沢川の支流の沢が見えてくる。美しい眺めである。沢には滝が見える。






大東橋台跡;12時1分(1023m)
滝を右手に想いながら沢に沿って道を進むと、右手に沢に架かる木橋がある。沢の渡河地点であろうと左右を見ると、右手に立派な橋台跡が見える。ここには大東橋があったとのことである。しっかりした橋台である。




藤尾橋:12時6分(標高1014m)
鉄の無骨ではあるが趣のあるこの橋が藤尾橋。ちょっと厳しかった廃道「黒川通り」散歩もこれで終了。橋上から柳沢川の美しい景観を眺め、国道411号を車のデポ地点である三条新橋広場まで戻り、一路家路へと。

「黒川通り」の前半部である船越橋から三重河原までは結構崩壊箇所が厳しそうである、とは予想していたのだが、後半部である三重河原から藤尾橋は楽勝との予想に反し、この箇所も結構厳しかった。昔は危険個所には桟道や鉄橋が架かりそれなりに安全ではあったのだろうが、そういったものはすべて撤去されていたためである。
結論として、「黒川通り」の廃道散歩は石で組まれた美しい道筋は魅力ではあるが、ちょっと危険であり、歩いた当人が言うのもなんだが、あまり散歩にはお勧めできない道であった。

いつだったか、元の会社の監査役の御伴で青梅街道を奥多摩から柳沢峠を越えて山梨県の塩山まで歩いたことがある。時に旧道への出入りはあるにしても、大雑把に言って国道411号に沿って歩くわけだが、途中、泉水谷が丹波川に注ぐ三重河原の辺り(丹波山村の中心部からおおよそ6キロほど)から明治に建設された青梅街道が残るという。三重河原から国道411号に架かる藤尾橋までのおおよそ4キロほどとのこと。通称、「黒川通り」と称する。
道を急ぐ御老公に、トラックに煽られ歩く国道から離れ「黒川通り」を歩いてみませんか、と提案し、三重河原から30分ほど歩き、黒川谷に残る黒川橋跡まで進んだのだが、道はそこで崩壊し先がわからなくなった。
なんの下調べもしていなかったので、どちらに進めばいいのかもわからず、また、その日の宿泊地である大菩薩峠への登山口でもある裂石までは結構距離も残っているため日暮れの心配もあり、その時は「黒川通り」を歩くのを断念し、元の三重河原まで戻り国道411号を進むことにした。
その後も「黒川通り」のことが気になり、あれこれ調べると、丹波山村の中心からおおよそ4キロの「羽根戸トンネル」を越えた「船越橋」辺りから「黒川通り」が残るとのこと。そこから三重河原まで2キロほど、三重河原から藤尾橋まで4キロほどで合計6キロ程度。船越橋から三重河原までは道が数箇所崩壊しているようではある。ちょっと危険な感じも抱きながらも先回途中撤退したリターンマッチに数年を経て向かうことにした。
船越橋までのアプローチを調べるに、奥多摩駅から丹波山村の中心まではバスがあるのだが、その先は塩山市の裂石まではバス路線は全くない。自然を楽しむ散歩に排ガスを吐き出す車はないだろう、といった依怙地のポリシーもあり散歩は基本公共交通機関を使うべし、とはしているのだが、日帰りでの行程では車を使うしか術はない。
で、車で「空気」を運んでももったいということで、仲間に声を掛け4名のパーティで出かける。うち一人は山歩きがはじめて。崩壊箇所が少々心配ではあるので、念のためロープを用意し廃道散歩に出かける。



本日のルート;国道411号・船越橋へ>船越橋>廃道散歩スタート>9時32分>第Ⅰ崩壊箇所;9時35分(標高722m)>美しい岩壁の道;午前10時15分(標高735m)>第Ⅱ崩壊箇所;10時18分(標高735m)>第Ⅲ崩壊箇所;10時29分(標高752m)>第Ⅳ崩壊箇所;10時40分(標高782m)>第Ⅴ崩壊箇所:10時50分(標高782m)>美しい石組;10時52分(標高782m)>第Ⅵ崩壊箇所;11時2分(標高790m)>石垣と荒れた道;11時16分(標高744m)>第Ⅶ崩壊箇所;11時26分(標高794m)>第Ⅷ崩壊箇所;11時38分(標高808m)>第Ⅸ崩壊箇所;11時41分(標高788m)>林班界標;12時3分(標高768m)>泉水谷渡河;12時27分>三条新橋広場;12時50分(標高767m)>三条橋>;船越橋

国道411号・船越橋へ船越橋
アプローチを調べるに、東京からは中央高速を上野原インターで下り、県道33号から県道18号を進み「鶴峠」を越えて国道139号との重複区間を小菅村に。そこから再び県道18号を進み丹波山村に至り、国道411号を船越橋へのルートがよさそう。Google Street Viewでルートをチェックしても、道も山道といったものでもなくこのルートでと考える。
が、パーティの一人が青梅駅辺りでのピックアップが便利ということで、結局このルートは諦め、中央道から高尾で圏央道に入り青梅インターで下り、そこから一般道を青梅駅に。ここから延々と国道411号を走り丹波山村に。丹波山村役場入口交差点から4キロほど走り、羽根戸トンネルを抜けたところで丹波川に架かる船越橋を越えたところの駐車スペースに車をデポする。 実のところ、車をどこにデポしようかと悩んでいたのだが、Google Street Viewで船越橋辺りをチェックすると、橋の西詰めに車が数台駐車できるスペースが整備されていた。Google Street Viewって、誠に有難いサービスである。

船越橋
ところで、この船越橋が最初に架けられたのは明治11年(1878)。車をデポした駐車スペースの辺りから対岸に橋を渡していたようである。その後、大正9年(1920)には吊り橋に架けかえられるも、戦前・戦後の小河内ダム建設にともない実施された道路の付け替え工事の一環として、昭和30年(1955)に三重河原まで延長された車道は川の北岸を通したため橋は廃止される。
そして平成となり、車道の二車線化、さらにはトンネルを掘らず断崖に沿って進む「昭和」の道筋にトンネルを穿ち新たなルート、バイパス工事が実施され、 羽根戸トンネルが開通。そのトンネルを抜けたこの箇所に架けられたのが現在の船越トンネルである。
で、今回辿る廃道、明治に建設され新青梅街道とも「黒川通り」とも呼ばれた道であるが、山梨から丹波山村まで通じていたこの「黒川通り」のうち、昭和の車道建設の際に、大半は従来の「黒川通り」を改修して建設されたのだが、この船越橋から藤尾橋までの間は丹波川南岸の急峻な谷を高巻く明治のルートを避け、対岸の谷沿いに新道を通したため今に「残った」ものである。

○「新青梅街道・黒川通り」
『多摩源流を行く;瓜生卓造(東京書籍)』をもとに、「新青梅街道・黒川通り」をまとめておく;
明治6年(1873)、藤村紫郎が山梨県令に。県内の殖産を計るためは道路整備が重要と考え「甲州街道」「駿州往還(甲府から静岡;国道52号)」「駿信往還(韮崎から鰍沢;)などを整備する。黒川通りもその一環である。
この黒川通りが「新青梅街道」とも呼ばれた理由は、従来の氷川から小菅村、または丹波山村から大菩薩嶺を通って山梨と結ばれていた「青梅街道(中世の甲州街道)」に変えて、新たに柳沢峠を越える道を開いたことによる。構想は塩山から柳沢峠を越し、一之瀬、高橋に至り、丹波山から小河内、氷川、青梅へと通じる大道を開き、山梨と首都圏を結ぼうという壮大なもの。
翌7年(1874)、道路開通告示。街道道筋提示、工事は8年(1875)から開始。財ある者は金、財なきものは労力を提供せよ、と。多数の囚人も動員された。全域に渡り秩父古生層で硬く急峻な山を削り、岩を穿つ。工具は玄能、石ノミ、鍬、万能。土砂や岩はモッコと天秤。岩道はすべて手掘り。爆薬も硝酸類だけといった貧弱な状態で工事は困難を極めるも、5年ののちに開通。明治13年(1880)、落合で竣工式が行われ、明治20年(1887)には丹波山村で開通式が行われた山梨から丹波山村までは道が開かれ馬車が走れるようになった。しかし神奈川県(明治の頃、奥多摩は小河内村を除き韮山県をへて神奈川県に属した)も東京都も、この大道建設には積極的ではなかったようで、丹波山村から先に奥多摩に向かっての馬車が通れるような「大道」が拓かれるとこはなく、街道は丹波山村で止まった。丹波山から青梅までの10里近い険阻な道を開くのは大変なことであったのだろう。
その後、藤村の甲府と首都圏を結ぶ大道構想が浮上したのは、昭和10年(1934)代に入り小河内ダム計画が進んだことによる。ダム建設にともなう従来の道路の付け替え工事を上流の柳沢峠まで伸ばすことになり、工事費はダム建設の補償として東京府の予算で実行される。
昭和20年(1945)までに氷川から船越橋までが完成。戦中は工事中断するも、戦後昭和23年(1948)、ダム工事再開とともに昭和30年(1955)には三重河原まで開通、34年(1959)には藤尾まで開通した。このときの道筋にはトンネルはひとつもなかった、と言う。
新たに建設された新青梅街道のルートのうち、明治に開かれた黒川道のうち、「ふなこし(船越橋)」から三条河原をへて藤尾に至る丹波川右岸の道は計画から外された。これが今回辿る廃道区間である。丹波川や柳沢川の深い谷を高巻きする川右岸の高地斜面を避け、丹波山川・柳沢川 左岸の崖面に沿って道を通した。建設技術の進歩がそれを可能にしていたのだろう。
ついでのことだが、柳沢峠からの道を開く建議は青梅の小沢安右衛門との説もある。貧困から身を起こし、一代で巨商、仙台から長崎までを商圏に活躍。しかし慶応2年(1866)瀬戸内で1万2千両の荷を失い。青梅に戻り豆腐業に。明治元年(1868)、「甲斐国黒川通り新道切開願」を江川太郎左衛門に提出するも、明治の混乱期で停滞。明治8年(1874)、になって山梨県令藤村四郎から新道切開の命。9年着工。11年(1878)の完工。丹波山村奥秋から柳沢峠まで3里半。柳沢峠から甲府まで4里半。23カ所に橋を架けその総工費13万円。小川は380円を寄付した、と言う。

■新青梅街道
ここで、「新青梅街道」という言葉を使ったが、現在の国道411号が「青梅街道」、と称されるため、また、歴史上よく使われる江戸に青梅(成木村)の石灰を運ぶために造られた青梅街道(成木街道)などがあり、ちょっと混乱しそう。 ここで言う「(新)青梅街道」とは青梅・奥多摩方面から進んできた道といったものであろう。明治20年(1887)の黒川通りが開かれるまでは江戸・青梅・奥多摩方面から甲州に抜ける道(青梅街道;中世の甲州街道)は丹波山村より先の渓谷を遡上する街道はなく、江戸から甲斐に向かうには中世の甲州街道と同じ道筋を進んだようであり、その道筋(青梅街道;中世の甲州街道)は、小菅村から「牛の寝通り」の尾根道を辿り大菩薩嶺に進むか、小菅川の源流部を遡上し尾根道上がりに大菩薩嶺を経て甲斐に出る、または、この丹波山村からマリコ沢を遡上し尾根道を大菩薩嶺を越えて甲斐に向かったとのことである。 この「青梅街道」、大菩薩峠越えのルートではなく、柳沢峠を越えて甲斐に向かうルート「黒川道」が開かれたため、それを称して「新青梅街道」としたのではあろう。



廃道散歩スタート;9時32分
車のデポ地点の対面に短いガードレールがあり、その先に階段がある。そこが廃道への入口。30段程度の階段を上ると平坦な道が拓かれている。馬車であればすれ違いができるほどの広さである。道は少々荒れてはいるが歩くに支障はない。







第Ⅰ崩壊箇所;9時35分(標高722m)

が、その道を数十メートルほど進むと道が崩壊している。崩壊の幅も30mから40mといったものだろうか。斜面はそれほど急でなないが、ガレ場(砕石が)となっており、足元がガラガラ崩れてゆく。谷との比高差も40mほどであり、また、急峻な崖というわけでもないので足元を滑らせても谷に一直線に落ちるといった恐怖はないが、それなりに危険な箇所となっている。
パーティのうち2名はガレ場をなんとか進み終えたが、まったくの初心者には少々荷が重いだろうと、少し高巻きし斜面に生える木立にロープを巻き、渡り終える。普通に通れば数分でクリアできただろうが、高巻きやロープを使ったため渡り終えるために20分程度かかった(崩壊箇所クリア時刻;9時55分)。

美しい岩壁の道;午前10時15分(標高735m)
ロープ整理などをし終え、10時頃第Ⅰ崩壊箇所から先に向かう。しばらく平坦な道が続く。途中ちょっと道が消えるといった箇所はあるが、ガレ場でもなく普通に通り抜けることができる。
道を進むと前面に岩壁を開削した箇所が現れる。美しい景観である。場所は対岸の国道411号・丹波山トンネルの出口(入口)に向かって突き出した箇所。ここでも川からの比高差は40mほどではある。







第Ⅱ崩壊箇所;10時18分(標高735m)
岩壁を開削した箇所を廻り込むと直ぐに第二の崩壊箇所が現れた。崩壊した距離は短いのだが、道筋より上部も急勾配、しかも崖下は急角度で落ちており結構危険。
岩場に沿って高巻きし、岩に手掛かりを見付けながら渡り終える。崩壊道歩きがはじめての人「デビュタント」には、念のためここも岩場の上の立木にロープをかけ渡ってもらう。第Ⅰ崩壊箇所のガレ場のほうがずっと気持ちが楽ではあった(崩壊箇所クリア時刻;10時27分)。



第Ⅲ崩壊箇所;10時29分(標高752m)
二番目の崩壊箇所を渡り終え、ほっとしたのも束の間、第三の崩壊箇所が現れる。距離は数メートルではあるが、道が完全に消え去っている。ここも注意して渡り、立木にロープを廻し、ロープを頼りになんとか渡り終える。それにしても、こんなひどい崩壊道とは思っていなかった。誠に厳しい(崩壊箇所クリア時刻;10時35分)。





第Ⅳ崩壊箇所;10時40分(標高782m)
三番目の崩壊箇所を越え、切り込んだ沢を廻り切る辺りで、また道が完全に消えている。幅も20mほどはありそうだが、ガレ場でもなく、足元も結構しっかりしているので、山側に体重をかけ斜面の立木を掴みながら渡り終える。ここではロープは出さなかった(崩壊箇所クリア時刻;10時43分)。









第Ⅴ崩壊箇所:10時50分(標高782m)
第四の崩壊箇所から10分程度進むと五番目の崩壊箇所。それほど厳しくはないが、念のためロープを出して進む。









美しい石組;10時52分(標高782m)
先に進むと、しっかりと組まれた石垣が残る。明治に組まれたものが今に残る。 廃道歩きは、この景観のイメージではあったのだが、今のところ崩壊した道のクリア補助で精一杯といったところである。
川に少し突き出た石組みの道を回り込むと道は荒れ倒木、ガレ場となる。ガレ場はそれほど厳しくもないが、今までの5箇所の崩壊箇所で結構気分的に疲れている「廃道デビュタント」のためにロープを出す。



第Ⅵ崩壊箇所;11時2分(標高790m)
道を進むとまたまた前面に巨大な崩壊箇所が現れる。幅は20m強。歩を進めると足元の砕石が崩れ落ちるガレ場となっている。アプローチを探すに、ガレ場の中間点に立木がある。足場を固めながら立木まで進み、そこにロープを廻し、ガレ場で足を滑らせてもロープを放さなければ滑落はしないようにして全員がガレ場をクリア(崩壊箇所クリア時刻;11時15分)。



石垣と荒れた道;11時16分(標高744m)
崩壊箇所の先は少々荒れた道としっかい組まれた石垣。石垣の上まで土砂崩れが押し寄せており、ここもそのうちに崩壊箇所となるのだろうか。







第Ⅶ崩壊箇所;11時26分(標高794m)
今回の廃道崩壊箇所で最も危険だった箇所。幅は10mほどなのだが、崖下が切れ込み、滑落したら結構谷下まで落ちていきそう。慎重に、一歩ずつ足場を造りながら渡り終え立木にロープを廻し、ロープを掴んで崩壊箇所を渡ってもらうことにしたのだが、「廃道デビュタント」が途中で足を滑らし、ロープを掴んだまま崖の斜面に体を委ねた状態に。
あたりまでだが、ロープを離さないように、と指示。幸い「廃道デビュタント」は落ち着いた態度であり、ロープを握りしめ、ゆっくり体を起こし崩壊箇所を渡り切った(崩壊箇所クリア時刻;11時35分)。



第Ⅷ崩壊箇所;11時38分(標高808m)
危険な崩壊箇所から数分で石垣の上が土砂崩れ状態。岩場に沿って高巻きしクリア。








第Ⅸ崩壊箇所;11時41分(標高788m)
崩壊箇所をクリアすると一休みする間もなく巨大な崩壊箇所が現れる。上から下まで白い砕石のガレ場。幅は広いのだが、谷への斜面の傾斜がそれほど急ではないので、足場を踏み固めて道をつくり。そこをゆっくりと渡ってもらう。結果的にここが前半最後の崩壊箇所であった(11時50分)。






林班界標;12時3分(標高768m)
最後の崩壊箇所を越えると道は平坦になり、右手すぐ下に丹波川も見えてくる。紅葉も色づきはじめた景観を楽しみながら先に進むと「林班界標丹波山分区54 水道水源林 東京都水道局」の標識が立つ。
「林班界標」とは森林管理のための境界区分を示すもの。おおよそ50ヘクタール内となるように尾根筋、沢筋を元に区切りをしているようである。「54の右手には55なのか、53なのか、といった数字はないが、右手は丹波川であるため数字はないのだろう。山に入っていけば「54|55」などといった林班界標はあるのだろう。
それはそれとして、この地は山梨県ではあるが「林班界標」には「水道水源林 東京都水道局」とある。その理由は多摩川水源域の安定した河川流量の確保と小河内貯水池(奥多摩湖)の保全を図るため困難な交渉の結果、東京都が山梨県より水道水源林として譲り受けたことによる。

○東京都水道水源林
東京都水道水源林とは、多摩川水源域の安定した河川流量の確保と小河内貯水池(奥多摩湖)の保全を図るため東京都水道局が管理している多摩川上流の森林のこと。その範囲は東京都の奥多摩町、山梨県下の丹波山村、小菅村、甲州市までカバーしている。各市町村に占める水源林の占める割合を地図で見ると、大雑把ではあるが、奥多摩町は北半分、埼玉県との境となる長沢背稜までが水源林、小菅村は村域の西半分と小河内村との境を接する南域の一部、丹波山村は青梅街道の南北の村域を除いたおおよそ7割、甲州市は、東は丹波山村との境、北は埼玉県境の尾根道、西は笠取山から柳沢峠へと続く尾根道に囲まれた一帯が東京都の水源林となっている。

■東京都水道水源林の歴史
東京都の面積の10%に相当するまでの水源林となるまでは長い歴史があるようだ。江戸時代の奥多摩の山々には多くの幕府直轄の「お止め山」があった。その数、34箇所、2000町歩(2000ヘクタール)にもなった、とか。森林は厳しく管理され、村民には火災防止の義務などを課せされる代わりとして、入会権が認められ茅や薪といったに日常資材の採取、また「サス畑(焼畑)」も認められ(収穫の一部は上納)、定期的に人の手が入り山が荒れることはなかったようだ。

その状況は明治の御維新で一変。「お止め山」は維新後に皇室の御料林や県有林となる。それにともない、村の入会権は認められなくなり、薪も手に入らなくなった村は一部国から山林を買い取り村有林とする必要にも迫られた。幕府の厳しい管理下からはずれ、また、入会地として日常的に人の手が入っていた山林に人が入らなくなるにつれ、山林の荒廃が進む。明治維新から明治30年(1897)にかけての状況である。
東京府の水源地である多摩川最上流部の荒廃に危惧を覚えた東京府知事千家氏は明治34年(1901)、本多静六氏を水源林に派遣。川の汚濁、山津波、盗伐、濫伐、放火の状況を把握。笠取山も丹波山、小菅も日原も森林は荒廃し、禿げ山だらけとなっていた。その対策として、宮内省と交渉し丹波山、小菅両村御料林の譲渡を受け、同時に日原川流域の民有地を保安林に編入。これで日原、丹波山、小菅の核心部は東京府の水源林として確保した。
しかし状況は深刻で植林もできない状態。まずは治山からはじめる必要があったようである。『多摩源流を行く;瓜生卓造(東京書籍)』によれば、泉水谷を遡上した山中に学校尾根、学校向尾根といった尾根があるが、それは明治末に50組の炭焼きが岐阜から入植。泉水谷小屋はその子弟の学校跡。尾根の名前はその名残りである。
炭焼きが入った理由は荒廃した森林を涵養しようにもその予算がなく木炭の売却益を植林費用に充てようとの目算。当初は粗悪天然林を伐採し売却益を人工植林の費用に充てるべく裂石から丸川峠の索道を曳くなどの手当てをするも買い手がなく断念。
それではと、木炭として売却するために炭焼きが入植したわけだが、水害で大黒茂谷の平坦地に移るも結局は炭焼き事業も断念。地元の人でさえ炭焼きに泉水谷にも大黒茂谷にも入っていない、そんな過酷なところでの炭焼きであったようである。
それはともあれ、明治41年(1908)には東京市民の水源管理は東京市が管理すべきと当時の東京市長尾崎行雄は自ら現地調査し東京市による水源地経営案を作成し、明治43年(1910)市議会で決議を受け東京府より水源林の譲渡を受ける。明治45年(1912)には最後の懸案事項である山梨県との交渉も解決。多摩川源流である水干のある笠取山南面は山梨県林として下賜されており、その地域を買収すべく困難な交渉のすえ譲渡を受けることができた。
その後も水源林買収が進む。大正年間には奥多摩町の公私有林、昭和8年(1933)には日原川上流の私有林、戦後の昭和25年(1950)に奥多摩町古里の私有林、ダム完成後には湖岸の私有林などを買収し現在に至る。

泉水谷渡河;12時27分
「林班界標」を越えて道なりに進む。しばらく進むと沢筋が右手に見え、堰堤などがある。カシミール3Dのマップカッターで切り取りGarminに入れた2万5千分の一の地図でチェックすると、泉水谷が丹波川に合流する辺りから結構離れて南に来ている。成り行きで行けば三条河原へと進むのかと思っていたのだが、三条河原への渡河地点を探さなければならないようである。
道を戻り泉水谷が左手に見える辺りまで戻り、渡河地点を探す。と、川に簡易木橋が見える。道を下り川床に置かれた木橋を進むと川の途中で橋が切れている。仕方なく少し上流に進み浅瀬を渡り泉水谷左岸に。
護岸工事がなされた泉水谷左岸を歩き、川の途中で切れた木橋辺りまで戻る。木橋があるということは、その辺りに林道へ上る道があるだろう、との思いである。
予想に違わず林道へと上る石段があった。それと、石段脇にロープに繋がれた鉄板がころがっている。これって、途中で切れた木橋の先の部分に渡しておいたものだろう。台風か何かの折り、引き揚げられそのままになっていたのだろうか。いらぬお節介とは思いながらも、鉄板を川に落とし木橋から鉄板を渡り泉水谷左岸に渡れるようにしておいた。
実のところ、後からわかったのだが、泉水谷に架かっていた橋の石組みの橋台跡が残る、とのこと。橋は「三条橋」とも「小室橋」とも称されたようである。旧道後半部の林道へと繋ぎを考えれば木橋より少し下流にあったのだろうが見逃した。ちょっと残念(渡河終了;12時35分)。

泉水谷林道;12時48分(標高755m)
石段を上り、泉水谷林道に上る。この林道は泉水谷に沿って上り、大黒茂谷の沢を越え牛首沢に。林道はそこからV字に折り返し、「泉水中段線」という林道名で黒川山(鶏冠山)方面の横手山峠近くの三本木峠を経て青梅街道・国道411号に出る。この林道の全ルートは「泉水横手山林道」と呼ばれている。
『多摩源流を行く;瓜生卓造(東京書籍)』によれば、この泉水谷林道は「日本深山」と言う民間企業によって開かれたとある。安井誠一郎戸都知事の頃である。本来この地域は東京都の水源涵養林であり伐採はできないはずではあるのだが、高度成長時代の時勢もあってか伐採が許可された、とか。当初は国道411号の「御祭集落」の先に北から多摩川に注ぐ後山川を遡った「後山林道」を開き伐採を開始したがうまくいかず、この泉水谷に移り伐採をおこなった。日本深山の活動は昭和28年(1953)から昭和34、35年(1959,1960)まで続いたとのことである。

三条新橋広場;12時50分(標高767m)
泉水谷林道を少し下り、車の進入を禁ずるゲートを越えると広場になっている。「三条新橋広場」と呼ばれるようである。「三条新橋広場」には車を停めるスペースもある。その駐車場の対面に「黒川通り」の後半部の道が見えている。 「黒川通り」の前半部はここで終了。本来の予定では、ここから後半部の4キロ程度を進む予定ではいたのだが、「廃道デビュタント」の心身ともの疲労が激しく、今回はここで廃道歩きを終え、残りは次回とすることに。

三条橋
車をデポした船越橋まで戻る。三条新橋広場を少し進むと三条橋が架かる。橋からの眺めは美しい。この辺りを「三重河原」と称するが、それは小室川が合流した泉水谷が丹波川に合わさることによる。

船越橋
国道411号を進み、「丹波山トンネル(竣工平成12年(2000))」を抜け、大常木橋を渡りデポ地点の船越橋西詰めに戻る。色つきはじめた丹波川や山肌の紅葉、結構怖い思いをしながら辿ったであろう、丹波川南岸の山肌を眺めながらデポ地点へ戻り、車で一路家路へと。

それにしても予想以上の崩壊道であった。山歩きのベテランのガイドが一緒でなければ、この廃道歩きはお勧めできない。万が一の安全の為にもロープ必須。10mロープ2本を、回収を容易にするため繋ぎ合わせ、木に廻したため10mの距離でのロープ確保となったが、10mではきちんとした支点確保ができないところもあり、身体を張っての確保といった危険な状況もあった(「デビュタント」が滑ったとき)。重いので敬遠していたが、30mのロープ一本買う時期かもしれない
裏高尾・沢遡上;小下沢をのんびり歩く あまりに暑い都心を避け、思い立って近場の沢に行くことにした。急なことでもあり今回は単独行。あれこれチェックし、ある程度土地勘もある裏高尾の小下(おげ)沢に決めた。
なにせ近い。JR高尾駅から小仏峠行のバスに乗るわけだが、奥多摩や秋川に行くことを想えば、ほとんどご近所さん、といった処。小仏峠や景信山、陣馬山に行くときに、幾度となくJR高尾駅からのバスを利用しており、バスの時刻もそれほど気にしなくても、なんとかなりそうである。ということで、おっとり刀で準備し一路JR高尾駅へと向かう。




本日のルート;R高尾北口>入渓点;9時22分?標高256m>終了点;13時15分?標高402m

JR高尾北口
京王線に乗り京王高尾駅に。そこからJRのホームを経由しJR高尾駅北口に。ぼんやりと憶えていたように、小仏峠行のバスは午前8時、9時、10時台には1時間に3便走っていた。成り行きでバスに乗り、圏央道と中央道のジャンクションなどを眺めながら、最寄りのバス停である大下バス停に。バス停は小仏バス停のひとつ手前のバス停であった。


入渓点;9時22分‗標高256m
大下(おおしも)バス停から少し高尾側に戻り、道がJR中央線を潜る手前で分岐する木下沢林道に入る。この林道は関場峠へと続いている。途中、景信山への登山道もあるようだ。
それにしても、「大下」、「小下(こげ)」、「木下(こげ)」とややこしい。林道を管理する都は「木下沢林道」と呼び、国有林を管理する国は「小下沢国有林」、国土地理院の地図には「小下沢」と表記されているが、国の機関故のことであろうか。「大下」と「小下」の組み合わせは不詳である。
道なりに進み中央道の橋桁を潜り、道の左右にフェンスで覆われた木下沢梅林の、そのフェンスが切れるあたりに踏み跡があり、そこから沢に入る。

終了点;13時15分‗標高402m
で、入渓準備を行い沢を進み始めるのだが、正直、沢の本流にはこれと言った滝もなければ、釜もなく、沢に沿って林道を歩く登山者とほとんど同じ目線レベルといった比高差。ワークマンで買った作業用ヘルメットやハーネス、脛当てといった姿が少々気恥しいといったのんびりとした美しい渓流である。
途中2ヵ所ほど堰堤があり、歩き始めて2時間ほど、景信山への登山道に架かる木橋の少し先にある最初の堰堤(11時27分)は林道側から巻いたので、どうと言うこともなかったのだが、そこから30分ほど歩いた2番目の堰堤(12時)を林道の逆、右岸を高巻し、そこは懸垂下降で下りることにはなったが、これとて林道側を巻けば、どうと言うことがなかったはずである。




ことほど左様に、沢登りと言うよりもWater Walkingという表現がいいかもしれない。渓流のあちこちで家族連れが楽しく水遊びをしている中を大層な恰好をして歩くわけである。
横を通る登山者からも、何を酔狂なと言いたげなチラ見や挨拶を投げかけられるわけで、転倒の備えてのヘルメットはあったほうがいいだろうが、それ以外の装備は全く不要である。

それにしても、この沢は遡上時間が誠に長い。ガイドには終点とする2段5mの滝までは2時間強とあったが、二番目の堰堤を越え、左手から流れ込む沢にちょっと入り3段10mの滝を眺め、沢に倒木が多くなり遡行を止めたのが13時前。おおよそ3時間半ほど歩いたことになる。
ガイドにある予想遡上時間より大幅に時間が長い。どこかで長い休憩を取ったわけでもないので、それほど間違っているとも思えない。誠に単調だか、美しい沢を延々と歩いたわけである。


余りに長く歩いたため、途中のどこかで知らずに終点としていた2段5mの滝を越えたのだろうと遡行を止めたのだが、着替えを終え、ちょっと気になり、林道を少し上ると誠に見事な2段5m滝(13時45分)があった。もう少し沢を歩けば、ちょっと骨のありそうな滝に取りつけたかとも思うが、後の祭りであった。
2段5mの滝の辺りでのんびりし、バス停に向かって戻りはじめたのが午後2時頃。これまたのんびりと1時間ほどかけて林道を戻り一路家路へと向かった。

○ポイントの時間をメモしておく

入渓点;9時22分>景信山登山道の木橋とクロス;11時20分>第一堰堤;11時27分>第二堰堤; 12時>終点12時45分

小下沢のあれこれ
○初心者も安心して歩ける沢 険しい滝もなければ、深い釜もない。美しい渓谷をひたすら歩くだけである。念のためにヘルメットはあったほうがいいとは思うが、その他の装備は必要ない。2ヵ所の堰堤も林道を迂回すればいい。先回歩いた月夜見沢前半と同じレベルかと思う。

林道がすぐ傍を通る
小下沢に沿って関場峠、景信山へと向かう林道が通る。上にもメモしたように、比高差もなく、疲れればいつでも林道にエスケープできる。道を登山者が通るのも気持ちのうえで安心できる。また、沢で家族連れが川遊びをしている、そんな沢である。昔はキャンプ場もあったのだろうが、今回歩いた感じては、それらしき施設は見当たらなかった。


都心から誠に近い
奥多摩や秋川、また丹沢の沢となれば早朝出発といったことになるだろうが、この沢は高尾駅からバスに乗ればいいわけで、誠に都心から近い。バスの便も結構多い。
沢に入るまでは、水の汚れや廃棄物がなどと気になっていたのだが、そんな心配はまるでなく、誠に美しい渓流である。ちょっと涼を求めて水の中を歩くだけで十分な魅力をもつ沢であった。



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