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襷リレーの最終区、調布から杉並・和泉に。調布から和泉まではふたつのルートで歩いた。
ひとつは調布から京王線に沿って、旧甲州街道・甲州街道を杉並・和泉まで歩くルート。これは会社の社員の家が国領にあり、ちょっとした御もてなしを受け、お開きとなり歩いて帰宅した時。
もうひとつは調布から深大寺、東八道路をへて久我山から杉並・和泉へのルート。これは娘の調布マラソンの応援に出向き、帰り道を歩くことにした時。もう半年もむかしのことなので、記憶ほとんど残ってはいない。が、ともあれ調布>甲州街道ルート。
 

調布>甲州街道ルート

国領

調布駅スタート。旧甲州街道を布田方面に。布田は麻布の材料となる麻生の材料が植えられた土地・田があったのだろう。国領駅に。日本橋から数えて4番目の宿場。駅前に異様な高層マンション。ランドマークにはなるだろうが、少々違和感。で、国領の由来。古代から中世にかけての国衙領、つまりは荘園に対する公領がこの地にあったからだろうか。そういえば近くに、飛田給とか、上給といった地名もある。

国領駅を過ぎると、旧甲州街道は甲州街道に合流。これからしばらくは車の排気ガスをたっぷり吸うことになる。調布警察署前を越えるとすぐに野川と交差。柴崎駅を越え、つつじケ丘交番前を右折。
京王つつじケ丘駅前に入る。駅前に書源という書店。どこにいっても金太郎飴みたいな書店が多いこのご時世、この本屋さんだけは品揃えに何かを感じる。とはいいながら、一時期いろんな店を探し回ったがなかなか見つからなかった『国銅(上・下)』(帚木蓬生著・新潮社刊)がこの店にあったという理由だけなのだが。見つけたときは結構うれしかった。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


国分寺崖線
京王線にそって進む。入間川を越えたあたり、前方に壁。いわゆる国分寺崖線であるのだが、そのときは崖線といった言葉も知る由もなく、ひたすら、壁に圧倒される。どこから上ればいいか、壁の割れ目を探す。急な坂。上りきる。と、脇に実篤公園があった。実篤公園については先日の散歩でメモしておいた。

仙川駅を越え、足元に京王線を見ながら進む。結構丘が高い。丘を下り仙川に。川沿いの遊歩道を甲州街道まで戻り、再び旧甲州街道に。

給田地区。給田という以上、このあたり、幕府や荘園領主が御家人・荘官に給料のかわりに「田」をあたえていたのだろう。こうして律令制の基本となる、公地公民制が崩れていくのだろう。

ともあれ、京王線千歳烏山、芦花公園と進む。烏山はカラスの多く巣くう森があったからとか、黒い土からなっていたとか。千歳は歴史的由来なし。いくつかの村が合併するとき、御めでたい名前をつけただけ。芦花公園は明治の文豪徳富蘆花の住居「蘆花恒春園」が近くにあったから。「不如帰」とか「自然と人間」などで知られる。
そういえば、逗子の海岸端、田越川が逗子湾に注ぐ河口に蘆花記念公園があった。その地が「不如帰」を執筆したところだと。また、逗子海水浴場の鎌倉寄りのところに浪子不動がある。不如帰の舞台ともなったところであり、ヒロイン浪子の名前をとったお不動さんがつくられたのだろう。

環八手前で旧甲州街道は甲州街道と合流。環八を過ぎ、八幡山、上北沢、桜上水から下高井戸に。八幡山は八幡神社がある里山というか森、というか林があったから。「桜上水」は、近くの玉川上水の堤に桜並木があったことから。高井戸は、高いところに井戸があったから、とか、高いところにお堂=高いお堂=たかいど、となったとか、これも例によっていろいろ。下高井戸は日本橋から数えて2番目の宿場町。あとは、神田川沿いに遊歩道を歩き和泉の我が家まで歩き本日の予定終了。

甲州街道
で。甲州街道。徳川幕府が制定した5街道のひとつ。日本橋から甲府、ではなく信州・下諏訪までの53里の街道。このメモをまとめるまで、甲州=甲府まで、と思い込んでいた。江戸初期は参勤交代にこの街道を利用するのは、伊那の高遠藩、飯田長姫の飯田藩、諏訪の高島藩の3大名のみ。中仙道に比べて閑散としていたようだ。下高井戸宿あたりなど、昼なお暗きといった様相だったとか。が、将軍家御用のお茶を宇治から江戸まで運ぶ「お茶壺道中」がはじまった頃、5代将軍綱吉の頃からは少々賑わいをみせてくる。ちなみに徳川幕府制定の5街道とは、東海道、中仙道、甲州街 道、日光街道、奥州街道。


調布>深大寺>東八道路
調布から杉並・和泉への散歩道のあとひとつは、甲州街道を離れ深大寺>東八道路>中央高速道交差>環八>和泉へのルート。
調布から旧甲州街道を布田駅まで歩き、布田駅交差点を左折、甲州街道の下布田交差点を北に三鷹通りに。八雲台交差点を越え、野川と交差。佐須町の交差点を越え、中央高速の下をくぐれば深大寺湿地。
が、しかし、ここに湿地があることは、このメモをまとめることになってはじめてわかった。深大寺散歩をした当時、といっても半年前だが、その頃はただひたすら歩くだけ。地形のうねりも、湧水も、崖も、城址も頓着しなかった。
で、深大寺湿地を見落とし深大寺小学校前に。結構歴史のありそうな学校。実際、前身となる学校は明治6年、というから、「邑ニ不学ノ戸ナク 家ニ不学ノ人ナカラシメン」といった明治5年の学制令発布の翌年に建てられたという。深大寺の末寺、多門院を使ってはじめたとのこと。左に曲がれば深大寺の入口だったようなのだが、道案内がよくわからず坂を直進。青渭神社前に。

青渭神社
縁起;往古、この辺りに大きな青い沼。ために、青沼大明神とも呼ばれる。祭神は青渭神。出雲系・農耕・農作物の神。本殿の建築は、江戸時代初期のもの。ケヤキは、市天然記念物。 

深大寺
神社を出て、結構今風の公園脇を深大寺植物公園に向って奥に進む。適当なところで左折し深大寺へと。途中鬱蒼とした森というか林を進む。つまるところは、深大寺の裏手からアプローチとなったわけ。深大寺は天台宗の古刹。天平5年(733)、満功(まんくう)上人によって創建されたと伝えられる、関東では浅草寺についで古い寺。
深大寺周辺は国分寺崖線が通り、「ハケ」から湧く豊富な水が、せせらぎや滝をつくる。釈迦堂には白鳳仏。奥の木立の中に、秘仏をまつる水神深沙大王堂がある。

深沙大王堂といえば、深大寺縁起にこんな話しが;その昔、この地は郷長右近(さとおさうこん)によって治められていた。福満(ふくまん)という青年が現れる。右近の娘と恋に落ちる。右近は二人の仲を許さず、娘を池の島へ隠す。福満は深沙大王にお願いの儀。「大王様のお力で、島に渡らせてほしい。願い叶えば、里の鎮守としておまつりする」と。池から霊亀が現れる。福満は亀の背中に乗り島へ渡り娘を助け出す。右近も二人の仲を認め、結婚を許す。子は満功(まんくう)。父と深沙大王との約束を受け継ぎ、唐へ渡り、教義を究めてこの地に戻り、733年に深大寺をつくったと。福満といい満功といい、いかにも渡来系。古来、調布から狛江にかけて移り住んでいた渡来系氏族と武蔵野の地に住んでいた先住氏族の異文化交流を表しているのかも。

深大寺からは三鷹通りを離れ住宅街というか農家・畑の間を東に向う。中央高速手前、昇華学園交差点あたりで北に。原山交差点、中原3丁目の交差点、杏林大学病院入口を越え、仙川公園を過ぎれば仙川と交差。新川交番前交差点で東八通りに。

東八道路を天神前北浦、新川天神前、三鷹台団地入り口と進む。このあたりで道路が狭くなる。牟礼地区を進む。が、歩道はない。車に気を使いながら国学院久我山を過ぎ、NHK運動場の近くを進む。このあたり、玉川上水散歩で歩いた。ずっと続いた玉川上水の開渠が暗渠と消える地点。さらに進み中央高速にあたる。後は中央高速に沿って、高井戸出口、第六点神社を越え環八から一路和泉まで。

深大寺湿地、そしてそ深大寺城址
で今回見逃した深大寺湿地、そしてその中にある深大寺城址についてメモしておく。本当にこの時代は敵味方錯綜し、なにがなんだかわからなくなってしまう。はてさて、この深大寺城址をめぐる人物・イベントであるが;
1.作った人;扇谷上杉朝定。武州松山の難波田弾正広宗に命じ古い砦跡を急遽改修してつくった
2.目的;後北条氏、北条氏綱の侵攻に備える。後北条氏とは、伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)を初代とする小田原北条氏五代。鎌倉時代の執権北条氏と区別して「後北条氏」と呼ぶ。
3.経緯;室町幕府の支配権が衰えると世は戦国時代へ。そんな16世紀前半、関東は管領上杉氏と北条早雲を祖とする新興勢力の後北条氏との覇権を争う場となっていた。北条氏綱が高縄原合戦(現在の高輪台)で勝利し江戸城を奪取。扇谷上杉氏の本拠・河越城攻撃を計画。それに備えるためつくったのが深大寺城。
4.カウンター:北条氏綱は牟礼・烏山に砦、深大寺城に対する付け城を築いて封鎖し、深大寺を力攻めすることなく、河越城へ進む。
5.武藏三ツ木原(西武新宿線・新狭山)で扇谷上杉軍と合戦。北条氏勝利。一気に上杉勢の本拠地である河越城まで一気に侵攻。
6.結果;上杉軍は総崩れ。河越城を捨てて松山城に退却。江戸城攻防から河越城攻防までは一方的に北条氏の勝利。その後の第一次国府台合戦、そして日本三大夜戦のひとつとも呼ばれる河越夜戦において北条氏決定的勝利。関東の覇者として君臨
7.深大寺城の位置づけ;戦略的意味がなくなり。廃城。
8.ついでに;高縄原の激戦(高輪台)。大永4年(1524年)、江戸城を守る扇谷上杉朝興(太田道灌を暗殺した扇谷上杉定正の2代あと)と、関東攻略を図る北条氏綱が高縄原(今の高輪台辺)で激突した。上杉軍、江戸城へ退却。太田道灌の孫、太田資高、資貞兄弟の内応で江戸城は陥落。そして夜になると闇にまぎれて川越へ落ちる朝興を板橋近辺まで追撃。勝った北条軍、一ッ木原(赤坂),勝鬨を。
ともあれ、この深大寺あたり、お寺とかそば以外に地形的にも面白い。日を改めて再度歩くべし。

分倍河原から調布まで:分倍河原の高安寺。京王線の社内・京王線沿線案内だったかと思うが、高安寺の案内を目にした。由緒深げなお寺。出かけてみようとなり、それが調布まで、調布から和泉まで、そして先回メモの多摩の南大沢から分倍河原まで、という襷リレーの発端となった。



高安寺
高安寺。分倍河原の駅を下りて旧甲州街道・片町2丁目の交差点を過ぎ境内に。由来は、足利尊氏が戦でなくなった将士をとむらうため全国66カ国2島に建てた寺・安国寺のひとつ。どっしりとして、素朴な山門が名高い。
この古刹のある地区・片町の由来は甲州街道の南側がこのお寺で占められたおり、道の北側にしか町屋がなかったため。この寺の往時の隆盛がしのばれる。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


このお寺、歴史はずっと昔に遡る。天慶9年(西暦940年)俵藤太秀郷がここに館を構えたとか。俵藤太秀郷といえば、なんとなく記憶にあるのは「ムカデ退治」、そして「平将門討伐」ということ。境内には秀郷稲荷が。また、分倍河原の合戦の折、新田義貞がここを本陣とした。室町時代には鎌倉公方・足利氏の戦陣・本営として、また戦国時代には上杉氏や後北条氏の戦略上の要となっている。つまりは、武蔵野国の中心であった、ということか。

で、なぜ府中なのか、とは思うが、鎌倉というか藤沢の腰越で鎌倉入りを許されなかった義経が、頼朝宛に書状をしたためるときの硯に注いだ水といわれる弁慶硯の井戸が。なぞだ?、というか伝説ってそんなもんかも。
俵藤太秀郷についてちょっとメモ。秀郷は平将門の乱に際して押領使(おうりょうし;暴徒鎮圧の任にあたる。国司・郡司・地方の豪族が任じられることが多い)に任ぜられ、将門追討の勅命。一度は敗退。が、平貞盛らと協力し下総国(現・茨城県)にて将門を破り、乱を平定。この功積によって秀郷は従四位を賜わり、下野守に任ぜられた。

大国魂神社
旧甲州街道を進み、JR武蔵野線、府中街道を越え旧甲州街道沿いに大国魂神社。大国魂神社と呼ば れるようになったのは明治から。神社の東・宮町には古代、武蔵の国府があったところ。で、この神社、国司が武蔵の一宮から六宮までの六社をこの地にまつり、武蔵の総社としたのがはじまり。ために、六所宮・六社神社とも呼ばれていた。
本殿のうち中殿には大国魂大神・御霊大神・国内諸神、東殿には小野大神・小河大神・氷川大神、西殿には秩父大神・杉山大神・金佐奈大神がまつられる。現在の本殿は寛文7年(西暦1667年)徳川家綱がたてたもの。また 本殿の隣に東照宮が。いかにも徳川家の庇護篤かりしことが偲ばれる。

府中駅の東・都道133号線は、往古大国魂神社の参道。正面大鳥居から約500mに渡って欅(ケヤキ)並木が続く。 平安時代末に源頼義が前九年の役への出陣に際し、戦勝を祈願して奉納したのが始まり。江戸時代には徳川家康がその故事にならい、関が原の戦い・大坂の陣の折に奉納。 国の天然記念物に指定されている。この神社、毎年、5月5日に開催される「くらやみ祭り」で有名。で、前九年の役のメモ;平安時代中期、朝廷(源頼義・義家)と東北の豪族安倍氏の戦い。源氏方が清原氏の味方を得て平定。源氏が東国に覇を唱える礎となった。

宮前地区を越え、八幡宿の交差点。聖武天皇の時代に建てられた武蔵の国の八幡宮があるのだろう。地図にでていなかったのでスキップした。京王競馬場線と京王本線が接近。旧甲州街道が京王本線と交差。越えるとすぐ京王競馬場線の始点・東府中駅。

道なりに進み白糸台1丁目の交差点を越え、不動尊前交差点。北に向かえば多摩霊園。ちょっと手前に染屋不動尊。身の丈50センチ程の阿弥陀如来像が奉られてる。新田義貞の挙兵に馳せ参じたものが、この地に残したと。染屋の地名は布を染める染屋があった、とか。

車返団地入口
西武多摩川線と交差。少し歩くと車返団地入口交差点。昔同じ職場で働いていた人がここに住んでおり、一度車で送ってきたことがある。で、そのときの刷り込みで車=マイカー=新しい地名、と思っていた。調べてみると。由緒書きに「地名の起こりは、本願寺の縁起によると、源頼朝が奥州藤原氏との戦いの折、秀衡の持仏であった薬師如来を畠山重忠に命じて鎌倉へ移送中に当地で野営したところ、夢告によってこの地に草庵を結んで仏像を安置し、車はもとへ返したことに由来するといわれます。」と。

白糸台地区を越え飛田給駅入口交差点に。交差点のちょっと手前の道路脇に薬師堂と行人塚。江戸の頃、仙台藩の医師、松前何某が自ら彫った薬師如来像を残し、穴を掘って入定。村人が堂を建てて薬師如来を奉ったのが由来となっている。

飛田給
飛田給。味の素スタジアムには何度か。で、飛田給の地名の由来、例によっていくつか、飛田給とは悲田給(ヒデンキュウ)のこと。奈良時代、孤児・貧窮者を救済する悲田院の給地(所有地)がこのあたりにあった。で、その悲が後に飛に転化したのだという説。また、当時荘園を管理する荘官の名前、飛田氏が領主から この土地を与えられた、といった話も。どちらも在り得る話。

調布
上石原1丁目あたりで中央高速くぐると西調布駅。後は一気に調布駅まで。本日の予定は終了。

で、 高安寺・俵藤太秀郷のムカデ退治。大津・瀬田の唐橋を渡る田原藤太。橋に大蛇。怯むことなく通り渡る。その武勇を見た大蛇、女に変身し藤太のもとへ。仇敵 ムカデ退治を依頼する。藤太、ムカデを射抜き退治。藤太のもとへ贈り物が。いくら裁断してもなくならない巻絹、ほしいものが何でもでてくる鍋、そして、口をあければいつでも米が流れ出る俵。爾来、「俵」と。
それにしても、なんでムカデ退治の物語を覚えていたのだろう。子供のときの記憶に残っている。桃太郎、金太郎と同じ程度にポピュラーに、大江山の酒呑童子と同じ程度にクリアをもっているのだが、ムカデ退治の話しがそれほどこども向けの話とも思えないし、謎だ。

南大沢から分倍河原:娘の陸上競技大会の応援に出かけた。上柚木陸上競技場。京王線南大沢にある。参加種目をビデオでおさえ、とっとと散歩に出かける。分倍河原まで歩こうと決めた。理由は、先日、分倍河原から調布まで、さらに日をあらため調布から杉並・和泉まで歩いたことがあり、駅伝ではないけれど、とりあえず「襷」ではなく、「歩線」をつなごうと思ったわけである。



南大沢
上柚木陸上競技場を出て、南大沢の駅前に戻る。駅前はアウトレットショップが並び、いかにも多摩ニュータウン。駅前、というか駅の北に首都大学東京南大沢キャンパス。キャンパスに沿って歩き柳澤を経由し、坂を大栗川との交差まで下る。
大 田平橋を渡り右折、道なりに下柚木まで。大栗川は多摩川の支流。多摩の横山(多摩丘陵)の西端、絹の道で知られる鑓水付近が水源。南多摩の真っ只中を「野猿街道」につかず離れず東に流れ、聖蹟桜ケ丘付近で鎌倉街道を横切った後、乞田川と合流し関戸橋の3km下流で多摩川に注ぐ。

野猿街道
「野猿街道」。野猿という以上、このあたり、おサルでも多いのかと思った。が、そうでもないらしい。以前は「猿丸峠」や「猿山峠」という名であった。もっと古くは「甲山峠」。それが「申山峠」に転じ、「申」が「猿」となったものらしい。

下柚木で左折、というか「野猿街道」をちょっとかすめ下柚木中央小方面に。玉泉寺の近くを北に歩く。帝京大高校の正門前に。が、行き止まり。戻る。道なりに適当に歩き大栗川橋北に出る。堀の内地区のいかにも宅地開発用空き地を北に上る。自動車の通り激しく、あまり愉快ではない。多摩散歩などと洒落たつもりが、生活道路のど真ん中。

帝京大中高北の信号を越え、自動車併用トンネルをくぐり、排気ガスをたっぷり吸収。東京薬科大学の信号を越え、 またまたトンネル。堀の内第三トンネルをくぐり出口。平山台小入口の信号あたり、右は多摩テックの森。こどもが小さいときはよく来たものよ、などと感慨に浸りながら歩くと平山城址公園入り口。

平山城址公園
平山城址公園。その昔、源氏方の侍大将・闘将で知られる平山季重の砦があったと伝えられる場所。季重は、武蔵七党のひとつ西党日奉(ひまつり)氏の一族。源義朝に従い、平治の乱(1159)の折、圧倒的多勢の平重盛の軍勢に少人数で戦いを仕掛ける。義経のもとで戦った宇治川合戦では木曾義仲の軍勢に先陣を切って斬り込む。一の谷の合戦では逆落しに駆け降り平家を破る。頼朝・義経兄弟の対立後は頼朝に従い、奥州平泉の義経征伐に加わる。

北野街道
奥山橋下のロータリー(?)。ここを右に行けば多摩テックや多摩動物公園。が、直進し平山五丁目で北野街道と交差。右折し南平駅を越え、高幡不動に向かう。 北野街道は八王子の北野町から、淺川に沿ってつかず離れず日野市に至る。北野町は「北野天神」から。創建年代は不明。鎌倉時代にこのあたりを支配した武蔵七党のひとつ横山氏が京都北野天満宮を勧請したのが始まりという。祭神はもちろん菅原道真。

高幡不動
北野街道を進み、高幡橋南で川崎街道と交差。少し進み高幡不動に。高幡山明王院金剛寺。真言宗智山派の別格本山。成田山(千葉県)、大山(神奈川県)と共に関東三大不動のひとつ。不動堂、仁王門は国の重要文化財。奈良時代行基菩薩の開基とも伝えられる。不動堂は清和天皇の勅願により慈覚大師が関東鎮護の霊場として山中にお堂を建てたのが始まり。室町時代は、鎌倉公方・関東管領・上杉氏等有力武将の信仰を得る。

このお不動さん「汗かき不動」と呼ばれる。戦乱の度毎に不動明王が全身に汗を流されて不思議なできごとを起こしたため。境内に近藤勇・土方歳三のことを称えた「殉節両雄の碑」も。篆額の筆者は元会津藩主松平容保、撰文は元仙台藩の儒者大槻磐渓、書は近藤・土方の良き理解者であった元幕府典医頭の松本良順。
松本良順はすこぶる魅力的な人物。安政 4年、幕命により長崎遊学し、オランダ軍医ポンペの元で西洋医学を学ぶ。日本初の洋式病院である長崎養生所の開設などに尽力。江戸にて西洋医学所の頭取となる。幕医として近藤勇と親交。戊辰戦争時は、会津若松に入り、藩校・日新館に診療所を開設し、戦傷者の治療にあたる。 幕府方として働いたため投獄。のちに兵部省に出仕し、明治の元勲のひとり山県有朋の懇請により陸軍軍医部を設立。初代軍医総監。貴族院議員。男爵。

程久保川
高幡不動を出て、駅前のみやげ物屋をひやかしながら歩く。近くに程久保川が多摩川まで流れている。川筋を多摩川合流点まで下る。程久保川。日野市程久保に始まり多摩川へ注ぐ。総延長4kmほど。古い名前は「谷戸川」。谷戸とは 丘陵地の谷間での小川の源流域のこと。源流地帯の森や沼池などをひっくるめて"谷戸"という。湧水に端を発し、水の豊かな農村風景というか、里山の風景をつくりあげていたのだろうか。

中河原
多摩川との合流点から堤防上の遊歩道を少し下り、多摩川にかかる府中四谷橋に。橋を渡り、四谷地区の住宅街に右折。適当に道なりに歩き中河原駅に。中河原は、もと大道(大堂とも)と呼ばれていた。が、天文年間(1532-55)の多摩川の洪水により、石の河原になってしまった。で、集落が古多摩川(古玉川)と浅川との間の河原にあったため、それ以降は中河原と。古く、多摩川は中河原のはるか北側を流れており、中河原は多摩川の南側に位置していたと掲示にあった。

分倍河原古戦場碑
中河原の駅を越え、すこし歩き右折。分倍河原への国道18号を進み、中央高速の手前に分倍河原古戦場碑。元弘三年(1334)、新田義貞は執権北条高時を鎌倉に攻めるべく、上野国(現群馬県)から南下。所沢の小手指ケ原、久米川の戦いで幕府軍に連勝。大敗を喫した北条軍は鎌倉に使者を急派。北条高時の実弟北条泰家を大将とする援軍来陣し兵力倍増。
新田義貞、北条泰家率いる幕府軍と分倍河原にて戦端を開く。 新田軍、緒戦敗れる。新田軍は堀兼(埼玉県狭山市)に退き軍勢を立て直す。このとき、武蔵国分寺は新田軍により焼失。新田軍に、相模の豪族三浦義勝など援軍が。新田軍、分倍河原の北条軍を急襲。北条軍大敗。新田軍鎌倉侵攻。鎌倉幕府は滅亡。これが分倍河原の合戦。
分倍河原周辺にはこの合戦に関して「三千人塚」と呼ばれるものが残されている。これは分倍河原合戦で戦死した新田・北条両軍の戦死者を弔った後だと伝えられている。

分倍河原古戦場碑のところから、多摩川沿いの郷土の森公園まで遊歩道の案内。残念ながら日没近く。早々に分倍河原の駅に向かい本日の予定終了。

そういえば、この分倍河原って名前、どこから?この駅近くの地名は分梅町だし、分梅駐在所だし、分梅橋だし、分梅公園だし、分倍って地名も分倍河原って地名も見あたらない。 調べてみた。「分倍=ぶばい」という名前については、「新田義貞が梅を兜につけて進撃したという話に由来する分梅から」とか、「この地 が多摩川の氾濫により収穫が少ないことがしばしば。故に、口分田を倍に給した所であったため分倍(陪)や分配と呼ばれていた」などいろいろ。古くは「分倍(陪)や分配=ぶんばい」と呼ばれていたこともある。が、近世以降には「分梅」が用いられたと。
ともあれ、駅名の「分倍河原」は地名とはどうも関係なさそう。また、玉南電気鉄道(のちに京王線と合併)開業時は、当時の地名から「屋敷分駅」と呼ばれていた。が、いつから「分倍河原」となったかは資料に残っていないとか。ちなみに。屋敷分という地名は、国府のお役人で、その後、六所宮(現・大国魂神社)の神官の屋敷があったことに由来する。

本日結構きつかった。散歩道としてはそれほど快適ではなかった。多摩丘陵とはいいながら、丘陵散歩といった趣に少々欠ける。今回は散歩そのもの、というより、分倍河原まで歩く、そして「襷」をつないだ、ということでいいとしよう。

野川も歩いた。野川に注ぐ仙川も歩いた。そして道の途中、喜多見、狛江が気になっていた。野川に注ぐ入間川も、その名前が気になっていた。埼玉・高麗郷と入間川、狛江と入間川。なにか関連があるのだろうか。六郷用水で出会った次太夫、その記念公園・次太夫堀記念公園も気になっていた。で、今日は、これら気になっていた、そして取りこぼしていたところをまとめて面倒、ってルートを歩く。スタート時点の設定ルートは;仙川―入間川―次太夫堀記念公園―狛江の多摩川土手、そしてその後はケセラセラ、ということで京王線に乗る。



今回のルート;
仙川>実篤公園>入間川>明照院>糟嶺神社>中央研修センター>百万遍供養塔>喜多見不動尊>次太夫堀公園・民家園>宇奈根>観音寺>氷川神社>多摩川土手>多摩川土手・猪方地区>多摩川土手・小田急交差>多摩川土手・和泉地区>多摩川土手・水神前>多摩川土手・西河原公園>万葉碑>京王線国領駅

京王線仙川


仙川下車。駅前の案内図で入間川の流路チェック。京王 線をくぐったあたりから入間川が開渠となっている。線路に沿って調布方面に。道の途中、先日の散歩で偶然出会った実篤公園に寄る。子供のころから、水のあるところに住みたいと願っていた作家武者小路実篤氏が70歳から20年間住んだところ。崖線の特徴を生かした家のつくり。尾根道部分に入口。坂をくだり家屋、湧水池。規模の違いはあるにしろ、目白崖線にあった黒田家、細川家の大名屋敷のつくりと構想は同じ。

実篤公園を出て、道なりに歩き、入間川の開渠部に。H鋼で補強されたコンクリート敷きの河川。中央の溝に水がわずかに流れる。川沿いの散歩道はあったり、なかったり。ほとんど無かった。流路から離れないようにと、右に行ったり、左に行ったり。何回か行き止まりにも。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

明照院
仙川駅から下りてくる114号線をこえ入間町アパートとかNTTアパートのあたりを歩く。突然目の前にすごい石組み。まるでお城のようなお寺。明照院(みょうしょういん)。16世紀中旬開基。天台宗。本堂、観音堂、えんま堂、地蔵尊、六地蔵、巡拝供養塔など。観音堂には調布七福神の一つ「弁財天」が。

糟嶺神社
お寺の隣の小高い岡に糟嶺神社(かすみねじんじゃ)。陵山といわれる小高い丘を、高い所の糟嶺神社、低所の明照院と二分している。糟嶺神社は農業の神・糟嶺大神をまつる。社殿は多摩地に残る4つの墳陵のうちの一つといわれる。高さ3.81m、周囲127mの墳陵となっている。

道なりに進み、野川と合流。谷戸橋をこえ、パークシティ成城前の整地された芝生公園でちょっと休憩。なんとなく左に「そびえる」崖線が気になりる。野川に沿って喜多見不動に直行する予定変更し住宅街を入間公園に。

左手の崖に向かう。そびえる崖。行けども、行けども金網でガード。大回りに周り、歩けども金網。後でわかったのだが、中央研修センター(NTT関連だと思うが)の巨大な敷地、というか森であった。

百万遍供養塔
丘の上で114号線に出る。中央研修センターに沿って坂を下りる途中に百万遍供養塔が。天明元年(1781)、当時の入間村 原の念仏講の人たちが、泉村泉龍寺(狛江市)の延命子安地蔵尊に詣でる人たちのために建てたもの。塔身に「是より泉むら 子安地蔵尊二十五丁 右 世田谷 目黒道 左り 江戸四ッ谷道」と。参詣者たちの道しるべとしての役割も。 往古、このあたりは七曲り道と呼ばれた。小道・藪道・坂道が多く、ひとけもなく道に迷いやすいところであったとのこと。参詣者たちはこの道標を見て安堵したに違いない。道路標識のありがたさは、身をもって知る昨今。ちなみに、このあたりの地名・入間って、渓谷の入り込んだ場所のこと。また、野川にかかる谷戸橋の谷戸とは 丘陵地の谷間で小川の源流域のこと。源流地帯の森や沼池などをひっくるめて"谷戸"という。

喜多見不動
坂道を下り、再び入間町アパート、NTTアパートの敷地内から明照寺・糟嶺神社前を抜け野川に。またまたパークシティ成城前をとおり、小田急線との交差まで。ちょっと手前で崖線・神明の森みつ池へと一筋内側の道に。
神明の森みつ池の湧水地を越え、小田急線との交差直前の坂道。あれ、これって前回上った道?で、喜多身不動はその坂道と小田急高架の間に挟まれてひっそり鎮座していた。入口にハケから勢いよく滝が落ちている。喜多見慶元寺の境外仏堂で、本尊は不動明王座像。創建は明治。喜多見の住人が成田山新勝寺から不動明王座像に入魂。堂宇と並んで、岩屋不動、玉姫稲荷、蚕所大神をまつった小祠も。

次太夫堀公園・民家園
おまいりを済ませ、小田急線の下をくぐり、次太夫堀公園・民家園に向かう。この公園には名主屋敷や民家が移築され、江戸時代後期から明治にかけての農村風景を再現している「次太夫堀」とは、稲毛・川崎領(神奈川県川崎市)の代官・小泉次太夫の指揮により開発された農業用水路。慶長二年(1597)から十五年をかけて完成。
「次太夫堀」は正式には「六郷用水」という。多摩川の和泉地区で水を取り入れ、世田谷領(狛江市の一部、世田谷区・大田区の一部)と六郷領(大田区)の間、約23kmを流れていた。世田谷領内を流れる六郷用水は、「次太夫堀」と呼ばれていた。が、現在の六郷用水(次太夫堀)は丸子川として一部残っているだけとなっている。その丸子川は先日、仙川散歩のとき偶然出会い、そのスタート地点の流路の素朴な赴き・野趣豊かなせせらぎに結構感激した。

宇奈根
次太夫堀公園・民家園から先のコースは11号線・大田調布線を下り、東名高速を越えたあたりの宇奈根を歩き、そのあとは狛江に戻るといった段取り。宇奈根に行く理由は特に無く、単に地名の「うなね」という響きに魅せられただけ。

宇奈根に、なにかランドマークを、ということで、東名高速近くの観音寺と氷川神社。観音寺は天台宗の古刹。永正年間(1504~1521)川越喜多院・実海僧上の創立。氷川神社は宇奈根・喜多見・大蔵の三ヶ村に祭られた氷川三所明神の一社。「建速素戔嗚尊を祭り、宝永年間観音寺の別当として再建。天明の末年、橘千蔭が氷川神社におまいりし、[うしことのうなねつきぬきさきくあれとうしはく神にぬさ奉る]と歌をよむ。

江戸のころにはこの宇奈根地区、多摩川に注ぐ細流に蛍が棲み、初夏の蛍狩に多くの文人が訪れた、とのこと。橘千蔭もそのひとりだったのだろう。で、その宇奈根の由来だが、これがはっきりしない。古代稲作では、溝渠(こうきょ:水田用の水路)を「ウナニ」と呼び、これが訛って「宇奈根」となったとする説。 うなね(項根) 首の付け根。後頸部。くびねっこ。宇奈根の地名も、この地域の形状が多摩川に突き出した首ねっこに似ていたためという説など諸説ある。さてどちらだろう。


神社を出て多摩川堤へ。堤防はすぐ近く。途中、宇奈根の歴史を書いた案内が公園に。昔は蚕の畑が多かった。暴れ川故、川筋が今とは結構違っていた、といったことが書いてあった。
当初の予定では、多摩川堤からすぐに戻り、街中の道を狛江の氷川神社、慶元寺、須賀神社といった段取りで、と考えていた。が、堤上の散歩道が非常に心地よい。
夕刻。夕日に向かって歩く。川向こうの多摩の丘陵地帯の夕景など、逆光の効果もあり、往古・大古の昔もかくやあるらん、といった趣。去りがたく、結局狛江市内の神社巡りはやめ、多摩川堤の散歩道を小田急・和泉多摩川駅まで歩くことに。

岸辺のアルバム

小田急との交差近く、猪方地区。ここはあの「岸辺のアルバム」の舞台のはず。山田太一さんの作品だったと思う。昭和49年 (1974)9月1日、狛江市猪方の多摩川堤防が決壊、家屋19軒が流出した大洪水を伏線においた名作ドラマ。ジャニスイアンの主題歌とともに結構記憶に残る。

六郷用水の取水地に水神さま

小田急と交差。右手に和泉多摩川駅。まだまだ歩き足りない、というか夕景が魅力的。地図をチェック。狛江市中和泉、西河原公園のところに水神前が。次太夫堀公園・民家園で六郷用水の取水地点は和泉村、と書いていた。この水神は六郷用水の取水地と関係あるにちがいない、と仮説設定。
堤防に沿った散歩道を歩き、取水塔のあるところへ。たぶん和泉の取水地点であろうと右端の公園をチェック。西河原公園。向かいにこじんまりした神社、というか鳥居とあとは、なんだかなあ、といったさっぱりしたもの。
由来書:水神社由緒「此の地は寛平元年(889年)九月二十日に六所宮(明治元年伊豆美神社と改称)が鎮座されたところです。その後天文十九年(1550年)多摩川の洪水により社地流出し、伊豆美神社は現在の地に遷座しました。  この宮跡に慶長二年(1597年)水神社を創建しその後小泉次大夫により六郷用水がつくられその偉業を讃え用水守護の神として合祀されたと伝えられる。 明治二十二年(1889年)水神社を改造し毎年例祭を行って来ました。昭和三年(1928年)には次大夫敬慕三百四拾二年祭を斉行 もとより伊豆美神社の末社として尊崇維持されて来ました。伊豆美神社禰宜 小町守撰」と。

万葉碑

水神社前の信号のところに「万葉碑」への標識。住宅街をちょっと中に入る。100メートルも行かないうちにこ石碑が。横にある家の庭といったこじんまりしたたたずまい。石碑にの歌;
多摩川に さらす手づくり さらさらに何ぞこの児の ここだ 愛しき」
万葉集巻14
松平定信(楽翁・白河藩主)の書とのこと。


狛 江=「高麗」。ここに移り住んだ朝鮮からの渡来人が機織りの技術を伝えた。多摩川にさらす手づくり、とは多摩川で晒した布のこと。ちなみに、調布の由来、奈良時代、税制の「調(その地方の特産品を納める)」に多摩川で晒した布を納めたことから名付けられたとされている。この辺り、周囲には古墳や遺跡が多数分布している。が、本日は日没のためここでおしまい。暗闇のなか、京王線国領まで歩き帰途につく。

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