秩父・奥武蔵の最近のブログ記事

初日の秩父川又登山口から、コースタイム6時間を大幅に越える7時間超をかけて、なんとか雁坂小屋にたどり着いた。古い往還とはいうものの、道端に石仏や丁石といった歴史を感じるものが、それぞれ一体、一基だけ、その丁石・道標も大正時代のもの。この歴史的遺構の無さには、なにか特段の理由でもあるのだろうか。
Google Earthで作成
最近、毎月の田舎帰省を利用し、愛媛を中心に歩き遍路の峠越えを楽しんでいるのだが、その道筋には石の道標、石仏、舟形地蔵丁石などが並ぶ。遍路道が特別なのだろうか。
また、峠道といえばその領界を区切る場合、境界石なども目にするのだが、それもない。秩父往還の歴史に、江戸の頃秩父からは善光寺に、甲斐国からは秩父観音霊場札所へと、信仰・行楽を兼ねた人の往来が結構あった、というのだが、それならもう少々道標・丁石といった道標があってもいいような気がするのだが、これも「四国遍路道」の視点からの物事の見方に陥っているのかもしれない。
それはともあれ、ゆっくりと山小屋で体を休め2日目、雁坂峠から三富村広瀬へと下ることにする。


本日のルート;
初日
西武秩父駅から西武バス・川又バス停へ>川又バス停>入川橋>登山口>石の道標>水の本>雁道場>突出峠>樺小屋・避難小屋>だるま坂>地蔵岩展望台>昇竜の滝>雁坂小屋
2日目
雁坂峠に向かう>雁坂峠>下山開始>沢>峠沢右岸>峠沢を左岸に>林道に出る>雁坂トンネル口>鶏冠山大橋>道の駅 みとみ>甲府市駅

2日目

雁坂小屋からの日の出;午前5時
なにせ前日は午後8時に寝ているわけで、午前4時過ぎには寝覚め。小屋の電灯が灯るともに起床。
5時少し過ぎた頃日の出を見る。山稜の名はよくわからないので、カシミールの3D描画機能カシバードで作図しチェック。唐松尾山から雲取山そして和名倉山に続く稜線の、雲取山の左手から太陽が顔を出しているように思える。
小屋の北には昨日歩いた突出尾根、そのずっと先には両神山らしき、特徴的な山容が見える。そのまた、すっと先に見えるのは雲なのか谷川連山なのか。
黒岩尾根ルート
小屋の前に左方向に向かって「天幕場 黒岩道」の案内がある。黒岩道とは国道140号・豆焼橋から1,050m等高線と1,100m等高線の間を進み黒岩尾根に入り、そこから尾根を巻いて1,828mの八丁の頭まで進み、八丁の頭の先から尾根筋を雁坂小屋へと向かう。
地図で見ると、雁坂小屋は黒岩尾根に乗っかっているようにも見える。雁坂小屋から黒岩道を少し進んだ先に小屋のお手洗いがあり、その建屋が道を覆っている。黒岩道が二級国道140号ルート、といった記事もあり、国道を跨ぐトイレとして紹介されている。
はっきりしたことはわからないが、突出峠ルート登山口にあった環境庁・埼玉県作成の秩父往還の案内には、突出峠ルートが一般国道と記されていたので、黒岩ルートは国道ではないかもしれない。とすれば、国道を跨ぐ云々は面白いが、お話に過ぎない、ということになってしまうようだ。

雁坂峠に向かう;7時20分
昨夜と同じく薪ストーブで沸かして頂いたお湯を使い朝食を済ます。ゆっくりと朝を過ごし7時過ぎに用意を済ませ小屋を出る。



雁坂峠;7時35分(標高2,082m)
比高差100m強を15分位上ると前面が開けた雁坂峠に到着。峠の南面は一面の草原となっており、昨日歩いた北斜面の針葉樹林と対照的な景観となっている。 当日は天気もよく富士山が顔を出す。カシミールの3D機能カシバードで峠から見える山稜をチェックすると、左手に水晶山(標高2,158m)。富士山は水晶山から古礼山(標高2,112m)、雁峠(標高1,780m程の鞍部)笠取山(1,953)に続く稜線脇から姿を見せているように思える。
右手前方、今から下る谷合の先に見える尾根筋は雁坂峠から西に甲武信ヶ岳(標高2,475m)を経てグルリと逆時計周りに国師ヶ岳(標高2,591m)、奥千丈岳(標高2m409m)と続き、前面には笛吹川の谷間に落ちる乾徳山(標高2,016m)の尾根筋が見える。

少々難儀したが、南アルプスの三伏峠や北アルプスの針ノ木峠と共に日本3大峠に数えられている雁坂峠をクリアした。いつだったか読んだ『今昔 甲斐路を行く 斎藤芳弘(叢文社』)の「雁坂口」の項に文学博士・金田一春彦氏が作詞した「雁坂峠」の歌が載っていた。金田一教授の先祖は武田氏の一族で、勝頼の代、武田一族が滅びたとき、甲斐から雁坂峠を越えて陸奥国、現在の盛岡に落ち延びたとのこと。
峠を下った本日の最終点、三富村の道の駅にある石碑に刻まれたその歌は、 「三富広瀬は石楠花どころ 小径登れば雁坂峠 甲斐の平野は眼下に開け 富士は大きく真ん中に 大和武尊も岩根を伝い 日には十日の雁坂峠 東国目ざす武田の勢も 繭を葛籠の商人も 旅人泣かせの八里の道も 今は昔の雁坂隧道 川浦の湯から秩父の里へ 夢の通い路小半時」とある。

三富広瀬は今から道を下りバス停のあるところ。富士の眺めは前述の通り。大和武尊のくだりは「日本書記」によれば、「景行天皇の御代(2世紀頃)、陸奥国(東北地方)・常陸国(茨城県)を平定した日本武尊が、酒折宮(甲府市酒折に比定)に泊り、この峠を越へて武蔵国(埼玉県)から上野国(群馬県)に達し、碓井峠を越えて信濃国(長野県)・越後国(新潟県)の平定に向かったと伝説を指す(『古事記』のルートは異なる)。
歌にある「日には十日の」とは日本武尊が酒折宮で詠んだ「新治 筑波を過ぎて幾夜か寝つる」に対し、供のものが詠い返した「日日並べて夜には九夜 日には十日を」の歌をひく(『今昔 甲斐路を行く』より)」。
信玄率いる大軍が雁坂峠の難路を越したとの記録はないようだが、信玄の時代には峠から10か所ほどの狼煙台を繋ぎ、関八州の軍事情勢を伝えた、という。また前述の股の沢や真の沢に拓いた金山へとこの峠を越えていった、とも。さらに峠は甲斐府中から北東の鬼門にあり、罪人を甲斐の国から追放した道でもある。
軍勢ばかりでなく民衆も峠を越えた。山間村落での養蚕が盛んであった秩父、特に大滝や栃本の人々は大正時代までは繭を背負って峠を越え、甲州の川浦や塩山の繭取引所に。繭を運んだ。秩父の大宮より甲州のほうが近かったということである。
江戸時代、庶民の生活に余裕ができると信仰・行楽を兼ねた人々が峠を越えた。秩父からは甲斐の善光寺、身延山久遠寺、伊勢参り、甲州からは三峰、秩父観音霊場への巡礼のため峠を越えた。江戸時代には月に1万人以上の人が秩父観音霊場を訪れたという。
『甲斐国志』に、「嶺頭の土中ニテ古銭ヲ掘リ得ル事アリ。昔時往来ノ人山霊ニ手向ケセシ所ト云」とあるように、中世以降は峠の神にお金を奉納したのだろう。峠の語源は「たむけ;手向け」にあるとも言う。神に手を合わせたのだろう。ともあれ、日本武尊の伝説を引き、日本最古の峠道との記述もある歴史のある峠ではある。
峠付近の植生
峠にあった、「峠付近の植生」に関する案内には、「奥秩父の山には雁のつく地名がいくつか見られる。雁道場(突出峠から少し下った処)は雁が山を越す前にひと休みする場所。雁坂峠から雁峠にかけての上空は、かつて雁の群れが山越えをしたことから名付けられたとい言われている。
山梨県側
雁坂峠の稜線一帯には山地草原が見られる。この草原は山火事などによる森林破壊後の風のあたる斜面に成立した草原で、シモツケソウ、オオバギボウシ、ミヤコザサ、オオバトラノオ、イタドリ、アキノキリンソウ、シモツケ、ミヤマヨメナ、カラマツソウ、シシウド、マルバダケブキ、グンナイフウロ、キソチドリ、などが生育している。雁峠にも同様の草原が見られる。
シモツケソウ;ばら科。茎は約60㎝で葉は多くの枝葉からできている。
オオバギボウシ;ゆり科。花の茎は60㎝?100㎝で、葉より高い、若葉は食用。
ミヤコザサ;いね科。棹高30㎝?1mで北海道から九州の太平洋岸に野生
埼玉県側
一方雁坂峠の埼玉県側の斜面には、高木層にコメツガとトウヒの優占する亜高山針葉樹林が見られる。亜高山層はシラビソ、オオシラビソ、トウヒ、低山層にはコヨウラクツツジ、サビハナナカマド、ミネカエデ、シラビソ、草木層はマイズルソウ、ミヤマカタバミ、カニコウモリ、オオバグサ、バイカオウレンなどによって構成されている。
コメツガ;まつ科。常緑針葉高木。高さ?m?20mで本州の中・北部に分布。
トウヒ:まつ科。唐檜。常緑針葉高木で高さ20m?25m。
マイズルソウ;ゆり科。茎は???㎝で本州中部~北海道に分布」との記述があった。

下山開始;7時45分
峠で少しのんびり景色を楽しんだ後、草原の斜面を下り始める。植物のことを何も知らないため、説明にあった植物が下山路を覆う植物のどれがどれかもわからないが、ともあれ前面の開けた気持ちのいい道を下る。

沢;7時57分(標高1,970m)
峠から下り始めて10分強。標高を100mほど下げると草原と樹林の境あたりにささやかな沢が道を防ぐ。山地図にも特に記述はないが、等高線の切れ込みを下に下ると峠沢にあたる。峠沢の源流部だろうか。

峠沢右岸;8時42分(標高1,720m)
次第に大きくなる乾徳山の山稜を全面に見遣りながらジグザグの道を下ると左手に大きな沢が見えてくる。地図で確認した峠沢である。
雁坂嶺には当然のことながら幾つもの切り込んだ沢筋がみえる。先ほど下山途中で見たささやかな沢筋もそのひとつであろうが、それら沢筋の水を集め、この地点では堂々とした沢となって下っている。

峠沢を左岸に;9時16分(標高1,500m)
沢は幾筋も分かれた箇所もあり美しい沢となっている。途中いくかロープが張られているところがあるが、危険なところはない。沢に沿って木々の間を抜けて進む道であり、道筋は分かりにくいが、要所にはリボンなどの目印もあり迷うことはない。
峠沢右岸を40分ほどかけ標高200m強下げると3本ほどの木を渡した木橋がある。途中、行き会った方から木橋は凍って滑るため気を付けて、とのアドバイスがあった。ちょっと木橋に乗ったのだが、滑って危なそう。水勢の弱い箇所を見付け沢を渡ることにした。木橋で転んだら大怪我だった、かも。感謝。

林道に出る;9時50分(標高1,400m)
木橋を渡り、ここから林道までは峠沢の左岸を下る。木橋を渡るとすぐ左手から結構大きな沢が合わさる。上部は美しい滑沢となっている。紅葉も残りいい雰囲気である。
30分弱で標高を100mほど落とすと左手から大きな沢が合わさる。沓切沢と呼ぶようだ。沢には沓切橋が架かる。登山道はここでおしまい。林道に出る。 橋には「亀田林業所」のプレートが架かる。この辺りは亀田林業所の私有地ということのようである。
橋の少し上で峠沢は、雁坂嶺から甲武信ヶ岳への稜線上にある破風山(2.317m)の山腹から下ってきた「ナメラ沢」と合わさり名を「久渡沢」と変える。

雁坂トンネル口:10時33分(標高1,200m)
未だ所々に紅葉が残り単調な林道歩きの慰めともなる。舗装された林道を40分ほど歩くと雁坂トンネから出た国道140号が道の右手に見えてくる。道をグルリと廻り雁坂トンネルの料金所を前面に見下ろす箇所から雁坂峠方面を見る。カシミールの3D機能カシバードを起動し描画。正面は雁坂嶺、雁坂峠は右手の水晶山から久渡沢に落ちる水晶山の稜線に隠れていた。
料金所の先、雁坂トンネルに入る道路を見乍らちょっと想う。川又から10時間以上かけて抜けた甲武国境の山塊を、トンネルを抜ければ10分程度で走り終える。それはそれでいいのだが、この便利さであり、逆に往昔の峠歩きの不便さは往々にして、現在の視点からの見方のように感じる。
モータリゼーションによる物や人の大量かつ短時間での移動が盛んとなる以前、地域を隔てる山塊の往来は峠を越えて歩くことが当たり前であった頃、身の丈にあった荷物を黙々と、かつ自然なこととして人々は物流の幹線道路として峠を越えていたのだろう。
少しニュアンスは異なるが、今昔の視点の置き方により、物の見え方が変わると感じたのは大菩薩峠超えの時。中里介山の『大菩薩』で机龍之介が何故に、わざわざ不便な山奥の大菩薩峠に立ち、不埒な所業を行ったのか疑問に思っていたのだが、大菩薩峠を歩いたとき、その道が江戸時代に開かれる以前の古い甲州街道であり、江戸の頃も甲州裏街道として人の往来があった、とのこと。 いまでいう「準幹線国道」であった、ということ。国道であれば、そこに主人公がいてもおかしくはないだろう。
また、これも少々ニュアンスが異なるが、鎌倉街道山の道を高尾から秩父まで歩いたとき、何故にこんな辺鄙なところを?などと感じたのだが、よくよくかんがえれば、当時は現在の大東京など影も形もない葦原・湿地の地。 更に昔には東山道から武蔵の国府に通じる丘陵沿いの「幹線国道」があったわけで、現在の大東京が「辺鄙な」ところであった、ということだ。
雁坂トンネル建設の経緯
それはそれとして、甲武国境を抜く道路建設は両県民の長年の願いではあった。国道とは指定されながらも甲武国境の山塊に阻まれ、長年「開かずの国道」と称されていた。
昭和29年(1953)二級国道甲府・熊谷線として指定
往昔の秩父往還は、昭和28年(1953)には二級国道甲府・熊谷線として指定されている。熊谷・甲府を結んだ理由は、国道指定には10万人以上の都市を結ぶ必要があったからである。
秩父往還と中山道の分岐点には道標(熊谷市石原)「ちゝふ(秩父)道、志まふ(四萬部[しまぶ]寺)へ十一(里)」と刻まれた道標、秩父長瀞の「宝登山道」の碑も建っていた、という(現在は移されている)。四萬部寺は秩父礼所1番である。
当初の想定は雁峠ルート
既述の如く二級国道に指定された、といっても建設が進んだわけではない。昭和29年(1954)には建設促進期成同盟が結成され、昭和32年(1957)には両県の代表が雁峠で合流し、建設促進の協力を期している。
当初のルートは、滝川と豆焼沢が合わさる豆焼沢出合から八丁坂を刳り貫き、滝川本谷左岸から釣橋小屋上を通り水晶谷~古礼沢中流部を通り雁峠~燕山~古礼山直下をトンネルで抜けるルートだったようである。隧道計画も1000m程度であったとのこと。雁坂峠直下を抜くルートに変更となったのは昭和59年(1984)。国立公園の保護、地質調査の結果を踏まえての変更、と言う。
昭和30年代から50年代は進展なし
昭和32年(1957)には両県代表が雁峠で気勢を上げたにしても、建設省の動きは鈍く昭和30年(1955)代から50年(1965)代にかけて秩父は大滝村、山梨は三富村が中心となって活動するも状況の変化はない。
昭和34年(1959)には伊勢湾台風により山梨側・三富村の一之橋、二之橋、三之橋が破壊され、秩父側も二瀬ダムの道路が寸断される。この復旧工事により道路建設が少し進む。
昭和36年(1961)には二瀬ダムが完成、昭和45年(1970)には山梨側の広瀬ダムが完成。ダム工事の道が結果として国道建設促進の一助となっている。 昭和47年(1972)には、山梨側拐取工事率は50.4キロ。全体の42.4%。 一方埼玉側101.4キロ、全体の78.6%まで進んだ。最後の難関は雁峠である。 雁峠ルートに関し、昭和40年代後半;大きな壁が立ちはだかる。それは当時起こった環境問題への高い意識からの自然保護の問題。山梨側は亀田林業所の私有地であり用地取得は比較的楽であったようだが、秩父側は東大の演習林。環境保護の観点から反対に遭い、埼玉側の用地買収が難航した。
昭和50年(1975)には過去22年間に山梨47.8キロ、埼玉76.6キロの拡張舗装が行なわれ、未舗装部分は山梨の広瀬以北6.5キロ、埼玉の雁峠登山口近くの14.8のキロとなったが、未だ雁峠トンネルの見通しが全く立たなかった。
昭和56年(1981)雁坂峠ルートが決定
昭和56年(1981)になり雁峠から雁坂峠ルートとの結論を建設省が出す。昭和58年(1983)には三富村の城山トンネル(三富村下釜口)が開通。昭和59年(1984)には建設省が来年度予算に雁坂トンネル工事費を計上。この年をもって雁坂ルート工事正式決定としているようだ。
雁坂峠は石楠花の群生地でもあり、トンネルを抜く計画を描き、昭和60年(1985)に計画概要発表。全長6.5キロ、幅7mのトンネルでありふたつの県を跨ぐため国の直轄事業となった。
昭和60年(1985)には雁坂トンネルの直ぐ南の広瀬トンネルの起工式。雁坂トンネルの前段階といったものである。昭和63年(1988)には広瀬トンネルが久渡沢を渡る鶏冠山大橋が完成、更にその先、笛吹川に架かる西沢大橋も着工となった。
平成元年(1989)着工。平成10年(1998)開通
平成元年(1989)に川浦で着工式。平成2年(1990)大滝側も工事開始(詳細は記述「大滝道路」に)。平成6年(1994)、トンネル避難坑が開通。平成10年(1998)開通した。
開通に際し、自然保護の観点から秩父側のバイパス道・大滝道路が間に合わず、旧国道を半年間使うことになったため、大渋滞を引き起こしたことは前述の通りである。
山梨側の雁坂トンネルへのアプローチ道路建設
雁坂トンネルへのアプローチ道路建設は、秩父側は従来の国道140号とは別にバイパス国道140号・大滝道路の建設をもって雁坂トンネルと繋いだ。同様に山梨側もいくつかバイパス工事をおこないトンネルと繋げている。
大滝道路と同じく「雁坂トンネルと秩父往還(山梨県道路公社)」の資料をもとにまとめておく。
広瀬バイパス
「広瀬バイパスは」は、東山梨郡三富村広瀬地内の未改良区間、交通不能期間の解消及び「雁坂トンネル」へのアプローチ道路として昭和57年度(1982)より道路改築事業に着手し、「雁坂トンネル」の開通に合わせて平成10年(1998)4月に完成した延長3,700mのバイパス。
このバイパスは急峻な山岳部と渓谷を通過するため六ヶ所のトンネルがある。「西沢大橋(橋長360m)」は、県内初の橋梁形式をもつループ橋であり、秩父多摩国立公園・西沢渓谷入口のシンボル的な橋となった。「鶏冠山大橋(橋長270m)」は、大きな渓谷を渡るため塗装の必要のない鋼材を山梨県において初めて採用した橋である、と記す。
古い地図がないため、旧国道140号がどのルートか不詳であるが、広瀬バイパスは雁坂トンネルから広瀬ダム湖の南まで強烈なルート取りをおこなっている。雁坂トンネルを抜けると石楠花橋で、久渡沢の崖を避け、すぐに広瀬トンネルに入る。トンネルを抜けると再び鶏冠山大橋で久渡沢を跨ぎ対岸の山稜を強烈なカーブのループ橋で西沢渓谷を跨ぎ、南に向かい久渡沢を渡り返し、広瀬ダムに沿って下る(同様の目的で東山梨郡牧丘町成沢と塩山市藤木間にも窪平バイパスが建設されているが、ちょっと場所が離れすぎているので省略する)。 秩父側も山梨側も雁坂トンネルへのアプローチ道路としては、旧国道を使うことなくバイパスで繋いでいた。

鶏冠山大橋;10時42分(標高1,150m)
雁坂トンネルで一度トンネルを抜けた国道140号が再び広瀬トンネルに入るところから、林道は久渡沢に沿って大きく迂回し広瀬トンネルが抜けた先、鶏冠山大橋の巨大な橋梁を潜る。
当日は、なんとなく地味色の橋であり、同行のひとりから、この橋は使われなくなった橋かなア、などとの感想も聞かれたが、上述塗装の必要のない鋼材故の「地味さ」加減であったのだろうか。
それはともあれ、橋桁したから少し進むと道標があり、道の駅は林道を離れ土径へと右に折れる。久渡沢に向かって標高を30mほど落とし、久渡沢に架かる橋手前にでる。

道の駅 みとみ;10時59分(標高1,100m)
橋を渡り国道140号に出て少し北に戻り「道の駅 みとみ」に。塩山行きのバスの時間を道の駅のスタッフに訪ねると1時過ぎまで無い、とのこと。さて2時間もどうしようと思った時、山小屋の小屋番さんが小屋を出て「道の駅 みとみ」に下りる方に、道の駅から11時半頃バスが出ると話をしているのを思い出した。チェックすると山梨市駅へと向かう山梨市営バスが11時半過ぎに「道の駅 みとみ」から出るとある。

山梨市駅
広い道の駅にもかかわらず、バス停の案内が無い。彷徨っているとささやかな市バス停留所の案内があり待つこと十分ほど。無事市バスに乗り、途中温泉に寄る仲間ふたりと分かれ山梨市駅に到着。
慣れない自動特急券・指定券の販売機に苦戦し、ぎりぎりで特急甲斐路に間に合い、一路家路に向かう。
晩秋と言うか、初冬というか、天候不順のこの頃、どちらが適切な表現がわからないのだが、ともあれ11月初旬の週末を利用して、1泊2日で秩父往還・雁坂峠を越えた。
雁坂峠を越えようと思ったのは今から5年前。友人のSさん、Tさんと共に信州から秩父に抜ける十文字峠を越えて()秩父の栃本に出た時、そこから秩父往還を南に進めば雁坂峠を越えて甲斐・山梨にでる古道があることを知った。 縄文人も通ったとされる日本最古の峠、また飛騨山脈越えの針ノ木峠(2,541m)、赤石山脈越えの三伏峠(2,580m)と共に日本三大峠のひとつとされる雁坂峠(2,080m)越えに「峠萌」としては大いにフックが掛かったのだが、その後計画した予定日が大雨とのことで中止、そんなこんなで、なんとなく日が過ぎてしまった。
今回の旅のきっかけは十文字峠を共にしたSさんからのお誘い。台風による1週延期によりTさんはご一緒できなくなったが、Sさんの友人Kさんが参加されることになり、3名での山行となった。
スケジュールは初日に秩父・川又から登山道・秩父往還に入り、直線距離11キロ・比高差1350mを上り雁坂小屋で一泊。翌日は雁坂峠に上った後、8.5キロ・比高差800mほどを下る。
十文字峠の山小屋での凍えるあの寒さはもう勘弁と完全な防寒対策、食事はないと言う雁坂小屋とのことでの自炊用意のため、46リットルのザック一杯の重さ、更には痛めている膝の痛みもあり、通常6時間という上りに7.5時間、3時間程度の下りも4時間もかかるという為体(ていたらく)。パーティの足を引っ張りながらも、なんとか長年の想いであった「雁坂峠」を越えた。

本日のルート
初日
西武秩父駅から西武バス・川又バス停へ>川又バス停>入川橋>登山口>石の道標>水の本>雁道場>突出峠>樺小屋・避難小屋>だるま坂>地蔵岩展望台>昇竜の滝>雁坂小屋
2日目
雁坂峠に向かう>雁坂峠>下山開始>沢>峠沢右岸>峠沢を左岸に>林道に出る>雁坂トンネル口>鶏冠山大橋>道の駅 みとみ>甲府市駅

初日

西武秩父駅から西武バス・川又バス停へ

午前8時20分西武秩父駅集合のため、西武池袋駅を午前6時50分発の「特急・秩父3号」に乗り、西武秩父駅午前8時15分着。午前8時35分発中津川行の西武バスに乗り、国道140号を進み1時間で川又バス停に着く。
国道140号
当日はいつだったか三峰神社を訪ねた時に向かった秩父湖沿いの道を二瀬ダムで分かれ、荒川沿いの国道を進んだと思っていたのだが、バスはダムの手前で巨大なループ橋を進んでいた。
秩父湖・二瀬ダムにはそれらしきループ橋はない。地図をチェックすると、国道140号は三峰口を越えた先、大滝で荒川に沿って進むルートと中津川に沿って進むルートに分かれている。共に国道140号であり、ループ橋は中津川沿いの秩父もみじ湖・滝沢ダム手前にある。当日のバスは中津川に沿って滝沢ダムを越え、中津川と荒川を分ける山塊を抜いた大峰トンネルを通る国道140号、通称大滝道路を進み荒川筋の川又バス停へと進んだようだ。
大滝道路
『雁坂トンネルと秩父往還 蘇る古道(山梨県道路公社)』をもとにまとめると、「この中津川沿いの国道140号バイパスルートは大滝での分岐箇所から雁坂トンネルまでの17キロ強を「大滝道路」と呼ぶ。
もとは、大滝村地内の未改良区間及び交通不能区間の道路改築をもとに構想されたものだが、この区間のうち、二瀬ダム付近の駒ケ滝トンネル(バイパス道が完成し現在閉鎖)から栃本を経て川又橋に至る区間は名だたる地滑り区間でもあり、既存の秩父湖沿いの国道改築は困難とされ、中津川に建設される滝沢ダム建設にともなう付け替え道路工事と国道140号の改築工事を合併しておこなうことになった。
工事は昭和37年(1962)から着手。川又橋から山梨側に工事が進められ、昭和63年(1988)には豆焼橋の手前まで完成。また昭和59年(1984)正式着工の決まった雁坂トンネルへのアプローチとして豆焼橋から雁坂大橋までの区間はトンネルの開通に合わせて平成10年(1998)4月に完成した(平成2年から工事着工)。
全線開通は平成10年(1998)10月。滝沢ダム堰堤付近から上流5キロほどの区間に絶滅危惧種クマタカの営巣が発見されこの区間の工事が一時中止されたため。雁坂トンネル開通から大滝道路全面開通までの半年間は在来国道を使用することになり、大渋滞が発生した、と言う。
国道140号の3ルート
大滝道路のチェックに合わせ地図を見ていると、秩父湖沿いの従来の国道140号も二瀬ダム堰堤の先で二つに分かれる。山沿いの栃本集落を抜けるルートが往昔の秩父往還。秩父湖沿いのルートは大正時代より電源開発及び森林開発のための軌道(林鉄)跡を利用した車道であり、昭和28年(1953)には二級国道熊谷甲府線に指定され、後年、二瀬ダム建設に合わせて整備されていった。 二瀬ダムは昭和25年(1950)に計画され、昭和36年(1961)までに建設された。昭和25年以前、2級国道熊谷甲府線にあたる道路はダム下流の二瀬まで狭い砂利道であったようだ。
上に二瀬ダム付近の駒ケ滝トンネルのことをメモしたが、隧道内分岐のこのトンネルが閉鎖されたのは平成25年(2013)。荒川沿いに新たなバイパス秩父湖大橋が竣工したことによりバイパスが完成し、この隧道は閉鎖となった。

川又バス停;午前9時35分
中津川に架かる中津川大橋を渡り、十文字峠越えのときに白泰山から栃本へと辿った尾根筋の流れ、標高1100m程度の山塊を抜いた大峰トンネルを通り抜けると、バイパス国道140号は秩父湖沿いに続く国道140号に合わさる。少し上流に進むと往昔の秩父往還道であった旧国道140号も合流。この3ルートに分かれた国道140号が川の上流へと一つに合わさる箇所に西武バス・川又バス停がある。
バス停は、川上犬で知られる信州の川上村から十文字峠を越えて秩父の栃本に至り、西武秩父に戻るべく道を下ったバス停でもあった。水場やお手洗いもあるバス停で準備を整え雁坂越えへと向かう。

入川橋:午前9時55分
国道を少し進むと道路左手に扇屋山荘と書かれた宿・食事処がある。ここが今夜お世話になる雁坂小屋オーナーの家と聞く。
扇屋山荘を越えると、国道から道が右手に分岐し「入川渓谷 十文字峠」、直進する国道方向は「滝川渓谷 雁坂峠」との案内がある。川又はこの滝川と入川の合わさる場所と言う意味だろう。「入川渓谷」という文字に惹かれつつも、道は国道筋を進む。
入川渓谷
入川渓谷を形成する入川は荒川本流とされ、その源流点の石碑が入川渓谷を遡上し、赤沢との出合にある、という。この入川渓谷のことを知ったのは信州往還・十文字峠を越え白泰山に向かう途中、尾根道に股の沢分岐の標識があり、そこに「股の沢 川又」方面という標識があった。

「沢」という文字に故なく惹かれる我が身としては如何なるルートかとチェックすると、分岐点から股の沢を下り、入川筋に入ると赤沢出合から川又の近くまで森林軌道跡(入川森林軌道跡)が残る、と言う。また、赤沢出合いから赤沢を北西に遡上し、白泰沢に向かっても森林軌道跡(赤沢上部軌道跡)が続く、とも。
この森林軌道は東京大学農学部付属秩父演習林中にあり、林道は東大が敷設するも軌道の運営は民間の会社に委託されていたよう。大正12年(1923)に入川森林軌道が着工、昭和4年(1929)には川又から竹の沢まで敷設、また昭和11年(1936)には赤沢出合いまで延伸され、昭和26年(1951)には赤沢上部軌道敷設が完成した。
この森林軌道の敷設にともない、江戸時代は「御林山」と呼ばれ徹底した山林保護政策によって護られていた奥秩父の深森は、昭和に入ると、民有林・国有林・東大演習林を問わず伐採が進むことになる。伐採は特に戦後復興期の1960年代(昭和35年から)までが激しかったようであり、1970年(昭和45年)ころにほぼ伐り尽くし、奥秩父の森林伐採は終息することになった、と。 伐採のあとは、一部にカラマツなどが植林された区域もあるようだが、多くは伐られたまま放置され、奥秩父の深い森ははげ山と化した、とか。白樺の林がキャベツ畑に変わった信州・梓山の戦場ヶ原のように、奥秩父の深い森が現在どのようになっているのか、軌道跡とともに入川の渓谷を辿ってみたいものである。

因みに森林軌道は昭和44年(1969)に全線廃止されるが、昭和57年(1982年)に赤沢出合付近の発電所取水口工事の資材運搬の為に、軌道を利用することとなり、昭和58年(1983年)に三国建設による軌道改修工事が完成。昭和59年(1984)まで運用された。現在残っている軌道は、この三国建設が運用していた頃の軌道であろう。
森林軌道と国道140号
上に東京大学農学部付属秩父演習林中の森林軌道についてメモしたが、はじまりは、大正10年(1921)関東水電が強石~落合~川又間に敷設した資材運搬用馬車軌道。その後、川又のさらに上流に広大な演習林を有する東京大学が、上述の如く材木の運び出しのためにその軌道を改良して利用するようになっていったわけだ。
軌道の所有者も二転三転しているが、とまれ昭和26年(1951)頃には赤沢上部軌道まで延びた森林軌道も、昭和20年(1945)代ごろからはじまるモータリゼーションにより、トラック運材が盛んになり始めると、森林軌道は下流側から軌道の撤去と車道の布設が始まることになる。昭和27年(1952)頃までには、下流から二瀬までは車道化していたようである。
この道も昭和25年(1950)に着工し、昭和36年(1961)に完成した二瀬ダムにより二瀬から川又間が廃され、同時に付け替え車道が川又まで建設された。これが秩父湖に沿って進む現在の国道140号の前身といえるだろう。

登山口;10時9分(標高730m)
川又バス停から15分弱国道を進むと、道の右手に「雁坂峠登山口」の木標がある。石段を上り登山道に入ると、「秩父往還の歴史」に関する案内があり、
「秩父往還の歴史 雁坂峠と秩父多摩甲斐国立公園  雁が越え、人々が歩いた日本最古の峠道
三伏峠(南アルプス・2580m)、針ノ木峠(北アルプス・2541m)、とともに日本三大峠のひとつである雁坂峠(2082m)の歴史は古く日本書記景行記に日本武尊が蝦夷の地を平定のために利用した道と記されていることから、日本最古の峠道といわれています。
また、縄文中期の遺物や中世の古銭類なども数多く出土している他、武田信玄の軍用道路・甲斐九筋のひとつとしても知られています。 更に、秩父往還とよばれたこの道は、秩父観音霊場巡拝の道として多くの人々が通り、江戸時代から大正までは秩父大滝村の繭を塩山の繭取引所に運ぶ交易の道として利用されてきました。
一般国道140号となった現在は、奥秩父を目指す山道として秩父多摩国立公園の豊かな自然とともに登山者に愛されています。 雁坂峠の名は、この辺りが雁の群れの山越えの道であった事に由来しているとも伝えられています。
雁が越え、昔人が越えた雁坂峠、ここには美しい自然と遠く長い歴史があります 環境庁・埼玉県」とある。
一般国道140号のルート
なるほど、このような歴史のある往還道か、などど思いながらも、ちょっと疑問が。この説明を読む限り、今から上る登山道が「一般国道140号」と読める。
登山道が一般国道?
国道140号の歴史をチェックすると、二級国道甲府熊谷線と指定されたのが昭和28年(1953)。川又地区-雁道場-突出峠-雁坂峠(川又雁坂峠線)がルートとなっていた。
一般国道に昇格したのが昭和40年(1965)であるが、秩父と甲斐を隔てる雁坂嶺を穿つ雁坂トンネルが平成10年(1998)するまで雁坂峠の前後区間の登山道が国道指定されていた。

ついでのことでもあるので、この案内板が造られたのは?案内の「秩父多摩甲斐国立公園」部分が修正されている。元は昭和25年(1950)秩父多摩国立公園と称されていたが、その区域に広い占有地をもつ山梨がない、ということで、平成12年(2000)「秩父多摩甲斐国立公園」と改称された。
またクレジットの環境庁(現在は環境省)が新設されたのが昭和46年(1971)であるから、この案内がつくられたのは昭和46年(1971)から平成10年(1998)までの間と推測できる。その案内に平成12年(2000)以降、「秩父多摩甲斐国立公園」の箇所が修正されたのだろう。言わんとすることは、昭和46年(1971)から平成10年(1998)まではこの登山ルート。秩父往還が一般国道140号と指定されていた、ということだ。
どうでもいいことだけど、あれこれチェックすると、それなりに面白い歴史が現れる。

石の道標;10時21分(標高792m)

登山口から10分ほど、杉林の中、等高線を緩やかに斜めに高度を50mほど上げると「川又 雁坂峠」の木標の傍に石柱があり、文字が刻まれる。「勅諭下賜四十年**」「大正十一年 大滝村**」「右ハ甲州旧道 左ハ**後ハ栃本ヲ経テ三峯山ノ**」と言った文字が読める。
勅諭下賜四十年とは明治15年(1882)に明治天皇が陸海軍の軍人に下賜した「軍人勅諭」から四十年、という意味だろう。大正11年(1922は明治15年(1882)から40年である。
大滝村の在郷軍人会が中心となって立てた道標のようである。秩父往還のことは「甲州旧道」と記される。
消された道筋は?
ところで、「左ハ**」と記された道筋が気になる。ちょっとチェックすると、「バラトヤ線(槇ノ沢林道)から釣橋小屋を経て雁峠への道筋を示していたようだが、現在は廃道となったため、故意に潰された、といった記事をみかけた。 現在、甲武国境を抜くトンネルは雁坂峠下を通るが、これは昭和56年(1981)に国立公園保護や地質調査の結果、決定されたもの。
昭和29年(1954)に甲武を結ぶ国道建設の建設促進期成同盟が結成された当初は雁峠を1000m のトンネルで貫く計画であったようだ。事実昭和32年(1957)には雁峠で両県代表が計画実現を期して握手をしている、といった記事もある。 当初の140号線の計画では、滝川と豆焼沢が合わさる豆焼沢出合から八丁坂を刳り貫き、滝川本谷左岸から釣橋小屋上を通り水晶谷~古礼沢中流部をから雁峠~燕山~古礼山直下をトンネルで抜けるルートだったようである。
大正7年(1918)頃の殉職森林作業員の記念碑に「秩父ノ深山一路僅ニ通シテ甲武国境ノ森林保護利用ニ便シ兼テ両国ノ連絡交通ニ資スルモノ独リ此国有歩道バラトヤ線アルノミ」と記されるように、往昔は道標から消されたルート、甲武国境を抜けるトンネルが計画されたこの道筋は結構メジャーな往還であったのだろうか。
軍人勅諭
「正式には『陸海軍軍人に賜はりたる敕諭』。『軍人勅諭』(ぐんじんちょくゆ)は、1882年(明治15年)1月4日に明治天皇が陸海軍の軍人に下賜した勅諭である。
西周が起草、福地源一郎・井上毅・山縣有朋によって加筆修正されたとされる。下賜当時、西南戦争・竹橋事件・自由民権運動などの社会情勢により、設立間もない軍部に動揺が広がっていたため、これを抑え、精神的支柱を確立する意図で起草されたものされ、1878年(明治11年)10月に陸軍卿山縣有朋が全陸軍将兵に印刷配布した軍人訓誡が元になっている。
1948年(昭和23年)6月19日、教育勅語などと共に、衆議院の「教育勅語等排除に関する決議」および参議院の「教育勅語等の失効確認に関する決議」によって、その失効が確認された(Wikipediaより)」
在郷軍人会
「在郷軍人会(ざいごうぐんじんかい)は、現役を離れた軍人によって構成される組織のこと。一般的な用語としては、「退役軍人会」という言葉と混用して用いられるが、在郷軍人会は予備役にある人によって構成される(Wikipediaより)」

水の本;11時6分(標高1,063m)
等高線を時に垂直に、大半は緩やかに斜めに40分強の時間をかけて標高を270mほど上げる。登山路は杉林の中に時に残る紅葉が美しい。
と、木に「水の本」の案内。案内には「水の元 一杯水とも言う。昔、秩父往還を行き来した人の為の避難小屋的建物があり、山仕事にも使われたとか。 お地蔵様には武田家の隠し財産の言い伝えがあるようです。武田家滅亡の折、金の延べ棒など甲州金を秩父往還に埋蔵し、目印として北向地蔵を建てておいたと言われています。今となっては定かなことはわかりません」とある。
地蔵
案内のある木の側に地蔵が佇む。うっかりすると見逃してしまいそうである。 少々先走ったメモとはなるが、雁坂峠越えの全行程で唯一の地蔵であった。古い往還とはいいながら、丁石、石仏類は残っていない。四国遍路で、これでもか、といった石仏・丁石に出合うことを想うに、なにか理由でもあるのだろうか、と少々考えてしまう。
水場
水の本との地名の如く、案内のすぐ近くに微かな水の流れが見て取れた。水場として重宝されていたのではあろう。

信玄焼き
で、案内にある「武田家の隠し財産云々」は、それはそれとして「触らずに」おくが、秩父と武田と言えば、秩父神社散歩の時に出合った「信玄焼き」を想い起こす。関東各地でも見られる武田勢による焼き払いのことである。
秩父と武田の関係は、古くから奥秩父、また現在の秩父市小鹿野、吉田辺りは武田氏の勢力下にあったようだ。奥秩父には股の沢、真の沢には金山があったとも言うし、それを守るべく栃本の辺りには砦もあった、と言う。
その秩父に「信玄焼き」が起きた因は、小田原・後北条氏の勢力が寄居の鉢形城(永禄7年(1564)北条氏邦入城)を核とした北関東への勢力拡大にある。天文⒖年(1546)川越夜戦に勝利し武蔵国に覇権を確立した北条氏ではあるが、武田氏は旧域を守るべく、佐久盆地から十石峠、そこから志賀坂峠を越えて小鹿野(永禄12年;1569)、土坂峠を越えて吉田(永禄13年;1570)へと数百人程度の軍勢(大軍ではないようだ)を送り、その折秩父の中心である大宮郷一帯を焼き払ったようである。
永禄12年(1569)には武田信玄の本隊2万が小田原の北条を攻めるべく碓井峠を越え、鉢形城を攻めているが、信玄焼きとはいいながら、本隊が秩父に侵攻したわけでなく別動隊の所業ではあろう。いつだったか歩いた三増合戦は武田軍が小田原攻めの帰路に起きた日本で名だたる山岳合戦のひとつである。なお、武田の軍勢が秩父往還を越えて秩父に侵攻したといった記録はないようである。

雁道場;12時3分(標高1,291m)
1時間弱の時間をかけて標高を300mほど上げると尾根筋に出る。木には「雁道場」とあり、「毎年秋に雁の群れが南に飛んでいく時に、山を越す前ひと休みした場所らしいです。雁坂峠、雁峠などこの辺りが渡り鳥のルートのようです。黒文字橋から上がってくるルートがこの先にあります」と記してあった。
雁坂峠の由来

雁坂峠の由来をこの雁が嶺を越える「タルミ」故との説がある。雁坂峠の東にも雁峠という峠もある。新拾遺集のなかに三十六歌仙のひとりである凡河内躬恒(おおしこうち の みつね)が詠んだ「秋風に山飛び越えてくる雁の羽むけにゆきる峰の白雪」は雁坂峠を読んだといった記事もある。寛平6年(894)甲斐権少目として任官して、この地と縁が無いわけではないが、この歌が雁坂峠と比定されているわけではないようだ。
凡河内躬恒の歌がこの奥秩父山塊を詠ったものかどうかは不明であるが、ここから南に下った大菩薩嶺から続く南尾根には雁ケ腹摺山、牛奥雁ケ腹摺山、笹子雁ケ腹摺山といった名の山がある。奥秩父から南へと雁が山越えで飛んでいったルートを事実か否かは別にして、想像するのは楽しい。
因みに、雁坂峠の由来としては、秩父風土記に「日本武尊が草木篠ささを刈り分け通りたまえる刈り坂なり」と記されており、このことからカリサカと名付けられた、とか、この峠から罪人を駆逐したことより「駆り、カリ」と呼称されたことに由来する、といった説もあるようだ。

突出峠;13時12分(標高1,630m)
雁道場から突出峠まで、尾根筋を等高線にほぼ垂直に上ってゆく。地形図を見ると等高線の間隔も密接しており急登である。右手は開け、入川谷を隔てて十文字峠から白泰山を経て栃本に下った尾根筋が見えるのだが、息があがり、景色を楽しむ余裕がない。冬装備の46リットルのザックの重み、痛めた膝が少々キツく、思わず理由をつけて一人川又へと戻ろうと思ったほどである。気持は若いが、体がついていかないことを実感する。
1時間強の時間をかけ、標高を330mほどあげると突出(つんだし)峠の木標。 「川又 5.5㎞ 雁坂峠 雁坂小屋5.3km」とある。3時間強で半分ほど来たことになる。

突出とは言い得て妙である。峠部分の等高線の間隔が広く、突出したような尾根筋となっている。それはそれでいいのだが、ここを何故に「峠」と呼ぶのだろう。山道を登りつめてそこから下りになる場所。山脈越えの道が通る最も標高が高い地点、通常鞍部といったものが「峠」の定義ではあろうが、この峠はどれにも合わない。それともかつて、入川谷から滝川谷へとこの峠を越える道でもあったのだろうか。
突出峠から林業用モノレールが滝川谷へと下り出合いの丘(国道140号・豆焼橋近く)に続いている、といった記事があったので、今では廃道となった峠越えの道があったのかもしれない。
とは思いながらも、入川谷にも滝川谷にもそれらしき集落があるわけでもなく、誰が必要とした峠道かよくわからない。森林作業の便宜でそれほど遠い昔ではない頃に名付けられたのだろうか。峠命名の時期を知りたいと結構思う。

樺小屋・避難小屋;14時8分(標高1,784m)
突出峠で10分程度休憩し出発。道脇に案内があり、泥で汚れてちょっと読みにくいのだが、「このコースはその昔甲州武州を結ぶ唯一の街道で国越えの人や荷物の往来が盛んだったと言い伝えられています。交通機関の発達と共に現在は山を愛するハイカーのコースと変わってしまいました。
雁坂峠に上るには突出峠まで登るのが苦しいコースで。これからはゆるやかなコースになり峠まで達します」とある。地図を見ると、道は尾根筋を垂直に上るものの、等高線の間隔も割と広く、ちょっと安心。
が、突出峠までで結構体力を消耗しており、思ったほど楽ではない。結局標高を150mほど上げた避難小屋まで50分近くかかってしまった。樺避難小屋はしっかりした小屋。思わず、ここに泊まってもよかった、などとの軽口も出るほどであった。
森林植生
避難小屋の側に森林植生の案内があり、「かつて、この付近一帯はダルマ坂や地蔵岩付近にみられるようなコメツガ、シラベなどからなる鬱蒼とした亜高山針葉樹林に覆われていましたが、1959年(昭和34年9月)の伊勢湾台風によって未曽有の森林被害が発生し、景観は一変してしまいました。
現在この付近に数多く見られるダケカンバの優占する林分は風害直後に芽生えた稚樹から再生した林分です。ダケカンバ優占林の下層にはコメツガやシラベの若木が生育していますが、これらの多くも風害後に芽生えたもので、上層のダケカンバとほぼ同じ樹齢です。
コメツガに比べてダケカンバの成長速度が早いためにこのような群落状態示していますが、元のコメツガ林に近い状態に回復するには数百年かかります 環境庁・埼玉県」とあった。

いつだったか、ブナの原生林で知られる世界遺産の白神山地に行った時、二日目になって、「ところでブナ、ってどれだ?」といった程度の木々に対する知識しかない身には、イラスト付きの説明でも、どれがどれだかよくわからない。

だるま坂;15時5分(標高1.964m)
避難小屋近くにある「川又 5.6km 雁坂峠 4.5km」の木標を見遣り、比較的間隔の広い等高線をほぼ垂直に上り、標高を100mほど上げ、標高1,900m辺りになると間隔の狭い等高線を斜めに上ることになる。
少々きつい坂の途中に「だるま坂」の案内が木に架かっている。「だるま坂 ご苦労さまです。雁坂峠への道もこのだるま坂が最後登り坂です。この先300m右側に地蔵岩展望台入口を過ぎると小さな登降をくりかえす巻き道となります。 景色が開け、前方黒岩尾根の肩に雁坂小屋が見えてきます。ご安全に 1991」とあり、その下に、「と書いてからはや⒛数年。巻き道の樹林が伸びて、落葉の時期でないとなかなか雁坂小屋も見えにくくなってきました」と記されていた。

地蔵岩展望台;15時19分(標高2,000m)
だるま坂から2,018mピークを巻き15分ほどで地蔵岩展望台入口の尾根道に。案内には「地蔵岩展望台 うっそうとしたトウヒ、コメツガの原生林、巨木の中を歩く突出コースの中で、明るく周囲の山々を見渡せる所。雁坂嶺、東・西破風山、甲武信ヶ岳、三宝山と山々が続き壮観な眺めです。ここから5分もあれば岩の上に行けます。小屋へはここからは巻き道になります。 小屋へ2.5km 晴れていたら絶対おすすめです」とあるのだが、折あしく小雨とガスで展望は望めないと地蔵岩はパスする。

昇竜の滝;16時21分(標高1,979m)
地蔵岩からはおおよそ等高線2,000mに沿って尾根を巻いて進む。時に鎖場もあるが危険な箇所はない。地蔵岩辺りで降っていた雨も知らず止み、ガスも切れてくる。切れたガスの中に見えるのは滝川の谷を隔てた黒岩尾根だろうか。 それにしてもスピードが上がらない。結構痛めた膝にきている。
地蔵岩からおおよそ1.5キロ、滝川の上流、豆焼(まめやき)沢が大菩薩嶺に切り込む箇所に雄大な滝がある。何段にも分かれた瀑布が雁坂嶺から落ちてくる。
切り込まれ狭まった沢を越える。その先に案内があり、「昇竜の滝 雁坂嶺に源を発する豆焼沢。上部に見えるタンクから雁坂小屋まで10mの高低差を利用し、およそ距離1㎞をパイプで引いております。途中、パイプやバルブがありますが、命の水です。開けたりしないようお願いします。小屋まではあと少しです。がんばれ。960m 2013.10」とあった。
豆焼沢
昇竜の滝から下る豆焼沢は突山尾根と黒岩尾根に挟まれた谷筋を落ち、黒岩尾根が谷に落ちた先で、黒岩尾根と和名倉山(地図には白石山とある)から雁峠、雁坂峠へと続く尾根に囲まれた谷筋を下って来た滝川に合わさり、滝川として北に下る。
原全教の『奥秩父』には豆焼沢の紀行記"豆燒澤"に、「西の方には樹葉の間から豆燒澤の深い喰ひ込みが窺はれる。急に下ると、豆燒の溪水が最後の飛躍をなし、本流に這入らうとする優れた溪觀を垣間見る事が出來た。そこから一息に下つて流へ出た。
暫く快晴が續いたので、餘程減水したであらうとの豫想も外れて、四年前の秋來た時や、去年も梅雨期に通つたときと別段の相違も見られなかった。對岸へは巨岩から巨岩へ、三本ばかり丸太を括り合はした堅固な橋が架つて居る。あたりは澤沿ひに多少の磧もあり、流も平であるが、濶葉樹は豊富に之を覆ひ、上流は直ぐ折れ曲つて、全流の嶮惡も想像し得ない」とある。
深い谷が想像できる。なんちゃって沢上りを楽しむわが身には荷が重そうな沢のようだ。
豆焼沢の由来
その昔、ふたりの旅人がこの沢に迷い込み、拾った二粒の豆をひとりは無意味と食べず、もうひとりは焼いて食べた。で、食べたほうが生き延びた、とか。
滝川水系と沢
この滝川水系は大血川、中津川、大洞川、入川の谷と共に奥秩父北部に源を発する荒川の水源のひとつである。本流は入川とされ、原生の美は入川に譲るようであるが、和名倉山から雁峠・雁坂峠、そして突出尾根に囲まれた広大な流域に発する水量は他を凌駕する、と。
滝川水系には美しい渓谷をなす豆焼沢、滝川の上流部の曲沢、金山沢、槇の沢、八百谷、雁峠に詰めるブドウ沢、水晶山へと詰める水晶谷、古礼沢などと面白そうな沢が並ぶ。
少々手強そうだが、険しいゴルジュや広がる大釜、そして原生の趣が色濃く残る苔むした渓相など、奥多摩の沢とは違った沢景のようだ。秩父の沢にも入ってみたい。少々怖そうだが。。。

雁坂小屋;17時10分(標高1,950m)
ガスが切れ、黒岩尾根の先まで延々と続く秩父の山塊を見遣りながら雁坂嶺を巻く水平道を雁坂小屋へと急ぐ。気ははやれど体がついていかない。日も暮れてきた。昇竜の滝から雁坂小屋に通る導水パイプを目印に1キロ弱を40分以上かけて雁坂小屋に到着。小屋に到着したときは既に日が落ちていた。

小屋には10名ほどの先客がいた。小屋近くでテント泊をする方も薪ストーブの火で暖をとっていた。昇竜の滝から引かれた水を薪ストーブで沸かしてくれていたので、持参したバーナーを使うこともなく、携帯食で夕食をつくることができた。
小屋番の方の話では今年で小屋番を止める、とか。常連さんが引き留めていたので、さてどうなるのだろう。
午後8時には消灯。十文字峠の小屋での凍える寒さはもう勘弁と、冬用の寝袋を用意していたので、朝までぐっすり眠ることができた。
龍穏寺に行く事にした。太田道灌ゆかりの寺である。越生の奥、龍ガ谷の中央にあり、市街からは結構離れている。市街とのピストン往復では、いかにも味気ない。地図でチェックする。と、龍穏寺の北の梅本集落から林道が奥武蔵高原の尾根道まで通じている。これは、いい。どうせのことならと、この尾根道、通称奥武蔵グリーンラインに進むことにした。
幾つもの峠が連なるこの尾根道はその昔、越生と吾野、秩父を結ぶ幹線道路であった。
信仰のため、商業活動のため、日々の生活のため、そして時には山中の寺で開帳される「賭博」のための往還でもあったのだろう。奥武蔵グリーンラインから先は、しばし尾根道を南に辿り、高山不動を経て吾野に下ることにする。高山不動は龍穏寺の奥の院。偶然とはいいながら、散歩のはじめと終わりが龍穏寺からみ、とは、これもなにかの因縁、か。



本日のルート:東武東上線越生駅>上大満>越辺川>竜ガ谷集落>下馬門>龍穏寺>龍穏寺の熊野神社>山神社>瀧不動_男瀧と女瀧>林道梅本本線>林道梅本支線>行き止まり>障子岩名水>大平尾根合流>野末張見晴し台>グリーンロード>飯盛峠>グリーンロード>関八州見晴し台>高山不動>三輪神社>高山不動の 参道と志田林道の合流点>高山不動参道口>瀬尾>下長沢>国道299付近>高麗川>西武秩父線吾野駅


東武東上線越生駅
池袋から東武東上線に乗り、坂戸で東武越生線に乗り換え越生の駅に。越生は今回がはじめてではない。何時だったか、道灌ゆかりの「山吹の里」を訪ねてこの地に足を運んだ。龍穏寺のことを知ったのも、その時である。
「七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき」で知られる「山吹の里」は散歩の折々にそこかしこで出会うので、それはそれでいいとして、名刹・龍穏寺がなにゆえ、この越生にあるのか気になっていた。なにせ、奥武蔵の山の中である。チェックする。と、越生はその昔、このあたりの中心地であった、よう。鉄道が通る現在では中心は飯能であり、秩父に移っているわけだが、それが鉄道もなかった昔からの中心地であったかどうかは、別の話である。「現在軸」からの思い込みには注意が必要、か。

麦原バス停
越生駅より黒川行きのバスに乗る。山裾に沿って市街地を北に向かい、山稜が切れたあたりを西に折れる。山稜が切れたところを越辺川が流れる。越辺川によって開かれた山稜の間の低地を西に進む。津久根地区と呼ばれる。
津久根を西に向かい、越生梅林あたりからは南西に向かう。越辺川によって開析された谷筋である。川に沿って進むと麦原バス停。ここは、小杉、アジサイ公園、麦原を経て飯盛峠に向かう昔の秩父越生道の入口。吾野の谷や秩父から、背に炭を背負い峠を越え、食料や衣料と交換するために物々交換の中心地である越生にやって来たのだろう。

上大満バス停
麦原バス停を過ぎ、大満地区を1.5キロほど進み上大満バス停で下車。越生の駅から30分ほどかかっただろう、か。バス停の脇を流れるのは越辺川の支流・龍ガ谷川。龍穏寺はこの龍ガ谷川を2キロ弱上ったところにある。
大満とはいかにも奇妙な地名。気になってチェックした。すると、その地名は龍ガ谷にまつわるある伝説に由来する、と。
昔々、この龍ガ谷一帯は大きな湖であった。底には龍が棲んでいたとのことだが、それはそれとして、ある日大雨で堤が決壊し、一面が水浸しとなった。大満とは、その「水が溢れた地」のこと。ちなみに、バスで通り過ぎた津久根は、もともとは「築根」。決壊した水を防ぐべく堤防を築いたところ。そういえば、津久根の地は、越辺川が山間から平地に流れ出す喉元。ここに堰をつくれば、確かに洪水が防げそうではある。
そうそう、湖に棲んでいた龍の話。名栗の龍泉寺から越生の龍穏寺にお手伝いに来ていた小坊主さんを背に乗せて名栗と越生を往復していた、とか。龍泉寺の和尚さんの看病のためである。で、洪水で棲むところをなくした龍は名栗の有馬の谷に逃れ、そこに棲むことになった、とか。直線距離でも10キロ以上はなれている名栗と越生ではあるが、このふたつの地域は一衣帯水であったということ、か。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

龍穏寺
上大満バス停から龍ガ谷川に沿って歩く。半時間弱で龍穏寺の入口。如意輪観音様が迎えてくれる。龍穏寺は役の行者の創始とされる。縁起は縁起として、開山は14世紀末とも15世紀初め、とも。足利義教だか、足利義政だか、ともあれ足利氏が尊氏以下の足利氏の冥福を祈るため、関東官領上杉持朝に命じて開いた。その後、兵火に焼失。15世紀の後半に太田道灌、道真が再建した。
16世紀末には豊臣秀吉より御朱印100石。17世紀初頭には徳川家康より総寧寺(千葉県・市川市)、大中寺(栃木県・大平町)とともに関三刹とも呼ばれる大寺院に。全国の曹洞宗寺院のうち、23ヶ国の寺院、その僧侶など二万人を統括していた、とか。

参道を進むと堂々とした門。無相門。彫刻は榛名の名工岸亦八の手による。先に進むと江戸城の石。江戸城外濠に架かる神田橋の橋台として使われていたものである。本堂にお参りし、続いて太田道灌銅像に。案内をメモ;「太田道灌公墓;永享4年(1432)龍穏寺寺領(父・居城居城居城居城居城太田道真の)に生る幼名鶴千代丸後雲崗舜徳襌師(龍穏五世)について出家道灌と号す「瑞巖主人公」の公案を受け大悟徹底す長禄元年(1457)江戸城(皇居)を築き川越城・岩槻城・鉢形城を修築し野戦に長じ関東雄将たり。しかるに惜むべし文明18年(1486)神奈川県伊勢原市にて謀殺される。法名香月院殿春苑道灌大居士分骨して当山に葬る、と。少々きらびやかな経堂の外壁を彩る彫り物を眺め、境内脇にある熊野神社にお参りし、お寺を離れる。

梅本林道
少し進むと食事処・山猫軒。築130年という旧家を改築したもの。散歩をしていると、時々山の中、と言ってもいいようなところに洒落た食事処がある。高尾から津久井の城山湖に向かって歩いていた時も、案内川に沿って甲州街道を進み、峰の薬師参道を峠道に入った山中にも同じような雰囲気の食事処があった「うかい竹亭」。山中ではないけれど、仙川に沿って武蔵小金井をぶらぶらしていると懐石料理で名高い尼寺・三光院に出会った。食通にはうれしいお店ではあろうが、食にあまり興味のないわが身には、有難さも中位といったところ、である。
歩を進め、道が分岐するあたりの道脇にこじんまりとした社、というか祠。山神宮八幡神社とあった。ここから左に分岐する道は、高山街道へ続く道のようである。高山道は四寸道とも呼ばれる、越生から高山不動への参拝道。起点は大満の越辺川と龍ガ谷川の合流点より少し黒山に向かって進んだ下ケ谷の下ケ谷橋の袂。そこから下ケ谷薬師を経て、越辺川と龍ガ谷川に挟まれた尾根道上を薪山>駒ヶ岳>峰山、関場ガ原(関八州見晴台)と上り高山不動を目指す。
この梅本の分岐は龍穏寺から尾根道に直接進むショートカットのルートだろう、か。高山不動は龍穏寺の奥の院とも言われているので、昔は参拝人でにぎわったのだろうが、現在高山道は廃道寸前となっている、とか。ちなみに、高山道の別名四寸道の由来は、幅が四寸の露岩のやせ尾根を行くから、と。

旧秩父道への分岐
少し進み梅本集落の入口付近の道端に滝不動。ブロックの祠の中に、年代を経たお不動様。滝不動と呼ばれるように、男滝と女滝があるのだが、どちらもいかにもつつましやかな滝である。
滝不動を越えると、梅本林道の標識。ここから飯盛山の大平尾根へと上る林道がはじまる。林道を尾根に向かってゆったり上る。龍穏寺から2キロ強歩いたところで、梅本林支線が分岐。草むらに旧秩父街道との案内。秩父越生街道って、龍穏寺へのバスの途中、小杉、麦原から太平尾根に上っていた道筋。この道は龍穏寺方面からこの秩父越生街道に通じる道だったのだろう、か。
支道入口は通行止めとはなっていたのだが、これって車がダメだが、歩きは大丈夫だろうと、無理矢理解釈。とりあえず、どんな道筋か本線を離れ支道にはいる。ぐるりと曲がったゆったりとした坂道を上ると障子岩。断層としては専門家にはありがたい岩のようだが、門外漢には岩よりも、そこから流れ出す障子岩名水がありがたい。一口飲んで先に進む。が、ほどなく道は行き止まり。進めるかどうかブッシュの中に分け入るも、どうにも進めそうも無い。諦める。林道によって道筋が代わり、廃道となったのだろう。仕方なく本道に戻る。整備はされている。

野末張(のずはり)見晴台
尾 根に向かってジリジリと上ってゆく。旧秩父道への分岐から1キロ弱歩き、ほとんど180度ターンをするカーブのあたりで道の周囲は開ける。ほぼ尾根筋に来たのだろう。ヘアピンカーブのところに東のほうから林道に合流する尾根道があった。チェックすると、アジサイ公園方面との案内。ということは、ここらあたりが大平尾根。ということは、合流してきたこの尾根道は小杉、麦原方面から上ってきた秩父越生道なのだろう。少し尾根道を歩き、なんとなくの秩父越生道の雰囲気を楽しみ、元に戻る。
180度の折り返しの「中州」のところに展望台。野末張見晴台と呼ばれる。いやはや、素晴らしい展望。思いがけないプレゼントといった感じ。山並みのどこがどこだかわからないながらも、見晴らしを楽しむ。後でチェックすると、北は赤城山とか日光連山、南は新宿の高層ビルまでもカバーしていたようだ。


奥武蔵グリーンライン

尾根道を2キロほど進むと奥武蔵高原道路、通称奥武蔵グリーンラインに合流。案内に右に折れると飯盛峠、左は関八州見張台、どちらも1キロ程度。先を急ぐのだが、飯盛峠って、どんなものかピストン往復を。

飯盛峠
奥武蔵グリーンラインを飯盛峠に向かう。奥武蔵グリーンラインって、外秩父の尾根を走る林道。この尾根道には大野峠、七曲り、刈場坂峠、ブナ峠、飯盛峠、アラザク峠、傘杉峠、顔振峠といくつもの峠が連続する。このようにいくつもの峠が開かれた理由は、高麗川の谷筋に沿った吾野の村々、また、芦ケ久保といった秩父の集落から越生に通じる道が必要であった、から。今でこそ西武線が通り飯能や秩父にすぐに行ける吾野の町ではある
が、その昔は、生活物資を求めてこの地域の中心地である越生に向かうしかなかったようだ。
谷筋の村々からは炭を背負い、峠をこえて越生に向かい、そこで食料や衣料と交換した。また、芦ケ久保の集落からは、距離的には秩父が近いわけだが、お米など秩父までの運賃が高く、であれば、ということで秩父に比べて安いお米が手に入る越生に向かって、峠を越えた、と言う。(『ものがたり奥武蔵:神山弘(岳書房)』より)。今となってはどうということのない峠だが、昔は人々が足しげく往還したのだろう。少々の感慨。
尾根道を進むとほどなく飯盛峠。標高810m。ヒットエンドランでもあり、道端にある飯盛峠の標識にタッチし、梅本林道との合流点に戻り、そのまま尾根道を関八州見晴台に向かう。


関八州見晴台
梅本林道との合流点から1キロほど尾根道を進むと関八州見晴台。越生と飯能の境目。標高770m。安房、上野、下野、相模、武蔵、上総、下総、常陸の関東八カ国が一望のもと、ということが地名の由来。
見晴台には奥武蔵グリーンロードから少々の高台に上ることになる。高台には高山不動の奥の院。つつましやかな祠といった風情であった。本尊の五代尊不動明王は関東鎮護のため東京に向けられている、とか。しばしの休息の後、本日最後の目的地である高山不動に向かう。

高山不動
杉林の中を下る。はじめは舗装もされているが、途中からそれも切れ山道をどんどん下る。奥武蔵グリーンラインにつかず離れずといった道筋。ほどなく高山不動の本堂脇に到着。素朴であるが堂々とした本堂である。創建の時期は7世紀とも言われるが、正確な時期は明らかでない。少なくとも平安時代末期には坂東八平氏・秩父重遠がこの地に居住し、高山氏を名乗ったわけで、古い歴史をもつことは間違いない。
本堂にお参り。石段の下にはひとつふたつ建物が見えるにしても、成田不動、高幡不動とともに関東三大不動のひとつとも言われる割には、ちょっと寂しい。七堂伽藍が林立、とまではいかなくても、もう少々堂宇が並ぶか、とも想像していたのだが、まったくもってさっぱりしたもの。往時は3
6坊を誇った堂宇も現在は3坊を残すのみ。明治の廃仏毀釈の洗礼を経たためであろう、か。江戸の頃は、参拝客で賑わい、賭博で賑わったお不動さまも、今は静かな風情である。
106段の石段を下ると、ひときわ大きい樹木。子育ての大イチョウと呼ばれる。成り行きで下り、庫裏前を進み道に出るとすぐにつつましやかな三輪神社。ちょっとお参りをし、吾野駅に向かう。
そうそう、高山不動は賭博が盛んであった、とメモした。神社仏閣と賭博はここだけの話でもない。足立区花畑の鷲神社もそうであった。酉の市で知られるこの神社も賭博で賑わった。で、賭博が禁止されると、人の動きがピタリと止まった、とか。信仰だけでなく、なんらかの現世利益、楽しみが必要ということ、か。当たり前と言えば当たり前。

西武秩父線吾野駅

三輪神社を経て上長沢地区の山道をどんどん下り、途中志田林道の合流箇所などを見やりながら高山不動参道入口に。お不動さんから3キロ強といったところ。さらに下り、瀬尾のあたりまで来ると民家も多くなる。瀬尾の集落は高山不動尊の参道として賑わった。道筋には材木店も見える。下長沢地区の山腹に点在する
民家を見やりながら渓流に沿って進み、国道299号線に合流。ここまでくれば吾野駅はすぐそこ、だ。

国道299号線の南には高麗川が流れる。高麗川は刈場坂峠付近に源を発し、飯能、日高、毛呂山と下り、坂戸で越辺川に合流する。名前の由来は、高麗郡より。716年、駿河など7カ国に住んでいた高句麗からの帰化人1799名を武蔵国に集め設置したもの。日高市にある高麗の里の巾着田を歩いたことがなつかしい。
川に沿って吾野の駅に向かい、本日の予定終了。ちなみに、吾野の駅って、西武秩父線の始点,、というか、1969年に正丸トンネルができるまでは西武線の終点であった。で、トンネルができて、秩父とつながったため、西武線終点であった吾野が秩父線の始点となった、ということだろう。西武鉄道のほとんどの電車が、始点・吾野ではなく飯能で折り返しているのは、歴史的経緯としての始点とは関係のない、なにか別の「合理的」理由によるのだろう。それにしても、それにしても、高麗川の谷筋と秩父が電車で繋がったのは、それほど昔のことではなかったわけである。
正丸峠を越えようと思った。名前が結構前から気になり、そのうちに歩こうとも考えていた峠である。飯能から高麗川の谷筋を進み秩父に入るには正丸トンネルを抜ける。正丸峠はこのトンネルからは少し離れた尾根筋あるのだが、秩父観音霊場巡りなどで頻繁に正丸トンネルを通っているうちに、おなじ名前の正丸峠が脳裏に刷り込まれていたのだろう。
ルートをチェックすると、西武秩父線・正丸駅近くから旧正丸峠への道がある。峠からは正丸トンネルの秩父口に下りる道もあるようだ。峠の上り下りは5キロ程度。それほどの距離ではない。秩父側の国道に下りてから、芦ケ久保駅までが4キロ弱と少々長く、大型トラックの風圧に怖い思いをしながら国道脇を歩くのは少々憂鬱ではある。バスの便でもあればそれに乗るのもいいか、といった成り行きに任せる事に。
秩父の峠で最初に覚えた峠が正丸峠。が、あれこれしているうちに、釜伏峠、粥仁田峠、飯盛峠、妻坂峠など、秩父や奥武蔵の峠を結構越えてしまった。遅れてやって来た主人公に会いに行く、といった気持ちではある。



本日のルート;西武秩父線正丸駅>国道299号線>坂元集落>八坂神社>峠道>正丸峠への車道と交差>旧道を旧正丸峠に>旧正丸峠>治山ダム>追分>横瀬川>山伏峠からの県道53号線に合流>国道299号線>西秩父線芦ケ久保駅


西武秩父線正丸駅

正丸駅に下る。駅前が結構広い。気になりチェック。どうもバスの発着所であった、よう。現在では西武線はトンネルで秩父と結ばれているが、西武秩父線の正丸トンネルが開通したのは1969年。武甲山の石灰の運搬と沿線の観光開発を目的に秩父と吾野間が電車で結ばれた。
西武秩父線が開通する前は、西武池袋線の終点である吾野と秩父駅は正丸峠を越えるバス路線が走っていた。また、トンネルが開通し、それまで西武池袋線の終点であった吾野駅と秩父駅が結ばれるようになってからも、秩父駅と正丸駅の間には峠越えのバス路線が走っていた時期があった、ようだ。国道299号線の正丸トンネルが開通したのは1982年であり、それまでのある時期、バスが峠道を上り下りしていたわけで、「広場」はその時期のバスターミナルの名残であろう、か。
西武線秩父線の正丸トンネルの開通が1696年、国道299号線の正丸トンネルの開通が1982年。秩父と飯能、ひいては首都圏と繋がったのはそれほど昔のことでは、ない。秩父って、つい最近まで、結構「遠い」ところであったわけ、だ。

坂元集落
正丸駅を離れ国道299号線に出る。国道を700mほど歩くと坂元集落に入る道が分かれる。道脇に「旧正丸峠、正丸峠、刈場坂峠」への道標。国道を離れるとすぐに高麗川を渡り坂元の集落に。高麗川の源流は刈場坂峠(かばさか)の近く。飯能、入間、毛呂山を流れ坂戸市で越辺川に合流する。
正丸トンネル手前で国道から右に分かれ正丸峠へと上る道がある。道はほどなくふたつにわかれ、左に大きくカーブする道が旧国道、そのまま直進する道が刈場坂峠への道。高麗川はその直進する道に沿って刈場坂峠へと続く。源流の碑もあるということであり、そのうちに歩いてみたい。
集落にはいると道脇につつましやかな祠。八坂神社とあった。お参りをすまし、5分も歩くと道は次第に山道となる。舗装も切れた杉林の道脇には石仏が佇んでいた。

沢沿いの道を上る

沢沿いの道を上る。ここからは丸太橋や仮設橋で沢を渡ることになる。ささやかな沢である。沢の右岸を上る。第一の仮設橋で左岸に移る。鉄パイプのつくりは少々味気なし。ほどなく道脇に大岩。この巨岩脇を抜けると第二の橋に。丸木でつくられた橋を渡り右岸に戻る。道なのか沢なのかといった道筋のすぐそばを歩くことも。
三番目の橋は再び仮設橋。ここで左岸に渡る。第四の橋は越流状態。木橋の上は土砂に埋もれ、そこを水が流れる。右岸に移り第五の仮設橋で左岸に。ここからは北に延びる沢筋を上ることになる。谷筋を過ぎると急斜面。一気に上る、のみ。(この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、275号)」

旧国道に合流
上り切ったところで車道に合流。正丸トンネル手前から正丸峠を越え、県道53号線に合流する昔の国道である。県道53号線は名栗谷の名郷から山伏峠を越えて正丸トンネルの秩父側口の近くに下る道。現在の国道299号線の正丸トンネルが開通したのは1982年というから昭和57年。ほんのつい最近まで、飯能方面から秩父に車で入るには、このクネクネした山道を上っていたわけだ。
旧国道の合流点から100mほど上ると再び山道に入る。目印は反射鏡。道の左下に旧国道を見ながら大きくカーブする山道を旧正丸峠に向かって進む。最後の橋は桟道。桟道って、岩場や崖など歩きにくいところに足場を組んだ、もの。桟道を越え鬱蒼とした杉林の中を進むと旧正丸峠に。

旧正丸峠

標高670m。県道の正丸峠が開通されて以来、旧正丸峠と呼ばれるようになった。坂元集落から2キロ程度。正丸駅からでも4キロ程、といったところ。ここまでは飯能市。稜線を越えると秩父に入る。
峠は狭い切り通しとなっている。稜線を左に進むと1.3キロで正丸峠、右に上ると虚空蔵山まで1.8キロ、刈場坂峠までは3.3キロ。直進し、峠を秩父に下ると初花、芦ケ久保に達する。伊豆ガ岳から正丸峠を経て北に延びる稜線を「正丸尾根」と呼ぶ。伊豆ガ岳>正丸峠>ガンゼ山>旧正丸峠>虚空蔵峠>大野峠>丸山へと続く。この横瀬の丸山を大丸山と呼び、旧正丸峠横のガンゼ山(川越山)を小丸山と呼ばれていた、と。正丸峠の名前の由来は、この小丸>しょうまる>正丸、となったとの説もある。正丸という親孝行な少年が、母親を背負ってこの峠を越えたのが、名前の由来との説よりは、なんとなく、納得感がある(『ものがたり奥武蔵;岳書房』)。
もっとも、この峠は昔から正丸峠と呼ばれていた訳ではない。二子峠と呼ばれていた、。昔は現在国道299号線が走っている芦ケ久保川沿いには道は無く、秩父から高麗川筋に出るには、二子山の南肩を越え、処花に下り、それから虚空蔵峠を越えて坂元に出ていた。二子峠と呼ばれたのは、このためである。正丸三角点であるカンゼ山(川越山)の東肩の按部であるこの旧正丸峠を越えるようになったのは、その後のことであると言う(『ものがたり奥武蔵;岳書房』)。
正丸峠が秩父と奥武蔵をつなぐ主要往還道と思い込んでもいた時期がある。秩父観音霊場を廻るため幾度となく秩父を往復したとき、飯能から高麗川の谷筋(秩父凹地帯)を進み正丸トンネルを抜けて秩父に入る。正丸峠はこのトンネルからは少し離れたところにあるのだが、今日の主要往還である正丸トンネルを頻繁に通っているうちに、おなじ名前の正丸峠も「主要」峠であろう、と刷り込まれていたのだろう。
その後、正丸峠を越える前に釜伏峠、粥仁田峠、飯盛峠、妻坂峠など、秩父と奥武蔵の峠を越え、あれこれ歩いているうちに、秩父と奥武蔵を結ぶ峠は数多くあり、正丸峠はそれら峠のひとつに過ぎない、といったことがわかってきた。そして、それよりなにより、当時の往還のメーンルートは越生と秩父・高麗川筋であり、秩父から高麗川筋って、それほど人の往来があったわけでもなかったようだ。『ものがたり奥武蔵;岳書房』によれば、秩父と飯能を結ぶこの正丸峠は普段は旅商人などが通るほかは人影もない寂しい道、獣道のようであった、とか。唯一この峠が賑わうのは年に一度の三峰神社のお祭りのときだけ。そのときだけは飯能、高麗、吾野の人々がこの峠を越え、終日賑わった、とある。「現在軸」だけからのあれこれの判断は慎重に、ということであろう。

峠からの下り
芦ケ久保に向かい峠を下る。飯能側の杉林と異なり、明るい雑木林の中を歩くのだが、道筋が少し分かりにくい。踏み跡を探しながら下る。涸れ沢の谷筋に出る。道と谷が土砂で埋もれたのだろうか、道筋が誠に分かりにくい。ただ、杉林と違い雑木林の木もまばらであり見通しがつけやすいので、それほど道に迷う不安は少ない。
涸れ沢を過ぎると沢の脇の細路を下る。カタクリの群生地脇を進むと広場のようなところにでる。ベンチなどもあり、川筋には治山ダム。谷筋の浸食を止め森林の維持・造成を図るもの。この広場も治山ダムにより沢筋が固定され、土砂が溜まり緑地が広がったものだろう、か。門外漢のため、単なる所感ではある。

追分
林道を進むと道は舗装されている。しばらく歩くと追分に。大カエデのそばに石仏。
追分で山伏峠に行く道と分かれる。松枝あたりで県道53号線に合流しているようだ。

県道53号線

石仏にお参りし、横瀬川の流れを見やりながら初花(処花)あたりで山伏峠か
らの県道53号線に合流。

国道299号線
初花から500mほど歩くと国道299号線の正丸トンネル秩父口に到着。正丸峠越えはこれで完了。上り下り、それぞれ1時間程度、といったところではあった。初花(処花)って美しい名前。由来はよくわからない。ただ、初花、って新年に一番最初に咲く花、季節毎に最初に咲く花のこと、とか。それから転じて、若い女性やいつまでも新鮮なパートナーのことを指すとも言う。この集落の名前の由来は、はてさて。

西武線秩父線芦ケ久保駅


国道を芦ケ久保駅に向かう。4キロ強といったところ、か。道の脇には横瀬川。その南には二子山。こんな話がある。昔、二子山にはダイダラボッチが棲んでいた。山や川、池をつくる大男。その神様が秩父に山をつくるためにやってきたのだが、この芦ケ久保の窪地で足をとられて運んできた土をこぼした、と。この足を取られた窪地が「足窪」。それが転化して「芦ケ久保」。で、こぼした土でできたのが二子山であった、と。そういえば、我が家の近くにある杉並区の代田橋も、この大男ダイダラボッチの足跡が由来、とか。
日も暮れてきた。国道を歩き、成り行きでバス停でバスに乗り、西武秩父まで進み本日の予定終了。
名栗の谷から秩父路に

高尾から秩父へと辿る鎌倉街道山ノ道の散歩も最終回。名栗から妻坂峠を越えて秩父の横瀬に入る。妻坂峠は鎌倉武士の鑑、畠山重忠が秩父から鎌倉に向かう時,愛妻と別れを惜しんだ峠。畠山氏は坂東八平氏のひとつである秩父氏の一族。父親も秩父庄司というから、荘園の管理者といったところ。重忠の時代には館は秩父にはなかったと思うのだが、秩父に大いに縁のある武人である。源平合戦での大活躍、そして北条氏の謀略による二俣川での憤死。悲劇の主人公として秩父・奥武蔵の人々に語り継がれてきたのだろう、か。重忠の峠越えの真偽はともかくも、多くの人が秩父との往還に使った峠道が、如何なる風景が広がるのかちょっと楽しみ。



本日のルート:西武線飯能駅>名郷>山中林道>入間川起点>横倉林道分岐>妻坂峠>二子林道>武甲山の表林道>生川の延命水>西武線横瀬駅

西武線飯能駅
家を出て、西武線飯能駅で下車。名郷・湯の沢行きのバスに乗る。湯の沢は山伏峠の手前。秩父道の妻坂峠越えは名郷バス停で降りることになる。飯能を離れ県道70号線を進む。途中、下赤工、原市場、赤沢の町を見やりながら名栗の谷筋を進む。名栗渓谷を越え、下名栗のあたりになると道は小沢峠方面より北上してきた県道53号線に合流。その先は県道53号線として山伏峠を越えて秩父に通じる。
いつだったか、名栗湖から飯能に向かって歩いたことがある。いくら歩いても名栗の谷筋から抜け出せず、10キロほど歩いて結局日没時間切れ。その場所が原市場のあたりであった。子の権現詣でが華やかなりしその昔、飯能を出発した人々は、この名栗川の原市場まで進み、そこからは中藤川沿いに子の権現に上った、という。そのうちに、このルートで子の権現へと歩いてみようと思う。

名郷
小沢、市場、浅海道、名栗湖へのバス停である河又名栗入口を越え名郷で下車。飯能から1時間ほどかかった。バス停近くにつつましやかな弁財天の祠。バス停横には材木屋さん。さすが、西川材として栄えた地域である。
名郷はこの地域の商業の中心地であった。山伏峠方面の湯の沢集落、妻坂峠方面の山中集落、鳥首峠方面の白石集落の人達は、毎日薪を背負ってこの名郷に下り、そこで必要な日用品と交換し、再び集落に戻るのを日課とした、と(『ものがたり奥武蔵;神山弘(岳書房)』)。現在はただ静かな集落となっている。
ところで、西川材って、名栗の材木のこと。名栗川を流し、西から江戸に運ばれたために、西川材と呼ばれた。材木問屋のある千住まで10日ほとかかった、と言う。名栗はその材木故に、天領であった。年貢などはなく、幕府の要請に応じて木材を提供すればよかった、とか。ために名栗は豊かであった。名栗がばくち、賭博が盛んであったことは、豊かな村であった証でもあろう、か。
ところで、名栗の由来が気になる。いまひとつ、これだという由来がわからない。木工技術に名栗という技法がある。木材(主に栗)の輪郭面を六角形や四角形などに加工するこの技法は数寄屋建築に欠かせない技法、とか。歴史は古く、縄文・弥生の頃から使われている、と言う。
この名栗の技法は、もともとは山から伐採した木を出すとき、腐りやすい白太の部分をはつり取ったのが始まり、とも言われる。この名栗の地は西川材と呼ばれるように木材で名高い地域でもあるので、名栗の由来はひょっとすれば、この木材加工の言葉にあるの、かも。素人解釈であり、真偽の程定かならず。
名郷でバスを降りず、そのまま先に進めばバスの終点である湯の沢に進む。そしてその先は山伏峠を越えて松枝、初花を経て国道299号線・正丸トンネルの秩父側に至る。湯の沢の名前が気になる。温泉が湧くという話も聞かない。子の権現近くに湯ノ花というところがあるが、それは猪の鼻から転化したものという(『ものがたり奥武蔵;神山弘(岳書房)』)。湯の沢も、猪沢からの転化であろう、か。山伏峠の名前の由来は、「ヤマフセ」という山の形から、との説がある。山伏(修験者)にまつわるあれこれの話もあるが、釜伏峠などもあるわけで、どうも地形に由来する説のほうが納得感が高い。
ついでに名郷の由来。これも名栗同様、よくわからない。あれこれチェックすると、長尾峠のことを名郷峠と呼ぶところもある。ながお>なごう、と転化したのであろう、か。これまた素人の田舎解釈であり、真偽の程、定かならず。

山中林道

名郷バス停で県道53号線と別れ、県道73号線を進む。渓流に沿って歩いていくと大鳩園キャンプ場。川傍にバンガローが点在するキャンプ場を越えると道は分岐。県道73号線は白岩集落から鳥首峠に向かって進む。秩父道は県道73号線から別れ妻坂峠に向かう山中林道(山中入)に入る。川筋もふたつの道筋に沿って続く,と言うか、道筋はふたつの川筋・沢に沿って開かれた、というべき、か。
鳥首峠は昔の浦山村に進む峠道。秩父観音霊場巡の橋立堂に向かう時、ちょっとかすった浦山ダムのあたりに出てくるのだろう。ちなみに、鳥首山の由来は、峠付近の山稜線の姿が鳥の形に似ており、その峠のたるみが首にあたる、との地形から(『ものがたり奥武蔵;神山弘(岳書房)』)。語感からは少々、オドロオドロしいが、実際は山容から来た名前であった、よう。

「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)





入間川起点
山中林道(山中入)を進む。この夏に熊が出たらしく、注意書きなどもあり、少々緊張。舗装された道を1.2キロ程進むと焼岩林道が分岐。沢に沿って進み、道が大きくカーブするあたりに「1級河川入間川起点」の石碑。とはいうものの、すぐ上には砂防ダムだろうか、コンクリートの堰もあるし、なりより、まだまだ川筋は先に続いている。
それまで知らなかったのだが、起点と源流はどうも違うようだ。源流は言葉そのもので、水の源。起点は管理起点とも呼ばれるように、行政管理上の河川の始まりのよう。そういえば、川って幾多の沢筋の水を集めて出来る訳で、源流などは考えようによってはいくつもあるわけだろうから、ある程度の源流地域で、えいや、と起点を造る必要がある、ということだろう。

横倉林道分岐
先に進むと横倉林道が分岐。大持山登山口とかウノタワ登山口に続く。山中林道入口から1.9キロほどのところである。ウノタワは鳥首峠と大持山の中間点にある。ここの窪地はかつて沼があった、とか。その沼には神の化身の鵜が棲んでいた。が、猟師がその鵜を矢で撃ち殺してしまう。沼は鵜もろとも消えてしまった、と。ウノタは鵜の田、から
急勾配の峠道
横倉林道の分岐を越え、渓流を見やりながら進む。勾配もきつくなり、沢の手前で林道や終点。舗装もなくなり、ここからは山道の峠越えとなる。小さな赤い橋を通って沢を渡り、杉林の中に入る。結構な急勾配。沢に沿って進む。古い石垣らしきものもあり、少々の古道の雰囲気を感じる。とはいうものの、石が転がり足元はよくない。
沢から道が離れるあたりから、上りは結構厳しくなる。峠手前のジグザグ道では勾配が40度もあろう、か。峠道を結構歩いたが、息のあがり具合というか、汗の出具合というか、顔の上気加減というか、雨上がりの湿気が多い日とは言いながら、尋常ではなかった。


妻坂峠
峠でしばし休憩。お地蔵様が鎮座する。延享4年というから1747年からこの峠に住まいする。峠からは名栗方面の見晴らしはよくない。秩父方面は展望がよく、晴れた日は武甲山や横瀬の町が一望のもと、ということだが、今回は雨上がりの靄の中。
1572年には上杉謙信がこの峠を越えたという。畠山重忠もこの峠を越えた、と。峠の名前も重忠に由来する。重忠が秩父から鎌倉に出仕すろとき、この峠で別れを惜しんだから、と言う。とはいうものの、重忠の館は男衾郡畠山郷(深谷市畠山)であったり、菅谷館(武蔵嵐山)である、と言う。秩父に館があったというわけでもないのだが、秩父一族の代表的武人・文人としての重忠に登場してもらわなければ洒落にならない、ということだろう。事実、
奥武蔵や秩父には重忠の伝説が多い。山伏峠には重忠が桐割ったという切石の話が残る。有馬の奥、棒の折山もその名前の由来は、重忠が持つ杖が折れたから、とも。散歩をはじめて、武蔵の各地に残る幾多の伝説から、重忠の人気のほどが改めて実感できる。
妻坂って語感は心地よい。重忠の話もいかにも心地よい。が、もともとは「都麻坂」と表記されていた、とも言う。「都麻」って、「辺境の地」といった意味があると、どこかで見たことがある。味気はないが、このあたりが地名の由来としては納得感が強い。


二子林道
峠を下る。急な斜面。丸木橋などもあり、足元が危うい。下るにつれて道筋が少々わかりにくくなる。道なのか沢なのか区別のつかない道筋をとりあえず下ってゆく。この沢は生川(うぶかわ)の源流といったところだろう。沢に沿って下り二子林道に出る。登山道は林道を突き切って進む。
生川も畠山重忠に由来する。文字通り、産湯につかった川であった、とか。
武甲山の表参道
二度ほど林道と交差し石仏のあるところに出るとそこは武甲山の表参道。御嶽神社一の鳥居の裏手には車が駐車している。武甲山にのぼっていったのだろう。峠からは2キロ弱か。30分程で下りる。ここからは歩きやすい舗装道となる。
武甲山を最初に秩父で見たときは、結構インパクトがあった。甲冑そのものの、堂々とした山容であった。また、石灰を採るために削り取られた白い山肌も、これまたインパクトがあった。武甲山の名前の由来は例に寄ってあれこれ。日本武尊が甲冑を祀った、との説。このあたりを領する武人が武光氏であり、「たけみつ」を音読みで「ぶこう」としたとの説。「向う山(むこう)」が転化して「ぶこう」となったとの説。この中では「向う山(むこう)」が納得感が高い。神戸の「六甲(ろっこう)山」も、もともとは「向う山」から来ており、昔は武甲山とも表記されていたと言う(『ものがたり奥武蔵;神山弘(岳書房)』)。

生川の延命水
舗装道路を進むと道ばたに湧き水。生川の延命水と呼ばれる。小さな祠を挟んで2カ所から導管から注ぎ出る。涌き口は斜面の上なのだろう。ペットボトルに補充し生川沿いの林道を進む。
湧水は心地よい言葉である。散歩では湧水というキーワードだけで、無条件でそこに足が向かう。秩父でも寄居からの秩父往還を歩いて釜伏峠を越えるとき、「日本(やまと)水」という湧水の案内が登場。尾根道を下り水場に到着。渇きを癒し、さて下山。が、尾根道下りで道に迷い、転びつつ・まろびつつ、不安と戦いながらブッシュ道と格闘したことがある。この延命水は道端にあったことを大いに感謝。

西武秩父線横瀬駅
いくつかの石灰工場を見ながらひたすら歩き、横瀬の駅を目指す。谷筋が切れるあたりから、ぼちぼち民家が現れる。横瀬の町である。表参道から5キロほど歩いたように思う。単調な道筋を結構な距離歩いた。
横瀬の町は昔、根古屋と呼ばれた。根古屋って、山城の下にある城下町、というか家臣の館のあるところの意味で使われることが多い。はてさて、このあたりのど 
こにお城があったのか、チェックする。秩父観音霊場8番札所西善寺の近くの御嶽神社に「城谷沢の井」といった井戸があるが、いかにもこのあたりといった地名。どのあたりかはっきりは知らないけれど、この根古屋集落裏の尾根筋に城があった、よう。二子山には物見台があったと言うし、正丸峠筋からの敵襲に備えていたのだろう、か。

いつだったか、秩父観音霊場巡りで、西善寺にも訪れた。コミネカエデの古木が見事であった。御岳神社も訪れた。ここは武甲山頂にある御岳神社の里宮。山に上ることのできないひとの信心の場であった。城谷沢の井は、その豊富な水量と水質の良さを活用し、絹の染色に使いはじめ、秩父絹発祥の地とされる。
はてさて、寄り道が過ぎた。見慣れた三菱マテリアルの工場などを見ながら西武線に沿って西に向かい、横瀬の駅に到着し、本日の予定を終了する。また、高尾からはじめ、4回に分けて辿った鎌倉街道山ノ道、秩父道散歩もこれで予定終了とする。

紅葉の頃、会社の仲間と秩父路へ、との話になった。さて、どこに行こうか、と少々考える。メンバーは沢ガールデビューした「怖いもの知らず」のうら若き女性が中心。ちょっと手応えがあり、かつまた紅葉も楽しめるところ、ということで秩父の西奥の小鹿野にある32番札所法性寺奥の院を訪れることにした。法性寺には二度訪れたことはある。が、二度とも奥の院はパス。時間が無かった、ということもさることさることながら、岩場をよじ登っての大日如来参拝、巨大なスラブの背を辿っての岩船観音参拝は、高所恐怖症の我が身には少々荷が重く、見ないふりをしていたわけである。
ルートを定めるに、法性寺奥の院への直球勝負では面白くない。自分ひとりで散歩するぶんには、だらだら、成り行きで歩けばそれで十分満足ではあるのだが、同行者を率いる以上、おのずと「起承転結」のルートとなってしかるべし、とプランを練る。






で、あれこれ考え決めたルートが、西武秩父からバスで小鹿野まで行き、そこから峠越えの巡礼道を法性寺に。法性寺の奥の院で少々盛り上がり、仕上げは長瀞での紅葉見物といったもの。これであれば、起=峠越えの巡礼道>承=落ち着いた法性寺>転=一転、奥の院の怖い岩場>結=結びは、長瀞の美しい紅葉見物、と構成としてはそれなりのものとなった、かと。同行者にもそれなりの気持ちの揺れも与えられることを期待しつつ、晩秋の11月18日、一路秩父へと向かった。




本日のルート;西武池袋;7時半・秩父5号>西武秩父8時58分>西武秩父駅;西武バス・小鹿野車庫・栗尾行初;9時15分>小鹿野役場着;9時51分>徒歩;大日峠経由32番法性寺(1時間)>到着おおよそ11時>法性寺奥の院(おおよそ1時間)>松井田バス停まで4キロ歩く;おおよそ1時間>松井田バス停発14時51分>秩父駅着15時1分>長瀞>西武秩父>西武池袋

西武秩父駅
西武池袋7時半・秩父5号に乗り西武秩父に8時58分着。駅前のバス停で「小鹿野車庫・栗尾」を待つ。当初の予定では駅前の観光案内所で資料など手に入れようと思っていたのだが、開館時間前で利用できなかった。

蒔田川筋
西武秩父発9時15分の「小鹿野車庫・栗尾」行き西武バスに乗り、小鹿野町役場に向かう。国道299号を進み荒川に架かる秩父橋を渡り、蒔田で赤坂峠、といっても標高200mといった長尾根丘陵の北端部といったところだが、その峠を越え長尾根丘陵の西側、荒川の支流である蒔田川の谷筋に入る。長尾根丘陵は50万年前に荒川が流れていた段丘面である。蒔田川の谷筋が荒川のそれに比べてそれほど深くないのは、蒔田川の上流部が荒川や赤平川の浸食により切断されたため、と言う。上流部分が切断されたため水流が少なくなり浸食が進まなかったのだろう。とは言うものの、はるかなる大昔の話ではある。

赤平川筋
蒔田川の谷筋、というか、浅い蒔田川を囲む水田地帯をしばらく進むと道は再び丘陵の峠に上る。丘陵名は不詳だが、その丘陵の南端の千束峠を越え荒川の支流・赤平川を渡る。赤平川は国道299号を北西に進み上州に抜ける志賀坂峠の南に聳える諏訪山に源を発し、秩父の皆野で荒川に合流する。

小鹿野_9時51分;標高248m
谷筋を進み小鹿野用水と交差するあたりで国道299号を離れ、小鹿野の町に入り、9時51分小鹿野役場で下車。小鹿野はこれで3度目。すべて秩父観音札所巡礼がらみである。最初は小鹿野の町を越え、栗尾バス停で降り、4キロほど歩き秩父観音31番札所・観音院を訪れたとき。その時、この小鹿野役場まで戻り、今回巡礼道を辿る32番札所・法性寺までタクシーを利用した。時間無きが故ではある。二度目は札所の写真を撮るだけのために車で秩父を巡ったとき此の地に訪れた。
三度目の小鹿野。小鹿野は埼玉県最西端、群馬県と接する秩父郡最奥の町である。もっとも、それは「現在」の東京を中心として結ばれた道路交通網を基にした物流の視点でのこと。かつて、物流は峠を越えての人馬が担っていた時代の視点で見ると、小鹿野の物流におけるポジショニングが大きく変わって見える。上州と境を接した秩父の最奥部の町小鹿野は、上州そして更には上州を介して信濃と結ぶ物流の拠点となって現れる。
往昔の小鹿野の経済圏は、現在の国道299号を進み志賀坂峠を越えた上州中山郷(群馬県上野村)までも含まれていた、と。当時、山間の集落、謂わば「陸の孤島」であった中山郷の産物は峠を隔てて接する小鹿野に集まっていたようだ。また、その上州の中山郷は十石峠(かつて米のとれない上州地方西部の山間部に、信州佐久平から一日十石の米を運び込んでいたことが地名の由来)を越えて信濃とつながっていた。この往還は江戸と信州を結ぶ上州道とも呼ばれ、明治・大正の頃は絹織物を運ぶ重要な道として栄えていたようである。

かくして。小鹿野は古くから開けていた。その歴史は古く、平安時代に編纂された『倭名類聚抄』には既に「巨香郷(こかのごう)」として記録されている。小鹿野の地名は、古代神話で日本武尊がこの地を「小鹿の野原」と呼んだことに由来する、とか。「日本武尊を小鹿が案内した原」といった意味である。小鹿野には広大な野原があるわけでなないので、「原」はこの場合、「渡来人の住む地域(秦>幡羅>ハラ>原)ではないか、との説もある。真偽のほどは定かではないが、実際小鹿野には古墳が残る、とも。

古代から中世にかけては秩父武士団が台頭。戦乱の世には信州・上州・秩父往還筋故に、甲信越勢力の関東侵攻のための拠点とされ、この地の争奪合戦が繰り広げられたようでもある。小鹿野の町並みを更に奥に進んだ三山地区の要害山は永禄12年(1569)には武田と後北条の戦いの際の後北条方の物見跡、とも。耕地面積が少なく林業と養蚕業で生計を立てていた小鹿野地域は、江戸時代に入ると江戸と信州を結ぶ上州道・中山道裏街道における秩父路最後の宿場町として賑わいを見せた。また、その街道故に上州山間部をも経済圏に入れた西秩父の経済の中心として栄え、山間の僻地にもかかわらず六斎市が立つなど、市場町として、秩父市内=大宮郷とは異なった独自性を保った町として発展したようである。
小鹿野は江戸の頃は幕府直轄地であり、明和2年(1765)、八代将軍徳川吉宗の時代に代官の出役所として発足したのが始まりと言われる本陣跡もあるようだ。秩父市内=大宮郷は確か忍藩領であったと思うが、そのあたりの統治携帯の違いも、独自性の一因、かも。

宮沢賢治の歌碑
小鹿野役場バス停脇には休憩所があり、小鹿野近辺の地図や観光パンフレットなどが置かれている。休憩所の前には「宮沢賢治の歌碑」。「山狭の 町の土蔵のうすうすと 夕もやに暮れ われらもだせり」と刻む。賢治が地質調査で秩父を訪れた折に詠んだもの。
賢治は小さいころから鉱物・植物・昆虫などに興味を持っていたが、特に鉱物が好きで「石コ賢さん」とも呼ばれていた、とのこと。秩父中・古生層から新生代までの変化に富んだ地層に恵まれ、我国の近代地質学発祥の地である秩父を訪れたのは盛岡高等農林学校2年生、二十歳の時。大正5年(1916)9月1日から7日まで長瀞の「岩畳」に代表される岩石段丘や「ようばけ」と呼ばれる赤平川の露出崖面(よう=夕日、ばけ=はけ>崖のこと。夕日に照らされた崖といった意味だろう)、そしてこの小鹿野から三峰山に登り、玄武岩質の露出した凝灰岩の調査をおこない、三峰から影森の石灰洞などを調査し秩父大宮に戻り、盛岡に帰っている。
賢治はこの地質調査の旅の間に20ほどの歌を詠んだ。いつだったか長瀞を訪れたとき、「つくづくと『粋なもやうの博多帯』荒川ぎしの片岩のいろ」と刻まれた歌碑があったが、これは岩畳の対岸にある虎の毛の模様を思わせる「虎石」を読んだもの。また、赤平川の「ようばけ」では「さはやかに半月かゝる薄明の秩父の狭のかへりみちかな」と詠む。

赤平川に架かる金園橋
バス停を離れ、大日峠への道が分岐する郵便局まで町を戻る。確かに郵便局の対面に、まことにささやかな「巡礼道の札」があった。気をつけていなければ見落としてしまいそうである。
道を右折し民家の間の小道を進むと庚申塚があり、そこを左折し先に進むと欅の巨木が道脇に聳える。道はこの古木の辺りから緩やかに右に曲がり下ってゆくと赤平川に架かる橋に出る。橋の名は「金園橋」。橋脇に注ぐ沢の名前が小判沢。小判>黄金>金の園との縁起故の命名とか。

小判沢集落
橋を渡ると樹林の中に入る。坂を上ると集落がある。小判沢と呼ばれる。誠に有難い地名である。地名の由来は不詳。金山でもあったのだろうか、ミヤマグルマのような小判を連想させる草花が咲くのだろうか、はたまた、養蚕が盛んな秩父では米粉団子で「繭玉飾り」をつくり神棚にお供えする風習があるようだが、その団子が繭のかたちや、小判などの縁起のいい飾りにするとのこと。そんな風習に由来する沢名前であろうか、などと如何なる根拠とても無い妄想を楽しむ。


そんな小判沢集落の入り口の小祠に「こんせい宮」が佇む。金精様とは男性のシンボルを祀る。奥日光と片品村を繋ぐ金精峠が有名だが、散歩の折々で金精様にはよく出会う。いつだったか、奥多摩の川井駅の先、百軒茶屋キャンプ場から「棒ノ折」への急登手前に金精様が祀られていたことを思い出す。金精様に限らず、石をご神体とした社によく出合う。人々の原初的な信仰は巨石・奇岩より起こったとも言われる。古代の遺跡からは石棒が発掘されるとも聞く。石には神が宿り、それが豊饒=子孫繁栄の願いと相まってハンディな「金精さま」へと形を変えて伝わってきたのだろう、か。

巡礼道_10時25分;標高260m
集落を抜けたあたりに児童公園がある。そこから左に下る巡礼道の指導標があり、「大日峠を経て32番へ2.4km」、とある。
細い山道を下って行くと、沢に出る。これが小判沢ではあろう。小判のように光輝くこともなく、少々薄暗い杉林の中を流れる沢にかかる小橋を渡り、沢に沿って樹林の中を進む。丸木を並べた橋を渡ったり、沢の小石を踏んで渡るなど、沢をしばらく進むと道は沢から離れ峠へと向かう。



道は鬱蒼とした杉林。明るいといった雰囲気ではないが、巡礼道っぽくて、それなりの雰囲気がある。道脇には遍路道の札がかかっているので道を間違うことも、ない。

秩父の地層
小判沢では沢に沿って地層が露出している箇所も見受けられる、とか。門外漢にはよくわからないが、上で鉱物に強い興味をもった宮沢賢治が地質調査に訪れた、とメモしたように、秩父は秩父中・古生層から新生代までの変化に富んだ地層で知られるようである。
周囲を山にかこまれた秩父盆地は、盆地の中に舌状丘陵が複雑に並び、荒川や赤平川は深く刻まれた谷筋を構成する。地形フリークには誠に魅力的な地形である。
その複雑な地形を秩父中・古生層から新生代までの変化に富んだ地層の観点で整理するに、秩父中・古生層とは秩父を含む日本列島は海の底にあった時期。海底には土砂が堆積し分厚い地層が形成された。今から3億年前のことである。この時期は地球の歴史の中で、古生代から中生代と称されるため、この地層を秩父中古生層と呼ぶ。中古生層は日本全国に分布するが「秩父」中古生層と「秩父」という形容詞が付くのは、秩父ではこの地層が表面に露出し、また、この地層が最初に発見されたのが秩父であった、ため。

2億年前の中生代の末頃になると、依然海底にあった日本列島は、海底火山による造山運動がはじまる。日本列島は隆起と沈降を繰り返し、時には、高地の一部が海上に顔を出しはじめた、とか。奥秩父の高山はこのころ海上に頭を擡げたの、かも。
6000万年前に始まる新生代に入ると、日本列島が次第にその形を現してくる。1700万年前には日本列島が大陸から分離され、秩父は陸と海の境となったようである。奥秩父の山々が海岸線を形作り、秩父盆地が湾となっていた、とか。その後、海進期・後退期が繰り返され、その過程で陸地の浸食が進み、現在のような複雑な地形となっていったのであろう。
海岸線を形成していた奥秩父山系と湾となっていた秩父盆地の境目には大きな断層があり、この断層面には、秩父中古生層から現在までの地層が観察できるようである。秩父にくれば、日本列島の歴史がわかる、とか。宮沢賢治が秩父を訪れた所以である。

大日峠_10時54分;標高394m

しばらくすすむと、杉林が明るくなり尾根に近づいたことがわかる。沢を離れておおよそ30分弱。標高390mほどの大日峠に到着。沢の標高が250mほどであるので、140mほど上ったことになる。峠の見晴らしはよくない。
赤い幟の立つ峠には二体の石像が佇む。一体には傘、というか上屋があるが、野ざらしの像のほうが古そうでもある。また、像は仏像と言うより、神像といった風情でもある。像はそれほど古そうではない。秩父札所を200回以上も辿った東京在住の個人篤志家の建立、とも言う。
像の傍らには大正8年(1919)に建てられた石の道標。正面の右を示す手の形は「小鹿野道;次ノ大字ハ小鹿野町大字下小鹿野ニシテ懸道マデ約二十町」「左を示す手の形は「札所三十二番柿ノ久保」、右側面には「從是東南秩父郡長若村」と刻まれる。

柿の久保集落_11時5分;標高296m
峠で少し休憩し、里に向かって下ると六十六部供養塔。六十六部供養とは法華教六十六部を書き写し、全国六十六カ所の霊場に一部ずつ奉納して廻ること。その巡礼または遊行の僧を六十六部(六部とも)と称し、白衣に手甲・脚絆・草鞋がけ、背には阿弥陀尊を納めた長方形の龕(がん)を負い、六部笠をかぶった姿で諸国をまわった。
六十六部は物乞い、行き倒れも多く、その場所には六部塚がつくられた。この供養塔がこのような六部僧の供養のためのものか、巡礼を終えた六部尊の記念のためにつくられたものか、場所から考えれば前者のようにも思えるのだが、不詳である。
六十六部供養塔を見やりながら15分ほど下ると樹林から抜け出し民家が現れる。柿の久保集落である。民家の横を抜けると車道にでると、角にはお地蔵様が佇み、「32番まで0.5km」の指導標。道脇の諏訪神社に一礼し100mほど進むと32番札所・法性寺に到着した。

32番札所法性寺_11時13分;標高276m
11時13分、法性寺に到着。道脇の仁王門の前の広場には小鹿野町営バスの停留所や休憩所を兼ねたお手洗いがある。町営バス12時7分法性寺発の小鹿野町営バスに乗れば、松井田バス停下車;12時14分、そこで西武バス松井田バス発;12時41分に乗るのがベストプラクティスではあるが、奥の院まで辿れば結構時間が厳しそう。成り行きで対応することにして、とりあえず法性寺の仁王門をくぐる。

結構迫力のある仁王様に一礼し、79段有るという急な階段を上ると納経所。納経所の隣が本堂。本堂には薬師如来が祀られる、と。本堂の前に舟をこぐ観音像を描いた額。ために、この寺は、「お船観音」とも呼ばれる。奥の院のある山上の岩場が大きな船の舳先の形をしている、と。ために、岩船山と。またここに建つ観音様を、岩船観音と呼ぶ。本堂前の奥の院遙拝所から、尾根に佇む観音様がかすかに見える。









観音堂
本堂の先の小高い箇所には観音堂。頃は晩秋。紅葉が美しい。途中の毘沙門堂にお詣りし、本堂から更に上に、100mほど石段というか、岩を削った山道をのぼったところにある。享保4年(1719)につくられた三間四方、宝形造りに回廊をめぐらせた木造懸崖造りの観音堂は結構な構え。縁起では行基菩薩が観音像を彫っておさめた、と。また寺伝には、弘法大師も登場する。 『大般若経』六百巻を書写し納めたとか。
扁額には「補陀巌」と見える。補陀巌とは、聞思修とも称されるが、仏の教えを聞き、その法を理解し、教えを実践修行しりに至る三段階の修行の教えを意味する。正面には船に乗ったお舟観世音の額が飾られているが、そこきは三十二番般若寺とあった。
観音堂に縁起絵も飾られる。「豊島権守の娘 或る時犀が渕に飛入りし一人の美女を舟に乗せ助けしは天冠の上に笠をかぶりし御本尊なり」とある。 悪魚に魅入られ身を投げた豊島権守の娘を助けたのが岩船山の観音さまであった。ということ。この縁起絵と同様の『観音霊験記』を広重が描いている。

観音堂の背後には大きな岩窟。太古秩父まで海が広がっていた頃にできた浸食のあとだと言われる。岩窟には幾多の石仏、石塔、祠の中にも仏が佇む。昭和6年(1931)に法性寺で発見された「長享二年秩父観音札所番付」によればこの岩窟が長享二年当時、般若岩殿と呼ばれた秩父第十五番札所と記され、また現在34の札所がある秩父札所は実正山・定林寺(現在、第17番札所)から日沢山・水潜寺(同34番札所)までの33ヶ所が札所として記載されている。33札所までしかない、ということは、諸説あるも室町時代の天文年間(1532-1555)に、現在の34の札所となる以前の、初期の秩父札所の資料、ということだろう。

般若岩殿と呼ばれた法性寺が秩父第十五番札所であったように、札所の番号も長享番付と現在の番付とは、現在の二十番以外はみな番付が異なる。一番は現在の十七番定林寺、二番が現在の十五番少林寺、三番が現在の十四番今宮坊、三三番が現在の三四番水潜寺、現在一番の四萬部寺は二四番で、順序が大きく異なっている。
順路が変わった要因は、秩父往還のメーンルートの変遷に負うところが大きいようだ。室町時代の秩父往還は名栗→山伏峠→芦ヶ久保→横瀬→大宮郷→皆野→児玉→鬼石が中心となっており、秩父観音巡礼はこの道か、吾野通りと称される、飯能→正丸峠→芦ヶ久保→横瀬→大宮郷がメーンルートであり、札所番付もその往還に沿ったものとなっている。
巡礼の最も盛んになった江戸時代になると、熊谷通りと川越通りの往還がメーンルートとなったようで、札所1番もこのふたつの往還が交差する栃谷の四萬部寺を一番として、二番真福寺を追加し、山田→横瀬→大宮郷→寺尾→別所→久那→影森→荒川→小鹿野→吉田と巡拝し、三四番を結願寺とした。秩父札所は秩父にしっかりとした檀家組織をもたず、もっぱら江戸の市民を頼りとした。秩父札所の水源は江戸の百万市民であり、その人々がやっとの思いで秩父に入り、最初に出会うお寺さまを、どうせのことなら一番札所とするほうがお客様のご接待、現在で言うところのマーケティング戦略としては効果的であった、ということだろう。
ご詠歌;ねがわくわ はんにゃの舟にのりをえん いかなる罪も浮かぶとぞき

法性寺奥の院
観音堂で寺の紅葉を眺めるも、心ここにあらず。少々怖い奥の院を想う。奥の院には、世に言われる、岩場・鎖場を辿っての大日如来、そして巨大なスラブ(岩の塊)の背を辿っての岩舟観音さまが待ち構える。高所恐怖症の我が身には少々荷が重い。
いつだったか、四国の石鎚山頂上の天狗岩進むも足が竦み「撤退」したこと、先日の四国の歩き遍路でも、岩屋寺の岩壁を掘り抜いた祠に架かけられた、ほとんど垂直の梯子の「上り下り」、特に下りの時の怖さなどを思い起こす。とは言うものの、「怖いもの知らず」のメンバーの「先達」としては、先頭に立ち範を示すに如かず。
観音堂から少し下ったところに巨石が二つ重なって、その間に隙間があるのだが、そこが奥の院への入口。巨石をくぐって山に向かう。

竜虎岩 胎内観音

行く手右側に岩壁が見えてくる、その下に着くと「竜虎岩 胎内観音」の案内。見上げると岩窟があり、そこから鎖が下がっている。一枚岩の岩盤には足がかりが刻まれており、鎖にすがり、足場を確保しながら岩窟に。岩窟には壊れかけた小祠が祀られていた。

小祠にお参りし、再び鎖にすがり元の道まで下る。「怖いもの知らず」の山ガールも少々勝手が違うようで、少々難儀していた姿が微笑ましい。






岩窟の石仏群
更に山道を進む。巨石の脇を通りすぎると急な上りとなる。岩盤に階段が刻まれており、鎖の手すりにすがって上ると岩窟があり、そこには幾多の石仏が横一線に並んでいる。いい表情の仏様である。







大日如来_11時55分;標高392m
岩窟脇に道標があり、「左 岩船観音 右 大日如来」とある。岩船方面へと進むとスラブ(巨大な岩塊)があり、断崖絶壁となっている。素晴らしい眺望。今時の感嘆詞である「やばい!」の言葉が山ガールの口から飛び交う。
スラブ上でしばし眺めを楽しんだ後、大日如来へと向かう。右手が絶壁となった狭い山道を、怖さのあまり左手の崖に生える草木を握りしめ進む。これだけでも結構怖いのだが、その先には岩峰が屹立する。大日如来はその岩峰の上に安置されている。宝暦2(1752)年、西村和泉守作とのことである。
垂直にも思いえる岩壁に下がる鎖に縋り上り終えると、次には絶壁の岩場が待っていた。右手の断崖を極力見ないようにして岩峰上に。岩峰上は二畳ほどのスペースの小さな岩窟となっており、その中に大日如来が佇む。宝暦2年(1752)、西村和泉守作とのこと。岩窟の周囲には鉄の手すりがあるのが心強い。私は早々に狭い岩窟の奥に縮こまるのだが、後から岩場を上る山ガールたちは、あろうことか、鎖から手を離し、手を振りその感激を示す。誠に以て、私にはあり得ない所行である。
メンバー全員が峰上の岩場に着く。大日如来を囲むその岩場は4,5人が肩を寄せ合って立つのが精一杯。高所恐怖症には縁遠い山ガールは鉄の手すりから手を話して眺望を楽しんでいる。動画を撮る余裕のある者もいる。見上げたものである。私は、鉄の手すりにつかまり、かつまた、狭い岩窟の奥に控えるのが精一杯。眺望は素晴らしいが足が竦む。



お船観音_12時13分;標高356m
眺望を謳歌するメンバーを尻目に、早々に下山準備。再び今度は極力左手の絶壁を見ないようにして、鎖に縋り岩場をへっぴり腰で降り、元のスラブの辺りまで戻る。
次の目標はこのスラブの先に佇むお船観音。予想ではスラブは一枚岩でできた「痩せ尾根の馬の背」といったものであったが、実際は断崖の逆側に岩場が緩やかな傾斜で広がっており、それほど怖いものではなかった。



スラブの先端に佇む観音様からの眺めも素晴らしかった。法性寺に二度も訪れながら、一度として辿らなかった奥の院は少々足は竦むも、それに十分に見合うところではあった。





法性寺を離れる_12時41分
岩船観音で時刻をチェックするに、既に12時。もうこれは12時14分発の小鹿野町営バスには到底間に合わない。後は成り行きで段取りを組むことにして奥の院から下山し、仁王門前まで下りる。時刻は12時36分。
昼食をとり、さて、ここで14時48分発の町営バスを待つか、国道299号までの4キロ程度を歩き、松井田バス停発;14時51分のバスに乗るか。少々悩むも、バスを1時間ほど待つよりも、歩くに如かず、ということで徒歩で松井田バス停に向かう。出発は12時41分。少し急ぎ足で歩いて、なんとか間に合う、といった段取りではある。

長若交差点_13時18分
法性寺のある谷筋を流れる「般若川」に沿って進む。ほどなく右手から「釜ノ沢」が合わさるがその手前に嬲谷集落。「なぶりや」と詠む。「からかったり苦しめたりしてもてあそぶこと」の意味。凄い地名ではある。
般若川と釜ノ沢合流した川筋が長い年月をかけて開析したであろう平坦な野を進み、長若交差点に。長留とか般若といった地名はあるのだが、長若って?チェックすると、明治22年(1889) 町村制施行により、長留村,般若村が合併して秩父郡長若村が成立した。昭和30年(1955)に小鹿野町と合併し、その村名は消えたが、交差点名はその名残ではあろう。
長若交差点では県道209号と県道43号が交差する。ふたつの県道は一時同じ道筋を南に走り、蕨平交差点で二手に別れ、43号は南西に向かい、秩父鉄道白久手前で国道140号と合流。一方の209号は南東に向かい、長尾根丘陵の南端を経て荒川を渡り、秩父鉄道影森近くで国道140号と合流する。

長留川
交差点を越え、県道43号を北西に進むと長留川(ながる川)。「長留・永留」は「長く留まる状態」を示す。「長留」は「母の胎内に16年留り、ヤマト姫を待つて8万年も宮に留まり、世に208万年間留まったといわれる「猿田彦」を現す詞とも言うが、まさか、猿田彦まで遡るとも思えず、一説には「水辺の上手の道」のことを示す、といった地形を現す表現に由来するの、かとも。単なる妄想。根拠なし。
その長留川の上流をチェックすると、馬場とか屋敷平とか、旗居、番戸原といった、いかにも武将の館があったような地名が残る。実際上記二つの県道が分岐する蕨平の辺りには長留館と称される中世の館跡がある、とか。地図をチェックするに、蕨平の辺りは、長留川の川筋を遡り雁坂道に至る道筋と、秩父・大宮への道筋の分岐点。往還を扼する拠点ではあったのだろう。

茅株稲荷神社
長留川を渡り茅株、長留地区を進む。道脇に茅株稲荷神社。茅株地区由来の社だろう、か。往昔は茅葺屋根のための茅、そしてその株は大切なものであったのだろう。茅株を掘り、そして移植する職人も多くいたのだろうか。これまた単なる妄想。根拠なし。





松井田バス停
道を進むと道脇に宮本の湯。農家屋敷と囲炉裏の湯。時刻は14時40分を過ぎている。バスを誘導する職員さんに松井田バス停を確認。道なりに進めば5分程度でバス停に着くとのこと。なんとか14時51分のバス間に合いそうである。急ぎ足でバス停に到着。数分待ってバスに乗り、西武秩父駅に向かう。




西武秩父から長瀞
西武秩父から長瀞までは秩父鉄道を利用し、長瀞の紅葉を楽しみ本日の散歩を終える。毎度のことながら、長瀞で田舎で子供の頃、おばーさんにつくってもらった「柴餅」、柴とは言いながら、サルトリイバラの葉で包んだお饅頭によく似た。秩父の田舎饅頭をお土産に一路家路へと。





■観音霊場について

○観音霊場巡礼をはじめたのは徳道上人
観音霊場巡礼をはじめたのは大和・長谷寺を開基した徳道上人と言われる。上人が病に伏せたとき、夢の中に閻魔大王が現れ、曰く「世の人々を救うため、三十三箇所の観音霊場をつくり、その霊場巡礼をすすめるべし」と。起請文と三十三の宝印を授かる。黄泉がえった上人は三十三の霊場を設ける。が、その時点では人々の信仰を得るまでには至らず、期を熟するのを待つことに。宝印(納経朱印)は摂津(宝塚)の中山寺の石櫃に納められることになった。ちなみに宝印とは、人というものはズルすること、なきにしもあらず、ということで、本当に三十三箇所を廻ったかどうかチェックするために用意されたもの。スタンプラリーの原型、か。

○観音霊場巡礼を再興したのは花山(かざん)法皇
今ひとつ盛り上がらなかった観音霊場巡礼を再興したのは花山(かざん)法皇。徳道上人が開いてから300年近い年月がたっていた。花山法皇は、御年わずか17歳で65代花山天皇となるも、在位2年で法皇に。愛する女御がなくなり、世の無常を悟り、仏門に入ったため、とか、藤原氏に皇位を追われたとか、退位の理由は諸説ある。比叡山や播磨の書写山、熊野・那智山にて修行。その後、河内石川寺の仏眼上人の案内で中山寺の宝印を掘り出し、播磨・書写山の性空上人を先達として、中山寺の弁光上人らをともなって三十三観音霊場を巡った。これが契機となり観音巡礼が再興されることになるわけだ。
この花山法皇、熊野散歩の時に出合って以来、散歩の折々に顔を出す。鎌倉・岩船観音でも出会った。東国巡行の折、この寺を訪れ坂東三十三箇所観音の二番の霊場とした、と。花山法皇って、何ゆえ全国を飛び廻るのか、少々気になっていたのだが、観音信仰のエバンジェリストであるとすれば、当然のこととして大いに納得。鎌倉・岩船観音をはじめ坂東札所10ケ所に花山法皇ゆかりの縁起もある。が、もちろん実際に来たかどうかは別問題。事実、東国に下ったという記録はないようだ。坂東札所に有り難味を出す演出であろう。
それはともかく、花山法皇の再興により、霊場巡りは、貴族層に広まった熊野参詣と相まって盛んになる。さらに時代を下って鎌倉時代には武家、江戸時代には庶民層にまで広がっていった。ちなみに、播磨の国・書写山円教寺は西の比叡山と称される古刹。天台宗って熊野散歩でメモしたように、熊野信仰・観音信仰に大きな影響をもっている。中山寺は真言宗中山寺派大本山。聖徳太子創建と伝えられる、わが国最初の観音霊場。石川寺って、よくわからない。現在はもうないのだろうか?ともあれ、縁起の中には観音信仰に影響力のある人・寺を配置し、ありがたさをいかにもうまく演出してある。


○観音霊場巡礼の最初の記録は1090年
縁起はともかく、記録に残る観音霊場巡礼の最初の記録は園城寺の僧・行尊の「観音霊場三十三所巡礼記」。寛治4年、というから1090年。一番に長谷寺からはじめ、三十三番・千手堂(三室戸寺)に。その後三井寺の覚忠が那智山・青岸渡寺からはじめた巡礼が今日まで至る巡礼の札番となった、とか。園城寺も三井寺も密教というか、熊野信仰というか、観音信仰に深く関係するお寺。熊野散歩のときメモしたとおり。で、「三十三ケ所」と世ばれていた霊場が「西国三十三ケ所」と呼ばれるようになったのは、後に坂東三十三霊場、秩父巡礼がはじまり、それと区別するため。

○坂東三十三霊場
鎌倉時代にな り、平氏追討で西国に向かった関東の武士団は、京都の朝廷を中心とした観音霊場巡礼を眼にし、朝廷・貴族なにするものぞ、我等が生国にも観音霊場を、と坂東8ケ国に霊場をひらく。これが坂東三十三霊場。が、この巡礼道は鎌倉が基点であり、かつまた江戸が姿もなかった頃でもあり、その順路は江戸からの便宜はほとんど考慮されていなかった。ために江戸期にはあまり盛況ではなかった、ようだ。

○秩父観音霊場の縁起
で、やっと秩父観音霊場についてのメモ:秩父巡礼がはじまったのは室町になってから。縁起によると、文暦元年(1234)に、十三権者が、秩父の魔を破って巡礼したのが秩父観音霊場巡礼の始まりという。十三権者とは閻魔大王・倶生神・花山法王・性空上人・春日開山医王上人・白河法王・長谷徳道上人・良忠僧都・通観法印・善光寺如来・妙見大菩薩・蔵王権現・熊野権現。「新編武蔵風土気稿」および「秩父郡札所の縁起」によれば、「秩父34ヶ所は、是れ文暦元年3月18日、冥土に播磨の書写開山性空上人を請じ奉り、法華経1万部を読誦し奉る。其の時倶生神筆取り、石札に書付け置給う。其の時、秩父鎮守妙見大菩薩導引し給い、熊野権現は山伏して秩父を七日にお順り初め給う。その御連れは、天照大神・倶生神・十王・花山法皇・書写の開山性空上人・良忠僧都・東観法師・春日の開山医王上人・白河法皇・長谷の開山徳道上人・善光寺如来以上13人の御連れなり・・・。時に文暦元年甲牛天3月18日石札定置順札道行13人」、と。
それぞれ微妙にメンバーはちがっているようなのだが、奈良時代に西国観音霊場巡りをはじめた長谷の徳道上人や、平安時代に霊場巡りを再興した花山法皇、熊野詣・観音信仰に縁の深い白河法皇、鎌倉にある大本山光明寺の開祖で、関東中心に多くの寺院を開いた良忠僧都といった実在の人物や、閻魔大王さま、閻魔さまの前で人々の善行・悪行を記録する倶生神、修験道と縁の深い蔵王権現といった「仏」さまなど、観音さまと縁の深いキャスティングをおこなっている。秩父観音霊場巡礼のありがたさを演出しようとしたのだろう。で、この 伝説は、500年以上も秩父の庶民の間に語り継がれた、とのことである。

○はじまりは「秩父ローカル
とはいうものの、縁起というか伝説は、所詮縁起であり伝説。実際のところは、修験者を中心にして秩父ローカルな観音巡礼をつくるべし、と誰かが思いいたったのであろう。鎌倉時代に入り、鎌倉街道を経由して西国や坂東の観音霊場の様子が修験者や武士などをとおして秩父に伝えられる。が、西国巡礼は言うにおよばず、坂東巡礼とて秩父の人々にとっては一大事。頃は戦乱の巷。とても安心して坂東の各地を巡礼できるはずもなく、せめてはと、秩父の中で修験者らが土地の人たちとささやかな観音堂を御参りしはじめ、それが三十三に固定されていった。実際、当時の順路も一番札所は定林寺という大宮郷というから現在の秩父市のど真ん中。大宮郷の人々を対象にしていたことがうかがえる。
秩父ローカルではじまった秩父観音霊場では少々「ありがたさ」に欠ける。で、その理論的裏づけとして持ち出されたのが、西国でよく知られ、霧島背振山での修行・六根清浄の聖としての奇瑞譚・和泉式部との結縁譚など数多くの伝承をもつ平安中期の高僧・性空上人。その伝承の中から上人の閻魔王宮での説法・法華経の読誦といった蘇生譚というのを選び出し、上にメモしたように「有り難味さ」を演出するベストメンバーを配置し、縁起をつくりあげていった、というのが本当のところ、ではなかろうか。
実際、この秩父霊場縁起に使われた性空蘇生譚とほぼ同じ話が兵庫県竜野市の円融寺に伝わる。それによると、性空が、法華経十万部読誦法会の導師として閻魔王宮に招かれ、布施として、閻魔王から衆生済度のために、紺紙金泥の法華経を与えられる、といった内容。細部に違いはあるが、秩父の縁起と同様のお話である。こういった元ネタをうまくアレンジして秩父縁起をつくりあげていったのだろ。我流の推論であり、真偽の程定かならず。

○秩父札所巡りが盛んになるのは江戸期になってから
この秩父札所巡りが盛んになるのは江戸期になってから。江戸近郊から秩父に至る道中には関所がなく、また総延長90キロ、4泊5日の行程で比較的容易に廻ることが出来たのも大きな理由。江戸の商人の経済力も大いに秩父札所の支えとなった。秩父巡礼は江戸でもつ、とも言われたほど。そのためもあってからか、江戸からの往還の変更により、巡礼の札番号も変わっている。秩父札所も単に江戸からのお客さまを「待つ」だけでなく、江戸に打って出て、出開帳をおこなっている。「秩父へおいでませ」キャンペーンといったところだ。
秩父札所の宗派については、上でメモしたように江戸期までは修験者が中心だった。その後は禅宗寺院が札所を支配するようになった。宗派の内訳は曹洞宗20、臨済宗南禅寺派8、臨済宗建長寺派3、真言宗豊山派3で、禅宗の多さが目立つ。

○秩父が33ではなく、34観音札所になったのは?
秩父が34観音になった時期については、諸説ある。16世紀後半には観音霊場巡礼が全国的になり、西国・坂東・秩父観音霊場をまとめて巡礼するようになってきた。で、平安時代に既に京都に広まっていた「百観音信仰」の影響もあり、全国まとめて「百観音」とするため、どこかが三十三から三十四とする必要がでてきた。霊場としては秩父霊場が歴史も浅かった、ということもあり、秩父がその役を受け持つことに。ために、大棚観音こと、現在の第2番札所真福寺を加え、三十四ヶ所と改められた、とか。もっとも、大棚観音が割り込んできたので、その打開策として「百観音」を敢えて提唱した、とか諸説あり真偽の程は不明。 ともあれ、諸説あるも、34の札所が成立したのは室町時代の天文年間(1532-1555)と言われる。
「三十三」って観音信仰にとっては大きな意味がある数字。観音さまが、衆生の願いに応えるべく、三十三の姿に化身(三十三見応現)とされるから,である。その重要な三十三を三十四に変えるって、結構大変なことだったと思うのだが、それ以上に「百観音」のもつ意味のほうがおおきかったのであろうか。なんとなく釈然としないのだが、門外漢としてはこれ以上の詮索・妄想もできないので、このあたりで観音霊場巡礼のまとめを終える。

「日原往還を歩きませんか」と友人S君のお誘い。奥多摩の日原から東京・埼玉県境の尾根道を進み、仙元峠から秩父の浦山に下るルート。日原は東京の秘境、浦山は秩父の秘境と呼ばれていたところ。秘境と秘境を峠で結ぶ山の道である、と言う。峠歩きフリークとしては、一も二もなく「諾」、と。

いつだったか古本屋で手に入れた、『多摩の山と水 下;高橋源一郎(八潮書店)』の中に、高橋源一郎さんの日原と浦山の記事があった。浦山は大正4年、日原は大正15年の紀行文であるが、そこには着るもの食べるものといった習俗習慣すべてが平地と異なる僻地、いかにも「毛物」が住む、と言われる辺僻未開の地へと辿る記事があった。紀行文には「探検」といった言葉を使っている。「探検」の結果は、日原も浦山も秩父の他の村落とそれほど変わることのない、とのまとめではあったが、それにしても、大正の頃は、山間の僻地であったことにかわりはない。その「秘境」を結ぶ道をその昔、夥しい人々が往来した、と言う。
日原往還を歩く。とは言いながら、この「日原往還」って言葉が定着しているわけではない。なんとなく、古道っぽい雰囲気がするので、勝手に名づけただけである。で、この往還、その往来の流れは奥多摩から秩父へと、といったものが主流と勝手に思い込んでいた。奥多摩の秘境より、当時の大都市・秩父への流れが主流と思っていた。秩父観音巡礼、三峰参拝へと辿る道かとも思っていた。が、実際はどうもそれだけではない。秩父・北関東からこの奥多摩へと向かう大きなベクトルがあった。「信仰」の道があった。
日原は鍾乳洞で有名である。で、この鍾乳洞、一石山大権現とも称されるように、一帯のお山全体を大日如来の浄土とする中世以来の一大霊場。一石山参拝の人々で賑わった。また、日原は北関東から富士山を目指す富士講の通り道。仙元峠を越え日原を経て小河内を進み、富士へと向かった、と言う。秋のとある週末、その信仰の道・日原往還を歩くことにした。



本日のルート;奥多摩:8時28分>東日原 8時58分,標高630m>尾根道到着 標高973m、9時53分>滝入りの峰 標高1249m、10時25分>倉沢分岐標高1275m、10時40分>天目山分岐 標高1433m,11時15分>一杯水 標高1458m,11時34分>仙元峠着 標高136m,12時18分_出発;12時36分>大楢 標高1152m,13時4分>送電線鉄塔下 標高902m,13時46分>道に迷った地点標高893m,13時55分>引き返し点 標高896m,13時57分>原点復帰;13時59分>大日堂 標高452m,14時35分>日向バス停 標高434m,16時2分


奥多摩駅
S君と立川で待ち合わせ。午前7時6分発の奥多摩行きで一路奥多摩駅に向かう。8時28分奥多摩着。駅前から東日原行きのバスに乗る。東日原行きのハイカーも多く、バスは2台続けて走る。日原川を渡り、県道204号線・日原街道を北に進む。
日原川の東側に山肌に張り付く工場が見える。宇宙基地といった風情。S君の説明によると奥多摩工業の石灰工場とのこと。昔は下流の二俣尾あたりでも採掘していたようだが、現在は日原に採掘場がある、と。そこから4キロ弱の距離をこの地までワイヤで曳かれたトロッコで石灰を運んでいる。現在ではハイカーで賑わう奥多摩駅もつい最近、1989年頃まで石灰の積み出し駅であった、という(1999年貨物業務停止)。

奥多摩工業曳鉄線

日原川に沿ってバスは進む。大沢、小菅を過ぎ、川乗谷からの川筋が日原川に合流する手前、白妙橋を越えた道路の上にちょっとした「鉄橋」が見える、とS君の言。 先ほどの奥多摩工業の石灰運搬トロッコ、奥多摩工業曳鉄線の鉄橋が道を跨いでいる。曳鉄線はほとんど山中のトンネルを進むが、数箇所地表に出たところがあり、ここはそのひとつ。残念ながら、見落とした。

日原トンネル

川乗(苔)谷に架かる川乗橋バス停で、半分以上の人が降りる。川苔山を目指す人たちだろう。バスは進み倉沢谷の谷筋を越えると日原トンネル。昭和54年(1979年)完成。全長1107m。トンネルを覆う山塊は氷川鉱山の採掘とか。昔はここに「トボウ岩」という、幾百尺、幾千尺ともいわれる絶景の巨大岩があった、と前述の高橋源一郎氏は描く。トボウは「入り口」の意味。その昔、日原の集落への入口であったのだろう。が、現在は、その姿は大崩落やトンネル工事、鉱山採掘などにより、消え去った。それらしき姿、なし。

日原
トンネルを抜けると日原の集落。今をさる500年の昔、天正というから16世紀後半、戦乱の巷を逃れ原島氏の一族が武蔵国大里郡(埼玉県熊谷市原島村のあたり)よりこの地に移り住む。原島氏は武蔵七党、丹党の出。日原の由来は、新堀、新原といった、新しい開墾地といった説もあるが、原島氏の法号「丹原院」の音読みである「二ハラ」からとの説もある。
東日原バス停で下車。時刻は9時前。おおよそ30分弱でついた。道脇から日原川の谷筋を見下ろす。誠に深い。川の向こうに日原のシンボル「稲村岩」とS君。「イナブラ」とも呼ばれていた。稲を束ねてぶら下げた形と言えなくも、ない。石灰岩でできた砲弾型の奇峰。トボウ岩って、こういったものであったのだろう、か。で、日原鍾乳洞であるが、ここから20分ほど小川谷筋を歩くことになる。大日如来の浄土信仰の霊地に行ってみたいとは思えども、本日は先を急ぐ、ということで鍾乳洞行きは、なし。
バス停よりあたりを見渡す。四方は山、前面は深く刻まれた谷。トンネルにより山塊を穿ち道が通じるまでは山間の僻地ではあったのだろう。秘境とも呼ばれていた。とはいうものの、秘境っていつの頃から呼ばれたのだろう。この秘境って、いかにも大都市東京からの視点。また、発達した車社会からの始点。日原が浄土信仰の霊地として賑わっていた頃、東京など影も形もなく、一面の芦原であった、はず。車の通る道が無く、交通不便をもってそれが「秘境」と呼ばれても、歩くのが移動の基本であった時代、峠を越え、山道を歩くのが往来の基本であった時代、山間の僻地がそれほど他の地域と違っていたとも思えない。
その昔、車が往来の主流となる以前、日原は東西南北から多くの人の往来があった。日原は仙元峠を越えてくる北関東からの道者の往来があった。また、秩父・北関東だけでなく、瑞穂、青梅筋からの往来も多かった、よう。瑞穂、青梅に「日原道」の道標が残る。日原は江戸との交流も多かったようだ。
信仰の霊地・日原鍾乳洞は上野の東叡山寛永寺の支配下にあり、運営は輪王寺宮の下知に従っていた。と言う。江戸との交流が頻繁であっても不思議ではない。実際、日原の特産品であった白箸は江戸市民の必需品。正月三が日、その白箸を必ず使うといった仕来りになっていた、と。輪王寺宮の御用箸師が日原の木でつくった白箸を幕府柳営で使うようになったため、柳箸と名前を変え、次第に一般市民が使うようになった。ちなみに、柳営の語源は中国から。匈奴征伐の漢の将軍が軍営を置いたところが「細柳」であった、から。
ことほどさように、日原は江戸との結びつきが濃かったわけで、「秘境」なんで呼ばれる筋合いはさらさらない、といった堂々たる「山間の僻地」であったわけ、だ。はてさて、イントロが長くなってしまった。とっとと日原往還を辿ることに。


尾根道へ
バス停を離れ、登山道に。道成りに少し先に進むと道脇に道標。「一杯水を経て天目山 酉谷山登山口」の案内。案内に従い、民家前の細い坂道を上る。土手に沿って進む。いくつかの民家の脇を越えると舗装も切れる。20分程度歩くと道脇の林の中に貯水槽。山の水を集落へ送っているのだろう、か。標高は700mを越えている。日原が610mほどなので、100mほど上った。このあたりから、杉の植林帯に入っていく。

杉林の中の道は傾斜を増す。ジグザグの道を進む。結構きつい。道の前方にフェンス。石灰採掘場だろう。フェンスに沿って進む。フェンスから離れ、植生も自然林となるあたりでやっと尾根道に。標高973m。時刻は9時53分。1キロ弱の距離を400m弱上ったことになる。GPSのデータをチェックすると斜度40度といったものが数箇所あった。このデータがどこまで正確かは別にして、実感でも少々きつい上りであった。

ヨコスズ尾根

尾根道を進む。道はトラバース気味に巻き道を通っている。「昔道は、尾根のピークを通る道ですよ」とS君。昔の人たちの気持ち追体験の散歩ではあるけれど、そこまでの厳密性を求めるわけもなく、迷うことなく巻き道を選ぶ。
ところどころに痩せ尾根。倉沢谷と小川谷に削られ細くなっている。この尾根道をヨコスズ尾根と呼ぶ。スズ=鈴、ということで、なんと妙なる名前かと思ったのだが、この尾根筋に横篶山(よこすず)というピークがあるようで、とすれば、スズ=篶>篠竹、と言うこと。鈴ならぬ竹の茂る道と、少々無粋な名前と相成った。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

倉沢への分岐
滝入ノ峰を巻いて進む。時刻は10時25分。標高1249m。1時間以上歩いたことになる。このあたりまで来ると傾斜もほとんどなく、ゆったりとした尾根道を楽しめることになる。
10時40分、倉沢への分岐 。標高1275m。ここを下ると倉沢谷に下る。この谷筋にも大きな鍾乳洞があるようで、その鍾乳洞も日原鍾乳洞と同様に信仰の霊地。倉沢山大権現と呼ばれ、東叡山寛永寺の支配下にあった。
倉沢の倉は、岩を意味すると言う。また、くら=えぐられたような崖地や渓谷、といった説もある。どちらにしても、岩場ではあるのだろう。

両替場のブナ
分岐点を少し進んだあたり、尾根道に堂々としたブナが聳える。姿が如何にも美しい。両替場のブナと呼ばれたブナがこれだろう。往古、日原の鍾乳洞の一石大権現、倉沢鍾乳洞の倉沢山大権現への信仰篤き頃、秩父や北関東からの参詣者への両替の便宜をはかったところ。大権現たる鍾乳洞では、先達の松明に導かれ、参詣者は唱名念仏をとなえお賽銭の小銭を撒きながら洞内を進んだ、と。ここはその小銭の両替場。旅に小銭は荷物となるので、金銀の粒をこの場で両替していたわけだ。

一杯水
両替場のブナを過ぎ、倉沢谷とカロー谷に削られた痩せ尾根などを歩き、11時15分、天目山との分岐点、一枚水避難小屋に到着。標高1275m。結構立派な山小屋。山が好きな人は、こういった小屋に寝泊りして山を歩くのだろう。
カロー谷は、賀廊谷と書く。かろう>唐櫃からの当て字という。お櫃のように聳え、切り立った谷があるのだろう。カロー大滝といった滝もあるようだ。先ほど滝入リ峰脇を通ったが、この滝って、こういった大滝と関連した地名のように思のだが、真偽の程不明。
小屋の前のベンチで小休止し、先を急ぐ。11時34分、一杯水に。沢からの水をホースで集めている。ほんの少ししか水は出ていない。足らなければ沢を少し下りなさい、とのこと。
一杯水と言えば、下関・壇ノ浦の「平家の一杯水」が知られる。また、熱海の石橋山での挙兵に一敗地にまみれた頼朝ゆかりの「頼朝の一杯水」もある。地を離れての源平の「一杯水」。奇しき因縁なのか、どちらかが真似たのか、はてさて。

長沢脊稜
一 杯水を離れ先に進む。日原から一杯避難小屋にかけて南北に走るヨコスズ尾根このあたりで終わり、ここからは東西に走る別の尾根道となる。長沢脊稜と呼ぶ。 最初、長沢背稜、かと思っていた。「脊」ではなく「背」かと思っていた。たまたま、「背」稜って、どういう意味だろうとチェックして、どうも背中ではなく脊髄である、ということが分かった。長沢山って、この稜線上、西のほうにある。名前はそこから来ているのだろう。尾根道を進み12時18分、標高1436mの仙元峠に到着した。ここで大休止。

仙元峠
峠って、通常は稜線の鞍部にある。が、この仙元峠は稜線のピークにある。この峠は富士浅間詣の御旅所。足腰に自信のない人は、ここから富士浅間さまを遥拝し、引き返す。元気な人は、ここから両替場、大茶屋、道者道を進み日原の御師である原島右京、淡路の家に泊まり一石山の御岩屋(日原鍾乳洞)に参詣、山越に小河内を経て富士参りをした、と言う(『奥多摩風土記;大舘勇吉(有峰書店新社)』)。峠の由縁表示板には、「仙元」=「水の源」とあったのだけれども、仙元は「浅間」からきているのではないか、と思う。
峠に佇む祠も浅間神社。この祠が浦山の人たちによって建てられたのは大正の頃、と言う。浦山の人たちが建てたわりには、祠は奥多摩に面している。それは、大正のころには浦山から仙元峠へのルートは、細久保谷から一杯水に上り稜線を仙元峠に至る道が開かれていた、ため。林道でも通ったのだろう。ために、上った正面は奥多摩向きとなった、とか。休憩20分弱。12時38分、

大楢
浦山に向かって峠を下りはじめる。誠に険しい急坂。尾根を下りているには違いないのだろうが、はっきりとした尾根道といった雰囲気とは違う。崖を下っている雰囲気。ちょっと一息といったポイント・大楢まで水平距離で1キロ弱。到着時刻は13時4分。標高は1152mであるので、300mほどを30分程度で一気に下る。大楢って何か由来でもと思ったのだが、大楢=ミズナラのこと、だろう。
大楢の道標のところに、明治神宮からの森のマナーのお達し。このあたりは明治神宮の御料地なのだろう。「明治神宮+秩父+森林」で想い起こすのは本多静六博士。林業・造園の専門家。日比谷公園など多くの公園をつくったが、その中に明治神宮がある。現在は鬱蒼とした森となっている明治神宮の森であるが、元々は単なる荒地。そこに植樹を行い、人工の森をつくり、年月を経て自然の森のようになった。で、その造園計画の中心人物の一人が本多博士。
この造園の専門家は貯蓄の才能も豊か。巨万の富を築き、この秩父にも広大な森林を所有した。場所は浦山から秩父湖のほうに入った大滝村のあたり。その森は退官の折にすべて寄付したとのこと。この明治神宮の御料地もひょっとして、などと、ちょっと夢想。

送電線鉄塔下
少し緩やかになった坂を下り、13時46分、東京電力の鉄塔下(新秩父線56号鉄塔)につく。標高902m。40分かけ250mほど下ったことになる。直線距離は2キロ弱なので、傾斜はそれほどでもない。
送電線下で少し休憩。西の長沢脊稜や、東の武甲山から有馬山に続く山稜が見渡せる。その山稜の向こうが名栗の谷であろう。高尾からいくつかの峠を越え、名栗の谷を経て妻坂峠から秩父に入った、鎌倉街道山ノ道散歩が懐かしい。ちなみに、新秩父線とは新秩父開閉所(埼玉県小鹿野)~新多摩変電所(八王子市上川町)間の49Kmを結ぶ500KV送電線である。

道に迷う
小休止の後、浦山に向かう。鉄塔下から直進。次第に道が消えてゆく。木立に行く手を阻まれる。それでも少し進むが、どう見てもオンコースとは思えない、とS君。元に引き返すことに。「新秩父線57号に至る」と書かれた東京電力の黄色の道標のあたりまで戻る。かろうじて直進をダメだしする小ぶりの丸太が道に置かれていた。見落としていた。とは言うものの、これではほとんどの人は気づかないだろう、と思う。いくつかのホームページにも、この地で道に迷ったことが書かれていた。
黄色の道標を左に折れる。整地された道が続く。一安心。今回は二人なので心強かったのだけれど、迷い道で一人だったら、と釜伏峠・日本水で道に迷いパニックになったときを思い出した。山はやはり怖い。

急坂
鉄塔と高圧線につかず離れず尾根を下る。57、58、59、60と続く。60号を離れたあたりから坂は急勾配となる。ジグザグ道をどんどん下る。直線距離2キロ弱を30分で450mほど下ることになる。GPSのデータで斜度40度といったレコードも残っていた。14時35分、浦山大日堂前に下りてきた。標高452m。仙元峠から一気に1000m近くも下ったことになる。逆コースでなくてよかった。

浦山大日堂
お堂の前にリュックを下ろし、しばし休憩。お堂は新しい。近年改築されたのだろう。堂脇に寄付者の一覧がある。浅見さんという名前が多かったのが記憶に残った。浅見さん、って名前は秩父の古くからある名前と聞いたことがある。現在でも秩父市で最も多い名前と言う。
それはともあれ、このお堂、歴史は古い。江戸の頃、名栗の谷から鳥首峠を越えてこのお堂に参詣来る人も多かった、と。昭和50年に地元の人により立てられた大日堂記念碑には「此の地に大日如来尊が勧請されたのは今を去ること四百五十余年前の秋、麻衣藤杖翁形の丹生明神の仙元越えに依ると伝わる」とある、と。 丹生明神、って日原の中心にある神社。日原を拓いた原島氏の祖先である武蔵七党の丹党の祖神である。日原から仙元峠を越えてこの地に勧請されたもの、のよう。峠を越えて日原の大日如来の浄土まで行くことのできない人のため、便宜をはかったのだろう、か。この地に伝わる伝統の獅子舞も日原から伝わったもの、と言うし、往古、日原って結構な存在感のある大日如来の霊地であったことを改めて実感。

日向バス停
休憩終了。大日堂の浦山川を隔てたところにバス停が見える。事前のチェックによればバスは14時25分に浦山を出る、と。大日堂に下りたときには30分過ぎ。次は5時頃までない。どうにもならない、とは思いながら、大日堂を離れ、バス道に出て、気休めに時刻表をチェックする。なんと、浦山発は14時、それと16時頃にもあった。チェックした時刻表って一体、とは思いながらも少し嬉しい。それにしても1時間以上時間もある。近くにお休み処があるわけでもない。ということで、浦山ダム方面に向かい、行けるとこまで歩くことに。
『新編武蔵風土記稿』によれば、「浦山村は郡の南にして多摩郡に続き武光山(ママ)を後ろにして深く山谷に囲まれ、遠く四隣を隔てし一方口の僻地にて一区の別境ない」とある。道路の状況は「路経を云わば、或いは高く或いは低く、又は険しく、足の止まらぬ所あり。又は狭く荊棘の左右より生ひ塞がる所あり。木を横へ桟道もあり。独木を架せる橋もあり」とある(『多摩の山と水 下;高橋源一郎(八潮書店)』)。もとより浦山ダム工事の完成した現在、かくの如き趣き、あるわけもなし。静かで落ち着いた、どこにでもある山村であり山間の道である。
5キロほど歩き、浦山ダムの畔にある日向バス停でバス到着時間。谷間に響き渡る「証城寺(しょうじょうじ)の狸囃子(たぬきばやし)」. だったか、なんだったか忘れてしまったが、ともあれ数キロ先からその接近が分かる童謡を鳴らしながら
接近するコミュニティバスに乗り、西武秩父に行き、本日のお散歩を終える。童謡はダムを離れ交通頻繁な国道140号に合流いたときに、即、音が消えたことは言うまでもない。

峠を越えての秩父入りはこれで五つ目。寄居からの釜伏峠越え、小川からの粥仁田峠越え、吾野・高麗川筋の旧正丸峠越え、名栗の谷からの妻坂峠越、そして今回の奥多摩からの仙元峠越え。S君のお誘いにより、次回は信州からの十文字峠越えとなりそう。大いに楽しみである。 
秋から冬にかけ、2回にわけ秩父の札所を歩いた。ともに1泊2日。会社の同僚が如何なる信仰心のなせる業か、秩父札所巡りを企画した。昨年秋、紅葉を求めひとりで長瀞を歩いたのだが、札所巡りなど思いもよらず、でもあったので、いいきっかけと話にのった。最初は9月中旬。秩父市街・横瀬町を中心とした17ケ所の観音霊場巡り。二度目は11月末。美しい紅葉の中、三峯山とその奥宮のある妙法ケ岳、そして札所1番と2番、さらに長瀞を巡った。札所巡りということ で、あまりにお寺の数が多く、いまひとつ散歩メモを逡巡してはいたのだが、記憶もすでにおぼろげになりはじめた。思い切って、三峰と19の札所の散歩のメモをはじめることにする。(土曜日, 12月 16, 2006のブログを修正)



観音霊場巡礼のあれこれ
いつものことではあるが、霊場を巡る前には、観音霊場といわれてもなあ、といった程度の認識。そして、これもいつものことではあるけれども、札所を巡るうちにあれこれ問題意識も出てきた。後付けの理論武装ではあるが、散歩を始める前に、観音霊場巡礼についてまとめておく。

観音霊場巡礼をはじめたのは徳道上人

観音霊場巡礼をはじめたのは大和・長谷寺を開基した徳道上人と言われる。上人が病に伏せたとき、夢の中に閻魔大王が現れる。曰く「世の人々を救うため、三十三箇所の観音霊場をつくり、その霊場巡礼をすすめるべし」と。起請文と三十三の宝印を授かる。黄泉がえった上人は三十三の霊場を設ける。が、その時点では人々の信仰を得るまでには至らず、期を熟するのを待つことに。宝印(納経朱印)は摂津(宝塚)の中山寺の石櫃に納められることになった。ちなみに宝印の意味合いだが、人というものはズルすること、なきにしもあらず、ということで、本当に三十三箇所を廻ったかどうかチェックするために用意されたもの。スタンプラリーの原型であろう、か。

観音霊場巡礼を再興したのは花山(かざん)法皇

今ひとつ盛り上がらなかった観音霊場巡礼を再興したのは花山(かざん)法皇。徳道上人が開いてから300年近い年月がたっていた。花山法皇は、御年わずか17歳で65代花山天皇となるも、在位2年で法皇に。愛する女御がなくなり、世の無常を悟り、仏門に入ったため、とか、藤原氏に皇位を追われたとか、退位の理由は諸説ある。比叡山や播磨の書写山、熊野・那智山にて修行。その後、河内石川寺の仏眼上人の案内で中山寺の宝印を掘り出し、播磨・書写山の性空上人を先達として、中山寺の弁光上人らをともなって三十三観音霊場を巡った。これが契機となり観音巡礼が再興されることになるわけだ。
この花山法皇、熊野散歩の時に登場して以来、しばしば顔を出す。鎌倉・岩船観音でも出会った。東国巡行の折、この寺を訪れ坂東三十三箇所観音の二番の霊場とした、と。花山法皇って、何ゆえ全国を飛び廻るのか、少々気になっていたのだが、観音信仰のエバンジェリストであるとすれば、当然のこととして大いに納得。鎌倉・岩船観音をはじめ坂東札所10ケ所に花山法皇ゆかりの縁起もある。が、もちろん実際に来たかどうかは別問題。事実、東国に下ったという記録はないようだ。坂東札所に有り難味を出す演出であろう。
それはともかく、花山法皇の再興により、霊場巡りは、貴族層に広まった熊野参詣と相まって盛んになる。さらに時代を下って鎌倉時代には武家、江戸時代には庶民層にまで広がっていった。ちなみに、播磨の国・書写山円教寺は西の比叡山と称される古刹。天台宗って熊野散歩でメモしたように、熊野信仰・観音信仰に大きな影響をもっている。中山寺は真言宗中山寺派大本山。聖徳太子創建と伝えられる、わが国最初の観音霊場。石川寺って、よくわからない。現在はもうないのだろうか?ともあれ、縁起の中には観音信仰に影響力のある人・寺を配置し、ありがたさをいかにもうまく演出してある。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


観音霊場巡礼の最初の記録は1090年
縁起はともかく、記録に残る観音霊場巡礼の最初の記録は園城寺の僧・行尊の「観音霊場三十三所巡礼記」。寛治4年、というから1090年。一番に長谷寺からはじめ、三十三番・千手堂(三室戸寺)に。その後三井寺の覚忠が那智山・青岸渡寺からはじめた巡礼が今日まで至る巡礼の札番となった、とか。園城寺も三井寺も密教というか、熊野信仰というか、観音信仰に深く関係するお寺。熊野散歩のときメモしたとおり。で、「三十三ケ所」と世ばれていた霊場が「西国三十三ケ所」と呼ばれるようになったのは、後に坂東三十三霊場、秩父巡礼がはじまり、それと区別するため。

坂東三十三霊場

鎌倉時代にな り、平氏追討で西国に向かった関東の武士団は、京都の朝廷を中心とした観音霊場巡礼を眼にし、朝廷・貴族なにするものぞ、我等が生国にも観音霊場を、と坂東8ケ国に霊場をひらく。これが坂東三十三霊場。が、この巡礼道は鎌倉が基点であり、かつまた江戸が姿もなかった頃でもあり、その順路は江戸からの便宜はほとんど考慮されていなかった。ために江戸期にはあまり盛況ではなかった、ようだ。

秩父観音霊場の縁起

で、やっと秩父観音霊場についてのメモ:秩父巡礼がはじまったのは室町になってから。縁起によると、文暦元年(1234)に、十三権者が、秩父の魔を破って巡礼したのが秩父観音霊場巡礼の始まりという。十三権者とは閻魔大王・倶生神・花山法王・性空上人・春日開山医王上人・白河法王・長谷徳道上人・良忠僧都・通観法印・善光寺如来・妙見大菩薩・蔵王権現・熊野権現。「新編武蔵風土気稿」および「秩父郡札所の縁起」によれば、「秩父34ヶ所は、是れ文暦元年3月18日、冥土に播磨の書写開山性空上人を請じ奉り、法華経1万部を読誦し奉る。其の時倶生神筆取り、石札に書付け置給う。其の時、秩父鎮守妙見大菩薩導引し給い、熊野権現は山伏して秩父を七日にお順り初め給う。その御連れは、天照大神・倶生神・十王・花山法皇・書写の開山性空上人・良忠僧都・東観法師・春日の開山医王上人・白河法皇・長谷の開山徳道上人・善光寺如来以上13人の御連れなり・・・。時に文暦元年甲牛天3月18日石札定置順札道行13人」、と。
それぞれ微妙にメンバーはちがっているようなのだが、奈良時代に西国観音霊場巡りをはじめた長谷の徳道上人や、平安時代に霊場巡りを再興した花山法皇、熊野詣・観音信仰に縁の深い白河法皇、鎌倉にある大本山光明寺の開祖で、関東中心に多くの寺院を開いた良忠僧都といった実在の人物や、閻魔大王さま、閻魔さまの前で人々の善行・悪行を記録する倶生神、修験道と縁の深い蔵王権現といった「仏」さまなど、観音さまと縁の深いキャスティングをおこなっている。秩父観音霊場巡礼のありがたさを演出しようとしたのだろう。で、この 伝説は、500年以上も秩父の庶民の間に語り継がれた、とのことである。

はじまりは「秩父ローカル」
とはいうものの、縁起というか伝説は、所詮縁起であり伝説。実際のところは、修験者を中心にして秩父ローカルな観音巡礼をつくるべし、と誰かが思いいたったのであろう。鎌倉時代に入り、鎌倉街道を経由して西国や坂東の観音霊場の様子が修験者や武士などをとおして秩父に伝えられる。が、西国巡礼は言うにおよばず、坂東巡礼とて秩父の人々にとっては一大事。頃は戦乱の巷。とても安心して坂東の各地を巡礼できるはずもなく、せめてはと、秩父の中で修験者らが土地の人たちとささやかな観音堂を御参りしはじめ、それが三十三に固定されていった。実際、当時の順路も一番札所は定林寺という大宮郷というから現在の秩父市のど真ん中。大宮郷の人々を対象にしていたことがうかがえる。
秩父ローカルではじまった秩父観音霊場では少々「ありがたさ」に欠ける。で、その理論的裏づけとして持ち出されたのが、西国でよく知られ、霧島背振山での修行・六根清浄の聖としての奇瑞譚・和泉式部との結縁譚など数多くの伝承をもつ平安中期の高僧・性空上人。その伝承の中から上人の閻魔王宮での説法・法華経の読誦といった蘇生譚というのを選び出し、上にメモしたように「有り難味さ」を演出するベストメンバーを配置し、縁起をつくりあげていった、というのが本当のところ、ではなかろうか。
実際、この秩父霊場縁起に使われた性空蘇生譚とほぼ同じ話が兵庫県竜野市の円融寺に伝わる。それによると、性空が、法華経十万部読誦法会の導師として閻魔王宮に招かれ、布施として、閻魔王から衆生済度のために、紺紙金泥の法華経を与えられる、といった内容。細部に違いはあるが、秩父の縁起と同様のお話である。こういった元ネタをうまくアレンジして秩父縁起をつくりあげていったのだろ。我流の推論であり、真偽の程定かならず。

秩父札所巡りが盛んになるのは江戸期になってから

この秩父札所巡りが盛んになるのは江戸期になってから。江戸近郊から秩父に至る道中には関所がなく、また総延長90キロ、4泊5日の行程で比較的容易に廻ることが出来たのも大きな理由。江戸の商人の経済力も大いに秩父札所の支えとなった。秩父巡礼は江戸でもつ、とも言われたほど。そのためもあってからか、江戸からの往還の変更により、巡礼の札番号も変わっている。秩父札所も単に江戸からのお客さまを「待つ」だけでなく、江戸に打って出て、出開帳をおこなっている。「秩父へおいでませ」キャンペーンといったところだ。
秩父札所の宗派については、上でメモしたように江戸期までは修験者が中心だった。その後は禅宗寺院が札所を支配するようになった。宗派の内訳は曹洞宗20、臨済宗南禅寺派8、臨済宗建長寺派3、真言宗豊山派3で、禅宗の多さが目立つ。

秩父が33ではなく、34観音札所になったのは?

秩父が34観音になった時期については、諸説ある。16世紀後半には観音霊場巡礼が全国的になり、西国・坂東・秩父観音霊場をまとめて巡礼するようになってきた。で、平安時代に既に京都に広まっていた「百観音信仰」の影響もあり、全国まとめて「百観音」とするため、どこかが三十三から三十四とする必要がでてきた。霊場としては秩父霊場が歴史も浅かった、ということもあり、秩父がその役を受け持つことに。ために、15世紀はじめ大棚観音こと、現在の第2番札所真福寺を加え、三十四ヶ所と改められた、とか。もっとも、大棚観音が割り込んできたので、その打開策として「百観音」を敢えて提唱した、とか諸説あり真偽の程は不明。
「三十三」って観音信仰にとっては大きな意味がある数字。観音さまが、衆生の願いに応えるべく、三十三の姿に化身(三十三見応現)とされるから,である。その重要な三十三を三十四に変えるって、結構大変なことだったと思うのだが、それ以上に「百観音」のもつ意味のほうがおおきかったのであろうか。なんとなく釈然としないのだが、観音霊場巡礼のまとめを終える。散歩に出かえる前に結構手間取った。散歩メモは次回にまわすことにする。
観音霊場巡礼のなんたるか、についての「理論武装」に少々手間取った。秩父観音霊場散歩をはじめる。今回の散歩は秩父市街と横瀬町を中心とした札所を巡る。
西武池袋線の特急にのり、西武秩父駅に。熊谷方面から来た会社の同僚と駅前にて待ち合わせ、最寄りの札所からスタート。
初日は主に秩父市街の札所巡り。最初の札所は13番札所・慈眼寺。西武秩父駅から続くアーケードを歩き、秩父鉄道・御花畑方向に向かう



本日のルート;西武秩父駅>13番札所・慈眼寺>15番札所・少林寺>秩父神社>14番札所・今宮坊>今宮神社>16番札所・西光寺>23番札所・音楽寺>22番札所・太子堂>17番札所・定林寺>18番番札所・神門寺


。団子坂を下り秩父鉄道の踏み切りを越える。この団子坂は秩父夜祭のクライマックスを演出する坂である、と。笠鉾、屋台が急坂を登る、とか。お花畑駅から2分ほど歩く。秩父では「はけっと」とよばれる「はけの下」、つまりは崖の下に慈眼寺はある。崖の下といっても秩父市内の中心部。(日曜日, 12月 17,2006のブログの修正)

13番札所・慈眼寺
市街地をはしる通りにそった入口には、切妻つくりの薬王門。境内には正面に観音堂。左右に鐘楼、経堂と薬師堂。明治11年の秩父大火で焼失する前は、大きな寺域を誇った、という、本尊は行基作と伝えられる聖観音。秩父札所を開いた、十三権者の像が祀られている。十三権者とは先にメモしたように、閻魔大王・倶生神・花山法王・性空上人・春日開山医王上人・白河法王・長谷徳道上人・良忠僧都・通観法印・善光寺如来・妙見大菩薩・蔵王権現・熊野権現。
このお寺、眼病、厄除けにご利益ある、と。薬師堂にまつられる薬師瑠璃光如来が、目の神様、ゆえか。飴薬師とも呼ばれ、境内には「ぶっかき飴」と呼ばれる飴を売る店がある。眼の手術を直後に控えた我が身としては、「ぶっかき飴」もさることながら、お賽銭も少々はずむことに。境内には幕末から明治にかけ社会救済事業につくした「秩父の聖人」と称えられる井上如常のお墓がある。
ご詠歌;「御手にもつ蓮のははき残りなく 浮世のちりをはけの下でら」

15番札所・少林寺(福寿殿)

慈眼寺を離れ、秩父線に沿って少し北に。15番札所・少林寺(福寿殿)に向かう。秩父鉄道を越えると、白塗り白亜の本堂がみえる。このお寺も明治の秩父大火に見舞われ、防火の意味も込めて再建時、木造の外側をすべて白色の漆食塗りで仕上げたもの。少々洋風建築風ではあるが、入母屋つくり・瓦葺といった和風建築の伝統は踏まえたものになっている。この寺は、もともと母巣山蔵福寺といい秩父神社境内にあった。が、明治維新の神仏分離令で廃寺に。札所15番がなくなることを憂えた信者が、市内柳島にあった五葉山少林禅寺をこの地に移し両寺合わせて札所15番を継承することにした、と。
石段を上がった右手のお堂は鎌倉の建長寺の山にある半僧坊からの分霊。半僧坊大権現は、特に火災予防の御利益があると。鎌倉・建長寺散歩のときの半僧坊への急な石段がなつかしい。また、先日歩いた新座の平林寺でも半増坊大祭がある。また京都の金閣寺にも半増坊がある、とか。結構ありがたい権現さま、のよう。静岡にある方広寺開山の祖・無文禅師が留学先の明から帰国するとき、暴風雨に遭い難破しかけたとき、「無事帰国し、正法を伝えるべし」と船を救う。また、後に禅師が方広寺開山のとき、禅師に教えを乞い、山をまもり鎮守となった。で、その姿が半俗半僧であったために、半僧坊と呼ばれるようになった、と。無文禅師は禅の高僧。後醍醐天皇の皇子でもある、とか。
境内のお地蔵さんは「子育て地蔵」。また、境内には「秩父事件」で殉職した警察官のお墓と、両警部補に対し、内務大臣山縣有内務大臣が贈られた碑文がある。秩父事件とは、明治17年11月、生活に苦しむ農民約1万人が蜂起し、各地で戦斗が展開された騒乱事件。
ご詠歌;「みどり子のははその森の蔵福寺 ちちもろともにちかいもらすな

ちょっと脱線。鎌倉の建長寺で半増坊の話が出てきたとき、何ゆえ鎌倉の大寺院の話の中に、半僧坊が登場するのか、いまひとつしっくりしなかった。何ゆえ、という最大の理由は、浜松という、どちらかというと地方都市にあるお寺の神様を、何ゆえ建長寺に関連付けなければならないのか、よくわからなかった。で、このメモをまとめるに際し、半僧坊由来のもととなった人物が無文禅師であり、後醍醐天皇の皇子であったことがわかった。ということは、宗良親王とは兄弟、ということ。浜松というか、浜名湖の北、無文禅師が開山した方広寺のあるあたりは、宗良親王が南朝方の拠点のひとつとして、南朝勢力を回復するため積極的に活動したところ。宗良親王も天台座主をつとめたほどの人物。半僧坊をまつる、方広寺、って、宗教的にも政治的にも大きな力をもつ地域にある大寺院であったのだろう。半増坊への疑問もひょんなところで解決した。あれこれが繋がってくるのも散歩の楽しみのひとつ。

秩父神社
秩父の国の総社。武蔵国より先に開けた知知夫の里を2000年まもってきた。主祭神は八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)、知知夫彦命、天之御中主神。もともとは武甲山を神奈備(かむなび;神の居ます山)として遥拝する聖地としておこったわけだが、知知夫国の国造に任じられた知知夫氏が祖神である主祭神・八意思兼命や知知夫彦命をあわせまつることになった。鎌倉時代に落雷により社殿焼失。再建時には、秩父平氏、つまりは武士団の信仰篤い星の信仰である妙見の信仰・妙見菩薩が習合し、明治の神仏分離令まで「妙見宮」として栄える。名称も本来の秩父神社というよりも、「秩父大宮妙見宮」が通り名となった。「秩父夜祭り」も妙見のまつりとし受け継がれたものである。

徳川時代には徳川家からの信仰も篤く、現在の社殿は家康により寄進されたもの。本殿左手には左甚五郎の作と伝えられる「つなぎの龍」がある。15番札所少林寺あたりの池に棲む龍があばれたとき、この場所に水たまりができた。が、龍をつなぎとめると、その後龍が現れることがなくなった、とか。東・西・南・北の鬼門を守護神「青龍」「百虎「朱雀」「玄武」にのっとり、表鬼門(東)を守る「青龍」であろう、と思ったのだが、南に「亀(玄武)」、北に「北辰の梟(朱雀)」となっており、西には虎ではなく「お猿」さん、とあり、どうも鬼門云々というわけでもなさそうだ。
で、このお猿さん、東照宮は「見ざる・言わざる・聞かざる」と、庚申信仰にのっとった様式であるのに対し、ここのお猿さんは「お元気三猿」。人間の元気の源を司る妙見信仰の影響もあるのだろうか。また、拝殿四面には虎の彫り物。武田信玄による焼き討ちのあと再建した家康が寅の年、寅の日生まれ、ということで虎のオンパレード。その中の子育ての虎は、左甚五郎の作。で、妙見宮も明治の神仏分離令で秩父神社に戻る。そのとき、妙見菩薩の「神様バージョン」が天之御中主神、ということで、この神様が主祭神として登場し現在に至る、って次第。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


14番札所・今宮坊

少林寺を離れ、荒川方面に向かって北西に今宮坊に向かう。このお寺のあたり一帯は往古、近くにある今宮神社とともに「今宮坊」と呼ばれる聖護院直末の神仏習合の修験の地。聖護院とは修験道の中心寺院。白河上皇の熊野詣での先達をつとめた園城寺・増誉の開山。先達の功により、熊野三山検校、つまりは、熊野三山霊場のまとめ役となり役の行者創建といわれる常光寺を与えられた。それが聖護院のはじまり。つまりは、修験道者にとっては、ありがたいお寺さま、ということ。何年か前、家族で秋の京都に訪れた際、聖護院の宿坊に泊まった。最近はあまり名前を聞くことがなくなったが、弁護士中坊さんの経営する宿坊であった。
で、この今宮坊、701年役行者が、この境内の池に、仏法を守り水を司る神として八大龍王をまつった。ために、今宮神社は八大宮とも呼ばれている。 現在の札所14番観音堂は、もともとは今宮坊の境内にある一堂宇。巡礼者は八大宮をお参りしたのち参道を通って隣接の観音堂にお詣りするのが通例であった、とか。方形造りの観音堂。本尊は木彫漆箔置き・半跏趺坐像の聖観世音。本堂のすぐ前に、石の後生車。輪廻塔とも呼ばれる。後生の幸せを願い、回すことになる。境内には樹齢1000年を越える古木・龍神木。幹の周囲9mという大ケヤキ。竜神池、今宮弁天堂などがある。
ご詠歌;「昔よりたつとも知らぬ今宮に 詣る心は浄土なるらん」

16番札所・西光寺
今宮坊から北東に少し歩くと西光寺。山門をくぐると正面に本堂がある。堂々とした構え。本尊は千手観音像。堂の東側にはコの字形の回廊。四国八十八ヶ所霊場の本尊を模した木像が並んでいる。ここを廻れば四国お遍路道を歩いたと同じ功徳、と。もとは天明3年、というから、1783年の浅間山大噴火の犠牲者をとむらうためにつくられたもの。
回廊に囲まれた中庭には二つの小さな堂。金比羅堂と納札堂。金毘羅様は戦いの神でもあり、戦時中は出征兵士、最近は受験戦争に勝つべくおまいりするところ、とか。納札堂は、江戸時代には秩父札所の各寺に必ずあったもの。が、今ではこの寺に残るだけ。柱には無数の釘跡。札所を巡拝することを「札所を打つ」という。現在では納札は紙で各札所の納札箱に入れるわけだが、江戸時代の巡礼は、納札をお堂に打ち付けていた、から。
境内には大きな酒樽に草葺屋根をのせたお堂が。酒樽大黒様に。名刺を貼り付けると、お金が増える、とか。そうそう、四国八十八ヶ所をおさめた回廊にオビンズル様がいた。自分の体の悪いところと、オビンズル様(御賓頭盧)。のおなじ箇所をなでると、あら不思議、痛みを癒してくれる、とか。「撫で仏」といわれる所以。サンスクリット語(梵語)の「ピンドーラ」の音訳。東京都内散歩で何箇所かで出会った。最初に出会ったのはどこだったか忘れたが、足立区の関原不動・大聖寺の赤白青の着物・紐に結ばれたオビンズル様だけはなんとなく覚えている。
ご詠歌;「西光寺ちかいを人にたづぬれば ついのすみかは西とこそきけ」

西光寺の次は音楽寺。名前に惹かれる。また、観光ガイドで見た、峠に並ぶ地蔵尊の美しさにも惹かれた。が、場所が市街から少し離れている。荒川を隔てた長尾根丘陵の中腹にある。本日の計画からして往復徒歩は少々無理。ということで、行きはTAXI、帰りは歩きという段取りとする。荒川にかかる「秩父公園橋」を渡り、曲がりくねった道を上る。長尾根丘陵にある広大なレジャーパーク・「秩父ミューズパーク」への道でもあるので、きれいに整備されている。音楽寺に到着。

23番札所・音楽寺

名前の由来は、開山の聖が、山の松風を菩薩の音楽と感じたから、とか。この札所のご詠歌の中にある「峰の松風」ってそのこと、か。観音堂は三間四面、銅板葺きの方形造り。堂前に鐘楼がある。秩父事件のときは、秩父困民党の農民が、この鐘を打ち鳴らしながら市街地に攻め込んだ、と。鐘楼近くには「秩父困民党無名戦士の墓」がある。
観音堂の裏手の坂を登る。5~6分歩いた峠・小鹿坂峠に十三地蔵尊。なかなかいい風情。「小鹿坂」の名前の由来は、昔、慈覚大師がこの地で道に迷ったとき一頭の小鹿が現れて大師を案内した、から。秩父市街地や奥武蔵・武甲山など秩父連山が一望できる。
しばしば秩父事件が登場する。メモしておこう;開国以来、最大の輸出産品は生糸。生糸の生産地・秩父は生糸景気で大いに賑わっていた。が、その後のデフレ政策により、生糸の価格が大暴落。そのうえ、世界大恐慌の余波もあり秩父の生糸産業は大不況に見舞われた。その生糸生産農家を救うべく地元の有志がたちあがり、金利据え置きなどの救済策を郡役所に請願。その動きに自由民権運動が合流し「秩父紺民党」を組織。地元の侠客も幹部に加わるなどし、政府に請願を続ける。が、政府は無視。ために武装蜂起を決意。11月1日下吉田椋神社に農兵数千名集結。11月2日、小鹿峠を越えこの音楽寺に。
当初は警官隊を打ち破るなどして郡役所を占拠。が政府が鎮台軍や憲兵をもって鎮圧に乗り出し、結果秩父困民党軍は壊滅。蜂起からわずか9日間であった、と。ちなみに、秩父の自由党員は「自由党党首・板垣退助の命により立ち上がる」といったことを宣言しているが、当の退助は「あれは自由民権運動などではない」、と言った、とか。
ご詠歌;「音楽のみ声なりけり小鹿坂の しらべにかよう峰の松風」

小鹿坂峠から山道を麓に下る。今回はじめての山道。雑木林が心地よい。麓に降り、里の風景を楽しみながら童子堂に。

22番札所・太子堂(童子堂)
童子堂の名前の由来は、昔、子供の間に天然痘が大流行したとき、観音さまを勧請し祈祷したところ、疫病は治まる。以来子供の病気一切に霊験あらたか、ということで名づけられた。入口に茅葺の仁王門。茅葺の山門は秩父でもこのお堂だけ。童子堂と呼ばれる如く、仁王様、いかにも「子供向き」、というか子供がつくったのか、と一瞬間違うほど、まったくもっての、素朴な風情。「童子仁王」と呼ばれている、とか。境内といった仕切りもないようで、仁王門の先の、一見寺域と思われるところに畑があり、農作業をしておりました。
観音堂は方形瓦葺。昔、讃岐国の住人が旅僧の願う一食の布施を断わる。たちまちその人の息子が犬の姿に。この子を連れて西国、坂東、秩父巡礼をしてこのお堂に訪れると、息子は元の姿になったといった話が伝えられている、とか。
ご詠歌;「極楽をここで見つけてわろう堂 後の世までもたのもしきかな」

童子堂を離れ、荒川に沿って秩父公園橋に戻る。この橋はハープ橋と言われる。周りが音楽寺であり、ミューズ(音楽;musicの語源)公園、であるので、てっきり楽器のハープ、からもってきた名前かと思った。が実際は、ハープ形式という橋の種類。斜張橋といわれ、塔から斜めに張ったケーブルで直接橋桁を支える工法。ハープに似ているからこの通称があるのは間違いない。が、世界中にあるわけで、とくに音楽寺やミューズが近くあるから、命名されたわけではないだろう。橋からの秩父市街、秩父の山々の姿は美しい。長尾根丘陵から荒川に向かってゆっくり下り、そして荒川を越えると今度は秩父の山地に向かってゆったりとのぼっている秩父の地形がはっきり見える。地形のうねりフリークとしてはありがたいひと時であった。

17番札所・定林寺(林寺)

ハープ橋を越え、先ほど訪ねた西光寺を過ぎ、再び秩父市街地に入る。市民病院前を北に折れ、しばし進むと定林寺。お寺の名前は、林太郎定元という武家の名前に由来する。東国の武将・壬生良門が寺に雨宿り。接待にあたったお坊さん、実はその昔、この殿様に諫言し暇を出された林定元のこどもであった。で、前非を悔い改めた壬生良門が、林定元の菩提をとむらうためにこのお寺をたてた、と。
どこかで、壬生氏と秩父霊場を開いた性空上人のつながりを書いたコメントを見たことがあるような、ないような。壬生良門って、平将門の係累であるとか、ないとか。そうでもなければ、突然の壬生氏の登場は唐突、か。観音堂は宝形屋根。周りに回廊が囲む。境内には諏訪神社や蚕影神社。蚕影神社は戦前養蚕が盛んだった秩父地方ならではのもの。梵鐘は昭和63年ころ造られたものだが、日本百観音の本尊、そのご詠歌を刻んでい
る。
ご詠歌;「あらましを思い定めし林寺 かねききあへづゆめぞさめける」

定林寺は初期の巡礼札所1番。32番札所・法性寺に残る秩父札所について記された最古の古文書「長享二(一四八八)年秩父札所番付」にその記録が残る。この文書により、室町のこの頃には既に33の札所ができているのがわかる。ただ、札所の番号は20番を除いてみな異なっている。札所1番はこの定林寺(現在17番)、2番松林寺(現在15番)、3番は今宮坊(現在14番)、現在1番札所四萬部寺は当時24番となっている。先回のメモでものべたが、その理由は、設立当初の秩父札所は秩父ローカルなもの。秩父在住の修験者を中心に、現在の秩父市・当時の大宮郷の人々のために作られたもの。西国観音霊場巡礼や坂東観音霊場巡礼に、行けそうもない秩父の人々のためにできたからだろう。
その後札所番号が変わったのは、これも先回メモしたが、時代によって秩父往還の主要道が変化したことによる。室町時代の秩父への往還は名栗>山伏峠>芦ヶ久保>横瀬>大宮郷>皆野>鬼石といった南北路の往還か、飯能>正丸峠>芦ヶ久保>横瀬>大宮郷といった「吾野通り」。ただ、その当時は秩父観音霊場巡礼って、それほどポピュラーであったわけではなかった、のだろう。すくなくとも敢えて札所を変えなくてはならないほどの外部・内部要因がなかった、ということ。
現在の札番号となったのは江戸時代となってから。豊かになった江戸の人たちがどんどん秩父にやってくるようになった。信仰と行楽をかねた距離としては、1週間もあれば十分なこの秩父は手ごろな宗教・観光エリアであったのだろう。秩父札所の水源は江戸百万に市民であった、とも言われる。秩父にしっかりした檀家組織をもたない秩父観音霊場のお寺さまとしては、江戸からのお客様に頼ることになる。お客様第一主義としては、江戸からの往還に合わせて、その札番号を変えるのが、マーケティングとして意味有り、と考えたのであろう。
現在札番では栃谷の四萬部寺が1番となっている。理由は簡単。江戸時代は「熊谷通り」と「川越通り(小川>東秩父>粥新田峠)」を通るルートが秩父往還の主流。で、このふたつの往還の交差するところがこの栃谷であったから。江戸からはるばる来たお客様に、どうせのことなら、1番札所から始めるほうが、気分がすっきりする、と考えたのではなかろうか。栃谷からはじまり、2番真福寺を通り、山田>横瀬>大宮郷>寺尾>別所>久那>影森>荒川>小鹿野>吉田と巡る現在の札番となった理由はこういった、マーケティング戦略によるのではなかろう、か。我流類推のため、真偽の程定かならず。

18番番札所・神門寺

定林寺をはなれ、本日最後の札所・神門寺に向かう。「ごうとじ」と詠む。秩父鉄道を越え、彩甲斐街道・国道140号線近くにこのお寺はある。もとは今宮坊に属する一修験寺。神門の由来も、かつてこの地に神社があり、境内にはえる榊の枝が楼門のようであったから、と言われる。別の説もある。『秩父回覧記』には「神門」ではなく、「神戸」と記されている。神戸=カンベ、とは神社に諸税を収める神領域およびその民を意味する。神門寺の裏にある丘陵には9世紀から10世紀にかけて秩父神社の主祭神となる妙見大菩薩が最初にまつられたところ、とされる。で、現在の神門寺のあたりって、その妙見様の神域である可能性も高く。であれば、その神戸が神門に転化した、という。この説のほうがなんとなく納得感が高い。

観音堂は寛政(1789~1800)のころ焼失、現在の観音堂は天保時代(1830~1843)に再建された、と。堂は宝形銅葺き、名匠藤田若狭の作。正面の破風は秩父屋台・宮地屋台に似ている、と。藤田若狭はその屋台をつくった名匠の子孫であれば、むべなるかな。観音堂の寺額は幕末・秩父出身の彫刻家・森玄黄斉の作。印籠や仏像彫刻で有名。本尊は室町時代につくられた聖観音像。
このお寺には札所三十四ヶ寺の本尊を彫った版木がある。往古これを刷って信者に配ったと。「新編武蔵風土記稿」に、「別当神門寺。神門寺と称するは、寺号と云にはあらねど、神門にありし寺ゆへに、爾が唱来れり、本山修験、同郷の内今宮坊配下なり」と。現在は曹洞宗のお寺ではあるが、明治五年(1872)の修験道禁止まで今宮坊の修験寺として続いてきた。
ご詠歌;「ただたのめ六則ともに大慈をば 神門にたちてたすけたまえる」

本日の札所巡りはこれで終了。秩父鉄道・大野原駅に向かい、御花畑で下車。西武秩父駅に。お宿のある西武・横瀬駅に向かい本日のメモを終える。 

2日目は横瀬地区を中心とした札所巡り。横瀬町には5番から10番までの札所がある。秩父市街からは台地で隔てられ、横瀬川によって切り開かれた地域。ガイドブックには東丘陵などと紹介されている。横瀬川は秩父連山の武川岳や二子山といった800mから1000m級の山地にその源を発す。いくつもの支流の水を集めながら芦ヶ久保地区を西に流れ、横瀬地区では平坦部を北に進み、秩父線・黒谷駅近くで荒川本流に合流。全長19キロ程度の荒川の支流。(月曜日,12月 18, 2006のブログを修正)



本日のルート;9番札所・明智寺>8番札所・西善寺>7番札所・法長寺>6番札所・ト雲寺>5番札所・語歌堂>4番札所・金昌寺>3番札所・常泉寺>10番番札所・大慈寺>11番札所・常楽寺>西武秩父駅

西武秩父線・横瀬駅

さてさて、横瀬地区札所散歩は西武秩父線・横瀬駅からはじめる。武甲山が美しい。散歩のはじめに少々気になっていた武甲山についてメモする
武甲山;昨年はじめて秩父を訪れたとき、御花畑から見たこの山の印象は強烈であった。秩父といえば三峯山、という程度の智識はあったので、てっきり三峯山と思い込んでいた。で、この武甲山、山容がいかにも猛々しいのはさることながら、これまた、いかにも切り崩されたような白い山肌に強く惹かれた。後からわかったのだが、それって石灰を切り出したためにできたもの。明治になってセメントの原料として採掘が進められ、特に1940年以降の採掘はすさまじく、山容が変貌。北斜面の崩壊が著しく、少々の衝撃を受けたのはこの崩壊した斜面であったわけだ。標高も明治期に比べて30mほど低くなっている。山頂部が削り取られたから、という。
武甲山の名前の由来だが、日本武尊が東征のとき、甲を奉納したから、とか。しかし、これは江戸・元禄の頃に、なにが要因かしらないが、こういった伝承が伝わり、今に至る、というだけ。山の名前はあれこれ変わっている。武甲山資料館の資料によれば、最初は単に「嶽」とか「嶽山」と世ばれ、神奈備山(神のこもる山)として崇められてきた。はるか昔のことである。
次に、「知々夫ヶ嶽」とか「秩父ケ嶽」と呼ばれるようになる。秩父神社のメモで書いた、知知夫彦命が知知夫の国造に任命され、ご神体としてこの山をまつった頃のこと。その次の名前は「祖父ヶ嶽」。大宝律令が制定(701年)され、武蔵国初代の国司として赴任した人物/引田朝臣祖父の名前を冠した名前となった。平安時代には「武光山(たけみつ)」。山麓に武光庄という荘園があった、ため。武光とは荘園開発者であろうか、と。次は妙見山(ミョウケンヤマ)。これも秩父神社のところでメモしたが、1235年秩父神社は落雷炎上。再興に際し、秩父平氏の流れを汲む武士団が信仰した妙見大菩薩を習合し、名前も「秩父大宮妙見宮」と変わった。ためにお山の名前も「武光山」から「妙見山」に。で、最後が江戸になってからの武甲山、と。山の名前も、それがありがたい山であるがゆえに、信仰・政治的背景によって変わってきた、って次第。
はじめからの寄り道が、結構長くなった。散歩にでかける。最初の目的地・明智寺に向かう。横瀬の駅から線路にそって南方向に下り、のんびりとした田舎の風景を眺めながらすすむと目的の寺。

9番札所・明智寺
安産子育ての観音様として知られ、明智寺というより、「九番さま」との愛称で呼ばれる札所。縁起によれば、目のみえない母親の回復を祈り、日夜この観音堂におまいりする孝行息子の前に老僧が現れ、「無垢清浄光・慧日破諸闇」を唱えるべし、と。お堂にこもりこの二句を唱え続ける。と、明け方内陣より「明るい星の光」が親子を照らし、母の目が見えるようになった。ために、このお堂は「明星山」と。「明智」はこのお寺を開いた明智禅師から。なお、観音堂は平成になってつくりかえられたもの。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

境内左手に小さな祠。女性の願いを納めたといわれる「文塚」と地蔵尊が祀(まつ)られている。文塚には「宝永元甲申年」の文字。1704年に建てられたもの。「ひだり十番」の文字も刻まれており、かつては道標を兼ねていたらしい。「文塚」って、女性の願いを埋めている、とはよく言われる。が実際は、それだけではないようだ。有名な文塚では「小野小町の文塚」がある。ここには深草少将をはじめとした千通にもなる恋文が埋められている、というし、平安期の三十六歌仙のひとり・能因法師の「文塚」には自作の和歌の草稿を埋めた、とか。
ご詠歌;「巡り来てその名を聞けば明智寺 心の月はくもらざるなん」

明智寺を離れ、南に進む。三菱マテリアル横瀬工場。いかにも石灰を切り出し、セメントをつくる、って雰囲気の工場。工場脇を進み西武秩父線を越え、線路に沿って続く道筋を進む。武甲山の麓といったところに西善寺。

8番札所・西善

秩父への巡礼道として飯能>旧正丸(秩父)峠を越える「吾野通り」を歩くと最初たどりつくのがこのお寺。この寺をはじめとして札所を巡った人も多かったのだろう。江戸時代、竹村立義が表した紀行文「秩父巡拝記」によれば、竹村は8番>9番>7番>10番と巡り、10番以降は札番の順に巡っている。江戸期は川越通りからの往還がメーンルートとメモした。とはいうものの、どの往還を選ぶかは人次第ではある。当たり前、か。
このお寺、古い正丸峠越え(665m)の苦労に報うだけの品のいい寺さま。境内に枝をひろげるモミジの巨木は、樹齢500年とも600年とも。紅葉の頃は、さぞ美しいことであろう。モミジの下に如意輪観音さまや六地蔵。如意輪観音は、「文字どおり」、意のままに願いが叶う仏さま。
お地蔵さんは「六道能化の地蔵尊」とも呼ばれる。六道とは「仏教で衆生が輪廻の間に、それぞれの業の結果として住む六つの境涯(広辞苑)」。地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天の六つ。お地蔵さんとは、釈迦入滅後、弥勒が出現するまでの間現世にとどまり、衆生を救い、また、冥府の救済者。つまりは、この世で困っている人なら誰でも助けてくれる仏さま。ここまで活動範囲が広ければこの六道すべてに関係から、六道能化の地蔵尊と。六地蔵とはこの六つの世界をそれぞれ表しているのだろう、か。六地蔵は六道能化の本尊は恵信僧都の作と言われる、十一面観音。秘仏のため拝観叶わず。
ご詠歌;ただ頼めまことの時は西善寺 きたりむかえん弥陀の三尊

次の目的地・法長寺に向かう。少し秩父方面に戻ることになる。西善寺を離れ、北に下る道筋を進む、途中に「御嶽神社」。この里宮は武甲山頂に鎮座する御嶽神社の遥拝所。もっとも、石灰の採掘により削られ、山頂が30mほど低くなった、とメモした。山頂の御嶽神社も移された、って、こと。
地図を見ていると、御嶽神社の西のほうに白髭神社がある。これって、高麗王若光をまつるもの。吾野通りを下った高麗の里は霊亀2年(716年)、甲斐・駿河・相模・上総・下総・常陸・下野など七カ国の 高句麗人 (高句麗からの渡来人)、1799人を武蔵国に移し、 高麗郡(こまぐん)としたところ。高麗王若光をまつる高麗神社や聖天さまがある。
秩父は渡来人の里とも呼ばれる。吾野通りを通り、正丸峠から芦ヶ久保そして横瀬、大宮郷と帰化人たちも歩いてきたのだろう。秩父に絹織物の技術を伝えたもの、和紙の製造技術を伝えたもの、そして黒谷での和銅の採掘技術を伝えたもの渡来人。そういえば、この芦ヶ久保のあたりは706年に高麗羊太夫が芦ヶ久保村楮久保で、和紙の製造をはじめたというし、近くの根古屋って、絹織物の産地として有名。白鬚神社があって当然、か。西武秩父線を越え、生川交差点で国道299号線を秩父方面に。横瀬橋交差点近くに法長寺がある。

7番札所・法長寺(牛伏堂)

山門に菊水の紋。「不許葷酒入山門」葷とはニンニク、ラッキョ、ネギ、ニラといった野菜。その強い臭いが他人に不快感を与えるため。酒はいわずもがな。お寺の中では葷酒はだめ、ということ。本堂は間口10間の堂々とした構え。秩父ではもっとも大きい構えを誇る。本尊は十一面観音。江戸期の作。本堂の前に牛の石像。寺伝によれば、ある牛飼いが餌の草を刈っていると、一頭の牛が現れる。が、その牛、その場から動こうとせず、やむなくその地で一夜をあかす。と、夢に僧が現れ、「我は観音の化身なり。この地に草堂を結べば、この世の罪贖を取り除いてくれん」と。夜があけ、草の中からでてきた十一面観音をまつった、とか。「牛伏堂」と呼ばれる所以である。この牛伏堂は当時、横瀬の牛伏地区にあったらしいが、江戸時代にその堂が失われこの法長寺に札所が移された、と。本堂の虹梁の文様は平賀源内図と伝えられる
ご詠歌;「六道をかねて巡りて拝むべし 又後世(のちのよ)を聞くも牛伏」

横瀬橋を東に丘陵に向かう。畠にそって道を登る。境内に登る坂の途中に小さな祠。「お願い地蔵」がまつられている。竹林を背景にしたお堂の風情はなかなかいい。「日本百番霊場秩父補陀所第六番荻野堂」、と書かれた石標が入口に。正面に武甲山が美しい。

6番札所・ト雲寺;(ぼくうんじ;荻野堂)

このお寺、もとは別の場所にあった荻野堂が江戸時代にこの地にあったト雲寺に移されたもの。ト雲寺の名前の由来は、開山の嶋田与左衛門の法号が「ト雲源心庵主」である、から。本堂は、間口6間、奥行4 間。寺宝に、清涼寺形式の釈迦像、荻野堂縁起絵巻そして山姥歯等がある。荻野堂縁起絵巻が有名。
が、山姥の歯とは、少々面妖。縁起によれば、行基菩薩がこの地を訪れる。武甲山に山姥が棲み、里人を食う、という話を聞く。で、武甲山頂の蔵王権現にこもり山姥退治の祈願。この神力呪力によって山姥も降参。遠国へ立ち去るべし、と。山姥は悔い改め、再び里人を食わ誓いの証として前歯1枚、奥歯2枚を折り、献じて何処ともなく去ったという。もっとも、棄て台詞ではないだろうが、立ち去るとき「松藤絶えろ」と叫んだため、武甲山には松と藤が育たなくなった、とか。 本尊の聖観音は行基菩薩の作、と。蔵王権現にまつられていたもの、とか。
こんな話もある。とある禅師が庵を結んでの修業三昧。と、どこからともなく、「初秋に風吹き結ぶ 荻野堂 やどかりの世の 夢ぞさめける」という御詠歌、が。荻野堂の名前の由来がこれ。
ご詠歌;「初秋に風吹き結ぶ荻の堂 宿かりの世に夢ぞ覚めけり」

ついでのことであるので「清涼寺形式の釈迦像」について。清涼寺のことをはじめて知ったのは、江戸の出開帳の記録を見ていたとき。成田山などとともに出開帳ベストテンに入っている。で、清涼寺についてチェックした次第。京都嵯峨野にあり、通称、嵯峨釈迦堂と呼ばれる。ここに伝わる国宝の釈迦像は請来されて以来、藤原摂関家以下朝野の尊祟をあつめた。ために、模刻が盛んにおこなわれ、これを「清涼寺形式の釈迦像」、と。つい最近、紅葉の嵯峨野を歩いたのだが、この嵯峨釈迦堂、拝観料を惜しみ、かつまた夕暮れ、雨模様という状況もありパス。残念。

ついでのことなので、もうひとつ寄り道。蔵王権現について;武甲山に蔵王権現がまつられていた、とメモした。観音霊場の起こりのときも、性空上人さまと13権者のひとりとして巡礼に従った、と。で、蔵王権現って、宮城というか山形というか、その蔵王のお山での信仰から、かと思い込んでいた。チェックしてみた。と、この神というか仏というか、ともあれ「仮の姿で現れた神仏」は日本固有のもの。インドに起源をもたない日本独自のほとけさま。役小角が吉野・金峯山で修行中に感得したという修験の神であり、釈迦・観音・弥勒の三尊の合体したもの、とか。で、蔵王山のことだが、これは古くから山岳信仰の対象ではあったが、平安の頃、空海の両部神道を奉じる修験者が修行の山とし、吉野の蔵王堂より蔵王権現を勧請し、お山の名前を「蔵王」とした、と。想像と順番が逆であった。

ト雲寺をはなれ、丘陵地帯をゆっくりくだり平地に下りる。県道11号線と横瀬川が交差する語歌橋に。県道11号線って、熊谷から小川町をへて秩父にいたる埼玉で一番長い地方道。約48キロある。11号線から少し南というか、東にはいったところに語歌堂がある。

5番札所・語歌堂(長興寺)

素朴な雰囲気の仁王様が睨む仁王門をくぐると、観音堂。その昔、この堂を建てたのは本間孫八という分限者。和歌の道に親しむ風流人。ある日一人の僧が訪ね来る。歌道の話に大いに盛り上がり、二人は夜を徹して論じ合う。翌朝孫八が目を覚ました時、旅の僧の姿はすでになく、のちにこの僧は聖徳太子の化身であった ことがわかった。夜を徹し「語」り合い、和「歌」を呼んだ。これが語歌堂の名前の由来。もっとも、旅の人と和歌の道を論じあい、聖徳太子の話に及んだとき、突如消え去る。で、これこそ救世観音の化身と悟った、といった話もある。何ゆえ、聖徳太子であり、救世観音であることがわかったのか、少々疑問?
納経所は近くの長興寺にある。このお堂、秩父事件の中心人物である秩父困民党総理・田中栄助が捕縛・調書に登場する:「五番ノ観音ノ岩窟ニテ夜ヲ明ク時ニ 十一月十二日ナリ」、と。とはいうものの、岩窟など見当たらない、のどかな平地にあるのだが??
語歌堂の本尊は准胝(じゅんでい)観世音菩薩。「菩薩の母」、「仏母(ぶつも)」といわれ。母性を象徴し、子授けの観音菩薩。この観音様を本尊とするのはほかに西国霊場11番・上醍醐寺だけである。

ついでに観音さまについて。観音様のバリエーションは基本となる聖観音のほか、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、准胝観音をもって六観音と称す。これが真言系。天台系では准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音とする。
ご詠歌;「父母の恵みも深き語歌の堂 大慈大悲の誓たのもし」

札所5番から10番までは横瀬町。11号線を北に進むと秩父市に入る。県道から少し丘陵地に入ると金昌寺。

4番札所・金昌寺(新木寺)

二階造りの仁王門。秩父には、村子然とした素朴な仁王さまが多いなか、このお寺の仁王さまは、いかにも仁王然とした力強い形相。口を大きく開いた呵形の金剛、ぐっと口を結んだ吽形の力士である。左右の柱に大草鞋。仁王は健脚の神ゆえの奉納か。金昌寺は石仏の寺として有名。1300余体の羅漢、観音、地蔵、不動、十三仏が寺域に広がる。奥の院には大きな岩。清水が流れ出ていた。
この千体仏、1624年住職古仙登嶽和尚が、寺院興隆のため石造千体仏建立を発願。江戸を中心とする各地を巡り寄進をつのり、7年の歳月をかけて成就。石仏寄進者のほとんどが江戸に集中。全体の7割,武州を合わせると9割。地元秩父の寄進者はわずか5%。秩父札所巡礼という流れに咲いた花であり、水元が枯れればすぐ萎える。その水源は江戸百万市民である、と上でメモした。
このお寺の石仏寄進者の半数以上が江戸の商人。豊かになった江戸の商人は信仰と行楽を兼ね、この地を訪れた。関所通行の煩わしさもなく、鉱泉もある、といえば願ったり叶ったりであった、ことであろう。また、秩父を支配していた忍藩の代官所も巡礼者を保護し、寛延3年1月から3月の3ヶ月には4万から5万の巡礼者があったとか。
ちなみに秩父と江戸の関係でいえば、巡礼を「待つ」ばかりでなく、秩父札所の「出開帳」が江戸でおこなわれている。明和元年、護国寺で開かれた「秩父札所惣出開帳」は、「前代未聞」の賑わい。将軍家治の代参、諸大名、大奥女中、旗本などの参詣があり、秩父札所の名声を高めた、とか。で、この興行の成功に味をしめ、その後も幾度か出開帳をおこなった、よう。境内にオビンズルさま。別名「酒飲地蔵」さま。散歩をはじめて、十六羅漢のひとり、このお地蔵さんに幾度出会ったことか。
ついでのことであるので忍藩。埼玉県行田市に本丸をもつ。開幕のころは家康の四男・信吉。その後、島原の乱の鎮圧の功により川越藩に移る前の知恵伊豆こと松平信綱や、阿部忠秋など「老中の藩」として軍事的・政治的に幕府の重要拠点藩でありました。
ご詠歌;「あらたかに詣りて拝む観音堂 二世安楽と誰も祈らん」

いかにも立派な、また、「秩父は江戸でもつ」ということを実感した金昌寺を離れ、県道11号線に下り、北に恒持神社あたりまで進む。秩父夜祭で冬を向かえた秩父路に春の訪れを告げる山田の春祭りで有名な恒持神社。古く江戸時代から続く。2台の屋台と1台の笠鉾が、勇壮な「秩父屋台囃子」とともに曳行される、とか。春にはお祭りに来てみたい、などと思いながら県道を西に折れ、横瀬川にかかる山田橋を渡って左折。少し歩く。丘陵地帯が前方に広がる。この台地の先は秩父市街。常泉寺はこの小高い山地の麓にある。

3番札所・常泉寺

本堂の石段を上がったところに観音堂。丘の中腹、林の中、といった雰囲気。もとの堂宇は、弘化年間(1844年頃)に焼失したため、1870年秩父神社の境内にあった薬師堂を移築した。本尊は室町時代の作と伝えられる聖観音の木彫像。この堂の向拝と本陣を結ぶ虹梁にある龍のカゴ彫り。江戸時代の彫刻の高い技術を表している。寺伝によれば、ここの住職が重い病に伏せていたとき夢に現れた観音様からお告げ。「境内の水を服用せよ」、と。あら不思議、病気がすぐに治ったと。この長命水が本堂前にある。また本堂の回廊には「子持ち石」。抱けば、子宝を授かる、と。ご詠歌の岩本寺とは、この寺の山号。
ご詠歌;「補陀落は岩本寺と拝むべし 峰の松風ひびく滝つ瀬」

常泉寺を離れ、丘陵地の麓に沿ってのんびり進む。南に戻る。秩父市から再び横瀬町に。語歌橋を越え、県道11号を一筋入ったところに大慈寺。

10番札所・大慈寺
延命地蔵に迎えられ、急な石段を上ると楼門形仁王門。形のいい仁王が構えている。本尊は、恵心僧都の作と言われる聖観音。お賓頭盧さま、も。オビンズル様とは
、十六羅漢中第一の位にあったが、その神通力をもてあそび、酒癖も悪く釈迦のお叱りを受けて涅槃を許されず、釈迦の入滅後も衆生を救いつづけたという白髪・長眉の仏神だったとか。山門からの眺めよし恵心僧都って、あの恵心僧都・源信のこと?天台宗の高僧。極楽浄土の思想をまとめた『往生要集』の著者として知られるが、仏さんを彫ったりもするものだろうか。少々疑問。
ご詠歌;「ひたすらに頼みをかけよ大慈寺 六(むつ)の巷の苦にかはるべし」

県道11号線を進み国道299号線に合流。丘陵地の切れ目なのか、工事によって切り通されたのか、定かには知らねども、秩父市街に向かってちょっとした峠道を進む。秩父側にでたところに常楽寺。今回最後の札所。


11番札所・常楽寺


この寺は秩父市と横瀬町のまたがる山の中腹にある。秩父の市街地や武甲山や長尾根丘陵、両神山まで一望できる。昔は堂々とした伽藍を誇った。が、明治11年の秩父の大火で焼失。その後、明治30年に建てられたのが現在の観音堂。上で秩父札所の江戸での出開帳のことをメモした。常楽寺も享保3年(1718年)、江戸湯島天神で観音堂修復のための出開帳をおこなった、と。本尊は十一面観音。その他、行基作といわれ釈迦如来像も。大正9年、秩父を訪れた若山牧水が、「秩父町出はづれ来れば機をりの 歌声つづく古りし 家並に」と詠んだのは、この常楽寺前の坂道でのこと。
本堂に、元三大師と普賢菩薩。元三大師って、慈恵(じえ)大師良源のこと。天台宗。比叡山中興の祖と言われる実在の人物。命日が正月三日のため元三大師、と。中世以来独特の信仰をあつめ「厄除け大師」として有名。佐野厄除け大師は、弘法大師ではなくこの元三大師をまつっている。普賢菩薩は辰巳の守り本尊。本堂に向かって右手に、新しい六地蔵。座像一本つくりの釈迦如来がある。
ご詠歌;「つみとがも消えよと祈る坂氷朝日はささで夕日かがやく」

1泊2日の秩父札所巡りを終える。17の札所を巡った。信仰心には縁遠く、B級路線まっしぐらの我が身も、辿るとともに、なんとなくの、修行者なる心持も。今回は秩父市と横瀬町が中心。秩父札所の所在地をみると、秩父市22カ所、横瀬町6カ所、荒川村、小鹿野町各2カ所、吉田町、皆野町各1カ所に広がる。次回はどこからはじめようか。

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秩父 秩父観音霊場散歩 Ⅳ;第二回秩父札所巡り(1)
9月の第一回秩父行きに引き続き11月の末…
秩父 秩父観音霊場散歩 Ⅴ;第二回秩父札所巡り(2)
宿でのんびりしながら、翌日の予定をどうし…
秩父観音霊場散歩 Ⅵ ;秩父鉄道白久から秩父市街、小鹿野へと
秩父 ろく札所巡りのメモもこれで6回目。…

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