埼玉の最近のブログ記事

埼玉と東京の境となる八潮市から、足立区・葛飾区境を画する利根川の旧流路・古隅田川の分岐点まで歩く。
平成29年(2017)の5月、古隅田川を歩き、それが利根川東遷事業により銚子に瀬替えされる前の利根川旧流路の末であることを知った。で、どうせのことなら東遷事業前の利根川の旧流路を繋いでみようと,背替え前の南流点である埼玉県羽生市の旧利根川・会の川から歩きはじめた。
直線距離で70キロほど。曲がりくねった流路を勘案しても80キロもないとは思うのだが、6回に分け1年半ほどかかった。川筋歩きは基本、川に沿って歩けばいいわけで、なーんにも考えず、ひたすら歩きたい時の定番であり、とすれば、1年半の間になーんにも考えたくない時が6回あった、ということだろう。
それはともあれ、今回は繋ぎ散歩の仕舞。これで古利根川の繋ぎ散歩の大団円となる。距離は7キロほど。のんびりと歩き古利根川の流路をカバーし終えた。

本日のルート;つくばエクスプレス八潮駅>一号調整池>八潮南部配水場>垳川>垳川排水機場>稲荷下樋菅>神明六木遊歩道>垳川・葛西用水交差部>葛西用水水路跡>花畑運河>葛西用水親水公園>新広橋>六木水門>常善院の六面幢(どう)地蔵>飯塚橋>鹿浜線中川水管橋>中川水再生センター>中川水管橋>水元給水線・送電線鉄塔>常磐線鉄橋>古隅田川分岐点>JR小岩線送電線鉄塔>JR常磐線・金町駅

つくばエクスプレス八潮駅
先回の散歩の終点、葛西用水が垳川に合流する箇所の最寄り駅・つくばエクスブレス八潮駅に向かう。この駅が平成17年(2005)開業したことにより、埼玉で唯一鉄道駅のない市であった八潮市に鉄道駅ができ、市の発展にも大きく寄与することになったようだ。 実際、90年代の約7.5万人をピークに減少傾向にあった人口も平成30年(2018)には8.9万人に増えたという。
駅の南に出る。駅周辺は平成27年(2015)より都市計画事業の施行により、如何にもといった景観の街並みを示す。

一号調整池
国土地理院「治水地形分類図」
駅前から垳川に向かい成り行きで道を進む。大瀬5丁目に大きな調整池がある。一号調整池と呼ぶようだ。八潮市は西を綾瀬川、東を中川、南を垳川(かつての綾瀬川)に囲まれ、かつては川沿いの自然堤防上に人々が住み、後背湿地、氾濫原を開墾して開けていったわけであろうし、標高も1mから4mといった一帯。先回の散歩でも都市開発事業地域にいくつもの調整池があった。低湿地故の水対策が必要ということだろう。国土地理院の「治水地形分類図」を見れば、八潮が自然堤防・後背湿地・氾濫原からなることが一目瞭然である。
国土地理院の「治水地形分類図」
国土地理院「治水地形分類図」
八潮市の「治水地形分類図」を見ていて、ちょっと気になることが出てきた。中川筋が現在の流れとは異なり八潮市の潮止橋の上流から南に流れ、現在の大場川に合わさる旧流路が描かれる。通常行政境界は山や川筋で区切られることが多い。確認してみると、現在の中川左岸、旧流路と現在の流れに囲まれた古新田地区は八潮市となっていた。

中川旧流路の変遷
国土地理院「今昔マップ首都1944-1954」
ついでのことではあるので、この旧流路が現在の流れに変わる過程を「国土地理院今昔マップ首都」でチェックすると、「国土地理院今昔マップ1917-1924」には旧流路のみ、「今昔マップ首都1927-1939」から「今昔マップ首都1944-1954」には現の直線化工事が施された流路と旧流路が共に描かれており、「今昔マップ首都1965-1968」になって旧流路は消え、現在の中川筋のみが描かれている。
つまりは、大正13年(1924)まで中川は大場川筋に入る旧流路を流れており、それ以降昭和2年(1927)までに現在の流れである直線化工事が実施され、昭和29年(1954)から昭和40年(1965)の間のいつの頃か、旧流路が閉ざされ現在の流れだけになっている、ということだ。旧流路跡には暗渠が続くとのことである。





中川というか、古利根川の流路変遷
上にかつての中川筋は大場川に合流したとメモしたが、中川が完成したのは大正5年(1916)から昭和4年(1929)にかけて外周河川である利根川、江戸川および荒川の改修に付帯して実施された開削・整備によるものであり、江戸の頃に現在の中川筋はない。この流路はかつての利根川(古利根川)の一つの流れである。流れは東に向かい現在の江戸川(当時の太日川)に注いだ。

利根川東遷事業の頃の利根川の流れをまとめると、文禄2年(1593),利根川東遷第一次の工事として伊奈忠次は当時の会の川を川俣地点で締切り,浅間川筋に落とし、川口(加須市川口地内)の地で二流に分ける。その主流は渡良瀬川の水も合わせ東へと、現在の中川の川筋(当時中川という川は、ない)である島川・権現堂川、庄内古川を流れ、金杉で太日川(現在の江戸川)に落とした。
またもう一つの流れ、川口から南に下った古利根川(現在の大落古利根川)は西遷事業(寛永6年;1629)施行以前の荒川(現在の元荒川)と越谷で合さり、これも小合川を経て太日川に落とした。この小合川が現在の大場川から小合溜井へと向かう川筋である。川口で分かれたかつての利根の流れがこの地で合わさった。
宝永元年(1704年)、この古利根川が溢れた。江戸川(かつての太日川)の大増水により、古利根川に逆流した暴れ水が八潮市と葛飾区の境、現在の大場川と中川の合流点あたりの堰(猿ヶ俣・八潮市大瀬間の締とめ切り堰)に押し寄せ、堤防が決壊。葛西領と江戸下町一帯が大水害に見舞われた。
上に利根川の旧路は小合川(現在の大場川)筋の合流点から太日川(江戸川)に流れたとメモしたが、正確にはこの合流点から流路は東西に分かれており、太日川とは逆、現在の中川筋(当時の綾瀬川)筋とも通じていた。実際、往昔の綾瀬川の流れは南に下る流れとともに、小合川を経て太日川に注いていたとも言われる。
それはともあれ、大場川と中川の合流点あたりの堰(猿ヶ俣・八潮市大瀬間の締め切り堰)とはこの綾瀬川に設けられた亀有溜井の上流部の堰ではないだろうか。利根川東遷事業の目的のひとつは江戸に流れ込んだかつての利根川を背替えし、江戸を洪水から守ることとも言われるが、次いで、東遷事業の大きな目的のひとつでは新田開発。この目的で最初に設けられたのが「亀有溜井」であり、水源は荒川西遷事前で水量豊富な綾瀬川に求め葛飾区新宿で水を溜めて葛西領を潤すことになる。おおよその流路を現在の川に合わせると、綾瀬川>桁川>中川(昔の古利根川)>亀有ということだろう。亀有溜井の上流・下流の堰は享保14年(1729)まで締め切られていた、と言う。
太日川(江戸川)の水が古利根川・綾瀬川筋に逆流したということだが、それでは当時のそれぞれの河川の水勢はどのようなものであったのだろう。
チェックする;かつての太日川は、元和7年(1621)に開削された赤堀川により銚子への流れへと瀬替えされた利根川と結ぶべく寛永12年(1635)から寛永18年(1641)にかけ上流部を開削。洪水のおきた宝永元年(1704年)の頃には既に利根川と結ばれており、水量も多くなっていたことだろう。
一方逆流した辺り、小合川(現在の大場川筋)へと流下する旧流路は川口から南下した古利根川と元荒川の水が合わさったものであるが水量は多いとは思えない。古利根川は利根川東遷事業で廃川となった利根の川筋であり、元荒川も荒川の西遷事業(寛永6年;1629)で水量は激減している。実際、この川筋は葛西用水の溜とされるが、その水量が乏しく、元荒川に設けられた越谷の瓦曽根溜井(慶長19年(1614)完成)は寛永18年(1641)にその水源を太日川に、松伏溜井(寛永11年(1633))もその水源を太日川・江戸川に求めている。
また、現在の大場川と中川の合流点あたりに西から合流していた綾瀬川も天和2年(1683年;(延宝8年(1680)との説もある)には現在の垳川合流点から南に直線化工事がなされており、古利根川筋への水量は多くはないだろう。
要は決壊箇所あたりの流れが、逆流を押し返すほどの水量がなかったということもその一因だろうか(これは妄想)。
ともあれ、この大洪水に懲り、江戸を洪水の被害から防ぐため、将軍吉宗の命により、享保14年(1729年)井沢弥惣兵衛の手によって治水工事が開始された。井沢弥惣兵衛は見沼通船堀、見沼代用水などを差配した治水・利水工事のスペシャリストである。享保14年(1729)に小合川筋の古利根川は小合川との合流点と江戸川合流点手前に堰を設け溜井をつくった。これが「小合溜井」である。
一方、猿ヶ俣・八潮市大瀬の堰(享保14年には締切を解く)以南の川筋、古利根川の細路・流路を開削し広い川筋を設けた。垳川が古利根川(現在の中川)に合流する箇所の堰も享保14年(1729)締め切っている。
こうして江戸川に東流していた古利根川の流れが、かつての綾瀬川(現在の中川筋)へと流れるようになったわけである。

中川
中川は羽生市を起点とし、埼玉の田園地帯を流れ東京湾に注ぐ全長81キロの河川。起点をチェック。羽生市南6丁目あたり。宮田橋のところで葛西用水を伏越で潜り、宮田落排水路(農業排水路)とつながるあたりが起点、とか。
結果としてこのような概要とはなっているが、葛西用水と同じく、中川も元からあった川ではない。利根川東遷・荒川西遷事業により「取り残された」川を治水・利水のために繋いで結果的に出来上がった川である。
ために、中川には山岳部からの源流がない。低平地、水田の排水を34の支派で集めて流している。源流のない川ができたのは、東遷・西遷事業がその因。江戸時代、それまで東京湾に向かって乱流していた利根川、渡良瀬川の流路を東へ変え、常陸川筋を利用して河口を銚子に移したこと。また、利根川に合流していた荒川を入間川、隅田川筋を利用して西に移したことによって、古利根川、元荒川、庄内古川などの山からの源流がない川が生まれた。このことは幾度か触れた。

現在の中川水系一帯に「取り残された」川筋は、古利根川筋(隼人堀、元荒川が合流)と島川、庄内古川筋(江戸川に合流)に分かれていた。幕府は米を増産するために、この低平地、池沼の水田開発を広く進め、旧川を排水路や用水路として利用した。が、これは所詮「排水路」であり「用水路」。「中川」ができたわけではない。
中川水系の水田地帯を潤し、そこからの排水を集めた島川も庄内古川も、その水を江戸川に水を落としていた。が、江戸川の水位が高いため両川の「落ち」が悪く、洪水時には逆流水で被害を受けていたほどである。低平地の排水を改善するには、東京湾へ低い水位で流下させる必要があった。そこで目をつけたのが古利根川。古利根川は最低地部を流れていた。島川や庄内古川を古利根川つなぐことが最善策として計画されたわけである。実際、江戸川落口に比べて古利根川落口は2m以上低かったという。
この計画は大正5年(1916)から昭和4年(1929)にかけて外周河川である利根川、江戸川および荒川の改修に付帯して実施された。島川は利根川の改修で廃川となった権現堂川を利用したうえで、幸手市上宇和田から杉戸町椿まで約6キロを新開削して庄内古川につながれた。庄内古川は松伏町大川戸から下赤岩まで約3.7キロして大落古利根川につながれた。こうして「中川」ができあがった。
渡良瀬川
近世以前には佐波から、江戸川が現在の利根川から分かれる辺りまで川筋はなかった。ということは、現在権現堂川辺りで利根川に合流している渡良瀬川も近世以前は利根川の支流ではなく、この河川も関東平野を南に下り江戸湾に注いでいた。 そのルートは権現堂川筋を下り、加須市川口で合わさり東に島川筋、権現堂川筋へと向かった「会の川」と「浅間川」の流れを合わせ、庄内古川筋を下り、松伏町金杉で現在の江戸川(当時の太日川)に合流したようである。

江戸川
江戸川は、もとは松伏町金杉付近に源頭部を持ち渡良瀬川の下流に合わさる流れであり太日川と呼ばれていた。旧利根川の主流のひとつとして江戸湾に流れていた。
寛永12年(1635)から寛永18年(1641)にかけ、この太日川の上流部、松伏町金杉付近の源頭部から北の関宿に向けて開削工事がはじまった。およそ18㎞に渡るこの開削工事によって、元和7年(1621)には赤堀川が開削され、銚子へと流れることとなった現在の利根川とつながり、利根川の水を取り入れることになった。太日川の呼称も江戸川となる。 享保13年(1728)には下流部も野田橋の近く、金杉あたりから18キロにわたって関東ローム層の台地を掘り割って下流部も延ばしたともいう。
この江戸川の開削は利根川・渡良瀬川水系の治水対策でもあったようだ。瀬替え、堰の締め切りなどにより、権現堂川から庄内古川に集中することになったかつての利根川・渡良瀬川水系の流れを、新たに東へと水路(逆川)を開削し江戸川と結んだ。沖積低地上の庄内古川利根川・渡良瀬川水系筋を流れていた利根川の水を、関東ローム台地の中に導水し治水につとめた、ということ、である。
寛永20年(1643)には庄内古川筋は閉じられた。この庄内古川筋は後に中川となって整備されることになる。

八潮南部配水場
偶々出合った一号調整池をきっかけに結構話が広がった。先に進む。調整池から南に延びる水路に沿って下る。大正第一幹線都市下水路と呼ばれるようだ。通りも「大正通り」とある。
水路の左手、垳川との合流点手前に八潮南部配水場。平成8年(1996)から稼働し、中央浄水場と共に水道水を供給するが、八潮市の水道水の大半は三郷市の新三郷浄水場に拠る、とのことである。

垳川
水路は垳川に合流。垳川はかつて綾瀬川の本流であった。流路定まることのない暴れ川であった綾瀬川治水のため、江戸の頃には既に垳川筋が綾瀬川本流と切り離されている。天和2年(1683年;(延宝8年(1680)との説もある)頃と言う。洪水対策のため垳川との接続部下流が直線化工事を施され、綾瀬川は南に下る。
綾瀬川との接続部は閉じられた。その後、これも江戸時代、享保14年(1729)に中川との接続部も閉じられ、垳川は川ではなく川筋のほぼ中央部で北から合流する葛西用水の「溜め」となっていたようである。往昔綾瀬川接続部からこの水門までの「溜め」を「垳小溜井」と称した。「古溜井」とも記される。
綾瀬川
Wikipediaに拠れば、「綾瀬川は戦国時代の頃、荒川の本流であった。太古の頃には荒川は利根川の支流として熊谷辺りで利根川に合わさっていたようだが、共に流路定まらぬ川筋であり、次第に別の流れとなっていったようだ。
江戸の前の頃、当時の荒川は、今の綾瀬川源流の近く、桶川市と久喜市の境まで元荒川の流路をたどり、そこから今の綾瀬川の流路に入った。現在の元荒川下流は、当時星川のものであった。戦国時代にこの間を西から東につなぐ水路が開削されて本流が東に流れるようになり、江戸時代に備前堤が築かれ(慶長年間;1596‐1615)綾瀬川が分離した。この経緯により、一部の地図には綾瀬川(旧荒川)の括弧書きが行われる事がある」とある。
地図を見ると久喜市、桶川市、蓮田市が境を接する辺りにある「備前堤」から南に綾瀬川、東に元荒川が流れ、その元荒川は東に進んだ後、久喜市飛地で星川に合流している。上述Wikipediaの説明を元に推測すると、この備前堤から東に流れる元荒川は「戦国時代に開削された西から東へつなぐ水路」であり、星川との合流地点の下流は、現在は元荒川ではあるが、かつては星川の流れであり、元来の元荒川は備前堤から南に下る綾瀬川筋であった、ということだろう。
国土地理院の「治水地形図」を見ると、いつだったか歩いた古綾瀬確川筋から毛長川合流天あたりまで、見事に乱流している。流路定まることのない、「あやし川」と呼ばれた所以である。この乱流路も古綾瀬川から下流は上述の如く、江戸の頃直線化工事がなされている。
垳川
「がけかわ」と読むこの名の由来は?垳地区を流れるからであろうが、そもそも「垳」の意味は。この漢字は本来中国からもたらされた漢字ではなく、峠などと同じく日本で造られた国字とのこと。
「土」+「行(く)」>土が行く>土が崩れる>水がカケ(捌け)る様子が起源となり、水が流れるとき「土」が流されて「行」く、といった意味があるようだ。 現在、所謂「がけ」には崖という感じがあてられるが、江戸時代中期までは一定でなく、「崖」の他、「峪」、「岨」、「碊」などの漢字があてられたという。「垳」もそのひとつであったよう。「崖」と言えば切り立った斜面のイメージがあるが、土が削り取られた結果としての形と思えばそんなに違和感はない。
垳という字は、垳川と垳という地名以外に使われることはないようだ。
「垳」がこの地に残る故、当用漢字として残されているが、「青葉」という地名に変わる可能性もあるとのこと。暴れ川の綾瀬川によって土が流された、といった地形のニュアンスを伝える地名が消え去るとすれば、ちょっと残念ではある。

垳川排水機場
垳川左岸を東に向かい中川筋に。中川との合流点に垳川排水機場がある。昭和57年(1979)に完成した。現在は「溜め」となった垳川の水を、増水時にポンプで中川に水を流している。
旧小溜井排水機場・垳川排水機場
垳川の両端、綾瀬川との接続部に旧小溜井排水機場(平成7年(1995)に閉鎖された)、中川との接続部に垳川排水機場がある。排水機場と言う以上、垳川の水を両河川に排水していたことになる。これってどういうこと?
チェックすると垳川は中程にある葛西用水の合流点あたりが最も標高が高かったとのこと。垳川の水は東西に分かれ、両排水機場を通して両河川(綾瀬川と中川)に排水されていたようだ。
平成7年(1995)に旧小溜井排水機場閉鎖された。葛西用水合流部が最も水位が高いとすれば、東に流れる垳川の水は垳川排水機場のポンプ、また排水機場近くの稲荷下樋管の自然流下により中川に排水されるだろうからいいものの。葛西用水合流部から西、旧小溜井排水機場までの間は水が滞留し水質が悪くなる。実際その滞留環境の溜井には生活排水などが流れ込み水質が悪化したようだ。
その対策として平成20年(2008)より水質改善の実験的取り組みが行われ、潮の干満による水位差を利用して綾瀬川から垳川に通水、浚渫などが実施された。平成26年度(2014)からの本格的運用に際しては、通水量の問題、またそもそもの綾瀬川の水質の問題などが取り上げられているようである。

稲荷下樋菅
中川排水機場の南傍に稲荷下樋菅がある。中川の土手に立つ操作室は煉瓦造り。垳川の水を自然流下で中川に流すとのことだが、水門は閉じられていた。稲荷下樋管がいつの頃できたかの資料は確認できなかったが、理屈からいえば八潮市の都市化の進展に伴い、自然流下だけでの排水では洪水対策が不十分となり、垳川排水機場がつくられたのだろう。
大場川水門
中川の対岸に大場川水門が見える。かつて小合川合流点で東西に分かれた古利根川が、綾瀬川筋に注いだ箇所あたりだろうか。現在小合川筋には大場川が流れる。
大場川は吉川に源流を発し、かつては江戸川に注いでいた。天明3(1783)年の浅間山噴火以来、江戸川の河床が上昇し排水条件は年々悪くなり、二郷半領の悪水落としのため寛政4(1792)年新たな堀を開削したとのことであるから、そのころまでには大場川は現在の流れ、小合川筋へと下る流れとなっていたのだろう。

神明六木遊歩道
垳川の南岸に沿って続く神明六木遊歩道を先回の散歩の終了点、葛西用水が垳川に合流する地点に向かう。六木は中川に接する地区名、神明は綾瀬川に接する地区名である。 左手に水車公園などを見遣りながら進み、葛西用水桜通りが垳川を越える「ふれあい桜橋」を潜る。橋を見上げると東京ガスの管が通る。何気に通る橋だが、水道管やガス管といったインフラ設備が川に遮られ地下から顔を出す。

垳川・葛西用水交差部
ふれあい桜橋を潜ると北から葛西用水が流れ込む。垳川の南側から葛西用水の合流部を確認し遊歩道を進むと水路があり水門が設けられている。水門は葛西第一水門という。往昔垳川を越え南に下った葛西用水の水門である。
葛西第一水門
この水門、現在は洪水時の水量調整以外は基本閉じられており、用水には南の花畑運河の水を流している、といった記事もあったが、完全に閉じられているようにしか見えない。南に下る水路の川床は垳川の水面よりずっと高く、錆びついたように見える水門を開けたとしても水が流れようもない。かつての用水路はその機能を終えているように思える。水路には土が積り草木も茂っていた。
小溜井引入水門
葛西第一水門のすぐ傍、葛西用水が垳川に合流する地点のすぐ上流に小溜井引入水門がある。かつては現在のふれあい桜橋のところにあった葛西第二水門で堰止めた用水を、水門より西側の小溜井(綾瀬川接続部からこの水門までの呼称)へと「引き入れて」いたのだろう。現在は基本開けっ放しで水門の機能を果たしていない。撤去の話もある、との記事もあった。

葛西用水
第一フェーズ;亀有溜井戸
そもそも、葛西の地をはるか 離れた地・埼玉の行田から延々と葛西の地に下る用水を葛西用水とするのは、この用水のはじまりが葛西領を潤した亀有溜井をもってその嚆矢とする故である。
文禄2年(1593),利根川東遷第一次の工事として伊奈忠次は当時の会の川を川俣地点で締切り,浅間川筋に落とし、川口(加須市川口地内)の地で二流に分ける。その主流は渡良瀬川の水も合わせ東へと、現在の中川の川筋(当時中川という川は、ない)である島川・権現堂川、庄内古川を経て金杉で太日川(現在の江戸川)に落とした。
また西遷事業(寛永6年;1629)施行以前の荒川(現在の元荒川)の水も、川口から南に下った古利根川(現在の大落古利根川)と越谷で合さり、これも小合川を経て太日川に落とし、江戸の町を直接利根川の水害から守るという、利根川東遷事業の当初の目的は果たした。このことは幾度か述べた。
次いで、東遷事業の大きな目的のひとつである新田開発であるが、この目的で最初に設けられたのが「亀有溜井」。工事施行は文禄2年(1593)。利根川東遷事業の第一次工事が始まった年に伊奈忠次により水田開発事業もはじまったということだ。水源は荒川西遷事前で水量豊富な綾瀬川に求め葛飾区新宿で水を溜めて葛西領を潤すことになる。おおよその流路を現在の川に合わせると、綾瀬川>桁川>中川(昔の古利根川)>亀有ということだろう。
第二フェーズ;瓦曽根溜井
慶長19年(1614)には新田開発を上流に伸ばし、荒川(現在の元荒川)本流を越谷の瓦曽根で締切り瓦曽根溜井を築堤し、下流域を潤した。
寛永6年(1629)に伊奈忠治は,荒川の西遷事業を開始。これにより元荒川は水源を失い,瓦曽根溜井の水は枯渇していくことになる。このため幕府は寛永7,8年(1630、1631)頃から,元荒川の加用水として水源を太日川に求め、庄内領中島(幸手市)より中島用水を開削し、寛永18年(1641)になると、太日川を北に掘り抜いた現在の江戸川開削後は,江戸川に圦樋を移し用水を引いた。
中島用水
流路ははっきりしないが、幸手市中島で江戸川の水を取水し、椿・才場・大塚・不動院野・八丁目と下り古利根川に落ちた、とする(落口はもっと上流との記事もあり、はっきりしない)。
第三フェーズ;松伏溜井
中島用水は,現在の春日部市八丁目で古利根川(現在の大落古利根川)に落とされることになる(異説もある)が,下流松伏村に松伏溜井が造られる。ここで堰き止められた水は、その一帯を潤しながらも、その流量のほとんどは松伏溜井の末流大吉村から元荒川までの問に新たに開削された逆川用水に流され,瓦曽根溜井まで送水された。この一連の工事の完成は寛永11年(1633)とされる。
また,この一連の工事により,荒川の瀬替えにより水量が激減していた綾瀬川を水源とする亀有溜井への加用水も可能となる。瓦曽根溜井から一帯を潤していた用水・悪水落を延長し瓦曽根溜井から綾瀬川(古綾瀬川)へと落とす水路(葛西井堀)が完成し、亀有溜井は瓦曽根溜井・松伏溜井と繋がった。
第四フェーズ;川口溜井
承応3年(1654)には利根川東遷による関東平野の治水と利水が一応の安定を得る。それにともない新田開発が一層推進されることになるが,古利根川左岸から旧庄内川の右岸一帯、水源を池沼にゆだねていた幸手領(幸手市,杉戸町,春日部市,鷲宮町)においては用水不足をきたすようになる。
その水源として求めたのが東遷事業の完了した利根川である。万治3年(1660)に古利根川本川の本川俣地点に圦樋を設けて南東に水路を開削し,会の川の旧河道を流し,川口地点に川口溜井(加須市川口地内)を造り,権現堂川(島川)筋の加用水として北側用水を開削した。
この川口溜井は葛西用水の水路というわけではなく、幸手領の灌漑のためのものである。
第五フェーズ;琵琶溜井
さらに,川口溜井から水路を開削して古利根川の河道につなげられ、琵琶溜井(久喜市栗原地内)も造成された。そこに中郷用水と南側用水の2用水が開削され流域の灌漑に供する。
琵琶溜井には幸手用水の余水流しに圦樋が設けられ,青毛堀,備前堀等の悪水と一緒に古利根川(現在の大落古利根川)に落し,下流の松伏溜井への加用水として供した。これをもって幸手領用水とした。

葛西用水の成立
その後,宝永元年(1704)の大洪水の際に中島用水が埋没したため,享保4年(1719),関東郡代伊奈忠蓬は,幸手領用水の加用水として新たに本川俣の少し上流の上川俣の利根川本線に圦樋を設け,幸手領用水に接続させ,川口溜井と琵琶溜井では圦樋を増設して水量を確保した。以来,本川俣および上川俣の利根川取水から葛西井堀末端までを「葛西用水」と称するようになり,ここに関東地方切っての大用水が形成された。

以上が、葛西用水成立の経緯。葛西用水は利根川の東遷事業、荒川の西遷事業と密接に関連しながら、廃川となった荒川(元荒川)や利根川(大落古利根川)の川筋跡を活用し、上流へと延びる新田開発に伴い下流から上流へと水源を求め、最終的に利根川にまでたどり着いた、ということであろう。

葛西用水水路跡
葛西第一水門から南に延びる水路を進む。少し南に下ったあたりで水が川床から現れる。用水路跡を浄化するため南の花畑運河から水を引き入れているとの記事があった。その浄化水の噴出箇所だろう。噴出箇所が花畑運河まで3か所ほど見かけた。
この浄化のための噴出箇所を見で、花見で知られる目黒川の水が落合浄水場から送られる浄化された下水であることを想い起こした。玉川上水もそう。小川監視所より下流は昭島市の多摩川上流水再生センターで高度浄化処理された水を、玉川上水の浄化のために流している。散歩をするとあちこちで高度処理された下水で浄化がおこなわれる河川・用水に出合う。というか、東京の河川で自然湧水を源流とする河川として印象に残るのは、東久留米市の落合川、国立市の矢川などしか思い浮かばない。

花畑運河
南に下ると葛西用水の水路跡は花畑運河に当たる。水路は花畑運河の手前で地中に潜る。葛西用水はこの運河を「伏せ越し(サイフォンの機能)」で潜るとのことだが、伏せ越しでよく見る「呑口」の施設もなく、橋の意匠を模したコンクリートの下に流れこんでいる。 花畑運河は結構広い。江戸の頃直線化工事された綾瀬川と、中川を結ぶ船運のため昭和6年(1931)に開削された運河だが、現在はその機能を終えているとのことである。
花畑運河
花畑運河は綾瀬川と中川を結ぶ、とあるが何故?また、何故その機能を終えた?Wikipediaでチェックする;花畑運河開削のきっかけとなったのは荒川放水路の開削。明治43年(1910)の荒川大洪水で東京が壊滅的打撃を被る。ために首都の治水対策として荒川が隅田川と名を変える北区岩淵の辺りで新たに水路を開削。1913(大正2年)から1930(昭和5年)にかけて、17年がかりの難工事の末に完成した。
この水路開削の結果、首都の治水は一応の安泰をみるが、中川を活用した船運に支障が出た。工事の結果、中川が分断されることになったわけである。地図を見ると、京成高砂駅の西、高砂橋下流で新中川と分かれ蛇行した流れは木根川地区で荒川放水路により分断され、対岸より旧中川として蛇行して南に下っている。かつての中川舟運は隅田川から向島、北十間川を経て旧中川筋、また隅田川から小名木川を経て旧中川筋に入り、中川本流(かつての古利根川筋)を上下していた。この船運が荒川放水路開削に伴い、放水路に設けられた木下川水門で大渋滞を引き起こすことになった。
その対策のため目をつけたのが綾瀬川と繋ぐこと。この花畑運河を開削することにより、中川(古利根川)から綾瀬川に入り南に下り、船堀の綾瀬水門から出て荒川放水路を横断し、千住曙町の隅田水門から隅田川に入れることになった。距離も16キロほど短縮され、舟運の便が飛躍的に改善されたとのことである。
で、舟運で運ばれたものは?にはWikipedia「当時の舟運は穀倉地帯からの食糧の輸送だけでなく、都心から出された大量の糞尿を農耕地帯へと肥料として送り出しており、最盛期には3,800隻近くの運搬船が行き交っていた」とある。そしてこのことが、花畑運河がその機能を終える因でもあった。
「太平洋戦争の終結でGHQが戦後日本の占領統治に乗り出すと様々な改革事業のなかで、農業の肥料に用いられてきた下肥え(糞尿)の使用が漸次化学肥料へと切り替えられていった。これにより下肥えを運搬していた船の数が激減すると花畑運河の利用価値は薄れ」とWikipediaにあった。

葛西用水親水公園
花畑運河にかかる桜木橋を渡る。花畑運河伏せ越しで越えたはずの葛西用水の水は消える。名称も「葛西用水親水公園」となる。ポンプ施設が傍にあったので、時期に応じて水を流すのだろう。その水源が葛西用水か花畑運河のものか不明だが、ともあれ「流れていた」葛西用水の行方を探し、どこで現れるかとりあえず「水気」のある所まで進むことに。
親水公園
ちなみに「親水公園」という名称。いまでこそあちこちに散見する。が、その第一号がいつだったか歩いた江戸川区の古川親水公園であった、とか。汚れた河川は蓋をしたり、埋めたりといった従来の都市河川政策と真逆のこの試み、水と緑に親しめる新しい公園にするこの計画は世界的にも大きく評価される。昭和57年(1982)にナイロビで開催された国連人間環境会議で紹介され、国内外の注目を浴びた。親水公園の第二号は同じく江戸川区にある小松川境川親水公園。

新広橋
この橋の南から突然水が流れる。花畑運河を潜った葛西用水の水は水管でここまで運ばれるのだろうか。現在も伏せ越しの機能が残っているのであればそうではあろうが、確証はない。ともあれ、「水気」を確認し中川筋に戻る。
(なお、これより下流の葛西用水の水路跡は、いつだったか歩いた曳舟川散歩の記事を参照してください。

六木水門
「水気」を確認し中川筋に戻る。ついてのことではあるので、花畑運河の中川接続部の六木水門へ。花畑運河に架かる橋は花見橋とある。綾瀬川接続部の橋名は月見橋、途中には雪見橋といった橋も架かる。
対岸、少し上流に大場水門が見える。

常善院の六面幢(どう)地蔵
中川の堤防をのんびり下る。しばらく歩くと堤防下にお寺さまがある。ちょっと立ち寄り。常善院とあった。山門前の案内に「当寺は、元和年間(1615-1624)宇田川出雲によって創建されたという。江戸時代には、将軍家の鷹狩りの際、御膳所となった由緒ある寺である。 本堂は享和元年(1801)に再建、昭和35年に修復されている。 本尊は、木造不動明王立像、その左に木造金色大日如来像、右に上品上生の阿弥陀如来坐像が安置されている。
境内には、石像物としては非常に珍しい石造六面幢六地蔵をふくむ地蔵群がある。また、高さ25mのイチョウの木は、樹齢およそ三百数十年といわれている。(後略)足立区教育委員会掲示」とあった。
境内に入り本堂にお参り。境内右手に六面幢地蔵。通常の六体並ぶ六地蔵の中央に立つ。先日讃岐の歩き遍路で石の表面に二座ずつ、三段に刻まれた六地蔵に出合ったが、この六面に地蔵名の刻まれた六地蔵もあまり見かけない。
六地蔵は六道輪廻(天道・人道・修羅・畜生・餓鬼・地獄)する衆生を救済するもの。正面に刻まれた法印地蔵は修羅道の担当地蔵さまである。
六面幢地蔵
幢は旗章(私注;旗印し)を意味し,インドではこれを石面に表してストゥーパや仏殿の前に立てた。中国へは唐・宋時代に伝わり,蓮華座の基台の上に《仏頂尊勝陀羅尼経》を刻んだ八角の長い石柱を立て,その上に中台,仏龕(ぶつがん),笠,宝珠をのせた大理石製の石造物をつくることが流行した。日本にもこの形式の石造物が導入されたが,幢柱に経文を刻まず,地蔵信仰と結び付いて幢,仏龕ともに六角につくられ,一見石灯籠に似た小型のものが多くつくられた。(デジタル大辞典)」

飯塚橋
中川筋に戻るとすぐに都道307号・飯塚橋。創架は昭和35年(1955)。現在は二代目の橋。飯塚橋が架かるまでは、この地に「飯塚の渡し」があった。3キロほど下流には中川の渡し(新宿の渡し)があり、そこが正式な佐倉街道であったため、この飯塚の渡しの道筋は、佐倉裏街道とも称された。
所説あるようだが、幕末に新選組が流山に向かう道筋として、この渡しを通った、とも。道筋は足立区綾瀬の五兵衛新田から、北三谷、大谷田を通って飯塚の渡しから水元、三郷へ出て丹後の渡しで江戸川を越えて流山へ向かったとする。流山を抵抗の拠点とするつもりであったよう。
で、飯塚といえば、いつだったかこの地の対岸を小合溜井から歩いたとき、誠に立派な富士塚(飯塚の富士塚)があった。未だにその印象が残っている。

鹿浜線中川水管橋
都道307号・飯塚橋を超えると水管橋がある。鹿浜線中川水管橋とある。葛飾区の金町浄水場から中川を越え、足立区の小右衛門給水場(給水エリアは足立区、荒川区及び台東区 )、江北給水場(整備済:給水エリア;足立区)、北区の王子給水場(整備中)へと水道水を送るようである。
これらの地域には、金町浄水場から一系統で給水していたが、給水エリアが広く、災害・事故などによる断水・濁水の影響が大であり、ために、昭和50年(1975)代から配水区域を5つに分割し、各地域に拠点となる給水所を整備するとともに二系統の受水ネットワークを整備中、とのこと。小右衛門給水場、江北給水場、王子給水場はその拠点配水場。金町浄水場だけでなく、三郷浄水場とも繋がることとなる。
因みにこの水管橋は地震対策の一環として撤去される、とも。

中川水再生センター
少し下ると中川の堤防に排水施設が見える。中川排水樋菅と呼ばれるようだ。昭和57年(1982)竣工。樋菅はどこから繋がっているのだろうと堤防内側を見ると水利施設がある。 そこには「中川水再生センター」とのプレートがあった。地図を見ると堤防端の施設の西側には大きな水再生センターの建物・敷地がある。この排水樋菅にはこの再生センターからの浄化水が流されているのだろうか。
中川水再生センター
処理区域は足立区の大部分と葛飾区の一部(ほぼ常磐線以北)。この区域の大部分は雨水と汚水を別々の下水道管で集める「分流式下水道」となっており、雨水は直接川に、汚水は再生センターで処理し中川に流す。
なお、このセンターでは雨水も集め、ごみや土砂を取り除いた後、ポンプで川に流す、とのことである。

中川水管橋
堤防左手に中川氷川神社を見やりながら進むと、再び水管橋がある。昭和46年(1971)にできた中川水管橋。この水管橋は工業用水を通す、と。水管とキャットウォークの間の小さな管には「おすい」と書かれている。土手傍の中川水再生センター(下水処理場)に集めているのだろうか。
東京都の工業用水
東京都の工業用水のネットワークはどうなっているのだろう?チェックすると、浄水場は板橋区高島平にある三園浄水場と世田谷区玉川の玉川浄水場しか記されていない。基本、三園浄水場で荒川から原水の約9割、玉川浄水場で多摩川から約1割を取水し、三園浄水場の配水池でブレンドし、給水する。
その給水エリアであるが、都域全部ではなく都域の北部と東部となっている。荒川沿いの墨田区、江東区、北区、荒川区、板橋区、足立区、葛飾区及び江戸 川区の8区並びに練馬区の一部であり、大雑把に言って東京の下町地区が中心のようである。
何故?チェックすると、工業用水供給のきっかけが、地下水くみ上げにともなって生じた地盤沈下防止することにあった。地下水の揚水規制に伴う代替水を供給する行政施策として工業用水を供給することになったわけである。
昭和39年(1964)に江東地区(墨田区、江東区及び荒川区の全域と江戸川区及び足立区の一部 )で給水を開始し、昭和46年(1971)には、 城北地区(北区、板橋区、葛飾区の全域と足立区の大部分)でも給水を開始した。その施策により、昭和50年(1975)代以降、地盤沈下はほぼ沈静化し所期の目的は達成された。
工業用水の需要も、昭和49(1974)年度をピークに減少傾向に転じる。国の産業立地政策や各種公害規制の強化による工場の都外への転出、水使用の合理化の進行等がその因である。
施設能力に大幅な余剰が生じたため、昭和55年(1980)に南砂町浄水場を廃止。昭和58年(1983)に三園浄水場の施設能力を縮小、昭和62年(1987)には江北浄水場を休止し、経営改善を図るも経営状況が厳しく、施設の大規模更新時期の到来が間近に迫る一方、今後も需要の増加が見通せないことから、都の工業用水事業は廃止の判断が下される。地盤沈下防止という所期の目的を達成した都の工業用水道事業は平成34年(令和4年)をもって廃止となる。
地盤沈下防止という所期の目的を達成した都の工業用水道事業は平成34年(令和4年)をもって廃止となる。工業用水のネットワークをチェックしていたら、思いがけない政策決定に出会うことになった。

水元給水線・送電線鉄塔
中川水管橋から少し下ると堤防に送電線鉄塔が立つ。川の対岸にも鉄塔。送電線はどこに延びているのだろう?空を見上げても何も見えない。送電線鉄塔も中川堤防の両岸に立つものの他、見つけることができない。どうなっているの?
チェックすると、この送電線鉄塔は水元給水線の鉄塔。送電線は両岸の鉄塔までは地下を潜り、中川に遮られ、この部分だけ架空となってその姿を現す。
中川を渡った送電線は再び地下に潜り、水元給水線(水元給水所変電所に)、葛飾清掃線(葛飾清掃工場変電所に)にわかれるようだ。
中川右岸が2号鉄塔、左岸が3号鉄塔。1号鉄塔は足立区にあり、東亀有線13号鉄塔より分岐する。東亀有線は東亀有線は東京都足立区の青井線8番鉄塔から東京都足立区の東亀有変電所を結ぶ路線であり。。。、と送電線網はとこまでも続くため、このあたりで思考停止としておく。

常磐線鉄橋
更に少し下ると常磐線の鉄橋にあたる。鉄橋が中川を渡った対岸を見ていると、ビルや民家の立て込むところに送電線鉄塔が見える。その周辺には送電線鉄塔も見えず、しかも送電線が斜め下方向に降りている。なんだこれは?民家のど真ん中に降りては危険では? なんだか気になり、古隅田川との分岐点を繋いだ後、その送電線鉄塔まで行くことにする。現場を見れば、なんらかその因がわかるかも、と。

古隅田川分岐点
常磐線鉄橋を潜り、少し堤防を下ると旧古利根川筋の古隅田川の分岐点に。接続部は埋め立てられ水路は見えない。暗渠といった水路跡の名残も見当たらない。排水施設もなく、古隅田川跡と繋いだ、といった実感には少々乏しいが、これで羽生から辿った古利根川筋散歩は終了。スタート時から1年半と結構時間が空いたため感慨もほどほど。
(古隅田川のメモは2回()にわけて歩いた記事をご覧ください)


中川左岸に
古利根川散歩を終えたが、先ほどの奇妙な送電線が気になり、中川左岸に移る。堤防沿いの民家にはMY Approachといった通路が道から玄関へとつながっているものが多い。洪水対策で堤防が高く、低地に建つ民家との高低ギャップがその因だろうか。


JR小岩線送電線鉄塔
送電線が民家のすぐ上に見える
JR新金貨物船踏切からのJR小岩線4号鉄塔
中川堤沿いの道を離れ、民家の上に時に顔を出す送電線鉄塔を追う。成り行きで進むとJR新金貨物線(金町と新小岩を結ぶ)の新宿道踏切に出た。線路の北に送電線鉄塔が見えており、送電線は線路上をまたぐ門型鉄塔に繋がっているように見える。

JR小岩線4号号鉄塔
線路上の門型鉄塔
その送電線鉄塔はどこと繋がっているのだろう。さらに民家脇に入り込み送電線鉄塔に近づくと、JR金町駅傍にある鉄塔と繋がっていた。その先にJR金町変電所があり、常磐線北側に2号、3号鉄塔が立ち、常磐線を跨いで4号鉄塔。これが最初に目にした鉄塔。そこから線路上の門型鉄塔に下り、線路上を東京都江戸川区のJR小岩変電所へと繋がっているようである。
遠くから眺めたとき送電線が斜め下に落ちていたのは、線路の上を進むため。であれば高い鉄塔の必要はない、ということだった。
金町変電所2号鉄塔
JR小岩線3号鉄塔
因みに、JR金町変電所の送電線鉄塔の先に送電線鉄塔は見当たらない。?? チェックすると、線路脇のダクトや地下を潜りJR金町変電所へと送電されているとのこと。武蔵境のJR東源,TEPCOなどの電源が戸田駅構内にある「戸田開閉所(開閉所には、送電線と発電所をつなぐ電気を入・切するスイッチ(開閉器)が設置されている)」に合流し、赤羽駅をダクトで通過し埼京線が東北線、高崎線から分かれるところでダクトから外れ地中に下りて金町へとつながっているようである。

JR常磐線・金町駅
気になった送電線鉄塔の「謎」も解決し、JR常磐線・金町駅へと向かう。金町駅は平成21年(2009)、南に柴又帝釈天に訪れ、北に小合溜井散歩に下車して以来。
金町の地名の由来ははっきりしない。『東京の地名;筒井巧(河出書房新社)』には「 金町は江戸時代の宿場町新宿(理科大の住所)を通る水戸街道が防衛上の理由で鉤の手状に曲げられていたことに端を発する。そこからその道が大工の使う曲尺(カネジャク)に似ていることで新宿の南側が曲金(マガリカネ)と呼ばれるに至る。そこで推測するに金町も曲町(カナマチ)の意から字が変わったのだろう」とある。
何となくそうかな、とも思ったのだが、室町時代1325年の「三浦和田文書」には、既に「下総国金町郷」という地名の記述があり、その由来は不詳との記事があった。江戸よりはるか昔から「金町」の地名があるとすれば、江戸時代の曲金云々由来は次期的に間尺に合わない。結局わからないということ戻ってしまった。

それはそれとして、そもそも「金町」の「町」がよくわからない。金町郷とある以上、現在われわれが抱く、村に対する町=市街といった「町」ではないだろう。Wikipediaによれば「田を区切る畔といった原義から、奈良の頃、都の一区画、職能集団の住む一画を神祇町、木工町と呼ばれ、平安末期になり「区画」から「商業地」を指して「町」と呼ばれるようになった、とのこと。
そして、鎌倉期には町人、町屋といった詞が現れ、都会的な場を「町」と呼ぶようになった」とある。
Wikipediaには「金町は金町は古くは金町郷といい、下総国香取神宮領の中心地として栄え、古利根川沿いの鎌倉街道に面した町屋が形成されていた。その後、金町屋と呼ばれていた時期を経て後に金町村になる」とある。金町の町は「町屋」に由来するように思えるが、今度は「金」の由来は不明。少し寝かしておこう。そのうちわかる、かも。

あれこれ寄り道が多くなった。長きにわたる古利根川散歩の締めくくりとしては少々収まりがよくないのだが、これも基本成り行き任せ、フックがかかったことを深堀りする散歩のスタイル故、致し方なし。とりあえずこれで古利根川散歩の大団円とする。

  ■利根川東遷事業;古利根川散歩のアーカイブ■

















利根川東遷事業により瀬替えされた元の利根川本流(古利根川)を辿る散歩も、その東遷事業の嚆矢となる羽生市の会の川締め切り跡(異説もある)からはじめ、東遷事業により源頭部を失った元の利根川(古利根川)の廃川跡、といってもその廃川跡はその後の新田開発のため葛西用水、また葛西用水の送水路として大落古利根川となって整備されているのだが、ともあれ、その廃川跡を春日部まで下り、春日部で大落古利根川を離れ古利根川筋である古隅田川に。古隅田川筋を辿り大落古利根川筋から元荒川筋に移り、越谷を抜け元荒川が中川に合流する吉川市へと下って来た。

で、今回から下る中川であるが、この川は昔からあった自然の川ではない。利根川東遷事業により取り残された河川を利水のために繋いだ人工の川である。大雑把に言って、上流部は利根川東遷事業によって取り残された島川や庄内古川と言った幾つかの河川、下流部は東遷事業以前に江戸に流れ込んでいた利根川本流である古利根川筋を繋いで整備されたものである。
上流部では廃川となっていた権現堂川の河道を整備し島川と繋ぎ、権現堂川筋から庄内古川は新たに6キロほど開削し両河川を繋いだと言う。
下流部では元荒川が中川に合流する吉川の少し上流で、庄内古川と大落古利根川を繋いだ。元は江戸川に落としていた庄内古川の水を、その水捌けの悪さ故に落とし先を大落古利根川に変え、松伏の大川戸から下赤岩までの4キロ弱を開削し両川を繋いだわけである。
これらの工事は大正5年(1916)から昭和4年(1929)にかけて実施されたようであり、中川の誕生はそんなに昔のことではないようだ。
因みに、かつての利根川の主流は春日部から古利隅田川筋に流れていたようであり、古隅田川以南の大落古利根川は支川といったもの、といった記事をどこかで目にしたことがある。ということは、古隅田川との分岐点以南の大落古利根川も庄内古川との繋ぎ分岐点まで、上記工事期間中に開削・整備工事がなされたということであろうか。
それはともあれ、現在では中川となっている古利根川筋を吉川から八潮に向けて下ることにする。

本日のルート:武蔵野線・吉川駅>新中川水管橋>東京電力送電線・小松川線鉄塔>道庭緑地>二郷半領用水>彦糸公民館の庚申塔>七芳弁天社>内田排水樋管>中堰排水樋管(排水機場)>ガス導管専用橋>八潮排水機場傍の石塔>八潮排水機場>中川合流点の綾瀬川放水路・八潮水門>久伊豆神社>八条用水>葛西用水(南部葛西用水)と合流>ふれあい桜橋>葛西第一水門>小溜井引入水門>成田エクスプレス・八潮駅

武蔵野線・吉川駅
先回散歩の最終地点である武蔵野線・吉川駅に。南口に降り、成り行きで中川筋に向かう。
吉川は葦川(あしかわ)から。葦の生い茂る川。あし>悪し、と語呂が悪いからと、よし(良し)かわ>吉川に。するめ>あたりめ、亀無し>亀梨(なし)>亀有と転化したものと同じ命名パターン。
ついでのことながら、本日の目的地である八潮は八条・八幡村と潮止村とが合併し、両者痛み分けの八潮に。この命名法も市町村合併時によくあるパターンである。
八潮は海抜2m。潮止村は東京湾の潮がここまで遡上してきた故の村名。潮止橋の名が残る、と言う。
武蔵野線
横浜市鶴見区の鶴見駅と千葉県船橋市の西船橋駅を結ぶ。鶴見駅と府中本町間(武蔵野南線)は臨時列車を除き基本貨物専用線、府中本町と西船橋間は貨物・旅客兼用路線となっている。なお、西船橋から京葉線と繋がり東京まで結ばれている。
この路線は元々山手貨物線(現在の湘南新宿ラインが走っている線路)の迂回路線として戦前に企画されたが、戦争で計画は凍結。戦後になり昭和39年(1964)着工、昭和48年(1973)に府中本町・新松戸間が貨物・旅客兼用として開通。昭和51年(1976)には府中本町・鶴見間が貨物専用線として開通。昭和53年(1978)には新松戸・西船橋間が旅客専用線として開通した。
当初の府中本町・新松戸間は貨物線がメーンとしてスタートしたが、貨物輸送の減少・近隣地域の人口の増加に伴い、現在では旅客輸送が増便されている。 一方、府中本町・鶴見間の通称武蔵野南線は基本的に貨物専用である。昭和42年(1967)新宿駅構内でジェット戦闘機用燃料を積んだ貨物列車の脱線・炎上事故が起きた。当時、立川にある米空軍基地のジェット戦闘機用燃料は山手貨物線を経て輸送されていたわけだが、都心での爆発事故の教訓から郊外を走る武蔵野貨物線の完成が急がれたようである。現在では米軍のジェット戦闘機用燃料は武蔵野南線・南武線を経由し拝島から横田基地へ送られているようである。

新中川水管橋
木売地区を進み中川の堤に出る。木売地区から高富地区に下る。上流は武蔵野線の鉄橋、下流には4連続アーチの橋が見える。近づくと橋の両側に水管が見える。水管橋であった。
新中川水管橋と称されるこの橋は、新三郷浄水場から県南東部へ水を送る。左岸吉川市から右岸越谷市側へと水を送るこの水管橋は、人が渡れる人道橋ともなっていた。
地盤沈下を避けるため江戸川より取水した新三郷浄水場の水は、三郷市、吉川市、草加市、越谷市、川口市、八潮市の約110万人に水道水を供する。
木売(きうり)
「地名のおこりは明らかではないが、古利根川沿いの自然堤防にあって早くより開けていたと思われ、一時的な領土の境界が近くにあって、その境としての柵(キ)とか城(キ)があり、ウリを浦(ウラ)と解せば、河や水の引いてあるところ、柵浦(キウラ)とすれば川が境界とするところと解釈ができ、その後に木売の字を用いた説と、舟着き場として木材の集散地として起こった説があるが、両方の説も明らかではない(吉川市のHP)」

東京電力送電線・小松川線鉄塔
高久、中曽根、道庭(どうにわ)と下る。道庭地区の南端、地図に中川に繋がるような水路跡がある。が、その地に至るも中川に排水口とか取水口といったものは見えない。また、水路も見えず柵に囲まれた緑地となっており、そこには一直線に東に延びる送電線鉄塔が並ぶ。逆の中川右岸には、遮るものとてない平野に送電線鉄塔が連なる。
送電線はどこからどこへ続くのだろう。何となく気になりチェックする。東京電力送電線・小松川線鉄塔と呼ばれるようだ。東京電力送電線・小松川線は北葛飾変電所から小松川変電所まで130の送電線鉄塔で電気を送る。??川市にある北葛飾変電所からスタートし、吉川市>三郷市>??川市>(中川を跨ぎ)>草加市>(綾瀬川を跨ぎ)>八潮市>(中川を跨ぎ)>三郷市>東京都葛飾区>(江戸川を跨ぎ)>千葉県松戸市>(江戸川を跨ぎ)>東京都葛飾区>東京都江戸川区>小松川変電所へと続く、とのことである。
小松川変電所のある東京都江戸川区を結ぶには真すぐ南に進めばいいものを、あっちこっちと進むのは、途中の変電所や他線への分岐などがその要因だろうか。
北葛飾
北葛飾変電所の由来は、往昔の北葛飾郡からの命名だろう。古代の下総国北葛飾郡が江戸の頃、利根川東遷事業により利根川の西となり、武蔵国に編入される。さらに明治の頃、その北部の埼玉県域を北葛飾郡、東京府域を南葛飾郡とした、と。
高久(たかひさ)
「地名のおこりは明らかではないが、高久の久を(ク)と呼ぶことによって、潰れる、切れるという意味があるようで、これらを引用すると古利根川の荒れるがままに、たびたび堤防が切れたりすることがあり、久しく高い所であってほしいという語をもって前の地名を高久の字をもって変えたことがあったのではないかと思われるが、前の地名が残されていない現在では地名を想像するしかない(吉川市のHP)」
中曽根
「中曽根のソネの意味には岬の意味があるところからすれば、古くは東京湾がこの近辺まで入り込んでいたころには小さな美しい岬を、あるいは古利根川の流域の変遷による河川の分岐点としての一つの岬をなしていたのではないかと思われる(吉川市のHP)」

道庭緑地
水路は見えず、代わりに送電線鉄塔が並ぶ緑地が気になりちょっと立ち寄る。地図で見れば水路は二郷半領用水と繋がっているように見える。送電線鉄塔が水路上に建つとも思えないが、緑地がどこで切れているのだろう?との好奇心から。 桜並木となっている緑地を進むが、水路が現れる気配はなく、結局二郷半領用水にあたるところまで水路が開くことはなかった。
地理院地図にある水路は?
この緑地は道庭緑地と呼ばれ、吉川市と三郷市の境となっている。それはそれでいいのだが、地理院地図に記されている水路は?地図では二郷半領用水と繋がっているように見えるが、中川に吐口はなかったように思う。
二郷半領用水の支川ではなく、中川堤防側から二郷半領用水に水が流れていたのだろうか?が、明治中期に作成された関東平野迅速図にも水路の記載はない。 地理院の治水地形分類図を見ると、この水路(?)の中頃の南北は自然堤防に囲まれた氾濫原として示されている。氾濫原に溜まる水の吐口・悪水落としの水路だったのだろうか?まったくわからない。
ついでのことながら、送電線鉄塔用敷地としての整備がいつ頃実施されたか定かではないが、地理院の「空中写真〈1984〉」にはそれらしき敷地が見える。
道庭(どうにわ)
「古くはドバと呼んだのを後世に道庭の文字をあてたものと思われる。ドバの意味には平らな地形という意があり、おそらくは古利根川沿いの砂地で流域の変化によってできた自然堤防上の平地をなしていただろうことが推測される(吉川市のHP)」

二郷半領用水
送電線鉄塔敷地は県道67号で途切れるが、その先も武蔵野線辺りまで続く。武蔵野線を越えた送電線鉄塔はその先で北に折れ大場川手前の北葛飾変電所へと続く。
それはともあれ、県道67号と合わさる送電線鉄塔敷地の北に二郷半両用水が見える。用水は緑道となっており、県道を越え緩やかな弧を描き南へ下る。弧を描く理由は?地理院の治水地形分類図には氾濫原と自然堤防の境が弧を描く。用水路はその境に沿って下る。分水を容易にするため、少しでも標高いところを選んだ流路となっているのだろうか。
緑道に「二郷半緑道」の案内。「由来 吉川市や三郷市の二郷半領用水路一帯は、かつて「二郷半領」と呼ばれ、三輪野江地区にある定勝寺にある銅鐘(寛文9年〈1669〉制作)の銘文中に、「吉川、彦成ノ二郷アリ諸邑戸コレニ属ス。而シテ彦成以南ヲ下半郷ト称ス。故ニ二郷半ノ名」とあり、二郷半領の由来が刻まれています。
経緯 この地域は江戸幕府の直轄領であり、早稲米の産地として栄え、収穫したコメを江戸に運ぶため、中川を利用した舟運で大いに賑わいました。
しかし、中川・江戸川に挟まれた低地であるため、度々水害に悩まされていました。このため、幾多の灌漑排水事業を行ったことにより、豊かな穀倉地帯となりました。
この二郷半緑道は、国営利根中央農業利水事業の水路整備に伴い、余剰地を有効に活用し、憩い安らげる場所として整備された緑道です」とあった。
●二郷半領用水の取水口
現在の主取水口は松伏町大川戸の二郷半領揚水機場(平成15年(2003)から)。水源を利根大堰に求め、用水は埼玉用水路、葛西用水路を経由して一旦大落古利根川に注水する。これを大落古利根川に新設した二郷半領用水機場で取水し吉川市、三郷市へと進み、三郷放水路を越え、第二大場川と合流した先で大場川と合流する閘門橋(猿又閘門)へと下る。
寛永年間(1624~43)に開削された当時の二郷半領用水の取水口は、現在の野田橋辺りの江戸川右岸にあった。この地で自然取水されていた用水も、昭和14年(1939)頃から江戸川の水位の低下により取水が困難となり、昭和21年(1946)から26年(1951)にかけて県営かんがい排水事業により中川に渇水時用の機場を設けることになる。
その後、この中川の機場も老朽化のため取水に支障をきたし、昭和42年(1967)に県営事業により、江戸川の取水口の改修をおこない、また揚水機4台を新設し再び江戸川から取水することになった。
しかし、その後も江戸川の河床低下は続き、水位低下により不足する水量は中川の機場を暫定的に使用して補ったようであるが、江戸川から取水する揚水機場の老朽化・施設の廃止もあり、安定的な水源確保のため新たにその水源を利根大堰に求め、現在に至る。
二郷半と三郷
二郷半とは、かつてのふたつの郷(郷はいくつかの村を合わせたもの)と、郷とするには少々戸数の少ない故の半郷を合わせたものとのことであった。
で、二郷半領と三郷、けっこう近い。二郷半領と三郷の関係は?まったく関係なし。昭和31年(1956)に三つの村が合併するに際し、三村からの「三」と、二郷半領であった故の「郷」を合わせて三郷村とした、と。
三郷団地
ゆるやかにカーブする二郷半領用水の東、自然堤防上に三郷団地(現在はみさと団地)が並ぶ。昭和48年(1973)より入居が開始された日本有数のマンモス団地である。ピーク時には2万3千余りの入居者がいた、とのこと。
それはそれでいいのだが、通勤の足。上の武蔵野線のメモで、昭和48年(1973)に府中本町・新松戸間が貨物・旅客兼用として開通したと記した。が、この当時現在の新三郷駅はなく、貨物の武蔵野操車場があった。通勤の足は武蔵野線・三郷駅へのバスであったようである。
駅ができたのは昭和60年(1985)。貨物操車場を廃止したためだが、開業当時の駅は、広大な操車場の南北に分かれ、上下線のプラットフォームは300mも離れていたようだ。世界一離れたプラットフォームとして平成6年(1994)にはギネスに登録されている。上下線がひとつにまとまった駅(北側に合わせる)となったのは平成11年(1999)のことである。現在操車場敷地跡には商業施設が建っている。

彦糸公民館の庚申塔
二郷半領用水で折り返し中川筋に戻る。成り行きで中川筋への道を進むと、途中「実相院・東福寺」と記された建物があった。敷地内にはお堂や石仏が並ぶが寺はない。廃寺となり現在三郷市彦糸公民館となっていた。敷地東には七芳弁天社があり、東福寺は七芳弁天社の別当寺とのこと。敷地は東福寺の跡地とも言われる。
境内の観音堂、地蔵堂にお参り。並ぶ石仏の中に青面金剛が刻まれた庚申塔があった。憤怒の形相の青面金剛が多いが、この像は穏やかな顔である。台座に刻まれた三猿(見ざる、言わざる、聞かざる)がはっきり見える。何故に庚申塔に三猿?またそもそも何故に庚申塔に青面金剛?
庚申塔と三猿
庚申塔と三猿の関係は?庚申(かのえさる)からとも、また庚申の夜、天帝に宿主の罪を告げ口する三尸(さんし)の虫に己が罪を見なかった、聞かなかった、そして告げ口しないで、との願いから、とも。
道教では人には魂(コン)、魄(ハク)、三尸(さんし)という三つの霊が宿る、と言う。宿主が亡くなると魂(コン)は天に、魄(ハク)は地下に戻る。幽霊の決まり文句「恨めしや~、コンパクこの世にとどまりて恨みはらさずおくものか~」のコンパクがそれ。
三尸は宿主が亡くなると自由になれるとされる。自由になりたいがため、宿主がむなしくなることを待ち望むわけだ。この三尸、旧暦の60日ほどで一回というから、年に6,7回巡りくる庚申(かのえさる)の日、人が眠りにつくと宿主の体を抜け出す。天帝に宿主の罪を告げるためだが、そのレポートにより天帝は宿主の寿命を決める、とか。
宿主をむなしくし、はやく自由になりたい三尸に、あることないこと告げ口されたらかなわんと、人は寝ないで朝を迎えた。これが庚申待ち。眠らなければ三尸は体を抜けだすことができないためである。
庚申塔と青面金剛
で、庚申塔と青面金剛の関係は? 道教の天帝を仏教では帝釈天とみなすようであり、青面金剛がその帝釈天の使者であるが故と。また三尸の語呂合わせでもないだろうが、伝尸病(でんし;結核)に霊験あらたかとされるのが青面金剛であった故、とも。

七芳弁天社
彦糸公民館の西隣に七芳弁天社が祀られる。付近には三郷七福神巡りの幟が並んでおり、小振りではあるがこの七芳弁天社がそのひとつであろうかと思ったのだが、どうもそうではないようだ。そこから少し北東、道庭緑地に面した安養寺に弁天社が祀られる。
三郷七福神は3つの地区に分かれており、ここはそのひとつである「彦成巡り」のコースであった。
彦糸
この地区は「彦糸」、七福神巡りは「彦成巡り」。三郷には「彦」がつく地名が多い。地図を見ると彦糸、彦音、彦成、彦名、彦川戸、彦倉、彦沢、彦江などが目につく。おおよそ中川に沿って連なる。
由来は、引く>連なるにあるようだ。中川(元の利根川)と江戸川にはさまれた低地である三郷は、流路定まらぬ河川の氾濫により自然堤防や後背湿地が発達し連なっている。このような連なる自然堤防・後背湿地よりなる〈成る〉という地形から彦成村が出来、その大字として彦を冠した地名がつくられたようである。
自然堤防が連なるところは、この三郷以外にも数多くあるのだが、こういった命名パターンははじめて。何故にこの地だけに?わからない。

内田排水樋管
中川筋に戻り堤防を少し下ると内田排水樋管のプレートがある水門がある。堤防に向かって住宅の間を排水路が通っている。上述の道庭緑地の箇所には吐口がなかったが、ひょっとしてここに落としている?
あれこれチェックすると、埼玉県の作成した「川の国 埼玉はつらつプロジェクト「二郷半領用水地区」」の地図には水路と繋がる内田川という小川が記されている。そこから繋がっているのだろうか。そうであれば、上述の道庭緑地に記された「消えた」水路は、東の二郷半領用水へ水を落とすのではなく、二郷半領用水から分水された水が西へと流れこの地で中川に落とされることになる。
真偽のほどは別にして、あれこれと妄想を巡らすのは結構楽しい。

中堰排水樋管(排水機場)
彦音、彦成と下り県道29号八条橋の手前に中堰排水樋管の水門がある。堤防内部には中堰排水機場も見える。三郷市に限ったことではないのだが、低地部の治水施設はどうなっているのだろう?チェックすると三郷市には47の排水樋管、排水機場、調整池があった。
埼玉県南東部の中川・綾瀬川流域は、利根川、江戸川、荒川 に囲まれ、水がたまりやすい『お皿』 のような地形となっている。そのうちこの三郷市は東側に江戸川、西側には中川が流れ、市内を北から南に大場川さらに第二大場川が流れる。東側を流れる江戸川(の水位)が高く、そこから西側の地形は低いため、中川などの河川が増水した場合、水はけを行うことが難しく、たびたび氾濫が発生していた、とのこと。その治水対策として47もの施設が整備されている、ということだろう。

ガス導管専用橋
県道29号八条橋を渡り中川右岸に。市域は八潮市となる。中川に沿った土径に入り成り行きで進む。釣り人を見遣りながら外環道中川橋梁、それに並走する国道298号潮郷橋を潜り更に先に進むが、ブッシュが激しく撤退。ブッシュの向こうに見える水管橋らしき橋辺りまで行こうとしたのだが、諦めて右岸堤防に上がり県道102号に入ることにした。
メモの段階でチェックすると、ブッシュの先に見えたのは水管橋ではなくガス導管橋とのこと。東京ガスの工場から都市ガスを送る。首都圏には約640キロに渡る幹線が整備されているとのことだが、ガス管が地上に現れるのは結構珍しいのではないだろうか。

八潮排水機場傍の石塔
県道102号を南に下ると綾瀬川放水路にあたる。その手前、八潮排水機場の傍に4基の石塔が並ぶ。左端に青面金剛の彫られた庚申塔、その横に「庚申」と文字だけが刻まれた庚申塔がある。この文字庚申塔は道標ともなっており、側面に「江戸道」、右側面に「野道」と刻まれる。
下妻街道がすぐ傍を通るわけで、とすれば綾瀬川放水路工事の折に、他の2基の石碑と共にここに移されたのだろう。
下妻街道は、千住宿で水戸街道と日光街道と分かれ、荒川、中川、江戸川、利根川、鬼怒川を渡って下妻(茨城県下妻市)に通じる。

八潮排水機場
綾瀬川放水路手前に八潮排水機場。案内には「八潮排水機場は、人工的に開削した綾瀬川放水路と中川の合流点に位置しています。古くより大きな洪水を被っている綾瀬川流域一帯の被害を軽減するため、洪水流の一部を中川に排水等することを目的に建設されました」とあり、続けて「中川流域は、かつて利根川、荒川が、洪水のたびに流路を変え、昔から洪水被害に悩まされてきました。地形的にも利根川、江戸川、荒川の大河川に囲まれ、水がたまりやすい皿のような地形になっています。さらに、河川の勾配が緩やかで水が流れにくい特徴があり、ひとたび大雨に見舞われるとすぐには水位が下がらず、危険な状態が続いていました」との説明が中川・綾瀬川の地形断面図、草加市の洪水被害の写真と共にあった。
この断面図は八潮のあたりではあろうし、その比高差は異なるとは思うが、江戸川の水位は大落古利根川より高い。かつて江戸川に落としていた庄内古川(中川)の水を、水位の低い大落古利根川に落とすべく、現在の中川・大落古利根川合流点まで人工的に開削し中川を造ったということが、この断面図により少々のリアリティをもって感じることができた。




中川合流点の綾瀬川放水路・八潮水門
綾瀬川穂水路を渡り中川合流点へと川筋に向かい、八潮水門・八潮排水樋管を見る。
綾瀬川放水路は草加市の綾瀬川から八潮市の中川を結ぶ。八潮排水機場にもあったが、昭和57年(1982)、61年(1986)に綾瀬川が溢れ水に浸かった草加市域など綾瀬川流域一帯の治水対策事業の一環であろう。
放水路開削は東京外環道の工事に合わせ実施され、外環道の完成した平成4年〈1992〉に外環道に沿って北側水路、平成8年(1996)に南側水路が完成。八潮水門は平成10年(1998)に完成した。

久伊豆神社
綾瀬川放水路から先は中川筋を離れ、八条用水へと向かう。大落古利根川の松伏溜井から逆川を経て元荒川筋に入った葛西用水は、越谷の瓦曽根溜井で南部葛西用水と八条用水に分かれて取水される。南部葛西用水は南下し八潮で垳川(がけかわ)に注ぐが、八条用水は地図上で水路が消え去り、余水吐けがどこに繋がっているのかよくわからない(注:一旦水路が消えるが、メモの段階でよく見ると下流部に水路が描かれていた)。
であれば八条用水の末端部を確認してみようと八条用水に向かう。県道102号を少し南に進むと、道は南西方向に進路を変えるが、直進すると久伊豆神社が ある。どうせのことならと立ち寄り。八潮市の鶴ケ曽根地区に久あるふたつの伊豆神社が一つであった。
何度か久伊豆神社についてメモしたが、再掲。
祭祀圏マップ
鈴木理生さんの『幻の江戸百年:鈴木理生(ちくまライブラリー)』に、古き利根の流れの東は香取の社、西は氷川の社とその祭祀圏がくっきりと分かれ、その間、元荒川流域だけに80ほどの久伊豆神社が鎮座するマップがあった。 香取神社の祭神はフツヌシノオオカミ(経津主大神)。荒ぶる出雲の神・オオクニヌシ(大国主命)を平定するために出向いた神。氷川神社の祭神はスサノオ・オオナムチ(オオクニヌシ;大国主命)・クシナダヒメといった出雲系の神々。が、久伊豆神社の由来はよくわからないと書かれていた。
未だによくわからないのだけれど、また誰が言っているわけでもないのだけれど、ちょっと妄想。
久伊豆神社は出雲の土師連ゆかりの社のようで、土師連の祖先神は天穂日命とその子の武夷鳥命、および大己貴命、と言う。天穂日命って、アマテラスの子供(「連」とは天孫系の氏族を意味する姓)。大国主を平定するために出雲に出向くが、逆に大国主に信服し家来となり、出雲国造の祖となった神さまである。
天孫・天津神系(大和朝廷)の香取と、国造・国津神(出雲族)の氷川の間に、天孫系(大和朝廷)でありながらも国津神(出雲族)の神・大国主と仲良くなった神を祖先神とする部族がいた、ということ、か。なんだか、なんだかおもしろい。

八条用水
県道102号に戻る。八條小学校前交差点で南下する県道102号から県道327号に乗り換え鶴ケ曽根地区から小作田地区へと進む。
吉川市のHPには、曽根(そね)は「岬」とあった。『角川地名大辞典』には曽根は自然堤防とある。川によって運ばれた砂礫の多い荒れ地を古語では「埇(そね)」という字をあてている。そこからの転化だろう。岬も自然堤防の一形状であろう。
小作田は湿地の間にある小さな水田という。国土地理院の治水地形地図を見ると、鶴ケ曽根は自然堤防、小作田は後背湿地となっている。地形を表した地名となっている。
暗渠に
南に下るとほどなく用水は暗渠となる。地図で水路が消えているのはこのあたりだろう。緑町一丁目・二丁目の辺りで暗渠は左に分かれる道筋に沿って進む。 少し下った中央一丁目西交差点で用水は先ほど分かれた県道102号に合わさり、交差点で南に折れる県道の道筋に沿って用水も南に下る。
県道102号が県道54号と交差する中央交番前交差点で用水は県道102号と分かれ、民家の間の狭い路地を下る。
開渠に
民家の軒先を進む。どこに連れていかれるのか、用水の落としを何処で、どうやって処理するのか、ちょっとワクワクしたのだが暗渠は直ぐに開渠となって、開けた道筋を下ることになる。
八条用水の流路をチェックしたとき、地図にあるこの開渠部を見落とし、今回の八條用水末端部探索とはなったわけである。

葛西用水(南部葛西用水)と合流
開渠に沿って下り首都高速6号線の高架を潜ると用水は葛西用水(南部葛西用水)に合流する。散歩当日は地図上で開渠になっていることを見逃しており、八条用水は結構大きく、この余水吐をどこで・どう処理するのかと、末端部へと辿ったのだが、ちょっとあっけない、というか至極まっとうな始末ではあった。

ふれあい桜橋へ
葛西用水に沿って下り新葛西橋に。その先につくばエクスプレスの線路高架があるが、右岸も左岸も用水に沿っては進めない。左岸のふれあい桜橋へと向かう道路に沿って南に進む。
道路と葛西用水の間には、如何にも後背湿地といった箇所が残されていた。一帯は宅地分譲されていたが、分譲地の案内に記された調整池の多さが宅地造成される以前の後背湿地の名残を伝える。国土地理院の治水地形分類図にも、この辺り一帯は中川の自然堤防と綾瀬川・毛長川の自然堤防に囲まれた後背湿地・氾濫原と示されていた。

葛西用水が垳川に合流
橋の北詰にある「ふれあい桜橋」交差点を少し西に進み葛西用水に架かる橋に。右岸も左岸も葛西用水に沿って進めない。橋から葛西用水が垳川(がけかわ)に合流する箇所を確認し交差点に戻りふれあい桜橋に。
この橋は八潮市と東京都足立区の境となっている。古利根川散歩も羽生市から下りやっと東京都。はるばる来たぜ、と小声で叫ぶ(呟く)。



葛西第一水門
ふれあい桜橋を渡り、南詰めから垳川に沿った径・遊歩道に入り垳川の南側から葛西用水の合流部を確認。遊歩道を進むと水路があり水門が設けられている。水門は葛西第一水門という。往昔垳川を越え南に下った葛西用水の水門である。
この水門、現在は洪水時の水量調整以外は基本閉じられており、用水には南の花畑運河の水を流しているようだ。浄化のためだろう。花見で知られる目黒川の水が落合浄水場から送られる浄化された下水であることを想い起こした。玉川上水もそう。小川監視所より下流は昭島市の多摩川上流水再生センターで高度浄化処理された水を、玉川上水の浄化のために流している。散歩をするとあちこちで高度処理された下水で浄化がおこなわれる河川・用水に出合う。 それはともあれ、葛西用水を浄化するという花畑運河から送られた水がどこで用水に落とされるのか、次回の散歩で確認しようと思う。

小溜井引入水門
葛西第一水門のすぐ傍、葛西用水が垳川に合流する地点のすぐ上流に小溜井引入水門がある。これってどういうこと?葛西用水への導水溜井用であったとすれば(現在水門は閉じられているが)合流地点より下流でなければならないわけで、理屈に合わない。
チェックすると、元は綾瀬川の本流であった垳川筋ではあるが、江戸の頃には既に垳川筋が綾瀬川本流と切り離されている。洪水対策のため垳川との接続部下流が直線化工事を施され、綾瀬川は南に下る。
綾瀬川との接続部は閉じられた。その後、これも江戸時代に中川との接続部も閉じられ、垳川は川ではなく葛西用水の「溜め」となっていたようである。往昔綾瀬川接続部からこの水門までの「溜め」を小溜井と称した。
で、件(くだん)の水門であるが、現在は基本開けっ放しで水門の機能を果たしていない、とか。それはそれでいいのだが、その名称の小溜井引入水門の「引入」ってどういうこと?
左;葛西第一水門、中央;小溜井引入水門、右;葛西用水
さらにチェックすると、用水合流点の少し下流、ふれあい桜橋が架かる辺りにかつて葛西第二水門があった、とか。ここで用水を堰き止めれば、小溜井に必要に応じて水を引きいれることができるわけで、「引入」の疑問氷塊。
○旧小溜井排水機場・垳川排水機場
垳川の両端、綾瀬川との接続部に旧小溜井排水機場(平成7年(1995)に閉鎖された)、中川との接続部に垳川排水機場がある。排水機場と言う以上、垳川の水を両河川に排水していたことになる。これってどういうこと?
チェックすると垳川では葛西用水の合流点あたりが最も標高が高かったとのこと。垳川の水は排水機場を通して両河川に排水されていたようだ。
が、平成7年(1995)に旧小溜井排水機場閉鎖された。葛西用水合流部が最も水位が高いとすれば、東に流れる垳川の水は垳川排水機場のポンプ、また排水機場近くの稲荷下樋管の自然流下により中川に排水されるだろうからいいものの。葛西用水合流部から西、旧小溜井排水機場までの間は水が滞留し水質が悪くなる。実際その滞留環境の溜井には生活排水などが流れ込み水質が悪化したようだ。
その対策として平成20年(2008)より水質改善の実験的取り組みが行われ、潮の干満による水位差を利用して綾瀬川から垳川に通水、浚渫などが実施された。平成26年度(2014)からの本格的運用に際しては、通水量の問題、またそもそもの綾瀬川の水質の問題などが取り上げられているようである。
垳川
「がけかわ」と読むこの名の由来は?垳地区を流れるからであろうが、そもそも「垳」の意味は。この漢字は本来中国からもたらされた漢字ではなく、峠などと同じく日本で造られた国字とのこと。
「土」+「行(く)」>土が行く>土が崩れる>水がカケ(捌け)る様子が起源となり、水が流れるとき「土」が流されて「行」く、といった意味があるようだ。 現在、所謂「がけ」には崖という感じがあてられるが、江戸時代中期までは一定でなく、「崖」の他、「峪」、「岨」、「?」などの漢字があてられたという。が 「垳」もそのひとつであったよう。「崖」と言えば切り立った斜面のイメージがあるが、土が削り取られた結果としての形と思えばそんなに違和感はない。 垳という字は、垳川と垳という地名以外に使われることはないようだ。
「垳」がこの地に残る故、当用漢字として残されているが、「青葉」という地名に変わる可能性もあるとのこと。暴れ川の綾瀬川によって土が流された、といった地形のニュアンスを伝える地名が消え去るとすれば、ちょっと残念ではある。

本日の散歩はこれでお終いとし、最寄りの成田エクスプレス・八潮駅に向かう。次回の散歩で、既に歩き終えている足立区・葛飾区の境を流れる古隅田川まで歩き、古利根川筋繋ぎの旅の大団円としたいものである。
先回は久しぶりに利根川旧路を下る散歩を再開し、岩槻から越谷市袋山まで辿った。春日部で大落古利根川から分かれた、かつての利根川流路・古隅田川が元荒川に注ぐ岩槻から下ったわけである。
メモの過程で偶々知ることとなった国土地理院の治水地形分類図のおかげで、今は消え去った旧利根川(古隅田川・元荒川)をはっきり確認することができた。また、その地形分類図で岩槻城の縄張りも、台地・自然堤防・後背湿地といった地形から読み解くこともできた。地形分類図を知るまでは、地形から見て何となく台地では?自然堤防では? などと想像するだけであったので、これは結構嬉しい発見であった。 今回は、日暮れ終了となった越谷市の東武i伊勢崎線大袋駅から越谷市街を抜け、元荒川が中川に合流する地点まで進もうと思う。


本日のルート; 東武東上線・大袋駅>水路を辿り元荒川堤防に>宮内庁埼玉鴨場>元荒川堤桜並木>逆川>天嶽寺>久伊豆神社>建長元年板碑>逆川伏越の吐口>瓦曽根溜井>谷古田用水・東京葛西用水・八条用水取水堰>道標付き庚申塔>瓦曽根堰>堂端落し>大聖寺>日枝神社>久伊豆神社>八坂神社>大成排水機場>元荒川・中川合流点>武蔵野線・吉川駅

東武伊勢崎線・大袋駅

国土地理院・利水地形分類図をもとに作成

先回の散歩終了点である東武伊勢崎線・大袋駅に向かう。元荒川筋から駅に向かう途中で偶々みかけた土手が、かつての元荒川筋が造った自然堤防であり、河川改修により直線化工事される以前の元荒川は、大袋駅やそのひとつ北の千間駅を囲むように大きく蛇行していた。
また、昭和36年(1961)の国土地理院空中写真には、未だ宅地が密集していないこともあり、蛇行する元荒川の旧流路、自然堤防上に並ぶ民家が見事に移されていた。
どうせのことなら、駅から元荒川筋へは旧流路跡をトレースしょうと地図をチェック。駅の近辺はそれらしき道筋が見えないが、国道4号を渡った先から元荒川に向かって、如何にも流路跡のようなゆるやかな蛇行の道がある。そこに向かって成り行きで進む。

水路を辿り元荒川堤防に
国道4号の袋山交差点をわたり、地図にあるゆるやかに曲がる道筋に。北は道路わきに水路跡らしき煉瓦敷の歩道がある。南に進むと車止めがあり、その先は水路暗渠といった小さな歩道が南に続く。
ポンプ制御盤も歩道脇に立つ。水路跡に間違いないだろうと思った先、歩道脇に小さな水路が現れる。水はないが途中木橋なども置かれた道を進むと元荒川に出る。元荒川へと合流した先の堤防には排水ゲートといった施設があった

宮内庁埼玉鴨場
堤防を進むと緑の森が前方に見えてくる。越谷梅林公園を左下に見遣りながら堤防に立つ、かつては「立ち入り禁止」の用をなしていた(?)石柱の間を抜けると、左下に宮内庁埼玉鴨場がある。敷地はフェンスで厳重に守られている。 明治41年(1908)、元荒川の旧河道を利用して造られた、という。国土地理院の治水地形図には氾濫原と色分けされていた。
鴨場それ自体には特段の興味もないので、さらりと流すが、鴨場脇を抜ける元荒川の土手の景観は落ち着いた風情で、誠に美しいものであった

元荒川堤桜並木
元荒川左岸を進むと前方に桜波木が堤防上に並ぶ。国土地理院の治水地形分類図をみると、右岸文教大のキャンパスのある辺り、元荒川がS字に大きく蛇行する左岸に自然堤防が描かれる。
昭和36年(1961)の国土地理院の高級写真には自然堤防上に民家が建ち、現在民家が密集する氾濫原は畑地となっている。自然堤防には洪水を避けて人が住むという地形と人の関わり合いの基本の姿が見てとれる。
堤防上の道を進む。堤防は人手で盛り土したとのこと。堤防内側と段差が有るところ、無い所がある。当時はその違いはなんだろう?と思いながら歩いたのだが、件(くだん)の地形分類図をみると、段差があるのは氾濫原、段差がないのは自然堤防と接しているようにも思える。なお、この自然堤防の内には北越谷河畔砂丘があるとのことだが、宅地にその痕跡を認めるのは困難だろうとも思う。
桜並木
堤を先に進むと「元荒川堤桜並木」の解説がある。まとめると;
「万葉集には梅が110首、桜が43首詠まれている。外来種の梅が主流であり、桜が主流になったのは元禄(17世紀末)のころ。
天海僧正が上野のお山に吉野と同じく吉野桜、山桜、八重桜を植え、江戸一番の名所となる。八代将軍吉宗も王子の飛鳥山に1270本を植え、自らも宴を催す。その他隅田河畔の木母寺と寺島の間の大堤、品川の御殿山にも植樹され花見の名所となった。
越谷では日露戦争〈1905〉の戦勝記念に、瓦曽根溜井から寺橋(私注;天嶽寺橋。現在の久伊豆神社参道前に架かる宮前橋)までの土手道に植樹されたが、瓦曽根溜井の埋め立や道の拡張工事により昭和30年頃には姿を消した。起源2600年〈1940〉には、越谷町年団が寺橋から東武鉄道鉄橋まで戦意高揚のため「興亜の桜」として植樹したが、今はない。
現在の桜並木は、昭和30年(1956)、地元有志による桜苗木1200本の寄送、および植樹奉仕により元荒川両岸に植えられたものである」とあった。
河畔砂丘
「関東地方では旧利根川流域にのみ見られる、自然堤防上に堆積した砂。形成された時期は年代順に3つの時期に分かれる。
第一期は平安時代に形成されたもの;古墳時代榛名山の噴火により利根川に流された火成岩の砂が火山性堆積物の自然堤防を造る。平安時代の寒冷期季節風により吹き飛ばされた砂が自然堤防上に河畔砂丘を形成した。
越谷の袋山、この北越谷河畔砂丘がこれにあたる。 第二期は鎌倉時代;平安時代の浅間山の噴火、鎌倉期の寒冷期季節風による。羽生や加須で見た河畔砂丘はこの時期のもの
第三期は室町期以降のもの;浅間山の噴火物が室町以降に自然堤防に堆積したもの、とのことである。(越谷市郷土研究会の資料より」

逆川
東武東上線が元荒川を渡る鉄橋下を潜ると逆川の呑口がある。この辺りはいつだったか一度訪ねたことがあり、ちょっと懐かしい。それはともあれ、「呑口」と書いたのは、逆川は伏越しで元荒川下を潜っており、左岸はその水を「呑み込む」口であるため。逆川が伏越で元荒川を潜る辺りの景観は美しい。
逆川
逆川は元荒川への加用水として開削された人工の川である。寛永9年(1629)、荒川の背替え(荒川西遷事業)により源頭部を失い廃川となった元荒川は水量が減少。西遷事業以前に元荒川筋に設けられていた溜井は水不足に陥る。この地にも少し下流に瓦曽根溜井があるが、元荒川の背替え、さらには先回訪れた末田須賀堰(大戸の堰)での堰止めなどにより水不足に直面した。
その対策として水を利根川(大落古利根川)に求め開削されたのが逆川。古利根川の松伏溜井から開削し、新方川を伏越し(現在は古利根堰で伏越しで潜っているが、開削当時は新片川が潜っていたようだ。新方川が大きくなり逆転させた)で抜け、この地で元荒川に注ぎ、瓦曽根溜井への加用水とした。
開削当時は元荒川に注いでいた逆川が現在伏越しとなっているのは、葛西用水・八条用水・谷古田用水を分水する瓦曽根溜井の水質汚染を避けるため。葛西用水の流路の一部となっていた大落古利根川の水を通す逆川は、元荒川を伏越しで抜け、元荒川と逆川の流れを切り離され瓦曽根溜井へと加水し下流域へ水を供したようである。分離工事は昭和42年頃(1967)と言う。
逆川の由来は時に逆流した故だろう。開削当初,非灌漑期や増水時に,水が元荒川から古利根川に逆流したことに由来すると云う。両川の標高もほとんど同じようなものであり、溜井の水位が上がることにより容易に逆転したのだろう。
かつて伏越し下流に逆流止門樋があった、と言う。逆川はそこから元荒川に流入していたというから、水位の上昇した瓦曽根溜井水が、逆川が逆流することを防止するためにも設けられたのだろう。

天嶽寺
逆川の呑口施設を越え、注連縄の張られる久伊豆神社参道手前に天嶽寺がある。参道入り口正面及び参道に沿って並ぶ石塔群を見遣り境内に。いつだったか越谷を訪れた時は久伊豆神社に気が急きパスお参りすることはなかったのだが、山門、楼門などの構えのある立派なお寺さまであった。本堂にお参り。
境内あった解説には、「天嶽寺は浄土宗の寺で、山号を至登山遍照院と称し、文明十年(一四七八)専阿源照の開山と伝えられている。
古くは小田原北条氏の城砦に用いられたといわれ、北条氏により寺領寄進状を蔵していたと伝えられる。天正十九年(一五九一)十一月、徳川家康より高十五石の寺領寄進朱印状が交付されている。徳川家康は越谷宿をしばしば訪れているが、二代将軍の秀忠、三代将軍家光は狩猟のついでにこの寺にたちよっている。
なお、天嶽寺は雲光院、法久院、遍照院、美樹院、松樹院という五か寺の塔頭があり、格式の高い寺院であった。
また、入口には庚申塚と呼ばれた小高い丘があり、ここには延宝元年(一六七三)の文字庚申塔や元禄八年(一六九五)の青面金剛彫像庚申塔など、数多くの庚申塔が建てられている。また、参道にそった庚申塚の下にも「かハしも二郷半、川かみかすかべ」などと道しるべが付された大供養塔や猿田彦大神塔などが並んでいる。このほか境内には方言学の祖といわれる越ヶ谷吾山の句碑などが建てられている。
天嶽寺の本尊は阿弥陀如来であるが、釈迦仙の涅槃像(寝仏)も安置されている。これは珍しい金仏として越谷市指定の文化財となっている」とあった。
庚申塔道標
解説にあった参道に沿った庚申塚は、参道入口右側に6基並ぶ。道しるべのある供養塔とは、六十六部供養塔のこと。「かハしも二郷半、川かみかすかべ」が読める。また、左端の猿田彦大明神と記された石塔の基部にも文字が刻まれる。「南 こしがや 北 のし間 い王(わ)つき 東 志めきり ま久り かす可べ」。「志めきり」は地名にないが、大袋での元荒川旧流路が蛇行していた辺りに〆切橋が架かる、この石塔が文化四年(1808)k建立と言うから、既に直線化された(普請は宝永3年;1706)元荒川に架けられた橋だろう。尚、道標の示す方角は実際と合っていない。とこからか移されたものだろう。

久伊豆神社
注連縄を潜り久伊豆神社の長い参道に入る。この社は二度目。いつだった、東の香取神社、西の氷川神社の祭祀圏に挟まれ、この元荒川一帯のみに祀られる社ってどのようなものだろう、久伊豆神社の名前の由来は、との好奇心から訪れた。その時思いがけなく、境内で地元の方手作りの「柴餅」、サルトリ茨の葉で包んだ田舎饅頭が売られており、子供の頃の祖母の作った懐かしい味を今一度と期待したのだが、残念ながら今回は見当たらなかった。
原植生のスダジイが茂る社叢に覆われた参道を進む。途中社寺でしばしば目にする力石の案内、美しい池の庭園などを見遣りながら社殿にお参り。
当日は知る由もなかったのだが、メモの段階で久伊豆神社は大きく弧を描いて曲がる元荒川の自然堤防上に鎮座していた。
元荒川の旧流路
国土地理院・治水地形分類図をもとに作成
国土地理院・治水地形分類図をみると現在は直線化されている伊豆神社前を流れる元荒川は、往昔大きく弧を描き蛇行し、久伊豆神社は祖の自然堤防上に鎮座する。 直線化工事は寛永6年(1629)に実施されたものと言うが、昭和36年(1961)の航空写真にも未だその痕跡が見て取れ、川筋跡らしき影、自然堤防上に並ぶ民家が視認できる(下記、瓦曽根溜井の写真参照ください)。

三ノ宮卯之助銘の力石
「力石とは力仕事を人力に頼らざるを得なかった時代において、力くらべをしたり、体力を鍛えるために用いられた石のことである。
三ノ宮卯之助は江戸時代後期に、三野宮村(現在の越谷市大字三野宮)出身で、力石や米俵などの重量物を持ち上げる興行を行いながら全国各地を回り、日本一の力持ちと言われた人物である。興行先であったと考えられる神社などには、「三ノ宮卯之助」の銘が刻まれた力石が残されている。
越谷市内では越ケ谷久伊豆神社に1個、三野宮香取神社に4個、三野宮向佐家に1個の計6個が確認されている。久伊豆神社の力石には「奉納天保二辛卯年(1831年)四月吉日 五十貫目 三ノ宮卯之助持之 本庁 會田権四郎」と刻まれており、卯之助が24歳の時に、五十貫目(約190kg)の力石を持ち上げたとされる文字が刻まれている(境内解説)」
久伊豆神社の藤
「この藤は、株廻り七メートル余り、地際から七本にわかれて、高さ二・七メートルの棚に枝を広げています。枝張りは東西二〇メートル、南北三〇メートルほどあり、天保八年(一八三七)越ヶ谷町の住人川鍋国蔵が下総国(現千葉県)流山から樹齢五〇余年の藤を舟で運び、当地に移植したものといわれています。樹齢およそ二〇〇年と推定されます。
花は濃紫色で、枝下一・五メートルほど垂れ、一般に"五尺藤"と呼ばれています。花期は毎年五月初旬が最も見ごろで、毎年このころに「藤まつり」が盛大に開かれます。
フジはマメ科に属する蔓性の落葉樹で、日本、中国、アメリカ、朝鮮に少しずつ異なったものが自生しています。わが国のフジは、大別して、ツルが右巻きで花は小さいが花房は一メートル以上になるノダフジと、左巻きで花は大きいが花房は二〇センチメートル前後のヤマフジとがあります。当神社の藤は前者に属し、基本胤は本州、四国、九州の山地に自生しています。(境内解説より)」。
由緒
境内にあった由緒には;「久伊豆神社は、祭神として大国主命、事代主命など五柱が祀られ、例祭は毎年九月二十八日である。
当社の創立年代は不詳であるが、社伝によると平安末期の創建としい、鎌倉時代には武蔵七党の一つである私市党の崇敬を受けたという。古来、武門の尊崇を集めて栄え、室町時代の応仁元年(一四六七)に伊豆国(静岡県)宇佐見の領主宇佐見三郎重之がこの地を領したとき、鎮守神として太刀を奉納するとともに社殿を再建したと伝えられる。江戸時代には、徳川将軍家代々の信仰が厚かった。
当社は、災除招福、開運出世の神として関東一円はいうまでもなく、全国に崇敬者がある。また、家出をしたり、悪所通いをする者に対して、家族の者が"足止め"といって狛犬の足を結ぶと必ず帰ってくるといわれている。
境内には、県指定史跡となっている幕末の国学者平田篤胤の仮寓跡や、篤胤の門人が奉納したといわれる県指定天然記念物の藤の老樹が枝をひろげている。
なお、当社は昭和五十九年度に県から「ふるさとの森」の指定を受けている」とあった。

東の香取神社、西の氷川神社の祭祀圏に挟まれ、この元荒川一帯のみに祀られる久伊豆神社については、先回散歩の折、岩槻久伊豆神社であれこれ妄想した。そのメモを再掲する。


久伊豆神社・香取神社・氷川神社
『幻の江戸百年:鈴木理生(ちくまライブラリー)』
久伊豆神社の名前をはじめて知ったのは、鈴木理生さんの『幻の江戸百年:鈴木理生(ちくまライブラリー)』を読んだとき。関東における神社の祭祀圏がクッキリとわかれ描かれていた。利根川から東は香取神社。利根川の西の大宮台地・武蔵野台地部には氷川神社。この香取・氷川の二大祭祀圏に挟まれた元荒川の流域だけに80近い久伊豆神社が分布する。
大国主
香取神社の祭神はフツヌシノオオカミ(経津主大神)。荒ぶる出雲の神・オオクニヌシ(大国主命)を平定するために出向いた神。氷川神社の祭神はスサノオ・オオナムチ(オオクニヌシ;大国主命)・クシナダヒメといった出雲系の神々。が、この久伊豆神社の由来はよくわからないと書かれていた
。 未だによくわからないのだけれど、以下妄想:この社の由緒には御祭神は出雲の神・オオクニヌシ(大国主命)とある。これでは氷川神社の出雲系の神を祖先神として武蔵国に入った部族と違いがよくわからない。違いのヒントは?と、由緒に出雲の土師連の創建とある。
土師連
出雲の土師連創建といえば、鷲神社の系の由来と同じである。久伊豆神社の祭祀圏とほぼ同じ(東西に少しはみ出してはいるが)元荒川流域に鷲宮神社、大鷲神社、大鳥神社などと言う名で祀られる。土師宮とも称される鷲神社系の祭神は天穂日命とその子の武夷鳥命、および大己貴命。天穂日命って、アマテラスの子供。大国主を平定するために出雲に出向くが、逆に大国主に信服し家来となり、出雲国造の祖となった、とか。土師連創建の久伊豆神社が大国主命を御祭神とするのはこういった事情だろう。
なんだか面白い。氷川、香取、久伊豆、これらすべて核に大国主命がいる。大国主を祖先神とする氷川、大国主を平定しようとする香取、その間に大国主を平定しようとするが逆に信服した久伊豆。国津神(国造系)の氷川、天津神(天孫系)の香取、天津神から国津神(天孫系から国造系)となった久伊豆と読み替えてもいいかもしれない。
国津神系(国造)と天孫系(中央朝廷)の間に位置するのが、天孫系から国津神系となった久伊豆創建の土師連の祖先神。が、ここでもうひとつひねりがあるようだ。土師連の「連」とは天孫族であることの証明といったもの。もとは土師臣(天皇直属の部;技術者集団)であったものが、ある時期から「連」のカバネとなっている。ということは、土師氏の祖先神は天孫系から国津神系に一度はなったが、最終的には天孫系に戻ったと、と言える(?)かもしれない。国津神系の氷川祭祀圏と天孫系の香取祭祀圏の間に、国津神系と天孫系の間をとりもつような久伊豆や鷲神社系の神を祖先神とする部族がいたということだろうか。すべて素人の妄想であるが、それなりに結構面白い。
私市党
我流解釈、妄想ではあるが土師連と久伊豆神社の関係は上述の通りであるが、この越谷久伊豆神社の由緒には「鎌倉時代には武蔵七党の一つである私市(きさい・きさいち)党の崇敬を受けた」とある。同じくその勢力範囲をほぼ同じくする武蔵七党のひとつ・野与(のよ)党の崇敬を受けた、とも言う。私市党と野与党の勢力範囲はほぼ重なるが、抗争したとの記録はない。勢威の時期がずれており、私市党の威が衰えた頃に野与党がそれに代わった、とも言う。
久伊豆神社の命名
それはともあれ、私市党・野与党と土師連の関連はよくわからない。が、チェックの過程で面白い話が登場してきた。以下、妄想の極みではあるがちょっとメモする;
江戸後期に編まれた『新編武蔵風土記稿』に、「延喜式神名帳に載る所、埼玉郡四座の内、玉敷神社祭神大己貴命とありて、今いずれの社たるを伝へず。岩槻城内に久伊豆社あり、其餘郡内所々に久伊豆社ととなふるものあれども、何れもさせる古社とも思はれざれば、若しくは『式』に見え『東鑑』にも沙汰あるは当社(玉敷神社)ならんか。
されど、千百年の古へを後の世より論ずれば如何にといいがたし。久伊豆と改めしは騎西郡内にありて騎西、久伊の語路相通ずれば唱え改めしといえど、これも付会の説とおぼしく、社伝等には據なし」とある。
江戸の頃には既に何故、久伊豆となったかわからなくなっており、騎西が久伊(きさい>ひさい)と転化したとする話はちょっと強引としている。因みに、騎西(きさい)は私市(きさい)党が拠を構えた地(加須市騎西)であるが、これもどのようなプロセスで表記が変わったかわかっていない。
騎西が久伊となるという話はともあれ、私市党の拠点である騎西町〈現在加須市騎西〉に何かヒントは?チェックするこの地に久伊豆神社の総本社とされる玉敷神社がある。江戸の頃までは久伊豆大明神と称された。
そしてその社の北東近くに久伊豆大明神の旧宮跡を持つ龍花院がある。源頼朝の創建とされ、山号を伊豆山正音寺と称する。ために「伊豆堂」とも称されたようだ。「伊豆」というキーワードが登場した。
私市党は頼朝を戴き武家政権樹立に努めたわけだが、その頼朝は伊豆殿と称された。であれば、創建者の伊豆(殿)が「いさ久しく」、という願いから社を「久伊豆」大明神とした、というストーリーは?
『新編武蔵風土記稿』には、久伊豆の社はいくつもあるが、どれもそれほど古い社ではない、という。とすれば、土師氏と私市氏の関係は不明ではあるが、拠点に鎮座していた古き社を久伊豆と名付け、私市党の勢力範囲に各地に勧請し、私市党の勢力範囲を引き継いだ野与党も武蔵七党としてその久伊豆の社勧請を引き継ぎ、現在の久伊豆祭祀圏として残ったというストーリーも面白い。妄想の際たるものではあるが、自分なりに結構納得。

とはいうものの、頼朝創建>「伊豆山」の山号>「伊豆殿」>「久伊豆」の類推など、誰にでもできそうなわけで、それが久伊豆神社の由来としてどこにも登場しないのは、それなりの理由があるのだろう。不明である。

建長元年板碑
久伊豆神社を離れ宮前橋を渡り逆川伏越の吐口に向かう。上述桜並木の説明にあった寺橋(天嶽寺橋)は宮前橋の旧名。
橋を渡り道を右に折れ、元荒川右岸を少し上流に進みむと道脇に板碑が立つ。解説には「建長元年板碑 越谷周辺で発見されている板碑は、秩父の緑泥片岩で造られている。板碑は、塔婆の一種であることから、板石塔婆とも呼ばれている。この板碑は、板碑初発期にあたる鎌倉時代の建長元年(1249)銘の年号が刻まれたもので、市内で発見された板碑の中では最古のもである。しかも高さ155cm、幅56cmに及ぶ最も大きな板碑である。種子(仏をあらわした梵字。しゅじと呼ぶ。)は弥陀一仏で、その彫りは深く、初発期板碑の特徴が現れしている」とある。

板碑が何故この地に?何らかの歴史的事象と関連があるのでは、とは思いながら当日は先に進んだのだが、メモの段階でチェック;この地は越谷の開発土豪、野与党の一派である古志賀谷氏の館のあった所では、といった記事も見かけた。真偽のほどは不明だが、結構納得。
因みに、古志賀谷は関東管領上杉氏と古河公方と抗争に際し、古河公方に与したが上杉勢に敗れ一族の事績はほとんど残らないようである。
越ケ谷の由来
「越ヶ谷」は「越(腰)の谷」の意で、「こし」は「山地や丘陵地の麓付近」の意、「谷」は「低地」の意であると思われる。つまり、「大宮台地の麓にある低地」を指す地名であると推測される(Wikipedia)。

逆川伏越の吐口
元荒川の下を潜った逆川伏越の吐口に。上述の如く伏越工事は昭和42年(1967)に実施された。下流の瓦曽根溜井の水質汚濁対策のためである。吐口から下る逆川を見遣る。
越ケ谷御殿跡
伏越の吐口に「越ケ谷御殿跡」の石碑が立つ。今は御殿町という地名のほか何の痕跡も留めないが、当時は6ヘクタールもの規模であり、元荒川上流、東武野田線手前の大沢橋あたりまでその敷地があったようだ。国土地理院・治水地形分類図を見ると、南側に氾濫原が描かれる。御殿は氾濫原を避け元荒川に沿った自然堤防御上に築かれたのだろうか。
御殿の築造は慶長9年(1604)、当地の土豪会田氏の敷地内に築かれたとのこと。家康、秀忠が鷹狩の折訪れたようだが、明暦3年(1657)江戸城焼失に際し二の丸に移された。

現在は前面が元荒川、真ん中に逆川が流れ少々窮屈な感があるが、築造当時は未だ元荒川の直線化工事がなされておらず、天嶽寺や久伊豆神社と地続きであったろうし、当然の如く伏越しの吐口から流れる逆川もないわけで、元荒川を見下ろす、ゆったりとした地形ではあったのだろう。
会田氏
上でこの地に古志賀谷氏の館があったのでは、とメモした。古志賀谷氏は関東管領上杉氏により滅びたわけだが、それでは会田氏の館ができるまでのいきさつは?チェックする;信州会田郷出自の氏族。武田信玄の侵攻により信州を逃れ越谷に移り、岩槻城主太田資正に仕える。太田資正は関東管領上杉氏の武将。上杉氏により滅びた古志賀谷氏の後に入ったということ?
その後上杉方から離反し、敵対する小田原北条勢となった大田氏のもと、天正18年(1590)小田原征伐の秀吉勢に敗れ岩槻城落城。会田氏は越谷に隠れ住む。家康関東入府。鷹狩の地を求める家康に拝謁し家臣となり屋敷の一部を提供した。

瓦曽根溜井
逆川を下る。元荒川との間には背割堤が築かれ両川を画する。堤は昭和42年(1967)の逆川と元荒川の分離(合流を伏越しに変え両川を分離)の際に築かれたものだろう。




国土地理院・昭和36年(1961)空中写真

昭和36年(1961)、両川分離前の航空写真でみると、堤防もないし、それ以上に西側に大きく溜井が広がっている。治水地形分類図でチェックすると、現在の越谷4丁目は、ほとんど埋め立地・盛土によってつくられたようだ。埋め立てや中央の背割堤がない。昭和36年(1961)、両川分離前の空中写真に写る姿が瓦曽根溜井であった。
先回この地を訪れたときは、元荒川と画された逆川の流れの下流に広がる堰の辺りが瓦曽根溜井と思い、なんだか狭いよな、などと思っていたのだが、大いなる勘違いであった。

葛西用水と溜井
逆川の説明でこの人工的に開削された水路・逆川は、松伏溜井と瓦曽根溜井を結ぶ葛西用水の流路であるとメモした。現在では行田市下中条の利根大堰(昭和43年;1968)で取水され、東京都葛飾区まで延びる大用水であるが、これははじめから計画されたものではない。新田開発が進むにつれ、不足する水源を、上流へと求めた結果として誕生したものであり、その歴史的経緯の転換点に溜井が登場する。溜井が葛西用水を特徴づけるとする所以である。「江戸の米倉 江戸の礎を築いた葛西用水」をもとに、瓦曽根溜井を含め、葛西用水と溜井の関係をまとめておく。
溜井
溜井とは、灌漑用貯水池と遊水池を兼ねたもの。江戸の川普請に度々登場する伊奈氏の「関東流」治水開発モデルでもある。その特徴とするところは、上流の排水を下流の用水として使用する「循環型」の思想、また洪水対策も霞堤とか乗越堤といった名の通り、河川を溢れさすことで洪水の勢いを制御するといった思想である。
こういった「自然に優しい工法」が関東流の特徴である。しかし、それゆえに問題もあり、なかでも洪水の被害、そして乱流地帯が多くなり、新田開発には限界があった、と言われてもいる。因みに関東流に対するものが見沼代用水に見られる井沢弥惣兵衛為永を祖とする紀州流と呼ばれるものである

第一フェーズ;亀有溜井
そもそも、葛西の地をはるか 離れた地・埼玉の行田から延々と葛西の地に下る用水を葛西用水とするのは、この用水のはじまりが葛西領を潤した亀有溜井をもってその嚆矢とする故である。
文禄2年(1593),利根川東遷第一次の工事として伊奈忠次は当時の会の川を川俣地点で締切り,浅間川筋に落とし、川口(加須市川口地内)の地で二流に分ける。その主流は渡良瀬川の水も合わせ東へと、現在の中川の川筋(当時中川という川は、ない)である島川・権現堂川、庄内古川を経て金杉で太日川(現在の江戸川)に落とした。
また西遷事業(寛永6年;1629)施行以前の荒川(現在の元荒川)の水も、川口から南に下った古利根川(現在の大落古利根川)と越谷で合さり、これも小合川を経て太日川に落とし、江戸の町を直接利根川の水害から守るという、利根川東遷事業の当初の目的は果たした。
次いで、東遷事業の大きな目的のひとつである新田開発であるが、この目的で最初に設けられたのが「亀有溜井」。水源は荒川西遷事前で水量豊富な綾瀬川に求め葛飾区新宿で水を溜めて葛西領を潤すことになる。
おおよその流路を現在の川に合わせると、綾瀬川>桁川>中川(昔の古利根川)>亀有ということだろう
綾瀬川
Wikipediaに拠れば、「綾瀬川は戦国時代の頃、荒川の本流であった。当時の荒川は、今の綾瀬川源流の近く、桶川市と久喜市の境まで元荒川の流路をたどり、そこから今の綾瀬川の流路に入った。

現在の元荒川下流は、当時星川のものであった。戦国時代にこの間を西から東につなぐ水路が開削されて本流が東に流れるようになり、江戸時代に備前堤が築かれ(慶長年間;1596‐1615)綾瀬川が分離した。この経緯により、一部の地図には綾瀬川(旧荒川)の括弧書きが行われる事がある」とある。
地図を見ると久喜市、桶川市、蓮田市が境を接する辺りにある「備前堤」から南に綾瀬川、東に元荒川が流れ、その元荒川は東に進んだ後、久喜市飛地で星川に合流している。上述Wikipediaの説明を元に推測すると、この備前堤から東に流れる元荒川は「戦国時代に開削された西から東へつなぐ水路」であり、星川との合流地点の下流は、現在は元荒川ではあるが、かつては星川の流れであり、元来の元荒川は備前堤から南に下る綾瀬川筋であった、ということだろう。
第二フェーズ;瓦曽根溜井
慶長19年(1614)には新田開発を上流に伸ばし、荒川(現在の元荒川)本流を越谷の瓦曽根で締切り瓦曽根溜井を築堤し、下流域を潤した。
寛永6年(1629)に伊奈忠治は,荒川の西遷事業を開始。これにより元荒川は,水源を失い,瓦曽根溜井の水は枯渇していくことになる。このため幕府は寛永7,8年頃から,元荒川の加用水として水源を太日川に求め、寛永18年(1641)になると太日川を北に掘り抜いた現在の江戸川開削後は,江戸川に圦樋を移し用水を引いた。
中島用水
流路ははっきりしないが、幸手市中島で江戸川の水を取水し、椿・才場・大塚・不動院野・八丁目と下り古利根川に落ちた、とする(落口はもっと上流との記事もあり、はっきりしない)。
第三フェーズ;松伏溜井
中島用水は,現在の春日部市八丁目で古利根川(現在の大落古利根川)に落とされることになる(異説もある)が,下流松伏村に松伏溜井が造られる。ここで堰き止められた水は、その一帯を潤しながらも、その流量のほとんどは松伏溜井の末流大吉村から元荒川までの問に新たに開削された逆川用水に流され,瓦曽根溜井まで送水された。この一連の工事の完成は寛永11年(1633)とされる。
また,この一連の工事により,荒川の瀬替えにより水量が激減していた綾瀬川を水源とする亀有溜井への加用水も可能となる。瓦曽根溜井から一帯を潤していた用水・悪水落を延長し瓦曽根溜井から綾瀬川(古綾瀬川)へと落とす水路(葛西井堀)が完成し、亀有溜井は瓦曽根溜井・松伏溜井と繋がった。
第四フェーズ;川口溜井
承応3年(1654)には利根川東遷による関東平野の治水と利水が一応の安定を得る。それにともない新田開発が一層推進されることになるが,古利根川左岸から旧庄内川の右岸一体、水源を池沼にゆだねていた幸手領(幸手市,杉戸町,春日部市,鷲宮町)においては用水不足をきたすようになる。
その水源として求めたのが東遷事業の完了した利根川である。万治3年(1660)に古利根川本川の本川俣地点に圦樋を設けて南東に水路を開削し,会の川の旧河道を流し,川口地点に川口溜井(加須市川口地内)を造り,権現堂川(島川)筋の加用水として北側用水を開削した。
この川口溜井は葛西用水の水路というわけではなく、幸手領の灌漑のためのものである。
第五フェーズ;琵琶溜井
さらに,川口溜井から水路を開削して古利根川の河道につなげられ、琵琶溜井(久喜市栗原地内)も造成された。そこに中郷用水と南側用水の2用水が開削され流域の灌漑に供する。
琵琶溜井には幸手用水の余水流しに圦樋が設けられ,青毛堀,備前堀等の悪水と一緒に古利根川(現在の大落古利根川)に落し,下流の松伏溜井への加用水として供した。これをもって幸手領用水とした。

葛西用水の成立
その後,宝永元年(1704)の大洪水の際に中島用水が埋没したため,享保4年(1719),関東郡代伊奈忠蓬は,幸手領用水の加用水として新たに本川俣の少し上流の上川俣の利根川本線に圦樋を設け,幸手領用水に接続させ,川口溜井と琵琶溜井では圦樋を増設して水量を確保した。以来,本川俣および上川俣の利根川取水から葛西井堀末端までを「葛西用水」と称するようになり,ここに関東地方切っての大用水が形成された。

以上、溜井のまとめをしながら、結局は葛西用水成立の歴史ともなった。葛西用水は利根川の東遷事業、荒川の西遷事業と密接に関連しながら、廃川となった荒川(元荒川)や利根川(大落古利根川)の川筋跡を活用し、上流へと延びる新田開発に伴い下流から上流へと水源を求め、最終的に利根川にまでたどり着いた、ということであろう。

谷古田用水・東京葛西用水・八条用水取水堰
逆川(葛西用水水路)の右岸を進む。右手に市役所や中央市民会館が建つ。この辺りも埋め立てにより造成されたところである。中央市民会館から先は川に沿って遊歩道を進む。先に取水堰が3つ見える。一番手前が谷古田用水、次いで東京葛西用水、最後が八条用水である。瓦曽根溜井に堰止められた水を下流へと供する。
谷古田用水
取水堰から堤防上の道路を渡り用水出口に向かう。道脇に案内があり道路から一段下ったところに取水堰からの用水出口があり、煉瓦で組まれている。傍にあった案内には、「谷古田用水元圦煉瓦樋管 明治24年に完成した日本最古の煉瓦水門」とあった。
道路に戻る手前にも解説があり、まとめると「谷古田用水は、1680年(江戸時代延宝8年)に開削された農業用水で、その名前は谷古田領(草加市)に由来する。当時、越谷から草加にかけては湿潤地で、安定的なコメ作り・治水には農業用水が必要であった。用水の長さは6220m。越谷では三ケ村にまたがることから:さんが(さんがわ)」、草加地区では五ケ村にまたがることから「五ケ村用水」と呼ばれていた。
幅は2.7mと広く、豊富な水量と受益面積の広さから地域の基幹用水として機能した。 現在は草加では農業用水として使う地域もあるが、越谷では農業用水としては使われず、用水路敷を利用してこの公園から3.8キロ、谷古田河畔緑道として整備されている」とある。
谷古田用水は綾瀬川より越谷市蒲生のあたりで取水していたが、延宝8年(1680)に綾瀬川に堰を設けるのが禁止されたため、水源を瓦曽根溜井に求めたようだ。備前堤防により元荒川と分離され綾瀬川の水量が減ったためであろうか。


東京葛西用水〈南部葛西用水〉
流れは、南東にほぼ一直線に草加市・八潮市を貫き、足立区の神明に下る。神明から先は、曳舟川の川筋となり、足立区を南下。葛飾区亀戸からは南西に流路を変え、四ツ木で荒川(放水路)を越え(といっても荒川放水路が人工的に開削されたのは、昭和になってから)、墨田区の舟曳・押上に続いている。
本所上水
葛西井堀として阿曽根溜井と亀有溜井結んだ水路は、綾瀬川(現在の桁川)から中川(当時の古利根川)をへて下流の亀有溜井に下ったとのことであるから、上記ルートの神明から桁川・中川筋(当時中川という川はない)に入っていったのだろう。
神明から南に下る水路は本所上水として開削されたもののようだ。当初は亀有溜井から導水していたが、延宝3年(1675)に亀有溜井が廃止されたため、水を瓦曽根溜井に求めた。葛西用水の東に沿って上水路が設けられ古綾瀬(桁川筋)を掛樋で渡り葛西用を南に下った。
本所上水は享保7年〈1772〉に廃止されるが、葛西領内では農業用水として残り、江戸後期には帝釈天や水戸街道への往来に曳舟が開始される。曳舟川と称される所以である。

八条用水
ここ瓦曽根溜井から南東に、ほぼ葛西用水と平行してくだり、足立区の手前、八潮で葛西用水に合流している。








道標付き庚申塔
説明の便宜上、あとさきが逆になったが、谷古田用水から道路に上がったところに道標付き庚申塔がある、「これより上 じおんじ 三里はん これより左 吉川 壱里はん 大さかみ内 これより右 市川まで五里」とある。
解説には上述本所上水が葛西用水の東側を流れると記載されていた。本日のゴールである吉川まで大さかみ(大相模)を経てあと6キロ。先を急がねば

瓦曽根堰
遠方からも印象的な「しらこばと橋」に。建設省の「ふるさとの川モデル事業」に指定された(元荒川と逆川の分離、瓦曽根溜井の埋め立て故?)この橋は、市の鳥である「しらこばと」と「水郷越谷」のシンボルとして斜帳橋の美しい姿を見せる。
橋の南詰の少し下流に背割堤と右岸を繋げる公園があり、そこに瓦曽根堰が建つ。平成9年(1887)改築されたこの堰で瓦曽根溜井の余水が元荒川に流される。堰の下流、元荒川へと合流するまでの流れの景観は美しい。
公園には大正13年(1924)に造られた瓦曽根堰、通称「赤門」の展示や瓦曽根溜井・堰に関する石碑や葛西用水を含めた流路図があった。流路図は複雑な水のネットワークの確認に誠に役に立つ。
瓦曽根溜井・瓦曽根堰の譜
石碑の表面には、 瓦曽根溜井・瓦曽根堰の譜 「この瓦曽根溜井は慶長十九年頃(1614)徳川幕府が八条領と四ヶ村(瓦曽根、 西方、登戸、蒲生)の地域の水田用水として利用するため、荒川の流れを、この地で堰き とめ溜井としたことが始まりであり、その貯水面積は20㌶余りに及んだ。
この時は荒川の流水を利用していていたが、寛永の年(1629)に幕府の治水対策で荒川の西遷が行われると、元荒川となり、流水が激減し、溜井が枯渇した。そこで水源を庄内領中島の利根川(現在の江戸川)に求め、用水路を開削して古利根川に導水し、松伏堰で堰き上げして、溜井とし、鷺後用水(逆川)によって瓦曽根溜井に送水する、中島用水が翌寛永七年 に造られた。 この後寛永八年には、葛西井堀が開削され、亀有溜井(現在の東京)まで送水されると共に、延宝三年(1675)に、本所上水が引かれ、生活用水として利用された。
瓦曽根堰は水害等で何度となく修改築され、大正十三年これまでの石堰を廃止し鉄筋 コンクリート造り鋼製水門(10門)の堰が築造され、管理の為、塗装した錆止めの色彩が朱色であったため「赤門」と呼ばれ、地域の風景の一部として親しまれていた。
この溜井や瓦曽根堰も時代と共に変貌を遂げることになるが、特にこの堰止めによる、上流の岩 槻市、越谷市の一部地域の排水不良等の改善が求められ、昭和四十一年逆川の元荒川の合流点より瓦曽根堰を背割堤にし、元荒川と瓦曽根溜井の用排水を分離し現在の形が造られ、溜井の規模も縮小した。
更に平成九年には葛西下流地盤沈下対策事業で旧堰を、取り壊し、親堰二門を造成した。葛西用水土地改良区として越谷市では、この地に永年親しまれてきた、溜井と堰の歴史を記し、合わせて先人の労苦と英知を後世に引き継ぐべく、記念の譜 として建立する」平成十五年三月吉日」
瓦曽根為井に係る利水の変遷
石碑裏面には、「瓦曽根為井に係る利水の変遷 慶長19年(1614)為井造成と同時に八条用水と四ヶ村用水が引かれた。
八条用水・・・八条領の32ヶ村で利水(現在の八潮市 草加市 越谷市の一部)
四ヶ村用水・・八条領の4ヶ村で利水(現在の越谷市)
寛永8年(1631)瓦曽根溜井から葛西領の亀有溜井に送水する葛西井堀から引かれ東西葛西領で米造りに使われた。
延宝3年(1675)江戸の本所、深川の生活用水として本所上水が引かれた。
なお、葛西井堀と本所上水は後年、溜井亀有が廃止されると西葛西用水(東京葛西用水)として利用され、その水路の本所小梅から亀有までは、水戸佐倉街道に沿っていたので旅人を船で運ぶ「曳舟川」としても利用された。
延宝8年(1680)谷古田用水が引かれ谷古田領5ヶ村(現在の草加市)の水田に利用された。
瓦曽根堰の移り変わり
草堰 溜井造成のときに築造されたもので、丸太を二列に打ち込み、そだを編み込み間に草を編み込み土俵で押さえた堰
石堰 寛文4年〈1664〉本所上水を引くために改築されたもので、雑石積の堰で上部にかや組の余水流しと水叩きに竹を使った堰
ストニー式鋼製堰 大正13年〈1924〉県営十三河川改修事業で改築された鋼製巻上げ式ゲート十門の堰で、錆び止めで赤く塗装していたので赤門と呼ばれた。
現在 平成9年に葛西下流地盤対策事業で改築された鉄筋コンクリート造り鋼製ローラーゲート二門
葛西用水の成立
享保4年(1719)概に開削されていた幸手領用水(万治3年1660年)の利根川の川俣圦樋が増設され、琵琶溜井、松伏溜井、亀有溜井を連結させた十ヶ領300村、領石高十三万三千石(年貢米)の代用水が成立し、葛西用水と呼ばれた」
既述の内容と重複する部分もあるが、おさらいもかね掲載した。
葛西下流地盤対策事業
この解説もあったので、重複避け簡単にまとめる;
葛西下流地域は、地下水の大量汲み上げにより昭和30年(1955)頃より地盤沈下を引き起こし、昭和50年(1975)頃になると越谷では最大沈下量は130㎝に達する。このため農業用水路は不等沈下を起こし、用水不足・排水不良・堤防沈下により溢水などの問題を生じた。
そのため施設の改善と、八潮・草加・越谷・松伏・春日部への安定的な水の供給をはかるため昭和54年(1979)度より着手し、古利根堰改築・古利根川堤*補強・逆川。八条用水路などの幹線用水路と支線用水路の改修・瓦曽根堰の改築などを行い平成9年に完成した。(私注;不等沈下とは越谷130cmに対し、下流の草加では11㎝であることなどを指す)

なお、この解説には葛西用水の流れとして、利根川にある利根大堰(行田市須加地内)より取水し、埼玉用水(羽生市本川俣地無内)を経て葛西用水路へ導かれ、その後川口分水工(加須市川口地内)、琵琶溜井分水工(久喜市栗原地内)を経て大落と古利根川を流下し、古利根堰(越谷市大吉地内)より取水し、逆川・八条用水へ導かれる、とあった。現在の葛西用水の流を把握するのに役立つ思いメモした。
県営十三河川改修事業
大正末期から昭和初期にかけ埼玉県が実施した、中川水系、利根川水系、荒川水系の13の河川改修事業。中川水系は大落古利根川とその支川である青毛堀川、備前堀川、姫宮落川、隼人堀川の5河川と、元荒川そしてその支川星川・忍川・野通川の4河川、そして綾瀬川の計10河川。利根川水系は福川の、荒川水系は芝川と新河岸川の2河川からなる。 同事業は当時の内務省による庄内古川(中川水系)、利根川、荒川の改修事業に合わせて実施された。
事業目的は排水量の増大への対策。食料増産を目し実施された河川改修・水路補修に際し、橋や水路橋、取水堰も改築・建設されており、散歩の折々に出合うことになる。

堂端落し
瓦曽根堰を離れ、元荒川右岸堤防を中川との合流点へと進む。堤防を進むと「堂端落し」と書かれた案内と取水堰がある。堤下には堂端落し排水機場もあった。地図を見ると水路は八条用水へと下っているように思える。
堂端落しの由来でもわかる何かがあるかと、民家の間に隠れた水路に沿って進み左に折れるとH鋼で補強された水路が下り、その東側に十一面観音堂があった。堂端って、このお堂だろうか。

大聖寺
お堂の東にも大きな仁王門をもつお寺さまがある。気まぐれに訪ねた堂端落としから、結構なお寺さまが現れた。
阿吽の仁王様が護る仁王門を潜り境内に。立派な仁王門の構えの割に境内がさっぱりしている。明治の頃焼失した故だろうか。境内にある各種解説を読むと、開基は奈良の頃と言われ、越谷最古の寺であるようだ。
室町から戦国期にかけては関東管領上杉勢の庇護を受け、それ故に岩槻の上杉勢を支配下においた小田原北条が懐柔に務め、大寺としての威を示している。
江戸の頃は家康の庇護を受けている。
こういった大寺ではあったが、最も印象的だったのは東門に並ぶ庚申塔群ではあった。


大聖寺の山門
「大相模の不動様」で親しまれている真大山大聖寺は天平勝宝二年(七五〇)の創建といわれ本尊は不動明王である。古くは「不動坊」といわれ天正十九年(一五九一)徳川家康公遊猟の折、当寺に立寄り、水田六〇石を与えて「大聖寺」と号した。
山門は正徳五年(一七一五)に建立した茅葺き屋根であったが文化元年(一八〇四)瓦葺きとなり、その後破損、明治十七年修繕して銅板葺きが完成し今日に至っている。この山門は鎌倉風建築といわれ正面左右には「阿吽の二王」といわれる一対の仁王尊がある。正面額字「真大山」は寛政時代の老中松平定信の筆である(越谷市教育委員会掲示)」
家康夜具
「天正十八年(一五九〇)関東に入国した徳川家康は、領国統治のため鷹狩りをしながら巡遊した。
はじめ家康の休泊所は、在地の土豪層や寺社がこれにあてられたが、のちに御殿やお茶屋が取立てられていった。大聖寺の家康垢付の寝具は、まだ御殿やお茶屋が設置される以前、家康が大聖寺に宿泊したときその宿泊接待の御礼として置いていったものとみられる。
この寝衣は絹地で、菊を配した柄のほか徳川の紋である三ツ葉葵が所々に配されている。(越谷市教育委員会)」

北条氏繁掟書
「大相模大聖寺に所蔵されているこの掟書は、小田原北条氏一族の氏繁が元亀3年(1572)に大相模不動院(現大聖寺)に与えたもので、市内最古の中世文書である。
この要旨は「大相模不動院は古来より岩付の祈願所として諸役を免除してきたが、只今妄りに横合から、非分を申しかける者がいるそうである。一段と不埒なことである。今より後は、前々のように岩付の祈願所として武運長久の祈願を懈怠なく勤めるよう、さすれば前々与えなかった役も与えるであろう、ならびに横合より非分申しかける者がいたときは申し出るよう、速やかに糺明を遂げるであろう」というものである。
元亀3年〈1575〉頃、当時、越谷地域に大きな影響を与えていた岩槻太田氏は、永禄10年(1567)太田氏資が、里見氏との三船台での戦いで里見氏に敗れた後、岩槻城は北条氏の支配下におかれた。
長い間、太田氏と深い関係にあった岩槻や越谷の土豪層にとっては、北条氏の岩槻進出に対し不満があり、大相模不動院もこうした中で、北条氏に抵抗を示した一勢力であったと思われるそこで、当時岩槻城代であった北条氏繁が大相模不動院を味方にするために発給したのがこの掟書である。これらの歴史の流れを把握し、越谷地域の歴史を知る上で、需要な文書と言える(越谷市教育委員会)」
庚申塔
本堂にお参りし、見事な五葉松を見遣りながら成り行きで東門へ。右手に大きな基壇の上に庚申塔が立つ。手前両脇に侍る猿の顔が削られているように見える。天保9年(1838)建立の青面金剛立像。百庚申供養と刻まれていた。東門への参道両側に多くの「文字庚申塔」が並ぶが、それが百庚申のようだ。




参道左手にも三猿庚申塔、青面金剛立像の庚申塔。百庚申塔が何故このお寺様に。チェックすると、元はお寺近くの元荒川土手にあったものを、河川改修の際この地に移した。平成3年(1991)の頃、と言う。








日枝神社
大聖寺を離れ元荒川の堤防に戻る。不動橋を越え不動排水機場辺りで地図を見ると、自然堤防上に寺社が並び建つ。中川との合流点までは祭祀圏のこともあり、どのような社か立ち寄ることに。
社叢を目安に進むと日枝神社。堤防側から、社殿裏手から境内に。眷属の猿が社殿前に佇む。案内には、「日枝神社の勧請年は不詳であるが、元荒川をひかえた奥州街道に面した古社の一つである。もとは山王社と称され、東光院、利生院、神王院、安楽寺、薬王寺、観音寺の六寺院を配下におさめていた大きな社であった。
その後江戸時代に四寺が大相模大聖寺の塔頭に移され、一寺が廃寺となったが、山王社は西方村の鎮守に位置づけられた。
明治の初年山王社は日枝神社と改称、明治四十年同村の八幡神社、稲荷神社、愛宕社、天神社などを合祀している、現在は大山咋命、素盞嗚尊、菅原道真、大己貴命など十五柱を祭神として祀っている。
境内には古い石塔はみられないものの、神社にほど近いおしゃもじ橋と称された祠堂には、嘉暦三年(一三二八)在銘のものと、元弘三年(一三三三)在銘の弥陀一尊板碑が神体として祀られている(埼玉県・越谷市掲示)」、とあった。
日枝と山王
日枝神社は、日吉山王権現が明治の神仏分離令によって改名したもの。「**神社」って呼び方はすべて明治になってからであり、それ以前は「日吉山王権現の社(やしろ)」のように呼ばれていた(『東京の街は骨だらけ』鈴木理生:筑摩文庫)。その日吉山王権現という名称であるが、これって、神+仏+神仏習合の合作といった命名法、かも。日吉は、もともと比叡山(日枝山)にあった山岳信仰の神々のこと。日枝(日吉)の神々がいた、ということ。
次いで、伝教大師・最澄が比叡山に天台宗を開いき、法華護持の神祇として山王祠をつくる。山王祠は最澄が留学修行した中国天台山・山王祠を模したもの。ここで、日吉の神々と山王(仏)が合体し日吉山王権現が誕生した。
権現は仏が神という仮(権)の姿で現れている、という意味。つまりは、仏さまが日吉の神々という仮の姿で現れ、衆生済度するということ。
おしゃもじ橋を探し、少し彷徨ったが見つからなかった。

久伊豆神社
その先にも社が続く。堤防側から境内に入れない。堤防側が奥州街道の道筋、かとも思ったのだが、一筋南の社殿参道前の道がそれであろうか。境内から社殿に。
案内には「この地はもと大相模郷の東方村で、久伊豆神社はこの村の鎮守社であった。当地は元荒川をひかえた奥州旧街道の道筋にあたり、早くから開けたところで、武蔵七党野与党の一族、大相模次郎能高が本拠とした地と伝えられている。久伊豆神社はもと野与党の氏神といわれ、野与党の武士が居住した地に久伊豆神社が勧請されている。当社は明治四十一年同村の稲荷社、八幡社、天神社、神明社などを合祀し、現在大己貴命、菅原道真、天照大神、与田別命など七柱が祭神として祀られている。
境内入口には樹齢数百年と言われている直径一・五メートルにも及ぶ銀杏の大木があり、太いしめ縄が張られている。また、境内には文化四年(一八〇七)銘の御手洗石などがある。(埼玉県・越谷市)」とあった。

久伊豆神社のあれこれは上述。大相模次老の館はここから少し南の大成二丁目にある、とのことである。

八坂神社
散策ルートになっているのだろうか、社の道案内をもとに東に進むと八坂神社。どういった事情かさっぱりした社となっていた。
案内には「八坂神社は、元荒川の河畔、奥州街道(日光道中)に面した元大相模郷の一村である見田方村の鎮守社で、天王社と称された古社である。
見田方の地は元郷の御田であったとも言われており、早くから開けたところと伝えられる。江戸時代は、忍藩(現行田市)の支配地、柿ノ木領八ヶ村に組み入れられた。
境内には、文化八年(一八一一)銘の改刻塞神塔や文久三年(一八六三)銘の猿田彦大神塔などが建てられている。
改刻塞神塔はもと庚申塔であったが、明治元年(一八六八)、神仏分離令の処置担当者として忍藩に抱えられた平田篤胤の門人木村御綱が、「庚申塔などと申すな。塞神と唱えよ。」と説いて、藩内の庚申塔をすべて塞神塔に改刻させたと言われている。このため、見田方村を中心とする柿ノ木領八ヶ村には、改刻塞神塔が数多く見られる。
また、八坂神社裏手脇にはかつて沼があり、そこに内池辨天が祀られていた。この沼は天明六年(一七八六)の関東洪水の時、元荒川の堤防が崩れてできたと言われており、人々はこの沼を"オイテケ堀"と名付けている。沼の主の大きな白蛇は人が通ると「オイテケ、オイテケ」と呼びかけ、沼に引き込むと言われたことから、人々は決して子供たちを近づけなかったと言われている。
なお、見田方の地からは、昭和四十一年・四十二年の発掘調査により、水稲農耕を営んでいたと推定される古墳時代後期(六世紀後半頃)の住居跡などが確認され、現在、その遺跡は越谷レイクタウン駅前に「見田方遺跡公園」として現状保存されている(越谷市掲示より)」とあった。
八坂と牛頭
天王とは牛頭天王のこと。牛頭天王が八坂神社となったのは明治の神仏分離令以降。本家本元・京都の「天王さま」・「祇園さん」が八坂神社に改名したため、全国3,000とも言われる末社が右へ倣え、ということになったのだろう。八坂という名前にしたのは、京都の「天王さま」・「祇園さん」のある地が、八坂の郷、といわれていたから。ちなみに、明治に八坂と名前を変えた最大の理由は、「(牛頭)天王」という音・読みが「天皇」と同一視され、少々の 不敬にあたる、といった自主規制の結果、とも言われている。
で、なにゆえ「天王さま」・「祇園さん」と呼ばれていたか、ということだが、この八坂の郷に移り住んだ新羅からの渡来人・八坂の造(みやつこ)が信仰していたのが仏教の守護神でもある「牛頭天王」であったから。また、この「牛頭天王さま」 は祇園精舎のガードマンでもあったので、「祇園さん」とも呼ばれるようになった。

大成排水機場
を東に進むと道脇に用水路が現れる。水路フリークとしては故なく水路に沿って進むことに。国道4号を越え、畑の端などもお邪魔しながらひたすら進み元荒川の堤防に出た。その先には大成排水機場があった。
メモの段階でチェックすると、国道4号の南詰めにある大きな取水堰(レイクタウンにある大相模調整池につながっているようだ)の更に少し上流に取水堰があり、そこからつながっているようだが、この用水路は結局名称がわからなかった。

元荒川・中川合流点
元荒川・中川合流点に到着。長かった。元荒川を下る前はずっと大落古利根川を下ってきたので、大落古利根川と中川の合流点に足跡をとは思うのだが、そこはいつだったか一度歩いているので良しとし、本日の散歩を終えも寄りの駅である武蔵野線・吉川駅に向かう。
中川
中川は羽生市を起点とし、埼玉の田園地帯を流れ東京湾に注ぐ全長81キロの河川。起点をチェック。羽生市南6丁目あたり。宮田橋のところで葛西用水を伏越で潜り、宮田落排水路(農業排水路)とつながるあたりが起点、とか。
結果としてこのような概要とはなっているが、葛西用水と同じく、中川も元からあった川ではない。利根川東遷・荒川西遷事業により「取り残された」川を治水・利水のために繋いで結果的に出来上がった川である。
ために、中川には山岳部からの源流がない。低平地、水田の排水を34の支派で集めて流している。源流のない川ができたのは、東遷・西遷事業がその因。江戸時代、それまで東京湾に向かって乱流していた利根川、渡良瀬川の流路を東へ変え、常陸川筋を利用して河口を銚子に移したこと。また、利根川に合流していた荒川を入間川、隅田川筋を利用して西に移したことによって、古利根川、元荒川、庄内古川などの山からの源流がない川が生まれた。このことは幾度か触れた。

現在の中川水系一帯に「取り残された」川筋は、古利根川筋(隼人堀、元荒川が合流)と島川、庄内古川筋(江戸川に合流)に分かれていた。幕府は米を増産するために、この低平地、池沼の水田開発を広く進め、旧川を排水路や用水路として利用した。が、これは所詮「排水路」であり「用水路」。「中川」ができたわけではない。
中川水系の水田地帯を潤し、そこからの排水を集めた島川も庄内古川も、その水を江戸川に水を落としていた。が、江戸川の水位が高いため両川の「落ち」が悪く、洪水時には逆流水で被害を受けていたほどである。低平地の排水を改善するには、東京湾へ低い水位で流下させる必要があった。そこで目をつけたのが古利根川。古利根川は最低地部を流れていた。島川や庄内古川を古利根川つなぐことが最善策として計画されたわけである。実際、江戸川落口に比べて古利根川落口は2m以上低かったという。
この計画は大正5年(1916)から昭和4年(1929)にかけて外周河川である利根川、江戸川および荒川の改修に付帯して実施された。島川は利根川の改修で廃川となった権現堂川を利用したうえで、幸手市上宇和田から杉戸町椿まで約6キロを新開削して庄内古川につながれた。庄内古川は松伏町大川戸から下赤岩まで約3.7キロして大落古利根川につながれた。こうして「中川」ができあがったわけである。

武蔵野線・吉川駅
中川左岸に渡り、成り行きで武蔵野線・吉川駅に向かい本日の散歩を終える。次回は中川を下る。既に歩き終えて終えている古利根川下流域、足立・葛飾区境を流れる古隅田川には、あと数回歩けば届くところまで下りてきた。

利根川東遷事業により瀬替えされ源頭部を失い廃川となった元の利根川本流(古利根川)、その廃川跡、といってもその後の新田開発のため用・排水路として整備されてはいるのだが、ともあれその流路を辿る散歩もやっと岩槻まで下ってきた。
東遷事業の嚆矢となる羽生市会の川締め切り跡(異説もある)からはじめ、数回に渡って歩いた古利根川散歩ではあるが、その間古利根川下流域である足立区と葛飾区の区境を流れる古隅田川を彷徨ったこともあり、もうすっかり歩き終えた気分になっていた。

いやいや、それはダメでしょう。と、久しぶりに空白部分を埋める散歩にでかけることにした。会の川から葛西用水、そして大落古利根川筋を下り、先回は往昔大落古利根川から古隅田川筋(春日部を流れる)に入り、現在は逆川となっている旧流路跡を元荒川に合流する岩槻まで歩いた。今回は岩槻から越谷に向かって下ることにする。

散歩に出かける前、今回は元荒川に沿ってのんびりゆったりのコースではあろうと思っていた。勿論当日はあれこれ??に思いながらも、基本のんびりゆったりではあったのだが、メモの段階で??をチェックすると、市街地に突然現れた不自然に広い空地が元荒川の旧流路であったり、また同じく民家の近くに続く小高い土手が、これも元荒川の自然堤防跡のようであったりと興味深い事象が現れた。
チェックの過程で知った国土地理院の「治水地形分類地図」も思わぬ副産物。旧流路や自然堤防が確認できる。水路フリークには誠にありがたい地図である。今回はこの地図を多用させてもらう。
基本、常の如く事前準備なしの散歩。散歩で見聞きした疑問を解決する過程で得られる「思わぬプレゼント」が誠に嬉しい。ともあれ、散歩に出かける。


本日のルート;大宮台地を岩槻駅へ>東武野田線・岩槻駅>龍門寺 >元荒川旧流路>南辻>赤間堀緑地>久伊豆神社>元荒川堤防に>岩槻城跡 >大野島水管橋>金山堤>武蔵第六天神社>末田須賀堰>地蔵尊と馬頭観音>金剛院>浄山寺>三野宮橋>一乗院>東武東上線大袋駅

大宮台地を岩槻駅へ
先回の散歩は春日部市で大落古利根川と分かれ、往昔の利根川流路であった古隅田川跡を辿り元荒川との推定合流地点へと歩いた。源頭部を閉ざされ廃川となり、水位が下がったためか(異説もある)、ささやかな水の流れも現在では元荒川方面から大落古利根川へと「逆川」となっており、元荒川に繋がってもいない。かつての流路跡であろう自然堤防の樹林帯を目安に元荒川筋へと進んだわけである。

先回の散歩の終点は岩槻大橋の近く。自然堤防はもう少し下流へとのびているが、当日は知る由もなく、そこが古利根川筋の流路跡と、故なき達成感に浸りながら最寄りの駅・東武野田線の東岩槻駅へと向かった。
今回の散歩は元荒川右岸、岩槻駅から先回散歩の終点へと向かい散歩をはじめることにした。特に理由はない。何となくである。
東武野田線・岩槻駅に向かう。JR大宮駅で東武野田線に乗り換え。電車は大宮のある大宮台地(北足立台地とも)の浦和大宮支台を東に進み、見沼代用水西縁や芝川の流れる低地を抜け大宮台地片柳支台に上り、さらに見沼代用水東縁や綾瀬川の低地を走り大宮台地岩槻支台に入り岩槻駅に着く。
いつだったか見沼代用水を歩いたのだが、その時、そして今回まで見沼代用水西縁、柴川、見沼代用水東縁は同じ低地にあるものだと思っていた。これらの流れが合流する八丁堤・見沼溜井の辺りが開けた低地となっているためそう思い込んでいたのだが、見沼代用水西縁、柴川と見沼代用水東縁は大宮台地片柳支台の東西に分かれて流れていた。分岐箇所は大宮台地から支台として分かれる片柳支台の北端辺りとなっていた。
大宮台地
国土地理院「治水地形分類図」をもとに作成
Wikipediaをもとにまとめる;
大宮台地(おおみやだいち)とは、関東平野中央部、埼玉県川口市から鴻巣市にかけて広がる関東ローム層からなる洪積台地である。かつての郡名(北足立郡)にちなんで北足立台地とも称された。
西を荒川および荒川低地、東を元荒川および中川低地に挟まれて南北に長い。北部は細く、南部に行くほど東西に厚くなる三角形をしており、南の川口低地へと張り出した形である。 大宮台地はその核となる台地から支台が分かれる。洪積世後期、海中に堆積した化成岩層が隆起し侵食され谷によって区切られたとされる支台とは以下の通り。
指扇支台 - 西に入間川および荒川。東に鴨川。現在の桶川市からさいたま市西区指扇を経て三橋まで。
与野支台 - 西に鴨川、東に高沼用水路。さいたま市北区日進町から中央区鈴谷まで。
浦和大宮支台 - 西に高沼用水路、東に芝川。各支台中最大の面積を持ち、大宮台地の主部をなす。
片柳支台 - 西に芝川、東に綾瀬川。上尾市東部からさいたま市見沼区片柳まで。以東で南東の鳩ヶ谷支台とつながる。
鳩ヶ谷支台(安行台地) - 片柳支台の南東で大宮台地の最南部をなす。川口市へ張り出している。
岩槻支台(岩槻台地) - 西に綾瀬川、東に元荒川。岩槻区に分布。
慈恩寺支台(慈恩寺台地) - 西に元荒川、東は大落古利根川。その名の通り慈恩寺が位置する事にちなむ。春日部市及び岩槻区に分布。

岩槻駅
駅を下り、先回散歩の最終地点に向かう。で、ルートを想うに、いつだったか岩槻から慈恩寺を経て豊春駅まで歩いたことがある。その時、古隅田川に出合い、それが逆川であり、かつ元の利根川流路跡であることを知ったのだが、それはともあれ、その時は駅の南(東口)を岩槻城方面へと向かった。ということもあり、今回は駅の北側(西口)を歩き成り行きで進み、先回も訪れた久伊豆神社にお参りして先回散歩の最終地点へ向かうことにした。
愛宕町を抜け道なりに進むと県道65号に出た。時に現れる古い民家などを見遣りながら進むと道脇に「龍門寺 久伊豆神社」の案内がある。どのようなお寺さまか知らないまま、とりあえず龍門寺に向かう。民家が切れその先には、なんだか不自然な空地が広がる手前、県道左手に龍門寺参道が現れた。

龍門寺
「将軍家 側用人 大岡氏」ゆかりの寺といった案内が入口に立つ。側用人 大岡?などと思いながらとりあえず参道を進む。
山門
参道を山門に向かう。落ちついた雰囲気の山門横にあった案内には:

龍門寺の文化財
戦国時代の天文十九年(1550)、小田原後北条氏の重臣佐枝若狭守が自らの館内に開創したのが龍門寺です。そのため、境内の西側と北側に残る土塁は佐枝氏の館の名残りと言われており、山号の玉峰山もこの若狭守の法号に因みます。
江戸時代には、幕府の祖、徳川家康を祀った日光東照宮に将軍が参詣する日光御成道に面するようになり、岩槻藩主大岡忠光の菩提寺としての歴史を刻んできました。
国指定重要文化財(工芸品) 刀 無銘 伝助真 一口
長さ七十センチメートルあまり、銘は失われていますが、備前国(岡山県)の福岡一文字派の名工助真(すけざね)の作と伝えられています。豪壮華麗で、鎌倉時代中期の特徴を持っています。岩槻藩主大岡忠光の遺品で、現在は埼玉県立歴史と民俗の博物館に寄託。
市指定有形文化財(歴史資料) 龍門寺所蔵資料 一括
宝暦十年(1760)に死去した岩槻藩主大岡忠光の墓誌のために、子の忠喜が、後に幕府を批判した思想書『柳子新論』を著した医師兼儒官・岩槻藩士山縣大弐に作成させた「大岡忠光行状記」や大岡忠光公関係甲冑その他や龍門寺の開基佐枝家関係資料、龍門寺経営資料など龍門寺に伝来した資料です。
現在は埼玉県立歴史と民俗の博物館、埼玉県立文書館に寄託。
市指定有形文化財(建造物) 龍門寺山門 一棟
  一間一戸で、柱が四本からなる薬医門形式。桁行約三・五メートル、梁間約ニ・四メートルを測ります。本柱は断面長方形の材の長辺を正面に据え、重厚な外観を創出しています。建立年代は明確ではありませんが、建築部材の絵様は江戸時代前半の特徴を示しています。なお、解体修理の際に、東側の破風登裏甲上面で寛政十年(1798)の墨書銘が発見されました。
市指定史跡 大岡家の墓
江戸幕府側用人で、岩槻藩主大岡忠光(1760年没)の墓。石組の基壇上に巨大な五輪塔を据え、他にも忠光の墓碑や石灯籠を配しています。 境内南側(山門入って左側)にあります。 平成二十八年三月 さいたま市教育委員会」とあった。
どのような人物が知らなかったが岩槻藩主・大岡忠光ゆかりのお寺さまであった。
大岡家の墓
本堂にお参りし、案内に従い「大岡家の墓」に向かう。案内には「大岡家の墓 江戸幕府側用人で、岩槻藩主大岡出雲守忠光(一七六〇年没)の墓です。扉に大岡家の家紋を配した瑞垣の中、石組の基壇上に上から空、風、火、水、地を表す巨大な五輪塔を据え、地輪の正面には「得祥院殿義山天忠大居士」、右側面には「武州岩槻城主従四品前雲州太守大岡氏藤原忠光之墓」と刻まれています。他にも明和事件の中心人物となる山縣大弐が関係した忠光の墓碑や石灯籠が残されています。
大岡家は三河以来の徳川家の譜代の幕臣で、一族の中からは名奉行として知られる大岡越前守忠相を輩出しました。
忠光は三〇〇石の旗本の家の生まれでしたが、その才能を発揮して、御側衆・御用御取次・若年寄(奥勤兼帯)、さらに側近として最高職の側用人まで出世し、第九代将軍徳川家重近くに仕えて厚い信任を得、幕府政治を長い間動かしてきました。 宝暦元年(一七五一)には勝浦(千葉県)一万石の大名となり、その後加増が続き、宝暦六年には二万石の岩槻藩主となりました。 岩槻藩主としての忠光の在任期間は四年間と短く、幕政の中心人物として多忙を極めました。宝暦十年四月に亡くなり、後の側用人田沼意次ほか幕閣要人や諸大名が関与する中、僧侶五十人余による盛大な葬儀が当山で行われています。
明治維新まで続く岩槻藩主大岡家八代の基礎を作った名君で、幕藩体制の維持に尽力した忠臣でもありました。さいたま市教育委員会掲示より」とあった。
忠光公墓誌
五輪塔の墓の手前、覆屋の下に石碑がある。忠光公の墓誌である。傍にあった説明には、「山県大弐関与 墓誌裏側 山形大弐が撰文・井書した墓誌の部分がザックリ削られた跡が見られる。大弐のおこした明和事件後、岩槻藩が改易転封を恐れて、大弐に関する物件の隠蔽を行ったのであろう。奇しくも、明和事件に対する幕府の厳しい追求を窺わせる物的証拠となっている。。。」とあった。尚、墓誌表面は、昌平黌の林大学頭の撰文とのことである。
山県大弐
尚また、傍に山県大弐についての解説もあった。
説明には、「革命思想家・山県大弐と龍門寺大岡忠光公は経王暦10年(1760)4月23日病没した。その際、忠光公側近の儒学者の山県大弐は忠光公の墓誌造立に深く関係し、さらに忠光公の生涯についてまとめた「行状記」を当山の一室に籠もって書き残した。これが現在当寺に残されている「大岡忠光公行状記」(市指定文化財)である。
山県大弐は忠光公の家臣時代に藩幕府思想の「柳子新論」を脱稿した。忠光公側近として幕府政治をつぶさに見、その実体験をもとに幕藩体制を痛烈に批判したものである。忠光公没後、当寺に残る行状記を書き記し、岩槻藩を致仕した。そして江戸に出て塾を開いた。そこで、兵学の話として「江戸城攻撃」について議論したため、先の「柳子新論」とあわせて幕府の怒りにふれ大弐に関係した者は捕らえられ、大弐は処刑された。これを明和事件という。大弐の著述は、没後も多くの人に密かに写本として読まれ百年後の明治維新の思想的原動力となった。
当山に残る「行状記」は、大弐が実践活動に移る、その転機に書かれた日本の近代成立史上の極めて重要な史料と言うことができる」とあった。
◎大岡忠光と忠相
大岡忠光の説明の中に、「一族には大岡越前守忠相がいる」、とある。どういう係累関係?チェックする;大岡家系譜では戦国時代、三河松平氏に仕えた大岡忠勝をその祖とする。忠勝の子忠政は家康の関東入府に従い武蔵国に。大岡家3代目当主は忠政の三男忠世が本家を継ぐ(資料により忠世の子・忠種が宗家養子に入り3代目当主となるともある)。忠政の長男・次男が戦死したためである。忠政の四男が忠吉。忠光も忠相も忠吉の系であり、忠相は忠吉の孫、忠光はひ孫にあたる。
忠光は忠吉の子・忠房の系。忠光は岩槻藩系大岡氏の祖となる。忠相は忠吉の子忠章の系であるが、忠相は本家筋3代目本家中世の子、第4代忠真の養子となったため、本家第5第当主となった。また三河の岡崎を領する西大平藩系大岡氏の祖となった。
側用人
側用人と言えば柳沢吉保であり田沼意次の名が思い浮かぶが、大岡忠光が側用人ということは知らなかった。チェックすると、柳沢吉保や間部詮房などの側用人制の弊害により一時衰えていた側用人制が忠光の時に復活した。その因は、将軍家重が極度の言語障害でありその言を聞き取れるのが忠光ただ一人であったためとも言う。また意次とは先輩後輩の関係であり、忠光により復した側用人の制を田沼意次が継いだとのことである。
解説にあった「土塁」は?と辺りを彷徨ったのだが、それらしき顕著な「高み」を認めることはできなかった。とまれ、知らず立ち寄ったお寺さまでちょっと歴史のお勉強ができた。

元荒川旧流路
国土地理院「治水地形分類図」をもとに作成
龍門寺のメモで時間をとった。先に進む。参道を出て県道65号に戻ると前面が不自然に開けた空地となっている。散歩しながらGoogle Mapの衛星写真でチェックと元荒川に架かる慈恩寺橋上流からU字の、如何にも「河川敷」といった空地があり、U字ラインが元荒川に繋がる手前に調整池らしき施設も見える。
メモの段階で国土地理院の治水地形分類図でチェックすると旧流路跡が見て取れる。また、少し先走るが、後程訪れる岩槻城跡にあった岩槻城の縄張図にも龍門寺すぐ傍に元荒川が流れており、田中橋が架かっていた。
この流路はいつの頃河川改修が行われたのだろう。明治初年から中頃にかけて陸軍が作成した「関東平野迅速測図」には旧流路が記されている。はっきりした資料を見つけることができなかったが、大正末期から昭和初期にかけて元荒川支川改修事業が実施されているので、この時期かもしれない。

南辻
県道65号を進む。右手に人間総合科学大学岩槻キャンパスがある。元荒川の河川敷であったところに立地する。ということは、今はない田中橋を渡り、往昔の元荒川左岸に渡っているということだろう。
地名は南辻。明治22年、南辻を含め元荒川左岸の十ケ村が集まり慈恩寺村となっている。少なくとも明治22年までは元荒川は旧流路を流れていた、ということだ。

赤間堀緑地
久伊豆神社に向かい、成り行きで県道65号を右に曲がる。久伊豆神社の社叢の前に緑地が続く。赤間堀緑地とある。衛星写真で見た元荒川旧流路のつくった自然堤防だろう。メモの段階で、国土地理院の治水地形分類図でも自然堤防が確認できた。赤間堀の南は岩槻城の縄張りにあった新正寺曲輪。久伊豆神社の建つ新正寺曲輪は大宮台地岩槻支台の端かと思う。新正寺は久伊豆神社の塔頭に由来するようだ。

久伊豆神社
岩槻駅西口駅から成り行きで歩いた結果、龍門寺や元荒川の旧流路、そして元荒川の自然堤防などに出合った。ここまではよかったのだが、赤間堀緑地から傍に見える久伊豆神社は塀で囲まれ、緑地から直接入ることができない。結局、ぐるっと大きく迂回し東武野田線傍にある久伊豆神社参道入口まで歩くことになった。
台地と低地の境
参道から南、東武野田線の先は緩やかに下りとなっていた。ちょっと気になり治水地形分類図でチェックすると、東武野田線を境に台地と後背湿地に分かれている。後背湿地の南に岩槻支台が、ちょこっと突き出している。岩槻城の縄張りから見れば、堀に囲まれた本丸辺りではないかと思う。実際本丸跡とされる大田2-2-16はこの台地上に乗っていた。主郭部・曲輪は台地上、堀は後背湿地に元荒川の水を取り入れ、自然を生かした縄張りとなっている。



久伊豆神社由緒
鬱蒼とした社叢に覆われた参道を進む。枯山水の庭があった。この社には一度訪れたことがあるのだが、すっかり記憶から抜け落ちていた。拝殿にお参り。
境内にあった案内には「岩槻市総鎮守 御祭神大国主命 久伊豆神社は、今を去る千三百年前、欽明天皇の御代出雲の土師連の創建したものと伝えられる。その後相州鎌倉扇ヶ谷上杉定正が家老太田氏に命じ、岩槻に築城の際城の鎮守として現在地に奉鎮したといわれている。江戸時代歴代城主の崇敬厚く、特に家康公は江戸城の鬼門除けとして祈願せられた。
神社境内は城址の一部で、元荒川が東北に流れ、市内でも数少ない貴重な社叢として知られている。
明治八年一月十一日、火災に遭い、時の城主、町民より寄進された社殿等烏有に帰し、現社殿は、その後氏子崇敬者の誠意により再建されたものである。現在神域は次第に整い、神威はいよいよ高く神徳ますます輝きわたり岩槻市総鎮守として広く人々の崇敬をあつめている」とある。
久伊豆神社・香取神社・氷川神社
『幻の江戸百年:鈴木理生(ちくまライブラリー)
久伊豆神社の名前をはじめて知ったのは、鈴木理生さんの『幻の江戸百年:鈴木理生(ちくまライブラリー)』を読んだとき。関東における神社の祭祀圏がクッキリとわかれ描かれていた。利根川から東は香取神社。利根川の西の大宮台地・武蔵野台地部には氷川神社。この香取・氷川の二大祭祀圏に挟まれた元荒川の流域だけに80近い久伊豆神社が分布する。
大国主
香取神社の祭神はフツヌシノオオカミ(経津主大神)。荒ぶる出雲の神・オオクニヌシ(大国主命)を平定するために出向いた神。氷川神社の祭神はスサノオ・オオナムチ(オオクニヌシ;大国主命)・クシナダヒメといった出雲系の神々。が、この久伊豆神社の由来はよくわからないと書かれていた。
未だによくわからないのだけれど、以下妄想:この社の由緒には御祭神は出雲の神・オオクニヌシ(大国主命)とある。これでは氷川神社の出雲系の神を祖先神として武蔵国に入った部族と違いがよくわからない。違いのヒントは?と、由緒に出雲の土師連の創建とある。





土師連
出雲の土師連創建といえば、鷲神社の系の由来と同じである。久伊豆神社の祭祀圏とほぼ同じ(東西に少しはみ出してはいるが)元荒川流域に鷲宮神社、大鷲神社、大鳥神社などと言う名で祀られる。土師宮とも称される鷲神社系の祭神は天穂日命とその子の武夷鳥命、および大己貴命。天穂日命って、アマテラスの子供。大国主を平定するために出雲に出向くが、逆に大国主に信服し家来となり、出雲国造の祖となった、とか。土師連創建の久伊豆神社が大国主命を御祭神とするのはこういった事情だろう。
なんだか面白い。氷川、香取、久伊豆、これらすべて核に大国主命がいる。大国主を祖先神とする氷川、大国主を平定しようとする香取、その間に大国主を平定しようとするが逆に信服した久伊豆。国津神(国造系)の氷川、天津神(天孫系)の香取、天津神から国津神(天孫系から国造系)となった久伊豆と読み替えてもいいかもしれない。
国津神系(国造)と天孫系(中央朝廷)の間に位置するのが、天孫系から国津神系となった久伊豆創建の土師連の祖先神。が、ここでもうひとつひねりがあるようだ。土師連の「連」とは天孫族であることの証明といったもの。もとは土師臣(天皇直属の部;技術者集団)であったものが、ある時期から「連」のカバネとなっている。ということは、土師氏の祖先神は天孫系から国津神系に一度はなったが、最終的には天孫系に戻ったと、と言える(?)かもしれない。国津神系の氷川祭祀圏と天孫系の香取祭祀圏の間に、国津神系と天孫系の間をとりもつような久伊豆や鷲神社系の神を祖先神とする部族がいたということだろうか。すべて素人の妄想であるが、それなりに結構面白い。


元荒川堤防に
久伊豆神社を離れ、大宮台地岩槻支台の東端辺りを成り行きで元荒川の旧流路跡に戻る。調整池なのか遊水池なのか治水施設がある。国土地理院の治水地形分類図と合わせてみると、池の幅が丁度元荒川旧流路の河川敷の幅のようだ。衛星写真でもそれが見て取れる。
先に進むと元荒川にあたる。旧流路らしき水路が元荒川に合わさるが、遊水地に水門があったので、そこから排水する流れかと思える(根拠はない)。

元荒川の土手を進む。東武野田線を潜り、少々ブッシュとなった箇所もあるが力任せに進むと岩槻橋西詰に出る。岩槻橋から先は土手を進むことはできない。上述治水地形分類図を見ると、岩槻橋の少し北辺りから自然堤防の微高地が氾濫平野となっている。氾濫平野とは河川の堆積作用によって形成された起伏の小さい低平地、有り体に言えば過去の洪水により造られた平野(氾濫原)で、地図では元荒川右岸のひとつ下流の岩槻大橋辺りまで氾濫平野が河川に沿って細長く続いているが、現在は護岸工事されたのであろう、それらしき風情は認められない。

岩槻城跡
岩槻橋を走る県道2号を右折し、最初の交差点の少し手前にある遊歩道を左に折れ、岩槻城址公園に向かう。道なりに進み、左手に城址公園の菖蒲池の見える辺りで城址公園に入る。池の畔には紅葉も残っていた。







白鶴城址碑
いつだったかこの城跡に訪れたことがある。おぼろげな記憶を頼りに城門のあった場所に向かう。途中に「白鶴城址碑」。白鶴城の由来は、この城を築いた(異説もある)とされる大田道潅が、二羽の白鳥が木の枝を沼に落としその上に舞い降りたことから、竹を束ねて沼を埋め盛土をして城を築いたことによる。ために「竹たばの城」「浮城」とも称されるようである(Wikipedia)。





空堀
成り行きで進むと左右に空堀が見える。結構深い。後でわかったことだが、この下に北条氏築城の特色ともなっている障子堀(箱根越え・西坂の山中城跡で出合った)が埋められており、現在より3mも深かったとのことである。なおまた、この空堀は新曲輪(北側というか内側)と鍛冶曲輪(南側というか外側)を画する、と。






岩槻城裏門
空堀に沿って進むと車道に出る。その角に新曲輪と書いた石碑が立っていた。車道に沿ってあったよな、と微かな記憶を頼りに道を進み岩槻城裏門に。案内を簡単にまとめると、 「門扉を付けた本柱と後方の控柱で屋根を支える薬医門形式の岩槻城城門。江戸時代の明和7年(1770年)に当時の岩槻城主大岡氏が建立し、文政6年(1823年)に補修の手が加えられたことが、ホゾの墨書銘に記される。城内での所在位置は不詳で、「裏門」とのみ伝えられている。廃藩置県に伴う岩槻城廃城後、個人に払い下げられたが、昭和55年(1980)に市に寄贈され、現在地に移築復原された。門扉右の袖塀はこの時付け加えられた。


岩槻城城門
更に車道を進むと岩槻城城門。案内をまとめる;「門扉の両側に小部屋を付けた長屋門形式の城門。木材部分が黒く塗られており「黒門」とも称される。城内での本来の位置は不明だが、三の丸藩主居宅の長屋門の可能性が高いとされる。
岩槻城廃城(1871年)後、浦和に移され、埼玉県庁や県知事公舎の正門、岩槻市役所の通用門などに利用されたが、昭和29年(1954)岩槻市に払い下げられ、昭和45年岩槻公園内の現在地に移築された」。
岩槻城縄張案内
岩槻城城門から菖蒲池方面に向かうとすぐ傍に往昔の岩槻城の縄張り図とその解説がある。前述の岩槻城縄張り図とはここに掲載されていたものである。解説には;
「埼玉県指定史跡岩槻城跡 岩槻城は室町時代の末(15世紀中頃)に築かれたといわれています。江戸時代には江戸北方の守りの要として重要視され、有力譜代大名の居城となりました。
戦国時代には何回も大改修が行われ、戦国時代の末期には大幅に拡張されました。本丸・二の丸・三の丸などの城の主郭部、その周囲を取り囲む沼の北岸に位置する新正寺曲輪、南岸に位置する新曲輪という、3つのブロックから構成されていました。さらに城の西側及び南側の一帯には武家屋敷と町家、寺社地からなる城下町が形成・配置され、その周囲を巨大な土塁と堀からなる大構が取り囲んでいました。
この岩槻公園のあたりは、そのうちの新曲輪部分にあたっており、その大部分が埼玉県史跡に指定されています。新曲輪は戦国時代末の1580年代に、豊臣政権との軍事対決に備え、その頃岩槻城を支配していた小田原北条氏が岩槻城の防衛力を強化するために設けた曲輪と考えられ、新曲輪・鍛冶曲輪という二つの曲輪が主郭部南方の防備を固めていました。
明治維新後、開発が進んで城郭の面影が失われている主郭部とは対照的に新曲輪部分には、曲輪の外周に構築された土塁、発掘調査で堀障子が発見された空堀、外部との出入り口に配置された二つの馬出しなど、戦国時代末期の城の遺構が良好な状態で保存されています。
曲輪;城郭を構成する区画
土塁;土塁は土を土手状に盛り上げた防御施設。堀は地面を細長く堀り窪めた防御施設。多くの場合、堀を掘った土で土塁を造る。
堀障子;堀の底に設けられた障害物の一種。
馬山し;城の出入り口外側に設けられた施設で、出入り口の防備を固め、敵の城内への侵入を防ぎ、味方の出撃を容易にする」とある。

大田道潅
この解説ではあっさりと記されていた、室町時代の築城から小田原北条の支配までの間を補足する。

先回この城跡公園にあった解説を目にした解説には「岩槻城は室町時代に築かれた城郭。築城者については大田道潅とする説、父の大田道真とする説、そして後に忍(現行田市)城主となる成田氏とする説など様々。16世紀の前半には太田氏が城主。が、永禄10年(1567年)、三船台合戦(現千葉県富津市)で大田氏資が戦死すると小田原の北条氏が直接支配するところとなる」とあった。
築城は大田道潅とするのが通説のようだが、この地に城を築いた理由は下総古河に拠を構える古河公方に対するため。室町幕府は関東統治のため鎌倉に鎌倉公方を置き関東管領がそれを補佐したわけだが、両者に軋轢が起き公方は古河に逃れ古河公方と称した。古河公方の勢力範囲は利根川以東。上杉管領方はおおむね利根川以西。昔の荒川筋、利根川筋などが乱流する低湿地帯を挟んで両陣営が対立することになる。
大田道潅は関東管領上杉氏の重臣としてこの地に城を築いた。江戸城、川越城とともに古河公方に対する戦略的拠点ともされる。前面に流路定まらぬ元荒川(本来の荒川)、古利根川(本来の利根川)のつくった低湿地を配した、天然の要害ではあったのだろう。
大田氏と岩槻城
岩槻城は道潅が主家扇谷上杉氏の謀略により憤死した後、一時期古河公方の城となるも、大永2年(1522)大田資頼がこれを奪還。資頼は江戸系と岩槻系に分かれた道潅の子孫、岩槻系の武将。道潅のひ孫にあたる。
その後、岩槻城は関東管領上杉氏勢として、武蔵支配を目指し侵攻する小田原北条氏に抗する。天文⒖年〈1546〉の有名な「川越夜戦」により北条氏の関東支配が決定的になった後も、資頼の子資正は北条に抗するが永禄7年〈1564〉、資正の嫡子氏資が北条に内応し、以降北条方となった。以降は上掲解説の通りである。
縄張り
公園にあった解説には、「岩槻城が築かれた場所は市街地の東側。元荒川の後背湿地に半島状に突き出た台地の上に、本丸・二の丸・三の丸などの主要部が、沼地をはさんで北側に新正寺曲輪、沼地をはさんだ南側に新曲輪があった。
主要部の西側は掘によって区切られ、さらにその西側には武家屋敷や城下町が広がっていた。また城と城下町を囲むように大構が建てられていた。 岩槻城の場合、石垣は造られず、土を掘って掘をつくり、土を盛って土塁をつくるという関東では一般的なもの」とあった。
国土地理院の治水地形分類図と見比べると、前述の如く、主要部は大宮台地・岩槻支台、堀は後背湿地と重なるように思える。自然を生かした縄張りとなっている。土塁は先回の岩槻散歩の時、愛宕神社で大構跡に出合った。
堀障子(ほりしょうじ) 
岩槻城縄張案内のある場所から菖蒲池へと向かうと、すぐ右手に空堀が見え、手前に堀障子の案内。「堀障子(ほりしょうじ) 現在地は新曲輪と鍛冶曲輪との間の空堀である。 発掘調査の結果、掘底まで3メートル程度埋まっており掘底には堀障子ほりしょうじのあることが確認された。
堀障子は畝(うね)ともいい、城の堀に設けられた障害物のことである。堀に入った敵の移動をさまたげたり,飛び道具の命中率を上げることなどを目的として築かれたと考えられ、小田原の後北条氏の城である小田原城(神奈川県)、山中城(静岡県)や埼玉県内の 伊奈屋敷跡(伊奈町)などからも見つかっており後北条氏特有の築城技術とみられている。
岩槻城跡では三基の堀障子が見つかっており 底そこからの高さ約90センチ,幅が上で90センチ,下で150センチあり その間隔かんかくは約9メートルあった。 この遺構発見で、堀が戦国時代の終わり頃に後北条氏 によって造られたことなど様々な事が判明した」とあった。
遊歩道となった空堀の中を進み、途中先ほど出合った空堀を左右に分ける通路を上り下りし、元荒川に沿った車道へと戻る。

大野島水管橋
元荒川右岸を新曲輪橋、新岩槻大橋の西詰を抜け岩槻文化公園に。治水地形分類図を見ると後背湿地帯となっている。公園に池も残るが沼の痕跡ではあろう。明治の関東平野迅速図には「葦」といった記述もされている。
現在はきれいに整備された公園を進む。行き止まりにならないかと少々心配しながらではあったが、公園から堤防に戻る道がついていた。
堤防を進むと大野島水管橋がある。歩行者も渡れるようなので、何気なく左岸に渡る。橋を下りた県道325号手前に地蔵が彫られたような石碑が立つ。慈恩寺道を示す道標とのことである。この水管橋のあたりに村国の渡しがあったという。それと関係あるのだろうか。
慈恩寺
坂東観音霊場12番の札所。天長年間(824~34)慈寛大師の草創という。慈覚大師・円仁。下野国の生まれ。第三代比叡山・天台座主。最後の遣唐使でもある。慈寛大師にはて、いままでの散歩で、鎌倉の杉本寺、目黒不動・龍泉寺、川越の喜多院などで出合った。
慈恩寺は往時本坊四十二坊、新坊二十四坊といった大寺ではあったよう。境内も13万坪以上あった、と。このあたりの地名が慈恩寺と呼ばれているのはその名残りであろう。 江戸期には徳川家の庇護も篤く家康より寺領100石を賜っている。また、本尊は天海僧正の寄進によるもの、とか。ともあれ、天台宗の古刹であった。『坂東霊場記』に「近隣他境数里の境、貴賎道俗昼夜をわくなく歩を運び群集をなせり」、と描かれている。

金山堤
左岸堤防に沿った道を進むと、左手斜めから元荒川堤防に向かって雑木林が続く。当日は何だろうとは思いながら歩を進めたのだが、メモの段階でチェックするとそれは往昔の利根川の流れが造った自然堤防・微高地の名残であった。金山堤と称され奥州古道の道筋でもあった、と。



国土地理院「治水地形分類図」をもとに作成
先般の散歩では大落古利根川流路を辿り、春日部から古隅田川を元荒川との合流点と思しき南平野5丁目の大光池辺りから元荒川の堤防に出たのだが、国土地理院の治水地形分類図によると利根川の旧流路(古隅田川)は南平野5丁目で元荒川に最接近した後、逆S字を描いて更に南に下っていた。元荒川へと繋がる雑木林はその逆S字に沿った自然堤防であった。Google Mapの衛星写真で見ると、樹林帯背後の自然堤防上には民家が建ち並んでいる。先般であった大光寺に続き、3つの香取神社も鎮座する。洪水を避け自然堤防上に神も人も住まいする、ということだろう。

武蔵第六天神社
元荒川左岸を進む県道325号から右に折れ道を進むと第六天神社がある。この辺りが上述金山堤、古利根川の旧流路がつくった自然堤防が元荒川筋にあたる。往昔の古利根川と元荒川の合流点ということだろう。
社にお参り。結構な参拝客だ。最近新築されたのか拝殿が新しい。由緒を見る。「主神;面足尊(おもたるのみこと)と吾屋惶根尊(あやかしこねのみこと)
合祀神;経津主命(ふつぬしのみこと)・別雷神(わけいかづちのみこと)・市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)・ 熊野久須美命(くまのくすみのみこと)・家津御子命(けつみこのみこと)・速玉男命(はやたまおのみこと)
その昔、岩槻城下の繁栄を極めたる当時、江戸城の忌門寺として有名な華林山慈恩寺や、日光廟に往来した諸人は、日光街道を曲げて現在の元荒川沿いを下って岩槻城外の第六天神社に奉拝したといわれる。
武蔵国第六天の一として、古来より火難除け・盗賊除け・疫病を除去し、以て家内安全、五穀豊穣、商売繁盛の霊験著しく、江戸界隈の人たちや武蔵国の諸処から、崇敬者が加わり、今日では県内を始め、千葉県・茨城県・栃木県・群馬県・東京都の関東各地より講中を結成し、毎年三月より五月にかけて、大神の御加護を賜りて、自家の安泰と吾人永遠の幸福を祈り奉らんと、御眷属・授与品である天狗の神額を綬ける参拝者でにぎわい、一陽来福を祈る個人参拝者は全国より四季絶えることなく綿々と続き、これ偏に広大無辺、神徳無量なる御神徳と御威光の賜と存じております。
当社の創建は第119代光格天皇の御代、天明二年六月十五日の御鎮祭と伝えられており、 明治四十年六月二十八日、村社香取神社・無格社鳴雷神社・無格社厳島神社・無格社熊野神社を合祀し、 現在に至っております。
尚、境内には、樹齢数百年と言われる藤の花を始め、躑躅。牡丹・西洋藤・紫陽花が咲き乱れ、岸頭には桜並木が続き、門前には川魚料理家が建ち並ぶ埼玉の自然百選に認定された観光名所となっております」とあった。
第六天魔王
第六天神社も不思議な社である。祭祀圏は東日本に限定され、静岡・山梨以西に第六天神社は見当たらない。その因は?
神社という名称は明治以降のことというから、第六天の社とでも称されたのかと思うが、その主祭神は面足尊(オモダル)と吾屋惶根尊(アヤカシコネ)とされるが、それは明治の神仏分離令以降のこと。それ以前の神仏習合の時代は第六天魔王を祀ったとされる。
そしてその第六天魔王の化身と称したのが織田信長。Wikipediaに葛飾北斎が描く「仏法を滅ぼすため釈迦と仏弟子たちのもとへ来襲する第六天魔王」の絵があるが、信長の叡山焼き討ちなどを合わせてみれば、自身を第六天魔王(仏道修行を妨げる魔)とするのは頷ける。
それはともあれ、西日本に第六天が無いのは、信長の信奉した第六点の神威を恐れた秀吉が、勢力圏であった西日本の第六天の社を悉く廃社としたため、とWikipediaにある。なんとなくしっくりこない。
神世七代の第六天
天皇親政にそぐわない明治政府の方針故との記事も見る。これも東国は政府の威令に従わなかった故とする。アマテラスとその親であるイザナギ、イザナミをその祖先神とする天皇家を中核に置いた明治政府にとって、第六天魔王と習合された第六天神の社の主祭神である面足尊(オモダル)と吾屋惶根尊(アヤカシコネ)は「不適切」な存在であったとする。
日本神話において天地開闢のとき生成した七代の神・神世七代(かみのよ ななよ)において、足尊と吾屋惶根尊は第六代、イザナギ、イザナミは第七代。天皇の祖先神より古い神がいることは、恰好がつかない、といったところだろうが、この説もなんとなくしっくりこない。
魔王の力で悪霊を鎮める
とりあえず祭祀圏偏在の因は少し寝かしておくことにして、この社について;社の創建は天明二年〈1782〉と結構新しい。創建の背景は病魔や飢饉がその背景にあるのでは、との記事も多い。天魔故、それを祀ることによりその霊力でもって安寧を祈ったとする。天明3年(1783)には浅間山の大噴火、それにともなう大飢饉に見舞われており、何となく納得できる。
案内には関東各地から講を組み参詣したとする。この地域限定の社ではなく、その威は関東各地に及んでいたようで、各地に第六天を祀るに際し、この武蔵第六天を勧請したとも言う。
尚また、眷属を天狗とするのは神仏習合の時代、その基盤となった密教、そのうちの雑密である修験道との関りを感じさせる。

末田須賀堰
県道325号に戻り、少し進み永代橋北交差点を右に折れ、県道214号に乗り換え元荒川に架かる永代橋に進むと末田須賀堰がある。この堰は大戸の堰と呼ばれた歴史のある堰であり、堰き止められた水は溜井となり左岸は須賀用水、右岸は末田用水となって下る。また溜井により水位の上がった元荒川は、上流3キロ程までのいくつかの用水への水の供給源であったようだ。舟運の河岸もあったとのこと。
最初に堰が設けられたのは慶長19年(1614)頃と言う。寛永9年(1629)、荒川の背替えが行われる。ために、源頭部を失った元荒川の水量が減少。この堰で水を停めることにより、更に下流の越谷に設けられた瓦曽根溜井の水が不足し、その対策として水を利根川に求め逆川が開削されることになった、とのことである。
いつだったか逆川を訪ねたことがあるが、その開削に関わる堰であった。歩けばあれこれと繋がるものである。
須賀用水
末田用水
元荒川右岸を野島・砂原・西新井・七左・大間野を経て綾瀬川に注ぐ
須賀用水
元荒川左岸を、三野宮・大町・恩間・間久里・大間の灌漑に供した






 ●御定め杭
永代橋皆南詰にある遊歩道に御定め杭がある。寛延三年(1750)建立。元は右岸少し下流にあったものが、平成4年の堰改修の折、ここに移された。
「此定杭頭ヨリ石堰上端迄八尺五寸下リ」と刻まれるとのこと。堰の高さを定めるもの。堰が高ければ貯水量が増え下流用水への流量が増えるが、上流域は水位の上昇で排水不良となる。その上・下流の利害調整のため堰の高さを定めている。
上に溜井で堰止められ、水位を上げた元荒川の水は上流3キロほどの用水に供したとメモしたが、水位が高ければいいというわけでもなかった。用排水のバランスのいい水位上昇を定めていたのだろうか。
なお、「石堰」とはあるが、基礎に石をおき、その上に小石を詰めた蛇籠を並べた洗堰ではあったのだろう。

地蔵尊と馬頭観音
武蔵第六天参道と刻まれた石柱の立つ橋詰めから永代橋交差点を左に折れ、県道48号に入るが直ぐに県道から左に分かれる道に入る。特に理由はないのだが、地図にお寺さまのマークがふたつあったので、ちょっと訪ねてみようと思った。少し進むと道傍(旧岩槻道)に二体の石仏が立つ。Google Mapには地蔵尊と馬頭観音とある。大きい石仏は堰安全祈願碑とも言われる。


金剛院
道なりに進むと、左手に落ちついた門が見える。金剛院の仁王門。仁王門を潜り境内に入り本堂にお参り。
仁王門と金剛力士像
門傍にあった解説を簡単にまとめると、「金龍山妙音寺。元は岩槻にあり金剛坊と称したが寛正年間(15世紀中頃;室町後期)この地に移り金剛院と称した。
天正19年〈1591〉には家康から寺領10石の御朱印状を賜り、常法談林として僧侶を教化し、武蔵国移転寺十一か寺の一として由緒ある格式を誇る。
仁王門は、元禄10年(1697年)には、将軍徳川綱吉の生母桂昌院の寄進と伝えられ、簡素な造りではあるがが、三段に組み込まれた重木や屋根の形などに、当時の優雅な名残を伝えている建築です。屋根瓦の大部分を失っているのは惜しいが、堂々とした風格をもつ。
門の左右に配された阿吽の金剛力士像は、共に江戸時代前期の作と思われ、寄木造り、玉眼嵌入、胸上で着手式とし、体幹部は左右二材を基本として、各々補材を充て、仕上げは下地漆の上に布着せを行い彩色されている。
阿形は左手に金剛杵を執り、右手を力いっぱい広げて降ろし、吽形は左手を広げ挙げ、右手は強く握って降ろすという一般的な形だが、胸や腕、背中の筋力の表わし方や、均整のとれた姿態はこの時期のものとして優れた出来栄えを示し、昭和56年5月12日に、市指定文化財となっている」と。
談林は仏教学問所。常法ははっきりしないが、公の、とか正式の、といった意味だろうか。武蔵国移転寺と格式の関係は不明。

浄山寺
道を進むと行政域はおおみや市岩槻区を離れ越谷市に入る。道脇に道標と、「野島地蔵尊 浄山寺」の案内。なんとなく地蔵尊の言葉に引かれて右に折れちょっと立ち寄り。朱塗りの山門を入ると境内には朱塗りの鐘楼。あまり見かけない。
本堂にお参り。国の重要文化財に指定されている木造地蔵菩薩立像を本尊とする。毎年2月と8月の2回御開帳されるようだ。鰐口も大きなものであり、岩槻市の文化財に指定されている。
境内にある由緒や解説を読むと、ご本尊は江戸の頃から出開帳で評判を集めていたようだ。「早く行きたい 野島の地蔵に 好い子出来るように願がけに」と詠われた、とも。 「武州埼玉野島地蔵尊於湯島天神境内開帳之図」と呼ばれる三枚つづりの浮世絵も発売された。人気のほどが窺える。
なお、この地蔵菩薩が文化財として評価されたのはそれほど昔のことではない。平成23年(2010)の東日本大震災で倒れ両足が損壊。修復の過程で平安初期の木彫像に多いかや材を使った一本づくりであることなどから平成26年(2013)県の文化財、そして平成28年(2015)には地蔵菩薩としは屈指の古例であるとして国の文化財として指定されたようである。
木造地蔵菩薩立像
「本尊。縁起では貞観二年(八六〇)、天台宗の高僧・慈覚大師円仁が浄山寺(当時は慈福寺)を建建した折、自ら彫った三体の仏像の一体と言う。
古くから安産・子育ての「野島の地蔵尊」として信仰を集め、江戸時代には湯島天神で出開帳を行い大変な盛況であったと記録にある。一木造。肉付豊かな体躯、深く鋭い衣文表現に平安前期の特色をよく見せ9世紀前半に遡る可能性があり、地蔵菩薩像の屈指の古例として重要であることから国の重要文化財に指定されている(境内解説の重複を省きまとめる)」

浄山寺の御朱印状
「野島浄山寺は、貞観二年(八六〇)慈覚大師の建立、本尊延命地蔵尊は大師一刀三礼の作と伝えられる。もと天台宗に属し慈福寺と号したがのち曹洞宗に転じ寺号も浄山寺と改められた。
天正十九年(一五九一)德川家康が当寺に詣でた折、寺領として三〇〇石を寄進したが、時の住職はこの寄進を過分であると辞退、それで家康は懐紙をとりだし高三石と記して住職に与えた。このため家康の朱印状を「鼻紙朱印状」と呼んだと伝える。なお、当寺には二代秀忠を除き、代々の朱印状が保存されている。 越谷市教育委員会掲示」

野島浄山寺の大鰐口
「大鰐口は天保12年〈1841〉に奉納されたもので厚さ二尺(60センチ)、直径六尺(176センチ)、重量二百貫(750kg)という全国でも稀にみる大きさである」
鰐口の表面には80名ほどの奉納者の名が刻まれており、在所は江戸から粕壁など広範囲に渡る。「大鰐口」の解説にも、「本尊の木造地蔵菩薩の出開帳を安永7年(1778)頃より行い評判を得、天明5年〈1785〉には同所を出張所と定めている。その間にも関東一円に出開帳し信者は各地に広がった(境内解説の重複を省きまとめる)」とあるが、このお寺様への関東各地の人々の信仰のほどが窺える」。

三野宮橋
浄山寺を離れ元荒川筋に戻る。途中、地図に浄山寺の南を走る水路を確認にちょっと立ち寄り。金剛院の南、末田鷲神社あたりから野島久伊豆神社を経て浄山寺の南へと続く水路が地図にあったため。水路自体は小さな溝状のものであったが、メモの段階で治水地形分類をみると、旧流路跡が描かれていた。元荒川の旧流路のように思える。社寺は川筋を避けて自然堤防上に並んでいた。
水路を確認し元荒川に架かる三野宮橋を渡り左岸に移る。
野島
野島の由来は、「シマ」は耕地を指すようで、野の中の耕地からとする。

一乗院
元荒川の左岸を進む。自然堤防には三野宮香取神社が建つ。冬の日暮れは近い。気になりながらもパスし道を進むと一乗院がある。 山門もないようだが、取敢えず境内に。参道左手に大きな石碑があった。明治23年(1890)の洪水に際し、排水を巡る地元人の紛争に巻き込まれ殉職した巡査。左岸の三野宮・大道が洪水で冠水。恩間の古堰を開けて排水する、しないで恩間の住民と騒動になった、と言う。本堂にお参り。
一乗院の建具
境内に「一乗院の建具」の解説がある。建具とは一枚板戸や欄間のとのことだが、「慶長15年(1610)、家康が建てた神奈川御殿の建具。元禄10年〈1697〉、将軍綱吉の母・桂昌院が金剛院に寄進したものであるが、平成11年()、一乗院の本堂再建に際し金剛院から譲り受けた、とあった。
三野宮
元仁元年(1224)源頼朝の妻政子のよる建立とされ、本尊の阿弥陀如来は、政子の安心仏とも。
室町中期、豪族三之宮氏の供養を一乗院で行われた、ために地名が風早村から三之宮に改められ、山号寺号も「稲荷山一乗院」と改名されたと伝えられる。
なお、三野宮の地名は、応永11年(1404)、将軍足利義満の三男(三の宮)が亡くなったとき、この地に三の宮稲荷大明神を祀った故とも伝わる。




東武東上線大袋駅
日も暮れ始めた。最寄りに駅の東武東上線・大袋駅に向かう。元荒川左岸を少し進み左に折れ、一直線に大袋駅へと抜ける、如何にも再開発地といった辺りを進む。左手には大きな調整池が見える。
その先になんだか奇妙な地形が現れる。土手が民家の間に数回、南北に続く。人工的に土手を築く必要もないよな、自然堤防?などと思いながらも、当日は大袋駅に急いだ。


元荒川旧路の自然堤防
国土地理院「治水地形分類図」をもとに作成
メモの段階で件(くだん)の国土地理院。・治水地形分類図を見ると、元荒川の堤防から駅までの間に5つの自然堤防が描かれていた。また、調整池は後背湿地の南端でもあった。
現在は河川改修により直線化されている(宝永3年;1706)元荒川であるが、治水地形分類図に描かれる旧流路は駅へと左に折れた少し下流から大袋駅を取り囲むように大きく蛇行している。いくつもの自然堤防があるのは、流路定まらぬ暴れ川故のことだろうか。
国土地理院1961空中写真をもとに作成;左上が大袋
昭和31年(1961)の国土地理院・空中写真にも、自然堤防上に並ぶ民家がみえる。窪状の影の影のように見える弧は旧流路の痕跡だろうか。また、現在の衛星写真(注;Google Mapを衛星モードに切り替えてください)にも旧流路の痕跡らしきものが見える。大袋駅から元荒川にかけての宅地は、見事なくらい自然堤防の内側に密集しているのが、それ。自然堤防より元荒川側は後背湿地であり氾濫原。人が住むには適していなかったのだろう。調整池あたりに開発されている再開発地は、氾濫原を商業地とする計画であろうか。
また、幾筋もある自然堤防の多くは宅地化で明瞭な土手は散歩では見えなかったが、衛星写真には南北に続く微かな緑の帯が、密集した宅地の中に続いていた。往昔の自然堤防跡かとも思える。
河畔砂丘
自然堤防の内側には河畔砂丘がある、という。河畔砂丘は会の川古隅田川など、古利根川散歩の折に触れて出合った。利根川特有のものであり、それゆえ元荒川が古利根川の旧流路とされる所以でもあるが、宅地化が進むこの地ではこれだ、と確認することはできなかった。
袋山
因みに大袋駅はかつての大袋村から。大竹、大道、袋山村などが合併してできた村。その中で、かつて蛇行していた元荒川に囲まれた地域が袋山村。文字通り元荒川が袋の様にこの地を囲み、押し流されてきた砂が山のように積み重なった故の命名であろう。ということは、往昔の袋山村は現在と異なり、元荒川右岸にあった、ということだ。 ついでのことながら、袋山と自然堤防を境に接する恩間も、もとは押し廻し、から。元荒川が土砂を押し廻したのだろう。
これで今回の散歩のメモは終わり。次回は大袋駅から越谷へと下る。

見沼散歩の二回目。今回は見沼通船堀・八丁堤の西端からスタート。見沼代用水西縁を起点に芝川経由で見沼代用水東縁に。そこから上流・見沼公園に向かう。見沼田圃を先回とは逆方向から見れば、なんらか新たな発見が、といった心持ち。その後北向きの歩みを、どこかで適当に切り上げ、南に折り返す。歩くなり、または成り行き次第で電車に乗るなりして、最後の目的地伊奈氏の赤山代官跡に進もう、と。

赤山代官跡って、外環道路のすぐそば。一体全体、どういった雰囲気のところにあるのか、興味津々。伊奈氏は見沼溜井を作り上げた治水のスペシャリスト。玉川上水工事をはじめ、散歩の折々で顔を出す名代官の家系。先日たまたま読んだ新田二郎著『怒る富士』にも関東郡代・伊奈半左衛門が登場。宝永の大噴火で田畑を埋め尽くされた農民を救済すべく奮闘する姿が凛として美しかった。見沼散歩の仕上げとしては、伊奈氏でクロージングのが「美しかろう」とルートを決めた。

伊奈氏について、ちょっとまとめる。堀と堤は時代が異なる。先日の散歩メモの繰り返しにはなるのだが、頭の整理を再びしておく。

見沼のあたり一帯は、芝川の流れによってできた一面の沼というか低湿地。これを水田の灌漑用水として活用しようとつくったのが八丁堤。大宮台地と岩槻台地が最も接近するこの地、浦和の大間木と川口の木曽呂木の間、八丁というから、870mにわたって土手を築く。流れを堰き止め、灌漑用の溜井(たるい)としたわけだ。この工事責任者が伊奈氏。しかしながら、この溜井、灌漑用の池としては十分に機能しなかった、よう。全体に水量が乏しかったこと。また、溜井の北の地区には農業用水が供給されなかった。にもかかわらず、雨期にはそのあたりは洪水の被害に見舞われた、といった有様。見沼はこういった問題を抱えていた。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

見沼溜井を干拓し水田に変える試みがはじまる。上でメモした諸問題があったこともさることながら、それ以上に、当時水田開発が幕府の大いなる政策課題となっていた。幕府財政逼迫のためである。で、米将軍とも呼ばれた八代将軍・吉宗の命により、水田開発の切り札として吉宗の故郷・紀州から呼び出されたのが、伊沢弥惣兵衛為永。見沼溜井の干拓に着手。まず、芝川の流路を復活させる。溜井の水を抜き溜井を干拓する。ついで、灌漑用水を確保するため、用水路を建設。はるか上流、利根川から水を導く。これが見沼代用水。見沼の「代わり」とするという意味で、「見沼代」用水、と。で、代用水を西と東に分流。新田の灌漑用水路とするため、である。これが見沼代用水西縁と見沼代用水東縁。この西縁と東縁を下流で結んだ運河のことを見沼通船堀、という。目的は、代用水路を活用した船運の整備。代用水路近辺の村々と江戸を結んだ、ということだ。

本日のルート:
武蔵野線・東浦和駅 > 見沼通船堀公園 > 見沼通船堀西縁 > 八丁堤 > 附島氷川女体神社 > 芝川 > 見沼通船掘東縁 > 木曽呂富士塚 > 見沼代用水東縁 > 武蔵野線 > 浦和くらしの博物館 > 大崎公園東 > 見沼代用水縁 > 国道46号線交差 > 東沼神社 > 川口自然公園 > 武蔵野線にそって東に > 東北道 > 北川口陸橋 > 石神配水場 > 妙延寺地蔵堂 > 外環交差 > 赤山陣屋跡 > 山王社 > 源長寺 > 新井宿 


武蔵野線・東浦和駅

武蔵野線・東浦和駅下車。駅前の道を南に附島橋の方向に進む。すぐ東浦和駅前交差点。東に折れ、ゆるやかな坂道をほんの少しくだると水路にあたる。見沼代用水西縁。見沼通船堀公園の西縁でもある。公園の南縁は八丁堤の土手。土手の上には赤山街道が走る


見沼通船堀

通船堀を進む。土手道・八丁堤は堀の南に「聳える」。竹林が美しい。土手の向こうはどういった景色がひろがるのか、附島氷川女体神社に続く道筋をのぼる。赤山街道に。赤山街道、って関東郡代伊那氏が陣屋を構えた川口の赤山に向かう街道。年貢米を運んだ道筋、ってこと、か。赤山街道、とはいうものの、現在では車の行きかう普通の道路。道の南とは比高差あり。土手を築いたわけだから、あたりまえ、か。附島氷川女体神社におまいり。道路わきに、つつましく鎮座する。このあたり附島の地は先回歩いた氷川女体神社の社領があったところ。その関連で、この地に氷川女体神社が鎮座しているので、あろう。

再び通船堀に戻る。しばらく進むと、関がある。これって水位を調節し船を進めるためのもの。東西を走る代用水と中央を流れる芝川には3mもの水位差があった、ため。船が関に入る。前後を締め切る。水位を調節し、先に進む、といった段取り。ありていに言えば、パナマ運後の小型版。パナマ運河より2世紀も早くつくられた。日本最古の閘門式運河の面目躍如。こういった関が芝川に合流するまで二箇所あった。見沼代用水西縁から芝川まで654mほど。見沼通線堀西縁と呼ばれる。

芝川合流点。橋がない。一度赤山街道まで南に下り、といっても、どうという距離ではないのだが、芝川にかかる八丁橋を渡り、芝川の東側に。道に沿って進む。見沼代用水東縁まで390mほど。見沼通船堀東縁、と呼ばれる。その間に2箇所の関があった。西縁は竹林であったが、こちらは桜並木。あっという間に見沼代用水東縁に。


見沼用水東縁・富士塚

突き当たり正面に台地が聳える。なんとなく気になり、たまたま近くに佇む地元の方に尋ねる。富士塚とのこと。どんなものだろう、とちょっと寄り道。赤山街道に戻り、台地南を迂回して富士塚方面に。途中ありがたそうな蕎麦屋さん。あまり食に興味はなにのだが、なんとなく気になり立ち寄ることに。それにしても、このあたりの「木曽呂」って面白い地名。アイヌ語かなにかで、「一面の茅地」といった意味がある、とも言われる。が、定説なし。ちなみに。西縁の大間木の由来は、「牧」から。近くに大牧って地名もある。馬の放牧場があったのだろう、か。

しばし休息し富士塚に。蕎麦屋さんのすく横にあった。高さ5.4m、直径20m。「木曽呂の富士塚」と呼ばれ、国指定の重要有形民族文化財となっている。結構な高さのお山にのぼり、成り行きで見沼代用水への坂道を下る。


浦和くらしの博物館民家園

見沼用水東縁を北に。水路に沿ってしばらく進むと武蔵野線と交差。遠路を越えたあたりで水路からはなれ、「浦和くらしの博物館民家園」に寄り道。芝川と国道463号線が交差するところにある。道筋はなんとなく昔の見沼田圃の真ん中を進むといった感じ。とはいっても田圃があるわけでもなく、一面の草地。調整池をかねているようで、敷地内には入れない。フェンスにそって進む。下山口新田とか行衛(ぎょえ)といったところを進む。行衛って面白い地名。ところによっ ては、「いくえ」って読むところもあるが、ここでは「ぎょえ」。由来定かならず・

「浦和くらしの博物館民家園」に。なんらかこの地域に関する資料があるか、と訪ねたのだが、民家が保存されている公園といったものであった。先に進む。国道の北にある「グリーンセンター大崎」の東側にそって進む。園芸植物園を超えると水路にあたる。見沼代用水東縁。ここからは用水路に沿って南に戻る。 東沼神社
公園があった。大崎公園。先に進む。ちょっと大きな道を越え、どんどん進む。右手には広々とした風景。見沼田圃の風景である。どんどん進む。お寺を眺めながら湾曲する水路に沿って歩く。大きな神社。太鼓の音が聞こえる。その音に誘われ境内に。太鼓や神楽のイベントがおこなわれていた。この神社は東沼神社。結構大きなお宮様。もともとは浅間社。明治期にいくつかの神社を合祀して、東沼神社と。「とうしょう」神社と読む。


武蔵野線から女郎仏に

しばらく神楽の舞を楽しみ散歩に出発。先に進むと左手に公園。川口自然公園。その先に線路が見える。武蔵野線。赤山陣屋への道筋は、大雑把に言えば、武蔵野線に沿って東北道まで進み、その先は南に東京外環道まで下ればいけそう。武蔵野線に沿って残間の地を歩く。電車は台地の切り通しといった地形の中を進む。しばらく進む。東北道と交差する手前で南に折れる。高速道路に沿って下る。西通り橋を過ぎ、大通り橋を越え、北川口陸橋に。陸橋を渡り道路東側に。すぐ南に川筋が。見沼代用水からの水路のようだ。水路の南にはいかにも給水塔、といった建物。石神配水場であった。水路に沿って東に進み配水場を越える。南に下る車道。その道筋を進み、新町交差点に。交差点を東に折れる。少し進むと妙延寺。「女郎仏」がまつられている。昔、いきだおれになった美しい女性をこの地で供養したという。

女郎仏のそばで少々休憩。少し東に進み、すぐ南に折れる。道なりに南に進み、神根中学、神根東小学校脇に。今まで平坦だった地形がこのあたりちょっと、うねっている。学校の南には外環道の高架が見える。赤山陣屋はすぐ近く。外環道の下を南に渡り、落ち着いた住宅街を進む。新興住宅地といったものではなく、洗練された農村地帯の住宅街といった雰囲気。のんびり進むと森というか林がみえきた。地形も心持ち盛り上がっているように思える。微高台地というべきか。道筋から適当に緑地に向かう。赤山城跡に到着した。


赤山陣屋跡

赤山城跡、または赤山陣屋は代々関東郡代をつとめた伊奈氏が三代忠治から十代・忠尊までの163年間、館をかまえたところ。初代忠次は家康入府とともに伊奈町に伊奈陣屋を構えていた。当時は関東郡代という名称はなく、代官頭と呼ばれていた。関八州の天領(幕府直轄地)を治め、検地の実施、中山道その他の宿場の整備、加納備前堤といった築堤など、治水・土木・開墾等の事業に大きな功績を挙げる。常に民衆の立場にたった政治をおこない、治水はいうまでもなく、河川の改修、水田開発や産業発展に貢献。財政向上に貢献した。関東郡代と呼ばれたのは三代忠治から。関東の代官統括と河川修築などの民政に専管することとなる。治水や新田開発のほか、富士山噴火被災地の復旧などに力を尽くす。が、寛政年間、忠治から10代目にあたる忠尊の代に失脚。家臣団の内紛や相続争いなどが原因とか。

散歩のいたるところで、伊奈氏に出会った。川筋歩きが多いということもあり、ほとんどか治水、新田開発のスペシャリストとして登場する。玉川上水、利根川東遷事業、荒川の西遷事業、八丁堤・見沼溜井など枚挙にいとまなし。が、見沼散歩でちょっと混乱した。井沢弥惣兵衛である。はじめは、井沢氏って伊奈氏の配下かと思っていた。が、どうもそうではないようである。互いに治水のスペシャリスト。チェックする。

伊奈氏と伊沢氏はその自然へのアプローチに違いがあるようだ。伊奈氏は自然河川や湖沼を活用した灌漑様式をとる。伊奈流とか関東流と呼ばれる。自然に逆らわないといった手法。一方、見沼代用水をつくりあげた伊沢為永は自然をコントロールしようとする手法。堤防を築き、用水を組み上げる。紀州流と呼ばれた。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

伊奈流の新田開発の典型例としては、葛西用水がある。流路から切り離された古利根川筋を用排水路として復活させる。上流の排水を下流の用水に使う「溜井」という循環システムは関東流(備前流)のモデルである。また、洪水処理も霞堤とか乗越堤、遊水地といった、河川を溢れさすことで洪水の勢いを制御するといった思想でおこなっている。こういった「自然に優しい工法」が関東流の特徴。しかし、それゆえに問題も。なかでも洪水の被害、そして乱流地帯が多くなり、新田開発には限界があった、と。

こういった関東流の手法に対し登場したのが、井沢弥惣兵衛為永を祖とする紀州流。八代将軍吉宗は地元の紀州から井沢弥惣兵衛為を呼び出し、新田開発を下命。関東平野の開発は紀州流に取って代わる。為永は乗越提や霞提を取り払う。それまで蛇行河川を堤防などで固定し、直線化する。ために、遊水池や河川の乱流地帯はなくなり、広大な新田が生まれることに。また、見沼代用水のケースのように、溜井を干拓し、用水を通すことにより新たな水田を増やしていく。用水と排水の分離方式を採用し、見沼代用水と葛西用水をつなぎ、巨大な水のネットワークを形成している。こうした水路はまた、舟運としても利用された。

とはいえ、伊奈氏の業績・評価が揺るぐことはないだろう。大水のたびに乱流する利根川と荒川を、三代六十年におよぶ大工事で現在の流路に瀬替。氾濫地帯だった広大な土地が開拓可能になる。1598年(慶長三年)に約六十六万石だった武蔵国の総石高は、百年ほどたった元禄年間には約百十六万石に増えた、と言う。民衆の信頼も厚く、ききんや一揆の解決に尽力。その姿は上でメモした『怒る富士』に詳しい。最後には、ねたみもあったのか、幕閣の反発も生み、1792年(寛政四年)、お家騒動を理由に取りつぶされた、と。とはいえ、素敵な一族であります。
赤山城は微高台地に築かれている。周囲は低湿地であった、とか。本丸、二の丸、出丸が設けられ自然低湿地を外堀としている。陣屋全体は広大。本丸と二の丸だけで東京ドームと後楽園遊園地を合わせたほどの規模となる。郡代とはいうものの、8千石を領する大名格。家臣も300名とか400名と言うわけで、むべなるかな。城跡を歩く、北のほうは林、中ほどはちょっとした庭園風。南は畑といった雰囲気。あてもなくブラブラ歩き、東に進み山王神社に。そこから赤山陣屋を離れ源長寺に向かう。

源長寺

源長寺。城跡で案内を見ていると、伊奈氏の菩提寺となっている、と。きちんとおまいりするに、しくはなし、と歩を進める。南に下る道を進み首都高速川口線と交差。赤山交差点。東に折れ、江川運動広場を越え、東に折れ、微高地に建つ源長寺に。いまでこそ、ちょっとした堂宇ではあるが、お寺の資料を見ると、明治のころには祠があっただけ、といったもの。伊奈氏の業績を考えれば少々寂しき思い。

新井宿

台地を下り、埼玉高速鉄道・新井宿に。このあたりは日光御成道が通っていた、と。日光御成道、って鎌倉街道中道がその原型。江戸時代に日光街道の脇往還として整備された、文字通り、将軍が日光参詣のときに利用された街道である。道筋は、東大近くの本郷追分で日光街道から離れ、幸手宿(埼玉県幸手市)で再び日光街道と合流する。宿場は、岩淵宿(東京都北区) 、川口宿(埼玉県川口市) 、鳩ヶ谷宿(埼玉県鳩ヶ谷市)、大門宿(埼玉県さいたま市緑区) 、岩槻宿(埼玉県さいたま市岩槻区) 、幸手宿(埼玉県幸手市)。新井宿とは、いかにもの名前。ではあるが、日光御成道に新井宿という宿場名は見当たらない。そのうちに調べてみよう、ということで、地下鉄に乗り家路へ と。

見沼田圃を通船堀に
2009年8月の記事を移す

見沼田圃 見沼田圃を歩こうと、思った。大宮台地の下に広がる、という。大都市さいたま市のすぐ横に、それほど大きな「田圃」があるのだろうか。ちょっと想像できない。が、先日の岩槻散歩の途中、大宮から乗り換えて東部野田線で岩槻に向かう途中、緑豊かな田園風景に接したような気もする。たぶんそのあたりだろう、と、あたりをつけて大宮に向かう。 
見沼と見沼田圃。沼と田圃?相反するものである。これって、どういうこと。それと見沼代用水。代用水って何だ?沼や田圃との関係は? 見沼というのは文字通り、沼である。昔、大宮台地の下には湿地が広がっていた。芝川の流れが水源であろう。その低湿地の下流に堤を築き、灌漑用の池というか沼にした。関東郡代・伊奈氏の事績である。
堤は八丁堤という。武蔵野線・東浦和駅あたりから西に八丁というから870m程度の堤を築いた。周囲は市街地なのか、畑地なのか、堤はどの程度の規模なのだろう、など気になる。その堤によって堰き止められた灌漑用の池・沼、溜井は広大なもので、南北14キロ、周囲42キロ、面積は12平方キロ。山中湖が6平方キロだから、その倍ほどもあった、と。 
見沼田圃とは水田である。見沼の水を抜き水田としたものである。伊奈氏がつくった「見沼」ではあるが、水量が十分でなく灌漑用水としては、いまひとつ使い勝手がよくなかった。また、雨期に水があふれるなどの問題もあった。そんな折、米将軍と呼ばれる吉宗の登場。新田開発に燃える吉宗はおのれが故郷・紀州から治水スペシャリスト・伊沢弥惣兵衛為永を呼び寄せる。為永は見沼の水を抜き、用水路をつくり、沼を水田とした。方法論は古河・狭島散歩のときに出合った飯沼の干拓と同じ。まずは中央に水抜きの水路をつくる。これはもともとここを流れていた芝川の流路を復活させることにより実現。つぎに上流からの流路を沼地の左右に分け、灌漑用水路とする。この水路を見沼代用水という。見沼の「代わり」の灌漑用水、ということだ。見沼代用水は上流、行田市・利根大橋で利根川から取水し、この地まで導水する。で、左右に分けた水路のことを、見沼代用水西縁であり、見沼代用水東縁、という。上尾市瓦葺あたりで東西に分岐する。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



本日のルート:
JR 大宮駅 > けやき通り > (高鼻町) > 市立郷土資料館 > 氷川神社 > 県立博物館 > 盆栽町 > 見沼代用水西縁 > (土呂町・見沼町) > 市民の森 > 芝川 > 東武野田線 > 土呂町 > 見沼代用水西縁 > 寿能公園 > 大和田公園 > 大宮第二公園 > 鹿島橋 > 大宮第三公園 > 堀の内橋 > 稲荷橋 > 自治医大付属大宮医療センター > 大日堂 > 中川橋・芝川 > (中川) > 中山神社・中氷川神社 > 県道65号線 > 芝川 > 見沼代用水西縁 > 氷川女体神社 > 見沼氷川公園 > 見沼代用水西縁 > 新見沼大橋有料道路 > (見沼) > 芝川 > 念仏橋 > 武蔵野線 > 小松原学園運動公園 > 見沼通船掘 > JR 東浦和駅

大宮駅
散歩に出かける。埼京線で大宮下車。大宮といえば武蔵一之宮・氷川神社でしょう、ということで最初の目的地は氷川神社とする。とはいうものの、見沼関連でよく聞くキーワードに氷川女体神社がある。また八丁堤って名前は知ってはいるが、どこにあるのか、よくわかっていない。観光案内所を探す。駅の構内にあった。地図を手に入れ、それぞれの場所を確認。駅の近くに郷土資料館とか県立の博物館もあるようだ。見沼に関する資料もあろうかと、とりあえず郷土館に向かう。コースはそこで決めよう、ということにした。

郷土資料館
駅の東口に出る。道を東にすすみ「けやき通り」に。そこを北に折れる。この道筋は氷川神社の参道。中央の歩道を囲み左右に車道が走る。参道の長さも結構ある。一の鳥居からは2キロ程度ある、とか。参道をしばらく進むと道の脇、東側に図書館。市立郷土資料館はその隣にある。地下にある常設展示で見沼に関する情報を探す。見沼溜井というか、見沼たんぼの概要をまとめたコーナーがあった。さっと眺め、見沼代水路西縁とか、芝川とか、見沼代水路東縁、氷川女体神社、八丁堤・見沼通船堀、といったキーワードと場所を頭に入れる。また、展示してあった見沼の地図で、見沼の範囲を確認。形は「ウサギの顔と耳」といった形状。八丁堤のあたりでせき止められた溜井が「ウサギの顔」。西の大宮台地と東の岩槻台地、そしてその間に岩槻台地から樹皮状に伸びた台地によって左右に分けられた溜井の端が「ウサギの耳」。西は新幹線の少し北まで、東は東部野田線の北あたりまで延びている。
郷土資料館であたらしい情報入手。見沼を左右にわける大和田の台地にある「中川神社」がそれ。氷川神社と氷川女体神社とともに「氷川トリオ」を形成している。氷川神社が上氷川、中川神社が中氷川、氷川女体神社が下氷川。一直線に並んでいる、ということである。見沼に面して、氷川神社が「男体宮」、氷川女体が「女体宮」、そして中間の中川神社が「簸王子(ひのおうじ)宮」として、三社で一体となって氷川神社を形つくっていた、とか。簸王子社は大己貴命(大国主神)、男体社はその父の素戔鳴命、女体社には母の稲田姫命を祀る、って按配だ。で、いつだったか、狭山を散歩しているとき、所沢・下山口の地で、中氷川神社に出会った。その時チェックした限りでは、奥多摩の地に奥氷川神社があり、これもトリオとして、一直線に並び、奥多摩は「奥つ神」、所沢は「中つ神」、そして大宮は「前つ神」として氷川神社フォーメーションを形つくっていた、と。

 氷川神社
氷川神社
郷土資料館を後に、氷川神社に。武蔵一之宮にふさわしい堂々とした構え。氷川神社については折にふれてメモしているのだが簡単におさらい;氷川神社は出雲族の神様。出雲の斐川が名前の由来。武蔵の地に勢を張った出雲族の心の支えだったのだろう。昔、といっても大化の改新以前、この武蔵の地の豪族・国造(くにのみやつこ)の大半が出雲系であった、とか。うろ覚えだが、22の国のうち9カ国が出雲系であった、と。
その出雲族も、大化の改新を経て、大和朝廷がこの武蔵の地にも覇権を及ぼすに至り、次第にその勢力下に組み入れられて、いく。行田の散歩で出会った「さきたま古墳群」の主、中央朝廷の意を汲む笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が、先住の豪族小杵と小熊を抑えたのがその典型例であろう。小杵は朝廷から使わされた暗殺者によって「誅」された、と。
ともあれ、政治的にはその勢力を奪い取った大和朝廷ではあるが、さすがに出雲族の宗教心まで奪うことはできなかったようだ。利根川以西に広がる出雲系神社の数の多さをみてもそのことがわかる。 氷川神社は武蔵一之宮、と。が、多摩の聖蹟桜ヶ丘にある小野神社も武蔵一之宮と称する。武蔵国に二つも一之宮があるって、どういうことであろう。チェックした。
一之宮って正式なものではない。好き勝手に、「われこそ一ノ宮」と、称してもいい、ということ。もちろん、おのずと納得感が必要なわけで、いまはやりの、それらしき「説明責任」がなければならない。氷川神社は大宮の地に覇を唱えた出雲系氏族が、「ここが一番」と称したのだろう。また小野神社は府中に設けられた国府につとめる役人たちによって、「ここが一番」と主張されたのかも知れない。小野神社は武蔵守として赴任した小野氏の関係した神社であるので、当然といえば当然。また、先住の出雲系なにするものぞ、といった気持もあったのかしれない。  (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



県立博物館
次の目的地は県立博物館。境内を北に進む。それにしても池が多い。湧水なのだろう、か。台地の上にあるだけに、水源が気になる。池に沿って進むと県立歴史と民俗の博物館。見沼の情報をさっと眺め休憩をとりながら、先の計画を練る。いままで得た情報から、出来る限り見沼の上流からスタートする。さすがに最上端・上尾まで行くわけにはいかない。新幹線ならぬ、JR宇都宮線近くの市民の森・見沼グリーンセンターに向かう。そこから芝川に沿って下り、岩槻台地の樹枝台地先端にある中山神社に。そのあと見沼に下り、今度は大宮台地の先端にある氷川女体神社に。そのあとは見沼田圃を南にくだり、八丁堤に進む、という段取りとした。


盆栽町
県立博物館を離れる。すぐ北に東武野田線・大宮公園駅。北に抜けると盆栽町。西には植竹町。盆栽との関連は、とチェック。大正末期、当時土呂村であったこの地に盆栽業者が移り住んだ。昭和15年に旧大宮市に編入される際、「盆栽町」とした。盆栽町から土呂町に進む。台地をくだる。土呂町というか見沼地区にある市民の森に。すぐ手前に水路。チェックすると「見沼代用水西縁」。水路に沿って下りたい、とは思えども、とりあえず当初の予定どおり、芝川に進むことにする。市民の森を過ぎるとすぐに芝川。

芝川
芝川の土手を南に下る。周りは水田、というより畑。西にちょっとした台地。東に大宮の台地。その間を芝川は流れる。博物館で見た資料によれば、八丁堤で堰き止められた溜井の水は、このあたりの少し上流、JR宇都宮線の少し上あたりまできていたようだ。芝川に沿って下る。東武野田線と交差。あら?道がない。川の西側の道は車道であり、交差している。が、こちらは行き止まり。線路に沿って西に戻る。結構長い。が、仕方なし。少し進むと見沼代用水西縁。その先に踏み切りがあった。

見沼代用水西縁
見沼代用水西縁
踏み切りを渡り、東に戻ると見沼代用水西縁。芝川まで戻るのをやめ、この水路を下ることにする。水路脇は遊歩道として整備されている。少し下ると水路東に大和田公園、市営球場、調整池、大宮第二公園が広がる。水路西は寿能町。西に坂をのぼった大宮北中学のあたりに寿能城。そして見沼を隔てた大和田の台地には伊達城(大和田陣屋)があった。これらの城は、川越夜戦により北条方に落ちた川越城への押さえとして築かれたもの。寿能城には潮田出羽守資忠。軍事的天才と称された太田三楽斉資正(道潅の子孫)の四男。伊達城主は太田家家老、伊達与兵衛房が守る。これらの城は、岩槻の太田三楽斉資正、とともに、軍事拠点をつくっていた、と。
photo by Uhock

中山神社・中氷川神社
鹿島橋に。ここからは水路の東は大宮第三公園となる。白山橋、堀の内橋、稲荷橋と進む。水路東に自治医大・大宮医療センター。芝川小学校を超え朝日橋に。水路を離れる。見沼を隔てた東の台地にある中川神社に向かう。東に折れ芝川にかかる中川橋に。中川橋で芝川を渡り、中川地区を進み中山神社に。中氷川神社と呼ばれた中川の鎮守。中山神社となったのは明治になってから。中氷川の由来は、先にメモしたように、見沼に面した高鼻(大宮氷川神社)、三室(氷川女体神社;浦和:現在の緑区)、そしてこの中川の地に氷川社があり、各々、男体宮、女体宮、簸王子宮を祀っていた。で、この神社が大宮氷川神社、氷川女体神社の中間に位置したところから中氷川、と。 この神社の祭礼である鎮火祭りは良く知られている。この地区の中川の名前は、この鎮火祭りの火によって、中氷川の「氷」が溶けて「中川」になった、とか。本当であれば、洒落ている。

さきほどのメモで見沼の格好が「うさぎの頭:顔と耳」と書いたが、正確には、この中山神社あたりまで延びている沼がある。大きい耳の間に、ちょっとおおきな角が生えてる、って格好。こうなれば兎ではないし、どちらかといえば、鹿の角というべきであろうが、ともあれ、沼が三つにわかれている格好。三つの沼があったので「みぬま>見沼」って説もある。真偽の程定かならず。

氷川女体神社
氷川女体神社
次の目的地、氷川女体神社に向かう。県道65号線を下る。西には第二産業道路が走る。芝川の手前に首都高埼玉新都新線の入口があるよう、だ。芝川にかかる大道橋を渡るとすぐ見沼用水西縁にあたる。ここからは見沼用水西縁に沿って進む。北宿橋を越え、ここまで東に向かっていた水路が、大きく湾曲し、南に向かうところに氷川女体神社がある。 氷川女体神社。神社のある台地に登る。あれこれの資料や書籍に、「見沼を見下ろす台地先端にある」と表現されているこの神社の雰囲気を実感する。確かに前に一面に広がる沼に乗り出す先端部って雰囲気。しばし休息し、先に進む。これから先が見沼田圃の中心地(?)。敢えて兎というか、鹿で例えれば、「顔」の部分、ということか。


見沼田圃
芝川
氷川女体神社の前にある見沼氷川公園をぶらっと歩き、その後は見沼用水西縁を離れて、芝川に向かう。本日は予定に反してほとんど芝川脇を歩いていないので、なんとなく締めは芝川にしよう、と思った次第。成行きで東に進み芝川に。それほどきちんと整地されてはいない。土手を進む。周囲を眺める。「田圃」というより、畑地。低湿地であった雰囲気は残っている。見沼田圃を思い描きながら、しばらく下ると新見沼大橋有料道路と交差。下をくぐり進む。見沼地区を経て念仏橋を越え、大牧、蓮見新田、大間木を過ぎると武蔵野線と交差。

武蔵野線・東浦和駅
線路を過ぎると芝川を離れて西に向かう。小松原学園運動場の脇を南に下ると見沼通船堀公園。結構高い堤が前方に「聳える」。じっくりと歩いてみたい。が、残念ながら日が暮れてきた。通船のための水路もぼんやりと見える、といった按配。次回再度歩くことにして本日はこれで終了。公園近くの武蔵野線・東浦和に向い、一路家路を急ぐ。
利根川東遷事業以前の旧利根川の流路を辿る散歩も、会の川からはじめ大落古利根川筋を南埼玉郡宮代町の姫宮まで下った。今回は姫宮から少し下ったところで大落古利根川筋から離れ、往昔利根川の主流であったと言われる古隅田川筋らしき水路を辿り元荒川へと歩く。
さて散歩のメモを、という段になったのだが、先回の散歩から少々時間が過ぎてしまい、ここに至る旧利根川流路の記憶も曖昧になってしまった。記憶を呼び起こすため、ちょっと整理;

利根川東遷事業以前の旧利根川流路を辿る散歩は、往昔の利根川主流であった会の川筋()、浅間川筋からはじめ、このふたつの旧利根川主流が合わさる旧川口溜井のあった川口分水工(加須市川口)に進んだ。
その地で旧利根川筋の主流はふたつに分かれる。ひとつは旧渡良瀬川筋とも称され、東へと流れる現在の中川筋。この流路は結構昔になるが既に歩いていたこともあり、今回は南に下るもうひとつの旧利根川筋、現在の葛西用水に乗り換え、東に大きく弧を描く葛西用水の流路を辿り琵琶溜井を経て青毛堀川との合流点へと歩いた。その合流点は葛西用水の流路の一部に組み込まれた大落古利根川の起点でもあった。
大落古利根川はその名の示す如く、源頭部を締め切られた当初は低湿地の内水や農業用水の悪水落しであったのだろう。利根川東遷事業でその流れを締め切られ、水源を絶たれ泥川となった旧利根川の流路は、大河であったが故に深く刻まれ、その川床の水位は低く、流域の悪水落としとして使い勝手がよかったのだろう。
その悪水落しとしての旧利根川筋は、新田開発のために開削された葛西用水の一部に組み込まれることにより本格的に農業「用水路」となる。また、旧利根川筋の主流のひとつである旧渡良瀬川筋の河川を繋ぎ地域一帯の農業用水路として開削された人工河川・中川の「排水」落としとして整備されることになる。地域一帯のさまざまな用排水路を合せることになった旧利根川筋を「大落古」と冠する所以でもあろう。
先回は、この葛西用水の流路の一部に組み込まれた大落古利根川の起点から南埼玉郡宮代町の姫宮まで下ったわけである。

頭の整理はこのくらいにして、話を戻す。
今回の散歩では大落古利根川を離れ、往昔の利根川の主流であったとされる古隅田川筋へと乗り換え、西に進み元荒川筋へと進んだ。古隅田川筋が主流と言うことは、この地より下流は枝流であったということだろう。
地図を見ると、現在ではこの地より下流の大落古利根川は堂々とした本流となっている。その因について、未だちゃんと調べたわけではないが、万治3年(1660)から1760年代にかけて実施された葛西用水の送水路として整備されていったのではあろうが、本格的な河川改修は上述した中川の排水落整備事業と平行して、大正7年(1918)から昭和3年(1928)が行われたのではないだろうか。
上流部で島川・庄内古川筋を繋ぎ、農業用水水路として開削された中川の排水は当初江戸川に落とされていた。が、水はけが悪く、結果江戸川より2mも水位が低かったと言われる大落古利根川に水を落とすべく、松伏町大川戸から下赤岩までの37キロを堀り抜き、大落古利根川と繋いだとのことである。大正7年(1918)の頃と言う。

現在の古隅田川は大落古利根川に注いでいる。往昔の流路は大落古利根川から元荒川筋へと流れていた、という。源頭部を締め切られ、水位の低くなった大落古利根川に古隅田川流域一帯の水が逆流したのだろうか。
元荒川も利根川の西遷事業で瀬替えが行われ、当然水位が下がっただろうし、何故元荒川ではなく大落古利根川へと逆流したのだろう。これもきちんと調べたわけではないが、元荒川の締切は1629年、利根川の締切である会の川の締切は1594年。このタイムラグがその一因でもあろうか。

それはともあれ、この古隅田川はいつだったか岩槻散歩で偶然出合った。業平橋などもあり、有名な在原業平の都鳥云々の歌詠み地として、墨田区の業平橋と本家はどちら、の論争があるようだ。

それはそれとして、当日は特段の事前準備もなく、とりあえず成り行きで辿った川筋が、メモの段階で「古隅田川」筋ではなく、「旧古隅田川」と称される川筋であったり、川筋に沿って残る緑の帯は自然堤防だろうとは思ったのだが、対岸にも残ると言う自然堤防については、当日は知る由もなく、その両岸幅からして往昔の古隅田川が現在の細流では想像できないくらいの大河であったことを実感することなく散歩を終えた。常のことではあるが、後の祭りの想いの大きい散歩となってしまった。


本日のルート;東武伊勢崎線・姫宮駅>大落古利根川に>隼人堀川>古隅田川・大落古利根川合流点>十文橋>女体神社>国道16号・隅田橋(古隅田橋とも)>豊春用水(黒沼用水)が左岸から合流>古隅田川緑道・古隅田川の旧流路>城殿宮(きどのみや)橋>古隅田公園>上院落が合流>古隅田川公園にやじま橋>古隅田川・旧古隅田川合流点>「旧古隅田川」バス停>業平橋>香取神社>旧古隅田川と古隅田川・西流水路筋との分岐点>大光寺堤>南平野排水機場と南平野調整池>国道16号西に増野川用水>大堀池・小池>元荒川に

東武伊勢崎線・姫宮駅
先回のゴール東武伊勢崎線・姫宮駅に向かう。先回は葛西用水・大落古利根川管理起点から大落古利根川下り、姫宮駅の東から「笠原沼落」の流路に沿って姫宮の駅に戻った。
で、地図を見ると、駅の西側に水路が見える。これって何?チェックすると、この水路は笠原沼用水の支流・百間(もんま)用水の末であり、姫宮駅近くで笠原沼落に合わさるとのことである。合流部分は暗渠となっているのか地図では確認できない。
百間用水(もんまようすい)
姫宮駅付近の百間用水
百間用水(もんまようすい)は、埼玉県白岡市、宮代町を流れる江戸時代中期に開削された灌漑農業用水路である。 かつては笠原南側用水とも呼ばれていた。百間用水は笠原沼用水の支線用水路である。笠原沼用水から宮代町西粂原地区にある中須百間分水堰で中須用水と分水し、姫宮駅付近で笠原沼落右岸に至る用水路である。(中略)主にかつての笠原沼や姫宮落川の南側地域(旧百間村)を灌漑している。流域は主に水田地域で、末端区間は住宅地となっている。水幅は中須用水より広い」とある。
笠原沼用水と笠原沼落
でこの百間(もんま)用水と中須用水を分ける笠原沼用水と、先回の散歩で出合った上述、笠原沼落とは文字面は似ているが別ものである。

中島用水分水工
除堀調節堰

Wikipediaによれば笠原沼用水とは「1728年(享保13年)に開削された中島用水の支線用水路である。中島用水(黒沼笠原用水)として見沼代用水から分水し(私注;中島分水工)、久喜市江面地区にて黒沼用水と笠原沼用水とに分水(私注;除堀分水工)し南東方向へ流下する。途中庄兵衛堀川、姫宮落川、備前堀川の3つの河川が交差し、姫宮落川は架け樋、庄兵衛堀川・備前堀川は伏せ越ししている。宮代町西粂原地区にある中須百間分水堰で中須用水と百間用水とに分水し、終点となる。笠原沼用水は久喜市内においては笠原用水(かさはらようすい)と称される」とある。
笠原沼落
Wikipediaに拠れば、「この笠原沼落は江戸中期に井沢弥惣兵衛為永が中心となり笠原沼を掘り上げ田形式にて新田開発した際、沼の中央部からの排水のために開削・整備された排水路である。
笠原沼落[川端橋)
このため、起点付近の流路はかつての笠原沼のおおよそ中央部を横断するような流路となっている。今日においては起点付近では東武動物公園の園内を流下し、園内に所在している多くの池とも接続する。新しい村や宮代町立図書館周辺付近より下流から東武伊勢崎線橋梁付近までの流域周辺は水田などの農地となっており、東武伊勢崎線橋梁より下流域の流域周辺は一部農地などもみられるが、主に宅地などの市街地となっている」とある。

笠原沼落は、白岡市爪田ヶ谷の水田などの農地(かつての笠原沼の西部)からの農業排水を集めながら東北東へ流下し、東武動物公園内を蛇行しながら進み、東武動物公園を出ると姫宮落川の南側に並行し流下。東武伊勢崎線を越えるとS字に弧を描き、姫宮駅前を進み大落古利根川に合流する。
昔は、笠原沼の水を抜くため姫宮落に繋がれたこともあったようだが、水捌けが悪く享保14年(1729)には排水先を大落堀に付け替えたようである。
中須用水
Wikipediaに拠れば、「中須用水(なかすようすい)は、埼玉県南埼玉郡宮代町を流れる灌漑農業用水路である。かつては笠原北側用水とも呼ばれていた。
中須百間分水堰
中須用水は笠原沼用水の支線用水路である。笠原沼用水から宮代町西粂原地区にある中須百間分水堰で百間用水と分水し、姫宮落川の左岸沿いを流れ、宮代町川端地区で姫宮落川左岸に合流する(私注;宮原町道佛で姫宮落川左岸に合流する箇所までしか確認できない)用水路である。笠原沼の干拓に際して用水を供給するために開削された用水路で、主にかつての笠原沼や姫宮落川の北側地域(旧百間中島村・須賀村・蓮谷村)を灌漑している。 流域は主に水田地域で、東武動物公園駅付近は住宅地となっている。水幅は自転車1台分ほどで非常に狭い。また、用水路沿いに桜が植栽され、水と緑のふれあいロード(遊歩道)が整備されている。

大落古利根川に
大落古利根川と笠原沼落合流点
大落古利根川
先回歩いた「笠原沼落」の流路に沿って南東に進み、川端4丁目交差点で県道85号に乗り換える。少し県道に沿って進み成り行きで左に折れて大落古利根川に出る。
川に沿って道は無く、一度県道に戻り、成り行きで川筋の道に入る。

隼人堀川
大落古利根川に沿って少し下ると水路が大落古利根川に注ぐ。「隼人堀川(はやとほりかわ)」である。
隼人堀川と大落古利根川合流点
隼人堀川
Wikipediaに拠れば、「隼人堀川(はやとほりかわ)は、埼玉県北東部を流れる河川である。1594年(文禄3年)に利根川の本流であった会の川を仕切り流路が変更されたため、利根川から分流する日川の水量が減少した。これに伴い後背湿地を開発する事が可能になり備前堀、庄兵衛堀、姫宮堀、三ヶ村落堀などと共に農業排水路として開削された。また、上流部は1728年(享保十三年)に井澤弥惣兵衛為永による「栢間(かやま)沼の干拓の際に排水路として開削された。
以前は庄兵衛堀川の合流地点より下流を隼人堀川、上流側を栢間堀と呼んでいたが、現在は河川行政上、管理起点より下流を通して隼人堀川と呼ばれている。1919年(大正8年)から野通川伏越から下流にかけての河川改修工事が行なわれ、1930年(昭和5年)に完成している。
三十六間樋管
久喜市菖蒲区域より流下する農業排水路の栢間堀川(中落堀)が三十六間樋管(昭和初期竣工)を流れ、野通川・埼玉県道5号さいたま菖蒲線・見沼代用水の下部を横断し、白岡市柴山の三十六間樋管の吐口が隼人堀川の管理起点となる。主として水田地域の中を流れ、白岡市・宮代町・春日部市を流下し大落古利根川へと至る。途中、白岡市篠津地区にて星川と交差する箇所を伏越している。
栢間堀(かやまほり)
栢間堀(かやまほり)は、埼玉県久喜市菖蒲区域を流れる河川であり、庄兵衛堀川の合流地点より上流を指す(下流は隼人堀川)。中落堀(なかおとしぼり)とも称される。行政上は隼人堀川の一部である。
弁天沼
かつて、現在の流路周辺に存在していた栢間沼において新田開発をする際、井沢弥惣兵衛為永により1728年(享保13年)に栢間堀(中落堀)とし、この一帯に開発した掘り上げ田からの排水路として整備された。このため、流路はおおよそかつての栢間沼の中央部を流下している。また今日の栢間沼は栢間堀川の調節池としての機能も果たしている。現在、流域周辺はほぼ全域水田などの農地の中を流下する。流末は隼人堀川へと至り終点となる。
この川は隼人堀川の庄兵衛堀川との合流地点までの流路においても栢間堀川と称されていた」とある。

地図をチェックすると、隼人堀川が東北道を越えた西に庄兵衛堀川との合流点が見える。上流へと辿ると、流路は西へと方向を変え伏せ越しでクロスする黒沼用水を越え、その西で今度は隼人堀川が伏せ越しで星川を潜る。
水路は更に西に延び、柴山沼の北を進み圏央道手前で見沼代用水、野通川を伏せ越で潜る。伏せ越しで見沼代用水を越えて開渠となった部分が、上述三十六間樋管の吐口であり、隼人堀川の管理起点となっている。
水路は圏央道に沿って続き、上述の栢間沼の南東端を進んだ先で北西に折れ、県道12号を越えた先の弁天沼に至る。この弁天沼が栢間堀(かやまほり)の源流点とされる。
かつての栢間沼は菖蒲町下栢間から小林(おばやし)をカバーとのことであり、現在の栢間沼とは比較にならないほど大きな沼ではあったのだろう。 同じく現在の柴山沼もかつては下大崎~荒井新田にあった沼地・皿沼の周囲を干拓された名残ではないだろうか。
日川
羽生市砂山で会の川と分かれた日川は加須市、久喜市、白岡市と下り蓮田市とさいたま市岩槻区の境界の蓮田市笹山で元荒川に合流していたようである。結構長い流路だが、現在は明瞭な水路跡は残っておらず、その大雑把な流路は、後世開削された古川落、見沼代用水、新川用水(騎西領用水)と進み白岡市の中心を南に下り、元荒川に合流したようだ。
白岡市内の流路ははっきりしないが、現在白岡市内を流れる一級河川の備前堀川・姫宮落川・庄兵衛堀川・隼人堀川・野通川、普通河川の高岩落川・三ケ村落堀などは東遷事業により低湿地化した日川跡を新田とするため開削された排水路とのことである。

古隅田川・大落古利根川合流点
隼人堀川を越える。川に沿って道は無く、少しの間県道85号を進み小淵橋の袂から川沿いを進み春日部大橋を越え、成り行きで川沿いに入り、少々草深い堤防を進み古隅田川・大落古利根川合流点に到着する。
古隅田川は大落古利根川に南東方向に向かって合流する。現在古隅田川の水は大落古利根川に注ぐわけで、この「出口形状」に違和感はないのだが、往昔古隅田川が大落古利根川から元荒川へと流れた時の「入り口形状」としては少々違和感がある。いつの時か現在の「形」に開削されたのだろう。
現在の古隅田川の流れ
地図を辿って現在の古隅田川の流路をチェックする。蓮田市の黒浜沼にその源を発し、南東に流れ元荒川に接近。さいたま市岩槻区上野で元荒川の水を取水し更に南下し東武野田線を越えた先で流路はふたつに分かれる。この地点が古隅田川の管理起点となっている。管理起点から上流は山城堀と呼ばれる農業用水路とのことである。
管理起点でふたつに分かれる流路は、東に向かうのが「古隅田川」、南に弧を描き東武野田線・豊春駅の北で古隅田川と再び合流するのが「旧古隅田川」と称される。合流し、ひとつの流れとなった古隅田川は北上した後、向きを東に変え、大落古利根川に合流する。

十文橋
古隅田川・大落古利根川合流点から県道85号に戻る。そこに架かる橋は十文橋と呼ばれる。往昔の十文橋はこの橋の少し上流、東流してきた流路が南東へと流れを変える辺りに鎮座する女体神社(下に記す)付近に明治23年に架けられた、という。
春日部と鴻巣を結ぶ菖蒲往還(ルート不詳)への道筋であった此の地には橋が無く、渡し場となっていたようだが、上流に浜川戸橋(現在の梅田橋;後述)が石橋に架け替えられた。結果、渡し場が廃止され付近住民は迂回を余儀なくされ、この不便を解消すべく岩松氏が個人で賃取橋を架け、その橋銭が十文であったことが橋名の由来である。

女体神社
古隅田川右岸を少し進むと女体神社がある。社殿は参道を進み少し奥まったところにある。境内にあった案内には「日光街道粕壁宿の北に位置し、周囲を大落古利根川と古隅田川に囲まれた低湿地である。この梅田の地名は「埋田」の意である。梅田東、梅田西、新田に分かれており、当社はそのうちの梅田東の鎮守である。
醍醐天皇の延喜元年(901)の創立で、当時梅田に住んでいた綾部という人が、村内の子供が幼くして亡くなることが多かったことを憂い、子供が健やかに育つようにと天神に祈願し国生みの神である伊邪那美(イザナミ)尊を産土神として祀ったのが当社の起源。古隅田川の最も高地に当たる場所(現在地)に神殿を造営し、祭事を行うようになったと言う。
また、元和八年(1622)に二代将軍徳川秀忠が、はじめての日光社参に際し、街道筋の由緒ある社寺を訪ねた時、当社にも金百疋(私注;一貫=1000文・銭)の寄付があり、以来近隣の信仰を集め大いに栄えたと伝えられる。
当地の土壌は牛蒡の栽培に適し、太くて味の良い「梅田牛蒡」ができることで知られている(後略)」とあった。
社は低湿地の微高地に建てられたのだろうが、低湿地を形成した因は、大落古利根川から古隅田川が分かれた地にあり、大落古利根川から流された大量の土砂が堆積した。そのため古隅田川が氾濫し流路定まることなく周辺に水や土砂を運んだ故であろう。

国道16号・隅田橋(古隅田橋とも)
東武伊勢崎線の鉄橋を潜り、前述の梅田橋、下川戸橋、国道16号に架かる隅田橋(古隅田橋とも)を過ぎる。
左岸の国道16号沿いに雷電神社がある。「雷電神社の由来 当雷電神社は、古代武蔵国太田庄百間領梅田村古隅田川の河畔に鎮座し、別雷神を祭祀とし、その創立は詳かならざりしも古老の伝承によれば今を去る壱阡有余年の古から鎮守の神として信仰をあつめたり、と。また当神社境内前南側には「神池」と称する小池あり農作物の枯死せんとする時、直ちに池より水を汲み当神社に供えて祈願するや忽ちにして雷雲と共に慈雨をみ、霊験あらたかなり、と。以来、先人より神徳を崇め益々篤き信仰のお社と奉る。
境内地に樹齢五百余年の老杉木等あり神社風致上伐採するに忍びざるも、保存の手段もなく、止むなく昭和二十七年十月、伐採された。四十年代に神社前に国道十六号が開通、これに伴ない区画整理事業も推進されて社殿周辺にも住宅街が現出するに至った(後略)」とある。
Wikipediaに拠れば、「雷電神?(らいでんじんじゃ)は、関東地方を中心に日本全国に点在する神社。一様に雷除けの神とされるが、祭神や由緒は必ずしも一定ではない。群馬県邑楽郡板倉町板倉にある板倉雷電神社が関東地方の「雷電神社」「雷電社」の事実上の総本社格とされている」とあった。

豊春用水(黒沼用水)が左岸から合流
国道16号・隅田橋、栄橋、さらにふたつの名称不詳の橋を越えると左岸から黒沼用水の支流である豊春用水が合流する。豊春用水は見沼代用水から別れた中島用水の支流である黒沼用水から更に別れた枝流といったものである。






中島用水
中島用水分水工
黒沼用水は中島用水路の支流である。Wikipediaに拠れば、「中島用水路は見沼代用水路の支線用水路である。 埼玉県久喜市菖蒲町菖蒲にある中島用水分水工にて見沼代用水(星川)より分水し、星川の北側を並行し東へ流下する。久喜市江面地区の除堀にある除堀調節堰にて黒沼用水路と笠原沼用水路(笠原用水)とに分水し、終点となる。流域は主に水田地域である。
中島用水とは菖蒲区域での名称である。これは起点付近の小字である「上中島」並びに「下中島」に由来する。久喜区域では黒沼笠原用水(くろぬまかさはらようすい)と称される」とある。
中島用水は黒沼用水と笠原沼用水に分かれる
除堀調節堰
久喜市江面地区の除堀にある除堀調節堰にて中島用水は黒沼用水路と笠原沼用水路(笠原用水)とに分水される。笠原沼用水については姫宮駅東で見た中須用水の項でメモした。
黒沼用水
で、黒沼用水は、「1728年(享保13年)に黒沼干拓のために井澤弥惣兵衛為永によって開削された見沼代用水路の支線用水路である。黒沼笠原用水として見沼代用水から分水された水路は、久喜市江面地区にて黒沼用水と笠原沼用水(笠原用水)に分水し南東方向へ流下し、白岡市の太田新井にて黒沼の北側を流れる内牧用水と南側を流れる豊春用水とに分水し終点となる、延長9 kmの用水である。
三ヶ村落堀交点
隼人掘川交点
流域は主に水田地域で、白岡駅付近は住宅地となっている。途中三ヶ村落堀が架け樋で、隼人掘と新堀排水路(通称、新堀)の二つの河川が伏せ越しで立体交差を形成している。また、用水路を改修した際に生じた用地を活用し水と緑のふれあいロード(遊歩道)が流路沿いに整備されている(Wikipedia)」とある。
黒沼用水は内牧用水と豊春用水に分かれる
内牧・豊春用水分水堰付近
白岡市の太田新井にて黒沼の北側を流れる内牧用水と南側を流れる豊春用水に分かれた用水のうち、豊春用水はこの地で古隅田川に落ちて終点となる。もうひとつの内牧用水は最終的に隼人堀川に落ちて終点となる(とあるが地図で流路を特定することはできなかった)。



古隅田川緑道・古隅田川の旧流路
合流点から南に、如何にも流路らしきカーブを描く道筋があり古隅田川緑道と呼ばれる。昭和20年代の河川改修以前の古隅田川は国道16号を越えた栄橋辺りから南に下り、弧を描いてこの古隅田川緑道を流れていたようである。






八幡公園の富士塚
栄橋
当日訪れたわけではないのだが、国道16号の東にある春日部八幡に隣接する八幡公園には高さ12mもの富士塚があるようだが、これは川の氾濫により蛇行部に上流から流された砂が堆積し、それが冬の季節風によって吹き集められた河畔砂丘を利用し江戸時代に造られたもの。往昔の古隅田川が国道16号を越えた栄橋辺りから八幡神社近くを大きく蛇行しながら流れていたエビデンスでもある。

城殿宮(きどのみや)橋
黒沼用水(豊春用水)が左岸から合流するその先は畑地となっており、道はない。水路に沿って成り行きで進むと城殿宮橋に出合う。嘗て内牧村にあったと言われる城殿明神社がその名の由来とのことである。
城殿宮(きどのみや)橋を越えた古隅田川は南に向かうが、その川筋に沿って歩くことはできそうもない。橋から南に下る道を進む。

古隅田公園
城殿宮(きどのみや)橋から南に道を進むと前方に緑の林が見え、微高地となったその林は南に続く。この微高地はかつての古隅田川の土手であったようだ。元来は自然堤防であったものを洪水被害から護るため人工的に盛り土し築堤とした、とのこと。現在の古隅田川の西にも築堤跡が残ると言い、その幅300mほどにもなる、と。古隅田川が利根川の主流としての大河であった名残と言える。この築堤を新方領囲堤(古隅田堤)と称する。衛星写真で見ると、緑の帯は上述古隅田緑道の緑の帯と続いている。
新方領囲堤
西を元荒川、東を大落古利根川に囲まれた地域を新方領と称す。水路の西側に明瞭な築堤跡を見るのは少し難しそうだが、東側のこの古隅田公園はその名残を留める。

上院落が合流
古隅田川の築堤跡の林に沿って南に下ると宮川小学校に当たり、築堤はここで一時分断される。道なりに川筋に向かうと対岸から上院落の水が落ちる。
上院落
上院落は慈恩寺沼の排水路として開削されたもので、途中、古隅田川の旧堤防を樋管で横断して流れて来る。古隅田川の右岸側が、自然堤防の発達した低地なのに対して、左岸側は侵食され、谷が発達した台地(慈恩寺台地)となっている。
地図で彩色してみると、なるほど左岸は浸食された台地となっている。ついでのことながら、上述隅田公園や春日部八幡当たりの微高地も確認できた。

古隅田川公園にやじま橋
川沿いの道から宮川小学校によって分断された古隅田川の築堤跡である古隅田公園に戻る。築堤に石橋が残る。元文2年(1737)に構築された埼玉県内でも最古の石橋の一つ。古隅田川と旧古隅田川(後述)の合流点の上流(現在の矢島橋)に架かっていたものを移したとのことである。公園の南には香取神社が建つ。

古隅田川・旧古隅田川合流点
川筋に戻る。地図を見ると下流から辿ってきた川筋がほぼ1対1で二つに分かれている。川筋に戻ったところに架かる橋は矢島橋とあり、更にひとつ上流の名称不詳の橋の袂にバス停があり、そこには「旧古隅田川」とあった。矢島橋の少し下流で西から合わさるのが「古隅田川」であり、矢島橋を南に向かうのが「旧古隅田川」であったのだが、事前準備なしの散歩を身上とする我が身は、当日その事実も知らず、単にバス停の名前だろうと何も迷うことなく「旧古隅田川筋」に向かうことにした。

いつだったか岩槻を歩いたとき、知らずこの川筋の業平橋に出合ったことがあるのだが、その時、この川筋が「古隅田川」とメモしたことが刷り込まれていたのも一因でもあり、また、往昔大落古利根川から西流し元荒川に注いだという古隅田川の流路としては南流し、南平野へと向かう流れが「本流」であろうと思ったわけである。

古隅田川筋
山城堀・古隅田川管理起点
当日辿ることなく終わった矢島橋の少し下流で西から合わさる「古隅田川」筋をチェックすると、合流点から南東に向かい上院調整池の南端を掠め、東武野田線を越えた先で直角に曲がる。この交点が「古隅田川」の管理起点とのことであり、北から直角に合わさる水路は山城堀と言う。
山城堀
元来は蓮田市黒浜の黒浜沼から下る農業用水の落しとして開かれた排水路ではあったが、昭和初期に新堀が開削され、黒浜沼は隼人堀川に落ちており、山城堀は現在都市下水路となっている。
古隅田川管理起点で古隅田川・旧古隅田川に分かれる
古隅田川管理起点付近の暗渠
古隅田川管理起点辺りを地図で見ていると、少し南の「こばと南公園」の先から南に水路が見える。Google street Viewで管理起点辺りをチェックすると公園に向かって暗渠が見える。また、明治の頃の古隅田川の流路も、この管理起点から東流・南流している。黒浜沼からの水路は、途中元荒川の水を取水しこの管理起点から東と南に分かれて流れていたようである。
地図を見ると、古隅田川・旧古隅田川合流点から別れた旧古隅田川と思われる水路は大きく弧を描き「こばと南公園」から南の水路に繋がっている。ということは「こばと南公園」の南で開渠となる水路は旧古隅田川ということだろうか。

「旧古隅田川」バス停
古隅田川・旧古隅田川合流点から旧古隅田川を辿る。西から合わさる上豊川を見遣り、「旧古隅田川」と記したコミュニティバス停のあった名称不詳の橋から上下流の水路の姿をチェックする。上述の如く、「旧古隅田川」とは何だろう?とは思ったのだが、水路名とも思わず、この川筋が古隅田川と思い先に進んだ。 ひとつ上流に架かる川面橋を越える。水路の両側にはぎっしりと民家が並んでおり、水路に沿って辿ることはできない。成り行きで先に進み、東武野田線の踏み切を渡って南に進む。

業平橋
上述の如く、いつだったか岩槻から春日部を歩いた時、知らずこの橋に出合った。またその折、橋の銘板に「古隅田川」と書かれており、この水路が古隅田川と思っていた。正確には「旧古隅田川」と称されるようだが、総称として「古隅田川」としているのだろう。
それはそれとして、この業平橋は「名にしおわばいざ言問わん都鳥、わが思ふ人はありやなしやと」と呼んだ在原業平ゆかりの地と言う。前述春日部八幡神社の境内には「都鳥の碑」が建ち、都鳥云々の歌について、「この歌は在原業平が奥州に旅したとき、武蔵国と下総国との境にある隅田川の渡しで読んだものである。往古神社の当りが両国の境になっており、奥州への通路にもなっていました。この石碑は、その故事を後世に伝えんと、江戸末期嘉永6年(1853年)粕壁宿の名主関根孝□(ことえりでは無理)が千種正三位源有功に依頼し由緒をあらわしたものです」とある。
「古隅田川」と記される
また、前述古隅田緑道に立つ満蔵寺には「梅若伝説と梅若塚」もあり、案内板には「今からおよそ千年前、京都の北白川に住んでいた吉田少将惟房卿の一子梅若丸は七歳の時父に死別し、比叡山の稚児となった。十二歳の時、宗門争いの中で身の危険を思い下山したが、その時に人買いの信夫(現在の福島県の一地域)の藤太にだまされて東国へ下った。
やがて、この地まで来た時、重病になり、藤太の足手まといとなったため、隅田川に投げ込まれてしまった。
幸いに柳の枝に衣がからみ、里人に助けられて手厚い介抱を受けましたが、我身の素姓を語り、「尋ね来て 問わば答えよ 都鳥   隅田川原の 露と消えぬ」という歌を遺して息絶えてしまった。
時に天延2年(974)3月15日であった。里人は、梅若丸の身を哀れと思い、ここに塚を築き柳を植えた。
これが隅田山梅若山王権現と呼ばれる若梅塚である。一方、我が子の行方を尋ねてこの地にたどり着いた若梅丸の母「花子の前」は、たまたま若梅丸の一周忌の法要に会い、我が子の死を知り、出家してしまった。
名を妙亀(みょうき)と改め、庵をかまえて梅若丸の霊をなぐさめていたが、ついに世をはかなんで近くの浅芽が原の池(鏡が池)に身投げてしてしまったという。これが有名な謡曲「隅田川」から発展した梅若伝説であるが、この梅若丸の悲しい生涯と、妙亀尼の哀れな運命を知った満蔵寺開山の祐閑和尚は、木像を彫ってその胎内に梅若丸の携えていた母の形見の守り本尊を納め、お堂を建てて安置したという。これが、安産、疱瘡の守護として多くの信仰を集めてきた子育て地蔵尊である」とする。

もっとも、東京都墨田区を流れる隅田川にも業平橋が架かり、「言問橋」も架り、墨田の墨堤に建つ木母寺には梅若伝説が残る。どちらが「本家」か不詳である。

香取神社
道順川戸橋を豊春小学校側に移り、流路を南東から南西に変えた川筋に沿って進む。H形鋼で補強された水路を左に見遣りながらしばらく進むと、川沿いの道は行き止まりとなる。
住宅街を成り行きで進み、下蛭田に架かる名称不明の橋を渡り、水路の南側に移る。橋の上流も川に沿って道はない。水路一筋南の道を西に進むと、春日部市富増に香取神社がある。上述古隅田公園の南にも香取神社があった。香取神社について少し深堀りする。
香取神社
香取神社は下総国の一ノ宮の分祀。香取神社は武蔵国にはほとんど見られない。武蔵国は氷川神社が一ノ宮であり、祭祀圏がはっきりと分かれている。
埼玉は基本武蔵国である。何故武蔵国のこの地に香取神社が?チェックすると、埼玉ではあるがこの辺りでは一部下総葛飾郡が入り込んでいる。吉川市にある平方新田と深井新田地区と北葛飾郡松伏町、金杉、築比地、魚沼地区、更に杉戸町の中川より東側と共に、春日部市の古利根川の東側、現在は春日部市となっているが旧庄和町領の全域がそれである。この地に香取神社が祀られるのはこういった事情ではあろう。
香取神社と氷川神社の祭祀圏
鈴木理生さんの『幻の江戸百年:鈴木理生(ちくまライブラリー)』に拠れば、古利根川から東は香取神社。古利根川の西の大宮台地・武蔵野台地部には氷川神社。この香取・氷川の二大祭祀圏に挟まれた元荒川の流域に80近い久伊豆神社が分布する、とある。
香取神社は、下総の国、つまりは隅田川の東、川筋で言えば大落古利根川に沿って数多く分布しているが、隅田川の西、つまりは武蔵国にはまったく無いといってもいいほど。一方、武蔵の国、つまりは隅田川の西、埼玉県や東京を中心におよそ230社も分布しているのが氷川神社。本社は大宮にある武蔵一ノ宮の氷川神社。川筋でいえば少々大雑把ではあるが荒川・多摩川水系といってもいいだろう。
これほどきっちりと分かれているということは、それぞれの地域はまったく別系統の人々によって開拓されたといってもいいかと思う。香取神宮の神様は経津主(フツヌシ)。『日本書紀』によるとフツヌシとはアマテラスの命を受け天孫降臨の尖兵として、タケミカヅチ神とともに出雲の国へ行き、大国主命に国譲りをさせた神様。沼を隔てて鎮座する茨城県鹿島市の鹿島神宮の祭神・タケミカズチの神と同神とされる。アマテラスの尖兵といったことであるから、大和朝廷系・有力氏族とかかわりの深い神さまの系統であるのだろう。
本来は物部系の氏神とのことだが、物部氏の勢力が衰えて以降は中臣・藤原氏が氏神とした、と。

一方の氷川神社。祭神はスサノオノ命。考昭天皇の代に出雲大社から勧請された。「氷川」とは出雲の「簸川(ひのかわ)」に由来するとも言われる。大和朝廷に征服された部族の総称=出雲族系統の神様である。
○久伊豆神社
ついでのことながら、東西にくっきり分かれる氷川神社と香取神社の祭祀圏の間に分布する神様がいる。つまりは、そういった神様を祭る部族がいる、ということ。その神様は「久伊豆神社」。元荒川と古利根川の間に100社近くが分布している。祭神はスサノ須佐之男直系の「大己貴命」というから氷川系に近い部族であるのだろう。この「久伊豆神社」の祭祀圏はほとんどが河川の氾濫によりできた沖積地帯。台地上の立地は既に氷川さんとか、香取さんに占拠されている、ということであろから比較的新しい時代の開拓民の集団であったのだろう。本社は不明である。

旧古隅田川と古隅田川・西流水路筋との分岐点
旧古隅田川筋
元荒川方面からの水路

香取神社の少し先で旧古隅田川がふたつに分かれる。ひとつは北西へと弧を描き、県道2号を越えて、前述「こばと南公園」の南の開渠に繋がる。当日は知る由も無かったのだが、この水路が旧古隅田川ではあろう。
で、もうひとつの水路は南西に向かう。現在は西から東に流れているが、この水路は往昔大落古利根川から西流し元荒川に流れた古隅田川の川筋ではないだろうか。当日は、如何にも自然な「西流」筋のように思え,迷うことなくこの水路筋を進んだのだが、メモの段階で地図をしっかり見ると面白いことが見えてきた。
面白いこととは、北西と南西に二つに分かれた水路筋が春日部市と岩槻市の境となっている、ということ。つまりは、ふたつに分かれた水路筋は武蔵国と下総国の境となっている、ということだ。ふたつの水路の間に割り込んでいる岩槻市平野地区が自然というか、不自然で誠に面白い。

大光寺堤
往昔古隅田川が西流していた時の川筋跡とも思える水路に沿って春日部市と岩槻市の境を南西に進む。水路の南に林が続く。如何にも自然堤防跡の趣である。 衛星写真を見ると、水路に沿って緑が続く。チェックすると、旧古隅田川と古隅田川の西流水路筋との分岐点から南西へと元荒川近く、国道16号脇の大光寺を越え、元荒川近くまで続いている。それもあってか、この緑の帯は大光寺堤と称される築堤とのことである。この緑の帯が往昔西流時の古隅田川の流路に沿った自然堤防跡と考えてもいいかと思う。
因みに、現在は、宅地で分断れてはいるが往昔は、前述新方領囲堤へと繋がっていたとのことである。

南平野排水機場と南平野調整池
往昔古隅田川が西流していた時の川筋跡とも思える水路に沿って、春日部市と岩槻市の境を南西に進む。開渠が一瞬暗渠となるも直ぐに開渠となって進むが、南平野排水機場手前で暗渠となる。
暗渠は南平野排水機場の南を進む。南平野排水機場の西には南平野調整池が見える。地域の排水対策として20mほど掘り下げた池に溜まる水は、大雨時に備えて常時ポンプで排水しているとのこと。今歩いて来た水路の水は南平野公園につくられた調整池の水を排水機場でポンプアップし旧古隅田川筋へと流しているのだろうか。

国道16号西に増野川用水
南平野排水機場南の如何にも暗渠らしき道を進むと、暗渠の趣はないのだけれど、水路跡を想起させるような緩やかな曲線を描く道に出る。道の左手には大光寺堤の緑が続く。往昔の水路跡ではないだろうか。
大光寺堤は国道16号で一瞬分断されるが、国道を渡った先で大光寺を取り囲むように先に続いている。地図を見ると一筋東に水路がある。大光寺堤と思える緑の帯も水路の東に続いているように見える。道を開渠で流れる水路・増野川用水に乗り換える。
増野川用水
元荒川から引水された用水である。用水の始まりは不明であるが、国道16号が元荒川を渡る岩槻大橋から3キロほど下った永代橋の直ぐ北にある末田須田堰、往昔の末田須賀溜井が形成された頃、およそ400年前には引水されていたようである。
末田須田堰により堰上げされた水を岩槻大橋の少し下流から取水し新方領の北部(現在の春日部市、岩槻市、越谷市)へと引水する。末流は複雑に水路が巡り、どこが終点なのかトレースすることはできなかった。
また用水路も国道16号辺りまでは往昔の古隅田川の流路と重なるのではないだろうか。

大堀池・小池
増野川用水に沿って南西へ進む。左手に大きな池、右手に小さな池の間を水路が抜けて行く。大きな池は大堀と地図にある。周囲200m強。おっぽり沼・岩槻押堀(いわつきおっぽり)・摺鉢池・大光池とも称され、元荒川が決壊した際の跡地とのことである。
右手の周囲120m強のこの池は小池と称されるようだ。大堀池と同じく護岸工事もされておらず、これも元荒川決壊時の名残であろうか。

元荒川へ
水路に沿って進むと県道80号にあたる。県道の元荒川側にはフェンスが張られ、その先に進むことはできない。フェンス越しに元荒川に向かう増野川用水を眺め、国道16号に架かる岩槻大橋から増野川用水の取水口を確認し、東武野田線・東岩槻駅に向かい本日の散歩を終える。

今回の散歩は、全くの事前準備なしで、往昔大落古利根川から元荒川へと西流したという流れ跡らしき水路を成り行きで辿った。結果的には、ほぼその流路を辿ったことになったように思う。
何時だったか歩いた足立区と葛飾区の境を流れる古隅田川と繋ぐ日はまだまだ遠い。

■利根川東遷事業;古利根川散歩のアーカイブ■













会の川、浅間川跡と辿った旧利根川流路を辿る散歩も、先回は会の川と浅間川が合わさる旧川口溜井のあった川口分水工(加須市川口)から、旧利根川筋ではあろうが旧渡良瀬川筋とも称される、東に流れる現在の中川筋を離れ、南に下る葛西用水(旧利根川筋)を辿った。
東に大きく弧を描く葛西用水を下り琵琶溜井を経て青毛堀川との合流点へと進むと、そこが葛西用水の一部に組み込まれてきた大落古利根川の起点でもあった。 古利根川跡を辿ろうと会の川締め切跡からはじめた散歩も、ここに来るまで結構時間がかかってしまった。後は一気呵成にとは思うのだが、頃は夏。気持は沢登りに傾いており、はてさていつ今回の古利根川跡散歩のきっかけとなった葛飾・足立区境を画す古隅田川(旧利根川流路)に辿りつけるのだろぅ。

ともあれ、今回は旧利根川流路跡、悪水落とし故の命名ではあろう大落古利根川の起点よりはじめ、東武伊勢崎線・姫宮駅付近まで下った。当日はわからなかったのだが、大落古利根川の起点へと、最寄り駅である久喜駅から辿った中落堀川は南埼玉郡宮代町の北端、終点の姫宮はおなじく宮代町の南端。知らず大落古利根川に沿って宮代町の北端から南端まで歩いたことになった。奇しくも大落古利根川を挟んだ対岸は、これも郡名を今に留める数少ない町である北葛飾郡杉戸町であった。



本日のルート;久喜駅>斎興寺>東公橋>中落堀川>蓮ヶ原落>向地大橋>中落堀川と古利根川の合流点に>和戸橋>大落古利根川治水記念碑・大落堀悪水路土地改良区記念碑>一里塚>備前前堀川>備前堀川が右岸に合わさる>南側用水路>西行法師見返りの松>万願寺橋>鎌倉橋>東武日光線>南側用水路水路記念板>南側揚水場跡地>南側用水の碑>古川橋>清地橋>姫川落川が合流>笠原沼落が合流>東武伊勢崎線・姫宮駅

久喜駅
本日の散歩起点の最寄り駅、久喜駅に。現在の久喜市は平成の大合併により旧久喜市、東の旧南埼玉郡菖蒲町、北葛飾郡栗橋町、同郡鷲宮町と合併し誕生している。旧久喜地区は久喜駅を取り巻く一帯ではあろうが、その久喜地区について知ることはほとんど、ない。
久喜について唯一想い起こし得るのは、いつだったか関宿辺りを歩いたときに登場した第二代古河公方・足利政氏の隠居地ということぐらいである。
本筋には関係ないのだが、メモの記憶も薄れかけてきているので、ちょっと頭の整理;
足利政氏
鎌倉公方・持氏と京都の将軍&関東管領上杉家の争いである「永享の乱(永享10年;1438)」は、持氏の死をもって終わる。持氏の遺子は各地に逃れるが、第四子・永寿王丸を鎌倉から逃したのが息女を持氏に嫁した簗田氏(やなだ)である。簗田氏にとって、永寿王丸は孫にあたる。
その後紆余曲をへてこの永寿王丸が古河公方・足利成氏となる。持氏に従った簗田氏は領地を下河辺荘、本拠は下総猿島郡水海(総和町;現在の古河市)に移すことになる。居城は、関宿城。長禄元年(1457)の頃と言われる。足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺したことから勃発した、古河公方と関東管領上杉家の騒乱「享徳の乱(享徳3年;1455)」の真っ最中のことだ。結城合戦(永享12年;1440)のころ、幾筋もの河川が交錯するこの地に下河辺氏がつくった砦がもとになる、とのこと。
簗田氏は、持氏に息女を嫁したように、代々古河公方に息女を嫁していた。当然のことながら、両者強い結びつきを保っていた。古河と関宿という強力なフォーメーションによって、舟運・交通の要衝を押さえていたわけだ。 とはいうものの古河公方も簗田氏も常に一枚岩であったわけではない。二代古河公方・足利政氏のとき、政氏と嫡男・高基と不和。簗田氏も古河政氏方、高基方に分かれて対立。足利高基が簗田高助の関宿城に移り、古河城の足利政氏・簗田政助と対峙することになったことも。最後は、足利政氏は太田氏をたより岩槻城に移り、出家。永正15年(1518)、現在の本町7丁目に館(現在の甘棠院)を構えた、とのことである。最後は足利高基も、政氏と和解した、ということだ。

久喜に関する唯一の知識というだけで、本筋から離れたメモが長くなった。長くなった次いでに、江戸の頃をチェックすると、この地には米津氏のもと久喜藩が立藩され陣屋が設けられた(現在の久喜市久喜中央および本町、久喜本)。Wikipediaに拠れば、「日光街道への道筋や、常陸・下総方面への道が通じていたことから産業が発達し、職人や商人の街として、物資流通が盛んに行われ」たとのことである。
久喜の由来
因みに久喜の地名の由来は、例によって諸説ある。『久喜市史 民族編』に拠れば、「薪・柴等の燃料採取地を意味する地名」、「山、岡、自然堤防などの小高い所」、「久木の当て字であり薪山の意」といった説を挙げたうえで、現在の主流としては、自然堤防などの小高いところをさすという説が有力だとする。

斎興寺
駅から成り行きで進むと古い堂宇に出合う。お堂かと思ったのだが、18世紀中頃に創建された黄檗宗のお寺さまであった。本堂とその前に燈籠、地蔵尊といったさっぱりしたものだが、なんとなく気になるお寺さまであった。



東公橋
斎興寺から成り行きで進むと先回の散歩で久喜駅へと辿った中落堀川に架かる東公橋に出る。東公橋を渡り先に進む。
中落堀川
「中落堀川(なかおとしほりがわ)は、埼玉県北東部を流れる準用河川である。歴史は比較的古く、元禄6年(1693年頃)にすでに排水路として描かれている。昭和29年(1954)に合併するまでは、久喜町(現:久喜地区)と太田村(現:太田地区)の町村界を成していた。
今日では、久喜駅の北北西数キロメートルの場所を起点に、久喜区域の市街地を西から東へほぼ貫流し、いくつかの水路と合流した後、大落古利根川に合流・終点となる。久喜駅北側(東口)より本川終点までコンクリート護岸がなされている(Wikipediaより)。
新川用水の落を集めるいくつもの悪水路が源流のようであり、わし宮団地の南あたりからはじまるようだ。

蓮ヶ原落が中落堀川に合流
東公橋を渡ると直ぐ下流の右岸に合流水路が見える。チェックすると蓮ヶ原落(蓮ヶ原川とも)であった。Wikipediaに拠れば、「水源は主に新川用水の農業排水で、久喜市上早見の田園地帯に端を発する。上早見字新田付近を東へ流れ、途中で一旦暗渠となり、久喜地区消防本部や県道3号さいたま栗橋線を横断した後、久喜警察署北側にて開渠となる。途中の久喜自動車学校北側(久喜東6丁目付近;私注;東武伊勢崎線と合わさる辺り)にて北東へ流路を変え、久喜東1丁目にて中落堀川に至り合流・終点となる。久喜市本町4丁目付近に管理起点がある」とあった。
Wikipediaには同じく「蓮ヶ原とは旧大字久喜新の小字である。蓮ヶ原という土地はもともと蓮の自生する湿地帯であったが、水田として開墾された地域であり、1927年(昭和2年)には耕地整理が行われた」とある。久喜新 とは現在の久喜中央、南、久喜東のそれぞれ一部の地域のようだ。確かに水路はその地域を流れている。
それはともあれ、この蓮ヶ原落は新川用水の農業排水とある。地図を見ると葛西用水から分水された新川用水が蛇行をしながら蓮ヶ原落の源頭部を流れていた。
新川用水
新川用水は埼玉県北東部を流れる農業用水路であり、上流部では騎西領用水(きさいりょうようすい)と呼ばれる。埼玉県加須市外田ヶ谷の星川(見沼代用水)より分水し、加須市・久喜市・南埼玉郡宮代町を流れ、久喜市・南埼玉郡宮代町との境界付近で備前前堀川に合流する。久喜市内ではかつての南埼玉郡久喜町・江面村との町村界の一部を成していた。また、久喜市(六万部・上清久)・北葛飾郡鷲宮町(中妻・久本寺)の市町界を成していた。備前前堀川との合流地点には「万年堰」という堰がある(Wikipedia)。

向地大橋
中落堀川を少し下り、これも先回久喜駅への道すがら出合った向地大橋に。そこから中落堀川から少し離れ、これも成り行きで大落古利根川へと進む。 道を少し南に下ると左手に「古利根川流域下水道東中継ポンプ場」がある。中落堀川を少し下流に進むと、左岸に「古利根川水循環センター」があり、下水処理をおこなっているが、市内6カ所に中継ポンプ場が稼働し、久喜市と加須市(一部)の下水処理をおこなっている、と。

中落堀川と古利根川の合流点に
前方に圏央道の高架を見ながら平坦な地を進む。圏央道手前の道の分岐点に庚申塚が建つ。庚申塚を左に道をとり、圏央道の高架を潜り宮代総合運動公園の北端を中落堀川に沿って右岸を進み大落古利根川との合流点に着く。 先回久喜駅に戻る時は中落堀川左岸を少々難儀しながら進んだのだが、右岸は合流点までアプローチが整備されていた。

大落古利根川・和戸橋
宮代町総合運動公園の西端、大落古利根川との間はフェンスで囲まれている。堤への出口はあるだろうと、とりあえず南に下ると出口があり、大落古利根川の堤を通る道に出た。
緩やかに弧を描く水路に沿って進む。南東に流れる流路が南西に弧を描く辺りで水路が合わさる。あれこれチェックしたが水路名はわからなかった。 ゆったりと流れる大落古利根川を更に南に下ると和戸橋にあたる。橋傍に案内板があり、そこに和戸橋、古利根川の渡し、そして対岸に日光御成街道と一里塚などのガイドがある。
久喜と同じく、この辺りについての何の知識もなく、案内がなければ、ママ通り過ぎるところであったが、案内に従い和戸橋を渡り日光御成道の一里塚にちょっと立ち寄ることに。
和戸橋
橋傍の案内には「和戸橋は日光御成道に架かった橋です。この橋のたもとには明治2年(1869)に成立した河岸場がありました。昭和3年(1928)でもその様子が分かります。この河岸場は琵琶溜井(幸手市)から松伏溜井(春日部市)に至る航路で使用されました。和戸橋の河岸場から粕壁宿の河岸場へ多くの貨物が輸送されたと伝わっています。
和戸は日光御成道の岩槻宿から幸手宿への間の宿(幕府非公認の宿場)でした。そのため多くの商人や百姓屋敷が並んでいました。写真にも和戸宿の家並みの一部が写っています」とあった。

大落古利根川治水記念碑・大落堀悪水路土地改良区記念碑
和戸橋を渡ると県道372号と県道65号の交差する和戸橋交差点の傍に「大落古利根川治水記念碑」と「大落堀悪水路土地改良区記念碑」が建つ。
治水記念碑は昭和9年建立(1934)とのこと。建立の背景は、利根川の東遷事業により源頭部を失い廃川として取り残された旧利根川跡は新田開発のため、見沼代用水と葛西用水を核として農業用水路・排水路として再整備される。
しかし、近代になると葛西用水の一部として組み込まれた大落古利根川は荒廃し、堆積した土砂により水害が多発することになる。河道の浚渫が必要となった。
大正7年(1918)から昭和3年(1928)にかけ国営の庄内古川の改修事業により中川が開削される。それに合わせて大落古利根川の改修工事が実施されることになる。
大正7年(1918)から昭和9年(1934)にかけ、埼玉県の事業として第一期改修工事が実施され、大落古利根川とその支川である青毛堀川、備前前堀川、備前堀川、姫宮落川、隼人堀川(庄兵衛堀、栢間堀)の河川改修が実施された。大落古利根川全体の河川改修が行われたということだろう。建立年代から見て、河川改修の完成を記念したものだろう。土地改良区記念碑は解散の詳細は不詳。

中川開削と大落古利根川の関係
現在の中川水系一帯の水田を潤し、その悪水落となっていた島川筋、庄内古川筋も、当初は江戸川(元の太日川)に水を落としていた。しかし江戸川の水位が高く「落ち」が悪く、逆流で被害を受けることもあった。
そこで目をつけたのが最低地域を流れていた大落古利根川(旧利根川跡)。江戸川落口と比較すると2mも低かったようだ。島川・庄内古川を大落古利根川(旧利根川跡)に落とす改修工事がはじまった。大正8年(1919)の頃、という。 島川は利根川の改修で廃川となった権現堂川を利用したうえで、幸手市上宇和田から杉戸町椿まで約6キロを新開削して庄内古川に繋ぎ、庄内古川は松伏町大川戸から下赤岩まで約3.7キロ開削して古利根川と繋いだ。こうしてできたのが「中川」であった。昭和3年(1928)の頃である。
中川開削の発端が、大落古利根川(旧利根川跡)に水を落とすことにあったとすれば、上述記念碑にあるように中川開削とあわせて大落古利根川(旧利根川跡)の河川改修をおこなうのは自然なことであろう。

一里塚
和戸橋を渡ると北葛飾郡杉戸町。県道65号を少し北に進むと道の右手に一里塚があった。 道路脇の案内に拠れば、 「下高野一里塚【下高野一里塚】埼玉県指定史跡  大正15年2月19日指定 慶長九年(1604)江戸幕府は大久保石見守長安に命じ、江戸日本橋を起点に一里ごとに塚を築かせた。
この一里塚は、下野田(南埼玉郡白岡町大字下野田)の一里塚より北東一里の地点に位置している。
ここは古利根川の自然堤防となっており、その上に塚を設けたものである。もとは街道の南側に五問(9メートル)四方の大きさの塚があったが、大正時代初期、道路拡幅により西塚が消滅し、現在残っているのは東塚だけである。これらの塚上には松が植えられていた。 一里塚は、旅人にとっては里程の目標に、また馬や駕籠の賃金を支払う時の目安にもなった。 埼玉県教育委員会 杉戸町教育委買会」とある。

和戸橋の傍にあった「日光御成道と一里塚」の案内には「江戸時代に整備された日光街道の脇街道であり、将軍が日光東照宮へ社参する際に利用されました。 宮代町和戸の日光御成道沿いには、かつて和戸宿が形成されていたと伝えられています。下高野一里塚は、下高野と下野のほぼ境界に所在し、頂上には松が植えられています。もとは街道の両側にありましたが、現在は東塚のみが残されています。里塚は一里(約4㎞)ごとに設置され、旅行者の行程の目安となりました」とあり、下高野一里塚の案内にある、「この街道」とは日光御成道であった。
日光御成道
日光御成道(にっこうおなりみち)とは、江戸時代に五街道と同様整備された脇往還の一つである。中山道の本郷追分を起点として岩淵宿、川口宿から岩槻宿を経て幸手宿手前の日光街道に合流する脇街道である。将軍が日光社参の際に使用された街道であり、日光御成街道(にっこうおなりかいどう)とも呼ばれている。

ちょっと混乱。大落古利根川の左岸、杉戸にある杉戸宿は日光街道の宿場町。ルートはどうなっているのだろう?チェックすると、日光御成道は大落古利根側の右岸、岩槻から県道65号を進み、白岡市を経て和戸橋辺りで大落古利根川を渡り、大落古利根川の左岸を進み、先回の散歩で御成道の道標のあった琵琶溜井傍をへて幸手市に向かう。
一方の日光街道は春日部(粕壁宿)から国道4号を大落古利根川の左岸に沿って進み杉戸宿に。杉戸宿で一旦旧道に入るが、宿を出た辺りで大落古利根川を離れ再び国道4号を北東に向かい、途中東武日光線の手前で国道4号から分かれ北に進み県道65号で日光御成道と合流する。

で、何故に日光街道があるのに日光御成道をつくったのだろう?チェックすると、川口の錫杖寺を休息所としたことがそのきっかけといった説明もあったが、実際のところは、将軍が動くとなると大層な人馬が連なるわけで、五街道である日光街道の往還を妨げないため、往昔の鎌倉街道中ツ道筋のこのルートを整備した、ということではないだろうか。

和戸橋に戻る
一里塚から和戸橋に戻る。左岸から見ると、和戸橋の西詰に水路が合わさる。備前前堀川である
備前前堀川
埼玉県久喜市所久喜で、加須市から南流する農業排水路の五ヶ村落を合流して端を発する。(中略)久喜市清久町において西側より流下する備前堀川と中堤防にて面し並行して流れる。(中略)途中、外谷落・磯沼落および仏供田落を合流、宮代町の和戸橋東側にて北側より流下する大落古利根川と合流する。 新川用水が備前前堀川に落ちる合流付近には「万年堰」という堰が設けられており、1902年(明治35年)に建設されて1979年(昭和54年)に撤去された旧堰の記念碑もある。
この備前前堀川は1728年(享保13年)に河原井沼(私注;現在の久喜菖蒲工業団地辺り;昭和沼が名残で残る)での新田開発に併せ、沼の北縁に沿って流下するように河原井沼周辺では附廻堀として整備された。この河川の開削当初の名称は新笊田堀(しん ざるたぼり)とされていた(Wikipediaより)。
五ヶ村落
この五ヶ村落は備前前堀川の上流河川であり、加須市油井ヶ島の中北部よりはじまり、久喜市所久喜にて備前前堀川と変称し流下する農業排水路である。

備前堀川が右岸に合わさる
和戸橋を少し下ると右岸から水路が合わさる。備前堀川である。Wikipediaによると、「埼玉県加須市の新川用水排水路の備前堀大英寺落(私注;葛西市上埼の田ヶ谷綜合センター北が管理起点)と備前堀古笊田落(私注;葛西市上埼;大英落の南700m付近)との合流点を起点とし、久喜市北中曽根の西端で備前堀八ヶ村落(私注;源頭部は加須市正能の騎西中央公園北東にある大道公園辺り)を併せ、さらに清久町(清久工業団地)の南側からは備前前堀川と平行して流れる。その後同市河原井町東側で備前前堀川と離れ白岡市・南埼玉郡宮代町を流れ、大落古利根川に合流する。
かつての河原井沼の北側付近の流域は、この沼での新田開発時に北側の附廻堀として整備された区間である。今日では主に新川用水からの農業排水路として利用されている。
流域には清久大池や清久西池、昭和沼といった池沼が存在し、昭和沼とは水路で接続されている。また、久喜菖蒲工業団地が造成される以前に河原井沼からの排水路として用いられていた「新北落」が備前堀川に流入する直前の地点に水門が設けられていた。久喜菖蒲工業団地の造成によって「新北落」が埋め立てられてしまった現在においてもこの水門のみは現存している。
久喜市北中曽根の西端には備前堀治水記念碑(びぜんぼりちすいきねんひ)がある。同市北中曽根(北側)と同市菖蒲町三箇(南側)との間に古笊田堰(こざるたせき)という1906年(明治39年)竣工の堰が置かれている。
流域は主に農地として利用されているほか、清久工業団地や久喜菖蒲工業団地といった工業団地が存在する。また久喜菖蒲公園や清久公園など公園化されている地域もある」とある。

備前堀は備前守である伊奈氏の開削故の命名。開削当初は江面村(久喜市江面)から和戸村への短い悪水落であったが、後年井沢弥惣兵衛により河原井沼の干拓が実施され、河原井沼への悪水落の迂回路(附廻堀)として新笊田堀や外谷落が開削され、古笊田堀や八ヶ村落を新笊田堀へ繋げ、さらに新笊田堀は備前堀へと繋がれた。こうして、備前堀川は河原井沼の主要な排水路として整備された。河原井沼は久喜菖蒲工業団地の中心部に残る大きな調整池(昭和池)にその名残を残す。

南側用水路
水路を下ると道脇に案内があり、先ほどの一里塚などとともに、「西行見返りの松」の案内がある。地図で確認すると左岸を少し東に進み、水路に沿って戻ることになるのだが、とりあえず行ってみようと。
成り行きで進むと目安の水路にあたる。地図でチェックすると琵琶溜井から下ってきた南側用水路であった。昭和初期の改修工事により廃川となった水路は結構美しく保たれている。なんとなく気になりチェックすると、ドブ川となった用水路は地元の方々の力で美しく保たれているとのことであった。
南側用水
埼玉県幸手市大字上高野の葛西用水路・琵琶溜井より分水し、主として大落古利根川より東側の水田地域を灌漑する。用水路は現在でも開削当時の面影を残す素掘りの区間が多い。北葛飾郡杉戸町杉戸4丁目より周辺は市街地となり、南側用水路は暗渠化され地上は遊歩道となる(Wikipedia)。

「西行法師見返りの松」
南側用水路に沿って北に戻り、途中足利氏の流れをくむ幸手城主・一色氏の創建によるとの全長寺にお参りし、永福寺に向かうと境内前に松と石碑があった。 先ほど川沿いで見た案内とこの地の案内をまとめると、「文治2年(1186)、歌人としても知られる西行法師は、69歳の身で奈良東大寺再興の寄付を請う旅の途中、この地で激しい風雪に倒れ土地の人に救われた。
庭の松をこよなく愛した法師は、村人との別れを惜しみ、この地を去る際にこの松を何度も振り返って旅立った。村人はこの松を「西行法師見返りの松」と呼んだと伝わる。 碑には、室町時代の十四世紀前半、足利尊氏の有力武将高師直の歌「道以そく遠近人の毛駒と免て、三可邊梨松御見かえら佐らめや(みちいそぐ おちこちびとも こまとめて みかえりまつを みかえらさめや)」と、碑を建てたと思われる信州高遠の人の名、そして「西行法師見返松」の文字が刻まれる。
永福寺
「西行法師見返松」の建つ永福寺は、寺の案内や杉戸町の案内をもとにまとめると、「寺の縁起を記した「龍燈山伝燈紀」によると往昔は阿弥陀寺と称した。所以は本尊である阿弥陀仏は行基菩薩(ぎょうきぼさつ)の作と伝わる故。
この寺は関東三大施餓鬼のひとつ、「永福寺どじょう施餓鬼」で知られる。その由来は14世紀の後半、当寺の51世日尊上人に遡る。その父は因幡前司藤原長福朝臣。貞治(じょうじ)元年(1362年)高野浅間台に高野城を築き、田宮庄近郷を領した。長福は後に酒食遊芸におぼれ、非道な行いがあり、その子日尊上人(幼名は藤王)は、父の乱行を憂い、仏門に帰依し比叡山に登り修行の後高野に帰り、阿弥陀寺を建立した。
父長福は乱行の後ついに狂死。えん魔大王のお告げを受け、亡父が地獄に落ちているお告げを受けた日尊上人は、大王から伝授された施餓鬼の秘法(「えん魔王の示す日尊の偈(げ)」)を修行し、父親をはじめ地獄に落ちている人々を救った、とのこと。
施餓鬼とは、生前の悪道を行ったため地獄に落ちているものを、施餓鬼の修法により施食をほどこして、これらを救う法会であり、永福寺の施餓鬼は、放生(生きものを放ってやる行事)として、"どじょう"を池に放つ。その為、俗に「どじょう施餓鬼」と言われている。 因みに、関東三大施餓鬼とは当寺のほか、秩父四萬部寺、さいたま市の玉蔵院を指す。

万願寺橋
永福寺から少し北に愛宕神社辺りまで南側用水路を辿り、大落古利根川筋まで戻り、下流へと進む。少し下ると万願寺橋がある。和戸橋傍にあった案内には、中世に「高野の渡し」があった、と。
古利根川の渡し
「昭和初期以前、古利根川の渡河には渡し船も用いられており、江戸時代から近代の杉戸・宮代周辺では、上流から「高野の渡し」「河原の渡し」「矢島の渡し」「紺屋の渡し」「ガッタの渡し」の五箇所の渡船場がありました。中世にも現在の万願寺橋付近に「高野の渡し」があったといわれています(「案内板」より)。

鎌倉橋
万願寺橋を越え、鎌倉橋に。名前からのイメージと異なり、ちょっと現代的な人道橋となっている。とはいえ、なにか鎌倉街道との関連はあってしかるべし、とチェック。
日光御成道とほぼ同じルートとの鎌倉街道中ツ道であるが、白岡市下野田から杉戸町下野までは少し異なり、御成道から右にそれ、この鎌倉橋辺りを渡っていたようである。
旧利根川(大落古利根川)を渡った後は、南側用水路に沿った微高地・自然堤防上を進み、御成道筋に戻っているようだ。

東武日光線
先に進むと東武日光線が川を跨ぐ。遊歩道は手前で切れるが、草を踏み分け堤防に沿って進むが行き止まり。仕方なく、成り行きで県道372号に出る。踏切を渡る手前まで続いた南側用水は、線路を境に暗渠となって姿を消した。

南側用水路水路記念板
線路を越して、ママ進むと左手に車道と分かれた遊歩道といったアプローチがある。如何にも地下に暗渠となった南側用水路が続いているような道である。少し進むと道脇に「南側用水路水路記念板」が建つ。「南側用水路は江戸時代初期に万治3年(1660)利根川筋・本川俣村に葛西用水の取水口が設けられた際に、その支流として幸手領(幸手市から杉戸町をへて春日部市まで)に農業用水を供給するためにもうけられました。
杉戸町を9.5kmに渡り流れる南側用水路は、大切な農業用水路としての役割を果たすとともに、清らかな水に魚が泳ぎ、沿線の人々の生活に探く(私注;ママ)係りながら、身近な水辺として親しまれてきました。
しかしながら、農業用水のパイプライン化により、昭和63年に300年あまりにわたる用水路としての役割を終えました。
南側用水路の跡地は杉戸町の貴重な都市空間であり、町民共有の財産でもあります。
この貴重な用水路跡地を町民の皆さんにより親しん頂けるよう、散策路として整備したものですが、この場所には大落し古利根川からの水を用水として取水し、南側の用水を管理するための水門がありましたが、散策道工事によりやむをえず取り壊すことになったことから、ここに記念として残すものです」とあった。

南側揚水場跡地
「南側用水路 水路記念板」傍に石碑が建ち、杉戸宿と刻まれた文字の上に、「30m南側揚水地跡地」とある。上の案内に説明とともに写真にあった、大落古利根川から取水する水門跡地であろうかと、指示に(どっち方向か少しわかりにくい)従い遊歩道を離れ大落と古利根川脇に向かう。

南側用水の碑
川に向かうと、堤防手前に大きなポンプが展示され、その下に「南側揚水の碑」の案内があった。案内には「目の前を流れる古利根川がかって利根の本流であった。当時の南側流域は葦の茂る湿原地帯と、地理的条件のよいところがわずかに水田として利用されてきたのであろう。
南側の水田用水は万治三年(1660)羽生市本川俣で利根本流から取水された葛西用水によって、恒常的に安定確保されることとなった。しかし各用水施設の原始的粗雑な構造は用水の消費も大きく、ため琵琶溜井堰における中郷用水を含めた幸手領と下流域との交互番水を余儀なくされていた。加えて倉松落の改修、戦中戦後の食糧増産としての土地改良、陸田用水など農業用水が急増し、用水不足に拍車をかけることとなった。
昭和23年南側用水路共通水利組合は上流域の約350ヘクタールには3日通水分をあて下流の約500ヘクタールには現在地に揚水機を設置し併せて各所の用水堰を撤去し用排両面の整備改善を行うこととしたのである。
本事業は県営事業として昭和24年から昭和27年に亘り総工費1870万円で完成し国民食料の確保に貢献した。しかしながら、その後に続く急激な都市化の進展は社会資本の充実を促しながらも半面歪みを生ずることとなった。 即ち大落古利根川の川床即水位である。出水増に対処すべく土砂礫の浚渫を行ったためポンプは吸水不能に陥ったのである。
このため南側用水土地改良区は昭和54年に本郷地区に揚水機場を新設し下流の用水を補ったのである。しかし主機場の揚水不能は南側流域に深刻な用水不足を生じ、関係者の苦労も筆舌に表し得なかったのである。 この時すでに当地域を含めた農業用水合理化対策事業が実施中であり、これは農業用水を家庭の蛇口の如く、栓ひねれば田に給水できるという超近代的な構造であり、地区民挙げてこれが早期実現を要望することとなった。
しかし、中郷、南側流域全域であり昭和48年着工以来15年の月日と200億円余りを費やして昭和63年に完成をみたのである。
ここにおいて南側流域は上下流万遍なく均等に用水が供給されることとなった。又、有史以来杉戸の市街地を流れていた南側は水田供給の使命を終えたのである。そして今後は都市排水河川として生きていくことであろう。
まこと南側用水の歴史は地域の変貌を今に伝えるものとして感慨深いものがある。 ここに往時を偲びポンプ展示を期にその所以を石碑に誌して後世に伝えるものである。南側用水管理組合」とある。

説明を少し補足すると、揚水機を設置したのは昭和27年(1952)のようである。その後昭和37年(1962)には琵琶溜井は比例分水堰に改修され、江戸時代より続いたと言われる幸手領3日、下流7日の番水制度は廃止されるも大落古利根川の浚渫による川床低下、即ち水位の低下によりポンプ吸水が困難となったようで、本郷(和戸橋あたりに本郷の地名が見えるがそこだろうか)に揚水場を設けるも、この地の揚水機による吸水機能低下は地域に困難な状況をもたらした。
この状況は昭和63年(1988)の農業用水のパイプライン化により南側流域は上下流万遍なく均等に用水が供給されることとなった。
◇倉松落の改修と用水不足
案内に、「倉松落の改修が用水不足に拍車をかけた」とある。倉松落は南側用水路の余水吐きでは?それと用水不足と何の関係が?
チェックすると、倉松落の改修は昭和8年(1933)から15年(1940)にかけて実施されたおうだが、要点は倉松落の排水先を大落古利根川から中川に改めたられた。葛西用水の水位が高く排水不良が要因とのことだが、そのため葛西用水の送水路としての役割を持つ大落古利根川への水の循環が切れることになる。水不足云々とはこのようなことではなかろうか。

古川橋
ポンプ展示箇所を離れ、河原橋を渡り古川橋に。橋を少し越えたところに大落古利根川や周辺の案内を記した看板がある。散策路の案内はいいとして、看板にある案内をメモする;
古川橋
「古川橋は明治32年(1899)8月の東武鉄道の開通による杉戸駅開設により架けられた橋です。それ以前は百閒と須賀境に架かる河原橋と杉戸宿御伝馬道にかかる清地橋まで間には橋はありませんでした。
そしてこの看板付近は古利根川の流作場(川の縁辺の堤外地)新田でした。この新田は寛延2年(1749)に江戸本所の大寿院が請け負って開発が行われました。田に比べて水田が多いのが特徴です(案内板より)」。

ここにある「杉戸駅」は現在の東武動物公園駅。昭和51年(1981)に改称された。
流作場新田開発とは、現在の東武動物公園あたりのあった笠原沼の干拓・新田開発といった大規模なものではなく、河川敷などの不安定な土地への耕作を認め、作柄に応じて年貢を徴収するといったもの。この百閒村には上記流作場新田(百閒村新田)を含め3箇所の流作場新田があった、という。大寿院は江戸本所にあったお寺さまのようである。
地名(宮代町)
「宮代町は昭和30年(1955)、須賀村、百閒村が合併してできた町です。その町名は百閒村の総鎮守である姫宮神社の「宮」と、須賀村の鎮守である身代(このしろ)神社の「代」をそれぞれとって出来たものです。
旧村名である百閒の最古の記録は姫宮神社々前に掛けてあったといわれる鰐口の銘であり、応永21年(1414)と記されており、古い地名であることが確認されています。
一方須賀は、鎌倉時代の寛喜2年(1230)の小山朝政の文書に出てくるのが最古であり、古い地名であることがわかります。
また、字名は旧須賀地区については明治22(1889)年の旧村名を大字とし、旧百閒村についても旧村名を大字としましたが、昭和5年(1930)大字を廃止し新たに?の字(あざ)に変更し、現在に至っています(案内板より)」。

後半の「字」の説明が現在の地名との関係が不詳であり、その有り難さが今一つ理解できないが、それはともあれ、説明にあった小山朝政って誰?
小山朝政 
下野国の生まれ。小山源頼朝の平氏打倒・鎌倉幕府の開幕に貢献した幕府の宿老。頼朝上洛時、石清水八幡宮参拝では行列の先頭を務める。常陸国村田下庄の地頭、播磨国守護、検非違使兼任、下野守などに任じられる、といった結構有力御家人であったようだ。今更に、知らないことが多くあることを実感する。

ところで、宮代町であるが、大落古利根川右岸は南埼玉郡宮代町、左岸はこれも北葛飾郡杉戸町。平成の市町村大合併にも抗して、未だ「郡」を守るなにか「矜持」といったものでもあるのだろうか。
チェックすると、平成13年〈2001〉頃から春日部市を含んだ宮代町と杉戸町の合併話が、出ては住民投票で反対過半数といった状態が繰り返され、未だ合併に至っていない、というのが実情のようであった。

また、この案内に「身代神社」が登場する。名前に惹かれ、訪ねてみようと思いながら、大落古利根川の左岸を歩き東武日光線を過ぎた河原橋まで橋がなかったことや、南側用水路路の水門・ポンプ揚水機場あたりで、そちらに気をとられ忘れてしまっていた。
今回の散歩では左岸の日光街道杉戸宿もパスしているので、次回の散歩スタートにこの社も組み入れて歩いてみようかと思う。
大落古利根川
「大落古利根川は、久喜市と杉戸町の境にある葛西橋から松伏町下赤岩付近で中川に合流するまでの延長26.7キロ,流域面積182.3平方キロメートルの一級河川です。
その名の示す通り昔は利根川の本流としていくたびかの洪水を引き起こしました。江戸時代の初期に利根川が現在の流路に付けかえられたため、この流れは大落古利根川として残されました。その後、この川は数回の改修を経て今日の姿となり、中川流域の主要河川として、また、葛西用水の幹線として治水と利水の両面で重要な働きをしています(案内板より)」。
大落古利根川周辺の地形の特徴
「大落古利根川が合流する中川流域は、北に利根川、東に江戸川、西に荒川と大宮台地に囲まれ、全体的に低平な流域で、水のたまりやすいお皿のような地形になっています。更に河川の勾配が緩やかで水が流れにくい特徴があります。 また。大落古利根川沿いの鷲宮、幸手、春日部、松伏、??川と連なる自然堤防など、周辺の河川沿いには、かつて利根川水系のもたらした豊富な砂による大規模な自然堤防が形成されています(案内板より)」。
用排路としての大落古利根川
大落古利根川は利根川の東遷により水源を断たれ水量の減った泥川と化してしまいました。また、周辺の低湿地の内水を低い水位で排水するため、大落古利根川を介して中川に排水する改修が行われました。
大落古利根川は上流で葛西用水と直結しており、中流部では青毛堀川、備前堀川、隼人堀川など多くの河川が合流します。
下流部は古利根堰でせき止められ、松伏溜井という用水溜になり、堰から下流が純粋な排水路として中川に合流しています。
このようにさまざまな用排水路が合流することから「大落」を冠する大落古利根川は、埼玉県内の穀倉地帯である中川流域を支える用排水路として機能しています。

案内にある「大落古利根川を介して中川に排水する改修」とは、上述の大正8年(1919)頃からはじまった島川・庄内古川を大落古利根川(旧利根川跡)に落とす改修工事のことだろうか。
上にメモしたが、現在の中川水系一帯の水田を潤し、その悪水落となっていた島川筋、庄内古川筋は、当初は江戸川(元の太日川)に水を落としていた。しかし江戸川の水位が高く「落ち」が悪く、逆流で被害を受けることもあった。 そこで目をつけたのが最低地域を流れていた大落古利根川(旧利根川跡)である。江戸川落口と比較すると2mも低かったようだ。
島川・庄内古川を大落古利根川(旧利根川跡)に落とす改修工事がはじまった。島川は利根川の改修で廃川となった権現堂川を利用したうえで、幸手市上宇和田から杉戸町椿まで約6キロを新開削して庄内古川に繋ぎ、庄内古川は松伏町大川戸から下赤岩まで約3.7キロ開削して古利根川と繋いだ。こうしてできたのが「中川」であり、大落古利根川を介して中川に排水する改修が完成した。昭和3年(1928)の頃である。中川開削の発端が、大落古利根川(旧利根川跡)に水を落とすことにあったということである。

清地橋
古川橋から東に向かって大きく弧を描く大落古利根川筋を下り清地橋に。上の古川橋の説明の箇所に、「杉戸宿御伝馬道が通る清地橋」とあった。杉戸宿御伝馬道って?はっきりとはしないが、どうも江戸の頃、右岸百閒村から左岸の杉戸宿へと向かう道とある。その目的は日光街道杉戸宿の助郷のようだ。仙台藩、会津藩といった大藩が通行する際、杉戸宿の問屋場へと馬や人足が動いた道筋であろうか。杉戸宿の旅籠には飯盛女が多数いた、という。悪所へと向かう道でもあったのだろう。
清地橋を渡れば杉戸宿に入れるのだが、当日は何となくその気になれなかった。炎天下で少々疲れていたのであろうか。今となって、立ち寄ってよればなあ、などと思う。次回の散歩でカバーすることにする。

姫川落川が合流
ゆったりと流れる大落古利根川に沿って宮東橋を越え、南西へと緩やかに弧を描く川筋を進むと姫川落との合流点に。ぼちぼち散歩を終える時刻。最寄りの駅である東武伊勢崎線・姫宮駅に向かう。
姫宮落川
Wikipediaに拠れば、「埼玉県久喜市下早見字内谷付近(江面地区)を起点(私注;圏央道と東北道が交差する少し東、久喜菖蒲工業団地南端、県道396号脇:下早見が飛び地となっており場所の特定に混乱した)とし、白岡市・南埼玉郡宮代町を流下し、北葛飾郡杉戸町との境界で大落古利根川に至る一級河川(一部準用河川)である。 姫宮堀(ひめみやぼり)とも称されている。
姫宮落川は笠原沼(現在の南埼玉郡宮代町;私注>現在東武動物公園)からの流出河川として整備された。この姫宮落川は笠原沼にて新田開発が行われ、笠原沼代用水が整備されるまでは笠原沼より下流域の村々にて農業用水に利用されていた。姫宮落川ないし姫宮堀という名称は地名の姫宮(現在の南埼玉郡宮代町の地名)ないし姫宮神社にちなんだものである。
笠原沼より上流の流域はかつて河原井沼(現在一部が昭和沼として残る、現在の久喜市;私注>久喜菖蒲工業団地傍に大きな池として残る)と称されていた沼地からの排水路である。
この排水路は河原井沼に端を発し、笠原沼へと流入するもので、流下する途中「埼玉郡爪田ヶ谷村(現在の白岡市爪田ヶ谷)」を流下していたのでこの村にちなみ爪田ヶ谷堀(つめたがやぼり)ないし爪田ヶ谷落堀(つめたがやおとしぼり)と称されていた。
このように笠原沼への流入河川であった爪田ヶ谷堀と流出河川であった姫宮落川を笠原沼の開発時に笠原沼北側の附廻堀として整備し、この2つの河川は1つの河川へと改修された。このときの改修もあり、現在では全区間姫宮落川と称されている。
流路は多くの区間においてほぼ直線的に流下する。(中略) 一部宅地の周辺を流れるが、多くの区間での流域は水田である。また姫宮落川は素掘りの区間と護岸された区間が並存する」とある。
要は、久喜菖蒲工業団地のところにあった河原井沼(現在昭和池として、また河原井の地名も残る)から笠井沼(現在の東武動物公園)への落と、笠井沼からの落しを繋いだものが、姫川落川、ということだろう。

笠原沼落が合流
姫川落川左岸を上流に進み、最初の橋である中州嶋小橋を渡り右岸を大落古利根川筋まで戻る。地図を見ると、少し下流に水路が見え、その水路が東武伊勢崎線・姫宮駅前を掠っているため、その水路を辿ろうとの想い。
川筋を少し下ると水路が大落古利根川に合わさる箇所についた。当日は下流から県道85号、県道406号と交差する橋を辿ったのだが、特に橋名、河川名を書いた親柱がみつからず、河川名不詳であったが、メモの段階でチェックすると「笠原沼落」のようである。
笠原沼落
Wikipediaに拠れば、「この笠原沼落は江戸中期に井沢弥惣兵衛為永が中心となり笠原沼を掘り上げ田形式にて新田開発した際、沼の中央部からの排水のために開削・整備された排水路である。
このため、起点付近の流路はかつての笠原沼のおおよそ中央部を横断するような流路となっている。今日においては起点付近では東武動物公園の園内を流下し、園内に所在している多くの池とも接続する。新しい村や宮代町立図書館周辺付近より下流から東武伊勢崎線橋梁付近までの流域周辺は水田などの農地となっており、東武伊勢崎線橋梁より下流域の流域周辺は一部農地などもみられるが、主に宅地などの市街地となっている」とある。

笠原沼落は、白岡市爪田ヶ谷の水田などの農地(かつての笠原沼の西部)からの農業排水を集めながら東北東へ流下し、東武動物公園内を蛇行しながら進み、東武動物公園を出ると姫宮落川の南側に並行し流下。東武伊勢崎線を越えるとS字に弧を描き、姫宮駅前を進み大落古利根川に合流する。
昔は、笠原沼の水を抜くため姫宮落に繋がれたこともあったようだが、水捌けが悪く享保14年(1729)には排水先を大落堀に付け替えたようである。

東武伊勢崎線・姫宮駅
笠原沼落に沿って姫宮駅に。姫宮神社に寄ってはみたいのだが、時間切れ。次回は、今回予備知識不足でパスした、杉戸宿、身代神社、姫宮神社と姫宮落川や笠原沼落とからめて歩き、大落古利根川筋に戻り、春日部へと下ろうと思う。

往昔、江戸に流れ込んでいたと言う古利根川を辿る散歩も、利根川東遷事業以前の古利根川の主流をなす二つの流れのひとつである会の川を川俣締切跡から三回に分けて歩き()、葛西用水と最接近する「会の川分水工」まで下り、また先日は古利根川のもうひとつの主流であったとされる浅間川筋跡を締切跡から島中領幹線用水に沿って下り十王堀排水路まで歩いた。 会の川筋も、浅間川筋も利根川東遷事業に伴い、その源頭部を失い廃川となるも、東遷事業の目的のひとつである新田開発のため、その廃川跡は用水路・排水路として活用されたようだが、会の川筋は現在も「会の川」としてその名を残し、上記「会の川分水工」で葛西用水と最接近した後、伏越で中川に余水を吐く。
一方、浅間川の廃川跡は、新田の灌漑用用水・排水路として使われ、利根川用水として整備された後、現在は埼玉用水路の下流部、島中領幹線用水路として流れ、途中から古利根排水路として往昔の名残の流路を下り、これも古利根川・浅間川の川筋と言われる、現在の十王堀排水路下流に余水を吐き、中川に合流する。
ここで言う、葛西用水も中川も、自然の川ではなく、人工的に開削された用水である。葛西用水は江戸の頃、中川は大正から昭和にかけて開削されたという。時間レイヤーは異なるにしても、共に利根川東遷事業の結果、廃川となった古利根川跡の新田開発のため旧流路を活用しながら開削された用水路である。

大雑把に言って、古利根川の主流のふたつである会の川筋と浅間川筋は、現在の川口分水工の辺りで合わさり、そこから南流、東流に分かれた、という。この川口分水工から南流する川筋が現在の葛西用水、東流する川筋が中川筋ということになる。
また、もう少し正確に言えば、東流する川筋には、現在の利根川が東遷事業によって人工的に開削される以前、利根の流路に阻まれることなく台地を南流してきた渡良瀬川が合流していたようだ。先回の散歩で出合った稲荷木落もその流路のひとつとも言われる。
現在の中川筋とは、南下した渡良瀬川が島川・権現堂川そして庄内古川を経て松伏の金杉で江戸川に合流していた「渡良瀬川」とみなしても、いいかと思う。 今回の一連の散歩は古利根川を下る旅。会の川筋、浅間川筋を歩いた後は、会の川筋、浅間川筋が合流した辺りという川口分水工を始点とし葛西用水をくだり、葛西用水の送水路として組み込まれた大落古利根川までくだろうと思う。



本日の散歩;東武伊勢崎線・鷲宮駅>青毛新堀川>江川堀>青毛堀川>天王新堀>葛西用水・川口樋前橋>川口分水工>会の川が伏越で中川に落ちる>葛西用水輿八圦跡の碑>中川>北側用水>葛西用水を下る>天王新堀川が接近>葛西橋>東北新幹線>薬王院橋>琵琶溜井に向かう>琵琶溜井分水工>中郷用水・南側用水の分水箇所>日光御成街道道標>大落古利根川起点・葛西橋>葛西用水・青毛堀川合流点へ>中落堀川に沿って久喜駅に向かう

東武伊勢崎線・鷲宮駅
本日の出発点、川口分水工の最寄り駅、東武伊勢崎線・鷲宮駅に向かう。駅の東に水路があった。青毛堀放水路(青毛新堀川)である。鷲宮駅の少し上流で後述する青毛堀川から分かれ、東武伊勢崎線に沿って一直線に下り、2キロほど下流で再び青毛堀川に合流する。
青毛堀放水路(青毛新堀川)
名称からも想像できるように、如何にも河川改修に伴い開削された水路と思える。大正8年(1919)から昭和11年(1936)にかけて青毛堀川の改修工事が実施されたようであり、その時期に開削されたものであろうか。

江川堀
青毛堀放水路を見終え、駅から川口分水工へと向かうのだが、地図を見ると駅の南に水路があり、水路は青毛堀川に合流している。すこし遠回りとはなるが、ちょっと立ち寄る。
道を成り行きで進むと橋にあたる。「くずめこばし」とある。メモの段階でチェックすると、「葛梅小橋」と書き、川は「江川堀」とあった。
江川堀
青毛堀川との合流点
Wikipediaには。「埼玉県加須市船越(西側)と水深(東側)との境界の水深側より端を発し、加須はなさき公園の南側を沿うように東流し、やがて久喜市鷲宮区域内を東流し青毛新堀川と平面交差する。平面交差のために流水の多くは青毛新堀川へと流下するが、江川堀の水路はそのまま東へと進み、砂原1丁目・上内・鷲宮の境界付近にて青毛堀川へと至り、終点となる。なお、青毛新堀川より青毛堀川までの区間では一部を除き、平常時は水がない」とあった。

青毛堀川
江川堀に沿って進む。Wikipediaにあるように水は青毛新堀川に一度落ちたためか少ない。ほどんと水がなくなった先、久喜市立砂原小学校の南端を暗渠で抜けると、何故か水が増えていた。
ともあれ、その先で江川堀は青毛堀川にあたる。Wikipediaに拠れば。「青毛堀川(あおげぼりがわ)は、埼玉県加須市から久喜市までを流れる河川で、騎西領用水(新川用水)およびその分水となる用水路の農業排水路である。久喜市太田地区では青毛を「オオゲ」と発音していたことから、青毛堀川を「オオゲボリ」と呼称する姿が見られる。
加須市下高柳の北青毛堀川(私注;加須市串作)と南青毛堀川(私注;加須市道地)の合流地点に「一級河川青毛堀川起点」の碑が設置されており、久喜市吉羽の大落古利根川との合流地点に「一級河川青毛堀川終点」の碑が設けられている。大落古利根川との合流地点より上流側約200m、葛西橋付近が大落古利根川の起点であり、それを示す標石が橋の袂にある。(中略)青毛堀川という名称は古くには上流より野久喜村までは川幅があまり広くなかったが、青毛村に至り川幅が広くなることからこの青毛村にちなみ青毛堀川という名称がつけられた(後略)」とある。
大落古利根川の起点
葛西用水の流路解説に、大落古利根川が葛西用水の一部に組み込まれている、ってあるのだが、大落古利根川の始点がよくわからなかった。地図で見ると、葛西用水と青毛堀川が合流する下流に「大落古利根川」とあるのだが、どちらの水路のどの辺りが大落古利根川の起点かはっきりしなかったのだが、上記記述で、「(青毛堀川と)大落古利根川(葛西用水と読み替える)との合流地点より上流側約200m、葛西橋付近が大落古利根川の起点、のようである。
騎西領用水(新川用水)
新川用水は加須市騎西町外田ケ谷で見沼代用水から取水し、騎西領(加須市、久喜市)の水田へ用水を供給し、白岡市で元荒川まで流れるが、途中で悪水をこの青毛堀川などの排水路(悪水落)に落としたようであり、結果的には大落古利根川に流れ込み葛西用水の加水の機能も果たすことになった。
この用水は往昔、古利根川の主流のひとつと言われた会の川より羽生市砂山で分かれ、南に下ったとされる日川(にっかわ)の自然堤防の微高地を利用したものと言われる。

天王新堀
青毛堀川を少し上流に進み、成り行きで北に折れる。県道410号を越えると水路にあたる。メモの段階でチェックすると「天王新堀」とあった。Wikipediaに拠れば「江戸時代に天王堀(てんのうぼり)として開削された葛西用水路の排水路で、当初は加須市を起点とする六郷堀とは別の河川であったが、現在では接続し、六郷堀の下流河川となっている。

六郷堀は加須市南大桑と久喜市鷲宮の境界付近に位置する東武伊勢崎線の橋梁西方付近で天王新堀と名を変える。流路は青毛堀川(南側)・葛西用水路(北側)との間をほぼ並行して流下している。久喜市鷲宮などの市街地では都市排水路を兼ねながら流下したのち、鷲宮(西側)と西大輪(東側)において境界を成しながら、水田などの農地の中を流下する。この周辺より野久喜字出来野の北方の水田まで、天王新堀は用悪水路(用水路兼排水路)となり、排水路としてだけではなく水田への用水としても利用されている。
久喜市野久喜および西大輪との境界に設けられている水門(天王堰)にて平沼落川を分水する。久喜市青毛で流路を南方に変え、埼玉県道153号幸手久喜線(久喜幸手新道)を横断、青葉2丁目より流域が再び市街地となり、同地の県営住宅の西側を流れ、青毛堀川に合流する」とある。

六郷堀?どこかで出合った記憶がある。思い起こすと、会の川散歩の三回目に出合った。そのときのメモを、ママ再掲する。
六郷堀
「花崎駅の少し手前で用水路と出合う。左右の護岸は都市型用水路で良く見る、鋼矢板と支保工のセット。継手を嵌め込みながら連続して鋼矢板が撃ち込まれ、鋼矢板の横からの荷重を天端で支保工が支える。当日は昔の農業用水の名残であろうと、まま駅に向かったのだが、メモの段階でチェックすると六郷堀川と呼ばれる用水であった。
源頭部は加須市東栄1丁目辺り(加須駅の東)というが、暗渠ではっきりしない。地図を見ると東に流れ久下浄水場の少し西で開渠となり花崎駅の北を通り、東北自動車道の手前で南に折れ、東武伊勢崎線を越え更に南に進み青毛堀川に落ちる。
が、ここで青毛堀川に落ちるのは余水吐、本流は東北自動車道を越え東に向かい、久喜市鷺宮町に入る。水路は東に向かい、東武伊勢崎線とクロスする手前で余水を青毛堀川に落としながら久喜市鷺宮町に入り、鷲宮神社の北を更に東に向かい、葛西用水手前で南に折れ、葛西用水と並行して南に下り東北本線、東北新幹線を越えて久喜市吉羽で青毛堀川に落ちる。
尚、久喜市鷲宮町に入ると、そこから下流を天王新堀と称する。東武伊勢崎線とクロスする手前で余水を青毛堀川に落としているが、そのあたりが六郷堀川と天王新堀の境であろうか。天王新堀と言えば、鷲宮神社を訪れた時に出合ったことも思いだした。
あれこれ歩いていると、これまたあれこれと繋がるものである。

葛西用水・川口樋前橋
北に進み、県道152号を越える辺りから市街地を離れ、農地の中を進むことになる。しばらく進むと葛西用水に出合う。用水路に沿って少し北に上ると「川口樋前橋」に出合う。
「樋前」の「樋」が何時の時代のものを指すのか不明ではある。この橋の上流にかつて「川口溜井」があったとのことではあるので、圦樋(取水口)のことではあろうかと思う。

溜井
溜井とは灌漑用貯水池と遊水池を兼ねたもの。江戸の川普請に度々登場する伊奈氏の「関東流」治水開発モデルでもある。その特徴とするところは、上流の排水を下流の用水として使用する「循環型」の思想、また洪水対策も霞堤とか乗越堤といった名の通り、河川を溢れさすことで洪水の勢いを制御するといった思想である。
こういった「自然に優しい工法」が関東流の特徴である。しかし、それゆえに問題もあり、なかでも洪水の被害、そして乱流地帯が多くなり、新田開発には限界があった、と言われてもいる。因みに関東流に対するものが見沼代用水に見られる井沢弥惣兵衛為永を祖とする紀州流と呼ばれるものである。
葛西用水と溜井
溜井は葛西用水を特徴づけるものである。現在では行田市下中条の利根大堰(昭和43年;1968)で取水され、東京都葛飾区まで延びる大用水であるが、これははじめから計画されたものではなく、新田開発が進むにつれ、不足する水源を、上流へと求めた結果として誕生したものであり、その歴史的経緯の要点に溜井が登場する。葛西用水と溜井の関係をまとめておく。
亀有溜井
そもそも、葛西の地をはるか 離れた地から延々と葛西の地に下る用水を葛西用水とするのは、この用水のはじまりが葛西領を潤した亀有溜井をもってその嚆矢とする故である。
文禄2年(1593),利根川東遷第一次の工事として伊奈忠次は当時の会の川を川俣地点で締切り,浅間川筋に落とし、この川口の地で二流に分けるも、その主流は渡良瀬川の水も合わせ東へと、現在の中川の川筋(当時中川という川は、ない)である島川・権現堂川、庄内古川を経て金杉で太日川(現在の江戸川)に落とした。
また西遷事業(寛永6年;1629)施行以前の荒川(現在の元荒川)の水も、川口から南に下った古利根川(現在の大落古利根川)と越谷で合さり、これも小合川を経て太日川に落とし、江戸の町を直接利根川の水害から守るという、利根川東遷事業の当初の目的は果たした。
次いで、東遷事業の大きな目的のひとつである新田開発であるが、この目的で最初に設けられたのが「亀有溜井」。水源は荒川西遷事前で水量豊富な綾瀬川に求め葛飾区新宿で水を溜めて葛西領を潤すことになる。
◆綾瀬川
Wikipediaに拠れば、「戦国時代の頃は利根川と荒川の本流であった。当時の利根川・荒川は、今の綾瀬川源流の近く、桶川市と久喜市の境まで元荒川の流路をたどり、そこから今の綾瀬川の流路に入った。
今の元荒川下流は、当時星川のものであった。戦国時代にこの間を西から東につなぐ水路が開削されて本流が東に流れるようになり、江戸時代に備前堤が築かれて綾瀬川が分離した。この経緯により、一部の地図には綾瀬川(旧荒川)の括弧書きが行われる事がある」とある。
地図を見ると久喜市、桶川市、蓮田市が境を接する辺りにある「備中堤」から南に綾瀬川、東に元荒川が流れ、その元荒川は東に進んだ後、久喜市飛地で星川に合流している。上述Wikipediaの説明を元に推測すると、この備前堤から東に流れる元荒川は「戦国時代に開削された西から東へつなぐ水路」であり、星川との合流地点の下流は現在は元荒川ではあるが、かつては星川の流れであり、元来の元荒川は備前堤から南に下る綾瀬川筋であった、ということだろう。
瓦曽根溜井
慶長19年(1614)には新田開発を上流に伸ばし、荒川(現在の元荒川)本流を越谷の瓦曽根で締切り瓦曽根溜井を築堤し、下流域を潤した。
寛永6年(1629)に伊奈忠治は,荒川の西遷事業を開始。これにより元荒川は,水源を失い,瓦曽根溜井の水は枯渇していくことになる。このため幕府は寛永7,8年頃から,元荒川の加用水として水源を太日川に求め、庄内領中島(幸手市)より中島用水を開削し,寛永18年(1641)になると太日川を北に掘り抜いた現在の江戸川開削後は,江戸川に圦樋を移し用水を引いた。
松伏溜井
中島用水は,現在の春日部市八丁目で古利根川(現在の大落古利根川)に落とされることになるが,下流松伏村に松伏溜井が造られる。ここで堰き止められた水は、その一帯を潤しながらも、その流量のほとんどは松伏溜井の末流大吉村から元荒川までの問に新たに開削された逆川用水に流され,瓦曽根溜井まで送水された。この一連の工事の完成は寛永11年(1633)といわれている。
また,この一連の工事により,荒川の瀬替えにより水量が激減していた綾瀬川を水源とする亀有溜井への加用水も可能となる。瓦曽根溜井から一帯を潤していた用水・悪水落を延長し瓦曽根溜井から古綾瀬川へと落とす水路が完成し、亀有溜井は瓦曽根溜井・松伏溜井と繋がった。

川口溜井
承応3年(1654)には利根川東遷による関東平野の治水と利水が一応の安定を得る。それにともない新田開発が一層推進されることになるが,古利根川左岸から旧庄内川の右岸一体、水源を池沼にゆだねていた幸手領(幸手市,杉戸町,春日部市,鷲宮町)においては用水不足をきたすようになる。
その水源として求めたのが東遷事業の完了した利根川である。万治3年(1660)に古利根川本川の本川俣地点に圦樋を設けて南東に水路を開削し,会の川の旧河道を流し,川口地点に川口溜井を造り,権現堂川(島川)筋の加用水として北側用水を開削した。
琵琶溜井
さらに,川口溜井から水路を開削して古利根川の河道につなげられ琵琶溜井が造成され,そこに中郷用水と南側用水の2用水が開削された。琵琶溜井には幸手用水の余水流しに圦樋が設けられ,青毛堀,備前堀等の悪水と一緒に古利根川(現在の大落古利根川)に落し,下流の松伏溜井への加用水として供した。これをもって幸手領用水とした。琵琶溜井は後ほど訪れる。

葛西用水の成立
その後,宝永元年(1704)の大洪水の際に中島用水が埋没したため,享保4年(1719),関東郡代伊奈忠蓬は,幸手領用水の加用水として新たに本川俣の少し上流の上川俣の利根川本線に圦樋を設け,幸手領用水に接続させ,川口溜井と琵琶溜井では圦樋を増設して水量を確保した。以来,本川俣および上川俣の利根川取水から葛西井堀末端までを「葛西用水」と称するようになり,ここに関東地方切っての大用水が形成された。

以上、溜井のまとめをしながら、結局は葛西用水成立の歴史ともなった。葛西用水は利根川の東遷事業、荒川の西遷事業と密接に関連しながら、廃川となった利根川(大落古利根川)の川筋跡を活用しながら、上流へと延びる新田開発に伴い下流から上流へと水源を求め、最終的に利根川にまでたどり着いた、ということであろう。

川口分水工
かつて川口溜井があったであろう水路を少し北にのぼると川口分水工がある。ここが本日の散歩の起点である。
この分水工で本流は南下、そして左岸に北側用水を分ける。上述の如く、かつては川口溜井から加用水として権現堂川(島川筋)に水を流した北側用水であるが、現在は権現堂川用水の加用水となっているようである。
北側用水・権現堂川用水
権現堂川用水は、現在の権現堂川(権現堂川調整池)対岸の中川より分水し、国道4号の東に沿って下り、幸手市内国府間・北2丁目・北3丁目の境界にて西より流下してくる北側用水路に合流し、権現堂川用水路に加水される。その後県道371号の南を東流し、県道371号と交差した後は下吉羽で流路を南に変え、中川の西に沿って平野、中野、長間と下り、北葛飾郡杉戸町に入り、並塚、才場、蓮沼をへて大塚で中川右岸に合流する。

会の川が伏越で中川に落ちる
先日会の川を3回に分けて歩いた最後に、会の川が葛西用水路に最接近する会の川分水工(合流工?)に出合った。ちょっと目には葛西用水路に合流するようにみえるのだが、葛西用水にあわさる水量調整用のゲートがあるにしても、会の川本流はそのまま葛西用水と仕切られた水路を葛西用水と並行して下る。 葛西用水と仕切られる理由は、会の川の水路は葛西用水の水路より低く、洪水時に葛西用水から会の川に逆流することを防止するため、と言う。しばし葛西用水と平行して下る会の川の水路はこの地の調整ゲートで葛西用水を潜り中川に落とされる。

葛西用水輿八圦跡の碑
少し上流の川口橋を渡ると、葛西用水左岸に「葛西用水輿八圦跡の碑」が建つ。 輿(与)八圦とは上流の羽生領(羽生市・加須市)、向川辺領(旧大利根町;現加須市)、島中領(旧栗橋町;現久喜市)の悪水を島川(現.中川)から葛西用水へ加用水(用水の補給)として流入させていた圦樋(樋管)のようである。 万治3年(1660)、幸手領に利根川を水源とする用水整備が始まる以前、羽生領、向川辺領、島中領の悪水は、川口付近で島川(当時は権現堂川の旧流路)と古利根川へ落とされていたようだが、享保4年(1719)の葛西用水の開削に伴い、古利根川筋は島川や浅間川から切り離され幸手領の用水路として整備されたため、上記地域の悪水を幸手領へ流すことができなくなった。
そのため上記地域の悪水は島川に落としていたようだが、島川も権現堂川の高い水位(多分江戸川と繋がれたため?)に阻まれ排水が困難になっていた。その排水のために天保12年(1841)設けられたのが輿八圦である。島川から圦樋(樋管)で葛西用水の加用水として落とした、とのこと。幸手領用水の整備にともなって途絶えていた古利根川筋への悪水落がおおよそ200年の時を経て「復活」したともいえる。
この輿八圦も昭和初期に実施された中川の改修によって、羽生領の悪水を中川へ落とすことになったため廃止され、羽生領の悪水は現在、川口分水工の付近で、中川放流工を経由して、中川に落とされているようである。

中川
葛西用水の直ぐ東に中川が流れる。「中川」とはいうものの、前述の如くこの川は「人工的」に造られたものであり、それも大正から昭和初頭にかけて出来上がったものといっていいだろう。
Wikipediaに拠れば、「現在の中川の流路は、その上流部は明治時代以前の庄内古川(幸手市高須賀より上流は島川)と、下流部の古利根川(利根川東遷事業以前の利根川本流で東京湾へ注ぐ河口部は現在の旧中川)とを、松伏町大川戸から松伏町下赤岩まで大正・昭和時代に開削された河道で接続して造られた。それ以前は古利根川が亀有付近で分流した河道のうち、江戸川区西葛西付近の河口へ向かう河道を中川と呼んだ」、とある。
もう少し詳しくまとめると;
現在の中川は羽生市を起点とし、埼玉の田園地帯を流れ東京湾に注ぐ全長81キロの河川。起点は羽生市南6丁目あたり。宮田橋のところで葛西用水を伏越で潜り、宮田落排水路(農業排水路)とつながるあたりが起点、とか。
中川には山岳部からの源流がない。低平地、水田の排水を34の支派で集めて流している。源流のない川ができたのは、東遷・西遷事業がその因。江戸時代、それまで東京湾に向かって乱流していた利根川、渡良瀬川の流路を東へ変え、常陸川筋を利用して河口を銚子に移したこと。また、利根川に合流していた荒川を入間川、隅田川筋を利用して西に移したことによって、古利根川、元荒川、庄内古川などの山からの源流がない川が生まれた。
現在の中川水系一帯に「取り残された」川筋は、古利根川筋(隼人堀、元荒川が合流)と島川・庄内古川筋(太日川。後の江戸川に合流)に分かれていた。幕府は米を増産するために、この低平地、池沼の水田開発を広く進め、旧川を排水路や用水路として利用した。が、これは所詮「排水路」であり「用水路」。「中川」ができたわけではない。
中川水系の水田地帯を潤し、そこからの排水を集めた島川も庄内古川も、当初その水を江戸川に水を落としていた。が、江戸川の水位が高いため両川の「落ち」が悪く、洪水時には逆流水で被害を受けていたほどである。
低平地の排水を改善するには、東京湾へ低い水位で流下させる必要があった。そこで目をつけたのが古利根川跡(大落古利根川)。古利根川筋は最低地部を流れていた。島川や庄内古川を古利根川とつなぐことが最善策として計画されたわけである。実際、江戸川落口に比べて古利根川落口は2m以上低かったという。
この計画は大正5年(1916)から昭和4年(1929)にかけて外周河川である利根川、江戸川および荒川の改修に付帯して実施された。
島川は利根川の改修で廃川となった権現堂川を利用したうえで、幸手市上宇和田から杉戸町椿まで約6キロを新開削して庄内古川につながれた。庄内古川は松伏町大川戸から下赤岩まで約3.7キロ開削して古利根川につながれた。こうして「中川」ができあがった。
また、昭和22年(1947)カスリーン台風の大洪水のあと、24年(1949)から37年(1962)にかけて放水路として新中川も開削される。都内西小岩から河口までの約7.6キロ、荒川放水路計画の中で用水路に平行して付け替えて綾瀬川を合流させた。こうして中川・新中川が誕生した。ちなみに、中川って、江戸川と荒川の「中」にあったから。とか。
大雑把に言って、利根川の東遷事業、荒川の西遷事業によって「取り残された」埼玉中央部の川筋を、まとめ直した川筋をして中川水系、と言ってもいいだろう。


利根川東遷事業
葛西用水輿八圦跡の碑の少し北に、先回下った浅間川筋の旧路である大王堀排水路が中川に合流する。対岸の高柳地区は江戸の頃、浅間川締切の地でもある。浅間川の高柳地区での締切は元和7年(1621)、利根川東遷事業の新川通りの開通に合わせてのことである。

デテールに入り込み、東遷事業の全体像が見えなくなってきた、ちょっとここで利根川東遷事業に関わる利根川の河道の変遷をまとめておく;利根川は群馬県の水上にその源を発し、関東平野を北西から南東へと下る。もともとの利根川の主流は大利根町・埼玉大橋近くの佐波のあたりで、現在の利根川筋から離れていた。流れは南東に切れ込み、加須市川口・栗橋町の高柳へと続く。その流れは浅間川とよばれていたようだ。地図を見ると、現在は「島中(領)用水」が流れている。が、これは昔の浅間川水路に近い。
で、ここから流れは「島川筋(現在の「中川筋」)を五霞町・元栗橋に進んでいた。ここで北方、古河・栗橋・小右衛門と下ってきた渡良瀬川(思川)と合流し、現在の権現堂川筋を流れ、幸手市上宇和田から南へ下る。上宇和田から先は、昔の庄内古川、現在の中川筋を下り江戸湾に注ぐ。これがもともとの利根川水系の流路であった。
この流路を銚子方面へと変えるのが利根川東遷事業。はじまりは江戸開府以前に行われた「会の川」の締め切り工事。文禄3年(1594年)、忍城(行田市)の家老小笠原氏によって羽生領上川俣で「会の川」への分流が締め切られることになる。利根川は往古、八百八筋と呼ばれるほど乱流していたのだが、「会の川」はその中の主流の一筋であり、南利根川とも呼ばれていた。
会の川は加須市川口、現在川口分流工のあるあたりで、ふたつに分かれる。ひとつは島川筋(現在の中川)、もうひとつは古利根川筋(現在の葛西用水の流路)。実際、現在でも中川と葛西用水は川口の地で最接近している。こういった流れの元を閉め切り、南への流れを減らすべくつとめた。これが「会の川」締め切り、である。
ついで、元和7年(1621年)、浅間川の分流点近くの佐波から栗橋まで、東に向かって一直線に進む川筋を開削。これが「新川通り」とよばれるもの。この「新川」開削に合わせて、高柳地区で浅間川が締め切られた。そのため、島川への流れが堰止められ、川筋は高柳で北東に流れ伊坂・栗橋に迂回。そこから渡良瀬川筋を下り、権現堂川から庄内古川へと続く流れとなった。「新川通り」は開削されたものの、すぐには利根川の本流とはなっていない。この人工水路が、利根の流れを東に移す本流となったのは時代をずっと下った天保年間(1830年‐44)頃と言われる。
この「新川」の延長線上に開削されたのが「赤掘川」。栗橋から野田市関宿まで開削される。赤堀川も当初はそれほど水量も多くなく、新川の洪水時の流路といったものであったようだ。が、高柳・伊坂(栗橋町)・中田(古河市)へと流れてきた利根川水系の水と、北から下り、中田あたりで合流した渡良瀬川の水をあつめ、次第に東に流すようになったのであろう。
「新川通り」の開削といった、利根川の瀬替えにより、利根川水系・渡良瀬川水系の水が権現堂川筋から庄内古川(中川)に集まるようになった。結果、沖積低地を流れる庄内古川が洪水に脅かされることになる。その洪水対策として実施されたのが「江戸川」の開削。庄内古川に集まった水を江戸川に流す工事がはじまる。
江戸川は太日川ともよばれていた常陸川の下流部であった。この江戸川を庄内古川とつなぐため、北に向かって関東ローム層の台地が開削される。関宿あたりまで切り開かれた。17世紀中頃のことである。
この江戸川とつなぐため、上宇和田から江戸川流頭部・関宿まで権現堂川が開削される。同時に、権現堂川から庄内古川へ向かう流れは閉じられた。この結果、栗橋で渡良瀬川に合流した利根川本流は、栗橋・小右衛門・元栗橋をとおり権現堂川を下り、関宿から江戸川に流れることになった。こうして、南に向かっていた利根の流れを東へと移し替えていったわけである。
ちなみに、現在関宿橋のあたりから江戸川・利根川の分岐点あたりまでは寛永18年(1641年)に開削されたもの。当時、逆川と呼ばれていたようだ。関宿の少し南、江川の地まで開削されてきた江戸川と、赤堀川、というか、常陸川水系をつなぐことになる。
で、この逆川は複雑な水理条件をもっていた、と。『日本人はどのように国土をつくったか;学芸出版社』によれば、普段は赤堀川(旧常陸川)の水が北から南に流れて江戸川に入る。が、江川で「江戸川」と合流する川筋・「権現堂川」の水位が高くなると、江戸川はそれを呑むことができず、南から北に逆流し、常陸川筋に流れ込んでいた、ということである。

北側用水
左に中川、右に葛西用水を見遣りながら川口分水工まで戻る。北川用水をその雰囲気だけでも感じてみようと、ちょっと水路に沿って歩く。少し進み、下川面橋で右に折れ、葛西用水に戻る。
北側用水路の流路
北側用水路(きたがわようすいろ)は、埼玉県加須市・久喜市・幸手市を流れる農業用水路である。北側用排水路(きたがわようはいすいろ)とも称される。 埼玉県加須市川口の葛西用水路より分水し、主として中川の南側を沿うように流下し、中川南側の水田地域を灌漑する。幸手市内国府間・北2丁目・北3丁目の境界にて北より流下してくる権現堂川用水路と合流し、北側用水路は終点となる。

葛西用水を下る
北側用水から葛西用水に戻り、南に下る。ほどなく、用水をコンクリートの蓋が覆う。何だろう?衛星写真で見ると、コンクリート蓋と同じ幅で用水左岸に区画された土地が見える。その東にも不自然に広いスペースが見える。この辺りまで権現堂堤が続いていた、というのでそれと関連あるのだろうか。不明である。
それはともあれ、新橋、金山橋、新古川橋、古川橋と鷲宮の街中を下ってゆく。さらに、霞が関橋、上古川橋、柳橋、上河原橋と進むと右手から天王新堀が接近してくる

天王新堀川が接近
葛西用水が県道3号と交差する辺りで天王新堀が最接近。天王新堀は本日の散歩のはじまりの辺りで出合った。上述の如く、流路は青毛堀川(南側)・葛西用水路(北側)との間をほぼ並行して流下。久喜市鷲宮などの市街地では都市排水路を兼ねながら流下したのち、鷲宮(西側)と西大輪(東側)において境界を成しながら、水田などの農地の中を流下する。この周辺より野久喜字出来野の北方の水田まで、天王新堀は用悪水路(用水路兼排水路)となり、排水路としてだけではなく水田への用水としても利用されている。
久喜市野久喜および西大輪との境界に設けられている水門(天王堰)にて平沼落川を分水し、久喜市青毛で流路を南方に変え、埼玉県道153号幸手久喜線(久喜幸手新道)を横断、青葉2丁目より流域が再び市街地となり、同地の県営住宅の西側を流れ、青毛堀川に合流する。
平沼落川
Wikipediaに拠れば、「埼玉県久喜市野久喜と西大輪との境にある天王新堀川との分流地点(天王堰、溜井および水門が設けられている)を起点とし、久喜市青葉1丁目と5丁目の境目の地点より青毛堀川に合流・終点となる。 久喜市青葉はかつて平沼土地区画整理事業が行われる以前、(中略)湿田などの耕地であった。平沼とは(中略)青毛堀川の東側に存在していた低地であり、主に水田として利用されていた土地である。またこの水路は平沼落(ひらぬまおとし)とも称される。
平沼土地区画整理事業が立ち上がると、それまでの農業地域から市街化への変化に伴い、これらの水路の流路は整理され、用排水路はほぼ一本の水路としてまとめられた。そして現存しているのが平沼落川である」、とある。

葛西橋
県道3号下平井橋を潜り、河原橋を越え、天王堀川と並走する葛西用水を下ると前方にJR東北本線、左手の土手上に東武伊勢崎線が見えてくる。葛西用水が JR東北本線と交差する手前に架かる葛西橋の辺りで、天王新堀が再び最接近。東武伊勢崎線も土手でJR東北本線を跨ぐ。少し西に青毛堀川が流れるため、東武伊勢崎線もここを通るのであろうが、水路や線路がすべて集まり、結構面白い姿となっている。
JR東北本線の出来野踏切は、天王新堀に架かる天王橋を渡り南に越え、人道橋の外野橋を渡り葛西用水に戻る。

東北新幹線
天王新堀と並走し先に進むと東北新幹線の高架が見えてくる。その高架か北西に高架が分岐している。何だろう?チェックすると、JR東北本線・東鷲宮駅にある新幹線保線基地とつなぐ路線であった。

薬王院橋
平沼落
新幹線の高架を潜り先に進むと薬王院橋に出合う。このあたりから西に向かう葛西用水と南に下る天王新堀が離れてゆく。
地図を見ると薬王院橋の少し南で天王新堀からの分流がみえる。上述の平沼落の溜井、堰らしきものがあった。

琵琶溜井に向かう
葛西用水に沿って小さな水路が並走するが、その水路は天王堀川から分かれた平沼落川ではあろう。少し東に進み流路を南に変えて青葉1丁目と5丁目の境目へと続く水路が見える。
葛西用水は東に向かい大きく弧を描く。途中で、たまや橋、だいにち橋、へいせい橋と続き、県道153号に架かるさいわい橋を越え、べんてん橋を過ぎると 水路が心持ち広くなってくる。琵琶溜井分水工が近づいてきた。

琵琶溜井分水工
ゲートを設けた分水堰が見える。かつての琵琶溜井はこの辺りにあったのだろう。万治3年(1660)に琵琶溜井が設けられた頃は溜池に設けた樋管から中郷用水と南側用水に分水していたとのことだが、現在はコンクリートの隔壁による直流式の定比分水路となっている。昭和37年(1962)に改修されたようだ。 用水への分水量を巡る諍いのもととなった番水制度(取水地域と時間の管理)も廃止された。琵琶溜井分水工の右岸に水路改良記記念館があるが門は締め切られていた(通常締め切られているようである)。
琵琶溜井
既にメモしたが、大雑把にまとめると、承応3年(1654)には利根川東遷による関東平野の治水と利水の安定ともない古利根川左岸から旧庄内川の右岸一体の水田開発も進むが、水源を池沼にゆだねていた幸手領(幸手市,杉戸町,春日部市,鷲宮町)においては用水不足をきたすようになる。
その水源として求めたのが東遷事業の完了した利根川である。万治3年(1660)に古利根川本川の本川俣地点に圦樋を設けて南東に水路を開削し,会の川の旧河道を流し,川口地点に川口溜井を造り,権現堂川(島川)筋の加用水として北側用水を開削。
さらに,川口溜井から水路を開削して古利根川の河道につなげられ琵琶溜井が造成され,中郷用水と南側用水の2用水が開削された。琵琶溜井には幸手用水の余水流しに圦樋が設けられ,青毛堀,備前堀等の悪水と一緒に古利根川(現在の大落古利根川)に落し,下流の松伏溜井への加用水として供した。これをもって幸手領用水とした。

中郷用水・南側用水の分水箇所
琵琶溜井戸分水工の少し南にある葛西用水に架かる栄水橋を渡り、葛西用水を見遣り、西に進み県道65号の栄水橋東詰交差点辺りから葛西用水から分かれる中郷用水、南側用水の分流点を確認する。
中郷用水
Wikipediaに拠れば、「中郷用水路(なかごうようすいろ)は、埼玉県幸手市・北葛飾郡杉戸町を流れる農業用水路である。埼玉県幸手市大字上高野の葛西用水路・琵琶溜井より分水し、主として倉松川周辺の水田地域を流下し、幸手市南西部および北葛飾郡杉戸町の中央部を灌漑する」とあり、余水は中川に吐く。
南側用水
埼玉県幸手市大字上高野の葛西用水路・琵琶溜井より分水し、主として大落古利根川より東側の水田地域を灌漑する。用水路は現在でも開削当時の面影を残す素掘りの区間が多い。北葛飾郡杉戸町杉戸4丁目より周辺は市街地となり、南側用水路は暗渠化され地上は遊歩道となる(Wikipedia)。


日光御成街道道標
県道65号・栄水橋東詰交差点脇に石橋があり、「史跡 御成街道道しるべ」と書かれた木標があった。馬頭観音が道標を兼ねているとのことで、「西、く起(久喜)/志よう婦(菖蒲)/かず(加須)、道 右 日光/左 い王つき(岩槻)、道 と刻まれている」とのことである。
日光御成道
日光御成道(にっこうおなりみち)とは、江戸時代に五街道と同様整備された脇往還の一つである。中山道の本郷追分を起点として岩淵宿、川口宿から岩槻宿を経て幸手宿手前の日光街道に合流する脇街道である。将軍が日光社参の際に使用された街道であり、日光御成街道(にっこうおなりかいどう)とも呼ばれている。

大落古利根川起点・葛西橋
葛西用水に戻り、下流へと。圏央道の高架を潜れば葛西用水と青毛堀川との合流点も近い。合流点から下流は基本的に葛西用水の一部として組み込まれている「大落古利根川」である。

葛西用水の左岸には青毛堀川との合流点付近には橋が無いため、右岸を進み、合流点手前の「かさい橋」に。「大落古利根川」の起点を探す。「青毛堀川と大落古利根川との合流地点より上流側約200m、葛西橋付近が大落古利根川の起点であり、それを示す標石が橋の袂にある」とのことだが、見つけることはできなかった。

葛西用水・青毛堀川合流点へ
葛西橋を右に折れ、青毛堀川に沿って少し戻り迂回して葛西用水・青毛堀川合流点に向かう。再び圏央道を潜り「かわら橋」、その上流の「江口橋」辺りに「大落古利根川起点」の標石がないものかと彷徨うが、見つからなかった。
起点標石探しは諦め、青毛堀川を葛西用水との合流点まで進む。一応合流箇所を確認し、合流点の下流「大落古利根川」をそのまま下る。
本日の散歩はこれで終わり。最寄りの駅である久喜駅に向かう。

中落堀川に沿って久喜駅に向かう
どうせのことなら水路に沿って駅に向おうと、大落古利根川を少し下ったところで合流する水路に進む。水路を上っていけば久喜駅に繋がる。
この水路、途中で「中落古川」とわかったのだが、水路に沿って道はない。なんとかなるかと、そのまま進む。少々難儀なところもあったが国道368号を越え「備中岐橋」に。
そこから先は川に沿って歩けそうもないので、成り行きで進み、向地橋辺りで再び中落堀川にあたり、其処から先は水路に沿って整備された道を向地大橋へと進み、水路に沿って久喜の駅前まで戻り、一路家路へと。
中落堀川
Wikipediaをもとに簡単にまとめると、「中落堀川(なかおとしほりがわ)は、埼玉県北東部を流れる準用河川である。歴史は比較的古く、元禄6年(1693年頃)にすでに排水路として描かれている。昭和29年(1954)に合併するまでは、久喜町(現:久喜地区)と太田村(現:太田地区)の町村界を成していた。
今日では、久喜駅の北北西数キロメートルの場所を起点に、久喜区域の市街地を西から東へほぼ貫流し、いくつかの水路と合流した後、大落古利根川に合流・終点となる。久喜駅北側(東口)より本川終点までコンクリート護岸がなされている。
偶々歩いた足立・葛飾区境の古隅田川(そのⅠそのⅡ)が、東遷事業により現在は銚子に下る利根川の旧流路であったことがきっかけ手始めた旧利根川筋散歩も、その主流のひとつである会の川筋を3回(その①その②その③)に分けて歩いてから、ちょっと日が経ってしまった。
いくらなんでも、もうそろそろと、会の川筋とともに旧利根川の主流をなしていた浅間川筋を歩くことにした。思うに、利根川東遷事業に伴う浅間川の締め切り箇所が駅から遠く離れており、スタート地点に行くまで結構時間がかかるのが、腰を重くした利流でもあるが、今回改めて最寄り駅の栗橋から利根川に架かる埼玉大橋の少し上流にある浅間川締め切り口までの地図を見ると、縦横に用水路・排水路が走っている。
利根川東遷事業の目的のひとつが、源頭部を失い廃川となった旧利根川の川筋を活用した新田開発であったことを思い起こし、それでは、浅間川の締め切り口までは、新田開発に供したであろう用水路・排水路を見遣りながら進むべしと、モチベーションを上げ、浅間川締め切り口に向かった。 用水・排水路を辿り加須市外野の現利根川堤防傍にある浅間川締め切り口に向かうには結構時間がかかったのだが、結果的には辿った用水・排水路が、浅間川筋であったことなど、それなりのリターンを得て浅間川跡を辿る散歩を終えた。



本日の散歩;
浅間川締切跡に向かう
栗橋駅>旗井排水路>稲荷木落>沼尻排水路>元和川用水路>十王堀排水路>県道84号・開平橋>十王堀排水路と元和川用水が接近>新元和川用水が十王堀排水路を伏越で交差する>三尺用水路が十王堀排水路を伏越で交差>十王堀排水路に乗り換え>県道60号線・十王堀排水路起点付近>元和川用水・東川用水分水堰>川辺領用水路を西に>新元和川用水路分水堰>佐波分水堰;島中領用水路と川辺領用水路を分ける>古利根用水・道かん橋>古利根分水>古利根用水竣工記念碑>川圦神社
浅間川跡を下る
旧利根川堰堤跡の碑>佐波分水堰を南に島中領幹線用水路を下る>加須・大利根工業団地>上悪土用水機場>県道84号・新利根二丁目交差点>杓子木揚水機場>阿佐間揚水機場>琴寄揚水機場>島中領幹線用水と高柳分水路が分かれる>島中領幹線用水路が十王堀排水路を伏越で渡る>十王橋を渡り十王堀排水路を下る>善定寺池>島中領幹線用水が稲荷木落を伏越で渡る>栗橋駅


■浅間川締切跡に向かう■

栗橋駅
栗橋駅に最初の下りたのは何年前のことだろう。利根川東遷事業に興味をもち、その手はじめにと、その名前に惹かれた権現堂川跡に向かうため、この駅に降り立った。
その時は駅の東側に下りたのだが、今回は駅の西側。車のパーキングが全面に広がる。その間を成り行きで西に進むと平成の大合併(平成22年;2010年)で久喜市となった旧栗橋町を越え加須市域に入る。

旗井排水路

市境を越えるとほどなく開渠の水路が道に沿って続く。メモの段階であれこれチェックすると加須市の「管理水路図」が見つかり、その図によると「旗井排水路」のようである。
水路は栗橋駅のほうに暗渠で進んでいるのかと思ったのだが、始点は開渠地点から北に延びる道を進み、東武日光線と交差する手前で東に曲がり、旗井神社へと向かう道筋がその排水路跡のようだ。そこから南へ暗渠で下り、この地から栗橋と逆の東へと向かう。開渠は見えない。

東川用水路
旗井排水路には結構水量が多い。何故? と、旗井排水路が開く少し西に、北から下る開渠が見える。加須市の「管理水路図」をもとに水路跡を辿ると、どうも東川用水路のようである。
東川用水路は後程分流始点に出合うことになるが、ちょっと先走ってメモすると、利根川右岸の4つの農業用水路である、羽生領用水葛西用水、後述する稲子用水と古利根用水の取水口を、その経緯は省くが、ともあれ取水口を利根大堰のひとつにまとめた埼玉用水路の下流部分である古利根用水の分流。旧利根川、即ちこの場合、浅間川と言い換えてもいいのだが、古利根用水を佐波分水堰で左岸へと分けた川辺領用水路の一派として、利根川に沿って東に流れ、旗井の北で流路を南に変えてこの地に下る。

稲荷木落
開渠の水路に沿って進むと、道の左手に水路が見えてくる。地図でチェックすると稲荷木落とある。先ほど出合った旗井排水路、東川用水の水路はこの稲荷木落に合わさる。ちょっと目には稲荷木落の分水のように見えるが、理屈からすれば稲荷木落に余水を落としているのだろう。
水路に沿って西に進むと最初の橋。橋に名前はついていない。古い趣の橋の脇には新しい人道橋が併設されていた。右岸には「野菊の小径」と書かれた遊歩道が整備されている。
そのすぐ西に、北から水路が合わさるが、加須市の「管理水路図」には「開二九排水路」とある。
水路に沿って進むと新しい橋が架かる。「いりやはし」「稲荷木落」とある。この橋からそのまま、真っすぐ進めば浅間川締切跡への最短距離ではあるが、南に流れるいくつかの水路が気になり、橋を左折し南に下る。
稲荷木落
「とうかきおおとし」「いなりぎおとし」などと書かれている。起点もはっきりしない。当初、「いりやはし」から西に続く水路がそれと思っていたのだが、稲荷木落の管理起点は、この橋の先、北から下る水路と合わさる地点に架かる三尺橋とも言われる。
三尺橋から西は三尺用水路とのことである。また、北から合わさる水路には東西に走る香林寺落排水路と交差する箇所までは新堀排水路、その北の利根川堤辺りまで続く水路は「導水渠」と書かれており、東武日光線の北では上述東川用水路と交差している。
ともあれ三尺橋を管理起点にした稲荷木落は、旧大利根町(現加須市)からはじまり加須市、久喜市(絵旧栗橋町、旧鷲宮町)を下り久喜市島川と新井の間で中川に合流する。
稲荷木落の歴史は古く、19世紀中頃、河辺領(旧n根町:現在の加須市)の農業用悪水(排水)落として開削された。流路は旧渡良瀬川(近世以前)の廃川跡を活用した、とのこと。
当初悪水は後述する十王排水路を経て、現在の県道125号に架かる古門樋橋辺りで島川(現在の中川)に落とされていたが、昭和10年(1935)頃の中川の改修(旧.島川、権現堂川、庄内古川)に併せて、島中領(現.栗橋町周辺)の排水も流せるようにと、県営事業による大規模な改修工事がおこなわれ、落口が元の落し口の下流である現在の地に変わったのだろうか。
また、平成に入り、三尺排水路、後述する沼尻排水路と合わせ大規模な河川改修が行われたようである。久喜市松永の辺りは旧浅間川の堤防が残る、と言う。浅間川の自然堤防に盛土し築堤したとのことだが、その自然堤防は往昔の鎌倉古道とも言われる。

香林寺落排水路
加須市の「管理水路図」によると、起点は後程訪れる古利根川・浅間川締め切り口付近、現在の埼玉用水の川辺領用水箇所が、これも後述する元和川用水路と東川用水路と分岐する少し南辺りが起点らしく、東に進み南に折れる。南に折れた箇所が上述「開二九排水路」と書かれている。

沼尻排水路
「いりやはし」を南に折れ道を進むと自然堤防の趣を残す水路と交差。加須市の「管理水路図」に拠れば「沼尻排水路」のようである。「管理水路図」に拠れば、三尺用水路が元和川用水路と交差する地点の南西あたりを起点とし、東に流れ西瓜橋上流の稲荷木落に悪水を落とす。


元和川用水路
更に南に下ると元和川用水路にあたる。用水路とあり、悪水落の排水路とは少し趣を異にし、38号分水工といった用水設備が見える。加須市の「管理水路図」に拠れば、埼玉用水の下流部となる古利根用水(古利根川・浅間川の廃川あとの悪水落を灌漑用水路と改良工事をしたもの)が、古利根川浅間川締め切り跡近くの佐波分水堰で、南に下る島中領幹線用水路と分かれ、東に流れる川辺領用水が元和川用水と東川用水に分かれる分水堰を起点とし、弧を描いて加須市を下り、この地を経て西瓜橋の下流で稲荷木落に余水を吐きだす。

十王堀排水路
元和川用水を辿ってもいいかな、とも思いながらも県道84号の南にも水路が見える。とりあえずそこまで下る。道に架かる十王橋の左右に流れるその水路は、自然の趣を色濃く残している。加須市の「管理水路図」には、この交差地点の下流は十王堀排水路、上流は「自然排水路」と記されている。
大正初期の川辺領耕地整理の際に開削されたと言われる「自然排水路」の起点は前述、香林落排水路の起点近く、川辺領用水路が東川用水路と元和川用水路に分かれる分水点の南東付近のようだ。下流の大王堀排水路はおよそ、2.5kmほど下り中川に合流する。善定寺池より下流は旧浅間川の川筋とのことである。
この十王堀排水路は、古利根悪水路として使われ、大正初期の頃までは川辺領、羽生領、また稲荷木落でメモしたように、島中領(旧栗橋町)の悪水落にも使われていたようだ。
古利根悪水路の一部は現在も残るとのことだが、加須市の「管理水路図」にある古利根排水路がそれに相当するのではないだろうか。古利根排水路は善定寺池の少し下流で十王堀排水路に余水を吐く。

県道84号・開平橋
特に理由はなかったのだが、十王堀排水路の上流部である「自然排水路」を上流に辿ることにする。自然排水路に沿って進み、右手にある若宮八幡にお参りし更に先に進む。
次第に踏み跡消え、ブッシュを掻き分け乍ら進むことになる。県道84号に向かって直角に曲がるあたりは右手で枝を掴みながら、自然の堤から排水路に落ちないように注意しながら進まなければならなくなった。
やっとのことで県道84号手前の陸橋脇に道に這い上がる。排水路に架かる橋は「開平橋」、そして拝水路(悪水落)は「十王堀」とあった。

自然排水路(十王堀排水路)と元和川用水が接近
県道84号を越えると、排水路に沿って道が現れる。北下新井辺りまで進むと、右手に先ほど出合った元和川用水が接近する。分水工のある如何にも人工用水路といった元和川用水と、大正期の開削がそのまま残るような自然排水路(十王堀排水路)が並走することになる。

新元和川用水が自然排水路(十王堀排水路)を伏越で交差する
北下新井から北平野のあたりまで延々と自然排水路(十王堀排水路)と元和川用水が並走する。両水路を交互に見遣りながら主に自然排水路(十王堀排水路)を進むと、左手から水路が接近し、伏越で用水を越える。伏越した先の水路には新元和川用水と記されていた。
新元和川用水
佐波分水堰で島中領用水と分かれた川辺領用水から、埼玉大橋近くで分流し、この地で自然排水路(十王堀排水路)を越えたあと元和用水に合流する。

三尺用水路が自然排水路(十王堀排水路)を伏越で交差
新元和用水の伏越を過ぎ、再び並走する元和川用水と自然排水路(十王堀排水路)を交互に見遣りながら自然排水路(十王堀排水路)を細間辺りまで進むと水路幅が少し狭まった先に西から水路が迫り、伏越で交差する。加須市の「管理水路図」によれば、三尺用水路のようである。
前述の稲荷木落のところでメモしたように、この三尺用水路は稲荷木落の三尺橋より上流を指す。現在の埼玉用水の下流部である古利根用水が佐波分水堰で島川領用水路と川辺領用水路に分かれた後、川辺領用水路から分水した新元和用水から養水しているようである。

元和川用水路に乗り換え
三尺用水路との交差地点手前辺りから元和川用水路と次第に離れていった自然排水路(十王堀排水路)を成り行きで進み、砂原の辺りで再び両水路が接近する手前辺りで自然排水路(十王堀排水路)を離れ元和川用水路に移る。自然排水路(十王堀排水路)に沿って道が無くなったこともさることながら、元和川用水路は川辺領用水路からの分流であり、元和川用水路に沿って進み川辺領用水路との分流箇所を確認しようとの思惑ではある。

県道60号線・自然排水路(十王堀排水路)起点付近
舗装道路に沿って再び並走する自然排水路(十王堀排水路)を見遣りながら元和川用水路に沿って北に進む。道が県道60号と交差する箇所に加須警察署原道駐在所があるが、その少し西が自然排水路(十王堀排水路)の起点のようである。元和川用水路に馬頭観音の石仏が佇む。

元和川用水・東川用水分水堰
元和川用水を更に北に進むと、左手前方に水路が見えてくる。ほどなく分水堰に達し、そこには東川用水・元和川用水分水堰とあった。
用水路・排水路が入り組み、少々ややこしいため、上述の東川用水路を再掲しておく
東川用水路
利根川右岸の4つの農業用水路である、羽生領用水、葛西用水、稲子用水、古利根用水の取水口を、その経緯は省くが、ともあれ取水口を利根大堰のひとつにまとめた埼玉用水路の下流部分である古利根用水の分流。旧利根川、即ちこの場合、浅間川と言い換えてもいいのだが、旧利根川用水を佐波分水堰で右岸に島中領用水路、左岸へ川辺領用水路に分け、さらにこの地で元和川用水を右岸に、左岸に東川用水路を分け、利根川に沿って東に流れ、旗井の北で流路を南に変えてこの地に下る。

川辺領用水路を西に
元和川用水路と東川用水路に水を分けた上流の用水路は川辺領用水路と呼ばれる。正確に言えば、元和川用水路も東川用水路も川辺領用水路の支流という事になる。
利根川の堤防に沿って西福寺、八坂神社を見遣りながら西に向かう。埼玉大橋の辺りは水路廻りの工事が行われていた。

新元和川用水路分水堰
埼玉大橋へのアプローチ高架を潜ると川辺領用水路に分水堰があり、水路が高架に沿って南に下る。加須市の「管理水路図」によれば、新元和川用水路とのことである。新元和川用水路には先ほど十王堀排水路を伏越で渡る姿に出合った。

佐波分水堰;島中領用水路と川辺領用水路を分ける
川辺領用水路を更に西に進む。天満宮・鷲宮を越えると佐波(ざわ)分水堰にあたる。前述の如く埼玉用水路として統合された古利根用水路がこの分水堰で島中領用水路と川辺領用水路に分かれる。右岸を南へと下る島中領用水路が今回の散歩の目的である旧利根川の主流のひとつの旧浅間川の流路とほぼ一致するようである。

川辺領、島中領、羽生領などと「領」がつく用水が目につく。当初は戦国期の北条氏が在地領主のために設けた支配地の名称であったようだが、江戸期に入ると「水利および堤防によって利害を等しくする一団の区域」を指すようになったようである(「利根川治水の成立過程とその特徴;宮村忠」)。
利根川東遷事業の主たる目的のひとつが、源頭部を締め切られ廃川となった旧利根川流域の新田開発であり、用水路・悪水落開削、水害防止のための築堤工事など、水利共同体としての意識が高まったゆえの名称かと思える。
大雑把に言って川辺領は旧大利根町(現加須市)、島中領は旧栗橋町(現久喜市)、羽生領は羽生市・加須市に相当する。

古利根用水・道かん橋
佐波分水堰から先に進むと水路に橋がかかる。「道かん橋」「古利根用水」とある。「道かん橋」は太田道灌との関連ではあろうが、道灌と古利根川との関わりは?後ほどそれらしき由来はわかるのだが、この時点では不明であった。 道かん橋の少し北に今回の散歩の主目的である旧利根川・浅間川筋である「旧利根川堰堤跡」の碑があるようだが、とりあえず用水路廻りを先にカバーし、浅間川跡を辿る起点とすべく、お楽しみにとっておく。

古利根分水堰
道かん橋を越え用水路を進むと古利根分水堰に出合う。この分水堰で古利根用水から豊野用水を南に分ける。前述の東川用水路の説明で、古利根用水とは「利根川右岸の4つの農業用水路である、羽生領用水、葛西用水、稲子用水、古利根用水の取水口を、その経緯は省くが、ともあれ取水口を利根大堰のひとつにまとめた埼玉用水路の下流部であり、旧利根川、即ちこの場合、旧浅間川筋とメモした。
歴史的経緯を踏まえて、もう少し詳しく整理すると、埼玉県の資料に「古利根用水の概要」として、「この地域は昭和初期まで洪水の常習地帯であったが、昭和3年の権現堂川の締切及び大正5年~昭和 4年に行われた中川の改修により、この地域の排水は大幅に改善されることとなった。
用水としては 昭和30年以前には三つの用水源(上流部の稲子用水区域、中流部の川辺領用水区域、下流部の島中領用水区域)に分けられていたが、取水樋管の位置や構造が悪く、また導水路の荒廃により取水困難を 来していたため、県営かんがい排水事業古利根地区の実施(S30~42)により利根川本川に各樋管を統合、新たに古利根樋管を設け、島中領用水を幹線水路として各用水へ分水を行った。
その後、利根導水路建設事業(S38~44)により利根大堰、埼玉用水路が完成し、古利根用水も利根大堰から埼玉用水路を経て導水されることになり、古利根樋管は廃止されることとなった。近年では農地の潰廃等により、利根中央農業用水再編対策事業の実施(H4~15)にて都市用水への転用を図り現在に至る」とある。
この説明によると、古利根用水はふたつのフェーズに分けて理解する方がよさそうである。第一フェーズとは、昭和30年(1955)以前にあった三つの用水源(上流部の稲子用水区域、中流部の川辺領用水区域、下流部の島中領用水区域)の取水樋管を古利根樋管に一本化し、島中領用水を幹線水路として各用水へ分水するように改良工事をおこなった時期。
昭和30年(1955)から42年(1967)にかけておこなわれた県営かんがい排水事業の実施により、各樋管を合口して、利根川に新たに古利根頭首工と古利根樋管を設け、島中領用水を幹線水路として豊野用水へは大越分水路と豊野分水路、川辺領用水へは佐波分水路によって分水がなされた。これが古利根用水路である。同時に島中領の主要排水路である大堀排水路の改修もなされた。これが第一フェーズの利根用水である。
ついで第二フェーズ。第一フェーズの水路体系が完成して、昭和34年(1959)には取水を開始したが、古利根頭首工の位置と構造、利根川の主たる流れの変化などが原因で取水困難な状態となる。
その対策・代替案として活用したのが、昭和38年(1963)から44年(1969)に実施された利根導水路建設事業。この事業による埼玉用水の開削および利根大堰の完成により、古利根用水は利根大堰へ合口され、埼玉用水路を経て導水されることになった。元圦である利根大堰から、島中領用水まで25Kmほど水を導水し、これにともない、古利根頭首工と古利根樋管はわずか数年で廃止、撤去されることになった。
現在古利根用水という呼称は三用水路の総称であるにしても、この古利根分水堰から上流は埼玉用水、佐波分水堰から下流は島中領幹線用水、川辺領用水と称されるわけで、実際的には、この分水堰から佐波分水堰までのわずかな区間をもって「古利根用水」と称されるように思える。

豊野用水路
豊野用水路はこの分水堰(上述の大越分水路?)で古利根用水から分かれ南に下り、島中領幹線用水と平行に進み加須市樋遣川地区を潤し、県道84号と県道346号が交差する少し南東で島中領幹線用水路から離れ、南東に下り久喜市生出から豊野台を経て稲荷木落に余水を吐いているようである。
稲子用水
なお、この豊野用水であるが、前述の稲子用水とほぼ同じと考えてもいいように思える。稲子用水に関する資料がなかなか見つからないいため、推測ではあるが、稲子用水は利根用水の上流部であるという記述、稲子用水は羽生領用水のひとつである北方用水へ水を供給する加用水として羽生市稲子に圦樋(取水樋管)を設けて利根川から養水したとの記述、その北方用水は現在埼玉用水と名を変え東に流れ古い古利根用水と繋がっている、といったことからの推測ではある。
資料によっては一行だけで豊野用水=稲子用水とするものもあり、確たる資料はないものの、この地よりはるか東の加須市稲子で取水され利根川に沿って現在の埼玉用水の流路を下り、現在の豊野用水路の水路を流れていたのが稲子用水路かと思える。

古利根用水竣工記念碑
古利根用水と道を隔てた加須未来館敷地に「古利根用水竣工記念碑」が建つ。裏面には昭和26年(1951)期成同盟の結成、竣工昭和28年(1953)、工事完成43年(1969)とある。上記メモの古利根用水の第一、第二フェーズを合せた古利根用水改良工事の竣工記念のようである。

川圦神社
竣工記念碑の少し北東に川圦神社が地図に見える。取水元圦でもあるのだろうかとちょっと足をのばす。境内に「伝承 川圦さま」の木標があり、「ある年、大越に大雨が降り続きついに利根川の堤が決壊してしまい、村人の必死の復旧作業も大雨のためなかなか進みませんでした。
困った村人たちは、水が引くのを待って泊まっていた巡礼の母娘に頼んで人柱になってもらうと雨はぴたりとやみ、水かさを(ママ)減って無事に工事を完了することができました。
その後、巡礼の母娘の霊をなぐさめるため神社を建立しました。その神社が川圦神社で、地元の人たちは川圦さまと呼んでいます」とあった。

頼まれた、と言われても好んで人柱になるとも思えないのだが、それはそれとして、川圦の由来は取水元圦とは関係ないものであった。


旧浅間筋・現島中領幹線用水を下る

加須市作成「管理水路図」
目的地までのついでのことと歩いた用水・排水路歩きではあったが、それぞれの用水・排水路が「空間レイヤー」としての各用水・排水路の繋がりは上述の通りであるが、また「時間レイヤー」もチェックすると、昭和2年(1927)の東川用水と元和川用水開削、昭和10年(1935)の新元和川、昭和22年(1947)のキャサリン台風の被害に伴う三尺堀北側用水・南側用水、香林寺北側用の開削、そして昭和28年(1953)の古利根川の改修工事=古利根用水路の建設など現在フラットな水田が、歴史のレイヤーで重層的に重なり、それなりの時空散歩も楽しむことができた。
で、やっと今回の目的である旧利根川・浅間川筋を下る散歩をはじめる。手始めは、お楽しみに残しておいた、旧利根川・浅間川締切付近と思われる「旧利根川堰堤跡の碑」に向かう。

旧利根川堰堤跡の碑
川圦神社から戻り、加須未来館辺りで堤防から現在の利根川を眺め、堤防を下りて「旧利根川堰堤跡の碑」を探す。碑は駐車場の隅にひっそりと建っていた。 傍にあった案内には「利根川は羽生市川俣で締め切られあと、東にながれ大越地域外野と大利根地域佐波の境で南下し、現在の古利根川(旧浅間川)筋を南に流れていた。
元和七(一六二一)年に関東郡代伊奈忠治は、佐波から栗橋までの約八キロメートルを七間(約一二,六メートル)の幅で北川辺村を大きく蛇行していた河川の両端を直線で結び、新たな河川として新川通りを開削した。
天保九(一八三一)年に浅間川を締め切ったことにより古い河道は水田となった。このときの堰堤跡が約六十メートルにわたって残っている」とある。

説明とともに掲載されていた図によると、この石碑の東側がその堰堤跡のようであるが、想像力不足の我が身には、よくわからない。それよりも、図に石碑脇を南に下る川筋を浅間川(現古利根川)と記されており、本日の目的である浅間川跡を辿る散歩の始点であることを確認し、これから川筋を下ることとする。
旧利根川堰堤跡の碑文
ついでのことでもあるので、碑文を読んでみた。漢字カナ文字で書かれている内容を大雑把にまとめると、「利根川は往古八百八筋と称する乱流であり、本流不明といった川であったが、長禄2年、大田道灌がこれを治め江戸湾に注いだ。これが変遷の第一次。次いで文禄3年忍城主松平忠吉が家臣小笠原某をして南流する本川を川俣村で締切り、東流する流れを新利根川と称し、更に外野と佐波の間を南流させ川口において旧流に合流させる。これを二次の変遷とする。 元和7(1621)、徳川幕府は伊奈某をして赤堀川水路を開削し、これを新川通りと称し、その水勢を削ぐ。これを第三次の変遷とする。
既に寛永から承応年間にかけて数回の大改修を行い、文化6年幕府は金沢某をもって新川通りの川幅の大拡張をしたので、この流路が利根本流となっていった。
このため南流する川筋は不用となり大越村外野、原道村佐波の間の流路は天保3年(1838)その水源を締め切られることになった。これを第四次の変遷と称し、川筋は故道となり水路の跡を留めるだけのものとなった。
この数次の変遷に従事した大越・外野村・佐波住民の難苦や労力は決して忘れてはならないものであり、村議会全会一致をもって大越村村長が埼玉県庁に申請し記念碑が建立された。昭和3年(1928)3月」といったものであった。

特段目新しい内容はないが、大田道灌の江戸築城に際して古利根川に改修を加えた(私注;資料では確認できず)とあり、さきほど出合った「道かん橋」の由来はこのことに関連し、時期からすれば古利根用水改良工事以前、大正5年(1916)~昭和 4年(1929)に行われた中川の改修にともなう浅間川改修工事の時期のようである。

佐波分水堰を南に島中領幹線用水路を下る
「旧利根川堰堤跡の碑」を離れ古利根用水路に。流路を南に向けた先で先ほど出合った佐波分水堰に。古利根用水路はここで左岸を東に向かう川辺領用水路と右岸を南に下る島中領幹線用水路となる。前述の如く古利根用水路は上記ふたつの用水路を含むものの、呼称としてはこの分水堰で終わりとなるようだ。
●島中領幹線用水路
島中領幹線用水路とは、昭和30年(1955)から42年(1967)にかけておこなわれた県営かんがい排水事業、昭和38年(1963)から44年(1969)に実施された利根導水路建設事業により整備された、埼玉用水下流部の古利根用水路の幹線水路とし島中領(久喜市栗橋町と幸手市の一部)に供給される農業用水路である。

この用水路筋は利根川東遷事業の一環として元和7年(1621)に締め切られた古利根川(旧浅間川)の廃川跡。廃川跡では新田開発が行われ、上述かんがい事業が実施された頃は浅間川の旧流路跡を改修した農業用排水路となり、古利根悪水路と称され、昭和20年頃(1845)までは羽生領と向川辺領(久喜市大利根の一部)の悪水落としての機能を担っていたようである。
島中領幹線用水は、この古利根悪水路筋を改修したもののようだが、かつての悪水落加須市の「管理水路図」にあるように、加須市下荒井から加須市琴寄にかけて古利根排水路として残り、稲荷木落に落ちているようだ。

加須・大利根工業団地
田園風景の中にある佐波分水堰を越えるとほどなく用水路は加須大利根工業団地の中を下ることになる。用水路はフェンスに囲まれる。
県道46号と用水が交差する上樋遣川交差点の左手の大利根西部公園の東、鷲神社の北に弁天池が残るが、その辺りが古利根川・浅間川の左岸、一方上樋遣川交差点南東の八坂神社が右岸であった、という。往昔は大河ではあったのだろう。

上悪土用水機場
道路の右、左と流路を変える用水路を下ると、道路右手に水路施設らしき建物が見える。メモの段階でチェックすると「上悪土用水機場」とのこと。「悪土」ってどうも旧浅間川跡・古利根悪水路を指す用語のようである。工業団地を取り巻く耕地に水を供給しているのだろう。

県道84号・新利根二丁目交差点
工業団地の中を南流する島中領幹線用水路は県道84号・新利根二丁目交差点のある利根北公園辺りでその流れを南東へと変える。島中領幹線用水が古利根悪水路跡・旧浅間川筋を進むのはこの辺りまで。
加須市の「管理水路図」に古利根排水路が島中領幹線用水の北の、北平野・北新荒井の境界辺りから阿佐間、間口を経て十王排水路に落ちている。確たる資料はないのだが、この流路が新利根二丁目交差点辺りで島中領幹線用水と分かれた旧浅間川跡・古利根悪水路かもしれない。

杓子木揚水機場
県道84号との交差を越え、未だ工業団地が続く道の右側に黄色にペイントされた水路施設らしき建物が見える。地名から推測し「杓子木排水機場」ではないかと思う。



阿佐間揚水機場
工業団地も切れ、フェンスはあるものの、その高さも低くなり、周囲も田園風景に変わる辺りの道路右手に水路施設が見えた。阿佐間揚水機場であろう。


琴寄揚水機場
県道364号を越え先に進むと、道の北からささやかな水路が伏越で島中領幹線揚水を越える。上述の古利根排水路のようである。古利根排水路が伏越で越えた東側に水路施設がある。施設名のプレートがあり琴寄揚水機場とあった。

島中領幹線用水と高柳分水路が分かれる
琴寄揚水機場の直ぐ東に分水工があり島中領幹線用水から右手に高柳分水路が分かれる。高柳分水路はこの地から南東に下り、途中古利根排水路と交差し、十王堀排水路を伏越で越え、高柳地区に水を送る。この高柳分水路も古利根悪水路と同じく旧浅間川筋とされる。

島中領幹線用水路が十王堀排水路を伏越で渡る
分水堰で暗渠となって東に向かい、道路を渡って開渠となって現れる島中領幹線用水と、開渠で南東に向かい暗渠となって道路を渡り、開渠となって道路の東に現れる高柳分水路の形態を考慮したのか、不自然に広く、不自然な形をした交差点を越え、島中領幹線用水を進む。
高柳分水路が旧浅間川筋であるのが当日わかっていれば、そちらを進んだことだろうが、当日は島中領幹線用水が旧浅間川筋といった曖昧な情報で歩いため、島中領幹線水路に沿って進むと十王堀排水路に当たり、そこには伏越の水路施設があった。

十王橋を渡り十王堀排水路を下る
十王堀排水路を渡る島中領幹線用水の伏越箇所から少し上流に十王橋がある。午前中に自然排水路(十王堀排水路Iを旧利根川の主流のひとつである浅間川の締切部に向かって進んでいった箇所である。
橋を渡り、午前とは逆方向、旧利根川の下流部と言われる十王堀排水路を下ることにする。今朝も見た悪水落ではあるが、人工護岸の跡が見えない、自然な堤を下って行く。

善定寺池
十王堀排水路を下り、浅間川の堤防が決壊したときにできた落堀と言われる善定寺池に向かう。途中、これも自然な姿を留めるささやかな水路が十王堀に沿って南に下る。
地図で確認すると、十王堀排水路と並行して下った水路は、古利根排水路が十王堀の右岸と合わさる箇所の左岸から東に向かっている。旧利根川・浅間川は高柳で旧利根川の一派である旧渡良瀬川と合わさっていたとのことでもあるので、この水路は旧利根川・浅間川の一筋かもしれない。
それはともあれ、十王堀排水路を下り善定寺を左手に見た先の橋を渡り、お寺様の境内をぐるりと廻りこみ善定寺池に。葦の茂る池の周辺は如何にも自然の風情を残していた。

島中領幹線用水が稲荷木落を伏越で渡る
日も暮れてきた。本来であれば、高柳分水の末端を追っかけ浅間川筋の最下流部まで進むことになるのだが、本日はここで終了。最寄の駅である栗橋駅に戻る。
駅に急ぐ途中、十王堀排水路を伏越で渡った島中領幹線用水が東に進み。稲荷木落を伏越で渡る姿を稲荷木橋で見遣る。
島中領幹線用水の終点部
稲荷木落を伏越で渡った島中領幹線用水は、途中暗渠となって東に一直線で進み東北本線を越え国道125号の高架下で樋堀用水に合わさった箇所が終点とされる。

栗橋駅
島中領幹線用水は東へと更に下るが、稲荷木橋を渡った後は、成り行きで栗橋駅に戻り、本日の散歩を終了する。

最近のブログ記事

埼玉 旧利根川散歩 会の川:その③ 御河渡橋から葛西用水・会の川分水工まで
メモは第三回ではあるが、会の川散歩は二…
埼玉 旧利根川散歩 会の川:その② 川俣締切跡から御河渡橋まで
旧利根川流路を辿る散歩の手始めとして…
埼玉 旧利根川散歩 会の川:その① 会の川締切跡へ
先日、中川から隅田川へと抜ける古隅田川…

カテゴリ

月別 アーカイブ

スポンサードリンク