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先回の散歩で千葉に数多くある素(手)掘り隧道を辿り、茂原地区を彷徨った。茂原の手掘り隧道は、牛馬の往来、農具の運搬に坂道の上下を嫌い、丘陵を穿ち谷戸の耕地を結ぶものであった。なるほど、隧道を抜けると谷戸の景観が広がり、所によっては隧道の脇に隧道開削以前の丘陵越えに使われた尾根の切り通しも見られた。
で、千葉の隧道には、このような複雑に入り組む谷戸の耕地を繋ぐもののほか、蛇行する川の首根っこの部分を隧道や切り通しを開削し、流路の瀬替えを行うものもある、とのこと。千葉では「川廻し」と呼ばれるこの開削の目的は、瀬替えを行うことにより旧流路跡を耕作地にしたり、また、材木搬出のためであった、と言う。
それでは、千葉の素掘り隧道散歩の次なるステップとしては、「川廻し」も辿るべしと、どこか適当なところを探す。川廻しの場所は房総半島南部の房総丘陵を蛇行し外房に下る夷隅川、逆に東京湾に下る養老川や小櫃川にそれぞれ100箇所以上あるようだ。その中から、あれこれチェックした結果、小湊鉄道の養老渓谷駅近くにあるいくつかの川廻し地点を辿ることにした。時期は11月初旬。うまくいけば養老渓谷の紅葉も楽しめればとの思惑でもあった。


本日のルート;小湊鉄道・五井駅>小湊鉄道・養老渓谷駅>渓谷橋>地蔵堂>旧養老川水路跡の湿地>梅ヶ瀬川>梅ヶ瀬川の川廻し隧道>白山神社>旧養老川水路跡の湿地>旧養老川水路跡の耕地>宝永橋>戸面の台地>白鳥橋>県道81号から見る旧流路跡の耕地>観音橋>養老渓谷中瀬遊歩道>弘文洞>県道81号>小湊鉄道・養老渓谷駅>(小湊鉄道)>小湊鉄道・上総大久保>田淵の水路隧道>小湊鉄道・月崎駅

総武線を千葉に
午前9時10分五井駅発、10時16分養老渓谷駅着の小湊鉄道に間に合わせるべく、自宅の最寄り駅・井の頭線永福町を午前7時頃出発。養老渓谷駅までおおよそ3時間。やはり遠い。また天候も曇天。出発時、昨日会社の仲間と話をした折、明日は快晴との言葉でもあったので、雨具も用意していないので、少々心配。
総武線を千葉で内房線に乗り換え五井駅に9時3分に到着。小湊鉄道・五井駅は外房線の五井駅の到着プラットフォームから出発する。スイカは使えず、切符は社内で買えるということであり、そのまま2両連結の列車に。乗った後でスイカの内房線五井駅での出口チェックをするのを忘れていたことに気付く。帰りに調整してもらうことに(帰りに注意して見ると、小湊鉄道への途中に出口チェックのスイカがあった)。

小湊鉄道・五井駅
9時10分出発。ワンマンカーではなく車掌が乗務。女性車掌が多いよう。途中駅に無人駅も多いようで、車掌さんは社内検札、駅の案内など大忙しの様子。養老渓谷駅への1日往復フリーパスを1400円で購入。秋の紅葉シーズンの割に乗客はそれほど多くなく、大丈夫なのかと要らぬお節介。どうもバス事業部門が収益を確保しているようである。

○小湊鉄道
列車は2両連結の「キハ200型気動車」。全線非電化・単線で五井駅といすみ鉄道いすみ線と連絡する上総中野駅までの39.1キロをカバーする。小湊鉄道線の名前の由来は、開業当初、その目的地を安房小湊の誕生寺としたことによる。小湊は日蓮聖人が貞応元年(1222)に誕生した地であり、建治2年(1276)に弟子の日家上人が日蓮聖人の生家跡に建立したのが誕生寺(現在の地に移ったのは明応、元禄の地震、大津波のため)。この寺への参詣客を見込んだのであろう。
大正時代初期、鶴舞の地主などが中心となり計画され大正2年(1913)認可される。ルートは五井から当時養老川沿線で最も栄えていた城下町である鶴舞を経て小湊を目指すもの。鶴舞が城下町となったのは明治2(1869)年、徳川家が駿府藩として静岡に移ったことにより、浜松藩が押し出される形で転封し鶴舞に。因みに鶴舞の地名は藩主井上公が、高台から見た景色が鶴が両翼を広げて舞っている姿に似ていることに由来する、と。
が、計画は認可されたものの、第一次世界大戦の影響もあり資金調達がうまくゆかず、結局は安田財閥に株の6割近く負担してもらう。安田善次郎が信仰心厚く、誕生寺を目指すということで採算度外視での出資であったよう。 大正13年(024 )起工式。第一期工事は五井・里見間の26キロ弱。路線の地形は平坦ではあるが、養老川に沿っており26の橋を架ける。大正14年(1925)営業開始。第二期工事は里見駅・月崎間4キロ強は大正15年(1926)開通。第三期工事の月崎・上総中野間の9キロ強は昭和3年(1928)に開通した。この第二、第三期のルートは5つのトンネルを抜いており、板谷トンネルは房総半島の分水嶺を貫いてる。難工事であったのだろう。
当初小湊まで計画した小湊鉄道は、昭和11年(1936)上総中野駅から15キロ先の小湊までの区間の免許を鉄道省より取り消される。嶺南山地の清澄山の山越え工事建設技術の限界や資金繰り、その他上総中野駅に国鉄木原線(現いすみ鉄道いすみ線)が接続することもあり、上総中野駅から先の建設は行われなかった。
その後の小湊鉄道。第二次大戦時に当局の指示により安田財閥から京成電鉄に株の大半が移るも、1970年代の京成電鉄の経営危機を契機に東金でバス事業をおこなう九十九里鉄道が株を取得し、現在株の過半数は九十九里鉄道が保有している、とか。

小湊鉄道・養老渓谷駅
五井駅を離れ1時間強、養老渓谷駅に到着。この駅の駅員さんも女性。小湊鉄道は女性が大活躍の印象。特にこの日は、台風被害のため養老渓谷から上総中野間は不通で、バスによる振り替え輸送となっていたため、駅の改札からバスへの案内、それから観光案内まで一人で取り仕切っていた。
この養老渓谷駅、開業当時の昭和3年(1928)、朝生原駅と呼ばれていたようである。藩政時代の村名は麻生村と呼ばれていたが、地名は朝生原である。養老渓谷駅となったのは昭和29年(1984)。昭和25年(1950)に千葉新聞社(現千葉日報)が公募した房総十二景に小湊鉄道がこの辺りの景観を「養老渓谷」とのネーミングで応募したことによる。昭和39年(1964)には県立養老渓谷清澄自然公園と指定され県内有数の景勝地となっている。

渓谷橋
駅を離れ最初の目的地である梅ヶ瀬川の川廻し隧道へと向かう。成り行きで進むと渓谷橋に出た。実のところ、この地を訪れるまでは養老渓谷駅近辺の川廻しの跡は、梅ヶ瀬川の隧道と今は観光地としても知られる弘文洞だけであろうと思っていた。しかし、実際に歩いてみると、このふたつだけではどうも間尺に合わない地形であり、家に戻ってカシミール3Dで地形図を標高別に彩色すると、当初全く予想もしなかった川廻し跡らしきものが現れた。あれこれチェックしてみるとこの渓谷橋もその一つであった。現在は深い渓谷となっているが、往昔は川廻し隧道が掘られていたとのこと。長い年月の間に天井部分が崩れ、現在の姿になった、とのこと。

○渓谷橋付近の川廻しの概要
実際に歩いていたときは、頭の中は??だけであり、そのときは全くわからなかったことではあるが、地形図をもとに養老渓谷駅近辺の川廻しを説明しておく。
地形図の黄色の彩色部分が養老川の旧流路である。渓谷橋の辺りを見ると、渓谷橋の少し南の宝衛橋の辺りから黒川沼をへて白山神社から北へと黄色の筋が見える。これが昔の養老川の流路。この流路を瀬替えするため現在渓谷橋のある辺りの台地を穿ち川廻し隧道を掘った。そして旧流路跡である黄色で彩色した部分を耕地としたようである。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)











黒川沼
渓谷橋を渡り梅ヶ瀬川の川廻し隧道へと向かう。道脇にお地蔵様。この道筋は昔の尾根道であり、道を往来する人々の無事を祈ったものであろう。
台地の尾根道、と言っても、渓谷橋を離れると森も切れ、ごくありふれた集落を進むだけであるが、道は次第に旧流路へと下り、下りきったあたりに細い流れ。北に田圃が見えるが、梅ヶ瀬川へと南に進むと黒川沼。旧養老川の流路跡ではあるが、往昔の梅ヶ瀬川はこの黒川沼辺りで養老川と合わさり一つの流れとなった、とか。
黒川沼は川廻しにより、両端の流れが堰き止められて干上がり沼とはなっているが、それでも、左手、というか現在の養老川方面へは細々とした流れがみられる。左手に見て取れる耕地へと流れは続いているようだ。

梅ヶ瀬川の川廻し隧道
道を進み梅ヶ瀬川に。どこか川筋に下りる道はないかと探しながら進むと、ほどなく川へと下る踏み跡が見つかった。
川に下り、足首あたりまで水に浸かりながら隧道へと向かう。少し進むと大きな隧道が見えてきた。黒川沼のところでメモしたように、往昔の梅ヶ瀬川はこの隧道のある断崖に遮られ、黒川沼辺りで養老川と合流していた。
散歩の時点では、黒川沼から宝衛橋への黄色の彩色図が往昔の梅ヶ瀬川の川筋であろうと思っていたので、この川回し隧道を穿ち耕地を増やしたのだろう、すごいなあ、などとおもっていたのだが、その黒川沼から宝衛橋、また白山神社から現在の梅ヶ瀬川へと続く黄色の彩色図の川筋は養老川の川筋であったわけで、であるとすれば、この梅ヶ瀬川の川廻し隧道でできる耕地って、それほど大きな範囲ではないように思う。隧道出口辺りのほんの一部だけかとも思うが、僅かな地でも耕地にできるものがあれば艱難辛苦のうえ、耕地としたのであろうか。
さて隧道へ突入。遠くに出口は見えるが、中は真っ暗。ヘッドライトと携帯型の懐中電灯で足元を照らしながら恐々進み出口へと。出口側は割とこじんまりとした穴であった。
出口部分ではじめての川廻し隧道体験にひとり満足し、川を下りながら道筋に戻る踏み分け跡を探す。これといった踏み跡は見つからなかったので、力任せに道筋に。道筋とは言うものの、道があるわけでもなく、ブッシュの藪漕ぎ。成り行きで進むと白山神社脇に出た。今歩いてきた辺りが先ほどの梅ヶ瀬川の川廻し隧道によってできた耕地跡であろうか。






白山神社
集落を見下ろす小高い丘に鎮座する社。鳥居をくぐり石段を上り拝殿、本殿にお参り。祭神などの由来は不詳であるが、上総には小櫃川流域に大友皇子に纏わる伝説の地が点在し、祭神とする白山神社も見受けられる。また、この養老川流域にも小湊線の飯給(いたぶ)駅近くの白山神社は弘文天皇こと大友皇子を祭神としている。
飯給という地名も、地元民が皇子一行に食事を捧げたとがその所以とか。そういえば、今から向かう川回し隧道跡である弘文洞も弘文天皇ゆかりの伝説も残るというわけであり、この白山神社の祭神も孝文帝か、とも。単なる妄想。根拠なし。

○大友皇子伝説
壬申の乱で大海皇子に敗れた大友皇子は山前の地(やまさき;近江、河内、山科など諸説)で敗死したとされるのが定説。が、異説もあり、大友皇子は蘇我赤兄や蘇我大飯とともに上総の地まで落ち延びた、と。千葉県君津市のJR久留里線の小櫃駅の近くに白山神社があるが、この神社は大友皇子の宮(小川宮)であり、その宮跡に建てられたのが田原神社(現在の白山神社)であると伝わる。小櫃川に沿って大友皇子ゆかりの地と伝わる後も残るが、そもそも「小櫃」は大友皇子を納めた櫃(ひつぎ)に由来すると言われてもいる。

神社にお参りした時は軽く見ただけであったので、はっきりしないが、この社の狛犬の目は青い、と言う。昭和になってつくられたのもだが、鎌倉時代以降の仏像に見られる玉眼である。青いガラス玉を嵌め込んだものであろうが、石造りの玉眼はあまり見られないようである。

養老川の旧流路の耕地
神社を離れ、先ほど辿った道を黒川沼まで戻り、それから先は養老川の旧流路に沿って宝衛橋に向かう。旧流路の北に集落が見えるが、江戸の頃はこの辺りがこの地域の中心地。蛇行するが故に水流が穏やかとなり船運の集積地として賑わったようである。
黒川沼を過ぎると、ほどなく道筋に耕地が現れるが、それが養老川の瀬替え前の流路とわかったのは後の話。散歩の時は、少々違和感を肝心ながらも梅ケ瀬川の脊替え前の流路と思っていた。ともあれ川廻しの結果誕生した耕地を眺めながら、その耕地へと続く黒川沼からの細流を目で追いながら宝衛橋に。

宝衛橋
養老川に架かる宝衛橋に。北に渓谷橋が見えるが、ずいぶんと高い。散歩の時は、結構深い渓谷だなあ、などと眺めていただけではあったのだが、既にメモした通り、渓谷橋のあたりは断崖の尾根筋。その尾根筋で行く手を遮られ180度南へと方向を変え、尾根筋を迂回して流れていた養老川の瀬替えをすべく、ノミや鏨(たがね)を使い手掘りで川廻し隧道を穿ち、川筋を現在の渓谷橋方面へと直線で水路を通した。
川廻し隧道は戦後の頃まで残っていたとのことだが、現在は天井部分が崩落し、巨大な切り通しとなっている。また、橋から旧流路跡らしきところをみると、河岸段丘となっているが、それは関東大震災によって地盤隆起が起きたため、とか。現在の養老川はその1mほど下を流れている。

白鳥橋
宝衛橋から次の目的地である養老渓谷の中瀬遊歩道にある弘文洞へと向かう。宝衛橋からのルートを探すに、県道81号を進むより、橋から少し元に戻り、戸面(とずら)の台地を上り、尾根で折り返し川に向かって折り返しながら下るルートが近そうである。緩やかな坂を上ると台地上に水田が広がる。黒川沼北の台地上にも水田があったが、昔と異なり水が必要であれば、ポンプアップをすればいい、ということであろうか。
ところで、この戸面(とずら)という地名のは、「と」の意味する「沢の合流点」「谷間の狭くなった所」や「傾斜地」が,「ずら」の意味する「連なった状態」を現し、養老川の浸食作用による地形由来の地名と言われている。
戸面の台地から急なヘアピンといった坂道を下り終えると白鳥橋。藩政村の時代の旧白鳥村・加茂村と称された戸面地区の旧村名故の橋名であろうか。

戸面の川廻し跡
白鳥橋を渡り養老川右岸の戸面集落を抜け県道81号に出る。眼下に前面が開け、また、その景観が如何にも旧流路跡の耕地に思える。台地を下る県道を養老渓谷駅方面へと逆に上り返し、高い場所から台地とその前面に広がる景観を見るにつけ、その思いを強くする。
旧流路跡と思しき耕地が台地を取り巻き、その裾には細い水流らしきものも見える。このときはよくわからなかったのだが、家に戻り標高別に彩色した地形図を見ると、観音橋の辺りから黄色の帯が葛藤方面に向かって南に回り込み、そこから茶色の台地を取り囲むように黄色の帯が北に向かい、県道81号の台地に行く手を遮られると、そこからはふたたび南へと帯が伸び養老川に当たる。旧流路南端は市原市と大多喜町の境界と一致している。昔の村境は川などの自然に合わせていたことが多いが、ここも一例ではあろう。
この彩色図を見る限り、現在観音橋あたりで養老川によって別れている左右の台地は、往昔は連なっており、そこを切り通しを開削するか隧道を穿ち、蛇行する流路を直線で結び、川廻しをおこない葛藤地区の旧流路を耕地と変えたのではないだろうか。

観音橋
県道を下り観音橋に。地形図でみれば、この辺りで川廻しのための切り通しか隧道が掘られたようだが、なるほど養老川の右岸は切り立った崖面、左岸は出世観音の台地が見える。
その切り立った崖面であるが、巨大な切り通しのようにも思える。またその崖面には砂岩と泥岩が互層になった地層が幾つもの層となって見える。砂が堆積するのは比較的浅い海であるが、泥岩と互層になっているのは、大地震などが引き金となり、数百年に一度発生する海底の地滑りや土石流によって、水深800mほどのところに堆積された泥の上に堆積されたため、と言う。気の遠くなるようなはるか昔、この辺りが古東京湾と呼ばれた頃、このような出来事が何度も起こり、それが幾重にも重なった層を造り出したものだろう。

出世観音
ふたつの太鼓橋からなる観音橋を渡り出世観音のある台地へとむかう。橋を渡り、崖面脇の参道を進み隧道を抜ける。広い境内に借景として台地の緑を配し、2段からなる石段の先の堂宇にお参り。出世観音の正式名称は「養老山立国寺」。源頼朝が再起をかけ祈願成就故の「出世観音」と。
縁起よれば、治承4年(1180)8月平家討伐の旗揚げをした頼朝であるが、小田原の石橋山の合戦において、大庭景親等の平家軍に敗れ安房に敗走。安房より上総に入り、この地に立て籠もり、持仏の観音像を祀り、観音経をもって戦勝祈願をおこない、再び兵を纏め下総から武蔵、相模へと攻め入り、鎌倉を根拠地として平氏を破り武家政権を樹立した。故に、「開運招福の観音様」、「祈祷の名刹」として古くから人々の進行を集めた、と。

中瀬遊歩道

出世観音を離れ、観音橋を渡る。前面に聳える切り通し風の崖面は迫力がある。観音橋の右岸に見た崖面と同じく、右手に砂岩と泥岩の互層が露出された崖面が聳える。灰色とか褐色の層が泥岩。うすく縦に割れ目の入った白い層が左岸とか。
道なりに進み、中瀬遊歩道に。養老渓谷に沿って整備された1.2キロの遊歩道である。遊歩道を進むと川を渡るステップ。石なのかコンクリートなのかはっきり覚えていないが、ともあれ川中に並べられたステップを踏み左岸へ移る。道を進むと対岸の崖面が避けたところから水が流れ込んでいるように見える。川廻し隧道で頭が一杯であり、この裂け目も隧道跡かと思わず注視。断層の裂け目なのか、それとも旧養老川水路跡の耕地からの排水だろうか?妄想だけが膨らむ。

弘文洞
ほどなく弘文洞に到る。右岸を進む遊歩道の対岸に大きな切り通しが目に入る。弘文洞がそれである。遊歩道脇に弘文洞の案内:今からおよそ140年前、耕地を開拓するため、養老川の支流蕪来川を川まわしして造った隧道で葛藤の穴洞と呼ばれていた。弘文帝や十市姫ゆかりの高塚や筒森神社の傍を流れ本流に注ぐ合流にあることから弘文洞と命名され景勝地、釣り場の代表として世に紹介されたが、昭和54年(1979 )5月24日未明頭頂部が崩壊した、とあった。
蕪来川は夕木川とも。葛藤(くずふじ)はこの辺りの地名。弘文帝は既にメモしたように大友皇子のこと。大友皇子が弘文天王との諡号が贈られたのは明治3年(1870)になってから。天智天皇の崩御から壬申の乱で敗死するまで半年しかなく、即位の儀礼がおこなわれなかったようであり、ために天皇と見做されていなかったようであり、明治となって追号されたこのこと。
十市姫は大友皇子の正姫。案内にある高塚とか筒森神社を探したが、夕木川の上流の筒森地区に筒森神社(御筒神社)があった。この神社は難産の末に身罷られた十市姫を祀る、とか。高塚はどこなのか見つからなかった(大多喜に高塚山はあるが夕木川からは離れているので、案内にある高塚ではないだろう)。

弘文洞の川廻し
養老川を渡り弘文洞を抜けて元の夕木川の流路跡へと向かう。足首辺りまで水に浸りながら弘文洞を抜ける。隧道が造られた頃は、人の背丈程度であったとのことだが、天井部分が崩落し次第に大きな洞となった後、完全に天井部が崩落し現在の切り通しとなってしまったわけである。
弘文洞を抜けて夕木川に。結城川左岸はブッシュで覆われているが、往昔の夕木川の流路はこの辺りで弘文洞のあった台地に行く手を阻まれ北東へと迂回し、養老川と合流していたのだろう。地形図の彩色を見ると、弘文洞の東から北にかけて黄色の帯が続く。この帯の東端、市原市と大多喜町の境界が元の夕木川の流路跡であろう。また、Google で見るに、夕木川左岸に耕地が見て取れた。川廻しによって作られた耕地であろう、か。



小湊鉄道・養老渓谷駅
養老渓谷から養老渓谷駅に戻り列車時間をチェック。14時10分に間に合う。その後は15時4分と16時50分。チェックした理由は、養老渓谷駅から一駅五井方面に戻った上総大久保駅と月崎の間に「田淵の隧道」という、なんとなく正体不明の隧道がある。朝からはっきりしなかった空が本格的な雨模様。いつ降り出してもおかしくない。で、とりあえず15時4分に乗り上総大久保駅で下り、田淵の隧道に向かう。
雨が降らなければ田淵の隧道を訪ね、そのまま月崎駅を越えていくつかの隧道や弘文帝ゆかりの白山神社を訪ね飯給駅まで歩き、養老渓谷を16時50分に出る列車に乗る。雨が本降りとなれば、田淵の隧道だけを訪ね、月崎駅に向かい養老渓谷を15時4分に出る列車に乗るといった計画。
上総大久保駅から月崎駅までは田淵の隧道を廻ればおおよそ5キロ。列車の時間を考えれば1時間もない。結構タイト。通常は雨具を用意するのだが、この日に限って、前日同僚との話で、明日は快晴といったフレーズが頭に残っており、出がけに簡易雨具だけで家を飛び出していたのが悔やまれる。

小湊鉄道・上総大久保駅
養老渓谷から一駅の上総大久保駅で下車。駅から歩きはじめると、とうとう雨が落ち始める。歩くにつれて結構本降りとなってきた。これでは飯給まで辿ることはできそうもない。無人駅だろうと思われる月崎駅で2時間近く待つのはかなわんと、小走りで田淵の水路跡に向かう。
月崎駅から県道81号に出て、後は国本を越えて田淵地区に。そこから田淵の水路隧道跡へと県道を左に折れ、養老川方面へと。途中「地球磁場逆転の地層」といった案内があるが、時間があれば、とは思えど、本日はあきらめるべし。 台地の急坂を下り鉄パイプの橋桁を越え左手の川筋を覗くと隧道が見える。田淵の隧道だろう。場所をみつけるのに時間がかかると思っていただけに、すぐに見つかり貴重な時間がセーブ。

田淵の水路隧道
さて、川床に下りよう、とは思えど、結構急な崖となっており、ロープを出してなどと想いながら降り口を探していると、下りの支えとなりそうな木の蔓がみつかり、蔓に縋りながら川床に。
川床で左右をみると、隧道は2ヵ所ある。ひとつは養老川へと続くもの。もう一方は耕作地であったような場所に続く。この田淵の隧道は川廻しと言うよりは、排水路といったようにも思えるのだが、さてどうだろう。

小湊線・月崎駅
で、列車の時間は迫る。大急ぎで元の道を県道まで戻り、境橋を渡り久しぶりに走りに走り、列車到着3分前に月崎駅に。それにしても5キロほどを隧道見物をしながら1時間弱で乗り切った、とは。
最後は結構気忙しかったが、本日は川廻し隧道や、当初予想もしていなかった川廻し跡の耕地の景観、もっともその景観が川廻しによるものだと分かったのは帰宅し地形図に彩色してからのことではあるが、それはそれとして、結果的に川廻しの最大の目的であった耕地の姿が2ヵ所も見ることができたのはラッキーだった。
佐倉で偶然出遭った鹿島川。その源流点を歩いてみようとの、単なる好奇心だけからはじまり、その源流域である千葉・昭和の森訪れ、結果として昭和の森を分水界とする三つの河川を辿ることになった。その散歩の3回目、外房に注ぐ小中川の流域を歩いたとき、偶然に素(手)掘りの隧道に出合い、これも単なる好奇心でチェックすると、千葉は越後妻有地域(新潟県十日町と津南町)と共に、素掘りの隧道の多い地域として知られるとのこと。ざっとその数を調べてみると、新しいものもあるだろうが、名前の付いた隧道だけでも350ほど見つかった。門外漢が大雑把にチェックしたものであるので、正確な数字とは言えないにしても、他県を圧倒する数であった。

分布は下総の平地には見られず、上総の房総台地・房総丘陵の東部、そして房総丘陵の南部、昔の地名での安房と呼ばれる嶺岡山地(鹿野山・愛宕山・清澄山)以南に集中していた。この一帯の地層は砂岩と泥岩の互層から成る堆積岩であり、岩盤としては最も新しい層であり固結が緩やかで比較的掘りやすく、かつまた砂岩と泥岩の風化のスピードのギャップにより、崩れにくい地層であるということがこの地に素掘りの隧道が多い要因である、と。江戸の頃からはじまり昭和の初めまで農民が手掘りで隧道をつくった、と言う。
隧道の目的は大きく分けてふたつ。牛馬の往来、農具の運搬に坂道の上下を嫌い、丘陵を穿ち、谷戸の田畑を結ぶために隧道を掘った。もうひとつは、蛇行する川の曲流部を隧道を掘り直線で結ぶことにより、瀬替えをおこない元の川床を田圃とした、と言う。千葉では「川廻し」とよばれるこの瀬替えは「穿入蛇行(急峻な谷を大きく蛇行する川)」である、嶺岡山地の夷隅川、養老川、小櫃川のそれぞれ100箇所以上、千葉全体では隧道や切り通しを含め全体で450箇所ほどある、と言う。狭い山間の地に少しでも新田開発、また洪水対策のために施工されたのだろう。なお川廻しには耕作地開発とともに木材流下のための隧道開削もあると言う。
さて、どこからあるきはじめよう?少々迷う。あれこれチェックしていると、茂原に押日素掘群などと呼ばれる一帯があり、素掘り隧道が集中しているとのこと。残念ながら「川廻り」の隧道には会えそうにないが、それは今後のお楽しみとして、とりあえずは茂原へと向かう。



本日のルート;外房線・新茂原駅>子安神社>伊弉子神社>渋谷隧道>三宅谷隧道>阿久川>小山隧道>御領隧道>県道の切り通し>土地改良記念碑>野本隧道>木生坊隧道>隧道脇の切り通し>狸谷隧道>花立隧道>後呂隧道>猪喰隧道>坊谷隧道>細田隧道>八幡神社>隧道脇の切り通し>船着神社>豊田川>長谷隧道>長谷神社>鷲神社>鷲山寺>藻原寺>外房線・茂原駅

外房線・大網駅
総武線を千葉で外房線に乗り換え土気駅を越え大網駅に。先回の散歩で土気駅・大網駅間の廃線跡を、その急なる勾配を感じるべく辿ったのだが、現在の鉄路は土気駅先でトンネルに入り、その先は高架で谷戸を一跨ぎし、その後は丘陵に沿って大網駅に。乗った列車が東金方面行であったため、北東に弧を描く東金線のプラットフォームに着く。本日の散歩の最寄駅は外房線・新茂原であり、そのプラットフォームは到着した東金線プラットフォームからちょっと離れ、南東に弧を描いている。
明治29年(1896)、房総鉄道として蘇我・大網間が開業された当時の大網駅は現在の東金線のプラットフォームを北東方面に少し先に進んだところにあったようだ。その後の駅の開業を見ると、明治30年(1897)に東金とは逆方向の一宮(現・一宮)まで開通。ために、列車は大網駅でスイッチバックして運行した。大網・東金駅間が開通したのは明治33年(1900)のことである。
路線開業の時系列でみれば、房総鉄道の大網駅は一宮方面に向かう現在の外房線のプラットフォーム方面につくればいいのに、どうして東金方面に?気になってチェックすると、開業当時の市街地が東金寄りの地であったとか、土気~大網間に急勾配があったため、これを避けるルートとして、千葉~成東~大網~勝浦方面をメインに考えていたなどの説明があるのだが、なんとなくしっくりこない。
もう少し深堀すると、房総鉄道としては当初より、東金が目的地であったのだが、住民の反対により、やむなく大網まで開通させた、といった説明が見つかった。これであれば理屈に合う。ということは、東金方面への伸長が思うように進まないので一の宮方面に路線を伸ばすことになり、仕方なくスイッチバックで進むことにしたのだろうか。単なる妄想。根拠なし。
それと大網駅のスイッチバックの説明に土気・大網間の急勾配故との説明が多いのだが、急勾配の途中の山中にスイッチバックがあるのならわかるが、そのような路線ではないとすれば、急勾配と大網駅のスイッチバックの因果関係を説くのはちょっと無理があるのでは、などと思う。
その大網駅のスイッチバックが解消されるのは昭和47年(1972)房総線の土気~長田間の複線化と路線の付け替えが完成したときであり、大網駅もこの時現在の位置へ移転している。また、旧大網駅から房総方面への旧線は大網~土気間の勾配を避けた貨物列車が東金線・総武本線経由で運転するために使われたが、その貨物列車が廃止された平成9年(1997年)、その短絡線も廃止された。

新茂原駅
大網駅の東金線プラットフォームから少し離れた外房線のプラットフォームに移り新茂原駅へと向かう列車に乗る。外房線の進行方向左手は九十九里浜に続く平地。右手は下総台地から突き出た無数の舌状丘陵が複雑に絡み合って連なっている。外房線はその平地と丘陵地の境界線を走る。窓から見える無数の舌状丘陵を穿ち、谷戸を繋ぐ素(手)掘り隧道を想い新茂原駅に。
駅は小じんまりとしたもの。昭和30年(1955)開業。昭和56年(1981)に貨物取扱を開始し、三井東圧(現三井化学)の専用線の始点が設けられたが、その専用線も今はなく、のんびりとした駅の佇まいである。
駅を下り、駅の少し北にある渋谷隧道に向かう。当初は押日地区の素掘り隧道を廻れば、などとも思っていたのだが、その素掘り隧道群は住宅街に近い、とのことのようであり、どうせなら舌状丘陵や谷戸の景観を楽しめるところからはじめようと思った次第。で、時間的な関係からして、この新茂原駅の少し北をチェックすると、渋谷隧道があり、そこから押日地区へといくつか素掘り隧道が見て取れるため、渋谷隧道を始点に押日素掘り隧道群へとに下ることにしたわけである。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)



子安神社社務所
国道128号を北に渋谷隧道に向かうと、途中の腰当交差点脇に子安神社社務所がある。地区名は腰当。腰当神社とも呼ばれる。神社ではあるが、鳥居がない。どういう経緯かは不明。天徳・応和年間(957~964)の創建と伝えられている結構由緒ある社である。常とは異なり、子安神社社務所とあるので、社務所だけがのこるのか、とも思ったのだが、立派な社殿が残る。見たわけでもないのだが、江戸や関東の社寺彫刻「木彫」として名高い嶋村家の流れである十代嶋村俊明の勾欄擬宝珠が残る、とか。それにしても、この神社以外にもあるのだが、何故に「社務所」をつけているのだろう。

伊弉子(いさご)神社
腰当地区から北塚地区に入り、渋谷地区との境界で国道から離れ左に折れる。と、左折点の少し北に伊弉子(いさご)神社という、あまり聞いたことのない神社がある。ちょっと立ち寄り。趣のある社殿ではあるのだが、境内には天然記念物の「大モミジ」の案内はあるものの、由緒などの説明はなにもない。社の名前が気になりチェックする。
「千葉県神社名鑑」によると祭神は伊弉子姫命(いさごひめのみこと)。伊弉子姫命(いさごひめのみこと)とは、散歩で結構多くの社を訪ねているが、今まで耳にしたことがない。字面から推測するのは少々乱暴ではあるが、「伊弉」との字面は、神生み・国生みの神である伊弉諾尊(いざなぎのみこと)とその妻の伊弉冉尊(いざなみのみこと)を連想する。で、祭神の伊弉子姫命をこれも乱暴にも分解すると、「伊弉の子で、しかも姫」ということになる。神話によれば伊弉諾尊が黄泉の国の穢れを落し、禊をおこない、左目から生まれたのが天照大神、右目から月読神尊、鼻から速須佐之男命(すさのおのみこと)が生まれたとある。であれば、「伊弉諾尊の子で、しかも姫」とは天照大神、となる。伊弉子姫命(いさごひめのみこと)とは天照大神であろう、と妄想。と、神社明細帳には伊弉子神社の祭神は「大日?貴命(おおひるめむちのみこと)」とある、とのこと(茂原市の広報紙)。大日?貴命とは天照大神の別名であるので、伊弉子姫命=天照大神って妄想は、妄想ではなく、結構いい線いった推論であった、よう。
なお、趣ある社とメモしたが、この社殿も先ほどの子安神社と同じく、江戸や関東の社寺彫刻「木彫」として名高い嶋村家の流れである九代嶋村俊豊の手になる木彫りが施されでいるとのことである。

渋谷隧道
伊弉子(いさご)神社を離れ、国道を左に折れる道を進む。県道でもないのだが結構車の通行が多い。道の先をチェックすると谷戸を抜け真名地区で県道14号茂原街道にあたる。車の往来が多いのは国道128号から県道14号茂原街道へのバイパスといった役割を果たしているのだろう、か。
道を進むと行く手を丘陵が遮る。緩い坂を登り切ったところに渋谷隧道。コンクリートつくりで、距離も長い。素掘り隧道ではないと思う。扁額には竣工年度が記載されておらず、いつ開通したのは不明である。隧道を抜けると大楽地の谷戸が広がる。

三宅谷隧道
はじめての隧道が素掘り隧道の面影はない、いわゆるトンネルであり、出だしで気勢が削がれたが気を取り直し次の隧道である「三宅谷隧道」に向かう。渋谷隧道から少し道を戻り、南に入る小道を見つけ道なりに畦道を進む。先に進むにつれ、丘陵地の木々の中を進む細路となり、その先に三宅谷隧道が見えた。如何にも素掘りの趣である。
入口から中を見るに、出口は見えるも途中は真っ暗。水溜まりも見える。携帯していたライトを取り出し、足元を照らしながら進むが、泥濘で靴は足首まで泥の中。頭が当たりそうな低い天井や壁面の斑模様は砂岩と泥岩の互層だろうか。
豊田村史(明治22年(1889)の町村制により、渋谷村、長尾村、腰当村、小林村、大登村、北塚村が合併しで豊田村となる)によると、この隧道の完成には1年半ほどかかったと言う。当時、渋谷地区から阿久川によって開けた長尾に行くには、腰当から廻るか、この隧道を抜けたとのこと。泥濘がひどく、牛車の轍も泥に食い込み難儀したようで、先ほど訪れた渋谷隧道ができると、この道はほとんど使われることがなくなった、と。因みに渋谷の地名は、この地の水は鉄分を含み渋柿色をしていたことによる。

阿久川
三宅谷隧道を抜けると谷戸が広がる。素掘隧道が、丘陵を穿ち山間や丘陵に囲まれた谷戸の田畑を結ぶため、といった説明を実感。湧水を貯めたような小池、広がる田圃を進む。地図には道脇に本立寺とあるのだが、そまつな木標に手書きの文字で「本立寺」とはあるものの、堂宇などは見当たらなかった。
阿久川により開析された丘陵の谷地の田圃の畦道を進み、川を渡り、三宅谷隧道のあった阿久川の東の丘陵から、川を隔てた西の丘陵に入る。阿久川は複雑に入り組む舌状丘陵よりの水を集め、丘陵部を東西に分け茂原の市街へと下ってゆく。

宝泉寺
阿久川の西の丘陵を進むと右わきに宝泉寺。趣のある山門をもつお寺さま。境内には本堂へのぼる石段右手の堂宇は「岩不動尊」が祀られている、と。江戸時代前半に造られた磨崖の不動明王とのことである。





小山隧道
宝泉寺を越え、住宅地のすぐ先からどんでもない山奥、といった雰囲気の道になる。四角い形状の隧道である。入口辺りは堀脇となっている。隧道の上には竹林が茂る。隧道を抜け西側に出ると、谷戸の先の丘陵はゴルフコースとなっていた。
隧道が造られた時期は不明であるが、茂原市教育委員会の資料によれば、明治9年(1876)の資料にはトンネルは記載されておらず、宝泉寺前から丘陵を登り、尾根で西に折れる山道があるようだ。その後明治39年(1906)の資料にはトンネルの記号がある。明治9年から明治39年の間のどこかで造られたのだろう。

御領隧道
小山隧道から丘陵を抜けて押日地区に行くか、それとも長尾の豊田小学校脇にある「御領隧道」まで少し戻るか、少々悩む。が、結局御領隧道に戻ることに。理由のひとつは御領隧道への道の途中にある「取り残された鳥居」にフックが掛かったため。が、あちこち探しながら歩いたのだが、見つからなかった。結局は、道の片方だけに残った切り通しの上にあった、よう。ちょっと残念。

その半分残った切り通しを越え県道293号を左に折れ豊田小学校に。豊田小学校の東脇から丘陵へと向かう道を進む。先に進むと長大な掘割の先に隧道が見える。掘割の途中に柵で覆われた貫通した穴がある。防空壕とも言われるようだが、なんとなく違和感。
隧道を抜け北口に。北口隧道のすぐ上に切り通しといった地形が見える。隧道ができる前の丘陵越えの旧道の痕跡であろう。北口も結構長い掘割が印象的な隧道であった。その先は腰当と長尾の丘陵に囲まれた谷戸に続く。因みに、長尾地区にある学校名が豊田小学校となっているのは、明治の町村合併時に長尾村などが合併しが豊田村となったからであろう。

茂原の天然ガス
御領隧道を離れ、本日の主たる目的地である押日地区の隧道へと向かう。豊田小学校まで戻り、県道283号を西へと豊田村の由来ともなった豊田川を越え、先ほど豊田小学校へと曲がった交差点をそのまま真っ直ぐ西に。県道を塞ぐ丘陵を掘り割った切り通しを越え、道は小林地区の丘陵裾を南に進む。
道から少し入ったところに天然ガスの工場。明治中期に農業用水の井戸から天然ガスが発見され、ために関連企業が市内に立地し、この地に近代産業が発展したとのこと、茂原ガス田は南関東ガス田の一部として、生産量・埋蔵量ともに日本最大の水溶性天然ガス田となっている。ただ、日本最大とは言うものの、その量は千葉県内の都市ガス需要の30%、家庭用に換算すると55万世帯に相当する規模のようである(関東天然瓦斯開発株式会社の資料より)。
因みに、水溶性ガスとは地中に堆積した有機物が微生物により分解・発酵されてできるメタンガス。第四世紀と呼ばれる地質時代に堆積された動植物より生成されたメタンガスが地中層の水の中に溶け込み濃度を増したものである。

土地改良茂原工区記念碑
道を進むと道脇に結構大きな池があり道路脇に石碑が立っている。石碑に刻まれた内容をメモすると、両総土地改良茂原工区の竣工の記念碑。石碑を読むと、「工区は南は豊田川から北は長尾境、東は国道128号から西は押日間。この一帯は耕地は小林地区 高師 押日 内長谷長谷谷の一部地区二百ヘクタール余。此の地区は道水路に恵まれず用排水が困難で特に小林地区には二沼沢あり耕作に困難であったため地区の地主が集まり協議し、県の土地改良協会の設計にもとづき国の補助のもと昭和31年に工事開始、昭和34年に完成した」とあった。

今は美田が広がる一帯ではあるが、そうなったのも、そんな昔のことでもないようである。ところで、この土地改良は先回の散歩でメモした両総用水の整備事業ともつかず離れずの事業とも思える。両総用水とは水の乏しい九十九里平野に水を導水する用水幹線の整備。WIKIPEDIAなどによれば、かつての九十九里浜には幾多の湖沼群、ラグーンが点在していたが、明治以降の工業化により湖沼群は消滅。大河のない南部地方は農業用水が慢性的に不足の状況となる。一方で利根川の東遷事業により利根川に統合された上部河川の水により、佐原一帯は水害の被害に見舞われるようになっていた。このような状況を打破すべく、昭和18年(1843)工事に着手。戦時下の中断を経て昭和40年(1965)竣工。

概要は、千葉県香取市佐原の第1揚水機場で利根川から取水し、香取市伊地山で栗山川に流し込み、栗山川下流の山武郡横芝光町寺方の第2揚水機場で再度取水し、九十九里浜方面には「東部幹線用水路」を通し一の宮河口5キロ上流の松潟堰へ、丘陵方面には「南部幹線用水路」を通し本納までは外房線の西側、本納からは二流に分けは「南部幹線用水路」は外房線の東側を茂原南まで、分岐した「西部幹線用水路」は丘陵山地を貫き、豊田川を越え茂原市の五郷まで続き、東金市や茂原市などの九十九里平野南部まで農業用水を供給する。全取水量14.47m3/s、用水を供給している受益面積は約20,000ヘクタールになる。 灌漑をカバーする地域は、利根川の支流である大須賀川の沿岸の香取市・神崎町・成田市、九十九里平野にそそぐ栗山川沿岸の多古町・横芝光町・匝瑳市、そして九十九里平野にそって広がる一宮川までの東金市・山武市・九十九里町・大網白里町・茂原市・白子町・長生村・一宮町の6市7町1村。用水による受益面積は14,000ヘクタール(平成23年4月1日現在)千葉県の水田約20%をカバーしている

野本隧道
道を進み小林地区の丘陵が切れる辺りで押日地区の丘陵地との間の谷戸を右に折れ、押日地区の押日素掘り隧道群を目指す。最初の目的地は野本隧道とそのすぐ脇にある木生坊隧道。場所は丘陵南端の富士見中学の西側にある。その名は地名とは無関係であり、何故に富士見中学と呼ぶのだろうなどと、要らぬお節介を抱きながら、中学校の西側の緩やかな坂を上る。
丘にパイプ梯子が架かる手前に小さい石祠があり、そのすぐ奥に野本隧道の西口が見えた。四角い隧道は内部は乾燥しており、泥水で悩むことはない。隧道を通り東口に出る。こちらは少し野趣が残る。道を進み小路に当たる。

切り通し
この辺りからV字に折り返しのように道があり、その先に木生坊隧道があるとのこと。小路とT字に当たるところからV字方向に左に畑の畦道を進むがブッシュで行く手を阻まれる。元に戻り、T字路を右に続く道を辿る。荒れた道をブッシュを掻き分け先に進むと立派な切り通しがあった。切り通しを先に進むと富士見中学の坂で見たパイプ梯子のところに出た。野本隧道ができる前の丘陵越えの道ではなかろうか。

木生坊隧道
切り通しからT字路に戻り、再び木生坊(きしょうぼう)隧道を探す。ひょっとして、と野本隧道へと道を戻り、目を凝らして右手を見ながら進むと、野本隧道が緩やかにカーブするあたりの右手奥のブッシュの中に、踏み跡らしき道筋が見えた。で、ブッシュを掻き分け右手に入ると隧道が見つかった。
隧道に入ると、少々荒削り。隧道を抜けると行き止まり。地形図で見ると、東西の小さな丘陵の間の小さな谷戸があった。昔はこの谷戸への往来のために隧道をつくったのだろうか。




狸穴隧道
野本隧道を東口に戻り、富士見中学校脇の緩やかな坂道を進む。新興住宅街の北東端に東に向かう小路があり、その先に狸穴隧道があった。形は今まで見なかった五角形。観音掘りと呼ばれるようだ。隧道を抜けると、のどかな景観の谷戸に出る。

花立隧道
道なりに進み右へと向かう道、というか踏み分け道を進むと竹の株が道を入口に数本立てかかる花立隧道に到る。四角い隧道に入ると、東口辺りには泥水が残る。隧道を東に抜けると谷戸が広がる。隧道辺りに湧水があるのだろうか、隧道東に湿地の帯が住宅地辺りまで続いている。







後呂隧道
隧道を引き返し、押日の集落の中を進み後呂隧道に向かう。丘陵に向かって道なりに進むと住宅の間の細路の先に黄色い標識が見える。先に進むと「落石注意」の標識。右に向かえば猪喰隧道、左は後呂隧道。どちらに進むか、少々迷う。
あれこれチェックしていると、猪喰隧道の近くに両総用水50号隧道の呑口があるという。であれば、ということで猪喰隧道を後回しにし、後呂隧道に。
入口上を竹林で覆われた隧道は結構大きい。今まで辿った押日地区の中で最も大きいように感じる。東口に向かうと少し天井が低くなっているところもあるが、距離も長いし規模感のある隧道である。東口の先は道が続いていた。再び元に戻り猪喰隧道に戻る。

猪喰隧道
黄色い標識のところまで戻り、右手に進み鬱蒼とした森の掘割の先に隧道。この隧道は中でカーブしている。東口と言うか、北口は隧道上に竹林が繁っていた。
出口から丘陵沿いを南北に進む道に出る。出口からこの道に出た少し南に戻ったあたりに両総用水50号隧道の呑口があると言うので、道を戻りあちこち、特に道の東側を注意して探したのだが、残念ながら見つからなかった。後でチェックすると、道に出たすぐ南に民家があったのだが、その南にあった。小さなポンプ施設のような建物の脇に水路隧道があった。場所からいえば両総用水の西部幹線の水路ではあろう。丘陵を多くの隧道などを通り流れてきた用水は、この呑口から谷戸を南に下り、豊田川を越え茂原の五郷へと向かうのだろうか。単なる妄想、根拠なし。



坊谷隧道
東の小林の丘陵と西の押日の丘陵によって形成された長い谷戸の道を、複雑に入り組む押日の舌状丘陵突端部を結ぶ小道を北に進む。途中、「落石注意」の標識のある後呂隧道からの道との合流点を越え、その先のT字路を右に折れる。
道なりに進むと何となく五角形・観音掘りの形をした坊谷(ぼうやつ)隧道が見えてきた。押日地区では最北端の隧道。隧道を通り抜け、藪の深い掘割上の景色を眺めながら谷戸に出る。



細田隧道
谷戸の田圃を眺めながら南に道なりに進むと細田隧道に入る。素掘りが実感できる刻み跡や低い天井。如何にも素掘り隧道が実感できる。少しカーブしている隧道を抜けると掘割の右に八幡神社が見える。

切り通し 
八幡神社にお参りし、鳥居の辺りから下に広がる景観を楽しんでいると、隧道方向へ道跡らしきものがある。少し進むと切り通しへの道跡のようである。荒れて、道を塞ぐ倒木を乗り越え、下をくぐり先に進むと藪が酷い。藪漕ぎで少し進むと、突然道が切れる。その下は隧道の北口であった。この切り通しも、隧道ができる前の丘陵越えの旧道であったのだろう。


船着神社
細田隧道から県道14号、通称茂原街道に出る。何か歴史のある街道かと思ったのだが、どうも県道の愛称と言ったもののようである。結構交通量の多い道筋を豊田川に沿って東へすすむと、道脇に誠にささやかな社。船着神社とある。社名の由来は、その昔、日本武尊が船でこの地に降り立ったことによる、また 今まで歩いてきた押日も、その日本武尊が船を降り立ったときが夕方で、沈みゆく夕日があまりに美しいため、「いとおしい陽(ヒ)」と言ったことによる、と。縄文時代の海進期は、この辺りは海であったようであり、近くに貝塚跡もあるようだ。

長谷隧道

一応今回の目的である押日地区の素掘り隧道を見終え、後は最寄の駅である外房線の茂原駅に向かうだけではあるが、そのルートをチェック。最短コースは茂原街道に沿って進むのがいいのだろうが、交通量が多く少々興ざめ。
あれこれチェックすると、豊田川の南に「長谷隧道」がある。豊田川により開析された豊田川南の丘陵の谷戸繋いでいるのではあろう、ということで、茂原街道を離れ、豊田川に架かる橋を渡り、少し東に戻り長谷隧道へと道を南にとる。
妙照寺を目安に内長谷地区の谷戸の最奥部まで進む。妙照寺もお寺様といった風情の建物ではなく、更に奥に進む道など見当たらない。建物の周囲をあちこち探り、結局は建物にそって外部を回り込むように進むと竹藪の中に道らしき跡。少々不安ではあるが、藪漕ぎをし先に進むと長谷隧道が現れた。人が通った気配のしない、今回の隧道のうちで最高(?)の荒れたアプローチであった。 アプローチの雰囲気では、どんな山奥に連れて行かれるのか、など少々気を揉んだが、寂しげな隧道を抜けると開けた谷戸に出て一安心。

長谷神社
南の丘陵との間に挟まれた長谷の谷戸を進むと、丘陵東北端辺りに長谷神社。長い参道の途中に明神鳥居が見え、拝殿はその先の石段を登った先に見える。 日暮も近く、道脇からお参り。旧村社で祭神は天照大神。

長谷神社脇から、どのルートをとるか、またまた考える。大人しく真っ直ぐ進むか、それとも少し遠回りにはなるが、鷲神社、鷲山寺、藻原寺といった何となく有難そうな神社仏閣のある丘陵南を通るか、ということだが、結局は遠回りの社寺巡りルートとした。

鷲神社
長谷神社から西の丘陵と、麓に社寺の揃う東の丘陵の間を抜けると、東の丘陵の南西端に鷲神社。境内の中ほどにある明神鳥居の先に石段が見え、社殿はその上。社に由来など特にないのだが、鷲神社と言えば、なんらか酉の市に纏わる因縁など無いものかとチェックすると、ここでも酉の市に纏わる話が登場してきた。

Wikipediaや浅草の酉の市の寺として名高い長国寺の縁起によると、文永2年(1265)11月の酉の日、日蓮宗の宗祖・日蓮上人が、上総国鷲巣(現・千葉県茂原市)の小早川家(現・大本山鷲山寺)に滞在の折、国家平穏を祈ったところ、金星が明るく輝きだし、鷲妙見大菩薩が現れ出た。これにちなみ、浅草の長国寺では、創建以来、11月の酉の日に鷲山寺から鷲妙見大菩薩の出開帳が行われた。その後明和8年(1771年)長国寺に鷲妙見大菩薩が勧請され、11月の酉の日に開帳されるようになった、とある。
この鷲山寺って、鷲神社のすぐ隣のお寺さま。往昔、神仏混淆の折は鷲山寺は鷲神社の別当寺として神仏一体のもの。浅草の酉の市として名高い鷲神社も明治の神仏分離令によって長国寺からわかれたものであるわけで、であるとすれば、浅草鷲神社の大元はこの鷲神社との類推もできるのだが、はてさて。
とはいうものの、酉の市についてはそのはじまりについて諸説あり、はっきりしない。大きく分けて、この鷲山寺とか長国寺の縁起のように仏教サイドからの因縁話と、神道サイドからの因縁話がある。散歩の折々訪れた久喜市鷲宮の鷲宮神社、都内足立区花畑の大鷲神社などでは、東征の折の日本武尊との関係で酉の市が語られていた。

鷲山寺
鷲神社から東に200mほど進んだところに長国山鷲山寺。堂々とした仁王門が印象的。本堂の甍も美しい。仁王門を入ると「法華宗(本門流)大本山鷲山寺(じゅせんじ)由来」の案内。まとめると「日蓮大聖人は、小松原法難(1264:鴨川にて日蓮が襲撃された事件)の後、鷲巣の領主、小早川内記(こばやかわないき)の招きに応じ、当地にて一夏九旬の修行。その後、日蓮上人の命により、日弁上人は小早川氏の寄進を得て建治3年(1277)鷲巣に鷲山寺を建立した。江戸の頃には、徳川三代将軍家光公より寺社領を拝受・十万石大名待遇を受け、七堂伽藍を備え「関東法華の棟梁」と称され、隆盛を誇った。また、第二十七世日誠上人は、正親町三条大納言の養子となり十六弁菊花五條袈裟を下賜され、更に有栖川宮家の祈願所となった、と。
鷲山寺は「霊験あらたかな御祖師様」として人々の進行を集め、信仰による病気平癒の寺として難病に苦しむ人々が多数祈願に訪れ、開山日弁上人の「開山忌」は鷲巣の「ケエサンキ」とよばれ、大勢の人が集い、当地では最も人の多い行事として名をはせた。
元禄16年(1703)、関東一円に発生した「元禄大地震」は大きな被害をもたらし、上総地方では九十九里を中心として溺死者が2154人を数え、死者を弔うために、多くの供養塔が各地に建てられたが、当境内に祀られている「津波供養塔」は、茂原市指定文化財となっている」、とあった。

境内を本堂へと歩いていると、ちょっと古錆びた案内板に鷲山寺の歴史の解説があった。上で述べた由来は省き、それ以外を補足すると、「日蓮上人が長南町の笠森観音で小早川内記を教化したこと。七堂伽藍を備えていたが、天文四年(1535)、宝永二年(1705)、文久二年(1862)、昭和29年と4度の火災に遭い諸堂を消滅。昭和35年仮本堂、昭和50年開山堂庫裏を改修、昭和51年当山開創700年慶讃法要を厳修、昭和56年に信徒会館を建設し諸堂を結ぶ回廊の設置、昭和59年仁王門、水行場の修復、昭和63年に宝物堂の落慶。300余年の間長生村一松本興寺に預け置いた宝物を遷座入堂した。今大本堂の建設にむけて努力精進の日々」といったことが手書きで書かれていた。広い境内の割にゆったりしている空間は、諸堂が焼け落ち、現在復興中のといったことだろか。

仁王門の先にある石段を登るが、特に堂宇といったものは見当たらず、石段を下り、右手にある仮本堂に。仮本堂の前に先ほどの案内にあった「元禄津波供養塔」がある。;元禄16年(1703)、安房の南海海底を震源地とする大地震が起こり、翌未明に大津波が来襲した。この地震と津波は、千葉県内各地に大被害を及ぼした。特に津波による被害者は、夷隅・長生、山武の海岸一帯で数千人と言われている。鷲山寺は九十九里浜一帯に多くの信徒を持つゆえか、元禄津波の供養塔が参道入口に建立された(交通事情により本堂前に移されている)。茂原市、長生郡内に津波碑や供養塔は十数基あるが、碑文の内容、碑の大きさに最もすぐれているのがこの碑である、とあった。
この地震は推定マグニチュード8・2。津波の高さは、千倉で5m、御宿で8m、九十九里浜で4m、白浜の野島崎周辺では6mもの土地が隆起し、それまで島であった部分が陸と繋がったと言う。

藻原寺
鷲山寺を離れ東へと向かうとコンクリート多宝塔の戒壇塚(山門)が藻原寺ユニークな藻原寺が続く。こちらは日蓮宗の本山とのこと。先ほどの鷲山寺は法華宗本門流。法華宗には天台宗から、日蓮を開祖とするこの日蓮宗など30近い宗派・門流があるようだ。何故に、それほど分かれるのだろうとチェックしようと思ったのだが、真言宗でも20近くあると言うので、この件は思考停止とした。
縁起によれば:鎌倉時代中期建長五年(1253)四月二十八日、日蓮上人が清澄山山頂にて、初めて『南無妙法蓮華経』と唱えられた後、法難のため清澄山を追われ、「笠森」の観音堂に難を逃れた。そのとき、藻原の豪族として威勢を誇っていた斉藤兼綱公とその一族の須田時忠公が教化を受け、初の門下生となり、建治2年(1276)、邸内に一小堂(「榎本庵」)を建立した。これが藻原寺の起こり、とか。この縁起は鷲山寺の縁起とよく似ている。
応長2年(1312)日蓮上人より「常楽山 妙光寺」と命名され、日蓮大聖人の直弟子である日向聖人が藻原と身延の両山を兼任された縁により、「東身延」と略称される。藻原寺と称されたのは明治元年(1868)のことである。また、斉藤兼綱公とその一族の須田時忠公が日蓮上人と共にお題目を唱えた事から、『日蓮門下お題目初唱の霊場』と称されている。
因みに。茂原の地名の由来としてこの藻原寺が登場するが、このお寺さまが藻原寺となったのが明治とすれば、ちょっと違和感。茂原の地名は平安時代に藤原黒麻呂によって拓かれた荘園(藻原荘)に由来されるとされ、文字通り湿地が多く「藻原」であったため。現在の「茂原」に文字が変わったのは江戸時代であり、このお寺さまの命名以前より「藻(茂)原」が使われているようである。

外房線・茂原駅
藻原寺を離れ、道なりに進み、国道128号を越え、鷲山寺と藻原寺の門前町、さらには古くからの房総往還の交通の要衝として、所々に古き趣の残る民家を眺めながら外房線・茂原駅に。たまたま来合わせた「特急しおさい」が新宿まで行く、というのでちょっと贅沢し特急に乗り1時間強で新宿に到着。京王線、井の頭線を乗り継ぎ一路家路へと。
 昭和の森を分水界とする散歩も第三回。東京湾に注ぐ村田川、内陸の印旛沼に注ぐ鹿島川の谷戸の景観を楽しみ、今回は外房の太平洋に注ぐ小中川流域を辿ることにする。 ルートを想うに、この2回の散歩を通じ、昭和の森公園のある丘陵を境にその東は太平洋の九十九里浜に続く低地となっていること、またその丘陵にはその昔、現在の外房線とは異なるルートを走る鉄路があり、急峻な丘陵をトンネルで穿ち、切り通しを開削し土気と大網を結んだとのこと。そしてその急峻なる丘陵にはこの地に覇を唱えた酒井氏の居城である土気城があった、といったことを知った。
で、今回の散歩は昭和の森公園の東裾にある小中池を主水源とする小中川を下流へと辿る、というよりも、昭和の森公園のある丘陵とその東の低地のギャップを感じるルートをその眼目としようと思う。25パーミルと言うから、1000mで25m上る千葉県下最急勾配の鉄路の廃線跡を逆から下り、また急峻なる丘陵故に難攻不落と称された土気城跡などを訪れ、丘陵と平地のギャップを幾らかなりとも感じ、丘陵から低地に下りた後に小中川の源流点へと戻ることにした。
現在では廃線となった鉄路にはトンネルや切り通しがあったようだが、現在は埋め戻されているとのこと。どこまで廃線跡を辿れるがはっきりしないが、常の如く成り行き任せを基本に始点である外房線土気駅へと向かった。



本日のルート;外房線・土気駅>西谷寺>土気トンネル>切り通しの跨線橋跡>善勝寺>埋め戻された切り通し跡の台地>>貴船城跡>道祖神と「土気城跡」の案内>クラン坂>外房線跨線橋>旧鉄路跡>南玉不動の滝>南玉不動尊(清岸寺)>外房線高架橋>水資源機構房総導水管理所>御霊大神>素掘りの隧道>小中川>小中池>昭和の森公園展望台>辰ヶ台遺跡>鹿島川源流域の取水口>ホキ美術館>外房線・土気駅

外房線・土気駅;午前10時55分_標高85m
通いなれた外房線・土気駅を北口に下り、大網街道を東に進む。ここからは、現在の土気駅から急峻な丘陵を越え大網駅を結んだ旧鉄路の廃線跡を探しながら辿ることになる。 ○房総鉄道
土気から大網へと丘陵を越える鉄路は、明治29年(1896)に開業された蘇我・大網間を結ぶ房総鉄道の開業まで遡る。明治21年(1888)には蘇我>東金間・大網>茂原間に房総馬車鉄道が計画されたが開業までには至らなかったようである。
その房総鉄道の中で土気・大網間は房総丘陵が九十九里浜の低地へと一気に落ち込む急峻な地形。1000mで25m上る急勾配を抜けるため、大網から最も近い丘陵の尾根筋に取りつき、小刻みに山際を廻り込みながら、現在の外房線・土気トンネルの少し南を善勝寺山門の北側へと上り、そこからは大網街道の下まで353mのトンネルを掘削し、土気へと抜けていたようである。
現在の外房線は881mのトンネルを穿ち、高架橋を走り抜けるが、当時の技術力ではトンネルや鉄橋の建設を極力避け、できるだけ緩やかな勾配とするにはこのルートしかなかった、とか。なお、房総鉄道は明治40年(1907)には国有化され「房総線」と改称。開業当時にあった千葉駅や大網駅のスイッチバック配線もなくなり、また全線電化され「外房線(千葉駅と安房鴨川駅間)」と改称されたのは昭和47年(1972)のことである。
因みに、大網駅のスイッチバックの説明に、急峻な地形を乗り越えるため、との説明が多いのだが、何と無く違和感を感じる。急峻な地形の途中にスイッチバックがあるのならこの説明も納得できるのだが、そういった路線でもなさそうであり、単に当初の路線は東金(大網・東金間開業は明治33年;1900)に向けてのものであったが、一の宮等の南房総への路線を通すために(大網・一宮間開業が明治30年;1897)、大網駅にスイッチバックの配線を設けたのではないだろう、か。

西谷寺;午前11時29分_標高88m
大網街道を土気市民センター交差点に。道を右に折れ、外房線に架かる陸橋に立ち寄り。旧鉄路はこの陸橋辺りから現在の外房線・土気トンネル入口手前の陸橋のある辺りまでは外房線と大網街道の間を通り、そこからは外房線の南に回り込み、善勝寺の山門方面へと向かったようである。
何らかの痕跡が残るとも思えないが、とりあえず、極力路線跡を辿ってみようと思う。土気市民センター交差点南の外房線陸橋辺りからは鉄路跡らしき道はないのだが、そこから東に少し大網街道を進み右に折れると、外房線と大網街道の間に道が通るが、その道も先日、鹿島川を辿る折に越えた土気踏切への道の辺りで途切れる。土気踏切の辺りで東に広がる資材置き場に鉄路跡を想い、大網街道に戻り土気トンネル上を通る道へと進む。
途中、大網街道の北に西谷寺の案内。ちょっと立ち寄り。元は真言宗の寺であったとのことだが、寛正年間(1457‐66)に土気城主・酒井定隆による上総七里法華の令により法華に改宗。現在は日蓮宗の寺として開山以来四百有余年の法灯を伝える。七里法華とは、酒井定隆が海難から救ってくれた日泰上人と約束したもので、一国一城の主となった折には、領地内をすべて日蓮宗の寺院とするといったものである。

土気トンネル;午前11時31分_標高78m
西谷寺を離れ、大網街道を右に折れ土気トンネル上に。現在の土気トンネルは全長881m。明治29年(1896)、千葉市街と外房を結ぶべく開業した房総鉄道が幾多の変遷を経て、全線電化され外房線(千葉駅と安房鴨川駅間)と改称された昭和47年(1972)にこのトンネルも開通されたようである。
土気トンネルはここから北東へと向かうが、旧鉄路は外房線の南に回り込んでいた。大網街道の南を東に進み、調整池らしき池の辺りで大網街道とクロスする道筋は、如何にも鉄路跡のように見える。

切り通しの跨線橋跡;午前11時42分_標高76m
大網街道をクロスし、東へと善勝寺への山門へと緩やかな道を進む。道の北側が旧鉄路跡。切り通しがあった、とのこと。山門手前の北側には跨線橋跡が残る。現在は埋め戻されその深さ20mとも言われたV字の深い切り通しの名残はなにも、ない。
房総鉄道が開業された当初はトンネルが開削されていたが、大網方面から25パーミル(1キロを25m上る)というその急勾配を登り切った丘陵頂上に353mものトンネルがある、というのは煙モクモクの最たるもの。その煤煙を軽減する目的で昭和26年(1951)から2年かけてトンネル上部の覆土を撤去する工事を行い、一部トンネル部分を残して大部分を深さ20mもの切り通しとした。切り通しで出た残土は土気小学校裏の谷を埋め校庭造成に使われた、と言う。
その切り通しも旧鉄路が廃線となるにおよび跨線橋跡の西は昭和55年(1980)頃には埋め戻され、その東は平成12年(2000)頃までは切り通しが残っていたようだが、宅地造成で出た残土置き場として埋め戻され、現在深いV字の切り通しの面影はどこにも見当たらない(当時の切り通しの写真はこのサイトをご覧ください)。


善勝寺;午前11時47分_標高90m
善勝寺の山門に入る。参道を進み右に曲がると本堂があった。このお寺さまも、元は真言宗であったが、酒井氏の「上総七里法華」の令により法華宗に改宗。当時の名前は「善生寺」であったが、酒井氏が天正18年(1590)の秀吉による小田原の北条征伐に際し小田原北条氏に与し自領を失った後は、家康により寺領50石を受け、寺の名前も「善勝寺」と改められた。現在も七里法華屈指の名刹として、京都の総本山妙満寺の輪番十ケ寺となっている。
境内には土気城最後の城主である酒井氏の子や孫の墓塔が祀られる。この寺は善勝寺砦とも称されたように、土気城郭の一部でもあったようで、境内には土塁跡が残る。寺は丘陵東端の尾根にあり、大網・東金の低地を睥睨する要衝の地でもあったのだろう。

埋め戻された切り通し跡の台地;午前12時5分_標高78m
善勝寺をお参りした後、切り通しの東口、というか、旧土気トンネルの東口辺りから東の鉄路跡の景観が如何なるものか、残土置き場となった切り通しの埋め戻しの場所に入り込む。残土の上には雑草が茂り、藪漕ぎと言うか、草漕ぎをしながら残土埋め立て東端に。そこから先は深い谷となり、先に進むのは難しそう。地図には東に向かう細路が見えるのでそれらしき道筋を藪漕ぎしたのだが、先日の沢登りで出合ったマムシを思い出し、途中で撤退し、切り通し・旧トンネル東端と思しき辺りから急勾配の鉄路を想い、且つ大網方面の眺望を楽しむことに。房総丘陵と九十九里浜への境目との言葉のとおり、眼下に大網白里や九十九里平野の景観が広がっていた。
先回の散歩で土気の地名の由来をメモした。土気の由来は諸説あるも、土気城跡が天然要害の地故に「峠ノ庄」と呼ばれた「峠」>とけ、との説、険しい坂道=嶝嶮(とうけん)の説などの説があったが、先回の散歩まではこれらの説を実感できなかったのだが、この場に到りて大いに納得。

貴船城跡;午後12時24分_標高90m
善勝寺から土気城跡へと向かう。切り通しを埋め戻した跨線橋跡を「渡り」、北に向かい、T字路を右に折れ、道なりに進むと竹藪に覆われた道の両側に空堀と右の小高い堤に小祠がある。石段を登りお参り。祠脇にある石碑の案内によると、「貴船城 聖武天皇の神亀元年(724)、蝦夷の侵入に備えて、陸奥の国(宮城県)に多賀城を築き、蝦夷の軍事拠点として土気に金城又は貴船城と呼ばれる砦を築いたと伝えられる。 鎌倉時代に入り千葉氏の一族相馬胤綱の次子土気太郎が土気の荘の地頭に任ぜられ居住したと言う。 戦国時代畠山重康の居城となるが、下総中野城にいた酒井定(貞)隆の勢力に押されこの地を撤退する。長享2年(1488)定隆は土気古城跡を修築し土気城を再興する」とあった。
小高い堤は戦国時代に酒井氏が土気城を修築したときに整備された馬出し曲輪(大手入口)の土塁跡のようであった。空堀の深さは6m、幅8mほどのよう。曲輪内側の空堀は埋められてしまったようである。

道祖神と「土気城跡」の案内;午後12時29分_標高90m
貴船神社を少し進むと道祖神とその脇に「土気城跡」の案内;土気城は平安時代の鎮守府将軍であった大野東人が東北地方の蝦夷に対抗する軍事拠点のひとつとして築いたものと伝えられる。その後、長享2年(1488)、中野城主(下総中野城;千葉市若葉区中野)であった酒井定隆がこの城を修復して入城し、以降、5代・約100年に亘って酒井氏の居城として上総の地に君臨した。
城は鹿島川や村田川の水源となっている標高90mを越える台地上に、その急峻な地形を利用して築かれ、難攻不落の名城として知られていたが、1590年(天正18年)豊臣秀吉の房総攻めの際に敗れ、廃城となった。本丸、二の丸などの中核になる部分は現在日本航空研修センター(注;現在は「ひまわりの郷」と称する高齢者専用賃貸住宅となっている)の敷地となっており、部分的な改修はあるものの全体の保存状態は良好で戦国時代の形態を良く残している」とあった。
○酒井氏
酒井氏の出自については定かではなく、遠江とも美濃とも上州新田氏の流れとも言われている。酒井定隆は古河公方足利成氏に仕えた後に安房の里見義実や小弓城の原氏を頼り中野城主となったという。
酒井氏は五代百年に亘り土気城主として君臨したが天文7(1538)年の第一次国府台合戦には小弓公方側として参戦し、小弓公方足利義明の討ち死にによって北条氏に降った。永禄7(1564)年の第二次国府台合戦では北条氏から里見氏に寝返り、敗走する里見勢を稲毛海岸で護ったが、酒井胤治の代、永禄10年(1567)北条氏に降伏した。
天正18年(1590)の小田原征伐に際し、酒井康治は小田原城へ参陣。小田原城の開城とともに土気城も降伏し浅野長政に接収された後に廃城となった。
案内脇に城の構えが記されており、この案内の前に広がる一帯が三の丸、その先に大きな空堀があり、二筋の空堀の先には二の丸と本丸となっている。

土気城跡;午後12時31分_標高91m
先に進み、二重の空堀と土塁で食い違いで形成されている虎口のようなところを通り、ひまわりの郷敷地にお邪魔。空堀にそって盛られた土塁は規模が大きく登るのにちょっと苦労した。







クラン坂;午後12時28分_標高90m
敷地内をあまり彷徨うのも気が引け、二の丸と本丸の間を抜ける道をすすむと、のんびりした風景は一変。薄暗い切り通しの道となる。「クラン坂」と称されるこの切り通しは規模が大きく迫力がある。クラン坂の切り通しには鎌倉でよく目にした「ヤグラ」も残る、とか。
ヤグラとは横穴式のお墓のこと。「岩蔵」がその由来と言う。「クラン坂」の由来も「ヤグラの坂」であろう、か。「昼でもなお暗い」との由来もあるようだが、それはそれとして、この地は酒井勢と後北条勢が激闘を繰り広げた場所でもあり、足早に去る。

外房線跨線橋;午後12時53分_標高47m
クラン坂を下ると外房線の跨線橋に出る。跨線橋のすぐ西に土気トンネルの出口が見える。旧房総線はこの地の少し南を山肌を善勝寺脇の切り通しへと向かった、と言う。なんらかの痕跡でもないものかと辺りを注意しながら進む。

旧鉄路跡;午後12時57分_標高35m
跨線橋から少し南に下ると、フェンスで囲まれた藪が一瞬切れて枕木のようなものがフェンスに替り道脇に縦に立ち並ぶ。どうもこの地が廃線跡のようである。道の東は藪が酷く入れないが、西側は比較的容易に入ることができた。なにか痕跡でもと思いながら少し進むと切り通しが現れた。鉄路と関係あるような気もするのだが、切り通しの先の藪が激しく先に進むことはあきらめた。ともあれ、善勝寺脇の切り通しから、鉄路は谷に下りることなく山肌を此の地まで進んできたのだろう。
旧鉄路はこの地から東は西の谷池の辺りで現在の外房線の路線に戻るが、そこまでのルートを推測するに、地形図を見るとこの地から西の谷の外房線北の池に向かって40m級の丘陵が続いている。鉄路はこの丘陵を進み外房線の路線に戻っていたのではなかろう、か。旧鉄路はその外房線との合流点から先は外房線と同様のルートを丘陵の山肌を大網に向かて下って行ったようである。

南玉不動の滝;午後13時15分_標高26m
道なりに南玉不動の滝に向かう。場所は池田地区の南玉池の北。道なりに南に進み、途中で南玉池へと右に折れて進むと丘陵と平地の境に豊かな水量の滝があった。案内によると;「土気古城再興伝来記」の南玉不動尊略縁起によれば、「嵯峨天皇の御代、弘仁3年(812年)夏の初め、山の中腹の滝の付近から怪しい放光があったので、里人は善勝寺(千葉市土気町)から住職を招請して不動尊を安置し、清岸坊と称した」と記されている。
この滝は、山の中腹の湧水で、俗に地下数千尺といわれ、清岸寺境内まで導管で導かれ、銅製の滝の口から落下して、南玉貯水池の水源となっている、とあった。




南玉不動尊(清岸寺):午後13時26分_標高46m
で、案内にある清岸寺とは滝の上に立つ堂宇。南玉不動尊と称される。滝の脇の細路を辿ると朱に塗られた堂宇があった。そこにあった「南玉不動尊縁起由来」を簡単にまとめると、滝の由来と同じく怪しい放光を止めんと不動尊を安置し、その堂宇を「不動山清岸坊」と名付けた。また、この堂宇は真言宗であり、土気城主酒井氏の「七里法華」の令に従わなかったが、日泰上人が堂参し、妙法の法の九の字を切ると、不動尊の火炎が九字の相を背負う姿となったため、九字不動尊とも称された。さらに、頼朝が伊豆で敗れ、安房上総に逃れ再起を期した折、この堂宇に参詣し戦勝を祈願。その際、滝に箙(えびら;矢を入れ腰や肩にかける容器)に納めた故をもって、御箙の滝とも呼ばれた、といったことが記されていた。
「南玉の滝の由来」も記されており、そこには上記説明以外に、日泰上人の唱えた功徳により、病気快癒・開運多く、上総の信仰の中心であった。と。
また、先ほど通ってきた「南玉溜池」の説明もあり、土気城主の酒井氏の家老であった横佐内孫大夫が、酒井氏が滅びるに及び南富田に百姓として土着。土地の人を従えて土手を築き水を引き溜池をつくった。当時は池田四分に南玉六部の配分であったが、相対立の結果現在は五分五分となっている、といったことが記されていた。

で、旧鉄路はこの不動尊の北の山肌を通っていたようである。なんらかの痕跡とも思い、堂宇から少し崖道を登ったが、これも藪が激しく即引き返す。先日沢で出遭ったマムシがどうも頭に残っているようである。

外房線高架橋;午後14時6分_標高18m
南玉不動尊で休憩をとっているとき、土気トンネルを抜けた後に続く外房線の高架橋を見落としていることを思い出し、少々気が重いのだが引き返すことに。もと来た道を土気トンネル跨線橋近くまで戻り、東に向かって丘陵地を下る。丘陵部を下りきった辺りで北を見ると谷戸を渡る高架橋が目に入る。
土気トンネルを抜けた外房線は少し丘陵部分を進んだ後、谷戸を高架橋で跨ぎ、旧房総線の鉄路と合流する丘陵部分と繋ぐ。現在の技術力で丘陵間を力任せに押し渡っているわけである。




谷戸に立ち高架橋の逆側、南を見ると丘陵部が続く。旧鉄路は一度谷に下りたら大変と、この丘陵部を進み、外房線高架橋東端の丘陵部へと向かったのだろう。何か痕跡でもないものかと、丘陵部にちょっと入り込むが、ここも藪が厳しく撤退した。


水資源機構房総導水管理所;午後14時30分_標高15m
再びもと来た道を南へ辿る。低地を丘陵地を越えてきた大網街道へと向かう途中、道脇に(独)水資源機構房総導水管理所の施設があった。何をするところなのか、好奇心からチェックすると、この施設は、千葉市の臨海工業地帯の工業用水、東金・茂原など九十九里浜の低地帯の水道水の需要の増大を受け、利根川の水を取水し、南房総の大喜多までもの100キロを導水する房総導水路を管理するもの。構想は、既存の「両総用水」施設を共用して水を取り入れ、新しく作られる導水幹線水路で導水。その水を東金ダム、長柄ダムに貯留調整することで、毎秒8.4立方メートルを上記の地域の工業用水や水道用水として供給する事業となっている、と。

○房総導水路
千葉県香取市佐原の両総用水第一揚水機場で利根川から取水し栗山川源流に流し込み、栗山川の部分を両総用水と共用して、下流の横芝光町於幾にある横芝揚水機場でポンプアップし、房総丘陵に沿っておおむね地下水路を通して大多喜町まで送水している。横芝揚水機場の近くに坂田調整池があり、途中に東金ダムと長柄ダムがある。昭和46年横芝・長柄ダム間の導水路建設着工を皮切りに、工事が開始され平成9年南房総導水路(長柄ダム・大多喜間)の完成で一応の事業が完成した。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

○両総用水
かつての九十九里浜には幾多の湖沼群、ラグーンが点在していたが、明治以降の工業化により湖沼群は消滅。大河のない南部地方は農業用水が慢性的に不足の状況となる。一方で利根川の東遷事業により利根川に統合された上部河川の水により、佐原一帯は水害の被害に見舞われるようになっていた。このような状況を打破すべく、昭和18年(1843)工事に着手。戦時下の中断を経て昭和40年(1965)竣工。
概要は、千葉県香取市佐原の第1揚水機場で利根川から取水し、香取市伊地山で栗山川に流し込み、栗山川下流の山武郡横芝光町寺方の第2揚水機場で再度取水し、東金市や茂原市などの九十九里平野南部まで農業用水を供給する。全取水量14.47m3/s、用水を供給している受益面積は約20,000ヘクタールになる。

御霊大神;午後14時38分_標高25m
先に進むと丘陵を越えてきた大網街道にあたる。大網街道の下をトンネルで抜け、道なりに少し進むと道の右側に緑の森と鳥居が見える。そこが御霊大神の社である。 祭神は景行天皇の皇子・日本武尊(やまとたける)。境内の案内によると、東国遠征の折、当地で休息。その時に村人が間食(ちょっとした食事;小食)を献上したと伝わる。その故事故に、この地を小食土(やさしど)と称す、と。
昭和の森分水界散歩の一回目に目もしたのだが、間食(ちょっとした食事;小食)を食べたからこの地を小食土との故事は、漢字表記の点からは説得力はあるのだが、「音」の「やさしど」との関連はこの説明ではわからない。もう少し深堀してみると、「やさしい」という言葉は「やせる」から出来たとの説がある。そのことから、「立派な人を目の前に、気が引けて、身が痩せるような思いをする」というのが「やさしい」の元々の意味である、とか。日本武尊といった貴人を前に「気が引けた、身が痩せる」思いから、やさしい=身が痩せる、に「小食」という文字をあてたのだろう、か。単なる妄想。根拠はないが、自分だけは結構いい線いっているようにも思う。
また、この地を吾妻山と称するのもこの故事故のこと。日本武尊が妃の弟橘媛を偲んで詠んだ、「吾妻(あづま)はや」に由来することは言うまでもない。
案内にはそのほか、「寛政10年(1798)に建造。明治2年に現在の名に改められる。境内に二社。一社を天満神社。一社を子安神社。境内には神楽殿。かつては神楽の奉納あるも現在はとだえている」といったことが刻まれていた。説明の通り、神楽殿は崩れかけ、といった様ではあった。

素掘りの隧道;午後14時48分_標高28m
南玉不動尊から小中川の源流点である小中池に向かう。道なりに南に進むと如何にも手掘りといった隧道(素掘りの隧道)が現れた。その時は素掘りの隧道と言うだけで、その偶然の出合いを有難く思い、トンネルを抜けたのだが、メモをする段になって、どうもその隧道には貝の化石が露出していた、といった記事を目にした。縄文時代の所謂、縄文海進期には上総丘陵地まで海が迫っていたのだろう。
それと、これもメモする段なってわかったことであるが、この房総半島と越後妻有地域は多くの素掘りで知られるとのことである。どちらの地域も泥岩や凝灰岩などの柔らかい地層がそれを可能とした、と。茂原市押日地区には数百mの範囲内に7つもの素掘り隧道がある(押日素掘り隧道群)、という。房総全体でどのくらいの数の素掘り隧道があるのだろう。興味深い。
素掘りの隧道の目的は、当たり前のことではあるが、耕作地に向かうため農機具や牛馬、収穫物の運搬に急な丘陵を越えるのが難儀なため隧道を掘ったと言う。この素掘りは江戸末期からはじまり、昭和40年頃まで続いた、とか。また、この往来の便以外の素掘り隧道のもくてきとしては、山間部の蛇行する川筋に隧道を通すことによって川筋を変え、元の流路を新田として開拓するといった目的もあったようである。この素掘りの隧道の手前に河川が流れるが、それほど蛇行もしておらず、新田開発ではなく、丘陵の先へのショートカットが目的のように思える。

小中川;午後14時55分_標高21m
隧道を抜け谷戸に入り、少し進むと小中川に出合った。緑の雑草の中を一筋の細い水路が直線に続く。よく見ると、南北の舌状台地の先に水路の前進を阻む丘陵が見える。地形図を見ると、南の丘陵が直角に北に折れ、水路もその地形に沿って北に進路を変えている。この小中川は南白亀(なばき)川水系の支流。大網駅辺りまで北東にのぼり、そこから南東へと下り大網白里市と茂原市の境を流れ南白亀川と合流する。
佐倉市で偶然目にした鹿島川の源流点を辿ろうとはじまった今回の散歩。昭和の森が東京湾、内陸の昔の内海の名残の印旛沼、そして外房の分水界ということも知らず、最初の散歩は鹿島川散歩のつもりが村田川の谷戸に入ってしまい、2回目に鹿島川を辿り、今回は房総の丘陵地と九十九里浜に続く境目である昭和の森の丘陵と低地のギャップを感じながら、やっと小中川に到着した。途中、いくつかの水路にも出合った。これらの水路は小中川の支流としてい、水を合わせ、南白亀川へと注いでいるのだろう。

小中池;午後15時55分_29m
小中川の水路のすぐ東に高い堤が見える。小中池である。堤手前の公園で遊ぶ家族を目にしながら、堤に登り東を見ると、小中川を囲む丘陵、前面で直進を阻む丘陵などが一望できる。地形図を見るに、外房線・大網駅辺りまでは丘陵に挟まれた谷戸を自然の地形に逆らうことなく進んでいるように見える。
堤に小中池の案内;このダムは大網白里町(旧大網町、瑞穂村、山辺村、増穂村、福岡村)茂原市(旧本納町、豊岡村)千葉市(土気町)に関わる水田715haの用水補給を目的とした、農業専用ダム。昭和8年8月山武郡小中川排水改良事業として、当時県議会の承認を得て着工され、途中第二次世界大戦の勃発による悪条件の中で、昭和22年2月迄、14年の歳月と15万人の労力、湖底に沈んだ田畑山林は12haにもおよび完成、とあった。

○小中川源流点
小中池から次のルートを想う。選択肢は二つ。小中池北端から丘陵への遊歩道を辿り昭和の森の展望台に行くか、第一回の散歩のとき知った、下夕田(しもんだ)池から小中池へと続く水路を逆に辿るか。で、結局は展望台からの大網・東金方面の景観をとり、遊歩道を昭和の森に上ったのだが、メモをする段になって、小中川の源流点はこの小中池の西南端から水路があるようで、そこには7mほどの滝もあることがわかった。
更に、その上流、通常であれば村田川へと注ぐ水路が河川争奪の結果、源流域の奪い合いが行われ、結局は小中川として太平洋へと流れることになっているようである。昭和の森の分水界としては村田川を経て東京湾に流れるべき水路が小中川筋へと下り、太平洋へと注ぐことになるという、昭和の森の分水界の基本の例外ケースがあった。
こんなことなら小中川源流域の源流域ルートにすればよかった、とは思えども例によって後の祭りである。近い将来、素掘りの隧道散歩の折にでも、小中川源流域を辿ってみたいと思う。もっとも、この源流域、ゴルフ場にから染み出た毒性の高い農薬・除草剤谷戸に捨てられた産業廃棄物、建設廃土で結構汚れでいるようではある。

昭和の森公園展望台;午後15時15分_標高93m
遊歩道を上るとほどなく昭和の森公園に。遊歩道の上り口の少し南に展望台。眼下に小中池、丘陵に挟まれた低地を流れる小中川、その向こうに大網白里市街、九十九里平野が一望のもと。そのはるか彼方には太平洋の水平線も見える、とか。昭和の森公園から九十九里の眺望が散歩3回目にして実現した。もっとも、そのために、小中川源流域の滝や河川争奪の地形を楽しむことはできなかったのは、少々残念ではあった。

辰ヶ台遺跡;午後15時20分_標高91m
展望台の公園施設案内に、公園内には第一回の散歩で訪れた小食土遺蹟の他、辰ヶ台遺跡があるという。場所も展望台のすぐ近く。道なりに進むと遊歩道脇に遺蹟の案内があった。案内によると、遥かかなたに太平洋を望む標高98mの場所にあるこの遺跡は、縄文時代前期(今から約6千年前)および古墳時代から奈良時代にかけての集落跡です。
1986年公園整備の際に行った調査では、縄文をつけた深鉢(ふかばち)形の土器や、黒曜石(こくようせき)・チャートからできた鏃(やじり)のほか、木の実などをたたいたり、すりつぶしたりするのに使った丸い小石などの生活用具といっしょに、長方形の竪穴(たてあな)住居跡が数軒ほど発掘されました。
遺跡の南端で見つかった住居跡は、長辺が9.8m、短辺が4.9m、床面積は約40㎡もあり、当時の一般住居が15~20㎡なのと比べると、かなり大きな住居といえましょう。土間には炉が3か所あり、ムラの集会施設ではなかったかと考えられます」とあった。
縄文海進期には台地下まで海が迫っていたのだろうし、台地上の安全な場所に居を構え、縄文人は海の幸を手にいれていたのだろう。実際、九十九里浜は貝塚の他、栗山川流域を中心に80例にも及ぶ丸木舟が出土されている(日本全国の出土例の40%)ことからも、その状況が推測される。

鹿島川源流域の取水栓;午後15時25分_標高94m
辰ヶ台遺跡から2回目の散歩で辿った鹿島川の源流であったであろう、昭和の森公園のなだらかなスロープを取水栓を探しながら下る。公園として整地される前のこの森はどんな姿で、鹿島川の源流はどのように流れていたのだろう。今は芝生に取水口が残るのみ。 それでも、鹿島川の流路と思しきスロープを進み、公園とあすみが丘東の境目の湿った場所まで進み、先回の鹿島川流路散歩のときに見逃したホキ美術館に。

ホキ美術館;午後15時40分_標高89m
ホキ美術館は日本初の写実絵画専門美術館。写真と見まごうのどの絵画に、あまり情感豊かではない我が身もでも、どのくらいの時間をかけて書き上げたのと、それだけで有難く思う。自然を描いた絵画、人物を描いた絵画など、結構満足して時間を過ごした。

外房線・土気駅;午後16時31分_標高85m
ホキ美術館で少し時間を過ごした後は、先回の鹿島川散歩のルートに沿って土気踏切まで下り、土気駅に到着。本日の散歩を終える。ほぼ18キロ、5時間半の散歩であった。
昭和の森公園を分水界とする三つの川を辿る そのⅡ;鹿島川を印旛沼に下る 先回の散歩では当初の予定である鹿島川を印旛沼へとの散歩が、村田川の谷戸に入り込みその景観の美しさもあってそのまま歩を進め、東京湾に注ぐ流れに沿って市川まで辿った。単なる自然豊かな地と思っていた村田川流域には、はるか古い昔からの歴史があり多くの興味深い発見があった。もう少々村田川流域の「深堀り」を、とは思いながらも、今回は当初予定の鹿島川を辿る。
成り行きで源流に、といった先回の反省及び学習から、今回は鹿島川の水路最上端と言われる土気駅の少し東北にある調整池から散歩をはじめる。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

その調整池から如何にも水路跡といった地形を辿り「昭和の森」にあるという本来の源流点を確認し、その源流点から鹿島川の流路を下ることにする。鹿島川が印旛沼に注ぐ佐倉まではとても1回ではいけそうもない。地図を見て、ほどほどの距離で電鉄の駅があるところは千葉都市モノレールの千城台。おおよそ20キロほどあるだろうか。今回はどのような谷津田の景観が広がり、新たな発見があるのか楽しみである。



本日のルート;JR土気駅>鹿島川の水路最上流点の調整池>本寿寺>あすみが丘東 房谷(ぼうやつ)公園>「ホキ美術館」>昭和の森>小食土廃寺>鹿島川の源流部>鹿島川の水路最上流点の調整池>上大和田町;宝蔵院・熊野神社>下大和田町;鹿殿神社>千葉東金道路>千葉市若葉区;東金街道>正八幡宮>宮古橋>古泉町;子安神社・六社神社>御霊神社>御成道;平川>第六天神社

JR外房線・土気駅_午前11時30分
先回とおなじくJR外房線・土気駅で下車。今回は駅の少し北東にある調整池に向かうため北側に下りる。先回歩いた駅の南は再開発されニュータウンである「あすみが丘」が広がるが。駅北は昔ながらの町並である。地名も千葉市緑区土気町。現在は一部を除きほぼ町域は外房線の北に限られるが、元の土気町は誠に広いものであった。
WIKIPEDIAによれば、明治22年(1889)の町村制施行にともない土気町、大稚村、大木戸村、小山村、越智村、高津戸村、上大和田村、下大和田村、小食土村、板倉村の一部が合併し、山辺郡土気本郷町が発足。結構広い。明治30年(1897)には山辺郡と武射郡が統合し山武郡が発足し山武郡土気本郷町。昭和14年(1939)には山武郡土気町。昭和44年(1959)に千葉市に編入され緑区土気町となる。但し、先回の散歩で、旧土気本郷町を構成していた村はそれぞれ緑区の町として分かれているようだし、土気地域の一部が「あすみが丘東」となり、現在の町域となっているのだろう。土気という地名の由来は先回の散歩にメモしたのでここでは省略。

鹿島川の水路最上流点の調整池_午前11時35分
土気駅の北側から駅前を通る大網街道を東に向かい、鹿島川の水路最上流点の調整池に。村田川の源流部を鹿島川のそれと間違えた先回の反省を踏まえ、水路最上流部から地形をチェックしながら源流部を捉えようとの思いである。
駅前を通る大網街道は近世、佐倉藩の外湊として発展した現在の千葉市の中心から外房を結んだ歴史ある道筋。道を東に進み、丘陵へと上る道の手前を少し北に入ったところに調整池を確認。後は、地形を見ながら周囲より低いところをひたすら昭和の森まで辿ることになる。

外房線の踏切_11時39分
外房線の踏切を越える。踏切の東には昭和の森へと続く丘陵が続く。現在の外総線は電化され、何事もないように大網まで走るが、明治29年(1896)1月に蘇我と大網間が開通した頃は、土気と大網間のこの丘陵の急峻な地形をトンネルや橋の建設をできるだけ少なくするような地形を選び、現在の路線と比較しカーブが多く、短いけれども急勾配のトンネルからなる路線となっていた。現在の路線とは75%異なっているとのことである。
土気と大網間は1000m進んで25m上るという急勾配の難所であり、当時の蒸気機関車の馬力では濡れた線路ではスリップし立ち往生することもあったようである。当然のことながら煤煙もすさまじく、そのためもあってか、その間にあった旧土気トンネルは昭和29年(1954)からは切り通しとして開削工事がなされたようである。その切り通しは現在埋め直されている、とか。次回の昭和の森分水界散歩では太平洋へと注ぐ川筋を下る予定であるが、その際にでも旧路線の路線跡を「かすって」みたいと思う。

本寿寺_11時43分
踏切から道を上るとその南に再び調整池。鹿島川の源流への想定水路上でもあるので、この調整池からも、先ほどの大網街道北の調整池にも養水されているのだろう、か。調整池の東に林があり、そこに本寿寺がある。ちょっと立ち寄り。
竹林の丘を上ると結構な本堂。縁起によると酒井氏が土気城を築城した時、千葉市内浜野町にある本行寺の日泰上人を招き城の裏鬼門に建立。酒井氏は戦国時代に東金を拠点に上総北部を支配した地方領主。小田原の後北条に抗するも敗れ、小田原北条が滅亡した後は徳川の旗本として仕えた。
このお寺さまは東上総七里法華の根本道場として、酒井氏の領内の寺院を日蓮宗に改宗させる宗教政策の中心寺院のひとつであった、とか。七里法華とは、酒井定隆が海難から救ってくれた日泰上人と約束したもので、一国一城の主となった折には、領地内をすべて日蓮宗の寺院とするといったもの。海難から救われた、っていう話は「半僧坊」をはじめ枚挙に暇ないので、縁起のパターンのひとつではあろう。境内には日泰上人や酒井氏5代の供養塔、七里法華根本道場の碑などがある。
境内を西に進み調整池脇の竹林・藪に入る。湧水跡か調整池への踏み分け道でもあろうかと藪漕ぎをするが、どうも南には進めないようなので引き返し、元の調整池の西を上る道に戻る。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

あすみが丘東 房谷(ぼうやつ)公園_午前11時56分
調整池の西の坂を上ると調整池の南に整地されていない広場。広場の西には「あすみが丘東」のニュータウンが迫ってくる。広場を抜け水路跡を探すと、道路を隔てた南に少し蛇行する緑が見える。道路を渡ると「あすみが丘東 房谷(ぼうやつ)公園」。蛇行の具合からして、如何にも水路跡の風情である。公園の南端には小さい土管が見える。水を通すものかとチェックすると、狸の通る「けもの道」とあった。

「ホキ美術館」
房谷公園の周囲は「あすみが丘東」ニュータウンの宅地で埋まる。房谷公園を越えた辺りからはさすがに地形を読んで水路を辿ることは難しそうになってきた。こうなれば、とりあえず「昭和の森」の最上部まで進み、そこから逆に房谷公園まで地形を読みながら下ることに方針転換。 房谷公園の南の宅地を進み、ホキ美術館脇を通り昭和の森の入口に。
「ホキ美術館」は、その名前だけから判断し、何故かわ知しらねど前衛芸術っぽい美術館と思いパスしたのだが、メモする段になってチェックすると、ホキは保木氏と言う実業家がつくった写実絵画専門美術館であった。作品を見るに写真以上に精密な絵画に結構惹かれる。次回の外房への水路を辿る散歩の際には、必ず足を止めようと思う。

昭和の森_午後12時5分
ホキ美術館脇の道を進むと昭和の森公園の緑が見えてくる。成り行きで進むと、昭和の森出入り口があり、大きな駐車場も見えてきた。先回進んだ昭和の森は公園全体の西端部分の谷戸・森林地帯であり、メーンの公園部分はこちらのほうであった。
昭和の森のHPの案内によると:昭和の森は、市の中心部から東南に約18km、緑区土気地区に位置する面積105.8ha、南北2.3km、東西0.8km の市内最大、県内でも有数の規模を誇る千葉市の総合公園。公園の西側は、標高60mから90mの下総台地に連なり、東側は九十九里平野と下総台地を分ける高低差約50mの崖地(海蝕崖)に接する。展望台(海抜101m)からは、九十九里平野と太平洋の水平線が一望。
公園の一部が県立九十九里自然公園に指定され、良好な自然環境が残されているため、四季を通じて草花や樹木、野鳥や昆虫など多くの種類の植物や生き物が見られ、平成元年には、わが国を代表する公園の一つとして「日本の都市公園100選」に選定された、とあった。

小食土廃寺_午後12時12分
芝生の広がる公園を進む。最高地点から北に向かう窪みを探して芝生と林の境目辺りを辿ると「小食土廃寺」の案内があった。「やさしど」と読む。「小食土」の由来は先回の散歩メモに任すとして、案内をまとめると、天平13年(741)に聖武天皇が国ごとに国分寺・国分尼寺建立の詔を発すると、各地の豪族は競って寺院を建てた。昭和の森公園内にも「小食土廃寺」という寺の跡が見つかった。8世紀後半のものであり、東西15m、南北12mの御堂の土台や倉庫跡が見つかっている。また、出土した瓦は市原にある上総国分寺跡のものと同じで、この地域が国分寺と密接な関係があったことが推定される、とあった。
先回の村田川散歩も含めわかったことだが、千葉市に編入される以前の広域土気町(あすみが丘、あすみが丘東を含めた昔の土気村、大椎村など)は、内陸部であるにもかかわらず古墳時代から栄えていたようだ。古墳群が存在し、大化の改新後には「総の国」から上総国山辺郡となったこの辺りには、この小食土廃寺だけでなく、聖武天皇の国分寺・国分尼寺建立の詔が出るより先に大椎廃寺(あすみが丘7丁目)が建立されている、とのこと。また、この昭和の森には、この小食土廃寺以外に8世紀の古代神社跡をもつ荻生道遺蹟も発掘されているようである。平安末期になると、先回の散歩でメモしたように大椎城が築かれ、平忠常は大椎城を拠点として、上総・安房・下総を制圧。子孫は後に千葉氏として栄えることになる。単なる気まぐれで訪れた土気地域であるが、上総の「中核地帯」と言ってもいいような地域であった。

鹿島川の源流部_午後12時15分
鹿島川の源流部を探すに、それらしき谷戸といった源流部は見つからない。公園に整備するときに本来の谷戸部分などを整地してしまったのだろう、か。現在、昭和の森公園には芝生のところどころに雨水を集める「集水枡」が埋められているようである。
仕方なく、芝生の広がる公園最上部から北へ向かう窪みを求め、その窪みに沿って下ると、その窪みは公園北の林を迂回しその北側に回り込み、その窪地の公園内の終点部はかすかな湿地となっていた。窪みの終点の先には道路を隔てて「ホキ美術館」があった。これで不明であった房谷公園から昭和の森までの水路跡がぼんやりと見えてきた。
ぬかるみの公園内窪地最終地からガードレールを乗り越え、ホキ美術館の東の道を北へと進み、ほとんど凸凹の痕跡など残らないニュータウンの中を成り行きで進み房谷公園に。そこからは、先ほど上ってきた道を下り、大網街道北にある調整池に戻る。これからが水路として続く鹿島川散歩のはじまりとなる。

再び鹿島川の水路最上流点の調整池_午後12時35分

源流点からの水路を確認しながら出発地点の調整池にやっと戻ってきた。周囲は金網で囲まれ近づくことはできない。案内によれば、「土気調整池;集水面積180ha 私設面積2ha 総貯水面積68,000? (雨水貯水量56,000? 農業用貯水量12,000?;管理者 千葉市下水道局管理部 下水道維持課)、とあった。鹿島川の最上流点は「下水道」扱いということ、か。
調整池の西側の道を下り、調整池からの鹿島川の出口をチェックしようと思うのだが、池の北側は水草の類いのブッシュで覆われている。中に入り込み水路まで進もうとしたのだが、あまりのブッシュに諦め、元の道に戻り農道を回り込み田圃の畦道を調整池まで戻る。調整池からの水の出口を確認し、水路下りをはじめる。

水路が合流_午後13時5分
金網に挟まれた細流からはじまる鹿島川は左右を丘陵に囲まれた美しい谷津田の中を下る。田圃脇の細い灌漑用水といった趣であり、川といった風情にはほど遠い。谷津田には農家は一軒も見当たらない。ほどなく、右手の丘陵脇から金網に囲まれた水路が鹿島川に合流する。鹿島川を囲む丘陵崖下には幾多の湧水がある。という。この水路も湧水の導水であろうか。それとも、丘陵上にあるゴルフ場に池が見えるが、そこに溜まる水の調整のための水路であろう、か。Google Mapで見るに、ゴルフ場の調整池の排出口らしき位置とぴったり水路が重なっているので、ゴルフ場の調整池からの流れのように思える。

宝蔵寺_午後13時23分
田圃の畦道といった鹿島川の堤を下り「石井フラワーファーム」のビニールハウスをやり過ごし、未だ田圃の畦道といった鹿島川の土手を覆う草をかき分けながら先に進む。このあたりまでくると農家が見えてくる。上大和田地区の集落。古くは下大和田地区と会わせて旗本久保勝正の領地。勝正は織田信雄、秀吉に仕えた後、秀忠(後の2代将軍)に仕え、大番の組頭を勤め上総国山辺郡のこの地に領地を賜わり、関ヶ原や大坂夏の陣にも参陣した。寛永7年(1630)勝正の代のとき、領地のうち200石を弟勝次に分与し上大和田村として分村した。上・下大和田村は幕末まで久保氏の支配が続いた。
丘陵地にお寺さま。古い三門の残るこの寺さまの本堂は明治の学制発布の折り、大和小学校が仮設された。明治6年(1873)のことである。先回の散歩の折りにも出合った善徳寺や長興寺、そして常円寺など、お寺様が小学校として機能したケースが多い。

熊野神社_午後13時35分
宝蔵寺から少し北に熊野神社。この地の産土神ではあるが、鳥居や拝殿などは平成11年(1999)新築されたもの。狛犬までも平成11年のもの。この年に全面的な改築がなされたのだろう。奥の本殿は昔の名残を残す。全国3000社とも称される熊野神社であるが、235社の福島に次いで千葉県には189社と全国で二番目に多い熊野神社が佇む。因に本家本元の和歌山は40、出雲(島根)は31社と以外に少ない。以外に多いのは熊本158、岩手176、宮城133、愛知125、静岡102社など。如何なるプロセスでこのような普及となっているのかちょっと好奇心が刺激される。

鹿殿神社_午後13時51分
丘陵裾の道を進み県道131号と交差。鹿島川はその西で萩ノ原天満宮のある千葉市緑区高津戸の谷戸から下大和田の谷戸を下る小川と合流する。谷戸からの湧水や根垂れ水を集めてくだるのだろう、か。合流点にも興味を覚えるのだが、県道を北に少し進んだところに鹿殿神社がある。あまり聞いた事のない社の名前に惹かれて神社に向かう。
雰囲気のあるお宮さま。鳥居は天明6年(1786)に奉納されたもの。中央に継ぎ目が残る。参道は新しく平成16年に改修されたもの。狛犬はのっぺりとしている。風雪がもたらした故か、本来の姿かは不明。鹿と思えば鹿とも思える。拝殿にお参り。拝殿前の石灯籠には鹿が彫られていた。
由緒によれば、「御祭神武甕槌命 創立は百二代御花園天皇の御字寛政四年紀元二千百二十四年。百四代御柏原天皇の文亀三年(注;1503年)には古領主酒井定隆が参籠し、代々の武運を祈る。百十三代東山天皇の元禄年間に社殿を再興 住民が御神徳を仰ぎ、以来産土神として鎮際、今日に至る」とあった(注;「寛政」は「寛正」の表記ミスだろうか。御花園天皇の時代は「寛正」と思うのだが。寛正4年は西暦1463年。)。
武甕槌命(たけみかずちのみこと)は、日本神話で、天照大神(あまてらすおおみかみ)の命を受けて出雲(いずも)国に下り、大国主命(おおくにぬしのみこと)を説いて国土を奉還させたことで知られる。鹿島神宮や春日神社で祀られている神様。鹿を社の名にしている所以、か。
○水準点
鳥居の右脇には水準点。散歩の折々に神社で出合う。先日草加を散歩したとき、谷塚駅近くの富士浅間神社にある慶応元年の銘の手水舎には高低測几号(水準点)の銘が刻まれていた。 案内によれば、「内務省地理寮が明治9年(1876)8月から一年間、イギリスから招聘した測量技師の指導のもと、東京塩釜間の水準測量を実施したとき、一の鳥居際(現在、瀬崎町の東日本銀行草加支店近く)の境内末社、下浅間神社の脇に置かれていた手洗石に、この記号が刻まれました。当時、測量の水準点を新たに設置することはせず、主に既存の石造物を利用していました。市域でも二箇所が確認されています。この水準点が刻まれた時の標高は、三・九五三メートルです。測量の基準となったのは霊巌島(現在の東京都中央区新川)で、そこの平均潮位を零メートルとしました。その後、明治17年(1884)に、測量部門はドイツ仕込みの陸軍省参謀本部測量局に吸収され、内務省の測量結果は使われることはありませんでした。以後、手洗石も明治40年代(1907~1912)と昭和7年(1932)に移動し、記号にも剥落が見られますが、この几号は、測量史上の貴重な資料であるといえます(草加市教育委員会)」とあった。また、同じく草加宿の北端にあった神明社にも同様の高低測几号があった。


千葉東金道路_午後14時17分
県道を離れ再び鹿島川に戻る。未だ農業用水路といった風情の川筋である。谷津田の広がる谷津(戸)の景観を楽しみながら進むと先に高い橋桁が見えてきた。千葉東金道路である。東金道路は京葉道路の千葉東ICから分岐し東金市に至る。
鹿島川とクロスする千葉東金道路の橋桁下はブッシュ状態。少し進むが足元が覚束なく撤退。東金道路が丘陵と接するところまで迂回し丘陵裾の道を進み、成り行きで道を進み鹿島川に架かる殿川橋交差点に。
殿川橋より再び鹿島川の土手を進む。殿川橋の先で千葉市緑区から若葉区に入る。心持ち川幅が広くなったようにも思える。が、未だ小川に変わりはない。谷津田も川の右岸は緑のみだが、左岸の県道126号筋には人家が見えてきた。道なき土手を進むと中野町と和泉町の境目あたりで東金街道と合流。道脇は自動車整備工場なのか運送会社といった会社があり、川筋から東金街道には力任せで押し上がる。

○東金街道_午後14時50分
東金街道は千葉市中央区本町1丁目の広小路交差点から東金市台方の東金病院前に至国道126号・128号の千葉県道路愛称名。その昔の東金街道は、江戸と木更津を結ぶ街道(上総道、木更津道、房総街道な度と称される)から分岐し松ヶ丘、鎌取、野田(現在の誉田)、土気を経由し大網に至る土気往還からの分岐道。土気往還を現在の松ヶ丘バス停で北に分岐し仁戸名、川戸を進み、千葉東金道路の大宮ICの少し西の坊谷津を経て佐和、川井地区を進む。そして野呂地からは中野、山田台をへて東金に向かった。千葉市街から弧を描くように野呂地区に向かう現在の東金街道とは異なり、京葉道路松ヶ丘ICあたりから大雑把医に言って一直線で野呂地区を結び、野呂から先は現在の東金街道辺りを進んだのではないだろうか。
土気往還とともに東金街道は、外房・九十九里海岸地方の物資流通路の役割を果たしていたが、特に九十九里海岸地方の海産物を、千葉を経由して江戸に運搬するための重要な陸送路であった。この東金街道は明治以降現在の東金街道が整備されてからはその重要性は失われ、付近の住民の生活道路となっている。

富田揚水機場_15時21分
若葉区中野町と若葉区古泉町を区切るように流れる鹿島川に沿って北に進む。川は未だ小川の域を出ることはない。土手、というか田圃の畦道も草が茂り、藪漕ぎならぬ草小漕ぎで進む。川の脇に鎌田揚水機場などを見やりながら北に向かうと川筋が西にその向きを変えるあたりに富田揚水機場。この辺りから川筋が少し大きくなる。地図をみると、川の東にゴルフ場のある大きな丘陵がある。その南には中野の谷戸も見える。この一帯からの湧水や根垂れ水を集めた水路なのだろうか。その水路が富田揚水機場手前で合流している。

富古橋_午後15時51分
左右を挟む丘陵に沿って西に流路を向けた鹿島川の南北の丘陵に社が地図に見える。ちょっと立寄り。まずは川筋を離れ北の丘陵にある正八幡宮に向かう。結構長い参道を上り拝殿にお参りし、次は逆の南の丘陵にある子安神社、第六神社に向かう。鹿島川には富古橋が架かる。富田町と古泉町を結ぶ故の命名だろうか。
橋を渡り古泉町の集落を歩く。立派な構えの農家を見やりながら道から少し入り込んだ、農家の一部といった緑の中に子安神社、そこから少し南に六社神社があった。通常、六社神社は六柱の神を祭神とすることによるが、律令制の総社の中には六所神社と称し、その国の一宮から六宮の祭神を勧請したものがある。国司が赴任の折り、領国の一宮から六宮まで御参りする手間を省くため、国府近くに建てられた、とか。

御霊神社_午後16時28分
富古橋に戻り地図を見ると左手に御霊神社と県道66号脇に第六天神社がある。ちょっと寄り道。富古橋を再び渡り集落を越えるとその先に緑の丘陵が見える。御霊神社はその丘陵にある。丘陵に囲まれた谷津田をぬけ御霊神社に。赤い鳥居の参道を上る。巨木に囲まれた社はトタン屋根のようなささやかな社にお参り。
御霊神社って、散歩の折々に出合うが、その祭神はさまざま。御霊・怨霊を鎮めるための創建がその本義であろうが、5柱の神々(五霊)を祀るもの、祖先神を「御霊」として祀る者などさまざまである。

鹿島川の支流・平川_午後16時35分
御霊神社の西に広がる谷津田に下りる。この谷津田の中を水路が通る。源流をチェックすると外房線・土気駅の北西あたりまで水路が続いている。そこから左右を丘陵に挟まれ、この地まで、途中千葉東金道路の野呂パーキングアリアの西辺りの谷戸からの水を東金道路の手前で集め、谷津田を下ってくる。水路は少し北に進み鹿島川に合流している。
先日の村田川もそうだが、いくつもの谷戸からいくつもの水路が合流しひとつの川となって下る。遥かの昔、この台地が浸食されて出来た丘陵が複雑に、かつ、重層的に重なり合いながら続いており、その幾多の谷戸から生まれる湧水や根垂れ水が上総の川の水源ではあったのだろう。
支流の流れる谷津田を成り行きで進み大六天手前の道に。道を西に進み支流を跨ぐ。橋に「平川」「中田橋」とあった。この川筋は平川であった。

御成街道_午後16時41分
道を大六天へと進むと道脇に「御成街道」、と。御成街道(東金御成街道)とは、徳川家康の「鷹狩り」のために、佐倉城主土井勝利に命じ、船橋と東金の間に造られたおよそ37キロの道のこと。両総台地の分水界を、坂道はS字としたほかは、ほぼ一直線に、約37㎞にわたって東西に延びている。
ルートをチェックすると、船橋駅の少し南東の船橋御殿>大神宮、県道8号中野木をへて成田街道入口交差点>ここから県道69号を一直線で進み京成線を越え、実籾交差点>国道16号とのクロスまで一直線に南東に進む>国道16号から東は県道66号を六方町の六方五叉路>六方五叉路から県道66号を離れそのまま一直線に進み県道64号マで進む>県道64号佐倉街道を少し南に下り、鎌池交差点で佐倉街道を離れ、総武本戦を越え、国道51号若松交差点まで南東に一直線に下り、千城台駅北東の御成台1丁目交差点>そのまま直線でお茶屋御殿跡>第六天>袖ヶ浦カントリークラブ北端>県道289号に当たる>東千葉カントリークラブ辺りで国道409号>南東に下り東金御殿のある東金駅付近に。確かにほぼ一直線のルートである。
この街道には、沿道の村々の農民たちが石高に応じて駆り出され「三日三晩で造られた」とか、「昼は白旗、夜は提灯を掲げて昼夜兼行で工事が行われ、一晩のうちに完成した」、「船橋大神宮と東金台方新田で狼煙を上げて直線を定めた」などという伝承があり、別名「一夜街道」、または「提灯街道」、「権現道」などとも呼ばれているが、実際は慶長18年(1613)12月12日(表記旧暦;新暦で1614年1月21日)から翌年の1月7日(表記旧暦;新暦で西暦1614年2月15日)にかけて造られたものである。
また、道路とともに、将軍が休息・宿泊する船橋御殿(現船橋東照宮)、御茶屋御殿(千葉市若葉区御殿町)、東金御殿(現千葉県立東金高等学校)もつくられた。
家康が慶長19年1月に初めて東金・九十九里方面を訪れて以来、秀忠や家光もこの街道を利用した。その後寛永7年(1630年)を最後に東金方面での鷹狩は行われなくなり、寛文11年(1671年)頃には3つの御殿も取り壊しになった。(東金御殿、御茶屋御殿ともに移築と伝わる建物が現存)。
御成街道は明治維新後各所で分断されたが、東金市田間から山武市小松までは千葉県道124号緑海東金線として現存しているほか随所に街道の一部が残り、また、八街市内の一部は市指定の史跡となっている(WiKIPEDIA)。

大六天神社_午後16時46分
御成街道を進むと富田入口交差点。交差点脇にバス停があり、「千城台」行きのバスがある。時刻表を見ると10分ほどで到着する。当初はもう少し北の川崎十字路辺りまで進み、そこから千城台の駅まで歩こうと劣っていたのだが、このような有り難い誘惑には抗する理由もなく、予定変更。ヒットエンドランで交差点脇にある第六天神社にお参りしバスで千城台に戻ることに。
大六天神社(第六天神社との表記が多い;以下第六天)とは、第六天の魔王を祭る社。第六天魔王と言えば、信長の信仰篤き社。こまかいことはさておき、その魔王のもつ破壊的部分が気に入り、常識や既存の価値観を破壊する己の姿をもって、第六天魔王と称した、と。中部・関東に多く、西日本にほとんどみかけないのは、その強力な法力を怖れた秀吉が廃社に追い込んだ、とか。
それはともあれ、神仏混淆の続く江戸の頃までは第六天神社においては、仏教の「第六天魔王」が祭られていた。それが、明治の廃仏毀釈の際、仏教色の強い第六の天魔を避け、祭神を神道系の神々に書き換えたり、第六+天神、を分解し、本来関係のない、天神様を前面に出したりもしているようである。

タウンライナー千城台駅
大六天神社を駆け足でお参りし、バスに乗り、タウンライナー千城台駅に。途中御茶屋敷殿といったバス停の案内を聞きながら、そのうちに東金御成道散歩もいいなあ、などとの想いをはせながら、駅から一路家路へと。距離20キロ弱。時間5時間程度の散歩であった。 
昭和の森公園を分水界とする三つの川を辿る そのⅠ;村田川を東京湾に向かって下る いつだったか、佐倉の散歩を楽しんだ時、鹿島川に出合った。特に鹿島川に思い入れがあるわけではないのだが、源流点を地図でチェックすると千葉市緑区の土気地区あたりまで続いていた。土気と言われても、全くその景観が想像できない。山間の集落なのかなどと思いGoogle mapで見るに、予想に反し結構開けており規模の大きなニュータウンらしき宅地も広がる。 鹿島川の流路は丘陵地に挟まれた低地を佐倉まで流れる。源流点最寄りの駅であるJR外房線・土気駅から佐倉までは結構距離があり、1回では終わりそうにない。また、途中で切り上げようにも、適当な電鉄駅まで20キロ以上はありそうだ。どうなることやら、などと思いながらも、常の如く事前準備をすることもなく、源流点はJR外房線・土気駅傍の「昭和の森公園」であり、土気駅北東辺りから開渠となって佐倉に向かう、といった程度の情報だけで散歩に出かける。

が、今回の散歩は結局、鹿島川ではなく村田川を下ることになった。後で分かったことなのだが、「昭和の森公園」は外房、東京湾、印旛沼方面の3方向の分水界となっていた。地形図を見るに、大雑把に言って、南北に連なる丘陵と東西に連なる丘陵が、土気と大網の間の少し南でクロスし逆L字形の丘陵を形成し、更にその逆L字形の内側に丘陵が見て取れる。逆L字形の東の河川は外房に、逆L字の外側と内側の南北の丘陵に挟まれた水路は印旛沼に、そして内側を東西に連なる丘陵に挟まれた水路は東京湾へとその流れを注ぐ。
そのような複雑な地形を知らないままに、如何にも源流点といった谷頭部から谷戸を辿ったのだが、それは鹿島川ではなく市川で東京湾に注ぐ村田川であった。いくら歩いても谷戸を挟む丘陵が北へ向かう気配がないため地図で確認すると村田川を下っていることがわかったのだが、川を挟む谷戸の景観の美しさもあり、鹿島川散歩を村田川散歩に切り替えた。この川筋も途中切り上げる電鉄駅が京成千原線・ちはら台までないため、結局20キロほど歩くことになる。予定外の散歩とはなったが、誠に美しい谷戸の景観を楽しめる一日となった。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)



本日のルート;JR外房線・土気駅>天照神社>村田川源流部>湿性植物園>下夕田(しもんた)池>あずみが丘水辺の郷公園>大沢源流からの水路が合流>調整池からの養水?>「千葉氏板倉大椎地区土地改良区 竣工記念碑」>長柄ふる里源流からの水路合流点>法行寺>天満天神宮>長興寺>大椎八幡>新大椎橋>八幡池>大木戸八幡>「土気小学校第一分校」の石碑>常円寺>天満神社>大橋>千葉外環有料道路>川崎橋>押沼神社>山王大権現>新橋>大宮神社>京成千原線・ちはら台駅

JR外房線・土気駅;午前10時55分
自宅を出てJRで外房線を進む。千葉市街を離れ、曽我、鎌取、誉田と進む。誉田(ほんだ)辺りから緑が豊かな一帯となる。土気駅で下車。鄙びた駅舎との予想に反し、駅前は再開発され、駅の南側は「あすみが丘ニュータウン」と呼ばれる新しく開発された宅地・商業私設が広がっていた。宅地開発が開始されたのは昭和57(1982)年から。それ以前は農地・森林の広がる一帯であった。ビバリー・ヒルズならぬ、チバリーヒリズと称された高級住宅地もこのニュータウンの一隅にある、と言う。「あすみが丘」の元の地名は大椎町、小食土町(やさしど)。この地名は(千葉市緑区)あすみが丘1?9丁目に、土気町、小食土町の一部が、(千葉市緑区)あすみが丘東1?5丁目となった。
「あすみが丘」は如何にもニュータウンらしき地名であるが、元の土気町、小食土町、大椎町の地名は面白い。土気の由来は諸説。土気城跡が天然要害の地故に「峠ノ庄」と呼ばれた「峠」>とけ、との説。鴇(とき)が多かったからとの説、険しい坂道=嶝嶮(とうけん)の説などなど。中世以来の由緒ある地名ではあるものの、戦国時代に酒井氏が土気城を再建したときには既にその由来は不明となっている。「土家」は音に漢字をあてたものであり、「戸気」「度解」などと表記されることもあった。土気町は現在、外房線・土気駅を含めた外房線の北側に千葉市緑区土気町として残る。
小食土(やさしど)も「矢指土」「矢指渡」などと表記されたこともあるようだ。その表記であえばそれほど悩むこともないのだが、「小食土」が「やさしど」となった経緯はさっぱりわからない。同じように表記する地名と区別するため「小食」の者は「心やさしい」から、と言うことで「小食土」」とした、との説があるがいまひとつ理解できない。
御霊神社の碑文にある、日本武尊が橘神社(本納)に弟橘媛を祀り、東国に向かう途中、当地に立寄り間食(ちょっとした食事;小食)を食べたからとの説は。漢字表記の点からは説得力はあるのだが、依然「音」の「やさしど」との関連はこの説明ではわからない。もう少し深堀してみる。「やさしい」という言葉は「やせる」から出来たとの説がある。そのことから、「立派な人を目の前に、気が引けて、身が痩せるような思いをする」というのが「やさしい」の元々の意味である、とか。日本武尊といった貴人を前に「気が引けた、身が痩せる」思いから、やさしい=身が痩せる、に「小食」という文字をあてたのだろう、か。単なる妄想。根拠はないが、自分だけは結構いい線いっているようにも思う。小食土町は現在千葉市緑区小食土町として昭和の森公園とその東に残る。大椎は後ほどメモする。

天照神社;午前11時30分
土気駅から「あすみが丘」の住宅街を「昭和の森」に向かい南に進む。地図を見ると昭和の森の南西端辺りに池が見えるので、それが源流点なのだろうかとの思い。結構歩いても森の緑は見えてこない。30分以上も歩き、千葉市立大椎中学校辺りを左に折れるとやっと昭和の森の緑が見えてきた。
と、昭和の森と宅地との境目に神社がある。ちょっと立ち寄り。天照神社とあった。2003年 頃の写真には昼なお暗きといった、鬱蒼とした森に囲まれているが、現在周囲は丸裸。宅地開発がここまで進んでいるのだろう。鳥居も平成20年(2008)に新設されたようで、誠にあっさりした境内には天保年間の水盤だけが往昔の歴史を残す。

村田川源流部;午前11時40分
天照神社を離れ、昭和の森公園の入り口を探す。道路を少し南に下ると「昭和の森キャンプ場」とか「千葉ユースホステル」の入口。入口を入ると道が上りと下りのふたつに分かれる。道を下りにとり谷筋に向かう。下るにつれて、道脇に細いながらも、如何にも湧水らしき湿地が見えてきた。この辺りが源流点で、谷筋に沿って水が集まってくるのだろうか、などと思いながら先に進むと「通行止め」のサイン。左手に小径があり谷を上ると天照神社の東に出た。
谷に沿って道があるのかと思っていたので、宅地開発の端に出てしまい少々途方に暮れる。とりあえず道に沿って東へと進むと道路から直角に谷方向に下る小径。草に覆われた小径を進むと眼下に谷頭といった景観が現れる。ここから湧水が湧き出るのか、それとも先ほどの谷筋からの湧水が集まる一帯なのか、宅地開発のために人工的に造られたものなのか不明ではあるが、ともあれ鹿島川(実際は村田川なのだが、このときは鹿島川と思い込んでいた)の源流点はこの辺りだろうと一安心。後は、この谷頭部から谷筋をひたすら下ればいい、と。

湿性植物園;午前11時55分
小径を渡り切り階段を上がると再び宅地開発地が現れる。宅地を避け、谷縁に沿って少し南に進むと、少しわかりにくいのだが、草に蔽われた一隅に右に入る道がある。この道を谷の緑の中を進み、谷底に下りると花菖蒲なのだろうか水生植物が群生する一帯が現れる。湿性植物園と称される。園といっても特段の施設があるわけではなく、美しい谷津を利用した誠に魅力的な景観。左右を丘陵・台地でU字形挟まれ、U字形の最奥部の谷頭には湧水が湧く、といった「谷津・谷戸」の定義そのままの景観を呈する。今一つ情感に乏しいわが身も、しばし佇む。

下夕田(しもんた)池;午後12時6分
湿性植物園から細い水路が先に続く。湿地の上には木橋が遊歩道として続く。この水路の水は大半が谷津田を模した体験水田を流れ「下夕田(しもんた)池」に注ぐ。一部は丘陵の東にある「小中池」にも流れるようである。小中池からの水路は外房・太平洋に注ぐ。
下夕田池は地形から見て周囲の丘陵からの湧水を集めた池ではあったのだろうが、現在は水底に石を敷き詰めているし、形が如何にも人工的。自然にできた溜まりに人の手を加えたものであろう。
「下夕田」という美しい地名の由来は地名の小食土町字下夕田、より。とは言うものの、その「下夕田」の由来の説明にはなっていない。この地の「下夕田」の由来は定かではないが、全国にある「夕田」の由来には、「水が湧き出るところ」とか、「結田」が語源で「協力して田作りをする」といった意味、また、「伊勢(神宮)の朝田、熱田(神宮)の夕田、高田(会津・伊佐須美神社)の昼田」と称される田植祭りが知られる。この地の夕田とは関係ないかとも思うが、あれこれ想うのは楽しい。

あずみが丘水辺の郷公園;午後12時19分
水は茂原へと続く車道下を通り「あずみが丘水辺の郷公園」に続く。車道を越えた辺りからしばし暗渠となるが、公園が近づくにつれ、それらしき整備された水路が現れ公園内の調整池に続く。
調整池からの水は暗渠となりしばらく進む。それはともあれ、もうそろそろ水路が北に向かないことには鹿島川が開渠となって佐倉に下る川筋に合流できない。先を見ても谷津田を挟む丘陵は重層的に重なり合いながら東に連なる。これはどうも不自然と地図を見ると、この水路の先にある川筋は村田川とあり、曲がりくねりながら市川で東京湾に注いでいた。
はてさて、ここで軌道修正し当初の予定通りに鹿島川に戻るか、と一瞬悩むも、この美しい谷津田の景観を離れるのはもったいないと、予定を変更し、鹿島川散歩をここで村田川散歩に切り替える。

大沢源流からの水路が合流;午後12時40分
道脇の小祠を見やり、北の丘陵には三峰神社、南の丘陵には日枝神社が鎮座し谷津田がぎゅっと狭まる小山町辺りで水路は細いながらも開渠としてその姿を現す。とは言うものの、道は北の丘陵の裾を通るので時々川を跨ぐ農道があるたびに確認するだけではある。
開渠となった村田川に小山町集会所辺りで南の広い谷津田からの水路が合流する。この水路は村田川の源流のひとつ。源流点は南の外房有料道路を越えた茂原市大沢地区にある真名カントリーの山裾辺りである。
○土気酒井氏
村田川の北側を続く丘陵の裾を進む。丘陵上はあずみが丘9丁目。あずみが丘9丁目には土気酒井氏の支城である小山城があった、と。酒井氏は戦国時代に東金を拠点に上総北部を支配した地方領主。小田原の後北条に抗するも敗れ、小田原北条が滅亡した後は徳川の旗本として仕えた。この城は茂原方面の備えの城であった、とか。また、この小山城辺りは縄文時代の遺跡も残る。水の豊かな谷津田の丘陵上の快適な集落でもあったのだろう。

調整池からの養水?;午後12時45分
道を進むと道脇の水路から豊かな水が流れ来る。どこから流れてきたのだろう?丘陵上に調整池らしき池が見えるのだが、そこから流れ下った水であろうか。ともあれ、村田川の水は大沢源流からの水や、この調整池からの適宜な養水により豊かな流れとなってゆく。

「千葉氏板倉大椎地区土地改良区 竣工記念碑」
先に進むと県道132号にあたる。このあたりは千葉市緑区板倉町。古くは竹河原と呼ばれていたようだが、戦国期に土気城主の酒井氏が備蓄用の板倉を建てたことから板倉と称されるようになった、とか。
道脇に「千葉氏板倉大椎地区土地改良区 竣工記念碑」の石碑。説明を要約すると、「水田ほ(圃)整備;板倉大椎地区は千葉市の東南、千葉市・市原市・茂原市の接する村田川の源流に位置し、緑区の三町にまたがり南北に伸びる水田地帯。農業を取り巻く厳しい環境にもかかわらず、この改良事業で安定した農業経営ができるようになった」との謝辞を刻む。思うに、谷津(戸)の広がるこの一帯の湿地を、農業に適するように土地改良・整備をおこなっていたのであろう。眼前に広がる谷津田(谷津の田圃)も自然そのままのものではなく、元々の谷津を改良し造られたものであった。

長柄ふる里源流からの水路合流点;午後12時55分
村田川の川筋を眺めるべく県道を少し南に下る。川に架かる橋の辺りに「長柄ふる里源流」からの水路が合流する。橋から下流を眺めるに、ちょっとした渓谷の姿を呈する。先ほどの土地改良区の記念碑ではないけれども、これだけの水が加われば改良前は自然そのまま、ぐじゃぐじゃの湿地帯であったのだろう。実際近年になっても大雨でこの合流点の少し下流の大椎橋が流れ、越智地区の護岸が崩れたとの記事を目にした、とのことである。
で、長柄ふる里源流であるが、長生郡長柄町にある「長柄ふる里村」辺りを源流点とし、市原市金剛地を下りこの地で村田川に合流する。但し、村田川の本流はこの「長柄ふる里源流」からの水路であるとも言われるので、今まで辿ってきた昭和の森源流が合流する、というのが正確な表現かとも思う。

法行寺;午後12時58分
村田川は「長柄ふる里源流」との合流点から流路を北に向ける。依然左右を丘陵に挟まれた谷津田が広がる。右の丘に法行寺。お寺さまと言うより地域集会所といった風情。道から寺に上る石段脇の石塔が唯一寺の趣を残す。






天満天神宮:午後1時10分
さらに北に進むと天満天神宮。法行寺は千葉市板倉町であるが、ここは千葉市大椎町。「おおじ」と読む。古くは「大志井郷(おおじい)」と称されていたが、「大椎」の由来は不詳とのこと。 赤く塗られた小祠が境内に佇む。天満宮は菅原道真を祀る神社。天満宮は天神さま、天神さんとも称されるので「重複表現」とも思うが、天神祭で知られる大阪の天満宮も「天満天神」とも「天満の天神さん」と称するわけであるから、いいとしよう、か。それにしても地図で見るに、ニュータウンの宅地が天神さんのすぐ脇まで迫ってきている。谷筋を歩いているから谷津田の美しさだけが目に入るが、一歩丘を上れば宅地開発地となってしまっているようだ。

長興寺;午後1時15分
天神様から少し北に進むと、道脇に風格のある山門。長興寺である。広い境内には鐘楼。本堂は享保年間(1716-1735)に建てられたとの記録が残る。元は真言宗の寺院でこの地の東南にあったようだが、土気城主酒井氏の命により法華宗に改宗し、その折にこの地に移った、と。
○大椎城跡
村田川は長興寺の辺りで丘陵に沿って右へと迂回しる。丘陵は「あすみが丘第八緑地」として残るが、往昔この丘陵には「大椎城」があったとのこと。大椎(おおじ)城は平安時代中期、上総・下総に覇を唱えた平忠常が築城し、その曾孫・下総権介千葉常兼が修復。この忠常は平将門の叔父であった良文の孫にあたり、平将門以降の最大の反乱とも称される長元の乱(1027~1031) を起こし、当時不当な貢税を課した受領(国司) の暴政や貴族権力に反抗した。大椎城はその本拠地であった。
この乱の後、忠常の子・常将が初めて「千葉氏」を名乗り、常長・常兼と続き、その子・常重は大治元年(1126)、 この城から千葉城 (猪鼻城・湯の花城)に移り廃城になったと考えられている(異説もある)。
大椎城を築城したと伝わる平忠常の祖父である良文は平将門の良き理解者であった。将門や良文と菅原一門の友好な関係を想うに、先ほどの天満天神宮も、そのコンテキストで考えればこの地に鎮座する意味合いも納得しやすい。
大椎城は戦国期には、土気城主酒井氏が村田川流域を押さえる支城として大規模な改修をしたと伝わる。丘陵上にこの大椎城、土気城、小山城、そして神社仏閣が並ぶこの辺り一帯は平安の昔より、上総の中核の地であったのだろう。因みに、「あすみが丘第八緑地」の北には「チバリー・ヒルズ」がその趣を残す。



大椎八幡;午後1時30分
丘陵裾を北に向かう村田川を離れ、谷津田を通り抜け村田川を挟む逆側の丘陵に佇む大椎八幡に向かう。折から地域の方の清掃奉仕の邪魔をしないようお参り。社殿も新しくなっていたが、由来によれば、千葉氏が大椎城を本拠とするに際し、鶴岡八幡より勧請したとのことである。頼朝の挙兵に与力した千葉氏であればこの流れは大いに納得。




新大椎橋;午後1時34分
大椎八幡を離れ先に進む。右手を流れる村田川傍に近づくと川を跨ぐ橋が見える。橋桁も結構高くバイパスのような雰囲気の道である。川の傍に沿って橋を潜ろうとするも、道が切れ川脇には畑地だけ。通り抜けようにも農作業をしている方がおり躊躇。
仕方なく丘陵中腹を走るバイパスに上るルートを探すがそれらしき道はない。結局道なき崖面を力任せに上りバイパスに。川に架かる新大椎橋から下流の村田川筋を眺めるに、川の右岸には畑地となっており道はなく、左岸に道が通るだけであった。どうしたところで右岸は進むことができなかったようである。
ちなみに、この橋を通る道は宅地開発された「あすみが丘」から千葉外環有料道路の大木戸インターを結び、その先で道が切れる。宅地開発地と外環を結ぶバイパスとして造られたものだろう。バイパスにより削られたこの丘陵にも、村田川筋に連なる城郭群のひとつである立山城があった、とか。

八幡池;午後1時45分
新大椎橋の北詰めを左に折れ、道なりに村田川筋に進む。右手は宅地開発が進んだ「あすみが丘5丁目」、川傍には「大椎ポンプ場」。大椎ポンプ場は下水処理施設のようである。宅地を離れ谷津田へと下ると、右手に結構大きな池がある。村田川の水源のひとつかとも思い、川筋を離れ池に向かい、バイパスらしき高い橋桁を潜り池に。八幡池とある。谷津の一部を堰止め雨水や湧水を貯めた池のようである。元禄11年(1698)には記録に残るので歴史は古い。昭和10年頃までは「八幡堰」と呼ばれていたようである。
八幡池の由来は、近くにある大木戸八幡からだろう。この辺りは千葉市緑区大木戸町となる。大木戸の地名の由来は、この地は立山城、大椎城、土気城などへの要衝であり、立山城への木戸(城戸)であったことによる、と。秀吉による天正19年(1591)の人掃令(戸口調査)の折り、この地が木戸跡ということで大木戸との地名がついたと伝わる。この八幡池の地名も大木戸町木戸脇とのこと。その他、大門といった地名も残る、とか。

大木戸八幡;午後2時3分
池脇の階段を上ると立派なバイパスが通るが、すぐ先の農道で道が切れている。この道も大木戸とその西の越智町に開かれたニュータウンを結ぼうとしているのだろ、か。バイパスの端を止めている農道を左に進むと道脇に「大木戸八幡」の案内。
参道入口には文化12年(1815)に建てられた鳥居。参道を進み石段を上ると社殿前に御神木。人の参拝を遮るように社殿の目の前に杉の大木が聳えていた。社伝によれば、この社は大椎城の内宮であった、とも。ために、明治後期まではこの地の大木戸村ではなく、大椎村の管理下にあったようである。




「土気小学校第一分校」の石碑;午後2時15分
丘陵を先に進み、趣のある山門の残る日蓮宗の善徳寺にお参りし丘陵から低地へと下ると、道脇に「土気小学校第一分校」の石碑。改称や統合を繰り返し、仔細をメモすることはパスするが、善徳寺や先に訪れた長興寺、これから訪れる常円寺などで開校した土気地区のいくつかの小学校の本校や分校であるが、昭和44年(1969)の土気町の千葉市への合併に伴い、この地にあり廃校になった分校跡である。

常円寺;午後2時20分
丘陵に挟まれた谷津田を蛇行する村田川に沿って進む。しばらく進むと道脇に常円寺と天満神社の石塔が並んで迎える。神仏混淆の名残ではあろう。
参道を進み階段を上る。手前に誠に素朴な社とその奥にこれもトタン屋根の素朴な本堂。本堂にお参り。創建年代は不詳。もとは土気の真言宗極楽法寺(現在の善勝寺)の末寺であった、とか。場所もこの地ではなかったようだ。その後長享2年(1488)に法華宗に。昭和16年(1941)には日蓮宗となっている。本堂は享保16年(1731)に建立され、そのときこの地に移った、と。
○佐々木道誉
寺の裏手に五輪塔があるとのことだが、それは佐々木道誉ゆかりのもの。婆娑羅大名として知られ、足利尊氏の室町幕府設立の立役者として名高い道誉がこの地に名残を残すのは、出羽配流の途中、この地に留まったことによる、とか。比叡の山門に打撃を与えるべく門跡御所を焼き討ち。朝廷からの出羽国配流の命に対し幕府は拒否し、この地に留めた、と。とはいうものの、上総って道誉が守護の地。であれば、自領に一時謹慎しただけというのが正確、かも。実際、配流とは程遠い派手な行列で上総まで入り、翌年にはあっさり幕政に復帰している。

天満神社;午後2時30分
本堂にお参りし、石段を上がったところにある社に。天満神社と思っていたのだが、この社は子安神社であった。天満神社はその脇の参道というか山道を結構上ったところにあった。歴史は古く、菅原道真の御真筆の巻物が伝わる、とか。300有余年の歴史をもつ社であるが、江戸の頃には山津波で流失、再建された社も明治に焼失。現在の本殿は昭和31年(1956)に建て替えられたものである。




大橋;午後2時42分
丘陵西南端で丘陵に接近村田川に架かる大橋を見やり、丘陵裾を蛇行する村田川に沿って進む。地区は緑区越智町に入っている。越智の由来は伊予から越智氏が移住し土着したとの説などがあるも不詳。依然左右に丘陵が連なる道筋に、一瞬右手が開け水路が村田川に合わさる。地図を見ると大藪池という池があった。越智はなみずき台団地の調整池とのこと。調整池の北には湧水地があり、大釜・小釜と呼ばれる自噴湧水は2mほどの水深がある、とか。湧水と大藪池は水路で結ばれているようである。

千葉外環有料道路;午後3時5分
大藪池からの水路との合流点を越え、道脇の越智ポンプを見やり先に進むと「高本渓橋」を渡る。村田川をクロスするのは久しぶり。丘陵裾を進むと先に高い橋桁が見えてきた。千葉外環有料道路である。宅地開発で削られた台地も、この辺りではしばしその開発の波から逃れ、左右の丘陵周辺も自然が残る。外環を越えた先は一直線の谷津田。誠に美しい景観が広がる。谷津の中を突き切る農道を進むと道は丘陵へと上る。

川崎橋;午後3時52分
坂を上り森の中のヘアピンカーブといった道を進むと前方が開け、畑地の間に農家が点在する丘陵地帯を辿り、丘陵地帯を抜け車道に下りる。車道を北に向かい村田川筋に。この辺りまで来ると村田川も都市河川の趣を呈する。村田川に架かる川崎橋に。下流は川幅も広く、両岸には遊歩道を兼ねたような段丘面が整備されている。川崎橋で少し休憩し、瀬又交差点を北に新瀬又橋に。橋の辺りに瀬又川が南から合流する。



押沼神社(以下記録取れず)
遊歩道に沿って村田川を進む。長かった「ちはら台駅」もやっと近づいてきた。川に沿って進みながら地図を見ると、川から少し離れた県道130号に沿っていくつかの社がある。どういったものか不明であるが、押沼神社とか山王大権現という社名に惹かれてちょっと寄り道。川筋から離れ、成り行きで県道130号の少し南にある押沼神社に。
道から石段を上りお参り。祭神は日本武尊。社自体はささやかなものではあるが、往昔、この辺りに押沼城と呼ばれる土気城酒井氏の出城があったようである。社名は社のある市原市押沼から。既に市原市に入っていた。

山王大権現
県道130号を西に進み、道の北側に山王大権現。鳥居をくぐり、参道を進み石段の上にある社殿は一風変わった構え。鳥居の扁額は「山王大権現」であるが、鳥居奉賛碑には「番場神社」とある。番場神社はこの辺りの地名市原市番場から。
山王大権現は神仏習合を明確に示す命名。伝教大師・最澄が比叡山に天台宗を開いき、法華護持の神祇として山王祠をつくる。山王祠は最澄が留学修行した中国天台山・山王祠を模したもの。権現は仏が神という仮(権)の姿で現れている、という意味。つまりは、山王祠の仏さまが神々という仮 の姿で現れ、衆生済度するということ。

新橋
山王大権現を離れ地図を見ると、県道130号を少し南に下ったところに永久寺というお寺さまが見える。赤く塗られた六脚門をもつ日蓮宗のこのお寺さまにお参りし、再び村田川筋へと向かう。お寺の先から村田川筋まで水田が広がる。田圃の畦道といった小径を成り行きで進み川傍に。対岸は予想と異なり豊かな自然が広がる。「まきぞの自然公園」と呼ばれ、上総国分寺の創建瓦を焼いた「川焼瓦窯跡」が残る、と言う。また、自噴水のあるホタルの里と称されるエリアもあるようだ。その先には大きなショッピングモールが見えてきた。京成千原線へとモールの先の新橋を渡る。

大宮神社
ちはら台駅に行く道の途中、行光寺が地図にある。境内も広いので、ちょっと寄り道。ちはら台駅手前の大通りを左に折れ、入り口を探す。が、どうしてもみつからず、あれこれしているうちに大宮神社の境内に入ってしまった。
社殿はニュータウン開発の近くによくある社と同じく社殿が新しくなっている。また、このニュータウン開発のときに旧石器時代の遺跡や古墳時代の古墳が神社周辺から数多く発掘されている。その数竪穴住居跡はおよそ4000、古墳も170基に及ぶと言う。その後もヤマト朝廷の勢力が村田川を遡り、古墳時代より栄えたこの地にまで及び、奈良時代にはさきほどメモした川焼瓦窯跡や押沼遺跡群における製鉄などが行われていたとのことである。

京成千原線・ちはら台駅
大宮神社を離れ行光寺の入口を探す。と、大宮神社の東の台地下に寺院の屋根が見えた。再び下の道まで戻る元気はなく、ブッシュの中を寺の屋根を目安に台地を下ると境内へと続く細路に出合い、崖を下って境内に。結構大きな本堂にお参りし、再び崖を上り返しちはら台駅に。長かった散歩を終えて一路家路へと。距離24キロ弱、時間6時間強といった散歩となった。
上総の国府が市原にあった、といったことは文言では知っているものの、いまひとつリアリティがなかったの。偶然ではあるが村田川を歩くことになり、川沿いに築かれたいくつもの城郭、千葉氏の発祥の地でもあった大椎・土気、更には古墳群や瓦窯跡、たたら製造の跡地などのことを知り、この辺りが古くより開けていたということが少し実感をもってとらえられるようになってきた。もう少し村田川流域のことを歩き、往昔のこの地の姿を想えるようにしたいと思う。
利根運河散歩をきっかけに数回に渡って辿った柏、流山の谷津や小金牧、流山の旧市街の散歩もおおよそ気になる事跡はカバーし終え、やっと野田へと足を運ぶこととなった。みりんで栄えた流山旧市街は今では静かな街並みが残るだけであったが、醤油と言えば野田と言われるその街並みが如何なるものか、実際に訪れてみると、野田市街はいわく言い難い町ではあった。古い街並みが続くわけでもなく、かと言って、雑とした街並みでもなく、歴史を感じる醤油工場の広いプラントと民家、そしてその中に旧家が同居する、他の町では感じたことのない雰囲気を醸す町であった。

旧市街を彷徨うも、結局は醤油にかかわる事跡を辿った、との思いしか残ってなく、それでも、何か見落とし、時空散歩につながる深堀りのきっかけを求めながら散歩のメモをはじめる。

本日のコース:東武野田線野田市駅>有吉町通り>野田町駅跡>茂木本家美術館>文化通り>茂木佐公園金福宝龍金寶殿本社>野田市郷土博物館>茂木佐邸>本町通り>興風会館>須賀神社>堤>県道松戸野田線>下河岸桝田家住宅>江戸川>報恩寺>上河岸戸邊右衛門家住宅>高梨本家上花輪歴史館>上花輪香取神社>本町通り>奥富歯科医院>株式会社千秋社社屋>旧野田醤油株式会社本店初代正門>野田市立中央小学校校舎>キノエネ醤油株式界社本社社屋および工場群>愛宕神社>浪漫通り>キッコーマン稲荷蔵>茂木七左衛門邸および煉瓦塀>弁天通り>茂木七郎治邸>キッコーマン給水所>厳島神社弁財天>駐輪場>野田野田線野田市駅

東武野田線・野田市駅
通いなれたるつくばエクスプレス&東武野田線に乗り東武野田線・野田市駅に。駅を下りると駅前ロータリーの向かいには巨大なプラントとその入門ゲート。キッコーマン野田工場とある。右手もテニスコートの先にはプラント、駅の裏手もプラント。キッコーマン食品の工場とある。醸造所との言葉とは程遠い巨大なプラントに囲まれた、とはいいながら工場特有の喧騒とは程遠く、また駅前商店街といったものもなく、少々さびれた感じの街並みが、他の町では感じたことのない野田の第一印象であった。
振り返り駅舎を見やる。昭和の名残を残すレトロな雰囲気が、いい。この駅舎は昭和4年(1911)に建築され、昭和61年(1986)には鉄組みを残し、全面的に改装された、とのことだが、それでも建築当時の面影を今に伝える。

野田町駅跡・有吉町通り
駅を下りるも、野田散歩のきっかけとなるものは何もない。例のごとく、とりあえず郷土資料館を訪れ、なんらかの資料を手に入れることに。工場の間を通る県道46号を道なりに進む。県道46号は野田と牛久を結ぶが、利根川のあたりで一時道筋が無くなるという。
散歩をするまで、県道や国道で途中道筋がなくなるなど考えてもみなかったのだが、時としてそのような道に出合う。印象に残るのは、都道184号。都下日の出町の平井川に沿って北に上り、途中道筋がきえるのだが、御岳山から日の出山へと辿る尾根道に都道184号とあった。御嶽の集落に都道の表示もあり、馬の背の尾根道に道を通す計画があったのだろうか。御嶽の集落から先の道筋は確認できなかた。

野田町駅跡・有吉町通り
県道を進むとほどなく道脇に「野田町駅跡・有吉町通り」。案内によると、「明治44年(1911)、野田・柏間に県営軽便鉄道が開通。そのころの野田町駅があったところである。また、当時の千葉県知事・有吉忠一氏の功績をたたえて新設の駅前通りを有吉町と命名した」とある。
野田に鉄道敷設の気運が出てきたのは、明治10年代のことと言われる。野田と国鉄・常磐線柏駅を結び、野田の醤油を鉄路を通じて東京や各地へ運ばんとした。しかし、従来の江戸川を使った、舟運業者との関係からその計画は進まず、結局千葉県営軽便鉄道として野田~柏間が開通したのは30年後の明治44年(1911)。建設費は全額を県債とし,野田の醤油醸造者による野田醤油組合が引き受けた。この時の千葉県知事が有吉忠一氏であり、駅がこの地に建設された。

大正11年(1922)には、野田醤油醸造組合が民間払下げ運動を起こして県から譲り受け、野田・柏間の路線を継承し、併せて柏・船橋間を開くべく北総鉄道株式会社を設立。昭和4年(1929)には愛宕、清水公園の両駅を新設、社名も総武鉄道株式会社と変更した。
先ほど下りた野田市駅は、この総武鉄道の拠点駅として建設された。単なる駅舎だけでなく、本社機能もそなえたものであり、結構大きな規模の駅舎が建設されたようである。この時に旅客業務は野田市駅へと移管されたが、貨物業務は昭和61年(1986)まで行っていたとのことである。
総武鉄道は昭和5年(1930)には大宮~船橋間の全線(62.7キロメートル)が開通。昭和19年(1944)、総武鉄道は国策により東武鉄道に合併され現在に至る。先ほど醤油プラントに囲まれたところに駅がある、とメモしたが、よくよく考えれば、そもそもが、鉄道は醤油輸送を目的として作られたわけであるから、当たり前と言えば当たり前のことではあった。

茂木本家美術館
県道を少し進み、右手に折れて野田市郷土博物館へと向かう。北に進むと「茂木本家美術館」があった。茂木本家十二代当主である茂木七左衞門氏が収集した、葛飾北斎、歌川広重の浮世絵をはじめ、小倉遊亀、梅原龍三郎、横山大観、片岡球子など絵画から彫刻、陶芸などおよそ700点にも及ぶ作品を所蔵する、とのこと。情緒・情感に乏しく、美を愛でる心に欠けるわが身であるので、少々敷居が高いのだが、意を決して美術館に近づくに、予約制とのこと。故なく、ほっとして美術館を離れる。
ところで、野田と言えば醤油、醤油と言えばキッコーマン、キッコーマンと言えば茂木ということは知って入るのだが、茂木本家って?チェックすると、茂木家の始祖であり真木しげに遡る。夫の真木氏が大坂夏の陣に西軍に与し自刃を遂げたため、妻のしげが野田に逃れ来た、と言う。名も真木から茂木と改め、しげの子が茂木家の初代当主茂木七左衞門となった。本家と称する所以は、時をへて茂木家が茂木佐平治家、茂木七郎右衛門家、茂木勇右衛門家、茂木啓三郎家、茂木房五郎家といった分家ができたため、本家と称するのだろう。

茂木佐公園・金寶殿本社・手水舎

野田本家美術館脇の道を北に進む。前方に緑の森が見えてきた。郷土博物館はそのあたりであろうと先に進む。道の右手に郷土博物館らしき建物があるのだが、左手に公園があり、そこに建つ社殿がなんとなく、いい。郷土博物館を後回しにし、先に社殿に向かう。
公園内の鳥居脇に手水舎があり、この造作も、いい。社殿に向かいお参りし、脇にある案内を読む。「茂木佐平治家の稲荷神と竜神を祀るための、立川流大工・佐藤里次則壮による総欅造りの大唐破風の社寺建築(大正3年)。鳥居脇にある手水舎も豪華な大唐破風造りとなっていて、たいへん珍しい神社。堂には十六羅漢や花鳥魚類や十二支と見事な彫刻や錺(かざり)金物が約150点施されており、江戸から大正にかけての伝統的職人技が花びらいた近在屈指の建造物である。大正15年より、遊楽園内のよろこび教会釈尊堂として使用されたが、平成17年に元に戻された」、とあった。

茂木佐平治家とは茂木家の分家のひとつ。野田の醤油醸造は1661年(寛文元年)に上花輪村名主であった髙梨兵左衛門が醤油醸造を開始。その翌年(1662年) に茂木佐平治が味噌製造を開始した、とされる。茂木家はその後醤油製造も手がけ、 1800年代中頃には、髙梨兵左衛門家と茂木佐平治家の醤油が幕府御用醤油の指定を受けた、とか。ところで、キッコーマンの商標はこの茂木佐家の商標である。大正6年、高梨家、流山で関東白味醂を生産していた堀切家と、 茂木本家をはじめとする茂木家六家が大同団結して野田醤油株式会社を設立し、合併当初は各家の商標をつけた醤油を併売してたが、 やがて当時もっとも人気の高かった茂木佐家のキッコーマンの商標に統一することになった、とのことである。1877(明治10)年に開催された「第1回内国勧業博覧会」で、茂木佐平治家が「亀甲万印」の醤油で賞を獲得するなど、「亀甲万印」のブランドが一番知られていたのであろう、か。

野田市郷土博物館

公園から郷土博物館に向かう。博物館は元の茂木佐平治邸、現在は市に寄贈され市民会館となっている旧家邸内にある。公園脇に蔵に囲まれた通用門の周囲の塀の赤はベンガラ塗り。インドのベンガル地方産の赤い顔料であり、格式の高い屋敷に使われる。通用門から入ると、玄関はいかにも市民の集会所入口といった雰囲気。
塀にそって南に下り、左に折れて表門より邸内に入る。この立派な表門・薬医門は、かつては特別のゲストや行事のときだけ開けられたもの、と言う。薬医門の名前の由来は、矢の攻撃を食い止める=矢食い、とも、医師の屋敷門であるから、とも。建物は国登録有形文化財、国登録記念物に指定されている。
門を入ると邸内左手に野田市郷土博物館があった。設計は日本武道館などを設計した山田守氏。昭和34年に建設された。1階は「野田の歴史と民俗」の展示。野田貝塚・山崎貝塚や三ツ堀遺跡の土器、東深井古墳群の埴輪など、市内を中心に東葛飾地方から出土した考古遺物、野田人車鉄道に関する資料、樽職人の道具、そして昭和初期の童謡作曲家・山中直治などが展示されている。2階は「野田と醤油づくり」とのテーマで醤油醸造に関する資料が展示されていた。
郷土博物館で気になったことは、江戸の頃醤油を江戸に運んだ江戸川の上河岸と下河岸、野田人車鉄道、そして山中直治氏。上河岸と下河岸には、市内彷徨を後回しに、まずはその地に向かうことにするとして、野田人車鉄道、そして山中直治氏についてチェック。野田人車鉄道とは明治33年(1900)に野田鉄道が開通すると、大正2年(1913)には人車鉄道は野田町駅へと路線を延長。大正6年(1917)、野田醤油醸造組合が合同し野田醤油株式会社(現キッコーマン)が設立されたときは、人車鉄道は同社の運輸部門となるも、大正12年(1923)の関東大震災を契機に鉄道輸送がトラック輸送にシフトし、大正15年(1926)にはその営業を停止した。

山中直治氏は野田出身の童謡作家。童謡「かごめかごめ」を全国に広めた人としても知られる。全国に広めた、という意味合いは、童謡「かごめかごめ」は歌詞を変えながら全国で歌われていたのではあるが、昭和8年頃、山中氏が野田地方で歌われていたこの童謡を採譜し、楽譜にして広島高等師範学校(現在の広島大学)発行の『日本童謡民謡教集』に紹介。これが契機となり昭和38年に岩波文庫から『わらべうた』で野田で歌われている童謡として知られていった、ということだろう。

「かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀と滑った 後ろの正面だあれ?」。これが昭和8年頃、野田地方で歌われていた歌詞。童謡自体は江戸の文献にも残るが、歌詞はそれぞれ異なる。特に「鶴と亀と滑った」「後ろの正面」という表現は明治以前には確認されていないようだ。意味も各人が各様に解釈している。深読みもそれなりに面白いのだけれど、単なる「語呂合わせ」や「リズム合わせ」「ことばの連想遊び」程度との話がなんとなく落ちつく。「囲め」が「籠目」に。「籠」から鳥を連想。鳥と言えば「鶴」。鶴といえば「亀」でしょう。「鶴」からつるっと「滑る」を連想。鳥が鳴くのは「夜明け」。「夜明けから逆の「晩」を連想。かくのごとく、こともたちが口調次第で自由に語り継いでいったのではないだろう、か。

茂木佐邸

郷土博物館を出て邸内茂木佐邸・茂木佐平治氏のお屋敷に向かう。正面破風造りの正面玄関からお屋敷に足を踏み入れる。大正13年、当時の贅をつくしたと伝わるお屋敷を一巡。10もあるこの和室のどこかで吉永小百合さんのシャープAQUOSのテレビコマーシャルの撮影が行われた、とか。長い廊下から眺める庭園も誠に、いい。先ほど訪れた茂木佐公園も含めた一帯が茂木佐平治氏の敷地であり、市立中央小学校の辺りには茂木佐家の醤油醸造所があった、とか。茂木佐公園は大正の頃に一般に公開されたが、屋敷は昭和31年(1956年)市に寄贈され、同年一般公開されるようになった。

興風会館

茂木佐邸を離れ、江戸川の河岸へと向かう。西に向かい、県道17号・流山街道へと向かう。途中道の左手に琴平神社がある。二代目茂木七郎右衛門が讃岐の金毘羅神宮をこの地に勧請した、と。現在は一般公開されていない、と言う。
流山街道、野田市内では本町通りと呼ばれているようだが、その通りを南に下り県道46号と交差する野田下町交差点を目指す。道の左手にキッコーマン本社を見やりながら進むと、近代的な本社ビルの脇に、レトロなビルがある。昭和4年に竣工の「興風会館」である。ロマネスクを加味したルネサンス風の建物は竣工当時、千葉県庁に次ぐ大建築であった、とか。国登録有形文化財に指定されている。
興風会とは野田醤油株式会社が社会教育事業推進の目的で昭和3年(1928)に設立された財団法人。「興風会」は「民風作興」から。このフレーズは昭和初期に流行った言葉のようで、ライオン宰相・浜口雄幸もその随想録の中で「最後に言はしめよ。現代の青年は余りに多く趣味道楽に耽って居るのではあるまいか。之が果たして其の人を成功に導く所以であるか、之が果たして民風を作興する所以であるか」と述べる。意味するところは「一般庶民が風を起こし、町を作る」といったところである。
興風会設立の背景には、歴史に残る「野田労働争議」がある、とも。興風会が設立された昭和3年(1928)は、大正11年(1922)から連続的に起こった野田の醤油醸造所での労働争議が和解された年でもある。樽の加工をおこなう樽工170名が樽棟梁によるピンハネの撤廃を要求しおこなったストライキに端を発し、翌年には全工員が参加する大ストライキに発展。一時終息するも、再燃。会社側による暴力事件も頻発した、とか。結局は昭和3年(1928)争議団長による天皇直訴事件を契機に和解に至った、とか。

須賀神社

興風会会館の向かい、野田下町交差点脇に須賀神社がある。土蔵造りの社に惹かれてちょっと立ち寄り。境内に猿田彦の像が建つ。文政6年(1823)造立の丸彫立像。猿田彦は、天津彦火瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が高天原から日向に天孫降臨降臨するに際して、高千穂まで道案内したという記紀神話の神。そのゆえに「導きの神」「道開きの神」とされる。道祖神や庚申信仰と結びつく所以である。
通常須賀神社の祭神は牛頭天王とか、素戔嗚命、と言っても、神仏習合で牛頭天王=素戔嗚命ではあり、同じ神であり仏ではあるのだが、この社の祭神は誰だろう。チェックし忘れてしまった。

市道の碑

野田市下町交差点から、成り行きで上花輪地区を南へと下り下河岸跡へと向かう。花輪って美しい言葉と思い由来をチェックすると、「土地の出っ張り。末端」の意味とのこと。「端+回(曲)」が転化したものだろう。端は文字通り、回(曲)は、「山裾・川・海岸などの曲がりくねった辺り」を意味する。
南へ進むと東福寺の脇道に出た。そこを少し進むと台地端となり、台地下には低地が広がり、そこに県道5号が走る。台地端の道脇に「市道」の碑。案内によると、「現在市道の土手と知られているこの道は、かつて土手下にあり、その頃道の両側には和野菜の市がたっていたことから市道と呼ばれるようになった。昭和のはじめ鹿島原(注;野田市駅の東辺り)から大量の土砂が運ばれ土手が築かれたため、旧道はその下に埋もれ野菜市も行われなくなったが、花輪道が今では市道といわれるようになった」とある。
利根川水系江戸川 浸水想定区域図(国土交通省関東地方整備局 江戸川河川事務所)を見ると、土手下あたりは洪水時2mから5mの浸水予想。その南は5m以上の浸水予想。土手の東側は0.5m未満と表示されていた。洪水予防のため高い土手を築いたのであろう、か。単なる妄想。根拠なし。

下河岸桝田家住宅

土手道のはじまるところに甲子講(きのえねこう)の石塔。甲子の日に集う民間信仰で大黒講、とも。お参りを済ませ、土手道下にキッコーマンの工場を見下ろしながら進む。土手道は緩やかな坂道となっており、下り切ったあたりで県道5号に当たる。交差点を渡り、江戸川堤防手前の下河岸桝田家住宅に。国登録有形文化財に指定されている。周囲に人家のない江戸川の堤防下にぽつんと一軒家が建つ。下河岸の船積問屋であった桝田仁左衛門家である。明治4年に建てられたたもの。1階が帳場、2階が船宿であった、とか。標識に桝田とあり、現在もお住まいのようである。



家の前には洪水除けの煉瓦塀が残る。江戸川に堤防は大正と昭和の二度にわたって築かれた。第一回は大正3年(1914)。底幅も高さも現在の半分ほどであった、と言う。二度目は昭和30年代。昭和22年のキャサリン台風の被害がきっかけで大規模改修工事が実施され、現在の姿になった、と言う。
千葉県立関宿城博物館所蔵の『回漕問屋開業広告』、枡田家がつくった広告パンフレットには江戸川に面した船積問屋・枡田家が描かれている。堤もない江戸川には高瀬舟や蒸気船・通運丸も浮かぶ。この下河岸が通運丸の発着所でもあったようだ。往昔、野田の醤油醸造所から馬車や人車で運ばれた醤油が江戸川を下り、江戸や上州に向かったのであろう。また、醤油の原料となる大豆は常陸、下総から、小麦は相模から、そして塩は赤穂など十州塩田(瀬戸内10カ国の塩田)から運ばれ、此の地で荷揚げされた。
下河岸は上河岸に対してつけられた名称であり、船積問屋の主人の名をとり「仁左衛門河岸」とも、地名をとり「今上河岸」とも呼ばれたようである。

報恩寺

下河岸跡を離れ、江戸川の堤を北に辿り、野田橋の近くにある上河岸跡へと向かう。堤防に東には醤油プラントが続く。かつてはこの辺りに宮内庁に納める醤油をつくる御用蔵があったようだが、現在は駅前のプラント内に移された、と。
堤を歩きながらiphoneをチェックすると堤下の緑の中に浄水池らしきものが見える。市の浄水場かと思ったのだが、キッコーマンの排水浄化装置のようである。
水に惹かれ、堤防を下り、成り行きで森の中に入る。行き止まりを恐れながらも進むと、前方が開け、そこにお寺さまがあった。道なりに四国八十八カ所霊場が祀られており、弘法大師がご本尊。山号も大師山報恩寺となっていた。このお寺様、もともとは此の地の北、野田市堤台にあり、堤台八幡神社の別当として、江戸の頃は末寺二十四ヶ寺をもち、幕府より朱印状を与えられた寺格であったようだが、明治の廃仏毀釈の時、この地に写った。

上河岸戸邊五右衛門家住宅

報恩寺を離れ,工場プラントの塀に沿って、ぐるっと周り県道19号に。野田橋下交差点を越えたすぐ先に、県道から左斜めに堤防方面に向かう道がある。平成食品工業というキッコーマンのグループ会社を左手に見ながら進むと趣のある邸宅があった。そこが上河岸戸邊五右衛門家住宅。上河岸(五右衛門河岸)の船積問屋跡である。この屋敷も国登録有形文化財に指定されている。
上河岸(五右衛門河岸)の船積問屋跡は現在も個人のお宅であり、塀の外から主屋や重厚な土蔵を眺める、のみ。このお屋敷は昭和の江戸川改修に伴い現在の地に曳き屋した、とのこと。地名ゆえに、中野台河岸とも呼ばれる。

高梨本家上花輪歴史館

上・下河岸を見終え、それなりに昔を偲び旧市街へと戻る。途中、上花輪にある高梨本家上花輪歴史館に訪れることに。成り行きで県道5号まで戻り、キッコーマンのプラントを左手に見ながら、下河岸桝田家住宅近くの交差点まで戻る。そこを先ほど下りてきた緩やかな土手道を上り、途中左手に折れ、国名勝のけやき並木が並ぶ公園を左手に見ながら進むと高梨本家上花輪歴史館。
国指定名勝に指定されている歴史館は、残念ながら改修工事かなにかで、邸内に入ることはできなかったが、この歴史館は江戸時代に上花輪村の名主で醤油醸造を家業として
いた高梨兵左衛門家(高梨本家)の居宅。中には醤
油醸造の道具類の展示と広壮な庭園の散歩と、贅沢な
座敷が見られる、とか。

野田における醤油生産の歴史は、戦国時代も末期の永禄年間、飯田市郎兵衛という人物がたまり醤油を製造、甲斐の武田氏に献上したことに遡る。たまり醤油って、鎌倉時代に和歌山県の湯浅で, 味噌の桶に溜まった汁(たまり)を調味料として作り出したのが最初とされる。味噌から分離された液体が「たまり醤油」と言うことだろう。江戸時代の初め頃までは 近畿地方と四国の讃岐などから たまり醤油が関東へと「下って」きていたのだが、如何せん、 たまり醤油は製造から出荷まで3年程の長期間かかり, 需要に追いつかず, 関東では 銚子・野田などで1年で製造できる「濃口醤油」が, 関西では 兵庫県(たつの)で「薄口醤油」が 開発されることになった。
濃口、薄口って、味の違いかと思っていたのだが、濃口は本醸造とも呼ばれるように、製法自体がたまり醤油と異なっている。「たまり」はその原料が大豆がほとんどで、極めて少量の小麦を加えるだけであるが、「濃口」って原料は大豆・小麦が50%、塩分16%から20%使い十分に発酵・醸造させた本醸造のこと。野田において最初にこの濃口醤油の製造を開始したのがこの高梨兵左衛門家とのこと。寛文元年(1661)のことである。
ちなみに、醤油の「醤(ひしお)」って食品に塩を混ぜて放置しておくと旨みを出したもの。中国の宋の時代にその製造がはじまった、とか。食品の種類により、草醤(くさびしお=漬物に発展)、肉醤(にくびしお)、魚醤(うおびしお=塩辛といったもの)、穀醤(こくびしお)に分けられる。このうち、穀醤が味噌となり、醤油となったようだ。

上花輪香取神社

歴史館の次は、須賀神社のあった野田市下町交差点まで戻り、流山街道・本町通りを北に辿り、時間の許す限り、河岸に直行故に見残していた見どころを訪れることにする。途中香取神社が。何気なく立ち寄るに、銅葺屋根の立派な社殿。社殿の前に門を構え塀が囲む。
社殿の建築棟梁は茂木佐公園の社殿と同じく棟梁佐藤里次。監督は佐藤良吉。昭和8年の『香取神社正遷宮大祭』の写真には人力車に乗り群衆の歓喜の中を進む両名の姿があり、歴史が少々のリアリティをもって現れてくる。社殿を彩る彫刻も立派。彫工は石川三五郎信光の手によると伝わる。石川三五郎は柴又帝釈天や川越・連雀町の蓮馨寺にその名を残す

奥富歯科医院と旧奥富薬局店舗

興風会館を右手に見やり、キッコーマン本社を越えた通りの左に古き趣の家屋がある。この奥富歯科医院と旧奥富薬局店舗は大正から昭和初期に建てられたもの。大正期の出桁造の旧薬局店舗と、昭和初期のモダンな洋館である。




株式会社千秋社社屋
野田市下町交差点まで戻り、奥富歯科医院と旧奥富薬局店舗の通りの反対側に陸屋根(傾斜のない平面の屋根。平屋根とも)、鉄筋2階建ての建物。大正15年(1926)に建てられ旧野田商誘銀行として使われていた。野田商誘銀行は野田醤油醸造組合の発起により明治33年(1900)に設立された。「商誘」の名称は 、醤油の語呂にちなんで名付けられた。野田商誘銀行は、太平洋戦争中の金融統制に より、千葉銀行に合同され、昭和45年まで千葉銀行野田支店として使用されていたが、その後キッコーマン系列の千秋社の所有とな っている。
千秋社は大正6年、野田の醤油醸造業者が合同し設立した野田醤油株式会社を支援する経営者団体として組織されたもの。興風会館でメモした、財団法人興風会も千秋社の寄付により設立されたものであり、現在キッコーマン株式会社の株の3.1%を所有し、主要株主となっている。

旧野田醤油株式会社本店初代正門
株式会社千秋社社屋脇の道を少し入ると旧野田醤油株式会社本店初代正門が残る。キッコーマンの初代正門と言うことだ。土蔵と塀に挟まれた門の向こうはキッコーマンの敷地のようで、通り抜けはできない。





野田市立中央小学校校舎
流山街道・本町通りに戻り、北に進むと、通りの右手に野田市立中央小学校の門柱。門柱の脇には煉瓦造りの塀が残る。門柱から中を見るに、民屋や商家らしきものがあり、ちょっと奇妙な感じではある。
野田市立中央小学校校舎はその奥にある。昭和3年(1928)から7年(1932)の頃建てられた校舎は当時珍しい鉄筋コンクリー3階建。外観のレリーフや校庭側のテラスがモダンな造りとなっている。





ノエネ醤油株式会社本社社屋および工場群

通りを更に北に進み、京葉銀行野田支店を左に折れキノエネ醤油株式界社本社社屋および工場群に向かう。左に折れる手前に「野田醤油発祥の地」があったようだが、見逃した。上でメモしたように戦国時代も末期の永禄年間、飯田市郎兵衛がこの地ではじめて「たまり醤油」を製造したところではあろう。
先に進むと落ち着いた佇まいの中、黒板塀に
囲まれた醸造所が見える。天保元年(1830)の創業、野田を代表する醤油工場の一つキノエネ醤油である。本社社屋は明治30年、鉄筋コンクリート造りの作業場は大正10年(1921)築とのことである。大正6年(1917)の野田の醤油醸造者の大同団結にも加わらず、独自路線を貫いた、と言われるだけで、なんとなく全体が有難く感じる。
ちなみに、このキノエネ醤油は映画監督小津安二郎氏と深い関係にある。小津安二郎監督の妹さんが山下家に嫁いだ関係から、戦時下、小津監督の母親が野田に疎開。監督も戦地より引き揚げてから鎌倉に住むまでの6年間野田に住んだ。といっても、ほとんど大船の撮影所に泊まり込みであったたようではある。

愛宕神社
流山街道・本町通りに戻り、少し北に進むと愛宕神社前交差点。野田の総鎮守で、創建は延長元年(923)と伝えられ、雷神を祀り、防火を司る迦具士命を祭神とする。現在の権現造り・木造銅版葺様式の社殿は、文政7年(1824)に再建されたもので、社殿彫刻は左甚五郎を祖とし、そこから10代目の名工二代目石原常八の手になるもの。石原常八の出身地、群馬県の花輪村は「匠の里」と呼ばれ、隣の上田沢村とともに彫刻師の一派があり、上州の左甚五郎と呼ばれる関口文治郎などの名工を生み出した。
これほどの匠を招くには茂木家の力も大きくあったのではなかろうか。愛宕神社の東には茂木房五郎氏の邸宅があったとのことだし(現在は一部が割烹料亭に)、一説には愛宕神社に初代茂木房五郎が祀られる、とも。また、愛宕神社の北には、愛宕権現の本地仏である勝軍地蔵尊があるが、この地蔵尊を建立したのは初代茂木啓三郎とのことである。



キッコーマン稲荷蔵
日暮も近い、大急ぎで残りの見どころを辿りながら野田市駅へと向かう。流山街道・本町通りを南に下り、キッコーマン本社北の通りを左折。浪漫通りと呼ばれる道を進むとキッコーマン稲荷蔵。明治41年頃に建てられたもの。黒板塀が美しい。元は茂木七左衛門の仕込蔵であったが、現在は倉庫として使用されている。





茂木七左衛門邸および煉瓦塀
キッコーマン稲荷蔵に続く赤い煉瓦塀は茂木本家・茂木七左衛門邸。邸宅は関東大震災の後、大正15年築。煉瓦塀は明治末期築と言う。設計は上花輪の香取神社や愛宕神社と同じく立川流宮大工の流れをくむ佐藤良吉、建築は佐藤里次則の手になるとのこと。国登録有形文化財に指定されている。





茂木七郎治邸
浪漫通りを文化通りのT字路にあたり、右に折れ、すぐに左に折れると弁天通り。通りの左手に一見すると農家かと見まがう古いお屋敷。門札に茂木とありチェックすると茂木家の分家のひとつである茂木七郎治邸であった。安政7年(1854)頃に建てられた野田市内最古の木造住宅とのこと。地主農家としての長屋門と金融業としての帳場を併せ持つのが特徴、とあった。




キッコーマン第一給水所
通りの右側にはキッコーマン第一給水所。大正12年(1923)から昭和50年(1975)頃まで工場および地域住民に供給された。通水までには苦労があったようで、大正10年(1921)の地下水汲み上げのための第一号削井工事では予定の水量が確保できず、第二号削井工事で予定水量の目途がたち、水道施設工事をおこない、通水、各戸給水の追加工事に着手。上記のごとく大正12年には給水をはじめ、昭和50年に野田市に移管されるまで企業が水道事業を行っていた、とのことである。なお、昔はこの地に給水塔があったようだが、老朽化のため耐震基準をみたせず取り壊しとなった。
それにしても、この給水所=水道だけでなく、銀行、病院(養生所から発展)、学校(中央小学校はキッコーマンの寄贈)、そして鉄道など、醤油会社が社会インフラの整備を行政に代わりおこなっているわけであり、企業経営上の合理性とは言うものの、その財力に少々の驚きを感じる。

厳島神社
弁天通りを進み、野田市駅へと右折するところにちょっとした緑の森が見える。中に入ると厳島神社が祀られていた。この社は安永7年(1778)創建。「下の弁天さま」と称される。この辺りが下町という地名故の命名であろう。ちなみに、野田市内には古春、柳沢にも弁天さまがあり、野田の三弁天と呼ばれるようである。
社の後ろには弁天社お約束の池。弁天さまはインドの神様で、河を守る水神・農業神であり水辺に鎮座するのが普通である。昔は湧水だった、とか。

東武野田線野田市駅
弁天様の脇道を進むと緩やかなカーブ。自転車置き場となっているこのカーブは工場への引き込み線の跡かとチェックする。上で、野田町駅は昭和4年(1929)に野田市駅が出来たときに旅客業務は市駅に移管されたが、貨物業務は昭和61年(1986)まで続いたとメモした。その引き込み線は市駅の南手前から分岐され、野田市駅第一、第二自転車駐輪場に沿って進み、県道46号に沿って野田町駅に結ばれていた。同じ自転車置き場ではあるが、こちらの自転車置き場ではなかった。それでも、このカーブ、なんとなく怪しい、などと思いながら東武野田線・野田駅に向かい、本日の散歩を終える。

野田散歩は結局醤油醸造に関わる文化遺産を辿る以上のものにはならなかった。日本の醤油消費量の28%ほどを製造するとも言われる野田であれば仕方なしとすべし、か。それと、散歩してはじめて知ったことは、野田は枝豆の主要生産地である、ということ。2002年には全国一の生産量を記録した、とも。醤油の主要原料は大豆であるので、当然か、などと思っていたのだが、野田で枝豆栽培が本格的にはじまったのは、それほど昔でもなく、1960年代に入ってから。もとは自家製の味噌造りのために栽培していた大豆を枝豆生産に切り替えたようである。町には「まめバス」と呼ばれる枝豆由来のコミュニティバスが走り、枝豆を核にした町おこしもはじまっているようである。とはいうものの、結局は大豆=醤油からは離れることはできないようである。

利根運河散歩をきっかけにはじまった流山から野田へと北に辿る散歩も、流山旧市街、そして利根運河の谷津と、二度の散歩になってしまった。基本成りゆき任せの散歩のため、散歩のメモの段となって、はじめて見逃しに気がつくことが多いのだが、今回は特に小金牧に関連した人物や事跡で取りこぼしが多い。ということで、野田へと進む前に、小金牧での新田開発で善政を施した岩見石見守ゆかりの地や野馬除土手、馬の水飲み場、そして明治になって旧幕臣が中心となり進めた小金牧跡の開墾地跡など、気になった事跡をまとめて辿ることにした。

目的の場所も結構バラけている。また、家を出るのも例の如くゆったりとしたものであり、柏駅についた時には既にお昼をはるかに過ぎている。今回は、歩きのみ、という散歩の基本方針を少々「封印」し、見残し・後の祭りを1日で終えるべく、歩きと電車の乗り継ぎを組み合わせることにした。それにしても結構タイトな1日とはなった。



本日の散歩;東武野田線柏駅>東武野田線・豊四季駅>坂川放水路>天形星神社>諏訪神社>東武野田線・豊四季駅>(東武野田線)>東武野田線・流山おおたかの森駅>オランダ観音>東武野田線・流山おおたかの森駅>(つくばエクスプレス)>つくばエクスプレス柏の葉キャンパス駅>厳島神社>こんぶくろ池>常磐道>皇大神社>流通経済大柏高校・野馬除土手>大青田の谷津>円福寺>利根運河>駒形神社>下三ヶ尾谷津>東武野田線・運河駅>オランダさま>東武野田線・江戸川台駅

東武野田線・柏駅
最初の目的地は天形星神社。岩見石見守が祀られる。最寄りの駅は東武野田線・豊四季駅。常磐線・柏駅で東武野田線に乗り換えることになる。JR柏駅の改札を出て東武野田線の改札からホームに入ると、駅はターミナル・終点駅となっており、南の船橋行も、北の大宮行きも柏駅が始発駅である。
地図を見るに、大宮方面からの路線は土浦・水戸など「下り方向」にカーブを描き柏駅のホームに入る。また、船橋からの路線も「下り方向」に向かって柏駅に入る。東武野田線は千葉県船橋から埼玉県大宮を結ぶわけで、何故このような直通運行には不都合な入線仕様となっているのかチェックすると、歴史ゆえの状況が見えてきた。
明治44年(1911)、野田の醤油を常磐線柏駅と結ぶべく千葉県営軽便鉄道が開設された。その時、柏駅には「下り方向」に向かって常磐線と合流させたわけだが、その理由は、駅近くにあった柏競馬場を避けるには「下り方面」へと繋げるのが工費の観点でメリットがあった、とのこと。柏競馬場は現在の豊四季台3丁目と4丁目の豊四季台団地あたりにあったが、昭和27年に廃止された。県営軽便鉄道は、大正10年(1921)、千葉県から払い下げを受け、その路線の継承と同時に船橋と柏間の建設を目的として北総鉄道(現在の北総鉄道とは関係なし)が設立された。完成された柏・船橋間の入線は下り方向に向かって柏駅に入る。野田からの入線が下り方向になっている以上、それに接続させるには路線を西、と言うか北方向から大回りさせる必要があるだろうし、そもそも駅自体が、船橋方面駅が常磐線柏駅の東、野田方面駅が柏駅の西と、常磐線を挟んでサンドイッチといった状況であり、接続させることができない状況であったのか、とも思う。単なる妄想。根拠なし。
その後、大正15年(1926)、野田から東武線粕壁をへて大宮を結ぶ構想がもち上がり、その路線が完成した昭和4年(1929)には北総鉄道を総武鉄道(現在の総武本線とは関係なし)と改称。昭和5年(1930)には別々であった船橋線・野田線の駅を野田線の駅に統合した。
昭和18年(1943)には東武鉄道と合併し、野田線・船橋線という呼称も野田線に一本化し、東武野田線として現在に続いている。東武野田線という如何にも直通路線といった呼称に引っ張られ、何故に柏でのスイッチバックか、とチェックしたのだが、本来別の会社、というか路線(野田線・船橋線)が後になって名称統合された、と言うことであった。
そういえば、西武線の飯能駅もスイッチバックであった。これも、まずは、木材の集散地でもあった飯能と池袋が結ばれ。その後、秩父のセメント輸送のため飯能から吾野へと路線が延ばすに際し、地形故の制約より飯能を始発とした時計逆回り方向への路線を余儀なくされ、スイッチバックの形になったのではあろう。その後飯能をパスした直通路線も検討されたようだが、輸送量が少ない割に飯能が発展してしまっていたため、敢えて短絡直線路線を敷く必要性がなくなっていた、と言うことだった、よう。物事にはそれなりの理由がある、ということではあろう。

東武野田線・豊四季駅
柏駅より豊四季駅に向かう途中、車中でiphoneであれこれ本日のコースをチェックしていると、豊四季駅から南柏駅方面へ少し戻ったところに豊四季稲荷神社があり、そこに「豊四季開拓百年碑」があるとのこと。当初の予定では豊四季駅で下り、最初に岩見石見守が祀られる天形星神社へ、などと思っていたのだが予定変更。少々戻ることにはなるが、稲荷神社へと向かうことに。
豊四季とは小金牧が徳川幕府の崩壊とともにその役割を終えた後、その跡地を開拓地とする計画により開墾された集落の名前に由来する。その時開墾された13の集落名は現在も地名として残る。地名は開拓された順に数字で示され、1番目 初富(はつとみ)(鎌ヶ谷市)-小金牧内・中野牧>2番目 二(ふた)和(わ)(船橋市)-小金牧内・下野牧>3番目 三咲(みさき)(船橋市)-小金牧内・下野牧>4番目 豊(とよ)四季(しき)(柏市)-小金牧内・上野牧>5番目 五(ご)香(こう)(松戸市)-小金牧内・中野牧>6番目 六(むつ)実(み)(松戸市)-小金牧内・中野牧>7番目 七(なな)栄(え)(富里市)-佐倉牧内・内野牧>8番目 八街(やちまた)(八街市)-佐倉牧内・柳沢牧>9番目 九(く)美上(みあげ)(佐原市)-佐倉牧内・油田牧>10番目 十倉(とくら)(富里市)-佐倉牧内・高野牧>11番目 十余一(とよいち)(白井市)-小金牧内・印西牧>12番目 十余二(とよふた)(柏市)-小金牧内・高田台牧>13番目 十余三(とよみ)(成田市)-佐倉牧内・矢作牧。豊四季は四番目に開墾された集落であり、四季を通じて豊かなれ、といった思いを込めた地名となっている。
豊四季駅で下車。駅には南口はないので、北口に下り、線路を跨ぐ通路を通り南口に。豊四季駅南口交差点を柏方面に向かって進む。道は豊四季と野々下の境を進む。野々下は小金野の南下が地名の由来、とか。西に向かって緩やかに下る地形が感じられる。

稲荷神社・豊四季開拓百年記念碑
道なりに進み柏第二小学校脇、稲荷神社前交差点の西に稲荷神社があった。境内の右隅に「公爵岩倉具視報恩碑」、右側に「豊四季開拓百年記念碑」がある。まずは社殿にお参りし、記念碑前に。
「豊四季開拓百年記念碑」は昭和48年に建立されたもの。長文の内容を簡単にまとめると、「明治維新の社会不安、民生の安定のため窮民対策として小金牧・佐倉牧を廃し、東京窮民を開拓農民とする計画が立案された。開墾局を設け、明治2年、三井八郎衛門などを中心とした開墾会社が設立され、開拓地積を1万町と推定し、1万人の入植を計画。募集に応じた東京窮民のうち6461人が入植。入植者は「三年間衣食住は勿論万事世話致し、四年目より自分活計を定め一旦会社請負人と相成、開墾入費を十ケ年の内に会社に返済致候得ば、会社一般独立農夫」となり、其の後自力新開は地主となれる、という文言で開墾に努めた。しかしながら、その労働条件は「会社の管理督励苛酷言語に絶し労働過重心身供に疲弊困憊し脱落逃亡が続出した」との表現が示す通り過酷を極め、「会社は経営よろしきを得ず」、明治5年事業解散するに至る。この時点で開拓農民は半数にまで減っていた、とのこと。
明治6年、開墾事務は県に移管され、出資社員(富民)は土地を得、それも地券面の数倍といった有利なものであったが、一方入植者(力民小作人)に開墾地の所有権もなく、債務処理など会社に対して裁判に訴えるも敗訴の連続。その抗争の間、「住家は雨露を凌ぐまでにて、眷属襤褸を纏い」「畠は枯痩の色を呈し収穫甚だ寥々」「住する者十中二三を余すに過ぎず、その他悉く四方に離散し」「一戸の人煙みざる所あり」といった悲惨な状態であった。このような状況の中でも、この地に残った東京窮民と野付村移民、通い村民たち先人が切り開いた茨の道を偲んでたてられたのがこの石碑である。
維新当時の東京の人口は50万人。そのうち、家禄を失った旧武士階級や都市困窮民は10万人に上った、と言う。社会不安に対する民政安定が焦眉の急であったのだろう。なお、この豊四季は三井八郎衛門の引請地であり、明治2年に122戸478人が入植したが、明治5年までには約半数の50戸が脱落した、と言う。また入植者が開墾土地を自分のものとするのは戦後の農地改革を待ってからであった。
次いで、「公爵岩倉具視報恩碑」に。何故にこの地に岩倉具視?チェックすると、岩倉具視と東京窮民による小金牧開墾地の関係が見えてきた。まずは、そもそもが、民生安定を目的とし開墾計画を発意した元水戸藩士北島秀朝は岩倉具視の知遇を得て幕末・明治維新に活躍した人物。討幕軍司令を務めた岩倉の次男を補佐し実質的軍司令官として活躍。明治維新に入ると、東京府判事として東京を治める立場となり、民生安定のため下総の牧跡の開墾策を提言。下総開墾局知事として開墾事業に関与した。
その開墾会社が解散するに際し、開墾された土地の大部分、719町歩のうち714町歩が三井のものとなり、入植者のもとに所有権がなく、ゆえに長年にわたる裁判沙汰となるわけだが、その裁判を有利に運ぶべく三井はその土地を大隈重信、岩倉具視、青木周蔵といった明治の元勲に譲渡した、と言う。この記念碑はこの地の大地主となった岩倉具視の記念碑といったものだろう。少なくとも開拓農民の感謝の碑とは思えない。

坂川放水口
稲荷神社で次の天形星神社へのルートをiphoneの地図でチェックしていると、豊四季の西、野々下に坂川の川筋がある。ということは最上流点には坂川放水口がある。ついでのことではあるので、坂川放水口に向かうことにする。
野々下はその地名が示すように、豊四季地区のある台地の平坦地から川筋に向かって下ってゆく。坂川の水の恵み故か、室町の頃より開けたという野々下の地は起伏豊か。緩やかな傾斜地を先に進むと低地となり坂川筋に出た。
川の上流端へと進むと放水口近くは親水公園となっている。小川を配した公園を辿ると放水口に到着。放水口は堰といった造りで坂川へと流れ落ちていた。坂川は利根川と江戸川を結ぶ北千葉導水路の一部となっており、坂川放水路とも呼ばれる。水路は印西市木下(きおろし)と我孫子市布佐の境辺りで利根川から取水し、手賀川・手賀沼の南を手賀沼西端まで地下水路で進む。手賀沼西端では、手賀沼に注ぐ大堀川を大堀川注水施設まで川に沿って地下を進み、注水施設からは南へと下り、流山市の野々下水辺公園(野々下2-1-1)にあるこの坂川放水口から坂川に水を注ぐ。地下を流れてきた水路は放水口からは開渠となって江戸川へと下ってゆく。
北千葉導水路の役割は、第一に東京の水不足に対応するため利根川の水を江戸川に「運ぶ」こと。次に、手賀沼の水質汚染を防ぐこと。柏市戸張新田にある第二機場では直接手賀沼に、大堀川注水施設では大堀川の水質改善も兼ねて大堀川経由で手賀沼を浄化する。そして、第三の目的としては、周辺より地盤の低い手賀川や坂川の洪水対策として、あふれた川の水を利根川や江戸川に放水し水量を調節する、といったこと。

いつだったか我孫子から手賀正沼を辿り、手賀川から印西市木下の利根川堤まで歩いたことがあるる。北千葉導水路にはそのとき出合ったのだが、江戸川筋への放水口・放水路に出合えて、誠にうれしい。

天形星神社・岩見大明神
やっと、最初の目的地であった天形星神社(流山市長崎2-57番地)に向かうことに。予定になかった寄り道も、岩倉公記念碑といった思わぬ事跡に出合ったりと、成り行き任せの散歩はやはり、いい。
坂川放水口から成り行きで台地に上る。金乗院を右手に眺め、畑地や宅地の間を長崎地区へと向かうと深い緑の中に天形星神社があった。境内に入り、左手に岩見神社を見やり、まずは本殿にお参り。本殿に限らず幣殿、拝殿、そして岩見神社も結構新しい。説明によると、寛文2年(1662)創建とあるが、このあたりの長崎、野々下は戦国の頃には既に集落が形成されえいたようであり、そうであれば社が祀られたのは更に時代を遡るとも。時を経て荒廃した古き社を昭和62年に改築された、とあった。
境内の岩見神社にお参り。社脇の感恩碑によると、「寛政年間、徳川幕府の房総三牧の野馬方総取締・旗本岩本石見守をお祀りしたお宮。長崎、野々下の両村は小金牧の野付の村として、隣接した牧内に野馬入り新田を開拓することは多年の願であった。この願いを許したのが石見守。寛政六年のこと。この新田は原新田と呼ばれた。林畑であり、秣の育成、松、杉、楢等の植林がなされ、薪、炭の生産も成果を上げ豊かな村となった。
村民一同、石見守の人徳のお陰と感謝の念を深め、報恩の一念から文化九年には「石見大明神」の石碑を建てる。明治初年にはこの碑を御神体として長崎一丁目七四二番地に境内を定め、社を設け、鳥居も建てて代々祭祀を続けたが、昭和62年、天形星神社境内に造営竣工された新社殿に遷座された」、とある。『小金牧を歩く;青木更吉(崙書房出版)』によると、村民の野馬入新田開墾の願いは石見守により、半年もたたず認められ、広さは村の面積に相当し、燃料に困ることもなくなり、馬の飼料も得られえ、また、薪、炭などにより現金収入も手に入り、生活は豊かになった、とのこと。新田開発とは言うものの、それは単に水田開墾だけ、と言うわけではなく、林畑、そこから生まれる薪、炭など、その意味するところは、広範囲なものであったようである。
岩本石見守正倫は、甲斐の国に生まれ、徳川幕府に仕える知行二千石の岩本正利を父とし、長姉お富の方は、一橋中納言治済卿に仕えて、第十一代将軍家斉の生母となる。家斉は将軍職を五十年つとめ、正倫は将軍の信任篤く、要職を経て寛政五年(1793・37歳)に、小金、峯岡、佐倉三牧の取締支配に任ぜられ、以後も栄進を果たす。

ところで、この天形星神社、はじめて出合う神社である。名前に惹かれてチェックする。祭神は素戔嗚命(スサノオのミコト)。この素戔嗚命と天形星との関係であるが、道教というか陰陽道では天形星は牛頭天王と同一視される。仏教の守護神でもある牛頭天王、祇園精舎のガードマンでもあったため「祇園さん」とも呼ばれた牛頭天王であるが、その父は、道教の神であるトウオウフ(東王父) 、母は セイオウボ(西王母)とも見なされたため、牛頭天王はのちには道教において冥界を司る最高神・泰山府君(タイザンフクン)とも同体視される。

泰山府君は、十王信仰(十人の冥界の王が、冥土で亡者の罪を裁くと信じられた)では、十王のひとりである泰山王(タイザンオウ)(閻魔さま) とも同体視されるに至るが、その泰山王・閻魔様の本地仏は薬師如来であり、素戔嗚尊の本地仏も薬師如来。ということで、天形星=牛頭天王=素戔嗚尊、という神仏習合関係が出来上がった、とも。閻魔様=冥界=黄泉の国といえは素戔嗚尊、といったアナロジーもあったのだろう、か。
また、素戔嗚尊は、新羅の曽尸茂利(ソシモリ)という地に居たとする所伝も『日本書紀』に記されている。「ソシモリ」は「ソシマリ」「ソモリ」ともいう韓国語。牛頭または牛首を意味する。素戔嗚尊と新羅との繋がりを意味するのか、素戔嗚尊と牛頭天王とのつながりを強めるためのものなのかよくわからない。が、 素戔嗚尊と牛頭天王はどうあろうと同一視しておこうと、ということなのであろう。
この神社、もとから天形星の社と呼ばれていたのか、牛頭天王の社と呼ばれていたのが定かではないが、ともあれ天形星神社に素戔嗚命が祀られるのはかくのごとき所以からではあろう。

諏訪神社
天形星神社を離れ、北東に続く道を成り行きで辿り県道278号に向かい、県道を進むと東武野田線と交差。線路に沿って右に向かえば豊四季の駅に出るのだが、線路の少し先、道の左手に鬱蒼とした森の中に諏訪神社がある。流山や柏の散歩の折々に、「駒木のお諏訪さま」として登場するため、どんな社かと訪れることにした。
境内に入ると、誠に立派なう社である。木々に覆われた参道を進み随神門をくぐり、本殿にお参り。祭神は健御名方富命(たけみなかたとみのみこと)。広い境内には姫宮神社とか大鳥神社など八つの社が合祀されている。
童謡をテーマにした散歩道などを彷徨い、本殿脇に戻ると騎馬武者の像。源義家とある。奥州での後三年の役を終えた義家が武運のお礼として乗馬と馬具を奉納した、とのこと。奉納の際に鞍を掛けた松の伝説を示す鞍掛け松の碑もあった。
義家の鞍掛け松や腰かけた岩といった伝説は散歩の折々によく出合う。最初はあまり気にもしていなかったのだが、その伝説の跡を見やると、奥州への古道跡を示したり、といったこともあり、伝説も伝説以上の意味をもつこともあるようだ。
本殿の脇には御神水。天保12年(1840)、江戸の文人友田次寛が、その著小金紀行に「神垣の 杉のうつろの 真清水は つきぬ恵みの ためしなるらむ」と描く。「道問へば大根曳いて教えけり」と詠む蕪村碑も残る。

諏訪神社の創建は古く、平安時代のはじめとも、それより古いとも伝わる。大和の国より天武天皇の第一皇子である高市皇子の後裔がこの地に移り、その心の拠り所として信濃の諏訪大社より勧請したのが駒木のお諏訪さまである。移住の理由は、高市皇子の第一皇子である長屋王が、その英明さ故に藤原一門に「睨まれ」、長屋王の乱という陰謀により妻子共に自刃に追い込まれる。そういった一門の危機を避けるべく、大和を離れ、この地に移った、とも。また、諏訪社勧請の理由は、高市皇子の養親が奈良の大神社の祭祀者であり、大神神社の祭神が大国主命。また、高市皇子の母は九州宗像族の出身。宗像族は出雲系の一族であり、出雲族と言えば国ッ神系・大国主命がその代表格。諏訪大社の祭神である健御名方富命は大国主命の子であり、諏訪神社勧請のストーリーは理屈にあっている。
この諏訪神社、由緒ある神社故なのか、兼務社が多く、30近くもある、と言う。今までの散歩で出合った神社のうち、先ほど訪れた天形星神社、豊四季開拓百年記念碑のあった稲荷神社、先日訪れた流山旧市街・加の大杉神社、青田の香取神社、小青田の姫宮神社なども諏訪神社の兼務社であった。そういえば、それらの神社には社務所がなかったように思う。

諏訪道
境内を出て、再び県道278号に。県道278号は流山から諏訪神社まで北東へと上り、諏訪神社の北で右に折れ、東武野田線に沿って柏に向かう。その昔、布施弁天の北、県道47号が利根川を渡る近くにあった布施河岸から流山の加村河岸を結ぶ諏訪道と呼ばれる道があった。もともとは、布施から諏訪神社を結ぶ信仰の道であったようだが、江戸の中期以降は利根川の布施河岸で荷揚げされた物資を江戸川の加村河岸へと運び、そこから江戸川を下り、江戸へと物資を運ぶ道となった。
利根川筋から江戸への物資運搬ルートは、もともとは、利根川を関宿まで上り、そこから江戸川を江戸まで下っていたとのことだが、関宿付近が土砂の堆積で浅瀬となり、冬場の渇水期には船の航行ができなくなったため、この地で陸揚げされた。布施河岸の少し上流には鬼怒川の利根川合流点もあり、北関東の物資も布施河岸を経て江戸へと結ばれた。最盛期の寛政期頃には年間16000駄の荷受け量があったという。
諏訪道は大雑把に言って、布施弁天の北にあった布施河岸から県道47号に沿って南東に下り、大堀川と国道16号が交差する辺りで北南西から北東へと方向を変え、大堀川の北を進み、諏訪神社の北で再び方向を南西に変へ諏訪神社に。諏訪神社からは、おおよそ現在の県道278号に沿って流山に向かう。かつては江戸川には多くの渡しがあったようであり、埼玉との往来も盛んで、諏訪道を通り諏訪神社へと向かう埼玉側からの参拝者も多くいたとのことである。

利根川から江戸川への「バイパス」はこの諏訪道だけでなく、布佐の納屋河岸から松戸を結ぶ「鮮魚街道」、木下(きおろし)から行徳河岸を結ぶ木下街道などがある。木下街道は印旛沼散歩のとき、一部を歩いたのだが、そのうちにこれらのバイパスも歩いてみたい、と思う。ちなみに、諏訪道は、手賀沼・印旛沼名産のうなぎ故に、「うなぎ街道」と呼ばれた、とも。

東武野田線・つくばエクスプレス流山おおたかの森駅
次の目的地は流山おおたかの森駅近くにあるオランダ観音。今回は「歩き&トレイン」ということで、先ほど下車した東武野田線・豊四季駅に向かう。豊四季駅から一駅。駅を下りると駅周辺は再開発の真っ最中。すでに完成したショッピングセンターや高層マンションと造成工事中の建設機械、掘り起こされるも、未だ整地されていない荒地などが入りまじり、雑とした状況。駅の西に駅名の由来ともなった、おおたかの営巣地である「おおたかの森」も宅地開発で半減し、現在は20ヘクタールほど。かつてはつくばエクスプレス線の北と流山おおたかの森駅から北に進む東武野田線の西側一帯の50ヘクタールが鬱蒼とした森であったとのことであるが、現在は宅地や建設予定地で囲まれながら、かろうじて森の緑を保っている。

オランダ観音
流山おおたかの森駅の北に下り、東武野田線の東側の造成地の中を進むと住宅街の家と家の間の細路の先にオランダ観音(流山市東初石5‐153)があった。祠の中には二基の馬頭観音が祀られる。諸説あるも、寛文8年(1668)、品種改良のため輸入したペルシャ牡馬二匹のうちの病死した一匹であろう、と。オランダ観音の由来は、オランダの東インド会社長崎商館を通して輸入された、ため。
小金牧の野馬は蒙古系の馬であり、馬高は1.2m程度。現在私たちが目にするサラブレッドの馬体とは似ても似つかない、かわいいものである。乗馬すると足が地面につくといってもそれほどオーバーな表現ではない。『小金牧を歩く;青木更吉(崙書房出版)』によれば、品種改良に関心の強かった将軍吉宗は、ペルシャ馬27匹(牝21、牡6匹)を輸入した。当時の値段ではペルシャ馬一匹は野馬360匹に相当するという高価なものであった、と言う。
オランダ観音の説明には、「葦毛の三歳駒を輸入し牧に放牧したが、気候や風土の違いから小柄な日本馬ともなじめないまま気質が凶暴になり、野馬堀を一気に超え作物を食い荒らし、人にも危害を及ぼすようになった。これを見かねた牧士頭は勢子を動員して駒を追いよせ狙撃してし、傷を負った葦毛馬は四苦八苦の末、日頃住みなれた十太夫新田の沢にたどりつき、そこで水を飲みながら息絶えた、と。その哀れな姿に村人や狙撃した牧士たちは、馬を哀れみその霊を慰めるためにその近くに祠を建てた」、との説明もあるが、そんな高価な馬を射殺するのは不自然であり、また碑文は後世になって建てられたものであり、「伝説」として伝わっていた射殺説が刻まれたのではないか、と言う。

つくばエクスプレス・柏の葉キャンパス駅
次の目的地は厳島神社にある「高田原開拓碑」。つくばエクスプレス・柏の葉キャンパス駅の近くにある。今回は取りこぼし・後の祭りを1日でカバーするため「歩き&トレイン」が段取りの基本。流山おおたかの森駅よりつくばエクスプレスに一駅乗り、柏の葉キャンパス駅に。
駅の周辺は流山オオタカの森駅周辺の開発途上の乱雑さ、一駅先の柏たなか駅前の開発がはじまったばかりの「なにも無さ」に比べ、結構整備されている。思うに、この地域一帯は国有地が多かったため、地権者との折衝の困難さはないわけで、それ故に開発計画が容易に進めることができたのではないだろうか。

この一帯の土地の歴史を眺めるに、江戸の頃は小金牧のひとつである高田牧、明治に入り東京窮民を入植者とした三井を中心とする開墾会社が開墾した開墾地・十余二である。そして、その開墾会社が解散した後、開墾地の土地の大半が入植者ではなく三井の手に落ち、その後、入植者との裁判沙汰を有利に図るために大隈重信などの明治に元勲に土地を譲渡している。戦前にはこのあたりに柏陸軍航空隊と飛行場があったと言うことだが、その大半は大地主となった大隈など明治の元勲の土地であろう、か。それはともあれ、飛行場跡地は戦後は一時米軍に接収され通信基地となっていたが、それも昭和54年(1979)には日本に返還されている。その跡地に東京大学や千葉大学、そして各種国の研究機関などが建設された、ということである。

厳島神社・高田原開拓碑
厳島神社は県道47号脇にある。線路に沿って進めば距離は近いのだが、工事用の空き地などで行く手を阻まれ、結局、大回りして県道47号を歩くことになった。県道を進み、つくばエクスプレスの高架をぐぐると、最初の交差点手前に、誠に、誠にささやかな祠があった。
祠にお参りし、脇にある高田原開拓碑を見る。裏には「当地は元小金原高田台牧也 明治二年より入植開拓せり初期入植者は自作農たるべき筈の処大隈及鍋島等の所有となりて八十余年昭和廿二年来の農地改革により初志貫徹すべて入植者の有に帰す」と刻まれる。
柏市十余二・高田のほか流山市の一部にまたがる高田台牧は、明治に三井ら政商を中心につくられた開墾会社によって開墾されるも数年で会社は解散。土地は入植者の手にならず、大半が三井のものとなり、それも裁判沙汰を有利に運ぶため明治の元勲に譲渡した、とは上にメモした。実際このあたりは大隈重信の土地となり大地主として広大な土地を所有した。土地が開墾民の手になるのは記念碑が刻むように戦後の農地改革が行われてからであり、それまでの裁判、小作民としての遺恨故か、「大隈及鍋島」と呼び捨てにしているのが直截で誠に、いい。なお、この神社も駒木の諏訪神社の兼務社であった。

柏の葉公園
厳島神社を県道に沿って少し進み、最初の交差点で右に折れ、道の右手に柏の葉高校や千葉大学環境健康フィールド科学センター、左手に柏の葉公園をみやりながら進む。この柏の葉公園のあたり、西は航空自衛隊システム通信隊の敷地から東の東京大学柏キャンパスのあたまでは戦前には陸軍の柏飛行隊と飛行場があったところである。
日中戦争勃発直前の昭和12年(1937)、首都防衛の飛行場としてこの地に開設することが決定され、昭和13年(1938)に工事が着工され同年完成。陸軍東部百五部隊の飛行場、柏飛行場が開設され、立川より陸軍飛行第五戦隊が移転してきた。
太平洋戦争が勃発すると、飛行第五戦隊はジャワ島に移り、柏飛行場にはいくつかの飛行戦隊の変遷があり、フィリピンでのレイテなど戦地への移動、また首都防衛の任にあたった。戦争末期に開発されたロケット戦闘機である「秋水」の飛行基地に予定されていた、とか。また、柏飛行場の南、高田には第四航空教育隊が設置され、そこで短期訓練を受けた隊員は、鹿屋や知覧の特攻基地に移っていたとのことである。

戦後は一時戦後海外からの引揚者、旧軍人ら約140人に払い下げられ開墾されたが、朝鮮戦争時には一部が米軍に摂取され、昭和30年(1955)には「米空軍柏通信所」、トムリンソン通信基地が建設され、200mの大アンテナなどのアンテナが林立していた、とか。
昭和54年(1979)には米軍から日本に返還。雑草の生い茂る荒地となっていたが、その跡地に柏の葉公園が整備され、東京大学や千葉大学、そして各種国の研究機関などが建設されている。
ちなみに陸軍飛行第五戦隊は立川から移ったとメモしたが、

いつだったか玉川上水を辿っていたき、立川市の砂川地区で上水が突然暗渠となり、何故に、とチェックしたことがある。暗渠化の理由は立川の航空隊用の滑走路の延長を考えてのことであったわけだが、その飛行隊は柏に移り、結局滑走路の延長はなくなった、とのこと。散歩をすれば、いろんなところで、いろんなものが紐づいてくる。誠に面白い。

こんぶくろ池
道の左手に柏の葉公園、右手に科学警察研究所や税関研修所などの建物を見遣りながら進むとT字路にあたる。T字路の先は東大柏キャンパス、右手の国立がんセンター東病院に沿って折れ、がんセンター東病院の敷地が切れるところで右手を見ると森が見える。こんぶくろ池はその中であろう、と右に折れると「NPOこんぶくろ池自然の森」の旗がたっていた。こんぶくろ池のある森一帯はNPOの活動によって環境保護がたもたれているのだろう。
左手にNPOの管理小屋を見ながら、とりあえず森に入る。雑木林の中を成り行きで進むと湧水池があり弁天池とあった。小さな祠は弁天さまではあろう。弁天池からの水路に沿って遊歩道を進むとT字路にあたり、左に折れると弁天池より大きな池が見えてきた。それが「こんぶくろ池」であった。池の畔には水神社のささやかな祠が祀られていた。
こんぶくろ自然の森は東京ドーム4個分の広さがある、と言う。また、弁天池とこんぶくろ池から湧き出る水は大堀川の水源でもあり、手賀沼へと注いでいる。そのためか、こんぶくろの主(うなぎ?)と手賀沼の主(蛇)が年に一度デートをする、といった伝説も残る。
こんぶくろ池は小金牧のひとつ、高田台牧に放牧される馬の水飲み場であった、とのこと。こんぶくろ池の左手には小ぶりな野馬除土手も残っていた。小ぶりの野馬除土手は、牧内に開墾された新田、と言うか、林畑、村地への侵入を防ぐために造られたもの、と言う。
「こんぶくろ」の名前の由来は、池の形が「小さな袋」のようであったから、とか、巾着(金のふくろ)とか、「子を産むふくろ」、とか、「米を産む袋」など、あれこれ。

常磐道
次の目的地は流通経済大学付属柏高校付近に残るという野馬除土手。こんぶくろ池から北東に常磐道を超えた先にある。こんぶくろ池自然の森を離れ、東京大学柏キャンパスの東端を進み、キャンパス北端を西に折れ、成り行きで進む。右手には森が続く。先日歩いた大青田の湿地手前の森の緑であろう。先に進むと森の手前に常磐道。土地を掘り割って進んでいた。

皇大神社
常磐道を超えると流通経済大学付属柏高校前交差点。道脇に野馬除土手らしきものを探すも、それらしき風情はない。キャンパスに沿って成り行きで東へと進むと高校の敷地に組み込むように社がある。とりあえずお参りと境内に入ると皇大神社とあった。
創建は新しく明治15年。十余二開墾住民の心の拠り所となるべく、三井組の市岡晋一郎によって建てられた。市岡晋一郎は現在の長野県塩尻市に生まれ,明治初め,開墾会社の三井組代人として小金牧12番目の開墾地である十余二の入植事業に携わった。
岩倉具視に見出された農民出身の開墾地の監督官として、農業(製茶・さとうきび・養蚕)を振興し、農民のために三井学校(伊勢原学校)を開校したと言う。皇大神宮といえば、伊勢神宮(内宮)のこと。このあたりの地名も、この神社勧請に由来するのだろう。なお、この神社も先ほど訪れた駒木の諏訪神社の兼務社であった。

大青田の野馬除土手
皇大神社を離れ、野馬除土手を探して先に進む。それらしきものは見当たらない。それではと、校舎裏手のグランド側に向かうことに。成り行きで進み、左手に入る野道を大青田の森の方向へと向かう。大青田の森は一度歩いているので、勝手知ったる、といった按配ではある。
道なりに進み、校舎裏手、グランドとの間を抜ける道を野馬除土手を探して西へと戻る。道の左手のグランドではサッカーの練習中。流経大付属柏って、サッカー名門校であった、かと。サッカーの練習を見ながら進むと、校舎敷地と道を隔てる土手がいかにも、野馬除土手の風情。ところどころに土手の切れ目があり、そこに入り土手を眺めるに、案内はないものの、これは間違いなく野馬除土手であろう、と確信。比高差も大きい。南柏でみた野馬除土手ほどの高さがある。江戸川台や先ほど「こんぶくろ池」で見た土手は高さも低く、土手もひとつであったが、この地の土手は大土手と小土手の二重土手となっていた。

既にメモしたとおり、野馬除土手とは、下総台地の牧(小金牧や佐倉牧)に放牧された馬が村や畑に入り込み、耕作物を荒らすのを防ぐための土手である。特に享保や寛政の改革に伴い、幕府の財政不足を補うべく新田開発が奨励され、小金の牧の中にも水田や林畑の開発が推進される。その結果、牧の中には村が点在することになり、野馬は村や畑に侵入して耕作物などを荒らした。 各村々は、村境に野馬除土手をつくり被害を防ごうとしたわけだが、完全に防ぎきれず被害に大変苦しんだ、とのことである。先ほど訪れた長崎の天形星神社の「岩見大明神」、先日訪れた大青田の円福寺の「岩見大権現」は、農民に被害を与えていた野馬の里入防止に尽力した岩本石見守に感謝した村人が、その善政をたたえ記念碑をつくったとのことである。

円福寺
次の目的地は国道16号が利根運河を渡った北にある駒形神社。これといって理由はないのだが、先日の利根運河の谷津を辿る散歩の時に、この神社を見落としていたので、今回の後の祭り・取りこぼしフォロー散歩に加えることにした。
流経大付属柏高校を離れ、先日も歩き、「通いなれた」大青田の森を抜け、大青田の湿地・谷津に出る。谷津を辿り、国道16号が利根運河を渡るところに進む。と、そこには先日訪れた円福寺があり、小金牧の奉行であった岩見石見守を祀る「岩見大権現」がある。今回に散歩は、小金牧の名残を辿る、ということでもあり、ちょっと立ち寄り。岩見大権現は天形星神社の岩見神社のような祠もなく、小ぶりな石塔が残るだけである。




駒形神社
利根運河を超え、最初の信号を左に折れるとほどなく道を少し南に入った民家の間に駒形神社、と言うか、香取駒形神社があった。香取神社と駒形神社のダブルブランドである。ダブルブランドが、いかなる理由でできたのか定かではないが、下総や常陸にはいくつか目にする。
それはともあれ、先日の散歩のおり、この神社にあたりにB29 が撃墜された、とメモした。柏の航空隊からの迎撃か、高射砲によるものか定かではないが、東京空襲を終え帰還中の第314航空団29爆撃群所属のB29一機が被弾。村の上空を旋回し空中分解、香取駒形神社周辺に落下した。乗組員のうち機長含め10名が墜落死、2名が捕虜となるも、そのうち一名が憲兵隊へ送られる途中重体で死亡、残り1名は東京刑務所に収監中、米軍の空襲によって亡くなった、とのことである。

東武野田線・運河駅
駒形神社を離れ、里道を成り行きで進むと利根運河の堤に出た。利根川運河の北側を東武野田線・運河駅へと向かうと、土手の右手下に雑木林に囲まれた池が見える。美しい。下三ヶ尾の湿地・谷津の景観であろう。東京理科大のキャンパスの一部でもあろう、か。見慣れた土手道を進み運河駅に。
ここで本日の予定は終了、とも思ったのだが、日暮には未だ少々時間がある。運河駅と江戸川台駅の中間に「おらんだ様」もあるわけで、小金牧の名残を辿る散歩の締めにと、あと少々散歩を続けることにした。



駒形神社
運河駅前の流山街道を南に下る。と、ほどなく駒形神社交差点。道脇にある神社にちょっとお参り。結構立派な構えである。鳥居の横には馬の銅像。社伝によれば、八幡太郎義家公の駒繋ぎの伝説が残る、と。
社殿にお参りし、境内左奥に並ぶ庚申塔と思しき石塔のもとに。その脇には小ぶりな富士塚と浅間神社。また、その脇には「待道大権現」と刻まれた小ぶりな石塔。あまり聞いたことがない名称でありチェックする。
待道講は我孫子を中心とし、利根川右岸と江戸川左岸に挟まれた北総地区に限られた女人講。本社は我孫子・岡発戸の八幡神社、とか。観音講、子安講、十九夜講などと同じく、毎月17日に集い、子育てや安産祈願を願う。待道大権現の軸を掲げ念仏を唱え皆で会食する(「我孫子市史文化財編」)。とあった。

道六神
道を進むと道脇に誠に構えの立派な旧家がある。塀の前には浅間神社の祠がある。浅間神社にお参りし、右手を見ると社といくつかの石塔が見える。社は八坂神社、石塔群は道六神や馬頭観音。道六神は道祖神と同じ。塞の神とも呼ばれ、村の入口に祀られ、村に厄病が入るのを防ぐ(塞ぐ)。ちなみに、塞の神は石だけでなく、木を祀られることもある。いつだったか、信州から越後へと塩の道を辿り、大網峠を下ったところにあった「大賽の一本杉」が記憶に残る

道六神の前に「成田さん」と刻まれた道標があった。この地は旧日光街道(日光街道の脇往還)の辻であったよう。旧日光街道脇往還は南柏のあたりで分岐し、流山・野田・関宿を抜けて日光街道本道に合流する。日光参詣のためだけでなく、大名の参勤交代や物資の運搬などにも利用されたようである。南柏駅付近の国道6号・水戸街道には「旧日光街道入口」と呼ばれる交差点がある。

オランダ様
東深井地区から美原地区に入ると、道脇にコンクリートブロックに囲まれた祠がある。少々窮屈そうな祠に二基の馬頭観音が祀られていた。これがオランダ様である(美原3丁目44)。祠脇の碑文には、「徳川八代将軍吉宗は馬匹改良のためオランダ馬を輸入し小金牧に放牧した。このペルシャ馬のうち此の地で死んだ馬を祀ったのがこの馬頭観世音である。元文二年(1737年)の建立で古くよりオランダさまとして信仰され、またこの前にあった坂はオランダ坂と呼ばれていた」とある。
オランダ観音のところで、品種改良に関心の強かった将軍吉宗は、ペルシャ馬27匹(牝21、牡6匹)を輸入した(『小金牧を歩く;青木更吉(崙書房出版)』)とメモしたが、それがこのことではあろう。オランダ観音に祀られるペルシャ馬は、寛文8年(1668)、品種改良のため輸入したペルシャ牡馬二匹のうちの病死した一匹のようだが、ここに祀られるペルシャ馬は少し時代が下った、亨保年間に輸入された馬のようである。

少々長かった本日の散歩もこれで終了。一部公園とし残る樹林に、江戸川台開発前の景観を想いながら東武野田線・江戸川台駅に向かい、一路家路へと。これで、流山、利根運河散歩で取り残した事跡はほぼカバー。次回はやっと野田市街へと。


利根運河を散歩したとき、その南北に広がる谷津の景観や、流山へと下る今上落し(農業用水路)の流れが気になり、それではと流山からはじめ、利根運河周辺の谷津を南から北に辿り、谷津の景観を楽しみながら野田へと進もうと思い立った。その散歩の第一回は予定とは大きく異なり、流山に「捉まり」、結局は流山旧市街から先に進むことができなかった。今回は、流山の旧市街を離れ、利根運河の南北に広がる谷津を辿ることにする。スタート地点を探すに、東武野田線の江戸川台駅あたりから散歩をはじめれば、谷津へのアプローチが至便のよう。つい最近までは、まったくの不案内であった流山へのアプローチではあるが、今ではもう勝手知ったる、といった案配。秋葉原から、つくばエクスプレスで流山おおたかの森駅、そこから東武野田線に乗り換えて一路江戸川台駅に


本日のルート;東武野田線・江戸川台>野馬除土手>稲荷神社>香取神社>大青田の森と谷津>東深井古墳群>利根運河>円福寺>妙見神社>国道16号・柏大橋>普門寺>大杉神社>三ヶ尾の谷津>江川排水路>水堰橋>三峯神社>姫宮神社>つくばエクスプレス・柏田中駅

東武野田線・江戸川台駅
駅前には住宅街が広がる。広い野と森が点在する、といった景観を想像していたのだが、予想とは大いに異なる街並がそこにあった。江戸川台駅周辺は、1960年代に千葉県住宅協会によって大規模宅地開発が始まった。開発がはじまる前は、「狐の野」、「兎の村」などと呼ばれ、現在の江戸川台駅の西に農家が一軒だけ、という樹林地帯であったようである。江戸川台駅が開業したのも、宅地分譲が開始された昭和33年(1958)、と言う。
Google mapの航空写真を見るに、整然と区画整理された戸建て住宅が江戸川台駅南の初石から江戸川台駅の北まで広がる。特に江戸川台の東は、こうのす台やみどり台、そして大青田谷津に近い東深井のほうまで戸建住宅が広がっている。当初想い描いていた谷津の景観、その緑が駅近くから運河まで続く、といったイメージは早々に修正しなければならなくなった。

野馬除土手
駅の近くにどこか見処はと案内板を探す。と、駅のすぐ近くに野馬除土手と江戸川稲荷神社の案内。此の地で野馬除土手に再び出合えるとは思ってもいなかったので、偶然の賜を感謝しながら、まずは野馬除土手に。駅の東口を成り行きで進むと流山市江戸川台浄水場。深井戸と江戸川から取水・浄水された水を供給する。野馬除土手は浄水場のすぐ南、整備された緑地帯(江戸川台四号緑地)の中にあった。
野馬除土手とは、下総台地の牧(小金牧や佐倉牧)に放牧された馬が村や畑に入り込み、耕作物を荒らすのを防ぐための土手である。野馬除土手にはじめて出合ったのは南柏駅の近く、日光街道の北にある豊四季第一緑地の中である。そこで見た土手は外側の大土手と内側の小土手からなる二重土塁構造。大土手側は底からの比高差3m弱もあったろう、か。戯れにV字の底から土手を越えんと駆け上がるも、頃は秋、落ち葉に足をすくわれ、とてもではないが、一気に土手を越えることはできなかった。馬もこの土塁を越えるのは結構大変ではあろう。
それに比べこの地の土手はひと筋の土手で、高さも1m強、といったもの。昔は、土手の前には掘がつくられ、それなりの比高差があったのだろうが、馬なら簡単に飛び越せるように思える。一説には掘に木の柵が建てられ、馬の進入を防いだ、とも言う。
土手のサイズは幕府が牧をつくり始めた頃が大きく、時代が下って、江戸の亨保・寛政の頃、新田開発奨励に伴って、牧の中に開かれた新田、というか林畑の作物被害を防ぐ目的でつくられた土手は小さいものとなっていたようである。

野田市立図書館・電子資料室のHP、また『小金牧を歩く;青木更吉(崙書房)』などを参考に小金牧や野場除土手についてまとめておく;小金牧とは下総台地上、現在の野田市から千葉市にかけて(野田、流山、柏、松戸、鎌ヶ谷、船橋、習志野、八千代、千葉、臼井、印西)点在していた放牧場の総称。もともとは、周辺の村から逃亡した馬などが原野で育ち、自然発生的につくられた牧場といったもの。平安時代にはすでに5つほど牧があった、とか。
徳川幕府は、慶長9年(1604)頃、綿貫氏を野馬奉行兼牧士支配役とし馬牧の経営や軍馬の育成に力を入れ2つの牧をつくった。「佐倉牧」とそしてこの「小金牧」である。江戸初期、小金牧には7牧あった。庄内牧(野田市。新田開発のため消滅)、高田台牧(柏市)、上野牧(柏市)、中野牧(松戸市・鎌ヶ谷市)、一本椚牧(享保8年に中野牧に吸収)、下野牧(船橋市)、印西牧(白井市)である。
下野牧は京成本線・八千代台の南、新川を南端にした現在の陸上自衛隊習志野演習場から北に、おおよそ新京成本線に沿って木下街道あたりまでの船橋市域。中野牧は、新京成線と東武野田線の交差するあたりから北上する東武野田線の西側の鎌ヶ谷市から松戸市域。水戸街道・常磐線のラインが北端のようでもある。
上野牧は柏から野田市の境となる利根運河までの東武野田線の東西に広がる市域。高田台牧は上野牧の一筋東の柏市域。庄内牧は利根運河北、東武野田線の東の谷津と、すこし離れ東武野田線が江戸川を渡るために北への路線を西に変える一帯。印西牧は手賀沼の南の臼井市域である。江戸川台のこのあたりは、上野牧ということであろう。
牧では、幕府の役人・牧士(もくし)が管理し、時期がくれば捕込(とっこみ)に野馬を追い込んで捕らえ、良馬は軍馬に、それほどでもない馬は近郊農民達にも売り払ったりしていた、と。とはいうものの、馬は野で育てて、野で捕まえる、といったもので、計画的に馬の飼育が行われていたわけでなかったようだ。
慶長の頃はじまった幕府の牧経営も、八代将軍吉宗による亨保の改革(18世紀前半)にともない状況に変化が現れる。幕府の財政不足を補うべく新田開発が奨励され、小金の牧の中にも水田や林畑の開発が推進される。牧支配も綿貫氏に加え、野方代官として小宮山杢之進が金ヶ作(中野牧;現在の松戸市。新京成線常盤台駅北)に陣屋を構え、従来綿貫氏が支配していた小金牧を南北に分け、南は小宮山氏(中野牧と下野牧)、北(高田台牧、上野牧、印西牧)を綿貫氏が支配することになる。
新田開発の結果、牧の中には村が点在することになり、野馬は村や畑に侵入して耕作物などを荒らした。 各村々は、村境に野馬除土手をつくり被害を防ごうとしたわけだが、完全に防ぎきれず被害に大変苦しんだ、という。野田市中里の愛宕神社には「野馬除感恩塔」があるという。それは、農民に被害を与えていた野馬の里入防止に尽力した岩本石見守に感謝した村人が、その善政をたたえ記念碑をつくった、とのこと。
寛政の改革の頃(18世紀後半)、新田開発の責任者でもあった御小納戸頭取・岩本石見守は愛宕神社の他にも、野田の船形の香取神社、流山の大青田の円福寺、長崎の天形星神社にも「岩見大権現」とか「岩本大明神」などとして顕彰碑や祠が建つ、と言う。
小金牧で飼育した馬の数は、初期は400匹(疋)、中期は1000匹、後期は1500匹、幕末は1800匹ほどであった、と言う(『小金牧を歩く;青木更吉(崙書房))』)。馬や牛の数え方は「頭」と思っていたのだが、「匹」が正しいようだ。匹はもともと、一対の意味。牛馬の後ろから追うときに、牛馬の左右のお尻が一対に見えるから、とか。
ちなみに、村々の被害は馬だけではなかったようである。野に繁殖する鹿や鳥獣による被害も多大なものとなった。ために年貢が減るといった状況にもなり、その対策として鷹狩が行われている。八代将軍吉宗を始めとして、3人の将軍が4回にわたって鹿狩りをおこなっている。

牧は徳川幕府の終結と共に廃止される。その後、新田開発を目的として、牧野が開拓されることになる。これは、新政府の最初の事業とも言われる。江戸というか東京に集まった旧武士8000人をこの地に移し、入植・開墾に従事させることにする。社会不安の根を摘む施策でもあったよう、である。明治2年のこと。結局この事業は失敗に終わったようだが、そのときできた13の開墾集落の名前は今に残っている。数字は開墾された次期の順をも示している。13の開拓地区名;1番目 初富(はつとみ)(鎌ヶ谷市)-小金牧内・中野牧>2番目 二(ふた)和(わ)(船橋市)-小金牧内・下野牧>3番目 三咲(みさき)(船橋市)-小金牧内・下野牧>4番目 豊(とよ)四季(しき)(柏市)-小金牧内・上野牧>5番目 五(ご)香(こう)(松戸市)-小金牧内・中野牧>6番目 六(むつ)実(み)(松戸市)-小金牧内・中野牧>7番目 七(なな)栄(え)(富里市)-佐倉牧内・内野牧>8番目 八街(やちまた)(八街市)-佐倉牧内・柳沢牧>9番目 九(く)美上(みあげ)(佐原市)-佐倉牧内・油田牧>10番目 十倉(とくら)(富里市)-佐倉牧内・高野牧>11番目 十余一(とよいち)(白井市)-小金牧内・印西牧>12番目 十余二(とよふた)(柏市)-小金牧内・高田台牧>13番目 十余三(とよみ)(成田市)-佐倉牧内・矢作牧(野田市市立図書館の資料より)

牧といえば、いつだったか、会社の同僚と平将門の営所のあった石井、現在の板東市に出かけたことがある。で、この際と、将門の資料をいくつか読んだのだが、その中に、牧の話がしばしば登場した。相馬御厨だったか、どこかの御厨で馬、それも半島渡来の馬を飼育し、実績を上げていた、とか。
実績の話はともかく、その資料の中で、馬の放牧の話があった。はっきりとは覚えていないが、馬は自由に放っていた。それは、沼地や台地で遮られ、馬が逃げることができなかった、と。現在の開発された下総台地からは、いかにしてもその姿を想像するのは難しいが、利根運河周辺の谷津は牧の一部であったとのこと。今回の散歩も、当初予定である谷津の景観を楽しむだけでなく、往昔の牧の景観の一端に触れる楽しみもできたようである。

江戸川台稲荷
野馬除土手を離れ、浄水場に沿って北に進み駅前から東に向かう通りの江戸川台東1丁目交差点に。交差点を右に折れ先に進むと、道脇に江戸川稲荷神社があった。社殿はトタン葺切妻造りの覆屋の中にこじんまりとした木の祠が祀られる。お稲荷さまではあまりみかけない造りでもあり、なんとなく惹かれる。11の朱塗りの明神造りの鳥居や唇・耳・爪に赤い化粧のほどこされた狐も面白い。御神木は松とのことである。
このお稲荷さまは江戸の頃、もとは江戸川台駅の西、流山の中野久木の中野久木貝塚の近くに住んだ鈴木家が祀った、と伝わる。後に平七稲荷大明神と呼ばれ信仰を集めた、とのことだが、江戸川台のあたりって、昭和になって宅地開発が開始される時でも、農家一軒だけの林野であった、と言う。鈴木家とは、その一軒だけあった農家であろう、か。また、平七稲荷大明神って、その由来はなんだろう。日本三大稲荷のひとつである豊川稲荷は平八郎稲荷とも呼ばれ、平八狐の話も残る。平七と平八、なんとなく関係あるのだろうか、などなど妄想が広がってゆくが、このあたりで止めておこう。なお、この地に移ったのは、昭和になってから。江戸川台の東地域に住宅を建てた住民によってこの地に祀られることになった、とか。

香取神社
駅前を東に進む通りを江戸川台東交差点を越え、みどり台と青田の境の道を進むと、常磐道の少し手前に香取神社。荒川流域より西は氷川神社、江戸川・利根川流域より東は香取神社、その間の元荒川流域には久伊豆神社とその祭祀圏がくっきりと分かれると言われるが、誠に今回の流山からの散歩では香取の社に出合うことが多い。
境内に入ると社殿は瓦葺入母屋造。趣があってなかなか、いい。この社は江戸の中頃に開発された青田新田の産土神。荒廃した社殿は昭和になって再建された、とか。境内には庚申塔、青面金剛石像などの石像群とともに「手児奈塔があった。これも、こんなところで「手児奈塔」に出合えるとは思ってもみなかったので、偶然の賜に再び感謝。成り行き任せの散歩の妙。

『万葉集』に詠われた娘子・手児奈に最初に出合ったのは市川市真間の手児奈霊堂。手古奈って、絶世の美女であった、とか。ために幾多の男性から求婚される。が、誰かひとりを選べば、その他の人を苦しめることになると思い悩み、入水自殺したとされる。そのロジックはいまひとつ理解できないが、ともあれ、万葉の頃から真間の手児奈のことは知られていたようで、『万葉集』の中で、山部赤人が「吾も見つ 人にも告げむ 葛飾の 真間の手児奈が 奥津城処」、「葛飾の 真間の入江に うち靡(なび)く玉藻刈りけむ手児奈し思ゆ」、と詠う。「ここが葛飾の真間の手墓所。手児名ことは忘れることはないだろう」、「入り江に揺れる玉藻をみると手児名を思い出される、といった意味だろう。
ところで、「手児奈」であるが、東国では娘子のことを、「手児」とか「児奈」と呼ばれる。「手児奈」は、神格化し「別格」な娘子とすべく、万葉の歌人がつくった造語(「手児」+「児奈)との説もある(『手児奈伝説;千野原靖方(崙書房)』)。それはともあれ、伝説の娘子が安産・子育ての神となり、人々の信仰の対象となったのは19世紀前半分、江戸の文化・文政から天保時代の頃から、と言う。真間=崖の上にある日蓮宗の名刹・真間山弘法寺が、文政7年(1824)、ささやかな祠であった手児奈霊堂を再建し、安産子育てのお札を発行し、広く信仰を集めるように努めた、と言う(『手児奈伝説;千野原靖方(崙書房)』)。

江戸のお散歩の達人・村尾嘉陵(宝暦10年1760~天保12年1841)が75歳の時というから、天保6年に真間を辿った記事がある。それによると、「畦の細道を蛇が進むようにくねくねと行き、辿り着いたところが手古奈の社の前である。(昔は)社は,蘆荻(ろてき)の生い茂った中に、5,6尺の茅葺きの祠があるだけで、鳥居などもなかった。それから多くの年月を経て詣でたときは、社は昔の面影のままであったが、鳥居が建っていた。なお年月が経て詣でたときには、もとの茅葺きの祠は取り払われ手、広さ2間ほどに造り変えられ、(中略)さらに今日、40年を経てきてみると、祠は、広さ5間ほど、太い欅柱に、瓦葺き、白壁造りのものに建て替えられていた。鳥居も大きなものを建て並べるなどして、昔の面影はどこにもない。誰がこんな社にしたのであろうか。人がなしたことなのか、知るすべもなし(『江戸近郊ウォーク;小学館』より)」とある。
手児奈霊堂が再建される前後の様子が伺えて誠におもしろい。伝説の真間の手児奈が立派な霊堂となり安産・子育ての神様になってしまったのを嘆いているようでもある。少々メモがながくなったが、かくのごときプロセスを経て安産子育ての神として、此の地の香取の社に祀られているのではあろう。

大青田の谷津
香取神社を離れ、みどり台を成り行きで進み、大青田の湿地へと向かう。住宅街を成り行きで進むと前方に林が見えてきた。住宅街と林の境を辿り、林の中へと入る道筋に入る。鬱蒼とした林、と言うか森を進みながら、駅から辿った道筋も昭和の中頃までかくの如き森であったのか、少々の感慨を抱く。
森の中をゆったりと500m強歩くと前方が開け、大青田の湿地帯に出る。大青田の湿地帯は小金牧のひとつ、高田台牧の北端あたりではあるが、江戸の頃には新田開発が行われたため、牧は常磐道の南の伊勢原から十余二あたりとなっていたようである。牧には300匹ほどの馬が放牧されていた、とか。
大青田の湿地帯の畦道を進む。元々の湿地なのか、休耕田になった故に結果なのか定かではないが、湿地に葦が生い茂る。台地を開析してできた大青田の谷津には、湧水や小川が流れ込んでできた、如何にも自然の湿地といったところも目に入る。なかなか、いい。
谷津の谷を開いた田圃・谷津田の畦道を進む。畦道の分岐点で、右に向かえば葦の茂る湿地から谷津に開かれた畑地へとのぼり、左に折れれば、再び森に入り、その先に東深井古墳群がある。はてさて、右か左か少々迷うも、古墳群という言葉に惹かれ、左に折れることに。

東深井古墳群
左に折れ再び森に入り、そしてその森を抜けると一転、住宅街が広がる。利根運河の手前まで宅地開発が広がっていた。住宅街を西に進み、森を目安に成り行きで進み東深井古墳群に。森に入ると緑の平地があり低い柵で囲われており、8号墳とある。案内がなければなんだかわからない。先に進むと9号・前方後円墳、10号墳などとある。これも、一見するに単なるブッシュといったもの。成り行きで進むと東深井古墳群についての案内があった。
『東深井古墳群について ;東深井古墳群が作られたのは、古墳と埴輪の研究により六世紀から七世紀の初め頃と考えられています。古墳時代の人々は、一族の首長や権力のあった人が死ぬと、多くの時間と労力を費して古墳を築きました。古墳は、死者への敬意と悲しみを表現した重要な遺跡です。
古墳には、粘土で人・動物・家・武器などを形どった焼物がみられ、これを埴輪といいます。埴輪は、死者の供物として、また古墳を飾るために墳丘上や墳丘を囲むように立てられました。東深井古墳群では、発掘を行ったほとんどの古墳から見つかっています。なかでも七号墳からは珍しい魚とニワトリの埴輪が、また九号墳からは人物の埴輪が発見されました。このような埴輪の他に、円筒形の埴輪もあります。円筒形の埴輪は、墳丘の廻りに数多く立てられ、古墳が特別の場所であることを表したと考えられています(以下略)」、とあった。
案内板の横に古墳群の分布図がある。公園内には7号から18号古墳までがある。1号から6号古墳は古墳の森の南にある汚泥再生処理センターの敷地内にあるようだ。7号から18号まで成り行きで辿る。見落としもあったろうが、取り敢えず古墳群を一回りし、7号墳から最初に見た8号墳に戻る。
古墳といえば、埼玉・行田市のさきたま古墳群や、千葉でも印旛沼の北にある房総風土記の丘古墳群で規模の大きな古墳を見たわけだが、この地の古墳はいかにも小振り。前方公後円墳とされる9号墳にしても、後円部の径13.5m、高さ1.5m、前方部の最大幅は4.9m、墳丘の全長は20.8m。このようなささやかなる古墳もなんとなく、いい。

利根運河
東深井古墳群の森の東端に水路が見える。汚泥再生処理センターの入口付近の湧水を水源に利根運河へと注ぐ諏訪下川、とのこと。水路に沿って時に湿地に足を踏み入れたりしながら、利根運河の堤に出る。利根運河のあれこれは、先日歩いた記事に譲る。

円福寺
利根運河の堤を国道16号に向かって東に進む。国道16号に架かる柏大橋の手前で、右に入る道を成り行きで進み妙見山円福寺に。境内に入る手前に十九夜講の如意輪観音や馬頭観音、青面金剛像合掌型の庚申塔といった石塔が並ぶ。境内に入ると、左手に祠。真言宗のこのお寺様は下総三十三番札所の三十一番札所とのこと。
本堂にお参りし、小金牧の奉行であった岩見石見守を祀る「石見大権現」の石塔を探す。と、境内を入った右手にこぶりな三つの石塔がある。近くに寄って眺めるに、右端の石塔に「石見大権現」とあった。右脇には寛政十年と刻んである。

上の野馬除土手のところでメモしたように、岩見石見守は幕府財政の疲弊を改革すべく行われた寛政の改革時、寛政5年(1793)に小金・峯岡・佐倉三牧の取締支配に任ぜられ、新田開発につとめ、同時に、野馬による耕作物被害を防ぐことに尽力した。新田開発も農民の要請に応えて「野馬入新田」と呼ばれる野馬と農民が「共生」する施策も認め、その善政故に「大権現」などと家康並みの称号で祀られている。
流山の長崎にある天形星神社の境内に「岩本大明神」を祀る社殿があったが、それに比べると小振りな石塔のみである。もとは大青田の別の地に祀られていたものを、この地に移したとのことであるので、その過程で社殿が無くなったのだろう、か。単なる妄想。根拠なし。妄想ついでに、岩本石見守の長姉は11代将軍である家斉の生母とのことであり、将軍の叔父として家斉の信任篤く、故に大明神とか大権現といった称号が許されたのだろう、か。

妙見神社
円福寺の隣、国道16号脇に妙見神社。神仏習合の頃は、妙見山円福寺が、この妙見の社の別当寺であった。創建は元禄9年の頃。境内には青面金剛像合掌型など11の庚申塔が並ぶ。
妙見様とは北斗七星を神としたもの。大阪の能勢の妙見さん、江戸の本所や柳島、池上本門寺の妙見堂など日蓮宗関連の寺院に妙見さんが目につくが、もともとは空海の真言宗からはじまったものである。
妙見信仰といえば、秩父神社が思い出されるが、秩父神社は平良文の子が秩父牧の別当となり「秩父」氏と称し妙見菩薩を祀ったことがはじまり。平忠常を祖とする千葉氏はその秩父平氏の流れをくみ、妙見菩薩は千葉家代々の守護神であった。 千葉一族の家紋である「月星」「日月」「九曜」は妙見さまに由来する。かくして、妙見信仰は千葉氏の勢力園である房総の地に広まっていったのであろう。経典に「北辰菩薩、名づけて妙見という。・・・吾を祀らば護国鎮守・除災招福・長寿延命・風雨順調・五穀豊穣・人民安楽にして、王は徳を讃えられん」とあるように、現世利益の功徳を讃えているのも人々に受け入れられた要因ではあろう。実際、稲霊、養蚕、祈雨、海上交通の守護神、安産、牛馬の守り神など、多種多様である。現在のお札の原型とされる護符も民間への普及には「わかりやすい」信仰モデルであった、とか。

下三ヶ尾の谷津
利根運河に架かる国道16号・柏大橋を渡り、橋を少し北に過ぎたあたりで最初の信号を右に入り台地を下り下三ヶ尾の谷津に入る。谷津の入口あたりでは湿地帯は休耕田となっているようで、少々荒れており、埋め返しの残土など、少々無粋な光景も見受けられる。それでも、道ばたに僅かに残る湿地や湧水や、湿地の水を集め谷津の中央を流れる水路のあたりでは、谷津の景観を楽しめる。眼を細め、利根運河が開削される前、この辺り一帯に広がっていたであろう三ヶ尾沼を想う。
下三ヶ尾や西三ヶ尾の谷津は小金牧の中の庄内牧のあったところ。庄内牧はこの地と、北の方の二カ所に別れていたようではあるが、新田開発により18世紀後半の寛政年間にはすべて消滅していたようである。三ヶ尾の名前の由来は不詳。通常、三ヶ尾とは、三つの尾根・稜線をもつ山、のということではあるので、丘陵地が浸食されて谷状の地形=谷戸・谷津が形成されるとき、丘陵地が三つの地形となった、ということだろうか。単なる妄想であり、根拠、なし。

普門寺

谷津を進み、台地に上り畑地を北に折れる道を進み普門寺に。開創は寛永元年(1624)。落ち着いた雰囲気のお寺様である。本尊の「涅槃図」は天文6年(1537)の作と言う。毎年2月11日に一般公開しているとのことである。
境内の左手には閻魔堂があり、承応元年(1652)に造られた寄木造りの座像を祀る。散歩の折々に閻魔様に出合うことも多い。印象に残るのは所沢を東川に沿って歩いた時に出合った長栄寺の閻魔様。関東随一の大きさとのことであった。あとは、文京句・小石川の「こんにゃく閻魔」も名前に惹かれる。
閻魔さまって、もとはインドのサンスクリット語「ヤーマ」の音訳。地獄の王である。それが中国に伝わり、道教における冥界・泰山地獄の王である泰山府君とともに、冥界の王とされ、十人の冥界の王のひとりとして、冥土で亡者の罪を裁くと信じられるようになった。十王信仰である。閻魔様が道教の修行者の服である道服を着ているのは、こういった事情ではあろう。
その閻魔様、地獄の大王である閻魔大王が日本に伝わると、閻魔天と呼ばれ、仏法を守り、人々の延命を助ける神様の色彩が強くなる。日本では閻魔大王は地蔵菩薩の化身とされる。亡者を裁く裁判で被告を弁護するのが地蔵菩薩であり、判決を下すのが閻魔大王であるが、その閻魔大王が地蔵菩薩の化身とであれば、弁護人と裁判官が同一人物と言うことであり、閻魔様=地蔵様を熱心に信仰するのは「合理的」ではあろう、か。閻魔信仰が日本に伝わったのは平安末期であり、鎌倉期に盛んになった。この野田の地には17世紀中頃には、十王信仰が普及していたようである。

大杉神社
普門寺を離れ、台地を成り行きで進むと道脇にささやかな祠。境内も何もないが大杉神社とある。大杉神社に最初に出合ったのは江戸川と中川に挟まれた江戸川区大杉にある大杉神社である。その後、川越から新河岸川を下る途中、富士見市の百目木(どめき)河岸の先でも出合った。
大杉神社の本社は茨城県稲敷市。その昔は霞ヶ浦、利根川下流域、印旛沼、手賀沼などを内包した常総内海に突き出た台地上に神木である杉の大木があり、その大木は舟運の目印でもあったようであり、ために、海上交易や船を水難から護るという言い伝えから、船頭・船問屋に信仰された、という。この社はどのような由来があるのだろう、か。不明である。

三ヶ尾の谷津
大杉神社脇の小径を進み、成り行きで東へと向かい森を抜け、台地を下り、千葉商大野田総合グランドの北を抜け、三ヶ尾の谷津に向かう。低地の中程を江川排水路が流れる。かつてはこの低地は三ヶ尾沼と呼ばれる湿地帯であったが、利根運河開削の残土で沼を埋め、昭和20年代は水田となっていた。平成2年頃にはその水田も耕作放棄され、一時宅地開発の計画もあったようだが、環境保全政策により宅地開発は中止となり、現在「原野」として残る。

東西の長さが1.6キロ程度の平坦地の真ん中を江川排水路が流れ、平地の両側には斜面林が広がる、典型的な谷津・谷戸の景観を呈している。
江川排水路に沿って新江川排水機場まで進み、調整池脇を東に折れ、江川排水機場前を越えて利根運河の土手に戻る。

三峯神社・田中藩飛び領地代官所跡
堤を水堰橋まで戻り、先回の利根運河散歩で見逃した、橋近くにあるという農業用水の樋管を探す。煉瓦造りということですぐに見つかるかと思ったのだが、あちこち彷徨うも、結局見つからず、これも先回の散歩で見落とした田中藩の代官所に向かう。



北部クリーンセンター脇の道を、成り行きで進み先回訪れた医王寺を越え、三峯神社を目指す。台地を下り、田中調整池(地)への坂の途中小さな鳥居とこれまた小径のようなコンクリートの参道が坂道から小丘に向かう。参道を登り切ったところに三峯神社があった。
ささやかな石の祠。結構新しい。祠のそばにある記念碑を読むと、無病息災を祈り秩父郡大滝村の三峯神社を信仰し社を建てた。また講中を組織し、昭和28年までは秩父まで代参していた、と。その後荒廃したが、平成11年旧社を取り除き再建したとのことである。



三峯神社前の坂を少し下ったところに朱に塗られた木造の建物がある。少々古びたこの建物は不動堂。不動堂脇の案内によれば、田中藩飛び領地代官屋敷はこの不動堂の向かいにあった、とか。
田中藩は本多正重にはじまる。本多正重は家康の重臣・本多正信の弟。家康の家臣であったが、一時期出奔し、滝川一益、前田利家、蒲生氏郷などに仕えるも、結局は徳川家に帰参。関ヶ原の合戦、大阪の陣で秀忠をよく支え、その功もあって、この相馬・下総の地を拝領した。その後、本多氏は上州沼田城2万石、享保6年(1722には)駿河国の田中城(静岡県藤枝市)へ田中藩4万石として転封されるも、この下総の地は上知(返上)されることなく、田中藩船戸村として、本多氏は代々250年の長きにわたり、この地で善政を施した。
田中藩の飛地領は流山市域にあった30余りの村のうち14を占めたとのこと。この船戸の代官所は飛領地の北半分の村々を治めた、と言う。ちなみに、南半分を治める代官所は藤心(東武野田線逆井駅の東)にあった、とのことである。なお、その他の村は大名領、旗本領、幕府直轄地が混在し、「碁石混じり」とも称された。
明治維新、下総の領地が上地となるとき、村民はこぞって留任を嘆願。願はかなわなかったが、小村合併の時、本多公の封地であった田中藩の名前を村名とした。田中調整池とか、柏たなか駅が残る所以である。

田中調整池
代官屋敷跡を離れ、田中調整池の周囲堤に沿って南に下る。先には常磐自動車道、堤下には田中調整池(地)と呼ばれる1175ヘクタールにおよぶ広大な農地が広がる。先回の散歩の時に訪れた船戸天満宮にあった「船戸村開拓の碑」によると、「利根川沿いの舟渡から布施・我孫子へ至る広大な水田は、昔は洪水になると作物が流され、ために、流作場と呼ばれた。流作場は江戸の亨保10年(1725)、八代将軍吉宗の新田開発策の一環として実施され、田畑、また牛馬の飼料田の肥料用の秣の草刈り場として使われた。茨城側や鬼怒川口より上流には秣場がなかったため、紛争の因となる地でもあった。流作場は昭和23年に開拓がはじまり、昭和32年に完了。後には区画整理が行われ、現在のような立派な水田となった」、とある。
この広大な農地が調整池と呼ばれるのは、5年か10年に一度の利根川の大洪水のとき、水をこの農地に入れて、東葛地方を水害から護るため。その時は「湖」が出現する、とか。堤防を低くし、利根川の洪水を取り込む越流堤は、少しくだった布施の方にある、とのことである。また、洪水により冠水した農地は共済組合よりの補償金が制度化されている、と。ちなみに調整「地」は国土交通省の使用名であり、調整「池」は農林水産省の使用名とのこと。

姫宮神社
田中調整池周囲堤を進み、常磐道の下をくぐると、堤のすぐそばの台地に緑の一隅が眼に入る。地図で確認すると姫宮神社とある。名前に惹かれて境内に。神社の由緒などは不詳であるが、室町の頃にはこの辺りに集落があったとのことであり、創建はその頃、かと。
境内の案内によると、この社はお姫宮様として親しまれる小青田の鎮守さまであった、とか。小青田とは、なりたエクスプレス柏たなか駅周辺の地名である。神社が新しいのは、常磐鉄道新線(なりたエクスプレス)の施設に伴い、駒木の諏訪神社より隣地を寄進され、従来の境内と合わせて平成9年に鎮守の森として整備されたため。
駒木の諏訪神社とは「お諏訪様」として知られる社である。お諏訪様へのお参りの道として、諏訪道が残るくらいの由緒ある社であり、そこには姫宮神社が祀られ、その御祭神は八坂刀売神。諏訪大神の妃神である。諏訪神社の境内はその昔、現在よりずっと広く、西は諏訪神社、東は姫宮神社の境内であった、という。姫宮と言う地名の字名もあったようであり、また、此の地の姫宮神社は駒木の諏訪神社の兼務社と言うことでもあるので、諏訪神社およびその姫宮神社との関わりのある社ではなかったのだろうか。単なる妄想。根拠なし。
本日の散歩もこれでお終い。つくばエクスプレス・柏田中駅に向かい、一路家路へと。 

流山散歩;往昔、みりん・醸造で賑わった下総流山を彷徨う先日、利根運河を利根川から江戸川へと辿ったとき、江戸川河口近くに「今上落し」と呼ばれる農業用水とおぼしき水路に出合った。流れは南に下り,流山旧市街の辺りで江戸川に注ぐ、と言う。この「今上落し」もさることながら、利根運河の南北に広がる谷津の景観に魅せられ、そのうちに、利根運河の南に広がる流山の大青田湿地や周辺の谷津を南から辿り、利根川運河の北の三ヶ尾の谷津を野田へと歩いてみようと思った。
今回の散歩は、流山から野田へと南北に辿る散歩の第一回。スタート地点の流山を彷徨うことにした。とはいうものの、流山って、江戸から明治にかけて、みりん醸造で賑わったところであるとか、幕末に新撰組局長・近藤勇が降順したところ、といったことしか、街についての知識はない。いつだったか、神田の古本市で手に入れた『みりんの香る街 流山;青木更吉(崙書房)』を本棚から取り出し、家から1時間半ほどの車中にて一読するも、今ひとつポイントが絞れない。とりあえずは郷土資料館(流山では市立博物館)を訪れ、流山のあれこれについての情報を手に入れることにして、あとは資料次第の成り行きで、といった、いつものお気楽散歩のスタイルで流山を彷徨うことになった。

本日のルート;流鉄流山駅>市立博物館>大杉神社>ましや>流山広小路>呉服新川屋店舗>浅間神社>今上落とし>江戸川・今上落常夜灯>矢河原の渡し跡>常与寺>閻魔堂>新撰組流山本陣・近藤勇陣屋跡>見世蔵>流山キッコーマン(株)・万上みりん発祥地>長流寺>一茶双樹記念館>杜のアトリエ黎明>光明院>赤城神社>流山寺>丹後の渡し跡>流山糧秣廠跡>流鉄平和台駅

流鉄流山線・馬橋駅

地下鉄千代田線・JR常磐線直通乗り入れの我孫子行きに乗り、馬橋で下車し、流鉄流山線に乗り換える。二両編成、改札に駅員さんも見えないのんびりとした風情である流鉄流山線は、大正5年(1916)、町民の出資で流山軽便鉄道として誕生し、流山と馬橋の間、5.7キロを結んだ。明治44年(1911)には、野田と柏の間に県営軽便鉄道野田線(現在の東武野田線)が開通し、野田の醤油を柏経由で常磐線に運ぶようになっていたため、流山も鉄道敷設の機運が高まり、町民116名の出資による「町民鉄道」として開通したとのこと。旅客と貨物の輸送、特に、流山で生産される醤油やみりんを馬橋経由で国鉄・常磐線へと結んだ。
大正13年(1924)になると、陸軍の糧秣廠の倉庫が本所から馬橋に移されることをきっかけに、軌道を国鉄と同じ幅に拡張し、糧秣廠への引き込み線を敷設。昭和3年には、みりんの工場への引き込み線もつくられ、貨物の輸送は昭和52年(1977年)頃まで続いた、とのことである。鉄道の名称も、流山軽便鉄道、流山鉄道、流山電気鉄道、流山電鉄、総武流山電鉄を経て平成20年(2008年)には流鉄株式会社となり、路線も総武流山線から流鉄流山線となった。流鉄って、略したものかと思っていたのだが、会社の正式名称ではあった。編成毎に色分けされ、また名称がついた車両はすべて西武鉄道で使われていたもの、とか。

流鉄流山線・小金城趾駅
馬橋を出てしばらくすると小金城趾駅。車窓から小金城趾のある大谷口歴史公園の緑の台地が見える。いつだったか、平安の頃から官営の馬の放牧地であった小金牧、そして、その放牧地を囲う土手である「野馬除土手」を求めて北小金の辺りを辿ったことがあるのだが、そのとき、小金城趾まで足を運んだ。
この小金城には戦国の頃、下総西部を領有した高城氏の居城があった。南北600m、東西800mという大きな構えをもつ下総屈指の城郭であったが、現在は外曲輪の虎口であった達磨口と金杉口が残るだけで、あとはすべて宅地なっている。城趾には、大きな土塁や障子掘や畝掘が残っていた。高城氏が築いた小金城は北条方の西下総の拠点であった。永禄3年(1560年)、長尾景虎こと上杉謙信が関東攻略のため、古河城に進出し、古河公方の足利義氏はこの小金城に逃れ来る。高城氏は謙信の関東侵攻時は、一時謙信に属したとか、いや、謙信の攻城を篭城戦で乗り切ったとか諸説あるも、ともあれ、謙信が越後に戻ると再び北条氏に属する。
永禄7年(1564年)の第二次国府台合戦では、市川付近で兵糧調達を試みた里見義弘、大田資正を妨害するなど、北条軍の勝利に貢献。天正18年(1590年)の秀吉による小田原征伐に際しては小田原城に入城し秀吉と戦うも、小田原開城とともに、居城・大谷口の小金城を開城。江戸時代は700石の旗本、御書院番士そして小普請として続くことになる。

坂川
小金城趾駅を越えるとほどなく坂川を渡る。この川は利根川と江戸川を結ぶ北千葉導水路の一部となっており、坂川放水路とも呼ばれる。水路は印西市木下(きおろし)と我孫子市布佐の境辺りで利根川から取水し、手賀川・手賀沼の南を手賀沼西端まで地下水路で進む。手賀沼西端では、手賀沼に注ぐ大堀川を大堀川注水施設まで川に沿って地下を進み、注水施設からは南へと下り、流山市の野々下水辺公園(野々下2-1-1)にある坂川放水口から坂川に水を注ぐ。地下を流れてきた水路は放水口からは開渠となって江戸川へと下ってゆく。
北千葉導水路の役割は、第一に東京の水不足に対応するため利根川の水を江戸川に「運ぶ」こと。次に、手賀沼の水質汚染を防ぐこと。柏市戸張新田にある第二機場では直接手賀沼に、大堀川注水施設では大堀川の水質改善も兼ねて大堀川経由で手賀沼を浄化する。そして、第三の目的としては、周辺より地盤の低い手賀川や坂川の洪水対策として、あふれた川の水を利根川や江戸川に放水し水量を調節する、といったこと。いつだったか我孫子から手賀正沼を辿り、手賀正川から印西市木下の利根川堤まで歩いたことがある。北千葉導水路にはそのとき出合ったのだが、ここでその一端に触れることができて、なんとなく心嬉しい。

流鉄流山線・流山駅
坂川を超えると鰭ヶ崎駅。「ひれがさき」と読む。地名の由来が弘法大師伝説に登場する神龍の「ひれ」故とか、台地の地形が魚の「背びれ」に似ているから、とか、あれこれ。駅の近くには名刹・東福寺がある、と言う。
二輌連結の車輌は平和台の駅を過ぎると流山駅に到着。駅前は予想以上に「つつましやかな」雰囲気。江戸の頃は江戸川の水運やみりんの製造で栄え、明治期には葛飾県庁もおかれた西下総地域の中心地といった姿は、今は昔、といった静かな佇まいである。

六部尊

駅前を北へ、県道5号・流山街道を流山市市立博物館に向かう。図書館と博物館のある台地への上り口辺りに祠がある。案内によると、明和4年(1767)建立の六部廻国の石塔が祀られる、とのこと。六部廻国とは法華教六十六部を書き写し、全国六十六カ所の霊場に一部ずつ奉納して廻ること。その巡礼または遊行の僧を六十六部と称し、白衣に手甲・脚絆・草鞋がけ、背には阿弥陀尊を納めた長方形の龕(がん)を負い、六部笠をかぶった姿で諸国をまわった。六十六部は物乞い、行き倒れも多く、その場所には六部塚がつくられた、とのことだが、この地にの六部尊は巡礼を終えた記念に建てられたもの、と言う。

流山市市立博物館
台地に上り、市立博物館で流山の歴史や、流山と言えば新撰組、といった幕末の流山と新撰組に関するあれこれを、ざっと頭に入れる。受付で頂戴した『水と緑と歴史の流山 タウンナビ』なども、流山の右も左もわからない者にも心強いお散歩マップである。
流山の歴史のおさらい;流山地域の台地には石器時代、縄文、弥生といった時代の遺跡も残り、戦国の頃も先ほどの小金城、そしてその支城である深井城址(利根運河沿い)、花輪城址(流山市街の北)、前ヶ崎城址(坂川流域;前ヶ崎字奥之台409-1)などに人跡が残るが、流山駅前の旧市街の辺りが歴史に登場するのは建久8年(1197)の頃、市街の南にある「丹後の渡し」こと、「矢木(八木)の渡し」の記録がはじめて。とは言うものの、「矢木(八木)の渡し」は所詮、中世の荘園である風早荘八木郷への渡し場、ということであり、現在坂川の上流部に「八木」を関した学校名などが残るので、流山の旧市街からは少し離れるし、そもそも「流山」の地名が記録に登場しないと言うことは、流山の旧市街には未だ人が住んでいたわけではない、と言うことではあろう。
また、旧市街には鎌倉時代創建との縁起の寺院があるも、それとて、それ以外の寺社の創建は江戸となっており、余りに乖離が激しく、鎌倉創建というのも確証がない、と言うことであり、はっきりとしたことは不明ではあるが、江戸川沿いの低湿地帯である流山駅前の旧市街に人が住み始めたのは江戸の頃からではないか、と『みりんの香る街 流山;青木更吉(崙書房)』は言う。
人が住み始めたと思われる江戸の頃は、流山旧市街、昔の地名で根郷とか宿、そして馬場、現在の流山1丁目から8丁目辺りは天領であったが、それ以外の流山市域は藩領、旗本の領地などが混在していたようである。この博物館のある地、昔の加村は田中藩下総領。先日の利根運河で出合った駿河国の田中藩(静岡県藤枝市)の飛び地であり、この博物館の辺りには先日の田中藩の下屋敷・陣屋があった、と言う。鰭ヶ崎、加村など田中藩下総領42ヶ村でとれる米は良質で、江戸の相場を左右するほどであり、御用河岸である加村河岸から江戸へ運ばれた。また、駒田新田、十太夫新田、大畔新田といった天領からの米は流山河岸から船に積まれたとのことである。
河岸ができた頃にはそこの旧市街の辺りには人が住んでいたのであろうが、そもそも河岸が成立するのは江戸川こと、昔の太日川が舟運の幹線として整備されてから、であろう。流路定まらぬ太日川が整備されたのは、利根川東遷事業により、古来江戸へと下っていた利根川の水を銚子へとその流れを変えてからのことである。その利根川東遷事業が一応の完成をみたのは17世紀中頃、と言うから、東遷事業の一環として、曲りくねった太日川(江戸川)を一種の放水路としてまっすぐな水路に整備し、利根川から江戸川を経て江戸へと結ぶ船運路の中継基地として流山の河岸ができあがり、流山の町並ができはじめたのは17世紀の中頃ではなかろうか。単なる妄想。根拠なし。
良質の米の集散地、名水として知られる江戸川の水、そういえば、葛西の旧江戸川沿いの熊野神社の前あたりは「おくまんだし」と呼ばれる名水で知られていたようであるが、それはともあれ、江戸の頃、良質の米と水をもとに酒の醸造からはじまり、みりんで栄えた流山の町は、明治の御一新になり葛飾県の県庁が置かれるほどになっていた。葛飾県庁はもともとは東京の薬研堀に置かれていたようだが、明治2年(1869)には田中藩が房州長尾に国替えとなり、流山にあった下屋敷が空いたため、この地に県庁が移された。
その後明治4年(1871)の廃藩置県により房総30余の県は木更津県、印旛県、新治県の3県に統合され、この地は印旛県となり県庁は行徳におかれるも、明治5年(1872)には県庁所在地となった佐倉の庁舎建設が間に合わず、明治6年(1873)に印旛県と木更津県が合併し千葉に県庁が移されるまでは、この流山が印旛県の県庁所在地となった。今は静かな街並みではあるが、明治の頃は、この流山は商家が酒造蔵やみりんの醸造蔵が建ち並び、下総の中心地ではあったのだろう。
因みに、田中藩は先日の利根運河散歩のときにメモしたように、元和元年(1616)、本多正重がこの下総の地を拝領したのがはじまり。本多正重は家康の重臣・本多正信の弟。家康の家臣であったが、一時期出奔し、滝川一益、前田利家、蒲生氏郷などに仕えるも、結局は徳川家に帰参。関ヶ原の合戦、大阪の陣で秀忠をよく支え、その功もあって、この相馬・下総の地を拝領した。その後、本多氏は上州沼田城2万石、享保6年(1722には)駿河国の田中城(静岡県藤枝市)へ田中藩4万石として転封されるも、この下総の地は上知(返上)されることなく、田中藩船戸村として、本多氏は代々250年の長きにわたり、この地で善政を施した、とのことである。

大杉神社

博物館を離れ、県道5号・流山線を北に進み、文化会館前交差点を越えるとほどなく道の西側、住宅に囲まれたところに大杉神社があった。如何にも、あっさりとしたお宮さま。大杉神社に最初に出合ったのは江戸川と中川に挟まれた江戸川区大杉にある大杉神社である。その後、川越から新河岸川を下る途中、富士見市の百目木(どめき)河岸の先でも出合った。
大杉神社の本社は茨城県稲敷市。その昔は霞ヶ浦、利根川下流域、印旛沼、手賀沼などを内包した常総内海に突き出た台地上に神木である杉の大木があり、その大木は舟運の目印でもあったようであり、ために、海上交易や船を水難から護るという言い伝えから、船頭・船問屋に信仰された、という。この地の大杉神社はこの辺りの加村の産土神。加村河岸など、江戸川の船運の安全を祈る社ではあったのだろう。
大杉神社のある加村って、全国でも珍しい一音の面白い地名。チェックすると、その由来は、桑原郷が桑村となり、加村となった、とか、クワの「ク」は「崩れ」で「ハ」は端。崩れた端、から、とか、川が転化したとか、船荷を架したことに由来するとか、例によって諸説あり、定まることなし。

流山広小路

大杉神社を離れ、流山広小路へ。広小路の手前に立派な蔵をもつ老舗の呉服屋「ましや」がある。元々醸造業であったが、安政6年(1859)に呉服屋となり、「増屋」と名乗る。「ましや」となったのは戦後のこと。流山広小路って、上野広小路ではないけれど、江戸の頃の地名だろうと思っていたのあが、実際は、昭和27,8年頃、「ましや」のご主人の命名、とのことである。
広小路は田中藩加村と天領であった流山の境。ここから南は流山の根郷となる。根郷は本郷とか本田と同じく集落のはじまりの地といったもの。現在本通り(表通り)は県道に移ってはいるが、元々の本通りである旧道を古い街並みを眺めながら南に進む。

旧道

旧道こと、もとの本通り(表通り)は江戸川が長い年月をかけて築いた自然堤防の跡と言われる。『みりんの香る街 流山;青木更吉(崙書房)』によると、明治の末までは江戸川には堤防はなく、この本通りが堤防であった、とか。自然堤防上に1mほど高く土を積み上げ、水面より2mほど高い堤防ではあったようではあるが、それで江戸川の洪水を防げるわけもなく、流山はしばしば洪水被害を被ったとのこと。
洪水被害を防ぐべく、大正時代と昭和30年代の二度に渡る江戸川堤防改修工事により、現在の江戸川の堤防ができたわけだが、そうなると自然堤防の盛り土が邪魔になりを、今度は自然堤防を削り道路として整備した、と言う。現在、旧道を歩いても、周囲とそれほどの段差を感じないのは、こういった事情であろう、か。

呉服新川屋

道を進むとほどなく呉服新川屋。広化3年(1846)創業の商家。国の登録有形文化財となっている土蔵造りの店舗(見世蔵)は明治23年(1890)に建築された。ところで、見世蔵って、土蔵の一種ではあるが、通常の倉庫や保管庫といったものではなく、店や住居としても使用している蔵のこと。江戸時代以降、商家の建築様式のひとつになっている。




浅間神社

新川屋から先に進むと、ほどなく浅間神社。旧道がもとの自然堤防であったためか、心持ち境内が道より低く感じる。この根郷の鎮守さまは江戸初期の創建。新撰組を包囲した新政府軍が境内裏に仮本陣を敷いたところでもある。本殿裏に市指定文化財の富士塚がある。富士塚が築かれたのは明治24年。そこに祀られる「富士浅間大神」の碑は明治19年と言うから、浅間大神さまが先に祀られ、その後に富士塚がきずかれた、とか。溶岩船で運ばれてきた、と言う(『みりんの香る街 流山;青木更吉(崙書房)』)。


今上落し

浅間神社を離れ江戸川の堤へと向かう。堤の手前に「今上落し」の水路があった。「今上落し」に最初に出合ったのは利根運河の散歩のとき。野田の野田橋のちょっと南からはじまり、江戸川の一筋東の水田の中を進み、利根運河の下を潜り(今上落悪水路伏越)、流山1丁目で江戸川に注いでいる。利根運河の辺りは水田の中の水路ではあったが、流山では自然の小川といった風情となっている。




「今上落し」は元々、水田の農業用排水路ではあったのだろうが、この流山市街では江戸川から一筋街へ入った舟運の水路の役割をも果たしていたのではないだろうか。実際、昔、「今上落し」は流山3丁目の万上のみりん工場のあたりまで続いていたようであり、江戸川の堤が大正、昭和に渡って築かれた後は、堤一筋街側を流れる「今上落し」を舟運路として活用したのではなかろう、か。舟運路としては重宝した「今上落し」ではあるが、洪水時は江戸川からの逆流が押し寄せ、街が水害に見舞われることになった、と言う。

江戸川堤
「今上落し」が江戸川に注ぐ辺りを堤に上る。江戸川の河川敷が美しい。「今上落し」が江戸川に注ぐ水門のところに「今上落常夜灯」がひっそり佇む。行徳の河岸にあった常夜灯に比べ、まことに小ぶりな石塔であり、実際に使われたようには思えない。思うに記念碑といったものとして造られたものではなかろう、か。石塔の建立年をチェックしておけば、と今になって思う、のみ。
既にメモしたように、この江戸川の堤は大正と昭和の2度に渡って改修工事が行われた。第一回は大正3年。底幅も高さも現在の半分ほどであった、と言う。二度目は昭和30年代。キャサリン台風の被害がきっかけで大規模改修工事が実施された。底幅も拡げられ、根郷の南部と宿では表通りが堤防にかかることになり、それがきっかけで表通りが現在の県道に移り、元々の本通りが旧道となった、とか(『みりんの香る街 流山;青木更吉(崙書房)』)。それはともあれ、人工の堤防ができるまでは流山広小路から南に下る旧道が自然堤防であり、土積みをおきない川面より2mほどは高かったようではあるが、その程度で洪水を防げるはずもなく、水害に悩まされ続けた地域も堤防の完成によって、被害が大幅に改善された、とは既にメモした通り。

流山の水運華やかなりし頃は、田中藩の御用河岸・加村河岸、幕府天領の流山河岸、加村河岸の北には輪河岸(三輪野河岸)、また、みりん醸造・秋元家の天晴河岸、堀切家の万上河岸など、利根運河を往復する蒸気船・通運丸の蒸気宿などで賑わった川辺は今は昔の静かな川面が広がるのみである。ちなみに、流山から行徳までは4時間、酒問屋の集まる日本橋小網街へは朝6時に出航すれば夕方には着いた、とか(『みりんの香る街 流山;青木更吉(崙書房)』)。


矢河原の渡し跡
「今上落し常夜灯」から堤を少し北にすすむと「矢河原の渡し跡」の標識。「やっからの渡し」とも「加村の渡し」とも呼ばれ、昭和10年、下流に流山橋ができた後も、昭和35年頃まで続いた、という。
この渡しは、流山に陣を敷いた近藤勇が、官軍に降順し越谷へと流山を後にした地として知られる。諸説あるも、一説では、慶応4年(1868)4月3日未明、東山道鎮撫総督府副参事である薩摩藩士・有馬藤太は威力偵察により新撰組の流山駐屯を知り、有馬率いる官軍の一隊が新撰組を包囲。突然の官軍の出現に驚いた新撰組は銃を放つも官軍は応戦せず。そこに、大久保大和と名乗る近藤勇が出頭し、下総鎮撫隊として治安維持を図る幕軍である旨を伝える。
有馬は、官軍参謀のいる越谷への同道を求めると、大久保こと近藤は出立準備のため、しばしの猶予を求める。同日午後3時頃には官軍主力が矢河原の渡しの北にある、羽口の渡しを経て流山に着陣。夕刻には出頭の遅れにしびれを切らした有馬は本陣のある長岡屋に乗り込み、早々の出立を求めたと、言う。思うに徹底抗戦派の土方との意見の相違があった、とか、否、切腹を図る近藤を土方が説得した、とか、幕府治安維持部隊との主張が偽りで新撰組局長であることは官軍の知るところであり出頭は危険である、といった意見噴出で出頭に時間がかかった、とも。とは言うものの、官軍も幕軍もその動向はあれこれ諸説あり、はっきりしたことはわからない。ともあれ、午後10時頃(これも8時頃との説もある)には矢河原の渡しを越えて、越谷に出向いた。結局は近藤勇であることが官軍の知るところとなり、4月25日、板橋で斬首の刑となった。JR板橋駅前で近藤勇の供養塔があったが、これでやっと流山から板橋への襷が繋がった。

常与寺

江戸川堤を離れ、旧道に戻る。先ほど訪れた浅間神社の南に常与寺がある。鎌倉時代創建の日蓮宗寺院とのこと。とはいうものお、旧市街にはこのお寺さま以外に鎌倉といった古い創建の寺社はなく、創建年代の隔たりが300年程もあるということで、鎌倉創建に少々違和感がある、といった説もある(『みりんの香る街 流山;青木更吉(崙書房)』)。
境内には「千葉師範学校発祥の地」の碑。明治5年(1872)、県内最初の「流山学校(小学校)」と教員養成のための「印旛官員共立学舎(後の千葉師範学校=千葉大学)が設置されたとのこと。共立学舎は明治6年、印旛・木更津県の合併により千葉市に移った。

閻魔堂
常与寺の一筋南の通りに閻魔堂。閻魔堂と言っても、閻魔堂らしき祠があるわけでもなく、ごくありふれた民家と見まがう家が現在の閻魔堂のよう。安永5年(1776)の作との閻魔様はその民家の居間の奥といったところに安置されていたようだ。ちょっと勇気を出して拝観しておけばよかった。
閻魔堂には、江戸時代の義賊で天保六歌仙のひとり、金子市之丞の墓がある。金持ちから盗んだ金を貧しい人に分け与えた、といった話が伝わる。とはいうものの、この義賊、記録によれば「流山無宿 市蔵かねいち事盗賊悪党につき大阪にて召し捕られ、今日小塚原へ引き回し獄門にかかり候由」、とある。悪党と呼ばれ、義賊のかけらも感じられない。『みりんの香る街 流山;青木更吉(崙書房)』によれば、盗賊悪党の流山無宿である市蔵かねいちが、義賊に変わっていったのは講談や歌舞伎の影響である、とのこと。講談「天保六花撰」において、河内山宗春、片岡直次郎、暗闇の丑松、とともに流山醸造問屋の倅・金子市之蔵、花魁の三千歳として登場し、また、明治14年には歌舞伎「天衣紛上野初花」と言った演目ともなっている。かくのごときプロセスをへて、単なる盗賊悪党が義賊へと「昇化」されていったとのことである。

新撰組流山本陣・近藤勇陣屋跡

閻魔堂のある細路を先に進むと道脇の蔵の前に「誠」の旗印。慶応4年(1868)4月、新撰組が本陣とした醸造家「鴻池」(永岡三郎兵衛)の跡地である。慶応4年(1868)3月6日、甲州勝沼で敗戦の後、新撰組を主力とする150名の甲州鎮撫隊は江戸へ敗走。3月13日の夜、大久保大和(近藤勇)以下48名が浅草から五兵衛新田(足立区綾瀬)に、2日後には内藤隼人(土方歳三)が率いる50名も到着。幕府天領であった五兵衛新田(足立区綾瀬)で隊士を増強し、慶応4年(1868)4月1日の深夜、200名が流山を拠点にすべく陣を移し、ここ醸造家「鴻池」(永岡三郎兵衛)の屋敷を本陣に、光明院、流山寺などに隊員を分宿させた、と伝わる。流山に着陣の目的は、加村の田中藩の陣屋を奪うとか、天領であり調練に便利であったとか、あれこと。根拠はないが、江戸川を前にすることにより安心感もあったのだろう、か。実際、4月11日には大鳥圭介の率いる幕軍2500名が江戸川を前面に配した市川に布陣している。
一方官軍の動きであるが、諸説あるも、3日未明には官軍の一隊、午後には官軍主力も流山に着陣。羽口の渡し(三輪野の渡し)を越えて、流山北方から進出。広小路で三手に分かれ、一隊は本通りを進み光明院や流山寺に対峙しながら新撰組本陣を窺う。また、一隊は浅間神社に進出し、錦の御旗を立てる。ここが官軍本陣といったところだろうか。残る一隊は加村台地(市立博物館のある台地)に進出し大砲を備えた、と。
合戦の模様は詳しくは分からない。分からないが、このような両軍があまりに接近した陣立てで激しい合戦が行われたようには思えない。思うに、幕府治安部隊として、不逞の徒から町の治安を護る、といったスタンスを保つ隊員200強の新撰組と、それを不審に思いながらも今ひとつ新撰組との確信のない800名弱の官軍が様子眺めの睨み合いをしていたのだろう、か。不意をうたれた新撰組が大敗し降参したとか、加村から大砲をうったのは新撰組であるとか、諸説あり流山の両軍の合戦模様はよくわからない。合戦の様子はあれこれ不明ではあるが、「流山宿内の者は大人も子どももみさかいなく立ちのき、近郷や近村へ逃げ去り、近在の者までが皆あわて騒ぎ、共々に難渋したのである」と住民は多いに迷惑したようである。
流山の後の近藤勇は既にメモしたとおりであるが、近藤と別れた副長の土方は、旧幕府軍と合流し、鴻之台(市川市国府台)で大鳥圭介軍に合流し、小金宿(松戸市北小金)などを経て、宇都宮、会津と転戦し、函館で戦死。奥州道中などの主要路は、既に新政府軍が押さえていたため、布佐(我孫子市)から利根川を船で下り、銚子から船を乗り換え、潮来から陸路で水戸街道へ抜けるという、つらい移動であった、とか。

見世蔵
新撰組本陣跡から本通り(現在の旧道)に戻り、南へと進む。と、ほどなく万華鏡ギャラリー見世蔵。明治22年(1890)に建築された「寺田園茶舗」跡であり、現在はコミュニティスポットになっているほか、万華鏡作家である中里保子さんの作品を展示している。見世蔵って、土蔵の一種ではあるが、通常の倉庫や保管庫といったものではなく、店や住居としても使用している蔵のこと。江戸時代以降、商家の建築様式のひとつになっている、とは既にメモしたとおり。



流山キッコーマン(株)・万上みりん発祥地
道を進むと流山キッコーマン(株)の工場がある。ここが流山で「天晴」ブランドとともに名高い「万上」ブランドのみりん発祥の地である。創業は明和3年(1766)、埼玉の三郷からこの地に移ってきた堀切家・相模屋が酒の醸造をはじめたことに遡る。
18世紀後半にはミリンの製造をはじめ、また、19世紀の前半になって流山みりんの持ち味ともなった、白みりんの製造をはじめることになる。もち米と米糀によってつくられるみりんは褐色であったが、それに焼酎をくわえることにより白くなったみりんは江戸の人々に好評で、上方からの褐色のみりんを駆逐した。
現在は調味料として使われるみりんであるが、みりんは古来より甘い酒として愛用されていた、とか。「その味甘く、下戸および婦女好んでこれを飲む」、とある。調味料として使われるようになるのは明治の後半、本格的には昭和になってから、とのことである。
万上の由来は宮中に献上の折り、「関東の 誉れはこれぞ一力で 上なきみりん 醸すさがみや」と詠われたことによる、と。ら「一力」を「万」の字に代え、「上なき」の「上」をとって「万上」とした、と言う(『みりんの香る街 流山;青木更吉(崙書房)』)。
堀切家の相模屋は1917年には万上味醂株式会社、1925年には野田醤油醸造株式会社、1964年にはキッコーマン醤油株式会社、1980年にはキッコーマン株式会社、2006年にはキッコーマン殻分社化され、流山キッコーマン株式会社として現在もみりん製造を行っている。

長流寺

江戸初期の浄土宗寺院。境内の両側に梅の木が並び、銀杏の大木がそびえている。新撰組隊士も分宿した、と言う。

一茶双樹記念館
先に進むと一茶双樹記念館。万上の堀切家とともに、みりんで財を成した秋元本家五代目三佐衛門(俳号「双樹」)と俳人小林一茶との交誼を記念したもの。安政年間(19世紀中頃)の家屋を解体修理し往時の主庭と商家を再現している。秋元家も堀切家と同じく埼玉の出身。八潮からこの地に移り、酒造りをはじめる。秋元家がみりんや白みりんの製造をはじめたのは万上の堀切家と同じ頃とのこと。「天晴」ブランドとして好評を博した。

この秋元本家五代目当主三佐衛門は俳号「双樹」をもつ俳人でもあり、一茶のよき理解者であった、とか。ために一茶は双樹の元に足繁く通った、と。その数五十四度に及ぶ、と言う。この地で多くの句を詠んでいるが、いつだったか我孫子を歩いた時に、市役所近くに一茶の「名月や江戸の奴らが何知って」が句碑として建っていた。そのときは流山の秋元家との関係も知らず、ひたすら、この地で見る月はさぞや美しかったのだろうな、などと思っただけではあったのだが、この句も流山へと道すがら、下総を彷徨ったときに詠んだ歌なのではあろう。
もっとも、一茶の句集にはこの句の記録がなく、誰の作か不明、との説もある。それはともあれ、この記念館にも「夕月や流れ残りのきりぎりす」との句碑が残る(平成7年に建てられたもの)。江戸川の洪水の後の風情を詠ったもの、と言う。
秋元家の天晴みりんは現在その製造はおこなっていない。大正11年秋元合資会社、1940年、帝国酒造に売却、1948年には東邦酒造に売却、1965年には三楽オーシャンに急襲合併。1985年三楽株式会社に社名変更、平成2年(1990年)にはメルシャン株式会社に社名変更となるも、流山での操業はすべて停止し、工場跡地はケーズデンキとファッションセンターしまむらとなっている。

ところで、流山でどうしてみりんの醸造が栄えたのだろう。あれこれチェックするに、流山近辺で生産されていた名産のもち米、おいしい江戸川の水、江戸への船運もさることながら、醸造元である堀切家と秋元家の切磋琢磨に負うところ大、とのこと。販売促進にもつとめ、文政7年、8年(1824,25年)の頃には江戸での人気をもとに、全国に広がっている。また、1873年のオーストリアの万国博覧会には両社ともに出展し有功賞牌授与を受賞している。かくのごとき努力の賜ではあろう。

杜のアトリエ黎明
一茶双樹記念館の斜め前に鬱蒼と茂る屋敷林とお屋敷。「杜のアトリエ黎明」とある。秋元家の分家である秋元平三こと「秋平」、とも「見世の家」とも呼ばれたお屋敷跡。分家「秋平」の五世平八は俳号を「酒丁」と称し、菱田春草の後援者として知られるが、それ以外にも文人墨客との交誼も広く、岡倉天心や横山大観もこのお屋敷を訪れたとのこと。折しも、「酒丁と赤城神社」といった企画展が開かれており、そこにはこのお屋敷を訪れた、皇族や芸術家が紹介されており、中にはお散歩随筆でお気に入りの田山花袋の名もあった。
「アトリエ黎明」の由来は、画家であった秋元松子さんと、その夫で同じく画家であった笹岡了一氏が戦後の昭和32年、このお屋敷にアトリエを建て柳亮の主催する絵画研究会「黎明会」活動を行っていたことによる。その後、この屋敷を寄贈するにあたり、「アトリエ黎明」の名を残し、創作・文化活動の場として新たに生まれ変わった、とのことである。

光明院

「杜のアトリエ黎明」を離れ先に進むと光明院。真言宗寺院であり、赤城神社の別当寺。幕末には新撰組が分宿した。秋元双樹の眠るお寺様でもあり、境内に双樹と一茶の連句の碑や双樹の句碑が残る。
「豆引きや跡は月夜に任す也」と双樹が詠えば、それに対して「烟らぬ家もうそ寒くして」と一茶が返す。文化元年(1804)の連句である。「豆の引き抜き作業も終わり、後はお月さんにお任せしよう。夕餉の支度の煙も見えたり見えなかったりではあるが、秋の夕暮れは少し寒い」といった意味だろう。この文化元年(1804)は流山が洪水被害に見舞われた年でもある、先ほど一茶双樹記念館で見た「夕月や流れ残りのきりぎりす」は、こと年の句であろう、か。また、本道の前庭に双樹の句碑「庭掃てそして昼寝と時鳥」。ゆったりとしたお大尽のゆとりの感じられる句と評される。
境内を歩いていると、木に案内があり、「タラヨー;多羅葉」、別名「ハガキの木」とのこと。この木の葉っぱの裏を堅い物でひっかくと、30秒ほどで文字が浮かび上がる、とか。「葉書」の語源とも言われる。古代インドではこの木と似た貝多羅(バイタラ)樹に経文を書き写し、法隆寺には「貝多羅般若心経写本(八世紀後半)」が伝わっている、とのことである。

赤城神社

光明院のお隣りに赤城山と呼ばれる小山があり、そこに流山村宿地区の鎮守様赤城神社が祀られる。比高差10mほどのこの小山が流山の地名の由来ともなったところ、とか。上州の赤城山が崩れてこの地に流れ着いた、との伝説があるが、そんなわけもなく、近くの台地が洪水によって切り離された、とか、江戸川を流された砂礫が長い年月にわたって積もり積もって小山を造ったとか、そして、その小山が、吉田東吾が「この丘も江中にありて、形状流移するものに似たりければならん」と描くように、「丘は川の中にあり、その丘が流れるように見えたから」、とか、また、高台の斜面林が長く連なった山のように見えたため、「長連山」が転化した、とか、例によって地名に由来はあれこれ。

神社にお詣りし、石段を下ると、右側に一茶の句碑がある。「越後節 蔵にきこえて秋の雨」。酒の杜氏が謳うのだろうか、一茶が故郷を懐かしむ。参道を本通り・旧道へと向かうと、正面山門に巨大な注連縄。市の無形文化財とのことである。

流山寺
丹後の渡し跡へと江戸川に向かう途中に流山寺。秋元、相模屋、紙喜、鴻池とともに流山を代表する醸造家「紙平」の浅見家が再興した。幕末には新撰組の隊士が分宿したお寺でもある。境内には第二次世界大戦のとき、米軍艦載機の機銃掃射跡のある句碑が残る

丹後の渡し跡
流山寺脇を抜け、江戸川の堤に出ると丹後の渡し跡。八木野の渡しとも呼ばれるこの渡しは、慶応4年(1868)4月1日、新撰組が五兵衛新田(足立区綾瀬)を離れ、この流山に来たときに利用したとも伝わる。
丹後の渡しとも、八木野の渡しとも呼ばれる所以は、中世の風早荘八木郷(八木村と流山村の一帯。坂川の上流部には八木小学校といった名前が残る)の支配者・井原丹後が二郷半領(三郷市早稲田辺り)を開拓するときに渡った、から。上でメモしたように、建久8年(1197)には矢木(八木)の地名が文献に残るので、流山一帯では古くから開けたところであったのだろう。丹後の渡しは昭和10年、流山橋ができるとともに廃止された。

秋元醸造跡地
江戸川の堤を離れ、流山糧秣廠跡へと向かう。途中、光明院と一茶双樹記念館脇の道を進むと右手にケーズデンキとファッションセンターしまむらが見える。ここは秋元の工場、と言うか、メルシャンの工場跡地である。

流山糧秣廠跡
道を進み県道に出ると、正面にイトーヨーカドーなどの大型ショッピングセンターが見える。このショッピングセンターやその南の流山南高等学校を含む一帯は、大正14年(1925)から昭和20年(1945)にかけて陸軍の流山糧秣廠があったところ。糧秣廠とは兵員や軍馬の食糧を保管、供給する軍の施設ではあるが、この施設は馬糧すなわち軍馬の糧秣を保管、供給することを任務とし、近衛第一師団隷下の各部隊や宮内省警視庁に供給した、と言う。
もとは陸軍馬糧倉庫として東京本所錦糸堀にあったものが、周辺に家屋が建ち、火災の危険もある、という状況となり1922年(大正11年)に本所秣倉庫移転が起案。移転先として流山が選ばれた。流山が選ばれた理由は千葉・茨城という干草原料の生産地をひかえていたこと、また、江戸川の水運も利用できるという交通の利便性、そして比較的東京に近いという地理的条件もあった。流山糧秣廠移転に先立って、流山鉄道が国鉄と繋ぐべく軌道を広げ、引き込み線などを用意したといった鉄路については先にメモした通りである。開庁は1925年(大正14年)である。
戦後北側はキッコーマンの倉庫群、南側は住宅や学校敷地をへて、現在のショッピングコンプレックスとなっている。道路脇にはキッコーマンが立てた「流山糧秣廠跡」の碑と、その裏手には如何にも軍馬の糧秣廠の名残を伝える「千草神社」が佇む<。

流鉄平和台駅
日も傾いてきた。イトーヨーカドー脇の道を進み流鉄平和台駅に向かい、本日の散歩を終える。次回は流山から北へと向かう事にし、一路家路へと。 酒の醸造からはじまった流山のみりんではあるが、酒の醸造は明治末で終えている。また、万上の焼酎も平成8年には流山でのその歴史を閉じた。現在では江戸川沿いの流山キッコーマンだけがみりん醸造の伝統を今に伝えていた。
流山には銭湯が無かった、という。みりんを製造する過程でできる熱湯を社員用の浴場に使い、社員だけでなく町の人達も利用したり、熱湯そのものを無料で給湯したから、とのことである(『みりんの香る街 流山;青木更吉(崙書房)』)。 

利根運河散歩

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利根運河のことを知ったのは、いつの頃だったろうか。小金の牧の一端でも感じてみようと、南柏の野馬除土手を見に出かけ、次は流山か野田を歩こうと思っていた頃だろう、とは思う。なにかフックになるところはないかと、地図を見やると、北の野田市、南の柏市・流山市のほぼ境、利根川から江戸川へと通じる水路が目にとまった。それが利根運河であった。全長8.5キロほど。明治23年(1890)、オランダ人技師であるムルデルやデ・レーケの指導のもと開削された日本初の西洋式運河。それまでは、銚子で荷揚げされた物資を東京に運ぶには、利根川を関宿まで遡り、そこから江戸川を下るといった案配で、3日かかったものが、この運河の開削によって1日で東京に届くようになった、とか。最盛期は1日に100艘もの船で賑わい、昭和15年に閉鎖になるまで100万艘の船が往来した、と言う。そのうちに運河を辿ろうと思ってはいたのだが、なんとなくきっかけがなく、そのままになっていた。「状況」が動いたのは先日、秋葉原で開かれた古本まつりで、『水の道 サシバの道 利根運河を考える;新保國弘(崙書房)』を手に入れたこと。運河の歴史や周囲を取り囲む谷戸の景観、中型のタカであるサシバの渡りの中継地といった自然環境のことを知り、これはもう、行くに如かず、とフックがかかった。運河の全長は8.5キロ程度、時間次第では谷津・谷戸や湧水などを探して寄り道しても20キロ程度だろう、と晩秋の週末、利根運河を辿ることにした。



本日のルート;秋葉原駅>つくばエクスプレス・柏たなか駅>医王寺>船戸天満宮>田中調整池周囲堤防>北部クリーンセンターに>運河水門>運河揚水機所>利根運河¥利根川口>運河水門>水堰橋>三ヶ尾の谷津>大青田湿地>国道16号・柏大橋>下三ヶ尾の谷津>ふれあい橋>東武野田線運河橋梁>運河橋・運河水辺公園>利根運河交流館>窪田味噌醤油・窪田酒造>利根運河大師>西深井湧水>におどり公園>運河大橋>今上(いまがみ)落し>利根運河・江戸川口深井城址>東武野田線・運河駅


つくばエクスプレス
利根運河への最寄り駅を探す。東武野田線に、その名もずばりの「運河駅」がある。が、如何せん、運河の「途中」。どうせのことなら、利根川口か江戸川口か、いずれにしても「川口」からはじめようと地図をみる。と、つくばエクスプレスが利根運河の利根川口近くを通り、「柏たかな」という駅が目についた。駅は利根川からも運河からも少々離れてはいるのだが、運河の周辺を辿り、運河の利根川口に向かうことにした。
つくばエクスプレスは秋葉原始発。まったくのはじめての路線である。地下をくぐったり、地表に出たりしながら足立区、八潮、そして三郷を超えて流山に入る。途中「流山おおたかの森」といった駅があった。気になってチェックすると、このあたりの森には「大鷹」の営巣が千葉県ではじめて確認された「市野谷の森」があり、その森が駅名の由来である、と。その森も保存されているとはいうものの、宅地開発のため、規模が縮小されている、と言う。

つくばエクスプレス・柏たなか駅
柏たなか駅で下車。それほど宅地も多くないのもかかわらず高架となっているのは、利根川の周囲堤(遊水地・調整池と堤内地を仕切るための堤防)を越すため、と言う。地形図を見るに、駅は台地と低地の境あたり、台地と谷津(戸)の間の斜面に建つ。ものごとには、それなりの理由がある、ということ、か。ところで、何故に「たなか駅」なのか。気になりチェックすると、その由来は江戸開幕期、豊臣方との大阪の陣での活躍を認められた本多正重が元和2年(1616)に下総と相馬の1万石を加増された時に遡る。その後本多氏は上州沼田城の2万石を経て、享保6年(1722)駿河国の田中城へ4万石として転封されるも、この地は田中藩の飛領地として代官所が置かれていた。そして、明治に至り、明治21年(1888)の町村制施行のとき、田中藩の善政を徳とし、村名を田中村、とした。駅名は、この田中村からのものだろう。

医王寺
利根川口までの道筋で、どこか見所は、と駅前で地図を見る。由緒などはわからないが、途中の医王寺、そしてその近くに船戸天満宮が目にとまる。まずは医王寺へと向かう。
駅前は開発がはじまったばかりの印象。台地をならし、農地の間に宅地が開かれはじめている。道なりに進むと前方に常磐自動車道。台地の間を縫って走ってきたのか、自動車道に近づくにつれ、緩やかで自然な坂となる。自動車道を潜り、再び緩やかな坂を上り、船戸地区に入ると医王寺が見えてくる。
医王寺は、真言宗豊山派で開基は不詳であるが、本堂はこの船戸に田中藩の代官所が置かれた元和5年(1615年)の建立、と言う。本尊は薬師如来とのことだが、最近つくられたと思える千手観音(平和観音)さまが迎えてくれる。このお寺さまは、「船戸おびしゃ(びしゃ=奉仕)」で知られる。おびしゃ、とは通常、矢を射ることがおおいようだが、この地では矢を射ることはなく、酒の宴で「三助踊り」「三番叟」「おかめ踊り」を演じる、とある。最近は自治会館で行われるようになったようである。

船戸天満宮
医王寺を離れ、道なりに船戸の天満宮に。ほとんど北総台地の端、利根川の低地との境に建つ。社殿は最近建て替えられたばかりのよう。鳥居の近く、玉垣の後ろに5基の庚申塔が並ぶ。宝暦から文化年間、というから18世紀の中頃から19世紀初頭のものである。
境内には牛頭天王、清瀧神社、八幡宮、天照皇大神、金比羅大権現、浅間さまなどの石祠が祀られる。区画整理か、なにかの折りに、船戸村の各所に祀られていたものが、この地に集められたのではあろう。
神社の創建は元和元年(1616)と伝わる。この年は、上でメモしたように、本多正重が此の地を拝領した年である。本多正重は家康の重臣・本多正信の弟。家康の家臣であったが、一時期出奔し、滝川一益、前田利家、蒲生氏郷などに仕えるも、結局は徳川家に帰参。関ヶ原の合戦、大阪の陣で秀忠をよく支え、その功もあって、この相馬・下総の地を拝領した。船戸藩とも呼ばれたようである。
その後、本多氏は上州沼田城2万石、享保6年(1722には)駿河国の田中城(静岡県藤枝市)へ田中藩4万石として転封されるも、この下総の地は上知(返上)されることなく、田中藩船戸村として、本多氏は代々250年の長きにわたり、この地で善政を施した。明治の町村制施行時に田中村とした所以である。
飛領地の代官所(御役所)は、今回行きそびれたのだが、天満宮の少し南西にある三峯神社の近くにあった、とか。そこでは飛領地の北半分の村々を治めた、と言う。ちなみに、南半分を治める代官所は藤心にあった、とのことである。船戸の地名の由来は、船の着く場所=戸が、あったから。常陸・下総・武蔵を結ぶ渡船場があり、また、利根川を関宿に上る船運の休憩所としても賑わった、と伝わる。

田中調整地(池)
境内を彷徨い、台地端より低地を眺める。農地の広がる低地は田中調整地(池)と呼ばれる。1175ヘクタールにおよぶ広大な農地・調整地(池)である。境内にあった「船戸村開拓の碑」によると、「利根川沿いの舟渡から布施・我孫子へ至る広大な水田は、昔は洪水になると作物が流され、ために、流作場と呼ばれた。流作場は江戸の亨保10年(1725)、八代将軍吉宗の新田開発策の一環として実施され、田畑、また牛馬の飼料田の肥料用の秣の草刈り場として使われた。茨城側や鬼怒川口より上流には秣場がなかったため、紛争の因となる地でもあった。流作場は昭和23年に開拓がはじまり、昭和32年に完了。後には区画整理が行われ、現在のような立派な水田となった」、とある。この記念碑、江戸の頃、深さ1mもの沼地の広がる和田沼を中心とした利根川流域の湿地帯の開拓のことなのか、昭和になっての開拓の歴史を記念するものなの判然とはしないのだが、いずれにしても、沼地や低湿地を開拓するのは大変な苦労があったと、往昔の労苦を偲ぶ。

周囲堤を進み運河に向かう
天満宮より医王寺方面に一度戻り、台地を西に下ると、田中調整地(池)との境の堤に出る。こういった、調整池・遊水池と堤内地を仕切るための堤防を周囲堤と呼ぶようだ。右手に広がる、この広大な農地が調整池と呼ばれるのは、5年か10年に一度の利根川の大洪水のとき、水をこの農地に入れて、東葛地方を水害から護るため。その時は「湖」が出現する、とか。堤防を低くし、利根川の洪水を取り込む越流堤は、少しくだった布施の方にある、とのことである。また、洪水により冠水した農地は共済組合よりの補償金が制度化されている、と。ちなみに調整「地」は国土交通省の使用名であり、調整「池」は農林水産省の使用名とのこと。
左手前方に柏市の北部クリーンセンターの建物を見ながら堤上を辿り、利根運河に到着。運河水門なども水路上に見える。これからが本日の本番である。

囲繞堤(いじょうてい・いにょうてい・いぎょうてい)を利根川に
周囲堤が突き当たる堤防が右手の利根川方面に向かって延びる。成り行きで先に進むと、この堤防は運河の堤防ではなく利根川と調整池を隔てる囲繞堤であった。調整池との関連での堤防は、遊水地・調整池と堤内地を仕切るための堤防が周囲堤と呼ばれるのに対し、調整池・遊水地と河道を仕切るための堤防のことを(いじょうてい・いにょうてい・いぎょうてい)と呼ぶ。
河川と調整池を遮るものであるので、運河の水路とは関係なく、距離はどんどん離れてゆく。どこか適当なところで堤防を降りて運河へと向かいたいのだが、運河方面へのエスケープルートが、ない。結局常磐道近くまで囲繞堤を進み、かろうじて堤防を降り運河方面への細路を見つけ、運河へと引き返す。水がなかったからよかったものの、時期に寄ってはクリーンセンターあたりまで引き返すことになった、かも。

運河揚水機場
運河跡の水路を利根川口へと先に進むと、塵芥除去用の堰のような施設が運河を堰き止めている。あとからチェックすると運河揚水機場のようであった。現在も機能しているのかどうが定かではないが、この施設は利根川の水を運河に取り込む施設であったようである。
上でメモしたように、利根川と江戸川をショートカットで結び、船運大いに栄え、明治28年(1895)には東京から銚子までの144キロを18時間で結ばれるまでになった利根運河の舟運であるが、明治29年(1896)には日本鉄道土浦線が開通し、田端から土浦が2時間で結ばれるようになる。船運では1泊2日かかった距離である。更に明治30年(1897)には総武鉄道(後の総武本線)銚子と東京が4時間で結ばれるようになると、舟運は次第に衰え、鉄路が長距離大量輸送の主役となる。利根運河の最盛期は明治23年の開通から明治43年頃までの、おおよそ20年だけであった。
その後、昭和16年(1941)には台風の被害により運河の堰が決壊し運河の通行が不可能となり、それを契機に民間企業ではじまった運河会社が破綻し、国が買い上げ、洪水時の利根川の水を江戸川に分水する「川」と変わった。名称も「派川利根川」と呼ばれたようである。もっとも、この洪水分水計画も、洪水被害を恐れる江戸川サイドの反対により、分水計画は実行されることなく、利根川口も閉じられ、結局、利根運河は周辺の排水を流す水路となってしまった。こんな状況が変わったのは高度成長期の首都圏の水不足。利根川の水を江戸川に導水するサブ水路として、この利根運河=派川利根川を野田緊急暫定導水路として策定。昭和47年(1972)工事着工。昭和48年(1973)には通水再開。1975年(昭和50年)には、利根川口の堤防撤去し、500m程下流にあった利根川との接続点を現在の流路に移し、野田導水機場(運河水門)の設置が行われ、利根運河に再び水が流れるようになった。運河揚水機場は、この時期に利根川の水を取り込んでいたのではあろう。
水流の戻った利根運河=派川利根川を野田緊急暫定導水路、ではあるが、2000年(平成12年)4月には北千葉導水路が完成。利根川の水を木下(きおろし)の上流で取水し、手賀川・手賀沼の南端を進み、大堀川沿いに遡り、大堀川注水施設から坂川放水口へと南に下り、松戸の坂川放水路から江戸川に注ぐ。このメーン水路の通水により、サブ水路の利根運河=派川利根川を野田緊急暫定導水路はその役割を負える。現在は水質保全のため、年間の一定期間・一定時間のみ、利根川からの導水が行われている、とのことである。なんの変哲もない運河揚水機場から、あれこれ運河の歴史・変遷が見えてきた。

利根運河・利根川口
運河揚水機場を離れ、先に進み運河、と言うか、正確には緊急暫定導水路ではあるとおもうのだが、ともあれ、利根川口に。利根川の堤を辿ったのは、数年前、手賀沼から手賀川を遡り木下(きおろし)の堤に出たとき以来かとも思う。利根、というだけで、なんとなく、「はるばる来たぜ」の想いが強くなる。
利根川口に下りるが水は、ない。運河建設当時は江戸川から利根川へと水が流れていたようだが、台風の洪水などにより利根川と鬼怒川合流点の河床が上がり、現在では利根川口の方が水位が高くなったようである。そう考えると、先ほど歩いた囲繞堤に沿った川筋跡は、ひょっとして、往昔の利根運河の水路ではなかろうか、なとど思い始めた。上でメモしたように、野田緊急暫定導水路をつくる際に、500mほど下流にあった利根川口を現在の運河の水路に移した、とあるし、それよりなにより、現在の運河のように利根川に向かって「口」を開けて、如何にも取水する、といった現在の水路より、囲繞堤に沿って南へと利根川に向かう水路のほうが、利根川に注ぐには自然なように思える。単なる妄想。根拠なし。

野田導水機場(運河水門)
♪利根の 利根の川風よしきりの 声が冷たく身をせめる これが浮世か 見てはいけない西空見れば 江戸へ 江戸へひと刷毛(はけ)あかね雲♪。三波春男の『大利根無情』を小声で歌い、川口を離れて運河水門へと戻る。この水門も野田緊急暫定導水路計画の時に造られたものではあろう。
利根川口や江戸川口には船宿や茶屋など80軒を越える店が並んでいたようである。茶屋などが並んだところが、どのあたりか定かではないが、川口より少々奥まった処ではあろうから、この水門のある辺りではないだろう、か。川口には運河の料金所が設けられていた、と言う。この運河は利根運河会社という民間の会社によって始められたためである。
当時、この地の県議でもあった広瀬誠一郎氏が当時の茨城県令人見寧により政府の事業として計画を推進したが、人見寧が自由民権運動の加波山事件により職を辞することになる。後任の県令が運河建設に消極的態度であったこともあり、内務省が予算化を許さず、ために、浪人中の人見寧を社長、広瀬誠一郎を筆頭理事とした民間企業の事業として開始されることになった、とのことである。
広瀬誠一郎氏は「この人あって利根運河成る」と称される地元の篤志家。人見寧は京の生まれ。幕末に遊撃隊の隊士として各地を転戦。函館五稜郭の戦いで敗れ一時、逼塞するも、新政府の大久保利通に見いだされ明治政府に仕え、茨城県令となっていた。「利根運河の成就したるは一生涯の快事とす」、と書き残した人物である(『水の道 サシバの道 利根運河を考える;新保國弘(崙書房)』より)

水堰橋
水門を越えて利根運河を辿ることに。西に向かって一帯を眺めるに、運河両岸には谷戸・谷津の森が迫り、誠に美しい景観を示す。先に進むと水堰橋。この辺りが台風により決壊した、とのこと。
水堰橋を渡る県道7号・我孫子関宿線の橋北詰に煉瓦造りの樋管が残る、と言う。利根川の改修工事、第一期の頃、というから明治33年(1900)頃の遺構。樋門のあった堤防は、野田堤とも江川堤とも呼ばれ、かつての利根川右岸堤防か、あるいは控堤(洪水防止のため、重点箇所に設けられる堤防)であったとのこと。台風で水堰橋辺りが決壊した、というもの、なんとなく納得。と、あれこれメモしたが、この煉瓦造りの樋門を知ったのは、此の地を通り過ぎた後のこと。行き当たりばったりの散歩故の、後の祭りのひとつ、ではある。

三ヶ尾の谷津
運河の北側に二筋の森が広がり、その間の低地を江川が流れる。かつてはこの低地は三ヶ尾沼と呼ばれる湿地帯であったが、利根運河開削の残土で沼を埋め、昭和20年代は水田となっていた。平成2年頃にはその水田も耕作放棄され、一時宅地開発の計画もあったようだが、環境保全政策により宅地開発は中止となり、現在「原野」として残る。南北の幅がおよそ200から300m、東西の長さが1.6キロ程度の平坦地の真ん中を江川排水路が流れ、平地の両側には斜面林が広がる、典型的な谷津・谷戸の景観を呈している。
三ヶ尾の名前の由来は不詳である。通常、三ヶ尾とは、三つの尾根・稜線をもつ山、のということではあるので、丘陵地が浸食されて谷状の地形=谷戸・谷津が形成されるとき、丘陵地が三つの地形となった、ということだろうか。単なる妄想であり、根拠、なし。

大青田湿地
山高野歩道橋を渡り運河南岸に移る。運河の南側を船戸山高野と呼ぶ。「やまごうや」と読むようだ。高野は「荒野」から転じた、とか。利根川沿いの丘陵地であり、新田開発された江戸の頃より古い時代に開墾された地域ではあろう。
先に進むと、堤下がいかにも低湿地といった一帯が見えてくる。低地には湧水だろうか、水を集める用水路も見え、その水路は利根運河へと注いでいる。湿地の周囲は斜面林に囲まれ、谷津の景観を示す。このあたりは大青田の谷津と呼ばれるようである。「青田」とはこの地方の方言の「アワラ」に由来し、湿地の意味。アワラ=芦原、からの転化であろう、か。

国道16号・柏大橋
大青田湿地もさることながら、利根運河の逆サイド、運河の北にも、いかにも谷津の風情の景観が広がる。北岸に移るべく、運河堤を先に進み、柏大橋に。柏大橋を通るのは国道16号。八王子あたりでよく出合う国道であり、ちょっと気になりチェックする。
国道の始点は横浜市西区高島町交差点ではあるが、そこから相模原市、八王子市、昭島市を経て、川越市、さいたま市、春日部市、野田市、柏市、千葉市、木更津市に至る。その先は東京湾であるが、道は湾を隔てた横須賀市につながり、始点の横浜に戻る。変則的ではあるが、首都圏を巡る環状線となっている。ちなみに、これも後の祭りではあるが、柏大橋の北に香取駒形神社、南に妙見神社と円福寺がある。香取駒形神社の近くに、戦時中、撃墜されたB29が墜落した、と言う。これは、柏の地に陸軍の飛行場・飛行隊があったことも、その一因であろう、か。昭和13年(1938)陸軍柏飛行場が当時の田中村、十余二村あたりに建設がはじまり、立川から飛行第五戦隊が移転。昭和15年(1940)には柏飛行場の南、高田に第四航空教育隊が設置された。そこで短期飛行訓練を受けた隊員は、鹿屋や知覧の特攻隊の基地に移っていった、とのことである。
立川の航空隊は玉川上水散歩のとき、突然暗渠となり、何故かチェックしたとき、航空隊用の滑走路の延長を考えてのことであったようだが、その飛行隊が柏に移ったため、滑走路の延長はなくなり、それに備えた玉川上水の暗渠だけが残った。歩いていれば、いろんなところで、いろんなものが紐付いてくる。

下三ヶ尾の谷津
大青田湿地の対面に見えた谷津のあたりまで少し戻り、景観を楽しむ。三ヶ尾の谷津と同じく、低湿地に湧水を集めるためのような用水路が通り、両側を森が囲む。地図を見るに、東側の森には普門寺といった古刹も残るよう。これまた、後の祭りの為体(ていたらく)とはなった。
この辺りの谷津をどう呼ぶのかはっきりしない。普門寺が下三ヶ尾地区にあり、往昔、このあたりには下三ヶ尾湿地があった、とのことであるので、一応、下三ヶ尾の谷津、としておく。運河の南北に広がる谷津は如何にも、魅力的。今回は三ヶ尾沼や谷津等の自然の地勢を生かして蛇行する河道を掘り進んだ運河を東から西へとの急ぎ旅ではあるが、次回は、運河南の大青田湿地から、北の下三ヶ尾湿地へと南から北にぶらりぶらりと歩いてみたいと思う。

蛇行する運河堤を西へと進む
下三ヶ尾の谷津を後に、柏大橋に戻る。地図を見るに、運河北側の東京理科大の東側に池がある。これって下三ヶ尾沼の名残であろう、か。運河の南には大青田の森と谷津、その西には東深井古墳の森。この辺りも、再び訪れて彷徨ってみたい。
運河は緩やかに蛇行する。オランダ人技師であるムルデルが運河の計画を立てるに際し、沼や谷津等の自然の地勢を生かし、蛇行する川道を掘り進んだ、と上でメモした。開削当初の江戸川口と利根川口の水位は僅かに28センチ。9キロ弱を28センチの勾配で進む訳であるから、川道が蛇行するのは自然なことではあろう。
蛇行する運河の堤防が正面に見えるところがある。ぱっと見には、堤は段丘面のように数段に分かれている。これは、運河開削時、河底から1.45mのところに幅90cmの「犬走り」をつくり、水生植物で護岸を強化した。また、犬走りから3.3m上に幅1.8mの「曳船道」があった、と言う。岸の左右の「曳船道」は、江戸川口からと利根川口からの曳舟道は、どちらかに決められていた、とのことである。
ちなみに、運河開削当時の利根運河は、閘門はなく、開放運河であり、運河を通る最大の船の大きさを26.4m、幅8.2m、喫水1.06m。底敷幅は18.2m、水深は1.6m。堤防の高さは9.4m、堤防上部の「馬踏(土手上面)」の幅は5.5m。六カ所の狭窄部の底敷幅は10mであった、と言う。六カ所の狭窄部とは、水量を抑え、洪水被害を少なくするためであった、と言う(『水の道 サシバの道 利根運河を考える;新保國弘(崙書房)』)。

ふれあい橋
先に進むとアーチ型の橋が見える。東武野田線・運河駅と運河北にある東京理科大野田キャンパスを結ぶ。全長110m、幅4m。1996年に架けられた。アーチ橋には上部アーチと下部アーチの二つのタイプがあり、上部アーチとは、路面下の桁がアーチ型になっているもので、下部アーチは逆で、路面の上に弓状のアーチを架け、そのアーチ部材からケーブルで路面を吊る構造の橋である。また、そのケーブルが真っ直ぐなものがローゼ橋、斜めに張ってクロスしているものがニールローゼン橋と呼ばれるようだ。ふれあい橋はニールローゼン橋となっていた。

東武野田線運河橋梁
ふれあい橋のすぐ西に東武野田線の鉄橋が架かる。明治44年(1911)、千葉県営軽便鉄道として柏・野田間で開業。野田の醤油輸送を主たる目的とした。その後、鉄道は、北総鉄道、総武鉄道をへて、昭和18年(1943)東武鉄道と合併し現在に至る。

運河橋・運河水辺公園
東武野田線を越えると県道5号・流山街道に運河橋がかかる。運河橋の先は運河水辺公園となっており、川床には浮き桟橋なども架けられ、水面までくだることもでき、多くの家族連れが楽しんでいた。
堤には「ムルデルの顕彰碑」や「利根運河の碑」が建つ。ムルデルはオランダ人技師。明治12年(1879)に31歳で来日し、明治23年(1890年)帰国。その間、お雇い外国人技師として、日本各地の河川や港湾改修の指導にあたった。利根川、江戸川、鬼怒川の改修等にも従事しており、なかでも利根運河は日本でムルデルが手がけた最後の仕事であった、とか。
お雇い外国人として来日したときの月給は450円。当時の太政大臣三条実美の給料が850円、日本人土木局長の給料が250円であった、という。本国での丘給料の10倍から20倍という高級で招聘してでも、公共施設の整備を急いだ、ということであろう(『水の道 サシバの道 利根運河を考える;新保國弘(崙書房)』より)。利根運河の碑は明治41年(1908年)の建立。題字は山縣有朋による。

利根運河交流館
運河北岸を少し西に進むと国土交通省江戸川河川事務所運河出張所の1階に利根運河交流館。運営は地元のNPO法人が行っている、と。当日はイベントがあったとかで、その片付けに最中の慌ただしい仲お邪魔し恐縮。往昔の運河の写真など資料が展示されている。

そこで「利根運河絵図」を頂く。運河周辺の見処を含め、情報がまとまっている。この資料が前もって手に入っていたら、「後の祭り」は相当減ったことだろう。ともあれ、取りこぼしは再び辿ることにして、交流館を後にする。

窪田味噌醤油・窪田酒造
先に進むと、堤下に黒板壁の蔵が見える。創業明治5年(1872)、創業者の吉宗さんが利根運河開削に合わせ、この地に移った、と。千葉県最北部の野田。流山は醤油や酒、みりん、などで知られる。とは言いながら、今回に散歩では、この地ではじめてその「事実」に出合った。なんとなく、嬉しい。

利根運河大師
窪田酒造のすぐ東、これも堤の下に利根川運河大師。堤を下りると17体の弘法大師像が佇む。これは大正2年、地元世話人の呼びかけで弘法大師像と祠を運河の堤に建て、「新四国八十八ヶ所利根運河霊場」を成した。行楽を兼ねて多くに人が訪れたこの札所も昭和16年の大水害による水水害で水堰が決壊し、その改修工事に際し、堤防上の札所の立ち退きが行われ、その後、結果的には大師像が四散し、所在不明となった。その後、昭和61年に、柏・野田・流山の近隣三市の有志により大師像の捜索が行われ、市野谷の円東寺に移されていた17体の大師像を見つけ、大師堂を建て、この地に迎えた、とのことである。

西深井湧水
利根運河交流館で頂いた「利根運河絵図」を見るに、利根運河大師のすぐ先にある西深井歩道橋を南に渡ると、すぐ南に西深井湧水の案内がある。湧水フリークとしては、「MUST案件」として、湧水池へと向かう。
橋を渡り、北総台地と低地の境の斜面林の崖下を南に進むに、湧水からの流路らしき筋があり、そこを辿ると湧水池があった。西側の低地部分は流山工業団地となっており、道路脇の湧水池であり、今ひとつ趣きには欠けるのだが、それでも、「湧水」を見ることができるだけで、心嬉しい。

におどり公園
再び「利根運河絵図」を見るに、流山工業団地に沿って運河堤下を少し東に進んだところに「におどり公園」。鳰鳥(にほどり)って、この辺りに棲むカイツブリという鳥の古名前、とか。如何なる由来の公園かと訪ねることに。v公園には万葉集に掲載された東歌の碑があった。『鳰鳥(にほどり)の葛飾早稲(わせ)を饗(にへ)すとも その愛(かな)しきを外(と)に立てめやも』。解説によると、「万葉集が編纂された8世紀には流山をはじめ現在の江戸川沿いの野田から市川、埼玉の一部も含めた一帯は「葛飾」と呼ばれ、早稲米を産する米どころとして知られていた。右の歌は、「葛飾の里でとれた早稲米を神に捧げ、門を閉ざして神の恩恵に感謝し、豊年を祝う晩は男女とも清浄でなくてはならないのだけれど、もし、いとしいあの人が訪ねて来たら外になど立たせておけないだろう。」という意の恋する乙女心をうたった歌である。「におどり」とは葛飾にかかる枕詞でありカイツブリという鳥の古名である」、と。
古来の葛飾は、此の辺りの新川耕地などの流山や江戸川対岸の三郷市一帯。古来より水田地帯であった、ということもさることながら、如何にも情緒豊かな歌に、情感乏しき我が身も、少々心動く。

運河大橋
県道5号・松戸野田有料道路が運河を越える運河大橋を越え利根運河江戸川口に進む。運河の北は今上耕地、南は新川耕地の広大な水田地帯が拡がる。新川耕地はタゲリの田圃とも呼ばれる。冬鳥として飛来し、本州中部以西の田圃や河岸・池沼で越冬する。一部関東北部では繁殖するものもいる、とWikipediaにあった。運河堤から東を見やると、新川耕地の背後に5キロほど続く、北総台地の斜面林が美しい。

今上(いまがみ)落し
運河の堤から南北の耕地を見やる。北の今上耕地、南の新川耕地に幾状かの水路が見える。往昔、利根運河ができる前、この北の野田から南の流山の水田地帯を南北に流れる悪水路(水田で不要となった水)を流す水路があった。利根運河を造るに際し、この水路を運河の下を暗渠でくぐらせるようにした。水路を深く掘り下げた工事は724mにおよび工期1年という、利根運河工事のなかでも大きな位置を占める工事となった、と言う。
今上落しがどの水路か定かではない。運河大橋の近くに新野田南排水機場があるあたりの、運河を隔てた南側に水路が現れている。現在では暗渠を通ってきた水をポンプアップで組み上げているのだろう、か。確かめたわけではないので、この水路が今上落しなのかどうか、確証はもてない。この水路、野田から流山まで11キロ程度続くようで、流山で江戸川に注いでいるようである。そのうちに流山の江戸口から遡ってみよう、と思う。

利根運河・江戸川口
運河堤を先に進む。どこかで見かけた図を想い起こすに、今上落しから江戸川口までの間には、舟運の料金所や宿、料亭、茶屋、鍛冶屋、網屋などが軒を並べていた。往昔の賑わいを想いながら、現在では耕地が拡がる運河の南北を眺めながら利根運河の江戸川口に到着。利根川口から江戸川口まで8,5キロ程度、延べ220万人、1日平均2,000名から 3,000名が工事に従事した利根運河を歩き終える。

深井城址
利根運河散歩を終え、家路へと向かう。途中、「利根運河絵図」にあった深井城址に立ち寄る。それらしき森に入るも、標識などなにも、ない。なんとなく、此の辺りかと彷徨う、のみ。城は戦国期、小金井城を本拠としていた高城氏の支城。重臣の安蒜一族が籠もった、と言う。城は、小田原征伐の折、小金井城が開城したときに、同じく開城。その後小金井城とともに廃城となった。いつだったか、小金井城を辿ったことを思い出し、その城址を想う。

東武野田線・運河駅
城址を離れ、すぐ近くにある割烹旅館新川の前を通り、明治創業のこの割烹旅館に、利根運河が賑わった当時を想い東武野田線・運河駅に向かい、一路家路へと。

そういえば、今回の散歩のきっかけともなった、『水の道 サシバの道 利根運河を考える;新保國弘(崙書房)』にある、サシバのことに全く触れていなかった。『水の道 サシバの道 利根運河を考える;新保國弘(崙書房)』によれば、サシバとは中型の鷹。夏鳥として東南アジアや中国南部から3月下旬から4月上旬にかけて秋田以南の各地に渡来。日本の谷津田で繁殖し、毎年10月頃、愛知県の伊良湖岬、ついで鹿児島県佐多岬をへて、屋久島以南の南西諸島や東南アジアに渡って冬を過ごす。その渡りのルートが此の辺りでは、利根運河の江戸川口がその飛翔ルートであったようである。サシバの生育地の条件としては、谷津田があり、耕作水田があり、その水田が大きな斜面林に蔽われる、といったことで、このあたり千葉県北部はサシバだけでなく、おおたかの森で知られる大鷹、フクロウ、ハヤブサといった猛禽類の繁殖、生息地に適している環境のようである。いつだったか、手賀沼の辺りを散歩していたとき、山科鳥類研究所があり、何故この地に、と思っていたのだが、なんとなくその理由がわかったような気がする。


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