新宿区の最近のブログ記事

本日は環七を越えた神田川が、行く手を淀橋台地に阻まれ流路を変えて北に向かい、目白台地下を東流してきた善福寺川と落合の地で、文字通り落ち合い、目白台地下を関口大洗堰跡までメモする。
武蔵野台地が流れによって開析されてできた台地の中でも、目白台地はその急峻な崖面をその特徴とするが、その先端部近くにあるのが関口大洗堰である。井の頭の池を水源とし、武蔵野台地の開析谷を流れる自然河川を繋ぎ合わせ、妙正寺川、そして善福寺川の水を合わせた神田上水の水路は関口大洗堰で上水貯水場となる。
今回の散歩にメモは、水戸の上屋敷に引かれ、その先は神田・日本橋地区の人を潤す上水路と、余水を流す神田川に分かれる分岐点である関口大洗堰までとする、

本日のルート;栄橋>伏見橋・高歩院>末広橋・桃園川合流>柏木橋>新開橋>万亀橋>東中野・中央線>小瀧橋>久保前橋・落合水再生センター>せせらぎ橋>新掘橋・高田馬場放水路>善福寺川・高田馬場放水路合流点>滝沢橋>落合橋>宮田橋>田島橋>清水川橋>神高橋>高塚橋>戸田平橋>源水橋>高田橋>高戸橋>曙橋>面影橋>三島橋>中之橋>豊橋>駒塚橋>大滝橋

栄橋・伏見橋
今回の散歩の出発点である淀橋を過ぎ栄橋を越えると伏見橋。明治時代の後半、皇族「伏見宮家」の広大な別邸が存在したことが名前の由来、とか。神田川左岸、小淀山の高歩院の辺りにあったようである。紀尾井町・井伊家屋敷跡(ニューオータニの敷地)にあった伏見宮家の別邸だったのだろう、か。また、この伏見宮別邸の辺りには明治までは明治天皇の侍従である山岡鉄舟も住んでいた、とのこと。高歩院の「高歩(たかゆき)」は鉄舟の諱(山岡哲太郎高歩)。禅道場とか剣道場はあるものの、お寺様といった趣きではない。

蜀江坂
伏見橋の右岸、大久保通り・蜀江園交差点を南に進むと緩やかにカーブした、誠に緩やかなる坂がある。この坂が蜀江坂。蜀江坂と呼ばれるようになった由来は、このあたり一帯の台地の紅葉が美しく、将軍家光が蜀江の錦に例え、以来、蜀江山と呼ばれ、その坂を蜀江坂とした、とか、平将門(ないし弟将頼)が、このあたりに陣を敷いたとき、敵襲が素早く、鎧を着けるまもなく応戦したため、蜀江錦の衣の袖が切り落としたため、とか、例によってあれこれ。蜀江とは蜀の首都、成都を流れる川であるが、この蜀江付近の特産の絹織物が紅葉のような緋色であったため、と言う。今となっては、旧家を壊し再開発が行われる北新宿に昔日の趣は、ない。
いつだったか、この蜀江坂は大田南畝こと蜀山人ゆかりの地と思い込み、訪ねたことがある。理由は、「蜀」という特異な文字と、先回散歩でメモしたように、新宿十二社熊野神社に蜀山人ゆかりの手水鉢などがあり、蜀山人はこのあたりを彷徨ったはず、と推論したわけである。実際は、この蜀江坂は蜀山人とは全く関係なく、中国の三国志で知られる蜀の首都、成都を流れる川である蜀江から、であった。
野口武彦さんの書いた本に『蜀山残雨(新潮社)』がある。その冒頭あたりに、蜀江坂が蜀山人ゆかりの地ではないことがわかり、がっかりした、といった記述があった。野口武彦もそう思い込んだ根拠は、この「蜀」という文字面と、この柏木成子坂付近には大田南畝の親友である平秩東作(へずつとうさく)の別邸があったりしたことがそのひとつであった、と記していた。蜀江坂は大田南畝こと蜀山人ゆかりの地と思い込んだのが自分だけでなかったようである。

末広橋
大久保通りに架かる末広橋の手前で桃園川緑道が合流する。排水口は末広橋の北に見える。合流点の辺りに南こうせつのフォークソング「神田川」の歌碑がある。この「神田川」ゆかりの銭湯は先ほどの菖蒲橋の辺りとメモしたが、これも諸説あるようだ。

桃園川緑道は、元来杉並区天沼の弁天池(天沼3丁目地内)を水源として東流し、阿佐ヶ谷駅の東で中央線を南に越え、南東に下って環七・大久保通り交差点の少し北で環七と交差。その後はおおよそ大久保通りに沿って進み末広橋脇(中野区)で神田川と合流する。源流点の弁天沼(現在は公園と成っている)から中央線を越えるまでは暗渠というか、道路として埋められているが、中央線を越えたあたりから「桃園川緑道」として神田川合流点まで続く。

桃園川の名前の由来は江戸時代初期に付近の「高円寺」境内に桃の木が多かったことから将軍より地名を「桃園」とするよう沙汰があった、ため。(その後桃園は中野に移されている)。江戸時代中期には千川上水から分水したり、善福寺川から「新堀用水」を開削し、導水するなどして、「桃園川」沿いの新田開発が進められた。大正末期になると関東大震災を契機とした都市化の波を受け、川沿いの地区は耕地整理がおこなわれ数条に分岐していた「桃園川」も流路が整えられ、それにともない水田風景も姿を消した。

桃園川を最初に歩いたのはいつの頃だっただろ。当時は源流点は西武グループの堤義明さんの杉並のお屋敷の中にあり、池を見ることはできなかったが、二度目の時はお屋敷を壊し更地にする真っ最中。三度目には公園と様変わりしていた。

末広橋を少し東に向かった蜀江園跡と記される大久保通との交差点北に、明治の司法卿・江藤新平旧居跡(新宿区北新宿 3-10-18から20)とか、大町桂月旧居跡(新宿区北新宿 3-13-22から25)とか、南には内村鑑三終焉の地(新宿区北新宿 1-30-25)などがあるようだが、あれこれ彷徨うも、案内もなく、見つけることはできなかった。

柏木橋・新開橋・万亀橋
柏橋、新開橋、万亀橋と進む。明治の地図には柏橋あたりに小橋が架かっている。柏橋だろう、か。それはともあれ、神田川の右岸の北新宿は、その昔は柏木と呼ばれた。柏木と名前のついた公共施設が昔の名残を伝える。中央線と神田川が交差するところに柏木不動尊という、ささやかな祠が祀られていた。また、万亀橋近くのJR総武線・東中野駅も甲武鉄道当時は柏木駅と呼ばれていたようで、東中野となったのは大正6年(1917)になってからである。




円照寺
柏木の地名の由来には諸説あるが、一説には神田川右岸にある円照寺がその館跡とも伝わる柏木右衛門佐頼秀から。柏木右衛門佐は平安時代の地頭職であった、とも伝わる。円照寺には藤原秀郷にまつわる縁起が伝わる。「江戸名所図会」によれば、円照寺のあたりには醍醐天皇の頃に祀られた薬師如来の祠があった、とか。天慶3年(940)、藤原秀郷が将門討伐軍を率いて出陣の途中、中野の辺りで病に伏すも、霊示によりこの祠にて祈ると苦痛が消え去り、将門討伐も達成。凱旋の後に堂塔を建立し、円照寺とした。藤原秀郷って、我々団塊世代の人間には「俵藤太のむかで退治」としての印象が強い。もとより、周囲の若者は俵藤太って誰?と応える、のみ。

鎧神社
円照寺のすぐお隣に鎧神社がある。柏木村の鎮守と言う。江戸の頃までは「鎧大明神」と称された。社名の由来は、日本武尊命が東征してきた際に、この地に甲ちゅうを納めたことによる、とも。また、天慶3年(940年)、藤原秀郷により討たれた平将門の鎧を埋めたとか、病に苦しむ秀郷が、境内に将門の鎧を埋めてその霊を弔ったところ病が全快した、など、あれこれ。そのほか、天慶の乱のとき、将門の弟である将頼の陣を敷いた場所とも伝わる。
この辺りには鬼王神社(明治通り地下鉄東新宿駅近く)など含め、将門にまつわるエピソードが多い。この神社を南に下った蜀江坂のあたりにも将門にまつわる伝説が伝わる。単なる伝説なのか、何かを示すシンボルなのか、はてさて。境内の天神社には一対の狛犬型の答申塔が建つ。散歩の折々に、多くの庚申塔をみたが、狛犬型の庚申塔ははじめてである。

大東橋・南小滝橋・亀齢橋
中央本線を越えると大東橋。かつての地名・大塚の東にあったから、とか。南小滝橋、亀齢橋と続く。

百人町
神田川右岸、中央線、山手線、早稲田通りに東西南北を囲まれた大久保方面には、百人町と昔の地名が残るが、これは徳川家康江戸入城の際に内藤清成が率いる伊賀の鉄砲百人隊の屋敷地であったことによる。
JR大久保駅近く、大久保通りから続く細長い参道をちょっと進むと皆中稲荷神社がある。「みなあたる」稲荷、と読む。社伝によると、その昔、天文2年(1533)、大窪とよばれたこの地に、伊勢の御師の御旅所があり、伊勢参りの手配や御札配ったりと、あれこれしているうちに次第に多くの人が集まるようになり、御旅所を社と造り直した。その後、寛永年間というから17世紀の前半、鉄砲百人組がこの一帯に移り住んだ頃、射撃の訓練をするに際して、この社にお参りすると射撃の腕が上がった、とか。ために、社の名前も「皆中(みなあたる)」稲荷神社となった、とか。

小滝橋
早稲田通りに架かるのが小滝橋。その昔、橋の下に堰があり、そこがちょっとした滝のようであったのが名前の由来。江戸の頃は、橋の周囲に茶屋が並び、大いに賑わった、とか。
この橋は「姿見(すがたみ)の橋」と呼ばれる。神田川を少し上った淀橋が、別名「姿見ずの橋」と呼ばれているのと対をなす。淀橋こと「姿見ずの橋」は上でメモしたように、14世紀の末から15世紀の初頭にかけ、熊野よりこの地に来たりて、原野を開拓し艱難辛苦の末、中野長者と呼ばれるまでになった鈴木九郎が、十二社の熊野神社を建立するほど蓄えたその財産を、下男に隠し場所に運ばせては口封じのため殺めた。その数は10名を超えた、とか。橋を渡る姿は見たが、戻る姿が見えなかったの青梅街道に架かる淀橋こと「姿見ずの橋」。一方、この小滝橋こと、この「姿見の橋」は、親の因果が子に報い、というわけで、鈴木九郎の娘の小笹が婚礼の日に蛇と化身し、川に身を投げた。その姿が見つかったのが、この「姿見の橋」、だとか。
江戸から明治にかけては、この小滝橋から下流の田島橋まで橋は、ない。

久保前橋・落合水再生センター
早稲田通りを過ぎると久保前橋の手前から神田川左岸に落合水再生センター。この施設では新宿区、世田谷区、渋谷区の全体、中野区の大部分とそして杉並区、豊島区、練馬区の一部の地域の下水処理を行っている。ここで高度処理された下水は再生水として新宿副都心のビル群のトイレ用水として再利用。また、東京の城南地区の三河川の清流復活事業の養水として渋谷川、目黒川、呑川に導水されている。
西落合水再生センターからの導水をはじめて知ったのは呑川を河口から遡り、大岡山の東京工業大学のあたりで開渠が暗渠となるあたり。その地の案内に、落合水再生センターから水が送られる、とあった。はるばる落合から。と、結構驚いた。
その後、烏山川と北沢川を辿ったとき、このふたつの暗渠河川が、池尻あたりで合流し開渠となると、それまで痕跡もなかった水が突然流れはじめるが、それが落合水再生センターからの高度処理水であった。烏山川と北沢川が合わさって目黒川となり、246号との交差あたりから急に水量を増して流れていた。

渋谷川も落合水再生センターからの水である。そういえば、渋谷川に合流する春の小川の部舞台となった甲骨川も、宇田川も初台川も、富ヶ谷川、原宿川もすべて暗渠で、水が流れる痕跡もなかったが、渋谷川となって渋谷の駅前で開渠となった時には、水が流れていたなあ、などと、今更納得。
西落合水再生センターの処理施設はコンクリートで蓋を被せ、その上に野球場やテニスコートを整備した緑の公園となっている。落合中央公園と呼ばれるこの公園は、住宅街に処理施設を造ることに反対した住民に対し、強行手段で処理施設を造った都当局の環境整備施策ではあろう。

月見岡八幡神社
中央公園の西に月見岡八幡神社。名前の由来は元の境内池に湧井があり、その水面に映える月光があまりに美しかった、ため。元は現在地より少し南東にあったが、その地が水道局落合水再生センターの用地となったため、現在地に遷座した。
創建年代は不明ではあるが、源義家が奥州征伐の時参詣し、戦勝を祈念して松を植えたと伝わる。旧上落合村の鎮守であり、祭神は応神天皇・神功皇后・仁徳天皇と、八幡さまのメーンの神様である応神天皇の女房・子供で構成される。八幡系の御霊社である葛谷御霊神社や中井御霊神社が応神天皇の女房と父親が祭神となっているのと、少々組み合わせが異なっている。
境内社として明治39年(1906)に北野神社、昭和2年(1927)には浅間神社と富士塚を合祀した。浅間神社は山手通りと早稲田通りの交差するあたりにあり、その富士塚は寛政2年(1790)、大塚古墳をもとに造られたために、「落合富士」と呼ばれていたようである。散歩を初めて、都内・都下に数多く残されている富士塚に出合い、江戸の頃の富士講の繁栄振りが偲ばれる。
境内には正保4年(1647)の宝篋印塔型の庚申塔、また、天明5年(1785)の銘をもつ鰐口、そして、旧社殿の格天井の板絵の一枚であった谷文晃の絵が残る。谷文晃は江戸中期の文人画家。上方文人画家に対し、江戸画家の中心として弟子の指導にあたる。門人には渡辺崋山、酒井抱一、蜀山人などがいる。

月見岡八幡といえば、江戸の頃、この神社の北には泰雲寺があった。明治になって港区の瑞聖寺に合併され、今は名残もないが、このお寺には美しき尼僧にまつわる話がある。女性の名前は葛山総。出家を願うも、その美貌故に修行僧の妨げになると入門を断られた総は、自ら火鏝(ひごて)で顔を焼き、やっと駒込の白翁禅師の大休庵に入門を許され「了善尼」となる。白翁禅師のもとで修行を積んだ了然尼は、此の落合の地に篤志家によって建てたれ泰雲寺の初代住職となった白翁禅師の後を継ぎ、二代住職となり、社会活動などで地元に貢献した、と伝わる。目黒不動近くの黄檗宗・海福寺の山門の扁額は、「泰雲」は、泰雲寺の扁額から「寺」を削ったもの、とか。


(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平23情使、第631号)」)

せせらぎ橋・新掘橋・高田馬場分水路
せせらぎ橋の左手に「せせらぎの里公苑」。落合水再生センターで高度処理された水を使い親水公園がつくられている。せせらぎ橋に続く新堀橋の手前に高田馬場分水路。増水で堰を越えた水を分水し、落合駅の東、妙正寺川に架かる辰巳橋辺りで妙正寺川と合わさり、すく暗渠となり、本流に沿って進み、下流・目白通りに架かる高田橋で本流に再び戻る。妙正寺川との合流点辺りで分水路に落合水再生センターの高度処理水が放流されているようである。





北流してきた神田川は現在、新掘橋辺りで流路を東へと変える。昭和初期の頃までは西武池袋線の北側辺りまで蛇行していたようであり、西から流れてきた妙正川とは当時、下落合駅の南辺り(滝沢橋と落合橋の間とも)で合流していたようである。

妙正寺川
妙正寺川は杉並区の妙正寺公園内にある妙正寺池を源流とし、途中中野区松が丘で江古田川を合わせ、武蔵野台地の開析谷を下り、この地で神田川と合わさる。合流地点は大雨の度に氾濫を繰り返し、ために神田川は新たに水路を掘り新堀橋辺りから東へと流路を変え、一方妙正寺川も目白通り下を流し、下流の高田橋あたりで神田川に合流するように流れを付け替えた。新堀橋は、新たに水路を掘り起こしたことに、由来するのであろう。

滝沢橋・落合橋
滝沢橋を越え落合橋に。落合とは日本全国にあるが、基本は「ふたつの流れが落ち合うところ」。かつてはこの橋の少し上流辺りが神田川と妙正寺川の合流点であった名残であろう。「江戸名所図解」の「落合惣図」には、田地の中を蛇行する神田川と妙正寺川が描かれるが、その落ち合うところに橋は架かっていない。

落合文化村(目白文化村)
落合と言えば、落合橋からは少し離れるが、山手通の西、の目白台地にはかつて落合文化村と呼ばれる一帯があった。『わが住む界隈』で林芙美子が、「私は冗談に自分の町をムウドンの丘(注;パリの南西にあるロダンのアトリエがあったことでも有名な町)だと云っている。沢山、石の段々のある町で、どの家も庭があって、遠くから眺めると、昼間はムウドンであり、夜はハイデルベルヒのようだ。住めば都で、私もこの下落合には六、七年も腰を落ち着けているがなかなか住みいい処だ」、と描く林芙美子記念館のあるあたりは、落合文化村と呼ばれていた。大正11年(1922)頃より、箱根土地株式会社(現・株式会社コクド)によって下落合3~4丁目(現・中落合2~4丁目および中井の一部)に開発された新興住宅街である。東急電鉄(渋沢秀雄)が開発した田園調布がパリの街並みを模したのに対し、こちらはロスのビバリーヒルズを目指した、と。結果、当時としては「中流の上」の人々がこの地に移り、多くの学者、作家、画家が西洋風の外環の邸宅を建てた、とのことである。
文化村は大きく3区画に分かれ、山手通りと新目白通りのクロスする左上(中落合3丁目あたり)が第一文化村、左下の中井駅方面(中落合4丁目と中井)が第二文化村、右上の中落合4丁目方面が第三文化村と呼ばれた。林芙美子が住んでいたあたりは第二文化村の南端のあたり、だろう。第一文化村には画家の佐伯祐三邸、第二文化村には安部能成や石橋湛山、武者小路実篤宅があった、とか。もともと、落合第一小学校の辺りに自宅を持っていた会津八一は落合(目白)第一文化村の南端あたりに引っ越したところ、改正道路(現在の山手通り)の工事地区にあたり、立ち退きを余儀なくされ、第一文化村の中央部に移るも、戦災で焼失した。文化村に少々翻弄された感がある。

宮田橋
落合橋に次いで宮田橋。この辺りは山手線を越えるまで川沿いに進む道はないので、あちこち迂回しながら橋に出る。橋の名前の由来は、橋の北に氷川神社があるので、その社に由来するのかとも思ったのだが、実際はかつてこの橋の南に諏訪神社(現在は高田馬場1丁目。明治通り諏訪町交差点近く)の旧地であったことによる、とか。

下落合氷川神社
落合橋の北、新目白通りの北には下落合氷川神社。この下落合氷川神社は、第5代孝昭天皇の御代の創建と伝えられ、といっても考昭天皇って紀元前のことであるし、それはないにしても、江戸時代には下落合村の鎮守ともなっているので、古き社ではあろう。江戸期には豊島区高田の高田氷川神社を男体の宮、当社を女体の宮として、夫婦一対神として信仰されていた、と。高田の氷川神社が素戔嗚尊を主神、こちらの落合の氷川神社はその妻の奇稲田姫命となっている。

七曲坂
氷川神社の裏から「おとめ山」の高台に上がる七曲坂(ななまがりざか)は、落合では最も古い坂道のひとつであり、江戸時代には周囲の高台が紅葉の名所として知られていたという。現在は緩やかなカーブとなっており、七曲がりの趣は今は、ない。周辺には相馬坂、九七坂、西坂、霞坂、市郎兵衛坂、見晴坂、六天坂など少々惹かれる名前の坂道が多い

薬王院・東長谷寺
氷川神社の西に薬王院・東長谷寺。江戸の散歩の達人・村尾嘉陵も「ひろ前をくだりに猶ゆけば、みちのかたへに寺あり。石しきなみて、見入いとよし。薬王院といふ」と記す。
薬王院は真言宗豊山派瑠璃山東長谷寺と称し、奈良・長谷寺の末寺で、開山は鎌倉時代、相模国(神奈川県)大山寺を中興した願行上人。 本堂は昭和40年に、奈良・長谷寺と京都・清水寺の見所を取り入れて建立されたものという。寺域は下落合崖線に位置して傾斜地にあり、墓地は最も高いところにある。境内ではもともと薬用として栽培されたといわれる鎌倉・長谷寺の牡丹の株100株を拝領し数多く、現在では1000株にまで増えその美しさから別名「牡丹寺」とも呼ばれる。しだれ桜も見事、とか。

田島橋
宮田橋の次に田島橋。川沿いに道はないので、南に大廻りしながら田島橋に出る。橋脇の案内によれば、江戸時代、鼠山(寝不見山;目白・下落合付近)に下屋敷があった安藤但馬の守がよくこの橋を渡ったため、「但馬」を「田島」としてこの橋の名がついた、とか。この橋は江戸時代の初めには既に架けられていたようで、初めは仮橋だったものを後に土橋に改めた、と。この橋の上流には犀が淵という深い淵があり、江戸時代には高田十二景といわれる月の名所の一つとして知られていたそうである。

「江戸名所図会」の「落合惣図」を見るに、蛇行する神田川とそこに合流する妙正寺川、その合流点に架かる「一枚岩」、その上流の妙正寺川に土橋、そしてこの「田島橋」が描かれている。また「薬王院」「氷川」も描かれる。同じく「江戸名所図会」には「落合蛍」が描かれる。場所はこの田島橋の少し下流のようである。
太田南畝こと蜀山人は「大江戸には王子のふもと石神井川又谷中の蛍沢に多くありといへども、此処のにくらぶれば及びかたかるべし」、と記しており、蛍の名所であった。月の名所で蛍の名所。今、その面影を想うのは少々難しい。
田島橋の北詰はスペースがあるのだが、南のさかえ通りの方は狭く、少々アンバランスである。その理由は、新目白通りをこの橋の辺りで神田川を渡り早稲田通りと繋ぐ計画であったが、それが中止となり、その用地が名残としてスペースとして残っている、とのことである。

清水川橋
田島橋を越え、「さかえ通り」に迂回し清水川橋に。清水橋の辺りは川筋を狭め、往昔、高田馬場渓谷なとど呼ばれた趣を伝える。洪水多発であった所以である。清水川橋の名前の由来は目白台地の崖下からの湧水に因む字名から、とか。明治時代の高田馬場停車場辺りは字清水川となっている。当時は、神田川の川筋はもう少し北を蛇行している。現在の「さかえ通り」の辺りに小川が流れるが、この流れが清水川であろう、か。




おとめ山
湧水と言えば、目白台地から神田川を望む南面傾斜の崖線に湧水池で知られる「おとめ山」がある。楢、椎、椚などの落葉樹が生い茂り、その中心に湧水池。回遊式庭園と呼ぶのだろう。池脇の湧水点からの、かすかな流れがなかなか、いい。公園は道を隔てた西と東に別れ、東の湧水池からの水は西の公園にある弁天池へと導かれている。
おとめ山の名前の由来は「御留」、から。江戸の頃はこのあたりは将軍家の狩猟地であり、立ち入り禁止故の「御留」であった。明治には御留山の東を近衛家、西を相馬家が所有。相馬家が林泉園と称し庭園とした、と。戦後は荒れ果てたままであったようだが、地元の人々の努力により公園として整備された。

東山藤稲荷神社
おとめ山公園のすぐ東に東山藤稲荷神社という社がある。現在は誠につつましやかな境内ではあるが、往昔、おとめ山の多くを有し結構なる社であった、とのこと。清和源氏の祖六孫王・源経基が、延長5年(927)、東国源氏の氏神として祀った、ということである。
この源経基、平将門ファンにとっては好ましからざる人物として伝わる。将門を反逆者として誣告したのも経基、その後、あれこれの経緯もあり将門が兵を起こすと征伐軍の副将として乱の平定に赴く。が、乱は既に平定されており、活躍する場はなかったようである。それはともあれ将門は朝廷への逆賊として長き間不遇の時代を送った訳であり、それ故にも、逆賊平定の貢献者でもある経基の建てたこの社が栄えたのであろう。藤稲神社とも、富士稲荷神社とも呼ばれたようだが、東山の由来は不明。
ちなみに、江戸のお散歩の達人、村尾嘉陵の『江戸近郊道しるべ』に『藤稲荷に詣でし道くさ(文政7年(1824)9月12日)』がある;「落合村の七まがり(地名)に、虫聞に行けば、老をたすけてともになど、もとの同僚畑秀充のいひしも、いつしか十あまり五とせばかりのむかしとは成けり。げに、とし波の流れてはやきためしをおもへば、かたときのいとまをも、あだにすぐすべしやは、わかきとき、日を惜しめるは勤にあり、老いての今はたのしみもて、こゝろをやしなひ、終わりをよくせんとなるべしや」、と。七曲がりとは、上でメモした東山藤稲荷神社の西、新目白通りのそばにある氷川神社から北の崖線を上る坂である。

神高橋
山手線、西武新宿線を越えると神高橋。高田馬場駅の東口より北に上る大きな道筋に橋が架かる。明治の頃までは、田島橋から下流の山手通りを越えた面影橋まで橋はなく、一面の田圃が広がっていた、とのこと。この辺りの神田川は現在より南側を流れていていたようあるが、この橋の辺りには用水堰があり、川の北を用水路が流れ下流の源水橋の付近で合流していたという。

落合から神高橋までの旧神田川流路
久保前橋辺りで左右に蛇行しながら北流した神田川は、落合橋から南東に下ってきた妙正寺川と下落合駅の南で合流し、合流した流れは現在の妙正寺川に架かる千代久保橋あたりまで弧を描いて上り、そこを頂点に南東方向へ流路を変え、神田川に架かる落合橋の南、戸塚第三小学校まで南東方向に下り、戸塚第三小学校を回り込むように弧を描き、宮田橋公園に向かって北東へと上り、神田川を越えるとほどなく流路を南に変え田島橋辺りまで下り、そこで再び北に向かい氷川橋の北を頂点に神高橋へと南東へと下ってゆく。

高塚橋
神高橋に続く高塚橋は、「高田」と「戸塚」からであろう。「高田」の地名の由来には、高台にある田という地形に由来するという説と、高畑からの転化との説、徳川家康の六男で越後高田藩主であった松平忠輝が生母である高田殿のために、景色を愛でる公園を造ったことに由来する、とか例によってあれこれ。戸塚(とづか)は、「富塚」とも書き、神田川南側から戸山大久保方面にかけての地名で、明治22年、旧来の戸塚村(とづか)、下戸塚村、源兵衛村、諏訪村が合併して「戸塚村」が成立した。富塚は水稲荷神社内にあった富塚と呼ばれる塚(元は小円墳とも)に由来する。水稲荷神社は元は早稲田大学構内にあった、とのことだが、現在は早稲田大学の西に遷座している。

戸田平橋
大正8年(1919年)に作られたもので、名前の由来は新宿区の戸塚、豊島区の高田、そしてこの橋の建設に関係した平野与三吉に由来するという。
この橋の少し下流に右岸に排水口が見える。これは江戸の頃は「秣川(まつかわ)」、明治には「馬尿川(ばしがわ)と呼ばれてい細流の跡。川筋は戸山公園の大久保通り辺りを源流点に、戸山公園をへて諏訪神社をかすめ、此の地で神田川に注いでいた、とのことである。流れの西側一帯を「字秣川(あざまつかわ)」と称していたという。現在は、源水橋(げんすいばし)の「まつ川公園」にかろうじてその名前が残る。

源水橋
源水橋は、護岸工事で新しく作り変えられた橋。名前の由来は、この橋の付近にあった「源兵衛村(げんべいむら)」と「水車(すいしゃ)」を組み合わせた言葉から来ているという説もある。橋の欄干には水車と花のモチーフが描かれている。何の水車だろう、か。有名な「神田川」の歌詞中に出てくる3畳一間のアパートはこの界隈にあった、との説もあるらしい。

高田橋・妙正寺川と高田馬場分水路が合流
新目白通りには高田橋が架かる。この橋の辺りで妙正寺川、高田馬場分水路が神田川に合流している。高田馬場分水路の吐口のプレートには昭和53年(1978)の文字が見える。分水路が完成した年であろう。高田馬場の合流点では高田馬場分水路と妙正寺川の吐口は別になっているが、このふたつの流れは落合駅の東で一度合流している。暗渠下で分かれているのだろう、か。実際、高田馬場分水路の吐口には水草が多いが、妙正川の吐口はそうでも、ない。一説には、落合水処理センターの水と妙正寺川の水は混ざり合うことなく、高度処理水が高田馬場分水路の吐口から流れ出す、とも。高田橋から先の神田川は、近年の護岸工事により両側に歩道が整備されている。

高戸橋・曙橋
高戸橋は明治通りを渡す橋である。橋の名前は、高田と戸塚の双方の頭文字をとったものとされている。高戸橋を越えると曙橋。かつてこの辺りには一枚岩と称する巨岩で知られていた、と言う。現在は護岸工事のために当時の面影は無いが、川底から亀の甲羅のような岩の露出が数箇所あり、高田一枚岩、戸塚一枚岩、落合一枚岩などと呼ばれていたらしい。現在も曙橋の鉄橋の下に大きな岩の痕跡のようなものが残る。一枚岩の名残、か。

高田氷川神社
曙橋の北に高田氷川神社。創建年代は不詳。江戸の『名所図会』には高田村の鎮守、氷川大明神とある。主祭神は素戔嗚尊(スサノオノミコト)。先ほどメモした落合氷川神社の主祭神・奇稲田姫は素戔嗚尊の妃であり「夫婦の宮」の一対をなす。明治の頃に氷川神社と改名。昭和20年の空襲で被災するも、昭和29年に再建された。
因みに、社の祭神が男神か女神かを見分けるには社の屋根両端でV字に交差する木(千木)を見るのがわかりやすい。千木の先端が地面に対し垂直に削られるのが男神、水平が女神、とのことである。

金乗院・目白不動
高田氷川神社から目白通りへと崖道を上る途中に真言宗豊山派の金乗院。山門を通り本堂にお参り。天正年間(1573-92)の創建と伝わる。本堂脇に倶利伽羅不動庚申が佇む。倶利伽羅不動尊って、サンスクリット語で「剣に黒龍の巻き付いた不動尊」の意味。黒龍が昇天する姿が、倶利伽羅不動、そのものであったのだろう。
本堂の横には江戸五色不動のひとつ、目白不動が祀られる。目白不動堂は、元は文京区関口駒井町にあった東豊山浄滝院新長谷寺から移したもの。目白不動堂は元和4年(1618)、大和長谷寺代世が中興したものだが、昭和20年の空襲により焼失し、この寺に合わされた。
五色不動とは、目黒不動(天台宗龍泉寺:目黒区目黒3丁目)、目白不動(真言宗豊山派金乗院。もとは文京区関口の新長谷寺にあったが戦災で廃寺となったため移された)、目青不動(天台宗教学院。世田谷区太子堂4丁目。もとは麻布の勧行寺、または、正善寺にあったものが青山にあった教学院に移され。その後教学院が太子堂に移った)、目赤不動(天台宗南谷寺。文京区本駒込1丁目。もともと三重県の赤目不動が本尊。家光の命で目赤に)、そしてこの目黄不動。
もっとも、目黄不動だけは複数あり、この最勝寺だけでなく、台東区三ノ輪2丁目の天台宗・永久寺、渋谷の龍眼寺とこの最勝寺など全部で六箇所あるとも言われる。それと、江戸の頃に五色不動と言った記録はなく、江戸時代には目がつく不動は目黒・目白・目赤の3つしかなく、また、それをセットとして語る例もなかったようではある。明治以降、目黄、目青が登場し、後付けで五色不動伝説が作られたものとの説もある。

面影橋
曙橋に続くのが面影橋。神田川にかかる橋でも、最も名高い橋のひとつである。「江戸名所図会」には「俤(おもかげ)の橋」と記されている。歌川広重も『名所江戸百景』に「俤の橋」を描いており、のどかな風景に江戸の昔を思いやる。また、このあたりは流れ蛍でも知られ、広重も蛍狩りの絵を描いている。面影橋の名の由来には、諸説ある。在原業平が我が姿を水面に映した逸話からとの説、鷹狩りの折に将軍家光が命名したとの説、戦国の頃、此の地に落ち延びた和田靱負(ゆきえ)の美しき一人娘・於戸姫(おとひめ)が我が身の悲劇を嘆き、この川に身を映し詠んだ和歌によるとの説など様々。
「変わりぬる姿見よやと行く水にうつす鏡の影に恨(うらめ)し」が、於戸姫(おとひめ)が詠んだ歌。そしてなき夫を偲び入水の際に詠んだ「かぎりあれば月も今宵はいでにけりきよう見し人の今は亡き世に」、といった、夫の面影を偲ぶ於戸姫の心情を憐れんで、面影橋と名付けた、とか。於戸姫は、その美貌に迷った夫の友により、夫を殺されその仇討ちを果たした後に入水した、とのことである。
橋の名前の由来は諸説ある、とメモしたが、橋名自体も「俤(面影)の橋」とも「姿見の橋」とも呼ばれる。江戸の頃の此の地の絵図には、大橋とその近くに小橋が描かれ、小橋が「姿見の橋」、大橋が「面影の橋」との説もあれば、いやいや、於戸姫伝説で「変わりぬる姿見よやと。。。」と詠われる「姿見(の橋)」が、小橋では格好が悪いので、大橋が「姿見の橋」であるなど諸説ある。結論は出てはいないようだが、『嘉永・慶応 新江戸切絵図(人文社)』にも、面影橋とは書かず姿見橋とあるように、江戸の頃は大橋が「姿見の橋」と呼ばれていたようである。それが、面影橋となったのは、明治政府の地図に「面影橋」と記された、ため。地元に人も大正の頃まで江戸の名残を引き継ぎ「姿見の橋」と呼ぶ人もいたようだが、現在は面影橋となっている。

橋の北側に太田道灌の「山吹の里」の碑。太田道潅、といえば「山吹の花」といわれるくらい有名であるが、ちょっとおさらい;道潅が狩に出る。突然の雨。農家に駆け込み、蓑を所望。年端もいかない少女が、山吹の花一輪を差し出す。「意味不明?!」と道潅少々怒りながらも雨の中を家路につく。家に戻り、その話を近習に語る。ひとりが進み出て、「それって、後拾遺集にある、醍醐天皇の皇子・中務卿兼明親王が詠んだ歌ではないでしょうか」、と。「七重 八重 花は咲けども山吹のみのひとつだに なきぞ悲しき」。「蓑ひとつない貧しさを山吹に例えたのでは」、と。己の不明を恥じた道潅はこのとき以来、歌の道にも精進した、とか。
話としては面白いのだが、もとより真偽の程は定かではない。それに、このエピソードというか伝説は散歩の折々に出合った。太田道灌ゆかりの地である埼玉の越谷横浜の六浦上行寺あたり、豊島区高田の面影橋、荒川区町屋の小台橋あたり、であったろうか。伝説は所詮伝説であるし、それほど道潅が人々に愛されていた、ということであろう、か。

都電荒川線・面影橋駅
面影橋の南に都電荒川線・面影橋駅がある。荒川区南千住から新宿区西早稲田の早稲田駅の間、12.2キロを結ぶ。明治40年(1907)に営業免許が下りた王子電気軌道を、後に東京市が買収したもの。かつて東京23区を縦横に結んでいた都電路面電車も、現在はこの路線を残すのみである。
王子電気軌道の歴史を眺めていると、営業認可の後、軌道事業が開始される明治44年(1911)まで、電灯電力の供給事業や発電所の設置などを行っている。この王子電気軌道に限らず、京成、東急、小田急、京王などの鉄道会社は昔は軌道事業とともに電気事業を行っており、軌道事業より電気事業のほうが大きな収益を上げている会社もある。王子電気鉄道も電灯電力事業が主で、軌道事業は副業といったものであったようである。
それはともあれ、都電荒川線の軌道幅は1372mm。これは京王線の軌道幅と同じである。その昔、京王線は東京都内の路面電車と結ぶ計画があったため、軌道を合わせた。結局その計画は実施されずに終わったが改軌の手間が大変ということで軌道はそのままとなった。世田谷線も1372mmであるが、それは今は廃止された市電玉川線の支線であったためである。因みに1372mmとした理由は、設立当初は馬車鉄道であり、広軌幅である1435mmでは馬の蹄がレールにあたり不便であり、1372mmが丁度よかった、とか。

朝亮院
都電荒川線の面影橋停留所から新目白通りを南へ渡り、ゆるやかな坂をのぼると右手に赤い門構えのお寺様。その門ゆえに、「赤門さん」とも賞された朝亮院である。このお寺さまは、「高田七面堂」として知られる。身延山久遠寺の末のこの寺には身延山七面山の七面明神が祀られる。七面山での修行のお上人さまが、現在の戸山公園あたりに七面堂を建てたのがはじまり。江戸に疱瘡がはやった明暦の頃には、将軍家の祈祷所ともなった、と。その後、もとの寺域が尾張徳川家の下屋敷となったため現在地に移った。境内には七面堂、その両脇に石造りの金剛力士像が屹立する。宝永二年(1705)に作られたものとのことである。

南蔵院
面影橋を北に進み、高田氷川神社の東に南蔵院。江戸時代の『江戸名所図会』の「高田」には、南蔵院の境内、薬師堂、鶯宿梅、石橋、高札場が描かれる。薬師堂は奥州藤原氏の持仏とされる薬師如来が本尊として祀られる、と。鶯宿梅は三代将軍徳川家光お手植えの梅ゆかりのもの、とか。この寺は別名「八ッ門寺」とも呼ばれたようで、鷹狩りに訪れた家光が、あちこちから寺に入るため、それぞれを門とした。幕末には上野で敗れ、この地まで逃れた力尽きた彰義隊士8名がとむらわる。

南蔵院は明治の名落語家・三遊亭円朝の代表作『怪談乳房榎木』の舞台として有名。『怪談乳房榎木』は円朝が南蔵院旧本堂天井の龍の絵を見て創作した、と言う。あらすじは、ここ南蔵院の天井画を依頼された絵師(菱川重信)、そしてその妻(おせき)と弟子(磯貝浪江)の不義、落合蛍見物にことよせての師匠の謀殺。浪江に脅され一度は絵師の子(真与太郎)亡きものにと、十二社の大滝に投げ込む爺(正介)に、絵師の亡霊が現れ「この子をして仇討ちすべし」との言。改心した爺(正介)は子を連れ赤塚村(板橋)に逃れ、その地の名刹・松月院の門番に。寺の境内には榎があり、乳房の形をした瘤から流れる雫を飲んでその子は成長し、やがて父の亡霊に助けられ仇を討つ、といった復讐譚。
いつだったか、板橋区の赤塚辺りを彷徨ったことがある。その地の赤塚城主・千葉自胤が大宮にある武蔵一宮・氷川神社から勧請した赤塚の氷川神社を訪れたとき、桜の並木からなる長い参道を南に下ると参道入り口あたりにケヤキの老木があった。その脇に明治期の落語家三遊亭円朝の落語「怪談乳房榎」にちなんだ、「乳房榎大神」の碑があった。乳房の病に霊験あらたか、とあった。その乳房榎は近くの松月院の境内にあった、とのことであるが、この松月院は立派な構え、品のいいお寺さんであった。延徳4年(1492年)、武蔵千葉氏の千葉自胤が寺領し中興し、幕末には高島秋帆が高島平で西洋式砲術訓練をおこなったときの本陣。下村湖人が『次郎物語』の構想を練ったお寺さまでもある。

『怪談乳房榎木』の舞台は、この南蔵院や板橋の松月院に限らず、散歩の折々に出合う。浪江とおせきが出会う墨田区・木母寺の梅若詣り,でのおきせが口説かれる柳島の妙見山辺り,謀殺の密談がおこなわれる高田馬場下での,落合の蛍狩りは神田川,上でメモした子捨てを図る十二社の大滝などなど。『怪談乳房榎木』巡りの散歩もいい、かも。

三島橋
このあたりのかつての字名(あざな)は三島であり、橋のそばに立つ掲示板にも「三島町会」の名前が見られる。古く房総(ぼうそう)から武蔵国(むさしのくに)に入った源頼朝がこの地で軍勢を整えた際、三島神社を勧請したことからこの字名になった、とか。後にこの神社は、東海道三島宿(現静岡県三島市)に移されたが、現在も水稲荷(みずいなり)神社境内に末社として祠(ほこら)が残されている。

甘泉園
三島橋の南に甘泉園。この水と緑に囲まれた回遊式庭園は、もとは徳川御三卿の清水家の下屋敷。敷地は崖上にある水稲荷神社境内と甘泉園を含む広大なものであった。明治30年(1897)頃には相馬侯爵邸となり、昭和13年(1938)には、早稲田大学がこの土地を譲り受け、昭和36年には、大学構内にあった水稲荷神社と土地交換が行われ、昭和38年(1963)に水稲荷神社が甘泉園内に移転した。
甘泉園の名前は、庭園の中央からの湧き水が、お茶に適していたことに由来する。甘泉園のあたりはその昔、三島山と呼ばれていた。その三島山の西に泉があり、山吹の井と呼ばれた。その一帯は山吹の里とも呼ばれ、先ほど面影橋でメモした道灌と言えば、との山吹の逸話が残る。

水稲荷神社
甘泉園から崖を成り行きで上ると水稲荷神社。表参道は今風のつくり。境内を進むと「堀部安兵衛助太刀の場所の碑」がある。元禄七年(1694)、安兵衛(当時は中山姓)は高田馬場に駆けつけ、叔父の菅野六郎左衛門(田舎の新居浜市に近い伊予西条藩士)の果し合いに助太刀。この決闘で助太刀をした安兵衛の活躍が江戸中で評判になり、浅野藩士堀部家の婿養子に懇請され堀部屋安兵衛となる。その後元禄15年、赤穂浪士として吉良邸に討ち入った話は世に知られるとおり。この碑は明治43年(1910)、旧高田馬場、現在の茶屋町通りの一隅に建立されたものが、昭和四十六年に現在の水稲荷神社の現在の場所に移された。先に進むと社殿がある。もとは早稲田大学9号館裏のあたりの小高い丘にあった水稲荷神社は、昭和38年(1963)7月25日、早稲田大学との土地交換により、西早稲田三丁目の甘泉園内の現在の場所に移転したもの。

この社が水稲荷と呼ばれるに至る経緯は、元禄15年(1702)に境内の大椋から水が湧き、その水が眼病に効能あり、ということで、江戸市中で大評判となった、ため。この霊水にも太田道灌ゆかりの話が登場する。道灌が散策の折り、冨塚古墳のそば(以前、水稲荷神社があった場所。現在の早大9号館の裏手。)に榎を植えた、とか。「道灌つかみさしの榎」と呼ばれるこの榎を神木として関東管領の上杉良朝が稲荷の社を再興。そして、この神木からわき出した霊水が眼病に効果があり、水稲荷と呼ばれるようになった、と言う。
水稲荷の境内には富塚古墳や高田富士など、旧地から移されたものが残る。富塚古墳は既にメモしたように、戸塚の由来ともなった塚。元早稲田大学脇にある宝泉寺はその塚の上に建てられた、とか。「高田富士」は、安永九年(1780)、植木屋の青山藤四郎が富士講の人たちとともに、富士山から岩や土を運び、冨塚古墳の上に盛土して造ったもの。江戸市中で、最大、最古の富士塚であった。江戸時代中期以降、江戸で富士信仰がさかんになり、各地で富士講が組織され、富士塚という富士を模した山が造られた。残念ながら普段は高田富士には上れない。7月下旬の高田富士祭りのときの、お山開きとだけ、とのことである。
境内にはいくつかの末社がまつられる。浅間神社は富士塚の麓に鎮座していたもの。現在も高田富士の入口にある。三島神社は現在の水稲荷のある敷地である甘泉園所有者・旧清水家所有の守護神。源頼朝が治承四年(1180)、鎌倉への進軍の途中、高田馬場跡から甘泉園一帯に立ち寄ったとされ、その時に、この地に三島神社を創建したと、伝えられる。三島神社はその後静岡の三島市に移されたが、その跡地に石の祠が建てられ、その後この地に移された。

仲之橋
仲之橋の右岸は新宿区西早稲田、左岸は豊島区高田。「豊橋(ゆたかばし)」と「三島橋(みしまばし)」もしくは「面影橋(おもかげばし)」の間に架けられたという意味、かと。橋を北に進むと「富士見坂」。目白通りと不忍通りが交差する目白台2丁目交差点辺りから南東へ、目白台の崖線を下るこの坂は、富士は見えないようだが、都内屈指の眺め、とか。因みに都内に富士見坂と名付けられた坂は20弱ある、と言う。

仲之橋左岸、少し手前に「東京染ものがたり博物館」。大正3年創業の東京染小紋の老舗「富田染工芸」工房の隣にある。工房や博物館では、江戸の伝統を伝える東京染小紋や江戸更紗の作品の展示や染色の工程が展示されている。
江戸の染色業は江戸の頃、神田紺屋町の地名が示すように神田・浅草を中心に発展するも、明治以降は川の汚染の影響もあり染色業者は水洗いに適した清流を求め神田川を遡上し、大正から昭和にかけて落合や西早稲田あたりに移り住み、それ以降、染色業は新宿区の地場産業となった。神田川の水質は硬水であり、水中に含まれる鉄分が染めの過程で化学反応を起こし、独特の「渋味」を作り出した、とか。

江戸小紋とは江戸時代、諸大名が着用した絹の裃の染の技法。目立つことなく、かつ華麗な文様ということで、遠目には無地に見えるように細かな模様をその特色とする。ために、高度な技法が開発されることになった。後には庶民も小紋のお洒落を楽しんだ、とか。江戸更紗は、インドから伝わった技法。江戸の中期から末期にかけて材料の木綿を五彩に染めあげた、とか。
染め物と言えば、『神田川;朝日新聞社会部編(未来社)』に「染め物の町」という記事があった。そこには西武新宿線の下落合駅から中井駅に架けての染め物の町が描かれる。昭和32年(1957年)頃には未だ染め物工場が35軒もあった、とのこと。最盛期は昭和初年から戦争の始まった昭和16年頃。妙正寺川や神田川が汚れた現在は工場は埼玉県狭山などに移っている、とのことである。因みに、『神田川;朝日新聞社会部編(未来社)』には「染料によくない鉄分がなるべく少ない、弱アルカリ性から中性の水を追って、神田川の大曲付近へ、そして江戸川橋の辺りからさらにいまの落合へと、流れをさかのぼってきた」とある。上で鉄分が独特の渋みを作り出した、と少々矛盾。染料を繊維に定着させる媒染剤に鉄分が使われる、と言うことであろう、か。門外漢には不明である。

豊橋
橋の南には都電荒川線の始発・終点である早稲田駅がある。橋を北に進むと豊川稲荷があり、目白女子大に続く豊坂がある。此の辺りは高田豊川町とも呼ばれていたようで、豊橋は豊川稲荷に由来するのだろう。
豊川稲荷は愛知県豊川市にある曹洞宗妙厳寺を勧請したもの。曹洞宗妙厳寺は稲荷神社で名高い伏見稲荷神社と異なり、豊川稲荷は曹洞宗妙厳寺というお寺さまの境内にある稲荷堂の吒枳尼天(だきにてん)が名高く、通称豊川稲荷で知られることになった。吒枳尼天(だきにてん)が豊川稲荷に祀られるに至った経緯は、鎌倉時代に入宋した禅僧が帰国の途上、吒枳尼天(だきにてん)の加護により無事帰国。この禅僧の6代目の法孫がこの曹洞宗妙厳寺開山に際し、山門に吒枳尼天(だきにてん)を鎮守として祀ったことによる。信長、秀吉、家康、大岡忠相などの庇護を受けた、と言う。

早稲田田圃
早稲田大学のキャンパスの辺りは、その昔早稲田田圃と呼ばれたように、低湿地であり、名前の通りの「早稲田」であった。大隈重信が明治15年(1882)に、早稲田大学の前身である東京専門学校を開いたときも、低湿地・山林・畑地を埋め立てた。
早稲田は田圃だけでなく、ミョウガの特産地でもあったこの地を随筆家・内田百閒は「砂利場大将」という一文に「砂利場のどぶ川のほとり(中略)到る処に細い溝が流れ(中略)大雨が降ると、すぐあたり一面泥海になった。外から歸つて、終點で電車を降りてから、砂利場に近づくに従ひ、水は段段深くなつて、下宿の玄關に入るには、股の邊りまで水に漬けなければならない。下宿はさう云ふ地勢を承知の上で建てたものらしく、縁の下は大人が起つて歩ける位の高さがあつた。だから、まだ疊の上に水が乘つた事はなかつたのである。(中略)水が引いた後も、中中道が乾かなかった。夕方になると(中略)足元を気にしながら、泥濘の小路を曲がって。。。」と、低湿地の姿を描く。このあたりから高田馬場にかけて新宿区と豊島区の区境がうねうねと蛇行しているのは、以前は、この区境を川が流れていた、ということである(『神田川;朝日新聞社会部編(未来社)』)。

新江戸川公園

豊橋を越えると神田川左岸新江戸川公園に向かう。江戸の頃、熊本藩細川家の下屋敷であったが、現在は文京区が管理している。目白台の崖線を活用し、傾斜面を活かし、台地からの湧水を池に取り入れた回遊式泉水庭園として景観学の書籍などでしばしば取り上げられている名園。
「明暦の大火後どの大名も中屋敷、下屋敷をもつようになると、山の手の条件のよい場所は次々と大名屋敷によって占められていった。それらは武蔵野丘陵の豊かな自然をとりこみ庭園を配した私邸あるいは別邸としての役割をもった(中略)。多くの場合、大名屋敷は高台の尾根道に面して立地する。そこでは敷地内の斜面となるところに、高低差による湧水を生かして池をつくり、回遊式の庭園を設けることができるのである。しかも、できるかぎり尾根道の南側に立地し、敷地内の北寄りに位置する高台平坦部に建物を置いて、その南の斜面に庭園をつくろうとする傾向が読みとれる(『東京の空間人類学:陣内秀秀信(ちくま学術文庫)』)、と。
園内の遊歩道も尾根道風であり誠に、いい。元は3000坪程度であったようだが、次第に拡張し最終的には38000坪といった広大な敷地となった。

駒塚橋
新江戸川公園を離れ神田川筋に出ると駒塚橋に。『江戸名所図会』には駒留橋(こまどめばし)と記される。名前の由来は、この周辺がかつては砂利採集の盛んな場所で、近くに馬(駒)を繋ぐ者が多かったことから来たという説の他、将軍が鷹狩に訪れる際に、この橋に馬(駒)を繋いで休息したことにちなむという説もある。江戸の頃は、現在地より下流100m、椿山荘の辺りに架かっていたようである。

胸突坂
駒塚橋の北に目白崖線を下る急坂がある。胸突坂。「むなつきさか」と読む。急坂故の名前だろう。案内には、「坂がけわしく、自分の胸を突くようにしなければ上れないことから、急な坂には江戸の人がよくつけた名前である」、と。また、「胸を突かれたように息ができない」といった説もある。坂を通したのは元禄10年(1697)のことである。
坂を登りきったあたりに永青文庫。熊本藩主細川家が収集した日本・東洋の美術品が並ぶ。和敬塾やこの永青文庫、そしてその下に広がる新江戸川公園を含め、この辺り一帯は熊本藩細川家の屋敷跡である。あまりに重厚というか静かな佇まいであり、門外漢が気楽に足を踏み入れるという雰囲気ではない。永青文庫の名前は建仁寺塔頭である「永」源院と細川藤高の居城・「青」龍寺から。永青文庫の北、目白通りの間に和敬塾。首都圏の男子大学生の学生寮といったもの。旧細川侯爵邸跡でもあり、細川家の発意かとも思っていたのだが、前川製作所創業者一族が創始者であった。前途有為なる学生を支援したもの、か。

水神社
胸突坂の途中に水神様。神田上水の工事の安全を祈り祀られた。大きな銀杏の木も茂り、こぶりながら祠もあり趣もそれなりに、ある。神田上水を守る水神様はこの付近に二カ所ある。この関口と目白台。目白台の水神様には行ったことはないのだが、目白通りの関口フランスパンのあたりという。そこには、まだ湧水がわいているとも聞いた。そのうち行ってみたい。

芭蕉庵
胸突坂を隔てて水神社の向かいに関口芭蕉庵。「ご自由に」とは言われても,少々足を踏み入れにくいしっかりした構えの門を入り、野趣豊かな園内を歩く。ひょうたん池の周囲を一回りし、さみだれ塚とか芭蕉堂を辿る。

さみだれ塚は芭蕉の句である「さみだれに隠れぬものや瀬田の橋」の短冊を埋めて墓としたもの。芭蕉庵の前面に広がる早稲田田圃を琵琶湖にみたて詠んだもの。「庵の前には上水の流横たわり、南に早稲田の耕地を望み、西に芙蓉の白峯を顧みる。東は堰口にして水音冷々として禅心を澄ましめ、後は目白の台聳(そび)えたり。月の夕、雪の朝の風光もまた備われり」は「江戸名所図会」に描かれる芭蕉庵あたりの景観である。芭蕉堂は芭蕉の33回忌を記念して弟子が建てたもの。
芭蕉庵には今までに数回訪れたことがある。神田上水を井の頭の水源から下り、この地を訪ねた。また、関口台地からの湧水が芭蕉庵中にわき出ると、湧水を見るためだけにこの地を訪ねたこともある。この庵の案内を見て、芭蕉が神田上水の改修工事に参画していたことは記憶に残ってはいたのだが、俳人の芭蕉と利水技術者との関連がよくわからない。いい機会なのでチェックする。
文京区教育委員会の案内によれば、「芭蕉は延宝5年から8年(1677から1680)まで神田上水の改修に参加し、龍穏庵という庵に住む」と言う。松尾甚七郎と称する伊賀・藤堂藩の侍であった、とする説もあるが、この頃にはすでに藤堂家を致仕している。俳諧で身をたてんと江戸に下り、藤堂家時代に身につけた水利技術で身過ぎ世過ぎを過ごしていたのだろう。本拠地は日本橋。俳句仲間の魚問屋の貸家に住み、ときどきこの地に出向き後に龍穏庵とよばれるようになる「庵」で寝泊まりしていたようだ。ちなみに、俳号「芭蕉」を使い俳句で一本立ちしたのは、この改修事業の2年後のことである。

椿山荘
芭蕉庵前をかすめ先に進むと左手崖面に椿山荘。北に広がる目白台の傾斜地は鎌倉時代から椿の名所として知られ、太田道灌はこのあたりの椿の陰に敵対していた練馬氏の伏兵が潜みやすいから気をつけるようにと家臣に対して命じていたといわれている。江戸の頃、上総・久留里藩黒田家の下屋敷であったものを明治になって元勲山形有朋が購入し、「椿山荘」と名付けた。『江戸砂子』に「椿は椿山、牛込関口の近所、水神あり。此の山の前後、一向に椿なり。此所を向ふ椿山といふ・・・』ともあるように、この地は南北朝の頃から椿山と称される椿の名所であった、よう。
地形図を見るに、椿山荘の辺りで短い谷筋が切り込み、池も点在する。椿山荘の園内にはふたつの谷筋が幽翠池に注いでいるが、これは椿山荘の西側にある講談社野間記念館(昔の田中光顕邸跡)辺りからの湧水を引いている、とか。

大滝橋・関口大洗堰
大滝橋は神田上水の取水口、関口大洗堰のあった場所に架かる橋。名前の由来は、堰から流れ落ちる水の様子を滝に見立てたもの。「江戸名所図会」の「目白下大洗堰」には、堰の部分が大きな段差となり、滝のように流れ落ちる様子が描かれている。江戸の頃には名所でもあった、よう。
関口大洗堰跡は井の頭から引かれた神田上水の水を保つとともに、江戸湾からの海水を防いだ。今でこそ東京湾の渚はこの地からはるか彼方ではあるが、江戸開闢の頃は現在の日比谷あたりは一面の入り江であったわけで、この関口のあたりまで海水が押し寄せるのはそれほど不自然ではない。関口の名前の由来も堰があったことから。
神田上水はこの地で二手に分かれ、ひとつは上水として後楽園にあった水戸藩江戸屋敷に引かれ、その後水道橋で懸樋にて神田川を渡り、石樋・木樋をもって神田や日本橋へと水を導いた。もうひとつは神田川の流れとなり、お茶の水の切り通しを抜けて大川に注いだ。
神田上水は明治時代に廃止され、大正8年(1919)にこの一帯が「江戸川公園」として整備された折に、大洗堰は史跡としていったん残されるも、昭和12年の江戸川改修工事により、現在では「由来碑」とともに公園には堰跡を残す、のみ。
本日の散歩はこれでお終い。次回は余水を集めた神田川に沿って隅田川との合流点までをメモしようと思う。

和泉川北流散歩

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和泉川南流を辿った翌日、北流も辿ることにした。源流部に少し民家の下水溝として、当時の流路の名残を伝える他は、橋跡もひとつしかない、といった暗渠だけの流路跡ではある。源流部は南流とほぼ同じ、和泉水圧調整所(和泉給水所)の付近。そこからほぼ南流と平行に進み、環七・泉南交差点の少し北を越え渋谷区に入り、笹塚、幡ヶ谷と進み渋谷区本町4丁目の渋谷区本町小学校脇で和泉川南流・地蔵橋と合流し、神田川に注いでいた。途中にはきまぐれに新宿まで歩くときなどに辿る道筋もある。如何にも川筋跡といった、それっぽいカーブの道であり、なんとなく川筋跡などと感じてはいたのだが、今回の散歩でそこが和泉川北流跡であることがわかった。
ところで、和泉川北流とはいいながら、南流と平行する流れの間隔が如何にも短い。ふたつの流路の間には台地なども見あたらず、自然の流路であれば、氾濫などで合流し、ひとつの流れとなりそうなものであり、この北流って、ひょっとすれば自然の流路と言うより、人工的な流れ、用水跡かもしれない。和泉川南流れは緑道となったり、公園となったりと、如何にも川筋の名残を留めるが、北流は上で延べたように、一部に大きな通りに飲み込まれ、それっぽい川筋としての名残はあるが、大半が民家の軒先を辿る細路である。田圃への水を維持するため、地域の人たちが源流点あたりにあった、と言われる池からの流れに手を加え、人工的に流れを維持するようにしたもの、かとも思える。単なる妄想であり、何という根拠はないのだが、本流である北流との余りの距離の近さ故に、あれこれ想いを巡らせた。ともあれ、散歩に出かける。

本日のルート;和泉川北流源流点付近>沖縄タウン>大勝軒脇に進む>を民家の間に下水溝として残る>環七_泉南交差点手前の下水溝>泉南交差点>あすなろ作業所と水道道路の間を進む>水道道路を越えてきた和泉川南流と接近。駐車場で水道道路脇を進む南流と離れ、北東に進む>笹塚3−31で西に折れる>ほどなく大通りに飲み込まれる>中野通り_笹塚3丁目交差点まで大通りを進む>中野通りを越えると、ほどなく北東に折れる(幡ヶ谷3−38)>ほどなく右手の細路に>唯一の橋跡である神橋跡>中幡小学校裏を進む>細路を進むと六号通りの道筋に出る>東に進む大きな通りを少し進み、左に分岐する細路に入る>途中で氷川神社にお参り>ほどなく右に折れ本町小学校に>本町小学校脇の地蔵橋で南流に合流

和泉川北流源流点付近
先日の和泉川南流の源流点と同じく和泉川北流の源流点も和泉給水所の近くにある。井の頭通りが甲州街道とクロスする松原交差点の手前、井の頭通り和泉2丁目交差点脇に和泉給水所があるが、この和泉2丁目交差点を始点に新宿に一直線に向かう都道431号角筈和泉線。環七泉南交差点より先は水道道路として知られるこの道筋に和泉川北流の源流点があった、とか。
交差点を都道431号にはいり、南北に通る和泉仲通り商店街の道を越えると、道は急に細くなる。道の南に小さな公園が続くので、なんとなく川筋、といった「公共性」をもった道跡の名残を感じる。
和泉川北流源流点は、和泉仲通り商店街のひとつ先に南北に通る道筋あたり、であった、とのことである。往昔、このあたりには池があった、とも伝わる。

沖縄タウン
源流点あたりから先に進む。和泉明店街、通称、沖縄タウンと呼ばれる、少々レトロな商店街のクランク状になった道を北に折れる。北流は、クランクを折れたすぐのところにある中華料理店・大勝軒の脇を東に進む。通路はブロックされており、直進はできない。道を北に進み、最初の通を右に折れ、東に向かう。南に折れる最初の道筋を右に折れ、流路を探すと、民家の間の狭い隙間に、下水溝が残る。これが北流の水路跡ではあろう。
道を戻り、環七に向かって東に進み、環七との交差するあたりをチェックするため、少し南に下る。トヨタのデーラーの南側に細い下水溝が続いている。このあたりで環七と交差していた。とのこと。

環七
玉川上水新水路や和泉川南流でメモしたように、環七建設の構想は古く、昭和2年の頃には素案ができている。戦前には一部着工。戦時下になり中止となり、戦後も計画は遅々として進まなかったようである。Goo地図で見ると昭和22年の航空写真には、環七の道筋に代田橋あたりから青梅街道手前まで、世田谷通りから国道246号まで、など環七の道筋が断片的に見て取れる。
状況が動いたのは1964年(昭和39年)の東京オリンピック。駒沢競技場や戸田のボートレース会場、そして羽田空港を結ぶため計画が急速に動き始め、オリンピック開催までには大田区から新神谷橋(北区と足立区の境まで開通した。Goo地図で見ると、オリンピックを翌年に控えた昭和38年の航空写真には荒川の神谷橋あたりまで道筋が開通している。
その後、計画は少し停滞し、最終的に葛飾区まで通じ、全面開通したのは1985(昭和60年)のことである。構想から全面開通まで60年近い年月がかかったことになる。ちなみに、環七、環八、および環六(山手通り)は知られるが、その他環状一号から五号も存在する。環状一号線は内堀通、二号は外掘通り、三号は外苑東通り、四号は外苑西通り、五号は明治通り、とのことである。


(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)

 

環七・泉南交差点
環七・泉南交差点を渡ると水路跡は水道道路(都道431号角筈和泉線)の北脇を進む。環七と水道道路のクロスする北詰には社会福祉法人同愛会あすなろ作業所があり、水路跡はその敷地下を進む。あすなろ作業所東を南北に通る小径に進むと、いかにも水路跡らしき道筋が狭い民家の間を東に進む。マンホールが目につくので、水路跡ではあろう、かと。

北流と南流の接近点

民家の間を少し進むと駐車場前に出る。ここは、源流点より環七を越え、水道道路の南を進んできた和泉川南流が、水道道路を北に渡り、駐車場の南に出るところ。南流はここから水道道路の北脇を進むが、南流は北東に向かって民家の間を進むことになる。水路跡であろう、と思わなければ、まっこと、ありふれた民家軒下の小径といったものである。

大きな通りに水路は呑み込まれる
北東進むと、水路跡はほどなく西に向かう。民家の間の細路を少し進むと、急に大きな通りに出る。Goo地図で見ると昭和22年の航空地図にも比較的広い道筋が、北東方向へと緩く弧を描き中野通まで続いている。川筋の名残は特にないが、唯一、緩やかなカーブが川筋跡らしき雰囲気を残す。昭和22年のGoo航空地図には、笹塚中学校の北あたりから水路らしき筋が見える。



より大きな地図で 和泉川(神田川笹塚支流) を表示

中野通り
中野通り・笹塚3丁目交差点を越えると、南に向かって弧を描いた水路跡は、ほどなく北東へと流路を変える。流路が変わる地点のすぐ南、中幡庚申塔あたりで、それまで北流と平行して流れていた和泉川南流も北流と同じく北東へと切り上がっていたようだ。

神橋跡
北東へと進んだ水路跡はほどなく通を離れ、民家の間の小径に入る。小径に入って最初の交差点の四つ角に橋跡が残る。石に彫られた文字を見るに、神橋とあった。和泉川北流で唯一の橋跡である。昭和22年のGoo航空地図には、南北に通る、比較的大きな道と、水路跡がはっきり残っている。

中幡小学校裏
民家の間の細路を進む。先日歩いた和泉川南流は、緑道や公園など、いかにも川筋跡といった名残を残すが、今回の北流は、まっこと、軒下の細路といったものである。昭和22年のGoo航空地図でもなければ、おおよそ川筋跡などとは思えない。中幡小学校の裏門には、段差のあるコンクリートが残る。橋跡を覆っているのだろう、か。

六号坂通り
細路を先に進むと、大きな通りに出る。六号坂通りである。玉川上水新水路散歩でメモしたように、水道道路には一号から十六号までの番号表示をした通りがある。水道道路に水路があった頃、通りにはそれぞれ橋が架かっていた、とのことである。水道道路は関東大震災で堤が破れ、その後、水道を甲州街道下に敷設するようにした、とのことであるので、橋があったのは新宿の淀橋浄水場への水路が開かれた明治25年から関東大

震災の起きた大正12年の間のことであろう。




再び細路に
六号坂通りを越えると、比較的大きな通りとなる。先に進むと、すぐに通の北に細路が分岐する。昭和22年のGoo航空地図を見るに、和泉川北流は大きな通りを離れ、この細路に入る。相変わらず民家の軒先といった道筋である。





氷川神社
細路を進むと、左手に氷川神社がある。先回の散歩で氷川橋跡を通ってもおり、ちょっと寄り道。氷川神社は旧幡ヶ谷村の総鎮守。氷川神社は出雲の簸川(ひかわ)、から。古代、武蔵の地を開拓し

た出雲族の氏神様。分布はほぼ武蔵の国だけで、その数260余、とのことである。




地蔵橋で和泉川南流に合流
氷川神社を離れ、川筋あとに戻り、再び細路を進む。川筋は本町小学校の西側を南北に走る通りにあたると流路を南に折れ、地蔵橋で和泉川南流に合流する。ここから先は、和泉川南流・本流として進み、南台・弥生町の台地が切れるあたりで、神田川に注いでいた、とのことである。
玉川上水散歩をきっかけに、玉川上水新水路のことを知り、新水路を歩き、はたまた、その散歩をきっかけに、和泉川のことを知り、二回に分けて水路跡とおぼしき道筋を辿った。道筋に何となくの「ノイズ」を感じ、川筋跡か用水路跡ではなかろうか、などと思っていたところが、川筋跡、とわかっただけで、なんとなく嬉しい。

和泉川南流散歩

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先日、玉川上水新水路、現在通称「水道道路」と呼ばれる道筋を歩いた。その時、水道道路が杉並の和泉から新宿の淀橋浄水場所へと向かう始点、現在の和泉給水所辺りを谷頭、源流点とする窪地、甲州街道と南台・弥生町の台地に挟まれた窪地を流れる小川があったことを知った。
給水所の辺りには池があった、とも伝わる。また、玉川上水の新水路建設の際の記録に、その谷頭付近は「(新水路)引込口より下流約250間は湧水が多かった」ともある。そもそもが、地名が和泉と言う位であるから、源流点辺りには湧水が多くあっても、さほど不自然ではない。
和泉川と呼ばれたその小川は、南・北の二流に別れ窪地を下り、途中で、玉川上水からの分水も含め、幾つもの窪地からの細流を集めながら渋谷区本町あたりで二流が合わさり、南台・弥生町の台地が切れた辺りで神田川に注いでいた、とのことである。
この川筋跡、と言うか道筋は、自宅から新宿へ「気まぐれ」に、そして、成り行きで何度も辿った道筋でもある。如何にも川筋のような緩やかな蛇行で進む道筋や、偶然出合わす暗渠などを見て、用水路跡かな、などと思ってはいたのだが、和泉川とも、神田川笹塚支流などと呼ばれる、神田川水系のひとつの流れであるとは思っていなかった。
暗渠だけの、今は名のみの「川」跡ではあるが、今回は和泉川の本流でもある南流、次回は北流と、二度に分けて歩いてみようと思う。

本日のルート;和泉川南流源流点>源流点からすぐに民家の敷地に入る>431号に向かって北東に進む>東放学園東を北に進む道とクロス>和泉商店会の道筋に向かって南東に向かう>道筋を越え少し西に進み、道なりに北東に向かう>南北に通る沖縄タウン商店街を越え、都道431号角筈和泉線の一筋手前を環七・泉南交差点に>泉南通り交差点を越え、水道道路脇下の道を一筋南に入った道を進む>荻窪;荻窪に注ぐ北からの流れ、幡ヶ谷分水の流れを集め、水道道路を南に越える>水道道路脇を進む。弧を描いた上端部が境橋跡>先に進むと水路は富士見学園の敷地に入る>一時迂回。迂回路は和泉川北流>十号通り坂商店街を南に折れ、富士見学園敷地からの水路跡に合流。一の字橋跡>明治橋>中野通り>中幡庚申堂。牛窪からの流れ(東流と西流れ)もここで合流>大きな通りを中幡小学校前へと>途中、和泉川北流の神橋跡を確認>中幡小学校;幡ヶ谷からの小流が中幡小学校東端に合流>中幡小学校を越えると、すぐに左手に細路に入る>新道橋>氷川橋跡>柳橋>地蔵橋手前に地蔵窪からの流露が和泉川に合流>地蔵橋>小笠原窪に進む>児童センター前交差点>本村隧道>旗洗池>小笠原窪再上端>本村隧道手前で出羽様池からの流れと合流>小笠原窪と出羽様池の水流を集め和泉川に>再び地蔵橋に戻る>本町小学校裏に登下校用橋跡>新橋>本村橋>村木橋>弁天橋>二軒家橋>杢右衛門橋>山手通り_清水橋交差点>方南通りの東放学園裏手を弧状に迂回>大関橋>つみき橋>柳橋>羽衣橋>羽衣の湯;神田川の歌>長者第一号橋>長者第二号橋>神田川と合流

和泉川南流源流点
井の頭通りが甲州街道とクロスする松原交差点の手前、井の頭通り和泉2丁目交差点脇に和泉給水所(和泉水圧調整所)がある。ここを始点に新宿に向かって一直線に走る道は都道431号角筈和泉線。環七泉南交差点より先は水道道路として知られるが、和泉川南流の源流点は、この和泉給水所の辺りにあった。交差点を都道431号に入り、なりゆきで南の甲州街道方面へと進み和泉給水所の甲州街道側のゲート前に。和泉川南流の源流点は、この給水所ゲートの北東、現在は民家の建て込んだ辺りであった、とのこと。ゲート前から源流点辺りを進もう、とは思うのだが、民家の敷地となっており、先に進むことはできない。 東放学園専門学校脇を南北に通る比較的大きな道筋まで戻り、如何にも水路跡らしき道筋を左に折れ、給水所方面へと進む。ほどなく道筋は行き止まりとなるが、源流点はその先の民家の敷地の辺りであったようである。Goo航空地図で見ると、昭和22年の写真に東放学園東(もっとも、この頃は,学校はなかったのだろう、けど)の道筋から源流点に向かう川筋らしき痕跡が見て取れる。

沖縄タウン
源流点であった、かとも思える地点を確認し、川筋跡というか、民家の間の小径を、道成りに東に向かう。正確には源流点から東放学園東の通りまでは川筋跡は北東に進み、この通りからは方向を変えて和泉仲通り商店街からの通りに向かって南東に進み、甲州街道手前で和泉仲通り商店街からの通りとクロスする。
通りを越えた川筋は民家の軒先といった細路を北東へと向かい、和泉明店街、通称沖縄タウン、を南北に通る道筋とクロスし、その通りを越えると都道431号角筈和泉線の一筋南の細路を環七・泉南交差点へと向かう。異常に多いマンホールが印象に残る。



少々寂しい商店街が、何故に「沖縄タウン」なのか。商店街のHPを見ると、街を活性化するための試みであり、特に沖縄と関係が深い、というわけでもないようだ。杉並区には「沖縄学の父」と呼ばれる、伊波普猷(いはふゆう)氏や、『おもろさうし』の研究で有名な仲原善忠などの高名な沖縄の学者が住んでいた、さらには23区内で沖縄関係の在住が多く、沖縄料理の店も都心では一番多い、といった「杉並区」の特徴にフォーカスし、街おこしをおこなっている、とのことである。実際、商店街を通るとき、エイサー演舞などのイベントを目にすることもある。

環七・泉南交差点
環七・泉南交差点を渡る。玉川上水新水路が造られたときは、ここには十五号橋が架かっていた、とのこと。環七建設の構想は古く、とはいっても、昭和2年の頃に素案ができた、と言うから、環七も当時は現在のような幹線道路でもなく、田舎の小径といったものではあったのだろう。
環七は、戦前には一部着工するも、戦時下には中止となり、戦後も計画は遅々として進まなかったようである。Goo地図で見ると昭和22年の航空写真には、環七の道筋に代田橋あたりから青梅街道手前まで、世田谷通りから国道246号まで、など環七の道筋が断片的に見て取れる。
状況が動いたのは1964年(昭和39年)の東京オリンピック。駒沢競技場や戸田のボートレース会場、そして羽田空港を結ぶため計画が急速に動き始め、オリンピック開催までには大田区から新神谷橋(北区と足立区の境)まで開通した。Goo地図で見ると、オリンピックを翌年に控えた昭和38年の航空写真には荒川の神谷橋あたりまで道筋が開通している。
その後、計画は少し停滞し、最終的に葛飾区まで通じ、全面開通したのは1985(昭和60年)のことである。構想から全面開通まで60年近い年月がかかったことになる。ちなみに、環七、環八、および環六(山手通り)は知られるが、その他環状一号から五号も存在する。環状一号線は内堀通、二号は外掘通り、三号は外苑東通り、四号は外苑西通り、五号は明治通り、とのことである。

荻窪の流れ合流点跡
環七・泉南交差点を越えた南流水路は、水道道路の南に出る。水道道路の南に沿って、道路と少し段差のある細路が東に続く。この道が南流の流路かとも思ったのだが、和泉川南流は環七を越えてすぐ、少し南に折れ、水道道路の二筋南の細路を進んでいた、ようである。
先に進み、比較的広い道とクロスするあたりで和泉川南流は北に折れ、水道道路の北側に移った、とのこと。 和泉川南流が流路を北に変えるこのあたりは荻窪と呼ばれる窪みであった、とのこと。北に流路を変える道筋を、そのまま東に進むと緩やかな上りとなっているし、また、南からも窪みに向かって如何にも水路跡らしき小径が下ってくる。これは、甲州街道に沿って東進してきた玉川上水が、荻窪の「窪地」を避けるべく、代田橋で流路を南に変え、環七を渡った辺りにある荻窪の最上端部から下る流れと、笹塚駅近く、稲荷橋あたりからの玉川上水幡ヶ谷分水が合わさり、この窪地へと流れる細流跡とのことである。
荻窪への流れの最上端は玉川上水が環七を渡ってすぐの公園脇。環七を渡って最初の、北に一直線に進む路地の入口辺りが、荻窪への流れの最上端と言われる。流路はおおよそ西の世田谷区、東の渋谷区の区境を下っている。京王線を越え、甲州街道の手前あたりは、世田谷区、渋谷区、そして杉並区の区境となっている。
往昔、このあたりに三郡橋が架かっていた、と言う。南豊島郡、東多摩郡、荏原郡の3つの境界がその名の由来。笹塚駅付近、稲荷橋より分水された玉川上水幡ヶ谷分水もこのあたりで合流し、甲州街道を渡り北に進み、荻窪の和泉川南流の合流点に向かっていた、と。流路はおおよそ杉並区と渋谷区の境となっているように思える。往昔、地域の境を川筋にすることが多かったとの所以である。
ちなみに、地形図をみると、このあたりは、北は和泉川・神田川水系、西は北沢川・目黒川水系、東は宇田川・渋谷川水系といった3つの水系の分水界。玉川上水が代田橋あたりから先、南へ北へと蛇行するのは、言い換えれば、分水界の尾根道を外れないように進んでいる結果でもあろう。


より大きな地図で 和泉川(神田川笹塚支流) を表示

水道道路の北側に移る
荻窪から水道道路の北側に移った和泉川南流は駐車場の南詰めに出る。駐車場北詰めは、源流点より東流してきた和泉川北流が、北東へと向かう地点であるが、駐車場南詰めに出た南流は、駐車場の南端と水道道路の間の小径を東へと向かう。
大正時代、関東大震災など二度の地震で水道道路、当時の玉川上水新水路は二箇所決壊し大きな被害を出した、と言う。一箇所は現在中野通りが通る窪地に築いた築堤、そしてもう一箇所は、この荻窪の辺りのようである。




境橋
先に進むと、道筋、と言うか川筋跡は北に少し弧を描くように進む。水道道路にあった地図によれば、弧を描く始点あたりに欅橋という表示があったが、それらしき名残はなにも、ない。先に進み弧の最上端あたりに橋跡。堺橋の名残である。昭和32年(1957)に架けられたこの橋は、杉並区方南と渋谷区笹塚の境近くにあり、ために昭和初期までは境橋とされていた、とのこと。
弧を描いた道筋は、再び水道道路脇に接近し、しばらく水道道路と平行して東に進み、北東へと流路を変えると、ほどなく富士見学園の敷地内へと進む。



一の字橋
富士見学園西側の道を左に折れ、学園敷地を迂回する。北に進むと、東西に走る比較的大きな通りに出る。最近できた道かとチェックすると、Goo地図で見るに昭和22年の航空地図に比較的広い道筋が、北東方向へと緩く弧を描き中野通りまで続いている。この道筋は和泉川北流の流路でもあった。
通りを進み、富士見学園東側を南北に通る道筋に戻る。ここは笹塚十号坂商店街とある。十号とは、玉川上水の新水路が和泉の水衛所(水圧調整所・和泉給水所)から新宿の淀橋上水場まで造成されたとき、新宿から和泉にむかって一号から順番に架けられた橋の名前。一号と二号は淀橋上水場の敷地内であったが、三号橋は山手通りに架けられていた、と言う。
笹塚十号坂商店街を北に上り、途中、富士見学園から出てきた、と思える道筋・川筋跡をチェック。休憩所のようなコーナーとなっていた。道筋は商店街の通りを越えて民家の間を進むが、和泉川南流がこの笹塚十号坂商店街の道筋とクロスするところに、一の字橋が架かっていた、とのこと。橋の名残はなにも、ない。

明治橋跡
細路を進み笹塚中学校裏を越えると、笹塚中学校東を南北に通る道と交差。明治橋跡が残る。と言っても、片側支柱だけが、ぽつんと佇むだけではある。先に進むと中野通りにあたる。通り手前には石、なのかコンクリートなのか、ともあれ橋跡らしき名残が残るが、これといった橋名の記録は、ない。





中幡庚申塔
中野通りを越えると、川筋跡は北東に走る通りに突き当たり、そこから流路を北東へと向ける。突き当たりには中幡庚申塔が残る。この庚申塔のあたりには庚申橋が、1990年代の後半の頃まであったとのこと、である。

牛窪からの流れが合流
中幡庚申塔の辺りには牛窪と呼ばれた窪地からの流れが合流する。玉川上水が笹塚から大きく南に迂回し、中野通りが井の頭通りとクロスする手前で再び流路を変え、弧を描いて北に向かうのは、玉川上水が荻窪を迂回している、ということである。
荻窪の最上端 は、南へと大きく弧を描く玉川上水と中野通りがクロスする辺り。荻窪の最上端近く、中野通りの少し西からふたつの流れが和泉川南流へと注いでいた。ひとつの流れは中野通りの西を下り、あとの一流はすぐに中野通りの東へと向かい、通りにそって下り、二流は水道道路・笹塚出張所前交差点で合わさり、中幡庚申塔のあたりで和泉川南流に注いでいた、ようである。

和泉川北流・神橋
中幡庚申塔から先は比較的大きな通りを進む。緩やかなS字のカーブが如何にも、往昔の川筋の風情を残す。先に進み、公園脇の道を、何の気なしに北に進み、ちょっと寄り道。東西に走る細路の脇に橋の支柱らしき、もの。神橋とあり、和泉川北流唯一の橋跡であった。

中幡ヶ谷小学校・幡ヶ谷からの細流跡
神橋跡から元の通りに戻り、先に進むと中幡小学校。中幡小学校の東端には幡ヶ谷駅あたりからの水路が合流する。最上端部は幡ヶ谷駅手前の玉川上水の近く。北東に切り上がってきた玉川上水が東に流路を変え、幡ヶ谷への駅への道と分岐するあたり。玉川上水からの分水であったのだろう。
流路は最上端より北東に、川筋跡と思われる細路を駅に向かう。ほどなく川筋は商店街に呑み込まれ流路跡は消える。甲州街道を渡り、駅前商店街の雑居ビルの敷地をクランク状に進むようである。水路跡らしき道筋が現れるのは幡ヶ谷の駅に続く道筋。水路は北に進み、観音湯西端の細路を進み水道道路に当たる。


水道道路の北側に渡った水路は幡ヶ谷第二保育園脇の細路を進むが、水道道路付近は現時点(2011年10月)では通行できない。水道道路を少し西に戻り、坂道を下り水路跡らしき道筋に戻る。水道道路から少し離れたところに大きな段差の石段があるが、水路跡はそこから東は崖、西は民家の軒に挟まれた細路を北に下る。ほどなく流路は東へと変わるが、その地点の西側は上り坂となっており、如何にも窪地といった流路である。その先で水路はクランク状に曲がり、中幡小学校脇に出る。




新道橋
中幡小学校東側で、和泉川南流は大きな通りを離れ、北側の小径に入る。流路跡はそこから遊歩道らしくなる。先に進むと道の左手に幡ヶ谷新道公園。公園の東側の通りは六号坂商店街からの道筋。水道道路から下る道筋は、六号通り商店街、六号坂商店街、そして新道公園前から先は六号大通り商店街、と「出世魚?」の如く名前が変わる。そして、この通りに架かるのが新道橋である。

地蔵窪からの流れの合流点跡
水路跡を先に進む。幡ヶ谷保育園裏を進み、橋跡を示す鉄製の柵をいくつか見ながら進むと地蔵窪からの流れの合流点に。合流点脇には公文堂製印所と書かれた民家があった。
地蔵窪の源流点は幡ヶ谷駅を少し東に進んだ甲州街道脇にあるエネオスのガソリンスタンドの裏手あたり、とか。往昔、この地には1686年建立のお地蔵様が祀られていた。地蔵窪の名前の由来である。幡ヶ谷地蔵とも子育地蔵とも呼ばれるこのお地蔵様は、現在はガソリンスタンドのすぐ西、陸橋脇のビルの一角に移されている。まことに奇妙な形の祠ではある。
案内によれば、「地蔵信仰は古くから行われていますが、地蔵は苦痛の時に身代わりに現れるとか、冥界と現実界との境にあって死後救ってくれるとか、子供の安全を守ってくくれるとか、いろいろと考えられていました。この地蔵は子育て地蔵と呼ばれており、このあたりの低地は昔から地蔵窪といっています。この地蔵は江戸時代の貞亨3年(1686)年の造立で、もとはすぐ前にお堂がりましたが、甲州街道の道幅を拡げるとき、ここにあった大ケヤキのあとに移され、大勢の人々の浄財によって立派なお堂が作られました(渋谷区教委区委員会)」、と。
地蔵窪を離れた流路は、甲州街道を北に渡り、金物屋と駐車場の間の細路を北に下り、水道道路に当たる。すぐ西は水道道路の本町隧道。1975年に造り替えられた現在の隧道は昔の位置より少し西に移っている、と。隧道の少し西には、如何にも閉じ込めらた跡を残す昔の隧道跡らしき壁が残る。往昔、水路は隧道を通り水道道路下を潜っていたのではあろう。
本町隧道を潜り、帝京短大の一筋東の細路が水路跡。先に進むと、帝京整形外科の東裏あたりで、北西からの細路が合流していたようだが、これは小笠原窪と出羽様池跡からの水路から分水された流路跡とのことである。小笠原窪と出羽様池跡は後でメモする。
細路を進み、児童センター前交差点からの比較的大きな通りに出るが、水路は三叉路の交差点の手前を突き切り、北に進み和泉川南流に合流していた、と。


(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)

 

小笠原窪・出羽様池跡からの流れの合流点
地蔵窪からの流れとの合流点の一筋東、氷川神社から南に下る比較的大きな通りとクロスするところには橋跡の名残を残すコンクリートと鉄の柵がある。往昔、このあたりには氷川橋とか本町桜橋があった、と言う。場所から言えば氷川神社の参道とも言えなくも、ない。氷川橋の跡だろうか。
氷川橋か否かはともあれ、この地は小笠原窪と出羽様池跡からの流れの合流点であったところ。小笠原窪の最上端部は初台駅の少し西、幡代小学校の前あたり。現在は甲州街道に面した公園となっている。窪地最上端の先にある尾根道の南は渋谷川水系。小笠原窪へと下る尾根道の北は神田川水系となっている。ちなみに、このあたりを通る玉川上水も、渋谷川水系・宇田川の谷筋を避けて、尾根道でもあった甲州街道に再接近している。
地蔵窪からの水路は甲州街道を越え、北に下る。水路跡を進むと高知新聞・高知放送社宅洗旗荘のビルがある(渋谷区本町1丁目9)。ビルの前に石碑とその案内。石碑には「洗旗池」、その記念碑の案内は「旗洗池」と語順逆転している。案内によると、「平安時代後期に東北地方を舞台にした後三年ノ役(1083~1087)の帰途、源 義家(みなもとのよしいえ、通称:八幡太郎)がこの池で源氏の旗である白旗を洗ったという。このことが幡ヶ谷というこの付近一帯の地名の起源となった。その白旗は金王八幡宮の宝物となり、今残されている旗がそれである。
この池は60平方メートル程の小さな池で、肥前唐津藩小笠原家の邸宅内にあり、神田川に注ぐ自然の湧水であった。昭和38年(1963)に埋められ、今は明治39年(1906)4月、ここに遊んだ東郷平八郎筆の「洗旗池」(はたあら いけ、の記念碑だけが残されている。
源義家がはたして白旗を洗ったかどうかの証拠はありません。しかし関東地方特有の源氏伝説のひとつであり、幡ヶ谷というこの付近一帯の地名の起源となった有名な池だったのです(渋谷区教育委員会)」、とある。
金王八幡は渋谷駅からほど近い社。旗洗池で白旗を洗った義家は、その白旗を金王八幡に奉納して上洛した、とのことである。後三年の役は、それまで東北に覇を唱えていた清原氏が勢力を失い、平泉の藤原氏が台頭するきっかけとなった東北地方での騒乱である。
石碑の揮毫は東郷平八郎。日露戦争の雌雄を決する日本海海戦でロシアのパルチック艦隊を殲滅した海軍元帥。明治の頃、小笠原子爵邸を訪れた折に揮毫した、とのこと。
旗洗池を離れた水路は、北に進み、渋谷区本町1-39-1あたりで、東から流れ下ってきた出羽様池からの水路と合流し、流路を北西に変更し水道道路方面へと向かっていた。出羽様池とは新国立劇場の北、水道道路手前にあるテニスコートのあるあたりである。出雲松江藩松平出羽守の屋敷があったのが、出羽様池の名前の由来である。
流路を北西に変えた川筋は、ジョルティ初台とサンシャインコーポベル初台の間の細路を進み、本町図書館の二筋裏手を進み、水道道路にあたる。その後、水路は本村隧道を抜け、比較的大きな通りを児童センター前交差点へと向かう。道は緩やかなカーブを描き進む。如何にも水路跡といった趣きである。児童センター前交差点を越えた川筋は道なりに進み、和泉川南流の合流点へと向かっていたようだ。なお、既にメモしたように、水道道路を越えてすぐ、西へと向かう分水路があり、地蔵窪からの流れと合わさり和泉川南流へと合流する流れもあった、よう。

柳橋
小笠原窪・出羽様池跡からの流れの合流点から川筋跡らしき道筋を東へと向かう。少し大きな通りとの交差するところに新しく造られた橋、というか橋のモニュメント。柳橋とあった。








本町小学校・地蔵橋
柳橋を越え、川筋跡をしばらく進むと、大きな通りに出る。通りの前には本町小学校がある。ここは、和泉川南流の北をおおよそ平行に流れてきた和泉川北流が合流する地点。地蔵橋という橋跡が残るが、ここでふたつの流れが合流し、神田川へと向かっていた。
地蔵橋の名前の由来は子育酒呑地蔵尊、から。地蔵橋南詰めに子育酒呑地蔵尊があった、とのことだが、更地となっており建物はなにも、ない。地蔵尊の祠を求めて辺りをさまよっていると、子育酒呑地蔵尊は中野通りに近い幡ヶ谷2丁目36−1にある清岸寺に移ったとあった。酒呑地蔵尊は、勤勉に働いた男をねぎらって酒を馳走したところ、酒に酔い川、和泉川だろうが、ともあれ、川に落ちてなくなった。その後、村人の夢枕に現れ、村から酒飲みをなくすために地蔵建立を求めた、とか。そのうちに、訪ねてみよう。


登下校用橋跡
本町小学校裏手の川筋を進む。小学校の裏門には登下校用に造られた、と思われる橋跡が残っていた。

新橋跡
本町小学校を越えると、南北に走る通りに橋跡が残る。中央部の鉄パイプは外された石の柱が残る。1940年(昭和15年)に造られた新橋跡である。暗渠が南北より一段低くなっており、なんとなく川筋跡の趣が残る。南北に走る通りを北に進むと方南通りに通じる。


本村橋跡
細路を先に進み、今度は東西に走る通りと交差するところに本村橋跡が残る。橋跡と言っても、橋名を刻んだコンクリートのモニュメントが四方の隅に立つだけ、ではある。モニュメントは2006年(平成18年)に造られた、とか。本村は「ほんむら」と読む。水道道路の本村隧道とおなじく、本町の前身である本村が名前の由来。

村木橋
東西に通る道を越え、斜めに切り上がり、最初にクロスする南北の通りに架かっていたのが村木橋。1955年{昭和30年}に造られた石造りの支柱が残る。支柱の間は鉄の柵。

弁天橋跡
村木橋を越え、ほどなく南北に通る道筋にかかっていたのが弁天橋。まったくのモニュメントとして造られており、往昔の橋の面影は残っていない。

二軒家橋跡
先に進み、本町中学校の東側を南北に走る通りとクロスするところに架かって橋が二軒家橋。この橋も近年、あたらしくモニュメントとして作り直されていた。二軒家はこのあたりの字名である。

手通り・清水橋跡

少し広くなった川筋跡を方南通りに沿って一筋南を進む。山手通り手前には杢右衛門橋があったようだが、山手通りの工事の影響か、コンクリートの段差らしきものしか見つからなかった。
和泉川南流が山手通りと交差することころに架かっていたのが清水橋。山手通りと方南通りの交差点にその名を残す。清水橋の由来は、清水橋交差点を少し北東に入ったところに二軒家公園があるが、そこにあった湧水池の清水による、とか。

大関橋跡

山手通りを越え、川筋は一度方南通りにあたる。このあたりに大関橋があった、とか。橋の痕跡は見あたらなかった。大関橋から先は、ほんの数メートル方南通り、否、正確には方南通りは清水橋で終わり、清水橋交差点から新宿十二社までは都道432号淀橋渋谷本町線と言う、500m弱の極めて短い道に衣替えしているのだが、ともあれ、都道432号に沿って進む。
その432号をほんの少し東に進み、東放学園手前で、学園の裏手に入り込み、南に弧を描くようにして進み、再び都道432に戻る。川筋跡は、自転車置き場となっていた。それにしても和泉川と東放学園は「縁」がある。源流点近くでも、東放学園脇を進み、終点近くでも再び東放学園脇を歩くことになった。

都道432号・都営大江戸線西新宿五丁目駅
東放学園の東側を都道432号に出る。水路は通りを横切り、都営大江戸線西新宿五丁目駅中を抜け、通りを北に渡る。往昔、交和橋と呼ばれる橋があった、とか。清水橋交差点を含め都道432号の南は渋谷区、通りの中央から北は新宿区に変わる。

えのき橋

新宿区に入ると、川筋は道の中程に花壇が置かれるなど、遊歩道といった趣きとなる。北東に道を進み、これまた東放学園の東脇を北西に向かう通りとクロスするところに橋跡が残る。支柱の文字はかろうじて読めるといった状態。えのき橋、と読めた。1924年(大正13年)に架けられたこの橋は、石で造られた欄干の中央部がバッサリと切り離され、鉄の柵によってふさがれていた。

柳橋
川筋跡を北東にしばらく進むと、北西に通る道と交差。そこに柳橋の跡が残る。1932年(昭和7年)に造られた橋跡は石橋の欄干の中央部分が切り開かれ通路となっている。

羽衣橋跡
柳橋を越えるとすぐに東西に通る広い通りにでる。ここに架かっていたのが羽衣橋。橋の西に羽衣の湯、と言う銭湯がある。銭湯と言うより、現在ではサウナなども備えた温泉スパ、といったものではあるが、ここは「"あなたはもう忘れたかしら.....♪"」で知られるヒット曲、"神田川"の舞台となったところ。ヒット当時の1973年(昭和48)の銭湯の面影は、今は、ない。ちなみに、「神田川」の記念碑は桃園川と神田川との合流点近くに建つ。

長者第一号橋跡
羽衣橋を少し北に進むと長者第一号橋跡。東西に通る道とクロスするところに石だったかコンクリートだったか定かではないが、橋跡が残る、1938年、と言うから昭和13年に造られたものである。

長者第二号橋跡
更に一筋北を東西に通る道とのクロスするところには長者第二号橋跡が残る。残るとはいうものの、橋の面影はなく、鉄の柵が残るだけ。

神田川と合流
長者第二号橋跡のすぐ先で和泉川南流は神田川に注ぐことになる。合流点には大きな排水溝造られていた。雨水などの排水路として和泉川の暗渠は活用されているのだろう、か。


神田川水系と渋谷川水系の尾根道でもある甲州街道と南台・弥生町の台地の間の窪地の谷頭の湧水や、甲州街道に切り上がるいくつもの窪地の細水を集め、流れ下ってきた和泉川も、ここ南台・弥生町の台地の切れたところで神田川に注いでいた。
和泉川の本流でもあった、南流散歩はこの合流点でお終い。次回は和泉川北流を辿ってみようと思う。 

環七と甲州街道がクロスする大原交差点の少し北に泉南交差点がある。そこから一直線に新宿に向かう道があり、水道道路と呼ばれている。自宅から新宿への往来に、気まぐれに、そして、折りにふれて歩いている道でもある。途中六号路とか十号路などという名前の通りなどがあり、その号数って何、なんだろう、「水道道路」の向かう新宿、現在高層ビルが建ち並ぶ西新宿には、かつて淀橋浄水場があったわけであるから、東京の水道網とは、なんらかの関係はあるのだろう、などとは思いながらも、そのままになっていた。
先日、玉川上水を羽村の取水口から新宿の四谷大木戸跡まで歩き、そのメモをまとめるとき、この水道道路は玉川上水の歴史、また、東京の水道網の開始とも大いに関連のある水路であったことがはじめてわかった。
明治31年(18989)、淀橋浄水場が新宿に建設されるにともない、従来の玉川上水の水路(旧水路)、甲州街道に沿って進んできた水路が和泉で流路を南に変え、分水界の尾根道を、蛇行を繰り返しながら進む水路であるが、その玉川上水の旧水路とは別に、和泉水圧調整所(旧和田堀水衛所;現在、和泉給水所となっている)から新宿の淀橋浄水場に向かって一直線に進む新水路が開かれた。現在の都道431号角筈和泉線、通称、水道道路と呼ばれる道がその水路跡である。淀橋浄水場が建設された最大の目的は、玉川上水の水質汚染、そして更には明治19年(1886)、東京とその近郊にコレラが大流行し、従来の堀割の玉川上水に変わる水道網建設が必要とされたためである。
和田掘水衛所から淀橋浄水場までの距離は4.3キロ。水路途中にある窪地には、淀橋浄水場の掘削土などで盛り土した8-10mの築堤を造り、幅6mの開渠水路が造られた。当時の写真を見るに、なかなか大規模な水路である。
しかしながら、この水路堤は大正10年(1921)の地震や12年(1923年)の関東大震災で2箇所が大きく決壊し、地域に洪水をもたらした。これを契機に、新水路の見直しが行われ、昭和に入ると、水路は当時計画中の甲州街道拡張に合わせ、甲州街道下に送水管を敷設することになる。昭和12年(1937)には、和田堀町地先から地下に潜り、代田橋で甲州街道下に移り、角筈で左折して浄水場につながる埋設管を敷設し、新たな送水路が完成した。
不要になった新水路は自然地盤まで崩し、幅9mの砂利道とする計画もあったようだが、結局は、自然地盤に戻ったところがあったり、堤が残ったり、といった、現在の道の姿となった。水道道路とは呼ばれるものの、道路下には水道管も埋設されてはいない、今は、「名のみ」の水道道路であるが、それでも、なんらかの「発見」を楽しみに散歩に出かけることにする。


本日のルート;和泉給水所>沖縄タウン>環七_泉南交差点>十三号通り公園>十号通り商店街>中野通り>七号通り公園>六号通り商店街>本町隧道>本村隧道>初台_出羽殿池>山手通り>十二社通り>新宿中央公園>新宿水道局>淀橋浄水場跡碑

和泉給水所
新水路の起点は井の頭通りが甲州街道とクロスする松原交差点の手前、井の頭通り和泉2丁目交差点脇にある和泉給水所。玉川上水の旧和田堀水衛所のあったところである。上でメモしたように、旧玉川上水は和泉給水所の南を進み、代田橋へと進み、その先は北沢川水系(目黒川水系)、宇田川(渋谷川水系)、神田川水系の分水界を尾根道から離れることのないように蛇行を繰り返し進むが、新水路は、ここから新宿に向かって一直線に走る。現在の都道431号角筈和泉線が新水路跡である。環七泉南交差点より先は水道道路として知られるが、始点は和泉2丁目交差点であった。




通勤路でもある和泉交差点を都道431号に入り、右手に和泉給水所のタンクを見やりながら、住宅街を進む。道筋が少し北に折れるあたりで道路脇に公園が現れる。地図を見ると、和泉給水所から一直線に進んだところであり、ここが水路跡ではあろう。昭和22年のgooの航空写真にも水路跡らしき「ノイズ」が見て取れる。
先に進み、和泉仲通商栄会(和泉仲通り商店街)の通りを越えると、道は車一台がやっと通れるといった小径となる。道の右手に公園が続く。いかにも「公共物」の敷地跡といった風情。とはいえ、水路の名残りは、素人目には、何も、ない。

沖縄タウン
公園に沿って先に進むと少々レトロな雰囲気を残す和泉明店街に。通称、沖縄タウンと呼ばれている。何故に「沖縄タウン」なのか。商店街のHPを見ると、街を活性化するための試みであり、特にこの地が沖縄と関係が深い、というわけでもないようだ。杉並区には「沖縄学の父」と呼ばれる、伊波普猷(いはふゆう)氏や、『おもろさうし』の研究で有名な仲原善忠などの高名な沖縄の学者が住んでいた、さらには23区内で沖縄関係の在住が多く、沖縄料理の店も都心では一番多い、といった「杉並区」の特徴にフォーカスし、街おこしをおこなっている、とのことである。
伊波普猷は戦災で焼け出され、荻窪にあった比嘉春潮のお宅に寄寓していた、と。仲原善忠氏は世田谷区成城とも言われるが、それはそれとして、実際、商店街を通るとき、エイサー演舞などのイベントを目にすることもある。

環七・泉南交差点
クランク状になった商店街のメーンの通りを越え、民家の密集する細路、車一台がかろうじて通れるといった細路を進むと、環七・泉南交差点に出る。新水路があった頃は、十五号橋が架かっていた、とのことである。かつて、水道道路と交差する通りには、新宿の淀橋浄水場を起点に一号から十六号までの名称が付けられ、そこには木橋が架けられていたがようだが、現在地名として残るのは、六号通り商店街、十号通り商店街以外には、バス停の七号通り、そして十三号通公園だけとなっている。ちなみに和泉仲通り商店街とクロスするところには十六号橋が架かっていたそうである。

環七
環七とのクロスするところに十五号通り橋が架かっていた、とは言うものの、新水路が造られた頃には、現在の環七が通っていたわけでは、ない。環七建設の構想は、昭和2年の頃には素案ができ、戦前には一部着工されたようだが、戦時下では中止となり、戦後も計画は遅々として進まなかった、とのこと。Goo地図で見ると昭和22年の航空写真には、環七の道筋に代田橋あたりから青梅街道手前まで、世田谷通りから国道246号までなど、環七の道筋が断片的に見て取れる。
状況が動いたのは1964年(昭和39年)の東京オリンピック。駒沢競技場や戸田のボートレース会場、そして羽田空港を結ぶため計画が急速に動き始め、オリンピック開催までには大田区から新神谷橋(北区と足立区の境)まで開通した。Goo地図で見ると、オリンピックを翌年に控えた昭和38年の航空写真には荒川の神谷橋あたりまで道筋が開通している。
その後、計画は停滞し、最終的に葛飾区まで通じ、全面開通したのは1985(昭和60年)のことである。構想から全面開通まで60年近い年月がかかったことになる。ちなみに、環七、環八、および環六(山手通り)は知られるが、その他環状一号から五号も存在する。環状一号線は内堀通、二号は外掘通り、三号は外苑東通り、四号は外苑西通り、五号は明治通り、とのことである。ともあれ、十六号通り橋が架かった頃は、地域の小径ではあったのだろう。

和泉川(神田川笹塚支流)
環七・泉南交差点を越える。ここから水道道路は片側一車線の道として、新宿に向かって一直線に進む。水路筋の地形図をカシミール3Dでつくってみると、大雑把に言って、水道道路から甲州街道方面にかけての南側の標高が高くフラとになっており、北側が低く窪地となっている。また、流路途中で、北側の窪地が南へと切り込んだところがいくつもあり、築堤はそういった窪地に盛り土をおこない、水路堤をつくったのではないかと思う。最大の窪地が、現在の中野通りと甲州街道のクロスするあたり。牛窪と呼ばれたこの窪地は水道道路を越え、甲州街道の南まで切り上がっている。玉川上水か笹塚から南へと弧を描いて進む地点でもある。そのほか、大小の窪地が水道道路の南まで切り上がっている。
一方、水道道路の北側窪地の先には南台・弥生町の台地があり、その北側を神田川が流れる。そして、水道道路・甲州街道の通る尾根道と南台の間の窪地には、和泉給水所辺りを谷頭とする、和泉川と呼ばれる細流が流れていたとのこと。どこかの資料で「(新水路)引込口より下流約250間は湧水が多かった」、との記録もあり、また、和泉給水所の辺りには池もあったようで、和泉川と呼ばれる水流があってもそれほど不自然ではない。
和泉川は、現在はすべて暗渠となっており水路は残らない。その痕跡は橋跡や遊歩道らしき道筋として残るだけではあるが、往昔、和泉川の細流は南台の台地が切れたあたりで、神田川に合流していた。和泉川が神田川笹塚支流とも呼ばれる所以である。流路を調べると、和泉川は南北二流に分かれ、途中で一流となり神田川に注ぐ。また、この川筋には、水道道路の南側まで切り込んだ窪地からの細流、玉川上水からの分水も注いでいたようである。
この川筋跡、と言うか道筋は、新水路同じく、自宅から新宿へ「気まぐれ」に、そして、成り行きで歩く道筋と重なるところも多い。次回は、和泉川の暗渠を辿ってみようと思う。

荻窪
環七・泉南交差点を越えると、水道道路の南北は段差があり、築堤の名残らしき雰囲気を残す。このあたりは、基本的には水道道路と甲州街道は同じような標高ではあるので、道路南側の段差は、水道道路を越えて甲州街道方面へと切り込んだ窪地ではあろう。実際、この窪地は「荻窪」と呼ばれていたようであり、その最上端、と言うか、再南端は、甲州街道を越え、旧玉川上水が環七と交差するあたり、とのこと。甲州街道に沿って東流してきた玉川上水が代田橋で流路を南に変え、環七との交差点あたりから再び東流するのは、この荻窪の低地を迂回するためである。なお、荻窪の谷頭から流れる水は窪地を北に下り和泉川に注いでいた、とのことである。

十三号通り公園
道を先に進む。水道道路の北側は段差があるも、南側は次第に段差が目立たなくなり、十三号通り公園のあたりでは、ほとんどフラットな状態となる。水道道路と交差する通りには新宿の淀橋浄水場を起点に一号から十六号までの名称が付けられ橋が架けられていた、と上にメモした。『日本水道史;日本水道協会』にも、「小径路にして車馬の通行なきものは歩道として築堤上に昇り、水路上を木橋を架して通行せしむ」とある。ここにも往昔、木橋が架かっていたのではあろう。
なお、上で大正10年、12年の地震で大きく決壊したのは2箇所とメモした。一カ所はこの13号通りと14号通りの間。もうひとつは8号通りと9号通りの間とのこと。9号通りと8号通りの間とは、現在の中野通りとの交差するあたりであろうが、13号通りと14号通りの間とは、15号通りが環七であるので、荻窪からの水路が水道道路とクロスするあたりではなかろう、か。


より大きな地図で 和泉川(神田川笹塚支流) を表示

十号通り商店街
道を進み富士見女高前交差点に。この交差点の南側は十号通り商店街。北側は十号坂商店街とあった。十号通り商店街を南に進むと京王線・笹塚駅に至る。「号」表示で商店街となっているのは、この十号と東に進んだ六号通り商店街のふたつだけ、である。

中野通り・笹塚出張所前交差点
十号通り商店街を越えると、道は中野通りに向かって下り、交差点を越えると再び上り坂となる。地形図を見ると、中野通りに沿って窪地が甲州街道を越え、井の頭通りの手前まで延びている。新水路が築かれた頃は、この窪地に堤を築き、水路を渡していたのだろうが、それにしても、現在、堤の痕跡は素人目には見あたらず、自然な坂道となっている。
新水路が造られた当時、この窪地を越える築堤には、その下に隧道を通していたようである。『淀橋浄水場史;東京水道協会』の中に「玉川上水新水路被害状況」という地図があり、そこには第8号橋と第9号橋の間に「第三号暗渠」と書かれた隧道らしき記載があった。新水路には三カ所の隧道があったようだが、現存しているのは、2箇所だけであり、この地の隧道は築堤もろとも、元の地勢に戻されたのではあろう。
なおまた、この中野通りとクロスする隧道あたりは、大正10年、12年の地震によって大きな被害を受けたところ。『淀橋浄水場史』には、「水路敷が沈下、北側の水路堤防約10間が崩壊し流失。多数の亀裂残れり」と、ある。

牛窪
中野通りと甲州街道が交差する笹塚交差点の南詰めに牛窪地蔵が祀られているが、その名の通り、このあたりは「牛が窪」と呼ばれる大きな窪地であった。玉川上水も笹塚から流路を南へと変え、この牛窪を迂回している。この窪地は雨乞い場でもあり、また、牛裂の刑を執行する刑場跡でもあった、とのこと。牛窪地蔵が祀られたのは宝永・正徳年間の疫病を避けるため。地蔵尊の祠、といっても現在は結構モダンな造りとなっているが、その脇には道供養塔、庚申塔が祀られる。
窪地の最上端は中野通りと井の頭通りが交差する大山交差点の少し北、笹塚駅あたりから荻窪を迂回すべく、流路を南に向けた旧玉川上水が窪地を迂回した後、再び北に流路を大きく帰る地点の少し北あたり、である。この窪地最上端辺りからも二筋の水路が北に向かい、中野通りと水道道路の交差する笹塚出張所交差点のすぐ東で合流し、和泉川に注いでいた、とのこと。

 七号通り公園
中野通り・笹塚出張所前交差点を東に、ゆるやかな坂を上る。道の北側は交差点あたりでは段差があるも、次第にその差を縮める。南側にはほとんど段差は感じられない。先に進むと道脇に七号通り公園があるが、その脇を南に向かう道筋も、水道道路との段差はほとんど、ない。

この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)

幡ヶ谷駅方面に切りあがる窪地
七号通り公園を越えると、道の北側に坂道が現れ、段差が感じられるようになる。道の北側に幡ヶ谷第二保育園があるが、この保育園の西側は大きな段差となっている。保育園とその東の境は、崖のようでもある。どうも、このあたりは幡ヶ谷駅の少し北を最上端とする窪地となっているようであり、その窪地を細流が北に向かって流れ、和泉川に注いでいた、とのことである。

六号通り商店街
水道道路・社会教育館前交差点の南北には商店街が連なる。水道道路より幡ヶ谷駅方面への商店街は六号通り商店街。道を北に下るのは六号坂商店街。十号の場合と同じ名前の付け方になっている。

本町隧道
先に進み、道路南側に公園、北側に帝京めぐみ幼稚園が見えるあたりに本町隧道(第二号暗渠)。道の北側ある石段を下り隧道を潜る。新水路の築堤により通りを分断され、往来が不便になった住民のために造ったもの。新水路にはこのような隧道が3箇所設けられた、と上でメモした。『日本水道史;日本水道協会』には、「新水路は代々幡村字北笹塚、下町及び本村の三箇所に於いて道路を横断する。此付近に於いて水面は地盤上22.27尺以上にあるを以て、道路は煉瓦拱を以て構造とし、水路の下を通過せしむ。此笹塚村のものは、幅8尺、高さ10.5尺、長さ80尺、本村のものは幅6尺、高さ9尺、長さ98尺」とある。本町隧道とはこのうちの、代々幡村字下町、のことだろう。

地蔵窪よりの水路跡
隧道を設けたのは、重い荷車を上げ下げするのが大変であるため、との説明もある。ということは、隧道のあるところは当時のメーンルートであったのかとも思う。また、隧道のあるあたりは窪地でもあり、窪地を下る水流を通すためのものでもあったのだろう。この本村隧道にも、幡ヶ谷駅の少し東にある地蔵窪からの流れが北に下っていた。現在の隧道は1975年に造り直されたとき、元の位置より少し西に移ったようである。実際、隧道のすぐ横に、如何にも塞がれたようなトンネル跡がある。

本村隧道
道を東に少し進み、道の北側に東京公衆衛生学院、南に都営アパートが切れて公園が現れるあたりに本村隧道(第一号暗渠)がある。本村隧道に比べてクラシックな造りが今に残る。住所は渋谷区本町(ほんまち)。かつては幡ヶ谷本町、そしてその昔は幡ヶ谷字本村と呼ばれたのが名前の由来。

小笠原窪・出羽様池からの流路跡
この本村隧道には初台駅の少し西、幡代小学校と甲州街道の間を最上端とする窪地、小笠原窪から北に下る流れと、オペラシティの北側にあった出羽様池からの小笠原窪に向かって西に向かって進んできた流れが合流し、北西へと下り本村隧道を越えて進み和泉川に合流していた。
小笠原窪の名前は、幡代小学校から甲州街道を越えたあたり、現在高知新聞・高知放送の社宅あたりにあった肥前唐津藩小笠原家に由来する。出羽様池は出雲松江藩松平出羽守の屋敷があった、から。

角筈交差点
本村隧道を見たあとは、ひたすら水路跡の道筋を淀橋浄水場のあった、西新宿に。山手通りの手前、レストランのデニーズのあたりにあるテニスコートは位置から言って、出羽様池の跡だろう。先に進み、十二社通り・角筈交差点を越える。角筈の地名の由来は、諸説ある。角筈周辺を開拓した渡辺与兵衛の髪の束ね方が、角にも矢筈にも見えたことから、とする説。否、渡辺与兵衛が在家の僧であり、真言宗では在家の僧(優婆塞:うばそく)を角筈と称したから、との説。その他、熊野神社の十二社の近くにある熊野神社の僧(当時は神仏習合のため)が鹿の角を杖に使っていたから、といった説など、さまざま。誠に、地名の由来は諸説あり、定まること、なし。

淀橋浄水場跡
先に進むと新宿中央公園。このあたり一帯にはかつて淀橋浄水場が拡がっていた。高層ビルが建ち並ぶ西新宿副都心には、その面影は、今は、ない。「新宿の青梅街道口にて電車を下り、青梅街道を西は二三町ゆけば、淀橋浄水場あり。(中略)二個の大烟突、高く空に聳ゆ。多摩川上水の水、ここに来り、ためられ、瀘され、浄められ、蒸気ポンプの力にて鉄管に汲みあげられて、都下に文流す。烟突はその蒸気力をつくるためにのみ用立つもの也。人の身体にたとふれば、ここは心臓にして、全都の地下にひろく行きわたれる大小の鉄管は、なお血管の如し」。これは明治から大正にかけて多くの紀行文を表した大町桂月の『東京遊行記』(1906)にある、淀橋浄水場の情景である。大町桂月の旧宅を求めて、関口の台地を彷徨ったのが懐かしい。
また、田山花袋は、『時は過ぎゆく』の中で、泥土の中で働く工夫、広い地面に、トロッコの軌道が敷かれや水道管が積まれる淀橋浄水場の工事を描く。(『東京の30年』に記載との記事もあるが、所有する文庫には、その記載は、ない)。淀橋浄水場があった一帯は江戸の頃、館林秋元家の抱屋敷(下屋敷?)であり、秋元家の下級武士の出であった田山花袋は、秋元家の文書筆写の内職のため新宿内藤町の家から角筈村の旧秋元家屋敷に通 っていた。『東京の30年』に「川そいの路」というコラムがあるが、そこには「丁度其頃、私は毎日新宿の先の角筈新町の裏を流れる玉川上水の細い河岸に添つて歩いて行った。私は小遣取りに、一日二十銭の日給で、さる歴史家の二階に行つて、毎日午後三時まで写字をした」とある。浄水場となる角筈のあたりを頻繁に歩いていたのだろう。それはともあれ、当初浄水場の建設予定地は、この秋元家の屋敷があった淀橋の地ではなく、この南、千駄ヶ谷村の宇都宮藩旧戸田屋敷であったようだ。明治維新の混乱期における上水管理体制の不備や、江戸時代を長きにわたって使ってきた、木樋の腐食による水質汚染もあり、上水の汚染が大きな問題となってきた。また、明治19年(1886)のコレラの大流行での大きな被害も契機となり、近代水道の設置を迫られた政府は、オランダ人ドーソン、イギリス人バルトン氏、パーマ-氏などを起用し水道設置計画を立案し、千駄ヶ谷村をその候補地とした、とのこと。この構想では、旧玉川上水の水路の流路を利用するものであり 、計画は明治23年に決定された。
当初の予定地の千駄ヶ谷村から、この淀橋の地に変わったのは日本人技師・中島鋭治氏の提言による。綿密な測量により、千駄ヶ谷の浄水場計画地は「凸凹高低がひどく、たくさんの盛り土を必要とし、綿密な構造が不可欠な沈殿池や濾過池としては危険である」、とした。明治24年には、この提言が認められ、「千駄ヶ谷村を淀橋に、麻布と小石川に建設予定の給水所を本郷と芝に」「但し、淀橋浄水場より以西2000余間は新たに水渠を開鑿する」という計画に変更された。玉川浄水新水路はこの提言に基づいて建設されたものである。
淀橋浄水場には4つの沈殿池,24の濾過池、そして、大町桂月の『東京遊行記』に描かれた蒸気を発生される大煙突があった。水道は蒸気ポンプで加圧し、高地給水地域に給水。低地給水地域には、本郷給水所より自然流下で給水した、とのこと。なお、浄水場を千駄ヶ谷から淀橋に変えたことにより、浄水場標高が5m高くなり、結果的に蒸気ポンプ動力の負担減となった、と言う。また、蒸気を発生させる大煙突は東京の近代化のシンボルともなった、とのことである。工事は明治25年、神田川への余水吐工事からはじまり、浄水場の建設と平行し、明治26年、代々幡村本村(本村隧道)、下村の道路築堤(本村隧道)、北笹塚道路築堤(中野通りにあった隧道)の建設が始まり、明治31年に完成。当初は神田区、日本橋区のみへの給水であったが、翌明治32年には市内全域に給水するようになった。

淀橋浄水場碑
高層ビルの建ち並ぶ西新宿を、往昔の浄水場の写真を想い描きながら新宿駅近く、エルタワーの脇にある「淀橋浄水場碑」を訪ね、本日の散歩を終える。西口エルタワー裏の植え込みの中に、その昔、水道局事務所の正門のあった場所を示す赤御影石の記念碑が設置されていた。


今回が玉川上水散歩の最終回。上水が甲州街道を横切る代田橋から、新宿の四谷大木戸まで辿る。先回の、浅間橋跡から杉並区和泉の和泉水圧調整所までは、比較的真っ直ぐな水路跡の暗渠であったが、今回は窪地を避けた大曲りあり、一部開渠あり、整備された公園・緑地あり、尾根道に切り込む谷筋を避けた迂回路あり、少々の変化のあるルートとなる。
なお、今回も先回と同様、散歩メモのうち、橋の記録は『玉川上水・橋と碑と;蓑田たかし(クリオ)』の中になる「橋の移り変わり」を参考にした。『上水記』とは寛政3年(1791)に幕府の普請奉行が編纂した高川上水に架かる橋の記録としては最も古い資料である。橋の記録で明治3年(1870)とあるのは、玉川上水通船計画時に作成された『玉川上水掘筋渡橋取り調』記載のデータである。また、明治39年(1906)の記録とは、東京市水道局まとめた『玉川上水路実測平面図』による。


本日のルート;代田橋>ゆずり橋>大原橋>稲荷橋>南どんどん橋>第三号橋>笹塚橋>上水第二緑道>延寿橋>北沢橋>四条橋>五条橋>六条橋>常磐橋>相生橋>代々幡橋>山下橋>美寿々橋>二字橋>西代々木橋>新台橋>新代々幡橋>改正橋>伊藤橋>三字橋>千駄ヶ谷橋>天神橋>葵橋>JR新宿駅>天竜寺橋>新宿御苑>四谷大木戸

代田橋
甲州街道と井の頭通りが交差する松原交差点を左に折れ、和泉水圧調整所に沿って甲州街道を東に進む。明大前の井の頭線跨線橋で見た二条の水道管のひとつは、旧玉川上水路に沿って埋設されているのであろうから,和泉水圧調整所敷地南の地下を、往昔、代田橋があったあたりに向かって続いているのだろう。甲州街道脇にある東放学園あたりで甲州街道に出ている、とも。
代田橋は旧水路が甲州街道を越えるところに架かっていた。『上水記』にも記載される古き橋は昭和12年(1937)、甲州街道の改修・拡張にともない姿を消した。『新編武蔵風土記稿』には、「わずかにしてさせる橋にはあらざれど、甲州海道の内にて旅人ここを目当てとして往来すれば、その名も世に聞こえし橋なり」、とある。代田橋の袂には水番所があったとのことである。玉川上水がこの地でクランク状に南に折れるのは、甲州街道を東に進んだところにある「荻窪」と呼ばれる北に開けた浅い谷戸を避けるためであろう。

ゆずり橋
陸橋を渡り甲州街道の南側を少し東に進むと、ビルの立ち並ぶ一画に、緑豊かな場所が現れる。玉川上水は、ここで幅2mほどの開渠として姿を現す。甲州街道から京王線・代田橋駅脇の線路を潜るまで、距離としては150m程度ではあるが、ちょっとした渓谷の風情を漂わせる。橋を潜った先には赤煉瓦のアーチ橋。ここは和田堀給水所からの配水管が渡る「玉川上水第一号橋」と呼ばれる橋であったが、老朽化に伴い掛け替えるに際し、橋名を公募。「譲り合いの精神」から「ゆずり橋」となった、とか(『玉川上水・橋と碑と;蓑田たかし(クリオ)』)。

ところで、代田の地名の由来は、伝説の巨人・ダイダラポッチから、との説がある。ダイダラポッチの伝説は日本各地にあり、その足跡は水の涸れることのない肥沃な窪地となる、ということだが、この地では守山小学校付近の窪地、とも伝わる。 柳田國男もその著書『ダイダラ坊の足跡』(1927年(昭和2年)の中で、ダイタの橋から東南へ五六町、その頃はまだ畠中であつた道路の左手に接して、長さ約百間もあるかと思ふ右片足の跡が一つ、爪先あがりに土深く踏みつけてある、と言つてもよいやうな窪地があった。内側は竹と杉若木の混植で、水が流れると見えて中央が薬研になつて居り、踵のところまで下るとわづかな平地に、小さな堂が建つてその傍に湧き水の池があつた。即ちもう人は忘れたかも知れないが、村の名のダイタは確かにこの足跡に基いたものである』、とも書いている。
ダイダラポッチは、話としては面白いのだが、他になにかヒントはないものかと、あれこれチェックすると、安曇野では代掻き(しろかき;田植の前に水田に水を入れて土塊を砕く作業。)が終わり、早苗を植えるまえの田圃のことを代田と呼ぶようだ。自分としては、何の根拠もないのだが。こちらのほうに与したい、とも思う。代田にはその他にも、少し高めの台地にある田圃のことを指す、とも言われる。代田村は江戸初期の開村。北条氏の重臣吉良氏の家臣、清水・秋元・斉田・斉田・柳下・山田・大場の七人(代田七人衆)が帰農して開墾したのが始まりとのことである。

向岸地蔵尊
ゆずり橋を越えると、環七までの間、玉川上水緑道、というか、ちょっとした公園が環七まで続く。公園の中に向岸地蔵尊が祀られる。地蔵尊の傍らの由来書によると、今から200年ほど昔、荏原郡北の里(現在の世田谷区大原)に生まれつき身体が曲がっている向岸という人がおり、自身の境涯を悲しんでいた。そこに、ある夜、とある高僧がお地蔵様となって現れ、今後、世のため日夜念仏を唱えれば救われる、と。お地蔵様の教えに従い念仏三昧の生活をはじめた向岸さんと、それを聞き知った人々が集まるようになり大きな講中となった。地蔵尊は、生前の徳を偲んで講中の人が建立したものである。現在でも、お線香が途切れることのないような雰囲気であった。

大原橋
先に進むと環七に交差。環七には地下道を潜る。配管などが露出する素朴な地下道である。渡り切ったところに大原橋跡が残る。環七は昭和初期に計画され、昭和39年(1964)、東京オリンピックを契機に整備が進展するも、最終的に貫通したのは昭和60年(1985)。計画から完成までにおおよそ60年弱かかった。大原橋がいつ架橋したか不明ではあるが、環七の工事の年代からすれば、昭和の頃のものではあろう。
甲州街道と環七の交差点は大原交差点と呼ばれる。元は代田村。明治22年(1889)、世田谷村大字代田の字東大原・西大原・荻久保となり、昭和7年(1932)、字東大原・西大原・荻久保が世田谷区大原町となる。その後昭和39年(1964)、松原町や羽根木の一部を加え、大原となった。地名の由来は、だだっぴろい原っぱ、といったところ。現在の交通の往来激しき姿から往昔を想像するのは、難しい。

稲荷橋

環七を渡ると上水路跡に公園が続く。世田谷区玉川上水緑道と呼ばれている。家族連れが楽しむ公園を進むと稲荷橋にあたる。昭和2年(1927)竣工。近くにお稲荷様の小祠がある、とのことである。近くを彷徨ったが、稲荷の祠は見付けることはできなかった。
稲荷橋から先は、開渠となる。川面まで結構深い。笹塚に近づくにつれて、川面が近くなる、ということは、台地を掘り下げる高さを調整し、上水が自然流下する勾配をつくっているのであろう。開渠の両側はフェンスで囲われ、木々が生い茂り、情緒少なき都市の中に野趣豊かな一画を形作っている。

幡ヶ谷分水口
稲荷橋のところに幡ヶ谷分水口がある。この地より北上し、甲州街道に沿って西に向かい、代田村大原から自然の谷筋(荻窪)に流れ込み、三郡橋を潜り、甲州街道を越える。その先は、笹塚田圃の西端に達し、神田川支流笹塚川(和泉川)と合わさり、笹塚川(和泉川)の養水として機能した。水路は玉川上水と逆に向かうこところもあったため、逆川とも呼ばれたようである。三郡橋は甲州街道を横切るあたりが、かつての南豊島郡、東多摩郡、荏原郡の境であったため、このように呼ばれた、と。
ついでのことだが、幡ヶ谷分水については、分水の水量を増やすため、村民はあれこれ知恵を働かせたようである。明治31年(1898)、淀橋浄水場への新水路建設に伴い、移転が必要となった弁天社を幡ヶ谷分水口のすぐ傍に移し、弁天社と言えば湧水でしょう、ということで、池を掘り、こっそりと玉川上水から水路を繋いだ。農業の生命線でもあった分水も、現在ではその役割を終え、昭和初期には分水が廃止。弁天社も幡ヶ谷の鎮守である渋谷区本町の氷川神社に移された、とか。

笹塚・第二号橋・南どんどん橋
開渠となった上水路に沿って先に進む。笹塚駅手前の二号橋までのおおよそ100m程度で開渠は終わり、暗渠となる。京王線下を南北に抜ける笹塚駅前の通路脇に、撤去された橋の親柱が残り、「南どんどん橋」とある。水路は笹塚駅前で大きく南に向かって流路を変える。ために、水が堤にあたり「どんどん」と音が響いていたのであろう。南どんどん橋は笹塚駅の高架改修で撤去された。
笹塚の地名の由来は、甲州街道など、江戸の五街道に築かれた一里塚跡とも言われる。が、大正5(1916)年刊行の『豊多摩郡誌』には、甲州街道の両側にあった塚が、すでに見られないと記してある。

牛窪
水路は笹塚駅前で大きくUターンし、南に向かって流路を変える。世田谷区の旧大原村と旧北沢村の境にある荻窪といった窪地、水田地帯があり、これを避けるため笹塚地区内に迂回してきた上水路は、この地で再び、幡ヶ谷牛窪の低地帯を避けるためUターンすることになる。現在、中野通りと甲州街道が交差する交差点南詰めに牛窪地蔵が祀られる。笹塚の辺りの甲州街道を走れば一目瞭然ではあるが、この辺りは窪地となっており、往昔、牛が窪と呼ばれていた。この地は雨乞い場でもあり、また、牛裂の刑を執行する刑場跡でもあった。牛窪地蔵が祀られたのは宝永・正徳年間の疫病を避けるため。地蔵尊の祠、といっても現在は結構モダンな造りとなっているが、その脇には道供養塔、庚申塔が祀られる。

第三号橋
笹塚駅前で大きく南に向かって流路を変えた水路は、旧北沢村に向け、南に下る。駅のすぐ先の通に橋が架かる。この第三号橋から上水は再び開渠となって進む。稲荷橋から第二橋までの開渠に比べて、比較的オープンな雰囲気。周囲を囲む鉄のフェンスもない。200mほどの開渠も笹塚橋に至り、再び暗渠に潜ることになる。

笹塚橋
笹塚橋を越えると渋谷区から世田谷区に入る。笹塚橋の脇、三角になったコーナーが三田用水の分水口、と言う。最も、笹塚橋が記録に表れるのは明治39年(1906)であり、当然のことながら三田用水は、それよりもっと古く江戸の頃、寛文四年(1664)であるので、正確には三田用水の分水口付近に笹塚橋が架けられた、ということだろう。

三田上水
玉川上水から分水された三田上水は、当初、三田、白金、北品川まで飲料水として給水され、その距離は10キロにも及んだ。亨保七年(1722)には、神田上水と玉川上水を除いた、青山・三田・千川上水が廃止されることになるが、それは、八代将軍吉宗の御用学者である室鳩巣が、当時頻発した江戸の火災の主因が、上水網による地脈の変化であるとの妄言を建白し、採用されたためである。その後、上水は沿岸の人々の要請により、農業用灌漑用水として復活。三田用水も亨保10年(1725)、1宿13ヵ村に農業用水として復活した。明治以降は、海軍火薬庫(現在の防衛省技術研究所)や恵比須ビールで利用されるも、昭和49年(1974)に、分水口は閉じられた。
三田用水の水路跡は残っていないが、小田急線・東北沢駅を越えた、東大駒場手前の三叉路は三角橋と呼ばれる。これは三田水路の名残の地名である。いつだったか三田上水の下流部を彷徨ったことがある。窪地を避けるために迂回したり、導堤を築くなど、工事は結構大変であったろう、と感じた。以下、簡単に流路をメモする;分水口>北沢五丁目商店街の通りの裏を南に下る>三角橋交差点(北沢川溝ヶ谷支流や宇田川水系の富ヶ谷支流の分水界のあたり)>東大駒場キャンパスの塀に沿って下る>山手通り>井の頭線の上を通過>松涛2丁目で旧山手通り>西郷山公園脇>鑓ヶ崎交差点を懸樋で渡る>別所坂を上り切ったあたり>茶屋坂隧道跡(平成15年に水路橋は撤去される)>起伏の激しい港区白金を迂回、導堤で進む(白金台3丁目12に堤跡;三田用水路跡の案内)>桜田通り脇の雉子神社(東京都品川区東五反田1丁目2)>高輪3丁目交差点あたりで二つに分岐>ひとつは南に下り、新高輪プリンスホテルをこえたあたりで東に折れ>品川駅前に降りる。もう一方は尾根道を北東に進み井皿子交差点を経由し三田3丁目に下り>慶応大学近く・春日神社あたりから東に進む。また、もうすこし北 に進み東に折れる水路もある、といったところ。

北沢橋

笹塚橋を越え、整地された遊歩道(玉川上水第二緑道)を進む。流路は中野通り五条橋交差点の先に弧を描いて中野通りに合流する。中野通を渡ったバス停の脇に北沢橋の親柱が残る。中野通り改修の際、実際架かっていた場所からは移された、とか。『上水記』には摂津守橋、明治3年の記録には角神橋。明治39年(1906)には北沢橋とある。北沢八幡への寄進状に下北沢領主として慶安三年(1650)当時の領主として斉藤摂津守という名が残る。この人物と関係があるのだろう、か。笹塚橋から北沢橋の間に、昭和になって延寿橋という橋があったようだが、その場所は、はっきりしない。
荻窪の低地を避け、笹塚へと迂回し、その笹塚からは牛窪の低地を避けて、この地まで進んだ上水路は、今度はここで再び大きくU字型に弧を描き、ここからは渋谷川水系の分水界を幡ヶ谷、初台、そして代々木へと進む事になる。

散策路旧玉川上水ルート
北沢橋から新宿南口の旧葵橋にかけては暗渠ではあるが、公園・緑道として整備されており、快適な散歩が楽しめる。『玉川上水・橋と碑と;蓑田たかし(クリオ)』によれば、明治31年(1898)、和泉水圧調整所から淀橋浄水場への新水路建設にともない、上水の機能を無くし排水路と化していた玉川上水旧水路を、上流部の整備、すなわち、杉並の浅間橋から和泉水圧調整所までの暗渠化をきっかけに、下流部の整備要望の声も高まり、昭和46年(1791)、都水道局と区との間で公園・緑道化が進められることになった。

四条橋、五条橋、六条橋・常盤橋
緑道を進むと四条橋、五条橋、六条橋と続く。遺構はなく、モニュメントとしての橋として残る。明治の記録には残っていないので、昭和に入ってからの橋ではあろう、か。常盤橋は明治39年(1906)の記録に残る。水路は北東に弧を描いて進む。水路の右、というか南は坂になっており、尾根道の稜線部・馬の背を走っていることが実感できる。
常盤橋の南、代々木大山公園、国際協力機構、製品評価技術基盤機構などが集まるあたりが渋谷川水系宇田川の源流点と言われる。狼谷などと言う、如何にもといった谷筋もある。幡ヶ谷、初台、富ヶ谷一帯に複雑に広がる開析谷から流れ出る水はすべて代々木八幡駅前に集まり、ひとつになって渋谷駅近くで渋谷川と合流。後は渋谷川として南に下っていた。

相生橋
北沢橋以降の橋は、既にモニュメント・造形物になっているが、この相生橋は現役時代そのままの風情を残す。親柱には大正十三年十一月竣工の文字が刻まれている。相生橋の南にあるJICA(国際協力機構)と製品評価技術基盤機構の間に見える池が渋谷川の支流・宇田川の源流点と言われる。谷が入り込んだ複雑な地形となっている。渋谷川水系の川筋を彷徨った頃が懐かしい。




代々幡橋・山下橋・美寿々橋
代々幡橋は『上水記』には延寿橋と記された古き橋。明治3年(1870)の記録では延寿橋とあるが、明治39年(1906)の記録では代々幡橋となっている。代々幡は代々木と幡ヶ谷の合成語。明治22年(1889)、合併して代々幡村、後に代々幡町となった。植え込みの中に元々の支柱が埋められていた。山下橋は水車風のモニュメント。これも植え込みに支柱が残っている。その先に美寿々橋。山下橋も美寿々橋も明治の頃の記録にはない。



二字橋
幡ヶ谷駅前から南に延びる幡ヶ谷商店街の道筋に架かる橋が二字橋。明治39年(1906)の記録に残る。二字橋の由来は不明だが、もう少々下流にある三字橋は、地名の三つの字(新町・初台・山谷)に架かる橋ということだから、二字もふたつの字名に架かる橋、とも思える。
幡ヶ谷の地名の由来であるが、その説のひとつに、八幡太郎義家が永保2年(1082年)、「後三年の役(1083~1087)」に出征途中、源氏の白旗を洗ったという「旗洗池伝説」がある。旗を翻した池>幡ヶ谷、となった、とか。その池は小笠原窪付近(幡代小学校を越えた甲州街道の北)にある池で、神田川に注ぐ自然湧水の池であったようだ。その池は昭和38年(1963)に埋め立てられ、今は、ない。また、その時の白旗は渋谷の金王八幡宮に社宝として祀られている、と言う。

西代々木橋・新台橋・新代々幡橋
『上水記』に勘右衛門橋とある古き橋。明治3年(1870)の記録では勘右衛門橋とあるが、明治39年(1906)には西代々木橋とある。珍しい木彫り形式の橋のモニュメントが残る。新台橋を越えると新代々幡橋。山手通り・初台坂下交差点から北西に上り、甲州街道・本町1丁目交差点に架かる。玉川上水が甲州街道と平行する地に架けられた橋ではあるが、現在は記念碑も遺構も残らない。新代々幡橋交差点は明治の記録には残っていない。
新代々幡橋から山手通り・坂下橋交差点へと下る坂の途中、少し東に入ったあたりに渋谷川の支流・初台川の源流点があった。現在では水源もなにも見あたらないが、往昔、代々木九十九谷と呼ばれた谷頭を想像しながら、甲州街道に沿った馬の背を進む。

代右衛門橋・幡代橋
甲州街道に沿って上水跡を進む。初台駅あたりの上水路は、南から切りあがる宇田川水系の谷筋を避け、甲州街道に再接近している。ほどなく代右衛門橋。『上水記』にある古き橋。明治3年(1870)の記録には代々木橋、明治39年(1906)には再びを代右衛門橋となる。現在では大門橋とも呼ばれる代右衛門橋を越え、幡代橋に。この橋は幡代小学校へ渡る橋であった、よう。幡代小学校は明治15年(1882)、代々幡村ができる前、幡ヶ谷村と代々木村が協力して開校したもの。村の名前は代々幡としたが、学校名は幡代と旧村名を逆転してバランスをとった、ということだろう、か。
上でメモしたように、この幡代小学校の甲州街道を隔てた北側には小笠原窪と呼ばれる窪地もあった、よう。小笠原窪の由来は、この地に備前唐津藩小笠原家の屋敷があった、から。

改正橋
幡代橋を越えると、上水路は甲州街道から弧を描くように甲州街道から少し離れる。先に進むと京王新線・初台駅前の通りに架かる改正橋に。明治39年(1906)の記録に登場する橋。名前の由来は通りの名前である改正通り、から。改正通りの名前の由来は不明。京王新線・初台駅も、京王電鉄の前身である京王電気軌道の路面電車として開業した大正3年(1914)には、改正橋駅と呼ばれていたようである。初台駅となったのは大正8年(1919)、当時に地名である渋谷区代々木初台に因んで改称された。

初台
ちなみに、初台の地名の由来には諸説ある。一説が、徳川幕府2代将軍秀忠の乳母が「初台の局」と呼ばれ、この地に二百石の知行地を賜ったことに由来する、とするもの。また、太田道灌が築いた一の砦(狼煙台)に由来するとの説もある。幡代(はたしろ)、から「はただい」と読みが変わり、文字も目出度さを込めて「初台」とした、とする説もある。地名の由来はどれも、諸説あり、定まることなし、といったものではあるが、自分としては、なんとなく地形に関係したものではないかと妄想する。
幡ヶ谷にしても幡代にしても、「はた」は端、台地が浸食された崖端を意味するのではないかと思うのだが、これといって根拠があるわけではない。武蔵野台地の末端の一部で幡ヶ谷台地は、渋谷区の北部を東西に延び、北は神田川の谷に面し、南斜面は渋谷川水系の宇田川や初台川に侵蝕され、千駄ヶ谷・代々木・西渋谷の台地に連なっている。また、代々木台地に並んで南に突き出している支丘が初台台地(標高約39m)であり、この台岬(台地の先端)には代々木八幡神社が鎮座する。このように、複雑に切り込まれた谷頭を見るにつけ、幡ヶ谷とか初台の名前に由来は地形からではなかろうか、と思うだけではある。

伊藤小橋・伊藤橋
初台駅前を離れ、先にすすむとほどなく伊藤小橋。明治39年(1906)の記録には、ない。緑道を山手通りに向かって進む。山手通りに架かっていた伊藤橋へと向かう道すがら、道脇の排気口から音が聞こえる。地下を走る京王線の走る音であろう。

京王線軌道敷
現在は新宿から笹塚まで地下を走る京王線であるが、大正2年(1913)4月、京王電気軌道として笹塚から調布間に開業後、大正4年(1915)、新宿追分から笹塚間が開業(大正2年10月代々幡・笹塚間開業、大正3年3月幡代小学校・代々幡間開業、同年6月代々木・幡代小学校開業、同年11月新町・代々木間開業)した。郊外が先になったのは、すでに市街地となっていた新宿近辺の用地買収の困難さ故、と言う。



それはともあれ、開業時の京王電気軌道は、専用軌道をもつ路面電車といったものであり、始発の新宿追分(新宿3丁目交差点:伊勢丹は路面電車の車庫であった)>省線新宿駅前(現在の新宿南口)>葵橋(西新宿1丁目)>新町(西新宿2丁目)>天神橋>西参道(神宮裏)>改正橋(初台)と走った。幡ヶ谷駅から新宿まではもとは、甲州街道を走る軌道であったようではあるが、昭和11年(1936)年には、幡ヶ谷より新町までは玉川上水を暗渠とした上に専用軌道を敷設した、と言う。起点も昭和2年(1927)には新宿4丁目に京王ビルを建設し、四谷新宿駅として追分駅から移った。
戦後も新宿駅と文化服装学園前までは甲州街道上に軌道が敷設されていたが、交通障害や甲州街道自体の拡張のため京王線軌道敷をつくることになり、昭和36年(1961)に工事開始、昭和38年(1963)、地下を走ることになる。路線は昭和20年(1945)に現在の京王線新宿駅に移っていた始点から南下し、甲州街道を渡り切ると大きくカーブし、玉川上水跡の地下を笹塚まで走っている。新宿から笹塚間が複々線化され、京王新線が開通したのは昭和53年(1978)のこと。こちらの路線は、甲州街道下を走っている、とのことである。

三字橋
伊藤橋、と言っても、今は何の名残もないのだが、山手通りに架かっていた伊藤橋を想像しながら道を渡る。西参道に向かって進むと三字橋。「みあざ橋」と読む。明治39年(1906)の記録に残る。三字の由来は、新町・初台・山谷という「字」名に由来する。三字橋の南には河骨川の源流点が迫る。春の小川の舞台ともなった、河骨川の源流点を求め、水路跡を刀剣博物館あたりを彷徨った当時が懐かしい。

代々木橋
十二社通り・西参道を渡る代々木橋跡地。遺構はない。明治39年(1906)の記録に代々木橋として登場する。代々木の地名の由来については、『大日本名所図絵』に「代々木御料地なる旧井伊侯下屋敷に樅の老樹あり、幾年代を経しを知らず、すでに枯れて後継樹も喬木となり居れり、是れ当地に於いて最も有名なり、代々木の称は是より起これり」、とある。代々(だいだい)、この地に樅(もみ)の木があったことが、代々木の由来、とか。代々木村の代々木、として江戸の頃は有名であったようである。

正春寺橋・諦聴寺橋
代々木橋を越えると、『上水記』には正春橋が記される。正春寺は三代将軍家光の乳母である梅園局が、母である初台局の菩提寺としてこの地、当時の代々木村山谷(現在の渋谷区代々木3丁目)に正春寺を創建した、と。また、この寺には大逆事件で幸徳秋水等とともに処刑された菅野スガの記念碑が残る。正春寺橋の先には諦聴寺橋があった、とか。明治の記録にはない。

京王電鉄・天神橋変電所
いかにも京王線軌道敷といった遊歩道、と言うか公園を進む。時に地下から京王線の走る音が聞こえる。先に進むと公園、と言うか上水路跡の南に京王電鉄・天神橋変電所がある。この変電所は京王線新宿駅が現在の地に移った原因を生じたところ。第二次大戦末の昭和20年(1945)の大空襲により、当時の天神橋変電所が被災し、電圧が低下。当時の始発駅であった、新宿四丁目の四谷新宿駅からは国鉄を跨ぐ跨線橋を上れなくなり、陸軍工兵隊が大至急で跨線橋の西、現在の京王線新宿駅あたりに駅を設けた、とのことである。

天神橋跡
先に進むと文化女子大手前の道脇に天神橋跡の石碑。『上水記』に記される古き橋である。由来は、上水路跡を少し北に上った甲州街道脇に銀杏天神社、から。箒を逆にしたような箒銀杏と称される大銀杏の根本に天満宮のささやかな祠がある。
京王電気軌道の天神橋駅には大正11年(1922)貨物用のホームが設けられた、と言う。多摩川で採取した砂利をこの地まで運び、当時新宿追分まで通じていた東京市電と結び、都内へと砂利を運ぶ計画であった、よう。実際は市電と結ばれることは実現されず、この地でトラックに詰め替えるため貨物用のホームが必要とされた、とか。

勿来橋跡
美しく整備された文化女子大前の公園を進むと、文化学園の旧正門あたりに勿来橋跡の石碑が残る。「勿来(なこそ)の関」で知られる勿来は福島県いわき市にある。橋名の由来は、江戸の頃、この地に福島の三春藩主であった秋田安房守の下屋敷があった、ため。勿来橋の石碑の先には半円のモニュメント。新宿の線路下を抜ける玉川上水の導水路の形を再現したものである。結構大きい。

原宿村分水
『上水記』に、亨保9年(1724)、原宿村分水が開通とある。文化女子大のあたりを走る玉川上水から二カ所、キャンパスの東と西から弧を描くように南に下り、原宿村・隠田村・上渋谷村を潤した。代々木3-29あたりにあった湧水も合わせ、神宮前3-28、障害者福祉センターあたりで渋谷川に合流している。

千駄ヶ谷橋
文化女子大前のオープンなスペースから先に進み、少々こじんまりとした公園を抜けると葵通りに出る。その手前の南北に通る道筋と上水のクロスするあたりに千駄ヶ谷橋があったようだ。『上水記』にも記録の残る古き橋である。
千駄ヶ谷の由来に、此の辺り一帯は茅野原であり、日々千駄の茅を刈り取ったと『新編武蔵風土記稿』にある。駄、とは馬一頭が背にする荷駄のことである。これはこれで、由来としては、わかりやすいのだが、自分としては、根拠はないのだが、なんとなく地形に由来するように思える。せんだがや=せまい+た=ところ+たに>狭い谷を現した地名のように思える。実際、代々木九十九谷と呼ばれたほどの谷が入り組み、起伏激しい地形であるこの辺りであれば、この我が妄想も結構納得感がある。

葵橋
葵橋通りを進むと新宿南口・新宿1丁目交差点より代々木駅に抜ける道にあたる。T字の突き当たりの東京南新宿ビルの壁面に葵橋跡の銘板が残る。往昔、この地に葵橋が架けられていたが、ビル建設にともない撤去された。葵橋は『上水記』には戸田因幡守抱屋敷内橋、とある。この地は、宇都宮藩戸田家の屋敷があったためで、明治3年(1870)の記録にも「戸田邸中土橋」、とある。葵橋となったのは、明治に紀州徳川家が買い受け薬草栽培、紀州庭園と呼ばれた、ため。徳川家、故の葵橋ではあろう。

千駄ヶ谷分水
戸田因幡守抱屋敷内には千駄ヶ谷分水があった。この分水は南に少し下ると西に折れ、原宿村分水に合流している。JR病院前の谷筋を西に入り、代々木小学校のあたりが合流点のようである。水路は小学校前のクランク状の道を抜け、明治神宮北参道前でJRを越えて下ってゆく。

京王電気軌道・四谷新宿駅跡
JRを跨ぐ南新宿の橋を渡り、玉川上水散歩の最終地・四谷大木戸へと向かう。跨線橋を降りきった甲州街道と明治通りの交差する、新宿4丁目交差点脇に京王新宿追分ビル。伊勢丹前の追分駅から移った京王電気軌道・四谷新宿駅のあったところである。

龍寺から四谷大木戸
玉川上水は葵橋跡から線路下を潜り、天龍寺、新宿高校前を通り、新宿御苑の新宿門から四谷大木戸へと進む。『玉川上水・橋と碑と;蓑田たかし(クリオ)』によれば、寛政3年(1791)の『上水記』には天竜寺門前上石橋>天竜寺門前板橋>天竜寺門前石橋>内藤大和守下屋敷内橋>大木戸水番屋構之内橋などが記録に残る。明治3年(1870)の玉川上水通船計画時に作成された『玉川上水掘筋渡橋取り調』には、上石橋(旧・天竜寺門前上石橋)>天竜寺門前下石橋(旧・天竜寺門前石橋)>上地橋(旧・内藤大和守下屋敷内橋)>新宿取付石水橋(旧・大木戸水番屋構之内橋)が記録される。また、明治39年(1906)作成の『玉川上水路実測平面図』には、万年橋(旧・上石橋;明治3年)>中の橋(旧・天竜寺門前板橋;寛政3年)>天竜寺橋(天竜寺門前下石橋;明治3年)>新宿御苑通用門(上地橋;明治3年)>新宿御苑>憲兵屯所、といった記録が残る。
とはいうものの、現在では、跨線橋を渡った先は四谷大木戸まで関東大震災後の埋め立てによって暗渠となり、橋の確認をすることができない。上水路と橋を想像しながら、記録に残る寺や地名を辿り、四谷大木戸へと向かうことにする。

 

天龍寺
もとは遠江国にあり法泉寺と称した。家康の側室である西郷局の父の菩提寺であり、家康の江戸入府にともない牛込納戸町・細工町あたりを寺域として拝領し、寺名も故郷の大河、天龍寺にちなんで改名した。
西郷の局が将軍秀忠の生母となるにおよび、上野の寛永寺が鬼門鎮護の寺となったように、江戸城の裏鬼門鎮護の寺として幕府の手厚い保護を受けた。天和3年(1683)に現在の地に移った。
境内の左手鐘楼にある「時の鐘」は、上野寛永寺、牛込市谷八幡の鐘とともに、江戸三名鐘のひとつと称せられた。この鐘は天竜寺を菩提寺とした茨城笠間城主・牧野備後守が明和4年(1767)に造らせたもの。東京近郊名所図会には「時の鐘、天龍寺の鐘楼にて、もとは昼夜鐘を撞きて時刻を報じせり。此辺は所謂山の手にて登城の道遠ければ便宜を図り、時刻を少し早めて報ずることとせり。故に当時は、天竜寺の六で出るとか、市谷の六で出るとかいいあえり。新宿妓楼の遊客も払暁早起きして袂を分たざるを得ず。因て俗に之を追出し鐘と呼べり」とある。遊客もこの鐘の音を合図に妓楼より「追い出された」のであろう。
牧野備後守が寄進したオランダ製のやぐら時計も知られる。四脚の上に時計が乗っている形がいかにも櫓といった姿であった。時の鐘を撞く合図として明治の中頃まで使用されていた、と言う。天竜寺には、かつて渋谷川の源流のひとつでもあった池があった(「新宿散歩その参:四谷台地の尾根道や谷筋を彷徨い、新宿から西新宿へ」よりコピー&ペースト)

新宿高校
天龍寺を離れ、御苑トンネル脇を進むと新宿高校。キャンパス内に旭橋の石柱と下水用の石樋が残る。解説によると、石樋は甲州街道と青梅街道の分岐する追分一帯の下水を御苑内の池に落とすため、玉川上水の上に架けられたもの、とか。旭橋の旭は、天龍寺門前一帯(現新宿4丁目)の町名とのことであった。

内藤大和守下屋敷
家康の江戸入府に際し、高藤藩内藤大和守に先遣隊として、四谷方面の警護の任に当たらせ、無事に家康江戸入城の任を果たしたその功により、大和守の部隊が布陣していた一帯を拝領した。東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保に至る広大な原野であった。その一部、現在の新宿御苑には内藤家の下屋敷があった。
四谷大木戸跡
新宿御苑に沿って進み、新宿通り・新宿1丁目交差点を右に折れ、四谷四丁目交差点に。江戸の頃、この地には四谷大木戸があった。甲州道中の江戸への出入り口として、元和2年(1616)に設けられた。江戸時代の地誌の一つ『御府内備考』に『江戸砂子に云、此地むかしは左右谷にて至て深林の一筋道なり、御入国の此往還糺されしといふ、七八十年迄は江戸より駄馬に付出す所の米穀送り状なければ通さすとなり、今も猶駄馬の荷鞍なきを通さず、江戸宿又は荷問屋等の手形を出して通る是遺風なり、又此所の番所内の持なれとも突棒さす股もじり等を飾り置江府に於て武家番所の外此一所に限る又住古関なりし証なりと古き土人の云伝へしよし』、と四谷大木戸が描かれる。
現在は四差路の車の往来の激しい大きな交差点であるが、往昔、この四谷四丁目交差点の北は紅葉川の谷筋、南は渋谷川の谷筋と、尾根道の馬の背といった一本道であった。この地に大木戸が設けられたのは、狭隘な尾根道故に、出入り管理が容易であったのだろう。「江戸名所図会」を見るに、道の両側に石垣が築かれ、内藤新宿側は石畳となっており、玉川上水の水番所も見える。一方、石垣の四谷側には屋根が見えるが、それは旅人や荷駄を調べる番屋の屋根であろう。番屋では突棒、刺股などの道具を置き門番が警護していた。高札も掲げられている。大木戸は世の安定、経済の発展による人馬の往還、また番屋費用の町内負担などの理由により寛政4年(1792)に廃止。石垣も明治9年(1876)に取り壊された。

 

水道碑記
羽村から下った玉川上水散歩の最終目的地、「江戸名所図会」に見える玉川上水水番所は現在、交差点を新宿側に渡った四谷区民ホール脇の道端に「水道碑記」との石碑で残る。江戸開幕にともなう上水確保のため、多摩川の羽村の取水堰から武蔵野の尾根道を開削し、43キロ以上を導水した。開削当時は、取水口から四谷大木戸の水番所までは開渠、ここからは地下の石樋をとおして江戸の町に流した。四谷大木戸から先の上水網については、また別の機会にメモするとし、七回に分けた玉川上水散歩を一応、これでお終いとする。

新宿散歩も最終回。3回の散歩で歩き残した新宿区の西北部、落合あたりを彷徨い、妙正寺川によって削られた落合・目白台地(豊島台地)の崖地や坂道を楽しむ。そこからは、妙正寺川と神田川が「落ち合う」低地に下り、その先は淀橋台地に移り、これもいままでの散歩で行きそびれた昔の戸山ヶ原、現在の戸山公園あたりまで進むことにする。
スタート地点は何処に、と地図を眺める。哲学堂の東、落合台地の葛谷御霊神社に目がとまる。名前が如何にも、いい。また、淀橋台地と豊島台地を南北に区切る神田川の低地には月見岡神社。これも、その名前に惹かれる。ということで、今回の大雑把なコースはこのふたつのポイントを目安に、あとは成り行きで、戸山ヶ原へと、といった、いつものお気楽な基本スタイルで散歩に出かける。



本日のルート;葛谷御霊神社>自性院>中井出世不動尊>六の坂>中井御霊神社>八の坂>七の坂>五の坂>林芙美子記念館>四の坂>三の坂>中井駅>最勝寺>妙正寺川>月見岡八幡神社>落合処理場>小瀧橋>西戸山遺跡跡>戸山公園_大久保地区>戸山公園_箱根山地区

西武新宿線新井薬師駅
自宅を出て、電車を乗り継ぎ新井薬師駅で下車。駅を南に下ったところに新井薬師がある。本尊の薬師如来は子育て、眼病に御利益あり、と。薬師様には幾度となく訪れており、且つ、本日は北に進むためお参りはパスし、駅前の道を妙正寺にかかる四村橋に向かう。道の左右には、中野散歩(中野散歩1:沼袋・江古田・荒井地区)で歩いた寺社が地図上に点在する。緩やかな坂を下りきったところに妙正寺川に架かる四村橋。橋の西側北岸が昔の江古田村、南岸は片山村、橋の東側北岸が葛ヶ谷村、南岸が上高田村といった四つの村の境であることが、名前の由来。橋の北には妙正寺川が開析した豊島台地の崖面、哲学堂公園の緑が拡がる。南の段丘面は運動公園兼調整池。沼袋からこのあたりまで妙正寺が大きく湾曲しているが、それって、傾斜が緩く洪水時などに水が溜まり場所である、ということだろう。

葛谷御霊神社
妙正寺川を越え、左手に哲学道公園を眺めながら坂を上る。哲学館(現東洋大 学)創立者・井上円了が学校移転用地として購入。が、学校の移転中止となり、明治39年から大正8年まで、精神修養公園として整地。昭和50年には中野区の区立公園となる。公園内には哲学堂77場と称する建物が点在する。この地は往昔、源頼朝の重臣である和田義盛の城、というか、館が、あっった、とか。哲学堂も数回訪れており、今回はパス。葛谷御霊神社は、この哲学堂公園の東端を上る坂より一筋東に入ったところにある。
鳥居をくぐり、拝殿にお参り。境内には八幡社、稲荷社などの祠とともに、疣(いぼ)天神の社も鎮座していた。祭神は 仲哀天皇 神功皇后 応神天皇 武内宿弥。縁起に拠れば、寛治年間(1087-94)、源義家が鎮守府将軍として奥州征伐の折、遠征軍に随った山城国桂の里(山城国葛野郡)の一族が、戦に勝利し京への帰途、この地に留まり源氏の氏神である八幡宮および神功皇后、武内宿禰を祀り、御霊社と称した、と。八幡信仰って、よくわからないが、主神は応神天王。この社の祭神である、仲哀天皇 神功皇后は応神天王の父と母。武内宿弥は天皇を支えていた老臣、と。
八幡社がどうして御霊社となったのか?なんとなくすっきりしないので、あれこれ妄想。この地に留まった一族の旧地は山城国桂の里(山城国葛野郡)。桂の里(山城国葛野郡)って秦氏の勢力下。で、秦氏って、祇園社の大スポンサー。そして、祇園社って、御霊信仰の総本家。ということで、桂の里(山城国葛野郡)の一族の信仰の社として御霊社となった、と自分なりに納得しようとしたのだが、祭神がスサノオであれば問題ないのだが、上メモしたような祭神のラインアップであれば、いまひとつこの妄想はだめ、っぽい。
で、あれこれチェックすると、八幡信仰と御霊信仰は結構深い関係であった、と。八幡さまは八幡宮、八幡社、若宮社とも呼ばれるが、若宮信仰って御霊信仰と同義といったもの。平安時代の飢餓や疫病の蔓延とともに旧来の神社の中に庶民を救ってくれる神として登場したもので、多くは御霊信仰に基づく神であり、民衆やその後の御家人層の信仰を集めていた。鎌倉の鶴ヶ丘八幡も、実際は京の石清水八幡宮より、その「若宮」を勧請したもの。八幡社>若宮社>御霊社、といった流れで、八幡さまが葛谷御霊神社となったのであろう、と我流妄想をクロージングする。
この神社は備射祭が知られる。備射祭は、馬に乗らず矢を射る歩射(ぶしゃ)がなまって備射となった、とのこと。鳥居に掲げた的を射る、とのことである。境内の力石は、備射祭の当日、力自慢を競ったものである。境内にあった疣天神社は昔この地域の村に在ったものを神社に移転したとのこと。八幡社、田中稲荷社、浅間社、三峰社と合わせて五社として祀っている。

葛谷の名前は、往昔のこの辺りの地名である葛ヶ谷村、から。葛ヶ谷は、この地に棲み着いた一族の旧地である葛野(かどの)、から。葛野を「かつらがや」と読み、葛ヶ谷村となったのだろう。葛ヶ谷が文献に最初に登場するのは永禄年間(1558~70年)の「小田原所領役帳。高田内葛ヶ谷、とある。明治にはいり、豊多摩郡落合村大字葛ヶ谷、昭和7年(1932年)の淀橋区の成立に伴い、西落合となり、葛ヶ谷は地名から消え、現在も西落合となっている。

西落合
西落合の住宅地を東に進み、新青梅街道近くにある自性院を目指す。成り行きで歩いていると、西落合1丁目、道脇の会社敷地内に実物の電車が展示されている。社名を、見るとKATO、とあった。鉄道模型の専門会社である株式会社カトーとのこと。株式会社カトーと株式会社関水金属と併記されていた。もとは文京区関口水道町で鉄道模型の部品工場としてはじまった株式会社関水金属が生産会社。株式会社カトーはその販売会社となっている。関水金属の関水は関口水道町、カトーは創業者の名前、から。

自性院
赤い山門をくぐり境内に。真言宗豊山派のこのお寺さまは秘仏である「猫地蔵」を安置し、「ねこ寺」として知られる。文明9年(1477)、この寺の北にある新青梅街道を進み、哲学堂公園の先、江古田川が妙正寺川と合流する地で、太田道灌と、この地方の古くからの豪族・豊島氏との間で合戦が行われた。世に言う、江古田ヶ原の合戦である。合戦は道灌勝利に終わったが、合戦の折、道に迷った道灌の前に一匹の黒猫が現れ、自性院に導き危難を救った、と。秘仏である猫地蔵は、道灌がその恩を忘れず地蔵さまを造り、奉納したものである、と伝わる。
この寺には「猫面地蔵」とよばれる地蔵像も秘仏として祀られる。明和4年(1767)、貞女の誉れ高き婦人を、牛込神楽坂の寿司屋の弥平が、その誉れを後世に残し、冥福を祈るために蔵尊をつくり納めた、と。とはいうものの、貞女の誉れに、何故に一介の寿司屋の親父さんが地蔵をつくったのか、なんのことか、さっぱりわからない。あれこれチェックすると、『旅と伝説78号(1934)』に、牛込の人が、可愛がっていた猫に死なれて悲しんでいたところ、夢に地蔵尊が現れて、自性院という寺のお上人に頼んで法要を営み地蔵尊を建立せよ、と告げたとの話が載っている、と言う。この話と、この寺にとむらわれた貞女がミックスして、かくの如き物語ができたのだろう。自性院の秘仏は毎年2月の節分に公開される。

この寺のこれら二体の猫地蔵尊は江戸市中に大そう評判となり、ご利益をもたらす招き猫として多くに人々が参詣に訪れた、とか。由来からいえば、取り立てて招き猫のトーンはないのだが、自性院のあたりでは室町時代後期の頃、私年号と呼ばれるその地方の豪族や寺社が設ける私的年号があり、その年号が「福徳」といった、如何にも有り難そうな名前でもあり、猫地蔵尊を招き猫としてマーケティング戦略を実行していったのだろう。江戸の招き猫として名赤い世田谷豪徳寺にしても、浅草(現在は西巣鴨)の西方寺の招き猫も、事情は同じ。井伊直孝が猫のガイドで雷雨を避け雨宿りした豪徳寺で上人の有り難き法話に接し、豪徳寺を井伊家の菩提寺にしたのは事実のようではあるが、豪徳寺の招き猫が宣伝されはじめたのは、明治になって豪徳寺が井伊家の庇護を失ってから、とも言うし、西方寺の招き猫に至っては、もともとは遊女薄雲を蛇から守った猫の話で、招き猫との何も関係のない話である。それが、遊女の贔屓のお大尽がつくった猫像に似せた招き猫を、商売人が歳の市で売り始めて人気を呼び、招き猫の代表となってゆく。あれこれの由来の、あれこれは、誠に面白い。

中井出世不動尊
自性院から南へ西落合1丁目から中落合4丁目へと進む。と、住宅街の中に古き風情を残す「中井出世不動尊」の小さなお堂がある(東京都新宿区中落合4-18-16)。堂内には、不動明王像とその両脇に二眷族(矜羯羅童子・制咤迦童子)の三像を安置している、とか。案内によれば、「江戸時代の遊行僧円空(1632~95)の作で、不動明王(像高128cm)・矜羯羅童子(64cm)・制咤迦童子(67cm)の三体からなり、不動明王には火焔光背と台座、2童子には台座が付属している。江戸時代後期に、円空生誕の地に近い尾張一宮の真清田神社の東神宮寺より移された。明治時代までは中井御霊神社の別当不動院に安置されていた。彫法は円空の素木を生かした作風をよく示したもので、都内伝存の円空仏は、唯一の発見である」、と。円空仏は、都内では個人所有を除き、唯一のものとされる。拝観は日時に限られているようで、当日、お堂は閉じられていた。尾張の一宮である真清田神社から何故に中井の御霊神社に移ったのかは、不明。妄想をするにも、素材・手掛かりも見つからない。

中井御霊神社
中落合4丁目の住宅街を成り行きで進み、目白大学のキャンパスに沿って進み、キャンパスの南にある中井御霊神社に。台地端にある神社のあたりには古代の住居跡も残る、とか。創建時期は不明だが、往昔より、落合村の小字である中井の鎮守さまであった。祭神は葛谷御霊神社と同じく、仲哀天皇・応神天皇・仁徳天皇・武甕槌神の四柱である。この神社も備射祭で知られる。武蔵風土記に「五霊社はおびしや祭を行う。又六の日には安産の祈祷をなす」、とある。また、この神社に備射祭の分木が2本残る。的を描くコンパスといったものだろう。元和6年には、もう一本あった分岐を葛ヶ谷御霊神社に譲ったとの記録が残る。その他、江戸時代の備射祭を描いた備射祭絵馬や、同じく江戸の頃、農民が雨乞いの行事につかった「雨乞いのむしろ旗」が残る。「竜王神」と書かれ、雨乞いの行事は関東大震災の頃まで行われていた、とのことである。
ところで、中井御霊神社って、その昔はどのように呼ばれていたのだろう。「**神社」は明治以降の名称である。中井は、落合村の字名として、頭に付けられただけであろうし、とあれこれ、チェックする。
上にメモした武蔵風土記には「五霊社」、とある。分木の裏には「御五神之宮」と刻まれているようだ。五霊社は御霊社のことだろう。御五神之宮>五神宮、と呼ばれたとの記録も残る。御霊社とも、五神宮とも呼ばれたのだろう。いずれにしても、この御霊はスサノオ系の御霊信仰というよりも、八幡信仰=若宮信仰系の御霊信仰の流れなのだろう、と葛谷御霊神社のときの妄想に準じる。




バッケ(崖線)
中井御霊神社脇から、落合の台地を妙正寺川に向かって下る坂がある。この坂は「八の坂」と呼ばれるが、中井2丁目の崖面を西から東に向かって山手通りまで、「八の坂」から「一の坂」まで、順に名付けられた坂が下る。崖線のことを。この落合のあたりでは、「バッケ」と呼ぶ。国分寺崖線では「ハケ」、板橋区では崖下の道を「峡田(ハケタ)の道」、会津若松では坂下(バンゲ)と呼んでいた。基本は「ハケ」が転化していると思うが、そもそも「ハケ」の語源ははっきりしない。




林芙美子記念館
台地の崖線の「八の坂」を下り、次に「七の坂」を上り、と順にアップダウンを楽しむ。「四の坂」の途中には林芙美子記念館があった。林芙美子と言えば、『放浪記』であり、尾道で育った、とか、「花のいのちはみじかくて、苦しきことのみ多かりき.」といってフレーズを知っている程度であり、如何に記念館とは言え、京風・数寄屋つくりのお屋敷は、少々敷居が高い。中島敦という作家も、その作品である『山月記』も、つい最近、こどもとの話ではじめて知った、といった、文学と無縁のB級・散文路線の我が身は、入館を躊躇い、門外から眺めるだけにした。



とは言いながら、何故にこの落合の地に移ったのか。ちょっと気になりチェック。北九州で貧しく、複雑な家庭環境のもとで過ごし、両親とともに木賃宿を転々とする生活を送り、13歳のとき尾道に落ち着き、女学校まで尾道出過ごす。女学校を終え、上京し、この頃から『放浪記』の原型となる日記を書き始めた、と。関東大震災のとき、一時尾道の戻るも、大正13年(1924年)、再び上京し作品を書くも、名を成すまでには、なっていない。奔放なる生活を繰り返し、作家・平林たい子の家に同居していた時期もあるようだが、1927年(昭和2年)には、杉並区妙法寺の北側に借家住まいをしていた。



落合に移ったのは1930年(昭和5年)。現在の記念館の場所ではなく、中井駅の南西数分の上落合字三輪(現在新宿区上落合3丁目)に移った。林芙美子の『落合町山川記』によれば、「妙法寺のように荒れ果てた感じではなく、木口のいい家で、近所が大変にぎやかであった。二階の障子を開けると、川添いに合歓の花が咲いていて川の水が遠くまで見えた」と描く。この落合の借家時代に『放浪記』が大いに評判を呼んだ。その印税で中国や欧州を旅し、1932年(昭和7年)には、下落合四丁目2133番地の洋風の借家(西洋館)に転居。「五の坂下」にあったようである。「私は吉屋(信子;注)さんの家に近い下落合に越した。落合はやっぱり離れがたいのか、前の家からは川一ツへだてた近さであった。誰かが植民地の領事館みたいだと云ったが、外から見ると、丘の上にあって随分背が高く見えた。庭が広くて庭の真中には水蜜桃のなる桃の木の大きいのが一本あった。井伏鱒二さんは、何もほめないでこの桃の木だけをほめて行った」と『落合山川記』に描く。
現在の記念館に移ったのは、1939年(昭和14)。「四ノ坂」の中腹に、島津家の所有地だった土地を買って家を建てたとのことである。「落合の町より外にそう落ちつける場所もなさそうだ。この住みよさは四年もいるのによるだろうが、町の中に川や丘や畑などの起伏が沢山あるせいかも知れない」と描く。『落合山川記』の冒頭に、「遠き古里の山川を思ひ出す心地するなり」とあるが、古里の雰囲気を残すこの地を気に入っていたのだろう。

落合文化村(目白文化村)
『わが住む界隈』で林芙美子が、「私は冗談に自分の町をムウドンの丘(注;パリの南西にあるロダンのアトリエがあったことでも有名な町)だと云っている。沢山、石の段々のある町で、どの家も庭があって、遠くから眺めると、昼間はムウドンであり、夜はハイデルベルヒのようだ。住めば都で、私もこの下落合には六、七年も腰を落ち着けているがなかなか住みいい処だ」、と描く林芙美子記念館のあるあたりは、落合文化村と呼ばれていた。大正11年(1922)頃より、箱根土地株式会社(現・株式会社コクド)によって下落合3~4丁目(現・中落合2~4丁目および中井の一部)に開発された新興住宅街である。東急電鉄(渋沢秀雄)が開発した田園調布がパリの街並みを模したのに対し、こちらはロスのビバリーヒルズを目指した、と。結果、当時としては「中流の上」の人々がこの地に移り、多くの学者、作家、画家が西洋風の外環の邸宅を建てた、とのことである。
文化村は大きく3区画に分かれ、山手通りと新目白通りのクロスする左上(中落合3丁目あたり)が第一文化村、左下の中井駅方面(中落合4丁目と中井)が第二文化村、右上の中落合4丁目方面が第三文化村と呼ばれた。林芙美子が住んでいたあたりは第二文化村の南端のあたり、だろう。第一文化村には画家の佐伯祐三邸、第二文化村には安部能成や石橋湛山、武者小路実篤宅があった、とか。もともと、落合第一小学校の辺りに自宅を持っていた会津八一は落合(目白)第一文化村の南端あたりに引っ越したところ、改正道路(現在の山手通り)の工事地区にあたり、立ち退きを余儀なくされ、第一文化村の中央部に移るも、戦災で焼失した。文化村に少々翻弄された感がある。

山手通り
林芙美子記念館の坂を下り、「三の坂」から「二の坂」、そして山手通りより脇に上る「一の坂」をアップダウン。どのあたりまでが落合・目白文化村の区画なのか定かではないが、林芙美子の住んだ第二文化村が開発されるとともに、文化村の周辺、落合川へと下る崖線斜面。中井駅から下落合の駅のあたりにも、文化村を意識した瀟洒な家屋が建てられていったようである。このあたりには小説家の尾崎翠、壺井栄、吉川英治、細野孝二郎、林房雄、平林彪吾など、詩人では壺井繁治、中野重治、松下文子、安藤一郎、柳瀬正夢、野川隆、川路柳虹など、劇作家では村山知義、俳人では松本義一、そのほか丘の上や下には評論家の神近市子や青柳優、歌人の半田良平、小説家の藤森成吉、宮本百合子、鹿地亘、武田麟太郎などが住んでいた。如何にも「文化村」ではある。どこに邸宅があったのか不明ではあるし、そもそもが、第三文化村の一部を残し、戦災で全焼しているわけであるから往昔の痕跡など探し求めることもなく、ひたすら崖線を彷徨う、のみ。

上落合
「一の坂」まで崖線を辿り、次の目的地である最勝寺に向かって山手通り脇を南に下る。落合の地目の由来ともなった、妙正寺川と神田川が落ち合うあたりは、もう少々東に進み、西武新宿線の下落合駅あたりではあるが、その合流点は幾度となく訪れているので、今回はパス。中井駅前で妙正寺川を渡り上落合地区に。「上落合から目白寄りの丘の上が、おかしいことに下落合と云って、文化住宅が沢山並んでいた。この下落合と上落合の間を、落合川が流れているのだが、(本当は妙正寺川と云うのかも知れぬ)、この川添いにはまるで並木のように合歓の木が多い。五月頃になると、呆んやりした薄紅の花が房々と咲いて、色々な小鳥が、堰の横の小さい島になった土の上に飛んで来る『落合町山川記』」、とあるように、丘の上が下落合で、崖下が上落合となっている。落合村が江戸の頃、上落合と下落合に分かれたとき、京にちょっとい近いほうを上としたため、このような命名となった、とか。

最勝寺
山手通脇に最勝寺がある。山手通りの拡張工事区域にかかったのか、お寺さま全体を整備し直した感がある。堂々とした本堂、大師堂、七福神の並ぶ溶岩窟などがある。創建年代は不明ではあるが、鎌倉期の名執権・北条時頼の開基とも伝わる。
江戸の頃は、中井御霊神社、下落合の東山藤稲荷神社の別当寺。明治初年には廃寺となった内藤新宿・花園神社の別当寺三光院の大師堂をこの寺に受け入れた。三光院が御府内八十八カ所霊場24番札所であったため、現在最勝寺がその札所を引き継いでいる。御府内八十八カ所霊場は港区髙輪の高野山東京別院を起点とする江戸の遍路巡礼の霊場である。18世紀の中頃に開創した、と伝わる。

妙正寺川
最勝寺から再び妙正寺川筋に戻る。川に沿って東に進む。どこかで1927年(昭和2)ごろの妙正寺川の写真を見たことがある。野中の小川といった風情である。当時は流域の保水能力も高く、現在のように路面舗装のため、逃げ場を失った水が川に集中し水害を多発する、といったことがなかったのか、そもそも、家屋が少なく水害があっても、それほど大騒動するほどのこともなかったのか、ともあれ、護岸工事が施され、河床が掘削され、調整池が至る所に整備された現在の妙正寺川とは似ても似つかないのんびりとした姿ではある。

月見岡八幡神社
大正橋を渡り、上落合2丁目を成り行きで進み月見岡八幡神社へと向かう。名前に惹かれて訪れたわけだが、名前の由来は元の境内池に湧井があり、その水面に映える月光があまりに美しかった、ため。元は現在地より少し南東にあったが、その地が水道局落合水再生センターの用地となったため、現在地に遷座した。
創建年代は不明ではあるが、源義家が奥州征伐の時参詣し、戦勝を祈念して松を植えたと伝わる。旧上落合村の鎮守であり、祭神は応神天皇・神功皇后・仁徳天皇と、八幡さまのメーンの神様である応神天皇の女房・子供で構成される。八幡系の御霊社である葛谷御霊神社や中井御霊神社が応神天皇の女房と父親が祭神となっているのと、少々組み合わせが異なっている。
境内社として明治39年に北野神社、昭和2年には浅間神社と富士塚を合祀した。浅間神社は山手通りと早稲田通りの交差するあたりにあり、その富士塚は寛政2年(1790)、大塚古墳をもとに造られたために、「落合富士」と呼ばれていたようである。散歩を初めて、都内・都下に数多く残されている富士塚に出合い、江戸の頃の富士講の繁栄振りが偲ばれる。
境内には正保4年(1647)の宝篋印塔型の庚申塔、また、天明5年(1785)の銘をもつ鰐口、そして、旧社殿の格天井の板絵の一枚であった谷文晃の絵が残る。谷文晃は江戸中期の文人画家。上方文人画家に対し、江戸画家の中心として弟子の指導にあたる。門人には渡辺崋山、酒井抱一、蜀山人などがいる。

落合水再生センター
月見岡八幡のすぐ東に落合水再生センター。この施設では新宿区、世田谷区、渋谷区の全体、中野区の大部分とそして杉並区、豊島区、練馬区の一部の地域の下水処理を行っている。ここで高度処理された下水は再生水として新宿副都心のビル群のトイレ用水として再利用。また、東京の城南地区の三河川の清流復活事業の養水として渋谷川、目黒川、呑川に導水されている。西落合水再生センターからの導水をはじめて知ったのは呑川を河口から遡り、大岡山の東京工業大学のあたりで開渠が暗渠となるあたり。その地の案内に、落合水再生センターから水が送られる、とあった。はるばる落合から。と、結構驚いた。
その後、烏山川と北沢川を辿ったとき、このふたつの暗渠河川が、池尻あたりで合流し開渠となると、それまで痕跡もなかった水が突然流れはじめるが、それが落合水再生センターからの高度処理水であった。烏山川と北沢川が合わさって目黒川となり、246号との交差あたりから急に水量を増して流れていた。渋谷川も落合水再生センターからの水とは、はじめて知った。そういえば、渋谷川に合流する春の小川の部舞台となった甲骨川も、宇田川も初台川も、富ヶ谷川、原宿川もすべて暗渠で、水が流れる痕跡もなかったが、渋谷川となって渋谷の駅前で開渠となった時には、水が流れていたなあ、などと、今更納得。

神田川
落合水再生センターをぐるっと一周、神田川へと出る。吉祥寺の井の頭池を水源に杉並区の永福町あたりまでは南東に下り、そこからは北西に方向を変え、環七の東で善福寺川を合わせ、淀橋台地に沿って落合まで北流。落合で妙正寺川を合わせて江戸川橋に東流、そこからは飯田橋、水道橋、そしてお茶の水の切り通しを越えて隅田川に注ぐ。
江戸の頃は神田上水として、埋め立て地で真水の乏しい江戸の町を潤した。玉川上水のように新たに開削したというより、もともと流れていた自然河川を整備、繋ぎ直して流路を造った、とか。江戸川橋の近くの関口に大洗の堰跡が残るが、そこまでは開渠で、その先は石樋、木樋で江戸の町に送水した。関口の大洗堰は、満潮時に上ってくる海の水を堰止めるためのものでもあった。

小滝橋
神田川に沿って下り、早稲田通にかかる小滝橋に。その昔、橋の下に堰があり、そこがちょっとした滝のようであったのが名前の由来。江戸の頃は、橋の周囲に茶屋が並び、大いに賑わった、とか。
この橋は「姿見(すがたみ)の橋」と呼ばれる。神田川を少し上った淀橋が、別名「姿見ずの橋」と呼ばれているのと対をなす。名前の由来は中野長者と呼ばれた鈴木九郎にまつわる伝説による。応永年間と言うから、14世紀の末から15世紀の初頭にかけ、熊野よりこの地に来たりて、原野を開拓し艱難辛苦の末、中野長者と呼ばれるまでになったのが鈴木九郎。十二社の熊野神社を建立するほど蓄えた財産を、下男に隠し場所に運ばせては口封じのため人を殺めた。その数は10名を超えた、とか。橋を渡る姿は見たが、戻る姿が見えなかったのが「姿見ずの橋」と呼ばれた。淀橋と名を改めたのは将軍家光が、この不吉な名前を嫌い、この橋の近くの水車が、京の淀川にかかる水車と似ている、ということで淀橋とした。
「姿見の橋」は、親の因果が子に報い、というわけで、鈴木九郎の娘の小笹が婚礼の日に蛇と化身し、川に身を投げた。その姿が見つかったのが、この「姿見の橋」、だとか。ちなみに、神田川を少し下った面影橋を姿見橋とも呼ぶ。『嘉永・慶応 新江戸切絵図(人文社)』にも、面影橋とは書かず姿見橋とあった。面影橋は姿見橋と混同されることも多かったようだが、歌川広重の『名所江戸百景』の「高田姿見のはし、俤(おもかげ)の橋砂利場」には面影橋の北側に、小川にかかる姿見の橋が描かれているので、小滝橋が姿見の橋ではあった、ようだ。

西戸山遺跡
橋を渡り、小滝橋交差点に。小滝橋交差点は、北東へと高田馬場駅に向かう早稲田通り、南へと淀橋市場前交差点先でJR中央線とクロスし、その後はJR中央線に沿って新宿大ガード西方面へと下る小滝橋通り、そして橋から真っ直ぐに東ヘ進み、緩やかな坂となる三叉路となっている。
道を真っ直ぐ進み、坂の途中、西戸山社会教育会館の入口近くに、「縄文式文化の跡 西戸山遺跡」とある。昭和31年に、このあたりで横穴式住居跡が発見された。神田川に臨む台地の突端は古代の人々にとっては住みやすい場所であったのだろう。
そういえば、神田川の対岸の目白・落合の台地にもいくつもの古代遺跡が残る。先回の散歩で訪れた下落合の薬王院の近くでも8世紀頃の、横穴式古墳が発見されている。今回の散歩で歩いた目白学園のあたりには落合遺跡がある。台地の端にあるこの遺跡は縄文、弥生、古墳時代といった複合型住居跡が見つかっている。

都立戸山公園・大久保地区
道なりに東に進む。百人町4丁目と高田馬場4丁目の境を道は進む。小滝橋から大久保にかけての百人町は伊賀の鉄砲百人隊の組屋敷のあったところ。先回の散歩で訪れた「皆中(みなあたる)神社」は、百発百中を願う鉄砲組ならではの神社であったなあ、などと先回の散歩を想いながら、先に進みJRの線路をくぐると都立戸山公園に出る。
都立戸山公園の北西端に「戸山ヶ原射撃場跡」がある。現在の百人町3丁目・4丁目から山手通りを挟んで大久保3丁目のあたりまで、雑木林と草原の拡がる原野は、江戸の頃は鉄砲玉薬組同心の給地であったが、明治になると武家地は明治政府に没収される。この原野も明治7年に陸軍の用地となり「戸山ヶ原」と呼ばれるようになる(広義では戸山1丁目から3丁目までの元尾張藩下屋敷あたりをも含めて「戸山ヶ原」と呼ばれることも多いよう、だ)。戸山ヶ原には多くの陸軍の施設が造られたが、この射撃場もそのひとつ。明治15年(1882)、近衛連隊射撃場ができる。この敷地は射撃場や練兵場として陸軍が使用していたが、明治末から大正にかけて流れ弾や爆音などが問題となり、昭和3年には東洋一の鉄筋コンクリートの射撃場となった。7本の土管を並べたような300mもある施設は、「大男の国の蒲鉾」、とも呼ばれた、とか。射撃場の西側には余土を盛り上げた30mの「三角山」もあった。百人町3丁目、現在の社会保険中央病院付近には細菌戦、化学戦を研究する陸軍技術本部・陸軍化学研究所などもあり、そこに被弾などすれば大騒動、ということも「蒲鉾施設」の大きな理由ではあろう、か。

戸山ヶ原は起伏のある地形で、ナラ林、マツ、クヌギなどの雑木林、その他一面の草原で陸軍が使わないときは結構民間人が散策に訪れた。トンボ、セミ、バッタ、カブト虫を追っかける子ども達の遊び場でもあったようである。
戸川秋骨(1870~1939。詩人・英文学者)の「そのままの記」に霜の戸山ヶ原という一章がある; 戸山の原は東京の近郊に珍らしい広開した地である。(中略。)戸山の原は、原とは言えども多少の高低があり、立樹がたくさんある。大きくはないが喬木が立ち籠めて叢林をなしたところもある。そしてその地には少しも人工が加わっていない。全く自然のままである。もし当初の武蔵野の趣を知りたいと願うものはここにそれを求むべきであろう。高低のある広い地は一面に雑草をもって蔽われていて、春は摘み草に児女の自由に遊ぶに適し、秋は雅人のほしいままに散歩するに任す。四季のいつと言わず、絵画の学生がここそこにカンヴァスを携えて、この自然を写しているのが絶えぬ。まことに自然の一大公園である。(中略)。しかるにいかにして大久保のほとりに、かかるほとんど自然そのままの原野が残っているのであるか。不思議なことにはこれが俗中の俗なる陸軍の賜である。戸山の原は陸軍の用地である。その一部分は戸山学校の射的場で、一部分は練兵場として用いられている。しかしその大部分はほとんど不用の地であるかのごとく、市民もしくは村民の蹂躙するに任してある。騎馬の兵士が、大久保柏木の小路を隊をなして馳せ廻るのは、甚だ五月蠅い(うるさい)ものである。否五月蠅ではない癪にさわる」などと描く。
戸川秋骨は射撃場を戸山学校のもの、と書いているが、実際は近衛連隊が設置したものであり、戸山学校や砲学校の生徒たちも使用した、ということであろう。それはともあれ、軍の敷地とはいいながら、軍国主義が台頭する昭和のはじめの頃までは、結構、のんびりとしたものであったのだろう。明治15年(1882)に近衛連隊射撃場ができる前、明治12年から17年までは現在の西早稲田キャンパスのあたりには戸山学校競馬場があった。米大統領グランド将軍の歓迎行事が行われた、と。明治43年には、日野熊蔵大尉が自ら製作した日本最初の飛行機の飛行実験を射撃場で行っている。もっとも、わずか200㍍の滑走路でもあり、滑走には成功したが飛行しなかった。日本最初の飛行が出来たのは同年12月、代々木錬兵場で実施された。
また、大正13年には、ゴルファーが陸軍の用地に出没し、「戸山ヶ原ゴルフ倶楽部」などをつくり、兵士の訓練のないときを狙って練兵場に潜り込んでゴルフをはじめた、とか。はじめは黙認していた陸軍も、あまりに大ぴらに活動を始めるにおよび、ゴルフ禁止の処置をとった、とか。
昭和に入り陸軍の敷地として軍の施設の建ち並んだこの戸山ヶ原も、戦後には団地や早稲田大学理工学部などの教育機関、そしてこの戸山公園などに姿を変えた。

戸山公園・箱根山地区
戸山公園(大久保地区)の中を東に進む。新宿スポーツセンターを越え、早稲田大学理工学部の建物を右手に見ながら進み、明治通りに。通りの向こう側には学習院女子大や戸山高校の建物が見える。学習院女子大学や戸山高校は近衛騎兵連隊の兵舎跡とのこと。当初は学内に馬小屋も残っていた、と。
江戸の頃、北は早稲田通り、南は大久保通り、西は明治通り、東は早稲田大学戸山キャンパスに囲まれた一帯は尾尾張徳川家下屋敷であったが、明治には陸軍の用地となり戸山学校、陸軍幼年学校、陸軍第一病院、陸軍軍医学校(現在の国立感染症研究所)といった多くの陸軍の施設が建ち並んだ。
戸山高校の南を成り行きで進む。南に並ぶ高層住宅は戸山ハイツ。戦前は陸軍幼年学校、陸軍戸山学校であった跡地に、住宅難への対策として、戦後の1949年、団地のはしりともなった戸山ハイツが完成。1970年には鉄筋コンクリートの中層・高層住宅に建て替えられた。道なりに進み、都立戸山公園に進む。明治通りの戸山公園が大久保地区と呼ばれているが、こちらの戸山公園は箱根山地区と呼ばれる。大久保地区と箱根山地区とわかれるも、共に「戸山公園」と総称されるのは、広義の「戸山ヶ原」の名残であろう、か。
戸山公園に入ると、「戸山山荘跡・尾張藩主徳川家下屋敷跡」の案内。大久保通りと明治通りが交差するあたりから、早稲田通りの穴八幡に向かって斜め帯状に続く都立戸山公園の面積はおよそ18万平方キロ。これでも結構広いのだが、江戸の頃、この地にあった尾張徳川家下屋敷の「戸山荘」は広さ、およそ45万平方キロ。現在の公園の倍以上の規模であった、とか。公園の中に小高い築山が残る。箱根山である。坂道を上ると道脇に「箱根山の碑」と「陸軍戸山学校址」。
園内の案内によると、「この地区は、その昔源頼朝の武将和田左衛門尉義盛の領地で、和田村と外山村の両村に属していたことから「和田外山」と呼ばれていた。寛文八年(一六六八)に至り尾州徳川家(尾張藩)の下屋敷となり、その総面積は約十三万六千余坪(約四十四万八千八百余㎡)に及び、「戸山荘」と呼ばれるようになった。
この「戸山荘」は、寛文九年(一六六九)に工事を始め、天和(一六八一~一六八三)・貞享(一六八四~一六八七)の時代を経て元禄年間(一六八八~一七〇三)に完成した廻遊式築山泉水庭である。
庭園の南端には余慶堂と称する「御殿」を配し、敷地のほぼ中央に大泉水を掘り琥珀橋と呼ばれる木橋を私、ところどころに築山・渓谷・田畑などを設け、社祠堂塔・茶屋なども配した二十五の景勝地が作られていた。なかでも小田原宿の景色を模した「町並み」は、あたかも五十三次を思わせる、他に類のない景観を呈していたと伝えられている。
その後、一時荒廃したが、寛政年間(一七八九~一八〇〇)の初め第十一代将軍家斉の来遊を契機に復旧された。その眺めは、将軍をして「すべて天下の園池は、まさにこの荘を以って第一とすべし」と折り紙を付けしめたほどであった。安政年間(一八五四~一八五九)に入り再び災害にあい、その姿を失い復旧されることなく明治維新(一八六八)を迎えた。明治七年(一八七四)からは陸軍戸山学校用地となり、第二次大戦後は国有地となりその一郡が昭和二十九年から今日の公園となった。陸軍用地の頃から誰ともなく、この園地の築山(玉円峰)を「函根山」・「箱根山」と呼ぶようになり、この山だけが当時を偲ぶ唯一のものとなっている」、と。
戸山公園の中には旧軍の痕跡は、あまり残っていないが、箱根山の南にある日本基督教団戸山教会の施設の一部に旧陸軍の会議室跡が残っているようだ。石造りの如何にも頑丈な建造物は戸山学校の将校会議室跡とのことである。また、今回は見落としたが、園内には陸軍軍楽学校の野外音楽堂跡が残っている、と。戸山学校と音楽堂?チェックすると、戸山学校は日本陸軍の歩兵戦技(射撃、銃剣術、剣術)、体育、歩兵部隊の戦術、軍楽の教官育成をその目的としていた。その後、大正元年には戦術科、射撃科、教導大隊を陸軍歩兵学校として分離し、戸山学校は体操科(剣術)、軍楽生徒隊を統括した。音楽堂の所以である。

本日の散歩はこれでお終い。往昔の戸山ヶ原を、成り行きで新宿駅へと向かう。歩きながら、若山牧水が早稲田大学に入ったものの、ほとんど引きこもりのような生活であったものが、ある日、戸山ヶ原の広大な原野を見つけ、大いに気に入り、散策を楽しむようになった、といった記事(「東京の郊外を想ふ」)を想い起こす。散策は戸山ヶ原だけでなく、もう少し足をのばして目白や落合へと、雑木林の拡がる原野を楽しんだ、とのこと。
とは言うものの、田山花袋が『東京の近郊』で描く頃は、「昔歩いた戸山の原あたりも以前のやうな野趣を持つてゐなかつた。私の知つてゐる林はすつかり切り倒されてゐた。諏訪の森から目白台を見た景色はちよつと好い感じのするところであつたけれど、今では二階屋だの大きな家だのが建てられて、畠道をずつと横ぎつて行くことも出来なくなつていた」、と、原野も開かれていたようではある。本が出版されたのが大正5年の事であるので、その頃には、戸山ヶ原の原野も、少し様変わりし始めていたのだろう、などと想いを巡らせながら、新大久保の喧噪の街並みを抜けて新宿へと向かい、一路家路へと。

新宿散歩も三回目。今回は四谷台地の尾根道や谷筋を彷徨い、新宿から西新宿へと向かう。四谷見附から四谷3丁目、四谷四丁目・四谷大木戸跡、そして新宿へと四谷台地の尾根道ルートは幾度となく歩いている。四谷の尾根道、現在の新宿通りは、往昔、潮踏の里(しおふみのさと)、あるいは潮干の里(しおほしのさと)、よつやの原(よつやのはら)などと呼ばれる、一面のすすき原であった。潮踏の里とか潮干の里と呼ばれたのは、一面に尾花(ススキ)が生え、秋になると朝霧がかかり風に尾花が波打つ様子はちょうど海原を思わせるものがあったが故の命名とも伝わる。

新宿通りを歩いている時には、往昔、一面のススキの原と呼ばれたように、平坦な台地、といった印象でしかないが、この尾根道を一旦南や北に外れると、そこは川が刻んだ谷筋・窪地やそこに下る坂など複雑に入りくんでいる。そもそも、四谷の名前の由来からして、四つの谷、すなわち、紅葉川の谷筋(四谷台地と市谷台地を開析した川筋。現在の靖国通)、鮫河谷筋(四谷三丁目あたりを源頭部とし、鮫河橋から赤坂溜池に注いだ桜川渓谷)、渋谷川の谷筋(四谷四丁目交差点あたりから南へ下る。外苑西通り)、蟹川の谷筋(大久保の由来でもある大窪を形成し神田川に注ぐ)または、蟹川支流の加二川谷筋(外苑東通り)から、との説もあるように、谷をその特徴とする地名でもある。

今回ルートは台地の尾根道を外れ、谷筋・窪地を辿りながら西に向かい四谷四丁目交差点を目指す。四谷四丁目交差点、その昔の四谷大木戸のあたりは、南は渋谷川の谷筋、北は紅葉川支流の谷筋と、南北から谷筋の迫る尾根道の馬の背といった地形であったようにも思う。この馬の背から先は内藤新宿の旧跡を辿り、最後は西新宿あたりへとルートを想い描く。本日は、結構複雑な地形のルートである。凸凹の複雑な地形の低地部分にはお寺様も点在する。鈴木理生さんの書いた『まぼろしの江戸百年;筑摩書房』には、幕府の都市政策により、寺社は低湿地域に配置し、人の集まること、そしてそのゴミの蓄積を利用し湿地を陸地化する施策を実施した、とか。今回は、地形と寺社との関係なども少々意識しながら散歩にでかけてみようと思う。


本日のルート;JR四谷駅>二葉亭四迷旧居跡>西念寺>観音坂>戒行坂>宗福寺>西応寺>須賀神社>妙行寺>東福院>愛染院>円通寺坂>日宗寺>鉄砲坂>オテルドミクニ>鮫谷橋>安鎮坂>林光寺>一行院>滝沢馬琴終焉の地>本性寺>於岩稲荷>田宮稲荷神社>長善寺>四谷大木戸>水道碑記>三遊亭円朝旧居跡>かめわり坂>正受院>成覚寺>大宗寺>追分>天龍寺>花園神社>常圓寺>JR新宿駅

JR四谷駅
JR四谷駅の駅は麹町・四谷の台地を穿ち、市谷の谷筋から赤坂・溜池の谷筋へと堀抜いた外濠の堤あたりに造られている。有り体に言えば、「谷底」といった場所である。実際、JR四谷駅の上を地下鉄が通っている。
明治22年(1889)、多摩地方と東京を結んだ甲武鉄道の開設を受け、明治27年には新宿から牛込が開通。四谷駅はこの開通に合わせて開業した。その後路線は、明治28年には牛込と飯田橋、明治37年には飯田橋からお茶の水、そして明治41年にはお茶の水から万世橋へとその路線を延ばすことになるが、その路線は新宿から南に迂回し、千駄ヶ谷、信濃町を経由し、四ツ谷見附の外濠へと台地をトンネルで抜く。四谷見附から先は外濠の内側沿いの堤を走り、市ヶ谷見附と牛込見附の下を通過して、飯田町方面へと進んだ。四谷の駅が台地上から見て、「谷底」にある、といった景観となっているのはこういった事情からである。
台地や谷など起伏ある複雑な地形を通るこの路線を計画したのは、日清戦争を控えた時代状況も大きく影響したのであろうか、大いに陸軍の意向があった、とされる。千駄ヶ谷と信濃町間は陸軍の青山練兵場があり、市谷見附から外濠を隔てた市谷台地には陸軍士官学校、水道橋のあたりは陸軍造兵工廠、その南にも陸軍の練兵場があった。軍需物資の輸送、部隊の機動的運用のためには鉄路が不可欠であり、四つのトンネル、16もの鉄橋敷設といった計画ルートの難工事も顧みず、軍事戦略優先で工事を成し遂げた、と。水道橋エリアは、江戸の頃から、舟運が盛んで、さらに鉄道が通ることで物資の大量輸送が可能となり、その軍事的重要性が増すことになる。事実、砲兵工廠は鉄道開通に合わせ、規模を拡大することになった、とか。ちなみに、青山練兵場は元の青山常盤介忠成屋敷跡、陸軍士官学校は尾張徳川家の下屋敷跡、砲兵工廠は水戸徳川家、水道橋の練兵場は徳川家の講武所跡地(日本大学法学部図書館のある水道橋内三崎町三丁目の地)である。

四谷外濠
四谷駅あたりの外濠は寛永13年(1636)の江戸城外濠普請により、赤坂溜池と市ヶ谷の開析谷を繋ぐように台地部を開削して作られた。お茶の水の駅前の神田川も、台地を切り開き通した水路であり、結構大変な普請であったと思っていたのだが、この四谷の台地を南北に穿つ工事も大変であったろうと思う。四谷駅のあたりは四谷台地の尾根道であり、江戸城の外濠の中では最も標高の高い箇所であったが、そこへの水源は四谷台地の尾根道上を通した玉川上水からの余水などを流し、水量を保ったと伝わる。
現在、四谷駅の南北の外濠は埋め立てられている。明治27年の四谷駅開業の頃、その土手を削った工事残土の一部が四谷外濠の埋め立てに使った、とのことだが、当時の記録には未だお濠には水は残っている。その後、明治32年(1899)、新宿・淀橋浄水場の完成により、淀橋から四谷に至る玉川上水路は不要となり、水路は閉じられ四谷外濠は養水源を失う。その後、大正12年(1923)、関東大震災が発生、昭和4年(1929)には関東大震災に伴う復興事業により、四谷外濠には大量の瓦礫が持ち込まれて埋め立てられ、空濠となる。また、昭和20年東京大空襲での瓦礫処理に濠は埋められ、現在は四谷見附の南の外濠(真田濠)は上智大学の運動グランド、北はRおよび東京地下鉄丸ノ内線・四ッ谷駅の敷地になっている。

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)



四谷見附
四谷見附門が築造されたのは四谷の外濠が完成した3年後の寛永16年(1639)。四谷台地の尾根道が西から進めば江戸城の出入り口に達する、江戸城の構えの中では、地形的に最も危うい場所であり、その地に見附を設け、その内側の麹町の台地には武家屋敷を配置し、西からの攻めに備えた。見附には枡形門を設け、また土橋も防衛上の理由から筋違いに架けられた。
明治5年(1872)に見附門は取り払われる。クランク状に筋違いの道筋も、明治36年(1903)には外濠沿い(御茶ノ水~赤坂見附)と甲州街道沿い(半蔵門~新宿)に路面電車が開通。 明治42年(1909)には赤坂離宮が完成し、これに相応しい橋として大正2年(1913)にバロック調の鋼製アーチ橋「四谷見附橋」が完成し、甲州街道と麹町の通りが直線で繋げられた。この四谷見附橋は東京では日本橋に次ぐ建設費を費やした、とのことである。

二葉亭四迷旧居跡
四谷見附交差点を渡り、新宿通りの南側を進み、一筋目を南に折れ、四谷中校庭の西側、民家の脇に「二葉亭四迷旧居跡」の案内。尾張藩士の子として、市谷本村町の・尾張徳川家上屋敷(現在の防衛省)で生まれ、松江などをへて父の実家水野家があったこの地に移る。東京外国語大学に入学するまで、この家で過ごした。
二葉亭四迷と言えば、文学者になることを父に告げたところ、「くたばってしまえ」と言われたことから本名長谷川辰之助のペンネームを「二葉亭四迷」にした、とか、『浮雲』や『平凡』に代表される「言文一致の文体」の確率を推進した文学者として知られる。
ところで、「言文一致」ってわかったようで、はっきりしない。Wikipediaによれば、「日常に用いられる話し言葉に近い口語体を用いて文章を書くこと、もしくはその結果、口語体で書かれた文章のことを指す」、と。マイペディアによれば「思想・感情を自由的確に表現するため,書き言葉の文体を話し言葉に近づけようとする主張,およびその文体」、とある。ますますわからなくなった。あれこれチェックする。
言文一致運動が起きる背景には、明治維新という大きな変革の時代があったことが大前提の、ように思う。西洋列強の進んだ思想・科学を取り入れるに際し、国民教育が必要。新しい思想・科学を学び、また、それをあまねく人々に伝えるためには当時の日本語の抱える問題、書き言葉と話し言葉の乖離・溝を改め、文章を読んでも、通常話している言葉と違和感のないようにしよう、としたのであろう。従来、書き言葉では、漢文中心で「今般御即位大礼被為済、先例之通被為改年号候、就而ハ之迄吉凶ノ象徴ニ随ヒ(明治初期の新聞記事)」、などと書いていたものを、「このたび、即位の大礼も終わったので、先例のように年号を改めるこことになった」などと書くようにしましょう、そのほうが、国民の皆に理解しやすいでしょう、ということであろうか。我流の例文であり、少々いい加減ではありますので、ご容赦を。
自分の目で見聞きし、心に思うさまざまなことを、自在に駆使される言葉によって明らかにする、単におしゃべりだけでなく、思想や科学技術を人に伝え、また相手も理解する、そのためには、漢語でも市井の人が十分理解できる漢語は使う、新しい思想・科学の概念を現す翻訳語(自由とか哲学といった言葉。漢字が多い)も使う、ひらがなもつかう、カタカナも使う。明治という新しい時代を迎え、欧米の知識を吸収した日本人が自分の思想信条を延べ、そしてそれがあまねく市井の人々に伝わる、それが実現できる「文体」を模索したのが明治の言文一致運動のように思う。
二葉亭四迷が言うように、「言語と文章とを一致せしめんと欲せば、作るところの文章を朗読し、聞く者をして直ちに了解べからせしむべし。聞く者をして直ちに了解せしめんと欲すれば平生説話の言語をもちいざるべからず。平生説話の言語をもちいて言語を作ればすなわち言文一致なり」、といった日本語の文体確立を目指したのだろう。文学にあまりに興味のない自分であり、言文一致などという現在の我々にとって、あまりに当たり前であり、そのため逆に、どういうことか、ちょっと疑問を抱き、メモをした。言文一致運動って、文学運動というより、国民教育運動のような気がしてきた。
このことで思い起こすのは、フランス革命時における法と言語の問題である。娘の民法のアサインメントに、横から眺め読みした『言語と法;続フランス革命と近代法の成立(金山直樹)』に、革命時に制定されたフランス民法典を十全たらしめるには、当時のフランス国内での多様な言語を「フランス語」として統一する、国語(フランス語)教育が必要不可欠とされた、と。いくら明快で平易な法典をつくっても、その法典を読みこなせるフランス国民が圧倒的に少なかった、とのことでもある。社会が大きく変化するときは、誰でも読み書きできる言語・文体をつくることと、それを可能とする公教育を目指す社会運動が必要ということだろう、か。娘のお手伝いも、たまには役に立つ。

西念寺
二葉亭四迷旧居跡のあるマンション前を離れ、民家の間の小径を成り行きで西に進み西念寺に。忍者服部半蔵の墓所と思っていたのだが、服部半蔵って代々の名前であり、初代は伊賀の忍者とのことではあったが、この寺にまつわる二代目服部半蔵・正成は徳川家康の家臣として仕え、徳川十六将のひとりとしてその武勇で知られていた武人。この西念寺には家康拝領の槍が残るが、それは三方原の合戦における半蔵・正成の武勇を愛でたものである。
半蔵・正成が後の世にまで知られるようになった事件が、本能寺の変における家康危機脱出への正成の活躍。伊賀出自の半蔵は伊賀の山越えの脱出路を案内し、無事三河に導いた。その功もあり、家康が江戸入府の後は与力三十騎、伊賀同心200名を配下に置き、江戸西門警備を命ぜられ、その門は「半蔵門」として現在に残る。
西念寺は麹町・清水谷の半蔵・正成の隠居庵がはじまり。家康正妻の築山殿の武田家内応事件に連座し、信長の命により自刃した家康嫡子・岡崎信康をとむらう半蔵・正成の姿に家康が寺の建立を命じた、とも。武田家内応事件は信康の非凡さを怖れた信長の謀略との説もあるが、信康自刃の切腹・介錯を命ぜられた半蔵正成は悩み苦しみ、終生信康の供養を続けた、と言う。寺には半蔵正康の隣に信康も眠る。
寺は半蔵の生前中には建立を果たせなかったが、没後完成。半蔵の法名をとり西念寺と名付けられた。現在の地に移ったのは寛永11年(1934)江戸城総構えの最終仕上げでもある外濠完成を待って、外濠の外側に移った。

観音坂
西念寺を離れ、近くにあるという鯛焼きで名高い「たいやき わかば(新宿区若葉1-10 小沢ビル)」に成り行きで進み、家族へのお土産を確保。西念寺脇を谷へと下る観音坂に向かう。西念寺と蓮乗院、真成院の間を南に下るこの坂の由来は、真成院の潮踏観音に因む。潮踏観音は、江戸時代以前に四谷周辺が潮踏の里と呼ばれていたことに因む。上で、一面のススキの原が風に波打ち、海原のように見えたため潮踏の里と呼ばれたとメモしたが、潮の干満につれ台石が湿ったり乾いたりするので汐干観音とも呼ばれた、との説もある。往昔、このあたりまで海が迫っていた、ということだろう。西念寺坂、潮踏坂、潮干坂とも称される。

桜川跡
谷筋に下り、如何にも川筋跡といったうねりを残す道筋を南に少し下る。若葉二丁目商店街と呼ばれるこの道筋は往昔の桜川の川筋跡。尾根筋に近い円通寺の下を谷頭部とし、日宗寺の湧水地を源流点に、通称鮫河谷を流れる桜川と、信濃町駅南の「千日谷」からの水路を合わせ、この道筋を鮫河橋跡へと進み、現在の赤坂御用地、かつての紀州徳川家の中屋敷へと進む。そこでは屋敷内の谷戸からの水をも合わせ赤坂見附に下り、紀尾井町の清水谷からの水流も合わせ、赤坂の溜池に注いだ、と言う。溜池の先は、江戸の頃は虎ノ門あたりで日比谷の入り江へと続いた、とのことである。

戒行寺坂
桜川の川筋跡を離れ、台地に上る。坂の名前は戒行寺。戒行寺の南を東に下る坂である。別名油揚坂とも呼ばれたが、坂の途中に豆腐屋があり、その油揚が評判であったから。とか。戒行寺には長谷川平蔵が眠る。池波正太郎の『鬼平犯科帳』の主人公、火付盗賊改方長官である。元は麹町8丁目に唱題修行の戒行庵としてあったものが、寛永11年にこの地に移る。

宗福寺
戒行寺の斜め向かいには宗福寺。もとは清水谷にあったものが、寛永11年、この地に移る。寺には江戸後期の刀鍛冶として知られる源清麿が眠る。新々刀(江戸時代後期の刀)の刀工の第一人者として、その刀の切れ味故に、「四谷正宗」と呼ばれた。

西応寺
宗福寺のお隣に西応寺。幕末随一の剣豪として知られる榊原鍵吉が眠る。幕府講武所教授として幕臣の武芸指導のつとめるとともに、将軍家茂の信任を得、上洛を共にする。上野での彰義隊に加わることはなかったが、上野寛永寺の輪王寺宮(後の北白川宮)の護衛にあたる。維新後は将軍家達に随って駿府に移るなど、終生幕臣としての立場を貫いた。
また、この寺には藤田貞資が眠る、と言う。「精要算法」で有名、「今の算数に用の用あり,無用の用あり,無用の無用あり・・・」という言葉が知られている、とのことだが、なんのことか凡たる我が身にはちんぷんかんぷん。チェックする。
藤田貞資は江戸中期の和算家。『精要算法』は数学の教科書、といったもの。用の用とは日常生活に役立つ数学,無用の用とは日常生活には役に立たないが基礎となる数学,無用の無用は問題のための問題、といった「技」を競う数学、といったところ。『精要算法』は数学の教科書として広く使われ、多くの門下生を抱えた。で、この門下生の特色は算額の奉納。難解な数学の問題の解決を誇った算額を神社に掲げた、とのことである。和算といえば関孝和であり、書は『塵劫記』を知っていた程度。当たり前であるが、世の中には知らないことが、如何にも多く、ある。
散歩の折々に神社で算額にしばしば出合う。都内・都下ではあきるの市の二宮神社、八王子・片倉城址の住吉神社、稲城の穴沢神社、足立区花畑の大鷲神社、渋谷の金王八幡などでの算学を思い出す。今までは、単なる「算額」であったものが、藤田貞資を知ることにより、ちょっと身近なものとなった、よう。

須賀町
それにしても、この須賀町には寺院が多い。成り行きで歩いているので、後の祭り、と感じるような名刹もあるかとも思うが、出合ったお寺さまに入っただけでも、上でメモしたような、あれこれが登場してきた。これら多くのお寺さまは、江戸城の総構えが完成し、麹町、清水谷あたりにあったお寺さまが、この四谷に移されたものではあろう。台地上のお寺は戦時の防御ラインともなるし、鈴木理生さんが『幻の江戸百年』で延べているように、お寺に集まる人、行事より生じるゴミ芥は湿地埋め立ての重要資源であった、と言う。実際に台地の上や谷地に点在するお寺さま、その墓地を見るにつけ、リアリティをもって大いに納得。
須賀町の名前の由来は須賀神社、から、と言う。といっても、そもそもの「神社」という名称は明治以降のことであるわけで、明治の前の名称をチェックすると、明治5年、忍原横町・南伊賀町飛地・旗本屋敷・妙行寺・宝蔵院・谷田院をあわせて、明治5年に四谷須賀町となった。また正覚寺・顕性寺・本性寺・報恩寺・松巌寺・永心寺・西応寺・竜泉寺・栄林寺・文殊院・戒行寺・勝興寺・清岩寺・戒行寺門前と女夫坂(みょうぶだに)東の武家地をあわせて四谷南寺町とした。四谷寺町の南の寺町の意である。同44年には両町ともに四谷の冠称を外し、昭和18年には両町が合併して現行の「須賀町」となった。

須賀神社
須賀町のお寺様の間を辿り、江戸時代の首切り役人・山田朝右衛門が眠る勝興寺脇の小径を台地の崖端に向かうと須賀神社。もとは現在の赤坂、一ツ木村の鎮守であった稲荷の社。寛永11年の江戸城外濠普請のため、この地に移った。その後寛永14年、島原の乱の兵站伝馬御用に功績のあった日本橋大伝馬町の大名主・馬込勘由がその功故に四谷の一帯を拝領。その際、寛永20年、神田明神より須佐之男命を勧請、稲荷の社と合祀し、稲荷天王合社と称した。天王の名称は牛頭天王、より。神仏習合により牛頭天王は須佐之男命の本地とされていた。
須賀神社と呼ばれるようになったのは明治の神仏分離令の後。天王>天皇との同音故、不敬にあたるかとの怖れより改名した、と言う。牛頭天王は須賀神社とか八坂神社と改名したケースが多かったように思う。須賀神社は須佐之男命を祀る日本最古の社、出雲の須賀にあった須賀宮、から。須佐之男命が八岐大蛇を退治して、「わが心清々(すがすが)し」と言ったことが、須賀の由来、とも。八坂神社は須佐之男命を祀る祇園信仰の本拠が京の八坂の地にあった、ため。 社には三十六歌仙繪が社宝として残るとか。
境内を歩くと天白稲荷神社が祀られていた。あまりなじみのない社。チェックする。江戸の頃の記録には、「伊勢国の諸社に天白大明神というもの多し。何神なるかを知るべからず。恐らくは修験宗に天獏あり。是なるべし」、とある。早い話が、よくわからない、ということ。よくわからないが、天白、天伯、天獏、天縛、天魄などの字を当てることが多く、伊勢の御神(おし)がお札を配り、神楽を舞って各地に広めたとのこと。東日本で水の神、農耕神として祀られることが多いようだ。そう言えば、名古屋に天白区ってある。由来は地域を流れる天白川であり、その天白川は河口付近の天白神に由来する、とのこと。徳川家の家臣が江戸へ移るに際し、地元の天白様を勧請したのだろう、か。単なる妄想。根拠なし。

妙行寺
石段を下り、台地から桜川の谷筋に再び戻る。女坂を下りきったところに妙行寺の墓地が拡がる。本堂と庫裡が残るだけで、十代将軍家治の御代、この寺を深く信仰する伊藤氏の娘が将軍側室として大奥に入り、その縁で将軍に信頼の篤い者に許される赤門を持った往昔の姿は、今は、ない。本堂もなんとなく武家風なのは、こういった事情もあるのだろう、か。
赤門もさることながら、このお寺さまは「三銭学校」の教場として知られる。明治の頃、桜川の谷筋に密集する貧しい人々に教育を施すべく、四谷区内の50余りのお寺さまが共同で運営した。妙行寺もそのひとつ。三銭学校の名前の由来は、授業料が三銭であった、から。

東福院坂
妙行寺から桜川筋に出る。今度は谷筋を北に、新宿通が通る尾根道側に上る。坂に名前があり、東福院坂、と。坂を上ると途中に東福院があった。東福院には左手を失ったお地蔵様が佇む。その昔、このあたりに豆腐屋があった。そこに毎晩豆腐を買いに来るお坊様。不思議なことに、その日から売上銭の中に「シキミの葉」が混じるようになる。豆腐屋の親父は、そのお坊さんの悪戯だろうと懲らしめることに。で、少々の論理の飛躍ではあるとおもうのだが、次に来たときにお坊様の左手を包丁で切り落とす。とはいいながら、少々怖くなり、翌日血の跡をたどってゆくと、東福院のお地蔵様の左手が失われていた、と。豆腐屋のおやじはその後行いを悔い改め、お地蔵様を敬い、豆腐造りに精進し、名高い豆腐屋になった、とか。

愛染院
東福院と坂を隔てた東側に愛染院。高松喜六と塙保己一が眠る。高松喜六は内藤新宿の生みの親。元は浅草の名主であった喜六は、元禄10年(1679)、内藤家下屋敷の一部(現在の新宿御苑北側)を宿場にする請願を幕府に提出。日本橋と次の宿である高井戸までは16キロと距離があるので、その中間に宿を開いた。元禄11年(1680)には許可がおり、4人の仲間とともに冥加金5600両を納め、問屋・本陣を開いた。高松家は代々内藤新宿の名主をつとめた。
また、この寺には国学者塙保己一が眠る。延享3年(1746)、現在の埼玉県本庄市の生まれ、姓は萩野、幼名は辰之助。七歳で失明するも、13歳のとき江戸に出て雨富検校須賀一の門下となり、その本姓塙をもらった。その優れた記憶力故に、雨富検校に認められ学問に精進し国学・漢学・和歌・医学などを学ぶ。
安永8年(1779年)、古書の散逸を危惧し、古代から江戸初期までの史書や文学作品を集める、『群書類従』のプロジェクトを開始。幕府や諸大名、寺社・公家の強力を得て、文政2年(1819)には、670冊からなる『群書類従』、を完成させた。文政4年(1821)には総検校となるも、亡くなったときには、現在のお金に換算すると1億円にも相当する借財を残した、と。作品完成のために私財を投じたのだろう、か。墓所は、最初近くの安楽寺に造られたが明治31年(1898)廃寺となり、愛染院に改葬された。ちなみに、南洋遙か南の小笠原諸島が日本の領土であるというエビデンスは塙保己一の集めた資料がもとになった、と言う。

日宗寺
東福院坂を下り桜川の谷筋に戻る。川筋を西へと桜川の源頭部方向へ向かう。もとより、水源があるわけも、ない。川筋跡の道を進み日宗寺に。こさっぱりとした構えの寺である。このあたりが水源であった、とか。その湧水池は、今は、ない。
日宗寺は元、麹町清水谷にあったものが、外濠普請のため寛永11年、この地に移った。日蓮上人ゆかりの房州小湊の誕生寺の末とも伝わり、上人にまつわる縁起も伝わる。夜明鬼子母神が、それ。日蓮上人が母を拝せんと旧里の小湊に戻る。母、感極まり頓死。上人大いに嘆き、また、法力を末代に示さんと、弟子日法に命じ、鬼子母神像を彫り祈ると、暁に母が蘇生。このゆえに、夜明鬼子母神と称された。鎌倉の住人鎌田某が霊夢により、この寺に納めた、と。この寺には江戸時代初期の歌人北村湖元、春水、季文等の一族も眠る、と。佐伯泰英さんの『酔いどれ小藤次』に登場する歌人北村おりょうと、故なくかぶる。

円通寺坂
日宗寺を先に進むと道は北に折れ、坂となる。坂名は円通寺坂。新宿通り(旧甲州街道)から四谷2丁目と3丁目の境界を南に下る坂の途中に円通寺がある。坂の東には祥山寺とか宝蔵寺。誠にお寺さまが多い。祥山寺は先ほど訪れた妙行寺とともに三銭学校に貢献したお寺さま。四谷笹寺(長善寺)の住職など数人が発起人となり、妙行寺に教場・共立友信学校を開き、祥山寺の住職が教師となって、鮫河の貧しい家庭の子供の教育に努めた。祥山寺には伊賀者を供養した忍者地蔵もある、と言う。

鉄砲坂
桜川の谷筋に沿った商店街を再び下る。途中で道を左に折れ、鉄砲坂へ。江戸の頃、このあたりに鉄砲組屋敷があり、鉄砲訓練所や鉄砲鍛冶があったのが名前の由来。坂を学習院初等科方向に上り、フレンチレストランで有名なオテルドミクニの辺りまで上り、再び鉄砲坂まで戻り、今度は南に進みJR中央線を跨ぐ橋へと向かう。いつだったか橋から見たJR中央線のトンネルの古風な雰囲気をあらためてじっくりと見てみよう、と。



旧御所トンネル
迎賓館の地下を信濃町方面から四ッ谷駅へと貫通するこのトンネルは「旧御所トンネル」と呼ばれ、明治期の旧甲武鉄道が造ったもので、現在も使われている。御所の下を通すことが許されたのは、日清戦争に備えた軍事優先の方針により、青山練兵場とのアクセスを優先したから、と。このトンネルの開通を待って明治27年、新宿から牛込間が開通した。明治の建造物らしく赤い煉瓦造りのトンネルから何が現れるかと佇んでいると総武線が走ってきた。



鮫河橋跡
橋の上から中央線や総武線、その南を走る高速道路をしばらく眺め、再び鉄砲坂へと戻る。途中、崖端に建つマンションの駐車場から桜川の谷筋、桜川によって開析され南北に分かれた四谷の台地の景観を楽しみ、鉄砲坂を下り桜川跡の道筋に戻る。
二葉南元保育園、二葉乳児園脇を進み、JRと高速道路のガードを越えると「南元町公園」。公園脇に小祠と「鮫河橋地名発祥の地」の説明があった;「みなみもと町公園一帯は、昔から低い土地で、ヨシなどの繁った沼池があり、周囲の台地から湧き出す水をたたえ、南東の方向へ流れ鮫河となり、赤坂の溜池に注いでいた。江戸時代になってからは水田となり、寛永年間に行われた江戸城の外濠工事で余った土で埋め立てられて、町になったと言われている。鮫河には橋が架かっていて、鮫河橋と呼ばれていた。鮫河橋は「江戸名所図会」にもとりあげられ、有名になったので、この付近一帯を鮫河橋と呼んだ時代があり、いまでもみなみもと町公園前の坂に「鮫河橋坂」という名前を残している」、と。
現四谷三丁目にある「鮫河谷」、日宗寺の湧水池辺りの源頭部から流れる桜川や、信濃町駅南側の「千日谷」からの流れがこのあたりで合わさり、沼地となっていたのであろう。古の昔には、この辺りまで江戸湾の入り江が迫っていたということでもあり、名前の由来に「鮫」がこのあたりの入り江まで現れたから、との説もある。
小祠はせきとめ神を祀る。桜川(鮫河)のゴミ芥を堰止める堰と沈殿地がこの地にあり、堰止め>咳止め、ということで、いつの頃からか沼池の周囲の木の枝に名前や年齢を書いた紙を紅白の水引で結び付けて「咳止め」のお願いをする風習が流行した。沈殿地はその後埋め立てられたが、その信仰は残り、昭和5年、小俣りんという近所の老女が埋め立て跡地に「大願成就 鮫ヶ橋(鮫河橋)せきとめ神」と彫った石碑を建てた。この碑は戦後取り除かれるが、その後鮫河橋門向かいの地に再建され、昭和46年現在地に移した、とのことである。

鮫河
江戸の時代小説を読んでいると、鮫河は悪所・岡場所として描かれている。現在の南元町から桜川の谷筋を北に向かう一帯である。天保の改革で岡場所が禁止されると、鮫河橋夜鷹として牛込桜の馬場、四谷堀端辺りまでを縄張りに出張った、と言う。
明治になってからの鮫河も貧しい人々が集まり、松原岩五郎がその著『最暗黒の東京』で描く、「山の手第一等の飢寒窟」となった。明治22年の頃、明治政府の農業政策の失政から疲弊した農村から職を求め東京に集まった農民が押し寄せ、狭い0.1平方キロメートルの谷間に1400戸、5000人もの人々が住み着いた。下谷万年町や芝新網町などとともに東京の三代スラム街のひとつ、とも称せられた。
この地に集まったのは食料の確保が容易であったから、と言う。市谷台の陸軍士官学校から出る残飯がそれ。大八車を牽いて行き、残飯を安い値段で引き取って、それを貧民に売る。米や菜を買う金のない貧民は、この残飯を糧にした、と。『貧民の群れがいかに残飯を喜びしよ、しかして、これを運搬する予がいかに彼らに歓迎されしよ。予は常にこの歓迎にむくゆべく、あらゆる手段をめぐらして庖厨(くりや=厨房のこと)を捜し、なるべく多くの残飯を運びて彼らに分配せんことを努めたりき。』、と松原岩五郎は描く。
「全町ことごとくこれ貧民窟。谷町を中心としておよそ卑湿の地、いたる所、軒低く、壁壊れ、数千の貧民、蠢々(しゅんしゅん)如としてひそかに雨露をしのぐのさま、哀れなり」。これは毎日新聞記者だった横山源之助が、『日本の下層社会』に描く明治36年(1903)の鮫河橋の姿である。横山源之助が呼んだこの辺り一帯の貧民窟は大正時代も続いたようだが、昭和18年(1943)に町名が鮭河橋から若葉に変わった頃には、その状態はなくなっていたのだろう。というより、どこか別の地に移ったというほうが正確かもしれない。
現在は往時の状態を残す街並みは見あたらないが、当時建てられた貧民救済施設は現在もその名前を残す。先ほど道脇にあった二葉南元保育園、二葉乳児園は、もともとは貧困故に親を失った孤児を受け入れるために建てられた施設であった。

赤坂御用地
鮫河橋跡の道路を隔てた一帯は赤坂御用地。現在迎賓館や東宮御所のあるこの敷地はかつての紀州徳川家の中屋敷。一帯は江戸の地形がそのまま残されている、と。敷地の西端を谷頭とし、東に開く谷戸があり、谷底と台地との比高差は15mほどもあると言う。谷戸やいくつかの支谷からの流れは桜川(鮫河)と敷地の中頃で合流し池をつくり、赤坂の溜池へと下る。どんな地形か見たいとは思えども、叶わぬことではあろう。

安鎮坂
鮫河橋跡から赤坂御用地前を外苑東通り・権田原交差点へと続く道を西に向かう。道は緩やかな坂となっており、安鎮坂とある。案内には、「あんちんざか 付近に安鎮(珍)大権現の小社があったので坂の名になった。武士の名からできた付近の地名によって権田原坂ともいう」、とある。
この坂は安珍坂とも、安鎮坂、権田坂、権田原坂、権太坂、権太原坂、信濃坂とも書く、昔、安藤左兵エの屋敷内に安鎮大権現の社があったのが名前の由来。別名の権田原坂は付近に屋敷のあった権田氏、あるいは権田原僧都の碑にちなむなど諸説ある。

林光寺
安鎮坂を上り、道路から脇に折れ、南元町の林光寺へと向かう。首都高速4号線の傍にある。但馬国生野銀山にあった清浄光寺がはじまり。慶長18年(1613)、松平忠輝の招きにより赤坂一つ木村に移り、寛永元年(1624)、林光寺と改めた。明暦元年(1655)には、寺地が御用地となり、この地に移った。
道を隔てた紀州徳川家とのつながりも深く、親鸞・蓮如・聖徳太子および七人の高僧を描いた四幅の画像は、寛延3年(1750)紀州七代藩主徳川宗将が奉納したものであり、寺宝となっている。
ところで、生野から江戸にこの寺を招いた徳川忠輝。家康の六男に生まれるも、生涯家康から疎まれた。母の出自の身分が低いとか、その容貌が怪異であったから、とかあれこれの理由があるも、家康の今際の際にも傍に侍るのを許されなかった、と。さわさりながら徳川将軍家に生まれたわけで、伊達政宗の長女五郎八姫と結婚そ、越後高田藩60万石の太守となるも、元和2年(1616 )には大阪夏の陣での不始末故に改易される。徳川家から「勘当」された、とも。その勘当が解けたのは昭和59年(1984)のこと。370年にも及ぶ勘当とは、ギネス記録にでもなるのだろう、か。

一行院
道なりに進み、外苑東通り手前から坂をJR信濃町駅へと上る。千日坂と呼ばれる。案内によれば、「この坂下の低地は、一行院千日寺に由来し千日谷と呼ばれていた。坂名はそれに因むものである。なお、 かつての千日坂は 明治三十九年(1906)の新道造成のため消滅し、 現在の千日坂は、それと前後して造られた、 いわば新千日坂である」、と。
 坂の途中に一行院千日寺がある。現在、千日谷会堂とも呼ばれるこのお寺様の開基は永井右近大夫直勝。永井家の下僕であった故念が起立した庵を一寺として創建した。永井家はこの辺りを拝領地としており、永井家が信濃守を称していたのが、信濃町の由来。また、千日寺と呼ばれるのは、僧となった来誉故念が主家永井家の供養に千日毎におこなったのが、その由来、とか。
舎利塔前の案内には、鎌倉時代後期から室町時代後期までの板碑(死者を供養するための石造りの卒塔婆)が7基保存されている、と。開起当時は寺域も広く2、025坪。明治初年には境内租税地1、800坪。その後は、明治中頃、後の方に国鉄信濃町駅が出来て狭められ、昭和37年(1962)には高速道路の建設に伴い、現在は1、200坪程度となった、とか。

滝沢馬琴終焉の地
JR信濃町駅から少し南に外苑東通りを跨ぐ歩道橋がある。歩道橋を渡り終えたあたりに滝沢馬琴終焉の地との案内。あたりを彷徨ったが、それらしき案内は見付けられなかった。江戸の切り絵図などを見ると、永井信濃守の下屋敷の南東に御手先組、御鉄砲組などの組屋敷がある。馬琴がこの地に移ったのは、医師を目指した長男が病死したため、その孫の将来を考えて小禄ではあるが定収のある御家人株(鉄砲同心)を買い求めた、とあるので、御鉄砲組の組屋敷があるこのあたりではあろう。天保6年(1835)の頃のことである。
馬琴は松平信成家臣の五男として誕生。深川浄心前の松平信成邸内が生誕の地とのこと。仙台堀川近くの江東区老人センターの前には「滝沢馬琴誕生の地」の碑があった。若き頃より戯作者を目指し、山東京伝に師事。その後、飯田橋の履物商・伊勢屋に婿入りするも、商売に身を入れることはなく、『椿説弓張月』などの作品を著した。
代表作品である『南総里見八犬伝』を書き始めたのは、文化11年(1814)の頃から。信濃町のこの地に移った頃は『南総里見八犬伝』は未完。「屋敷は間口わづか六間に候へども奥行四十間有之、凡弐百四拾坪の地所にて、奥に六間に九間の大竹薮あり、空地も有之候間菜園にすべく存候」と馬琴が描く、有り体に言えば、荒壁茅葺のあばら家で『南総里見八犬伝』を書き続けた。過労と老齢のため、次第に視力を失い、しまいには失明し、息子の嫁である路の口述筆記で執筆を続け、実に28年の歳月をかけて作品は完成した。
いつだったか、馬琴とその息子の嫁である路のことを描いた文庫を読んだ。書名を思い出せないのだが、群ようこさんの『馬琴の嫁』だったのだろう、か。偏屈な馬琴につきあい『南総里見八犬伝』をつくりあげる姿を思い起こした。梓澤要さんの『ゆすらうめ』だった、かも。

本性寺
JR信濃町駅に戻り、外苑東通りから一筋入った小径を北に向かって田宮稲荷神社に向かう。途中には創価学会の建物が幾多ある。道なりに進むと東西に走る道筋に。東に向かえば、先ほど訪れた西応寺などをへて戒行寺坂に下る。
田宮稲荷神社へと道筋を逆に西に向かう。路に沿ってお寺さまが並ぶ。なんとなく本性寺にお参り。山門の雰囲気に惹かれたのかとも思う。この山門は戦災を逃れ、元禄当時の面影を伝える、と。境内には同じく戦災を逃れた毘沙門堂も残る。元は江戸城本丸にあったものが、五代将軍綱吉の側室、春麗院殿の発願により堂とともにこの寺に寄進された。この像は北を向いていることから「北向き毘沙門天」とも呼ばれる。北方の仙台藩伊達氏が謀反を起こさないよう、北方の守護神・毘沙門天を徳川家康が北向きに安置したという伝説が残されている。

於岩稲荷
本性寺前から北に向かう道筋を先に進む。と、道の右手に於岩稲荷の幟が見える。その少し先、道の左手には田宮稲荷神社がある。於岩稲荷は陽運寺の境内にあった。少々商売っ気の感じる境内をちょっと眺め、足早に田宮稲荷神社へ向かう。

田宮稲荷神社
案内によると、「都旧跡 田宮稲荷神社跡」、とある。「文化文政期に江戸文化は燗熟期に達し、いわゆる化政時代を出現させた。歌舞伎は民衆娯楽の中心になった。「東海道四谷怪談」の作者として有名な四代目鶴屋南北[金井三笑の門人で幼名源蔵、のち伊之助、文政十二年(1829年)十一月二七日歿]も化政時代の著名人である。「東海道四谷怪談」の主人公田宮伊左衛門(南北の芝居では民谷伊左衛門)の妻お岩を祭ったお岩稲荷神社の旧地である。
物語は文政十年(1827年)十月名主茂八郎が町の伝説を集録して、町奉行に提出した「文政町方書上」にある伝説を脚色したものである。明治五年ごろお岩神社を田宮稲荷と改称し、火災で一時移転したが、昭和二七年再びここに移転したものである(東京都教育委員会)」、との説明。

わかったようで、いまひとつはっきりしない。チェックする。江戸も初期の頃、この四谷左門町の武家屋敷に田宮伊右衛門とその妻であるお岩さんが仲むつまじく暮らしていた。お岩さんは貧しい家計を支えるため商家に奉公に出る。田宮家の屋敷社への信心も欠かさず健気に働き、田宮家は豊かになる。
その評判を聞きつけた近隣の人々はお岩さんの幸運にあやかるべく田宮家の屋敷社を「お岩稲荷」として信仰するようになった。この「お岩稲荷」があったのが、この田宮稲荷神社の地である。
時は過ぎ、お岩稲荷ができて200年もたった江戸の後期、歌舞伎作者の鶴屋南北が『東海道四谷怪談』を書く。南北はなくなって二百年たっても人気のある「お岩」さんを取りあげれば、人気歌舞伎がっできるだろうと考えた、とか。ともあれ、お岩さんを主人公に歌舞伎を仕立てる。が、いかにも善人で女性の美徳の鑑では面白くない、ということで事実とは関係なく、怪談話に仕立て上げた。
文政8年 (1825) 初演のその歌舞伎が大当たり。お岩は三代目尾上菊五郎、伊右衛門は七代目市川団十郎の「東海道四谷怪談」は江戸中の話題をさらい、それ以降、お岩の役は尾上家の「お家芸」になったほど。四谷塩町・忍町の名主・茂八郎に命じて町内の伝説をまとめ奉行に提出した「文政町方書上」の伝説がもとになっている、との説もあるが、「文政町方書上」の提出が文政10年(1827)であるので、時期があわないように思う。
明治5年にはお岩稲荷を田宮神社と改める。明治12年(1879)の四谷左門町の火事で社殿が焼失。また、「東海道四谷怪談」を手掛けては天下一品といわれた市川左団次から、「四谷まで毎度出かけていくのでは遠すぎる。是非とも新富座などの芝居小屋のそばに移転してほしい」という要望もあり、当時中央区新川にあった田宮家の屋敷内に移転した。それが現在の中央区新川にある田宮稲荷神社である。
その新川の社殿も昭和二十年(1945)の戦災で焼失。戦後、新川とともに四谷の現在地にも田宮稲荷神社が復活した。陽運寺の於岩稲荷は、戦災で社殿が焼失したときに、つくられたもので、田宮神社とは関係はない、とのことであった。

長善寺
新宿通り・四谷三丁目交差点を新宿方面へと向かう。道の南側、国際交流基金の手前を南に折れる小径を進むと笹寺こと長善寺がある。
笹寺の由来は三代将軍家光とか、二代将軍秀忠とか、ともあれ将軍さまが鷹狩りの途中、この寺で休息し、辺りに笹が繁るのを見て「以降、笹寺と呼ぶべし」と。本堂には赤い瑪瑙(めのう)で造られた「めのう観音様」がある。二代将軍秀忠の夫人・崇源院の念持仏であった、とか。




四谷大木戸
先に進み四谷四丁目交差点に。江戸の頃、この地には四谷大木戸があった。甲州道中の江戸への出入り口として、元和2年(1616)に設けられた。江戸時代の地誌の一つ『御府内備考』に『江戸砂子に云、此地むかしは左右谷にて至て深林の一筋道なり、御入国の此往還糺されしといふ、七八十年迄は江戸より駄馬に付出す所の米穀送り状なければ通さすとなり、今も猶駄馬の荷鞍なきを通さず、江戸宿又は荷問屋等の手形を出して通る是遺風なり、又此所の番所内の持なれとも突棒さす股もじり等を飾り置江府に於て武家番所の外此一所に限る又住古関なりし証なりと古き土人の云伝へしよし』と四谷大木戸が描かれる。
上でメモしたように、この四谷四丁目交差点の、北は紅葉川の谷筋、南は渋谷川の谷筋と、尾根道の馬の背といった一本道であり、出入り管理が容易であったのだろう。「江戸名所図会」を見るに、道の両側に石垣が築かれ、内藤新宿側は石畳となっており、玉川上水の水番所も見える。一方、石垣の四谷側には屋根が見えるが、それは旅人や荷駄を調べる番屋の屋根であろう。番屋では突棒、刺股などの道具を置き門番が警護していた。高札も掲げられている。大木戸は世の安定、経済の発展による人馬の往還、また番屋費用の町内負担などの理由により寛政4年(1792)に廃止。石垣も明治9年(1876)に取り壊された。

水道碑記
「江戸名所図会」に見える玉川上水水番所は現在、交差点を新宿側に渡った四谷区民ホール脇の道端に「水道碑記」との石碑で残る。江戸開幕にともなう上水確保のため、多摩川の羽村の取水堰から武蔵野の尾根道を開削し、40キロ以上を導水した。取水口から四谷大木戸の水番所までは開渠、ここからは地下の石樋をとおして江戸の町に流した。
玉川上水を取水口からこの四谷大戸までヶ4回に分けて歩いたのはいつの頃だっただろう。散歩をはじめたばかりの頃でもあるので、開幕期の江戸のことなどなにも知らず、入り江を埋め立てて造った江戸の町の飲み水の確保の歴史に、思いの外フックがかかり、文京区の東京都水道歴史館を訪ねたり、古本屋を廻り『約束の奔流;松浦節(新人物往来社)』や『玉川兄弟;杉本苑子(朝日新聞社)』、『玉川上水物語;平井英次(教育報道社)』といった本を手に入れ、玉川兄弟、それを助けた安松金右衛門、水を吸い込む「水喰土」など、すべてが目新しかった。そういえば、玉川上水散歩のメモは未だつくっていない。もう一度歩き直し、そのうちにメモしておこう。少々思い入れも強い玉川上水にまつわる碑のメモは、今回はパスし、先に進む。

三遊亭円朝旧居跡
新宿通を進み新宿1丁目交差点を右に折れ、区立花園公園の三遊亭円朝旧居跡を目指す。たまたま、森まゆみさんの『円朝ざんまい』を呼んでいるところだったので、なんとなく親近感を抱く。先般の新宿散歩で二葉亭四迷が言文一致の文体の参考にしたのが三遊亭円朝の噺ということでもあったので読み始めていたわけである。
公園脇の案内によると;「このあたりは、明治落語会を代表する落語家三遊亭円朝(1839~1900)が、明治21年から28年(1888~1895)まで住んでいたところである。円朝は本名を出淵次郎吉といい、江戸湯島の生まれ、7歳の時小円太の名で初高座をふみ、9歳で二代目円生の門下に入門した。
話術に長じ、人物の性格・環境を巧みに表現し、近代落語を大成した。また、創作にもすぐれ、自作自演に非凡な芸を発揮し、人情話を完成させた。代表作に「塩原太助」「怪談牡丹灯籠」「名人長二」などがある。
屋敷地は約1000平方メートルで、周囲を四つ目垣で囲み、、孟宗竹の藪、広い畑、桧、杉、柿の植え込み、回遊式庭園などがあり、母屋と廊下でつづいた離れは円通堂と呼ばれ、円朝の居宅になっていた。新宿在往時の円朝は、明治24年以降寄席から身を引き、もっぱら禅や茶道に心を寄せていたという(東京都新宿区教委区委員会)」、と。
円朝は喧噪を避け、当時は寂しい町であった、この地を選んだとのことである。散歩の折々に円朝ゆかりの地に出合うことも多い。墨田区の亀沢には「初代三遊亭円朝住居跡」があった。墨田区両国には円朝の作品「塩原太助一代記」の太助橋があった。越後からも三国峠を越えて猿ヶ京温泉のあたりは塩原多助の出身地でもあった。墨田区の木母寺内には「三遊塚」があった。板橋の赤塚には「怪談乳房榎」のモデルと呼ばれる榎、また豊島区高田の南蔵院も「怪談乳房榎」ゆかりの寺、と言う。足立区伊興の法受院は「怪談牡丹灯籠」ゆかりの寺とする。数え上げれば切りがない。人気者故のことではあろう。

かめわり坂
花園公園を北に進み靖国通りに。今は無き厚生年金会館前を東に向かってゆるやかに上る坂の名前、かめわり坂に惹かれたため。由来ははっきりしないが、一説によると、厚生年金会館前に、その昔弁慶橋があった、とか。弁慶とかめわりがどう関係するのかチェックすると、「かめわり」には「お産」を意味する言葉であり、義経と北の方の間に生まれた赤子を弁慶が取り上げた故、とのこと。少々無理がある、かなあ。

正受院
新宿一丁目北交差点の傍に正受院。境内に奪衣婆尊の案内があった。案内によると、「木造で像高70cm。片膝を立て、右手に衣を握った奪衣婆の坐像で、頭から肩にかけて頭巾状に綿を被っているため「綿のおばば」とも呼ばれる。本像は咳止めに霊験があるとして、幕末の嘉永2年(1849)頃大変はやり、江戸中から参詣人をあつめ、錦絵の題材にもなっている。当時、綿は咳止めのお札参りに奉納したと伝えられる。あまりの人気に寺社奉行が邪教ではないかと禁止をしたほどの賑わいであった、とか。
本像は小野篁の作であるとの伝承があり、また田安家所蔵のものを同家と縁のある正受院に奉納したとも伝えられる。像底のはめ込み板には「元禄14辛己年奉為当山第七世念蓮社順誉選廓代再興者也七月十日」と墨書されており、元禄年間から正受院に安置されていたことがわかる(新宿区教育委員会掲示より)」、とあった。
境内の鐘楼は「平和の鐘」として知られる。江戸の頃、宝永8年(1711)の鋳造された銅製の梵鐘であるが、太平洋戦争に際し、金属供出されたが、戦後アメリカのアイオワ州立大学内海軍特別訓練隊に残っており、昭和37年に返還された。
この寺は毎年2月8日に行われる、針供養でも知られる。脱衣婆像に咳どめを祈願した人が真綿を奉納したことから、裁縫の神様を祀るものとして始まったという。

成覚寺
文禄3年(1594)創建のこの寺は、江戸時代、内藤新宿の宿場の遊女の投げ込み寺として知られる。境内に「子供合埋碑」と呼ぶ遊女を弔う碑が残る。子供とは抱え主の子供、ということで飯盛女(遊女)のことである。案内には、「江戸時代に内藤新宿にいた飯盛女(めしもりおんな)(子供と呼ばれた)達を弔うため、万延元年(1860)11月に旅籠屋中で造立したもので、惣墓と呼ばれた共葬墓地の一角に建てられた墓じるしである。
飯盛女の抱えは実質上の人身売買であり抱えられる時の契約は年季奉公で、年季中に死ぬと哀れにも投げ込むようにして惣墓に葬られたという(新宿区教育委員会)」、と。
内藤新宿において、「飯盛女を抱える旅籠屋は、寛政11年(1799)には、上町(新宿3丁目あたり)には、20軒、中町(新宿2丁目)に16軒、下町(新宿1丁目)に16軒あり、中には大間口之旅籠屋追々建増仕るべく候(高松文書)」とあるように多くの飯盛女=実質的遊女がいたわけで、成覚寺に投げ込まれた飯盛女の数は三千余体もあった、と伝わる。
境内にある旭地蔵も内藤新宿での情死者を弔ったお地蔵さま、とか。もとは玉川上水脇にあったものを。この地に移した。入水心中といった情死者を弔う。また、この寺には、江戸後期の浮世絵師・狂歌師・黄表紙作者の恋川春町も眠る。

太宗寺
案内によれば、このお寺様は慶長年間初頭(1596)頃、僧太宗の開いた草庵を前身とし、のちの信州高藤藩の菩提寺として発展。かつての内藤新宿仲町に位置し、「内藤新宿の閻魔」、「しょうづかのばあさん」として江戸庶民に親しまれた閻魔像や奪衣婆像や、江戸の出入口に安置された「江戸六地蔵」のひとつである銅造地蔵菩薩など、当時の面影を残す、と。
境内を歩く。江戸時代、1668年当時、太宗寺の寺領は、7396坪もあった、と言う。いまよりはるかに大きな寺域であったのだろう。門を入ると右手に2.6mの銅造の地蔵堂が佇む。江戸六地蔵のひとつ。六地蔵の3番目として甲州道中沿いに建立された。六地蔵は深川の地蔵坊正元が発願し、江戸市中から多くの寄進を集めてつくった。太宗寺以外の六地蔵は、品川区南品川の品川寺、台東区東浅草の東禅寺、豊島区巣鴨の真性寺、江東区白河の霊厳寺、江東区富岡の永代寺にあったが、永代寺は現存していいない。
境内右手に閻魔堂。5メートル余り、木造の閻魔様は、江戸時代の文化11年とされるが大震災で壊れ、昭和8年に作り直された。しょうづかのばば、とは正塚婆のこと。脱衣婆、葬頭河婆とも呼ばれ、閻魔堂左手に安置されている。木造彩色2.4m。明治3年(1870)の作、と言う。脱衣婆は閻魔大王に仕え、三途の川を渡る亡者から衣服をはぎ取り、罪の軽重を計ったとされる。閻魔堂の脱衣婆も右手に亡者からはぎ取った衣が握られている。脱衣婆、つまりは正塚婆は、衣をはぎ取るところから、内藤新宿の妓楼の商売神として、「しょうづかのばば」として信仰された。
境内左手には不動堂。額の上に銀製の三日月をもつため、通称三日月不動と呼ばれる不動明王の立像が安置される。銅造で、像高は194cm。江戸時代の作、とのこと。寺伝によれば、高尾山薬王院に奉納するため甲州道中を運ぶ道筋、休息のため立ち寄った太宗寺境内で動かなくなったため、この地に不動堂を建立し安置したと伝えられる。
本堂脇には切支丹灯籠が残る。昭和27年(1952)、太宗寺境内の内藤家墓地から出土。織部型灯籠の竿部だけではあったようだが、現在は上部笠部も合わし復元している。とはいうものの。切支丹灯籠と織部灯籠の違いがよくわからない。織部灯籠は安土・桃山時代から江戸初期の大名であり茶人である古田織部が好んだ形の灯籠で、基本は庭園の観賞用のものである。織部型灯籠の全体像が十字架、竿部の彫刻がマリア像に似ているとのことで、江戸時代のキリスト教弾圧の時代は、隠れキリスト教徒は織部灯籠をマリア観音と「仮託」し、信仰の対象としたのかとも思うが、内藤家がキリスト教徒にでもなければ、単に観賞用の石灯籠として使っていただけ、ということもありうるのでは、などと妄想する。

内藤新宿
愛染院での高松喜六のメモで書いたように、信州高藤藩内藤家屋敷の一部を幼稚として元禄12年(1699)、この地に宿場が開かれた。この辺りは、以前より内藤宿ともよばれていたので、正式な宿場名としては「内藤新宿」とした。亨保3年(1718)には、風紀上の理由もあり一旦廃止となるも、明和9年(1772)年には再会し、江戸四宿(品川、板橋、千住、新宿)のひとつとして栄えた。
内藤新宿は四谷大木戸の外、場末にあり宿場の遊郭、玉川上水の桜見物、太宗寺の閻魔さま、正受院の脱衣婆像といった流行神へのお参りなどで大いに賑わった、とか。

追分
太宗寺を離れ、成り行きで新宿3丁目交差点に。ここが昔の新宿追分。追分とは街道の分岐点であり、慶長9年(1604)に開いた甲州道中と慶長11年に青梅・成木と繋いだ青梅街道の分岐点となった。追分には一里塚や高札が立っていたとのことである。

天龍寺
もとは遠江国にあり法泉寺と称した。家康の側室である西郷局の父の菩提寺であり、家康の江戸入府にともない牛込納戸町・細工町あたりを寺域として拝領し、寺名も故郷の大河、天龍寺にちなんで改名した。
西郷の局が将軍秀忠の生母となるにおよび、上野の寛永寺が鬼門鎮護の寺となったように、江戸城の裏鬼門鎮護の寺として幕府の手厚い保護を受けた。天和3年(1683)に現在の地に移った。
境内の左手鐘楼にある「時の鐘」は、上野寛永寺、牛込市谷八幡の鐘とともに、江戸三名鐘のひとつと称せられた。この鐘は天竜寺を菩提寺とした茨城笠間城主・牧野備後守が明和4年(1767)に造らせたもの。東京近郊名所図会には「時の鐘、天龍寺の鐘楼にて、もとは昼夜鐘を撞きて時刻を報じせり。此辺は所謂山の手にて登城の道遠ければ便宜を図り、時刻を少し早めて報ずることとせり。故に当時は、天竜寺の六で出るとか、市谷の六で出るとかいいあえり。新宿妓楼の遊客も払暁早起きして袂を分たざるを得ず。因て俗に之を追出し鐘と呼べり」とある。遊客もこの鐘の音を合図に妓楼より「追い出された」のであろう。
牧野備後守が寄進したオランダ製のやぐら時計も知られる。四脚の上に時計が乗っている形がいかにも櫓といった姿であった。時の鐘を撞く合図として明治の中頃まで使用されていた、と言う。天竜寺には、かつて渋谷川の源流のひとつでもあった池があった。そのうち、流路を渋谷へとい辿ってみよう。

花園神社
天竜寺から再び靖国通り・新宿5丁目交差点に戻り、花園神社に。毎年家族・親類一同で花園神社の酉の市に参っており、花園神社と言えば、酉の市の本家、などと勝手に思い込んでいたのだが、散歩を重ねるにつれ、足立区花畑の鷲神社がその始まりであるように思えてきた。そして、その賑わいの理由も鷲神社の酉の市のときには当時禁止されていた賭博が許され、それを目当てに足立区の端まで多くの人が足を運んだ、と。が、賭博が禁止されると一転、「信仰」の足が鈍くなり、代わりに近場の浅草竜泉寺、大鷲神社で酉の市が賑わうことになる。賭博の代わりに吉原が登場しただけではある。信仰は「現世利益」と相まって賑わうものであろう、か、などとお酉さまについてあれこれ妄想を巡らせたことがある。
それはともあれ、花園神社は家康の江戸入府以前より祀られていた稲荷の祠がそのはじまり、のよう。場所は現在の伊勢丹の付近にあったものが、その地が寛政時代に旗本・朝倉筑後守の下屋敷とした拝領したため、代地として現在の地に移った。その地は徳川御三家・尾張徳川家の下屋敷の一部であり、美しい花が咲き乱れていた、とか。これを、花園神社の名前の由来とする。
とはいうものの、花園社と呼ばれ記録は享和3年(1803)が初見。それまでは稲荷神社とか、三光院稲荷、とか四谷追分稲荷と呼ばれていたようである。三光院稲荷と呼ばれたのは別当社が三光院であった、から。
明治の神仏分離令のとき、「村社稲荷神社」となる。書類提出時に「花園」を書き漏らしたとのこと。その後大正5年には「花園稲荷神社」と改名。さらに昭和40年には境内末社であった大鳥神社(尾張徳川家に祀られていたもの、と伝わる)を本社に合祀し「花園神社」とした。酉の市との関わりはこの頃からであろう、か。意外に最近のことであった。

常圓寺
そろそろ散歩を終えようと思うのだが、靖国通りに戻り、新宿大ガードをぐくり、新宿警察署前交差点の手前に道脇に大田直次郎こと蜀山人ゆかりの常圓寺がある。前を通ることも多いのだが、一度も境内にはいったことがないので、疲れた足をひきずり訪れることに。広い境内中庭、左奥の植込みの間に「便々館湖鯉鮒狂歌碑」がある。狂歌師である便々館湖鯉鮒(べんねんかんこりふ)の 「三度たく米さへこはし柔かし おもふままにはならぬ世の中」という狂歌を刻んであるが、これは大田南畝(1749-1823)の筆になるものである、と。便々館湖鯉鮒は牛込山吹町に住む茶人であり、狂歌師である大田南畝と交際していた。
大田南畝ゆかりの地はこのあたりにも多い。新宿十二社・熊野神社の手洗鉢(盥石)の銘文は南畝の手になるもの。「熊野三山 十二叢祠。。。」などと刻まれている。このため、往時の名所である「十二社」の由来は大田南畝による、とも言われる。成子坂を北に下り、十二社通りとの交差するあたりには江戸の頃、南畝との交誼をもつ土方作左右衛門の家があった。盥石の銘文も文政3年(1820)に、南畝が土方作左右衛門宅に立ち寄った際のものと、伝わる。成子坂付近には大田南畝の親友である平秩東作(へずつとうさく)の別邸もあった、とのことであるので、このあたりに訪れることも多かったのだろう。
常圓寺の本堂右側にしだれ桜がある。これはもと、小石川伝通院、広尾光林寺のものとならんで 「江戸三木」といわれ、また「江戸百本桜」の一とされたもの。現在に桜は「三代目として、昭和45年に植えられたもの。近くに天明期(1781-1789)の俳人冬暎の「うれしさや命をたねの初さくら」という句を刻んだ碑が残る、とか。寺には幕末に目付、長崎奉行、南町奉行、大目付などを歴任した筒井 政憲が眠る。

常泉寺
常泉寺常圓寺を離れ、お隣の常泉寺にある鬼子母神の祠にお参り。成子の子育て鬼子母神と呼ばれている。子育て、とはいうものの、既に大学生となった息子と娘の健やかな人生をお願いし、新宿駅へと向かい、本日の散歩を終える。それにしても、新宿散歩のメモは結構長くなる。歴史のある、というか記録の残る一帯は、今流行のAC広告機構の台詞ではないが、幾層もの知層が蓄積し、自己の好奇心を満たすには、結果的にメモが長くなってしまう。次回の散歩はあまり知層の多くない、自然の中を歩くことにしよう。


新宿散歩の2回目。市ヶ谷の駅を始点に、市谷の台地を辿り、その昔の大久保村から柏木村(北新宿)へと進み、中野区との境をなす神田川あたりまで進もうと思う。市谷台地とは靖国通りの北、現在防衛省のある市谷本村町周辺一帯の台地を指す。地形図を見るに、住吉町、富久町の辺り、そして市ヶ谷御門の外濠を下った長延寺坂あたりに谷筋が切れ込んでいる。住吉町、富久町辺りの谷筋はその昔、市谷台地の南、現在の靖国通りを流れていた紅葉川に合わさる支流であろうし、また、逆に現在の外苑東通りの道筋を市谷台地の北へと流れ、神田川に注ぐ加二川の谷筋であろう。
谷筋が細かく刻む市谷台地を越えると抜弁天の先辺りから、蟹川(金川)が刻む大きな窪地・大久保に下る。幅200mほどの大窪を辿れば明治通りのあたりで再び淀橋の台地に上り、ルートの最後は神田川の谷筋に向かって北新宿へと下ることになる。
本日は、結構複雑な地形のルートである。凸凹の複雑な地形に残る時=歴史、空=地形、時空散歩が楽しめそうである。

本日のルート;JR市ヶ谷駅>市ヶ谷見附>市ヶ谷亀岡八幡>佐内坂>長延寺坂>浄瑠璃寺坂>浄瑠璃寺の仇討ち跡>鼠坂>中根坂>近藤勇・試衛館跡>焼餅坂>経王寺>常楽寺>法身寺>幸国寺>月桂寺>フジテレビ跡>念仏坂>安養寺>安養寺坂>長井荷風旧居跡>台町坂>西迎寺>全勝寺>新坂>善慶寺>成女学園_小泉八雲旧居跡>自証院>禿坂>西光庵>西向天神>大聖院>専念寺>専福寺>法養寺>抜弁天>大久保の犬御用屋敷>永福寺>九左衛門坂>島崎藤村の旧居跡>鬼王稲荷>小泉八雲終焉の地>コリアンタウン>皆中稲荷>鎧神社>円照寺>蜀江園跡地>内村鑑三終焉の地>蜀江坂>成子天神

JR市ヶ谷駅
JR市ヶ谷駅で下車。住所は千代田区五番町。市ヶ谷駅が五番町にあったり、法政大学市谷キャンパスが外濠の南の土手堤の上にあったりするので、市谷って、この駅の辺り、かとも思っていたのだが、実際は上でメモしたように、防衛省のある外濠北の台地であった。江戸の頃、市ヶ谷駅のあたりには通称江戸城36見附(実際は50とも90とも)のひとつ市ヶ谷見附があった。市ヶ谷見附は寛永13年、美作津山藩主・森長継が築造したもの。桜の御門とも呼ばれ、楓(カエデ)の御門と呼ばれた牛込見附門とは春秋一対の御門であった。
御門は枡形。門(高麗門)をくぐると、直角に曲り、もう一つの門(櫓門)をくぐるという防御を重視した構造である。明治4年(1871)に道路拡張に伴い撤去されたが、形が烏帽子(えぼし)に似た巨大な「烏帽子石」は撤去時に日比谷公園に移設されて、現在に至る。

外濠
外濠に架かる市ヶ谷橋、と言うか土堤を渡る。江戸の町普請は家康入府した天正18年(1590)よりはじまるが、家康入府当初は江戸城の普請や日比谷の入り江の埋め立など、すべては家康家臣の普請ではあった。その江戸の築城・町普請も慶長8年(1604)、家康が豊臣家を倒し天下を握っての以降は、全国の大名を動員した「天下普請」となる。
数度に及ぶ天下普請の中で、この外濠工事は第五期の事業。寛永13年(1636)、三代将軍家光の命により、外濠石垣普請は西国61の大名に、濠の開削は東国52の大名が分担して工事を開始。この外濠工事は江戸城の総構えを締めくくるものであり、江戸城の西側、今回散歩の対象あたりとしては、牛込・市ヶ谷・四谷・赤坂の見附御門の石垣、牛込~赤坂間の濠の開削が行われている。牛込~赤坂間の濠の開削は、石垣の完成を待って伊達政宗を初めとする52家が、7組に分かれて開始した。
橋から外濠の東西を見やる。橋の東の牛込から市ヶ谷あたりまでは往昔、紅葉川の流れる自然の谷筋であり、その湿地を開削するわけで、それほどのこともないと思うのだが、西に見える市ヶ谷の谷筋から四谷の麹町台地尾根道を穿ち、赤坂へと開削する外濠工事はさぞや大変であったろうと思う。実際に、濠の開削は予想を超える難工事であったようで、各大名は開始早々に国元へ人夫増員を指示した、とか。

市谷亀岡八幡
外堀通を少し西に折れ市谷八幡町交差点に。通りを少し入ったところに市谷亀岡八幡がある。男坂と呼ぶ急な石段途中の金比羅様や茶ノ木稲荷にお参りし、上り切ったところの銅造りの鳥居を潜り境内に。鳥居のそばには幕府公認の『時の鐘』があった、とか。上野寛永寺の鐘、新宿の天竜寺の鐘とともに、江戸三代名鐘のひとつ。ちなみに、天龍寺では、実際の時刻より少し早めに鐘を撞いた、と言う。お城へも距離があり、悪所での名残を早めに済ませ、登城遅参相成らず、との老婆心、か。

神社の創建は文明11年(1479)、鎌倉の鶴岡八幡を勧請。鶴岡八幡への一対でもあろうか、亀岡八幡宮とした。もともとの創建の地は千代田区の番町であったが、徳川幕府の時代となり、大がかりな城普請の結果、番町が武家屋敷となるにおよび、現在の地に移る。この地には元々、茶ノ木稲荷神社という社がり、その境内に遷座したとのことである。
茶ノ木稲荷は弘法大師の縁起も伝わる古い社であり、鎌倉時代、市谷氏が所領し市買村と呼ばれたこの地の鎮守であった、とも。茶ノ木稲荷には、神の使いである白狐が、あやまって茶の木で目を痛め、以来稲荷社を崇敬するものは正月の三が日は茶を飲むのを控えた、との話が伝わる。茶ノ木八幡は眼病の人には霊験があらたか、とのことであるが、如何なるロジックで災いのもとであった茶の木が、福の神となったのだろう、か。
境内を歩くと、出世稲荷という、如何にも有り難そうな稲荷の祠もある。今でこそ静かな境内であるが江戸の頃は、芝居小屋や茶屋が並んだ賑やかな場であった、と。

佐内坂
八幡様を離れて次の目的地である「浄瑠璃坂の仇討ち跡」に向かう。外濠通りから市谷の台地には幾多の坂が上る。市谷見附交差点からすぐに北に上る急坂は左内坂。江戸の頃、この地を開墾した名主である島田左内の名をとったもの。島田家はその後明治時代まで名主をつとめ、代々島田左内を名乗った。

長延寺坂
左内坂の隣に長延寺坂。左内坂と比べては、穏やかな坂である。往昔、長延寺(明治末に杉並区和田に移転)が台地上にあったのが坂の名の由来。現在このあたりの地名は長延寺町と呼ばれるが、明治13年の陸地測量部の地図を見ると、長延寺谷町とあった。実際、慶長の頃までは長延寺坂の谷筋には大きな沼があったようである。
長延寺坂を上り、現在では大日本印刷の工場のある、往昔の長延寺谷町あたりを通ることも多いのだが、台地の中程に窪地があり、如何にも大沼の面影を残す。大沼と言われただけあって、谷幅は100mほどあるかと思う。この長延寺谷を堀った土は九段、麹町、番町の土手の土塁とした、とのことである。

この長延寺谷は市谷の地名の由来との説がある。改撰江戸史によると、このあたりには四つの谷があり、市谷はその「一の谷」から名づいたもので、その「一の谷」とは長延寺谷、別称市ケ谷と称する大きな谷を指すとも言う。長延寺谷が大きく、またその土が九段、麹町、番町の土塁となり、江戸のお城の総構に大きく貢献したとのことであれば、この長延寺谷をもって市谷の地名とするのが自分としては心地、よい。そのほか、市谷の地名由来としては、鎌倉時代末の古文書にある市谷氏(孫四郎)がその由来との説、毎月六回開かれた六斎日(ろくさいじつ)から、市買であるという説など、例によって諸説あり、定まること無し。

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)



砂土原町
長延寺坂を成り行きで右に折れ、浄瑠璃坂に向かう。このあたりは現在市谷砂土原町と呼ばれる。江戸時代、ここに家康の名参謀・本多佐渡守正信の別邸があったのが、その由来。その後、本多屋敷跡の土を利用し、外濠沿いの市谷田町あたりの低湿地を埋め立てたため、土(砂土)取場と呼ばれるようになり、後に砂土原と転化したとのことである。田町には岡場所もあった、とか。

くらやみ坂・闇坂
砂土原1丁目と2丁目の境の浄瑠璃坂を上る。坂道の名前の由来は、その昔この坂で「あやつり浄瑠璃」の興業があったから、とか、近くの光円寺のご本尊である薬師如来が東方浄瑠璃世界の主であるため、など例によってあれこれ。
浄瑠璃坂の仇討ち跡へと坂を上る途中に「くらやみ坂・闇坂」があった。市谷砂土原町1丁目と市谷鷹匠町の境を長延寺谷へと向かう坂。樹木が多く薄暗かったのが名前の由来。そのほか、付近にゴミ捨て場があったので、「ごみ坂」とも。往昔、ごみは湿地帯埋め立ての重要な「資源」のひとつである。その坂は先に進むと大日本印刷の工場を横切る歩道橋となっている。

浄瑠璃坂の仇討ち跡
浄瑠璃坂を上り切り左に折れ少し進むと、道脇に江戸三代仇討ちのひとつとして有名な「浄瑠璃坂の仇討ち跡」の案内板が、いかにも普通の街角、大日本印刷の社宅の塀の前に立っていた。この辺りは市谷鷹匠町。鷹匠頭・戸田七之助の屋敷が仇討ちの舞台となったという。
仇討ち事件の発端は寛文8年(1668)、宇都宮藩主・奥平忠昌の法要の席での重臣同士の刃傷事件。重臣の一方である奥平隼人の侮辱発言に、その相手であるこれも重臣・奥平内蔵允が立腹し抜刀するも、思いは果たせず、奥平内蔵允は当日自刃して果てる。この刃傷事件の裁定は奥平隼人が改易、他方の奥平内蔵允の遺児・源八が家禄没収の上追放と決定。が、しかし、この処置が喧嘩両成敗にあらず、と奥平内蔵允の遺児・源八が奥平隼人一統を仇として追い求めることになる。
寛文9年(1669)には、隼人の実弟・奥平主馬允を出羽の国で討ち取る(奥平主馬允は改易されず、奥平家の転封先出羽国に移っていた)。そして寛文12年(1672)、この地の鷹匠頭宅に保護を求めていた隼人を討ち果たすべく、同士42名とともに討ち入った。が、隼人は不在。隼人の父を討ち果たし屋敷を引き上げたところ、事件を聞き及んだ隼人が手勢を率いて一党に向かい牛込御門で戦いとなり、結果隼人が討ち取られる。同士が42名もいた、ということは事件処理が不公平であると憤慨する家臣が多くいた、ということであろう、か。事件後、源八ら一党は幕府に出頭し裁きを受ける。当時の大老・井伊直澄は源八らに穏便であり、死罪を免じ伊豆大島への流罪の沙汰を下す。そしてその6年後には千姫13回忌法要による恩赦を受け、井伊家に召し抱えられた。

この事件は寛永11年(1634)、渡辺数馬と荒木又右衛門が数馬の弟の仇である河合又五郎を伊賀国上野の鍵屋の辻で討った、「鍵屋の辻の決闘」、そして元禄15年(1703)の「赤穂浪士の討ち入り」とともに「江戸三大仇討ち」として知られる。「鍵屋の辻の決闘」は『天下騒乱;鍵屋ノ辻(池宮彰一郎)』に詳しい。また、世に浄瑠璃坂の仇討ちでの幕府の穏便な沙汰が赤穂事件の討ち入り決断の大きな要因でもあった、との説がある。その当否はわからないが、事件の発端となった奥平忠昌の妻女は鳥居忠政(関ヶ原の役のとき、伏見城を死守した鳥居彦衛門の)の娘。その鳥居忠政の弟である忠勝の娘が嫁いだ先が赤穂の大石良欽。大石良雄はその孫。幼い良雄は祖母から実家の仇討ち話を聞かされて育った、かも。単なる妄想。根拠なし。

鼠坂
浄瑠璃坂の仇討ち跡を先に進み、左に折れ鼠坂を下る。往昔、狭くて細く、鼠が通れるほどの坂であったことが、その名の由来。現在は幅も拡げ市谷鷹匠町と納戸町の境を長延寺谷に下る。納戸町は納戸役同心の組屋敷があった、から。納戸役とは将軍家の金銀・衣服・調度品・諸大名からの献上品、諸役人への下賜品の管理を司る役職。納戸町は牛込・天龍寺が内藤新宿に移った跡地である。

中根坂
鼠坂を下り、大日本印刷の工場群の真ん中に出る。坂を降りきったところ、北は牛込三中角交差点、南は市谷左内町へと続く道筋は中央部が凹地形となっており、北から中央に下る部分を中根坂、中央から南に上る部分を安藤坂と呼ぶ。安藤坂の由来は安藤弘三郎から。中根坂は旗本・中根家の屋敷に由来する。安藤弘三郎のことはよくわからない。
一方、中根家は幕末に歴史上に登場する。中根市之丞がその主人公。文久3年(1863)、長州藩による関門海峡外国船砲撃事件の詰問使として幕府の軍艦・朝陽に乗船し長州に赴くも、長州軍の砲撃の後、奇兵隊の襲撃を受け下船。その後詰問使一行は宿舎にて襲撃に遭い数名が死亡。難を逃れ船に戻った市之丞も最後には暗殺されてしまった。った、と言う。長州には自ら請うて赴任。武芸に長じ、気概をもち、6000石の禄を有する名門28歳の青年旗本であった、とか。

市谷加賀町
中根坂を上り、市谷三中交差点左に折れる。この辺りの市谷加賀町は、江戸時代に金沢・加賀藩前田光高の夫人の屋敷があったことに由来する。夫人は水戸黄門頼房の娘であり、三代将軍家光の養女として前田家に嫁ぐも、30歳の若さで亡くなったため、加賀屋敷跡はみな武家地となった、とか。
先に進むと、立派な長屋門のもつお屋敷がある。門の両側が長屋となり家臣や下男が住まいした。幕末は御典医のお屋敷であった、とか。なお、この屋敷には中国革命の父と称される孫文が日本に亡命したとき、一時隠れ住んでいた、との話が伝わる。神楽坂の筑土八幡界隈にも、孫文が隠れ住んだと伝わる屋敷もあるようだ。

誠衛館跡
外苑東通りの一筋手前の道を大久保通り・焼餅坂へと向かう。北に向かう小径は市谷柳町と市谷甲良町の境といったところである。と、道脇に史跡案内。「誠衛館跡」とある。案内文には;「幕末に新撰組局長として知られる近藤勇の道場「試衛館」は、市谷甲良屋敷内(現市谷柳町25番)のこのあたりにありました。この道場で、後に新撰組の主力となる土方歳三、沖田総三などが剣術の腕を磨いていました」、と。

近藤勇は天然理心流の遣い手。その創始は近藤内蔵助による。遠江国より江戸に出て、寛政年間(18世紀末)、両国薬研堀に道場を開いた。二代は近藤三助。江戸に道場を開いた天然理心流が、何故多摩で盛んになったのか、少々疑問に思っていたのだが、最近読んだ時代小説(『算盤侍影御用 婿殿開眼;牧秀彦(双葉文庫)』)に、「天然理心流は、当時江戸御府内では士分以外の武芸修練が禁じられ、それではと、取り締まりの及ばない御府内外の村々を訪れ、地元の名主などが用意する道場で出稽古を積極的におこなった」、といった記述があった。天然理心流が多摩の農村部で裕福な農民層を中心に盛んとなった理由がなんとなくわかった気がする。
近藤周助が天然理心流の三代目を継いだのが天保元年(1830)。この市谷甲良屋敷に移ったのは天保10年(1839)のことである。市谷甲良屋敷とは、大棟梁甲良氏が幕府から拝領した土地故の地名。拝領地を町屋として賃貸した一角に、近藤周助の身元保証人の山田屋権兵衛所有の敷地があり、その蔵の裏手に道場を移したようだ。最近古本屋で買った『幕末奇談;子母澤寛(桃源社)』に、近藤周助は一代に女房9人、愛妾4目。隠居宅には妻と愛妾3名が同居し、酒乱も甚だしきなり、と。

その三代目近藤周助が宮川勝五郎こと近藤勇を養子に迎え(当初周助の実家である嶋崎。後に近藤)、四代目として代を譲ったのは文久元年(1861)のこと。その後文久3年(1863)年には浪士隊を組織して京へ出立しており、近藤勇が道場主として教えたのは3年程度。勇が上洛の後は、佐藤彦五郎と幕臣寺尾安次郎が留守を預かり、慶応3(1867)年まで存続した。現在では、石積道の奥にはささやかな稲荷の祠があるも、民家が建ち並び往昔の面影はなにも、ない。ちなみに、この試衛館という名称は、明治に小島某が明治6年刊の『両雄士伝』の中で、「構場(号試衛)江都市谷柳街...」と注を入れた資料が唯一であり、江戸の頃に試衛館として道場名が出ることはないようではある。

多摩を歩くと天然理心流のゆかりの地に出合うことも多い。八王子戸吹町の桂福寺には天然理心流初代・内蔵助と二代目の近藤三助が眠っていた。町田の小野路で出合った名主・小島家当主・小島鹿之助は近藤周助の門人として、屋敷内に道場ももっていた。日野宿で出合った名主・佐藤彦五郎も天然理心流の門人であり、近藤勇との交誼だけでなく土方歳三の姉と縁を結ぶなど新撰組との結びつきも深め、鳥羽伏見の戦いで破れ、甲州鎮撫隊として甲州に向かう新撰組を助け、また、自らも義勇軍・春日隊を率いて幕軍を助けた。とまれ、小島家・佐藤家は天然理心流の多摩での拠点であり、近藤勇も周助の門人として小島鹿之助と佐藤彦五郎深い交誼を続け、義兄弟の契りを交わしている。

焼餅坂
先に進み大久保通りに突き当たると、外苑東通り・市谷柳橋交差点に下る焼餅坂にでる。赤根坂が本来の名前とのことだが、江戸から明治にかけて焼餅を売る店があったため、焼餅坂と呼ばれるようになった。現在でも結構急坂ではあるが、これでも明治に道路改修をおこない、勾配を緩やかにしたとのことである。
市谷柳町交差点は焼餅坂が下り、交差点を境に再び上りに転じる窪地となっている、川田ヶ窪町とも呼ばれていた。柳町となったのは往昔、外苑東通りを流れていた加二川にそって柳があったのだろう、か。いまは、その面影は、ない。

常楽寺
大久保通りを一筋南へ離れ、常楽寺へと向かう。剣豪浅利又七郎が眠る、と言う。が、構えはビルというか、マンションというか、あまりにモダンなアプローチでもあり、少々立ち入るのが憚れる雰囲気でもあるので、即撤退。

経王寺
大久保通りに戻り、西に少し進むと道脇に大黒天の案内。もとは市谷田町で開基。振り袖火事はじめ多くの火災に見舞われるも福の神の大黒様は焼けずに残り、「火伏せの大黒天」として庶民の信仰を集め、現在も山の手七福神のひとつとして信仰を集める。ちなみに、山の手七副神とは善国寺・毘沙門天(神楽坂)、経王寺・大黒天(原町)、厳島神社・弁財天(余丁町・西向天神社)、永福寺・福禄寿(新宿)、法善寺・布袋(新宿)、鬼王神社・恵比寿様(新宿)、である。

 

幸国寺
日蓮宗小湊の誕生寺の末寺。開山は戦国武将・加藤清正と伝わる。山門は明治維新時に譲り受けた田安家の屋敷門。本堂の日蓮上人像(木像)は古くから「布引きの御影」として知られる。房総半島で疫病が流行り、鎌倉にいた日蓮上人に救いを求める。上人は仏師に我が身に似せた像を彫らせ、南無妙法蓮華経という題目を書いた白布を懸け、房総の地に送ると疫病退散。像は誕生寺に安置されていたが、寛永7年幸国寺に移された。堀の内妙法寺、谷中瑞輪寺の両祖師とともに江戸の三高祖の一つとして知られる。

 

 

法身寺
臨済宗のこのお寺は、江戸時代青梅にあった普化宗鈴法寺の江戸番所の菩提寺もあった。鈴法寺では、虚無僧の弔いをしないため、ここ法身寺が菩提寺となっていた。「鉄道唱歌」の作詞者として有名な、詩人大和田建樹(1857~1910)が眠る。


外苑東通り
寺を離れ大久保通を南に越え、成城学園脇を成り行きで南に下り月桂寺に向かう。市谷柳町交差点から南に続く外苑東通りの市谷柳町、市谷薬王寺町のあたりは、神田川の谷から南に延び牛込台地を開析する浅い支谷の谷頭部。新宿散歩その壱でメモした加二川の源頭部である。現在は外苑東通りとして切り開かれた谷筋は崖面が続き、比高差5m弱ともなっている。谷筋に沿っていくつもの寺が並ぶが、地名となった薬王寺は廃寺となり、町名に名を残す、のみ。

月桂寺
道なりに進み月桂寺に。鎌倉円覚寺末寺で関東十刹のひとつ。豊臣秀吉の側室・嶋女の法名である月桂院が寺名の由来。嶋女は足利氏古河公方の分家、小弓公方・喜連川(きつれがわ)家の姫君。塩谷家に嫁ぐも、秀吉小田原征伐の折り、旦那は逃亡。残された嶋女は秀吉の側室となる。嶋女への秀吉の寵愛並々ならず、嶋女に喜連川3800石の化粧料(所領)を与え、嶋女はこの所領を弟に継がせ、喜連川藩5000石として江戸時代へと続く。嶋女は秀吉に侍した後、家康に召され、振姫付老女として会津にも赴いている。また、元禄年間には柳沢吉保もこの寺の檀家となっている。
境内は一般公開していないようであったので入らなかったが、境内には切支丹燈籠といわれる織部燈篭がある、という。切支丹燈籠は、江戸時代、幕府のキリスト教弾圧策に対して、隠れキリシタン信者がひそかに礼拝したもので、十字架を変形しており、下部にはキリスト像のカモフラージュが刻まれている、とか。

河田町
月桂寺を離れ、東西に走る道路に出ると、目の前が大きく開ける。大きなスーパーやマンションが広い空間に建つ。ここはフジテレビの本社があった。往昔は尾張徳川家の抱屋敷跡があった。河田町(旧市谷河田町)、と言えば、とのフジテレビも今はお台場に移った。
河田町はその昔、牛込村川田窪と呼ばれていた。川の傍らの窪地、浅い湿地帯に田圃があったのだろう。地形から見るに、牛込台地と麹町台地を穿ち市谷へと流れる紅葉川への支流が流れ下っていたの、かも。市谷河田町となったのは明治5年。尾張藩抱屋敷の一部、小倉小笠原藩下屋敷跡などを合わせて成立した。

市谷仲野町
元のフジテレビ敷地東端、河田町と市谷仲野町の境の道を南に下る。仲野町の名前の由来は、河田町と、外苑東通りの東、現在防衛省のある市谷本村町にあった尾張藩徳川家上屋敷の間にあった、から。

念仏坂
成り行きで進むと民家の軒下を下る石段。念仏坂とある。『新撰東京名所図会』によれば、昔、近くに住む老僧念仏を唱えていたから、とか、両側が切り立った崖場であり、危難避けに念仏を唱えたから、とか諸説ある。地元では「念仏だんだん(段々)」と呼ばれていた、と。永井荷風がこの坂を、「どうか東京市の土木工事が通行の便利な普通の坂に地ならししてしまはないやうにと私はひそかに念じてゐる。(岩波版『全集』11巻より)」、と描く。坂を上りきった余丁町に永井荷風旧居跡がある。自宅への往来にこの坂を上り、気に入っていたのだろう。

住吉町
石段を降りきると商店街に出る。この商店街は、江戸の頃には安養寺の門前町。江戸中期には岡場所もあった、とか。現在の地名は住吉町ではあるが、当時の地名は市ヶ谷谷町。牛込台地と麹町台地に挟まれ、幾多の坂道が合流する、如何にもの名称である。住吉町としたのは地名を変えるに際し、よく使われる地名。最近では清瀬散歩の折、旧地名を「縁起のいい」住吉という地名するに際し、すったもんだの経緯にも出合った。旧名への想いは強いのではあろう。商店街の脇道を入り安養寺に。浄土宗知恩院末寺。もとは市谷左内町富士見坂のあたりに開かれたが、その地が尾張藩邸となり、現在地に移ったという。

市谷台町
お参りをすませ、先を急ぐ。商店街を少し北に進むと左に上る坂。安養寺坂と呼ぶ。『新編東京名所図会』には 「安養寺坂は念仏坂の少しく北の方を西に大久保余丁町に上る坂路をいふ。 傍らに安養寺あるに因めり」、と。坂を上り先に進む。このあたりは市谷台町と呼ばれる。大正11年、市谷谷町から分かれて地名を成した。谷町ではなく、台地上であるとの表明であろう、か。道なりに進むと大きな通りに出る。道を新宿方面へ進めば余丁町から抜弁天へと進む。この道筋の少し先に永井荷風旧居跡がある。

永井荷風旧居跡
道を右に折れ余丁町14-3にあると謂う、荷風旧居跡を探す。案内もあるとのことだが、結局見付けられなかった。荷風はこの地にあった父親の屋敷に、フラランスから帰国した明治41年から大正7年まで暮らした。敷地は広く500坪以上もあった、とか。
大通りから小径に入ると郵政省の官舎が建っているが、このあたり一帯が屋敷であったのだろう。昭和天皇の侍従長で名エッセイストでもある入江相政の『余丁町停留所』に、「・・・牛込余丁町に落ちついた。いまは新宿区余丁町、大正七年のこと。亡父は永井荷風から地所の半分の五百余坪を譲り受けた。私は小学六年生。当然ながら越してからしばらくは、見るともなく、庭を散歩する荷風の姿を見たものだった」、とある。ということは、500坪以上と言うか、1000坪近くあったのかもしれない。
父の命にて実業家をめざし欧米へ留学するも、帰国後はその意に背き慶応大学で教鞭をとるかたわら創作活動に励んだ。邸内に『断腸亭』と呼ぶ離れを建てる。荷風と言えば、『断腸亭日記』というほど有名な名前であるが、その心は、荷風が腸を病みがちであった、ことによる。随筆「断腸亭雑藁」(大正7年刊)の中で、「我家は山の手のはずれ、三月、春泥容易に乾かず、五月、早くも蚊に襲われ、市ヶ谷のラッパは入相の鐘の余韻を乱し、従来の軍馬は門前の草を食み、塀を蹴破る。昔は貧乏御家人の跋扈せし処、もとより何の風情あらんや。」と、当時の屋敷周辺を描く。
それにしても荷風の旧居には見付けるのに苦労する。市川でも結構彷徨ったのだが、結局見つからなかった。余丁町の名前の由来は、江戸の頃、御旗組屋敷の横町・路地が四筋あり、大久保四丁町として使われていたが、四=死は縁起が悪いと余丁とした、とある。

靖国通り・住吉町交差点
荷風旧居跡を離れ台町坂方面に戻る。文学者つながり、というわけではないのだが、靖国通り沿いに小泉八雲旧居跡がある、というので戻ることにした。靖国通り・住吉町交差点にむかって下る台町坂を下る。台町坂と呼ばれるこの坂は道路整備と拡張されたのだろう、江戸の坂といった趣は、ない。
靖国通り・住吉町交差点に下り、地図を見ると、牛込台地と逆側、甲州街道の尾根道が通る台地側にもいくつかのお寺様が見受けられる。小泉八雲旧邸に行く道すがら、道の両側のお寺様にお参りをすることに。

西迎寺
交差点を渡り西迎寺に。このお寺さまは、延徳2年(1490)、太田道灌の菩提をとむらうため、江戸城紅葉山に西迎法師が開いた西光院がそのはじまり。歴史は古いが本堂はちょっとモダン。

全勝寺
西迎寺を離れ、坂を上り外苑東通りに面したところに全勝寺。江戸中期の兵学者・尊皇論者として知られる山県大弐が眠る。宝歴8年(1758)『柳子新論』を著し、尊王論と幕政批判を説き、ために、明和3年(1766)捕縛され、翌年没した。門下生に苫田松陰などが出たため、後に尊王論者の師と仰がれ、高く評価されるようになった。
山県大弐に散歩で最初に出合ったのは墨田区立花の吾嬬神社。そこに山県大弐により建立された「吾嬬の森」の碑があった。吾嬬の森は江戸を代表する社の森として「江戸名所図会」などに紹介されている。碑の内容は、日本武尊の東征の折、走水の海域(横須賀から千葉への東京湾)にて突如暴風雨。尊の妃・弟橘媛の入水により海神の怒りを鎮めたこと、人々がこの神社の地を媛の墓所として伝承し、大切に残してきたことなどが刻まれている。
このお寺さまには明治の頃、四谷鮫河谷のスラムに集まった子供の教育のための三銭学校の教場として使われたこともある、と言う。授業料が三銭であったのが、名前の由来。

善慶寺
全勝寺を離れ、外苑東通りの一筋西の坂を靖国通に下る。「新坂」と呼ばれるこの坂は明治になってできたもの。新坂を下りきり、住吉町交差点辺りのお寺さまへの立ち寄りはこの程度にして、靖国通りを西に向かう。
道の北、崖の上に善慶寺。平秩東作が眠る、とのことであるので、靖国通と平行した坂を上る。が、なんとなく境内に入るのを憚られる雰囲気であったので、即撤退。平秩東作(へづつとうさく)は江戸の戯作者。平賀源内、大田南畝とも親交があり、江戸戯作の草分け的存在である。「世の中の人とたばこのよしあしは けむりとなりて後にこそ知れ」は平秩東作の作。


小泉八雲の碑
靖国通り脇、明治32年創立の成女学園校門の脇に小泉八雲の碑。この地が小泉八雲の東京での最初の住居であった。明治23年(1890)、小泉八雲ことラフカディオ・ハーンはアメリカの出版社特派員として来日。来日後、その契約をすぐに破棄し、島根県松江中学校、そして熊本の第五中学校で教鞭をとる。日本人セツと結婚し、明治29年(1896)に日本に帰化し小泉八雲と名乗り、同年9月には東京帝国大学文学部の講師として招かれ上京、この地に住んだ。

富久町交差点
成女学園の先の富久町交差点あたりは靖国通りを流れていた紅葉川の谷頭部だろうか。交差点からは幾条もの坂が台地に向かう。靖国通りも安保坂となって新宿・淀橋台地に向かって上る。富久町の台地を刻む谷は、現在の靖国通りを流れていた紅葉川渓谷の中で最大のものと言われ、四谷の一谷をなすものと、考えられている。カシミール3Dでつくった地形図をみると、新宿御苑あたりから富久町交差点の先を通り、北に若松町の先まで、標高30m強の細長い支尾根が延びており、このあたりでの最高標高点となっている。
安保坂を先に進めば新宿の繁華街。左の坂を上れば大木戸坂下交差点をへて四谷四丁目・四谷大木戸跡に続く。安保坂の地名の由来は、男爵安保清種海軍大将の屋敷から。


自証院
成女学園の東を上ると自証院。現在の自証院はつつましやかな寺域ではあるが、「江戸名所図会」を見ると、靖国通りから段坂の長い参道が続き、広い境内に総門、中門、本堂、方丈、庫裡が描かれている。
もとは牛込榎町にあった日蓮宗・法常寺をその起源とするが、寛永17年(1640)、三代将軍家光の側室であるお振の方(法名;自証院)をまつり、家光の命によりこの地に移る。法常寺は京の妙覚寺の日奥を開祖とする、日蓮宗不受不施派のお寺様。不受不施とは、日蓮宗以外の者から施しを受けず(不受)、また日蓮宗以外の僧侶に施しをしない(不施)というものであり、封建制度の為政者にとっては厄介なものであり幕府により禁制となったため、元文年間、というから18世紀の前半にこの寺は天台宗に改宗した。
「江戸名所図会」には『昔は山林に桜多かりし由、諸書に見えたれども、多くは枯れ失せて今わずかに古木二三株存せるのみ。』とある。「江戸名所図会」描かれた天保5年(1834)~7年には、樹木も枯れ失せた、とのことではあるが、小泉八雲は、老杉が鬱蒼と生い茂り、苔むした庭をこの自証院の風致を好んだとのことであるので、明治の頃まではそれ相応の自然の美を保っていたのであろう。瘤寺(こぶてら)とも呼ばれるように、皮を剥いただけで、樹木の節がそのままの檜丸太を集めて組み立てられた建物も気に入っていたようである。
寺が経済的理由で杉を切り倒すのを嘆き、「なぜこの木切りました。私、心痛いです。今日もう面白くないです。もう切るなとあなた頼み下され」(小泉節子「思い出の記」)とセツに懇願した、とも。この杉の木伐採事件がきっかけとなり、明治35年(1902)西大久保に転居したとも言われる。八雲の葬儀は自証院で親しくしていた旧住職の元で行われた。小金井公園にはお振の方の「旧自証院御霊屋(おたまや)」が移された。日光東照宮の如き黒漆塗りの極彩色の建物である。

禿坂
自証院を離れて富久町を成り行きで彷徨う。名前の由来は、「久しく富む」といった願い、から。先に進むと禿坂に。その昔、自証院横に小さな池があり、水遊びに来る童の髪型が禿のように、おかっぱを短く切りそろえていたから、と。
禿坂を進み、成り行きで右に折れ小径に入る。このあたり、市谷台町から富久町の小石川工高跡にかけて、その昔、といっても明治から昭和にかけて、ではあるが、市谷監獄があった。明治8年に日本橋伝馬町にあった牢屋敷をここに移し、市谷監獄としたが、昭和12年に廃止された。
刑務所正門は町を東西に通る台町坂にあった、とか。荷風の旧居にも近く、欧州留学に旅立つときは影も形もなかったものが、帰国後に屋敷前面に聳え立つ獄舎を見て『監獄署の裏』を書いた。大逆事件で知られる幸徳秋水もここで処刑された。荷風の『花火』の中には大逆事件についてのコメントもある。そのほか、明治45年には北原白秋が姦通罪で収監されている。お隣の婦人に横恋慕しての罪。示談にはなったようだ。明治の毒婦高橋お伝もここで執行された。明治12年、日本で最後の斬首刑であった。


西光庵
禿坂を進み東京医科大の塀に沿って道なりに進み西光庵に。落ち着いたいい雰囲気のお寺様。尾張藩14代主徳川慶勝と、その子で戊辰戦争の折に官軍として東海道先鋒をつとめた義宣が眠る。慶勝は長州征伐の際の総督。尾張藩の支藩である美濃高須藩主松平義建の次男であり、兄弟には会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬、15代尾張藩主徳川茂徳とともに、名君・高須四兄弟として知られる。

西向天神
西光庵を離れ、そのすぐ北にある西向天神に向かう。崖面上の境内に佇む社は古く、安貞年間、というから、13世紀前半、鎌倉時代に京都栂尾の明恵上人が祀ったもの、と伝わる。その後、豊島氏、牛込氏、大田道灌といった、時代の覇者の尊崇・庇護を受けるも、16世紀後半の天正年間には兵火により焼失。その後、江戸時代の前期、聖護院宮道晃法親王が江戸に下った時、大僧都元信に命じ社殿を再建。

境内にある大聖院は往時の西向天神の別当寺。寛正年間(1460~1465)に牛込八郎重次(あるいは重行か)による創建、と伝わるが、江戸の頃は聖護院宮を開基とする門跡寺院となり、本山修験派の江戸の拠点となっていた。
この社は「棗(なつめ)の天神」とも呼ばれた。三代将軍家光も鷹狩りで訪れ、社殿の修理にと棗(なつめ)の茶器を下されたのが、その由来。境内には「紅皿の碑」が建つ。紅皿とは、太田道灌の山吹の里伝説、「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだに無きぞ悲しき」を詠った女性の名前である。己の教養の足らざるを恥じた道灌は、その後紅皿を城に招き、歌の共にした、とのことである。山吹の里伝説は散歩の折々に出合う。道灌人気のバロメーター、か。

大窪
「江戸名所図会」にはこの西向天神は「大窪天満宮」とある。「江戸名所図会」には神社の下に小川が描かれている。これが江戸の頃の蟹川(金川)の流れであろう。西武新宿駅付近にあった池を水源とし、新宿ゴールデン街の北と太宗寺の池から水を集め、戸山ハイツから早稲田鶴巻町へと下る。この川が開析した谷地が大きな窪地となっていたため大窪と呼ばれたのだろう。大久保もこの大窪から、との説もある。カシミール3Dで地形をチェックすると、誠に大きな窪地が見て取れる。蟹川に沿って鎌倉街道が通っていた、とも。
この台地端からの景観を大町桂月は「新宿附近唯一の眺望よき処也(『東京遊行記;明治39年』)」、永井荷風は「タ日の美しきを見るがために人の知る所となった(『日和下駄;大正4年』)、と描く。

法善寺
一度天神前の蟹川の谷筋に下り、再び坂を上り台地上の都道302号・抜弁天交差点に。交差点の周囲には専念寺や専福寺、法善寺などのお寺さまが集まる。専福寺は幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師月岡芳年が眠る。
法善寺は「江戸名所図会」に七面大明神社とも、大久保七面宮として描かれている。七面明神とは日蓮宗の守護神の一つであり、七面天女、七面大菩薩ともいう。日蓮宗の総本山である身延山の北にある七面山に住む天女であるが、日蓮上人の説法により救われたことを徳とし、龍に姿を変えて身延山を守護した、と。江戸にいくつかある七面明神の中で最初に祀られたものである。
「江戸名所図会」には奥に七面明神、手前に法善寺本堂が描かれている。法善寺は、もとは大森にあったとされるが、鳥取藩主池田伯耆守綱清の依頼により、身延山久遠寺から七面明神像をこの地に移し、七面堂を建てて安置。その後大森から法善寺が移ってきた、との説もある。


抜弁天
抜弁天交差点脇に抜弁天厳島神社のささやかな祠。第二次世界大戦の戦災により水鉢を残す、のみ。抜弁天の由来は奥州征伐に向かった八幡太郎義家が戦勝を祈願して厳島神社の弁天様を勧請したことよる。抜弁天と呼ばれるのは義家が苦戦を切り抜けたから、とか、往還が集まり、どちらにも通り抜けできたから、とか説はあれこれ。江戸の頃には江戸六弁天(本所・洲崎・滝野川・冬木・上野・東大久保)、山之手七福神として人々の信仰を集めた。

散歩をすると八幡太郎義家ゆかりの地に出合うことも多い。最初は「またか」、などと、少々うんざりしていたのだが、足立を散歩したとき、義家も含め奥州征伐へ向かう源氏の棟梁のゆかりの地を繋ぐと、奥州古道の道筋になっていた。伝説も見方を変えると別の情報源として意味あるものになる。この抜弁天も西向天神下の谷筋を鎌倉街道が通っていたとの説がある。義家が登場するのであれば、鎌倉街道かどうかは別にして、往昔の往還があったことは、それほど違和感は、ない。
それはそれとして弁天様って、水の神様。だいたい、どこの弁天様も湧水池がある。で、この抜弁天であるが、昔は湧水があった、と伝わる。地形図を見ると、新宿御苑のあたりからこの抜弁天、そしてその北の若松町、最北端は国立国際医療センターあたりまで標高30m強の尾根筋が続く。その尾根筋の水がこのあたりで湧き出たのであろう、か。
そういえば、この抜弁天のすぐ北に大久保の犬小屋跡があった。「生類憐みの令」で江戸市中から集めた数万匹の犬を「大切」に飼うには大量の水が必要だろうし、そのためには、この台地上では湧水地がなければ犬小屋など設置できやしない。ということは、このあたりには湧水点があったに違いない、とのロジックにて抜弁天に湧水あり、と我流妄想で、一応問題解決としておく。真偽の程定か成らず、は言うまでもない。

坪内逍遙宅跡・文芸協会演劇研究所跡
抜弁天のすぐ横あたりに坪内逍遙宅跡・文芸協会演劇研究所跡がある。明治22年(1889)、文京区散歩の折に訪れた炭団坂脇の屋敷からこの地に移った。小説をから離れ新しい演劇を興すために、明治42年、この屋敷内に文芸協会演劇研究所を建てた。第一期生には松井須磨子もいた、と言うが、大正9年には逍遥は熱海に居を移し。協会も解散。現在は民家が立ち並び、往時を偲ばせる物はなにも、ない。


大久保の犬小屋跡
抜弁天から現在都営大江戸線が地下を走る道筋を、大久保通り若松町交差点方面に少し東に進むと警視庁第八機動隊と余丁町小学校のあたりに大久保の犬御用屋敷跡の案内。案内によると;抜弁天の東側一帯(1万坪)および余丁町小学校と警視庁第八機動隊(1万3千坪)は、江戸時代に設けられた犬御用屋敷の跡である。五代将軍徳川綱吉は、男子徳松の死後、世継ぎに恵まれず、これを前世の殺生によるものと深く悔い、貞亨4年(1687年)、「生類憐れみの令」を発し、生物の殺生を固く禁じた。特に綱吉が戌年生まれであったため、犬を重視した。これに伴い、元禄8年(1695)、飼い主のいない犬を収容するため、四谷(千駄ヶ谷村、天龍寺の西)・大久保・中野(中野区役所一帯。旧囲町)の三カ所に「犬御用屋敷」を設置した。大久保の犬御用屋敷は、元禄八年五月二十五日に、四谷の犬御用屋敷とともに落成したもので、収容された犬は十万匹にのぼったと伝えられる。しかし、次第に手狭になり、順次中野の犬御用屋敷にその役割を移し、元禄十年十月に閉鎖され、跡地は武家居屋敷となった(新宿教育委員会)」、と。工事手伝いとして越中富山の前田利通、総奉行は側衆米倉丹後守伊昌、藤堂伊予守良直が任じられた。

永福寺
抜弁天交差点に戻り、交差点北にある山ノ手七福神のひとつ永福寺に。境内には大日如来の坐像と半跏趺坐の地蔵菩薩像、そして福禄寿の祀られる祠にお参り。七福神信仰は室町末期頃から始まったもので、インドのヒンドゥー教(大黒・毘沙門・弁才)、中国の仏教(布袋)、道教(福禄寿・寿老人)、日本の土着信仰(恵比寿・大国主)が入りまじって形成された、いかにも日本的な信仰の姿である。福禄寿は南極星の化身。長寿の神として親しまれた。


九左衛門坂
蟹川(金川)の谷筋を感じてみようと、都道302号を離れ、永福寺脇の坂を下る。道の脇に九左衛門坂とあった。九左衛門が造った故の命名。九左衛門は今回の散歩のはじめに出合った、左内坂の由来ともなった名主・島田左内の兄であり、大窪村の名主であった。
島田と言えば、現在防衛省のある市谷台(市谷本町)を開いたのが島田主計等7人の浪人と言われる。江戸時代以前の事で、家康入府の時には川崎まで出迎えた、とか。この島田主計と左内・九左衛門が関係あるのか無いのか、そのエビデンスは未だ目にしたことが、ない。

坂をのんびり下る。江戸の散歩の達人、村尾嘉陵もこの坂を下ったようで、『江戸近郊道しるべ』には、「久左衛門坂近くの大久寺境内には大きな松があったと」と描くが、松もなければ大久寺も、今は、ない。坂の周囲は、こじんまりとした商店街。この商店街の一隅に川端康成が住んでいた、と言う。全寮制の一高卒業後、東京帝国大学に入学し、下宿が決まるまで、この坂の近くにあった友人の下宿に同居させてもらっていた、とのことである。


島崎藤村の旧居跡
おおよそ200mほどの窪地を辿り、再び明治通りの走る台地へと上る。比高差は5mから10mといったところ。明治通りを越えて旧居跡を探す。ほどなく道脇、この道筋を職安通と呼ぶようだが、とまれ、大通りの脇、ビルの前に「島崎藤村旧居跡の案内と石碑」があった。案内によると「詩人・・小説家の島崎藤村(1872~1943)は、馬込(長野県)の生まれ。本名を春樹といった。明治学院を卒業後、明治26年(1893)「文学界」の創刊に参加。明治30年の「若菜集」にはじまる四詩集で詩人としての地位を確立した。明治38年(1905)4月29日、小諸義塾を退職した藤村は家族とともに上京し、翌39年10月2日に浅草区新片町に転居するまでここに住んだ。ここは当時、東京府南豊島郡西大久保405番地にあたり、植木職坂本定吉の貸家に入居したのであった(実際の場所はこの説明板の西側に建つ「ノア新宿ビル」のところ)。この頃から小説に転向した藤村は、ここで長編社会小説「破戒」を完成し、作家として名声を不動のものとした。 しかし、一方で、転居そうそう三女を亡くし、続いて次女・長女も病死するなど、藤村にとっては辛い日々をおくった場所でもあった( 新宿区教委区委員会)」、と。
「破戒」は夏目漱石などから高い評価を受け、田山花袋の「蒲団」と共に、自然主義文学の代表作として知られる。藤村はその後、この大久保を離れ、「賑やかな粋な柳橋の芸者屋街に移転された(『思いいづるまま;三宅克己』)」、とのことである。明治39年の浅草区新片町のことである。


鬼王稲荷
地図を見ると、島崎藤村の旧居のすぐ近くに鬼王稲荷という社がある。「鬼王」という名前に惹かれて、職安通りから少し南に入り境内に。まずは、「鬼王」って何だ?とチェックすると、鬼王権現とは月夜見命・大物主命・天手力男命という三神合体の強力な神仏混淆の神さま、というか仏様。月夜見命は天照大御神の弟神で、天手力男命は天の岩戸をこじ開けた怪力の神様、大物主命は大国主命のこと。大黒様でもある。古来より大久保村の氏神として稲荷社が祀られていたこの地に、宝歴二年(一七五二年)、当地の百姓田中清右衛門が旅先での病気平癒への感謝から紀州熊野より鬼王権現を勧請し、稲荷社と合祀し稲荷鬼王神社とした。
鬼王と言った、少々「特異」な名前の権現様を勧請できたのは、もともと、この地に幼少時に鬼王丸と称した将門公との因縁があったから、との説もある。北新宿、昔の柏木村に将門伝説とか将門討伐の将・藤原秀郷ゆかりの地が伝わる。この鬼王も、その一環であろう、か。

境内入り口に祀られる鬼の手水鉢は誠に面白い。鬼の頭に手水鉢が載っかっている。新宿区教委区委員会の案内によると;「この水鉢は文政の頃より旗本加賀美某の邸内にあったが、毎夜井戸で水を浴びるような音がするので、ある夜刀で切りつけた。その後家人に病災が頻繁に起こったので、天保4年(1833)当社に寄進された。台石の鬼の肩辺にはその時の刀の痕跡が残っている。・・・」とある。この水鉢は、高さ1メートル余、安山岩でできている。

鬼王神社には「豆腐断ち」(鬼王神社に豆腐を献納し、治るまで豆腐を食べるのを我慢すれば、湿疹・腫れ物がなおる)の御利益が伝えられる。失明した滝川(曲亭)馬琴の口述筆記で知られる滝沢(土岐村)路の『路女日記には』、「おさち同道。自大久保鬼王権現江参詣。豆腐を納む。右鬼王権現ハ、腫れ物ニテ難儀致候者、全快ヲ祈候ヘバ、利益アリ。此故ニ、おさち疱瘡全快祈候所、ほど無く平癒ニ付、今日為礼参り豆ふヲ納、参詣す」、とある。効能あったのだろう。つい最近、馬琴と路を描いた時代小説を読んだばかりなのだが、どうしても書名が出てこない。なんだったか、なあ?群ようこさんの『馬琴の嫁』?

小泉八雲終焉の地
職安通りを隔てた北、大久保小学校の正門脇に小泉八雲終焉の地がある。先ほど訪ねた八雲旧居跡より明治35年にこの地に移るも、2年後の明治37年、この地にてなくなった。

百人町
山手線や西武新宿線が走るガードをくぐり、線路に沿って北に折れ、百人町を大久保通りへと向かう。百人町は江戸の昔、内藤清成が率いる伊賀組百人鉄砲隊の組屋敷があったところ。現在では、コリアンタウンと呼ばれる一部となっている。

皆中稲荷
大久保通りから続く細長い参道をちょっと進むと社がある。「みなあたる」稲荷、と読む。社伝によると、その昔、天文2年(1533)、大窪とよばれたこの地に、伊勢の御師の御旅所があり、伊勢参りの手配や御札配ったりと、あれこれしているうちに次第に多くの人が集まるようになり、御旅所を社と造り直した。その後、寛永年間というから17世紀の前半、鉄砲百人組がこの一帯に移り住んだ頃、射撃の訓練をするに際して、この社にお参りすると射撃の腕が上がった、とか。ために、社の名前も「皆中(みなあたる)」稲荷神社となった、とか。

鎧神社
日も暮れてきた。そろそろ家路へと思えども、地図を見ると皆中稲荷神社から西に進み、中央線が神田川を渡る少し手前に鎧神社がある。柏木村の鎮守と言うが、それよりなにより、鬼王神社や皆中稲荷神社と同じく、その名前に惹かれてもう少々散歩を続けることに。
現在の北新宿、昔の柏木村を成り行きで進むと神田川の右岸斜面上に鎧神社があった。江戸の頃までは「鎧大時明神」と称された、と。社名の由来は、日本武尊命が東征してきた際に、この地に甲ちゅう六具を納めたことによる、とも。また、天慶3年(940年)、藤原秀郷により討たれた平将門の鎧を埋めたとか、病に苦しむ秀郷が、境内に将門の鎧を埋めてその霊を弔ったところ病が全快した、など、あれこれ。そのほか、天慶の乱のとき、将門の弟である将頼の陣を敷いた場所とも伝わる。先ほどの鬼王神社も含め、将門にまつわるエピソードが多いが、この神社を南に下った蜀江坂のあたりにも将門にまつわる伝説が伝わる。単なる伝説なのか、何かを示すシンボルなのか、問題意識としてもっておこう、と思う。

円照寺
鎧神社のすぐ南に円照寺。この寺院には藤原秀郷にまつわる縁起が伝わる。「江戸名所図会う」によれば、円照寺のあたりには醍醐天皇の頃に祀られた薬師如来の祠があった、とか。天慶3年(940)、藤原秀郷が将門討伐軍を率いて出陣の途中、中野の辺りで病に伏すも、霊示によりこの祠にて祈ると苦痛が消え去り、将門討伐も達成。凱旋の後に堂塔を建立し、圓照寺とした。旧地頭の柏木右衛門佐頼秀の館跡であったとも伝えられる。藤原秀郷って、我々団塊世代の人間には「俵藤太のむかで退治」としての印象が強い。もとより、周囲の若者は俵藤太って誰?と応える、のみ。

蜀江坂
円照寺を離れ蜀江坂に向かう。実の所、この蜀江坂は大田南畝こと蜀山人ゆかりの地と思い込み、それゆえに疲れた足を引きずりながら新宿の西端まで辿ってきた。理由は、「蜀」という特異な文字と、いつかの散歩の折、新宿十二社熊野神社に蜀山人ゆかりの手水鉢などがあり、蜀山人はこのあたりを彷徨ったはず、と推論したわけである。実際は、この蜀江坂は蜀山人とは全く関係なく、中国の三国志で知られる蜀の首都、成都を流れる川である蜀江から、とのこと。蜀江付近の特産の絹織物が紅葉のような緋色であった、と言う。
野口武彦さんの書いた本に『蜀山残雨(新潮社)』がある。その冒頭あたりに、蜀江坂が蜀山人ゆかりの地ではないことがわかり、がっかりした、といった記述があった。野口武彦もそう思い込んだ根拠は、この「蜀」という文字面と、この柏木成子坂付近には大田南畝の親友である平秩東作(へずつとうさく)の別邸があったりしたことがそのひとつであった、と記していた。蜀江坂は大田南畝こと蜀山人ゆかりの地と思い込んだのが自分だけでないことがわかり、なんとなく心嬉しい。
蜀江坂は円照寺を南に下り、大久保通りを越えた先にある。蜀江園跡と記される大久保通との交差点北に、明治の司法卿・江藤新平旧居跡(新宿区北新宿 3-10-18から20)とか、大町桂月旧居跡(新宿区北新宿 3-13-22から25)とか、南には内村鑑三終焉の地(新宿区北新宿 1-30-25)などがあるようだが、あれこれ彷徨うも、案内もなく、日も暮れ始めてきたので、結局あきらめて先に進む。大町桂月の紀行文は誠に、いい。
大久保通りを越え先に進むと緩やかにカーブした、誠に緩やかなる坂がある。この坂が蜀江坂。蜀江坂と呼ばれるようになった由来は、このあたり一帯の台地の紅葉が美しく、将軍家光が蜀江の錦に例え、以来、蜀江山と呼ばれ、その坂を蜀江坂とした、とか、平将門(ないし弟将頼)が、このあたりに陣を敷いたとき、敵襲が素早く、鎧を着けるまもなく応戦したため、蜀江錦の衣の袖が切り落としたため、とか、例によってあれこれ。今となっては、旧家を壊し再開発が行われる北新宿の一画であり、昔日の趣は、ない。

成子天神
蜀江坂を下り、後は一路家路へと新宿駅に。成り行きで青梅街道に出て東に向かうと、街道脇に成子天神の石碑。ビルに囲まれた細長い参道を進むと本殿がある。延喜3年(903年)の創建と伝わるこの社は、祭神は菅原道真。建久8年(1197年)に源頼朝が社殿を造営したとも言われるが、詳しいことは不明。ちなみに、菅原道真の係累も将門との関わりも、結構深かった気がする。
富士塚が本殿の裏手にあるようだが、普段は公開していないようだ。神社は神楽坂散歩のときに赤城神社で見たような、境内敷地に高層マンションを建設する計画があるよう。本殿もそのうちに赤城神社のようなモダンな風情と変わってしまう、かも。
成子坂
神社を離れ、成子坂、これって濁り坂の商いの合図に「鳴子」を取り付けたことが名前の由来のようだが、現在は車の往来の激しい青梅街道喧噪が響く、のみ。坂を進み新宿駅から一路家路へと。
本日は距離の割には、長い、距離が長いというより思いの外メモが長くなった散歩となってしまった。次回の四谷散歩もどうなることやら。


いつだったか新宿三栄町にある新宿歴史博物館を訪れたことがある。あれこれ展示資料をながめ、『新宿名所めぐり』や『新宿区史跡めぐり地図』といったお散歩の参考になる資料を買い求めた。準備万端、さて出発、というところだが、何となくその気になれなかった。知らない処を歩いてみたい、というのが散歩の基本としている我が身には、新宿区はあまりにも身近過ぎて、見慣れた景色を改めて歩くのには少々抵抗があったのだろう。今回新宿区を数回に分けて歩き始めたきっかけは、時にない。地図を眺め、なんとなく、といったところが、その始まりではある。散歩のルーティングもスタート地点だけを決め、あとはすべて成り行きとする。初回は神楽坂あたりから牛込台地を辿り昔の早稲田田圃へ、二回目は市ヶ谷から大久保へ、三回目は四谷見附から新宿へ、最後は落合の目白台の崖地あたりを彷徨うべし、と大雑把に決める。基本は成り行き。何に出合うか、お楽しみ、といった例によってお気楽なお散歩スタイルで散歩に出かける。



本日のルート;JR飯田橋駅>庚嶺坂>築土神社>逢坂>逢坂_最高裁長官公邸>牛込氏館跡_出版会館>牛込氏館跡_光照寺>光照寺先_地蔵坂>善国寺>神楽坂>若宮八幡>神楽小路>軽子坂>築土八幡>赤城神社>赤城坂>田中寺>大友の松跡>伝中寺>北野神社>渡辺坂>宗柏寺>済清寺>早大通り>元赤城神社>宗参寺>漱石公園>宝祥寺>感通寺>来迎寺>夏目坂>清源寺>来迎寺>夏目坂>誓清寺>天祖神社>穴八幡>放生寺>穴八幡前の金川跡>龍泉寺>宝泉寺>都電荒川線_早稲田駅>水稲荷>甘泉園>天祖神社>高田の七面堂>面影橋>新目白通り_明治通り交差点_河川が合流>神田川と妙正寺が合流>おとめ山公園>東山藤稲荷>氷川神社>七曲坂>妙正寺川の暗渠>神田川>JR高田馬場駅



牛込見附跡
神楽坂への最寄り駅JR飯田橋駅西口を出る。改札から外濠を神楽坂へ下る牛込橋の南詰めに大きな石垣。牛込見附跡である。江戸城外郭門のひとつであるこの牛込見附は、外敵の侵入を発見し防ぐもの。ふたつの門を直角に配置した「枡形門」となっていた、と。牛込見附が完成したのは江戸城の外濠が完成した寛永16年(1636年)。阿波徳島蜂須賀忠英公(松平阿波守)によって建設された。江戸の頃の牛込見附は田安門を起点とする「上州道」の出口でもあり、周辺に楓が植えられていたので「楓の御門」とも呼ばれる。石垣脇に隅櫓を持つ往昔の牛込見附の写真があったが、この櫓を含め大半の石垣も明治35年(1902)に撤去された。

牛込橋
外濠に架かる牛込橋を渡る。牛込見附と同じくこの橋も、阿波の蜂須賀公によって建設された。外濠は江戸城を取り巻く防御ライン。徳川幕府が政権を確固とした後、全国の諸侯に命じた天下普請とも称される大工事により、東西5キロ、南北4キロにも及ぶ江戸城の防御ライン・総構えが完成した。三代将軍家光の時代、寛永17年(1640 )の頃と言われる。この辺りの外濠を牛込濠と呼ぶ。市ヶ谷から牛込への濠の開削は自然の小川や沼地・湿地帯を利用し建設された。麹町台地と牛込台地の間の谷地、現在の靖国通りには往昔紅葉川の流れがあった、と言う。新宿区富久町付近を水源に、四谷四丁目・愛住町・河田町・荒木町・本塩町などから支流を集めつつ靖国通りに沿って流れ、市ヶ谷駅から飯田橋(へと進み神田川に注いでいたのだろう。四谷濠、市谷濠、牛込濠、飯田濠には西から東へと水位に段差があり、牛込橋の写真の下には「滝」らしき流れも見える、それって川の傾斜の名残ではあろう、か。

通常見附の御門の外には、社寺地が移され、その周囲に小規模な旗本地や大縄地(下級武士の屋敷地)が配されて御門の警護にあたった。通常、移される社寺地は谷筋や低湿地が多いとされる。寺社の訪れる人々や供え物故の「ごみ」を以てして、湿地の陸地化を図ったとする(『江戸の百年;鈴木理生』)。しかし、この牛込の社寺は台地上も多いように思える。寺社をも江戸の防御壁のひとつとしていたのであろう、か。牛込台地と外濠、その幅は大筒の弾道距離以上とのことであり、そして比高差20mとされる市ヶ谷台地側の土塁をもって、江戸のお城を護ろうとしたのであろう。

神楽河岸跡
牛込橋を渡ると外堀通・神楽坂下交差点。外濠は神楽坂下交差点から飯田橋にかけて大半が埋め立てられているが、江戸の頃は神楽河岸のあったところ。神田川が外濠と合流し、水道橋を越え、仙台伊達藩が開削したお茶の水の切り通しを抜けて大川(墨田川)に繋がる。江戸の町が大きく発展し、経済活動が盛んになるにつれ、当時の大量運送手段である舟運が盛んになり、大川と結ばれたこの神楽河岸には多くの舟が集まり、物流の拠点となっていったのだろう。
夏目漱石の『硝子戸の中』に、漱石の一族が浅草猿楽町の芝居見物にいくに際し、神楽河岸から屋根つきの船にのり、神田川(当時は江戸川)を柳橋に出て隅田川(大川)をさかのぼった、とある。永井荷風も、『日和下駄』に、「市中の生活に興味を持つものには物揚場の光景も亦しばし杖を留めるに足りる。夏の炎天神田の鎌倉河岸、牛込揚場の河岸などを通れば、荷車の馬は馬方と共につかれて、河添の大きな柳の木の下に居眠りをしている」、と舟からの光景を描く。。牛込門対岸の神楽坂界隈の賑わいは、こういった舟運の拠点であったことがその大きな要因ではあろう。 


庚嶺坂
神楽坂下交差点から神楽坂へと、とは想えども、神楽坂は結構訪ねてはいるので、それも今ひとつ芸がない。地図を見ると外濠を少し市ヶ谷方面に進んだところに、庚嶺坂とか堀兼の井といった地名がある。どんなところか、寄り道をすることに。東京理科大を越えた先に台地に上る道があり庚嶺坂とある。どんどん上っていけば若宮八幡前を通って毘沙門天毘沙門天(善国寺)まで続き、そこで神楽坂にぶつかる。名前の由来は、江戸初期この坂あたりに多くの梅の木があったため、二代将軍秀忠が中国の梅の名所の名をとったとの説など、あれこれ。坂の名前も「行人坂」「唯念坂」「ゆう玄坂」「幽霊坂」「若宮坂」など、これもあれこれ。 

 
築土神社
少し先に進み東京日仏学院への小径を左に折れると船河原町に。そこに筑土神社の小さな祠が佇む。九段にも筑土神社があるし、飯田橋の近くにも筑土八幡がある。どういうことか、チェックする。
船河原町はもともと江戸城内の平河村付近(現 ・千代田区大手町周辺)にあった。1589年江戸城拡張の際、氏神の津久戸明神社と共に江戸城牛込門内(現・千代田区飯田橋駅西口付近へ移転。さらに1616年、津久戸明神社が筑土八幡町に移転し筑土八幡神社の隣に鎮座した。
船河原町も船河原橋(現・千代田区飯田橋駅東口付近;飯田橋交差点の神田側に架かる橋の名前は船河原橋と呼ばれるのは、その名残だろう、か。)に代地を与えられた。が、しかし、住民はさらに西の地へ移転することを希望し、結局、現在地に代地を得て移り住み、明治5年に近隣の武家地を編入して現在の「市谷船河原町」が成立した。九段に築土神社があるのは、戦後、津久戸明神社が築土神社として千代田区九段に移転した、ため。船河原町は現在地に留まったことから、ここに飛地社を建て、築土神社の氏子であることを示したものが、この地の筑土神社の小祠である。

船河原町築土神社は平将門公を祀る摂社、と伝わる。天慶3年(940)、藤原秀郷に討たれ、京都に晒されていた将門の首を密かに持ち出して、その首を平河村にあった観音堂に移し、津久戸明神と称した。この津久戸明神社が明治になり筑土神社となった。将門の首を入れて運んだ桶が、戦前まで築土神社に秘蔵されていた、とも。
この神社には江戸の頃、「堀兼(ほりがね)の井戸」と呼ばれる井戸があった、と伝わる。東京都新宿区教育委員会の案内によれば;堀兼の井とは、 「ほりかねる」からきており、 掘っても、掘ってもなかなか水が出ないため、 皆が苦労してやっと掘った井戸という意味。  堀兼の井戸の名は、ほかの土地にもあるが、市谷船河原町の堀兼の井には次のような伝説がある。
昔、 妻に先立たれた男が息子と二人で暮らしていた。 男が後妻を迎えるも、後妻は息子をひどくいじめた。 この男もまた、後妻と共に息子をいじめるようになり、庭先に井戸を掘らせた。 息子は朝から晩まで素手で井戸を掘ったが水は出ず、 とうとう精根つきて死んでしまった、と。何を伝えたい話なのだろう??


逢坂
筑土神社を離れ、坂を上る。逢坂、とある。案内によれば、奈良時代、武蔵守となりこの地を訪れた小野美作吾が、麗しき娘と恋仲となる。任期を終えた小野美作吾は都に戻るも没する。夢枕でそのことを知った娘は悲しみのあまり後を追った、と。夢で逢った故の逢坂という地名ではあろう。逢坂は「大坂」とも「美男坂」とも呼ばれる。美男坂は、植物の「サネカズラ」が「ビナンカズラ」ともよばれるためだろう、か。娘の名前が「さねかずら」であったため、ではあろうが、ちょっと無理があろう、か。

幕府徒組屋敷跡
坂を上るに、たいそう立派なお屋敷がある。お屋敷の角を曲がり神楽坂方面に向かうと警備の警察官が立哨。どなたのお屋敷と訪ねると最高裁判所長官の公邸、とのことであった。坂を上りながら町名を見るに、このあたりは昔からの町名が残っている。逢坂から長官公邸脇を進むだけでも、道の一筋毎に町名が変わる。払方町、南町、中町、北町。この辺りはもともと、天竜寺の境内地であったようだが、天竜寺が新宿四丁目に移った跡地が幕府徒組屋敷となり、北側を北御徒町、中央部を仲御徒町、南側を南御徒町と称した。明治5年(1872)に「御徒」を略し、「牛込」を冠したが、 明治44年に「牛込」も略し現在の町名となった、とか。また、払方も、天竜寺の境内後地が払方御納戸同心の拝領地となった、ため。

大田南畝
中町の隅に大田南畝生誕の地の案内がある。父親が徒組、将軍外出の際の徒歩で沿道警備を担った役人であったのだろう、か。大田南畝は誠に魅力的な人物である。18世紀末、天明期を代表するこの文人・狂歌師そして能吏には散歩の折々で出合うことも多い。文京区散歩の時は白山通り脇の本念寺には大田南畝が眠る。上野公園には蜀山人の碑;一めんの花は碁盤の上野山 黒門前にかかるしら雲 。向島百花園の扁額、赤札仁王さまで名高い北区・田端の東覚寺には蜀山人の狂歌碑;「むらすずめ さはくち声も ももこえも つるの林の 鶴の一声」。新宿・十二社の熊野神社には太田南畝の水鉢があった(2010年9月に訪れた時、水鉢は消えていた)。神田駿河台には蜀山人終焉の地の案内;南畝辞世の句、「生き過ぎて 七十五年食ひつぶし 限りしられぬ 天地の恩」。入谷の鬼子母神には「恐れ入谷の鬼子母神、どうで有馬の水天宮、志やれの内のお祖師様」が残る。文京区散歩では牛天神で貧乏神を描く南畝にも出会った。

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)


都内だけでなく多摩でも出会う。国立の谷保天神は南畝によって「野暮天」のキャッチフレーズをつけられところ:「神ならば出雲の国に行くべきに目白で開帳やぼの天神」。目白で出開帳を行い、お賽銭を集めたことを皮肉った。日野の安養寺は南畝の『調布日記』に「大きさ牛をかくすといひけん木々の銀杏2本並びたてり、かのちちというものあまたありて目を驚かす」と記されている。
『調布日記』は南畝が玉川通勘定奉行方として多摩川地方の水害調査に訪れた時の地誌録。その折りのこと、日野の本陣では当主手作りの蕎麦を食し「ことし日野の本郷に来りてはじめ蕎麦の妙をしれり......しなのなる粉を引抜の玉川の手づくり手打よく素麪の滝のいと長く、李白が髪の三千丈もこれにはすぎじと覚ゆ」という蕎麦賞味の所感を書いている。ついでのことながら、本邦初のグルメ本『頭てん天口有(あたまてん てんにくちあり)」』を著したのも南畝と言う。
太田南畝は18世紀末、天明期を代表する文人・狂歌師。若くして四方赤良(日本橋で有名な味噌「四方の赤、から)のペンネームで活躍。有名な「世の中に蚊ほどうるさきものはなしぶんぶといひて夜もねられず」も四方赤良の句、とも言われるが、寛政の改革での戯作者の弾圧を見るにつけ、逼塞が得策と狂歌から離れる。その後、幕府の人材登用試験に主席で合格。とはいうものの竹橋の倉庫での文書整理。「五月雨の日もたけ橋の反故しらべ 今日もふる帳あすもふる帳」と詠んでいる。
19世紀の頭には大阪銅座に赴任。銅にちなんだペンネーム「蜀山人」を使うのはこれ以降。その後長崎奉行所に赴任。はじめてのコーヒーのテースティングを記す;紅毛船にてカウヒイといふものを飲む。豆を黒く炒りて粉にし、白糖を和したるものなり、焦げくさくして味ふるに堪ず。上記多摩川巡視は60歳の頃と言う。
誠に多彩な人物。現在もっとも興味のある人物でもある。狂歌師、能吏、『調布日記』や『玉川砂利』、『向丘閑話』、。『改元紀行』等の十九冊にも及ぶ紀行文。それと水練の技を引き継ぐ家柄として、将軍家治の御前での水泳披露など、誠におもしろい。メモをはじめると終わりそうにないので、ちょっと狂歌をならべ、クロージングとする;
「雑巾も 当て字で書けば 蔵と金あちら拭く拭く(福々)こちらふくふく」。
「一刻を千金づつにつもりなば六万両の春のあけぼの」
「いまさらに何をかをしまん神武より二千年来くれてゆくとし」
「世の中に絶えて女のなかりせばをとこの心のどけからまし」
「今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」
「世の中は金と女がかたきなりどふぞかたきにめぐりあひたい」 
なお、太田南畝を描いた小説には平岩弓枝さんの『橋の上の霜』がある。愛憎に悩む南畝の姿が描かれる。

牛込氏館跡
台地を進み、地下鉄・牛込神楽坂駅へ下る坂の手前で右に折れ、少し進むと日本出版クラブ会館。玄関脇に牛込城址や天文屋敷跡の説明があった。案内にあった『新暦調御用所(天文屋敷)跡;新宿区袋町六番地 この土地の歴史の変遷』を引用する;「当地は天正十八年徳川家康が江戸城に入府する迄、上野国大胡領主牛込氏の進出とともに、三代にわたる居館城郭の一部であったと推定される。牛込氏の帰順によって城は廃城となり、取り壊されてしまった。正保二年居館跡(道路をへだてた隣接地)に神田にあった光照寺が移転してきた。その後、歌舞伎・講談で有名な町奴頭幡随院長兵衛が、この地で旗本奴党首の水野十郎左衛門に殺されたとの話も伝わるが定説はない。
享保十六年四月、目白山より牛込・麹町・虎の門まで焼きつくした大火により、この地一帯は火除地として召し上げられ、さら地となった。明和二年当時使われていた宝暦暦の不備を正すため、天文方の佐左木文次郎が司り、この火除地の一部に幕府は初めて新暦調御用所(天文屋敷)を設け、明和六年に修正終了したが、天明二年近くの光照寺の大樹が観測に不都合を生じ、浅草鳥越に移転した。佐佐木は功により、のちに幕府書物奉行となり、天明七年八十五歳で没す。墓は南麻布光林寺。以後天明年中は火除地にもどされ、寛政から慶応までの間、二~三軒の武家屋敷として住み続けられた。弘化年中には、御本丸御奥医師の山崎宗運の屋敷もあった。この時代の袋町の町名は、今に至るまで変わる事はなかった。近世に入ってからこの地に庭園を構えた高級料亭一平荘が開業し、神楽坂街をひかえ繁栄していたという。昭和二十年の大空襲により神楽坂一帯はすべて焼失し焼跡地となった。 「
戦後は都所有地として高校グラウンドがあったが、昭和三十年日本出版クラブ用地となり、会館建設工事を進めるうち、地下三十尺で大きな横穴を発見、牛込城の遺跡・江戸城との関連などが話題となり。工事が一時中断した。昭和三十二年会館完成現在に至っている。2007年1月 平木基治記(文芸春秋)」(この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

道を隔てた光照寺の境内入口にも案内;「光照寺一帯は、戦国時代にこの地域の領主であった牛込氏の居城のあった所である。堀や城門、城館など城内の構造については記録がなく、詳細は不明であるが、住居を主体とした館であったと推定される。
牛込氏は、赤城山の麓・上野国(群馬県)勢多郡大胡(おおご)の領主大胡氏を祖とする。天文年間(1532~55)に、当主大胡重行が南関東に移り、北条氏の家臣となった。天文24年(1555)重行の子の勝行は、姓を牛込氏と改め、赤坂・桜田・日比谷付近も含め領有したが、天正18年(1590)北条滅亡後は徳川家に従い、牛込城は取り壊された。現在の光照寺は正保2年(1645)に、神田から移転したものである。
光照寺境内には新宿区登録文化財「諸国旅人供養碑」や「便々館湖鯉鮒(べんべんかんこりう)の墓などがある(東京都教育委員会の案内文より)」。「諸国旅人供養碑」とは神田松永町旅籠屋紀伊国屋利八が、その旅籠に滞在中に亡くなった旅人を弔ったもの。便々館湖鯉鮒(べんべんかんこりう)は狂歌師。大久保の円常寺にある石碑には、大田南畝の筆による便々館湖鯉鮒の歌・「三度たく米さへこはし柔かし おもふままにはならぬ世の中」が刻まれている。また、境内には出羽国(秋田・山形地方)松山藩主酒井家の歴代藩主一族のお墓もある、とのことである。

牛込城は牛込台地の上に位置し、北は大久保通りへ下る崖地、東は寺の境内あたりであり、舌状台地の東北端、南は最高裁長官公邸南の崖地、西は北町・中町・下町のあたり、前面は紅葉川の流れる谷地や低湿地。北条氏の居城・江戸城のある麹町台地と、深い谷を隔てた牛込台地に構えたこの牛込城は標高27m、往昔、江戸湊への出船入り船が見える高台であり、江戸城を守る出城のひとつであったのだろう。

地蔵坂
光照寺から神楽坂の善国寺に向かう。神楽坂へと下る坂は地蔵坂と呼ぶ。名前の由来は光照寺に「子安地蔵」があった、ため、とか、境内の狸が地蔵に化けて、夜な夜な坂を通る人を誑かしたため、とか説はあれこれ。この地蔵坂は「藁坂」とも呼ばれる。江戸の頃、神楽河岸で荷揚げされた荷は、荷馬車で各方面に運ばれるわけだが、蹄鉄(ていてつ)のなかった時代には馬のひづめは、藁で保護していたわけで、坂の途中に藁を扱う店があり、一帯を藁店横町と呼んでいたのが藁坂の地名の由来。南畝は「子どもらよ笑わば笑へ藁店のここはどうしよう光照寺」と詠んでいる。坂で転んだ姿を子供に笑われたことを詠んだのだろう。

善国寺
毘沙門天で知られる善国寺の開基は古く、文禄4年(1595)。家康と親交のあった池上本門寺の貫首が、家康の江戸入府に際し、持仏の毘沙門天をもって天下泰平を祈祷。それを徳とした家康は日本橋馬喰町に寺地を寄進し、鎮護山善国寺と名付け自らが開基となった。徳川将軍家だけでなく、徳川御三家のひとつ、水戸光圀公も法華・毘沙門天への信仰が深く、寛文10年(1670)に善国寺が焼失すると、麹町に再建し、田安・一橋家の祈願所ともなる。
この地に移ったのは寛政4年(1792)。享保、寛政年間の大火により神楽坂の現在地に移転。仏法護持の四天王随一の守護神であり、別名多聞天と称される如く、願いを「多く聞いて」くださり、七福神のひとりでもある毘沙門天への信仰は時代とともに盛んになり、将軍家、旗本、大名へと広がり、江戸末期、特に文化・文政時代には庶民の尊崇の的ともなり、江戸の三毘沙門の随一として、「神楽坂毘沙門」の名を高める。当初は殆ど武家屋敷だけであった神楽坂界隈も、この善國寺の移転に伴い、徐々に町屋も増えていった、とか。
東京で縁日の露店が出るようになったのも善国寺が発祥とされる。当時の縁日の賑わいは相当なもので、人出のために車馬の往来が困難をきたした、とも。甲武鉄道の牛込駅ができた明治にはさらに賑やかな一帯となり、大正の頃には毘沙門天の縁日と相まって「山の手銀座」と呼ばれるほどであった、と。

神楽坂
善国寺のお参りを済ませ人混みの中、神楽坂を下る。江戸時代の切り絵図などを見るに、当時は段坂であった。また、坂の両側は武家屋敷や寺地が目立つ。神楽坂の地名の由来は、坂の途中に高田八幡(穴八幡)の御旅所があり、神楽が聞こえていた、とか、津久戸明神が田安よりこの地に移ったときに神楽を演奏したことによる、とか、若宮八幡からの神楽が聞こえた、とか、市ヶ谷八幡の神輿が祭礼の時、牛込見附のあたりで神楽を演奏したから、とか、例によってあれこれ説があり、はっきりしない。

若宮八幡
坂を下り、なりゆきで右に折れ若宮八幡に寄り道。源頼朝が奥州の藤原氏と義経討伐の折この地で下馬し祈願したとされ、奥州平定後、この地に鎌倉の若宮八幡宮(鶴岡八幡宮の若宮社)の御神体を勧請した、と伝わる。文明年間(1469~87)には、太田道灌によって再興されるなど、かつては周辺の高台すべてを境内とする、といった構えであったようだが、現在は少々つつましやかな境内に鉄筋コンクリートの社殿が佇む。



軽子坂
若宮八幡を離れ、庚嶺坂を見下ろしながら、成り行きで東京理科大の裏手を進み、神楽坂に戻る。人通りの多い通りを外れ坂の東の路地に入る。神楽小路とあり小さな飲食店が続く。先に進むと南北に通る道にでる。軽子坂とある。神楽河岸で荷揚げされた米などの荷を、軽籠(かるこ;縄で編んだもっこ)を背負って運搬する人夫達(軽籠持>軽子)がこの地に多く住み往き交っていたのが、坂名の由来。
外濠の神楽河岸の北には揚場町(あげばちょう)と言う名の町がある。江戸時代以前から大沼に面し牛込城の荷上場として古くからあったとのことであるが、江戸の頃になると、大川(隅田川)から神田川をさかのぼってくる荷船の荷を軽子が荷揚げし、坂を上っていったのであろう。ちなみに、この軽子坂の道筋は鎌倉時代に武蔵国府中と下総国国府台の両国府をむすぶ道として整備されたもの、とも伝わる。

寺内公園・行元寺跡
軽子坂を進み路地があれば成り行きで寄り道し、神楽坂中通りとか、かくれんぼ横町とか、芸者新道とか、本多横町とか、兵庫横町とか、神楽坂の路地を彷徨い、北に進むと「寺内公園」の一角に出合う。公園脇の案内によれば、この地に行元寺があった。1907年(明治40年)の土地区画整理で品川区西五反田へ移転し、その後は寺内(じない)と呼ばれるようになったとのことだが、行元寺は鎌倉時代の末には既に開基されており、本尊の「千手観音像」は、太田道灌、牛込氏はじめ多くの人々の信仰も篤く、往昔、広大な寺域を誇っていた、と言う。そしてその境内は町屋や遊興の場として賑わってくる。この行元寺の境内が神楽坂花柳界の発祥の地、とのことであった。

筑土八幡宮
大久保通りを少し飯田橋方面へと戻り筑土八幡町交差に。交差点脇の石段を上り筑土八幡神社に。江戸の頃は筑土八幡宮と呼ばれた古社である。社伝によれば、嵯峨天皇の時代(809年8 - 823年)に、この地の古老の夢に現われた八幡神のお告げにより祀ったのがその起源。その後、九世紀の中頃、慈覚大師が東国を訪れた際に祠を立て、伝教大師の作と言われた阿弥陀如来像をそこに安置したという。文明年間(1469年1- 年)には、当地を支配していた上杉朝興によって社殿が建てられ、この地の鎮守とした。上杉朝興の屋敷付近にあったという説もある。

慈覚大師
慈覚大師って、目黒不動や高幡不動、それに浅草の浅草寺など。散歩の折々に現れる。第三代天台座主であり、最澄が開いた天台宗を大成させた高僧である。45歳の時、最後の遣唐使として唐に渡る。三度目のトライであった、とか。9年半におよぶ唐での苦闘を記録した『入唐求法巡礼記』で知られる。
円仁さんが開いたというお寺は関東だけで200強、東北には300以上ある、と言う。江戸時代の初期、幕府が各お寺さんに、その開基をレポートしろ、と言った、とか。円仁の人気と権威にあやかりたいと、我も我もと「わが寺の開基は、円仁さまで...」ということで、こういった途方もない数の開基縁起とはなったのだろう。
それはそれとしてもう少し円仁さんのこと。日本で初めての「大師」号を受けたお坊さん、と言う。とはいうものの、円仁さんって最澄こと伝教大師のお弟子さん。弟子が師匠を差し置いて?また、「大師」と言えば弘法大師とも云われる空海を差し置いて?チェックする。大師号って、入定(なくなって)してから朝廷より与えられるもの。円仁の入定年は864年。大師号を受けたのが866年。最澄の入定年は862年。大師号を受けたのが866年。と言うことは、円仁は最澄とともに大師号を受けた、ということ、か。一方、空海の入定年は835年。大師号を受けたのが921年。大師と言えば、の空海が大師号を受けるのに、結構時間がかかっているのが意外ではある。どういったポリテックスが働いた結果なのだろう。

上杉朝興は扇谷上杉の当主。江戸城との関連で言えば、太田道灌(扇谷上杉の家宰)の築いた江戸城を小田原北条との覇権争いにおいて、髙輪の台地で行われた高縄原の合戦で敗れ、河越城に落ち延びた。その後も北条との抗争を繰り返すも、江戸城奪回はならず、河越城でなくなった。
筑土八幡宮には元和2年(616年)以来、300年近く津久戸明神社が並び建っていた。江戸城田安門江戸城付近にあった田安明神がこの地に移転し、津久戸明神社と称したわけである。
社は1945年に第二次世界大戦にによって戦災で全焼。津久戸明神社の方は千代田区九段北千代田区1945年にによって戦災で全焼。津久戸明神社の方はに移転し現在に至る。このことは既に船河原町の筑土神社のところでメモした。

平将門
津久戸明神、現在の筑土神社は平将門を祀る。将門と言えば神田明神でしょう、とのことではあるが、歴史的経緯を見れば、将門と言えば津久戸明神・筑土神社が本家でしょう、とも思える。
10世紀前半に平将門の乱。争乱の経緯は省くとして、結局将門は武運つたなく討ち取られ首級は京の都に晒される。伝説によれば、首は天空を跳び柴崎の地、現在の大手町の三井物産の近くに飛来したとのことだが、そんなこともあるわけもなく、実際のところは、将門ゆかりの人々が密かに持ち帰ったのだろう。その首級をまつった祠・観音堂が津久戸明神=築土明神のはじまり、という。この段階では将門との関係は津久戸明神=築土明神に大いに分があり、そもそも神田明神は姿も形も、ない。
更に時代は下った14世紀のはじめ、時宗の真教上人が柴崎の地を訪れる。当時、この地は疫病が流行しており、それは将門の祟りであると、朽ち果てていた祠を修復し供養する。と、あら不思議疫病が退散。上人を徳とした村人は近くの寺・日輪寺に留まるよう懇願。上人は天台の寺であった日輪寺に留まり、寺を時宗に改め念仏の道場とした。また、上人は近くにあった祠(安房神社との説も)を修復し、そこに将門の霊を合祀しその社を神田明神と名付ける。同時に日輪寺も神田山日輪寺と改名し、両社とも将門の霊を祀る所となった。ここで神田明神と将門が結びついた。神田の由来は、将門の胴塚をまつる茨城県岩井の地を神田山(かどやま)と呼ぶようだが、それに関係あるのだろうか。
更に更に時代が下って江戸の頃。江戸城の築城に際し津久戸神社は神楽坂に、日輪寺は浅草の柴崎、神田明神は現在の神田駿河台に移る。神田明神は江戸城の鬼門の守護神として徳川家の庇護を受け大いにそのプレゼンスを高める。氏子は江戸の下町の半分以上を占めたと言う。現在で言えば、日本橋、秋葉原、大手丸の内、旧神田市場、築地魚市場などなど108町会をカバーしている、とか。現在将門と言えば神田明神とされるのは、かくの如きパワーポリテックスの勝利、か。単なる妄想。根拠なし。

田村虎蔵旧居跡
境内を進み、神社裏手より坂を下り大久保通に戻る。坂の途中に「田村虎蔵旧居跡」の案内。明治の作曲家。「きんたろう」「だいこくさま」「大江山」「青葉の笛」「一寸法師」「はなさかじじい」「うらしまたろう」などの唱歌を作る。筑土八幡の境内には「田村虎蔵の顕彰碑」があったようだが、見逃した。

赤城神社
三代将軍家光の頃、世子家綱の御殿があったことに由来する御殿坂を下り終え、大久保通に戻り、早稲田通りとの交差する神楽坂上交差点に。交差点を右に折れ早稲田通り、というか神楽坂の続きを進み赤城神社に。
この神社には何度も訪れている。1300年(正安2年)、牛込城を拠点にした大胡氏が故郷である赤城の赤城大明神を分祠したのがその始まりとするこの社は、つい最近までは、それなりに、神社、といった趣の社ではあったのだが、今回訪れたときは全くの様変わり。本殿、神楽殿を含め境内全体が、現代風の建築デザインによる「お宮さま+マンション+地域センター」といった複合施設になっていた。お宮様と三井不動産の共同事業であるとのことである。

赤城坂
境内からしばし神田川方面の低地を見やり、境内横手にある崖地の急な石段を下る。坂道は赤城坂とある。「新撰東京名所図会」によれば「...峻悪にして車通るべからず...」とある。現在でも結構きつい坂である。舗装のされていない往昔は難路であったのだろう。赤城下町の民家と町工場が混在する一帯を進む。東五軒町に出版取次の大手・東販もあり、版元も多いのか小さな製本業者、印刷業者が多いように思える。


渡辺坂
道を成り行きで進み、田中寺(でんちゅうじ)さんとか、傳久寺といったこざっぱりとしたお寺様にお参りをしながら中里町と山吹町の間の通を進み少し大きな通に出る。神楽坂からの道・早稲田通りの牛込天神交差点より江戸川橋へと下る通りである。江戸川通りと呼ばれる通りに、「渡辺坂」との案内があった。江戸の頃、坂の東側に旗本渡邊源蔵の屋敷があった、ため。源蔵は五百石取りの御書院番の渡邊家は幕末までこの地にあった、とか。ちなみに、早稲田通り・牛込天神町交差点の三叉路の坂は地蔵坂と呼ばれる。『砂子の残月』に「地蔵坂 酒井修理太夫下屋敷脇 天神町へ下る坂也」とはあるが、坂名の由来については不明である。近くに、地蔵尊でもあったの、か。

北野神社
江戸川通の西に北野神社がある。交差点に牛込天神町とあるくらいなので、なんらかの因縁があるものかと通を渡り境内に。ビルと住宅に周囲をかこまれた、こじんまりとした佇まい。近年立て直したのか、新しい感じもする。牛込天神と地名を関するような大層な構えではないのだが、あたりに北野、といった天神さまに関係のあるような社もないようであり、地域の人々より天神町の天神様と崇敬されてきた、とも伝わるので、多分牛込天神とはこの社なのだろう、か。
早稲田大学の西に水稲荷がある。その境内に末社の北野神社がある。往昔は高田天満宮と呼ばれ、この地の近く榎町の済松寺の近くにあった、と言う。また、その天神様は済松寺近くにあった戦国大名である大友義統(よしずみ)の屋敷に、太宰府天満宮を祀り、その地を天神町とした、との説もある。はてさて、牛込弁天様はどこにいたのだろう。

宗柏寺
北野神社を牛込天神町交差点まで戻り、西に折れて宗柏寺に。このお寺様は寛永8年(1631年)日蓮宗の大僧都・日意上人が、父である尾形宗柏の菩提を弔うべく開いたもの。宗柏の母は本阿弥光悦の姉。日蓮宗に深く帰依した本阿弥家の影響もあったのか、宗柏も熱心な日蓮宗徒であった。ちなみに、尾形光琳、陶芸家の尾形乾山は尾形宗柏の孫である。宗柏は京の呉服商・雁金屋の三代当主。元和六年(1620)、二代将軍秀忠の女和子が後水尾天皇の女御(のち皇后、東福門院)となると、雁金屋(屋形家)は天皇家御用達の呉服商として出入りするようになり益々栄えた、と。秀忠の妻は浅野長政の三女・お江。尾形家はもともと浅井家との繋がりがあり、お江が売り込みのバックアップをしたとか、しいない、とか。
宗柏寺に安置される釈迦尊像は、もとは比叡山延暦寺にあったものと伝わる。元亀二年(1571)、織田信長によって比叡山延暦寺の諸堂宇が焼き尽くされたおり、一人の学僧によって難を免がれ、密かに尾形家に安置されていた。その像を後水尾天皇が御宸翰(ごしんかん)に「釈迦牟尼仏」の号を賜った、と。これも東福門院(和子)とのつながりゆえ、か。
宗柏寺は一橋家の祈願所ともなり、また江戸庶民の信仰も篤く、元禄年中(1688~1703)に入ると、物見遊山をかね、当寺に安置される釈迦尊像や鬼子母神、浄行菩薩へ参詣に訪れる人びとがあとを絶たなかった、とのこと。境内を歩くとお百度参りの方が見受けられた。これは江戸の文化・文政の頃から盛んにおこなわれ、「お百度」を踏む善男善女が絶えることがなかった、と。明治三十一年(1898)に刊行された『新撰東京名所図会』によると『── 日々繁昌せる霊場にして、大刹ならざるも結構観るに足れり ── 右に銅製の灯明塔次に石の地蔵あり、之を束子にて洗ふ者多し、左に百度石ありて、来りて百度を踏み御符を請ふ者、時として絶ゆることなし ──』、とある。

済松寺
宗柏寺を離れ通りの北にある済松寺に向かう。将軍家光がその侍女・おなあさん(出家して祖心尼と称する)のために建てた寺、という。江戸名所図会を見るに広大な構えである。どんなものか期待をしながら門前につくも、門は閉じられている。一般公開はしていないようであった。
おなあさんの生涯は波瀾万丈である。伊勢国・岩手城主 牧村利貞の娘として生まれるも、父は朝鮮の役で戦死。父の友である前田利家に引き取られ、成長。後に小松城主・前田家に嫁ぐも離縁。その理由は不明。失意のおなあさんは妙心寺にて禅に出合う。その後、縁あって会津藩・蒲生家の重臣である町野幸和に嫁ぐも、藩主の急逝により蒲生家は取り潰し。浪人として江戸に移った一家は叔母でもある春日の局の薦めもあり、江戸城の大奥へ。大奥を取り仕切る春日の局の名補佐役として、禅の心をもって大奥の人々の心の拠り所となるとともに、将軍家光にも禅の心の影響を与え、全幅の信頼を得るに至った、と。何故将軍が侍女のために寺を建てたのか、との疑問に対しては、かくの如き経緯があったようだ。
寺領は三百四十五石で、この地域では榎町、天神町、中里町、高田町、馬場下町、早稲田町、原町他を含む広大なもの。江戸の名所図会を見るに、境内には七堂伽藍が整備され堂々とした構えである。その、広大な寺と土地を管理するために濟松寺代官が設けられたほど、と言う。明治の廃仏毀釈や大戦での空襲で堂宇は破壊・焼失し、現在の諸堂はその後立て直されたもの。

由比正雪旧居跡
名刹を離れ、榎町から東榎町の境を進む。このあたり、濟松寺門前から東榎町、天神町にかけての一帯には、その昔由比正雪の屋敷があった、とか。五千坪の敷地に門弟五千人を抱えていた、と。それにしても門弟五千人とは、途方もない数である。正雪が謀るも未遂に終わった「慶安の乱」、未曾有の幕府転覆を謀るこの事件の探索の過程で、紀伊大納言花押の文書が見つかり、事件への加担の疑義が出たという。真偽のほどは定かではないが、こういった大名の後ろ盾もあっての正雪一派の隆盛であったのだろう。

加二川と蟹川
都立山吹高校脇を通り都道319号・外苑東通りに。往昔、この道筋に沿って加二川が流れていた。源頭部は市谷薬王寺町・市谷仲之町交差点あたり、と言う。カシミール3Dでつくった地形図を見るに、牛込台地を刻み、その湧水を集めて下る。
川と言えば、この都立山吹高校あたりで加二川に合わさる川があった。蟹川(金川、とも)と呼ばれるその川の源頭部は新宿歌舞伎町あたりにあった池。そこから、新宿文化センター通り、職安通り下、戸山ハイツ、馬場下町、穴八幡宮、早稲田鶴巻町と進み都立山吹高あたりで加二川と合わさり、神田川に注いだ、と言う。こちらは加二川と違って台地での比高差があまりなく、淀橋台地と豊島台地の裂け目を流れる水路、とか。
現在は多くの家並みの続くふたつの川の合流する一帯は往昔、氾濫原としての低湿地や池が拡がっていたようである。稲田や茗荷畑の拡がる一帯は西に穴八幡の丘、北は関口の台地が見渡せる一面の田畑であったが、明治15年開校の東京専門学校が明治35年に早稲田大学と改称されるにおよび、山吹町から大学への道ができ、次第に水田、茗荷畑も消えゆき現在の繁華な街並みへと変化していった、とのことである。

元赤城神社
外苑東通りを渡り元赤城神社に。誠につつましやかな祠である。この地が元々の赤城大明神を大胡氏が分霊を勧請したところ、と言う。神社脇にあった案内によれば、その昔は、この辺りに多くの牧場があり、それが牛込の地名の由来、とあった。この説明はちょっと大雑把。チェックすると、大宝元年(701)、大宝律令で厩牧令(きゅうもくれい)が出され、全国に国営の牛馬を育てる牧場(官牧)と、皇室に馬を供給するための牧場(勅旨牧)が設置された。東京には「檜前の馬牧(ひのくまのうままき)」「浮嶋の牛牧」「神埼の牛牧」が置かれたと記録にあり、「檜前の馬牧」は浅草、「浮嶋の牛牧」は本所に、そしえ「神崎の牛牧」はこの牛込におかれたとされる。これで納得。

宗参寺
元赤城神社を離れ外苑東通りに往昔の加二川の面影を思いながら南に進み、早稲田通り・弁天町交差点に。西に折れ、通を少し入ったところに宗参寺があった。このお寺さまには牛込城主であった牛込氏歴代の武士が眠る。また、江戸時代の儒学者・兵学者である山鹿素行も眠る。会津に生まれた素行は江戸で儒学・兵学を学ぶも当時の官学である朱子学を批判し、赤穂へと流される。内匠頭の祖父長直が、素行に深く傾倒していたことが、蟄居を命じられた素行を赤穂藩が受け入れた主因、とか。赤穂浪士の討ち入りの時の、山鹿流の陣太鼓は世に知られるが、素行が赤穂で門人を広く集め教えを講じたことはあまりないようだ。本当に陣太鼓が鳴ったの、かなあ?

漱石公園
宗参寺脇のゆるやかな坂をのぼり早稲田南町に漱石公園。この地は明治40(1907)年から大正5(1916)年に、漱石が亡くなるまで過ごした「漱石山房」があったところ。この地で『三四郎』『それから』『こころ』といった代表作を執筆した。現在は、「新宿区立漱石公園」と整備されている。



夏目坂
道草庵という資料館で少々時間を過ごし、喜久井町の坂を下り、地下鉄早稲田駅前交差点へと下る。坂の途中、この坂を夏目坂と呼ぶが、道脇に「夏目漱石誕生の地」の祈念碑がある。漱石は慶応3年(1867年)1月5日、この地、現在の喜久井町1番地で誕生。誕生の地から若松町の方へと上る坂を「夏目坂」と命名したのは、漱石の父・直克。このことは、漱石自身が随筆「硝子戸の中」に書いている:「父はまだその上に自宅の前から南へ行く時に是非共登らなければならない長い坂に、自分の姓の夏目という名をつけた。不幸にしてこれは喜久井町ほど有名にならずに、ただの坂として残っている。しかしこの間、或人が来て、地図でこの辺の名前を調べたら、夏目坂というのがあったと云って話したから、ことによると父の付けた名が今でも役に立っているのかも知れない。『硝子戸の中』」。喜久井町は、井桁菊の夏目家の紋章にちなんだもの。江戸幕府が開かれる前から牛込の郷土として土着していた夏目氏は、元禄期以降、馬場下の名主を世襲していたため、町名を当家にゆかりのあるものとできたのだろう、か。

誓閑寺
喜久井坂を下りながら地図を見るに、喜久井町の周囲には多くのお寺さまが建つ。すべてを辿りたい、とは思えども、余り時間もない。せめてはと、喜久井坂の途中にある誓閑寺に立ち寄る。
このお寺さまは元々、深川にあったものが、明暦の大火の後、この地に移った、と。明暦の大火の後、防火対策を含めた江戸の都市計画によって寺を江戸の郊外に移したと言う。付近の多くのお寺さまも、同様の経緯によってこのあたりに移ったものであろう、か。「・・・カンカンと鳴る誓閑寺の鐘の音は、いつでも私の心に悲しくて冷たいある物をたたき込むように小さい私の気分を寒くした・・・」、と漱石の『硝子戸の中』にも描かれている。「江戸名所図会」にはお寺の境内を小川が流れていた、と言う。蟹川の流れであろう、か。


穴八幡
坂を下りきり、地下鉄早稲田駅前交差点にから早稲田通りを少し西に進み馬場下町交差点に。馬場下町とは、寛永13年にできた高田馬場の東側八幡坂の下にあった、ため。この馬場下町交差点に面した小高い丘に穴八幡が建つ。
交番横の流鏑馬像の脇の石段を上ると朱色の随神門。平成10年に再建された。社殿も平成10年、江戸権現造りにのっとり再建された。現在でも境内はゆったりしているが、江戸名所図会を見るに、誠に結構な構えである。康平五年(1062)、奥州の乱を鎮圧した源義家(八幡太郎)が、凱旋の折に、京都の岩清水神八幡宮を分霊・勧請したのがこの社のはじまりとされ、慶安二年(1649年)に徳川三代将軍家光の命により社殿も諸堂も完成した後は、江戸城の北を守る将軍家の祈願所となり、江戸屈指の大社となった。「子育て、子供の虫封じ」とか「厄除け」の神様としか知らなかったのだが、その虫封じにしたところで、我々庶民だけでなく、維新後も親王、内親王、皇族も祈祷に訪ねる、とか。、由緒ある社であった。

ちなみに、江戸名所図会には「高田八幡」とある。このあたりの地名が高田であるので、当然ではあるが、それが「穴八幡」となったのは、寛永十八年(1641)、この社に隣接する放生寺僧が、草庵を建てるべく、山すそを切り開いたところ、横穴が見つかり、そこに阿弥陀如来像が立っていた、と。この話が広まり、いつしか「穴八幡」と呼ばれるようになった。とか。
穴八幡の境内に隣り合わせる放生寺は、明治の神仏分離までは穴八幡の別当寺。穴八幡って、「一陽来復」のお守りで有名だが、この放生寺は「一陽来福」のお守り。文字は少々異なれど、江戸の頃から続くお守りである。

宝泉寺
馬場下町交差点の角にある法輪寺にお参りし、早稲田大学の大隈講堂方面へと進む。途中、道を右手に入ったところに宝泉寺。早稲田大学九号館をその裏手に従えている、といった風情。「江戸名所図会」の水稲荷(高田稲荷)の図を見ると、画の右下に宝泉寺が描かれている。現在水稲荷神社は早稲田大学との土地交換により、キャンパスの西手に移っているが、往昔、早稲田大学の敷地は水稲荷の境内であった、ということであり、宝泉寺はその別当寺。宝泉寺は早稲田大学キャンパス一帯に広大な寺域を誇っていたようである。ちなみに宝泉寺の隣は井伊掃部頭の下屋敷(現在の早稲田大学の敷地)である。宝泉寺の歴史は古い。承平年間(931~938)、平将門を倒した俵藤太こと藤原秀郷が京に上る途中、この地に立ち寄り開基した、と。その後、南北朝期に荒廃するも、文亀元年(1501)に、関東管領の上杉良朝が水稲荷神社を再興した際に、富塚古墳の台地下に寺を建て宝泉寺と名付けた。その後、戦国の乱で再度荒廃するも、天文19年(1550)には牛込氏によって再興された。

天祖神社
早稲田の雰囲気を感じるべく戸塚町を彷徨う。戸塚は富塚に由来する。地図を見ると戸塚町の少し東に天祖神社が。天和2年(1682)、榎町からこの早稲田田圃に移った。江戸名所図会には「茗荷畠神明宮」とある。この一帯が茗荷畑や稲田であったのが実感できる命名ではある。

水稲荷神社
早稲田大学のキャンパスを成り行きで進み、大学図書館の西に移った水稲荷神社に向かう。表参道は今風のつくり。境内を進むと「堀部安兵衛助太刀の場所の碑」が目に付いた。元禄七年(1694)、安兵衛(当時は中山姓)は高田馬場に駆けつけ、叔父の菅野六郎左衛門(田舎の新居浜市に近い伊予西条藩士)の果し合いに助太刀。この決闘で助太刀をした安兵衛の活躍が江戸中で評判になり、浅野藩士堀部家の婿養子に懇請され堀部屋安兵衛となる。その後元禄15年、赤穂浪士として吉良邸に討ち入った話は世に知られるとおり。この碑は明治43年(1910)、旧高田馬場、現在の茶屋町通りの一隅に建立されたものが、昭和四十六年に現在の水稲荷神社の現在の場所に移された。
先に進むと社殿がある。先にメモしたように、早稲田大学9号館裏のあたりの小高い丘にあった水稲荷神社は、昭和38年(1963)7月25日、早稲田大学との土地交換により、西早稲田三丁目の甘泉園内の現在の場所に移転したもの。

この社が水稲荷と呼ばれるに至る経緯は、元禄15年(1702)に境内の大椋から水が湧き、その水が眼病に効能あり、ということで、江戸市中で大評判となった、ため。この霊水にも太田道灌ゆかりの話が登場する。道灌が散策の折り、冨塚古墳のそば(以前、水稲荷神社があった場所。現在の早大9号館の裏手。)に榎を植えた、とか。「道灌つかみさしの榎」と呼ばれるこの榎を神木として関東管領の上杉良朝が稲荷の社を再興。そして、この神木からわき出した霊水が眼病に効果があり、水稲荷と呼ばれるようになった、と言う。

水稲荷の境内には富塚古墳や高田富士など、旧地から移されたものが残る。富塚古墳は既にメモしたが、「高田富士」は、安永九年(1780)、植木屋の青山藤四郎が富士講の人たちとともに、富士山から岩や土を運び、冨塚古墳の上に盛土して造ったもの。江戸市中で、最大、最古の富士塚であった。江戸時代中期以降、江戸で富士信仰がさかんになり、各地で富士講が組織され、富士塚という富士を模した山が造られた。残念ながら普段は高田富士には上れない。7月下旬の高田富士祭りのときの、お山開きとだけ、とのことである。
境内にはいくつかの末社がまつられる。浅間神社は富士塚の麓に鎮座していたもの。現在も高田富士の入口にある。三島神社は現在の水稲荷のある敷地である甘泉園所有者・旧清水家所有の守護神。源頼朝が治承四年(1180)、鎌倉への進軍の途中、高田馬場跡から甘泉園一帯に立ち寄ったとされ、その時に、この地に三島神社を創建したと、伝えられる。三島神社はその後静岡の三島市に移されたが、その跡地に石の祠が建てられ、その後この地に移された。


甘泉園
水稲荷から成り行きで坂をくだる。思いがけなく池と庭園があり、少々心躍る。水と緑に囲まれた回遊式庭園は、もとは徳川御三卿の清水家の下屋敷。敷地は水稲荷神社境内と甘泉園住宅を含む広大なもの。明治30年頃には相馬侯爵邸となり、昭和13年には、早稲田大学がこの土地を譲り受ける。昭和36年には、大学構内にあった水稲荷神社と土地交換が行われ、昭和38年に水稲荷神社が甘泉園内に移転したのは前述の通り。甘泉園の名前は、庭園の中央からの湧き水が、お茶に適していたことに由来する。甘泉園のあたりはその昔、三島山と呼ばれていた。その三島山の西に泉があり、山吹の井と呼ばれた。その一帯を山吹の里とも呼ばれ、道灌と言えば、との山吹の逸話が残る。突然の雨に蓑笠を所望した道灌に対し、里の娘が詠んだ「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだに無きぞ悲しき」という歌。「実のひとつだに無きぞ」を「蓑ひとつ無い」に懸けたことをわからなかった道灌は、その後和歌の道に励んだ、という話である。この逸話、鎌倉や越生など、散歩の折々に登場する。人気者・道灌故のエピソードではあろう。



面影橋
三島参道をとおり面影橋に向かう。神田川にかかる橋でも、最も名高い橋のひとつである。「江戸名所図会」には「俤(おもかげ)の橋」と記されている。歌川広重も『名所江戸百景』に「俤の橋」を描いており、のどかな風景に江戸の昔を思いやる。また、このあたりは流れ蛍でも知られ、広重も蛍狩りの絵を描いているようである。
面影橋の名の由来には、諸説ある。在原業平が我が姿を水面に映した逸話ゆえ、とか、於戸姫(おとひめ)が我が身の悲劇を嘆き、この川に身を映し詠んだ和歌:変わりぬる姿見よやと行く水にうつす鏡の影に恨(うらめ)し」、そしてなき夫を偲び入水の際に詠んだ「かぎりあれば月も今宵はいでにけりきよう見し人の今は亡き世に」、といった夫の面影を偲ぶ於戸姫の心情を憐れんで、面影橋と名付けた、とか、あれこれ。


朝亮院
都電荒川線の面影橋停留所から新目白通りを南へ渡り、ゆるやかな坂をのぼると右手に赤い門構えのお寺様。その門故に、「赤門さん」とも賞された朝亮院である。このお寺さまは、「高田七面堂」として知られる。身延山久遠寺の末のこの寺には身延山七面山の七面明神が祀られる。七面山での修行のお上人さまが、現在の戸山公園あたりに七面堂を建てたのがはじまり。江戸に疱瘡がはやった明暦の頃には、将軍家の祈祷所ともなった、と。その後、もとの寺域が尾張徳川家の下屋敷となったため現在地に移った。境内には七面堂、その両脇に石造りの金剛力士像が屹立する。宝永二年(1705)に作られたものとのことである。


おとめ山公園
朝亮院を離れ、次はどこへ?と想いやる。本日はもう十分に歩いたとは思えども、まだ日暮れには少し時間もある。地図を眺めおとめ山へと辿ることにした。一度訪れたことはあるのだが、目白台地から神田川を望む南面傾斜の崖線にある湧水を再び見たいと思ったわけである。
新目白通りを進み、明治通りを越え、JRの高架下をくぐり、後は成り行き、というか勝手知ったる崖面の坂を上る。楢、椎、椚などの落葉樹が生い茂り、その中心に湧水池。回遊式庭園と呼ぶのだろう。池脇の湧水点からのかすかな流れに結構感激する。公園は道を隔てた西と東に別れ、東の湧水池からの水は西の公園にある弁天池へと導かれている。
おとめ山の名前の由来は「御留」、から。江戸の頃はこのあたりは将軍家の狩猟地であり、立ち入り禁止故の「御留」であった。明治には御留山の東を近衛家、西を相馬家が所有。相馬家が林泉園と称し庭園とした、と。戦後は荒れ果てたままであったようだが、地元の人々の努力により公園として整備された。先日この池を訪れたとき、子供がゴムボートを湧水池に浮かべ大いに楽しんでいた光景が、法的にどうかは知らねども、いかにも可愛かった。


東山藤稲荷神社
おとめ山公園のすぐ東に東山藤稲荷神社という社がある。現在は誠につつましやかな境内ではあるが、往昔、おとめ山の多くを有し結構なる社であった、とのこと。清和源氏の祖六孫王・源経基が、延長5年、東国源氏の氏神として祀った、ということであるから、それも当然であろう、か。
この源経基、平将門ファンにとっては好ましからざる人物として伝わる。将門を反逆者として誣告したのも経基、その後、あれこれの経緯もあり将門が兵を起こすと征伐軍の副将として乱の平定に赴く。が、乱は既に平定されており、活躍する場はなかったようである。それはともあれ将門は朝廷への逆賊として長き間不遇の時代を送った訳であり、それ故にも、逆賊平定の貢献者でもある経基の建てたこの社が栄えたのであろう。藤稲神社とも、富士稲荷神社とも呼ばれたようだが、東山の由来は不明。

ちなみに、江戸のお散歩の達人、村尾嘉陵の『江戸近郊道しるべ』に『藤稲荷に詣でし道くさ(文政7年(1824)9月12日)』がある;「落合村の七まがり(地名)に、虫聞に行けば、老をたすけてともになど、もとの同僚畑秀充のいひしも、いつしか十あまり五とせばかりのむかしとは成けり。げに、とし波の流れてはやきためしをおもへば、かたときのいとまをも、あだにすぐすべしやは、わかきとき、日を惜しめるは勤にあり、老いての今はたのしみもて、こゝろをやしなひ、終わりをよくせんとなるべしや」、と。

七曲がりとは、東山藤稲荷神社の西、新目白通りのそばにある氷川神社から北の崖線を上る坂。村尾嘉陵はその後、「薬王院(瑠璃山 医王寺)」へと向かっている。本日は、このおとめ山あたりで終了、とはおもっていたのだが、嘉陵フリークの我が身としては同じ道筋を辿ろうと、思い切る。


下落合氷川神社
七曲坂のきっかけを求め、氷川神社に。この下落合氷川神社は、第5代孝昭天皇の御代の創建と伝えられ、といっても考昭天皇って紀元前のことであるし、それはないにしても、江戸時代には下落合村の鎮守ともなっているので、古き社ではあろう。江戸期には豊島区高田の高田氷川神社を男体の宮、当社を女体の宮として、夫婦一対神として信仰されていた、と。高田の氷川神社が素戔嗚尊を主神、こちらの落合の氷川神社はその妻の奇稲田姫命となっている。


七曲がり坂
七曲がり坂は、現在緩やかなカーブとなっており、七曲がりの趣きはない。「豊多摩郡誌」によると、七曲坂は馬場下通、御禁止山の麓にあり、大字とあった。治37年に開鑿(かいさく)して交通に便せり。落合ではもっとも古い坂道のひとつである。周辺には相馬坂、九七坂、西坂、霞坂、市郎兵衛坂、見晴坂、六天坂など少々惹かれる名前の坂道が多い。そのうちに歩いてみたいものである。

薬王院
さて、村尾嘉陵は先に進み、「ひろ前をくだりに猶ゆけば、みちのかたへに寺あり。石しきなみて、見入いとよし。薬王院といふ」と記す。
薬王院は真言宗豊山派瑠璃山東長谷寺と称し、奈良・長谷寺の末寺で、開山は鎌倉時代、相模国(神奈川県)大山寺を中興した願行上人。 本堂は昭和40年に、奈良・長谷寺と京都・清水寺の見所を取り入れて建立されたものという。
寺域は下落合崖線に位置して傾斜地にあり、墓地は最も高いところにある。境内ではもともと薬用として栽培されたといわれる鎌倉・長谷寺の牡丹の株100株を拝領し数多く、現在では1000株にまで増えその美しさから別名「牡丹寺」とも呼ばれる。しだれ桜も見事、とか。



神楽坂から牛込台地を辿り早稲田田圃の低地へと、地形の凸凹を感じてみようなどと始めた散歩も、終わってみれば目白台地の下落合あたりまで進んでいた。普段何気なく見過ごす風景にも、それぞれの物語があるものと、改めて実感。落合で「落ち合う」、神田川と妙正寺川の合流点あたりを彷徨い、高田馬場駅に向かい、一路家路へと。

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