文京区の最近のブログ記事

本日は環七を越えた神田川が、行く手を淀橋台地に阻まれ流路を変えて北に向かい、目白台地下を東流してきた善福寺川と落合の地で、文字通り落ち合い、目白台地下を関口大洗堰跡までメモする。
武蔵野台地が流れによって開析されてできた台地の中でも、目白台地はその急峻な崖面をその特徴とするが、その先端部近くにあるのが関口大洗堰である。井の頭の池を水源とし、武蔵野台地の開析谷を流れる自然河川を繋ぎ合わせ、妙正寺川、そして善福寺川の水を合わせた神田上水の水路は関口大洗堰で上水貯水場となる。
今回の散歩にメモは、水戸の上屋敷に引かれ、その先は神田・日本橋地区の人を潤す上水路と、余水を流す神田川に分かれる分岐点である関口大洗堰までとする、

本日のルート;栄橋>伏見橋・高歩院>末広橋・桃園川合流>柏木橋>新開橋>万亀橋>東中野・中央線>小瀧橋>久保前橋・落合水再生センター>せせらぎ橋>新掘橋・高田馬場放水路>善福寺川・高田馬場放水路合流点>滝沢橋>落合橋>宮田橋>田島橋>清水川橋>神高橋>高塚橋>戸田平橋>源水橋>高田橋>高戸橋>曙橋>面影橋>三島橋>中之橋>豊橋>駒塚橋>大滝橋

栄橋・伏見橋
今回の散歩の出発点である淀橋を過ぎ栄橋を越えると伏見橋。明治時代の後半、皇族「伏見宮家」の広大な別邸が存在したことが名前の由来、とか。神田川左岸、小淀山の高歩院の辺りにあったようである。紀尾井町・井伊家屋敷跡(ニューオータニの敷地)にあった伏見宮家の別邸だったのだろう、か。また、この伏見宮別邸の辺りには明治までは明治天皇の侍従である山岡鉄舟も住んでいた、とのこと。高歩院の「高歩(たかゆき)」は鉄舟の諱(山岡哲太郎高歩)。禅道場とか剣道場はあるものの、お寺様といった趣きではない。

蜀江坂
伏見橋の右岸、大久保通り・蜀江園交差点を南に進むと緩やかにカーブした、誠に緩やかなる坂がある。この坂が蜀江坂。蜀江坂と呼ばれるようになった由来は、このあたり一帯の台地の紅葉が美しく、将軍家光が蜀江の錦に例え、以来、蜀江山と呼ばれ、その坂を蜀江坂とした、とか、平将門(ないし弟将頼)が、このあたりに陣を敷いたとき、敵襲が素早く、鎧を着けるまもなく応戦したため、蜀江錦の衣の袖が切り落としたため、とか、例によってあれこれ。蜀江とは蜀の首都、成都を流れる川であるが、この蜀江付近の特産の絹織物が紅葉のような緋色であったため、と言う。今となっては、旧家を壊し再開発が行われる北新宿に昔日の趣は、ない。
いつだったか、この蜀江坂は大田南畝こと蜀山人ゆかりの地と思い込み、訪ねたことがある。理由は、「蜀」という特異な文字と、先回散歩でメモしたように、新宿十二社熊野神社に蜀山人ゆかりの手水鉢などがあり、蜀山人はこのあたりを彷徨ったはず、と推論したわけである。実際は、この蜀江坂は蜀山人とは全く関係なく、中国の三国志で知られる蜀の首都、成都を流れる川である蜀江から、であった。
野口武彦さんの書いた本に『蜀山残雨(新潮社)』がある。その冒頭あたりに、蜀江坂が蜀山人ゆかりの地ではないことがわかり、がっかりした、といった記述があった。野口武彦もそう思い込んだ根拠は、この「蜀」という文字面と、この柏木成子坂付近には大田南畝の親友である平秩東作(へずつとうさく)の別邸があったりしたことがそのひとつであった、と記していた。蜀江坂は大田南畝こと蜀山人ゆかりの地と思い込んだのが自分だけでなかったようである。

末広橋
大久保通りに架かる末広橋の手前で桃園川緑道が合流する。排水口は末広橋の北に見える。合流点の辺りに南こうせつのフォークソング「神田川」の歌碑がある。この「神田川」ゆかりの銭湯は先ほどの菖蒲橋の辺りとメモしたが、これも諸説あるようだ。

桃園川緑道は、元来杉並区天沼の弁天池(天沼3丁目地内)を水源として東流し、阿佐ヶ谷駅の東で中央線を南に越え、南東に下って環七・大久保通り交差点の少し北で環七と交差。その後はおおよそ大久保通りに沿って進み末広橋脇(中野区)で神田川と合流する。源流点の弁天沼(現在は公園と成っている)から中央線を越えるまでは暗渠というか、道路として埋められているが、中央線を越えたあたりから「桃園川緑道」として神田川合流点まで続く。

桃園川の名前の由来は江戸時代初期に付近の「高円寺」境内に桃の木が多かったことから将軍より地名を「桃園」とするよう沙汰があった、ため。(その後桃園は中野に移されている)。江戸時代中期には千川上水から分水したり、善福寺川から「新堀用水」を開削し、導水するなどして、「桃園川」沿いの新田開発が進められた。大正末期になると関東大震災を契機とした都市化の波を受け、川沿いの地区は耕地整理がおこなわれ数条に分岐していた「桃園川」も流路が整えられ、それにともない水田風景も姿を消した。

桃園川を最初に歩いたのはいつの頃だっただろ。当時は源流点は西武グループの堤義明さんの杉並のお屋敷の中にあり、池を見ることはできなかったが、二度目の時はお屋敷を壊し更地にする真っ最中。三度目には公園と様変わりしていた。

末広橋を少し東に向かった蜀江園跡と記される大久保通との交差点北に、明治の司法卿・江藤新平旧居跡(新宿区北新宿 3-10-18から20)とか、大町桂月旧居跡(新宿区北新宿 3-13-22から25)とか、南には内村鑑三終焉の地(新宿区北新宿 1-30-25)などがあるようだが、あれこれ彷徨うも、案内もなく、見つけることはできなかった。

柏木橋・新開橋・万亀橋
柏橋、新開橋、万亀橋と進む。明治の地図には柏橋あたりに小橋が架かっている。柏橋だろう、か。それはともあれ、神田川の右岸の北新宿は、その昔は柏木と呼ばれた。柏木と名前のついた公共施設が昔の名残を伝える。中央線と神田川が交差するところに柏木不動尊という、ささやかな祠が祀られていた。また、万亀橋近くのJR総武線・東中野駅も甲武鉄道当時は柏木駅と呼ばれていたようで、東中野となったのは大正6年(1917)になってからである。




円照寺
柏木の地名の由来には諸説あるが、一説には神田川右岸にある円照寺がその館跡とも伝わる柏木右衛門佐頼秀から。柏木右衛門佐は平安時代の地頭職であった、とも伝わる。円照寺には藤原秀郷にまつわる縁起が伝わる。「江戸名所図会」によれば、円照寺のあたりには醍醐天皇の頃に祀られた薬師如来の祠があった、とか。天慶3年(940)、藤原秀郷が将門討伐軍を率いて出陣の途中、中野の辺りで病に伏すも、霊示によりこの祠にて祈ると苦痛が消え去り、将門討伐も達成。凱旋の後に堂塔を建立し、円照寺とした。藤原秀郷って、我々団塊世代の人間には「俵藤太のむかで退治」としての印象が強い。もとより、周囲の若者は俵藤太って誰?と応える、のみ。

鎧神社
円照寺のすぐお隣に鎧神社がある。柏木村の鎮守と言う。江戸の頃までは「鎧大明神」と称された。社名の由来は、日本武尊命が東征してきた際に、この地に甲ちゅうを納めたことによる、とも。また、天慶3年(940年)、藤原秀郷により討たれた平将門の鎧を埋めたとか、病に苦しむ秀郷が、境内に将門の鎧を埋めてその霊を弔ったところ病が全快した、など、あれこれ。そのほか、天慶の乱のとき、将門の弟である将頼の陣を敷いた場所とも伝わる。
この辺りには鬼王神社(明治通り地下鉄東新宿駅近く)など含め、将門にまつわるエピソードが多い。この神社を南に下った蜀江坂のあたりにも将門にまつわる伝説が伝わる。単なる伝説なのか、何かを示すシンボルなのか、はてさて。境内の天神社には一対の狛犬型の答申塔が建つ。散歩の折々に、多くの庚申塔をみたが、狛犬型の庚申塔ははじめてである。

大東橋・南小滝橋・亀齢橋
中央本線を越えると大東橋。かつての地名・大塚の東にあったから、とか。南小滝橋、亀齢橋と続く。

百人町
神田川右岸、中央線、山手線、早稲田通りに東西南北を囲まれた大久保方面には、百人町と昔の地名が残るが、これは徳川家康江戸入城の際に内藤清成が率いる伊賀の鉄砲百人隊の屋敷地であったことによる。
JR大久保駅近く、大久保通りから続く細長い参道をちょっと進むと皆中稲荷神社がある。「みなあたる」稲荷、と読む。社伝によると、その昔、天文2年(1533)、大窪とよばれたこの地に、伊勢の御師の御旅所があり、伊勢参りの手配や御札配ったりと、あれこれしているうちに次第に多くの人が集まるようになり、御旅所を社と造り直した。その後、寛永年間というから17世紀の前半、鉄砲百人組がこの一帯に移り住んだ頃、射撃の訓練をするに際して、この社にお参りすると射撃の腕が上がった、とか。ために、社の名前も「皆中(みなあたる)」稲荷神社となった、とか。

小滝橋
早稲田通りに架かるのが小滝橋。その昔、橋の下に堰があり、そこがちょっとした滝のようであったのが名前の由来。江戸の頃は、橋の周囲に茶屋が並び、大いに賑わった、とか。
この橋は「姿見(すがたみ)の橋」と呼ばれる。神田川を少し上った淀橋が、別名「姿見ずの橋」と呼ばれているのと対をなす。淀橋こと「姿見ずの橋」は上でメモしたように、14世紀の末から15世紀の初頭にかけ、熊野よりこの地に来たりて、原野を開拓し艱難辛苦の末、中野長者と呼ばれるまでになった鈴木九郎が、十二社の熊野神社を建立するほど蓄えたその財産を、下男に隠し場所に運ばせては口封じのため殺めた。その数は10名を超えた、とか。橋を渡る姿は見たが、戻る姿が見えなかったの青梅街道に架かる淀橋こと「姿見ずの橋」。一方、この小滝橋こと、この「姿見の橋」は、親の因果が子に報い、というわけで、鈴木九郎の娘の小笹が婚礼の日に蛇と化身し、川に身を投げた。その姿が見つかったのが、この「姿見の橋」、だとか。
江戸から明治にかけては、この小滝橋から下流の田島橋まで橋は、ない。

久保前橋・落合水再生センター
早稲田通りを過ぎると久保前橋の手前から神田川左岸に落合水再生センター。この施設では新宿区、世田谷区、渋谷区の全体、中野区の大部分とそして杉並区、豊島区、練馬区の一部の地域の下水処理を行っている。ここで高度処理された下水は再生水として新宿副都心のビル群のトイレ用水として再利用。また、東京の城南地区の三河川の清流復活事業の養水として渋谷川、目黒川、呑川に導水されている。
西落合水再生センターからの導水をはじめて知ったのは呑川を河口から遡り、大岡山の東京工業大学のあたりで開渠が暗渠となるあたり。その地の案内に、落合水再生センターから水が送られる、とあった。はるばる落合から。と、結構驚いた。
その後、烏山川と北沢川を辿ったとき、このふたつの暗渠河川が、池尻あたりで合流し開渠となると、それまで痕跡もなかった水が突然流れはじめるが、それが落合水再生センターからの高度処理水であった。烏山川と北沢川が合わさって目黒川となり、246号との交差あたりから急に水量を増して流れていた。

渋谷川も落合水再生センターからの水である。そういえば、渋谷川に合流する春の小川の部舞台となった甲骨川も、宇田川も初台川も、富ヶ谷川、原宿川もすべて暗渠で、水が流れる痕跡もなかったが、渋谷川となって渋谷の駅前で開渠となった時には、水が流れていたなあ、などと、今更納得。
西落合水再生センターの処理施設はコンクリートで蓋を被せ、その上に野球場やテニスコートを整備した緑の公園となっている。落合中央公園と呼ばれるこの公園は、住宅街に処理施設を造ることに反対した住民に対し、強行手段で処理施設を造った都当局の環境整備施策ではあろう。

月見岡八幡神社
中央公園の西に月見岡八幡神社。名前の由来は元の境内池に湧井があり、その水面に映える月光があまりに美しかった、ため。元は現在地より少し南東にあったが、その地が水道局落合水再生センターの用地となったため、現在地に遷座した。
創建年代は不明ではあるが、源義家が奥州征伐の時参詣し、戦勝を祈念して松を植えたと伝わる。旧上落合村の鎮守であり、祭神は応神天皇・神功皇后・仁徳天皇と、八幡さまのメーンの神様である応神天皇の女房・子供で構成される。八幡系の御霊社である葛谷御霊神社や中井御霊神社が応神天皇の女房と父親が祭神となっているのと、少々組み合わせが異なっている。
境内社として明治39年(1906)に北野神社、昭和2年(1927)には浅間神社と富士塚を合祀した。浅間神社は山手通りと早稲田通りの交差するあたりにあり、その富士塚は寛政2年(1790)、大塚古墳をもとに造られたために、「落合富士」と呼ばれていたようである。散歩を初めて、都内・都下に数多く残されている富士塚に出合い、江戸の頃の富士講の繁栄振りが偲ばれる。
境内には正保4年(1647)の宝篋印塔型の庚申塔、また、天明5年(1785)の銘をもつ鰐口、そして、旧社殿の格天井の板絵の一枚であった谷文晃の絵が残る。谷文晃は江戸中期の文人画家。上方文人画家に対し、江戸画家の中心として弟子の指導にあたる。門人には渡辺崋山、酒井抱一、蜀山人などがいる。

月見岡八幡といえば、江戸の頃、この神社の北には泰雲寺があった。明治になって港区の瑞聖寺に合併され、今は名残もないが、このお寺には美しき尼僧にまつわる話がある。女性の名前は葛山総。出家を願うも、その美貌故に修行僧の妨げになると入門を断られた総は、自ら火鏝(ひごて)で顔を焼き、やっと駒込の白翁禅師の大休庵に入門を許され「了善尼」となる。白翁禅師のもとで修行を積んだ了然尼は、此の落合の地に篤志家によって建てたれ泰雲寺の初代住職となった白翁禅師の後を継ぎ、二代住職となり、社会活動などで地元に貢献した、と伝わる。目黒不動近くの黄檗宗・海福寺の山門の扁額は、「泰雲」は、泰雲寺の扁額から「寺」を削ったもの、とか。


(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平23情使、第631号)」)

せせらぎ橋・新掘橋・高田馬場分水路
せせらぎ橋の左手に「せせらぎの里公苑」。落合水再生センターで高度処理された水を使い親水公園がつくられている。せせらぎ橋に続く新堀橋の手前に高田馬場分水路。増水で堰を越えた水を分水し、落合駅の東、妙正寺川に架かる辰巳橋辺りで妙正寺川と合わさり、すく暗渠となり、本流に沿って進み、下流・目白通りに架かる高田橋で本流に再び戻る。妙正寺川との合流点辺りで分水路に落合水再生センターの高度処理水が放流されているようである。





北流してきた神田川は現在、新掘橋辺りで流路を東へと変える。昭和初期の頃までは西武池袋線の北側辺りまで蛇行していたようであり、西から流れてきた妙正川とは当時、下落合駅の南辺り(滝沢橋と落合橋の間とも)で合流していたようである。

妙正寺川
妙正寺川は杉並区の妙正寺公園内にある妙正寺池を源流とし、途中中野区松が丘で江古田川を合わせ、武蔵野台地の開析谷を下り、この地で神田川と合わさる。合流地点は大雨の度に氾濫を繰り返し、ために神田川は新たに水路を掘り新堀橋辺りから東へと流路を変え、一方妙正寺川も目白通り下を流し、下流の高田橋あたりで神田川に合流するように流れを付け替えた。新堀橋は、新たに水路を掘り起こしたことに、由来するのであろう。

滝沢橋・落合橋
滝沢橋を越え落合橋に。落合とは日本全国にあるが、基本は「ふたつの流れが落ち合うところ」。かつてはこの橋の少し上流辺りが神田川と妙正寺川の合流点であった名残であろう。「江戸名所図解」の「落合惣図」には、田地の中を蛇行する神田川と妙正寺川が描かれるが、その落ち合うところに橋は架かっていない。

落合文化村(目白文化村)
落合と言えば、落合橋からは少し離れるが、山手通の西、の目白台地にはかつて落合文化村と呼ばれる一帯があった。『わが住む界隈』で林芙美子が、「私は冗談に自分の町をムウドンの丘(注;パリの南西にあるロダンのアトリエがあったことでも有名な町)だと云っている。沢山、石の段々のある町で、どの家も庭があって、遠くから眺めると、昼間はムウドンであり、夜はハイデルベルヒのようだ。住めば都で、私もこの下落合には六、七年も腰を落ち着けているがなかなか住みいい処だ」、と描く林芙美子記念館のあるあたりは、落合文化村と呼ばれていた。大正11年(1922)頃より、箱根土地株式会社(現・株式会社コクド)によって下落合3~4丁目(現・中落合2~4丁目および中井の一部)に開発された新興住宅街である。東急電鉄(渋沢秀雄)が開発した田園調布がパリの街並みを模したのに対し、こちらはロスのビバリーヒルズを目指した、と。結果、当時としては「中流の上」の人々がこの地に移り、多くの学者、作家、画家が西洋風の外環の邸宅を建てた、とのことである。
文化村は大きく3区画に分かれ、山手通りと新目白通りのクロスする左上(中落合3丁目あたり)が第一文化村、左下の中井駅方面(中落合4丁目と中井)が第二文化村、右上の中落合4丁目方面が第三文化村と呼ばれた。林芙美子が住んでいたあたりは第二文化村の南端のあたり、だろう。第一文化村には画家の佐伯祐三邸、第二文化村には安部能成や石橋湛山、武者小路実篤宅があった、とか。もともと、落合第一小学校の辺りに自宅を持っていた会津八一は落合(目白)第一文化村の南端あたりに引っ越したところ、改正道路(現在の山手通り)の工事地区にあたり、立ち退きを余儀なくされ、第一文化村の中央部に移るも、戦災で焼失した。文化村に少々翻弄された感がある。

宮田橋
落合橋に次いで宮田橋。この辺りは山手線を越えるまで川沿いに進む道はないので、あちこち迂回しながら橋に出る。橋の名前の由来は、橋の北に氷川神社があるので、その社に由来するのかとも思ったのだが、実際はかつてこの橋の南に諏訪神社(現在は高田馬場1丁目。明治通り諏訪町交差点近く)の旧地であったことによる、とか。

下落合氷川神社
落合橋の北、新目白通りの北には下落合氷川神社。この下落合氷川神社は、第5代孝昭天皇の御代の創建と伝えられ、といっても考昭天皇って紀元前のことであるし、それはないにしても、江戸時代には下落合村の鎮守ともなっているので、古き社ではあろう。江戸期には豊島区高田の高田氷川神社を男体の宮、当社を女体の宮として、夫婦一対神として信仰されていた、と。高田の氷川神社が素戔嗚尊を主神、こちらの落合の氷川神社はその妻の奇稲田姫命となっている。

七曲坂
氷川神社の裏から「おとめ山」の高台に上がる七曲坂(ななまがりざか)は、落合では最も古い坂道のひとつであり、江戸時代には周囲の高台が紅葉の名所として知られていたという。現在は緩やかなカーブとなっており、七曲がりの趣は今は、ない。周辺には相馬坂、九七坂、西坂、霞坂、市郎兵衛坂、見晴坂、六天坂など少々惹かれる名前の坂道が多い

薬王院・東長谷寺
氷川神社の西に薬王院・東長谷寺。江戸の散歩の達人・村尾嘉陵も「ひろ前をくだりに猶ゆけば、みちのかたへに寺あり。石しきなみて、見入いとよし。薬王院といふ」と記す。
薬王院は真言宗豊山派瑠璃山東長谷寺と称し、奈良・長谷寺の末寺で、開山は鎌倉時代、相模国(神奈川県)大山寺を中興した願行上人。 本堂は昭和40年に、奈良・長谷寺と京都・清水寺の見所を取り入れて建立されたものという。寺域は下落合崖線に位置して傾斜地にあり、墓地は最も高いところにある。境内ではもともと薬用として栽培されたといわれる鎌倉・長谷寺の牡丹の株100株を拝領し数多く、現在では1000株にまで増えその美しさから別名「牡丹寺」とも呼ばれる。しだれ桜も見事、とか。

田島橋
宮田橋の次に田島橋。川沿いに道はないので、南に大廻りしながら田島橋に出る。橋脇の案内によれば、江戸時代、鼠山(寝不見山;目白・下落合付近)に下屋敷があった安藤但馬の守がよくこの橋を渡ったため、「但馬」を「田島」としてこの橋の名がついた、とか。この橋は江戸時代の初めには既に架けられていたようで、初めは仮橋だったものを後に土橋に改めた、と。この橋の上流には犀が淵という深い淵があり、江戸時代には高田十二景といわれる月の名所の一つとして知られていたそうである。

「江戸名所図会」の「落合惣図」を見るに、蛇行する神田川とそこに合流する妙正寺川、その合流点に架かる「一枚岩」、その上流の妙正寺川に土橋、そしてこの「田島橋」が描かれている。また「薬王院」「氷川」も描かれる。同じく「江戸名所図会」には「落合蛍」が描かれる。場所はこの田島橋の少し下流のようである。
太田南畝こと蜀山人は「大江戸には王子のふもと石神井川又谷中の蛍沢に多くありといへども、此処のにくらぶれば及びかたかるべし」、と記しており、蛍の名所であった。月の名所で蛍の名所。今、その面影を想うのは少々難しい。
田島橋の北詰はスペースがあるのだが、南のさかえ通りの方は狭く、少々アンバランスである。その理由は、新目白通りをこの橋の辺りで神田川を渡り早稲田通りと繋ぐ計画であったが、それが中止となり、その用地が名残としてスペースとして残っている、とのことである。

清水川橋
田島橋を越え、「さかえ通り」に迂回し清水川橋に。清水橋の辺りは川筋を狭め、往昔、高田馬場渓谷なとど呼ばれた趣を伝える。洪水多発であった所以である。清水川橋の名前の由来は目白台地の崖下からの湧水に因む字名から、とか。明治時代の高田馬場停車場辺りは字清水川となっている。当時は、神田川の川筋はもう少し北を蛇行している。現在の「さかえ通り」の辺りに小川が流れるが、この流れが清水川であろう、か。




おとめ山
湧水と言えば、目白台地から神田川を望む南面傾斜の崖線に湧水池で知られる「おとめ山」がある。楢、椎、椚などの落葉樹が生い茂り、その中心に湧水池。回遊式庭園と呼ぶのだろう。池脇の湧水点からの、かすかな流れがなかなか、いい。公園は道を隔てた西と東に別れ、東の湧水池からの水は西の公園にある弁天池へと導かれている。
おとめ山の名前の由来は「御留」、から。江戸の頃はこのあたりは将軍家の狩猟地であり、立ち入り禁止故の「御留」であった。明治には御留山の東を近衛家、西を相馬家が所有。相馬家が林泉園と称し庭園とした、と。戦後は荒れ果てたままであったようだが、地元の人々の努力により公園として整備された。

東山藤稲荷神社
おとめ山公園のすぐ東に東山藤稲荷神社という社がある。現在は誠につつましやかな境内ではあるが、往昔、おとめ山の多くを有し結構なる社であった、とのこと。清和源氏の祖六孫王・源経基が、延長5年(927)、東国源氏の氏神として祀った、ということである。
この源経基、平将門ファンにとっては好ましからざる人物として伝わる。将門を反逆者として誣告したのも経基、その後、あれこれの経緯もあり将門が兵を起こすと征伐軍の副将として乱の平定に赴く。が、乱は既に平定されており、活躍する場はなかったようである。それはともあれ将門は朝廷への逆賊として長き間不遇の時代を送った訳であり、それ故にも、逆賊平定の貢献者でもある経基の建てたこの社が栄えたのであろう。藤稲神社とも、富士稲荷神社とも呼ばれたようだが、東山の由来は不明。
ちなみに、江戸のお散歩の達人、村尾嘉陵の『江戸近郊道しるべ』に『藤稲荷に詣でし道くさ(文政7年(1824)9月12日)』がある;「落合村の七まがり(地名)に、虫聞に行けば、老をたすけてともになど、もとの同僚畑秀充のいひしも、いつしか十あまり五とせばかりのむかしとは成けり。げに、とし波の流れてはやきためしをおもへば、かたときのいとまをも、あだにすぐすべしやは、わかきとき、日を惜しめるは勤にあり、老いての今はたのしみもて、こゝろをやしなひ、終わりをよくせんとなるべしや」、と。七曲がりとは、上でメモした東山藤稲荷神社の西、新目白通りのそばにある氷川神社から北の崖線を上る坂である。

神高橋
山手線、西武新宿線を越えると神高橋。高田馬場駅の東口より北に上る大きな道筋に橋が架かる。明治の頃までは、田島橋から下流の山手通りを越えた面影橋まで橋はなく、一面の田圃が広がっていた、とのこと。この辺りの神田川は現在より南側を流れていていたようあるが、この橋の辺りには用水堰があり、川の北を用水路が流れ下流の源水橋の付近で合流していたという。

落合から神高橋までの旧神田川流路
久保前橋辺りで左右に蛇行しながら北流した神田川は、落合橋から南東に下ってきた妙正寺川と下落合駅の南で合流し、合流した流れは現在の妙正寺川に架かる千代久保橋あたりまで弧を描いて上り、そこを頂点に南東方向へ流路を変え、神田川に架かる落合橋の南、戸塚第三小学校まで南東方向に下り、戸塚第三小学校を回り込むように弧を描き、宮田橋公園に向かって北東へと上り、神田川を越えるとほどなく流路を南に変え田島橋辺りまで下り、そこで再び北に向かい氷川橋の北を頂点に神高橋へと南東へと下ってゆく。

高塚橋
神高橋に続く高塚橋は、「高田」と「戸塚」からであろう。「高田」の地名の由来には、高台にある田という地形に由来するという説と、高畑からの転化との説、徳川家康の六男で越後高田藩主であった松平忠輝が生母である高田殿のために、景色を愛でる公園を造ったことに由来する、とか例によってあれこれ。戸塚(とづか)は、「富塚」とも書き、神田川南側から戸山大久保方面にかけての地名で、明治22年、旧来の戸塚村(とづか)、下戸塚村、源兵衛村、諏訪村が合併して「戸塚村」が成立した。富塚は水稲荷神社内にあった富塚と呼ばれる塚(元は小円墳とも)に由来する。水稲荷神社は元は早稲田大学構内にあった、とのことだが、現在は早稲田大学の西に遷座している。

戸田平橋
大正8年(1919年)に作られたもので、名前の由来は新宿区の戸塚、豊島区の高田、そしてこの橋の建設に関係した平野与三吉に由来するという。
この橋の少し下流に右岸に排水口が見える。これは江戸の頃は「秣川(まつかわ)」、明治には「馬尿川(ばしがわ)と呼ばれてい細流の跡。川筋は戸山公園の大久保通り辺りを源流点に、戸山公園をへて諏訪神社をかすめ、此の地で神田川に注いでいた、とのことである。流れの西側一帯を「字秣川(あざまつかわ)」と称していたという。現在は、源水橋(げんすいばし)の「まつ川公園」にかろうじてその名前が残る。

源水橋
源水橋は、護岸工事で新しく作り変えられた橋。名前の由来は、この橋の付近にあった「源兵衛村(げんべいむら)」と「水車(すいしゃ)」を組み合わせた言葉から来ているという説もある。橋の欄干には水車と花のモチーフが描かれている。何の水車だろう、か。有名な「神田川」の歌詞中に出てくる3畳一間のアパートはこの界隈にあった、との説もあるらしい。

高田橋・妙正寺川と高田馬場分水路が合流
新目白通りには高田橋が架かる。この橋の辺りで妙正寺川、高田馬場分水路が神田川に合流している。高田馬場分水路の吐口のプレートには昭和53年(1978)の文字が見える。分水路が完成した年であろう。高田馬場の合流点では高田馬場分水路と妙正寺川の吐口は別になっているが、このふたつの流れは落合駅の東で一度合流している。暗渠下で分かれているのだろう、か。実際、高田馬場分水路の吐口には水草が多いが、妙正川の吐口はそうでも、ない。一説には、落合水処理センターの水と妙正寺川の水は混ざり合うことなく、高度処理水が高田馬場分水路の吐口から流れ出す、とも。高田橋から先の神田川は、近年の護岸工事により両側に歩道が整備されている。

高戸橋・曙橋
高戸橋は明治通りを渡す橋である。橋の名前は、高田と戸塚の双方の頭文字をとったものとされている。高戸橋を越えると曙橋。かつてこの辺りには一枚岩と称する巨岩で知られていた、と言う。現在は護岸工事のために当時の面影は無いが、川底から亀の甲羅のような岩の露出が数箇所あり、高田一枚岩、戸塚一枚岩、落合一枚岩などと呼ばれていたらしい。現在も曙橋の鉄橋の下に大きな岩の痕跡のようなものが残る。一枚岩の名残、か。

高田氷川神社
曙橋の北に高田氷川神社。創建年代は不詳。江戸の『名所図会』には高田村の鎮守、氷川大明神とある。主祭神は素戔嗚尊(スサノオノミコト)。先ほどメモした落合氷川神社の主祭神・奇稲田姫は素戔嗚尊の妃であり「夫婦の宮」の一対をなす。明治の頃に氷川神社と改名。昭和20年の空襲で被災するも、昭和29年に再建された。
因みに、社の祭神が男神か女神かを見分けるには社の屋根両端でV字に交差する木(千木)を見るのがわかりやすい。千木の先端が地面に対し垂直に削られるのが男神、水平が女神、とのことである。

金乗院・目白不動
高田氷川神社から目白通りへと崖道を上る途中に真言宗豊山派の金乗院。山門を通り本堂にお参り。天正年間(1573-92)の創建と伝わる。本堂脇に倶利伽羅不動庚申が佇む。倶利伽羅不動尊って、サンスクリット語で「剣に黒龍の巻き付いた不動尊」の意味。黒龍が昇天する姿が、倶利伽羅不動、そのものであったのだろう。
本堂の横には江戸五色不動のひとつ、目白不動が祀られる。目白不動堂は、元は文京区関口駒井町にあった東豊山浄滝院新長谷寺から移したもの。目白不動堂は元和4年(1618)、大和長谷寺代世が中興したものだが、昭和20年の空襲により焼失し、この寺に合わされた。
五色不動とは、目黒不動(天台宗龍泉寺:目黒区目黒3丁目)、目白不動(真言宗豊山派金乗院。もとは文京区関口の新長谷寺にあったが戦災で廃寺となったため移された)、目青不動(天台宗教学院。世田谷区太子堂4丁目。もとは麻布の勧行寺、または、正善寺にあったものが青山にあった教学院に移され。その後教学院が太子堂に移った)、目赤不動(天台宗南谷寺。文京区本駒込1丁目。もともと三重県の赤目不動が本尊。家光の命で目赤に)、そしてこの目黄不動。
もっとも、目黄不動だけは複数あり、この最勝寺だけでなく、台東区三ノ輪2丁目の天台宗・永久寺、渋谷の龍眼寺とこの最勝寺など全部で六箇所あるとも言われる。それと、江戸の頃に五色不動と言った記録はなく、江戸時代には目がつく不動は目黒・目白・目赤の3つしかなく、また、それをセットとして語る例もなかったようではある。明治以降、目黄、目青が登場し、後付けで五色不動伝説が作られたものとの説もある。

面影橋
曙橋に続くのが面影橋。神田川にかかる橋でも、最も名高い橋のひとつである。「江戸名所図会」には「俤(おもかげ)の橋」と記されている。歌川広重も『名所江戸百景』に「俤の橋」を描いており、のどかな風景に江戸の昔を思いやる。また、このあたりは流れ蛍でも知られ、広重も蛍狩りの絵を描いている。面影橋の名の由来には、諸説ある。在原業平が我が姿を水面に映した逸話からとの説、鷹狩りの折に将軍家光が命名したとの説、戦国の頃、此の地に落ち延びた和田靱負(ゆきえ)の美しき一人娘・於戸姫(おとひめ)が我が身の悲劇を嘆き、この川に身を映し詠んだ和歌によるとの説など様々。
「変わりぬる姿見よやと行く水にうつす鏡の影に恨(うらめ)し」が、於戸姫(おとひめ)が詠んだ歌。そしてなき夫を偲び入水の際に詠んだ「かぎりあれば月も今宵はいでにけりきよう見し人の今は亡き世に」、といった、夫の面影を偲ぶ於戸姫の心情を憐れんで、面影橋と名付けた、とか。於戸姫は、その美貌に迷った夫の友により、夫を殺されその仇討ちを果たした後に入水した、とのことである。
橋の名前の由来は諸説ある、とメモしたが、橋名自体も「俤(面影)の橋」とも「姿見の橋」とも呼ばれる。江戸の頃の此の地の絵図には、大橋とその近くに小橋が描かれ、小橋が「姿見の橋」、大橋が「面影の橋」との説もあれば、いやいや、於戸姫伝説で「変わりぬる姿見よやと。。。」と詠われる「姿見(の橋)」が、小橋では格好が悪いので、大橋が「姿見の橋」であるなど諸説ある。結論は出てはいないようだが、『嘉永・慶応 新江戸切絵図(人文社)』にも、面影橋とは書かず姿見橋とあるように、江戸の頃は大橋が「姿見の橋」と呼ばれていたようである。それが、面影橋となったのは、明治政府の地図に「面影橋」と記された、ため。地元に人も大正の頃まで江戸の名残を引き継ぎ「姿見の橋」と呼ぶ人もいたようだが、現在は面影橋となっている。

橋の北側に太田道灌の「山吹の里」の碑。太田道潅、といえば「山吹の花」といわれるくらい有名であるが、ちょっとおさらい;道潅が狩に出る。突然の雨。農家に駆け込み、蓑を所望。年端もいかない少女が、山吹の花一輪を差し出す。「意味不明?!」と道潅少々怒りながらも雨の中を家路につく。家に戻り、その話を近習に語る。ひとりが進み出て、「それって、後拾遺集にある、醍醐天皇の皇子・中務卿兼明親王が詠んだ歌ではないでしょうか」、と。「七重 八重 花は咲けども山吹のみのひとつだに なきぞ悲しき」。「蓑ひとつない貧しさを山吹に例えたのでは」、と。己の不明を恥じた道潅はこのとき以来、歌の道にも精進した、とか。
話としては面白いのだが、もとより真偽の程は定かではない。それに、このエピソードというか伝説は散歩の折々に出合った。太田道灌ゆかりの地である埼玉の越谷横浜の六浦上行寺あたり、豊島区高田の面影橋、荒川区町屋の小台橋あたり、であったろうか。伝説は所詮伝説であるし、それほど道潅が人々に愛されていた、ということであろう、か。

都電荒川線・面影橋駅
面影橋の南に都電荒川線・面影橋駅がある。荒川区南千住から新宿区西早稲田の早稲田駅の間、12.2キロを結ぶ。明治40年(1907)に営業免許が下りた王子電気軌道を、後に東京市が買収したもの。かつて東京23区を縦横に結んでいた都電路面電車も、現在はこの路線を残すのみである。
王子電気軌道の歴史を眺めていると、営業認可の後、軌道事業が開始される明治44年(1911)まで、電灯電力の供給事業や発電所の設置などを行っている。この王子電気軌道に限らず、京成、東急、小田急、京王などの鉄道会社は昔は軌道事業とともに電気事業を行っており、軌道事業より電気事業のほうが大きな収益を上げている会社もある。王子電気鉄道も電灯電力事業が主で、軌道事業は副業といったものであったようである。
それはともあれ、都電荒川線の軌道幅は1372mm。これは京王線の軌道幅と同じである。その昔、京王線は東京都内の路面電車と結ぶ計画があったため、軌道を合わせた。結局その計画は実施されずに終わったが改軌の手間が大変ということで軌道はそのままとなった。世田谷線も1372mmであるが、それは今は廃止された市電玉川線の支線であったためである。因みに1372mmとした理由は、設立当初は馬車鉄道であり、広軌幅である1435mmでは馬の蹄がレールにあたり不便であり、1372mmが丁度よかった、とか。

朝亮院
都電荒川線の面影橋停留所から新目白通りを南へ渡り、ゆるやかな坂をのぼると右手に赤い門構えのお寺様。その門ゆえに、「赤門さん」とも賞された朝亮院である。このお寺さまは、「高田七面堂」として知られる。身延山久遠寺の末のこの寺には身延山七面山の七面明神が祀られる。七面山での修行のお上人さまが、現在の戸山公園あたりに七面堂を建てたのがはじまり。江戸に疱瘡がはやった明暦の頃には、将軍家の祈祷所ともなった、と。その後、もとの寺域が尾張徳川家の下屋敷となったため現在地に移った。境内には七面堂、その両脇に石造りの金剛力士像が屹立する。宝永二年(1705)に作られたものとのことである。

南蔵院
面影橋を北に進み、高田氷川神社の東に南蔵院。江戸時代の『江戸名所図会』の「高田」には、南蔵院の境内、薬師堂、鶯宿梅、石橋、高札場が描かれる。薬師堂は奥州藤原氏の持仏とされる薬師如来が本尊として祀られる、と。鶯宿梅は三代将軍徳川家光お手植えの梅ゆかりのもの、とか。この寺は別名「八ッ門寺」とも呼ばれたようで、鷹狩りに訪れた家光が、あちこちから寺に入るため、それぞれを門とした。幕末には上野で敗れ、この地まで逃れた力尽きた彰義隊士8名がとむらわる。

南蔵院は明治の名落語家・三遊亭円朝の代表作『怪談乳房榎木』の舞台として有名。『怪談乳房榎木』は円朝が南蔵院旧本堂天井の龍の絵を見て創作した、と言う。あらすじは、ここ南蔵院の天井画を依頼された絵師(菱川重信)、そしてその妻(おせき)と弟子(磯貝浪江)の不義、落合蛍見物にことよせての師匠の謀殺。浪江に脅され一度は絵師の子(真与太郎)亡きものにと、十二社の大滝に投げ込む爺(正介)に、絵師の亡霊が現れ「この子をして仇討ちすべし」との言。改心した爺(正介)は子を連れ赤塚村(板橋)に逃れ、その地の名刹・松月院の門番に。寺の境内には榎があり、乳房の形をした瘤から流れる雫を飲んでその子は成長し、やがて父の亡霊に助けられ仇を討つ、といった復讐譚。
いつだったか、板橋区の赤塚辺りを彷徨ったことがある。その地の赤塚城主・千葉自胤が大宮にある武蔵一宮・氷川神社から勧請した赤塚の氷川神社を訪れたとき、桜の並木からなる長い参道を南に下ると参道入り口あたりにケヤキの老木があった。その脇に明治期の落語家三遊亭円朝の落語「怪談乳房榎」にちなんだ、「乳房榎大神」の碑があった。乳房の病に霊験あらたか、とあった。その乳房榎は近くの松月院の境内にあった、とのことであるが、この松月院は立派な構え、品のいいお寺さんであった。延徳4年(1492年)、武蔵千葉氏の千葉自胤が寺領し中興し、幕末には高島秋帆が高島平で西洋式砲術訓練をおこなったときの本陣。下村湖人が『次郎物語』の構想を練ったお寺さまでもある。

『怪談乳房榎木』の舞台は、この南蔵院や板橋の松月院に限らず、散歩の折々に出合う。浪江とおせきが出会う墨田区・木母寺の梅若詣り,でのおきせが口説かれる柳島の妙見山辺り,謀殺の密談がおこなわれる高田馬場下での,落合の蛍狩りは神田川,上でメモした子捨てを図る十二社の大滝などなど。『怪談乳房榎木』巡りの散歩もいい、かも。

三島橋
このあたりのかつての字名(あざな)は三島であり、橋のそばに立つ掲示板にも「三島町会」の名前が見られる。古く房総(ぼうそう)から武蔵国(むさしのくに)に入った源頼朝がこの地で軍勢を整えた際、三島神社を勧請したことからこの字名になった、とか。後にこの神社は、東海道三島宿(現静岡県三島市)に移されたが、現在も水稲荷(みずいなり)神社境内に末社として祠(ほこら)が残されている。

甘泉園
三島橋の南に甘泉園。この水と緑に囲まれた回遊式庭園は、もとは徳川御三卿の清水家の下屋敷。敷地は崖上にある水稲荷神社境内と甘泉園を含む広大なものであった。明治30年(1897)頃には相馬侯爵邸となり、昭和13年(1938)には、早稲田大学がこの土地を譲り受け、昭和36年には、大学構内にあった水稲荷神社と土地交換が行われ、昭和38年(1963)に水稲荷神社が甘泉園内に移転した。
甘泉園の名前は、庭園の中央からの湧き水が、お茶に適していたことに由来する。甘泉園のあたりはその昔、三島山と呼ばれていた。その三島山の西に泉があり、山吹の井と呼ばれた。その一帯は山吹の里とも呼ばれ、先ほど面影橋でメモした道灌と言えば、との山吹の逸話が残る。

水稲荷神社
甘泉園から崖を成り行きで上ると水稲荷神社。表参道は今風のつくり。境内を進むと「堀部安兵衛助太刀の場所の碑」がある。元禄七年(1694)、安兵衛(当時は中山姓)は高田馬場に駆けつけ、叔父の菅野六郎左衛門(田舎の新居浜市に近い伊予西条藩士)の果し合いに助太刀。この決闘で助太刀をした安兵衛の活躍が江戸中で評判になり、浅野藩士堀部家の婿養子に懇請され堀部屋安兵衛となる。その後元禄15年、赤穂浪士として吉良邸に討ち入った話は世に知られるとおり。この碑は明治43年(1910)、旧高田馬場、現在の茶屋町通りの一隅に建立されたものが、昭和四十六年に現在の水稲荷神社の現在の場所に移された。先に進むと社殿がある。もとは早稲田大学9号館裏のあたりの小高い丘にあった水稲荷神社は、昭和38年(1963)7月25日、早稲田大学との土地交換により、西早稲田三丁目の甘泉園内の現在の場所に移転したもの。

この社が水稲荷と呼ばれるに至る経緯は、元禄15年(1702)に境内の大椋から水が湧き、その水が眼病に効能あり、ということで、江戸市中で大評判となった、ため。この霊水にも太田道灌ゆかりの話が登場する。道灌が散策の折り、冨塚古墳のそば(以前、水稲荷神社があった場所。現在の早大9号館の裏手。)に榎を植えた、とか。「道灌つかみさしの榎」と呼ばれるこの榎を神木として関東管領の上杉良朝が稲荷の社を再興。そして、この神木からわき出した霊水が眼病に効果があり、水稲荷と呼ばれるようになった、と言う。
水稲荷の境内には富塚古墳や高田富士など、旧地から移されたものが残る。富塚古墳は既にメモしたように、戸塚の由来ともなった塚。元早稲田大学脇にある宝泉寺はその塚の上に建てられた、とか。「高田富士」は、安永九年(1780)、植木屋の青山藤四郎が富士講の人たちとともに、富士山から岩や土を運び、冨塚古墳の上に盛土して造ったもの。江戸市中で、最大、最古の富士塚であった。江戸時代中期以降、江戸で富士信仰がさかんになり、各地で富士講が組織され、富士塚という富士を模した山が造られた。残念ながら普段は高田富士には上れない。7月下旬の高田富士祭りのときの、お山開きとだけ、とのことである。
境内にはいくつかの末社がまつられる。浅間神社は富士塚の麓に鎮座していたもの。現在も高田富士の入口にある。三島神社は現在の水稲荷のある敷地である甘泉園所有者・旧清水家所有の守護神。源頼朝が治承四年(1180)、鎌倉への進軍の途中、高田馬場跡から甘泉園一帯に立ち寄ったとされ、その時に、この地に三島神社を創建したと、伝えられる。三島神社はその後静岡の三島市に移されたが、その跡地に石の祠が建てられ、その後この地に移された。

仲之橋
仲之橋の右岸は新宿区西早稲田、左岸は豊島区高田。「豊橋(ゆたかばし)」と「三島橋(みしまばし)」もしくは「面影橋(おもかげばし)」の間に架けられたという意味、かと。橋を北に進むと「富士見坂」。目白通りと不忍通りが交差する目白台2丁目交差点辺りから南東へ、目白台の崖線を下るこの坂は、富士は見えないようだが、都内屈指の眺め、とか。因みに都内に富士見坂と名付けられた坂は20弱ある、と言う。

仲之橋左岸、少し手前に「東京染ものがたり博物館」。大正3年創業の東京染小紋の老舗「富田染工芸」工房の隣にある。工房や博物館では、江戸の伝統を伝える東京染小紋や江戸更紗の作品の展示や染色の工程が展示されている。
江戸の染色業は江戸の頃、神田紺屋町の地名が示すように神田・浅草を中心に発展するも、明治以降は川の汚染の影響もあり染色業者は水洗いに適した清流を求め神田川を遡上し、大正から昭和にかけて落合や西早稲田あたりに移り住み、それ以降、染色業は新宿区の地場産業となった。神田川の水質は硬水であり、水中に含まれる鉄分が染めの過程で化学反応を起こし、独特の「渋味」を作り出した、とか。

江戸小紋とは江戸時代、諸大名が着用した絹の裃の染の技法。目立つことなく、かつ華麗な文様ということで、遠目には無地に見えるように細かな模様をその特色とする。ために、高度な技法が開発されることになった。後には庶民も小紋のお洒落を楽しんだ、とか。江戸更紗は、インドから伝わった技法。江戸の中期から末期にかけて材料の木綿を五彩に染めあげた、とか。
染め物と言えば、『神田川;朝日新聞社会部編(未来社)』に「染め物の町」という記事があった。そこには西武新宿線の下落合駅から中井駅に架けての染め物の町が描かれる。昭和32年(1957年)頃には未だ染め物工場が35軒もあった、とのこと。最盛期は昭和初年から戦争の始まった昭和16年頃。妙正寺川や神田川が汚れた現在は工場は埼玉県狭山などに移っている、とのことである。因みに、『神田川;朝日新聞社会部編(未来社)』には「染料によくない鉄分がなるべく少ない、弱アルカリ性から中性の水を追って、神田川の大曲付近へ、そして江戸川橋の辺りからさらにいまの落合へと、流れをさかのぼってきた」とある。上で鉄分が独特の渋みを作り出した、と少々矛盾。染料を繊維に定着させる媒染剤に鉄分が使われる、と言うことであろう、か。門外漢には不明である。

豊橋
橋の南には都電荒川線の始発・終点である早稲田駅がある。橋を北に進むと豊川稲荷があり、目白女子大に続く豊坂がある。此の辺りは高田豊川町とも呼ばれていたようで、豊橋は豊川稲荷に由来するのだろう。
豊川稲荷は愛知県豊川市にある曹洞宗妙厳寺を勧請したもの。曹洞宗妙厳寺は稲荷神社で名高い伏見稲荷神社と異なり、豊川稲荷は曹洞宗妙厳寺というお寺さまの境内にある稲荷堂の吒枳尼天(だきにてん)が名高く、通称豊川稲荷で知られることになった。吒枳尼天(だきにてん)が豊川稲荷に祀られるに至った経緯は、鎌倉時代に入宋した禅僧が帰国の途上、吒枳尼天(だきにてん)の加護により無事帰国。この禅僧の6代目の法孫がこの曹洞宗妙厳寺開山に際し、山門に吒枳尼天(だきにてん)を鎮守として祀ったことによる。信長、秀吉、家康、大岡忠相などの庇護を受けた、と言う。

早稲田田圃
早稲田大学のキャンパスの辺りは、その昔早稲田田圃と呼ばれたように、低湿地であり、名前の通りの「早稲田」であった。大隈重信が明治15年(1882)に、早稲田大学の前身である東京専門学校を開いたときも、低湿地・山林・畑地を埋め立てた。
早稲田は田圃だけでなく、ミョウガの特産地でもあったこの地を随筆家・内田百閒は「砂利場大将」という一文に「砂利場のどぶ川のほとり(中略)到る処に細い溝が流れ(中略)大雨が降ると、すぐあたり一面泥海になった。外から歸つて、終點で電車を降りてから、砂利場に近づくに従ひ、水は段段深くなつて、下宿の玄關に入るには、股の邊りまで水に漬けなければならない。下宿はさう云ふ地勢を承知の上で建てたものらしく、縁の下は大人が起つて歩ける位の高さがあつた。だから、まだ疊の上に水が乘つた事はなかつたのである。(中略)水が引いた後も、中中道が乾かなかった。夕方になると(中略)足元を気にしながら、泥濘の小路を曲がって。。。」と、低湿地の姿を描く。このあたりから高田馬場にかけて新宿区と豊島区の区境がうねうねと蛇行しているのは、以前は、この区境を川が流れていた、ということである(『神田川;朝日新聞社会部編(未来社)』)。

新江戸川公園

豊橋を越えると神田川左岸新江戸川公園に向かう。江戸の頃、熊本藩細川家の下屋敷であったが、現在は文京区が管理している。目白台の崖線を活用し、傾斜面を活かし、台地からの湧水を池に取り入れた回遊式泉水庭園として景観学の書籍などでしばしば取り上げられている名園。
「明暦の大火後どの大名も中屋敷、下屋敷をもつようになると、山の手の条件のよい場所は次々と大名屋敷によって占められていった。それらは武蔵野丘陵の豊かな自然をとりこみ庭園を配した私邸あるいは別邸としての役割をもった(中略)。多くの場合、大名屋敷は高台の尾根道に面して立地する。そこでは敷地内の斜面となるところに、高低差による湧水を生かして池をつくり、回遊式の庭園を設けることができるのである。しかも、できるかぎり尾根道の南側に立地し、敷地内の北寄りに位置する高台平坦部に建物を置いて、その南の斜面に庭園をつくろうとする傾向が読みとれる(『東京の空間人類学:陣内秀秀信(ちくま学術文庫)』)、と。
園内の遊歩道も尾根道風であり誠に、いい。元は3000坪程度であったようだが、次第に拡張し最終的には38000坪といった広大な敷地となった。

駒塚橋
新江戸川公園を離れ神田川筋に出ると駒塚橋に。『江戸名所図会』には駒留橋(こまどめばし)と記される。名前の由来は、この周辺がかつては砂利採集の盛んな場所で、近くに馬(駒)を繋ぐ者が多かったことから来たという説の他、将軍が鷹狩に訪れる際に、この橋に馬(駒)を繋いで休息したことにちなむという説もある。江戸の頃は、現在地より下流100m、椿山荘の辺りに架かっていたようである。

胸突坂
駒塚橋の北に目白崖線を下る急坂がある。胸突坂。「むなつきさか」と読む。急坂故の名前だろう。案内には、「坂がけわしく、自分の胸を突くようにしなければ上れないことから、急な坂には江戸の人がよくつけた名前である」、と。また、「胸を突かれたように息ができない」といった説もある。坂を通したのは元禄10年(1697)のことである。
坂を登りきったあたりに永青文庫。熊本藩主細川家が収集した日本・東洋の美術品が並ぶ。和敬塾やこの永青文庫、そしてその下に広がる新江戸川公園を含め、この辺り一帯は熊本藩細川家の屋敷跡である。あまりに重厚というか静かな佇まいであり、門外漢が気楽に足を踏み入れるという雰囲気ではない。永青文庫の名前は建仁寺塔頭である「永」源院と細川藤高の居城・「青」龍寺から。永青文庫の北、目白通りの間に和敬塾。首都圏の男子大学生の学生寮といったもの。旧細川侯爵邸跡でもあり、細川家の発意かとも思っていたのだが、前川製作所創業者一族が創始者であった。前途有為なる学生を支援したもの、か。

水神社
胸突坂の途中に水神様。神田上水の工事の安全を祈り祀られた。大きな銀杏の木も茂り、こぶりながら祠もあり趣もそれなりに、ある。神田上水を守る水神様はこの付近に二カ所ある。この関口と目白台。目白台の水神様には行ったことはないのだが、目白通りの関口フランスパンのあたりという。そこには、まだ湧水がわいているとも聞いた。そのうち行ってみたい。

芭蕉庵
胸突坂を隔てて水神社の向かいに関口芭蕉庵。「ご自由に」とは言われても,少々足を踏み入れにくいしっかりした構えの門を入り、野趣豊かな園内を歩く。ひょうたん池の周囲を一回りし、さみだれ塚とか芭蕉堂を辿る。

さみだれ塚は芭蕉の句である「さみだれに隠れぬものや瀬田の橋」の短冊を埋めて墓としたもの。芭蕉庵の前面に広がる早稲田田圃を琵琶湖にみたて詠んだもの。「庵の前には上水の流横たわり、南に早稲田の耕地を望み、西に芙蓉の白峯を顧みる。東は堰口にして水音冷々として禅心を澄ましめ、後は目白の台聳(そび)えたり。月の夕、雪の朝の風光もまた備われり」は「江戸名所図会」に描かれる芭蕉庵あたりの景観である。芭蕉堂は芭蕉の33回忌を記念して弟子が建てたもの。
芭蕉庵には今までに数回訪れたことがある。神田上水を井の頭の水源から下り、この地を訪ねた。また、関口台地からの湧水が芭蕉庵中にわき出ると、湧水を見るためだけにこの地を訪ねたこともある。この庵の案内を見て、芭蕉が神田上水の改修工事に参画していたことは記憶に残ってはいたのだが、俳人の芭蕉と利水技術者との関連がよくわからない。いい機会なのでチェックする。
文京区教育委員会の案内によれば、「芭蕉は延宝5年から8年(1677から1680)まで神田上水の改修に参加し、龍穏庵という庵に住む」と言う。松尾甚七郎と称する伊賀・藤堂藩の侍であった、とする説もあるが、この頃にはすでに藤堂家を致仕している。俳諧で身をたてんと江戸に下り、藤堂家時代に身につけた水利技術で身過ぎ世過ぎを過ごしていたのだろう。本拠地は日本橋。俳句仲間の魚問屋の貸家に住み、ときどきこの地に出向き後に龍穏庵とよばれるようになる「庵」で寝泊まりしていたようだ。ちなみに、俳号「芭蕉」を使い俳句で一本立ちしたのは、この改修事業の2年後のことである。

椿山荘
芭蕉庵前をかすめ先に進むと左手崖面に椿山荘。北に広がる目白台の傾斜地は鎌倉時代から椿の名所として知られ、太田道灌はこのあたりの椿の陰に敵対していた練馬氏の伏兵が潜みやすいから気をつけるようにと家臣に対して命じていたといわれている。江戸の頃、上総・久留里藩黒田家の下屋敷であったものを明治になって元勲山形有朋が購入し、「椿山荘」と名付けた。『江戸砂子』に「椿は椿山、牛込関口の近所、水神あり。此の山の前後、一向に椿なり。此所を向ふ椿山といふ・・・』ともあるように、この地は南北朝の頃から椿山と称される椿の名所であった、よう。
地形図を見るに、椿山荘の辺りで短い谷筋が切り込み、池も点在する。椿山荘の園内にはふたつの谷筋が幽翠池に注いでいるが、これは椿山荘の西側にある講談社野間記念館(昔の田中光顕邸跡)辺りからの湧水を引いている、とか。

大滝橋・関口大洗堰
大滝橋は神田上水の取水口、関口大洗堰のあった場所に架かる橋。名前の由来は、堰から流れ落ちる水の様子を滝に見立てたもの。「江戸名所図会」の「目白下大洗堰」には、堰の部分が大きな段差となり、滝のように流れ落ちる様子が描かれている。江戸の頃には名所でもあった、よう。
関口大洗堰跡は井の頭から引かれた神田上水の水を保つとともに、江戸湾からの海水を防いだ。今でこそ東京湾の渚はこの地からはるか彼方ではあるが、江戸開闢の頃は現在の日比谷あたりは一面の入り江であったわけで、この関口のあたりまで海水が押し寄せるのはそれほど不自然ではない。関口の名前の由来も堰があったことから。
神田上水はこの地で二手に分かれ、ひとつは上水として後楽園にあった水戸藩江戸屋敷に引かれ、その後水道橋で懸樋にて神田川を渡り、石樋・木樋をもって神田や日本橋へと水を導いた。もうひとつは神田川の流れとなり、お茶の水の切り通しを抜けて大川に注いだ。
神田上水は明治時代に廃止され、大正8年(1919)にこの一帯が「江戸川公園」として整備された折に、大洗堰は史跡としていったん残されるも、昭和12年の江戸川改修工事により、現在では「由来碑」とともに公園には堰跡を残す、のみ。
本日の散歩はこれでお終い。次回は余水を集めた神田川に沿って隅田川との合流点までをメモしようと思う。

文京区散歩の三回目。西端の関口台地と小石川台地、そしてその台地を分ける音羽の谷を歩く。音羽の谷を形づくった川は弦巻川と水窪川。ともに池袋駅周辺の池や湿地を水源として護国寺・雑司ヶ谷の台地を西と東に別れて下り、音羽の谷で合流する。「御府内備考」には「幅九尺・・・・・水上は巣鴨村雑司ヶ谷村之内田場際より流出夫より當町(東青柳町)え入音羽町裏通り江戸川え流出申候・・・・流末に而は鼠ヶ谷下水と唱候よしに御座候」、とあるが、この鼠ヶ谷下水は水窪川だけでなく弦巻川をも含めての呼び名であり、特に最下流の人工水路を指していたようだ。

小日向の台地から音羽の谷に下る坂に鼠坂という名前の坂がある。鼠でなければとても上れないような急な坂であったが、この坂は別名水見坂とも呼ばれていたい。音羽の谷を流れる川筋がよく見えたからだろう。鼠ヶ谷下水はこの鼠坂に由来するのだろうか。それにしても音羽に鼠とはこれ如何に。それはともあれ、本日の散歩は、まずは雑司ヶ谷の西を下る弦巻川からはじめ、音羽の谷を下り関口台地に進む。その後は小石川台地をぐるりと廻って水窪川筋に戻り、護国寺の台地の東側を池袋駅近くの水源跡にもどろう、というもの。文京区散歩とは言うものの、始まりと締めが豊島区ではあるが、それはそれとして、ちょっと長い散歩に出かける。



本日のルート;JR池袋駅>丸池の碑(元池袋史跡公園)> 明治通り>弦巻通り(大鳥神社参道)> 法明寺>鬼子母神>大鳥神社>都電荒川線>首都高速5号線>護国寺西交差点>大町桂月旧居跡>目白通り>胸突き坂>水神社>関口芭蕉庵>新江戸川公園>神田川>江戸川交差点>今宮神社>服部坂>小日向神社>新渡戸稲造旧居跡>切支丹屋敷跡>蛙坂>深光寺>林泉寺>地下鉄丸ノ内線茗荷谷駅 >小石川植物園>千川跡>簸川神社>不忍通り_猫又橋跡>不忍通り_春日通り交差>護国寺>東青柳下水跡>吹上稲荷神社>坂下通り>都電荒川通り交差>東青柳下水跡源流点>JR池袋駅

丸池
池袋駅を北口に下り、駅前を西へ弦巻川のあった丸池へと向かう。ホテルメトロポリタンの東脇に元池袋史跡公園というささやかなスペースがある。ここが弦巻川の水源であった丸池の跡。池袋という地名の由来ともなったところでもある。「袋」は低湿地の地勢を表すことが多いという。低湿地に湧水の湧き出る池があったのだろう。その面影は、今はない。もっとも、東京芸術劇場の地下では現在でも大量の地下水が湧き出ているようで、多くのポンプで排水しているとの話を聞いたこともある。目には見えないところで未だに自然の力が保たれている、ということか。 300坪もあったと伝わる丸池を水源とし、弦巻川はここから南西に下り明治通りに進む。池袋警察所から明治通りへと向かう道を進み、JR線、西武池袋線のガード下を通り明治通り手前に進む。道端に案内地図。如何にも水路跡といった道筋などないものか、とチェック。と、JR線と西武新宿線の間に緩やかに曲がる道筋があり、その道筋らしき続きが明治通りを渡り、その先を東へとこれも緩やかに蛇行する。しかも、その道筋は「弦巻通り」とある。これって弦巻川の川筋の、はず。偶然に川筋が見つかる。これは幸先がいい。

明治通り
道を少し戻り、JR線と西武池袋線の間の最低部で信号を渡り、先に進む。道なりに進み、西武池袋線下を潜り、小料理屋など昭和の雰囲気を残す街並みを進み明治通りに。道の反対側には時に訪れる古書店・往来座。ちょっと立ち寄り数冊購入。

弦巻通り
少し先に進み弦巻通りに入る。大鳥神社参道とある。先の都電荒川線との交差するあたりに大鳥神社があるが、そこへの参道ということ、か。ビッグネームの「鬼子母神」を差し置いての「大鳥神社参道」ということは、大鳥神社ってよっぽどの由緒があるのか、はたまた地元とのつながりがめっぽう強いのか、ちょっと気になる。

法明寺
緩やかにうねる道筋を進む。と、道の北側になんとなく雰囲気のあるお寺さま。桜並木の参道を進むと法明寺とあった。開基810年という古刹。元は威光寺と呼ばれる真言宗の寺であったが、14世紀の初め日蓮宗に改め法明寺となった。江戸の頃には徳川将軍家光より御朱印を受けるなど、代々将軍家の庇護を受ける。有名な雑司ヶ谷の鬼子母神はこの寺の飛地境内にある。境内には豊島一族や小幡景憲の墓がある。豊島氏は鎌倉から室町にかけ石神井城を拠点に、このあたり一帯に覇を唱えた一族。江古田の戦いで太田道灌の軍勢に敗れ勢は衰えるも、生き延びた一族は徳川氏に仕え八丈島の代官となった。ここに眠る豊島氏はその八丈島代官であった豊島忠次の一族である。
小幡景憲は江戸時代の軍学者。徳川氏に仕えるも、大阪の陣では豊臣方に与したとされるが、その実、徳川に内通していた、と言われる。事実、戦後1500石で徳川氏に仕えている。武田の遺臣でもあった小幡景憲は甲州軍学の集大成である『甲陽軍艦鑑』をまとめた。

鬼子母神
鬱蒼たる社叢の中に鬼子母神が佇む。室町の頃、永禄4年(1561)目白台(護国寺西交差点近く、清土鬼子母神のあるところ)で鬼子母神像が見つかり、東陽坊の堂宇に納められる。東陽坊はその後大行寺となり、さらに法名寺に合併したというが、それはそれとして、人々の信仰篤く、「稲荷の森」と呼ばれたこの地に鬼子母神堂を建てた。天正6年(1578)の頃、という。古来、この地には武芳稲荷が祀られ、ために「稲荷の森」と呼ばれた、と。
鬼子母神信仰がさらに盛んとなったのは江戸の頃、加賀前田藩前田利常公の息女により本堂が寄進されてから。門前にお茶屋や料亭が建ち並び大いに賑わったとのことである。前田家との関わりは、鬼子母神が納められた大行院が加賀藩前田利家公のゆかりの寺院であったため。子授け、安産、子育ての神ということもあり、鬼子母神への篤き信仰が従前よりあったのだろう。鬼子母神はインドの仏法守護の毘沙門さまの武将の奥さま。1000人もの子どもがおり可愛がっていたのだが、他人の子供は別物。当たるを幸いに「食べ」ていた。それを改心させようとお釈迦様が、鬼子母神の子供を隠す。鬼子母神は半狂乱。頃合いをみてお釈迦様が、「千人のうちの一子を失うもかくの如し。いわんや人の一子を食らうとき、その父母の嘆きやいかん」と言った、とか。以来改心し子授け、安産、子育ての神となった、と言う。
境内を歩く。権現造りの本堂は古き趣。前田家息女の寄進のものが現在まで残っているのだろうか。本堂に向かって右手に鬼子母神像。本堂の像は柔和な表情とのことだが、こちらは結構厳しい表情。仏法護持の職務故、か。左手に法(のり)不動堂。どちらかと言えば密教系の不動堂があるのは、法明寺がもとは真言系の寺院であった名残だろう。本堂を少し離れたところに武芳稲荷。この地のもともとの地主神。脇に大きな公孫樹(いちょう)がそびえる。樹齢700年以上、とか。
境内にある駄菓子屋・川口屋は江戸の頃からの店。すすきの穂を束ねたみみずくの人形「すすきみみずく」は鬼子母神の名物。江戸の頃、夢のお告げで生まれた、と。団子屋には「おせんだんご」。簡潔なる名通信文「おせん 泣かすな 馬肥やせ」とは関係なく、1000人の子供がいた鬼子母神にちなんで、多くの子宝に恵まれることを願う。本堂裏手には妙見堂。北斗七星を神格化した妙見さまは、もともとは空海の真言宗からはじまったものだが、日蓮との結びつきも強い。伊勢において日蓮の前に妙見菩薩が現れ仏教の未来を託された、とか。そのような縁起もあり法華教の布教者は全国の妙見宮の復興に尽くしたと。そういえば大阪の能勢の妙見さん、江戸の本所や柳島、池上本門寺の妙見堂など日蓮関連の寺院に妙見さんが目につく。ちなみに鬼子母神の「鬼」の表記だが、第一画目の点がないものもある。鬼の角を外した姿と示すものであろう、とか。

大鳥神社
境内を離れ再び弦巻川跡をたどる。東京音楽大学の間を抜け、道は如何にも川筋であったがごとくゆるやかにうねりながら進む。道が都電荒川線と交差する手前に大鳥神社。明治通りの入り口よりこの道筋は大鳥神社参道とあったわけで、いかほど大振りなる社かと思ったのだが、まことに普通の神社であった。
この神社、もともとは鬼子母神の境内にあった、という。江戸の頃、松江藩主の嫡子が高田村の下屋敷にて疱瘡を患い療養。ために、疱瘡除けの神として名高い出雲の鷺明神(大社町鷺浦)を鬼子母神の境内に勧請したとされる。「我 これより鬼子母神の神籬(ひもろぎ)の内に鎮座し衆人を衛護せん 若し広前の石を拾い取りて護符とせば決して悪瘡に悩まされることなかるらん」とは鷺明神の言。なぜ鬼子母神の地かはわからない。この地に移ったのは明治になってから。神仏分離で鬼子母神の境内を離れ、少々流浪の時期を経て篤志家の支えでこの地に移った。
大鳥神社と言えば酉の市。ご多分に漏れずこの社も江戸の頃から酉の市が開かれた。江戸末期の記録に『今年より雑司が谷鬼子母神境内鷺明神へ十一月酉の祭とて詣づること始まる是より年々賑わえり(武江年表)』、とある。あれ?あれ?鷺(さぎ)?鷲(わし)じゃないの?酉の市って、足立・花畑の大鷲神社にしても、埼玉・久喜の鷲宮神社にしても、浅草の鷲(おおとり)神社にしても「鷲(わし)」のはず。「鷺(さぎ)」も鳥には違いはないのだが、何がどうなっているのだろう。鷺(さぎ)大明神は素戔嗚尊の妻女であり、その実体は十羅刹女といった神も仏も皆同じ、というか、ぐちゃぐちゃな話もあるが、『新編武蔵風土記稿』では鷺明神社の祭神を瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)としている。祭神もあまりひっかからない。酉の市で名高い浅草の鷲大明神は妙見大菩薩とも呼ばれていたようだ。鬼子母神にも妙見堂がある。こういったことが関係したのだろうか。よくわからない。

雑司ヶ谷台地
都電荒川線を越える。進むにつれ道の左手に台地の高みが感じられる。道を離れちょっと台地へと寄り道をする。成り行きで進むと宝城寺とか水仙寺。宝城寺の門前には「祈雨日蓮大菩薩」の石柱がある。その横、少し坂を上る途中の水仙寺こと御嶽山清立院青竜寺は改築されたのだろうか、新しい建物となっていた。疱瘡快癒祈願の「疱守薬王菩薩」や雨乞いの松がある、とか。「江戸名所図会」の御嶽坂には崖上に瀧清寺、御嶽堂や講雨松。崖下あたりに堂宇、これはたぶん宝城寺、そしてその脇を流れる弦巻川が描かれている。川の周囲はひたすらに畑地が続くのみである。
水仙寺前を台地に上る。雑司ヶ谷台地と呼ばれ、武蔵野台地の末端が浸食されてできたもの。台地上の雑司ヶ谷霊園は明治になってできたもの。それ以前は将軍鷹狩りのための御部屋、そして農家が点在していたとのことである。台地上から弦巻川に開析された谷地を想う。地形図を見ると法明寺から清立院を結んだあたりが崖線。関口台地との間の窪みが弦巻川の谷筋である。しばし崖線に沿って進み、成り行きで弦巻川、というか弦巻通りに戻る。

不忍通り・清戸坂
下町の雰囲気を残す道筋を歩き首都高速5号池袋線の走る都道435号線に出る。高速道路の向こうには豊島岡の台地の高みがある。道を南に下り不忍通り・護国寺西交差点に。どこで見たのか忘れたのだが、交差点近くに大町桂月の旧居跡がある、と。桂月の紀行文のファンとしては、これは一度訪れるべし、と。旧居は文京区目白台3丁目。不忍通りが目白通りに合流する清戸坂を南へと渡り目白台に。この坂が清戸坂と呼ばれるのは、清戸道に上る道であった、から。目白台2丁目で目白通り(清戸道)に合流する。
清戸道は清瀬の清戸に向かう道。始点は江戸川橋のあたり。そこから椿山荘脇を通り西に進み目白、練馬と、おおざっぱに言って目白通りの道筋を進み清瀬に向かう。清瀬での将軍の鷹狩りの道とか、近郊の野菜を江戸に運ぶ道とか、あれこれ。とまれ一度辿ってみたい古道である。清戸?清土?鬼子母神像がみつかったという「清土」鬼子母神は「清戸」坂の脇、目白台2-14-8にある。清瀬の清戸も由来では「清い土」からとのことである。清土は清戸道の元の由来を残した名前か、鬼子母神像を掘りだした清い土からのものか、はてさて。

大町桂月旧居跡
道を渡り大町桂月さんの旧居跡を探す。あちらこちらとさまよいながら、住宅街の中に旧居跡の案内を見つける。奥は空き地となっていた。明治の末にこの地に住んでいた、という。詩人・随筆家・評論家として知られる、というが、散歩フリークとしては紀行文しか知らない。誠に、いい。終世酒と旅を愛し、大雪山系にはその名からとった桂月岳が残る。与謝野晶子の「君死にたもうことなかれ」に対して、「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」などと非難し戦後は少々評価をさげてはいたようだ。が、紀行文は誠に、いい。田山花袋の紀行文に『東京の近郊 一日の行楽』がある。これも、いい。同じく桂月に明治40年に書かれた「東京の近郊」がある。これもまた、いい。「一日に千里の道を行くよりも 十日に千里行くぞ楽しき」は桂月の言。

胸突坂
ここからは弦巻川の川筋を離れ関口台地の崖線へと進むことに。目白台の台地を成り行きで進み目白台3丁目交差点あたりに出る。目白通りを少し東に戻り、関口台の崖線へと右に折れる。一度訪れた胸突坂を下るため。
道の右手には和敬塾。首都圏の男子大学生の学生寮といったもの。旧細川侯爵邸跡でもあり、細川家の発意かとも思っていたのだが、前川製作所創業者一族が創始者であった。前途有為なる学生を支援したもの、か。先に進むと永青文庫。熊本藩主細川家が収集した日本・東洋の美術品が並ぶ。和敬塾やこの永青文庫、そしてその下に広がる新江戸川公園を含め、この辺り一帯は熊本藩細川家の屋敷跡である。あまりに重厚というか静かな佇まいであり、門外漢が気楽に足を踏み入れるという雰囲気ではない。先に進む。永青文庫の名前は建仁寺塔頭である「永」源院と細川藤高の居城・「青」龍寺から。
右手に新江戸川公園の緑を見やりながら急坂を下る。胸突坂。「むなつきさか」と読む。急坂故の名前だろう。案内には、「坂がけわしく、自分の胸を突くようにしなければ上れないことから、急な坂には江戸の人がよくつけた名前である」、と。とはいうものの、「自分の胸を突くようにしなければ上れない」ってどういうこと?胸突の意味がよくわからない。「胸を突かれたように息ができない」といった定義もあり、このほうがわかりやすいのだが。はてさて。坂を通したのは元禄10年(1697)のことである。

水神社
足元をとられないように胸突坂をゆっくり下る。コンクリートで固められてはいるのだが、雨上がりでのスリップが少々怖い。下る途中に水神様。神田上水の工事の安全を祈り祀られた。大きな銀杏の木も茂り、こぶりながら祠もあり趣もそれなりに、ある。
神田上水は江戸のはじめの頃、江戸の人々、というか、中心はお武家様用であり余水を町屋の人が、といったところではあろうが、とまれ、江戸の人々に飲料用の水を供給するため設けられた人工の水路。元々あった平井川の川筋を改修し、豊かな井の頭の湧水と結んだ、とか。
神田上水を守る水神様はこの付近に二カ所ある。この関口と目白台。目白台の水神様には行ったことはないのだが、目白通りの関口フランスパンのあたりという。どちら関口水神社であり,少々わかりにくいのだが、もう一カ所のほうにはまだ湧水がわいているとも聞いた。そのうち行ってみたい。

芭蕉庵
胸突坂を隔てて水神社の向かいに関口芭蕉庵。「ご自由に」とは言われても,少々足を踏み入れにくいしっかりした構えの門を入り、野趣豊かな園内を歩く。ひょうたん池の周囲を一回りし、さみだれ塚とか芭蕉堂を辿る。
さみだれ塚は芭蕉の句である「さみだれに隠れぬものや瀬田の橋」の短冊を埋めて墓としたもの。芭蕉庵の前面に広がる早稲田田圃を琵琶湖にみたて詠んだもの。「庵の前には上水の流横たわり、南に早稲田の耕地を望み、西に芙蓉の白峯を顧みる。東は堰口にして水音冷々として禅心を澄ましめ、後は目白の台聳(そび)えたり。月の夕、雪の朝の風光もまた備われり」は江戸図会に描かれる芭蕉庵あたりの景観である。芭蕉堂は芭蕉の33回忌を記念して弟子が建てたもの。
芭蕉庵には今までに数回訪れたことがある。神田上水を井の頭の水源から下り、この地を訪ねた。また、関口台地からの湧水が芭蕉庵中にわき出ると、湧水を見るためだけにこの地を訪ねたこともある。この庵の案内を見て、芭蕉が神田上水の改修工事に参画していたことは記憶に残ってはいたのだが、俳人の芭蕉と利水技術者との関連がよくわからない。いい機会なのでチェックする。
文京区教育委員会の案内によれば、「芭蕉は延宝5年から8年(1677から1680)まで神田上水の改修に参加し、龍穏庵という庵に住む」と言う。松尾甚七郎と称する伊賀・藤堂藩の侍であった、とする説もあるが、この頃にはすでに藤堂家を致仕している。俳諧で身をたてんと江戸に下り、藤堂家時代に身につけた水利技術で身過ぎ世過ぎを過ごしていたのだろう。本拠地は日本橋。俳句仲間の魚問屋の貸家に住み、ときどきこの地に出向き後に龍穏庵とよばれるようになる「庵」で寝泊まりしていたようだ。ちなみに、俳号「芭蕉」を使い俳句で一本立ちしたのは、この改修事業の2年後のことである。

新江戸川公園
神田川を少し西に戻り返し新江戸川公園に向かう。江戸の頃熊本藩細川家の下屋敷であったが、現在は文京区が管理している。目白台の崖線を活用し、傾斜面を活かし、台地からの湧水を池に取り入れた回遊式泉水庭園として景観学の書籍などでしばしば取り上げられている名園。「明暦の大火後どの大名も中屋敷、下屋敷をもつようになると、山の手の条件のよい場所は次々と大名屋敷によって占められていった。それらは武蔵野丘陵の豊かな自然をとりこみ庭園を配した私邸あるいは別邸としての役割をもった(中略)。多くの場合、大名屋敷は高台の尾根道に面して立地する。そこでは敷地内の斜面となるところに、高低差による湧水を生かして池をつくり、回遊式の庭園を設けることができるのである。しかも、できるかぎり尾根道の南側に立地し、敷地内の北寄りに位置する高台平坦部に建物を置いて、その南の斜面に庭園をつくろうとする傾向が読みとれる(『東京の空間人類学:陣内秀秀信(ちくま学術文庫)』)、と。
園内の遊歩道も尾根道風であり誠に、いい。元は3000坪程度であったようだが、次第に拡張し最終的には38000坪といった広大な敷地となった。数年前に訪れたときは入場料が必要だったように思うのだが、今回(2010年8月)は無料で入場できた。

椿山荘
神田川を江戸川橋交差点へと折り返す。芭蕉庵前をかすめ先に進むと左手崖面には椿山荘。江戸の頃、上総・久留里藩黒田家の下屋敷であったものを明治になって元勲山形有朋が購入し、「椿山荘」と名付けた。『江戸砂子』に「椿は椿山、牛込関口の近所、水神あり。此の山の前後、一向に椿なり。此所を向ふ椿山といふ・・・』ともあるように、この地は南北朝の頃から椿山と称される椿の名所であった、よう。桜の季節の花見の宴や結婚式などの折り、その庭園は歩いているので今回はパス。

関口大洗堰跡
左手に崖面を意識しながら江戸川公園に沿って進むと関口大洗堰跡に。この地に大きな堰があり井の頭から引かれた神田上水の水を保つとともに、江戸湾からの海水を防いだ。今でこそ東京湾の渚はこの地からはるか彼方ではあるが、江戸開闢の頃は現在の日比谷あたりは一面の入り江であったわけで、この関口のあたりまで海水が押し寄せるのはそれほど不自然ではない。関口の名前の由来も堰があったことから。
神田上水はこの地で二手に分かれ、ひとつは上水として後楽園にあった水戸藩江戸屋敷に引かれ、その後水道橋で懸樋にて神田川を渡り、石樋・木樋をもって神田や日本橋へと水を導いた。もうひとつは神田川の流れとなり、お茶の水の切り通しを抜けて大川に注いだ。公園には堰跡を残す。

音羽谷
江戸川橋交差点に。護国寺から江戸川橋に下る道筋は音羽谷と呼ばれ、関口台地と向かいの小石川・小日向台地を分ける。江戸の頃は紙漉が盛んであったと言う。その昔、この音羽の谷筋には関口台地に沿って弦巻川が、小石川・小日向台地に沿って水窪川(東青柳下水とも)が流れていた。今はともに暗渠となりその名残はないが、その昔は清流がながれていたのだろう。「みずまやの 牛の腹ゆく ほたるかな」とは蛍の名所であった弦巻川を詠んだ句である。音羽谷の出口で合わさったふたつの流れは伏樋で神田上水を潜り江戸川橋の下で神田川に注いだ。現在水窪川は坂下幹線と呼ばれる雨水幹線として音羽通りの下を通り神田川に注いでいる。ちなみに、音羽の由来は奥女中の拝領地であったから。

今宮神社
次は小日向台地と小石川台地を辿ることに。小日向台地は小石川台地南端部の支尾根といったものだろうか。茗荷谷のあたり、地下鉄丸の内線の操車場あたり地形の窪みによって分けかれているのだろう。江戸川橋交差点を越え小日向の台地に向かう。
道路脇の地図を見ると、目白坂下交差点近くに今宮神社がある。別名「玉の輿神社」とも称されるように、今宮神社は将軍綱吉の生母・桂昌院とのゆかりの社。八百屋の娘から将軍生母にまで上り詰めた桂昌院が篤い信仰を寄せたが故の呼び名である。それはそれとして、護国寺も桂昌院の発願によるもの。なんらかの関係があるのか、と思い訪れることに。
こぶりな社は護国寺建立の時に京都の今宮神社を分祀したものであり、この地には明治の神仏分離令にともない移り来たとのことであった。桂昌院と大いに関係があった。境内には明治時代、製紙業者が和紙に掛けて招聘した「天日鷲の命」の社がある。鷲>わし>和紙、といった連想ゲームだろう、か。

服部坂
今宮神社を離れ、さてどこから台地に取り付こうかと思案する。道脇の地図を眺めると、小日向神社とか新渡戸稲造旧居とか切支丹屋敷跡といった案内。フックが掛かる。まずは小日向神社に。台地下に沿った道を進む。神田川から2筋ほど入ったこの道路道は昔の神田上水の水路筋。このあたりは開渠で水戸藩の江戸屋敷に向かう。この道は上水通りとも呼ばれていたようだが、上水が廃止された後に水路を石で覆ったため現在では巻石通りと呼ばれる。
大日坂下交差点を越え区立五中前を左に折れ坂を上る。服部坂とある。名前の由来はかつて坂の上に服部権太夫の屋敷があったから。永井荷風は「金剛寺坂 荒木坂 服部坂 大日坂 等はみな 斉しく 小石川より牛込赤城番町辺を見渡すによい。・・・」と書く。今は高い建物が多く、それほどの見晴らしはないのだが、少し前の昔にはよき眺めであったのだろう。それぞれの坂は巻石通りを上る坂である。先ほど通り過ごした大日坂は往時坂の上に大日堂があった、から。

小日向神社
坂を上ると小日向神社がある。ここは服部権太夫の屋敷跡。古き社とのことで訪れたのだが、これといった趣は、なし。小日向神社は氷川神社と八幡神社というふたつの古き社が合祀して明治2年にできたもの。氷川神社は天慶3年(940)、当時の常陸国の平貞盛が現在の水道2丁目の日輪寺の上の連華山に建立した。八幡神社は昔の名を「田中八幡」といい、現在の音羽1丁目に鎮座していた。どこかの古地図で見たのだが、今宮神社のところに田中八幡があったが、そこが古地だろう、か。
ところで小日向だが、日向って、てっきり「日当たりのいい南面地」」と思い込んでいたのだが、実際は人の名前。文禄の頃の文献に、このあたりを領地とする鶴高日向という人いた、とある。で、家が絶えた後このあたりを「古日向」と称していたのが、いつの頃か「小日向」となった、とか。

新渡戸稲造旧居跡
台地上の道を成り行きで進む。誠に偶然に新渡戸稲造旧居跡の案内に行き当たった(文京区小日向2-1-30)。農政学者・教育者。内村鑑三とともに札幌農学校に学び、キリスト教の洗礼を受ける。その後東京帝国大学に学び、アメリカ、ドイツに留学し帰国後は自由主義的、人格主義の教育者として活躍。国際連盟設立に際してはその事務局次長に就任。『武士道』の著者としても知られる。




切支丹屋敷跡
民家の脇に切支丹屋敷跡の石碑。この地は宗門改役井上政重の下屋敷跡(文京区小日向1-24-8)。案内をメモ;江戸幕府はキリスト教を禁止し、井上筑後守政重を初代の宗門改役に任じ、キリスト教徒を厳しく取り締まった。この付近は宗門改役を勤めていた井上政重の下屋敷であったが、正保3年(1646年)屋敷内に牢屋を建て、転びバテレンを収容し宗門改めの情報集めに用いた。主な入牢者にイタリアの宣教師ヨセフ・キアラ、シドッチがいた。享保9年(1724年)火災により焼失し、以後再建されぬまま寛政4年(1792年)に廃止された、と。
島原の乱の後、筑前に漂着したイタリア人宣教師を収容したのが切支丹屋敷の始まり、とか。宣教師の転向を強要するのが最大の目的であった、とも。神父フェレイラ、そして神父を転向させようとする井上政重を描いた小説に『沈黙』がある。また、新井白石の『西洋紀聞』は収容された宣教師のヨハン・シドッチを尋問しまとめたもの。

切支丹坂
切支丹屋敷の辺りまで来ると小日向台地の左側の崖線もすぐそこ。谷間には丸ノ内線のヤードがある。この谷間が小石川の台地から小日向の台地をわけているのだろう。碑の前を進み左折すると坂があり、丸の内線のガードへと続く。その坂は切支丹坂と呼ばれる。
志賀直哉の小説『自転車』に切支丹坂の描写がある;恐ろしかったのは小石川の切支丹坂で、昔、切支丹屋敷が近くにあって、この名があるといふ事は後に知ったが、急ではあるが、それ程長くなく、登るのは兎に角、降りるのはそんなに六ケ(むつか)しくない筈なのが、道幅が一間半程しかなく、しかも両側の屋敷の大木が鬱蒼と繁り、昼でも薄暗い坂で、それに一番困るのは降り切つた所が二間もない丁字路で、車に少し勢がつくと前の人家に飛び込む心配のある事だつた。私は或る日、坂の上の牧野といふ家にテニスをしに行つた帰途、一人でその坂を降りてみた。ブレーキがないから、上体を前に、足を真直ぐ後に延ばし、ペダルが全然動かぬやうにして置いて、上から下まで、ズルズル滑り降りたのである。ひよどり越を自転車でするやうなもので、中心を余程うまくとつてゐないと車を倒して了ふ。坂の登り口と降り口には立札があつて、車の通行を禁じてあつた。然し私は遂に成功し、自転車で切支丹坂を降りたのは恐らく自分だけだらうといふ満足を感じた(『自転車』)。子供の頃自転車に熱中し、あちらこちらと走り回った、とか。坂の雰囲気を少し味わい、切支丹屋敷跡へと折り返し、茗荷谷駅方面へと向かう。

蛙坂
道なりに進むと茗荷谷へと下る坂に。道脇の案内によると「蛙坂」とある。メモ;「蛙坂は七間屋敷より清水谷へ下る坂なり、或は復坂ともかけり、そのゆへ詳にせず」(改撰江戸志)。『御府内備考』には、坂の東の方はひどい湿地帯で蛙が池に集まり、また向かいの馬場六之助様御抱屋敷内に古池があって、ここにも蛙がいた。むかし、この坂で左右の蛙の合戦があったので、里俗に蛙坂とよぶようになったと伝えている。なお、七間屋敷とは、切支丹屋敷を守る武士たちの組屋敷のことであり、この坂道は切支丹坂に通じている、と。

茗荷坂
坂を下りきったところに深光寺。滝沢馬琴の墓がある。『南総里見八犬伝』で知られる。深光寺と拓殖大学の間を上る坂は「茗荷坂」。案内をメモ;「茗荷坂は、茗荷谷より小日向の台へのぼる坂なり云々。」と改撰江戸志にはある。これによると拓殖大学正門前から南西に上る坂をさすことになるが、今日では地下鉄茗荷谷駅方面へ上る坂をもいっている。(中略)茗荷谷の地名については御府内備考に「・・・・・・むかし、この所へ多く茗荷を作りしゆえの名なり云々。」、と。

林泉寺
茗荷坂の途中に林泉寺。しばられ地蔵をおまいりに伺う。階段を上り本堂脇に石仏があり、縄で巻かれていた。いつだったか葛飾東水元の南蔵院の、しばられ地蔵にお参りしたことがある。本家本元はそちらか、ともおもったのだが、こちらのお地蔵様も『江戸砂子』に「小日向茗荷谷林泉寺の縛られ地蔵に願かけの時、地蔵を縛り、叶うとほどくと言われ、地蔵縁日には大変な賑わいであった」と書かれている。結構昔から人々の信仰を集めていたのだろう。
説明書きにあった「しばられ地蔵」の名前の由来をメモ;昔、呉服屋の手代が地蔵様の前で休み、居眠り。その間に反物を盗まれる。奉行は石地蔵が怪しいとして縄をかけ、奉行所に運ぶ。物見高い見物人もそれについて奉行所内へ。許しもなく奉行所内に入った者たちに対し奉行は、罰として三日以内に反物を持ってくるように、と。で、集まった反物の中に盗品を発見、犯人も逮捕したという話が「大岡政談」にある、とか。この話の元になったのは葛飾区東水元の南蔵院だが、縛られ地蔵はこのころより有名になった、と。この話はわかったようで、よくわからない、がそれはそれとして寺を離れ坂を上り茗荷谷駅に。台地上にある茗荷谷駅では、いまひとつよくわからなかった茗荷谷の「谷」たる所以がわかった小日向台の散歩であった。

東京大学付属植物園
さてと、散歩もそろそろ最終段階。池袋から護国寺の東を流れ音羽の谷に注いでいた水窪川(東青柳下水)に向かう。茗荷谷駅から台地上の春日通りを進み不忍通りの交差点へともおもったのだが、どうせのことなら小石川台地を一度下り、白山台地との境をつくる谷端川の川筋を辿ろうと。少々迂回することになるが、ここまで来たら、どうということも、なし。
茗荷谷駅から昔の東京教育大学、現在の筑波大学跡地である教育の森公園脇の坂を下り東京大学付属植物園の北西端に。植物園に沿って進む道が昔の谷端川の川筋である。(ここから谷端川を北に上り猫又橋跡までは以前歩いた谷端川散歩の記事をコピー&ペースト)。
東京大学の付属施設であるこの植物園の歴史は古い。貞享元年というから、1684年、徳川綱吉の白山御殿の跡地に、幕府がつくった薬草園・御薬園が、そのはじまりである。三代将軍家光のときに麻布と大塚につくられた薬草園をこの地に移したわけだ。園内には八代将軍吉宗のときにつくられた、小石川養生所の井戸なども残る。養生所は山本周五郎の小説『あかひげ診療譚』でおなじみのものである。台地上や崖線をゆったりと歩く。巨木、古木のなかで最も印象的であったのがメタセコイヤ。垂直に天に伸びる姿はなかなか、いい。
谷端川はこのあたりで千川と呼ばれる。その所以は、この川筋は源流点で千川用水の水を取り入れていたから。別の説もある。千川用水開削の目的がもともと、小石川白山御殿・本郷湯島聖堂・上野寛永寺や浅草寺などの御成御殿への給水のため、ということ。神田・玉川上水からの給水が地形上不可能なため、新たな上水道を開削したわけだ。 要町から先の千川上水というか用水の流路をチェックしておく。要町3丁目から北東に東武東上線・大山駅付近まで登る>その先、都営三田線・板橋区役所駅前が北端のよう>その後は、駅前通・旧中山道に沿って南東に下る>明治通りとの交差するあたりで王子への分水>さらに旧中山道を下り巣鴨駅前・巣鴨三丁目で白山通・中山道通りに>白山通りを進み白山前道から白山御殿に給水、といった段取りでこの小石川植物園あたりまで進んできている。
この用水、将軍様だけでなく、駒込の柳沢吉保の六義園といった幕府関係者への給水、また本郷地区の住民も上水の恩恵に浴した。その後白山御殿閉鎖にともない、いくつかの紆余曲折はあったものの上水の給水はなくなり、水田灌漑用の用水として機能した、と。

簸川神社
小石川植物園の脇、台地の上に簸川神社。第五代孝昭天皇の時代というから、5世紀の創建と伝えられる古社。この神社、もともとの社号は氷川神社。簸川となったには大正時代になってから。天皇自体は伝説の天皇かもしれないが、その当時から簸川=氷川=出雲族の神様をまつる部族がこのあたりに住んでいたのだろうか。氷川神社のメモ:氷川は出雲の簸川(ひかわ)に通じる。武蔵の国を開拓した出雲系一族が出雲神社を勧請して氷川神社をつくる。武蔵一ノ宮は埼玉・大宮の氷川神社。武蔵の国に広く分布し、埼玉に162社、東京にも59社ある、とは以前メモしたとおり。もとは小石川植物園の地にあったが、その地に館林候・徳川綱吉の白山御殿が造営される。ために、おなじところにあった白山神社とともに元禄12年(1699年)、この地に移った。八幡太郎義家奥州下行の折、参籠した、といったおなじみの話も伝わっている。
簸川神社坂下一帯は明治末期まで「氷川田圃(たんぼ)」と呼ばれる水田が広がっていた、とか。神社階段下に「千川改修記念碑」。白山台地と小石川台地に挟まれた谷地を流れる川筋は水はけが悪く、昭和9年には暗渠となる。「千川通り」のはじまり。千石の地名は、千川の「千」と小石川の「川」の合作。

猫又橋
民家の間を続く谷端川跡を進み不忍通りに。横切ると、歩道脇に「猫又橋の親柱の袖石」の碑。「この坂下にもと千川(小石川とも)が流れていた。むかし、木の根っ子の股で橋をかけていたので根子股橋と呼ばれた」との説明文。谷端川はこのあたりでは千川とか小石川と呼ばれるようになる。交差点の上は猫又坂。不忍通りが千川の谷地に下る長い坂。千川にかかっていた猫又橋が名前の由来。猫又とは、根子股とは別に、妖怪の一種であったという説もある。このあたりに、狸もどきの妖怪がいたとか、いないとか。

本伝寺
不忍通りを東に、千石3丁目交差点を越えゆるやかな再び小石川台地に上る。春日通りとの交差点の手前に立派なお寺様。本伝寺。何気なく入った境内に波切不動があった。池波正太郎の『鬼平犯科帳』に波切不動堂が描かれている。『鬼平犯科帳;逃げた妻』;大塚の波切不動堂は、はじめ伊勢の国の或る村に安置されてあったのを、かの日蓮上人が伊勢路を旅するうち、霖雨のため水量を増した河を渡りかねているとき、老爺に姿を変えた不動明王が河の水を切って上人を渡河せしめたという。この不動明王の本尊を東国へ運び、大塚の地に移したのも日蓮上人だそうな。 「農民、その塚上、松の木の下に一宇の草堂を営建して、これを安置したてまつる」と、物の本にある。 いまは、東京都文京区大塚仲町の内だが、当時は江戸の郊外のおもむきがあり、それでいて、新義真言宗豊山派の大本山.護国寺が近いだけに、町なみもととのい、種々の店屋も軒を連ねている、と。
昔はこの本伝寺の場所ではなかったようだが、本伝寺にしても波切不動堂にしても『江戸名所図会』にも描かれている。本伝寺は大きな境内に不忍通りとおぼしき道を人が往来している。波切不動は狭い境内ながら、多くの人が往来する。物売り、駕籠、馬子、主人と奉公人とおぼしき連れなどなど。道は春日通りであろう。

富士見坂
台地上で春日通りと交差し、今度は小石川の台地を下り東青柳下水の水路跡に向かう。この坂は富士見坂。昔はここから富士が眺められたのだろう。道脇の案内によれば、この坂上の標高は28.9m。区内の幹線道路では最高点とか。昔は、狭くて急な坂道であったようだが、大正13年(1924)10月に、旧大塚仲町(現・大塚三丁目交差点)から護国寺前まで電車が開通した時、整備されて坂はゆるやかになり、道幅も広くなった、と。また、この坂は、多くの文人に愛され、歌や随筆にとりあげられている。「とりかごをてにとりさげてもわがとりかひにゆくおほつかなかまち(会津八一)」「この道を行きつつ見やる谷越えて蒼くもけぶる護国寺の屋根(窪田空穂)」。富士が詠われていないようだが、既に富士の眺望は過去のものとなっていたのだろう、か。

護国寺
護国寺の東側、いかにも水路跡といった通りを確認し、ついでのことでもあるので、護国寺へ足をのばす。お寺の門というより、武家屋敷の門構えといった惣門を入り境内に。五万石以上の大名家の格式をもつ門構えとか。五代将軍綱吉が生母である桂昌院のために建てた寺院であれば当然、か。大名屋敷表門で現存するものは、いずれも江戸時代後期のものであるのに対して、 この門は、中期元禄年間のもので、特に重要な文化財である、と案内にあった。
境内を本堂の観音堂へと向かう。不老門に通じる石段の右手には富士塚。『江戸名所図会』にそれらしき姿があったので気にしていたのだが、疲れのためか富士塚に行くのを忘れてしまった。本堂の観音堂は国の重要文化財。お参りをすませ、八脚門・切妻造りの堂々とした仁王門をくぐり不忍通りに。

水窪川・東青柳下水跡
不忍通りを戻り直し水窪川・東青柳下水の流路跡とおぼしき地点に戻る。根拠はないのだが、北から不忍通りへと合流し、通りの南を先に続く細路がいかにも水路跡といった雰囲気であった、から。結果的にはオンコースであった。不忍通りを渡った水窪川・東青柳下水跡は大塚2丁目・旧東青柳町を小日向の台地の下を進み、弦巻川の流れと合わさり江戸川橋で神田川に合流する。水窪川跡を源流へと向かう。源流点はサンシャイン60の近くということはわかってはいるのだが、流路はそれほどきちんと残っているとも思えないので、とりあえす成り行き、ということで先に進む。
皇室の御陵である豊島が岡御陵東側の石垣に沿って進む。豊島が岡御陵は護国寺と一帯になった台地となっており、その崖下を進む。民家の軒先といった流路を進むと、吹上稲荷神社がある。吹上>吹上御所>皇室>豊島が岡御陵、といった連想ゲームで、なんらかありがたい社かと、ちょっと寄り道。

吹上稲荷神社
社の裏手は鬱蒼とした赴き。豊島が岡御陵の社叢に連なる緑だろう。元和8年(1622)、徳川秀忠が下野国日光山より稲荷大神を勧請し、江戸城中紅葉山吹上御殿につくられた。もとは「東稲荷宮」と呼ばれた、と。後に水戸家の分家・松平大学頭家に、そして宝暦元年(1751)に大塚村民の鎮守神として現在の小石川4丁目に移遷。この頃に吹上御殿に鎮座していたことから名前も「吹上稲荷神社」と改めた。その後、護国寺月光殿から大塚上町、そして大塚仲町へと移遷し、明治45年に現在地に移った。

水窪川源流点
川筋跡に戻り先に進むと坂下通りに。根拠はないのだけれど、川筋跡とおぼしき道が坂下通りを越え、湾曲して進む。たぶんそれが川筋跡だろうと先に進む。道脇には大谷石の石垣で段差をつけた家があり、なんとなく川筋の雰囲気がある。道なりにぐるりと迂回し、再び坂下通りに。この先は流路らしき道は残っていない。崖下から離れないように先に進む。だけ、道すがらポンプ井戸などが残る。小さな商店街をかすめ先に進むと都電荒川線に当たる。成り行きで造幣局東京支局の石垣下に。幣局東京支局は戦犯を収容した巣鴨プリズンのあったところ。石垣下をかすめ、都電荒川線東池袋四丁目駅あたりに進む。近くに川筋跡らしき道が残る。
この先は川筋跡の痕跡はなにもないが、源流点とされる東池袋1丁目23の美久仁小路に向け高速5号線をくぐり、豊島岡女子学園脇を通り源流点に到着。池袋の繁華街、コンビニの脇に美久仁小路があった。
かつてはこのあたりから都電荒川線の池袋4丁目駅あたりまでは一面の湿地であったようだが、一帯の丘陵地であった「根津山」を切り崩し埋め立てられた、とか。弦巻川にしても、この水窪川にしても池袋付近にあった池や湿地を源流として護国寺の東西を下っていたわけである。今は昔、ということ、か。これにて少々長かった本日の散歩を終える。ちょっと疲れた。

本郷台地の東端をかすめ、台地上の街道を白山台地、そして駒込に文京区散歩の第二回。本郷台地の南端あたりの湯島聖堂からはじめ、正確には文京区ではないけれど神田明神をちょっとかすめ、湯島天神、白山神社、そして駒込の富士塚を本日のポイントと大雑把に想い描く。ポイント間のルートは成り行きで進むことにする。富士塚だけは今回がはじめて。江戸の頃には駒込の富士塚とその名を知られていたようだ。そういえば、神田明神と将門、湯島天神の「湯島」、白山神社の祭神菊理姫など、よくよく考えればその何たるかについては、ほとんど何も知らない。歩く・見る・書く、をとおして、あれこれが見えてくれば、との想を描き散歩に出かける。



本日のコース;JRお茶の水駅>湯島聖堂>神田明神>蔵前通り>妻恋神社>三組坂上>霊雲寺>湯島天神>麟祥院>切通し>講安寺>旧岩崎邸庭園>境稲荷神社>竹下夢二美術館>立原道造記念館>言問通り>弥生土器発祥の地>言問通り_本郷通り交差>追分>追分の一里塚跡>旧中山道>大円寺>白山上交差点>心光寺>円乗寺>白山下交差点>白山神社>本郷通り>吉祥寺>目赤不動(南谷寺)>天祖神社>駒込名主屋敷>駒込富士神社>上富士前交差点(本郷通り_不忍通り交差点)>六義園>千石一丁目交差点(不忍通り_白山通り交差点>白山通り>浄土寺>本念寺>地下鉄三田線・白山駅

湯島聖堂
JRお茶の水駅聖橋改札に出る。神田川に架かる聖橋を渡り、古の昔、伊達仙台藩が切り開いた神田川の水路を見やる。橋を渡りきったところに湯島聖堂への入口。孔子の銅像を眺めながら門をくぐり大成殿へと向かう。なんとなく、中国の寺院の雰囲気。孔子をおまつりする廟であるので、当然、か。
この湯島聖堂、元は忍岡(上野公園)にあった朱子学派儒学者・林羅山の別邸内に建てられた孔子廟と家塾がはじまり。儒学に重きをおく幕府は、1690年(元禄3年)、将軍綱吉の頃、廟をこの地に移し「大成殿」を建て幕府の「聖堂」とした。その後、1797年(寛政9年)には林家の家塾も幕府官立の学問所となり、昌平校とも昌平坂学問所とも呼ばれるようになる。昌平とは孔子の生まれた村の名前である。聖堂東側の昌平坂をのぼり本郷通りに。次の目的地は本郷通りを隔てた神田明神。

神田明神
鳥居をくぐり境内に向かう。参道左手にある天野屋さんでは甘酒を買ったことがある。創業以来、地下の土室(むろ)で糀をつくりそれをもとに甘酒や味噌をつくる。江戸の頃、18世紀のはじめに湯島には百件以上の糀屋があったようだ。江戸末期には味噌屋も八十軒ほどあった、とか。関東ローム層、いわゆる赤土は室をつくりやすかったのだろう。が、現在は天野屋さん1軒だけだ、とか。
随神門をくぐり境内に入る。神田明神といえば明神下の(銭形)平次でしょう、ということで、崖端に向かう。崖下を眺める場所を探すが今ひとつ、これといった場所が見つからない。江戸の頃は観月の宴も開かれたところも周囲は様変わり。結局男坂上から明神下を見下ろす。
男坂は神田の町火消「い」「よ」「は」「萬」の四組が石坂を献納。天保の頃である。脇にあった大銀杏は安房や上総から江戸に来る漁船の目印になった、と言う。江戸の頃、渚は現在の小名木川のライン、江東区の清洲橋通りに沿って東西に進む川筋あたりであったというから、それはよく見えたことだろう。ちなみに今日読んでいた『今朝の春;高田郁(ハルキ文庫)』に「仰ぎ見れば神田明神の大銀杏が見える」といった描写があった。なんとなく散歩にも小説にもリアリティを感じる。
明神さまには、一之宮には大己貴命(おおなむちのみこと)、二之宮には小彦名命(すくなひこなのみこと)、三之宮には平将門が祀られる。大己貴命や小彦名命はさておくとして、神田明神といえば平将門でしょう、とは思えども、よくよく考えると、いかなる経緯で神田明神と将門が結びついたのか、はっきりしない。そもそも神田明神に限らず江戸には将門由来の神社が多い。先日歩いた神楽坂に築土明神があったが、この神社など将門の首塚などもあり、結びつきは結構強い。将門といえば築土明神でしょう、と言いたいぐらい。地元民が将門の威徳を偲び、かつ怖れたが故に神田明神にお祀りした、との話があるが、あまりに唐突でよくわからない。あれこれと素人なりの推論・妄想をしてみることに。

社伝によれば、神田明神は天平2年(730)頃、武蔵国豊島郡芝崎村に入植した出雲系の氏族が、大己貴命を祖神として祀ったのに始まる、という。一之宮に祀られている大己貴命、というか大国主命・大黒様は出雲の神様であるので話は合う。もっとも、房総半島から移ってきた忌部族(海部族)が守護神である安房神社に祀られていた海神様を祀ったのが神田明神のはじまりとの説もあり、どちらにしても遙か昔のことで、よくわからない。わからないが、当時一面の入り江が広がる海辺の集落・柴崎に誰かが、なんらかの祖先神をまつったのが、そのはじまりだろう。
時代は下って10世紀前半に平将門の乱。争乱の経緯は省くとして、結局将門は武運つたなく討ち取られ首級は京の都に晒される。伝説によれば、首は天空を跳び柴崎の地、現在の大手町の三井物産の近くに飛来したとのことだが、そんなこともあるわけもなく、実際のところは、将門ゆかりの人々が密かに持ち帰ったのだろう。その首級をまつった祠・観音堂が津久戸明神=築土明神のはじまり、という。この段階では将門との関係は築土明神に大いに分があり、そもそも神田明神は姿も形も、ない。
更に時代は下った14世紀のはじめ、時宗の真教上人が柴崎の地を訪れる。当時、この地は疫病が流行しており、それは将門の祟りであると、朽ち果てていた祠を修復し供養する。と、あら不思議疫病が退散。上人を徳とした村人は近くの寺・日輪寺に留まるよう懇願。上人は天台の寺であった日輪寺に留まり、寺を時宗に改め念仏の道場とした。また、上人は近くにあった祠(安房神社との説も)を修復し、そこに将門の霊を合祀しその社を神田明神と名付ける。同時に日輪寺も神田山日輪寺と改名し、両社とも将門の霊を祀る所となった。ここで神田明神と将門が結びついた。神田の由来は、将門の胴塚をまつる茨城県岩井の地を神田山(かどやま)と呼ぶようだが、それに関係あるのだろうか。
更に更に時代が下って江戸の頃。江戸城の築城に際し津久戸神社は神楽坂に、日輪寺は浅草の柴崎、神田明神は現在の神田駿河台に移る。以降、神田明神は江戸城の鬼門の守護神として徳川家の庇護を受け大いにそのプレゼンスを高める。氏子は江戸の下町の半分以上を占めたと言う。現在で言えば、日本橋、秋葉原、大手丸の内、旧神田市場、築地魚市場などなど108町会をカバーしている、とか。境内に駕籠職人の籠祖神社、漁師の水神社などなどの摂社が祀られる所以である。
それはともあれ、神田明神の祭りが天下祭りとも呼ばれるようになる。御輿、というか当時は山車のようだが、神田祭りの山車が江戸城内に入ることも許されたようだ。神田祭りが天下祭りと呼ばれる所以である。こういった神田明神のプレゼンスが大きくなったが故に、ほかの社を差し置いて、将門=神田明神、ということになったのだろう、か。素人の妄想。真偽のほどは定かならず。ちなみに祭りの山車が神輿に変わったのは、市電だか都電だかの架線に引っ掛かるため、といった話を聞いたことがある。
ついでのことながら、二之宮の「小彦名命」誕生は明治期の将門の位置づけと大いに関係がある。徳川幕府が倒れ天皇の御代となった明治には、天皇に反逆した逆賊将門を祀るのは少々具合が悪かろうと、大己貴命との国造りのパートナー小彦名命を祭神とした、との説がある。大己貴命が鎮座するのに、どうして助っ人が必要だったのだろう?大己貴命と大己貴命のペアが必要だったのだろうか?また、小彦名命を茨城の大洗神社から分祠したとのことだが、大洗神社と神田明神はどういう関係だったのだろう。将門の本拠地が茨城であったことに何か関係があるのだろうか。はてさて。

遠藤家旧店舗・住宅主屋
次の目的地である妻恋神社へと成り行きで明神様に沿って進むと、明神様脇に誠に美しい木造の日本家屋がある。案内によると戦前の商家・木材問屋「遠藤家旧店舗・住宅主屋」。もとは江戸開闢期からの町屋である古町・鎌倉河岸に店があった、とか。建物は関東大震災後の昭和2年に建築されたもの。外壁は「江戸黒」とよばれる黒漆喰で伝統的な店蔵を再現している。一時府中に移築して保存していたものが、この地に移された。本当に美しい。
遠藤さんは神田明神の氏子総代をもつとめていた。将門塚の保存につとめ、かつ将門研究家でもあった、とか。佐伯泰英さんの『鎌倉河岸捕物控え』ではじめて知ったのだが、江戸開闢期からの古町町人にはいろいろと特権が与えられていたよう。

清水坂
遠藤家旧店舗・住宅主屋がある宮元公園を抜け蔵前橋通りに下り、清水坂下交差点から清水坂を上る。坂の名前の由来は明治・大正の頃の精機会社の名前から。江戸の頃、この地には霊山寺と言う寺があった。
寺は明暦3年(1657年)の明暦の大火後、浅草へ移ったが、その敷地は妻恋坂から神田神明神にいたる広大なものであった よう。その広大な敷地は明治になり「清水」という精機会社の所有となる。で、その広い敷地が邪魔となり湯島神社と神田明神の往来が不便なったため、敷地を提供し坂道を整備した。これが清水坂となった所以である。

妻恋神社
清水坂をちょっと上り、右に折れる。日本独特のホテルの前にささやかな社。社殿もコンクリート造りと少々赴きが乏しい。日本武尊ゆかりの社伝をもち、江戸の頃は王子稲荷神社とならんで稲荷社を勧請する際の惣社、総元締めであった社の雰囲気は、今はない。
日本武尊が東征の折、東京湾を渡り房総に向かう時、突然の大暴風雨。海神の怒りを鎮めるべく、妃の弟橘姫が海に身を投じる。妃を慕う日本武尊を思い、妃と尊を祀ったのが妻恋神社の始まり、とか。 「吾嬬者耶(あづまはや)」 (ああ、わが妻よ、恋しい)と言ったエピソードは散歩のいたるところで出会うので、縁起は縁起とするだけであるが、この神社の「縁起」物として名高いのは七福神を乗せた宝船の版画。「夢枕」と呼ばれ、正月2日の夜、枕の下に敷いて寝ると縁起のいい初夢が見られるとして売り出され、大いに人気を博したとのことである。
境内を離れる。日本独特のホテルには少々違和感があるも、この湯島天神の西側は明治維新後に栄えた花街・三業地。昭和のはじめには芸子置屋59軒、芸者100人以上、待合が31軒もあった、という。教育の街・文京区にこの類(たぐい)のホテルは如何に、との議論も多いが、歴史を踏まえてのホテルであろうから、「衣食足って」の後の「礼節」の話には、少々違和感あり。

霊雲寺
妻恋神社を離れ、三組坂上交差点に。家康亡き後、お付きの中間・小人・駕籠方の「三組の者」にこの地が与えられた。三組坂から湯島天神に向かう途中に大きな甍が見える。霊雲寺にちょっと寄り道。堂々たる堂宇は戦後再建されたコンクリートつくりのようだが、往時の威勢を少し感じる。チェックすると、江戸の頃柳沢吉保の帰依を受け、ために時の将軍である綱吉からこの地を得て寺を開いた。幕府から朱印状を受け元禄の頃は関八州の真言律宗の総本山であった、とか。
霊雲寺が知られるのはその結縁灌頂。出家に際してその守り本尊を決める儀式。目隠しをして曼荼羅の上に華を投げ、その落ちたところの仏と結縁する。ここで結縁した衆生の数は4万人近くいた、という。本堂の脇に灌頂堂が残る。江戸の名所図会にもこのお堂が描かれていた。

湯島天神
春日通り・湯島天神入り口を少し折り返し湯島天神に。境内に梅の木が並ぶ。紅梅、白梅併せ梅の名所となっている、と。湯島天神といえば、「♪湯島通れば想い出す お蔦 主税の 心意気♪」というフレーズを思い出す。「湯島の白梅」の歌詞の一部である。泉鏡花原作の『婦系図』、正確には原作をもとにした芝居でのお蔦と主税の別れの舞台がこの湯島天神となっている。『切れるの別れるのッて、そんな事は、芸者の時に云うものよ。......私にゃ死ねと云って下さい。』というあの有名なフレーズである。お蔦は後の鏡花夫人がモデル、「俺を捨てるか、婦を捨てるか」と主人公(鏡花がモデル)迫る先生は鏡花の師匠である尾崎紅葉とのことである。
梅園の脇に奇縁氷人石がある。落とし物や探し人の時は石柱の右側の「たつぬるかた」に、拾ったり見つけた人は左側には「をしふるかた」に紙に書いて貼っていた、という。氷人とは仲人の意味、とか。

湯島天神は菅原道真を祀る社として知られる。社伝によれば、雄略天皇2年(458)勅命による創建と伝えられ、天之手力雄命(あめのたじからおのみこと)を祀ったのがはじまりとか。天之手力雄命って、岩屋に隠れたアマテラスを引き戻し、世に明るさを取り戻した神様。縁起は縁起としておくとして、世が下り14世紀の前半、いかなる契機か定かではないが、菅原道真の威徳を偲ぶ郷民が京都の北野天満宮から天神様を勧請した、と。15世紀後半には太田道灌に、また徳川の御代も朱印地を受けるなど篤い庇護を受けた、とのことである。

菅原道真を祀る社を天神さまとか天満宮とか言う。どういう関係なのだろう。ちょっとチェック。天神さまとは、国津神に対する「天津神」であり、どれといって特定の神様を指すということではないようだ。天満宮は天満大自在天神を祀る社。天満大自在天神とは、怨霊として畏れられた、その魂を鎮めるために道真与えられた神号である。もともとは天神と道真は別物であったようだが、天満大自在「天神」として祀られた道真と天神が次第に同一視されるようになり、天神=道真=天満、というようになったのだろう。火雷天神を祀っていた北野の社が天満大自在天神=菅原道真を祀るようになり北野天満宮となったのはその証。
湯島天神は学問の神とはいいながら、婦系図の舞台など妙に艶めかしい。妻恋神社のところでメモしたように、花柳界が周りにあったのが大いにその遠因であろう。また、この神社は江戸の頃、富クジ発行の社としても知られる。聖俗併せ持つ社であろう、か。
それはそれとして、湯島の地名の由来。件(くだん)の如くあれこれ説がある。が、どれもしっくりこない。崖下一面は湿地であり、本郷台地の端にあるこの地が「島」のように見えた、と。それはそれでいい。が、「湯=温泉」が出たから、との説は如何にも不自然。「斎の島」からとの説もある。台地の突端にあり、昔はここに神を祀りその斎場があった、とする。「斎(いつき)の島」が、「ゆつきのしま」>「ゆしま」と転化したとする。台地の突端の斎場といった論は、よさげな気もするのだが、よくわからない。
湯島ではない表記もある。菅江真澄の「北国紀行」には由井(ゆい)島と示されている。武州豊嶋郡江戸油嶋郷と表記されているケースもある。はじめに「音」があり、それに「漢字」を被せるわけだから、表記をそのまま鵜呑みにすることはできないが、由井には「湿地」の意味がある。湿地帯に浮かぶ島、といったイメージは如何にも、いい。真偽の程は定かではないが、自分としては結構気に入っている。

麟祥院
春日通りの坂を少し上り麟祥院に向かう。坂は湯島の切通し坂と呼ばれていた。昔の奥州街道であった崖下の道を切り開き本郷台地と御徒町方面を結んだ。現在は湯島天神の逆方向にはマンションが建ち、地形がはっきりしないが、明治末期の写真を見ると崖上が緑地となっており、それなりに切り通しの雰囲気が感じられる。江戸の頃は急坂であったようだが、明治37年には上野広小路と本郷の間に電車が走るようになったため、緩やかな坂にした、という。
麟祥院は三代将軍徳川家光の乳母である春日局の菩提寺。寺の名前は春日局の法号から。境内は品のいい雰囲気。明治になって、この地には東洋大学の前身でもある哲学館が創立された。創立者である井上円了さんは中野散歩のとき、哲学堂で出会った。

講安寺
麟祥院を離れ、坂を少し下り「切通し公園」に向かう。切通しの名残でもないものか、と辿ったのだがありふれた公園でしかなかった。道なりに進み、お屋敷の塀をぐるりと一回り。趣のある坂に出る。案内に「無縁坂」と。その昔、この坂上にあった無縁寺によるとか、周囲武家屋敷が多いが故に、武家に縁がある>武縁>無縁、など例によって地名の由来はあれこれ。さだまさしの歌・「無縁坂」の舞台でもある、とか。
坂の途中に講安寺。土蔵造りの本堂が面白い。外壁が漆喰で塗り固められ防火対策を施している。住職の遺言として「類火は格別、寺内門前共に自火の用心専一に致す可き事」とある。

旧岩崎邸庭園
坂を下り、長い塀に沿って南進み旧岩崎邸庭園に。もとは越後高田藩・榊原氏の江戸屋敷跡。明治になり三菱財閥・岩崎家の屋敷となった。現在残る建物は三菱財閥三代目当主である岩崎久弥の館。洋館と撞球室の設計は英国人ジョサイヤ・コンドル。建物は重要文化財となっている。旧古川庭園の洋館や綱町三井クラブ、三菱一号館など散歩の折々にコンドルの作品に出会う。明治期のお雇い外国人として来日し、日本の近代建築の基礎をつくった人である。戦後はGHQに接収され、その後最高裁判所の司法研修所として使われていたが、現在は都立の庭園として公開されている。

境稲荷神社
東大構内東端に沿って道なりに進む。やたら朱のあざやかな小ぶりの社がある。境稲荷神社。創建時は不明。文明年間、15世紀の中頃に室町幕府の足利義尚が再建したとの伝承がある。社の名前は、この地が忍ヶ丘(上野台地)と向ヶ丘(本郷台地)の境であることによる。この社はかつての茅町(現在の池之端1,2丁目の一部)の鎮守であった、と。茅町とはいかにも茅の原というか、湿地のイメージ。昔は一帯が低湿地であったのだろう。
社の北脇には弁慶鏡ヶ井戸。義経主従が奥州に向かう途中、弁慶がこの井戸をみつけ喉を潤した、とか。江戸の頃には名水として知られ、戦中には被災者の渇きを癒したと。

言問通り
東大構内に沿って言問通りに向かう。道の途中に立原道造記念館とか弥生美術館・竹下夢二美術館がある。時空にはフックがかかるが情感にあまりに乏しい我が身としては、立ち寄るのも少々敷居が高い。素通りし言問通りに。根津に向かって少し下ると道の左手、東大農学部側に「弥生式土器発祥の地」の案内。東大農学と工学部の境(ゆかりの碑、のあるところ)、根津小学校裏の崖、東大工学部内弥生二丁目遺跡など諸説ある弥生式土器発祥の地の案内がある。いずれにしても往古一面の海を臨む本郷台地の端。そこに弥生の民が住んでいたのだろう。

弥生式土器発祥の地
更に少し根津方面に下ると、道の反対側、東大工学部側に「弥生式土器発掘ゆかりの地」の碑があった。ここも弥生土器発祥の候補地のひとつ。明治17年、東京大学の先生たちが根津の谷に面した貝塚から赤焼きの壺を発見。それがどうも従来の縄文式土器とは異なる、ということで土地の名をとり弥生式土器と名付けられた。
弥生の地名は水戸斉昭公の歌碑の詞書から。江戸の頃、このあたりは水戸藩の中屋敷。明治となり町名を決めるに際し、水戸藩の廃園にあった歌碑の詞書き、「やよひ(夜余秘)十日さきみだるるさくらがもとにしてかくは書きつくるにこそ;名にしおふ春に向ふが岡なれば、世に類なき華の影かな」の中から「やよひ(夜余秘)>弥生」を取り出し、向ヶ岡弥生町とした。

本郷追分
言問通りの弥生坂を上り返し本郷通りとの本郷弥生交差点に向かう。弥生坂は先ほど歩いてきた弥生美術館方面からの道との交差点あたりまでのよう。坂下に幕府鉄砲組の射撃場があったため、鉄砲坂とも呼ばれている。更に上り本郷弥生交差点を右に折れるとほどなく道はふたつに分かれる。そこが本郷追分と呼ばれた中山道と岩槻街道・日光御成道の分岐点。
街道が別れる角に一里塚の案内が残る。日本橋を出た中山道はこの地で1里となる。一里塚の案内がある家屋は高崎屋とあった。江戸の頃、追分には酒・醤油を商う高崎屋と青果を商う八百屋太郎兵衛という大店があったとのことである。この高崎屋はその後裔だろうか。上方からのブランド品:下り物に対抗するため、「下らない物=江戸近辺の地回り品」である定評ある野田や銚子の味噌や醤油に「江戸一」といったブランドで現金大安売りをおこない身代を築いたと言う。八百屋太郎兵衛は八百屋お七の実家、とか。

大円寺
17号線・中山道を白山に向かって進む。白山上交差点の少し手前に大圓寺。なにげなく寄り道。「ほうろく地蔵」がある。「八百屋お七」にちなむ地蔵尊であった。天和の大火(1682年)の際、避難した寺(円乗寺)で見初めた寺小姓に恋慕。火事が起これば再び会えるかと、実家に付け火。小火(ぼや)で終わったものの、付け火は大罪。火あぶりの刑を受けたお七を供養するため建立されたお地蔵さま。お七の罪業を救うため、熱した焙烙(素焼きの土鍋)を頭に被り、自ら灼熱の苦しみを受ける、その後このお地蔵さまは頭痛・眼病・耳や鼻といった首から上の病に霊験あると人々の信仰を得た。
お七が避難した円乗寺はすぐ近く。お七のお墓もあると言う。後ほど訪れる。ちなみに目黒の散歩で訪れた大圓寺は、お七の恋い焦がれた吉三が仏門に入り修行した寺。寺の名前が同じであるのは単なる偶然、か。
また、この寺には高島秋帆が眠る。高島平散歩の折り、松月院で出会った。徳丸が原(現在の高島平)で幕閣を集めて砲術の訓練をおこなったことで知られる。鳥井耀蔵に貶められ一時幽閉されるも、ペリー来航などの国難に直面し放免され海防指導に努める。高島平の名はこの人物の名前から。

旧白山通り
白山上交差点から旧白山通りを下る。この坂は薬師坂とも浄雲寺坂とも白山坂とも呼ばれる。薬師坂は坂の途中にある妙清寺の薬師堂から。浄雲寺坂はこれも坂の途中にある心光寺の寺号である浄雲院より。白山坂は坂を少し奥まったところにある白山神社から。白山神社は後ほど訪れることにして、坂を下り白山下交差点を左に折れ円乗寺に向かう。

円乗寺
路地といった雰囲気の円乗寺の入口に、お七の地蔵尊。今ひとつ寺域といった赴きに乏しい「小径」を進むと本堂横に三基の墓があった。住職や住民や、そして演じたお七が当たり狂言となった寛政年間の歌舞伎役者の岩井半四郎が建てたもの。お七の事件は世間の耳目を集めたのか、事件の3年後、貞享3年(1686)には井原西鶴によってお七が取り上げられた。お七が有名になったのもこの歌舞伎・浄瑠璃故のことではあろう。とはいうものの、そのブームもいつまで続いたのか、太田南畝が『一話一言』を書いた天明5年(1785)の頃には墓は荒れ果てていたようだ。「石碑は折れ、無縁の墓のため修繕もできない」とある。再びお七が有名になったのは、その少し後、上で目もしたように岩井半四郎の演じたお七が大人気となり、石塔を建ててからである。虚実入り乱れた八百屋お七の話は、恋い焦がれた寺小姓も吉三、とか吉三郎だとか、庄之助、とか佐兵衛とかあれこれ。

東大下水の支流・北指ヶ谷跡
白山坂下交差点に戻り、坂を少し上り戻し、なりゆきで左に折れて白山神社に向かう。白山神社への道は一度窪み、再び上りとなる。窪んだあたりは昔の東大下水の支流のひとつ、六義園から下る通称・北指ヶ谷の流路ではなかろうか。六義園からの水路は東洋大学前交差点で旧白山通りを越え、蓮久寺や妙清寺脇を下り、白山坂下で駒込方面から下る東大下水の本流・西指ヶ谷で合流する。

白山神社
複雑なうねりの地形を眺めながら白山神社境内に。開基は古く10世紀の中頃、加賀一宮白山神社を本郷1丁目の地に勧請。時代は下って江戸の頃、二代将軍秀忠の命により巣鴨原(現在の小石川植物園)に移すも、その地を館林藩主松平徳松(後の5代将軍綱吉)の屋敷造営のため、17世紀の中頃この地に移った。この縁もあり社は綱吉とその生母・桂昌院の篤い帰依を受けた。この神社の祭神として菊理媛(くくりひめ)がいる。イザナギが変わり果てた妻のイザナミに少々恐れをなし諍いを起こしたときに仲直りをさせた神さまとか。ために、縁結びの神、最近では、はやりのパワースポットとして菊理媛におまいりする人がいるとか、いないとか。それにしても、菊理媛って、古事記には登場しないし、日本書紀にもほんの一言だけ登場する神さま。「(イザナミから一緒に帰れないとの伝言を伝える、黄泉の国の番人の台詞に続いて)その時菊理媛も語った。イザナギはそれを聞いてほめ、別れて立ち去った」、と登場するのみ。何を語ったのかも書かれていない。死者の言葉を取り次ぐ、あの世とこの世の橋渡し=仲介をする、といったことから縁結びとなったのだろうか。よくわからない。
境内には富士浅間社・稲荷社・三峰社・天満天神社・山王社・住吉社といった摂社が祀られる。富士神社には小高い富士塚が残る。富士参詣に行けない人の模擬富士登山・信仰のために塚が立つ。八幡神社は10世紀中頃、奥州征伐に向かう八幡太郎義家がこの地に御旗を掲げ京の石清水八幡を勧請。戦勝を祈念した。ということは、このあたりに奥州への古道が通っていた、ということ、か。

吉祥寺
次の目的地は吉祥寺。東大下水の支流・北指ヶ谷跡かな、と思う道筋を辿り旧白山通り・東洋大学交差点付近に上る。その後は成り行きで北に向かい本郷通り・吉祥寺前交差点に。
本郷通りに面して風格のある山門が残る。参道に入ると脇にお七・吉三の比翼塚とか二宮尊徳の墓碑などもある。榎本武揚や鳥井耀蔵もこの地で眠る。先に進むと如何にも広い境内というか駐車場。30年ほども前にこの寺を訪れたときのうっすらとした記憶では、もっと構えの小さいお寺さま、といったものであったので、少々戸惑う。境内というか駐車場脇にこれまた風格のあるお堂がある。このお堂は教蔵。檀林寺の図書館といったところ、か。それにしても広い。その昔、曹洞宗の檀林(学問所)として学僧1000名を越え、七堂伽藍を誇ったお寺ではあるが、戦災で灰燼に帰した、という。このアンバランスなほどのスペースは、そのうちに往時の堂宇の再建を考えてのことであろう、か。檀林は現在の駒沢大学の前身である。
寺の歴史は古く室町の太田道灌の頃に遡る。道灌が築城の江戸城内に開山。その後江戸時代になり、水道橋津金に移る。水道橋も当時は吉祥寺橋と呼ばれていた。この地に移ったのは明暦の大火の後。寺院を江戸の町中から周辺に移した。火の気が多い寺院は火災もとになることが多かったのだろう。ちなみに中央線の吉祥寺は、明暦の大火で罹災した水道橋脇の吉祥寺門前の住民が移り住んだことからその名が付けられた。

目赤不動
吉祥寺前交差点を少し本郷方面に戻り、道脇にある目赤不動・南谷寺に向かう。お堂は本堂脇、二間四方といった、つつましやかなもの。もとは不忍通りと本郷通りを結ぶ動坂あたりにあり、赤目不動と呼ばれていたようだが、三代将軍家光が駒込に鷹狩りの折り、府内目白・目黒不動の因縁をもって目赤不動とすべし、ということで目赤不動となった、と。江戸名所図会には「目赤不動 駒込浅香町にあり。伊州〔伊賀国〕赤目山の住職万行(まんぎょう)和尚(満行、?~一六四一)、回国のとき供奉せし不動の尊像しばしば霊験あるによつて、その威霊を恐れ、別にいまの像を彫刻してかの像を腹籠(はらごも)りとす。 すなはち赤目不動と号し、このところに一宇を建立せり、始め千駄木に草庵をむすびて安置ありしを、寛永(1624-44)の頃大樹(将軍家光)御放鷹(ごほうよう)のみぎり、いまのところに地を賜ふ。千駄木に動坂の号あるは、不動坂の略語にて、草堂のありし旧地なり。後年、つひに目黒、目白に対して目赤と改むるとぞ」とあり、家光によりこの土地を賜ったのは記録に残るも、目赤となったのは後の世、とも読めるが、それはそれとして府内五色不動のうちのひとつ、目赤不動が誕生した。
日本各地に五色不動が残るが、江戸の御府内の五色不動も知られる。目黒(目黒区下目黒の滝泉寺)・目白不動(江戸の頃は文京区関口の新長谷寺。現在は豊島区高田の金乗院)は江戸の前から存在していたようだが、江戸の頃のこの目赤不動が生まれ、明治以降に目青不動(世田谷太子堂)、目黄不動(江戸川区平井の最勝寺と台東区三ノ輪の永久寺の2つ)が登場して現在に至る。

動坂
駒込の富士神社に向かう。近くに先ほどメモした動坂がある。このあたり、現在の駒込病院のあたりは鷹場のあったところという。動坂下から天祖神社にかけては御鷹匠屋敷や御鷹部屋などもあった。目赤不動での家光の鷹狩り云々の所以である。現在その名残があるとも思えないが、とりあえずちょっと寄り道。道すがら駒込名主屋敷跡。慶長年間というから17世紀の初頭、この地を差配した名主の屋敷。趣のある門が残る。現在もお住まいのよう。
成り行きで天祖神社に進み、道坂上あたりをかすめ、このあたりに鷹場があったのだろう、とか、目赤不動のもともとの赤目不動の祠があったのだろう、などと往古を想い富士神社へととって返す。

駒込富士神社
駒込の富士塚として知られる。散歩の折々に富士塚が現れる。所沢・佐山湖脇の荒畑富士、葛飾・飯塚の富士塚、川口・木曽呂の富士塚などが記憶に残る。通常、塚と社殿が分かれていることが多いのだが、この神社は塚の上にのみ社殿がある。社殿部分は平らになっており、富士塚でよく見るお椀を伏せた、といった形状ではない。長さも40mほどもありそうで結構大きい。古墳跡とも言われるが、定かではない。元は本郷にあったとのことだが、その地が加賀藩の江戸屋敷となったため、この地に移った、とか。
富士塚は富士信仰のため富士山に見立てた造った塚。冨士講を組織し富士への参拝を本旨とするも、すべての人が富士に行けるわけもなく、その代わりとして各地の富士塚をお参りする。食行身禄などにより江戸で広まり、「江戸八百八講 講中八万人」と言われるほどになった。食行身禄の生涯は新田次郎さんの『富士に死す』に詳しい。

六義園
本郷通りを進み不忍通りとの交差点・上富士前交差点を少し先に進み六義園に。六義園は五代将軍綱吉の側用人・柳沢吉保の下屋敷として造った庭園。平坦なところに土を盛り、水は千川用水から導水し7年の歳月をかけて造り上げた。
柳沢家は甲府、大和郡山と領地は移るも、六義園は柳沢家の下屋敷として幕末まで続く。維新後は三菱財閥を興した岩崎弥太郎が入手。現在の赤煉瓦はそのときのもの。関東大震災や戦災に被害を受けることもなく現在に至る。
なお、六義園の六義とは紀貫之が『古今和歌集』の序文に書いた「六義」(むくさ)という和歌の六つの基調を表す語に由来するとか。「六義」の原典は『詩経』にある漢詩の分類法。3とおりの体裁「風」「雅」「頌」という三通りの体裁と、「賦」「比」「興」からなる三通りの表現法から構成される。紀貫之はこれを借用して和歌の六体の基調を表した、と。「風」は各地の民謡、「雅」は貴族・朝廷の公事・宴席の音曲の歌詞、「頌」は朝廷の祭祀の廟歌の歌詞、「賦」は心情の吐露、「比」はアナロジー、「興」は詩情を引き出す自然を歌うさま、といったもの、とか。

本念寺
長かった散歩も次が本日最後の目的地である本念寺。蜀山人こと太田南畝が眠る。通りを進み千石1丁目交差点で左に折れ白山通りに入る。千石駅前交差点で旧白山通りと別れ白山通りを下る。この道筋は東大下水の本流・西指ヶ谷の流路ではあったのだろう。緩やかな坂道の途中、京華高等学校の通りを隔てたあたりを右に折れ、台地を上る。ほどなく本念寺に。
ささやかなお寺さま。ここに大田南畝が眠る。18世紀末、天明期を代表するこの文人・狂歌師そして能吏には散歩の折々に出会う。上野公園の蜀山人の碑;一めんの花は碁盤の上野山 黒門前にかかるしら雲 。向島百花園の扁額、赤札仁王さまで名高い北区・田端の東覚寺には蜀山人の狂歌碑;「むらすずめ さはくち声も ももこえも つるの林の 鶴の一声」。新宿・十二社の熊野神社には太田南畝の水鉢があった(2010年9月に訪れた時は水鉢は消えていた)。神田駿河台には蜀山人終焉の地の案内;南畝辞世の句、「生き過ぎて 七十五年食ひつぶし 限りしられぬ 天地の恩」。入谷の鬼子母神には「恐れ入谷の鬼子母神、どうで有馬の水天宮、志やれの内のお祖師様」が残る。文京区散歩では牛天神で貧乏神を描く南畝にも出会った。

都内だけでなく多摩でも出会う。国立の谷保天神は南畝によって「野暮天」のキャッチフレーズをつけられところ:「神ならば出雲の国に行くべきに目白で開帳やぼの天神」。目白で出開帳を行いお賽銭を集めたことを皮肉った。日野の安養寺は南畝の『調布日記』に「大きさ牛をかくすといひけん木々の銀杏2本並びたてり、かのちちというものあまたありて目を驚かす」と記されている。『調布日記』は南畝が玉川通勘定奉行方として多摩川地方の水害調査に訪れた時の地誌録。その折りのこと、日野の本陣では当主手作りの蕎麦を食し「ことし日野の本郷に来りてはじめ蕎麦の妙をしれり......しなのなる粉を引抜の玉川の手づくり手打よく素麪の滝のいと長く、李白が髪の三千丈もこれにはすぎじと覚ゆ」という蕎麦賞味の所感を書いている。ついでのことながら、本邦初のグルメ本『頭てん天口有(あたまてん てんにくちあり)」』を著したのも南畝と言う。
太田南畝は18世紀末、天明期を代表する文人・狂歌師。若くして四方赤良(日本橋で有名な味噌「四方の赤、から)のペンネームで活躍。有名な「世の中に蚊ほどうるさきものはなしぶんぶといひて夜もねられず」も四方赤良の句、とも言われるが、寛政の改革での戯作者の弾圧をみるにつけ、逼塞が得策と狂歌から離れる。その後、幕府の人材登用試験に主席で合格。とはいうものの竹橋の倉庫での文書整理。「五月雨の日もたけ橋の反故しらべ 今日もふる帳あすもふる帳」と詠んでいる。
19世紀の頭には大阪銅座に赴任。銅にちなんだペンネーム「蜀山人」を使うのはこれ以降。その後長崎奉行所に赴任。はじめてのコーヒーのテースティングを記す;紅毛船にてカウヒイといふものを飲む。豆を黒く炒りて粉にし、白糖を和したるものなり、焦げくさくして味ふるに堪ず。上記多摩川巡視は60歳の頃と言う。
誠に多彩な人物。現在もっとも興味のある人物でもある。狂歌師、能吏、『調布日記』や『玉川砂利』、『向丘閑話』、。『改元紀行』等の十九冊にも及ぶ紀行文。それと水練の技を引き継ぐ家柄として、将軍家治の御前での水泳披露など、誠におもしろい。メモをはじめると終わりそうにないので、ちょっと狂歌をならべ、クロージングとする;
「雑巾も 当て字で書けば 蔵と金あちら拭く拭く(福々)こちらふくふく」。
「一刻を千金づつにつもりなば六万両の春のあけぼの」
「いまさらに何をかをしまん神武より二千年来くれてゆくとし」
「世の中に絶えて女のなかりせばをとこの心のどけからまし」
「今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」
「世の中は金と女がかたきなりどふぞかたきにめぐりあひたい」
なお、太田南畝を描いた小説には平岩弓枝さんの『橋の上の霜』がある。愛憎に悩む南畝の姿が描かれる。
本念寺の向かいにある浄土寺には松平忠直卿の墓がある、とのこと。それにしては少々趣に乏しい、ということで、軽くお参りし、成り行きで地下鉄三田線・白山駅に向かい、本日の散歩を終える。


文京区を歩くことにした。実際のところ、文京区は散歩の折々に幾たびと無く「掠め通って」はいる。豊島区の染井霊園にその源を発する谷田川(下流部では藍染川とも呼ばれる)、現在では川筋などなく道路を辿るだけなのだが、ともあれ本郷台地東側の川筋跡を根津谷に下ったことがある。同じく豊島区要町あたりの粟島神社・弁天池に源を発する谷端川(小石川とも千川とも呼ばれる)を下り、これもまた、今では川の面影など何処にもないのだが、その川筋跡を辿り白山台地と小石川台地の間の谷筋を後楽園まで下ったこともある。また、日暮の里・日暮里から上野台地に上り、一度根津の谷に下った後再び本郷台地に上り、またまた千川の谷に下りさらには小石川の台地を経て神田川に下ったこともある。こうしてみると、どれも武蔵野台地の東端にある文京区の、台地とその台地を刻んだ川筋を辿ったわけで、時空散歩の「空=地形」を楽しんだ、ということであろう。

今回の文京区散歩と銘打つも、いまひとつルートが思い浮かばない。根津神社にしても、後楽園にしても、伝通院や白山神社にしても折に触れて訪ねており、一筆書きを信条とする我が身としては、その地を再び訪ねる強い動機に今ひとつ欠ける。思案の末、というほどのこともないにだが、とりあえず郷土歴史館に行き、なんらかの「きっかけ」を得るに莫如(しくはなし)、ということで、まずは文京区ふるさと歴史館に。



本日のコース;JR総武線水道橋駅>神田上水掛樋跡>金毘羅宮>忠弥坂>昌清寺>本郷給水所公苑>壱岐坂通り>三河稲荷神社>春日通り>文京ふるさと歴史館>炭団坂>坪内逍遥旧居跡>菊坂>樋口一葉旧居跡>宮沢賢治旧居跡>本妙寺跡>長泉寺>本郷菊谷ホテル跡>菊坂通り>本郷通り>本郷三丁目交差点(春日通り_本郷通り交差点)>かねやす>桜木神社>法真寺(樋口一葉ゆかりの地)>石川啄木ゆかりの地>菊坂下交差点>白山通り・西方交差点>樋口一葉ゆかりの地>善光寺>沢蔵司稲荷>伝通院>春日通り>安藤坂>諏訪神社>神田川_白鳥橋>大曲>JR飯田橋駅

神田上水の掛樋跡
「文京区ふるさと歴史館」は文京区本郷4丁目にある。最寄りのJR野駅・水道橋で下車。水道橋と言えば、その名前の由来ともなった神田上水の掛樋(懸樋)跡が駅のすぐ近くにある。神田川に沿って外堀通りを少し上ると道脇に神田上水掛樋跡の碑。
掛樋のあたりの神田川の谷は深い。この谷は、人工的に開削されたもの。元々の川筋は飯田橋あたりから南に下っていたのだが、それでは江戸城が水害に晒される、ということでお茶の水の台地を切り開き現在の水路を開いた。水路用に切り開いたものではなく、江戸城の北方防備のため本郷台地を切り崩して造った外堀を活用した、との説もあるが、それはともかく、仙台の伊達藩が6年の歳月をかけて切り開いた。その故にこの谷は仙台堀とも伊達堀とも呼ばれる。掘り起こされた土は低湿地であった神田・日本橋一帯の埋め立てに使われた、と。
掛樋の通る神田上水は、江戸の人々、といってもお武家様中心ではあろうが、その飲み水を確保するため、遠く現在の吉祥寺にある井の頭の水を江戸の町まで引いたもの。もともとあった平川の自然水路を整備し直し、流路を井の頭までのばし、現在の神田川の流路がつくられた。神田上水は江戸川橋近くの関口大洗堰で神田川から分水される。神田川から分かれた上水の水路は現在の後楽園、当時の水戸徳川家の上屋敷に入り、その余水はさらに進みこの地で掛樋を渡る。掛樋を越えた上水は、神田や日本橋の武家屋敷を潤し、そしてその余水が町屋に流された、とのことである。

文京区ふるさと歴史館に向かうべく、外堀通りを下り白山通りの交差点に。交差点脇にある都立工芸高校前に住所案内。歴史館への道すがら、なにか見どころはないものかとチェック。金比羅宮とか昌清寺とか三河稲荷とか、いくつかの神社仏閣がある。どうせのことならと、成り行きで辿ることにする。

金比羅宮
白山通りを一筋入ったあたり、宝生能楽堂の北に金比羅宮。このあたり元は高松松平家下屋敷。金比羅山さんと言えば四国の讃岐。虎ノ門の金比羅宮は讃岐丸亀藩の邸内祠と言うし、ここの金比羅さんも高松藩の邸内祠かと思ったのだが、事はそれほど簡単ではなかった。もとは江戸の町人がつくった邸内社。あれこれ経緯はあるものの明治23年に深川に移り「深川のこんぴらさん」などと呼ばれ人々の信仰を得ていた、と。その社も戦災で焼失。昭和39年に高松松平家より下屋敷跡のこの地の寄進を受け、社を建てた。その際に江戸の頃、松平家下屋敷の邸内社であった金比羅様も合祀された、とのことである。
金比羅さんは、ヒンズー教のクンビーラ神から。ガンジス川に棲むワニが神格化されたものであり、その「水」との関連故に竜神・水神として信仰され、海難とか雨乞いの守護神として信仰されるようになったのだろう。お宮はこじんまりしているのだが、狛犬がちょっとユニーク。阿吽それぞれが、授乳であるような、子供を宿しているような姿をしていた。

忠弥坂
昌清寺に向かう。桜蔭学園の東、坂を上ったところにある。桜蔭学園は東京高等女子師範学校(現在のお茶の水女子大)の同窓会が母体とのこと。お茶の水の聖橋脇にある湯島聖堂、と言うか昌平坂学問所は、現在は小じんまりとした佇まいではあるが、往時は広大な敷地をもっていた。その敷地は現在の東京医科歯科大とか順天堂医院あたりを含めたものであり、明治に入り、敷地跡に東京女子高等師範学校が建てられた、という。桜蔭学園創立の所以を納得。
桜蔭学園脇の急坂を上る。坂の途中に案内。チェックすると「忠弥坂」とある。文京区教育委員会の案内によれば、坂の上に丸橋忠弥の槍の道場があり、また慶安事件に連座し逮捕された場所にも近いということで名付けられた。慶安事件とは、忠弥が由井正雪とともに幕府転覆を企てた一大事件のことである。

昌清寺
桜蔭学園のすぐ東に昌清寺。小じんまりとしたお寺さま。文京区教育委員会の案内によれば、開基は駿河大納言忠長卿(家光の弟)の乳母。二代将軍秀忠と母のお江は兄の家光より忠長を愛で、次期将軍を忠長に譲ろうとした。が、家光の乳母である春日局は「長序の順を違うべからず」と家康に直訴し、結局三代将軍は家光と決まる。忠長は駿府城主となるも、心穏やか成らず、さらに大阪城主も求めた。ために家光の怒りに触れ領地は没収、高崎城に幽閉され自害に追い込まれる。28歳であった。
忠長死後、忠長夫人のお昌の方は剃髪し松考院となる。乳母のお清も剃髪し、お昌の方より一字をもらい、昌清尼と称する。松考院は忠長の菩提をとむらうにあたり、公儀に配慮し自分にかわり、乳母であるお清・昌清尼に菩提を弔わせた、と。乳母が開基の所以にもドラマがある。

本郷給水所公苑
次はどこ、と考える。すぐ東に本郷給水所公苑があり、そこには神田上水の石樋が残されている。散歩を始めた頃、一時期、用水歩きに「萌えた(燃えた?)」ことがある。玉川上水を羽村から4回に分けて新宿大木戸まで下ったり、神田上水を井の頭から隅田川合流点まで下ったり、三田用水や品川用水、六郷用水跡を辿ったことがある。そんなこともあってか、この公苑脇にある東京都水道歴史館には幾度となく足を運んだ。そのときに公苑の石樋は見てはいるのだが、その記録もおぼろげになってきており、ついでのことなので、ちょっと寄り道。
公苑の隅に石樋が残る。結構大きい。内径は1.5mほどもある。石樋は今で言う大規模幹線水道管。石樋からは少し小さい枝線水道管・木樋を通して地中を進み、枡で分岐し、また、枡から水が汲み上げられた。江戸の昔の井戸は、自然井戸ではなく地中を通る「水道管」の水を汲み上げていた、と言うことだ。葦や芦の生い茂る低湿地、遠浅の入り江を埋め立てた江戸の町では、自然井戸で汲み上げた水は、塩気が強く、とてものこと飲めたものではなかったようだ。

三河稲荷神社
次の目的地は新壱岐坂を越えた先にある三河稲荷神社。三河は徳川の出身地でもあり、なんらかの謂われを期待して進む。これまた小振りのお稲荷さん。謂われは予想通り、三河国稲荷山隣松寺の稲荷社にはじまる。往古、家康が三河の一向一揆に立ち向かうべく隣松寺に陣を張り稲荷社に戦勝を祈願。勝利を得る。江戸入府に際し、稲荷社を吹上の地(現在の吹上御所のあたりだろう、か)に勧請。その後、御弓組がこの地に大縄地を拝領したとき、その鎮守として昌清寺に祀られる。
江戸城の鬼門防備の役割を担った御弓組も鬼門防備の任が上野寛永寺に移ったため、この地を離れ目白台に。跡地は町屋となり、三河稲荷も町屋の鎮守となる。明治になり神仏分離で昌清寺と別れるも、先ほど訪れた本郷給水所が造られる際にこの地に移った。成り行きで訪ねたお寺や公苑が、ぴったりと繋がった。成り行き任せの散歩の妙。ちなみに御弓組は文字通りの弓を操る戦闘部隊。大縄地とは職務を同じくする者に対して土地を一括して与えること。

壱岐坂
お稲荷さんを離れ、ふるさと歴史館に向かう。成り行きで進むと東洋学園脇に壱岐坂の案内。標識には、「壱岐坂は、御弓町へのぼる坂なり。 彦坂壱岐守屋敷ありしゆへの名なりといふ。 按に元和年中(1615~1623) の本郷の図を見るに、此坂の右の方に小笠原壱岐守下屋敷ありて吉祥寺に隣れり。 おそらくは此小笠原よりおこりし名なるべし。御弓町については 「慶長・元和の頃御弓同心組屋敷となる。」、と。
ということは、彦坂壱岐守屋敷と笠原壱岐守下屋敷があったということ、か。彦坂壱岐守は若年寄、大目付、大阪町奉行などを歴任した人物。「死んでも人の惜まぬ物は鼠とらぬ猫と井上河内守。吝い物は金借り浪人と彦坂壱岐守。人に嫌われる物は食いつき犬と仙石丹波守。風向き次第に飛ぶ物は糸の切れた凧と坪内能登守。人をはめる物落し穴と稲生次郎左衛門」などと「吝い」人物として揶揄されている。小笠原壱岐守は九州佐賀県唐津で当時六万石の大名。吉祥寺は現在本駒込に移っているが、当時は水道橋の都立工芸高校あたりにあった。水道橋も吉祥寺橋と呼ばれていた。

大クスノキ
壱岐坂を越えて春日通りへと成り行きで進むと大きなクスノキがあった。樹齢600年とも。これは御弓組の旗本であった甲斐庄喜右衛門の敷地内にあったもの。楠木正成の流れという4000石の旗本は明治に楠氏と改名した、と言う。このような楠が保存されているのが、誠にありがたい。

文京区ふるさと歴史館
春日通りを越えて、やっと本日のスタート地と目したところに着く。館内をぐるり。文京区教育委員会編の『文京のあゆみ』などを買い求めるが、なにより有り難かったのが、受付の方に頂いた「本郷付近の史跡地図」。史跡もさることながら、多くの名のある坂が記されている。三多摩を含め都内には502の坂があり、その内に文京区には115の坂がある、とのこと(『文京のあゆみ』より)。武蔵野台地東端に位置し、河川の開削や湧水による浸食により台地に谷が刻まれ、結果、本郷台地・白山台地・小石川台地・小日向台地・関口台地とその台地を分ける谷との間に数多くの坂道がつくられたのだろう。
少し休憩した後は、この地図を頼りに彷徨うことにする。手始めに歴史館のすぐ北にある炭団坂に向かう。

炭団坂
坂と言っても現在は石段となっている。教育委員会の案内によれば、本郷台地から菊坂の谷へと下る急な坂。名前の由来は、炭団などを商売にする者が多かったとか、切り立った急な坂で転び落ちた者がいた、ということからつけられた。台地の北側の斜面を下る坂のためにじめじめしており、今のように階段や手すりがないころは、特に雨上がりの時など転び落ち泥だらけで炭団のように真っ黒になった、ということ、か。
坂の右側の崖の上に坪内逍遥の旧居跡。明治17年(1884)から20年(1887)まで住んでいた。東大生時代に、家庭教師した親から感謝されプレゼントされた、とか。剛毅なものである。現在はオフィスビルとなっているが、この地で『小説神髄』や『当世書生気質』を著した。その後逍遥は歴史館近くに移ったとのこと。そういえば、歴史館脇にいかにも明治時代の趣を残す美しい屋敷があった。逍遥の屋敷跡ではないとは思うが、記憶に残る建物であった。それはともあれ、逍遥が移った屋敷跡は伊予の松山の元藩主・久松氏の育英事業である「常磐会」の宿舎となり、正岡子規もそこから大学予備門に通った、と。

菊坂
炭団坂を下り、下町の雰囲気を色濃く残す民家の間を抜け菊坂に下る。菊坂は本郷三丁目交差点付近から北西に下り言問通り通じるゆるやかな坂道。かつてはこのあたり一帯で菊の栽培が盛んであったのが、名前の由来。この界隈は多くの文人が居を構えたところ。震災や大戦の災禍から免れたこともあり、昭和の面影を今に伝えている。
菊坂の谷筋は東大下水(ひがしおおげすい)の支流の流路。東大構内(加賀藩上屋敷)の懐徳館の庭園にある池から流れ出し、本郷通りを横切り菊坂の谷を下っていた。永井荷風は「本郷なる本妙寺坂下の溝川」と描いている。この「溝川」は同じく東大農学部(水戸藩中屋敷跡)を水源に西片と本郷の境を下ってきたもうひとつの支流と合わさり、巣鴨駅あたりより白山通りの谷を下ってきた東大下水本流に合流する。東大下水本流はさらに下って小石川(千川・谷端川)に合わさる。
菊坂の一筋東に一段低い小径があるが、これが東大下水の支流跡であろう、か。ちなみに、「下水」とはいっても、現在我々が使う下水とは少しニュアンスが異なる。低地を流れる水路といった意味が近いだろう、か。湧水からの美しい水が流れていたとも伝わる。

文人ゆかりの地
荷風の描く「溝川」に沿って民家の軒先を辿っていると、炭団坂より少し北に宮沢賢治の旧居跡があった。現在はマンションとなっている。「溝川」を少し南に下る。民家の路地を左に折れると樋口一葉の旧居跡がある。あるといっても、昔ながらの民家とコンクリートつくりの民家の間、狭い路地に井戸が残っており、それが目安となっている。数年前ここに来たときは、案内もあったようなのだが、今回は見当たらなかった。訪れる人が多く、取り外したのかとも思う。迷惑にならないよう、早々に退却。

鐙坂
井戸の先に石段があり、その石段を跨ぐ、これまた年期の入った木造建築がある。先に進めるような、進めないような。人が住んでいるような、いないような。意を決して、石段を登る。人の気配がする。お邪魔にならないよう、静かに軒先をかすめ先に進むと鐙坂(あぶみ坂)に出た。坂の形が鐙に似ているとか、鐙をつくる職人がいたとか、由来はあれこれ。坂を少し上り、言語学者である金田一家の屋敷跡の案内あたりで引き返し菊坂に戻る。
今なお井戸の残る民家の軒下を進み菊坂の道筋に。胸突坂の手前に蔵造りの建物がある。伊勢屋と呼ばれるこの質屋は一葉ゆかりの地。金策のため通ったとの案内があった。

本妙寺跡
胸突坂を上る。上りきったあたりに趣のある建物。旅館鳳明館とある。明治の下宿屋をリユースした、とか。登録有形文化財に指定されている建物を見やりながら本郷通り方面に向かって進み、法真寺の手前で右に折れ本妙寺跡に。
本妙寺は振袖火事として知られる明暦の大火の火元とされている。町屋や大名屋敷だけでなく江戸城の天守閣も含め江戸の市街を焼き尽く。なくなった人が3万とも10万とも伝わる。
幕府はこの大火を契機に、江戸の都市改造計画をつくる。大名屋敷や武家屋敷、寺社を江戸の周辺部に移すことになる。大名屋敷に上屋敷だけでなく、中屋敷・下屋敷がつくられたのはこのことがきっかけ、と言う。戦備防衛上、千住大橋しか認めていなかった大川・隅田川に両国橋も掛けられた。火災の避難路を確保するためもあろう。これを契機に大川東岸に深川などの町屋が開かれることになる。
振袖火事と呼ばれる所以は、供養のために燃やした振袖が本妙寺の本堂に引火し、大火のトリガーとなったから、と。もっとも、火元も本妙寺ではなく老中阿部家との説もある。老中の屋敷が火元では如何にも具合が悪かろう、ということで本妙寺が火元身代わりの役を担った、といった説もある。振袖が出火の原因とするお話はいつ頃、だれがつくったのだろう、か。八百屋お七にしても、この振袖を着ていたお嬢さんにしても、寺小姓に恋い焦がれた故の出火・大火事ってプロットは結構近い。ちなみに、本妙寺は先日谷田川(藍染川)の源流へと染井霊園を訪ねたときに偶然出会った。染井の地には明治の末に移ってきた、と。名奉行・遠山金四郎や剣豪千葉周作が眠る。

赤心館跡
本妙寺跡の坂は菊坂に下る。少し逆に戻り、道を折れて菊坂ホテル跡に向かう。多くの文人が止宿した宿も今はなく、碑が残るだけ。菊坂ホテル跡を離れ、長泉寺を抜けて菊坂に下る途中に赤心館跡の案内。石川啄木が金田一京助を頼って上京し下宿した宿。作品は売れず苦しい生活であった、とか。有名な「たはむれに母を背負ひて そのあまり輕きに泣きて 三歩あゆまず」はこの時代に作品。

見返り坂・見送り坂
菊坂に下り、坂を本郷通りへと上る。ゆるやかな坂を上り切った本郷通りのあたりは。往古、見返り坂・見送り坂と呼ばれていた。本郷通りは本郷三丁目から菊坂にかけて微かに下り、菊坂から赤門にむかって微かに上る。この境目に橋があったと、言う。東大下水の支流に架かる橋であったのだろう。
道脇にある案内によれば「むかし太田道灌の領地の境目なりしといひ伝ふ。その頃、追放の者など、此処より放せしと。いずれのころにかありし、此辺にて大きなる石を掘出せり、是なんか別れの橋なりしといひ伝へり。太田道灌の頃罪人など湖の此所よりおひはなせしかば、ここよりおのがままに別るるの橋といへる儀なりや。」、と。江戸を追放される科人がこの橋を渡り見返り、そして親子が見送ったのであろう。

桜木神社
本郷交差点の脇を少し入ったところに本郷薬師。江戸に奇病(マラリア)が流行ったとき、このお薬師さまに祈願して病気が治まった。以来ここの縁日は神楽坂にある善国寺の毘沙門様とともに大いに賑わったようである。その傍に桜木神社。太田道灌が江戸築城に際し、京都の北野天神を勧請し、江戸城内にまつる。将軍秀忠の時、湯島の高台・桜の馬場に移し近隣の産土神として桜木神社と名付けられた、と。その後、綱吉が湯島聖堂をつくるに際し、この地に移る。名前の由来は桜の馬場からとの説と、ご神体が桜で彫られているとの説がある。

かねやす
本郷三丁目の交差点脇に「かねやす」の看板をつけたビルがある。「本郷も かねやすまでは 江戸の内」と呼ばれる「かねやす」の現在である。兼康祐悦という口中医師(今で言う歯医者)、がはじめた乳香散(にゅうこうさん)という歯磨粉を売るお店があった。
「本郷も かねやすまでは 江戸の内」とは、「かねやす」のあたりが江戸の町の境であった、ということだろうが、実際のところ、町奉行の支配は巣鴨辺りまでカバーしていたようで、この辺りが江戸の境と言うわけでもないようだ。世に言われる解釈は、「かねやす」を境にした街並みのコントラストによる、と。大岡越前守が防火のため、江戸の町屋は土蔵造りや瓦屋根を奨励したことにより、土蔵造り・瓦葺きの江戸の街並みと、その先にある中山道沿いの茅葺の家並みの境目が「かねやす」あたりであった、よう。現在の「かねやす」は洋品店となっている。

一葉桜木の宿
「かねやす」を離れ、本通りを東大・赤門方向へ進む。赤門の対面あたりに法真寺。ここも樋口一葉ゆかりの地。この法真寺の東隣に一葉が4歳から9歳まで過ごした、通称「一葉桜木の宿」があった、とか。現在は駐車場となっているあたりだろう。一葉がこの地に住んでいたころは、親の事業も順調であったようであり、恵まれた家庭で過ごしていた、と。『ゆく雲』の中で「腰衣の観音さま、濡れ仏にておはします御肩のあたり、膝のあたり、はらはらと花散りこぼれて、前に供へし樒の枝につもれるもをかしく」と描いているのが当時の法真寺。境内には今も腰衣観世音菩薩像が御座(おわ)します。なお、桜木の宿の由来は「詞がきの歌より」にある、「かりに桜木のやどといはばや、忘れがたき昔の家には いと大きなる その木ありき」から、だろうか。

啄木ゆかりの地・蓋平館別荘
法真寺を離れ、本郷台地を下り、次は小石川台地へと向かうことにする。東大正門あたりから成り行きで本郷通りを右に折れ先に進むと、道の途中に石川啄木ゆかりの宿の案内。蓋平館別荘とのこと。貧窮に喘ぐ啄木を助ける金田一京助の配慮で、赤心館よりここに移った、と。日誌には、「金田一君が来て、今日中に他の下宿へ引越さないかといふ予は、唯、死んだら貴君を守りますと笑談らしく言って、複雑な笑方をした。それが予の唯一の心の表し方であつたのだ!午後九時少し過ぎて、森川町一番地新坂三五九、蓋平館別荘(高木)といふ高等下宿に移つた。家は新らしい三階建、石の門柱をくぐると玄関までは担かな石甃だ。家の造りの立派なことは、東京中の下宿で一番だといふ。三階の北向の部屋に、二人で先づ寝ることにした。成程室は立派なもの。窓を明けると、星の空、遮るものもなく広い。下の谷の様な町からは湧く様な虫の声。肌が寒い程の秋風が天から直ちに入つてくる」とある。

言問通り
蓋平館前の新坂を下り言問通りに出る。本郷通の東大農学部前の交差点から下るこの道筋は東大下水(ひがしおおげすい)の支流の流路でもあったのだろう。言問通りには天空に架かる、というのは少々大げさではあるが、通りを跨ぐ橋・清水橋がある。樋口一葉の日記には「空橋」と描かれている。「空橋のした過る程、若き男の、書生などにやあらん、打むれて、をばしば(らんかん)に依りかかりて()」などとある。農学部あたりを水源とする東大下水の支流が、往時谷底であったこの言問通りを流れていたのだろう。

石坂
言問通りを下り、白山通りの手前にある石坂にちょっと立ち寄り。坂の途中にあった案内によれば、石坂の上の台地一帯、旧中山道まで備後福山藩十一万石阿部家の中屋敷と幕府の御徒組・御先手組の屋敷があった。明治から昭和初期にかけて阿部家自らが宅地開発をし、東大も近いという環境もあり、坪井正五郎、佐藤達次郎、木下杢太郎、夏目漱石、佐々木信綱、和辻哲郎といった多くの学者が住む瀟洒な住宅街となった、とか。戦災からも免れ、明治の趣を伝える街並みが残る、とのことであるが、少々時間がタイトになってきた。坂を上りきったあたりで引き返す。ちなみに、地名の由来はその昔、中山道を挟んで両側に町ができ。街道の東側を東片町、こちら右側を西片と名付けられた、とのことである。

白山通り
言問通りに戻り、白山通りへ。交差点を少し北に行った道脇、洋服のチェーン店の店先に樋口一葉終焉の地があった。この白山通りは東大下水の本流の流路。巣鴨駅付近を水源に、いくつかの支流を合わせ本郷台地と白山台地の間を下り、最後は小石川台地と白山台地の間を下ってきた小石川(千川・谷端川)と合流する、というか、していた、と。今は車が走る通りに川筋の面影を見るのは少々難しい。

小石川・千川筋
白山通りを渡る。通りの一筋西にも大きな通りがある。都道426号線のこの道は小石川(千川・谷端川)の川筋跡。小石川は豊島区要町あたりの粟島神社・弁天池を水源に、池袋の台地を、ぐるりと迂回し板橋そして大塚を経て小石川台地と白山台地の間を南東に下る。台地から平地に出た小石川・千川の川筋は流路を変え、白山通りと平行に下り、最後は白山通りを下ってきた東大下水の流路と合わさり神田川に注ぐ。
いつだったかこの小石川・千川の流路を源流点から辿り、この地の「こんにゃく閻魔」まで歩いたことがある。今回はこんにゃく閻魔をパスし、直接小石川台地に進む。ちなみに千川と呼ばれる所以は、東大下水が千川用水の水により養水されていたことによる。

澤蔵司稲荷
小石川2丁目と3丁目の間にある善光寺坂を上る。坂の途中に善光寺。元は伝通院の塔頭であったものが、明治になり善光寺と名前を変え、信州の善光寺の分院となった。善光寺の上隣に澤蔵司(たくぞうす)稲荷。縁起によれば、十八檀林(全寮制仏教学専門学校、といったもの)として多くの学僧が学ぶ伝通院に澤蔵司と名乗る修行僧が現れる。この学僧、非常に優秀で浄土教の奥義を3年で習得し、ある日「我は太田道灌公が江戸城に勧請した稲荷大明神である。浄土教を学び得たお礼に、今後とも伝通院を守っていこうと思う。ついては我のために祠を建て、稲荷台明神を祀るべし」とのメッセージ残し暁の空に隠れたという。坂道の脇に椋の大木が残るが、これには澤蔵司の魂が宿ると伝えられる。椋の樹のあたりを少し入ったところには幸田露伴が住んでいた。
澤蔵司稲荷のある慈眼院の境内には、松尾芭蕉翁の句碑が建立されている。「一(ひと)しぐれ 礫(つぶて)や降りて 小石川」。礫とは小石のこと。小石(礫)が多い川であったために小石川と呼ばれた。

伝通院
坂を上りきったあたりに伝通院。数年前訪れたときは本堂の改築をしていたように思うのだが、今は美しくできあがっていた。もとは小石川の極楽水に浄土宗第七祖了誉聖冏上人が開いた無量山寿経寺と呼ばれる小さな寺であったが、家康公の生母である於大の方の追善のため菩提寺と定められ、徳川将軍家の庇護のもと大伽藍が整えられた。傳通院殿は於大の方の法名。また、この寺は、関東十八檀林のひとつとして、浄土宗の教学の根本道場と定められ、境内に多くの坊舎(修学僧の宿舎)を有し修行僧が 浄土教の勉学に励んでいた、と。澤蔵司縁起の所以である。境内には千姫も眠る。二代将軍徳川秀忠の娘として7歳の時に豊臣秀頼(11歳)に嫁し、大阪城に入る。大阪夏の陣で豊臣氏が滅亡後播州姫路城主本多忠刻に再嫁。波乱万丈の生涯を過ごした姫君として多くの映画や小説になっている。

安藤坂
伝通院を離れ、春日通りを越え神田川の川筋へと坂を下る。坂の名前は安藤坂。元は結構急な坂道であったようだが、明治に路面電車を通す際に傾斜を緩やかにした。名前の由来は坂の西側に安藤飛騨守(紀州藩支藩・田部藩主)の上屋敷があったから。幕末の長州征伐の時、石州口総督軍の先鋒隊長に紀伊藩兵を率いた安藤飛騨守という人物がいる。長州軍に大敗したようではあるが、安藤坂の安藤飛騨守って、この先鋒隊長と同じであろう、か。
古くは坂の下は入江、江戸の頃も未だ白鳥池と呼ばれる一大湿地であったと言われる。そのため漁をする人が坂の上に網を干し、また御鷹組屋敷の鳥網を干していたので、「網坂」とも呼ばれたようだ。
坂の途中には中島歌子の案内;「塾主中島歌子(弘化元年~明治36年・1844~1903)は、幼名とせといい、日本橋に生まれた。水戸藩士の夫林忠左衛門が天狗党に加わって獄死したため、実家の旅人宿池田家にもどり、桂園派の和歌を加藤千浪に学び、実家の隣に歌塾萩の舎を開いた。御歌所寄人伊藤祐命(すけのぶ)、小出粲(つぶら)の援助で、おもに上、中流層の婦人を教え、門弟1,000余人といわれた。歌集『萩のしづく』(2卷・明治41年刊)などがある。明治36年、歌子の死去と共に萩の舎は廃絶した。樋口一葉(明治5年~明治29年・1872~96)は、父の知人の紹介で萩の舎に入門した。一時(明治23年・18歳)内弟子として、ここに寄宿したこともある。 佐佐木信綱は、姉弟子の田辺竜子(三宅花圃)、伊東夏子と一葉の3人を萩の舎の三才媛と称した。一葉はここで歌作と歌を作るため必要な古典の読解に励んだ。姉弟子の田辺竜子の『藪の鶯』の刊行に刺激されて、近世・近代の小説を読み、半井桃水に師事して、処女作『闇桜』を発表(明治25年)して、小説家の道に進んだ。近くの北野神社(牛天神・春日1-5-2)境内に中島歌子の歌碑がある(文京区教育委員会)。

牛天神
坂を下り牛天神に。牛天神下を流れる神田上水を描いた「江戸名所図会」を見たことがあり、どんなところか一度訪れたいと思っていた。石段を上り崖上に鎮座する天神さまにお参り。牛天神の由来は、その昔源頼朝が奥州征伐の折り、入江に船を漕ぎ寄せこの地で休憩。その時、牛に乗った菅原道真が夢に現れ、「ふたつ願いが叶う」とのお告げがあり、夢から覚めると牛に似た石があった、とか。頼家が誕生したとか、平家鎮定といった願いも叶い、そのお礼にと牛によく似た岩を御神体とし、太宰府天満宮より天神様を勧請した。この由緒のためか、ご神体の岩を撫でると願いが叶うといわれる。
牛天神の縁起はよく聞く話ではあるので、今ひとつインパクトに欠けるのだが、結構フックがかかったのが境内にある太田・高木神社の縁起。現在は芸能の神・天鈿女命(あめのうずめのみこと)と武の神・猿田彦命(さるたひこのみこと)のご夫婦をお祀りしているとのことだが、もともと祭られていたのは貧乏神と言われる黒闇天女。容貌(ようぼう)醜悪で、人に災難を与えるというこの女神、吉祥天の妹で、弁財天の姉。密教では閻魔王(えんまおう)の妃とされる。この貧乏神がある出来事がきっかけで福の神に転じることになる。
話はこういうことだ;小石川に住む貧乏旗本の夢の中にこの貧乏神が現れ、「住み心地がいいので長い間やっかいになったが、このたびよそに移ることにした。ついては、赤飯と油揚げを備えて私を祀れば福徳を授ける」、と。そのお告げを忘れず励行した旗本は、たちまち運が向き、お金持ちになった、とか。以来太田神社は貧乏神を追い出して福の神を呼ぶ神様として信仰を集めた。縁起自体はわかったようでわからないのだが、貧乏神がいた、ということが新鮮な驚きである。八百万の神さまの守備範囲は如何にも、広い。「江戸川をこえ、りうけうばしをわたり、すは町を北に泉松山にのぼり、牛天神のみまへにぬかづく。かたへに一つの石のほこらあり。苔むして戸ぼそなし。白駒がいふ、これ貧ぐう(窮)をまつる、よく人を禍福す。むかし小日向のほとりにすめる人、家の内の貧を逐ふとて、窮鬼のかたちをつくりて、此ところにまつれるなり」と太田南畝こと蜀山人が描いている(『ひぐらしのにき』)。

白鳥橋
安藤坂に戻り、神田川に架かる白鳥橋に。上にもメモしたが、往古東京湾はこのあたりまで入り込んでいた。その名残でもあろうか、江戸の頃も白鳥池と呼ばれる低湿地が一面に広がっていた、と。江戸になっても、このあたりまで汐が上ってきていたようで、関口の大洗に堰を設けたのは、井の頭から引いてきた神田川の真水に汐が交じらないようにとする配慮。白鳥池が完全に埋め立てられたのは明暦の大火の後と伝えられる。白鳥橋のあたりを大曲と呼ぶのは、神田川が大きく曲がっているため。白鳥橋から神田川に沿ってJR飯田橋まで下り、本日の散歩を終える。

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