港区の最近のブログ記事

青山とか赤坂とかは結構土地勘がある。仕事で夜、大手町とか丸の内で遅くなっても、渋谷まで歩いたりもする。慶応大学から六本木経由で渋谷まで歩いたことも何度もある。が、唯一、よくわからないのは昔の東海道沿い、高輪・白金といったあたり。
わからない、という意味合いは、どちらに進めばどこに行けそう、といった大雑把な土地勘がない、ということ。で、今回の港区散歩は、武蔵野台地の東端、台地と谷筋が複雑に入り組んだ武蔵野台地の末端部を歩くことにする。
散歩前に、カシミール3Dで地形図をつくった。複雑な、そして起伏に富んだ地形。東西に流れる古川が台地を刻んでできたものであろう。台地から湧き出た水が刻んだものであろう。地形のうねりは結構楽しめそう。が、いまひとつランドマーク、というかアンカー・ポイントが絞れない。例によって郷土館に行き資料を入手することから始める。(水曜日, 9月 06, 2006のブログを修正)



本日のルート;JR田町駅>港区郷土資料館>桜田通り>春日神社>イタリア大使館>綱坂>綱町三井倶楽部>首都高速2号・目黒線>四の橋>白金商店街>三光坂下>日吉坂上>桑原坂>白金台3丁目>NTT関東病院>上大崎1丁目>首都高2号・目黒線>上大崎3丁目>目黒駅>行人坂>五百羅漢>比翼塚>目黒通り・金毘羅坂>矢戸前川緑道>油面地蔵通り>祐天寺>東急・祐天寺駅

JR田町駅
Jr田町駅で下車。田町というのは、駅の三田口(西口)一帯の、昔の呼び名。江戸時代に「田」畑が「町」屋になったため、この名がつけられた、と。現在は田町という地名はこのあたりにはない。明治にはすでに頭に芝をつけ、芝田町とよばれていた、よう。ちなみに駅の東口・芝浦口は、昔は海。1913年から埋め立てがはじまり現在の姿になった、という。

港区立港郷土資料館
国道15号線・第一京浜を渡り郷土資料館に向かう。港区立港郷土資料館は芝5丁目。慶応大学 のすぐ近く。仕事で慶応大学に行くとき通る。慶応仲通商店街の一筋南、三田図書館の中にある。『文化財のしおり』を買い求める。ほかに無料で『港区文化財めぐり』といった資料も入手。常設展示自体はそれほど大きくない。件(くだん)の『常設展示目録』といったものは見あたらなかった。
資料をもとにルートを探す。いまひとつ絞り込めない。はてさてどうしたものだと思案しながら、『港区文化財めぐり』を眺める。と、白金台3丁目に「三田用水路跡」。川跡巡りフリークとしては、なんとなく惹かれる。白金台まで進めば、目黒はすぐそこ。ということで、三田から成行きで白金台に向かい、その後は目黒に出て、先日時間切れでお目にかかれなかった羅漢寺の五百羅漢さまに会いに行こう、というルーティング。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


春日神社・イタリア大使館
桜田通りを北に進む。慶応大学の北に春日神社。三田の総鎮守。天徳2年(958)武蔵国国司藤原正房が、屋敷神として奈良の春日神社を勧請したのが始まり、と。神社を離れ、慶応大学の外縁に沿ってゆるやかな坂道を進むとイタリア大使館。邸内に「大石主税(ちから)以下切腹跡」がある、と。当時は伊予松山藩・松平隠岐守の中屋敷。忠臣蔵の大石内蔵助の実子・主税以下10名が預けられ、切腹したところ。地図を見ると、邸内に池。切腹の場所を掘り返し池とし、その土で池の背後に築山をつくった、と言われるが、その池であろう。明治維新には松下正義公爵家。イタリア大使館になったのは昭和5年から。


綱町三井倶楽部

イタリア大使館の北縁を進むとT字路。突き当たりの鬱蒼とした森は「綱町三井倶楽部」。旧町名・三田綱町は明治以降、東京の高級住宅地の代名詞。三井倶楽部は明治の「お雇い建築家」・ジョサイヤ・コンドル設計。三井財閥の迎賓館として大正2年に竣工。現在は会員制倶楽部のようで、中に入ること叶わず。


綱坂
三井倶楽部の東側に沿って南に下る。「綱坂」と呼ばれる坂道。名の由来は、大江山の酒呑童子退治や羅生門の鬼退治で有名な、平安時代の武将「渡辺綱」が付近に生まれたという伝説によるもの。綱は武蔵守であった父親がなくなるまではこの地に住んでいた。が、その後、難波・攝津に移り摂津渡辺党として活躍。坂田金時などとともに、源頼光の四天王のひとり、となる。
で、三井倶楽部の北縁を東に下る坂道も渡辺綱にまつわる由来をもつ。「綱の手引き坂」がそれ。姥坂とも、馬場坂とも「小山坂」とも。小山坂の由来は、この坂道が旧三田小山町であった、ため。忘れていたが、三田「綱町」の名前の由来も、渡辺綱からきているのだろう。学生時代、平凡社選書で『酒呑童子』を呼んだことがある。これを機会に、もう一度読み返してみようか、と。

古川
三井倶楽部の南を西に進む。慶應グランドの南を進むと首都高速2号・目黒線。その下に古川が流れる。古川は、上流部は渋谷川。渋谷川水系上流部、渋谷以北は以前歩いた。甲骨川とか宇田川とか、代々木上原近辺の散歩の情景が思い出される。童謡・「春の小川」の情景は今となっては望むべくもない。

渋谷川が古川と呼ばれるのは「一の橋」より下流。後には、もう少し上流部、天現寺より下流が古川と呼ばれるようになる。「一の橋」から下流は新掘川とも呼ばれる。明暦の大火の後、江戸の都市整備に伴い、1675年、河口の金杉橋あたりから「一の橋」まで掘を開削。川幅を広げ、通船を可能にする改修工事がおこなわれた。新たに掘られた川、ということで「新掘川」、と。もともとの古川は現在の新堀川というか古川の西側を流れていた、と。

三の橋
古川を渡ると桜田通り。「三の橋」の交差点。麻布十番のところにある「一の橋」、その南の「二の橋」、そして古川橋で西に折れた先の「四の橋」、「五の橋」と続く一連の橋名。
橋の名前は古川の付け替え工事に関係する。掘の掘削は、はじめ、河口から「一の橋」とか「二の橋」あたりまで工事が行われた。で、最初に架けられた橋である から、「一の橋」。その後、元禄11年(1698年)、綱吉の別荘・白金御殿が現在の「四の橋」あたりに作られることになる。そのため、「四の橋」あたりまでの河川改修・拡張工事がおこなわれ、それにともない順次橋が架けられたのであろう。
ちなみに「麻布十番」って、白金御殿をつくる時の工区の名称。十番工区が「一の橋」北辺りであったのが、名前の由来とも。また、後に芝西応寺町の馬場がこの地に移つり、「十番の馬場」と呼ばれたようで、ために、麻布「十番」、と呼ばれるようになった、との説もある。が、時系列で考えれば、十番工区が由来というのが妥当だろう。

四の橋・薬園坂
古川橋を西に折れる。新古川橋を過ぎ「四の橋」に。「四の橋」の北に「薬園坂」。健康フリークの家康であった、から、というわけでもないだろうが、幕府には江戸の南北に薬草園があった。北は牛込に。南はこの地に。後にこの薬草園は白金御殿となるのだが、この坂の名前にその名を残す。
「四の橋」は別名「薬園橋」とも呼ばれた。ちなみにこの薬草園、薬草だけでなく花畑もつくられる。二代将軍秀忠が花好きであった、ため。小石川植物園に花畑が多いのも、そのため、だろう。北の薬園は天和元年(1681年)、その地に護国寺が建てられることになり廃園。この地の南薬草園も貞享元年(1684年)、白金御殿の 拡張のために廃止されることに。
で、薬草園はどうなったかというと、館林藩の下屋敷を拡張し、その敷地の一部を使い薬園をつくることになった。その下屋敷というのが小石川の地。現在の小石川植物園のあるところ。館林藩の下屋敷、ってのは、五代将軍綱吉が幼少の時を過ごしたところ。ために、小石川御殿と呼ばれる。また、敷地内に白山神社があったので、白山御殿とも呼ばれた、と。

白金商店街
「四の橋」から古川を渡り南に折れる。白金商店街を進む。白金といえば「白ガネーゼ」といった按配で、セレブなイメージが強い。が、この商店街は1910年発足の、下町風情一杯の町並み。 昔は麻布十番など目じゃなかった、ようではあるが、「街の賑わいOR NOT」のターニングポイントがどこにあるのか、あったのか、少々気になる。品川宿と品川駅周辺、赤羽駅周辺と岩淵宿や、北千住駅周辺と大鳥神社のある花畠のコントラスト。小岩と新小岩も確かそれっぽい話があったよう。昔は鉄道をとるか、とらないかが大きなファクターであったようだが、さて昨今はなにがおおきなファクターとなっているのであろう、か。

三光坂下交差点
先を進む。商店街を出ると車道に。恵比寿から白金1丁目の交差点に進む道筋。「三光坂下」交差点。坂にのぼる途中、専心寺にあった三葉の松が仏具・三鈷(さんこ)に似ていた、というのが名前の由来。ともあれ、このあたりお寺が多い。これは慶應義塾の右側、というか桜田通りの沿ってつくられている「三田寺町」の続き。南の高輪や、西の白金、つまり、この専心寺あたりまで続いている。
このあたりのお寺はほとんどが明暦の大火の後、この地に移った、と。それ以前は八丁掘りにあった、とか。城下町において寺町は町外れに集められ、城の防御拠点とされることが普通。ということは、この白金の地も八丁堀も江戸期においては、郊外であった、ということ、か。

日吉坂上
西光寺、専心寺の間を南西に上る三光坂を進む。聖心女子学園のなどもある閑静なお屋敷町。道なりに進み目黒通りに。少し西に坂をのぼると日吉坂上。目黒通りから桜田通りに下る日吉坂の「上」にあたる。日吉坂の由来は能役者・日吉喜兵衛が付近に住んでいたとか、例によってあれこれ。日吉坂のあたりは八芳園とか都ホテルが。

桑原坂
日吉坂上から南東、明治学院方面には桑原坂が下る。「くわばらざか 今里村の地名のひとつである。その起源について、 特別の説は残っていない」、と。交差点から坂に下るあたりに「古地老稲荷神社」。鳥居の横の説明をメモ;昔「江戸の名物は火事」といわれたほどで火伏せの稲荷信仰がさかんでありました。中でも古地老稲荷は「あが縁日の存続する限りこの地に出火をみせじ」との強い神託により、文政十三年、日吉坂上に鎮座。縁日には不可思議にも雨のおしるしがある。土民その霊験をかしこみ、火伏の稲荷、人丸様、火止る様とも呼び、お祀りする。関東大震災にも 第二次世界大戦空襲にも、火災を免れた」、と。        

瑞聖寺
目黒通りを少し西に進むと「瑞聖寺」。黄檗宗の名刹。「一山の役寺」という高い寺格をもっていた。山門も趣があるが、大雄宝殿がいかにも、いい。大雄宝殿って本堂といったものだろうか。とにかく豪壮な構え。思いもかけず、いい建物に出会った。こういった出会いが、行き当たりばったりの散歩の楽しみ。

三田用水跡
寺を離れ、白金台3丁目12にある「三田用水跡」を目指す。外苑西通りが目黒通りにT字に交わる交差点・白金台で目黒通りを離れ住宅地に折れる。成行きで進み、マンション・ハイクレスト白金台の敷地縁に「三田用水路跡」の案内。メモ;「三田上水は寛文4年(1664年)、玉川上水を下北沢で分水。中村八郎衛門・磯野助六によって開かれた。白金台、高輪、三田、芝地区に給水。享保7年(1772年)に廃止。が、翌々年から農業用水・三田用水として1宿13カ村に供給。当時の水道は自然の高低差で流れていたため、この付近では堤上に水路を残して通す工夫をした」、と。確かに堤を盛り上げ、その上に水路を通している。水路跡、いかにも堤っぽい。また、その水路跡に家が建てられている。
三田用水の水路をラフにメモ;笹塚あたりで玉川上水から分水>中野通りを下り井の頭通り・大山交差点>小田急・東北沢駅>三角橋交差点を東に>東大教養学部の裏手を進み山手通りと交差>松涛2丁目で旧山手通り>代官山・槍ケ崎交差点>その後は南東に一直線>目黒通りと交差する手前・三田2丁目あたりで少々湾曲>山手線にそって下り>目黒通りで東に折れ>白金台で南に折れ>高輪台交差点あたりで国道1号線・桜田通りと交差>高輪3丁目交差点あたりで二つに分岐>ひとつは南に下り、新高輪プリンスホテルをこえたあたりで東に折れ>品川駅前に降りる。もう一方は尾根道を北東に進み井皿子交差点を経由し三田3丁目に下り>慶応大学近く・春日神社あたりから東に進む。また、もうすこし北 に進み東に折れる水路もある、といったところ。

畠山記念館

先に進む。畠山記念館。もと薩摩藩主・島津重豪の別荘。明治維新後は寺島伯邸。その後、荏原製作所の創始者・畠山一清が私邸として購入。茶道具を中心に、書画、陶磁、漆芸、能装束など、日本、中国、朝鮮の古美術品を展示公開。収蔵品は、国宝6件、重要文化財32件を含む約1300件。とはいうものの、常設展示というよりも、企画単位での展示のスタイルのよう。訪れたときは 「明の磁器(?)と能装束」の展示であった。
島津重豪は薩摩藩8代藩主。斉彬はひ孫。斉彬とともにシーボルトと会見するなど「蘭癖」大名の筆頭。将軍家斉に娘を娶わせるなど、江戸後期の政界に大きな影響力をもち、高輪下馬将軍などと呼ばれる。寺島伯爵とは寺島宗則。元薩摩藩士。参議、外務卿、元老院議員、枢密院顧問などを歴任。地図にはこの敷地内に「般若苑」がある、とのとこだが、敷地は更地になっていた。

NTT東日本関東病院

成行きで畠山記念館西側の坂を下る。あれ?どこかで見た景色。NTT東日本関東病院。先日通院したところ。9月には入院し白内障のちょっとした手術をする予定の病院。まったくの偶然。こんなこともあるのか、と。

池田山

病院を東から南にぐるりと回り、次いで、西から北へと再び台地にのぼる。NTT病院の周囲がどうなっているのか、といった好奇心だけ。結構な高級住宅街が続く。このあたりは池田山と呼ばれていたよう。目黒川から見上げるとこの台地、ちょっとした山のように見えたのだろう。池田山と呼ばれた所以は、この地に岡山池田藩の下屋敷があった、から。大崎村でもあったので、「大崎屋敷」とも呼ばれる。


ねむの木の庭
東五反田5-19-5には「ねむの木の庭」。美智子妃殿下の実家・正田邸のあったところ。建物の取り壊しを巡ってあれこれニュースが流れていたのだが、今はねむの木をはじめいろいろな花々が植えられた公園となっている。

五百羅漢寺

道なりに西に。首都高2号目黒線を渡る。インドネシア大使館とかタイ大使館のあたりを進み、JR山手線に沿って続く台地端に。崖下にJR山手線。目黒駅に向かい、最後の目的地五百羅漢寺に向かう。行人坂を下り、太鼓橋を渡り、山手通りを越え五百羅漢寺に。先回は時間切れで閉まっていたので再度の訪問。再びメモする。
五百羅漢寺は元禄8年(1695年)、本所に建立。五代将軍・綱吉、八代将軍吉宗の庇護を得て本所五つ目(江東区大島)に「本所のらかんさん」として親しまれる。羅漢様を彫ったのは松雲元慶禅師。もと仏師。耶馬溪の羅漢様に触発され、一念発起、仏の道に仕え、江戸の町を托鉢。集めた浄財をもとに10年の歳月をかけて羅漢様を彫り続けた、と。
さすがに迫力がある。数にも圧倒される。表情にも惹かれる。この地に移ったのは明治41年。やっとのとこで雨露を凌ぐ程度であったものを、昭和54年再建計画が立てられ、56年に現在の近代的建物に収容されるに至った。

目黒不動・比翼塚
五百羅漢寺を離れ、お隣の目黒不動の門前にある「比翼塚」にちょっと立ち寄る。白井権八(本名;平井権八)と吉原の遊女・小紫の悲恋を哀れみ建てられた塚。 この比翼塚って、各地に多い。お七・吉三の比翼塚、お夏・清十郎の比翼塚、などなど。比翼の鳥って、中国の想像上の鳥。雌雄がそれぞれ一目一翼、常に一対となって飛ぶ。ということから、比翼って、男女の契りが深いことの喩えにつかう、と。知らなかったなあ。



油面(あぶらめん)地蔵通り商店街
目黒不動の西、台地の坂をのぼる。不動公園横を通り、目黒通り・金毘羅坂に。明治までこのあたりに金毘羅社があったから。あとは目黒3丁目、中目黒4丁目、祐天寺を経由し東急・東横線・祐天寺駅に。お目当ての古本屋は残念ながら閉まっていた。ともあれ、本日の予定はこれで終了。
祐天寺に向かう途中に「油面(あぶらめん)地蔵通り商店街」があった。面白い名前。ちょいと惹かれた。調べてみた;江戸時代にはこのあたり一帯では菜種
の栽培が盛んにおこなわれ、その菜種油は芝の増上寺や祐天寺の燈明に使われていた。この菜種油を奉納するかわりに祖税が免除されていたため、このあたりは「油免」と呼ばれていた。それが後に「油面」と変わった、と。地名の由来は実におもしろい。

港区散歩2回目は、よく耳にするのだが、未だに訪れていないお寺を巡ることにする。東禅寺、泉岳寺、善福寺、そして芝増上寺がそれ。(金曜日, 9月 08, 2006のブログを修正)



本日のルート:JR品川駅>高輪プリンス>高輪公園>東禅寺>桂坂>引き返し>高輪警察署前交差点>伊皿子交差点>伊皿子坂>泉岳寺>伊皿子交差点に引き返 し>魚藍坂>魚藍坂下>国道1号線・桜田通り>立行寺>白金商店街>四の橋>楽園坂>仙台坂上>仙台坂>善福寺>麻布十番>新一の橋>赤羽橋>芝公園>芝丸山古墳>東照宮>芝・増上寺>JR浜松町駅

R品川駅
東禅寺の最寄の駅JR品川駅に。品川駅は明治5年、横浜の桜木町駅とともに開場した日本最初の駅。品川区でメモしたように、この品川駅は港区にある。で、港区の名前の由来であるが、この地域が東京港を抱えているので、「東港区」という案があった。とはいうもの、「東京都東港区」では、早口言葉のトレーニング でもあるまいし、ということで「東」を除き、「港区」と。結構、いい加減。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


高輪公園
Jr品川駅・高輪口に出る。第一京浜・国道15号線を渡る。メリディアン・パシフィックホテル横の「さくら坂」をのぼる。道なりに進むと高輪プリンス・ホテル。エントランス付近に台地を下る階段。下ると「高輪公園」。案内板をメモ;
「この公園の付近は、三方を丘で囲まれた静かな窪地で、江戸入口の(高輪)大木戸から南方に当たり、国道東側まで海があって、景色のよいところであった。今から約300年前の寛永13年(1636年)に近くにある東禅寺が赤坂から移った。この禅寺を中心に多くの寺が建ち、その周辺には井伊家、本多家などの下屋敷があった。幕末には東禅寺は最初の英国公使館となった。付近の一部は江戸時代を通じ、荏原郡高輪村、と呼ばれた。高輪の名は、「高いところにある真っ直ぐな道」という意味の「高縄手道」が略されたもと、とか、岬を意味する「高鼻」がなまったもの、とも言われる。この地は酒井家のものであった」と。こういった、思いがけない案内に当たるのが、散歩の楽しみである。

東禅寺
公園のすく隣に東禅寺。東禅寺は、イギリスの初代公使であるオールコックと次代公使のパークスにより公使館として使用されていた。水戸藩士、信濃松本藩士などの攘夷派浪士の襲撃もあった、とか。襲撃の当日、福地源一郎(のちの桜痴)も外国方として詰めており、警備を担当していた幕府の別手組の隊士が襲撃浪士の「生首」を持ち来たり、「一番首の高名を記録してくれ」と。源一郎、驚きのあまり「狼狽」。「少々恥ずかしかった」と後に記している。



桂坂
東禅寺のある窪地から台地に戻る。北に進み、民家の軒下といった雰囲気の小道を通り、急な階段を上る。東に下る坂道になっている。名前は「桂坂」。この道筋は目黒通りの日吉坂上交差点から下る桑原坂>桜田通り・明治学院交差点>高輪警察前を経由して、最終的に桂坂として台地を下るルートであった。坂道にある標識:「むかし蔦葛(つたかずら・桂は当て字)がはびこっていた。また、かつらをかぶった僧が品川からの帰途急死したからともいう」、と。

高輪台の戦い
昔、このあたり一帯で合戦があった。1524年、小田原・北条氏と江戸城を居城とする扇谷上杉が覇権を求めて争った「高輪台の戦い」である。上杉軍は初戦で敗戦。川越に落ちる。勝利を得た北条氏綱は江戸城を手中におさめ、そこに遠山氏を置いた。その末裔が名奉行・遠山左衛門尉景元。あの遠山の金さん、である。

二本榎通り ・承教寺

坂をのぼり高輪警察署前交差点に。レトロな雰囲気の高輪消防署・二本榎出張所が目に付く。台地上を通る「二本榎通り」を少し進むと承教寺。英一蝶のお墓がある。江戸の人気画家。といってもその人生は波乱万丈。伊勢・亀山藩の医師の家に生まれる。両親が突如江戸に。その理由は不明。狩野派に弟子入り。17歳のとき破門。理由は不明。その後、多賀朝湖の名で絵を書く。また、俳諧でも名を高め、宝井其角(きかく)や芭蕉と親交を結ぶ。江戸の有名人に。が、二度の入牢。その理由は不明。二度目はついに遠島の刑。三宅島に島流し。将軍綱吉がなくなり、大赦。江戸帰還が許される。時に58歳。帰還の船で一匹の蝶。「一蝶」と。英は母親の姓「花房」から。最後の15年を江戸で暮らし、この地に眠る。
この承教寺、お寺には珍しい芝生の庭。変な顔の狛犬がいる。頭と体の大きさが、いかにもアンバランス。髭面のオヤジ顔。二本榎の説明文があった。メモする;その昔、江戸の時代、日本橋からきて品川宿の手前、右側の小高い丘陵地帯を「高縄手」と呼んでいましたが、そこにある寺に大木の榎が二本あって、旅人のよき目印になっていた。誰言うと無くその榎を「二本榎」と呼ぶようになった。それがそのまま、「二本榎」という地名となって続き、榎が枯れてからも地名だけが残った」、と。ちなみに、現在は二本榎という地名はなく、わずかに「二本榎通り」と、先ほどの高輪消防署・二本榎出張所などにその名を残す、のみ。

伊皿子交差点
二本榎通りを進み「伊皿子交差点」に。北西に下れば「魚藍坂」。南東に下れば「伊皿子坂」。目的地の泉岳寺は「伊皿子坂」下。坂の名の由来は、明国人「伊皿子 (いんべいす)」が住んでいたとか、大仏(おさらぎ)のなまりとも、更には、いいさらふ〔意味不明〕の変化とも、例によっていろいろ。

泉岳寺
伊皿子坂を下り、泉岳寺に。忠臣蔵で名高い寺ではある。寺格は結構高い。知らなかった。慶長16年(1612年)、徳川家康が門庵宗関を招き、今川義元の菩提をとむらうために開山。門庵宗関は今川義元の孫。もともとは外桜田、現在のホテルオークラのあたりにあった、とか。寛永18年(1641年)の寛永の大 火により焼失。その後、この地に移る。浅野家との因縁は、家光の命により、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名がこのお寺を復興することになって以来。往時は、学僧200名を有する、学寮として有名であった、と。四十七士のお墓におまいり。地形は台地の下の窪地、といった様。台地上には「二本榎通り」が走る。

討ち入り後、この泉岳寺までのルートをメモしておく。吉良邸を出たのが午前6時。泉岳寺に着いたのが午前10時頃、とされる。両国駅近くの吉良邸>回向院>万年橋>永代橋>霊岸島>稲荷橋>築地・鉄砲洲(浅野家上屋敷)>汐留橋>日比谷>金杉橋>将監橋>田町駅あたりの東海道(だろうか)道筋を泉岳寺へ。
回向院では入山を拒否された、とか。血まみれ、さんばら頭の姿をみて、坊さんは肝をつぶしたのだろうか。で、もともとは、両国橋東詰めで、追っ手を待って、切り合い、といった段取りではあったようだが、その気配もない。ということで、泉岳寺へと。それも、両国橋コースでは武家地が多く、なにが起きるかもわからない、ということで、町屋の多い永代橋コースを取った、と言われている。

魚藍坂
泉岳寺を離れ、伊皿子交差点に戻る。交差点から今度は魚藍坂を北西に台地を下る。魚藍坂の名前は、坂の中腹に魚藍観音を安置したお寺・魚藍寺があることから名付けられた。魚籃って、魚を入れる竹篭。魚籃観音って、その魚籃を持ち、魚を売り歩く美しい乙女姿の観音様。仏の功徳を町々に伝えたのであろうか。国道一号線・魚籃坂下交叉点に。




立行寺
魚籃坂下交叉点を少し西に。白金1丁目交差点。交差点から三光坂下への道筋にある立行寺(りゅうぎょうじ)に向かう。大久保彦左衛門が建てたお寺。もともとは麻布六本木にあったものが火災で焼失したため、寛文8年(1668年)この地に移る。彦左衛門のお墓の隣に一心太助も眠る。とはいっても太助さんは、講談に登場の人物。腕に「一心白道;ただこの道を一筋に、わき目をふらず目的に向かって行くこと。」の刺青があった、とか。お寺の前の道に。三光坂に続くこの道筋は彦左衛門の名前をとって、「大久保通り」と呼ばれていた。

重秀寺
すぐ裏手の台地上に重秀寺(ちょうしゅう)。坂道は結構きつい。開基は旗本・上田主水重秀(うえだもんどしげひで)。旗本のプライベート・MY菩提寺、ってほかにあるのだろうか。なんとなく惹かれる。

氷川神社
重秀寺の隣に氷川神社。これも台地の上に鎮座する。立派な構え。港区内には氷川神社は3社。赤坂、麻布、そしてここ白金。白金の氷川神社は区内でもっとも古い神社。7世紀後半につくられた白金総鎮守。氷川神社を少し西に進むと、先回散歩した三光坂下。なんとなくこのあたりの位置関係がわかってきた。「襷」がつながった。



麻布善福寺
三光寺坂下からは、次の目的地・麻布善福寺に向かって一直線に北に進む。道筋は、先回歩いた白金商店街を進み「四の橋」に出る。四の橋からは薬園坂をのぼる。周りにはお寺が多い。のぼりきったところが仙台坂上。坂の南、現在韓国大使館のあるあたり一帯に、仙台藩・松平陸奥守の下屋敷があったから。
善福寺。開基は天長元年(824年)。弘法大師が真言宗を武蔵一円に広めるために建てた、という。その規模高野山にならい、新高野と呼ばれ、関東屈指の霊場であった。都内では浅草・浅草寺に次ぐ古い歴史をもつ。
鎌倉時代になると、越後での流罪を許されて京に帰る途中の親鸞聖人が、この寺を訪れる。その謦咳に接した善福寺の了介上人は、全山あげて浄土真宗に改宗。以来、浄土真宗の寺として歴史を刻む。一向一揆や、大阪・石山本願寺など、浄土真宗と織田信長との争いには、援軍を送ったりもしている。秀吉は関東平定に際しても、寺領保護を約している。江戸になっても徳川家の庇護篤く、特に三代将軍家光は本堂を寄進したほど。寺領も広く、港区・虎ノ門という地名も、当時の善福寺の山門、とか。また、杉並の善福寺池は当時の奥の院跡、と言われている。広大な寺域を誇っていたのであろう。

このお寺は幕末の1859年には、初代アメリカ公使館。安政の仮条約以降明治まで、ハリス以下の公使館員を迎えることになる。福沢諭吉もこの寺に出入りしていた、とか。その故か、諭吉の墓はここにある。越路吹雪のお墓も、ここにある。
境内、というか総門内に「柳の井戸」。現在でも清水が湧き出ている。弘法大師が鹿島大明神に祈願して柳の下に錫丈(しゃくじょう)を突き立てると、清水が湧き出した。ために、鹿島神社の七つの井戸のうち一つは空井戸になった、とか。また、とある上人さまが柳の小枝で地面を払ったら清水が湧き出した、とも伝えられている。関東大震災や東京大空襲のとき、多くの人たちの渇きを癒した湧水、としても知られている。

元神明神社

寺を離れ、「二の橋」で古川を越え、そのまま東へ進む。オーストラリア大使館を越えたあたりで北に。先に進むと小高い台地に「元神明神社」。古いような、新しいような、なんとも言われぬ雰囲気に惹かれて石段をのぼる。思いがけない、「あれこれ」に出会うことになる。創建は平安時代の寛弘2年(1005年)。渡辺綱の産土神。
そういえばこの近くに「綱坂」などもあった。江戸になり、飯倉神明(芝大神宮)に移す、との徳川家の命に対して、ご神体を隠し留め、以来「元神明宮」として、多くの人々の信仰を受ける。

水天宮

またこのお宮さんには、水天宮が祀られている。この水天宮は隣接する有馬藩邸の屋敷神として、九州・久留米水天宮から分祀されたもの。明治元年有馬邸が青山に移るに際し、このお宮さんに分霊。その後青山の有馬邸は日本橋蛎殻町の現水天宮に移ったわけだ。『江戸切絵図』をチェックすると、中の橋から赤羽橋にかけて確かに、有馬中務大輔の屋敷が描かれている。
水天宮といえば、ほんの数日前、九州・福岡での学会に出席。少々の空き時間を見つけ、久留米まで足を延ばし、本家門元の「水天宮」、有馬侯の「篠山(ささやま)城」を見てきたばかり。奇しくも、というか、絶妙の「襷」のかかり方。
水天宮にはじめて出会ったのは、もちろん、子供の無事なる誕生を願ってのときではある。散歩で最初に出会ったのは確か狭山丘陵。トトロの森にあった久米水天宮。このとき、由来などチェックして、本家が九州の久留米にあることがわかった。久留米は親父が召集され、陸軍幹部候補生学校の生徒として青春の一時期を過ごしたところでもある。水天宮と親父の若かりし頃の地を求め、久留米に飛び出した、次第。それから数日もしないうちに、全くの偶然で「水天宮」&「有馬侯」と出会った。奇しくも、というより、予定調和、といった「襷」のかかり方であった。

中の橋・芝公園
元神明宮を離れ、「中の橋」交差点に。東に進み桜田通り・赤羽橋交差点を越えると芝公園。赤羽は、北区の赤羽とおなじく「赤埴」から。土器などをつくる良質の赤粘土がとれたのだろう。たしか、近くの麻生台2丁目には、「土器坂(かわらけざか)」といった、そのものずばりの地名もあった、よう。

芝・丸山古墳
芝公園の中に「芝・丸山古墳」がある。適当に公園に入る。結構な台地。こんなところに古墳があるとは、思ってもみなかった。それよりも、この公園の中に台地があるなど、想像もできなかった。古墳の麓に「丸山貝塚」の碑;「芝公園の丸山と呼ばれる丘陵東南斜面に貝層が残存。正式な学術調査はおこなわれていない。縄文時代後期のものと推測されている」。



台地をのぼる。「円山随身稲荷大明神」。このあたり一帯が古墳跡。案内板;「全長106m前後。後円部径64m。前方部前端幅約40m。くびれ幅約22m。都内最大級の前方後円墳。江戸時代以降、原型は相当損じられている。前方部が低く狭い形態や占地状態などから5世紀時代の築造考えられる。付近の低地の水田地帯に生産基盤をもち、南北の交通路を押さえていた、南武蔵有数の族長の墓だったと考えられる。坪井正五郎が発掘・調査した」と。
散歩をはじめるまであまり知らなかったのだが、東京にも結構古墳がある。多摩川台古墳群、亀甲山古墳、宝莱山古墳。上野公園・擂鉢山古墳。足立区・毛長川流域。北区・王子、葛飾の中川・江戸川流域などなど、散歩の時に出会った古墳も多い。今ひとつ、この時代のことに興味・関心が少々薄いのではあるが、そのうちに、あれこれ調べてみよう。

芝・東照宮

公園内を通り、芝・東照宮に。明治に神仏分離で増上寺から別れるまでは、安国殿と呼ばれる。家康公の法名「一品大相国安国院殿徳蓮社崇誉道大居士」に由来する。ご神体である家康の等身大の彫刻は家康が60歳のとき、自らつくらせた、とか。






芝・増上寺
お隣に芝・増上寺。もとは江戸貝塚(千代田区紀尾井町;平河町から麹町にかけて)に真言宗の寺院としてつくられる。当時は光明寺と呼ばれていた。明徳4年(1393年)浄土宗に改宗。以降、戦国から室町にかけて浄土宗の東国のかなめとして機能した。
江戸にはいり、徳川家康の庇護を受け、徳川家の菩提寺となり、慶長3年(1598年)には、現在の芝の地に移転。関東18壇林のひとつとして多くの学僧が学んでいた、とか。寺内には二代秀忠公、六代家宣公、七代家継公、九代家重公、十二代家慶公、十四代家茂公の、六人の将軍の墓所がもうけられている。この大伽藍も戦災で焼失。正面入口の山門とふたつの霊廟の入口にあった総門がかろうじて難を逃れた。現在の本堂は昭和49年再建されたものである。本日の散歩はこれで終了。芝大門からJR浜松町駅に進み、一路家路に。 

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