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和泉川北流散歩

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和泉川南流を辿った翌日、北流も辿ることにした。源流部に少し民家の下水溝として、当時の流路の名残を伝える他は、橋跡もひとつしかない、といった暗渠だけの流路跡ではある。源流部は南流とほぼ同じ、和泉水圧調整所(和泉給水所)の付近。そこからほぼ南流と平行に進み、環七・泉南交差点の少し北を越え渋谷区に入り、笹塚、幡ヶ谷と進み渋谷区本町4丁目の渋谷区本町小学校脇で和泉川南流・地蔵橋と合流し、神田川に注いでいた。途中にはきまぐれに新宿まで歩くときなどに辿る道筋もある。如何にも川筋跡といった、それっぽいカーブの道であり、なんとなく川筋跡などと感じてはいたのだが、今回の散歩でそこが和泉川北流跡であることがわかった。
ところで、和泉川北流とはいいながら、南流と平行する流れの間隔が如何にも短い。ふたつの流路の間には台地なども見あたらず、自然の流路であれば、氾濫などで合流し、ひとつの流れとなりそうなものであり、この北流って、ひょっとすれば自然の流路と言うより、人工的な流れ、用水跡かもしれない。和泉川南流れは緑道となったり、公園となったりと、如何にも川筋の名残を留めるが、北流は上で延べたように、一部に大きな通りに飲み込まれ、それっぽい川筋としての名残はあるが、大半が民家の軒先を辿る細路である。田圃への水を維持するため、地域の人たちが源流点あたりにあった、と言われる池からの流れに手を加え、人工的に流れを維持するようにしたもの、かとも思える。単なる妄想であり、何という根拠はないのだが、本流である北流との余りの距離の近さ故に、あれこれ想いを巡らせた。ともあれ、散歩に出かける。

本日のルート;和泉川北流源流点付近>沖縄タウン>大勝軒脇に進む>を民家の間に下水溝として残る>環七_泉南交差点手前の下水溝>泉南交差点>あすなろ作業所と水道道路の間を進む>水道道路を越えてきた和泉川南流と接近。駐車場で水道道路脇を進む南流と離れ、北東に進む>笹塚3−31で西に折れる>ほどなく大通りに飲み込まれる>中野通り_笹塚3丁目交差点まで大通りを進む>中野通りを越えると、ほどなく北東に折れる(幡ヶ谷3−38)>ほどなく右手の細路に>唯一の橋跡である神橋跡>中幡小学校裏を進む>細路を進むと六号通りの道筋に出る>東に進む大きな通りを少し進み、左に分岐する細路に入る>途中で氷川神社にお参り>ほどなく右に折れ本町小学校に>本町小学校脇の地蔵橋で南流に合流

和泉川北流源流点付近
先日の和泉川南流の源流点と同じく和泉川北流の源流点も和泉給水所の近くにある。井の頭通りが甲州街道とクロスする松原交差点の手前、井の頭通り和泉2丁目交差点脇に和泉給水所があるが、この和泉2丁目交差点を始点に新宿に一直線に向かう都道431号角筈和泉線。環七泉南交差点より先は水道道路として知られるこの道筋に和泉川北流の源流点があった、とか。
交差点を都道431号にはいり、南北に通る和泉仲通り商店街の道を越えると、道は急に細くなる。道の南に小さな公園が続くので、なんとなく川筋、といった「公共性」をもった道跡の名残を感じる。
和泉川北流源流点は、和泉仲通り商店街のひとつ先に南北に通る道筋あたり、であった、とのことである。往昔、このあたりには池があった、とも伝わる。

沖縄タウン
源流点あたりから先に進む。和泉明店街、通称、沖縄タウンと呼ばれる、少々レトロな商店街のクランク状になった道を北に折れる。北流は、クランクを折れたすぐのところにある中華料理店・大勝軒の脇を東に進む。通路はブロックされており、直進はできない。道を北に進み、最初の通を右に折れ、東に向かう。南に折れる最初の道筋を右に折れ、流路を探すと、民家の間の狭い隙間に、下水溝が残る。これが北流の水路跡ではあろう。
道を戻り、環七に向かって東に進み、環七との交差するあたりをチェックするため、少し南に下る。トヨタのデーラーの南側に細い下水溝が続いている。このあたりで環七と交差していた。とのこと。

環七
玉川上水新水路や和泉川南流でメモしたように、環七建設の構想は古く、昭和2年の頃には素案ができている。戦前には一部着工。戦時下になり中止となり、戦後も計画は遅々として進まなかったようである。Goo地図で見ると昭和22年の航空写真には、環七の道筋に代田橋あたりから青梅街道手前まで、世田谷通りから国道246号まで、など環七の道筋が断片的に見て取れる。
状況が動いたのは1964年(昭和39年)の東京オリンピック。駒沢競技場や戸田のボートレース会場、そして羽田空港を結ぶため計画が急速に動き始め、オリンピック開催までには大田区から新神谷橋(北区と足立区の境まで開通した。Goo地図で見ると、オリンピックを翌年に控えた昭和38年の航空写真には荒川の神谷橋あたりまで道筋が開通している。
その後、計画は少し停滞し、最終的に葛飾区まで通じ、全面開通したのは1985(昭和60年)のことである。構想から全面開通まで60年近い年月がかかったことになる。ちなみに、環七、環八、および環六(山手通り)は知られるが、その他環状一号から五号も存在する。環状一号線は内堀通、二号は外掘通り、三号は外苑東通り、四号は外苑西通り、五号は明治通り、とのことである。


(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)

 

環七・泉南交差点
環七・泉南交差点を渡ると水路跡は水道道路(都道431号角筈和泉線)の北脇を進む。環七と水道道路のクロスする北詰には社会福祉法人同愛会あすなろ作業所があり、水路跡はその敷地下を進む。あすなろ作業所東を南北に通る小径に進むと、いかにも水路跡らしき道筋が狭い民家の間を東に進む。マンホールが目につくので、水路跡ではあろう、かと。

北流と南流の接近点

民家の間を少し進むと駐車場前に出る。ここは、源流点より環七を越え、水道道路の南を進んできた和泉川南流が、水道道路を北に渡り、駐車場の南に出るところ。南流はここから水道道路の北脇を進むが、南流は北東に向かって民家の間を進むことになる。水路跡であろう、と思わなければ、まっこと、ありふれた民家軒下の小径といったものである。

大きな通りに水路は呑み込まれる
北東進むと、水路跡はほどなく西に向かう。民家の間の細路を少し進むと、急に大きな通りに出る。Goo地図で見ると昭和22年の航空地図にも比較的広い道筋が、北東方向へと緩く弧を描き中野通まで続いている。川筋の名残は特にないが、唯一、緩やかなカーブが川筋跡らしき雰囲気を残す。昭和22年のGoo航空地図には、笹塚中学校の北あたりから水路らしき筋が見える。



より大きな地図で 和泉川(神田川笹塚支流) を表示

中野通り
中野通り・笹塚3丁目交差点を越えると、南に向かって弧を描いた水路跡は、ほどなく北東へと流路を変える。流路が変わる地点のすぐ南、中幡庚申塔あたりで、それまで北流と平行して流れていた和泉川南流も北流と同じく北東へと切り上がっていたようだ。

神橋跡
北東へと進んだ水路跡はほどなく通を離れ、民家の間の小径に入る。小径に入って最初の交差点の四つ角に橋跡が残る。石に彫られた文字を見るに、神橋とあった。和泉川北流で唯一の橋跡である。昭和22年のGoo航空地図には、南北に通る、比較的大きな道と、水路跡がはっきり残っている。

中幡小学校裏
民家の間の細路を進む。先日歩いた和泉川南流は、緑道や公園など、いかにも川筋跡といった名残を残すが、今回の北流は、まっこと、軒下の細路といったものである。昭和22年のGoo航空地図でもなければ、おおよそ川筋跡などとは思えない。中幡小学校の裏門には、段差のあるコンクリートが残る。橋跡を覆っているのだろう、か。

六号坂通り
細路を先に進むと、大きな通りに出る。六号坂通りである。玉川上水新水路散歩でメモしたように、水道道路には一号から十六号までの番号表示をした通りがある。水道道路に水路があった頃、通りにはそれぞれ橋が架かっていた、とのことである。水道道路は関東大震災で堤が破れ、その後、水道を甲州街道下に敷設するようにした、とのことであるので、橋があったのは新宿の淀橋浄水場への水路が開かれた明治25年から関東大

震災の起きた大正12年の間のことであろう。




再び細路に
六号坂通りを越えると、比較的大きな通りとなる。先に進むと、すぐに通の北に細路が分岐する。昭和22年のGoo航空地図を見るに、和泉川北流は大きな通りを離れ、この細路に入る。相変わらず民家の軒先といった道筋である。





氷川神社
細路を進むと、左手に氷川神社がある。先回の散歩で氷川橋跡を通ってもおり、ちょっと寄り道。氷川神社は旧幡ヶ谷村の総鎮守。氷川神社は出雲の簸川(ひかわ)、から。古代、武蔵の地を開拓し

た出雲族の氏神様。分布はほぼ武蔵の国だけで、その数260余、とのことである。




地蔵橋で和泉川南流に合流
氷川神社を離れ、川筋あとに戻り、再び細路を進む。川筋は本町小学校の西側を南北に走る通りにあたると流路を南に折れ、地蔵橋で和泉川南流に合流する。ここから先は、和泉川南流・本流として進み、南台・弥生町の台地が切れるあたりで、神田川に注いでいた、とのことである。
玉川上水散歩をきっかけに、玉川上水新水路のことを知り、新水路を歩き、はたまた、その散歩をきっかけに、和泉川のことを知り、二回に分けて水路跡とおぼしき道筋を辿った。道筋に何となくの「ノイズ」を感じ、川筋跡か用水路跡ではなかろうか、などと思っていたところが、川筋跡、とわかっただけで、なんとなく嬉しい。

和泉川南流散歩

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先日、玉川上水新水路、現在通称「水道道路」と呼ばれる道筋を歩いた。その時、水道道路が杉並の和泉から新宿の淀橋浄水場所へと向かう始点、現在の和泉給水所辺りを谷頭、源流点とする窪地、甲州街道と南台・弥生町の台地に挟まれた窪地を流れる小川があったことを知った。
給水所の辺りには池があった、とも伝わる。また、玉川上水の新水路建設の際の記録に、その谷頭付近は「(新水路)引込口より下流約250間は湧水が多かった」ともある。そもそもが、地名が和泉と言う位であるから、源流点辺りには湧水が多くあっても、さほど不自然ではない。
和泉川と呼ばれたその小川は、南・北の二流に別れ窪地を下り、途中で、玉川上水からの分水も含め、幾つもの窪地からの細流を集めながら渋谷区本町あたりで二流が合わさり、南台・弥生町の台地が切れた辺りで神田川に注いでいた、とのことである。
この川筋跡、と言うか道筋は、自宅から新宿へ「気まぐれ」に、そして、成り行きで何度も辿った道筋でもある。如何にも川筋のような緩やかな蛇行で進む道筋や、偶然出合わす暗渠などを見て、用水路跡かな、などと思ってはいたのだが、和泉川とも、神田川笹塚支流などと呼ばれる、神田川水系のひとつの流れであるとは思っていなかった。
暗渠だけの、今は名のみの「川」跡ではあるが、今回は和泉川の本流でもある南流、次回は北流と、二度に分けて歩いてみようと思う。

本日のルート;和泉川南流源流点>源流点からすぐに民家の敷地に入る>431号に向かって北東に進む>東放学園東を北に進む道とクロス>和泉商店会の道筋に向かって南東に向かう>道筋を越え少し西に進み、道なりに北東に向かう>南北に通る沖縄タウン商店街を越え、都道431号角筈和泉線の一筋手前を環七・泉南交差点に>泉南通り交差点を越え、水道道路脇下の道を一筋南に入った道を進む>荻窪;荻窪に注ぐ北からの流れ、幡ヶ谷分水の流れを集め、水道道路を南に越える>水道道路脇を進む。弧を描いた上端部が境橋跡>先に進むと水路は富士見学園の敷地に入る>一時迂回。迂回路は和泉川北流>十号通り坂商店街を南に折れ、富士見学園敷地からの水路跡に合流。一の字橋跡>明治橋>中野通り>中幡庚申堂。牛窪からの流れ(東流と西流れ)もここで合流>大きな通りを中幡小学校前へと>途中、和泉川北流の神橋跡を確認>中幡小学校;幡ヶ谷からの小流が中幡小学校東端に合流>中幡小学校を越えると、すぐに左手に細路に入る>新道橋>氷川橋跡>柳橋>地蔵橋手前に地蔵窪からの流露が和泉川に合流>地蔵橋>小笠原窪に進む>児童センター前交差点>本村隧道>旗洗池>小笠原窪再上端>本村隧道手前で出羽様池からの流れと合流>小笠原窪と出羽様池の水流を集め和泉川に>再び地蔵橋に戻る>本町小学校裏に登下校用橋跡>新橋>本村橋>村木橋>弁天橋>二軒家橋>杢右衛門橋>山手通り_清水橋交差点>方南通りの東放学園裏手を弧状に迂回>大関橋>つみき橋>柳橋>羽衣橋>羽衣の湯;神田川の歌>長者第一号橋>長者第二号橋>神田川と合流

和泉川南流源流点
井の頭通りが甲州街道とクロスする松原交差点の手前、井の頭通り和泉2丁目交差点脇に和泉給水所(和泉水圧調整所)がある。ここを始点に新宿に向かって一直線に走る道は都道431号角筈和泉線。環七泉南交差点より先は水道道路として知られるが、和泉川南流の源流点は、この和泉給水所の辺りにあった。交差点を都道431号に入り、なりゆきで南の甲州街道方面へと進み和泉給水所の甲州街道側のゲート前に。和泉川南流の源流点は、この給水所ゲートの北東、現在は民家の建て込んだ辺りであった、とのこと。ゲート前から源流点辺りを進もう、とは思うのだが、民家の敷地となっており、先に進むことはできない。 東放学園専門学校脇を南北に通る比較的大きな道筋まで戻り、如何にも水路跡らしき道筋を左に折れ、給水所方面へと進む。ほどなく道筋は行き止まりとなるが、源流点はその先の民家の敷地の辺りであったようである。Goo航空地図で見ると、昭和22年の写真に東放学園東(もっとも、この頃は,学校はなかったのだろう、けど)の道筋から源流点に向かう川筋らしき痕跡が見て取れる。

沖縄タウン
源流点であった、かとも思える地点を確認し、川筋跡というか、民家の間の小径を、道成りに東に向かう。正確には源流点から東放学園東の通りまでは川筋跡は北東に進み、この通りからは方向を変えて和泉仲通り商店街からの通りに向かって南東に進み、甲州街道手前で和泉仲通り商店街からの通りとクロスする。
通りを越えた川筋は民家の軒先といった細路を北東へと向かい、和泉明店街、通称沖縄タウン、を南北に通る道筋とクロスし、その通りを越えると都道431号角筈和泉線の一筋南の細路を環七・泉南交差点へと向かう。異常に多いマンホールが印象に残る。



少々寂しい商店街が、何故に「沖縄タウン」なのか。商店街のHPを見ると、街を活性化するための試みであり、特に沖縄と関係が深い、というわけでもないようだ。杉並区には「沖縄学の父」と呼ばれる、伊波普猷(いはふゆう)氏や、『おもろさうし』の研究で有名な仲原善忠などの高名な沖縄の学者が住んでいた、さらには23区内で沖縄関係の在住が多く、沖縄料理の店も都心では一番多い、といった「杉並区」の特徴にフォーカスし、街おこしをおこなっている、とのことである。実際、商店街を通るとき、エイサー演舞などのイベントを目にすることもある。

環七・泉南交差点
環七・泉南交差点を渡る。玉川上水新水路が造られたときは、ここには十五号橋が架かっていた、とのこと。環七建設の構想は古く、とはいっても、昭和2年の頃に素案ができた、と言うから、環七も当時は現在のような幹線道路でもなく、田舎の小径といったものではあったのだろう。
環七は、戦前には一部着工するも、戦時下には中止となり、戦後も計画は遅々として進まなかったようである。Goo地図で見ると昭和22年の航空写真には、環七の道筋に代田橋あたりから青梅街道手前まで、世田谷通りから国道246号まで、など環七の道筋が断片的に見て取れる。
状況が動いたのは1964年(昭和39年)の東京オリンピック。駒沢競技場や戸田のボートレース会場、そして羽田空港を結ぶため計画が急速に動き始め、オリンピック開催までには大田区から新神谷橋(北区と足立区の境)まで開通した。Goo地図で見ると、オリンピックを翌年に控えた昭和38年の航空写真には荒川の神谷橋あたりまで道筋が開通している。
その後、計画は少し停滞し、最終的に葛飾区まで通じ、全面開通したのは1985(昭和60年)のことである。構想から全面開通まで60年近い年月がかかったことになる。ちなみに、環七、環八、および環六(山手通り)は知られるが、その他環状一号から五号も存在する。環状一号線は内堀通、二号は外掘通り、三号は外苑東通り、四号は外苑西通り、五号は明治通り、とのことである。

荻窪の流れ合流点跡
環七・泉南交差点を越えた南流水路は、水道道路の南に出る。水道道路の南に沿って、道路と少し段差のある細路が東に続く。この道が南流の流路かとも思ったのだが、和泉川南流は環七を越えてすぐ、少し南に折れ、水道道路の二筋南の細路を進んでいた、ようである。
先に進み、比較的広い道とクロスするあたりで和泉川南流は北に折れ、水道道路の北側に移った、とのこと。 和泉川南流が流路を北に変えるこのあたりは荻窪と呼ばれる窪みであった、とのこと。北に流路を変える道筋を、そのまま東に進むと緩やかな上りとなっているし、また、南からも窪みに向かって如何にも水路跡らしき小径が下ってくる。これは、甲州街道に沿って東進してきた玉川上水が、荻窪の「窪地」を避けるべく、代田橋で流路を南に変え、環七を渡った辺りにある荻窪の最上端部から下る流れと、笹塚駅近く、稲荷橋あたりからの玉川上水幡ヶ谷分水が合わさり、この窪地へと流れる細流跡とのことである。
荻窪への流れの最上端は玉川上水が環七を渡ってすぐの公園脇。環七を渡って最初の、北に一直線に進む路地の入口辺りが、荻窪への流れの最上端と言われる。流路はおおよそ西の世田谷区、東の渋谷区の区境を下っている。京王線を越え、甲州街道の手前あたりは、世田谷区、渋谷区、そして杉並区の区境となっている。
往昔、このあたりに三郡橋が架かっていた、と言う。南豊島郡、東多摩郡、荏原郡の3つの境界がその名の由来。笹塚駅付近、稲荷橋より分水された玉川上水幡ヶ谷分水もこのあたりで合流し、甲州街道を渡り北に進み、荻窪の和泉川南流の合流点に向かっていた、と。流路はおおよそ杉並区と渋谷区の境となっているように思える。往昔、地域の境を川筋にすることが多かったとの所以である。
ちなみに、地形図をみると、このあたりは、北は和泉川・神田川水系、西は北沢川・目黒川水系、東は宇田川・渋谷川水系といった3つの水系の分水界。玉川上水が代田橋あたりから先、南へ北へと蛇行するのは、言い換えれば、分水界の尾根道を外れないように進んでいる結果でもあろう。


より大きな地図で 和泉川(神田川笹塚支流) を表示

水道道路の北側に移る
荻窪から水道道路の北側に移った和泉川南流は駐車場の南詰めに出る。駐車場北詰めは、源流点より東流してきた和泉川北流が、北東へと向かう地点であるが、駐車場南詰めに出た南流は、駐車場の南端と水道道路の間の小径を東へと向かう。
大正時代、関東大震災など二度の地震で水道道路、当時の玉川上水新水路は二箇所決壊し大きな被害を出した、と言う。一箇所は現在中野通りが通る窪地に築いた築堤、そしてもう一箇所は、この荻窪の辺りのようである。




境橋
先に進むと、道筋、と言うか川筋跡は北に少し弧を描くように進む。水道道路にあった地図によれば、弧を描く始点あたりに欅橋という表示があったが、それらしき名残はなにも、ない。先に進み弧の最上端あたりに橋跡。堺橋の名残である。昭和32年(1957)に架けられたこの橋は、杉並区方南と渋谷区笹塚の境近くにあり、ために昭和初期までは境橋とされていた、とのこと。
弧を描いた道筋は、再び水道道路脇に接近し、しばらく水道道路と平行して東に進み、北東へと流路を変えると、ほどなく富士見学園の敷地内へと進む。



一の字橋
富士見学園西側の道を左に折れ、学園敷地を迂回する。北に進むと、東西に走る比較的大きな通りに出る。最近できた道かとチェックすると、Goo地図で見るに昭和22年の航空地図に比較的広い道筋が、北東方向へと緩く弧を描き中野通りまで続いている。この道筋は和泉川北流の流路でもあった。
通りを進み、富士見学園東側を南北に通る道筋に戻る。ここは笹塚十号坂商店街とある。十号とは、玉川上水の新水路が和泉の水衛所(水圧調整所・和泉給水所)から新宿の淀橋上水場まで造成されたとき、新宿から和泉にむかって一号から順番に架けられた橋の名前。一号と二号は淀橋上水場の敷地内であったが、三号橋は山手通りに架けられていた、と言う。
笹塚十号坂商店街を北に上り、途中、富士見学園から出てきた、と思える道筋・川筋跡をチェック。休憩所のようなコーナーとなっていた。道筋は商店街の通りを越えて民家の間を進むが、和泉川南流がこの笹塚十号坂商店街の道筋とクロスするところに、一の字橋が架かっていた、とのこと。橋の名残はなにも、ない。

明治橋跡
細路を進み笹塚中学校裏を越えると、笹塚中学校東を南北に通る道と交差。明治橋跡が残る。と言っても、片側支柱だけが、ぽつんと佇むだけではある。先に進むと中野通りにあたる。通り手前には石、なのかコンクリートなのか、ともあれ橋跡らしき名残が残るが、これといった橋名の記録は、ない。





中幡庚申塔
中野通りを越えると、川筋跡は北東に走る通りに突き当たり、そこから流路を北東へと向ける。突き当たりには中幡庚申塔が残る。この庚申塔のあたりには庚申橋が、1990年代の後半の頃まであったとのこと、である。

牛窪からの流れが合流
中幡庚申塔の辺りには牛窪と呼ばれた窪地からの流れが合流する。玉川上水が笹塚から大きく南に迂回し、中野通りが井の頭通りとクロスする手前で再び流路を変え、弧を描いて北に向かうのは、玉川上水が荻窪を迂回している、ということである。
荻窪の最上端 は、南へと大きく弧を描く玉川上水と中野通りがクロスする辺り。荻窪の最上端近く、中野通りの少し西からふたつの流れが和泉川南流へと注いでいた。ひとつの流れは中野通りの西を下り、あとの一流はすぐに中野通りの東へと向かい、通りにそって下り、二流は水道道路・笹塚出張所前交差点で合わさり、中幡庚申塔のあたりで和泉川南流に注いでいた、ようである。

和泉川北流・神橋
中幡庚申塔から先は比較的大きな通りを進む。緩やかなS字のカーブが如何にも、往昔の川筋の風情を残す。先に進み、公園脇の道を、何の気なしに北に進み、ちょっと寄り道。東西に走る細路の脇に橋の支柱らしき、もの。神橋とあり、和泉川北流唯一の橋跡であった。

中幡ヶ谷小学校・幡ヶ谷からの細流跡
神橋跡から元の通りに戻り、先に進むと中幡小学校。中幡小学校の東端には幡ヶ谷駅あたりからの水路が合流する。最上端部は幡ヶ谷駅手前の玉川上水の近く。北東に切り上がってきた玉川上水が東に流路を変え、幡ヶ谷への駅への道と分岐するあたり。玉川上水からの分水であったのだろう。
流路は最上端より北東に、川筋跡と思われる細路を駅に向かう。ほどなく川筋は商店街に呑み込まれ流路跡は消える。甲州街道を渡り、駅前商店街の雑居ビルの敷地をクランク状に進むようである。水路跡らしき道筋が現れるのは幡ヶ谷の駅に続く道筋。水路は北に進み、観音湯西端の細路を進み水道道路に当たる。


水道道路の北側に渡った水路は幡ヶ谷第二保育園脇の細路を進むが、水道道路付近は現時点(2011年10月)では通行できない。水道道路を少し西に戻り、坂道を下り水路跡らしき道筋に戻る。水道道路から少し離れたところに大きな段差の石段があるが、水路跡はそこから東は崖、西は民家の軒に挟まれた細路を北に下る。ほどなく流路は東へと変わるが、その地点の西側は上り坂となっており、如何にも窪地といった流路である。その先で水路はクランク状に曲がり、中幡小学校脇に出る。




新道橋
中幡小学校東側で、和泉川南流は大きな通りを離れ、北側の小径に入る。流路跡はそこから遊歩道らしくなる。先に進むと道の左手に幡ヶ谷新道公園。公園の東側の通りは六号坂商店街からの道筋。水道道路から下る道筋は、六号通り商店街、六号坂商店街、そして新道公園前から先は六号大通り商店街、と「出世魚?」の如く名前が変わる。そして、この通りに架かるのが新道橋である。

地蔵窪からの流れの合流点跡
水路跡を先に進む。幡ヶ谷保育園裏を進み、橋跡を示す鉄製の柵をいくつか見ながら進むと地蔵窪からの流れの合流点に。合流点脇には公文堂製印所と書かれた民家があった。
地蔵窪の源流点は幡ヶ谷駅を少し東に進んだ甲州街道脇にあるエネオスのガソリンスタンドの裏手あたり、とか。往昔、この地には1686年建立のお地蔵様が祀られていた。地蔵窪の名前の由来である。幡ヶ谷地蔵とも子育地蔵とも呼ばれるこのお地蔵様は、現在はガソリンスタンドのすぐ西、陸橋脇のビルの一角に移されている。まことに奇妙な形の祠ではある。
案内によれば、「地蔵信仰は古くから行われていますが、地蔵は苦痛の時に身代わりに現れるとか、冥界と現実界との境にあって死後救ってくれるとか、子供の安全を守ってくくれるとか、いろいろと考えられていました。この地蔵は子育て地蔵と呼ばれており、このあたりの低地は昔から地蔵窪といっています。この地蔵は江戸時代の貞亨3年(1686)年の造立で、もとはすぐ前にお堂がりましたが、甲州街道の道幅を拡げるとき、ここにあった大ケヤキのあとに移され、大勢の人々の浄財によって立派なお堂が作られました(渋谷区教委区委員会)」、と。
地蔵窪を離れた流路は、甲州街道を北に渡り、金物屋と駐車場の間の細路を北に下り、水道道路に当たる。すぐ西は水道道路の本町隧道。1975年に造り替えられた現在の隧道は昔の位置より少し西に移っている、と。隧道の少し西には、如何にも閉じ込めらた跡を残す昔の隧道跡らしき壁が残る。往昔、水路は隧道を通り水道道路下を潜っていたのではあろう。
本町隧道を潜り、帝京短大の一筋東の細路が水路跡。先に進むと、帝京整形外科の東裏あたりで、北西からの細路が合流していたようだが、これは小笠原窪と出羽様池跡からの水路から分水された流路跡とのことである。小笠原窪と出羽様池跡は後でメモする。
細路を進み、児童センター前交差点からの比較的大きな通りに出るが、水路は三叉路の交差点の手前を突き切り、北に進み和泉川南流に合流していた、と。


(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)

 

小笠原窪・出羽様池跡からの流れの合流点
地蔵窪からの流れとの合流点の一筋東、氷川神社から南に下る比較的大きな通りとクロスするところには橋跡の名残を残すコンクリートと鉄の柵がある。往昔、このあたりには氷川橋とか本町桜橋があった、と言う。場所から言えば氷川神社の参道とも言えなくも、ない。氷川橋の跡だろうか。
氷川橋か否かはともあれ、この地は小笠原窪と出羽様池跡からの流れの合流点であったところ。小笠原窪の最上端部は初台駅の少し西、幡代小学校の前あたり。現在は甲州街道に面した公園となっている。窪地最上端の先にある尾根道の南は渋谷川水系。小笠原窪へと下る尾根道の北は神田川水系となっている。ちなみに、このあたりを通る玉川上水も、渋谷川水系・宇田川の谷筋を避けて、尾根道でもあった甲州街道に再接近している。
地蔵窪からの水路は甲州街道を越え、北に下る。水路跡を進むと高知新聞・高知放送社宅洗旗荘のビルがある(渋谷区本町1丁目9)。ビルの前に石碑とその案内。石碑には「洗旗池」、その記念碑の案内は「旗洗池」と語順逆転している。案内によると、「平安時代後期に東北地方を舞台にした後三年ノ役(1083~1087)の帰途、源 義家(みなもとのよしいえ、通称:八幡太郎)がこの池で源氏の旗である白旗を洗ったという。このことが幡ヶ谷というこの付近一帯の地名の起源となった。その白旗は金王八幡宮の宝物となり、今残されている旗がそれである。
この池は60平方メートル程の小さな池で、肥前唐津藩小笠原家の邸宅内にあり、神田川に注ぐ自然の湧水であった。昭和38年(1963)に埋められ、今は明治39年(1906)4月、ここに遊んだ東郷平八郎筆の「洗旗池」(はたあら いけ、の記念碑だけが残されている。
源義家がはたして白旗を洗ったかどうかの証拠はありません。しかし関東地方特有の源氏伝説のひとつであり、幡ヶ谷というこの付近一帯の地名の起源となった有名な池だったのです(渋谷区教育委員会)」、とある。
金王八幡は渋谷駅からほど近い社。旗洗池で白旗を洗った義家は、その白旗を金王八幡に奉納して上洛した、とのことである。後三年の役は、それまで東北に覇を唱えていた清原氏が勢力を失い、平泉の藤原氏が台頭するきっかけとなった東北地方での騒乱である。
石碑の揮毫は東郷平八郎。日露戦争の雌雄を決する日本海海戦でロシアのパルチック艦隊を殲滅した海軍元帥。明治の頃、小笠原子爵邸を訪れた折に揮毫した、とのこと。
旗洗池を離れた水路は、北に進み、渋谷区本町1-39-1あたりで、東から流れ下ってきた出羽様池からの水路と合流し、流路を北西に変更し水道道路方面へと向かっていた。出羽様池とは新国立劇場の北、水道道路手前にあるテニスコートのあるあたりである。出雲松江藩松平出羽守の屋敷があったのが、出羽様池の名前の由来である。
流路を北西に変えた川筋は、ジョルティ初台とサンシャインコーポベル初台の間の細路を進み、本町図書館の二筋裏手を進み、水道道路にあたる。その後、水路は本村隧道を抜け、比較的大きな通りを児童センター前交差点へと向かう。道は緩やかなカーブを描き進む。如何にも水路跡といった趣きである。児童センター前交差点を越えた川筋は道なりに進み、和泉川南流の合流点へと向かっていたようだ。なお、既にメモしたように、水道道路を越えてすぐ、西へと向かう分水路があり、地蔵窪からの流れと合わさり和泉川南流へと合流する流れもあった、よう。

柳橋
小笠原窪・出羽様池跡からの流れの合流点から川筋跡らしき道筋を東へと向かう。少し大きな通りとの交差するところに新しく造られた橋、というか橋のモニュメント。柳橋とあった。








本町小学校・地蔵橋
柳橋を越え、川筋跡をしばらく進むと、大きな通りに出る。通りの前には本町小学校がある。ここは、和泉川南流の北をおおよそ平行に流れてきた和泉川北流が合流する地点。地蔵橋という橋跡が残るが、ここでふたつの流れが合流し、神田川へと向かっていた。
地蔵橋の名前の由来は子育酒呑地蔵尊、から。地蔵橋南詰めに子育酒呑地蔵尊があった、とのことだが、更地となっており建物はなにも、ない。地蔵尊の祠を求めて辺りをさまよっていると、子育酒呑地蔵尊は中野通りに近い幡ヶ谷2丁目36−1にある清岸寺に移ったとあった。酒呑地蔵尊は、勤勉に働いた男をねぎらって酒を馳走したところ、酒に酔い川、和泉川だろうが、ともあれ、川に落ちてなくなった。その後、村人の夢枕に現れ、村から酒飲みをなくすために地蔵建立を求めた、とか。そのうちに、訪ねてみよう。


登下校用橋跡
本町小学校裏手の川筋を進む。小学校の裏門には登下校用に造られた、と思われる橋跡が残っていた。

新橋跡
本町小学校を越えると、南北に走る通りに橋跡が残る。中央部の鉄パイプは外された石の柱が残る。1940年(昭和15年)に造られた新橋跡である。暗渠が南北より一段低くなっており、なんとなく川筋跡の趣が残る。南北に走る通りを北に進むと方南通りに通じる。


本村橋跡
細路を先に進み、今度は東西に走る通りと交差するところに本村橋跡が残る。橋跡と言っても、橋名を刻んだコンクリートのモニュメントが四方の隅に立つだけ、ではある。モニュメントは2006年(平成18年)に造られた、とか。本村は「ほんむら」と読む。水道道路の本村隧道とおなじく、本町の前身である本村が名前の由来。

村木橋
東西に通る道を越え、斜めに切り上がり、最初にクロスする南北の通りに架かっていたのが村木橋。1955年{昭和30年}に造られた石造りの支柱が残る。支柱の間は鉄の柵。

弁天橋跡
村木橋を越え、ほどなく南北に通る道筋にかかっていたのが弁天橋。まったくのモニュメントとして造られており、往昔の橋の面影は残っていない。

二軒家橋跡
先に進み、本町中学校の東側を南北に走る通りとクロスするところに架かって橋が二軒家橋。この橋も近年、あたらしくモニュメントとして作り直されていた。二軒家はこのあたりの字名である。

手通り・清水橋跡

少し広くなった川筋跡を方南通りに沿って一筋南を進む。山手通り手前には杢右衛門橋があったようだが、山手通りの工事の影響か、コンクリートの段差らしきものしか見つからなかった。
和泉川南流が山手通りと交差することころに架かっていたのが清水橋。山手通りと方南通りの交差点にその名を残す。清水橋の由来は、清水橋交差点を少し北東に入ったところに二軒家公園があるが、そこにあった湧水池の清水による、とか。

大関橋跡

山手通りを越え、川筋は一度方南通りにあたる。このあたりに大関橋があった、とか。橋の痕跡は見あたらなかった。大関橋から先は、ほんの数メートル方南通り、否、正確には方南通りは清水橋で終わり、清水橋交差点から新宿十二社までは都道432号淀橋渋谷本町線と言う、500m弱の極めて短い道に衣替えしているのだが、ともあれ、都道432号に沿って進む。
その432号をほんの少し東に進み、東放学園手前で、学園の裏手に入り込み、南に弧を描くようにして進み、再び都道432に戻る。川筋跡は、自転車置き場となっていた。それにしても和泉川と東放学園は「縁」がある。源流点近くでも、東放学園脇を進み、終点近くでも再び東放学園脇を歩くことになった。

都道432号・都営大江戸線西新宿五丁目駅
東放学園の東側を都道432号に出る。水路は通りを横切り、都営大江戸線西新宿五丁目駅中を抜け、通りを北に渡る。往昔、交和橋と呼ばれる橋があった、とか。清水橋交差点を含め都道432号の南は渋谷区、通りの中央から北は新宿区に変わる。

えのき橋

新宿区に入ると、川筋は道の中程に花壇が置かれるなど、遊歩道といった趣きとなる。北東に道を進み、これまた東放学園の東脇を北西に向かう通りとクロスするところに橋跡が残る。支柱の文字はかろうじて読めるといった状態。えのき橋、と読めた。1924年(大正13年)に架けられたこの橋は、石で造られた欄干の中央部がバッサリと切り離され、鉄の柵によってふさがれていた。

柳橋
川筋跡を北東にしばらく進むと、北西に通る道と交差。そこに柳橋の跡が残る。1932年(昭和7年)に造られた橋跡は石橋の欄干の中央部分が切り開かれ通路となっている。

羽衣橋跡
柳橋を越えるとすぐに東西に通る広い通りにでる。ここに架かっていたのが羽衣橋。橋の西に羽衣の湯、と言う銭湯がある。銭湯と言うより、現在ではサウナなども備えた温泉スパ、といったものではあるが、ここは「"あなたはもう忘れたかしら.....♪"」で知られるヒット曲、"神田川"の舞台となったところ。ヒット当時の1973年(昭和48)の銭湯の面影は、今は、ない。ちなみに、「神田川」の記念碑は桃園川と神田川との合流点近くに建つ。

長者第一号橋跡
羽衣橋を少し北に進むと長者第一号橋跡。東西に通る道とクロスするところに石だったかコンクリートだったか定かではないが、橋跡が残る、1938年、と言うから昭和13年に造られたものである。

長者第二号橋跡
更に一筋北を東西に通る道とのクロスするところには長者第二号橋跡が残る。残るとはいうものの、橋の面影はなく、鉄の柵が残るだけ。

神田川と合流
長者第二号橋跡のすぐ先で和泉川南流は神田川に注ぐことになる。合流点には大きな排水溝造られていた。雨水などの排水路として和泉川の暗渠は活用されているのだろう、か。


神田川水系と渋谷川水系の尾根道でもある甲州街道と南台・弥生町の台地の間の窪地の谷頭の湧水や、甲州街道に切り上がるいくつもの窪地の細水を集め、流れ下ってきた和泉川も、ここ南台・弥生町の台地の切れたところで神田川に注いでいた。
和泉川の本流でもあった、南流散歩はこの合流点でお終い。次回は和泉川北流を辿ってみようと思う。 

環七と甲州街道がクロスする大原交差点の少し北に泉南交差点がある。そこから一直線に新宿に向かう道があり、水道道路と呼ばれている。自宅から新宿への往来に、気まぐれに、そして、折りにふれて歩いている道でもある。途中六号路とか十号路などという名前の通りなどがあり、その号数って何、なんだろう、「水道道路」の向かう新宿、現在高層ビルが建ち並ぶ西新宿には、かつて淀橋浄水場があったわけであるから、東京の水道網とは、なんらかの関係はあるのだろう、などとは思いながらも、そのままになっていた。
先日、玉川上水を羽村の取水口から新宿の四谷大木戸跡まで歩き、そのメモをまとめるとき、この水道道路は玉川上水の歴史、また、東京の水道網の開始とも大いに関連のある水路であったことがはじめてわかった。
明治31年(18989)、淀橋浄水場が新宿に建設されるにともない、従来の玉川上水の水路(旧水路)、甲州街道に沿って進んできた水路が和泉で流路を南に変え、分水界の尾根道を、蛇行を繰り返しながら進む水路であるが、その玉川上水の旧水路とは別に、和泉水圧調整所(旧和田堀水衛所;現在、和泉給水所となっている)から新宿の淀橋浄水場に向かって一直線に進む新水路が開かれた。現在の都道431号角筈和泉線、通称、水道道路と呼ばれる道がその水路跡である。淀橋浄水場が建設された最大の目的は、玉川上水の水質汚染、そして更には明治19年(1886)、東京とその近郊にコレラが大流行し、従来の堀割の玉川上水に変わる水道網建設が必要とされたためである。
和田掘水衛所から淀橋浄水場までの距離は4.3キロ。水路途中にある窪地には、淀橋浄水場の掘削土などで盛り土した8-10mの築堤を造り、幅6mの開渠水路が造られた。当時の写真を見るに、なかなか大規模な水路である。
しかしながら、この水路堤は大正10年(1921)の地震や12年(1923年)の関東大震災で2箇所が大きく決壊し、地域に洪水をもたらした。これを契機に、新水路の見直しが行われ、昭和に入ると、水路は当時計画中の甲州街道拡張に合わせ、甲州街道下に送水管を敷設することになる。昭和12年(1937)には、和田堀町地先から地下に潜り、代田橋で甲州街道下に移り、角筈で左折して浄水場につながる埋設管を敷設し、新たな送水路が完成した。
不要になった新水路は自然地盤まで崩し、幅9mの砂利道とする計画もあったようだが、結局は、自然地盤に戻ったところがあったり、堤が残ったり、といった、現在の道の姿となった。水道道路とは呼ばれるものの、道路下には水道管も埋設されてはいない、今は、「名のみ」の水道道路であるが、それでも、なんらかの「発見」を楽しみに散歩に出かけることにする。


本日のルート;和泉給水所>沖縄タウン>環七_泉南交差点>十三号通り公園>十号通り商店街>中野通り>七号通り公園>六号通り商店街>本町隧道>本村隧道>初台_出羽殿池>山手通り>十二社通り>新宿中央公園>新宿水道局>淀橋浄水場跡碑

和泉給水所
新水路の起点は井の頭通りが甲州街道とクロスする松原交差点の手前、井の頭通り和泉2丁目交差点脇にある和泉給水所。玉川上水の旧和田堀水衛所のあったところである。上でメモしたように、旧玉川上水は和泉給水所の南を進み、代田橋へと進み、その先は北沢川水系(目黒川水系)、宇田川(渋谷川水系)、神田川水系の分水界を尾根道から離れることのないように蛇行を繰り返し進むが、新水路は、ここから新宿に向かって一直線に走る。現在の都道431号角筈和泉線が新水路跡である。環七泉南交差点より先は水道道路として知られるが、始点は和泉2丁目交差点であった。




通勤路でもある和泉交差点を都道431号に入り、右手に和泉給水所のタンクを見やりながら、住宅街を進む。道筋が少し北に折れるあたりで道路脇に公園が現れる。地図を見ると、和泉給水所から一直線に進んだところであり、ここが水路跡ではあろう。昭和22年のgooの航空写真にも水路跡らしき「ノイズ」が見て取れる。
先に進み、和泉仲通商栄会(和泉仲通り商店街)の通りを越えると、道は車一台がやっと通れるといった小径となる。道の右手に公園が続く。いかにも「公共物」の敷地跡といった風情。とはいえ、水路の名残りは、素人目には、何も、ない。

沖縄タウン
公園に沿って先に進むと少々レトロな雰囲気を残す和泉明店街に。通称、沖縄タウンと呼ばれている。何故に「沖縄タウン」なのか。商店街のHPを見ると、街を活性化するための試みであり、特にこの地が沖縄と関係が深い、というわけでもないようだ。杉並区には「沖縄学の父」と呼ばれる、伊波普猷(いはふゆう)氏や、『おもろさうし』の研究で有名な仲原善忠などの高名な沖縄の学者が住んでいた、さらには23区内で沖縄関係の在住が多く、沖縄料理の店も都心では一番多い、といった「杉並区」の特徴にフォーカスし、街おこしをおこなっている、とのことである。
伊波普猷は戦災で焼け出され、荻窪にあった比嘉春潮のお宅に寄寓していた、と。仲原善忠氏は世田谷区成城とも言われるが、それはそれとして、実際、商店街を通るとき、エイサー演舞などのイベントを目にすることもある。

環七・泉南交差点
クランク状になった商店街のメーンの通りを越え、民家の密集する細路、車一台がかろうじて通れるといった細路を進むと、環七・泉南交差点に出る。新水路があった頃は、十五号橋が架かっていた、とのことである。かつて、水道道路と交差する通りには、新宿の淀橋浄水場を起点に一号から十六号までの名称が付けられ、そこには木橋が架けられていたがようだが、現在地名として残るのは、六号通り商店街、十号通り商店街以外には、バス停の七号通り、そして十三号通公園だけとなっている。ちなみに和泉仲通り商店街とクロスするところには十六号橋が架かっていたそうである。

環七
環七とのクロスするところに十五号通り橋が架かっていた、とは言うものの、新水路が造られた頃には、現在の環七が通っていたわけでは、ない。環七建設の構想は、昭和2年の頃には素案ができ、戦前には一部着工されたようだが、戦時下では中止となり、戦後も計画は遅々として進まなかった、とのこと。Goo地図で見ると昭和22年の航空写真には、環七の道筋に代田橋あたりから青梅街道手前まで、世田谷通りから国道246号までなど、環七の道筋が断片的に見て取れる。
状況が動いたのは1964年(昭和39年)の東京オリンピック。駒沢競技場や戸田のボートレース会場、そして羽田空港を結ぶため計画が急速に動き始め、オリンピック開催までには大田区から新神谷橋(北区と足立区の境)まで開通した。Goo地図で見ると、オリンピックを翌年に控えた昭和38年の航空写真には荒川の神谷橋あたりまで道筋が開通している。
その後、計画は停滞し、最終的に葛飾区まで通じ、全面開通したのは1985(昭和60年)のことである。構想から全面開通まで60年近い年月がかかったことになる。ちなみに、環七、環八、および環六(山手通り)は知られるが、その他環状一号から五号も存在する。環状一号線は内堀通、二号は外掘通り、三号は外苑東通り、四号は外苑西通り、五号は明治通り、とのことである。ともあれ、十六号通り橋が架かった頃は、地域の小径ではあったのだろう。

和泉川(神田川笹塚支流)
環七・泉南交差点を越える。ここから水道道路は片側一車線の道として、新宿に向かって一直線に進む。水路筋の地形図をカシミール3Dでつくってみると、大雑把に言って、水道道路から甲州街道方面にかけての南側の標高が高くフラとになっており、北側が低く窪地となっている。また、流路途中で、北側の窪地が南へと切り込んだところがいくつもあり、築堤はそういった窪地に盛り土をおこない、水路堤をつくったのではないかと思う。最大の窪地が、現在の中野通りと甲州街道のクロスするあたり。牛窪と呼ばれたこの窪地は水道道路を越え、甲州街道の南まで切り上がっている。玉川上水か笹塚から南へと弧を描いて進む地点でもある。そのほか、大小の窪地が水道道路の南まで切り上がっている。
一方、水道道路の北側窪地の先には南台・弥生町の台地があり、その北側を神田川が流れる。そして、水道道路・甲州街道の通る尾根道と南台の間の窪地には、和泉給水所辺りを谷頭とする、和泉川と呼ばれる細流が流れていたとのこと。どこかの資料で「(新水路)引込口より下流約250間は湧水が多かった」、との記録もあり、また、和泉給水所の辺りには池もあったようで、和泉川と呼ばれる水流があってもそれほど不自然ではない。
和泉川は、現在はすべて暗渠となっており水路は残らない。その痕跡は橋跡や遊歩道らしき道筋として残るだけではあるが、往昔、和泉川の細流は南台の台地が切れたあたりで、神田川に合流していた。和泉川が神田川笹塚支流とも呼ばれる所以である。流路を調べると、和泉川は南北二流に分かれ、途中で一流となり神田川に注ぐ。また、この川筋には、水道道路の南側まで切り込んだ窪地からの細流、玉川上水からの分水も注いでいたようである。
この川筋跡、と言うか道筋は、新水路同じく、自宅から新宿へ「気まぐれ」に、そして、成り行きで歩く道筋と重なるところも多い。次回は、和泉川の暗渠を辿ってみようと思う。

荻窪
環七・泉南交差点を越えると、水道道路の南北は段差があり、築堤の名残らしき雰囲気を残す。このあたりは、基本的には水道道路と甲州街道は同じような標高ではあるので、道路南側の段差は、水道道路を越えて甲州街道方面へと切り込んだ窪地ではあろう。実際、この窪地は「荻窪」と呼ばれていたようであり、その最上端、と言うか、再南端は、甲州街道を越え、旧玉川上水が環七と交差するあたり、とのこと。甲州街道に沿って東流してきた玉川上水が代田橋で流路を南に変え、環七との交差点あたりから再び東流するのは、この荻窪の低地を迂回するためである。なお、荻窪の谷頭から流れる水は窪地を北に下り和泉川に注いでいた、とのことである。

十三号通り公園
道を先に進む。水道道路の北側は段差があるも、南側は次第に段差が目立たなくなり、十三号通り公園のあたりでは、ほとんどフラットな状態となる。水道道路と交差する通りには新宿の淀橋浄水場を起点に一号から十六号までの名称が付けられ橋が架けられていた、と上にメモした。『日本水道史;日本水道協会』にも、「小径路にして車馬の通行なきものは歩道として築堤上に昇り、水路上を木橋を架して通行せしむ」とある。ここにも往昔、木橋が架かっていたのではあろう。
なお、上で大正10年、12年の地震で大きく決壊したのは2箇所とメモした。一カ所はこの13号通りと14号通りの間。もうひとつは8号通りと9号通りの間とのこと。9号通りと8号通りの間とは、現在の中野通りとの交差するあたりであろうが、13号通りと14号通りの間とは、15号通りが環七であるので、荻窪からの水路が水道道路とクロスするあたりではなかろう、か。


より大きな地図で 和泉川(神田川笹塚支流) を表示

十号通り商店街
道を進み富士見女高前交差点に。この交差点の南側は十号通り商店街。北側は十号坂商店街とあった。十号通り商店街を南に進むと京王線・笹塚駅に至る。「号」表示で商店街となっているのは、この十号と東に進んだ六号通り商店街のふたつだけ、である。

中野通り・笹塚出張所前交差点
十号通り商店街を越えると、道は中野通りに向かって下り、交差点を越えると再び上り坂となる。地形図を見ると、中野通りに沿って窪地が甲州街道を越え、井の頭通りの手前まで延びている。新水路が築かれた頃は、この窪地に堤を築き、水路を渡していたのだろうが、それにしても、現在、堤の痕跡は素人目には見あたらず、自然な坂道となっている。
新水路が造られた当時、この窪地を越える築堤には、その下に隧道を通していたようである。『淀橋浄水場史;東京水道協会』の中に「玉川上水新水路被害状況」という地図があり、そこには第8号橋と第9号橋の間に「第三号暗渠」と書かれた隧道らしき記載があった。新水路には三カ所の隧道があったようだが、現存しているのは、2箇所だけであり、この地の隧道は築堤もろとも、元の地勢に戻されたのではあろう。
なおまた、この中野通りとクロスする隧道あたりは、大正10年、12年の地震によって大きな被害を受けたところ。『淀橋浄水場史』には、「水路敷が沈下、北側の水路堤防約10間が崩壊し流失。多数の亀裂残れり」と、ある。

牛窪
中野通りと甲州街道が交差する笹塚交差点の南詰めに牛窪地蔵が祀られているが、その名の通り、このあたりは「牛が窪」と呼ばれる大きな窪地であった。玉川上水も笹塚から流路を南へと変え、この牛窪を迂回している。この窪地は雨乞い場でもあり、また、牛裂の刑を執行する刑場跡でもあった、とのこと。牛窪地蔵が祀られたのは宝永・正徳年間の疫病を避けるため。地蔵尊の祠、といっても現在は結構モダンな造りとなっているが、その脇には道供養塔、庚申塔が祀られる。
窪地の最上端は中野通りと井の頭通りが交差する大山交差点の少し北、笹塚駅あたりから荻窪を迂回すべく、流路を南に向けた旧玉川上水が窪地を迂回した後、再び北に流路を大きく帰る地点の少し北あたり、である。この窪地最上端辺りからも二筋の水路が北に向かい、中野通りと水道道路の交差する笹塚出張所交差点のすぐ東で合流し、和泉川に注いでいた、とのこと。

 七号通り公園
中野通り・笹塚出張所前交差点を東に、ゆるやかな坂を上る。道の北側は交差点あたりでは段差があるも、次第にその差を縮める。南側にはほとんど段差は感じられない。先に進むと道脇に七号通り公園があるが、その脇を南に向かう道筋も、水道道路との段差はほとんど、ない。

この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)

幡ヶ谷駅方面に切りあがる窪地
七号通り公園を越えると、道の北側に坂道が現れ、段差が感じられるようになる。道の北側に幡ヶ谷第二保育園があるが、この保育園の西側は大きな段差となっている。保育園とその東の境は、崖のようでもある。どうも、このあたりは幡ヶ谷駅の少し北を最上端とする窪地となっているようであり、その窪地を細流が北に向かって流れ、和泉川に注いでいた、とのことである。

六号通り商店街
水道道路・社会教育館前交差点の南北には商店街が連なる。水道道路より幡ヶ谷駅方面への商店街は六号通り商店街。道を北に下るのは六号坂商店街。十号の場合と同じ名前の付け方になっている。

本町隧道
先に進み、道路南側に公園、北側に帝京めぐみ幼稚園が見えるあたりに本町隧道(第二号暗渠)。道の北側ある石段を下り隧道を潜る。新水路の築堤により通りを分断され、往来が不便になった住民のために造ったもの。新水路にはこのような隧道が3箇所設けられた、と上でメモした。『日本水道史;日本水道協会』には、「新水路は代々幡村字北笹塚、下町及び本村の三箇所に於いて道路を横断する。此付近に於いて水面は地盤上22.27尺以上にあるを以て、道路は煉瓦拱を以て構造とし、水路の下を通過せしむ。此笹塚村のものは、幅8尺、高さ10.5尺、長さ80尺、本村のものは幅6尺、高さ9尺、長さ98尺」とある。本町隧道とはこのうちの、代々幡村字下町、のことだろう。

地蔵窪よりの水路跡
隧道を設けたのは、重い荷車を上げ下げするのが大変であるため、との説明もある。ということは、隧道のあるところは当時のメーンルートであったのかとも思う。また、隧道のあるあたりは窪地でもあり、窪地を下る水流を通すためのものでもあったのだろう。この本村隧道にも、幡ヶ谷駅の少し東にある地蔵窪からの流れが北に下っていた。現在の隧道は1975年に造り直されたとき、元の位置より少し西に移ったようである。実際、隧道のすぐ横に、如何にも塞がれたようなトンネル跡がある。

本村隧道
道を東に少し進み、道の北側に東京公衆衛生学院、南に都営アパートが切れて公園が現れるあたりに本村隧道(第一号暗渠)がある。本村隧道に比べてクラシックな造りが今に残る。住所は渋谷区本町(ほんまち)。かつては幡ヶ谷本町、そしてその昔は幡ヶ谷字本村と呼ばれたのが名前の由来。

小笠原窪・出羽様池からの流路跡
この本村隧道には初台駅の少し西、幡代小学校と甲州街道の間を最上端とする窪地、小笠原窪から北に下る流れと、オペラシティの北側にあった出羽様池からの小笠原窪に向かって西に向かって進んできた流れが合流し、北西へと下り本村隧道を越えて進み和泉川に合流していた。
小笠原窪の名前は、幡代小学校から甲州街道を越えたあたり、現在高知新聞・高知放送の社宅あたりにあった肥前唐津藩小笠原家に由来する。出羽様池は出雲松江藩松平出羽守の屋敷があった、から。

角筈交差点
本村隧道を見たあとは、ひたすら水路跡の道筋を淀橋浄水場のあった、西新宿に。山手通りの手前、レストランのデニーズのあたりにあるテニスコートは位置から言って、出羽様池の跡だろう。先に進み、十二社通り・角筈交差点を越える。角筈の地名の由来は、諸説ある。角筈周辺を開拓した渡辺与兵衛の髪の束ね方が、角にも矢筈にも見えたことから、とする説。否、渡辺与兵衛が在家の僧であり、真言宗では在家の僧(優婆塞:うばそく)を角筈と称したから、との説。その他、熊野神社の十二社の近くにある熊野神社の僧(当時は神仏習合のため)が鹿の角を杖に使っていたから、といった説など、さまざま。誠に、地名の由来は諸説あり、定まること、なし。

淀橋浄水場跡
先に進むと新宿中央公園。このあたり一帯にはかつて淀橋浄水場が拡がっていた。高層ビルが建ち並ぶ西新宿副都心には、その面影は、今は、ない。「新宿の青梅街道口にて電車を下り、青梅街道を西は二三町ゆけば、淀橋浄水場あり。(中略)二個の大烟突、高く空に聳ゆ。多摩川上水の水、ここに来り、ためられ、瀘され、浄められ、蒸気ポンプの力にて鉄管に汲みあげられて、都下に文流す。烟突はその蒸気力をつくるためにのみ用立つもの也。人の身体にたとふれば、ここは心臓にして、全都の地下にひろく行きわたれる大小の鉄管は、なお血管の如し」。これは明治から大正にかけて多くの紀行文を表した大町桂月の『東京遊行記』(1906)にある、淀橋浄水場の情景である。大町桂月の旧宅を求めて、関口の台地を彷徨ったのが懐かしい。
また、田山花袋は、『時は過ぎゆく』の中で、泥土の中で働く工夫、広い地面に、トロッコの軌道が敷かれや水道管が積まれる淀橋浄水場の工事を描く。(『東京の30年』に記載との記事もあるが、所有する文庫には、その記載は、ない)。淀橋浄水場があった一帯は江戸の頃、館林秋元家の抱屋敷(下屋敷?)であり、秋元家の下級武士の出であった田山花袋は、秋元家の文書筆写の内職のため新宿内藤町の家から角筈村の旧秋元家屋敷に通 っていた。『東京の30年』に「川そいの路」というコラムがあるが、そこには「丁度其頃、私は毎日新宿の先の角筈新町の裏を流れる玉川上水の細い河岸に添つて歩いて行った。私は小遣取りに、一日二十銭の日給で、さる歴史家の二階に行つて、毎日午後三時まで写字をした」とある。浄水場となる角筈のあたりを頻繁に歩いていたのだろう。それはともあれ、当初浄水場の建設予定地は、この秋元家の屋敷があった淀橋の地ではなく、この南、千駄ヶ谷村の宇都宮藩旧戸田屋敷であったようだ。明治維新の混乱期における上水管理体制の不備や、江戸時代を長きにわたって使ってきた、木樋の腐食による水質汚染もあり、上水の汚染が大きな問題となってきた。また、明治19年(1886)のコレラの大流行での大きな被害も契機となり、近代水道の設置を迫られた政府は、オランダ人ドーソン、イギリス人バルトン氏、パーマ-氏などを起用し水道設置計画を立案し、千駄ヶ谷村をその候補地とした、とのこと。この構想では、旧玉川上水の水路の流路を利用するものであり 、計画は明治23年に決定された。
当初の予定地の千駄ヶ谷村から、この淀橋の地に変わったのは日本人技師・中島鋭治氏の提言による。綿密な測量により、千駄ヶ谷の浄水場計画地は「凸凹高低がひどく、たくさんの盛り土を必要とし、綿密な構造が不可欠な沈殿池や濾過池としては危険である」、とした。明治24年には、この提言が認められ、「千駄ヶ谷村を淀橋に、麻布と小石川に建設予定の給水所を本郷と芝に」「但し、淀橋浄水場より以西2000余間は新たに水渠を開鑿する」という計画に変更された。玉川浄水新水路はこの提言に基づいて建設されたものである。
淀橋浄水場には4つの沈殿池,24の濾過池、そして、大町桂月の『東京遊行記』に描かれた蒸気を発生される大煙突があった。水道は蒸気ポンプで加圧し、高地給水地域に給水。低地給水地域には、本郷給水所より自然流下で給水した、とのこと。なお、浄水場を千駄ヶ谷から淀橋に変えたことにより、浄水場標高が5m高くなり、結果的に蒸気ポンプ動力の負担減となった、と言う。また、蒸気を発生させる大煙突は東京の近代化のシンボルともなった、とのことである。工事は明治25年、神田川への余水吐工事からはじまり、浄水場の建設と平行し、明治26年、代々幡村本村(本村隧道)、下村の道路築堤(本村隧道)、北笹塚道路築堤(中野通りにあった隧道)の建設が始まり、明治31年に完成。当初は神田区、日本橋区のみへの給水であったが、翌明治32年には市内全域に給水するようになった。

淀橋浄水場碑
高層ビルの建ち並ぶ西新宿を、往昔の浄水場の写真を想い描きながら新宿駅近く、エルタワーの脇にある「淀橋浄水場碑」を訪ね、本日の散歩を終える。西口エルタワー裏の植え込みの中に、その昔、水道局事務所の正門のあった場所を示す赤御影石の記念碑が設置されていた。


今回が玉川上水散歩の最終回。上水が甲州街道を横切る代田橋から、新宿の四谷大木戸まで辿る。先回の、浅間橋跡から杉並区和泉の和泉水圧調整所までは、比較的真っ直ぐな水路跡の暗渠であったが、今回は窪地を避けた大曲りあり、一部開渠あり、整備された公園・緑地あり、尾根道に切り込む谷筋を避けた迂回路あり、少々の変化のあるルートとなる。
なお、今回も先回と同様、散歩メモのうち、橋の記録は『玉川上水・橋と碑と;蓑田たかし(クリオ)』の中になる「橋の移り変わり」を参考にした。『上水記』とは寛政3年(1791)に幕府の普請奉行が編纂した高川上水に架かる橋の記録としては最も古い資料である。橋の記録で明治3年(1870)とあるのは、玉川上水通船計画時に作成された『玉川上水掘筋渡橋取り調』記載のデータである。また、明治39年(1906)の記録とは、東京市水道局まとめた『玉川上水路実測平面図』による。


本日のルート;代田橋>ゆずり橋>大原橋>稲荷橋>南どんどん橋>第三号橋>笹塚橋>上水第二緑道>延寿橋>北沢橋>四条橋>五条橋>六条橋>常磐橋>相生橋>代々幡橋>山下橋>美寿々橋>二字橋>西代々木橋>新台橋>新代々幡橋>改正橋>伊藤橋>三字橋>千駄ヶ谷橋>天神橋>葵橋>JR新宿駅>天竜寺橋>新宿御苑>四谷大木戸

代田橋
甲州街道と井の頭通りが交差する松原交差点を左に折れ、和泉水圧調整所に沿って甲州街道を東に進む。明大前の井の頭線跨線橋で見た二条の水道管のひとつは、旧玉川上水路に沿って埋設されているのであろうから,和泉水圧調整所敷地南の地下を、往昔、代田橋があったあたりに向かって続いているのだろう。甲州街道脇にある東放学園あたりで甲州街道に出ている、とも。
代田橋は旧水路が甲州街道を越えるところに架かっていた。『上水記』にも記載される古き橋は昭和12年(1937)、甲州街道の改修・拡張にともない姿を消した。『新編武蔵風土記稿』には、「わずかにしてさせる橋にはあらざれど、甲州海道の内にて旅人ここを目当てとして往来すれば、その名も世に聞こえし橋なり」、とある。代田橋の袂には水番所があったとのことである。玉川上水がこの地でクランク状に南に折れるのは、甲州街道を東に進んだところにある「荻窪」と呼ばれる北に開けた浅い谷戸を避けるためであろう。

ゆずり橋
陸橋を渡り甲州街道の南側を少し東に進むと、ビルの立ち並ぶ一画に、緑豊かな場所が現れる。玉川上水は、ここで幅2mほどの開渠として姿を現す。甲州街道から京王線・代田橋駅脇の線路を潜るまで、距離としては150m程度ではあるが、ちょっとした渓谷の風情を漂わせる。橋を潜った先には赤煉瓦のアーチ橋。ここは和田堀給水所からの配水管が渡る「玉川上水第一号橋」と呼ばれる橋であったが、老朽化に伴い掛け替えるに際し、橋名を公募。「譲り合いの精神」から「ゆずり橋」となった、とか(『玉川上水・橋と碑と;蓑田たかし(クリオ)』)。

ところで、代田の地名の由来は、伝説の巨人・ダイダラポッチから、との説がある。ダイダラポッチの伝説は日本各地にあり、その足跡は水の涸れることのない肥沃な窪地となる、ということだが、この地では守山小学校付近の窪地、とも伝わる。 柳田國男もその著書『ダイダラ坊の足跡』(1927年(昭和2年)の中で、ダイタの橋から東南へ五六町、その頃はまだ畠中であつた道路の左手に接して、長さ約百間もあるかと思ふ右片足の跡が一つ、爪先あがりに土深く踏みつけてある、と言つてもよいやうな窪地があった。内側は竹と杉若木の混植で、水が流れると見えて中央が薬研になつて居り、踵のところまで下るとわづかな平地に、小さな堂が建つてその傍に湧き水の池があつた。即ちもう人は忘れたかも知れないが、村の名のダイタは確かにこの足跡に基いたものである』、とも書いている。
ダイダラポッチは、話としては面白いのだが、他になにかヒントはないものかと、あれこれチェックすると、安曇野では代掻き(しろかき;田植の前に水田に水を入れて土塊を砕く作業。)が終わり、早苗を植えるまえの田圃のことを代田と呼ぶようだ。自分としては、何の根拠もないのだが。こちらのほうに与したい、とも思う。代田にはその他にも、少し高めの台地にある田圃のことを指す、とも言われる。代田村は江戸初期の開村。北条氏の重臣吉良氏の家臣、清水・秋元・斉田・斉田・柳下・山田・大場の七人(代田七人衆)が帰農して開墾したのが始まりとのことである。

向岸地蔵尊
ゆずり橋を越えると、環七までの間、玉川上水緑道、というか、ちょっとした公園が環七まで続く。公園の中に向岸地蔵尊が祀られる。地蔵尊の傍らの由来書によると、今から200年ほど昔、荏原郡北の里(現在の世田谷区大原)に生まれつき身体が曲がっている向岸という人がおり、自身の境涯を悲しんでいた。そこに、ある夜、とある高僧がお地蔵様となって現れ、今後、世のため日夜念仏を唱えれば救われる、と。お地蔵様の教えに従い念仏三昧の生活をはじめた向岸さんと、それを聞き知った人々が集まるようになり大きな講中となった。地蔵尊は、生前の徳を偲んで講中の人が建立したものである。現在でも、お線香が途切れることのないような雰囲気であった。

大原橋
先に進むと環七に交差。環七には地下道を潜る。配管などが露出する素朴な地下道である。渡り切ったところに大原橋跡が残る。環七は昭和初期に計画され、昭和39年(1964)、東京オリンピックを契機に整備が進展するも、最終的に貫通したのは昭和60年(1985)。計画から完成までにおおよそ60年弱かかった。大原橋がいつ架橋したか不明ではあるが、環七の工事の年代からすれば、昭和の頃のものではあろう。
甲州街道と環七の交差点は大原交差点と呼ばれる。元は代田村。明治22年(1889)、世田谷村大字代田の字東大原・西大原・荻久保となり、昭和7年(1932)、字東大原・西大原・荻久保が世田谷区大原町となる。その後昭和39年(1964)、松原町や羽根木の一部を加え、大原となった。地名の由来は、だだっぴろい原っぱ、といったところ。現在の交通の往来激しき姿から往昔を想像するのは、難しい。

稲荷橋

環七を渡ると上水路跡に公園が続く。世田谷区玉川上水緑道と呼ばれている。家族連れが楽しむ公園を進むと稲荷橋にあたる。昭和2年(1927)竣工。近くにお稲荷様の小祠がある、とのことである。近くを彷徨ったが、稲荷の祠は見付けることはできなかった。
稲荷橋から先は、開渠となる。川面まで結構深い。笹塚に近づくにつれて、川面が近くなる、ということは、台地を掘り下げる高さを調整し、上水が自然流下する勾配をつくっているのであろう。開渠の両側はフェンスで囲われ、木々が生い茂り、情緒少なき都市の中に野趣豊かな一画を形作っている。

幡ヶ谷分水口
稲荷橋のところに幡ヶ谷分水口がある。この地より北上し、甲州街道に沿って西に向かい、代田村大原から自然の谷筋(荻窪)に流れ込み、三郡橋を潜り、甲州街道を越える。その先は、笹塚田圃の西端に達し、神田川支流笹塚川(和泉川)と合わさり、笹塚川(和泉川)の養水として機能した。水路は玉川上水と逆に向かうこところもあったため、逆川とも呼ばれたようである。三郡橋は甲州街道を横切るあたりが、かつての南豊島郡、東多摩郡、荏原郡の境であったため、このように呼ばれた、と。
ついでのことだが、幡ヶ谷分水については、分水の水量を増やすため、村民はあれこれ知恵を働かせたようである。明治31年(1898)、淀橋浄水場への新水路建設に伴い、移転が必要となった弁天社を幡ヶ谷分水口のすぐ傍に移し、弁天社と言えば湧水でしょう、ということで、池を掘り、こっそりと玉川上水から水路を繋いだ。農業の生命線でもあった分水も、現在ではその役割を終え、昭和初期には分水が廃止。弁天社も幡ヶ谷の鎮守である渋谷区本町の氷川神社に移された、とか。

笹塚・第二号橋・南どんどん橋
開渠となった上水路に沿って先に進む。笹塚駅手前の二号橋までのおおよそ100m程度で開渠は終わり、暗渠となる。京王線下を南北に抜ける笹塚駅前の通路脇に、撤去された橋の親柱が残り、「南どんどん橋」とある。水路は笹塚駅前で大きく南に向かって流路を変える。ために、水が堤にあたり「どんどん」と音が響いていたのであろう。南どんどん橋は笹塚駅の高架改修で撤去された。
笹塚の地名の由来は、甲州街道など、江戸の五街道に築かれた一里塚跡とも言われる。が、大正5(1916)年刊行の『豊多摩郡誌』には、甲州街道の両側にあった塚が、すでに見られないと記してある。

牛窪
水路は笹塚駅前で大きくUターンし、南に向かって流路を変える。世田谷区の旧大原村と旧北沢村の境にある荻窪といった窪地、水田地帯があり、これを避けるため笹塚地区内に迂回してきた上水路は、この地で再び、幡ヶ谷牛窪の低地帯を避けるためUターンすることになる。現在、中野通りと甲州街道が交差する交差点南詰めに牛窪地蔵が祀られる。笹塚の辺りの甲州街道を走れば一目瞭然ではあるが、この辺りは窪地となっており、往昔、牛が窪と呼ばれていた。この地は雨乞い場でもあり、また、牛裂の刑を執行する刑場跡でもあった。牛窪地蔵が祀られたのは宝永・正徳年間の疫病を避けるため。地蔵尊の祠、といっても現在は結構モダンな造りとなっているが、その脇には道供養塔、庚申塔が祀られる。

第三号橋
笹塚駅前で大きく南に向かって流路を変えた水路は、旧北沢村に向け、南に下る。駅のすぐ先の通に橋が架かる。この第三号橋から上水は再び開渠となって進む。稲荷橋から第二橋までの開渠に比べて、比較的オープンな雰囲気。周囲を囲む鉄のフェンスもない。200mほどの開渠も笹塚橋に至り、再び暗渠に潜ることになる。

笹塚橋
笹塚橋を越えると渋谷区から世田谷区に入る。笹塚橋の脇、三角になったコーナーが三田用水の分水口、と言う。最も、笹塚橋が記録に表れるのは明治39年(1906)であり、当然のことながら三田用水は、それよりもっと古く江戸の頃、寛文四年(1664)であるので、正確には三田用水の分水口付近に笹塚橋が架けられた、ということだろう。

三田上水
玉川上水から分水された三田上水は、当初、三田、白金、北品川まで飲料水として給水され、その距離は10キロにも及んだ。亨保七年(1722)には、神田上水と玉川上水を除いた、青山・三田・千川上水が廃止されることになるが、それは、八代将軍吉宗の御用学者である室鳩巣が、当時頻発した江戸の火災の主因が、上水網による地脈の変化であるとの妄言を建白し、採用されたためである。その後、上水は沿岸の人々の要請により、農業用灌漑用水として復活。三田用水も亨保10年(1725)、1宿13ヵ村に農業用水として復活した。明治以降は、海軍火薬庫(現在の防衛省技術研究所)や恵比須ビールで利用されるも、昭和49年(1974)に、分水口は閉じられた。
三田用水の水路跡は残っていないが、小田急線・東北沢駅を越えた、東大駒場手前の三叉路は三角橋と呼ばれる。これは三田水路の名残の地名である。いつだったか三田上水の下流部を彷徨ったことがある。窪地を避けるために迂回したり、導堤を築くなど、工事は結構大変であったろう、と感じた。以下、簡単に流路をメモする;分水口>北沢五丁目商店街の通りの裏を南に下る>三角橋交差点(北沢川溝ヶ谷支流や宇田川水系の富ヶ谷支流の分水界のあたり)>東大駒場キャンパスの塀に沿って下る>山手通り>井の頭線の上を通過>松涛2丁目で旧山手通り>西郷山公園脇>鑓ヶ崎交差点を懸樋で渡る>別所坂を上り切ったあたり>茶屋坂隧道跡(平成15年に水路橋は撤去される)>起伏の激しい港区白金を迂回、導堤で進む(白金台3丁目12に堤跡;三田用水路跡の案内)>桜田通り脇の雉子神社(東京都品川区東五反田1丁目2)>高輪3丁目交差点あたりで二つに分岐>ひとつは南に下り、新高輪プリンスホテルをこえたあたりで東に折れ>品川駅前に降りる。もう一方は尾根道を北東に進み井皿子交差点を経由し三田3丁目に下り>慶応大学近く・春日神社あたりから東に進む。また、もうすこし北 に進み東に折れる水路もある、といったところ。

北沢橋

笹塚橋を越え、整地された遊歩道(玉川上水第二緑道)を進む。流路は中野通り五条橋交差点の先に弧を描いて中野通りに合流する。中野通を渡ったバス停の脇に北沢橋の親柱が残る。中野通り改修の際、実際架かっていた場所からは移された、とか。『上水記』には摂津守橋、明治3年の記録には角神橋。明治39年(1906)には北沢橋とある。北沢八幡への寄進状に下北沢領主として慶安三年(1650)当時の領主として斉藤摂津守という名が残る。この人物と関係があるのだろう、か。笹塚橋から北沢橋の間に、昭和になって延寿橋という橋があったようだが、その場所は、はっきりしない。
荻窪の低地を避け、笹塚へと迂回し、その笹塚からは牛窪の低地を避けて、この地まで進んだ上水路は、今度はここで再び大きくU字型に弧を描き、ここからは渋谷川水系の分水界を幡ヶ谷、初台、そして代々木へと進む事になる。

散策路旧玉川上水ルート
北沢橋から新宿南口の旧葵橋にかけては暗渠ではあるが、公園・緑道として整備されており、快適な散歩が楽しめる。『玉川上水・橋と碑と;蓑田たかし(クリオ)』によれば、明治31年(1898)、和泉水圧調整所から淀橋浄水場への新水路建設にともない、上水の機能を無くし排水路と化していた玉川上水旧水路を、上流部の整備、すなわち、杉並の浅間橋から和泉水圧調整所までの暗渠化をきっかけに、下流部の整備要望の声も高まり、昭和46年(1791)、都水道局と区との間で公園・緑道化が進められることになった。

四条橋、五条橋、六条橋・常盤橋
緑道を進むと四条橋、五条橋、六条橋と続く。遺構はなく、モニュメントとしての橋として残る。明治の記録には残っていないので、昭和に入ってからの橋ではあろう、か。常盤橋は明治39年(1906)の記録に残る。水路は北東に弧を描いて進む。水路の右、というか南は坂になっており、尾根道の稜線部・馬の背を走っていることが実感できる。
常盤橋の南、代々木大山公園、国際協力機構、製品評価技術基盤機構などが集まるあたりが渋谷川水系宇田川の源流点と言われる。狼谷などと言う、如何にもといった谷筋もある。幡ヶ谷、初台、富ヶ谷一帯に複雑に広がる開析谷から流れ出る水はすべて代々木八幡駅前に集まり、ひとつになって渋谷駅近くで渋谷川と合流。後は渋谷川として南に下っていた。

相生橋
北沢橋以降の橋は、既にモニュメント・造形物になっているが、この相生橋は現役時代そのままの風情を残す。親柱には大正十三年十一月竣工の文字が刻まれている。相生橋の南にあるJICA(国際協力機構)と製品評価技術基盤機構の間に見える池が渋谷川の支流・宇田川の源流点と言われる。谷が入り込んだ複雑な地形となっている。渋谷川水系の川筋を彷徨った頃が懐かしい。




代々幡橋・山下橋・美寿々橋
代々幡橋は『上水記』には延寿橋と記された古き橋。明治3年(1870)の記録では延寿橋とあるが、明治39年(1906)の記録では代々幡橋となっている。代々幡は代々木と幡ヶ谷の合成語。明治22年(1889)、合併して代々幡村、後に代々幡町となった。植え込みの中に元々の支柱が埋められていた。山下橋は水車風のモニュメント。これも植え込みに支柱が残っている。その先に美寿々橋。山下橋も美寿々橋も明治の頃の記録にはない。



二字橋
幡ヶ谷駅前から南に延びる幡ヶ谷商店街の道筋に架かる橋が二字橋。明治39年(1906)の記録に残る。二字橋の由来は不明だが、もう少々下流にある三字橋は、地名の三つの字(新町・初台・山谷)に架かる橋ということだから、二字もふたつの字名に架かる橋、とも思える。
幡ヶ谷の地名の由来であるが、その説のひとつに、八幡太郎義家が永保2年(1082年)、「後三年の役(1083~1087)」に出征途中、源氏の白旗を洗ったという「旗洗池伝説」がある。旗を翻した池>幡ヶ谷、となった、とか。その池は小笠原窪付近(幡代小学校を越えた甲州街道の北)にある池で、神田川に注ぐ自然湧水の池であったようだ。その池は昭和38年(1963)に埋め立てられ、今は、ない。また、その時の白旗は渋谷の金王八幡宮に社宝として祀られている、と言う。

西代々木橋・新台橋・新代々幡橋
『上水記』に勘右衛門橋とある古き橋。明治3年(1870)の記録では勘右衛門橋とあるが、明治39年(1906)には西代々木橋とある。珍しい木彫り形式の橋のモニュメントが残る。新台橋を越えると新代々幡橋。山手通り・初台坂下交差点から北西に上り、甲州街道・本町1丁目交差点に架かる。玉川上水が甲州街道と平行する地に架けられた橋ではあるが、現在は記念碑も遺構も残らない。新代々幡橋交差点は明治の記録には残っていない。
新代々幡橋から山手通り・坂下橋交差点へと下る坂の途中、少し東に入ったあたりに渋谷川の支流・初台川の源流点があった。現在では水源もなにも見あたらないが、往昔、代々木九十九谷と呼ばれた谷頭を想像しながら、甲州街道に沿った馬の背を進む。

代右衛門橋・幡代橋
甲州街道に沿って上水跡を進む。初台駅あたりの上水路は、南から切りあがる宇田川水系の谷筋を避け、甲州街道に再接近している。ほどなく代右衛門橋。『上水記』にある古き橋。明治3年(1870)の記録には代々木橋、明治39年(1906)には再びを代右衛門橋となる。現在では大門橋とも呼ばれる代右衛門橋を越え、幡代橋に。この橋は幡代小学校へ渡る橋であった、よう。幡代小学校は明治15年(1882)、代々幡村ができる前、幡ヶ谷村と代々木村が協力して開校したもの。村の名前は代々幡としたが、学校名は幡代と旧村名を逆転してバランスをとった、ということだろう、か。
上でメモしたように、この幡代小学校の甲州街道を隔てた北側には小笠原窪と呼ばれる窪地もあった、よう。小笠原窪の由来は、この地に備前唐津藩小笠原家の屋敷があった、から。

改正橋
幡代橋を越えると、上水路は甲州街道から弧を描くように甲州街道から少し離れる。先に進むと京王新線・初台駅前の通りに架かる改正橋に。明治39年(1906)の記録に登場する橋。名前の由来は通りの名前である改正通り、から。改正通りの名前の由来は不明。京王新線・初台駅も、京王電鉄の前身である京王電気軌道の路面電車として開業した大正3年(1914)には、改正橋駅と呼ばれていたようである。初台駅となったのは大正8年(1919)、当時に地名である渋谷区代々木初台に因んで改称された。

初台
ちなみに、初台の地名の由来には諸説ある。一説が、徳川幕府2代将軍秀忠の乳母が「初台の局」と呼ばれ、この地に二百石の知行地を賜ったことに由来する、とするもの。また、太田道灌が築いた一の砦(狼煙台)に由来するとの説もある。幡代(はたしろ)、から「はただい」と読みが変わり、文字も目出度さを込めて「初台」とした、とする説もある。地名の由来はどれも、諸説あり、定まることなし、といったものではあるが、自分としては、なんとなく地形に関係したものではないかと妄想する。
幡ヶ谷にしても幡代にしても、「はた」は端、台地が浸食された崖端を意味するのではないかと思うのだが、これといって根拠があるわけではない。武蔵野台地の末端の一部で幡ヶ谷台地は、渋谷区の北部を東西に延び、北は神田川の谷に面し、南斜面は渋谷川水系の宇田川や初台川に侵蝕され、千駄ヶ谷・代々木・西渋谷の台地に連なっている。また、代々木台地に並んで南に突き出している支丘が初台台地(標高約39m)であり、この台岬(台地の先端)には代々木八幡神社が鎮座する。このように、複雑に切り込まれた谷頭を見るにつけ、幡ヶ谷とか初台の名前に由来は地形からではなかろうか、と思うだけではある。

伊藤小橋・伊藤橋
初台駅前を離れ、先にすすむとほどなく伊藤小橋。明治39年(1906)の記録には、ない。緑道を山手通りに向かって進む。山手通りに架かっていた伊藤橋へと向かう道すがら、道脇の排気口から音が聞こえる。地下を走る京王線の走る音であろう。

京王線軌道敷
現在は新宿から笹塚まで地下を走る京王線であるが、大正2年(1913)4月、京王電気軌道として笹塚から調布間に開業後、大正4年(1915)、新宿追分から笹塚間が開業(大正2年10月代々幡・笹塚間開業、大正3年3月幡代小学校・代々幡間開業、同年6月代々木・幡代小学校開業、同年11月新町・代々木間開業)した。郊外が先になったのは、すでに市街地となっていた新宿近辺の用地買収の困難さ故、と言う。



それはともあれ、開業時の京王電気軌道は、専用軌道をもつ路面電車といったものであり、始発の新宿追分(新宿3丁目交差点:伊勢丹は路面電車の車庫であった)>省線新宿駅前(現在の新宿南口)>葵橋(西新宿1丁目)>新町(西新宿2丁目)>天神橋>西参道(神宮裏)>改正橋(初台)と走った。幡ヶ谷駅から新宿まではもとは、甲州街道を走る軌道であったようではあるが、昭和11年(1936)年には、幡ヶ谷より新町までは玉川上水を暗渠とした上に専用軌道を敷設した、と言う。起点も昭和2年(1927)には新宿4丁目に京王ビルを建設し、四谷新宿駅として追分駅から移った。
戦後も新宿駅と文化服装学園前までは甲州街道上に軌道が敷設されていたが、交通障害や甲州街道自体の拡張のため京王線軌道敷をつくることになり、昭和36年(1961)に工事開始、昭和38年(1963)、地下を走ることになる。路線は昭和20年(1945)に現在の京王線新宿駅に移っていた始点から南下し、甲州街道を渡り切ると大きくカーブし、玉川上水跡の地下を笹塚まで走っている。新宿から笹塚間が複々線化され、京王新線が開通したのは昭和53年(1978)のこと。こちらの路線は、甲州街道下を走っている、とのことである。

三字橋
伊藤橋、と言っても、今は何の名残もないのだが、山手通りに架かっていた伊藤橋を想像しながら道を渡る。西参道に向かって進むと三字橋。「みあざ橋」と読む。明治39年(1906)の記録に残る。三字の由来は、新町・初台・山谷という「字」名に由来する。三字橋の南には河骨川の源流点が迫る。春の小川の舞台ともなった、河骨川の源流点を求め、水路跡を刀剣博物館あたりを彷徨った当時が懐かしい。

代々木橋
十二社通り・西参道を渡る代々木橋跡地。遺構はない。明治39年(1906)の記録に代々木橋として登場する。代々木の地名の由来については、『大日本名所図絵』に「代々木御料地なる旧井伊侯下屋敷に樅の老樹あり、幾年代を経しを知らず、すでに枯れて後継樹も喬木となり居れり、是れ当地に於いて最も有名なり、代々木の称は是より起これり」、とある。代々(だいだい)、この地に樅(もみ)の木があったことが、代々木の由来、とか。代々木村の代々木、として江戸の頃は有名であったようである。

正春寺橋・諦聴寺橋
代々木橋を越えると、『上水記』には正春橋が記される。正春寺は三代将軍家光の乳母である梅園局が、母である初台局の菩提寺としてこの地、当時の代々木村山谷(現在の渋谷区代々木3丁目)に正春寺を創建した、と。また、この寺には大逆事件で幸徳秋水等とともに処刑された菅野スガの記念碑が残る。正春寺橋の先には諦聴寺橋があった、とか。明治の記録にはない。

京王電鉄・天神橋変電所
いかにも京王線軌道敷といった遊歩道、と言うか公園を進む。時に地下から京王線の走る音が聞こえる。先に進むと公園、と言うか上水路跡の南に京王電鉄・天神橋変電所がある。この変電所は京王線新宿駅が現在の地に移った原因を生じたところ。第二次大戦末の昭和20年(1945)の大空襲により、当時の天神橋変電所が被災し、電圧が低下。当時の始発駅であった、新宿四丁目の四谷新宿駅からは国鉄を跨ぐ跨線橋を上れなくなり、陸軍工兵隊が大至急で跨線橋の西、現在の京王線新宿駅あたりに駅を設けた、とのことである。

天神橋跡
先に進むと文化女子大手前の道脇に天神橋跡の石碑。『上水記』に記される古き橋である。由来は、上水路跡を少し北に上った甲州街道脇に銀杏天神社、から。箒を逆にしたような箒銀杏と称される大銀杏の根本に天満宮のささやかな祠がある。
京王電気軌道の天神橋駅には大正11年(1922)貨物用のホームが設けられた、と言う。多摩川で採取した砂利をこの地まで運び、当時新宿追分まで通じていた東京市電と結び、都内へと砂利を運ぶ計画であった、よう。実際は市電と結ばれることは実現されず、この地でトラックに詰め替えるため貨物用のホームが必要とされた、とか。

勿来橋跡
美しく整備された文化女子大前の公園を進むと、文化学園の旧正門あたりに勿来橋跡の石碑が残る。「勿来(なこそ)の関」で知られる勿来は福島県いわき市にある。橋名の由来は、江戸の頃、この地に福島の三春藩主であった秋田安房守の下屋敷があった、ため。勿来橋の石碑の先には半円のモニュメント。新宿の線路下を抜ける玉川上水の導水路の形を再現したものである。結構大きい。

原宿村分水
『上水記』に、亨保9年(1724)、原宿村分水が開通とある。文化女子大のあたりを走る玉川上水から二カ所、キャンパスの東と西から弧を描くように南に下り、原宿村・隠田村・上渋谷村を潤した。代々木3-29あたりにあった湧水も合わせ、神宮前3-28、障害者福祉センターあたりで渋谷川に合流している。

千駄ヶ谷橋
文化女子大前のオープンなスペースから先に進み、少々こじんまりとした公園を抜けると葵通りに出る。その手前の南北に通る道筋と上水のクロスするあたりに千駄ヶ谷橋があったようだ。『上水記』にも記録の残る古き橋である。
千駄ヶ谷の由来に、此の辺り一帯は茅野原であり、日々千駄の茅を刈り取ったと『新編武蔵風土記稿』にある。駄、とは馬一頭が背にする荷駄のことである。これはこれで、由来としては、わかりやすいのだが、自分としては、根拠はないのだが、なんとなく地形に由来するように思える。せんだがや=せまい+た=ところ+たに>狭い谷を現した地名のように思える。実際、代々木九十九谷と呼ばれたほどの谷が入り組み、起伏激しい地形であるこの辺りであれば、この我が妄想も結構納得感がある。

葵橋
葵橋通りを進むと新宿南口・新宿1丁目交差点より代々木駅に抜ける道にあたる。T字の突き当たりの東京南新宿ビルの壁面に葵橋跡の銘板が残る。往昔、この地に葵橋が架けられていたが、ビル建設にともない撤去された。葵橋は『上水記』には戸田因幡守抱屋敷内橋、とある。この地は、宇都宮藩戸田家の屋敷があったためで、明治3年(1870)の記録にも「戸田邸中土橋」、とある。葵橋となったのは、明治に紀州徳川家が買い受け薬草栽培、紀州庭園と呼ばれた、ため。徳川家、故の葵橋ではあろう。

千駄ヶ谷分水
戸田因幡守抱屋敷内には千駄ヶ谷分水があった。この分水は南に少し下ると西に折れ、原宿村分水に合流している。JR病院前の谷筋を西に入り、代々木小学校のあたりが合流点のようである。水路は小学校前のクランク状の道を抜け、明治神宮北参道前でJRを越えて下ってゆく。

京王電気軌道・四谷新宿駅跡
JRを跨ぐ南新宿の橋を渡り、玉川上水散歩の最終地・四谷大木戸へと向かう。跨線橋を降りきった甲州街道と明治通りの交差する、新宿4丁目交差点脇に京王新宿追分ビル。伊勢丹前の追分駅から移った京王電気軌道・四谷新宿駅のあったところである。

龍寺から四谷大木戸
玉川上水は葵橋跡から線路下を潜り、天龍寺、新宿高校前を通り、新宿御苑の新宿門から四谷大木戸へと進む。『玉川上水・橋と碑と;蓑田たかし(クリオ)』によれば、寛政3年(1791)の『上水記』には天竜寺門前上石橋>天竜寺門前板橋>天竜寺門前石橋>内藤大和守下屋敷内橋>大木戸水番屋構之内橋などが記録に残る。明治3年(1870)の玉川上水通船計画時に作成された『玉川上水掘筋渡橋取り調』には、上石橋(旧・天竜寺門前上石橋)>天竜寺門前下石橋(旧・天竜寺門前石橋)>上地橋(旧・内藤大和守下屋敷内橋)>新宿取付石水橋(旧・大木戸水番屋構之内橋)が記録される。また、明治39年(1906)作成の『玉川上水路実測平面図』には、万年橋(旧・上石橋;明治3年)>中の橋(旧・天竜寺門前板橋;寛政3年)>天竜寺橋(天竜寺門前下石橋;明治3年)>新宿御苑通用門(上地橋;明治3年)>新宿御苑>憲兵屯所、といった記録が残る。
とはいうものの、現在では、跨線橋を渡った先は四谷大木戸まで関東大震災後の埋め立てによって暗渠となり、橋の確認をすることができない。上水路と橋を想像しながら、記録に残る寺や地名を辿り、四谷大木戸へと向かうことにする。

 

天龍寺
もとは遠江国にあり法泉寺と称した。家康の側室である西郷局の父の菩提寺であり、家康の江戸入府にともない牛込納戸町・細工町あたりを寺域として拝領し、寺名も故郷の大河、天龍寺にちなんで改名した。
西郷の局が将軍秀忠の生母となるにおよび、上野の寛永寺が鬼門鎮護の寺となったように、江戸城の裏鬼門鎮護の寺として幕府の手厚い保護を受けた。天和3年(1683)に現在の地に移った。
境内の左手鐘楼にある「時の鐘」は、上野寛永寺、牛込市谷八幡の鐘とともに、江戸三名鐘のひとつと称せられた。この鐘は天竜寺を菩提寺とした茨城笠間城主・牧野備後守が明和4年(1767)に造らせたもの。東京近郊名所図会には「時の鐘、天龍寺の鐘楼にて、もとは昼夜鐘を撞きて時刻を報じせり。此辺は所謂山の手にて登城の道遠ければ便宜を図り、時刻を少し早めて報ずることとせり。故に当時は、天竜寺の六で出るとか、市谷の六で出るとかいいあえり。新宿妓楼の遊客も払暁早起きして袂を分たざるを得ず。因て俗に之を追出し鐘と呼べり」とある。遊客もこの鐘の音を合図に妓楼より「追い出された」のであろう。
牧野備後守が寄進したオランダ製のやぐら時計も知られる。四脚の上に時計が乗っている形がいかにも櫓といった姿であった。時の鐘を撞く合図として明治の中頃まで使用されていた、と言う。天竜寺には、かつて渋谷川の源流のひとつでもあった池があった(「新宿散歩その参:四谷台地の尾根道や谷筋を彷徨い、新宿から西新宿へ」よりコピー&ペースト)

新宿高校
天龍寺を離れ、御苑トンネル脇を進むと新宿高校。キャンパス内に旭橋の石柱と下水用の石樋が残る。解説によると、石樋は甲州街道と青梅街道の分岐する追分一帯の下水を御苑内の池に落とすため、玉川上水の上に架けられたもの、とか。旭橋の旭は、天龍寺門前一帯(現新宿4丁目)の町名とのことであった。

内藤大和守下屋敷
家康の江戸入府に際し、高藤藩内藤大和守に先遣隊として、四谷方面の警護の任に当たらせ、無事に家康江戸入城の任を果たしたその功により、大和守の部隊が布陣していた一帯を拝領した。東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保に至る広大な原野であった。その一部、現在の新宿御苑には内藤家の下屋敷があった。
四谷大木戸跡
新宿御苑に沿って進み、新宿通り・新宿1丁目交差点を右に折れ、四谷四丁目交差点に。江戸の頃、この地には四谷大木戸があった。甲州道中の江戸への出入り口として、元和2年(1616)に設けられた。江戸時代の地誌の一つ『御府内備考』に『江戸砂子に云、此地むかしは左右谷にて至て深林の一筋道なり、御入国の此往還糺されしといふ、七八十年迄は江戸より駄馬に付出す所の米穀送り状なければ通さすとなり、今も猶駄馬の荷鞍なきを通さず、江戸宿又は荷問屋等の手形を出して通る是遺風なり、又此所の番所内の持なれとも突棒さす股もじり等を飾り置江府に於て武家番所の外此一所に限る又住古関なりし証なりと古き土人の云伝へしよし』、と四谷大木戸が描かれる。
現在は四差路の車の往来の激しい大きな交差点であるが、往昔、この四谷四丁目交差点の北は紅葉川の谷筋、南は渋谷川の谷筋と、尾根道の馬の背といった一本道であった。この地に大木戸が設けられたのは、狭隘な尾根道故に、出入り管理が容易であったのだろう。「江戸名所図会」を見るに、道の両側に石垣が築かれ、内藤新宿側は石畳となっており、玉川上水の水番所も見える。一方、石垣の四谷側には屋根が見えるが、それは旅人や荷駄を調べる番屋の屋根であろう。番屋では突棒、刺股などの道具を置き門番が警護していた。高札も掲げられている。大木戸は世の安定、経済の発展による人馬の往還、また番屋費用の町内負担などの理由により寛政4年(1792)に廃止。石垣も明治9年(1876)に取り壊された。

 

水道碑記
羽村から下った玉川上水散歩の最終目的地、「江戸名所図会」に見える玉川上水水番所は現在、交差点を新宿側に渡った四谷区民ホール脇の道端に「水道碑記」との石碑で残る。江戸開幕にともなう上水確保のため、多摩川の羽村の取水堰から武蔵野の尾根道を開削し、43キロ以上を導水した。開削当時は、取水口から四谷大木戸の水番所までは開渠、ここからは地下の石樋をとおして江戸の町に流した。四谷大木戸から先の上水網については、また別の機会にメモするとし、七回に分けた玉川上水散歩を一応、これでお終いとする。

港区を2回に渡り歩いた。が、いまひとつ土地勘がしっくりしない。であれば、台地を刻んで流れる渋谷川・古川にそって北から歩いてみよう、と考えた。開析された谷筋と尾根道のアップダウンを辿れば、なんとなく全体の姿がわかる、かと。(日曜日, 9月 10, 2006のブログを修正)



本日のルート:JR 渋谷駅>明治通り・渋谷警察署>金王八幡宮>金王神社前>八幡坂>明治通り・氷川橋>氷川神社>国学院大学前>白根記念渋谷郷土博物館・文学館>南郭坂・広尾高校前>羽澤ガーデン>チェコ大使館>祥雲寺>外苑西通り・広尾橋>天現寺>光林寺>五の橋>三光坂>池田山公園>JR五反田駅

渋谷駅
渋谷川が開渠となるのは渋谷駅前。六本木通りと明治通りが交差するあたり。京王井の頭線・渋谷駅で下車。渋谷警察署を目安に進む。東急・東横線のガードを超えたあたりに、コンクリートで固められた渋谷川。少々窮屈そう、ではある。渋谷川はこの先、恵比寿駅近くの渋谷橋あたりまで明治通りに沿って下る。が、ビルに囲まれた開渠路。散歩には少々味気ない。で、川筋を意識しながらも、東に盛り上がる台地に向かうことに。

金王八幡社
渋谷警察から明治通りを少し進み、台地に登る。台地を登りきったところに「金王八幡社」。創建は11世紀末に遡る。平家の祖・平高望の子孫・平武綱がつくった、と。源義家に従い戦った後三年の役で武名をあげた武綱は、この渋谷一帯を領地とする。で、この地に八幡宮をまつったのが「金王八幡宮」のはじまり。その後、武綱の孫・河崎重家の代に天皇より「渋谷」姓を賜る。当時は「渋谷八幡宮」と呼ばれていた。
「渋谷」の名前を賜った由来が一風変わっている。河崎重家が御所警護の際、取り押さえた賊の名前が「渋谷何某」。その功を称えた掘河院が「以降、渋谷と名乗るべし」といった、とか。倒した敵の名前を名乗るのは名誉なことであった、そうな。
何ゆえ「金王」、ということだが、あれこれ説がある。渋谷重家の子どもの名前・金王丸に由来する、との説もある。子供を求める重家が、八幡様にお祈り。「金剛夜叉明王」が妻女の体に宿る夢。正夢となり、無事男子を授かる。「金」剛夜叉明「王」の初めと終わりの字を取って「金王」と。少々,出来すぎている感もあり。 

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


ついでに重家のその後;源義朝に従った保元の乱で殊勲大。その後、平治の乱では、義朝討ち死の報を義朝の妻女・常盤御前に伝え、重家はこの渋谷の地で出家。義朝の菩提をとむらう重家に転機が訪れたのは、頼朝が奥州の義経征伐の折り、重家に従軍を求めた時。頼朝の強い要望に断わりきれず参戦するも、常盤御前の子である義経を討つことはできず、戦いにおいて落命した、と。
この金王八幡社付近は渋谷城があったところ。小田原北条氏の武蔵進出の際の合戦で焼け落ちた。渋谷警察の裏にあたりには、古くは堀之内という地名があった、とか。この城址は台地の西端。眼前には水量豊かな渋谷川水系の川が行く筋も流れており、その水を引いた堀があったのだろう。

氷川神社
神社を離れ金王神社前交差点に進む。この道筋は青山学院の西側を下り、六本木通り・渋谷2丁目交差点を越えてくる。台地から渋谷川に向かっては金王神社前あたりから「八幡坂」となって下る。八幡坂を下り終えると明治通り・並木橋交差点。明治通りにそって次の交差点、渋谷川に氷川橋のかかる東交番前を台地方向に折れ、坂を登る。坂の途中で南に折れ、道なりに進むと「氷川神社」参道入口。
結構広い境内。4000坪程度あるようだ。鬱蒼とした緑の中に鎮座する。境内には相撲場。江戸郊外三大相撲のひとつ、金王相撲が開催されていた、とか。渋谷最古の神社とも言われる。何度かメモしたように、氷川神社は全国で261社。そのうち埼玉に162社。東京に68社といったふうに関東ローカルなお宮さま。本社は武蔵一ノ宮である大宮の氷川神社。出雲族の武蔵氏が武蔵国造となってこの地に移ってきたとき、氷川信仰が武蔵の地に普及した。「氷川」の名は出雲の「簸川;現在の斐伊川)」に由来する。もとは、荒川を簸川に見立て、畏敬の念をもって信仰していたのであろう。
氷川神社が祀られた村々はその成立が比較的古く、多くは関東ローム層の丘陵地帯に位置している。森林を開墾し谷の湿地を水田とした人たちが生活のより所として、氷川神社を建てたのであろう。氷川神社の祭祀圏は荒川西岸。香取神社の祭祀圏は荒川東岸ときっちりと分かれている。散歩を通してこのルールをはずしていたのは、北区・赤羽あたりに香取神社があった1件のみ。

白根記念渋谷区郷土博物館・文学館

氷川神社の北に國學院大學。國學院大學前交差点を進み常陸宮邸方向に進むと白根記念渋谷区郷土博物館・文学館。館内を一廻りし、『渋谷文化財マップ』『散策マップ』などを入手。一服しながら天現寺まで、つまりは港区までのルートを探す。郷土館から日赤通りに向かい、台地上の道を進み祥雲寺を経由して広尾、そして天現寺に至るコースがよさそう。





南郭坂
郷土館を離れ、國學院前交差点に戻る。そこからは南に折れ、広尾高校方面に進む。しばらく進むと広尾高校前交差点。台地を渋谷川方向に下りる坂は「南郭坂」。江戸中期の儒学者・服部南郭の別邸があったところ。16歳で和歌と絵画をもって柳沢吉保に仕える。荻生徂徠の高弟のひとり。経学の太宰春台に対し詩文の南郭と並び称された。古文辞学と詩を学ぶ。で、34歳で在野に下りこの地に「隠居」、とか。
古文辞学って、明の時代に流行った「文は秦漢、詩は盛唐」をよし、とする懐古主義の文学運動、とか。なんのことかよくわからんが、いまのところは、いまひとつ問題意識なし、をもって,よし、とする。とりあえず、高校時代に李白とか杜甫といった盛唐の詩歌を、わけもわからず覚えたのは、江戸期の古文辞学派が『唐詩選』を「有り難き物」とした賜物であろうか。勝手な解釈であり、正誤のほど定かならず。

いもり川
広尾高校前を東に折れ、広尾高校裏交差点を越え、坂を下る。あれ、このあたり、見覚えがある。羽澤ガーデン。元満州鉄道総裁の邸宅を使ったレストラン。結構利用した。が、どうも営業を終了したようだ。羽澤ガーデンあたりは谷地。昔は「いもり川」が流れていたよう。昔の地図には、「いもり橋」「小橋」「どんどん橋」といった名前がある。地図で見る限りでは、六本木通り・常陸宮邸あたりから、東4丁目の交差点(常陸宮邸前の五叉路)をとおり広尾2丁目、3丁目の低地を進み広尾2丁目で渋谷川に合流。合流点は渋谷川の恵比寿橋と新橋の間といったところ。

日赤通り

いもり川の谷筋から、ふたたび坂をのぼる。坂をのぼりきったところが日赤通り。日赤医療センターや聖心女子大の裏手を一直線に南に下る尾根道・台地道。このあたりは、堀田備中守(佐倉藩・千葉県)の下屋敷があったところ。
『江戸名所図会』などには、この広尾の原は一面のススキ。江戸時代の広尾は、麻布の西に広がる行楽地。将軍の鷹狩りや市民の土筆つみ・月見の里でもあった。広尾の原には「土筆が原」の別名もあった、とか。
下屋敷って、大名の別邸であったり、上屋敷への供給する菜園をもっていたり、海岸付近では荷揚げ場であったりと、その機能はいろいろ。上・中・下屋敷は江戸城からの距離をもってタグ付けされていた。お城から最も近いのが上屋敷、遠いのが下屋敷、である。

祥雲寺

日赤通り・ チェコ大使館前を通り、しばらく進むと道は祥雲寺に阻まれ東西に分かれる。道なりに坂を西に下り、明治通り・広尾1丁目交差点、渋谷川にかかる新橋のあたりに出る。明治通りを東に少し進み祥雲寺に。
祥雲寺は黒田長政の嫡子・忠之が赤坂溜池の黒田家上屋敷内に建立した龍谷山興雲寺がもと。寛文6年(1666年)には麻布台に移り,瑞泉山祥雲寺と改める。 寛文8年(1668年)には江戸の大火により現在の地に移る。もともとは、黒田長政がなくなったとき、長政が深く帰依していた京都大徳寺の龍岳和尚を開山としたわけでもあり、境内には黒田家累代の墓とともに、墓標形として建てられた大きい長政の墓がある。
祥雲寺には、岡本玄冶の墓もある。岡本玄冶のことは中央区日本橋人形町を散歩したときにちょっとメモした。春日八郎の『お富さん』の歌に「粋な黒塀、。。。、えっさほう、玄治店(げんやだな)」がある。子供のころに覚えた歌をいまだに覚えている。その玄治店って、岡本玄冶が家主の長屋のこと。人形町の拝領屋敷を長屋にしていたのだろう。この玄冶さん、将軍秀忠・家光の侍医。千石取り、というから殿様並。家光が疱瘡を患ったとき、ものの見事に治療し評価を高めた。もっとも、玄治を今にその名を残す存在としらしめたのは、お富さんであり、切られ与三郎の登場する歌舞伎の舞台「与話情浮名横櫛」であることはいうまでもない。

広尾橋・笄川

寺を離れ、外苑西通りに出る。広尾橋交差点。広尾橋は、その昔、ここを流れていた「笄川(こうがいがわ)」にかかっていた橋。笄川は舌状台地となっている青山墓地の両脇の谷筋が源流点。途中、いく筋もの流れをあわせながら南下して天現寺橋で渋谷川に合流。渋谷川水系では宇田川に次ぐ規模の支流ではあった。1937年に大部分が暗渠に。部分的に各地に残っていた開渠も東京オリンピック前後までには完全に暗渠化されている。

天現寺橋交差点​・天現寺

少し南に進むと天現寺橋交差点。交差点脇に天現寺。臨済宗大徳寺派。天現寺橋は元々、笄川(こうがいがわ)に架かっていた橋の名前。現在の渋谷川に天現寺橋が架かっているが、元々は別の名前の橋だった、とか。
渋谷川の対岸に慶応幼稚舎ができて通学用に架け替えられた「慶応橋」と、その隣に市電用の橋梁が架けられたわけだが、二つの橋を合体した形で架け替えられるとき、天現寺橋の名が復活した、と。この橋を境に上流を渋谷川、下流を古川に分けられる。

光林寺

天現寺橋から渋谷川改め、古川を東に進む。すぐ光林寺に着く。オランダ人ヒュースケンの墓がある。安政3年(1856年)、ハリスとともに下田着。日米修好通商条約締結交渉に活躍し。渡航先のアメリカで、ドイツ語、フランス語等もできる語学力をかわれて日本に赴任。陽気闊達な性格であり、江戸滞留の外国人間で名を知られる。が、プロシア使節と日本側の通訳として通っていた「赤羽接遇所」からアメリカ公使館のあった麻布善福寺への帰途、「中の橋」のたもとで攘夷派の薩摩藩士の刃に倒れる。乗馬が好きで江戸城のあたりを闊歩していたのが、攘夷志士の気に障った、とも。1861年1月15日、28歳の若さであった。
善福寺ではなくこの光林寺に埋葬された理由は、善福寺は土葬を禁じていたため。この寺は土葬が可能であったわけだ。台地下の窪地に寺はあるが、台地も寺域となっており、境内はすこぶる広い。

池田山公園
光林寺からは東五反田の池田山公園を目指す。五の橋を渡り、白金3丁目を進み、三光坂下で大久保通りを越え、三光坂を登り、目黒通りに出る。このあたりはこれで3回目。結構土地勘ができてきた。目黒通りからは目白台3丁目の「三田用水跡」あたりを再び通り、上大崎1丁目の宅地を過ぎると、「池田山公園」にあたる。NTT東日本関東病院のすぐ裏手であった。

池田山公園は岡山藩池田家下屋敷跡。池田山公園自体は7,000平方メートルであるが、下屋敷自体は往時3.8万平方メートル。NTT東日本関東病院の敷地も下屋敷の一部であった。公園は窪地にあり、回遊式庭園となっている。三田上水を引き込んでいた、と。
ちなみに昔の大名屋敷で現在公園になっているところをメモする;戸越公園(熊本藩細川家)、白金の国立自然教育園(高松藩松平家)、小石川後楽園(水戸藩徳川家)、東京大学(金沢藩前田家)、芝離宮(小田原藩大久保家)、赤坂御所(紀州徳川家)、明治神宮(彦根藩井伊家)、戸山公園(尾張藩徳川家)、新宿御苑(高遠藩内藤家)、青山墓地(郡上藩青山家)など。
公園を離れ、公園に沿って上大崎1丁目と東五反田5丁目の境の坂道をのぼり、南に台地上を進む。「ねむの木の庭」前を通り、台地を下りJ
R五反田駅に到着。本日の予定終了。

今日1月8日は娘の誕生日。誕生日を記念して今年はじめての散歩メモ:正月2日、親戚一同が原宿に集まる。恒例の行事。子供たちにとっては、お年玉を一挙に手に入れるお楽しみの催しではあった。その子どもたちもひとりは大学生、そしてもうひとりは来年大学生。それはともかく、
例年、自宅のある杉並・和泉から原宿まで往復を歩くことにしている。
この原宿から和泉へのルート、お正月だけでなく頻繁に歩く。年末にも原宿で忘年会をしたときも、夜中に自宅まで歩いた。ルートはいろいろ。が、大きく分ければコースはふたつ。和泉から井の頭通りを歩き、代々木公園から原宿駅そして表参道へのコース。もうひとつは和泉から甲州街道を笹塚まで進み、そこから小田急・代々木上原駅、小田急代々木八幡駅を通り代々木公園、原宿駅、表参道に至るルート。途中いろいろと、そのときの気分に応じて、あれこれ分岐はする。が、このふたつが幹線。。
井の頭ルートは比較的単調な地形。唯一変化があるのは、代々木上原駅の南に広がる上原2丁目、3丁目あたりの台地と富ヶ谷の低地。地形のうねりを感じる。一方の笹塚から代々木八幡に抜けるルートは台地と谷が複雑に入り組む変化に富んだ地形。台地末端部の谷、これを開析谷と呼ぶようだが、武蔵野台地が河川によって開析された谷・開析谷が樹枝状に、至極複雑に分布する地形となっている。
台地と開析谷のコントラストは代々木八幡から先の地形がもっとはっきりする。谷筋の山手通りを越える。そこから初台台地の先端に位置する代々木八幡に登る。そして小田急線の走る谷筋に下る。更に代々木公園の台地に登る。台地と谷のコントラスト、地形のうねりをカラダで感じることができる。
で、いったいどういう凸凹になっているのか、カシミール3Dで地形図を作ってみた。いやはや、想像通り、というか想像以上の凹凸。地形図を見ながら、それぞれの谷筋を辿ってみたい、と思った。(日曜日, 1月 08, 2006のブログを修正(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



渋谷川水系のまとめ
ふと考えた。よくよく考えた。谷筋って、川が流れているはず。とはいうものの、川などありゃしない。が、理屈の上では川が流れていたはず。ということで、西は笹塚から東は原宿、北は幡ヶ谷、南は渋谷にかけての武蔵野台地を開析した川筋・水系跡を探し・辿る散歩をはじめることにした。

カシミール3Dでつくった地形図を見る。東から西に;
1. 新宿御苑から千駄ヶ谷にかけての台地
2. 明治通りに沿った谷筋・開析谷
3. 明治神宮から代々木公園にかけての台地
4. 参宮橋から渋谷に走る谷筋・開析谷
5. 初台から代々木八幡神社にかけての台地・初台台地
6. 山手通りの谷筋・開析谷
7. 甲州街道の幡ヶ谷・初台の中間点から山手通りに斜めに走る谷筋・開析谷
8. 笹塚・幡ヶ谷から代々木上原駅にかけての台地・幡ヶ谷台地
9. 代々木上原から代々木八幡にかけての谷筋・開析谷
10. 代々木上原から駒場にかけての台地

台地と谷が複雑に入り組みながら広がっている。そしてこの谷筋を流れる川はすべて渋谷駅前に流れ込む。正確には流れ込んでいた。東から
1. 新宿御苑、明治神宮の東の谷筋を流れる渋谷川
2. 明治神宮の西の谷筋を流れる宇田川
3. その支流の河骨川、初台川、徳川山支流、富ヶ谷支流

これらすべての川が現在の渋谷駅前に流れ込み、渋谷川に一本化される。それまで暗渠であった川筋は渋谷駅の南、246号と明治通りが交差するあたりで開渠となり、明治通りに沿って南下する。渋谷川水系、渋谷川・宇田川・その他の支流巡りをはじめる。第一回は、渋谷川。源流点から合流点まで散歩しメモする。

渋谷川の源流点・新宿御苑内の湧水
渋谷川の源流点は新宿御苑内にある湧水池。御苑は信州高遠藩・内藤家の屋敷跡。馬術の名手内藤清成が家康候が鷹狩の折、家康より「馬にて一息に駆け抜けた地を屋敷として与える」ということで手に入れたという。

多武峯内藤神社
御苑そばに多武峯内藤神社。内藤清成が乗った馬が供養されている駿馬塚(しゅんめづか)がある。この神社は内藤家の屋敷神。内藤氏の先祖があのムカデ退治・平将門討伐の藤原秀郷とか。藤原氏の氏神多武峯神社を勧請したという。ちなみに新宿の大宗寺は、内藤氏の菩提寺。

新宿御苑
御苑内を歩く。千駄ヶ谷門近くに連なる池がある。これが水源なのだろう。池の端から御苑外に向う川筋があった。ここから始まる渋谷川の流れは、御苑角にある四谷大木戸・玉川上水からの分水、御苑内にある玉藻池からの流れも集め、新宿御苑に沿って下り、大京町の交差点付近からは外苑西通りに沿って流れる。

大京町交差点
御苑に沿っては開渠というか、川筋がはっきり認められる。もっとも水の流れはなにもない。また、大京町の交差点手前で開渠が暗渠になる地点が道路脇にある。

龍厳禅寺で外苑西通りを離れる
大京町から下る川筋は外苑西通りの観音橋交差点、仙寿院前交差点を越え、龍厳禅寺あたりで外苑西通りを離れ南西方向に斜めに流れる。観音橋って、いかにも川筋。仙寿院は徳川家康の側室お萬の方(紀伊徳川家祖徳川頼宣の生母)のゆかりのお寺。江戸名所図会をみると、広大な寺域。門前に小川と橋。渋谷川だろう。江戸切絵図にも、このお寺の前を流れる渋谷川が描かれている。ちなみに、池波正太郎の鬼平犯科帳に「近くの仙寿院という寺の門前を流れる小川に架けられた橋を渡ったのはおぼえているが。。。」といった描写があった。

玉川上水原宿村分水の川筋と合流

龍厳禅寺で外苑西通りを外れた川筋は神宮前3丁目から明治通りにつながる道筋と福祉センター入口手前で交差。このあたりで渋谷川は新宿御苑の西を流れる支流・玉川上水原宿村分水の川筋と合流する。この支流・原宿村分水は文化女子大の近くで玉川上水から分水された水。

明治通りに沿って南下
代々木小学校、小田急南新宿駅、代々木駅前、明治神宮・北参道を神宮の森に沿ってくだり、千駄ヶ谷3丁目西交差点あたりで明治通りに接近。通りに平行に合流点までくだる。少々の蛇行を繰り返しながら表参道との交差点に進むこの道筋は、いかにも「暗渠」道。川筋がはっきりわかる。道の両側には小洒落たお店が並ぶ。

表参道
表参道との交差手間で、支流がもうひとつ合流。明治神宮の湧水池から流れ出し、竹下通りの南を進み明治通りと交差しながらの川筋だ。表参道と交差。参宮橋という橋の名残が残る。とはいうものの、表参道そのものは大正9年にできたわけで、それ以前、先ほどの江戸切絵図によれば、江戸時代このあたりは百姓地・畑である。
ちなみに青山通りから表参道にかけての江戸の風景は、青山通りに沿っては百人町といって御家人の家が軒を連ね、表参道の入口あたりに善光寺。信州善光寺別院。本堂手前左には勝海舟撰文の高野長英顕彰碑。表参道のあたり一帯は松平安芸守、松平近江守、それと井上英之助の屋敷で占めている。

宮下公園あたりで明治通り

散歩に戻る。表参道を越えた川筋は再び小洒落たお店の賑わいを進み、宮下公園あたりで明治通りと合流。合流点手前の神宮前5丁目27に穏田神社。江戸切絵図では第六天社と。もとこのあたりを原宿、穏田と呼ばれていたわけでその名残。明治通りを交差した川筋は、宮下公園、東急インの裏手を流れ駅南の開渠地点へと続く。
ともあれ、渋谷川水系のひとつ、というか幹線・渋谷川。新宿御苑の西の谷、東の谷、つまりは両側の谷筋から水をあつめ、明治神宮というか代々木公園の台地の東側を渋谷に流れる川筋が渋谷川である。

水系近辺の忘備メモ;甲州街道と明治通りが交差する追分の地に天龍寺。家康の側室・西郷の局の実家・戸田家の菩提寺・法泉寺が前身。西郷の局は二代将軍秀忠の生母でもあり、10万石待遇の格式ある寺であった、とか。いかにも鉄筋の本堂はいただけないが、そばにある鐘楼は「時の鐘」として有名。江戸登城にここからでは少々時間がかかるにので、少しはやめて時刻をしらせていたとか。粋な計らい。東京近郊名所図会;『時の鐘、天竜寺の鐘楼にて、もとは昼夜鐘を撞きて時刻を報せり。此辺は所謂山の手にて登城の道遠ければ便宜を図り、時刻を少し早めて報ずることとせり。故に当時は、天竜寺の六つで出るとか、市谷の六つで出るとかいいあえり。新宿妓楼の遊客も払暁早起きして挟を分たざるを得ず。因て俗に之を追出し鐘と呼べり』、と。 


渋谷川水系を巡る散歩の2回目は宇田川散歩。川といっても水はない。一部整備されている遊歩道はあるが、あとは暗渠道とか暗渠道っぽい川筋跡のみ。谷筋の最も低い箇所をひたすら歩き、川筋をみつけだす、そんな散歩ではあった。(月曜日, 1月 09, 2006のブログを修正)



1:宇田川
宇田川は明治神宮・代々木公園の西側の谷筋を流れる。幡ヶ谷、初台、富ヶ谷一帯に複雑に広がる開析谷から流れ出る水はすべて代々木八幡駅前に集まり、ひとつになって渋谷駅近くで渋谷川と合流。後は渋谷川として南に下っていた。

宇田川の源流は西原2丁目
源流というか水源は、西原2丁目。代々木大山公園、国際協力機構、製品評価技術基盤機構などが集まるあたり。国際協力機構の敷地内に池がある。このあたりが水源なのだろうか。とにかくこの西原2丁目、3丁目の地形は複雑。狼谷とも呼ばれている。台地と谷が複雑に入り組む。何度かこのあたりを歩いたが、いまだに土地・方向勘がつかめない。凸凹があり、しかも道筋が地形に逆らわずカーブする。うっかりするとすぐ道に迷う。どちらに向っているのかさっぱりわからなくなる。そんな谷筋の水は代々木上原の駅近くまで下る。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


代々木駅前で支流が合流
代々木上原駅近くでは、井の頭通り北の大山町からの支流、そして代々木上原駅の南・上原3丁目の谷筋からの支流も合流。小田急の線路に沿った谷筋を進む。元代々木町の交差点近くでは、西原1丁目からの谷 筋、通称徳川山支流の水も集め代々木八幡の駅近くまで進む。代々木上原駅前から続く商店街を一歩入った路地に、いかにも川筋跡といった痕跡が続いていた。

宇田川遊歩道
すべての川筋が集まる代々木八幡駅前。商店街を井の頭通りに向って少し歩く。宇田川の川筋は商店街から一筋東に入る。ここからは宇田川遊歩道として暗渠道が整備されている。

井の頭通りと交差
道なりに進み井の頭通りと交差。井の頭通りは代々木公園の台地手前で右ターン。台地に沿って渋谷に向う。宇田川遊歩道は井の頭通り平行して渋谷に向う。井の頭通りの西側を進む。宇田川町に入り、東急百貨店と東急ハンズの間の三角地点BEAMで井の頭通りと合流。

渋谷の繁華街に
ここから先は渋谷の繁華街で川筋ははっきり確認できない。が、成り行きから推測すれば、合流点から井の頭通りを道なりに進み、西武A館・西武B館の間を通り、井の頭通り入口で明治通りと交差、JRの高架下をくぐり、東急インの裏手あたりで渋谷川と合流する、のだろう。




2;宇田川支流・河骨川を辿る
宇田川本流に続き、支流を辿る。すべて、代々木八幡の駅近くで宇田川と合流する。春の小川で有名な河骨川から:河骨川。コウホネ、って少々無骨な名前。水生植物の名前だが、根が動物の骨に似ていることからこの名前がついた。で、この河骨が群生したのどかな小川が流れていたのだろう。






河骨川は「春の小川」のモデル
この川、小学唱歌「春の小川」のモデル。当時この川筋の参宮橋に住んでいた高野辰之氏、「朧月夜」「ふるさと」で知られる作詞者がこの川をモデルに作詞した。とはいうものの、高野さんの元歌は;
春の小川は さらさら流る 岸のすみれや れんげの花に 匂いめでたく 色うつくしく
咲けよ咲けよと ささやく如く
春の小川は さらさら流る 蝦やめだかや 小鮒の群に 今日も一日 ひなたに出でて
遊べ遊べと ささやく如く
春の小川は さらさら流る 歌の上手よ いとしき子ども 声をそろえて 小川の歌を
歌え歌えと ささやく如く
以下が我々が歌う「春の小川」;林柳波さんが文語を口語に直している;
春の小川は さらさら行くよ 岸のすみれや れんげん花に すがたやさしく 色うつくしく
咲いているねと ささやきながら
春の小川は、さらさら行くよ えびやめだかや こぶなのむれに 今日も一日 ひなたでおよぎ
遊べ遊べと ささやきながら

河骨川の源流は代々木4丁目
河骨川の源流というか水源は甲州街道・初台に近い代々木4丁目・刀剣博物館あたり。複雑な凸凹。大雑把に言えば北、西、東の台地に囲まれたすり鉢低地を川筋が通る。代々木4丁目39あたりからいかにも川筋っぽい道が現れる。
少し歩く。南に下る川筋と西方向・山手通り方面に進む川筋に分岐。西方向への道筋を辿る。山手通りで行き止まり。山手通りを越え初台あたりの玉川上水からの分水だろう、と思う。

小田急参宮橋近くで小田急と交差
南に下る川筋は代々木4丁目の民家の間を縫って進む。小田急参宮橋の少し南で小田急と交差。代々木の青少年センター前あたりで小田急の東側に出る。代々木公園沿いの道路に沿って進む。が、すぐ小田急線路に沿った細い道筋になる。

「春の小川」の記念碑
民家の軒先を進む。代々木小公園前、右折すれば代々木八幡に向う踏み切りの手前に「春の小川」の記念碑。今となっては川もなく、水もなく、人ひとり通れるかどうか、といった暗渠道。線路に沿って代々木八幡駅南に下り、道なりにすすむと駅前商店街・富ヶ谷1丁目7あたりで宇田川の川筋に合流する。

水系近辺の忘備メモ;

明治神宮
河骨川跡を歩いたのはお正月。小田急参宮橋から明治神宮に参拝した。明治神宮は私の結婚式をおこなったところ。少々奮発してお賽銭を。で、明治神宮は明治天皇と昭憲皇太后をおまつりした神社。

代々木公園

初詣をすませ、代々木公園に出る。明治神宮・代々木公園の台地は江戸時代、彦根藩井伊家の下屋敷をはじめとする大名や旗本の屋敷跡。明治になり陸軍の代々木練兵場、終戦後は駐留軍・占領米軍の宿舎のワシントンハイツ、東京オリンピックを機に返還され、オリンピックの選手村になる、といったように歴史の舞台になっている。




代々木公園はしばしば歩く。このお正月も原宿からの帰り、代々木公園を抜けるコースを歩いた。
途中石碑が。「日本航空発祥の地」。1910年(明治43)、この代々木練兵場において徳川大尉が日本初の飛行。アンリ・ファルマン式50馬力複葉機、高さ70m、距離3kmを4分間飛行、 の偉業を記念したもの。歴史の舞台、といえば代々木練兵場には陸軍刑務所があった。いまのNHKのあたりだが、2・26事件に関与した軍人が、軍法会議により銃殺に処せらたところでもある。

いつだったか、代々木八幡の丘から小田急、そして代々木の台地に広がるワシントンハイツの写真をみたことがある。のどかな風景。河骨川はこの風景の中を流れていたわけで、であるとすれば「春の小川」の雰囲気は納得。

渋谷川水系散歩の3回目は宇田川に流れ込む、というか流れ込んでいた支流を巡る。初台川、富ヶ谷支流そして神泉谷からの支流だ。(火曜日, 1月 10, 2006のブログを修正)



1:初台川の源流を辿る
初台川の源流点は初台2丁目14あたり。甲州街道・渋谷本町1丁目から山手通り・初台坂下交差点に抜ける急勾配の坂道からすこし奥まったところにある。すぐ上の尾根道には玉川上水が流れているので、分水か、とも思うが、どうもそうではないらしい。

初台坂下交差点で山手通りに
川筋は初台坂下交差点への道筋と平行に路地裏を下る。坂道も代々木中学あたりまで下ると、往時は一面の水田地帯。「初台たんぼ」と呼ばれ、代々木八幡まで続いていた、とか。
初台坂下に進むにしたがい川筋跡が大きくなる。初台坂下交差点近くには橋の跡が残る。初台坂下で山手通りを越える。山手通りの東、代々木八幡の台地の下を進み、代々木八幡前交差点あたりで再び山手通りの西に。半円を描きながら代々木八幡の駅前に進み宇田川本流と合流。初台川はここまで。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


代々木八幡
お正月に初台川を歩いたとき、久しぶりに代々木八幡に初詣にでかけた。神社は代々木台地と並んで南に突き出た初台台地の先端・台岬にある。標高はおよそ 32m。境内には縄文時代の遺跡もある。縄文時代、海は台地の下まで入り込んでいた。明治神宮や代々木公園のある代々木台地にも古墳があるように、このあたりの台地上では人々が竪穴式住居をつくり生活していた、という。代々木八幡は代々木村の鎮守。この地に住む鎌倉二代将軍頼家ゆかりの荒井何某が、鎌倉八幡宮にまつわる夢を見た。で、1212年、鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したとのこと。作家・平岩弓枝さんはこの神社のひとりむすめ。『御宿かわせみ』はすべて読み終えた。善き人達の話はいかにも心地よい。

2;富ヶ谷支流の源流を辿る
富ヶ谷支流の水源は上原2丁目23辺り。井の頭通りの上原1丁目の交差点から斜め方向・南西に入る道筋を辿る。いかにも川筋といった道を進み、ゆるやかな台地に登りきったあたりが源流点。

結構複雑な地形の富ヶ谷
台地を歩いたことがある。結構複雑な地形。富ヶ谷、というくらいだから「谷」はあったのだろう、とは思ったが、これほど凸凹の激しい地形とは想像もしなかった。上原3丁目の谷から代々木上原駅あたりで宇田川本流に流れ込む支流とは、この上原の台地が分水嶺となる。
富ヶ谷は元々「留貝谷(とめがいや)」と呼ばれていた。谷地に大量の貝殻が堆積していたからだ。代々木八幡に縄文時代の竪穴式住居があった、とメモした。当時の人たちの残したものだろう。

三田用水からの分水も
富ヶ谷支流にはこの上原2丁目の谷筋からの流れとは別に、上原2丁目と富ヶ谷2町目の境目を南から進む水路がある。三田用水からの分水なのだろう。このふたつの川筋は上原2丁目7あたりで合流。上原1丁目交差点の少し山手通り寄り、富ヶ谷2丁目45あたりで井の頭通りを交差。北東に進み山手通りを越えて代々木八幡駅前の合流点に向う。ちなみに「代々木」の由来。村人が代々サイカチの木を植えていたから、とか。

3;神泉谷からの支流を探る

松濤公園

宇田川には神泉の谷、松濤からの支流も合流する。松濤公園は紀州徳川家の屋敷跡。明治にこの地で鍋島公爵が茶園を経営していた。池には三田用水神山口からの分水も流れ込んでいた。三田用水は世田谷区の北沢5丁目あたりで玉川上水から分水。目黒、渋谷の境の尾根筋を走り、代官山・目黒、白金・芝に進む用水路。

井の頭線神泉駅
神泉の谷からの水は井の頭線神泉駅方向の谷筋を下ってくる。円山町と松濤1丁目の境あたりで松濤公園からの川筋に合流。すべての水をあわせて宇田川に流れ込む、というか流れ込んでいた。
ちなみに、神泉の谷、松濤からの合流点より代々木八幡寄り、富ヶ谷1丁目と神山町の境を通り、宇田川に合流する支流もあるようだ。
神泉の谷や台地を歩いたことがある。井の頭線・神泉の駅は谷地を横切るようにつくられており、駅の半分は台地下のトンネルの中にある。渋谷で飲んだ後、駒場東大前に抜ける途中でこのあたりを辿ることも多い。
凸凹の地形はいつ歩いても楽しい。神泉の由来は、ありがたい水・霊泉から。江戸時代に刊行された『江戸砂子』:「此処に湧水あり、昔空鉢仙人此谷にて不老不死の薬を練りたる霊水なる故斬く名付しと言ふ」、と。江戸時代から明治20年ころまで、弘法湯という共同浴場として賑わった。で、浴場の2階に料亭がつくられ、料亭に出入りする芸者、芸者の置屋ができ、それが後の円山を中心とする盛り場のルーツ、とか。






渋谷水系の散歩は終了。水もない、水路跡もあるかないかわからない、そんな川筋跡をお正月歩き廻った。いくらでも快適な遊歩道もあるのに、何を酔狂な、と思うこともある。が、思いがけないこと、すばらしいことに出会うことも。

今回の散歩で初台川、徳川山支流跡を巡っていたとき、素晴らしい景観に出会った。甲州街道の本町1丁目から初台坂下に下る坂道の途中、初台2丁目交差点から西原1丁目の渋谷区スポーツセンター方面に向って進み、渋谷区の老人福祉施設・ケアセンタがあるあたり。せせらぎ公園という案内もあったが、ここから見る新宿副都心の光景は素晴らしい。まことにすばらしい。 




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