和泉川南流を辿った翌日、北流も辿ることにした。源流部に少し民家の下水溝として、当時の流路の名残を伝える他は、橋跡もひとつしかない、といった暗渠だけの流路跡ではある。源流部は南流とほぼ同じ、和泉水圧調整所(和泉給水所)の付近。そこからほぼ南流と平行に進み、環七・泉南交差点の少し北を越え渋谷区に入り、笹塚、幡ヶ谷と進み渋谷区本町4丁目の渋谷区本町小学校脇で和泉川南流・地蔵橋と合流し、神田川に注いでいた。途中にはきまぐれに新宿まで歩くときなどに辿る道筋もある。如何にも川筋跡といった、それっぽいカーブの道であり、なんとなく川筋跡などと感じてはいたのだが、今回の散歩でそこが和泉川北流跡であることがわかった。
ところで、和泉川北流とはいいながら、南流と平行する流れの間隔が如何にも短い。ふたつの流路の間には台地なども見あたらず、自然の流路であれば、氾濫などで合流し、ひとつの流れとなりそうなものであり、この北流って、ひょっとすれば自然の流路と言うより、人工的な流れ、用水跡かもしれない。和泉川南流れは緑道となったり、公園となったりと、如何にも川筋の名残を留めるが、北流は上で延べたように、一部に大きな通りに飲み込まれ、それっぽい川筋としての名残はあるが、大半が民家の軒先を辿る細路である。田圃への水を維持するため、地域の人たちが源流点あたりにあった、と言われる池からの流れに手を加え、人工的に流れを維持するようにしたもの、かとも思える。単なる妄想であり、何という根拠はないのだが、本流である北流との余りの距離の近さ故に、あれこれ想いを巡らせた。ともあれ、散歩に出かける。
本日のルート;和泉川北流源流点付近>沖縄タウン>大勝軒脇に進む>を民家の間に下水溝として残る>環七_泉南交差点手前の下水溝>泉南交差点>あすなろ作業所と水道道路の間を進む>水道道路を越えてきた和泉川南流と接近。駐車場で水道道路脇を進む南流と離れ、北東に進む>笹塚3−31で西に折れる>ほどなく大通りに飲み込まれる>中野通り_笹塚3丁目交差点まで大通りを進む>中野通りを越えると、ほどなく北東に折れる(幡ヶ谷3−38)>ほどなく右手の細路に>唯一の橋跡である神橋跡>中幡小学校裏を進む>細路を進むと六号通りの道筋に出る>東に進む大きな通りを少し進み、左に分岐する細路に入る>途中で氷川神社にお参り>ほどなく右に折れ本町小学校に>本町小学校脇の地蔵橋で南流に合流
和泉川北流源流点付近
先日の和泉川南流の源流点と同じく和泉川北流の源流点も和泉給水所の近くにある。井の頭通りが甲州街道とクロスする松原交差点の手前、井の頭通り和泉2丁目交差点脇に和泉給水所があるが、この和泉2丁目交差点を始点に新宿に一直線に向かう都道431号角筈和泉線。環七泉南交差点より先は水道道路として知られるこの道筋に和泉川北流の源流点があった、とか。
交差点を都道431号にはいり、南北に通る和泉仲通り商店街の道を越えると、道は急に細くなる。道の南に小さな公園が続くので、なんとなく川筋、といった「公共性」をもった道跡の名残を感じる。
和泉川北流源流点は、和泉仲通り商店街のひとつ先に南北に通る道筋あたり、であった、とのことである。往昔、このあたりには池があった、とも伝わる。
沖縄タウン
源流点あたりから先に進む。和泉明店街、通称、沖縄タウンと呼ばれる、少々レトロな商店街のクランク状になった道を北に折れる。北流は、クランクを折れたすぐのところにある中華料理店・大勝軒の脇を東に進む。通路はブロックされており、直進はできない。道を北に進み、最初の通を右に折れ、東に向かう。南に折れる最初の道筋を右に折れ、流路を探すと、民家の間の狭い隙間に、下水溝が残る。これが北流の水路跡ではあろう。
道を戻り、環七に向かって東に進み、環七との交差するあたりをチェックするため、少し南に下る。トヨタのデーラーの南側に細い下水溝が続いている。このあたりで環七と交差していた。とのこと。
環七
玉川上水新水路や和泉川南流でメモしたように、環七建設の構想は古く、昭和2年の頃には素案ができている。戦前には一部着工。戦時下になり中止となり、戦後も計画は遅々として進まなかったようである。Goo地図で見ると昭和22年の航空写真には、環七の道筋に代田橋あたりから青梅街道手前まで、世田谷通りから国道246号まで、など環七の道筋が断片的に見て取れる。
状況が動いたのは1964年(昭和39年)の東京オリンピック。駒沢競技場や戸田のボートレース会場、そして羽田空港を結ぶため計画が急速に動き始め、オリンピック開催までには大田区から新神谷橋(北区と足立区の境まで開通した。Goo地図で見ると、オリンピックを翌年に控えた昭和38年の航空写真には荒川の神谷橋あたりまで道筋が開通している。
その後、計画は少し停滞し、最終的に葛飾区まで通じ、全面開通したのは1985(昭和60年)のことである。構想から全面開通まで60年近い年月がかかったことになる。ちなみに、環七、環八、および環六(山手通り)は知られるが、その他環状一号から五号も存在する。環状一号線は内堀通、二号は外掘通り、三号は外苑東通り、四号は外苑西通り、五号は明治通り、とのことである。
(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)
環七・泉南交差点
環七・泉南交差点を渡ると水路跡は水道道路(都道431号角筈和泉線)の北脇を進む。環七と水道道路のクロスする北詰には社会福祉法人同愛会あすなろ作業所があり、水路跡はその敷地下を進む。あすなろ作業所東を南北に通る小径に進むと、いかにも水路跡らしき道筋が狭い民家の間を東に進む。マンホールが目につくので、水路跡ではあろう、かと。
北流と南流の接近点
民家の間を少し進むと駐車場前に出る。ここは、源流点より環七を越え、水道道路の南を進んできた和泉川南流が、水道道路を北に渡り、駐車場の南に出るところ。南流はここから水道道路の北脇を進むが、南流は北東に向かって民家の間を進むことになる。水路跡であろう、と思わなければ、まっこと、ありふれた民家軒下の小径といったものである。
大きな通りに水路は呑み込まれる
北東進むと、水路跡はほどなく西に向かう。民家の間の細路を少し進むと、急に大きな通りに出る。Goo地図で見ると昭和22年の航空地図にも比較的広い道筋が、北東方向へと緩く弧を描き中野通まで続いている。川筋の名残は特にないが、唯一、緩やかなカーブが川筋跡らしき雰囲気を残す。昭和22年のGoo航空地図には、笹塚中学校の北あたりから水路らしき筋が見える。
より大きな地図で 和泉川(神田川笹塚支流) を表示
中野通り
中野通り・笹塚3丁目交差点を越えると、南に向かって弧を描いた水路跡は、ほどなく北東へと流路を変える。流路が変わる地点のすぐ南、中幡庚申塔あたりで、それまで北流と平行して流れていた和泉川南流も北流と同じく北東へと切り上がっていたようだ。
神橋跡
北東へと進んだ水路跡はほどなく通を離れ、民家の間の小径に入る。小径に入って最初の交差点の四つ角に橋跡が残る。石に彫られた文字を見るに、神橋とあった。和泉川北流で唯一の橋跡である。昭和22年のGoo航空地図には、南北に通る、比較的大きな道と、水路跡がはっきり残っている。
中幡小学校裏
民家の間の細路を進む。先日歩いた和泉川南流は、緑道や公園など、いかにも川筋跡といった名残を残すが、今回の北流は、まっこと、軒下の細路といったものである。昭和22年のGoo航空地図でもなければ、おおよそ川筋跡などとは思えない。中幡小学校の裏門には、段差のあるコンクリートが残る。橋跡を覆っているのだろう、か。
六号坂通り
細路を先に進むと、大きな通りに出る。六号坂通りである。玉川上水新水路散歩でメモしたように、水道道路には一号から十六号までの番号表示をした通りがある。水道道路に水路があった頃、通りにはそれぞれ橋が架かっていた、とのことである。水道道路は関東大震災で堤が破れ、その後、水道を甲州街道下に敷設するようにした、とのことであるので、橋があったのは新宿の淀橋浄水場への水路が開かれた明治25年から関東大
震災の起きた大正12年の間のことであろう。
再び細路に
六号坂通りを越えると、比較的大きな通りとなる。先に進むと、すぐに通の北に細路が分岐する。昭和22年のGoo航空地図を見るに、和泉川北流は大きな通りを離れ、この細路に入る。相変わらず民家の軒先といった道筋である。
氷川神社
細路を進むと、左手に氷川神社がある。先回の散歩で氷川橋跡を通ってもおり、ちょっと寄り道。氷川神社は旧幡ヶ谷村の総鎮守。氷川神社は出雲の簸川(ひかわ)、から。古代、武蔵の地を開拓し
た出雲族の氏神様。分布はほぼ武蔵の国だけで、その数260余、とのことである。
地蔵橋で和泉川南流に合流
氷川神社を離れ、川筋あとに戻り、再び細路を進む。川筋は本町小学校の西側を南北に走る通りにあたると流路を南に折れ、地蔵橋で和泉川南流に合流する。ここから先は、和泉川南流・本流として進み、南台・弥生町の台地が切れるあたりで、神田川に注いでいた、とのことである。
玉川上水散歩をきっかけに、玉川上水新水路のことを知り、新水路を歩き、はたまた、その散歩をきっかけに、和泉川のことを知り、二回に分けて水路跡とおぼしき道筋を辿った。道筋に何となくの「ノイズ」を感じ、川筋跡か用水路跡ではなかろうか、などと思っていたところが、川筋跡、とわかっただけで、なんとなく嬉しい。