大田区の最近のブログ記事

六郷用水散歩も最終回。今回は北堀ルートを巡ろうと思う。仕上げは馬込にある大田区の郷土美術館。六郷用水の資料もあるだろう。実際に歩いた道筋を思い浮かべながら六郷用水のまとめでもしてみよう、と思う。で、北堀ルートへのアプローチはどこから、と地図を眺める。東急・池上線に御嶽山(おんたけさん)駅が。名前に惹かれ、御嶽山からスタートすることにした。(日曜日, 1月 22, 2006のブログを修正)




本日のルート;
東急池上線・御岳駅>御岳神社>中原街道・環八交差>桜坂>さくら坂信号>田園調布高校>蜜蔵院>大田区図書館>台地を歩き観蔵院の裏・女塚>白山神社前交差点>白山神社>分岐地点>東急池上線・千鳥町駅>第二京浜と交差>本門寺前>養源寺橋>浄国寺橋>環七交差・春日橋>南馬込・大田区郷土博物館

東急池上線・御嶽山駅
東急池上線・御嶽山駅に。山があるわけではない。駅近くに御嶽神社がある。木曽の御嶽山ならぬ、嶺の御嶽山(おんたけさん)と呼ばれる。峰(嶺)村の代官・ 伊那半十郎忠治が17世紀中頃、木曽の御嶽山の神さまを分祀したのがはじまり、とか。伊那半十郎忠治、って確か玉川上水の指揮官では?関東郡代として何代も続く名前だけに、当の本人かどうか判別は難しいが時代から言えば、同じ人のよう。で、御嶽神社、木曽の御嶽で修行を積んだ修験者・一山が1831年に現在の本殿をつくる。江戸時代には山岳信仰がさかんとなり、富士や木曽の御岳などへの集団登山が流行った。
境内には御嶽塚跡が。散歩の折々、例えば狭山湖畔などで見かけた富士塚の御嶽バージョン、か。実際に山にお参りできない人のために、人造で塚というか山をつくり、その塚に登れば本物の木曽御岳にのぼったと同じご利益がある、ということで神社は大変な賑わいだったよう。

桜坂
御嶽神社を離れ、次はどこへ、と少々考える。そういえば、この近くにあの桜坂、福山雅治の『桜坂』で一躍脚光を浴びた坂がある。その坂は旧中原街道にあり、沼部の大坂と呼ばれていた、はず。であれば、中原街道から沼部の駅方面に下る坂であろう、とあたりをつけ進むことに。
環 八を交差。中原街道方面に向って環八から一筋中の道を、なりゆきで進む。左方向をチェックしながら、昔ながら、っぽい道筋を探す。左手の道筋はどれも下り坂。どれも皆桜坂に思える。ゆるゆる進む。中原街道と環八の交差する田園調布警察前交差点から南西にまっすぐ進み、沼部の駅に下る道筋がある。現在の中原街道は丸子橋方面へと西方向へ進んでいるが、昔は橋があったわけでもなし、この道が旧中原街道であろう、と左折。
いかにも、といった桜並木が見えてきた。桜の季節ならまだしも、今は真冬、何があるわけでもない。切り通しの坂道は結構な勾配。さぞや工事は大変だったろう、と思ったのだが、この切り通しができたのは大正12年。道路拡張の際に、切り通しを掘り進めた、と。中原街道最大の難所・沼部の大坂の急勾配もゆるやかになった。
桜坂と名づけられたのは昭和5年。御大典を記念して地元民が桜の苗50本を植えたのが始まり。御大典とは天皇の即位儀礼の3点セット;「践祚(せんそ);前天皇のなくなった後直ちに即位すること」、「即位式;国の内外に宣言すること」、「大嘗祭(だいじょうさい);新米を神と共食すること」のうち、即位式と大嘗祭をセットにした国家的大イベント。

旧中原街道

坂の中ほどに赤い橋。切り通しの両端をつないでいる。昭和38年につくられた「桜橋」。橋から桜、というよりも沼部方面に下る坂の勾配をゆっくり眺める。旧中原街道の案内があった;「中原街道は、江戸から相州の平塚中原に通じる道で、中原往還、相州街道とも呼ばれた。また中原産の食酢を江戸に運ぶ運送路として利用されたため、御酢街道とも呼ばれた。すでに近世以来存在し、徳川家康が江戸に入国した際に利用され、その後、部分改修されて造成された街道である。江戸初期には参勤交代の道としても利用されたが、公用交通のための東海道が整備されると、脇往還として江戸への物資の流通や将軍の鷹狩などにもしばしば利用された。 また、平塚からは東海道よりも近道だったため、急ぎの旅人には近道として好まれたという。中原街道の旧道の様子を残しているのは、区内ではこの付近だけである(大田区教育委員会)」

新幹線と交差
で、桜坂を離れはてさて次はどちらへ、と少々悩む。真っ直ぐ下れば先回歩いた六郷用水・東光寺脇。同じ道筋を歩くのも芸がない。それ以上に今回はできるだけ台地上を歩き、地形のうねりを少々感じるべし、ということで桜橋を左に折れ、住宅街に入る。道なりに進み稲荷坂から新幹線を跨ぐ橋を渡る。散歩と全然関係ないことだが、新幹線はもっともっと南を通っていると思った。また、多摩川を渡ると不自然なほど南にカーブしている。何でだろう?時間ができたら、その理由でもチェックしてみよう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


白山神社

散歩に戻る。田園調布高校脇を通り、坂道を下りきらないように進む。西嶺町の台地をゆっくりと下り、先回訪ねた観蔵院の裏手・女堀跡に出る。女堀跡からは水路跡を離れ、再び台地に向って少々登り、少々アップダウンを感じながら道なりに進み環八に出る。道の向こうに白山神社。御嶽神社から始めたわけで、白山を素通りするのもなんだかな、ということでおまいり。至極あっさりした神社。白山神社とはいうものの、もともとは女体権現社と呼ばれていた、とか。女体権現、ってまた大胆な名前、とは思ったが、よくよく考えれば、日光には男体山もあるわけだし、逆もあり、とは思う。
日光といえば、日光山縁起にこんな話が。都の殿上人・ 有宇中将が下野に下り土地の長者の娘・朝日の君と恋におちる。しばらくの月日がたち、都に残した母が心配で単身都に向う。途中で病死。朝日の君も後を追い旅に出てなくなる。閻魔大王が二人を蘇生させ、子をもうける。男児・馬頭御前。有宇中将は日光の男体権現、朝日の君は女体権現となる、と。山岳信仰の拠点日光でもあり、男体山には男体権現、女峰山には女体権現が宿ったとか。女体が何ゆえ白山となったのか定かではない。が、白山にしたことろで、山岳信仰のメッカであるわけで、山岳信仰繋がりゆえの、ってことにしておこう。少々立ち止まりすぎた。先を急ぐ。

北堀・南堀の分岐点

白山神社前の環八脇に立ち光明寺方面を眺める。ゆったりと下る環八に沿って南北引分と呼ばれた北堀・南堀の分岐点(千鳥3-8-2)まで歩く。藤森稲荷交差点から東に進む。北堀は環七まで池上通りとほぼ並行に進むことになる。昔、池上道とか平間(川崎中原区平間)街道とか相州鎌倉道とか呼ばれた古の東海道の道筋だ。

東急池上線・千鳥町駅

千鳥町駅を越えてすぐ遊歩道。いかにも水路跡の道筋。東急池上線の千鳥町駅の少し北で線路と交差。少し進むと遊歩道が始まる。千鳥いこい公園脇を進み千鳥1丁目あたりで第二京浜と交差。第二京浜を過ぎ、池上署の脇より遊歩道が続く。池上3丁目あたりだった ろうか、遊歩道はなくなる。が、水路跡らしき道筋、ところどころ六郷物語のマンホール、っぽい案内もある。

川・養源寺橋
本門寺前を越えたあたりで遊歩道はなくなる。呑川の養源寺橋近くに。六郷用水物語の案内が;「六郷用水北堀は南北引き分けから東進してくると呑川に突き当たります。そこで呑川を横断させ、新井宿(現在の中央一帯)方面に流すため、「八寸」という堰が設けられました。この堰で分流された流れは、北上して旧池上道の山下橋(現存しない)をくぐり、養源寺橋の上流で呑川に一旦合流しました。。。」。案内図にしばしば登場する用水のランドマーク浄国寺橋脇を通り、池上通りに沿って東進。一筋北に走るのは古の平間街道、というか池上道だろうか。なんとなく昔の街道跡といった雰囲気が感じられる。

環七と交差
水 路跡の道は普通の道路となる。水路跡は判然としないが、ところどころに六郷物語のマークがあるのでなんとなく安心。春日橋交差点で環七と交差。道を渡り交差点脇から続く、いかにも水路跡の雰囲気の道を進む。が東海道線に当たる。地図で見る限り、線路を渡った地点から南に水路跡のような道筋がある。水路は京急・大森海岸近く、岩井神社(鈴森八幡)あたりで東京湾に流れ込んだとか。もちろん支流・分流はいくらでもあるわけで、あくまでも幹線ルート、ということではある。が、北堀散歩はここまでとする。日も暮れ始めた。一路大田区郷土博物館に。

大田区郷土博物館

環七・春日橋交差点から北に向う。環七の一筋西の道を上る。結構複雑な地形をしている。臼田坂を登る。このあたり、谷地の環七部分を台地で囲んでいる、といった地形。次の機会は地形図をもって、台地と谷を上り下りしてみようと思う。
で、郷土博物館。予想通り3階に六郷用水の資料・情報が。床一面に張り込まれた地図一面に水路跡が書き込まれている。詳しい水路情報を書き込んだコピー、六郷用水ポイントガイドなど資料も結構そろっていた。これって歩いた後だからよかった気がする。歩く前であれば少々情報量が多すぎてハンドルするのが大変だったかもしれない。やはり今後も今まで通りのスタイル、とりあえず進み、あれこれ気になったことは後から調べる、というスタイルで散歩を楽しむ、べし。

散歩を終わって感じたことだが、大田区って結構おもしい地形であった。多摩川沿いの下町低地といったイメージしかなかったのだが、凸凹、地形のうねりを十分に感じられるところであった。台地部と低地部のアップダウンが楽しかった。日が暮れて十分意歩けなかったが馬込のあたりも面白そうな地形だ。大田区の台地部は多摩川に沿った国分寺崖線、山王から池上への南北崖線、久が原台地、荏原台地などがある。これらの崖線部は台地と谷筋が複雑に入り組み地形のうねりが実感できる面白い地形。当然のこととして坂も多く、大田全体で名前のついた坂だけでも50以上ある、とか。そのうちに、何か別の切り口で大田区散歩を楽し みたい。

六郷用水散歩も3回目。先回の続き、南堀跡を巡ることに。六郷用水が多摩川に注いでいたあたりも確認。南堀散歩を締めくくる。(木曜日, 1月 19, 2006のブログを修正)



本日のコース;京浜東北線の蒲田駅下車>西蒲田公園>金剛院>大田区区民センター>志茂田中学>JR交差>新宿小学校・「六郷用水新宿ミニパーク」>蒲田署>多摩川土手>六郷ポンプ所>六郷水門>六郷橋>六郷神社>雑色駅>蒲田駅 

京浜東北線?・蒲田駅

京浜東北線の蒲田駅下車。西蒲田8丁目の西蒲田公園に再び。水路跡を確認。光明寺方面から環八にそって下ってきた水路は東急多摩川線と環八が交差するあたりで環八から離れ、新蒲田2丁目の金剛院脇から南東に下っている。最初のランドマークは金剛院。
線路に沿って進み環八と交差。少し下ったところに金剛院。金剛院脇に六郷用水物語の案内。南西に大田区の区民センターに下る道が水路跡。区民センターまで進む。なにか用水に関する情報がないものかとセンター内に。特に何も無し。
センターの南は、蒲田電車区。操車場だろう。用水跡の地図によれば電車区の敷地内で西・・東・南の3方向に分岐している。蛸の手、と呼ばれていた、とか。操車場を迂回し志茂田中、志茂田小の脇をとおり京浜東北線を渡る。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


六郷用水新宿ミニパーク
東方向への水路のランドマークは、蒲田電車区の線路を隔ててすぐ南にある蒲田高等学校・新宿小学校。蒲田西公園の案内図によれば、そのあたりに「六郷用水新宿ミニパーク」がある。名前からすれば何らかの新たな情報があるか、とも思い歩を進める。
蒲田高等学校と新宿小学校の間に本当に言葉どおりの「ミニ」パークがあった。東方向・糀谷方面への水路跡情報があった。
環八を越え、糀谷村の南・萩中村の北を通り浜竹用水・南前堀で東京湾に下る、と。大雑把にいえば北前堀(緑地)方面に続く水路と、南前堀(緑地)方面に続く水路があったよう。これが東方向に進む水路。東方向への水路跡巡りはまたの機会、ということにして今回は南方向への水路跡を辿り、下流から逆に西方向への水路を登ることにした。ランドマークは、蒲田署、正覚寺、そして本羽田1丁目公園。

多摩川堤

蒲田署のある第一京浜に進む。道を隔てたデニーズ脇にいかにも水路跡らしき道筋。歩いていると六郷物語の案内が。道路にシンボルマークが描かれており、大体 の方向の指示もある。助かる。まったくの民家の軒先を進む。途中、どこで間違ったか正覚寺、そして本羽田1丁目公園は見逃した。が、あえて戻ることもないかと、先に進み多摩川堤に登ることにする。ガマなのかどうなのか名前は知らないけれども、川中の洲の植生が豊か。湿地の保護が進んでいるのだろう。いい雰囲気になっている。

六郷水門
土手を進む。六郷ポンプ所。ポンプ所、って大雨のときに下水管が雨水で飽和状態になり配水機能がなくなるのを防ぐためのもの。下水に充満する雨水を汲み上げ川に放水する。ポンプ所のすぐ隣に六郷水門。メモする段階で分かったのだけれど、これって六
郷用水の排水口。狛江からの水の流れの最終地点、ということになる。偶然ではあったけど、六郷用水が多摩川に流れ込む地点に至った。至極ラッキー。
水門が造られた理由は六郷用水の歴史的役割の変化による。用水は元々灌漑のためつくられた。が、昭和に入り六郷地区の宅地化による生活廃水の増加とか、田畑の減少による用水路の水量増大。灌漑用の水を必要としなくなるのだから水量が増えるのは当然か。で、大雨時に多摩川に排水しきれず浸水地域が拡大。また、多摩川の水位上昇による川の水の逆流もある。こういった被害を防ぐため配水口を拡げ、適宜多摩川と六郷用水を遮断するために水門が設けられた、ということ。また、先ほどのポンプ所は、水門からの自然排水だけでは処理できなくなったためつくられた、と。

六郷橋
河川敷に多摩川六郷橋緑地。六郷橋の袂に。「六郷渡れば川崎の万年屋。鶴と亀とのよね饅頭」という、お江戸日本橋の歌詞フレーズが浮かぶ。よね饅頭を復活させた饅頭屋が鶴見にある、という。散歩の帰りに鶴見駅まで行ってみた。定休日。その後、自宅から自転車で20キロ、お饅頭を買いに出かけた。またまたお休み。日曜日が休み、などと考えてもみなかったのだけれども。またまたその後、自転車で鶴見まで。三度目の正直でよ
ね饅頭をゲットした。ちなみに、お江戸日本橋の歌詞を知っている人は、周囲にほとんどいなかった。少々愕然。
「お江戸日本橋」;
お江戸日本橋 七つ立ち
初のぼり
行列そろえて
アレワイサノサ
コチャ 高輪(たかなわ)
夜あけて 提灯(ちょうちん)けす
コチャエ コチャエ

六郷(ろくごう)わたれば 川崎の
万年屋(まんねんや)つるとかめとの
米饅頭(よねまんじゅう)
コチャ 神奈川
急いで 保土ヶ谷(ほどがや)へ
コチャエ コチャエ

六郷神社
第一京浜に沿って六郷神社に。六郷地区の総鎮守である八幡宮。源氏とのつながり強く、というか八幡って源氏の守り神なので当然なのだが、源頼義・義家親子がこの地の大杉に白旗を掲げ岩清水八幡に戦勝祈願。前九年の役に勝利。お礼に神社創建。頼朝も奥州遠
征の折、戦勝祈願。お礼に社殿寄進。また、徳川家康は神領として朱印状を発行する。六郷神社が八幡宮の巴紋とともに徳川の葵紋をともに使う所以。徳川家の遠祖は八幡太郎義家、って、言ってるわけだから当然か。
六郷神社を出る。水路跡を上流に向って逆に歩く。第一京浜に沿って進む。雑色駅手前で第一京浜をこえる。第一京浜と並んで進む雑色商店街の道路を進む。しばし進み北に折れ、蒲田電車区南の分岐点に到着。本日の散歩終了

先回の散歩の最終地点、東急田園都市線・多摩川の駅から散歩を始める。一路南に下り、途中分岐する用水を南堀跡に沿って進み、多摩川の矢口の渡しのあたりまで進む。(水曜日, 1月 18, 2006のブログを修正)


本日のルート;東急田園都市線・多摩川駅>中原街道交差>東光院>新幹線交差>蜜蔵院>観蔵院裏・女堀跡>護摩堂の洗い場>増明寺>鵜の木八幡>環八・藤森稲荷交差点>光明寺>玉川の堤>新田神社

東急田園都市線・多摩川
浅間神社前に。水路が切れており、この先どうしたものやら、とは思いながら、とりあえず東急多摩川線を渡り、線路沿いの道を進む。中原街道と交差。多摩川に丸子橋が。狛江の和泉から続いた次太夫堀というか丸子川という呼び名はここまでとしよう。この先は本格的に六郷用水巡り。とはいいながら、水路は見つかるのだろうか、と少々不安であった。中原街道下のトンネル。昭和初期につくられた大田区内最初のトンネル。トンネルをくぐるとすぐ水路跡があった。大安心。 六郷用水物語という案内図も。案内図にある水路跡の地図は消えかかり、少々見えづらい。が、なんとか大枠での道筋をメモする;
1. 六郷用水は東急多摩川線に沿って下り、観蔵院脇を抜け環八近くの光明寺近くに進む(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

2. ここで北堀と南堀に分岐
3. 北堀は平間街道・池上通りに沿って東にすすみ、池上本門寺から環七方面に至る。で、環七を越えたあたりから東京湾に流れ込んでいる
4. 南堀は環八に沿って下り、東急多摩川線と交差。そこから環八を離れ、金剛院の脇を志茂田中学あたりに向って進みJR京浜東北線と交差
5. JR京浜東北線を越えたあたりで3方向に分岐
6. 新宿小学校のあたりから西に進み環八を越え、糀谷から東京湾に至る水路
7. 新宿小学校のあたりから南に進み萩中の正覚寺から本羽田1丁目児童公園に至る水路
8. JR京浜東北線を越え、南西方向に進み、京急・雑色駅から六郷神社、そして東に進み本羽田1丁目公園の水路と繋がる。
といった水路が、大雑把ではあるが確認できた(水路の概要図をアップ)。もとより、用水路である以上、この幹線をもとに水路は静脈・動脈・毛細血管の如く網の目の如く拡がるのではあろう。が大体のランドマークがわかった。歩を進める。

新幹線と交差
水路に沿った遊歩道を進む。東光院。真言宗。聖観世音菩薩は北条政子の念持仏とか。これって、浅間神社の由来書にあった、政子の聖観世音菩薩と同じもの?六郷用水・遊歩道休憩所がある。東光院を越えると水路は切れる。なんとなく水路跡だろう、といった名残りを求めながら進むことにする。新幹線と交差。蜜蔵院。真言宗智山派。大田区最古の庚申塔がある、とか。道の左手は結構な台地。坂の途中にある大田区図書館には昔来たことがある。

女堀(おなぼり)跡
道なりに進む。観蔵院裏の台地に沿って急勾配の坂道が左手に登る。さて右に下るか、左に上るか。なんとなくのぼりの坂道がそれっぽい。ということで進む。坂 を登りきったあたりに六郷用水物語の案内。女堀(おなぼり)跡の説明。このあたり、岩盤も固く用水開削時の難所のひとつ。工事の景気つけに女性を交えて開削を進めた、というのが女堀の由来。今は埋め立てられ、一見すると普通の坂道。が、昔はこの坂道は切り通しの水路が通っていた。

護摩堂の洗い場跡
坂道を下るたあたりに護摩堂の洗い場跡。もともとは水田の灌漑用の水として機能した六郷用水だが、時代が下り大正時代になると出荷野菜の洗い場に。あたりの水田が宅地となってしまい、灌漑する必要がなくなった、ということか。左手に小高い丘、右側にはいかにも重厚な民家。鵜の木交差点近くで環八と交差。道向こうに、水路跡らしき道筋が。環八を渡る。水路跡の西・東にある増明寺と鵜の木八幡に寄り道。どちらも台地上。


より大きな地図で 六郷用水流路 を表示

北堀と南堀の分岐点
あてどなく台地を歩き水路跡に戻る。環八・藤森稲荷交差点に。このあたりが北堀と南堀の分岐点。下丸子への分水口跡の案内があった。これは分流。昔は石組み 
のトンネルがあり、環八の西側の下丸子1丁目方面に水を送っていた、と。道の向こうに光明寺。このお寺って、昔環八の南下を阻止していたあのお寺。結構長い間行政と争っていたような気がする。

矢口の渡し
さてと、北堀を東に進むか、南堀を南下するか少々考える。が、南下することにす る。日も傾いてきた。どこまで進めることやら。矢口の渡しの「今」の風景を見ようと、多摩川堤に進む。道なりに歩く。多摩川清掃工場脇から堤に登
り、多摩川の土手を第二京浜道路まで進む。味も素っ気もない風景を想像して
いたのだが、結構いい。のどか。豊かな自然が戻りつつあるよう。

新田神社
堤を離れ武蔵新田駅方面に。こ新田神社に向かう。立派な神 社。鎌倉幕府を倒した新田義貞の子・新田義興を祀る。南北朝時代、南朝・後醍醐天皇の武将として活躍。矢口の渡しにて足利基氏と畠山国清により謀殺される。その後、実行犯の江戸氏や畠山氏に祟り。また矢口の渡しに怪しい火が現れ住民を悩ます。で、たたりを恐れた住民が新田大
明神としてお祀りした。境内にはご神木の欅。謀殺に加担した畠山一族ゆかりの
者が近づくと雨を降らし、唸り声をあげるという狛犬。円墳も。
平賀源内がこの円墳に生える竹を使い「矢守」をつくる。これが正月名物「破魔矢」のおこり。「破魔矢」を日本で最初に売り始めたのはこの新田神社、とか。本日
の散歩は終了。

丸子川;先回の散歩で谷戸川を下り、丸子川に合流した。丸子川は次太夫堀とも六郷用水とも呼ばれる。徳川家康江戸入府早々、六郷領・35カ村というから、今の大田区の低地域の新田開発・米の増産を計画。が、当時の六郷領の水利は千束の池水溜と池上西谷水溜池に頼るだけ、という状況。ために、土木技術のエキスパート小泉次太夫を登用し用水を開削。これを六郷用水と言う。
いつだったか散歩の折、六郷用水の取水口に行ったことがある。 狛江市和泉。狛江から六郷というから東京湾まで続いている。これは行くしかないでしょう、というとこで、丸子川を下り、六郷用水を歩くことにした。とはいうものの、いまさら用水があるわけでもないし、用水「跡」を巡る・探す散歩となるのだろう。(火曜日, 1月 17, 2006のブログを修正)



本日のルート;東急田園都市線・二子玉川下車>法徳寺>上野毛自然公園>第三京浜交差>稲荷坂>覚厳寺>善養寺>六所神社>谷沢川と交差>等々力渓谷>等々力不動>八幡神社、照善寺>多摩川台公園>東急東横線交差>浅間神社>東急東横線・多摩川駅

東急田園都市線・二子玉川駅
東急田園都市線・二子玉川下車。線路に沿って少し西に戻り丸子川に。崖線下、心地よい川筋の道。坂道が魅力的。ちょっと登ってみよう、と進む。なりゆきで法徳寺に。浄土宗のお寺。由緒書に「境内にある筆塚の碑は、明治初期、寺子屋の師、大塚貞三郎のために近在の瀬田、用賀、岡本などの門弟一同がたてた記念碑である」、と。大塚貞三郎は幕末、このお寺に寺子屋・芝光塾をつくり、近辺の農村子女教育につとめる。門弟は300人を数えたという。

上野毛自然公園と稲荷坂
坂を下り、歩を進める。川筋の家々にmy bridge。雰囲気がいかにもいい。東急大井町線と交差。少し進むと野趣豊かな公園、そして急峻な坂道。上野毛自然公園と稲荷坂。いつも通る環八の風景のどのあたりだろう、と、公園に入る。国分寺崖線の斜面林を生かした自然公園。鉄製の階段を台地上に。百本近い桜。世田谷百景のひとつ、とか。
覚厳寺。真言宗智山派、京都東山の総本山智積院の末寺。おまいりを住ませ環八に出る。上野毛駅前だった。ということは、稲荷坂は上野毛通り。ちなみに、「野毛」って、崖地を意味するということをどこかで読んだことがある。ともあれ、急な坂道の途中に稲荷神社。お参り。ふたたび川筋に戻る。

第三京浜と交差
第三京浜と交差。川筋と台地の標高差20m程度だろうか。魅力的な崖。少し進むと善養寺。真言宗智山派・総本山智積院の末寺。境内にカヤの大木。都の天然記念物。寺の近くに住んでいた娘が多摩川で川遊び。沢蟹の親子が「今夜,川が氾濫し、流されてしまします。高台に逃がしてください」、と。逃がしてあげる。 その夜、多摩川が氾濫。翌日沢蟹の親子がお礼にカヤの実をもってきた。娘はその実を善養寺の境内に植える。それがこのカヤの大木になった、とか。
善養寺の北隣に六所神社。このあたりの総鎮守。境内に水神様。多摩川の安全と豊漁の神様。
川筋に戻り進む。玉堤通りと交差。しばらく進むと谷沢川と交差。等々力渓谷からの水が多摩川に流れ込む川筋だ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

谷沢川・等々力渓谷

先日等々力渓谷を散歩した。が、改めて渓谷を逆方向から歩いてみよう、ということで丸子川を離れ谷沢川・等々力渓谷に寄り道。不動の滝に。滝もさることながら、滝の両脇の崖面からの湧き出る水も魅力的。これほど勢いよく崖の岩の切れ目から湧き出る水はまことに「いい」。「とどろき」の名前の由来は、滝の音の「とどろき」から。
脇の坂を登り等々力不動尊にお参り。正面の石段の向こうに雑木林。石段を下りる。雑木林の中を進み弁天堂明王台に。弁天様をおまつりしている。その先に等々力児童遊園。右手は崖。等々力渓谷崖上を歩く。見晴らしはそれほど良くないが、渓谷を上から眺めることができた。歩きながら、改めて等々力渓谷の成り立ちについて整理しようと思った。
等々力渓谷;現在、谷沢川は用賀付近を源流点として等々力渓谷を経て多摩川に流れ込む。しかし、一説によれば、往古、谷沢川は九品仏川の上流域であり、尾山台、自由が丘、緑ヶ丘を経て呑川に合流していた、と。根拠のひとつは、谷沢川が形成してきた谷底低地。等々力渓谷で流路を急激に南に切り込んでも、谷沢川が形成したと思われる谷底低地は東に広がり、九品仏川が形成した谷底低地にスムーズにつながっている。では何故谷沢川の川筋が変わったか、ということだが、それは河川争奪によるとの説がある。河川争奪とは、ある川が別の川の流れを取り込んでしまう、ということ。このケースで言えば、元々は等々力渓谷の湧水点を源流としていた谷沢川が、谷頭侵
蝕により次第に源流点を北に延ばす。用賀付近を源流点として流れる九品仏川の流路に到達。九品仏川の水が谷沢川に切り替わる。以降、切り離された先が九品仏川と呼ばれる。流れだけでなく、名前も取り上げたってことか。

多摩川台公園
丸子川に戻り歩を進める。多摩川と逆方向に湾曲する川筋に沿って、武蔵工業大学の前を進み、尾山台1丁目を過ぎ田園調布1丁目に入る。川沿いに八幡神社、照善寺。ちょっとおまいりし、先に進む。
丸子川が多摩川に接近。左手に台地が迫る。多摩堤通と合流地点で川筋を離れ台地に登る。多摩川台公園。多摩川台古墳群と呼ばれる多数の古墳が尾根道に続いている。1号から8号までは円墳。古墳展示室の南にある亀甲山古墳は前方後円墳。全長100m。5世紀後半につくられたよう。規模から見て、国造(クニノミヤツコ)クラスの墳墓と言われている。
多摩川と台地に挟まれた多摩堤通りの脇を水路は進む。第三京浜入口近くの野毛大塚古墳。等々力渓谷の御岳山古墳。そしてこの多摩川台古墳群。直ぐ近くに蓬莱山古墳もある、という。

多摩堤通り
台地からの多摩川の眺めは素晴らしい。台地から眺めると多摩川が直ぐ下に見える。丸子川が多摩川に流れ込んだのであろうか。少々不安になる。事前に地図を見たときは、確かにこのあたりで流路が消えていた。合流点を探さねば、と台地を下る。丸子川はあった。多摩川と台地に挟まれた多摩堤通りの脇を水路が続く。 水路跡と多摩川の水位差は5mくらいだろう。狛江あたりから水を取り込まなければ六郷の村々に水を通すことができない、ということは十分納得。六郷用水プロジェクトの最初の2年間は測量期間。夜に提灯の明かりで高さを測りながら測量を進めた、とか。

浅間神社
東急東横線と交差するあたりで暗渠となる。線路の高架下を過ぎると左手に神社。浅間神社。今から800年前の創建、と伝えられる。房総より馬を進め、北区王子の滝野川・松崎に上 陸した源頼朝を追ってこの地にやってきた妻政子。足の痛みのためこの地に逗留し傷の治療。徒然に、台地の亀甲山古墳に出向き富士を臨み、富士吉田の浅間神社に向かい頼朝の武運長久を祈る。富士吉田の浅間神社は政子の守り本尊。その際身につけていた「正観世音増」をこの地に建てる。地元の人々はこの像を「富士浅間大菩薩」と呼び尊崇。これが多摩川浅間神社の由来、とか。
境内の見晴台からの多摩川の眺めはまことに素晴らしい。神社の台地を下り正面入口に戻る。川筋はここまで。はてさて、流れはどちらに?とはいうものの、日が暮れてきた。これ以降は次回の散歩といたしましょう、ということで東急多摩川線に沿って歩き、東急東横線の多摩川駅に歩き、本日の散歩は終了。

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