目黒区の最近のブログ記事

青山とか赤坂とかは結構土地勘がある。仕事で夜、大手町とか丸の内で遅くなっても、渋谷まで歩いたりもする。慶応大学から六本木経由で渋谷まで歩いたことも何度もある。が、唯一、よくわからないのは昔の東海道沿い、高輪・白金といったあたり。
わからない、という意味合いは、どちらに進めばどこに行けそう、といった大雑把な土地勘がない、ということ。で、今回の港区散歩は、武蔵野台地の東端、台地と谷筋が複雑に入り組んだ武蔵野台地の末端部を歩くことにする。
散歩前に、カシミール3Dで地形図をつくった。複雑な、そして起伏に富んだ地形。東西に流れる古川が台地を刻んでできたものであろう。台地から湧き出た水が刻んだものであろう。地形のうねりは結構楽しめそう。が、いまひとつランドマーク、というかアンカー・ポイントが絞れない。例によって郷土館に行き資料を入手することから始める。(水曜日, 9月 06, 2006のブログを修正)



本日のルート;JR田町駅>港区郷土資料館>桜田通り>春日神社>イタリア大使館>綱坂>綱町三井倶楽部>首都高速2号・目黒線>四の橋>白金商店街>三光坂下>日吉坂上>桑原坂>白金台3丁目>NTT関東病院>上大崎1丁目>首都高2号・目黒線>上大崎3丁目>目黒駅>行人坂>五百羅漢>比翼塚>目黒通り・金毘羅坂>矢戸前川緑道>油面地蔵通り>祐天寺>東急・祐天寺駅

JR田町駅
Jr田町駅で下車。田町というのは、駅の三田口(西口)一帯の、昔の呼び名。江戸時代に「田」畑が「町」屋になったため、この名がつけられた、と。現在は田町という地名はこのあたりにはない。明治にはすでに頭に芝をつけ、芝田町とよばれていた、よう。ちなみに駅の東口・芝浦口は、昔は海。1913年から埋め立てがはじまり現在の姿になった、という。

港区立港郷土資料館
国道15号線・第一京浜を渡り郷土資料館に向かう。港区立港郷土資料館は芝5丁目。慶応大学 のすぐ近く。仕事で慶応大学に行くとき通る。慶応仲通商店街の一筋南、三田図書館の中にある。『文化財のしおり』を買い求める。ほかに無料で『港区文化財めぐり』といった資料も入手。常設展示自体はそれほど大きくない。件(くだん)の『常設展示目録』といったものは見あたらなかった。
資料をもとにルートを探す。いまひとつ絞り込めない。はてさてどうしたものだと思案しながら、『港区文化財めぐり』を眺める。と、白金台3丁目に「三田用水路跡」。川跡巡りフリークとしては、なんとなく惹かれる。白金台まで進めば、目黒はすぐそこ。ということで、三田から成行きで白金台に向かい、その後は目黒に出て、先日時間切れでお目にかかれなかった羅漢寺の五百羅漢さまに会いに行こう、というルーティング。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


春日神社・イタリア大使館
桜田通りを北に進む。慶応大学の北に春日神社。三田の総鎮守。天徳2年(958)武蔵国国司藤原正房が、屋敷神として奈良の春日神社を勧請したのが始まり、と。神社を離れ、慶応大学の外縁に沿ってゆるやかな坂道を進むとイタリア大使館。邸内に「大石主税(ちから)以下切腹跡」がある、と。当時は伊予松山藩・松平隠岐守の中屋敷。忠臣蔵の大石内蔵助の実子・主税以下10名が預けられ、切腹したところ。地図を見ると、邸内に池。切腹の場所を掘り返し池とし、その土で池の背後に築山をつくった、と言われるが、その池であろう。明治維新には松下正義公爵家。イタリア大使館になったのは昭和5年から。


綱町三井倶楽部

イタリア大使館の北縁を進むとT字路。突き当たりの鬱蒼とした森は「綱町三井倶楽部」。旧町名・三田綱町は明治以降、東京の高級住宅地の代名詞。三井倶楽部は明治の「お雇い建築家」・ジョサイヤ・コンドル設計。三井財閥の迎賓館として大正2年に竣工。現在は会員制倶楽部のようで、中に入ること叶わず。


綱坂
三井倶楽部の東側に沿って南に下る。「綱坂」と呼ばれる坂道。名の由来は、大江山の酒呑童子退治や羅生門の鬼退治で有名な、平安時代の武将「渡辺綱」が付近に生まれたという伝説によるもの。綱は武蔵守であった父親がなくなるまではこの地に住んでいた。が、その後、難波・攝津に移り摂津渡辺党として活躍。坂田金時などとともに、源頼光の四天王のひとり、となる。
で、三井倶楽部の北縁を東に下る坂道も渡辺綱にまつわる由来をもつ。「綱の手引き坂」がそれ。姥坂とも、馬場坂とも「小山坂」とも。小山坂の由来は、この坂道が旧三田小山町であった、ため。忘れていたが、三田「綱町」の名前の由来も、渡辺綱からきているのだろう。学生時代、平凡社選書で『酒呑童子』を呼んだことがある。これを機会に、もう一度読み返してみようか、と。

古川
三井倶楽部の南を西に進む。慶應グランドの南を進むと首都高速2号・目黒線。その下に古川が流れる。古川は、上流部は渋谷川。渋谷川水系上流部、渋谷以北は以前歩いた。甲骨川とか宇田川とか、代々木上原近辺の散歩の情景が思い出される。童謡・「春の小川」の情景は今となっては望むべくもない。

渋谷川が古川と呼ばれるのは「一の橋」より下流。後には、もう少し上流部、天現寺より下流が古川と呼ばれるようになる。「一の橋」から下流は新掘川とも呼ばれる。明暦の大火の後、江戸の都市整備に伴い、1675年、河口の金杉橋あたりから「一の橋」まで掘を開削。川幅を広げ、通船を可能にする改修工事がおこなわれた。新たに掘られた川、ということで「新掘川」、と。もともとの古川は現在の新堀川というか古川の西側を流れていた、と。

三の橋
古川を渡ると桜田通り。「三の橋」の交差点。麻布十番のところにある「一の橋」、その南の「二の橋」、そして古川橋で西に折れた先の「四の橋」、「五の橋」と続く一連の橋名。
橋の名前は古川の付け替え工事に関係する。掘の掘削は、はじめ、河口から「一の橋」とか「二の橋」あたりまで工事が行われた。で、最初に架けられた橋である から、「一の橋」。その後、元禄11年(1698年)、綱吉の別荘・白金御殿が現在の「四の橋」あたりに作られることになる。そのため、「四の橋」あたりまでの河川改修・拡張工事がおこなわれ、それにともない順次橋が架けられたのであろう。
ちなみに「麻布十番」って、白金御殿をつくる時の工区の名称。十番工区が「一の橋」北辺りであったのが、名前の由来とも。また、後に芝西応寺町の馬場がこの地に移つり、「十番の馬場」と呼ばれたようで、ために、麻布「十番」、と呼ばれるようになった、との説もある。が、時系列で考えれば、十番工区が由来というのが妥当だろう。

四の橋・薬園坂
古川橋を西に折れる。新古川橋を過ぎ「四の橋」に。「四の橋」の北に「薬園坂」。健康フリークの家康であった、から、というわけでもないだろうが、幕府には江戸の南北に薬草園があった。北は牛込に。南はこの地に。後にこの薬草園は白金御殿となるのだが、この坂の名前にその名を残す。
「四の橋」は別名「薬園橋」とも呼ばれた。ちなみにこの薬草園、薬草だけでなく花畑もつくられる。二代将軍秀忠が花好きであった、ため。小石川植物園に花畑が多いのも、そのため、だろう。北の薬園は天和元年(1681年)、その地に護国寺が建てられることになり廃園。この地の南薬草園も貞享元年(1684年)、白金御殿の 拡張のために廃止されることに。
で、薬草園はどうなったかというと、館林藩の下屋敷を拡張し、その敷地の一部を使い薬園をつくることになった。その下屋敷というのが小石川の地。現在の小石川植物園のあるところ。館林藩の下屋敷、ってのは、五代将軍綱吉が幼少の時を過ごしたところ。ために、小石川御殿と呼ばれる。また、敷地内に白山神社があったので、白山御殿とも呼ばれた、と。

白金商店街
「四の橋」から古川を渡り南に折れる。白金商店街を進む。白金といえば「白ガネーゼ」といった按配で、セレブなイメージが強い。が、この商店街は1910年発足の、下町風情一杯の町並み。 昔は麻布十番など目じゃなかった、ようではあるが、「街の賑わいOR NOT」のターニングポイントがどこにあるのか、あったのか、少々気になる。品川宿と品川駅周辺、赤羽駅周辺と岩淵宿や、北千住駅周辺と大鳥神社のある花畠のコントラスト。小岩と新小岩も確かそれっぽい話があったよう。昔は鉄道をとるか、とらないかが大きなファクターであったようだが、さて昨今はなにがおおきなファクターとなっているのであろう、か。

三光坂下交差点
先を進む。商店街を出ると車道に。恵比寿から白金1丁目の交差点に進む道筋。「三光坂下」交差点。坂にのぼる途中、専心寺にあった三葉の松が仏具・三鈷(さんこ)に似ていた、というのが名前の由来。ともあれ、このあたりお寺が多い。これは慶應義塾の右側、というか桜田通りの沿ってつくられている「三田寺町」の続き。南の高輪や、西の白金、つまり、この専心寺あたりまで続いている。
このあたりのお寺はほとんどが明暦の大火の後、この地に移った、と。それ以前は八丁掘りにあった、とか。城下町において寺町は町外れに集められ、城の防御拠点とされることが普通。ということは、この白金の地も八丁堀も江戸期においては、郊外であった、ということ、か。

日吉坂上
西光寺、専心寺の間を南西に上る三光坂を進む。聖心女子学園のなどもある閑静なお屋敷町。道なりに進み目黒通りに。少し西に坂をのぼると日吉坂上。目黒通りから桜田通りに下る日吉坂の「上」にあたる。日吉坂の由来は能役者・日吉喜兵衛が付近に住んでいたとか、例によってあれこれ。日吉坂のあたりは八芳園とか都ホテルが。

桑原坂
日吉坂上から南東、明治学院方面には桑原坂が下る。「くわばらざか 今里村の地名のひとつである。その起源について、 特別の説は残っていない」、と。交差点から坂に下るあたりに「古地老稲荷神社」。鳥居の横の説明をメモ;昔「江戸の名物は火事」といわれたほどで火伏せの稲荷信仰がさかんでありました。中でも古地老稲荷は「あが縁日の存続する限りこの地に出火をみせじ」との強い神託により、文政十三年、日吉坂上に鎮座。縁日には不可思議にも雨のおしるしがある。土民その霊験をかしこみ、火伏の稲荷、人丸様、火止る様とも呼び、お祀りする。関東大震災にも 第二次世界大戦空襲にも、火災を免れた」、と。        

瑞聖寺
目黒通りを少し西に進むと「瑞聖寺」。黄檗宗の名刹。「一山の役寺」という高い寺格をもっていた。山門も趣があるが、大雄宝殿がいかにも、いい。大雄宝殿って本堂といったものだろうか。とにかく豪壮な構え。思いもかけず、いい建物に出会った。こういった出会いが、行き当たりばったりの散歩の楽しみ。

三田用水跡
寺を離れ、白金台3丁目12にある「三田用水跡」を目指す。外苑西通りが目黒通りにT字に交わる交差点・白金台で目黒通りを離れ住宅地に折れる。成行きで進み、マンション・ハイクレスト白金台の敷地縁に「三田用水路跡」の案内。メモ;「三田上水は寛文4年(1664年)、玉川上水を下北沢で分水。中村八郎衛門・磯野助六によって開かれた。白金台、高輪、三田、芝地区に給水。享保7年(1772年)に廃止。が、翌々年から農業用水・三田用水として1宿13カ村に供給。当時の水道は自然の高低差で流れていたため、この付近では堤上に水路を残して通す工夫をした」、と。確かに堤を盛り上げ、その上に水路を通している。水路跡、いかにも堤っぽい。また、その水路跡に家が建てられている。
三田用水の水路をラフにメモ;笹塚あたりで玉川上水から分水>中野通りを下り井の頭通り・大山交差点>小田急・東北沢駅>三角橋交差点を東に>東大教養学部の裏手を進み山手通りと交差>松涛2丁目で旧山手通り>代官山・槍ケ崎交差点>その後は南東に一直線>目黒通りと交差する手前・三田2丁目あたりで少々湾曲>山手線にそって下り>目黒通りで東に折れ>白金台で南に折れ>高輪台交差点あたりで国道1号線・桜田通りと交差>高輪3丁目交差点あたりで二つに分岐>ひとつは南に下り、新高輪プリンスホテルをこえたあたりで東に折れ>品川駅前に降りる。もう一方は尾根道を北東に進み井皿子交差点を経由し三田3丁目に下り>慶応大学近く・春日神社あたりから東に進む。また、もうすこし北 に進み東に折れる水路もある、といったところ。

畠山記念館

先に進む。畠山記念館。もと薩摩藩主・島津重豪の別荘。明治維新後は寺島伯邸。その後、荏原製作所の創始者・畠山一清が私邸として購入。茶道具を中心に、書画、陶磁、漆芸、能装束など、日本、中国、朝鮮の古美術品を展示公開。収蔵品は、国宝6件、重要文化財32件を含む約1300件。とはいうものの、常設展示というよりも、企画単位での展示のスタイルのよう。訪れたときは 「明の磁器(?)と能装束」の展示であった。
島津重豪は薩摩藩8代藩主。斉彬はひ孫。斉彬とともにシーボルトと会見するなど「蘭癖」大名の筆頭。将軍家斉に娘を娶わせるなど、江戸後期の政界に大きな影響力をもち、高輪下馬将軍などと呼ばれる。寺島伯爵とは寺島宗則。元薩摩藩士。参議、外務卿、元老院議員、枢密院顧問などを歴任。地図にはこの敷地内に「般若苑」がある、とのとこだが、敷地は更地になっていた。

NTT東日本関東病院

成行きで畠山記念館西側の坂を下る。あれ?どこかで見た景色。NTT東日本関東病院。先日通院したところ。9月には入院し白内障のちょっとした手術をする予定の病院。まったくの偶然。こんなこともあるのか、と。

池田山

病院を東から南にぐるりと回り、次いで、西から北へと再び台地にのぼる。NTT病院の周囲がどうなっているのか、といった好奇心だけ。結構な高級住宅街が続く。このあたりは池田山と呼ばれていたよう。目黒川から見上げるとこの台地、ちょっとした山のように見えたのだろう。池田山と呼ばれた所以は、この地に岡山池田藩の下屋敷があった、から。大崎村でもあったので、「大崎屋敷」とも呼ばれる。


ねむの木の庭
東五反田5-19-5には「ねむの木の庭」。美智子妃殿下の実家・正田邸のあったところ。建物の取り壊しを巡ってあれこれニュースが流れていたのだが、今はねむの木をはじめいろいろな花々が植えられた公園となっている。

五百羅漢寺

道なりに西に。首都高2号目黒線を渡る。インドネシア大使館とかタイ大使館のあたりを進み、JR山手線に沿って続く台地端に。崖下にJR山手線。目黒駅に向かい、最後の目的地五百羅漢寺に向かう。行人坂を下り、太鼓橋を渡り、山手通りを越え五百羅漢寺に。先回は時間切れで閉まっていたので再度の訪問。再びメモする。
五百羅漢寺は元禄8年(1695年)、本所に建立。五代将軍・綱吉、八代将軍吉宗の庇護を得て本所五つ目(江東区大島)に「本所のらかんさん」として親しまれる。羅漢様を彫ったのは松雲元慶禅師。もと仏師。耶馬溪の羅漢様に触発され、一念発起、仏の道に仕え、江戸の町を托鉢。集めた浄財をもとに10年の歳月をかけて羅漢様を彫り続けた、と。
さすがに迫力がある。数にも圧倒される。表情にも惹かれる。この地に移ったのは明治41年。やっとのとこで雨露を凌ぐ程度であったものを、昭和54年再建計画が立てられ、56年に現在の近代的建物に収容されるに至った。

目黒不動・比翼塚
五百羅漢寺を離れ、お隣の目黒不動の門前にある「比翼塚」にちょっと立ち寄る。白井権八(本名;平井権八)と吉原の遊女・小紫の悲恋を哀れみ建てられた塚。 この比翼塚って、各地に多い。お七・吉三の比翼塚、お夏・清十郎の比翼塚、などなど。比翼の鳥って、中国の想像上の鳥。雌雄がそれぞれ一目一翼、常に一対となって飛ぶ。ということから、比翼って、男女の契りが深いことの喩えにつかう、と。知らなかったなあ。



油面(あぶらめん)地蔵通り商店街
目黒不動の西、台地の坂をのぼる。不動公園横を通り、目黒通り・金毘羅坂に。明治までこのあたりに金毘羅社があったから。あとは目黒3丁目、中目黒4丁目、祐天寺を経由し東急・東横線・祐天寺駅に。お目当ての古本屋は残念ながら閉まっていた。ともあれ、本日の予定はこれで終了。
祐天寺に向かう途中に「油面(あぶらめん)地蔵通り商店街」があった。面白い名前。ちょいと惹かれた。調べてみた;江戸時代にはこのあたり一帯では菜種
の栽培が盛んにおこなわれ、その菜種油は芝の増上寺や祐天寺の燈明に使われていた。この菜種油を奉納するかわりに祖税が免除されていたため、このあたりは「油免」と呼ばれていた。それが後に「油面」と変わった、と。地名の由来は実におもしろい。

港区を2回に渡り歩いた。が、いまひとつ土地勘がしっくりしない。であれば、台地を刻んで流れる渋谷川・古川にそって北から歩いてみよう、と考えた。開析された谷筋と尾根道のアップダウンを辿れば、なんとなく全体の姿がわかる、かと。(日曜日, 9月 10, 2006のブログを修正)



本日のルート:JR 渋谷駅>明治通り・渋谷警察署>金王八幡宮>金王神社前>八幡坂>明治通り・氷川橋>氷川神社>国学院大学前>白根記念渋谷郷土博物館・文学館>南郭坂・広尾高校前>羽澤ガーデン>チェコ大使館>祥雲寺>外苑西通り・広尾橋>天現寺>光林寺>五の橋>三光坂>池田山公園>JR五反田駅

渋谷駅
渋谷川が開渠となるのは渋谷駅前。六本木通りと明治通りが交差するあたり。京王井の頭線・渋谷駅で下車。渋谷警察署を目安に進む。東急・東横線のガードを超えたあたりに、コンクリートで固められた渋谷川。少々窮屈そう、ではある。渋谷川はこの先、恵比寿駅近くの渋谷橋あたりまで明治通りに沿って下る。が、ビルに囲まれた開渠路。散歩には少々味気ない。で、川筋を意識しながらも、東に盛り上がる台地に向かうことに。

金王八幡社
渋谷警察から明治通りを少し進み、台地に登る。台地を登りきったところに「金王八幡社」。創建は11世紀末に遡る。平家の祖・平高望の子孫・平武綱がつくった、と。源義家に従い戦った後三年の役で武名をあげた武綱は、この渋谷一帯を領地とする。で、この地に八幡宮をまつったのが「金王八幡宮」のはじまり。その後、武綱の孫・河崎重家の代に天皇より「渋谷」姓を賜る。当時は「渋谷八幡宮」と呼ばれていた。
「渋谷」の名前を賜った由来が一風変わっている。河崎重家が御所警護の際、取り押さえた賊の名前が「渋谷何某」。その功を称えた掘河院が「以降、渋谷と名乗るべし」といった、とか。倒した敵の名前を名乗るのは名誉なことであった、そうな。
何ゆえ「金王」、ということだが、あれこれ説がある。渋谷重家の子どもの名前・金王丸に由来する、との説もある。子供を求める重家が、八幡様にお祈り。「金剛夜叉明王」が妻女の体に宿る夢。正夢となり、無事男子を授かる。「金」剛夜叉明「王」の初めと終わりの字を取って「金王」と。少々,出来すぎている感もあり。 

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


ついでに重家のその後;源義朝に従った保元の乱で殊勲大。その後、平治の乱では、義朝討ち死の報を義朝の妻女・常盤御前に伝え、重家はこの渋谷の地で出家。義朝の菩提をとむらう重家に転機が訪れたのは、頼朝が奥州の義経征伐の折り、重家に従軍を求めた時。頼朝の強い要望に断わりきれず参戦するも、常盤御前の子である義経を討つことはできず、戦いにおいて落命した、と。
この金王八幡社付近は渋谷城があったところ。小田原北条氏の武蔵進出の際の合戦で焼け落ちた。渋谷警察の裏にあたりには、古くは堀之内という地名があった、とか。この城址は台地の西端。眼前には水量豊かな渋谷川水系の川が行く筋も流れており、その水を引いた堀があったのだろう。

氷川神社
神社を離れ金王神社前交差点に進む。この道筋は青山学院の西側を下り、六本木通り・渋谷2丁目交差点を越えてくる。台地から渋谷川に向かっては金王神社前あたりから「八幡坂」となって下る。八幡坂を下り終えると明治通り・並木橋交差点。明治通りにそって次の交差点、渋谷川に氷川橋のかかる東交番前を台地方向に折れ、坂を登る。坂の途中で南に折れ、道なりに進むと「氷川神社」参道入口。
結構広い境内。4000坪程度あるようだ。鬱蒼とした緑の中に鎮座する。境内には相撲場。江戸郊外三大相撲のひとつ、金王相撲が開催されていた、とか。渋谷最古の神社とも言われる。何度かメモしたように、氷川神社は全国で261社。そのうち埼玉に162社。東京に68社といったふうに関東ローカルなお宮さま。本社は武蔵一ノ宮である大宮の氷川神社。出雲族の武蔵氏が武蔵国造となってこの地に移ってきたとき、氷川信仰が武蔵の地に普及した。「氷川」の名は出雲の「簸川;現在の斐伊川)」に由来する。もとは、荒川を簸川に見立て、畏敬の念をもって信仰していたのであろう。
氷川神社が祀られた村々はその成立が比較的古く、多くは関東ローム層の丘陵地帯に位置している。森林を開墾し谷の湿地を水田とした人たちが生活のより所として、氷川神社を建てたのであろう。氷川神社の祭祀圏は荒川西岸。香取神社の祭祀圏は荒川東岸ときっちりと分かれている。散歩を通してこのルールをはずしていたのは、北区・赤羽あたりに香取神社があった1件のみ。

白根記念渋谷区郷土博物館・文学館

氷川神社の北に國學院大學。國學院大學前交差点を進み常陸宮邸方向に進むと白根記念渋谷区郷土博物館・文学館。館内を一廻りし、『渋谷文化財マップ』『散策マップ』などを入手。一服しながら天現寺まで、つまりは港区までのルートを探す。郷土館から日赤通りに向かい、台地上の道を進み祥雲寺を経由して広尾、そして天現寺に至るコースがよさそう。





南郭坂
郷土館を離れ、國學院前交差点に戻る。そこからは南に折れ、広尾高校方面に進む。しばらく進むと広尾高校前交差点。台地を渋谷川方向に下りる坂は「南郭坂」。江戸中期の儒学者・服部南郭の別邸があったところ。16歳で和歌と絵画をもって柳沢吉保に仕える。荻生徂徠の高弟のひとり。経学の太宰春台に対し詩文の南郭と並び称された。古文辞学と詩を学ぶ。で、34歳で在野に下りこの地に「隠居」、とか。
古文辞学って、明の時代に流行った「文は秦漢、詩は盛唐」をよし、とする懐古主義の文学運動、とか。なんのことかよくわからんが、いまのところは、いまひとつ問題意識なし、をもって,よし、とする。とりあえず、高校時代に李白とか杜甫といった盛唐の詩歌を、わけもわからず覚えたのは、江戸期の古文辞学派が『唐詩選』を「有り難き物」とした賜物であろうか。勝手な解釈であり、正誤のほど定かならず。

いもり川
広尾高校前を東に折れ、広尾高校裏交差点を越え、坂を下る。あれ、このあたり、見覚えがある。羽澤ガーデン。元満州鉄道総裁の邸宅を使ったレストラン。結構利用した。が、どうも営業を終了したようだ。羽澤ガーデンあたりは谷地。昔は「いもり川」が流れていたよう。昔の地図には、「いもり橋」「小橋」「どんどん橋」といった名前がある。地図で見る限りでは、六本木通り・常陸宮邸あたりから、東4丁目の交差点(常陸宮邸前の五叉路)をとおり広尾2丁目、3丁目の低地を進み広尾2丁目で渋谷川に合流。合流点は渋谷川の恵比寿橋と新橋の間といったところ。

日赤通り

いもり川の谷筋から、ふたたび坂をのぼる。坂をのぼりきったところが日赤通り。日赤医療センターや聖心女子大の裏手を一直線に南に下る尾根道・台地道。このあたりは、堀田備中守(佐倉藩・千葉県)の下屋敷があったところ。
『江戸名所図会』などには、この広尾の原は一面のススキ。江戸時代の広尾は、麻布の西に広がる行楽地。将軍の鷹狩りや市民の土筆つみ・月見の里でもあった。広尾の原には「土筆が原」の別名もあった、とか。
下屋敷って、大名の別邸であったり、上屋敷への供給する菜園をもっていたり、海岸付近では荷揚げ場であったりと、その機能はいろいろ。上・中・下屋敷は江戸城からの距離をもってタグ付けされていた。お城から最も近いのが上屋敷、遠いのが下屋敷、である。

祥雲寺

日赤通り・ チェコ大使館前を通り、しばらく進むと道は祥雲寺に阻まれ東西に分かれる。道なりに坂を西に下り、明治通り・広尾1丁目交差点、渋谷川にかかる新橋のあたりに出る。明治通りを東に少し進み祥雲寺に。
祥雲寺は黒田長政の嫡子・忠之が赤坂溜池の黒田家上屋敷内に建立した龍谷山興雲寺がもと。寛文6年(1666年)には麻布台に移り,瑞泉山祥雲寺と改める。 寛文8年(1668年)には江戸の大火により現在の地に移る。もともとは、黒田長政がなくなったとき、長政が深く帰依していた京都大徳寺の龍岳和尚を開山としたわけでもあり、境内には黒田家累代の墓とともに、墓標形として建てられた大きい長政の墓がある。
祥雲寺には、岡本玄冶の墓もある。岡本玄冶のことは中央区日本橋人形町を散歩したときにちょっとメモした。春日八郎の『お富さん』の歌に「粋な黒塀、。。。、えっさほう、玄治店(げんやだな)」がある。子供のころに覚えた歌をいまだに覚えている。その玄治店って、岡本玄冶が家主の長屋のこと。人形町の拝領屋敷を長屋にしていたのだろう。この玄冶さん、将軍秀忠・家光の侍医。千石取り、というから殿様並。家光が疱瘡を患ったとき、ものの見事に治療し評価を高めた。もっとも、玄治を今にその名を残す存在としらしめたのは、お富さんであり、切られ与三郎の登場する歌舞伎の舞台「与話情浮名横櫛」であることはいうまでもない。

広尾橋・笄川

寺を離れ、外苑西通りに出る。広尾橋交差点。広尾橋は、その昔、ここを流れていた「笄川(こうがいがわ)」にかかっていた橋。笄川は舌状台地となっている青山墓地の両脇の谷筋が源流点。途中、いく筋もの流れをあわせながら南下して天現寺橋で渋谷川に合流。渋谷川水系では宇田川に次ぐ規模の支流ではあった。1937年に大部分が暗渠に。部分的に各地に残っていた開渠も東京オリンピック前後までには完全に暗渠化されている。

天現寺橋交差点​・天現寺

少し南に進むと天現寺橋交差点。交差点脇に天現寺。臨済宗大徳寺派。天現寺橋は元々、笄川(こうがいがわ)に架かっていた橋の名前。現在の渋谷川に天現寺橋が架かっているが、元々は別の名前の橋だった、とか。
渋谷川の対岸に慶応幼稚舎ができて通学用に架け替えられた「慶応橋」と、その隣に市電用の橋梁が架けられたわけだが、二つの橋を合体した形で架け替えられるとき、天現寺橋の名が復活した、と。この橋を境に上流を渋谷川、下流を古川に分けられる。

光林寺

天現寺橋から渋谷川改め、古川を東に進む。すぐ光林寺に着く。オランダ人ヒュースケンの墓がある。安政3年(1856年)、ハリスとともに下田着。日米修好通商条約締結交渉に活躍し。渡航先のアメリカで、ドイツ語、フランス語等もできる語学力をかわれて日本に赴任。陽気闊達な性格であり、江戸滞留の外国人間で名を知られる。が、プロシア使節と日本側の通訳として通っていた「赤羽接遇所」からアメリカ公使館のあった麻布善福寺への帰途、「中の橋」のたもとで攘夷派の薩摩藩士の刃に倒れる。乗馬が好きで江戸城のあたりを闊歩していたのが、攘夷志士の気に障った、とも。1861年1月15日、28歳の若さであった。
善福寺ではなくこの光林寺に埋葬された理由は、善福寺は土葬を禁じていたため。この寺は土葬が可能であったわけだ。台地下の窪地に寺はあるが、台地も寺域となっており、境内はすこぶる広い。

池田山公園
光林寺からは東五反田の池田山公園を目指す。五の橋を渡り、白金3丁目を進み、三光坂下で大久保通りを越え、三光坂を登り、目黒通りに出る。このあたりはこれで3回目。結構土地勘ができてきた。目黒通りからは目白台3丁目の「三田用水跡」あたりを再び通り、上大崎1丁目の宅地を過ぎると、「池田山公園」にあたる。NTT東日本関東病院のすぐ裏手であった。

池田山公園は岡山藩池田家下屋敷跡。池田山公園自体は7,000平方メートルであるが、下屋敷自体は往時3.8万平方メートル。NTT東日本関東病院の敷地も下屋敷の一部であった。公園は窪地にあり、回遊式庭園となっている。三田上水を引き込んでいた、と。
ちなみに昔の大名屋敷で現在公園になっているところをメモする;戸越公園(熊本藩細川家)、白金の国立自然教育園(高松藩松平家)、小石川後楽園(水戸藩徳川家)、東京大学(金沢藩前田家)、芝離宮(小田原藩大久保家)、赤坂御所(紀州徳川家)、明治神宮(彦根藩井伊家)、戸山公園(尾張藩徳川家)、新宿御苑(高遠藩内藤家)、青山墓地(郡上藩青山家)など。
公園を離れ、公園に沿って上大崎1丁目と東五反田5丁目の境の坂道をのぼり、南に台地上を進む。「ねむの木の庭」前を通り、台地を下りJ
R五反田駅に到着。本日の予定終了。


先日、駒沢陸上競技場に出かけた。娘の競技会のビデオ撮影のご下命を受けたため。で、競技終了後、ちょっと目黒を散歩する。いつもの行き当たりばったりの散歩とは異なり今回は準備万端、である。
競技会のビデオ班ご下命はたまにある。ために、以前競技会に来たとき、空き時間を利用して目黒区の郷土資料館を訪れていた。五本木の目黒区守屋教育会館内にある郷土資料館で『目黒区文化財地図』『みどりの散歩道 コースガイド』など資料を既に入手していたわけだ。
競技会が終わったのが午後の4時。夏場でもあり、6時過ぎまで歩けるだろう、とコースを探す。さてどこに向かうか、あれこれ地図を眺める。五百羅漢寺が目に留まる。なんとなく前から気になっていたお寺。江東区散歩のとき、出会っていた。このお寺、どういった経緯か忘れたのだが、目黒不動の近くに移っている。それともうひとつ、碑文谷八幡。この神社も前々から気になっていた。

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


ということで、ルートは駒沢陸上競技場から碑文谷八幡、その後は羅漢寺川緑道 に沿って「林試の森」などを経由し、五百羅漢寺まで歩くことに。『目黒区文化財地図』を眺めると、途中に結構由緒ありげなお寺とか神社もある。果たして日没までにどこまで、とは思いながらも陸上競技場を後にした。(月曜日, 8月 21, 2006のブログを修正)




本日のルート;
①碑文谷・羅漢寺川ルート;駒沢競技場>(八雲)>呑川駒沢支流緑道>東光寺>金蔵院>八雲氷川神社>常円寺>北野神社>環七・柿の木坂>(碑文谷)>すずめのお宿>碑文谷八幡>高木神社>円融寺>正泉寺>法界塚馬頭観音・鬼子母神堂>稲荷大明神>清水池公園>羅漢寺川緑道>都立林試の森公園>成就院(たこ薬師)>瀧泉寺(目黒不動尊)>五百羅漢寺>山手通り>目黒川>太鼓橋>行人坂>JR目黒駅

②郷土資料室散歩ルート;駒沢競技場>駒沢通り>柿の木坂>八雲1丁目>目黒中央図書館>呑川柿の木坂支流緑道>柿の木坂上・環七通り>駒沢陸橋>駒沢通り>学芸大駅北>東急東横線交差>十日森稲荷>祐天寺>古本屋>駒沢競技場


駒沢通り
駒沢通りを東に。東京医療センター前交差点を越える。東京医療センターって、昔の「国立小児病院」。仕事で伺ったなあ、など昔を思う。交差点を越えると、駒沢通りを離れ南に下る。

衾(ふすま)町公園
八雲5丁目。落ち着いた住宅街。立派な邸宅が並ぶ。衾(ふすま)町公園。江戸時代はこのあたり、現在の環七通りの西南あたり一帯は衾(ふすま)村、と呼ばれていた。衾の地名の由来は、村の地形が衾=寝るときにかけた衣、に似ていたから、とか、このあたりは官牧(政府の牧場)や私牧が多く、その餌である衾=小麦をひいたときに残る皮、の産地であった、とか、例によっていろいろ。




呑川駒沢支流緑道
さらに下る。緑道に当たる。「呑川駒沢支流緑道」。川筋跡を地図でチェック。北に上った緑道は、駒沢公園の中を進み「東京医療センター」の北端に沿って北東方向に上っている。源流点は国道246号線の「真中交差点」の南にあった池、あたり、とか。
一方、南方向への「流れ」は、八雲学園の東を通り八雲2丁目で「呑川緑道」に合流する。これって呑川の本流跡。




呑川
昨年だったか、呑川を河口部近くの蒲田駅から歩いた。「池上通り」と交差>池上本門寺脇を進み>第二京浜を越え>東海道新幹線を越え>中原街道を越え>大岡山の東京工業大学脇に。ここで開渠は終わり暗渠となる。
先回は、そこから北に、東工大構内を分断する緑道を少々歩いた。が、川筋がここまで、つまりは八雲あたりまで続いているとは知らなかった。東工大から先の流路をチェック;大岡山>東横線・都立大駅西>「目黒通り」を越え西に向きを変え>八雲学園の南を西に>深沢1丁目あたりから北西に>「駒沢通り」を越え>深沢3丁目で国道246号と交差>その後桜新町。そのあたりまで水路跡が見える。世田谷区新町の旧厚木街道下からの湧き水が源流とのこと。
「新編武蔵風土記稿巻之三十九荏原郡之一」より呑川のメモ;「水源は郡中世田谷領深澤村より出て、わつかなる流なれと、衾、石川、雪ヶ谷の三村を歴、道々橋村に至て千束溜井の餘水合して一流となり、池上堤方に至る、この村内にて市倉村の方へ分流あり、すへて水源の近き處より此邊に至まて、深澤流といへり、是より下蒲田の方に至て呑川と唱ふ、下蒲田村にて六郷用水の枝流合し、又一流となり、御園、女塚、新宿、北蒲田、下袋の村々を経て、北大森村にて海に入」、と。

金蔵院・氷川神社

散歩に戻る。八雲学園の東に金蔵院と氷川神社。金蔵院は氷川神社の別当寺。十一面観音や不動明王で知られる。氷川神社は衾村の鎮守様。癪(しゃく;腹痛)封じの霊験あらたか、とか。境内に枯れたアカガシの巨木の株。癪封じのご神木。皮をはぎ煎じ薬として使う人が引きもきらず。ために、枯れてしまった、と。また、おなじく「くずれ地蔵」が境内に。患部と同じ部分をなでると病が癒える。ということで、あまりに多くの人に触られ、お地蔵様が崩れてしまった、とも。
八雲の地名の由来は、この神社の祭神であるスサノオノミコト、から。八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したときに詠んだ「八雲立つ 出雲八重垣妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」から。

東光寺・常円寺
氷川神社の東に東光寺と常円寺。東光寺は貞治4年(1365年)、世田谷城主・吉良治家が夭逝した子息の菩提をとむらうため建立。吉良治家は奥州探題・吉良満家の子。上州から世田谷郷に移り覇をとなえる。豪徳寺の近くにあった世田谷城址がその主城址。貞治4年にはこのあたり衾・碑文谷も所領に加えた。このお寺、出城の役割ももっていたようだ。
隣に常円寺。本堂前の大イチョウは区内有数の巨木として知られる。常円寺の東は坂道。天神坂と呼ばれている。

北野神社
坂の東に北野神社、つまりは、天神様=菅原道真公がまつられているから。坂の上は都立大学の跡地。先日の散歩のとき、坂の上の八雲中央図書館に訪れた。あのときの道筋の先は、こうなっていたんだ、と、つながった「襷」がつくる風景を思い描く。

呑川柿ノ木坂支流緑道

北野神社を東に進む。再び緑道。「呑川柿ノ木坂支流緑道」。駒沢通りまで北にのぼり、そこからは北西に進み「東京医療センター」の北にある東根公園の北あたりまで水路跡が見て取れる。そのあたりで「呑川駒沢支流緑道」と合流。源流点は国道246合線の上馬交差点南、世田谷・目黒区境あたりの、よう。
ちなみに、呑川には、もうひとつ支流がある。九品仏川がそれ。九品仏で名高い浄真寺を取り巻く湿地の水が集まって、世田谷との区境を東流し、大井町線緑が丘駅南側で呑川に注いでいる。ここは昨年散歩済み。

先 回の散歩のとき八雲中央図書館を訪れたとメモした。中央図書館に行けば郷土資料があろうか、と思った次第。が、そこにはなく、東横線・祐天寺近くの五本木に郷土資料館がある、という。で、中央図書館から東に進み、「呑川柿ノ木坂支流緑道」を駒沢通りまで上る。環七・駒沢陸橋を越え、駒沢通りを東に進む。東横線と交差したあたりで駒沢通りをそれて北に折れ、五本木の目黒区守屋教育会館内にある郷土歴史資料室を訪れた。

目黒通り・柿の木坂
が、今回は、北に上ることなく、すぐ南を走る「目黒通り」に進む。環七との交差手前は「柿の木坂」。東横線と目黒通りが交差するあたりから結構な坂となる。名前の由来は、坂に大きな柿の木があった、から、というのが妥当なところか。例によってあれこれ説がある。この環七・柿の木坂陸橋あたりは複雑な地形。カシミール3Dで作成した地形図を見ると、環七は尾根道を進んでいる。呑川のふたつの支流は明らかに谷地を進んでいる。

すずめのお宿緑地公園

環 七・柿の木坂陸橋を越える。環七から東に目黒通りは台地を下る。ダイエー碑文谷店の手前を南に下り「すずめのお宿緑地公園」を目指す。目黒は昔、筍(タケノコ)の産地で有名。ということは竹林が多くあった、ということ。この緑地公園も今に残る数少ない竹林のひとつ。所有者の角田セイさんが国に寄贈。後に区の緑地公園となる。
昭和の初期まで、この竹林には数千羽のすずめが生息していたのが、名前の由来。竹林の一隅には古民家。衾村の旧家・栗山家の母屋を移転したもの。江戸時代半ばの姿が復元されている。




碑文谷八幡
緑地公園の隣に「碑文谷八幡」さま。碑文谷の鎮守さま。創建は鎌倉とも室町とも。境内に「碑文石」。碑文、つまりは、大日如来とか勢至菩薩、観音菩薩を表す梵字(サンスクリット文字)が刻まれた石がある。これが碑文谷という地名の由来、とも。鎌倉か戦国時代の板碑の一種と言われている。
碑文谷って、なかなか渋い地名。地名の由来が表すように、目黒区内での古い歴史をもつ地域。江戸時代は目黒六カ村、つまりは、上目黒村・中目黒村・下目黒村・三田村・碑文谷村・衾村のひとつ。隣の衾村と合併した明治には碑衾村と呼ばれていた。
郷土資料室でもらった資料の昭和7年の碑文谷八幡あたりの写真を見ると、一面の畑地、そして民家が点在する。農村地帯であったこのあたりは、大正12年の関東大震災で家を失った人がこの地に移りすみ、また大正12年の目蒲線の開通、昭和2年の東横線の開通などにより、次第に宅地となった。とはいうものの、昭和7年の写真を見る限りでは、まだまだ牧歌的風景が広がっている。




立会川緑道
碑文谷八幡の参道を東に。境内を出たところに緑道が。「立会川緑道」。緑道を進む前に、少し寄り道。ちょっと南に高木神社。小さな社。江戸時代には「第六天」と。高木神社となったのは明治になってから。立会川緑道に戻る。
この立会川も前々から気になっていた川。もちろん、今は川跡、ではある。源流は碑文谷公園の碑文谷池と清水公園の清水池。この湧水を集めた池からの細流が、碑文谷八幡あたりから区を東に進み、目蒲線・西小山駅付近に。そこから「立会道路」が中原街道と交差するところまで南東に下る。これって、いかにも川跡って感じ。
昭和大学病院あたりで中原街道を交差した川筋は東急大井町線・荏原駅あたりを越えて東に進む。第二京浜を越え、横須賀線・西大井駅に。そこから北東にのぼり大井町駅に。東海道線を越えた川筋は線路に沿って南にくだる。しばらく進むと、開渠になっている、ように地図では見える。近いうちに一度歩いてみよう。

円融寺

散歩に戻る。立会川緑道を東に少し進むと少し北に円融寺。まことに立派なお寺さん。平安初期というから9世紀の中頃、天台宗の高僧・慈覚大師がこの地にお寺を建てる。当時は法服寺と呼ばれた。その後13世紀の後半に日源上人によって日蓮宗に改宗。法華寺となる。
世田谷城主吉良氏の庇護も受け大寺院に。が、日蓮宗以外の人からの供物を受けない、施しもしない、といった「不受不施」の教義のため、徳川幕府と対立。弾圧を受け元禄11年(1698年)に取り潰しにあう。再び天台宗の寺となり、名前も円融寺、と。境内には室町初期の建立といわれる釈迦堂が。品がいい。国の重要文化財。大いに納得。久しぶりに美しい建物を見た。また、山門の黒仁王さまも、江戸時代、「碑文谷の黒仁王」として多くの参詣者を集めた、と。

正泉寺
円融寺を離れ、少し東に。正泉寺。浄土宗のお寺さん。戦国時代に千葉に建てられたのがこのお寺のはじまり。その後、移転を繰り返し、明治になり港区の三田からこの地に移る。式亭三馬や羽倉簡堂のお墓が。式亭三馬は江戸の戯作者。「浮世風呂」で名高い。羽倉簡堂は江戸後期の儒学者。天保の改革を推進した水野忠邦に重用される。

法界塚と鬼子母神堂
正泉寺を出て、東に進む。少し大きな通りを北に進む。不規則な5差路。そのうちひとつは弧を描いて進む。交差点の少し北、平和通商店街の端に法界塚と鬼子母神堂。昔は樹木生い茂る一帯だったのだろうが、今は、道路脇に少々寂しげに佇む。法界塚は経塚なのか古墳跡なのか定かならず。少し戻り、弧を描く道を北に進む。いかにも川筋といった雰囲気。先に清水池公園がある。ということは、この道は立会川の支流・清水池からの川筋ではなかろうか、と。

清水池公園
清水池公園。1699平方メートルの池。区内唯一の釣堀がある公園ということで、多くの釣り人で賑わっている。目黒区では、目黒台と呼ばれる平坦な台地を浅く刻む支谷の谷頭部(谷の先端)には湧水点が多い。清水池もそのひとつ。立会川の源流でもあり、今から進む羅漢寺川の源流でもある。

品川用水
道を東に。目黒通りから武蔵小山駅方面に向かう補助26号線にあたる。このあたりには「品川用水」も交差している。品川用水は、武蔵野市で玉川上水を分流し、品川領戸越あたりまで流れている。そのうち流路をチェックして歩いてみよう。全長7里半というから、結構大変そうではある。

羅漢寺川緑道
補助26号線を越えたあたりから「羅漢寺川緑道」がはじまる。羅漢寺川は先ほどメモしたように、清水池からはじまり目黒川に合流する目黒川水系の支流のひとつ。羅漢寺川の下る道筋は人ひとり歩けるか、どうかといった細路。

林試の森

少し進むと道の南に「林試の森」。目黒と品川にまたがる都立公園。もとは国の林業試験場。時間があれば公園内を歩きたいのだが、如何せん時間切れ。日暮れが近い。

目黒不動商店街
緑道を進む。道の北には昔、「目黒競馬場」があった、とか。緑道が「林試の森」から離れるあたり、南は「石古坂」、北には「三折坂」。南に進み石古坂の手前を東に進む。目黒不動商店街。




蛸薬師
少し進んだところに成就院。通称「蛸薬師」。慈覚大師の創建。本尊は薬師如来。蓮華座の三匹の蛸が支えている。ために、「蛸薬師」と。何故ゆえに蛸?慈覚大師が中国から帰朝の途中、嵐を鎮めるべく薬師を海中に。が、その薬師が蛸に連れられて漂着した、とか。境内には二代将軍・秀忠の側室・お静の方に由来する「お静地蔵」が。お静の方はあの名君保科正之の母。信州高遠藩3万石の藩主からはじまり、会津23万石の藩主までに。わが子の栄達を祈ったお静の方が大願成就のお礼に奉納したのが「お静地蔵」。保科正之を主人公にした中村彰彦さんの『名君の碑』、また読み返してみようか、な。

五百羅漢寺

さてこの先は。目黒不動は先回の散歩で訪れた。で、今回の目的地である五百羅漢寺に。成就院前の道を北に。目黒不動の東端といったところに五百羅漢寺。予想に大きく反して近代的ビル、といった有様。もっともすでに開館時間は過ぎており、外から眺めるのみ。
このお寺、もとは本所五つ目、というから、現在の江東区大島3丁目にあったもの。江戸・元禄時代、松雲禅師が開山。もとは仏師。出家後、大分耶馬溪の五百羅漢に触発され羅漢像の制作に没頭。10年の歳月をかけ530余体の羅漢像を作り上げる。幕府の庇護もあり、本所に寺が創建。が、明治に入って寺は荒廃。明治41年この地に移る。こんど、開いている時間に、訪れるべし。

海福寺

五百羅漢寺の隣に海福寺。開山は隠元禅師。「インゲン豆」にその名を留める。もとは、深川に。が、明治43年水禍に遭い、この地に移る。山門が面白い。四脚の門。境内に永代橋の大惨事の供養等。文化4年(1807年)、深川・富岡八幡の祭礼に押し寄せた群衆の重みに耐えかね、永代橋が落ちる。多くの人が亡くなった、と、どこかでメモしたように思う。
インゲン豆は将軍・家綱の招きで来日した宇治・万福寺の開祖、隠元禅師が日本にもたらす。インゲン豆はもともとは中南米が原産地。インディオが食べていたものだが、大航海時代にトウモロコシやカボチャなどとおなじく欧州に伝わり、その後アジアにも広まった、もの。

蟠竜寺(ばんりゅうじ)

東に進み山手通り。少し北に進むと通りから少々奥まったところに蟠竜寺(ばんりゅうじ)。山手七福神のひとつ・「岩屋の弁財天」がまつられている。また、境内には「おしろい地蔵」が。江戸の頃、お地蔵さんの顔におしろいを塗り、残りを自分の顔につけると美人になると評判をとる。現在は戦火に見舞われ少々崩れてまってはいる。


JR目黒駅
今回の最大の目的であった五百羅漢は時間切れで見ることはできなかった。次回ということにして、山手通りを進み、目黒通りを渡り、太鼓橋、行人坂、と、先回の散歩と同じ道を戻り、JR目黒駅に。一路帰路につく。
今になってきになることが出てきた。羅漢寺川という川。五百羅漢寺がこの地に移ってきたのは明治。ということは、それ以前はどんな名前の川だったのだろう。五百羅漢寺がこの地に移る前に。それっぽい名前の川があるとも思えない。そのうちに調べておこう。
参考資料;『みどりの散歩道 コースガイド』


蛇崩川緑道を歩く

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休みの日と言うに、代官山でお仕事。どうせのことならと、先回の烏山川緑道のとき目にした蛇崩川緑道に沿って目黒川まで、そして代官山まで歩くことにした。
それにしても「蛇崩」って結構オドロオドロシイ名前。"大蛇が暴れ土地を崩した"、とか、"蛇行する川が大雨時に逆巻く激流となり、それが大暴れする蛇に見えたら"とか、"このあたりの土地がよく崩れたので砂崩川と呼ばれ、それがいつしか蛇崩川と呼ばれるようになった"などと、これも例によって諸説入り乱れ る。
「じゃくずれ」の意味は広辞苑によれば「蛇崩れ」と表記され、"崖などの崩れること。また、その崩れた所。山くずれ。" とある。であるとすれば、蛇とは全く関係なく、ただ単にたびたび崖崩れがあったから蛇崩と呼ばれるようになった、というのが自然ではなかろうか。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

いずれにしろ、三宿病院近くの蛇崩交差点のあたりは昔、急斜面の崖があったのだろう。蛇崩川の水源は馬事公苑あたり、と。昔は溜池もあった、とか。地図でみると弦巻あたりまで水路跡っぽい筋が見える。が、緑道の最上流地点は上馬5丁目の小泉公園あたりのよう。その近く、世田谷1丁目に世田谷代官屋敷がある。 先回の世田谷散歩のおり、この井伊家の代官大場家の住まい跡に行くことができなかった。ついでのことなので本日の散歩は代官屋敷からスタートすることにした。(火曜日, 12月 20, 2005のブログを修正)



本日のルート:世田谷線上町>世田谷代官屋敷・郷土資料館>小泉公園>蛇崩川緑道>環七駒留陸橋>246号線と交差>三軒茶屋病院>三軒茶屋1丁目>明薬大 日大前>下馬4丁目・駒留中学校>駒繫神社>蛇崩下橋>蛇崩川緑道を離れ(蛇崩交差点>野沢通り>東山中学)>蛇崩川緑道に戻る>東急東横線と交差>目黒川と合流

世田谷線上町・代官屋敷
下高井戸から世田谷線に乗り世田谷線上町下車。世田谷通りを越え世田谷1丁目、ボロ市通りの代官屋敷に。彦根藩世田谷領の代官であった大場氏の屋敷。都指定史跡。世田谷村20ケ村を明治4年の廃藩置県のときまで治めた。
江戸の地で代官屋敷、というのも奇異な感じがするが、当時の世田谷は「江戸朱引き外」、つまりは江戸の外。大名領があってもおかしくはない。邸内にはお裁きの白州跡も。敷地内にある郷土資料館をざっとながめ、蛇崩川源流地点近くに進む。

蛇崩川緑道

世田谷駅前交差点からの道筋・世田谷中央病院の角を右折。弦巻1丁目交差点を左折し、弦巻小学校交差点を右折。駒沢公園通り。弦巻1丁目と上馬5丁目の境の道を南に下る。なんとなく南方向の地形が凹んでいる。川筋・緑道は最も低いあたりだろう、とあたりをつけ進む。
下りきったあたりに、いかにも川筋を埋めた様子の細い緑道。小泉公園は右折か左折かよくわからない。とりあえず左折。民家の間の狭い遊歩道をちょっと歩くと、少し大きな通りに。向天神橋方面に川筋を埋めたような歩道が車道に沿って続く。この通りは弦巻通り、であった。
地図をみれば、すこし先の弦巻中学のあたりに水路跡が見える。蛇崩川って、このあたりのいくつかの湧水を集めた川であったのだろう。このまま進むと馬事公園に行ってしまいそう。代官山の約束の時間もあり、引き返すことに。蛇崩川緑川がはじまる小泉公園のあたりに戻る。
地名、「弦巻」は「水流巻(つるまき)」。水流が渦巻くという意味。水源地・湧水地・湿地を表す。昔、馬事公苑のあたりに溜池があり、それが蛇崩川の水源となっていたわけで、弦巻もその当時の地形の名残の地名なのだろう。

環七から246号線に
弦巻通りに面した小泉公園を越え、環状七号線を駒留陸橋で交差。緑道は北東に進み、三軒茶屋二丁目あたりで南東に振れる。西太子堂から下る道・世田谷警察署横を進み246号線と交差。

駒繫神社
三軒茶屋病院、三軒茶屋1丁目、明薬大日大前、下馬4丁目・駒留中学校と進み駒繫神社に。祭神は大物主神。緑道沿いにかかっている朱の橋が目をひく。往古、このあたりは鎌倉と地方を結ぶ鎌倉街道が通っており、源義家が奥州に向かう途中、この神社で祈願参拝をしたとも。その後、源頼朝が奥州征伐のためこの地を訪れたとき、義家参拝にならい、頼朝が自分の馬を繋ぎ参拝をした、というのが神社名の由来。
駒繋神社のある下馬や上馬の地名の由来:頼朝参詣の折り、馬の足が沢にとられたとか、沢の深みにはまってなくなってしまったとか、いずれにしても、馬を曳いていけとの命。で、この地が馬引沢村と。そして馬引沢村が後に上・中・下に分かれ、江戸中期には「上馬引沢村」「野沢村」「下馬引沢村」に。その後、昭和7年(1932年)の世田谷区成立の際、「引沢」を省略して「下馬」「上馬」という地名になったという。
とはいうものの、馬引沢村の名は全国的各地にあるよう。足場の悪い湿地帯などで、乗馬して通れないところなどで見られる名前であり、頼朝の話も少々眉唾ではあるが、言い伝えは所詮言い伝え、ということで納得。

蛇崩交差点
先に進む。246号線三宿交差点から世田谷公園にそってくだる道筋と交差。緑道は北東に振れる。三宿病院入口の近く・蛇崩交差点近くで蛇崩下橋を渡る。三宿は「水宿」から。水の宿る地であった、から。幕末の頃まではこの近くに池もあった、という。烏山川・北沢川の合流点から目黒川大橋にかけて一帯は泥沼地であったわけで、このあたりには池尻、池ノ上といった地形の名残をとどめる地名も多い。




目黒川と合流
上目黒4丁目と上目黒5丁目の境を東西に進む。東急東横線と交差。遊歩道消える、水路に蓋をしたような自転車置き場を歩く。山手通りを越え、目黒川と合流・合流地点だけちょっと開渠となっていた。蛇崩川との散歩もこれでおしまい。

戦前は陸軍の施設
それにしても本日散歩したところはその昔、というか明治から終戦までほとんどが陸軍の施設となっている。もともと東京の都心からはじまった兵営は広い土地を求め郊外へと移動する。で、注目されたのはこの地域一帯。農地・雑木林が広がり、しかも都心に近く交通の便がいい。
ということで、まずは官有地であった駒場東大前近辺の駒場野を橋頭堡として、池尻・三宿・太子堂・下馬・三軒茶屋近辺に兵営・練兵場・陸軍病院といった軍事施設が展開されるようになる。
池尻・駒場に騎兵第一連隊と近衛輜重兵大隊。続いて三宿・太子堂・下馬・池尻の一帯に野砲第一聯隊・近衛野砲連隊・駒沢練兵場,野戦重砲兵第八連隊・衛戌病院。
駒沢練兵場の広がりは南北は国土地理院跡から現在の三宿病院、東西は東山中学校から池尻小学校までの広大なものであった。其の他、下馬に砲兵聯隊,桜丘に自動車学校,用賀に陸軍衛生材料廠などが設置された。 第二次大戦のころは軍関係の施設は15(部隊8,学校2,病院2,工場・材料廠3)にまで増加した、という。

軍用地は戦後は学校や公的機関の敷地となる

終戦後、旧軍施設跡地についてメモしておく。池尻・大橋地区の兵営跡地は筑波大学付属高校等の学校や住宅地。太子堂・下馬・三軒茶屋の野砲第一連隊の跡地には,昭和女子大学その他の学校・都営住宅。駒沢練兵場跡は公園や防衛庁技術研究所・自衛隊中央病院,学校。
池尻の糧秣廠跡には食糧学校。太子堂・三宿の陸軍衛戌病院は国立小児病院。桜丘の陸軍の自動車学校-機甲整備学校敷地跡は東京農業大学。
用賀の衛生材料廠の跡地は自衛隊衛生補給所・衛生試験所・馬事公苑になっている。つまりは、軍施設の跡地はおおむね学校、病院、公務員住宅、政府関係施設などとなっている。

蛇崩交差点再訪

後日談。駒沢練兵場の東端、現在の東山中学の前の急な坂道を歩いた。蛇崩交差点あたりに、本当に崖が崩れるような急峻な坂道があるのかどうか、地形を確認するために訪れた。で、これが結構な坂道。息が切れる。蛇崩の由来は充分に納得。
それはそれとして、崖下を流れる蛇崩川をイメージしながら野沢通りを山手通り方面に向って歩いていた。なにげに入り込んだところに東山中学が。で、件の坂道の途中に馬頭観音。由緒書によれば;この地にあった近衛歩兵連隊5000名と軍馬1300頭がこの坂道をつかって急坂登坂訓練。で、力尽きてなくなった軍馬2頭をねんごろに弔うべくこの観音さまをおまつりしたとか。

ちなみに「駒沢」の地名の由来。明治に上馬引沢村、下馬引沢村、野沢村、弦巻村、世田ヶ谷新町村、深沢村を統合し新しい村をつくる際に適当な村名が見つからず、6つの村の名の間をとって「馬」=「駒」+「沢」=駒沢村と。大正昭和と一時消滅。昭和42年(1967)になって上馬から2~3丁目、新町から3~4丁目、深沢から1・5丁目をもらい再び駒沢として復活した、という。



休日、代官山で仕事があった。仕事といっても、「ご苦労さん」、って顔を見せるだけ。であれば、ということで、駒場東大前から代官山まで歩き、顔見世の後は、再び代官山から目黒の国立自然教育園に。しばし紅葉見物の後は時間次第で目黒不動方面に足を伸ばすことにした。(月曜日, 12月 19,2005のブログを修正)



本日のルート;駒場東大前駅>淡島通り交差>池尻大橋・246号線>目黒川>中目黒駅>旧山手通り・鎗ケ崎交差点>目黒川に戻る>茶屋坂>恵比寿ガーデンプレース>白金・庭園美術館>行人坂>大円寺>太鼓橋>大鳥神社>目黒不動>目黒駅

井の頭線駒場東大前
井の頭線駒場東大前下車。駅前の古本屋で『江戸東京学事始め;小木新造;筑摩書房』購入。散歩を始めて、地理・地形の本を結構買うようになった。
駒場の歴史は江戸時代、この地、駒場野に薬草を栽培していた御用屋敷から始まる。八代将軍吉宗が鷹狩を行って以来将軍の鷹狩場に。ちなみに鷹は必ず獲れるように演出がされており、その役職は綱差(つなさし)として代々受け継がれた、とか。幕末に徳川幕府はフランス人の軍事教官の建白に基づき、この地を軍事演習場とする計画を出した。が、周辺農民の起こした駒場野一揆により、実現せず。明治維新を迎え、駒場農学校が現在の東大駒場キャンパスの地に開校。鷹狩場がそのまま学校の用地となっている。

淡島通り

駅から淡島通りへとゆったりとした坂を登る。淡島通りと交差。先日会社のスタッフが結婚式を挙げた駒場エミナース前に。横の道を南に。都立芸術高校、駒場東邦学園、第三機動隊官舎に沿って歩く。
このあたりは昔、近衛輜重兵大隊があったところ。その西・筑波大学付属中学・高校のあたりは騎兵第一連隊、またその北には陸軍の練兵場広がっていた。ちなみに、目黒区の駒場、大橋、東山、世田谷区の池尻、三宿、下馬といったあたりは陸軍の施設が数多くあった。これらの地域に学校、病院、団地、自衛隊施設が集中しているのは軍用地を転用しているわけだ。





国道246号線・目黒川
国道246号線に向って結構下る。下ったあたりが東邦大学大橋病院。このあたり10m以上の標高差があるだろうか。246号線を渡って目黒川に。烏山川と北沢川が三宿池尻あたりで合流したものが目黒川。都の清流事 業にのっとり、落合下水処理場で高度処理された水が流れ込む。






西郷山公園
川に沿った遊歩道を歩く。目黒橋で山手通りと交差。西郷山公園・菅刈公園下を進む。菅刈とは、往時このあたり、目黒区から世田谷区にかけて菅刈庄と呼ばれた荘園であったため。

駒沢通り
遊歩道に沿って西郷山下、千歳橋、宿山橋を越え、東横線と交差。往時、目切坂から宿山橋をとおり東西に伸びる旧鎌倉街道が続いていた、とか。日の出橋を過ぎ駒沢通りに。駒沢通りを恵比寿方面に少しのぼる。

鎗ケ崎(やりがさき)交差点

旧山手通りとの合流地点、鎗ケ崎(やりがさき)交差点手前で少々のお仕事。しばしの間歓談。再び散歩に出かける。時間は午後3時過ぎ。どこまで行けるだろうか。

目黒川・田楽橋

目黒川沿いの遊歩道に戻り田楽橋。昔の舟入場。海運物資の集積地だったのだろう。中里橋を左折。清掃工場と金属材料研究施設、防衛庁官舎の間を登る。




茶屋坂
茶屋坂、新茶屋坂。目黒区教育委員会の「茶屋坂と爺々が茶屋」の由来書;茶屋坂は江戸時代に, 江戸から目黒に入る道の一つ。大きな松の生えた芝原の中をくねくねと下るつづら折りの坂で 富士の眺めが良いところであった。
この坂上に百姓彦四郎が開いた茶屋があって, 3代将軍家光や8代将軍吉宗が鷹狩りに来た都度立ち寄って休んだ。家光は彦四郎の人柄を愛し,「爺,爺」と話しかけたので, 「爺々が茶屋」と呼ばれ広重の絵にも見えている。以来将軍が目黒筋へお成りのときは立ち寄って銀1枚を与えるのが例であったという。また10代将軍家治が立ち寄った時には団子と田楽を作って差し上げたりしている。こんなことからこの「爺々が茶屋」を舞台に「目黒のさんま」の話が生れたのではないだろうか、と。


国立科学博物館付属自然教育園
茶屋坂脇の紅葉が結構美しい。坂を登りきり、少々雑然とした民家のあたりを通り三田橋でJRを越える。恵比寿ガーデンプレースに。ウエスティンホテル東京と三越の間を通り、社会教育館交差点、恵比寿3丁目交差点に。右折し白金6丁目から外苑西通りを上り、松岡美術館を越えたあたりの信号を右折。国立科学博物館付属自然教育園に沿って法連寺、台北駐日経済文化代表処前を進み、目黒通りに。右折し国立科学博物館付属自然教育園の入口に。4時を過ぎており閉館。幸運にも隣の庭園美術館は午後6時までオープン。この美術館、昭和3年に建てられた旧朝香宮邸。紅葉結構美しい。ゆったりとうす暗がりの中散歩。思わぬプレゼント、って感じでありました。
(後日自然教育園を訪れたことがある。江戸期は高松藩下屋敷。明治期には陸海軍の火薬庫。大正期は白金御料地。湧水や極相林など、豊かな自然が残されていた)

行人坂

時刻は5時を過ぎている。あたりは真っ暗。とはいうものの、目黒近辺の「見所」は歩き終えておこう、ということで、行人坂に向う。目黒駅を越え、JRの線路を跨ぎ、すぐ左折。行人坂へ。坂を下る手前に富士見茶屋跡の由来書。富士山の眺めを楽しめる茶屋があった、とか。「江戸名所図会」にも、富士が見えるさま「佳景なり」と。行人坂に。坂の途中にある大円寺前を太鼓橋まで下る急坂。「江戸名所」に「行人坂とは白金台町より西の方目黒に下る坂をいう。寛永のころ、羽州(出羽)湯殿山の行者(行人)ここに大日如来堂を建てたる所なり、とある。
明和9年(1772年)、大円寺から出た火が折からの強風にあおられ、白金から神田、湯島、下谷、浅草まで江戸八百八町のうち六百二十八町を焼き尽くした。特に江戸城のやぐらも延焼したので、以降80年近く大円寺は再建を許されなかった、とか。この火事は振袖火事、芝・車町火事と並んで江戸三代火事のひとつ。行人坂火事と呼ばれている。
大円寺の石仏群はこの大火の供養のために、五十年という歳月をかけてつくられた。ちなみに、大円寺は八百屋お七の恋い焦がれた吉三郎が僧となって、処刑されたお七の菩提を弔った、と言われるお寺。吉三郎は行人坂を改修、さらには太鼓橋をかけた、とも。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


太鼓橋

で、坂を下りきると目黒川にかかるのが、その太鼓橋。広重の江戸名所百景「目黒太鼓橋夕日の岡」。一面の雪景色。傘をさし橋を渡る人の影。江戸の昔に思いを馳せる。ちなみにこの橋、大正時代の豪雨で流されてしまった、とか。

権之助坂

太鼓橋を渡り右折。目黒通りを権之助坂から下りてくる目黒新橋方面に。権之助坂の由来は例によって諸説あり。総じて、菅沼権之助という名主の威徳を偲んで名づけたとか。

大鳥神社

目黒通りに。左折し山手通り大鳥陸橋・大鳥神社の交差点。渡りきったところに大鳥神社。目黒最古の神社。「日本武尊の御霊が当地に白鳥としてあらわれ給い、鳥明神として祀る。」とあり、大同元年(806年)社殿が造営された、との社伝あり。

目黒不動

真っ暗の中、もうひと頑張り。最後の目的地、目黒不動に向う。大鳥神社に沿って目黒通りのちょっとした坂を登りきったあたりを左折。住宅街に入る。角には目黒寄生虫館が。進む。森というか林にそって下ると滝泉寺・目黒不動。本尊は不動明王。往古より不動信仰の地として多くの人々の信仰を得る。
開山は808年天台座主慈覚大師円仁。不動明王の夢のお告げにより建立とのこと。徳川家光の信仰篤く、諸堂宇を再興し、山岳寺院配置の伽藍が完成。戦災により大半が焼失したが、戦後は仁王門、本堂などが再建され、現在にいたっている、と。
目黒区教育委員会の解説文には;境内は台地の突端にあり、水が湧き老樹が茂り、独鈷(とっこ)の滝や庭の池が美しく、庶民の信仰といこいの場所でした、と。 境内に独鈷の瀧(とっこのたき)。江戸名所図会では次のように描かれている;『当山の垢離場(こりば)なり。往古承和十四年〔八四七〕当寺開山慈覚大師入唐帰朝の後、関東へ下りたまひし頃、この地に至り独鈷杵(とっこしょ)をもてこの地を穿ち得たまふとぞ。つねに霊泉滑々として漲(みなぎ)り落つ。炎天旱魃(かんばつ)といへども涸るることなく、末は目黒一村の水田に引き用ゆるといへり、と。台地から湧き出る水は、何処で見ても神秘を感じる。本日の予定はこれで終了。山手通りから目黒通りの権之助坂を登り目黒駅に。 

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