世田谷区の最近のブログ記事

昨年9月4日の仙川散歩で偶然谷戸川に出合った。仙川が野川に合流する手前、野川と逆方向に伸びる細長い水路。これは一体何だろう。と、何気なく水路を辿った。六郷用水というか丸子川。岡本民家園とか岡本静嘉堂緑地といった落ち着いた景観に惹かれる歩を進める。岡本静嘉堂緑地の端で丸子川に合流する川がある。それが谷戸川だった。川筋を源流に向って北上した。砧公園手前で東名高速に潜り込む。丁度日没。ということで、今回改めて源流・水源から下ることにした。(月曜日, 1月 16, 2006のブログを修正)



本日のルート;小田急線・祖師ヶ谷大蔵駅>笠森公園>荒玉水道道路>中央卸売市場・世田谷市場>砧公園>仙川>岡本の台地>静嘉堂文庫美術館>小阪家の別邸>谷戸川


小田急線・祖師ヶ谷大蔵駅
地図をチェック。小田急線・祖師ヶ谷大蔵駅近くに僅かな水路が見て取れる。とりあえず祖師ヶ谷大蔵に行き、後は成り行きという、いつものスタイルで散歩を始める。駅前の道案内をチェック。山野小学校脇から水路が続いている。駅前の城山通りを環八方面に歩く。学校脇に水路を見つける。一安心。

笠森公園
ふと通りの北を見ると公園がある。いかにも水路跡といった雰囲気。暗渠のようだが、とりあえず先を辿る。北東に進みすぐに西方向にターン。荒玉水道道路と交差。右手に笠森公園。かさもり=瘡守;ほうそう(皮膚病)の守り神、から。公園に谷戸川の説明があった。このあたりの湧水点から谷戸川が下っていった、と。案内板には北東に一直線に延びる荒玉水道道路と、それに沿って点線が描かれている。メモをまとめる段階で、その点線が源流点への案内であることがわかった。笠森公園から荒玉水道道路に沿って進み環八と交差。桜ヶ丘5丁目、船橋2丁目と進み再び環八を越え千歳台3丁目・成城警察のあたり、そこが源流点、のようである。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


荒玉水道道路
荒玉水道道路。前々から気になっていた。自宅のある杉並和泉の近く、井の頭線の永福町と西永福の間から一直線で多摩川まで延びている。一体何だ?ということで調べてみた。荒玉水道とは大正から昭和の中頃にかけて、多摩川の水を砧(世田谷区)で取水し、野方(中野区)と大谷口(板橋区)に送水するのに使われた地下水道管のこと。荒=荒川、玉=多摩川、ということで、多摩川・砧からだけでなく、荒川からも水を引く計画があったようだ。が、結局荒川まで水道管は延びることはなく板橋の大谷口で計画中止となっている。
杉並・和泉の我が家はこの上水のお世話になっている、よう。思い込みというか、思い違いがあった。てっきり北の和泉方面から砧方面に送水されている、と思っていた。理由は単に北のほうが標高が高い、ということから。砧というか多摩川に水を送って何をしようとするのか、やはり下水管なのかな、などと勝手に思い込んでいた。上水道は水圧で送水。高低は関係ない。ちなみに下水道は勾配を利用して流す、とか。

中央卸売市場・世田谷市場

山野小学校脇に戻り水路脇を歩きはじめる。水路脇、とはいいながら道は川の脇にあったり、なかったり。砧4丁目あたりで荒玉水道と交差。一瞬水路途切れる。が、すぐ開渠に。大蔵1丁目で直角ターン。暗渠に。進行方向左手・小高い丘に奇妙に派手な建物。中央卸売市場・世田谷市場だった。なんという名前か忘れたが近くの神社などに足を延ばし再び川筋に。川筋は砧公園に流れ込む。


砧公園
公園内では一時地下を走る。しばらくして川筋が現れる。水量が増えている。湧水を取り込んでいる。自然の湧水とは思えない。多分人工の湧水だろう。吊橋もある。渓谷風のつくりだ。砧公園って、世田谷美術館あたりまでしか知らなかった。こんなにのんびりした緑地が広がっているとは想像もできなかった。いい公園だ。




東名高速下に潜る
川筋に沿って進み、東名高速下にもぐり込む。迂回が必要。東名高速に沿って進み、公園を出る。目の前に区立総合運動場。 案内板を見る。陸上競技場とかテニス場の先に林というか森、そして親水公園。運動場の外周に沿って歩き総合運動場の西端に。崖道。結構な高低差。台地の下に川。仙川だ。ということは、この崖は国分寺崖線、そして崖下の親水公園って、先般の仙川散歩の時に出会った親水公園。仙川散歩のとき、親水公園上の崖の向こうに何があるのか、どうなっているのか、砧公園をそのうち歩いてみたい、と思っていた、将にその場を偶然歩いていた。行き当たりばったりの散歩の妙味か。

岡本の台地
崖道を上ったり下りたり、自然豊かな崖道を堪能し総合運動公園入口に戻る。公園橋を渡り東名高速を越え岡本に。台地の尾根道。谷に下り川筋を、とは思ったが、台地からの眺め、特に仙川方面に下る急峻な坂道からの眺め、その魅力から離れがたく、台地上の尾根道を歩く。
尾根道とはいっても廻りは高級住宅地。西に広がる眺めは素晴らしい。夕暮れ時にまた訪れたいものである。

静嘉堂文庫美術館
夕焼け、独り占めの世界を岡本3丁目を進む。前方に緑。岡本民家園とか岡本静嘉堂のある緑地、というか森。静嘉堂文庫美術館裏手に当たる。静嘉堂文庫美術館は三菱財閥・岩崎家蒐集の古美術・古典籍の美術館。野趣豊かな坂道。途中に名前は忘れたが神社も。ここでも崖道のアップダウンを堪能し谷戸川が流れる大蔵通りに下りる。静嘉堂文庫美術館は残念ながら休館日。後日に楽しみを残す。

小阪家の別邸

大蔵通りが丸子川と交差する手前瀬田4丁目、左手に急峻な坂道とフェンスに囲まれた林。地形のうねりを肌で感じることが最大の興味・関心であるわが身としては、とりあえず登るしかないでしょう、ということで坂を登る。瀬田四丁目緑地との案内。民家風の建物。庭というか林を一回りして建物内に。小坂邸跡との案内。外務大臣など多くの政治家を輩出し たあの小阪家の別邸とか。邸内の展示物を見ていると、この近辺には政治家、財界人、そして政商っぽい人たちの別邸が数多くあった、よう。

谷戸川
邸内に上がり込み、少々休憩し大蔵通りに下り、谷戸川が丸子川に合流する地点を確認し谷戸川散歩は終了。後は一路、丸子川に沿った道、川沿いの家はすべて丸子川・六郷用水に架けたmy bridgeをもつ、そんな素敵なる家並みを下り246号線で右折。東急田園都市線・二子玉川駅に到着し本日の予定は終了。

谷戸川の「谷戸」の語義の整理;丘陵地が浸食されてできた谷間の低湿地・小川の源流域を示す環境のこと。こういった環境のことを谷戸とか谷津と呼ぶ。辞書で「やと」を引く。「やと」=「谷」>「やつ(谷)」を見ろ、と。「やつ」を見ると、「低湿地のこと。関東地方の地名に多い。やち、やと、とも言う」と。まとめると、「やと」、も、「やつ」も「谷」の一字で表し、「谷戸」「谷津」という漢字では表現しない。また、関東ローカルな地名であるよう。で、茨城、千葉は「谷津」が使われ、神奈川は「谷戸」を使う。東京は混在、ということだ。鎌倉では、亀ケ谷(やつ)と「谷」だけでの表示もあった、けど。実のところ、関係浅からぬ係累の名前に「谷津」がついている。なるほど、出身は茨城県でありました。納
得。

蛇崩川緑道を歩く

| コメント(2) | トラックバック(0)
休みの日と言うに、代官山でお仕事。どうせのことならと、先回の烏山川緑道のとき目にした蛇崩川緑道に沿って目黒川まで、そして代官山まで歩くことにした。
それにしても「蛇崩」って結構オドロオドロシイ名前。"大蛇が暴れ土地を崩した"、とか、"蛇行する川が大雨時に逆巻く激流となり、それが大暴れする蛇に見えたら"とか、"このあたりの土地がよく崩れたので砂崩川と呼ばれ、それがいつしか蛇崩川と呼ばれるようになった"などと、これも例によって諸説入り乱れ る。
「じゃくずれ」の意味は広辞苑によれば「蛇崩れ」と表記され、"崖などの崩れること。また、その崩れた所。山くずれ。" とある。であるとすれば、蛇とは全く関係なく、ただ単にたびたび崖崩れがあったから蛇崩と呼ばれるようになった、というのが自然ではなかろうか。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

いずれにしろ、三宿病院近くの蛇崩交差点のあたりは昔、急斜面の崖があったのだろう。蛇崩川の水源は馬事公苑あたり、と。昔は溜池もあった、とか。地図でみると弦巻あたりまで水路跡っぽい筋が見える。が、緑道の最上流地点は上馬5丁目の小泉公園あたりのよう。その近く、世田谷1丁目に世田谷代官屋敷がある。 先回の世田谷散歩のおり、この井伊家の代官大場家の住まい跡に行くことができなかった。ついでのことなので本日の散歩は代官屋敷からスタートすることにした。(火曜日, 12月 20, 2005のブログを修正)



本日のルート:世田谷線上町>世田谷代官屋敷・郷土資料館>小泉公園>蛇崩川緑道>環七駒留陸橋>246号線と交差>三軒茶屋病院>三軒茶屋1丁目>明薬大 日大前>下馬4丁目・駒留中学校>駒繫神社>蛇崩下橋>蛇崩川緑道を離れ(蛇崩交差点>野沢通り>東山中学)>蛇崩川緑道に戻る>東急東横線と交差>目黒川と合流

世田谷線上町・代官屋敷
下高井戸から世田谷線に乗り世田谷線上町下車。世田谷通りを越え世田谷1丁目、ボロ市通りの代官屋敷に。彦根藩世田谷領の代官であった大場氏の屋敷。都指定史跡。世田谷村20ケ村を明治4年の廃藩置県のときまで治めた。
江戸の地で代官屋敷、というのも奇異な感じがするが、当時の世田谷は「江戸朱引き外」、つまりは江戸の外。大名領があってもおかしくはない。邸内にはお裁きの白州跡も。敷地内にある郷土資料館をざっとながめ、蛇崩川源流地点近くに進む。

蛇崩川緑道

世田谷駅前交差点からの道筋・世田谷中央病院の角を右折。弦巻1丁目交差点を左折し、弦巻小学校交差点を右折。駒沢公園通り。弦巻1丁目と上馬5丁目の境の道を南に下る。なんとなく南方向の地形が凹んでいる。川筋・緑道は最も低いあたりだろう、とあたりをつけ進む。
下りきったあたりに、いかにも川筋を埋めた様子の細い緑道。小泉公園は右折か左折かよくわからない。とりあえず左折。民家の間の狭い遊歩道をちょっと歩くと、少し大きな通りに。向天神橋方面に川筋を埋めたような歩道が車道に沿って続く。この通りは弦巻通り、であった。
地図をみれば、すこし先の弦巻中学のあたりに水路跡が見える。蛇崩川って、このあたりのいくつかの湧水を集めた川であったのだろう。このまま進むと馬事公園に行ってしまいそう。代官山の約束の時間もあり、引き返すことに。蛇崩川緑川がはじまる小泉公園のあたりに戻る。
地名、「弦巻」は「水流巻(つるまき)」。水流が渦巻くという意味。水源地・湧水地・湿地を表す。昔、馬事公苑のあたりに溜池があり、それが蛇崩川の水源となっていたわけで、弦巻もその当時の地形の名残の地名なのだろう。

環七から246号線に
弦巻通りに面した小泉公園を越え、環状七号線を駒留陸橋で交差。緑道は北東に進み、三軒茶屋二丁目あたりで南東に振れる。西太子堂から下る道・世田谷警察署横を進み246号線と交差。

駒繫神社
三軒茶屋病院、三軒茶屋1丁目、明薬大日大前、下馬4丁目・駒留中学校と進み駒繫神社に。祭神は大物主神。緑道沿いにかかっている朱の橋が目をひく。往古、このあたりは鎌倉と地方を結ぶ鎌倉街道が通っており、源義家が奥州に向かう途中、この神社で祈願参拝をしたとも。その後、源頼朝が奥州征伐のためこの地を訪れたとき、義家参拝にならい、頼朝が自分の馬を繋ぎ参拝をした、というのが神社名の由来。
駒繋神社のある下馬や上馬の地名の由来:頼朝参詣の折り、馬の足が沢にとられたとか、沢の深みにはまってなくなってしまったとか、いずれにしても、馬を曳いていけとの命。で、この地が馬引沢村と。そして馬引沢村が後に上・中・下に分かれ、江戸中期には「上馬引沢村」「野沢村」「下馬引沢村」に。その後、昭和7年(1932年)の世田谷区成立の際、「引沢」を省略して「下馬」「上馬」という地名になったという。
とはいうものの、馬引沢村の名は全国的各地にあるよう。足場の悪い湿地帯などで、乗馬して通れないところなどで見られる名前であり、頼朝の話も少々眉唾ではあるが、言い伝えは所詮言い伝え、ということで納得。

蛇崩交差点
先に進む。246号線三宿交差点から世田谷公園にそってくだる道筋と交差。緑道は北東に振れる。三宿病院入口の近く・蛇崩交差点近くで蛇崩下橋を渡る。三宿は「水宿」から。水の宿る地であった、から。幕末の頃まではこの近くに池もあった、という。烏山川・北沢川の合流点から目黒川大橋にかけて一帯は泥沼地であったわけで、このあたりには池尻、池ノ上といった地形の名残をとどめる地名も多い。




目黒川と合流
上目黒4丁目と上目黒5丁目の境を東西に進む。東急東横線と交差。遊歩道消える、水路に蓋をしたような自転車置き場を歩く。山手通りを越え、目黒川と合流・合流地点だけちょっと開渠となっていた。蛇崩川との散歩もこれでおしまい。

戦前は陸軍の施設
それにしても本日散歩したところはその昔、というか明治から終戦までほとんどが陸軍の施設となっている。もともと東京の都心からはじまった兵営は広い土地を求め郊外へと移動する。で、注目されたのはこの地域一帯。農地・雑木林が広がり、しかも都心に近く交通の便がいい。
ということで、まずは官有地であった駒場東大前近辺の駒場野を橋頭堡として、池尻・三宿・太子堂・下馬・三軒茶屋近辺に兵営・練兵場・陸軍病院といった軍事施設が展開されるようになる。
池尻・駒場に騎兵第一連隊と近衛輜重兵大隊。続いて三宿・太子堂・下馬・池尻の一帯に野砲第一聯隊・近衛野砲連隊・駒沢練兵場,野戦重砲兵第八連隊・衛戌病院。
駒沢練兵場の広がりは南北は国土地理院跡から現在の三宿病院、東西は東山中学校から池尻小学校までの広大なものであった。其の他、下馬に砲兵聯隊,桜丘に自動車学校,用賀に陸軍衛生材料廠などが設置された。 第二次大戦のころは軍関係の施設は15(部隊8,学校2,病院2,工場・材料廠3)にまで増加した、という。

軍用地は戦後は学校や公的機関の敷地となる

終戦後、旧軍施設跡地についてメモしておく。池尻・大橋地区の兵営跡地は筑波大学付属高校等の学校や住宅地。太子堂・下馬・三軒茶屋の野砲第一連隊の跡地には,昭和女子大学その他の学校・都営住宅。駒沢練兵場跡は公園や防衛庁技術研究所・自衛隊中央病院,学校。
池尻の糧秣廠跡には食糧学校。太子堂・三宿の陸軍衛戌病院は国立小児病院。桜丘の陸軍の自動車学校-機甲整備学校敷地跡は東京農業大学。
用賀の衛生材料廠の跡地は自衛隊衛生補給所・衛生試験所・馬事公苑になっている。つまりは、軍施設の跡地はおおむね学校、病院、公務員住宅、政府関係施設などとなっている。

蛇崩交差点再訪

後日談。駒沢練兵場の東端、現在の東山中学の前の急な坂道を歩いた。蛇崩交差点あたりに、本当に崖が崩れるような急峻な坂道があるのかどうか、地形を確認するために訪れた。で、これが結構な坂道。息が切れる。蛇崩の由来は充分に納得。
それはそれとして、崖下を流れる蛇崩川をイメージしながら野沢通りを山手通り方面に向って歩いていた。なにげに入り込んだところに東山中学が。で、件の坂道の途中に馬頭観音。由緒書によれば;この地にあった近衛歩兵連隊5000名と軍馬1300頭がこの坂道をつかって急坂登坂訓練。で、力尽きてなくなった軍馬2頭をねんごろに弔うべくこの観音さまをおまつりしたとか。

ちなみに「駒沢」の地名の由来。明治に上馬引沢村、下馬引沢村、野沢村、弦巻村、世田ヶ谷新町村、深沢村を統合し新しい村をつくる際に適当な村名が見つからず、6つの村の名の間をとって「馬」=「駒」+「沢」=駒沢村と。大正昭和と一時消滅。昭和42年(1967)になって上馬から2~3丁目、新町から3~4丁目、深沢から1・5丁目をもらい再び駒沢として復活した、という。



先日杉並・和泉から世田谷・三軒茶屋へと散歩したとき、思いがけなく出会ったこの道というか烏山川跡、実のところ結構前から気にはなっていた。北沢川跡も下北沢や梅が丘あたりを散歩するときに顔をだす。で、このふたつの川は246号線の近く、池尻で合流し目黒川となって南にくだる。
とある秋の日、前々から気になっていたこのふたつの川を源流から歩くことにした。大雑把なルートとしては、久我山>烏山寺町>烏山川源流・玉川上水分水口>芦花公園>烏山川緑道>池尻>目黒川、といったところ。(火曜日, 11月 01, 2005のブログを修正)



本日のルート;久我山>烏山寺町>烏山川源流・玉川上水分水口>芦花公園>烏山川緑道>池尻>目黒川>北沢川緑道との合流点から淡島通り>代沢>代田>小田急梅が丘>小田急豪徳寺>赤堤>京王下高井戸駅


井の頭線久我山

井の頭線久我山下車。駅の近く、神田川上水が東西に流れる。商店街を南に少し歩くと玉川上水・遊歩道と交差。このあたりが神田川・井の頭上水と玉川上水が最も接近しているあたりだろうか。「くが」とは「陸(くが=りく)」のこと。「くぼ(窪)」とは逆の意味。川などの近くで小高い地形のうねりを意味する、との説がある。久我山の起伏がふたつの上水路の分水嶺となっているのだろう。

玉川上水・岩崎橋

岩崎橋を渡る。左・岩通ガーデン、右・岩崎通信機。岩崎橋は岩崎通信機から来た名前だろう。少なくとも、橋が先にあったわけではない。なにせ、岩崎通信機は渋谷・代々木上原がスタートの地と聞いている。ともあれ、更に南に。久我山病院の手前、久我山1丁目を右折。久我山盲学校を越え、國學院大學付属幼稚園のあたり、歩道のない道路道を少々怖い思いしながら歩く。大きく曲がるカーブが終わるあたりで住宅街へと左折。烏山寺町通りへと。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

烏山寺町
烏山寺町。1キロ程度の区間に26のお寺が集まる。関東大震災の後の区画整理により、下町にあったお寺さんがこの地に移ってきた。小京都、という人もいる。が、それは言い過ぎか。とはいいながら閑静な町並み。ここに移り住んだ住職各位が環境保全に努めたとか。

烏山川の源流のひとつである高源院の池
寺 町通りの北端に高源院。烏山寺町に来た理由は、高源院内にある池をチェックすること。烏山川の水源のひとつと言われている。もっとも、お寺が浅草から移ってくるまでは田畑の中の湧水池であったことは言うまでもない。シベリアから渡ってくる鴨がここで骨休み。ために鴨池とも。
烏山川水系にはこの湧水を水源とする流れ以外に、玉川上水からの分水(烏山用水)もあった、とか。ために湧水池からの川筋を古烏山川とも呼ばれていた。

寺町を巡る

次の目的は古烏山川筋のチェックと玉川上水からの分水口および烏山川用水の水路の確認。とはいうものの、ついでのことなので、寺町通りの左右に並ぶお寺を眺めながら進む。道左手に専光寺。喜多川歌麿の墓があった。妙寿寺は結構大きい。辛龍寺は江戸名所図会の挿絵画家・長谷川雪旦・その子雪堤の墓。称住院には俳人・宝井其角の墓。忠臣蔵で有名。

古烏山川筋をチェック
お寺巡りを終え、古烏山川筋のチェックに戻る。道端にある地図をみると、高源院の裏手あたりに、いかにも水路跡といった趣の道筋。寺町通りのひとつ東を通る松葉通りを少し北に戻る。
玄照寺の北にそれらしき細路。道は高源院裏手まで続いていた。民家の間を続く細路であり、お寺の塀で行き止まりになるあたりでは、道端で遊ぶ子どもたちに少々怪訝なん顔をされてしまった。
松葉通りまで戻る。水路は松葉通りを越え団地内に続き、団地中央あたりで南に折れ、中央道烏山トンネルの西端辺りに向かって下る。道筋は如何にも水路跡といった雰囲気が残っていた。

玉川上水からの分水口

古烏山川筋から離れ、次は、玉川上水からの分水口および烏山用水の水路チェックに向かう。玉川上水の分水口は岩崎橋の少し下流にある、と。玉川上水まで戻り、橋のあたりであれこれ分水口を探すが確認できず。分水口からの流れは岩通ガーデン内を南下し久我山病院あたりに出る。そこから、久我山病院前を走る下本宿通りを東に折れ、団地東端に沿って南下する。古烏山川と平行して団地内を下っている。

団地内に水路の痕跡
水路跡を求めて団地に戻る。あちこち歩く。一瞬、川筋が数m現れる。すぐ隠れる。どこへ?結局、川筋はこの数m以外見つけられなかった。すべて埋められているようだ。で、いかにも川筋を埋めたと思える道筋を下る。多分これが烏山川の道筋だろう、。金網で川筋跡を確保しているところもあれば、民家の軒先を走るところもある。川筋というか、道筋に沿って、甲州街道まで下る。

芦花公園駅

芦花公園の近くで甲州街道と交差。さらに進み、芦花公園駅の西端のあたりに如何にも水路跡といった痕跡。線路を迂回し水路の痕跡を探す。ちょっとした木立の中に痕跡発見。南方向から東に向って大きく曲がり世田谷文学館方面へと続いている。ここからはちょっぴり遊歩道といった雰囲気の道になる。(これは2005年のメモ。最近この辺りを歩いたときは、駅前が再開発され見違えるようなモダンな街並に変わってしまっていた)

世田谷文学館

世田谷文学館で休憩。いろんな発見もあった。が、もっとも印象的だったのは、世田谷の往時の写真。といっても昭和30年頃なのだが、世田谷の各地、ほんとうに武蔵「野」。世田谷の地に幾多の文人が武蔵野の自然を求めて移り住んだ、というフレーズも写真をみて納得。それにしても、この数十年の日本の変化って、結構すごかったわけだ。これも実感・納得。世田谷文学館のメモは別の機会にするとして、先を急ぐ。

環八
世田谷文学館前の遊歩道を東に。芦花中、芦花小、都営八幡山アパートを越え、環八に。陸橋を渡り川筋・道筋を探す。環八に沿って川筋が。暗渠でもなく、土で覆っているだけ。環八に沿って南に下り、芦花公園の交差点に。

芦花公園

前から気になっていた芦花公園にちょっと寄り道。芦花公園・芦花恒春園。徳富蘆花が愛子夫人と晩年を過ごした地。文豪トルストイに憧れ、ロシアの大地・自然につつまれた生活を送った徳富蘆花がロシアから帰国後すぐ、この地に住む。当時はこのあたり、雑木林と畑が一面に広がる地。芦花の『自然と人生』から:「余は斯(こ)の雑木林を愛す。木は楢(なら)、櫟(くぬぎ)、榛(はん)、櫨(はじ)など、猶(なお)多かるべし。大木稀にして、多くは切株より族生せる若木なり。下ばへは大抵奇麗(きれい)に払ひあり。稀に赤松黒松の挺然林(ていぜんりん)より秀でて翆蓋(すいがい)を碧空に翳(かざ)すあり。霜落ちて、大根ひく頃は、一林の黄葉錦してまた楓林(ふうりん)を羨まず。
 ・・・
春来たりて、淡褐、淡緑、淡紅、淡紫、嫩黄(どんこう)など和(やわら)かなる色の限りを尽くせる新芽をつくる時は、何ぞ独り桜花に狂せむや。
青葉の頃其林中に入りて見よ。葉々日を帯びて、緑玉、碧玉、頭上に蓋を綴れば、吾面も青く、もし仮睡(うたたね)せば夢又緑ならむ。・・・ 。」
武蔵野の豊かな自然が彷彿とする。昔は一体どういった詩趣をもつ地だったのだろう。とはいいながら、国木田独歩の『武蔵野』の冒頭;「武蔵野の俤(おもかげ)は今僅かに入間郡(こおり)に残れり」と。これって明治37年頃の文章。今は今で、昔は昔で、そのまた「昔」の風情を懐かしむってわけ。これ世の習い。

蘆花記念館

夫妻の住居跡から蘆花記念館を廻る。記念館に行くまでは、芦花って『不如帰』のイメージが強く、『思出の記』『自然と人生』は文学史の試験対策で覚えたくらい。が、清冽なる人物であった。大逆事件で死刑判決の出た、幸徳秋水の助命嘆願書を天皇宛に出し、一高生に向っての大演説。素敵な人物である。奥さんの家系には幕末の思想家・経世家の横井小楠も。勝海舟が西郷以外に「怖い人物」と称した人物。人物をもう少し知りたい、小説を読んでみたい、と思った。ちなみに『思出の記』の舞台は愛媛の今治だとか。身近に感じる。

船橋
芦花公園を離れ、烏山川緑道に戻る。明治大学八幡山グランドに沿って南東に。船橋7丁目、希望が丘公園前に。船橋の地名、往時このあたり湿地帯であり、船で橋を渡したとか、船橋さんが住んでいたとか、例によっていろいろ。古文書にこのあたり「船橋谷」と書かれている、とも。このあたり、ちょっとした「谷地」だったのではなかろうか。そういえば芦花公園の南端を粕谷から流れてくる川筋、烏山川の支流だろうが、この地で合流している。湿地帯であった、というのが船橋の地名の由来であろう、と自分ひとり納得。

烏山川緑道

希望が丘公園の東隣・希望が丘団地あたりから烏山川緑道は始まる。が、案内はない。ここから小田急線・経堂駅の手前で小田急線を越えるあたりまでは南東にほぼ一直線で下る
。団地内を横切り、希望が丘小学校の東、船橋交番前交差点の南を通り、荒川水道と交差。

経堂3丁目で小田急線と交差
船橋3丁目と5丁目の境を下り、経堂3丁目で小田急線と交差。経堂中村橋あたりで東に向きを変え、車道に沿って続く。

世田谷線・宮の坂駅

経堂大橋・農大通りを越え、宮坂1丁目、鴎友学園前。「万葉の小径」の表示。植物に万葉時代の名前とともに、万葉集の歌。が、すぐ終わる。歩いていると突然行き止まり。はてさて、と思ったら、世田谷線との交差。宮の坂駅。

環七と交差

迂回し、再び緑道に。豪徳寺の南、世田谷城址公園の南を通り、おおきく北にカーブ。先日歩いた国士舘大学・若林公園・松蔭神社裏を越え、環七若林踏み切りに。環七と交差した世田谷線とほぼ平行に太子堂から三軒茶屋方面に。
世田谷城跡は足利一門でもある吉良氏の築城と言われる。鎌倉公方の足利基氏によりこの地を拝領し居城とした。長尾景春の乱に際しては、太田道灌方に与し豊島氏と戦い、道灌の居城でもある江戸城を守った。後に北条氏の傘下となり、吉良氏の蒔田城(横浜市南区の東洋英和女学院の敷地となっている)への移動とともに、北条直轄の城となる。
松蔭神社は吉田松蔭を祀る。安政の大獄で刑死し小塚原の回向院に眠る松蔭を、高杉晋作などの門下生がこの地に移した。

目青不動

三軒茶屋の北・太子堂4丁目と5丁目の境を通り、茶沢通りを交差。茶沢通りの西では八幡神社、目青不動、東では太子堂のある円泉寺などにちょっと立ち寄り。ちなみに、茶沢=三軒「茶」屋+下北「沢」。
目青不動は江戸五色不動のひとつ。目黒不動は目黒区下目黒の瀧泉寺。目白不動は豊島区高田の金乗院(明治期は小石川の新長谷寺。第二次世界大戦で焼失し金乗院に移る)。目赤不動は文京区本駒込の南谷寺。目黄不動はいくつかある。江戸川区平井の最勝寺や台東区三ノ輪の永久寺など。五色不動の由来は定説なし、と。もともとは目黒・目白・目赤の3不動との説も。目黄不動がいくつかあるのも、後発組ゆえのあれこれ、か。

山川緑道と北沢川緑道の合流点

三宿1丁目と2丁目の境を進む。三宿池尻の交差点の北あたり、池尻3丁目・4丁目と三宿1丁目・2丁目のクロスポイントに烏山川緑道と北沢川緑道の合流点が。仲東合流点。
三宿は水の宿=水宿=みしゅく、水が集まったところ、というのが地名の由来とか。隣の池尻は池の水の落ち口というし、井の頭線には池の上という駅も。このあたりはふたつの川が合流し、大きな池というか湿地帯になっていたのだろうか。

246号線の南から目黒川が流れる


、烏山川と北沢川が合わさった川筋は、ここからは目黒川となる。左手は小高い丘。見晴らし公園とあった。駒場東邦学園も丘の上。合流点からしばらくは親水公園、というか水が流れる。西落合処理場からの高度処理水が引き込まれている。目黒川清流復活事業の一環。先日歩いた呑川と同じ。
崖に沿って246号線まで下り、横断歩道を南に渡り目黒川が開渠となる地点を確認。それにしても結構な水量。源流点からまったくの暗渠。姿を見せたらこの水量。すぐ近くで「補給」された落合処理場からの高度処理水なのだろうが、少々複雑な気持ち。そもそも「川」とはなどと一瞬頭を過ぎる。が、それまで。本日のメーンエベントは完了。

当初の予定ではここで終了の予定だった。が、先ほどの北沢川合流点、その先が気になった。水源は京王線・上北沢の近く。どちらかといえば家路への方角。どうせのことならと、北沢川緑道を水源に向かって歩くことにした。


合流点から北沢川緑道を遡る合流点に戻る。合流点から北沢川の源流点に向って歩きはじめる。遊歩道は中央に水が流れる。西落合処理場からの高度処理水が代沢4丁目のせせらぎ公園経由でひかれているとのこと。

淡島通りと交差
池尻2丁目と4丁目の境を北西に上り、淡島通りと交差。淡島通りは 代沢3丁目にある淡島神社 (森巌寺)に由来。

環七交差

淡島交差点で淡島通りを渡る。前にせせらぎ公園。代沢3丁目と4丁目の境を進み、茶沢通りを越え、代田1丁目と2丁目の境を通り、小田急・世田谷代田の南、宮前橋交差点のすぐ北で環七と交差。ここまでは、一部工事中の箇所を除き、水の流れる気持ちのいい遊歩道。が、環七を越えると事情が一変。水なき普通の遊歩道となる。代沢=代「田」+下北「沢」。代田は以前にもメモしたが、伝説の巨人「ダイダラボッチ」の足跡から。これが詰まって「ダイダ」となった、と。

梅が丘駅の東で小田急と交差

環七を渡る。遊歩道の入口は通行止め。横の駐車場から入る。北西に一直線、梅が丘駅の東を小田急と交差。

世田谷線・山下駅

羽根木公園手前で西に振れ、小田急に沿って豪徳寺駅の北へ。突然道が切れる。無理して進むと民家に入ってしまった。こんなに早く緑道が終わるはずはないのだが、日も暮れ地図も見えない。仕方なく豪徳寺駅に行き地図を見る。世田谷線・山下駅で遮断されただけ。世田谷線の西から緑道は続いていることを確認し、出発。

赤堤1丁目からユリの木緑道

経堂駅あたりまでは小田急線に沿って続く。赤堤1丁目のユリの木公園を越えたあたりから、ユリの木緑道となる。宮坂3丁目のあたりからは北に振れる。

緑道の終点に佐内弁財天
赤堤小学校の裏手を北西に登る。赤堤3丁目の交差点あたりで赤堤通りと交差。東経堂団地前の交差点の北を進み、団地内の道を進み、団地の端で緑道が終わる。道端につつましい弁天の祠。このあたりの名主・鈴木佐内の屋敷内にあったもの。ために佐内弁財天、と。

この先一時緑道は切れ、再び日大桜ヶ丘高校と緑丘中学の間、勝利八幡神社と競技場の間、都営上北沢アパートから都営第二上北沢アパートのほうに川筋っぽい道が続く。その先は都立松沢病院。構内には入れないが池もある。そのあたりが北沢川の水源なんだろうと、辺りを歩き、最寄の京王線の駅、下高井戸に戻り、本日の予定を終える。

メモに際し北沢川のあれこれをチェック。この川、水量がそれほど多いわけでなく、玉川上水から養水をおこない、この地域一帯の生活・灌 漑用水として使われる。ために、北沢用水(上北沢用水)とも呼ばれる。京王線の桜上水あたりにも分水口があったよう。地図をチェックすると桜上水駅あたりから、松沢中、松沢高、日大文理学部に向かって南東にすすむ、いかにも水路跡といった道がある。桜上水支流なのだろう。尾根道を進んできた玉川上水が、尾根を下り烏山川であれ北沢川であれ、水量の少ない自然の川を養水し地域に水を供給してきたことを実感した。
昭和女子大で学会がある。特段の仕事があるわけではない。が、会社の仲間が参加しているので、ちょっと顔だけだそう、ということで散歩にでかける。場所は世田谷区・三軒茶屋。自宅から7キロ程度だろう。大体のコースは、杉並・和泉>京王線明大前>京王井の頭線東松原>羽根木公園>小田急梅が丘>小田急豪徳寺>>松蔭神社>三軒茶屋>昭和女子大、といった段取り。(水曜日、10月 26、2005)



本日のルート;杉並・和泉>京王線明大前>京王井の頭線東松原>羽根木公園>小田急梅が丘>小田急豪徳寺>世田谷城址>世田谷線上町>烏山川緑道>国士舘大学>若林公園>松蔭神社>三軒茶屋>昭和女子大


京王井の頭線・明大前から東松原駅に進む
自宅を出て京王井の頭線・明大前に。京王線と井の頭線が交差。井の頭線に沿って南に。松原の町並みを成り行きに歩き、京王井の頭線・東松原駅に。松原の名前は世田谷城主・吉良氏の家臣・松原佐渡守がこの地を開いたことによる。

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


羽根木公園

駅のちょっと南に羽根木公園。前々から気にはなっていたのだが、今日はじめて訪れる。周囲よりちょっと小高い丘。六郎次という鍛冶屋が住んでいたことから「六郎次山」とか、東武・根津財閥が所有していたため「根津山」とも呼ばれていた、と。納得。

小田急線梅が丘駅
公園の南地区には梅林がある。公園のすぐ南に小田急線の梅が丘の駅。この駅名、梅が丘という地名から付けられたわけではない。駅設置の誘致活動の際、誘致活動に献身した地域の大地主・相原家の家紋が「梅鉢」だったから。「梅が丘」という駅名ができて、地名ができたわけだ。梅林の中に、大宰府からもたらされた、という紅梅・白梅のペアと菅原道真の有名な句「東風吹かばにおいおこせよ梅の花 あるじなしとて春を忘れじ」があったのはご愛嬌。

北沢川緑道

公 園を出て小田急・梅が丘の駅に。散歩に際しては駅には必ず寄る。地域の案内板を見、見所・道順などを確認するため。案内板に北沢川緑道の案内が。北沢川は京王線・上北沢駅の南・松沢病院あたりが源流点。実際は水量を確保するため玉川上水から分水され、蛇行を繰り返しながら西から東、というか北西から南東に流れ、三宿・池尻の境あたりで烏山川と合流、目黒川と名前を変えて池尻大橋のあたりから南に区下る。赤堤から池尻まで4.2キロの区間は緑道として整備されており、これが北沢川緑道。
ちなみに池尻って、池の水の落ち口付近という意味。往時、二つの川の合流点あたりは結構な湿地帯であったのだろう。赤堤もいかにも川筋の堤って感じがするし、実際羽根木公園の西・北沢警察署のあたりなど、北沢窪という低地で水路の乱流する湿地だったとのこと。そのそも「世田谷」って、「勢田郷の谷地」ってこと。世田谷区一体に、湿地のイメージのある地名が多いのもムベ成るかな。

小田急線豪徳寺駅

北沢川緑道散歩は別の機会にし、梅が丘駅からは小田急線の高架下を西に豪徳寺駅に。小田急豪徳寺駅あたりで交差する世田谷線にそって南に下る。世田谷線は2005年で開通80周年。下高井戸から三軒茶屋の5キロを結ぶ路面電車。
つつましやかな商店街を南に。時々寄ってみる古本屋がある。今回は3冊購入。『武蔵野から大東京へ(白石寶三・中央公論社;昭和8年刊)』、『風駆ける武蔵野:もうひとつの埼玉二千年史(大護八郎・歴史図書社)』、『わが屍は野に捨てよ:一遍遊行(佐江衆一;新潮社)』。2週間後に熊野古道を歩くので、一遍上人の本が見つかったのは本当にラッキー。ぶらり古本屋巡りも散歩の楽しみのひとつ。

豪徳寺

豪徳寺に。このお寺、大田道潅が活躍する時代だから、江戸時代よりずっと昔、この地を統べる世田谷城主吉良氏が伯母のために建てた弘徳院がはじまり。その後江戸時代に入り、彦根藩が世田谷領20カ村を領有するに至り彦根藩主、井伊家の菩提寺となる。「豪徳寺」は藩主井伊直孝の法号から。境内には井伊家代々の墓。安政の大獄を断行し、結果、桜田門外において水戸・薩摩の浪士に暗殺された大老井伊直弼の墓もある。
で、豪徳寺といえば招き猫。なにがきっかけで豪徳寺=招き猫、と刷り込まれたのか覚えていない。縁起をまとめてみると;昔このお寺は貧乏寺であった。和尚は乏しい食を割いて猫にあたえる。が、愚痴もでるようで、曰く「これほど面倒見ているのだから、たまには恩返ししてよ」。ある日、門前騒がしい。お武家が。曰く「鷹狩から戻る途中、白猫が手招きする。なにごとがと寺に入った」。和尚、中に招き入れ、法話など。にわかに雨、そして門前に落雷。武家曰く「我、彦根城主井伊直孝なり。落雷よりの命拾い、そして、ありがたき法談に感謝」。この寺、井伊家の菩提寺となり、一大伽藍の寺となる。これも幸運招来の猫のゆえ、と。

世田谷城址
豪徳寺を出て東に。前方に豊かな緑の小高い丘。これはなんだ?高さのある土塁、櫓台と深い空堀、それも二重の堀がしっかり残っている。これって石神井散歩のときに訪れた石神井城と同じつくり。入口に案内板。世田谷城址であった。
この城、南北朝期の中頃に、足利氏の同族である吉良氏が築城したと言われる。本家筋の三河吉良氏(吉良上野介の流れ)は「足利幕府に世継ぎがない場合は吉良氏より」といわれるほどの名門。上野国に下向した武蔵吉良氏も関東公方に仕え、関東管領上杉氏に次ぐ名門。
14世紀中盤に吉良治家が鎌倉公方・足利基氏よりこの地を拝領。世田谷城に居住する。 治家の子・成高は太田道灌と同盟し、長尾景春の乱に呼応し兵を挙げた豊嶋氏に対して道灌とともに戦い、江戸城を防衛。道灌から「吉良殿様」と呼ばれ、また「従四位下」という高い官位のゆえに、「世田谷御所」と通称された。
戦国時代は小田原北条氏に属し、世田谷城は北条氏直轄となる。吉良氏は蒔田(横浜市南区東洋英和女学院の敷地)に移り「蒔田氏」と称する。 小田原の役の後、世田谷城は廃城。吉良氏は秀吉により領地没収。が、江戸期には高家「蒔田氏」を名乗り旗本となった。

世田谷線上町駅
世田谷城址を出て、城山通りを下る。城山通りの由来は、この世田谷城から。南に下り、世田谷線上町駅に。途中に烏山川緑道の案内。気にはなったのだが、先を急ぐ、ということで駅前に。世田谷通り脇に地域の見どころ案内が。緑道、というか川筋に目が行く。蛇崩川緑道、そして、さっきの烏山川緑道の案内。
蛇崩川緑道のメモ;蛇崩川(じゃくずれがわ)は馬事公苑の近くを源流に持ち、弦巻から上馬に。上馬5丁目の小泉公園のあたりから緑道に。駒留陸橋で環七と交差。世田谷警察署近くで国道246号と交差。下馬を越え、世田谷公園の南、蛇崩交差点近くに。
あとは上目黒を越え、東急東横線と交差し、東横線にそって中目黒駅に続き、駅近くで目黒川に注ぎ込む。5~6kmの川。赤土を崩して蛇行していたため、この名がついたと言われている、と。
烏山川緑道のメモ;烏山川は井の頭線久我山の南、烏山寺町の高源寺あたりが源流。北烏山寺町通り中央高速と交差。南烏山3丁目で甲州街道と交差。芦花公園・世田谷文学館あたりを通り、船橋7丁目の希望丘公園から緑道となる。
経堂駅西で小田急と交差。蛇行し宮の坂から環七を若林駅北で交差。三宿池尻で北沢川緑道と合流、目黒川となる。世田谷区船橋7町目から三宿三丁目あたりまでの緑は道6.9キロ。どちらの川筋も結構面白そう。次回はこれらの道を歩いてみよう。

烏山川緑道
で、この烏山川緑道、結構迂回はするが、次の目的地の松蔭神社の近くに続いている。ということで、少し戻り、烏山川緑道に。暗渠の上の遊歩道。道との交差。昔の橋のあたりに必ず案内板。このくらいガイドがあればわたしのようなずぼらな散歩者には大助かり。
適当に進み、国士舘大学の裏を越えたあたりで若林公園右のサイン。松蔭神社はこの公園の隣。公園を抜けていくことに。異常なほどの家族連れ。??松蔭神社がお祭りであった。

松蔭神社
松蔭神社の隣に明治の元老桂太郎のお墓。門下生ではないが松蔭を慕っており、遺言で松蔭の近くに眠るべし、と。松蔭神社。安政の大獄に連座し伝馬町の獄中にて憤死した吉田松陰をまつる。時世の句;「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも、留めおかまし大和魂」。千住小塚原に埋められた松蔭と頼喜三郎のなきがらを高杉晋作、伊藤俊介(のちの伊藤博文)が長州藩の抱え屋敷(藩が私的に持っていた屋敷のこと)のあったこの地に運び改葬。明治にはいり松蔭神社が建立され現在に至る。
神社内には松下村塾を模した家屋が。お祭りでもあり、時代装束を着た今風の若者がお客さんと写真を撮っていた。これも愛嬌でありました。それにしても安政の大獄を仕掛けた井伊直弼と、仕掛けられた吉田松陰が1キロも離れていない場所で眠るのは、歴史の皮肉か。

三軒茶屋
松蔭神社を出て商店街を南に。世田谷線松蔭神社前を越え、松蔭神社入口の交差点で世田谷通りを左折、一路三軒茶屋に向う。1.5キロの道のり。近くに北原白秋の旧宅があったようだ(若林3丁目15)。が、見逃す。とはいうものの、人生27回引越しを繰り返したということだから、散歩につれいろんなところで顔を現すかも。実際先日、砧の散歩で旧宅があったなあ、と。
若林の交差点で環七を越え、太子堂4丁目から三軒茶屋。江戸時代、このあたりは交通の要所。お宮参りや行楽の人々のための3軒の茶屋があったことからこの名がついたという。246号線を南側に渡り昭和女子大に到着。本日の予定終了。


今回のメモをするために地形図をつくって、いやはや世田谷って、世田の「谷」であることを実感。普通の地図ではこの地形の「うねり」はわからないだろう。地形図をもとにまとめておく;
世田谷の大半は、西は仙川あたりの「国分寺崖線」、北を「甲州街道の尾根筋」に挟まれた南東に向って扇形に広がっている。甲州街道=玉川上水の尾根筋は世田谷北部の烏山川水系・北沢川水系と杉並南部の善福寺川水系の分水嶺でもある。
世田谷の地は武蔵野台地の南の端であり、複雑に入り組む尾根筋が特徴的。武蔵野台地の地下を流れる地下水が、おおよそ標高30メートルから40メートルのあたりで伏流水となって地上に現れ、各河川の源流となり、台地を削り複雑な谷筋や沢筋をつくっている。
水にまつわる地名が多いのはすでにメモしたとおり。こういった地形上に江戸末期までの古道が走る。甲州街道、滝坂道、品川道、大山道、登戸道、厚木街道。これらの街道は東西方向に尾根道を走る。
この地域の沢から流れ出す川筋、烏山川、北沢川などが西から東に向かっているわけだから、アップダウンを避け、さらには増水時の交通遮断を避けるためには自然の理だろう。この川筋を源流点から地形のうねりにそって目黒川まで下ってみよう。近々に。

カテゴリ

月別 アーカイブ

スポンサードリンク