足立区の最近のブログ記事

偶々地図に見かけた流路跡、それも足立・葛飾区境を流れたと思われる古隅田川の流路に惹かれ散歩には出かけたものの、最下流部である隅田川との合流点辺りは、明治から大正にかけて開削された荒川放水路に流路は断たれており、迂回を余儀なくされた。
結構ウザったいな、などと思いながら歩いたのだが、水戸街道と出合ったり、単に刑務所とだけとしか知らなかった、小菅の東京拘置所のもつ幾層かの歴史のレイヤーに触れたりと、多くの発見があった。 それはいいのだが、本来の目的である足立・葛飾区境を辿る古隅田川筋のスタート地点と目した東京拘置所西側水路跡にたどり着くまで結構時間がかかり、また、あれこれと気になることも多くメモは東京拘置所西側到着地点で終えた。 今回は、この東京拘置所西側地点からスタートし、先は足立・葛飾区境を「一筆書き」で中川までの古隅田川をメモする。



本日のルート;
小菅万葉公園>水路跡を東京拘置所北側に>五反野親水緑道>新古川橋>足立区裏門堰排水場>大六天排水場>古隅田川緑道>鵜森橋>陸前橋>「小菅の風太郎」の案内>古隅田川緑道の案内>古川橋>白鷺公園>綾瀬駅>東綾瀬親水公園>水路跡は駅の高架下を通路で進む>自転車置き場>北野橋>袋橋>富士見橋>境田橋>開渠>親水公園風遊歩道>随喜稲荷>綾瀬二丁目ふれあい公園>常磐線手前・境四橋で暗渠となる>区境は常磐線の南の道>古隅田川(足立区・葛飾区)総合案内>北三谷三号橋・軍用金伝説の案内>北三谷橋・蒲原村宿駅伝説>葛西用水・曳舟川水路跡>田光り観音>隅田子育地蔵尊>玄恵井の碑>The Resident Tokyo East敷地内を進む>中川に

小菅万葉公園
東京拘置所の西側、古隅田川の流路跡が親水公園として整備されている。公園の中には四阿(あずまや)、小菅御殿や小菅銭座跡の案内。先回の散歩でもメモしたものだがここにも記しておく。

小菅銭座跡
「小菅御殿跡南側(現在の小菅小学校)には安政6年(1859)から慶応3年(1867)にかけて幕府の銭貨を鋳造した小菅銭座が置かれていました。文久3年(1863)の調べでは鋳造高70万7250貫文に達し、小菅で鋳造された銭は遠く、京都・大阪にも回送されました。
昔あった掘割は埋められてしまい姿を止めていませんが、今でも「銭座橋」と刻んだ石柱が残っている。銭を鋳造する鉄材は、この橋付近で荷揚げされ、裏門から銭座へ運び込まれた言うことです」。

小菅小学校とは先回の散歩で訪れた「小菅西小学校」のことだろう。また解説にある銭座橋は見落とした。「国土地理院地図(1896‐1909)」でチェックすると、小菅監獄を囲むように堀があり、そこから小菅西小学校に北東端あたりに水路が延びている。Google Street Viewで銭座橋跡も確認できた。「ぜんざ」橋と読むようだ。

小菅御殿跡
「小菅には江戸の初め関東郡代伊奈忠治の1万8千坪余りにもぼる広大な下屋敷がありました。元文元年(1736)八代将軍、吉宗の命により、その屋敷内に御殿が造営され、葛西方面の鷹狩りの際の休憩所として利用されました。御殿の廃止後は小菅籾蔵が置かれ、明治維新後に新しく設置された小菅県の県庁所在地となっています。
更に小菅籾蔵には小菅煉瓦製造所が建てられ、現在の東京拘置所の前身である小菅監獄に受け継がれていきます」。

「古隅田川(足立・葛飾区)総合案内」
また公園には「古隅田川(足立・葛飾区)総合案内」」があり、「古隅田川はかって利根川の流末の一つで、豊かな水量をもつ大河でありましたが、中川の灌漑事業等により水量を失い、やせていったものと考えられています。近代に至っては、雑排水路として利用されてきました。
現在は下水道の整備によって、排水路としての使命を終え、荒川と中川を結ぶプロムナードとして期待されています。
また、古隅田川は古来、下総国と武蔵国の境界であるとともに、人と人との出会いの場でもありました。
そこで、古隅田川に水と緑の景観を再生するため、「出会いの川 古隅田川」をテーマに失われた生物を呼び戻し、潤いのある人と人との交流と安らぎの場を創出したものです。
◆位置
当施設は中川から綾瀬川、そして荒川を結ぶ範囲の足立区と葛飾区の区境にほぼ重なっており、古隅田川は中川と綾瀬川を結び、裏門堰は荒川と綾瀬川を結んでいます。
また、古隅田川に隣接して5つの公園があり、「河添公園」「下河原公園」「は足立区、「袋橋公園」「白鷺公園」「小菅万葉公園」は葛飾区に位置しています。
◆延長
古隅田川 約5,450m、裏門堰 約1,100m」」といった説明とともに、この地から中川までの流路沿いに設けられた案内碑の位置も記されていた。どのような案内が登場するのかお楽しみではある。
◆万葉公園
ところで、ここがどうして「万葉公園」?チェックすると、万葉集巻14の東歌[3564]にある「古須気呂乃 宇良布久可是能  安騰須酒香 可奈之家児呂乎  於毛比須吾左牟(古須気(こすけ)ろの浦吹く風のあどすすか愛(かな)しけ子ろを思ひ過(す)ごさむ)にちなむとの記事が散見される。「小菅の浦に風が吹き通り過ぎるけれど、どうしたものだろう、あの愛しい娘への思いを通り過ぎる(忘れる)ことができようか(否、できない)」という歌であり、防人が別れの悲しみを詠ったものとされる。この古須気(こすけ)が小菅の地に比定され、万葉公園と名付けられたものとのこと。但し、この古須気(こすけ)が単に植物の菅との解説もある。ともあれ、万葉集の東歌よりの命名ではあろう。

水路跡を東京拘置所北側に
水路に沿って続くウッドデッキを北に向かう。塀というか柵の向こうに官舎が並ぶ。地図でチェックすると11の官舎が見えた。800名ほどの職員が働くと言う。拘置所北西端で水路は東に向かう。

五反野親水緑道
水路に沿って少し東に向かうと、北から如何にも親水公園といった道が合流する。現在の地図には東武スカイツリーライン線・五反野駅の少し南まで水路跡が見えるが、「国土地理院地図(1896‐1909)」には水路跡は見えない。田圃の悪水落しといったものだったのだろうか。昭和40年頃、「どぶ川」と呼ばれていた水路に蓋をしたようだ。いつの頃親水公園として整備されたか不詳。
下山国鉄総裁追憶碑
綾瀬川の水を使い造られたという親水公園を少し歩く。と、親水公園が常磐線の高架を潜る手前に「下山国鉄総裁追憶碑」。昭和24年(1949)、当時の国鉄総裁下山定則氏が謎の失踪を行い、翌日轢断死として発見された、所謂下山事件の発生現場(実際はここから150mほど東のようだが、常磐線改良工事、千代田線敷設工事にともないこの地に)。
下山事件は自殺・他殺(謀略説も含め)など議論があるも迷宮入り事件となっている。

新古川橋
五反野親水緑道から戻り、水路に架かる新古川橋を渡り拘置所の柵に沿って進む。少し東に進むと「一茶と小菅」という案内があった。
一茶と小菅
江戸時代の俳人小林一茶は足立や葛飾あたりの風物を詠んだ秀句を残しています。その中から小菅に由緒の深い句をとり出して紹介します。 (小菅籾倉)
遠水鶏(とおくいな) 小菅の御門 しまりけり
閉まろうとする小菅籾倉の御門を叩いているような水鶏の声が遠くから聞こえてくる。静かな夏の小菅の夕刻です。
(合歓の花)
古舟も そよそよ合歓の もようかな
一茶の深川紀行に「小菅川に入る。左右合歓の花盛りなり」とあり、続いて右の句が記されています。小菅川とは綾瀬川下流の別称です。歌川広重の江戸名所百景にも描かれ、江戸名所花暦にも、次のように紹介されています:
「合歓の木」綾瀬川・・・花又村(今の足立区花畑)の川筋、小菅御殿の辺り、いにしえはおほかりしが、いまはここかしこにあり。
現在の東京拘置所付近の綾瀬川辺りが合歓木の名所であったようです。綾瀬川の合歓木は江戸の人々にも花名所として知られていたようです。
初夏に小枝の先にうすい紅色の長い糸のような可憐な花をつけます。この花を訪ねて、風雅を愛する人々が訪れたことでしょう。
(葛西ばやし)
けいこ笛 田はことごとく 青みたり
今年も豊年、秋祭りももうすぐだ。葛西ばやしは葛飾地方に古くから伝わる郷土芸能のひとつです。かつて小菅に下屋敷のあった関東郡代・伊奈半十郎忠辰は、天下泰平、五穀豊穣、さらには一家の和合と非行防止、余暇善導を目的として、おおいに葛西ばやしを奨励しました。毎年各町村では葛西ばやし代表推薦会を催し、選ばれたものを代官自ら神田明神の将軍上覧祭りに参加を推薦したので、一層流行し、農業の余暇にお囃子を習う若者が続出したといわれます。
(蚊)
かつしかの 宿の藪蚊は かつえべし
蚊もまた葛飾の名物だったようです」とあった。

一茶はいつだったか歩いた足立区竹の塚の炎天寺で出合った。千住に住む句友を訪ねてこの辺りを往来したのであろう。有名な「やせ蛙負けるな一茶是にあり」との句を残す。因みに、最後の蚊の句の意味は、「葛飾の蚊は人間も飢えてるから蚊も困るだろ」の意味のようだ。

足立区裏門堰排水場
拘置所柵に沿って進むと、道はクランク状に曲がり、水路から離れる。道筋は足立区と葛飾区の境となっている。道を進み綾瀬川に出る。古隅田川の水路が綾瀬川に合わさる箇所を確認に少し北に戻る。そこには足立区裏門排水場があった。拘置所を囲む水路も「裏門堰親水公園」と呼ばれるようである。

大六天排水場
古隅田川の川筋は裏門堰排水場で流路を変え、南に向かう。その水路は、開削された綾瀬川に「呑み込まれ」ている。その綾瀬川に沿って南に下り、先ほど前を掠った大六天排水場に。
先ほどの裏門堰排水場もそうだが、通常排水機場と書くことが多いのだが、排水機場とは水門で堰止められて行き場の失った水路の水を排水する施設。大六天から続く古隅田川に溜まる水を綾瀬川にでも排水しているのだろうか。
大六天
第六天とも記すが、第六天とは仏教の世界観で言う6つのランクでは最下位である「欲界」、その欲界も6つに分かれるが、その中では最高ランクの「他化自在界」の魔王。望むことはすべて叶えられ、それを衆生にあまねく施し得る摩王である。
衆生の望みを叶えてくれる、「いい神」がランキングとして低いのは、衆生の望みを叶える=欲望を満たす、ということから、欲望から自由になることを最高の幸せとする仏教の世界観では評価は低い、ということだろう。因みに信長は自らを「第六天魔王」と称したようだ。
名前の由来は? チェックすると、裏門堰排水場の綾瀬川を越えたところに綾瀬神社がある。その摂社に「第六天」があるようだが、そことの関係だろうか?よくわからない。

古隅田川緑道
古隅田川緑道の少し北の通路を入ると水路にあたる。水量も結構あり、脇に木橋が整備され、親水公園として整備されている。古隅田川道と呼ばれるようである。

鵜森橋
緑道を歩き始めて初めて出合う車道との交差箇所に「鵜森橋」が架かる。車道部分と木が敷かれた人道橋を分かれて造られていた。

陸前橋
東に進んだ水路(下流から上流に向かうため、何となく「進む」って違和感あるのだが)が北に向かうところに2車線の車道。そこに陸前橋が架かる。先回のメモの水戸橋のところで水戸・佐倉道が通るとメモしたが、ここもその道筋だろう。
陸前橋としたのは、明治になって水戸街道を含めた宮城にまで通じる街道を「陸前浜街道」と命名した故。新政府としては幕府親藩の水戸藩の痕跡を残す「水戸」の名は使いたくなかったのだろう。

「小菅の風太郎」の案内
車道を少し北に進み、緑道に架かる木橋の手前に「小菅の風太郎」の案内: 「江戸時代、ここには水戸佐倉道という街道が通っていました。さる藩の大名行列が、この辺りで突然一陣の風が吹かれ街道沿いに植えられたもろこしが殿様の乗る馬に絡んだために、殿様が落馬してしまいました。
殿様はもろこしに八つ当たりする次第。畑の持ち主の源蔵は許しを請いましたが聞き入れられず、哀れ手打ちとなってしまいました。
何年か後、あの殿様一行が同じ場所でまた突風に吹かれました。すると、どこからともなく「風よ吹くな!殿様に殺されるよー」という怨めしげな声が聞こえ、一行は怯えて逃げ出したそうです。その後も風が吹くと「風よ吹くな!殿様に殺されるよー」という声がどこからとなく聞こえたそうです」とあった。何を言いたいのだろう?

古隅田川緑道の案内
橋を渡ったところに「古隅田川緑道」の案内。水路は北に向かい左に折れているが、「国土地理院地図(1896‐1909)」にはそこに水路は描かれていない。足立・葛飾区境からも外れている。曲がったところが白鷺公園とあるので、公園整備の際に排水用に造られたのだろうか。水路東端は一度綾瀬駅へと上った水路が再び南に下りてきた箇所でもある。

古川橋
少し北に古川橋。コンクリート橋の橋桁に鉄パイプの柵が備わる。何んの為?子供の転落防止?

白鷺公園
北に進み水路が東に曲がる角に白鷺公園。水路は東に曲がって水を溜めるが、古隅田川の流路は足立・葛飾区境に沿って北に進む。
水路を北に渡った角にステンレスに刻まれた「古隅田川と東京低地」の案内;
 ●古隅田川と東京低地
「古隅田川と東京低地: 東京低地は、関東諸地域の河川が集まり東京湾に注ぐ全国的にも屈指の河川集中地帯です。これらの河川によって上流から土砂の堆積作用が促され、海だったところを埋めていきます。
特に利根川は東京低地の形成に重要な役割を果しています。利根川が現在のように鬼怒川と合流し、その後千葉県銚子で太平洋に注ぐようになったのは、江戸時代初期に行われた改修のためです。
利根川は古くは足立・葛飾両区の間を流れる古隅田川、江戸川、中川が、その支流となり東京湾へ注いでいました。足立区と葛飾区が直線的ではなくて、なぜくねくねと曲がりくねっているのかと疑問をもたれる方も多いと思います。   実は古隅田川の流路が区境となっているからです。足立区と葛飾区の境は、歴史的に見ると古くは武蔵・下総国の境であり、それが現在まで受け継がれているのです。
古隅田川は足立区千住付近で入間川(私注;現在の隅田川)と合流し、現在の隅田川沿岸地域でデルタ状に分流しており、この付近に寺島・牛島などの島の付く地名が多いのは、その名残です。
現在のように古隅田川の川幅が狭くなってしまったのは、上流での流路の変化や利根川の改修工事によって次第に水量が減ってしまったせいです。今では、古代において古隅田川が国境をなした大河であったことをしのぶことはできませんが、安政江戸地震(1855年)が襲った際、亀有など古隅田川沿岸地域では液状化によって家屋、堰に被害が出たという記録が残っています。その原因は古隅田川が埋まってできた比較的新しい土地が形成されているためだそうです。   地震災害は困ったものですが、見方を変えれば古隅田川が大河であったことを裏つけているのです」とあった。

説明に「江戸川、中川がその支流となり」とあるが、中川は古利根川の東遷事業によって流路が変わった、旧流路跡利用して開削した人工の水路、江戸川も古利根川の流路変更に伴う水量調節のため上流部を人工的に開削し利根川と繋げた水路であり、「現在の江戸川、中川の流れる川筋」というのが正確かもしれない。
蓮昌寺板絵類
その傍には「蓮昌寺板絵類」の案内。「蓮昌寺には区指定文化財の木版彩色図(絵馬)が保存されています。記されている年代から、文久2年(1862)~昭和14年(1939)までの間に寄進されたことがわかります。
描かれている絵は、宗教関係の図が多く、そのほか、収穫図、能楽翁の図などがあり、蓮昌寺を中心とする信仰の形態を示す資料として重要です。 蓮昌寺は、正安2年(1300)創建と伝えられています」と。

蓮昌寺は公園から南に下ったところにある日蓮宗のお寺さま。元は道昌寺と称されたが、三代将軍家光が鷹狩の折、堂前池の蓮を愛で、蓮昌寺となった、とあった。

綾瀬駅
公園西端から綾瀬駅へと伸びる道路が足立・葛飾区境。公園から離れると水路の痕跡は全くない。綾瀬駅の高架を潜り、国土地理院地図(1896‐1909)」に記載される、北に弧を描いて進む水路跡を辿とうとするが、ビル群に阻まれトレースできず。
足立・葛飾区境
足立・葛飾区境は水路跡から離れ、駅の南側を東に進み、駅の北で弧を描いた水路が再び駅を南に下る地点で繋がり、そこから再び水路跡が区境となる。 それはいいとして、この区境が綾瀬駅の南側となった経緯など知りたいものだが、よくわからない。わかっているのは、元の綾瀬駅は現在より西、綾瀬一丁目37番にあったようだ。現在の位置に移ったのは昭和43年(1968)のこと、と言う。

東綾瀬親水公園
成り行きで歩いていると綾瀬駅の北口に繋がる広く細長い広場にあたる。水路跡のノイズを感じる広場に「東綾瀬公園」の案内があった;
「足立区は、かつて東京の米倉と言われるほど農業が盛んで、いたるところに水路が流れていました。ここ綾瀬地区一帯は稲作地域であり、都立東綾瀬公園のあたりには、上流から多くの水路が流れ込んでいました。
平成元年度、都立武道館の建設に合わせて、東綾瀬公園を大規模に改良することになり、東京都と足立区で協力してこれらの水路を親水公園として再生することになりました。
この水路は花畑川から流れる中居堀から分かれ、下流の八か村落し堀に合流します」とある。
あれこれチェックすると、花畑川から下った中居堀は東綾瀬公園の北にある「しょうぶ沼公園」を抜け、「中居堀せせらぎ公園」としてクランク状に東綾瀬公園と繋がり、そこで二手に分かれる。
東に分かれた水路は「東綾瀬温水プール」のある緑地を経て南に下り「八か村落とし親水緑道」に合流。西に分かれた水路は「東綾瀬せせらぎ水路」を経て東京武道館、そしてこの広い遊歩道に繋がる。その南は概略図ではっきりしないが、白鷺公園から東に延びる水路に繋がっているようだ。

先ほど、白鷺公園で、何故に旧隅田川筋でもないところに水路を通したのか、多分排水用であろう、とメモしたが、古隅田川筋を活用した東綾瀬公園の西側水路の排水を流しているように思える。
八ヶ村落堀・中居堀
八ヶ村落堀は江戸の頃、葛西用水から分水し綾瀬川に水を落とした長い灌漑用水路。中居堀は国土地理院地図(1896‐1909)」に花畑村から久右衛門新田、長左衛門新田へと田圃の中を下る水路が見えるがそれが中居堀だろうか。

水路跡は駅の高架下を通路で進む
ビルに消えた古隅田川の流路跡を追っかけると、線路高架にあたる。迂回するかと思ったのだが、そこには通路があり水路跡に沿って線路の南側に出る。

自転車置き場
南口に出た水路跡は、上述の如く再び足立・葛飾区境となる。駅南から水路跡はカーブで進むが、そこは自転車置き場となっている。当日自転車置き場は工事中であり、そこに残る橋跡は確認できなかった。
ちょっと気になったこと。自転車置き場は葛飾区。利用する駅は足立区。足立区民の生活基盤整備を葛飾区が担う?

北野橋
S字にカーブした自転車置き場の工事も消え、西から斜めに下る道と交差する箇所に「北野橋」の跡。少し東に綾瀬北野神社がある。

袋橋
次の通りとの交差箇所には「袋橋」。通りの西側に「袋橋公園」がある。自転車置き場はまだ続く。綾瀬駅の周囲には公園が多く整備されている。
先ほど東綾瀬公園を通ったとき、「北三谷土地区画整理組合之碑」があり、「昭和三十四年当時は二十数戸の農家と三十数戸の住家が点在する一集落で大部分は一望の農耕地で細い道が数條あるに過ぎなかった。時あたかも都心の膨張と住宅難の為、不健全無計画な不良住宅街となることを防ぐべく土地区画整理組合を設立し、健全な市街地を造成し公共の福祉の増進に寄与する 昭和四十一年」といったことが石碑に刻まれていたが、この区画整理事業は昭和34年(1959)~昭和44年(1969)に実施されている。この間に多くの公園も整備されたのだろうか。
北三谷土地区画整理組合
石碑には「当組合は旧北三谷町蒲原町普賢寺町の各一部を包含した約六十一万五千平方米の地域、とある。「国土地理院地図(1896‐1909)」には現在の東綾瀬公園辺りに北三谷、その北に蒲原、現在の綾瀬駅の南東に普賢寺の地名が載る。

富士見橋
次いでの通りとのクロス箇所には「富士見橋」。川の名は「古隅田川」ではなく、「元隅田川」となっていた。駅からいくつか橋が続いたが、「国土地理院1944-1954」までの地図には周囲は一面の田圃であり、道は見えない。「国土地理院1965-1968」には道が通る。上記区画整理事業は昭和34年(1959)~昭和44年(1969)されたとのことであるので、橋もその間に架橋されたのだろうか。

境田橋
その先は「境田橋」。自転車置き場はここで切れる。その先には三角に組まれたガードレールがあり、自転車置き場の左右に分かれた道はひとつに合わさり、住宅街を南に下る。

開渠
住宅の間の不自然に広い道を南に進むと堀にあたる。白鷺公園から東に延びた堀の東端となっている。
何故に旧隅田川筋でもないところに水路を通したのか、多分排水用であろう、とメモしたが、水路跡に残る橋跡を見るにつけ、古隅田川筋を暗渠として活用した東綾瀬公園の西側水路の排水を流している、との妄想に「確信」が出て来る。
これも綾瀬駅南の自転車置き場と同じであるが、足立区の区画整理事業で発生した排水処理を葛飾区が?駅も含めて、両区の間でなんらかの調整・取り決めでもあるのだろうか。ちょっと気になる。

親水公園風遊歩道
堀はここで切れるが、水路跡は親水公園風の遊歩道となって東に進み、都道314号にあたる。
都道314号
都道の案内に「川の手通り」とある。何故に?Wikipediaには「東京都道314号言問大谷田線(とうきょうとどう314ごう ことといおおやたせん)は、東京都台東区と足立区を結ぶ特例主要地方道。隅田川や荒川を横断し、浅草と綾瀬周辺を繋いでいる。
2013年に発足した「東京都通称道路名検討委員会」により、当初は「堀切通り」との通称が検討されたが、台東区側が「橋場通り以外の名称設定には強く反対する」と難色を示した事から、台東区域を通称の設定区間から除き、起点を白鬚橋西交差点に変更した上で「川の手通り」と名付けられた」とあった。あれこれ事情があるものだ。

随喜稲荷
都道を越えた水路筋に舗装道路に囲まれ、少々窮屈そうな小さな社が見える。「随喜稲荷」とあった。「随喜」とは仏教用語では「他人のなす善を見て、これに従い、喜びの心を生じること」を指すと言う。日本大百科全書には、「『法華経(ほけきょう)』では、この経を聞いて随喜し、教えを伝える功徳(くどく)を力説し、『大智度論(だいちどろん)』では、善を行った本人より、それを随喜した者のほうの功徳がまさっていると説いている。天台宗では滅罪の修行として懺悔(さんげ)する五悔(げ)の一つに数える」とある。
ささやかな境内には「富士」の姿が描かれた比較的新しそうな石碑があった。富士講と関係あるのだろうか。

綾瀬二丁目ふれあい公園
弧を描き北東に進む親水公園風の水路を辿ると、左手に綾瀬二丁目ふれあい公園がある辺りに四阿がありふたつ案内があった
出会いの川・古隅田川
石碑に刻まれた「古利根川流末関係図」とともに解説文:
「古隅田川流域は16世紀まで坂東太郎利根川の流末の一つで、広大な河川敷であったと考えられている。利根川が江戸に氾濫を及ぼすために、江戸時代初期から改修され、その本流を江戸川へ移し、さらに現在の流路に付け替えられて、鹿島灘へ注ぐようになった。
のち河道(古利根川)が中川として新宿(にいじゅく)地点から南流すると、それまで西流して隅田川へ注いでいた河道は干上がり、河底部が大きく蛇行して残ったが、これが古隅田川である。
かくして広大な川原は17世紀半ば頃までには、次々と新田が開かれ、新しい村々が誕生した。古隅田川がまだ大河であった頃は、武蔵国と下総国の国境で、そのため足立区側(淵江領)は武蔵一ノ宮の氷川神社を勧請して氏神とし、葛飾区側(葛西領)は下総一ノ宮の香取神社を氏神として祭り、その形態は今日まで及んでいる。
古隅田川南岸部に当たる亀有・小菅地区は利根川の運んだ土砂で自然堤防ができ、この砂州に中世期から村々が形成されていた。これらの古い村々からの文化が淵江領の新田へ寺院進出に伴って伝わっている。
淵江領の村々も、水戸街道に交通を依存していたから古隅田川に橋を架け葛西領に足を運んだ。古隅田川は、もと国境だったとはいえ、沿岸住民にとっては切っても切れない出会いの関係で結ばれていたのである」とあった。

この解説から、中川は乱流した古利根川の水路跡を利用して開いた人口の川であること、祭祀圏が古利根川を境にくっきり分かれていたことがわかる。ついでのことながら、鈴木理生さんの『幻の江戸百年(ちくまライブラリー)』には、この香取・氷川の二大祭祀圏に挟まれた元荒川の流域に80近い久伊豆神社が分布するとあり、久伊豆神社の由来、何故に二大祭祀圏の間に、など「謎」が多い社であることを思い出した。
また、「古利根川流末関係図」には、普賢寺村が綾瀬駅の上に記載されていた(「国土地理院地図(1896‐1909)」には綾瀬駅の南東にも普賢寺(村)と記されていた)。

上千葉遺蹟と普賢寺
「この遺蹟の発見は古く、寛永3年(1850)畑から壺とその中から古銭約1万5千枚が発掘されました。古銭は開元通宝・皇宋通宝・元豊通宝など中国からの輸入されたもので、壺は愛知県常滑で焼かれた13~14世紀の製品です。古銭出土地点周辺には「城口(錠口?)」「ギョウブ(刑部?)」「クラノ内」などの字名があることから付近に城館跡が存在していた可能性が高い地域です。
また、付近には治承4年(1180)の開基といわれる古城の跡に建立されたとする普賢寺が在ります。都史跡跡に指定されている鎌倉時代末期頃の宝篋印塔三基があり、葛西氏ゆかりのものと伝えられています。ここには、古隅田川を巡る歴史年表も印されている」とある。

普賢寺は南東の堀切三丁目に見える。また上千葉遺跡は中道公園の東側一帯(西亀有1丁目付近)のようだ。お寺さまの縁起より寺領が寄進された、とあり、その寺領が綾瀬駅周辺に分かれてあったということだろう。

常磐線手前・境四橋で暗渠となる

旭橋、境三橋と親水路風の水路を進む。河添公園手前に南新橋。住宅街を進んだ水路はここから道が狭くなり常磐線手前の道路と交差する箇所で暗渠となる。





境四橋の疑似親柱を境に暗渠となった水路は、常磐線を潜り、東京都立聾学校に沿って弧を描いて進む。
宿添橋、西隅田橋と暗渠は続き常磐線高架手前に隅田橋の疑似親柱が立つ。

西隅田橋の先にある下河原公園に、既に何度か目にした「古隅田川を巡る歴史」の案内があったが、ここでは割愛(重複するので「割愛」。と書いたのだが、省略するのに「愛」が必要?気になってチェックすると、元は「愛を断ち切る」という仏教用語。大切なものを思い切って省く、というのが本義のようである)。

区境は常磐線の南の道
足立・葛飾区境は常磐線を潜り、線路に沿って東に通る道となっている。とりあえず、区境を歩いたのだが、特に水路跡らしき痕跡は何もみつからなかった。道を進み都道463号と交差する地点で再び常磐線高架を北に潜り、都道463号の東から北に上る水路路跡に戻る。

古隅田川(足立区・葛飾区)総合案内
緑に囲まれたささやかな水路を一筋北に進むと東隅田橋傍に「古隅田川(足立区・葛飾区)総合案内」があった。万葉公園にあったものと同じであり記載は省略するが、プレートに刻まれた水路跡を見ると、常磐線の高架南が足立・葛飾の区境とはなっているが、水路は常磐線高架の北を通っていた。

北三谷三号橋・軍用金伝説の案内
水も切れた水路跡を郷乃二之橋、郷乃一之橋と北へと進み、水路跡がその流路を東に向ける辺り,北三谷三号橋傍に
「軍用金伝説」案内のプレートがある。
「古代から古隅田川は、武蔵国と下総国との国境をなすほどの大河でした。船の行き来も盛んで、人やものを運ぶ大切な交通手段でもありました。
この辺りは大きく曲がっているところから大曲と呼ばれ舟の舵の舵取りの難しいところとされていました。慶長18年(1613)2月の暴風の時に、この難所で1隻の船が沈没してしまいました。いつのまにか「沈没した船に軍用金が積んであった」という噂が広まり、明治に至るまで、軍用金探しが行われたそうです。しかし、発見されることなく近年の区画整理などのため、今ではその正確な場所もわからなくなってしまったそうです」と。

北三谷橋・蒲原村宿駅伝説
東に進む水路跡を法蔵寺橋、北稲荷橋と進むと、流路は北東に向かって上り北三谷二号橋、北三谷一号橋、北三谷橋へと進む。北三谷橋の先にある大きな通りは葛西用水の南端部曳舟川跡の道路である。
その通り手前に「蒲原村宿駅伝説」の案内;
「寛政6年(1794)出版の「四神地名録」に、「この土地の人のいい伝えに、古隅田川の北に添った蒲原村は、むかしの駅で今でも宿という地名が残っている。在原の業平が東下りした時「名にしおばいざこととはん都鳥我思ふ人は有りやなしや」と詠んだのは、この辺りではないか。今、隅田川と称している地は240~50年前は海だったから川があるはずがないという」とある。
その他の地誌にも、蒲原が古い駅路の宿だったかどうかを記しているものが多い。このため、治承4年(1180)源氏の再起を賭けて伊豆の挙兵、敗れて安房国に逃れた頼朝が再び鎌倉をめざして下総国から武蔵国に入った時、蒲原村に宿陣したという説が地元に根強く伝わっている」とある。

「今、隅田川と称している地は240~50年前は海だったから川があるはずがない」とは、墨田区の言問橋が在原業平の詠んだ上述の歌に由来するとの説を暗に否定しているのだろう。実際、言問橋にしても、業平橋にしても在原業平由来との説は定説とはなっていない。
ついでのことながら東武野田線・豊春駅近くに、現在は逆川となって残る古隅田川があるが、そこには業平橋とか、上記都鳥伝説が残っていたことを想いだした。

葛西用水・曳舟川水路跡
「北三谷橋・蒲原村宿駅伝説 」の東を南北に通る道路は葛西用水・曳舟川の水路筋である。いつだったかこの水路筋を歩いたことがある。利根川から取水し京成押上駅付近で北十間川に落ちる用水の歴史的経緯、その流路をまとめておく。
◆葛西用水
利根川東遷事業は新田開発をもその目的のひとつとしていた。東遷、また荒川の西遷事業により源頭部を失った旧利根川の廃路跡の湿地を新田開発とするわけである。他の多くの用水路と同じく、葛西用水もそのひとつである。
現在では行田市下中条の利根大堰(昭和43年;1968)で取水され、東京都葛飾区まで延びる大用水であるが、これははじめから計画されたものではなく、新田開発が進むにつれ、不足する水源を、上流へと求めた結果として誕生したものである。
葛西用水は慶長年間(1596~1610年)の亀有溜井、瓦曽根溜井の築造をもってその始まりとする。亀有溜井は綾瀬川の水を溜め葛西領の用水源となった。葛西から遠く離れた地で取水されるこの用水が葛西用水と呼ばれた所以であろう。 また、元荒川を堰止め瓦曽根溜井(越谷市)が造られ、そこから用水が引かれた。
寛永6(1629)年には、荒川の西遷が完了。しかし、その結果、元荒川、 綾瀬川の水量が激減し、瓦曽根溜井、亀有溜井が枯渇することになる。その対応として、庄内領中島(現幸手市西宿)で江戸川から取水し中島用水を開削し、大落古利根川に落とし、さらにその下流に松伏溜井を造り、その水を開削した逆川をへて瓦曽根溜井に送った、と(注;中島用水の記録が見つからず、流路ははっきりしないが、上記江戸川取水口から春日部市八丁目まで開削され大落古利根川に落とした、とのこと)。寛永8年(1631)には水不足に苦しむ亀有溜井へと水を通すべく葛西井堀(東京葛西用水)が開削し、瓦曽根溜井と亀有溜井が繋がった。
承応3(1654)年、利根川東遷が完了。万治3(1660)年、大落古利根川の上流域に、幸手領用水が開削される。利根川の本川俣村(現・羽生市)に圦樋を築き、用水路を開削し、川口村(現・加須市)に川口溜井を設け、その下流に琵琶溜井を築造。幸手領用水の余水を大落古利根川に落とし、下流の松伏溜井に水を送る。ここに、利根川から亀有溜井までの用水路はつながり、葛西用水の原型が出来上がった。
宝永元(1704)年、洪水により中島用水が埋没。このため享保4(1707)年には、幸手領用水を強化し、水源を江戸川に求める中島用水から松伏溜井への導水は廃止され、利根川の上川俣(現・羽生市)に切り替えた。ここに上川俣圦樋から亀有溜井 に至る葛西用水が成立することになる。
享保14(1729)年には亀有溜井を廃止し、小合溜井(葛飾区の水元公園辺り)が築造された。これにより、従来の松伏溜井から逆川、瓦曽根溜井を経由して葛西堀井(東京葛西用水;西葛西用水)を下る系統に加え、松伏溜井から二郷半領本田用水(東葛西用水)、小合溜井を経て東葛西領上下之割用水へと至る系統が加わることになる。また、宝暦4(1754)年に 上川俣の取水地点が廃止され、本川俣からの取水に宝暦4(1754)年に 上川俣の取水地点が廃止され、本川俣からの取水に戻った。
現在の流路;昔とそれほど大きくは異なっていないと思うのだが、その流路は武蔵大橋傍、行田市下中条で利根川の水をとり、埼玉用水路として利根川右岸を進み、かつての取水口である本川俣より南東に下り、東北自動車道加須ICの少し東、加須市南篠崎で会の川と合流(合流するが別水路で進み、会の川は中川に伏越で落ちる)。
南東に下る葛西用水は久喜市吉羽で大落古利根川に合流。そこから大落古利根川の川筋跡を下り、越谷市大吉の松伏溜井で大落古利根川を離れ、人工的に開削した逆川を抜け元荒川筋に水を落とし、越谷市西方の瓦曽根溜井で元荒川を離れ、葛西堀井(東京葛西用水)を亀有まで南下し、舟曳通りを流れた舟曳川筋を下り、京成押上駅付近で北十間川に合流する。
また、松伏溜井から二郷半領(吉川市・三郷市)として中川の東を小合溜井(水元公園あたり)まで下る流れもある。小合溜井からは「上下之割用水」として南西に下り、葛飾区新宿辺りで「小岩用水」を分ける。本流はそこから南に下り、曲金(現在の高砂辺り)で東井堀用水を分け、本流は更に南に下り現在の細田橋のあたりで西井堀用水と仲井堀用水を分ける。西井堀用水はそこから南東に一直線に下り、逆井の渡しの辺りで中川に合流する。これがおおよその流路であろう。

田光り観音
亀有駅の西に下る葛西用水・曳舟川筋の道路を越えると、水路跡は狭い民家の間を進む。水路跡の道はカラーの敷石風に造られている。2ブロックほど進みカラー舗装も切れた水路跡の道に「田光観音」の案内。
プレートには、「田光観音は足立区中川三丁目西光院にあり、自然木の中央に、約1mの長さで浮彫りにされた聖観音像で12年に1回牛年に大法要が営まれている。
今から約百数十年前、長右衛門新田5丁目耕地(現大谷田三丁目)で、作男が馬を使って耕作していると、馬がある場所まで来て必ず止まってしまう。不思議に思ってそのところを掘り返すと、中から大きな自然木がでて来た。その時は、気もとめず畦道によけて家に帰った。
それから毎晩、作男の夢枕に観音様が立ち、その姿が自然木に似ていることから、田に行ってこれを洗ってみると、夢の観音様と同じであった。驚いてその旨を主人に告げ西光院に安置したと言う。この木像は足立区登録有形民俗文化財である」とあった。

隅田子育地蔵尊の案内
環七を越えた水路跡は、民家の間の誠に狭い道筋を進むことになる。カラー舗装の道を数ブロック進むと「隅田子育地蔵尊」の案内。
「元禄年間、17世紀から18世紀に移ると、村々もうようやく豊になったとみえ、地蔵尊などの石造仏が村内各所に建てられるようになった。特に、村の境や追分には、悪疫の侵入防除、悪例退散などを目的に界地蔵が道祖神代わりに建てられた。
中川三丁目1の古隅田川岸にまつられた三体の地蔵尊は、足立・葛飾の村境であり、旧大谷田村道の追分三角地帯に建てられた典型的な界地蔵である。中央の大きな地蔵は「元禄元戌(1688)11月」の紀年が読み取れ、今日まで毎年8月24日に地域の子供を集めて子育地蔵祭りが催されている」とある。

水路跡の道は区境に沿って南に向かうが、子育地蔵尊の祠は、その水路筋の一筋東の通りに建つ(中川3-1)

玄恵井の碑
水路跡の道は、東京電力亀有変電所(中川3丁目)手前の民家の間を一直線に南に下る。常磐線の高架を潜り、更に細くなった道を進むと前が開け、Arioと書かれた大きなショッピングセンターが建つ。
その手前の広場に「玄恵井の碑」の案内。
「昔、亀有方面の井戸は水質が悪く「砂こし」をしなくては飲むことができないので村人は困っていました。このことを憂いた幕府鳥見役人水谷又助は、山崎玄恵という老人の助力を得、鳥見屋敷内に井戸を掘りました。幸いにも清水が井戸を満たしたので、村人はたいそう喜び、玄恵に感謝したそうです。 この碑は文化?年(1813)に、この清水が湧き出た日を記念して村人たちによって香取神社に建てられたもので、碑文は江戸時代の書史学者屋代弘賢によるものです」とある。

香取神社は広場のすぐ西側にある。案内の箇所には碑文は見当たらないが、香取神社境内に建つようである。

The Resident Tokyo East敷地内を進む
ショッピングセンターArioの脇を南に下った区境・水路跡は、ほどなく流路を南東に変えThe Resident Tokyo Eastと呼ばれるマンション群を南北に分けて進む。敷地を抜けられるかどうか不安であったが、ママ進み敷地を出る

中川に
水路跡はそのまま南東に進み、ほどなく中川の堤にあたる。取水口跡などないものかと分流点辺りを彷徨うが、折あしく分流点辺りは工事中で、それらしき痕跡を見つけることはできなかった。
小菅から辿った古隅田川水路跡散歩もこれでお終い。利根川から下る旧利根川流路跡散歩は現時点でやっと久喜辺りまで進んだばかり。まだ先は長い。この地に繋がるのはいつのことだろう。
先日来、旧利根川流路を辿ろうとしている。手始めに、利根川東遷事業のはじまりともなった会の川・川俣締切跡を下ったのだが、そのきっかけとなったのがこの古隅田川散歩である。

国土地理院今昔マップ首都1896-1906
とある週末、これといって歩きたいところが思い浮かばない。で、地図を眺めていると気になる箇所が目についた。足立区と葛飾区の区境が不自然に入り組んでいるのだ。いつだったか日暮里から三ノ輪そして隅田川に架かる白鬚橋まで、音無川跡を歩いたことがあるのだが、その川筋跡は荒川区と台東区の境となっていた。
とすれば、この足立区と葛飾区の区境の不自然、というか、川筋をもとにすれば自然と言うべきではあろうが、ともあれ、両区境も川筋では?とチェックすると、それは古隅田川の流路跡であった。
「流路跡」というフレーズには故なく惹かれる我が身である。それではと古隅田川跡を辿ったわけだが、散歩の途中での案内で、古隅田川は旧利根川流路であることを知った。正確に言えば、知ったというか、忘れていたのである。

古隅田川に出合ったのはこれが最初ではない。これもいつだったか春日部市の東武伊勢崎線・豊春駅近くで出合ったことがある。現在春日部市南平野辺りから北東に進み、春日部市梅田辺りで大落古利根川に合流する古隅田川は、旧利根川の流路であり、現在は逆川として北東に進むこの古隅田川の流れは、かつては逆方向、つまりは、梅田で大落古利根川から別れ、現在の流れと逆方向、南西に下って元荒川に注いでいた。
その流れは、下りて中川筋との合流を経て、常磐線・亀有の南東辺りから足立区・葛飾区の境を進み、隅田川に注いていた、といったことをメモしていたのだが、すっかり忘れてしまっていたのだ。

 国土地理院 今昔マップ 首都1917-24(荒川放水路工事中時期)
この古隅田川の流れは、旧利根川が江戸に下る南端部であった。で、古隅田川散歩をしながら、どうせのことなら旧利根川の流路を北から下り、古隅田川と「繋げよう」と前述会の川・川俣締切跡から下りはじめたのだが、なにせ遠い。会の川筋を歩いただけで、現在「小休止」中。
これでは古隅田川に届くまでに結構時間がかかりそう。どうもそれまで古隅田川散歩の記憶を保ち切れそうもない、といった齢故の記憶力の事情もあり、旧利根川流路散歩の途中ではあるが、とりあえず古隅田川散歩のメモを挟み込むことにした。

●古隅田川の隅田川合流地点は?
足立区・葛飾区の境を画する古隅田川の流路を辿る前に、古隅田川が隅田川に合流する辺りを歩こうと、あれこれチェックする。水神社とも称される隅田川神社の北辺りで隅田川に合流した、といった記事が多い。国土地理院地図(1896‐1909)にも「水神社」の表示があり、その北で水路が隅田川から切れ込んでいる。
とはいうものの、その切れ込み箇所に繋がる明確な水路跡はなにもない。古隅田川跡らしき水路はすべて、かつての綾瀬川に注ぎ、そこで途切れているように見える。
現在の綾瀬川は葛飾区堀切4丁目にある小谷野神社あたりから、人工的に開削された荒川放水路に沿って南東へと下っているが、荒川放水路(明治44年(1911)着工、大正13年(1924)完成)が開削される以前の綾瀬川は、真っすぐ南下し、現在京成・堀切駅脇で、荒川放水路と隅田川を繋ぐ「旧綾瀬川第二運河」の通る水路筋を下り墨田川に合流している。
国土地理院地図(1896‐1909)の地図には、明治20年(1877)創業の鐘ヶ淵紡績が記されている。工場は現在の墨堤通りの東西に分かれて建ち、「思い込み」で見れば工場の間の通りを辿れば、水神社の水路切れ込み箇所に届くのだが、それが水路跡との確証はない。

古隅田川散歩のルートを想うに、水神様から歩きはじめてもいいのだが、隅田川神社や木母寺辺りは以前歩いたこともあり、結局古隅田川流路を辿る散歩は「国土地理院地図(1896‐1909)」に水路跡が記された、旧綾瀬川に古隅田川の水路が合わさる近く、東武スカイツリーライン線・堀切駅北の堀切橋辺りを古い隅田川の最下流点とし、そこから流路跡を遡ることにする。



本日のルート;
堀切橋へ
千代田線・北千住駅>柳原寺前の通りを荒川放水路堤防に>東武スカイツリーライン線と交差>京成本線と交差>千住汐入大橋>墨堤通り>綾瀬橋>東武スカイツリーライナー線・堀切駅>堀切橋
正覚寺に
瀬川>小谷野神社>正覚寺
■東京拘置所西側向かう
小菅神社>第六天排水機場>水戸橋>八幡社>小菅西小学校>東京拘置所>差入店>拘置所柵に沿って案内板が立つ>小菅稲荷神社>東京拘置所前交差点>古隅田川の水路


■堀切橋へ■
千代田線・北千住駅
地図で東武スカイツリーライン線・堀切駅辺りへと続く水路跡を想う。駅の東、柳原2丁目の柳原寺前に、如何にも水路後といった、弧を描いて進む通りがある。これが古隅田川跡であろうと、成り行きで柳原寺に向かう。

「国土地理院地図(1896‐1909)」に見る古隅田川
メモの段階で古隅田川跡をチェックする:かつての綾瀬川に注ぐ古隅田川の流路を「国土地理院地図(1896‐1909)」でチェックすると、常磐線・亀有駅の南東から足立区・葛飾区の境を「小菅監獄」まで進んできた流れは、小菅監獄の西側を南下し、後に荒川放水路として開削される川筋の中央部まで進む。そこから現在の首都高速環状線のルートに沿って、というか、おなじルートを小菅ジャンクション手前まで東に蛇行し、ジャンクション手前で弧を描いて西に向かい、柳原2丁目に進む。その川筋は、如何にも水路跡といったカーブを描く柳原寺前の通りのようである。
地図には後に開削される荒川放水路のど真ん中を下るもの、柳原寺前の通りの一筋東を、南西に向かって下るものなどいくつもの水路跡が見られるが、なんとなく柳原寺前の通りが古隅田川跡だろうと思い込む。

柳原寺前の通りを荒川放水路堤防に
如何にも水路跡といった風情で弧を描く、柳原寺前の通りを荒川放水路に向かう。堤防に立ち、宅地の中を進む水路跡の通りや荒川放水路の対岸の荒川小菅緑地公園を眺める。
iphoneにブックマークしている「今昔マップ」の「国土地理院地図(1896‐1909)」でチェックすると、古隅田川は弧を描いて堤防に達した後、荒川小菅緑地公園まで東に向かい、小菅水再生センター辺りで半円を描きながら正覚寺へと向かい、首都高速小菅ジャンクション手前で流路を変え、高速道路のルートに沿って折り返し、再び荒川放水路の真ん中まで戻り、そこから小菅監獄の西塀に沿って北に向かっている。

東武スカイツリーライン線と交差
堤防から通りに戻り、東武スカイツリーライン線・堀切駅へと向かう。弧を描く道を進むと京成スカイツリーライン線と交差。アンダーパスが異常に低い。桁下高さ1.7mとある。
東武スカイツリーラインとはかつての東武伊勢崎線。東京スカイツリーの開業に伴い、スカイツリーラインと改称されたようだ。それはそれでいいのだが、「国土地理院地図(1896‐1909)」には東武線と記載されている。東武伊勢崎線の開業が明治32年(1899)と言うから、「国土地理院地図(1896‐1909)」とはいいながら、この地図は明治32年(1899)以降ということになる。

京成本線とクロス
東武線を越えると今度は京成線のアンダーパスを潜る。京成線の手前に小祠があり、その脇に橋の親柱を飾る擬宝珠が置かれている。「国土地理院地図(1896‐1909)」には京成本線は描かれていない。京成電鉄の第一期開業区間である押上・柴又間の開業は明治45年(1912)であるから当然であるが、「国土地理院地図(1896‐1909)」を見ると千住町から東に向かった道が、この辺りで柳原に向かって北に上るが、その曲がり角で道が水路と交差している。この擬宝珠は、そこに架かっていた橋のものだろうか。
なお、水路は緩い南向きの弧を描いて東に進み、小菅水再生センター辺りで古隅田川から分岐し南に下る水路と堀切橋辺りで合わさり、少し下って旧綾瀬川に合流しているように見える。
堀切
堀切の地名の由来は、葛西一族の館を囲む濠からとのこと。とはいえ、館跡も濠跡も見つかってはいないようだ。

千住汐入大橋
京成線・堀切駅に向かう途中、ちょっと寄り道して隅田川を見に南に下り千住汐入大橋に。護岸整備された対岸の汐入公園の向こうに東京スカイツリーが屹立している。
汐入
いつだったか南千住から汐入地区を歩いたことがある。そのときの「汐入」のメモ;戦国期の南千住のあたりの地図を眺めてみると、浅草から橋場・石浜に隅田川(当時は、入間川)に沿って砂州・微高地がある。同様に、現在の千住大橋・素盞雄(スサノオ)神社近辺にも砂州が認められる。が、その内側は千住大橋から三ノ輪を結ぶ線より東は入り江状態。その線より西は三河島のあたりまでは泥湿地帯となっている。源頼朝が浅草・石場から王子へと平家討伐軍を進めるに際し、小船数千を並べて浮橋とした、というのも大いにうなずける。 江戸以前、南千住の一帯は、入間川(隅田川)沿いに堆積した砂州を除き、ほとんどが水の中・湿地帯であった、ということだ。汐入と称される所以である。

墨堤通り
千住汐入大橋から隅田川左岸を進み、隅田川と荒川放水路を繋ぐ旧綾瀬川第二運河手前、マンションとタクシー会社(東京交通自動車〈株〉)を都道461号に抜ける。マンション敷地で通り抜けできないかと思ったのだが、そこは地図には「墨堤通り」表記されていた。
墨堤通り
墨田区吾妻橋から足立区千住桜木まで、隅田川に沿って走る。吾妻橋東詰めから隅田川の堤を通り、向島5丁目辺りで都道461号(二本並行して走る)を京成線・関屋に。京成関屋から隅田川の流路と並行に進み、荒川に架かる西新井橋手前の千住桜木町に至る。
墨堤通りという以上、往昔は隅田川(荒川とも入間川とも)の土手を通る道筋ではあったのだろう。向島5丁目で二本走る都道461号の内側の道筋、そしてこのマンション脇を進む道筋は川に面している。更には京成線・関屋から先の道筋は、いつだったか歩いた掃部堤の道筋のようだ。
掃部堤
掃部堤」は隅田川、と言うか、昔の荒川・入間川の堤防。名前の由来は、この堤を築いた石出掃部介(かもんのすけ)、より。
石部掃部介は小田原北条の遺臣。江戸時代にこの地に移り、新田を開発。場所は、元の隅田川・荒川の堤であった熊谷堤(旧区役所通りにあたる:掃部堤の内側を斜めに通る)と掃部堤に囲まれた一帯。掃部堤もその新田・掃部新田を水害から防ぐため築かれたものであろう。
往時は高さ4mもあったと言われる掃部堤であるが、削平され現在は墨堤通りとなっている。
墨堤の桜
墨堤といえば桜が有名である。墨堤の桜は四代将軍家斉が常陸国・桜川の桜を移植したのがはじまり。その後八代将軍吉宗が100本の桜を植える。当時は桜並木の桜を愛でるというより、屋敷に咲く桜木を愛でるのが普通であり、当時としては画期的なことであったようだ。
場所は水神社のあたり。現在のように三囲神社あたりまで桜並木ができたのは明治の初期、1880年代になってからのこと。明治も中頃となると、桜並木も荒れていたようだが、大倉財閥の当主・大倉喜八郎などの尽力により、現在に至る、と。明治の頃まではヤマザクラ、現在はソメイヨシノが大半を占める、とか。

綾瀬橋
旧綾瀬川第二運河に架かる綾瀬橋を渡る。散歩の当日は何故に「綾瀬橋」?などと思いながら首都高速6号向島線の高架に覆われた橋を渡ったのだが、前述の如く荒川放水路が開削される以前の旧綾瀬川が隅田川に注ぐ水路であるとメモの段階でわかり、納得。

東武スカイツリーライナー線・堀切駅
綾瀬橋を渡り運河左岸を荒川放水路方面に向かう。荒川放水路と運河を遮る隅田水門手前の跨線橋を渡り運河右岸に戻り、東武スカイツリーライナー線を跨ぐ人道橋を渡り堀切駅に。

堀切橋
堀切駅のすぐ前の堤防を北に進み、荒川放水路に架かる堀切橋を渡る。「国土地理院地図(1896‐1909)」を見ると、古隅田川が旧綾瀬川の水路に合流している。地図でトレースできる古隅田川の最下流部。やっと想定した散歩始点にたどり着いた。
次の目的地は荒川放水路を渡った先にある正覚寺。「国土地理院地図(1896‐1909)」にある古綾瀬川の川筋にお寺のマークがある。


■正覚寺に■

綾瀬川
橋を渡り、荒川放水路に沿って下る綾瀬川に架かる橋を渡る。この水路は荒川放水路開削に伴い、下流部を切られた旧綾瀬川を荒川放水路に沿って新たに開削した水路ではあろう。ただ、その水路は「国土地理院地図(1896‐1909)」に古綾瀬川と記される水路と重なる。古綾瀬川?ちょっと混乱。
いつだったか草加を歩いたとき、古綾瀬川を歩き、そのとき、「中・下流域では流路定まることなし、といった古綾瀬川ではあるが、それでもその流路としては、一筋は足立区花畑あたりから東に向かい松戸の近くで江戸川に注ぎ、もうひとすじは水元公園あたりから中川筋(といっても中川筋開削以前の古利根川)に下っていた。その流路を江戸の頃、東武スカイツリーライン線・新田駅の少し北、蒲生大橋あたりから小菅まで直線化工事を行った」とメモした。
「国土地理院地図(1896‐1909)」には直線化工事を行い隅田川に注ぐ本流水路を「綾瀬川」、隅田川合流点手前で本流から分岐し、下って中川に合わさる水路を、何故かは知らねど、「古綾瀬川」としている。何故だろう?疑問は解けず。

小谷野神社
綾瀬川に沿って水戸橋の西にある正覚寺へと向かう。北に向かうと綾瀬川堤防下を通る道路わきに小谷野神社がある。境内にあった由来を刻む石碑に拠れば、元は当地、小谷野村にあった稲荷社。元禄10年(1697)には既に存していたことが記録に残る。地名が堀切となるに伴い、小谷野の旧名を残さんと昭和45年(1970)に小谷野神社と改称された。
境内入口に祀られる三峯、水天宮は元々綾瀬川が隅田川に合わさる箇所にあったもの。荒川放水路開削に伴い、三峰社は現堀切橋際に、水天宮は隅田川水門際に移され、後さらにこの地に遷座した。
葛飾区のHPに拠れば、小谷野は奥州平泉の豪族小谷野氏の出身地故といわれるが、定かではない。小谷野氏の出自云々はともあれ、この地からは室町時代の板碑が所在しており、古くから人が住んでいたようである。

正覚寺
綾瀬川を覆う中央環状線の高架を見遣りながら、高速が南北に分かれる小菅ジャンクションで新水戸橋を渡り綾瀬川右岸に向かう。東京拘置所西側を南に下ってきた古隅田川が現在荒川放水路となっている水路の真ん中で東に折れ、中央環状線に沿って綾瀬川の水路辺手前まで進んだ後、南西に弧を描きこのお寺様の辺りを通り、そこから先は直線に進み、先ほど辿った荒川放水路右岸・柳原の土手に向かう。
「国土地理院地図(1896‐1909)」に拠れば、弧を描く水路のほとんどが現在の小菅水再生センターの敷地内を進むが、再生センター東の正覚寺は古隅田川水路傍に表示されている。水路跡が残るとも思えないが、とりあえずお寺様を訪ねる。
境内に入る。落ち着いた趣のお寺さまである。結構造作が新しいのは、高速道路と水再生センター工事に際し、本堂・客殿・庫裡等一切新築され、ためではあろう。
境内にあったいくつかの案内を大雑把にメモ:
正覚寺と日本最初の公立学校
「正覚寺と日本最初の公立学校」には、「真言宗正覚寺は常照山阿弥陀院と号す。本尊阿弥陀如来像は慈覚大師作と言う。開山は開山和尚安心の没年が文禄元年(1592)であるから、室町末期と推察される。
境内には「とげぬき地蔵」という古い石地蔵が安置される。水戸街道の北側にあったものを、大正4年、荒川放水路開削にともない移された。「とげぬき」は「罪(とが)抜き」から。小菅監獄から出所時、この地蔵に願をかけると「罪」を抜くことができたため、いつしか「とがにき」から「とげぬき」になった、と。
このお地蔵さまには「きられ地蔵」の伝説も伝わる。元禄の頃、この地蔵の付近に美女が現れ旅人を悩ますとの噂。参勤交代でこの地を通る水戸光圀が地蔵の首を一刀のもと切り離す。首はそれ以降行方不明となり、正覚寺で首を据え付ける。後に寺の近くで首が掘り出されたため、正覚寺で箱におさめ供養している。「首切り」の話はともあれ、地蔵堂の水舎に元禄年年間の銘があり、光圀とのなんらかの関連がなきにしもあらず」、との説明に続き、「もうひとつの珍しい史実」として、以下の説明が続く。
「明治2年、この地に小菅県庁が置かれる。県庁では政府の出した府県学校取調局の令に基づき、正覚寺本堂内に「小菅仮学校」という、わが国最初の公立の学校を設ける。当初は県庁役人を対象としたが、希望者には管内の一般町村民の入学も許す。但し、民間の入学者は稀であった。
この学校は隣の千住宿の慈眼寺にも分校を設けたが、明治4年の廃藩置県で県庁とともに廃校となり、明治6年の学制発布で青砥学校(区立亀有小学校)や勝鹿学校(区立新宿小学校)が設立され、生徒の大半はそちらに移る」と。
「聴聞規則」
更にこの公立学校の「聴聞規則」が続く;
「「聴聞規則」は本邦初等教育史上貴重な資料であるが、内容は旧態依然とした封建制そのものであったことがうかがい知れる。
当県仮学校当分小菅村正覚寺ニ相定候事
一 六ノ日 定休 四月十九日 会議ニ付昼後休
二 七ノ日 未ノ刻ヨリ小学講釈
諸役人出席下民といえども聴を許す但朝索読質問勝手次第
三 八ノ日 未ノ刻ヨリ牧民志告心鏡
庁内之諸役人必ズ出席すべし其他有志輩聴聞勝手たるべし但し朝前同断
四 旧ノ日 未ノ刻ヨリ孟子輪議
庁内之諸役人壮年之ものは必ズ出席すべし老幼の輩は勝手次第たるべし但し朝前同断
五 十ノ日 未ノ刻ヨリ千住四丁目慈眼寺小学講話
御用村用当二而小菅表へ出合候村人小前ども必ず出席すべし
若し怠り候もの来れは郷宿向き取調之上、正覚寺二止宿いたさせ教諭を加う其他四方之民人老若とも出席聴聞することを欲す
知事判事之内取締として時々出席すべし其他諸氏聴聞勝手たるべし但し朝前同断
明治二年 小菅県」とあった。

下民とか小前(江戸時代の小農民をいい,「前」は身分とか分限の意。一般に耕地や宅地を所持し年貢を負担する本百姓をすべて小前,小前百姓といった。また村役人級の大高持 (大前) に対して,一般の百姓あるいは水呑百姓のような零細な困窮農民をさすこともある(「ブリタニカ国際大百科事典」)などの表現や講義内容を指しての封建的とののとだろうか。
尚、「朝前同断」は、「朝は前と同じだ」との意味だろうか。ということは、その前に記されている、朝索読質問勝手次第を指すの、かと。

同じく境内にあった「史跡 県立小菅学校の跡」には「学制発布以前の公立学校として、都下教育史上貴重な遺跡」とある。学制発布は明治5年(1872)であるので、その3年前に設立されたということである。
小菅正覚寺念仏結衆地蔵像
「この地蔵像は念仏結衆を願う兵左衛門と同行衆によって建立されたものです。光背の向かって右には「寛文元天(1661)。。。」、左には「念仏結衆本願兵左衛門同行廿一人」と刻まれ、供養を行う集団を「念仏結衆」と記しています。
17世紀中頃以降は、「同行集団」とあらわすことが多くなるのですが、この地蔵像には「結衆」と「同行」が併記されています」とあった。

結衆と同行はほぼ同義で用いられ、地蔵(庚申)像などに「同行卅七人敬白」などと刻まれることもある。これは37名の結衆が地蔵(庚申)供養のため造立と読み替えるわけだが、このお地蔵さまには結衆と同行が併記されている、ということだろう。


■東京拘置所西側向かう■

水路跡も水再生センターの敷地の中となるので、この辺りの散歩は終わりと、次の目的地、古隅田川の流路である東京拘置所の西側に向かう。お寺さまから新水戸橋に戻りその一筋北の水戸橋に向かう。

小菅神社
水戸橋に向かう途中、道の左手に社がある。新水戸橋交差点から一段低い通路を抜けて進むと小菅神社に。明治2年()、小菅県が出来た際、県庁内(現東京拘置所)に県下356町村の守護として伊勢の皇大神宮を勧請するも、明治5年に小菅県所管の葛飾72ヶ村などが東京府に移管するに際し小菅村の田中稲荷社に移す。明治42年小菅神社と改称し、田中稲荷は摂社となる。境内には田中稲荷社が祀られていた。

第六天排水機場
小菅神社を北に向かうと右手に第六天排水機場が見える。その裏手に目的の古隅田川の水路が足立・葛飾区境に沿って続くのだが、とりあえずは先ほど訪れた柳原堤防から先に続く水路跡が、荒川放水路で寸断された箇所である東京拘置所西側から古隅田川を「遡上」すべく、右手の水路は後のお楽しみとする。

水戸橋
第六天排水機場のすぐ北、水戸橋を渡った西詰めに「水戸橋跡地」の案内がある。
水戸佐倉道
「前方に延びる道は、東海道など五街道に附属する水戸佐倉道です。この街道は日本橋を出発点とする日光街道の千住宿(足立区千住)から分かれ、常陸国水戸徳川家の城下をつなぐ道でした。途中、新宿(葛飾区新宿)では、下総国佐倉に向かう佐倉街道と分かれました。
これらの街道は、土浦藩や佐倉藩等が参勤交代に使う重要な道でした。享保10年(1725)八代将軍吉宗が、大規模な狩りを小金原(千葉市松戸)で行った際、水戸橋で下船して水戸佐倉街道を通行した記録が残されています」とある。

日光道中千住宿で分かれ、水戸まで29里、おおよそ122km、19の宿場で繋ぐ 流路定まらぬ低湿地であった江戸近郊の低地を抜ける水戸佐倉道は、河川改修や新田開発で江戸の近郊農村として野菜などの食料供給地となり、その物資の往来だけでなく、生活も豊かになった江戸の庶民の行楽地への往来としても使われるようになる。成田山、国府台帝釈天木下川薬師半田稲荷へとこの橋を渡って向かったのだろう。

橋名:みとはしの由来
「地元に伝わる話によると、その昔、水戸黄門(光圀)一行が旅の途中、小菅村に出没する妖怪を退治しました。 その妖怪は、親をならず者に殺され、敵を討とうとした狸でした。 子狸が退治されそうになった時、近くのお地蔵様が身代わりとなりました。 その事実を知った光圀は、後の世まで平穏となるようにと自ら筆をとり、傍らの橋の親柱に「水戸橋」と書き記したと伝わっています。 また、水戸橋下流の正覚寺には、身代わりとなったといわれているお地蔵様が安置してあり、お堂前の水舎には元禄10年(1697)の銘があります」。正覚寺云々は前述のとおり。
水戸橋・橋台の石組・綾瀬川
「ここに組まれた石組みは、江戸・明治時代から桁橋の水戸橋を支えてきた橋台を受け継いだものです。この構造は、皇居(旧江戸城)内濠に架かる木造橋である平川橋に名残を見ることができます。
水戸橋が本格的な橋として架橋された年は定かではありませんが、江戸初期の寛政年間(1624-1644)と考えられています。
水戸橋が架かる綾瀬川の開削については、「西方村旧記付図」(越谷市立図書館)に、寛永年間に匠橋付近(足立区)から小菅(葛飾区)を経て、隅田川合流地点まで掘替えた記録があります」、と。

蛇行する綾瀬川の直線化工事は、代官伊奈氏により足立郡内匠新田(足立区南花畑)から葛飾郡小菅(小菅)に、流量を調節すべく新たに水路を開削した。 その後、五街道制定にともない、寛永7年(1630年)に草加宿の設置が決まる。これに合わせ、天和3年(1683年)に蒲生大橋(東武伊勢佐木線新田駅の北東)辺りから九十九曲がりと称され、千々に乱れる綾瀬川の流路の直線化工事を行った。直線化工事とは、この蒲生大橋から古綾瀬川との合流点辺りまでの一直線になった綾瀬川の区間のことであるが、上記解説は、伊奈氏による開削工事を指すのだろう。

八幡社
水戸橋から綾瀬川にそって北に向かうと二基の石灯籠と石造りの小祠がある。地図にある鳥居のマークが不釣り合いなほどのささやかな社である。 脇にあった案内:
「八幡社とタブの木の大樹について 小菅の水戸橋付近、綾瀬川沿いに「八幡社」と大きなタブの木がありました。昭和30年代に造られた「小菅音頭」の歌詞の中にも「月もおぼろの八幡社」と歌われています。この社と大きなタブの木は、綾瀬課川のふちにあって舟の往来や行き交う人々を見守ってきました。 由緒などは不明ですが、『水戸佐倉道分間延絵図』に記載されている古い社で、棟札により元禄十三年(1700)第五代将軍綱吉に仕えた柳沢吉保によって、小菅御殿内の鎮守として再興されました。第八代将軍吉宗の時代(1740年頃)の小菅御殿古図には「八マン」と記載され、鳥居の図が示されています。
このあたりは「八幡山」と呼ばれ、小菅一丁目では一番の高台でした。綾瀬川・古隅田川に囲まれた小菅付近は昔からたびたび洪水に見舞われてきましたが、昭和以降の大洪水にも水に浸かることはなかったと言われています。小菅一丁目に大きな被害をもたらした昭和三十四年の伊勢湾台風の際にも八幡社に多くの人々が避難したと伝えられています。
大切に守ってきたこの社は、今般水戸橋の架け替えに伴い、旧社殿は取り壊され、新しい石造りの社として再建されることになりました。平成二十二年」とあった。

解説とともにあった往昔の写真には、綾瀬川を上る船と鬱蒼とした鎮守の森が見える。まだ護岸工事が実施されていない。綾瀬川の改修・護岸工事は大正9年(1920)から昭和5年(1930)にかけて行われたといった記録もあるので、それ以前の風景だろうか。
このときは解説にある小菅御殿が現在の東京拘置所の辺りにあったなど、知る由もなかった。事前準備なしの散歩は何が出てくるかわからず、後の祭りも多いが、それ以上に偶々の出合いが多く、この基本方針(単に面倒だ、というだけとも言えるが)はやめられない。

小菅西小学校
八幡の小祠の南の道を西に向かうと小菅西小学校にあたる。正門脇の敷地内に案内があり、「小菅銭座跡」とある;
「小菅銭座跡 葛飾区小菅一丁目25番1号小菅西小学校
小菅銭座は安政6年(1859)、江戸金座の直轄で、幕府の財政窮乏と銅相場急騰のため、前例のない鉄小銭を鋳造する場所として設置されました。小菅銭座の中心部は、江戸時代初期には伊奈氏下屋敷、江戸時代中期には鷹狩のための御殿から幕府の所有地・小菅御囲地となり、江戸時代後期には災害に備えての小菅籾蔵と変遷を辿った場所の一角で、現在の西小菅小学校付近にあったとされます。
万延元年(1860)には前例のない鐚銭といわれる粗悪鉄銭である四文銭を小菅で鋳造しました。最盛期の慶応年間の鋳造職人は232人を数えましたが、慶応3年(1867)にその役割を終えました。
今その頃の様子を示すものはほとんど残っていませんが、昭和25年(1950)までは銭座長屋といわれた建物が残っていました。かつて水路があった場所には、銭座橋の橋跡が残り、貨幣史関係の資料として今に伝えています。
上に小菅御殿は現東京拘置所辺りとメモしたが、この小学校あたりまで敷地であったようだ。

東京拘置所
道なりに北に進むと東京拘置所にあたる。モダンな造りの建物である。チェックするとWikipediaに、「1997年改築工事が開始、1999年には「小菅刑務所・管理棟」が日本の近代建築?選に選定、2003年中央管理棟・南収容棟、2006年北収容棟が完成」とある。
なるほど、近代建築20選に選ばれるような建物か、と思ったのだが、選定された建物は敷地内に残る戦前の建物とのことであった。衛星写真で見ると、中央の管理棟にヘリポートがあり。そこを中心に、南北にV字の収容棟が延びており、その西側にそれっぽい建物が見えた。
拘置所と刑務所
ところで、上に東京拘置所と記したが、ここにくるまで小菅刑務所と思っていた。明治12年(1879)小菅に東京集治監が設置され、明治36年(1903)小菅監獄と改称、大正11年(1922)小菅刑務所となったが、その小菅刑務所は栃木の黒羽刑務所に移ったようだ。
その経緯は、巣鴨にあった東京拘置所が、昭和20年(1945)、連合軍総司令部(GHQに接収され、所謂巣鴨プリズンとして戦争犯罪人の収容所となる。そのため、東京拘置所が小菅刑務所に一時的に同居。平和条約締結(1952年)にともない、巣鴨プリズンは日本に移管。巣鴨に東京拘置所が復する。
その後首都圏整備計画の一環として昭和46年(1971)、東京拘置所が巣鴨から小菅刑務所の地に移り、それにともない小菅刑務所は栃木に移った、と。小菅は、受刑者を収容する刑務所の機能から、未決囚を収容する拘置所にその機能を変えた、というのが正確かもしれない。因みに、巣鴨の東京拘置所跡地はサンシャイン60の辺りである。
拘置所に懲役受刑者?
Wikipediaで東京拘置所の収容者の項目を見ていると、収容定員3,000名、未決拘禁者(刑事被告人)、死刑確定者(死刑囚)、懲役受刑者(本所執行受刑者及び他刑務所への移送待ちの一時執行受刑者)を収容する、とある。未決拘禁者1,281(女性75)、懲役受刑者は696名(女性43)といった記事もみかけた。
未決拘禁者はいいとして、また、刑務所への移送待ちの受刑者もいいとして、拘置所に受刑者?チェックすると、本所執行受刑者とは懲役受刑者ではあるが、刑務所に送られることなく、この拘置所に留まり簡易作業を行う受刑者のことのようだ。「刑務所」より「拘置所」のほうが、イメージがいい(?)。刑務官に「分類」された刑の軽い人達なのだろう。

差入店
面会者出入口の道路を隔てた向かいに「池田屋 差入店」とある。当日はシャッターの閉まったお隣と二軒が指定差入点とのことである。普段見ることのない用語ではある。

拘置所柵に沿って案内板が立つ
柵に沿って古隅田川の流路のある東京拘置所の西側に向かうと、柵の前にふたつの案内板があった。
東京拘置所と煉瓦工場
明治維新後に籾倉施設が利用され「小菅県庁舎・小菅仮牢」となり、廃県後は払い下げられ、民営によるわが国初の洋式煉瓦製造所が設立されました。
明治五年二月二十六日、和田倉門内の旧会津藩邸から出火した火災により、銀座・築地は焼け野原と化します。政府の対応は速く、三十日には再建される家屋のすべてが煉瓦造りとされることが決定されます。煉瓦造りの目的は建物の不燃化をはかるだけでなく、横浜から新橋に向かって計画されていた日本最初の鉄道の終点に、西欧に負けない都市を造りあげようという意図もありました。 明治五年十二月、東京府はその製造を川崎八右衛門にまかせることを決定、川崎はウオートルスに協力を依頼し小菅に新式のホフマン窯を次々と設置し生産高を増していきます。
明治十一年内務省が敷地ごと煉瓦製造所を買い上げ、同地に獄舎を建て「小菅監獄」と命名(明治十二年四月東京集治監)、西南戦争で敗れた賊徒多数が収容され、煉瓦製造に従事し、図らずも文明開化を担っていきました。東京集治監で養成された優秀な煉瓦技能囚が全国各地に移送され、各地の集治監で製造されることになる囚人煉瓦の最初でもありました。
小菅で製造された煉瓦は、銀座や丸の内、霞ケ関の女王であるレンガ建築の旧法務省本館、旧岩崎邸、東京湾の入口に明治時代に建造された海上要塞の第二海堡等に使われ近代日本の首都東京や文明開化の象徴である煉瓦建物造りに貢献してきたのです」
小菅御殿と江戸町会所の籾倉
東京拘置所の広大な土地は、寛永年間(一六二四年~一六四三年)徳川家光が時の関東郡代伊奈半十郎忠治に下屋敷建設の敷地として与えた土地(十万八千余坪)で、当時はヨシやアシが茂り、古隅田川の畔には鶴や鴨が戯れていました。十数代にわたり代官職にあった伊奈氏が寛政四年(一七九二)に失脚するまでの間、八代将軍吉宗の命により遊猟時の御善(私注:膳?)所としての「小菅御殿」が造営された場所でもありました。
寛政六年(一七九四)に取り壊された小菅御殿の広大な敷地の一部に。天保三年(一八三二)十二月江戸町会所の籾倉が建てられました。その目的は大飢饉や大水、火災などの不時の災害に備えたもので、老中松平越中守定信の建議によるものでした。
深川新大橋の東詰に五棟、神田向柳に十二棟、ここ小菅村に六十二棟、江戸筋違橋に四棟の倉庫を建て、毎年七分積金と幕府の補助金とで買い入れた囲籾が貯蔵されていました。小菅に建てられた理由は、江戸市街と違い火災の心配が少ないこと、綾瀬川の水運の便がよかったこと、もちろん官有地であったことも条件の一つであったろうといわれています。
小菅社倉の建物は敷地が三万七百坪、この建築に要した費用は三万八千両、まもなく明治維新となり、この土地はすべて明治政府に引き継がれました」と。

なんの予備知識もなく、とりあえず古隅田川の流路へと向かうために偶々出合った東京拘置所であるが、関郡代の下屋敷、将軍家の小菅御殿、江戸町会所の籾倉、文明開化の象徴ともいえる「煉瓦」工場と、いくもの歴史のレイヤーが見えてきた。行き当たりばったりの散歩の妙である。

小菅稲荷神社
ふたつの案内板のある道を隔てた対面に赤い鳥居の小さな稲荷の社がある。 案内には「小菅稲荷神社と「小菅御殿の狐穴」」とある:
「小菅稲荷神社は小菅御殿の鎮守として小菅御殿内に祀られていましたが、昭和に入り現在の地に移されたと伝えられます。稲荷神社の使い「狐」が御神体の両脇を固めています。狐が穀物の神である宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)の使いになったのは、一般には宇迦之御魂神の別名が「御饌津神」(みけつかみ)であったことから、ミケツの「ケツ」が狐の古名「ケツ」に想起され、誤っ「三狐神」と書かれたためと言われています。
そして狐の習性(山から下りて実る稲穂を狙う害虫を食べて小狐を養う)が、古来の日本人の目には、繁殖=豊作として結びつき、狐が田の先触れ、五穀豊穣、稲の豊作を知らせる神の「お使い」として人々に定まっていきます。日本各地に「神の使い」狐の伝説が残されています。
小菅稲荷神社には「使い姫」の伝説が残されています。本殿の裏、こじんまりした庭の石山の根元には二つの穴があります。小菅御殿があった当時、将軍様の御逗留の際に不意の敵襲に備え、無事に御殿外に脱出できるよう空井戸を利用した抜け道があったと言います。
この抜け道を明治時代に入り不用なものとして埋めふさいでしまったところ、御殿跡地の政府の施設では事故が相次いで発生しました。ある夜、心痛した偉いお役人の夢枕に一匹の城狐が現れ、「私はいにしえからこの小菅稲荷の「使い姫」として空井戸に棲んでいた狐一族の長老であるが、この程我らの住居を埋められ大変難渋しておる。速やかに穴を元に戻すように」と言い残して消えました。
そこで、速やかに穴を元に戻した結果、ぱったりと事故が起こらなくなったといいます。当時のものを模した「狐の穴」は本殿の裏にちゃんと残されています」とあった。

社にお参りを済ませ、本殿裏の狐の穴をみようとしたのだが、本殿は頑丈に施錠されており、入ることはできなかった。道端から見た、本殿裏の竹の下にあるのだろうか。

東京拘置所前交差点
道を西に進み首都高速中央環状線と合わさる交差点に。交差点南には「保釈金 お立替えいたします」といった「非日常的」な看板。北には東京拘置所入口。知らず写真を撮っていたら守衛さんに制止された。撮影禁止のようだ。
旧小菅御殿石灯籠
拘置所入口左手、敷地内に案内板が立っている。「旧小菅御殿石灯籠」とあり、案内板左手に石灯籠が見る。案内には:
「旧小菅御殿石燈籠 所在地;小菅1丁目35番地
現在の東京拘置所一帯は、江戸時代前期に幕府直轄地を支配する関東郡代・伊奈忠治の下屋敷が置かれ、将軍鷹狩や鹿狩りの際の休憩所である御膳所となりました。その後元文元年(1736)7月に小菅御殿(千住御殿)が建てられました。 寛政4年(1792)小菅御殿は伊奈忠尊の失脚とともに廃止され、敷地は幕府所有地の小菅御囲地となりました。御囲地の一部は、江戸町会所の籾蔵や銭座となり、明治時代に入ると、小菅県庁・小菅煉瓦製造所・小菅監獄が置かれました。
旧小菅御殿石燈籠は、全高210cmの御影石製で、円柱の上方に縦角形の火袋と日月形をくりぬき、四角形の笠を置き宝珠を頂いています。もとは刻銘があったと思われますが、削られて由緒は明確ではありまえん。旧御殿内にあったとされるこの石燈籠は、昭和59年(1984)に手水鉢・庭石とともに現在地に移されました 葛飾区教育委員会」とあった。

脇には「石灯籠について」とする、東京拘置所による手書きの案内もあり、同様の解説が記されていたが、小菅御殿は奥州諸侯の送迎にも供されたこと、九代家重公御世継時代の養生所等にも使われたこと、明治12年の小菅監獄の敷地が7万坪に及ぶものであったこと、石灯籠は江戸初期の作、といったことが付け加えられていた。

古隅田川の水路
東京拘置所の西側、堤防手前の道路と拘置所の柵に囲まれて親水公園といった風情の水路がみえる。古隅田川の水路筋を利用した公園である。荒川放水路開削により流路断ち切られ、ために、一筆書きに進むことのできなかった古隅田川の流路であるが、ここから先、中川からの分岐点までは、足立区と葛飾区の境をひたすら進むことになる。
流路断ち切られたが故に、彼方此方へと大廻りし、ために、なんの知識もなかった小菅の地の歴史について、結果的には多くのことを知り得たのだが、メモが多くなってしまった。
今回のメモはここで終え、次回は足立・葛飾区境を「一筆書き」に進み中川までをメモすることにする。


日光街道・千住宿散歩の2回目は北千住の千住本宿のあったあたりからはじめ、宿場を越えて昔の幕府天領・淵江領の村々を北に進み東京都足立区と埼玉の境を流れる毛長川に進もうと。途中関屋の里へと大きく寄り道をしたり、奥州古道の道筋をかすめたりと、ゆったりした散歩を楽しんだ。


本日のルート;北千住駅>森鴎外旧居橘井堂森医院跡>勝専寺>本陣跡>千住本氷川神社>伝馬屋敷跡>水戸街道分岐>甲良屋敷跡>西光院・牛田薬師>安養院>下妻道分岐>大川町氷川神社>千住新橋・荒川放水路>川田橋交差点>石不動>赤不動>梅田神明社>梅田掘>佐竹稲荷>環七交差>国土安穏寺>陣屋跡>鷲神社>増田橋跡>保木間氷川神社>十三仏堂>大曲>水神社>毛長川

北千住駅
北千住駅を西に下りる。駅前の商店や家屋が密集する一角に金蔵寺。三ノ輪の浄閑寺と同じく千住宿の遊女が眠る。千住宿はここ千住本宿と南千住近辺の小塚原・中村町といった千住新宿(下宿)を含め戸数350、住民数1700名弱。そのうち遊女(食売女)は50から70軒の食売旅籠に150人ほどいたと、言う。なんだか、なあ。

森鴎外旧居橘井堂森医院跡
日光街道へと道なりに進む。と、都税事務所脇に案内。見ると、「森鴎外旧居橘井堂森医院跡」。偶然出会った。鴎外旧居とはいうものの、正確には鴎外の父の家。維新後、津和野より上京し向島の小梅村をへて、この地に居を構えた。東大医学部を卒業し、軍医官となった鴎外が、ドイツ留学するまでここから陸軍病院に通ったところ。鴎外の家って、本郷団子坂の観潮楼が知られるが、それはドイツから帰国後のことである。

勝専寺
旧日光街道跡に戻り、少し東に進み勝専寺に。赤い三門ゆえに、「赤門寺」とも。この寺の千手観音が、千住の名前の由来、とか。13世紀とも14世紀とも定かではないが、ともあれ隅田川から拾い上げられたもの。浅草・浅草寺の観音縁起もそうだが、観音さま、って、川から拾い上げられるのが、有難いパターンであったのだろう、か。
境内にある閻魔堂の「おえんま様」は、その昔、藪入りで休みをもらった小僧さんで賑わった、と。閻魔って梵語で「静息」の意味。地獄さえ安息する、ということから、藪入休日と結びついた信仰だった、と(『足立の史話』)

本陣跡
再び旧街道筋に戻り北に進む。駅前の賑やかな商店街である。北に進み、北千住駅から西に、先回の散歩で訪れた千住龍田町交差点へと進む道筋を越えたあたりに本陣跡がある、と言う。ちょっと辺りを見渡すが、それっぽい案内は見つからず。
本陣って、なんとなく有難そうではあるが、身入りは良くなかった、と。そもそもが、御大名の参勤交代は、食料什器、寝具から風呂おけ、漬物樽に至るまで、すべて持参。本陣は宿賃をもらうだけ。その宿賃も安く、中には無料で宿を供することもあり、準備の割には身入りが少なかった、と言う(『足立の史話』)。

千住本氷川神社
千住3丁目へと。街道筋を少し東に入ったところに氷川神社。千住本氷川神社。この神社、
元々は北千住の東、墨堤通りを東に進み京成牛田駅、関屋駅あたり、牛田薬師で知られる西光院の近くにあった、よう。で、江戸時代に牛田氷川神社あたりの地域がこの千住3丁目に移転。ために、この地に分社。荒川神社と呼ばれた、と。その後、荒川放水路建設のため
牛田にあった氷川神社がこの地に移り合祀された。境内の古い社がそれ。新しい社殿は昭和45年に建てられたもの。

伝馬屋敷跡
北に進み千住4丁目に入る。このあたりまで来ると商店街も途切れ、ちょっと静かな屋並みとなる。と、いかにも昔風の家屋。家の前に案内板。横山屋敷、と。昔の伝馬屋敷跡。伝馬とは、幕府の公用の往来に供する人馬のこと。伝馬屋敷は、その宿役である、伝馬役、歩行役(人足役)を担った家のこと。一定の税を免除されるかわりに、その宿役を行った、と言う。この横山家は地紙問屋であった、とか。

水戸街道分岐
横山家の筋向いに人だかり。「かどやの槍かけだんご」とある。つつましやかなお店ではある。街道からちょっと東に入り、長円寺とその隣の氷川神社におまいりし、街道に戻る。十字路脇に石碑。「水戸海道」とある。日光街道はこのまま先に進むが、水戸街道はここで日光街道と分かれ東に折れる。交差点を東に進む細路が、それ。葛飾の新宿、松戸、小金をへて国道6号線筋を水戸に向かう。
荒川放水路を前にし、水戸街道分岐点で少々迷う。このまま日光街道を先に進むか、水戸街道を折れ北千住駅の東側の風景を眺めるか。とくに、先ほど千住本氷側神社で「出会った」、牛田の西光院が気になった。そこには石出帯刀の墓がある、と言う。伝馬町牢屋敷の長官。また、牛田の地は関屋の里。京成関屋駅、東武牛田駅がそのあたりだと。西光院も駅の近くにある。江戸の散歩の達人、村尾嘉陵も西光院・牛田薬師を訪ねている。それは行かずば、と言うことで、少々大回りとはなるが、関屋の里と石出帯刀ゆかりの地を巡るにことにする。

甲良屋敷跡
水戸街道跡の細路を東に向かう。ほどなく地下鉄千代田線、そして東武伊勢崎線のガードをくぐり、北千住駅の東側に。道なりに牛田・関屋の駅へと南に下る。足立学園の東を進む。と、南に巨大な空き地。JTの跡地。東京電機大学のキャンパスができるよう。北千住西口の東京芸大、東口の電機大と、北千住は大きく動いている。
電機大学キャンパス予定地の東に千寿常東小学校。このあたりに甲良屋敷があった、とか。甲良氏とは江戸城や日光東照宮の造営をおこなった江戸幕府の作事方大棟梁。その別荘がこの地にあった。一万坪といった大規模なお屋敷。現在は殺風景な工事現場のシールドが続くが、往古、風光明美なところであったのだろう。

西光院・牛田薬師
道なりに進み東武伊勢崎線の牛田駅、そしてすぐ隣の京成線関屋の駅に。周辺は北千寿住駅周辺の再開発とは別世界の「昭和」の雰囲気が色濃く残る。ちょっと前までの千住地区って、こういう街並みであった、かと。
東武線と京成線の間の道を進み、京成線のガードをくぐり、都道314号線を越え東武伊勢崎線堀切駅方面に。住宅の密集する一角に西光院・牛田薬師があった。
お江戸の散歩の達人、村尾嘉陵の『江戸近郊道しるべ』に「牛田薬師・関屋天神手向けの尾花」という記事がある。この牛田薬師や、今は千住仲町に移った関屋天神を訪ねている。風光明媚な地に遊んだのだろう。
悠々自適の隠居のお坊さん・十方庵がたっぷりの余暇を生かし江戸近郊を散策し表した『遊暦雑記』には、牛田を愛でる記事がある。「此の双方の堤(掃部堤、隅田堤)の眺望風色言わん方なく、なかんづく遥かに南面すれば綾瀬川のうねりて、右に関屋の里を見渡す勝景、天然にして論なし(『足立の史話』)」、と。想えども、描けども、その景観は現れず。 
西光院は山号・千葉山。本尊薬師は千葉介常胤の守護仏、と。千葉介常胤、って上総権介広常とともに源頼朝の武蔵侵攻の立役者。頼朝は常胤を「師父」と称した、ほど。由緒あるお寺さまである。
で、石出帯刀。常胤の流れ、と言う。小伝馬町牢屋敷の牢屋奉行。明暦の大火のおり、牢屋を開け放ち、猛火から収監者を救った。囚人の戻りを信じてのこと、と言う。牢屋奉行と言うので、結構強面の人を想像していたのだが、国学者としても有名で、晩年はこの地で著作に没頭した、と(『足立の史話』)。

養院
荒川を目前に、なんとなく気になった牛田・関屋の地もカバーし、早足で水戸街道分岐点まで戻る。分岐点を北に進む前に、分岐点の少し西にある安養院に。根拠はないのだが、板橋にしろ、鎌倉にしろいままで訪ねた安養院って、雰囲気いいお寺様であった。で、このお寺は鎌倉時代、北条時頼によって創建。千住で最古のお寺様。元はこの地の西、元宿(千住元町)にあり長福寺と呼ばれていたが、この地に移り安養院となった。

下妻道分岐
分岐点に戻り、街道跡を北に。ほどなく道は二つに分かれる。接骨で名高い名倉の総本家の少し手前である。分岐点を直進する道は昔の下妻道。北に進み、五反野の駅から流山を経て水戸徳川家ゆかりの地・下妻に続く。
日光街道は左に折れる道。西北に大きくカーブし千住新橋をクロスし、荒川に架かる千住新橋の少し上流、川田排水機場あたりに続く。現在、荒川が流れているが、この川は人工放水路。明治からはじまり昭和5年に完成したわけで、日光街道の往還賑やかなりし頃は、その姿、影もなし。

大川町氷川神社
道を進み荒川堤防手前に。川を渡る前に少し西、堤防脇にある氷川神社に。ここは、いつだったか、竹の塚から奥州古道に沿って下ったときに訪れたことがある。西新井橋を渡り、軒先をかすめるがごとく、って有様の千住元町を通り、元宿神社におまいりし大川町のこの氷川神社を訪ねた。
もとは現在地より北にあったものが、荒川放水路工事のため大正4年(1915年)現在地に移された。境内の浅間社も同じあたりから移されたもの。ちなみに、元宿の元宿神社も同じく荒川放水路工事のために移された。土手下で、なんとなく窮屈な感じがする。
浅間社脇には富士塚も残る。富士信仰の名残り。富士山は古来神の宿る霊山として信仰の対象となっていた。富士山参詣による民間の信仰組織がつくられていたのだが、それが富士講。とは言うものの、誰もが富士に行ける訳でもない。で、近場に富士山をつくり、それをお参りする。それが富士塚である。
散歩の折々で富士塚に出会う。葛飾(南水元)の富士神社にある「飯塚の富士塚」や、埼玉・川口にある木曾呂の富士塚、狭山の荒幡富士塚など、結構規模が大きかった。富士講は江戸時代に急に拡大した。「江戸は広くて八百八町 江戸は多くて八百八講」とか、「江戸にゃ 旗本八万騎 江戸にゃ 講中八万人」と。
境内に「紙漉歌碑」。足立区は江戸時代から紙漉業が盛ん。地漉紙を幕府に献上した喜びの記念碑。浅草紙というか再生紙は江戸に近く、原材料の紙くずの仕入れも簡単、地下水も豊富なこの足立の特産だった。

千住新橋・荒川放水路
大川町氷川神社を離れ、千住新橋に戻り荒川を渡る。この荒川は人工の川である。昔、荒川の本流は隅田川へと下る。が、隅田川は川幅がせまく、堤防も低かったので大雨や台風の洪水を防ぐ ことができなかった。江戸の頃、上流で荒川の流路を西に移し、入間川の川筋に流すようにしたためである。ために、暴れ川・荒川の水が入間川をへて下流の隅田川へと押し寄せる。
これを避けるため、明治44 年から昭和5年にかけて、河口までの約22km、人工の川(放水路)を作る。大雨のとき、あふれそうになった水をこの放水路(現在の荒川)に流すことにした、わけだ( 上で、現在の隅田川の名前を荒川と言うべきか、入間川というべきか、ということで、「隅田川(荒川・入間川)」といった表記にしたのは、こういった事情である)。

放水路建設のきっかけは明治43年の大洪水。埼玉県名栗で1,212mmの総雨量を記録。荒川のほとんどの堤防があふれ、破堤数十箇所。利根川、中川、荒川の低地、東京の下町は水没した。流出・全壊家屋1,679戸。浸水家屋27万戸、といったもの。
荒川放水路の川幅は500m。こんな大規模な工事を、明治にどのようにして建設したのか、気になり調べたことがある。その時のメモ;第一フェーズ)人力で、川岸の部分を平 らにする。 掘った土を堤防となる場所へ盛る。第二フェーズ)平らになった川岸に線路を敷き、蒸気掘削機を動かして、水路を掘る。掘った土はトロッコで運ばれて、堤防 を作る。第三フェーズ)水を引き込み、浚渫船で、更に深く掘る。掘った土は、土運船やポンプを使い、沿岸の低地や沼地に運び埋め立てする。浚渫船がポイン トのような気がした。
荒川放水路工事でもっとも印象に残ったのは青山士(あきら)さん。荒川放水路工事に多大の貢献をした技術者。明治36年、単身でパナマに移 り、日本人でただひとり、パナマ運河建設工事に参加した人物。はじめは単なる測量員からスタート。次第に力を認められ後年、ガツンダムおよび閘門の測量調 査、閘門設計に従事するまでに。明治45年、帰国後荒川放水路建設工事に従事。旧岩淵水門の設計もおこなう。氏の設計したこの水門は関東大震災にも耐えた 堅牢なものであった。
業績もさることながら、公益のために無私の心で奉仕する、といった思想が潔い。無協会主義の内村鑑三氏に強い影響を受けたと される。荒川放水路の記念碑にも、「此ノ工事ノ完成ニアタリ 多大ナル犠牲ト労役トヲ払ヒタル 我等ノ仲間ヲ記憶セン為ニ 神武天皇紀元二千五百八十年 荒川改修工事ニ従ヘル者ニ依テ」と、自分の名前は載せていない。2冊ほど伝記が出版されているよう。晩年の生活はそれほど豊 かではなかった、と。ちなみに、日露戦争において学徒兵として最初に戦死した市川紀元二はお兄さん、とか。

川田橋交差点
千住新橋北詰を左に折れ、堤防上を進む。右手下に川田橋排水場を見ながら、善立寺あたりで堤防を降りる。川田橋交差点。川もなにもない。昔の千住掘本流が流れていた名残り、かと。見沼代用水を水源とする千住掘はここから大川町の氷川神社のあたりに下り、中居掘となる。そこからは元の区役所前を流れ牛田で隅田川に落ちていた。旧日光街道は川田橋から千住掘にそって北に進む。

梅田
荒川を渡れば千住から梅田となる。昔は淵江領梅田村。現在は荒川の堤防が聳え、家屋が軒を連ねる住宅街ではあるが、昔は野趣豊かな一帯であった。「のどかさや 千住曲がれば野が見える」とは正岡子規の句。新編武蔵野風土記稿には「当村(梅田村)は往古は海に沿えたる地。後寄洲となりて開けし故、淵江村と唱えり」と。湿地や深田が目立つ一帯であった、と(『足立の史話』)。

石不動
湿地中の縄手(田圃の中の一本道)といった街道を想いながら先に進む。縄手とはいいながら、街道は5間と定められていたようだし、そうであれば幅9m。結構広い。ともあれ、街道を北に。ほどなく道脇に小祠。石不動。まことにつつましやかなお堂。耳の病に効能あった、とか。お堂の扉にかかる竹筒は、願が成就したときにお礼にお酒を入れてここに奉納した、と。

赤不動
お堂の脇にある「八彦尊道」の道標を目印に左に折れ、八彦尊のある赤不動・明王院に向かう。道なりに西に向かって500mほどすすむと赤不動。境内に八彦尊の祠。子育てと咳病みに効能あり、と。赤不動の由来は、本尊であるお不動様のある不動堂が赤く塗られていた、から。で、このお不動さんは弘法大師の作とする。縁起は縁起、とはいうものの、回向院で出開帳(でがいちょう)が開けたくらいだから、まことに有難い仏様であったのだろう。幕府の御朱印寺でもあった。
この寺の歴史は古い。源頼朝の叔父である志田先生(せんじょう)義広が源家の祈願所として一宇を立てたことにはじまる。志田三郎義広はその後、木曽義仲に従い転戦、宇治川の合戦で敗れ伊賀に敗走、その地で果てる。
その後、義広の子孫がこの地に戻り、寺脇に天神様を勧請。紋所である「梅」ゆえに、梅田の姓に改めた。梅田の地名の由来、と言う。
ちなみに、赤不動が出開帳をおこなった回向院は墨田区両国にある。全国のお寺の秘仏を公開する出開帳(でがいちょう)の寺院として大いに賑わったお寺。幕末までの200年間に計160回の出開帳(でがいちょう)を実施。出開帳を主催する寺・「宿寺」として日本でナンバーワンの実績。あと、深川永代寺、浅草・浅草寺と宿寺ランキングが続く。ちなみに、江戸出開帳の中でも、圧倒的集客を誇ったお寺・秘仏は京都・嵯峨清涼寺の釈迦如来、善光寺の阿弥陀如来、身延山久遠寺の祖師像、成田山新勝寺の不動明王の四つと『観光都市江戸の誕生:安藤優一郎(新潮新書)』に書いていた。出開帳はビッグビジネスでもあった、とか。

梅田神明社
赤不動を離れ道なりに北に向かう。ほどなく東西に神明通り商店街の道が通る。この昔の王子道に沿って梅田神明神社。江戸時代、禊教の祖、井上正鉄(まさかね)が神明社の神職をしていた。天保の頃、と言うから19世紀のはじめのことである。「吐菩加美神道」という名前ではじまったこの神道は、一般庶民から幕閣の中にまで大きな影響を与える。その勢いに幕府は、倒幕運動のおそれあり、と。井上正鉄は三宅島に流罪、その地で病没した。

梅田掘
王子道を西に進み遍照院や稲荷神社におまいり。稲荷神社の先を北に折れる。この通りは昔の梅田掘の跡。梅田掘を西掘とも呼ぶるのは、梅田の西の端、関原との境を流れていた、から。道脇に立つマンションの敷地も、もとは池であった、とか。梅田の低湿地帯を思い描く。道の西は関原。先回、竹の塚から奥州古道を南に下ったときに訪れた関原の関原不動尊大聖寺は目と鼻の先。オビンズル様が懐かしい。

佐竹稲荷
道なりに先に進み、成り行きで右に折れ旧日光街道筋へ戻る。旧街道の少し手前に佐竹稲荷神社。構えはささやかではあるが、小さな鳥居の連なりは、それなりの趣が残る。この地は往時、一万坪にも及ぶと言われる秋田藩・佐竹氏梅田抱屋敷跡。抱屋敷とは上屋敷や下屋敷といった幕府から拝領された屋敷ではなく、秋田藩が私的に購入したもの。上屋敷って、上野の近く、元の三味線掘のところにあったわけで、場所も比較的近い。ここで野菜などをつくっていたのだろう、か。
もっとも、足立のこのあたりって、佐竹氏と縁のある地ではある。足立の北東、花畑の大鷲(おおとり)神社が、それ。つながりは平安の昔、佐竹公の遠祖と言われる新羅三郎の伝説まで遡る。後三年の役で戦う兄、八幡太郎義家を助けるために奥州に向かう途中、この社に立ち寄り戦勝祈願。凱旋の折には武具を献じた。これがきっかけとなり、その後、遠祖ゆかりの神社ということもあり、改築などを佐竹藩が行っている。神社の紋も佐竹氏と同じ「扇に日の丸」と言う。
この大鷲神社は浅草の「お酉さま」発祥の地。お殿様も屋形船に乗り綾瀬川を遡り、お酉さまに詣でた、と。「常はかじけたる貧村といへども、霜月の例祭の日は諸商人五七町の間畷側に居ならび天地もなく振ふ様は、市といへど左ながら町続のごとし、依て酉の市を転語して酉の町といひならはせしもしるべからず(『十方庵遊歴雑記』)」、といった雑踏の中、佐竹のお殿様も縁日を楽しんだのだろう。こういった縁もあり、この地に抱え屋敷をもったのだろう、か。空想では、ある。ちなみに、酉の市の賑わいの一因、というか主因は「賭博」公認にある、と。賭博が禁止されると、この地のお酉さまは急速に元気を失った、とか。

環七交差
旧日光街道筋に戻る。先に進むと東武伊勢崎線・梅島駅。このあたりの地名、梅島は梅田と島根に挟まれた地故に、「梅」田+「島」根>梅島、と。地名でよくある、足して弐で割る、といったもの。
先に進むと道脇に「大正新道記念碑」。千住で鴎外の書いた「大正道記念碑」もそうだが、道づくりの記念碑が目につく。大正の頃、低湿地に新道がつくられ、このあたりが開かれていったのだろう、か。記念碑から100mほどで環七にあたる。

国土安穏寺
環七を越えると島根に入る。島根の由来。古くは島畑村と。島畑とは水田の中に点在する畑のこと。また、文字通り、島、というか微高地の根っこ・水際、とも。先に進むと、「将軍家御成橋」の碑。日光街道はこのあたりでは、道の西側は千住掘、東側は竹の塚掘りが流れていたわけで、この橋は千住掘にかかる橋。左に折れると、葵の紋を許された御朱印寺・国土安穏寺への御成り道となる。
もとは妙覚寺。将軍の鷹狩り・日光参詣の御膳所。葵の御紋を授けられたきっ かけは、あの宇都宮の釣り天井事件。三代将軍・家光、日光参拝の折りこの寺に立ち寄る。住職の日芸上人より、「宇都宮に気をつけるべし」。で、家光、宇都 宮泊を取りやめる。公儀目付け役が宇都宮城チェック。将軍を押しつぶすべく仕掛けられた釣天井を発見。宇都宮城主は二代将軍秀忠の第三子国松(駿河大納言 忠長)の後見役・本多正純。家光を亡きもの にして国松を将軍にしようと陰謀をはかったといわれている。日芸上人によって九死に一生を得た家光は、妙覚寺に寺紋として葵の御紋を。寺号を「天下長久山 国土安穏寺」とした。ちなみに、釣り天井事件の真偽の程不明。本多正純を追い落とす逆陰謀、といった説も。
落ち着いたいい雰囲気のお寺様。これで2度目ではあるが、今回は本堂の建て替え工事の最中であった(2009年9月)。

陣屋
国土安穏寺を西に進む。T字路に。直ぐ南に立派な枝ぶりの松が門前にある御屋敷。もと名主の御屋敷。陣屋跡と言うことで、どこの旗本の陣屋かと、などと思ったのだが、どうも八幡太郎義家が陣を置いたところ、とか。
それにしても今回歩いた道筋には義家とその父・頼義親子ゆかりの地が多い。荒川区南千住1丁目の円通寺>南千住6丁目の若宮八幡>南千住8丁目の熊野神社>足立区千住宮元町の白旗八幡>島根の陣屋。そして、ここから北は先回、といっても数年前の散歩で出会った六月3丁目の炎天寺>竹の塚6丁目の竹塚神社>伊興の白旗塚と実相院>花畑の大鷲神社、などなど。その時は、なんと同じ類の伝説が現れるものよ、などとメモした覚えがあるが、よくよく考えれば、このゆかりの地を繋げば、これって奥州古道の道筋、かと。伝説も見方を変えれば、違った世界が見えてきた。

鷲神社
陣屋から北に進む。古の奥州古道跡を歩いていると、思い込む。成り行きで東に進み旧街道に戻る。島根鷲神社の看板。街道から少し西に寄り道。文保2年(1318年)武蔵国足立郡島根村の地に鎮守として創建され、大鷲神社と唱えたと伝えられる。島根村は現在の島根・梅島・中央本町・平野・一ツ家などの全部または一部を含む大村。村内に七祠が点在していたが、元禄の頃、 このうち八幡社誉田別命、明神社国常立命の二桂の神を合祀し三社明神の社として社名を鷲神社に定めたという。花畑の大鷲神社も立派だったが、鷲の宮町の鷲神社がいかにも鷲神社の本家本元といった風情があった。この鷲神社もそこから勧請されたものであろう、か。

六月
鷲神社を越えると昔の淵江郷島根村を越え淵江郷六月村に入る。六月村と言えは、日光街道の西に炎天寺や八幡さま、西光院、常楽寺、万福寺といった神社仏閣が連なる。奥州古道沿いに集落が開けていたのだろう。この寺町は以前歩いたことがあるので、今回はパス。日光街道を一路北に進む。昔は六月村の街道のどこかに一里塚があった、はず。「一里塚。日光海道の左右に対して築けり。塚上に榎を植置けり」と風土記にある一里塚も、今はその場所不明。

増田橋跡
南北に短い元の六月村を越えると次は元淵江郷竹の塚村。竹の塚3丁目交差点に。ここから西北に続く道は赤山街道。川口の赤山にある関東郡代・伊奈氏の陣屋・赤山陣屋に続く道。散歩の折々に出会う名代官の家系の陣屋跡を訪ねたのは数年前。緑に囲まれた赤山城址は落ち着いた、いい雰囲気であった。
竹の塚3丁目交差点は往古、増田橋のあったところ。赤山街道に沿って南側を千住掘、北側を竹の塚掘が流れていた。どちらも赤山の先から続く見沼代用水を水源とする用水である。千住掘はこの交差点で道なりに曲がり、日光街道の西側を下る。竹の塚掘は日光街道を横断し、一部はそのまま東に、残りは街道の東側を南に下る。街道を横断する竹の塚掘にかかっていたのが増田橋であった。五差路となっている竹の塚3丁目交差点には、その面影は、今は、ない。

江郷保木間村
北に進む。竹の塚駅一帯は以前の散歩で歩いた。竹の「塚」の地名の由来でもある、伊興の古墳跡も印象に残る。寺町、見沼代用水跡に造られた親水公園など思わぬ見どころも多く、再び廻ってみたいのだが、今回はパス。
北に進む。ほどなく旧竹の塚村を離れ淵江郷保木間村に入る。地名の保木間は、もともとは「堤や土地の地滑りを防ぐ柵」のこと。一面の湿地帯を開拓し集落をつくったときに、集落を護るこの柵のことを地名とした、のだろうか。「ほき」は「地崩れ」、「ま」は「場所」、と。

保木間氷川神社
竹の塚5丁目交差点を越えると淵江小学校。その手前に東に折れる細路。流山道とも成田道とも呼ばれる古道跡。東には花畑の大鷲神社や成田さん、西には西新井のお大師さんに続く信仰の道。少し歩くと氷川神社と宝積院。同じ境内といった風情。いかにも神仏習合といった名残を残す。点前の境内を進み氷川神社に。
保木間地区の鎮守さま。もと、この地は千葉氏の陣屋跡。妙見社が祀られていた。妙見菩薩は中世にこの地で活躍した千葉一族の守り神。千葉一族の氏神とされる千葉市の千葉神社は現在でも妙見菩薩と同一視されている。菩薩は仏教。だが、神仏習合の時代は神も仏も皆同じ、ってこと。
後に、天神様をまつる菅原神社、江戸の頃には近くの伊興・氷川神社に合祀。この地で氷川神社となったのは明治5年になってから。本殿の裏手に富士塚。鳥居には「榛名神社」。ということは、富士は富士でも榛名富士?お隣の宝積院は氷川神社の別当寺。山号は北斗山。妙見様は北斗七星のことであるので、神仏渾然一体を名前で示す。
氷川神社と宝積院の一帯は足尾鉱毒事件のゆかりの地。鉱毒被害を訴えるため東京へと向かう栃木・渡良瀬の農民3,000余名を田中正造が制止したのがこの地。境内を埋め尽くす農民に正造が自重を促す演説。この懇請を受け、農民は渡良瀬へと引き返した。
十三仏堂
旧街道に戻り北に。淵江小学校を越えてすぐ、道脇に十三仏堂。堂宇には十三仏信仰のよすがとなる十三の仏様が安置していたのであろう。現在は数体欠ける、とか。
十三仏信仰は、平安末期の十王信仰からはじまる。人は没後、閻魔大王など十王の裁きを受ける。で、その十王は同時に仏の化身であり(閻魔大王=地蔵菩薩なと)、生前にその十王・十仏を祀ることにより、その裁きを軽くしてもらおう、というのが十王信仰。
その後室町に三王・三仏が加わり十三仏信仰となった、とか。風土記には「行基の作れる虚空蔵の木像を案す」とあり。結構古い御堂なのだろう、か。

大曲
北に進む。西保木間3丁目交差点に。バス停に「大曲」、と。道は右にカーブする。現在はありふれた街並みが続くが、往古、旧街道を作る時はこのあたり一帯に湿地が広がり、大きく曲がるしか術はなかった、と(『足立の史話』)。実際、直ぐ北に毛長川の流れがあるわけで、毛長川流域の湿地が一帯に広がっていたのだろう。

水神社
往古、湿地帯であったろうところに建て並ぶ小学校、清掃工場、スポーツセンターなどを眺めながらカーブを大きく曲がり先に進む。ほどなく国道4号線バイパス。国道を越え都道・県道49号線に合流する手前に水神社。風土記稿に「今社傍に二畝許の沼あり、土人水神ガ池と云う。此辺の水殊に清冷にして、煎茶の売家あり、人これを水神カ茶屋と云」とある(『足立の史話』)。] 今となっては沼もないし、ましてや茶屋などあるわけもないのだが、この沼には水神伝説が残る。
昔、このあたりに小宮某という元北面の武士が住んでいた。ある日、釣りをしているとき、森より蛇が襲う。腕に自信の小宮某は蛇を切り殺す。が、毒臭に冒され日ならずしてなくなる。小宮某を祀るために榎が植えられ、蛇の霊を祀って水神社とした、と。もとより、この小宮榎、現在は跡かたも、なし(『足立の史話』)。

毛長川
水神社から元国道4号線である都道49号線を北に。直ぐ毛長川に。この川は東京都と埼玉県の境。川に架かる毛長橋を渡れば埼玉

県草加市。道も県道49号線となる。南千住からはじめた日光街道散歩も、これでお終い、とする。成り行きで北千住駅まで戻る。ありふれた街並みも『足立の史話』のおかげで少々の想像力とともに時空散歩が楽しめた2日でありました。
荒川区の南千住と足立区の北千住。散歩の折々に「顔を出す」地名である。浅草を歩き、仕上げにと吉原遊女の投げ込み寺である浄閑寺を訪ねたときなど、散歩の終点として南千住に辿り着いた。東京と埼玉の境を流れる毛長川周辺の伊興遺跡や、その昔お酉さまで賑わった鷲神社を訪ねる散歩のスタート地点として北千住を訪ねたこともある。散歩の始点、終点として北千住・南千住を「かすめた」ことは数限りない。
南千住から北千住にかけ江戸四宿のひとつである千住宿があったことも知ってはいた。が、なんとなくそこを歩いてみようといった気持ちはあまり起こらなかった。どうせのこと、なんということのない街並みが続くだけであろう、といった想いではあった。むしろ、日光街道の少し東、隅田川の自然堤防の上を走る奥州古道のほうが面白そう、ということで、足立区・竹の塚から南千住まで歩いたことがある。前九年・後三年の役の奥州征伐に進む八幡太郎義家のゆかりの地や武蔵千葉氏の居城のあった淵江城跡(中曽根神社)などそれなりに時空散歩が楽しめた。関原不動尊で見た「オビンズル様」も記憶に残る。

 ことほど左様に、どうもねえ、といった塩梅であった日光街道・千住宿を歩いてみようと思ったきっかけは、古書展示会で偶然手に入れた『足立の史話:勝山準四郎(東京都足立区役所)』。副題は「日光街道を訪ねて」とある。足立区内の日光街道周辺のガイドでもあるので、千住宿だけでなく、荒川を越えて竹の塚から埼玉県境までの日光街道のあれこれが紹介されている。この本があればありふれた商店街の風景の中にも、なんらかの「古きノイズ」を感じられるかとも思い、『足立の史話』を小脇に抱え、と言うか、リュックのサイドポケットに差しこんで散歩に出かけることにした。



本日のルート;南千住駅>回向院>小塚原刑場跡>鰻屋「尾花」>浄閑寺>三ノ輪>三ノ輪橋跡>百観音・円通寺>スサノオ神社>誓願寺>熊野神社>千住大橋>芭蕉・奥の細道出立の地>やっちゃ場跡>掃部堤跡(墨堤通り)>関屋天神>源長寺>大正記念道碑>お竹の渡し>熊谷堤跡>問屋場跡>北千住駅

日比谷線南千住駅
南千住駅で下車。北口駅前にわずかに昭和の風情が残るが、周辺は都市開発がどんどん進んでいる。駅も新しくなっていた。空き地と迷路のような下町の街並みが広がると言われた南千住も次第に様変わりしている。駅を離れ小塚原の回向院と刑場跡に向かう。

回向院
駅の直ぐ隣り、吉野通りと常磐線が交差する手前に回向院。鉄筋のお寺。イメージとは大いに異なる。このお寺は本所回向院の住職が行き倒れの人や刑死者の供養のために開いたお寺。安政の大獄で刑死した橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎ら多くの幕末の志士が眠る。毒婦・高橋お伝も。明和8年(1771年)、蘭学者杉田玄白・中川淳庵・前野良沢らが、小塚原の刑死者の解剖に立会ったところでもある。

小塚原刑場跡
小塚原刑場は線路のど真ん中。常磐線を越え、日比谷線のガードをくぐり、隅田川貨物線の線路を跨ぐ陸橋手前、右手にささやかな入口。そこが小塚原刑場跡(延命寺)。正面には大きな首切り地蔵。刑死者をとむらうため寛保1年(1741年)につくられた、と。ともあれ、刑場跡は常磐線と隅田川貨物線の線路群に囲まれた「三角州」に、かろうじて残っていた、という状態であった。 小塚原刑場跡は現在延命寺となっている。これは回向院の境内が常磐線建設で分断されたとき、分院独立した、と。
刑場は諸説あるが、大きくても間口100m程度、奥行き50m程度。刑場自体はそれほど広くない。とはいうものの、明治期に刑場が廃されるまでに埋葬された受刑者数はおよそ20万人にのぼるといわれる。刑場を含めた一帯は結構な広さがあったのだろう。現在では、線路に挟まれた、まことに「無機質」な一帯ではあるが、往時、周囲は荒涼とした風景が広がっていたのだろう。

昔の風景を想う。戦国期の南千住のあたりの地図を眺めてみると、浅草から橋場・石浜など、隅田川(当時は、荒川とも入間川とも)に沿って砂州・微高地がある。同様に、現在の千住大橋・素盞雄(スサノオ)神社近辺にも砂州が認められる。が、その内側、千住大橋から三ノ輪を結ぶ線より東は入り江状態。南千住駅の東一帯を「汐入地区」と呼ぶ所以である。その線より西は三河島のあたりまでは泥湿地帯となっている。源頼朝が浅草・石場から王子へと平家討伐軍を進めるに際し、小船数千を並べて浮橋とした、というのも大いにうなずける。江戸以前、南千住の一帯は、入間川・荒川(隅田川)沿いに堆積した砂州を除き、ほとんどが水の中・湿地帯であった、ということだ。刑場の周囲は「荒涼」といった乾いた風情、と言うよりも、低湿地・泥湿地帯と言ったほうがよさそう、だ。
この小塚原もそうだが、品川の鈴が森の刑場も、昔の刑場跡は線路や道路に挟まれた狭隘な場所として残る。これら刑場は日光街道や東海道といた主要街道脇にあったわけで、それって見せしめのためには人目の多いところがよかろう、といった考えもあったのだろうが、それが都市化が進むに際し、道路拡張などのためイの一番に潰されていったのだろう、か。もっとも、何十万もの受刑者が眠る地の再利用は、道路にするか、この小塚原のように操車場にするしか、術はないかもしれない。

鰻屋「尾花」
刑場跡を離れ、回向院脇の道を常磐線に沿って西に進む。先回このあたりを歩いたとき、とほうもない行列のつづく店があった。あまり食べ物に興味がないため、さてなんのお店であったのだろう、とは思いながらも先に進み日光街道に出た。あとで調べてみる
と、「尾花」という有名な鰻屋さんであった。今回はどうだろう、と前を通る。休日でお店は閉まっていた。いかにもお店を探している、っぽい一団が、お店の前で途方に暮れていた。

浄閑寺
日光街道に出る前に、ちょっと浄閑寺に。明治通りと日光街道の交差点を一筋北に。地下鉄入口の丁度裏手あたりにある。浄土宗のこのお寺さん、安政2年(1855年)の大地震でなくなった吉原の遊女が投げ込み同然に葬られたため「投込寺」と。川柳に「生まれては苦界 死しては浄閑寺」と呼ばれたように、吉原の遊女やその子供がまつられる。
このお寺に向かうのは、「投げ込み寺」へのおまいり、もさることがら、往古、このあたりを流れていた川筋に想いをはせる、ため。石神井川から分水された水路である「音無川」が王子から京浜東北線に沿って日暮里駅前に。そこからは台東区と荒川区の境、昔の根岸の里を経て三ノ輪に。水路はそこで二手に分かれ、ひとつは「思川」となり明治通りの道筋を進み、泪橋をへて隅田に注ぐ。もう一方は、山谷掘となる。いまはすべて暗渠ではある。

三ノ輪
浄閑寺を離れ三ノ輪交差点に。明治通り、元の山谷掘筋からの道筋、昭和通り、そして国際通りがこの地で合流し日光街道となり北に向かう。「三ノ輪」は「水の輪」から転化したもの。往時この地は、北の低湿地・泥湿地、東・南に広がる千束池に突き出た岬といった地形であった。

三ノ輪橋跡
交差点道脇に「三ノ輪橋跡」の碑を確認。昔、音無川に架かる橋。現在は暗渠となっている。先にメモしたように、王子から流れてきた音無川は、この先浄閑寺前でふた手わかれ、一筋は「思川」、あと一筋は「山谷堀」となり、ともに隅田川に流れこむ。

百観音・円通寺
三ノ輪橋跡より日光街道を北に、千住大橋に向かって進む。道の左手に百観音・円通寺。延暦10年(791年)、坂上田村麻呂の開創とか。また、源(八幡太郎)義家が奥州平
の際、討ち取った首を境内に埋めて塚を築く。これが小塚原の由来、とも。江戸時代、下谷の広徳寺、入谷の鬼子母神、簔輪の円通寺、この三つのお寺を下谷の三寺と呼ぶ。秩父・坂東・西国霊場の観音様を百体安置した観音堂があったため、「百観音」とも。
境内に上野寛永寺の黒門が。上野のお山でなくなった彰義隊の隊士をこのお寺の和尚さんが打ち首覚悟で供養した。官軍に拘束されるも、結局埋葬・供養を許される。京都散歩のとき、黒谷金戒光明寺に会津小鉄のお墓があった。鳥羽伏見の戦いでなくなった会津の侍を命がけで埋葬。坊さんと侠客と、少々キャラクターは異なるが、その話とダブって見える。

素盞雄(スサノオ)神社
少し先に、素盞雄(スサノオ)神社。「てんのうさま」とも。この神社、石神信仰に基づく縁起をもつ。延暦14年(795年)、石が光を放ち、その光の中から素盞雄命と事代主命・飛鳥大神(ことしろぬしのみこと)が現れて神託を告げる。その石を瑞光石と呼ぶ。光の中から出現した二神が祭神。
江戸名所図会には「飛鳥社小塚原天王宮」と書かれている。「てんのうさま」と呼ばれる所以である。素盞雄(スサノオ)神社は明治になって作られた名称だろう。そもそも「神社」って名称は明治になってから。「天王」さまでは、音読みで「天皇」と同じ。それでは少々不敬にあたるだろう。で、何かいい名称は?そうそう、朝鮮半島の牛頭山に素盞雄(スサノオ)が祀られており、スサノオのことを牛頭天王(ごずてんのう)とも呼ばれる。であれば、ということで、「天王宮」を「素盞雄(スサノオ)神社、としたのではないだろう、か。単なる空想。根拠なし。
瑞光石と言えば、散歩の折々、石を神として祀る神社も時々出会う。石神井神社、江東区亀戸の石井神社、葛飾立石の立石様、といったもの。石といえば、この素盞雄(スサノオ)神社の石は、千葉県鋸山近辺の「房州石」であり、この石材は古墳の石室に使われる。よって、素盞雄(スサノオ)神社って古墳跡では、とも言われている。隅田川の自然堤防上、周囲低湿地・泥湿地帯に囲まれた砂州に古墳がつくられていたのだろう。

誓願寺
神社の裏手に荒川ふるさと文化館。ちょっと立ち寄った後、千住大橋の袂の誓願寺に。奈良時代末期、恵心僧都源信の開基と伝えられる。源信といえば、『往生要集』(985年)。地獄・極楽を描き出し、ゆえに極楽浄土への往生をすすめる浄土教基礎を確立した人物。恵心は叡山で学んでいたときの道場名である。
境内には親の仇討ちをした子狸の「狸塚」。お寺の隣にあった魚屋の魚が無くなる。不審に思った近所の人たちがウォッチ。古狸の仕業。で、打ち殺す。その夜から、魚屋の魚が宙に浮く。祈祷師に見てもらうと、子狸が親の敵討をしていた、といった按配。隅田散歩での多門寺にも狸塚が、あった。狸塚って、結構多い。

熊野神社
誓願寺の近く、民家に囲まれたところに熊野神社。入口に門があり鍵がかかっているような、いないような、ということで中に入るのは遠慮し、外からちょいと眺める。創建は永承5年(1050年)。源義家の勧請によると伝えられる。千住大橋を隅田川にかけるにあたり、関東郡代・伊奈忠次が成就祈願。橋の完成にあたり、その残材で社殿の修理を行う。以後、大橋のかけかえ時に社殿修理をおこなうことが慣例となった。
神社のあたりは材木、雑穀などの問屋が立ち並ぶ川岸であった。奥州道中と交差して川越夜舟、高瀬舟がゆきかい、秩父・川越などからの物資の集散地としてにぎわった。秩父の材木は筏に組んで流され、千住大橋南詰めの山王社(日枝神社)前で組み替え、深川方面に運ばれた。ために、このあたりは材木屋が立ち並んでいた、とか。
川越夜舟は急行、鈍行取り混ぜての船運であるが、川越を午後4時に出発し、翌朝千住河岸に着く便が多いので、こう呼ばれたのだろう。新河岸川を川越からはじめ和光まで下ったことが懐かしい。

千住大橋
千住大橋に。荒川ふるさと文化館で購入した「常設展示目録」をもとに、メモする:文禄3年(1594年)、家康の命により、伊奈忠次が総指揮を執る。万治3年(1660年)に両国橋が架けられるまでは「大橋」と。奥州・日光方面への入口として交通・運輸上の要衝。橋を渡ると足立区。 千住大橋の南北に広がる千住宿は、江戸四宿のひとつ。日光道中の最初の宿駅。参勤交代や将軍の日光参詣など公用往来の重要な継立地。橋の南の小塚原町、中村町は「千住下宿」として諸役人の通行や荷物搬送のため人馬を提供。奥州方面への玄関口として街道筋がにぎわい、荒川を上下する川舟の航行が盛んになると、さまざまな職業の店が立ち並ぶ宿場町を形成」、と。
千住大橋建設のスポンサーは仙台伊達藩。参勤交代でこの街道を通ることになる64の諸侯のうちでも最大の大藩ゆえ、受益者負担といったことで幕府から下命があったのだろう。その見返りに、帰国の際にこの橋の上で火縄50発の空砲を撃つことが許されていた、とか。「立つときに雀大きな羽音させ(仙台藩の紋章は竹に雀)」といった川柳が残る(『足立の史話』)。

松尾芭蕉・奥の細道出立の地
橋を渡り足立区に。橋の北詰めの護岸に少々無粋なペイント。よくよく見ると松尾芭蕉・ 奥の細道旅立ちを記念する文言。「弥生も末の七日、千じゅという云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに泪をそそく。行春や鳥啼 魚の目に泪」。世に知られる出立の章である。元禄2年、と言うから1689年、芭蕉46歳の春のこと。

やっちゃ場跡
日光街道に戻る。このあたりは千住橋戸町。文字通り橋の戸口といった意味であろう。日光街道の東に中央卸売市場足立市場。橋戸町の北、河原町にあった青物市場(やっちゃ場)と大橋を少し上った尾竹橋の北にあった魚市場を統合しできたもの。
足立市場交差点で日光街道は国道4号線と離れる。このあたりは千住河原町。道の両側に往時の「やっちゃ場(青物市場)」の名残をとどめるいかにも問屋っぽい建屋が点在する。
やっちゃ場の歴史は古い。小田原北条氏の頃に遡る、とも。とはいってもそのころは朝市といった程度。本格的に市場っぽくなったのは、千住大橋ができ、人馬の往来が盛んになった江戸の中頃、とのことである。
『千寿住宿始末記 純情浪人 朽木三四郎;早見優(竹書房)』の中に、幕府から定市場として公認された見返りの冥加金(税)として、江戸城に青物・川魚をおさめる行列を描く場面があった。この行列を横切ることは無礼にあたる、といった「お行列」である。このお行列の上納品からもわかるように、やっちゃ場・青物市場、とは言うものの、扱うものは野菜だけでなく川魚、米穀も含まれていたようである。ちなみに、やっちゃ場の由来
は、掛け声から。せりの場で「やっちゃ やっちゃ」と叫んでいた、と言う。

掃部堤跡(墨堤通り)
京成線のガードをくぐり、先にすすむと「墨堤通り」に当たる。この通りは江戸の頃、「掃部堤」と呼ばれた隅田川、と言うか、昔の荒川・入間川の堤防があった。名前の由来は、この堤を築いた石出掃部介(かもんのすけ)、より。
石部掃部介は小田原北条の遺臣。江戸時代にこの地に移り、新田を開発。場所は、元の隅田川・荒川の堤であった熊谷堤(現在の区役所通りにあたる)と掃部堤に囲まれた一帯。掃部堤もその新田・掃部新田を水害から防ぐため築かれたものであろう。
往時は高さ4mもあったと言われる掃部堤であるが、現在は墨堤通り。堤の名残などなにもない、とは思いながらも、往古の堤上を歩こう、と。やっちゃ場のある河原町や橋戸町も文字通り堤外の「河原」にあったわけで、そう思えば、街並みも少々違った風景に見えるかも、といった思いであった。





関屋天神
日光街道と掃部堤の交差点・千住仲町交差点で右に進むか、左に進むか少し迷う。が、なんとなく関屋天神の名前に惹かれ右に折れる。少し進むと千住仲町公園。隣に氷川神社。石出掃部介が勧請したもの。関屋天神は氷川神社の境内にある。
関屋天神は、もともとは関屋の里に祀られていたものがこの地に移されたもの。関屋の里って、源頼朝の命を受け、江戸太郎重長が奥州防備のため関所を設けたところ。が、いまひとつ場所が特定されていない。とはいうものの関屋の里って、このあたりではあろう。ということで、切手にもなった、北斎の「富嶽三十六景 隅田川関屋の里」が描く土手の景色に昔を想う。

源長寺
関屋天神から掃部堤を引き返し、千住仲町交差点に戻る。そのまま直進し、掃部堤跡を西へと向かう。墨堤通りを進めば千住桜木町。そのあたりには「おばけ煙突」跡がある。東京電力の発電所の4本の煙突が、方向によってその見える本数が変わった、と言う。今となっては煙突もないのだが、なんとなく雰囲気を感じ、そこから熊谷堤跡を再び日光街道に戻るコースを思い描く。 ほどなく源長寺。石出掃部介が眠る。で、このお寺さま、石出掃部介が関東郡代・伊奈忠次の菩提をとむらうため建てたもの。源長は忠次の法号。そういえば、川口市赤山に伊奈氏の陣屋跡を訪ねたとき、そこにも源長寺という伊奈家の菩提寺があった。

大正記念道碑
掃部堤跡・墨堤通りを進む。千住宮元町交差点で国道4号線に交差。交差点脇の河原稲荷にちょっとお参りし、先に進む。土手の趣など何も、なし。ひたすらに車の往来が激しい、だけ。
先に進み、千住緑町3丁目交差点に。道脇に「大正記念道碑」。荒川脇・千住大川
町にある氷川神社からまっ直ぐに宮元町に下る道。元の西掃部掘を埋め立ててつくったもの。掘を埋め立ていくつもの道路をつくったろうに、何故この大正道のみがフィーチャーされるのか、ということだが、どうも、この碑文を書いたのが森鴎外であることにその因があるよう、だ。とはいえ、「父が千住に住んでいたので、馴染みがあり辞退もできず碑文を書いた」といったトーン、ではある。鴎外の父が居を構え、医院を開いていたところは北千住駅の近くらしい。後から寄ってみる。

お竹の渡し跡
千住龍田町交差点に。北千住駅からまっすぐ西に延び、北に走る墨堤通りと交差する地点。この道筋と墨堤通りの間を、斜めに下るのが熊谷堤跡の道筋である。はてさて、交差点で思い悩む。先に進むか、熊谷堤跡を戻るか。
結局、交差点を左に折れ、隅田川の堤防に出ることにした。隅田川の風景を見たかったこともさることながら、このあたりって、お竹の渡しがあったところ、と。尾竹橋の400程度下流にあった、ということだから場所としてはそれほど違いなないだろう、と。千寿桜小学校の脇を堤防に。隅田川が大きく湾曲する姿は、なかなか、いい。それなりに船泊まり、って雰囲気を勝手に思い込む。 上流を眺め、見えない「お化け煙突」を思い描く。大正15年に建設された煙突は83.5m。当時東京で最も高い建造物であった。これまたそれなりの感慨に浸り、再び千住龍田町交差点に戻る。ちなみに、お竹の渡しは、近くにあったお茶屋の看板娘の名前、から。尾竹橋も、お竹から、とも言われる。

熊谷堤跡
千住龍田交差点から南東に一直線に延びる道、これが熊谷堤跡。これがもともとの隅田川(荒川・入間川)の堤防である。天正2年、と言うから、1574年、北条氏政により築かれたもの、と言う。埼玉県の熊谷から墨田の吾妻橋あたりまで、自然堤防をつないで土手とした。完成に数年を要した、と。
熊谷堤跡の道は大師道とも呼ばれる。西新井の御大師さんへの道筋、と言うことであろう北斎の「関屋の里」の土手を想い描きながら国道4号線を越え、区役所通りを東に進む。途中、道を離れ立葵の紋を持ち、城北鎮護寺であった慈眼寺や不動院を訪ねた後、旧日光街道の道筋へと戻る。

問屋場跡
熊谷堤跡と旧日光街道の交差点あたりに、一里塚の跡とか高札場の跡がある、と言う。あたりをちょっと見渡したのだが、それっぽい案内も見当たらず交差点を北に。このあたりは千住宿の中心地といったところ。
交差点の直ぐ北に、ちょっとした公園。そこに問屋場の案内。千住宿の事務センターといったところ、か。千住宿が正式に宿場と定められたのは寛永2年、と言うから1625年。三代将軍家光の頃である。公用の往来の便宜を図るため、毎日人足50人と馬50疋を用意し、差配した。千住宿は参勤交代だけでなく、日光東照宮参詣のお世話もあるわけで、4月など参勤交代だけでなく家康の命日に向け日光東照宮に向かう将軍の直参・代参、御供の諸侯のお世話も重なり、結構大変であったろう。

北千住駅
はてさて日も暮れた。後は次回に廻し本日の散歩はこれでお終いとし、北千住駅に向かう。向かいながら、区役所通り、とは言うものの、それっぽい建物が見つからない。かわりに、東京芸術センターとか東京芸術大学千住キャンパスと言った建物が目に付く。区役所は1996年に千住から足立本町に移転したようで、その跡地に東京芸術センターが入った、と。芸大は千寿小学校跡地、とか。 

足立散歩の2回目は竹の塚からはじめ、千住に下る散歩コース。
大雑把に言って、尾竹橋通りと旧日光街道を下るコース。曳舟川散歩で足立区の東端、先回の毛長ルートで北端・西端を歩いた、今回は中央突破ルートと言ったところ。前九年の役や後三年の役での奥州征伐に進む源義家ゆかりの地も多く、武蔵千葉氏の居城跡や神社仏閣など見どころも多い。大雑把に言って、隅田川の自然堤防・微高地上を通る古の奥州古道と言ってもいい、かも。自然堤防が残るとも思えないが、少々の想像力とともに、古道を辿る。



本日のコース:
竹の塚駅 > 実相院 > 諏訪神社 > 源正寺 > 常楽寺 > 満福寺 > 西光院 > 六月・炎天寺 > 鷲神社 > 島根・国土安穏寺 > 栗原・満願寺 > 西新井大師 > 本木・「六阿弥陀巡り」 > 中曽根神社 > 関原・関原不動尊 > 西新井橋 > 元宿神社 > 大川町氷川神社 > 北千住駅

日比谷線・竹の塚駅の西に実相院

日比谷線・竹の塚下車。先回は東口。今回は西口に下りる。最初の目的地は実相院。伊興2丁目に向かう。実相院は江戸の頃より伊興の子育て観音として知られる。寺伝によると創建は天平(729-748)の昔。行基菩薩が一本の流木から観音像を彫り上げた、と。行基菩薩もいろんなところに、顔を出す。縁起は縁起だけのこと、と思うべし。本尊の聖観世音菩薩は12年に一度開帳される秘仏。

千葉次郎勝胤の墓

寺の近くに千葉次郎勝胤の墓。家臣が主君を偲んで建てた碑であり、正確には墓ではない。あちこち歩いたが、見つけることができなかった。千葉勝胤(1471 - 1533年)は足立一帯に覇をとなえた千葉氏。
千葉勝胤は下総千葉宗家、正確には本家を滅ぼし「宗家」を名乗ったわけで、後期千葉家とも言われる分家筋の系列。1400年中頃、本家・分家で争いが起こり、戦に破れた本家筋の千葉実胤と自胤が武蔵のこの地に移り武蔵千葉氏となったはず。下総佐倉に館を構える千葉の勝胤さんが、このあたりに縁があるわけもないと思うのだが、どういうことだろう。同姓同名、ということだろう、か。実相院の近くに六万部経塚。経塚とは、末法の世まで善行を残すために書写した経典を土の中に埋納したもの、とか。

諏訪神社

少し南に進み西伊興1丁目と西新井4丁目の境に諏訪神社を訪ねる。足立に諏訪神社って結構目に付く。諏訪神社って、御祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)。出雲の大国主命(おおくにぬし)の子供。古事記の国譲神話では、建御雷神(たけみかづちのかみ)に敗れ諏訪の地に逃げ込んだとされている。国譲りを渋る大国主命に代わり、建御雷神と一戦交えるが、武運つたなく負け戦。この科野の州羽の海まで逃れ、もうここから一歩も出ません、謹慎いたします、とした次第。
ちなみに、建御雷神って、鹿島の土着神。鹿島神宮って、中臣氏が祭祀者。中臣、って藤原鎌足・不比等の出自。不比等、って古事記・日本書紀編纂の任にあった権力者。出雲系国ツ神が、中央朝廷系天ツ神に膝を屈するストーリーを史書の中に組み上げていったのだろう。
とはいうものの建御名方命って、「水潟」に由来し、この州羽の土着の神であり、出雲とも縁もゆかりもない、という説もある。出雲族が信州を通り、秩父・武蔵に移っていったわけで、当然この地にも強い影響力をもったのであろう。そういった背景をもとに、神話が組み上げられていったの、かも。ひたすら推論、というか空想、ではある。

源正寺

少し東に進み伊興2丁目に源正寺。本堂は結構大きいのだが、アプローチが少々わかりにくい。細い路地を入りなんとか入口を見つけた。伊興七福神の恵比寿天。ちなみに伊興七福神は実相院(大黒天・弁財天・毘沙門天)・福寿院(寿老人・福禄寿)、源正寺(恵比寿天)・法受寺(布袋尊)。さらに東に進み、地下鉄の検車場の北端を進み東武伊勢崎線を陸橋で越える。

竹の塚の寺町:常楽寺
竹の塚1丁目を道なりに進む。竹の塚1丁目から六月3丁目にかけて、ちょっとした寺町。常楽寺。真言宗豊山派。竹の塚に生まれ竹の塚に骨を埋めた江戸の文人・竹塚東子(たけつかとうし)の墓。実名・谷古宇四郎左衛門(やこうしろうざえもん)。東子は今でいうマルチタレント。寛政・亨和・文化にかけて活躍した。酒屋でありながら、生け花の師匠、俳諧をたしなみ、戯作者としても名を馳せ、そのうえ落語家。東子の俳譜の師匠が、千住在の建部巣兆。俳譜師にして画家、生け花や茶道の教授もするというこの人もマルチタレント。師の巣兆もそうだが、東子も奥州を行脚し、俳画帖をものしている。洒落本「田舎談義」で戯作者としての地位を確立。この常楽寺は寛永年間(1624 - 1643年)河内与兵衛(かわうちよへえ)によって中興されたと伝えられている。河内与兵衛は16世紀末、小田原北条氏没落後、この地に土着。江戸に入り徳川家に仕え代々この地の名主をつとめた人物。

満福寺

満福寺。創建不明。文明10年(1478年)の板碑墓石がある。明和・寛政のころが中興期であったよう。明治9年(1876年)4月公立竹嶋小学校(同12年2月正矯小学校と改名)が境内に設けられた。入口にその石碑が置いてあった。

西光院

開基は、河内与兵衛。本堂前に金剛界大日如来坐像(銅造)。明治12年には、寺内に公立正矯小学校が開校された。

六月・炎天寺

六月3丁目に炎天寺。平安末期創建。天喜4年(1056年)、炎天続きの旧暦六月、奥州安倍一族追討に向かう源頼義、八幡太郎義家親子がこの地で野武士と交戦。京の岩清水八幡に祈念し勝利を収める。で、お礼に八幡宮をたてる。地名を六月。寺名を源氏の白旗が勝ったので幡勝山、戦勝祈願が成就したので成就院、炎天続きだったので炎天寺と。
前九年の役のエピソードをもつ源氏ゆかりの寺。またこの寺は江戸後期の俳人・小林一茶ゆかりの寺。一茶は千住に住んでいた俳人・建部巣兆、竹塚の作家・竹翁東子などと寺のあたりをよく歩き、いくつかの俳句を残している。「やせ蛙負けるな一茶是にあり」「蝉鳴くや六月村の炎天寺」。当時の竹塚村は一面の水田地帯。初夏ともなると、あちこちでカワズが鳴き合う、蛙合戦として江戸でも有名であった、と。一茶は全国放浪の旅に明け暮れた俳人。炎天寺主催の「一茶まつり」が開かれている。
一茶もいいのだが、境内を歩いていて無財の七施の案内を見る。いい文章。お賽銭といった、形あるお布施もいいが、言葉や心など形のないもの、無財のもので施せば施すほど心が豊かになる、とのメモ。気に入ったので写しておく。
無財の七施(雑宝蔵経)
1. 眼施:やさしい まなざし いつも澄んだ清らかな眼で人を見よう
2. 和顔悦色施:にっこりと笑顔 ほほえみのある顔こそ最高
3. 言辞施:親切なひとこと 人を傷つける言葉 いわなくてもいい言葉をつかっていないか
4. 身施:きちんとしたおじき みなりをきれいにする
5. 心施:あたたかいまごころ 真心をこめる
6. 牀坐(しょうざ)施:ここちよい憩いの場 いま自分が坐っている場所をきれいにする
7. 房舎施:ここちよいもてなし 家の周辺をきれいにする


鷲神社

少し南に進み六月2丁目の鷲神社に。鷲神社は、旧利根川水系に多く祀られている。文保2年(1318年)武蔵国足立郡島根村の地に鎮守として創建され、大鷲神社と唱えたと伝えられる。島根村は現在の島根・梅島・中央本町・平野・一ツ家などの全部または一部を含む大村。村内に七祠が点在していたが、元禄の頃、このうち八幡社誉田別命、明神社国常立命の二桂の神を合祀し三社明神の社として社名を鷲神社に定めたという。何故、「大鷲」かってことは、花畑の大鷲神社でメモしたとおり。島根の由来。古くは島畑村と。島畑とは水田の中に点在する畑のこと。また、文字通り、島、というか微高地の根っこ・水際、とも。

島根・国土安穏寺
島根3丁目に国土安穏寺。構えのいいお寺。寺門に葵の御紋。これって徳川家の紋。もとは妙覚寺。将軍の鷹狩り・日光参詣の御膳所。葵の御紋を授けられたきっかけは、あの宇都宮の釣り天井事件。三代将軍・家光、日光参拝の折りこの寺に立ち寄る。住職の日芸上人より、「宇都宮に気をつけるべし」。で、家光、宇都宮泊を取りやめる。公儀目付け役が宇都宮城チェック。将軍を押しつぶすべく仕掛けられた釣天井を発見。宇都宮城主は二代将軍秀忠の第三子国松(駿河大納言忠長)の後見役・本多正純。家光を亡きもの にして国松を将軍にしようと陰謀をはかったといわれている。日芸上人によって九死に一生を得た家光は、妙覚寺に寺紋として葵の御紋を。寺号を「天下長久山国土安穏寺」とした。ちなみに、釣り天井事件の真偽の程不明。本多正純を追い落とす逆陰謀、といった説も。

栗原・満願寺

南に下り環七と交差。環七に沿って西に進む。栗原1丁目で東武伊勢崎線と交差。栗原の由来は不明。栗原3丁目に満願寺。小野篁作と伝わる地蔵菩薩を本尊とする。ここにも狸塚。御堂に老いた和尚さんが一人で住んでいた。 寒い夜、荷物を背負った狸が,暖を求める。和尚快諾。囲炉裏で暖をとり出てゆく。数日後再び狸が現れ、暖を求める。再び和尚、諾。囲炉裏で暖をとる。で、なにを思ったか和尚、狸の荷物に囲炉裏の灰を。狸出てゆく。翌朝、和尚丸焼けの狸発見。不憫に思い、手厚く葬った、と。2mもの狸塚がある。

西新井大師

先に進み東武鉄道大師線・大師前駅に。西新井大師。真言宗豊山派のお寺。寺伝によれば、弘法大師がこの地に立ち寄り、悪疫流行に悩む村人を救わんがため、十一面観音をつくり、祈祷を。と、枯れ井戸から水が湧き出、病気平癒した。村人はそれを徳としてお堂を建てる。井戸がお堂の西にあったので「西新井」と。
川崎大師、佐野厄除大師とともに関東の三大大師のひとつ。豊山派とは奈良・長谷寺を総本山とする真言宗の一派。豊山神楽院長谷寺とよばれることが名前の由来。ついでに、真言宗派の流れ。高野山や東寺からの流れに対し、真言中興の祖・興教大師以降の根来山を中心とした流れが新義真言宗。その新義真言宗がふたつにわかれ、一派はこの豊山派、もう一派は京都・智積院を中心とした智山派に分かれる。お寺の結構渋い山門を通り、門前町のお団子やなどをひやかしながら先に進む。

本木は「六阿弥陀巡り」に由来する地名

西新井栄町、西新井5丁目と進み興野、本木地区に。興野はもともと、本木村の奥、ということで、「奥野」と呼ばれていた。崩し文字で奥を興と読み違え、「興野」と。ほんまかいな? また、「こうや:荒野・高野・興野」で文字通り、新開地といった意味から、との説もある。
本木の由来もあれこれ。気に入った説をメモする:足立小輔が熊野権現に願掛けをして得た愛娘・足立姫を豊島清光に嫁がせる。が姑との折り合い悪く里帰りの途中、行く末をはかなみ侍女5人と入水自殺。足立小輔、菩提をとむらうべく全国の霊場巡礼。熊野で「霊木を授ける。仏像を刻むべし」とのお告げ。霊木を得る。なぜかは知らねど、その木を紀伊の海に流す。足立に戻ると、霊木は足立の里に流れ着いていた。霊木を館に安置。諸国行脚の行基菩薩が立ち寄り、霊木から六体の阿弥陀如来を彫り、近隣の六ケ寺に。で、根元に近い余り木で一体を彫り館に収めた。この仏さまを「木余り如来」「本木の如来」と。これが地名となった、と。
この話、先日の足立散歩の時、船方神社で出会った。もっともそのときは、侍女は12人だったよう。また、足立さんのほうに嫁ぐってことで真逆でもあった。敵役も替わっている。真偽のほどは、どちらでもいいか、とも。それより、こういった話が、江戸の六阿弥陀詣での縁起として昇華する。
足立、荒川あたりで「六阿弥陀」ってフレーズをよく耳にした。阿弥陀如来が収められた六つのお寺を巡るのが「六阿弥陀」。密教では非業の死をとげた人を鎮魂するためにおまつりするわけだが、入水したお姫さまと5人の次女といった民間伝承を、密教の信仰に組み込んでいったのであろう。六つのお寺は、豊島の西福寺、小台の延命寺・西原の無量寺・新堀の与楽寺・下谷の常樂院・亀戸の常光寺。「本木の如来」は性翁寺・「木残り如来」は西原の昌林寺にあるという。延命寺は明治9年廃寺。豊島の恵明寺に移され、常樂院は調布西つつじが丘に移転。
「六阿弥陀」は全行程6里以上。結構な距離。「六つに出て六つに帰るを六阿弥陀(川柳)」といったように一日仕事。「六阿弥陀翌日亭主飯を炊き(川柳)」、といった無理な行軍で弱った女房に代わり旦那がオサンドン。「六阿弥陀みんな廻るは鬼ババァ(川柳)」といったとんでもない句も。「六阿弥陀嫁の噂の捨て所」と言われるように、江戸の庶民のリクリエーションとして江戸の中頃広まっていった、と言う。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

中曽根神社
本木2丁目に中曽根神社。中曽根城跡と言われる。中曽根城は足立区一帯を支配していた千葉次郎勝胤により築かれたとされる。が、どうもよくわからない。伊興の千葉勝胤の墓のところでメモしたように、勝胤は下総千葉氏。このあたりの武蔵千葉氏の流れにその名は無い。足立区の郷土館で手に入れた資料にも、このお城をつくったのは「千葉某」と書いてあった。
千葉での本家・庶家争いに敗れ、この地に逃れてきた本家筋の千葉実胤(さねたね)・自胤(これたね)が武蔵千葉家となる。上杉氏の重臣・太田道灌の援助を得て、武蔵国石浜(荒川区から台東区にかけての隅田川沿岸)と赤塚(板橋区)に軍事拠点を構えて下総国の奪還を期す。結局、千葉への返り咲きは叶わなかった。で、拠点としたのがこの中曽根城。地名をとり、「淵江城」とも。
其の後の千葉氏:大永4年(1524年)小田原北条氏が上杉氏の江戸城を攻略。武蔵国に進出。武蔵千葉氏もその傘下に。北条氏のもとで家格を重視され、「千葉殿」の尊称 を得る。天正18年(1590年)に北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされると共に中曽根城も放棄された。

関原・関原不動尊
少し東に進む。関原2丁目に大聖寺。関原不動尊とも。関原の地名の由来は不明。木造の本堂はしっとりと美しい。境内には「おびんずる様」。赤や青の着物や紐でぐるぐる巻かれたほとけさん。苦しいところをなでると直る、とされる「なでぼとけ」。この「おびんずる様:賓頭盧尊者」はいつも赤ら顔。早い話が飲兵衛の仏様。お釈迦様のお弟子さんではあったが、内緒でちびちび。御釈迦さんに説教され禁酒を誓う。が、つい一献。ということで破門。一念発起で修行。お釈迦さんも努力を認め、本堂の外陣であれば、ということでそばにはべるのを許された、って仏様。以降、いろんなところで「おびんずる様」に出会うことになるが、ここが「おびんずる様」最初の邂逅地。

西新井橋
商店街を少しくだると八幡神社。「出戸八幡」とも。出戸は砦のこと。中曽根城主・千葉氏の守護神であった。先に進み首都高速中央環状線をくぐり、荒川堤に。西新井橋を渡り千住に進む。

元宿神社

千住元町を進む。軒先をかすめるが如くの有様。下町って感じ。道なりにすすむと元宿神社。由来書をメモする:このあたりは鎌倉時代には集落ができていた。奥州路もここを通っていたと言われる。江戸時代初期、日光道中開設とともに成立した「千住宿」に対して「元宿」と。天正の頃、甲州から移り住んだ人々によって北部の川田耕地などが開墾され、その守護神・八幡宮がこの地に祀られた。

大川町氷川神社
東に進み千住大川町。大川町氷川神社。荒川放水路工事のため大正4年(1915年)現在地に移転。「紙漉歌碑」。足立区は江戸時代から紙漉業が盛ん。地漉紙を幕府に献上した喜びの記念碑。浅草紙というか再生紙は江戸に近く、原材料の紙くずの仕入れも簡単、地下水も豊富なこの足立の特産だった。境内には富士塚も。
日も暮れてきた。千住宿は結構見所が多そう。後日ゆっくり歩く、ということで千代田線・北千住駅に進み家路へと急ぐ。これで足立区散歩は一応お終い。
いつだったか、曳舟川跡散歩のとき、足立区の神明地区から亀有まで、中川に沿って南に下った。中川は足立区の西の境、である。今回の足立区散歩は、さてどこから、と考えた。で、なんという理由はないのだが、なんとなく花畑にある大鷲神社に行こう、と思った。現在お酉さまで有名なのは浅草の大鷲神社ではあるが、元々のお酉様は足立区の大鷲神社という。
大鷲神社の場所を確認。足立区と埼玉県八潮市、草加市の境にある。綾瀬川と伝右川、そして毛長川の合流点。毛長川が埼玉・草加と足立の境になっている。毛長という名前に惹かれた。また、毛長川は、古墳の入間川の流路、である。
現在の入間川は飯能あたりを源流とし、川越とさいたま市の境あたりで荒川に注ぐ。江戸の荒川西遷事業の頃は、現在の荒川・隅田川の流路を下っていた、という。荒川西遷事業、というのは、現在の元荒川・古利根川筋を流れていた荒川の流れを、西に流れる入間川に大鷲神社瀬替した大工事のことである。で、古墳時代の入間川は、というと、これが当時の利根川水系の主流であった、よう。熊谷>東松山>川越>大宮>浦和>川口>幡ヶ谷、と下り、現在の毛長川に沿って流れ足立区の千住あたりで東京湾に注いでいた、ということだ。
葛飾・柴又散歩のとき、東京下町低地の二大古墳群は柴又あたりと毛長川流域とメモした。そのときは、それといったリアリティはなかった。が、千住あたりが当時の海岸線である、とすれば、この毛長川流域、って東京湾から関東内陸部への「玄関口」。交通の要衝に有力者が現れ、結果古墳ができても、なんら違和感は、ない。
大鷲神社がきっかけに、古墳時代の武蔵の「中心地」のひとつ、毛長川が現れた。ということで、今回の散歩は、大鷲神社からはじめ、毛長川にそって埼玉・川口市まで歩く。その後は、新芝川に沿って荒川まで進み、鹿浜橋を越え王子に出る、といったルート。つまりは、東京と埼玉との境を川にそってぐるっと一周することにした。



本日のコース: 竹の塚駅 > 竹塚神社 > 保木間氷川神社 > 花畑・正覚寺 > 綾瀬川・伝右川・毛長川合流点 > 大鷲神社 > 白山塚古墳・一本松古墳 > 花畑浅間神社 > 花畑遺跡 > 法華寺境内遺跡 > 伊興・白旗塚古墳 > 応現寺 > 伊興寺町 > 東伊興・氷川神社 > 伊興遺跡 > 毛長川・毛長橋 > 見沼代用水跡 > 諏訪神社 > 舎人氷川神社 > 入谷古墳・入谷氷川神社 > 入谷・源証寺 > 新芝川・荒川の合流点 > 鹿浜橋

地下鉄日比谷線・竹の塚
地下鉄日比谷線・竹の塚下車。近くに竹が生い茂る塚・古墳があった、とか、「高い塚」を意味する「たかきつか」が転化したもの、とか例によって諸説いろいろ。エスカレータで降り、駅の東を進む。

竹塚神社
竹塚神社。源頼義公の足跡。奥州征伐の折、この地に宿陣した、と。墨田にしても、葛飾にしても、いやはや源頼義、その息子八幡太郎義家の由来の多いこと

延命寺

北に少し進み竹塚5丁目に延命寺。総欅造りの山門はなかなか渋い。昭和51年に佐渡の円通寺から移されたもの。鎌倉とか室町の作と伝えられる聖徳太子がある。

保木間氷川神社
延命寺の東、保木間1丁目に保木間氷川神社。保木間地区の鎮守さま。もと、この地は千葉氏の陣屋跡。妙見社が祀られていた。妙見菩薩は中世にこの地で確約した千葉一族の守り神。千葉一族の氏神とされる千葉市の千葉神社は現在でも妙見菩薩と同一視されている。菩薩は仏教。だが、神仏習合の時代は神も仏も皆同じ、ってこと。後に、天神様をまつる菅原神社、江戸には近くの伊興・氷川神社に合祀。この地で氷川神社となったのは明治5年になってから。本殿の裏手に富士塚。鳥居には「榛名神社」。ということは、富士は富士でも榛名富士? 氷川神社の前を通る道は江戸時代の「流山道」。花畑の大鷲神社、成田さんへ、また、西新井大師へと続く信仰の道。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

花畑・正覚寺
保木間地区をブラブラと歩き綾瀬川まで進むことに。途中の保木間4丁目には寺町っぽい地区がある。地名の保木間は、もともとは「堤や土地の地滑りを防ぐ柵のこと。山城の国からやってきた人々が一面の湿地帯を開拓し部落をつくったときにつくったこの柵のことを地名とした。「ほき」は「地崩れ」、「ま」は「場所」。
少し東、花畑3丁目に正覚寺。ここにも新羅三郎義光の伝説。兄である八幡太郎義家を助けるため奥州遠征の途中、この寺に立ち寄る。守り本尊を預け、戦勝祈願を。正覚院に凱旋帰還。住職曰く「枯れ木に花又が咲くがごとくなり」と。

花畑・綾瀬川、伝右川、そして毛長川の合流点

毛長・綾瀬合流先に進み綾瀬川の堤に。雑草が生い茂る土手道。草を踏み分けながら北に進む。途中、花畑6丁目に諏訪神社。先に進むと綾瀬川、伝右川、そして毛長川がひとつにあるまる合流点に。花畑7丁目。花畑ってなんとなく惹かれる名前。地名の由来を調べる。元は花又村。明治に近隣の村が一緒になるとき、もとの花又村の{花}と、近辺が畑地であったので「畑」を加え、「花畑」に。で、もとの花又であるが、花 = 鼻 = 岬・尖ったところ。又 = 俣>分岐点。毛長川と綾瀬川、伝右川のが合流・分岐する三角洲、といった地形を美しく表した名前である。
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大鷲神社

大鷲神社毛長川に沿って湾曲部を進む。雑草が深い。湾曲部を廻りきったあたりで道路と交差。左に折れると直ぐに大鷲神社。大鷲神社はこの地の産土神。中世、新羅三郎源義光が奥州途上戦勝祈願。凱旋の折武具を献じたとか。
浅草酉の市の発祥の地。室町時代の応永年間(1394 - 1428年)にこの神社で11月の酉の日におこなわれていた収穫祭がお酉さまのはじまり。「酉の待」、「酉の祭り」が転じて「酉の市」になった、とか。
この地元の産土神さまのおまつりが江戸で有名になったのは、近隣の農民ばかりでなく広く参拝人を集めるため、祭りの日だけ賭博を公認してもらえたこと。賭博がフックとなり千客万来状態。江戸から隅田川、綾瀬川を舟で上る賭博目的のお客さんが多くいた、と。が、安永5年に賭博禁止。となると客足が途絶える。新たなマーケティングとして浅草・吉原裏に出張所。これが大当たり。本家を凌ぐことになった。賭博にしても、吉原にしても、信仰といった来世の利益には、こういった現世の利益が裏打ちされなければ人は動かじ、ってこと。かも。ついでに、参道で売られた熊手も、もとは近隣農家の掃除につかう農具。ままでは味気ないということで、お多福などの飾りをつけて販売した。
「大鷲」の名前の由来:この産土神さまは「土師連」の祖先である天穂日命の御子・天鳥舟命。土師(はじ)を後世、「ハシ」と。「ハシ」>「波之」と書く。「和之」と表記も。「ワシ」と読み違え「鷲」となる。ちなみに、天鳥舟命の「鳥」とのイメージから「鳥の待ち」に。この待ちは、庚申待の使い方に同じ。
鳥の話、といえば、鉄道施設と鳥のかかわり。東武伊勢崎線はこの花畑地区を通る予定だったらしい。が、この「陸蒸気」、その轟音と煤煙でにわとりが卵を産まなくなる、とか、大鷲神社の「おとりさま」に不快な思いをさせるのは畏れ多い、ということであえなく中止。電車が通っていたら、この辺りの環境は今とは違った姿に、なっていたのでは、あろう。
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毛長川:白山塚古墳・一本松古墳・花畑浅間神社
毛長川に沿って進む。川に沿って古墳が多い。大鷲神社近辺には白山塚古墳、一本松古墳。花畑大橋をすこし進むと花畑浅間神社。といっても本殿はなし。富士塚があるだけ。「野浅間」と呼ばれる。つくられたのは明治になってから。毛長川にそって点在する古墳を利用したもののよう。

毛長川:花畑遺跡・法華寺境内遺跡
さらに進む。花畑から保木間に入るあたり、日光街道に交差するあたりに花畑遺跡。草加バイパスを越え、直ぐ先、川からすこし入ったあたりに法華寺境内遺跡。
先に進む。東武伊勢崎線と交差。西清掃事務所に沿って谷塚橋に。左に折れ、次の目的地・白旗塚古墳に向かう。

伊興・白旗塚古墳
白旗古墳伊興白旗交差点。いかにも水路跡のような道筋。どうも、保木間掘跡のよう。保木間掘親水公園と呼ばれるようだが、東部伊勢崎線との交差するあたりまでは、そういった雰囲気はない。
線路手前を南に折れるとすぐ「白旗塚史跡記念公園」。白旗塚古墳がある。5世紀から6世紀につくられたもの。伊興古墳群のひとつ。直径12m、高さ2.5m、広さ60平方メートルの上段円墳。白旗塚古墳以外にも、甲塚古墳、擂鉢塚古墳などがあったよう。白旗塚の由来は、例によって、源頼義、義家が登場。これも例によって、勝利の証、源氏の白旗を掲げたところ、だとか。
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伊興寺町
伊興遺跡古墳脇に座り、一息入れる。足立って、由来は何、と考える。低湿地帯に葦が立ち並ぶ、ってことだろう、と。どうもそのとおりのよう。公園を離れ伊興寺町に。伊興町狭間と呼ばれる。北の毛長川、南の沼地に挟まれた微高地だったのが狭間の由来。お寺は関東大震災の後、浅草本所近辺のお寺がこの地に移ってきた。ちなみに、浅草の南にあったお寺は烏山に移り、烏山寺町に。
応現寺:伊興五庵と呼ばれている五つのお寺を南から進む。最初は「応現寺」。寺宝のいくつかは国立博物館に展示されている、とか。一遍上人の開いた時宗のお寺。江戸初期の建築様式が残る山門が美しい。
東陽寺:塩原太助の墓がある。江東区散歩のとき、亀戸天満宮とか塩原橋など、何回か出会った。「本所(ほんじょ)に過ぎたるものが二つあり津軽大名炭屋? 塩原」と呼ばれた本所在住の豪商。1876年三遊亭円朝が『塩原太助一代記』をつくり、噺をして以来一躍有名人に。
「河村瑞軒の墓」もある。瑞軒にも中央区霊岸島散歩のとき出会った。川村瑞賢は江戸初期の豪商。明暦の大火のとき、木曽福島の木材を買占め大儲け。その後、米を運ぶための航路開発や淀川治水工事などに貢献した。
法受院:五代将軍・綱吉の生母 桂昌院の墓がある。「怪談牡丹灯篭の碑」も。谷中に住んでいた円朝は千駄木・三崎坂の荒涼たる法住寺をモチーフに怪談を創作。怪談に出てくる寺の了碩(りょうせき)和尚は当時実在した住職。子供の頃、新東宝映画でこの手の怪談ものを良くみた。三本立て10円であった。ともあれ、怪談牡丹灯篭のあらすじ:旗本の娘お露は浪人萩原新二郎に恋。父に許されず、恋焦がれ死して幽霊となり、乳母お米の幽霊を伴い夜ごと牡丹灯寵をさげて新二郎の許へ通う。三崎坂にカランコロンと響いた下駄の音、ってストーリー。
そのほかこの寺町には常福寺。「林家三平(海老名家)」の墓がある。
易行院には花川戸助六と芸者・揚巻の墓が。団十郎の建てた「助六の碑」も。このお寺、落語家・三遊亭円楽師匠の実家とのことである。浅草・清川町から移る。
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東伊興・氷川神社

氷川神社寺町から離れ、毛長川方面に。東伊興2丁目に氷川神社。足立区最古の氷川社。淵江領42カ村の総鎮守。「淵の宮」とも呼ばれる。奥東京湾の海中にあった東京下町低地一帯が陸地化していく中で、このあたりが最も早く陸地化した。古墳時代に人々は、大宮あたりから当時大河川であった毛長川を下り移り住む。で、大宮・武蔵一ノ宮の氷川神社を勧請。
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伊興遺跡

伊興遺跡当時はこのあたりは淵が入り組んだ一帯。「淵の宮」と呼ばれた所以。付近一帯は古代遺跡。神社の直ぐ隣に伊興遺跡。縄文後期(約4000年前)から古墳時代初期の遺跡。毛長川沿いにあった遺跡のなかでもっとも繁栄した遺跡。毛長川を利用した水上交通の要衝。西日本からの須恵器なども発見されている。公園内の展示館には出土品を展示してある。伊興の地名の由来。定かならず。「吾妻鏡」に地頭で「伊古宇」の名前などが登場する。関係あるのかないのか、ともあれ不明。
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毛長川・毛長橋
毛長川毛長川に沿って西に進む。ところで、毛長川の名前の由来。地名の由来がいつも気になる、というか、地名の由来から昔の姿を想像する、それが楽しい。ともあれ、毛長川の由来:毛長川を隔て、埼玉の新里すむ長者に美しい娘。葛飾・舎人の若者と祝言。婿殿の実家と折り合い悪く実家に戻ることに。その途中沼に身を投げる。その後、長雨が続くと沼が荒れる。数年後沼から長い髪の毛を見つける。娘のものではないかと、長者に届ける。長者感激。ご神体としておまつり。それ以降沼が荒れることがなくなる。その神社が現在新里にある毛長神社。沼を毛長沼と。
毛長橋を越えると古千谷本町4丁目。「古千谷」 = こじや。古千谷の由来:江戸時代の文書にこの地を「東屋」=「こちや」。東風(こち)吹かば、匂いおこせよ、の「こち」。もともとは「荒地谷(こうちや)」だった、かも。「こうち」は「洪水のあることろ」。「や」や沢とか湿地・低地未開拓の湿地帯のこと。ちなみに、小千谷(おじや)は「落合」。水が落ち合 = 合流するところ。なんとなく音・表記が似ていたのでメモした、だけ。
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舎人・見沼代用水跡と諏訪神社

毛長川の堤を進み、舎人3丁目に。舎人の由来。これも、舎人親王に関係あるとか、「とね = 小石の多いやせ地」+「いり = 入り江」 = 「とねいり」>転化し「とねり」>「舎人」と表記、とか諸説あり定かならず。
堤からはなれ、一筋南に水路跡。見沼代用水跡。現在は親水公園になっている。親水公園脇に諏訪神社。小さい鳥居。この神社にまつわる婚姻説話:昔、この社地に夫婦杉。が、見沼代用水を掘り割るとき、水路を隔てた泣き別れに。以来、里人は縁起をかつぎ、この地を避けて通ることに。その心は、婚礼の時、難儀するほうが後々幸せに、といったこと、また、里を練り歩き、婚礼を披露するための方便に、といったこともある、とか。

舎人氷川神社
先に進み、舎人5丁目に舎人氷川神社。鎌倉初期に大宮氷川神社を勧請。現在の社殿は天保7年(1836年)のもの。総欅つくり。舎人の地も古くから開けたところ。神社近くの舎人遺跡からは古代の井戸が見つかっている。江戸時代は赤山街道の宿場として栄える。
入谷古墳・入谷氷川神社 少し南に入谷古墳・入谷氷川神社。「新編武蔵風土記」入谷古墳のメモ:「八幡社 塚上ニアリ。土人白旗八幡ト称ス。古岩槻攻ノ時、当所ニ幡ヲ立ショリ、カク称セリト云」と。昭和49年区画事業により、この塚の半分以上が削られることになっていたが、入谷氷川神社総代を中心とした住民の反対により計画変更。保存されることに。

入谷・源証寺
少し南に下った入谷2丁目に源証寺。江戸中期の建築様式を今に伝える太子堂、梵鐘で知られる。入谷の由来。毛長掘からは「入り込んだ」湿地。

新芝川
入谷から皿沼、谷在家、加賀そして鹿浜、そして新芝川へと進む。皿沼の由来。定かならず。が、「さら」 = 「浅い」ということで、「浅い沼」>「湿地帯」。皿沼は水はけの悪い、水田地帯だった。加賀。これも由来不明。が、「かが」って「耕作地にできない草群とか岩地」。このあたり耕地になりえないようなところだったのだろうか。谷在家の由来。沼田川の谷もしくは沢に開いた農家。在家は集落のこと。「湿地の部落」って意味。どうしたところで湿地帯であったようだ。ちなみに鹿浜。「しかはま」または「ししはま」。鹿を「しし」と読むことは多い。鹿が群れていたところだったのだろう。
入谷からのルート一帯は御神領。神の領地。この場合の神は東照大権現・家康。御神領とはつまりは東叡山・寛永寺の領地のこと。家康入府以来、このあたりは天領であったが、四代将軍家綱、五代将軍綱吉が寄進した。御神領堀といった用水も道筋にあった。

新芝川から荒川との合流点に
御神領を進み、新芝川の堤を下り荒川との合流点に。合流点近くに休憩所。夕刻でもあり、眺めが素晴らしい。しばしゆったり。荒川に沿って下り、鹿浜橋を渡り新田地区に。夕刻時間切れのため、タクシーにのり新神谷橋を渡り王子の駅に。本日の予定終了。

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