葛飾区の最近のブログ記事

偶々地図に見かけた流路跡、それも足立・葛飾区境を流れたと思われる古隅田川の流路に惹かれ散歩には出かけたものの、最下流部である隅田川との合流点辺りは、明治から大正にかけて開削された荒川放水路に流路は断たれており、迂回を余儀なくされた。
結構ウザったいな、などと思いながら歩いたのだが、水戸街道と出合ったり、単に刑務所とだけとしか知らなかった、小菅の東京拘置所のもつ幾層かの歴史のレイヤーに触れたりと、多くの発見があった。 それはいいのだが、本来の目的である足立・葛飾区境を辿る古隅田川筋のスタート地点と目した東京拘置所西側水路跡にたどり着くまで結構時間がかかり、また、あれこれと気になることも多くメモは東京拘置所西側到着地点で終えた。 今回は、この東京拘置所西側地点からスタートし、先は足立・葛飾区境を「一筆書き」で中川までの古隅田川をメモする。



本日のルート;
小菅万葉公園>水路跡を東京拘置所北側に>五反野親水緑道>新古川橋>足立区裏門堰排水場>大六天排水場>古隅田川緑道>鵜森橋>陸前橋>「小菅の風太郎」の案内>古隅田川緑道の案内>古川橋>白鷺公園>綾瀬駅>東綾瀬親水公園>水路跡は駅の高架下を通路で進む>自転車置き場>北野橋>袋橋>富士見橋>境田橋>開渠>親水公園風遊歩道>随喜稲荷>綾瀬二丁目ふれあい公園>常磐線手前・境四橋で暗渠となる>区境は常磐線の南の道>古隅田川(足立区・葛飾区)総合案内>北三谷三号橋・軍用金伝説の案内>北三谷橋・蒲原村宿駅伝説>葛西用水・曳舟川水路跡>田光り観音>隅田子育地蔵尊>玄恵井の碑>The Resident Tokyo East敷地内を進む>中川に

小菅万葉公園
東京拘置所の西側、古隅田川の流路跡が親水公園として整備されている。公園の中には四阿(あずまや)、小菅御殿や小菅銭座跡の案内。先回の散歩でもメモしたものだがここにも記しておく。

小菅銭座跡
「小菅御殿跡南側(現在の小菅小学校)には安政6年(1859)から慶応3年(1867)にかけて幕府の銭貨を鋳造した小菅銭座が置かれていました。文久3年(1863)の調べでは鋳造高70万7250貫文に達し、小菅で鋳造された銭は遠く、京都・大阪にも回送されました。
昔あった掘割は埋められてしまい姿を止めていませんが、今でも「銭座橋」と刻んだ石柱が残っている。銭を鋳造する鉄材は、この橋付近で荷揚げされ、裏門から銭座へ運び込まれた言うことです」。

小菅小学校とは先回の散歩で訪れた「小菅西小学校」のことだろう。また解説にある銭座橋は見落とした。「国土地理院地図(1896‐1909)」でチェックすると、小菅監獄を囲むように堀があり、そこから小菅西小学校に北東端あたりに水路が延びている。Google Street Viewで銭座橋跡も確認できた。「ぜんざ」橋と読むようだ。

小菅御殿跡
「小菅には江戸の初め関東郡代伊奈忠治の1万8千坪余りにもぼる広大な下屋敷がありました。元文元年(1736)八代将軍、吉宗の命により、その屋敷内に御殿が造営され、葛西方面の鷹狩りの際の休憩所として利用されました。御殿の廃止後は小菅籾蔵が置かれ、明治維新後に新しく設置された小菅県の県庁所在地となっています。
更に小菅籾蔵には小菅煉瓦製造所が建てられ、現在の東京拘置所の前身である小菅監獄に受け継がれていきます」。

「古隅田川(足立・葛飾区)総合案内」
また公園には「古隅田川(足立・葛飾区)総合案内」」があり、「古隅田川はかって利根川の流末の一つで、豊かな水量をもつ大河でありましたが、中川の灌漑事業等により水量を失い、やせていったものと考えられています。近代に至っては、雑排水路として利用されてきました。
現在は下水道の整備によって、排水路としての使命を終え、荒川と中川を結ぶプロムナードとして期待されています。
また、古隅田川は古来、下総国と武蔵国の境界であるとともに、人と人との出会いの場でもありました。
そこで、古隅田川に水と緑の景観を再生するため、「出会いの川 古隅田川」をテーマに失われた生物を呼び戻し、潤いのある人と人との交流と安らぎの場を創出したものです。
◆位置
当施設は中川から綾瀬川、そして荒川を結ぶ範囲の足立区と葛飾区の区境にほぼ重なっており、古隅田川は中川と綾瀬川を結び、裏門堰は荒川と綾瀬川を結んでいます。
また、古隅田川に隣接して5つの公園があり、「河添公園」「下河原公園」「は足立区、「袋橋公園」「白鷺公園」「小菅万葉公園」は葛飾区に位置しています。
◆延長
古隅田川 約5,450m、裏門堰 約1,100m」」といった説明とともに、この地から中川までの流路沿いに設けられた案内碑の位置も記されていた。どのような案内が登場するのかお楽しみではある。
◆万葉公園
ところで、ここがどうして「万葉公園」?チェックすると、万葉集巻14の東歌[3564]にある「古須気呂乃 宇良布久可是能  安騰須酒香 可奈之家児呂乎  於毛比須吾左牟(古須気(こすけ)ろの浦吹く風のあどすすか愛(かな)しけ子ろを思ひ過(す)ごさむ)にちなむとの記事が散見される。「小菅の浦に風が吹き通り過ぎるけれど、どうしたものだろう、あの愛しい娘への思いを通り過ぎる(忘れる)ことができようか(否、できない)」という歌であり、防人が別れの悲しみを詠ったものとされる。この古須気(こすけ)が小菅の地に比定され、万葉公園と名付けられたものとのこと。但し、この古須気(こすけ)が単に植物の菅との解説もある。ともあれ、万葉集の東歌よりの命名ではあろう。

水路跡を東京拘置所北側に
水路に沿って続くウッドデッキを北に向かう。塀というか柵の向こうに官舎が並ぶ。地図でチェックすると11の官舎が見えた。800名ほどの職員が働くと言う。拘置所北西端で水路は東に向かう。

五反野親水緑道
水路に沿って少し東に向かうと、北から如何にも親水公園といった道が合流する。現在の地図には東武スカイツリーライン線・五反野駅の少し南まで水路跡が見えるが、「国土地理院地図(1896‐1909)」には水路跡は見えない。田圃の悪水落しといったものだったのだろうか。昭和40年頃、「どぶ川」と呼ばれていた水路に蓋をしたようだ。いつの頃親水公園として整備されたか不詳。
下山国鉄総裁追憶碑
綾瀬川の水を使い造られたという親水公園を少し歩く。と、親水公園が常磐線の高架を潜る手前に「下山国鉄総裁追憶碑」。昭和24年(1949)、当時の国鉄総裁下山定則氏が謎の失踪を行い、翌日轢断死として発見された、所謂下山事件の発生現場(実際はここから150mほど東のようだが、常磐線改良工事、千代田線敷設工事にともないこの地に)。
下山事件は自殺・他殺(謀略説も含め)など議論があるも迷宮入り事件となっている。

新古川橋
五反野親水緑道から戻り、水路に架かる新古川橋を渡り拘置所の柵に沿って進む。少し東に進むと「一茶と小菅」という案内があった。
一茶と小菅
江戸時代の俳人小林一茶は足立や葛飾あたりの風物を詠んだ秀句を残しています。その中から小菅に由緒の深い句をとり出して紹介します。 (小菅籾倉)
遠水鶏(とおくいな) 小菅の御門 しまりけり
閉まろうとする小菅籾倉の御門を叩いているような水鶏の声が遠くから聞こえてくる。静かな夏の小菅の夕刻です。
(合歓の花)
古舟も そよそよ合歓の もようかな
一茶の深川紀行に「小菅川に入る。左右合歓の花盛りなり」とあり、続いて右の句が記されています。小菅川とは綾瀬川下流の別称です。歌川広重の江戸名所百景にも描かれ、江戸名所花暦にも、次のように紹介されています:
「合歓の木」綾瀬川・・・花又村(今の足立区花畑)の川筋、小菅御殿の辺り、いにしえはおほかりしが、いまはここかしこにあり。
現在の東京拘置所付近の綾瀬川辺りが合歓木の名所であったようです。綾瀬川の合歓木は江戸の人々にも花名所として知られていたようです。
初夏に小枝の先にうすい紅色の長い糸のような可憐な花をつけます。この花を訪ねて、風雅を愛する人々が訪れたことでしょう。
(葛西ばやし)
けいこ笛 田はことごとく 青みたり
今年も豊年、秋祭りももうすぐだ。葛西ばやしは葛飾地方に古くから伝わる郷土芸能のひとつです。かつて小菅に下屋敷のあった関東郡代・伊奈半十郎忠辰は、天下泰平、五穀豊穣、さらには一家の和合と非行防止、余暇善導を目的として、おおいに葛西ばやしを奨励しました。毎年各町村では葛西ばやし代表推薦会を催し、選ばれたものを代官自ら神田明神の将軍上覧祭りに参加を推薦したので、一層流行し、農業の余暇にお囃子を習う若者が続出したといわれます。
(蚊)
かつしかの 宿の藪蚊は かつえべし
蚊もまた葛飾の名物だったようです」とあった。

一茶はいつだったか歩いた足立区竹の塚の炎天寺で出合った。千住に住む句友を訪ねてこの辺りを往来したのであろう。有名な「やせ蛙負けるな一茶是にあり」との句を残す。因みに、最後の蚊の句の意味は、「葛飾の蚊は人間も飢えてるから蚊も困るだろ」の意味のようだ。

足立区裏門堰排水場
拘置所柵に沿って進むと、道はクランク状に曲がり、水路から離れる。道筋は足立区と葛飾区の境となっている。道を進み綾瀬川に出る。古隅田川の水路が綾瀬川に合わさる箇所を確認に少し北に戻る。そこには足立区裏門排水場があった。拘置所を囲む水路も「裏門堰親水公園」と呼ばれるようである。

大六天排水場
古隅田川の川筋は裏門堰排水場で流路を変え、南に向かう。その水路は、開削された綾瀬川に「呑み込まれ」ている。その綾瀬川に沿って南に下り、先ほど前を掠った大六天排水場に。
先ほどの裏門堰排水場もそうだが、通常排水機場と書くことが多いのだが、排水機場とは水門で堰止められて行き場の失った水路の水を排水する施設。大六天から続く古隅田川に溜まる水を綾瀬川にでも排水しているのだろうか。
大六天
第六天とも記すが、第六天とは仏教の世界観で言う6つのランクでは最下位である「欲界」、その欲界も6つに分かれるが、その中では最高ランクの「他化自在界」の魔王。望むことはすべて叶えられ、それを衆生にあまねく施し得る摩王である。
衆生の望みを叶えてくれる、「いい神」がランキングとして低いのは、衆生の望みを叶える=欲望を満たす、ということから、欲望から自由になることを最高の幸せとする仏教の世界観では評価は低い、ということだろう。因みに信長は自らを「第六天魔王」と称したようだ。
名前の由来は? チェックすると、裏門堰排水場の綾瀬川を越えたところに綾瀬神社がある。その摂社に「第六天」があるようだが、そことの関係だろうか?よくわからない。

古隅田川緑道
古隅田川緑道の少し北の通路を入ると水路にあたる。水量も結構あり、脇に木橋が整備され、親水公園として整備されている。古隅田川道と呼ばれるようである。

鵜森橋
緑道を歩き始めて初めて出合う車道との交差箇所に「鵜森橋」が架かる。車道部分と木が敷かれた人道橋を分かれて造られていた。

陸前橋
東に進んだ水路(下流から上流に向かうため、何となく「進む」って違和感あるのだが)が北に向かうところに2車線の車道。そこに陸前橋が架かる。先回のメモの水戸橋のところで水戸・佐倉道が通るとメモしたが、ここもその道筋だろう。
陸前橋としたのは、明治になって水戸街道を含めた宮城にまで通じる街道を「陸前浜街道」と命名した故。新政府としては幕府親藩の水戸藩の痕跡を残す「水戸」の名は使いたくなかったのだろう。

「小菅の風太郎」の案内
車道を少し北に進み、緑道に架かる木橋の手前に「小菅の風太郎」の案内: 「江戸時代、ここには水戸佐倉道という街道が通っていました。さる藩の大名行列が、この辺りで突然一陣の風が吹かれ街道沿いに植えられたもろこしが殿様の乗る馬に絡んだために、殿様が落馬してしまいました。
殿様はもろこしに八つ当たりする次第。畑の持ち主の源蔵は許しを請いましたが聞き入れられず、哀れ手打ちとなってしまいました。
何年か後、あの殿様一行が同じ場所でまた突風に吹かれました。すると、どこからともなく「風よ吹くな!殿様に殺されるよー」という怨めしげな声が聞こえ、一行は怯えて逃げ出したそうです。その後も風が吹くと「風よ吹くな!殿様に殺されるよー」という声がどこからとなく聞こえたそうです」とあった。何を言いたいのだろう?

古隅田川緑道の案内
橋を渡ったところに「古隅田川緑道」の案内。水路は北に向かい左に折れているが、「国土地理院地図(1896‐1909)」にはそこに水路は描かれていない。足立・葛飾区境からも外れている。曲がったところが白鷺公園とあるので、公園整備の際に排水用に造られたのだろうか。水路東端は一度綾瀬駅へと上った水路が再び南に下りてきた箇所でもある。

古川橋
少し北に古川橋。コンクリート橋の橋桁に鉄パイプの柵が備わる。何んの為?子供の転落防止?

白鷺公園
北に進み水路が東に曲がる角に白鷺公園。水路は東に曲がって水を溜めるが、古隅田川の流路は足立・葛飾区境に沿って北に進む。
水路を北に渡った角にステンレスに刻まれた「古隅田川と東京低地」の案内;
 ●古隅田川と東京低地
「古隅田川と東京低地: 東京低地は、関東諸地域の河川が集まり東京湾に注ぐ全国的にも屈指の河川集中地帯です。これらの河川によって上流から土砂の堆積作用が促され、海だったところを埋めていきます。
特に利根川は東京低地の形成に重要な役割を果しています。利根川が現在のように鬼怒川と合流し、その後千葉県銚子で太平洋に注ぐようになったのは、江戸時代初期に行われた改修のためです。
利根川は古くは足立・葛飾両区の間を流れる古隅田川、江戸川、中川が、その支流となり東京湾へ注いでいました。足立区と葛飾区が直線的ではなくて、なぜくねくねと曲がりくねっているのかと疑問をもたれる方も多いと思います。   実は古隅田川の流路が区境となっているからです。足立区と葛飾区の境は、歴史的に見ると古くは武蔵・下総国の境であり、それが現在まで受け継がれているのです。
古隅田川は足立区千住付近で入間川(私注;現在の隅田川)と合流し、現在の隅田川沿岸地域でデルタ状に分流しており、この付近に寺島・牛島などの島の付く地名が多いのは、その名残です。
現在のように古隅田川の川幅が狭くなってしまったのは、上流での流路の変化や利根川の改修工事によって次第に水量が減ってしまったせいです。今では、古代において古隅田川が国境をなした大河であったことをしのぶことはできませんが、安政江戸地震(1855年)が襲った際、亀有など古隅田川沿岸地域では液状化によって家屋、堰に被害が出たという記録が残っています。その原因は古隅田川が埋まってできた比較的新しい土地が形成されているためだそうです。   地震災害は困ったものですが、見方を変えれば古隅田川が大河であったことを裏つけているのです」とあった。

説明に「江戸川、中川がその支流となり」とあるが、中川は古利根川の東遷事業によって流路が変わった、旧流路跡利用して開削した人工の水路、江戸川も古利根川の流路変更に伴う水量調節のため上流部を人工的に開削し利根川と繋げた水路であり、「現在の江戸川、中川の流れる川筋」というのが正確かもしれない。
蓮昌寺板絵類
その傍には「蓮昌寺板絵類」の案内。「蓮昌寺には区指定文化財の木版彩色図(絵馬)が保存されています。記されている年代から、文久2年(1862)~昭和14年(1939)までの間に寄進されたことがわかります。
描かれている絵は、宗教関係の図が多く、そのほか、収穫図、能楽翁の図などがあり、蓮昌寺を中心とする信仰の形態を示す資料として重要です。 蓮昌寺は、正安2年(1300)創建と伝えられています」と。

蓮昌寺は公園から南に下ったところにある日蓮宗のお寺さま。元は道昌寺と称されたが、三代将軍家光が鷹狩の折、堂前池の蓮を愛で、蓮昌寺となった、とあった。

綾瀬駅
公園西端から綾瀬駅へと伸びる道路が足立・葛飾区境。公園から離れると水路の痕跡は全くない。綾瀬駅の高架を潜り、国土地理院地図(1896‐1909)」に記載される、北に弧を描いて進む水路跡を辿とうとするが、ビル群に阻まれトレースできず。
足立・葛飾区境
足立・葛飾区境は水路跡から離れ、駅の南側を東に進み、駅の北で弧を描いた水路が再び駅を南に下る地点で繋がり、そこから再び水路跡が区境となる。 それはいいとして、この区境が綾瀬駅の南側となった経緯など知りたいものだが、よくわからない。わかっているのは、元の綾瀬駅は現在より西、綾瀬一丁目37番にあったようだ。現在の位置に移ったのは昭和43年(1968)のこと、と言う。

東綾瀬親水公園
成り行きで歩いていると綾瀬駅の北口に繋がる広く細長い広場にあたる。水路跡のノイズを感じる広場に「東綾瀬公園」の案内があった;
「足立区は、かつて東京の米倉と言われるほど農業が盛んで、いたるところに水路が流れていました。ここ綾瀬地区一帯は稲作地域であり、都立東綾瀬公園のあたりには、上流から多くの水路が流れ込んでいました。
平成元年度、都立武道館の建設に合わせて、東綾瀬公園を大規模に改良することになり、東京都と足立区で協力してこれらの水路を親水公園として再生することになりました。
この水路は花畑川から流れる中居堀から分かれ、下流の八か村落し堀に合流します」とある。
あれこれチェックすると、花畑川から下った中居堀は東綾瀬公園の北にある「しょうぶ沼公園」を抜け、「中居堀せせらぎ公園」としてクランク状に東綾瀬公園と繋がり、そこで二手に分かれる。
東に分かれた水路は「東綾瀬温水プール」のある緑地を経て南に下り「八か村落とし親水緑道」に合流。西に分かれた水路は「東綾瀬せせらぎ水路」を経て東京武道館、そしてこの広い遊歩道に繋がる。その南は概略図ではっきりしないが、白鷺公園から東に延びる水路に繋がっているようだ。

先ほど、白鷺公園で、何故に旧隅田川筋でもないところに水路を通したのか、多分排水用であろう、とメモしたが、古隅田川筋を活用した東綾瀬公園の西側水路の排水を流しているように思える。
八ヶ村落堀・中居堀
八ヶ村落堀は江戸の頃、葛西用水から分水し綾瀬川に水を落とした長い灌漑用水路。中居堀は国土地理院地図(1896‐1909)」に花畑村から久右衛門新田、長左衛門新田へと田圃の中を下る水路が見えるがそれが中居堀だろうか。

水路跡は駅の高架下を通路で進む
ビルに消えた古隅田川の流路跡を追っかけると、線路高架にあたる。迂回するかと思ったのだが、そこには通路があり水路跡に沿って線路の南側に出る。

自転車置き場
南口に出た水路跡は、上述の如く再び足立・葛飾区境となる。駅南から水路跡はカーブで進むが、そこは自転車置き場となっている。当日自転車置き場は工事中であり、そこに残る橋跡は確認できなかった。
ちょっと気になったこと。自転車置き場は葛飾区。利用する駅は足立区。足立区民の生活基盤整備を葛飾区が担う?

北野橋
S字にカーブした自転車置き場の工事も消え、西から斜めに下る道と交差する箇所に「北野橋」の跡。少し東に綾瀬北野神社がある。

袋橋
次の通りとの交差箇所には「袋橋」。通りの西側に「袋橋公園」がある。自転車置き場はまだ続く。綾瀬駅の周囲には公園が多く整備されている。
先ほど東綾瀬公園を通ったとき、「北三谷土地区画整理組合之碑」があり、「昭和三十四年当時は二十数戸の農家と三十数戸の住家が点在する一集落で大部分は一望の農耕地で細い道が数條あるに過ぎなかった。時あたかも都心の膨張と住宅難の為、不健全無計画な不良住宅街となることを防ぐべく土地区画整理組合を設立し、健全な市街地を造成し公共の福祉の増進に寄与する 昭和四十一年」といったことが石碑に刻まれていたが、この区画整理事業は昭和34年(1959)~昭和44年(1969)に実施されている。この間に多くの公園も整備されたのだろうか。
北三谷土地区画整理組合
石碑には「当組合は旧北三谷町蒲原町普賢寺町の各一部を包含した約六十一万五千平方米の地域、とある。「国土地理院地図(1896‐1909)」には現在の東綾瀬公園辺りに北三谷、その北に蒲原、現在の綾瀬駅の南東に普賢寺の地名が載る。

富士見橋
次いでの通りとのクロス箇所には「富士見橋」。川の名は「古隅田川」ではなく、「元隅田川」となっていた。駅からいくつか橋が続いたが、「国土地理院1944-1954」までの地図には周囲は一面の田圃であり、道は見えない。「国土地理院1965-1968」には道が通る。上記区画整理事業は昭和34年(1959)~昭和44年(1969)されたとのことであるので、橋もその間に架橋されたのだろうか。

境田橋
その先は「境田橋」。自転車置き場はここで切れる。その先には三角に組まれたガードレールがあり、自転車置き場の左右に分かれた道はひとつに合わさり、住宅街を南に下る。

開渠
住宅の間の不自然に広い道を南に進むと堀にあたる。白鷺公園から東に延びた堀の東端となっている。
何故に旧隅田川筋でもないところに水路を通したのか、多分排水用であろう、とメモしたが、水路跡に残る橋跡を見るにつけ、古隅田川筋を暗渠として活用した東綾瀬公園の西側水路の排水を流している、との妄想に「確信」が出て来る。
これも綾瀬駅南の自転車置き場と同じであるが、足立区の区画整理事業で発生した排水処理を葛飾区が?駅も含めて、両区の間でなんらかの調整・取り決めでもあるのだろうか。ちょっと気になる。

親水公園風遊歩道
堀はここで切れるが、水路跡は親水公園風の遊歩道となって東に進み、都道314号にあたる。
都道314号
都道の案内に「川の手通り」とある。何故に?Wikipediaには「東京都道314号言問大谷田線(とうきょうとどう314ごう ことといおおやたせん)は、東京都台東区と足立区を結ぶ特例主要地方道。隅田川や荒川を横断し、浅草と綾瀬周辺を繋いでいる。
2013年に発足した「東京都通称道路名検討委員会」により、当初は「堀切通り」との通称が検討されたが、台東区側が「橋場通り以外の名称設定には強く反対する」と難色を示した事から、台東区域を通称の設定区間から除き、起点を白鬚橋西交差点に変更した上で「川の手通り」と名付けられた」とあった。あれこれ事情があるものだ。

随喜稲荷
都道を越えた水路筋に舗装道路に囲まれ、少々窮屈そうな小さな社が見える。「随喜稲荷」とあった。「随喜」とは仏教用語では「他人のなす善を見て、これに従い、喜びの心を生じること」を指すと言う。日本大百科全書には、「『法華経(ほけきょう)』では、この経を聞いて随喜し、教えを伝える功徳(くどく)を力説し、『大智度論(だいちどろん)』では、善を行った本人より、それを随喜した者のほうの功徳がまさっていると説いている。天台宗では滅罪の修行として懺悔(さんげ)する五悔(げ)の一つに数える」とある。
ささやかな境内には「富士」の姿が描かれた比較的新しそうな石碑があった。富士講と関係あるのだろうか。

綾瀬二丁目ふれあい公園
弧を描き北東に進む親水公園風の水路を辿ると、左手に綾瀬二丁目ふれあい公園がある辺りに四阿がありふたつ案内があった
出会いの川・古隅田川
石碑に刻まれた「古利根川流末関係図」とともに解説文:
「古隅田川流域は16世紀まで坂東太郎利根川の流末の一つで、広大な河川敷であったと考えられている。利根川が江戸に氾濫を及ぼすために、江戸時代初期から改修され、その本流を江戸川へ移し、さらに現在の流路に付け替えられて、鹿島灘へ注ぐようになった。
のち河道(古利根川)が中川として新宿(にいじゅく)地点から南流すると、それまで西流して隅田川へ注いでいた河道は干上がり、河底部が大きく蛇行して残ったが、これが古隅田川である。
かくして広大な川原は17世紀半ば頃までには、次々と新田が開かれ、新しい村々が誕生した。古隅田川がまだ大河であった頃は、武蔵国と下総国の国境で、そのため足立区側(淵江領)は武蔵一ノ宮の氷川神社を勧請して氏神とし、葛飾区側(葛西領)は下総一ノ宮の香取神社を氏神として祭り、その形態は今日まで及んでいる。
古隅田川南岸部に当たる亀有・小菅地区は利根川の運んだ土砂で自然堤防ができ、この砂州に中世期から村々が形成されていた。これらの古い村々からの文化が淵江領の新田へ寺院進出に伴って伝わっている。
淵江領の村々も、水戸街道に交通を依存していたから古隅田川に橋を架け葛西領に足を運んだ。古隅田川は、もと国境だったとはいえ、沿岸住民にとっては切っても切れない出会いの関係で結ばれていたのである」とあった。

この解説から、中川は乱流した古利根川の水路跡を利用して開いた人口の川であること、祭祀圏が古利根川を境にくっきり分かれていたことがわかる。ついでのことながら、鈴木理生さんの『幻の江戸百年(ちくまライブラリー)』には、この香取・氷川の二大祭祀圏に挟まれた元荒川の流域に80近い久伊豆神社が分布するとあり、久伊豆神社の由来、何故に二大祭祀圏の間に、など「謎」が多い社であることを思い出した。
また、「古利根川流末関係図」には、普賢寺村が綾瀬駅の上に記載されていた(「国土地理院地図(1896‐1909)」には綾瀬駅の南東にも普賢寺(村)と記されていた)。

上千葉遺蹟と普賢寺
「この遺蹟の発見は古く、寛永3年(1850)畑から壺とその中から古銭約1万5千枚が発掘されました。古銭は開元通宝・皇宋通宝・元豊通宝など中国からの輸入されたもので、壺は愛知県常滑で焼かれた13~14世紀の製品です。古銭出土地点周辺には「城口(錠口?)」「ギョウブ(刑部?)」「クラノ内」などの字名があることから付近に城館跡が存在していた可能性が高い地域です。
また、付近には治承4年(1180)の開基といわれる古城の跡に建立されたとする普賢寺が在ります。都史跡跡に指定されている鎌倉時代末期頃の宝篋印塔三基があり、葛西氏ゆかりのものと伝えられています。ここには、古隅田川を巡る歴史年表も印されている」とある。

普賢寺は南東の堀切三丁目に見える。また上千葉遺跡は中道公園の東側一帯(西亀有1丁目付近)のようだ。お寺さまの縁起より寺領が寄進された、とあり、その寺領が綾瀬駅周辺に分かれてあったということだろう。

常磐線手前・境四橋で暗渠となる

旭橋、境三橋と親水路風の水路を進む。河添公園手前に南新橋。住宅街を進んだ水路はここから道が狭くなり常磐線手前の道路と交差する箇所で暗渠となる。





境四橋の疑似親柱を境に暗渠となった水路は、常磐線を潜り、東京都立聾学校に沿って弧を描いて進む。
宿添橋、西隅田橋と暗渠は続き常磐線高架手前に隅田橋の疑似親柱が立つ。

西隅田橋の先にある下河原公園に、既に何度か目にした「古隅田川を巡る歴史」の案内があったが、ここでは割愛(重複するので「割愛」。と書いたのだが、省略するのに「愛」が必要?気になってチェックすると、元は「愛を断ち切る」という仏教用語。大切なものを思い切って省く、というのが本義のようである)。

区境は常磐線の南の道
足立・葛飾区境は常磐線を潜り、線路に沿って東に通る道となっている。とりあえず、区境を歩いたのだが、特に水路跡らしき痕跡は何もみつからなかった。道を進み都道463号と交差する地点で再び常磐線高架を北に潜り、都道463号の東から北に上る水路路跡に戻る。

古隅田川(足立区・葛飾区)総合案内
緑に囲まれたささやかな水路を一筋北に進むと東隅田橋傍に「古隅田川(足立区・葛飾区)総合案内」があった。万葉公園にあったものと同じであり記載は省略するが、プレートに刻まれた水路跡を見ると、常磐線の高架南が足立・葛飾の区境とはなっているが、水路は常磐線高架の北を通っていた。

北三谷三号橋・軍用金伝説の案内
水も切れた水路跡を郷乃二之橋、郷乃一之橋と北へと進み、水路跡がその流路を東に向ける辺り,北三谷三号橋傍に
「軍用金伝説」案内のプレートがある。
「古代から古隅田川は、武蔵国と下総国との国境をなすほどの大河でした。船の行き来も盛んで、人やものを運ぶ大切な交通手段でもありました。
この辺りは大きく曲がっているところから大曲と呼ばれ舟の舵の舵取りの難しいところとされていました。慶長18年(1613)2月の暴風の時に、この難所で1隻の船が沈没してしまいました。いつのまにか「沈没した船に軍用金が積んであった」という噂が広まり、明治に至るまで、軍用金探しが行われたそうです。しかし、発見されることなく近年の区画整理などのため、今ではその正確な場所もわからなくなってしまったそうです」と。

北三谷橋・蒲原村宿駅伝説
東に進む水路跡を法蔵寺橋、北稲荷橋と進むと、流路は北東に向かって上り北三谷二号橋、北三谷一号橋、北三谷橋へと進む。北三谷橋の先にある大きな通りは葛西用水の南端部曳舟川跡の道路である。
その通り手前に「蒲原村宿駅伝説」の案内;
「寛政6年(1794)出版の「四神地名録」に、「この土地の人のいい伝えに、古隅田川の北に添った蒲原村は、むかしの駅で今でも宿という地名が残っている。在原の業平が東下りした時「名にしおばいざこととはん都鳥我思ふ人は有りやなしや」と詠んだのは、この辺りではないか。今、隅田川と称している地は240~50年前は海だったから川があるはずがないという」とある。
その他の地誌にも、蒲原が古い駅路の宿だったかどうかを記しているものが多い。このため、治承4年(1180)源氏の再起を賭けて伊豆の挙兵、敗れて安房国に逃れた頼朝が再び鎌倉をめざして下総国から武蔵国に入った時、蒲原村に宿陣したという説が地元に根強く伝わっている」とある。

「今、隅田川と称している地は240~50年前は海だったから川があるはずがない」とは、墨田区の言問橋が在原業平の詠んだ上述の歌に由来するとの説を暗に否定しているのだろう。実際、言問橋にしても、業平橋にしても在原業平由来との説は定説とはなっていない。
ついでのことながら東武野田線・豊春駅近くに、現在は逆川となって残る古隅田川があるが、そこには業平橋とか、上記都鳥伝説が残っていたことを想いだした。

葛西用水・曳舟川水路跡
「北三谷橋・蒲原村宿駅伝説 」の東を南北に通る道路は葛西用水・曳舟川の水路筋である。いつだったかこの水路筋を歩いたことがある。利根川から取水し京成押上駅付近で北十間川に落ちる用水の歴史的経緯、その流路をまとめておく。
◆葛西用水
利根川東遷事業は新田開発をもその目的のひとつとしていた。東遷、また荒川の西遷事業により源頭部を失った旧利根川の廃路跡の湿地を新田開発とするわけである。他の多くの用水路と同じく、葛西用水もそのひとつである。
現在では行田市下中条の利根大堰(昭和43年;1968)で取水され、東京都葛飾区まで延びる大用水であるが、これははじめから計画されたものではなく、新田開発が進むにつれ、不足する水源を、上流へと求めた結果として誕生したものである。
葛西用水は慶長年間(1596~1610年)の亀有溜井、瓦曽根溜井の築造をもってその始まりとする。亀有溜井は綾瀬川の水を溜め葛西領の用水源となった。葛西から遠く離れた地で取水されるこの用水が葛西用水と呼ばれた所以であろう。 また、元荒川を堰止め瓦曽根溜井(越谷市)が造られ、そこから用水が引かれた。
寛永6(1629)年には、荒川の西遷が完了。しかし、その結果、元荒川、 綾瀬川の水量が激減し、瓦曽根溜井、亀有溜井が枯渇することになる。その対応として、庄内領中島(現幸手市西宿)で江戸川から取水し中島用水を開削し、大落古利根川に落とし、さらにその下流に松伏溜井を造り、その水を開削した逆川をへて瓦曽根溜井に送った、と(注;中島用水の記録が見つからず、流路ははっきりしないが、上記江戸川取水口から春日部市八丁目まで開削され大落古利根川に落とした、とのこと)。寛永8年(1631)には水不足に苦しむ亀有溜井へと水を通すべく葛西井堀(東京葛西用水)が開削し、瓦曽根溜井と亀有溜井が繋がった。
承応3(1654)年、利根川東遷が完了。万治3(1660)年、大落古利根川の上流域に、幸手領用水が開削される。利根川の本川俣村(現・羽生市)に圦樋を築き、用水路を開削し、川口村(現・加須市)に川口溜井を設け、その下流に琵琶溜井を築造。幸手領用水の余水を大落古利根川に落とし、下流の松伏溜井に水を送る。ここに、利根川から亀有溜井までの用水路はつながり、葛西用水の原型が出来上がった。
宝永元(1704)年、洪水により中島用水が埋没。このため享保4(1707)年には、幸手領用水を強化し、水源を江戸川に求める中島用水から松伏溜井への導水は廃止され、利根川の上川俣(現・羽生市)に切り替えた。ここに上川俣圦樋から亀有溜井 に至る葛西用水が成立することになる。
享保14(1729)年には亀有溜井を廃止し、小合溜井(葛飾区の水元公園辺り)が築造された。これにより、従来の松伏溜井から逆川、瓦曽根溜井を経由して葛西堀井(東京葛西用水;西葛西用水)を下る系統に加え、松伏溜井から二郷半領本田用水(東葛西用水)、小合溜井を経て東葛西領上下之割用水へと至る系統が加わることになる。また、宝暦4(1754)年に 上川俣の取水地点が廃止され、本川俣からの取水に宝暦4(1754)年に 上川俣の取水地点が廃止され、本川俣からの取水に戻った。
現在の流路;昔とそれほど大きくは異なっていないと思うのだが、その流路は武蔵大橋傍、行田市下中条で利根川の水をとり、埼玉用水路として利根川右岸を進み、かつての取水口である本川俣より南東に下り、東北自動車道加須ICの少し東、加須市南篠崎で会の川と合流(合流するが別水路で進み、会の川は中川に伏越で落ちる)。
南東に下る葛西用水は久喜市吉羽で大落古利根川に合流。そこから大落古利根川の川筋跡を下り、越谷市大吉の松伏溜井で大落古利根川を離れ、人工的に開削した逆川を抜け元荒川筋に水を落とし、越谷市西方の瓦曽根溜井で元荒川を離れ、葛西堀井(東京葛西用水)を亀有まで南下し、舟曳通りを流れた舟曳川筋を下り、京成押上駅付近で北十間川に合流する。
また、松伏溜井から二郷半領(吉川市・三郷市)として中川の東を小合溜井(水元公園あたり)まで下る流れもある。小合溜井からは「上下之割用水」として南西に下り、葛飾区新宿辺りで「小岩用水」を分ける。本流はそこから南に下り、曲金(現在の高砂辺り)で東井堀用水を分け、本流は更に南に下り現在の細田橋のあたりで西井堀用水と仲井堀用水を分ける。西井堀用水はそこから南東に一直線に下り、逆井の渡しの辺りで中川に合流する。これがおおよその流路であろう。

田光り観音
亀有駅の西に下る葛西用水・曳舟川筋の道路を越えると、水路跡は狭い民家の間を進む。水路跡の道はカラーの敷石風に造られている。2ブロックほど進みカラー舗装も切れた水路跡の道に「田光観音」の案内。
プレートには、「田光観音は足立区中川三丁目西光院にあり、自然木の中央に、約1mの長さで浮彫りにされた聖観音像で12年に1回牛年に大法要が営まれている。
今から約百数十年前、長右衛門新田5丁目耕地(現大谷田三丁目)で、作男が馬を使って耕作していると、馬がある場所まで来て必ず止まってしまう。不思議に思ってそのところを掘り返すと、中から大きな自然木がでて来た。その時は、気もとめず畦道によけて家に帰った。
それから毎晩、作男の夢枕に観音様が立ち、その姿が自然木に似ていることから、田に行ってこれを洗ってみると、夢の観音様と同じであった。驚いてその旨を主人に告げ西光院に安置したと言う。この木像は足立区登録有形民俗文化財である」とあった。

隅田子育地蔵尊の案内
環七を越えた水路跡は、民家の間の誠に狭い道筋を進むことになる。カラー舗装の道を数ブロック進むと「隅田子育地蔵尊」の案内。
「元禄年間、17世紀から18世紀に移ると、村々もうようやく豊になったとみえ、地蔵尊などの石造仏が村内各所に建てられるようになった。特に、村の境や追分には、悪疫の侵入防除、悪例退散などを目的に界地蔵が道祖神代わりに建てられた。
中川三丁目1の古隅田川岸にまつられた三体の地蔵尊は、足立・葛飾の村境であり、旧大谷田村道の追分三角地帯に建てられた典型的な界地蔵である。中央の大きな地蔵は「元禄元戌(1688)11月」の紀年が読み取れ、今日まで毎年8月24日に地域の子供を集めて子育地蔵祭りが催されている」とある。

水路跡の道は区境に沿って南に向かうが、子育地蔵尊の祠は、その水路筋の一筋東の通りに建つ(中川3-1)

玄恵井の碑
水路跡の道は、東京電力亀有変電所(中川3丁目)手前の民家の間を一直線に南に下る。常磐線の高架を潜り、更に細くなった道を進むと前が開け、Arioと書かれた大きなショッピングセンターが建つ。
その手前の広場に「玄恵井の碑」の案内。
「昔、亀有方面の井戸は水質が悪く「砂こし」をしなくては飲むことができないので村人は困っていました。このことを憂いた幕府鳥見役人水谷又助は、山崎玄恵という老人の助力を得、鳥見屋敷内に井戸を掘りました。幸いにも清水が井戸を満たしたので、村人はたいそう喜び、玄恵に感謝したそうです。 この碑は文化?年(1813)に、この清水が湧き出た日を記念して村人たちによって香取神社に建てられたもので、碑文は江戸時代の書史学者屋代弘賢によるものです」とある。

香取神社は広場のすぐ西側にある。案内の箇所には碑文は見当たらないが、香取神社境内に建つようである。

The Resident Tokyo East敷地内を進む
ショッピングセンターArioの脇を南に下った区境・水路跡は、ほどなく流路を南東に変えThe Resident Tokyo Eastと呼ばれるマンション群を南北に分けて進む。敷地を抜けられるかどうか不安であったが、ママ進み敷地を出る

中川に
水路跡はそのまま南東に進み、ほどなく中川の堤にあたる。取水口跡などないものかと分流点辺りを彷徨うが、折あしく分流点辺りは工事中で、それらしき痕跡を見つけることはできなかった。
小菅から辿った古隅田川水路跡散歩もこれでお終い。利根川から下る旧利根川流路跡散歩は現時点でやっと久喜辺りまで進んだばかり。まだ先は長い。この地に繋がるのはいつのことだろう。
先日来、旧利根川流路を辿ろうとしている。手始めに、利根川東遷事業のはじまりともなった会の川・川俣締切跡を下ったのだが、そのきっかけとなったのがこの古隅田川散歩である。

国土地理院今昔マップ首都1896-1906
とある週末、これといって歩きたいところが思い浮かばない。で、地図を眺めていると気になる箇所が目についた。足立区と葛飾区の区境が不自然に入り組んでいるのだ。いつだったか日暮里から三ノ輪そして隅田川に架かる白鬚橋まで、音無川跡を歩いたことがあるのだが、その川筋跡は荒川区と台東区の境となっていた。
とすれば、この足立区と葛飾区の区境の不自然、というか、川筋をもとにすれば自然と言うべきではあろうが、ともあれ、両区境も川筋では?とチェックすると、それは古隅田川の流路跡であった。
「流路跡」というフレーズには故なく惹かれる我が身である。それではと古隅田川跡を辿ったわけだが、散歩の途中での案内で、古隅田川は旧利根川流路であることを知った。正確に言えば、知ったというか、忘れていたのである。

古隅田川に出合ったのはこれが最初ではない。これもいつだったか春日部市の東武伊勢崎線・豊春駅近くで出合ったことがある。現在春日部市南平野辺りから北東に進み、春日部市梅田辺りで大落古利根川に合流する古隅田川は、旧利根川の流路であり、現在は逆川として北東に進むこの古隅田川の流れは、かつては逆方向、つまりは、梅田で大落古利根川から別れ、現在の流れと逆方向、南西に下って元荒川に注いでいた。
その流れは、下りて中川筋との合流を経て、常磐線・亀有の南東辺りから足立区・葛飾区の境を進み、隅田川に注いていた、といったことをメモしていたのだが、すっかり忘れてしまっていたのだ。

 国土地理院 今昔マップ 首都1917-24(荒川放水路工事中時期)
この古隅田川の流れは、旧利根川が江戸に下る南端部であった。で、古隅田川散歩をしながら、どうせのことなら旧利根川の流路を北から下り、古隅田川と「繋げよう」と前述会の川・川俣締切跡から下りはじめたのだが、なにせ遠い。会の川筋を歩いただけで、現在「小休止」中。
これでは古隅田川に届くまでに結構時間がかかりそう。どうもそれまで古隅田川散歩の記憶を保ち切れそうもない、といった齢故の記憶力の事情もあり、旧利根川流路散歩の途中ではあるが、とりあえず古隅田川散歩のメモを挟み込むことにした。

●古隅田川の隅田川合流地点は?
足立区・葛飾区の境を画する古隅田川の流路を辿る前に、古隅田川が隅田川に合流する辺りを歩こうと、あれこれチェックする。水神社とも称される隅田川神社の北辺りで隅田川に合流した、といった記事が多い。国土地理院地図(1896‐1909)にも「水神社」の表示があり、その北で水路が隅田川から切れ込んでいる。
とはいうものの、その切れ込み箇所に繋がる明確な水路跡はなにもない。古隅田川跡らしき水路はすべて、かつての綾瀬川に注ぎ、そこで途切れているように見える。
現在の綾瀬川は葛飾区堀切4丁目にある小谷野神社あたりから、人工的に開削された荒川放水路に沿って南東へと下っているが、荒川放水路(明治44年(1911)着工、大正13年(1924)完成)が開削される以前の綾瀬川は、真っすぐ南下し、現在京成・堀切駅脇で、荒川放水路と隅田川を繋ぐ「旧綾瀬川第二運河」の通る水路筋を下り墨田川に合流している。
国土地理院地図(1896‐1909)の地図には、明治20年(1877)創業の鐘ヶ淵紡績が記されている。工場は現在の墨堤通りの東西に分かれて建ち、「思い込み」で見れば工場の間の通りを辿れば、水神社の水路切れ込み箇所に届くのだが、それが水路跡との確証はない。

古隅田川散歩のルートを想うに、水神様から歩きはじめてもいいのだが、隅田川神社や木母寺辺りは以前歩いたこともあり、結局古隅田川流路を辿る散歩は「国土地理院地図(1896‐1909)」に水路跡が記された、旧綾瀬川に古隅田川の水路が合わさる近く、東武スカイツリーライン線・堀切駅北の堀切橋辺りを古い隅田川の最下流点とし、そこから流路跡を遡ることにする。



本日のルート;
堀切橋へ
千代田線・北千住駅>柳原寺前の通りを荒川放水路堤防に>東武スカイツリーライン線と交差>京成本線と交差>千住汐入大橋>墨堤通り>綾瀬橋>東武スカイツリーライナー線・堀切駅>堀切橋
正覚寺に
瀬川>小谷野神社>正覚寺
■東京拘置所西側向かう
小菅神社>第六天排水機場>水戸橋>八幡社>小菅西小学校>東京拘置所>差入店>拘置所柵に沿って案内板が立つ>小菅稲荷神社>東京拘置所前交差点>古隅田川の水路


■堀切橋へ■
千代田線・北千住駅
地図で東武スカイツリーライン線・堀切駅辺りへと続く水路跡を想う。駅の東、柳原2丁目の柳原寺前に、如何にも水路後といった、弧を描いて進む通りがある。これが古隅田川跡であろうと、成り行きで柳原寺に向かう。

「国土地理院地図(1896‐1909)」に見る古隅田川
メモの段階で古隅田川跡をチェックする:かつての綾瀬川に注ぐ古隅田川の流路を「国土地理院地図(1896‐1909)」でチェックすると、常磐線・亀有駅の南東から足立区・葛飾区の境を「小菅監獄」まで進んできた流れは、小菅監獄の西側を南下し、後に荒川放水路として開削される川筋の中央部まで進む。そこから現在の首都高速環状線のルートに沿って、というか、おなじルートを小菅ジャンクション手前まで東に蛇行し、ジャンクション手前で弧を描いて西に向かい、柳原2丁目に進む。その川筋は、如何にも水路跡といったカーブを描く柳原寺前の通りのようである。
地図には後に開削される荒川放水路のど真ん中を下るもの、柳原寺前の通りの一筋東を、南西に向かって下るものなどいくつもの水路跡が見られるが、なんとなく柳原寺前の通りが古隅田川跡だろうと思い込む。

柳原寺前の通りを荒川放水路堤防に
如何にも水路跡といった風情で弧を描く、柳原寺前の通りを荒川放水路に向かう。堤防に立ち、宅地の中を進む水路跡の通りや荒川放水路の対岸の荒川小菅緑地公園を眺める。
iphoneにブックマークしている「今昔マップ」の「国土地理院地図(1896‐1909)」でチェックすると、古隅田川は弧を描いて堤防に達した後、荒川小菅緑地公園まで東に向かい、小菅水再生センター辺りで半円を描きながら正覚寺へと向かい、首都高速小菅ジャンクション手前で流路を変え、高速道路のルートに沿って折り返し、再び荒川放水路の真ん中まで戻り、そこから小菅監獄の西塀に沿って北に向かっている。

東武スカイツリーライン線と交差
堤防から通りに戻り、東武スカイツリーライン線・堀切駅へと向かう。弧を描く道を進むと京成スカイツリーライン線と交差。アンダーパスが異常に低い。桁下高さ1.7mとある。
東武スカイツリーラインとはかつての東武伊勢崎線。東京スカイツリーの開業に伴い、スカイツリーラインと改称されたようだ。それはそれでいいのだが、「国土地理院地図(1896‐1909)」には東武線と記載されている。東武伊勢崎線の開業が明治32年(1899)と言うから、「国土地理院地図(1896‐1909)」とはいいながら、この地図は明治32年(1899)以降ということになる。

京成本線とクロス
東武線を越えると今度は京成線のアンダーパスを潜る。京成線の手前に小祠があり、その脇に橋の親柱を飾る擬宝珠が置かれている。「国土地理院地図(1896‐1909)」には京成本線は描かれていない。京成電鉄の第一期開業区間である押上・柴又間の開業は明治45年(1912)であるから当然であるが、「国土地理院地図(1896‐1909)」を見ると千住町から東に向かった道が、この辺りで柳原に向かって北に上るが、その曲がり角で道が水路と交差している。この擬宝珠は、そこに架かっていた橋のものだろうか。
なお、水路は緩い南向きの弧を描いて東に進み、小菅水再生センター辺りで古隅田川から分岐し南に下る水路と堀切橋辺りで合わさり、少し下って旧綾瀬川に合流しているように見える。
堀切
堀切の地名の由来は、葛西一族の館を囲む濠からとのこと。とはいえ、館跡も濠跡も見つかってはいないようだ。

千住汐入大橋
京成線・堀切駅に向かう途中、ちょっと寄り道して隅田川を見に南に下り千住汐入大橋に。護岸整備された対岸の汐入公園の向こうに東京スカイツリーが屹立している。
汐入
いつだったか南千住から汐入地区を歩いたことがある。そのときの「汐入」のメモ;戦国期の南千住のあたりの地図を眺めてみると、浅草から橋場・石浜に隅田川(当時は、入間川)に沿って砂州・微高地がある。同様に、現在の千住大橋・素盞雄(スサノオ)神社近辺にも砂州が認められる。が、その内側は千住大橋から三ノ輪を結ぶ線より東は入り江状態。その線より西は三河島のあたりまでは泥湿地帯となっている。源頼朝が浅草・石場から王子へと平家討伐軍を進めるに際し、小船数千を並べて浮橋とした、というのも大いにうなずける。 江戸以前、南千住の一帯は、入間川(隅田川)沿いに堆積した砂州を除き、ほとんどが水の中・湿地帯であった、ということだ。汐入と称される所以である。

墨堤通り
千住汐入大橋から隅田川左岸を進み、隅田川と荒川放水路を繋ぐ旧綾瀬川第二運河手前、マンションとタクシー会社(東京交通自動車〈株〉)を都道461号に抜ける。マンション敷地で通り抜けできないかと思ったのだが、そこは地図には「墨堤通り」表記されていた。
墨堤通り
墨田区吾妻橋から足立区千住桜木まで、隅田川に沿って走る。吾妻橋東詰めから隅田川の堤を通り、向島5丁目辺りで都道461号(二本並行して走る)を京成線・関屋に。京成関屋から隅田川の流路と並行に進み、荒川に架かる西新井橋手前の千住桜木町に至る。
墨堤通りという以上、往昔は隅田川(荒川とも入間川とも)の土手を通る道筋ではあったのだろう。向島5丁目で二本走る都道461号の内側の道筋、そしてこのマンション脇を進む道筋は川に面している。更には京成線・関屋から先の道筋は、いつだったか歩いた掃部堤の道筋のようだ。
掃部堤
掃部堤」は隅田川、と言うか、昔の荒川・入間川の堤防。名前の由来は、この堤を築いた石出掃部介(かもんのすけ)、より。
石部掃部介は小田原北条の遺臣。江戸時代にこの地に移り、新田を開発。場所は、元の隅田川・荒川の堤であった熊谷堤(旧区役所通りにあたる:掃部堤の内側を斜めに通る)と掃部堤に囲まれた一帯。掃部堤もその新田・掃部新田を水害から防ぐため築かれたものであろう。
往時は高さ4mもあったと言われる掃部堤であるが、削平され現在は墨堤通りとなっている。
墨堤の桜
墨堤といえば桜が有名である。墨堤の桜は四代将軍家斉が常陸国・桜川の桜を移植したのがはじまり。その後八代将軍吉宗が100本の桜を植える。当時は桜並木の桜を愛でるというより、屋敷に咲く桜木を愛でるのが普通であり、当時としては画期的なことであったようだ。
場所は水神社のあたり。現在のように三囲神社あたりまで桜並木ができたのは明治の初期、1880年代になってからのこと。明治も中頃となると、桜並木も荒れていたようだが、大倉財閥の当主・大倉喜八郎などの尽力により、現在に至る、と。明治の頃まではヤマザクラ、現在はソメイヨシノが大半を占める、とか。

綾瀬橋
旧綾瀬川第二運河に架かる綾瀬橋を渡る。散歩の当日は何故に「綾瀬橋」?などと思いながら首都高速6号向島線の高架に覆われた橋を渡ったのだが、前述の如く荒川放水路が開削される以前の旧綾瀬川が隅田川に注ぐ水路であるとメモの段階でわかり、納得。

東武スカイツリーライナー線・堀切駅
綾瀬橋を渡り運河左岸を荒川放水路方面に向かう。荒川放水路と運河を遮る隅田水門手前の跨線橋を渡り運河右岸に戻り、東武スカイツリーライナー線を跨ぐ人道橋を渡り堀切駅に。

堀切橋
堀切駅のすぐ前の堤防を北に進み、荒川放水路に架かる堀切橋を渡る。「国土地理院地図(1896‐1909)」を見ると、古隅田川が旧綾瀬川の水路に合流している。地図でトレースできる古隅田川の最下流部。やっと想定した散歩始点にたどり着いた。
次の目的地は荒川放水路を渡った先にある正覚寺。「国土地理院地図(1896‐1909)」にある古綾瀬川の川筋にお寺のマークがある。


■正覚寺に■

綾瀬川
橋を渡り、荒川放水路に沿って下る綾瀬川に架かる橋を渡る。この水路は荒川放水路開削に伴い、下流部を切られた旧綾瀬川を荒川放水路に沿って新たに開削した水路ではあろう。ただ、その水路は「国土地理院地図(1896‐1909)」に古綾瀬川と記される水路と重なる。古綾瀬川?ちょっと混乱。
いつだったか草加を歩いたとき、古綾瀬川を歩き、そのとき、「中・下流域では流路定まることなし、といった古綾瀬川ではあるが、それでもその流路としては、一筋は足立区花畑あたりから東に向かい松戸の近くで江戸川に注ぎ、もうひとすじは水元公園あたりから中川筋(といっても中川筋開削以前の古利根川)に下っていた。その流路を江戸の頃、東武スカイツリーライン線・新田駅の少し北、蒲生大橋あたりから小菅まで直線化工事を行った」とメモした。
「国土地理院地図(1896‐1909)」には直線化工事を行い隅田川に注ぐ本流水路を「綾瀬川」、隅田川合流点手前で本流から分岐し、下って中川に合わさる水路を、何故かは知らねど、「古綾瀬川」としている。何故だろう?疑問は解けず。

小谷野神社
綾瀬川に沿って水戸橋の西にある正覚寺へと向かう。北に向かうと綾瀬川堤防下を通る道路わきに小谷野神社がある。境内にあった由来を刻む石碑に拠れば、元は当地、小谷野村にあった稲荷社。元禄10年(1697)には既に存していたことが記録に残る。地名が堀切となるに伴い、小谷野の旧名を残さんと昭和45年(1970)に小谷野神社と改称された。
境内入口に祀られる三峯、水天宮は元々綾瀬川が隅田川に合わさる箇所にあったもの。荒川放水路開削に伴い、三峰社は現堀切橋際に、水天宮は隅田川水門際に移され、後さらにこの地に遷座した。
葛飾区のHPに拠れば、小谷野は奥州平泉の豪族小谷野氏の出身地故といわれるが、定かではない。小谷野氏の出自云々はともあれ、この地からは室町時代の板碑が所在しており、古くから人が住んでいたようである。

正覚寺
綾瀬川を覆う中央環状線の高架を見遣りながら、高速が南北に分かれる小菅ジャンクションで新水戸橋を渡り綾瀬川右岸に向かう。東京拘置所西側を南に下ってきた古隅田川が現在荒川放水路となっている水路の真ん中で東に折れ、中央環状線に沿って綾瀬川の水路辺手前まで進んだ後、南西に弧を描きこのお寺様の辺りを通り、そこから先は直線に進み、先ほど辿った荒川放水路右岸・柳原の土手に向かう。
「国土地理院地図(1896‐1909)」に拠れば、弧を描く水路のほとんどが現在の小菅水再生センターの敷地内を進むが、再生センター東の正覚寺は古隅田川水路傍に表示されている。水路跡が残るとも思えないが、とりあえずお寺様を訪ねる。
境内に入る。落ち着いた趣のお寺さまである。結構造作が新しいのは、高速道路と水再生センター工事に際し、本堂・客殿・庫裡等一切新築され、ためではあろう。
境内にあったいくつかの案内を大雑把にメモ:
正覚寺と日本最初の公立学校
「正覚寺と日本最初の公立学校」には、「真言宗正覚寺は常照山阿弥陀院と号す。本尊阿弥陀如来像は慈覚大師作と言う。開山は開山和尚安心の没年が文禄元年(1592)であるから、室町末期と推察される。
境内には「とげぬき地蔵」という古い石地蔵が安置される。水戸街道の北側にあったものを、大正4年、荒川放水路開削にともない移された。「とげぬき」は「罪(とが)抜き」から。小菅監獄から出所時、この地蔵に願をかけると「罪」を抜くことができたため、いつしか「とがにき」から「とげぬき」になった、と。
このお地蔵さまには「きられ地蔵」の伝説も伝わる。元禄の頃、この地蔵の付近に美女が現れ旅人を悩ますとの噂。参勤交代でこの地を通る水戸光圀が地蔵の首を一刀のもと切り離す。首はそれ以降行方不明となり、正覚寺で首を据え付ける。後に寺の近くで首が掘り出されたため、正覚寺で箱におさめ供養している。「首切り」の話はともあれ、地蔵堂の水舎に元禄年年間の銘があり、光圀とのなんらかの関連がなきにしもあらず」、との説明に続き、「もうひとつの珍しい史実」として、以下の説明が続く。
「明治2年、この地に小菅県庁が置かれる。県庁では政府の出した府県学校取調局の令に基づき、正覚寺本堂内に「小菅仮学校」という、わが国最初の公立の学校を設ける。当初は県庁役人を対象としたが、希望者には管内の一般町村民の入学も許す。但し、民間の入学者は稀であった。
この学校は隣の千住宿の慈眼寺にも分校を設けたが、明治4年の廃藩置県で県庁とともに廃校となり、明治6年の学制発布で青砥学校(区立亀有小学校)や勝鹿学校(区立新宿小学校)が設立され、生徒の大半はそちらに移る」と。
「聴聞規則」
更にこの公立学校の「聴聞規則」が続く;
「「聴聞規則」は本邦初等教育史上貴重な資料であるが、内容は旧態依然とした封建制そのものであったことがうかがい知れる。
当県仮学校当分小菅村正覚寺ニ相定候事
一 六ノ日 定休 四月十九日 会議ニ付昼後休
二 七ノ日 未ノ刻ヨリ小学講釈
諸役人出席下民といえども聴を許す但朝索読質問勝手次第
三 八ノ日 未ノ刻ヨリ牧民志告心鏡
庁内之諸役人必ズ出席すべし其他有志輩聴聞勝手たるべし但し朝前同断
四 旧ノ日 未ノ刻ヨリ孟子輪議
庁内之諸役人壮年之ものは必ズ出席すべし老幼の輩は勝手次第たるべし但し朝前同断
五 十ノ日 未ノ刻ヨリ千住四丁目慈眼寺小学講話
御用村用当二而小菅表へ出合候村人小前ども必ず出席すべし
若し怠り候もの来れは郷宿向き取調之上、正覚寺二止宿いたさせ教諭を加う其他四方之民人老若とも出席聴聞することを欲す
知事判事之内取締として時々出席すべし其他諸氏聴聞勝手たるべし但し朝前同断
明治二年 小菅県」とあった。

下民とか小前(江戸時代の小農民をいい,「前」は身分とか分限の意。一般に耕地や宅地を所持し年貢を負担する本百姓をすべて小前,小前百姓といった。また村役人級の大高持 (大前) に対して,一般の百姓あるいは水呑百姓のような零細な困窮農民をさすこともある(「ブリタニカ国際大百科事典」)などの表現や講義内容を指しての封建的とののとだろうか。
尚、「朝前同断」は、「朝は前と同じだ」との意味だろうか。ということは、その前に記されている、朝索読質問勝手次第を指すの、かと。

同じく境内にあった「史跡 県立小菅学校の跡」には「学制発布以前の公立学校として、都下教育史上貴重な遺跡」とある。学制発布は明治5年(1872)であるので、その3年前に設立されたということである。
小菅正覚寺念仏結衆地蔵像
「この地蔵像は念仏結衆を願う兵左衛門と同行衆によって建立されたものです。光背の向かって右には「寛文元天(1661)。。。」、左には「念仏結衆本願兵左衛門同行廿一人」と刻まれ、供養を行う集団を「念仏結衆」と記しています。
17世紀中頃以降は、「同行集団」とあらわすことが多くなるのですが、この地蔵像には「結衆」と「同行」が併記されています」とあった。

結衆と同行はほぼ同義で用いられ、地蔵(庚申)像などに「同行卅七人敬白」などと刻まれることもある。これは37名の結衆が地蔵(庚申)供養のため造立と読み替えるわけだが、このお地蔵さまには結衆と同行が併記されている、ということだろう。


■東京拘置所西側向かう■

水路跡も水再生センターの敷地の中となるので、この辺りの散歩は終わりと、次の目的地、古隅田川の流路である東京拘置所の西側に向かう。お寺さまから新水戸橋に戻りその一筋北の水戸橋に向かう。

小菅神社
水戸橋に向かう途中、道の左手に社がある。新水戸橋交差点から一段低い通路を抜けて進むと小菅神社に。明治2年()、小菅県が出来た際、県庁内(現東京拘置所)に県下356町村の守護として伊勢の皇大神宮を勧請するも、明治5年に小菅県所管の葛飾72ヶ村などが東京府に移管するに際し小菅村の田中稲荷社に移す。明治42年小菅神社と改称し、田中稲荷は摂社となる。境内には田中稲荷社が祀られていた。

第六天排水機場
小菅神社を北に向かうと右手に第六天排水機場が見える。その裏手に目的の古隅田川の水路が足立・葛飾区境に沿って続くのだが、とりあえずは先ほど訪れた柳原堤防から先に続く水路跡が、荒川放水路で寸断された箇所である東京拘置所西側から古隅田川を「遡上」すべく、右手の水路は後のお楽しみとする。

水戸橋
第六天排水機場のすぐ北、水戸橋を渡った西詰めに「水戸橋跡地」の案内がある。
水戸佐倉道
「前方に延びる道は、東海道など五街道に附属する水戸佐倉道です。この街道は日本橋を出発点とする日光街道の千住宿(足立区千住)から分かれ、常陸国水戸徳川家の城下をつなぐ道でした。途中、新宿(葛飾区新宿)では、下総国佐倉に向かう佐倉街道と分かれました。
これらの街道は、土浦藩や佐倉藩等が参勤交代に使う重要な道でした。享保10年(1725)八代将軍吉宗が、大規模な狩りを小金原(千葉市松戸)で行った際、水戸橋で下船して水戸佐倉街道を通行した記録が残されています」とある。

日光道中千住宿で分かれ、水戸まで29里、おおよそ122km、19の宿場で繋ぐ 流路定まらぬ低湿地であった江戸近郊の低地を抜ける水戸佐倉道は、河川改修や新田開発で江戸の近郊農村として野菜などの食料供給地となり、その物資の往来だけでなく、生活も豊かになった江戸の庶民の行楽地への往来としても使われるようになる。成田山、国府台帝釈天木下川薬師半田稲荷へとこの橋を渡って向かったのだろう。

橋名:みとはしの由来
「地元に伝わる話によると、その昔、水戸黄門(光圀)一行が旅の途中、小菅村に出没する妖怪を退治しました。 その妖怪は、親をならず者に殺され、敵を討とうとした狸でした。 子狸が退治されそうになった時、近くのお地蔵様が身代わりとなりました。 その事実を知った光圀は、後の世まで平穏となるようにと自ら筆をとり、傍らの橋の親柱に「水戸橋」と書き記したと伝わっています。 また、水戸橋下流の正覚寺には、身代わりとなったといわれているお地蔵様が安置してあり、お堂前の水舎には元禄10年(1697)の銘があります」。正覚寺云々は前述のとおり。
水戸橋・橋台の石組・綾瀬川
「ここに組まれた石組みは、江戸・明治時代から桁橋の水戸橋を支えてきた橋台を受け継いだものです。この構造は、皇居(旧江戸城)内濠に架かる木造橋である平川橋に名残を見ることができます。
水戸橋が本格的な橋として架橋された年は定かではありませんが、江戸初期の寛政年間(1624-1644)と考えられています。
水戸橋が架かる綾瀬川の開削については、「西方村旧記付図」(越谷市立図書館)に、寛永年間に匠橋付近(足立区)から小菅(葛飾区)を経て、隅田川合流地点まで掘替えた記録があります」、と。

蛇行する綾瀬川の直線化工事は、代官伊奈氏により足立郡内匠新田(足立区南花畑)から葛飾郡小菅(小菅)に、流量を調節すべく新たに水路を開削した。 その後、五街道制定にともない、寛永7年(1630年)に草加宿の設置が決まる。これに合わせ、天和3年(1683年)に蒲生大橋(東武伊勢佐木線新田駅の北東)辺りから九十九曲がりと称され、千々に乱れる綾瀬川の流路の直線化工事を行った。直線化工事とは、この蒲生大橋から古綾瀬川との合流点辺りまでの一直線になった綾瀬川の区間のことであるが、上記解説は、伊奈氏による開削工事を指すのだろう。

八幡社
水戸橋から綾瀬川にそって北に向かうと二基の石灯籠と石造りの小祠がある。地図にある鳥居のマークが不釣り合いなほどのささやかな社である。 脇にあった案内:
「八幡社とタブの木の大樹について 小菅の水戸橋付近、綾瀬川沿いに「八幡社」と大きなタブの木がありました。昭和30年代に造られた「小菅音頭」の歌詞の中にも「月もおぼろの八幡社」と歌われています。この社と大きなタブの木は、綾瀬課川のふちにあって舟の往来や行き交う人々を見守ってきました。 由緒などは不明ですが、『水戸佐倉道分間延絵図』に記載されている古い社で、棟札により元禄十三年(1700)第五代将軍綱吉に仕えた柳沢吉保によって、小菅御殿内の鎮守として再興されました。第八代将軍吉宗の時代(1740年頃)の小菅御殿古図には「八マン」と記載され、鳥居の図が示されています。
このあたりは「八幡山」と呼ばれ、小菅一丁目では一番の高台でした。綾瀬川・古隅田川に囲まれた小菅付近は昔からたびたび洪水に見舞われてきましたが、昭和以降の大洪水にも水に浸かることはなかったと言われています。小菅一丁目に大きな被害をもたらした昭和三十四年の伊勢湾台風の際にも八幡社に多くの人々が避難したと伝えられています。
大切に守ってきたこの社は、今般水戸橋の架け替えに伴い、旧社殿は取り壊され、新しい石造りの社として再建されることになりました。平成二十二年」とあった。

解説とともにあった往昔の写真には、綾瀬川を上る船と鬱蒼とした鎮守の森が見える。まだ護岸工事が実施されていない。綾瀬川の改修・護岸工事は大正9年(1920)から昭和5年(1930)にかけて行われたといった記録もあるので、それ以前の風景だろうか。
このときは解説にある小菅御殿が現在の東京拘置所の辺りにあったなど、知る由もなかった。事前準備なしの散歩は何が出てくるかわからず、後の祭りも多いが、それ以上に偶々の出合いが多く、この基本方針(単に面倒だ、というだけとも言えるが)はやめられない。

小菅西小学校
八幡の小祠の南の道を西に向かうと小菅西小学校にあたる。正門脇の敷地内に案内があり、「小菅銭座跡」とある;
「小菅銭座跡 葛飾区小菅一丁目25番1号小菅西小学校
小菅銭座は安政6年(1859)、江戸金座の直轄で、幕府の財政窮乏と銅相場急騰のため、前例のない鉄小銭を鋳造する場所として設置されました。小菅銭座の中心部は、江戸時代初期には伊奈氏下屋敷、江戸時代中期には鷹狩のための御殿から幕府の所有地・小菅御囲地となり、江戸時代後期には災害に備えての小菅籾蔵と変遷を辿った場所の一角で、現在の西小菅小学校付近にあったとされます。
万延元年(1860)には前例のない鐚銭といわれる粗悪鉄銭である四文銭を小菅で鋳造しました。最盛期の慶応年間の鋳造職人は232人を数えましたが、慶応3年(1867)にその役割を終えました。
今その頃の様子を示すものはほとんど残っていませんが、昭和25年(1950)までは銭座長屋といわれた建物が残っていました。かつて水路があった場所には、銭座橋の橋跡が残り、貨幣史関係の資料として今に伝えています。
上に小菅御殿は現東京拘置所辺りとメモしたが、この小学校あたりまで敷地であったようだ。

東京拘置所
道なりに北に進むと東京拘置所にあたる。モダンな造りの建物である。チェックするとWikipediaに、「1997年改築工事が開始、1999年には「小菅刑務所・管理棟」が日本の近代建築?選に選定、2003年中央管理棟・南収容棟、2006年北収容棟が完成」とある。
なるほど、近代建築20選に選ばれるような建物か、と思ったのだが、選定された建物は敷地内に残る戦前の建物とのことであった。衛星写真で見ると、中央の管理棟にヘリポートがあり。そこを中心に、南北にV字の収容棟が延びており、その西側にそれっぽい建物が見えた。
拘置所と刑務所
ところで、上に東京拘置所と記したが、ここにくるまで小菅刑務所と思っていた。明治12年(1879)小菅に東京集治監が設置され、明治36年(1903)小菅監獄と改称、大正11年(1922)小菅刑務所となったが、その小菅刑務所は栃木の黒羽刑務所に移ったようだ。
その経緯は、巣鴨にあった東京拘置所が、昭和20年(1945)、連合軍総司令部(GHQに接収され、所謂巣鴨プリズンとして戦争犯罪人の収容所となる。そのため、東京拘置所が小菅刑務所に一時的に同居。平和条約締結(1952年)にともない、巣鴨プリズンは日本に移管。巣鴨に東京拘置所が復する。
その後首都圏整備計画の一環として昭和46年(1971)、東京拘置所が巣鴨から小菅刑務所の地に移り、それにともない小菅刑務所は栃木に移った、と。小菅は、受刑者を収容する刑務所の機能から、未決囚を収容する拘置所にその機能を変えた、というのが正確かもしれない。因みに、巣鴨の東京拘置所跡地はサンシャイン60の辺りである。
拘置所に懲役受刑者?
Wikipediaで東京拘置所の収容者の項目を見ていると、収容定員3,000名、未決拘禁者(刑事被告人)、死刑確定者(死刑囚)、懲役受刑者(本所執行受刑者及び他刑務所への移送待ちの一時執行受刑者)を収容する、とある。未決拘禁者1,281(女性75)、懲役受刑者は696名(女性43)といった記事もみかけた。
未決拘禁者はいいとして、また、刑務所への移送待ちの受刑者もいいとして、拘置所に受刑者?チェックすると、本所執行受刑者とは懲役受刑者ではあるが、刑務所に送られることなく、この拘置所に留まり簡易作業を行う受刑者のことのようだ。「刑務所」より「拘置所」のほうが、イメージがいい(?)。刑務官に「分類」された刑の軽い人達なのだろう。

差入店
面会者出入口の道路を隔てた向かいに「池田屋 差入店」とある。当日はシャッターの閉まったお隣と二軒が指定差入点とのことである。普段見ることのない用語ではある。

拘置所柵に沿って案内板が立つ
柵に沿って古隅田川の流路のある東京拘置所の西側に向かうと、柵の前にふたつの案内板があった。
東京拘置所と煉瓦工場
明治維新後に籾倉施設が利用され「小菅県庁舎・小菅仮牢」となり、廃県後は払い下げられ、民営によるわが国初の洋式煉瓦製造所が設立されました。
明治五年二月二十六日、和田倉門内の旧会津藩邸から出火した火災により、銀座・築地は焼け野原と化します。政府の対応は速く、三十日には再建される家屋のすべてが煉瓦造りとされることが決定されます。煉瓦造りの目的は建物の不燃化をはかるだけでなく、横浜から新橋に向かって計画されていた日本最初の鉄道の終点に、西欧に負けない都市を造りあげようという意図もありました。 明治五年十二月、東京府はその製造を川崎八右衛門にまかせることを決定、川崎はウオートルスに協力を依頼し小菅に新式のホフマン窯を次々と設置し生産高を増していきます。
明治十一年内務省が敷地ごと煉瓦製造所を買い上げ、同地に獄舎を建て「小菅監獄」と命名(明治十二年四月東京集治監)、西南戦争で敗れた賊徒多数が収容され、煉瓦製造に従事し、図らずも文明開化を担っていきました。東京集治監で養成された優秀な煉瓦技能囚が全国各地に移送され、各地の集治監で製造されることになる囚人煉瓦の最初でもありました。
小菅で製造された煉瓦は、銀座や丸の内、霞ケ関の女王であるレンガ建築の旧法務省本館、旧岩崎邸、東京湾の入口に明治時代に建造された海上要塞の第二海堡等に使われ近代日本の首都東京や文明開化の象徴である煉瓦建物造りに貢献してきたのです」
小菅御殿と江戸町会所の籾倉
東京拘置所の広大な土地は、寛永年間(一六二四年~一六四三年)徳川家光が時の関東郡代伊奈半十郎忠治に下屋敷建設の敷地として与えた土地(十万八千余坪)で、当時はヨシやアシが茂り、古隅田川の畔には鶴や鴨が戯れていました。十数代にわたり代官職にあった伊奈氏が寛政四年(一七九二)に失脚するまでの間、八代将軍吉宗の命により遊猟時の御善(私注:膳?)所としての「小菅御殿」が造営された場所でもありました。
寛政六年(一七九四)に取り壊された小菅御殿の広大な敷地の一部に。天保三年(一八三二)十二月江戸町会所の籾倉が建てられました。その目的は大飢饉や大水、火災などの不時の災害に備えたもので、老中松平越中守定信の建議によるものでした。
深川新大橋の東詰に五棟、神田向柳に十二棟、ここ小菅村に六十二棟、江戸筋違橋に四棟の倉庫を建て、毎年七分積金と幕府の補助金とで買い入れた囲籾が貯蔵されていました。小菅に建てられた理由は、江戸市街と違い火災の心配が少ないこと、綾瀬川の水運の便がよかったこと、もちろん官有地であったことも条件の一つであったろうといわれています。
小菅社倉の建物は敷地が三万七百坪、この建築に要した費用は三万八千両、まもなく明治維新となり、この土地はすべて明治政府に引き継がれました」と。

なんの予備知識もなく、とりあえず古隅田川の流路へと向かうために偶々出合った東京拘置所であるが、関郡代の下屋敷、将軍家の小菅御殿、江戸町会所の籾倉、文明開化の象徴ともいえる「煉瓦」工場と、いくもの歴史のレイヤーが見えてきた。行き当たりばったりの散歩の妙である。

小菅稲荷神社
ふたつの案内板のある道を隔てた対面に赤い鳥居の小さな稲荷の社がある。 案内には「小菅稲荷神社と「小菅御殿の狐穴」」とある:
「小菅稲荷神社は小菅御殿の鎮守として小菅御殿内に祀られていましたが、昭和に入り現在の地に移されたと伝えられます。稲荷神社の使い「狐」が御神体の両脇を固めています。狐が穀物の神である宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)の使いになったのは、一般には宇迦之御魂神の別名が「御饌津神」(みけつかみ)であったことから、ミケツの「ケツ」が狐の古名「ケツ」に想起され、誤っ「三狐神」と書かれたためと言われています。
そして狐の習性(山から下りて実る稲穂を狙う害虫を食べて小狐を養う)が、古来の日本人の目には、繁殖=豊作として結びつき、狐が田の先触れ、五穀豊穣、稲の豊作を知らせる神の「お使い」として人々に定まっていきます。日本各地に「神の使い」狐の伝説が残されています。
小菅稲荷神社には「使い姫」の伝説が残されています。本殿の裏、こじんまりした庭の石山の根元には二つの穴があります。小菅御殿があった当時、将軍様の御逗留の際に不意の敵襲に備え、無事に御殿外に脱出できるよう空井戸を利用した抜け道があったと言います。
この抜け道を明治時代に入り不用なものとして埋めふさいでしまったところ、御殿跡地の政府の施設では事故が相次いで発生しました。ある夜、心痛した偉いお役人の夢枕に一匹の城狐が現れ、「私はいにしえからこの小菅稲荷の「使い姫」として空井戸に棲んでいた狐一族の長老であるが、この程我らの住居を埋められ大変難渋しておる。速やかに穴を元に戻すように」と言い残して消えました。
そこで、速やかに穴を元に戻した結果、ぱったりと事故が起こらなくなったといいます。当時のものを模した「狐の穴」は本殿の裏にちゃんと残されています」とあった。

社にお参りを済ませ、本殿裏の狐の穴をみようとしたのだが、本殿は頑丈に施錠されており、入ることはできなかった。道端から見た、本殿裏の竹の下にあるのだろうか。

東京拘置所前交差点
道を西に進み首都高速中央環状線と合わさる交差点に。交差点南には「保釈金 お立替えいたします」といった「非日常的」な看板。北には東京拘置所入口。知らず写真を撮っていたら守衛さんに制止された。撮影禁止のようだ。
旧小菅御殿石灯籠
拘置所入口左手、敷地内に案内板が立っている。「旧小菅御殿石灯籠」とあり、案内板左手に石灯籠が見る。案内には:
「旧小菅御殿石燈籠 所在地;小菅1丁目35番地
現在の東京拘置所一帯は、江戸時代前期に幕府直轄地を支配する関東郡代・伊奈忠治の下屋敷が置かれ、将軍鷹狩や鹿狩りの際の休憩所である御膳所となりました。その後元文元年(1736)7月に小菅御殿(千住御殿)が建てられました。 寛政4年(1792)小菅御殿は伊奈忠尊の失脚とともに廃止され、敷地は幕府所有地の小菅御囲地となりました。御囲地の一部は、江戸町会所の籾蔵や銭座となり、明治時代に入ると、小菅県庁・小菅煉瓦製造所・小菅監獄が置かれました。
旧小菅御殿石燈籠は、全高210cmの御影石製で、円柱の上方に縦角形の火袋と日月形をくりぬき、四角形の笠を置き宝珠を頂いています。もとは刻銘があったと思われますが、削られて由緒は明確ではありまえん。旧御殿内にあったとされるこの石燈籠は、昭和59年(1984)に手水鉢・庭石とともに現在地に移されました 葛飾区教育委員会」とあった。

脇には「石灯籠について」とする、東京拘置所による手書きの案内もあり、同様の解説が記されていたが、小菅御殿は奥州諸侯の送迎にも供されたこと、九代家重公御世継時代の養生所等にも使われたこと、明治12年の小菅監獄の敷地が7万坪に及ぶものであったこと、石灯籠は江戸初期の作、といったことが付け加えられていた。

古隅田川の水路
東京拘置所の西側、堤防手前の道路と拘置所の柵に囲まれて親水公園といった風情の水路がみえる。古隅田川の水路筋を利用した公園である。荒川放水路開削により流路断ち切られ、ために、一筆書きに進むことのできなかった古隅田川の流路であるが、ここから先、中川からの分岐点までは、足立区と葛飾区の境をひたすら進むことになる。
流路断ち切られたが故に、彼方此方へと大廻りし、ために、なんの知識もなかった小菅の地の歴史について、結果的には多くのことを知り得たのだが、メモが多くなってしまった。
今回のメモはここで終え、次回は足立・葛飾区境を「一筆書き」に進み中川までをメモすることにする。


先日の散歩で、小名木川排水機場・荒川ロックゲートから木下川排水機場・水門まで旧中川を辿り、荒川放水路西岸まで進んだ。荒川放水路の開削によって分断された中川は荒川放水路の東側にも蛇行流路が更に続く。今回は中川の流路を荒川放水路の東からはじめ、葛西・青砥で人工的に開削された新中川とふたつに分かれる辺りまで進み、後は成り行き、時間次第で新中川筋を小岩の辺りまで進むことにする。
本日歩く葛飾は今まで数回歩いている。木下川薬師とか立石さまとか、青砥藤綱ゆかりの地とか、有名どころは、ほぼカバーしている。今回は川筋からあまり離れることなく、中川、そして時間があれば新中川の風景を眺めながら進むことにする。

本日のルート;JR新小岩>平和橋通り>西井堀せせらぎパーク>中川>上平井橋東詰>綾瀬川合流点>木下川薬師>平和橋通り>天祖神社>三谷稲荷大明神>鬼塚>奥戸街道>本奥戸橋西詰>西圓寺>京成立石駅>梅田神社>請願寺>南蔵院>熊野神社>立石さま>刺抜地蔵>福森稲荷>環七>青砥橋>中川と新中川の分岐点>高砂橋>新金貨物線>大光明寺>東用水せせらぎ通り>細田神社>鹿本通り>新中川と貨物線鉄橋>天祖神社>上一色橋>総武線鉄橋>上一色排水機場跡>西小岩親水緑道>JR小岩駅

JR新小岩
本日のスタート地点の最寄り駅、葛飾区のJR総武線・新小岩駅に。昭和3年(1928)に開業のこの駅は、昭和元年(1926)当駅に設置されていた新小岩信号所が駅名となったもの。当時、駅の北は「上小松」、下は「下小松」という地名であり、本来であれば「小松駅」となるのだろうが、北陸本線に既に「小松駅」があり、同名回避のため「下総小松」などと言った候補の中から、結局は「新小岩駅」となった。
現在駅の周辺に「小松」の地名はない。それは昭和40年代の住居表示変更の際に、周辺の「小松」の地名を駅名に合わせて新小岩、東小岩、西小岩とした。室町に遡るとも伝わる葛飾の小松の地名は消え、現在はこの小松の地より流れ下った小松川の地名が江戸川区に残るのみ、である。本来、「小松菜」はこの葛飾区・新小岩、昔の小松地区で産した故の名前であるが、葛飾に小松の地名が消えた今では、江戸川区産のようにも見えてしまう。もっとも新小岩周辺の北には上小松小学校、南には小松中学、小松南小学校など、昔の地名の名残を伝える施設名は数多い。

西井堀用水跡
新小岩駅北口から北に平和橋通りを進む。人で賑わう商店街を抜けると、蔵前橋通りと交差。交差点南詰めには「平和橋」跡が残る。橋があれば、川があるだろう、ということで辺りを見渡すと、道路を隔てた北側に如何にも親水公園らしき道筋が北から斜めに交差点に交差する。道を渡り案内をみると、「西井堀せせらぎパーク」とあった。親水公園を挟んだ道筋は北西に向かってまっすぐに延びている。
「西井堀せせらぎパーク」は西井堀用水跡を親水公園としたもの。葛飾区水元公園の小合溜を水源とし、葛飾区、江戸川区の中川より東の地域を潤す用水のひとつである。古図をもとに流路を辿るに、小合溜を発した用水は「上下之割用水」として南西に下り、葛飾区新宿辺りで「小岩用水」を分ける。本流はそこから南に下り、曲金(現在の高砂辺り)で東井堀用水を分け、本流は更に南に下り現在の細田橋のあたりで西井堀用水と仲井堀用水を分ける。西井堀用水はそこから南東に一直線に下り、逆井の渡しの辺りで中川に合流している。中川の対岸には堅川の川筋が描かれている。
この西井堀用水の水路跡には、先回の旧中川散歩でも一瞬出合った。平井駅の南、都道449号・補助120号線の「小松川区民会館前」交差点を北から南東へと向かって斜めに横切る道路がこの水路跡であった。交差点の南の道筋が少し蛇行しており、少々地形のノイズを感じたのだが、それが用水跡であったわけである。

中川放水路
交差点を離れ、新西小岩の町並みを成り行きで中川の堤防へと向かう。荒川放水路開削によって、東西に泣き別れとなった中川は、荒川放水路の西は旧中川として旧来の流路を残すが、東側は荒川放水路に沿って南に下り、西葛西で荒川放水路に合流する放水路となっている。

綾瀬川
中川放水路に沿って北に上り上平井橋東詰に。先日、旧中川を歩いた時に中平井橋に出合ったが、その命名はこの上平井橋と平井橋の間ということである。その橋の西側に荒川放水路に沿って下る水路が綾瀬川。元はこの少し北、綾瀬川に沿って走る首都高速中央環状線・堀切ジャンクションの辺りで隅田川に合流していたものが、荒川放水路開削工事の時に、現在の水路となった。かつての隅田川との合流点は、堀切ジャンクションから分かれる首都高速6号向島線下の荒川放水路から隅田川に繋がる水路であろう。

2004年と2010年の水質ワーストワンといったあまり有り難くないタグ付けされたこの綾瀬川であるが、この川は江戸の頃、利根川の東遷事業や荒川の西遷事業が実施される以前に江戸に流れ込んでいた利根川・荒川の本流であった。当時の利根川・荒川は現在の柳瀬川源流点の近く、桶川市と久喜市の境までは元荒川筋の流路を下り、そこからは上尾、さいたま、越谷、草加へと現在の綾瀬川の流路を下っていた、と言う。
綾瀬川の流路とは言うものの、当時の川筋、特に中下流域は流路定まることなく、洪水の度に川筋が変わる氾濫原の低湿地帯であった、とか。綾瀬川の名前の由来が、流路定まることのない、「あやし川」から、との所以でもある。とは言うものの、大筋の中下流域の流路としては、一筋は足立区花畑あたりから東へと向かい、松戸の近くで江戸川に流れ込んでいたようである。現在の垳(がけ)川から水元公園の小合溜を経て江戸川に通じる川筋ではあろう、か。そして、もうひと筋は水元公園の辺りから中川筋(といっても、開削される前の古利根川の細流)へと下ったようである。
江戸のはじめ頃までは、歩くこともままならないこの低湿地帯を北に進むには、氾濫原を蛇行する河川の自然堤防を辿ったのではあろうが、江戸になり五街道制定にともない、寛永7年(1630年)に草加宿の設置が決まる。これに合わせ、関東代官伊奈家が足立区花畑あたりから小菅へと直線に下る堤を築き、新水路を開削した。これが現在の綾瀬川中下流域の流路となっている。

木下川薬師
綾瀬川放水路を少し北に進むと木下川薬師として知られる青龍山浄光寺。かつてはこの地の西北600mの処にあったが、荒川放水路開削の折、現在地に移った。荒川放水路西岸・東隅田3丁目にある白髭神社は木下川薬師の守護神であった、とのことだが、この社も荒川放水路開削に際し移転。寺と神社が東西に泣き別れとなっている。
ガラスの「玉眼」をもつ二体の仁王像が睨む仁王門をくぐり、正面の薬師堂にお参り。鐘楼や大師堂などが建つ境内は美しく整えられている。仁王門の脇には「やくし道」の石碑。元禄以降、江戸の庶民が豊かになったころ、物見遊山を兼ねた神社仏閣詣でが盛んになるが、このお薬師さんへも道標を頼りに多くの善男善女が参拝に訪れたのであろう。杜若(カキツバタ)の名所として名高く、庶民だけでなく幾多の文人墨客も訪れた、とか。江戸のお散歩の達人、村尾嘉稜も木下川薬師の開帳にあわせてこの寺に足を運んでいる。「亀戸天満宮の後ろの境橋から、浄光寺(木下川薬師)の総門までは一直線の道で、道の東側の川には引き船があり、両岸には桜が数百本も植えられていた。木下川薬師は恵信作の本物の古物で、子供ぐらいの大きさ、寄付状には応永三十三年(1426年)、家定とあった」と記す。

木下川薬師の歴史は古く、嘉祥2年(849)、とも。縁起によれば、伝教大師・最澄ゆかりの薬師像が仏弟子によりこの地に伝わり草庵に祀られていた。その後、東下し浅草寺に滞在していた慈覚大師・円仁がその話を聞き及び、草庵に一寺を建立し、「浄光寺」と名付けた、とか。
中世の戦乱の巷、寺は荒廃するも家康入府に際し、新領地経営のためもあり寺社を庇護、浄光寺も五石の朱印地(年貢・課役が免除された領地)が寄進され、堂宇の改築がなされた。江戸開幕以降は、元和元年(1615)、幕府の宗教統制政策である「寺院法度」により全国の寺院を本寺・末寺関係で整理したが、そのときに浄光寺は浅草寺の末寺筆頭の寺格となる。寺の縁起で円仁が浅草寺に滞在時に、といった話は、この本寺・末寺故の「物語」であろう、か。因みに、先回の旧中川散歩でもメモしたように、慈覚大師円仁が開いたというお寺は関東だけで200強あると言うが、これも寺院法度の寺院統制の折、寺の開基を円仁の人気・権威にあやかるべく「物語」をつくったのではあろう。家康亡き後も、江戸城内に日光東照宮の霊屋を造営し、浄光寺が別当職の任にあたるなど、将軍家との関係も深まり、将軍家の鷹狩りの時には食事をとる御膳所ともなっている。
ちなみに、「木下川」を「きねがわ」と読む由来であるが、もとは「木毛河(きげがわ)」、とか「木毛川」と呼ばれていたのが、「木毛河」を「きねがわ」と読み違え、また、「げ」を「下」と書き表し、「木下川=きげがわ>きねがわ」となった、との説があるが、はっきりしない。

天祖神社
木下川薬師を離れ、中川堤防に沿って先に進む。旧中川は四方を水門で締め切り、水位を海抜-2mほどまで落としており、低水路に沿って河床の遊歩道を歩けたのだが、荒川放水路の東を流れる中川は趣を異にして、高い堤防の中を川が流れる。堤防の脇の道を進み都道308号平和橋通りに架かる平和橋に。ここから何処へと地図をチェックすると、橋の南に天祖神社とその先に三谷稲荷神社。天祖神社は散歩の折々に出合うが、三谷稲荷ははじめて。如何なる社か天祖神社とともに訪ねることに。




平和橋を渡り、少し南に下ると道脇に天祖神社。鳥居をくぐり、拝殿にお参り。境内には神楽殿の他、多賀神社、道祖神社、稲荷神社などが合祀される。この昔の上平井村の鎮守は、元は神明社と呼ばれ伊勢神宮内宮を総本社とする社である。社伝によれば、この社は鎌倉時代、この地の領主である葛西三郎清重が勧請したと言う。この葛西の地は葛西御厨と呼ばれたように伊勢神宮領であり、その故の神明社の勧請ではあろう。明治維新後、神明社と多賀神社が合祀され天祖神社となったが、神明社は、皇大神社、天祖神社などと呼ばれることが多いようである。因みに、葛飾区の大半は葛西御厨に属し伊勢神宮領であるが、水元・金町のあたりは香取神社領であり、故に水元辺りは香取神社があるも、それ以外は天祖神社が多い。

三谷稲荷神社
成り行きで東へと向かい三谷稲荷に。ささやかな朱塗りの拝殿は昭和40年に再建された、とか。境内にある案内によると、三谷の由来は上品寺の住職が壇家である奈良橋氏と相談し、京の伏見稲荷をこの地に勧請したとき、辺りには三軒の農家しかなく、三家稲荷>三屋稲荷と呼ばれていたものが、いつしか三谷稲荷となった、とか。御神木の銀杏は代官伊奈半十郎忠克により手植えされたものと伝わる。
 

 

奥戸の鬼塚
新東小岩から奥戸地区に向かう。奥戸はもと「奥津」から。「津」は湊の意味。渡船場、交易港、渡河地点というところだろう。「奥」はよくわからない。わからないが、近くに青戸とい地名があり、もとは「おはつ」と書かれた文書もあり、「おおと」>「大津」または「大戸」であった、とも言われる。奥戸の「おく」も元の音が転化したものか、とも思う。
奥戸が記録に残るのは室町期の『御厨文書』に遡る。また、小田原北条氏の『小田原衆所領役帳』にも記録に残るこの地には古墳時代や奈良・平安の集落が発掘されているとのことであるので、中川流域に古くから開けた湊ではあったのだろう。いつだったか、足立区の竹の塚辺りを散歩していたとき、中川から分かれた毛長川流域に伊興遺跡があった。柴又地区とともに東京下町低地の二大古代遺跡群と言う。房総半島鋸山の石・房州石を使った石室などが残っており、古代は我々の想像以上の舟運交流があったのだろう。
奥戸地区を進み奥戸3丁目、南奥戸小学校の南に「鬼塚」がある。一度訪れたことはあるのだが記憶も薄れてきており再訪する。この塚は室町、江戸に渡って築造された塚であり、江戸時代にはお稲荷様をまつるため土を盛り、塚をつくりなおしている。塚のあたりからはハマグリといった貝殻の堆積も見られる。個人の所有地のようで、周囲か囲われ塚には近づけなかった。

森市地蔵

鬼塚の西にある森永乳業の工場脇を上り中川堤防進むと、堤防脇に「森市地蔵」の祠があった。森市という行者が入定した塚であり、森市を祀る地蔵尊が佇む。また、地蔵尊の横には南葛八十八ヶ所霊場12番の弘法大師像が安置されていた。
案内によると「此の入定塚は、森市という六部(行者)の終焉の地です。 以後この場所を森市地蔵・または圦の河岸と呼んでいます。 森市は、江戸時代他国より廻国してきた「六部」で、此の村で何年か過ごしましたが村人にも大変尊敬された行者でしたが「自己の天寿を悟り」今迄大変お世話になって村の人等の繁栄を祈願し「入定」しました(入定とは生きながら墓穴に入り、即身仏となって命を断つ意)。 経文を唱え、鉦を打ち、其の音が「三日・三晩」続いた...と伝えられています。村人は森市の死を哀れみ、お地蔵様を祀り供養しました。 現在のお地蔵様は、お堂に祀られている聖徳太子像の、背面に安置されています」、と。また南葛八十八ヶ所霊場は「南葛八十八ヶ所霊場の一霊場として、お大師様のご遺徳と村の繁栄を願い、大正12年奥戸6丁目真言宗善紹寺住職宇田川恵心師、竝に地元有志の発願により小堂を建て、弘法大師の石像を安置したもので「南葛大師」と呼び称されています。以来、旧南葛飾郡一円の善男善女の信仰を集め、現在に至っています」とあった。

西圓寺・立石諏訪神社
森市地蔵尊を離れ堤防脇を進み60号・奥戸街道に。江戸川区小岩から東へ葛飾区立石まで延びるこの道は古くからの街道ではなく、愛称といったもののようである。奥戸街道を西に進み中川に架かる本奥戸橋を渡り対岸に。中川に沿って少し先に進むと堤防から少し脇に入ったところに西圓寺。落ち着いた構えの本堂であるこのお寺さまは明治の頃無住となったとのことで、詳しい記録が残っていないものの、創建は永禄10年(1567)頃と伝わる。江戸の頃は、西圓寺のすぐ近く、京成線脇にある立石諏訪神社の別当であった。立石諏訪神社の創建は江戸の頃と伝わる。

梅田稲荷

この立石地区は「立石さま」や熊野神社、南蔵院などを一度辿ったことがある。この辺りに他にどこか見所は、と地図を見ると立石駅の北に梅田稲荷とその東に寺町といった趣の一隅がある。立石諏訪神社の近く、少々昭和の面影を残す京成線・立石駅前の商店街を北に進み梅田稲荷に。梅田稲荷は梅田村が立石村から分かれた江戸の頃に梅田村の鎮守として創建された。梅田稲荷から北東に進むと幾つかのお寺様が集まる一隅がある。如何なるものかと歩を進める。おおよそは関東大震災を機にこの地に移ったものであるが、法善寺は大和から三浦市をへて、その後昭和8年にこの地に移った、とか。

証願寺
ほとんどのお寺さまはビルに変わっている中で唯一木造本堂を残すのが証願寺。とは言うものの、本堂の古き趣きとは異なり、塀やビルの壁面には恐竜などが描かれる。如何なる趣向かとチェックすると、住職が声楽家とかマジシャンといった面をもち、寺にはプラネタリウムもある、とのこと。何らかのお考え故の企画ではあろう、か。お寺は越後国春日山城主上杉憲政の三男が出家して湯島に創建したもの。明暦の大火で浅草に移り、関東大震災の後、昭和6年、この地に移った。


南蔵院
立石駅周辺を少し彷徨い、再び中川堤防へと戻る。本奥戸橋脇に祠があり子育地蔵、馬頭観音、そして道標がある。散歩の達人・永井荷風もこの地に足を運んだようで、『断腸亭日記』に「橋際に地蔵尊とみちしるべの石があり、右江戸みち 左おくと渡し場道と刻したり」と記されている、とか。

先ほど訪れた西圓寺に入る道の先に再び地蔵の祠。仲町子育地蔵とある。地蔵の後ろの公園は「かんすけ児童公園」。勘助入り江に造られた勘助入江排水場があった、とか。

先に進むと堤防脇に南蔵院。堤防脇の道から続く参道をとおり境内に。本堂、鐘楼なども美しい。再訪した時が桜の季節でもあったので、更に境内の美しさを増していた。将軍家も鷹狩りの折り、一時期御膳所としたとのことである。この後訪れる熊野神社の別当寺でもあった。




この南蔵院の裏手に古墳が残る、という。現在、お寺の北にマンションが建つが、その辺りの古墳跡から人物埴輪が発掘されている。上でメモしたように、東京低地の古墳群は足立の毛長川流域、そしてこの地葛飾一帯が代表的なもの。この立石地域の古墳は全て中川右岸の自然堤防上に立地しており、「立石古墳群」と呼ばれることがある。葛飾一帯の古墳群は他に、中川左岸~太日川(江戸川)右岸に築造された柴又八幡神社古墳が残るが、このふたつの古墳群はそれぞれ異なった集団によって造築されたようである。奈良時代の「大嶋郷戸籍」によると、大嶋郷は柴又近郊と考えられている「嶋俣里」と江戸川区小岩近郊の「甲和里」、そしてこの葛飾区奥戸周辺と推定される「仲村里」の3つの里から成るとされている。立石の古墳はこの「仲村里」を拓いた集団の有力者のものではあろう、か。

熊野神社

南蔵院から北に向かい熊野神社に。陰陽師で有名な安倍清明の創建とされる。清明は花山上皇に従い熊野での山篭りを終え、熊野神社勧請の旅の途中この地を訪れる。中川、というか古利根川に沿ったこの美しい地を聖なる地とみなす。陰陽道五行説の五行をかたどり境内を30間5角とし、五行山熊野神社とし、熊野三社権現をまつり、石棒・石剣をご神体とする。以来、人々の信仰を集める。また葛西清重の信仰も篤かった、と。江戸に入っては三代将軍家光、八代将軍吉宗お成りの際はこの神社参拝を常とした。




とはいうものの、安倍清明さん、って実在の人物かどうかよくわからない。平将門の息子という説も。花山天皇とともに将門の意を継いで関東に独立国をつくろう、とした、って説も。熊野散歩のときにも、鎌倉散歩のときにも、安倍清明と花山天皇はペアの如くよく顔をあらわす。共に関東に下ったって事実はないようだが、伝説・縁起に登場するにはそれなりの「理由」があるだろう。そのうちに調べてみたい。




「立石」様
立石8丁目を彷徨い「立石」様を探す。一度訪れたことがあるので勘を頼りに、少々迷いながらも到着。結局は南蔵院の裏手マンションの道を隔てた西隣の、児童公園の隅っこに「立石」様を発見。「立石さま」は立石の地名の由来ともなったもの。「根あり石」とも呼ばれ、昔、いくら掘っても、掘っても最後まで行き着かない、地中に埋没する部分が計り知れない、といわれる石、と言う。とは言うものの、立石さまは僅かに地表に頭を出すだけである。
石の下には空洞があるようで、石室をもった古墳の石室の天井、ではないかといった説もある。ちなみに石は千葉の鋸山からしかとれない房州石(凝灰岩)。柴又八幡神社遺跡の古墳の石室に使われているものと同じ、である。
案内によれば、「立石さま」は室町には記録に残る、とか。古代は官道脇に道標として石を置くことがあり、そこを「立石」と呼んだ、とも。古代は古墳の石室とも、巨石信仰の対象であったとも考えられる石を、奈良時代以降は墨田から小岩に抜ける古代東海道の道標に転用されたとのことであり、江戸の頃は地上60cmほども露出していたようである
。現在、立石さまの前には小さいながら鳥居が建つが、文化2年(1805)、この地の名主が石祠を建て、立石稲荷神社としてお祀りした名残、かと。

福森稲荷神社
南蔵院脇から堤防脇の道を進むと刺抜き地蔵。大木の下の祠である。しかし、お地蔵様が多い地域である。先に進むと京成線青砥駅の南あたりに福森稲荷神社。寛政8年(1796)の創建と伝わる。お参りを済ませ堤防に戻るとき、境内にふたつの石碑が佇む。ひとつは「帝釈天王通」、もうひとつは「水神宮」の石の祠とある。水神宮は中川故の社ではあろうが、「帝釈天王通」は?チェックすると、柴又帝釈天への道である帝釈道の道標。かつて、この地から中川を越えて帝釈天に向かう「諏訪野の渡し」があった、とか。

環七・青砥橋

福森稲荷を越えると先に環七・青砥橋。青砥と青戸。表記が二通りある。上でメモしたように、元は青戸。それが「青砥」と表記されるようになったきっかけは、鎌倉時代の武将である青砥藤綱、から。江戸時代、この青砥藤綱が一躍有名になり、その名声にあやかって「青砥」と表記するケースもでてきた、ということらしい。つまりは、地名・地形にかかわるものは「青戸」、藤綱を冠したいケースは「青砥」ということだ。




新中川
青砥橋の先に中川から別れ南に下る水路がある。新中川である。昭和13年(1938)、東京を襲った洪水をきっかけに翌年より中川放水路が計画される。途中戦争激化のため計画は一時中止。戦後、昭和22年(1947)のカスリーン台風被害により再び計画が持ち上がり、昭和24年(1949)より計画再開し、昭和38年(1963)に中川放水路が完成。葛飾区高砂で中川より分かれ、南に下り江戸川区江戸川で旧江戸川に合流する全長8キロ弱、幅150m弱の水路である。




高砂橋
中川から新中川の分岐点に到着。本日の予定はおおよそ終了したのだが、まだ日も高い。地図を見ると新中川に沿って細田稲荷が目に入った。先程の三谷稲荷ではないけれど、なんらかの発見があるやも、と細田稲荷を辿り、小岩へと下ることにする。
中川に架かる高砂橋を渡る。川を渡ると高砂地区。「高砂や この浦舟に帆を上げて この浦舟に帆を上げて 月もろともに出汐の 波の淡路の島影や 遠く鳴尾の沖過ぎて 早、住之江に着きにけり 早、住之江に着きにけり」といった、世阿弥元清の謡曲、婚礼の折の謡の代表曲である「高砂」に由来する有り難い地名。とは言うものの、この辺りは、元は曲金という地名であった。曲金は既に室町の頃には成立していた古い地名。「曲」は川が蛇行する様、「金」は「淵」との説もある。ともあれ、蛇行する中川故の地名ではあろう。
その曲金が高砂になったのは、明治9年(1878)の地租改正の時、大字は「大曲」のままにし、小字を「須磨・明石・朝妻・墨田・高砂・出雲・吾妻」など謡曲に因んだ地名とした。その後、昭和7年葛飾区が誕生するとき、「曲がり金」は格好が悪い(?)などと言った理由から、有り難そうな高砂が区の地名となった、とか。

新金貨物船・新金線
高砂橋を渡り、細田稲荷の前に、まずは先ほどメモした青砥藤綱ゆかりの大光明寺へと向かう。ここも一度訪れたお寺さまであるが、青砥藤綱に惹かれ、また橋脇といった近くにもあるので歩を進めることに。
橋を渡ると中川堤防に沿って線路が下る。この路線は新金貨物線。総武線新小岩と常磐線・金町を結ぶ貨物路線。成り立ちは、明治・大正期の総武線は両国駅が終点であった。隅田川の架橋が実施されなかったためである。そのため、千葉からの貨物は総武線。亀戸駅から東武亀戸線を経て常磐線の北千住に迂回し、都内へと運んでいたようである。この不便を解消するためにできたのがこの新金貨物線。大正9年(1920)、新小岩信号所と常磐線・金町駅を結ぶ路線が計画され、大正15年(1926)開通。同時に貨物入れ替えを扱う新小岩操車場も開業し、総武本線の貨物は常磐線経由で都内へ直通連絡することになった。総武線はその後、架橋されお茶の水まで延びたが、秋葉原あたりの勾配が貨物列車には不向きで、その後も総武本線からの貨物はこの新金貨物線を経由して都内に運ばれたようである。
いつだったか小名木川散歩の時、西大島で小名木川を跨ぐ貨物線に出合ったが、この路線は総武線・亀戸駅から下り、越中島貨物駅まで続くものであり、越中島支線と呼ばれる、この貨物ネットワークの一環であった。

高砂小橋
高砂橋を渡りきると高砂小橋交差点。高砂橋?高砂小橋?少々混乱するも、この高砂小橋はこの地を流れていた用水に架かっていたものでは、と想い起こす。ちょっとおさらい;水元公園の「小合溜井」を源流に、葛飾・江戸川区の中川より東側の耕地を潤した「上下之割用水」は一路南下し、葛飾区の新宿4丁目あたりで小岩用水を分ける。この小岩用水は南東に真っ直ぐ下り、京成高砂駅の東側(昔の曲金)、京成小岩駅の西側を下り、西小岩5丁目愛国学園の西沿いの道を真っ直ぐ南へ南小岩8丁目の小岩郵便局辺りまで続く。
一方、小岩用水を分けた本流は水戸街道を越え、曲金(高砂)辺りで東井掘用水を分ける。東井掘用水は分岐点から小岩に向かって下る。東井掘用水を分けた用水本流はさらに南に下り、現在の細田橋のあたりで水路をふたつ分け、ひとつは、西井掘用水として新小岩駅辺りをへて平井駅の南を下り逆井の渡しで旧中川に注ぐ。この西井掘には先日の散歩でも、また、今回の散歩のスタート地点である新小岩駅前でも既に出合った。そして分岐したもうひとつの流れは仲井掘。上一色地区・菅原橋・本一色地区・松本地区を下り、大杉地区から一之江地区へと下ってゆく。
この高砂小橋は、場所からして小岩用水を分け、細田で東井掘を分けた後、仲井掘・西井掘に分かれる前の上下之割用水に架かった橋の名残であろう、か。

大光明寺
高砂小橋を北に少し進むと大光明寺。この寺は平成年間に創立の寺であるが、かつてこの地にあった極楽寺の本堂・庫裡・芸能塚などをそのまま引き継いでいる、と。そして、その極楽寺は青砥の地名の由来ともなった、青砥藤綱によって創建されたとも伝わる。国府台合戦で焼失・荒廃するも江戸になり復興し、門前に市がたつほど賑わった、とか。
藤綱は北条時頼、時宗の二代につかえた鎌倉武士。この藤綱って鎌倉散歩の時、滑川に架かる青砥橋の碑文で出会った。川に落とした十文銭の話で有名。碑文:「太平記に拠(よ)れば 藤綱は北条時宗 貞時の二代に仕へて 引付衆(裁判官)に列りし人なるが 嘗(かって)て夜に入り出仕の際 誤って銭十文を滑川に 堕(落)し 五十文の続松(松明)を購(買)ひ 水中を照らして銭を捜し 竟(遂)に之を得たり 時に人々 小利大損哉と之を嘲(笑)る 藤綱は 十文は 小なりと雖(いえども) 之を失へば天下の貨を損ぜん 五十文は我に損なりと雖(いえども) 亦(また)人に益す 旨を訓せしといふ 即ち其の物語は 此 辺に於て 演ぜられしものならんと伝へらる」、と。要は、川に落とした十文銭を拾うため、五十文のお金を使って松明を買いついに探し出す。人皆、「それって大損」、と。が藤綱は、十文が無くなるのは天下のお金を無くすこと。50文を失った、といってもそれは人のためになったわけだから、と人を諭した。
このお寺には藤綱奉納の弁財天や江戸に建立された藤綱の供養塔がある。とはいうものの、青砥藤綱って、実際の人物かどうか不明ではある。江戸時代、滝沢馬琴が中国の小説をモデルにして書いた『青砥藤綱模稜案』、これって大岡裁きの中世版といった読み物であるが、これがヒットして庶民のヒーローになったのが青砥藤綱ってこと、らしい。供養塔が江戸期に出建立されたのも、そうであれば説明がつく。


東井掘用水
高砂小橋の一筋東の東井掘用水の水路跡の道を下ると親水公園が現れる。ここから先は小岩駅の西側に向かって下ってゆく。大体の流路は;細田地区・西小岩地区を下り、東井掘交差点で奥戸街道、上一色橋交差点で蔵前通りと交差。小岩駅の西で総武本線を越え、辰巳新橋東詰を下り二枚橋交差点で千葉街道と交差。東松本地区を下り、松本橋東詰、鹿骨5丁目交差点、鹿骨1丁目と進み西之橋交差点にから鹿骨1丁目交差点に。そこから流路は南東へ向きを変え、新堀2丁目で小岩用水と合流し、谷河内地区を経て南篠崎の天祖神社脇を進み南篠崎町5丁目の前川神社辺りで旧江戸川に注ぐ。

細田神社
しばし親水公園を下り、成り行きで一筋西の通りに折れ細田神社に。旧細田村の鎮守。明神鳥居裏面には「安政2年の地震により破壊されたものを建立した」とある。元は隣接する曲金村(現在の高砂)の新田であったが、元禄8年(1695)に独立村となったときに、創建されたのであろう、か。現在の社殿は昭和4年の修復。地名の由来は慶長年間、紀州熊野から細田某がこの地を拓いた、ことから。

西井掘・仲井掘用水分岐点
細田神社の少し北に中川に架かる細田橋がある。上でメモしたように、曲金(現在の高砂辺り)で東井堀用水を分けた用水本流が西井堀用水と仲井堀用水に分かれる地点である。

中川放水路橋梁
新中川の堤防に沿って南に下る。奥戸街道を越えるとその先に鉄橋が見える。これは新金貨物船・新金線の鉄橋である。昭和34年(1959)、新中川開削工事の時に架橋された。鉄道橋としての歴史は古く、歴史的鋼橋ともなっている、とか。





上一色天祖神社
堤防を先に進むも中川放水路橋梁で先を塞がれ、堤防脇を迂回し再び新中川の堤防に戻る。少しすすむと上一色天祖神社。旧一色村の鎮守で、もとは神明社と称した。創建は不詳。一色とは「一種類という意味で中世の田制から。一種類の年貢または課役を領主に負担し、他は全て免除された地名」との説、「入洲」からの転化など諸説あり、はっきりしない。




西小岩親水緑道
蔵前橋通りに架かる上一色橋東詰を進むと上一色中橋。その先は総武本線であり、堤防を下りる。堤防を下りたところに空き地があり、何気なく眺めると「上一色排水機場」跡とあった。建屋は何もないが、「排水機場」と言う以上、なんらかこの地まで続く水路があったはず、と廻りを見回すと、北に親水公園らしき道筋がある。確認すると「西小岩親水緑道」とある。地図を見ると、蔵前橋通の上一色橋の少し北で東井掘用水から分かれていた。元は西小岩用水として農業用水であったものである。




江戸川には親水公園が3カ所、親水緑道が18カ所ある、と言う。そもそもが、「親水公園」という名称の日本での第一号が江戸川区の「古川親水公園」である。汚れた河川は蓋をしたり、埋めたりといった従来の都市河川政策と真逆のこの試み、水と緑に親しめる新しい公園にするこの計画は世界的にも大きく評価される。昭和57年にナイロビで開催された国連人間環境会議で紹介され、国内外の注目を浴びた。親水公園の第二号は同じく江戸川区にある「小松川境川親水公園」。塩の道を小名木川から行徳に向かって歩いている途中、江戸川区の新川から分かれる古川に何気なく踏み込んだのが日本での親水公園第一号との出合いであった。

JR小岩駅
西小岩親水緑道を少し北に辿り、後は成り行きでJR小岩駅に向かい、本日の散歩を終える。中川散歩のつもりが、思いがけなく上下之割用水とか東井掘用水、西井掘用水跡に出合うことができ、水路フリークとしては誠に楽しい一日となった。

休日の午後、時間ができた。それでは何処を歩こうか、といっても特段、どこといって候補先が想い浮かばない。地図を拡げ眺めていると、荒川の東西を蛇行する川筋が目に入った。昔の自然河川の名残を残すこの蛇行流路は旧中川である。旧中川は荒川放水路によって切り離された中川の下流部分であり、墨田区と境を接する江戸川区平井の木下川排水機場・水門で荒川から分かれ、江東区大島の小名木川排水機場で再び荒川に合流する6.68キロの水路である。

先日、旧中川と荒川に挟まれた江東区の平井の辺りを彷徨ったとき、平井の聖天さまには訪れたのだが、五色不動のひとつである平井の目黄不動・最勝寺を見逃していた。成り行き任せの散歩によくある「後の祭り」の一例である。それではと、今回は、旧中川の流路を辿りながら目黄不動を訪れることにした。ルートは、旧中川が荒川放水路と合流点する地点からはじめ、蛇行する流路を遡り、途中で目黄不動などに立ち寄り、再び旧中川をのぼり荒川放水路分岐地点まで、とする。中川は荒川放水路の東側にも蛇行流路が更に続き、葛飾・青砥で人工的に開削された新中川が分岐するのだが、今回はそこまで進む時間の余裕はなさそうであり、次回のお楽しみとする。

今回歩く中川であるが、そもそも中川と言う川は、元からあったわけではない。江戸時代の初めまで、利根川と荒川は流路定まることなく現在の中川下流域へと流れ込んでいた。その利根川と荒川を、利根川は銚子方面へと流れる常陸川筋に付け替える利根川東遷事業、荒川は入間川・隅田川筋へと付け替える西遷事業が実施され、結果、元荒川、古利根川、庄内古川など源流から切り離された川が生まれた。源流を断ち切られ、現在の中川水系一帯に「取り残された」川筋は、古利根川(元荒川が合流)、島川、庄内古川に分かれていた。大正・昭和になって中川水系へと付け替えられた島川、庄内古川は、江戸の頃は江戸川に合流しており、江戸の中頃は元荒川、古利根川の合流地点から下流を「中川」と呼んでいたようである。

源流点を羽生市6丁目、羽生南小学校辺りとする現在の中川筋ができるのは大正5年(1916)から昭和4年(1929)にかけての河川工事による。中川水系の水田地帯を潤し、そこからの排水を集め、江戸川へと注いでいた島川と庄内古川を古利根川へ付け替える工事が行われた。江戸川の水位が高く洪水時には逆流水のため島川、庄内古川流域に発生する洪水被害を防ぐためである。
島川は利根川の改修で廃川となった権現堂川を利用したうえで、幸手市上宇和田から杉戸町椿まで約6キロを新たに開削して庄内古川につながれ、庄内古川は松伏町大川戸から下赤岩まで約3.7キロして古利根川につながれた。こうして「中川」ができあがった。
昭和22年(1947)カスリーン台風の大洪水のあと、昭和24年から37年にかけて放水路として新中川も開削され、中川も都内西小岩から河口までの約7.6キロ、荒川放水路計画の中で放水路に平行して付け替えて綾瀬川を合流させ、現在の姿となった。
ちなみに、中川って、江戸川と荒川の「中」にあったから。とか。大雑把に言って、利根川の東遷事業、荒川の西遷事業によって「取り残された」埼玉中央部の川筋を、まとめ直した川筋を中川水系、と言ってもいいだろう。

本日のコース;都営新宿線東大島>旧中川堤>中川大橋>中川船番所>小名木川合流点>東京都小名木川排水機場>荒川ロックゲート>大島小松川公園旧小松川閘門>都営新宿線>新大橋通り船堀橋>首都高速7号線小松川線>京葉道路中川新橋>浅間神社>白髭神社>最勝寺目黄不動>成就寺>善通寺>総武本線>蔵前橋通り>北十間川合流点>旧中川かさ上げ護岸跡>平井橋>平井の渡し跡>東漸寺>白髭神社>中平井橋>木下川排水機場>荒川堤>天祖神社>安養寺>平井聖天燈明寺>諏訪神社>総武本線平井駅

都営新宿線東大島
旧中川が荒川放水路に合流する最寄の駅、都営新宿線の東大島で下車。駅は江東区と江戸川区の区境である旧中川を跨ぐ河川橋上駅。川を挟んで西の江東区は大島、東の江戸川区は小松川。東大島との名の通り、駅は江東区大島となっていた。
大島の名前の由来は低湿地に浮かぶ小島、から。家康入府以前の江東区域はほぼ全域が浅瀬の低湿地帯であったわけで、大島は中川などによって形成された自然堤防か微高地であったのだろう。また、小松川は中世の頃に葛飾区の新小岩辺りに小松村があり、中川の低湿地を流れる川を小松川と呼んだため、と言う。その小松は、小松殿と称せられた平重盛に由来すると説く人もいる。
いつだったか、新小岩駅の東と千葉街道・菅原橋あたりの二か所から流れがひとつにまとまり、荒川まで続く小松川境川親水公園を歩いたことがあるが、それが小松川の川筋跡ではあろう。もっとも、古地図には境川としか書かれていないようだ。現在も西小松川と東小松川地区の境となっており、往昔、村の境を流れていた故での命名であろう、か。

中川船番所記念館
東大島駅前は再開発され高層マンションが並ぶ。線路に沿って少し西に戻り、旧中川散歩の始点となる旧中川が荒川放水路に合流する地点へと南へ下る。少し進むと中川大橋の西詰、小高く盛り上がった「大島小松川わんさか広場」の南に中川船番所記念館。中川番所を中心に関東の河川海運と江東区の郷土史の資料を展示している。中川のコーナーには中川番所の再現ジオラマを中心に出土遺物、番所に関する資料が展示されている。江戸をめぐる水運のコーナーには、江戸を巡る河川水運について、海辺大工町や川浚い関する資料。江戸から東京へのコーナーには、蒸気船の登場などによる水運の近代化を通運丸や小名木川の古写真を中心に紹介してある。


中川船番所跡
資料館前の道を旧中川に沿ってすこし南に中川船番所跡。資料館の番所略史の抜粋:中川番所は、寛文元年(1661)に小名木川の隅田川口にあった幕府の「深川口人改之御番所」が、中川口に移転したもの。番所の役人には、寄合の旗本3〜5名が任命され「中川番」と呼ばれ、5日交代で勤めていた。普段は、旗本の家臣が派遣され、小名木川縁には番小屋が建てられ、小名木川を通行する船を見張る。おもに夜間の通船、女性の通行、鉄砲などの武器や武具の通関を取り締まり、また船で運ばれる荷物と人を改めていた。「通ります通れ葛西のあふむ石」と川柳に詠まれたように、通船の増加により通関手続きは形式化(あふむ=鸚鵡返し)していったようである。 因みに、江戸の時代小説などによれば、この船番所の役人は閑職であった、とのこと。

小名木川
中川船番所跡の南を東西に走り、旧中川に合流するのが小名木川。小名木川は隅田川から荒川、正確には荒川の手前の旧中川まで江東区を東西に横断する長さ5キロ弱の一級河川である。とは言え、川といっても自然の川ではなく、家康が江戸開幕の折に開削した運河。千葉の行徳の塩を江戸に運ぶためつくったものであり、江戸城の和田倉門から道三堀、日本橋川を経て隅田川、隅田川から荒川まで小名木川、荒川を越え新川(船堀川)から旧江戸川を経て行徳まで連なる「塩の道」の一部である。
小名木川の開削は入府当時、家康の最重要事業であった、という。塩は生活の必需品であるから、だろう。当時の海岸線、といっても陸地側も浅瀬の低湿地ではあるが、ともあれ、その渚に沿って運河が掘られる。で、開削された残土を葦生い茂る湿地の埋め立てに使う。小名木川以北が江戸の埋め立て事業の最初に行われたのは、こういった事情もあったの、では。小名木川の名前の由来は、家康の命によりこの運河を開削したのが小名木四郎兵衛の名前から。もっとも、これも諸説あり、うなぎがよく採れたのでうなぎ川、それがなまったという説などいろいろ。
小名木川は後に、関西地方から江戸に塩がもたらされ、塩の道の役割が少なくなってからも、東北や北関東からの生活物資を江戸に運ぶ重要河川として新たな船運の役割を担った。房総、浦賀といった太平洋の海の難所を避け、銚子あたりで内陸に入り、利根川・江戸川経由で小名木川、そして江戸に続く、いわゆる奥川廻し、この内陸水路をつかった水運ネットワークの一環として機能した。いつだったか、日本橋川から小名木川筋を進み、行徳まで歩いた「塩の道散歩」が懐かしい。

平成橋
中川大橋を下ると平成橋に。平成橋から小名木川排水機場が見える。手前の建設工事は小松川第二ポンプ場、とか。排水機場って、水位低下河川の水位を維持し、氾濫を防止、水質浄化のため取水した流入水を排水するためのポンプ施設。小松川第二ポンプ場を建設しているということは、小名木川排水機場に替わる、ということであろうか。

荒川ロックゲート
平成橋から東に向かい荒川放水路の堤防へと向かう。荒川放水路は500mほどの幅である。広々とした河川風景を見やりながら堤防を南に下ると巨大が塔が見えるが、それが荒川ロックゲート。ロックゲートとは水門で水位を調節しながら、水位の異なる川筋を結び通船を可能とする施設。「水位差のある箇所をふたつの水門で囲う。片方の水門を開けて船を入れる。このときの水位は水を入れた側と同じ。次に水門を閉じポンプで水を注入する、あるいは排水して反対側の水位と合わす。水位が合うと、出る側の水門を開き船を通す」といったものである。
荒川ロックゲート(閘門)が造られた背景は、船運の盛んであった荒川流域が荒川放水路開削により荒川と旧中川に水位差ができてしまった、ため。荒川と旧中川の水位差は3.1mにもなった、と言う。そのため、水位調節機能をもった小松川閘門が昭和5年(1930)完成し通船していたが、昭和50年閉鎖。その後、水路を利用した災害復旧機能が見直され、平成17年(2005)にこの荒川ロックゲートが完成し、墨田川と荒川を結んだ水路のネットワークが整備された。

散歩の折々にロックゲート(閘門)に出合う。小名木川にも扇橋閘門があった、埼玉散歩では東西の見沼用水を繋ぐ見沼通船堀で、小規模ではあるが、江戸の頃というから、スエズ運河より早い時期に作られた木製の閘門に出合った。因みにロックゲートはrock ではなく、lockが英語のスペルである。

荒川放水路は明治44年(1911)から昭和5年(1930)にかけて建設された人口の川(放水路)である。昔、荒川の本流は隅田川であった。が、隅田川は川幅がせまく、堤防も低かったため、大雨や台風の洪水を防ぐことができなかった。ために、北区の岩淵水門で隅田川と別れ河口までの約22km、人工の川(放水路)を20年の歳月、延べ310万人の労働力により開削した。
放水路建設のきっかけは明治43年(1910)の大洪水。埼玉県名栗で1212mmの総雨量を記録し、荒川のほとんどの堤防があふれ、決壊した堤数十箇所、と言う。利根川、中川、荒川の低地、東京の下町は水没し、流出・全壊家屋1679戸、浸水家屋27万戸、と言う甚大な被害をもたらした。
荒川放水路の川幅は500m。こんな大規模な工事を、明治にどのようにして建設したのか、ということだが、第一フェーズは人力で、川岸の部分を平らにする。掘った土を堤防となる場所へ盛る。第二フェーズは平らになった川岸に線路を敷き、蒸気掘削機を動かして、水路を掘る。掘った土はトロッコで運ばれて、堤防を作る。そして第三フェーズでは水を引き込み、浚渫船で、更に深く掘る。掘った土は、土運船やポンプを使い、沿岸の低地や沼地に運び埋め立てした。とのことである。

江戸時代の荒川
江戸時代以前の荒川は、現在の元荒川筋を流れ、越谷付近で当時の利根川(古利根川)に合流していた。寛永6年(1629)、荒川を利根川から分離する付け替え工事をおこない、久下村地先(熊谷市)において元荒川の河道を締め切り、入間川の支流に流路を合わせ、墨田川をへて東京湾に注ぐ流路に変えた。荒川の西遷事業と呼ばれるものである。以来荒川の河道が現在のものとほぼ同様のものになり、埼玉東部低湿地帯は穀倉地帯に、整備された水路は船運で栄えた。明治から昭和にかけては明治43年(1910)の大洪水をきっかけに荒川放水路が造られ現在に至る。

小松川閘門
荒川ロックゲートを離れ、旧中川散歩をはじめる。少し北に進み小高い台地となっている都立大島小松川公園に入る。都立大島小松川公園は旧中川の西の江東区側にも公園が広がっているため、「大島小松川」と両地名併記となっているのだろう。この公園は江東地区の防災市街地再開発事業により設置され、通常はレクレーションの場、災害時は避難場所となっている。
公園を歩いていると前方に重厚な石造りらしき建造物があり、近づくと小石川閘門跡とあった。ということは、この辺りがもともとの荒川と旧中川の合流点であったのだろう。この閘門は昭和5年(1930)に完成し昭和50年(1975)まで使用された。2つの扉の開閉によって機能を果たしていたが、この建物はそのうちの1つが残る。また、この建物も全体の約2/3程度が土の中に埋まっている。洪水対策である荒川スーパー堤防の余波だろう、か。スーパー堤防って、堤防の高さのおよそ30倍の幅(高さ10mの堤防であれば、おおよそ200mから300mの幅)を盛土し、緩斜面をつくる、とのことであるので、この推論はそれほど間違っているようには思えない。

新大橋通り・船堀橋
都立大島小松川公園を下り中川大橋東詰めに戻る。先ほど下ってきた道筋を逆に都営新宿線方面へと進む。新大橋通りに架かるのは船堀橋。旧中川から荒川放水路・新中川を超える区間を一括して船堀橋と呼ぶようである。
この船堀橋が昭和46年(1971)に開通する前は、荒川放水路の開削に合わせ、大正12年(1923)には下流300mのところに荒川を渡る船堀大橋と、旧中川を渡る船堀小橋という木橋が架かっていた、と言う。場所は江戸川区船堀の陣屋橋通りの延長線上。船堀大橋は、今は無いが、船堀小橋は「中川大橋」として再架橋されている。中川大橋は中川船番所脇の橋である。

水際の遊歩道
川沿いの道を歩きながら眼下の旧中川を見遣る。と、水際・低水路に沿って遊歩道が整備されている。振り返って見ると都営線のあたりから水辺の道がはじまっているようである。旧中川の水位は平常時水位を人工的にA.P.-1mまで低下させ、地域に安全を確保している、とのこと。
A.P.とはArakawa Peilの略。Peilはオランダ語で「基準」の意味。荒川の水位を表す基準のことで、A.P0(zero)は明治の頃、荒川の河口だった霊岸島(現在の中央区新川)に水位観測所を設け測定された潮の干潮時の最も水位の低いところ。明治の頃オランダ人河川技師によって定められた。荒川干潮時は東京湾の海抜-1.13mと言うから、A.P.-1mは海抜-2mといったところ、だろう。
所謂隅田川と荒川に挟まれた江東三角地帯には小名木川、北十間川、横十間川そしてこの旧中川などの内部河川が縦横に流れているが、隅田川は押上付近にある源森川水門で北十間川を、小名木川水門で小名木川を締切り、先ほど訪れた小名木川排水機場と、これから辿る木下川排水機場で荒川放水路と旧中川を締切っている。このような締切りの結果、旧中川の水位は海抜-2mに保たれている、ということである。

逆井の渡し跡
首都高速7号・小松川線下に進む。高速の少し北に架かる鉄橋・逆井橋の辺りは昔の「逆井の渡し」跡。江戸から佐倉、成田へと向かう「佐倉往還」の渡しがあったところである。歌川広重の「名所江戸百景 逆井のわたし」には、白鷺らしき鳥が舞う風光明媚なこの地が描かれる。八代将軍吉宗が小松川に最初の鷹狩りに来たときは、本所堅川からこの逆井の渡しを経て西小松川に向かった、とか。
明治12年(1879)には渡し跡に橋が架けられて、逆井の渡しは廃止。架橋当時は村費による架橋費を補うために通行料(橋銭)を徴収する賃取橋であった、と言う。明治27年(1894)に橋銭徴収を止め、明治31年(1898)に、東京府によって架けかえられ、昭和43年(1968)には鉄橋となった。

千葉街道
先に進み、国道14号・京葉道路に架かる中川新橋を超える。国道14号は都内の両国橋を起点とし江戸川区松島の東小松川交差点で同じ14号として二方向に分岐し、一方は千葉街道として市川へと上り、そこから江戸川に沿って南東へと下る。もう一方は国道14号・京葉道路として東進し、谷河内から側道として高速道路に併設され、篠崎ICで高速道路の区間と接続する。ふたつに分かれた道は習志野・千葉市境(幕張IC)で交差する。
ところで、東小松川で北東へと進む千葉街道のルートが少し気になった。千葉街道とは言いながら、千葉へと直線に進むのではなく、市川を三角形の頂点とするように大回りをする。この大回りの理由が気になった。市川にあった下総国府に向かうのが主目的であったのか、はたまた直進する一帯は低湿地で江戸の頃に埋め立てが行われるまでは直線ルートは進むに進めなかったのだろうか。または、そもそもが、市川の渡しより下流に渡しがなかったのだろうか。あれこれ妄想は膨らむ。
チェックすると、この14号・千葉街道は江戸から成田に向かう「元佐倉道」の道筋であった、よう。両国橋を渡り、竪川通りを東進して旧中川の「逆井の渡し」から四股(荒川放水路と中川放水路の間の中州・千葉街道と行徳道の交差点)、五分一、八蔵橋、菅原橋を経て小岩市川の渡しを渡り、市川、佐倉をへて成田へと向かった、と。千葉街道と呼ばれるようになったのは明治になってから、であった。市川の渡しより下流に渡しがあったかどうか、未だ不明ではある。

浅間神社
新大橋通りを北に越え、今回の散歩のきっかけともなった平井の目黄不動・最勝寺にやっと近づいた。場所は新大橋通りの北の荒川側。旧中川とは反対側でもあるので、近場にどこか見所はと地図をチェック。旧中川を少し北に進んだところに浅間神社と白髭神社がある。ふたつの社に立ち寄り目黄不動へと進むことにする。
旧中川の堤を離れ、堤下を走る車道に沿って浅間神社がある。浅間神社とは言うものの、コンクリートで囲われた富士塚であり、その上に浅間神社の祠が祀られる。富士塚に上ると旧中川が見渡せる。道路脇の案内に、「高さ約5m、区内で最大のもの。建造年代は不明だが、「当山再築小松川村」と記した明治17年(1884)の碑があり、区内で最も古い築造。登山道は、塚の正面に直線で設けられ、石段になっている。頂上の部分を玉垣で方形にとり囲み、石祠を祀る。登山道の両側には、数多くの石碑が建てられ、地元の丸岩講のほか、小松川山元講や平井丸富講の碑もある。この逆井の富士塚そのものが浅間神社であり、旧逆井村の人々が、現在でもその維持にあたる。7月1日に幟を立てて祭礼を行いる。石積み型の大型なものであり、倒壊防止のため、昭和30年代にコンクリートで覆った(江戸川区教育委員会)」とあった。

富士講とは霊峰富士への信仰のための信者集団のこと。御師のガイドで富士への参拝の旅にでかける。富士塚は富士に似せた塚をつくり、富士に見たててお参りをする。富士信仰のはじまりは江戸の初期、長谷川角行による。その60年後、享保年間(17世紀全般)になって富士講は、角行の後継者ふたりによって発展。ひとりは直系・村上光清。組織を強化し浅間神社新築などをおこなう。もうひとりは直系・旺心(がんしん)の弟子である食行身禄。食行身禄は村上光清と異なり孤高の修行を続け、富士に入定(即身成仏)。この入定が契機となり富士講が飛躍的に発展することになる。
食行身禄の入定の3年後、弟子の高田藤四郎は江戸に「身禄同行」という講社をつくる。これが富士講のはじめ。安永8年(1779)には富士塚を発願し高田富士(新宿区西早稲田の水稲荷神社境内)を完成。これが身禄富士塚のはじまり、と伝わる。その後も講は拡大し、文化・文政の頃には「江戸八百八講」と呼ばれるほどの繁栄を迎える。食行身禄の話は『富士に死す:新田次郎著』に詳しい。

白髭神社
逆井の富士塚から道路を隔てた東側に白髭神社。如何にも、あっさりとした境内に社殿が建つ。白髭神社に最初に出合ったのは埼玉県日高市・高麗の里にある高麗神社。この神社に祀られるのは高麗王・若光。716年、というから奈良時代の初め、駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の七国の高麗人1799人が武蔵國に遷され、高麗郡が設置された。高麗王若光は高麗郡の郡長に任命され、武蔵の国の開発に尽力し、この地で没した。若光が晩年白髭を垂れたため、その遺徳を偲んで高麗神社は白髭神社とも呼ばれる。この日高・高麗の郷の白髭神社を高麗総社とした白髭神社は武蔵の国に55社ある、とのこと。

大和政権は東国経営の一環として武蔵の国には、百済・新羅・高麗などからの渡来人を配置。夷を制する精鋭部隊でもあり、高い技術力をもつ開発者集団でもあったのであろう。海を渡り、上陸地を求めて浅草湊まで進み、ここを根拠地に武蔵野の台地へと踏み入った、と言われる。一説には、朝廷の命により、浅草湊に上陸した高麗からの帰化人は、一群は荒川水系を新座、入間、高麗といった埼玉県方面に。別の一派は利根川水系を妻沼、深谷、太田、本庄といった群馬県方面に進んだ、とか。
このあたりの白髭神社は旧利根川水系の旧中川、綾瀬川流域を分け入った一派ではあろう。墨田区の白鬚神社の縁起によれば、この地には古代帰化人が馬の放牧のために相当数移住した、とも。鈴木理生さんの『江戸の川 東京の川』にも「渡来人の基地としての浅草湊」という一項目が設けられている。これらの高麗人の子孫が王の遺徳を偲び分祀したのが散歩の折々に出合う白髯神社であり、白髭神社である。「白髯」は「新羅」からの転化である、といった説もあるほど、だ。
因みに、「しろひげ」には「白髭」神社と「白髯」神社のふたつの表記がある。「髭」は「口ひげ」、「髯」は「あごひげ」、とか。なにか違いがあるのだろうか。

都道449号・補助120号線
白髭神社を後に、黄目不動へと向かう。民家の間を成り行きで進むと総武本線・平井駅前から南に下る商店街の道筋が都道449号と合わさるところに出た。この都道449号・江戸川区民館前交差点に北から斜めに交差する道筋はかつての西井戸堀用水跡。葛飾区水元公園の小合溜を水源とし、上下之用水として流れ出し、下って小岩用水、東井堀用水、中井堀用水などに分流し地域を潤した用水の一流である。

通常、都道449号は通常、新荒川堤防線と呼ばれ、江東区東砂と東京都北区志茂との間を荒川右岸に沿って進む。この平井駅付近を通る都道449は正式には都道449号・補助120号線。小松川3丁目から平井7丁目まで進む。この都道449号・補助120号線は隅田川沿いにある東白髭公園一帯に計画された江東地区防災拠点へのアクセスルートを増やすために施行されたもの、とのこと。江東地区防災拠点は公園東側には13階建ての高層住宅が並び、大地震時などの火勢を防ぎ住民の安全を図る。

成就寺
都道449号・江戸川区民館前交差点を越え、黄目不動方面へ成り行きで進むと寺町に入り込む。お寺に挟まれた小道を進むと成就寺に。結構大きな本堂と墓地が通りを隔てて泣き別れとなっており、なんとなく不思議な構え。元は本所にあったものが、明治14年に墓地だけがこの地に移り、本堂は関東大震災の後、この地に移った。泣き別れの理由は移転の時間差、ということだろう、か。
この天台宗の寺は、慈覚大師が東国巡拝の折、浅草寺の対岸に草創されたとの伝えがある古き寺ではあり、寺の回りに植えられた枳(からたち)故に、「からたち寺」とも呼ばれた、と。本尊は縁寺である木母寺により招来されたもの、と言う。因みに、木母寺って、能「隅田川」など日本の芸能に大きな影響を与えた梅若伝説の地でもある。

慈覚大師
慈覚大師って、目黒不動や高幡不動、それに浅草の浅草寺など。散歩の折々に現れる。第三代天台座主であり、最澄が開いた天台宗を大成させた高僧である。45歳の時、最後の遣唐使として唐に渡る。三度目のトライであった、とか。9年半におよぶ唐での苦闘を記録した『入唐求法巡礼記』で知られる。
慈覚大師円仁が開いたというお寺は関東だけで200強、東北には300以上ある、と言う。江戸時代の初期、幕府が各お寺さんに、その開基をレポートしろ、と言った、とか。円仁の人気と権威にあやかりたいと、我も我もと「わが寺の開基は、円仁さまで...」ということで、こういった途方もない数の開基縁起とはなったのだろう
。それはそれとしてもう少し円仁さんのこと。日本で初めての「大師」号を受けたお坊さん、と言う。とはいうものの、円仁さんって最澄こと伝教大師のお弟子さん。弟子が師匠を差し置いて?また、「大師」と言えば弘法大師とも云われる空海を差し置いて?チェックする。大師号って、入定(なくなって)してから朝廷より与えられるもの。円仁の入定年は864年。大師号を受けたのが866年。最澄の入定年は862年。大師号を受けたのが866年。と言うことは、円仁は最澄とともに大師号を受けた、ということ、か。一方、空海の入定年は835年。大師号を受けたのが921年。大師と言えば、の空海が大師号を受けるのに、結構時間がかかっているのが意外ではある。どういったポリテックスが働いた結果なのだろう。

最勝寺・目黄不動
本堂と道を隔てた墓地を抜け車道に出る。目的の目黄不動は東隣にあった。入口の格子の中に佇む仁王像にお参りし、境内に入る。本堂も落ち着いた雰囲気が、誠にいい。本堂横には不動堂が並び、堂中に目黄不動が祀られる。この目黄不動は名僧・良弁の作との言い伝えがある。東大寺の初代別当であり、鑑真とともに大僧都と称された良弁僧都が東国を訪れた記録は特にないようだが、それはそれとして、僧都が隅田川のほとりで夢に不動明王が現れ、「わが姿を三体刻み、一体をこの地に祀るべし」と言うことで、不動像を刻み堂宇に祀った、と。
先ほどの成就院と同じく、この寺も慈覚大師の建立と伝わる。縁起は縁起としてよし、とするも、このお寺さまは本所の牛嶋神社の別当寺であり、その牛嶋神社は源頼朝が社殿を寄進するといった由緒ある社であるので、慈覚大師との縁起も、それなりに納得。この寺に、どのような歴史を経て木造不動明王坐像が祀られるようになったかはっきりしない。はっきりしないが、享保17年(1732年)江戸砂子に「最勝寺の不動明王」、天保7年(1836年)江戸名所図絵に「最勝寺の不動明王」が記載あるので。江戸の頃には牛嶋神社別当である最勝寺に不動明王は祀られていたようである。
この不動明王は目黄不動と称され、江戸御府内の五色不動のひとつと言われる。五色不動とは、目黒不動(天台宗龍泉寺:目黒区目黒3丁目)、目白不動(真言宗豊山派金乗院。もとは文京区関口の新長谷寺にあったが戦災で廃寺となったため移された)、目青不動(天台宗教学院。世田谷区太子堂4丁目。もとは麻布の勧行寺、または、正善寺にあったものが青山にあった教学院に移され。その後教学院が太子堂に移った)、目赤不動(天台宗南谷寺。文京区本駒込1丁目。もともと三重県の赤目不動が本尊。家光の命で目赤に)、そしてこの目黄不動。
もっとも、目黄不動だけは複数あり、この最勝寺だけでなく、台東区三ノ輪2丁目の天台宗・永久寺、渋谷の龍眼寺とこの最勝寺など全部で六箇所あるとも言われる。それと、江戸の頃に五色不動と言った記録はなく、江戸時代には目がつく不動は目黒・目白・目赤の3つしかなく、また、それをセットとして語る例もなかったようではある。明治以降、目黄、目青が登場し、後付けで五色不動伝説が作られたものとの説もある。

大法寺
黄目不動を離れ、成就院の寺域の西に大法寺がある。もとは本所にあったものが昭和4年(1929)にこの地に移った日蓮宗の古刹である。寺伝によれば、日蓮上人が下総・清澄山より鎌倉へ向かう途中、亀戸の地で上人に帰依した千葉氏に「南無妙法蓮華経」の題目を書き渡した、とか。千葉氏はそれを石に刻み宝塔を建てたとのことだが、人々はそれを「広宣布石」と呼び参拝祈願した、と言う。「広宣布石」には疱瘡によりむなしくなった千葉某の甦生伝説などもあり、疱瘡の守護神として人々の信仰を集めた、とのことである。

善通寺
大法寺の隣に浄土真宗本願寺派の善通寺。なんとなくインド風の本堂。築地の本願寺もインド風であり、何故にとチェックしたことがあるのだが、20世紀初頭、浄土真宗本願寺派の法主を隊長とする「大谷探検隊」の中央アジアの学術探検の実績を考えれば、インド風の構えも納得できる。

北十間川合流点
逆井の富士塚辺りを目安に旧中川筋に戻る。川面のそばの遊歩道に下り、東京スカイタワーを借景に進み、総武線、蔵前橋通りに架かる江東新橋を越えると左手から北十間川が合流する。北十間川とは言うものの、この川筋は自然河川ではなく江戸の頃人工的に開削された運河である。
江戸以前はこの北十間川辺りが渚、というか臨海部。これより南は低湿地帯である。江戸になり、正保年間(1644年から)柳島・小梅・押上(亀戸1・2・3丁目)あたりの埋め立てが進み、明暦の大火を契機に本所地域の開発が計画され、本所築地奉行の指揮のもと、堅川(たて川)、横川、十間川、北十間川、また両国地区の六間掘、南割下水、石原町入掘などが開削される。その揚げ土による埋め立てがおこなわれ、現在の墨田区の中央部・南部である本所・深川地区が人の住む地域に生まれ変わった。
十間川の名称は、「北」は本所の北、「十間」は川幅を指した。現在は隅田川と旧中川を結ぶが、江戸の頃は南北に通る横十間川の西を源森川(源兵衛堀)、東を北十間川と呼んだ。当初は両河川はつながっていたが、隅田川の洪水被害が頻発し、17世紀後半分断されることになる。明治になって再び接続され、業平駅での鉄道貨物を船運で運ぶ重要な水路となったが、水運の衰退とともにその役割を終え、1978年(昭和53年)には大横川との分流点に北十間川樋門が設定されるにおよび、再び水路は東西に分断されることになった。
上でメモしたように、隅田川と荒川に挟まれた水害多発地帯である江東三角地帯を守るべく、隅田川と荒川とつながる内部河川を締切り水位を下げているが、この北十間川は押上付近にある源森川水門で隅田川を締切っている。

旧中川「かさ上げ護岸」跡
蔵前通りの北沿いにある島忠ホームセンターの旧中川側堤防下の高水敷(こうすいじき)案内がある。何かとチェックすると切り取られた堤防跡と旧中川「かさあげ護岸」の歴史の説明があった。
「旧中川が流れるこの辺りは、乱流する荒川(墨田川)、中川、利根川(江戸川)に囲まれた三角州に町ができたため、低地であり高潮や洪水の被害が頻発。また、明治末期よりの工場地帯として過剰な地下水の汲み上げによる地盤低下がすすみ、荒川と隅田川に囲まれた江東デルタ地帯は東京湾の満潮水位以下となり、江東零メートル地帯と呼ばれるに至った。
地下水揚水規制、水溶性天然ガスの採取停止を実施し、昭和48年から地盤沈下は停止するも、江東零メートル地帯となった町を守るため、江東内部河川の護岸は、かさ上げ工事が行われた。しかし度重なる応急措置の護岸かさ上げにより、高い堤防により町と川が分断、また構造的に脆弱化し地震発生時の護岸崩壊による水害の危険性が増した。この対策として、昭和46年より都は江東内部河川整備に着手し、北十間川閘門及び扇橋閘門より東側を流れる江東内部河川については、荒川など周辺河川から締切り、平常時の水位を周辺地盤より低く保つ「水位低下対策」を実施し、平成5年に完成。その後、旧中川は水位低下対策によって不要となった「かさ上げ護岸」の上部を切り取り、広い高水敷と緩傾斜堤防を整備し、安全で潤いのある親水空間を創出した。ここに残された「かさ上げ護岸」は、緩傾斜堤防の整備完了を記念し、地域をまもってきた護岸を後世に伝えるために残された」とのことである。
説明とともに掲示されている水位低下対策以前の写真では、堤防ぎりぎりまで水位が迫っている。今歩いている辺りは水の底である。上の説明にあるように、隅田川や荒川放水路を締切り、両河川に挟まれた地帯を流れる内部河川・運河の水位を下げたわけである、何気なく歩いている低水路沿いの高水敷や緑豊かな緩斜面堤防にも、それに至る歴史がある、ということである。

平井橋・平井の渡し
旧中川の堤防の内側、低水路脇の遊歩道を進むと平井橋。明治32年(1899)木橋が架けられ、大正14年(1925)鉄橋に架け替えられる。現在の橋は昭和55年(1980)に架けられたものである。橋の中央に車道と人道を区切る青い鉄の構造物が出っ張っている。これは橋を支える梁。通常は梁の上に橋を造るわけだが、地盤沈下と関連あるのだろうか。実際、この平井辺りが墨田区では最も地盤沈下が激しく、昭和40年頃には海抜マイナス80センチといった記録もある。
明治32年(1899)に木橋が架けられるまでは、橋の少し手前に「平井の渡し」があった。「平井の渡し」は行徳道が下平井村で中川を渡り、墨田区・葛西川村を結ぶもの。渡船1艘での渡しであった、とか。平井を進んだ行徳道は現在は四股(荒川放水路と中川放水路の中州。京葉道路小松川橋の少し北)で千葉街道(元佐倉道)と交差し、その先は京葉道路・中川放水路東詰から南東に一直線に下る今井道を経て行徳に至る。

妙光寺
橋の少し南に妙光寺。慶長3年(1598年)創建のお寺さま。由来書に、元禄年間(1688 - 1704年)の津波で堂宇を消失。大正4年(1913)に再興。本堂は床を高くしているが、これは水害予防のため、昭和41年(1966)に改修された、とか。
津波被害をもたらした地震とは元禄16年(1703)11月の発生した元禄大地震ではあろう。関東地方を襲ったこの地震は、マグニチュード8.1といった関東大震災クラスの大地震であり、津波も東京湾入口の浦賀で、4.5m。江戸湾内でも、本所、深川、両国で1.5m、品川、浦安で2m、隅田川の遡上も記録されている、と言う。

浅草道石造道標
妙光寺と同じく、この辺りにある諏訪神社や平井聖天さんには数年前に訪れてはいるのだが、平井橋からもそれほど離れていないので、ちょっと立ち寄る。平井橋から諏訪神社へと向かう民家の間に、「下平井の観世音菩薩 浅草道石造道標」。まことにささやかな祠。浅草方面から行徳道への道標ではあろう。

諏訪神社と平井聖天
このふたつの寺社は隣合って並ぶ。諏訪神社はお隣の平井聖天・燈明寺の恵祐法印が、享保年間(1716-1735年)に出身地である信州諏訪大社から神霊を勧請したのがはじまりと伝えられている。
平井聖天は草創が平安の頃と伝えられる真儀真言宗の古刹燈明寺の中にある。本堂の不動明王は胎内に弘法大師作の不動明王が安置されている、とも。本堂は関東大震災で倒壊し、昭和4年に再建。各時代の様式が取り入れられている。平井の聖天さんは燈明寺の別堂。平安時代の創建と伝えられ埼玉県・妻沼聖天、浅草の待乳山聖天とともに関東三大聖天のひとつ、と言われる。聖天さまとは夫婦和合の神様。将軍鷹狩のときの御膳所として使われたほか、幾多の文人墨客が訪れている。歴代将軍の御膳所として使用された他、里見八犬伝の物語や桧山騒動の相馬大作の祈願したことなどでもその名を知られ、江戸図会名所にも描かれているなど、昔から多くの人の信仰を集めている。


中平井橋
平井橋南詰に戻り、再び旧中川の堤防内遊歩道を進む。平井橋のすぐ東にある水道管橋を見遣りながら進むと、流路は大きく湾曲する。湾曲し終えた水路西岸に白髭神社がある。立花の白髭神社であり、葛西川村の鎮守であった。この社は先日の墨田区散歩で訪れたので、今回はパスし先に進む。
前方に墨田清掃工場の高い煙突を眺めながら進み、中平井橋に。昭和13年(1938)に造られたこの橋は老朽化委し、平成20年(2008)に架け替えられた。中平井橋は平井橋と上平井橋の間、といことではあろうが、上平井橋って、荒川放水路を隔てた葛飾区の中川・綾瀬川が合流している辺りにある。

ゆりのき橋
ワンド(湾処)と言うには少々つつましやか、ではあるが、それでも川の本流とは繋がりながらもささやかな池のようになり葦の生い茂る親水公園などを眺めながら歩を進める。再び水路が大きく湾曲する辺りに「ゆりのき橋」。先ほど平井駅辺りで出合った都道449号・補助120号線が通る。平成13年に架設されたもの。鐘ヶ淵通りとつながり、上でメモしたように、防災拠点となっている白髭地区に通じる防災避難道路である。橋名の由来は、墨田区側に道路に植えられた「ゆりの木」、から。


木下川排水機場
先に進むと水路は塵芥を取り除くゲートで遮断され、その先は木下川(きねがわ)排水機場となる。木下川排水機場は江東デルタ地帯の内部河川の水位を維持し、氾濫を防止、水質浄化のため取水した流入水を排水するためのポンプ施設。24時間稼働している。成り行きで川面より結構比高差のある都道449号・荒川堤防線に上り、荒川放水路からの水を遮断する木下川水門に。小名木川排水機場・荒川ロックゲートから始めた旧中川散歩もこれで一応終了。荒川放水路を眺めながら、次回は荒川放水路を越え、中川を新中川との分岐点まで辿ることにする。
ちなみに、「木下川」を「きねがわ」と読むのはどのような由来かと気になりチェック。もとは「木毛河(きげがわ)」、とか「木毛川」と呼ばれていたのが、「木毛河」を「きねがわ」と読み違え、また、「げ」を「下」と書き表し、「木下川=きげがわ>きねがわ」となった、との説があるが、はっきりしない。

JR総武線・平井駅
堤防を離れ平井駅へと成り行きで進む途中、先回の散歩で訪れた平井の天祖神社や安養寺などに再び出合ったので、ちょっと立ち寄りながら、駅に到着し、一路家路へと。

亀有から立石、そして新小岩へと
中川青戸金町・新宿町の散歩を終え、今回は昔の亀有村地区から立石、そして新小岩に下る。このあたりも、結構古くから開かれていたよう。養老5年(721年)の「下総國葛飾郡大嶋郷戸籍」大嶋郷にあった甲和里は現在の小岩、仲村里は奥戸あたりとされる。この周辺は利根川や荒川といった暴れ川の堆積作用によって嶋もしくは浮洲、微高地が点在。西暦4世紀ころには、そこに古代に人々が住み着き農業や漁業を営み、奈良時代には既に集落が形成されていた、ということだろう。
実際、今日の散歩のコースにある、立石さまの霊石、熊野神社の神体である「石」も古墳の石室であろう、と。熊野神社近くの南蔵院の裏手にも古墳跡が残る。先回歩いた、柴又八幡様の古墳も含め、このあたりは足立区の毛長川流域の古墳群とともに、東京低地にある代表的古墳群とされる。大型ではなく比較的小型のこれら古墳群は6世紀後半の群集墳の特徴を示す。
古くから開けた、この大嶋郷、当時の人口は1,191名。明治7年で16,570名。明治の頃でもその程度の人口。昭和7年の葛飾区誕生時は89,919名。そして現在は40万名強、となっている。
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本日のコース:R亀有駅 > 御殿山公園・葛西城跡 > 青砥神社 > 中原八幡神社 > 「立石」様 > 熊野神社 > 南蔵院の古墳跡 > 奥戸の鬼塚 > 西井掘跡 > 於玉稲荷 > JR新小岩駅

御殿山公園・葛西城跡
橋の西詰め、道の右手に延命寺。江戸時代初期の庚申塔がある。環七通り・青砥陸橋のある青戸交差点を南に折れる。少し進むと御殿山公園。v 環七に沿ったこの公園は葛西城跡。中川に沿った微高地に築かれた平城跡。15世紀中ごろに関東管領上杉氏が築いたと言われる。その後小田原北条氏の手に落ち、下総進出の拠点として拡張整備される。国府台合戦のときは後北条側の基地として使われたのだろう。その後もこの城を巡っての争奪戦が繰り広げられるが、天正18年(1590年)秀吉の小田原征伐による北条の滅亡とともにその使命を終える。
家康江戸入府の後は、この地に青戸(葛西)御殿が建てられ、家康・秀忠・家光の三代にわたる鷹狩の休息所として利用される。その屋敷も17世紀後半には取り壊された、とか。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

青砥神社
青戸神社環七を隔てて中川寄りに青砥神社。もとは白髭神社と呼ばれる。天正の頃、白髭・諏訪・稲荷神社を合わせ、三社明神と。昭和18年、付近の白山神社を合わせ、青砥神社とする、と。
ここまでメモしてきてちょっと気になることが。青砥? 青戸? 地名が混在している。表記が二通りある。調べてみた。元は青戸。「戸」は「津」と同じ。津は湊を意味する。青戸を「おはつ」と読み表記している文献もある。「おはつ」>「おおつ:大津」>「おおと:大戸」>「あおと:青戸」となったのだろう。元々の意味は、「おおいに栄えた津・湊」、であったのだろう。
それが「青砥」と表記されるようになったきっかけは、高砂・極楽寺で出会った青砥藤綱、から。江戸時代、この名裁判官が一躍有名になり、その名声にあやかって「青砥」と表記するケースもでてきた、ということらしい。つまりは、地名・地形にかかわるものは「青戸」、藤綱を冠したいケースは「青砥」。とはいうものの、青砥藤綱って、実際の人物かどうか不明ではある。江戸時代、滝沢馬琴が中国の小説をモデルにして書いた『青砥藤綱模稜案』、これって大岡裁きの中世版といった読み物であるが、これがヒットして庶民のヒーローになったのが青砥藤綱ってこと、らしい。
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中原八幡神社
環七を進み、青戸5丁目で京成線と交差。少し西に青砥駅。駅前に中原八幡神社。その昔、60人あまりの近在の男衆が祭事を行っている姿を描いた絵馬が有名、らしい、が一見客の我が身が見れるわけもなし。

「立石」様
立石さま立石8丁目まで下り、「立石」様を探す。少々迷ったが、児童公園の隅っこに「立石」様を発見。立石の地名の由来ともなったもの。「根あり石」とも呼ばれ、昔、いくら掘っても、掘っても最後まで行き着かない、地中に埋没する部分が計り知れない、といわれる石。
石の下には空洞があるようで、石室をもった古墳の石室の天井、ではないかといった説もある。ちなみに石は千葉の鋸山からしかとれない房州石(凝灰岩)。柴又八幡神社遺跡の古墳の石室につかわれているものと同じ、である、
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熊野神社
熊野神社立石さまの直ぐ近くに熊野神社。陰陽師で有名な安倍清明の創建とされる。清明、花山上皇に従い熊野での山篭りを終え、熊野神社勧請の旅の途中この地を訪れる。中川、というか古利根川に沿ったこの美しい地を聖なる地と。陰陽道五行説の五行をかたどり境内を30間5角とし、五行山熊野神社とし、熊野三社権現をまつり、石棒・石剣をご神体とする。以来、人々の信仰を集める。また葛西清重の信仰も篤かった、と。江戸に入っては三代将軍家光、八代将軍吉宗は「鶴」お成りの際はこの神社参拝を常とした。
とはいうものの、安倍清明さん、って実在の人物かどうかよくわからない。平将門の息子という説も。花山天皇とともに将門の意を継いで関東に独立国をつくろう、とした、って説も。熊野散歩のときにも、鎌倉散歩のときにも、花山天皇ってよく顔をあらわす。関東に下ったって事実はないようだ、が。
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南蔵院の古墳跡
南蔵院熊野神社の南に南蔵院。裏手に古墳が残る、という。東京低地の古墳群は上にメモしたように、足立の毛長川流域。この地葛飾一帯。この二つは代表的なもの。そのほかに、荒川区南千住の素盞雄神社、台東区の鳥越神社、北区の中里遺跡など、さらに浅草寺周辺についても古墳跡ではないか、とも言われている。
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奥戸の鬼塚
奥戸川中川に沿って下り、本奥戸橋に。橋を渡ると昔の奥戸町。奥戸はもと、奥津。津は湊。奥はよくわからない。本奥戸橋東詰に。中川にそって中川左岸緑道公園。少し進むと大きな工場。森永乳業。塀にそって東から南に進む。奥戸3丁目、南奥戸小学校の南に「鬼塚」。室町、江戸に渡って築造された塚。江戸時代にはお稲荷様をまつるため土を盛り、塚をつくりなおしている。塚のあたりからはハマグリといった貝殻の堆積も見られる。
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西井掘跡
西に進むとなんとなく川筋跡っぽい道筋。西井掘。葛西用水が新中川、これって昔は無かった川だが、この新中川にかかる細田橋あたりで分岐し南西に流れる一流。もうひとつ中井掘はまっすぐ南に下る。
西井掘跡を奥戸から東小岩地区に下る。東小岩3丁目あたりから緑道になっている。蔵前橋通りと交差。巽橋交差点。南に折れ平和橋通りを歩き、総武本線の南側に進む。

於玉稲荷

最後の目的地は新小岩4丁目にある於玉稲荷。線路にそった道を進み、適当に右に入りこみなんとか到着。由緒書:「当地は「小松の里」と呼ばれ、かつては徳川将軍の鷹狩の地でした。古地図で見ると、この地に「おたまいなり」の所在が記されていますが、古くは御分社でありました。当、於玉稲荷神社はこのゆかりの地に、安政2年の大震火災で焼失した神田お玉が池の社を、明治4年に御本社として遷宮したものです。 神田時代のお玉が池の稲荷神社の沿革については「江戸名所図会」神田之部所引の「於玉稲荷大神の由来」にも述べられているように、長禄元年 太田道灌の崇 敬をはじめ、寛正元年 足利将軍義政公の祈願、さらには文禄4年 伊達政宗公の参詣などが記されております」と。
於玉稲荷の後は JR 新小岩駅に戻り、本日の散歩終了。新小岩の由来は、駅名に「新小岩」という名前がお役人によってつけられたため。小岩は大嶋郷「甲和」>こいわ、から。葛飾区散歩もほぼ完了。後は昔の南綾瀬町を残すのみ。そのうちに。

金町からはじめ、柴又をぶらり、そして新宿地区に
今日は、柴又のあたりを歩く。古代、このあたりは「嶋俣里」と呼ばれていた。東大寺の正倉院に伝わる養老5年(721年)の「下総國葛飾郡大嶋郷戸籍」には当時の大嶋郷には甲和里、仲村里、嶋俣里の三つの里があると記されている。大嶋郷って、南は北十間川の川筋あたり、東は江戸川、北から西は中川から古隅田川に囲まれた沖積地帯。現在の葛飾区・江戸川区・隅田区の北半分である、と言われる。
甲和里は現在の小岩、仲村里ははっきりしないが奥戸あたりとか。で、嶋俣。これって、柴又のはじまりの地名、とか。嶋は砂州・微高地、俣は分岐点。湿地帯の中に小高い砂州があり、そのあたりに幾く筋もの流れがあったのだろうか。柴又となったのは17世紀から。
大嶋郷に住んでいた人は1191名。甲和里には44戸・454名、仲村里には44戸・367名。そして、嶋俣里には42戸・370名の計130戸・1191名が住んでいた、とされる。で、ほとんどの人は孔王部(あなほべ)姓。「孔王部 (小さ)刀良」(あなほべ とら)が7名、「孔王部 佐久良売」(あなほべ さくらめ)が2名。『男はつらいよ』の寅とさくら、はここからきている、であれば面白いが、そんなことはないだろう。ともあれ、寅さんの舞台、柴又から散歩に出かける。


本日のコース:ス: 常磐線・金町駅 > 矢切りの渡し > 柴又帝釈天 > 柴又八幡神社 > 小岩用水跡 > 京成高砂駅 > 青龍神社と怪無池 > 極楽寺・青砥藤綱 > 上下之割用水跡 > 新宿・「水戸街道石橋供養道標」 > 中川大橋・日枝神社 > JR亀有駅


JR 常磐線金町駅
葛飾散歩2回目。先回は金町から上に。今回は金町から下に向かう。JR 常磐線金町駅で下車。南に進み、金町3丁目あたりを江戸川堤に向かう。堤の手前に金町浄水場。広い。それもそのはず、日本で最大の浄水場。江戸川から取り入れた水を処理し、東京で使われる水の20%を供給している。

矢切りの渡し
江戸川の堤に。堤に登る。堤をのんびり歩き広い金町浄水場を過ぎると柴又。歌謡曲や伊藤左千夫の小説『野菊の墓』で名の知られた矢切の渡しがある。対岸の千葉県・松戸市に「矢切」地区がある。後北条・小田原北条家と下総里見家の国府台合戦のおり、里見方の矢が尽きた=矢切れ>矢切、が由来。この渡しは、農民のみの往来が許されていた、とか。柴又矢切の渡し公園あたりで堤を離れ柴又帝釈天に向かう。

柴又帝釈天
柴又帝釈天。映画「寅さん」で一躍有名になった日蓮宗のお寺。寛永6年(1629年)開草。帝釈天はバラモン教・ヒンドゥー教の武神インドラの神。元々は阿修羅とも戦った武勇の神であったが、仏教に取り入れられてからは慈悲深い仏法守護十二天のひとつとなった、とか。七福神の中の毘沙門天とも言われる。わかったようでいまひとつわかってないのだが、ともあれこの帝釈天がこのお寺の本尊。しかも、板に描かれたもの。そのうえ、親鸞上人が自ら刻んだというもの。
が、このご本尊、一時行方不明に。その後、安永8年(1779年)荒廃した寺院の修復をしているとき、偶然梁から板の「ご本尊」が見つかる。その日が庚申の日。で、安永に続く天明年間の天明の飢饉のとき、帝釈天の日敬上人、この人って板本尊をみつけた人なのだが、板本尊を背負って江戸や下総の国を歩き、功徳・布施を施す。江戸を中心にした帝釈天信仰が高まったのはこういった地道な活動のたまもの。
帝釈天では庚申信仰も盛んにおこなわれた。板本尊が出現したのが庚申の日でもあり、江戸末期に盛んになった「庚申待ち」信仰とも相まって、帝釈天への「宵庚申」参詣が盛んにおこなわれるようになったのだろう。
帝釈天のHPに次のような庚申参詣の記事があった:「明冶初期の風俗誌には「庚申の信仰に関連して信ぜらるるものに、南葛飾郡柴又の帝釈天がある。 帝釈天はインドの婆羅門教の神で、後、仏法守護の神となったが、支那の風俗より出た庚申とは何の関係もない、此の御本尊は庚申の日に出現したもので、以来庚申の日を縁日として東京方面から小梅曳舟庚申を経て、暗い田圃路を三々五々連立って参り、知る人も知らない人も途中で遇えば、必ずお互いにお早う、お早う、と挨拶していく有様は昔の質朴な風情を見るようである。」と書いてある。
続けて:「見渡す限りの葛飾田圃には提灯が続き、これが小梅、曳舟から四ツ木、立石を経て曲金(高砂)の渡しから柴又への道を又千往、新宿を通って柴又へ至る二筋の道に灯が揺れて非常に賑やかだったと言う事である。茶屋の草だんご等は今に至っている。人々は帝釈天の本堂で一夜を明かし、一番開帳を受け、庭先に溢れ出る御神水を戴いて家路についたのであった。」と。陸続と続く信心の人たちの姿が目に浮かぶ。
今も人で賑わう参道を歩く。上に挙げた明治の風俗誌にもあった、草だんごの店でお土産を買い求め、昔、子供の咳止めに買った飴屋さんをひやかしながら参道を進み京成柴又駅に。手前で線路を右に折れ、八幡神社に向かう。

柴又八幡神社

柴又八幡神社。神社の縁起よりもなによりも、この神社は古墳の上につくられている。昔から、古墳っぽい、とは言われていたようだが、発掘調査されたのは1975年の社殿改築の時。そのとき埴輪とか馬具などが見つかり、その後本格調査がおこなわれ、八幡神社古墳は古墳時代(6世紀後半)のものであるとわかった。現在はすべて埋め戻され、神社裏手に古墳記念碑「島(嶋)俣塚」が残っている。
平成13年の学術調査のとき、三体の埴輪が見つかった。そのうち一体は「寅さん埴輪」としてニュースにもなった。写真を見ると、帽子がいかにも寅さん。あのトレードマークの帽子とそっくり、である。発見された日が、寅さんこと、渥美清さんの命日であった。

埴輪もさることながら、気になったのは、この古墳で見つかった石室の石材。房州石と呼ばれる、安房の鋸山周辺の石である。この房州石、武蔵の国の各地の古墳で使われている。散歩で訪れた、埼玉・さきたま古墳群の将軍山古墳、北区・赤羽台古墳群、千葉・市川の法王塚古墳、南千住の素盞雄神社に鎮座する「瑠璃石」も房州石であった。埼玉や東京の 6 世紀後半〜7 世紀台の古墳の石室材としてこの房州石が使われている。ということは、そのころには既に、古い利根川筋をつかった河川舟運が行われていた、ということであろう。

小岩用水跡を越え高砂に
柴又八幡を離れ、先に進む。柴又1丁目と高砂8丁目の境あたりで小岩用水跡を越える。小岩用水は小合溜井を水源とする上下之割用水(かみしものわりようすい)が新宿(にいじゅく)地区で分水したもの。ちなみに上下之割用水は新宿からすこし下ったあたりで3つに分水し、東井掘、中井掘、西井掘として南に下った。
京成高砂駅に。高砂の地名の由来は、小高い砂州から、かな、と思ったのだが、昭和に町村合併のおり、縁起がいいということで、世阿弥元清の謡曲、婚礼の折の謡の代表局「高砂」から名づけたもの。「高砂や この浦舟に帆を上げて この浦舟に帆を上げて 月もろともに出汐の 波の淡路の島影や 遠く鳴尾の沖過ぎて 早、住之江に着きにけり 早、住之江に着きにけり」。いくつもの町村が合併するときによくあるパターン、であった。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

青龍神社と怪無池
高砂駅あたりをぶらぶらし、とりあえず中川の堤まで出ることにする。地図を見ると、高砂6丁目の「水道管橋」あたりに青龍神社と怪無池。名前に惹かれて進む。青龍神社はささやかな祠。昭和56年に神社が全焼したそうだ。で、この神社は榛名山の分霊とか。由来はあまりよくわからない。神社の横に怪無池。多くの人が釣りを楽しんでいた。この池は横の中川が決壊してできた池。名前の由来はいくつかある。怪我なし、とか「け」 = 飢饉なし、とか毛がないとか。が、どれもいま一つ。
で、自分なりの推論というか、空想。青龍神社 = 榛名山。であれば榛名あたりに怪無山ってないだろうか。あった。怪無 = 木無し。頂上付近に木々の無い山ってこと。榛名山と怪無山の関係が = 青龍神社と怪無池、といったなんらかの関係があった、と自分勝手に納得する。
極楽寺は鎌倉幕府の名裁判官・青砥藤綱ゆかりの寺、と
中川の堤を少し南に。京成線を越え、堤下に極楽寺。高砂橋からの道筋を東に。直ぐの交差点で北に。極楽寺は鎌倉幕府の名裁判官・青砥藤綱によってつくられた。国府台合戦で焼失・荒廃するも江戸になり復興し、門前に市がたつほど賑わった、とか。
藤綱は北条時頼、時宗の二代につかえた鎌倉武士。この藤綱って鎌倉散歩の時、滑川に架かる青砥橋の碑文で出会った人物。川に落とした十文銭の話で有名。碑文:「太平記に拠(よ)れば 藤綱は北条時宗 貞時の二代に仕へて 引付衆(裁判官)に列りし人なるが 嘗(かって)て夜に入り出仕の際 誤って銭十文を滑川に 堕(落)し 五十文の続松(松明)を購(買)ひ 水中を照らして銭を捜し 竟(遂)に之を得たり 時に人々 小利大損哉と之を嘲(笑)る 藤綱は 十文は 小なりと雖(いえども) 之を失へば天下の貨を損ぜん 五十文は我に損なりと雖(いえども) 亦(また)人に益す 旨を訓せしといふ 即ち其の物語は 此 辺に於て 演ぜられしものならんと伝へらる」、と。要は、川に落とした十文銭を拾うため、五十文のお金を使って松明を買いついに探し出す。人皆、「それって大損」、と。が藤綱は、十文が無くなるのは天下のお金を無くすこと。50文を失った、といってもそれは人のためになったわけだから、と人を諭した。このお寺に藤綱の墓がある、と言う。
上下之割用水跡を新宿に 極楽寺の東に天祖神社。再び線路を越え北に戻る。線路脇に観蔵寺。葛飾七福神のひとつ寿老人が。北に進む。怪無池の線路・新金線貨物線を隔てた丁度東あたりにいかにも川筋跡といった通り。上下之割用水跡であった。用水跡を北に。新金線貨物線を斜めに越える。用水跡は新宿(にいじゅく)にむかって先に続く。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

新宿・「水戸街道石橋供養道標」

水戸街道と交差。昔、新宿橋があったよう。それよりもなによりも、昔はこのあたりは交通の要衝。江戸の地図を見ると、この新宿から西に水戸街道、佐倉街道、国分道、北に向かって原田道、小向道、それと新宿のちょっと中川寄りのところからは流山道が北へと分岐している。新宿は小田原後北条により、対岸の葛西城の町場として整備された。水戸街道をちょっと越えた用水跡に「水戸街道石橋供養道標」。
碑文をメモする。:「水戸・佐倉両街道の分岐点に立つ道標です。この地域の万人講、不動講、女中講の人々は、安永2年(1773年)から5か年を費やし27か所の石橋を架けま した。これはその供養のため、不動明王像と道標を、この町の石工中村左衛門に造らせたものです。当時27か所もの石橋を架ける事は、共同事業とはいえ大変 な大事業であったと思われます。また今は無くなってしまいましたが、この道標(竿石)のうえに不動像を安置していました。新宿町は水戸・佐倉街道の分岐にある宿場町で、千住から1里余り中川を渡りちょうどこの辺りで水戸街道は金町へ(水路に沿った道を左に)、そして佐倉街道は上小岩へと向かいます(現在の水戸街道を越えて右に入る)。
この佐倉街道は参勤交代に利用されただけでなく元禄(1688年)以降、民間の信仰が盛んに なると、成田山新勝寺や千葉寺参詣の道としても利用され、成田道、千葉寺道と呼ばれるようになりました 葛飾教育委員会」、と。

中川大橋
中川大橋手前に日枝神社。イチョウの大木で有名。元禄時代は山王大権現。元はもっと中川寄りの地にあったが、中川河川改修の折、この地に移る。中川大橋を渡る。川を渡れば昔の亀有村地区。金町・新宿地区散歩のメモはここまで。JR 亀有駅に向かい、家路へと。

金町駅から水元公園・小合溜井と中川堤をぐるっと一周し、金町駅に戻る

葛飾を歩く。先回、曳舟川跡を歩いていたとき、地図で水元公園を見つけた。水路の湾曲の具合が面白い。なによりも、その溜が「小合溜井(こあいたるい)」などと呼ばれる。いかにもなんらかの歴史を感じるような名前に惹かれた。
水元公園は小合溜井を中心とした水郷地帯、である。この小合溜井は江戸時代・享保14年(1729年)につくられた旧古利根川というか中川の遊水地。江戸川の増水時、ここに水を引き入れ、江戸の町を洪水から護るためにつくられた。また、普段は東葛西領50余カ村の水田を潤すための上下之割用水の水源。「水元」と水元公園いう名前の由来でもある。小合は室町時代の地名「小鮎」から。
古利根川とか中川とか、川が入り組みややこしい。ちょっと、まとめ:本来、利根川は江戸湾に流れ込んでいた。流路は現在の中川・旧中川とか江戸川(太日川)の流れといったところか。江戸時代になり利根川の東遷事業、つまりは、茨城県の銚子に流すように瀬替工事・治水工事がおこなわれた。結果、残された川筋、つまりは江戸に流れ込んでいた川筋、これを古利根川と呼ぶ。
古利根川といっても、河川工事が行われているわけもなく、もちろんのこと一筋ではない。いくつもの細流がわかれている。となれば、それぞれの流路は水量が減ってくる。そのため農民は堰を設け水田用の水を確保することに。これが溜井。亀有溜井といったものもあったようだ。
堰を設け、南に流れる水路を止める。堰き止められた水は、低くきを求めて東に流れ現在の太日川、現在の江戸川筋に合流した。小合溜井を通る川筋・小合川筋は、このようにしてできた古利根川の川筋であった。
宝永元年(1704年)、この古利根川が溢れた。太日川・江戸川の大増水により、古利根川に逆流した暴れ水が、八潮市と葛飾区の境、現在の大場川と中川の合流点あたりの堰(猿ヶ俣・八潮市大瀬間の締め切り堰)に押し寄せ、堤防が決壊。葛西領と江戸下町一帯が大水害に見舞われた。
この大洪水に懲り、江戸を洪水の被害から防ぐため、将軍吉宗の命により、享保14年(1729年)井沢弥惣兵衛の手によって治水工事が開始された。井沢弥惣兵衛は見沼通船堀、見沼代用水などを差配した治水・利水工事のスペシャリストである。小合川筋の古利根川は江戸川合流点手前で堰を設け溜井をつくった。これが「小合溜井」。
一方、猿ヶ俣・八潮市大瀬の堰以南の川筋、古利根川の細路・流路を開削し広い川筋を設けた。これが中川。正確には、中川とはこのあたりより下流を指すのだが、現在ではこれより上流も中川と呼ばれている。ちなみに、江戸川だが、もとは渡良瀬川の下流。太日川とも呼ばれ、利根川とは別の流れで江戸湾に流れていた。1641年には上流部で人工水路が開削され、利根川の水も取り入れて流れている。
ということで、葛飾散歩一回目は、水元公園からスタートし、葛飾と埼玉、葛飾と足立の境を区切る川筋を、ぐるりと一周することにする。葛飾区は昭和7年に東京府南葛飾郡の水元村、金町、新宿町、亀青町、南綾瀬村、本田町、奥戸村の7つの町村が合併してできたわけだが、今回の散歩は大雑把に言って、昔の水元村と金町巡りといったところか.。  (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
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本日のコース: JR常磐線・金町駅 > 葛西神社 > 金蓮院 > 半田稲荷 > 江戸川の堤・金町関所跡 > 松浦の梵鐘 > 南蔵院の「しばられ地蔵」 > 香取神社・「上下之割用水跡(うえしたのわり)」 > 閘門橋(こうもんばし) > 遍照院 > 葛西御厨神明宮 > 猿が又水神様 > 安福寺・飯塚の夕顔観音 > 富士神社・富士塚 > JR常磐線・金町

JR 常磐線・金町駅・葛西神社に

最寄の駅は JR 常磐線・金町駅。下車し線路に沿って東に進む。江戸川堤防近くに葛西神社。このあたり一帯の総鎮守。平安末期、葛西清重により香取神宮を分霊し創建された。江戸時代には徳川家康によりご朱印十石を受ける。葛西神社となったのは明治になってから。「江戸まつりばやし」のルーツといわれる「葛西ばやし」発祥の地でもある。ちなみに、葛西清重って、現在の隅田川と江戸川の間に広がる東京下町低地を開発し所領した葛西一族の重鎮。頼朝の覚え目出度く、後々奥州総奉行となる人物だ。

金蓮院
葛西神社を離れ西に進む。東金町3丁目に金蓮院。特段ここを目指していたわけではないのだが、鬱蒼とした森に惹かれてなんとなく訪れた。槙の大樹で有名。境内に愛染明王の像がある。愛染明王、って梵語で「ラーガ」。赤、とか愛欲って意味らしい。煩悩としての愛欲を、そのまま仏の悟りに変える力、愛欲煩悩即菩提をもつ明王である、と。

半田稲荷
先に進む。次の目的地は東金町4丁目にある半田稲荷。和銅4年(710年)鎮座の古刹。先日購入した『江戸近郊ウォーク』(安倍孝嗣・田中優子:小学館)の中に「半田稲荷詣での記」という記事があった。尾張徳川家の藩士・村尾嘉陵の散歩の記録である。そこには「尾張・紀州両藩の士、その他諸侯の士、江戸の町々、品川あたりの者などが、ここまで月詣でする、という」と書いてある。どんなところなのか、なんとなく気になっていた。
村尾嘉陵の日記にあるように、江戸名所のひとつ。歌舞伎、芸能界、花柳界、魚河岸を主とする講中も多く、月詣が盛んにおこなわれたよう。疱瘡、はしか、安産の神様。境内に神泉遺構。昔は湧水井戸だったとは思うが、現在は水はなし、井戸跡を囲む石柵には寄進者として市川団十郎の名も。ちなみに、この神社、尾張徳川家の立願所。現在の社殿も尾張家の寄進、とか。
それにしても、それにしても、である、この神社が何故また歌舞伎、花柳界などの贔屓を得るようになったのか。ちょいと調べてみた:時は昔、明和・安永の頃(1764 - 81年)、体中赤ずくめで「葛西金町半田の稲荷、疱瘡も軽いな、発疹(はしか)運授 安産守りの神よ。。。」と囃し江戸を練り歩き、チラシを配る変な坊主がいた。この坊主は神田在の願人坊主。半田稲荷のキャンペーン要員。この販促企画が大ヒット。この坊主が来ると、景気がよくなるとまで言われた。
この噂は上方まで伝わった。で、その人気に目をつけた市川団蔵が天明4年(1784年)、大阪角座で歌舞伎芝居として上演。明和2年(1765年)、江戸市村座にて中村仲蔵も上演。文化10年(1813年)には坂東三津五郎も願人坊主を演じ、大人気を博する。歌舞伎だけでなく、川柳で「股引と羽織で半田行く所」と読まれたり、長唄で歌われたりと、江戸庶民に深く「刺さった」ようだ。で、神泉遺跡に市川団十郎の名があったり、歌舞伎、芸能界、花柳界の贔屓を得るようになった、のだろう。飯塚の夕顔観音、渋江の客人大権現とともに葛西の流行神でもあった。

江戸川の堤・金町関所跡
半田稲荷を離れ、江戸川に沿って進む。葛西大橋、葛西橋への道筋とクロスし江戸川の堤近くに。堤の手前、下水道局東金町ポンプ所脇に金町関所跡。水戸街道が江戸川を渡るところに位置する江戸の東の関門。4名の関所番が常駐していたと。対岸の松戸との間は渡船が常備。将軍の小金原への鷹狩のときは川に高瀬舟を並べて臨時の橋とした、とか。

水元公園・「松浦の鐘」
金町関所跡から暗渠の上を水元公園に向かう。この暗渠は水元公園から江戸川への水路だろう。東乃橋、西乃橋、天王橋と進み水元公園に。水元公園は小合溜井(こあいたるい)を中心とした水郷風景が楽しめる都内唯一の公園。20万本の花菖蒲、都指定天然記念物オニバスがある。江戸前金魚展示場などを右手に見ながら公園に沿った道筋を進む。「松浦の鐘」。鐘だけが遊歩道というか道のど真ん中に。お寺がなくなり、危急時の早鐘として使われた、と。

南蔵院の「しばられ地蔵」
しばられ地蔵道路を少し離れて南蔵院に。八代将軍吉宗の頃、南町奉行大岡越前守の「大岡裁き」で有名な「しばられ地蔵」がある。たしかに荒縄でぐるぐる巻きに縛られていた。もとは本所にあったが、関東大震災のあと、この地に移ってきた。
縛られ地蔵のお裁き、とは:昔々呉服問屋の店員さんがお地蔵さんの前で、うとうと居眠り。大切な反物を置き引きされる。で、越前守曰く「面前での盗人を見逃すとは、不埒千万。即刻地蔵を召し取れ」と。お地蔵さんに縄を打つ。前代未聞の地蔵のお裁き。大挙集まった人々が奉行所・お白州にもなだれ込む。越前守曰く「お白州に踏み込むとはなんたる所業。罰金として反物を納めるべし」と。その反物の中に盗まれたものが。かくして、盗人を召し捕らえた、って話。わかたような、わからないようなお話。
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香取神社・「上下之割用水跡(うえしたのわり)」
香取神社道に戻り、先に進む。香取神社が。下小合村の鎮守。神社の前に南に下る川筋というか掘筋がある。「こあゆの小路」。小合溜井の外堀と内掘をつなぐ水路。勝海舟の書の「香取社」という扁額も。このあたりからなんとなく南西に掘っぽい筋が感じられる。これって「上下之割用水跡(うえしたのわり)」だろう、か。
上下之割用水は享保14年(1729年)、幕府勘定方井沢弥惣兵衛の手によりつくられ、現在の葛飾・江戸川区の中川より東側の耕地を灌漑した。橋を渡り、公園に沿って更に進む。桜並木が続く。「水元さくら堤」。八代将軍吉宗の江戸川治水工事の一つとして、小合溜の整備とともにつくられた江戸川の外堤防(二次堤)。堤の全長は約4キロ弱。ソメイヨシノ、山桜、八重桜などの桜が植えられている。
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閘門橋(こうもんばし)
東水元地区を進む。日枝神社。山王神社としてあったが、水元公園の工事にときに場所も移り、名前も変えた、と。熊野神社。境内にタブノキがある。先に進み東水元6丁目の閘門橋(こうもん)に。このあたりが水元公園の最西端。都内唯一のレンガ造りのアーチ橋。閘門とは、水位・水流・水量等調節用の堰のこと。江戸時代この辺りは古利根川(現在の中川)や小合川筋(現在の大場川、小合溜井)が入り組み、水はけの悪い、古利根川の氾濫地域。古利根川と小合川の逆流を防ぐためにこの閘門が設けられた。橋は、明治43年「弐郷半領猿又閘門」としてレンガ造りアーチ橋が造られる。後に、新大場川水門の完成により閘門としての役割を終えた。

大場川に沿って中川に

大場・中川合流閘門を離れ、大場川に沿って中川に向かう。大場川は現在の中川と水元公園をつなぐ3キロ弱の川。大場川も、もとはといえば中川。中川も、もとはといえば古利根川、ってことは上でメモしたとおり。
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遍照院
水元5丁目三叉路交差点で岩槻街道と交差。しばし川堤の道を離れる。南西に下る。遍照院。和銅元年に開かれたという区内最古の歴史をもつ。天文7年(1538年)の小田原北条氏と安房・里見氏の「国府台合戦」の際,伽藍焼失。以降、再建されたり、火災に遭ったり、水害に遭ったりと、いうのは諸寺院・神社の世の習い。少し南にくだり、水元神社を眺め再び大場川筋に戻る。

葛西御厨神明宮

西水元4丁目に葛西御厨神明宮。葛飾の名所・旧跡の指定地。とはいうものの、手入れの跡はない。由来書も案内もなにもない。葛西御厨の名前に惹かれてきたのだが、知らなければなんの抵抗もなく通り過ぎるだけのお宮、というか小さな祠。
葛西御厨って、葛西にある伊勢神宮の領地ってこと。平安時代末期から現在の隅田川と江戸川に挟まれた下町低地一帯を開発・所領した葛西一族の葛西清重が、領地のうち下葛西と上葛西の33郷、現在の葛飾区を中心とする地域一体を伊勢神宮に寄進した。それが葛西御厨。
神明社は伊勢信仰に由来するお宮。伊勢の内宮(天照皇大神)または外宮(豊受大神)を分霊したもの。もともとは皇室以外が伊勢の神様をおまつりすることなどできなかったようだが、財政難には抗しがたく全国各地に布教活動を始めた。で、各地の武将が神領を寄進し、その地に神明社とか神明宮とか神明神社とは太神宮といった名前でお祀りされた。
近世になって、庶民にも伊勢信仰が広まると、新田開発に際して、農業神である豊受神や天照大神を祀る神明宮が盛んに創建され、村の鎮守として機能していた、ということ、か。日本各地にある天祖神社は明治の神仏分離令のとき、神明社が改名したとことがほとんど、だ。

猿ケ又水神様
水神様神明宮を離れ、大場川と中川の合流点に。新大場川水門脇を通り中川に至る。西水元3丁目の土手道に猿ケ又水神様。小さな祠。なにも案内はなかったが、素朴ないい雰囲気ではあった。猿ケ又の由来は不明。川筋が3方向に分岐していていた、「三ケ又」から転化された、という説もある。
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安福寺・飯塚の夕顔観音

少し南に進み安福寺。飯塚村の名主・関口治左衛門が自宅近くの老松の根元から夢のお告げにより観音像と仏具を掘り出す。鎌倉時代の作とか。お堂をつくり夕顔観音としてお祀り。飯塚の夕顔観音として江戸の元禄年間は賑わったとか。安福寺におかれるようになったのは明治になってから。
何故「夕顔観音」か、よくわからない。が、どうもこのあたりとか、千葉に「夕顔観音」にまつわる話が多い。千葉介の祖である平良文も法名・夕顔観音大士。良文にまつわる夕顔観音塚もある、という。足立の瑞応寺に夕顔観音。千葉介の千葉常胤の娘、夕顔姫の菩提をとむらうお寺。
そもそもこの千葉常胤にも夕顔観音にまつわる「羽衣伝説」がある。天女の羽衣を見つけた武将、幾年か天女とともに暮らす。数年たち、天女は天上に戻る。が、武将がなくなったとき、天女地上に現れ、ともに天上の国に。そのとき、一粒の「夕顔」の種を落としていく。その種を拾った子供が種をまくと、すくすく育ち、中から観音さまが。「夕顔観音」と名付ける。この夕顔観音を護り本尊とした子供は大きくなり、立派な武将に成長。それが千葉常胤である、という。

富士神社・富士塚
富士塚先に進み、飯塚橋を越え富士神社に。立派な富士塚がある。明治12年に浅間山に土を持って作られたもの。飯塚の富士塚と呼ばれる。散歩をはじめて富士塚を結構沢山見てきた。が、ここの富士塚が今まででは最も立派。
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JR 金町駅
富士神社を離れ、中川を下る。三菱ガス化学の工場脇を進み、常磐線と交差。南側には線路に沿って道はない。少し南に下る必要がありそう。で、ガードの北に戻る。線路に沿って細い道が通る。北はまったくの更地。工場跡だろうか。本当に道が続くのかどうか少々不安。が、なんとなく大きな通りに出て一安心。道なりに進み金町駅北口に。本日の予定終了。
水元村と金町はほぼ歩いた。先日の曳舟川散歩は亀青町・本田町といったことろ。次回は金町から新宿町・奥戸町を歩いてみよう。

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