江東区の最近のブログ記事

休日の午後、時間ができた。それでは何処を歩こうか、といっても特段、どこといって候補先が想い浮かばない。地図を拡げ眺めていると、荒川の東西を蛇行する川筋が目に入った。昔の自然河川の名残を残すこの蛇行流路は旧中川である。旧中川は荒川放水路によって切り離された中川の下流部分であり、墨田区と境を接する江戸川区平井の木下川排水機場・水門で荒川から分かれ、江東区大島の小名木川排水機場で再び荒川に合流する6.68キロの水路である。

先日、旧中川と荒川に挟まれた江東区の平井の辺りを彷徨ったとき、平井の聖天さまには訪れたのだが、五色不動のひとつである平井の目黄不動・最勝寺を見逃していた。成り行き任せの散歩によくある「後の祭り」の一例である。それではと、今回は、旧中川の流路を辿りながら目黄不動を訪れることにした。ルートは、旧中川が荒川放水路と合流点する地点からはじめ、蛇行する流路を遡り、途中で目黄不動などに立ち寄り、再び旧中川をのぼり荒川放水路分岐地点まで、とする。中川は荒川放水路の東側にも蛇行流路が更に続き、葛飾・青砥で人工的に開削された新中川が分岐するのだが、今回はそこまで進む時間の余裕はなさそうであり、次回のお楽しみとする。

今回歩く中川であるが、そもそも中川と言う川は、元からあったわけではない。江戸時代の初めまで、利根川と荒川は流路定まることなく現在の中川下流域へと流れ込んでいた。その利根川と荒川を、利根川は銚子方面へと流れる常陸川筋に付け替える利根川東遷事業、荒川は入間川・隅田川筋へと付け替える西遷事業が実施され、結果、元荒川、古利根川、庄内古川など源流から切り離された川が生まれた。源流を断ち切られ、現在の中川水系一帯に「取り残された」川筋は、古利根川(元荒川が合流)、島川、庄内古川に分かれていた。大正・昭和になって中川水系へと付け替えられた島川、庄内古川は、江戸の頃は江戸川に合流しており、江戸の中頃は元荒川、古利根川の合流地点から下流を「中川」と呼んでいたようである。

源流点を羽生市6丁目、羽生南小学校辺りとする現在の中川筋ができるのは大正5年(1916)から昭和4年(1929)にかけての河川工事による。中川水系の水田地帯を潤し、そこからの排水を集め、江戸川へと注いでいた島川と庄内古川を古利根川へ付け替える工事が行われた。江戸川の水位が高く洪水時には逆流水のため島川、庄内古川流域に発生する洪水被害を防ぐためである。
島川は利根川の改修で廃川となった権現堂川を利用したうえで、幸手市上宇和田から杉戸町椿まで約6キロを新たに開削して庄内古川につながれ、庄内古川は松伏町大川戸から下赤岩まで約3.7キロして古利根川につながれた。こうして「中川」ができあがった。
昭和22年(1947)カスリーン台風の大洪水のあと、昭和24年から37年にかけて放水路として新中川も開削され、中川も都内西小岩から河口までの約7.6キロ、荒川放水路計画の中で放水路に平行して付け替えて綾瀬川を合流させ、現在の姿となった。
ちなみに、中川って、江戸川と荒川の「中」にあったから。とか。大雑把に言って、利根川の東遷事業、荒川の西遷事業によって「取り残された」埼玉中央部の川筋を、まとめ直した川筋を中川水系、と言ってもいいだろう。

本日のコース;都営新宿線東大島>旧中川堤>中川大橋>中川船番所>小名木川合流点>東京都小名木川排水機場>荒川ロックゲート>大島小松川公園旧小松川閘門>都営新宿線>新大橋通り船堀橋>首都高速7号線小松川線>京葉道路中川新橋>浅間神社>白髭神社>最勝寺目黄不動>成就寺>善通寺>総武本線>蔵前橋通り>北十間川合流点>旧中川かさ上げ護岸跡>平井橋>平井の渡し跡>東漸寺>白髭神社>中平井橋>木下川排水機場>荒川堤>天祖神社>安養寺>平井聖天燈明寺>諏訪神社>総武本線平井駅

都営新宿線東大島
旧中川が荒川放水路に合流する最寄の駅、都営新宿線の東大島で下車。駅は江東区と江戸川区の区境である旧中川を跨ぐ河川橋上駅。川を挟んで西の江東区は大島、東の江戸川区は小松川。東大島との名の通り、駅は江東区大島となっていた。
大島の名前の由来は低湿地に浮かぶ小島、から。家康入府以前の江東区域はほぼ全域が浅瀬の低湿地帯であったわけで、大島は中川などによって形成された自然堤防か微高地であったのだろう。また、小松川は中世の頃に葛飾区の新小岩辺りに小松村があり、中川の低湿地を流れる川を小松川と呼んだため、と言う。その小松は、小松殿と称せられた平重盛に由来すると説く人もいる。
いつだったか、新小岩駅の東と千葉街道・菅原橋あたりの二か所から流れがひとつにまとまり、荒川まで続く小松川境川親水公園を歩いたことがあるが、それが小松川の川筋跡ではあろう。もっとも、古地図には境川としか書かれていないようだ。現在も西小松川と東小松川地区の境となっており、往昔、村の境を流れていた故での命名であろう、か。

中川船番所記念館
東大島駅前は再開発され高層マンションが並ぶ。線路に沿って少し西に戻り、旧中川散歩の始点となる旧中川が荒川放水路に合流する地点へと南へ下る。少し進むと中川大橋の西詰、小高く盛り上がった「大島小松川わんさか広場」の南に中川船番所記念館。中川番所を中心に関東の河川海運と江東区の郷土史の資料を展示している。中川のコーナーには中川番所の再現ジオラマを中心に出土遺物、番所に関する資料が展示されている。江戸をめぐる水運のコーナーには、江戸を巡る河川水運について、海辺大工町や川浚い関する資料。江戸から東京へのコーナーには、蒸気船の登場などによる水運の近代化を通運丸や小名木川の古写真を中心に紹介してある。


中川船番所跡
資料館前の道を旧中川に沿ってすこし南に中川船番所跡。資料館の番所略史の抜粋:中川番所は、寛文元年(1661)に小名木川の隅田川口にあった幕府の「深川口人改之御番所」が、中川口に移転したもの。番所の役人には、寄合の旗本3〜5名が任命され「中川番」と呼ばれ、5日交代で勤めていた。普段は、旗本の家臣が派遣され、小名木川縁には番小屋が建てられ、小名木川を通行する船を見張る。おもに夜間の通船、女性の通行、鉄砲などの武器や武具の通関を取り締まり、また船で運ばれる荷物と人を改めていた。「通ります通れ葛西のあふむ石」と川柳に詠まれたように、通船の増加により通関手続きは形式化(あふむ=鸚鵡返し)していったようである。 因みに、江戸の時代小説などによれば、この船番所の役人は閑職であった、とのこと。

小名木川
中川船番所跡の南を東西に走り、旧中川に合流するのが小名木川。小名木川は隅田川から荒川、正確には荒川の手前の旧中川まで江東区を東西に横断する長さ5キロ弱の一級河川である。とは言え、川といっても自然の川ではなく、家康が江戸開幕の折に開削した運河。千葉の行徳の塩を江戸に運ぶためつくったものであり、江戸城の和田倉門から道三堀、日本橋川を経て隅田川、隅田川から荒川まで小名木川、荒川を越え新川(船堀川)から旧江戸川を経て行徳まで連なる「塩の道」の一部である。
小名木川の開削は入府当時、家康の最重要事業であった、という。塩は生活の必需品であるから、だろう。当時の海岸線、といっても陸地側も浅瀬の低湿地ではあるが、ともあれ、その渚に沿って運河が掘られる。で、開削された残土を葦生い茂る湿地の埋め立てに使う。小名木川以北が江戸の埋め立て事業の最初に行われたのは、こういった事情もあったの、では。小名木川の名前の由来は、家康の命によりこの運河を開削したのが小名木四郎兵衛の名前から。もっとも、これも諸説あり、うなぎがよく採れたのでうなぎ川、それがなまったという説などいろいろ。
小名木川は後に、関西地方から江戸に塩がもたらされ、塩の道の役割が少なくなってからも、東北や北関東からの生活物資を江戸に運ぶ重要河川として新たな船運の役割を担った。房総、浦賀といった太平洋の海の難所を避け、銚子あたりで内陸に入り、利根川・江戸川経由で小名木川、そして江戸に続く、いわゆる奥川廻し、この内陸水路をつかった水運ネットワークの一環として機能した。いつだったか、日本橋川から小名木川筋を進み、行徳まで歩いた「塩の道散歩」が懐かしい。

平成橋
中川大橋を下ると平成橋に。平成橋から小名木川排水機場が見える。手前の建設工事は小松川第二ポンプ場、とか。排水機場って、水位低下河川の水位を維持し、氾濫を防止、水質浄化のため取水した流入水を排水するためのポンプ施設。小松川第二ポンプ場を建設しているということは、小名木川排水機場に替わる、ということであろうか。

荒川ロックゲート
平成橋から東に向かい荒川放水路の堤防へと向かう。荒川放水路は500mほどの幅である。広々とした河川風景を見やりながら堤防を南に下ると巨大が塔が見えるが、それが荒川ロックゲート。ロックゲートとは水門で水位を調節しながら、水位の異なる川筋を結び通船を可能とする施設。「水位差のある箇所をふたつの水門で囲う。片方の水門を開けて船を入れる。このときの水位は水を入れた側と同じ。次に水門を閉じポンプで水を注入する、あるいは排水して反対側の水位と合わす。水位が合うと、出る側の水門を開き船を通す」といったものである。
荒川ロックゲート(閘門)が造られた背景は、船運の盛んであった荒川流域が荒川放水路開削により荒川と旧中川に水位差ができてしまった、ため。荒川と旧中川の水位差は3.1mにもなった、と言う。そのため、水位調節機能をもった小松川閘門が昭和5年(1930)完成し通船していたが、昭和50年閉鎖。その後、水路を利用した災害復旧機能が見直され、平成17年(2005)にこの荒川ロックゲートが完成し、墨田川と荒川を結んだ水路のネットワークが整備された。

散歩の折々にロックゲート(閘門)に出合う。小名木川にも扇橋閘門があった、埼玉散歩では東西の見沼用水を繋ぐ見沼通船堀で、小規模ではあるが、江戸の頃というから、スエズ運河より早い時期に作られた木製の閘門に出合った。因みにロックゲートはrock ではなく、lockが英語のスペルである。

荒川放水路は明治44年(1911)から昭和5年(1930)にかけて建設された人口の川(放水路)である。昔、荒川の本流は隅田川であった。が、隅田川は川幅がせまく、堤防も低かったため、大雨や台風の洪水を防ぐことができなかった。ために、北区の岩淵水門で隅田川と別れ河口までの約22km、人工の川(放水路)を20年の歳月、延べ310万人の労働力により開削した。
放水路建設のきっかけは明治43年(1910)の大洪水。埼玉県名栗で1212mmの総雨量を記録し、荒川のほとんどの堤防があふれ、決壊した堤数十箇所、と言う。利根川、中川、荒川の低地、東京の下町は水没し、流出・全壊家屋1679戸、浸水家屋27万戸、と言う甚大な被害をもたらした。
荒川放水路の川幅は500m。こんな大規模な工事を、明治にどのようにして建設したのか、ということだが、第一フェーズは人力で、川岸の部分を平らにする。掘った土を堤防となる場所へ盛る。第二フェーズは平らになった川岸に線路を敷き、蒸気掘削機を動かして、水路を掘る。掘った土はトロッコで運ばれて、堤防を作る。そして第三フェーズでは水を引き込み、浚渫船で、更に深く掘る。掘った土は、土運船やポンプを使い、沿岸の低地や沼地に運び埋め立てした。とのことである。

江戸時代の荒川
江戸時代以前の荒川は、現在の元荒川筋を流れ、越谷付近で当時の利根川(古利根川)に合流していた。寛永6年(1629)、荒川を利根川から分離する付け替え工事をおこない、久下村地先(熊谷市)において元荒川の河道を締め切り、入間川の支流に流路を合わせ、墨田川をへて東京湾に注ぐ流路に変えた。荒川の西遷事業と呼ばれるものである。以来荒川の河道が現在のものとほぼ同様のものになり、埼玉東部低湿地帯は穀倉地帯に、整備された水路は船運で栄えた。明治から昭和にかけては明治43年(1910)の大洪水をきっかけに荒川放水路が造られ現在に至る。

小松川閘門
荒川ロックゲートを離れ、旧中川散歩をはじめる。少し北に進み小高い台地となっている都立大島小松川公園に入る。都立大島小松川公園は旧中川の西の江東区側にも公園が広がっているため、「大島小松川」と両地名併記となっているのだろう。この公園は江東地区の防災市街地再開発事業により設置され、通常はレクレーションの場、災害時は避難場所となっている。
公園を歩いていると前方に重厚な石造りらしき建造物があり、近づくと小石川閘門跡とあった。ということは、この辺りがもともとの荒川と旧中川の合流点であったのだろう。この閘門は昭和5年(1930)に完成し昭和50年(1975)まで使用された。2つの扉の開閉によって機能を果たしていたが、この建物はそのうちの1つが残る。また、この建物も全体の約2/3程度が土の中に埋まっている。洪水対策である荒川スーパー堤防の余波だろう、か。スーパー堤防って、堤防の高さのおよそ30倍の幅(高さ10mの堤防であれば、おおよそ200mから300mの幅)を盛土し、緩斜面をつくる、とのことであるので、この推論はそれほど間違っているようには思えない。

新大橋通り・船堀橋
都立大島小松川公園を下り中川大橋東詰めに戻る。先ほど下ってきた道筋を逆に都営新宿線方面へと進む。新大橋通りに架かるのは船堀橋。旧中川から荒川放水路・新中川を超える区間を一括して船堀橋と呼ぶようである。
この船堀橋が昭和46年(1971)に開通する前は、荒川放水路の開削に合わせ、大正12年(1923)には下流300mのところに荒川を渡る船堀大橋と、旧中川を渡る船堀小橋という木橋が架かっていた、と言う。場所は江戸川区船堀の陣屋橋通りの延長線上。船堀大橋は、今は無いが、船堀小橋は「中川大橋」として再架橋されている。中川大橋は中川船番所脇の橋である。

水際の遊歩道
川沿いの道を歩きながら眼下の旧中川を見遣る。と、水際・低水路に沿って遊歩道が整備されている。振り返って見ると都営線のあたりから水辺の道がはじまっているようである。旧中川の水位は平常時水位を人工的にA.P.-1mまで低下させ、地域に安全を確保している、とのこと。
A.P.とはArakawa Peilの略。Peilはオランダ語で「基準」の意味。荒川の水位を表す基準のことで、A.P0(zero)は明治の頃、荒川の河口だった霊岸島(現在の中央区新川)に水位観測所を設け測定された潮の干潮時の最も水位の低いところ。明治の頃オランダ人河川技師によって定められた。荒川干潮時は東京湾の海抜-1.13mと言うから、A.P.-1mは海抜-2mといったところ、だろう。
所謂隅田川と荒川に挟まれた江東三角地帯には小名木川、北十間川、横十間川そしてこの旧中川などの内部河川が縦横に流れているが、隅田川は押上付近にある源森川水門で北十間川を、小名木川水門で小名木川を締切り、先ほど訪れた小名木川排水機場と、これから辿る木下川排水機場で荒川放水路と旧中川を締切っている。このような締切りの結果、旧中川の水位は海抜-2mに保たれている、ということである。

逆井の渡し跡
首都高速7号・小松川線下に進む。高速の少し北に架かる鉄橋・逆井橋の辺りは昔の「逆井の渡し」跡。江戸から佐倉、成田へと向かう「佐倉往還」の渡しがあったところである。歌川広重の「名所江戸百景 逆井のわたし」には、白鷺らしき鳥が舞う風光明媚なこの地が描かれる。八代将軍吉宗が小松川に最初の鷹狩りに来たときは、本所堅川からこの逆井の渡しを経て西小松川に向かった、とか。
明治12年(1879)には渡し跡に橋が架けられて、逆井の渡しは廃止。架橋当時は村費による架橋費を補うために通行料(橋銭)を徴収する賃取橋であった、と言う。明治27年(1894)に橋銭徴収を止め、明治31年(1898)に、東京府によって架けかえられ、昭和43年(1968)には鉄橋となった。

千葉街道
先に進み、国道14号・京葉道路に架かる中川新橋を超える。国道14号は都内の両国橋を起点とし江戸川区松島の東小松川交差点で同じ14号として二方向に分岐し、一方は千葉街道として市川へと上り、そこから江戸川に沿って南東へと下る。もう一方は国道14号・京葉道路として東進し、谷河内から側道として高速道路に併設され、篠崎ICで高速道路の区間と接続する。ふたつに分かれた道は習志野・千葉市境(幕張IC)で交差する。
ところで、東小松川で北東へと進む千葉街道のルートが少し気になった。千葉街道とは言いながら、千葉へと直線に進むのではなく、市川を三角形の頂点とするように大回りをする。この大回りの理由が気になった。市川にあった下総国府に向かうのが主目的であったのか、はたまた直進する一帯は低湿地で江戸の頃に埋め立てが行われるまでは直線ルートは進むに進めなかったのだろうか。または、そもそもが、市川の渡しより下流に渡しがなかったのだろうか。あれこれ妄想は膨らむ。
チェックすると、この14号・千葉街道は江戸から成田に向かう「元佐倉道」の道筋であった、よう。両国橋を渡り、竪川通りを東進して旧中川の「逆井の渡し」から四股(荒川放水路と中川放水路の間の中州・千葉街道と行徳道の交差点)、五分一、八蔵橋、菅原橋を経て小岩市川の渡しを渡り、市川、佐倉をへて成田へと向かった、と。千葉街道と呼ばれるようになったのは明治になってから、であった。市川の渡しより下流に渡しがあったかどうか、未だ不明ではある。

浅間神社
新大橋通りを北に越え、今回の散歩のきっかけともなった平井の目黄不動・最勝寺にやっと近づいた。場所は新大橋通りの北の荒川側。旧中川とは反対側でもあるので、近場にどこか見所はと地図をチェック。旧中川を少し北に進んだところに浅間神社と白髭神社がある。ふたつの社に立ち寄り目黄不動へと進むことにする。
旧中川の堤を離れ、堤下を走る車道に沿って浅間神社がある。浅間神社とは言うものの、コンクリートで囲われた富士塚であり、その上に浅間神社の祠が祀られる。富士塚に上ると旧中川が見渡せる。道路脇の案内に、「高さ約5m、区内で最大のもの。建造年代は不明だが、「当山再築小松川村」と記した明治17年(1884)の碑があり、区内で最も古い築造。登山道は、塚の正面に直線で設けられ、石段になっている。頂上の部分を玉垣で方形にとり囲み、石祠を祀る。登山道の両側には、数多くの石碑が建てられ、地元の丸岩講のほか、小松川山元講や平井丸富講の碑もある。この逆井の富士塚そのものが浅間神社であり、旧逆井村の人々が、現在でもその維持にあたる。7月1日に幟を立てて祭礼を行いる。石積み型の大型なものであり、倒壊防止のため、昭和30年代にコンクリートで覆った(江戸川区教育委員会)」とあった。

富士講とは霊峰富士への信仰のための信者集団のこと。御師のガイドで富士への参拝の旅にでかける。富士塚は富士に似せた塚をつくり、富士に見たててお参りをする。富士信仰のはじまりは江戸の初期、長谷川角行による。その60年後、享保年間(17世紀全般)になって富士講は、角行の後継者ふたりによって発展。ひとりは直系・村上光清。組織を強化し浅間神社新築などをおこなう。もうひとりは直系・旺心(がんしん)の弟子である食行身禄。食行身禄は村上光清と異なり孤高の修行を続け、富士に入定(即身成仏)。この入定が契機となり富士講が飛躍的に発展することになる。
食行身禄の入定の3年後、弟子の高田藤四郎は江戸に「身禄同行」という講社をつくる。これが富士講のはじめ。安永8年(1779)には富士塚を発願し高田富士(新宿区西早稲田の水稲荷神社境内)を完成。これが身禄富士塚のはじまり、と伝わる。その後も講は拡大し、文化・文政の頃には「江戸八百八講」と呼ばれるほどの繁栄を迎える。食行身禄の話は『富士に死す:新田次郎著』に詳しい。

白髭神社
逆井の富士塚から道路を隔てた東側に白髭神社。如何にも、あっさりとした境内に社殿が建つ。白髭神社に最初に出合ったのは埼玉県日高市・高麗の里にある高麗神社。この神社に祀られるのは高麗王・若光。716年、というから奈良時代の初め、駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の七国の高麗人1799人が武蔵國に遷され、高麗郡が設置された。高麗王若光は高麗郡の郡長に任命され、武蔵の国の開発に尽力し、この地で没した。若光が晩年白髭を垂れたため、その遺徳を偲んで高麗神社は白髭神社とも呼ばれる。この日高・高麗の郷の白髭神社を高麗総社とした白髭神社は武蔵の国に55社ある、とのこと。

大和政権は東国経営の一環として武蔵の国には、百済・新羅・高麗などからの渡来人を配置。夷を制する精鋭部隊でもあり、高い技術力をもつ開発者集団でもあったのであろう。海を渡り、上陸地を求めて浅草湊まで進み、ここを根拠地に武蔵野の台地へと踏み入った、と言われる。一説には、朝廷の命により、浅草湊に上陸した高麗からの帰化人は、一群は荒川水系を新座、入間、高麗といった埼玉県方面に。別の一派は利根川水系を妻沼、深谷、太田、本庄といった群馬県方面に進んだ、とか。
このあたりの白髭神社は旧利根川水系の旧中川、綾瀬川流域を分け入った一派ではあろう。墨田区の白鬚神社の縁起によれば、この地には古代帰化人が馬の放牧のために相当数移住した、とも。鈴木理生さんの『江戸の川 東京の川』にも「渡来人の基地としての浅草湊」という一項目が設けられている。これらの高麗人の子孫が王の遺徳を偲び分祀したのが散歩の折々に出合う白髯神社であり、白髭神社である。「白髯」は「新羅」からの転化である、といった説もあるほど、だ。
因みに、「しろひげ」には「白髭」神社と「白髯」神社のふたつの表記がある。「髭」は「口ひげ」、「髯」は「あごひげ」、とか。なにか違いがあるのだろうか。

都道449号・補助120号線
白髭神社を後に、黄目不動へと向かう。民家の間を成り行きで進むと総武本線・平井駅前から南に下る商店街の道筋が都道449号と合わさるところに出た。この都道449号・江戸川区民館前交差点に北から斜めに交差する道筋はかつての西井戸堀用水跡。葛飾区水元公園の小合溜を水源とし、上下之用水として流れ出し、下って小岩用水、東井堀用水、中井堀用水などに分流し地域を潤した用水の一流である。

通常、都道449号は通常、新荒川堤防線と呼ばれ、江東区東砂と東京都北区志茂との間を荒川右岸に沿って進む。この平井駅付近を通る都道449は正式には都道449号・補助120号線。小松川3丁目から平井7丁目まで進む。この都道449号・補助120号線は隅田川沿いにある東白髭公園一帯に計画された江東地区防災拠点へのアクセスルートを増やすために施行されたもの、とのこと。江東地区防災拠点は公園東側には13階建ての高層住宅が並び、大地震時などの火勢を防ぎ住民の安全を図る。

成就寺
都道449号・江戸川区民館前交差点を越え、黄目不動方面へ成り行きで進むと寺町に入り込む。お寺に挟まれた小道を進むと成就寺に。結構大きな本堂と墓地が通りを隔てて泣き別れとなっており、なんとなく不思議な構え。元は本所にあったものが、明治14年に墓地だけがこの地に移り、本堂は関東大震災の後、この地に移った。泣き別れの理由は移転の時間差、ということだろう、か。
この天台宗の寺は、慈覚大師が東国巡拝の折、浅草寺の対岸に草創されたとの伝えがある古き寺ではあり、寺の回りに植えられた枳(からたち)故に、「からたち寺」とも呼ばれた、と。本尊は縁寺である木母寺により招来されたもの、と言う。因みに、木母寺って、能「隅田川」など日本の芸能に大きな影響を与えた梅若伝説の地でもある。

慈覚大師
慈覚大師って、目黒不動や高幡不動、それに浅草の浅草寺など。散歩の折々に現れる。第三代天台座主であり、最澄が開いた天台宗を大成させた高僧である。45歳の時、最後の遣唐使として唐に渡る。三度目のトライであった、とか。9年半におよぶ唐での苦闘を記録した『入唐求法巡礼記』で知られる。
慈覚大師円仁が開いたというお寺は関東だけで200強、東北には300以上ある、と言う。江戸時代の初期、幕府が各お寺さんに、その開基をレポートしろ、と言った、とか。円仁の人気と権威にあやかりたいと、我も我もと「わが寺の開基は、円仁さまで...」ということで、こういった途方もない数の開基縁起とはなったのだろう
。それはそれとしてもう少し円仁さんのこと。日本で初めての「大師」号を受けたお坊さん、と言う。とはいうものの、円仁さんって最澄こと伝教大師のお弟子さん。弟子が師匠を差し置いて?また、「大師」と言えば弘法大師とも云われる空海を差し置いて?チェックする。大師号って、入定(なくなって)してから朝廷より与えられるもの。円仁の入定年は864年。大師号を受けたのが866年。最澄の入定年は862年。大師号を受けたのが866年。と言うことは、円仁は最澄とともに大師号を受けた、ということ、か。一方、空海の入定年は835年。大師号を受けたのが921年。大師と言えば、の空海が大師号を受けるのに、結構時間がかかっているのが意外ではある。どういったポリテックスが働いた結果なのだろう。

最勝寺・目黄不動
本堂と道を隔てた墓地を抜け車道に出る。目的の目黄不動は東隣にあった。入口の格子の中に佇む仁王像にお参りし、境内に入る。本堂も落ち着いた雰囲気が、誠にいい。本堂横には不動堂が並び、堂中に目黄不動が祀られる。この目黄不動は名僧・良弁の作との言い伝えがある。東大寺の初代別当であり、鑑真とともに大僧都と称された良弁僧都が東国を訪れた記録は特にないようだが、それはそれとして、僧都が隅田川のほとりで夢に不動明王が現れ、「わが姿を三体刻み、一体をこの地に祀るべし」と言うことで、不動像を刻み堂宇に祀った、と。
先ほどの成就院と同じく、この寺も慈覚大師の建立と伝わる。縁起は縁起としてよし、とするも、このお寺さまは本所の牛嶋神社の別当寺であり、その牛嶋神社は源頼朝が社殿を寄進するといった由緒ある社であるので、慈覚大師との縁起も、それなりに納得。この寺に、どのような歴史を経て木造不動明王坐像が祀られるようになったかはっきりしない。はっきりしないが、享保17年(1732年)江戸砂子に「最勝寺の不動明王」、天保7年(1836年)江戸名所図絵に「最勝寺の不動明王」が記載あるので。江戸の頃には牛嶋神社別当である最勝寺に不動明王は祀られていたようである。
この不動明王は目黄不動と称され、江戸御府内の五色不動のひとつと言われる。五色不動とは、目黒不動(天台宗龍泉寺:目黒区目黒3丁目)、目白不動(真言宗豊山派金乗院。もとは文京区関口の新長谷寺にあったが戦災で廃寺となったため移された)、目青不動(天台宗教学院。世田谷区太子堂4丁目。もとは麻布の勧行寺、または、正善寺にあったものが青山にあった教学院に移され。その後教学院が太子堂に移った)、目赤不動(天台宗南谷寺。文京区本駒込1丁目。もともと三重県の赤目不動が本尊。家光の命で目赤に)、そしてこの目黄不動。
もっとも、目黄不動だけは複数あり、この最勝寺だけでなく、台東区三ノ輪2丁目の天台宗・永久寺、渋谷の龍眼寺とこの最勝寺など全部で六箇所あるとも言われる。それと、江戸の頃に五色不動と言った記録はなく、江戸時代には目がつく不動は目黒・目白・目赤の3つしかなく、また、それをセットとして語る例もなかったようではある。明治以降、目黄、目青が登場し、後付けで五色不動伝説が作られたものとの説もある。

大法寺
黄目不動を離れ、成就院の寺域の西に大法寺がある。もとは本所にあったものが昭和4年(1929)にこの地に移った日蓮宗の古刹である。寺伝によれば、日蓮上人が下総・清澄山より鎌倉へ向かう途中、亀戸の地で上人に帰依した千葉氏に「南無妙法蓮華経」の題目を書き渡した、とか。千葉氏はそれを石に刻み宝塔を建てたとのことだが、人々はそれを「広宣布石」と呼び参拝祈願した、と言う。「広宣布石」には疱瘡によりむなしくなった千葉某の甦生伝説などもあり、疱瘡の守護神として人々の信仰を集めた、とのことである。

善通寺
大法寺の隣に浄土真宗本願寺派の善通寺。なんとなくインド風の本堂。築地の本願寺もインド風であり、何故にとチェックしたことがあるのだが、20世紀初頭、浄土真宗本願寺派の法主を隊長とする「大谷探検隊」の中央アジアの学術探検の実績を考えれば、インド風の構えも納得できる。

北十間川合流点
逆井の富士塚辺りを目安に旧中川筋に戻る。川面のそばの遊歩道に下り、東京スカイタワーを借景に進み、総武線、蔵前橋通りに架かる江東新橋を越えると左手から北十間川が合流する。北十間川とは言うものの、この川筋は自然河川ではなく江戸の頃人工的に開削された運河である。
江戸以前はこの北十間川辺りが渚、というか臨海部。これより南は低湿地帯である。江戸になり、正保年間(1644年から)柳島・小梅・押上(亀戸1・2・3丁目)あたりの埋め立てが進み、明暦の大火を契機に本所地域の開発が計画され、本所築地奉行の指揮のもと、堅川(たて川)、横川、十間川、北十間川、また両国地区の六間掘、南割下水、石原町入掘などが開削される。その揚げ土による埋め立てがおこなわれ、現在の墨田区の中央部・南部である本所・深川地区が人の住む地域に生まれ変わった。
十間川の名称は、「北」は本所の北、「十間」は川幅を指した。現在は隅田川と旧中川を結ぶが、江戸の頃は南北に通る横十間川の西を源森川(源兵衛堀)、東を北十間川と呼んだ。当初は両河川はつながっていたが、隅田川の洪水被害が頻発し、17世紀後半分断されることになる。明治になって再び接続され、業平駅での鉄道貨物を船運で運ぶ重要な水路となったが、水運の衰退とともにその役割を終え、1978年(昭和53年)には大横川との分流点に北十間川樋門が設定されるにおよび、再び水路は東西に分断されることになった。
上でメモしたように、隅田川と荒川に挟まれた水害多発地帯である江東三角地帯を守るべく、隅田川と荒川とつながる内部河川を締切り水位を下げているが、この北十間川は押上付近にある源森川水門で隅田川を締切っている。

旧中川「かさ上げ護岸」跡
蔵前通りの北沿いにある島忠ホームセンターの旧中川側堤防下の高水敷(こうすいじき)案内がある。何かとチェックすると切り取られた堤防跡と旧中川「かさあげ護岸」の歴史の説明があった。
「旧中川が流れるこの辺りは、乱流する荒川(墨田川)、中川、利根川(江戸川)に囲まれた三角州に町ができたため、低地であり高潮や洪水の被害が頻発。また、明治末期よりの工場地帯として過剰な地下水の汲み上げによる地盤低下がすすみ、荒川と隅田川に囲まれた江東デルタ地帯は東京湾の満潮水位以下となり、江東零メートル地帯と呼ばれるに至った。
地下水揚水規制、水溶性天然ガスの採取停止を実施し、昭和48年から地盤沈下は停止するも、江東零メートル地帯となった町を守るため、江東内部河川の護岸は、かさ上げ工事が行われた。しかし度重なる応急措置の護岸かさ上げにより、高い堤防により町と川が分断、また構造的に脆弱化し地震発生時の護岸崩壊による水害の危険性が増した。この対策として、昭和46年より都は江東内部河川整備に着手し、北十間川閘門及び扇橋閘門より東側を流れる江東内部河川については、荒川など周辺河川から締切り、平常時の水位を周辺地盤より低く保つ「水位低下対策」を実施し、平成5年に完成。その後、旧中川は水位低下対策によって不要となった「かさ上げ護岸」の上部を切り取り、広い高水敷と緩傾斜堤防を整備し、安全で潤いのある親水空間を創出した。ここに残された「かさ上げ護岸」は、緩傾斜堤防の整備完了を記念し、地域をまもってきた護岸を後世に伝えるために残された」とのことである。
説明とともに掲示されている水位低下対策以前の写真では、堤防ぎりぎりまで水位が迫っている。今歩いている辺りは水の底である。上の説明にあるように、隅田川や荒川放水路を締切り、両河川に挟まれた地帯を流れる内部河川・運河の水位を下げたわけである、何気なく歩いている低水路沿いの高水敷や緑豊かな緩斜面堤防にも、それに至る歴史がある、ということである。

平井橋・平井の渡し
旧中川の堤防の内側、低水路脇の遊歩道を進むと平井橋。明治32年(1899)木橋が架けられ、大正14年(1925)鉄橋に架け替えられる。現在の橋は昭和55年(1980)に架けられたものである。橋の中央に車道と人道を区切る青い鉄の構造物が出っ張っている。これは橋を支える梁。通常は梁の上に橋を造るわけだが、地盤沈下と関連あるのだろうか。実際、この平井辺りが墨田区では最も地盤沈下が激しく、昭和40年頃には海抜マイナス80センチといった記録もある。
明治32年(1899)に木橋が架けられるまでは、橋の少し手前に「平井の渡し」があった。「平井の渡し」は行徳道が下平井村で中川を渡り、墨田区・葛西川村を結ぶもの。渡船1艘での渡しであった、とか。平井を進んだ行徳道は現在は四股(荒川放水路と中川放水路の中州。京葉道路小松川橋の少し北)で千葉街道(元佐倉道)と交差し、その先は京葉道路・中川放水路東詰から南東に一直線に下る今井道を経て行徳に至る。

妙光寺
橋の少し南に妙光寺。慶長3年(1598年)創建のお寺さま。由来書に、元禄年間(1688 - 1704年)の津波で堂宇を消失。大正4年(1913)に再興。本堂は床を高くしているが、これは水害予防のため、昭和41年(1966)に改修された、とか。
津波被害をもたらした地震とは元禄16年(1703)11月の発生した元禄大地震ではあろう。関東地方を襲ったこの地震は、マグニチュード8.1といった関東大震災クラスの大地震であり、津波も東京湾入口の浦賀で、4.5m。江戸湾内でも、本所、深川、両国で1.5m、品川、浦安で2m、隅田川の遡上も記録されている、と言う。

浅草道石造道標
妙光寺と同じく、この辺りにある諏訪神社や平井聖天さんには数年前に訪れてはいるのだが、平井橋からもそれほど離れていないので、ちょっと立ち寄る。平井橋から諏訪神社へと向かう民家の間に、「下平井の観世音菩薩 浅草道石造道標」。まことにささやかな祠。浅草方面から行徳道への道標ではあろう。

諏訪神社と平井聖天
このふたつの寺社は隣合って並ぶ。諏訪神社はお隣の平井聖天・燈明寺の恵祐法印が、享保年間(1716-1735年)に出身地である信州諏訪大社から神霊を勧請したのがはじまりと伝えられている。
平井聖天は草創が平安の頃と伝えられる真儀真言宗の古刹燈明寺の中にある。本堂の不動明王は胎内に弘法大師作の不動明王が安置されている、とも。本堂は関東大震災で倒壊し、昭和4年に再建。各時代の様式が取り入れられている。平井の聖天さんは燈明寺の別堂。平安時代の創建と伝えられ埼玉県・妻沼聖天、浅草の待乳山聖天とともに関東三大聖天のひとつ、と言われる。聖天さまとは夫婦和合の神様。将軍鷹狩のときの御膳所として使われたほか、幾多の文人墨客が訪れている。歴代将軍の御膳所として使用された他、里見八犬伝の物語や桧山騒動の相馬大作の祈願したことなどでもその名を知られ、江戸図会名所にも描かれているなど、昔から多くの人の信仰を集めている。


中平井橋
平井橋南詰に戻り、再び旧中川の堤防内遊歩道を進む。平井橋のすぐ東にある水道管橋を見遣りながら進むと、流路は大きく湾曲する。湾曲し終えた水路西岸に白髭神社がある。立花の白髭神社であり、葛西川村の鎮守であった。この社は先日の墨田区散歩で訪れたので、今回はパスし先に進む。
前方に墨田清掃工場の高い煙突を眺めながら進み、中平井橋に。昭和13年(1938)に造られたこの橋は老朽化委し、平成20年(2008)に架け替えられた。中平井橋は平井橋と上平井橋の間、といことではあろうが、上平井橋って、荒川放水路を隔てた葛飾区の中川・綾瀬川が合流している辺りにある。

ゆりのき橋
ワンド(湾処)と言うには少々つつましやか、ではあるが、それでも川の本流とは繋がりながらもささやかな池のようになり葦の生い茂る親水公園などを眺めながら歩を進める。再び水路が大きく湾曲する辺りに「ゆりのき橋」。先ほど平井駅辺りで出合った都道449号・補助120号線が通る。平成13年に架設されたもの。鐘ヶ淵通りとつながり、上でメモしたように、防災拠点となっている白髭地区に通じる防災避難道路である。橋名の由来は、墨田区側に道路に植えられた「ゆりの木」、から。


木下川排水機場
先に進むと水路は塵芥を取り除くゲートで遮断され、その先は木下川(きねがわ)排水機場となる。木下川排水機場は江東デルタ地帯の内部河川の水位を維持し、氾濫を防止、水質浄化のため取水した流入水を排水するためのポンプ施設。24時間稼働している。成り行きで川面より結構比高差のある都道449号・荒川堤防線に上り、荒川放水路からの水を遮断する木下川水門に。小名木川排水機場・荒川ロックゲートから始めた旧中川散歩もこれで一応終了。荒川放水路を眺めながら、次回は荒川放水路を越え、中川を新中川との分岐点まで辿ることにする。
ちなみに、「木下川」を「きねがわ」と読むのはどのような由来かと気になりチェック。もとは「木毛河(きげがわ)」、とか「木毛川」と呼ばれていたのが、「木毛河」を「きねがわ」と読み違え、また、「げ」を「下」と書き表し、「木下川=きげがわ>きねがわ」となった、との説があるが、はっきりしない。

JR総武線・平井駅
堤防を離れ平井駅へと成り行きで進む途中、先回の散歩で訪れた平井の天祖神社や安養寺などに再び出合ったので、ちょっと立ち寄りながら、駅に到着し、一路家路へと。

先回は日本橋川を下り隅田川まで歩いた。今回は隅田川から荒川までを小名木川を歩く。小名木川は家康が行徳の塩田地帯でつくられる塩を江戸に運ぶためにつくった川筋・運河。葛西から船橋にかけての一帯は鎌倉時代から塩の生産地。北条氏に年貢として納めていたともいう。海浜地帯であることは塩をつくる必要条件としても、十分条件は燃料である薪の確保。利根川・江戸川水系の水路のネットワークにより燃料供給が安定していたことが、この地で塩田が発達した要因という。ともあれ、清洲橋の少し北で隅田川から分岐する小名木川に向う。(水曜日, 2月 08, 2006のブログを修正)



本日のルート;新小名木川水門>高橋>西深川橋>東深川橋>大富橋>新高橋>(扇橋)>新扇橋>小松橋>小名木川橋>小名木川クロバー橋>横十間川親水公園>進開橋>丸八橋>番所橋>旧中川>中川大橋>大島・小松川公園>小名木川排水機場>荒川>新船堀橋>中川>船堀橋>都営新宿線船堀橋

小名木川

小名木川は、隅田川から荒川、正確には荒川の手前の旧中川まで江東区を東西に横断する長さ5キロ弱の一級河川。家康の命により小名木四郎兵衛がこの運河を開削したのが名前の由来。もっとも、これも諸説あり、うなぎがよく採れたのでうなぎ川、それがなまったという説などいろいろ。
もともとは行徳(千葉県市川市)の塩を江戸に運ぶために開削された。が、後に、関西地方から江戸に塩がもたらされるようになってからも、東北や北関東からの生活物資を江戸に運ぶ重要河川としてその役割を担った。房総、浦賀といった太平洋の海の難所を避け、茨城あたりで内陸に入り、利根川・江戸川経由で小名木川、そして江戸に続く、いわゆる奥川廻し、この内陸水路をつかった水運ネットワークの一環として機能したのだろう。ともあれ、歩をすすめることにする。

万年橋
隅田川から分岐した小名木川にかかる最初の橋が万年橋。橋の北に「川船番所跡」の案内。深川番所・川船番所・深川口人改の御番所とも呼ばれる。海の関所といったところ。水路をとおって江戸に出入りする人や荷を監視するため隅田川口に設けられた。人の通行改めはそれほど厳しくはなかったが、川船に積まれた荷物、とくに米、酒、鮮魚、野菜、硫黄、塩などの監視は極めて厳しかった、とか。万年橋は元番所橋ともよばれる。
万年橋近辺には俳人・松尾芭蕉ゆかりの地がいくつかある。常盤1-3-12の芭蕉庵跡・芭蕉稲荷。1680年にこの地に庵を結び、1694年に51歳でなくなるまで、この地から全国への旅に出た、と。「こゝのとせ(九年)の春秋、市中に住み侘て、居を深川のほとりに移す。(しばの戸)」。「深川三またの辺に草庵を侘て、遠くは士峰の雪をのぞみ、ちかくは万里の船をうかぶ(寒夜の辞」」。北斎の富嶽三十六景「深川万年橋下」の光景か。新大橋通り方面に少し上ると、芭蕉記念館もある。逆に、清澄通りを少し南に下り、海辺橋の南詰めに採茶庵跡。庵と芭蕉の銅像があった。

新小名木川水門
万年橋から少し進む。新小名木川水門。隅田川からの逆流を防ぐための水門、とか。工業化・地下水汲み上げの影響による地盤地沈下により、小名木川筋のほうが水位が低い。仙台堀を歩いていたとき、木場公園のあたりで防水工事案内を目にした。大潮の干潮時の水位をゼロとすれば、満潮時は2.1m。堤防の高さは6.4m。今立っているあたりは2.5m。昭和34年の伊勢湾台風のときは潮位5.1mまでになったという。堤防がなければ完沈である。台風などの水害防止のためにも水門が機能しているのだろう。

高橋
清澄通りに架かる高橋に進む道筋の南、清澄3丁目には大鵬部屋・北の海部屋・尾車部屋などといった相撲部屋も見られる。高橋って、もともとは橋の中央が盛り上がる、というか「高く」なっていたためつけられた名前。水運華やかなりし川ではの、名前ではあろう。

新高橋
川筋に沿ってつかず離れず進む。西深川橋から東深川橋三つ目通りにかかる大富橋、そして新高橋。先ほどの高橋とこの新高橋、このペアに近いものが近くの川にもあった。日本橋川が隅田川に流れ込む手前に分岐している亀島川に架かる高橋と南高橋。それがどうした、と言えば、それだけのことではあるのだが。。。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


大横川と交差
新高橋を越えると小名木川は大横川と交差する。川筋には道がないので、一度清洲橋通りまで戻り扇橋を渡り、新扇橋から小松橋へと進む。小松橋は鉄骨組みのトラス橋。

扇橋閘門(こうもん)
小松橋と新扇橋の間に水門が。扇橋閘門(こうもん)。江東区の東は西と比べて地盤が低いので、水害防止のため東側地区の水位を常に低くしておく対策を実施。水門で囲えばいいわけだろうが、通船の水路確保のために閘門を設けることになる。閘門とは、京都の琵琶湖疎水のインクラインと仕組みは同じ、か。水位差のある箇所をふたつの水門で囲う。片方の水門を開けて船を入れる。このときの水位は水を入れた側と同じ。次に水門を閉じポンプで水を注入する、あるいは排水して反対側の水位と合わす。水位が合うと、出る側の水門を開き船を通す、という段取りとなる。パナマ運河の小規模版といったもの。付近に製粉会社が目に付く。新扇橋のたもとに、日本発の蒸気機関をつかった製粉工場をつくった雨宮啓次郎さんの碑があった。

小名木川橋
小名木川橋。南の東陽町から北の錦糸町を経て押上に通じる四つ目通りに架かる。この橋というか、四つ目通りを境に、東西の街の相が少々異なる。西は昔ながらの下町、東は新開地といった雰囲気。民家の多い東と団地の多い西、生活道路中心の東と幹線道路が南北に走る西、と言った感じもする。
歴史的にみても江東区はこのあたりを境に西が深川区で東が城東区。もっと歴史を遡ると、江戸の時代深川まで、つまりは四つ目通りあたりまでが江戸の内、それより東は外縁部であった、とか。川筋の遊歩道も小名木川橋より西は途中で突然道がなくなる。が、これより東は整地された遊歩道が完備、といった按配であった。歩いてわかる街の姿、ではあります。

小名木川クロバー橋

川筋をすすみ小名木川クロバー橋に。横十間川との交差点。交差点をクロスしたX型の橋。南は横十間川親水公園となっている。少し下ってみたが、結構いい雰囲気の散歩道となっている。JRの貨物駅の脇を進み進開橋に。明治通りとの交差点。川の北側は大島地区。正倉院文書に葛飾郡大嶋郷と記されている。それがこの地の名前の由来かどうか、定かならず。

中川船番所
丸八通りにかかる丸八橋を越え少し進むと仙台堀川公園が分岐。仙台堀は南に下り、葛西橋通りあたりで西に向い、小名木川のひと筋南をほぼ平行に開削されている。
旧中川の手前に番所橋。隅田川口、万年橋北詰めにあった深川口船番所・深川口人改之御番所が1661年、この地に移転し中川船番所に。中川・小名木川・新川(船堀川)が交差するこの地におかれ、人や物資の取り締まりをおこなった。ただ、通船数が多くなるにつれ、通関手続きは形骸化し「「通ります通れ葛西のあふむ石」と川柳で揶揄されてはいたようだ。

荒川ロックゲート
川筋を一筋北にのぼり旧中川にかかる中川大橋を渡り、小高い大島・小松川公園を眺めながら小名木川排水機場に。荒川ロックゲートとも呼ばれている。扇橋閘門と同じ原理での水門。荒川と中川の水位差を調節している。荒川に沿って新大橋通りに。東に向かい荒川にかかる新船堀橋を歩く。中堤に首都高中央環状線が南北に走る。高架下をくぐると中堤を隔てたほうひとつの川・中川。船堀橋を渡り都営新宿線船堀橋に到着。本日の予定終了となる。

江東区散歩も最後のエリア。区内では最も古い地帯。とはいっても、江戸以前は江東区はここ以外の地帯は湿地帯。この亀戸のあたりが臨海部、というわけで、砂洲状の微高地や入り江が入り組んだ地帯であった。亀戸の名前はこの島が、小さな亀の形をしていたとか、海浜に面した港(津)であったとか、飲料用の井戸があったとか諸説、あり。ともあれ、「亀島」「亀津」「亀津島」「亀井戸」などと呼ばれたことに由来する。室町時代の地図に「亀島」「亀井戸」といった地名が見える。中世にまで遡る寺社も多い、幕府の直轄領に歩を進める。

埋め立ての歴史(江東区発行の『江東区のあゆみ』より);
正保年間(1644年から);柳島・小梅・押上(亀戸1・2・3丁目)




本日のルート: 総武線・亀戸駅 > 横十間川 > 亀戸水神通り・水神社 > 香取神社 > 神明宮跡 > 北十間川・天祖神社 > 横十間川・龍眼寺 > 亀戸天神

総武線・亀戸駅から横十間川に
総武線・亀戸駅で下車。総武線に沿って西に横十間川まで戻る。川に沿ってすこし北に。道脇に亀戸銭座跡。江戸時代の通貨鋳造場のあったところ。寛永通宝をつくっていた。そのすぐ北に日清紡績創業の地の碑。陸軍被服工廠などを経て、現在はスポーツ施設とかマンションに様変わりしている。
蔵前通りまで進み天神橋東詰めを右折。明治通の交差点まで進み右折。すこし南に下り、左折。亀戸水神通りを東に進む。

亀戸水神通り・水神社
亀戸水神通りを進み、東部亀戸線・亀戸水神駅の手前に「亀戸水神社」。道の脇にこじんまりした神社。このあたり海に近く低湿地帯。その開墾に際し、水害からこの地をまもるため作られた。神社の案内書によれば、堤防の突端に、まわりの地面より高く石垣をつくり石祠が祭られた。ついでながら、水神さんと祇園さんは関係あるらしい。
それにしても神社の構えの割には神社の名前のついた通りや小学校があったりと、なんとなく気になる神社。室町時代の古地図にも「水神社」って記述があるし、昔はもっと大きな構えだったのだろうか。チェックする。創建は16世紀の享保年間、というから室町幕府12代将軍・足利義晴の頃。結構古い。奈良県吉野の丹生川上神社を勧請したもの。祭神は弥都波能売神(ミズハノメノカミ)という水を司る女神さま。朝廷からの信仰も篤く、社格高い「明神」号をもつ社であった。社殿は昭和20年の東京大空襲で焼失した。

蔵前通りの北を明治通りに戻る
少し北に進み蔵前通りを越えると常光寺。亀戸の七福神のひとつ寿老人が祀られている。西に進むと石井神社。石神社と呼ばれたとも。民家の間に挟まれて少々窮屈な感じ。油断すると見過ごしてしまいそう。おしゃもじ様と言われ、咳の病を治す神社として信仰を集めた。おしゃもじを神社から借り、効果あればふたつにして返すのがルール。境内にいくつかのしゃもじがあった。この神社の神体は石棒。石の神様=しゃくじん>しゃくし>杓子=おしゃもじに繋がる。ついでに、「しゃくじん」、を「せきじん」とよぶこともあり、せきじん>咳き>咳の病に効く、といあいなる次第。ちなみに、都内で石を神体とするのは、いつか散歩したちきにであった石神井神社、葛飾区立石の熊野神社、豊島区西巣鴨の正法院の石神、板橋区仲宿の文殊院の石神などがある。西に進み、明治通りの手前に東覚寺。亀戸の七福神の弁財天が祀ってある。通りを隔てた西に香取神社がある。

香取神社
明治通りに。北に向かってすこし進む。香取神社。天智天皇4年(665年)創立。藤原鎌足が「亀の島」に船を寄せ、香取大神を勧請し旅の安全を願った。以来、亀戸の総鎮守。平将門の乱を平定した藤原秀郷が戦勝の返礼として弓矢を奉納。その故事にちなみ勝矢祭りがおこなわれるといった由来書。祭神は経津主(フツヌシ)。アマテラスの命を受け、まつろわぬ民を平定した、ということで武門の神様として信仰されてきた。
本宮は千葉県佐原市にある上総一ノ宮の香取神宮。経津主(フツヌシ)神を祭神とするこの神社は「古利根川東岸」、つまりは埼玉県東部、東武日光線沿線東側、もっと具体的には、埼玉県東部の春日部市、越谷市、三郷市、千葉県野田市、柏市、東葛飾郡に数多く分布している。ついでのことなので、鈴木理生さんの『幻の江戸百年』に書いてあった祭祀圏、平たく言えば神様の勢力圏について概略をまとめておく。 香取神社は上にメモしたように、上総の国、つまりは隅田川の東、川筋で言えば古利根川に沿って数多く分布している。隅田川の西、つまりは武蔵野国にはまったく無いといってもいいほど。一方、武蔵の国、つまりは隅田川の西、埼玉県や東京を中心におよそ230社も分布しているのが氷川神社。本社は大宮にある武蔵一ノ宮の氷川神社。川筋でいえば少々大雑把ではあるが荒川・多摩川水系といってもいいだろう。
これほどきっちりと分かれているということは、それぞれの地域はまったく別系統の人々によって開拓されたといってもいい、かと思う。香取神宮の神様は経津主(フツヌシ)。『日本書紀』によるとフツヌシとはアマテラスの命を受け天孫降臨の尖兵として、タケミカヅチ神とともに出雲の国へ行き、大国主命に国譲りをさせた神様。沼を隔てて鎮座する茨城県鹿島市の鹿島神宮の祭神・タケミカズチの神と同神とされる。アマテラスの尖兵といったことであるから、大和朝廷系・有力氏族とかかわりの深い神さまの系統であるのだろう。本来は物部系の氏神。物部氏の勢力が衰えて以降は中臣・藤原氏が氏神とする。ちなみに、由来書の藤原鎌足が勧請した、とのくだりは、香取=中臣・藤原氏の深い関係を示唆するもので、実際にこの地にきたかどうか、とは関係ない、かも。
一方の氷川神社。祭神はスサノオノ命。考昭天皇の代に出雲大社から勧請された。「氷川」とは出雲の「簸川(ひのかわ)」に由来するとも言われる。大和朝廷に征服された部族の総称=出雲族系統の神様である。ついでのことながら、東西にくっきり分かれる氷川神社と香取神社の祭祀圏の間に分布する神様がいる。つまりは、そういった神様を祭る部族がいる、ということ。その神様は「久伊豆神社」。元荒川と古利根川の間に100社近くが分布している。祭神はスサノ須佐之男直系の「大己貴命」というから氷川系に近い部族であるのだろう。この「久伊豆神社」の祭祀圏はほとんどが河川の氾濫によりできた沖積地帯。台地上の立地は既に氷川さんとか、香取さんに占拠されている、ということであろから比較的新しい時代の開拓民の集団であったのだろう。本社は不明である。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


香取神社の近くに普門院・神明宮跡
香取神社を離れ南西方向のすぐのところに普門院。亀戸の七福神のひとつ毘沙門天が。そうそう、香取神社にも亀戸の七福神のうち恵比寿神と大黒神があった。北に進み入神明宮跡を探す。なかなか見つからない。あきらめかけた頃、ひょいと顕れる。民家に囲まれた駐車場の脇に碑文があるだけ。由来書によれば、昔この地は海上に浮かぶ小島。往来する船の安全を祈ってこの宮を勧請。明治40年に土錘(魚網のおもり)が出土。昭和62年に、香取神社に合祀された、と。近くに梅屋敷跡があるはず。が、見つからなかった。

北十間川・天祖社
北十間川に沿って北西方向に。すぐ天祖神社。推古天皇の頃(593〜628年)の創建と伝えられる。亀戸の七福神の福禄寿が。天祖神社は、もともとは伊勢信仰の社であった、神明宮が明治の神仏分離令の折に、天祖神社と改名したところがほとんどである。

横十間川・龍眼寺
横十間川を南に下る。龍眼寺。品のいいお寺さん。亀戸の七福神のひとつ布袋尊が祭られている。このお寺、元禄の頃から萩を全国から集め幾千株にしたことから、別名萩寺とも呼ばれる。文人墨客多数訪れたのだろう。平岩弓枝さんの『御宿かわせみ』にも登場していた。

亀戸天神
南に下って亀戸天神に。寛文2年(1662年)大鳥居信祐が天満宮を勧請。梅と藤の名所。言わずと知れた学問の神様。中江兆民の碑をはじめ多くの筆塚もある。なかでも気になったのが塩原太助奉納の灯篭。灯篭に興味があるわけでなく塩原太助のこと。どこで覚えたのか定かではない。が、子供のころに読んだ本に出ていたのだろう。愛馬との別れの話だったのか、親孝行の、といったコンテキストだったのか、それもで覚えていない。で、調べてみた。
江戸で生まれたが故あって育てられる。16歳になって、江戸にでて独立の決心。愛馬「あお」との別れ。一時は大川に身を投げよう、ともした。が、通りかかった薪炭商山口善右衛門に助けられる。一念発起。努力をかさね「本所に過ぎたるものが二つあり、津軽大名、炭屋塩原」と言われるまでの豪商となった、とか。 今回で江東区散歩はおしまい。下町低地・埋め立ての歴史散歩は、次は隅田区に。

木場一帯が埋立てられたのは、明暦3年(1657年)以降。同年、江戸を焼きつくした、いわゆる明暦の大火の後、幕府は防火を主眼とした都市計画をおこなう。市街地の再開発、拡張、寺町の移転などを実施。当初永代島にあった貯木場をこの地に移す。元禄14年(1701年)の頃である。 木場の東、千田から扇町にかけての「十万坪」、仙台堀川の南の東陽町が埋立てられたのは、18世紀の初頭から中頃のことである。

埋め立ての歴史(江東区発行の『江東区のあゆみ』より);
元禄11年(1698年);築地町・十五万坪(木場・平野)/ 六万坪・石小田新田(東陽4・5・6・7丁目)
享保年間(1716年);十万坪(千田・千石・扇橋)
明和2年(1765年);平井新田(東陽3・5丁目)




本日のルート;地下鉄東西線・東陽町 > 江東区役所 > 横十間親水公園 > 平井新田跡 > 洲崎神社 > 大横川 > 宇迦八幡宮・「十万坪」 > 木場公園

地下鉄東西線・東陽町;永代通り・四ツ目通りの交差点からスタート
地下鉄東西線・東陽町で下車。永代通りと四ツ目と通りの交差点を北に。前々から気になっていたのだが、この四ツ目って何だ?三ツ目もあるし、ということで調べてみた。昔、堅川の北、現在の両国2,4丁目あたりに本所相生町というところがあった。この地に本因坊さんが住む。本因坊って囲碁の名家。この相生って名前も、本因坊に由来する。囲碁の真髄は相手とともに成長する>ともに暮らし、老いる=相老>相生となった、とか。
それはさておき、相生町1丁目,2丁目は碁盤の目に因んで一ツ目、相生町3町目・4丁目・5丁目は二ツ目。その道にかかる橋を一ツ目の橋>一の橋、二ツ目通りにかかる橋を二つ目の橋>ニノ橋と呼ばれた。三ツ目通り、四ツ目通りも同じ理屈でつけられたのだろう。現在、一ツ目通りは一ノ橋通り、二ツ目通りは清澄通り、三ツ目通り、四ツ目通りはそのまんま。五ツ目通りは明治通りになっている。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


江東区役所
四ツ目通りを少し北に。江東区役所。広報課公聴課に行き、『江東区のあゆみ』『江東文化財マップ』などが購入できる。『江東区のあゆみ』は江戸から平成までの江東区をまとめた小冊子。100円で手に入れる。125ページ。江東区の埋め立ての歴史がよくわかる。『こうとう文化財マップ』は500円。江東区の全体像をまとめるには便利そう。
話は少々それるが、広報資料として、戦前の江東区の写真集もあった。1000円だったと思う。ぱらっと眺める。埃っぽい道、汚染の進んだ河川などなど、今の江東区の姿からは想像するのが難しい風景。実のところ、散歩を始めて江東区を歩くまでは、こんなに美しく整備された川筋など想像もしていなかった。団塊世代の我が身としては、江東区=ゼロメートル地帯、荒れた・少々美しくない川筋を想像していた。10年かけたのか、20年かけたのか、ともあれ豊かな川筋・町並みに様変わりしていた。

江東区役所のすぐ北に横十間親水公園
直ぐ北に横十間親水公園・井住橋が架かっている。南北に貫く横十間川が、東西に走る小名木川、仙台堀川を越え、更に葛西橋通りを過ぎたところで進路変更。西へと進み大横川に合流している。

東陽3丁目のあたりには「平井新田」があった

横十間親水公園は、その雰囲気だけ感じ、もとの永代通りまで戻る。西に進み、東陽3丁目から5丁目を。このあたりは平井新田。
明和2年というから1765年、平井満右衛門、虎五郎が江戸城の掘り浚いの土で埋め立てる。明和3年(17766年)には塩浜も開かれた。先に進み木場5丁目に。大横川にかかる沢海橋に。東詰めに関東大震災殉難者供養碑。

横川・沢海橋のすぐ南に「洲崎神社」
沢海橋のすぐ南、弁天橋の近くに洲崎神社。元禄13年(1700年)、将軍綱吉時代、護持院隆光が、江戸城中より弁天像を安置したのが州崎弁天社の始まり。その後州崎弁天への沿道には料理茶屋などができ、賑わった。
深川洲崎十万坪と呼ばれ、浜の真砂が続くこの景勝の地も寛政3年(1791年)暴風雨・大津波で壊滅的打撃を受ける。以降埋め立てが進むことになる。州崎神社となったのは明治になってから。
洲崎神社の西に波除碑。寛政3年の高波・津波の被害の経験から、洲崎神社から平久橋まで一帯を空き地にして家屋建築を禁止。洲崎神社の前・木場6丁目と平久橋の西の2箇所に波除碑を建てて目印とした。
平久橋は大横川が西に進み、平久川と交差するところにある。平久川(へいきゅうがわ)。旧町名・平富町と久右衛門町の間にあったのが名前の由来。ちなみに、平久橋のすぐ南には、古石場川親水公園。江東区散歩のスタート地点。ぐるっと一周して元に戻ってきた。

横川を北に
沢海橋から大横川を北に木場4丁目方向に進む。大横橋、横十間川親水公園との分岐をそのまま直進。豊木橋、茂森橋・葛西橋通り、仙台掘を越え、大栄橋、福寿橋と進む。東が千石、西が平野地区。更に北に三石橋、亥之掘橋へ。東が石島、西が三好地区。

千田地区・宇迦八幡宮のあたりは「十万坪」とよばれる埋立地
清洲橋通り手前を右折。石島地区を越え千田地区に宇迦八幡宮。当地の開発者千田庄兵衛が建立。千田稲荷神社と呼ばれる。このあたり、千石・石島・海辺・扇橋一帯はその昔、十万坪と呼ばれる埋め立て地。享保8年というから1723年、近江屋千田庄兵衛と井籠屋万蔵の両名により開発。江戸の塵芥をつかい、2年の歳月をかけて完成。庄兵衛の名字をとり千田新田と。寛政8年(1796年)には一橋家の領地となり、一橋家十万石と呼ばれる。
また、十万石の南、現在の東陽6,7丁目あたりは宝永7年(1710年)より、開発が進み、六万坪町・石小田新田ができる。江戸の塵芥で埋め立てる。石小田新田は、石川・小柴・豊田という3名の開拓者の名前から。歌川広重の描く『名所江戸百景 深川洲崎十万坪』にその広大な景観が感じられる。

木場公園
このエリアを代表するのは木場公園。もとの貯木場。寛政18年(1641年)、江戸の大火で日本橋の材木置き場が焼失したことがきっかけで、深川(佐賀・福住あたり)に材木置場を移す(元木場)。のちに一時猿江に移るが、元禄14年(1701年)にこの地木場に。それ以来300年に渡り、この地が木材流通の中心となる。が、昭和49年、新木場への移転がはじまり、この地は平成4年に木場公園に。

江東区散歩も残すところ、亀戸地区だけに。

砂町も、江戸初期に開かれた砂村新田に由来する土地である。それ以前のこの地は、利根川・入間川・隅田川の三水系の間に自然形成されたデルタ地帯。陸とも海ともつかぬ場所だった。
家康の江戸入府の半世紀以上前、連歌師・柴屋軒宗長(さいおくけんそうちょう)がまとめた旅行記がある。『東路のつと』といい、今の小名木川筋に当る水路をつたって現在の浦安辺りまで行ったときの「半日ばかり蘆荻(ろてき)を分けつつ、かくれ住みし里々を見て」と記す。ところどころに小村落があった、そういった一帯であった。
江戸時代に入ると、点在する村々に開拓農民たちがやって来た。砂村新田を開発した砂村新左衛門もそのひとり。浮島と干潟であったこの辺りの開拓をおこなう。以降、この周辺には次々と新田が開拓された。その多くは同様に開発者の名前が付けられた。v 砂村地区は深川などとともに野菜つくりが盛んにおこなわれた。江戸の人口が膨らむと、米は年貢米として市中に出回ったが生鮮野菜は圧倒的に不足。つくればつくるほど売れるという噂も広まるほど。年貢免除といった幕府の振興策もあり関西からネギ、ニンジン、ナス、キュウリなどの野菜の種がこの地にもたらされ、江戸近郊農村として、江戸の食料の供給地として野菜類の促成栽培が行われた。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


埋め立ての歴史(江東区発行の『江東区のあゆみ』より);
正保年間(1624年);亀高村(北砂4・7丁目;亀戸新田と高橋新田をあわせ亀高村に)
寛文年間(1661年);太郎兵衛新田(東砂)
万治2年(1659年);砂村新田(南砂1-7丁目、東砂8丁目)
万治年間(1658年);八郎右衛門新田(東砂4-8丁目)
寛文年間(1661年);太郎兵衛新田(東砂1・3・4丁目)
元禄年間(1688年):大塚新田(北砂4・7丁目)/久左衛門新田(北砂2・3・4町目)/中田新田(東砂5丁目)/




本日のルート;仙台堀川公園>東砂4丁目>北砂7丁目>清洲橋通り・境川橋>旧大石家住宅>葛西橋通り>南砂6丁目>南砂7丁目・富賀岡八幡宮>元八幡通り>南砂3丁目・南砂3丁目公園>「砂村新田跡」の碑>南砂4丁目>明治通り>南砂緑道公園・長州藩大砲鋳造場跡>永代通り>東陽町

仙台堀川公園
小名木川から南に延びる仙台堀川公園を下る。仙台堀川の水路跡につくられた親水公園といった風情。東砂4丁目から先は砂町中南部エリア。北砂7丁目を進み清洲橋通りに架かる境川橋に。少し進むと、南砂5丁目と東砂7丁目の境で仙台堀川公園遊歩道は西に折れる。










旧大石家住宅
曲がり角に旧大石家住宅。江東区最古の茅葺き民家。この地域は半農半漁の農家も多く、この家も水害に対する工夫が見られる、とか。仙台堀川の由来。昭和40年の河川法改正で仙台掘と砂町運河をあわせて、「仙台堀川」となった。仙台掘って、隅田川河口の「上之橋」北詰に仙台藩の下屋敷・蔵屋敷があったから。






南砂7丁目には富賀岡八幡宮
仙台堀川を離れ、少し南を東西に走る葛西橋通りをすこし東に。南砂6丁目の境で南に下り、南砂7丁目にある富賀岡八幡宮に向かう。名所江戸百景『砂むら元八まん』に描かれる桜並木に惹かれたため。
現在に富賀岡八幡宮は少々殺風景。通称元八幡、富岡八幡宮の元宮と言われるとはいうものの、といった雰囲気。江戸時代は松が生い茂り、海浜に面した参堂の桜並木が有名で善男善女が数多く訪れた、とか。が、明治43年の大水害で松も桜も壊滅的損害を蒙った。





南砂3丁目公園の砂村新田跡。17世紀中ごろに埋め立てられた
神社を離れ元八幡通りを西に進む。昔の参道だったのだろう。南砂3丁目に南砂3丁目公園。「砂村新田跡」の碑。海に浮かぶ島だった砂町地区は江戸時代に埋め立てられてできたもの。
摂津の国の砂村新左衛門が一族を引き連れ関東に下り、横浜桜木町の野毛新田、横須賀の内川新田を埋め立て・開拓したあと、この地にくる。そして浮島と干潟であったこのあたりの埋め立てをおこなう。砂村新田の由来である。万治2年(1659)の頃である。延宝9年(1681年)にはこの砂村新田と永代島新田がごみ捨て場として定められた。

南砂緑道公園に長州藩大砲鋳造場
南砂4丁目を越え明治通りに。南砂3丁目交差点のあたりに「南砂緑道公園」。南砂中学校とか南砂住宅の周囲ををぐるっと囲む遊歩道。全長1キロ程度。川筋かと思ったのだが、都電の線路跡地、とのことである。緑道を少し西に。すぐ南に下ると長州藩大砲鋳造場跡。白御影石の台座の上に、パリのアンヴァリッド(廃兵院)に保存されている大砲(実物は長さ3メートル)のモデルが置かれている。
「江戸切絵図」をよれば、このあたりに長州藩主松平大膳太夫の屋敷。長州藩では、三浦半島の砲台に置く大砲を鋳造するため、同藩の鋳物師郡司右平次(喜平次)が、佐久間象山の指導のもと、この砂村の屋敷内で36門の大砲を鋳造。アンヴァリッドに保存されている長州藩毛利家の紋章の入った大砲は、攘夷戦で破れ、下関の砲台を占領され、その戦利品としてパリに持ち帰られたもの。
永代通り先に進むと永代通りに合流。西にすこし進めば東陽町。ここから先は木場・東陽エリア。

大島・砂町北部エリアを歩く。大島の地は江戸の比較的早い時期に埋め立てが行われている。大島と呼ばれるくらいであるので、小名木川のラインを渚とする低湿地ではあったものの、ちょっと大きな島、というか、砂洲があったのだろう。近くに旧中川が流れるので、その砂洲でつくられた微高地を「取り付く島」として埋め立てが進んだのだろう、か。まったくの想像。根拠なし。
砂村の地の埋め立ての歴史も早い。17世紀のはじめ。寛政の頃である。砂村の名前はこの地を埋め立て、砂村新田開発をおこなった砂村新左衛門一族の名前から。北砂の旧地名をチェックすると、八右衛門新田、治兵衛新田、久左衛門新田、大塚新田など、「新田」が並ぶ。

大島と砂町の境にあるのが小名木川。塩の道も近代に入ると鉄工所などの工場が立ち並んだ。釜屋跡、化学肥料創業記念碑。そのほか北砂5丁目の精製糖工業発祥の地。日本で初めて白砂糖の精製に成功した鈴木藤三郎が明治21年に建設した工場の跡地である。日本の近代工業を支えた地帯でもある。昭和30年代になると、多くの工場が転出。その跡地に集合住宅が建設される。東砂2丁目の小名木川沿いに、並ぶアパートがそれであろう、か。

埋め立ての歴史(江東区発行の『江東区のあゆみ』より);
天正年間(1573年);小名木川村(大島3・5・6.7.8丁目)
慶長年間(1596年);枚方村(大島5・6・7・8丁目;大坂・枚方の人が開発した)
寛永年間(1624年);八右衛門新田(北砂1・2丁目・扇橋あたり)
正保年間(1644年);荻新田(東砂1・2丁目、北砂6丁目)/ 又兵衛新田(東砂2丁目)
明暦年間(1655年);深川上大島・下大島(大島1・4丁目)




本日のルート: 大島橋東詰め > 横十間川親水公園 > 中浜万次郎宅跡 > 釜屋の渡し跡 > 新大橋通り・五百羅漢跡 > 中川船番所資料館 > 中川船番所跡 > 小名木川 > 仙台堀川公園

大島橋東詰めに釜屋跡・化学肥料創業記念碑。

都営新宿線・住吉駅を降り、新大橋通りを東に進む。横十間川に架かる本村橋を渡ると大島1丁目。東詰めを右折。南に下り横十間川・大島橋東詰めに。釜屋跡。化学肥料創業記念碑。釜屋跡は江戸初期、近江の国の太田氏釜屋右衛門(釜六)と田中氏釜屋七右衛門がこの地に工場を構え、明治・大正まで鋳物(いもの)業を営む。「東京深川釜屋堀釜七鋳造場」には、小名木川にそって拡がる広大な工場が描かれている。明治時代だろう。同じところに「尊農・化学肥料創業記念碑」。明治21年、タカジアスターゼで有名な高峰譲吉博士が工場長となり、日本最初の科学肥料工場がこの地にできた。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


横十間川親水公園
南に進み、横十間川と小名木川と交差するところにクローバー橋。クロスにかかる橋を渡り、横十間川親水公園を少し南に下る。北砂1丁目にあった、土佐藩下屋敷跡に中浜万次郎宅跡がある、とのこと。探したがみつけることができなかった。ジョン万次郎。土佐の漁師。船が遭難。アメリカの捕鯨船に救助される。アメリカで教育を受け、帰国後、土佐藩に登用されこの地に住み、開成学校(東大の前身)で教授として働く。で、後からわかったのだが、旧居跡は北砂小学校の敷地内にあったようだ。





小名木川に戻り「釜屋の渡し跡」に
再び北に登り、小名木川沿い・釜屋の渡し跡に。碑文の概略;釜屋の渡しは, 上大島村(大島1)と八右衛門新田(北砂1)を結び, 小名木川を往復。 名称は, この対岸に 江戸時代から続く鋳物師, 釜屋六右衛門・釜屋七右衛門の鋳造所があったから。 写真には釜屋、というか鋳物工場と, そこで働く人びと や製品の大釜が写っている。明治時代の利用状況は, 平均して 1日大人200人, 自転車5台, 荷車1台で, 料金は1人1銭, 小 車1銭, 自転車1銭, 荷車2銭, 牛馬1頭2銭、と。
近くにJR貨物専用線が走る。越中島貨物線と呼ぶらしい。新小岩から亀戸、そして小名木川駅を経て越中島貨物駅に続く。昔は、その先、晴海方面にまで続いていた、と。現在は貨物輸送は廃止されているようである。

進開橋から新大橋通り・五百羅漢跡

>小名木川を東に進む。進開橋を渡り明治通りを北に。新大橋通り交差点あたりに五百羅漢跡が。とはいうものの、どうもあたりは工事中。碑文を見ることはできなかった。五百羅漢とは、500人の優秀な仏弟子、とでもいったものか。
江戸時代初期、開山松雲元慶が10年の歳月をかけ江戸の町を托鉢して集めた浄財で等身大の五百の羅漢像をつくりあげた。五代将軍綱吉、七代将軍吉宗の庇護を得て「本所のらかんさま」として人気を集める。「名所江戸百景」にも描かれているが、現在はこの地にはない。明治20年に本所に、同42年に下目黒に移った。目黒不動の傍である。ちなみにこのあたりは本所五つ目と呼ばれていた。道を隔てた向かい側に羅漢寺があるが、これは別のお寺さん。

旧中川脇に中川船番所資料館
新大橋通りを東に進む。大島の町並み。旧中川にかかる船越橋の手前を右折。小高く盛り上がった「大島小松川わんさか広場」の南に中川船番所資料館。中川番所を中心に関東の河川海運と江東区の郷土史の資料を展示している。中川のコーナーには番所中川番所の再現ジオラマを中心に出土遺物、番所に関する資料。
江戸をめぐる水運のコーナーには、江戸を巡る河川水運について、海辺大工町や川さらいに関する資料。江戸から東京へのコーナーには、蒸気船の登場などによる水運の近代化を通運丸や小名木川の古写真を中心に紹介してある。『江東区中川船番所資料館・常設展示目録(700円)』『江東地域の400年(100円)』を購入し、資料館を離れる。

中川船番所跡
資料館前道を旧中川に沿ってすこし南に。中川船番所跡。資料館の番所略史の抜粋:中川番所は、寛文元年(1661)に小名木川の隅田川口にあった幕府の「深川口人改之御番所」が、中川口に移転したもの。番所の役人には、寄合の旗本3〜5名が任命され「中川番」と呼ばれ、5日交代で勤めていた。普段は、旗本の家臣が派遣されていた。小名木川縁には番小屋が建てられ、小名木川を通行する船を見張る。おもに夜間の通船、女性の通行、鉄砲などの武器や武具の通関を取り締まり、また船で運ばれる荷物と人を改めていた。
「通ります通れ葛西のあふむ石」と川柳に詠まれたように、通船の増加により通関手続きは形式化(あふむ=鸚鵡返し)していったようだが、幕府の流通統制策に基づき、江戸に入る物資の改めを厳しく行っていた。

仙台堀川公園
番所橋を渡り小名木川の南を西に戻る。東砂2丁目を越え東砂1丁目。左手に遊歩道。仙台堀川公園である。大島・砂町北部エリアもここまで。仙台堀川水路跡の仙台堀川公園を南に進めば砂町中南部エリアに入ることになる。

江東区(森下・住吉)は、小名木川の北になる。昔、どこかで江戸初期の地図を見たのだが、小名木川あたりが海岸線のようであった。小名木川の南は海。といって、北が「ちゃんとした」陸地、というわけでもないだろう。葦の生い茂る低湿地であったかと思う。
小名木川。隅田川から荒川、正確には荒川の手前の旧中川まで江東区を東西に横断する長さ5キロ弱の一級河川。川、といっても自然の川ではない。家康が江戸開幕の折に開削した運河である。千葉の行徳の塩を江戸に運ぶためつくったもの。
江戸城の和田倉門から道三堀、日本橋川を経て隅田川、隅田川から荒川まで小名木川、荒川を越え新川(船堀川)から旧江戸川を経て行徳まで連なる「塩の道」の一部ではある。
小名木川の開削は家康の最重要事業であった、という。塩は生活の必需品であるから、だろう。運河が掘られる。で、その残土を埋め立てに使う。小名木川以北が埋め立て事業の最初に行われたのは、こういった事情もあったのではないか、と思う。
小名木川の名前の由来は、家康の命によりがこの運河を開削したのが小名木四郎兵衛の名前から。もっとも、これも諸説あり、うなぎがよく採れたのでうなぎ川、それがなまったという説などいろいろ。
小名木川は、後に、関西地方から江戸に塩がもたらされるようになり、「塩の道」の役割が少なくなってからも、東北や北関東からの生活物資を江戸に運ぶ重要河川としてその役割を担った。房総、浦賀といった太平洋の海の難所を避け、茨城あたりで内陸に入り、利根川・江戸川経由で小名木川、そして江戸に続く、いわゆる奥川廻し、この内陸水路をつかった水運ネットワークの一環として機能したのだろう。ともあれ、歩をすすめることにする。


埋め立ての歴史
(江東区発行の『江東区のあゆみ』より);
慶長年間(1596〜1615);深川村(森下・常盤・新大橋・猿江・住吉)
享保年間(1716年);毛利新田(毛利)




本日のルート:万年橋北詰・船番所跡 > 芭蕉記念館 > 新大橋東詰め・御船蔵跡 > 猿江神社 > 猿江船改番書跡・扇橋閘門 > 小名木川橋北詰め > 猿江恩賜公園・猿江御材木蔵跡

小名木川・万年橋北詰に船番所跡
小名木川・万年橋北詰。常盤町。昔、松代町と呼ばれていたが、町名を変える際、「松」にちなんで縁起よく、常盤(松)、としたとか。船番所跡の案内。川舟の通行を改める「深川船改番所」のあったところ。寛文元年(1661)に中川に移るまでこの地にあった。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


芭蕉稲荷神社・芭蕉記念館
同じく北詰をすこし隅田川に入ったところに芭蕉稲荷神社。大正6年の大津波の後、この地から芭蕉愛顧の石の蛙が見つかり、それを記念し神社がつくられた、と。芭蕉は17世紀後半、この地に芭蕉庵を営み、「蕉風」と呼ばれる俳諧を確立した。江戸切絵図によれば、紀伊殿屋敷に「芭蕉庵の古跡、庭中ニアリ」と書いてある。芭蕉没後、尼崎藩・松平紀伊守の屋敷。北に進む。芭蕉記念館。芭蕉の肖像画や手紙などの資料が展示されている。更に北に進み新大橋通りにあたる。


新大橋東詰めに御船蔵跡
新大橋東詰めの御船蔵跡。幕府御用船の格納庫跡。寛永9年幕府軍艦安宅丸(あたけぶね)を伊豆より回航繋留。のちに天和2年解体した地であることを記した碑。橋詰より東に進む。

深川神明宮は深川の開発者の屋敷神から
清澄通りを少し下り、森下1丁目に深川神明宮。深川村の総鎮守。このあたりは深川発祥の地。葦の生い茂るこのあたり一帯の埋め立て・開発をおこなった摂津の人、深川八郎右衛門の名前にちなみ深川という名前が生まれる。慶長期(1596〜1615)であるので、江東区埋め立ての始まりの時期でもある。 八郎右衛門の屋敷内に祀られたお伊勢さんの祠が深川神明宮の起こり。森下の地名は、江戸初期、この地にあった酒井左衛門尉の下屋敷の樹林が深く、周囲の町屋は森の下のようであったからだ、と。
神明さま、とは伊勢信仰の「天照大神」のこと。明治期におおくの神明社は、伊勢神宮=天皇家、を憚って改名。天祖神社などという名前にしたが、ここはママ、残った、ということか。

大横川に架かる猿江橋を渡り猿江神社に
墨田区との境を森下3丁目、4丁目と進む。新大橋通りと小名木川の間を道なりに進み、三つ目通りを越え、大横川に架かる猿江橋に。大横川よりは東住吉エリア。住吉の名前は昭和になって、いくつかの町が一緒になった際、縁起がいいという理由で名づけられたもの。由来は特に無い。
住吉は昔からのこの地域の地名、猿江で呼ばれることが多い。猿江1丁目に猿江神社。由来書によれば、11世紀はじめ源義家の奥州征伐のころ、この地で果てた源氏の家臣・猿藤太に由来する、とか。猿+(入り)江=猿江、となったとの説明。猿江神社の少し北に、摩利支天祠跡・日先神社。今は、なんとなくこじんまりした構えではあるが、江戸名所図会では結構なる造作。江戸屈指の規模をもつ神社であった、とか。摩利支はサンスクリット語で「マリシ=太陽や月の光」。摩利支天は陽炎を神格化したもの。陽炎は実体がないので、捉えられず・傷つくこともない、ということで武士の間で信仰されていた。楠正成など兜の中に摩利支天の小さい像を入れていた、と言う。また、だまされず、財をとられることもないということがら江戸後期には民衆の信仰を集めた。

小名木川筋に戻り、猿江船改番書跡・扇橋閘門へ
近くに小名木川。ちょっと寄ってみようと「猿江船改番書跡」に。元禄から享保期(1688〜1736)頃、川船行政を担当する川船改役(かわふねあらためやく)の出先機関として設置。船稼ぎの統制と年貢・役銀の徴収と極印(証明)等の検査をしていた。
直ぐ東に扇橋閘門(こうもん)。江東区の東と西では水位が異なる。で、東の小名木川と西の隅田川の水位を調整するためにつくられた。大潮のときなど2m近い水位差がある、とか。船が入った後、後ろの門が閉じられ、水位調整のあと前の門を開けて船が出ていく、というもの。

小名木川橋北詰めに五本跡と五百羅漢道標
四ツ目通りと小名木川が交差するところに小名木川橋。橋の北詰に五本松跡と五百羅漢道標。歌川広重の「名所江戸百景」での「小奈木川五本まつ」、とか「江戸名所図会」の「小名木川五本松」に描かれた名所跡。少々寂しい松が数本生えていた。五百羅漢道標は大島の五百羅漢寺と亀戸天神への道を示したもの。

新大橋通りに戻り猿江恩賜公園・猿江御材木蔵跡に
四ツ目通りを北に。新大橋通り。都営新宿線・住吉の駅を右折。毛利2丁目に猿江恩賜公園・猿江御材木蔵跡;幕府の材木蔵の後。享保19年(1734年)墨田区本所横網にあった材木蔵がここに移る。明治になり政府宮内省の材木蔵となるが、昭和7年に南部、昭和51年には北部の営林署貯木場が新木場に移転し、57年北部も公園となる。毛利の地名は、麹町の毛利藤左衛門が、私財を投じてこの地にあった入掘を埋めて新田・毛利新田をつくったことに由来する。森下・住吉エリアはここまで。次は大島・砂町北部エリア。

(門前仲町エリア) 門前仲町エリアの埋め立ての歴史は、現在の佐賀・永代・富岡・門前仲町あたりが第二期。寛永から承応まで(1624-1654)の頃である。第一期の小名木川以北が埋め立てられた後、隅田川に沿って海辺新田から南に開発されていったのであろう。南の越中島のあたりは、第三期。明暦の頃である。
埋め立ての歴史(江東区発行の『江東区のあゆみ』より);
寛永6年(1629年);深川猟師町(佐賀・永代・福住・清澄・門前仲町)
承応年間(1652年);永代寺門前(富岡)
明暦年間(1655年);三十三間堂町(富岡)/ 越中島

(清澄・白河エリア)

第一期は小名木川以北が中心であるが、以南では海辺新田(清澄・白河・扇橋)が第一期、慶長から元和まで(1596-1623)の頃埋め立てられている。その東の、霊厳寺門前(三好)は万治元年(1658年)、築地町(木場、平野あたり)は元禄(1697年)、いずれも第三期に埋め立てられた。

埋め立ての歴史(江東区発行の『江東区のあゆみ』より);
慶長元年(1596年);海辺新田(清澄・白河・扇橋あたり)
万治元年(1658年);霊岸寺門前町(三好)
元禄11年(1698年);元加賀新田(三好;松平加賀守の屋敷があったため)




本日のルート;
(門前仲町エリア)
相生橋>東京海洋大学・明治天皇聖跡の碑>越中島1丁目>古石場1丁目>古石場2丁目>越中島川>古石場文化センター>古石場親水公園>牡丹1丁目>大横川・黒船橋>深川猟師町>永代1丁目>永代橋東詰>門前仲町2丁目>富岡1丁目>深川不動>永代寺>富岡八幡>旧弾正橋>深川1丁目>採茶庵跡>仙台掘・海辺橋

(清澄・白河エリア)
清澄3丁目・清澄庭園・清澄公園>滝沢馬琴誕生の地>佐賀2丁目・セメント工業発祥の地>清洲1丁目・平賀源内電気実験の地>清洲橋>清洲橋通り>白河1丁目・清洲白河駅前>霊厳寺・松平定信墓>江戸深川資料館>三好1丁目>紀伊国屋文左衛門墓>平野2丁目・間宮林蔵墓>小名木川・万年橋

(門前仲町エリア)

有楽町線・月島駅;佃島から越中島に
門前仲町エリアからはじめる。有楽町線・月島駅に。清澄通りを進み相生橋を渡る。川の中ほどに中ノ島がある。橋を渡りきったところ、東京海洋大学の脇に明治天皇聖跡。
このあたり幕末は幕府の軍事調練場。明治になっても引き続き練兵場となっており、明治天皇が閲兵式に訪れた。越中島1丁目と永代1丁目の境、大横川が隅田川に合流するあたりに練兵橋という、そのものずばりの名前の橋が残る。
越中島の由来はその昔、隅田川河口に小島状の洲があり、その名が越中島と呼ばれていたとか、江戸時代このあたりに播州姫路藩・榊原越中守の屋
敷があったから、とか。これも例によってさまざま。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



古石場文化センター
少し進み右折し越中島通りに。ほどなく京葉線・越中島駅に。駅脇の地域案内板で情報を探す。近くに古石場文化センター。古石場という名前に惹かれる。また文化センターであればなにか面白い情報があるやに、ということで古石場文化センターに向う。
深川三中西交差点を左折。越中島川の掘留のあたりに調練橋・調練公園。このあたりも練兵場だったのだろう。掘に沿って進み古石場2丁目。古石場文化センターに。小津安二郎紹介展示コーナーが。地元、深川1-8-8で生まれた日本を代表する映画監督。古石場の由来は、江戸築城に必要な石の置き場であり、江戸市中の町屋の土台石の加工場、置き場であったため。

古石場川親水公園から大横川・黒船橋に

センターを離れ直ぐ北にある古石場川親水公園に。古石場川は牡丹2丁目、3丁目から越中島1丁目へと流れる大横川の分流。牡丹1丁目あたりで別れ南に。そして東に流れ平久川に続く。牡丹町は江戸時代、付近に牡丹がたくさん植えられていたから。1km弱の親水公園を歩き、大横川にかかる黒船橋に。黒船の由来は、「黒船」の来襲と関係ありや、とおもったのだが、どうもそうではないらしい。浅草蔵前黒船町が火災にあい、その替地となったため。

隅田川脇に深川猟師町跡
大横川に沿って永代2丁目を隅田川方面に。大島川支流にかかる巽川を越え、永代1丁目の永代河岸通りへ。このあたり深川猟師町跡。猟師とは言うものの、当時のこの語の使い方は狐や狸を捕るのではなく、魚や貝を採る漁師を指していた。熊井理佐衛門ら8名がこの地を埋め立て漁業を営んだ。船百六十九隻をもつ漁師町であった。

永代公園には江東区の歴史案内が
永大河岸通り左手の隅田川方面に永代公園。なんとなく足を踏み入れる。公園はどうということはないが、堤にそって江東区の埋めたての歴史の案内が。年代を追って、別のボードに地図とともに説明されている。結構見入った。結果的には『江東区のあゆみ』に掲載されている情報と同じもの、のようである

永代通り・深川不動尊
永代橋袂に。永代通りを東に一路、深川不動尊、富岡八幡へと向う。門前仲町2丁目に成田山深川不動堂。江戸の成田不動といったお寺。江戸初期から元禄にかけ成田山信仰が高まる。が、成田は少々遠い。で、富岡八幡別当・永代寺境内で成田山江戸出開帳。出張興行といったもの。

成田屋・市川団十郎の歌舞伎の影響もあり、ますますの成田信仰が盛り上がる。本山からの本尊を分霊し、「成田山御旅所」をつくる。出張所といったものだろう。明治になり神仏分離。富岡八幡と離れる。明治11年、永代寺跡地に「成田山御旅所」を「成田不動堂」となし、現在に至る。現在の永代寺は、永代寺の塔頭だった吉祥院聖天堂が、後に改称して名称のみを継承したもの。門前仲町はもとの永代寺の門前町ということ。


深川不動尊の横に富岡八幡
富岡八幡。長盛上人がこの地を埋め立てる。6万坪の埋め立て地を幕府に寄進。幕府から富岡八幡と永代寺を建てる許しを得る。坊さんなのでお寺を建てる必要があったにしても、何故八幡様。
言い伝えによれば、上人は先祖伝来の八幡大菩薩を護持。あるとき、「武蔵の永代島、そこの白羽の矢が立つところに私をまつりなさい」ということで八幡様が建てられた。八幡様は源氏の氏神。徳川家の手厚い庇護を受ける。
富岡八幡はまた、江戸勧進相撲発祥の地。京・大阪ではじまった相撲興行はトラブルも多く禁止令がでる。17世紀末になり春と秋の2場所の勧進相撲が許可。その地が富岡八幡。のちに本所回向院に移るがそれまでの100年に渡り、この地で本場所が開催された。
新横綱の土俵入りがこの八幡様でおこなわれる理由も納得。ちなみに、江戸時代の相撲の最高位は大関。横綱とは将軍の上覧相撲の栄誉に浴した大関に与えられる儀式免状であった。儀式というか称号としての横綱が番付上の横綱として登場したのは明治42年(1909年)のことである。


海辺橋の南詰めに芭蕉ゆかりの「採茶庵跡」
八幡様の東、掘跡に旧弾正橋(八幡橋)。元は楓川と鍛冶橋通りが交差するところに架かっていた橋。国産第一号の鉄橋。関東大震災の後この地に移される。もともとあった堀も埋められ遊歩道となった道に上にかかっている。
北に進み、高速道路に沿って富岡八幡、深川不動の裏手を歩き門前仲町交差点に。
交差点を右折し清澄通りを海辺橋に向かう。16世紀末埋め立てられた海辺新田がその名の由来、かも。塩気の含んだ井戸水しかない時代、水売り船が着いたところ。仙台掘にかかるこの橋の南詰めに採茶庵跡。松尾芭蕉の門下杉山杉風(さんぷう)の庵があったところ。芭蕉の銅像。芭蕉はここから船で千住に向かい、「奥の細道」に旅立ったと。門前仲町を離れ、次は清澄・白河エリアに向かう。 
 
(清澄・白河エリア)海辺橋を渡り平野地区。滝沢馬琴や間宮林蔵のゆかりの地
海辺橋を渡り門前仲町エリアから清澄・白河エリアに移る。平野1丁目。海辺橋北詰は滝沢馬琴誕生の地。戯作者・山東京伝に師事し、『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』などを作す。平野の地名は、江戸時代、この地にはじめて町屋を開き名主となった平野甚四郎長久の姓がその名の由来。少し東にいった平野2丁目・本立院に間宮林蔵の墓。伊能忠敬に測量を学び、19世紀初頭、樺太を探検。樺太が島であることを発見。大陸との海峡を間宮海峡と名づけられる。
間宮海峡と名づけられたのはシーボルトの紹介である、とか。国禁の日本地図をシーボルトに渡したとして洋学者の高橋景保は獄死、シーボルトは国外追放となった、いわゆる「シーボルト事件」の密告者とされた林蔵であったが、シーボルトは林蔵の功績大として、評価したわけである。

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


仙台堀に沿って清澄公園に
清澄公園清澄通りを仙台掘に沿って左折。清澄庭園・公園の南を西に進む。清澄1丁目に平賀源内エレキテル実験の地。六郷用水散歩の折、武蔵新田の新田神社で平賀源内に出会った。確か破魔矢を考案した、と。清澄の由来は、この地域一体を開拓した弥兵衛さんの姓が清住(清澄)であったから。
元禄に清澄(清住)となる前は、弥兵衛町と言う名であった。清澄1丁目の少し南は佐賀2丁目。セメント工業発祥の地。明治5年、明治政府が官営セメント工場をつくる。日本で始めてのセメント工場である。佐賀の名前は地形が肥前の佐賀湊によく似ているためにつけられた、とか。
清洲橋東詰に。清洲って、名古屋の清洲に由来するものと思っていた。が、実際は深川の清澄町と日本橋・中州町を結ぶ橋ということで名づけられたもの。橋は昭和3年、世界一美しいと言われるドイツのケルン橋に範をとってつくられたもの。
清洲橋通りを少し東に進む。右折し清澄庭園に。紀伊国屋文左衛門の別邸と伝えられ、幕末まで下総関宿藩主・久世大和守の中屋敷。明治になって三菱財閥・岩崎家の所有となる。「深川親睦園」として三菱社員の慰安、賓客のゲストハウスとして使われる。
関東大震災後、東半分が東京市に寄付された。「回遊式築山山水庭園」。泉水、築山、枯山水を主体にしてこの庭園には全国から奇岩が集められている。庭園の西側には清澄公園が広がる。しばし公園内を散歩し清澄通りに戻る。

白河地区は寺町跡
清澄通りを隔てた東側は白河地区。江戸時代からの霊厳寺、浄心寺、雲光院といた寺町になっている。霊厳寺の開山は雄誉霊厳上人。もとは霊岸島にあったもの。明暦の大火の後この地に移転。松平定信のお墓がある。徳川吉宗の孫。白河藩主。天明の飢饉では藩内で餓死者を出さず、名君と讃えられた。田沼意次を失脚させ、老中首座となり将軍家斉を補佐。寛政の改革を行った。白河の地名はこの松平定信が白河藩主であったため。昭和になって深川東大工町・霊岸町・元加賀町・扇橋町の各一部を合わせて白河町となった。
三好1丁目の成等院には豪商・紀伊国屋文左衛門のお墓。講談本で名高いみかん船で名をはせ、後に木材商となる。振袖火事の時には木曾材を買い占めて巨万の富を得た。が、大銭の鋳造を請負ったもののすぐに通用停止となり、大きな損失をうけ、晩年は非常にみじめであったという。平野の浄心寺には関東大震災の蔵魄塔が。江戸切絵図によれば、結構寺域が広い。庭園も描かれている。江戸時代、浄心寺の庭って観光名所だった、ってどこかで読んだことがある。

小名木川・万年橋

白河1丁目に深川江戸資料館。江戸時代の深川が再現されている。小名木川までのぼり、東に進む。東深川橋、西深川橋、高橋、そして隅田川河口の万年橋に。小名木川を渡れば、森下・住吉エリア、となる。 

メモ
折に触れ江東区は歩いている。富岡八幡に出向いたり、清澄公園を歩いたり、亀戸天神におまいりしたり、小名木川に沿って江東区を西から東まで歩いたり、と結構歩いている。江戸の町歩きとしては定番のところである。が、今回は中央区散歩に引き続き、埋め立ての歴史を頭に入れながら歩いてみようと思う。葦原・湿地が埋め立てられ、町屋に変わりゆく姿をイメージしながら歩くことにする。
江東区を東西に貫く小名木川を行徳まで歩いたとき、海岸線の直ぐ脇を通る小名木川を描いた古地図をみたことがある。江戸初期、今の江東区はほとんど海の中、ということである。諸々の資料には、江東区って葦の生い茂る低湿地って書いてある。それがどのようなプロセスを経て今の江東区が形作られたのか、江東区発行の『江東区のあゆみ』をもとにまとめておく。


より大きな地図で 江東区_埋め立ての歴史 を表示          赤い線が第一期。緑の線が第二期。青が第三期。

江戸以前
江東区は、天正18年(1590年)の家康入府以前は、ほとんどが葦の茂る低湿地。現在の総武線あたりが海岸線であった、とか。もう少し時代を遡り、室町時代の古地図を見ると、陸地は寺島(墨田区東向島)から小村井、そして平井を結ぶ線以北。その南には海というか、川というか湿地というか、ともあれ陸地からはなれたところに、亀井戸とか柳島(現在の亀戸天満宮の近く)とか、中ノ郷(東駒形)、牛島(向島)といった島というか洲が書かれている。江戸以前は江東区域って、ほとんどないも等しい、ということである。

江戸時代
江東区域が「浮上」するのは江戸以降。本格的な江戸の都市建設・天下普請がはじまり、関西方面からこの新開地に入り込み土地の埋め立て・開拓が始まってから。『江戸のあゆみ』によれば、江戸期の開発は3期に分かれる、と。

第一期:<慶長から元和まで(1596-1623):小名木川以北、西は隅田川沿岸から東は猿江あたりまで。小名木川以南は海辺新田(清澄・白河・扇橋)が開発。

第二期:寛永から承応まで(1624-1654);隅田川に沿って海辺新田から南に開発。現在の佐賀・永代・清澄・富岡・門前仲町あたりが埋め立てられる。さらに、城東地区の砂村・亀高村(北砂)・荻新田(東砂)・又兵衛新田(東砂)・亀戸村の一部も開拓される。

第三期:明暦から幕末まで(1655-1867);代表的なところでは明暦の越中島、万治(1658年)の砂村新田、霊岸寺門前(三好)、元禄(1697年)の平井新田・石小田新田(東陽町)、築地町(木場、平野あたり)、享保(1716年)の十万坪(千田新田:千田・千石・扇橋あたり)といったもの。

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


江東区の土地開発の歴史を頭に入れ散歩に出かける。
コースは江東区発行の『こうとう文化財マップ』の地域分類に従い
I;門前仲町エリア Ⅱ;清澄・白河エリア Ⅲ;森下・住吉エリア Ⅳ;木場・東陽町エリア Ⅴ;亀戸エリア Ⅵ;大島・砂町北部エリア Ⅶ;砂町中南部エリア
以上七地区に分けメモをする。

カテゴリ

月別 アーカイブ

スポンサードリンク