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北十間川から、旧中川、荒川土手に


墨田区散歩の3回目は墨田区北部エリア。北十間川から北に進み、旧中川から荒川土手に向かう。北部エリアの地理と歴史を整理しておく。大雑把に言って、北十間川より南は湿地帯を開拓してできた土地。一方、本日の北部エリアは古墳時代前期ころまでには人間が住めるデルタ地帯となっていた。
奈良時代は隅田川が武蔵と下総の国境。隅田のデルタ地帯は下総国葛飾郡という律令国家の行政区画に編入されていた。正倉院に伝わる養老5年(721年)の戸籍によると、葛飾郡大嶋郷には50戸・1,191人が住んでいた、とか。奈良から平安にかけて、大嶋郡には東海道が通る。千葉県市川市の下総国府への道であった。
中世のこの地域・墨田区の北部一帯は、葛飾・江戸川・江東区の一部とともに葛西と呼ばれる。葛飾郡の西部にあったため。桓武天皇の子孫である葛西氏が支配する地帯でもあった。鎌倉時代にはこの地は葛西氏によって伊勢神宮に寄進され、葛西御厨と呼ばれるようになる。葛西氏の支配は鎌倉末期まで続き、室町には関東管領上杉氏の支配下。当時の資料には、寺嶋(現在の東向島)、墨田(墨田・堤通)、小村江(京島・文化あたり)などの地名が載っている。で、戦国時代には後北条の支配下に入っていく。



本日のルート;
押上 > 法性寺 > 吾嬬神社 > 香取神社 > 旧中川 > 白髭神社 > 荒川堤防脇の白髭神社 > 隅田稲荷神社 > 東武伊勢崎線・鐘ケ淵駅 > 多門寺 > 京成・掘切 > 北千住駅

柳島橋西詰めに法性寺

さてと、散歩スタート。本所エリアから北十間川に沿って浅草通りを東に進む。横十間川との合流点に柳島橋。柳島橋西詰めに法性寺。日蓮宗のことお寺、「柳島の妙見堂」として江戸の時代信仰を集めた。北斎もこのお寺への信仰篤く、このお寺を題材にした作品もある、という。北斎といえば、信州の小布施で北斎館を訪ねたことがある。北斎が、80を越えてから地元の豪商・高井鴻山を訪ねて数度にわたり訪れ、滞在したところ。あれこれ見たが、一番印象に残ったのは、75歳の頃描いた「富嶽百景」に書き残したセリフ;「70歳までに描いたものは、実にとるにたりない。73歳で、ようやく禽獣虫禽の骨格や草木の出生を悟りえた。80歳になれば画業益々進み、90歳にして更にその奥意を極め、百歳では、神の技に至ろう」と。また89歳で亡くなるとき、「あと10年寿命があれば、否5年あれば、本物の画工になれたのに」と。凄すぎてコメントできず。
このお寺には、近松門左衛門の供養碑があったり、歌川豊国の碑もある。豊国は昨今。広重や歌麿人気のため少々影が薄いが、江戸時代は第一の人気者であった、とか。

北十間川・境橋
浅草通りを北十間川に沿って東に進む。境橋。南詰めに「木下川(きねがわ)やくし道標」と「祐天堂由来碑」。葛飾区四ツ木1丁目の木下川薬師堂への道標。道標左側面に「あつまもり」と書いてある。読めるわけではないが、由来書にそう書いていた。吾嬬神社の森でもあった、ということか。「祐天堂由来」は元禄年間に祐天上人がこの地をへて千葉方面に往来の折、この付近の川に多くの水死人があるのをみて、供養塔をつくる。以来、この地に水死する人がなくなった、と伝えられてはいる。




北十間川・福神橋の北詰めに吾嬬(あずま)神社
浅草通りをさらに東に。明治通りと交差するところに福神橋。立花1丁目。北詰を右折。吾嬬(あずま)神社。神社の創建は景行天皇のころ、とか。神武・綏靖天皇(すいぜい)、安寧・懿徳天皇(いとく)・孝昭・考安・孝霊・孝元・開化・祟神・垂仁・景行・成努・仲哀・応神・仁徳、と子供のころに暗記した歴代天皇の名前からすれば、12代の天皇。結構古い。実在の人物か否かよくわからないが、とにかく、古い神社。日本武尊が東京湾を越えて千葉に進むとき、海が大時化(しけ)。海神の怒り鎮めるべく、妻の弟橘媛が海に身を投げる。その姫由来の品が流れついたのがこの地だった、とか。所謂、「吾嬬(あずま)、はや」からきた名前だろう。
それにしても、この「あずま、はや」にまつわる地、いろんなところで登場する。秦野の権現山というか弘法山にもおなじような由来があった。ともあれ、この神社、以来海や川で働く人々の守護神として信仰される。正治元年(1199)、北条泰時の命にて社殿を造る。嘉元元年(1303)に真言宗宝蓮寺を別当 とし、吾嬬大権現となった。神社に「吾嬬森」の碑。明和3年(1766年)の山県大弐が建てた碑。
江戸時代、このあたりは「吾嬬森八丁四方」とか「浮洲の森」とか呼ばれた有名な地。ここには「連理の樟」と呼ばれる名木があり、安藤広重の江戸名所百景にもなったほど。縄文式土器もこの地でみつかっており、この地の歴史の古さを物語っている。ちなみに、安永三年(1774)の大川への橋新設の時、橋が江戸からこの社への参道に当たる為、吾嬬橋と名づけられた、とか。立花の地名は弟橘(たちばな)媛からきたものだろう。 香取神社の近くの地名「小村井」は室町の古地図に描かれている。

香取神社
明治通りを少し北に行った文花2丁目に、香取神社。葛西御厨の文書などに、平安時代の末期、この地に下総・香取の地より、六軒の人々が移住し、小村井の鎮守とした、とある。香取神社が下総の国に広く展開していることを納得し北十間川筋に戻る。文化の地名は、近くに文教施設が多かったので「文」+弟橘媛の橘が「花」である、ということで「文」+「花」=文花、と。 近くに東武亀戸線の小村井の駅とか、明治通りと丸八通りの交差点に「小村井」といった地名がある。室町の古地図に出てくる地名。海岸線に面している。海に臨む入り江の小さな村=小村江>小村井、と。江戸川区に特徴的に見られるように「江」とは海岸線を表す言葉。一之江、二之江など。で、「井」は「江」の転じたもの。平井(江)、今井(江)など。

香取神社を離れ旧中川に
香取神社を離れ、東あずま大通を東に向かう。ひたすら進めば旧中川に当たるであろう、といった成行きまかせ。立花1丁目を進み、東武亀戸線を越え立花3丁目に「大井戸稲荷」。一面田園だったこのあたりで、清水が湧き出ていたとか。こじんまり、あまりにこじんまりとした祠。
立花6丁目あたりで平井橋。旧中川に当たる。木下川排水機場から小名木川排水機場までの7キロ弱の河川。もともとの中川が荒川放水路、つまりは今の荒川で分断され荒川東側を流れることになったため、「旧」中川と呼ばれることになった。正確には元中川か。
排水機場って、高潮時に雨水を排除するためのものらしい。上下二箇所の排水機場で常に水位を一定にしているとか。で、現在、水際の整備工事がおこなわれているため、遊歩道は一部にしか整備されてはいない。ゆるやかに湾曲する、いかにも元々の流れって風情を残す旧中川を進む。向こう岸は江戸川区平井。川に沿って工場が立ち並ぶ。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


旧中川脇に白髭神社
平井橋を越え、左に大きく湾曲するあたりに白髭神社。高麗からの帰化人・王若光の遺徳を偲んで作られた白髭神社のひとつ。先にもメモしたように、朝廷の命により、浅草湊に上陸した高麗からの帰化人は一群は荒川水系を新座、入間、高麗といった埼玉県方面に。別の一派は利根川水系を妻沼、深谷、太田、本庄といった群馬県方面に。このあたりの白髭神社は旧利根川水系の旧中川、綾瀬川の一群。平井地区にも白髭神社が見える。この白髭は「口髭」。先日の向島の白鬚は「あご鬚」。口とあごでなにが違うのかわからないが、なにか違いがあるのだろうか。
高麗と言えば、先日、平塚に出かけたときのこと。平塚は高麗の地として有名。高麗山とか高麗といった地名が残る。この機会を逃してはということで、高麗地区に進む。平塚駅から少し西、大磯方面に行ったところにある。目安は高麗山。広重の「東海道五十三次」にもあるように、高麗山は平地にお椀を伏せたような山容。平塚の駅から国道1号線をぶらぶら歩いたが、あまりに特徴的な姿ゆえに、見まごうことなし。麓に高来神社。もともとは高麗神社であったが、戦時中都合がわるいということで改名し今に至る。高麗から海原を渡ってきた一群が東の国にはじめて降り立ったのがこの地だったのだろうか。

荒川堤防脇の東墨田にも白髭神社
川筋を中平井橋、ゆりの木橋と進み。木下川排水機場手前から荒川堤防に。東墨田3丁目にも白髭神社が。この神社はもと白髭明神として木下川薬師(浄光寺)の守護神であった。が、明治43年の荒川放水路開削にともない、この地に移される。ということは昔の神社の場所は現在の荒川のど真ん中であった、ということ。で、その後葛飾区には木下川薬師、墨田区サイドには白髭神社と天満宮というように、ふたつに分けられてまつられることになった。地図を見ると、なるほど、荒川の対面に木下川薬師がある。葛飾散歩のお楽しみ、と。

荒川堤防脇・墨田4丁目に黒田稲荷神社

荒川河川敷をのんびりと進む。東墨田2丁目を越え、八広6丁目あたりで木下川橋を越える、というか下をくぐる。八広って、なんとなくありがたそうな地名、かと思ったのだが、いつつかの町が合併したとき、その町にあった「丁目」の数が「八つ」あった。それと末広がりの「広」をつけて「八広」と。
京成押上線をくぐり新四ツ木橋、四ツ木橋を越えると墨田4丁目。堤防からすこし離れ墨田稲荷神社に。「善左衛門稲荷」とも呼ばれる。天文年間(1532年から54年)、伊豆より逃れてこの地を開拓した堀越公方政知の家臣・江川善左衛門が伏見稲荷を勧請して創建。江川善左衛門は墨田区開拓の祖とも。南葛飾郡善左衛門村がそれ。江川善左衛門の徳を称えた万燈神輿が有名。

鐘ケ淵通りを進み鐘ケ淵の駅・鐘ケ淵陸橋
稲荷神社を離れ、少し西に進むと鐘ケ淵通り。荒川に平行して走る道筋を北に。東武伊勢崎線とクロスすると鐘ケ淵の駅。先に進むと墨堤通りと交差。鐘ケ淵陸橋交差点に。真っ直ぐ進めば水神通りを経て荒川区南千住。木母寺も直ぐ近く。ここでは直進することなく右に折れ墨堤通りを進む。適当なあたりで右に折れ民家の中を多門寺に向かう。







多門寺
墨田区6丁目に品のいいお寺が現れる。昔は墨田堤の水神社のあたりにあったようだが、徳川入部のころ現在の地に移る。本尊の毘沙門天は弘法大師の作、とか。隅田川七福神の最後。山門は享保元年(1716年)につくられた茅葺き。茅葺は趣がある。東青梅の塩船観音の山門、本堂もいい感じの茅葺屋根であった。
境内に狸塚。このお寺別名「狸寺」とも。天正年間、参詣者の便を考え、お寺のまわりの雑木林を伐採。ためにそこに住んでいた狸が怒り出し、大入道に化けて暴れ放題。それを毘沙門天の使いがさんざんに打ち据える。が、その大入道がこの地に住んでいた狸たちであったことを知った時の住職が、哀れにおもい塚をつくりお参りすることになった。
すぐ横に香取神社も。多門寺を離れ東武伊勢崎線に沿って荒川堤防脇を進む。首都高速6号向島線の下を進み、隅田川と荒川が最接近する水路を越えればそこは荒川区。東武伊勢崎線に沿って掘切駅、牛田駅と進み、北千住へ。これで、隅田区散歩を終える。

墨田区散歩2回目。先回の散歩は墨田区中央部、というか中世の海浜部を東から西に隅田川まで進み、そこからは隅田川沿いの微高地を南から北に登り、古代からの交通の要衝・「隅田宿」あたりから隅田川を渡った。今回は江戸時代に開拓され大名・旗本・御家人などの武家屋敷や町屋となった本所地区を巡る。









本日のルート: 両国駅 > 回向院 > 吉良邸跡 > 両国公園に勝海舟生誕の地の碑 > 堅川・塩原橋 > 旧安田庭園 > 北斎通り・「南割下水」 > 亀沢町 > 法恩寺 > 能勢妙見堂 > 横川1丁目遺跡 > 本所 > JR 総武線・錦糸町駅

総武線・両国駅
総武線両国駅で下車。両国とは武蔵と下総のふたつの国のこと。駅の北に江戸東京博物館。何度か足を運んだ。今回は、足は逆方向、両国駅西口から南に下り京葉道路方面に。西方向に進めば両国橋。
武蔵と下総の二つをつなぐことで両国橋、と。明暦の大火で逃げ場を失い十万人近くの人が犠牲に。その教訓から千住大橋以南、江戸に至近の位置にはじめてつくられた橋。時期は万治2年(1659年)。本所・深川地区を埋め立て・開発し、大名・旗本・御家人などの武家屋敷や町屋をつくり、発展させるためにも必要な架橋でもあった。大川(隅田川)にかけられたので当初「大橋」と。橋の両側は広小路。両国西広小路と東広小路。防火のための空きスペース・火除地。とはいうものの、空きスペース、いまどきのことばではオープンスペースには芝居小屋、見世物小屋、仮設飲食店が立ち並び、歓楽の地として賑わいをみせる。

京葉道路に面して回向院

両国橋西口からの道が京葉道路にあたる十字路に回向院。関東大震災などで破壊され、現在は鉄筋コンクリートのモダンなお寺さま。将軍家綱の命により、振袖火事とも呼ばれる明暦の大火の被害者・無縁仏をまつった「万年塚」がお寺の始まり。後に安政の大地震の被害者、水難犠牲者など幾多の無縁仏をおまつりするようになり、江戸市民の信仰を集める。江戸中期には両国橋広小路という歓楽地の近くという地の利もあり、全国のお寺の秘仏を公開する出開帳(でがいちょう)の寺院として大いに賑わう。幕末までの200年間に計160回の出開帳(でがいちょう)を実施。出開帳を主催する寺・「宿寺」として日本でナンバーワンの実績。あと、深川永代寺、浅草・浅草寺と宿寺ランキングが続く。ちなみに、江戸出開帳の中でも、圧倒的集客を誇ったお寺・秘仏は京都・嵯峨清涼寺の釈迦如来、善光寺の阿弥陀如来、身延山久遠寺の祖師像、成田山新勝寺の不動明王の四つと『観光都市江戸の誕生:安藤優一郎(新潮新書)』に書いていた。また、江戸後期には勧進相撲もはじまり、明治までの76年間、回向院相撲がとりおこなわれる。
境内には明暦大火の供養等。海難供養等、昭和11年に相撲協会がつくった「力塚」が残る。毛色の変わったものとしては、怪盗・鼠小僧次郎吉の墓も。回向院には牢死者も葬られた。が、刑死者は本所回向院の別院である小塚原の回向院に葬られるのが本筋。鼠小僧次郎吉は小塚原で刑死し無縁のものとして小塚原の回向院に葬られたのだが、やがてこの寺にもお墓ができた。ひとえにその人気ゆえのもの、と司馬遼太郎さん(『街道をゆく36 江戸本所深川』)。

吉良邸跡は両国3町目に

「吉良邸跡」を求めて両国3町目に。江戸切絵図によれば、回向院の道を隔てた東隣に土屋主税邸、本田孫太郎邸がある。吉良邸はその二つの屋敷の南にそって現在の馬車通りあたりまでの広大な邸宅であったよう。江戸切絵図には「松阪丁」とあるだけで、吉良邸の名前はない。
吉良邸跡・本所松坂町公園に。公園といっても吉良邸跡を残すだけ。石壁は江戸時代の高家の格式をあらわす「なまこ塀長屋門」を模したつくり。本所松坂町公園由来;吉良上野介義央の上屋敷跡。吉良邸は松坂町1丁目、2丁目(現在の両国2丁目、3丁目)のうち8400平方メートルを占める広大な屋敷であった」、と。映画やテレビで「本所松坂町の吉良邸」という言い方をされる。が、これはダブルフォールト。第一のフォールトは武家屋敷には町名は付けない。第二は、松坂町という町名は吉良邸が取り壊され町屋となったときの地名。吉良邸があったころには「松坂町」という名前は存在していなかった、ということ。

吉良邸跡の東・両国公園に勝海舟生誕の地の碑
吉良邸跡から少し東、両国小学校の東隣の両国公園に。勝海舟生誕の地の碑。咸臨丸で艦長として渡米、西郷隆盛との談判による江戸無血開城の立役者など、言うまでもない幕末の雄のひとり。
公園の少し南・馬車通りあたりに囲碁の「本因坊の屋敷跡」がある、とのことだが、見つけられなかった。江東区散歩のメモに書いたように、三ツ目通りとか四ツ目通り、一之橋、二之橋といった地名・橋名の基準となったところ。この本因坊の屋敷があったところから、3つ目の通りが三ツ目通り、といった風。

堅川
少し南に「堅川(たてかわ)」。江戸のお城から見て縦方向であり、堅川(たてかわ)。明和年間の本所開拓の時に開削された掘のひとつ。隅田川と中川を結ぶ。
隅田川から横十間川までは水面が残るが、その先は埋め立てられ「堅川河川敷公園」となっている。首都高速7号・小松川線が上を走る。清澄通り架かる二之橋、隅田川に向かって千歳橋、塩原橋、そして一之橋といった橋がある。塩原橋は亀戸天神でもメモした塩原太助に由来する。





旧安田庭園
隅田川の手前に架かる一の橋を渡り、一の橋通りを北に向かう。「両国国技館」の西を歩き「旧安田庭園」に。常陸笠間藩・本庄因幡守によりつくられる。隅田川の干満により水位を変化させる潮入り回遊式庭園。つまりは、水位の高低で見えたり見えなかったりする「小島」の景観を作り出す。明治期、安田財閥の創始者・安田善次郎の所有となり、のちに都に寄贈されて現在に至る。






北斎通りの元の名前は「南割下水」
旧安田庭園の北隣に横網町公園に。東京大空襲の犠牲者の慰霊塔が。清澄通りを南に下り、「江戸東京博交差点」に。T字路を東に向かう道筋は「北斎通り」。江戸東京博の近くには北斎生誕の地の碑がある、とか。北斎はこのあたりで生まれた江戸後期の浮世絵師。「富岳三十六景」などが有名。
で、この道筋、北斎通りと呼ばれているが、昔は「南割下水」と呼ばれる。下水とはいうものの、基本的には掘割のひとつ。道の真ん中に水はけをよくするための排水溝が掘られていたから、そう呼ばれた。3.6m程度の幅。「黙礼の中を流るる割下水」といった川柳も。このあたり武家地。割下水を隔てて挨拶を交わす武家の姿が浮かんでくる。俳人・小林一茶も割下水の住人。「葛飾や月さす家は下水端」「朝顔や下水の泥も朝のさま」「鶯が呑むぞ浴びるぞ割下水」といった句を読んでいる。

亀沢町には三遊亭円朝の旧居跡とか河竹黙阿弥の終焉の地が

北斎通りを亀沢1丁目、2丁目と歩き「野見宿禰神社」に。相撲の神と言われる野見宿禰を祀る神社。明治時代に陸奥弘前藩津軽越中守上屋敷跡につくられたもの。
少し進み区役所通りと交差。このあたりに三遊亭円朝の旧居跡とか河竹黙阿弥の終焉の地といったものがあるようだが、場所特定できず。亀沢町の由来は、この地に住んでいた旗本荒川助力郎の屋敷内に亀沢の池と呼ばれる池があったから、とか、単に縁起がいいからとか、亀のすんでいた池たあったからとか、例によっていろいろ。ちなみに、一説にはありふれた盗人、とも言われる鼠小僧次郎吉を一躍ヒーローに仕立てた仕掛け人が河竹黙阿弥。黙阿弥の書いた歌舞伎『 鼠小紋春着雛形 』が大ブレークしたためだ。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


「新徴組屋敷の跡」は見つからず

北に進み蔵前橋通りの手前、石原2丁目あたりを右折し適当に道筋を東に進む。石原の地名の由来は、隅田川の流れの故か石が転がっていたから、とか。三ツ目通りを過ぎると、このあたりに「新徴組屋敷の跡」がある、と言う。
新徴組って、新撰組の江戸守護バージョン。清河八郎に率いられ、将軍守護の名目で京に上った浪士組が、もともと幕府など眼中になく尊王思想第一とする清河の企てにより、倒幕の戦闘集団にするという天皇の勅許を受ける。これで幕府の軍隊から天皇の軍隊に。この動きに異を唱えた近藤勇一派は京に残り新撰組を結成。江戸に戻った清河は幕府に睨まれ佐々木只三郎により暗殺される。江戸に残された浪士組は庄内藩預かりとなり「新徴組」として江戸市内警護に。初代組長は沖田総司の義兄・沖田林太郎。戊辰戦争時には庄内にて官軍と戦う。
「新徴組屋敷の跡」は見つけることができなかった。本所三笠町。錦糸堀の近くに庄内藩・江戸の下屋敷があった、という。錦糸堀、って南割下水の大横川より東側の呼称。新徴組屋敷の詳細は知らないけれど、庄内藩下屋敷内にあったと想像すれば、このあたりだろう、とは思う。ちなみに庄内藩上屋敷は飯田橋のあたり。飯田橋の駅の近くには「新徴組屯所跡」の碑がある。

蔵前通りと大横川が交差するあたりに法恩寺。道灌ゆかりの寺である

下町の街中をブラブラ。蔵前橋通りからひと筋、ふた筋はいったあたりにいかにも相撲部屋といった建物。九重部屋であった。東に進み「大横川親水公園」に。北に進み、蔵前橋通りに架かる法恩寺橋を渡り法恩寺に向かう。開基は太田道潅。道潅江戸城築城の折、丑寅の方向に城内鎮護のため本住院を立てる。平河山(法恩寺)と呼ばれるくらいだから、もともとは平河町あたりにあったのだろう。その後、家康江戸入府にともなう江戸城拡張のため神田柳原、次に谷中清水町へと移り、元禄8年この地に移った。
境内には例によって「七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)ひとつだになきぞかなしき」の歌。この逸話、道潅ゆかりの地で何箇所聞いたことだろう。鎌倉散歩のとき朝比奈の切通しのあたりにもあったし、荒川の町屋、豊島区高田、そのほか秩父の越生にも。道潅がそれほど親しみをもたれていた、ということだろう。法恩寺、現在は4つの堂宇だけのお寺ではあるが、江戸のころは20を越える堂宇からなる広い寺域からなっていた。ちなみにこのあたりの大平の地名の由来は、大田道潅の「大」+平河山の{平}=大平と。

法恩寺と大横川を隔てたところに能勢妙見堂

法恩寺を離れ、大横川の妙見橋を渡り本所4丁目の能勢妙見堂に。大阪で能勢の妙見山に行ったことがある。ここはその妙見さんの別院。江戸切絵図には能勢熊之助の敷地内に「妙見社」とある。ここは親子鷹、勝小吉・海舟親子の熱烈な信仰を受けた神社。勝海舟の父・小吉が海舟、当時の麟太郎の出世開運を願ってか、はたまた、犬に噛まれた怪我の回復を祈ってか、ともあれ水垢離をとったところ。境内には海舟の銅像もある。
少し話はそれるが、この能勢一族の歴史も面白い。明智光秀に与力したため、秀吉により一族滅亡の危機。が、能勢の地から一族落ち延び隠れ里に。時代は移り、家康の家臣に。関が原で戦功をたて、お家再興。法華経への信仰の故と、広大な家屋敷を有徳の僧に寄進。これが能勢妙見山のはじまり。能勢頼直のときに、この地に下屋敷を拝領。妙見大菩薩の分体をこの地にまつる。

横川1丁目遺跡

北にのぼり横川1丁目。地名は明暦年間開拓の横川に由来。堅川(たてかわ)に対する横川。横川1丁目遺跡が。弥生中期頃以前にはこのあたりは、浅海の砂泥底。弥生中期頃には潮間帯に変化しカキ礁が形成された。その後、浅海、河川、後背湿地と変化した(横川1丁目遺跡調査会)。案内をメモ;「このあたりは地史的には海域、干潟、および湿地的環境。生活に適した地ではなかった。この地が整備されたのは明暦の大火(振袖火事)の後、江戸市街を拡張する都市計画の実施以降。以来武家屋敷や寺院がこの地に移ってきた。法恩寺もそのひとつ。このあたりは旗本・太田家の抱屋敷跡」、と。

春日通りを西に本所に向かう

春日通りを西に向かう。横十間川から大横川までは東北割下水。大横川から本所2丁目あたりまでは北割下水が掘られていた。いずれも万治2年(1659年)に本所地区が市街地として開発されたとき、水はけのための排水用に掘られたもの。本所3丁目、2丁目の境、区役所通りあたりまでぶらぶら歩く。
本所の語義は、中心の地ということ。石原村、牛嶋村の中心で本村、中之郷、本所であるということだろうか。このあたりは大小の旗本屋敷がならんでいたところ。本所全体で旗本・御家人といった直参の屋敷が240ほどあった。市街地造成が完了した元禄元年(1688年)以降移ってきた、と司馬遼太郎さんの『街道をゆく36 本所深川散歩』に書いてあった。
本所2丁目、華厳寺えんま堂。江戸66えんま巡りの2番目のえんまさまのあたりを右折し北に進む。駒形3丁目あたりで適当に右折。道なりに再び東に向かう。要は、本所あたりをあてもなく散策しよう、というとこ。



錦糸町
道なりに本所をブラブラ歩き横十間川まで進み、錦糸町に。錦糸町の由来は、錦糸掘があったから。で、錦糸掘の由来は?岸掘がなまったから、とか、明治時代紡績産業で栄えたこの地、金糸銀糸が輝いていたから、だとか、運河の水面がきらきら輝いていたから、だとか。とはいうものの、錦糸町の地名ができたはじまりは、ひょっとして昭和になってからかも。
次回は墨田区北部エリア、旧中川から荒川堤防に歩を進める。

墨田区中央部・北十間川から隅田川沿いの微高地に 墨田区散歩の第一回は墨田区中央部・北十間川から隅田川沿いの微高地を歩くことにする。 墨田区の地形をかんたんにまとめておく;中世のころの臨海部は大体、北十間川のライン。隅田川のまわりは砂州というか微高地が南に延びている。向島あたりから下に「牛島」と呼ばれる大きな島、というか細長い砂洲が南に総武線あたりまで延びている。一大湿地帯であった墨田区が現在の姿のようになるには、江戸の明和年間の都市計画というか埋め立て・開発を待つことになる。明暦の大火を契機に本所地域の開発が計画され、本所築地奉行の指揮のもと、堅川(たて川)、横川、十間川、北十間川、また両国地区の六間掘、南割下水、石原町入掘などが開削される。その揚げ土による埋め立てがおこなわれ、現在の墨田区の中央部・南部である本所・深川地区が人の住む地域に生まれ変わる。 隅田?墨田区?どっちだ?隅田川が最初に文献に登場するのは承和2年の太政官符。「武蔵・下総両国境、住田(すだ)河」とある。また伊勢物語の東下りの一節に「武蔵と下総の中に有る角田(すみだ)川の堤におりいて、思い侍るに。。。」とある。また「すだ」とも読まれ「須田」「墨田」「州田」とも書かれた。江戸時代には元禄には「須田村」。天保時代には「隅田村」と表記されている。明治になると、隅田村そして隅田町に。
これほど広く使われた隅田が区の名前に使われず、墨田区となったのは、昭和22年(1947年)3月15日、北部区域の「向島区」と南部区域の「本所区」が合併して、新しい「区」が誕生することになったとき、隅田区とする計画が頓挫。隅が当用漢字になく「隅田」が使えなかったわけだ。また、墨田はもともと使われてきた墨田ではなく、合成語。隅田川堤の異称「墨堤」の「墨」と、「隅田川」の「田」から2字を選んだ、とか。わかったようでわからない
墨田区散歩に向かう。大体のルーティングは、墨田区中央部、というか中世の海浜部を東から西に隅田川まで進み、そこからは隅田川沿いの微高地を南から北に登り、古代からの交通の要衝・「隅田宿」あたりまで進む、といったところ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)





本日のルート: 総武線・亀戸駅 > 横十間川 > 北十間川 > 浅草通り・押上 > 三つ目通りから「言問橋東詰め」に > 牛嶋神社 > すみだ郷土資料文化館 > 三囲神社 > 水戸街道・秋葉神社 > 長命寺 > 白髯神社 > 隅田川神社 > 木母寺 > 北千住駅

総武線・亀戸駅から横十間川に
総武線・亀戸駅で下車。西に進み横十間川」を北に。「横十間川」のメモ;横十間川は北十間川から別れ堅川、小名木川とクロスし、仙台堀に合流する水路。仙台掘との合流点は二十間川とも呼ばれる。北十間川から小名木川までは水面が残るが、その南は「横十間川親水公園」となっている。川幅が十間(18m)であったことが名前の由来。本所・深川地区開発の万治2年(1659年)に開削された。

北十間川
直ぐに「北十間川」と合流。合流点に柳島橋。ここからは北十間川に沿って「浅草通り」を西に進む。隅田川と中川をつなぐこの北十間川のラインが古代から中世にかけての海岸線、と言われている。つまりは、墨田区の大半は一大湿地帯ということ。左手に広がる一大湿地帯を想像しながらのんびり歩く。

浅草通り:業平橋・押上
北十間川にそって浅草通りを業平3丁目、4丁目と進む。地名の由来は江戸時代にこのあたりに業平天神社がまつられたことによる。とはいうものの、現在その名の神社は見当たらない。業平の名はいわずと知れた伊勢物語の在原業平(ありわらのなりひら)による。
先に進む。四ツ目通りとの交差が「押上」。「押し上げ」って、隅田川というか中川というか江戸川というか、流路を銚子方面に付け替える前の利根川河口に流れ込み堆積される土砂、その堆積するさまがよく表される地名である。

三つ目通りを北に折れ、言問橋東詰めに

業平1丁目を越え、大横川跡に。現在は大横川親水河川公園となっている。浅草通りと大横川のクロスするところに業平橋。更に進む。東駒形を越え三ツ目通りと交差。右折し北に進み言問橋東詰めにある牛嶋神社に向かう。

牛嶋神社
牛嶋神社は、隅田川の東、「牛嶋」と呼ばれた旧本所一帯の鎮守さま。牛嶋の由来は、天武天皇の時代、両国から向島にかけての地域・旧本所が牛馬を育てる国営の牧場(官牧)であったことから。浮嶋牛牧と称された。江戸切絵図によれば、昔はもう少し北、現在の桜橋の東詰めあたりに「牛御前」の名前が見える。縁起書によれば創建は貞観2年というから860年頃。結構古い。当時このあたりは既に小高い砂州となっていた。
由緒書によれば頼朝が下総から武蔵への渡河作戦に際して、折からの豪雨を鎮めるため神明の加護を願う。そして願いが叶ったことを慶び社殿を造営した、とか。後に天文6年(1538年)、御奈良院より「牛御前社」の勅号を賜る。江戸時代になっても鬼門守護の神社として将軍家の庇護を受ける。現在の地に移ったのは関東大震災後。隅田公園整備の一環として実施された。

牛嶋神社の隣に「すみだ郷土資料文化館」
神社を離れ、「すみだ郷土資料文化館」に。隅田公園を歩き、言問橋の東詰を進む。三ツ目通り、というか水戸街道から一筋隅田川に入ったあたりに「すみだ郷土資料文化館」。「すみだのあゆみ」をスキミング&スキャニング。有り難かったのは、常設展示目録。古代から現在に至るまでの地理と歴史がまとまっている。1冊1000円。そのほか、1階の図書資料コーナーで鈴木理生さんの『江戸の川 東京の川(井上書院;2700円)』の実物を目にしたことも嬉しかった。いろんなところで話題にはなるのだが、版元の連絡先が良くわからなかった。奥付で住所・電話を確認し後日手に入れた。『川がつくった江戸(林英夫;隅田川文庫;1850円)』も購入。

三囲神社
すみだ郷土資料文化館を離れ「三囲神社」に。すぐ北にある。対岸の浅草・山谷掘りからの「竹谷の渡し」の船着場も近くにある。歌川広重の「東都三十六景 隅田川三囲り堤」とか「江戸高名会亭尽 三囲之景」に描かれているように、江戸の行楽地。「三囲(ミメグリ)」の由来は、この地に弘法大師由縁の廃社・壊社があるのを聞き改築を。地中より白狐に跨る神像が。そのとき白狐が神像の周りを三度廻ったことから。雨乞いのために歌った宝井其角の歌碑もある。「ゆふだちや田をみめぐりの神ならば」、と。

水戸街道脇に秋葉神社

水戸街道を進み桜橋通りを越え、向島4丁目の「秋葉神社」に。正応2年(1289年)、この地にすむ与右衛門さんが屋敷内にお稲荷様をまつったのがその始まり。このあたりは五百崎・庵崎(イオサキ)の千代世(ちおや)の森とよばれていたので「千代世稲荷大明神」、とも。広重の『江戸名所百景』には紅葉の名所として描かれている。ちなみに五百崎とは五百もの砂州や浅瀬がある湿地帯のこと。このあたりは、干潮になれば砂や土砂の堆積による数多くの小島が遠浅の海面から浮かび上がる、そういった地帯だったのだろう。
秋葉神社の本家・本元は静岡県・秋葉山の秋葉神。秋葉三尺坊・秋葉山三尺坊大権現とも呼ばれる。秋葉信仰がブレークしたきっかけは、江戸前期、貞享2年(1685年)、江戸と京都に向かった秋葉山の神輿渡御。全国に名を知られるようになり、秋葉詣でも盛んになった、と。火の災厄を鎮める神さま。

隅田川堤防沿いに長命寺

秋葉神社を離れ、再び水戸街道を越え、隅田川堤防方向に向かう。堤防沿いの道から一筋入った墨堤通り・向島5丁目に「長命寺」。お寺よりなにより、「長命寺の桜もち」を買ってくるようにとのご下命あり。店は隅田川の堤に沿った道路脇。
桜餅といえば、先日古本屋で見つけた『考証 江戸を歩く:稲垣史生(河出書房新社)』に面白い話があった。ちょっとメモする:この桜餅屋の名前は「山本屋」。銚子より職を求め、長生寺に寺男として働く。土手の桜の落ち葉を醤油樽に漬けて餅に包むと、風味よく評判になった。評判になったといえば、この山本屋の娘さんは美しいことで評判でもあった。とか。19世紀の中頃の老中・阿部正弘がこの店の娘・お豊さんをその美しさ故に贔屓にした、と。また、明治維新のころ、オランダ公使もこの店の娘・お花さんを見そめた。またまた、かの正岡子規も山本屋のお陸さんに淡い恋心を抱いた、とか。 おみやげを買い求め、先を急ぐ。このあたりは江戸の昔は文人・墨客、江戸の市民が花見を楽しんだ一大行楽地。墨堤通りを進み、東向島1丁目と3丁目の境、地蔵坂通りとの交差に、「子育地蔵堂」。車の往来多い。
ちなみに川の堤に桜の多い理由は、土手を踏み固める戦略というか戦術のため。桜の名所をつくれば、桜見物に多くの人が来る。土手を歩き、結果的に土手が強化される、といった論法。事実かどうか定かではないが、事実だとすれば、なかなかスマートな手法である。

墨堤通りを北に。東向島に「白鬚神社」

地蔵堂脇の道をすすむと東向島2丁目に「白鬚神社」。白鬚神社って昨年歩いた埼玉県日高市・高麗郷の高麗神社もそう呼ばれていた。高麗からの帰化人・王若光が晩年白髭を垂れ、白髭さまと呼ばれていたことに由来する。日高・高麗の郷の白髭神社を高麗総社とした白髭神社は武蔵の国に55社ある。この地の白鬚様もそのひとつ。武蔵の各地に分住した高麗人の子孫が王の遺徳を偲び分祀したわけだ。「白髯」は「新羅」からの転化である、といった説もあるほど、だ。
白鬚神社の縁起によれば、この地には古代帰化人が馬の放牧のために相当数移住した、とも。鈴木理生さんの『江戸の川 東京の川』にも「渡来人の基地としての浅草湊」という一項目が設けられている。大和政権は東国経営の一環として武蔵の国には、百済・新羅・高麗などからの渡来人を配置。夷を制する精鋭部隊でもあり、高い技術力をもつ開発者集団でもあったのであろう。海を渡り、上陸地を求めて浅草湊まで進み、ここを根拠地に武蔵野の台地へと踏み入ったのであろう。ともあれ、武蔵の地に帰化人の影響は大きい。荒川も渡来人「安羅」の川という説も。
ちなみに、「しろひげ」神社であるが、全国には「白鬚」「白髭」「白髯」「白髪」と名のついた神社が三百社以上ある、という。特に多いのは静岡や岐阜。東京では墨田区に目に付く。ここ白髯はアゴヒゲ、であるが、口ヒゲである白髭神社は平井や東墨田でも見かけた。

隅田川の堤そばに隅田川神社
墨堤通りを更に北に。明治通りと交差。左折し白鬚橋東詰めに。堤に沿って北に歩くと「隅田川神社」。治承4年というから1180年、頼朝がこの地に来たとき水神をあがめて建てた神社であり水神社とも呼ばれる。江戸切絵図にも「水神」という名前が見える。水運業者から深く信仰されていた。このあたりは、水神の森と呼ばれた微高地。隅田川の洪水にも沈むことがなく、ゆえに「浮島の宮」とも呼ばれた。狛犬ならぬ亀が鎮座している。水神様ならでは、というべきか。
このあたりは、奈良から平安にかけて、隅田川西岸の微高地を走る東海道が市川にあった下総の国府に至る道筋。墨田区西岸の橋場からの渡しもあり、河川交通の要衝。承和2年(835年)、隅田川に渡船の記録がある。伊勢物語の都鳥の舞台もこのあたりと伝えられている。天明年間(1781〜1789)に狂歌師・元の木網の「けふよりも衣は染つ墨田川 流れわたりて世をわたらばや」を刻んだ碑がある。

隅田川神社の隣には木母寺
水神社の直ぐ先に木母寺。能「隅田川」など日本の芸能に大きな影響を与えた梅若伝説の地。平安の昔、人買いにさらわれた梅若丸は隅田川のほとりで重い病を患い、隅田川東岸・関屋の里で置き去りにされる。里人の看病もむなしく「たづね来て問はばこたえよ都鳥墨田川原の露と消えぬと」という一首を残して12歳の生涯を閉じる。一年後、里人が梅若丸の塚で供養していると梅若を捜し求める母の花御前が。はじめてわが子がなくなったことを知る。花御前は嘆き悲しみ、吾が子のためにいのる。すると、塚の中から梅若の亡霊が現れ一時の親子の対面。しかし、梅若は再び姿を消す。花御前は悲しみのあまり、池に身を投げる。この木母寺は梅若を供養してつくった庵が起源。いまは鉄筋のお寺様。
本日はこれでお終い。あとは隅田川にかかる水神大橋を渡り台東区というか荒川区に入り、千住大橋経由で足立区北千住に進み一路帰途に。

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