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東京の下町低地,広義での利根川の河口部=沖積地、の散歩には今ひとつ意欲が湧かなかった。理由はひとつだけ。地形のうねりが感じらづないから。ゼロメートル地帯というか、マイナス3メートルのところもある、という。凸凹のない地形散歩ってポイントが絞れない。とはいうものの、深川不動とか富岡八幡に行ったり、清澄公園とか深川江戸資料館に行ったり、吉良邸とか回向院、江戸東京博物館に行ったり、錦糸町で飲み会の後夜中に新宿まで歩いたりはしていた。が、今ひとつこれといった散歩ターゲットがみつからない。はてさて、と地図を眺めていた。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)





と、隅田川から荒川に繋がる川筋がある。小名木川という。名前が面白そう。一体どんな由来のある川筋なのだろう。調べてみた。江戸開幕の折、千葉・行徳の塩を江戸に運ぶため開かれた堀・運河である。江戸城の和田倉門から道三堀、日本橋川を経て隅田川、隅田川から荒川まで小名木川、荒川を越え新川(船堀川)から旧江戸川を経て行徳まで連なる塩の道。散歩のストーリーとしては美しい。ということで、道三堀・日本橋川から行徳までの川筋散歩に向うことにした。(火曜日, 2月 07, 2006のブログを修正)




本日のルート;JR水道橋駅>神田川と日本橋川の分岐点>三崎橋>新三崎橋>あいあい橋>新川橋>堀留橋>南堀留橋>俎橋>宝田橋>雉子橋>一ツ橋>錦橋>神田橋・日比谷通り交差>鎌倉橋>常盤橋>新常盤橋>一石橋>西河岸橋呉服橋>日本橋>江戸橋>鎧橋>茅場橋>豊海橋>隅田川>隅田川大橋西詰め>箱崎の東京シティエアーターミナル>半蔵門線・水天宮前

道三堀
道三堀。家康が城普請よりなにより、先ず最初に手がけたのはこの堀の開削工事。未だ天下人とはなっていない時期なので、天下に「お手伝い」の号令を出すこともできず、家康の家臣のみて工事を始めた。慣れぬ土木仕事に家康家臣は苦労した、とか。流路は和田倉門・辰ノ口、現在のパレスホテルのあたりから始まり大手町交差点を経て呉服橋門あたりまで。およそ1キロ程度の運河。後に日本橋川に合流することになる。
名前は、この運河の近くに徳川家の典医・曲直瀬道三邸があったから。とはいうものの現在は埋め立てられ跡形もない。であれば、日本橋川との合流点・呉服橋あたりからはじめるべし。とは思いながらも、どうせのことなら、日本橋川のスタート地点から歩を進めることにした。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


神田川と日本橋川の分岐・三崎橋

日本橋川は中世の平川、もともとの神田川のルートにあたる。つまりは飯田橋・水道橋のあたりから日比谷入江に注ぐ川筋である。現在の神田川は1620年頃の第三次天下普請により、御茶ノ水の台地を切り崩し直接隅田川に流れ込む川筋となっている。理由は、江戸のお城への洪水を避けるため。
日本橋川と神田川の分岐点に歩を進める。JR総武線・水道橋で下車。少し飯田橋に戻ると神田川と日本橋川の分岐・三崎橋。ちょっと昔まで、このあたりにJRの貨物駅があったような気がするのだが、今は都市開発ですっかり様変わりである。

堀留橋

目白通りと水道橋西通りの間を流れる川筋に沿って歩く。三崎橋>新三崎橋>あいあい橋>新川橋>堀留橋で専大通りと交差。堀留とは、川を上流から埋め立て下流部分を水路として残したものを言う。江戸のお城や日本橋への洪水を避けるため、御茶ノ水の台地を切り崩した瀬変えにともない、三崎町から九段までを埋め立てた。で、この堀留が海浜部から内地に最も入り込んだ水路。この湊町を基点に九段の台地上の旗本屋敷へ生活物資を送り込んだわけだ。

雉子橋
南堀留橋>俎橋>宝田橋>共立女子大脇の雉子橋と進む。江戸時代、唐国からの使者の接待に雉子にまさるものなし、ということで雉子を集めた小屋をつくる。その小屋近くにあった橋であったので、雉子橋と。
毎日新聞社と丸紅の脇に一ツ橋。家康入府の折り、大きな丸太一本の橋があったので一ツ橋。後に知恵伊豆こと松平伊豆守の屋敷があったので、伊豆橋と呼ばれたこともある、という。平川門に通じている。平川門は「不浄の門」とも呼ばれ、江戸城内の罪人などの運び出すときに使われた、と。刃傷事件を起こした浅野内匠頭もこの門から城外に出たと、言う。また、通常は大奥の通用門であった、とか。

神田橋
錦橋から神田橋に。土井大炊守利勝の屋敷があったので大炊殿橋と呼ばれたことも。神田橋門は将軍菩提寺の上野寛永寺への参詣の道筋でもあり、警護はことのほか厳しかった、と。現在は日比谷通り。

鎌倉橋
外堀通りとの交差点・鎌倉橋に。家康入府の折、この河岸に建築資材である木材・石材が相模の国鎌倉から数多く運び込まれたのが名前の由来。佐伯泰英さんの『鎌倉河岸』は今は高速道路に覆われている。






常磐橋
JR京浜東北線を越えれば常盤橋。三代将軍家光の頃、大橋とも浅草口橋とも呼ばれていた。しかしその名前、よろしくない、とのことで町年寄・奈良屋市右衛門が改名案を考えるように命じられた。で、家に寄宿する浪人に相談。金葉集、太夫典侍の「色かへぬ松によそへて東路の常盤の橋にかかる藤波」、これって歌の心を松平にかけて、おめでたい名である、ということで橋の名に。
江戸城外郭の正面にあたり、常盤橋御門と呼ばれる重要な門があった。橋の傍にある公園には江戸城の威容を今に伝える4mの石塁が残っている。渋沢栄一の銅像も。

竜閑橋交差点
鎌倉橋から常盤橋に進む途中、JR京浜東北線の手前で道が二つに分かれる。その分岐点の名前が竜閑橋。JRを越えるところに今川橋という交差点もある。今は川筋とてないが、往古竜閑川が神田川へと流れていた名残だろう。

一石橋
新常盤橋を越え一石橋に。橋の南北に商人・後藤家が二軒。五斗(ごとう)+五斗=一石が名前の由来。洒落ている。西詰めに「迷い子の志るべ」。江戸時代の迷い子探しの伝言板。当時このあたり、人で賑わっていたのだろう。

西河岸橋
西河岸橋。川や海に面した町屋敷・町人の「荷揚げ」の地を河岸(かし)という。で、荷揚げだけに留まらず市が立つのは自然の成り行き。水路に沿って多くの河岸ができることになる。地名を冠したもの、扱う商品を冠したものなどさまざま。西河岸周辺だけでも魚河岸、裏河岸、米河岸、四日市河岸(木更津河岸)など。行き先の地名を冠した行徳河岸も。行徳からの船便の到着する場所であったのだろう。江戸には65もの河岸があった、とか。ちなみに同じ荷揚げ場所でも武家の場合は「物揚場」と呼ばれた。

鎧橋
呉服橋から日本橋へと進む。で、江戸橋を越え、鎧橋に。明治5年に架橋。兜町(かぶと)に鎧橋(よろい)って、出来過ぎ。米や油の取 引所、銀行や株式取引所でにぎわっていた、とのこと。当時の風景を谷崎潤一郎は「兜橋の欄干に顔を押し付けて水の流れを見ていると、この橋が動いているように見える。私は渋沢邸のお伽のような建物を飽かずに見入ったものである。。。」。対岸の小網町には土蔵の白壁が幾棟となく並んでいる、といったことが案内されていた。異国情緒の景観があったのだろう。ちなみに、橋ができるまでは「鎧の渡し」と呼ばれる渡船場があった。

亀島川分岐
日枝山王神社の御旅所などにお参りし、先に進む。茅場橋を越え、湊橋の手前に亀島川との分岐が。江戸橋付近には木更津漁師の拝領地があり、木更津・銚子方面への船便で賑わった。木更津河岸と呼ばれた所以か。

豊海橋
茅場橋から湊橋。茅場は茅を扱う商人が多く住んでいたから。そして隅田川の手前に豊海橋。橋のそばに高尾稲荷起縁の地の案内。「江戸時代この地は船手組持ち場であったが、宝永年間、下役の喜平次が見回り中に対岸になきがらが漂着しているのを見つけ、手厚く葬った。吉原の高尾太夫が仙台藩伊達綱宗候に太夫の目方だけ小判を積んで請出されたがなびかず。ために、隅田川三又の船中で吊し切りにされ河川を朱に染めたという。事実かどうかは定かではない。が、世人は高尾をまつり当時盛んだった稲荷信仰と結びつき、高尾稲荷社の起縁となった」と。

隅田川
で、隅田川に到着。川沿いを隅田川大橋まで登り、箱崎の東京シティエアーターミナルを越え、半蔵門線・水天宮前で地下鉄に乗り、本日の散歩終了。
今日、何年か振りに交換した携帯のナビおよび写真を使う。案内板など写し、ミニSDをPCに移し参考にしながらメモを取る。結構イケてる散歩になってきた。

日本橋・小伝馬・馬喰町へ
中央区散歩も3回目。中央区の北部地域に進む。千代田区・台東区・墨田区・江東区に境を接する地区、言い換えれば北を神田川、東を隅田川、西・南を日本橋川に囲まれた地域である。江戸開幕から明治にかけて最も古い歴史をもつ商業地域でもある。
家康入府の折は、このあたりも同様に一面に葦の生い茂る湿地帯。埋め立てには、和田倉門から日本橋川・常盤橋あたりにかけ道三掘を開削し、その残土を用いた、と。周辺の低湿地を埋め立て町人の住む商業地を設けた。
日本橋川沿いの魚河岸を中心とした各種河岸ができあがる。人の賑わいの地には当然のこととして歓楽地ができるわけで、人形町を中心とした歌舞伎小屋・浄瑠璃小屋、そして遊郭が生まれる。また、往来の旅人のための旅籠町としての馬喰町、集めた荷を扱う問屋街の横山町、といった一大商業コンプレックスがこの地域に形成された。








本日のルート: 日比谷線・茅場町 > 日本橋蛎殻町・水天宮 > 日本橋人形町・「玄治店跡」 > 日本橋堀留町・椙森神社 > 十思公園・「伝馬町牢屋敷跡」 > 日本橋横山町・馬喰町 > 浅草橋・郡代屋敷跡 > 両国橋・両国広小路記念碑 > 都営新宿線・馬喰横山町

日比谷線・茅場町駅

日比谷線・茅場町で下車。先回は永代通りを霊岸島・新川方面に向ったが、今回は新大橋通りを茅場橋方面に。茅場町のこのあたり、江戸以前は海の中。葦や茅の生い茂る沼沢地。大雑把に言って、現在の首都高速都心環状線、江戸川ランプから京橋ランプあたりが江戸時代の楓川。それ以前は日比谷の入り江に飛び出た江戸前島の東岸。
茅場の由来は茅職人が住んでいたから、とか。江戸切絵図でチェックすると、現在の昭和通りより北は町人町。南は武家地と町人の町が混在している。江戸橋から霊岸橋にかけての日本橋川に沿って、表南茅場町といった町人町がある。数多くの酒問屋が集まっていた茅場河岸がこのあたりたったのだろう。

茅場橋を渡り日本橋小網町・「行徳河岸」に

茅場橋を渡り日本橋小網町に。地名の由来は、小網稲荷神社があったから、とか、家康のために網を引き、肴御用を命ぜられたからとか言われるが定かならず。小網町といえば、市川・行徳からの船が着く行徳河岸があったところ。明治12年、船便の廃止まで江戸と下総をむすんでいた。近くには上総・信太を結ぶ信太河岸もある。このあたりは江戸から明治にかけての船便の要衝であったわけだ。

日本橋蛎殻町・水天宮

小網町の横には日本橋蛎殻町。江戸開幕のころは、江戸湾に面した隅田川河口の海浜地。埋め立てによって作られた。江戸切絵図には小網町の裏と酒井雅楽守の間、稲荷(とうかん)掘のあたりに「カキガラ」の地名が読める。絵図で見る限りでは大名の下屋敷・蔵屋敷とか中屋敷が多い。酒井雅楽守の東には銀座が。当初京橋にあった銀貨鋳造所が享和元年というから1801年、この地に移り、明治に大阪造幣局にその機能が移るまで貨幣を鋳造していた。
このあたりで有名なのは水天宮。新大橋通りと人形町通りの交差点近くにある。二位の尼が安徳天皇と建礼門院を祀った神社である。本宮は九州・久留米。久留米の大名・有馬家が土地を寄進して建てられた。江戸では三田の有馬家屋敷神であった。現在の慶応大学三田キャンパスのあたり。次第に民衆の信仰が高まり、一般に開放されるようになった。この地に移ったのは明治5年のこと。人影まばらなこの地も水天宮の移転とともに賑わいのある地となった、と。

日本橋人形町に「玄治店跡」

蛎殻町の北には日本橋人形町。このあたりは町人地。歌舞伎、人形浄瑠璃の小屋もあり、人形師が多かったのが、この地の由来。吉原に移る前の遊郭・元吉原もこのあたりにあったよう。甘酒横丁を過ぎ、都営浅草線・日比谷線の人形町の駅があるあたり、「玄治店跡」。こどもの頃、春日八郎の歌った『お富さん』の歌詞にあった名前。「粋な黒塀 見越しの松に  仇な姿の 洗い髪 死んだ筈だよ お富さん 生きていたとは お釈迦さまでも 知らぬ仏の お富さん エーサォー 玄治店・・・ 」、である。
歌舞伎の『与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)』が題材になっている。 ここにくるまで玄治店、ってなんのことだか知らなかった。幕府の奥医師岡本玄治の1500坪にもなる拝領屋敷があったことがその名の由来。
ついでに、芝居で有名な台詞。:「しがねえ恋の情けが仇、命の綱の切れたのを、どう取り留めてか木更津から、巡る月日も三年越し、江戸の親には勘当受け、よんどころなく鎌倉の、谷七郷は喰詰めても、面へ受けたる看板の疵がもっけの幸いに、切られ予三と異名をとり、押借り強請りも習おうより慣れた時代の源氏店、そのしらばけか黒塀に、格子造りの囲いもの、死んだと思ったお富とは、お釈迦様でも気がつくめえ。よくもお主(ヌシ)ア達者で居た なア。安やい、これじやア一分(ブ)じやア帰(ケエ)られめえじやねえか。〜」。
房州木更津。この地の顔役の妾お富。江戸の商家の若旦那与三郎(よさぶろう)が出会い一目惚れ。が、旦那に見つかり、与三郎は半死半生、体中に三十四箇所もの疵を受け放り出された。3年たったある日、身を投げたお富は、裕福な町人に助けられ、源氏店(「玄冶店」)の妾宅に囲われている。お富のもとに、無頼漢・蝙蝠安(こうもりやす)が一人の男を連れて小銭をたかりにやってきた。その男が与三郎。目の前にいる女が自分の運命を狂わせた当のお富だと気がついて言うセリフである。

日本橋堀留町・椙森神社

椙森神社日本橋人形町を越え日本橋堀留町に。江戸切絵図を見ると、小網町からの堀が堀留町の手前まで来ている。掘を留める、で「堀留」と。大商店やら問屋が集まる商業地であった。堀留町1丁目に椙森神社。「江戸名所図会」には堂々とした構えが描かれているが、関東大震災で倒壊。現在は鉄筋の少々つつましやかなお宮さまとなっている。案内によれば、平安時代には藤原秀郷が平将門追討の際に、戦勝祈願に訪れている。創建は平安時代。太田道潅も雨乞いのため、伏見稲荷の伍社を勧請し、深く信仰した。ために、江戸期には江戸城下の三森(烏森・柳森・椙森)のひとつ、椙森稲荷として人気を集めた。境内に「冨塚碑」。江戸時代に大流行の「富くじ」興行の場所としても有名であった。富くじは富突、とか突富ともよばれる。木札を錐で突いて富くじを決めたから、とか。

人形町通りを進み十思公園に「伝馬町牢屋敷跡」
人形町通りを北に進み日比谷線・小伝馬町駅を越え、日本橋大伝馬町・小伝馬町に。家康の江戸入府以前は、奥州街道が通っていた。伝馬町とは伝馬役がいたから。5街道の制とともにつくられたのが宿場、伝馬、助郷といった制度であるが、伝馬は馬の供給をおこなうもの。馬の供給の責務を負うかわりに地子(土地税)などが免除された、とか。
総武線をくぐり、十思公園に。伝馬町牢屋敷跡。切絵図には「囚獄 石田帯刀」とある。石田帯刀は牢役人の名前。吉田松陰終焉の地。石町時の鐘。江戸時代でもっとも古い時の鐘。将軍秀忠のとき、江戸城内にあったが鐘はうるさかったのか、太鼓に代わったので、鐘は場内からこの地に移った、とか。「囚獄 石田帯刀」のすぐ北に神田川の竜閑橋から今川橋へと川筋が見える。竜閑川なのだろう。ちなみに「十思」とは。唐の、時の皇帝への献上文・十か条。君主としてあるべき姿・十か条といったもの。「見可欲則思知足(徒に多くを望まないこと)」、とか、処高危則思謙降(地位が高いほど謙虚にしなさい)、といったもの。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


日本橋横山町・馬喰町
大・小伝馬町から北東方向に。日本橋横山町とか日本橋馬喰町。この一帯は一大問屋街。馬喰町には多くの旅籠。もともとは馬喰が往来する宿場町といった地域であった。ある時期まで、馬の売り買いはこの地でしか許されなかった、と。この地に郡代屋敷ができることをきっかけに、公事訴訟に地方から出向いた人たちの宿場がここに滞在した。また訴訟ごとの人だけでなく、宿にとまる商人が増えるに連れ、お隣の横山町で問屋業が発達する。宿屋と問屋のコラボレーションによって地方の人をこの地にひきつけたのであろう。神田川にかかる浅草橋の袂に。

浅草橋・郡代屋敷跡

郡代お隣の台東区をむすぶこの橋の袂に郡代屋敷跡。由来所;「江戸時代、関東一円および東海方面など各地にあった、幕府の直轄地(天領)の年貢の徴収、治水、領民紛争の処理した関東郡代の屋敷があった跡。関東郡代は家康が関東に入国したときに、伊那忠次が代官職に任命され、のちに関東郡代とよばれるようになり、伊那氏が十二代に渡って世襲しました。その役宅ははじめ江戸城・常盤橋御門内にありましたが、明暦の大火で焼失し、この地に移りました」と。ともあれ、散歩をはじめて以来、この関東郡代伊奈氏には玉川上水からはじまりいろんなところで良く出会う。利根川東遷事業、見沼田圃、赤山陣屋跡等など。新田次郎さんの『怒る富士』も伊奈氏を主人公にしたものだが、清々しい人物は、いかにも善い。

両国橋・両国広小路記念碑

墨田川にかかる両国橋の袂に、両国広小路記念碑。江戸名物の火事の延焼を避けるための火除け地。ただ、この空き地にはいつしか寄席、茶店、見世物小屋が立ち並び、一大歓楽街ともなった、とか。地名は東日本橋、といった無粋なもの。近くに薬研掘がある。薬研とは、漢方の薬種を砕くための鋳鉄製の器具のこと。V字型をしており、堀の形もV字形にくぼんでいるのが地名の由来。

日本橋浜町
下に進み日本橋浜町に。このあたり武家地と町地の入り混じった一帯。隅田川に沿っては大名の下屋敷・蔵屋敷がたちならび、浜町川というか竜閑川というか船入掘というか、ともあれ隅田川に平行に南北に貫く川筋には北のほうは町地、南のほうは蔵屋敷が連なっている。で、浜町といえば明治座。明治に市川左団次によってつくられた。歌舞伎座っぽいイメージであったのだが、近代的なビルであった。 あとは清洲通りを少し北に戻り、都営新宿線馬喰横山町から一路自宅に。これで中央区散歩はお終り。次回は江東区に移る。

(佃島・月島)から(明石町・築地)へ
下町散歩第二回は中央区の佃島・月島を巡り、隅田川にかかる勝鬨橋を渡って築地に戻る。江戸時代の絵図を見ると、霊岸島の南、隅田川の河口に小さな島・三角州がある。石川島、佃島と描いてある。住吉社を囲むほんの小さな島である。現在の月島あたりは何も無い。月島地区が埋め立てられたのは明治になってからのこと、である。
前回の散歩で、「江戸港(湊)発祥跡」に出合った。佃島の対岸の地である。このあたりは江戸期の海上交通の要衝であったのだろう。佃の漁師が、徳川家との結びつきの強さのゆえ、漁だけでなく、海上交通の「見張り」役でもあった、といった「それらしき」話も、妙に真実味を帯びてくる。ともあれ、散歩に出かける。



本日のルート:
中央大橋から佃島 > 佃公園・「石川島人足寄場」・「石川島灯台跡」 > 住吉神社 > 佃の渡し跡 > 佃大橋 > 月島西仲通の「もんじゃ焼き」 > 勝鬨橋 > (築地) > 聖路加ガーデン > アメリカ公使館跡 > 明石町・「築地居留地跡」 > 聖路加国際病院 > 聖路加看護大 > 中央区郷土資料館天文館 > 慶應義塾開塾の地 > 蘭学事始の地 > シーボルト銅像 > 築地川公園 > 芥川龍之介生誕の地 > 浅野内匠頭邸跡 > 築地本願寺 > 新大橋通り・晴海通り・築地4丁目 > 晴海通り・「日比谷線東銀座駅」

中央大橋から佃島に
。中央大橋を渡り佃島に。現在このあたりは佃島、月島地区といった埋め立て地からなっている。おぼろげな記憶によれば中央大橋を渡ったあたりには昔、IHI石川島播磨重工業の工場があったような気がする。そのあたりには現在、大川端リバーサイドという高層マンション群が立っている。尾張屋版江戸切絵図と照らし合わせてみた。稲荷橋から続く鉄砲洲・船松町の沖合に石川島、佃島が描かれている。石川島は元々、鎧島と呼ばれていた。のちに佃島の一部になるが、幕府船手頭石川大隈守正次が徳川家光よりこの地を拝領し、石川島と呼ばれていた、とか。


佃公園に「石川島人足寄場」と「石川島灯台跡」

中央大橋を渡り大川端リバーサイド脇を右折、公園を隅田川に沿って歩く。佃公園に石川島灯台跡。1866(慶応2年)、人足寄場奉行の命により、人足たちの手でつくられた常夜灯。石川島人足寄場とは、江戸の無宿者を収容し職業訓練を行う更正施設。寛政2年というから1790年、長谷川平蔵の建言を入れ、老中・松平定信が設置したもの。収容人員は多いときで600名。大工、鍛冶などの訓練を受ける。労賃の3分の一は出所時に自立資金として積み立てられていた、とか。結構先進的。
長谷川平蔵って、『鬼平犯科帳』の鬼平。火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)の長官。火付盗賊改とは町奉行から独立した警察組織。町奉行の管轄外である武家・寺社地や江戸市外に対して捜査権を持つ、一種の特捜隊といったところ。

住吉神社
佃公園を進む。きれいに整備された公園。昔の掘入といった雰囲気の水路,船溜り、というか溝渠にそって歩く。佃小橋を渡り、民家の軒先を進み住吉神社に。佃島は隅田川の河口にできた寄洲。江戸時代初期に、大阪・摂津西成郡佃島から漁民がこの地に移り住んだことからこの名がついた。
その由来についてもあれこれ諸説あり。で、住吉神社の由来書をメモすることにする。「神功皇后が三韓征伐よりの帰途、摂津国西成郡田蓑島(現在の大阪市西淀川区佃)で住吉三神を奉斎された。これが大阪佃の田蓑神社の創祀である。天正14年(1586)、本能寺の変に際して、堺に滞在していた徳川家康は、摂津の多田の廟(池田市の多田神社)を参拝することを名目に三河への脱出を計った。この時、神埼川で進退が取れなくなった家康一行に対し、田蓑島の庄屋・森孫右衛門が漁師たちに声をかけて舟を集め、無事渡ることができた。これによって家康と田蓑島の漁民のつながりが深まり、家康が漁業だけではなく田も作れと命じたことから、佃と名を改めた。
天正18年(1590)、家康が江戸に移った際、森孫右衛門を筆頭とする佃の漁民30余名と田蓑神社の神職・枚岡権太夫好次も江戸に移住した。さらに寛永 7年(1630)、幕府より鉄砲洲の向かいにある干潟を拝領して島を築いた。竣工したのは正保2年(1645)、故郷の名にちなんで佃島と名づけた。翌年、ここに鎮守として田蓑神社の御分霊と東照権現を奉斎したのが佃島の住吉神社の起こりである。佃島の漁民はもとより、海上安全の守護神として広く崇敬された。
中央区指定文化財の水盤舎は天保12年(1841)年に寄進されたもので、欄間には当時の佃島近辺の情景を描いた浮彫が配されている。また、正面の鳥居に掲げられた陶製の扁額は有栖川宮熾仁親王の書で、同じく区の文化財に指定されている」と。
家康が漁業だけではなく田も作れと命じたことから、佃と名を改めた、とある。佃=人偏+田=人が田をつくる、ということ。埋め立てでも、開墾でも、ともあれ人が荒地を開いて田を作れ、ということ、か。この佃、って日本人がつくった漢字。言いえて妙なる造語である。
佃の渡し跡堤防近くで「佃の渡し跡」らしき雰囲気を感じ、水路にもどり尾崎波除稲荷横を進む。こじんまりした神社。由来もない。波除稲荷って築地にもある。埋め立て工事が難航を極めていたとき、波間にお稲荷さんが。それをお祀りしたところ、波もぴたりとおさまった、とか。


月島西仲通の「もんじゃ焼き
佃大橋からの道筋を越え、商店街に。月島西仲通。右を見ても左を見ても「もんじゃ」。月島って明治から昭和にかけて埋め立てられた土地。隅田川が運んできた土砂の堆積により、このあたり一帯は浅瀬。船の運航もままならなくなっていった。築島=つきじま=月島、島を築く「築島」が「月島」となった理由ははっきりしない。が、宝井其角の句

「名月ここ住吉の佃島」にあるように、月見の名所であった、のであろうか。定かならず。
ちなみに、「もんじゃ焼き」って「文字焼き」からと言われる。鉄板の上に水で溶いた小麦粉で文字を書き遊びながら、親子団欒、といった風情である。真偽のほどは定かではないが、それはそれとしていい話。

勝鬨橋を渡り明石町・「築地居留地跡」に
月島川を越え晴海通りに。北に向かい隅田川にかかる勝鬨橋を渡り、橋西詰めに。勝鬨の由来は、明治・日露戦争の戦勝を祝った「勝鬨」から。昔は中央部分が開閉していた、とのことである。
晴海通りを右に折れ築地7丁目から明石町に入り聖路加ガーデンに。「築地居留地跡の碑」が。概略をメモする。「安政5年の日米修好条約の結果、江戸の地に外国人のための居留地をつくることを義務付けられた。幕府はこの地を居留地と定め明治元年、築地居留地が完成した。築地居留地は他の居留地とは異なり、商館はそれほど多くなく、公使館・領事館のほか宣教師・医師・教師といった智識人が多く住み協会や学校を開いて教育を行っていた。このため地雉居留地は日本の近代化に大きく影響を与えた地域となっていた」、と。
この地に、アメリカ公使館跡、立教学院発祥の地、女学院発祥の地、雙葉学園発祥の地、それからいまもこの地にある聖路加病院、といった施設のある・あった理由がやっとわかった。明治32年に条約改正とともに居留地は廃止された。ちなみに、太平洋戦争の東京空襲のときも、アメリカ聖公会・トライスターのつくった聖路加病院は爆撃目標からはずされていたとか、いないとか。聖路加ガーデンの東に塩瀬総本家。650年の歴史をもつ和菓子屋。

中央区郷土資料館天文館
聖路加看護大学の西にある中央区保健所等複合施設6階に中央区の郷土資料館天文館。中央区の埋め立ての歴史など結構参考になった。先にすすむと慶應義塾発祥の地、それと並んで「蘭学事始の碑」。この地はもと豊前中津藩奥平家の中屋敷があった。藩医前野良沢はこの屋敷内で『ターヘル・アナトミア(解体新書)』の翻訳作業をおこなっていた。また、少し時代は下るが、中津藩士である福沢諭吉は、慶應義塾のはじまりである蘭学塾をこの地に開き、芝に移るまでここで講義をしていた。ちなみに地下鉄築地駅の近く、築地2丁目に甫州屋敷跡もある。蘭学医。前野良沢、杉田玄白とともに、『解体新書』の翻訳をおこなった。
築地川公園脇に「芥川龍之介生誕の地の碑」や「浅野内匠頭邸跡」
聖路加看護大学と築地川公園の隅に芥川龍之介生誕の地の碑。ちなみに、巣鴨の染井霊園近くの慈眼寺には芥川龍之介お墓があった。直ぐ横に「浅野内匠頭邸跡」播州赤穂藩・浅野家の江戸上屋敷跡。敷地面積は約2万9千があったという。元禄14年(1701)浅野内匠頭長矩の起こした松の廊下刃傷事件により、この江戸屋敷・領地は没収。赤穂藩浅野家は断絶となった。上屋敷とは、大名とその家族、および江戸詰めの家臣が住むところ。幕府から拝領の地である。中屋敷は嫡子および隠居、また参勤交代で江戸に出てきた家臣が住むところ。下屋敷は別邸であったり、畑地であったり、海岸近くでは荷揚地であったりした、という。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


築地川支流跡から晴海通り・「日比谷線東銀座駅」に
築地川公園沿って築地本願寺方面に。この川筋は築地川の支流。本流は現在では首都高速の走る道筋の上を三吉橋から南に、亀井橋、祝橋、万年橋、采女橋、千代橋、新尾張橋、そして南門橋で浜離宮公園の築地川の堀に。支流は三吉橋から東に築地橋、入船橋。入船橋で直角に曲がり、暁橋、境橋、そして築地本願寺裏手の備前橋へと続く。もちろん水など流れているわけではない。備前橋もほとんど駐車場といった場所ではある。
川筋が埋め立てられた時期はいくつかある、ひとつは戦災、空襲・爆撃跡の瓦礫の片付けに川筋を埋めた。もうひとつは、東京オリンピックの時期。土地買収が困難なため川筋を埋めその上に高速道路を通した。もちろん河川の汚れを『蓋』をすることによって解決しようとした時期。こういったものだろう。ともあれこの中央区の川筋、ほとんど埋め立てられている。上の三つのどれかにはあてはまる、かとも。
築地本願寺前の新大橋通を少し浜離宮方面に進み晴海通りとの交差点・築地4丁目に。交差点を右折し、晴海通りを銀座方面に進み日比谷線東銀座に到着。本日の散歩終了。中央区の散歩も後、日本橋地区を残すだけ。次回は萱場町から日本橋川を渡り、人形町・浜町・小伝馬町に進む。

(八丁堀・湊)から(新川・霊厳島)へ
東京は山の手と下町に別れる。地形としては、山の手は武蔵野洪積台地、下町は沖積低地である。往古、下町の沖積低地はほとんどが葦の生い茂る低湿地である。江戸開幕の頃の海岸線は現在の総武線のあたり、と言われる。もう少々時代を遡り、室町の頃の古地図を見ると、海岸線は更に上がり、寺島(墨田区東向島)から平井を結んだ線である。つまりは、中央区とか江東区といったあたりは、海の中。台東区にしても、浅草近くの墨田川沿いの微高地を除けば一面の湿地帯である。
このような湿地帯が町屋に生まれ変わったのは、家康が江戸に幕府を開く頃から。天下普請とも呼ばれる一大開発事業・埋め立て事業を行い、宅地開発を進めたわけだ。堀を開削し、その残土を埋め立てに使う。小山を切り崩すといった、大工事も行っている。御茶ノ水の台地や浅草の待乳山を切り崩している。江戸の町が大きくなった後は、市中からでる塵芥をつかって埋め立て事業をおこなってもいる。なかなか面白い。
ということで、埋め立ての歴史をイメージしながら、東京下町低地を歩こうと思う。中央区からはじめる。中央区も当然のことながらほとんどが海の中。皇居のあたりまで日比谷の入り江が入り込んでいた、という。入り江の東には江戸前島という砂洲が東から西に広がっていた。神田あたりから新橋の手前まで延びていた、とも。その砂洲の外海側は現在の首都高速都心環状線、江戸川ランプから京橋ランプあたりではないか、ということだ。
下町散歩の第一回は中央区の八丁堀・湊から新川・霊岸島を巡る。鈴木理生さんの『幻の江戸百円;筑摩書房』によれば、隅田川の中洲を埋め立て霊岸島ができたのが寛永元年(1624年)。八丁堀の埋め立ては、それより少し後。八丁の船入堀を開削し、日本橋川に沿った茅場町に堤を築き、周囲を囲んで埋め立てを行った、とのことである。中央区散歩は八丁堀からはじめる。理由は特に無い。たまたま休日、ある会合で八丁堀に行ったから、である。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)




本日のルート: 八丁堀の与力・同心組屋敷 > 桜川公園 > 鉄砲洲稲荷神社 > 亀島川・南高橋 > 亀島川・高橋 > 亀島川・亀島橋 > 永代通り;亀島川 > 豊海橋 > 越前掘児童公園 > 「江戸港(湊)発祥跡」 > 亀島川;南高橋・「徳船(とくふね)稲荷神社」

地下鉄・八丁堀駅近くに「八丁堀の与力・同心組屋敷」
八丁堀地下鉄・八丁堀駅を降り鍛冶橋通りを銀座方面に少し戻ると京華スクエアがある。昔の小学校を生涯教育センターとして使っているよう。その入口わきに「八丁堀の与力・同心組屋敷」の案内。八丁堀といえば与力・同心の屋敷があったところ。案内板に目をやる;「江戸初期に埋め立てられた八丁堀の地は、はじめは寺町でした。寛永12年に、江戸城下の拡張計画が行われ、玉円寺だけを残して多くの寺は郊外に移転し、そこに与力・同心の組屋敷の町が成立しました。その範囲は萱場町から八丁堀一帯に集中しています。
八丁堀といえば捕物帖で有名な「八丁堀の旦那」と呼ばれた江戸町奉行配下の与力・同心の町でした。与力は徳川家の直臣で、同心はその配下の侍衆です。着流しに羽織姿で懐手、帯に差した十手の朱房もいきな庶民の味方として人々の信頼を得ていました。
初期には江戸町奉行板倉勝重の配下として与力10人、同心50人からはじまってのち、南北町奉行が成立すると与力50人、同心280人と増加し両町奉行所に分かれて勤務していました。与力は知行200石、屋敷は300-500坪、同心は30俵二人扶持で100坪ほどの屋敷地でした、これらの与力・同心たちが江戸の治安に活躍したのですが、生活費を得るために町民に屋敷地を貸す者も多く、与力で歌人の加藤枝直・千蔭父子や医者で歌人の井上文雄などの文化人や学者を輩出した町としても知られている」、と。
大江戸の街の治安をこの程度の与力・同心で果たして護れるのかどうか、とはおもうのだが、町年寄りとか名主を中心とした自治組織が一方にあり、大概のことは自治組織内で解決するというか、事件など起こしにくい向こう三軒両隣の目があったのだろう。 そもそも八丁堀の名前の由来だが、八丁というから800mほどの水路・八丁堀舟入りがこの地にあったから。現在の八丁堀の北、高速道路、江戸川ランプから京橋ランプにかけて、昔は楓川(かえでがわ)の水路が通り、その水路に沿って10の船入掘がつくられていた。江戸城普請のための荷揚げ場であったわけだが、海防の意味もあってその南側に埋立地がつくられた。ために、海から船入掘に進む水路がつくられることになるが、その長さが八丁。八丁の(船入)掘をもってこの地名とした、と。もっとも、池波正太郎さんの『江戸切絵図散歩』では、家康入府とともに江戸に移ってきたこの地の名主岡崎十左衛門が、故郷岡崎の八丁堤にちなみこの名をつけた、としている。

桜川公園;桜川は八丁堀船入りの水路跡

新大橋通りを渡る。右側に公園。桜川公園。今は埋め立てられているが、この桜川って、八丁掘船入の水路跡。堀川とも呼ばれていた。船入掘のあった水路が楓川、また楓川から外濠、今の東京駅前の道筋がその濠跡だが、その外濠に通じていた水路に紅葉川といった名前の水路がある。楓・紅葉に対して桜、とは、いつ名付けられたのか定かには知らねども、粋な計らいであろう。

入船・湊地区を進み「鉄砲洲稲荷神社」に

公園に沿って道なりに進む。入船1丁目から湊1丁目あたりに。入船とか湊とか、いかにも大江戸の海の玄関、江戸湊って感じ。中央小学校の南の公園を歩く。左手に神社が。鉄砲洲稲荷神社。八丁堀稲荷とも湊稲荷とも呼ばれた。江戸時代には全国から集まる荷物を荷揚げした江戸湊に臨んでいた神社であり、船員や海上守護の神様として人々の信仰を集めてきた。
鉄砲洲の由来;神社にあった御由緒によれば、「鉄砲洲の地は、徳川家康入府のころは、すでに鉄砲の形をした南北およそ八丁の細長い川口(*河口)の島であり、今の湊町や東部明石町の部分がこれに相当します。寛永のころはここで大砲の射撃演習をしていたので、この名が生まれたとも伝えられています」、と。またこの出洲が鉄砲の形に似ていたから、という説もある。

亀島川に沿って「南高橋」に

神社を後に少し東に進むと川筋に。隅田川と亀島川の合流点近くの「亀島川水門」のあたりに出る。亀島川の川向こうの地・新川地区って亀島川と日本橋川と隅田川に四方を囲まれている。もともとはこのあたりは霊厳島と呼ばれていたあたり。一面葦の生い茂る隅田川の中洲を埋め立ててできたのが寛永元年(1624年)。八丁堀周辺の埋め立てより時期は少々はやい、と言われる。
霊厳島を川向こうに眺めながら亀島川に沿って歩く。最初の橋は南高橋。この橋がつくられたのは昭和6年。関東大震災で被害を受けた両国橋の部材を再利用してつくられた。明治時代の鉄鋼トラス橋が今に残る。土木遺産としては結構貴重なものである。ちなみに、過日深川の富岡八幡宮を歩いたとき出会った、八幡橋(元の弾正橋)が都内に残る鉄鋼トラスト橋としては最も古い。トラスとは主構造にトラス(三角形に組んだ構造)を利用した橋。
亀島川;鍛冶橋通り・「高橋」

日比谷稲荷桜川が亀島川に合流した、であろう場所、つまりは八丁堀船入り口のあたりに稲荷橋の跡。八丁堀と湊町をつないでいた橋。
先に進み鍛冶橋通りに。「高橋」が架かる。日本橋川散歩の時にもメモしたが、江戸時代、このあたり船舶の往来激しく、橋脚の高い橋をつくった。それが「高橋」の名前の由来。この橋の八丁堀側が日比谷河岸、新川側が将監河岸と呼ばれる。
なぜここに日比谷が?近くにいかにもこじんまりした日比谷稲荷もあった。どうも、新橋日比谷町の代地がここにあったらしい。稲荷神社も大塚山(日比谷公園)にあったもののよう。 将監河岸の将監とは徳川の水軍を指揮した向井将監のこと。この地に向井将監の御船手組屋敷がこの地にあった。大砲といい、水軍といい、海からの攻撃への備えに配慮していたわけだ。ちなみに、日比谷の「ヒビ」って、海苔の養殖用に浅瀬に立てられた竹の束のことである。


亀島川;八重洲通り・「亀島橋」には堀部安兵衛武庸の碑
八重洲通まで進み亀島橋に。この橋、最初につくられたのは天禄時代と言われている。亀島の由来は、このあたりに小島が点在し、それが亀の姿に似ていたから、とか。橋の北詰に「堀部安兵衛武庸の碑」が。このあたりに住んでいたのだろうか。赤穂浪士が討ち入りの後、この橋を渡っていった、とか。ちなみに泉岳寺までのルートは、両国の「回向院」から「両国橋東詰め」、小名木川に架かる「万年橋」を経て「永代橋」。霊岸島に架かる「湊橋」を渡りこの「高橋」から「稲荷橋」、「聖路加病院(浅野内匠頭江戸上屋敷跡)」、「築地本願寺」、「歌舞伎座(浅野内匠頭嫡男浅野大学屋敷跡)」、「蓮莱橋」、「新橋」、「金杉橋」、「芝浜」、「泉岳寺交差点」といった道を通り「泉岳寺」に向ったようである。

亀島川;永代通り・霊岸橋
八丁堀・湊地区から、新川・霊岸島に移る。平成7年に架け替えられた新亀島橋を越え永代通りに架かる霊岸橋に。霊岸島に架かる橋であるから霊岸橋。結構古いものだろう。霊岸橋を渡り、霊岸島に。霊岸島の名前の由来は、江戸期、ここに霊厳寺があった、ため。寺は明暦の大火で焼失し、その後、現在の江東区白河に移った。

日本橋川と隅田川の合流点・豊海橋には「御宿かわせみ」が

日本橋川に沿って歩くと湊橋。新川地区と日本橋箱崎を結ぶ。先に進み豊海橋に。豊海橋といえば、江戸時代の船手番所であり、明治では日本銀行発祥の地のあたり、ではあるが、それよりなにより、平岩弓枝さんの時代小説『御宿かわせみ』の舞台。そのお宿のあったところである。善き人だけが登場する小説は、まことに読後、心地よい。

永代橋
隅田川に沿って南に進む。永代橋に当たる。元禄11年というから1698年につくられた当時は、豊海橋の北詰めにあった、よう。赤穂浪士もこの橋を渡って泉岳寺に進んだ、と。名前の由来は、永代島にあった永代寺の門前、門前仲町に向うことから。富岡八幡宮の別当としてつくられた永代寺ではあるが、明治の廃仏毀釈のあおりで廃寺となり、今は無い。
大川、と言うか、隅田川にそって隅田川テラスと呼ばれる散歩道が整備されている。直ぐに「新川の跡」。その昔、永代通りを一筋西に入ったあたりに亀島川と隅田川をつなぐ水路があった。それが新川。万治3年というから、1660年商人である川村瑞賢が荷揚げの便をはかるため開削した、と。ちなみに川村瑞賢の屋敷跡が永代通りと湊橋に続く箱崎湊通りの交差点近くに。

川村瑞賢の屋敷跡

教育委員会の説明版:「江戸時代、この地域には幕府の御用商人として活躍していた河村瑞賢(1618-1699)の屋敷があった。瑞賢(瑞軒、随見とも書く)は、伊勢国の農家に生まれ、江戸に出て材木商人となる。明暦3年(1657)の江戸大火の際には、木曽の材木を買い占めて財を なし、その後も幕府や諸大名の土木建築を請負い、莫大な資産を築いた。また、その財力を基に海運や治水など多くの事業を行った。瑞賢の業績の中でもとくに重要なのは、奥州や出羽の幕領米を江戸へ廻漕する廻米航路を開拓して輸送経費・期間の削減に成功したことや、淀川をはじめとする諸川を修治して畿内の治水に尽力したことが挙げられる。晩年にはその功績により旗本に列せられた。
斎藤月岑の『武江年表』によると、瑞賢は貞享年間(1684-1688)ころに南新堀1丁目(当該地域)に移り住み、屋敷は瓦葺の土蔵造りで、塩町(現在の新川1丁目23番地域)に入る南角から霊岸島一円を占めていた、と記されている。表門はいまの永代通りに、裏門はかって新川1丁目7番・9番付近を流れていた新川に面し、日本橋川の河岸には土蔵4棟があり、広壮な屋敷を構えていたようだ。『御府内沿革図書』延宝年間(1673-1681)の霊巌島地図を見ると、瑞賢が開削したとされる掘割に新川が流れ、その事業の一端を知ることができる。所在地は新川1丁目8番地域」、と。

新川跡を越前掘児童公園・越前掘に
新川跡に沿って島の中央あたりに。明正小学校の横に越前掘児童公園。霊岸島の由来書が;「当地区は、今から三百七,八十年前、江戸の城下町が開拓される頃は、一面の湿地葦原であった。寛永元年(1624年)に雄誉霊巌上人が創建して、土地開発の第一歩を踏み出し、同11年(1635年)には、寺地の南方に、越前福井の藩主松平忠昌が2万7千余坪におよぶ浜屋敷を拝領した。邸の北、西、南三面に船入掘が掘られて後に越前掘の地名の起こる原因となった。明暦3年(1657年)の江戸の大火で、霊厳寺は全焼して深川白河町に転じ、跡地は公儀用地となった市内の町々が、替地として集団的に移ってきた」。
同じ公園に越前掘の由来書も。概要をメモする;「江戸時代、このあたりは越前福井藩主松平越前守の屋敷があった。屋敷は3方が掘に囲まれ、越前掘と呼ばれていた。堀の幅は20mほどもあり運河として使われていた。明治になり、越前守の屋敷地が越前掘という地名になったが、次第に埋め立てられ、大正の関東大震災以降、完全に埋め立てられ、地名も越前掘から新川となり、現在に至る」、と。

隅田川・中央大橋から亀島川・「江戸港(湊)発祥跡」に

再び隅田川の川筋に戻る。中央大橋が。新川と佃島を結ぶ橋。霊岸島を一周しよう、ということで、橋を越え亀島川との合流点に。北に上り亀島水門近くに「江戸港(湊)発祥跡」が。慶長年間、幕府がこの地に江戸湊を築港して以来、水運の中心地として江戸の経済を支えて、昭和のはじめまで、房総の木更津や館山、相模・伊豆七島などへは浦賀、三崎、下田、伊豆諸島を結んだ船便がここから発着していた、と。ここから汽船が発着していたわけだ。






亀島川;南高橋・「徳船(とくふね)稲荷神社」
霊岸島、ぐるっと一周の最終地、「南高橋」の北詰に。徳船(とくふね)稲荷神社の由来書;「徳川期、この地新川は、越前松平家の下屋敷が三方掘割に囲われ、広大に構えていた(旧町名越前堀はこれに由来する)。その中に小さな稲荷が祀られていたと いう。

御神体は徳川家の遊船の舳(とも、へさき)を切って彫られたものと伝られる。明暦3年、世にいう振袖火事はこの地にも及んだが御神体はあわや類焼 の寸前、難を免れ、大正11年(1922)に至るまで土地の恵比寿稲荷に安置された。関東大震災で再度救出され、昭和6年(1931)、隅田川畔(現中央 大橋北詰辺り)に社を復活し、町の守護神として鎮座したが、戦災で全焼。昭和29年(1954)、同所に再現のあと、平成3年(1991)、中央大橋架橋 工事のため、この地に遷座となる。例祭は11月15日である。 中央区(八丁堀・湊)から(新川・霊厳島)散歩はこれでお終い。次回は佃島に向かう。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



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