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西台、中台の台地をへて志村へと進む
板橋散歩の3回目は西台からはじめることにした。先回の散歩で前谷津川緑道を歩いていたとき、前谷津川の流れる谷によって隔てられた徳丸・赤塚の台地と、もう一方の台地、それが西台の高台なのだが、その台地が気になった。で、台地上を、アップダウンを期待しながら西から東に横断してみよう、ということに。
大体のルートは、西台>(谷・環八)>中台>(谷・首都高速5号・池袋線)>志村>中山道>小豆沢。そして、時間が許せば赤羽まで進むといった、武蔵野台地の北端を歩くコースをルーティング。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)





本日のルート;都営三田線・西台駅>天祖神社>西台遺跡>峡田(はけた)の道>京徳観音堂>前谷津川緑道>円福寺>西台陸橋>西台不動尊?・西台公園>環八>サンシティ>中台馬場崎貝塚>稲荷神社>熊野神社>志村城跡


都営三田線・西台駅
都営三田線・西台駅で下車。南口に出る。船渡大橋から南に下る道路が高島平と蓮根地区の境を走る。台地が見えない。少々不安になりながらも、先に進む。西から東に一直線に走ってきた首都高速5号・池袋線が南方向に振れるところにあたる。高速道路の南に台地が見えてきた。陸橋を渡り、台地下に。適当にルートをとり、坂をのぼる。

天祖神社
道なりに進むと天祖神社。創建年代不詳。円墳のうえにつくられた祠がはじまり、とか。往時、神明社と。明治になって天祖神社となる。
神明、って言葉は「天照大神」、つまりは伊勢神宮の祭神、つまりは、皇祖。それではあまりに、畏れ多いと、明治の神仏分離例の際に、神明を天祖と改名した神社が多い。
境内奥には御岳山、といった山岳神、石神さま、また「天王さま」とも称される八雲神社など、近くにあった神様たちを合祀している。石神さまの前には「しゃもじ」が奉納されている。石神が「せき神」>「しゃく神」となり、「せき」が「咳」、「しゃく」が「杓子」となり「しゃもじ」となった、と。おなじような話は亀戸石井神社にもあった、よう。

西台遺跡
天祖神社の西に西台福寿公園。弥生時代後期の竪穴式住居跡が確認された西台遺跡。遺構は現在公園下に保存されている。案内をメモ:
「西台遺跡は、この公園を中心に、荒川低地を北に望む台地上にあり、東を西台中央通りの谷、西を前谷津川の谷に挟まれている。発見は昭和29年。発掘の結果、弥生期の住居跡、壷などが見つかった。中でも、菱形土器は、東海地方の土器との共通項をもち、同地域との交流を示唆する貴重なものであった、とか。

峡田(はけた)の道
公園は台地の北端。民家の軒先を歩き、急な坂というか石段を下る。標高差は10m以上ありそう。崖下の道を台地にそって進む。このあたりでは崖下の道を「峡田(はけた)の道」と呼ぶ。国分寺崖線では「はけ」、目白崖線では「ばっけ」と呼ばれている。

京徳観音堂
峡田の道を少し進むと京徳観音堂。入口にはお地蔵さんとか庚申塔。お地蔵さんは峡田の地蔵と呼ばれる。石段を登った境内には鎌倉だか室町だかの武士のお墓。昔はこの観音さまに御参りする人がひきもきらず、参道・石段が壊れた、とか。
それはそれとして、その修理代の負担に嫌気をさした村人は、草堂の柱を「逆さ柱」とした、とか。「逆さ柱」って、魔除けのためのものであり、参拝者にきて欲しくなかった、ということ。とはいうものの、日光東照宮の柱には「逆さ柱」がある、という。これは、建物は、建てた瞬間から壊れ始める、ということから、この「負」の要素に、「逆さ柱」という「負」の要素を掛けることにより、「正」に変えよう、ということだったのだろう、か。



前谷津川緑道
道を西にとり、前谷津川緑道に下る。前谷津川は、川越街道近く、赤塚新町あたりからはじまり、赤塚、四葉、徳丸、西台の谷間を流れ、高島平から新河岸川に注ぐ5キロ程度の流れ。現在はすべて暗渠となっており、このあたりは緑堂として整備されている。
徳丸・赤塚台と西台を隔てる前谷津川の谷地に立ち、東西の高台を確認。ふたたび西台の高台に戻る。京徳観音堂の南、西徳第二公園脇の坂をのぼる。



円福寺
坂を登りきったあたりに円福寺。立派な構えのお寺さん。もとは太田道潅が川越に開いたお寺。江戸時代のはじめにこの地に移された。西台の大寺と呼ばれていた由緒あるお寺さん。山門扉の桔梗の紋は大田道潅の紋所。
円福寺を舞台にした板橋の昔話・「枯れ葉の小判」;円福寺の坂の下を、お武家が通る。近くにいたお百姓に「鶴が池」は、と尋ねる。お百姓、場所を教える。お武家曰く「お礼に小判2枚与える。が、私が立ち去る姿を振り返ってはいけない」、と。お百姓、うれしさのあまり、その言葉を忘れ振りかえり、お見送りを。手元の小判は楢の枯れは二葉に変わっていた」、と。

西台陸橋
尾根に沿った道路を北に進む。道から少し東にはいったところに法蔵院。お寺は西向きの台地の端に建つ。円福寺の隠居寺。法蔵とは阿弥陀様のこと。阿弥陀如来がまつられているから。お寺というか庵っぽい法蔵院を離れ、道なりに北に少し進む。民家の入口といったところに馬頭観音堂。ここからさらに東に進むと陸橋が。この西台陸橋は西台1丁目と2丁目の台地をつないでいる。で、この西台1丁目の南は大きく谷に落ち込み、その向こうには西台公園の高台が見える。結構複雑な地形。

西台不動尊​・西台公園
谷地に下りる。坂道の途中、左手に西台不動尊の石碑。奥に、つまりは西台2丁目の崖地に不動堂。木彫りの不動明王は12年に一度のご開帳、とはいうものの、お堂は少々寂しげ。
お堂を離れ道なりに進むと西台公園。山林の中にフィールドアスレチックなどもある緑の深い公園。環八へと向かう道筋は、谷戸、というか谷津の風景。湧水もあったようだし、お不動さんのあたりには滝もあった、とか。

環八
公園の中をゆったり歩き、東端を下りる。下りきったところは谷地。これから進む中台の台地と分けている。谷地に環八が走っている。こんなところに環八?地図にもないし?もっとも手持ちの地図は古本屋で買った年代ものではあるのだが、それにしても環八はどうもできたてほやほや、って感じがするし。ということで、チェック。この区間が開通したのは2006年5月28日。首都高速5号線下から川越街道までをつなげている。またGoogle Mapのサテライトで確認すると、川越街道からその先にも道が見える。この板橋区間と同じ頃、目白通りから井荻トンネル部分も開通し、環八全線開通となった、ということ、か。計画から完成まで50年もかかったと、テープカットの石原都知事は吼えていたとか、いないとか。

サンシティ
環八をくぐり、「騒音対策」を要求する建て看板などを眺めながら、今度は中台の台地に取り付く。といっても、10m程度の標高差。首都高速5号線が走る台地の北端に再開発都市・サンシティ。遠目にも目立つ建物。旭化成研究所跡地利用とか。建設に先立っての遺跡調査で奈良時代の竪穴住居跡がみつかった、と。

中台馬場崎貝塚
少し南に進み若木3丁目のあたりには中台馬場崎貝塚がある。案内板のメモ:「今から6500年から5300年前、縄文時代早期末から前期中頃は、気候温暖化に伴う「縄文海進」と呼ばれる、海水面の上昇があり、この北側の荒川低地には海水が入り込み、前期中頃には埼玉県富士見市の先まで海が広がっていた。
中台馬場崎貝塚は、明治時代より知られていた。昭和42年に発掘調査が行われ、縄文時代前期中頃の住居跡から、多くの土器や石器とともに貝の堆積が発見された。その貝に河口付近で採れるヤマトシジミが多く含まれており、このあたりが川が海に注ぐ河口近くであったことがわかった」、と。 板橋には70近い遺跡がある、という。白子川とか石神井川、このあたりでは前谷津川とか出水川といった川が武蔵野台地を切り開き、そこで水を確保した人々が多く住んでいたのだろう。

稲荷神社
若木地区を南に下る。稲荷神社に到着。中台の高台に鎮座するお稲荷さま。古来、「稲荷渡り(とうかわたり)」と崇められお稲荷さんが降臨したとか、しないとか。稲荷が「いなり」となったのは「いなに」が転化したとかしない、とか。稲成りに、稲荷という文字をあてたとか。稲荷は稲を荷のごとく架けれるまでに生育したことに感謝したとか、しないとか。いまひとつわからない。どこかで読んだ記憶があるのだが、お稲荷さん=狐、というのは、狐が稲の害虫を食べてくれる動物であったため。稲成りの信仰をあまねく広めるとき、狐をキャンペーンマスコットにすれば、少々分かりやすかったから、とか。真偽のほど定かならず。 休憩のあとは、神社前の交番の横の道を東に進む。中台中学の手間の五差路右手に子育地蔵。祠の脇には庚申塔も。道なりに北に進む。北前野小学校あたりから坂を下り、首都高速の走る谷地に至る。

熊野神社
高速下・志村交差点を渡ると志村坂上に続く道・志村城山通りの坂が見える。坂をのぼることなく台地下を巻くように歩く。結構豪華なレジデンスが高台上に聳える。
ヴィオスガーデン城山と書いてある。都営三田線・志村三丁目方向に、ぐるっと崖下を迂回する。高速側のほぼ反対側から台にのぼる道。結構きつい。登りきったあたりに熊野神社。長久3年(1042年)志村将監が紀州熊野より勧請。天喜年間、源頼義と義家が奥州征伐の折り、境内に八幡様をまつった、と。

志村城跡
また、この地には志村城があった。康正2年(1456年)、一族間の抗争に破れ下総市川を追われた千葉自胤が赤塚城に籠もったとき、その前線基地として千葉信胤がこの地に入場したと言われる。熊野神社はこの志村城の守護神と。本丸は現在の志村小学校を中心とする一帯。北と西には出井川が流れ、攻めるに難い堅城と言われたが、大永4年(1542年)には北条氏綱により落城。熊野神社のあたりは二の丸跡にあたり、古墳のうえに建てられている、と。神社の社殿脇の空堀が往時の名残をとどめている。 台地を下り、都営三田線の志村三丁目駅に進み、本日の散歩を終える。志村の由来は、旧村名篠村、から。篠の生い茂る原野を開墾したのだろう、か。

成増から赤塚、徳丸へと進み東武練馬駅に
板橋区散歩の2回目は成増からはじめることにした。先回赤塚地区を歩いたとき、赤塚やそのお隣の成増地区にある神社仏閣、そして複雑な地形を、如何にも歩き残した感があった、ため。
営団成増で下車。赤塚地区に向かう前に、どうせなら西の端、和光市との境まで進み、境を流れる白子川、そして白子宿をちょっと眺めてみよう、と思った。「川はみな曲がりくねって流れている。道も本来は曲がりくねっていたものであった」からはじまる、岩本素白さんの描く『白子の宿』の地をちょっと歩いてみたかった、から。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)





本日のルート;成増駅>大山常夜燈>八坂神社>白子川>菅原神社>小松原阿弥陀堂>青蓮寺>氷川神社>諏訪神社>赤塚公園の崖線>北野神社>天神坂>前谷津川緑道から不動通り>東武練馬駅


成増駅
駅を南に進み川越街道に。西に進む。川越街道が大きく下る。白子川を渡るため台地から川に向かって下っていくのだろう。道の左手に団地が建て並ぶ。この一帯は成増1丁目遺跡。縄文から弥生にかけての集落跡が発見されたところ、とか。

大山常夜燈
坂道の途中、川越街道から旧川越街道がわかれるあたりに道祖神と大山常夜燈、そしてその近くに八坂神社。道祖神、って旅人の道中の安全を守るもの。江戸時代に街の辻などにあり、道標の役割も果たした。猿田彦命が御祭神。大山常夜燈は江戸中期、庶民の信仰の対象となった大山信仰のためにつくられた。

八坂神社
八坂神社は京都の八坂神社を勧請したもの。「天王さま」とも呼ばれている。御祭神は素戔嗚尊とイナダヒメノミコト。元々は現在地よりやや南にあったが、昭和8年の川越街道新道工事の際に移された」、と。
八坂神社って京都が本家本元。が、そのはじまりはよくわからない。一説では高麗の調使であった伊利之(いしり)の後裔・八坂氏が、朝鮮の牛頭(ごず)山に祀る牛頭天王を移したことにはじまる、とも。「天王さま」と呼ばれる所以である。
八坂神社という名になったのは明治の神仏分離令以降。明治になって。京都の「天王さま」・「祇園さん」が八坂神社に改名したため、全国3000とも言われる末社が右へ倣え、ということになったのだろう。八坂という名前にしたのは、京都の「天王さま」・「祇園さん」のある地が、八坂の郷、といわれていた、から。ちなみに、明治に八坂と名前を変えた最大の理由は、「(牛頭)天王」という音・読みが「天皇」と同一視され、少々の不敬にあたる、といった自主規制の結果、とも言われている。「祇園さん」と呼ばれていた理由は、「牛頭天王さま」は祇園精舎のガードマンでもあった、ため(鈴木理生『江戸の町は骨だらけ(ちくま学術文庫)』)。

白子川
八坂神社の脇を旧川越街道が下る。このあたりは新田宿。白子川を越えた白子宿に続く。坂を下りきったところに白子川。南大泉4丁目の大泉井頭公園を源流点とし、和光市、板橋区を流れ、板橋区三園で新河岸川に合流する全長10キロの川。かつては武蔵野台地の湧水を集めて流れる川。大泉の名前も、白子川に流れる湧水の、その豊さ故につけられた、とか。一時は汚染ワースト一位といった、あまり自慢にならないタグ付けをされたりしたが、現在では相当改善されている、と。
白子の由来は、新羅(しらぎ)が変化した、と言われる。奈良時代、武蔵国には高麗郡、新羅郡が置かれた、ってことは以前メモした。新羅や高句麗、百済からの渡来人が移住したわけだが、白子川も彼ら渡来人に由来する名前であろう。
白子川の手前に童謡作家、清水かつらが住んでいた家があった、とか。かつらの代表的な歌詞は「靴がなる」。当時としては「靴」は高級品であったわけで、わらじではなく、靴に「はれやか」な思いを託していたのかも。

「靴がなる」
1.お手々つないで野道を行けば   みんなかわいい小鳥になって   歌をうたえば靴が鳴る   晴れたみ空に靴がなる
2.花をつんではお頭(つむ)にさせば   みんなかわいい兎になって   はねて踊れば靴が鳴る   晴れたみ空に靴が鳴る

ちなみにおなじところに「浜千鳥」や「おうちわすれて」の作者・鹿島鳴秋も住んでいた。
「浜千鳥」
青い月夜の 浜辺には 親を探して 鳴く鳥が 波の国から 
生まれでる 濡(ぬ)れたつばさの 銀の色
夜鳴く鳥の 悲しさは 親を尋ねて 海こえて
月夜の国へ 消えてゆく 銀のつばさの 浜千鳥




白子宿
白子宿のあたりを少し歩く。坂の上に熊野神社。「東京名湧水57選」にも選ばれた湧水もあり行ってみたいのだが、これではきりがない。おまいりは次の機会とし、成増に引き返す。ちなみに白子宿といえば、岩本素白さんが「白子の宿 ひとり行く」という散歩のエッセーを書いている。『日和下駄』ではないけれど、散歩随筆の達人って、永井荷風がしばしば語られる。が、この素白さん、あれこれ散歩に「理屈」をつけることなく、自然な風情がなんとなく魅力的。
「白子の宿」から引用する;「僅かばかりしか家並みの無い淋しい町が、中程のところで急に直角に曲がり、更にまた元の方向に曲がっている。いわゆる鍵の手になっているのである。それと、狭い道の小溝を勢いよく水の走っているのとが永く記憶に残った。新しく出来た平坦な川越街道を自動車で走ると、白子の町は知らずに通り越してしまう。静かに徒歩でゆく人達だけが、幅の広い新道の右に僅かに残っている狭い昔の道の入口を見出すのである。道はだらだら下りになって、昔広重の描いた間の宿にでもありそうな、別に何の風情もない樹々の向こうに寂しい家並みが見える(白子の宿・独り行く2)」。素白先生は、この白子宿から新座の平林寺まで歩いた、という。そのうちに同じ道筋を辿ってみたい。

菅原神社
白子川から八坂神社まで戻る。脇に登り道。道なりにすすむと東武東上線。跨線橋を渡り先に進む。台地から坂道を下り、成増駅北口商店街、百々向川(ずずむきがわ)緑道を越えると台地下に天神下公園。少々休憩。台地の下をぶらぶら歩くと崖線に沿って旧白子川緑道が走っていた。台地を登る。菅原神社。旧成増村の鎮守さま。新編武蔵風土記では「天王社」。17世紀後半には「自在天社」。菅原神社となったのは明治になってから。
自在天、って仏教で言う地獄や天国といった六つの世界(六道)の最上位界に位する神様。菅原道真の御霊に「天満大自在天神」といった神号がついているが、これは道真の御霊と自在天が習合したものであろう。自在天社が菅原神社となった理由も、このあたりにあるのだろう、か。ちなみに、神社から臨む白子川の谷の眺めは結構、いい。

小松原阿弥陀堂
更に道なりに進むと小松原阿弥陀堂。阿弥陀堂自体は、さっぱりしたもの。その前の道角に庚申塔。「西 白子道 北 吹上道」と。区民農園に沿って進むと道は下りとなる。下りきるとケヤキの大木。その根元の道角に庚申塔。道は三方向に分かれている。適当に進む。左斜面は梅林。

青蓮寺
台地に登り少し進むと青蓮寺。台地の先端部分にあり、いい眺め。青蓮寺の寺号は「石成山」。成増の旧名でもある。「石」ころだらけの原野を開き、耕地と「成」したから、とか。成増の由来は、この石成村の名主の名前が田中左京成益であった、ため。成益が成増となった。また、富がどんどん成り増していく、のがその由来といった説も。お寺の近くの石成公園にちょっと寄り、三園通りに出る。成増と赤塚の境を南北に走る道である。

氷川神社
三園通りを越え少し東に進むと氷川神社。赤塚城主千葉自胤が大宮にある武蔵一宮・氷川神社から勧請したもの。境内脇に富士塚もある。桜の並木からなる長い参道を南に下ると参道入り口あたりにケヤキの老木。明治期の落語家三遊亭円朝の落語「怪談乳房榎」にちなんだ、「乳房榎大神」の碑がある。乳房の病にれいけんあらたか、とか。とはいうものの、落語に登場するのは、先回歩いた松月院の境内にある榎。コブからしたたる甘い雫をお乳がわりに、子供を育てたとか。

諏訪神社
氷川神社の少し「南に清涼寺。横に石成公園。成り行きで進むと赤塚小学校とか赤塚体育館に至る道に出た。先に進むと松月院通りと交差。通りを東、というか、北東に進む。先回歩いた、松月堂大堂、そして松月院をやり過ごし、新大宮バイパスを越え、台地の北端に進む。「竹の子公園」隣に諏訪神社。
赤塚城主の千葉自胤が15世紀の中ごろ、信州諏訪神社より勧請。本当に台地の端。木立に遮られそれほど見通しはよくないが、高速道路越しに高島平が見下ろせる。


赤塚公園の崖線
神社のある大門地区をはなれ、道なりに坂を下る。崖線下には赤塚公園が続く。結構な比高差。武蔵台地と沖積低地の境がはっきりわかる。崖下を進み赤塚公園交差点で再び台地に上る。
紅梅小学校、安楽寺と進む。安楽寺は室町時代の創建。九州・大宰府にある菅原道真の廟所である安楽寺を模したとか。





北野神社
松月院通りを越え、北野神社に。長徳元年(995年)、この地に疫病が流行したとき、梅の古木に祈願すると、あら不思議、ということで、梅にちなんで京都の北野天満宮より勧請。それにしてもこのあたり、北野神社とか菅原神社とか、安楽寺とか、紅梅(小学校)とか、菅原道真にちなむものが多いように思える。このあたりの「徳丸(徳麻呂)」の地名も、道真公の子供・徳丸から、って説もあながち間違いでもないのかも。


天神坂
北野神社の鳥居あたりから南を眺める。低地を隔て、その先に台地が見える。あの台地上を川越街道が走るのだろう。名前は忘れたが、近くの公園に展望台があり、そこからの眺めもなかなか、いい。
北野神社に戻り、急な坂を下る。天神坂。20m程度の標高差があるよう。下りきったところに「前谷津川緑道」。水源は赤塚新町2丁目・赤塚新町保育園のあたり。松月院通りとほぼ平行に南から東に流れ、徳丸6丁目から北に向かう。また下赤塚駅近くから続く支流があり徳丸5丁目・石川橋付近で前谷津川に合流する。支流はもうひとつある。新大宮バイパスと東武線が交差する赤塚1丁目あたりからの流路らしきものが見られる。前谷津川のまとめ;前谷津川は台地上のいつくかの湧水を集め、今まで歩いてきた北野神社のある徳丸の台地と、今から歩こうとする西台の台地を分け、高島平に下る全長4キロ程度の川である、ということか。





前谷津川緑道から不動通り
前谷津川緑道に大山不動明王の碑。大山参詣の人たちが身を清めたところ。東に進み「不動通り」と交差。緑道を離れ、不動通りに。不動通りは東武練馬駅と高島平をつなぐ道。南は東武線との合流点で途切れ、北は都営三田線で途切れる。南に下り、坂が台地に登る手前に中尾不動尊。さっぱりしたお不動さん。不動通りの名前の由来はここにある。不動尊の脇の急坂を登る。長谷津観音堂。庚申塔や石仏が。これも、さっぱりしたお堂。

東武練馬駅
お堂を都立北野高校に沿って急な坂を登る。で、登りきったところが東武練馬駅。川越街道を走っているだけではわからない。が、北から進んでくると台地上に鉄道・道路が走っている、ってことがはじめてわかった。それにしても複雑な地形を歩いた一日であった。ルートマップでアップダウンを確認し、将に納得。

赤塚地区から旧川越街道を中板橋に
北区を歩き終え、次は何処へ、と思案した。あれこれ考え、結局板橋区を歩くことにした。理由は北区の隣にある、ということだけだった、かとも思う。とはいうものの、板橋って名前で思い浮かべるランドマークは、中山道の板橋宿、川越街道、それと高島平といったところ。歩くにしてもきっかけがあまりに乏しい。ということで、例によって板橋区の郷土資料館に出かけ、資料を求め、スキミング・スキャニング。それからおもむろに散歩にでかけよう、ということに。  (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)





本日のルート;板橋区郷土資料館>赤塚城本丸跡>乗蓮寺>不動の滝>松月院>松月院大堂>東武東上線下赤塚駅・旧川越街道に>上板橋>石神井川・下頭橋>中板橋駅

板橋区郷土資料館
板橋区の郷土資料館は都営三田線の西高島平が最寄り駅。駅前に東西に高島通り、南北に首都高5号・池袋線が走る。高速の下は新大宮バイパス。北には新河岸川と荒川。新河岸川は明治まで小江戸・川越と江戸を結ぶ舟運路であった。河岸跡を辿った散歩が懐かしい。荒川には笹目橋が架かる。
郷土資料館は駅の南、首都高速が東に、新大宮バイパスが南へと分岐するあたり。赤塚溜池公園の中にある。池で釣りをする人たちの中を進み郷土館へ。23区で最初に作られた郷土資料館、とか。『常設展示目録』、『"まち博"ガイドブック』等、例によって資料を買い求める。『板橋区文化財マップ』は無料で頂戴できた。
さて、どこから歩くか、あれこれ資料に目を通す。と、この赤塚溜池公園に接する台地上に「赤塚城本丸跡」がある。ランドマークとしては結構わかりやすい、ということでこの城跡からはじめ、あとは成行きで日が暮れるまで、板橋方面に向かって歩こう、と。

赤塚城本丸跡
木立の中を台地上に登る。城跡公園の広場に。赤塚城は武蔵千葉氏の主城のひとつ、と考えられている。武蔵千葉氏と赤塚城のメモ:下総の守護千葉氏は、亨徳の大乱に巻き込まれ、骨肉相食む一族間の争いを繰り広げた。亨徳の大乱って、古河公方足利成氏と関東管領・上杉氏の覇権争い。康生2年(1456年)、足利成氏に攻め込まれた千葉実胤(さねたね)・自胤(これたね)兄弟は下総・市川城を逃れ、この赤塚城と隅田河岸の石浜城に逃れる。これが武蔵千葉氏のはじまり。
寛正4年(1468)、自胤は太田道潅に従い、現在の和光市や大宮、足立区内に所領を拡大。武蔵千葉氏の基盤を固める。その後武蔵千葉氏は南北朝以来の領主であった京都の鹿王院の支配を排除し、赤塚地区の支配の強化につとめる。鹿王院って、足利三代将軍満建立の禅寺。時代が下り、小田原後北条が武蔵に進出してくると武蔵千葉氏はこれに従い、天正18年(1580)北条氏が秀吉に滅ぼされるまで勢力を振るった、と。
城は荒川低地に面し、東と西に大きく入り込んだ谷に挟まれた台地上にある。縄張りは広場部分が「一の郭」。広場南の梅林部分が「二の郭」、その西側が「三の郭」とされる。台地の北、東、西の三方は自然の谷で切り取られ、台地下の溜池公園は谷からしみ出した水を集めている。
台地上からは、北に広がる高島平が見える。もっとも、木立が深く、見通しはそれほどよくはない。この高島平は江戸時代、「徳丸が原」と呼ばれる原野であった。天保12年(1841年)、高島秋帆が西洋式砲術訓練をこの地でおこなう。
明治時代以降は開墾され、「徳丸田圃(たんぼ)」とよばれる水田地帯となる。高島平の団地の開発がはじまったのは昭和40年以降のこと。高島平って地名ができたのは、昭和44年。もちろん、高島秋帆に由来する。

乗蓮寺
台地上を東京大仏のある乗蓮寺に向かう。結構複雑な地形。標高25mから30m程度の台地が枝状というか舌状に複雑に「うねって」いる。道なりに進み乗蓮寺。もともとは下板橋(現在の仲町)にあった。江戸時代には中山道の板橋宿内にあり、将軍から10石の寺領が与えられた御朱印寺。1石でひとりが1年間食べれるお米である。10人の食い扶持ということか。
江戸切絵図には石神井川の近くに乗蓮寺が描かれている。現在の地に移ったのは昭和46年。高速道路の建設にともなう国道17号線の拡張にともない7年の歳月をかけて移ったという。境内には天保の飢饉の供養等や中世の豪族・板橋信濃守忠康のお墓などがある。板橋忠康は旗本板橋氏ならびに板橋上宿名主板橋氏の先祖と言われている。大仏さまは昭和52年につくられたもの。8mの高さがある。

不動の滝
乗蓮寺を離れ、不動の滝に。赤塚城のある台地と道ひとつ隔てた台地の崖から水がわずかながらも流れ出ていた。崖にある不動石像が名前の由来。昔、大山詣でや富士詣でにでかける人たちが、この湧水で禊ぎをおこない旅立った、とか。この滝は「東京名湧水57選」にも選ばれている。





松月院
台地の間の道筋を上る。上り切ったあたりに「松月院」。立派な構え、品のいいお寺さん。延徳4年(1492年)、武蔵千葉氏の千葉自胤が寺領し中興した。幕末には高島秋帆が高島平で西洋式砲術訓練をおこなったときの本陣。下村湖人がこのお寺で『次郎物語』の構想を練った、とか。

松月院大堂
松月院の前を東西に走る松月院通りと東武東上線・下赤塚駅へと南に下る赤塚中央通りの交差点・松月院前を少し西に戻ると、道の南側に「松月院大堂」。
板橋区で最も古いといわれるお寺。平安時代に創建され、室町の頃は七堂伽藍をそなえた大寺院であった、とか。上杉謙信が小田原北条攻めのとき、焼き払った、と。現在は往時の面影は偲びがたく、少々殺風景。

東武東上線下赤塚駅・旧川越街道に
何も考えずに訪れた赤塚地区ではあるが、複雑な地形や由緒ある神社・仏閣が点在する。予想外に魅力的なところである。一通り歩きたいのだが、如何せん時間が足りない。赤塚には再び訪れることにして、東武東上線方面に向かう。日が暮れるまで歩き、日没とともに直近の駅から電車に乗ろうという算段、とした。
赤塚中央通りに戻り、道なりに南に進んでいくと線路に当たる。線路手前に出世稲荷。結構小振りであるのは、地元の旧家の屋敷神であるから、と。東武東上線・下赤塚駅脇の信号を渡り南に進むと川越街道にあたる。川越街道を東に歩き、赤塚新町1丁目あたりまで進むと、川越街道から別れる道筋。いかにも旧道っぽい感じ。旧川越街道。このあたりは練馬区のようだ。
川越街道は中山道の脇往還として江戸時代、川越藩主・松平信綱によって整備された。板橋宿平尾(板橋3丁目)で中山道と別れ、上板橋宿(板橋区)、下練馬宿(練馬区)、白子宿(和光市)、膝折宿(朝霞市)、大和田宿(新座市)、大井宿(ふじみ野市)と6つの宿場を経て川越城下に達する。川越名産のサツマイモをもじって、「九里(栗)よりうまい十三里」と、言われる。実際は、川越城から江戸の川越藩の屋敷までは11里(44キロ)ほどであったよう。参勤交代では、川越城を夜中12時に出発。大井宿で小休止。あとは5つの宿をとおり、翌日の夕刻には江戸に到着した、という。新河岸川の舟運にお客を取られ、難儀した話もどこかで読んだ記憶がある。舟運のほうが速くかつ快適であろうから、それはそうだろう。

上板橋
17号線・新大宮バイパス、東武東上線・東武練馬駅を越え歩く。街道脇の浅間神社も軽くお参り。北町を越えると再び板橋区に入る。上板橋2丁目。東武線・上板橋の南を進み、上板橋1丁目で旧川越街道は川越街道に合流する。もっとも、後からわかったのだが、旧川越街道は合流点手前から上板橋四小あたりを通り、東武線・ときわ台駅前を通り先にすすんでいたようだ。ともあれ、川越街道を進み環状7号線・板橋中央陸橋を越えると石神井川に出合う。

石神井川・下頭橋
最寄りの駅をチェック。石神井川に沿って少し上ったところに東武東上線・中板橋駅がある。川に沿って歩くと下頭橋。先ほど別れた旧道がここに続いている。橋の東詰めにこじんまりした祠・「六蔵祠」。案内をメモする;「弥生町を縦断するのが旧川越街道。
大山町境から石神井川迄が上板橋宿跡。宿端の石神井川に架かる下頭橋は寛政10年(1798年)、近隣村々の協力を得ることで石橋に架け替えられ、それまで頻発した水難事故も跡を絶ったという。この境内にある「他力善根供養」の石碑はそのときに建てられたもの。
橋の名の由来には諸説ある。一説は、僧が地面に突き刺した榎がやがて芽をふいて大木に生長した逆榎がこの地にあった。第二説は、川越城主が江戸出府の折、江戸屋敷の家臣がこの地で頭を下げて迎えたから。第三節は橋の袂で喜捨を受けていた六蔵さんが、そのお金をもとに石橋に架け替えたから。六蔵祠は、その六蔵さんの威徳をたたえ、建てられた」、と。このあたりは上板橋宿の中宿あたりだったのだろう。

中板橋駅
石神井川に沿って進む。線路にあたる。右折し中板橋駅に進み本日の散歩終了。板橋を歩く前には、板橋区って川越街道が走る、平坦な地形と思い込んでいた。実際は結構複雑な地形。北に荒川の氾濫によって形成された低地帯と、その低地帯に対し屹立する武蔵野台地といった地形に立地する。で、その武蔵野台地は石神井川、白子川、前谷津川といったいくつかの河川で刻まれ、複雑な谷合を作り上げている。北区の台地と同様に、低地に沿った台地上には旧石器時代から縄文、弥生、古墳、奈良・平安に至るまでの数多くの遺跡が残る。はてさて、「地形のうねり」散歩フリークとしては俄然板橋散歩が楽しみになった。次は、板橋の西の端から台地と谷合のアップダウンを楽しむことにしよう。



志村から前野地区をへて、板橋宿、そして常盤台に

西端からはじめた板橋散歩も4回目。今回は、北東部からはじめ、中央部から南部に向かって歩こうと思う。大雑把に言えば、北区との境あたりから豊島区に向かって下る、といったコース。
このコースを歩けば、中山道、川越街道、石神井川、そして板橋宿といった板橋のビッグワードはカバーできそう、である。 




 



本日のルート龍福寺>小豆沢神社>総泉寺>清水薬師>旧中山道・清水坂>延命寺>見次公園>出井川跡>常楽院>西前野熊野神社>東前野熊野神社>長徳寺>蓮沼・氷川神社>南蔵院>清水稲荷神社>智清寺>日曜寺>環七の近くに氷川神社>板橋宿>中宿>板橋観光センター>本陣跡>縁切り榎>石神井川・東武東上線>常盤台・天祖神社>大谷口・エンガ掘>氷川神社と西光寺>大谷口の給水塔

龍福寺
都営三田線・志村坂上で下車。小豆沢地区に向かう。板橋区の北東端といったあたり。駅前から小豆沢通りを東に進む。小豆沢公園前交差点を越え、すぐ北に折れしばらく進むと龍福寺。板碑が多く残されている、とか。このあたりは小豆沢貝塚が発見されたところ、らしい。崖下に新河岸川が流れている。

小豆沢神社
お寺の隣に小豆沢神社。この地域の氏神さま。で、小豆沢の由来だが、その昔、この地で小豆を積んだ船が沈没。積荷の小豆が漂着した地である、という説もある;
「小豆沢村は、往昔、荒川の入江に傍って、七々子崎と唱へし、わずかの湊なり、平将門東国を押領せし頃、貢物の小豆を積来り船、この江に沈みしかば、此の名は起これり」、と。
また、赤羽の地名の由来でメモした、赤埴(あかはね)、つまりは赤い土、からきたものかとも思う。真偽の程定かならず。このあたり志村城址から小豆沢神社にかけて円墳が点在。志村古墳群と呼ばれるほど。この神社もかっては観音塚と呼ばれる円墳であった、とか。

総泉寺
小豆沢神社を離れ、都営三田線・志村坂上に戻り、清水薬師に向かう。中山道を北に進む。中山道が環八との交差に向かって下る、というか、新河岸川の流れる低地に向かって下る途中に総泉寺。この総泉寺って、台東区散歩のとき橋場で出会った。正確に言えば、もとはその橋場の地にあった江戸三刹と呼ばれる大寺であった、あの総泉寺。板橋に移ったとそのときのメモに書いていたが、ここにあった、とは。
総泉寺で思いだすのは、総泉寺にあった平賀源内のお墓はもとの橋場の地に残っている、ということと、隅田散歩の折の「梅若伝説」の悲劇の母親・妙亀尼のお墓がある、ということ。お寺の歴史をまとめておく。
開基は建設仁元年(1201年)、千葉介により開かれた。中興開基は石浜城主・千葉介守胤。江戸時代には曹洞宗江戸三刹の一つとして幕府の庇護を受け,同時に秋田藩主佐竹氏の江戸での菩提寺となった。
現在の地に移ったのは昭和2年。関東大震災により被災し、当地にあった大善寺と合併した。境内にある薬師三尊は,もと大善寺の本尊。清水薬師とも呼ばれる,清水坂の地名もこれによる。地蔵堂に祀られている地蔵は,もと清水坂の中腹にあったもの。現在は子育地蔵として信仰を集めている。鉄筋のつくり、っぽい。中山道沿いお寺の営業用看板が結構目立つ。

清水薬師
坂を少しくだり、薬師の泉に。現在は公園になっている。江戸名所図会「清水薬師・清水坂」を見ると、このあたりに清水薬師大善寺があった、よう。清泉というか、清水が湧き出でていたわけだ。
新編武蔵風土記稿の文政9年(1826)の豊島郡の項の記録;「大善寺、禅宗曹洞派江戸芝青松寺末医王山薬師院と号す。本尊薬師聖徳太子の作坐像長二尺許是を清水の薬師と呼ぶ。享保の頃有徳院殿(八代将軍吉宗)御放 鷹の時、境内に清水あり、その流れいと清冷なれば清水の薬師徒と唱えよとの仰せあり。これより以来近郷にその名高しという」。清水坂の由来はこの清泉にあったわけだ。
ちなみに、江戸名所図会を見ていると、清水坂って、まっこと山の中って雰囲気。現在の姿から、この坂が難所であった、ってことは想像できない。

旧中山道・清水坂
清水薬師を離れ、中山道を志村坂上方面に戻る。道の西側に成り行きでそれる。道なりに進むと、都営三田線の高架が台地下に入り込むあたりに結構な坂道。清水坂。偶然、旧中山道に出会った。
この清水坂、江戸を出てから最初の難所であった、とか。昔はもっと勾配がきつかったのか、そうでなくても、舗装していない往時、雨でも降れば滑ったりして大変であったのか、その「難所感」はいまひとつ実感はできないながら、坂を登る。
清水坂の由来は、このあたりに、というか中山道沿いの清水薬師さんなのだが、清水が湧き出ていたから。千葉隠岐守信胤にちなみ、「隠岐坂」とも。坂の途中に地蔵尊があったので、「地蔵坂」とも。 江戸名所図会に清水坂の説明;「志村にあり。世に地蔵阪とも号(なず)く。旧名は隠岐殿(おさどの)坂と呼べり。昔隠岐守何某闘かるるゆゑなりといふ。この地峻岨 (けんそ)にして、往還の行人おはいに悩めり。よって寛保年間(1741~44)大善寺の住守直正和尚、僧西岸と力を戮せ(あわせ)、勧進の功を募り、木 を伐り荊(いばら)を刈りて、石を畳みて階とす。しかありしより、行人苦難の患ひを逓」、と。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


延命寺
旧中山道を歩き、志村坂上まで戻り、志村銀座を西に向かう。少し歩き、これも適当に志村銀座通りを折れて南に進む。木立茂るあたりを探しながら歩くと、次の目的地・延命寺に。大永4年(1524年)、小田原北条家の北条氏綱が江戸城から川越に落ちてゆく扇谷上杉朝興との追討戦となり、このあたりで干戈を交える。先般のメモのように、その折、志村城が落城。城主千葉信胤の家臣、見次権兵衛は自宅庭先で討ち死にした子息・権太郎をみるにつけ、世の無常を感じ自邸を寺としたのがおこり。江戸時代は志村・熊野神社の別当寺。

見次公園
延命寺を離れ、道なりに進む。次の目的地は中台・前野町のある高台。首都高速5号・池袋線の走る谷地に下りる。坂道に沿って志村坂上見次公園がある。その東手には凸版印刷。この板橋工場には昔来たことがある。出張校正であったのだろうか。ともあれ、坂を下る。谷地に見次池。このあたり、もともとは田圃(たんぼ)。いたるところ湧水が湧き出ていたとのこと。池ができたのはそれほど昔のことでもないかと思う。

出井川跡
首都高速5号・池袋線、見次交差点に。このあたりには昔、出井川が流れていたよう。出井川の源流点は泉町の「出井の泉」。川は泉町からはじまり、すぐに高速道路の路線に沿って北西に進む。もちろん今となっては流路などなにもない。途中2箇所の支流を集め、ひとつは上板橋の西手あたりでもあるのだが、ともあれ支流を集め、先般歩いた志村城山あたりで高速から離れる、というか流れていた。あとは、城山の台地下を巻き、都営三田線・志村三丁目に。
そこからは緑道となり、新河岸川に続いている、というか、「いた」。

常楽院
首都高速下・交差点を渡り、前野町の台地に取り付く。少し進むと常楽院。いい風情のお寺さま。土器寺とも呼ばれる。この地で弥生式土器が発見され、前野町式土器として知られる。




西前野熊野神社
常楽院山門を離れ西に。前野本通りを過ぎ、途中、急坂を登り、のぼりきったところに西前野熊野神社。神社は少し寂しい。が、神社裏手から台地下の眺めは結構いい。
台地のさらに上に淑徳学園。で、今更のこと気がついたのだが、淑徳学園の西って、先回歩いた稲荷神社のある若木地区。地名の「襷」が繋がってくる。




東前野熊野神社
淑徳学園から前野公園に進み、前野中央通りの坂道を下る。この道、逆に進めば、東武東上線・上板橋の東手に出る。坂を下り、台地を下りるちょっと手前、前野町3丁目に東前野熊野神社。西前野に比べて造作はいい。ちょっと長い参道も格好いい。神社の東は台地の端。下に大型ホームセンターが見える。境内で少々休憩し次のルートを考える。




長徳寺
東前野熊野神社を離れ、台地を降りきり、首都高速5号・池袋線に沿って少し下る。道に沿って長徳寺。藤原時代の阿弥陀像がある、という。結構、構えの大きいお寺さまである。
大原町をブラブラすすみ中山道にあたる。大原の地名の由来。小豆沢村の字である、大日前・大日後の「大」と、本蓮沼村の字名・西原の「原」を組み合わせたもの。そんなんありか。小豆沢村の字名・大日は長徳寺にある「大日」如来から来ている、と。


蓮沼・氷川神社
中山道の陸橋に上がり、深い緑を探す。少し北に戻ったあたりに、それっぽい緑。少し北に戻り、道から少々入ったところに氷川神社。神社の由来もさることながら、このあたりの地名蓮沼がめっぽう気になった。こんな台地の上に沼がある?川筋もないのに?調べてみた。
この神社、もとは志村の台地下、荒川河川敷、現在の坂下・東坂下・舟渡あたりにあった。が、たびたびの洪水の被害のため、特に享保12年(1728年)の洪水の折、村人は水難を避けて現在の地に移る。蓮沼村字前沼にあった氷川神社もこの地に移る。ために、蓮沼村は坂上と坂下の二ヶ所に別れることになる。坂下は「上蓮沼村」と称したため、この地は「本蓮沼村」となった、と。蓮沼町もこの神社のまわりだけ、というこじんまりした地域であるのも納得。水害で何度となく流失したため「十度の宮」とも呼ばれる。

南蔵院
氷川神社の隣に南蔵院。氷川神社の別当寺。同じく志村坂下からこの地に移る。度重なる荒川の氾濫を避けてのことである。享保6年(1722年)、八代将軍吉宗が荒川で鷹狩をしたとき、御膳所となった、という由緒のあるお寺まさ。関東36不動霊場の第12番札所の志村不動尊と呼ばれる。


清水稲荷神社
中山道を南に下る。首都高速5号・池袋線と合流。少し南に歩き、稲荷通り商店街を西に入る。少し進むと清水稲荷神社。由緒書をメモ;創立年代不詳。

『遊歴雑記』に「老親飲めば美酒、その子飲む時は清水なり、彼地を呼んで酒泉澗といい、後に清水村とあらためけるとなむ」とある。当時一丈 ばかりの高台に祀られていた小祠が、当稲荷神社であり、後世、中山道の支道の当地に移転され、古来清水村の鎮守として尊崇を集め伝統を守って今日に至る、と。
酒泉澗があったのは、この神社の少し北、志村第一小学校近くの清水児童公園あたり(泉町24)。出井川の源流点がここ、のはず。



智清寺
清水稲荷を出て、道なりに南に下る。中山道と環七の交差・大和交差点に。少し南に進み、中山道を離れ、西に折れる。すこし坂をくだると智清寺。室町時代初期の創建、とされる。天正11年(1591年)、家康が5石の御朱印地を寄進。
山門手前の石橋は、かつてこの地を流れた石神井川の分水である中用水(根村用水)の遺構。江戸から大正に渡って流れていた、と。境内には豊臣秀吉ゆかりの「藤吉稲荷」(木下稲荷、出世稲荷、とも)がある。


日曜寺
すぐ隣に日曜寺。江戸時代の創建。本尊の愛染明王から「愛染さま」の名がある。「藍染」に通じるところから、染物業者の信仰を集めた。享保年間、八代将軍・吉宗の第三子・田安宗武によって再興された、と。山門の扁額は白河藩・松平定信の書。それにしても、「日曜」って、どこから来た言葉なのだろう。少なくとも、曜日の「日曜」からきたとは思えない。曜日の意味での「日曜」が使われ始めたのは明治になってから、ってわけだから。
調べる;この場合の「日曜」は、「七曜の御暦(しちょうのごりやく)」からきている、かと。七曜暦はインドの天文学・暦をもとにつくられたもので、日本では平安時代に既に使われていた、よう。一説によれば空海が中国から持ち帰った「宿曜経(すくようきょう)」の影響とされる。特に密教各派がこれを使った、とか。宿曜経によれば、日(太陽)と月、それと火星・水星・木星・金星・土星の七つを七曜と称し、その暦をもとに善悪吉凶を占う、一種の占星術といったものであった、よう。藤原道長も日記に曜日が記載している。現在の「曜日」の意味ではなく、その日の吉凶の判断の参考にしていたのだろう。こういった素地もあったので、明治に太陰暦から太陽暦に変更するに際し、1週間Seven daysを意味する「曜日」の用語として、この「七曜」を採用したのだろう。ということで、この日曜寺の日曜って、大いに密教の影響を受けた「宿曜経」の意味するところの「日曜」であった、ということで一件落着、としておこう。



環七の近くに氷川神社
日曜寺を離れ、道なりに坂道を上る。すぐ下は石神井川なのだが、坂の上を走る環七の近くに氷川神社がある。ちょっとのぞいてみよう、と思う。
真に立派な構えのお宮さま。由来書のメモ;「創建年代は不明。社伝によると応永年間(1394〜1427)に大宮氷川神社から勧請されたと伝えられている。当松山氷川大名神と称し、旧根村、板橋宿上宿の産土神として崇敬された。相殿として祀られている蒼稲魂命(うかのみたまのみこと)は、もと下板橋宿稲荷台の新堀山に鎮座していた新堀稲荷社。板橋城廃城後、太田道灌の家臣新堀氏がこの地で奉斉したもの。明治40年氷川神社に合祀された」、と。

板橋宿
氷川神社を離れ、次は板橋宿に向かう。いつだったか、石神井川を源流から下り王子で隅田川の合流点まで歩いたことがある。途中、石神井川に板橋という橋がかかっており、そこが板橋宿であった。ということで、成り行きで南に石神井川まで下り、川に沿って続く遊歩道を東に向かう。
中山道の手前の氷川神社にちょっとお参りし、中山道を渡り少し進むと旧中山道に板橋が架かる。橋の脇に「板橋」の案内。簡単にまとめる;「板橋の名前は、この橋に由来する。板橋の名前は鎌倉時代の古書に登場。江戸には宿場町、明治には町名、昭和には区名となる。板橋宿は南の滝野川村の境から北の前野村境までのおよそ2.2キロ程度。この橋より京都寄りを上宿、江戸寄りを中宿、平尾宿と称し、山宿をまとめて板橋宿と呼んだ。板橋宿の中心は、本陣や問屋場、旅籠が並ぶ中宿ではあるが、この橋のあたりも賑やかであった。橋野長さは16m強、幅5m強あった」、と。

中宿
橋を離れ、旧中山道を南に下る。商店街となっている。本陣跡などないものか、と左右を見ながら進むが、それらしきものは見当たらない。道なりに進むと、旧中山道中宿の標識のある小振りなロータリーに。これから先は不動通り商店街となる。はてさて、と思案。
と、道脇にに「板橋観光センター」の案内。不動通りを少し南に下った、板橋地域振興センター内にある。行けばなんらかの資料もあろうかと、先に進む。

板橋観光センター
センターには板橋宿や中山道の案内が展示。赤塚、高島平、志村、板橋、常盤台の地域別の地図などが無料で提供されている。板橋散歩の最初にここに来ておけばなあ、などと少々の溜息。ボランティアであろう職員さんも親切で、まことに心地よかった。
で、本陣、脇本陣などをチェック。来た道の途中にあるようだ。また、石神井川を越えたところに「縁切り榎」などもある。ということで、少々の休憩の後、商店街を北に戻る。

本陣跡
住所をたよりに進むとスーパーの脇、民家の玄関脇(仲宿47)に、ひっそりと碑が立っていた。本陣が残っているわけでもなく、見逃すはずである。どうように脇本陣跡(仲宿53)も、マンションの駐車場脇にひっそり碑がたっていた。この脇本陣には皇女和宮が宿泊した。
板橋宿は江戸期に大中小あわせて60ほどの旅籠があった。人馬継問屋は遍照寺というお寺の境内にあったが、明治に成って廃寺。現在は成田不動の末寺となっている。仲宿40にある跡地は民家然とした、お不動さん。通路にならぶ馬頭観音が昔のなごりをとどめるだけ、である。




縁切り榎
中宿の商店街を抜け、石神井川にかかる板橋を再び渡りすこし進むと道路脇に「縁切り榎」。案内を参考にメモ:「江戸時代、道を隔てた向かい側に、旗本近藤歌之助の抱屋敷があった。その垣根の際に榎(えん)と槻(つき)の古木があった。
で、いつの頃からか、縁切り榎と呼ばれるようになった。(えん>縁)がつき>尽きる)ということであろう。ために、嫁入りに際しては、縁が切れるのをおそれ、その下を通らなくなった。その中で、もっとも有名なのが皇女和宮の迂回路のエピソードである。
文久元年(1861年)、皇女和宮が十四代将軍・家茂に嫁ぐため京より中山道を下向。で、この地で縁切り榎を避けるため、迂回路をつくった。中山道が現在の環七と交差するあたりで中山道を離れ、練馬道(富士見街道)、日曜寺門前、愛染通りを経て再び旧中山道に戻り、板橋宿の上宿へと戻ったようだ。槻(つき)の木とは欅(けやき)のこと、である。『和宮御留:有吉佐和子(講談社)』をそのうち読み返してみよう。





石神井川・東武東上線
板橋宿を離れ、常盤台に向かう。縁切り榎前の交差点を西に進み、中山道を渡ると先ほど歩いた智清寺、日曜寺前の愛染通り。
道なりに西に進むと中根橋で石神井川にあたる。遊歩道を西に向かう。中山橋の先で川が南西に大きく湾曲。その先で東武東上線と交差、そしてその先に先日訪れた下頭橋。今回は下頭橋西詰めから旧川越街道を西、というか北西に進む。


常盤台・天祖神社
環七を越え、東武東上線・常盤台駅近くに天祖神社。立派な雰囲気。旧上板橋村の産土神。江戸の文人・太田南畝・蜀山人がこの神社のメモを書いている;「上板橋の石橋を越へ右へ曲り坂を上りゆく、岐路多くして判りがたし、左の方に一丁あまり松杉のたてたる所あり、この林を目当てに行けば神明宮あり」。
「石橋」とは「下頭橋」のこと。「神明宮」とは、天祖神社は明治まで、他の天祖神社も多くがそうであったように、「神明宮」「神明社」と呼ばれていた、ため。川沿いの小高い丘の鎮守の森、そこに鎮座するお宮さま。地名、常盤も明治に東武鉄道により宅地開発・分譲がおこなわれたとき、この鎮守の森の「常盤」の松に由来する。ちなみに蜀山人。この人も散歩の折に触れ姿を現す。なんだかおもしろそう、ということで『蜀山残雨:野口武彦(新潮社)』、『橋の上の霜:平岩弓枝(新潮文庫)』などを読んだが、未だ未消化。

大谷口・エンガ掘
天祖神社を離れ、南西に下る。川越街道を越えと東新町に氷川神社。構えの立派なお宮様。参道入り口から台地に上るアプローチはなかなか、いい。先を急議、道を南東に成り行きで進むと環七通りに交差。道を渡り、更に成り行きで南に下ると石神井川に合流。橋を渡れば大谷口。
石神井川を離れ南に進む。いかにも水路跡といった暗渠が続く。「エンガ掘」と言うようだ。筑波大付属看護学校あたりでちょっとした商店街に当たる。


氷川神社と西光寺
向原団地のつつましやかなる商店街をちょっと東に。急な坂のうえにこんもり茂った緑。いかにも鎮守の森。氷川神社。旧大谷口の鎮守さま。神社を離れ道なりに進むと結構立派な構えのお寺さん。西光寺。ここには「しろかき地蔵」の話がある。
板橋の昔話からのメモ;「代かき地蔵:昔々大谷口村に仏様を深く信仰するお百姓が。明日は村を上げての田植え。そのお百姓、準備に一生懸命勤める。が、代かきが間に合わない。困り果てていると、どこからともなく若いお坊様。「代かきが間に合わないの」と話かけ、どこともなく去っていった。一夜あけ、あたりを見まわすと代かきがきちんと終わっている。泥の足跡が田んぼから丘の上まで。跡を辿ると丘の上の小さなお堂まで。中を開けると腰の辺りまで泥だらけのお地蔵さまが。このお地蔵様は現在この西光寺にある、とのこと。
ちなみに大谷口の地名の由来は、文字通り、「大きく谷が扇状仁開いた地形であった」から。なんとなく氷川神社あたりの地形が近い、かも。

大谷口の給水塔

板橋散歩の最後に大谷口に来たのは、東京都水道局の大谷口給水塔を見ておきたかった、から。西光寺を東に進んだところにある、はず。近くに東京都水道局の給水塔があった。これって、荒玉水道のところでメモした、荒川―多摩川を貫通すべく企画したが、結局この地で留まった、その給水塔。大谷口中央通を東に進み、川越街道から要町3丁目に抜ける大きな通りとの交差点に出る。
交差点前に大規模な工事現場。これって、給水塔の場所。角の交番で訪ねると、目下、リニューアル、というかお色直しとのこと。数年後に完成する、ということだった。少々残念。後は、台地を下り、要町三丁目まで進み、有楽町線・千川駅から一路家路、へと。

赤塚地区、高島平地区、志村地区、板橋地区、そして常盤台地区と歩き、なんとなく板橋各地区位置関係がわかってきた。なにも考えずにはじめた板橋の散歩であるが、地形も歴史も魅力的で、結構、時空散歩を楽しむことができた。

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