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赤羽台地に旧軍の跡を辿る

北区を2回に渡って歩いた。が、なんとなく遣り残した感がある。崖線部もあるいた。沖積地帯・下町低地もあるいた。が、赤羽台に登っていない。稲付公園の丘から、香取神社の丘から、そして静勝寺の丘から眺めた武蔵野台地・赤羽台を歩いていない。ということで、赤羽台をぐるっと歩くことにした。赤羽台といえば陸軍の施設があったところでもある。ありし日の帝国陸軍の「跡」をランドマークに歩を進める。北区散歩番外編というところ、か。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)





本日のルート;赤羽八幡社>師団坂> 諏訪神社>赤羽緑道公園>公団赤羽団地>赤羽台西小学校> 赤羽自然観察公園


赤羽八幡社
 埼京線・赤羽駅で下車。西口に出る。埼京線に沿って北に進む。埼京線と京浜東北線が分かれるあたり、先般訪れた宝憧院(ほうどういん)への道筋、ということは日光御成道だとは思うのだが、そこを右折することなく埼京線に沿って北に進む。
東北・上越新幹線も同じルート上。 線路に沿った坂を登る。師団坂とも工兵坂とも呼ばれる。台地上に第一師団および近衛師団に属した工兵隊の施設があったため。
坂の途中に、赤羽八幡社。このあたり一帯の総鎮守。延暦3年(784年)征夷大将軍・坂上田村麻呂がこの地に陣を張り、武運長久を祈って八幡三社を勧請。その後、源頼光が社殿を再興、源頼政が改修、太田資清が社領として土地を寄進、道灌が社殿を再興(文明元年・1469)したとある。
また、江戸時代には、三代将軍家光の時に社領七石を与えられ、以後代々将軍家より御朱印を寄付された由緒ある神社。ちなみに、八幡三社って、加茂・八幡・高良神社、とか。この神社、武蔵野台地の東端。見晴らしはそれほどよくない。境内下を東北・上越新幹線、埼京線のトンネルが通る。 

師団坂
八幡さまを離れ、師団坂を登る。登りきったあたりに星美学園。ここはもと、陸軍第一師団工兵第一大隊旧舎跡。明治20年8月に丸の内からこの地に移る。
隊の変遷;明治7年東京鎮台工兵大隊として発足> 明治9年 工兵第一大隊として大手町に>明治10年 西南戦争出征> 明治20年9月赤羽に移る>明治27年日清戦争出征>明治37年日露戦争出征 ・旅順203高地作戦を戦う>大正3年第一次大戦 対独出征>大正7年シベリア出征 >昭和3年浮間橋架橋 浮間町民の寄金6000円で工兵隊が架橋 6000円橋と呼ばれる>太平洋戦争ではレイテ島で玉砕。 

東京北社会保険病院 星美学園に沿って西に台地上を進む。左手に低地、これを八幡谷と呼ぶようだが、その谷を隔てて向こうに台地が見える。赤羽台のこのあたり、どうも一筋縄ではいかない。台地の中に谷がある。すり鉢状の地形になっている。ということは、尾根道を歩き、一旦、谷に下り、再び向かいの丘に上るのか、はたまた尾根道を、ぐるっと、一周すれば向いの台地につけるのか、結構楽しみ。 

少し進むと東京北社会保険病院。もとの国立王子病院。明治20年9月に近衛師団工兵大隊がこの地に移転。隊の変遷;明治7年創設>明治10年西南戦争出征>明治20年この地に移る>明治26年近衛工兵中隊から大隊へと改称>明治28年日清戦争出征 大連台湾 >明治37年日露戦争出征鴨緑江旅順奉天会戦を戦う>大正3年 第一次大戦 対独青島出征 >大正7年 シベリア出征 >太平洋戦争ではシンガポール、スマトラに進駐。

 諏訪神社
東京北社会保険病院脇の道を北に。武蔵野台地の北端といったこところ。崖下に埼京線・新幹線の線路が走る。進行方向左手に公団住宅を眺めながら道に沿って西に下る。
下りきったところに諏訪神社。結局台地を一度下りることになった。諏訪神社のところで一度切れた台地は神社から西に盛り上がっていく。台地の縁を赤羽北3丁目から小豆沢2丁目そして志村坂上方面に歩いてみたい、とは、思いつつも、今回は台地下の谷筋を赤羽駅に続く道に進む。

赤羽緑道公園
進行方向左手の台地上の団地、社会保険病院を眺めながら、谷地の道を進む。逆側の台地は工兵作業場があったところ。途中に八幡小学校。このあたりは射撃訓練場。駅に抜けるトンネルの手前に赤羽緑道公園。こんなところ、台地に川が流れているわけもない。ひょっとして軍施設への軍用線路の跡では、と推論。その通りであった。
昔の地図を見ると、西が丘サッカー場近くにあった元自衛隊十条駐屯地赤羽地区、昔の陸軍兵器支廠や、緑道左手に広がる赤羽団地・もとの陸軍被服本廠あたりから引込み線が出ている。 
緑道の西の台地に桐ヶ丘団地。この地は昔、陸軍火薬庫。明治5年、明治政府というか、未だ幕府と戦っていた官軍の武器庫が作られたところ。その後、陸軍が引き継ぎ、第一師団・近衛師団が移ってきてからは、両師団の火薬倉庫を兼ねることに。
ここに火薬庫がつくられたことが、赤羽地区が陸軍一色となる契機となるわけだが、それにしても、なぜこの地に火薬庫が作られたのだろう。明治9年、加賀藩下屋敷跡に「板橋火薬製造所」がつくられたからだろうか。桐ヶ丘団地から西が丘サッカー場前を通り、板橋火薬製造所があった帝京大学医学部、東京家政大学あたりまで一直線に走る道は軍用道路であったと言われるし、あながちこの推論、間違いでもないかも。


公団赤羽団地
ゆるやかに上る赤羽緑道公園を進むと、ちょっと広い道路にあたる。緑道はここで切れる。左手に団地・公団赤羽団地。星美学園の台地から八幡谷を隔てた台地上に、結構立派な建物が見えたのだが、それは赤羽団地の建物だったのだろう。
この地はもと、陸軍被服本廠があったことろ。大正8年、麹町・本所・築地・深川に分散していた被服倉庫も合わせ、本所にあった陸軍被服本廠をこの地に移した。軍装だけでなく国民服も製造。戦時中一時上尾に移転。戦後米軍に接収され、戦車の修理工場ともなった、とか。

赤羽台西小学校
赤羽台西小学校あたりまで進む。ほとんど台地東縁。台地から低地に向かっていくつかの名前のついた坂道もある。西小学校あたりの庚申坂。赤羽西4丁目信号あたりの「三日月坂」。三日月坂を下りたところの「中坂」、など。
三日月坂の案内板のメモ:(坂の途中にある)道灌湯から東南へ登り中坂へでる坂。道灌湯のあたりに、大正三年(一九一四)に帝国火工品製造所(導火線工場)ができ、この工場のためにできた坂、と。工場へ往来する馬車などで賑わったが、大正四年五月に工場は爆発事故で焼失。その後このあたりは住宅地となり、坂を登りきった北側あたりに三日月茶屋ができた。坂名はこれに由来。また、道灌湯が開業したことから道灌坂とも呼ばれている、と。

 赤羽自然観察公園
赤羽台西小学校から西に進む。谷地に「赤羽自然観察公園」。公園の南の台地も含めて、元陸上自衛隊十条駐屯地・赤羽地区の跡地。
自衛隊十条駐屯地は、もと東京砲兵工廠銃砲製造所。後の東京第一陸軍造兵廠。旧陸軍兵站の中枢であった施設。この自然公園のあたりも車両試験場であった、とか。十条駐屯地では戦後、米軍の戦車の修理などをおこなっていたわけで、戦車の走行テストでもおこなっていたのだろうか。単なる想像。十条のあたりを米軍の戦車が好き勝手に走っていた、という話を聞いたこともあるわけで、あながち間違いではないかも。 都営三田線・本蓮沼駅 赤羽自然観察公園の西側を通る道、これって、先にメモした桐ヶ丘の「火薬庫」から板橋の「火薬製造所」に走る軍用道路跡、だとは思うのだが、この道を西が丘サッカー場の手前まで歩き、稲付中学とサッカー場の間を西に進み、都営三田線・本蓮沼駅まで歩き、赤羽台散歩を終えることにする。後は、都営三田線に乗り、次の目的地板橋区・西高島平に向かう。

>荒川から隅田川、そして石神井川へと
北区散歩の第一回は武蔵野台地の東端、東京下町低地に境に屹立する崖線にそって歩いた。今回は、荒川・隅田川に囲まれた一帯、また武蔵野台地と隅田川に囲まれた低地を一回りする。北区で気になるキーワード、荒川知水館、というか岩渕水門もカバーできるだろう。 

さて、どこから、と、思案する。荒川区散歩のとき、ちょっとかすった掘船地区の船方神社から北というか西に動くか、浮間から南というか東に向かうか、と考える。で、結局、浮間からはじめることにした。

一番の理由は「浮間」という名前に惹かれたため。その後は、荒川に沿って岩渕水門まで下り、赤羽とか王子の東、隅田川と武蔵野台地の間の下町低地を進むことにした。





本日のルート;埼京線・浮間船渡駅・都立浮間公園>氷川神社>荒川土手>新河岸川>岩淵水門>知水資料館>熊野神社>八雲神社>宝憧院>R赤羽駅>国道122号線・北本通り>神谷掘公園>豊島馬場遺跡>清光寺>紀州神社>西福寺>石神井川


埼京線・浮間船渡駅・都立浮間公園
埼京線・浮間船渡駅(ふなど)駅に。北口に出る。駅からすぐのところに都立浮間公園。浮間ケ池を中心にした自然豊かな公園。もと、ここは荒川の流路。蛇行していた流路を大正から昭和にかけての河川改修で直線化し、川の流れが池として残った。浮間ケ池がそれ。 いつだったか、川崎市中原区の武蔵小杉を歩いていたとき出会った、多摩川脇の等々力公園が同じく、多摩川の河川改修によって残された流路跡であった、かと。 池の西側を荒川堤防に向かって進む。

氷川神社
堤防手前で池の東側に折れる。氷川神社にちょっと御参り。すぐ横に、浮間ケ原桜草圃場。江戸から昭和初期にかけて、このあたり一体は桜草の名所。浮間ケ原の由来は、荒川に突き出した半島状の地勢が島のようであったから、とか。 神社から北東に少し堤防方面に歩いたところ、浮間2丁目4番地に、北向き地蔵。もともとの場所は現在の荒川河川敷。村の北の入り口に、外に向かって立っていた。外敵から村を守るが如く、と。

荒川土手
堤防の道をのんびり歩く。川向こうに高層ビル群が見える。川口あたり、だろう。我々団塊の世代の人間にとっては川口、って吉永小百合主演の『キューポラのある街』、つまりは小さな鋳物工場がひしめ街といったイメージが強い。が、現在では、様変わり。その鋳物工場の跡地が高層ビル街に変身している。55階のビルをはじめとして、20階以上のビルが川口駅前に20近くあるよう、だ。 

川口駅周辺に高層ビルが多いのは、鋳物工場の街であった、ということと大いに関係ある、とか。詳しくは知らないが、工場地域というのは、都市計画上建築制限が緩く、工場の跡地など広い土地の確保などが容易であり、その結果高層ビル群が林立することになった、よう。周辺に高いビルが見えない分、川口あたりの景観が目につく。 

新河岸川
京浜東北線と交差するあたり、南手に川筋が接近する。新河岸川。川越から隅田川と合流するあたりまで全長34キロ弱。入間川の分流を川越で集めて水源とする。といっても単なる自然の流れではなく、知恵伊豆こと川越藩主・松平信綱が大きく手を加えている。水量安定のため、川筋を湾曲させており、九十九曲がり、と言われるほど、である。 
新河岸川は江戸から明治初期にかけ江戸と川越を結ぶ水運ルートとして賑わった。船にも並船、早船、急船、飛切船などいろいろ。並船は江戸までの往復1週間から20日かかる不定期船。急船は一往復2,4日の荷船。飛切船はそれより速い特急便、といったもの。

川越からの荷物は農産物。江戸からの帰り船は日用品と肥料。肥料とは、早い話が下肥。江戸の人々の糞尿は大切な肥料。この下肥を巡る利権争いもあった、よう。大名屋敷のそれは栄養状態もいいので値が高く、かつまた大量に確保できるので、争奪戦も激しかった、とか。 尾籠な話はともかく、川越街道による陸運を凌駕し運送の大動脈であったこの「川越夜船」も、明治になって鉄道の開通、河川改修による水量の減少などにより、昭和6年、その役割を終えることになった。 

岩渕水門

京浜東北線を越え次の目的地、「荒川知水館」に進む。新荒川大橋下の河川敷を歩きしばらくすると水門が見える。旧岩淵水門。水門あたりで新河岸川も合流する。水門脇に案内板があった。メモする;昔、荒川の本流は隅田川。が、隅田川は川幅がせまく、堤防も低かったので大雨や台風の洪水を防ぐことができなかった。ために、明治44年から昭和5年にかけて、河口までの約22km、人工の川(放水路)を作る。大雨のとき、あふれそうになった水をこの放水路(現在の荒川)に流すことにした。
この放水路が元の隅田川と分かれる地点に、大正5年から大正13年にかけて作られたのがこの旧岩淵水門。9mの幅のゲートが5門ついている。その後旧岩淵水門が老朽化したこと、また、もっと大きな洪水にも対応できるようにと、昭和50年から新しい水門(下流に作った青い水門)の工事が進められ、昭和57 年に完成。旧岩淵水門の役割は新しい水門に引き継がれた、と。 

放水路建設のきっかけは明治43年の大洪水。埼玉県名栗で1212mmの総雨量を記録。荒川のほとんどの堤防があふれ、破れた堤数十箇所。利根川、中川、荒川の低地、東京の下町は水没した。流出・全壊家屋1679戸。浸水家屋27万戸、といったもの。 
荒川放水路の川幅は500m。こんな大規模な工事を、明治にどのようにして建設したのか、気になった。ちょっとメモ;第一フェーズ)人力で、川岸の部分を平らにする。掘った土を堤防となる場所へ盛る。第二フェーズ)平らになった川岸に線路を敷き、蒸気掘削機を動かして、水路を掘る。掘った土はトロッコで運ばれて、堤防を作る。第三フェーズ)水を引き込み、浚渫船で、更に深く掘る。掘った土は、土運船やポンプを使い、沿岸の低地や沼地に運び埋め立てする。浚渫船がポイントのような気がした。

知水資料館
水門近く、新河岸川そばに「知水資料館」。展示それ自体はそれほどでもないが、水に関する図書資料は充実している。また、ここでもっとも印象に残ったのは青山士(あきら)さん。荒川放水路工事に多大の貢献をした技術者。
明治36年、単身でパナマに移り、日本人でただひとり、パナマ運河建設工事に参加した人物。はじめは単なる測量員からスタート。次第に力を認められ後年、ガツンダムおよび閘門の測量調査、閘門設計に従事するまでに。明治45年、帰国後荒川放水路建設工事に従事。旧岩淵水門の設計もおこなう。氏の設計したこの水門は関東大震災にも耐えた堅牢なものであった。 

業績もさることながら、公益のために無私の心で奉仕する、といった思想が潔い。無協会主義の内村鑑三氏に強い影響を受けたとされる。荒川放水路の記念碑にも、「此ノ工事ノ完成ニアタリ 多大ナル犠牲ト労役トヲ払ヒタル 我等ノ仲間ヲ記憶セン為ニ神武天皇紀元二千五百八十年 荒川改修工事ニ従ヘル者ニ依テ」と、自分の名前は載せていない。2冊ほど伝記が出版されているよう。晩年の生活はそれほど豊かではなかった、と。ちなみに、日露戦争において学徒兵として最初に戦死した市川紀元二はお兄さん、とか。

熊野神社
資料館を出て志茂橋を渡り少し東に進み志茂4丁目の熊野神社に。結構長い参道。志茂の由来は、岩淵下村の「下」から。町になるとき、「下町」では、東京の下町と混同しやすい、ということで、しも=志茂、と読み違えのないように漢字をあてた、との説、これあり。熊野神社の近くに西蓮寺。雰囲気のいいお寺さま。本尊は聖徳太子がつくった、と言われる阿弥陀如来像。運慶作と言われる毘沙門天像もある。熊野神社の別当寺。熊野神社を勧請したのは昔のここのお住職。

八雲神社
西蓮寺から新荒川大橋・国道122号線方面に戻る。国道手前の岩淵橋の近くに八雲神社。創建年次は不明。江戸時代の日光御成街道が通る岩淵宿の鎮守であった。
境内に「町名保存の碑」。往時、宿場町としてこのあたり一帯の中心地であった「岩淵」の名前を後世に残すために努力した市井の人たちの功績を記す。要するに、岩淵って地名を、近年になって勢いをもってきた「赤羽」に吸収しようとする行政の動きに対して断固抵抗した、ってこと。高崎線の駅名が岩淵ではなく、赤羽となったことに納得のいかない古老もいる、とか。地下鉄南北線の駅名が「赤羽岩淵」となっているのに、大いに納得。 

宿場町・岩淵宿についてメモ;江戸からあまり距離もないこの地に宿が設けられ理由は、荒川が「荒ぶる川」であったため。氾濫して渡しが止まり、足止めになることも多く、そのための臨時というか緊急用宿場といった按配。そのため千住宿のように大きな宿となることはなかった。が、それでも天保の頃というから19世紀の中頃には戸数200軒強、人口1500人程度では合った、と言う。

 ついでに、岩槻街道、というか、日光御成道のルートをメモする;王子までは本郷通り>王子で石神井川というか音無川、それにかかる音無橋を渡り>今回あるいた、王子神社崖下の森下通り商店街>王子稲荷神社前>名主の滝公園前をとおり>崖上の道に>京浜東北線に沿って>中十条1丁目交差点>地福寺>中十条2丁目>東十条駅西>西音寺西>環七通り・馬坂交差点>京浜東北線と埼京線の合流点近く・京浜東北線に最接近>埼京線を西に>香取神社・普門院・静勝寺の崖下を>赤羽駅前・宝撞院>ここから新荒川大橋まで一直線・赤羽岩淵駅>北本通り>新荒川大橋へと進む。 

宝憧院
新荒川大橋南詰から日光御成道にそって赤羽に向かう。途中、梅王寺とか正光寺跡とか大満寺といったお寺さまに寄りながら地下鉄南北線・赤羽岩淵駅に。
梅王寺は、もとは尼寺。正光寺は火事で本堂が焼失。門と観音さまだけが残っている。大満寺は岩淵不動とも。赤羽岩淵駅からJR 線に向かって少し進むと宝憧院(ほうどういん)。院の前に道標。「東 川口善光寺道日光岩付道」「西 西国富士道 板橋道」「南 江戸道」、と。日光御成道上の交通の要衝、であったということか。 

JR赤羽駅
JR赤羽駅。現在の赤羽駅前は大きく賑わっている。が、明治以前は岩槻街道・日光御成道筋の一集落。岩淵宿のほうが宿場町として賑わっていた。状況が変わってきたのは、鉄道駅と陸軍か。明治18年赤羽駅。明治20年代には近衛師団・第一師団の陸軍工兵隊が赤羽台に移転。それを皮切りに多くの陸軍施設がこの地につくられ、赤羽地区が賑わっていった、ということ。 
ちなみに、赤羽の由来。荒川に抉られた台地面に赤土が露出していたので、赤土を意味する赤埴(あかはね)と呼ばれていたのが由来とか。埴とは埴輪など、赤粘土のこと。これも諸説あり定かならず。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


国道122号線・北本通り

さてと、赤羽から先は新田地区の清光寺、というから隅田川畔まで進み、そこから最後の目的地・王子に戻るコースを取る。赤羽駅・東口を適当に北東に進む。スズラン通り商店街。活気がある。商店街の出口付近、岩淵中の隅を右折。道なりに進む。赤羽中の横を通り、志茂地区を適当に進む。
地下鉄南北線・志茂駅近くに。 北清掃工場脇を通る。明治の頃、このあたり、東というか北は神谷の荒川土手から、西というか南は京浜東北線にかけて飛行場があった。名前は岸飛行場。岸さんというお医者さんの所有する18万坪にもおよぶ広大なものであったらしい。 国道122号線・北本通りに出る。
ちなみに北本通りの読みは「きたほんどおり」。ずっと「きたもとどおり」と思い込
んでいた。埼玉県の北本市と何か関係あるのか、とも思っていた。が、読みが違えば関係ない。この国道122号線、栃木県の日光からはじまり、群馬・埼玉と経由し東京都の豊島区の西巣鴨交差点(国道17号線交点)までの157.5キロ。都内では明治通り・北本通り、埼玉に入って岩槻までは岩槻街道と呼ばれる。

神谷掘公園

北本通を神谷地区に。少し進むと神谷掘公園。神谷掘とも、「甚兵衛掘」とも呼ばれていた排水路跡。甚兵衛堀の由来は、この堀をつくり新田開発に貢献した甚兵衛さん、から。かつてこの地は湿地帯。大雨や洪水のたびに田畑に大被害。掘は江戸時代排水のためにつくられた、とか。明治になり、旧王子製紙十条工場が隣接地に作られ、その物資の運搬に使われたが、現在は埋め立てられている。




豊島馬場遺跡
神谷掘公園を隅田川方向に進む。王子5丁目から豊島8丁目へと進む。東京聖徳学園前、隅田川にほど近いあたりに古墳時代の遺跡・「豊島馬場遺跡」。現在は公園になっている。台地上のいくつもの集落の共同墓地と言われる。台地上だけでなく低地帯でも生活ができるほど、土木技術も進歩していったのだろう。神谷の由来は、蟹庭か蟹谷が転化したもの、と。蟹が群れていた地帯だったのだろう。実際、神谷掘のあたりは、渓谷であったと言われる。


清光寺
豊島7丁目、新田橋の近くに清光寺。品のいいお寺さん。休憩所など、もてなし、ご接待の気持ちがありがたい。このお寺平安末期から鎌倉初期にこの地で活躍した豊島康家・清光が開基のお寺さん、と言われる。ひとり娘の菩提をとむらうお寺、とも。
清光は子の清重とともに、頼朝の武蔵討ち入りに協力し、鎌倉幕府の御家人として重きをなした。本尊は不動明王。行基作の「豊島の七仏」のひとつ、と。ちなみに、行基と七仏、というか七仏薬師って、全国各地に見られる。時間ができたら調べてみよう。(つい最近訪れたときは、本堂の工事中。お堂が影も形も無くなっていた)




紀州神社
お寺を出て新田橋通りを進み、紀州通りを左折し紀州神社に。この神社、もとは王子の王子権現の境内にあった。王子権現も紀州神社も、豊島氏が紀州熊野から勧請したもの。この地に移ったきっかけは、水争い。
この地・豊島村と王子村の間で争いとなり、豊島村の産土神である紀州神社をこの地に戻した。このとき先頭で錆びた槍をもち、豊島村のために戦ったのが甚兵衛さん。その姿から「錆槍甚兵衛」と呼ばれるようになる。で、この甚兵衛さん、先ほどの神谷掘、というか甚兵衛掘の名前の由来ともなった人物でもある。 

西福寺

紀州神社を離れ、豊島中央通商店街を南に下る。豊島3丁目に西福寺。六阿弥陀第一番のお寺として知られる。境内には敗走中に殺害された六名の彰義隊員を供養する六地蔵、それと「土佐の高知の播磨や橋で、ぼんさん、かんざし、買うを見た」の歌で、ぼんさんにかんざしをもらった、お馬さんのお墓もある。で、六阿弥陀についてまとめておく。といっても、足立散歩のときにも、荒川区散歩のときちょっとかすめた北区の船方神社でもメモしたように思う。 

六阿弥陀って、嫁ぎ先での不仲を悲しみ川に身を投げた姫というか娘と、5人の侍女の計6人をとむらうもの。川に身を投げた娘は清光の娘、といわれたり、清光のもとに嫁いだ娘、とも言われたり、嫁ぐにしても、清光が悪代官の如く、いやがる娘を無理やりおのれのものにしたり、とあれこれ。身を投げた川も、荒川であったり沼田川(足立区)であったり、と、あれこれ。ともあれ、娘をなくした「誰か」が熊野に参詣。夢枕に仏が曰く「よき木を与える。行基が訪ね参るので、阿弥陀仏を作らしめるべし」と。行基が訪れる。一夜で六体の仏像を掘りあげる。で、その六体を六ヶ所のお寺おつくり安置した。 
第一の寺;西方浄土に生まれ出る御利益を授ける、西福寺。 北区豊島2丁目 
第二の寺;家内安全・息災延命の御利益を授ける延命寺 足立区江北2丁目 
第三の寺;福寿無量に諸願を成就させる無量寺。北区西ヶ原2丁目 
第四の寺;皆に安楽を与える与楽寺。 北区田端1丁目 
第五の寺;一家和楽の福徳を授ける常楽院。現在、調布市西つつじヶ丘、に移転 
第六の寺;常に光明を放つ常光寺と名付けた。江東区亀戸4丁目 そのほかにも余った木でつくったという二体の仏さん 木余りの弥陀:性翁寺足立区扇2丁目 木残りの観音:昌林寺;北区西ヶ原3丁目 
それにしても六阿弥陀信仰って足立、荒川、北区ローカルな「巡りもの」。これもどこかでメモしたと思うのだが、六阿弥陀巡りは結構距離がある。「六つに出て六ツに帰るは六あみだ」と読まれるように六里から7里もあるわけで、隅田川から武蔵野台地の崖線に沿って歩く1日がかりで歩くことになる。信仰、参詣とはいうものの、大いにレクレーションもかねているわけで、春秋のお彼岸の日に、入日を遥拝することによって西方浄土、極楽浄土に行けるという信仰をお題目に、太陽の廻る方向に東から西の寺院を「六阿弥陀嫁の噂の捨て所」などとあれこれお話をしながら骨休めをしたのでありましょう。北区散歩の最後で豊島清光ゆかりの、「清光寺」、そして清光ゆかりの「六阿弥陀さん」の第一番のお寺でしめくるのも、偶然とはいえ、奇しくもの因縁か。 

石神井川
西福寺の後は、いつだったか石神井川を散歩したとき、王子から隅田川への合流点まで歩いた道筋、つまりは、新掘橋から掘船地区への道筋を逆に辿り王子駅に。北区散歩も石神井川散歩からはじまり、奇しくも石神井川で終わった。
ついでのことながら、この石神井川って明治の工業化の立役者。北区の産業発祥の地は幕府建造の反射炉(大砲製造所)跡地につくられた鹿島紡績所。現在の滝野川2丁目につくられたこの工場の動力源は千川上水から石神井川に落として廻した水車。その後渋沢栄一がつくった抄紙工場や印刷局抄紙工場も石神井川の下流につくられた。
こういった石神井川下流部にできた工業を契機にして繊維、製紙などの工場、さらには軍事施設関連工場などが相まって近代産業の礎がつくられた、とか。滝野川地区の石神井川の姿を思い起こしながら、北区散歩を一応終わりとする。

田端から王子、赤羽へと
北区を歩く。石神井川源流から下ってきたとき、意図せず、北区・王子近辺を歩いたことがある。平氏打倒の旗揚げをした頼朝が、下総から武蔵に乗り込み、最初の陣を張ったとも伝えられるお寺・金剛寺だったか、「音無しさくら緑地」の緑の吊橋のあたりだったか、ともあれ、突然の雷雨に見舞われた。王子の近く、滝野川地区あたりから、いかにも渓谷の雰囲気をもつ石神井川を見ながら、こんなに深く掘る必要があるのだろうか、などと思っていたのだが、雷雨による増水で川が溢れんばかり。いろんな場所から集められ、排水口から川に流れ込む濁流を見て、あらためて自然のパワーを感じ入った次第。そんなこともあったよな、と少々昔のことを思い出した。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

さてさて、今回はどこからはじめるようか、と考える。北区で、なんとなく気になるのは、荒川治水資料館。名前だけに惹かれるのだが、浮間。そして、飛鳥山公園にある飛鳥山博物館。そこには北区の郷土資料館がある。キーワードはこの三つ。そうそう、それと、北区って旧軍関連施設・軍需工場がやたら多かったような印象がある。北区の一割程度を占めていた、とも言われる。旧軍関連施設も北区のキーワード、であろう。 
で、あれこれ思案し、北区散歩の第一回は、結局、飛鳥山辺りを始点に、王子から赤羽にかけての武蔵野台地東端を歩くことにした。いつだったか日暮里辺りの崖線上の高台を歩き、武蔵野台地と東京下町低地の境目、そのコントラストに少々魅せられたのだが、今回の崖線歩きも地形の「うねり」が楽しめそう。ともあれ、王子の郷土資料館を手始めに、と自宅を出る。



本日のルート;田端駅>田端文士村記念館>田端八幡神社>谷田川跡>赤紙仁王>北田端八幡>大龍寺>山手線の踏切>円勝寺>中里貝塚>旧古河庭園>平塚神社>滝野川公園>七社神社>飛鳥山公園>飛鳥山博物館>音無橋>王子神社>王子稲荷神社>名主の滝公園>地福寺>富士神社>十条銀座商店街>清水坂公園>稲付公園>法真寺>香取神社>静勝寺


田端駅
飛鳥山公園のある京浜東北線・王子駅に向かって家を出る。山手線に乗り、田端で乗り換えて、と思っていた。が、乗換えが鬱陶しくなった。結局田端で降り、崖線を王子まで歩くことにした。JR田端南口で下車。南口って、崖上側。例によって、駅前の地図・案内板をチェック。田端文士村記念館、八幡神社とその別当寺あたりが目についた。





田端文士村記念館
「田端文士村記念館」を探して少々道に迷った。が、結局のところこの記念館は駅前にそびえる飛鳥タワーの1階にあった。芥川龍之介、小杉放庵、室生犀星、板屋波山といった田端を拠点に活躍した文士・芸術家の記念品が展示されている。ここに文士村ができたのは、地理的には上野の東京芸大に近かった、ということ。また、中心となる人物は芥川龍之介のような感じがした。芥川の紹介ビデオを観ていて、『羅生門』がほとんどはじめての頃の作品といっていいものである、とのこと。数日前に娘の宿題で芥川の『羅生門』について一緒に調べていたので、誠に興味深かった。「ぼんやりとした将来への不安」という言葉を残して自らの命を絶った芥川龍之介に合掌。

田端八幡神社

田端駅前から不忍通りに通じる道を降りる。いかにも切通しといった雰囲気。田端文士記念館でもらったパンフレットには、昭和8年、この切通しが完成したと書いてあった。ともあれ、両側の崖地を眺めながら田端2丁目・赤紙仁王通りで右折。隅に「田端八幡神社」。1189年建立。田端村の鎮守様。一の鳥居の手前に谷田川に架かっていた橋桁が埋め込まれていた。この赤紙仁王通りの一筋南に「谷田川通り」がある。ここが川筋跡だろう。


谷田川跡
谷田川はいろんな名前をもつ。源流点の染井霊園のあたりでは境川とか谷戸川、谷中から下あたりは藍染川、と。実のところ、この藍染川というか谷田川って、前々から気になっていた。が、どこを流れていたのか今ひとつわからなかった。今回、偶然にも谷田川跡を「掴んだ」。近いうちに源流点から不忍池あたりまで歩いて見たい。

赤紙仁王
さてさて、先に進む。田端八幡さまの横に東覚寺。八幡様の別当寺とかなんとかといった、お寺の縁起よりないより、不動堂前にある一対の仁王様の石造、すこぶる味がある。全身にぺたぺた赤紙が貼られている。赤紙仁王と呼ばれる所以。これって、おのれの患部と同じ箇所に赤紙を貼ると直ると言われ、病気が治ったお礼にわらじを奉納する、とのことだ。仁王様の表情がすこぶるいい。ひさしぶりにいいものを目にした。ちなみに写真はお正月に訪れたときのもの。参拝客も多く、お顔一面にも赤札が貼られ、ご尊顔を拝し得ず。


北田端八幡

赤紙仁王通りを西に進み、八幡坂通りに。ここにも「八幡神社」。こちらは北田端八幡さま。北田端村の鎮守さま。この田端一帯の地形は魅力的。太古、海によって削り取られた武蔵野台地の縁。田端駅近くの高台ってこの台地と東京下町低地の境界線。この崖線・高台が谷田川通りのある川筋に向かって下り、不忍通りを越えると再び本郷台地として盛り上がる。散歩をはじめるきっかけとなった、京浜東北線というか山手線に沿って聳える崖線、その先に、一体なにがあるのだろう、といった好奇心、そのときの気持ちが蘇る。田端はその思い出の地ではある。

大龍寺

神社の横には大龍寺。板谷波山などが眠っている。板谷波山(はざん)は明治から昭和にかけての陶芸家。もともとは無名の職人であった陶工を、アーティストとして、その社会的地位の向上に大いに貢献した、と。子規には散歩の折々で出会う。墨田区墨堤の長命寺近くの桜餅の店。ここに一時期、避暑かなにかで滞在し、そこの美人の娘さんに惹かれた、と。また、日暮里・善性寺前の羽二重団子のお店でも、子規がそのお団子を贔屓にしたとか、といったエピソードを聞いたような気がする。だからどうした、言われれば、それだけのことでは、ある、が。

山手線の踏切

滝野川七小前を西に進む。踏み切りに当たる。線路が北と南に分かれている。南への路線が山手線。北への路線が宇都宮・高崎線。それにしても、それにしても、である。踏み切り、とは。都内の山手線といった幹線で、踏み切りがある、というのは、まっこと、奇異な感じがする。崖線部分で交通量もない、といった事情なのであろうか。ともあれ、踏切を見たときは山手線とは、とても信じられなかった。

円勝寺
踏み切り脇に円勝寺。このお寺には、江戸時代の茶人であり、数奇屋頭として幕府の茶道を支配していた伊佐家のお墓がある。数奇屋頭とは数寄屋坊主を指揮し、大名や御三家の茶事を司る職制。武家茶道に大きな影響力をもっていた一派、とか。門下には松江藩主・松平不昧公がいる。 この寺に「五石の松」の話が伝わる。家康鷹狩りの折り、この寺で休息。枝振りのいい待松を愛で、「松に五石を賜る」と。とはいうものの、松に領地とはこれいかに、との批判もあり、沙汰は取りやめ。とたんに松が悄然として、枯れそうに。家康公ゆかりの松を枯らしては大変と、松に「五石を賜る」と伝える。あら不思議、みるみる元気になった、とさ。

中里貝塚
線路に沿って崖線の高台、尾根道といった「田端高台通り」に戻る。このあたりの高台下、上中里2丁目19のあたりに「中里貝塚」。京浜東北線と尾久操車場に囲まれた地帯にある縄文中期から後期にかけてつくられた貝塚だ。目の下にはあるのだが、そこに行くには結構大廻り、となる。 崖線上を進み、瀧野川女子学園前の陸橋を渡り、貝塚に。
1キロ強。貝塚跡は公園となっている。で、この貝塚、幅100m、長さ500m、層の厚さは4.5m。通常の食べ殻を棄てるにはあまりにも大きすぎる。ために、貝類の加工をおこなっていた「水産加工場」ではないか、と言われている。石器をつくる石材などと交換する交易品として貝が加工されていたのだろう。もと、この地は明治の頃より、「中里遺跡」として知られていた。東北新幹線の上野乗り入れ工事のとき発見された独木舟(まるきぶね)などを知るに付け、このあたりから漁にでかけていたのか、交易舟であったのか定かには知らねども、縄文の人たちの姿に少々の思いを馳せる。

旧古河庭園

高台通りを西に。女子聖学院の前を進み西ヶ原交差点で本郷通りと合流。合流点に旧古河庭園。明治の元勲・陸奥宗光の邸宅を古河財閥が譲りうけたもの。いつだったか、バラを観に行った覚えがある。 陸奥宗光、って、その質、才気煥発にして、坂本龍馬も大いに評価した人物であった、とか。紀州藩出身。薩長藩閥政治に異を唱える。陸奥宗光は日清戦争の下関講和条約の全権のひとりとしてその才を大いに発揮した。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



平塚神社

本郷通りを進み平塚神社に。もともとこの地は中世の豪族、豊島氏の居城。後三年の役を制し奥州から凱旋した八幡太郎・源義家一党がこの城に立ち寄る。一党をもてなし、その武功を偲んで社を建てたのが平塚神社のはじまり。拝領した鎧を埋め、その上に平たい塚を築く。これが平塚の由来でもある。 文明9年(1477年)、石神井城を居城とする豊島泰経が江古田・沼袋の戦いで太田道潅と交戦。この戦いに敗れた豊島泰経は石神井城に逃れるが、その城も落城。翌年にはこの平塚城も落ちる。いつだったか、内田康夫ファン、というか、浅見光彦ファンとして、しばしば作品に登場するこの神社を訪れた。が少々イメージと異なった風景。長い境内は駐車場になっていた。作品に登場する団子屋さんの平塚亭は、いかにもファン倶楽部然としたグループで結構賑わっておりました。






滝野川公園
少し進み、本郷通りから離れ滝野川公園に入る。昔はこのあたり一体に平塚城があったのだろう。また、ここは「御殿前遺跡」があったところ。この「遺跡は律令期というから7世紀から10世紀前半にかけての古代の役所・「武蔵国豊島郡衙」の跡ではないか、とされる。ここには政庁域と正倉院があった、とか。





七社神社
国立印刷局滝野川工場とJRとの間の崖線下を進む。直ぐ隣を電車が走る、って感じ。道なりに進み崖上に戻る。西原2丁目に七社神社。もとは一本杉神明社。樹齢千年以上の杉を神木とする神社があった。明治初年に七社神社がこの地に移り、以来、七社神社と。 七社神社は江戸時代、七所神明社と呼ばれていた西ヶ原村の鎮守。この七社神社は別当寺である古河庭園横の無量寺にあった。紀伊高野山の四社明神に、天照・春日・八幡さまを合わせた、結構豪華なラインアップ。明治の神仏分離令により、現在地にまつられることになった。

飛鳥山公園

本郷通りに戻るとすぐに飛鳥山公園。公園に入る。渋沢邸や渋沢資料館。資料館には日本の近代経済社会の基礎を築き、日本産業界の指導者として活躍した人物・渋沢栄一の91年の生涯にわたる資料が展示されている。この人物評伝は結構、読んだ。城山三郎さんの『勇気堂々』が印象に残る。つい最近も、『渋沢家三代(文春文庫)』を呼んだばかり。ともあれ、この地に渋沢栄一さんの別邸、後には本邸となった住居があった、とのこと。


飛鳥山博物館
渋沢資料館の隣に飛鳥山博物館。北区の歴史資料が展示されている。予想以上に充実している。いくつか訪ねた郷土資料館の中では、エクセレント・レベル。例によって、『北区飛鳥山博物館 常設展示案内』『北区文化財ガイドマップ』『キッズランド北区』といった資料を入手。ルート取りが楽になった。 博物館を出る。飛鳥山公園には弥生時代中期の環濠集落が発見されている。長径およそ260m、短径150mといった東日本でも最大級の集落。環濠集落って、周囲に溝を巡らした村、といったもの。北区ではここ以外に王子本町2丁目の亀山遺跡、赤羽台遺跡でこの環濠集落が見つかっている。

音無橋
飛鳥山公園を出て、本郷通りが王子駅方面に回りこむあたりの歩道橋を渡る。石神井川にかかる音無橋に。石神井川ってこのあたりでは、音無川とも滝野川とも呼ばれる。石神井川は西武線・花小金井の近く、小金井公園裏手の嘉悦大学境内が源流点。といっても、いつだったか、源流点を見に行ったときときには、湧水などまるでなかった。ともあれ、そこから、早大運動場脇の関公園の池、石神井公園の池などを経て、東に下り、北区堀船で隅田川に合流する。全長25キロ強の一級河川である。 もともとの川筋は、この王子近くで南に下っていたようだが、「河川争奪」のため、王子から東にその流れを変えた、と。河川争奪とは、元の川筋が別の川筋に「奪い取られる」ということ。ここでは、崖線が浸食のため削られ、崖線に沿って南に下っていた元々の流路が、東野東京下町低地へと、その流れを奪い取られた、ということ。都内では、ほかに等々力渓谷に見られる。 橋から石神井川を少し戻る。結構な渓谷、である。河川争奪の結果、王子方面へと流れを変えた川筋は、結構な急勾配を下ったのだろう。地形図をチェックすると、王子あたりでの比高差は10mほども、ある。その急勾配故に、川床が深く掘り切られていったのだろう。このあたり。滝野川とも呼ばれ、紅葉の名所であった、とか。

王子神社
川筋から戻り、橋を越え、北区第二庁舎あたりを右折。王子神社。中世熊野信仰の中心となった神社。紀州熊野三所若一王子が勧請され若一王子宮となったのがはじまり。若一王子(にゃくいちおうじ)または、若王子(にゃくおうじ)とは少年または少女の姿で現れる神さま。全国の熊野信仰のひろまりにつれ、熊野神社を勧請する際に多くの場合、この神様が祀られた、とか。日本では古来、若宮とか御子神といった、本宮の神様の子供をお祀りする信仰があるが、これなどその典型か。ともあれ、東京低地から武蔵野台地に「登りあがる」この地に熊野信仰の橋頭堡を確保し、武蔵の国一体に、その川筋に沿って進出していったのだろう。 熊野・紀州で思い出したのだが、この王子一帯が行楽地としてブレークしたのは八代将軍吉宗の力によるところが大きい、と。紀州徳川家の出身故に、熊野信仰のこの地を庇護し江戸時代、庶民の一大行楽地となった、とか。ちなみに、先ほどの音無川も、熊野の音無川に由来することは、言うまでもない。

王子稲荷神社

台地をすこし降り、京浜東北線の手前の森下商店街を北に進む。左手に「王子稲荷神社」。関八州の稲荷神社の総社。毎年大晦日、関東のお稲荷さんの名代としてお狐さまが、王子2丁目、というから王子駅を明治通り方面に少しすすんだあたりにある装束稲荷神社に集まる。で、高級女官の装束に改めて、行列を調えこのお稲荷さんに参拝した、という装束稲荷伝説ものこっている。落語『王子の狐』の舞台でもある。 王子の狐;ある男、娘に化けている狐を見かける。そしらぬ顔をし、料理屋に。狐が酔っ払って寝ている間に、その男、店をでる。「お勘定は娘にもらってくれ」。目が覚めた狐、突然の御代の請求に我を忘れ、正体を現す。で、追い回され、殴られ、狐はほうほうの態で逃げ出す。逃げた男、狐をだますと祟りがあると恐れ、狐のもとに謝りに。おみやげのボタモチ。子きつね、「おいしそう。食べてもいい」。親きつね曰く「およしなさい。馬の糞かもしれないよ」。お後がよろしいようで。



名主の滝公園
少し先に金輪寺。もと、王子権現の別当寺の藤本坊。幕末に焼失。明治に金輪寺の名前を継いで王子山金輪寺、とした。鉄筋のお寺様。直ぐ近くに名主の滝公園。江戸時代、王子の名主であった、畑野孫八が開いた庭園。明治になりこの地を所有していた垣内徳三郎が塩原の景観を取り入れた造作とした、と。落差8mの男滝をはじめ、女滝、独鈷の滝、湧玉の滝など四つの滝。水量もおおく、湧水というか地下水を利用した庭を開いた、とはいうものの、この滝から流れる水は人工的なものでは?、とその圧倒的な水量を見るに付け忖度する次第。ともあれ、こんな自然が、都内に残っているだけで結構幸せ。ちなみに、この公園、映画「黄泉がえり」の中で柴崎コウが歌った「月のしずく」のプロモーションビデオのロケ地でもあった。

地福寺
道なりに東十条駅方面に進む。地福寺。門前手前に六体のお地蔵さん。十条村のお地蔵さん、と呼ばれた所以、か。茶垣の参道、も。昔、王子周辺はお茶の栽培が盛んであった、とか。その歴史を今にとどめるべく、茶の生け垣による参道を作られた、と。






富士神社
富士神社には社殿はなく富士塚のみ。もともとは古墳ではなかったか、とも言われる。富士塚は富士信仰による。実際に富士にお参りできない人たちのために、その姿に似せて塚とつくる。散歩をはじめるまで、富士塚など、見たこともなかったのだが、歩き始めて以来、あちらこちらで出会うことになった。都内で出会ったもので、最大のものは、葛飾区南水元の富士神社であった、かと。先日、冨士講中興の祖・食行身禄(じきぎょうみろく) を描いた『富士に死す;新田次郎(文春文庫)』を古本屋で見つけ読み終わったばかり、である。 富士神社の角を西に入り埼京線・十条駅に。ここからしばらくは、十条銀座商店街を進むことになる。




十条銀座商店街
およそ200以上の店が集まるこの商店街は、近隣に設置された軍関係施設の拡充に呼応して発展。北区の一割近くを占めたといわれる軍関連施設をまとめておく。 明治初年に赤羽の台地に火薬庫が、石神井川沿いに板橋火薬製造所ができたのがはじまり。
赤羽・十条・滝野川の西部を弧状に分布していた軍施設は、北から、工兵第一大隊架橋場、近衛工兵隊架橋演習場、練兵場、第一師団工兵第一大隊(星美学園敷地)、近衛工兵大隊兵営(東京北社会保険病院)、陸軍被服本廠(赤羽団地)、工兵作業所、陸軍火薬庫(桐ヶ丘団地)、陸軍兵器庫、東京陸軍兵器支廠、陸軍火工廠稲付射撃場(西ヶ原2丁目・梅ノ木小学校)、板橋火薬製造所、十条兵器製造所、雷こう場、王子火薬製造所分工場、火薬製造所豊島分工場、といった按配。ちなみに西ヶ原の東京外国語大学敷地には海軍下瀬火薬製造所があった。 十条銀座の雑踏を進む。こういった商店街って大阪にはよくあるのだが、東京ではあまり見かけない。進むと富士見銀座に続く。

清水坂公園
環七通りを越え、先に進むと清水坂公園。公園は崖面を活用したつくりになっている。台地下に下ることなく、高台というか尾根部分を進む。台地が切れる。崖端から眺める。複雑に入り込んだ枝状の台地が魅力的。貝塚の遺跡跡を公園にした、と言う。

稲付公園
崖縁の石段を下りる。稲付公園のある丘に登る。ここは講談社・野間家の旧別邸跡。ひとつの丘全部が別邸とは剛毅な限り。丘に登る坂は野間坂。講談社社長・野間清氏に由来することは言うまでもない。 丘をぐるっと廻り坂をくだる。鳳生寺坂。
案内文;この坂は、鳳生寺門前から西へ上る坂で、坂上の十字路まで続き、坂上の旧家の屋号から六右衛門坂とも呼ばれます。坂上の十字路を右(北)へ向かうと赤羽駅西口の弁天通り、左(南)に向かうと十条仲原を経て環七通りへと至ります。名称の由来となった鳳生寺は、太田道灌の開基と伝えられ、岩淵宿にあったものを移したので、現在も岩淵山と号しています、と。稲付って地名の由来;昔、荒川が氾濫したとき、この高台に稲が流れ付いたから、とか。今ひとつ釈然とせず。

法真寺
鳳生寺前を通り、香取神社に向かう。行く手に見える小高い丘、その緑の中にあるのだろう。坂道を上ると法真寺。落ち着いた、いいお寺。徳川家光公より十三石二斗の御朱印を受ける。現在でも門跡寺院の格式をもち、京都の公家寺同様に、掘に二本の白線を入れる権利をもつ由緒あるお寺。開山は天海僧正の弟 ・日寿上人。開基は京都山科毘沙門堂跡守澄法親王、と聞けば、なんとなく納得。

香取神社
すぐ隣に香取神社。旧稲付村の鎮守さま。創建時期は不明。縁起によれば、奥殿に安置されている朱塗りの本殿は、かって上野東照宮の内陣だったもの。
家光が夢のお告げにより稲付村に移された、と。それにしても、隅田川の西で香取神社を見たのははじめて。基本的には隅田川の東が香取神社の祭祀圏ではあるのだが、はてさて、どういった経緯でこの地に誕生したのか、ちょっと調べてみたい。

静勝寺
台地の上を進み静勝寺。室町中期、太田道潅が北の拠点として築城した稲付城址。稀代の英雄の菩提をとむらうため道灌の禅の師匠・雲綱がむすんだ庵・道灌寺がはじまり。江戸時代、太田備中守資宗の庇護のもと、道灌とその父資清の法号をもとに現在の名前に改められた。 お寺は台地の端。眼下に赤羽の駅前低地。
台地下は鎌倉時代には岩渕宿、室町には関がもうけられるなど交通の要衝。時代は下って江戸期には岩槻街道、というか日光御成道となっている。城はその主要道を見下ろす台地に位置し、江戸と岩槻の城をつなぐ戦略拠点であった、ということだろう。 静勝寺の坂を降り、駅前への道、これって岩槻街道、というか日光御成道に下り、すぐ近くの赤羽駅に。今回の散歩は、お寺あり、神社あり、貝塚あり、城跡あり、桜の名所あり、紅葉の名所あり、台地あり、川あり、なかなかにバラエティに富んだコースであった。

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