先回は予土往還の山越え部をクリアした高岡郡越知町堂ノ岡より高岡郡日高村までメモした。ルートは堂ノ岡より越知の町に入り、赤土峠を越えて高岡郡佐川町に入り、土佐藩筆頭家老深尾氏の領地であった落ち着いた佐川の町を少し彷徨った後、予土往還の道筋とされる国道33号を通ることなく、土佐藩松山征討軍の進路でもあり、往昔の松山街道に架かっていた大岩が残されると言う海津見神社の鎮座する県道297号を辿り高岡郡日高村入口まで辿った。
今回は日高村から吾川郡いの町を経て高知城下の西の番所、思案橋番所跡までをつなぐ。その間、国道を阻む丘陵が3カ所ある。今の建設工事の技術であれば丘陵を切り崩し、トンネルを抜きと、どうといった丘陵ではないだろうが、往昔の丘陵越えは難路であったろうと、丘陵に向き合うたびに往昔の往還道としては丘陵を迂回したろうか、難路でも丘陵を越えただろうかとほとんど妄想で道筋を選び先を進み、最終地点である思案橋番所を繋いだ。ために、資料がなかったとはいえ、予土往還を歩き終えたといった感慨は今ひとつといったところではある。
何故に資料が少ないのか、それとも単に見つけられなかっただけなのか、それもはっきりしない。先回もメモしたように、予土往還を辿ると言うのは少々面映いが、とりあえずメモをはじめる。


日のルート;高岡郡日高村から高知市へ
高岡郡日高村から吾川郡いの町へ
日高村の調整池>日高橋の東、丘陵部を迂回>小村神社>丘陵部を迂回>吾川郡いの町・国道33号に戻る>仁淀川>椙本神社>いの町の中心地へ
吾川郡いの町から高知市へ
国道194号(国道33号並走区間)に合流>高知西バイパスを越え高知市域へ>咥内(こうない)坂>朝倉駅前より旧国道筋に入る>鏡川橋を渡り「とさでん蛍橋停留場」手前を右に逸れ思案橋跡へ>思案橋番所跡案内


高岡郡日高村から高知市へ

高岡郡日高村から吾川郡いの町へ

先回の散歩でメモした海津見神社の先、土佐加茂駅を越えると高岡郡佐川町を離れ高岡郡日高村に入る。日高村は(1954年)、 日下村・能津村および加茂村の一部が合併して発足。村名は「日本」と「高知県」から1文字ずつ取ったことに由来する、とある(Wikipediaより)。日は日下からかともおもったのだが、それは合併に際して他の村からの異議が出そう。日本の高知の村。人口5000名弱。町になる要件は人口8000名とも5000名とも言われる。

日下調整池
高岡郡日高村に入ると、道の右手の日下川は一見里池とも見える大きな湿地が見える。案内には「内陸型洪水調整池」とある。地図を見るとその東で日下川に合流する戸梶川にも調整池が整備されている。これってなんだろう。
チェックすると、日下川の低平地部は、仁淀川との合流点より上流に向かって堤内地盤が低くなる極めて特殊な"低奥型地形"となっており、また日下川が緩勾配であるため水はけが悪く、仁淀川本川の水位上昇の影響などを受け、内水氾濫を引き起こしやすい地形特性となっている。更に日下川と仁淀川の合流点では丘陵が南に突き出し、仁淀川が大きく蛇行している。仁淀川の水が「滞留」しやすいような流路ともなっている。
この地形特性に加えて野中兼山による治水事業が仁淀川の河床上昇・水位上昇に輪をかけることになる。藩政時代の慶安元年(1648)より6年の歳月をかけ日下川が仁淀川に合流する少し下流、仁淀川左岸の地を潤すため設けられた八田堰、承応3年(1654)より2年の月日をかけて、八田堰上流に設けられ仁淀川右岸を潤すことになる鎌田堰により仁淀川の河床が上昇し、逆流による内水氾濫が多発することになったと言う。仁淀川流域は全国屈指の多雨地帯でもあり、仁淀川の水位が上昇すると甚だしく、その度に日下川流域の日高村は内陸型洪水被害に悩まされた。
昭和に入ってもその状況は大きく変わらない。昭和30年(1955)には日下川下流域に日下放水路隧道工事を計画し、昭和35年(1960)に完成。日下川に溢れた水を3キロ弱トンネルを通し八田堰下流で仁淀川に水を流す対策を施工するも、昭和50年(1975)8月台風第5号による洪水では日高村の平野部のほぼ全域が水没し、また昭和51年(1976)9月台風第17号による洪水でも前年と同規模の被害が発生。その他の台風でも床上浸水被害が頻発している。
その間、昭和50年(1975)には二本目の放水路を計画。日下川治水抜工事(派川日下川)を行い、これも八田堰下流南の谷に水を逃がすといった工事が行われているが、それでも洪水を防ぐことができず、平成26年(2014)の台風12号で日高村の浸水、国道通行止め・土讃線不通といった被害が出たため、内陸型洪水への対策として、平成29年(2017)より3本目の放水路トンネル、日下川から東へ5キロ以上の放水路トンネルを抜き八田堰近くで仁淀川に落とす計画(日下川新規放水路)が進んでいるようである。
あまりに自然な景観を呈する調整池より話が広がってしまった。この辺りにしてさ、先に進む。

日高橋の東、丘陵部を迂回
日下橋先の丘陵を迂回
日下川に戸梶川が合流する箇所に架かる日高橋を渡ると、その先に丘陵部がある。予土往還の道筋についてちょっと悩む。地図には国道33号を松山街道としているのだが、丘陵部を抜ける土讃線・国道が如何にも坂を切り下げ、切通しとしたように思える。荷馬車往来を常とする平地の往還としえだては坂の丘陵を越えるより、少し遠回りでも丘陵部を迂回するのではないだろうか。何かそれを証するエビデンスは?
チェックすると土讃線は大正13年(1924)3月30日に須崎・日下駅間が開通し、日下駅が終点となっている。そして日下・高知間が開通したのが同年11月15日。何故に日下を終点としたのだろうか。諸要因は不明のため地形だけで判断すれば、日高村から高知まで3カ所、道を遮る丘陵地があり、それぞれ国道を抜くために困難に直面したようである。この丘陵もそのひとつ。とすれば、確たる根拠はないが、往昔の往還はなんとなく丘陵部を迂回するのではと思えて来た。
実際、『日高村史』には、「(1961年(昭和36年)国道橋及び鉄橋の工事困難を極め、七月に入りて漸く完成。正寺岡橋・福良橋間、戸梶川下流域柿の木畑岡花の切り取り工事に着手」とある。正寺岡橋は国道33号・日下川に架かる日下橋の一筋下流に架かる。福良川はその下流にあり、この文字面だけで見れば、旧国道は丘陵部を迂回しているようにも思える。
で、正寺岡橋をもう少し深堀すると、この橋は藩政期、日下大橋と称され橋の袂には日下大橋番所があったとのこと。どうも往昔の予土往還は丘陵部を迂回していたように思える。
因みに、これも確たる根拠ではないが、予土往還の資料を探すため途次図書館に拠ったとき、気分転換に手に取った坂本龍馬脱藩の道として、丘陵を迂回し国道33号日高橋の一筋上流に架かる正寺岡橋を渡るルートが記されていた(書名は覚えていない)。土佐藩内の脱藩道に関する資料が残っているわけでもなく、推定ルートではあろうが、日下大橋番所跡を抜ける丘陵迂回ルートを辿ることにした。
日下川放水路呑口
日下川と戸梶川の合流点、日下橋の近くに日下川放水路の呑口がある。この放水路のことはメモの段階でわかったこと。水路フリークとしては寄ってみたい施設であるが、常の如く後の祭りであった。

小村神社
洪水多発地帯であったとすれば山裾の道を辿ったのであろうと、日下駅から北に山裾を進む道に入り、日下川に架かる正寺岡橋を渡り、道なりに鍛冶屋、福良の集落を辿り丘陵部を迂回し国道33号に出る。その直ぐ先、道の左手に小村(おむら)神社が建つ。
長い杉並木の参道の先に社殿。案内には「小村神社と牡丹杉(村文化財指定 昭和三十六年 人皇三十一代用命帝の二年、高岡の首(郡長のこと) と日下氏 (当時この付近を支配していた人)が、先祖の国常立命を祭って創建し御霊に環頭の大刀を奉納したと伝えられる国史現在社で、元国の安上官幣の御社であった。往古は土佐二の宮で、二の宮天神と称し日下の総鎮守である。祭神は国常立命で御神体は太刀である。
御神体の環頭大刀は国宝に、木造の菩薩面二点は重要文化財にいずれも一九三七年指定された。その他の社宝に南北朝時代の銅鏡三面 三十歌仙額、小野道風の書等がある。 社殿の背後に樹齢千年の燈明杉 又は牡丹杉と称する老杉がウッ蒼と天を摩し荘厳さを感じさせている。この杉の大木は下枝は杉葉であるが中程より上は檜がハクの葉様で稀れに見る珍種である。伝説によると宝永二年七月仁淀川大氾濫の夜、また安政元年の大地震の前晩、、日露戦役の時など何か異変ある時には杉の精に大きな霊火が欄々と懸ったとのことで、里人は神木として崇拝して来たものである」とある。
国史現在社
10世紀の初頭にまとめられた《延喜式》には,全国で2861の神社,3132座の神名が記載されているが,そこに見える神社を後世式内社(しきないしや)という。また式内社以外に六国史に名が記されている神社が391社あり,それらを国史現在社といった。こうした三千数百の神社は,国家が公認した特殊な勢力のある神社。。。」といった説明があった(「コトバンク」より)
〇六国史
官撰(かんせん)の6種の国史の総称。奈良・平安時代に編纂(へんさん)された『日本書紀』『続日本紀(しょくにほんぎ)』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳(もんとく)天皇実録』『日本三代実録』がそれである(「日本大百科全書」より)。
安上
案上?。案上とは祈年祭(としごいのまつり)、新嘗祭(にいなめのまつり)、月次祭(つきなみのまつり)などの時に、神祇官(じんぎかん)が社格の高い大社の幣帛(へいはく)を案上に置いて奉ること。また、その社。案は机の意(「コトバンク」より)。
国史現在社、案上共に、この社が由緒ある社であったということだろう。
仁井田神社
境内に摂社として仁井田神社が祀られる。予土往還の途次幾度かメモしたように仁井田神社は伊予の越智氏ゆかりの社である。
Wikipediaには「越智国造の小知命(小千命/乎致命)の墓が今治市の「日高」に伝わること等から、この小知命が当地に至り、国土開発の神として国常立命を祀り大刀を神体としたとする」とし、続けて「なお創建に関わる伝承として、元々は伊予国御三戸(現在の愛媛県上浮穴郡久万高原町の地名:おみど)に鎮座したが、洪水で流されて越知町宮地(古名を「小村」とする)に移り、さらに貞観3年(861年)秋に大洪水で大刀・社殿とも流れて神谷に、ついで日高村に移ったともいわれる」とあった。
何となく仁淀川水系をおさえた豪族との関連を感じさせる縁起である。

丘陵部を迂回
小村神社先の丘陵を迂回
小村神社社殿から国道33号に戻る。と、国道の前面は仁淀川に突き出た丘陵に遮られ、国道・土讃線は如何にも切通しといったところを抜けて行く。国道の南北を囲む最西端の丘陵の内、北側の丘陵は往昔、南の谷より仁淀川に注いだであろう感のある河川の流れによって切りとられた独立丘陵となっている。その独立丘陵は仁淀川まで突き出ているため、この丘陵を迂回することはできない。
南北を丘陵に挟まれた切通しを進み独立丘陵の東端に。ここでちょっと悩む。国道33号を直進するのか、それとも独立丘陵の東端とその東の丘陵部との間の「谷筋」を北に進み、丘陵部を迂回するのか、どちらが往昔の予土往還だろう。
国道33号は独立丘陵東端から下り気味となっておりそれほどの難路とはなっていないが、道路改修時には往々にして坂の切り下げが行われるので、現在の地形からだけでは往昔の丘陵部の姿の判断は難しい。
で、結局丘陵部を迂回することにした。確たる根拠はないのだが、上述図書館で見た龍馬脱藩時の道としては、この丘陵部を迂回しているということだけが迂回の因。脱藩の道といっても記録があるわけでもなく推定ルートであろうが、他に頼るべき資料もなく、取敢えず迂回ルートを選択した。

吾川郡いの町・国道33号に戻る
少し北に進み、これも仁淀川沿いに残る小さな独立丘陵を右に折れ先に進む。日高村より吾川郡いの町となった丘陵北側の道を進み茂地、波川北、宮ノ東の集落を抜け県道33号に戻る。
日下川・仁淀川合流点
地図に「日下川・仁淀川合流点」が記される。仁淀川沿いに残る小さな独立丘陵を右に折れず、仁淀川の川筋に進んだところである。当日は「日下川・仁淀川合流点」にどんな意味があるのか?とそのままパスしてしまったのだが、メモの段階でその合流点には昭和12年(1937)に造られた井筋への取水口があった。また、丘陵地を迂回しないで国道33号を進むと、取水口から取り込んだ用水路の開渠部が地図に記されている。これも、行きあたりばったりゆえの後の祭りとなった。
鎌田井筋
鎌田井筋は野中兼山の治水・利水事績のひとつ。仁淀川西岸、高岡郡を潤すため承応3(1654)年鎌田堰築造に着工。取水堰は現在の土讃線が仁淀川を渡る箇所に造られた。この堰の長さは545m(300間)、18.1m(10間)、高さ12.7m(7間)に及び、鎌田(右岸)に近いところに"水越し"を設け、ここを通過する舟筏で賑わい「鎌田堰の筏越し」として名高かったといのこと。現在その場に記念堰石碑が残る。
堰の工事は記録によると着工が承応3年(1654)、完成まで2ヵ年の歳月を要した、と。その後天和3年(1683)まで、おおよそ30年の歳月をかけ用水路を整備。鎌田井筋と呼ばれるその水路は、23㎞弱(5里24町32間)に及び、東岸に設けられた兼山の事績である八田、弘岡井筋と合わせると、幹流2、支流6となり、30年にも及ぶ井筋開削の結果、その延長48.32㎞、灌漑面積は1549ha(1549町4反4畝)もの大新田、沃野を作り出した。
なお、上述仁淀川の取水口は昭和12年(1937)、堰を築くことなく水門を設け、トンネルを掘り抜き、自然流水の方法に改築した。ために、約300年に近い歳月利用されてきた「鎌田堰」は昭和17年(1942)年をもって取り除かれることとなった。
鎌田井筋は現在ではほとんどその姿を留めず、土讃線鉄橋近くのいの町の川内小学校の東と仁淀川堤防の間に大きく掘削された井筋の跡が残っているのみ、という。
とは言うものの、土佐の歩き遍路の折、35番札所清瀧寺を訪ね土佐市高岡町を歩いたのだが、町中を縦横に走る用水路を鎌田井筋とする写真が結構あった。はてさて。

仁淀川
国道筋に戻り仁淀川を渡る。Wikipediaに拠れば、「四国の最高峰である石鎚山に源を発する面河川と、分水嶺である三坂峠から流れる久万川が、御三戸(愛媛県上浮穴郡久万高原町)で合流して形成される。四国山地に深いV字谷を刻みながら南下し、やがて高知県高知市/土佐市付近で太平洋へと注ぎ込む。
愛媛県内では面河川(おもごがわ)と呼ばれる。石鎚山などの源流から太平洋に注ぐ河口まで流路延長124km。吉野川・四万十川に次ぐ四国第三の河川で.水質は全国1位(2010年)で、水面が青く美しい「仁淀ブルー」と呼ばれる淵や滝壺などがある。
仁淀川の川名の由来は諸説あり、平城天皇の皇子であった高岳親王が土佐国(現在の高知県)に来た際、山城国(京都府南部)の淀川に似ているので「仁淀」と名付けたというもの、また有力な説としては、『延喜式』に貢ぎ物として「贄殿川」のアユが登場した。「贄殿」とは宮中の厨房で、諸国から魚などの貢ぎ物(贄)を納める所である。のちに贄殿川から転じて仁淀川になったというもの、更には古代の仁淀川は、大神に捧げる酒をこの川で醸造したことから、「神河」(みわがわ、三輪川)と呼ばれ、いつしか仁淀川となったと言われる」、といった由来説が記されていた。
今回の伊予の久万高原越ノ峠からはじめた予土往還の旅も、越ノ峠から山を越えた先で仁淀川水系面河川筋の七鳥に下り、そこから南下する面河川と分かれ黒滝峠・水ノ峠と山地を進み、一度仁淀川水系土居川の谷筋の町池川に下り、さらに山入りし鈴ヶ峠を越えて越知の堂ノ岡で四国山地を南流・東進・北流してきた仁淀川本流に再会。そこから越知の町、佐川の町を経てこの地で仁淀川に再々会した。予土往還は仁淀川が蛇行する四国山地を東北に突き切ってきた感がある。

椙本神社
釈超空の歌碑
仁淀川橋を渡ると国道33号は北から下ってきた国道194号との並走区間となる。直ぐ椙本神社。道に接する一の鳥居を潜るとすぐ二の鳥居。鳥居前に釈超空の歌碑。[いののかみ この川くまに よりたまひし 日を かたらへば ひとの ひさしき]と刻まれる。
釈超空は日本の民俗学者、国文学者、国語学者である折口 信夫(おりくち しのぶ(のぶを)の詩人・歌人として号である。
境内の案内には「いの大国さま 椙本神社 神社の創建は延暦 12年と伝えられ、「いのの大国さま」の名で親しまれる。財福、縁結び、商売繁盛の神として厚い信仰が寄せられる。神社には鎌倉時代の作「八角形漆塗神輿」(国重要文化財)が伝わり、高知県三大祭りの一つに数えられる秋の大祭には、神輿(複製)を先頭に、古式豊かなおなばれが町並みを練り歩く」とある。
大国さまとは祭神である大国主命ゆえであろうか。拝殿前に「さすり大国」さまの像が立つ。その姿は七福神の大黒さま。大国主が大黒さまと習合した所以であろう。
社伝では、祭神の事蹟は寛文六年(1666年)の仁淀川洪水で古記録が流失したため不詳ではあるが、大和の国三輪から神像を奉じて、阿波を経て吉野川を遡り、伊予国東川の山中に至り、その後、仁淀川洪水の時に河畔に流着したのを加治屋谷に斎き祀ったといわれているとのこと。 創祀は延暦十二年(793年)。その後、元慶年間(880年代)に現在地へ祀られるようになった。 いのの大国さまと称されて古くから上下の信仰を受けている。
伊予の東川・仁淀川水系の鍛冶屋谷
伊予の国東川ってどこだろう。予土往還を久万高原の越ノ峠から山を越え面河川の谷の七鳥に出たとき、そこから予土往還はふたつあり、ひとつは今回辿ってきた予土国境黒滝峠を抜ける通称、予土往還高山通り。もうひとつは現在の国道494号に沿って進む往還道。
で、この国道494号筋の往還国境の塩野峠(サレノ峠)を源流域とする「東川」があった。とはいえこの東川は??野川筋ではなく仁淀川水系。吉野川を遡上しても分水界を越えて仁淀川水系の東川に流れるにはちょっと大変。 また鍛冶屋谷もどこだろう。は仁淀川支流上八川川支流小川川枝支流西浦川支流鍛冶屋谷がある。 東川も鍛冶屋谷もどこなのかはっきりしないが、とりあえずチェックだけしておいた。吉野川から分水界を越えて仁淀川に乗り換えるのはちょっと難しそうに思えるが、縁起は縁起として「置いておく」べきか。

境内にあった案内板;
〇「伊野町保護文化財 第六一号 昭和六三年四月十八日指定
(歴史資料)椙本神社の宝物類 絵馬群
宝物類は宸筆額(天子の筆跡)をはじめ山内氏ゆかりと伝えられる茶釜、山内一豊の折紙、野中与左衛門の手紙、師子頭、田楽面その他計一四点。
絵馬群は正保四年(一六四七)中内甚右衛門奉納の彫刻銅版「つなぎ馬」安永八年(一七七九)藤原茂樹奉納「七福神」その他で計五九点。大正時代以降の奉納絵馬はすべて除外しています。 今次指定の絵馬は、奉献者が各年代各階層多方面にわたり、量、質共に多彩で県下随一と称されています。 信仰の歴史を探る貴重な資料であり、また美術工芸的な面での価値も高いとされております。
〇伊野町保護文化財 「第三八号 昭和五九年四月十一月七日指定
有形(絵画) 長谷川信秋の曽我物語 所有者 椙本神社
絵師信秋は長谷川等伯の族。正保三年(一六四六)の作品で奉納絵馬。画題は曽我物語の中の「朝比奈三郎草摺引の図」。設定大磯の長者の家。兄十郎を気づかつて駆けつけた曽我五郎を大力の朝比奈三郎が力任せに引き入れようとする場面である。
第三九郷昭和五九年四月十一月七日指定
有形(絵画)
吉井源太翁の富嶽
わが国製紙の功労者として知られる吉井源太翁、明治二三年(一八九〇)の作品で奉納絵馬。翁は早くから絵を嗜み、、楠瀬大枝のち徳弘董斉に南画を受けてよく山水の密画を残し、特に富縦にすぐれていた。絵馬には珍しい南画で一種の風格を備えた異色の作品である。
賑恤米記 田中光顕家訓
その他、「賑恤米記 田中光顕家訓」と記された案内のある石碑があった。賑恤(しんじゅつ)と読む。Wikipediaには「賑恤(しんじゅつ) 律令制において高齢者や病人、困窮者、その他鰥寡孤独(身寄りのない人々)に対して国家が稲穀や塩などの食料品や布や綿などの衣料品を支給する福祉制度、あるいは支給する行為そのものを指す」とある。
石碑に刻まれた文字をつぶさに読んだわけではないが、困窮者に対して二十四袋を頒」とか「以て社会政策上、其の功績の顕著・・」といった文字が読める。賑恤の心をその家訓としたということだろうか。「賑恤米記」「田中光顕家訓」で検索したがヒットせず詳細はわからない。

いの町の中心へと予土往還を進む
琴平神社参道東にとさ電の車止め
椙本神社を離れ先に進む。椙本神社で地図を見ると、国道33号から一筋東、町の中心に向かって進む道の地図上に「松山街道」の文字が記され、カクカクと曲がりながら町の中心部に向かう。いの町役場前を通り、琴平神社参道前に出ると、その東に線路の車止め。先にとさ電の軌道が続く。
和紙発祥の地
いのは土佐和紙発祥の町として知られる。伊野村に紙漉きの技術がもたらされた時期は長曾我部氏の頃と言われ、秀吉の四国征伐後土佐に山内一豊が入国した際には、七色紙の和紙が献上されたという。
伊野村に商家が建ちはじめたのは野中兼山の治水事業により洪水の危険が緩和された頃と言われる。元禄年間の初めころ(17世紀末)椙本神社の門前に商業集落が形成された、と。
商家の中でも紙を取り扱う商人の増加は目覚ましく、土佐藩御用紙漉きの地として24軒の業者が選ばれ、幕府への献上紙や御用紙漉きを命ぜられ、その屋号は130を越えたという。
明治になると藩政の縛りから解放されたゆえか、明治12年(1879)の記録には伊野村の総戸数810戸であり、その内紙漉き253戸、諸卸商43戸、諸小売商61戸と「和紙の町」となっている。 いの町の案内に「始まりの町」とあり、現在では日本最古となった路面電車が、明治41年(1908)伊野町まで開通したとあったが、これも和紙などの物資を高知港に運ぶためでもあったと言われる。 また、伊野村は紙漉きだけでなく、近世後期には在郷町として発展したとされるが、それは仁淀川水運の発達により上流の物資が集散地となったゆえとのこと。現在も天神地区、また旧市街には往昔の繁栄を誇った商家の町並みが残ると言う。
在郷町
「在郷(ざいごう、ざいきょう)」とは、「田舎」「農村部」を意味する。つまり在郷町とは、農村の中に形成された町場を意味する。主要な街道・水運航路が通る農村においては、その街道沿いに形成されている場合もある(Wikipedia)。
吾川郡いの町
吾川郡いの町の行政域は南北に長い。土佐街道歩きのため愛媛県西条市から国道194号に乗り、5キロ以上もある寒風山トンネルを抜けると吾川郡いの町に入る。吉野川水系の谷筋を進み、仁淀川水系の分水界となる山稜を越えるといった、四国の水系を代表するふたつの水系を南下し高知市と境を接する区域までをその町域とする。人口も高知の町村では最大の2万名以上からなるとのことである。
平成16年(2004年)吾川郡伊野町、吾北村、土佐郡本川村が合併(新設合併)し誕生。その際、現在の平仮名表記になった。


吾川郡いの町から高知市へ

国道194号(国道33号並走区間)に合流
とさ電・伊野停留場
琴平神社参道脇の電車車止めのすぐ先に停留場。とさでん交通の伊野停留場。明治41年(1908)、土佐電気鉄道(とさでん交通の前身)伊野線として伊野と高知間が開業し、伊野で生産された紙が高知港へと運ばれた。貨物列車も運行され、製品や原材料の輸送が行われていたが昭和20年(1945)ごろに廃止された。
停留所の東から北に延びる線路が見える。開業当初から平成11年(1999)まであった車庫への留置線だろう。その直ぐ先に伊野駅前停留場。大正13年(1924)土讃線伊野駅の開業に合わせて開業した。
土佐電気鉄道株式会社(とさでんきてつどう)
かつて高知県高知市にあった路面電車と、路線バスを運営していた会社。平成26年(2014)10月1日より、高知県交通・土佐電ドリームサービスとともにとさでん交通株式会社へ事業統合した(Wikipedia)。

高知西バイパスを越え高知市域へ
高知西バイパスを越えると構内坂の丘陵
土讃線伊野駅の少し東で合流した国道194号(国道33号並走区間)を東に進む。道の南を流れていた宇治川は枝川駅手前で道の北側に移る。上述日下川と同じく、この宇治川も平地部の地盤が奥に行くに従って低くなり、三方を山で囲まれた内水の溜まりやすい鍋底地形。それに加え、川床勾配が極めて緩く、内水氾濫が頻発したようである。日下川流域がそうであったように、昭和50年(1975)の台風5号では甚大な被害を蒙ったとのことである。
先に進むと前面を丘陵が阻む。その手前、国道は高知西バイパスとして北に向かう。災害による通行止めや交通渋滞の解消のため、昭和49年(1974)4月に高知市鴨部~いの町波川間9.8kmを事業化。平成3年(1991)2月に米田(高知西)トンネル(635m)が貫通し、平成9年(1997)12月に開通、供用開始した。
旧国道は高知西バイパスより先は県道386号となり丘陵切通し部の咥内坂へと向かう。咥内坂はいの町と高知市の境となっている。

咥内(こうない)坂
咥内坂(左・とさ電、中央・高知道、右・土讃線)
丘陵切通状の咥内坂には南北に高知自動車道、東西に県道、土讃線、とさでん交通伊野線が通る。現在は戦後の道路改修工事により峠部が数メートル切り下げられており、なんということのない「峠」ではあるが、明治時代以前は伊野と高知の間を遮る唯一の難所として、旅人、また紙の原材料や紙製品の往来にとって大きな難所となっていた、と。
明治になり現在の国道の前身である道が開かれ、峠に向かって蛇行しながら上り峠を越えていたようである。また峠部には明治時代の土佐電鉄伊野線開通時に開削された咥内坂隧道があり、その狭さゆえに輸送上の問題を抱えていた、と。
で、戦後、昭和33年(1958)から37年(1962)にかけて改良工事が行われ、峠部を切り下げ隧道を撤去し、国道と電車軌道の直線化を行ったとのことである。
丘陵迂回路
咥内坂の丘陵
で、ここでちょっと悩む。往還道としてこの難路と言われる峠を牛馬が往来したのだろうか。どこか咥内坂を迂回する道はないだろうか?チェックすると咥内坂の北、宇治川の上流部に切通し状の地形があり、高知自動車道が丘陵を抜けている。高知自動車道が整備される以前、国土地理院の昭和50年(1975)の地図には丘陵を蛇行しながら越える道は見えるが、切通しは地図に無い。切通しは高知自動車道工事の折に開削されたもののように思える(根拠はない)。
予土往還ではないようには思えるが、取敢えず丘陵越えの風情が如何なるものか、予土往還の痕跡でもないものかと寄り道することに。
昭和50年(1975)の地図
切通しは見られない(国土地理院)
成り行きで山裾の道に入り宇治川の上流域へと向かい高知自動車道が丘陵を抜ける箇所に着く。高知自動車道に沿って2車線の車道が丘陵を上る。地形図でチェックすると比高差20mほどありそうだ。旧道らしきもの、予土往還の「何か」を示すものは何もない。
いの町と高知市を隔てる丘陵は東西南北に幅広く、元の国道筋に復帰するには結構な遠回りとなる。高知自動車道開通以前の蛇行する丘陵越えの坂を上り、大きく遠回りするくらいなら、難路であっても咥内坂を越えた方がよさげな気がする。予土往還は咥内坂越えの道筋であろうと思い込み、元に戻る。
八代八幡八代の舞台
地図を見ると、迂回丘陵越えの近く、宇治川の北の山裾に八代八幡がある。そこの神楽殿は国の重要有形民俗文化財に指定されている、と。上述の如く迂回路チェックの道を八代神社に続く山裾の道を辿ったのはこの故でもある。
当日は神楽殿は修繕工事のようで見ることはできなかった。境内の案内はふたつあり、
ひとつは「国指定 重要有形民俗文化財 「八代の舞台」
指定の日昭和五十一年八月
八代の舞台
神楽殿は、約百年前に再建された歌舞伎廻り舞台で、昔のままの素ぼくなる姿態、稚拙な形式装置を残しており、全国でも珍しく糞重な文化の資料である。舞台は皿回式、二重台。
太夫座、花道 、スッボン等を有している。毎年、地芝居を上演する農村舞台の一典型をなすもので、独特な存在である。この舞台を通じて神祭の日(十一月五日)土地の老若男女が相集い、共に豊作を祝い日頃の労苦を忘れ、遊び戯れた平和で素ほくな昔の人々の生活が偲ばれる」と。
もうひとつには「国指定重要有形民俗文化財 「八代の舞台」
指定の日 昭和五十一年八月二十三日
この舞台は昔、神楽殿として神楽が奉納されていたが、徳川時代後期、全国的な歌舞伎流行のとき、「氏神様は芝居がお好き」とて歌舞伎奉納が行われ、以来、氏子の若い衆により十一月五日の神祭の夜、毎年演じられ、神も人も老若男女共に楽しむ。
舞台の構造は皿回式、二重台、太大座、花道、スッポン等を有し、建設以来星霜数百年旧時の姿をとどめ素朴古拙も変わる事無し、演技これに相応しき姿をとどめる。全国的に珍重すべき存在の文化財である 伊野町教育委員会」とあった。
「伊野町」と漢字表記であるのは、平成の合併により「いの」となる以前に立てられ故であろう。

朝倉駅前より旧国道筋に入る
朝倉駅前からとさ電路線道に逸れる
咥内坂の切通部を抜けると、とさでん咥内停留場。明治40年(1907)、土佐電気鉄道の堀詰(高知市本町)から咥内停留場までが開通した。難所である咥内坂故に、伊野と枝川間を先に開業し、咥内坂改良工事を終え、高知・伊野間が開通したのは翌明治41年(1908)。
路面電車の軌道が走る県道386号を東進し、土讃線朝倉駅前でとさでん路線は県道386号から分かれ右に逸れ朝倉駅前停留場に。とさでんが走る路線が旧国道とのこと。
朝倉城址
朝倉駅南の丘陵に朝倉城址。四国山地の真ん中、現在の長岡郡本山に城を構えた本山氏が土佐中央部へと侵出の橋頭保として築いた城。天文元年(1532年)頃とも言われる。
その後、長宗我部氏や土佐一条氏と土佐一国の覇権をめぐり抗争するも、永禄5年(1562年)に長宗我部元親が攻城。これを撃退するも翌永禄6年(1563年)に本山城に退去。城は退去時に焼かれ、廃城となった。
土佐一条氏
土佐国の西部、幡多郡を拠点とした戦国大名で、一条家が、応仁の乱を避けて京から下向したことに始まる。幡多郡に土着後も土佐にありながら高い官位を有し、戦国時代の間、土佐国の主要七国人(「土佐七雄」)の盟主的地位にあった。伊予国への外征も積極的に行うが、伸長した長宗我部氏の勢いに呑まれて断絶した(Wikipediaより)。

鏡川橋を渡り「とさでん蛍橋停留場」手前を右に逸れ思案橋跡へ
用水路に沿って思案橋へ
とさでんの走る旧国道筋を東進し鏡川を渡る。地図を見ると、とさでん蛍橋停留場の少し手前より右にそれる道筋に「松山街道」と記載され、その先で思案橋に繋がっている。思案橋傍には高知城の西の出口、伊予に繋がる街道始点でもある思案橋番所があったとのことであり、予土往還はこの道筋であったのだろうと蛍橋場手前で道を右に逸れる。
国道を右に逸れると直ぐ、道の左手に用水路。フェンスに遮られた用水路に沿って道なりに東進。 鏡川に架かる新月橋から北に延びる県道37号と交差する西詰めに思案橋跡。半分埋没した状態で残っていた。

思案橋番所跡案内
思案橋
交差点を越えると、水路は道の真ん中を東進。30mほど進んだところに高知城下の案内と共に「思案橋番所」の案内。「歴史の道史跡案内-6  思案橋番所しあんばし ばんしょ  上町5丁目、新月橋の通り周辺には、旧水通町の思案橋や秋葉神社、水丁場の石碑や観音堂など、藩政時代の名残があちらこちらに残っています。
思案橋は城下町の最も西に位置し、町と周辺を区切る水路に架けられた橋です。ここに西出入口として城下三番所の一つである思案橋番所が置かれていました。
橋名の由来は、城下町へ入る際に南の通りにしようか、それとも北の本丁筋にしようか、いっそのこと中央の水通町を通ろうか、と3本の道を前にして思案したため、と伝えられています。ここは、伊予方面への街道筋にあたり、たくさんの旅人が往来したことでしょう。
また、この街道北側には水路が流れています。この清らかな水が流れていることからこの付近は玉水という名で呼ばれていました。この水は城下町に入ると上町ではいろいろな製品を作るために、郭中では生活用水として使われた生活に密着した用水路でした。以来、「水通の川」として地域の人々に親しまれています。なお、小説でも有名な料亭である陽暉楼は、明治期にこの付近にでき、隆盛を極めました。
思案橋番所案内板(水路道)
すぐ近くの鏡川北岸の堤防には、藩政時代の水防活動を物語る水丁場の石碑が現在でも残っています。ここから下町の雑喉場橋までの間を12の区域に分け、武士、町人ともに水防活動にあたりました。
水丁場の石碑のそばには観音堂があります。もとは平安時代の大同2年(807)に井口村(現在の井口町付近)に建てられたと伝えられており、後にこの地に移されました。本尊は十一面観音です。観音堂にはお供え物が絶えることもなく、地元の方々によって大切に祀られています」とある。
案内に「玉水」とあったが、そこには玉水新地と呼ばれる遊郭があったとも。悪所に行こうかどうしよううかと思案した、とは勘ぐり過ぎか。
上町・郭町・下町
高知城下はお城を中心とした重臣が住む郭町、その西の家臣と商人・職人の住む上町、郭町の東の家臣と商人・職人の住む下町に分かれていた。
水丁場
国分川、久万川、鏡川などの河川が織りなすかつての氾濫平野、三角州に立地する高知城下はデルタ地帯故の治水施策が重要であった。
その施策は大きく分けてふたつに分かれる。ひとつは城下の北から浦戸湾に流れ込む河川への治水事業。久万川、国分川、舟入川がこれにあたる。もうひとつは城下町の南を流れる鏡川の対策である。
国分川、舟入川、久万川の治水対策
国分川や舟入川には霞堤とか水越(越流堤)が目につく。これらの堤は洪水を防ぐというより、洪水時には水が堤防を越ることをあらかじめ想定し、その下流を水没させ、中堤(水張堤)により一帯を遊水池とすることを目する。河川上流部を水没されることにより河口部の洪水を抑制し、城下町を護るといった治水施策をとっているようだ。国分川水系の洪水をそのまま河口部まで流すと鏡川などの城下町を流れる川の水位が上がり、逆流現象が起き水が城下に流れ込むのを防ぐこととも意図しているのではないだろうか。
久万川には洪水を防ぐ中堤(水張堤)が見られる。支流からの洪水が久万川に流れ込み久万川の水位が上がるのを防いでいるのだろうか。
洪水に対しては防ぐというよりは、堤防を越水させて遊水池となし、洪水が一挙に流下するのを抑え、それにより下流域の被害を少なく抑える「伊奈流」関東流と呼ばれる越流堤の治水施策となっている。
鏡川の治水対策
一方鏡川の城下町に対する治水対策は極めてシンプルである。洪水になれば鏡川右岸(南側)の堤が決壊し(いざとなれば人為的にでも「切る」)、鏡川の南一帯を水没させることにより、北側の城下町を洪水から防ぐ、というもの。
寛文 元 年(1661 年)から安政4 年(1857 年)の約 200 年間に 17 回、鏡川南岸の潮江堤防の決壊記録が残っている。一方、鏡川北岸の堤防決壊の記録はない。城下町を守るため、鏡川右岸堤防を鏡川左岸堤防なみに強く高く築くことをせず、城下側堤防よりも低く強度もいくらか弱めに築いていたとも言われる。事実、鏡川北岸には下述の上町あたりから「大堤防」、郭中から下町にかけては「郭中堤防」が築かれているが。南岸にはこれといって名前のついた堤防は見当たらない。
水丁場
水丁場標識(高知市の資料より)
上町(家臣と商人・職人)・郭中(城と重臣)・下町(家臣と商人・職人)からなる城下町を12の区画に分け、水帳場と呼ばれる受け持ち区画には標柱が立っていたとある。高知市鷹匠町(柳原橋西)に残る標柱の案内には「この石柱は、江戸時代、鏡川流域の洪水による災害を防ぐために設けられた受け持ちの区域(丁場)の境界を示す標柱です。
西は、上町の観音堂より、東は喉場に至る鏡川沿いの堤防に、この丁場を示す標柱が建てられ、出水時には武士、町人らが協力して、十二に分かれた丁場を十二の組が出動して水防にあたりました。各組の長は家老があたり、その下に組頭がおり、組を率いていました。水丁場には、目盛りをつけた標本も建てられており、これで増水状態を確認しながら、その程度に応じて、出勤の人数を決めていたといわれています。他に同様の標柱が、上町二丁目・上町五丁目にのこっています」とある。標柱には「従是西六丁場、従是東七ノ丁場」 と刻まれる。
上町上流端に中堤(水張堤)、上町と郭中の間には升形堤防と呼ばれる中堤(水張堤)、郭中と上町の間にも中堤(水張堤)、さらにその東、下町の下流端にも比島中堤、宝永堤といった中堤(水張堤)が築かれ城下町への浸水に対処しているようである。

これで伊予の久万高原町の越ノ峠から始めた予土往還、伊予から土佐へと向かったわけだから土佐街道と呼ぶのがいいかとも思うが、その藪の激しい山間部を越え、越知の町から平地を辿り高知城下まで繋いだ。山間部はそれなりに資料もあり、土佐街道を歩いた感はあるが、越知から先、高知まではほんの一部を除き確たる旧路資料がみつからず、ほぼ成り行きで辿るしかなく、なんとなくしっくりこない締めとなってしまった。
当初はその予定はなかったのだが、「確」たる予土往還を歩き街道歩きを締めくくりたいとの思いもあり、調査がなされ旧予土往還の旧路が比定されている伊予の越ノ峠から三坂峠、その先松山まで繋いでみようかと思い始めた。
愛媛県上浮穴郡久万高原町の越ノ峠からはじめた予土往還 土佐街道・松山街道の山越え部も先回で終了。後は仁淀川本流の谷筋の高岡郡越知町横畠の堂ノ岡から高知城下を繋ぐだけとなった。道筋は仁淀川本流に面する横畠の堂ノ岡からはじめ、仁淀川を渡り越知の町に。越知町と高岡郡佐川町の境を画する赤土峠呼ばれる標高140mほどの丘陵(比高差70mほど)を抜けた後は仁淀川水系の谷筋を辿り高岡郡日高村を経て吾川郡いの町に入る。
越知の町より蛇行をくりかえし北流・東進、そして南下してきた仁淀川本流を渡りいの町を抜けると高知市。その先鏡川水系・鏡川本流を渡り高知城下に入り土佐藩の西の番所・思案橋番所に至る。この間、峠越えらしき箇所は赤土峠のみ。それも比高差70mほどの「可愛い」ものであり、その他はいくつかの丘陵はあるものの、概ね平坦な道を進むことになる。
と、ザックリとした道筋を示したが、堂ノ岡から先の予土往還 土佐街道・松山街道に関する詳しい旧道ルート図はみつからない。ルート情報などないものかと途次図書館に立ち寄っては情報を探したのだが、これといった旧路図は見つからなかった。
で、今回のメモは予土往還 土佐街道・松山街道と称するにはちょっと面映い。資料にあった赤土峠は別にして、それ以外のルートは堂ノ岡から高知城下までの間、予土往還 土佐街道・松山街道の道筋にあったと記される越知町、佐川町、いの町を繋いだだけである。
町と町を繋ぐルートは、赤土峠やその他資料にあった僅かなポイントは辿るも、基本松山街道・土佐街道の道筋とされる国道33号を進むことにした。但し途中国道33号の道筋ではあるものの、如何にも丘陵部を堀割った切通し部らしき箇所は丘陵を迂回する道を辿った。その道筋が予土往還 土佐街道・松山街道という根拠はなにもないのだが、往昔牛馬が往来する街道はそれがあまりに遠回りとならないのであれば、雨などふった折のぬかるみの坂道となる丘陵越えは避けて平地を迂回するだろうと思っただけのことである。
また、現国道33号を大きく外れた道筋も辿った。その根拠は幕末の土佐藩松山討伐軍の進軍路。多くの軍勢・小荷駄が進むルートは当時の本道ではないだろうかと妄想したものである。

それにしても山越えを終え里道を辿るこのルートには予土往還 土佐街道・松山街道の資料、里程石といった史跡もほとんど見あたらなかった。同じ予土往還でも土佐北街道はそれなりに史跡や資料が残っていた。土佐北街道は土佐藩主参勤交代の道であったとはいうものの、この差の因は何なんだろう。
また予土往還の伊予側には久万高原町から松山までの里道(途中、片峠の三坂峠はあるが)については予算がついてのこととは思うが調査がなされ結構な史跡が残っている。この差も結構気になる。
藩政時代の土佐藩は人々の往来に厳しい制限を課し、公用以外の旅を認めることはなかったようである。公用であっても宿は指定され、江戸時代中期頃まで一般の人々向けの旅籠などもなかったと言われる。特に他藩との往来は厳しく制限されており、ために往還道利用者は極めて限られていたとのこと。このような土佐藩の政策も予土往還に関する資料が少ない一因だろうか。
とは言え、堂ノ岡から鈴ヶ峠までの予土往還の資料の充実ぶりと、その他の土佐藩内の資料の少なさ、そのギャップの因は何なのだろう。国の予算がつけば、その他の往還道も浮かび上がるのだろうか、それとも資料はあるが単に見付けられなかっただけなのだろうか。疑問がグルグルとループする。
ともあれ、大雑把というか確たるものではないのだが、予土往還 土佐街道・松山街道の山越え部をクリアした地より高知の城下までを2回に分けてトレースする。今回は堂ノ岡から越知の町を抜け、赤土峠を越えて佐川に。そしてその先、高岡郡日高村までをメモする。



本日のルート;
郡越知町町横畠の堂ノ岡から高岡郡日高町へ:
堂ノ岡から越知の町へ
高岡郡越知町横畠の堂ノ岡>今成トンネル手前を左に逸れる>中仁淀橋(沈下橋)>三つ尾の渡し跡>越知の町
高岡郡越知町から高岡郡佐川町へ
国道494号(国道33号)から旧国道分岐点>赤土峠>旧国道を逸れ土径に>川内ケ谷集落に道標>旧国道と国道合流点に石碑>佐川の町
高岡郡佐川町から高岡郡日高村へ
県道302号を右折し県道296号に>県道297号を海津見神社へ>土佐加茂駅を越え高岡郡日高村に

高岡郡越知町町横畠の堂ノ岡から高岡郡日高町へ

堂ノ岡から越知の町へ

高岡郡越知町横畠の堂ノ岡
予土往還の山越え部を終えた横畠の堂ノ岡より高知へと向かう。この地より山越え・鈴ヶ峠までは国の予算のもと、標識・史跡案内など予土往還のルート案内は整備されていたが、山越えを終え高知城下までの往還ルートは越知町と佐川町の境にある赤土峠を越える以外、はっきりした資料は見つからなかった。取敢えず成り行き任せで越知の町へと県道18号を進む。


今成トンネル手前を左に逸れる
今成トンネル手前を左に逸れる
県道18号を進むと今成トンネルがある。このトンネルの竣工は昭和58年1983)11月、初通過平成2年(1990)年とのこと。またトンネルを抜けた先、仁淀川に架かる横倉橋の開通は昭和63年(1988)と言う。この道筋が往昔の予土往還とは思えない。
と、今成トンネル手前に県道18号から左に逸れる道がある。道は仁淀川が大きく迂回する南に突き出た平坦地を南東に進み仁淀川を渡る。地図には中仁淀橋(沈下橋)とある。この道が予土往還であろうと道を進む。
今成
『土佐地名往来』には今成の由来として「「今」はもともと「新たに」という意味。今成は川の 蛇行地点に形成された河岸段丘。新たにできた土地の意」とある。

中仁淀橋(沈下橋)
橋の幅は対向通過できないこともないが、橋桁がないのが沈下橋。ちょっと怖いため、対岸に対向車がいなことを確認し沈下橋を渡る。
橋を渡り終えると途次幾度か出合った「旧松山街道」「旧松山街道まっぷ」が立つ。オンコースを確認。で、なにか往還道の目安などないものかと案内マップを見るが、越知の町を抜け赤土峠への道筋は概略表示のみ。成り行きで進むしかないようだ。

三つ尾の渡し跡
が、有り難い情報がひとつ。「松山街道まっぷ」に沈下橋南詰め傍に「三つ尾の渡し」の案内。「明治時代から舟運が発達し、越知町の市街地には上・中・下の3カ所に渡しがあった。下渡しは、旧松山街道の要で「三つ尾の渡し」とも呼ばれ通行量が多かった。
郡道開通予定に伴い中渡しが発展し、大正8年に下渡しは閉鎖されたが、往時を忍ぶ有志により記念碑が建てられている。その後、県道昇格により、昭和31年中渡しに沈下橋が完成した」とある。 


中渡しであった現在地より記念碑のあると言う「下渡し」に向かう。
少し東に歩くと「史跡 三尾の渡し」と刻まれた石碑。「昔仁淀川本流坂折川柳瀬川は現在の今成で合流し柴尾宇田(今成)と柳瀬川を挟んで越知村は北方に及んだ雑木林であった。
文明四年八月(一四七三)仁淀川の大洪水は妙見より南下し坂折川と合し越知村の北部と宇田を押流し未曾有の大惨事と供にに流勢を現在の如く変更した。それ以前の流が三ツの尾の形に似た所から越知を三尾村とも呼ばた。而して此処下渡しは高知松山の二大城下を結ぶ大街道の中間に位し舟運との交差点で往來物資の集散船場として繁栄し三ッ尾の渡しは有名な渡船場であった」とあった。
柳瀬川は沈下橋の下流、坂折川は地図には大桐川と記されていた。妙見の地名は地図にないが、今成トンネルをぬけた横倉橋傍に星神社がある。星と言えば妙見さんではなかろうかとチェック。この社に祀られる天之御中主神は、近世において天の中央の神ということから北極星の神格化である妙見菩薩と習合されたもの、とある。妙見さんとして一般の信仰の対象になったのだろう。なお、現在、天之御中主神を祀る神社の多くは、妙見社が明治期の神仏分離・廃仏毀釈運動の際に天之御中主神を祭神とする神社となったものとされる。案内に「妙見より南下し」とある妙見とはこの星神社のある辺りのことだろう。

越知の町
旧大川薬舗
谷脇旅館
三つ尾の渡し跡より沈下橋南詰めに戻り、越知の町並みへと成り行きで入る。昭和初期に建てられたと言われる旧大川薬舗(雛祭りの時期には明治・大正期の雛人形が飾られる、とか)、大正初期創業の谷脇旅館などが建つが、案内にあった往来物資集散船場として繁栄した往時の名残りを留めるそれらしき「町並み」は特段認められなかった。
ついでのことではあるので、越知の町に建つ峰興寺を訪ねることにした。堂ノ岡から薬師堂集落へと予土往還を辿る途次に出合った「峰興寺植樹林石碑」をきっかけにあれこれメモしたお寺さまである。国道494号との共有区間となっている国道33号を越え、町の南端、山地が平地に落ちる山裾に峰興寺が建っていた。
峰興寺
五輪塔群
本堂にお参り。本堂横に幾多の五輪塔が並び、十三重石塔も建つ。「峰興寺縁起」には「当寺はもと松山市豊田臨済宗妙心寺派興禅寺であり、寛永十二年中開祖密山演静大禅師 三河の国より迎え開山したと伝ふ、開基は徳川家康の異母弟松平定行*眞常院殿道賢勝山大居士である。松山藩主の菩提寺提寺として栄えていたが継新のあと起こった廃仏毀釈で衰退、名跡を惜しみときの佛海禅師 明治中頃官許を得て土佐越知町往古の寺屋敷に移転再建したもので県内外の信仰は智恵文殊である」とあった。
予土往還を歩きながら峰興寺にフックが掛ったのは、何故に松山からこの地に?ということ。その時のメモには;
「峰興寺 なぜ松山から高知の越知に?
越知は伊予の豪族越智氏の流れが南北朝時代、この越知一帯を支配していた、という。また峰興寺が再建された地にはかつて越智氏の菩提寺・円福寺が建っていたとの記事もあった。峰興寺が再建された越知の地が伊予と繋がりがあった、ということだけはわかったが、この地に再建された経緯は不詳。
十三重石塔(右端)

本尊の智慧の文殊菩薩への県内外からの信仰篤く、加持祈祷の専門道場として名高いというから、再建への動機は十分にあったようには思える」と記していた。
なお、境内に並ぶ幾多の五輪塔は南北朝から室町にかけてのものと言う。当時この地には古刹・円福寺が建っていたとのこと。縁起にある寺屋敷跡とは円福寺跡ということだろう(円福寺は文化年間(1804~1817年)の頃には既に越知の西、横倉山に退転していたとのこと)。五輪塔に使われる花崗岩はこの近辺にはなく遠く山陽路に求めなければならない。円福寺は越智氏の菩提寺とも言われるが(異説もある)、とすれば遠路、陸路・海路を運び建立する「力」があったと言うことだろう。
伊予の越智氏と土佐の越智氏
越智氏と言えば、堂ノ岡の旧松山街道の取り付き口に建つ仁井田五所神社も越智氏との関係浅からぬ社。最初に仁井田神社に出合ったのは土佐の遍路歩きの折、高知市仁井田であった。地名ともなっているその地に立派な仁井田神社があった。
その由緒などをチェックすると、『四万十町地名辞典』に、「仁井田」の由来については、浦戸湾に浮かぶツヅキ島に仁井田神社があり、由緒書きには次のように書かれてある、とする。
伊予の小千(後の越智)氏の祖、小千玉澄公が訳あって、土佐に来た際、現在の御畳瀬(私注;浦戸湾西岸の長浜の東端)付近に上陸。その後神託を得て窪川に移住し、先祖神六柱を五社に祀り、仁井田五社明神と称したという。
神託を得て窪川に移住とは?、『四万十町地名辞典』には続けて、「『高知県神社明細帳』の高岡神社の段に、伊予から土佐に来た玉澄が「高キ岡山ノ端ニ佳キ宮所アルベシ」の神勅により「海浜ノ石ヲ二個投ゲ石ノ止マル所ニ宮地」を探し進み「白髪ノ老翁」に会う。「予ハ仁井ト云モノナリ(中略)相伴ヒテ此仕出原山」に鎮奉しよう。この仁井翁、仁井の墾田から、「仁井田」となり。この玉澄、勧請の神社を仁井田大明神と言われるようになったとある」と記す。
仕出原山とは窪川の高岡神社(仁井田五社明神;四国遍路37番札所岩本寺の元札所)が鎮座する山。仁井田の由来は「仁井翁に出合い里の墾田」とする。
仁井田の由来については、伊予の小千玉澄公は『窪川歴史』に新田橘四郎玉澄とあるわけで、普通に考えれば仁井田は、「新田」橘四郎玉澄からの転化でろうと思うのだが、仁井翁を介在させることにより、より有難味を出そうとしたのだろうか。
それはともあれ、仁井田神社も伊予・越智氏とは深い関係があったことがわかる。とはいえ、土佐には33社ほどの仁井田神社があるわけで、越知が越智氏と深い関係があったとしても、何故峰興寺がこの越知に再建されたかは不明のままではある。
横倉山
横倉山(左)
上で円福寺が移ったとメモした横倉山。予土往還の途次出合った「合中(あいなか);八里塚と九里塚の真ん中。清水村と栂森村の街道普請の境の目安として置かれた」の実物標石を求めて横倉山自然の森博物館に出向いたのだが、この横倉山が修験の聖地であると共に、平家落人伝説の地でもあった。山麓上り口には「安徳天皇越知町陵墓」の石碑が建ち、山には「安徳天皇越知陵墓参考地」もある。安徳天皇が壇ノ浦で入水することなくこの地に逃れて来たと言う。横倉山自然の森博物館は安徳天皇の逃避行途次の行宮など伝説を「裏打ち」する資料が多く展示されていた。また山裾には仁井田神社も建っていた。

高岡郡越知町から高岡郡佐川町へ

越知の町を離れ佐川町との境を画する赤土峠へと向かう。峠とはいい条、標高140mほどの丘陵であり、国道494号と分岐する旧道からの比高差70mほど。道は舗装されており、Google Street Viewでチェックすると旧道は舗装されている。赤土峠の下を抜く国道494号(国道33号)赤土トンネルの完成は昭和33年(1958年)とされるから、それ以前の越知と佐川の往来はこの旧道で成っていたのだろうか。とはいえ道幅は車一台ギリギリ。上述赤土トンネル開削計画は昭和22年(1947)にはじまっているようであるから、その頃には越知と佐川の往来は車馬から車往来へと替わり始めていたのだろう。
赤土トンネル
昭和22年9月に赤土トンネル開さくが計画され、昭和26年1月に県営着工と決定され、佐川側トンネル入り口までの道路の付け替え工事が始まった。昭和27年5月に県営から国営に切り替え着手、佐川側南取り合わせ道路1,330m、幅員7.5mを昭和27年度に完成した。昭和28年度から越知町側北取り合わせ道路延長1,370mを完成させ、トンネル工事を南北入口から同時着工し、昭和33年4月に赤土トンネルが開通した。延長385mで、電灯が10m間隔に設置された。トンネル開通により、佐川~越知間は1.4km短縮された(「四国社会資本アーカイブス」より)。
赤土峠の道路改修は難工事であったよう。着工から開通まで7年近くかかっている。

赤土峠越え

国道494号(国道33号)から旧国道に入る
国道から右に逸れる
赤土峠へと越知の町を離れ国道を山間部へと進むと直ぐ右に分岐する箇所がある。曲がりくねった道を久万目川左岸を進むと行政区は越知町から佐川町に変わる。




石仏と「四国のみち」標識
三面石仏
国道からの合流点の「四国のみち」標識
分岐点から道を1キロ強歩き高度を50mほど上げると道の右手に三面石仏がある。摩耗が激しく文字は読めないが道中の無事を祈る、三面馬頭観音だろうか。なんとなくこの道筋が旧道であることを実感する。
その先直ぐ「四国のみち」の木標。国道から繋がっている。こちらが旧国道?わからない。また直ぐ先にも「四国のみち」の標識。これは赤土峠へと案内しているようだ。

赤土峠
ほどなく赤土峠。道脇に重機や車の置かれた作業小屋があり鞍部といった雰囲気はない。道の右手に石碑や案内板、小祠が建つ。案内には「脱藩志士集合之地」とあり、「元治元年(1864)、死を決した血盟の佐川勤王党五士が脱藩のため習合した地である。昭和14年(1939)この地に記念碑が建てられ、題字「脱藩志士集合之地」は元13代佐川領主男爵、深尾隆太郎の筆である。
題字の上に 
まごころの あかつち坂に まちあはせ いきてかへらぬ 誓なしてき
の青山 田中光顕の詩吟は、志士の心中をあますことなく伝えている」とあった。

青山は田中光顕の号。田中光顕の初名は浜田辰弥。土佐藩脱藩に際して田中光顕と改名したと言う。幕末、御一新の後も活躍し正二位、宮内大臣へと上る。

なお脱藩五士は浜田辰弥(田中光顕)の他大橋慎三、片岡利和、山中安敬と井原応輔。御一新後、大橋慎三は太政官大議生、片岡利和は侍従、山中安敬は宮中の雑掌となるも、ひとり井原応輔は元治二年(1865)中国諸国を遊説中、賊と間違われ自刃して果てた、と。

旧国道を逸れ土径に
木に括られた赤いリボン
旧国道から逸れる土径下り口
赤土峠を離れ先に進み、、立野川がつくる東西へと続く谷筋・丘陵南麓へと廻り込む。道を少し東に進むと道の右手の谷川に唐突に木に括られた赤いリボンが見える。旧道から逸れるルート?などと辺りを見渡すが切り立った崖でとても歩けそうもない。
このリボンって何だろう、何か意味がなどと辺りを彷徨うとリボンの少し東に旧道を逸れて里へと下る急坂の土径があった。

川内ケ谷集落に道標
赤土トンネル開削のため旧道の改修工事は佐川側トンネル入り口まで1.3キロほど新たに造られたというから、旧国道はここより更に東に進み中岡神社の先で南に折れ大乗院の西の道を現国道へと繋がっていたのでは、とは妄想するのだが、この土径がなんだか気になる。旧道開通以前の予土往還ではと思い込み急坂を下ることにした。

土径ヵら里に下りる

越知道・山室道と刻まれた道標

5,6分急坂を下ると直ぐに集落に出る。集落の道を成り行きで進むと道標があり「*大*記念 右越知道 左山室道」とある。山室はこの地の西、山越えの先大樽谷川の最奥部にその地名が見える。道標があるということは、往昔この地を通る道があったということだろう。ひょっとすると往昔の予土往還の道筋?とひとり納得する。
道標から先はこれまた成り行きで立野川を越え国道に出る。

旧国道(?)と国道合流点に石碑
旧国道(?)と国道合流点に石碑
国道に繋がる旧国道
国道を少し東に進むと旧道と妄想した道筋が現国道に合流する箇所に至る。その角には結構新しい石碑が建ち「大乗院 国指定重要文化財 仏像 / 脱藩志士集合の地 町指定文化財 千八百米峠 佐川町教育委員会 平成七年三月建立」と記される。
「脱藩志士集合の地」は赤土峠だろう。この石碑により、大乗院の西を進み山麓の中岡神社をへて赤土峠へと続く道が旧国道であったろうとの妄想は、ひょっとするとあたっていたのかもしれない。
大乗院
旧国道筋の大乗寺への標識
実物を見れるとも思えないが「国指定重要文化財」を有したお寺さまてどんな風情とちょっと立ち寄り。道を少し戻り「大乗院」と記された木標を右に折れ、民家の奥まったところにぽつんと古寂びた堂宇が建っていた。境内の力石など見遣り、薬師堂にお参り。境内にあった案内には「大乗院は、中世初期(1193)太政大臣藤原師長の末子、藤原中山信恒がこの地の守護代として都より入り、高吾北にその霸を称えていた時代に、その中山氏の建立によるものと伝えられ、当時は壮大な寺構を持つ大伽藍寺であり、12の末寺を領有し高吾北地方の鎮護の要として祭政の中心的存在であったと伝承されている。

「本尊」 薬師如来(座高八六・五糎、寄木造、結跏趺坐座 「脇仏」日光・月光菩薩(像高一〇五糎)は共に鎌倉時代の名仏師快慶の作であるとされ、高吾北唯一の国指定の重要文化財である。また、眷属の「十二神将」は、高知県下に珍しく、その数が揃っており、それぞれ七千の部下をもって本尊護衛の任に当たるとされており佐川町指定の重要文化財である。
中世近世共に修験宗を教義としていたが、明治初年天台宗となり、現在は天台宗井寺門派園城寺法類となっている。
本寺はこうした由来をもち、土佐中世史にその名を留めた大伽藍であったが、守護代藤原中山氏の没落と共に戦国時代の兵乱に焼かれ、新仏教の進出に抑され、薬師堂のみ再建され今日に至っている」とあった。
修験の名残は霊峰横倉剣峰山での大修法については数々の伝承があり、いまだに高吾北各地に語り伝えられているとのことである。

佐川の町
旧国道33号(?)合流点より現国道33号を進む。現国道は佐川の町を迂回し柳瀬川、春日川を跨ぎバイパス道として佐川トンネルに入る。佐川トンネルの着工・竣工は昭和47年(1972)6月~昭和48年(1973)8月とのこと。これは旧国道ではない。
地図を見ると、国道494号が南に折れるT字路を越えた先、国道から右に逸れて佐川市街に入る道がある。旧国道筋であろうと、右に逸れて柳瀬川を渡り盆地状谷底平坦地を進み、柳瀬川支流・春日川に沿って佐川の中心部に向かう。
佐川の地形
複雑に丘陵・低地が入り組む佐川盆地
佐川町域は、四国山地の支脈である虚空蔵山(674.7m)、勝森(544.8m)、蟠蛇が森(769.2m)などの山に囲まれた中央が盆地状となった地形で、盆地内には丘陵や低山と佐川、斗賀野・永野・尾川・黒岩の各平坦地からなっている。
丘陵の尾根や盆地周辺の山脚は、東西、南北方向へと複雑に並び、その間に柳瀬川や春日川による谷底平坦地が形成されている。また、平坦地も東西・南北方向へと、丘陵を横切る幅広い平坦地が広がっている。この佐川町の地形は日本では代表的な構造盆地と言われる。
構造盆地
構造盆地(こうぞうぼんち、tectonic basin、structural basin)は、プレート運動により、本来は平坦であった岩石層が、歪力を受けて形成される、大規模な地質構造のひとつである。 構造盆地は、上記の力により生じた沈降地域であり、同じ原因により隆起した場所が、背斜などのドーム状地形である(「Weblio」辞書より)。に
佐川の旧市街

丘陵突端部により東西を挟まれた春日川谷筋右岸を南下し、その丘陵が南北を遮るところから、谷筋を東に向かい佐川の旧市街に入る。土佐街道と地図に記された道の一筋南に「酒蔵の道」の案内。往時の家並が残るとのこと。ちょっと立ち寄り。


旧浜口家住宅
入ると直ぐ白壁の旧家。旧浜口家住宅。江戸の頃酒屋であったが平成25年(2103)観光施設として改装された、と。
名教館
道の対面に名教館。安永元年(1772年)、ときの領主、六代領主 深尾重茂澄が家塾「名教館」を創設。後に享和二年(1802年)七代繁寛がこれを拡充して郷校とした。この名教館は明治維新に再開して多数の先覚者を輩出している。
その後「名教館」の玄関部分を明治20年(1887)に佐川尋常小学校(現佐川小学校)に移築。平成26年上町地区に再移築され、「文教のまち」佐川のシンボルとなっている。上述田中光顕や植物学者牧野富太郎もこの学舎で学んでいる。
司牡丹の工場
道を進むと清酒司牡丹の工場が道を挟んで南北に続く。85mほどもある堂々とした酒蔵は結構、いい。歴史は古く、深尾氏が佐川領主となった折、深尾氏に従って佐川へ来た名字帯刀を許された御用商人のうち、酒造りを業といする「御酒屋」をそのはじまりとする。
佐川町出身、元宮内大臣田中光顕伯は、佐川の酒を愛飲し、「天下の芳醇なり、今後は酒の王たるべし」と激励の一筆を寄せ、「司牡丹」と命名され、司牡丹酒造となった、とのこと。「牡丹は百花の王、さらに牡丹の中の司たるべし」ということである。水は土讃線佐川駅前で春日川に注ぐ谷筋の伏流水を使っている、とあった。
竹下家
その先には重要有形文化財竹下家。江戸の頃の呉服商。土佐の西部では唯一の絹織商として栄えた、と。
青源寺
佐川は土佐藩筆頭家老・深尾氏の領地である。佐川と深尾氏の関係を始めて知ったのは、予土往還の途次、土佐藩の松山征討軍の副総督として、征討軍副総督に佐川家老深尾刑部の名があり、村人は「佐川様」と呼んでいたことに因する。
あれこれチェックすると、深尾氏は土岐氏、斎藤氏、織田氏に仕えた後、掛川藩主山内一豊に招かれ、慶長6年(1601)一豊が土佐の新国主となった折、国内要所に重臣を配し領内支配体制を整えたが、筆頭家老深尾重良は佐川城一万石の領主に封ぜられた。以来、その絶大な権力ゆえに藩主との軋轢も生じながらも、明治 2 年(1869)の版籍奉還に伴う土佐藩消滅まで、土佐藩筆頭家老としてで存続した。なお、深尾家は佐川本家のほか、高知城下に居住していた分家が四家あり、この五家が土佐藩中枢12名の約半数を占めていたとのことである。
藩主家から迎えた養子が二代目領主となったことも相まって、江戸初期にさまざまな特権が与えられた。それはまるで、土佐藩の中に別の小藩が存在するかのような状況であった、とも。
酒蔵の道の少し南に深尾氏の菩提氏である青源寺がある。落ち着いた佇まいのお寺さま。三門へのアプローチが誠に、いい。
お寺様の案内には「県指定名勝 青源寺庭園 (昭和三十一年二月七日指定) 青源寺は臨済宗妙心寺派寺院で、山号は龍淵山。
当山は慶長八年(一六〇三) 土佐藩主山内一豊に招かれ入国した丈林和尚を開山(初代和尚)に拝請し、佐川領主深尾家の菩提寺として創建された。
享保十三年(一七二八)の大火で建物は山門を残し悉く焼失、現在の庫裏は同十六年に、本堂は明和三年(一七六六)に、観音堂は文化十二年(一八一五)に再建されたものである。 当山の様々な寺歴の内、明治初頭の苛酷な廃仏稀釈に対して身命を賭して法灯と伽藍を護り抜いた十三世愚仲和尚の奮闘は偉大でこの功績により廃絶をまぬがれ、現在の堂宇が今日に伝えられた。
庭園については縁起の記録はなく、築堤の時期について二説あり、一つは当山創建時に作庭されものとする説と、伽藍の再建時に作庭されたとの説があるが、諸寺歴等からの推定により今日では寺創建時つまり江戸初期の築庭と考えられている。以来、長い年月の間に修築がなされたものと思われる。
書院正面の岸壁がこの庭の主題とされていて、山側南端の空滝石組みから池につながる景観とで構成された枯淡な庭園である。
池は築庭後一部縮小されており、二つの池の庭とみられているが、北側の池は昭和初期に新しく掘られたものである。
昭和十年に文部省の指定名勝、昭和三十一年より高知県指定名勝に移行している。土佐三名園の一つである。平成二十五年十二号一日 佐川町教育委員会」とある。
青山文庫
青山文庫は、名前に「文庫」とついているため図書館と間違われるようだが、坂本龍馬・中岡慎太郎・武市瑞山らの維新関係資料や、江戸時代に佐川の領主であった土佐藩筆頭家老深尾家の資料などを展示している博物館。
幕末維新の生き証人であった、佐川町出身の元宮内大臣田中光顕(みつあき)が収集した志士たちの書状や画などの遺墨コレクションを中核に、主に近世・近代の歴史資料を収蔵している(「佐川町」資料より)。
牧野公園
青山文庫の周囲には牧野公園が整備されている。牧野公園は、佐川町出身の植物学者・牧野富太郎博士により贈られたソメイヨシノの苗を植えたことを契機に桜の名所として整備され、昭和33年(1958)に公園内の町道が完成したときに「牧野公園」と称することとなった。
平成20年(2008)からは公園の桜が老木となったことから、地域住民で桜を蘇らそうと、古い桜の伐採をおこない、リニューアルを進めている。
中腹には、佐川の偉人牧野富太郎と田中光顕の墓がある(「佐川町」資料より)。
公園の南端には深尾城跡があるようだが、時間がなくなりそうでありパスした。さらっと歩いただけではあるが、佐川の町は土佐藩最大の実力者深尾氏の領地として落ちついた街並みとなっていた。
佐川の由来
佐川の由来は「逆川」に拠る、との説がある。その因は、通常南流する川の流れが、春日川は逆に北流するためとする。とは言うものの柳瀬川も北流するわけであり、仁淀川でさえだ蛇行し北流するわけで、今ひとつしっくりこない。佐川の由来として、「川幅が狭い狭川、川が流れ下る坂川、集落の境になる 境川、川が普通と逆に流れる逆川」などがある。佐川の由来は何だろう。

高岡郡佐川町から高岡郡日高村へ


霧生関坂を通る現国道33号筋の地形
佐川から日高村へ向かう。地図には現在国道33号に土佐街道・松山街道と記される。がそのルートを眺めていると途中に霧生関トンネル(70m)があり、その着工が昭和34年(1959)4月、完成が昭和36年(1961)4月とある。そしてこの霧生関坂の改修とトンネル工事が、赤土峠のそれと同様、佐川地区の国道33号の改修工事の最大の工事であった、という。そんな難所を平地の往還道として使用していたのであろうか。ちょっと気になりチェックする。
国道33号の前身、県道高知松山線は明治17年(1884)に県道開削の議が起き、翌18年(1985)に決議された。が、当初の計画では県道ルートは現在の国道33号筋ではなく、丘陵の北、東の日高村より土讃線に沿って走る県道287号から298号に乗り換え庄田を経て越知を結ぶもので、佐川が外されてていた。
このルート選定の因は難所である霧生関坂。ために佐川の篤志家が私財を当時、霧生関坂を切り下げるなどの努力の結果、佐川を通る県道ルートは現在の国道33号と決まった。 が、往昔の予土往還としては難所霧生関坂を通るこのルートはなんとなくしっくりこない。 当初県道高知松山線として計画された現在の県道297号筋ではないだろうか。県道として計画されたということは道を開くにそれほどの難所がなかったということで予土往還としては違和感がないのだが、その他にもう少し確としたエビデンスがないだろうか? 

加茂下山通り(県道297号筋)の地形
チェックすると、『幕末・土州松山征伐進軍記録(山崎善敬)』のP127にに征討総督深尾左馬之助が率いる土佐本藩の軍勢は加茂下山通り(県道297号筋)を進軍し、越知を本陣とした佐川領の軍勢と合流した、とある。小荷駄や大砲を運ぶ軍勢が選んだ道であればそれほどの難路であったとは思えない。平地の往還として違和感ない。
また、土佐加茂駅近くの海津見神社に「宇治谷川の一枚大岩橋」があり、その一枚大岩は松山街道の宇治谷川に架かっていたとある。
どうも往昔の予土往還は現在地図に土佐街道・松山街道と記される国道33号筋ではなく、県道297号筋のように思える。ということで、予土往還として県道297号を辿ることにした。

県道302号を右折し県道296号から287号へ
土讃線に沿って県道287号切通部を進む
切通し部は日下川源東部
佐川の中心部から春日川左岸・県道302号を下流へと少し道を戻り柳瀬川手前で県道296号を右折する。
柳瀬川右岸を少し下ると国道494号とクロス。その先道なりに県道297号に入る。土讃線西佐川駅を越えると下山。上述、土佐藩松山征討軍が進んだと言われる下山通り由来の地であろう。土佐藩松山征討軍は下山で県道297号と分かれる県道298号を庄山を経て越知へと向かったのであろう。
県道298号をわけた県道297号は切通部を土讃線にそって緩やかにくだってゆく。県道297号分岐を越える辺りは柳瀬川と日下川の分水界。境界差は5mほど。分水界の東は日下川の源流域。

県道297号を海津見神社へ
海津見神社と一枚大岩
土讃線、県道297号に沿って東進する。土讃線土佐加茂駅の手前に海津見(わたつみ)神社
その境内に上述「宇治谷川の一枚大岩橋」がある。その案内に「この大石を用いた橋は、江戸時代の終わりごろ、加茂地区を通り高知から松山に通じる松山街道の宇治谷川に架けられていたもので、「一枚岩の大石橋」として旅人や道行く人々により広く世間に知らされていた。
この巨石は加茂本村の山中で発見され、大型機械の無かった時代、多くの村人が駆り出さ れ、力を合わせ運び出されて架けられた。死者も出たといわれるこの難工事を、見事に完成させた住民の苦労がしのばれるが、同時に、この大石橋は当時の道路事情を物語る証としても貴重なものである。
右の側面に竣工した「嘉永四年(1851)辛亥春成」の文字が刻まれている」とある。はっきり「松山街道」と記されている。

土佐加茂駅を越えると高岡郡佐川町を離れ高岡郡日高村に入る



予土往還 土佐街道・松山街道 の散歩もこれで10回目。基本車デポでのピストン往復のため、結構回数がかかってしまった。
今回は薬師堂集落の「道分れ」から鈴ヶ峠を繋ぐ。先回の越知町横畠・堂ノ岡から薬師堂集落までは3カ所ほど激しい藪があったのだが、今回は藪もなく比高差400mほど、その距離おおよそ5キロ(旧松山街道まっぷ案内図には朽木峠から鈴ヶ峠まで1.3キロとなっていたが、林道合流点に立つ標識(朽木峠)には3.1キロとあった)を往路・復路ともに3時間ほどでカバーできた。
ルート概要は標高410mの「道分れ」から黒森山への分岐手前の標高700mの旧朽木峠(上述林道合流点の朽木峠標識と区別するため便宜的に「旧」とつけた)までの2キロほどは、途中等高線間隔の広い緩やかな道はあるものの、基本は尾根稜線部をジグザグと300mほど上げることになる。
朽木峠からの3キロほどは、山腹の林道を鈴ヶ峠手前まで標高700mから750mまで緩やかにさ高度を上げ、最後の上りで50mほど高度を上げて標高820mの鈴ヶ峠に到着する。標識はきちんと整備されており道に迷うことはない(往路は問題ないが復路で注意箇所は後述する)。
今回で伊予と土佐国境に聳える四国山地の山越え部トレースも完了となる。あれこれトラブルもあったため、常にもまして少々感慨深い。ともあれ、山越え部最後のメモをはじめる。



本日のルート;道分れ>清水井手・虎吾掘案内板>標識1(虎吾堀>標識2(商人休場 )>標識3(お茶屋跡)>標識4;稲村分岐>標識5(九里塚 )・黒鯛三蛇神様>標識6(朽木峠)>標識7;黒森山頂との分岐点>標識8・標識9(朽木峠);>分岐点を右に>標識10>標識11;土佐街道と林道交差:標識>峯岩戸集落跡>標識12;鈴ケ峠分岐>標識13>鈴ヶ峠
「道分れ」から鈴ヶ峠へ

道分れ;午前7時16分(標高410m)
道分れ
仁淀川谷筋右岸の山麓
愛媛県新居浜市の家を出て、国道194号線を南下、仁淀川を挟んで高岡郡日高村と接する吾川郡いの町柳瀬で県道18号に乗り換え西進。仁淀川に架かる横畠橋を渡ってすぐ、県道18号から山側に逸れる道にかかる「横畠」の標識を目安に薬師堂集落へと続く道に入る。曲がりくねった道ではあるが、完全舗装で道幅も広い。 しばらくの上りの後、薬師堂集落の三叉路に。そこを大山祇神社鳥居前の道を500mほど進むと車道から道が左に逸れる分岐点に案内板、標識が立つ。そこが「道分れ」。分岐点傍にある畑側のスペースに車をデポ。
分岐点に立つ「旧松山街道」の案内を読み、その傍に立つ「旧松山街道」の標識の指す道を進む。道の左手、眼下に仁淀川本流谷筋の右岸山麓の集落が見える。
「旧松山街道」案内板
「この道は土佐と伊予を結ぶ重要な往還で道幅が1間(一・八メートル)ありあり、当時としては結構広い。
伊予では、松山から土佐界までの道を土佐街道と呼び、土佐では高知城下から伊予界までを松山街道と言う。
薬師堂は、街道沿いの重要な宿場であり、明治のころは店屋や宿屋が七軒も並んでいたという。
藩政時代の土佐・伊予間の通行にはこの街道が主に利用されており、両国の物質交易や文化のほか百姓一揆や脱藩の志士たちが命がけで駆け抜けた道でもある。 一八五二年にはアメリカから十一人の役人とともに帰国したジョン万次郎、一八五九年には長崎へ行くために岩崎弥太郎や坂本龍馬の右腕といわれる長岡謙吾など、歴史上の著名人もこの街道を使用している。
一八六四年八月十四日には田中光顕、大橋慎三、山中安敬、井原応輔、片岡利和の五人の志士が、堂岡の仁井田五所神社で勤王の大願成就を祈願し、黑森越えで脱藩している。その途中で腹痛を起こした井原は薬師堂の店屋「与市」で馬を借り、黒森まで与市も同行したという。
一八六八年には 土佐藩の兵一六一○人が松山征討に行く時は地元の人たちも街道の広場に集まって見送り、一八八二年に薬師堂の大山祇神社で行われた自由民権集会など世直しの人たちも使用している。
街道は車社会の到来とともに荒れ果てていましたが、二○○八ー二○○九年度に実施した国交省の「新たな公」モデル事業等により「虹色の里横畠」と越知町が主導となって再整備し、登山道として親しまれるようになりました。
この説明板は二○○九年度の「新たな公」モデル事業により「虹色の里横畠」が設置したものです。 二○一○年三月」」

清水井手・虎吾掘案内板;午前7時22分(標高435m)
虎吾池
舗装された道を5分ほど歩くと道の左手に池があり、その傍に案内板。
清水井手 この池の水は、海水井手と呼ばれる用水路で運び込まれている。清水井手は、一八六〇年に生活や農業用水の確保に苦労していた清水・八頭(やがしろ)・薬師堂の先覚者左京義三、左京宗常、山本虎吾、山本広次が中心となり、夜中に堤燈(ちょうちん)の明かりで測量をし、地元の人約100人が連日休みなく山肌を堀り岩を砕いて、一年六か月で黒森山東側の稲村谷から約七キロメートルの用水路を完成させた。この偉大な事業により、約7へクタールの水田ができ、その恩恵は今も営々と愛け継がれている。
山本虎吾堀と刻まれた石碑
清水井手・虎吾池案内板
用水路は当時から井手組合が管理してきたが、維持管理に大変苦労するため昭和三〇年代と四〇年代に二度にわたってコンクリートで固めた。それでも水濡れがひどいため平成になってから全線にバイブを敷設し、労力や費用は大きく軽減された。
虎吾堀 (用水池)
この池は、清水井手の完成後に水を溜めて使うべく、山本虎吾が自分の畑二反をコツコツ掘り、一八八七年に完成させたものである。
昭和四〇年代後半に内側に防水シートが施され、現在も水田の用水としで仕様されている。
この説明板は二○○九年度の「新たな公」モデル事業により「虹色の里横畠」が設置したものです。 二○一○年三月」とあった。
案内板、道の反対側には「山本虎吾堀」と刻まれた自然石が立つ。
清水井手の取水口は何処?
清水簡易水道ろ過地・配水池
清水井手の取水口は何処だろう?チェックするが清水井手に関するデータがヒットしない。はてさて。そういえば「道分れ」から虎吾池の間に水道施設があった。チェックすると「清水簡易水道ろ過地・配水池」とあり、越知町の資料には「簡易水道は表流水を水源とし、緩速ろ過+滅菌処理し配水しています」とある。表流水とすれば谷筋から取水しているようにも思える。そしてその水源は稲村谷川の谷筋、鎌井田清助集落の更に北、稲村谷川の最奥部となっている。虎吾池からの距離も7キロほどでもある。
ひょっとすると清水簡易水道の水源・水路は清水井手と重なっているのかもしれない。虎吾池と水源の間には、稲村谷川の支流がふたつ流れる。等高線から考えれば、水路はこのふたつの川に水を落とし、再び取水してこの地に繋いでいるのかも。妄想は拡がるが所詮は妄想。確たる根拠は何もなし。だが、妄想は楽しい。

標識1(虎吾堀):午前7時24分(標高435m)
標識1(虎吾堀)を右に折れ土径に
急坂の用水路。水が勢いよく流れ落ちる
虎吾堀の直ぐ先に標識が立つ。木柱には「虎吾堀」と記され、舗装道方向は「黒森山横道」とあり、「旧松山街道」は舗装道から右に逸れる土径方向を指す。「黒森山横道」って何だ?などと思いながらも、標識から道を逸れ土径に。
急坂にパイプから流れ出た水が用水路を勢いよく流れ下る。上に清水井手は平成になりパイプ敷設と改めたとのことだが、最終部のところだけ表に出して、用水路を虎吾池へと流しているのだろうか。これも妄想。根拠なし。

標識2(商人休場 );午前7時30分(標高475m)
標識2(商人休場 )
標識前は平坦地
地中に敷設されたパイプより水が流れ出るあたりから先、少し草が茂るがその直ぐ先は簡易舗装。簡易舗装の道を上ると少し大きな舗装された道に出る。その交点に標識。木柱に「商人休場 」と記され、「黒森山」「堂岡」の標識がその方向を指す。標石前には平坦場が広がっていた。
復路注意
松山街道は標識前より左に逸れ土径に
舗装路を下るとこの標識が立つ
往路は問題ないのだが、復路(鈴ヶ峠から堂ノ岡に下る場合)ではこの標識箇所は要注意。標識の「堂岡」は何となく舗装道から逸れる方向を指しているようにも思えるのだが、ちょっとわかりにくく、そのまま舗装道を下ってしまう。実際復路では舗装道を逸れることなく少し下り、木柱に「黒滝」と記された「黒森山」標識で気が付き、標識2(商人休場 まで戻り、標識1(虎吾堀)へと下った。
もっとも、確認したわけではないが、この舗装道をそのまま先に進んだとしても標識1(虎吾堀)まで繋がっているように思える。「黒森山横道」標識が指す道がこの道筋かとも。

標識3(お茶屋跡);午前7時50分(標高550m)
畑地が切れると舗装も切れる
その先、山道に
標識2(商人休場 )より簡易舗装の道を50m弱高度を上げると舗装が切れる。畑地もここで切れる。簡易舗装は耕地農作業用に整備されたものだろう。
そこから10mほど高度を上げると平坦な道となる。その先10mほど下り緩やかに鞍部に下りるが、直ぐに上り。20mほど坂を上ると木柱に「お茶屋跡」と記された標識(標識3(お茶屋跡))があった。20分ほど歩き高ひ度を75mほど上げたことになる。
踏み込まれた広いみちを進む
標識3(お茶屋跡)
この間、堂ノ岡の「旧松山街道まっぷ」に記されていた「耳切れ」標識があったようだが見逃した。実のところ、往路ではこの標識3(お茶屋跡)は見逃していた。木柱に「お茶屋跡」と記されただけで、方向を示す標識もなく、注意しなければ木の切り株と同じ;「耳切れ」標識も同様であり、それゆえに見逃したのだろう。

標識4;稲村分岐;午前7時58分(標高580m)
標識4;稲村分岐
10分ほど尾根稜線部の坂を上り高度を30mほど上げると、道の右手に標識。 木柱に「出口」と記され、「黒森山」「稲村」を指す標識が立つ(標識4)。「稲村」は東に下る方向を指す。国土地理院地図に「稲村」の地名は記されていないが、東側は稲村谷川の谷筋であり、何となく納得。

標識5(九里塚 )・黒鯛三蛇神様;午前8時18分(標高660m)
標識5(九里塚 )と黒鯛三蛇神標識
尾根筋稜線部を等高線にほぼ垂直にジグザグ道を20分ほど上り、高度を80mほど上げると木柱に「九里塚」と記された標識(標識5(九里塚 ))。その傍に「黒鯛三蛇神」と記された木柱が立つ。
九里塚
九里塚は先回の「史跡八里塚」でメモしたように、高知の城下江口番所から一里毎に立てられた里程標。とはいうものの、高知城下での番所は東の松ヶ鼻、西の思案橋、北の山田橋の三カ所とされ、江口番所がヒットしない。が、場所から考えれば西の思案橋番所のことではないだろうか。近くに江の口川が流れている。
黒鯛三蛇神
黒鯛三蛇神標識
木の標識はあるものの、辺りには手水石と言えばそれらしき石造物が転がるが、祠などはない。そもそも黒鯛三蛇神って何?
チェックすると高知市春野町の春野郷土資料館に、地域に伝わる民話として「小鯛大明神(黒鯛大明神)の記事があった;「400年ほど昔の正月明けのこと、この地の漁師が魚売りにでかけると、田圃の畦道で罠にかかった山鳥をみつける。これ幸いと山鳥を頂戴しその場を去るが、なんとなく気が咎め、山鳥の替わりに小鯛を三尾、罠に置いて去る。
罠の獲物を取りに来た百姓は罠にかかった鯛を見てビックリ。「正月早々鯛とは縁起がいい。これは神様の御利益よ」と村に持ち帰る。
と、この事はたちまち部落中の大評判になり、部落みんなで小さい祠を造り、祠の前には『小鯛大明神』という小さい幟を立てた。このとき神官が、この祠に『黒鯛三所権現〔くろだいさんしょごんげん〕』という名前をつけてた、と言う。
黒鯛登場の所以はわかった。また、三所権現を古来より神とみなされた蛇神信仰に置き変えれば、「黒鯛三蛇神」のことはなんとなく説明がつく。
が、しかし、そもそも遥か遠く離れた春野の民話がなにゆえにこの地に。それよりなにより、この話のキモは海の鯛が田圃の罠にかかっている不思議であろうとおもうのだが、そこが至極あっさりと流されている。
他に適当な資料はなものかとも少し深堀りすると柳田国男の『日本の昔話』に「黒鯛大明神(小鯛大明神)」の話がみつかった;「黒鯛大明神(小鯛大明神) むかし土佐国のある山奥の村へ、浜から一人の魚商人が、魚を売りにやってきた。寂しい山路で、道のわきの林の中に、罠にかかった山鳥を見つけ、之を貰おうと。が、只取って行くのは良くないことであると、山鳥の替わりに黒鯛を三尾挟んで置き、その山鳥を取って帰って来た。
その後村人が来て、山に黒鯛のいるのが不思議であるが、それ以上に山鳥の罠にかかるというのは只事ではない。これは天の神のおぼしめしと、すぐに小さな社を建てて、黒鯛三所権現と唱えて祀る。その評判が伝わりますと、方々からお参りに来る者があって、社は大変に繁盛した。のちに魚売りがまた遣って来て、山鳥を持って行った話をする迄には、もう繁盛のお宮になっていたそうであります、と。
こちらのほうが分かりやすい。三所権現は少々強引ではあるが、日本古来の社の祭神の起源は、祖霊としての蛇神であったと言われることから考えると、三所権現を三蛇神様と読み替えて、一応個人的には納得。これも全くの妄想。なんらの根拠なし。
と、これで取敢えず個人的には納得していたのだが、偶々黒森山のことをチェックしていると、その山頂にも「黒鯛三社権現」の小祠があるとのこと。そこに伝わる伝承では登場人物が越知の魚商人となり、罠にかかったのは兎に置き換わり、黒鯛を見付けた村人は驚き床に伏せるが、病癒えた後山伏に祈祷してもらい黒鯛を「黒鯛三社権現」として祀ったとされる。修験のお山、黒森山ゆえの山伏の登場だろう。
伝承は黒鯛を核にしながらも、地域の事情にあわせバリエーションを持たせたお話が出来上がっている。中にはこの黒鯛プロットを使って黒鯛三社権現の祠を造ることにより、地元の村人が神体山と信じるお山にお寺を建てる藩の意図を反故にするといった、地元民の智慧の物語仕立ての話もあった。とはいえ、何故にお話の核に「黒鯛」が登場するのか依然不明ではある。

標識6(朽木峠);午前8時32分(標高700m)
広く踏み込まれた道
鞍部が朽木峠
標識5(九里塚) から高度を50mほど上げると700m等高線に囲まれた尾根が南に長く突き出た稜線突端部に出る。そこから北へと緩やかに上る尾根筋を進み鞍部へと下ると標識が道の両側に立つ(標識6(朽木峠))。
左手には木柱に「朽木峠」と記された木柱に「薬師堂」「松山街道」の標識。右手は「稲村」と下りの道を指す。
道脇にある木のベンチに座り小休止。1時間10分ほどで標高を300m弱上げたことになる。
標識6(朽木峠)
稲村分岐標識
朽木(クツギ・クチキ・クツキ)
朽木峠って結構多いようにも思える。「クツ」は「崩れる」、「キ」は「土地」」。崩れやすい土地の意との説がある。
また、古歌には、クチキと書いたものがあり、クツ・クチは古事記などに見える木の神ククノチのククが、タ行に変わってクツ・クチとなったとも。この場合は、古く大きい木が茂っていた土地を意味したのではないか」とも言われ、ほぼ真逆の林相を示す。
その他、山の中の細道、峰・峠、自然堤防などの小高い所を意味する「クキ」との関連もあるようで、要するによくわからない、ということ。

標識7;黒森山頂との分岐点;午前8時44分(標高710m)
標識7;黒森山頂との分岐点
10分休憩し出発。「松山街道」の標識に従い尾根筋を先に進むと数分で「黒森山頂」と書かれた標識が右を指す。ここが松山街道と黒森山への分岐点。
当初、黒森山との分岐点は朽木峠と思っていたため、道の西側に道筋が無いものかと探すが、そこは深く切れ込んでおり、とても歩けそうにない。ために、「松山街道」の指す道筋は黒森山を経由して鈴ヶ峠に行くことになるのか、と少々気落ちしていたのだが、一安心。分岐点から先は広く踏み込まれた林道風の道を進む。

標識8・標識9(朽木峠);午前98時49分(標高700m)
標識8
標識9(朽木峠)

黒森山頂から6分ほど歩き、朽木峠のあった黒森山尾根筋稜線の東側から西側に移る。道が林道に合流する角の左右に標識が立つ。
道の左の標識は「堂岡」「樺休場」と同方向を指す(標識8)。道の右手には木柱に「朽木峠」と記され。「松山街道」「黒森登山口1.3km」の標識、そして「鈴ヶ峠3.1km」と記された標識が立つ。堂ノ岡の旧松山街道取り付き口にあった「旧松山街道まっぷ」には朽木峠から鈴ヶ峠まで1.3キロとあったが、3.1キロのほうが正しいように思える。

分岐点を右に:午前9時9分(標高760m)
分岐を右に
黒森山西麓、等高線700mから750mへと緩やかな上りの林道を20分ほど進む。時に「水源かん養保安林」とか「土砂流出保安林」の案内。道は一部だけ簡易舗装されているが、舗装が切れた先、黒森山の支尾根が南西に着く出たところで道はふたつに分かれる。直進はなんとなく下って行きそう。尾根先端部を切り通した道へと右に折れ先に進む。

標識10;午前9時13分(標高760m)
標識10
正面に標識10、左は黒森山への道
分岐点から数分歩くと道の合流点に標識(標識10)。「堂岡」「樺休場」と記された標識が朽木峠方向を指す。
地図を見ると、この合流点を右手へと折り返す道は黒道山頂まで繋がっている。見つけた写真で見るかぎり、結構広い道のようだ。

標識11;松山街道標識;午前9時16分(標高760m)
標識11;松山街道標識
峯岩戸集落から上ってきた道
標識10から更に数分、再び道に合流。峯岩戸の集落から上ってきた道は合流点手前まで舗装されている。
合流点角に多くの標識。「松山街道」、「桜 大板」・「黒森山頂」と記された木の標識。「峯岩戸 桜 大板 黒森山頂」のルートを表示した金属プレートなどが並ぶ。桜はここから西、ほぼ仁淀川本流近くまで下った地にある集落。大阪は不明。 
尚、この合流点は、もし鈴ヶ峠から薬師堂への道が藪が多く、途中撤退となった場合の再アプローチ点としていたところ。鈴ヶ峠近くまで車を寄せられる道を探し、Google Street Viewでこの合流点近くまで車を寄せ得ることを確認していた。実際は松山街道の状態はよく、舗装はされてはいるが車一台ギリ走れるといったこの峯岩戸集落への道を利用することはなかった。 

 岩戸集落跡;午前9時36分(標高780m) 
 岩戸集落跡標識
標識11の立つ合流点角から「松山街道」の標識が指す広い林道を進む。水源かん養保安林、土砂流出保安林であった今までの林道道筋とは表情を一変。植林地帯を進む道となり、時に伐採された材木が集積され、伐採林が道の上下に広がる。 10分ほど歩くと植林地帯から離れ落ち着いた林相の中を進む。沢水を潜らす堰堤を越すと道の左手、谷側に「岩戸集落跡」の標識。案内は特にない。周辺を見渡すが道の上も下も傾斜地であり家が建てそうな平坦地は見当たらなかった。 

 標識12;鈴ケ峠分岐;午前9時44分(標高750m) 
鈴ケ峠分岐
鈴ケ峠分岐に標識12
標識11から知らず緩やかな上りの山腹の道を高度を30mほどあげていた。峯岩戸集落跡標識から先、10分ほどゆるやかな下りを歩き高度を30m強下げたところ、道の分岐点に標識(標識12)。「旧松山街道」と記された標識は林道から右に逸れる道方向を指す。ここが鈴ヶ峠への分岐点。道を直進すれば上述、桜の集落へと向かうのだろう。 

 標識13;午前10時2分(標高820m)
鈴ヶ峠への上り
標識13
 「旧松山街道」標識に従い道を右に折れ鈴ヶ峠への最後の上りに入る。20分弱歩き高度を70mほど上げると道の左手に標識(標識13)。「堂岡」「樺休場」と記される。標識の右手に山へと上る道があり、この黒森山頂への道に入らないようにと松山街道を案内した標識だろる。 

鈴ヶ峠;午前10時3分(標高820m) 
標識の先、平坦地に2基の燈明台が見える。鈴ヶ峠に到着した。道分れからおおよそ3時間で鈴ヶ峠に着いた。木のベンチで大休止。
鈴ヶ峠はこれで二度目。先回のメモを再掲する;峠には2基の石灯籠と、「鈴ヶ峠(旧松山街道)」と書かれた木の標識が立っていた。「鈴ヶ峠(旧松山街道)」と書かれた木の標識には「松山討伐の道 勤王志士脱藩の道 中浜万次郎帰国の道」とも記されていた。 
天晴石燈明台
正面に「奉 寄進」と刻まれる2基の燈明台の1基、東側の正面右側に「明治七戌年年(私注;1984)」、左手に「三月十八日」、西側のもう一基の燈明台の右側面に「天晴元卯九月十八日」、左には「月燈明」と刻まれる。 左手に建つ燈明台に刻まれる天晴という元号は正式には存在しない。が、土佐においては明治元年の前年にあたる慶応3年(1867)に「天晴」年号が各地で使われたとのこと。『天晴』に改元される、といった噂が流れ、世直しを求める民衆が「天晴」の年号を先取りするも、結果的には「明治」と改元され、元号としては幻に終わったその歴史の痕跡を残す。
それにしても立派な燈明台があるが、辺りには社が見当たらない。これってなんだろう。チェックするとこの燈明台は金毘羅遥拝のためのもののようであった。
松山討伐の道
堂ノ岡の「旧松山街道まっぷ」に「明治元年(1868) 松山征討 土佐将兵1610人が1月23日、越知で一泊し黒森越えで松山へ進駐」とあった土佐藩の松山藩討伐軍がこの峠を越えて伊予に向かったということ。 先回のメモにも掲載したが、土佐藩の松山征討軍のことをもう少し詳しく再掲: 〇土佐藩の松山征討軍
慶応四年一月十一日、朝廷は土佐藩主へ次の勅書を発せられ、錦旗を下賜された。
勅書
土佐少将江
徳川慶喜反逆妄挙ヲ助候条、其罪天地二不可容候間、讃州高松、豫州松山、同川之江始メ、是迄幕領、惣而征伐没収可有之被仰出候、宜軍威ヲ厳ニシ、速ニ可奏追討之功旨、御沙汰候事、
正月十一日
但、両国中幕領之義ハ勿論、幕吏卒ノ領地ニ至迄、惣而取調、言上可有之、且又人民鎮撫、偏ニ可致王化様可致処置候事、
土佐少将江
征討被仰付候ニ付、御紋付御旗二流下賜候事、
正月
この勅書に従い土佐藩は松山、高松藩征討の軍を編成。松山征討軍は一月二十日、本藩家老深尾左馬之助を総督、佐川家老深尾刑部を副総督に命じ、深尾刑部には軍律を保つ旨の命令が藩主より下されている。
一月二十一日鬆督深尾左馬之助率いる本隊は城下を進発、副総督深尾刑部率いる佐川隊は二十二日進発、越知で合流した。両隊は降りしきる雪中を仁淀川を渡り、街道最大の難所、黒森越えで池川に宿営し。街道の村々では、草鞋・松明・弁当などの提供を命ぜられていた。
征討軍は用居・瓜生野を経て、伊予の七鳥村に入った。ここで万一に備えて弾込めして、標高千メートルの尾根道を越えて、休む暇もなく行軍した。二千名近い行軍は寺院や民家に分宿できない者もあり、焚火をして野宿し、藁をかぶって仮眠する状態であった。
二十六日、久万に到着し大宝寺に宿営。久万山郷の庄屋・百姓共のあたたかい接待 を受けた。この日松山より飛報来り、長州軍出陣の由、一刻も早く進発すべしとの事で、二十七日早暁土砂降りの大雨の中を急いで進発した。
三坂峠を降ると、荏原で道後・立花口・麻生の三方面進軍の作戦をとり立花橋で合流し、午後六時ころ八股に到着した。城下の街並は藩主が朝敵となったためか、ひ っそりと静寂そのものであった。
征討軍は八股で集合した後、大砲や小銃の空砲を松山城に向かって一斉に発砲した。その響きは城山にこだまして、城下にたれ込めた夕間を貫き街並一帯にひろがった。すっかり暗くなった午後七時ころ、征討軍は隊列を正して堂々と入城した。土佐藩兵は総数九一五名、荷駄夫を合わせると約二千名の人員であった。
勤王志士脱藩の道
ここには勤王志士の名は記されていない。が、「旧松山街道」案内に「一八六四年八月十四日には田中光顕、大橋慎三、山中安敬、井原応輔、片岡利和の五人の志士が、堂岡の仁井田五所神社で勤王の大願成就を祈願し、黑森越えで脱藩している」とあった。この五名の脱藩志士だろう。
鈴ヶ峠を仁淀川へと下りた越知と佐川の境にある赤土峠にも「脱藩志士習合の地」の碑があり、そこには「元治元年(1864)、死を決した血盟の佐川勤王党五士が脱藩のため習合した地」とあり、この碑はこの五士のひとりであった浜田辰弥(後の宮内大臣田中光顕)が建てたもの。「まごころの あかつち坂に まちあはせ いきてかへらぬ 誓なしてき」の歌も刻まれる、と。越知から高知までの松山街道の途次、此の地も訪れてみようと思う。
なお、脱藩志士は明治維新後、田中光顕は上述の如く宮内大臣、大橋慎三は太政官大議生、片岡利和は侍従、山中安敬は宮中の雑掌となるも、ひとり井原応輔は元治二年(1865)中国諸国を遊説中、賊と間違われ自刃して果てた、と。
中浜万次郎帰国の道
旧松山街道取り付き口、堂ノ岡にあった「旧松山街道まっぷ」に、「1852 嘉永5   ジョン万一郎  アメリカより帰国のとき、役人11とともに7月11日に高知に着く」と記されていた。
ジョン万次郎こと中浜万次郎は土佐沖での漁船遭難しアメリカ合衆国に渡った11年後の嘉永5年(1852年)、上海・琉球・長崎を経由して故郷の土佐に帰国したとのこと。帰国の途地、この鈴ヶ峠を通ったということだろう。
〇ジョン万次郎
ジョン万次郎は土佐清水市中浜の貧しい漁師の子として生まれる。天保12年(1841)9歳で漁船の炊係として漁に出るも難破し離島に漂流。アメリカ合衆国の捕鯨船に救助される。鎖国下の日本に船は入れずハワイを経て1843年、アメリカ合衆国に渡る。
アメリカ合衆国で教育を受けた後、捕鯨船に乗り込み世界各地を巡った後、1850年に日本に向けて上海行の商船に乗り、琉球、長崎を経由して嘉永5年(1852)年土佐に帰国した。
帰国後は土佐藩だけでなく幕府に仕え、その経験・知識を活かし日米和親条約の締結などに活躍した。


今回で伊予と土佐国境に聳える四国山地の山越え部トレースも完了となる。愛媛県の久万高原超・越ノ峠からはじめ色ノ峠、七鳥かしが峠を越え面河川の谷筋・七鳥の集落へ。七鳥からは予土往還;土佐街道・松山街道のふたつのルートの内、面河川を渡り尾根筋に取り付き、猿楽岩を経て予土国境の黒滝峠へと向かう通称「高山通り」を辿り(おうひとつの往還は現在の国道494号筋)黒滝峠へ。
黒滝峠から土佐に入り、水ノ峠を経て土居川の谷筋・池川の町に下る。池川からは、見ノ越から尾根に取り付き鈴ヶ峠までを繋ぎ、鈴ヶ峠から仁淀川本流の谷筋の越知町横畠・堂ノ岡までをトレースした。
愛媛側はルート調査がなされており、標識も整備されているが面河川を越えて山入し、猿楽岩を経て予土国境の黒滝峠までは基本藪。標識を目安に道なき道の藪漕ぎとなる。
黒滝峠を越えて土佐側に入ると標識はほとんどない。道も藪が多く結構大変ではあった。現在黒滝峠から水ノ峠へと辿る旧土佐街道は一部危険となっており、大規模林道に下りて危険個所を迂回することになるが、その大規模林道と黒滝峠を繋ぐピストン復路で日没となり、一晩山中を彷徨うことになってしまった。
大規模林道から水ノ峠までは結構踏まれた道であったが、水ノ峠からツボイ、寄合の集落へ下る旧水ノ峠道は激しい藪を下ることになる。ここは歩かないことをお勧めする。旧水ノ峠道を下りた先から土居川の谷筋にある池川の集落までは旧土佐街道に関する資料が見つからず車道を下ることになった。
池川からは見ノ越で再び山入りし鈴ヶ峠を経て仁淀川本流の谷筋、越知町横畠の堂ノ岡まで下ることになるが、この間鈴ヶ峠までは標識はあまり整備されていないが、踏まれた道が続き道に迷うことはなかった。鈴ヶ峠から堂ノ岡までは先回と今回のメモの通り、標識も整備され道に迷うこともなく歩き終えた。
予土往還 土佐街道・松山街道の難関部である山越え箇所を歩き終え、次は高知までの平地部の土佐街道・松山街道を繋ぐか、久万高原町の越ノ峠から松山を繋ぐか、平地部はパスしどこか別のトピックを見付けそこを歩くか、ちょっと思案中。


堂ノ岡から「道分れ」へ(Google Earthで作成)
予土往還 土佐街道・松山街道散歩もこれで9回目。思えば、四国遍路歩きの途次、愛媛の久万高原町越ノ峠で偶々「土佐街道」の標識に出合ったことがすべてのはじまり。それから数年を経て高知から愛媛の川之江に抜ける「土佐北街道」の全行程をトレースした後、「土佐街道」つながり、というわけでもないのだが、ついでのことではあるので遍路道の途次に出合った「土佐街道」、松山から高知に抜けるもうひとつの予土往還もトレースしてみようと歩きはじめたわけである。
先回は仁淀川水系土居川の谷筋・池川の町のほど近く、狩山川を渡河し見ノ越から尾根筋に取り付き鈴ヶ峠までを繋いだ。今回から二回に分けて仁淀川本流の谷筋、高知県高岡郡越知町横畠の堂ノ岡から鈴ヶ峠を繋ごうと思う。

当初鈴ヶ峠から仁淀川本流の谷筋・横畠の堂ノ岡へと下ろうかと、鈴ヶ峠へ近くまで車を寄せ得るルートをチェックし、Google Street Viewで鈴ヶ峠近くの峯岩戸集落まで車を寄せ得ることを確認したのだが、結局仁淀川本流谷筋の堂ノ岡から鈴ヶ峠を繋ぐことにした。
その因のひとつは、このルートは10キロ強あり、ピストン往復で20キロ。痛めた膝を考えれば、このルートをカバーするには2回に分ける必要があり、鈴ヶ峠からこのルートのほぼ中間点にある薬師堂地区までと、薬師堂から仁淀川谷筋の堂ノ岡とするのがよさそう。が、鈴ヶ峠から薬師堂までの道の状態がはっきりしないため、日没・夜間彷徨はもう勘弁と、怖がりの我が身としては取り付き口にルート案内図が立つと言う堂ノ岡側で情報を集め鈴ヶ峠へと繋ぐことにしたわけである。 で、今回は堂ノ岡からスタートし薬師堂集落の少し先、予土往還が車道から分かれ山道に入る「道分れ」地点までカバーした。その距離5キロほど。国の予算のもと標識はきちんと整備され、道に迷うことはなかった。
ルートの概要は取り付き口から2.6キロほど焼坂と呼ばれる坂を2時間半ほどかけて高度を350mほど上げ、尾根筋に乗り樺休場に至る。そこから薬師堂集落までの1.5キロは少々のアップダウンはあるもののほぼ水平道。1時間半弱で地蔵堂集落に着く。薬師堂集落から「道分れ」と称される、車道より逸れて鈴ヶ峠へと向かう分岐点までは距離は500m。大山祇神社に寄り道しても20分程度。往路で4時間、復路は3時間半で歩けた。
道の状態は樺休場までの焼坂は、取り付き口からすぐ2箇所とその先で1カ所強烈な藪があるが、それ以外は踏まれた道、薄い藪道、農道を標識に従って歩けば道に迷うことはない。強烈な藪の箇所も、旧松山街道と何度も交差しながら蛇行し山に上る舗装道を迂回してもそれほど距離が長くなるわけでもなく、藪漕ぎ好きの方でなければ舗装道を歩くことをお勧めする。
樺休場から先は少々荒れてはいるが、分岐もなくはっきりした道筋を辿れば、これも道に迷うことはなく薬師堂集落に着く。薬師堂集落から「道分れ」までは完全舗の一本道となっている。

取り付き口の堂ノ岡にはルートに関する情報が記された「松山街道散策まっぷ」も立ち、安心して道をトレースすることができた。途地上述のとおり藪漕ぎ箇所もあったが、舗装道が傍を走っており気分的には随分と楽な藪漕ぎではあった。その後は仁淀川の流れを眼下に、その美しい眺めを楽むこともできた。
長かった予土往還の山越え箇所も鈴ヶ峠から仁淀川の谷筋の高岡郡越知町横畠の堂ノ岡まで繋げばほぼ終了。越知と佐川の町の間には脱藩志士の碑が建つ赤土峠があるが、地図でみる限りそれほどキツそうではない。その先は佐川からいの町をへて高知へと平地を進むだけかと思う。予土往還 土佐街道・松山街道 の難関部・山越え箇所クリアもあと一息となった。ともあれ、メモをはじめる。



本日のルート;高岡郡越知町横畠・堂ノ岡の旧松山街道取り付き口>「旧松山街道」標識>標識1(焼坂)>標識2(坂本)・焼坂案内板>標識3(野稲ヶ窪)>標識4>標識5(焼坂)と焼坂遺跡案内板>標識6(西ノ向)>標識7>標識8(クツ打場)>標識9;靴打場>標識10>八里塚の石碑>標識11>標識12(宮ノ下)・茶店跡案内板>標識13>標識14>標識15(野岩)>標識16(石佛之下>標識17(大谷水源)>標識18>標識19(樺休場)・「樺休場」案内>峰興寺植樹林石碑>合中(あいなか)>壱口水>石畳標識>標識20(石神)>薬師堂集落>キリスト教会碑・大山祇神社参道>大山祇神社>標識21>道分れ

堂ノ岡から「道分れ」へ

高岡郡越知町横畠・堂ノ岡の旧松山街道取り付き口
田舎の愛媛県新居浜市から国道194号線を走り全長5キロ強の寒風山トンネルを抜け高知県の山間部を南下。上八川川が仁淀川に合流する吾川郡いの町柳瀬で県道18号に乗り換え仁淀川に沿って東進し高岡郡越知町横畠の堂ノ岡にある松山街道取り付き口に向かう。目印は仁井田神社。
しばらく走り、県道左手に仁井田神社の社殿と社叢、県道右手に集会所らしき建物があり、その前に広いスペース。「仁井田五所神社」と書かれた標識と鳥居の傍に「松山街道散策まっぷ」や「松山街道」の案内、そして「堂ノ岡」と記された木柱に「旧松山街道」方向を指す標識が立つ。ここが旧松山街道取り付き口だ。ここに車をデポする。
「松山街道散策まっぷ」
「松山街道散策まっぷ」には今から進む旧松山街道のルートとポイントとなる箇所の案内、ポイント間の距離が記される。結構助かる。
ポイントの案内
旧松山街道(私注;番号は「松山街道散策まっぷ」に記されたポイントの番号 )
この道は土佐と伊予とを結ぶ重要な往還で、両国の物償交易・文化の道であり、百姓一揆勢や脱藩志士が命がけで駆けぬけた世直しの道のでもあった。道幅が一間という基準があり、歩道としては広い。石神から樺休場の間には、珍しい石畳が残っている。
鈴ケ峠の燈明台
鈴ケ峠には重要文化財に指定されてもおかしくないと思えるような燈明台が2基建っている。「天晴」という年号が刻まれているが、日本の年号にはない。全国では土佐だけにしか見えない。解説:天晴元年は、慶応3年(1864)。
黒森山(1017m)
越知町横畠と仁淀川町(私注;越知町は高岡郡、仁淀川町は吾川郡)の境界点にある。薬師堂から山頂までの松山街道は3.5km。山頂からの展望は絶景だ。
大山祇神社(町指定文化財)
1879年、今井浅治、今井宗吉、今井友祐の3人の長州大工によって改築された。本殿は鞘堂(私注;建物を覆う覆屋)で囲まれているため、新築同然の状態で保存されている。
清水井手、虎吾堀
この用水路は1860年、生活や農業用水の確保に苦労していた清水・八頭・薬師堂の先覚者「左京義三、左京常吾、山本虎吾、山本広次」が中心となり、稲村谷から清水集落までの約7kmを地元の人約100人が昼夜を問わず掘り続け、1年6ケ月間で完成させたという。その後虎吾は、この水を溜めて使うべく、1反5畝の畑をコツコツ掘り、1887年に用水池を完成させた。平成になり町の事業でパイプラインが埋設された。
八里塚、⑦九里塚、⑧合中
焼坂に自然石に八里塚と書いた道標がある。高知の江口番所から8里であることを示したものだ。樺休場から清水集落の方へ約15分歩いた所には八里塚と九里塚との真中という意味の合中(相中)という石の道標もある。清水村と栂ノ森村とで街道の道普請の境に置いたものであろうか。
ポイント間の距離
下ノ宮(注;現在地)から焼坂を上り⑥八里塚まで1300m>⑥八里塚から樺休場まで1300m>樺休場からひと口水まで250m>ひと口水から石神まで800m(途中石畳)>石神から薬師堂まで400m>薬師堂から道分れまで500m、とある。本日の予定はこの道分れまで。計4550mの行程となる。
次回予定のルートについては
道分れから商人休場まで300m(傍に虎吾堀)>商人休場から稲村分岐まで600m(途中耳切れ)>稲村分岐から⑦九里塚まで500m>⑦九里塚から朽木峠まで500m>朽木峠から②鈴ヶ峠まで①松山街道を経由し1800m(②黒森山まで1200m。そこから鈴ヶ峠までは記載されていない)、と記される。黒森山を経由しない松山街道は3700mとなっている。道分れに車をデポすれば1回でピストン往復できそうだ。
清水の主な出来事と松山街道を通った著名人
「松山街道散策まっぷ」の下部に「清水の主な出来事と松山街道を通った著名人」が記される。唐突に「清水」が現れたが、チェックすると国土地理院地図に薬師堂集落の少し西、横畠展望所あたりに「清水」の地名が載る。清水の主な出来事。。。、の清水とはこの地のことのようにも思えるが、何ゆえにここに清水が登場するのか不詳。それはともあれ案内板には
□ 出来事 「自由は土佐の山間より出ず」という言葉ば、明治15年大山祇神社で行われた自由民権集会場でも筵旗に書かれていたという。
西暦     元号   人物                  出来事
1852 嘉永5   ジョン万一郎  アメリカより帰国のとき、役人11とともに7月11日に高知に着く
1859  安政6   長岡謙吾        医学を学ぶため長崎へ。シーボルトの子供に日本語を教える
1859  安政6     岩崎弥太郎     10月21日、長崎へ行くとき
1864  元治1   勤王志士脱藩   田中光顕ら5人が赤土峠に集合して脱藩
1868  明治1   松山征討    将兵1610人が1月23日、越知で一泊し黒森越えで松山へ進駐
1882   明治15   自由民権集会    5月22日、大山祇神社で「自由は土佐の山間より出ず」という額を掲げ大演説会
1906  明治39年 キリスト教会建つ  9月26日、薬師堂に2階建ての教会が建つ
と記されていた。
ジョン万次郎、勤王志士脱藩、松山征討は鈴ヶ峠で既に出合った。
「旧松山街道」案内板
「松山街道散策まっぷ」の横に「松山街道」案内板
「この道は土佐と伊予を結ぶ重要な往還で道幅が1間(一・八メートル)ありあり、当時としては結構広い。
伊予では、松山から土佐界までの道を土佐街道と呼び、土佐では高知城下から伊予界までを松山街道と言う。
薬師堂は、街道沿いの重要な宿場であり、明治のころは店屋や宿屋が七軒も並んでいたという。
藩政時代の土佐・伊予間の通行にはこの街道が主に利用されており、両国の物質交易や文化のほか百姓一揆や脱藩の志士たちが命がけで駆け抜けた道でもある。 一八五二年にはアメリカから十一人の役人とともに帰国したジョン万次郎、一八五九年には長崎へ行くために岩崎弥太郎や坂本龍馬の右腕といわれる長岡謙吾など、歴史上の著名人もこの街道を使用している。
一八六四年八月十四日には田中光顕、大橋慎三、山中安敬、井原応輔、片岡利和の五人の志士が、堂岡の仁井田五所神社で勤王の大願成就を祈願し、黑森越えで脱藩している。その途中で腹痛を起こした井原は薬師堂の店屋「与市」で馬を借り、黒森まで与市も同行したという。
一八六八年には 土佐藩の兵一六一○人が松山征討に行く時は地元の人たちも街道の広場に集まって見送り、一八八二年に薬師堂の大山祇神社で行われた自由民権集会など世直しの人たちも使用している。
街道は車社会の到来とともに荒れ果てていましたが、二○○八ー二○○九年度に実施した国交省の「新たな公」モデル事業等により「虹色の里横畠」と越知町が主導となって再整備し、登山道として親しまれるようになりました。
この説明板は二○○九年度の「新たな公」モデル事業により「虹色の里横畠」が設置したものです。 二○一○年三月」」と記される。
〇「新たな公」モデル事業
「新たな公」モデル事業って何だ?チェックすると、「「新たな公」とは、国土形成計画(平成20年7月閣議決定)において、今後の地域経営の機軸となるべきものと位置づけられているもので、行政が提供していたサービスを行政に代わって提供していく、というだけではなく、従来行政が行ってこなかったような公共的な仕事(過疎地有償運送等)を行っていくもの、さらには、もともと民間の仕事であったものに公共的な意味を与えて提供するもの(空き店舗を活用した活性化活動等)など、多様な活動に係る「担い手」となるもの。地域づくりに取り組む住民、NPO、商工会、町内会等の多様な主体が「新たな公(こう)」という事だろう。この地においては地域グループ「虹色の里 横畠」がその主体となっているということだろう。
土佐街道の愛媛側は藪道ではあるが、それでもルート調査が実施され標識も充実していた。が、土佐に入ると状況は一変。調査ルートもなく、標識もほぼ皆無といった状態であった。が。この地において標識、案内などが充実して一体なにがおきたのだろうと思っていたのだが、その因がやっとわかった。伊予と土佐の国境、黒滝峠から水ノ峠を経て池川、池川から鈴ヶ峠までも旧土佐街道のルート調査、標識設置などがなされば、いいなあ、とは思うのだけれど、そんなことを望むのは酔狂者の戯言ということだろうか。

「旧松山街道」標識;午前8時7分(標高70m)。・標識1(焼坂):午前8時9分(標高90m)
取り付き口の旧松山街道標識
木柱に「堂ノ岡」と記され、坂をのぼる方向を指す「旧松山街道」標識より街道歩きスタート(午前8時7分)。県道18号から続く舗装された緩やかな坂を上る。道は小型車一台が通れる道幅。その直ぐ先で道はヘアピン状に曲がる。曲がって直ぐ道の右手に標識が立つ(午前8時9分)。

標識1(焼坂)
藪が行く手を阻む
「焼坂」と記された木柱に「樺休場」の標識(便宜上「標識1」とする;以下同じ)に従い舗装道を逸れる。その先は強烈な藪。まさか藪漕ぎをするとは予想外。どちらに進んだらいいものかはっきりしないが、地図を見ると10mほど藪を上れば標識1で別れた舗装道に出る。それを目安に6分ほど肩まで埋まるような藪を掻き分け舗装道に出る(午前8時12分)。
この箇所は藪漕ぎフリークはともあれ、そのまま舗装道を進むことをお勧めする。ヘアピン状に曲がる道を進むことになるが、それほど距離はない。

標識2(坂本)・焼坂案内板;午前8時15分(標高110m)
スロープに案内板が見える
スロープ下に標識2(坂本)

県道から続く道に出たあたりで、下へと指す標識を探すが見当たらなかった。上り口・入り口の標識(標識1)があって、その下り口・出口がないのは?
ともあれ、車道を先に進むと直ぐヘアピンカーブ。
曲がり角の先に、道の左を斜めに上るスロープが見え、その中程に案内板らしき掲示板も見える。スロープが車道に接するところに標識。木柱には「坂本」、標識は「樺休場」と記される(標識2(坂本);午前8時15分)。

標識2(坂本)
焼坂案内板
標識に従いちょっと足元の不安定な斜めに上るアプローチを進むと案内板。案内板には「焼坂 仁井田五所神社から樺休場まで登るこの坂道は「焼坂」と呼ばれ、昭和三十八年までは栂ノ森(つがのもり)の人々の生活道であり通学路であった。 昔は、栂ノ森へ荷物を上げる時、特別に重い物は牛の背に着けて運んだが、たいていは担ったり背負ってあげていた。
昭和五十年代ある老婆は、三八樽に入った醤油(約七十キログラム)を主人と二人でかき上げた時、余りのしんどさに、もうなんちゃあ食べんちかまん」と思ったと語ったそうである」とあった。

標識3(野稲ヶ窪);午前8時22分(標高135m)
掘割道も
標識3(野稲ヶ窪)
焼坂案内板から先は草が茂るが藪漕ぎをするほどではない。途地、掘割風の道もある。標識2より7分ほど歩き、高度を30m弱上げると車道に出る。県道18号から続く曲がりくねった道である。
車道に出た山側に標識。木柱に「野稲(?)ヶ窪」と記され、「樺休場」「堂岡」の標識が道筋を示す(標識3(野稲ヶ窪);午前8時22分)。
この箇所は車道を迂回しなくても、それほど苦労しない。

標識4;午前8時34分(標高145m)
仁淀川を背に藪漕ぎ
藪が薄くなったところに標識4
標識3(野稲ヶ窪)から舗装道を逸れ、「樺休場」の標識が指す道を進むが、すぐに再び強烈な藪。藪漕ぎをしながらちょっと後ろを見ると、仁淀川の流れが見える。県道筋より80mほど高度をあげただけ。
標識3より10分強、藪と格闘し高度を20m弱あげると、先に舗装道が見え、その手前の草叢に標識4が立つ(午前8時34分)。標識は「樺休場」と「堂岡」の方向を指し、「樺休場」は標識を右折と示す。右折すると直ぐ県道から続く舗装道に出た。
ここも標識3より舗装道を迂回しても、それほど距離はない。ここも舗装道を歩くことをお勧めする。

標識5(焼坂)と焼坂遺跡案内板;午前8時38分(標高150m)
標識5(焼坂)と案内板
焼坂遺跡案内板
舗装道に出た山側に木柱に「焼坂」と記され、「樺休場」と「堂岡」の方向を示す標識が立つ(午前8時38分)。標識3で舗装道を逸れ、藪漕ぎ15分ほどで道に出たことになる。
その標識の先、草叢の中に白い案内板が見える。案内板には、「焼坂遺跡 昭和四〇年の秋、当時中学1年生だった小崎 秀彦 さん(栂ノ森)が、この辺りで弥生時代の石包丁を発見した。それを確認した堂岡中学校 の武田先生は、クラス全員を連れてここで社会科の授業をしたそうである。
その日、更に長 さ 十センチメートルの石斧が発見されたためここが「焼坂遺跡」 と名付けられた。(設置者「虹色の里横畠(二〇一〇年三月)」とあった。

標識6(西ノ向);午前8時45分(標高175m)
藪漕ぎするほどの藪ではない
藪の先は防御ネットに沿って進む
焼坂遺跡の案内の先は結構な草藪ではあるが、藪漕ぎするほどではない。草藪の先には作物防止ネットが見える。防御ネットに沿って8分ほど歩き、高度を30mほど上げると県道から続く道に出た。
道の山側に標識(標識6(西ノ向):午前8時45分)。木柱に「西ノ向」と記され、「樺休場」と「堂岡」の方向を示す。
この箇所は舗装道を迂回すると結構遠回りとなる。深い草叢はあるものの、藪漕ぎはしなくていいので、ここは標識通りにすすんでも問題ないだろう。
標識6(西ノ向)が見えてくる
標識6(西ノ向)
なお、藪漕ぎと記してはいるが、この旧松山街道は「新たな公」のモデル事業とあるとすれば、道の整備も時に応じなされているのかもしれない。私が歩いた時期は草刈りの端境期であったの、かも。また季節によっては藪も枯れている時期もあるかもしれない。なんとなく気になったので追記しておく。

標識7;午前9時14分(標高190m)
作業小屋の先で道は左右に分かれる
左は藪と急登
標識6(西ノ向)より標識に従い土径に入る。土径の東に立つ農作業小屋を越えたところで道は土径は左右に分かれる。標識はない。その分岐点を往路は左に進み、その先で10mほど藪の急登を這い上がり午前9時過ぎに県道から続く舗装道に出た。
右は強烈な藪
標識7は右の藪道と繋がる
道に出たところに標識はない。どこにあるのかと道を少し下ると、「樺休場」と「堂岡」を指す標識(標識7;午前9時14分)があった。「堂岡」の指す先は足を踏み入れたくない深い藪であった。
復路、この「堂岡」の指す藪に入ってみた。勘弁してほしいといったキツイ藪。草木を踏みしだき、立木を折り成り行きで進むと、往路で左右に分かれる土径分岐点に出た。標識6へと進むのであれば、往路左に折れたルートではなく、右へと折れて進むことになるが、結構な藪漕ぎが必要となる。この箇所も舗装道を迂回するのがいいかと思う。距離もそれほど余分に歩くこともない。

標識8(クツ打場):午前9時18分(標高200m
標識8(クツ打場)
標識8で舗装道を左に逸れ土径に入る
標識7の先、舗装(ほとんど簡易舗装といった状態)道がヘアピンカーブする手間のショートカット道(といっても直ぐ先がヘアピンカーブのためあまり有難味はない)を抜け、舗装道を少し進むと道の左手に標識(標識8(クツ打場):午前9時18分)。木柱に「焼坂」と記され、「樺休場」と「堂岡」の方向を示す。旧松山街道はこの標識より舗装道を左に逸れ土径に入る。

標識9・靴打場;午前9時21分(標高205m)
靴打場
ここは右の草道へ
直ぐ先に作業小屋がありその前に角柱の標識。「靴打場」と記されていた(午前9時21分)。「靴打場」の先、掘割風の道を進むと分岐点。左はよく踏まれた道。右は草に覆われている。一瞬左と思ったのだが、なんとなく下り道のよう。ここから下ることは無いだろうと右手の草に覆われた道を進む。結構深いが、藪漕ぎをするほどではなく、なんとなく踏まれた風の草の中を進むことになった。

標識10;午前9時32分(標高250m)
薄い藪を抜けるとガードレールが見える
スロープを上り切ると標識10
薄い藪といった道を進むと前方にガードレールが見えてくる。土径よりガードレールに続くスロープを上りきったところは広い車道(午前9時32分)。この車道は今まで幾度か交差した堂ノ岡の県道から続くものではなく、堂ノ岡の東、本村から栂の森(つがのもり)方面を繋ぐ道のようだ。堂ノ岡から続く舗装道は、直ぐ東でこの広い車道に合流していた。標識8(クツ打場)で舗装道から逸れた松山街道は、この舗装道に沿って一筋西を進んでいたようだ。
スロープを上り、広い車道のガードレールが切れたところに標識。「堂岡」と下り方向だけを指す標識となっていた(標識10)。

八里塚の石碑;午前9時32分(標高252m)
中央の石碑が八里塚跡
八里塚案内板
広い道路に出ると前面の法面を斜めに上るスロープがあり、そこに石碑と自然石、その傍に白い案内板が見える。石碑には「松山街道 焼坂 史跡八里塚」と刻まれる(午前9時32分)。
スロープを上ると八里塚の案内板、「八里塚 ここは高知市の江口番所から八里の所に当たるので「八里塚」と呼ばれている。
昔は一里塚といって街道沿いに一里ごとに土盛をし、木を植えて道標にしていたが、ここは土盛りの代わりに自然石を置いてあった。(設置者「虹色の里横畠」(二〇一〇年三月)」とあった。
石碑の横に加工された感のある石が置かれる。これが八里塚として置かれた自然石とは思えないが、特段の案内もなく不詳。
なおまた案内にある江口番所って?高知城下での番所は東の松ヶ鼻、西の思案橋、北の山田橋の三カ所とされるが、場所から考えれば西の思案橋番所だろう。近くに江の口川が流れている。それゆえ江口番所とも呼ばれたのであろうか。

標識11;午前9時42分(標高270m)
仁淀川
八里塚を離れ、よく踏み込まれた道を上る、左手下には先ほど分かれた広い車道、仁淀川の流れが見える。藪の中で眺めた仁淀川は堂ノ岡より上流域、ここから眺める仁淀川は堂ノ岡より下流域だろう。


標識11
掘割道を進む
掘割風の道、畑の脇を10分ほど上り、高度を20mほど上げると簡易舗装された農道らしき道に出る。国土地理院地図には描かれていない。そこに標識(標識11;午前9時42分)。木柱には何も記されず「樺休場」「堂岡」の方向のみをを示す。

標識12(宮ノ下)・茶店跡案内板;午前9時48分(標高300m)
振り返ると仁淀川
上り坂
標識の指す「樺休場」方向に進むと土径。直ぐ畠の横を上る簡易舗装の道となる。5分ほど歩き高度を30mほどあげると標識が立つ(標識12;午前9時48分)。木柱に「宮ノ下」と記され、「樺休場」と「堂岡」の方向を示す。

標識12(宮ノ下)
茶店跡案内板
標識の直ぐ上に案内板。「茶店跡 昔ここには店屋があり、きれいな水でトコロテンを冷やして売っていたそうである。
この難所を登ってきた旅人にとって、ここの店屋 は英気を養うありがたい存在だったに違いない。店屋は昭和の初期まであったという。(設置者「虹色の里横畠」」(二〇一〇年三月)」とあった。

標識13;午前9時53分(標高315m)
一瞬藪
標識13
茶店跡案内板の先は一瞬藪となるが、直ぐ先によく踏まれた道が現れ、5分ほど歩き高度を15mほど上げると簡易舗装の農道に出る。国土地理院地図をみると、八里塚跡のところで出合った栂の森方面へと伸びる道から分かれた枝道がこの地に続く。
この枝道農道との合流点に標識(標識13;午前9時53分)。「樺休場」「堂」を指す標識が立つ。

標識14;午前9時57分(標高325m)
標識14
復路、標識14を下道に
「樺休場」の標識が指す枝道農道を数分進むと西に進む農道との分岐点にあたる。その角に「堂岡」とだけ記された標識(標識14;午前9時57分)。
往路は道なりに進めば問題ないが、復路はここで道に迷いそう。道なりに西へ向かう枝道の枝道(?)に進んでしまいそう。
この標識は「堂岡」方向だけを指していることから、枝道農道の枝道を進まず左に下る農道枝道を進め、という地蔵堂方面から下ってきた人のために立てられたものだろう。

標識15(野岩);午前10時(標高330m)
上に逸れる道に標識が見える
標識15(野岩);旧松山街道
枝道農道を数分進むと農道から上に逸れる道が現れ、その分岐点の先に標識が見える。枝道農道を逸れ一段上を進む道に乗り換え標識に。木柱には「野岩」と記され、標識に「旧松山街道」と進行方向を指す(標識15;午前10時)。
予土往還は高知城下から松山城下へ向かう場合は「松山街道」、松山城下から高知城下へ向かう場合は「土佐街道」と呼ばれるが、松山方向を指すこの標識はそれゆえに「旧松山街道」と記されるのだろう。
思えば、予土往還の伊予から土佐の国境までの標識は「土佐街道」と記され、今回歩く土佐から伊予へのルートは「旧松山街道」と記されていた。

標識16(石佛ノ下);午前10時3分(標高330m)
標識16(石佛ノ下)
仁淀川
右手に棚田を見遣りながら数分進むと前面が開け、眼下に仁淀川の眺望が楽しめる。そこにも標識。木柱に「石佛之下」と記され、標識は「樺休場」を指す(午前10時3分;標識16(石佛之下))。
仁淀川の流れをみながら木のベンチで一休み。

標識17(大谷水源);午前10時10分(標高360m)
標識17(大谷水源)
標識16(石佛之下)から先は、尾根筋稜線に向かうことになる。はじめは等高線の間隔も広く緩やかな上り。藪はあるが藪漕ぎはしなくてもよかった。その先、踏み込まれた道を進むと簡易舗装された農道に出る。そこに標識。木柱に「大谷水源」と記され、「樺休場」「堂岡」を指す標識が立つ(標識17(大谷水源);午前10時10分)。

標識18;午前10時24分(標高400m)
此処で道が切れる。右端を上段に上る
防御ネット脇の草道を進む
標識17(大谷水源)の標識に従い、農道を逸れ山側に進む簡易舗装の道を上る。5分ほど歩くと明瞭な道須筋は畠手前で切れる。整備された道はこの畑の農作業用の道であったようだ。
さてどうしたものかと畑手前で手掛りを求め辺りを見回す。と、畑の上段に防御ネットが見える。根拠はないのだが、どうしたところで尾根筋へと高度を上げる必要があるだろうと、畑端を上段に上り防御ネットに沿って先に進む。
その先杉林へ。尾根稜線へ
上り切ると標識18
草は結構深い。道筋は分からないが、踏まれた感のある草の中を進むと杉林の中、ふみこまれた坂道に出た。
坂を上りきったところに林道らしき道。その合流点に「堂岡」と記された標識が立っていた(標識18;午前10時24分)。

標識19(樺休場)・「樺休場」案内;午前10時27分(標高400m )
標識19(樺休場)
周りは平坦地
林道に乗って直ぐ先に平坦地がありそこに標識と案内板が立つ(午前10時27分 )。標識の木柱には「樺休場 標高三五〇m」と記され、「薬師堂へ2.5km」と薬師堂方向を指す。
その傍にある案内板には、「樺休場 ここは標高三五〇メートル。越知町役場から約三〇〇メートルも上がっている。昔は、通行人や旅人がここで一服して体調を整えた場所である。
慶応四年一月の松山征討の時は、佐川様が通るというので栂森の人たちがここで茶を沸かして接待したが、行列の後尾が越知まで続いており、その長さにびっくりしたそうである。(設置者「虹色の里横澤」(二〇一〇年三月)」とあった。
で、佐川様って誰?チェックすると征討軍副総督に佐川家老深尾刑部とあった。佐川様とはこの人物であろう。
土佐藩の松山征討軍
樺休場案内板
慶応四年一月十一日、朝廷は土佐藩主へ次の勅書を発せられ、錦旗を下賜された。
勅書
土佐少将江
徳川慶喜反逆妄挙ヲ助候条、其罪天地二不可容候間、讃州高松、豫州松山、同川之江始メ、是迄幕領、惣而征伐没収可有之被仰出候、宜軍威ヲ厳ニシ、速ニ可奏追討之功旨、御沙汰候事、
正月十一日
但、両国中幕領之義ハ勿論、幕吏卒ノ領地ニ至迄、惣而取調、言上可有之、且又人民鎮撫、偏ニ可致王化様可致処置候事、
土佐少将江
征討被仰付候ニ付、御紋付御旗二流下賜候事、
正月
この勅書に従い土佐藩は松山、高松藩征討の軍を編成。松山征討軍は一月二十日、本藩家老深尾左馬之助を総督、佐川家老深尾刑部を副総督に命じ、深尾刑部には軍律を保つ旨の命令が藩主より下されている。
一月二十一日鬆督深尾左馬之助率いる本隊は城下を進発、副総督深尾刑部率いる佐川隊は二十二日進発、越知で合流した。両隊は降りしきる雪中を仁淀川を渡り、街道最大の難所、黒森越えで池川に宿営し。街道の村々では、草鞋・松明・弁当などの提供を命ぜられていた。
征討軍は用居・瓜生野を経て、伊予の七鳥村に入った。ここで万一に備えて弾込めして、標高千メートルの尾根道を越えて、休む暇もなく行軍した。二千名近い行軍は寺院や民家に分宿できない者もあり、焚火をして野宿し、藁をかぶって仮眠する状態であった。
二十六日、久万に到着し大宝寺に宿営。久万山郷の庄屋・百姓共のあたたかい接待 を受けた。この日松山より飛報来り、長州軍出陣の由、一刻も早く進発すべしとの事で、二十七日早暁土砂降りの大雨の中を急いで進発した。
三坂峠を降ると、荏原で道後・立花口・麻生の三方面進軍の作戦をとり立花橋で合流し、午後六時ころ八股に到着した。城下の街並は藩主が朝敵となったためか、ひ っそりと静寂そのものであった。
征討軍は八股で集合した後、大砲や小銃の空砲を松山城に向かって一斉に発砲した。その響きは城山にこだまして、城下にたれ込めた夕間を貫き街並一帯にひろがった。すっかり暗くなった午後七時ころ、征討軍は隊列を正して堂々と入城した。土佐藩兵は総数九一五名、荷駄夫を合わせると約二千名の人員であった。

堂ノ岡の旧松山街道取り付き栗から直線距離2.6kiro ,比高差300mほどを2時間20分で尾根筋へと上った。ここでちょっと休憩。

峰興寺植樹林石碑(午前10時43分)
峰興寺植樹林石碑
樺休場は400m等高線が北東に突き出た尾根の稜線部(標識には標高約350mとあるが国土地理院地図では標高400m)。道はここから薬師堂集落手前まで多少のアップダウンはあるものの、尾根の北麓、等高線400mに沿ってほぼ平坦な道を進み、薬師堂集落手前で50mほど下ることになる。

10分程度休憩の後、午前10時40分前、薬師堂集落に向けて進む。杉林の中、右手が崖となっている道を数分進むと、道の右手に「峰興寺植樹林石碑」が立つ(午前10時43分;)。そのときはあまり気にもせず道を進んだのだが、植樹林らしき杉林、伐採された杉林が結構長く続くためメモの段階で「峰興寺」ってどんなお寺様とチェック。と、伊予との深い繋がりが現れてきた。
峰興寺
越知町に建つ法相宗のお寺さま。徳川家康の異母弟松・伊予松山藩初代藩主平定五行が三河の国より密山演静老師を松山に招き菩提寺とし栄えたが、明治の廃仏稀釈で衰退。が、その名跡を惜しみ官許を得て明治の中頃越知の屋敷跡に再建された、とある。
なぜ松山から高知の越知に?
越知は伊予の豪族越智氏の流れがこの越知一帯を支配していた、という。また峰興寺が再建された地にはかつて越智氏の菩提寺・円福寺が建っていたとの記事もあった。峰興寺が再建された越知の地が伊予と繋がりがあった、ということだけはわかったが、この地に再建された経緯は不詳。
本尊の智慧の文殊菩薩への県内外からの信仰篤く、加持祈祷の専門道場として名高いというから、再建への動機は十分にあったようには思える。
仁井田五所神社
堂ノ岡の仁井田五所神社
越智氏と言えば、堂ノ岡の旧松山街道の取り付き口に建つ仁井田五所神社も越智氏との関係浅からぬ社。最初に仁井田神社に出合ったのは土佐の遍路歩きの折、高知市仁井田であった。地名ともなっているその地に立派な仁井田神社があった。 その由緒などをチェックすると、『四万十町地名辞典』に、「仁井田」の由来については、浦戸湾に浮かぶツヅキ島に仁井田神社があり、由緒書きには次のように書かれてある、とする。
伊予の小千(後の越智)氏の祖、小千玉澄公が訳あって、土佐に来た際、現在の御畳瀬(私注;浦戸湾西岸の長浜の東端)付近に上陸。その後神託を得て窪川に移住し、先祖神六柱を五社に祀り、仁井田五社明神と称したという。
神託を得て窪川に移住とは?、『四万十町地名辞典』には続けて、「『高知県神社明細帳』の高岡神社の段に、伊予から土佐に来た玉澄が「高キ岡山ノ端ニ佳キ宮所アルベシ」の神勅により「海浜ノ石ヲ二個投ゲ石ノ止マル所ニ宮地」を探し進み「白髪ノ老翁」に会う。「予ハ仁井ト云モノナリ(中略)相伴ヒテ此仕出原山」に鎮奉しよう。この仁井翁、仁井の墾田から、「仁井田」となり。この玉澄、勧請の神社を仁井田大明神と言われるようになったとある」と記す。
仕出原山とは窪川の高岡神社(仁井田五社明神;四国遍路37番札所岩本寺の元札所)が鎮座する山。仁井田の由来は「仁井翁に出合い里の墾田」とする。
仁井田の由来については、伊予の小千玉澄公は『窪川歴史』に新田橘四郎玉澄とあるわけで、普通に考えれば仁井田は、「新田」橘四郎玉澄からの転化でろうと思うのだが、仁井翁を介在させることにより、より有難味を出そうとしたのだろうか。 それはともあれ、仁井田神社も伊予・越智氏とは深い関係があったことがわかる。とはいえ、土佐には33社ほどの仁井田神社があるわけで、越知が越智氏と深い関係があったとしても、何故峰興寺がこの越知に再建されたかは不明のままではある。

合中(あいなか・文政十二年の石碑跡);午前11時01分
石の転がる少し荒れた道を進む。雨で崩れた沢筋を越え15分ほど歩くと道の左手に案内板。「合中(相中) 平成五年に越知町史談会の人たちよって「文政十二年丑九月吉日・合中・せわや紀・順 蔵」と書かれた砂岩製の石碑が発見された。
現在は町立横倉山自然の森博物館に保存されており、ここにあるのは、その後に造った代わりの石だ。
合中案内板
「文政十二・・・」といった文字が読める
ここは八里塚と九里塚の真ん中に当たるところだが、他所では見当たらない大変珍しいものだという。おそらく、当時の清水村と栂森村とで街道の道普請の境として置いたものであろう。(設置者「虹色の里横畠」」(二〇一〇年三月)」とあった。 案内板傍には薄いプレート状の石造物。文字が記されているがほとんど消えかかっているが「文政十二・・・」といった文字が読める。案内板にある、代わりの石だろう。

壱口水;午前11時11分
壱口水の案内板
荒れた沢筋
土砂崩れて荒れた沢を越え10分ほど歩くと「壱口水」の案内板。「壱口水 今は空谷だが、昔から多くの通行ど人の喉を潤してきたところだ(設置者「虹色の里横畠」」(二〇一〇年三月)」とあった。

傍には丸い木の柱に「一口水」と記された標識も立っていた。



石畳標識
地蔵堂の集落が見えてきた
多少のアップダウンはあるもののほぼ平坦な道を15分ほど進むと前面が開ける(午前11時25分)。先に見える集落は薬師堂の家並かと思う。
前面が開けた直ぐ先で道は鞍部に向けて下り始める。

石畳標識
石畳といえは石畳
坂道を20mほど下った道の左手に「石畳」と記された木柱がある。実のところ往路では見逃していた。復路でこの辺りに「石畳」があると注意して見つけたもの。辺りには明瞭に石畳と言えるようなものは見当たらない。よくよく見れば、それらしき少し大きめの石が敷かれているところもある。坂道ゆえに馬などが滑らないように敷かれてはいたのだろうが、今はその面影はあまり、ない。

標識20(石神);午前11時34分(標高360m)
標識20(石神)
標識20の建つ町道合流点
「石畳」から10m強下ると町道柚ノ木薬師堂線に合流。その合流点に標識。 「石神」と記された木柱に「栂ノ森」「薬師堂」「柚ノ木」の方向を示す標識が立つ(午前11時34分)。


石神様
石神様案内板
町道合流点、町道左手に小さな祠が建つ。その横に案内板。「石神様 昔の子供たちは、正月が近づくと「正月様、正月様、どこまござった。石神様までござった。 山草の蓑で若葉の杖でのそりのそりとござった。」と言って 正月を心待ちにしていたという。
右神様とは集落界や峠道に祀られた道祖神で、耳、鼻、口など穴の病気に霊験ありとして、解顔には穴あき石が供えられたりする。 設置者「虹色の里横畠」」(二〇一〇年三月)」とあった。

薬師堂集落;午前11時48分(標高360m)
町道を進む
左手下は仁淀川の谷筋だろうか
標高350mの鞍部を走る町道柚ノ木薬師堂線を進む。道の左手はるか下の谷筋に見える川は仁淀川だろう。
10分強歩くと大きな車道が集まる三差路に出る。周囲に民家が並ぶ。薬師堂の集落に到着。結構大きな集落だ。
地蔵堂集落の三差路
正面に大山祇の鳥居が建つ

横畠は7つの集落からなり200名の住民が住むというが、この薬師堂が最も大きな集落かもしれない。正面に大山神祇神社の鳥居が建つ。
因みに横畠の地名由来は、集落の畑はほとんどが南西を向き、横に長く広がっていることから来るとの説もあるようだ。
ともあれ、直線距離4キロ強、比高差350mほどを4時間ほどで歩き薬師堂集落に着いた。

薬師堂・
カトリック教会聖堂碑
プール手前にが薬師堂
カトリック教会聖堂跡地
薬師堂集落にも堂ノ岡の旧松山街道取り付き口で見た「旧松山街道マップ」があった。薬師堂集落であれば薬師堂などないものかと探すがそれらしき案内はない。ただ、集落の盆踊りはお薬師様盆踊りと称され、その所以は60年前、村に疫病がはやった折、お薬師様にお祈りし疫病退散しそのお礼のためとも伝わるようである。どこにあるのかと郵便局の方にお聞きすると、町道が集落三差路に出る手前、進行逆方向に上るスロープがあり、その先元小学校プール手前に建つとのこと。そこには祠と共に案内板も立っていた。
薬師堂案内板
「薬師堂 薬師如来が厨子とともに祀られており、一番古い棟札には元文元年(一七三八)と書かれている。
昔、横畠村は宮原寺 (佐川町宮ノ原)の管轄であり、祭祀は宮原寺の住職が行っている。
この辺りの地名も薬師堂といい、昔は盆踊りで大変有名であり、現在も八月には小学校 の校庭で盛大に行われている。(設置者「虹色の里 横畠」二〇二〇年 三月)」。

次いで、「旧松山街道案内マップ」で、最終目的地である「道分れ」へのルートを確認すると、車道三差路より大山祇神社鳥居前の車道を進むようだ。その分岐点に進むと角に「カトリック教会聖堂跡地」と刻まれた石碑が立つ。これが「旧松山街道マップ」にあった、 「1906 明治39年 キリスト教会建つ  9月26日、薬師堂に2階建ての教会が建つ」のことだろう。
「道分れ」はこの道を真っすぐ進めばいいのだが、これも「旧松山街道マップ」に 「大山祇神社(町指定文化財) 1879年、今井浅治、今井宗吉、今井友祐の3人の長州大工によって改築された。本殿は鞘堂で囲まれているため、新築同然の状態で保存されている」とあった大山祇神社に立ち寄ることに。鳥居を潜り参道を社殿へと向かう。

大山祇神社;午前11時55分(標高385m)
境内に入る。古き趣の社。境内に案内板がふたつ。ひとつは「大原千歳,自由懇親会で演説と書かれた案内板。
「大原千歳,自由懇親会で演説」
「明治5年(1882)5月9日、大山祇神社参道の鳥居に自由党万歳と大書したむしろ旗を立て、「自由は土佐の山間より出」と解される額を揚げ演説会が行われた。
来賓として、自由民主党幹部の西原清東、自由民権運動家坂本南海男(竜馬の甥・後に直寛と改名)等を迎え、発起人である横畠村の医師秦気魯男の開会宣言の後、西原清東、坂本南海男等 10人を越す壮士が熱弁し聴衆は沸き立った。
居並ぶ壮士の間をしとやかに地元の弁士 7才の大原十戚が登壇すると、興奮し沸き立っていた空気が和み、参加者の目は千歳に集中した。
「男女同等」という演題を与えられた千歳は、落ち着いた口調で「たくさんの方々から自由民権について貴重なお話を聞かせていただき、お礼をのべさせていただきます」と女性解放という先駆的な内容を十分理解した水準の高い話しをされ、最後に「たまあえる今日のまとひに日の本の大和和心のおくもしられて」と澄んだ声で朗詠した。当時の土陽新聞は会員員一同覚えず拍手して感動の意を表せりと報じた。千歳は、清水の大原輝夫氏の祖祖母に当たる。(令和元年10月吉日 虹色の里横畠 大原泰生建立)」とあった。
「旧松山街道案内マップ」に
「出来事。 「自由は土佐の山間より出ず」という言葉ば、明治15年大山祇神社で行われた自由民権集会場でも筵旗に書かれていたという。
1882 明治15  自由民権集会  5月22日、大山祇神社で「自由は土佐の山間より出ず」という額を掲げ大演説会」と記されていた。
大山祇神社(越知町指定文化財)
もうひとつの案内板は大山祇神社に関するもの。
大山祇神社社殿
本殿は鞘堂(覆屋)で覆われていた
「大山祇神社(越知町指定文化財)
本殿は明治十三(一八七九)年十一月に今井治郎、今井宗吉、今井友佑の三人の長州によ大工って新築されたものだが、本殿外部に施されている緻密で精巧な彫刻は、見る者を唸らせてしまう。
その本殿は、鞘堂で覆われているため彫刻は外部から見ることはできないが、築後一三〇年たった現在も新築時同然の状態で保存されている。
本殿彫刻(by仁淀ブルー観光協議会)
本殿天井絵(by仁淀ブルー観光協議会)
拝殿の天井には、当時地元の人が描いた三十八歌仙の人物画や花鳥画がきれいに残っている。三十八歌仙というのは紀貫之や 小野小町なと平安時代の有名な歌人たちである。
境内では、明治十五(一八八二)年五月、堂岡の医師秦気魯男らの世話で坂本直寛 (龍馬の甥)ら数人を招き「自由党万歳」と大書した筵旗を立て、鳥居には「自由は土佐の山間より出づ」という額を掲げ、自由民権集会が盛大に開かれた。
この説明文は二〇〇九年に実施した国交省の「新たな公」モデル事業により「虹色の里横畠」が設置したものです。二〇一〇年三月
本殿の彫刻をご覧になりたい方は大原泰生(携帯番号)までご連絡ください」とあった。

立派な彫刻や天井絵があるようだが鞘堂(覆屋)で覆われて内部は窺いしれない。どんなものかチェックすると「仁淀ブルー観光協議会」のページに彫刻や天井絵の写真が掲載されていたので、ここで使わせて頂くことにした。

道分れ;午後12時9分(標高410m)
標識21
「道分れ」がみえてきた
社殿脇に先に進む道がある。成り行きで下ると鳥居前で別れた車道に出た。そこから10分ほど、途中「堂岡」を指す標識(標識21)を見遣り車道を進むと車道から左に逸れる道があり、その角に標識と案内板が見える。そこが「道分れ」。


「道分れ」の旧松山街道標識
旧松山街道案内板
木柱には「道分れ」と記され、「樺休場」「稲村・日の浦」の方向を示す標識が立つ。稲村・日の浦はこの先、稲村谷川の谷筋に下ったところに日の浦集落の地名が国土地理院地図に記される。
標識の左手には「旧松山街道」の案内。堂ノ岡の旧松山街道取り付き口でみたものと同じもの。その傍には「黒森山登山口 ジョン万次郎帰国道 志士脱藩道」そして「旧松山街道」」と書かれた標識が左を指す。
今回はここまで。次回はこの「道分れ」から鈴ヶ峠を繋ぐ。


追記;後日、地蔵堂の先、「道分れ」から鈴ヶ峠を繋ぎに行った折、越知の町にある横倉山自然の森博物館に展示されるという,合中の標石を見に行った。実物は思ったより小振りな直方体の石造物だった。



予土往還散歩もこれで8回目。今回は水ノ峠から下った仁淀川水系土居川の谷筋の池川からはじめ、見ノ越より尾根に取り付き鈴ヶ峠までを繋ぐ。
久万高原町の越ノ峠から山入りし、仁淀川水系面河川に面する七鳥より猿楽岩から黒滝峠を経て水ノ峠を下るまで、肩まで埋まるような笹原、延々と続く藪漕ぎに何度となく「勘弁してほしい」と小声で叫んだ「予土往還 高山通り」散歩であったが、今回のルートは藪もなく、踏まれた道や掘割道そして林道を辿る至極「快適」なものであった。
「快適」とは言うものの、それは藪漕ぎから解放されたという意味ではあり、標高180mほどから800mまで比高差620m、平均20°の急登を5キロほど上るルートであり、それはそれなりに険しいのだが、「道」があるだけ、それだけで十分に有り難いルートであった。
所要時間は見ノ越取り付き口から鈴ヶ峠まで往路、復路共に3時間半程度。復路は下りはじめて2時間ほどはなんとか膝も我慢しててくれ、結構快調に下れたのだが残りの1時間半は膝がほぼダメ状態。結局往路上りと同じ位の時間がかかってしまった。普通に歩けばこんなに時間はかからないかと思う。
ルート概要は見ノ越取り付き口は草木が茂り少し分かり難いが、その先は上述の如く踏まれた道、掘割道、林道と「道」を辿っていけば鈴ヶ峠に到着する。藪漕ぎでは頼りの綱であった木に括られたリボンも16ほど確認できたが、今回は特に無くても道を辿ることはできそうではあった。
とはいうものの、2箇所だけ道迷いそうな箇所があり、そこでは助かった。 その二箇所は共に杉林。一瞬踏まれた道筋が消え、どうしたものかと思ったのだが、辺りを見回し杉の木に括られたリボンを見付け、そこを先に進むと踏まれた道に出た。
今回のルートで注意が必要なのはこの杉林の2箇所と見ノ越から取り付きはじめて少しして出合う沢を越すあたりの3カ所だけ。後は迷うこともなく踏まれた道、掘割道、林道を辿ればいい。この3カ所については後述する。 余談ではあるが、快調に往復ピストンで車デポ地に戻ったわけだが、ここでちょっとしたアクシデント。さあ帰ろうとエンジンをかけようとしたのだが、うんともいすんとも言わない。トンネルの多い国道439号を走って来たのだが、車デポ地でライトを消し忘れ、バッテリ‐切れ。JAFのお世話になってしまった。デポ地が里に近かったからよかったものの、山中であれば結構迷惑かけたかも。気をつけよう。 とまれ、メモを始める。



本日のルート;池川から見ノ越へ>「旧松山街道略図」案内>狩山川渡河>山道への取り付き口>沢を越える>T字路>大師坐像>道迷い注意箇所>道迷い注意箇所>痩せた馬の背>林道枝道(?)に出る>林道が左から合流。道の左手は大きく開ける>大きな林道に合流>「見ノ越」標識>鈴ヶ峠

見ノ越から鈴ヶ峠へ

池川から見ノ越へ
先回の最終地点、天明逃散習合の地、また山頭火の歌碑の立つ土居川・安居川合流点である「安の川原」からスタートする。
土居川に架かる橋を渡り安居川右岸を進む。ほどなく安居川に狩山川が合流する地点で安居川に架かる橋を渡り国道439号に出る。見ノ越は国道439号を横切り、狩山川に沿って進む。
見ノ越
「見ノ越」ってなんとなく惹かれる地名。四万十町地名辞典には「高知県内には見残、見ノ越、三ノ越、箕ノ越、三野越があるが、ミノコシ本来の意味は不明。ただ地形的にみると小さな尾根を越える小みちのよう」とあり、「ミノについて柳田国男氏は「一方が山地で、わずかな高低のあることを意味した」という。ミノは丘陵地帯の意味という」と続ける。
いまから取り付く鈴ヶ峠への尾根筋は「わずかな高低のある丘陵」には似合わない。字義通りに見ると、狩山川筋と安居川の合流点に向かって90mほどの丘陵が突き出ている。これが「見ノ越」の由来となった地形だろうか。単なる妄想。根拠なし。


「旧松山街道略図」案内:午前7時38分
旧松山街道案内
斜めに上るアプローチ
刈山川右岸を集落へと入る。少し進むと民家石垣の前に「旧松山街道略図」案内。随所で見る予土往還高山通りの案内図ではあるが、概略図であり実用性はない。 途は言うものの、案内が立つのであれば、この辺りから鈴ヶ峠への取り付き口へと進むのだろうが狩山川には対岸に渡る橋が架かっていない。
対岸に取り付き口の目安でもなかろうかと往きつ戻りつ取り付き口を探すと護岸工事された狩山川左岸、上述案内の立つところより少し上流に川床から斜めに上るコンクリートのアプロ―チがあった。左岸に上るにはそのアプローチを上るしか術はない。

狩山川渡河;午前7時42分
狩山川をジャブジャブと
アプローチを上る
どこか濡れずに対岸のコンクリートのアプロ―チに渡れる場所はないものかと探すが、適当な浅瀬も飛び石もない。仕方なく狩山川をジャブジャブと渡河する。膝の辺りまで水に浸かりながらコンクリートのアプロ―チに向かい、狩山川左岸に渡る。

山道への取り付き口;午前7時56分(標高180m)
草木に覆われた撮りつき口
その先に、かすかに踏まれた道が見える
左岸に渡るが川に沿って草木が茂る。どこかに山に向かう取り付き口は無いものかと右往左往。と、コンクリートのアプロ―チを左岸に上ったことろから少し下流、藪の向こうに道筋らしきものが見える。


踏み込まれた道が現れる
リボンでオンコース確認
取敢えず草木を掻き分けて中に入ると、直ぐ先に踏まれた道筋が上に続いていた。そこが取付口であった。
7分ほどかけてよく踏み込まれた道を進む。高度を30mほど上げたところ、道の右手に小さな木立にリボンが括られている。しっかり踏まれた道であり、リボンがなくても道に迷うことはない。

沢を越える;午前8時3分(標高200m)
左岸より小滝上を迂回しそのまま右岸道に
薄い道の先には踏み込まれた道
そこから20mほど上げると、目の前に沢が現れる。結構広かった道は消え、一瞬沢に下りて対岸を這い上がる?などと思ったのだが、沢の左岸の数メートルほどの崖に沿って誠に狭いが踏まれた風の道が見える。慎重に歩を進めると沢の小滝の上を迂回し右岸に移れた。
右岸から先も薄い道筋だが、小滝上から先に続く踏まれた感のある道筋が続く。先に進むとしっかり踏まれた比較的大きな道となる。

T字路;午前8時35分(標高310m)
T字路手前のリボン
T字路。復路注意箇所
しっかり踏まれたをジグザグで30分ほど進み高度を100mほど上げると立ち木にリボンが括られ、その直ぐ先にT字路。往路ではなにも問題なくT字路を右折し上りの道を辿ることになるが、復路(鈴ヶ峠方面から下るとき)このT字合流部は見逃しやすくそのまま直進し、あらぬ方向へ行くことになる(実際復路で直進してしまった)。
復路では少しわかりにくいが、このT字部のリボンを目安に左折すれば沢に出る。念のためにメモしておく。
沢からこの間4つのリボンが括られているが、リボンが無くてもその間は道に迷うことはない。

大師坐像;午前9時(標高400m)
T字部から標高350m辺りまでは尾根筋稜線を等高線に垂直に上る。その間木に括られたリボンがある。この間も道はよく踏まれており迷うことはない。
標高350m辺りまで上ると等高線の間隔は広くなり、急坂は少しゆるやかになる。その先馬の背を越え標高400mまで高度を上げると、道脇に大師坐像が佇む。「文政二年 弘法大師」」と刻まれていた。予土往還 土佐街道・松山街道 高山通り」を辿る途地、を猿ヶ岩、黒滝峠には大師像が建っていた。大師信仰の深さが感じられる。
取り付き口から1時間かけて標高を200mほど上げた。ここで小休止。

道迷い注意箇所;午前9時52分(標高510m)
ここから急に道が狭くなる
リボンでオンコース確認
小休止の後、40分ほどかけて標高500m辺りまで上る。と、明瞭に踏み込まれた道が少し狭く、薄くなる。道にそって小枝にリボンが2つ括られており、オンコースであろうと先に進むと杉林に出る。前面と斜斜面には杉の木が立ち並ぶが道が消える。

杉林で道が消える
右手の杉の木にリボンを確認
どうしたものかと左右を見渡すと、道が消えた直ぐ右手の大きな杉にリボンが括られている。明瞭な踏み跡というわけでもないが、リボンの括られた杉の木脇を上っていくと、よく踏まれた道筋が現れた。
因みに、目安としているリボンではあるが、様々な用途で括られていることも多い。時には全くの個人のルート目安として括られたものが残置されていることもある。注意が必要。

道迷い注意箇所;午前10時5分(標高560m)
再び杉林。括られたリボンを目安に進む
その先、青いリボン。オンコース確認
左手に杉林を見遣りながら7分ほど歩き高度を50mほど上げると再び前面に杉林が現れる。ここで道が少しわかりにくになる。が、前回と同じく道が消えたところの大きな杉にリボンが括られている。それを目安にリボンのついた杉の左手を抜けると、踏まれた感のある道の杉の根元にブルーのリボン。その先にも同じくブルーのリボンが続きオンコースであることを確認する。最初の道迷い箇所ほどルーティングは難しくないが、念のためメモしておく。

痩せた馬の背;午前10時43分(標高670m)
馬の背
よく踏まれた道、掘割状に削られた道を進む。尾根筋を等高線に垂直に30分ほど上り、高度を100mほど上げると等高線の間隔が広くなり少し緩やかな道となる。その直ぐ先には痩せた馬の背が見える。

林道枝道(?)に出る;午前10時48分(標高700m)
道なりに林道枝道(?)に出る
平坦な林道枝道(?)を進む
平坦な痩せた馬の背を越え、その先で高度を20mほど上げると道は北西に長く突き出た700m等高線突端部に乗る。そこでは背の低い草に覆われた林道枝道(?)のような比較的広い道が繋がる。



林道が左から合流。道の左手は大きく開ける:午前10時52分(標高700m) 
林道合流手前。先に草道が続く
林道との合流点。写真右が林道。
細長く延びた700m等高線に囲まれた平坦な道を進むと左手から林道が合流する。左手から合流する林道箇所は如何にも重機で削られたような痕跡を残す道筋ではあるが、合流点から先は背の低い草に覆われた道のまま。

道の左手は大きく開け、正面には黒森山に連なる稜線、目を下に移すと国道439号が走る狩山川の谷筋の集落などが見える。
復路注意箇所
往路では成り行きで林道に合流するので問題ないのだが、復路(鈴ヶ峠から見ノ越へくだる)ではこの林道分岐点は注意が必要。下山ルートは林道側ではなく左手に入るのだが、分岐箇所の下山ルート道は上掲林道分岐点写真の如く、草が生い茂り、そこが道というか、林道枝道(?)があるとはわからない。復路ではここが分岐箇所かどうかもよくわからないだろう。ここでは林道ではなく左手の草の中へ入ること。念のため。

大きな林道に合流:午前10時57分(標高720m)
大きな林道に合流
緩やかに上る草の「芝生道」を数分歩くと谷側から上ってきた大きな林道に合流する。林道は重機で力任せに開かれた感のある粗削りな道。石が転がる荒れた林道といったもの。荒れてはいるが藪にくらべれば誠にありがたい。

「見ノ越」標識:午前11時18分(標高800m)
林道は標高770m辺りまで稜線を上った後、稜線を離れ山腹をトラバース気味に20分ほど歩き、緩やかに標高を30mほどあげ鈴ヶ峠から黒森山に連なる尾根筋に出る。尾根筋合流点に「見ノ越」と書かれた標識が立っていた。

鈴ヶ峠;午前11時35分(標高820m)
平坦な尾根の道を鈴ヶ峠へと向かう。800m等高線に囲まれた尾根筋には途中2箇所のピークある(東側のピークは849.7三角点)。20mか30mほどのピークであるが、上りはもう勘弁と思いながら先に進むと、道は共にピークを巻いて東に進み、三角点のあるピークの先は緩やかな下りとなって鞍部に下りていった。
道は如何にも重機で開かれた道といったものであり、往昔の道筋はピークを抜ける尾根筋道かとも思うのだが、特段の標識もみつからなかったため巻き道を進んだ。
鞍部には2基の石灯籠と、「鈴ヶ峠(旧松山街道)」と書かれた木の標識が立っていた。「鈴ヶ峠(旧松山街道)」と書かれた木の標識には「松山討伐の道 勤王志士脱藩の道 中浜万次郎帰国の道」とも記されていた。 
見ノ越からおおよそ3時間半で鈴ヶ峠に着いた。
天晴燈明台
正面に「奉 寄進」と刻まれる2基の燈明台の1基は「明治七戌年年(1984)」、もう一基の燈明台の側面に「天晴元卯九月十八日」と刻まれる。天晴という元号はないのだが、土佐においては明治元年の前年にあたる慶応3年(1867)に「天晴」年号が各地で使われたとのこと。『天晴』に改元される、といった噂が流れ、世直しを求める民衆が「天晴」の年号を先取りするも、結果的には「明治」と改元され、元号としては幻に終わったその歴史の痕跡を残す。
それにしても立派な燈明台があるが、辺りには社が見当たらない。これってなんだろう。チェックするとこの燈明台は金毘羅遥拝のためのもののようであった。
松山討伐の道
幕末争乱記、慶応4年(1868)1月幕府側であった伊予松山藩討伐のため土佐藩兵1600名からなる松山藩征討軍が松山に向かった進撃路のことだろう。征討軍は鈴ヶ峠から池川に下り、池川から予土往還のひとつ、現在の国道494号筋を進み瓜生野峠(サレノ峠)を越えて伊予に入り松山に向かったようである。
勤王志士脱藩の道
ここには勤王志士の名は記されていない。最初、水ノ峠、黒滝峠で出合った脱藩の士中島信行、中島与一郎、細木核太郎のことかとも思ったのだが、この脱藩志士の逃亡ルートは、佐川から名野川に出て北川川の谷筋を橋ヶ藪抜け水ヶ峠へと向かっている。名野川は鈴ヶ峠からははるか西、仁淀川に沿った地にある。そこから水ノ峠へと北上したわけであるから、どうみても鈴ヶ峠を越えたとは思えない。
あれこれチェックすると、鈴ヶ峠を仁淀川へと下りた越知と佐川の境にある赤土峠には「脱藩志士習合の地」の碑があり、そこには「元治元年(1864)、死を決した血盟の佐川勤王党五士が脱藩のため習合した地」とあり、この碑はこの五士のひとりであった浜田辰弥(後の宮内大臣田中光顕)が建てたもの。「まごころの あかつち坂に まちあはせ いきてかへらぬ 誓なしてき」の歌も刻まれる。
その流れでもう少し深掘りし、この脱藩五士は田中光顕、大橋慎三、片岡利和、山中安敬、井原応輔、と判明した。
明治維新後、田中光顕は上述の如く宮内大臣、大橋慎三は太政官大議生、片岡利和は侍従、山中安敬は宮中の雑掌となるも、ひとり井原応輔は元治二年(1865)中国諸国を遊説中、賊と間違われ自刃して果てた、と。
 
●中浜万次郎帰国の道
ジョン万次郎こと中浜万次郎は土佐沖での漁船遭難しアメリカ合衆国に渡った11年後の嘉永5年(1852年)、上海・琉球・長崎を経由して故郷の土佐に帰国したとのこと。帰国の途地、この鈴ヶ峠を通ったということだろう。
ジョン万次郎
ジョン万次郎は土佐清水市中浜の貧しい漁師の子として生まれる。天保12年(1841)9歳で漁船の炊係として漁に出るも難破し離島に漂流。アメリカ合衆国の捕鯨船に救助される。鎖国下の日本に船は入れずハワイを経て1843年、アメリカ合衆国に渡る。
アメリカ合衆国で教育を受けた後、捕鯨船に乗り込み世界各地を巡った後、1850年に日本に向けて上海行の商船に乗り、琉球、長崎を経由して嘉永5年(1852)年土佐に帰国した。
帰国後は土佐藩だけでなく幕府に仕え、その経験・知識を活かし日米和親条約の締結などに活躍した。

今回のメモはこれでお終い。藪漕ぎの連続であったこれまでの予土往還からは一変そした「道」を歩ける快適な散歩であった。次回は鈴ヶ峠から越知へと繋ぐが、段取り上、越知側から繋げるのがよさそうだ。道も結構踏まれているようであり、藪に入ることもなく快適に歩けそうな気がする。ありがたい。
先回の散歩で大規模林道から水ノ峠を繋いだ。水ノ峠から先は、峠傍から直線距離700m、比高差200mを下る「雑誌越え予州高山道 旧水ノ峠」道が残るが、そこから先、土居川と安居川が合流する池川の町までの道筋がはっきりしない。
『土佐の道 その歴史を歩く;山崎清憲(高知新聞社)』にも、「池川口番所から水ノ峠への往還は坂本、白髪、寄合などの各集落を経る道」との記述のみであり、ルート図も概要を示すだけである。
現在池川から寄合、ツボイといった水ノ峠近くの集落まで一車線ではあるが完全舗装の道が続いており、その途次如何にも旧路かと思える破線が国土地理院地図に記載され、各集落を繋いでいる。
が、地図上の分岐箇所には標識もなく、藪が茂り踏まれた道筋が見当たらない。藪漕ぎは今まで十分に「堪能」しているので、標識があればまだしも、なんの確証もない藪に入る気力はなく、結局水ノ峠からの旧水ノ峠道を下りた後は、車道を池川まで下りることにした。
で、今回の旧予土往還繋ぎ散歩の唯一の旧路である旧水ノ峠道であるが、先回の散歩で幹線林道脇に立っていた「雑誌越え予州高山道 旧水ノ峠登り口」の標識から取り付いたのだが強烈な藪。藪漕ぎしながら急登を這い上がる気力は30分ほどで失せ撤退した。
こんな藪を歩く人がいるとも思えないのだが、「雑誌越え予州高山道 旧水ノ峠登り口」の標識がある以上、土佐街道を繋ぐには避けるわけにもいかないか、との想いもあり、少々気は重いのだが旧水ノ峠道をトレースすることにした。
ルートは藪漕ぎ急登は勘弁と、車を旧水ノ峠登山口傍にデポし、水ノ峠まで5キロほど歩き水ノ峠から下山口を探し下ることにした。結論からすれば特段の下山口はなく、杉林の急斜面の直ぐ先は猛烈な藪。途中、なにか文化的遺構があるならまだしも足元も見えない急斜面の藪を下るのは少し危険でもあり、旧水ノ峠道のようでもある国土地理院記載の「破線」トレースにこだわることなく少しでも歩きやすいルートを辿ることとし、偶々出合った沢筋を下り、「雑誌越え予州高山道 旧水ノ峠登り口」の標識の立つ場所傍の幹線林道に下りた。
沢筋は藪からは解放されるが、下るにつれ岩場が多くなり2箇所ほどロープがなくては岩場を下りることが危険で、高巻きするなどしてギャップをクリアすることになった。沢登りの経験がこんなところで役に立つことになろうとは思いもしなかた。
今回の総括としては土佐街道を繋ぐということだけのために旧水ノ峠道を下ったが、このルートは藪にしても沢にしても街道歩きからはほど遠く、歩くことはあまりお勧めできない。幹線林道脇に立っていた、「雑誌越え予州高山道 旧水ノ峠登り口」の標識も水ノ峠側に「下山口」がなかったわけで、とすればこの標識は登山用というより、ここが旧水ノ峠道の登山口でしたよ、と示す旧跡案内といった趣旨での標識かもしれない。
表題の「予土往還 土佐街道・松山街道 ⑦ ; 水ノ峠へから池川へ」とするのは少々面はゆいが、ともあれメモを始める。



本日のルート;
旧水ノ峠道
車デポ地から水ノ峠へ>水ノ峠>橋ヶ藪ルートに下山口標識は見つからない>林道から下山開始>急斜面のザレ場>踏まれた道に>沢筋に>沢に水が流れ始める>林道とクロス>幹線林道に出る
旧水ノ峠登山口標識から池川へ
(ツボイ・寄合・坂本)
池川
池川口関所>送番所>池川神楽>天明逃散集合の地>山頭火の歌碑


旧水ノ峠道■

旧水ノ峠道;赤は実行ルート。緑・青は想定ルート


車デポ地から水ノ峠へ;午前9時10分
「雑誌越え予州高山道 旧水ノ峠上り口」の立つ幹線林道傍に車をデポし水ノ峠まで5キロほど舗装された林道を歩く。先回の散歩で水ノ峠直ぐ傍まで車を寄せることができることはわかっていたのだが、どうしたところ同じ道を歩かなければならないわけで、であれば旧水ノ峠道を下った後に疲れた体で車デポ地まで歩くより、下山後すぐに車に乗れるようにと、「先苦後楽(こんな熟語はないが)」を選んだわけである。
車デポ地発は午前9時10分であった。

水ノ峠:午前10時52分
水ノ峠大師堂
地理院地地図破線部が林道と合流する箇所
水ノ峠直ぐ手前に国土地理院に描かれる破線部が林道と合流する箇所がある(標高1100m)。旧水ノ峠道かとも思われるのだが、特段の標識もない。当初はここから旧斜面を下ろうと思っていたのだが、どなたかの記事に水ノ峠登山口から上り、林道合流の手前、標高1080m辺りからトラバーズ気味に左に折れ、南の橋ヶ藪方面から水ヶ峠に繋がる国土地理院記載の破線に向かい水ノ峠に上るログがあった。
林道合流する直ぐ手前から折れるには何らかの意味、旧水ノ峠道の「下山口」標識などでもあるのかもと取敢えず確認に向かうことにする。
車デポ地からほぼ2時間弱で水ノ峠に到着。小休止し下山口確認に向かう。

橋ヶ藪ルートに下山口標識は見つからない
登山標識より地理院破線を進む
リボンを目安に破線T字部を左折

休憩後、橋ヶ藪からのルートアプローチ口を探す。大師堂前の広場西端部からアプローチ箇所はないかと探すが見つからない(実際は広場西端部にあるお手洗いの小屋脇から踏み込まれた道があったのだが、その時は見逃した)。

掘割道に戻る
尾根筋に下山口標識は見つからない
仕方なく先回の散歩で水ノ峠鞍部にあった「明神山登山口10km 雑誌山3.7km」の案内箇所(午前11時23分)から国土地理院地図に記載される破線部に沿って進むことに。
リボンを見遣りながら先に進み国土地理院地図記載の破線部がT字に合わさる箇所を左に折れる。一面の笠原で道筋はなにも見えない。成り行きで歩きやすいところを進むと沢筋に下りてしまった。地理院破線部から大きく逸れており軌道修正し、南東に突き出た1080m等高線の尾根筋に戻る。と、尾根筋には掘割風の踏み込まれた道筋に出た(午後12時3分)。
掘割道を上ると大師堂前の広場に出た
場所はどなたかのログで見た林道手前で左に折れ、橋ヶ藪方面からのルートと合流する付近。辺りを彷徨い「下山口」の標識を探すが見当たらない。またトラバース気味に旧水ノ峠道と想定される国土地理院記載の破線部に繋がる踏まれた道筋も見当たらない。「下山口」といった旧水ノ峠道を示すものがあればまだしも、等高線1080m辺りをトラバースする先は藪。敢えてこのルートを進む気にもなれず、林道から下ることとし、水ノ峠に戻ることにする。
掘割の道を少し上ると大師堂前の広場西南端にあるお手洗いの横に出た(午後12時23分)。下山口探しに彷徨うことおおよそ1時間であった。

林道から下山開始;午後12時32分
林道から下山開始
直ぐ藪に
水ノ峠から林道を少し戻り、林道から国土地理院記載の破線部に入る。下り口部分は杉林といった雰囲気もあるが高度を⒑m弱下げると藪となる。等高線から考えて、橋ヶ藪のルートから山腹をトラバースして地理院破線部へと向かったとすれば結構な藪を進むことになっただろう。

藪の中、急斜面のザレ場;午後12時57分
急斜面のザレ場
その先も藪
歩きやすい箇所を下ったため位置は国土地理院地図に記載される破線部から外れているのだが、その破線部に戻ったとしても所詮は藪。軌道修正し敢えて藪の中を左に振ることは止め、成り行きで少しでも藪の「薄い」箇所を下ることにする。
急坂の藪の中を20mほど高度を下げると急斜面のザレ場。念のためロープを出し下る。前回の幹線林道「雑誌越え予州高山道 旧水ノ峠上り口」から取り付いたとき沢筋らしき藪の急登を這い上がった。藪が切れた先も急登であれば、下りにはロープがあったほうがいいだろうと用意していった。急斜面だが藪より「より少なくいい」(午後12時57分)。急斜面の先も藪。勘弁してほしい。

踏まれた道に;午後13時51分
一瞬藪が開ける
が、直ぐに藪
急斜面の藪のため足元に注意しながら小枝を折敷き下ってゆく。藪漕ぎを30分以上格闘すると開けた場所に出る(午後13時43分)。が、それも一瞬。少し「薄く」はなったがそれでも依然藪が続く。


踏まれた道が現れる
沢に続く予感の道に
藪を少しでも歩きやすいルートを探して進むと踏まれた感のある道に出る。標高は1040mほどだろうか。
20分ほど成り行きで進むと高度を?mほど下げると、踏まれた道は沢筋に続くような感のある小石の転がる道筋となる(午後14時8分)。

沢筋に;午後14時15分
そこから10分弱、成り行きで踏まれた感のある道筋を進むみ高度を10mほど下げると、切り込まれ明らかに沢筋と思われる枯れ沢にでる(14時15分)。標高は1000mほど。林道からほぼ半分下ったことになる。地形図を見ると北東に切れ込んだ等高線が幹線林道まで続いている。理屈から言えば沢が幹線林道と繋がることになる。旧土佐街道と思われる国土地理院記載の破線のことは頭に何もなく、このまま幹線林道まで沢が続いてほしいと願う。

沢に水が流れ始める;午後14時52分
枯れ沢を下る。処々で左右から沢筋が合流してくる。次第に沢筋の切れ込みも深くなり、沢に転がる岩も大きくなってくる。足元に注意しながら30分ほど沢を下ると沢に水が流れはじめる。下るにつれて水量も多くなってくる。
標高970m辺りで沢筋は国土地理院地図に記載の破線部を掠る。破線部はそこから西へと進むが、敢えて藪に戻る気力はなく、迷うことなくそのまま沢筋を下る。

林道とクロス;午後15時23分
沢を下るにつれ大岩部も現れロープを出すか、迂回ルートを探すか悩むような箇所も現れる。この時は沢筋にギャップをクリアできる足場をみつけ下に下りる。結構沢登りをしているが、時に沢を下らざるを得ない時があるが、基本下りは危険であり更に慎重に沢を下る。沢に慣れていない方はロープがあったほうがいいかと思う。当日は6㎜x10mロープ2本持って行った。
30分ほど沢を下り標高930m辺りで沢は林道(?)とクロスし土管で林道下を抜ける。一度林道に上がり左右を確認。東へと広い道筋が続くが、旧水ノ峠登山口のある西側は直ぐ道が切れ藪となっている。国土地理院地図に記載される破線部は直ぐ先なのだが、藪に入るのは一瞬でも勘弁してほしいと、林道を抜けた先の沢筋に再び入り込むことにした(午後15時30分)。

幹線林道に出る;午後16時
幹線林道手前の危険箇所
幹線林道に出る
クロス部から直に沢に入るのはギャップがあり、東から大きく廻り込み沢に入る。幹線林道まで比高差50mほど。沢が幹線林道に合わさる箇所にギャップなどないことを祈りながら15分ほど沢を下ると先に幹線林道が見えてきた(午後15時45分)。
が、そこには大岩の大きなギャップがありロープを使うか高巻するしかクリアする術はない。少々考え、左岸を高巻することに。が、高巻した先は岩場ではないがギャップのある崖と急斜面。ロープを出すのが安全なのだが、そもそも足元が不安定で立ち木にしがみついているといった状態。ロープをだすのも一苦労。仕方なく崖面に立ついくつかの立ち木を順にホールドしてトラバース気味に急斜面に軟着陸。
急斜面も立ち木をホールドしてなんとか沢筋に戻る。ザックに収納し取り出すことを面倒がらずはじめからロープを出して岩場を下りればよかった。 この箇所は結構危険。林道クロス部からは沢筋をさけて藪漕ぎで50mほど下るほうがいいのかもいしれない。
ともあれ危険部をクリアし幹線林道に出る。時刻は午後16時。林道から下山しはじめて3時間半ほど時間がかかってしまった。直線距離では700mほどだが、トラックログでの距離は3キロ強となっていた。急斜面と藪と沢ルートであればこんなものなのだろうか。膝の痛みを庇いながらではあるにしても、俯角20度弱の坂を下りるにしては少し時間がかかり過ぎるるようにも思える。



旧水ノ峠登山口標識から池川へ

水ノ峠から池川へ

幹線林道から見たツボイ・寄合数楽
坂本の茶畑

既述の如く旧水ノ峠登山口標識から池川への予土往還の道筋は。『土佐の道 その歴史を歩く;山崎清憲(高知新聞社)』にも、「池川口番所から水ノ峠への往還は坂本、白髪、寄合などの各集落を経る道」との記述のみであり、ルート図も概要を示すだけである。詳しいルート図はみあたらない。
池川から寄合、ツボイといった水ノ峠近くの集落まで繋がる完全舗装の道の途次、国土地理院地図に記載される旧路らしき破線部との交差部になにか予土還を示す標識などないものかとチェックはしたのだが、標識はおろか踏まれた道筋も見ることができず草藪が広がるだけであった。
予土往還を繋ぐ散歩としては少々残念ではあるが仕方なく車道を池川の町まで下ることにした。
標高880mほどの水ノ峠登山口から一車線ではあるが完全舗装の道を進み、高度を100mほど下げツボイ、寄合の集落を抜け、曲がりくねった山腹の道を下ると標高250mの辺りに坂本の集落。茶処なのだろうか茶畑が広がる。 チェックすると仁淀川町は藩政時代、土佐藩主に献上茶を産した茶処であったよう。日本一の透明度を誇る仁淀川に養水する名水の地、山間部での昼夜の寒暖差、春先の霧。お茶の生産に最適の地とのことであった。
坂本の集落から右手下に小郷川を見遣りながら東進し、小郷川が土居川に合わさる辺りで池川の町に入る。

池川

池川口関所・口番所
小郷川が土居川に合わさる辺り,小郷川の北詰で道は国道494号に合流する。合流箇所を国道494号に出た右手に「予州高山通り略図」があり、その案内の立つところに「池川口関所碑」と記される。石碑は国道合流点角の土蔵が建ち、如何にもといった古き趣のある民家の敷地内にそれらしき石碑が見えた。このお屋敷が池川口関所跡ということだろう。

案内には池川口関所とあるが、多くの記事には池川口番所とある。口留番所との記述もある。どれも同じものだろう。




池川送番所跡
土蔵などを残す池川の町を進むと。道の左手の空地にに「送番所跡」と書かれた木の標識が立つ。口関所(番所)と送番所の違いは?
〇口番所・送番所
口番所(関所)は口留番所とも称され、Wikipediaには「江戸時代に各藩が自藩の境界や交通の要所などに設置した番所のこと。主に藩に出入りする旅行者や商品の監視を任務としていた。前者には農民や欠落人(犯罪者)の逃亡防止・傷を負った者・女性、後者には専売品(各藩の特産品)の密輸防止や運上逃れの防止(品質や価格を維持するため)の目的とともに米などの穀物や金銀銅などを藩内に留めて必要な物資を確保しておく意図を有していた」とある。
一方送番所は「公用の書状・荷物を宿場から宿場へ送る任務などを行った公的施設。番所には番屋と馬屋が設けられ国中に急用ができると「笹飛脚」(書状を結んだ笹の葉が枯れないうちに走る特急便)が冬でも褌一丁で走ったといわれ峻嶮、野根山街道三十五キロを三時間で走り抜けた笹飛脚がいたといわれている」といった説明があった。
池川の町は伊予の国と国境を接し、北の椿山から高台越を経て伊予の面河村大味川に繋がる道、用井(もちい)から瓜生野経由で美川村東川を結ぶ予土往還瓜生野越えの道筋(現在の国道494号筋)、また現在辿っている予土往還高山通り越えの道筋を扼する交通の要衝の地にあり、紙の抜け買い、抜け荷の監視、お留山監視のため口番所を設けたのだろう。
因みに紙の抜け買い、抜け荷とあるのは、池川紙一揆でもメモしたように、山間部である池川の地は年貢として米の替わりに紙を納めていたことによる。また「お留山」とは「江戸時代、藩に管理・支配された山林。入山・狩猟・伐採が禁止されていた(Wikipedia)」とある。
口番所はこの地の他、用居、安居川に沿って県道362号を北上した安居土居にも設け監視・管理の任にあたったとのことである。
池川神楽
道を進み山側から道が合流する箇所、仁淀川町池川支所の建つコーナーに「重要無形文化財指定 池川神楽 池川神社保存会」と書かれた木の案内がある。 観光案内には「400年の伝統を受け継ぐ土佐最古の神楽。 池川神社社家・安部家を中心に伝承されてきたもので、文禄2年(1593)「神代神楽記」に土佐の神楽としては最古のものと記されています。演目は14通りあり、中でも「児勤の舞」は土佐神楽の中でも池川神楽にのみ見られる特異な舞です。国の重要無形民俗文化財に指定されています」とあった。
〇池川神社
社の案内には「古くは池川郷の総氏神とされ、伝えによれば平家の落人安部肥前守藤原宗春らが建久二年(1191)寄合の地に移住、同五年に神社を勧請したという。この安部氏が代々神職を勤める」とある。
天明逃散集合の地
その先、国道494号が左に分かれる分岐点を右の道をとり地図にマークされる「山頭火の歌碑」へと向かう。道が土居川に合流する安居川に架かる北詰を右に折れ土居川傍、地図に「安の川原」とマークされる川床に接した広場に下りる。「山頭火の歌碑」は土居川に面した善法寺辺りに立つようだ。
その途次、道の左手ガードレール傍に「天明逃散集合の地」の案内。天明逃散のことは土佐街道散歩の途次、栗滝峠でも標識に出合った。
この地の案内には
「天明逃散集合の地 ■ 平成17年7月26日 池川町指定史跡
天明2年(1782)から全国で大飢饉が始まり農民の暮しは困窮の度を増す中、更に池川の農民は藩命により紙の自由売買が禁止された上に年貢取立の重圧に苦しんだ。困惑した池川・用居の農民は松山藩(現久万高原町菅生山大宝寺)に逃散を決意。ここ"安の川原"に男子601人が集まり池川紙一揆を起こした。 池川町教育委員会」とある。
山頭火の歌碑を探して歩いていると、土佐街道歩きの途次黒滝峠や水ノ峠で出合った、池川紙一揆集合の地であったわけだ。
池川紙一揆逃散の道
池川紙一揆とは山間部において米納の代わりに紙を藩に現物していたわけだが、搾取に苦しみ起きた農民一揆。農民一揆には徒党を組み暴徒と化すもの、強訴に及ぶもの、他国に逃亡する逃散があるが、この池川紙一揆逃散の道とは、天明七年(17 87)2月26日、土佐藩への貢祖である紙の現物納入に苦しむ池川の農民六百人が逃散を決め伊予に逃亡したもの。
そのルートは寄居の集落から水ノ峠、雑誌山北麓の通称「雑誌越え 高山通り」を経て黒滝峠で伊予に入る。黒滝峠からは数回に渡り歩いて来た土佐街道の逆ルート、猿楽岩から尾根筋を進み七鳥に下る通称「予州高山通り」を進み(七鳥に下る山麓に高山集落の地名が地図にある。高山通りの由来だろうか)、久万の四国遍路第44番札所大宝寺に庇護を求めた。
結局、この寺において帰国後処罰されないことを保証され、3月21日大宝寺を離れ帰国の途につく。帰路は土佐街道・松山街道のもうひとつのルートである、現在の国道494号筋を進み瓜生野峠(サレノ峠?)を経て用居の番所で取り調べを受けた後、池川に戻ったとのことである。
山頭火の歌碑
山頭火の歌碑を探す。善法寺の境内には見つからない。安の川原に下りて鮎釣りだろうか釣り人を見ていると、一段高い高台にある善法寺の石垣に、川の流れに向き合った山頭火の歌碑があった。
石碑には中央に大きく「野宿 わが手わが足われにあたたかく寝る 山頭火」と刻まれ、その下に「山のよろしさ、水のよろしさ、人のよろしさ、主人に教えられて、二里ちかく奥にある池川町へ出かけて行迄、九時から十二時まで、いろいろの点で、よい町であった。行乞成績は銭七十九銭、米一升三合、もったいなかった。渓谷美、私の好きな山も水も存分に味った、何と景色のよいこ」と刻まれる。
四国遍路の途次、時に山頭火の歌碑に出合う。中にはその地で詠まれたものではなく、その趣の近きゆえのものもあったが、この句は当地で詠まれたもの。 昭和14年(1939年)、11月1日よりはじまる『四国遍路日記』の11月18日の項に「十一月十八日 好晴、往復四里、おなじく。
山のよろしさ、水のよろし さ主人に教えられて、二里ちかく奥にある池川町へ出かけて行迄、九時から十二時まで、よい町であった(行きちがう小学生がお辞儀する)。
行乞成績は銭七十九銭、米一升三合、もったいなかった(留守は多かったけれど、お通りは殆んどなかった、奥の町はよいかな)。
渓谷美、私の好きな山も水も存分に味った、野糞山糞、何と景色のよいこと! 三時には帰って来て、川で身心を清め、そして一杯すすった。
明けおそく暮れ早い山峡の第二夜が来た、今夜は瀬音が耳について、いつまでも睡れなかった。
宵月、そして星空、うつくしかった。
"谿谷美"
"善根宿"
"野宿"
行乞しつつ、無言ではあるが私のよびかける言葉の一節、或る日或る家で―― "おかみさんよ、足を洗うよりも心を洗いなさい、石敷を拭くよりも心を拭きなさい"
"顔をうつくしくするよりもまず心をうつくしくしなさい"
(十一月十六日)(十一月十七日)(十一月十八日)
あなたの好きな山茶花の散つては咲く(或る友に)
野宿
わが手わが足われにあたたかく寝る
夜の長さ夜どほし犬にほえられて
寝ても覚めても夜が長い瀬の音

橋があると家がある崖の蔦紅葉
山のするどさそこに昼月をおく
びつしり唐黍ほしならべゆたかなかまへ
岩ばしる水がたたへて青さ禊する
山のしづけさはわが息くさく」とある。
種田山頭火
「うしろすがたのしぐれてゆくか」「分け入っても分け入っても青い山」「まっすぐな道でさみしい」といった自由律俳句に魅される山頭火の事跡に初めてであったのが、松山の一草庵。酒と病、それゆえの奇行、一族の悲劇などもあり出家し酒と旅に生きた山頭火の終の棲家となったのが一草庵。松山在住の句人・高橋一洵の奔走で用意されたもの。昭和14年(1939)10月のことである。
山頭火は、「私には分に過ぎたる栖家である」と記し、その労苦に感謝し高橋一洵に「落ち着いて死ねさうな草枯れる」を呈した。 「死ぬることは生まれることよりむずかしいと、老来しみじみ感じた」山頭火が、一草庵を終の住処とした境地である。翌昭和15年3月には、改めて「落ち着いて死ねそうな草萌ゆる」と詠んでいる 昭和15年10月11日没。
山頭火と四国遍路
「えひめの記憶;愛媛県生涯学習センター」によれば。「山頭火は人生で2度四国遍路に出ている。最初は昭和2年から昭和二年から三年にかけてのことで、これは中国、四国、九州地方一円の前後七年間にわたる壮絶な行乞大旅行のひとこまであった。そしてこの時には四国八十八ヶ所をすべて順拝したとされるにもかかわらず、残念なことに彼自身の手で旅の記録が焼却されてしまったこともあって、詳細な足跡は不明となってしまった」とする。
この池川の歌碑は山頭火2度目の四国遍路遍路の時こと。「えひめの記憶」には昭和14年10月1日に松山に着いたあと、すぐ10月6日に四国遍路へと松山を出発し、11月1日阿波からはじめるも11月16日高知で挫(ざ)折した。
その記録である『四国へんろ日記』は、11月1日撫養(むや)を出発して、徳島に入ろうとする日から始まり、11月16日高知で挫(ざ)折し、一路土佐街道を面河を経由して松山に戻り12月15日一草庵に入り、日記は12月16日で終える。
日付からみればこの歌碑は四国遍路に挫折し松山へ戻る途地の歌である。歌碑には「野宿 わが手わが足われにあたたかく寝る」と「野宿」とあるが、「十一月十八日 好晴、往復四里、おなじく」にある「おなじく」は前日の日付には「善根宿」とあるので、池川でも野宿ではなく善根宿に寝たようにも思える。
句は淡々としているが、「えひめの記憶」には「無一物で出立、覚悟の遍路であったはずの山頭火が、「行乞が辛い」と言って、11月10日から高知で数日滞在し、郵便局に足を運ぶが、期待したもの(金銭)が届かず、11月16日とうとう一か月有余の四国遍路を中断し、土佐街道を松山に向かう。このことを大山澄太氏は次のように解説している。
 (この旅は)世間からは、ほいとう扱いにされ、宿にも泊りにくい五十八歳の老廃人の旅と見るべきである。筆致は淡々としているが、よく味読すると、涙の出るような修行日記である。彼はこの旅で心を練り、ずい分と、体を鍛えさせられている。果たせるかな土佐路に入ってからいよいよ貰いが少くなり、行乞の自信を失った、頼むというハガキを、柳川の緑平と、広島の澄太に出した。高知郵便局留置と言うので、二人は彼の言うて来た日に着くように為替を切って送金したのであるが、彼の足が予定よりも早すぎて、高知に四日滞在してそれを待ったがなかなか着かない。そこでへんろを中止して仁淀渓谷を逆って久万から松山へと道を急いだのであった」と記す。
大山 澄太(おおやま すみた)
1899年(明治32年)10月21日[1] - 1994年(平成6年)9月26日)。日本の宗教家、俳人。
岡山県井原市出身。大阪貿易語学校(現・開明中学校・高等学校)卒業後、逓信省に入省し、逓信講習所教官、逓信事務官、内閣情報局嘱託、満州国郵政局講師などを務める。戦後愛媛県で著述、社会教育をおこなう。「大耕」主宰。1963年、愛媛県教育文化賞を受賞。種田山頭火の顕彰にも努めた。山頭火に関する著書も多い。

気まぐれにひとつの歌碑をちょっと深堀するとあれこれ見えなかったものが現れてくる。
これで今回の水ノ峠から池川までのメモを終える。予土往還高山通りを繋ぐとうたった趣旨からすれば唯一の旧予土往還の旧路である旧水ノ峠道も強烈な藪に日和り(ひより)想定ルートでなく藪から解放された沢を下り、その後も旧予土往還の道筋がわからず、車道を池川まで下ることになった。なにかの折、旧路情報が見つかればその時になって考えてみようとは思うが、藪漕ぎはもう十分に堪能したので、藪の有無がGOサインか否かの要因とはなるだろう。
とまれ、次回は池川の直ぐ先、見の越から鈴ヶ峠への尾根に取り付くことにする。

先回の大規模林道から黒滝峠を繋ぐピストン復路での日没・夜間行動。一刻も早く下山しようとGPSとライトを頼りに右往左往するも、同じ処を堂々巡りするだけで気が付けば夜が明けていた。
夜は沢の水で渇きを癒すも夜が明けるころには水も切れ、ほとんど脱水状態でなんとか車デポ地に辿りついた。
山中での日没・夜間行動の一因は道なき道の藪漕ぎゆえの道迷いと撤退決断ができなかったこと。久万高原の越ノ峠からはじめた土佐街道の山入り道は、面河川に面した七鳥から尾根筋に這い上がるころから延々と続く藪漕ぎ。日没を意識して途中撤退を繰り返しながらなんとか道を繋ぎ予土国境の黒滝峠まで辿りついた。
で、先回の土佐側・高知県淀川町町の大規模林道から黒滝峠を繋ぐピストン往復。藪が激しく道迷いで時間がかかり、黒滝峠への往路途中でちょっと撤退も考えたのだが、このルートは途中撤退した場合の適当な繋ぎアプローチが見つからず、日没ギリで戻れるだろうとエイやで突き進み上述の道没・夜間彷徨の為体となった。

この顛末に懲りたというわけでもないのだが(少々気分的に参ってはいた)、道のあるところを歩きたいと、行きそびれていた札所第六重番横峰寺から香園寺の順打ち遍路道を二度にわけて歩き、そうこうするうち時が癒してくれたのか、再び土佐街道歩きに戻る気力が戻ってきた。

今回は大規模林道から水ノ峠を繋ぐ。距離は1キロほど。比高差も230mほど。それほどのルートでもないのだが、ビビリの我が身としては念のためにとツエルト(ビバーク用簡易テント)をザックに入れ現地に向かった。
歩いた後のルート概要雑感は、後半部は踏み込まれた道、前半部は一部踏み込まれtれ道筋があるものの藪と草に覆われたちょっと道迷いしそうなルートだった。ただ、ルートに沿って10個ほどのオンコ―スを確認できるリボンが木に括られてあり、ちょっと安心できる。
少しルート取りで難しいところは、北に突き出た1050m等高線箇所と途中で2箇所出合う砂防堤防。北に突き出た稜線部は迂回せず西から東に横切ること、また砂防堤箇所では最初の砂防堤防は右端から上り、二番目の砂防堤は左端まで進み、「水ノ峠」の標識が指す藪へと入り込む。藪を抜ければその先は踏み込まれた道が水の峠まで続いていた。
時間はルート探しや道迷いなどもあり往路は1時間半ほどかかった。念のためにと用意したツエルトの出番もなく大規模林道から水ノ峠を繋ぐピストンを終えた。

なお、当日は水ノ峠から先に残るという「雑誌越え予州高山道」も下ろうとの思惑でもあった。が、下山口が見つからない。水ノ峠に繋がる林道を少し下ったところから国土地理院地図に描かれた破線が下の舗装道と繋がっている。比高差200m、その距離600mほど。その破線が下山口かと歩いてみたのだが、「下山口」の案内もなく急斜面には踏み跡らしきものも見つからない。
それではと、下から攻めてみようかと車デポ地から国土地理院地図に描かれる破線が繋がる下の舗装道へと向かった。そこには 「雑誌越え予州高山道 旧水ノ峠登り口」の標識が立っていた。どうもこの「破線」が旧土佐街道のようだ。
それではと標識の立つ箇所から上ってみようそこに足を踏み入れた。が、スタート地点からものすごい藪。30分ほど藪木を折りしだき急坂に取り付いたのだが、あまりの藪の激しさに気が萎える。急坂を上りながらの藪漕ぎは勘弁してほしいと撤退。
こんなところ誰も歩くとは思えないが、トレースするのであれば、上りより下りのほうがいいかとも思い、冬の藪も落ち着いた頃、気が向けばロープを用意して急坂を下ってみようかとも思う。
そしてまた、これはメモの段階で見たのだが、急坂の途中から左に折れ、南の橋ヶ藪方面から水ノ峠に続く国土地理院の「破線」に合流して峠へと上るトラックログもあった。どちらが旧土佐街道ルートかわからない。いつか訪れた時は両方のルートをチェックするしかないだろう。
ともあれ今回は本題の大規模林道から水ノ峠までのルートをメモする。



本日のルート;大規模林道から水ノ峠への取り付き口>踏み跡のあるルートを進む>最初のリボン>「黒滝峠」標識とリボン>池川町有林標識と小さな枯沢にリボン>草の覆われたルートにリボン3>藪にリボン4>藪が切れる辺りにリボン5>草に覆われたルートにリボン6>リボン7>最初の砂防堤>砂防堤を上るとリボン9>第二の砂防堤前にリボン10>「水ノ峠」標識>踏み込まれた道が現れる>水ノ峠

大規模林道から水ノ峠へ

大規模林道から水ノ峠への取り付き口;午前8時29分
黒滝峠から大規模林道へ出たところから450mほど東へと戻るところ、国土地理院地図に大規模林道から水ノ峠に繋がる破線が描かれる箇所が大規模林道から水ノ峠への取り付き口のようだ。本来の土佐街道は黒滝峠から大規模林道に下りる途中にあった「黒滝峠」の標識から山腹を進んだようだが現在は「危険」ということで通行できないとのこと。
ともあれ、国土地理院地図に描かれる破線が大規模江印藤に合わさる辺りでアプローチ点を探す。と、木に括られら赤いリボンが二つ見つかった。そこが取り付口であろうとは思うのだが、アプローチ部は刈り込まれてなく結構な藪。また藪漕ぎかと少々気が滅入る。

踏み跡のあるルートを進む;午前8時32分
草木を掻き分けルートに入ると予想に反し、その先は踏み込まれた道が続く。嬉しい。藪漕ぎなくこの道が続いて欲しいと願う。




最初のリボン;午前8時36分
リボン
数分歩き高度を10mほど上げると道の右手の細木に赤いリボンが括られる(「リボン1」とする)。踏み込まれた道が続く。






「黒滝峠」標識とリボン:午前8時38分
数分歩くと道の右手に木が立てられ、そこにピンクのリボンが括られている。その傍に「黒滝峠」と書かれた木の標識がある。またその先に「危険」と書かれた木の標識も転がっていた。ここが前述黒滝峠から大規模林道に出る途中出合った「黒滝峠」木標から繋がる旧土佐街道の合流点。理由は不詳だが「危険」のため一旦大規模林道へと迂回することになったのだろう。

池川町有林標識と小さな枯沢にリボン
小さな枯れ沢にリボン
等高線を斜めに進む緩やかな道を5分ほど歩き高度を10mほど上げると道の右手に「池川町有林」の木標(午前6時43分)。その直ぐ先に小さな枯れ沢があり立ち木に赤いリボン(リボン2)が括られる。

草の覆われたルートにリボン3;午前9時46分
細い立ち木にリボン
沢を渡ると踏まれた道は消え一面草に覆われたルートとなる。木々の間に囲まれており、なんとなくルートであろうと推測はつく。3分ほど歩くと道の左手、細い立ち木にリボン(リボン3)が括られており、オンコースであることを確認。

藪にリボン4;午前8時53分
道の左手、杉の木にリボン
リボン3から5分ほど歩くと草木が行く手を阻む。背丈より高い草藪を進むと道の左手、杉の木にリボンが括られていた(リボン4)。オンコース確認し一安心。




藪が切れる辺りにリボン5;午前8時58分
道の右手、杉の木にリボン
その先も藪。なんとなくルートっぽい筋を選び5分ほど進むと道の右手、杉の木にリボンが括られていた(リボン5)。オンコース。その先で藪が切れる。




草に覆われたルートにリボン6;午前9時1分
背丈ほどの藪から解放され、一面草に覆われたルートを数分進むと道の右手、杉の木にリボンが括られていた(リボン6)。数分歩くと再び背丈より高い草木が道を塞ぐ。



藪の中にリボン7:午前9時9分
藪は直ぐ切れその先に踏み込まれた道。が、直ぐ藪となる。藪の中、道の左手の細い立ち木にリボンが括られていた。





最初の砂防堤;午前9時9分
リボン傍から砂防堤の上に
その先、数分歩くと前方に砂防堤が現れる。ルートがはっきりしない。取敢えず砂防堤の東端まで行ってみるが、ルート案内もルートらしき筋も見当たらない。で、砂防堤西端まで戻ると木に括られた黄色いリボン(リボン8)が見えた。リボンを頼りに砂防堤の上に進む。

砂防堤を上るとリボン9;午前9時17分
リボン9
二番目の砂防堤
砂防堤前で右往左往し少し時間を取られたが、砂防堤の上に上ると足元は一面草が茂る。成り行きで少し進むと木に括られたリボンがあった(リボン9)。その先には二番目の砂防堤も見える。



第二の砂防堤前にリボン10;(午前9時23分)
水抜き水路溝
リボン10

リボンの位置から判断しルートは砂防邸東端方向であろうと一面草に覆われたところを成り行きで進む。途中、砂防堤からの水抜き水路溝を乗り越え先に進むと木に括られた黄色のリボンがあった(リボン10)。



「水ノ峠」標識;午前9時27分
「水ノ峠」標識
標識右手の藪に入る
リボン10から先、ルートがはっきりしない。右往左往していると砂防堤の東端辺りに偶然木の標識が目に入った。近づくと「水ノ峠」とあり指す方向ははっきりしないが左方向を指す。
左手は藪となっているので砂防堤の上へと辿ってみるがどうもそれらしきルートとは思えない。元に戻り左手の藪に入る。

踏み込まれた道が水ノ峠まで続く;午前9時37分
藪は直ぐ切れ、踏み込まれた道が現れる
踏まれた道が続く
と、藪は直ぐ切れ、踏み込まれた道が現れた。「水ノ峠」標識から10分もかかっているのはルート探しで右往左往したため。実際の藪は数分で抜ける。
これから先、水ノ峠まではこの踏み込まれた道、またその先では掘割道が続く。この道筋から外れないように進めばいい。

掘割道が続く
掘割道が続く
とはいうものの、途中道の分岐もありそうそう簡単にはいぁない。実際往路では踏み込まれた道からあらぬ方向に進み、力任せに尾根筋へと軌道修正し偶然掘割道に出た。往路はこの掘割道を進みその後は道に迷うことなく水ノ峠に到着した。 トラックログとして記載したのは復路のルート。峠から道なりに掘割道を進み、踏み込まれた道を進むと「水ノ峠」標識の立つ手前の藪まで迷うことなく下りることができた。そのルートを記載したものである。
迷い道注意地点
スムーズに下りた復路のトラックログは等高線1070m辺りから北に突き出た1050m等高線お尾根筋を西に横断している。往路のログを見ると「水ノ峠」標識から藪を抜け踏み込まれた道に入ったのだが、等高線1040m辺りで掘割道から外れ北に突き出た1050m等高線に沿って廻り込んでいた。そこで根拠はないのだ、国土地理院地図に描かれた「破線」に戻ろうと力任せに尾根筋へと軌道修正し幸運にも掘割道に出合ったわけだ。
この箇所をクリアするには、大まかに言えば、国土地理院に描かれる破線が1050m等高線に合わさるあたりから1070m等高線に向け西から東へと抜けるということだろう。

水ノ峠;午前10時5分
枯沢の先に鞍部が見える
鞍部に到着
往路、幸運にも出合った堀割道を進むと広い枯れ沢が現れる。峠手前は等高線が南東に切れ込んでいる。雨が降ればこの地から水が下るのだろう。その先は木々の間から空が開け鞍部らしき地形となる。
沢ゆえか少しザレ気味の道を上り切ると左右の高まりに挟まれた鞍部に出る。

鞍部右手には登山口の案内
鞍部左手にはミニ四国霊場
鞍部に水ノ峠の標識はない。左手の高まりへの道筋には幾多の石仏が並ぶ。ミニ霊場が祀られている。右手には「明神山登山口10km 雑誌山3.7km」の案内が立つ。 鞍部から少し下ると広場となってる。「登山口 明神登山口10km カラ池5.7km」の標識が立つ広場には左手から林道が繋がる。広場に設けられた木のベンチで小休止。

鞍部南の広場に林道が繋がる
大師堂と中島與一郎殉難の地石碑
休憩の後、ここが水ノ峠であるエビデンスを探す。と、広場の西にお堂が建つ。猿楽岩でもみた大師堂。こんな山中にも大師信仰の跡が残る。
お堂の左手に「勤王の志士 中島與一郎 殉難の地」と刻まれた石碑が立つ。その右に「水の峠 水神」と刻まれた石碑を祀る祠が立つ。現在水が流れているようにはみえなかったが、この水ゆえの水ノ峠ではあろう。この地が水ノ峠であることを確認。
中島與一郎
「水の峠 水神」の祠
この人物には黒滝峠でも出合った。元治元年(1864)、中島信行、中島与一郎、細木核太郎の3名は脱藩を決意。佐川より仁淀川に沿って進み、現在の県道363号筋の名野川を経て水ノ峠に至り、雑誌越えの道を黒滝峠に上る。その後中島与一郎は足の腫物のため一行と分かれ水ヶ峠に戻り、南東に下り橋ヶ藪から室津(国道439号室津川が仁淀川水系土居川に合流する辺り)まで進むも見とがめられ、再び水ヶ峠まで逃れ、その地の大師堂で捕り方により最後を遂げた。
池川紙一揆逃散の道
また、この水ノ峠は、これも黒滝峠で出合った池川紙一揆逃散の道でもある。 池川はこの地の東、現在の国道494号と493号が合流する辺り。紙一揆とは山間部において米納の代わりに紙を藩に現物していたわけだが、搾取に苦しみ起こした農民一揆。農民一揆には徒党を組み暴徒と化すもの、強訴に及ぶもの、他国に逃亡する逃散があるが、この池川紙一揆逃散の道とは、天明七年(17 87)2月26日、土佐藩への貢祖である紙の現物納入に苦しむ池川の農民六百人が逃散を決め伊予に逃亡したもの。
そのルートは寄居の集落から水ノ峠、雑誌山北麓の通称「雑誌越え」を経て黒滝峠で伊予に入る。黒滝峠からは数回に渡り歩いて来た土佐街道の逆ルート、猿楽岩から尾根筋を進み七鳥に下る通称「予州高山通り」を進み(七鳥に下る山麓に高山集落の地名が地図にある。高山通りの由来だろうか)、久万の四国遍路第44番札所大宝寺に庇護を求めた。
結局、この寺において帰国後処罰されないことを保証され、3月21日大宝寺を離れ帰国の途につく。帰路は土佐街道・松山街道のもうひとつのルートである、現在の国道494号筋を進み瓜生野峠(サレノ峠?)を経て用居の番所で取り調べを受けた後、池川に戻ったとのことである。

これで大規模林道から水ノ峠を繋いだ。次回は、やっぱり順番からして水ノ峠から下る旧土佐街道を辿るか、その先池川まで旧土佐街道の情報もみあたらないため、池川の先見ノ越から鈴ヶ峠への山入とするか、さてどうしよう。


先回の散歩で湯浪登山口から巡打ち遍路道を第六十番札所へと上った。往昔、横峰寺を打った遍路は湯浪・大頭へと打ち戻り第六十一番札所香園寺へと向かったようである。
「えひめの記憶」には、「横峰寺から香園寺への打戻りの遍路道は、貞享4年(1687年)刊の『四国邊路道指南』によると、「○しんでん村○大戸村、此所に荷物おきでよこミねまで二里。○ゆなミ村、地蔵堂有。○ふるほう村、地蔵堂。大戸より山路、谷合。(中略)是よりかうおんじまで三里、右の大戸村へもどる。<16>」と記されている。
また『四国遍礼名所図会』は、(是より大頭町迄下り支度いたし、香苑寺へ廿五丁也。明口村、香苑寺村。<17>」と記し、それぞれ大頭へ打ち戻ることを案内している。また、明治16年(1883年)刊の『四国霊場略縁起 道中記大成』では、「大戸村、此(の)所に荷物おき行(く)。是よりよこみねへ二里。ゆなみ村・ぶりほう村。(中略)横みね寺より香苑寺へ筋向(かい)道発(おく)る人多し、益なし。右の大戸へもどるをよしとす。(中略)是より香苑寺迄三里。右の大戸村へもどり、みゃうぐち村、周布郡かうおんじ村。<18>」と記して、横峰寺から香園寺への直通路は益がないとして、大戸(大頭)に戻ることを勧めている」とあり、香園寺への直通路は益がないと言っている。
が、現在は横峰寺から平野林道を少し下り、左に逸れて山道を香園寺奥の院経由で香園寺に向かう方が多いように思える。
とはいうものの、この奥の院経由の遍路道は昭和になって開かれた道であり、それほど古くない。横峰寺から尾根道を下る遍路道の途次、「香園道 奥之院ヲ経テ一里十六丁 香園寺ヘ一里二十丁」の分岐標石があり、この分岐から 「香園寺ヘ一里二十丁」が指す遍路道には古い丁石も残るようであり、こちらの遍路道がより古い遍路道と思われる。 今回は横峰寺から尾根道を下り、この分岐点から小松川の谷筋に下り岡村・仏心寺経由で繋がる 遍路道を辿ることにした。
今回も常の如くピストン往復。山道取り付き口(午前7時50分)から横峰寺・平野林道合流点(午前11時20分)とおよそ3時間半、下りは平野林道出発(午前11時33分)、山道下山が(午後15時6分)とこれもおおよそ3時間半。下りは痛めた膝を庇うあまりのヨタヨタ歩きであり普通はもう少し早く下れるのではないかと思う。 ルート概要は平野林道からの分岐点から「香園道 奥之院ヲ経テ一里十六丁 香園寺ヘ一里二十丁」の立つ分岐点までその距離大よそ2キロ強。標高658mの平野林道分岐点から標高408m辺りまで250mほど下り、緩やかなアップダウンの尾根道を少し進んだ後標高470m辺りまで高度を上げ香園寺奥の院分岐点に。分岐点からは1キロ弱の「七曲り」と称されるジグザグ道を下り標高245m辺りまで220mほど高度を下げ本谷林道に出る。印象としてはそれほど厳しい遍路道ではなかった。
今回のメモは復路平野林道からはじめ本谷林道の下山口までの遍路道を記する。下山口から岡村・仏心寺を経て香園寺までの遍路道は既述「伊予 歩き遍路;五十九番札所 国分寺から六十番札所 横峰寺を繋ぐ ③香園寺道を辿り逆打ちで横峰登山口へ」を逆回しでご覧ください。


本日のルート;横峰寺から平野林道・香園道分岐点まで>平野林道より香園寺への遍路道分岐点>15丁石・16丁石>「四国のみち」・17丁>18丁石・19丁石>「四国のみち」指導標と20丁石>「四国のみち」・21丁石>平野林道分岐・22丁石>23丁石・24丁石>25丁石・26丁石>27丁石・「四国のみち」指導標>28丁石と標石>29丁石・「四国のみち」指導標30丁石・31丁石>32丁石・奥の院との分岐点>33丁石・34丁石>35丁石・36丁石>42丁石>林道交差>本谷林道に出る>車デポ地に

横峰寺から七曲がり坂を本谷林道に下りる

横峰寺から平野林道・香園道分岐点まで
横峰寺から香園寺への遍路道は現在横峰寺大師堂、その傍の歓喜天堂横まで繋がる平野林道を1キロ弱歩き、道の左手「香園寺 八・四粁(キロ)」と刻まれた石碑より左に逸れて山道を下る。 平野林道は「弘法大師入定千百五十年記念御遠忌」(昭和59年;1984)を記念し本堂改築工事の資材運搬用に開かれた道であり、それ以前は歓喜天堂裏より茂みに入り山道を下ったようであるが、現在は平野林道により分断されてはいるが、一部林道名残山側にその名残が残っている,と云う。

平野林道より香園寺への遍路道分岐点:午前11時33分(標高658m)
平野林道の左手、「香園寺 八・四粁(キロ)」と刻まれた石碑の手前、ガードレールが切れているところが香園寺への遍路道分岐点。「60番横峰寺1.2km 香園寺奥の院5.7キロ」と記された「四国のみち」木標や遍路タグが遍路道を指し、見落とすことはないだろう。

15丁石・16丁石
⒖丁石
16丁石
分岐点のコンクリート石段を下りるとすぐ山道となる。左手は深い崖。13分ほどトラバース気味に歩き高度を50mほど下げると舟形地蔵が立つ(11時46分;標高610m)。文字は読めないが刻まれた石仏や全体の印象から丁石のようにも思える。往路でその先に16丁石を見ていたため、15丁石かとも。
そこから数分、同じく610m等高線に沿って同じくトラバース気味にすすむと「十六丁」と刻まれた舟形地蔵丁石が崖に面して立つ(11時49分:標高605m)。

「四国のみち」・17丁石
17丁石
鉄の桟道を踏み数分進むと「60番横峰寺1.7km 香園寺奥の院5.2キロ」と記された「四国のみち」の指導標が立つ。この辺りまではそれほど急な坂ではないが、この辺りから先は先尾根筋稜線をほぼ垂直に下る少し急な坂になる。
掘割道を5分ほど下ると「十七丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前11時54分;標高582m)。

18丁石・19丁石
18丁石
19丁石
等高線をほぼ垂直に高度を40mほど下げると「十八丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午後12時;標高540m)。
さらに高度を30mほど下げると「十九丁」と刻まれた19丁舟形地蔵丁石が立つ(12時7分:標高510m)。

「四国のみち」指導標と20丁石
「四国のみち」標識と20丁石
「四国のみち」標識
掘割道を少し下ると「60番横峰寺1.9km 香園寺奥の院5.0キロ」の「四国のみち」指導標。その直ぐ先、掘割道が鋭角に曲がる箇所に「60番横峰寺2.1km 香園寺奥の院4.8キロ」の指導標(午後12時12分;標高506m)。
曲がった角に「二十丁」と刻まれた舟形地蔵丁石が立つ。

「四国のみち」・21丁石
21丁石
稜線部を下り切ると等高線の間隔が広くなり平坦な尾根道となる。そこに「四国のみち」と記された丸木が立つ。その傍に尾根の左手から道が合流する。地図を見るとこの分岐点を左に進むと湯浪の集落に繋がっていた。
馬の背風の平坦な尾根道を少し進むと「二十一丁」と刻まれた舟形地蔵丁石が立つ(午後12時20分;標高470m)。この辺り左手が開け、四国山地の遠景が楽しめる。

平野林道への分岐・22丁石
22丁石
北東に突き出た割と平坦な稜線部を数分進むと道が二つに分かれる(午後12時27分;標高465m)。右手には四国電力の標識、左手に遍路道案内が立つ。地図を見ると右手の道を進むと平野林道と繋がっていた。
左手の遍路道に入る。しばらく続いた平坦な道もここまで。ここから先は等高線をほぼ垂直に下ることになる。
分岐点から直ぐ「二十二丁」と刻まれた舟形地蔵丁石が立つ(午後12時31分;標高260m)。

23丁石・24丁石
23丁石
24丁石
掘割道を少し下ると「二十三丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午後12時35分;標高455m)。道は石が敷かれており、スベリに注意しながら下る。その先石を削った石段状の道を下ると「二十四丁」と刻まれた舟形地蔵丁石が立つ(午後12時41分;標高435m)。

25丁石・26丁石
25丁石
26丁石
2基の石仏を見遣りながら急な稜線部を下りきった辺りに「二十五丁」と刻まれた丁石。他の丁石に刻まれた仏は立像であるのだが、この丁石は坐像となっていた(午後12時49分;標高405m)。 この辺り鞍部。その先痩せ尾根の馬の背を進むと「二十六丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午後12時56分;標高412m)が立つ。

27丁石・「四国のみち」指導標
27丁石
直ぐ先で道はふたつに分かれる。右は四国電力の標識。地図を見ると上に送電線が走る。送電線保線道なのだろう。
遍路道は左を進む。稜線上の242mピークの左を巻いて進むと「二十七丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午後13時2分;標高405m)。
ピークを巻き、その先の馬の背を進むと「四国のみち」の指導標。「60番横峰寺3km 香園寺奥の院3.9キロ」と記される(午後13時5分;標高405m)。

28丁石と標石
28丁石と標石
標石
馬の背を進むと道の両側に標石。右手の標石には「二十八丁」と刻まれる(午後13時8分;標高405m)。
左手の標石には正面に手印と供に「横峯寺及千足村** 小松町及香園寺」。側面には手印はないが「平野大保木ヲ経テ県**」と刻まれる。平野、大保木はこの稜線の東にある集落。地図上には特に道は描かれていないが、昔には東に下る道筋があったのだろうか。

29丁石・「四国のみち」指導標
29丁石
この先、馬の背から尾根の稜線への上りとなる。比高差は70mほど。それほど厳しい上りではない。 ?mほど上ると「二十九丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午後13時11分;標高415m)。そこから数分、曲がり角に「60番横峰寺3.3km 香園寺奥の院3.6キロ」と記された「四国のみち」指導標が立つ(午後13時13分;標高420m)。

30丁石・31丁石
30丁石
31丁石
5分ほど上り高度を30mほど上げると「三十丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午後13時18分;標高450m)。更に5分ほど高度を30mほど上げると2基の石仏。少し大きな石仏には「三十一丁」と刻まれる(午後13時23分;標高480m)。この31丁石がピーク。この先は緩やかな下り道となる。

32丁石・奥の院との分岐点の標石
32丁石
途奥の院との分岐点の標石
数分歩くと「三十二丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午後13時25分;標高470m)。その直ぐ先は広い平坦地。「60番横峰寺3.6km 香園寺奥の院3.3キロ」と記された「四国のみち」の指導標の先に 「香園道 奥之院ヲ経テ一里十六丁 香園寺ヘ一里二十丁」と刻まれた標石が立つ(午後13時26分;標高460m)。

おこや跡

左に進めば香園寺奥の院経由の遍路道。右に折れると小松川の谷筋に下り、岡村・仏心寺経由の遍路道。ここが奥の院経由と直接香園寺に向かう遍路道の分岐点。今回はここを右に折れ直接香園寺へと向かうが、すぐ先に待つ七曲がりの下りに備えて膝を少し休ませる。
木のベンチに腰掛け小休止。ベンチの奥に結構広い平坦地。この地を「おこや」と呼ぶ。昭和20年(1945)代まではこの地に茶屋があり飴や団子が売られていたという(「えひめの記憶;愛媛県生涯学習センター」)。「おこや」は茶店の小屋からだろう。

33丁石・34丁石
33丁石
34丁石
木々の間から垣間見える尾根筋西側の遠景を楽しみながら少し休憩し七曲がり坂を下り始める。草に覆われた坂を下ると最初の曲がり角に「三十三丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午後13時47分;標高454m)。
角を曲がり等高線を斜めに下る緩やかな坂を進むと道の左手、山側に石仏。文字は消えて読めないが形状からして舟形地蔵丁石のように思える。往路この坂を上ったときこの下の曲がり角に35丁石があった。とすれば34丁石かもしれない(午後14時9分;標高450m)。距離に比して時間がかかったのは、往路見つけたこの丁石が見つからず行きつ戻りつしたため。

35丁石・36丁石
35丁石
36丁石
等高線を斜めに進む緩やかな坂を下った2番目の曲がり角に「三十五丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午後14時14分;標高420m)。
3番目の曲がり角は直進方向へも道が続く。どちらかちょっと迷うが、直進方向への道には木が並べて置かれており、如何にも「進むべからず」といった注意のように思える。 直進せず左に折れて少し下ると舟形地蔵。文字ははっきりわからないが距離からすれば36丁石ではないかと思う(午後14時20分;標高400m)。

42丁石;午後14時54分( 標高278m )
道端の小さな遍路道案内
道に置かれた木
その先、曲がり角、道の分岐箇所では道端に置かれた小さな遍路道案内、「進むべからず」と道に敷き並べられた木を目安に道を曲がり、道に埋め込まれた遍路道案内、木に括られた遍路タグでオンコースであることを確認しながら七曲がりを下る。
道に埋め込まれた遍路道
遍路タグでオンコース確認
往路沢筋に沿って進み七曲がり坂を上ったため沢筋方向へと下ってゆく。復路は国土地理院に描かれた破線に沿って下る。往路と復路はちょっと異なり国土地理院の破線から外れたルートを辿ったようではある。



42丁石
道に置かれた木
が、ともあれ七曲がり坂の取り付き口に立つ「四十二丁」と刻まれた舟形地蔵丁石の立つところにおりてきた(午後14時54分;標高278m)。途中、三十七、三十八、三十九の丁石があるといった記事もあったが、生い茂る草木に隠れてか見付けることができなかった。

林道交差;午後15時(標高255m)
42丁石から小松川上流域の沢筋に沿って草の生い茂る道を下る。5分ほど歩くと林道と交差。沢に架かる橋がある。往路ではこの橋を渡ったのだが、「遍路道」ではないとの案内があり、橋を渡ることなく沢の左岸を進み七曲がり坂の取り付き口に着いた。

本谷林道に出る;15時6分(標高245m)
林道を交差して沢の左岸を進む。道幅も広くなる。5分ほど進むと大きな林道に出る。本谷林道だろう。山道への取り付き口に下りてきた。 林道に出ると直ぐ沢に架かる橋がある。いつだったか香園寺より岡村・仏心寺より逆打ちで横峰寺へ上る道を辿ったとき、この橋まで来たのだが橋の右岸の道が大きく崩壊しており、また時刻も夕刻に迫っていたためここで打ち留めとしたのだが、その時は遍路道は沢右岸であろうと思い込み、藪漕ぎ道を進むことになろうかと覚悟していた。今回往路で偶然橋を渡った沢の左岸に遍路道を示す案内を見付け、結構広く快適な道を七曲がり坂まで進むことができた。ラッキーだった。

車デポ地に;15時50分
本谷林道まで戻ったが車デポ地は1.3キロ先の採石工場。採石工場傍で舗装が切れたためどこに車をデポしようかと探していると、工場の方が敷地内の端にデポすることを許してくださった。 で、その地に車デポしたのだが、その先に続く広い砂利道は結構踏まれており、また一部舗装された箇所もあり、その舗装が切れた先もゆっくりと走れば本谷林道合流点まで車を寄せることが出来たように思える。 が、それは後の祭り。痛めた膝はほぼ限界に達しヨタヨタ歩き車デポ地に戻ったのが午後15時50分。ここが一番きつかった。

これで横峰寺から岡村・仏心寺経由の香園道までの遍路道のうち、横峰寺から山入道入り口までをカバーした。上述の如くここから香園寺までの遍路道は、「伊予 歩き遍路;五十九番札所 国分寺から六十番札所 横峰寺を繋ぐ ③香園寺道を辿り逆打ちで横峰登山口へ」の後半部に記した遍路道メモを逆回しでご覧ください。
先回の土佐街道歩き、伊土国境の黒滝峠を繋ぐピストン往路での日没・夜間行動に懲りたというわけでもないのだが(ちょっと参ってはいるのだが)、ひたすら藪漕ぎが続く土佐街道歩きから少し開放されたく、気分転換に伊予遍路道・横峰寺道を歩くことにした。
四国の遍路道は一応すべて歩き終えているのだが、札所第六十番 横峰寺へは札所第六十一番 香園寺からの逆打ちルートを辿っており、湯浪から上る巡打ちルートは未だ歩いてはいなかった。また、横峰寺道は平成28年(2016)10月3日に宇和島の仏木寺道、久万高原町の岩屋寺道、四国中央市の三角寺奥の院道と共に国指定史跡と指定されているようであり、であれば道はそれなりに整備されているであろうし藪漕ぎ・道迷いもなかろうと思ったわけである。
横峰寺道は湯浪登山口から横峰寺までその距離2.2キロ。標高270mの横峰登山口から標高745mの横峰まで475mほどの比高差を上ることになる。地図を見ると登山口から1キロ程は妙之谷(みょうのたに)川に沿って標高450mまで180mほどゆっくりと高度を上げ、そこからは横峰寺の建つ山稜に取り付き300mほど、等高線にほぼ垂直に上ることになる。
実際歩き終えた印象としては、遍路道に沿って古い丁石、新しい道案内・距離案内が立ち、道に迷うことはない。道筋は前半部は妙之谷川の流れに沿って渓谷を進み、後半部の山道もそれほど厳しい上りでもなかった。痛めた膝を庇いながらの散歩であるため上りに3時間ほどかかったが、普通に歩けばそんなに時間がかかるとも思えない。
それよりなにより、道があるのは誠にありがたい。道なき道を延々と藪漕ぎを続け、あまつさえ日没・夜間行動の顛末などを想うにつけ、道の有り難さを実感した一日であった。


本日のルート;湯浪休憩所>20丁石>横峰寺道標>19丁石・18丁石>16丁石・弐十丁石>15丁石・14丁石>13丁石・「四国のみち」石碑>12丁石の先で沢筋を離れ尾根筋を上る>11丁石・10丁石>大師坐像と角柱10丁石>9丁石と角柱12町石>四国のみち」木標と7丁石>8丁石と傾いた角柱7町石>6丁石と5丁石>古坊地蔵堂>4丁石・3丁石>2丁石>1丁石・山門

湯浪休憩所から横峰寺道を横峰寺へ


湯浪休憩所
国道11号を進み、妙之谷川を越えた先、小松の大頭(おおと)交差点を左折し県道147号石鎚丹原千を進み湯浪休憩所に。県道はその先行き止まりとなっている。
湯浪休憩所には清潔なお手洗いも整備されている。休憩所山側崖から落ちる沢水をタンクに入れて持ち帰る地元の方が目にとまる。美味しい水なのだろうか。 湯浪休憩所に車をデポし山入道に入る。

山入道アプローチ石段に20丁石;午前9時34分
湯浪休憩所山側に手摺のついたコンクリートの石段があり、その入り口に「四国のみち」の標識、横峰寺まで2.2kの表示、悪路注意といった案内が立つ。
沢水が表面を覆う石段を上り、右に曲がる角の山側に「二十丁」と刻まれた舟形地蔵丁石が立つ。 このコンくリートの石段は昭和56年(1981)以降、「四国のみち」整備事業にともない改修:整備されたもの。これから歩くかつての遍路道はこの整備事業によって歩きやすくなったとのことである。

横峰寺道石碑;午前9時37分
石段を流れる沢水が切れるあたりに「国指定史跡 伊予遍路道 横峰寺道」と刻まれた石碑が立つ。側面には「平成平成二十八年十月三日指定 文部省」とあった。 
その先、道の左手に「100m」と書かれた案内が木に括られている。その時は標高表示かと思ったのだが、その後も同様の案内が続く。湯浪休憩所からの距離を示しているようだ。
その直ぐ先、左手から妙之谷川に合流する沢に架かる木橋を渡り(午前9時41分)先に進む。

19丁石・18丁石
沢に架かる橋を渡ると直ぐ山側に「十九丁」と刻まれた丁石(午前9時43分)。数字が減ってことを考えれば丁石は横峰寺まで(から)の距離を示しているのだろう。

左手の妙之谷川の渓相はなかなか、いい。この暑い夏、軽い沢登りもいいかもしれない。
湯浪休憩所から「250m」の先に「四国のみち」の指導標。文字が見えなくなってきている。先に進むと「十八丁」と刻まれた丁石が立つ(午前9時54分)。



16丁石・弐十丁石
湯浪休憩所から「450m」、「湯浪〈休憩所」への案内を見遣りながら小さな沢に架かる木橋を渡ると「十六丁」と刻まれた丁石(午前10時4分)。

その先、左妙之川の沢筋へと左に逸れその先に見える橋に繋がる道の分岐点に「四国のみち」の標識。「湯浪 1.9km 横峰1.6km」とあり、「横峰寺参道」は道を逸れることなく直進の案内。

その「四国のみち」の直ぐ先に石の地蔵道標。「従峯 弐十丁」と刻まれ、下部には六体の小さな仏が刻まれている。今まで出合った丁石とは造りが異なる。少し古い時期の丁石のようである(午前10時10分)。 「従峯」>峯より(従)とは横峰(峯)寺より、との意だろう。

15丁石・14丁石

「横峰寺1.6km 湯浪0.6km]の案内を見遣り数分進むと「十五丁」と刻まれた丁石(午前10時13分)。 その先「650m」、土に打ち込まれた赤い木に架かれた「700m」の湯浪休憩所からの距離案内。
その先で妙之谷川に架かる橋を渡り右岸に渡る。
右岸を進むと「750m」の距離案内の先に「十四丁」と刻まれた丁石が立つ(午前10時22分)。



13丁石・「四国のみち」石碑

直ぐ先、橋を渡り左岸に。湯浪休憩所から「800m」の案内と、「横峰寺1.4km 湯浪休憩所0.8km」の案内。その直ぐ先で木橋を渡り妙之谷川右岸に移ると「十三丁」と刻まれた丁石(午前10時31分)。

湯浪休憩所から「900m」の案内を見遣りながら右岸を進み、橋を渡り左岸に移った橋詰に「四国のみち」の石碑(午前10時38分)が立つ。



12丁石の先で沢筋を離れ尾根筋を上る
左岸を少し進むと「十二丁」と刻まれた丁石(午前10時42分)。その先、木橋を渡り妙之谷川の右岸に移る。湯浪休憩所から妙之谷川筋を進んできた遍路道は、ここから妙之川の沢筋を離れ標高745m辺りの山腹に建つ横峰寺に向けて尾根筋を上ることになる。
ここまで右岸・左岸と沢を橋で渡ってきたが往昔の遍路道は沢を飛び石伝いに上っていたようである。


11丁石・10丁石
沢を右岸に渡ると前方に虎ロープ。尾根の稜線への取り付き口となる。沢筋の標高437m地点から6分ほどかけて高度を30mほど上げると、「十一丁」と刻まれた丁石(午前10時50分)。

丁石の左手には急斜面の滑の岩に水が流れる。妙之谷川に注ぐ枝沢なのだろう。一枚岩といった滑は結構距離があり這い上がるのは楽しそうだ。
更に30mほど高度を上げると「十丁」と刻まれた丁石が立つ(午前10時58分)。1丁が約109mであるから、横峰寺まで(から)約1090mとなる。

大師坐像と角柱10丁石;午前11時8分
「横峰1.0km 湯浪休憩所1.2km」の案内を見遣り、先に進むと道の左手に遍路墓(午前11時4分)。文政二年(1819)。芸州(現在の広島)との銘があると言う。遍路墓に手を合わせ少し進むと道の左手に大師坐像。その後ろに角柱丁石が立ち、「従峯 十丁」と刻まれる。
大師坐像の台座には「享保十六年十二月廿一日 千足山村 とち之川 市左ヱ門」と刻まれる、と。
千足(せんぞく)山村 
現在の西条市南西部、石鎚山北麓の加茂川上流域にあった村。明治22年(1889)、周敷郡千足山村として発足。明治30年(1897)、周敷郡と桑村郡が合併し周桑郡となる。昭和26年(1951)石鎚村に改称。昭和30年(1955)、小松村、石根村と合併し周桑郡小松町。現在は周桑郡、西条市、東予市が合併し西条市となっている。 

 9丁石と角柱12町石
少し上ると「九丁」と刻まれた丁石(午前11時14分)。そこから5分ほど上ると「従峯 十二町」と刻まれた角柱丁石(午前11時19分)。「丁」と「町」は同じ。ここに十二町があるのはちょっと違和感。後世、下流部よりここに移されものだろう。

「四国のみち」木標と7丁石
「横嶺寺0.8km 湯浪休憩所1.4km」と記された案内を見遣り、等高線550mを越えた先に「四国のみち」の木標(午前11時24分)。「湯浪2.6km 横峯寺0.9km」と記される。「四国のみち」木標の指す「湯浪」は湯浪休憩所ではなく休憩所から少し下った湯浪の集落のようだ。
そこから5分、高度を30mほど上げると自然石の大岩の手前に「七丁」と刻まれた丁石(午前11時31分)。傍には土に埋め込まれた小さな赤い木片に「1500m」と記される。湯浪休憩所からの距離だろう。

8丁石と傾いた角柱7町石
10分弱歩き、?m高度を上げると「八丁」と刻まれた丁石(午前11時40分)。丁数が増えるのは異なことではあるが、これはよく出合うこと。道の整備の折に「テレコ」になることが多い。
昔のお遍路さんにとってはクリティカルな丁石、標石も今となっては文化的価値はあっても実用性という意味合いではその価値は大きくない。私のようなもの好きでもない限り丁石、標石に目を留めるお遍路さんがそれほどいるとも思えない。
それはそれとして、その直ぐ先に傾いた角柱丁石(午前11時43分)。「従峯 七町」と刻まれる。

6丁石と5丁石

数分進むと「六丁」と刻まれた丁石(午前11時47分)。そこからさらに5分強歩き高度を?mほど上げると道の右手に「五丁」と刻まれた丁石(午前11時53分)。その後ろ、一段高いところに小さな地蔵。傍には遍路墓がまつられる。

丁石の対面、道の左手には木造の椅子とテーブルの休憩所。その上、これも道の左手には「湯浪2.7km 横峰0.6km」と期された「四国のみち」木標と石碑が立っていた。



古坊地蔵堂;午前11時58分
5丁石の一段上、道の右手の遍路墓に手を合わせる。その直ぐ上、遍路道から少し左に入ったところに朽ちたお堂が残る。お堂の前には六地蔵が並ぶ。 このお堂は古坊地蔵堂。かつてこの辺りには古坊と呼ばれる集落があり、昭和50年(1975)頃までは住民も住んでいたとのことである(「えひめの記憶;愛媛県生涯学習センター」)。

沢・遍路墓

古坊地蔵堂を離れ650m等高線が西に切れ込んだところの沢(午後12時4分)に架かる橋を渡ると道の左手、少し奥まったところに墓石群(午後12時6分)。古坊集落の墓地なのかと思ったのだが、遍路墓のようである。「正徳四(1714)」「天保九(1838)」「天保十四(1843)」「嘉永元(1867)」といった年号、阿州(徳島県)、芸州(広島県)といった文字が刻まれる、と(「えひめの記憶;愛媛県生涯学習センター」)。

4丁石・3丁石
そこから数分、「四丁」と刻まれた丁石(午後12時8分)。標高はおおよそ650m辺り。4丁石から7分ほど歩き高度を40m弱上げ、左に曲がるコーナーに「四国のみち」の木標。「60番横峰寺0.4km」と記される。その傍に「三丁」と刻まれた丁石(午後12時15分)が立っていた。

2丁石: 午後12時23分
「横峰寺0.2km 湯浪休憩所2.9km」の案内を見遣り700m等高線を越え8分ほど歩くと「二丁」と刻まれた丁石。
数分歩くと道の左手に、「この下 車道へは行けません」と書かれた立看板と、その下、木の根元辺りに「へんろ道 横峰寺」「第六十五一番 香園寺へは大師堂**」と記された案内がある。 この案内がよくわからない。「この下」」とはどちらを指すのだろう。事をややこしくするのはこの2丁石から左に踏み跡と見えないこともない筋が残る。実際その踏み分け道を200mほど進めば、明治の神仏分離の折、横峰寺の境外にお堂を建て本尊などをそこに避け、後に大峰寺と称した場所に出るようだ。 で、案内の意は、この大峰寺跡へ向かう道を辿っても車道(平野林道)には繋がらないという注意だろうか。それとも単に湯浪から上ってきたこの坂を下っても車道(平野林道)に出ることはないという注意だろうか。
また、「第六十五一番 香園寺へは大師堂**」とは、香園寺に向かうには大師堂にお参りし、大師堂に繋がる平野林道を下り、途中から平野林道を逸れて香園寺へと下ってゆく、ということだろう。
平野林道が開かれたのは昭和59年(1984)。それ以前の遍路道はさきほどちょっと混乱した2丁石あたりから平野林道から逸れる旧遍路道へと続いていたのだろうか。よくわからない。
横峰寺・大峰寺
明治4年(1871)、神仏分離令により廃寺となった六十番札所・横峰寺はその対応策として、石鎚神社横峰社となり、その後明治12年(1897)に大峰寺、明治18年(1885)には六十番札所大峰寺となり、明治42年(1909)には旧名の横峰寺に復す。
六十番札所としての横峰寺が「消えた」時期は、六十番前札所である清楽寺が六十番札所清楽寺となり、極楽山妙雲寺が六十番前札所となる。
横峰寺が明治18年(1885)に六十番札所・大峰寺に復したとき、清楽寺は六十番前札所に戻った。本来であれば、妙雲寺も前札所として続いたのだろうが、明治17年(1844)火災により焼失。明治28年(1895)妙雲寺は近くにあった鶴来山大儀寺を移し、60番前札旧跡として再興。 戦後、昭和32年(1957)再び石鉄山妙雲寺と称することになる。

1丁石・横峰寺山門
先に山門が見えてくる。その手前左手に「一丁」と刻まれた丁石(午後12時31分)。その横に合掌した地蔵石仏が佇む。
ステップを上り切ると横峰寺山門。「四国霊場 第六十番札所 石鎚山横峰寺」「ご本尊 大日如来蔵王権現」と記された山門をくぐり境内に。境内を進むと納経所、石段を上ると本堂、本堂から西に進むと大師堂が建っていた。 
 ●大日如来・蔵王権現
蔵王大権現、とは役の行者が感得したという神様、というか仏様。日本独自の創造物。権現って、「仮」の姿で現れる、ということ。神仏混淆の思想のひとつに本地垂迹説というものがあるが、日本の八百万の神は、仏が仮の姿で現れた権現さまである、とする。

蔵王権現は釈迦如来、観音菩薩、弥勒菩薩という三尊が「仮」の姿で現れたもの、とされる。三尊合体の、それはもう強力な神様、というか仏様。吉野の金峰山、山形の蔵王山など、役の行者が開いた山岳信仰の地に祀られる。
現在はお寺と神社は別物である。が、明治の神仏分離令までは寺と神社は一体であった、神仏混淆とも神仏習合とも言われる。
これで湯浪登山句口から横峰寺までの順打ち遍路道を繋ぐことができた。往昔、横峰寺から次の札所第六十一番香園寺には、今辿ってきた湯浪へと打ち戻ることが多かったようである。
「えひめの記憶」には、「横峰寺から香園寺への打戻りの遍路道は、貞享4年(1687年)刊の『四国邊路道指南』によると、「○しんでん村○大戸村、此所に荷物おきでよこミねまで二里。○ゆなミ村、地蔵堂有。○ふるほう村、地蔵堂。大戸より山路、谷合。(中略)是よりかうおんじまで三里、右の大戸村へもどる。<16>」と記されている。
また『四国遍礼名所図会』は、(是より大頭町迄下り支度いたし、香苑寺へ廿五丁也。明口村、香苑寺村。<17>」と記し、それぞれ大頭へ打ち戻ることを案内している。また、明治16年(1883年)刊の『四国霊場略縁起 道中記大成』では、「大戸村、此(の)所に荷物おき行(く)。是よりよこみねへ二里。ゆなみ村・ぶりほう村。(中略)横みね寺より香苑寺へ筋向(かい)道発(おく)る人多し、益なし。右の大戸へもどるをよしとす。(中略)是より香苑寺迄三里。右の大戸村へもどり、みゃうぐち村、周布郡かうおんじ村。<18>」と記して、横峰寺から香園寺への直通路は益がないとして、大戸(大頭)に戻ることを勧めている」とあり、香園寺への直通路は益がないと言っている。
が、現在は横峰寺から平野林道を少し下り、左に逸れて山道を香園寺奥の院経由で香園寺に向かう方が多いように思える。
この奥の院経由の遍路道は昭和になって開かれた道であり、それほど古くない。が、遍路道の途次、「香園道 奥之院ヲ経テ一里十六丁 香園寺ヘ一里二十丁」の分岐標石があった。この分岐から小松川の谷筋に下れば岡村から香園寺に繋がるようである。次回はこの遍路道を辿ってみようと思う。
予土往還 土佐街道・松山街道歩きの5回目。先回は予土国境の黒森峠まで繋いだ。今回から高知県域の土佐街道・松山街道に入る。
黒森峠へのアプロ―チは高知県阿川郡仁淀川町の池川、坂本、寄合、ツボイの集落へと高度を上げ、山中を走る完全舗装の大規模林道に車をデポする。標高は933mほど、目的地の黒滝峠は直線距離で4キロもない。比高差も黒滝峠は1175mほどだから250mほど。それほど厳しくはないだろうと思っていた。
大規模林道から黒滝峠(赤は実行ログ。緑は想定ルート)

が、ついにやってしまった。復路半分を残し日没。なんとかデポ地に戻ろうとライトとGPSを頼りに夜も行動を続けたのだが、デポ地まであと四分の一ほど残して気が付けば午前4時半。夜の藪漕ぎは同じところをグルグル回るだけでほとんど進むことはできなかった。
往路車デポ地出発は午前8時半、黒滝峠着は午後2時。往路で5時間半かかっていた。滝峠発午後2時半、車デポ地は日没ギリに戻れるかと思ったのだが読みが甘かった。往路途中でちょっと「撤退すべき」との想いが頭をよぎったのだけど、途中撤退すると黒滝峠への繋ぎがまた面倒だと突っ走ってしまったのが結局朝まで歩くことになったすべての因。
それにしてもなぜ往路で5時間以上かかったのだろう。勿論藪が多く、はっきりした踏み跡も少なく、その上途中3つの沢では数メートルのギャップがあり、その度に沢を上った先のルート取りが難しかったりもしたが、それでもデポ地から黒森峠までの前半部にはルート案内らしき白や赤のリボンが木の枝に巻かれており、それなりにオンコースであることを確認しながら進んだ。後半部はほどんどリボンに出合わなかったのだが、多分どこかで見逃したのだろう。
ルートのほぼ中間点、復路日没地点には午前10時半、そこまで2時間を要しており、その先ほとんどリボンと出合わなかった黒滝峠までで3時間半ほどかかっている。雑誌山から黒滝樋を経て大規模林道に下りる方も多いかと思うのだが、皆さんどの程度の時間で歩かれているのだろう。
このような為体のためメモでは当初黒滝峠からのピストン復路をメモする予定でいたのだが、それは叶わず、往路大規模林道から黒滝峠までをメモする。普通に歩けば3時間ほどかと思うのだが、膝の痛みを庇いながらの行程であり、上述の如く大層な時間がかかっている。コースタイムはあまりあてにならないかとは思う。地図には途中みつけたルート案内の赤や白のリボンをプロットしてある(リボンはRで示す)。こちらはオンコース確認に少しは役立つかと思う。
それにしてもこのルートには「土佐街道」とか「松山街道」といった標識はひとつもなかった。特段街道筋が比定されてはいないようだ。実行ログも想定ルートも「予土往還 土佐街道・松山街道」と言うわけではない。往昔土佐と伊予の往還としてこのルート辺りを歩いたのだろうといった程度のルートではある。



本日のルート;大規模林道デポ地>国土地理院破線箇所に合流>黒滝峠標識>枝尾根稜線部の前後にリボン>沢>枝尾根廻り込み>沢>大きな沢>大きな沢沢>リボン>リボン>一瞬道幅が広がる>リボン>黒滝峠


大規模林道から黒滝峠前半部(赤は実行ログ。緑は想定ルート)

大規模林道デポ地l午前8時38分
池川から坂本、寄合、ツボイの集落と車一台ギリギリ、時には谷川はガードレルもなく山側は用水路といったちょっと慎重にならざるを得ない道を抜けると二車線完全舗装の大規模林道を走り車デポ地へ。場所は国土地理院地図に黒滝峠から大規模林道へと破線が繋ぐ地点の少し手前、沢傍のガードレールが切れたところ。道を沢へと少し入ったところに木に吊るされた赤いリボンがアプロー地点。成り行きで山入り。

国土地理院破線箇所に合流;午前8時48分(標高970m)
草に覆われた間、踏み跡は感じられないがそれっぽいるルートをジグザグに10分、高度を50mほど上げると、国土地理院地図に記載された破線部に到着。破線交差部に木に吊られたリボン(R1)があった。
このリボン、往路は問題ないのだが復路ではリボンの指す道は国土地理院の破線の示す方向に進むように見える。この路を下ると、途中破線部からも分かれ大規模林道に下りるのだが、林道手前は藪、また林道とのギャップが大きく地理院破線部まで藪漕ぎをしてそこから大規模林道に出ることになる。ちょっと注意が必要。

黒滝峠標識;午前9時30分(標高1030m)
国土地理院地図の破線部に乗った先は、破線部に沿って進む。この辺り山相が草から林は木立の中を進む。破線部交差部から直ぐリボンが3つほど吊るされていたが、その先黒滝峠の標識までリボンをみることがなかった。実行ログは国土地理院地図破線(以下「破線」)の北側を進んでいるが結構フラフラしており、復路では@破線を下っておりそこにリボン(R4)があった。当初想定したルート図がオンコースであったのかしれない。

枝尾根稜線部の前後にリボン;午前9時39分(標高1040m)
その先10分ほどで枝尾根稜線部、等高線1040mに沿ってぐるりと廻る。稜線部の前後にリボンがありオンコースを確認。
この辺り復路では午前5時頃となっており、夜が明け往路で見逃した3つのリボン(R5,R-,R7))が目に入った。往路ログ上にあり、この辺りの実行ログはオンコース間違いないかと思う。

大規模林道から黒滝峠中半部(赤は実行ログ。緑は想定ルート)


沢;午前9時58分'(標高1050m)
枝尾根稜線部を回り込んだ先にもリボンが続く。安心できる。ほどなく沢音が聞こえてくる。この先もリボンが続く。実行ログも右往左往していないので割と成り行きで進めるところだったのだろう。
リボンを確認しながら枝尾根の廻り込み部から20分ほど歩くと沢に出合う。途中枯沢はあったが水流のある沢(沢1)ははじめて。この沢は道筋(?)とあまりギャップがないため沢の先のルートも想定しやすい。実際沢を渡るとほどなく大岩がありその傍にリボンがあった。

枝尾根廻り込み;午前10時12分
リボンを見遣りながら10分ほど進むと1000mの等高線が大きく北に延びた枝尾根があり、その広い出っ張り部に30mほどの小丘があり、ルートは等高線1030mに沿って枝尾根の鞍部を英賀廻り込む。
昼間の明るく先が見通せるときは鞍部をを何の問題もなく成り行きで進めたが、復路真夜中の行動ではここを抜けるのが最も難しく、1時間以上も同じ処をグルグル回っているだけだった。日没後の藪漕ぎは誠に難しいことを実感。

沢;午前10時40分(標高1054m)
この辺り、短い間隔でリボンが木の枝に吊られている。安心して30分ほど歩を進めると小さな沢(沢2)。どうということのない沢ではあるが、この先も4つほどの沢があり、中には2つほど道筋とギャップのある沢がある。往路沢を越えた先のルート取りがむずかしかったため、日没までには「大物」の沢だけは越えておこうと急ぎ、この辺りでライトなど準備し始めたところでもある。

大きな沢;11時5分(標高1020m
枝に吊られた多くのリボンにオンコースであることを確認しながら20分ほど歩くと「池川町有林」の木標(午前11時)。その直ぐ先に結構大きな沢(沢3)。道筋と結構ギャップがあり、その先も水草のような低い草が一面にひろがっておりルート取りが難しい。
とりあえず想定ルートに沿って歩を進めるとリボンがあり一安心(午前11時20分)
 
大規模林道から黒滝峠後半部(赤は実行ログ。緑は想定ルート)

大きな沢;午前11時34分(標高1000m)
その先のリボン(午前11時27分)を過ごすと1000m等高線が南に切れ込んだところにまた割と大きな沢(沢3-1)にあたった。道筋とのギャップもあり、その先のルートは不安であったが、沢を渡るとすぐリボンがありオンコースを確認できた。 その直ぐ先にも沢があった(11時43分)

沢;午後12時17分(標高1030m)
その先20分ほど進むとリボン(R40;午前11時54分)。これまでコンスタントに目にしたリボンはこれから先しばらく目にしなくなる。午後12時17分沢(沢4)にあたる。実行ログを見ると想定ルートより南に振れている。オンコースはもう少し北、「破線部」付近を進むのかもしれない。

リボン;午後13時6分(標高1060m)
等高線1030m付近から1050mにかけて、等高線を斜めに上る。1050m等高線が西に切れ込んだあたりに沢(沢5)があった(午後12時50分)。そこから10分ほど成り行きで進むと突然リボンが現れた。ほぼ1時間ぶりのリボン。この間、オンコースから逸れて歩いていたのだろう。とはいっても踏み込まれた筋があるわけでもなく、偶々出合ったといったものである。




沢;午後13時24分(標高1100m )
更に進み1100m等高線が東に突き出たところ、1110m等高線との間隔が少し広くなった平坦部にリボン(R42)があった。その傍にはギャップはないが結構広い沢(沢6)があった。








一瞬道幅が広がる;午後13時36分(標高1120m)
等高線1110m地点から1120mに向けて斜めに上って行くと山中ではあるのに道幅が広がる。先回黒森峠に着いた時、下山道は結構広く、その道がここまで続いているのか、これは楽かも、と思ったのもつかの間、すぐに草に覆われてしまった。簡易舗装道かと思うくらいのあの一瞬の道の風情は、いったい何だったのだろう。






リボン;午後13時42分(標高1130m)
6分ほど進むと赤いリボン(R43)。オンコースのようだ。黒滝峠までは残り40mほど高度をあげればいい。




黒滝峠;午後14時9分(標高1175m)
30分ほどかけ高度を40mあげ黒滝峠に到着。峠からの広い下山道はそれほど長く続いてはいなかった。
峠で先回確認し忘れた里程石の文字を確認。「松山札辻より十二里十八丁」とあった。この地に「松山札辻より十二里十八丁」と刻まれた里程石があったとする伝承をもとにつくられたレプリカのようだ。
なんとか黒滝峠をつないだが、復路は上述の如く途中日没。一刻も早く家に戻ろうと夜間も行動。が気が付けは夜が明けていた。夜は沢の水と柿の種でなんとかしのいだが、夜が明けるころには水も切れ、少々きつかった。
結局車デポ地に戻れたのが午前10時半。一晩中なんとか下山しようと動いてはいたのだが同じところをグルグルまわってるばかりで、体力の消耗だけで距離はほとんど進んでいなかった。ライドとGPSがあっても漆黒の闇の藪漕ぎはコストパフォーマンスはあまりよくなかった。最後には立ちあがる元気もなくなり、座り込んだままズルズルと山を下る為体。大した距離でもないのみ車デポ地に戻ったのが午前10時を越したのはそのためである。
結構怖がりの性格のため、日没だけは避けようといままで歩いてきたが、これが最初の日没遭遇。もう少し慎重に行動しようと思う。
ちなみに水がのめたのは11時頃。池川へと下る道の途中、沢の小滝から下ちる清流を浴びるほど飲んだ。やっと生き返った。水のない半日が一番きつかった それにしても予土往還は楽させてくれない。







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